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{"novel_id": "n0001ma", "chapter": 1, "url": "https://novel18.syosetu.com/n0001ma/1/", "title": "1話", "content": "「あーあ……戻ってきちゃったなぁ……」\n\n 誰に言うでもなく、声が出た。\n\n バスの窓に額を預けたまま、久住歩はぼそりと呟いた。隣の席には誰もいない。乗客は歩以外には老婆がひとりだけ。\n\n 静寂に揺られて三十分。国道沿いの店が途切れ、田んぼが広がり、山の稜線が近くなった。\n\n リュックひとつとボストンバッグ。三年間住んだ部屋を引き払って残ったのはこれだけかと思うと、また落ち込みそうになる。\n\n クビになった。\n\n それだけのことだ、と歩は自分に言い聞かせた。たいていのことは「それだけのことだ」で片付けられるはずだ。\n\n ただ、今回ばかりは片付けるのに少し時間がかかっていた。\n\n ミスの内容は、今でも思い返せる。クライアントへの送信ファイルを間違えた。そこから小さなミスが芋づる式に大きくなって、取引が一件飛んだ。言い訳できない自分のミスだった。上司の顔を思い出すと、胸の奥がぎゅっと縮む感覚がある。でもそれは今は考えないよう努める。\n\n 終点のバス停で降りたのは歩ひとりだった。\n\n 土と草と、水の冷たさが混ざった匂い。東京では嗅ぐことのない空気だった。もっとも、東京にいた頃は空気の匂いなど気にしたこともなかった。\n\n 実家は町の外れにある。バス停から歩いて十五分。田んぼの間の道をボストンバッグを提げて歩く。用水路の水音が遠くに聞こえる。\n\n 道に迷うはずがない。子供の頃に歩き飽きた道だ。久しぶりでも、足が勝手に動いた。それでも、最後にここを歩いたのは三年前、母が他界したときだった。\n\n 実家の前に立ったとき、歩は少し足を止めた。\n\n 築三十年を超えた木造の平屋。庭木は剪定されないまま伸び放題になっている。雨戸が一枚、立て付けが悪いのか少し歪んでいた。両親が相次いで逝ってから誰も住んでいない家は、静かに古くなっていく。\n\n 鍵を差し込む。固くて、少し力を入れないと回らない。\n\n 扉を開けた瞬間、空気が動いた。\n\n かびと木の匂い。畳が乾いて縮んだ匂い。どこかに線香の残り香が混じっている。人が住まなくなると、家はこういう匂いになるのだろう。\n\n 廊下を踏む。床板が軋んだ。\n\n ブレーカーを上げて電気をつける。蛍光灯が一拍遅れて白くなった。台所の蛇口を捻る。水道も問題ない。ガスはまだ通ってないから、今夜は風呂なしだ。\n\n 歩は荷物を居間に置いて、縁側まで歩いた。\n\n 障子を開ける。庭に西日が差し込んでいた。伸び放題の枝が夕方の光を透かして、縁側の板に影を落としている。遠くで鳥が鳴いていた。\n\n 歩はそのまま縁側に腰を下ろした。\n\n スマホを取り出す。通知はない。当たり前だ。この番号に連絡してくる人間は、もうほとんどいない。東京に残してきた知り合いたちとは、会社をクビになってから連絡が途絶えた。恨んでいない。もとから深い付き合いをしてこなかった自分の問題だ。\n\n 煙草を吸いたかったが、荷物の中にない。近くに小さな商店があったはずだけど、まだやっているだろうかと歩は思った。\n\n 夕暮れが庭の向こうで広がっていた。山の端が茜色に染まって、田んぼの水面がそれを映している。こんなに空が広かったか、と歩は思った。東京では空を見上げる習慣が消えていた。\n\n どこかで水が流れている。遠くで犬が吠えている。風が枝を揺らす。\n\n 歩は両手を縁側の板について、空を見上げた。茜色に変わっている。綺麗だな、と思った。けど、この先どうするかなんて、何ひとつ浮かばない。胸の中にぽっかりと空洞ができていて、だんだん薄暗くなっていく空を見ていると、そこから不安がわきだしてくるようだった。\n\n そのとき、門口の方に気配を感じた。\n\n 振り向くと、そこには人影があった。細い体。薄いエプロン。夕方の光の中で、その人は少し驚いたように歩を見ていた。\n\n 坂井栞。隣の家に住んでいる、幼い頃から知っている人だ。\n\n 歩より四つ上で、結婚してからもずっと町を出ずにいたらしい。最後に会ったのは母の葬儀のときだった。あのときは余裕がなくてろくに話もできなかった。\n\n「……あ」\n\n 栞が小さく声を出した。驚きとも、戸惑いとも取れない、短い音だった。\n\n 歩は縁側から立ち上がった。何か言おうとして、言葉が出てこなかった。\n\n 栞はしばらく歩を見ていた。夕暮れの光が横から差して、その横顔の線をひとなぞりした。化粧の薄い、飾らない顔だった。でも、その目の静けさが、歩の中で何かに触れた。\n\n「歩くん……帰ってきたんですね」\n\n それだけだった。詮索するでもなく、ただ確かめるような声だった。\n\n「まあ、一応」\n\n 歩はそう返して、頭を軽く掻いた。\n\n 栞は少し目を細めた。何を思ったのかはわからない。でもすぐに視線を落として、\n\n「長いこと誰もいなかったから、いろいろ大変でしょう。何かあれば遠慮なく」\n\n「ああ、はい、どうも……」\n\n「それでは」\n\n「ども」\n\n 互いに小さく会釈してから、足音が遠ざかっていく。\n\n 歩はしばらく、栞が去った方を見ていた。\n\n 夕暮れがさらに深くなっていた。空が紫に変わっていく。\n\n 庭に夜が下りてくるのを、歩はもう一度縁側に腰を下ろして、黙って見ていた。不思議と、さっきより少しだけ、この場所が違うものに感じられた。", "afterword": "※この作品は作者のWebサイト『エロラノ』(https://erorano.net)から転載しています。最新の投稿はそちらから。\n⚠ サイトの下に【公開中の小説一覧】ボタンがあります。"}

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