| {"novel_id": "n0001ma", "chapter": 17, "url": "https://novel18.syosetu.com/n0001ma/17/", "title": "17話", "content": " どのくらいそうしていたかわからない。\n\n 沙世の心臓の音が、歩の耳のすぐ下で鳴っていた。汗ばんでいた肌も乾いてきた。でも離れがたい。壁の時計の秒針がカチカチと刻む音が、少しずつ現実を呼び戻してくる。\n\n 最初に動いたのは、やはり沙世だった。\n\n 歩の肩を軽く押して、体を起こす。ソファーのスプリングが軋んだ。\n\n「あーすごい、またいっぱい出したわねぇ。量だけは本当に一人前なんだから。ねえ、そこの布巾とってちょうだい」\n\n「あ、はい」\n\n 沙世は手渡された布巾を使って、ショーツにかけられた粘液をソファにこぼさないよう、丁寧に拭った。\n\n それからブラウスの前を合わせて、スカートの裾を直す。乱れた髪も手で梳いて、あっという間にいつもの沙世に戻ってしまった。その手際の良さがなんだか、さっきの行為がその程度のものに思えてしまって、少し切ない。\n\n 歩もソファーから体を起こして、ズボンを上げ、ベルトを締めた。念のためにソファーの座面を二人で無言のまま拭いた。沙世がクッションの位置を直してから、よしと頷き合う。それがなんだかおかしくて、二人して笑ってしまった。\n\n 沙世がコーヒーを二つ淹れてきた。一つを歩のデスクに置いて、自分は向かいの椅子に座った。\n\n しばらく、二人とも何も言わなかった。\n\n エアコンの唸り。窓を打つ雨音。さっきまでと同じ事務所、同じ机、同じ椅子。なのに空気がまるで違う。\n\n 沙世が先に口を開いた。\n\n「……ごめんね」\n\n 歩は顔を上げた。\n\n「言いすぎたわ。大人げなかった」\n\n いつもの軽さではなかった。茶目っ気も、からかいも剥がれた、素の声だった。\n\n「……俺も、すみません。カッとなって」\n\n「歩が謝ることじゃないわよ。わたしが焚きつけたんだから」\n\n「でも、俺も自分から——」\n\n「それはちょっとビックリしたけどね」\n\n 沙世がふっと吹き出した。いつもの笑みとは違う、もっと正直な笑い方だった。\n\n「ねえ、歩」\n\n「はい」\n\n「わたし、嘘ついてた。さっき」\n\n「嘘?」\n\n「気にしてないって言ったの。あれ、ちょっと……気にしてたわ。前のことも、今日のことも」\n\n 沙世はコーヒーカップを両手で包んだまま、天井を見上げた。\n\n「自分でもよくわからないのよ。歩のことは甥っ子としか思ってなかったし、今だってそのつもりなの。でも、それだけじゃ説明つかないこともあるのよね、最近」\n\n「沙世さん……」\n\n 沙世は自分の言葉を確かめるように、ゆっくりと話していた。普段の歯切れのよさがない。言葉を選んでいるのではなく、自分の気持ちの輪郭を、話しながら探っている。\n\n「でもね、これ以上は本当にまずいと思ってるの。夫の事務所で、甥っ子とだなんて。洒落にならないでしょ?」\n\n「そう……ですよね」\n\n「だから、今日みたいなことは、もうしないわ」\n\n 歩は黙って頷いた。沙世の言っていることは正しい。それを拒める程の正当性も意志も、今の歩は持ち合わせていなかった。\n\n「でもね」\n\n 沙世が立ち上がった。\n\n「これからもお弁当は作るわよ。甘い卵焼きも、二人分だけ。それぐらいは、いいでしょう?」\n\n「はい」\n\n それだけ言うと、沙世は話はおしまいと立ち上がり、バッグを持って、玄関に向かう。そして、ノブに手を掛けたとき、ふと振り返った。\n\n「克典さんてね――」\n\n 歩は顔を上げた。沙世は何か言おうとして、けれど、ふっと息をついた。\n\n「……やっぱやめ。つまんない話だわ。ねえ歩、ちょっとこっちきて」\n\n「え? なんですか」\n\n 言われた通り歩が近寄る。\n\n「動いちゃだめよ」\n\nそう言って、沙世はつま先立ちになった。柔らかな唇が、歩の頬に触れた。けど、一瞬のことで、すぐに離れてしまった。\n\n「今日の歩は男らしかったから、おばさんからのご褒美よ」\n\n「沙世さん……もうしないって、さっき」\n\n「これはそういうのじゃないわよ。甥っ子への、親愛の表現。それじゃあね。明日もお弁当、持ってくるから」\n\n「あ、はい」\n\n 沙世は軽くウインクして、出ていった。\n\n 歩は一人残された事務所で、頬に手を当てた。まだ沙世の唇の感触が残っている。その後は仕事に戻ったけれど、まるで集中できなかった。\n\n 定時になり、パソコンの電源を落として、エアコンを切って、最後に蛍光灯を消す。鍵をかけて外に出ると、雨はもう止んでいた。\n\n 自転車のタイヤが小さく飛沫をあげて走る。水たまりに街灯の光が揺れていた。\n\n 頭によぎるのはやはり沙世の顔だった。\n\n 「もうしない」と言われた。けれど帰り際に頬にキスをした。「親愛」だと言って。\n\n あの人の本心は、結局わからなかった。わからないまま、頬だけが熱い。\n\n 家が見えてきた。垣根の向こうに、隣の家の明かりが灯っている。\n\n 自転車を庭に停めたとき、隣の勝手口が開いた。\n\n「歩くん」\n\n 栞が顔を出した。エプロン姿に、手には小さなビニール袋を持っている。\n\n「おかえりなさい」\n\n「ただいまです」\n\n「お茄子が採れたので。よかったら」\n\n「ありがとうございます」\n\n 垣根越しに袋を受け取った。中に艶のいい茄子が三つ。いつものやり取りだった。\n\n「焼いても美味しいですし、味噌汁に入れてもいいです」\n\n「焼き茄子、いいですね」\n\n「……それじゃあ」\n\n いつもなら、もう少し話してくれるのに、今日はまるで歩から距離を取っているようだった。\n\n「栞さん」\n\n「……はい」\n\n 歩が呼び止めた。栞が振り返る。\n\n「いつもありがとうございます」\n\n「いえ、採れすぎるだけですから」\n\n 栞は小さく会釈して、勝手口に戻った。引き戸の閉まる音が、静かな夕暮れに吸い込まれた。\n\n 歩は茄子の入った袋を持ったまま、しばらく垣根の前に立っていた。\n\n いつもと同じだったけど、やはり、お互い、ほんの少し違った。あの日、とっさに肩を掴んでしまった感触を、栞もまだ覚えているということだろう。\n\n 家に入って、茄子を洗った。半分に切って、フライパンで焼く。皮が焦げて、中から湯気が立つ。醤油を垂らして、そのまま食べた。\n\n うまかった。\n\n 食べながら、ふと思った。\n\n 二人の女に、だめだと言われた。栞には「これきりに」と。沙世には「もうしない」と。言葉だけを聞けば、どちらも終わった話のはずだ。\n\n どちらも人妻。この狭い町で暮らしていくというのならリスクでしかない。これで良かったのだろう\n\n なのに、終わった気がしないし、そこには、まだ終わらせたくないと思っている自分がいた。\n\n 窓の外は暗い。雨上がりの空気が湿っぽく、虫の声がやけに近い。\n\n 隣の家の明かりが、カーテン越しにぼんやりと見えた。間にある垣根が、今日はいつもより高く見えた。"} |
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