| {"novel_id": "n0001ma", "chapter": 3, "url": "https://novel18.syosetu.com/n0001ma/3/", "title": "3話", "content": "「タオルは棚のものを使ってください」\n\n 栞の声が脱衣所のドアの向こうから聞こえた。そして、すぐに足音が遠ざかった。\n\n 歩はその場に立ったまま、少し途方に暮れていた。\n\n 流れでそうなった、としか言いようがない。風呂を勧められて、断る理由を探しているうちに背中を押されて、気がついたらここに立っていた。栞のやることには妙な有無を言わさなさがある。\n\n 脱衣所は狭かった。洗面台がひとつと、洗濯機と、脱衣カゴ。白い壁に小さな窓。清潔だが、生活の匂いがする。石鹸だろうか、かすかに甘い香りがした。\n\n シャツのボタンを外しながら、歩はなるべく余計なものを見ないようにしていた。見ないようにしていたのだが――洗濯機の横のカゴに、洗濯物が積まれている。その一番上に、淡い色の布が覗いていた。\n\n 薄い水色の、レースの縁がついた下着だった。無造作にタオルの上に重ねられている。\n\n 歩はすぐに目を逸らしたが、見てしまったものは消えない。栞が、それを身につけていたという事実が、頭の隅にぺたりと貼りつけたまま、服を脱いで風呂場に入った。\n\n 浴室はきれいに掃除されていた。タイルの目地に汚れはなく、鏡も曇っていない。シャンプーとコンディショナーが並んでいて、その横にボディソープ。どれも男が使わなさそうなパッケージだ。旦那は月に一度帰るかどうか、と栞は言っていた。この浴室は、ほとんど栞ひとりのものだった。\n\n シャワーのハンドルを捻ると、温かい湯が出た。湯を浴びながら、歩はぼんやりと壁のタイルを見ていた。\n\n よその家の、しかも人妻がひとりきりで住んでいる家で風呂に入っているのが、どうにもおかしな気分だった。\n\n 今更ながら、栞は少し不用心なんじゃないかと思った。それとも幼い頃から知っている間柄のせいで油断しているのだろうか。もう長いこと関わりもなく、赤の他人にも近いと思っていたが、もしかしたら、栞はそうは思っていないのだろうかとも。\n\n (それにしては距離を感じるけどな……)\n\n 涼しげな、飾らない顔を思い出す。いつも後ろでまとめている黒髪を解いたら、どのくらいの長さなのか。エプロンの下の輪郭は女らしくくびれていた。さっき、栞が目の前に膝をついたとき、ブラウスの襟元が少しだけ開いて、白い鎖骨の線が見えた。\n\n 歩はシャワーを止めて頭を振った。\n\n やめろ、と思った。相手は人妻だ。何を考えているのだと。\n\n 壁に取り付けられた換気扇が静かに回っているのを見つめていると、背後で脱衣所のドアが開く音がした。栞が入ってきたらしい。\n\n 歩はじっと息を潜めた。外で何やらごそごそしてから、すぐにドアが閉まる音。\n\n いったい何だったのだろう。風呂場の磨りガラス越しには何も見えない。\n\n これ以上ここにいたら、よからぬことばかり考えてしまいそうで、歩はさっさと体を洗って出ることにした。\n\n 脱衣所で体を拭きながら、もう見ないと決めていたのに、つい、洗濯カゴの中へ視線が泳いだ。\n\n しかし、そこにあったはずの水色の布は、姿を消していた。\n\n 歩は深く考えるのはやめて、服を着直して、居間に戻った。\n\n 栞は台所のテーブルを拭いているところだった。歩を見て、少し首を傾ける。\n\n「さっぱりしましたか」\n\n「ええ、すみません。ほんと、助かりました」\n\n「ところで、歩くん……」\n\n「はい、なんでしょう?」\n\n「……いえ、なんでもありません」\n\n 栞はそれだけ言って、また手元に目を落とした。耳の端がわずかに赤いような気もしたが、光の加減かもしれない。\n\n 歩には、栞が自分のことをどう見ているのか分からなかった。昔の延長で、困っているお隣さんに手を貸しているだけなのか。それとも、何か別のことを考えているのか。\n\n「髪、ちゃんと乾かさないと風邪を引きますよ」\n\n まだ少し湿っている髪に、栞の指先が触れる。やはり、思ってるよりも距離が近い気がした。\n\n「えっと、匂いは……もう、平気ですかね?」\n\n 期待の混じった言葉が口から勝手に出ていた。\n\n 栞は少し間を置いて、歩の首筋に顔を寄せる。\n\n 甘い香りがした。女の匂いだった。間近で見る栞は想像よりもずっと華奢で、まあるい肩の線が柔らかそうだった。\n\n「はい、大丈夫ですよ」\n\n「そうですか、よかった……」\n\n 栞が離れるまで、歩は動けなかった。\n\n *\n\n 帰り際、玄関で靴を履いた歩は栞に頭を下げる。\n\n「ごちそうさまでした。ちょうど腹が減ってたので助かりました」\n\n「大したものじゃなかったですけど」\n\n「風呂まで借りちゃって、図々しくてすみません」\n\n「いえ、実家の片付け、何かあれば声をかけてください。ひとりだと大変でしょう」\n\n「いや、栞さんこそ何かあれば言ってください。力仕事とか、旦那さんいないと大変でしょ?」\n\n 口にしてから、また余計な事を言ってしまったと思った。でも栞は気を悪くした様子もなく、\n\n「それじゃあ、そのときは、お言葉に甘えますね」\n\n それだけ言って、また目を細めた。今度は笑ったのがわかった。\n\n 歩は門を出て、振り返った。栞はまだ玄関に立っていた。\n\n「また来てもいいですか?」\n\n そんなこと言うつもりはなかったのに、さっきから考える前に口が勝手に動いてしまう。\n\n 栞は少し間を置いて、\n\n「どうぞ」\n\n と言った。\n\n それだけだった。どう思われたのかわからない。飯をたかる野良犬とでも思われているのだろうか、それとも出戻り男を哀れんでいるのだろうか、はたまた……。\n\n 都合のいいことを考えそうになったのでやめた。\n\n「それじゃあ栞さん、また……」\n\n「はい、また」\n\n 歩は、その一言を、子供が飴玉を大事にポケットに入れるみたいに胸にしまって、坂井家を出た。\n\n 五月の陽気とは裏腹に、火照った顔に向かって、爽やかな風が田んぼの方から吹いてきた。"} |
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