| {"novel_id": "n0001ma", "chapter": 5, "url": "https://novel18.syosetu.com/n0001ma/5/", "title": "5話", "content": " 克典がいなくなると、リビングの空気が変わった。\n\n 壁掛けの時計の秒針が動く音がやけにはっきり聞こえる。歩はソファに座ったまま、湯呑みを手で包んでいた。\n\n 沙世は向かいのソファに座って、自分の湯呑みに口をつけた。それから歩を見て、少し笑った。\n\n「肩の力、抜けた?」\n\n「え?」\n\n「さっきからずっと、背筋ぴんとしてたでしょ。あの人の前だと緊張するのね」\n\n 歩は自分の姿勢を意識して、少し背中を丸めた。確かに克典がいた間、ずっと体が固かった。\n\n「昔からそうだったわよね。あの人の前だと借りてきた猫みたいになるの」\n\n「覚えてるんですか、そんなこと」\n\n「覚えてるわよ。私、あなたの面倒よく見てたんだから」\n\n 沙世は湯呑みをテーブルに置いて、少し体を横に向けた。ソファの肘掛けに腕を預けて、歩を眺めるような姿勢になった。値踏みでもされているような視線に背中がそわりとした。\n\n「歩が、まだ小学生の頃だったわね。あの人に『男の子なんだからしっかりしろ』ってどやされて、庭でいじけてたことがあったわね」\n\n「……全然覚えてないです」\n\n「そうでしょうね。でも私は覚えてるの。庭の隅で、声を出さないようにうずくまって、子供なのに人に見られたくないんだなって思ったわ」\n\n 沙世の声は軽かった。昔話を楽しんでいるような口ぶりだった。でも、その目は笑っていなかった。歩の顔をまっすぐ見ていた。\n\n「それで私が隣に座ったの。何も言わないで。そしたらしばらくして、歩が私の服の裾をこう、きゅっと掴んだのよ。小さい手で」\n\n 沙世が自分の手を見た。桜色の爪が、艷やかな光沢を放っている。\n\n「あなたって、昔から誰かに人に甘えるのが下手なのよね」\n\n 歩は何も言えなかった。そうなのだろうか、自分は誰かに甘えたいと思っているのだろうか。自分のことなのにわからない。\n\n「……沙世さんて、昔からよく俺の相手をしてくれてましたよね」\n\n「そうねぇ、わたしもあの頃はこっちに嫁いで来たばかりだったし、知り合いもいなかったから」\n\n 沙世は、それ以上は言わなかった。首を傾けて、髪が肩から流れて、胸元に落ちた。何気なく組まれた足はすらっと細長くて、まるで写真のモデルのようだ。\n\n 昔からそんな気がしていたけど、大人になってから改めて、沙世がこの辺りに住む女性とは違う人種だと感じた。こんな田舎よりも都会の方が似合っているだろう。こんな何もない辺鄙な田舎にはもったいない気がした。\n\n 窓の外で風が吹いて、庭の木の枝が揺れた。\n\n 歩は沙世の横顔を見ていた。さっきまでの茶目っ気のある叔母の顔とは少し違う。窓の光に照らされた横顔には、この家の中で長い時間を過ごしてきた人間の静けさがあった。午後の光が首筋を照らして、産毛が金色に光っている。\n\n「沙世さんは、この町、退屈じゃないですか?」\n\n 聞くつもりはなかった。口から勝手に出た。\n\n 沙世が歩の方を向いた。一瞬、目が大きくなった。それからゆっくり、口元だけで笑った。\n\n「どうしてそう思うの?」\n\n「いや、なんとなく……すみません、変なこと聞いて」\n\n「ううん。変じゃないわよ」\n\n 沙世はそれだけ言った。肯定も否定もしなかった。ただ目を細めて、窓の外に視線を移した。\n\n そのとき、玄関の方で引き戸が開く音がした。\n\n「おう、悪い悪い。思ったより長くなった」\n\n 克典が戻ってきた。リビングに入ってくると、何事もなかったかのように沙世が立ち上がった。\n\n「お茶、淹れ直すわね」\n\n「ああ、頼む」\n\n 歩は少し腰を浮かせた。\n\n「叔父さん、そろそろ俺も失礼します。長居しちゃって」\n\n「もう帰るのか。飯でも食っていけばいいだろ」\n\n「いえ、また今度の機会に」\n\n「そうか。まあいつでも来い」\n\n 玄関で靴を履いて外に出ると、沙世が一緒に出てきた。門まで見送ってくれるらしい。\n\n 克典と話したせいか、どっと疲れて肩が重かった。歩は無意識に首を傾けて、凝りをほぐそうとした。\n\n 沙世がそれを見て、少し立ち止まった。\n\n「歩」\n\n 呼ばれて振り向く前に、沙世の手が、歩の肩にそっと触れた。\n\n 優しく、労わるように撫でられた。背中に柔らかなものも感じた。\n\n「無理しなくていいからね」\n\n 短い言葉だったが、沙世の声は染みた。\n\n 振り向くと、沙世の目が近かった。上向きに巻いた睫毛は長く、瞳の中には優しい光が湛えられていた。\n\n 歩は息を止めていた。沙世の顔がこんなに近いのに、目を逸らせなかった。\n\n「またいらっしゃい。あの人がいないときでもいいから」\n\n「……はい」\n\n それだけ返すのが精一杯だった。\n\n 沙世の手が離れた。離れた瞬間に、空気が軽くなった。沙世はもう、さっきと同じ、掴みどころのない軽やかな顔に戻っている。\n\n「じゃあね、気をつけて帰るのよ。」\n\n 門の前で沙世が手を振った。歩は頭を下げて、坂を下り始めた。\n\n 来たときよりも風が温くなっていた。田んぼの匂いも濃い気がする。\n\n 歩は坂を下りながら、さっきまで重かった肩が、少しだけ楽になっていることに気づいた。"} |
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