| {"novel_id": "n0002ly", "chapter": 36, "url": "https://novel18.syosetu.com/n0002ly/36/", "title": "エピローグ『情報の灰、半径二メートルの永劫』", "content": " 夕闇が迫る河川敷。\n かつて、摩天楼の頂から世界を俯瞰していた情報の王の姿は、そこにはなかった。\n 高級スーツは泥と脂にまみれ、片方の靴はどこかで失い、足を引きずるようにして歩くひとりの男がいるだけだった。\n 阿久津牙は、焦点の定まらない眼を虚空に向け、時折、意味不明な呻き声を漏らしながら、アテもなく土手の下を彷徨っていた。\n\n「おや、阿久津社長。ウォーキングの途中ですか?」\n\n 背後からかけられた冷徹な声。\n しかし、阿久津はピクリとも反応しない。\n\n「これはひどい。さとりちゃん、相変わらず容赦なしですね」\n\n 神無月心音は、安物のビジネスバッグを肩にかけ、死んだ魚のような瞳でその背中を見つめていた。\n 手元のスマホには、絶え間なく速報が流れ続けている。\n\n『【プロメテウス・アド】の株価大暴落、上場廃止か? 社長は依然行方不明』\n『データセンターの不審火によりAI機能停止。復旧の目処立たず』\n『【独占】阿久津牙、非道なる性加害の全貌。隠蔽されていた“家畜化”の実態』\n\n ネットの海は今、情報の王を焼き尽くすための業火で赤く染まっていた。\n\n「自分の会社がこんなことになっていても、もう、あなたには何も聞こえていないのでしょうね」\n\n 心音の懃懃な問いかけに対し、阿久津はただ、だらしなく涎を垂らして笑うだけだった。\n さとりちゃんによって、その絶望ごと心を削り取られてしまった阿久津は、もはや怒りも悲しみも、自己の破滅を理解する知性すら残っていない。\n 辛うじて人間の形を保っているだけの「出涸らし」。\n それが、今の阿久津牙という男の評価だった。\n\n「まあ、こんな姿になっても、記事にするだけの価値はありますかね。本人は腐っていますが、まだネタは新鮮です」\n\n 心音は無造作にデジカメを取り出すと、泥にまみれた元・情報の王の姿を数枚、事務的に撮影した。\n ピントを合わせ、シャッターを切る。\n その動作に、慈悲や感傷の欠片も存在しない。\n\n「こんなものですかね。さとりちゃん、帰りましょう」\n\n 心音はカメラをバッグに収めると、背後でふらふらと歩き続ける男を捨て置き、踵を返した。\n 土手の上には、いつもの社用車が停まっている。\n 背中に張りついていたさとりちゃんを助手席に下ろし、運転席に乗り込む。\n\n「しおんちゃん、お疲れさまー! あんなゴミ、もう見てるだけでお腹いっぱいだよー!」\n\n さとりちゃんは頬を紅潮させ、満足げに自分のお腹を撫でながら、ニヤニヤと笑った。\n 情報の王である阿久津と、その忠実な部下であった河瀬誠。\n 二人分の濃厚な絶望を立て続けに平らげたさとりちゃんの魔力は、かつてないほどに満ち溢れている。\n 金髪ツーサイドアップを留めるテレホンカードの髪飾りに穿たれていた穴はなくなり、魔力残量を示す度数は280。\n ここまで回復したのは、過去最高だろう。\n\n「しおんちゃんのおかげで、お腹いっぱいだよぅ♡ オジサンたちの絶望、ドロッドロでクソマズかったけど、ボリュームだけは満点だったからねー♡」\n「よかった。それに、松前氏と白鳥メルの無念も、これで晴らせたでしょう」\n「それは、どうかなー?」\n「さて、長居は無用ですね」\n\n 心音がエンジンのキーを回すと、さとりちゃんが嬉しそうに身を乗り出し、腕に抱きついてきた。\n\n「しおんちゃん、帰ったら、超・悶絶大サービスしてあげるねー♡ いつもより、もっとすっごいこと、しちゃお?」\n\n 幼い顔を卑猥に歪め、とろけるような視線で誘惑してくる怪異の少女。\n その甘い誘いに対し、心音はハンドルを握ったまま、淡々と答えた。\n\n「その前に記事を書きませんとね。ライバルに先を越されたら、一ノ宮さんにどれだけ絞られるか分かりませんから」\n「うみゅー」\n「仕事が終わったら、いくらでも愛し合えますよ」\n\n 心音はそう言って、さとりちゃんの柔らかな頭を、慈しむように優しく撫でた。\n 土手の下では、かつて王を名乗っていた亡霊が、二度と戻らぬ栄光の残響を追って、さ迷い続けていた。\n\n ◇◇◇◇◇\n\n 情報の王が墜ちてから、数日が経過した。\n 神無月心音が放った、阿久津牙という王の末路を綴った記事は、瞬く間にネットの海を席巻し、死に体だった【プロメテウス・アド】に致命的な引導を渡す結果となった。\n 社長不在のまま、会社は全方位からの訴訟と賠償請求に晒され、砂の城が崩れるように瓦解の一途を辿っている。\n\n(全て終わったんだ……神無月さんが、やってくれた)\n\n 都立病院の病室。\n 松前康平は、白い光が差し込む窓辺で、スマホの画面を眺めていた。\n 画面には、泥にまみれて河川敷を徘徊する阿久津の無様な写真と、彼がこれまで積み上げてきた悪行の数々が書き連ねられている。\n 宿敵の破滅。\n だが、松前の胸に去来するのは勝利の昂揚感ではなく、底なしの虚無感だった。\n\n(確かに復讐は果たせた……だが、それが何だというんだ?)\n\n 白鳥メル。\n 松前が命を懸けて守り抜こうとした、実の娘も同然の存在。\n メルは、松前の病室に顔を見せてくれたあの日から、依然として行方が知れない。\n\n「メル……」\n\n 白鳥メルという唯一無二の光を失った松前にとって、阿久津の没落も、グループの存続も、もはや些末なことなのかもしれなかった。\n\n「ちわーっす! 松前さん、生きてる?」\n\n 不意に、病室の静寂を突き破る不遜な声。\n 振り返ると、そこには深く帽子を被り、マスクで顔を隠した少女が立っていた。\n ――『ルミナス・ティア』最年少メンバー、清水ラミ。\n 私服は目立たないように地味にまとめているが、帽子から覗く毒々しいピンク色のツインテールと、タイトな服越しでも主張の激しい豊満な肉感は、隠しきれるものではない。\n\n「……ラミか。何の用だ」\n「何って、決まってんじゃん。あたしたちの給料、どうなんの? これからの活動は? メルがいなくなったんだから、当然、今度からあたしがセンターっしょ?」\n\n ラミは松前の怪我を案じる素振りすら見せず、パイプ椅子を引き寄せてドカッと座った。\n 彼女にとって、絶対的センターだったメルがいなくなった今は、自分がトップに君臨する絶好のチャンスでしかない。\n 愛らしいルックスと抜群のスタイル、そして確かなダンスの実力と歌唱力を持つラミは、メルさえいなければ自分が世界を獲れると信じて疑わなかった。\n\n「……グループは解散だ。メルがいない『ルミナス・ティア』を続ける意味は、俺には見出せない」\n「はぁ!? マジかよ、おっさん! メル、メルって、いつまであの居なくなった女に執着してんの!? この清水ラミ様がいるじゃん! あたしをセンターにすれば、今より売れるって分かんないわけ?」\n\n ラミの苛立ちを含んだ声が病室に響く。\n だが、松前の感情が揺らぐことはなかった。\n 松前にとって、『ルミナス・ティア』は白鳥メルが花開くための土台でしかなかった。\n メルを失って、そのことを痛いほど思い知らされることになった。\n ラミの持つ若さも才能も、メルの欠落を埋める代用品には、なり得ない。\n\n「もういいんだ。悪いが、帰ってくれ。最後の給料はちゃんと振り込む」\n「チッ……話になんねー! いいよ、このあたしの才能を、もっと認めてくれるところにいくだけだわ! アンタもメルも、勝手にくたばれよ、ボケッ!」\n\n ラミは激しく椅子を蹴り飛ばすと、吐き捨てるように言い残し、病室を去っていった。\n 乱暴に閉められた扉を、松前は茫然と見つめた。\n\n「メル……どこに行ってしまったんだ?」\n\n 情報の王が消えた後の世界で、松前だけが、止まってしまった時間の中に取り残されているかのようだった。\n\n ◇◇◇◇◇\n\n 夜の帳が下りた河川敷。\n かつて数千億の資産を動かし、情報の海を統治した男は、今や悪臭を放つ汚物と化していた。\n 阿久津牙は、自分が誰であるかも、なぜここにいるかも分からぬまま、ゴミ捨て場を漁り、腐った残飯を口に運ぶ。\n もはや、彼に言葉をかける人間も、その失墜を憐れむ者も、この世界には誰一人として存在しなかった。\n\n「あー……あぁー……」\n\n ふらふらと、目的もなく這いずる阿久津の前に、ひとりの影が立ち塞がった。\n 黒いパーカーのフードを深く被り、夜の闇に溶け込むような小柄な女。\n\n「……記事を読んで来たの。本当に、こんなところにいたのね」\n\n 白鳥メルだった。\n メルは、かつて自分を「家畜」と呼び、尊厳を踏みにじり続けた男を、燃えるような憎悪の瞳で見据えた。\n その細い指先には、月光を反射して鈍く光る包丁が握られている。\n 阿久津は目の前の、かつての「家畜」を認識することすらできず、ただ濁った瞳で彼女を見上げ、だらしなく口を開けるだけだった。\n\n「……死ね」\n\n 慈悲も、躊躇いもなかった。\n メルは弾かれたように突進し、阿久津の胸元へ刃を突き立てた。\n\n「あ……ぁ……」\n\n 阿久津は、痛みすら理解できぬまま、その巨躯を地面に投げ出した。\n メルは男に跨がると、機械的な正確さで、狂ったように腕を振り下ろした。\n 心臓、喉、腹、顔。\n 一刺しごとに、阿久津の体から鮮烈な血液が噴き出し、河川敷の土を染めていく。\n 10回、20回……30回。\n メルは、もはや動かなくなった肉の塊を、明確な殺意をもって刻み続けた。\n\n「……」\n\n 男が完全に生命活動を停止したことを確信すると、メルはようやく動きを止めた。\n 肩で荒い息を吐きながら、メルは立ち上がった。\n 返り血を浴びたその顔に、以前のアイドルとしての輝きは、微塵も残っていない。\n\n「終わりね、ご主人様」\n\n メルは血に濡れた包丁を暗い川面へと投げ捨てると、一度も振り返ることなく、夜の闇の向こう側へと消えていった。\n 情報の王と呼ばれた男の末路は、路上に晒された無残な死体だった。\n やがて、その死臭に誘われるように、数羽のカラスが不吉な鳴き声を上げて集まってくる。\n 彼らにとって、倒れている男の死体は単なる新鮮な肉でしかない。\n その全身をいくら鋭いくちばしで突かれようとも、男は二度と動くことはなかった。\n\n ◇◇◇◇◇\n\n 神無月心音が書き上げた『情報の王、その無惨なる凋落』の記事は、公開から数時間を待たずして、国内の主要ニュースサイトのアクセスランキングを独走した。\n かつて情報で世界を支配した男が、泥にまみれて路傍の石と化す。\n その事実は、大衆にとって極上の娯楽として消費されていった。\n\n「――お疲れ様、神無月くん。今回も良い仕事だったわ」\n\n 都市部の喧騒から少し離れた、路地裏の焼肉屋。\n 上司の一ノ宮湊が、ジョッキを片手に満足げに目を細めた。\n\n「タン塩ーっ♡ しおんちゃん、タン塩! レモンたっぷりかけて食べちゃおーっ!」\n\n 隣でさとりちゃんが、身を乗り出して歓喜の声を上げる。\n 相変わらず、心音の舌は霜降りの肉の味も、濃厚なタレの風味も感じられない。\n だが、隣で頬を紅潮させ、幸せそうに喉を鳴らす少女を眺めているだけで、心音の胸は熱で満たされていくのだった。\n\n「……んっ!?」\n\n 賑やかな店内の騒音の中、ふいに、さとりちゃんの肩から提げた受話器型のポシェットが、激しく振動した。\n その受話器型ポシェットからさらに受話器を取り出し、さとりちゃんは耳に当てる。\n\n「了解。今、後ろにいくね」\n\n さとりちゃんが、いつも通り短く応じる。\n 心音は網を見つめたまま、静かに問いかけた。\n\n「誰からです?」\n「白鳥メルからだったよ。自分の絶望を全部、食べてほしいんだって」\n\n 心音の手が、一瞬止まる。\n 阿久津牙という怪物の最大の犠牲者だった白鳥メル。\n その怪物が破滅しても、なお、メルの抱いた絶望が消えることはなかったのか。\n\n「そうですか。ですが、松前氏のためにも、彼女は生きていなければならない。一応、説得してみてください」\n「うん、そのつもりだよ。今の私は度数も290。お腹いっぱいで、これ以上は食べてもあんま意味ないしね」\n\n さとりちゃんはパーカーのフードを目深に被り、静かに目を閉じた。\n その意識はSNSの奔流を逆流し、遠く離れた闇の中にいる白鳥メルの元へと、分身を派遣する。\n\n(彼女の絶望が、説得した程度で鎮まるのか……それは分かりませんが)\n\n 心音は、隣で集中する最良のパートナーの横顔を見つめた。\n 彼女は人間の絶望を、そして死を喰らって生きる怪異。\n 不吉で、残酷で、愛らしい、この世ならざる少女。\n そんな彼女と、半径2メートルの地獄で、あるいは天国で、いつまでも一緒にいたい。\n たとえ、いつの日か、この離れられない呪いが解けたとしても……。\n\n「あっ!」\n\n 心音とさとりちゃんが意識を飛ばしている間に、湊が手際よく焼けた肉を次々と自分の皿に回収していた。\n\n「一ノ宮さん、それはずるいと思います」\n「いや、だって、肉が焦げちゃうでしょ?」\n\n 勝ち誇ったように笑い、口いっぱいに肉を放り込む湊。\n その図太くも生命力に溢れた姿を眺めながら、心音はふと思う。\n 血を流し、泥を啜り、他人の不幸を記事に替え、怪異と共に生きる。\n そんな歪んだ日々の合間に訪れたこの一瞬こそが、自分にとっての幸福なのではないか。\n\n「ふっ……」\n「神無月くんが笑った! 珍しいこともあるもんだわ」\n\n 心の枯れ果てた男の乾いた頬に、月明かりのような静かな笑みが浮かんだ。", "afterword": "本作はこれにて完結となります。\nよろしければ☆☆☆☆☆ 評価・ブックマーク・リアクション等で応援していただけると幸いです!\n完結までお付き合いいただき、ありがとうございました!"} |
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