| {"novel_id": "n0005lj", "chapter": 1, "url": "https://novel18.syosetu.com/n0005lj/1/", "title": "一回の表 出会い", "content": "「……あっ!」\n\n 車が幹線道路に入り、鉄道の高架を通過した最初の交差点。今日は時間ピッタリに交差点で信号待ちをしている彼の姿を認めた。\n\n 運転手の蜂屋は、いつも気を利かせて歩道側の道を選んでくれている。私の乗る車が彼の前を通過した時、ぼんやりと車の流れを見ていた彼と目が合った。\n\n“……気付いてくれた!”\n\n 彼は、私のことを覚えているだろうか。数日ぶりに彼の姿を見られたことに加えて、ほんの数秒だけだが、彼が私を認識したことに嬉しさが込み上げた。いつも彼は文庫本や携帯を見て信号待ちをしているため、今までは私が一方的に見つめるだけだったのだ。\n\n「何よ?」\n\n「……いえ、なにも」\n\n 彼が私を見たという事実に、一人で笑みを浮かべていたらしい。ミラー越しに蜂屋と目が合い、見られていたことに気付く。乙女心の一端を覗かれたようで、恥ずかしさからつい冷たい言葉が出てしまった。\n\n\n\n\n 一ヵ月ほど前の四月。初めて『学ランの君』を見かけたのは、学校からの帰り道だった。どうしてもお手洗いが我慢できず、蜂屋にお願いしてあの交差点に近いコンビニに立ち寄った時のこと。用を済ませ、スッキリしたところで不意に声を掛けられた。\n\n「おねーさん、コレ落としたよ」\n\n 振り向いた私の視界に入ったのは、花柄のハンカチと黒い制服の胸元だった。見上げると、彼と目が合う。随分と背が高いその男は、私のハンカチを差し出していた。ポケットに収納したと思っていたものが落ちていたようだ。\n\n「……ありがとうございます」\n\n ハンカチを受け取りお礼を言ったものの、私の声が小さかったのか返事はなく、彼はそのまま私を追い越して店の外に出て行った。\n\n 目で追っていると、彼は店外にいた制服姿の少女のもとへ行き、二人は楽しそうに話し始めた。少女が私の視線に気付いたため、私は慌てて目を逸らし歩き出した。\n\n 落ち着きのない足取りで店の外に出ると、彼らの明るい声が鼓膜を揺らす。私は平静を装って車に戻り、ドアを開けてくれた蜂屋にお礼を言ってから、車内から密かに彼らを観察した。\n\n 二人を見つめる彼の瞳の熱っぽさが、言葉を交わさずともそれが『恋仲』であることを如実に物語っていた。\n\n 彼の瞳は少女だけを映しており、少女も弾むような声で笑っている。穏やかな日差しが差し込む中、春風が散った桜の花びらを舞い上げた。\n\n 近頃ではあまり見なくなった、学ランとセーラー服。二人の姿はまるで、青春という概念を切り取った一枚の写真のようだった。\n\n ハンカチを差し出した彼と目が合った一瞬、周囲の音が消えて、己の鼓動だけがやけに大きく聞こえた。均整のとれた、男らしくも美しい顔立ち。長身だが、威圧感はなかった。\n\n 兄たちのように華やかな印象ではないが、若々しく、確かな男らしい存在感を私に焼き付けた。\n\n“……まさに、色男って感じね”\n\n そんな彼はどれほどの女性を虜にして、どれだけの男性に妬まれるだろう。帰りの車中、私はずっとそんなことを考えていた。\n\n\n\n\n 二度目の邂逅も同じコンビニだった。ハンカチを拾ってもらってから、二週間ほど経っていただろうか。前回と同様にお手洗いを借りた後、何となくお詫びのつもりでガムを一つ手に取り、レジに向かった時のことだ。\n\n カウンターに商品を置き、キャッシュレス決済で支払おうとした私は、携帯電話を車内に忘れてきたことに気付いた。\n\n“……あっ、お金がない”\n\n お財布もなければ、携帯電話もない。レジの男性は早くしろと言わんばかりに私に目を向け、振り返れば数人が会計を待っている状態だった。\n\n「お金を取ってきます」と言えれば良かったのだが、冷たい視線にパニックになり、どうしていいかわからないまま時間だけが過ぎていく。\n\n「これと一緒に会計して」\n\n 不意に、カウンターの上におにぎりが置かれた。声の主を見上げると、あの時の彼だった。ハンカチを拾ってくれた彼が私の横に立っている。レジの男性は無言で作業を進め、私のガムと彼のおにぎりは合算されて支払われた。\n\n「……あ、あの!」\n\n 私の声は、彼の屈託のない笑顔でかき消された。彼は二つの商品を手に取り、目線で私を店外に誘う。スマートなエスコートに、私は何とも言えず従うしかなかった。\n\n「突然ごめんね。これどうぞ」\n\n「あの、お金は」\n\n「あげるよ。俺もレジに並ぶ人を飛ばして、横入りしたから」\n\n そう言って、彼は立ち去ろうとした。私は咄嗟に彼の腕を取り、何とか引き留めた。\n\n「待って」\n\n ………気付けば、無意識に伸ばした手が彼の腕をしっかりと掴んでいた。自分の信じられないほど大胆な行動と、掌に触れた熱にハッと息を呑む。\n\n『貸しができたらすぐに返せ』幼いころから、父に言われ続けていた言葉が頭をよぎる。このまま帰らせてはいけないと思い、帰って来ない私を心配し外で私を待っていた蜂屋に慌てて声を掛け、お金を支払ってもらった。\n\n「……助けていただいて、ありがとうございました」\n\n「次は気を付けなよ」\n\n 彼は受け取った小銭をポケットにしまい、背を向けて去って行った。今日は一人のようだったのでもう少し話をしたかったが、叶わなかった。蜂屋も車内に戻った後、『あんな息子が欲しかったな』とこぼしていた。\n\n“……スマートで機転が利く。私を助けたのは偶然?”\n\n 二度も親切にしてもらった。彼は、私のハンカチを拾ったことを覚えているだろうか。あの日から運命的な出会いが始まっていたのだろうか。私を意識して、今日も助けてくれたのだろうか。彼は、私のことが好きなのだろうか。私は……。\n\n\n\n\n その日から、四六時中彼のことが心に浮かぶようになっていた。翌日から、下校途中に何度かあのコンビニに寄ったが、彼の姿はどこにもなかった。蜂屋も気を利かせて『トイレに行きたい』と言い、コンビニに寄るチャンスを与えてくれたが、タイミングが合わない。\n\n ある朝、少し早めに家を出た時のことだ。あのコンビニに近い交差点の先頭で、信号待ちをしていた車の前を横切る彼を目にした。\n\n 蜂屋も気付いて、彼を目で追っていた。私は車が走り出してからも、見えなくなるまでずっと彼を見つめていた。当然ながら、その日から私は少しだけ早く家を出るようになった。\n\n 交差点からほど近い、御門葉高校の制服だと蜂屋が教えてくれた。男女共学で、偏差値の高い公立高校。\n\n 毎朝見掛けるわけではない。傘で顔が見えなかったり、交通事情ですれ違えなかったりする日もある。それでも、私の毎日の楽しみは『学ランの君』を見ることになっていた。\n\n“……これが恋というものなのだろうか”\n\n 自分ではいくら考えてもわからない。けれども、学校の友人に相談するのは躊躇われた。彼の存在を学校に広めてしまうからだ。この学校で彼を知るのは私だけでいい。誰にも教えたくない。このささやかな独占欲こそが、私の彼に対する唯一の強がりだった。\n\n 私が通う紫峰女学院は、学校法人紫峰が運営する幼稚園から大学までの一貫校だ。名家の子息、息女が通う歴史ある学校で、中学・高校は男女別、学力はそれなりに高い。\n\n 女子の多くは幼稚園から大学まで内部進学を選択し、男子は私の兄たちのように、大学から東京の名門・三田大学へ進学することが多い。\n\n 男子は幼い頃より父親や祖父の影響で勉学に勤しみ、スポーツに取り組む。一方で女子は、主に音楽や芸術、華道や日本舞踊を習い、誼を結ぶ名家に嫁いでいくための準備期間として学生生活を捉えている。\n\n 将来、私も葵家の一員として、親が決めた相手と結婚するのだろう。それに特に不満はない。学校も英会話も茶道も、必要なものだと認識している。\n\n 私も兄二人も、両親や祖父が敷いたレールの上を歩いてきた。祖父も父も、この紫峰系列から三田大学を卒業している。\n\n 男と違い、女が自由に異性と遊べる期間は短い。早ければ、高校卒業と同時に嫁いでいく人もいる。それ故、一部の女子は中学に上がると手当たり次第に男と遊び始める。\n\n 決められたお見合いをして婚約してしまえば、もう他の男と関わることはできなくなるからだ。『今だけ』と割り切る女子は多い。\n\n 私はそんな彼女たちを、身持ちの悪い女だと軽蔑していた。だが、高校一年生にしてようやく彼女たちの気持ちが理解できた。将来、好きでもない男に嫁ぐのなら、今だけは愛する男の傍にいたい……それは、ごく当然の心理だと思えるようになっていたのだ。\n\n「……はぁ」\n\n「静香さん、お行儀が悪いですよ。なんですか、溜息なんかついて」\n\n「……なんでもありません」\n\n 今日の帰り道にもコンビニに寄ったが、彼の姿はなかった。今朝、交差点で目が合ったことで、彼も意識してくれていると考えていたのに。やはり彼には、あの少女がいるのだ。\n\n 目が合っただけで期待した私が馬鹿だっただけ。それでも、日を追うごとに彼への想いは募る。どうにもならない気持ちが、思わず溜息になって漏れてしまった。\n\n 今日は茶道の日だ。お手伝いの政子さんに着付けをしてもらっている。一人でも着られるのに、お節介な彼女はいつも手伝うと言ってきかない。\n\n 彼女は、中学生の頃から結婚もせず、十数年ずっと葵家に住み込みで働いている。私と兄たちにとっては、お姉さんのような存在だ。\n\n「蜂屋さんから聞いていますよ。近頃、静香さんには気になる男性がいるって」\n\n「……えっ! は、蜂屋がそんなこと言ったの?」\n\n「最近、静香さんのお帰りが遅いので、私が蜂屋さんに確認いたしました」\n\n「……嘘。じゃあ、お母様も知っているの?」\n\n 母に知られては不味い。きっと、彼の生い立ちから何から調べ尽くすだろう。そして『顔だけの男』と断じ、私にも蜂屋にもあのコンビニに寄ることを禁じるに決まっている。\n\n 数年前、次兄が高校生だった折、他校の女子とデートした時もそうだった。次兄が街で声を掛けたのがきっかけだったというだけで、母は容赦なく『二度と会わないように』と強引に別れさせたのだ。\n\n 私の唯一の楽しみを、母に奪われてしまう。その想像に私は恐怖した。\n\n「ご心配なく。華子様にも誰にもお伝えしておりません。蜂屋さんもそれを条件に話してくださいましたから」\n\n「……なんだあ。もう、不安にさせないでよ」\n\n「気になる男性がいることは、否定なさらないのですね? 静香さん、背中が丸まっていますよ!」\n\nそう言って、政子さんは帯をギュッと締めた。\n\n 私は彼女の指摘に言葉を返せなかった。己の気持ちもわからない。彼とどうなりたいのかもわからない。ただ彼を愛でられれば満足なのか、恋人になりたいのか、何もわからない。そんな私が、彼女の問いに答えられるはずもなかった。\n\n\n\n\n一夜明けて、翌日。\n\n“……今朝は会えなかったな”\n\n いつもの交差点に彼の姿はなく、私は小さな落胆を抱えたまま学校へ向かった。そしてその日の放課後。授業が終わり、級友たちに挨拶をした私は、彼のことを考えながら校外の駐車スペースで待っている蜂屋のもとへ向かっていた。\n\n 校門を出た時、一人で壁にもたれ掛かっている他校の女子生徒と目が合った。\n\n“……彼女の制服、確か『学ランの君』と同じ学校の……”\n\n そう思い返していた矢先、彼女が私に向かって真っ直ぐに歩いてきた。\n\n「こんにちは。少しお話できませんか?」\n\n\n\n\n 私に話しかけてきたのは、ハンカチの時、『学ランの君』の隣で笑っていたあの少女だった。"} |
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