Krixter/Repo / n0005lj /16.json
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{"novel_id": "n0005lj", "chapter": 16, "url": "https://novel18.syosetu.com/n0005lj/16/", "title": "七回の表 決意", "content": " 真夏のお盆の盛り。繁殖相手を求めて狂おしく鳴き続ける蝉時雨を背に、私はテレビに映る高校野球の試合をただ眺めていた。\n\n 地元の代表校ならまだしも、画面の中では私とは縁もゆかりもない高校同士が熱戦を繰り広げている。夏季課題もすべて片付き、習い事も盆休み。他にやることもなく、私はただ虚ろな心でテレビの砂嵐のような喧騒を浴びていただけだった。\n\n その時、母の執務室の方向から、帰省した父の激昂した声が響き渡った。私は反射的にテレビの音量を絞る。\n\n「……なんだ、この記事は! 俺のことも、親父のことも、重信や敬のことにまで触れているんだぞ!」\n\n 父の怒鳴り声は、家中に不穏な空気を撒き散らした。青天の霹靂とも言うべき事態に、そのプライドは無残に砕け散っているのだろう。父の驚きと怒りが爆発する様子を耳にし、私は内心で冷ややかにほくそ笑んだ。\n\n“ようやく……始まったのね”\n\n ざまぁみろ、という言葉が喉の奥で喉を鳴らす。積み上げてきた虚飾の城が崩れ落ちる音を、私は期待を込めて待ち構えていた。\n\n\n\n\n 翌日の午前中、葵家は一族揃っての墓参りを済ませていた。本家を離れて暮らす祖父母に加え、長兄の重信と妻の皐月さんも加わり、葵家は久々に全員が一堂に会した。昼食には精進料理の仕出しが振る舞われ、食後は菓子と茶を囲んで、重苦しい空気がテーブルを支配していた。\n\n 父と二人の兄は、昨日から収まらぬ怒りを剥き出しにし、終始不機嫌な面持ちでいる。原因は、昨日発売されたある週刊誌だった。表紙にデカデカと踊る『葵一族の男たち』という見出し。その中身は、一族の男たちが長年隠し続けてきた秘密の全貌を暴くものだった。\n\n 週刊誌の調査能力は、短期間とは思えぬほど恐るべきものだった。祖父、父、そして長兄が囲う愛人の詳細。次兄・敬の乱交サークルの実態。それら全てが、愛人との出会いから現在に至るまで、赤裸々に綴られている。\n\n 幸いにも、政子さんの経験談だけは記事から漏れていた。彼女はまだ葵家の使用人であり、決定的なカードとして温存する必要があったからだ。彼女が葵家を離れ、その気になった時こそが、最後の一撃を加えるべき時だろう。\n\n しかし、それ以外は完璧だった。かつて葵家を去った使用人たちが、恨みを込めてリークしたのだろう。次兄・敬の所業に関する目撃証言は特に生々しく、金で隷属させられていた妙子さんの告発が、何よりも強烈な毒となって誌面を汚していた。\n\n\n\n\n 週刊誌の発行元は、皐月さんの実家である鳥居家が経営する新聞社の系列企業だった。愛人を持つ彼女の父親が身内のスキャンダル暴露に協力するとは思えなかったため、私と皐月さんは鳥居家のお祖父様に直接話を持ち掛けたのだ。\n\n 幸いなことに、彼女の祖父は筋金入りの愛妻家であり、『愛人など言語道断』と一刀両断する気骨のある御仁だった。そのおかげで、今回の記事が世に出る運びとなったのである。\n\n 葵家の祖父に関しては既に隠居の身であり、祖母も長年の愛人の存在を知っていたため、今さら大した被害はない。だが、現役である他の三人(父と二人の兄)は、その怒りの矛先を明らかに皐月さんへと向けていた。\n\n「皐月さん、これは一体どういうことだ?」\n\n 昨日からずっと問い詰めたかったのだろう。父は週刊誌をテーブルに叩きつけるように置き、皐月さんを睨みつけた。\n\n 記事の出所が鳥居家である以上、皐月さんが内部事情をリークしたことは明白だ。実家の力を使って婚家に泥を塗るなど、葵家の男たちからすれば万死に値する裏切りだろう。\n\n“……なんて恥ずかしい父親かしら。世間に知られて困るくらいなら、初めから愛人など囲わなければいいのに”\n\n 沈黙する皐月さんを庇うように、私は内心で冷たく吐き捨てながら静かに口を開いた。\n\n「お父様。記事の内容は、すべて『事実』ではございませんか。もし事実無根の嘘が書かれているのなら、皐月さんが非難されるのも当然です。ですが、あの記事に偽りは一つもないかと存じますが」\n\n 皐月さんの代わりに口を開いた私を見て、父は一瞬だけ気後れしたようだった。高校生の娘が自分たちの醜聞をすべて把握しているという事実に怯んだのだろう。\n\n だが、それで振り上げた拳を下ろせるはずもなく、図星を突かれて余計に顔を紅潮させた父は、どうしても皐月さんを糾弾しなければ気が済まないようだった。\n\n「そういう問題ではない! 私は皐月さんに聞いているのだ! 君のお父上は、この件を何と仰っているのかね!」\n\n「実の父からは非難されましたわ。ですから、この件は直接お祖父様にお願いいたしましたの。記事の差し止めができなくて……お義父様も、重信さんも、敬さんも、本当に残念でしたわね」\n\n 完全に吹っ切れた様子の皐月さんは、涼しい顔でそう言い放つと、悠々とお茶を啜った。この記事が世に出た時点で、彼女の覚悟はとうに決まっている。父や兄たちが今さらどれほど喚き散らそうが、彼女の心には響かないのだ。\n\n何も間違ってはいない。皐月さんの思考こそが『正常』なのだ。『男は仕事のために外に愛人を作り、妻はそれを容認して管理する』などという狂った掟がまかり通る葵家が異常なだけ。\n\n この家の常識は、一歩外に出ればただの非常識に過ぎない。世間からこうして非難の的になるのも、当然の報いだった。\n\n\n\n\n「ちょうど皆様お揃いですから、この場で申し上げてしまおうかしら。……重信さん、私と離婚してください」\n\n「……えっ、そ、それは君自身の意思なのか?」\n\n「当然です。あなたが愛人を切らないとおっしゃるなら、別れる以外に道はございません」\n\n 皐月さんは堂々と言い放った。これには流石の祖母や母も、隠しきれない怒りを顔に滲ませた。\n\n 週刊誌の暴露記事程度なら、嵐が過ぎるのを待てば一過性のスキャンダルで済む。一年も経てば世間は忘れる。だが、死ぬまで消えない『離婚歴』という傷を葵家嫡男の経歴につけることだけは、絶対に許されない。おそらく、そう考えているのだろう。\n\n 確かに、名家の嫡男で離婚歴がある男などごく僅かだ。古い価値観で言えば、世継ぎを産めない妻が家を追われるくらいしか離婚の理由にならない。\n\n だが、時代はとうに変わっている。皇族でさえ非難されるような前時代的な風習を、未だに絶対のルールとして強要してきたこの葵家が悪いのだ。\n\n 両家のパワーバランスだけを見れば、巨大な葵グループの方が格上かもしれない。だが、事が公になった今の状況では話が違う。\n\n もし葵グループが報復として鳥居家系列の新聞や雑誌から広告を引き揚げたり、圧力を掛けたりすれば、世間からは『逆恨みの見苦しい隠蔽工作』として更なる非難を浴びる。\n\n 鳥居家が本気になれば、今度は本当の葵家の内情を記した暴露本が出版される可能性すらあるのだ。\n\n 最悪の場合、スキャンダルと社会的信用の失墜により葵グループの株価は急落し、その損失は計り知れないものとなる。\n\n 創業家一族の不祥事となれば、これを機に父や長兄が経営陣から排除される公算も大きい。大株主としての実権は残るだろうが、社会や取引先がどこまで葵家を見限るかは未知数だ。\n\n 結論として、葵家は鳥居家に対して一切の敵対行動を取ることができない。完全にチェックメイトだった。\n\n\n\n\n「皐月、本気で言っているのか……?」\n\n「私と別れるか、今後一切愛人を持たないか。どちらかを選んでくださればいいだけです。今までのことには目を瞑りましょう。ただし、私に子供は期待しないでください。重信さんには、もう指一本触れられたくもありませんので」\n\n 皐月さんからの事実上の最終通告に、その場にいた全員が驚愕の色を隠せなかった。『跡継ぎ』が望めない以上、長兄にとってこの婚姻関係を続ける利点は何もない。\n\n つまり、皐月さんは初めから離婚しか望んでいないのだ。「せめて跡継ぎが生まれてから外に女を作ればよかった」「あんなにも露骨に愛人の存在を匂わせるべきではなかった」と、俯く長兄は今頃になって激しく後悔しているに違いない。\n\n ここまで理路整然と追い詰められては、さすがの父も母も、怒りに任せて皐月さんを非難することはできなかった。\n\n もし長兄の離婚を回避できるのなら、跡継ぎは次兄・敬の子供を養子に迎えればいい……彼らはそう打算を働かせているのだろう。だが、問題はその次兄にもある。\n\n 記事によれば、次兄が大学時代に出入りしていた乱交サークルについて、被害に遭った女性たちから警察へ被害届が出される見通しだという。\n\n もちろん、葵家は莫大な金を使ってそれを揉み消す算段をつけているはずだ。だが、このような致命的なスキャンダルを抱えた次兄の結婚相手など、自ずと限られてくる。\n\n 特に次兄は将来、国会議員に立候補する予定なのだ。地盤の力で当選はするだろうが、万が一ということもある。刑事事件の火種を抱え、家の中では使用人を公然と慰み者にするような男だ。どれだけの余罪が眠っているか知れたものではない。\n\n 選挙期間中に別件の被害が掘り起こされでもすれば、時効など関係なく組織票は一瞬にして吹き飛ぶ。そんないつ爆発するかわからない爆弾のような次兄に嫁ぎたいと、自ら手を挙げる名家などあるはずもない。\n\n「すぐに決断なさらなくても結構ですわ。年末まで待ちましょう。……来年のお正月は、私どもの暗い話題で持ちきりになるかもしれませんが、皆様どうかご理解くださいませ」\n\n そう言い残し、皐月さんは優雅な所作で席を立ち、部屋を出ていった。後に残された葵家の面々は、ただ押し黙り、一様にうな垂れるしかなかった。\n\n\n\n\n「静香さん。あなたも皐月さんの件に……関与しているの?」\n\n「ええ、もちろんです。この悍ましい一族の悪習を終わらせる時が来たのだと思い、喜んで協力いたしましたわ」\n\n 父と次兄が東京へ逃げ帰ったタイミングを見計らい、母は私にそう尋ねてきた。わざわざ執務室に私を呼び出し、鍵まで掛けて。\n\n 誰の耳にも入れまいとする思惑が透けて見える。おそらく母の勘が告げたのだろう。皐月さんが単独であそこまで周到な行動に出るはずがない、確実に裏で糸を引く者がいるはずだと。\n\n 父はあの後も『週刊誌を訴えてやる』と息巻いていたが、地に落ちた葵一族とグループのブランドがどこまで回復できるかは未知数だ。\n\n 当然、この記事の影響で私に持ち込まれていた見合い話も次々と立ち消えになるだろう。だが、好都合だ。今の私に政略結婚など必要ない。私の生涯の伴侶は、とうに決まっているのだから。\n\n「……そう。政子さんは関わっているの?」\n\n「彼女は一切無関係です。的外れな邪推はなさらないでくださいませ」\n\n ピシャリと撥ね除ける。政子さんには、葵家の現状はすでに伝えてあった。私としては、彼女にはもうこの忌まわしい家に戻ってきてほしくない。\n\n だが、このタイミングで彼女が姿を消せば、母のようにあらぬ疑いを掛ける者が出るかもしれないと懸念していた。しかし、電話口の彼女の声はひどく穏やかだった。\n\n『静香さんが背負うことではありません。たとえ葵家が私に報復したとしても、どうかお気になさらないでください。私のために動いてくださって……本当に、ありがとうございました』\n\n 今のところ、家族の中で政子さんが裏切ったと本気で疑っている者はいない。もし彼女がリークしたのなら、父との悍ましい関係も記事に出ているはずだし、他にも数えきれないほどの余罪が暴露されていたはずだからだ。\n\n『お爺様。政子さんは今回の記事とは無関係です。もし父や兄が腹いせに彼女へ危害を加えようとした場合は、お爺様が全責任を持って守って差し上げてください。……彼女は、お爺様の実の娘でしょう?』\n\n 念のため、私は祖父にそう釘を刺しておいた。まさか私がそこまで知っているとは思わず祖父は絶句していたが、我が身の保身のためにも何らかの手は打つだろう。\n\n 祖父には、これまでのせめてもの贖罪として、彼女の盾として機能してもらわねば困る。\n\n\n\n\n「最後に、もう一つだけ聞かせてちょうだい。清和奏介をあなたの婿に迎えるために……お父様や重信さんを排除しようと企んだのかしら?」\n\n「排除、ですか?この程度の不祥事で、大株主である父や兄が完全に排除されるなどあり得ませんわ。グループ全体で見れば多少の損失は免れないでしょうが、これで奏介さんが婿に入るための障害がすべて消え去ったとは、私も思っておりません」\n\n「……では、酒井家とのお見合いはどうするつもり? まだお返事をしていないようだけれど」\n\n「八月末までにはご回答いたします。仲人の方へは、どうかそうお伝えくださいませ」\n\n 母にそれだけを告げ、私は執務室を後にした。母が今の会話を父に報告しようが、誰に吹き込もうが、もう盤面は何も変わらない。私はただ、自ら選んだ道を進むだけだ。\n\n 八月最後の木曜日。私はようやく、奏介さんとの時間を設けることにした。最後に会ったあの日から、一ヵ月以上も彼を待たせてしまった。だが、私の方にも彼を迎え入れるための『色々な準備』が必要だったのだ。\n\n『どうしても許可をいただけないというのなら、今後一切、お見合いの席には出席いたしません。お母様は私を……皐月さんのようにしたいのですか?』\n\n 母からは、半ば脅迫のようにして外出の許可をもぎ取った。元々、母自身も彼との交際には賛成していたのだ。今の葵家の崩壊ぶりを考えれば、私を無理に抑えつけて反発を招く愚は冒さないはずだ。\n\n\n\n\n“………一生、忘れられない日になる”\n\n私は確かな熱を帯びた予感とともに、そう確信していた。"}

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