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{"novel_id": "n0005lj", "chapter": 3, "url": "https://novel18.syosetu.com/n0005lj/3/", "title": "二回の表 提案", "content": "「ごめんなさい。いきなり押し掛けて。それに、車にまで乗せていただいて」\n\n「いえ、お気になさらず。お話しは着いてからにしましょう」\n\n 彼女………榊原巴さんは、ひどく恐縮した様子で私に頭を下げていた。\n\n\n\n\n 校門で彼女に声を掛けられた際は、一瞬、人違いではないかと思った。だが、私を真っ直ぐに見据える彼女の強い瞳がそうではないと告げており、私は半ば強引に彼女の手を取り、車に押し込んだのだった。\n\n 決して乱暴をするつもりはなく、校門前で立ち話をするような内容ではないと直感したからだ。なにより、学校内で不用意な噂が立つことだけは避けたかった。蜂屋には、学校から離れた静かな公園に向かうよう指示を出した。\n\n“……彼の好みは、こういう凛とした女性なのかしら?”\n\n 車内で隣に座る彼女を、気付かれないよう盗み見る。背が高く、スラリとした体形。髪は染めた形跡のない艶やかな黒髪で、ロングヘアーをポニーテールにしてスッキリと纏めている。\n\n 制服を着崩すこともなく、真面目で礼儀正しい印象を受けた。小柄な私とは正反対の魅力を持つ彼女を前に、自分が彼の好みから外れているような気がして、胸の奥にほんの少しだけ冷たい失望が広がった。\n\n 彼女がわざわざ他校の私を訪ねてきた理由は、一つしか考えられない。『学ランの君』への付きまといを止めろという、明確な警告だ。\n\n そう考えると、この物静かな佇まいの奥に、相当な気の強さを秘めているのかもしれない。車内に流れる沈黙の中、私の心にじわじわと不安が広がっていく。\n\n 私としては、それほど目立った行動をしたつもりはなかった。それでも、彼女の目には私が脅威に映ったのだろう。無理もない。あれ程の男だ。\n\n 顔は整い、機転も利く。背が高すぎて威圧感があると言う女性もいるかもしれないが、私の知る限り彼に欠点は見当たらない。\n\n 彼女としては、彼に群がる羽虫は片っ端から排除しなければ、心の安寧は保てないのだろう。ここで中途半端に取り繕ったり謝ったりするのは悪手だ。だからこそ、私は密室である車内では口を開きたくなかった。\n\n\n\n\n 蜂屋は十五分ほど車を走らせ、閑静な住宅街にある公園の横に車を止めた。私はドアを開けてくれた蜂屋にお礼を言うついでに、何か飲み物を買ってきてほしいと頼んだ。蜂屋は無言で頷き、私たちを降ろした車はそのまま滑るように去っていった。\n\n「ご挨拶がまだでしたね。私は葵静香と申します。紫峰女学院高等部の一年生です」\n\n「改めまして、榊原巴です。御門葉高校の一年です」\n\n「まずは謝罪させてください。あなたの彼を付け回すような真似をしてしまって、大変申し訳ございません。決して横恋慕して奪おうというつもりはなかったのです。ただ、結果として榊原さんを不安にさせてしまったことに対する謝罪です」\n\n 私は名乗り合った後、潔く頭を下げた。これで、もう彼と話す機会は永遠に失われるだろう。胸がズキリと痛むが、仕方のないことだ。\n\n ほんの短い間だったが、これほどまでに異性に心をかき乱されたのは初めてのことだった。きっと、これが世間で言う『初恋』なのだと思う。私の初恋は呆気なく散ってしまったが、それでも、あの胸の高鳴りは決して悪い経験ではなかったと自分に言い聞かせる。\n\n ただ、最後に一度だけ彼の声を聞きたいという未練がくすぶっているのも事実だが、他人の恋人を前に我儘を言っても始まらない。\n\n「……多分、葵さんは誤解しています。謝罪がほしい訳ではなくて。今日はお願いがあって、葵さんを訪ねました」\n\n「……それは、どのような?」\n\n「清和奏介の、恋人になっていただけませんか?」\n\n\n\n\n 私たちは公園のベンチに腰を下ろし、蜂屋が買ってきたペットボトルのお茶で喉を潤しながら話の続きをした。榊原さんの口から飛び出したあまりにも常軌を逸した提案に、私は事情を聴くまでは肯定も否定もできなかった。\n\n 今日はお料理教室の日だが、どう考えても間に合わないだろう。蜂屋には、政子さんに適当な言い訳を取り繕っておいてくれと頼んでおいた。\n\n「私の推測ですが、奏介は葵さんに好意を持っています。もしかしたら、葵さんもそうなのではと思って聞きに来たんです」\n\n 彼女は躊躇うことなく単刀直入に切り出してきた。真剣な眼差しを向ける榊原さんは、決して私を嘘で揶揄っているようには見えない。\n\n 彼が私に好意を持っている………。私が感じていたあの熱の帯びた視線は気のせいではなかったのだと、不謹慎にも胸の奥で甘い歓喜が弾けた。\n\n だが同時に、彼女という存在がありながら他所に目を向ける彼の不誠実さに、チクリとした憤りも覚えた。二人の間にどのような事情があるにせよ、少なからず彼女にそう誤解させるような振る舞いを彼がしたということだ。\n\n「わ、私は、がく……清和さんから告白を受けたことはありませんし、そう思えるような甘い会話をしたこともありません。何か誤解なさっているのではありませんか?」\n\n「奏介から葵さんに告白なんてできませんよ。葵家から既に警告されていますから。もし二人が想い合っているなら、私は応援したいと考えています。私自身は、奏介の『彼女』という地位に未練はありませんから」\n\n“……葵が彼に警告した? お母様が独自に調べられたのだろうか。だが、もしそうなら私にも何かしら話があるはず……”\n\n 私が深く傷つかないよう、水面下でそっと終わらせようと考えたのだろうか。いや、あの苛烈な母が、そんな回りくどい思いやりを見せるとは到底思えなかった。\n\n そもそも、私が『学ランの君』を意識していることを知っている人間は、この世に三人しかいない。私自身と、運転手の蜂屋、そして昨日そのことを私に問い詰めてきた、お手伝いの政子さんだけだ。\n\n 蜂屋が独断で動くはずがない。お母様にもまだ伝わっていないとすれば、動けるのはただ一人。\n\n“まさか、政子さんが……?”\n\n 一度芽生えた猜疑心は、胸の奥で急速に膨れ上がっていく。彼女は私に内緒で、一体彼に何を言ったのだろう。\n\n「葵家から警告? そのような話は初耳ですが……。それよりも、榊原さんは彼のことが好きではなくなったということでしょうか? でしたら、彼とすっぱりお別れされた方がよろしいのでは?」\n\n「奏介のことは好きです。好きという言葉ではとても表しきれないくらい、好きです。だけど、恋人として映画を観たり、遊園地に行ったりするような形は必要ないんです。私たちは、心で深く繋がっていますから」\n\n 彼女の言葉を聞けば聞くほど、私の頭の中は混乱の渦に飲み込まれていった。一体この人は何を言っているのだろう。『心で繋がっていれば、彼女でなくてもいい』などと、あまりにも自己犠牲的で滑稽だ。\n\n そんなものは、彼女の一方通行の思い込みでしかない。『都合のいい部分だけを他人に押し付け、自分は安全な場所から彼との絆に酔いしれる』、そんな歪んだ自己満足を押し付けられる筋合いはない。\n\n 肩書きを捨てた後、どうやって……彼との繋がりを証明し、保ち続けるというのか。\n\n プラトニックな精神の繋がりだけで、恋人という存在に勝てるはずがない。そんな都合のいい条件で満足できる女性など、この世にいるはずがない。\n\n 仮に私が彼と恋人になったとして、彼女がいずれ『こんなつもりではなかった』と泣きを見る泥沼の未来しか想像できなかった。\n\n 葵家の横槍については、今は考えても仕方がない。とにかく、私と榊原さんとは根本的に生きる世界も、恋愛の価値観も噛み合わないということだけは痛いほど理解できた。彼らがこの奇妙な関係を継続するのか破局するのか、もはや私には関わりのないことだ。\n\n「私はもう、彼には一切近づきません。それでよろしいかしら? もし、あなた方が正式にお別れした後、清和さんから直接お話があれば別ですが……今のこの歪な状態のまま、彼が何を言ってきても、私が受け入れる理由はどこにもございません」\n\n「うーん、うまく伝わらないなぁ。わかりました。今日のところはそれで構いません。ただ、もしもう少しお時間があるなら、私に付き合ってもらえませんか?」\n\n「時間はありますが、何をされるおつもりでしょうか?」\n\n「彼のことを、深く知ってもらいたいんです。生い立ちとか、本当の性格とか」\n\n\n\n\n 榊原巴と清和奏介の歴史は、ご近所の幼馴染みというありふれた関係から始まったという。同じ幼稚園に通い、母親同士の仲が良かった。母親たちがお互いの家を頻繁に行き来する中、彼らの関係も自然と深まっていった。\n\n いつしか二人は共にいることが当たり前となり、巴さんはその頃から漠然と清和奏介に好意を抱いていたそうだ。だが、周囲の子供たちが二人の特別な空気を察するようになると、彼女に対する陰湿な意地悪が始まった。\n\n 特に女の子は幼くても、その辺りの人間関係の機微を察知する能力に長けている。徒党を組んで、彼女という『異物』を排除しようと動き出したのだ。\n\n だが、周囲の空気を読まない幼き清和奏介は、『巴と一緒に遊びたい』と無邪気に言い張り、彼女の傍から離れようとしなかった。\n\n 仕方なく女児たちは、彼の前では表向き仲良く遊ぶ振りをし、彼の目の届かないところで別の方法を使って鬱憤を晴らすことにしたのだった。\n\n それでも、所詮は幼児のやることだ。遊んでいたぬいぐるみやおもちゃを横取りされる、お誕生日会に一人だけ呼ばれないといった、その程度の他愛のないものだったため、二人はそれほど気にも留めていなかったらしい。\n\n しかし小学校に上がると、巴さんの勝気な性格も災いしたのか、事態は単なる意地悪から明確な『イジメ』へと悪質に進化していった。\n\n たとえ小学生だろうと、女の嫉妬の根深さと醜さは変わらない。エスカレートしていくのは火を見るより明らかだった。\n\n「どうして、奏介と一緒にいることがいけないことなのか。しかも、それをクラスメイトにとやかく言われることに、どうしても納得ができませんでした」\n\n 彼女は遠い目をしてそう語った。『周りが見えていなかった』『他人の気持ちが考えられなかった』と後から論じることは簡単だが、低学年の小学生にそこまでの処世術を求めるのは酷というものだ。\n\n 私は紫峰の温室で育ったため、あまり同年代の男の子と泥臭く絡んだ経験がなかった。従兄弟や親族の子供たち、あるいはクラスメイトと遊ぶ時も、男は男、女は女と、厳密に別々のコミュニティで遊んでいた記憶しかない。\n\n そのため、彼女の孤立無援の苦しみがどれほどのものか、私には到底理解が及ばなかった。私物をゴミ箱に捨てられ、教科書を破られる………。そんな野蛮で暴力的な悪意が日常に蔓延する世界など、私にとってはフィクションの中だけの出来事だったからだ。\n\n 巴さんの私物はことごとく隠され、ゴミ箱に捨てられた。ある時は体操着を泥で汚され買い直す羽目になり、教科書やノートも無事では済まなかった。\n\n 卑劣な落書きに始まり、ついにはビリビリに破り捨てられ、何度も新しいものを買い直す日々が続いた。\n\n その惨状を知った空気の読めない清和奏介は、激怒してクラスメイトに直接詰め寄ってしまったそうだ。そんなことをすれば、火に油を注ぐように余計に悪意の矛先が彼女に向いてしまうのは当然の理だ。\n\n 直接的な暴力や怪我こそなかったものの、彼や親に心配を掛けまいと、巴さんなりに必死に耐えていたのだろう。\n\n だが、終わりの見えない陰湿なイジメに一年も持たず心が折れてしまった彼女は、ついに学校という場所に恐怖を抱き、登校することが困難になってしまった。\n\n『じゃあ、俺も学校に行かない。二人で勉強しよう』\n\n クラスメイトの醜悪さに嫌悪感を抱いていた清和奏介も、彼女を守るように自ら進んで不登校を選択したのだという。二人は各々の親と学校の協力を得て、自宅学習から始めた。\n\n 約三年間の自宅学習の後、保健室登校ができるようになるまでが、当時の巴さんの精神の限界だった。\n\n 幸いにして二人とも生来の頭脳は悪くなく、勉強だけはさぼらず真面目に取り組んでいたこともあり、二人揃って私立の中学校に進学することができた。\n\n「奏介は『ずっと、そばにいるから』って……いつも私を励ましてくれました。勉強も彼が先生で、私は教えてもらう立場で。………中学だって、共学を選択しなければ、彼はもっと高い偏差値の学校に余裕で入れたはずなんです」\n\n 中学に進学した二人は、また同じような悲劇を繰り返さないため、学校内では意図的に距離を取るようにした。もちろん通学中も休日も。\n\n その甲斐あって、彼女は新たな友人にも恵まれ、ようやく人並みの学生生活を送れるようになっていった。二人はそのままエスカレーター式で高校に内部進学することもできたが、『家から遠い』という理由を建前にして御門葉に入学を決めた。\n\n 学力レベルの高い高校なら、低俗なイジメは起きにくいだろうという、清和奏介の思慮深い提案だったという。\n\n「私、奏介に恩返しがしたいんです。彼のためなら、本当に何だってします。だから……葵さん、もう一度だけ、考え直してもらえませんか?」\n\n 狂気じみた自己犠牲の上に成り立つ、彼女の切実すぎる願い。そのあまりの重さに、私はただ息を呑み、気の利いた言葉を一つも返すことができなかった。\n\n\n\n\n ………結局、明確な結論を出せないまま彼女と別れ、逃げるように帰路についた。\n\n「静香さん、一体何があったのですか?」\n\n 帰宅するなり、お料理教室を無断で欠席したことを政子さんに厳しく詰められた。\n\n 一瞬、すべてを正直に話して相談に乗ってもらおうかと迷った。しかし、あんな荒唐無稽な愛憎劇を話したところで、この堅物な彼女が信じてくれるはずもないと思い直し、『友人の深刻な相談に乗っていた』と誤魔化すに留めた。\n\n それよりも、私にはどうしても政子さんに問いたださなければならないことがあった。\n\n「彼に……清和奏介さんに、お会いになったでしょう?」\n\n「…………」\n\n 図星だ。返ってきた重苦しい沈黙が、何よりの肯定だった。政子さんの顔から、すっと温度が消え去った。\n\n まるで精巧に作られた温かな仮面が音もなく剥がれ落ち、その下から『葵家に仕える者』としての、氷のように冷徹な素顔が姿を現した瞬間だった。\n\n「彼に、私と二度と会うなと警告したのはあなたなの? どうして!」\n\n 裏切られたという怒りと悲しみで、無意識のうちに声が荒らげていた。だが、激昂する私とは対照的に、政子さんは微動だにせず、ただ静かに私の目をじっと見下ろしていた。\n\n いつも私を姉のように優しく見守ってくれていたはずのその瞳は、今は底なし沼のように不気味なほど冷たく、表情には見たこともない薄暗い影がべったりと張り付いている。そして、彼女はフッと口角を上げた。\n\n それは、何も知らない無知な子供に向けられるような憐憫と、明らかな侮蔑が入り交じった、ひどく歪な笑みだった。\n\n\n\n\n背筋にゾクリと冷たいものが走る。\n\n「……何を笑って……」\n\n「ここでは簡潔に理由をお伝えできません。少々長い話になりますので。……来週の土曜日、夕食後にお話しいたしましょう」\n\n ………その声は、いつもの温かな響きを完全に失い、まるで機械が喋っているかのように冷ややかで平坦だった。感情の一切こもっていない事務的な声でそう告げると、政子さんは有無を言わさぬ足取りで、私の部屋から静かに去っていった。\n\n\n\n\n 残された私は、得体の知れない恐怖と苛立ちに、ただ一人震えるしかなかった。"}

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