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{"novel_id": "n0005lj", "chapter": 6, "url": "https://novel18.syosetu.com/n0005lj/6/", "title": "三回の表 葵家", "content": " 暦は六月に入り、既に夏のような暑い日が続いていた。梅雨が明けたらもっと暑くなるだろうと、テレビのお天気キャスターが呑気に伝えている。\n\n あの日から、政子さんとは一言も口を利いていない。家にいても、彼女の姿を見かけることはなかった。母の仕事を手伝っているため不在のこともあるが、たとえ顔を合わせたとしても、約束の日が来るまでは何も話してくれないような気がしていた。\n\n 心には重い霧が立ち込め、得体の知れない不安が胸の奥で広がっていく。政子さんは、あの清和奏介と一体どんな話をしたのだろうか。数年前の次兄の時の様に、母が私に向かって『もう二度と会うな』と冷たく言い放てばそれで終わる話のはずだ。\n\n それなのに、母も政子さんも何を企んでいるのか全くわからない。あの時、政子さんが私に向けた、憐れむような、それでいて見下すような薄ら寒い笑みが、脳裏にこびりついて離れなかった。\n\n“……巴さんには、連絡したくない”\n\n 彼にまだ未練があるのだと思われたくなかった。大体、あの風変わりな彼女に何と返事をすればいいというのか。「私、奏介君の彼女になります」とでも言えば満足するのだろうか。\n\n『恩返しをしたいから、彼を譲る』などと、私も随分と安く、都合のいい女に見られたものだ。彼女の狂気じみた自己犠牲の言葉は、私の常識では到底理解できないことだらけだった。\n\n そんな息の詰まるようなもどかしさを抱えたまま、私は無為に毎日を過ごしていた。\n\n\n\n\n\n「いらっしゃい、静香さん」\n\n「こんにちは、皐月さん」\n\n 週末、私は長兄・重信の自宅を訪れていた。私には二人の兄がいる。長兄の重信と、次兄の敬だ。\n\n 長兄は、紫峰系列の高校から東京の名門・三田大学を卒業し、この辺りに支店を持つ葵銀行に勤めている。将来、父の跡取りとして葵銀行に入行することは、葵家に生まれた長男の絶対の決まり事だった。\n\n 一年前に鳥居家の令嬢だった皐月さんと結婚し、現在は中心街から少し離れた高級分譲マンションに住んでいる。皐月さんは大学在学中に結婚し、今年卒業したばかり。子供はまだおらず、二人は絵に描いたような新婚生活を満喫している。\n\n 次兄も長兄と同じく紫峰を卒業し、去年から三田大学に通っている。有力な家との婚約の話は出ているようだが、まだ正式には決まっていない。今頃は大学の自由な空気に慣れ、東京での生活を謳歌していることだろう。\n\n 次兄の将来のレールも強固に敷かれている。国会議員を務めている年老いた親族の地盤を受け継ぐことになっているのだ。この辺りは葵グループ発祥の地であり、選出される国会議員は代々葵家の関係者で固められている。\n\n 生まれた時から政治家にするため、有権者に名前を憶えられやすい『敬』にしたのだと、父はかつて得意げに語っていた。子供の人生すら、葵家という巨大な盤上の駒に過ぎないのだと実感させられる。\n\n 当主である父は数年前からずっと東京に居座り、こちらへ帰ってくるのはお正月とお盆の数日だけ。地元の重要なイベントがある日も顔を出すが、いつも日帰りでそそくさと東京へ戻ってしまう。\n\n それについて、母は一切小言を言わない。当主の仕事だからと、完全に割り切っている。\n\n 父方の祖父母は既に隠居し、隣町の広大な一軒家で大勢のお手伝いさんたちと暮らしている。母方の祖父母も存命だが、私は外孫にあたるため、昔からあまり接点がなかった。\n\n「お兄様がいらっしゃらない時に、お邪魔してしまってごめんなさい」\n\n「いいのよ。あの人、週末はいつもお付き合いのゴルフで忙しいから」\n\n 長兄は父の勧めで、高校生の頃からゴルフを叩き込まれていた。大学ではサークルにも所属し、かなりの腕前を持っている。\n\n 週末でこの家のお手伝いさんもお休みをもらっているのだろう。皐月さん自らが、香り高い紅茶と上品な焼き菓子を用意してもてなしてくれた。\n\n\n\n\n 私たちはお互いの近況を語り合った。そして私は、四月から起きた胸の内の嵐についても、包み隠さず皐月さんに打ち明けた。\n\n どうしても目で追ってしまう、片思いの男性がいること。彼の『彼女』を名乗る人物が、突然私に会いに来たこと。そして、政子さんが勝手に彼に接触し、警告を与えていたこと。\n\n この閉ざされた世界で、誰かに話を聞いてもらうなら彼女しかいなかった。歴史ある名門・鳥居家のご令嬢として育った皐月さん。\n\n 私はただ、自分の行き場のない想いを、葵家の重圧を、政子さんの不気味な態度を、この胸に立ち込めた靄のような感情の全てを、優しく聞いて欲しかったのだ。\n\n「私から言えるアドバイスは、ただ一つだけよ。心から好きな男性がいるのなら、自分の気持ちのままに進んでみなさい」\n\n 皐月さんは紅茶を静かに一口いただいてから、私を真っ直ぐに見つめてそう伝えた。\n\n 彼女は、自分が過去にもっと自由に行動しなかったことを、今になって激しく後悔しているのだと自嘲気味に笑った。\n\n 高校在学中に長兄とお見合いさせられ、卒業と同時に婚約。そして大学在学中の二十歳で結婚した。\n\n そのため、自分の夫以外の男性と自由にお付き合いをした経験が、彼女の人生にはすっぽりと抜け落ちているのだという。\n\n 皐月さんは厳格な女子一貫校育ちで、男性との接点が極端に少なかった。男兄弟がいればまた違ったのかもしれないが、彼女には姉妹しかいない。\n\n それ故、知っている男性と言えば、友人の兄弟や、家に出入りする使用人くらいのものだったらしい。\n\n「だから、私なりに重信さんを心から愛そうと努力するつもりだったのよ。でも……もう、無理かもしれないわ」\n\n「……えっ! お兄様と何か喧嘩でも……」\n\n「女に決まっているじゃない! ……愛人よ! きっと今日も、ゴルフと偽って彼女の家に行っているわ」\n\n 突如として顔を歪ませ、金切り声に変わった皐月さんの悲痛な叫びに、私は息を呑んだ。\n\n 長兄に愛人がいるなんて、夢にも思わなかった。誰に対しても真面目で、誠実の塊のような長兄。八歳も歳の離れた妹の私には、喧嘩をした記憶すらないほどにいつも優しかった。\n\n そんな立派な長兄が、妻を裏切り浮気をしているなど、私の乏しい想像力では到底結びつかなかった。\n\n\n\n\n 長兄とその愛人の関係は、大学時代の友人関係からなし崩し的に始まったそうだ。聞いたこともない無名の家柄で、ごく一般的な庶民の家庭で生まれ育った女性。\n\n お互いにこの地方の出身であり、東京という大都会で同郷の安心感から距離が近づいたのだと、皐月さんは恨み言のように語った。\n\n 二人は深く愛し合っていたという。別れたくはなかったが、長兄には葵家の次期当主として、既に家同士で決められた結婚相手(皐月さん)がいた。\n\n それ故、愛人は大学卒業と同時にこちらへ戻ってひっそりと就職し、葵銀行の支店に配属された長兄と、今でも裏で関係を続けているというのだ。\n\n「……私、そんなこと全く知らなくて。あまりのショックで、お義母様にも、自分の実家の母にも泣きながら相談したの。そしたら……『そんなこと、男の甲斐性として当たり前だ』って、鼻で笑われたわ」\n\n「……そんな」\n\n「葵家のお義父様も、先代のお義祖父様も、そして私の実の父だって、みんな外に愛人がいるんですって。お義母様に冷たく言い放たれたわ。『何かあった時に家が困るから、愛人の身元や動向は、妻としてしっかり調べて把握しておきなさい』って」\n\n『その愛人には、正妻である皐月さんから直々に、妾としての心得をお伝えしなさい』\n\n 私のあの厳格な母は、表情一つ変えずにそう言って皐月さんに、妾に対してどのように格の違いを知らしめ、管理していくのかを事細かに説明したそうだ。\n\n 妻は、愛人が己の分を弁えて日陰で大人しくしている限りは、その存在を許してやらねばならない。\n\n 生まれる子は妻の血筋より後回しにする、二人きりで派手な外出は避ける、他の男と一切接点を持たない等の、葵家独自の『妾のルール』を、母は滔々(とうとう)と説いたという。\n\n 逆に、男のキャリアに泥を塗るような女、男の価値を下げるような質の悪い女は、どんな手を使ってでも徹底的に排除しなければならない。\n\n 会いたいと男にせがんだり、男に深酒させたり、仕事に悪影響を及ぼすような我儘を言う愛人も稀にいるらしい。\n\n そのため、相手がどこの馬の骨で、どんな性格の女なのか、首輪をつけて管理しておくことが『正妻の仕事』なのだと。\n\n 愛人宅での急な怪我や病気に遭遇した場合の連絡網、万が一子供ができた場合の法的な対応、男が持つアレルギーや常備薬の知識、そして、毎月の金銭的な援助額の査定まで、妻の仕事は多岐に渡るのだという。\n\n「嫌で嫌でたまらなかったけど、お義母様から指示されて、直接会いに行ったわ。……拍子抜けするくらい、地味で貧乏くさい女性だった。私たちに土下座する勢いで頭を下げて、『申し訳ございません』って泣いて謝られたわ。『奥様がいらしても、日陰で重信さんをお支えしたい』『お金も子供も望みません、絶対にご迷惑はお掛けしません』って、虫けらみたいに震えて言っていたわ」\n\n「……私は、絶対に許したくなかった。彼女の首を絞めて殺してやりたかった。でも、お義母様が……それを認めたの。『我が息子を、よろしくお願いします』って、表情一つ変えずに頭を下げたのよ」\n\n「私は、そんな他の女の匂いをさせて帰ってきた夫を労い、食事をさせ、夜には抱かれなきゃならないの! 愛人を抱いたその汚い手で、彼は平然と私の肌に触れるのよ! 所詮、私なんて歴史ある葵家の『血の通った後継ぎ』を産むためだけの、ただの高級な道具なのよ!!」\n\n 堰を切ったように溢れ出した、激しい憎悪と絶望が入り混じった皐月さんの叫びが、私の心臓を冷たい手で鷲掴みにした。\n\n そんな悍ましい事実、私は一つも知らなかった。尊敬していた父も、優しい祖父も、外に愛人を囲っている。\n\n そして、誰よりも厳格だと思っていた母が、それを当然の権利として認め、さらには愛人に妾の心得を説き、システムとして彼女たちを管理している。\n\n 両親も、祖父も、そして長兄に対しても、激しい嫌悪感が胃の底から込み上げてきた。立派な仮面を被った一族の、狂気じみた淫靡な裏の顔が、気持ち悪くて仕方がなかった。\n\n『皐月さん。上に立つ男は、同時に何人もの女性を愛し、抱くものなのです。そうして女の情念を知り、男として一回りも二回りも成長していくのです。この程度のことで、重信さんをヒステリックに責め立ててはなりません。葵家の次期当主の妻は、泰然自若としていなければ務まりませんよ』\n\n 母は愛人の品定めを終えた後、泣き崩れる皐月さんに向かって、氷のように冷たい声でそう言い放ったという。\n\n「静香さん、あなたが将来親に決められて結婚する夫も、間違いなくそういう種類の男なのよ。今時、処女のまま嫁ぐ名家の娘なんて、私くらいのものだわ。……自由な恋愛ができるなら、今のうちにしておきなさい。私からあなたに言えるのは、本当にそのくらいよ」\n\n 最後に皐月さんは、抜け殻のような虚ろな瞳で私にそう忠告を残した。\n\n 心も身体も愛されない結婚など、絶対に嫌だ。純粋な愛情を分かち合えない、ただの繁殖の道具になるような結婚に対する強烈な忌避感が、私の心に真っ黒な染みとなって深く残った。\n\n\n\n\nそして、政子さんとの約束の日の夜を迎えた。\n\n 皐月さんからあの凄惨な真実を聞かされた日から、私は母の顔をまともに見ることができなかった。家族に対する拭い去れない嫌悪感と、籠の鳥である己の不甲斐なさで、私の頭の中はひどく掻き乱されていた。\n\n こんな悍ましく、汚らわしく、醜い葵家の血が、この私の体の中にもドクドクと流れているという事実に対する強烈な苛立ち。物心ついた時から、葵家の一族であることを何よりも誇りに思って生きてきた。\n\n だが、あんな話を聞かされた今、そんな高潔なプライドは見る影もなく砕け散っていた。\n\n そして、皐月さんにせっかく背中を押してもらったというのに、自分の力ではどうすることもできない自分が心底情けなかった。\n\n 私がいくら足掻いて行動を起こしたところで、葵家という巨大なシステムの前では、未来は何も変わらない。そんな分厚い諦観が、私の心の羽を重く縛り付けていた。\n\n たった一人の男と、ただ純粋に愛し、愛されたい。そんな当たり前のことすら、私には一生手に入らないのだろうか。\n\n 夕食後、約束通り政子さんが私の部屋にやってきた。久々に間近で見た彼女は、何かが以前とは決定的に違って見えた。\n\n いつもは地味なズボン姿なのに、今日は珍しく体の線が出るタイトなスカートを穿いており、化粧もどこか艶めかしく、生々しい女の色気を纏ったような、どこか蠱惑的な印象を受けた。\n\n「これから当面の間、静香さんには『閨房』についてしっかりとお教えいたします。毎週、この時間にみっちり行いますので、よろしくお願いいたしますね」\n\n「け、けいぼう?」\n\n「ええ。何のことかお分かりにならないでしょうから、まずはわかりやすい教材をご用意いたしました。今日は、これを鑑賞していただきます」\n\n 唐突に『閨房』……つまり、男女の夜の営みについて勉強するなどと、気が狂ったようなことを言い出した政子さん。私はそんな破廉恥なことを教えてもらいたいわけではない。彼について、清和奏介について何を知っているのかを聞きたいだけなのに。\n\n 有無を言わさぬ圧力で勉強机の椅子に座らされ、目の前に政子さんが持参したノートパソコンが開かれた。\n\n「……そんなことより、この前の話の続きを聞きたいの」\n\n「これが、あなたの問いに対する『答え』です」\n\n政子さんが冷たく言い放ち、再生ボタンを押す。\n\n 画面に映し出されたその映像は、私の知る美しい初恋の思い出を粉々に打ち砕く、あまりにも醜悪で、グロテスクで、猛烈な吐き気を催す狂宴だった。\n\n そして、私の無防備で柔らかい心を、鋭利な刃物でズタズタに抉り取っていった。\n\n\n\n\n「……うぇっ、……どうして、こんな、ひどいことを……おぇっ」\n\n 私は便器を抱え込み、夕食で胃に収まっていた物を、涙と鼻水と一緒にすべて吐き出していた。何度も嘔吐を繰り返し、胃液の苦しさと絶望で嗚咽が止まらない。\n\n 冷たい床に倒れ込んだ私の背中を、政子さんが無表情で摩っている。悍ましい映像を見せつけたその手すらひどく汚らわしく、今すぐ払いのけて欲しかったが、私には抵抗する体力すら残されていなかった。\n\n『彼の横で肉欲に溺れているのは、彼女の榊原巴と、彼の実の母親である清和登子です』\n\n 映像を流しながら政子さんが放ったその冷酷な言葉に、私の精神は完全に耐えきれなかった。\n\n 映像を見ていたのは、体感では数十秒にも満たなかったはずだ。薄暗い部屋で、生々しい水音を立てながら、裸で獣のように睦み合う三人を目にした瞬間、私は全身の血が凍り付いたように固まっていた。\n\n そこに映っていたのは、爽やかでスマートだった『学ランの君』の姿ではなく、淫靡な快楽に身を任せる、ただの悍ましい雄だった。そして、政子さんの決定的な種明かしで、限界に達した吐き気が一気に込み上げ、私はトイレに駆け込んだのだ。\n\n 映っていた年上の女性が、本当に彼の実の母親かどうか、私には確かめる術はない。それでも、あのような異常な行為をビデオカメラで撮影すること自体が、私の倫理観を根底から汚す、あまりにも忌まわしい凶行だった。\n\n そういった下劣な映像作品が世の裏側に出回っていることくらいは、知識としては知っている。お嬢様学校とはいえ、級友たちのヒソヒソ話の多くは男のことであり、隠れて経験した性行為の体験談などを耳にすることもある。\n\n もちろん、葵家の本流である私に面と向かってそのような下世話な話をする者はいない。だが、耳を澄ませば、私たちの年齢でもそういう生々しい行為がなされていることは事実として知っていた。\n\n 決して、性に全く興味がないわけではない。学校の保健体育では避妊具の正しい使用方法を学んだし、性教育の一環で男性器の模型を見たこともある。\n\n だが、自分が密かに心を寄せていた初恋の相手の、あんなにも直接的で、野蛮で、異常な近親相姦の映像を見せつけられては、私の理性は完全に焼き切れ、ただただ本能のままに拒絶するしかなかった。\n\n\n\n\n やがて胃液すら出なくなり、便器にすがりつくようにして項垂れる私。すると、背中を摩っていた政子さんの手が私の脇の下へと入り込み、無言のまま強引に体を持ち上げられた。\n\n 抵抗する気力も体力も残っていない私は、まるで糸の切れた操り人形のように、彼女に引きずられるようにして自室のベッドへと戻された。\n\n「良い機会ですから……私の話も、静香さんに聞いていただきましょうか」\n\n 吐き疲れ、青ざめた顔でベッドに横たわる私を見下ろしながら、政子さんは静かにそう告げた。\n\n\n\n\n 次いで彼女の口から語られた内容は、先ほどの悍ましい映像以上に私の想像を絶するものであり、両耳を塞いで叫びたくなるほどに、私の精神を完膚なきまでに破壊していくのだった。"}

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