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{"novel_id": "n0005lj", "chapter": 8, "url": "https://novel18.syosetu.com/n0005lj/8/", "title": "四回の表 母親", "content": " 小学生の頃、学校の校庭には登り棒という遊具があり、誰が一番早く登れるかという競争が流行ったことがあった。もちろん、スカート姿の女子が休み時間に参加できるようなものではなく、専ら男子たちの遊びだった。\n\n だから私が初めてそれに挑戦したのは、体育の授業の時だった。うまく登りきれず、滑り降りようと鉄の棒にしがみついた時……股の間に走った、あの何とも言えない痺れるような心地よさ。\n\n 自らの身体を慰める術を知ってしまった今の私は、ふと、そんな遠い日の仄暗い記憶を思い出していた。\n\n この一週間、私はあの狂気に満ちた映像を見返しては、自らを慰めることに溺れていた。学校も、お稽古も、勉強も、何一つ手につかない。見様見真似で己の膣に触れ、暇さえあれば、逃げ込むように熱を求めてしまっていた。\n\n 想いを寄せていた男が、私以外の女を抱き潰している姿を見て味わう、底知れない絶望と屈辱。それなのに、湧き上がる情欲をどうしても抑えきれない自分への深い罪悪感。毎日、己の浅ましさと心の弱さを呪った。こんなにも心は千切れそうなほど鬱屈しているのに、下腹部の疼きを鎮める術は、この惨めな自慰以外になかった。\n\n 私が『葵』の家の者でなければ。政子さんが忌まわしい提案をしなければ。蜂屋が余計な口出しをしなければ……彼は、本当は私を愛してくれていたかもしれないのに。\n\n 何度も何度も、何の意味もない………タラレバの幻影に縋りつきながら。私は今日もまた、惨めに自分を慰めることしかできなかった。\n\n\n\n\n「会っていただきたい方がいます。私がご案内いたしますので、早くお乗りください」\n\n 金曜日の放課後。迎えにきた蜂屋が後部座席のドアを開けると、そこには端正なスーツを着こなした政子さんが座っていた。私は無言のまま車に乗り込んだ。彼女が『誰と会うのか』を口にしない以上、問いただしたところで無駄だろう。だが、向かう先など何となく想像はついていた。\n\n 政子さんとは一言も口を利きたくなかった。極力、彼女の方へ視線を向けないよう意識する。隣に座る彼女から滲み出る、あの底知れぬ余裕と優越感が、ひどく私の神経を逆撫でするからだ。\n\n 私が心から焦がれた男に抱かれ、その耳元で愛を囁かれた女………。目の前で涼しい顔をしている彼女が、どうしようもなく憎かった。\n\n この一週間、狂ったように見返したあの映像はかなりの長編で、窓の外が暗闇に沈み、やがて白み始めるまで延々と続いていた。\n\nもちろん編集で切り取られた部分もあるだろう。それでも、記録されているだけでも十回以上、清和奏介が精を放ち、果てる瞬間が収められていた。\n\n 彼らがどれほど長い時間をかけ、幾度も狂おしく交わり続けていたかは、火を見るよりも明らかだった。\n\n モニターの中の政子さんは彼にすべてを明け渡し、交わりの喜悦を全身と嬌声で露わにしていた。彼女が語った通り、葵家の男たちとはまるで違うのだろう。\n\n 単なる肉体の相性なのか、それとも奴隷という立場から一瞬だけ解放された歓喜なのかは知る由もないが……。\n\n 映像には、撮影スタッフと思われる男たちの浅ましい姿も映っていた。確かに彼らのそれは、彼とはまるで次元の異なるものだった。男たちがどれほど粗野に欲望を打ち付けようとも、決して彼女の奥底には届かないのだろうということは、手に取るように理解できた。\n\n 彼の母親の反応が、それを如実に物語っていた。他の男に抱かれながらも、それが決して渇きを癒やすことのない『紛い物』の悦びであることを、ただじっと噛み締めているかのようだった。\n\n それでも、いつか本物に抱かれる未来を想像し、彼の残酷な命令に従い続ける母親の姿が、私にはひどく羨ましかった。私もその狂おしいほどの喜びを、知りたいと感じてしまっていたのだ。\n\n だが、所詮政子さんは葵家に縛られた哀れな奴隷に過ぎない。私にこの映像を見せつけて束の間の優越感に浸ったところで、彼女の泥に塗れた現実がひっくり返るわけではないのだ。\n\n 実の兄に初めてを奪われ、甥たちによって二度もその身を歪められた不幸な女。一回りも年下の青年に絆され、記録の目の前で狂い鳴いた愚かな女。夏が来ればまた、次兄に嬲られるだけの惨めな女。\n\n これ以上、彼らの狂気に私の心を乱されるのはご免だった。そう思わなければ、私の張り詰めた心は、今にも壊れてしまいそうだった。\n\n\n\n\n「初めまして、清和登子と申します」\n\n レストランの一室で私を待っていたのは、予想に反して清和奏介の母親だった。てっきり彼本人が現れるものとばかり思っていた私は、不意を突かれて息を呑んだ。\n\n 息子と同じスラリとした長身に、薄化粧でありながら年齢を感じさせない若々しい空気を纏っている。あの狂おしい映像の中で見せた、妖艶で生々しい女の顔とはまるで別人のようだった。\n\n 体のラインを美しくなぞる、黒のタイトなノースリーブワンピース。深く入ったスリットに白のサマーニットを羽織り、ヒールの高いサンダルを合わせたその装いは、上品でありながらもどこか余裕めいた色気を漂わせている。\n\n「……初めまして、葵静香です」\n\n 私はどうにか喉の奥から声を絞り出し、平静を装って名乗った。\n\n 促されるまま席に着くと、タイミングを見計らったようにアイスティーとケーキが運ばれてきた。私はグラスに口をつけ、カラカラに渇いた喉を冷たい紅茶で潤してから、改めて彼女を見た。\n\n なぜ、清和登子と会うことになったのか。ここで何を話すというのか。彼女自身が望んだのか、それとも政子さんが仕組んだ盤上なのか。重苦しい沈黙に耐えかね、隣に座る政子さんへ探るように顔を向けた、その時だった。\n\n「私が政子さんにお願いして、あなたとお会いする機会を設けていただいたの。……まずは、謝罪させてください。葵さん、本当にごめんなさい」\n\n 唐突に、清和登子が深く頭を下げた。あの狂気に満ちた映像の中で乱れ狂っていた女が、今は真っ当な母親の顔をして、私に真摯な謝罪の意を示している。\n\n そのあまりの落差に、私はどう反応してよいかわからず激しく困惑した。だが、とにかく彼女の口から真意を聞かなければ、何もわからない。私は息を潜め、彼女が紡ぐ言葉を待った。\n\n「奏介の人生を奪ったのは、私なの」\n\n\n\n\n 清和登子………旧姓、赤橋登子と夫の清和航輔は、ある大手企業に勤務していたという。四歳上の彼のアシスタントとして付いた縁で関係を深め、やがて二人は結婚。当時まだ存命だった彼女の父が所有する土地に一軒家を建て、新婚生活をスタートさせた。\n\n 結婚から二年後、息子の奏介が誕生した。折しも半年前に父を亡くしていた彼女は、相続した家賃収入があったこともあり、会社を辞めて専業主婦になる道を選んだ。\n\n 早くに母親を亡くし、兄弟もいない彼女にとって、遠方に住む夫の家族からの協力は得難い。『この子だけは、自分の手で立派に育て上げたい』という強い思いが、家庭に入ることを選んだ最大の理由だったそうだ。\n\n「私、一人娘だったから兄弟姉妹が羨ましくて……本当は、もっと子供が欲しかったの」\n\n ぽつりとこぼした言葉の通り、不運にも長男以降子宝に恵まれなかった彼女は、やがて奏介の幼馴染である巴のことも、自分の娘のように可愛がるようになっていったという。\n\n だからこそ、息子の奏介と巴が不登校になり自宅学習を余儀なくされた時も、登子は必死に二人を見守った。学校との折衝、テスト作り、採点など、親としてできることは全てやったのだと語った。\n\n 奏介たちが小学三年生になる年、航輔は東京の本社へと栄転になったという。登子は家を貸し出して家族全員で上京することも考えたが、息子の不登校や巴の事情もあり、結局、航輔は単身赴任を選択した。\n\n 最初は頻繁に帰ってきていた航輔だが、徐々にその回数は減っていった。月に一度だった帰省が、二ヵ月、三ヵ月に一度となり……最終的に、航輔は半年以上も家に寄り付かなくなった。\n\n まさかという疑念が、登子の脳裏をよぎる。たまらず調査会社に身辺調査を依頼した結果、恐れていた航輔の浮気が判明した。\n\n「夫は、私が同じ会社に勤めていた頃からモテていたけれど……まさか本当だなんて、本当にビックリだったわ」\n\n 相手は、航輔と同じ部署で働く女性だった。調査会社の報告書に添付された写真を見た登子は、まだ二十五歳という若くて美しいその女を激しく憎んだ。直接彼女に会い、航輔と別れるよう直談判するつもりだったそうだ。\n\n 夫は、あの若い女にたぶらかされているだけ。あの女さえ排除すれば、必ず航輔は家族の元へ帰ってきてくれる………登子はそう信じて疑わなかったのだ。\n\n\n\n\n 決意を胸に、登子は単身東京へと向かった。持っていた合鍵を使い、音を立てないよう静かに航輔の暮らす部屋へと足を踏み入れる。すると、扉を隔てた奥の寝室から、航輔とあの女の生々しい声が漏れ聞こえてきた。\n\n『妻は綺麗だけど、寝室じゃ全部受け身なんだよ。こっち任せで知識もないし、抱いててもつまらん女でさ。金持ちの娘だったから結婚したようなもんだけど』\n\n 自分を蔑む夫の冷酷な言葉と、それを聞いて嘲笑う女の声。信じていた航輔の本音を突きつけられ、登子は雷に打たれたような衝撃を受けた。\n\n 遊び慣れた航輔は、ずっと登子に不満を抱いていたのだ。彼が家に帰らなくなり、他の女に走った最大の理由はそこにあった。\n\n 確かに登子は結婚するまで男を知らなかったこともあり、彼が望むような情事には応えられなかったかもしれない。それでも、愛する夫のために、登子なりに身を削って尽くしてきたはずだったのに………。\n\n「ショックだったわ。自分のすべてを否定されたような気持ちになって……。結局、夫には何も言えず、逃げるように部屋を飛び出したの」\n\n 深い悲しみに打ち震える登子は、夫や女に詰め寄る気力すら奪われ、無我夢中で駆け出していた。男性経験がなく、知識も乏しかった自分が、よもやあんな風に疎まれていたなどと想像すらしていなかったのだ。\n\n 生まれて初めて、死にたいと思った。愛する子供のことすら頭から抜け落ちるほど、何もかもがどうでもよくなっていた。あてもなく彷徨ううち、気付けば登子の目の前には、寒空に警報音を鳴らす踏切が立ち塞がっていた。\n\n すべてを終わらせようと、衝動的に遮断機の向こうへ身を投げ出そうとした………その刹那。不意に、小さな手が登子の腕を強く引き戻した。\n\n『危ないよ、お母さん。……寒いから、お家に帰ろう』\n\n 振り向いた先に立っていたのは、そこにいるはずのない息子の奏介だった。\n\n ハッとして顔を上げると、奏介の傍らには巴の姿もあった。聞けば、登子のただならぬ様子を察知した二人は、密かにあの調査報告書を見つけていたのだという。\n\n いつもより綺麗な服を着て出かける登子が、東京の航輔に会いに行くのだと察し、二人はなけなしの小遣いを出し合って、ここまで後を追ってきていたのだった。\n\n 夫に裏切られた悲しみと、惨めな悔しさ。そして何より、こんなにも自分を愛してくれている子供たちを置き去りにして、独り死に逃げようとした己の浅ましさに、登子は激しい恥辱と罪悪感を覚えた。\n\n 張り詰めていた糸が切れ、登子はその場に崩れ落ちて号泣した。そんな彼女にすがりつくように二人も泣きじゃくり、三人は冬の寒空の下、身を寄せ合っていつまでも泣き続けた。\n\n\n\n\n「あの日から、私はずっと奏介を拘束しているの」\n\n 登子はいつか夫に復讐するため、浮気を問い詰めることも、離婚する道も選ばなかった。そうして彼女は、己の復讐の道具として息子を利用すべく、あの忌まわしい三人の関係を始めたのだ。\n\n 登子は知らなかったが、奏介と巴はすでに、子供たちだけのいびつな性の領域へと足を踏み入れていた。二人ともまだ身体が未成熟であったため致命的な破滅には至らなかったものの、登子は二人の過ちを咎めるどころか、自らその輪に加わり、彼らを後戻りできない闇へと導いていった。\n\n「映像を見たのならご存じだと思いますが、奏介は決してあのような嗜虐的な性質ではないの。私が彼に、そう演じてもらっているだけ」\n\n 航輔は、強引にでも登子を自分の色に染め上げればよかっただけなのだ。それなのに、勝手に妻に見切りをつけ、他の女へと逃げた。登子は、実の息子と禁忌に塗れた関係に溺れていく中で、その虚しい真実に気づいてしまったのだった。\n\n 自らの内にある被虐嗜好に気づいた登子と、それを察し取った奏介。彼は徐々に、母を本当の奴隷のように扱うようになっていった。そして巴もまた、そのいびつな関係を羨望し、登子と同じように支配されることを望んだのだ。\n\n「私たちはあの撮影に応じる対価として、夫への復讐の段取りを葵家にお願いしたの。決して、奏介自身が望んであんなことをしたわけではないわ」\n\n 女たちをひざまずかせ、冷酷に振る舞っていた『王様』としての清和奏介は、すべて作り物だった。母の復讐を叶えるために、ただ王の仮面を被って演じていた哀れな息子。\n\n ………もしも夫の航輔が、初めから登子を力で支配していれば、彼らは全く違った未来を歩んでいたのかもしれない。\n\n\n\n\n「前置きが長くなってごめんなさい。結論を言うと、もうしばらく待ってほしいの。巴ちゃんはもうすぐ、奏介の元から飛び立っていく。私も夫への復讐が終われば、息子との異常な関係を終わりにするつもりよ」\n\n 巴の望みは、純粋な恩返しだった。彼女には、不登校になった自分のせいで奏介の人生を変えてしまったという強い負い目がある。\n\n だからこそ、彼が本当に愛する人を見つけたのなら、心からそれを応援したいと願っていた。これまで巴は、彼に空いた心の穴を埋めるためだけに恋人を演じ、肌を重ねてきたのだ。\n\n 彼女はずっと奏介に助けられ、支えられて生きてきた。彼が真に愛する人を見つけてくれれば、彼女は『仮初の恋人』という役割を捨て、初めて自分自身の人生と向き合うことができる。\n\n 奏介のおかげで平穏な学生生活と高い学力を手に入れた巴にとって、これからの人生に彼はもう必要ない。本来は勝ち気で活発な彼女のことだ。明確な目標を見据え、自らの足で羽ばたいていくだろう。彼らの絆は、恋人でも友人でもなく、どこか『師と弟子』のような特異なものだった。\n\n 自分の代役を見つけた巴は、葵静香に声を掛けた。それが頓挫したかと思われた矢先、今度は本多政子が現れた。奏介が政子を新たな代役に指名したことで、ついに巴の役目は終わったのである。\n\n「静香さんはきっと勘違いされていると思いますが、奏介さんと私が愛し合っているというわけではありません。私も騙されたのです。彼ら親子に」\n\n「……騙された?」\n\n 清和親子は言葉巧みに政子を取り込んでいた。『奏介が初めて自分で選んだ女』………その甘美な殺し文句に、彼女はあっけなく陥落したのだ。\n\n 後になってからすべての事情を明かされ、一度はひどく絶望した政子だったが、最終的には己の矜持を捨て、彼らの共犯者として協力する道を選んでいた。\n\n\n\n\n“……清和親子は巴さんが巣立つために、政子さんという代役を用意した。本当なら、私が……。彼が、私に好意を……”\n\n「すべてが終わった後、静香さんがまだ奏介のことを想ってくれるなら、あなたの方から声を掛けてあげて。あの子は『葵』の名前を恐れているから。本当は女性に対して消極的で、意気地なしの情けない男なの。巴ちゃんの時だって、ちゃんとした告白もできずに何となく始まったくらいなんだから」\n\n 母親からそう酷評される内気で地味な息子が、あの時、コンビニで身を呈して私を助けてくれたというのか。\n\n だが、私が彼の本当の内面を何一つ知らないこともまた事実だった。お互いを深く知る前に、周囲のノイズが邪魔をして、すべてが不様に歪んでしまったのだ。\n\n これまでの忌まわしい出来事を、なかったことにはできない。けれど、一からやり直すことはできる。\n\n しかし、奥手な二人が普通にデートを重ねたところで、きっとうまくはいかないだろう。それならば………多大な迷惑を被ったのだから、私の我儘くらい聞いてもらっても罰は当たらないはずだ。\n\n 私は顔を上げ、清和登子に向けて真っ直ぐにある提案を口にした。\n\n\n\n\n 胸の奥で、心臓が早鐘のように鳴り響いていた。これから自分が口にしようとしていることが、どれほど常軌を逸した狂気であるかくらい、私にもわかっている。\n\n けれど、あの地獄のような映像を見せられ、張り裂けそうになった私の心は、このくらいの劇薬でなければ癒やされないのだ。\n\n 画面越しの虚像ではなく、彼の本当の姿を知りたい。奥手で意気地のない彼と、経験のない私が一から関係を築くためには、まず私がすべてを直視し、この身に刻みつける必要があった。\n\n 私は静かに息を吸い込んだ。\n\n\n\n\n「私から、一つお願いがあります。……あなたたちの交わりを、私に見学させてください」"}

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