| {"novel_id": "n0006ct", "chapter": 13, "url": "https://novel18.syosetu.com/n0006ct/13/", "title": "第十二話", "content": " 綱平は左足を一歩前に出し、右足は少し横に開き、両膝を軽く曲げた。左足はベタ足、右足は踵を浮かす。体重を前足6、左足4の割合にする。両足の幅はほぼ肩幅くらいか。狭すぎず、広すぎず。\n 次に楽に構えた両腕を脇を絞りながらスッと上げる。左腕は拳の高さを左目と同じくらいの位置に、右腕は肘を右脇腹にくっつけるように置き、拳は顎の高さへ。\n 続いて顎を引き、少し前かがみの体勢になると、全身から無駄な力を抜き、膝を使ってリズムを刻み始めた。\n そう、ボクシングの構えだ。\n 綱平は妻の不貞を疑いだした一時期、最愛の伴侶を信じたい一心から、正面から問いただす勇気を持てず、酒に逃げて生活を荒ませたことがあった。その所為で家を空ける時間が増え、家族の間に更なる距離を作ってしまう。また美味しい酒ではないため、絡み酒になりやすく、付き合ってくれる同僚や友人の評価も下げた。\n 見かねた格闘好きの友人がある日綱平を連れ出し、知り合いの経営する小さなジムで彼に教えてくれたのがボクシングだった。黒い感情をサンドバックに叩きつけ溜飲を下げ、上手にミットを打てたときの爽快感にはまり、健全な汗を流すうちにいつの間にかすっかりボクシングに夢中になっていた。\n それからは酒に逃げることも少なくなり、妻ときちんと向き合うことも出来た。……離婚は回避できなかったが。\n\n(そして今日、ボクシングでこの危機を乗り切る。ありがとう、ボクシング。ありがとうカズ)\n「シッ!」\n\n 呆れたような顔でこちらを見ているルージュに、綱平は一歩踏み込んでジャブを放った。ちなみにカズとは、彼にボクシングを教えた友人のことである。\n 意外と鋭いジャブがルージュの美しい顔の手前でピタッと止まる。\n\n(口だけか、全く反応できないじゃないか)\n\n ジャブはあくまでルージュの反応を確認するためと、ガードの意識を上へと向けさせるための撒き餌。\n\n「シィッッ!」\n\n 本命はがら空きのボディへの右ストレート。左腕を戻しながら、右足で地面を蹴り、腰を回し肩から真っ直ぐに拳を放つ。高さは左膝の屈伸で調整をつける。\n 顔を狙わなかったのは優しさからではなく、顔を腫らし、鼻の曲がった血まみれの女など抱きたくなかったからだ。\n ゴッ!しかし綱平の右が香澄の細くて薄い体に届く前に、彼女の放った右の打ちおろしが彼の顔面を打ち抜く。\n タイミング、スピード共に完璧なカウンターパンチだ。\n\n「――っ?」\n\n 何が起こったのかわからず、折れて曲がった鼻から流れる血の匂いで自分が打たれたことに気が付く綱平。\n ビーンッと頭の中で音が鳴っている。思考が現実についてこない。あり得ないことだった。速さもさることながら、何故あんな細身の体でこんなに重い打撃が打てるのだ。鈍い痛みが遅れてやって来る。\n 混乱する綱平の頭を優しく抱くようにルージュの両手が伸び、実際はしっかりと首相撲をされ体勢を崩されただけだが、そこへ正確に鳩尾へと強烈な右膝を叩き込まれる。\n\n「ぐおぉっ!」\n\n 鳩尾への攻撃。\n 本来ボディへのダメージは、余程の強打者でもない限り何度も攻撃をしコツコツと積み重ねるものなのだが、鳩尾だけは特別だ。鳩尾の内部背中側には腹腔神経叢という神経叢がり、多くの交感神経が通っている。つまり、痛覚が非常に鋭敏なのだ。更に鳩尾には呼吸運動に重要な役割を果たす筋肉である横隔膜がある。ここに打撃をもらうと筋肉の動きが止まり、瞬間的な呼吸困難に陥るのだ。\n これが唯一即効性があるとされるボディブロー、鳩尾への攻撃の効果である。\n しかも、ルージュの打撃は異常に重い。鳩尾以外のボディ攻めでも一撃で足を止めさせる威力があるだろう。\n その攻撃力で急所を打たれたのだ、その効果たるや想像に難くない。\n\n「かはっ、がっ、あっ」\n\n 綱平は呆気なく両膝を地面につき、激しい痛みに喘ぎながらもがき苦しむ。鼻は折れて曲がり血が止まらないので、必死に口呼吸で酸素を集める。\n\n「……弱っ」\n\n ルージュが小声でそう吐き捨てるのがはっきりと聞こえた。\n\n「もう私の勝ちで良いのかしら? それともまだこの茶番を続ける?」\n\n ルージュの美しい声が、死刑宣告に等しい響きで綱平に突き刺さる。\n\n「かっ、はっ、がっ」\n\n 綱平は両目に涙を浮かべながら、顔を必死に横に振った。\n これは決して降伏を拒否する意思を示したわけではなく、とりあえず攻撃を待ってくれとの意味だったのだが、ルージュにはそう伝わらなかったらしい。\n\n「気骨だけはあるようね」\n\n それならば仕方ないと、香澄の腰の入った右のミドルキックが綱平の側頭部を襲う。\n\n「がぎっ!」\n\n 咄嗟に左腕で頭を守り、直撃こそ避けることができたがその衝撃で床に叩きつけられてしまう。\n 眩暈がする。納得がいかない、何だこの破壊力は。防御した左腕の感覚がない。\n 運動量=質量×速度じゃないのか?\n しかし、理不尽を嘆きこのまま倒れていても追撃は避けられない。綱平は腕立て伏せの要領で、何とか立ち上がろうと四つん這いになる。\n\n「うぼおっ!」\n\n そこにサッカーボールを蹴るようなインステップキックを、弛みきった腹部におみまいされる。衝撃を吸収してくれるはずの厚い脂肪も、思いのほか硬い筋肉も、ルージュの攻撃の前には大した役割を果たしてくれない。\n ゴロゴロと三回ほど転がり、止まったところで胃液をぶち撒ける。\n\n「……ねえ、何だが弱いものイジメをしているみたいで気分が悪いわ。もう諦めたら? どう足掻いても貴方では私に勝てないわよ」\n\n 強い。否、強すぎる。シャルマンフルールとはこんなにも強大なヒロインだったのか。\n だが、この人を完全に見下した言動、小馬鹿にしたような冷たい目、別れる前の妻の態度を彷彿とさせる。\n ……負けられない。\n 負けたらまた全てを失ってしまう。\n\n「うおおおおおおっ!」\n\n 胃液と唾液を垂れ流しながら、綱平は己を奮い立たせるように叫び、立ち上がった。\n そしてルージュを睨みつけ、目の周りのタトゥーの力を解放する。\n 相手の弱点を見つける能力、『ツナラーアイ』。\n 諦めない、反撃のきっかけを見つけてやるのだと意気込む。\n ピピピピッとまるでパソコンのモニター上のように、綱平の視界の中で大小幾つもの円がルージュを探るように動き回る。\n\n『健康で代謝がとても良いのだが、本人は汗をかきやすい体質を気にしているようだ』\n(えっ?)\n『本当の身長は173cmだが、高身長を気にしているのか、周りには169cmと言っているらしい』\n(えっ?)\n『現役のフルールメンバーの中に、正直ちょっと苦手だなと感じている娘が一人いるらしい』\n(いやいや、これって弱点なのか? しかも、ようだとか、らしいとか断定はしていないし、週刊誌かよ!)\n「……どうしたの? 私の顔に何かついている?」\n\n 叫びながら立ち上がり、やる気を見せたのかと思いきや、突然ハトが豆鉄砲をくらったみたいな顔をして自分を見る男に、不審を感じた香澄が尋ねる。\n\n「あ、いや……」\n(もしかしたら何か効果があるかもしれない、駄目元で言ってみるか)\n「……君は意外と汗っかきなんだなと思っ――」\n\n ドゴッ!綱平に最後まで喋らせず、女の放った踏み込んでからのオーバーハンドライトが顎を打ち抜く。\n 脳を激しく揺さぶられ、クルンと目を回し、気を失った綱平は頭から前に倒れこんだ。格闘技が好きな方にはおわかりだろう。ダウンした瞬間にレフリーが試合を止める、あの危険な倒れ方だ。\n ………………。\n …………。\n ……。\n\n「いい加減目を覚ましなさい」\n\n 綱平の頬を平手打ちが往復し、その衝撃に男はやっと意識を取り戻す。\n\n「ル、ルージュ? 痛っ――」\n\n 戦闘による興奮も冷め、脳内麻薬が切れてしまったのか、体中から悲鳴のように痛みがこみ上がってきていた。\n 鼻と顎は骨がどうにかなっているだろう、鋭く走るような痛みがある。口の中も舌や口壁をザックリと切っているようだ。左腕は痺れているし、鳩尾と胃の辺りからは重く体の芯に訴えてかけてくる鈍い痛みがある。\n\n「な、何故攻撃しない? 私はまだ戦えるぞ」\n「無理は止めなさい。貴方自分でも気が付いていないみたいだけど、変身が解けているわよ」\n「な、何を」\n\n 綱平が自分の体に目をやると、先程までのだらしのない脂肪の塊のような大柄な体から、やや細身の中背の体へと変っているのが見てとれた。\n\n「わかったでしょう? 変身してもあの程度だったのだから、いま戦ったら本当に死ぬわよ」\n\n 確かに、いま戦闘を続けても殺されるだけだろう。綱平はがっくり項垂れる。\n 話の筋からは少し逸れるが、変身の解けた綱平の容姿は、俳優の堤○一と歌手の徳永○明、お笑い芸人の徳井○実を足して三で割ったような、意表をついたナイスミドルぶりだった。\n\n(終わった、何もかもお終いだ)\n\n 短い春だったな。\n 娘とまた一緒に暮らすという夢も、こんな駄目な自分を救ってくれた姉妹の恩に報いることも、もう何一つ叶わないのだ。\n スーッと男の頬を涙が流れる。\n\n「さあ、ブランの元に案内してもらうわよ」\n「ま、待ってくれ。こうなった以上もう抵抗はしない。だが、一つだけ、一つだけ俺の言うことを聞いてくれ」\n\n 涙を拭い、決意を固めた綱平は真剣な面持ちで香澄に語りかけた。\n\n「……何?」\n「俺はガマダスのボスを自称しているが、実はまだ組織を立ち上げたばかりで人員は俺一人しかいないんだ。上の階に双子の女の子の科学者がいるが、彼女達は俺がブランと同じように浚ってきた人間で、この組織とは無関係なんだ。俺が脅して働かせているだけなんだ。俺はどうなっても良い、罪は償う。だが彼女達には何の罪もないんだ、見逃してやってくれ」\n\n 綱平は土下座をし、頭を床に擦りつけて香澄にそう頼み込んだ。\n 雇われボスとしての、最後の責務を果たそうとしているのだろう。\n\n「……嘘ね。その双子の科学者が黒幕なんでしょう? 貴方にとって余程大事な人達みたいね」\n\n だが、香澄はあっさりと男の真意を見抜く。\n\n「ち、違う、あの子達は――」\n「黙りなさい! 貴方にとってその双子が大事なように、私達にとってブランは大切な存在なのよ。彼女に何をしたのか知らないけれど、全員に報いを受けてもらうわ」\n「待ってくれ。希華のことは本当に俺が勝手にやったことなんだ! あの子達には何の責任もない、信じてくれ!」\n「き、希華ですって! 貴方みたいな人間が、気安くその名を口にするんじゃないわよ!」\n「くっ、逃げろ! 逃げてくれー!」\n\n 綱平は香澄の足に必死にしがみ付き、この部屋の状況をカメラ越しに見ているだろうメンゲレ姉妹に向かって叫んだ。\n\n「触らないで! 汚らわしい」\n\n 香澄は埃でも払うかのように、あっさりと男を振り払う。\n\n『もう良いわ、ツナラー。あっ、いまは変身が解けているからバッテンか』\n『……お、お姉ちゃん。いまはそんな細かいことは』\n\n 壁の隅に設置されたスピーカーから、いまひとつ緊張感に欠ける姉妹の声が流れてくる。\n\n『それもそうね。ツナラー私達の負けよ。フルールルージュ、彼が約束した通りフルールブランを解放するわ。何度も行き来させて悪いのだけど、彼と一緒に6階まで来てもらえる?』\n「そんな、君達の忠告も聞かず俺が勝手にやったことじゃないか。頼む、お願いだ、逃げてくれ」\n『うるさいなー。任命責任ってやつよ』\n『……見て見ぬふりをしたのも事実ですし』\n「そ、そんな……」\n「良い心がけね。待っていなさい。いまからそちらに向かうわ」\n\n 香澄は綱平の足首を掴むと、まだ抵抗をみせる男を軽々と引きずりながらエレベーターに向かって進んでいく。\n\n「ルージュ、いまの会話を聞いていただろう? ちょっと変わっているけど、本当に良い子達なんだ。頼む、あの子達は見逃してくれ、頼む、頼む」\n\n ズルズルと引きずられながら、綱平は両手を合わせ拝むように香澄に何度も何度も頭を下げる。\n\n「……安心しなさい。厳しく罰するようなことはしないわ。ただ、悪に加担した子達をそのまま解放するわけにはいかないでしょう?」\n\n エレベータに乗り込んだ香澄が、ボソッと呟く。\n\n「すまない……すまない……」\n\n 床に這いつくばったまま、綱平は感謝した。\n\n「ふん」\n\n 香澄は照れ隠しなのか、プイッと顔を横に背けた。\n …………。\n エレベータがゆっくりと三階を通過しようとしたとき、香澄の顔に辺りにシュッ、シュッと壁から霧状の液体が吹き付けられる。\n\n「っ、全然反省していないみたいね!」\n\n 折角寛大な処置で許す気になっていたのに、文字通り水を差された気分だ。\n\n(あ、この香り、希華の香水?)\n「えっ?」\n\n 急に全身から力が抜け、香澄はペタンとその場に尻餅をついてしまう。\n\n『あら? 反省はしているわよ。さっき貴女にガスが効かなかったのは、フルールの力の幕のようなものに守られていたからでしょう?』\n『……だから今回はその反省を生かし、ブランの香水に特殊な筋弛緩の成分を混ぜてみました。予想通り幕を通過することに成功したようですね』\n『混ぜるのにちょっと苦労したけど、効果は十分ね』\n\n エレベーター内に無邪気な姉妹の声が響く。\n\n「くっ、貴女達こんな真似をして、覚悟は出来てるんでしょうね?」\n\n 力の入らない体で、香澄は精一杯凄んでみせる。\n\n『覚悟? ふふっ、まだわかっていないようね。ツナラー、後の処置は任せたわよ』\n『……ルージュ可哀相です』\n\n 状況が掴めない綱平だったが、エレベーター内の監視カメラとルージュとを何度か視線で往復し、やっと事態を呑み込むことが出来た。\n\n「ははっ。お任せください」\n\n 再び怪人へと変身し、モリモリと体と男性器を膨らませながら綱平はゆっくりと立ち上がると、ニヤリと下卑た笑みを浮かべフルールルージュを見下ろした。\n\n「な、何故? 何故貴方は動けるの? ちょっ、何を! や、止め、い、嫌あああ――――っ!」"} |
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