text
stringlengths
8
206k
Seventeen (日本の雑誌) 概要 1968年6月に、総合少女週刊誌『マーガレット』のお姉さん雑誌『週刊セブンティーン』として創刊、アメリカで1944年に創刊された『Seventeen』の日本版として出発した。掲載内容はファッション・少女漫画・芸能など多岐にわたる。 通巻1000号となる1988年1月3日号より、誌名の表記をアルファベットの『SEVENTEEN』としてリニューアル。判型は大きいサイズ、刊行は月2回の隔週刊(毎月1日・15日)に変更し、漫画部分が無くなった。 漫画雑誌としての部分は『月刊ティアラ』として新創刊され、引き継がれた。その後、ライバル誌だった小学館の『プチセブン』の廃刊後、急速に売り上げを伸ばし、「ティーンのNo.1雑誌」と銘打っている。 2001年から徐々に芸能人の記事や表紙掲載が減り、表紙は当雑誌の専属モデルを起用、誌面にも多数の現役女子高生読者モデルを登場させ、女子中高生向けファッション雑誌に特化するようになった。 創刊40周年を機に2008年10月号より月刊化。表記も『Seventeen』に変更した。 上位誌は1971年創刊の『non-no』であるが、2004~09年にかけては系統の異なる上位誌として『PINKY』も発売された。 月刊セブンティーン 1969年に『別冊セブンティーン』として創刊(1969年12月号)。毎月24日発売。掲載内容は、少女漫画の他にファッションや芸能もあった。1973年6月号より『月刊セブンティーン』へ名称を変更し、新創刊する。『週刊』の「週セ」に対し、「月セ」と呼ばれ、以下のヒット作を生み出したが、1986年12月号を最後に廃刊。従来「月刊セブンティーン特別編集」とされていた『ヤングユー』が隔月刊から月刊になった。 専属モデル 誌面に登場する専属モデルは「STモ」と呼ばれる。STモは一般公募のオーディション「ミスセブンティーン」で選出されたり、大手芸能事務所からの編集部への売り込みなどで定期的に補充される「プロダクション組」がいる。 特にプロダクション組は2010年以降ローティーン向け雑誌『nicola』(新潮社)からのトップモデルもしくはナンバー2モデルの移籍が続いており、2010年の西内まりや、2011年の立石晴香、2013年の古畑星夏を皮切りに、以降2017年までは毎年9月号で1~2名の移籍が発生している。西内まりやはトップモデルとし活躍し表紙25回在籍64か月であったが、ローティーン雑誌主催のモデルオーディション出身者は冷遇される傾向があり、立石晴香(在籍29ヶ月)や藤麻理亜(在籍20ヶ月)は表紙を経験せずに比較的短期間で『seventeen』を卒業しており、4年間在籍した古畑星夏も当時同年代でも唯一の表紙未経験であった。2017年8月現在プロダクション組の10名中7名がローティーン雑誌からの移籍組が占めている。 人気モデルは頻繁にカバーガール(表紙)を務めたり、連載ページを担当するほか、ソロでフォトエッセイが発売されることもある。本誌に限らないが、『週刊プレイボーイ』、『MEN'S NON-NO』など集英社の男性向け雑誌に出演して、女性に限らず男性からも支持を集めるという手法も採られている。卒業後は、他のファッション誌に移籍し引き続きモデルとして活躍する者がほとんどだが、女優や歌手に転向し人気を得る者もいる。 本誌は10代の女性向け雑誌で、専属モデルは20歳前後で卒業するが近年は人気が高いモデルは成人後も留まる場合がある。2010年4月号から専属モデルがすべて平成生まれになった。 ミスセブンティーン 1986年から1999年までの休止期をはさんで2期に分かれる。 旧オーディション 1970年から1986年まで、「ミスセブンティーン」と題したオーディション大会を開催していた。 1971年大会は坂口良子がグランプリ、1978年大会では松田聖子が地区大会でスカウトされた。中でも1984年大会は非常に水準の高い大会となり(応募総数歴代最大18万325人)、松本典子や網浜直子らがグランプリを受賞し、入賞者の全てが歌手ないしは女優としてデビューしている。国生さゆり、渡辺美里、工藤静香、渡辺満里奈、清原亜希などが出場していた。 1986年の大会では、おニャン子クラブを生み出したバラエティ番組『夕やけニャンニャン』との合同オーディションを開催した(出場者の中から7名がおニャン子クラブのメンバー、及び、おニャン子クラブB組に選出された)。募集要項に記されていたグランプリ獲得者への優勝特典“ソロデビュー”と、“おニャン子クラブ内の新ユニットへの参加”は実現されなかった。 現在のオーディション 1986年以降一時休止していたが、1999年からオーディションが再開され、現在は専属モデルの選出に特化している。下記のテンプレート参照。 4月号にモデルの応募方法が記載され、8月号で最終選考で残った候補者による読者投票で決定する。 毎年夏に専属モデルが総出演するファッションショー「夏の学園祭」を開催して受賞者を披露する。 10月号の紙面で全国の読者に披露する。 連動番組 BS-TBSでは、2008年から「夏の学園祭」の模様を放送するようになり、2009年4月からは本誌とのメディアミックスとして『恋とオシャレと男のコ』というテレビドラマが放送され、セブンティーンの専属モデルが主演を務めた。7月からは、メディアミックスの第2弾となる情報・バラエティ番組『激モテ!セブンティーン学園』が開始、やはり同誌の専属モデルがレギュラー出演していた。 Seventeenモデビュ 集英社と株式会社スナウトが共同で2011年からMobageで配信しているソーシャルゲーム。「STモデル」が全員ゲーム内に登場するだけでなく、『Seventeen』監修のアバターやアイテムも用意され、人気ブランドとのコラボアイテムも登場している。プレイヤーは、『Seventeen』の専属モデル「STモ」になるための様々なミッションをこなしたり、モデルの仕事をこなしたりして、自分磨きを行っていくモデルを職業として体験するゲーム。フィーチャーフォン用に公開。
名倉潤 プロフィール 兵庫県姫路市出身で、姫路市立大津小学校・姫路市立広畑中学校・市川高等学校を卒業した。男4人兄弟の末子で長兄は7歳年上である。妻の渡辺満里奈と一男一女の2児を儲ける。ワタナベエンターテインメントがマネジメントする。 1986年に芸能活動を始め、俳優志望だったが3年後の1989年にお笑いに転向して渡辺勝彦とジュンカッツとしてコンビを組み、ツッコミを担当した。駆け出しの頃はバラエティ番組に出演するほか、『東京フレンドパーク』で前説を務めるなど下積みを重ねた。 渡辺が引退したためピン芸人となり仕事も激減していたところ、ボケしかいない後輩のコンビ芸人フローレンス(原田泰造、堀内健)に「ツッコミをやってほしい」と持ちかけられ、1994年にネプチューンを結成、トリオとして芸人活動を再始動した。2人は後輩で年齢も下だが、すぐにタメ口で話しかけてくるようになったという。 ネプチューン結成当初の頃までは太田プロダクションに所属しており、同じく太田プロに当時所属していた爆笑問題の太田光とはデビュー当時からの仲で太田のことを「ぴーちゃん」と呼んでいる。 顔つきや体格から、「実は日本人ではなくタイ人(ハーフですらない)」とネタにされる。タイ人ネームとして「ナパ・キャットワンチャイ」(有名元プロボクサー)をもじった、「ナパ・チャット・ワンチャイ」と称される。後輩のイモトアヤコからはラオスの人に似ていると言われている。妻の渡辺満里奈は、名倉と結婚を決意してその旨を両親に伝えた際に母親に「あの方(名倉)は、タイの方でしょう?国際結婚になるけどいいの?」と言われたエピソードを語っている(後に、母親のブラックジョークだったことが分かり笑い話にしているという)。2013年11月から12月にかけて、タイ国政府商務省国際貿易振興局が主催した『TRY!THAI SELECTキャンペーン』の『タイ・セレクト』広報大使に就任した際の記者会見では「俺しかいないでしょ。芸能界で。他の人がやったら腹立つ」と発言、名倉を広報大使に起用したタイ国政府貿易センターの責任者も「大使としてふさわしいかたで、私たちにもタイ人らしくみえる」と絶賛していた。また、「ガイコツ」と呼ばれることもある。 食べ物に好き嫌いはさほどないが、苦味の強い野菜や香草は苦手である。特にパクチーおよびパクチーの入った料理を食べられない。タイ料理の代表的なスープトムヤムクンは調理段階からパクチーを取り除いてもらわないと食せない。 読書家で、週刊プレイボーイに書評コラム「名倉潤の勝手に読みツッコミ!!」を連載していた。また、藤原正彦の『国家の品格』を愛読している。 2005年4月5日に、『銭形金太郎』で共演していたタレントで元おニャン子クラブの渡辺満里奈との結婚を発表した。10月に関係者だけで行われた結婚披露宴では、堀内・原田が祝辞でこれまでのネプチューンの苦労話をし、それを聞いていた名倉が号泣したという。しかしおニャン子クラブが流行っていた当時は一応高校生ではあったがおニャン子には全然興味が無くて夕やけニャンニャンもほとんど見ていなかったためにおニャン子の事もよく知らなかったので、当然妻の渡辺満里奈がおニャン子の元メンバーだと言う事にも最初は全然気付かなった。 2007年12月9日、第一子となる男児が誕生。2010年6月24日には第二子となる女児が誕生した。 2010年11月19日、中目黒にプロデュース店「ステーキなぐら」を開店した。 2018年6月末に頚椎(首)椎間板ヘルニアの手術を受けて7月10日より2週間の休養をしていたが、7月20日に復帰すると発表した。 2019年8月1日、前年6月末におこなった頚椎椎間板ヘルニア手術の術後ストレスにより発症したうつ病のリハビリのため、同日より2か月間の休養に入ることが発表された。10月11日、『じっくり聞いタロウ〜スター近況(秘)報告〜』(テレビ東京)の収録から仕事復帰。 芸風 ネプチューンでのツッコミの経験は単独の時にも活かされ、タモリ、さんま、ウッチャンナンチャン等の大物芸人の悪ふざけには臆する事なくツッコむ。爆笑問題の太田光からは「関西一のツッコミ」と言われている。 しゃべくり007では関西の漫才師風なキャラになることがあり「かまへんかまへん!」や「名倉やないかい!」などのギャグも同番組から生まれた。 ネプチューンでの番組出演時の仕切りの良さが買われ、明石家さんま・浜田雅功らと同様に単独でレギュラー・単発のバラエティ番組の司会者としての活動も増えてきている。 物真似も得意で、マイケル・ジャクソンなど多彩なレパートリーがある。 ピンで行うトークライブ「名倉の舌」を数ヶ月に1回開催している。 芸能界きってのメジャーリーグ好きで知られている。日本のプロ野球は、チーム名が阪急時代からのオリックス・バファローズ(旧オリックス・ブルーウェーブ)のファンである。 その他 収録が終わった後にすぐ帰ることはよく知られている 『しゃべくり007」で「本当にすぐ帰るのか?」検証されたこともあった。 ラジオでゲストに出演した際に、妻の渡辺満里奈とは「芸人としては面白くない答えだけど、全く喧嘩しない」というほど仲が良い。一度だけ料理が食べられないほどではないが味が濃く、子供に食べさせるには不安だったため素直に「不味い」と伝えると、渡辺は怒らず「美味しくないね」とニコニコと食し、数日後に同じ料理を作り「今度は美味しく出来たよ!」と改善する努力を見せたり、家では仕事の話は一切しないなどがあり、名倉は「(夫婦喧嘩しないのは)嫁さんがすごいんやと思う。」と妻の渡辺満里奈を尊敬し、労わる話をしていた。 爆笑問題の太田光は『ボキャブラ天国』時代に、当時から奇行が目立ち、さらに毎週トップだった爆笑問題に嫉妬している芸人が多いため、太田が楽屋の電気を急に消すなどの奇行を無視していたが、名倉潤とくりぃむしちゅーの上田晋也だけは、「消すんかい!」や「なんでやねん!」と太田の奇行にツッコミを入れており、おしゃべりな太田の話もきちんと聞いていた。皮肉にも『ボキャブラ天国』が終わった後に太田を無視していた芸人のほとんどが芸人を辞めたり、鳴かず飛ばずであるが、太田の奇行に構っていたネプチューンやくりぃむしちゅーは大成し、多くの冠番組を持っている。 出演番組 名倉潤個人としての出演番組・作品を記載。 ネプチューンとしての出演番組・作品はネプチューンの出演の項目を参照。
ジョン・ジャーディ ジョン・ジャーディー(Jon Jerde、1940年1月22日 - 2015年2月9日)は、アメリカ合衆国の建築家。 ジョン・ジャーディーは、イリノイ州で生まれたが、貧しい家庭で育ち、家族は引越しを繰り返した。幼年期には、捨てられたガラクタを集め、裏庭で建築物を作って一人で遊んだという。寂しく過ごした生い立ちが、彼の作品が人々が共有出来るスペースを多く有するようになったと影響したのではとインタヴューで述べている 。 最初、父親に建築家になるのを反対されたため、カリフォルニア大学ロサンゼルス校にて工学と美術を学んだ。ある時、アルバイト先の建築現場に来ていた南カリフォルニア大学の学長が彼の描いたデザイン・スケッチを見て非常に感銘を受け、南カリフォルニア大学に奨学金を得て編入し建築学を専攻した。 大学卒業後は建築事務所に勤務し、郊外都市のショッピングセンターの設計を多く手がけるようになる。1977年に大手デベロッパーからカリフォルニア州、サンディエゴ市内にホートン・プラザの設計を依頼される。ホートン・プラザは商業的に大きな成功を収め、その後ロサンゼルスオリンピック (1984年)の都市計画、モール・オブ・アメリカ、フレモント・ストリート・エクスペリエンス、ベラージオ、キャナルシティ博多、リバーウォーク北九州、グランドパーク小樽、電通本社ビル、なんばパークス、六本木ヒルズ、ラ・チッタデッラなどの商業施設の設計を手がけた。 彼は癌とアルツハイマー型認知症を患い、2015年2月9日ロサンゼルス市のブレントウッドの自宅で亡くなった。75歳だった。
大槻文平 大槻 文平(おおつき ぶんぺい、1903年9月27日 - 1992年8月9日)は、宮城県生まれの日本の実業家。三菱鉱業セメント社長、三菱鉱業会長、旧日経連(現経団連)会長を歴任した。宮城県名誉県民。 略歴 宮城県立角田中学校、東京帝国大学を出たあとに三菱入りし、三菱鉱業、三菱鉱業セメントに所属した。財界の中心人物でもあった。木川田一隆は同郷で同窓だった。1990年、宮城県名誉県民になった。
南部煎餅 概要 元々は八戸藩で作られた非常食であり、小麦粉を水で練って円形の型に入れて堅く焼いて作られる。縁に「みみ」と呼ばれる薄くカリッとした部分があるのが特徴。保存性は非常によいが、時間が経過すると酸化により味が落ちる。個包装の商品も存在するが、通常は10 - 20枚程度を1つの袋に入れた簡素なものが多い。青森、岩手の旧南部氏支配地域においては非常にポピュラーな食べ物であり、来客にも供される。 種類 通常の「白せんべい」と呼ばれるものの他にゴマ、クルミ、落花生などを加えて焼いたものもある。また同じ材料で厚めに焼き、食感を柔らかく仕上げた「てんぽせんべい」がある。 近年ではイカ、カボチャ、リンゴ、ココアなどバリエーションが豊富である。クッキー状の生地で作られるものもある。ただし、通常スーパー等で売っているものと言えばまずゴマ、次いで落花生の二種類であり、他の種類のものはメーカー直営店や土産物屋、南部煎餅専門コーナー等以外では入手しにくい。地域によっても味が微妙に異なる。青森県で消費される南部煎餅は比較的薄くてほんのり塩味があり、岩手県で消費される南部煎餅は少し厚みがありほんのり甘い傾向がある。 食べ方 そのまま食べるのが一般的であるが、その他に、水飴や赤飯を挟んで食すこともある(せんべいおこわを参照)。水飴を挟んだものは「飴せん」と呼ばれ、津軽地方の「津軽飴」を用いることが多い。 また、パン代わりに「白せんべい」または「ゴマせんべい」をトースターで加熱し、バター等を塗って食べる人もいる。 区域 現在は岩手県南部煎餅協同組合が「南部せんべい」の名で商標登録しているが、実際は南部藩の領域で主に生産されてきたものであり、青森県南部・岩手県・北海道にも存在しており広範囲にわたっている。岩手県でも、旧仙台藩にあたる岩手県南部でも生産・消費されている。 明治・大正期 明治・大正時代の時点で既に南部せんべいは北海道・東北六県で広く食べられていた。当時は麦粉に塩を加えて丸く焼くだけのもので非常にシンプルなものであった。明治時代以前は松の木を用いて焼いていたが、大正期には炭火でせんべいを焼くようになった。 南部地方の八戸町(現在の青森県八戸市)では明治10年代頃には煎餅店が140店あり、他の業種(呉服店67戸、米商58戸)を大きく上回っており、幅広く地域住民に食されていたことがうかがえる。また、煎餅店だけでなく、各家庭にも煎餅型が数個備えてあり、一般的に南部煎餅が焼かれていた。 せんべいのみみ せんべいを丸く仕上げる過程で、型からはみ出してしまった部分は切り落とされるが、この部分を集めた「せんべいのみみ」と呼ばれる食べ物もあり、地元ではこちらも人気がある。 せんべい汁(八戸せんべい汁・南部煎餅汁など) 青森の南部地方と岩手の県北地方の周辺では、醤油仕立ての汁にこれを加えたせんべい汁という料理があり、寒い時期の定番料理として広く親しまれている。煎餅を煮込んで軟らかくすると、同じように小麦粉を原料としたすいとんなどに似た味わいになる。 汁に入れて煮込んでも煮くずれしにくい、汁用に作られた「おつゆせんべい」もしくは「かやきせんべい」と呼ばれる調理用のせんべいを使用することが多い。お菓子である白せんべいやごませんべいを使用することも稀にある。なお、ピーナッツ入りを使用することは無い。 近年では、八戸せんべい汁研究所が、八戸せんべい汁としてブランド化を図って活動をしており、八戸市を中心とした近隣の居酒屋や飲食店ではせんべい汁を提供する店が増えている。 商標登録 2011年12月現在、「南部せんべい」の名称は、岩手県南部煎餅協同組合が商標登録している。
朱成虎 経歴 公式には1952年安徽省当塗県生まれ。旧姓は劉であり、中国建軍の父と呼ばれ一時国家元首格を有した朱徳元帥の4番目妻の外孫(朱徳は公式に6回結婚している)。成虎の命名は祖父朱徳で「人を食らう虎」の意。 4歳のころ祖父が政府最高首脳に列し、14歳の頃に文革が始まり攻撃を受け左遷させられている。 祖母に対して「性乱豪放女」との批判報道が存在する。国家の政治中枢に関与する家族の元で育ち、その特殊な環境と祖母らの性的スキャンダル攻撃が後の核恫喝に結び付いたとの報道が一部ある。 朱徳がさらに降格させられた1969年に中国解放軍入隊。中国人民解放軍南京国際関係学院および軍事学院参謀班および国防大学を卒業。国防大学の戦略研究所副所長、外訓系主任(系は日本の学部に相当)、広州軍区空軍副参謀長などを歴任。1988年米国国家戦略研究所に半年間客員研究員として留学。1993〜1994年イギリスのロンドン大学アジア・アフリカ学院に1年間客員研究員。 軍事教育と研究に30余年のキャリアを持ち、諸外国訪問しての講演等は20カ国を超え、中国国内でのメディア露出も多い。2015年1月現在、国防大学の防務学院院長および教授。空軍少将の地位をもつ中国解放軍士官の教育指導者である。 核攻撃発言 2005年7月14日、香港にてウォールストリート・ジャーナル、フィナンシャル・タイムズなど各国の報道機関を前に、アメリカ合衆国が台湾海峡の武力紛争に介入した場合、中国は核戦争も辞さないと発言し、個人の見解とした上で、米国の数百の都市と引き換えに西安より東の都市すべてが壊滅することも厭わないと述べた。また、「世界の人口は無制限に迅速に増加している。今世紀中に爆発的増加の極限に到達するはずだ。しかし地球上の資源は有限なのだから、核戦争こそ人口問題を解決するもっとも有効で速い方法である。(世界人口在无限制地迅速增长,在本世纪内就要达到爆炸的极限,而地球上的资源是有限的,核战争是解决人口问题最有效最快速的方法)」と、核戦争を賛美する発言を行った。 即座に7月15日アメリカでも一斉に報道され、ヨーロッパ諸国、台湾などでも物議をかもし新聞などで一斉に報道された。産経新聞ワシントン支局長などを務めた古森義久は、この発言を「衝撃的というか、驚愕というか、びっくり仰天し、そのあとに肌寒い恐怖に襲われる。」と述べている。 事態を重く見たアメリカ議会は即座に反発し、7月22日に発言に対し発言撤回と朱成虎少将の罷免を求める下院決議を採決した。それを受けて、中国外交部は、朱の発言は中国政府の立場を表すものではないとのコメントを出し、中国人民解放軍は同年12月、朱に「行政記過」(過失を記録に残すの意)処分を下し、1年間の昇進停止とした。これは2番目に軽い罰則と報じられている。米議会が求めた罷免は行われず、国防大学からも更迭は行わなかった為、その後も教鞭をとっている。 先制核攻撃論 黄文雄によると1995年ごろから過激な発言を繰り返しており、中国当局はそれに昇進をもって報いていると述べている。それらの朱少将の核攻撃論をまとめたものは以下の通り。 「国連の統計によれば、今世紀中葉ごろには世界人口は一五〇億人に達し、今世紀中には人口過剰の問題が爆発する。  すでに中国、インド、東南アジア等が人口過剰問題を抱え特にインドは、人口、経済、パキスタンとの領土紛争をめぐり 核戦争をおこなう可能性はきわめて高い。そのドミノ現象で世界核戦争が起こる」 「だからこの未来の核大戦に対し、我々は受動的ではなく、主導的に出撃すべきだ」 「人口問題を解決するには、核がもっとも有効にして手っ取り早い方法だ」 「なるべく他国の人口を減らし、自国の人口を多く生き残らせるべきだ。」 「もし我々が受動的ではなく主導的に出撃し、計画的に全面核戦争に出れば、情勢はきわめて有利である。 なぜなら他の国と比べ、我々の人口の絶対多数は農村にあり、 しかも我が国の国土、地形は非常に複雑で隠匿しやすい。だから政府が核大戦を 用意周到に計画さえすれば、人口を広大な農村に移して絶大な優勢を保つことができる。 しかも我々が先制攻撃をすれば、他国の人口を大きく減らし、我々が再建する場合には、人口的な優勢を保つことができる」 「我が国の目下の任務は経済発展であって軍拡でないと主張する人もいるが、経済発展はすでにピークに達し 人口を有効に制限できない状況下では、貧窮人口を増やし、一握りの富裕階層の生活を維持していくだけだ」 「だから政府はすべての幻想を捨て、あらゆる力を集中して核兵器を増やし、10年以内に地球人口の半分以上を消滅できるようにしなければならない。  人口制限の愚策は早く捨て、人口をもっと増やし、そして計画的に周辺諸国に浸透させるべきだ。  たとえば密入国や、シベリア、モンゴル、中央アジアなど人口の少ない地域への大量移民を行わせる。  もし大量移住が阻止されたら、軍隊を派遣して先導させるべきだ。  全面核戦争が起きたら、周辺諸国に疎開した人口の半分と、農村へ疎開した人口の半分があるから、他国に比べて多くが生き残ることができる」 「我々にとってもっとも敵対する隣国は、人口大国のインドと日本である。  もし我々が彼らの人口を大量に消滅できない場合は、核大戦後は中国の人口が大量に減少し、日本とインドが我が国に大量移民することができるようになる」 「アメリカは強大な国力を保っているので、徹底的に消滅させないと、将来大患になる。  アメリカに対しては、我が国が保有する核の一〇分の一で充分だ。  台湾、日本、インド、東南アジアは人口密集の地域であり、人口消滅のための核攻撃の主要目標となる。  モンゴル、ロシア、中央アジアは人口が少ないので、核攻撃よりも通常地上部隊の占領だけで十分だ」 「中国人がもし大量に移民し、ロシア人と共棲すれば、ロシアは我が国に核攻撃はできなくなる。そのためには五億人ぐらいがシベリアに移民するだけで充分だ」 「核の第一撃があれば、利害関係を持つ国家間で核攻撃が起こる。もし事前に計画と準備があれば、我々にとってはきわめて有利だ」 「以上のことは数年後、必ず起こる。なぜならば人口問題は、いかなる人間にも根本的な解決は不可能だからだ。  歴史は必ず私の所説の正しさを証明してくれる」 「核大戦のなかで、我々は一〇〇余年来の重荷をおろし、世界のすべてが得られる。中華民族は必ず核大戦のなかで、本当の復興を得られる」 — 朱成虎、黄文雄著日本人が知らない中国「魔性国家」の正体p43~46より引用 著書 「中米関係の発展変化及び趨勢」、「当代米国軍事」他多数。論文発表も200件を超える。
PenPoint OS PenPoint OS(ペンポイント オーエス)はGO Corporationが製作した初期のグラフィカルタブレット式携帯情報端末向けに開発されたOSの一つである。IBM社のThinkPad 700T系、NCR社の3125やいくつかのGRiD Systemsペン式携帯を含む多くのインテル社のx86搭載タブレットPC同様AT&T社のEO パーソナル・コミュニケータ上で作動する。 PenPoint OS開発者にはゼロックス社のパロアルト研究所でAltoの開発に携わったRobert Carrも含まれる。 賞と革新技術 Byte magazineでPenPointはベストオペレーティングシステムとして1992年の Byte アワードを受賞した。PenPointはPCマガジンのスタンダード部門とオペレーティングシステム部門で1991年Technical Excellence アワードを受賞した。 .
ペルフルオロオクタン酸 性質、合成 水溶性である(3.4 g/L)。フッ素化されていないオクタン酸よりも界面活性能が高い。ペルフルオロアルキル基はC-F結合エネルギーが高く、耐光性、耐熱性が高く、生分解をほぼ受けないとされる。ペルフルオロオクタン酸はフッ素テロマーのテロメリゼーションにより合成される。生体内半減期は4.3年であり、類似物質として法的規制を受けるペルフルオロオクチルスルフォン酸(PFOS)の生体内半減期8.7年に比較して、短期間である。 用途 ペルフルオロオクタン酸は、ポリテトラフルオロエチレン合成における添加剤、塗料のレベリング剤、水性膜形成泡消火剤、界面活性剤などに用いられる。 環境汚染 2000年に大手製造メーカーであった3M社は世界各地の野生生物中にペルフルオロオクタンスルホン酸が高濃度に検出されたことを明らかにし、同様の構造を有するペルフルオロオクタン酸についても製造を2002年に中止した。現在はデュポン社が製造を継続しており、その他フッ素樹脂メーカーで使用が継続されている。世界各国の政府、研究者がその影響の調査に乗り出している。 2006年1月25日アメリカ合衆国環境保護庁はフッ素樹脂製造メーカーに対して、ペルフルオロオクタン酸の排出の削減を求め、2015年までの排出の廃絶を目指している。
ノエル・ギャロン 経歴 パリ音楽院にて兄のジャン・ギャロンに師事。1910年にカンタータ《アチスとガラテア Acis et Galathée 》によりローマ大賞を獲得。1920年よりパリ音楽院でソルフェージュの、1926年より対位法とフーガの教授として出講。主要な門人に、モーリス・デュリュフレ、オリヴィエ・メシアン、ポール・モーリス、アンリ・デュティユー、ゲルト・ボーダー、トニー・オーバンら。 作品に歌劇《大地と兵士 Paysans et Soldats 》(1911年)、管弦楽組曲、ピアノと管弦楽のための幻想曲、フルートとバスーンのためのソナタ、ピアノ曲《トッカータ》《10の前奏曲》のほか、合唱曲、歌曲がある。
ピラタス P-2 設計 空冷レシプロエンジンを1基搭載し、2翅のプロペラを動かして飛行する単発機。主翼は低翼配置となっている。機体は木金混合構造であった。座席配置は直列複座で副操縦装置を持つ。降着装置は尾輪も含めて格納式であり、価格を抑えるために主脚はBf 109戦闘機と一部共通となっている。他にもスイス空軍で運用されていた機体の部品と同じものがコストダウンのために使用されている。 開発 1942年から開発が開始され、1945年4月27日に初飛行した。スイス空軍で1946年より1981年まで運用された。スイス空軍での運用後は民間に売却されており、現在でも練習機や航空ショーの出演機として運用されている。
モノフルオロ酢酸アミド 用途・毒性 三共が開発した殺虫剤で、1956年6月18日に農薬登録を受け、1975年12月3日に同登録が失効した。商品名フッソールなどで、登録期間中に累計1,900トン、ピーク時の1966~1967年には年間200トンを超える製剤が製造されたが次第に有機リン系の農薬に取って代わられるようになった。カイガラムシやハダニ、アブラムシなどに効き、果樹園を中心に用いられた。半数致死量(LD₅₀)はラットへの経口投与で5.75mg/kg、ラットへの経皮投与で80mg/kg と毒性は強く、体内に取り込まれたのち代謝されモノフルオロ酢酸となり、過興奮・嘔吐・筋痙攣・呼吸抑制・心不全などの症状が現れる。 モノフルオロ酢酸、モノフルオロ酢酸ナトリウムなどとともに毒物及び劇物取締法により特定毒物に指定されており、青色の着色が義務づけられている。法令で定められた者以外はモノフルオロ酢酸アミドを含んだ製剤を取り扱うことができない。
兵庫県道17号西脇三田線 概要 西脇市の中心部と三田市の中心部を結ぶ幹線道路である。神戸市と三田市の境目から終点の手前付近は4車線であるが、それ以外は2車線で供用されている。
内山久美子 来歴・人物 身長167cm、血液型AB。 県立藤枝東高校を経て法政大学社会学部社会学科卒業。 1994年、テレビ静岡に入社。テレビ静岡時代には産経新聞静岡県版朝刊にコラム「気ままにトーク」を執筆した。 1998年に退社し、以後フリーアナウンサーとして活動する。 1998年10月から、病気のため降板しその後死去した声優の新山志保に代わって文化放送のラジオ番組「走れ!歌謡曲」火曜日(月曜深夜)のパーソナリティを担当し、2001年3月に中尾美穂に交代するまで続いた。 2002年10月からニッポン放送のトーク番組「トヨタ・スポーツドリーム」にスポーツジャーナリストの羽佐間正雄と出演。インタビュアーを務めている。 夫と息子2人の4人家族である。
昭和回顧録 概要 戦前の昭和の国民生活の諸相を記録したフィルムを中心として、フィルムの関係者、時代の証言者などが語り合う、庶民の体験的昭和史を放送した。
ライオネル・リッチー 人物 1974年に、コモドアーズのメンバーとしてデビュー。1982年からはソロ活動を行うようになり、1983年にリリースされたアルバム『オール・ナイト・ロング(Can't Slow Down)』は、全世界でトータルセールス2000万枚を超える彼の一大出世作である。そんな彼の代表曲でもある「エンドレス・ラブ」や「オール・ナイト・ロング」等は、時代を超えるR&Bのスタンダードナンバーとして、現在も非常に人気が高い。 プライベートでは、1975年に大学で知り合ったブレンダ(Brenda Harvey)と結婚しており、彼女と共に、1983年にニコール・リッチーを養子に迎え入れている。しかし1993年に離婚し、25億円の慰謝料を支払ったと言われている。 デビュー アラバマ州タスキーギ出身。1967年、タスキーギ大学在学中にコモドアーズを結成。同大学卒業後、オーバーン大学の大学院に学んだが、1971年7月よりジャクソン5のオープニングアクトを務め、その後モータウンと契約。ライオネルは、サックスを担当していた。 コモドアーズ コモドアーズは、1974年にアルバム『マシン・ガン』でデビューする。当初は、演奏面に比重を置いたファンク・バンドであったが、やがてライオネルの甘い歌声をフィーチャーしたバラード曲「イージー」などのヒットを飛ばし、その路線を押し進めるようになる。 ライオネルは、作曲家としても数々のアーティストに曲を提供、ケニー・ロジャースの「レイディ」は、1980年に全米1位の大ヒットとなる。翌1981年には、ダイアナ・ロスとのデュエット曲「エンドレス・ラブ」も、全米1位の大ヒットを記録した。現在もデュエット・バラードの定番となっている。 ソロ活動 1982年、ライオネルはコモドアーズを脱退し、初のソロ・アルバム『ライオネル・リッチー』を発表。同年に「トゥルーリー」が全米1位の大ヒットとなり、この曲でグラミー賞最優秀男性ポップ・ボーカル・パフォーマンス賞を受賞した。翌1983年に発表したアルバム『オール・ナイト・ロング(Can't Slow Down)』はグラミー賞最優秀アルバム賞と最優秀プロデューサー賞を獲得し、同アルバムからのシングルのうち「オール・ナイト・ロング」と「ハロー (心の扉)」は全米ナンバーワン・ヒットとなった。 1985年にはマイケル・ジャクソンとの共作で、USAフォー・アフリカのチャリティー曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」を作曲。居並ぶスーパースターたちの中で名誉ある歌い出しを務めた。同年には映画『ホワイトナイツ/白夜』の主題歌「セイ・ユー、セイ・ミー」で自身5曲目の全米1位を獲得し、この曲はアカデミー歌曲賞とゴールデングローブ賞 主題歌賞を受賞した。しかし、1986年発表のアルバム『セイ・ユー、セイ・ミー(Dancing on the Ceiling)』を最後に、ライオネルはしばらく表舞台から退いた。 1996年に、10年ぶりとなる復帰作を発表し、その後もマイペースでアルバムを発表しているが、母国アメリカではヒットしなかった。近年では、養子の娘ニコール・リッチーがテレビパーソナリティとして人気者となっており、また、離婚した元妻から請求された莫大な慰謝料と豪勢な生活ぶりが報じられるなど、音楽以外の面で話題になってしまっている。 2006年、2年ぶりのアルバム『カミング・ホーム』がBillboard 200で初登場6位にランクインし、彼にとって初めてとなるBillboardチャート初登場TOP10入りを果たした。その後もセールスを伸ばし続け、結果的に50万枚以上を売り上げ、全米でゴールド・ディスクを獲得。久々のヒット作となった。 2009年、3年ぶりとなるニューアルバム『ジャスト・ゴー』をリリースし、Billboard 200で初登場24位にランクインした。今作では、エイコン等の新鋭アーティストとも共演を果たしており、非常にポップな作品となっている。同年7月7日、マイケル・ジャクソンの追悼会にて「"Jesus is Love"」を披露した。 2012年3月(日本盤は11月)、ケニー・ロジャースら多くの有名カントリー歌手とデュエットを行ったコラボレーションアルバム『ベスト・デュエット〜タスキーギ』がリリースされた。カナダ、ドイツ、イギリスを初めとする数多くのナショナルアルバムチャートにて上位を獲得。既にデンマークでは、ゴールドディスクを獲得している。また、全米アルバムチャートにおいても、約19万9千枚を売り上げ、初登場2位を記録した(※最高位は1位)。これは、サウンドスキャンが1991年にアルバムの販売枚数を調査し始めて以来、彼にとっては、自身最高の初週売り上げ枚数である。 近年の活動 元々は、欧米諸国やアジア諸国で非常に人気が高いライオネルだが、近年、彼の人気はモロッコやドバイを始めとするアラブ諸国でも高まっており、この地域でのライヴ活動も増えてきている。
フレデリク・ニマニ 経歴 ASモナコのユース出身で、2007年に同チームでプロデビューを果たした。長らくモナコに所属するもレンタル移籍期間が多い。2012年にモナコとの契約が終了し、FCイストルへと移籍した。 元フランスU-21代表。
タイロン・レモント タイロン・レモント(Tyrone Lamont、1985年4月3日 - )は南アフリカ共和国出身の野球選手。ポジションは投手。右投右打。 2005年までシアトル・マリナーズ傘下のルーキーリーグでプレーしていた。 2006年のWBCでは南アフリカ代表に選出され、2試合にリリーフで登板するも初戦のカナダ戦ではコーリー・コスキーに本塁打を浴びるなど合計3イニングで4失点を喫してしまった。
松井珠紗 略歴 2013年から2015年まで劇団東俳所属。2017年までフリーで活動したのち2018年3月からMARU主宰の劇団水色革命所属。主宰のMARU自身が元プロレスラーであり、舞台も女子プロレスラーの出演がある、劇団員にも練習生がいるなどという環境の中で、自然と女子プロレスという晴れ舞台に目が向くようになる。 2か月という練習期間を経て、2018年11月15日、東京・後楽園ホール大会での堀田祐美子vs櫻井裕子vs林亜佑美vs松井珠紗戦という変則4WAYマッチでデビュー。その後2019年1月24日、東京・新木場1stRINGで堀田祐美子とシングルマッチで対戦するが、見事に何もできずに惨敗。堀田からは「プロレスを甘く見るなよ。私を倒す倒さないとか、そういうことじゃなくて、まずは怪我をしないこと。まだやって2ヶ月として、まあ2ヶ月でデビューするのもおかしなこととして……」と公開叱咤されてしまう。 人物 ​ポジティブ思考。運動神経があるほうでもなく、身の丈も大きくないが空気感をつかむのがうまいと評価されている。得意技は丸め込み技と相手の隙をついた固め技。 スリーサイズは上から88・65・87。
リンドス 歴史 紀元前10世紀ごろ、トレーポレモスに率いられたドーリア人がリンドスを建設したといわれている。このあたりに建設されたドーリア人のヘクサポリスの1つである。ロドス島の東岸にあることから、紀元前8世紀ごろにはギリシア人とフェニキア人の交易の場として栄えた。紀元前5世紀末にはロドス市が建設され、徐々にそちらに中心が移っていった。 古典期には巨大なアテーナー・リンディアの神殿が建設され、紀元前300年ごろに最終的な形に達した。ヘレニズム期とローマ帝国時代には神殿にさらに建物が追加されて大きく発展していった。中世初期にはそれらの建物が使われなくなり、14世紀にはその廃墟の上に聖ヨハネ騎士団が要塞を建設し、オスマン帝国と対峙した。 発掘 リンドスでの発掘は1900年から1914年、K.F. Kinch と Christian Blinkenberg の指揮でデンマークのカールスバーグ研究所が行った。アクロポリスは岩盤に当たるまで発掘し、全ての建物の基礎をむき出しにした。 イタリアがロドス島を支配した時代(1912年から1945年)にはアクロポリスの復元作業が行われたが、その結果は不完全なもので、歴史的記録を破壊しただけだった。北東端のアテーナー神殿が復元された。プロピュライアに登っていく階段が復元され、ヘレニズム期の多くの柱が立て直された。しかし、岩盤をコンクリートで覆い、石のブロックは元々発見された場所から移され、壁の復元に使われた。 現代の基準からするとこの復元は出土したものに関する十分な検証もせずに行われており、損害を与える結果となっている。近年ギリシャ文化省の監督の下で国際的な考古学チームが正しい復元と保護のために働いている。
関西空港自動車道 概要 阪和自動車道の泉佐野JCTより分岐して、りんくうJCTで関西国際空港連絡橋(スカイゲートブリッジᴿ)に接続する。 路線は国土開発幹線自動車道には指定されておらず、高速自動車国道の路線を指定する政令によって高速自動車国道の指定がなされている。政令路線名は関西国際空港線である。 一般道路(一般部)として、国道481号が平行している。大阪市・神戸市などから関西国際空港へは阪神高速4号湾岸線を経由した方が時間的に早く、近くしかも割安である。また、関西空港へのアクセスというよりもむしろ阪神高速4号湾岸線(大阪・神戸方面)から和歌山・白浜方面への接続道路として利用されている。京都・奈良・大阪方面からの空港連絡バスも堺泉北有料道路と阪神高速4号湾岸線を利用している。
スカイウォーク スカイウォーク(英語:skywalk)は、建物間やアトリウム施設上階の縁を繋ぐ、歩行者用の空中通路全般を指す建築用語。具体的な形態は各種ある。横浜スカイウォークやグランドキャニオン・スカイウォーク、恵比寿スカイウォークなどが有名。施設に依りスカイブリッジなどの名前を使うこともある。
畠世周 プロ入り前 呉市立川尻中学校の軟式野球部から近大福山高等学校に進学した。入学時の球速は133km/hであったが、3年次には142km/hを計測するまで成長した。チームのエースを務めた3年次は広島県ベスト16の成績を残した。4回戦の広島新庄高等学校戦では後に巨人でチームメイトとなる田口麗斗(田口は当時2年生)と対戦。田口が先発で7回1安打無失点と好投したのに対し、リリーフした畠は2回を7失点と力を出せず、チームも12-0で敗退した。 近畿大学に進学し、大学通算46試合に登板、13勝13敗、防御率2.03、216奪三振を記録。2016年10月20日に行われたドラフト会議で、読売ジャイアンツに2位指名を受けた。指名後に右肘の遊離軟骨除去手術を行った。 プロ入り後 2017年は、右肘手術の影響でキャンプを三軍で迎える。4月30日に二軍で初登板し、5回無失点だった。7月6日の広島東洋カープ戦で一軍デビューし、4回4失点。9月30日の阪神タイガース戦では、初回に2番打者の上本博紀の頭部に死球を当ててしまい、NPB一軍公式戦史上最速となる「試合開始から4球目での危険球退場処分」という記録を残した。また、対戦打者数でも風張蓮と並ぶ最速タイ。初登板以降は先発ローテーションの1人として固定され、13試合に登板し、6勝4敗と勝ち越した。 2018年は、2月のキャンプ中に腰を痛め、三軍での調整となった。治療と調整が長引き、三軍での実戦復帰が8月11日、二軍合流が9月4日と大きく出遅れた。9月11日に一軍シーズン初昇格。手薄なリリーフ陣を補うため、この年は先発では一切投げず、中継ぎに専念した。9月23日の阪神タイガース戦で5番手として登板。チームが逆転勝ちを収め初勝利。10月9日の阪神タイガース戦でも2番手として登板し勝利投手となった。オフに背番号を31に変更した。 2019年は、開幕から先発ローテーションに入るも、2試合続けて5回を持たずに5失点以上で降板した事から4月15日に2軍降格。4月30日に中継ぎとして1軍復帰をするも、5月6日に2軍で再調整となった。
女子ボクシング 女子ボクシング(じょしボクシング)は、女性によるボクシングの試合である。 ボクシングは古くから男性の競技として見なされていたが、女子ボクシングも長い歴史の中で形作られている。 歴史 女子ボクシングに関する世界最古の記録はイギリス・ロンドンでの試合について書かれており、これによると1722年にオックスフォード・サーカス付近の宿屋でエリザベス・ウィルキンソンがマーサ・ジョーンズに勝利し、コックニー王者となっている。女子ボクシングは英国では1880年に禁止されたが、完全に消滅することはなかった。 アメリカ合衆国での女子ボクシングの最古の記録は、1876年にニューヨーク市のヒルズ・シアターで銀製のバターディッシュを懸けてネル・サンダースとローズ・ハーランドが戦ったことを記している。 1904年セントルイスオリンピックでは公開競技として女子の試合も行われていた。しかしながら、長らく女子ボクシングは禁止された。 1952年にイギリス出身のバーバラ・バトリックが米国へ渡り女子プロボクサーとして活躍。 1988年にスウェーデンで女子アマチュアボクシングが認定された。 1990年にバトリックにより女子国際ボクシング連盟(WIBF)が設立されて以降女子世界王座認定団体が次々と作られたが、21世紀に入るとWBC・WBAなど男子の団体でも女子の王座が設けられるようになった。 2001年には国際アマチュアボクシング協会による世界女子ボクシング選手権大会が開催され、2012年ロンドンオリンピック以降の採用も確定した。 歴史 日本では大正時代に女優・砂田駒子が夫フランク徳永とともに日本拳闘倶楽部でトレーニングしたのが最初とも言われている。 昭和初期に砲丸投げの選手だった石田正子が日米拳でトレーニングを積み、男子ボクサーとスパーリングで負けなかったと言われている。相手も決まったが、試合前日になって警視庁条例違反という理由で中止になる。 1950年11月に広島で石倉節子対菅間和子が女性同士として初の試合として公開され(2分4回戦)、翌1951年1月にも2人は日比谷公会堂で対戦したが引き分けに終わった。 その後、長い事女子ボクシングが日本で認められなかったが、1970年代に埼玉中央ジムのトレーナーであった高築正子が後楽園ホールで男子相手にエキシビションを披露。アメリカにも渡り、日本人プロ第1号としてリングに上がっていた。帰国後もキックボクシングのリングで試合を行っていた。当時は全日本女子格闘技連盟(コミッショナー:山口シヅエ)が「全日本女子プロボクシング王座」の名でタイトルを創設し、高築もタイトルを獲得している。 また、その頃には三迫将弘によってボクササイズが考案され、1990年代に入ると一躍ブームとなるが、その延長線上として本格的にボクシングを始めたい女性が増え、1996年に第1回全日本女子アマチュアボクシング大会が開催される。 一方、当時マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟理事長だった山木敏弘が「キックボクシングの女子部門は存在するのに女子ボクシングがない」ことに疑問を持ち、女子ボクサーの育成に着手。キックからの転向組が中心となりマーシャルアーツ日本キックボクシング連盟興行内に挿入する形で女子ボクシングの試合が行われる。1997年にはそのひとりであるシュガーみゆきが日本人初の世界タイトルを獲得し話題となる。1999年には日本女子ボクシング協会が結成され、初の女子ボクシング興行が行われる。一時は150人以上の女子ボクサーが所属していた。日本女子王者も次々と誕生した。 2002年には日本アマチュアボクシング連盟が女子の部を設け、翌2003年に第1回全日本女子大会を開催する。 また、2005年以降日本ボクシングコミッション(JBC)でも女子の解禁について検討を開始。一方で同年11月7日には菊地奈々子がタイで日本人初のWBC女子王座を獲得した。 2007年にはJBCが女子部門創設。東日本ボクシング協会(JBCオーナーライセンス保持者経営ボクシングジムで構成)に山木ジムが日本女子ボクシング協会を発展的に解消し参入。2008年2月28日に第1回プロテストが行われ、翌日第1期生(B級14人、C級6人)が誕生した。4月27日には公認後初の試合としてカンボジアで江畑佳代子がWBC女子ライトフライ級に挑戦したが敗れて王座奪取はならなかった。5月9日には女子のみでの第1回興行「G Legend」が開催される。5月25日に和歌山県立体育館で開かれたクラトキジム主催「第13回紀の国KOボクシング」に真道ゴーvs秋田屋まさえが組み込まれ、国内初の男女ボクシング興行となった。 7月13日、韓国で富樫直美がWBC女子世界ライトフライ級暫定王座を獲得し、JBC公認下で初の女子世界王者となった。7月30日に行われた内藤大助・坂田健史ダブルタイトルマッチではアンダーカードとして女子の2試合が組まれる。8月11日、風神ライカ・小関桃ダブルタイトルマッチとして公認後初の国内での世界タイトルマッチが組まれ、小関がWBC女子世界アトム級王座を奪取した。 同年、世界女子選手権に日本から初めて7人の選手を派遣。箕輪綾子のベスト8が最高であった。 2009年2月、東洋太平洋ボクシング連盟(OPBF)が初の女子ランキングを発表、日本の選手は18人がランク入りし、うち5人が各階級1位となった。4月11日に行われる多田悦子の世界初挑戦は名城信男vs冨山浩之介戦との日本初となる男女世界ダブルタイトルマッチとして開催されることが発表された。6月26日には菊地奈々子vs江畑佳代子戦がOPBF女子初代ライトフライ級王座決定戦として実施され、菊地が日本人初のOPBF女子王者戴冠を果たした。 同年のアジア室内大会ではフェザー級で水野知里が銅メダルを獲得し、日本女子ボクシング初の国際大会メダリストとなった。 2012年ロンドンオリンピックより女子ボクシングが加わるのに伴い、本格強化を開始。2010年、全日本女子大会が「全日本女子アマチュアボクシング選手権大会」に改められ、日本選手権となった。同年のアジア大会では女子ボクシングが加わり、フライ級の新本亜也が日本人初となる銅メダルを獲得。お笑いコンビ「南海キャンディーズ」の「しずちゃん」こと山崎静代の挑戦もあり女子アマチュアボクシングがマスコミで取り上げる量が増えた。だが、五輪選考会を兼ねた2012年世界選手権では山崎を含め全員が敗退、初の五輪に日本からは一人も送り込むことができなかった。しかし、2011年4月に佐伯霞が世界ジュニア選手権で男子も含めAIBA主管大会で日本人初の金メダルを獲得。 同年JBCがユース王座を解禁すると、7月に黒木優子が日本人初となるWBC女子世界ユース王座をアトム級で獲得。黒木は2014年に1階級上のミニフライ級でWBC女子世界王座も獲得している。 2012年、女子ランキングである「G Legendランキング」が始動した。2013年明けに日本女子タイトル「G Legendチャンピオンシップ」が創設され、2月9日のアゼリア大正大会で山田真子と小澤瑶生が同タイトル獲得者となった。 JABF及びJBC解禁から依然として選手層の厚みが増すことがなく、女子ボクシングにおけるひとつ課題となっていた。プロボクシング界では2011年よりそれを解消するべく「プロトライアルマッチ」と呼ばれる新たな制度を導入。現在も競技人口増加に向けていくつか検討を重ねられている。アマチュアでは国内での大きな大会が全日本女子選手権のみという状況であり、新たな大会の創設が求められていたが、2013年春に後楽園ホールで上位者を対象とした新大会「女子ボクシング チャレンジマッチ」を創設することが発表されている。 2014年女子世界選手権で和田まどかが銅メダルを獲得。日本人初の女子世界選手権メダリストとなった。 韓国 韓国ボクシング委員会(KBC)では2000年より女子を解禁されている。 きっかけとなったのは韓国系アメリカ人のキックボクサー、キム・メッサーのボクシング転向であった。メッサーは1995年よりアメリカでボクシング活動していたが、それが韓国国内でも話題になり、韓国ボクシング界よりメッサーに正式オファーを送り、2000年8月5日にソウルで高野由美とIFBA世界ジュニアフライ級王座を争い、勝利。この試合がKBC認可第1号となった。 2002年9月27日、李仁栄が韓国人初となる女子世界王座を成功させた。韓国国内では男子ボクシング世界王者が途絶えている一方、女子世界王者を生み出しており、現在では女子の試合がメインイベントで男子がその前座となっていることも珍しくない。 タイ タイの刑務所では、女囚に対する矯正活動の一環としてボクシングを導入している。刑務所内で試合を設定することもあり、勝てば刑期短縮となる。 アメリカ合衆国 国営テレビが女子の試合を初めて放送したのは1954年のことで、バーバラ・バトリックの試合だった。 女子ボクシング​​への関心は、ウーマン・リブの隆盛とともに1970年代に勢いを増し、1975年1月にエバ・シャインがプロボクシングの試合を裁く審判として文書化されたライセンスを米国で初めて取得。同年、キャロライン・スヴェンセンが女子ボクサーとして初めて文書化されたライセンスを交付され、ネバダ州で4回戦を行った。パット・ピネダは1976年にカリフォルニア州で初めてライセンスを交付され、1978年にはキャシー・デービス、ジャッキー・トナワンダ、マリアン・トリミアーがニューヨーク州でライセンスを取得した。トナワンダはマディソン・スクエア・ガーデンでボクシングをした最初の女子選手として、1975年のエキシビションマッチで男子キックボクサーをノックアウトした。他にはバンタム級のサンディ・ペレスや、女子ボクシング連盟 (Woman's Boxing Federation) に1980年にライトヘビー級王者として認定されたダイアン・クラークらがいた。 しかし、法廷闘争の末にニューヨーク州最高裁判所の指示で同州アスレチックコミッションが女子にプロボクサーライセンスを発行した時も、同州を拠点とする男子プロボクサーは、女子同士または男子対女子の試合を歓迎しなかった。元ライト級世界王者のエステバン・デ・ヘススは、男子は女子にとって強過ぎるし、女子が試合をすることは危険を伴うと言い、元ジュニアライト級世界王者のアルフレド・エスカレラもこれに同意し、女子選手はボクシングをすることが自分たちにとってよいことと信じているかもしれないが、女子対男子の試合は真の試合にはならないと話している。当時ヘビー級で無敗だったマイケル・ドークスは、ボクシングは女子にはあまりに荒々しく残忍であるとし、ボクシング参加は女子にとって前進ではなく後退だと述べている。フロイド・パターソンは現役を引退して、この時はライセンスを発行したニューヨーク州アスレチックコミッションの一員となっていた。しかしそのパターソンも、自分は常に女性を尊重し、ウーマン・リブを支持してきたけれども、リングの中では別だと話している。国内の他地域でも1970年代後半にはライセンスが認められ、女子のライセンス認可は、ヒューストンでのモハメド・アリの徴兵拒否以来の騒動となった。 キャシー・デービスは、女子ボクシングの先駆者として数試合がテレビ中継され、現在に至るまで『リング』誌の表紙に使用された唯一の女子ボクサーとなっているが、その数試合の結果が不正に操作されていたことから競技全体が信頼を失い、女子ボクシングの発展を遅らせる要因にもなった。統括・認定団体、レフェリーやジャッジが正しく機能することの必要性が露呈し、またライセンス発行のプロセスにも正当性が求められた。1987年頃、マリアン・トリミアーは、女子がもっと認知されない限り、自分たちはただ目新しいものとして戦うだけで未来がないとして、女子ボクシングの惨状に注意を喚起するためにハンガーストライキを行い、30ポンドを落とした。1990年代初め頃までには状況は改善されていった。 1980年代には双子のドラとコラのウェバー姉妹が活躍。 1993年には米国ボクシング連盟が女性ボクサーを認定。女子ボクシング時代の幕開けとなる。 1995年、ニューヨーク・ゴールデングローブに日系人のディー・ハマグチが女性として初出場。1997年には、米国連盟公認初の女子トーナメントが開催される。 クリスティ・マーチンらの試合がビッグマッチのアンダーカードとして組まれ、次第に人気が高まる。1999年にはモハメド・アリの娘レイラ・アリがデビュー。ジョー・フレージャーの娘ジャッキー・フレージャー・ライドとの対戦でマスコミ報道が過熱し、この試合は10万件のペイ・パー・ビューを売り上げた。 2009年現在のファイトマネーは1ラウンドにつき最低200ドルで、1試合の最高額は25万ドルだった(ゲート収入、放映権料などを除く)。 メキシコ 女子ボクシングがもっとも盛んな国のひとつに挙げられ、国内では女子ボクシングを題材としたリアリティ番組「トダス・コントラ・メヒコ(Todas contra mexico)」が放送されるほど人気が高い。
大和田正春 人物 在日米軍兵士であったアメリカ人の父と日本人の母との間に生まれたハーフで、褐色の肌にスキンヘッド、口髭というその風貌から和製ハグラーと呼ばれた。16勝中KO勝利が14との戦績が示す通りの強打者であったが、その反面、11敗中KO負けが9と打たれ弱くキャリアの前半は勝ち負けを繰り返していたが、キャリア後半にはその強打でビッグアップセットや逆転KOを演出し、スリリングな試合を繰り広げた。ジュニアライト級でデビューの後、徐々に階級を上げ、ミドル級で日本チャンピオンに上り詰めた。 “浪速のロッキー”こと赤井英和を引退に追い込んだ選手として有名。 来歴 1979年6月28日、角海老宝石ボクシングジムからジュニアライト級でプロデビューも4R判定で敗れた。 1980年12月28日、東日本新人王ジュニアライト級優勝を賭けて新山泰次郎に挑むも6RKO負けを喫した。 1984年9月17日、赤井をアマチュア時代に倒した男として注目されたプロ5戦5勝の野村勝英に1RKO勝ち。野村はこの試合で頬骨陥没骨折を負い引退を余儀なくされた。 1985年2月5日、大阪府立体育会館で野村を破ったこともありウェルター級に階級を上げ、赤井の世界前哨戦の対戦相手として出場し、左ストレートで7回KO勝ちを収めた。この試合で赤井は脳挫傷を負って生死の境をさまようこととなり、引退した。 1986年8月11日、3月24日に一度破っている無限川坂と日本ミドル級タイトルを争い、10R判定で王者となった。 4回防衛し(無限川坂を再度破っている)、1987年9月6日、OPBF東洋太平洋ミドル級王者ポーリー・パシレロンに挑むも7RTKOに敗れ戴冠ならず。12月14日、大和武士を5RKOで退け5度目の防衛を果たすも、網膜剥離によりタイトルを返上し、現役を引退した。 赤井英和との壮絶な戦いはその後、赤井の俳優としての出世となった映画『どついたるねん』(監督:阪本順治)に再現され、本人が特別出演した。その後同じく阪本監督の『鉄拳』に出演しており、また、その両作品に最後の試合相手となった大和も出演(『鉄拳』では主演)している。 その後埼玉県狭山市の多寿満ボクシングジムでトレーナとして後進の育成にあたっている。
ストロングエイト 戦績 “調教大将”と言われるくらい稽古では走るストロングエイトが本格化したのは、二番手マーク戦法が身についた5歳になってからで、その総決算が1973年末の有馬記念であった。一つの重賞も勝っていない同馬がニットウチドリ(この年の桜花賞・ビクトリアカップ優勝馬)・ハイセイコー(皐月賞を制した稀代のアイドルホース)・タニノチカラ(天皇賞・秋を制したばかりの二冠馬タニノムーティエの半弟)を抑えて優勝。人気を集めたハイセイコーとタニノチカラ2頭が牽制し合っている間隙を突き、逃げる女傑ニットウチドリを2番手から直線で交わし戴冠した。だが、レース自体は「人気馬同士の牽制による金縛り現象」という展開に恵まれた印象は強く、この時点ではまぐれ勝ちの様相が強かった。 ストロングエイトが正当な評価を受けられるようになったのは翌1974年からで、緒戦の目黒記念(春)こそ9着に沈んだものの、次走の鳴尾記念を59キログラムの斤量を背負い逃げ切った。京都競馬場で開催された天皇賞はタケホープの2着。ハイセイコーに八大競走で2度も先着(しかも、1回は優勝)したためか、宝塚記念ではハイセイコーから1番人気の座を奪った。だが、ここはハイセイコーの奮起にあい6着に凡走した。結局大きなタイトルは有馬記念だけであったが、一流馬としての実力は備わっていた。翌年(1975年)1月のアメリカジョッキークラブカップ勝利を花道に引退した。 引退後 引退後は日本中央競馬会(JRA)から種牡馬として買い上げられる話があったが、オーナーの意向で故郷のハイランド牧場で種牡馬生活を開始することとなった。牧場の場所が栃木県ということもあり、交配数は年間15頭前後と少なかったものの、障害競走で活躍したスパークリングなどを出し、そこそこの種牡馬成績を上げた。 1989年、種牡馬生活を引退したストロングエイトは順風満帆な隠居生活を送っていた。だが、丈夫さが売りと思われていたストロングエイトにも知らずのうちに病魔が蝕んでいた。1992年年明け早々、両後脚にむくみが発生した。若い頃なら大したことない症状であったが、現役時代の無理が祟り肝臓を傷めていたストロングエイトにとっては致命傷であった。結局、闘病生活で衰弱しきったストロングエイトは3月1日にこの世を去った。 なお、ハイランド牧場は1995年の青葉賞・セントライト記念に2着したシグナルライトを最後の活躍馬として、2000年限りで競走馬生産を打ち切っている。
ドリュー・ギルピン・ファウスト キャサリン・ドルー・ギルピン・ファウスト(英語: Catherine Drew Gilpin Faust、1947年9月18日 - )は、アメリカ合衆国の歴史学者、ハーバード大学第28代学長、元ラドクリフ研究所所長。ハーバード大学初の女性学長であるとともに、1672年まで学長を務めたチャールズ・チャウンシー以来となる「ハーバード大学卒でもなく、ハーバード大学に在籍したこともない学長」となった。 生い立ち ファウストは、1947年9月18日にアメリカ合衆国ニューヨークでキャサリン・ドルー・ギルピンとして生まれた。後にシェナンドー渓谷内のバージニア州北部クラーク郡(Clarke County)で育った。ファウストの家系は政治・商業に関わる者が多く、彼女の曽祖父であるローレンス・タイソンは、1920年代に上院議員を務めていた。 1964年、マサチューセッツ州コンコードのコンコード・アカデミーを卒業すると、ブリンマー大学で学士を取得し、1975年にはペンシルベニア大学でアメリカ文明に関する研究でPh.D.を取得した。同年、アメリカ文明の助教授としてペンシルベニア大学の助教授となった。その後も研究と教育を重ね教授に昇進した。南北戦争以前および南北戦争の時期におけるアメリカ南部史の専門家として、ファウストは南北戦争以前の南部における思想史について、また南北戦争期間中における女性の役割の変化について、新たな見解を展開していった。さらに、これまで5冊の著書を出している。2001年、ラドクリフ大学の後継組織であったラドクリフ研究所の所長に就任した。 ファウストは、ブリンマー大学やアンドリュー・メロン財団などの理事や、グッゲンハイム財団の教育顧問会議の委員も務めている。ファウストは、最初の夫であったスティーブン・ファウストと別れた後、同じくハーバード大学で教鞭をとっている薬の歴史学者であるチャールズ・E・ローゼンバーグと再婚した。 ハーバード大学学長就任 2006年2月、女性蔑視発言を発端に非難を浴びていたローレンス・サマーズ学長は、同年6月30日をもって退任することを発表した。ハーバード大学は、後任が決まるまでの間、1971年から1991年にかけて学長を務めていたデレク・ボクを暫定学長とした。 2007年2月8日、ハーバード大学の学生新聞「ハーバード・クリムゾン」は、ファウストが次期学長に選ばれたと報じた。その後、大学の運営委員会による正式な承認を経て、3日後の2月11日に公式に指名された。 ファウストは指名後の記者会見で、「私の総長選任は1世代前でも考えられなかった(女性の)機会拡大を象徴している」と述べる一方で、「私はハーバードの女性学長ではなく、ハーバードの学長です」とコメントしている。 クリスティーナ・ローマーの終身在職権への拒否 2008年5月、カリフォルニア大学バークレー校経済学部の教授として名が通っていたクリスティーナ・ローマーへの終身在職権付与を経済学部から推薦されたがこれを拒否し、この説明しがたい決定に対して広くから非難が集まった。なお、後にローマーはバラク・オバマから大統領経済諮問委員会の委員長に指名されている。 私生活 ファウストは1988年に乳癌と診断されている。この診断結果や治療ついて、ファウストはメディアに話すことを拒んでいた。
ライフ・イットセルフ 未来に続く物語 概略 ニューヨークに暮らすウィルとアビーは大学時代に知り合い、そのまま結婚に至り、ついには子供を授かることとなった。本作はそんな2人が様々な人々との出会いを通して、人生の奥深さを学んでいく姿を描き出した作品であり、人生賛歌でもある。 製作 2016年8月、フィルムネイション・エンターテインメントはダン・フォーゲルマンの脚本『Life Itself』の映画化権を獲得したと発表した。フォーゲルマンの脚本は2016年のブラックリスト入りを果たした。11月、オスカー・アイザックが本作に出演するとの報道があった。2017年1月、オリヴィア・ワイルド、オリヴィア・クック、アントニオ・バンデラス、サミュエル・L・ジャクソン、ライア・コスタの出演が決まった。3月、アネット・ベニング、マンディ・パティンキン、アレックス・モナーがキャスト入りした。 本作の主要撮影は2017年3月13日にニューヨークで始まり、5月にはスペインに移って撮影が続いた。 公開・興行収入 アマゾン・スタジオズ、ユニバーサル・ピクチャーズ、パラマウント映画が本作の配給権獲得をめぐって熾烈な争いを繰り広げたが、2017年12月、1000万ドル強のオファーを出したアマゾン・スタジオズが本作の全米配給権を獲得した。2018年9月8日、本作は第43回トロント国際映画祭でプレミア上映された。 本作は『ルイスと不思議の時計』、『華氏119』、『Assassination Nation』と同じ週に封切られ、公開初週末に520万ドル前後を稼ぎ出すと予想されていたが、実際の数字はそれを大幅に下回るものとなった。2018年9月21日、本作は全米2609館で公開され、公開初週末に212万ドルを稼ぎ出し、週末興行収入ランキング初登場11位となった。この数字は2500館以上の規模で公開された作品としてはワースト2位の数字であった(インフレ調整なしの場合)。 評価 本作は批評家から酷評されている。映画批評集積サイトのRotten Tomatoesには79件のレビューがあり、批評家支持率は13%、平均点は10点満点で3.9点となっている。サイト側による批評家の見解の要約は「胸焼けがするメロドラマであり、何かを語ろうとすればするほど、何も語れていない。『ライフ・イットセルフ 未来に続く物語』はダン・フォーゲルマン監督の才能がテレビドラマに最も適していることを示唆している。」となっている。また、Metacriticには34件のレビューがあり、加重平均値は21/100となっている。なお、本作のシネマスコアはB+となっている。 インディワイアーのケイト・アーブランドは本作にD評価を下し、「『ライフ・イットセルフ 未来に続く物語』は観客を心底馬鹿にしている。もしも観客に知性があった場合、彼らは一切感動できないだろう。登場人物の一挙手一投足を逐一丁寧に説明しないとストーリーを理解できない人間向けに製作された映画である。」と評している。 なお、本作の酷評に対して、フォーゲルマン監督は「映画批評家の世界は白人男性が圧倒的に多い社会である。彼らが情感豊かなドラマを好まないことが『批評家から総スカン』という事態を生み出した」という主旨の反論をしているが、女性や非白人男性の批評家の中にも本作を酷評している者が相当数いる。
ジェール県 歴史 フランス革命中の1790年3月4日、かつてのガスコーニュ州を分割して新設された県である。1808年、県南東部にあったラヴィ小郡は分離されタルヌ=エ=ガロンヌ県へ併合された。 地理 オート=ピレネー県、オート=ガロンヌ県、タルヌ=エ=ガロンヌ県、ロット=エ=ガロンヌ県、ランド県、ピレネーザトランティック県と接している。 ジェルス県は丘陵の風景で知られている。めまぐるしく変化する丘陵は、谷が散在し、多くの場合農業利用される人工湖が隠れている。 気候 県南西部の年間降水量は900mmを越え、オーシュ、コンドンのある県北東部の年間降水量は700mmを下回る。夏は暑く降雨はまれで、多くの場合気温が35℃以上である。冬は変化が大きく、マイナスの気温になったり夜に霜が降りることが多い。しかし気候は比較的穏やかである。 経済 県経済は農業と料理を目的とした観光が主体である。県はマイス、コムギ、ナタネ、ガチョウの飼料としてのヒマワリの生産地である。農産品は地元の農場や工場で、フォワグラ、コンフィ、ファルシといった高級食材となる。アルマニャックやワインも生産されている。 司法 県内に少なくとも刑務所を持っているほとんど全ての県とは異なり、ジェルス県には刑務所がない。オーシュにあった刑務所は、1966年に閉鎖され10年後に取り壊された。ジェルス県の受刑者は控訴審裁判所のあるアジャンに投獄される。
信濃飯田藩 飯田藩(いいだはん、信濃飯田藩)は、信濃国伊那郡南部(現在の長野県飯田市追手町)に存在した藩。藩庁は飯田城に置かれた。 概要 飯田は戦国時代、武田家の家臣・秋山虎繁、徳川家の家臣・菅沼定利、毛利秀頼(斯波氏の一族)が治めていた。文禄2年(1593年)に秀頼が死去すると、その娘婿であった京極高知が跡を継いだ。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで高知は東軍に与して本戦で戦功を挙げたことにより、丹後宮津藩へ加増移封された。代わって慶長6年(1601年)、下総古河藩から小笠原秀政が5万石で入るが、慶長18年(1613年)に信濃松本藩へ移封され、飯田藩は廃藩となり、幕府領とされた。 元和3年(1617年)、伊予大洲藩より脇坂安元(脇坂安治の子)が5万5000石で入る。安元の跡は脇坂安政が継いだが、叔父の脇坂安総に2000石分知し、寛文12年(1672年)に播磨龍野藩へ移封され、代わって堀親昌が下野烏山藩から2万石で入部した。しかし堀氏の藩政は財政窮乏により早くから不安定であり、藩財政は御用達から借り上げることによって賄われるという「御定借」体制であった。このため、宝暦12年(1762年)には藩政改革反対一揆、文化6年(1809年)にも同様の騒動が起きている。 第10代藩主・堀親寚は水野忠邦の天保の改革で幕閣の一人となり、奏者番・寺社奉行・若年寄・老中などを歴任して7000石を加増されたが、水野失脚に伴い7000石は収公の上、本高3000石も減封され、その分は陸奥白河藩領に加えられた。 また幕末期には、常陸水戸藩の武田耕雲斎の天狗党に対して何の対処もとらず、清内路関所の通行阻止も懈怠したため、幕府から2000石を減封され、その分は旗本・千村平右衛門の預地に加えられた。第11代藩主・親義は、京都見廻役をつとめている。戊辰戦争では新政府に恭順した。 明治4年7月、廃藩置県により廃藩となって飯田県、同年11月には筑摩県、明治9年(1876年)8月には長野県に編入された。 幕府領 (1613年 - 1617年)
形式ニューロン 形式ニューロン(けいしきニューロン、英: formal neuron)や Threshold Logic Unit とは、1943年に神経生理学者・外科医であるウォーレン・マカロックと論理学者・数学者であるウォルター・ピッツが発表した科学史上初の人工ニューロン(英: artificial neuron)。伝達関数としてはヘヴィサイドの階段関数を使い、入出力の値は 0 または 1 の二値だけをとる。 パーセプトロン 1958年にフランク・ローゼンブラットが形式ニューロンを参考にパーセプトロンを発表した。 擬似コード 以下の擬似コードはマカロックとピッツの形式ニューロンの実装例である。入力は真理値(真または偽)、出力も真理値である。オブジェクト指向的モデルとなっている。トレーニング方法は定義されていない。関数型のモデルであれば、TLUクラスの代わりにTLUという関数が、入力ベクトルと重み付けベクトルとしきい値を引数とし、真理値を出力とするものになるだろう。 class TLU defined as: data member threshold : number data member weights : list of numbers of size X function member fire( inputs : list of booleans of size X ) : boolean defined as: variable T : number T ← 0 for each i in 1 to X : if inputs(i) is true : T ← T + weights(i) end if end for each if T > threshold : return true else: return false end if end function end class
榛村純一 概要 早稲田大学卒業後、家業である林業と製材業の経営に携わり、掛川市森林組合の組合長や静岡県森林組合連合会の会長といった林業団体の役職を歴任した。静岡県監査委員などを経て、1977年に旧掛川市長選挙に立候補し、当選を果たした。以来、連続7期にわたって旧掛川市長を務めた。在任中は生涯学習の推進を提唱し、全国生涯学習市町村協議会や全国地域づくり推進協議会にて会長を務めた。また、東海道新幹線掛川駅や東名高速道路掛川インターチェンジの設置や、掛川城の復元などを推進した。駅設置や天守閣復元には多額の予算が必要になると想定されたが、市民や企業に広く寄附を呼びかけ、莫大な募金を集めて成功させた手法が注目を集めた。旧掛川市と小笠郡大東町、大須賀町との新設合併を推進し、新掛川市の誕生に道筋をつけた。市長退任後も、大日本報徳社の社長や、日本茶業中央会の会長などを務めている。なお、早稲田大学、帝京平成大学、静岡大学、東京学芸大学においては、それぞれ客員教授として教鞭を執った。 生い立ち 静岡県小笠郡桜木村(のちの静岡県掛川市)出身。 桜木村立桜木北小学校、桜木村立桜木中学校、静岡県立掛川西高等学校を経て、早稲田大学文学部卒業。 林業 大学卒業後は家業の林業に従事し、1963年には掛川市森林組合の第2代組合長に就任した。その後、1968年〜1977年にかけて静岡県森林組合連合会の専務も兼任した。 政界 生涯学習都市とスローライフを掲げ、1977年(昭和52年)から2005年(平成17年)まで7期28年にわたって掛川市長を務めた。合併による新掛川市長選に8選を目指し出馬したが、多選批判等を掲げる元衆議院議員の戸塚進也に敗れた。 引退後 市長退任後も掛川市森林組合会長、大日本報徳社社長を務めている。2006年秋、旭日中綬章を受章。私心なく掛川市を発展させた市長として、旧掛川市には今でも慕う市民は多い。 2018年3月7日、大動脈解離のため死去。83歳没。 政策 市長就任前の森林組合長時代の地域づくりの経験から、中央集権の向都離村を前提とした学校教育へのアンチテーゼとして、随所主権の選択定住とそのための生涯学習の必要性を説き、昭和54年(1979年)、全国で初めてとなる「掛川市生涯学習都市宣言」を行った。 地域学のすすめ(自らが住むまちの自然、地理、歴史、文化等を学び、そこで生まれ育ち生きてきた自らを肯定的に捉えることで、将来と次世代につなげていこうとする選択定住運動の一方策)を説いた。「ないものねだり」でなく「あるもの活かし」(地域資源の活用)によって、地域社会に生きる人が、自らの人生と地域の活性化を一体として考えようとする考え方である。 その第一弾として、荒廃著しかった掛川城公園を整備に着手。現存していた掛川城二の丸御殿を「全国でも(京都城、川越城など)数か所しかない貴重な歴史資源」と市民に説いて修復し、国の重要文化財の指定を受けた。これが「地域の歴史を大切に」という掛川市のまちづくりの嚆矢となって現在に至る。その後、東海道53次の日本橋から数えて26番目の宿として、また東京・名古屋・京都・大阪の真ん中にある地理を活かそうと、東海道新幹線掛川駅の設置や東名高速道路掛川インターチェンジの設置、掛川城の復元などの大規模プロジェクトに奔走。「かけがえのない地域資源を活かすために、市民一人ひとりの知恵と汗と力と浄財を」という寄進運動で、新幹線掛川駅の設置では29億5千万円もの市民企業募金を集め成功させた。 こうした一連の大プロジェクトにより、県下有数の工業都市に育て、かつては財政再建団体に陥ったこともある市の財政基盤を強化し、市民に対しては、まちづくりの成功体験を重ねることによって、「掛川は静岡県の谷間」「掛川はクズの郷(全国唯一の葛布の産地である掛川(葛の郷)を自ら貶めた言葉)」と卑下していた市民に自信を持たせ、「おらがまちはいいまち」「まちづくりは市民自らの手で」という気運を醸成するなど、その行政手腕を評価する声は高い。 1994年、細川内閣のもとで施行されたパイロット自治体制度では、「法改正を伴わない範囲での地方分権」という制約の中、"農地法にもとづく許可権限の拡大"、"国民年金事務の合理化"、"パスポートの市町村窓口での申請受理と手交"等を訴えた。これらのほとんどは、国によって却下されたが、例えばパスポートについては、2006年以降は全国の市町村で実施することができるようになるなど、法改正を含めた改革につながったものもあった。その後社団法人行革国民会議では構造改革特区推進会議の代表に就任。地方分権の旗手と自らを鼓舞し、地方分権を訴える運動にも力を注いだ。 市長7期目には、旧掛川市、小笠郡大東町、大須賀町の合併を推進し、2005年に新掛川市を誕生させた。 これらの業績を評価され、新掛川市からも名誉市民の称号を贈られている。 人物 家業は林業。林業振興への功労により藍綬褒章を受章している。 自らを「稀代のメモ魔」と称するほど、好奇心旺盛にさまざまな事象を学び書き留める。若い頃は文学者を志したこともあり、市長時代にも多数の書を著した。旺盛な知識欲と熟考による本質的な議論を好む。また事業の実施などでは「現場百回」として何度でも自ら足を運び、細部にまで注意を払いこだわるのを常とする。ただ、会議の席上などでも沈思熟考することが多く、その姿が「居眠りをしているのでは」と誤解され、批判されることもあった。 家族 祖父の榛村長五郎は桜木村村長を務めた。父である榛村専一は、愛知大学教授を経て旧掛川市の市長を務めた。伯父の池田宏は東京市助役、京都府知事、神奈川県知事を歴任した。もう一人の伯父の向坂逸郎は九州帝国大学教授を務めた経済学者である。長男の榛村航一は、掛川市議会議員(現職)である。 著書 榛村の著書については「榛村純一 ホームページ」を参照されたい。
ヘゼキエル・セペング 経歴 セペングが17歳で陸上を始めてまもなく、南アフリカはアパルトヘイト政策を撤廃し、長らく国際舞台から締め出されていたスポーツの世界に復帰できることとなった。セペングは、1994年のコモンウェルスゲームズに出場し、800mで銀メダルを獲得。これが、南アフリカの黒人選手が国際競技大会で獲得した初めてのメダルとなった。さらに2年後の1996年、アトランタオリンピックに出場し、1分42秒74で銀メダルを獲得。南アフリカの黒人選手がオリンピックで獲得した初めてのメダルもセペングが獲得した。 1999年には、セビリアで開催された世界選手権でも銀メダルを獲得。2度目のオリンピックとなった2000年シドニーオリンピックでは南アフリカ選手団の旗手の役を務めた。しかし、競技では、3位のアルジェリアのジャビル・サイド=ゲルニに100分の13秒差及ばず4位とメダルに惜しくも手が届かなかった。 その後もセペングは、国際大会において常に決勝に残る活躍を見せていたが、メダルを獲得するまでの活躍はならず、2004年アテネオリンピックでは6位に終わっている。なお、2005年には禁止薬物のナンドロロンの使用が発覚し、2年間の出場停止処分を受けている。
但馬牛まつり 但馬牛まつり (たじまうしまつり)は兵庫県立但馬牧場公園(兵庫県美方郡新温泉町)で毎年9月の第4日曜日に開催される但馬牛の祭典。 概要 高級和牛として知られる但馬地方の特産品である「但馬牛」を広くPRするとともに、郷土の伝統文化を後世に伝えるとともに地域の活性化を図る事を目的としている。 ふるさと芸能発表として新温泉町の県無形民俗文化財である「丹土はねそ踊り」、「海上傘踊り」や、「春来竹太鼓」などの伝統文化の披露を行う。パレード会場では、牛のファッションショーや、但馬牛の造形物パレード、かつて但馬で行われていた牛車を使った花嫁行列を再現するなど、但馬牛にちなんだパレードを中心に実施される。 地元団体が行う販売コーナーでは、ミニステーキや牛串焼きなどの但馬牛を使用した様々な料理が振舞われる。表彰式と餅まき大会で祭りを締めくくる。
成ヶ島 概要 成ヶ島は北端の新川口と南端の今川口の水路で淡路島から約100m離れている。由良港から渡し船があり約2分で島に連絡している。島の西側の由良湾内ではハマチの養殖が行われ、春には潮干狩りでアサリなどが採取できる。 北端の成山の東の紀淡海峡側には成ヶ島海水浴場があり、南端の高碕には髙埼灯台がある。また明治29年(1896年)に開設された由良要塞の砲台跡が成山にわずかに残っている。
飛んで火に入る春の嫁 『飛んで火にいる春の嫁』(とんでひにいるはるのよめ)は、1998年4月15日から同年6月24日まで、テレビ東京系列で放送されたテレビドラマ。放送時間は毎週水曜20:00 - 20:54 (JST) 。全11話。 あらすじ 准看護婦の妙子は、東京・深川で120年以上続く老舗寿司店を営む幹夫と、幹夫の母が入院していた病院で知り合い、結婚する。 結婚披露宴は幹夫の店の2階で行うことになった。挙式当日、店を放り出し放浪の旅に出ていたという幹夫の父・卓三が7年ぶりに帰ってきた。そして、披露宴の席で幹夫が突然脳梗塞で倒れてしまう。
粉ミルク 哺乳期 ヒトの哺乳期は出生後18か月頃までであり、粉ミルクは離乳期までの乳児の栄養確保のために利用される。このうち生後5~6か月頃くらいからは離乳食との併用となる。「母子保健マニュアル」(改訂7版)では、乳児の1日の哺乳量を、0~2か月で780ml/日、3~5か月で780ml/日、6~8か月で600ml/日、9~11か月で450ml/日としている。 なお、哺乳期に飲ませる調製粉乳ではなく、離乳期後半に牛乳の代わりに用いる鉄分やビタミンなどの栄養素も加味してつくられた調製粉乳をフォローアップ用ミルクという(フォローアップミルク)。 マクガバンレポートの研究結果によると、1型糖尿病の遺伝子のある子もない子も、非常に早く離乳させ、牛乳(乳児用粉ミルク)を与えた子供は、1型糖尿病になるリスクが平均50 - 60%高いことがわかっている。(母乳育児に比べ、1.5 - 1.6倍のリスクの増加) 原料 乳児用調製粉乳の原料としては、牛乳から乳脂肪を取り除いた脱脂粉乳、乳より分離された乳糖、乳精パウダー、乳脂肪よりも母乳に脂肪酸組成を近づけた調整油脂などを主原料に、ビタミン、カルシウム、マグネシウム、カリウム、銅、亜鉛、鉄などのミネラル、母乳オリゴ糖、タウリン、シアル酸、β-カロテン、γ-リノレン酸、ドコサヘキサエン酸、ヌクレオチドまたはRNA等の核酸関連物質、ポリアミンなど、赤ちゃんの発育や免疫調整に必要な各種栄養素が配合されている。また、欧米など諸外国ではアラキドン酸が添加されている。 加工 乳はタンパク質、ミネラルなどの栄養価に富む食品であるが、生乳の状態では腐敗が早く、また体積が大きいため移送、保管は非常に困難である。粉ミルクは水分活性が低く細菌が繁殖できない状態であるため保存性は生乳に比べて格段に良い。また、生乳と比較して体積も減少するため、保管、移送にも利便性が高い。 主に乳牛から取った生乳を、ろ過、脱脂、加熱殺菌、成分調整、濃縮、噴霧乾燥、包装、検査などの工程を経て作る。 工業的に粉乳を製造する場合には噴霧乾燥機を用いるのが一般的である。原料乳を加熱殺菌した後、濃縮して50~70℃まで加温し、それを乾燥室内に微粒化して噴霧することで加熱空気(180~200℃)により乾燥する。 なお、噴霧乾燥工程で出来上がった粉乳は粒子径が小さく、水和性が低いため溶けにくい。この欠点を補い消費者の利便性を高めるため、噴霧乾燥の後、粉乳に僅かな水分を与え粉末同士を顆粒状に結合させることで溶け易くするための造粒(アグロメレーション)という工程が付加される場合も多い。 使用法 育児用粉ミルクは、母親の母乳の出が悪い場合、母親が母子感染のおそれがある疾病に感染している場合、就業、外出時、保育所に預けている場合など、母乳を与えることができない場合などに用いられる。 通常、湯冷ましで溶かして、哺乳瓶を使って赤ちゃんに哺乳させる。 ミルクの調製には乳児の消化機能や調製粉乳の特性などを考慮した軟水が望ましい。乳幼児は腎臓機能が未発達であるため、未熟であるため、市販のミネラルウォーターの一部製品のように硬度の高い水でミルクを調製してしまうとミネラルの過剰摂取となり、腎臓に負担となり、消化不良をひきおこすおそれがある。ミネラルウォーター#調乳に対する注意を参照。 ミルクを調製するためにはお湯を用いる。2007年以前は摂氏40 - 60度程度の温度の湯で溶かすのが一般的であり、電気ポット等も調乳用として60度の設定を備えている物が多かった。しかし乾燥した粉ミルクの中でも細菌は生存できるので(繁殖は不可)、殺菌のため摂氏70度以上の湯で溶かすことを世界保健機関では推奨している。厚生労働省の2005年の通知では沸騰後80℃前後で調製してから火傷に注意して適温まで冷ます方法が推奨されている。 乳児にミルクを与えるときは哺乳瓶を利用するのが一般的である。 発明までの流れ 歴史上の最初の記録は、13世紀クビライ・カーン時代のモンゴル軍について書かれたマルコ・ポーロの著作の中にあるものとされ、それによるとモンゴル騎兵(タタール)は日干しした上澄みミルクを軍用食として携行しており、摂食時は水を加えて糊のようだったと描写されている。乳製品を食生活の基本とする遊牧民族の間では古くから馬乳ないし山羊乳の乾燥粉末が用いられていたようである。このタタールと歴史的に関係が深かったロシアで現在に通じる粉ミルクは誕生する事になった。 近代的な粉ミルクの製造過程は1802年にロシア人医師のO.クリフスキーによって発明され、最初の商業化生産は1832年にロシア人化学者のM.ドゥリコフによって確立された。1855年にアメリカのT.S.グリムワードが粉ミルク製造の特許を取得したが、それを遡る1837年以降にはイギリスのW.ニュートンが真空乾燥技術の特許を保有していた。粉ミルクは19世紀に発明された。粉ミルクが出来るまで、母乳の飲めない状況に置かれた乳児が生き延びる事は困難だった。 粉ミルク産業への批判 発明以来、粉ミルクに対する需要は拡大し、これに応える形で粉ミルク産業も成長していった。粉ミルクは母乳が出る母親にまで売り込まれることになっていく。 1960年代から1970年代にかけて、粉ミルク産業の多国籍企業は発展途上国への販路拡大を図ったが、その中に公正ではない広告・販売手法が含まれると指摘された。また、発展途上国では水や食品保存の衛生状態に問題があることが加わって、粉ミルクが乳児の死亡率を大きく高めた。1975年ころからは世界保健機関(WHO)などが粉ミルクへの過度の依存を警告を出すようになった。 1981年、WHOとユニセフによって「母乳代用品の販売流通に関する国際規準」(通称「WHOコード」)が採択された。「母乳代替品を病院で販売することの禁止」「粉ミルクを理想化したような表示の禁止」「医療機関や保健施設に対する粉ミルクの無償提供の停止」「会社派遣の栄養士・看護師を使って販売促進活動の禁止」などが挙げられている。 多国籍企業の販売戦略に関しては、とくに国際シェア最大のネスレ社が批判を集め、1977年以来不買運動が展開されている。1984年、ネスレがWHOコードを受け入れ、病院に粉ミルクを売り込むのをやめることで不買運動は終息したが。1988年、ネスレが病院で粉ミルクを無料配布していることが分かり不買運動が再開された(ネスレ・ボイコット参照) 。
神奈川大学体育会硬式野球部 神奈川大学体育会硬式野球部(かながわだいがくたいいくかいこうしきやきゅうぶ、kanagawa University Baseball Club)は、神奈川大学野球連盟に所属する大学野球チーム。神奈川大学の学生によって構成されている。OB組織もある。モットーは、「文」と「武」は決して切り離せるものではなく、また、両立させるというものでもないとして「文武一道」。 本拠地 神奈川県横浜市緑区台村町800 神奈川大学中山グラウンド ユニフォーム チームカラーは紺色または黒色を主体としているが、胸に「JINDAI」と記され、文字の回りにはスクールカラーでもあるプラウドブルーに近い青色のアクセントがある。左肩にはKuのロゴ。
泥抜き 注意 対象および実施期間により異なるが、比較的濁った川もしくは池などで育った鮒や鯉、鯰などを泥抜きする場合は水道水および真水を用いてはいけない。これは、生育環境と水道水および真水では水中の有機物および無機塩類の濃度が異なるため、対象に相当なダメージを与えるからである。 水道水および真水で泥抜きした場合は、動きが鈍くなった後、鱗の粘膜が白く剥がれ落ちたり逆さま(腹を水面に向ける)の状態になった上で次第に動かなくなる。この状態を放置した場合確実に死亡する。死亡した場合、泥抜きは失敗したものとなる。
土方雄次 生涯 元和7年(1621年)に徳川秀忠に御目見し、寛永5年(1628年)の父の死去により跡を継いだ。新田開発や酒井用水・五箇村灌漑用水の造営、寺社造営や修築などを成した。延宝7年(1679年)11月27日、病気を理由に次男の雄隆に家督を譲って隠居し、翌年1月28日に死去した。享年70。
水谷勇夫 来歴・人物 膠絵(にかわえ)と称する和紙と日本画の顔料を使った現代絵画で1960年頃から国内外の注目を浴びる。本人は「日本画」という言葉を嫌って使わなかった。自らの戦争体験をもとに人間存在の不条理、矛盾を暴きだすような気迫のある作品を生み出した。1963年には角川書店が刊行した『世界美術全集 戦後日本美術』に掲載された。 舞台美術も手がけ、舞踏の土方巽や大野一雄、麿赤兒などの舞台美術を担当する。またコンセプチュアル・アート(概念芸術)の松澤宥とも親交が深く、行動芸術「玄界遍路」などコンセプチュアル(概念的)な仕事も行った。社会の底辺で迫害される側の人間に目を向け、公害や差別など社会的なテーマを扱った作品も多い。表現活動は絵画にとどまらず、陶器を使ったインスタレーション(本人は窯造形と呼んだ)や書作品も手がけた。書ではNHK大河ドラマ「琉球の風」の題字を担当した。また、杉浦明平の小説、『小説渡辺崋山』の挿絵も担当する。1974年には『神殺し・縄文』を刊行した。 2005年6月5日、腹部大動脈りゅう破裂のため愛知県半田市の病院で死去。83歳没。
田川伸一郎 田川 伸一郎(たがわ しんいちろう)は、日本の教育者。千葉大学教育学部卒業。
小出もと貴 小出 もと貴(こいで もとき)は、日本の漫画家。
なぎさ公園小学校 概要 確かな学力を養うには施設環境も大きな役割を担っていると考え、広大な敷地を活用して校舎をゆったりと配置するなど、施設面にもこだわっている。
自由詩 自由詩(じゆうし、英語: free verse; フランス語: vers libre)とは、音の数や文字数に一定のパターンがなく、また、音韻を踏むなどもしていない、すなわち、押韻や韻律に捉われない、自由な形式で書かれた詩である。定型詩の対義語。 自由詩の概念は、もともとフランスの古典的な詩作法であるアレクサンドラン(十二音綴)からの脱却を企図して起こった「自由韻文詩」に由来する。 欧米における自由詩 定型詩の規則に従わない形式の作品は17世紀のフランスから存在し、ジャン・ド・ラ・フォンテーヌの『寓話』(fr)などに例が見られる。ただしこの時代の作品は音綴数の異なる伝統的な詩句を、スタンザを排して組み合わせたものであり、脚韻はまだ残っていた。 19世紀後半に入るとフランスで象徴主義が高まり、象徴派の詩人たちは詩句に新たな音楽性を生み出そうとした。すなわち、詩を脚韻など既成の伝統的な韻律法に従わせるのではなく、従来とは別の要素、例えば英語詩などで見られる類音、頭韻法、抑揚などに従う詩作を試みていた。彼らにとって、詩を外在する韻律に従わせるのではなく、内的律動で表現することができる自由詩の発現は革命的な出来事であった。1986年にアルチュール・ランボーの詩集『イリュミナシオン』に「海景」と「運動」という自由詩が掲載され、これがフランスにおける近代自由詩の誕生と見なされる。この象徴主義によるフランス近代自由詩の潮流の中でギュスターヴ・カーン(fr)、ジュール・ラフォルグ、フランシス・ヴィエレ=グリファン(fr)らが自由詩を発表している。 他方、イギリスには古くからブランクヴァース(blank verse, 無韻詩)という、規則的な脚韻を持たない弱強五歩格形式の詩が存在していた。この発展形として、1867年にはマシュー・アーノルドの詩集『ドーバー海岸』(en)のような自由詩が生まれている。 アメリカ合衆国では19世紀に入り、近代自由詩の創始者といえるウォルト・ホイットマンが1855年に詩集『草の葉』(en)を刊行したことにより、フランスに先駆けて自由詩が本格的な成立を始めた。『草の葉』では、従来の英語詩の韻律を大胆に排し、行分けの散文が試みられた。 20世紀に入ると、ホイットマンと象徴派の影響を受けたイマジズム(en)による自由詩が盛んになった。この中心となったのはエズラ・パウンドである。それまでの英語自由詩よりも更に大胆な変革を遂げ、メトロノームのような画一的な拍子を排し、より音楽的なフレージングを重視した詩作を実施している。アメリカ詩壇ではこのほかエイミー・ローウェル、ジョン・グールド・フレッチャー(en)らがイマズジムの旗手とされ、ほかにカール・サンドバーグ、エドガー・リー・マスターズ(en)、ヒルダ・ドゥリトル、さらにイマジズムの影響を受けたウィリアム・カルロス・ウィリアムズ、マリアン・ムーア(en)、E・E・カミングスらが自由詩を書いている。これらイマジズムの影響を受けた詩人たちは、自然なリズムや口語的表現をもつ自由詩を主張している。 イマジズムはイギリスやフランスの詩壇にも影響を与え、イギリスではT・S・エリオットやイーディス・シットウェル(en)、リチャード・オールディトン(en)ら、フランスではダダイスムやシュルレアリスムの詩人たちに受け継がれ、それぞれの発展を遂げた。 日本における自由詩 日本の詩作においては、欧米の定型詩に比べてそもそも伝統的な韻律や複雑な詩形が存在していなかったため、「自由詩」の持つ意味は欧米のそれとは異なる。 日本の場合は従来の「七五調・五七調」といった旧来の音律数から脱却する動きが自由詩の始まりとされる。明治時代に始まった新体詩は、それまでの和歌(五七五七七)や俳句(五七五)、あるいは漢詩といった定型から離れようとする動きであったが、新体詩でも七・五といった従来の音律数は残ったままで、かつ従来同様に文語が用いられていた。 こうした中、1907年(明治40年)に発表された川路柳虹の口語詩「塵溜」は、新体詩の定型からも脱却し、かつ日常語の感覚を取り入れた作品であり、ここから日本における自由詩(口語自由詩)が始まったとされる。川路の試みは当初は賛否両論を引き起こしたが、やがて支持が拡大し、数年のうちに追随者が続出して日本の詩人の大多数が口語自由詩の形式を取るようになった。相馬御風、河井醉茗らが口語自由詩の推進者として挙げられる。 大正時代に入り、萩原朔太郎の出現により日本の自由詩は完成したとされる。萩原は『青猫』附録の論文「自由詩のリズムに就て」で、 我我は「拍節本位」「拍子本位」の音樂を捨てて、新しく「感情本位」「旋律本位」の音樂を創造すべく要求したのである。 — 『青猫』所収「自由詩のリズムに就て」、萩原朔太郎、青空文庫より と述べ、「旋律的な美」が「自由詩の境地」であるとしている。 ただし、旧来の音律を捨てて規則や拘束を排したことで、単なる「行分けした散文」のような文章が詩と見なされることもあった。昭和初期の『詩と詩論』運動はこの状況に対抗して発生したものである。『詩と詩論』運動を経て日本の自由詩は「現代詩」と呼ばれるようになった(これに対し、現代詩以前の作品を近代詩とする)。 現在の日本において俳句や短歌と区別して「詩」と呼ぶ場合、この現代詩を指して「詩」と呼ぶのが一般的である。自由詩という場合も現代口語を用いた口語自由詩を指すことが多く、現代詩と同義となっている。 なお、散文詩は自由詩とは異なる概念である。
鶴ヶ島日高バイパス 沿革 2009年度から事業に着手しており、道路の詳細を設計中である。 第Ⅰ期事業として高萩北杉並木交差点から日高市都市計画道路3・4・31原宿旭ヶ丘線および3・4・47日高川越鶴ヶ島線に交差する部分までの区間約480mが進められており、2013年5月24日に開催された第41回日高市都市計画審議会では、雨水処理の問題により進捗が遅れている事や、用地取得率が17%で用地確保次第工事を進めていく考えである事が報告されている。また第Ⅰ期区間以北についても併せて用地取得を推進するとしている。
サンダカン死の行進 概要 1945年、太平洋戦争(大東亜戦争)中に大日本帝国が設置したマレーシア・サンダカン捕虜収容所における日本軍によるオーストラリア・イギリス軍兵士捕虜に対する捕虜虐待疑惑および「死の行進」と言われる行為である。これに伴い1000人以上の捕虜が、ラバウル豪軍総司令部軍法会議の豪側検事によれば、7人を除き全員死亡したとされる。日本兵もまたこの移動により数百名が死亡している上に、生き残ったオーストラリア軍の元捕虜は、「行軍はきわめて辛かったが、捕虜への扱いは日本軍将兵と同一であった」と証言している。 ラナウへの捕虜移送 連合軍のボルネオ島への空襲が相次ぐようになり、1945年1月に日本軍は空港の修復を断念。アメリカ軍がボルネオ島西海岸に上陸する判断した日本軍は、日本軍部隊を600km離れたアピに移動させ、それと共に捕虜をボルネオ島西、260km離れたラナウに移動させる事を決定したが、特にサンダカンからラナウまでの道のりは、連合軍の空爆を避けるために密林や湿地などの険しい道のりであった。 第一団 捕虜500人を12日間で落伍者無く移動するようにとの命令が、山本正一大尉に下された。山本は医薬品供給の増加と3週間の日程を要求するが、これは司令部によって却下。結局比較的頑健な470人が第一団として出発することとなり、出発前に山本は最後尾の第九班の責任者・阿部一雄中尉に落伍者の捕虜を処分する許可を与える。 1945年1月29日から2月6日にかけて470人が9班に分けられて、間を置いて出発。捕虜たちは熱病と栄養失調で弱った体に約30kgの日本兵の荷物を背負わされ、豪雨でぬかるむ密林を徒歩で移動する事となる。靴を履いていた者は、1割程度だった。さらに約束されていた食料の支給もままならず、各班の責任者は食料の確保と支給に留意するものの、状況は悪化し、後半の班はカタツムリやカエルなどを口にして飢えをしのいだという。 劣悪な環境下での行軍は、捕虜だけでなく、多数の日本兵も犠牲者と死者を出した。そして動けないと判断された捕虜は、「落伍者を出さない為に」阿部中尉の命令を受けた兵士によって射殺された。しかし目的地にたどり着いた捕虜たちに安堵する暇はなかった。 ラナウに到着した第一班~五班の捕虜約200名は、食料と医薬品不足の中労働に狩り出され、元気そうに見える者は45km離れたパギナタンまで20kgの米袋を担がされて歩かされ、途中で倒れた者は殺害された。第六班~九班の捕虜約200名は途中で40名ほどが落伍し、途中のパギナタンで行軍は中止。第一班~五班の捕虜が運んでくる食料に頼りながらも、約一ヶ月で生存者はさらに100人ほど減った。 生存する捕虜全員がラナウで合流した4月時点での生存者は約150人となっていたが、その後第二団が到着する6月下旬に生存していた捕虜は、6人だった。 第二団 サンダカン捕虜収容所では連合軍の空爆による被害と、食糧配給の削減により、1945年3月には毎日10人以上の死者が出ていたという。さらに4月以降は米と水の配給が停止という状況で6月末には捕虜の数は830人弱まで減る。 5月17日に星島大尉に代わり高桑卓男大尉が所長に就任。収容所に空爆に加え艦砲射撃をも受けた高桑は、5月20日に受けていた捕虜移送命令を急遽決行。5月29日夜、歩ける者536名・11班を出発させると同時に、ごく一部の建物を残して収容所は焼き払われた。衰弱していた捕虜たちは監視員らにより激しい暴行を受け、かつジャングルに追い立てられて殺害された。行軍から落伍した捕虜を渡辺源三中尉率いる監視員たちが暴行し追い立て、それでも動けない捕虜は後から来る辻曹長率いる班に引き渡され、処刑された。処刑はすべて台湾人の監視員が実行させられた。捕虜への食料は1日米85gしか支給されず、6月25日にラナウに到着した捕虜は183人となっていた。 この時、キャンベル、ブレイスウェイトの二人が別々に脱走、米軍に引き渡されて生還している。 第三団 収容所には288人の捕虜が残されていた。彼らの殆どは衰弱して動けない病人であり、後は仲間の面倒を見る為に自発的に残った捕虜たちだった。既に建物は焼き払われ、彼らは木や葉っぱで雨をしのぎ、医薬品も食料も支給が停止されていた為、野草の根茎や腐った残飯を食べて生き延びていた。 1945年6月9日、森竹中尉は岩下少尉ら37人の日本軍兵士に75名の捕虜を選抜し、出発させた。この第三団は1人の日本兵のみが生き残り、他は全滅した。 ラナウでの捕虜殺害疑惑 ラナウでは6月25日には約190名の捕虜が生存していたが、6月28日にはもう19人が死亡していた。生き残った捕虜たちは、1日米70~75gというわずかな食料で、過酷な労働(衰弱した体で、20kgはある食料の運搬、水汲み、設備建築作業など)に従事させられていたという。 かねて台湾人監視員より、高桑大尉が捕虜全員を殺害すると聞いていたキース・ボッテリル以下4名が、7月7日夜に脱走。3名がオーストラリア軍に救出される。 7月18日には捕虜収容所という名の草ぶき屋根の小屋が完成。生き残っていた捕虜72人のうち、赤痢患者である34人が床下に押し込められる。彼らにはもはや死体を埋葬する体力もろくに残っておらず、7月20日には強制労働が停止される。 7月26日、スティップウィッチ以下2名が脱走し、スティップウィッチのみ助かる。 8月1日朝、高桑大尉は生き残っていた33名の捕虜を三つのグループに分けて処分する事を決定。動ける者は自らの足で墓地まで向かう事を強要され、動けない者は担架で運ばれ、全員が銃殺され、処分は終了したという。 分析・研究 捕虜虐待や処刑が実際にあったのか否かは不明であるとする見解も存在する。ジュネーブ条約からしても弱っている捕虜に過酷な移動をさせたことに関しては日本軍に責任はあるが、第25連隊第2大隊の関係者の刊行物には、護送される捕虜と日本兵の間に食料等の不公平や虐待等はなかったとの証言がなされている。またラバウル豪軍総司令部軍法会議の裁判において生き残ったオーストラリア軍の元捕虜は、「行軍はきわめて辛かったが、捕虜への扱いは日本軍将兵と同一であった」と証言している。 反響 現在、サンダカンには1995年から戦争記念公園(Sandakan Memorial Park)があり、追悼記念碑、追悼パビリオンも建てられている。。 オーストラリアで田中利幸による『知られざる戦争犯罪 日本軍はオーストラリア人に何をしたか』(大月書店 1993年)の英訳が1996年にアメリカで刊行されてから、このサンダカン収容所事件や、インドネシアのバンカ島でのオーストラリア軍従軍看護婦虐殺事件、慰安婦強要(未遂)事件、人肉食事件などが米豪で知られるようになった。 女流作家のアグネス・キースが小説『Three Came Home』において、行進の中で死に至る前に捕虜は日本兵に切り裂かれ、墓場に押し込まれていった、などという物語を書き、それがハリウッドで映画化までされたこともあって、これにより欧米社会に「サンダカン死の行進」における日本兵の残虐的なイメージ付けがなされていったとも言われている。
劇団YAKAN 関連 Unit Ludens 劇団東京パレット 猿-createve studio- コヒツジズ こわっぱちゃん家
中島大貴 来歴 筑陽学園高校から福岡大学へ進学。在学中の2015年3月13日に、サガン鳥栖に特別指定選手として登録。同月18日のナビスコ杯・松本山雅FC戦で先発出場し、Jリーグデビューを果たした。 卒業後の2017年シーズンからカマタマーレ讃岐に加入することが発表されている。 2019年よりブラウブリッツ秋田に移籍。
羽根倉橋 羽根倉橋(はねくらばし)は埼玉県さいたま市桜区下大久保と志木市宗岡の間に架かり、荒川第一調節池と荒川を渡る国道463号(浦和所沢バイパス)及び埼玉県道215号宗岡さいたま線の橋である。 概要 河口から37.2 kmの地点に架かる橋長859.63メートル、総幅員22.8メートル、有効幅員20.0メートル(車道7.5メートル、歩道2.5メートル、上下2本)、最大支間長82.2メートルの連続箱桁橋の1等橋(TL-20)である。また、埼玉県の第一次特定緊急輸送道路に指定されている。橋の両端は右岸側は荒川横堤である南畑横堤に、左岸側は同じく大久保第1横堤に接続され、道路がその横堤の天端を通る。右岸側の南畑横堤は途中、富士見市南畑新田(旧入間郡南畑村)の区域に掛かる。国道の橋であるが、橋の管理者はさいたま市である(補助国道)。 4車線のため交通量も多く、東日本旅客鉄道(JR東日本)の南与野駅や埼玉大学と、東武東上線の志木駅、ふじみ野駅や、東日本旅客鉄道の北朝霞駅を結ぶ国際興業バスの路線バスも走っている。最寄りのバス停は左岸側は「下大久保」停留所、右岸側は「宗岡蓮田」停留所である。 また、さいたま市浦和区から所沢市まで続く、日本一長いケヤキ並木はこの橋梁の存在のため、この付近で一旦途切れている。 大気が澄んだ時には、さいたま市から所沢方面へ向かう真正面に富士山を捉えることができる(#風景参照)。橋名は河岸場の呼称である羽根倉に因む。
日柱 日柱(にっちゅう、1865年5月24日 - 1928年1月26日)は、大石寺第58世法主。土屋姓。
アハマド・ファウジ・サーリ ユース以前 現場監督の父とゴム採取労働者の母親の間に生まれた。学童時代にサッカーを始めた。16歳の時にずっと走り続ける脚力と才能で注目された。 ケダFA 2002年にケダFAのユースに加入、スカン・マレーシアに出場した。2004年にトップチームに昇格、彼の不屈のスタミナがフロントからの信頼を得ての事であった。その後2006-07シーズンには重要な場面で得点を決め、またそれ以外の部分でもクラブに貢献し、クラブの上位進出に貢献した。ヴィクトル・アンドラグやコーネリアス・バーナード・ハギンズがクラブから離れると主将を任されるようになった。
歌志内駅 駅構造 単式ホーム1面1線を有していた地上駅。ホームに接して駅舎があった。数本の側線が敷設されており、空知炭礦株式会社の空知炭鉱へ続く専用線も存在した。 駅名の由来 当鉄道敷設時までこの地には正式な地名がなく、ライマンの空知炭田調査以来「オタシナイ炭山」と呼ばれていた。「オタシナイ」(オタ・ウシ・ナイ)とはアイヌ語で「砂の多い川」という意味で、当地を流れるペンケウタシナイ川やパンケウタシナイ川から来ており、本来砂川駅周辺の地名であった。鉄道開業時になって当駅側にオタシナイに当て字をした「歌志内」の駅名が決定され、砂川駅は「オタシナイ」の意訳の方を宛てられて、それぞれ駅名がその地の地域名となった。
サヴァヌ地方 下位行政区画 サヴァヌ地方は、3つの州(Région)を管轄する。 3. バゴウェ州(Bagoué) - ボンディアリ(Boundiali) 26. ポロ州(Poro) - コロゴ(Korhogo) 29. チョロゴ州(fr:Tchologo) - フェルケセドゥーグー(fr:Ferkessédougou)
TI-66 TI-66 PROGRAMMABLE は、テキサス・インスツルメンツ(TI)が1983年から1988年まで日本で製造していたプログラム電卓である。 特徴 TI-66は、TI社がAOS(ALGEBRAIC OPERATING SYSTEM)と呼ぶ標準入力方式を搭載している。 TI-66ではキーボード上に記載された機能のほかに、OPキーによる特殊制御機能を使用することができる。この特殊制御機能には、プリンタ制御、統計、メモリ領域の再分割(リパーティショニング)、例外処理用のエラー検出、データメモリの内容のインクリメント/デクリメントなどの機能が含まれる。 TI-66は、PC-200サーマルプリンタを接続することで、液晶ディスプレイに表示されている内容、プログラムリスト、データメモリの内容、プログラムのデバッグ用のトレース情報あるいはその他のメッセージを印刷可能である。 プログラミング TI-66は、キーストローク方式のプログラミングが可能であり、最大512ステップまでのプログラムを組むことができる。 TI-66は、TI-59、TI-58、TI-58Cと同じ命令セットを使用しており、これらの電卓用のプログラムをキー入力することで実行することが可能である。 プログラム例 (例) 2 以上 69 以下の指定した整数の階乗を計算するプログラムの例を示す。 行 コード コメント 000-001 LBL A ラベルA(LBL A)を設置する。 002-003 STO 01 メモリ01にストアする。 004 1 1を置数する。 005-006 LBL B ラベルB(LBL B)を設置する。 007 * 乗算を行う。 008-009 RCL 01 メモリ01をリコールする。 010-012 DSZ 01 B メモリ01から1を減じ、その結果がゼロならば次のステップ(013)へ進む。 そうでなければラベルB(005)へ進む。 013 = 最後の乗算を計算し確定させる。 014 RTN プログラムを終了し、結果を表示する。 このプログラムを実行するには、 6 A 又は RST 6 R/S のようにキー入力する。プログラムが終了すると計算結果が 720 のように表示される。
かりあげクン 概要 いたずら好きのサラリーマン「かりあげクン」ことかりあげ正太が巻き起こす騒動を描く。 連載開始当初から当時の流行や時事ネタを取り入れた作風で一躍人気となり、『フリテンくん』や『コボちゃん』と並ぶ植田まさしの代表作品となった。1980年より双葉社から発行された雑誌『漫画アクション』で連載が開始され、1999年から『まんがタウン』『まんがタウンオリジナル』に移行。2010年8月現在は『まんがタウン』『週刊大衆』にて連載中。『まんがタウン』では巻末に2色カラーで掲載されており、2009年2月号で連載1500回を迎えた。また、2010年には連載終了した『クレヨンしんちゃん』に代わって一時期だが『まんがタウン』の表紙中央を飾り、連載30周年記念企画として総集編『かりあげクンBLACK・PINK』も刊行された(単行本と同じカバー付きのA5版)。単行本は双葉社から発売されている。 1980年代末にはフジテレビ系列でテレビアニメ化もされた。『漫画アクション』掲載当初のタイトルは『ほんにゃらゴッコ』であり、『かりあげクン』の表記はなく、かりあげが全く登場しない作品もあった。現在も「ほんにゃらゴッコ かりあげクン」と表記されているのは、そのためである。アニメのタイトルは「かりあげクン」のみであるが、「ほんにゃら」という言葉はアイキャッチ時のコーラスやかりあげクンの台詞で使用される。 時事ネタ以外では鉄道と麻雀に関連する作品が多く、前者は通勤電車はもちろんのこと新幹線や夜行列車を舞台にしたネタが頻繁に登場したほか、連載開始当初はキセルやストライキに関するネタが多数登場していた。後者は同僚で麻雀を行った帰りに、通りかかった交番に掲示された交通事故の負傷者を一人増やすというマニアックなネタが登場したこともある。 登場人物は連載当初から年を取らない方針で物語が進められている。 ほんにゃら産業 かりあげが勤める企業で、企業形態は商社となっており(アニメ版初期は『ほんにゃら商事』となっていた。後述)、食用油や接着剤の輸入取引を行っている描写がある。また、「足踏み式餅つき機」や「尻形ガスコンロ」(尻に火がつくのことわざに因んだもの)など、独特な新製品を開発しているシーンもある。 現在の社長は木下藤吉。原作では2代目であるが、祖父の時代から続く3代目、もしくは初代から一代で築き上げたという設定もあり、詳細はあやふやとなっている。アニメ版では会社を一代で築き上げたという設定になっており、「ほんにゃら商店」という貧相な小屋からのスタートであった。かりあげに「なりきん」と評されている。 親会社が存在し、ライバル意識を燃やしている。しかし、社会人野球の対抗戦では試合はとうに諦めて弁当売りに社長自ら精を出していた。会社主催のゴルフ大会では、優勝者にはトロフィーを授与するものの、2位にはトロフィーの蓋などかなり落差のある内容だった。 子会社もあり、1つは成長してほんにゃら産業と同じ規模の会社になったらしく、木村課長のようにヒゲを生やした社員や、かりあげみたいなふざけた社員がいるなどで、かりあげはクローン会社と呼んでいる。これ以外にも全国にいくつか支社(大阪、富山、新潟、山形など)がある他、日本国外(ニューヨーク)に支社もある。大阪支社は遠近法で高層ビルに見えるという(実際は5階建て程度であり、上層階に行くほどフロアが狭くなる台形のビルであった)変わった建築をしている。 経営は常に右肩下がりのようだが、福利厚生は充実しており、毎年社員旅行や社内運動会が開かれている。また、野球部やボート部など社会人チームを多く設けている。テレビCMを放送したこともあるが、プロ野球中継の実況席に無断で自社の看板を掲げた(職員に取り押さえられている描写がある)だけという、CMとは言い難いものだった。しかし後に一社提供番組のスポンサーとなっている。 自社ビルを保有しているが老朽化が激しく、一時期高層ビルに建て替える構想もあったようだが頓挫している。至る所で雨漏りがする、周囲に高層ビルが立ち並んで日が当たりにくい、入社希望の社員が集まらずかりあげをクビにして入社試験を受けさせるなど、惨めなエピソードには事欠かない。とはいえ、近年は設備の近代化が進み、ノートパソコンや分煙のための喫煙室、ロボット掃除機なども設けられるようになった。 社内には労働組合があり、毎年春闘が行われている。かりあげも労組に所属しているが、労使交渉の際には(自分だけ給料を上げてもらいたいため)社長側に付くこともありまじめに活動をしない。給料と思いきや支給される出前の品の交渉だったり、不景気で勝つ見込みがないと参加者が出ないなど大した成果は上げていない。 テレビアニメ版 1989年10月から1990年12月まで(フジテレビの場合)レギュラー版全59回(1話、3回構成で全177話)、1992年(同)にスペシャル版(レギュラー版から3話分と新作エピソードを放送)がそれぞれフジテレビ系列で放送された(いずれも制作・東映動画(現・東映アニメーション))。モノラル放送。初回放送時から長らく映像ソフト化されなかったが、2016年12月21日に全話収録のDVD-BOXが発売された(レギュラー版全59回を収録)。DVDには特典として植田まさし書き下ろしの漫画も収録されている。 第1回〜第17回までは、かりあげの勤務先の名称が「ほんにゃら商事」だった。第18回からは原作と同じ「ほんにゃら産業」となるが、変更された理由は特に説明されていない。 ネット局 判明しているもののみ記載。 かりあげクン トリビュート増刊 『漫画アクション』12月28日増刊号として、2005年11月28日発売。植田まさしによる特選集と、29人の漫画家による本作のトリビュート作品(うち江口寿史の作品のみ再掲)、作家の大沢在昌によるエッセイ、作品に関する情報コラムなどが掲載された。※漫画以外の情報は記載されていない。
インドオオノガン 分布 インド、パキスタン 形態 全長オス120センチメートル、メス90センチメートル。体上面は黄褐色で、黒い斑点が入る。顔から頸部・腹部にかけては白い。雨覆や風切羽の先端は白い。 後肢の色彩は淡黄色。 オスは頭頂が黒く、胸部に黒い横縞が入る。種小名nigricepsは「黒い頭の」の意。メスは頭頂が褐色。頸部は灰色。胸部の横縞は不明瞭か、横縞がない。 生態 草原や半砂漠地帯などに生息する。農耕地に飛来することもある。 バッタ類やコガネムシ類などの昆虫、小型哺乳類、植物の根、イチゴ類などの果実、穀物などを食べる。 繁殖様式は卵生。繁殖期はインドでは雨季にあたる3 - 9月で、雨量が少ない年には繁殖しない。オスはディスプレイ場に集まり。1羽のオスが複数のメスと交尾を行う。地面を掘っただけの窪みを巣にする。1回に1個(まれに2個)の卵を産む。抱卵と育雛はメスのみが行う。雛は孵化してから1か月ほどで飛翔できるようになる。 人間との関係 農地開発や採掘・道路建設・植林などによる生息地の破壊、農薬による影響、家畜による巣の踏み付け、電線による衝突死、食用の狩猟やスポーツハンティングなどにより生息数は激減している。1975年のワシントン条約発効時にはワシントン条約附属書IIに、1979年にはワシントン条約附属書Iに掲載されている。1969年における生息数は1,260羽、2008年における生息数は300羽と推定されている。2012年の調査で89羽、2015年の調査では40羽の確認が報告されている。
秋田県立支援学校天王みどり学園 概要 1999年に若美町(現・男鹿市)に設置された秋田県立秋田養護学校南秋分教室が前身であり、2003年に当時県内で養護学校空白域だった男鹿・潟上・南秋地区を対象とすべく、本校から独立して当時の天王町(現・潟上市)の秋田県総合教育センターの隣接地に開校した。 前身の南秋分教室設置経緯から、本来は男鹿・潟上・南秋地区が通学区であるが、秋田市北端部からは、秋田市西部に所在する秋田県立栗田支援学校への交通アクセスが弱く遠方となるため、選択制ではあるものの、当該地域も通学区の一部に取り込んでいる。 秋田県における知的障害教育の研究校に指定されている。
金春晃実 略歴 1931年、奈良県に生まれる。1956年、京都大学文学部を卒業。父は金春流77世宗家の金春栄治郎。幼いころから指導を受け、1938年に初舞台を踏む。大学在学中の1955年に幻の伝書といわれた世阿弥の「拾玉得花」を発見した。1972年日本能楽会会員となる。体全体を使って演じる鬼もの、修羅ものを得意とし、カナダやフランスなどで海外公演を精力的に行った。金春刊行会代表、日本能楽養成会講師、奈良大学講師を務め、後進の指導にも尽力した。2002年に死没。
斎藤雅樹 プロ入り前 東京都足立区で生まれ、埼玉県川口市で育った。野球を始めたきっかけは小学校5年生の時に母親が地元のリトルリーグの選手募集に無断で応募したことで、実際に当人の意思は「僕はやりたくなかった」と入団テストを嫌々受けたが、「やるときは一生懸命やる」と手抜きできない性格で、遠投で地肩の強さを発揮し、走力テストもまずまずの成績を残して合格し、本格的に野球に打ち込むことになったという。川口リトルリーグ時代はキャッチャーだった。 埼玉県の川口市立北中学校、市立川口高校入学後に頭角を表し、内山清監督の指導のもと1982年の全国高等学校野球選手権埼玉大会では決勝戦に進出するも、8回裏に熊谷高校のエース・江頭靖二に決勝2点適時打を打たれ1-3で敗れ、全国選手権出場は果たせなかった。 1994年まで 1982年度ドラフト会議にて読売ジャイアンツから1位指名を受け、契約金4000万円、年俸260万円(金額は推定)で合意して入団。担当スカウトは伊藤菊雄。打撃、守備センスの良さから、野手転向を勧める声もあったが、当時監督の藤田元司のアドバイス(投球時の腰回転がサイドスロー向きだったという)もあり、サイドスローへ転向。 1985年にはローテーションに定着して、リーグ最多の4完封、チーム最多の12勝を挙げ、最終戦まで最優秀防御率のタイトルを争う活躍を見せる(最終戦で8回1/3を自責点0に抑えれば1位に躍り出る状況だったが、シーズン本塁打日本記録のかかっていたランディ・バースに全打席出塁を許すなど5回1/3を4自責点に終わった)も、それ以降は不遇な時期もあった。王貞治監督時代は一軍と二軍を往復し、敗戦処理が役割だった時期もある。その間、1984年8月28日の横浜大洋ホエールズ戦で救援登板し、遠藤一彦から自らサヨナラ適時打を打った。 1989年、巨人の監督に復帰した藤田から再び指導を受ける。ノミの心臓で気が弱いという評価などから、王は「斎藤は先発には向かない」などとしていたが、藤田は斎藤に対し「お前は気が弱いんじゃない、気が優しいんだ」「(斎藤が「マウンドに上がるのが怖い」と言った際)投手というのは臆病でないといけないんだ。色々考えたら臆病になる。怖いというのは、お前が色々考えている証拠だ」などと諭し先発で起用し続けた事などで才能が開花。サイドスローからの140km/h超の威力あるストレート、鋭いカーブ(スライダーという評論家もいるが本人はカーブと言っている)とシンカーを武器に、3試合連続完封勝利を含む11試合連続完投勝利の日本記録を達成(#11試合連続完投勝利参照)。8月12日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤ球場)では9回1死まで被安打0の快投。あと2人でノーヒットノーラン達成という状況にまで迫ったが、音重鎮にチーム初安打を許したのを機に崩れ、最後は落合博満に逆転サヨナラ3点本塁打を許した。だが、それでも最終的にはシーズン20勝をマークし、西本聖(中日)と最多勝のタイトルを分け合った。さらに、最優秀防御率とベストナインも獲得し、平成初の沢村賞を受賞した。 1990年も8試合連続完投勝利を挙げるなど、20勝を挙げ、最多勝、最優秀防御率、最高勝率(当時表彰無し)、最優秀選手、ベストナイン、ゴールデングラブで、巨人だけでなく「平成の大エース」「球界のエース」「ミスター完投」と呼ばれるまでに成長した。2017年シーズン終了まで、この年の斎藤を最後に2年連続20勝投手は現れていない。もっとも、シーズン最後の3試合は2勝1敗で2年連続20勝を果たすも、19イニングで自責点16と打ち込まれ、2年連続防御率1点台は逃す。その不調は日本シリーズでも露呈し、チームのシリーズ敗退の一因となった。 翌1991年は前年終盤からの不調が続き、勝ち星が半減し、勝率も5割に落とした。1992年は一転して好調をキープし、3度目の最多勝のタイトルを獲得。さらに最高勝率で、ベストナインとゴールデングラブにも選ばれた。 1993年から1997年まで5年連続で開幕投手を務めた。1993年は故障がちで成績を落とし、隔年投手というイメージが付いてしまったが、1994年から1996年は3年続けて開幕戦完封勝利を収める偉業を達成した。 10.8決戦 1994年の斎藤は、シーズン当初は快調に勝ち星を重ねたが、チーム打線の調子の低下もあり、8月24日に13勝目を挙げて以来勝ち星がなく、シーズン終盤を迎えていた。優勝のかかった10月6日のヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)に先発登板したが、1点リードの7回表に打順が回ったところで代打を送られて降板し、7回裏に槙原が逆転打を打たれて勝利投手となれず、チームも8日の同率首位最終決戦に臨むこととなった。 10月8日の対中日戦は、巨人先発の槙原が2回途中で相手打線に打ち込まれ、斎藤にリリーフ登板が告げられた。2回裏、2-2の同点で、無死走者一、二塁であった。後年、斎藤は「(前回登板から)中1日だったし、出番は無いと思っていたけど、ブルペンで投げていたらコーチが『おい、斎藤』と。思わず聞こえないフリをした」と述べている。桑田と同様に斎藤も試合前日に監督の長嶋茂雄に呼び出され、出番について告げられたとする文献もあるが、斎藤は否定している。 斎藤はこの回を、今中慎二のバントを処理した際に二塁走者を三塁で封殺、続く清水雅治から三振を奪い、同時に今中のバントで二塁に進んでおり、大きくリードをとっていた中村武志を捕手村田真一が牽制球でアウトとして、追加点(逆転)を阻んだ。この後、巨人は勝ち越しに成功。斎藤は6回に彦野利勝の適時打による1失点があったのみで、6回まで投球して、この試合の勝利投手となった。7回からは桑田が斎藤を救援する形で登板し、そのまま試合は終了。「胴上げ投手」となった桑田は、自著「桑田真澄という生き方」で「(槙原が早い段階で降板したため)『これは、早い回に代わるかもしれないぞ』と思った。二番手の斎藤さんは、シーズン後半に調子を落としていたから、(中略)しかし、斎藤さんが中日の勢いを止めた。(中略)巧みなピッチングで、6回の1失点に抑えた」と述べている。 斎藤は、試合終了後のインタビューで、「やればできる、できるんです。最後の最後でいい仕事ができた」と大声で叫んだ。後年、さらに、「5回途中に内転筋を痛めたが、テーピングをグルグルに巻いて投げた。あの試合で投げられたことが自信になり、さらにレベルアップできたと思う」と述べた。 1995年以降 1995年は最多勝と最多奪三振の二冠で2度目の沢村賞に輝き、ベストナインとゴールデングラブも受賞。2年連続の好成績で隔年投手のイメージを払拭。同年の日本シリーズでオリックスを下し、日本一に輝いたヤクルト戦では4完封を挙げた。 1996年8月16日、通算150勝のかかったヤクルト戦では、9回二死から同点に追いつかれた後も12回まで179球を投げきった。12回裏の打順で斎藤の代打に送られた岸川勝也が凡退し、二死無走者。この試合での150勝はお預けかと思われた矢先に当時新人の仁志敏久がサヨナラ本塁打を放ち、土壇場で150勝を達成した。この年は最多勝、最優秀防御率を獲得。最高勝率でもあった。ベストナインとゴールデングラブも受賞し、2年連続で沢村賞に選ばれ、史上4人目となる3回目の沢村賞を受賞した。 1997年のヤクルトとの開幕戦で、広島から移籍してきた小早川毅彦に開幕3連発を浴びるなど精彩を欠き、右腕の故障も加わって一桁勝利に終わる。 1998年は10勝を挙げたが、これが自身最後の二桁勝利となった。 1999年は、前年の右腕の故障に加え、足の内転筋の故障など全盛期のストレートが投げられず、僅か5勝に終わり、周囲からは衰えも囁かれた。 2000年も故障がちで一軍と二軍を往復する日々が続く。後半には一軍に復帰し、登板機会は少なかったものの自身のモデルチェンジが功を奏し、リーグ優勝・日本一に貢献した。 復活が期待された2001年のシーズンでは開幕ローテーションに入り、4月22日の対横浜ベイスターズ戦でシーズン初勝利を挙げたが、5月6日の対横浜ベイスターズ戦で2回の走塁時に故障し、1回で降板、そのまま二軍降格となった。その回復に時間を要し、シーズン後半優勝争い脱落の危機の中、一軍にリリーフ投手として復帰。5試合連続で中継ぎ登板を行うなどシーズン終盤のヤクルトとの優勝争いの中で奮闘したが、故障した身体が限界に達したため、同シーズン限りで槙原・村田らと共に現役引退を発表。1994年10月8日の優勝決定戦で活躍した選手が同時に選手生命に幕を下ろすこととなった。 最終的に、桑田真澄、槙原寛己とともに先発「三本柱」と呼ばれ、その中でも抜きん出た成績を残し沢村賞3回、最多勝利5回、最優秀防御率3回、最多奪三振1回、最高勝率3回、ベストナイン5回、ゴールデングラブ4回、最優秀選手1回 など数々のタイトルや表彰を獲得した。そのうち、1994年には、10.8決戦に登板し、勝利投手となった。 現役引退後 引退後、2002年〜2003年の2年間は一軍投手コーチ、2004年〜2005年にはフジテレビ野球解説者・スポーツ報知野球評論家、沢村賞選考委員を務めた。2006年に監督の原辰徳と共に1軍投手コーチとして復帰。2008年〜2009年は二軍投手コーチを務め、2010年から2015年は再び一軍投手コーチを務めた。そして2016年からは二軍監督を務めイースタン・リーグの優勝を達成(2015年前任の岡崎郁二軍監督と2017年途中から就任した内田順三二軍監督時代を含めとイースタン・リーグ三連覇)。2017年7月15日から再び一軍投手コーチを務める。2016年1月18日、野球殿堂入りを果たした。 2016年9月26日に第1回WBSC U-23ワールドカップの日本代表監督を務めることが発表された。 2018年は一軍投手総合コーチ。 2018年シーズン終了後の10月22日に一軍投手総合コーチ退任が発表された。2019年からは14年ぶりにフジテレビの野球解説者に復帰する他、日本テレビにも本数契約で出演する。
ジミー・マッターン ジミー・マッターン(James Joseph "Jimmie" Mattern 、1905年3月8日 - 1988年12月17日)はアメリカ合衆国のパイロットである。1932年と1933年に2回に渡って世界一周早周り飛行に挑戦したが途中で失敗した。ロッキードのテストパイロットも務めた。 イリノイ州のフリーポートに生まれた。航空会社のパイロットとして働いた後、1931年にロッキード・ヴェガを購入し、これを改造して「センチュリー・オブ・プログレス」と命名し、ウィリー・ポストとハロルド・ガティが樹立した世界一周早回り飛行記録に挑戦した。1932年7月5日に、グリフィン・ベネットとともにニューヨークのフロイド・ベネット飛行場を出発し、ニューファンドランド島のハーバーグレースに飛行し、無着陸で大西洋を横断し、ベルリンまで飛行した。10時間50分での大西洋横断は当時最も早い記録であった。7月7日にベラルーシの ボリソフに不時着して1回目の挑戦は終わった。1933年6月3日に修理した機体で、単独で再び世界一周早回り飛行に飛び立つが、1933年6月14日にシベリアで機体の故障により不時着した。数週間行方不明になるが、エスキモーに救われ、ソ連のパイロット、ズィグムント・レヴォニェフスキによってアラスカのNomeまで運ばれ、別の機体でニューヨークへ帰還した。レヴォニェフスキは1937年8月、モスクワから北極を越えて、アメリカ合衆国を目指した飛行中に行方不明となり、マッターンも捜索飛行に加わったが、レヴォニェフスキは発見されることはなかった。 1938年からロッキードのテストパイロットとなり、P-38の改良に功績があった。1946年病気で飛行できなくなり不動産業や旅行代理店を経営した。1973年に全米飛行家協会(National Aeronautic Association)から Wesley L. McDonald Elder Statesman Awardを受賞し、1981年に Oklahoma Air and Space Hall of Fameの表彰を受けた。
オーロックス 形態 体格は体長約250- 310cm、体高約140- 185cm、体重約600- 1000kg。体色はオスが黒褐色または黒色、メスは褐色。角は大きく滑らかで、長さは80cmほどとされる。 名称 英語でこの動物をさす名称として使われるものに "aurochs" や "urus" があるが、前者はこの動物を指すドイツ語に、後者はこの動物を指すラテン語に由来する。 600年頃のセビリアのイシドールス大司教によれば、"urus" は山を意味するギリシャ語のόροςに由来するという。また、本来はバイソンをさす "wisent" という誤称もよく使われるが、バイソンとオーロックスは非常に古くから混同されてきた事実がその背景にある。ユリウス・カエサルがガリア遠征のさいにオーロックスを「ゾウよりは幾分小さく、姿形や色はウシによく似ている」と記述した頃にはバイソンとオーロックスはそれぞれ "bonasus" , "urus" として明確に区別されていたが、それから約1世紀後に記された大プリニウスの博物誌ではすでに人々がバイソンとオーロックスを混同することが嘆かれている。これはバイソンとオーロックスが双方とも個体数を減らしどんどん身近でなくなっていくことで拍車がかかり、ついには両者が別の動物であることが忘れ去られる結果となった。 また学名としては、家畜種は野生種の学名を使うという慣習から、かつてBos taurus という学名を与えられていた家畜牛と、おなじくBos indicus という学名を与えられていたコブウシについては、その祖先であるオーロックスとおなじBos primigenius という学名が使用されるようになってきている。特に家畜種を指すことを明確にしたい場合には亜種としてB. p. taurus やB. p indicus とするか、旧例通りBos taurus やBos indicus とする。家畜牛に与えられたBos taurus とオーロックスに与えられたBos primigenius ではより古い名称はBos taurus であるため、両者が同一種とされた場合の学名の優先権は本来ならばBos taurus にあった。しかし、野生種に家畜種の学名を持ち込むことは大きな混乱を引き起こすと判断されたため、2003年に動物命名法国際審議会が強権を発動し、優先権はBos primigenius が持つこととなった。 歴史 およそ200万年前にインド周辺で進化したと考えられている。第四紀初頭のうちに中東に分布を広げ、ヨーロッパに到達したのはおよそ25万年前であるとされている。更新世末期(1万1000年前)までには、ヨーロッパ・アジア・北アフリカなどの広い範囲に分布しており、1万5000年前のラスコー洞窟の壁画にもオーロックスが描かれている。日本列島では、岩手県の花泉遺跡からステップバイソンの近縁と思われる「ハナイズミモリウシ」と共に発掘されている。 絶滅 かつてはユーラシア全体および北アフリカで見られたが、生息していた各地で開発による生息地の減少や食用などとしての乱獲、家畜化などによってオーロックスは消滅していった。南アジアでは歴史時代の比較的早期に姿を消し、また、メソポタミアでもペルシア帝国が成立する時代には絶滅していたと見られる。北アフリカでも古代エジプトの終焉と同時期にやはり姿を消している。中世にはすでに現在のフランス・ドイツ・ポーランドなどの森林にしか見られなくなっていた。16世紀には各地にオーロックスの禁猟区ができたが、それは単に諸侯が自らが趣味・道楽として狩猟する分を確保するために設けたものでしかなかったため、獲物を獲り尽くすとともに閉鎖された。最後に残ったのはポーランドの首都ワルシャワ近郊のヤクトルフ(Jaktorów)にある保護区であったが、そこでも密猟によってオーロックスの数は減り続け、1620年には最後の1頭となってしまった。その1頭も1627年に死亡が確認され、オーロックスは絶滅した。 復元の試み その後、1920年代より、ドイツの(ヘック兄弟)によってベルリンおよびミュンヘンの動物園において、現存するウシの中からオーロックスに近い特徴をもつものを交配させることによってオーロックスの姿を甦らせる試みがなされた。作出は1932年に成功し、その個体の子孫は、現在でもドイツの動物園で飼育・展示されている。このウシは体形や性質はオーロックスに近いものを持っているが、体格はいくぶん小柄で、作出に携わった当時の動物園長のルッツ・ヘック(Lutz Heck、ドイツ人動物学者)の姓を採って「Heck cattle(en)」とも呼ばれている。近年ではオランダで遺伝情報や近似種の交配によって復元させようと研究が行われている
テイラーズ (サウスカロライナ州) 歴史 テイラーズの中にあるサザン漂白・印刷工場が2012年にアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定された。 地理 テイラーズは北緯34度54分48秒 西経82度18分39秒 (34.913236, -82.310817)に位置している。エノリー川が町内を流れており、19世紀後半から20世紀初期にはチックスプリングスがサウスカロライナ州アップステートの小さなリゾート町として注視されていた。 アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、CDP全面積は10.9平方マイル (28 km²)であり、すべて陸地である。 法人化 テイラーズはグリーンビル市とグリア市との間にある未編入のバッファー地帯となっている。2005年、地域住民が市として法人化を進める案を作った。これはグリア市によってウェイドハンプトン大通りの商店街が併合されることに抵抗したものだった。住民は地域の下水道局の税収基盤が浸食されることを心配していた。その提案は否決され、テイラーズは未編入の状態に留まっている。
カプセルプラレール カプセルプラレールは1999年(平成11年)1月よりトミー・タカラトミーの子会社であるユージン・タカラトミーアーツよりカプセルトイで発売されている鉄道玩具。 トミーのロングセラー玩具プラレールの小型版である。200円で通常のプラレールと比べて場所を取らない上に安価であり、マニアックな車両もラインナップされている。 通常タイプの他に、イオン・イトーヨーカドー・『鉄道おもちゃ』誌(ネコ・パブリッシング刊)限定の商品や、きかんしゃトーマスシリーズも存在する。 レール 本家プラレールと同様、青色が基本である。一部シリーズでは白色やクリアブルー、黄色、グレーなども発売されている。パート4までは片面しか使用できなかったが、パート4追加製造分以降は両面レールに改良された。なお、この新旧レールの過渡期には、両者をつなぐ特殊レールが用意されていた。また、パート23では脱線しにくく、接続しやすいよう改良された。
ウィリアム・E・ギャリティ 経歴 1928年にウォルト・ディズニー・カンパニーに入社。マルチブレーン・カメラ、ファンタサウンドを発明し、バーバンクのスタジオ建設も担当。1942年に退社。
橘康仁 橘康仁(たちばな やすひと、1975年12月14日 - ) は日本のプロデューサー。プロデュース会社「Nemeton」代表。
加藤忍 (競輪選手) 略歴・戦績 普段は地元の六郷自転車競技場、降雪期には仙台市宮城野原のバンク(宮城自転車競技場)で練習してきた。初出走は1987年(昭和52年)5月2日の福井競輪場であった。通算出走は2194回、通算成績は1着266回、2着309回、3着266回で着外が1297回であった。最終級班はA級2班で優勝回数は通算17回である。ラストランは2013年(平成25年)10月27日の青森競馬場で着順は2位であった。正式引退は同年10月31日、この年の11月28日には地元のサテライト六郷で引退セレモニーがおこなわれた。 なお、現役選手であった2004年(平成16年)11月、出身地の六郷町は千畑町、仙南村と合併して新町「美郷町」となったが、加藤は2005年(平成17年)2月の合併記念式典に新町への期待をこめたビデオメッセージを送っている。
東北急行バス 概要 元は沿線事業者の共同出資で、社名の通り東京と東北地方を結ぶ長距離バス(東北自動車道が開通する前は一般国道経由)を運行していたが、2002年(平成14年)の東武資本への一本化を機に方向が全く異なる近畿・中国方面への路線を開設しており、現在は東武グループにおける長距離高速バス事業者の位置付けとなっている。 車両 東武グループの他のバス事業者と同様に、日野自動車・いすゞ自動車製の車両が主力である。かつてはボルボ・アステローペも保有していた。 カラーリングはクリーム色をベースに窓下に紺色の帯を巻き、細い赤帯が加わる。2000年(平成12年)頃までは帯が紺色ではなく赤だった。側面の社名表記は TOHOKU EXPRESS となっているが、旧デザインでは EXPRESS TOHOKU となっていた。2015年に東武グループ国際十王交通から移籍した車両が、貸切車在籍時代以来となる東武グループ共通カラーのままで投入されており、2017年頃より投入された新車からは正式に東武グループ共通塗装にて運行されている。 現在の車両 過去の車両
ロック岩崎 経歴 1970年3月、千葉県立船橋高等学校卒業。同年4月航空自衛隊に航空学生第26期として入隊。F-86F、F-104、F-15などのジェット戦闘機操縦者として飛行任務に従事する。ニックネームの「ロック」は「岩崎」の岩を英訳した在官時代のTACネームに由来する。 また、F-15戦闘機で低高度での「ナイフエッジ」飛行を成功させたほか、「横転コルク抜き」という独自の空戦機動を編み出したことでも有名である。 1995年7月に二等空佐で航空自衛隊を退官。その後はエアショー・パフォーマーを目指し渡米、サンノゼ市アルプスナイスエアーを拠点として、カリフォルニア州キングシティーに所在するショーン・D・タッカーに師事する。 1996年3月に優秀な成績でプロ・エアーショーライセンスを取得し帰国。同年8月に「民間版ブルーインパルス」を目指しアクロバット飛行チーム AIRock(エアロック)を設立、11月に和歌山県南紀白浜空港で開催された「スカイレジャージャパン'96」で日本初のプロ・エアショーパイロットとしてデビューを果たす。以後は航空自衛隊の航空祭を中心に各地で曲技飛行を披露していた。「戦闘機は運用安全上、8Gまでしか出せないが、ショーの曲技飛行なら11Gが出せる」と、求道者としてのコメントを残している。 自著『最強の戦闘機パイロット』において、自衛隊を辞しエアショー・パイロットとして再出発しようとした動機を「戦闘機乗りとしての寿命が尽き地上勤務を命ぜられるよりも、いつまでも空を飛び続けて人々に夢を与えたかったから」と語っている。単座(一人乗り)機へのこだわりや、操縦系統などが自動化される以前のシンプルな機体に対する愛着なども語っている。ブルーインパルスへ引き抜く話があったが、所属する飛行隊が手放すのを拒み実現しなかった。本人がそれを知ったのは退官後のことである。 事故死 2005年4月21日午前11時20分頃、但馬空港にて飛行訓練中に乗機が滑走路脇の草地へ墜落。全身を強く打ち、豊岡市内の病院へ運ばれたが1時間半後に死去した。死因は心臓破裂、53歳没。事故の一報は国内の主要メディアも報道した。 事故は曲技飛行の一種である「ホリー・ホック・マイアー」の訓練中に発生。兵庫県警察による実況見分では、急上昇や急降下を繰り返しているうちに高度約150メートルから墜落したことが判明した。航空・鉄道事故調査委員会の調査では、機体の姿勢回復操作の開始が遅れたことが原因となり地面に激突したと結論づけている。同委員会は操作が遅れた理由として、持病である花粉症の治療薬による影響などを指摘している。
北上市文化交流センター さくらホール 施設概要 大ホール、中ホール、小ホールの他、ミュージックルーム、録音スタジオ、アクティングルーム、和室などをもつ。北上市内外の文化活動において貢献、公演者のための託児施設もある。主な用途は、コンサート、講演会、演劇、文化教室等である。レストランなど飲食施設もある。さくらホール内にあるサテライトスタジオでは、火曜日に『モコの夜はこれから!』の公開生放送、毎週金曜日に『STUDIO SAKURART』(スタジオさくらーと)の公開収録が行われている(放送局はいずれもFM岩手)。大ホールが1503人、中ホールは450人収容できる。 建築概要 さくらホールは、2004年度のグッドデザイン賞建築・環境デザイン部門、2005年度の第46回BCS賞、2006年の日本建築学会賞(作品)を受賞している。 受賞歴 平成29年度地域創造大賞(総務大臣賞)
川田孝子 川田 孝子(かわだ たかこ、1936年10月30日 - )は、日本の童謡歌手。姉は童謡歌手の川田正子、妹も同じく童謡歌手であった川田美智子。 経歴 姉の川田正子が歌手を引退後、童謡歌手として1959年(昭和34年)に結婚し引退するまで長く活躍した。数多くの童謡作品を歌い、姉の正子と共に人気を博した。当時、川田孝子は他の童謡歌手よりも非常に声量が豊かであったと言われている。姉のような変声期もなく、NHK紅白歌合戦にも2回連続出場している(詳細は下記参照)。 1947年、代表曲ともいえる「お花のホテル」や「見てござる」を発表し広く愛唱された。 2001年、東京のNHKホールで開催された川田正子の歌手生活60周年記念コンサートに応援で登場した(歌は歌っていない)。 2006年1月22日、姉の川田正子が死去。 同年3月に放送された昭和歌謡大全集第26弾(テレビ東京)の川田正子追悼コーナーに緊急出演(歌は歌っていない)するなど、歌手として引退はしているものの、70年代から現在まで時折テレビや公演などの依頼があれば出演をしている。
大相撲平成24年3月場所 大相撲平成24年3月場所(おおずもうへいせい24ねん3がつばしょ)は、2012年3月11日(日)から3月25日(日)まで、大阪府立体育会館で開催された大相撲本場所。 幕内最高優勝は、横綱・白鵬翔(13勝2敗・22回目)。 場所前の話題など この年の2月、大阪場所担当部長に貴乃花親方が就任してそのPR活動が世間の注目を浴びており、観客動員数が増えることが期待された。 前場所で初めて優勝した大関把瑠都の横綱昇進がかかっており、その結果が期待された。 関脇鶴竜が前場所までの2場所に関脇の地位で連続10勝をあげており、結果次第では場所後の大関昇進の可能性もあるということで、その結果が期待された。 優勝争い 綱取り大関把瑠都は4日目に大関取りを狙う関脇鶴竜に敗れて土。6日目には全勝は横綱白鵬と鶴竜の2人となり、それを稀勢の里を除く4大関と平幕4人の8人が追う展開となった。7日目にはそのうちの把瑠都と翔天狼を除く6人が敗れ、前半戦終了時点で早くも全勝2人、1敗2人という展開になっていた。 中日に鶴竜は稀勢の里に敗れて土がつき、白鵬と1敗2人はそれぞれ白星だったが、翌9日目に白鵬は鶴竜に敗れて土がつき、1敗4人と2敗が3人という優勝争いに変わった。10日目も1敗4人は変わなかったが、把瑠都と翔天狼は11日目からともに連敗し、12日目終了時点では1敗2人を大関日馬富士が追う展開へと変化した。13日目白鵬は稀勢の里に敗れて2敗、日馬富士は把瑠都に敗れて3敗にそれぞれ後退したが、鶴竜は1敗を守り単独トップ。翌14日目も鶴竜、白鵬が共に勝って優勝争いは千秋楽にもつれ込んだ。 千秋楽、鶴竜が先に土俵へ上がり、勝てば14勝1敗で初優勝が決まるところだったが、平幕の豪栄道にあっさりと敗れて2敗。白鵬は把瑠都に勝って2敗をキープしたため、この2人による優勝決定戦が行われることになった。優勝決定戦は上手投げで白鵬の勝ち。白鵬が千秋楽逆転で2場所ぶり22回目の幕内最高優勝となった。 トピック 場所後に関脇鶴竜の大関昇進が正式に決まり、綱取り大関把瑠都は10勝5敗で綱取りに失敗したため、史上初の6大関時代へと突入することになった。 場所後の2012年4月25日に元小結垣添と元幕内剣武が現役を引退した。垣添は年寄押尾川を襲名し、藤島部屋付き年寄となった。
AbemaGOLDEN 9 『AbemaGOLDEN 9』(アベマ ゴールデンナイン)は、2017年4月からインターネットテレビ局AbemaTV・「AbemaSPECIALチャンネル」の新編成として、毎日夜9時から配信されるウェブテレビ番組のゾーンタイトルである。 概要 AbemaTVがさらなる視聴習慣定着を目指し、地上波テレビでも活躍するタレント、ミュージシャンを起用した番組を毎日夜9時に「AbemaGOLDEN 9(アベマゴールデンナイン)」として編成。月曜枠「おぎやはぎの「ブス」テレビ」、土曜枠「BPM 〜BEST PEOPLE's MUSIC〜」は既存番組。 それぞれの番組冒頭にはサウンドステッカーが挿入されている。名称が似通う番組チャンネル「AbemaGOLDチャンネル」とは直接的には無関係。
國場幸之助 来歴 沖縄県那覇市生まれ。生家はゼネコン「國場組」の創業者一族で、父は元國場組代表取締役社長の國場幸治。那覇市立開南小学校、那覇市立上山中学校、沖縄尚学高等学校卒業。学生時代に政治家を志す。高校卒業後、1年間の浪人生活を経て日本大学文理学部哲学科に入学するも古代ギリシャ語で挫折し、中退した。その後、保守系政治家を多く輩出した早稲田大学雄弁会に憧れ、早稲田大学社会科学部社会科学科に入学した。岡沢憲芙ゼミで比較政治学を専攻し、雄弁会では幹事長を務めた。卒業後はアメリカ合衆国のコロンビア大学に語学留学した。 帰国後、1998年の沖縄県知事選挙で当選した稲嶺惠一の秘書を務めた。2000年、沖縄県議会議員選挙に保守系無所属で那覇市選挙区から出馬し、トップ当選した。沖縄県議会で、20代の議員が誕生するのは史上初だった。当選後、自由民主党に入党した。 2003年、県議を辞職。同年11月の第43回衆議院議員総選挙に沖縄3区から保守新党の推薦を受けて無所属で出馬したが、自民党前職の嘉数知賢、社会民主党前職の東門美津子に次ぐ3位で落選した。なお、前回の第42回衆議院議員総選挙では義父の西田が無所属の会公認で出馬しており、同区は2度続けての保守分裂選挙であった。2004年の県議選では自民党の公認を受けられず無所属で出馬、再び那覇市選挙区でトップ当選。当選後、自民党に復党した。 2008年、自民党沖縄県第1選挙区支部は次期衆議院議員総選挙で、沖縄1区に國場を擁立する方針を決定する。自民党は自公連立政権下での選挙協力により、2000年の第42回衆議院議員総選挙から沖縄1区に公認候補を立てず、公明党の白保台一に譲っていたが、白保が2005年の第44回衆議院議員総選挙で下地幹郎に敗れて落選したため、独自候補の擁立を模索していた。そのため國場は、2008年の県議選への立候補を見送った。白保は当初、返り咲きに意欲を見せていたが、同年8月に引退を表明し、公明党は國場を推薦した。しかし、2009年の第45回衆議院議員総選挙では国民新党前職の下地幹郎に敗れ、比例復活も出来ず落選した。 落選後も県議には復帰せず、2012年の第46回衆議院議員総選挙に再び沖縄1区から自民党公認で出馬。「沖縄復帰日の5月15日を国民の休日(主権回復記念日)にする」「日米地位協定の改定」「米軍普天間基地の県外移設」等を公約に掲げ、現職の閣僚である国民新党幹事長の下地を破り、当選した。 2014年の第47回衆議院議員総選挙では、沖縄1区で日本共産党の赤嶺政賢に敗れたが、比例九州ブロックにて復活し、再選。2015年5月、歴史修正主義的なナショナリズムを排除した保守を目指し、戦後70年の日本の歩みを検証する勉強会「過去を学び“分厚い保守政治”を目指す若手議員の会」の立ち上げに参加し、國場、武井俊輔、石崎徹の3人の衆議院議員(いずれも当選2回)が共同代表世話人に就任した。 2017年の第48回衆議院議員総選挙では、赤嶺に惜敗率89.8%で敗れたものの、比例九州ブロックで3選した。 2018年4月、沖縄県出身者としては初めて自民党副幹事長に就任。自民党沖縄県連会長に就任。 2018年10月、沖縄県知事選・豊見城市長選・那覇市長選で自民党が推した候補がいずれも敗北したことを受け、自民党沖縄県連会長の辞任を表明した。 憲法改正 日本国憲法の改正に賛成。改正すべき項目として、戦争放棄と自衛隊・緊急事態条項・衆議院の解散を挙げる。 安全保障 集団的自衛権の行使を禁じた内閣法制局の憲法解釈の見直しに賛成。 経済・財政 消費税10%にどちらかと言えば賛成。増えるべき税収の使いみちとして、幼児教育の無償化や高等教育の負担軽減を挙げる。 労働・社会福祉 働き方改革関連法案の立法に際し、沖縄と鹿児島の砂糖製造業への残業時間の上限制導入について、繫忙期の季節労働者の確保や技術習得、宿舎整備などには3年では足りず5年は必要だとの製糖業関係者の声を予算委員で指摘、現地視察など働きかけ、法施行からの準備期間を3年から5年の延長を実現した。 普天間移設問題 普天間基地移設問題について、第46回衆議院議員総選挙では辺野古への移設を容認する党本部の方針に反して「県外移設」を公約に掲げ、当選後も同様の主張を行っていた。また選挙前の2010年4月6日、自身のブログで代替施設建設案を提示した民主党政権に対し、公約違反を厳しく批判していた。 2013年4月、同様に普天間飛行場の県外移設を主張していた沖縄4区選出の西銘恒三郎、沖縄県選挙区選出の島尻安伊子が党本部からの要請により、辺野古への移設を事実上容認する姿勢に転向したが、國場は転向を拒否し、7月の第23回参議院議員通常選挙において党本部が辺野古への移設の推進を掲げた際も、県外移設を求める方針を堅持する考えを強調した。 しかし、参院選後に高村正彦副総裁ら自民党幹部が相次ぎ、辺野古移設を容認しない所属国会議員への離党勧告を示唆した。。11月19日に石破茂幹事長から辺野古移設を容認するよう説得を受け、25日に記者会見を開いて、正式に辺野古への移設を容認する意向を表明した。これに対し、県外移設を求めてきた自民党所属の那覇市議らは強く反発し、那覇市議会の保守系会派「新風会」に所属する10議員及び会派「自由民主党」に所属する4議員の計14名は國場が支部長を務める自民党沖縄1区支部の役職を一斉に辞任した。 家族制度 選択的夫婦別姓制度導入について、「結婚したら全員が夫婦同姓にすべき」としている。 その他 女性宮家の創設に反対。
6-アミノペニシラン酸 6-アミノペニシラン酸(6-aminopenicillanic acid)とは、(2S,5R,6R)-6-アミノ-3,3-ジメチル-7-オキソ-4-チア-1-アザビシクロ-{3,2,0}-ヘプタン-2-カルボン酸のことである。 概要 6-アミノペニシラン酸の分子式はC₈H₁₂N₂O₃Sで、分子量は約216.26 である 。 常温常圧では白色の粉末状の固体であり、融点は198℃から200℃である 。 水への溶解度は、25 ℃において水100 mlに対して0.4 gである。6-アミノペニシラン酸は、天然型でR体のL-システインと、天然にはほとんど存在しないR体のD-バリンを材料にして生合成される。 用途 6-アミノペニシラン酸は、ペニシリンが薬理作用を発揮するために必要とする、ペニシリンの中核的な部分である。β-ラクタム系抗菌薬の中でも半合成のペニシリン系抗菌薬を合成するための主な出発物質として、この6-アミノペニシラン酸が用いられる。なお、同じβ-ラクタム系抗菌薬でも半合成のセフェム系抗菌薬の合成の際には、出発物質として6-アミノペニシラン酸ではなく7-アミノセファロスポラン酸を主に用いる。 歴史 1958年に、ペニシリンの中核的な部分として6-アミノペニシラン酸が報告された。そして、この6-アミノペニシラン酸を出発物質として、半合成のペニシリン系抗菌薬が幾つも作成されていった 。
タージ・マハル 敷地 タージ・マハルは南北560m、東西303mの長方形の敷地にある。南端の約1/4部分は前庭があり、その北端にある大楼門を挟み広がる庭園は一辺296mの正方形であり、水路と遊歩道によって東西南北それぞれに2等分され、さらにそれぞれが4つの正方形で区分されている。その北には敷地の約1/4を占める基壇の上に、廟堂を中心に西側にモスク、東側に集会場がある。 南の大楼門はダルワーザー、ムガル式四分庭園はバギーチャー、西側のモスクはマスジド、東側の迎賓施設はミフマーン・カーナー(ジャマート・カーナー)、そして高さ42mの4本の尖塔(ミナレット)を従える墓廟はマウソレウムと言う。 タージ・マハルの基本設計は、ムガル帝国の墓廟方式の伝統を踏襲している。しかし、例えばフマーユーンの廟やアクバルの廟とは異なる点もある。これらは正方形の庭園の中心に廟堂があり、四方のどの門から入っても同じ景色が目前に広がるように設計されている。それに対し長方形構造と墓廟を北の端に配したタージ・マハルはこの例に倣っていない。また、敷地内にモスクを持つ事も独特である。 前庭部と大楼門 大楼門の南には前庭や車だまりおよび従者が控える建物がある。大楼門は赤砂岩づくりで高さ約30m。イスラーム建築で多用される大きなアーチを持つイーワーンであり、両側には八角形の太い塔がある。イーワーンの上には、ファテープル・シークリーの寺院にも見られる白い鍾乳石の型体をした11個の丸屋根がある。 庭園 大楼門をくぐった先に広がる庭園には天上の4本の川をあらわす4本の水路が四方に流れ、この水路が交わるところには天上の泉を表す池が配置されている。これはペルシャ様式のチャール・バーグ式を踏襲している。 水の供給には直径約23cmの管路から行われる。庭園植物への灌水の他、これはさらに細い管を通して水路の南北にある計24基と、中央の泉にある5基の噴水へ水の供給が行っている。通常ならば取水口から遠い噴水には水圧が低下するが、タージ・マハル庭園ではそれぞれの噴水の下に壺が埋め込まれ、ここに一度水を貯めることで各噴水の高さに差が現れないよう工夫されている。 ムガル朝の霊廟形式では、本来庭園の中心に墓廟があり、四方いずれからも同じ景色をつくる。タージ・マハルの庭園の中心には、墓廟の代わりに一辺23mの四角い白大理石づくりの基壇がある。中央の泉は一辺13mの方形であり、池と基壇の各辺の比は、墓廟とその基壇の比とほぼ一致する。 霊廟の庭園は、イスラーム教徒にとって砂漠の中の楽園を意味する。タージ・マハルも同様に列柱回廊で囲まれ、東西には門の代わりにバルコニーを備えた二階の楼台(バラダリ)がある。その中には豊かな花々や果樹が植えられ、季節によってバラ、チューリップ、ユリ、マリーゴールド、水仙などが咲き、マンゴー、オレンジ、レモン、ザクロ、リンゴ、ブドウなどが実を結んでいた。現在の庭園は糸杉の並木と芝が一面に植えられ、大樹がところどころにあるが、これは19世紀にイギリス人が作り変えたものである。 基壇と尖塔 庭園奥には中央に高さ5.5mの基壇の上に立つ白亜の墓廟があり、四隅には4本の尖塔が建っている。向かって左(西)にモスク、右(東)に集会場がある。基壇を昇る階段は庭側から見えない場所に設置されている。ムガル帝国の霊廟では、この基壇周囲にはアーチ状の列柱とその後ろに小部屋が据えられ、一族や縁者の墓石を置く例が主だが、タージ・マハルの基壇にあるアーチは単なる浮き彫りであり小部屋も無い。これは、タージ・マハルがあくまでムムターズ・マハルだけのために建設されたことを表している。 4つの尖塔は「皇妃に仕える4人の侍女」に喩えられる。しかしその形は灯台と小さなバルコニーを備えただけの単純で、イギリスの小説家オルダス・ハックリスは「人類が手がけた中で最も醜悪な建築物のひとつ」とさえ形容した。ただしこれらは主役の墓廟を際立たせるとともに、全体で視覚的なバランスに寄与している。 墓廟 墓廟は横と奥行きがどちらも57mの正方形を基本に、四隅が切られた変形八角形をしている。対して高さは丸屋根上部までが58m、上に据えられた頂華の長さを加えると更に高くなる。この比率はタージ・マハルが目前から見上げられる際に威容を感じさせるためのである。しかし遠目から見るとバランスに欠ける。そのため基壇の端に塔を置き、視覚的な重心に配慮している。 最上部にムガル建築の様式である三日月と水差しを重ねてあしらった頂華を備え、繋ぐ部分には蓮の花弁を象った飾りパドマコサを持つ丸屋根は、建物本来の高さ約23mから持ち上げるため下に長い円筒が置かれ、その総重量は12,000トンにもなる。この重さは内部にある八角形の石積みの柱が支え、ずれや傾きを防ぐために工夫された楔で固定されている。 建物の屋上には丸屋根を囲む四隅に小さな丸屋根を持つ小楼(チャハトリ)が配される。建物の正面を含む4つの面には大きなアーチ型飾り門があり、その両隣と切られた四隅にはそれぞれ上下2段の小さなアーチ飾り窓がある。さらに八角形の建物のそれぞれの角と飾り門の両端には飾り柱があり、先端は建物の上に伸びている。飾り門や窓は意図的に深い奥行きを持たせており、太陽や月の光がつくる濃い影を作らせ、建物の微妙な表情を演出させる。 墓廟の内部に入ると丸天井は24mしかない。これは二重殻ドームという形式で、外観上の丸屋根と内部の天井の間に空洞が置かれ、屋外から見るデザインと屋内の空間とのバランスを両立させる形式であり、この工夫は16世紀の西アジアで考え出された。内部中央の八角形のホールには、その中心に白大理石にコーランの章句や草花の連続文様が装飾された衝立が囲うムムターズ・マハルの墓石がある。そしてその横(庭から入ると向かって左)には一回り大きな墓石があるが、これは夫のシャー・ジャハーンのものである。中央ホールを取り囲む四隅には本来は親族を葬るために造られる八角形の小部屋が4つある。しかしそこへ至る通路はすべて閉じられ、事実他の誰の墓部として使われていない。 タージ・マハル墓廟には地下室がある。庭側入り口の脇には狭い階段があり、そこを下ると基壇内に造られ床は庭と同じ高さになる玄室がある。ここにはホールの真下にムムターズ・マハル本来の墓石が安置されている。ホールの墓石はあくまで象徴的な参拝用のものであった。なお、その横には同様にシャー・ジャハーンの本来の墓石がある。この地下室は閉じられていたが、現在は観光用に見学ができる。 モスクと集会所 墓廟を挟むモスクと集会場は、対称な形で向かい合い、いずれも赤砂岩づくりの外観である。しかし、内部は大きく異なる。モスクには礼拝のために聖地メッカの方向を示すアーチ形のミソラーブがあるのに対し、集会場の内部には迎賓などのための広い空間だけがある。このようなモスクや集会場がある霊廟は、他のムガル帝国廟にはない。 周囲 周囲にはムムターズ・マハルの侍女サティー・ウン・ニサー、シャー・ジャハーンの他の妃であったシルヒンディー・ベーグムやアクバラーバーディー・ベーグムといった縁者の墓がある。 北側はヤムナー川に接し、かつてはアーグラ城塞から船でタージ・マハルの北から廟内に入っていたが、現在では訪問客は南から大楼門をくぐって訪れる。その南にはかつてはムムターズバード、今はタージ・ガンジーと呼ばれる街区があり、商業や宿泊施設などが広がっている。 タージ・マハルと対面するヤムナー川の北岸には、対応するように胸壁があり、この中央には楼台、左右には望楼が置かれ、これらの北にも庭園がある。 設計 設計にはイスラーム世界から広く名声を博した建築家や工芸家らが集められた。20世紀にインド政府考古学調査局長のB・L・ダーマは研究書『ザ・タージ』にて設計者をイスラームに帰依したインド人ムハンマド・イーサー・エフェンディーと述べた。しかし、これも当時のヒンドゥー至上主義の影響を受けたもので、事実上設計者名は不明なままである。シャー・ジャハーンの主任建築家だったウスタード・アフマド・ラホーリーの墓碑には彼がタージ・マハルの設計者だったと記されているが、これも多くの工匠らが持ち寄った設計を纏める役割に過ぎなかったと考えられる。 しかし名が伝わる部分の設計担当や工匠らもいる。円筒と組み合わせた丸屋根の設計はトルコから招かれたイスマーイール・ハーン、頂華の製作はラホールのカーシム・ハーン、大理石象嵌はデリーのチランジー・ラール、大楼門や墓廟に刻まれたコーラン文字はシーラーズのアナマト・ハーンとシリアのラウシャン・ハーンの2人の書家、透かし彫りや貴石の細工はバルーチスターンから細工師のアミール・アリー、石組みにはバグダードから技師のムハンマド・ハニーフが呼ばれ、他にも集められた有名な技師たちは多く、知られているだけでも37名が雇われた。彼らは高給を与えられ、例えばムハンマド・ハニーフは月1000ルピー、カーシム・ハーンは月695ルピーを得た。一般の熟練工で月5〜6ルピー、人夫は月1.5ルピー程度だったが、当時の通貨価値では1ルピーで小麦80kgが買えた。 職人はペルシャやアラブ、果てはヨーロッパから2万人ほどを集めた。 建設 17年とも22年と言われる建設期間中には、常に2万人もの人々が工事に携わった。タージ・マハルが建つヤムナー川の岸は傾斜しており、庭園を囲む回廊の外側には厚い石垣が積み上げられ、土地を水平に造成している。 建材はインド中から1,000頭以上もの象で運ばれてきたといわれ、大理石はラージャスターン地方のジャイプル産という。赤砂石はファテープル・シークリーの石切り場から運ばれた。翡翠や水晶は遠く中国から、トルコ石はチベットから、サファイアや瑠璃はスリランカから、カンラン石はエジプトから、珊瑚や真珠貝はアラビアから、ダイヤモンドはブンデルカンドから、アメジストや瑪瑙はペルシャから集められた。他にも、碧玉はパンジャーブ地方から、ラピスラズリはアフガニスタンから、カーネリアン(紅玉髄)はアラビアから取り寄せられたものだという。全体で28種類もの宝石・宝玉が嵌め込まれていた。 タージ・マハル建設にどれだけの費用がかかったかは明らかではない。宮廷史家アブダール・ハミード・ラホーリーは著書『皇帝行伝(パードシャー・ナーマ)』にて500万ルピーと記しているが、その他にも980万、1850万、4000万ルピーという説もある。 タージ・マハル建設の意義 ヒンドゥー教徒は墓を持たず、遺体は火葬され遺骨や灰は川に流される。霊魂は永遠と考えるイスラーム教徒が持つ墓は簡素なものに過ぎない。ムガル王朝の皇帝は大きな霊廟を備えたが、これは専制君主の権勢を示す目的があった。権力を握っていたわけでもないただの王妃に対し壮大な墓廟が建設された例は、他にはほとんど無い。 タージ・マハル着工の頃、シャー・ジャハーンはヒンドゥー教を抑圧する令を発するなど、イスラーム教国家建設に取り掛かっていた。その中でタージ・マハルはイスラーム教徒の精神的中心として構想された。聖者信仰はイスラームにもヒンドゥーにも見られ、その墓所は霊力が宿るという考えはムガル王朝期のインドでは強かった。ムムターズ・マハルを聖者とみなす根底には、イスラーム社会が女性に夫への愛と子を生すことを求め、産褥による死は男性が聖戦で死す事と同義とみなす母性信仰があり、生涯で14人の子を産み36歳で死んだ彼女は殉教した聖者になるに充分だったと言える。 この意義に叶うため、タージ・マハルは巡礼者を受け入れる施設を持たされた。訪問中にメッカへ礼拝するためのモスク、食事や宿泊のための集会所、巡礼者の車場置き場、そして外部の市場もこの機能を補助した。タージ・マハルが完成した時に、その美しさにシャー・ジャハーンが詠んだ詩には、ここが罪を負う者が悔恨し、罪行から自由になり、許され清められる典雅な高殿であり、神の光とともにあると述べられている。 シャー・ジャハーン廃位 ムガル王朝は常に皇子らの間で皇位を巡る激しい争いが起こり、「王冠か死棺か」とさえ言われた。第三皇子だったシャー・ジャハーンも例外ではなく、皇位継承権を持つ一族すべての男性を殺して帝位に就いた。 そしてこれは、シャー・ジャハーンとムムターズ・マハルの間に生まれた息子たちの間でも繰り広げられ、1657年にシャー・ジャハーンが重病に陥ると4人の息子が帝位をめぐり争った。シャー・ジャハーンは第一皇子のダーラー・シコーに皇位を継がせようと手元に置き教養を与えた。しかしヒンドゥーやバラモン教にも理解を示す兄に、敬虔なイスラーム教徒であった第三皇子のアウラングゼーブには許しがたい背信に映った。 16歳から戦場に身を置き、その中で果敢な性格と皇位を狙う野心を育てていたアウラングゼーブは反乱の挙兵を起こし、1658年に兄の軍を破ると父シャー・ジャハーンの前で兄を異端に堕ちた者と弾劾し、自らの行動を認めさせ、アウラングゼーブは皇位に就いた。しかしシャー・ジャハーンはダーラー・シコーを支援する旨を記した手紙を秘かに送ったが、アウラングゼーブの知るところとなり、彼は父をアーグラ城塞内に幽閉した。幽閉されたままのシャー・ジャハーンは1666年1月22日に亡くなった。翌日彼の遺体はタージ・マハルに運ばれ、妻の脇に葬られた。対称性を重視するイスラーム建築にあって、これに反する夫妻の墓碑の並びは、アウラングゼーブが父をいかに憎んでいたかを物語る。 アウラングゼーブも遠征先で帯同させた妃ディルラース・バーヌー・ベーグムを産褥で失った。彼は皇帝に就く前年の1657年から着手し、妃が亡くなったアウランガーバードに60万ルピーの費用をかけて彼女の墓廟ビービー・カ・マクバラー廟を建設した。これは白亜の廟堂と4本の尖塔など、タージ・マハルを模倣して設計された。 略奪 アウラングゼーブの死から十数年後、アーグラの街は地方領主に占領され、タージ・マハル内ムムターズ・マハルの墓石に掛けられていた真珠を散りばめた刺繍布チャーダルが奪われた。チャーダルはイスラーム教聖人の墓石に通常掛けられているが、なぜかその後作り直されなかった。1764年にはスーラジュ・マル率いるヒンドゥー教徒のジャート族によって堂内の宝石類が剥ぎ取られた。 1803年、イギリス東インド会社がアーグラ支配を確固たるものにすると、彼らもタージ・マハルで略奪を働いた。この時、丸屋根の上にある頂華を包む金箔が剥がされた。1828年から総督に就いたウィリアム・ペンディングはタージ・マハルを退廃的と見て、解体しイギリスで売り払う提案をしたというが、これは実行されなかった。 観光 タージ・マハルはインド観光の目玉的存在であり、多くの観光客を魅了している。ユネスコの記録ではすでに2001年に200万人以上の観光客を記録しており、2014年には約700万〜800万人に増加した。2017年段階でも少なくとも年間700万人の観光客が訪れている。 タージ・マハルの入場料は2段階の価格となっており、インド国民の入場料は大幅に安く、外国人料金は高額に設定されている。2018年には、インド国民の料金は50インド・ルピー、外国人観光客の入場料は1100ルピーとなっていた。最も観光客が訪れるのは、涼しい時期である10月、11月、2月である。排気ガスを出す交通手段は施設の近くでは禁止されているため、観光客は駐車場から歩くか電気バスに乗らなければならない。Khawasspuras(北の中庭)は現在新しいビジターセンターとしての使用のために修復されている。 タージ・マハルの南に位置するTaj GanjiまたはMumtazabadとして知られる小さな町は、当初タージ・マハルを訪れる人々や労働者のためのキャラバンサライ、バザール、および市場によって構成されていた。約1億人が投票して2007年に発表された新・世界七不思議などのように、お勧めの旅行先のリストには、しばしばタージ・マハルの名が挙げられる。 営業時間は通常朝6時から19時の間であるが、金曜日は基本的に休日で、礼拝のためにモスクが昼の12時から14時の間開くだけである。夜間の入場は本来できないが、満月の夜とその前後2日間のみ夜間入場が許可される。ただし、金曜日およびラマダンの時期は夜間入場は行われていない。 環境問題 インドの経済成長に伴い大気汚染が深刻化し、タージ・マハルの損傷が問題化している。排ガスによる直接的な汚れの他、酸性雨によって大理石が溶解する現象などが報告されている。政府はこれを防止するため周辺での石炭の利用禁止や、駐車場からタージ・マハルへ向かう手段を排気ガスを出さない電気自動車に限るなどの対策を取っているが白い大理石の黄ばみが目立ってきており、この汚れを取るために施設の表面に泥を塗り、乾燥させてからこそげ落とす処理を2015年・2016年と行った。 さらに入場者数の激増により施設に負担がかかっているとして、2018年よりインド国民の入場者数を1日4万人に制限することを発表した。週末には7万人以上が訪れていた訪問者を減らすのが目的であるが、平日の平均入場者数は1万から1万5000人であり、また外国人観光客にはこの制限は適用されない。しかしその後も汚染は悪化の一途をたどり、2018年5月2日にはインドの最高裁判所がインド政府のタージ・マハルの保護の怠慢を激しく非難した。また、同年4月12日には暴風によって入口の門の尖塔2本が倒壊した。 軍事的観点 インド政府はタージ・マハルはパキスタン空軍の空爆の標的になりやすいと考えており、パキスタンとの緊張が高まった時期には、タージ・マハルに布をかぶせて偽装を行っている。また、容易に偽装できるよう、中央ドームの外壁にフックが打ち込まれている。 両手を切り落とされた工匠 タージ・マハル造営を命じられた工匠は、美しいムムターズ・マハルを秘かに慕っている男だったという。彼はその想いを建設に注ぎ、シャー・ジャハーンを満足させる美しい墓廟を完成させた。シャー・ジャハーンが工匠に褒美を取らせようと王宮に呼んだところ、工匠は、墓廟を完成できたことで満足だと答えた。シャー・ジャハーンは男が内に秘めたものに気づき、男に両手を前に出すよう命ずると「これが褒美だ」と剣でその両手を切り落としたという。 対岸の黒大理石の墓廟 シャー・ジャハーンはヤムナー川の対岸に対となる自分自身の黒大理石の廟の建設を構想していたともいう。これは、タージ・マハルがイスラーム建築の原則である対称性に則していないことから発したもので、北岸に同じ形の黒い墓廟があれば南北の対称性は果たされる。 シャー・ジャハーンの失脚で、白大理石のタージ・マハルと対となる、黒大理石の墓廟の計画は幻に終わった。北岸の胸壁と望楼は、その基礎工事の名残とも言われる。 ヨーロッパ人の設計者 タージ・マハルの設計には、ヴェネツィア出身の金細工師ジェロニモ・ヴェロネオという男が名を連ねたという。19世紀に「密林の中に発見した」タージ・マハルは、イギリス人にとって驚きのものだった。未開の地にある荘厳な建造物に、やがてヨーロッパ人の関与があったという発想に至った。1884年に出版された『北西インドの歴史と地誌』第2巻には、ジェロニモ・ヴェロネオが300万ポンドの費用で建設を請け負ったが、1641年にスペイン人の托鉢僧マンリケが同地を訪問した時にはヴェロネオは死去しており、コンスタンティノープルから来たトルコ人のエフェンディが引き継いだという説を紹介し、大理石を象嵌した技術はフランスのボルドー出身のオスティンヌという工匠が支援したとも添えた。 この説はヨーロッパで広く知られ、1957年ケンブリッジ大学出版局刊『インド史』第4巻ではヴェロネオが設計図を皇帝に献じたと、1972年ニューズウィーク出版の『ザ・タージ・マハール』も、タージ・マハル建設の名誉を自らのものにし同じような建造物が二度と建てられないようにするため、皇帝が工匠頭ヴェロネオを断首したことはセバスチャン・マンリケの口伝にあると記した。
M1 90mm高射砲 歴史 第二次世界大戦前、アメリカの主要対空高射砲はM1918 3インチ砲(76.2mm L/50)であり、この口径の弾薬は同スケールの火砲に広く用いられていた。類似の兵器がイギリスやソ連にも存在した。これは運用中にいくつかアップグレードが施されており、実験的なT8およびT9型が1930年代に開発され1930年代末に配備される予定であった。 しかし、陸軍はこれではなくさらに効果的な兵器に関心を持つようになり、1938年6月9日に2種類の新型火砲の開発契約を発表した。それは片方は人力装填にて高い仰角を取らせることのできるギリギリの大きさである90mmと、もうひとつは装填補助装置を用いる120mmである。この新型は旧式の3インチの発展型であるT9 3インチ砲より優れていると考えられ、こちらは1938年ちょうどに生産準備に入るところであったがキャンセルされた。1940年、90mm砲の第二の発展型であるT2がM1 90mm高射砲として制式化されその従兄弟はM1 120mm高射砲となった。 数百のM1が完成したころ、いくつかの改良が加えられたM1A1 90mm砲が開発された。1940年後半に製造が開始され、1941年5月22日に制式化が認められた。このM1A1は砲架や砲尾のラマー(砲弾を砲へ押しこむ装置)に改良が加えられた結果、射撃速度が20発毎分に向上した。アメリカ参戦のころには数千門が運用可能であり、M1A1はアメリカ軍の標準的な対空砲として残りの戦争期間を戦い抜いた。月々の生産数はピーク時で数千門にもおよんだ。 ドイツ軍の88mm砲やイギリス軍のQF 3.7インチ高射砲のようにM1A1は対戦車戦闘に直面したが、他とは違い効果的な射撃ができなかった。1942年9月11日、陸軍は対戦車任務を可能な新型の砲架の開発を命令した結果、M2 90mm高射砲が完成した。同砲の新型砲架は10度の俯角をとることができ、また電動補助付きラマーも装備していた。 対空任務 この高射砲は通常は4門が連携して運用され、M7ないしM9高射指揮装置、またはケリソン指揮装置に管制された。レーダー管制はSCR-268によるものが1941年に開始され一般化し、砲と直接連動するには不充分であったが、交戦中ずっと正確な距離を把握することができた。夜間においてはサーチライトが広域に光線を放ち目標を光にさらしてレーダーを補助することで、昼間と同様に交戦を続けられるようにする。 1944年にこのシステムはSCR-584マイクロウェーブレーダーに更新され劇的に性能が向上した。これにより0.06度(1ミル)の精度と自動追尾機能を獲得した。SCR-584によって方位・距離をベル研究所開発のM3砲データコンピューターとM9管制装置に伝達し、それをもとに砲を目標に自動追尾させる。運用者は全員が砲架の上で作業する。 対戦車任務 装甲戦闘車両の主砲として試作されたT7がM3 90mm砲となった。試射は1943年初頭にM10駆逐戦車を載せ代えて行われた。この砲はM36ジャクソンやM26パーシング重戦車が装備した。 マズルブレーキを備えたT14、初速を975m毎秒に増加させたT15、それをさらに改良したT18、砲身短縮を試みたT19、装輪車両に搭載するT21やより大型の装薬を利用するためにM101 105mm榴弾砲の砲尾を利用したT22などM3を元にしたいくつかの試作派生型が開発された。これら派生型はどれも制式採用されなかった。 大戦後にT15はより高初速でタングステン砲弾を発射可能なT54として開発が続いた。このT54はM47およびM48パットン戦車、M56スコーピオン対戦車自走砲などの主力装備となった。 M1A1 1940年に生産が開始された高射砲。M8A1バネ式ラマーが特徴。発射速度毎分20発。 M2 完全な対地対空両用砲として再設計された。給弾方式は改良され、M20ラマー兼信管自動調定装置が備えられた。これにより射撃速度は毎分24発に向上した。また、10度の俯角を取らせることができるよう改良された。砲手を保護する大型の金属防盾も装着する。1943年5月13日に制式化。移動体勢から砲架の展開まで3分、完全射撃体勢まで7分で可能である。1944年からは近接信管も利用可能となった。 M3 対戦車砲型であり、M36やM26に搭載された。90mm L/53としても知られる。
福岡県道96号八女瀬高線 概要 起点から終点へ南西方向に向かう斜めルートである。八女市街や筑後市の船小屋地区が2車線整備されている他は全体を通じて1.5車線程度の幅員である。また、筑後市の船小屋地区では幅員改良された迂回道路と旧道いずれも県道96号として案内しているが筑後船小屋駅とつながる福岡県道724号船小屋停車場線交点で再度合流するようになっている。 2013年5月25日に開通した国道442号八女筑後バイパスの開通に伴い、起点付近の道路区画が変更されている。 筑後市の船小屋ルートを通るため、国道442号および国道209号の混雑回避にも利用できる。
エヤル・ヤニロブ エヤル・ヤニロブ(Eyal Yanilov、1959年 - )は、イスラエルの武道家で、クラヴ・マガの創始者イミ・リヒテンフェルドの後継者。イミ・リヒテンフェルドが弟子に与えた最高ランク(マスター三段・エキスパート八段)の保持者。 来歴 エヤルは1973年からクラヴ・マガを始めて、1980年代からはイミにもっとも信頼された弟子として活動していた。イミはエヤルを、クラヴマガ・プロフェッショナル委員会の委員長に指名し、1984年にはイミはエヤルをクラヴマガの書籍を編纂する責任者に任命した。また、1981年のアメリカでのクラヴマガ・インストラクターコース開講以来、エヤルは世界中でクラヴ・マガの指導を行うことになった。 1990年代、国際クラヴマガ連盟が設立され、エヤルは設立メンバーに名前を連ねた。1996年、エヤルはイミより、マスター三段、エキスパート八段を授けられた。また、イミより「創始者認定優秀証書」も授けられている。
石川敏夫 石川敏夫(いしかわ としお)は、東京都出身の洋画家。シュルレアリスムに傾倒した細密作品が特徴とされる。 出品略歴 昭和会展招待、東京セントラル美術館油絵大賞展、上野の森美術館絵画大賞展、彫刻の森美術館秀作展、一陽展、一陽会東京支部展、二科展、二科東京会展、銀座大賞展、日本風景美展、具象表現展、EAST MEETS WEST展(ニューヨーク)、ART EXPO NEW YORK招待(ニューヨーク)、Art San Diego (カルフォルニア)、日仏現代美術展(パリ、東京、大阪)、サロン・ドートンヌ展(パリ)、オートフィユ展(パリ)、北京首都芸術博覧会(北京)、JR上野駅展示、無限会展等出品。各地デパート等で個展。現在、一陽会会員、一陽会東京支部会員、ハプスブルグ芸術交友協会会員。
アリャクサンドル・ルィバーク 出自 ルィバークは、ソビエト連邦の白ロシア・ソビエト社会主義共和国の首都であるミンスクで生まれた。ルィバークは5歳のときにピアノとヴァイオリンを始めた。6歳のときにルィバークは家族とともにノルウェーに移住した。ルィバークは、当時好きだった楽器はヴァイオリンであると話している。ルィバークは「私の人生の20年間をエキサイティングなものにしたのは、ヴァイオリンだ」と語った。5歳のときから楽器を弾いていたルィバークは、ヴァイオリンとピアノを演奏できる。ルィーバクの母親ナタリア・ヴァレンティノヴナ・ルィバーク(Natalia Valentinovna Rybak)はクラシック音楽のピアニストであり、父親イーゴル・アレクサンドロヴィチ・ルィバーク(Igor Alexandrovich Rybak)は著名なクラシック音楽のヴァイオリニストで、ピンカス・ズーカーマンとも共演している。アリャクサンドル・ルィバークは「私は常に人を楽しませることが好きで、つまり、それが私の天職だ」と話している。ルィバークは、ノルウェーの首都オスロ郊外のNesoddenに居住している。 職歴 ルィバークはオスロのBarratt Due Institute of Musicにて10歳から教育を受けており、同期間の学士課程にあったが、ユーロビジョンでの成功を受けて休学していたが、現在は卒業している。ルィバークは2004年にはAnders Jahre文化賞を受賞した。2006年、ルィバークはタレント・オーディションKjempesjansenで優勝した。この大会はノルウェー放送協会(NRK)が主催したもので、ルィバークは自身が製作した楽曲「Foolin'」で大会に挑んだ。ルィバークはa-haのリード・シンガーモートン・ハルケットや、Arve Tellefsenなどとも共演したことがある。2007年、Oslo Nye Teaterの製作による「屋根の上のバイオリン弾き」でバイオリン弾きの役を演じた。この演技によって、ルィバークはHedda賞を受賞した。ルィバークは、Grete Salomonsen監督の映画『Yohan』でLeviの役を演じた。 ユーロビジョン2009 ルィバークは、ロシアのモスクワで行われたユーロビジョン・ソング・コンテストの2009年大会で、「Fairytale」を歌い、史上最高記録となる387得点を集めて優勝を果たした。楽曲はノルウェーの民俗音楽に着想を得たものであった。楽曲はルィバーク自身によって作詞・作曲された。楽曲は、ノルウェーの現代フォークダンスの会社Frikarの演技とともに披露された。楽曲は、ノルウェーの新聞Dagbladetにて6段階中最高の6とされ、好評を受けた。ESCtodayでは、準決勝から決勝に進んで欲しいアーティストの人気投票が行われ、ルィバークが参加した準決勝の組については71.3%がルィバークに投票した。 大会に先立って行われたノルウェー代表を選ぶ国内選考では、ノルウェー国内の9つの選挙区すべてでルィバークが首位となり、視聴者投票と審査員投票あわせて747,888得点を挙げ、次点のTone Damli Aabergeの121,856得点に大差をつけて優勝している。 ルィバークは準決勝を通過し、決勝への進出を決めた。決勝では、自国への投票ができないノルウェーを除く全ての国からルィバークに得点が与えられた。最終的に、2006年にローディが達成した292得点を大幅に上回り史上最高となる387得点を挙げ、次点のアイスランドに史上最高の得点差となる169点差をつけて優勝を果たした。
初風 (駆逐艦) 艦歴 陽炎型駆逐艦全19隻のうち、神戸川崎造船所で建造されたのは初風1隻である。 1937年(昭和12年)12月3日起工。1938年(昭和13年)9月20日、初風は姉妹艦2隻(親潮、夏潮)と共に命名された。同日附で、各艦(親潮、夏潮、初風、伊号第十八潜水艦、伊号第二十潜水艦、伊号第二十二潜水艦、第十一号掃海艇、第十二号掃海艇)は、それぞれ艦艇類別等級表に登録。 1939年(昭和14年)1月24日進水。同年11月15日附で高橋亀四郎中佐(吹雪型駆逐艦曙駆逐艦長)は初風の艤装員長に任命された。11月20日、初風艤装員事務所を設置。 1940年(昭和15年)1月20日、姉妹艦の雪風は竣工と共に佐世保から呉へ回航される。 1月27日附で第16駆逐隊(司令島崎利雄大佐)が編制された。初代司令駆逐艦は雪風。 初風は2月15日に竣工した。同日附で高橋中佐は本艦初代駆逐艦長となる。呉鎮守府籍。神戸から呉に移動して雪風に合流した。また黒潮は2月24日になり、大阪から呉に回航されている。 当初の第16駆逐隊は、陽炎型3番艦黒潮、陽炎型8番艦雪風、陽炎型9番艦初風で編制され、第二水雷戦隊に所属。10月11日に実施された紀元二千六百年記念行事に伴う紀元二千六百年特別観艦式では、初風は第16駆逐隊司令駆逐艦として式典に臨んだ。11月15日、黒潮は第15駆逐隊に編入されて16駆を離れたが、陽炎型9番艦天津風と陽炎型10番艦時津風が漸次16駆に編入される。 1941年(昭和16年)7月25日、島崎司令は軽巡川内艦長へ転任、渋谷紫郎大佐(前職第7駆逐隊司令)が第16駆逐隊新司令として着任した。第16駆逐隊は渋谷司令指揮下のもと、陽炎型4隻(初風、雪風、天津風、時津風)編成で開戦を迎えた。第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦神通)所属。同水雷戦隊は第8駆逐隊(朝潮、荒潮、大潮、満潮)、第15駆逐隊(親潮、黒潮、早潮、夏潮)、第16駆逐隊、第18駆逐隊(陽炎、不知火、《朝潮型駆逐艦:霞、霰》)から編制されており、15駆・16駆・18駆が陽炎型を主力としていた。だが第18駆逐隊は第一水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将:旗艦阿武隈)の指揮下に属して南雲機動部隊警戒隊となり、真珠湾攻撃に参加。16駆以下の二水戦各艦とは別行動であった。 沈没 11月2日、初風は軽巡洋艦/第十戦隊旗艦阿賀野の指揮下でブーゲンビル島沖海戦に参加、重巡妙高と衝突し、米艦隊の集中砲火を受けて沈没した。経過は以下の通り。 11月1日、連合艦隊は第五戦隊司令官大森仙太郎少将を指揮官とする連合襲撃隊を編制し、本隊(大森少将直率:第五戦隊《妙高、羽黒》)、第一警戒隊(第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将:川内〔旗艦〕、第27駆逐隊《時雨、五月雨、白露》)、第二警戒隊(十戦隊司令官大杉守一少将:阿賀野〔旗艦〕、駆逐艦《長波、初風、若月》)、輸送隊(指揮官山代勝守大佐:駆逐艦《天霧、文月、卯月、夕凪、水無月》)という戦力を揃える。連合襲撃隊はブーゲンビル島タロキナ岬に上陸したアメリカ軍に対し、逆上陸計画を企図していた。だが輸送隊の準備は遅れたこと、アメリカ軍機の触接を受けたことから逆上陸作戦は中止され、輸送隊はラバウルへ避退した。連合襲撃隊そのものは、アメリカ軍輸送船団を撃滅すべく進撃を続けた。一方のアメリカ軍は日本艦隊の接近を知ると、輸送船団を護るためアーロン・S・メリル少将率いる巡洋艦4隻・駆逐艦8隻の艦隊を派遣した。 11月2日00時45分、時雨の敵艦隊発見報告をきっかけに約2時間におよぶ夜戦がはじまった。当時の隊形は、主隊(妙高、羽黒)が中央、第一警戒隊(川内、時雨、白露、五月雨)が主隊左前方、第二警戒隊は(阿賀野、長波、初風、若月)の順番で主隊右前方を航行していた。最初に米艦隊と交戦したのは第一警戒隊で、主隊と第二警戒隊は回避行動に専念し、妙高と艦位を失った初風の衝突を招いた。妙高と初風の衝突時間は午前1時7分。 その後、主隊(妙高、羽黒)は午前1時16分に射撃を開始したが、時雨の報告から26分も経過しており、主隊と第二警戒隊(阿賀野、長波、若月)は戦局にまったく貢献できなかった。午前1時34分、大森司令官は『明日ノ敵機ノ来襲ヲ顧慮シ、全軍ニ対シ315度方向ニ避退スベキ』を電令して戦場からの離脱をはかり、米艦隊は敗走する日本艦隊を追撃する。艦首を失い、戦場に取り残されていた初風はアメリカ軍駆逐隊の集中砲火を浴び、午前2時57分に南緯06度00分 東経153度58分地点で沈没した。艦長以下164名が戦死した。川内は漂流したのち、午前5時30分に沈没した。翌朝、重巡羽黒からは僚艦妙高の前部左舷に初風の甲板がぶらさがっている光景が見られたという。目撃した羽黒の下士官は「初風の額の皮」という表現を使っている。 本海戦は2隻(川内、初風)を喪失した上に、アメリカ軍輸送船団の撃破に失敗した日本艦隊の完敗で終わり、阿賀野以下日本艦隊は11月2日午前9時以降、順次ラバウルへ帰投した。 12月6日、第16駆逐隊司令は島居大佐から古川文次大佐に交代する(島居は12月22日より軽巡龍田艦長。龍田沈没まで同職)。 駆逐艦初風は1944年(昭和19年)1月5日附で 不知火型駆逐艦、 帝国駆逐艦籍、 第16駆逐隊 のそれぞれから除籍された。初風の除籍から約2週間後の1月16日、第16駆逐隊僚艦の天津風が米潜水艦の雷撃で大破して長期離脱を余儀なくされ(古川第16駆逐隊司令戦死)、健在艦は雪風1隻となってしまった。3月31日附で第16駆逐隊は解隊され、雪風は陽炎型4隻編制の第17駆逐隊(磯風、谷風、浦風、浜風)に編入された。
木村実 来歴 桐光学園高校を経て東洋大学を卒業後、関東実業団の新生紙パルプ商事に入社。全日本社会人に2年連続で出場し、第3回(2007年)で準優勝となる。 2008年、クラブチームの横浜ギガスピリッツへ移籍。 2009年、ドラフト外で東京アパッチに入団。 2011年、横浜ビー・コルセアーズに移籍。2012-13シーズンbjリーグ優勝に貢献。 2013年オフ、岩手ビッグブルズに移籍。 2014年オフ、ライジング福岡に移籍。
岐阜県道63号美濃加茂和良線 概要 美濃加茂市太田町(加茂川町1交差点)を起点に、国道41号美濃加茂バイパスの側道として北に進む。JR高山本線の踏切を渡ると高山本線と長良川鉄道(越美南線)の間を西に200mほど進んで、北に方向を変えて、長良川鉄道の踏切を渡る。美濃加茂市蜂屋町、伊深町を経て、関市に入る。関市の神野交差点から若栗交差点までは岐阜県道58号関金山線と重複している。関市と合併した旧武儀郡武儀町、旧上之保村の中心部を通り、やがて郡上市八幡町野々倉地区に入る。野々倉地区は旧八幡町の中心部からはかなり離れている。野々倉地区からつづら折りを越えると旧和良村に入り、郡上市和良町三庫の国道256号が終点。 地理 途中、ゴルフ場が多く点在する。
イシマキガイ 特徴 貝殻はアマオブネガイ類に共通した半球形で、成貝は殻長25mmに達する。螺塔(巻き)は最高4階だが、殻頂部がカルシウムイオンに乏しい河川水によって侵蝕されボロボロになる。2cmほどの老成個体では体層のみになることも珍しくない。殻上面は艶のない緑褐色の殻皮に覆われ、細かい三角形の斑紋が並ぶ。この三角斑は1辺のみが太いので、同属のカノコガイ C. faba (2辺が太い)と区別できる。幼貝は淡い色帯が2-3本出たり三角斑が明瞭に出現したりもするが、成貝はこれらの模様も目立たなくなり、色彩変異は乏しい。 殻下面は黄褐色-緑褐色で、D字形の殻口周辺には滑層があるが、海産種やヒロクチカノコ Neritina(Neripteron) sp. ほどは広がらない。殻口奥は青白い。蓋は石灰質で淡黄褐色だが、外縁に赤い角質が露出し赤く縁取られたように見える。 生態 西太平洋沿岸の熱帯・温帯域に分布し、日本では本州中部以南の南日本で見られる。成貝は淡水・汽水生だが、両側回遊をするため小河川や離島の川でも見られる。 幼体や成体は河川の中流から河口域にかけて生息し、岩盤・転石・コンクリート護岸に付着する。同じ科のカノコガイやヒロクチカノコに比べて淡水の影響が強い区域に多く、汽水域のみならず純淡水域にも進出する。また水から遠く離れて出歩くことはなく、潮が引いた河口域では水が残った澪筋や転石下に集まる。産地によっては高密度で生息することがある。 岩石表面を這い、岩石に付着した微細藻類などの微生物が形成するバイオフィルムを歯舌で削り取って摂食する。淡水域ではカワニナなどと共にゲンジボタルやヘイケボタルの幼虫に捕食される。 生活史 成体は春から夏にかけて交尾し、メスは交尾後に岩石や他個体の殻表に直径1-2mm程度・扁平なドーム状・黄白色の卵嚢を産みつける。卵嚢の中には100個余りの卵が入っている。孵化したベリジャー幼生は海に流れ下り、植物プランクトンを摂食しつつ長期の浮遊生活に入る。充分成長したベリジャー幼生は河川の汽水域に遡上、着底後変態して幼貝となる。幼貝は黄褐色で模様も明瞭だが成長するにつれ黒味が増し模様が目立たなくなる。成長しながら河口を数km遡上したあたりの淡水域まで分布を広げるため、一般的には河川の上流に行くにつれ大型個体の割合が増える。 人間との関係 観賞魚水槽の美観を損ねる藻類除去、いわゆる「コケとり」用のタンクメイト(水槽同居動物)として盛んに利用されている。ただし両側回遊の生活史を営むため、一般家庭での飼育下における繁殖は困難である。
11:30 info DELI 放送時間 毎週月~木曜日 11:30~11:55
セロジネ 特徴 セロジネは東南アジアを中心に分布するラン科植物の群で、洋ランとして古くから栽培されてきた。大きな葉を持つ着生ランで、白っぽい花を穂状に垂らして咲くものがよく知られているが、形態的にはより多様である。 学名は「へこみ」と「女性」を意味する2語からなり、これは柱頭が深く凹んでいることに由来するとされる。学名の読みとしてはコエロギネも有力だが、園芸ではセロジネが定着している。 特徴 普通は樹上や岩の上に着生する常緑性の多年草。茎は捕捉横に這い、先端に偽鱗茎を生じる。偽鱗茎は肥厚した卵形などで、互いに接して生じるか、やや間を開ける。鱗茎の先端に1から4枚の葉をつける。葉は楕円形で、やや硬くて肉厚。 花は偽鱗茎の先端に葉の展開と共に出るものと、偽鱗茎の基部から出すものがある。花茎には1花を付けるものから総状に多数花を付けるものまであり、花茎は立ち上がるものから下垂するものまである。また蕾は長い苞葉に包まれる。花茎の花は一斉に開花するタイプと次々に開花しながら花茎が伸び続けるタイプがあり、後者では数年に渡って伸び続ける種もある。 花は小型ないし中型で色彩は白から緑が多いが赤みを帯びる種もある。唇弁には黄色や黒っぽい斑紋が入るものが多い。萼片は披針形から長楕円形、側花弁は萼片より幅が狭いものが多い。唇弁は三裂し、側裂片が蕊柱を包むように位置する。距はない。蕊柱は長くて側面に板状の突起がある。花粉塊は4個。 分布 スリランカからインド、インドネシアを経てフィージー諸島に渡る分布域がある。 分類 約150種が知られる。
宣材写真 宣材写真(せんざいしゃしん)は宣伝材料用写真(せんでんざいりょうようしゃしん)の略称である。 所属する芸能人等を売り出すために芸能事務所がクライアント向けに撮影する写真で、通常同じ服装でさまざまなポーズを撮影したものが複数カット用意される。芸能事務所がクライアントより仕事の依頼を受ける際や、芸能事務所自身による芸能人を売り出すための営業活動に使われる。 芸能事務所による売り出しの方向性が反映される点で、オーディションの際に参加者が履歴書とともに芸能事務所に提出する写真とは異なる。
プリンセス・ミチコ プリンセス・ミチコはバラの品種。フロリバンダ系の品種で、花の色は濃いオレンジ色。 1966年にイギリス(北アイルランド)のディクソン社(Dickson Nurseries Limited)から当時日本の皇太子妃だった上皇后美智子に献呈された。柔らかな香り、オレンジ色で丸みを帯びた花弁が特徴。 上皇后美智子の名を関したバラにはこのほかにエンプレスミチコがある。
BAN BAN BAN (曲) 背景 1年間限定という名目でスタートしたKUWATA BANDのデビューシングル。 ジャケットでは「Ban BAN Ban」と表記されており、オリコンチャートでもこの表記でチャートインしていた。しかし作品内の表記や曲表記は「BAN BAN BAN」となっており、オリコンでも再発盤発売時には正式なものに修正されている。ちなみに本作のジャケットでは、アーティスト名義も“Kuwata Band”と小文字の混じった表記になっている。 チャート成績 本作はデビューシングルにして、4枚のシングルで最大の売り上げを記録している。また、本作発売当時はおニャン子クラブ全盛期などでランキングは毎週入れ替わっていたが、本作はオリコンチャート13週連続TOP20入りを果たした。 オリコンチャートでは最高3位止まりだったが、TBS系音楽番組『ザ・ベストテン』では1位を記録し、通算5週にわたり1位を獲得した。また、同番組の年間チャートでも1位を記録している。年間ベストテン1位にてスタジオ出演した際には、1位を記念して、実際の演奏をゴールドディスクにライブ録音(演奏前には、司会者の「KUWATA BAND、年間ベストテン1位おめでとう!」とのメッセージ入り)し、ゴールドディスクはバンドにプレゼントされた。
共興村 村名の由来 共同興隆をねがって命名。現在は匝瑳市立共興小学校,共興郵便局等にその名をとどめる。
AMDA 特定非営利活動法人アムダ(AMDA、Association of Medical Doctors of Asia = 旧称・アジア医師連絡協議会)は、1984年に設立し岡山県岡山市北区伊福町に本部を置くNGO・国際医療ボランティア組織。 理事長は菅波茂。岡山県認証の特定非営利活動法人。 「アジア、アフリカ、中南米において戦争・自然災害・貧困等により社会的・経済的に恵まれず、社会から取り残されている人々への医療救援と、生活状態改善のための支援」を実施している。
マーガレット (スコットランド女王) 生涯 母マーガレットは娘の出産後間もなく死亡した 。父エイリーク2世はその後、のちのスコットランド王ロバート・ブルースの妹イザベルと再婚した。 1286年3月19日、祖父アレグザンダー3世が44歳で全ての子に先立たれたまま急死した。そこで長老・重臣たちは、アレグザンダー3世の血を引くマルグレーテ(マーガレット)に白羽の矢を立てた。こうして、わずか3歳のスコットランド初の女王が誕生したが、マーガレットはノルウェーの王宮にとどまったままだった。 隣国イングランドのエドワード1世(マーガレットの母方の大伯父にあたる)はスコットランド王位の継承権を狙って、4歳の王太子エドワード(後のエドワード2世)とマーガレットの結婚を迫った。スコットランドの長老・重臣たちにはこの要求をはねのけることができず、1290年3月に2人の結婚に同意することをエドワード1世に通知した。同年7月18日、スコットランド南部で結婚条件が取り決められたが、国境地帯にイングランド軍を配置するばかりか、スコットランドの王位継承権をイングランド側に移すという屈辱的な内容であった。 結婚のためスコットランドに渡ることになったマーガレットを乗せた船が、ノルウェーのベルゲンからスコットランドを目指した。途中で大時化に遭いながらも、船は9月26日にオークニー諸島へ到着した。しかし、マーガレットは極度の船酔いで亡くなった。わずか7歳であった。マーガレットの死によってスコットランドのアサル王朝は断絶し、ジョン・ベイリャルら13人の王位請求者が乱立する事態となった。 死から10年後の1300年、マーガレットを自称する偽マルグレーテがベルゲンに出現したが、ほどなく処刑された。
廈門駅 利用状況 鷹廈線、福廈線の終点であり、北京、上海等の各地へ始発列車があり、一日の発着する旅客列車は2010年5月現在各種別を含め80本を超える。2007年の出発旅客数は385.52万人、旅客収入は5.99億元であった。高崎駅(元廈門北駅・貨物駅)、集美駅、杏林駅及び前場駅の4駅を管轄する。 歴史 1956年12月19日、鷹廈線が完成し、本駅も建設された。次年の1957年1月6日に本駅に初めての列車である1本の貨物列車が上海から到着した。同年の4月12日に最初の旅客列車(客車列車)が到着し、三等客貨運総合駅として正式に営業を開始した。当時の駅面積は800m²で発着線は4本であった。1979年9月に本駅の拡張計画が鉄道部の認可を得た。次年の1980年5月に工事を開始し、1983年5月1日に使用開始した。新たな駅舎は4階建で、2つの待合ロビーと出札口、貸切及び貴賓待合室を含み建築面積は8,575m²である。1993年12月には鷹廈線の電化が本駅まで達した。1999年9月10日に一等旅客駅となり、2004年5月9日には南昌鉄路局直属の管轄となった。3本目のホームを増設する工事中である。2010年4月26日に福廈線が開業した。
西水橋町 地理 北側は富山湾に面する。
ミハイル・ボンダレンコ 前半生 1903年9月8日(ユリウス暦8月26日)、ロシア帝国ヘルソン県エリザヴェトグラードの鍛冶屋の家庭に生まれた。地元の高等小学校を卒業して1917年から鍛冶屋見習いとして働き始め、その後「エリヴォルティ」農機工場の旋盤工を務めた。 1919年末にコムソモールへ加盟し、同年から1922年まで工場のコムソモール文化部部長を務めた。1923年にはロシア共産党の党員候補となり、1925年1月に党員となった。1923年から翌1924年までは地元のクラブマネージャーとして働き、1925年から翌1926年までは党の工場委員会で煽動・宣伝部部長を勤めた。同年から翌1927年まではジノヴィエフスク管区 (uk) ソビエト執行委部長、同年から翌1928年まではウクライナ共産党コンパネーエフカ地区委書記、1929年には管区労組会議文化部部長、1930年には管区新聞編集者を歴任。同年から翌1931年までは、党ジノヴィエフスク市委文化・宣伝部部長を務めた。 しかし同年にはトビリシへ送られ、1933年まで全連邦共産党ザカフカース地方委煽動・大衆キャンペーン部部長および副部長に就いた(この頃、ラヴレンチー・ベリヤと協同)。1933年から翌1934年まではアゼルバイジャン共産党バクー市委組織部部長、同年から翌1935年まではアジズべコフ市委第一書記、同年から翌1936年まではシャウミャノフスク地区委第一書記を務め、1935年からはアゼルバイジャン共産党中央委員候補にもなった。1936年2月には「石油計画の順調な実施」に果たした役割を賞して労働赤旗勲章を授与されている。 ウクライナでの活動 しかしボンダレンコ自身はウクライナ人として祖国で働くことを望んでおり、同年にモスクワからハリコフでの勤務を打診された際には、これを了承した。そして12月4日から翌1937年7月まで、ボンダレンコはウクライナ共産党ハリコフ市委第二書記を務めた(実際には1936年10月から着任)。1937年7月から翌8月まではハリコフ州委第二書記に就いたが、大粛清の空席を埋める形で同月16日から翌9月までヴィーンニツァ州委第一書記を代行した。 8月30日に開催されたウクライナ共産党中央委 (uk) 総会において、ボンダレンコは他の出席者に同調し、人民委員会議議長パナス・リュプチェンコについて「反革命的民族主義組織への関与は完全に立証されており、疑いの余地は一切ない」と非難した。そして8月30日にリュプチェンコが自殺すると、党中央委幹部会によって同日ボンダレンコは後任の人民委員会議議長、そして党政治局員 (uk) に就けられた。 政府長としてボンダレンコは、「キエフ市のレーニン博物館 (ru) 建設について」(9月3日)、「1937年の綿の収穫について」(4日)、「馬の繁殖状況を改善するための措置について」(8日)、「ウクライナ果物トラストのウクライナ食品産業人民委員部への移管について」(21日)、「ウクライナの司法機関の施設および設備の提供について」(同日)、「地場産業人民委員部ハリコフ市木工所トラストの軽工業人民委員部への移管について」(25日)などの法令に署名し、また十月革命20周年記念式典へ向けた予算配分を指導した。その一方で、キエフのピオネール宮殿 (uk) に冠せられていたリュプチェンコの名を「人民の敵・反革命・民族主義者・スパイ」として削除させる決定にも関与した。 粛清 10月8日にボンダレンコは、人民委員会議と党中央委の合同決議に基づいてモスクワへ派遣されたが、13日に逮捕・投獄された。そして「石油産業で活動していた反ソビエト・トロツキズム・テロリズム・怠業組織」に加わっていた罪に問われた。ボンダレンコは「ソビエト権力の濫用と資本主義の回復を目的とするトロツキズム団体に1931年に徴募され、その中心人物であった」とされ、翌1938年1月27日にはウクライナ共産党政治局員を解任された。そして、翌2月8日に連邦最高裁軍事参議会の非公開審理によって資産没収および死刑の有罪判決を下され、10日にモスクワで処刑された。その後、ボンダレンコは1956年4月14日に名誉回復がなされた。
豆台風 豆台風(まめたいふう)は、暴風域などの大きさ(規模)が非常に小さい台風に対して用いられた名称。規模は小さいが中心気圧が低く暴風を伴うとして気象予報官に警戒された。正式な気象用語ではないが、大谷東平などの著名な気象学者によって研究され、1960年代までは一般にも知られた用語であったが、それ以降は台風の区分や定義の変更によりほとんど使用されなくなった。 名称の由来 1939年8月に関東地方に上陸した台風に対し、初めて「豆台風」の名称が用いられた。8月5日、中央気象台では関東の南東海上にあった大型の台風を警戒していたが、当日昼過ぎ、銚子の測候所から台風が上陸中との速報が入った。至急天気図を解析した結果、南東海上のものとは別の小さな台風が銚子に上陸したことがわかった。この時に中央気象台に勤務していた大谷東平らが新聞に「豆台風銚子に上陸」と発表し、その後広まったものである。大谷は、気象観測がはじまった明治時代から時折そのような台風が記録されていた事を著書で明らかにしている(例えば、『台風の話』岩波新書 1955年、等)。 定義 一般には1960年代頃まで、暴風雨の起こっている範囲は狭いが、中心気圧は低く風も強く、また大雨を伴う場合もあり、小さいからと言って油断できない台風と理解されていた。しかし、現在用いられている台風の定義がおおよそ確定したのは1951年であり、台風の主な統計もそこを基準にしているため、それ以前から用いられている豆台風の用語については厳密な定義はなく、51年以降も新たな定義付けは行なわれていない。 加藤茂数(かとう しげかず)は、『気象と災害』(1949年 三省堂)で、豆台風を直径200km以下の台風としているが、そこで言う直径が、暴風域か等圧線か或いは他のものであるかについては言及していない。1950年頃までは暴風域についても定義は明確ではなく、平均風速10m以上、20m以上などの値が用いられたし、大谷東平は『台風の話』においても、室戸台風の規模を示すのに平均風速5m以上の範囲を用いているという具合である。 従って、豆台風の基準は明確なものではなく、恣意的に規模の小さい台風を指すものと考えるべきであろう。ただし、伊勢湾台風以後、気象庁では台風の規模と強度に関する階級区分を設け、規模については1000hPaの等圧線の半径が100km未満の台風を「ごく小さい」と規定したが、新聞で報道された台風関連の記事の中では、この「ごく小さい」台風を豆台風と表現した事もある。台風における「小さい」・「弱い」などの表現は誤解を招いて警戒心を弱め、災害につながる等の理由で、2000年からはこうした用語は用いられなくなった。 豆台風という概念ができた要因の一つとして、特に第二次世界大戦以前は気象観測技術も体制も理論も不充分で、台風そのものへの理解が完全でなかった事が考えられる。と言うのは、特に第二次世界大戦後にアメリカ軍が飛行機によって直接かつ継続的に台風の観測を行なうようになって、台風の複雑な生態が明らかになり、その勢力と規模には決して強い相関関係があるのではない事実が明らかにされた。つまり、規模は小さいが強い勢力の台風もあれば規模は大きくとも勢力の弱い台風もあり、しかもそれらの間にも多数の移行型があって、豆台風が特殊なカテゴリーに属するものではない事が判明したが、それ以前はそうした事実がはっきりせず、豆台風という特別なものがあると考えられたものであろう。 戦前は気象観測体制が不充分であった点も、豆台風の存在を印象付けたと考えられる。当時は、海上の気象資料を得る手段は船舶からの通報のみであり、規模が余りに小さい台風が船の航路から離れた海域を進んで来た場合はその存在を知る事もできなかった。名称の由来の項で述べた通り、当時は豆台風の襲来を事前に察知する事は極めて難しく、ほとんどの場合に不意討ちの形で上陸したため、大きな被害を出す例がしばしば見られた。 発生原因 大谷東平は、気象予報官として幾つもの豆台風を観測した自身の経験や過去の記録を検証した上で、豆台風は台風の特殊な一群ではなく、通常の台風がその発生初期に取りうる普遍的な状態であろうとしている。すなわち、台風が発生し発達する時、中心気圧は急速に下っていくが、規模、例えば暴風域や1000hPaの等圧線の半径などはまだあまり大きくならず、狭い範囲に激しい暴風雨を伴うようになる。特に台風が日本のすぐ南の海上で発生した時には、規模が大きくなる前に接近・上陸する。それが豆台風として認識されるのであろうという事である。 上記のような第二次大戦後の観測成果の充実によって、大谷のこの考えは大筋で正しい事がわかっている。個々の台風によって違いはあるが、多くの場合は中心気圧の低下が先行し、規模の拡大は気圧の極小を過ぎてから起こる。ただし、まれに暴風域等が極めて小さいまま衰弱・消滅する例もある。1973年の台風17号は、最盛期には中心気圧が895hPaまで達したが(『気象年鑑』1975年版)、暴風域は半径90km(当時のNHK第二放送の気象通報による)に過ぎず、そのまま衰えて消滅に至った。また、1950年には北太平洋高気圧の軸が非常に北に偏ったため、台風の発生海域も平年より緯度にして10度くらい北偏したが、そこでできた多くの台風が小規模・未成熟なままで日本に接近・上陸し、結果として豆台風の多発が見られた。
PEARL (アルバム) 概要 全曲、Joey Carboneとの共作で行った、新生PEARLとしての初のリリース作品は最大のヒット・アルバムとなった。「虚ろなリアル 〜Lay your hands on me, baby〜」は後に、リカットされる。
腔腸動物 概要 クラゲの仲間である刺胞動物とクシクラゲの仲間である有櫛動物は、厚い間充織と胃水管系(腔腸)を持つクラゲ型成体の存在や、体腔を持たないこと、呼吸器や排泄器を欠くことなど、共通の特徴を持つ。そのため、これらの動物を腔腸動物と呼び、1つの動物門とする立場が伝統的であった。腔腸動物のうち刺胞を持つものを有刺胞類、持たないものを無刺胞類として、2つの亜門に分類されていた。(腔腸動物が1847年にロイカートにより提唱されたときには、海綿動物も含まれていた)。 ところが、有刺胞類(刺胞動物)と無刺胞類(有櫛動物)の間には大きな違いがある。刺胞動物は上皮細胞が筋肉の役割を兼ねた上皮筋細胞となり、1つの細胞に1本の繊毛があるが、有櫛動物の上皮細胞は多繊毛性で、筋肉細胞は上皮細胞とは別に中胚葉から生じる。刺胞動物は刺胞、有櫛動物は膠胞を持つが、これらは全く異なるものである。刺胞動物では複数の感覚器が放射状に並ぶが、有櫛動物は感覚器を1つしか持たない。有櫛動物の触手は櫛状だが、刺胞動物にそのような触手を持つものはいない。発生学的には、有櫛動物は決定性卵割を行うが刺胞動物はそうではない。分子系統学からは、刺胞動物と有櫛動物が単系統であることを疑う知見が得られた。 これらの知見に基づき、刺胞動物と有櫛動物はそれぞれ独立の門とされるようになり、腔腸動物としてまとめられることは少なくなった。腔腸動物という語は有櫛動物を含む分類群ではなく、刺胞動物の別名として用いられることがある。
プライド (U2の曲) 解説 Warツアーのハワイ公演のサウンドチェックの際に曲の原型が出来上がり、サウンド・エンジニアのジョー・オハーリーが録音していたものを「The Unforgettable Fire」セッションの際に持ち出して、手を加えた。 当初、歌詞は強硬な外交政策を採ってリベラル層から反感を買っていたアメリカ大統領ロナルド・レーガンを批判する内容だったが(「Pride」とはレーガンの傲慢なプライドの意味だった)、上手くいかなかった。「僕はある賢者の言葉を思い出した。『光で闇と戦おうとするな。ただ光を照らせ』とね。僕はレーガンを過大評価していたんだ」とボノは語った。その後、ボノはシカゴ平和博物館を訪れ、広島・長崎の原爆被害者が書いた絵とマーチン・ルーサー・キングの展示会を見てインスピレーションを受け、さらにキングとマルコムXの伝記を読んで、市民運動や暴力と非暴力を曲のテーマにすることを思いついた。そのアイデアを初めて聞いたとき、エッジは、アイルランドでは暴力が日常沙汰なのに非暴力をテーマにするなんてU2に相応しくないと思ったのだが、ボノが歌ってみせるとすぐに気に入り、その方向性で曲作りを進めることにした。 「俺が……平和の体現者たちに興味を持つのは、自分が彼らのような人間ではなく、でも彼らのようになりたいと願っているからなんだ。実生活では僕は決して『もし右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい』なんて男じゃない」 「自分が感情的になりやすいのにはうんざりするね。高い理想や大望についても歌っているし、マーティン・ルーサー・キング牧師とかジョン・ヒュームとか、平和主義者の人々に憧れてもいるのに……俺ときたら、暴力的なことだってやりかねない人間なんだ。自分の中でそういう感情が頭をもたげて、抑えきれずに誰かを殴ったら最低じゃないか」 — ボノ しかし、ボノは歌詞の出来には満足しておらず、後年、未完成に終わった「Bad」の歌詞とともに「単なるスケッチだ」と言い、「素晴らしい曲だとは思うけれど、一体なんの曲なんだい? ただ母音を連ねて偉大な人物を描写しているだけじゃないか。感覚的には素晴らしいアートだろう……もしも英語を話せれなければだけれどね」と腐している。 共作者のエッジもイーノもラノワも「感覚的」な人間で、歌詞にあまり重きを置いていなかった。しかも、実際キングが暗殺された時刻は午後6時にもかかわらず、歌詞は「Early morning, April 4」と誤って記されており、そのためライブでは「Early evening」と歌い直すこととなった。 レコーディングは困難を極め、特にコーラスが上手く行かなかったのだが、ちょうどダブリンをライブで訪れていたプリテンダーズのクリッシー・ハインドがバッキング・ボーカルを入れ、ようやく完成に漕ぎ着けた。なお、クリッシーは当時シンプル・マインズのジム・カーと結婚していたため、クレジットでは"Mrs. Christine Kerr"と記されている。 ブライアン・イーノは終始「Pride」(と「The Unforgettable Fire」)には関心を示さなかったが、レコーディング中にスタジオを訪れたスティーヴ・リリーホワイトは、 「『プライド』がある限り、君たちは大丈夫だ」とメンバーを励まし、実際にはU2の代表曲となった。後年、ボノは「僕たちが書いた中でもっとも成功したポップソングだ」と語っている。「僕は『ポップ』という言葉をもっともポジティブな意味で使っている。僕にとってポップとはわかりやすいということだ。聴けば、すぐに理解できる。本能で理解できるんだ。多くのアルバムは全然そんなんじゃないよ」と。 なお、キングの未亡人コレッタ・スコット・キングは、この曲がリリースされると、U2をアトランタのマーチン・ルーサー・キング・センターに招待、84年のアメリカ・ツアーの際にメンバーは訪れた。 B面 「Boomerang I」「Boomerang II」 「I」がインスト曲で、「II」がヴォーカル曲。アフリカ音楽を採り入れたTalking Headsと一緒に仕事をしたイーノのプロデュースということで、アフリカ音楽の影響を受けた曲である。ラノワがベース、イーノがキーボードを弾いている。素材以上のものではないが、B面曲には最適というのがエッジの感想である。 「The Unforgettable Fire」のデラックス・エディション収録。 ライブ 「Pride」はライブの定番曲で、「I Will Follow」に次いで2番目にライブで演奏された回数の多い曲である。曲の終盤では、バンドは時に演奏を止めて、観客に最後のコーラスを歌わせている。また、ライブにスクリーンが導入されてからは、スクリーンにキングの映像を映すことが多くなった。 09年1月18日のバラク・オバマ大統領の就任を祝賀して行われたコンサート『ウィ・アー・ワン:オバマ就任祝典』では、U2は「Pride」と「City Of Blinding Lights」を歌った。曲の最後、ボノは観客にキングの夢を問いかけた。その夢をイスラエル・パレスチナ問題に結びつけて、「イスラエル人の夢でもあり、パレスチナ人の夢でもある」と言った後、「アメリカ人だけの夢ではない。アイルランド人の夢でもあり、ヨーロッパ人の夢でもあり、アフリカ人の夢でもある」と言い、最後に「自由の鐘を鳴らせ! 自由の鐘を鳴らせ! 自由の鐘を鳴らせ! すべての村に、すべての部落に、すべての国に、すべての町に。自由の鐘を鳴らせ!」という有名なキングの「I Have a Dream」の演説の一節で締めくくった。 しかし、ファンサイトのアンケートでは「ライブから外して欲しい曲」1位となっている。
PFCナフバホール・ナマンガン 歴史 クラブの歴史は1974年に「テクスティルシュチク (Tekstilshchik, ロシア語: Текстильщик)」というクラブ名で始まる。1978年以降、ソビエト連邦サッカーリーグのウズベキスタン地区リーグ (3部)に所属していた。1989年、ナフバホールはソビエト連邦リーグ2部へと昇格し、1991年には9位という成績を残した。 ウズベキスタンが独立を果たした1992年以降、クラブはウズベク・リーグに参加している。ナフバホールはFCブニョドコル、ネフチ・フェルガナと並び、2部に降格していない3つのクラブの一つである。1996年、ナフバホール・ナマンガンはウズベク・リーグで初優勝を果たした。また、1999年にはウズベキスタン・スーパーカップでも優勝を果たしている。 2004年シーズンの3位を最後に、クラブはウズベク・リーグでは良い成績を残せずにいる。2009年シーズンには16チーム中14位に沈み、下位2チームの降格枠を危うく免れている。