The full dataset viewer is not available (click to read why). Only showing a preview of the rows.
The dataset generation failed
Error code: DatasetGenerationError
Exception: TypeError
Message: Couldn't cast array of type
struct<annotated_speaker: string, candidates: list<item: string>, context: string, dialogue: string, dialogue_id: int64, quatation_type: string>
to
{'annotated_speaker': Value(dtype='string', id=None), 'context': Value(dtype='string', id=None), 'dialogue': Value(dtype='string', id=None), 'dialogue_id': Value(dtype='int64', id=None), 'quotation_type': Value(dtype='string', id=None)}
Traceback: Traceback (most recent call last):
File "/src/services/worker/.venv/lib/python3.9/site-packages/datasets/builder.py", line 1870, in _prepare_split_single
writer.write_table(table)
File "/src/services/worker/.venv/lib/python3.9/site-packages/datasets/arrow_writer.py", line 622, in write_table
pa_table = table_cast(pa_table, self._schema)
File "/src/services/worker/.venv/lib/python3.9/site-packages/datasets/table.py", line 2292, in table_cast
return cast_table_to_schema(table, schema)
File "/src/services/worker/.venv/lib/python3.9/site-packages/datasets/table.py", line 2245, in cast_table_to_schema
arrays = [
File "/src/services/worker/.venv/lib/python3.9/site-packages/datasets/table.py", line 2246, in <listcomp>
cast_array_to_feature(
File "/src/services/worker/.venv/lib/python3.9/site-packages/datasets/table.py", line 1795, in wrapper
return pa.chunked_array([func(chunk, *args, **kwargs) for chunk in array.chunks])
File "/src/services/worker/.venv/lib/python3.9/site-packages/datasets/table.py", line 1795, in <listcomp>
return pa.chunked_array([func(chunk, *args, **kwargs) for chunk in array.chunks])
File "/src/services/worker/.venv/lib/python3.9/site-packages/datasets/table.py", line 2108, in cast_array_to_feature
raise TypeError(f"Couldn't cast array of type\n{_short_str(array.type)}\nto\n{_short_str(feature)}")
TypeError: Couldn't cast array of type
struct<annotated_speaker: string, candidates: list<item: string>, context: string, dialogue: string, dialogue_id: int64, quatation_type: string>
to
{'annotated_speaker': Value(dtype='string', id=None), 'context': Value(dtype='string', id=None), 'dialogue': Value(dtype='string', id=None), 'dialogue_id': Value(dtype='int64', id=None), 'quotation_type': Value(dtype='string', id=None)}
The above exception was the direct cause of the following exception:
Traceback (most recent call last):
File "/src/services/worker/src/worker/job_runners/config/parquet_and_info.py", line 1438, in compute_config_parquet_and_info_response
parquet_operations = convert_to_parquet(builder)
File "/src/services/worker/src/worker/job_runners/config/parquet_and_info.py", line 1050, in convert_to_parquet
builder.download_and_prepare(
File "/src/services/worker/.venv/lib/python3.9/site-packages/datasets/builder.py", line 924, in download_and_prepare
self._download_and_prepare(
File "/src/services/worker/.venv/lib/python3.9/site-packages/datasets/builder.py", line 1000, in _download_and_prepare
self._prepare_split(split_generator, **prepare_split_kwargs)
File "/src/services/worker/.venv/lib/python3.9/site-packages/datasets/builder.py", line 1741, in _prepare_split
for job_id, done, content in self._prepare_split_single(
File "/src/services/worker/.venv/lib/python3.9/site-packages/datasets/builder.py", line 1897, in _prepare_split_single
raise DatasetGenerationError("An error occurred while generating the dataset") from e
datasets.exceptions.DatasetGenerationError: An error occurred while generating the datasetNeed help to make the dataset viewer work? Make sure to review how to configure the dataset viewer, and open a discussion for direct support.
book_id
string | dialogue_ids
int64 | dialogue_data
dict |
|---|---|---|
052410
| 3
|
{
"annotated_speaker": "漁夫",
"context": "<s> 黄巾賊\n\n一\n\n 後漢の建寧元年のころ。\n 今から約千七百八十年ほど前のことである。\n 一人の旅人があった。\n 腰に、一剣を佩いているほか、身なりはいたって見すぼらしいが、眉は秀で、唇は紅く、とりわけ聡明そうな眸や、豊かな頬をしていて、つねにどこかに微笑をふくみ、総じて賤しげな容子がなかった。\n 年の頃は二十四、五。\n 草むらの中に、ぽつねんと坐って、膝をかかえこんでいた。\n 悠久と水は行く――\n 微風は爽やかに鬢をなでる。\n 涼秋の八月だ。\n そしてそこは、黄河の畔の――黄土層の低い断り岸であった。\n「おーい」\n 誰か河でよんだ。\n「――そこの若い者ウ。なにを見ているんだい。いくら待っていても、そこは渡し舟の着く所じゃないぞ」\n 小さな漁船から漁夫がいうのだった。\n 青年は笑くぼを送って、\n「ありがとう」と、少し頭を下げた。\n 漁船は、下流へ流れ去った。けれど青年は、同じ所に、同じ姿をしていた。膝をかかえて坐ったまま遠心的な眼をうごかさなかった。\n「おい、おい、旅の者」\n こんどは、後ろを通った人間が呼びかけた。近村の百姓であろう。ひとりは鶏の足をつかんでさげ、ひとりは農具をかついでいた。\n「――そんな所で、今朝からなにを待っているんだね。このごろは、黄巾賊とかいう悪徒が立ち廻るからな。役人衆に怪しまれるぞよ」\n 青年は、振りかえって、\n「はい、どうも」\n おとなしい会釈をかえした。\n けれどなお、腰を上げようとはしなかった。\n そして、幾千万年も、こうして流れているのかと思われる黄河の水を、飽かずに眺めていた。\n(――どうしてこの河の水は、こんなに黄色いのか?)\n 汀の水を、仔細に見ると、それは水その物が黄色いのではなく、砥石を粉にくだいたような黄色い沙の微粒が、水に混じっていちめんにおどっているため、濁って見えるのであった。\n「ああ……、この土も」\n 青年は、大地の土を、一つかみ掌に掬った。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。\n 支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜の沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。\n「わたしのご先祖も、この河を下って……」\n 彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。\n 支那を拓いた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族という未開人を追って、農業を拓き、産業を興し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺",
"dialogue": "おーい",
"dialogue_id": 3,
"quotation_type": "i"
}
|
052410
| 4
|
{
"annotated_speaker": "漁夫",
"context": "<s> 黄巾賊\n\n一\n\n 後漢の建寧元年のころ。\n 今から約千七百八十年ほど前のことである。\n 一人の旅人があった。\n 腰に、一剣を佩いているほか、身なりはいたって見すぼらしいが、眉は秀で、唇は紅く、とりわけ聡明そうな眸や、豊かな頬をしていて、つねにどこかに微笑をふくみ、総じて賤しげな容子がなかった。\n 年の頃は二十四、五。\n 草むらの中に、ぽつねんと坐って、膝をかかえこんでいた。\n 悠久と水は行く――\n 微風は爽やかに鬢をなでる。\n 涼秋の八月だ。\n そしてそこは、黄河の畔の――黄土層の低い断り岸であった。\n「おーい」\n 誰か河でよんだ。\n「――そこの若い者ウ。なにを見ているんだい。いくら待っていても、そこは渡し舟の着く所じゃないぞ」\n 小さな漁船から漁夫がいうのだった。\n 青年は笑くぼを送って、\n「ありがとう」と、少し頭を下げた。\n 漁船は、下流へ流れ去った。けれど青年は、同じ所に、同じ姿をしていた。膝をかかえて坐ったまま遠心的な眼をうごかさなかった。\n「おい、おい、旅の者」\n こんどは、後ろを通った人間が呼びかけた。近村の百姓であろう。ひとりは鶏の足をつかんでさげ、ひとりは農具をかついでいた。\n「――そんな所で、今朝からなにを待っているんだね。このごろは、黄巾賊とかいう悪徒が立ち廻るからな。役人衆に怪しまれるぞよ」\n 青年は、振りかえって、\n「はい、どうも」\n おとなしい会釈をかえした。\n けれどなお、腰を上げようとはしなかった。\n そして、幾千万年も、こうして流れているのかと思われる黄河の水を、飽かずに眺めていた。\n(――どうしてこの河の水は、こんなに黄色いのか?)\n 汀の水を、仔細に見ると、それは水その物が黄色いのではなく、砥石を粉にくだいたような黄色い沙の微粒が、水に混じっていちめんにおどっているため、濁って見えるのであった。\n「ああ……、この土も」\n 青年は、大地の土を、一つかみ掌に掬った。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。\n 支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜の沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。\n「わたしのご先祖も、この河を下って……」\n 彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。\n 支那を拓いた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族という未開人を追って、農業を拓き、産業を興し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。",
"dialogue": "――そこの若い者ウ。なにを見ているんだい。いくら待っていても、そこは渡し舟の着く所じゃないぞ",
"dialogue_id": 4,
"quotation_type": "e"
}
|
052410
| 5
|
{
"annotated_speaker": "劉備",
"context": "<s> 黄巾賊\n\n一\n\n 後漢の建寧元年のころ。\n 今から約千七百八十年ほど前のことである。\n 一人の旅人があった。\n 腰に、一剣を佩いているほか、身なりはいたって見すぼらしいが、眉は秀で、唇は紅く、とりわけ聡明そうな眸や、豊かな頬をしていて、つねにどこかに微笑をふくみ、総じて賤しげな容子がなかった。\n 年の頃は二十四、五。\n 草むらの中に、ぽつねんと坐って、膝をかかえこんでいた。\n 悠久と水は行く――\n 微風は爽やかに鬢をなでる。\n 涼秋の八月だ。\n そしてそこは、黄河の畔の――黄土層の低い断り岸であった。\n「おーい」\n 誰か河でよんだ。\n「――そこの若い者ウ。なにを見ているんだい。いくら待っていても、そこは渡し舟の着く所じゃないぞ」\n 小さな漁船から漁夫がいうのだった。\n 青年は笑くぼを送って、\n「ありがとう」と、少し頭を下げた。\n 漁船は、下流へ流れ去った。けれど青年は、同じ所に、同じ姿をしていた。膝をかかえて坐ったまま遠心的な眼をうごかさなかった。\n「おい、おい、旅の者」\n こんどは、後ろを通った人間が呼びかけた。近村の百姓であろう。ひとりは鶏の足をつかんでさげ、ひとりは農具をかついでいた。\n「――そんな所で、今朝からなにを待っているんだね。このごろは、黄巾賊とかいう悪徒が立ち廻るからな。役人衆に怪しまれるぞよ」\n 青年は、振りかえって、\n「はい、どうも」\n おとなしい会釈をかえした。\n けれどなお、腰を上げようとはしなかった。\n そして、幾千万年も、こうして流れているのかと思われる黄河の水を、飽かずに眺めていた。\n(――どうしてこの河の水は、こんなに黄色いのか?)\n 汀の水を、仔細に見ると、それは水その物が黄色いのではなく、砥石を粉にくだいたような黄色い沙の微粒が、水に混じっていちめんにおどっているため、濁って見えるのであった。\n「ああ……、この土も」\n 青年は、大地の土を、一つかみ掌に掬った。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。\n 支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜の沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。\n「わたしのご先祖も、この河を下って……」\n 彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。\n 支那を拓いた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族という未開人を追って、農業を拓き、産業を興し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で",
"dialogue": "ありがとう",
"dialogue_id": 5,
"quotation_type": "e"
}
|
052410
| 6
|
{
"annotated_speaker": "百姓",
"context": "<s> 黄巾賊\n\n一\n\n 後漢の建寧元年のころ。\n 今から約千七百八十年ほど前のことである。\n 一人の旅人があった。\n 腰に、一剣を佩いているほか、身なりはいたって見すぼらしいが、眉は秀で、唇は紅く、とりわけ聡明そうな眸や、豊かな頬をしていて、つねにどこかに微笑をふくみ、総じて賤しげな容子がなかった。\n 年の頃は二十四、五。\n 草むらの中に、ぽつねんと坐って、膝をかかえこんでいた。\n 悠久と水は行く――\n 微風は爽やかに鬢をなでる。\n 涼秋の八月だ。\n そしてそこは、黄河の畔の――黄土層の低い断り岸であった。\n「おーい」\n 誰か河でよんだ。\n「――そこの若い者ウ。なにを見ているんだい。いくら待っていても、そこは渡し舟の着く所じゃないぞ」\n 小さな漁船から漁夫がいうのだった。\n 青年は笑くぼを送って、\n「ありがとう」と、少し頭を下げた。\n 漁船は、下流へ流れ去った。けれど青年は、同じ所に、同じ姿をしていた。膝をかかえて坐ったまま遠心的な眼をうごかさなかった。\n「おい、おい、旅の者」\n こんどは、後ろを通った人間が呼びかけた。近村の百姓であろう。ひとりは鶏の足をつかんでさげ、ひとりは農具をかついでいた。\n「――そんな所で、今朝からなにを待っているんだね。このごろは、黄巾賊とかいう悪徒が立ち廻るからな。役人衆に怪しまれるぞよ」\n 青年は、振りかえって、\n「はい、どうも」\n おとなしい会釈をかえした。\n けれどなお、腰を上げようとはしなかった。\n そして、幾千万年も、こうして流れているのかと思われる黄河の水を、飽かずに眺めていた。\n(――どうしてこの河の水は、こんなに黄色いのか?)\n 汀の水を、仔細に見ると、それは水その物が黄色いのではなく、砥石を粉にくだいたような黄色い沙の微粒が、水に混じっていちめんにおどっているため、濁って見えるのであった。\n「ああ……、この土も」\n 青年は、大地の土を、一つかみ掌に掬った。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。\n 支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜の沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。\n「わたしのご先祖も、この河を下って……」\n 彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。\n 支那を拓いた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族という未開人を追って、農業を拓き、産業を興し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているの",
"dialogue": "おい、おい、旅の者",
"dialogue_id": 6,
"quotation_type": "e"
}
|
052410
| 7
|
{
"annotated_speaker": "百姓",
"context": "<s> 黄巾賊\n\n一\n\n 後漢の建寧元年のころ。\n 今から約千七百八十年ほど前のことである。\n 一人の旅人があった。\n 腰に、一剣を佩いているほか、身なりはいたって見すぼらしいが、眉は秀で、唇は紅く、とりわけ聡明そうな眸や、豊かな頬をしていて、つねにどこかに微笑をふくみ、総じて賤しげな容子がなかった。\n 年の頃は二十四、五。\n 草むらの中に、ぽつねんと坐って、膝をかかえこんでいた。\n 悠久と水は行く――\n 微風は爽やかに鬢をなでる。\n 涼秋の八月だ。\n そしてそこは、黄河の畔の――黄土層の低い断り岸であった。\n「おーい」\n 誰か河でよんだ。\n「――そこの若い者ウ。なにを見ているんだい。いくら待っていても、そこは渡し舟の着く所じゃないぞ」\n 小さな漁船から漁夫がいうのだった。\n 青年は笑くぼを送って、\n「ありがとう」と、少し頭を下げた。\n 漁船は、下流へ流れ去った。けれど青年は、同じ所に、同じ姿をしていた。膝をかかえて坐ったまま遠心的な眼をうごかさなかった。\n「おい、おい、旅の者」\n こんどは、後ろを通った人間が呼びかけた。近村の百姓であろう。ひとりは鶏の足をつかんでさげ、ひとりは農具をかついでいた。\n「――そんな所で、今朝からなにを待っているんだね。このごろは、黄巾賊とかいう悪徒が立ち廻るからな。役人衆に怪しまれるぞよ」\n 青年は、振りかえって、\n「はい、どうも」\n おとなしい会釈をかえした。\n けれどなお、腰を上げようとはしなかった。\n そして、幾千万年も、こうして流れているのかと思われる黄河の水を、飽かずに眺めていた。\n(――どうしてこの河の水は、こんなに黄色いのか?)\n 汀の水を、仔細に見ると、それは水その物が黄色いのではなく、砥石を粉にくだいたような黄色い沙の微粒が、水に混じっていちめんにおどっているため、濁って見えるのであった。\n「ああ……、この土も」\n 青年は、大地の土を、一つかみ掌に掬った。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。\n 支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜の沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。\n「わたしのご先祖も、この河を下って……」\n 彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。\n 支那を拓いた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族という未開人を追って、農業を拓き、産業を興し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、��",
"dialogue": "――そんな所で、今朝からなにを待っているんだね。このごろは、黄巾賊とかいう悪徒が立ち廻るからな。役人衆に怪しまれるぞよ",
"dialogue_id": 7,
"quotation_type": "i"
}
|
052410
| 8
|
{
"annotated_speaker": "劉備",
"context": "<s> 黄巾賊\n\n一\n\n 後漢の建寧元年のころ。\n 今から約千七百八十年ほど前のことである。\n 一人の旅人があった。\n 腰に、一剣を佩いているほか、身なりはいたって見すぼらしいが、眉は秀で、唇は紅く、とりわけ聡明そうな眸や、豊かな頬をしていて、つねにどこかに微笑をふくみ、総じて賤しげな容子がなかった。\n 年の頃は二十四、五。\n 草むらの中に、ぽつねんと坐って、膝をかかえこんでいた。\n 悠久と水は行く――\n 微風は爽やかに鬢をなでる。\n 涼秋の八月だ。\n そしてそこは、黄河の畔の――黄土層の低い断り岸であった。\n「おーい」\n 誰か河でよんだ。\n「――そこの若い者ウ。なにを見ているんだい。いくら待っていても、そこは渡し舟の着く所じゃないぞ」\n 小さな漁船から漁夫がいうのだった。\n 青年は笑くぼを送って、\n「ありがとう」と、少し頭を下げた。\n 漁船は、下流へ流れ去った。けれど青年は、同じ所に、同じ姿をしていた。膝をかかえて坐ったまま遠心的な眼をうごかさなかった。\n「おい、おい、旅の者」\n こんどは、後ろを通った人間が呼びかけた。近村の百姓であろう。ひとりは鶏の足をつかんでさげ、ひとりは農具をかついでいた。\n「――そんな所で、今朝からなにを待っているんだね。このごろは、黄巾賊とかいう悪徒が立ち廻るからな。役人衆に怪しまれるぞよ」\n 青年は、振りかえって、\n「はい、どうも」\n おとなしい会釈をかえした。\n けれどなお、腰を上げようとはしなかった。\n そして、幾千万年も、こうして流れているのかと思われる黄河の水を、飽かずに眺めていた。\n(――どうしてこの河の水は、こんなに黄色いのか?)\n 汀の水を、仔細に見ると、それは水その物が黄色いのではなく、砥石を粉にくだいたような黄色い沙の微粒が、水に混じっていちめんにおどっているため、濁って見えるのであった。\n「ああ……、この土も」\n 青年は、大地の土を、一つかみ掌に掬った。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。\n 支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜の沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。\n「わたしのご先祖も、この河を下って……」\n 彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。\n 支那を拓いた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族という未開人を追って、農業を拓き、産業を興し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持",
"dialogue": "はい、どうも",
"dialogue_id": 8,
"quotation_type": "e"
}
|
052410
| 9
|
{
"annotated_speaker": "劉備",
"context": "<s> 黄巾賊\n\n一\n\n 後漢の建寧元年のころ。\n 今から約千七百八十年ほど前のことである。\n 一人の旅人があった。\n 腰に、一剣を佩いているほか、身なりはいたって見すぼらしいが、眉は秀で、唇は紅く、とりわけ聡明そうな眸や、豊かな頬をしていて、つねにどこかに微笑をふくみ、総じて賤しげな容子がなかった。\n 年の頃は二十四、五。\n 草むらの中に、ぽつねんと坐って、膝をかかえこんでいた。\n 悠久と水は行く――\n 微風は爽やかに鬢をなでる。\n 涼秋の八月だ。\n そしてそこは、黄河の畔の――黄土層の低い断り岸であった。\n「おーい」\n 誰か河でよんだ。\n「――そこの若い者ウ。なにを見ているんだい。いくら待っていても、そこは渡し舟の着く所じゃないぞ」\n 小さな漁船から漁夫がいうのだった。\n 青年は笑くぼを送って、\n「ありがとう」と、少し頭を下げた。\n 漁船は、下流へ流れ去った。けれど青年は、同じ所に、同じ姿をしていた。膝をかかえて坐ったまま遠心的な眼をうごかさなかった。\n「おい、おい、旅の者」\n こんどは、後ろを通った人間が呼びかけた。近村の百姓であろう。ひとりは鶏の足をつかんでさげ、ひとりは農具をかついでいた。\n「――そんな所で、今朝からなにを待っているんだね。このごろは、黄巾賊とかいう悪徒が立ち廻るからな。役人衆に怪しまれるぞよ」\n 青年は、振りかえって、\n「はい、どうも」\n おとなしい会釈をかえした。\n けれどなお、腰を上げようとはしなかった。\n そして、幾千万年も、こうして流れているのかと思われる黄河の水を、飽かずに眺めていた。\n(――どうしてこの河の水は、こんなに黄色いのか?)\n 汀の水を、仔細に見ると、それは水その物が黄色いのではなく、砥石を粉にくだいたような黄色い沙の微粒が、水に混じっていちめんにおどっているため、濁って見えるのであった。\n「ああ……、この土も」\n 青年は、大地の土を、一つかみ掌に掬った。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。\n 支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜の沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。\n「わたしのご先祖も、この河を下って……」\n 彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。\n 支那を拓いた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族という未開人を追って、農業を拓き、産業を興し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持ってい",
"dialogue": "ああ……、この土も",
"dialogue_id": 9,
"quotation_type": "e"
}
|
052410
| 10
|
{
"annotated_speaker": "劉備",
"context": "�明そうな眸や、豊かな頬をしていて、つねにどこかに微笑をふくみ、総じて賤しげな容子がなかった。\n 年の頃は二十四、五。\n 草むらの中に、ぽつねんと坐って、膝をかかえこんでいた。\n 悠久と水は行く――\n 微風は爽やかに鬢をなでる。\n 涼秋の八月だ。\n そしてそこは、黄河の畔の――黄土層の低い断り岸であった。\n「おーい」\n 誰か河でよんだ。\n「――そこの若い者ウ。なにを見ているんだい。いくら待っていても、そこは渡し舟の着く所じゃないぞ」\n 小さな漁船から漁夫がいうのだった。\n 青年は笑くぼを送って、\n「ありがとう」と、少し頭を下げた。\n 漁船は、下流へ流れ去った。けれど青年は、同じ所に、同じ姿をしていた。膝をかかえて坐ったまま遠心的な眼をうごかさなかった。\n「おい、おい、旅の者」\n こんどは、後ろを通った人間が呼びかけた。近村の百姓であろう。ひとりは鶏の足をつかんでさげ、ひとりは農具をかついでいた。\n「――そんな所で、今朝からなにを待っているんだね。このごろは、黄巾賊とかいう悪徒が立ち廻るからな。役人衆に怪しまれるぞよ」\n 青年は、振りかえって、\n「はい、どうも」\n おとなしい会釈をかえした。\n けれどなお、腰を上げようとはしなかった。\n そして、幾千万年も、こうして流れているのかと思われる黄河の水を、飽かずに眺めていた。\n(――どうしてこの河の水は、こんなに黄色いのか?)\n 汀の水を、仔細に見ると、それは水その物が黄色いのではなく、砥石を粉にくだいたような黄色い沙の微粒が、水に混じっていちめんにおどっているため、濁って見えるのであった。\n「ああ……、この土も」\n 青年は、大地の土を、一つかみ掌に掬った。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。\n 支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜の沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。\n「わたしのご先祖も、この河を下って……」\n 彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。\n 支那を拓いた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族という未開人を追って、農業を拓き、産業を興し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――",
"dialogue": "わたしのご先祖も、この河を下って……",
"dialogue_id": 10,
"quotation_type": "a"
}
|
052410
| 11
|
{
"annotated_speaker": "劉備",
"context": "誰か河でよんだ。\n「――そこの若い者ウ。なにを見ているんだい。いくら待っていても、そこは渡し舟の着く所じゃないぞ」\n 小さな漁船から漁夫がいうのだった。\n 青年は笑くぼを送って、\n「ありがとう」と、少し頭を下げた。\n 漁船は、下流へ流れ去った。けれど青年は、同じ所に、同じ姿をしていた。膝をかかえて坐ったまま遠心的な眼をうごかさなかった。\n「おい、おい、旅の者」\n こんどは、後ろを通った人間が呼びかけた。近村の百姓であろう。ひとりは鶏の足をつかんでさげ、ひとりは農具をかついでいた。\n「――そんな所で、今朝からなにを待っているんだね。このごろは、黄巾賊とかいう悪徒が立ち廻るからな。役人衆に怪しまれるぞよ」\n 青年は、振りかえって、\n「はい、どうも」\n おとなしい会釈をかえした。\n けれどなお、腰を上げようとはしなかった。\n そして、幾千万年も、こうして流れているのかと思われる黄河の水を、飽かずに眺めていた。\n(――どうしてこの河の水は、こんなに黄色いのか?)\n 汀の水を、仔細に見ると、それは水その物が黄色いのではなく、砥石を粉にくだいたような黄色い沙の微粒が、水に混じっていちめんにおどっているため、濁って見えるのであった。\n「ああ……、この土も」\n 青年は、大地の土を、一つかみ掌に掬った。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。\n 支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜の沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。\n「わたしのご先祖も、この河を下って……」\n 彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。\n 支那を拓いた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族という未開人を追って、農業を拓き、産業を興し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」\n「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます」\n「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」\n「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」\n「茶を」\n 役人は眼をみはっ",
"dialogue": "ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります",
"dialogue_id": 11,
"quotation_type": "e"
}
|
052410
| 12
|
{
"annotated_speaker": "役人",
"context": "た。けれど青年は、同じ所に、同じ姿をしていた。膝をかかえて坐ったまま遠心的な眼をうごかさなかった。\n「おい、おい、旅の者」\n こんどは、後ろを通った人間が呼びかけた。近村の百姓であろう。ひとりは鶏の足をつかんでさげ、ひとりは農具をかついでいた。\n「――そんな所で、今朝からなにを待っているんだね。このごろは、黄巾賊とかいう悪徒が立ち廻るからな。役人衆に怪しまれるぞよ」\n 青年は、振りかえって、\n「はい、どうも」\n おとなしい会釈をかえした。\n けれどなお、腰を上げようとはしなかった。\n そして、幾千万年も、こうして流れているのかと思われる黄河の水を、飽かずに眺めていた。\n(――どうしてこの河の水は、こんなに黄色いのか?)\n 汀の水を、仔細に見ると、それは水その物が黄色いのではなく、砥石を粉にくだいたような黄色い沙の微粒が、水に混じっていちめんにおどっているため、濁って見えるのであった。\n「ああ……、この土も」\n 青年は、大地の土を、一つかみ掌に掬った。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。\n 支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜の沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。\n「わたしのご先祖も、この河を下って……」\n 彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。\n 支那を拓いた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族という未開人を追って、農業を拓き、産業を興し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」\n「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます」\n「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」\n「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」\n「茶を」\n 役人は眼をみはった。\n 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。\n「誰にのませるのだ。重��",
"dialogue": "うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?",
"dialogue_id": 12,
"quotation_type": "i"
}
|
052410
| 13
|
{
"annotated_speaker": "役人",
"context": "後ろを通った人間が呼びかけた。近村の百姓であろう。ひとりは鶏の足をつかんでさげ、ひとりは農具をかついでいた。\n「――そんな所で、今朝からなにを待っているんだね。このごろは、黄巾賊とかいう悪徒が立ち廻るからな。役人衆に怪しまれるぞよ」\n 青年は、振りかえって、\n「はい、どうも」\n おとなしい会釈をかえした。\n けれどなお、腰を上げようとはしなかった。\n そして、幾千万年も、こうして流れているのかと思われる黄河の水を、飽かずに眺めていた。\n(――どうしてこの河の水は、こんなに黄色いのか?)\n 汀の水を、仔細に見ると、それは水その物が黄色いのではなく、砥石を粉にくだいたような黄色い沙の微粒が、水に混じっていちめんにおどっているため、濁って見えるのであった。\n「ああ……、この土も」\n 青年は、大地の土を、一つかみ掌に掬った。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。\n 支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜の沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。\n「わたしのご先祖も、この河を下って……」\n 彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。\n 支那を拓いた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族という未開人を追って、農業を拓き、産業を興し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」\n「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます」\n「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」\n「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」\n「茶を」\n 役人は眼をみはった。\n 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。\n「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」\n「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でござい",
"dialogue": "どこから来たっ",
"dialogue_id": 13,
"quotation_type": "i"
}
|
052410
| 14
|
{
"annotated_speaker": "劉備",
"context": "足をつかんでさげ、ひとりは農具をかついでいた。\n「――そんな所で、今朝からなにを待っているんだね。このごろは、黄巾賊とかいう悪徒が立ち廻るからな。役人衆に怪しまれるぞよ」\n 青年は、振りかえって、\n「はい、どうも」\n おとなしい会釈をかえした。\n けれどなお、腰を上げようとはしなかった。\n そして、幾千万年も、こうして流れているのかと思われる黄河の水を、飽かずに眺めていた。\n(――どうしてこの河の水は、こんなに黄色いのか?)\n 汀の水を、仔細に見ると、それは水その物が黄色いのではなく、砥石を粉にくだいたような黄色い沙の微粒が、水に混じっていちめんにおどっているため、濁って見えるのであった。\n「ああ……、この土も」\n 青年は、大地の土を、一つかみ掌に掬った。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。\n 支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜の沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。\n「わたしのご先祖も、この河を下って……」\n 彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。\n 支那を拓いた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族という未開人を追って、農業を拓き、産業を興し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」\n「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます」\n「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」\n「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」\n「茶を」\n 役人は眼をみはった。\n 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。\n「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」\n「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが",
"dialogue": "……?",
"dialogue_id": 14,
"quotation_type": "i"
}
|
052410
| 15
|
{
"annotated_speaker": "劉備",
"context": "��りかえって、\n「はい、どうも」\n おとなしい会釈をかえした。\n けれどなお、腰を上げようとはしなかった。\n そして、幾千万年も、こうして流れているのかと思われる黄河の水を、飽かずに眺めていた。\n(――どうしてこの河の水は、こんなに黄色いのか?)\n 汀の水を、仔細に見ると、それは水その物が黄色いのではなく、砥石を粉にくだいたような黄色い沙の微粒が、水に混じっていちめんにおどっているため、濁って見えるのであった。\n「ああ……、この土も」\n 青年は、大地の土を、一つかみ掌に掬った。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。\n 支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜の沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。\n「わたしのご先祖も、この河を下って……」\n 彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。\n 支那を拓いた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族という未開人を追って、農業を拓き、産業を興し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」\n「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます」\n「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」\n「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」\n「茶を」\n 役人は眼をみはった。\n 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。\n「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」\n「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年稼いでためた小費もあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから」\n「ふーむ。……それは感心なものだな。おれにも息子があるが、親に茶をのませてくれるどころか――あの通りだわえ」",
"dialogue": "涿県の者です",
"dialogue_id": 15,
"quotation_type": "e"
}
|
052410
| 16
|
{
"annotated_speaker": "役人",
"context": "�をかえした。\n けれどなお、腰を上げようとはしなかった。\n そして、幾千万年も、こうして流れているのかと思われる黄河の水を、飽かずに眺めていた。\n(――どうしてこの河の水は、こんなに黄色いのか?)\n 汀の水を、仔細に見ると、それは水その物が黄色いのではなく、砥石を粉にくだいたような黄色い沙の微粒が、水に混じっていちめんにおどっているため、濁って見えるのであった。\n「ああ……、この土も」\n 青年は、大地の土を、一つかみ掌に掬った。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。\n 支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜の沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。\n「わたしのご先祖も、この河を下って……」\n 彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。\n 支那を拓いた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族という未開人を追って、農業を拓き、産業を興し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」\n「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます」\n「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」\n「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」\n「茶を」\n 役人は眼をみはった。\n 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。\n「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」\n「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年稼いでためた小費もあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから」\n「ふーむ。……それは感心なものだな。おれにも息子があるが、親に茶をのませてくれるどころか――あの通りだわえ」\n 二人の役人は、顔を見合せてそういうと、もう",
"dialogue": "涿県はどこか",
"dialogue_id": 16,
"quotation_type": "i"
}
|
052410
| 17
|
{
"annotated_speaker": "劉備",
"context": "うとはしなかった。\n そして、幾千万年も、こうして流れているのかと思われる黄河の水を、飽かずに眺めていた。\n(――どうしてこの河の水は、こんなに黄色いのか?)\n 汀の水を、仔細に見ると、それは水その物が黄色いのではなく、砥石を粉にくだいたような黄色い沙の微粒が、水に混じっていちめんにおどっているため、濁って見えるのであった。\n「ああ……、この土も」\n 青年は、大地の土を、一つかみ掌に掬った。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。\n 支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜の沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。\n「わたしのご先祖も、この河を下って……」\n 彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。\n 支那を拓いた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族という未開人を追って、農業を拓き、産業を興し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」\n「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます」\n「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」\n「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」\n「茶を」\n 役人は眼をみはった。\n 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。\n「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」\n「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年稼いでためた小費もあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから」\n「ふーむ。……それは感心なものだな。おれにも息子があるが、親に茶をのませてくれるどころか――あの通りだわえ」\n 二人の役人は、顔を見合せてそういうと、もう劉備の疑いも解けた容子で、何か語らいながら立ち去ってしまった。\n 陽は西に傾きかけた。\n 茜ざした夕空を、赤い黄河の流れに対",
"dialogue": "はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります",
"dialogue_id": 17,
"quotation_type": "i"
}
|
052410
| 18
|
{
"annotated_speaker": "役人",
"context": "してこの河の水は、こんなに黄色いのか?)\n 汀の水を、仔細に見ると、それは水その物が黄色いのではなく、砥石を粉にくだいたような黄色い沙の微粒が、水に混じっていちめんにおどっているため、濁って見えるのであった。\n「ああ……、この土も」\n 青年は、大地の土を、一つかみ掌に掬った。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。\n 支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜の沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。\n「わたしのご先祖も、この河を下って……」\n 彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。\n 支那を拓いた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族という未開人を追って、農業を拓き、産業を興し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」\n「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます」\n「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」\n「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」\n「茶を」\n 役人は眼をみはった。\n 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。\n「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」\n「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年稼いでためた小費もあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから」\n「ふーむ。……それは感心なものだな。おれにも息子があるが、親に茶をのませてくれるどころか――あの通りだわえ」\n 二人の役人は、顔を見合せてそういうと、もう劉備の疑いも解けた容子で、何か語らいながら立ち去ってしまった。\n 陽は西に傾きかけた。\n 茜ざした夕空を、赤い黄河の流れに対したまま、劉��",
"dialogue": "商売は",
"dialogue_id": 18,
"quotation_type": "i"
}
|
052410
| 19
|
{
"annotated_speaker": "劉備",
"context": "、こんなに黄色いのか?)\n 汀の水を、仔細に見ると、それは水その物が黄色いのではなく、砥石を粉にくだいたような黄色い沙の微粒が、水に混じっていちめんにおどっているため、濁って見えるのであった。\n「ああ……、この土も」\n 青年は、大地の土を、一つかみ掌に掬った。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。\n 支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜の沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。\n「わたしのご先祖も、この河を下って……」\n 彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。\n 支那を拓いた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族という未開人を追って、農業を拓き、産業を興し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」\n「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます」\n「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」\n「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」\n「茶を」\n 役人は眼をみはった。\n 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。\n「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」\n「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年稼いでためた小費もあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから」\n「ふーむ。……それは感心なものだな。おれにも息子があるが、親に茶をのませてくれるどころか――あの通りだわえ」\n 二人の役人は、顔を見合せてそういうと、もう劉備の疑いも解けた容子で、何か語らいながら立ち去ってしまった。\n 陽は西に傾きかけた。\n 茜ざした夕空を、赤い黄河の流れに対したまま、劉備はまた、黙想していた。\n と、やがて、\n「おお、�����",
"dialogue": "蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが",
"dialogue_id": 19,
"quotation_type": "i"
}
|
052410
| 20
|
{
"annotated_speaker": "役人",
"context": "それは水その物が黄色いのではなく、砥石を粉にくだいたような黄色い沙の微粒が、水に混じっていちめんにおどっているため、濁って見えるのであった。\n「ああ……、この土も」\n 青年は、大地の土を、一つかみ掌に掬った。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。\n 支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜の沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。\n「わたしのご先祖も、この河を下って……」\n 彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。\n 支那を拓いた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族という未開人を追って、農業を拓き、産業を興し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」\n「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます」\n「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」\n「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」\n「茶を」\n 役人は眼をみはった。\n 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。\n「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」\n「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年稼いでためた小費もあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから」\n「ふーむ。……それは感心なものだな。おれにも息子があるが、親に茶をのませてくれるどころか――あの通りだわえ」\n 二人の役人は、顔を見合せてそういうと、もう劉備の疑いも解けた容子で、何か語らいながら立ち去ってしまった。\n 陽は西に傾きかけた。\n 茜ざした夕空を、赤い黄河の流れに対したまま、劉備はまた、黙想していた。\n と、やがて、\n「おお、船旗が見えた。洛陽�",
"dialogue": "なんだ、行商人か",
"dialogue_id": 20,
"quotation_type": "i"
}
|
052410
| 21
|
{
"annotated_speaker": "劉備",
"context": "のではなく、砥石を粉にくだいたような黄色い沙の微粒が、水に混じっていちめんにおどっているため、濁って見えるのであった。\n「ああ……、この土も」\n 青年は、大地の土を、一つかみ掌に掬った。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。\n 支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜の沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。\n「わたしのご先祖も、この河を下って……」\n 彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。\n 支那を拓いた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族という未開人を追って、農業を拓き、産業を興し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」\n「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます」\n「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」\n「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」\n「茶を」\n 役人は眼をみはった。\n 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。\n「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」\n「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年稼いでためた小費もあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから」\n「ふーむ。……それは感心なものだな。おれにも息子があるが、親に茶をのませてくれるどころか――あの通りだわえ」\n 二人の役人は、顔を見合せてそういうと、もう劉備の疑いも解けた容子で、何か語らいながら立ち去ってしまった。\n 陽は西に傾きかけた。\n 茜ざした夕空を、赤い黄河の流れに対したまま、劉備はまた、黙想していた。\n と、やがて、\n「おお、船旗が見えた。洛陽船にちがいない」\n",
"dialogue": "そんなものです",
"dialogue_id": 21,
"quotation_type": "i"
}
|
052410
| 22
|
{
"annotated_speaker": "役人",
"context": "を粉にくだいたような黄色い沙の微粒が、水に混じっていちめんにおどっているため、濁って見えるのであった。\n「ああ……、この土も」\n 青年は、大地の土を、一つかみ掌に掬った。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。\n 支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜の沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。\n「わたしのご先祖も、この河を下って……」\n 彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。\n 支那を拓いた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族という未開人を追って、農業を拓き、産業を興し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」\n「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます」\n「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」\n「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」\n「茶を」\n 役人は眼をみはった。\n 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。\n「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」\n「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年稼いでためた小費もあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから」\n「ふーむ。……それは感心なものだな。おれにも息子があるが、親に茶をのませてくれるどころか――あの通りだわえ」\n 二人の役人は、顔を見合せてそういうと、もう劉備の疑いも解けた容子で、何か語らいながら立ち去ってしまった。\n 陽は西に傾きかけた。\n 茜ざした夕空を、赤い黄河の流れに対したまま、劉備はまた、黙想していた。\n と、やがて、\n「おお、船旗が見えた。洛陽船にちがいない」\n 彼は初め",
"dialogue": "だが……",
"dialogue_id": 22,
"quotation_type": "e"
}
|
052410
| 23
|
{
"annotated_speaker": "役人",
"context": "……、この土も」\n 青年は、大地の土を、一つかみ掌に掬った。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。\n 支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜の沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。\n「わたしのご先祖も、この河を下って……」\n 彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。\n 支那を拓いた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族という未開人を追って、農業を拓き、産業を興し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」\n「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます」\n「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」\n「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」\n「茶を」\n 役人は眼をみはった。\n 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。\n「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」\n「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年稼いでためた小費もあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから」\n「ふーむ。……それは感心なものだな。おれにも息子があるが、親に茶をのませてくれるどころか――あの通りだわえ」\n 二人の役人は、顔を見合せてそういうと、もう劉備の疑いも解けた容子で、何か語らいながら立ち去ってしまった。\n 陽は西に傾きかけた。\n 茜ざした夕空を、赤い黄河の流れに対したまま、劉備はまた、黙想していた。\n と、やがて、\n「おお、船旗が見えた。洛陽船にちがいない」\n 彼は初めて草むらを起った。そして眉に手をかざしながら、上流のほうを眺めた。\n\n三\n\n ゆるやかに、江を下ってくる船の影は、舂く陽を負って黒く、徐々と眼の前に近づいてきた。ふつうの客船や貨船とちがい、洛陽船はひと目でわかる。",
"dialogue": "この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?",
"dialogue_id": 23,
"quotation_type": "i"
}
|
052410
| 24
|
{
"annotated_speaker": "劉備",
"context": "くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜の沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。\n「わたしのご先祖も、この河を下って……」\n 彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。\n 支那を拓いた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族という未開人を追って、農業を拓き、産業を興し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」\n「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます」\n「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」\n「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」\n「茶を」\n 役人は眼をみはった。\n 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。\n「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」\n「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年稼いでためた小費もあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから」\n「ふーむ。……それは感心なものだな。おれにも息子があるが、親に茶をのませてくれるどころか――あの通りだわえ」\n 二人の役人は、顔を見合せてそういうと、もう劉備の疑いも解けた容子で、何か語らいながら立ち去ってしまった。\n 陽は西に傾きかけた。\n 茜ざした夕空を、赤い黄河の流れに対したまま、劉備はまた、黙想していた。\n と、やがて、\n「おお、船旗が見えた。洛陽船にちがいない」\n 彼は初めて草むらを起った。そして眉に手をかざしながら、上流のほうを眺めた。\n\n三\n\n ゆるやかに、江を下ってくる船の影は、舂く陽を負って黒く、徐々と眼の前に近づいてきた。ふつうの客船や貨船とちがい、洛陽船はひと目でわかる。無数の紅い龍舌旗を帆ばしらにひるがえし、船楼は五彩に��",
"dialogue": "これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません",
"dialogue_id": 24,
"quotation_type": "i"
}
|
052410
| 25
|
{
"annotated_speaker": "役人",
"context": "て、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。\n「わたしのご先祖も、この河を下って……」\n 彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。\n 支那を拓いた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族という未開人を追って、農業を拓き、産業を興し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」\n「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます」\n「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」\n「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」\n「茶を」\n 役人は眼をみはった。\n 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。\n「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」\n「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年稼いでためた小費もあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから」\n「ふーむ。……それは感心なものだな。おれにも息子があるが、親に茶をのませてくれるどころか――あの通りだわえ」\n 二人の役人は、顔を見合せてそういうと、もう劉備の疑いも解けた容子で、何か語らいながら立ち去ってしまった。\n 陽は西に傾きかけた。\n 茜ざした夕空を、赤い黄河の流れに対したまま、劉備はまた、黙想していた。\n と、やがて、\n「おお、船旗が見えた。洛陽船にちがいない」\n 彼は初めて草むらを起った。そして眉に手をかざしながら、上流のほうを眺めた。\n\n三\n\n ゆるやかに、江を下ってくる船の影は、舂く陽を負って黒く、徐々と眼の前に近づいてきた。ふつうの客船や貨船とちがい、洛陽船はひと目でわかる。無数の紅い龍舌旗を帆ばしらにひるがえし、船楼は五彩に塗ってあった。\n「おうーい」\n 劉備は手を振った。\n しかし船は一個の彼に見向きもしなかった。\n おもむろに舵を曲げ、スルスルと帆をおろしながら、黄河の流れにまかせて、そこからずっと下流の岸へ着いた。\n 百戸ばかりの水村がある。\n 今日、洛陽船を待っていたのは、劉備ひとりではない。岸にはがやがやと沢山な人影がかたまっていた。驢をひいた仲買人の群れだの、鶏車と呼ぶ",
"dialogue": "しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん",
"dialogue_id": 25,
"quotation_type": "e"
}
|
052410
| 26
|
{
"annotated_speaker": "劉備",
"context": "に添いつつ次第にふえ、苗族という未開人を追って、農業を拓き、産業を興し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」\n「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます」\n「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」\n「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」\n「茶を」\n 役人は眼をみはった。\n 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。\n「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」\n「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年稼いでためた小費もあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから」\n「ふーむ。……それは感心なものだな。おれにも息子があるが、親に茶をのませてくれるどころか――あの通りだわえ」\n 二人の役人は、顔を見合せてそういうと、もう劉備の疑いも解けた容子で、何か語らいながら立ち去ってしまった。\n 陽は西に傾きかけた。\n 茜ざした夕空を、赤い黄河の流れに対したまま、劉備はまた、黙想していた。\n と、やがて、\n「おお、船旗が見えた。洛陽船にちがいない」\n 彼は初めて草むらを起った。そして眉に手をかざしながら、上流のほうを眺めた。\n\n三\n\n ゆるやかに、江を下ってくる船の影は、舂く陽を負って黒く、徐々と眼の前に近づいてきた。ふつうの客船や貨船とちがい、洛陽船はひと目でわかる。無数の紅い龍舌旗を帆ばしらにひるがえし、船楼は五彩に塗ってあった。\n「おうーい」\n 劉備は手を振った。\n しかし船は一個の彼に見向きもしなかった。\n おもむろに舵を曲げ、スルスルと帆をおろしながら、黄河の流れにまかせて、そこからずっと下流の岸へ着いた。\n 百戸ばかりの水村がある。\n 今日、洛陽船を待っていたのは、劉備ひとりではない。岸にはがやがやと沢山な人影がかたまっていた。驢をひいた仲買人の群れだの、鶏車と呼ぶ手押し車に、土地の糸や綿を積んだ百姓だの、獣の肉や果物を籠に入れて待つ物売りだの――すで",
"dialogue": "ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます",
"dialogue_id": 26,
"quotation_type": "i"
}
|
052410
| 27
|
{
"annotated_speaker": "役人",
"context": "たものだった。\n「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」\n「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます」\n「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」\n「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」\n「茶を」\n 役人は眼をみはった。\n 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。\n「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」\n「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年稼いでためた小費もあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから」\n「ふーむ。……それは感心なものだな。おれにも息子があるが、親に茶をのませてくれるどころか――あの通りだわえ」\n 二人の役人は、顔を見合せてそういうと、もう劉備の疑いも解けた容子で、何か語らいながら立ち去ってしまった。\n 陽は西に傾きかけた。\n 茜ざした夕空を、赤い黄河の流れに対したまま、劉備はまた、黙想していた。\n と、やがて、\n「おお、船旗が見えた。洛陽船にちがいない」\n 彼は初めて草むらを起った。そして眉に手をかざしながら、上流のほうを眺めた。\n\n三\n\n ゆるやかに、江を下ってくる船の影は、舂く陽を負って黒く、徐々と眼の前に近づいてきた。ふつうの客船や貨船とちがい、洛陽船はひと目でわかる。無数の紅い龍舌旗を帆ばしらにひるがえし、船楼は五彩に塗ってあった。\n「おうーい」\n 劉備は手を振った。\n しかし船は一個の彼に見向きもしなかった。\n おもむろに舵を曲げ、スルスルと帆をおろしながら、黄河の流れにまかせて、そこからずっと下流の岸へ着いた。\n 百戸ばかりの水村がある。\n 今日、洛陽船を待っていたのは、劉備ひとりではない。岸にはがやがやと沢山な人影がかたまっていた。驢をひいた仲買人の群れだの、鶏車と呼ぶ手押し車に、土地の糸や綿を積んだ百姓だの、獣の肉や果物を籠に入れて待つ物売りだの――すでにそこには、洛陽船を迎えて、市が立とうとしていた。\n なに",
"dialogue": "ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか",
"dialogue_id": 27,
"quotation_type": "i"
}
|
052410
| 28
|
{
"annotated_speaker": "劉備",
"context": "を、鞭打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」\n「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます」\n「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」\n「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」\n「茶を」\n 役人は眼をみはった。\n 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。\n「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」\n「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年稼いでためた小費もあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから」\n「ふーむ。……それは感心なものだな。おれにも息子があるが、親に茶をのませてくれるどころか――あの通りだわえ」\n 二人の役人は、顔を見合せてそういうと、もう劉備の疑いも解けた容子で、何か語らいながら立ち去ってしまった。\n 陽は西に傾きかけた。\n 茜ざした夕空を、赤い黄河の流れに対したまま、劉備はまた、黙想していた。\n と、やがて、\n「おお、船旗が見えた。洛陽船にちがいない」\n 彼は初めて草むらを起った。そして眉に手をかざしながら、上流のほうを眺めた。\n\n三\n\n ゆるやかに、江を下ってくる船の影は、舂く陽を負って黒く、徐々と眼の前に近づいてきた。ふつうの客船や貨船とちがい、洛陽船はひと目でわかる。無数の紅い龍舌旗を帆ばしらにひるがえし、船楼は五彩に塗ってあった。\n「おうーい」\n 劉備は手を振った。\n しかし船は一個の彼に見向きもしなかった。\n おもむろに舵を曲げ、スルスルと帆をおろしながら、黄河の流れにまかせて、そこからずっと下流の岸へ着いた。\n 百戸ばかりの水村がある。\n 今日、洛陽船を待っていたのは、劉備ひとりではない。岸にはがやがやと沢山な人影がかたまっていた。驢をひいた仲買人の群れだの、鶏車と呼ぶ手押し車に、土地の糸や綿を積んだ百姓だの、獣の肉や果物を籠に入れて待つ物売りだの――すでにそこには、洛陽船を迎えて、市が立とうとしていた。\n なにしろ、黄河の上流、洛陽の都には今、後漢の第十二代の帝王、",
"dialogue": "いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです",
"dialogue_id": 28,
"quotation_type": "i"
}
|
052410
| 29
|
{
"annotated_speaker": "役人",
"context": "す。漢民族の血と平和を守ります」\n 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。\n するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。\n「うさんな奴だ。やいっ、汝は、黄巾賊の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」\n「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます」\n「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」\n「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」\n「茶を」\n 役人は眼をみはった。\n 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。\n「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」\n「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年稼いでためた小費もあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから」\n「ふーむ。……それは感心なものだな。おれにも息子があるが、親に茶をのませてくれるどころか――あの通りだわえ」\n 二人の役人は、顔を見合せてそういうと、もう劉備の疑いも解けた容子で、何か語らいながら立ち去ってしまった。\n 陽は西に傾きかけた。\n 茜ざした夕空を、赤い黄河の流れに対したまま、劉備はまた、黙想していた。\n と、やがて、\n「おお、船旗が見えた。洛陽船にちがいない」\n 彼は初めて草むらを起った。そして眉に手をかざしながら、上流のほうを眺めた。\n\n三\n\n ゆるやかに、江を下ってくる船の影は、舂く陽を負って黒く、徐々と眼の前に近づいてきた。ふつうの客船や貨船とちがい、洛陽船はひと目でわかる。無数の紅い龍舌旗を帆ばしらにひるがえし、船楼は五彩に塗ってあった。\n「おうーい」\n 劉備は手を振った。\n しかし船は一個の彼に見向きもしなかった。\n おもむろに舵を曲げ、スルスルと帆をおろしながら、黄河の流れにまかせて、そこからずっと下流の岸へ着いた。\n 百戸ばかりの水村がある。\n 今日、洛陽船を待っていたのは、劉備ひとりではない。岸にはがやがやと沢山な人影がかたまっていた。驢をひいた仲買人の群れだの、鶏車と呼ぶ手押し車に、土地の糸や綿を積んだ百姓だの、獣の肉や果物を籠に入れて待つ物売りだの――すでにそこには、洛陽船を迎えて、市が立とうとしていた。\n なにしろ、黄河の上流、洛陽の都には今、後漢の第十二代の帝王、霊帝の",
"dialogue": "茶を",
"dialogue_id": 29,
"quotation_type": "e"
}
|
052410
| 30
|
{
"annotated_speaker": "役人",
"context": "�����の仲間だろう?」\n\n二\n\n 劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」\n「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます」\n「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」\n「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」\n「茶を」\n 役人は眼をみはった。\n 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。\n「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」\n「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年稼いでためた小費もあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから」\n「ふーむ。……それは感心なものだな。おれにも息子があるが、親に茶をのませてくれるどころか――あの通りだわえ」\n 二人の役人は、顔を見合せてそういうと、もう劉備の疑いも解けた容子で、何か語らいながら立ち去ってしまった。\n 陽は西に傾きかけた。\n 茜ざした夕空を、赤い黄河の流れに対したまま、劉備はまた、黙想していた。\n と、やがて、\n「おお、船旗が見えた。洛陽船にちがいない」\n 彼は初めて草むらを起った。そして眉に手をかざしながら、上流のほうを眺めた。\n\n三\n\n ゆるやかに、江を下ってくる船の影は、舂く陽を負って黒く、徐々と眼の前に近づいてきた。ふつうの客船や貨船とちがい、洛陽船はひと目でわかる。無数の紅い龍舌旗を帆ばしらにひるがえし、船楼は五彩に塗ってあった。\n「おうーい」\n 劉備は手を振った。\n しかし船は一個の彼に見向きもしなかった。\n おもむろに舵を曲げ、スルスルと帆をおろしながら、黄河の流れにまかせて、そこからずっと下流の岸へ着いた。\n 百戸ばかりの水村がある。\n 今日、洛陽船を待っていたのは、劉備ひとりではない。岸にはがやがやと沢山な人影がかたまっていた。驢をひいた仲買人の群れだの、鶏車と呼ぶ手押し車に、土地の糸や綿を積んだ百姓だの、獣の肉や果物を籠に入れて待つ物売りだの――すでにそこには、洛陽船を迎えて、市が立とうとしていた。\n なにしろ、黄河の上流、洛陽の都には今、後漢の第十二代の帝王、霊帝の居城があるし、珍しい物産や、文化の粋は、ほとんどそこでつくられ、そこから全支那へ行きわたるのである。\n 幾月かに一度ずつ、文明の製品を積んだ洛陽船が、この地方へも下江してきた。そして沿岸の小都市、村、部落など、市の立つと",
"dialogue": "誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか",
"dialogue_id": 30,
"quotation_type": "i"
}
|
052410
| 31
|
{
"annotated_speaker": "劉備",
"context": "ろいて、何者かと振りかえった。\n 咎めた者は、\n「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨なくつかんでいた。\n「……?」\n 見ると、役人であろう、胸に県の吏章をつけている。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」\n「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます」\n「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」\n「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」\n「茶を」\n 役人は眼をみはった。\n 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。\n「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」\n「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年稼いでためた小費もあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから」\n「ふーむ。……それは感心なものだな。おれにも息子があるが、親に茶をのませてくれるどころか――あの通りだわえ」\n 二人の役人は、顔を見合せてそういうと、もう劉備の疑いも解けた容子で、何か語らいながら立ち去ってしまった。\n 陽は西に傾きかけた。\n 茜ざした夕空を、赤い黄河の流れに対したまま、劉備はまた、黙想していた。\n と、やがて、\n「おお、船旗が見えた。洛陽船にちがいない」\n 彼は初めて草むらを起った。そして眉に手をかざしながら、上流のほうを眺めた。\n\n三\n\n ゆるやかに、江を下ってくる船の影は、舂く陽を負って黒く、徐々と眼の前に近づいてきた。ふつうの客船や貨船とちがい、洛陽船はひと目でわかる。無数の紅い龍舌旗を帆ばしらにひるがえし、船楼は五彩に塗ってあった。\n「おうーい」\n 劉備は手を振った。\n しかし船は一個の彼に見向きもしなかった。\n おもむろに舵を曲げ、スルスルと帆をおろしながら、黄河の流れにまかせて、そこからずっと下流の岸へ着いた。\n 百戸ばかりの水村がある。\n 今日、洛陽船を待っていたのは、劉備ひとりではない。岸にはがやがやと沢山な人影がかたまっていた。驢をひいた仲買人の群れだの、鶏車と呼ぶ手押し車に、土地の糸や綿を積んだ百姓だの、獣の肉や果物を籠に入れて待つ物売りだの――すでにそこには、洛陽船を迎えて、市が立とうとしていた。\n なにしろ、黄河の上流、洛陽の都には今、後漢の第十二代の帝王、霊帝の居城があるし、珍しい物産や、文化の粋は、ほとんどそこでつくられ、そこから全支那へ行きわたるのである。\n 幾月かに一度ずつ、文明の製品を積んだ洛陽船が、この地方へも下江してきた。そして沿岸の小都市、村、部落など、市の立つところに船を寄せて、交易した。\n ここでも。\n 夕方にかけて、おそろしく騒がしくまたあわただしい取引が始まった。\n 劉備は、そのやかましい人声と人影の中に立ちまじって、まごついていた。彼は、自分の求めようとしている茶が、仲買人の",
"dialogue": "病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年稼いでためた小費もあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから",
"dialogue_id": 31,
"quotation_type": "i"
}
|
052410
| 32
|
{
"annotated_speaker": "役人",
"context": "でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえていた。\n「涿県の者です」\n 劉備青年が答えると、\n「涿県はどこか」と、たたみかけていう。\n「はい、涿県の楼桑村(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」\n「商売は」\n「蓆を織ったり簾をつくって、売っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」\n「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます」\n「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」\n「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」\n「茶を」\n 役人は眼をみはった。\n 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。\n「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」\n「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年稼いでためた小費もあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから」\n「ふーむ。……それは感心なものだな。おれにも息子があるが、親に茶をのませてくれるどころか――あの通りだわえ」\n 二人の役人は、顔を見合せてそういうと、もう劉備の疑いも解けた容子で、何か語らいながら立ち去ってしまった。\n 陽は西に傾きかけた。\n 茜ざした夕空を、赤い黄河の流れに対したまま、劉備はまた、黙想していた。\n と、やがて、\n「おお、船旗が見えた。洛陽船にちがいない」\n 彼は初めて草むらを起った。そして眉に手をかざしながら、上流のほうを眺めた。\n\n三\n\n ゆるやかに、江を下ってくる船の影は、舂く陽を負って黒く、徐々と眼の前に近づいてきた。ふつうの客船や貨船とちがい、洛陽船はひと目でわかる。無数の紅い龍舌旗を帆ばしらにひるがえし、船楼は五彩に塗ってあった。\n「おうーい」\n 劉備は手を振った。\n しかし船は一個の彼に見向きもしなかった。\n おもむろに舵を曲げ、スルスルと帆をおろしながら、黄河の流れにまかせて、そこからずっと下流の岸へ着いた。\n 百戸ばかりの水村がある。\n 今日、洛陽船を待っていたのは、劉備ひとりではない。岸にはがやがやと沢山な人影がかたまっていた。驢をひいた仲買人の群れだの、鶏車と呼ぶ手押し車に、土地の糸や綿を積んだ百姓だの、獣の肉や果物を籠に入れて待つ物売りだの――すでにそこには、洛陽船を迎えて、市が立とうとしていた。\n なにしろ、黄河の上流、洛陽の都には今、後漢の第十二代の帝王、霊帝の居城があるし、珍しい物産や、文化の粋は、ほとんどそこでつくられ、そこから全支那へ行きわたるのである。\n 幾月かに一度ずつ、文明の製品を積んだ洛陽船が、この地方へも下江してきた。そして沿岸の小都市、村、部落など、市の立つところに船を寄せて、交易した。\n ここでも。\n 夕方にかけて、おそろしく騒がしくまたあわただしい取引が始まった。\n 劉備は、そのやかましい人声と人影の中に立ちまじって、まごついていた。彼は、自分の求めようとしている茶が、仲買人の手にはいることを心配していた。一度、商人の手に移ると、莫大な値になって、とても自分の貧しい嚢中では",
"dialogue": "ふーむ。……それは感心なものだな。おれにも息子があるが、親に茶をのませてくれるどころか――あの通りだわえ",
"dialogue_id": 32,
"quotation_type": "e"
}
|
052410
| 33
|
{
"annotated_speaker": "劉備",
"context": "�っておりますが」\n「なんだ、行商人か」\n「そんなものです」\n「だが……」\n と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。\n「この剣には、黄金の佩環に、琅玕の緒珠がさがっているのではないか、蓆売りには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」\n「これだけは、父の遺物で持っているのです。盗んだ物などではありません」\n 素直ではあるが、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」\n「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます」\n「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」\n「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」\n「茶を」\n 役人は眼をみはった。\n 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。\n「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」\n「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年稼いでためた小費もあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから」\n「ふーむ。……それは感心なものだな。おれにも息子があるが、親に茶をのませてくれるどころか――あの通りだわえ」\n 二人の役人は、顔を見合せてそういうと、もう劉備の疑いも解けた容子で、何か語らいながら立ち去ってしまった。\n 陽は西に傾きかけた。\n 茜ざした夕空を、赤い黄河の流れに対したまま、劉備はまた、黙想していた。\n と、やがて、\n「おお、船旗が見えた。洛陽船にちがいない」\n 彼は初めて草むらを起った。そして眉に手をかざしながら、上流のほうを眺めた。\n\n三\n\n ゆるやかに、江を下ってくる船の影は、舂く陽を負って黒く、徐々と眼の前に近づいてきた。ふつうの客船や貨船とちがい、洛陽船はひと目でわかる。無数の紅い龍舌旗を帆ばしらにひるがえし、船楼は五彩に塗ってあった。\n「おうーい」\n 劉備は手を振った。\n しかし船は一個の彼に見向きもしなかった。\n おもむろに舵を曲げ、スルスルと帆をおろしながら、黄河の流れにまかせて、そこからずっと下流の岸へ着いた。\n 百戸ばかりの水村がある。\n 今日、洛陽船を待っていたのは、劉備ひとりではない。岸にはがやがやと沢山な人影がかたまっていた。驢をひいた仲買人の群れだの、鶏車と呼ぶ手押し車に、土地の糸や綿を積んだ百姓だの、獣の肉や果物を籠に入れて待つ物売りだの――すでにそこには、洛陽船を迎えて、市が立とうとしていた。\n なにしろ、黄河の上流、洛陽の都には今、後漢の第十二代の帝王、霊帝の居城があるし、珍しい物産や、文化の粋は、ほとんどそこでつくられ、そこから全支那へ行きわたるのである。\n 幾月かに一度ずつ、文明の製品を積んだ洛陽船が、この地方へも下江してきた。そして沿岸の小都市、村、部落など、市の立つところに船を寄せて、交易した。\n ここでも。\n 夕方にかけて、おそろしく騒がしくまたあわただしい取引が始まった。\n 劉備は、そのやかましい人声と人影の中に立ちまじって、まごついていた。彼は、自分の求めようとしている茶が、仲買人の手にはいることを心配していた。一度、商人の手に移ると、莫大な値になって、とても自分の貧しい嚢中では購えなくなるからであった。\n またたく間に、市の取引は終った。仲買人も百姓も物売りたちも、三々五々、夕闇へ散ってゆく。\n 劉備は、船の商人らしい男を見かけてあわててそばへ寄って行った。\n「茶を売って下さい、茶が欲しいんですが」\n「え、茶だって?」\n 洛陽の商人は、�",
"dialogue": "おお、船旗が見えた。洛陽船にちがいない",
"dialogue_id": 33,
"quotation_type": "a"
}
|
052410
| 34
|
{
"annotated_speaker": "劉備",
"context": "が、凛とした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、\n「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが襲せて、掠奪を働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」\n「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり江を下ってくると聞いている洛陽船でございます」\n「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」\n「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」\n「茶を」\n 役人は眼をみはった。\n 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。\n「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」\n「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年稼いでためた小費もあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから」\n「ふーむ。……それは感心なものだな。おれにも息子があるが、親に茶をのませてくれるどころか――あの通りだわえ」\n 二人の役人は、顔を見合せてそういうと、もう劉備の疑いも解けた容子で、何か語らいながら立ち去ってしまった。\n 陽は西に傾きかけた。\n 茜ざした夕空を、赤い黄河の流れに対したまま、劉備はまた、黙想していた。\n と、やがて、\n「おお、船旗が見えた。洛陽船にちがいない」\n 彼は初めて草むらを起った。そして眉に手をかざしながら、上流のほうを眺めた。\n\n三\n\n ゆるやかに、江を下ってくる船の影は、舂く陽を負って黒く、徐々と眼の前に近づいてきた。ふつうの客船や貨船とちがい、洛陽船はひと目でわかる。無数の紅い龍舌旗を帆ばしらにひるがえし、船楼は五彩に塗ってあった。\n「おうーい」\n 劉備は手を振った。\n しかし船は一個の彼に見向きもしなかった。\n おもむろに舵を曲げ、スルスルと帆をおろしながら、黄河の流れにまかせて、そこからずっと下流の岸へ着いた。\n 百戸ばかりの水村がある。\n 今日、洛陽船を待っていたのは、劉備ひとりではない。岸にはがやがやと沢山な人影がかたまっていた。驢をひいた仲買人の群れだの、鶏車と呼ぶ手押し車に、土地の糸や綿を積んだ百姓だの、獣の肉や果物を籠に入れて待つ物売りだの――すでにそこには、洛陽船を迎えて、市が立とうとしていた。\n なにしろ、黄河の上流、洛陽の都には今、後漢の第十二代の帝王、霊帝の居城があるし、珍しい物産や、文化の粋は、ほとんどそこでつくられ、そこから全支那へ行きわたるのである。\n 幾月かに一度ずつ、文明の製品を積んだ洛陽船が、この地方へも下江してきた。そして沿岸の小都市、村、部落など、市の立つところに船を寄せて、交易した。\n ここでも。\n 夕方にかけて、おそろしく騒がしくまたあわただしい取引が始まった。\n 劉備は、そのやかましい人声と人影の中に立ちまじって、まごついていた。彼は、自分の求めようとしている茶が、仲買人の手にはいることを心配していた。一度、商人の手に移ると、莫大な値になって、とても自分の貧しい嚢中では購えなくなるからであった。\n またたく間に、市の取引は終った。仲買人も百姓も物売りたちも、三々五々、夕闇へ散ってゆく。\n 劉備は、船の商人らしい男を見かけてあわててそばへ寄って行った。\n「茶を売って下さい、茶が欲しいんですが」\n「え、茶だって?」\n 洛陽の商人は、鷹揚に彼を振向いた。\n「あいにくと、お前さんに頒けてやるような安茶は持たないよ。一葉いくらというような佳品しか船にはないよ」\n「結構です。たくさんは要りませんが」\n「おまえ茶をのんだことがあるのかね。地方の衆が何か葉を煮てのんでいるが、あれは茶ではないよ」\n「はい。その、ほんとの茶を頒けていただきたいのです」\n 彼の声は、懸命だった。\n 茶が",
"dialogue": "おうーい",
"dialogue_id": 34,
"quotation_type": "e"
}
|
052410
| 35
|
{
"annotated_speaker": "劉備",
"context": "��想していた。\n と、やがて、\n「おお、船旗が見えた。洛陽船にちがいない」\n 彼は初めて草むらを起った。そして眉に手をかざしながら、上流のほうを眺めた。\n\n三\n\n ゆるやかに、江を下ってくる船の影は、舂く陽を負って黒く、徐々と眼の前に近づいてきた。ふつうの客船や貨船とちがい、洛陽船はひと目でわかる。無数の紅い龍舌旗を帆ばしらにひるがえし、船楼は五彩に塗ってあった。\n「おうーい」\n 劉備は手を振った。\n しかし船は一個の彼に見向きもしなかった。\n おもむろに舵を曲げ、スルスルと帆をおろしながら、黄河の流れにまかせて、そこからずっと下流の岸へ着いた。\n 百戸ばかりの水村がある。\n 今日、洛陽船を待っていたのは、劉備ひとりではない。岸にはがやがやと沢山な人影がかたまっていた。驢をひいた仲買人の群れだの、鶏車と呼ぶ手押し車に、土地の糸や綿を積んだ百姓だの、獣の肉や果物を籠に入れて待つ物売りだの――すでにそこには、洛陽船を迎えて、市が立とうとしていた。\n なにしろ、黄河の上流、洛陽の都には今、後漢の第十二代の帝王、霊帝の居城があるし、珍しい物産や、文化の粋は、ほとんどそこでつくられ、そこから全支那へ行きわたるのである。\n 幾月かに一度ずつ、文明の製品を積んだ洛陽船が、この地方へも下江してきた。そして沿岸の小都市、村、部落など、市の立つところに船を寄せて、交易した。\n ここでも。\n 夕方にかけて、おそろしく騒がしくまたあわただしい取引が始まった。\n 劉備は、そのやかましい人声と人影の中に立ちまじって、まごついていた。彼は、自分の求めようとしている茶が、仲買人の手にはいることを心配していた。一度、商人の手に移ると、莫大な値になって、とても自分の貧しい嚢中では購えなくなるからであった。\n またたく間に、市の取引は終った。仲買人も百姓も物売りたちも、三々五々、夕闇へ散ってゆく。\n 劉備は、船の商人らしい男を見かけてあわててそばへ寄って行った。\n「茶を売って下さい、茶が欲しいんですが」\n「え、茶だって?」\n 洛陽の商人は、鷹揚に彼を振向いた。\n「あいにくと、お前さんに頒けてやるような安茶は持たないよ。一葉いくらというような佳品しか船にはないよ」\n「結構です。たくさんは要りませんが」\n「おまえ茶をのんだことがあるのかね。地方の衆が何か葉を煮てのんでいるが、あれは茶ではないよ」\n「はい。その、ほんとの茶を頒けていただきたいのです」\n 彼の声は、懸命だった。\n 茶がいかに貴重か、高価か、また地方にもまだない物かは、彼もよくわきまえていた。\n その種子は、遠い熱帯の異国からわずかにもたらされて、周の代にようやく宮廷の秘用にたしなまれ、漢帝の代々になっても、後宮の茶園に少し摘まれる物と、民間のごく貴人の所有地にまれに栽培されたくらいなものだとも聞いている。\n また別な説には、一日に百草を嘗めつつ人間に食物を教えた神農はたびたび毒草にあたったが、茶を得てからこれを噛むとたちまち毒をけしたので、以来、秘愛せられたとも伝えられている。\n いずれにしろ、劉備の身分でそれを求めることの無謀は、よく知っていた。\n ――だが、彼の懸命な面もちと、真面目に、欲するわけを話す態度を見ると、洛陽の商人も、やや心を動かされたとみえて、\n「では少し頒けてあげてもよいが、お前さん、失礼だが、その代価をお持ちかね?」と訊いた。\n\n四\n\n「持っております」\n 彼は、懐中の革嚢を取出し、銀や砂金を取りまぜて、相手の両掌へ、惜しげもなくそれを皆あけた。\n「ほ……」\n 洛陽の商人は、掌の上の目量を計りながら、\n「あるねえ。しかし、銀があらかたじゃないか。これでは、よい茶はいくらも上げられないが」\n「何ほどでも」\n「そんなに欲しいのかい」\n「母が眼を細めて、よろこぶ顔が見たいので――」\n「お前さん、商売は?」\n「蓆や簾を作っています」\n「じゃあ、失礼だが、これだけの銀をためるにはたいへんだろ」\n「二年かかりました。自分の食べたい物も、着たい物も、節約して」\n「そう聞くと、断われないな。けれどとても、これだけの銀と替えたんじゃ引合わない。なにかほかにないかね」\n「これ",
"dialogue": "茶を売って下さい、茶が欲しいんですが",
"dialogue_id": 35,
"quotation_type": "e"
}
|
052410
| 36
|
{
"annotated_speaker": "商人",
"context": "��が見えた。洛陽船にちがいない」\n 彼は初めて草むらを起った。そして眉に手をかざしながら、上流のほうを眺めた。\n\n三\n\n ゆるやかに、江を下ってくる船の影は、舂く陽を負って黒く、徐々と眼の前に近づいてきた。ふつうの客船や貨船とちがい、洛陽船はひと目でわかる。無数の紅い龍舌旗を帆ばしらにひるがえし、船楼は五彩に塗ってあった。\n「おうーい」\n 劉備は手を振った。\n しかし船は一個の彼に見向きもしなかった。\n おもむろに舵を曲げ、スルスルと帆をおろしながら、黄河の流れにまかせて、そこからずっと下流の岸へ着いた。\n 百戸ばかりの水村がある。\n 今日、洛陽船を待っていたのは、劉備ひとりではない。岸にはがやがやと沢山な人影がかたまっていた。驢をひいた仲買人の群れだの、鶏車と呼ぶ手押し車に、土地の糸や綿を積んだ百姓だの、獣の肉や果物を籠に入れて待つ物売りだの――すでにそこには、洛陽船を迎えて、市が立とうとしていた。\n なにしろ、黄河の上流、洛陽の都には今、後漢の第十二代の帝王、霊帝の居城があるし、珍しい物産や、文化の粋は、ほとんどそこでつくられ、そこから全支那へ行きわたるのである。\n 幾月かに一度ずつ、文明の製品を積んだ洛陽船が、この地方へも下江してきた。そして沿岸の小都市、村、部落など、市の立つところに船を寄せて、交易した。\n ここでも。\n 夕方にかけて、おそろしく騒がしくまたあわただしい取引が始まった。\n 劉備は、そのやかましい人声と人影の中に立ちまじって、まごついていた。彼は、自分の求めようとしている茶が、仲買人の手にはいることを心配していた。一度、商人の手に移ると、莫大な値になって、とても自分の貧しい嚢中では購えなくなるからであった。\n またたく間に、市の取引は終った。仲買人も百姓も物売りたちも、三々五々、夕闇へ散ってゆく。\n 劉備は、船の商人らしい男を見かけてあわててそばへ寄って行った。\n「茶を売って下さい、茶が欲しいんですが」\n「え、茶だって?」\n 洛陽の商人は、鷹揚に彼を振向いた。\n「あいにくと、お前さんに頒けてやるような安茶は持たないよ。一葉いくらというような佳品しか船にはないよ」\n「結構です。たくさんは要りませんが」\n「おまえ茶をのんだことがあるのかね。地方の衆が何か葉を煮てのんでいるが、あれは茶ではないよ」\n「はい。その、ほんとの茶を頒けていただきたいのです」\n 彼の声は、懸命だった。\n 茶がいかに貴重か、高価か、また地方にもまだない物かは、彼もよくわきまえていた。\n その種子は、遠い熱帯の異国からわずかにもたらされて、周の代にようやく宮廷の秘用にたしなまれ、漢帝の代々になっても、後宮の茶園に少し摘まれる物と、民間のごく貴人の所有地にまれに栽培されたくらいなものだとも聞いている。\n また別な説には、一日に百草を嘗めつつ人間に食物を教えた神農はたびたび毒草にあたったが、茶を得てからこれを噛むとたちまち毒をけしたので、以来、秘愛せられたとも伝えられている。\n いずれにしろ、劉備の身分でそれを求めることの無謀は、よく知っていた。\n ――だが、彼の懸命な面もちと、真面目に、欲するわけを話す態度を見ると、洛陽の商人も、やや心を動かされたとみえて、\n「では少し頒けてあげてもよいが、お前さん、失礼だが、その代価をお持ちかね?」と訊いた。\n\n四\n\n「持っております」\n 彼は、懐中の革嚢を取出し、銀や砂金を取りまぜて、相手の両掌へ、惜しげもなくそれを皆あけた。\n「ほ……」\n 洛陽の商人は、掌の上の目量を計りながら、\n「あるねえ。しかし、銀があらかたじゃないか。これでは、よい茶はいくらも上げられないが」\n「何ほどでも」\n「そんなに欲しいのかい」\n「母が眼を細めて、よろこぶ顔が見たいので――」\n「お前さん、商売は?」\n「蓆や簾を作っています」\n「じゃあ、失礼だが、これだけの銀をためるにはたいへんだろ」\n「二年かかりました。自分の食べたい物も、着たい物も、節約して」\n「そう聞くと、断われないな。けれどとても、これだけの銀と替えたんじゃ引合わない。なにかほかにないかね」\n「これも添えます」\n 劉�",
"dialogue": "え、茶だって?",
"dialogue_id": 36,
"quotation_type": "e"
}
|
052410
| 37
|
{
"annotated_speaker": "商人",
"context": "して眉に手をかざしながら、上流のほうを眺めた。\n\n三\n\n ゆるやかに、江を下ってくる船の影は、舂く陽を負って黒く、徐々と眼の前に近づいてきた。ふつうの客船や貨船とちがい、洛陽船はひと目でわかる。無数の紅い龍舌旗を帆ばしらにひるがえし、船楼は五彩に塗ってあった。\n「おうーい」\n 劉備は手を振った。\n しかし船は一個の彼に見向きもしなかった。\n おもむろに舵を曲げ、スルスルと帆をおろしながら、黄河の流れにまかせて、そこからずっと下流の岸へ着いた。\n 百戸ばかりの水村がある。\n 今日、洛陽船を待っていたのは、劉備ひとりではない。岸にはがやがやと沢山な人影がかたまっていた。驢をひいた仲買人の群れだの、鶏車と呼ぶ手押し車に、土地の糸や綿を積んだ百姓だの、獣の肉や果物を籠に入れて待つ物売りだの――すでにそこには、洛陽船を迎えて、市が立とうとしていた。\n なにしろ、黄河の上流、洛陽の都には今、後漢の第十二代の帝王、霊帝の居城があるし、珍しい物産や、文化の粋は、ほとんどそこでつくられ、そこから全支那へ行きわたるのである。\n 幾月かに一度ずつ、文明の製品を積んだ洛陽船が、この地方へも下江してきた。そして沿岸の小都市、村、部落など、市の立つところに船を寄せて、交易した。\n ここでも。\n 夕方にかけて、おそろしく騒がしくまたあわただしい取引が始まった。\n 劉備は、そのやかましい人声と人影の中に立ちまじって、まごついていた。彼は、自分の求めようとしている茶が、仲買人の手にはいることを心配していた。一度、商人の手に移ると、莫大な値になって、とても自分の貧しい嚢中では購えなくなるからであった。\n またたく間に、市の取引は終った。仲買人も百姓も物売りたちも、三々五々、夕闇へ散ってゆく。\n 劉備は、船の商人らしい男を見かけてあわててそばへ寄って行った。\n「茶を売って下さい、茶が欲しいんですが」\n「え、茶だって?」\n 洛陽の商人は、鷹揚に彼を振向いた。\n「あいにくと、お前さんに頒けてやるような安茶は持たないよ。一葉いくらというような佳品しか船にはないよ」\n「結構です。たくさんは要りませんが」\n「おまえ茶をのんだことがあるのかね。地方の衆が何か葉を煮てのんでいるが、あれは茶ではないよ」\n「はい。その、ほんとの茶を頒けていただきたいのです」\n 彼の声は、懸命だった。\n 茶がいかに貴重か、高価か、また地方にもまだない物かは、彼もよくわきまえていた。\n その種子は、遠い熱帯の異国からわずかにもたらされて、周の代にようやく宮廷の秘用にたしなまれ、漢帝の代々になっても、後宮の茶園に少し摘まれる物と、民間のごく貴人の所有地にまれに栽培されたくらいなものだとも聞いている。\n また別な説には、一日に百草を嘗めつつ人間に食物を教えた神農はたびたび毒草にあたったが、茶を得てからこれを噛むとたちまち毒をけしたので、以来、秘愛せられたとも伝えられている。\n いずれにしろ、劉備の身分でそれを求めることの無謀は、よく知っていた。\n ――だが、彼の懸命な面もちと、真面目に、欲するわけを話す態度を見ると、洛陽の商人も、やや心を動かされたとみえて、\n「では少し頒けてあげてもよいが、お前さん、失礼だが、その代価をお持ちかね?」と訊いた。\n\n四\n\n「持っております」\n 彼は、懐中の革嚢を取出し、銀や砂金を取りまぜて、相手の両掌へ、惜しげもなくそれを皆あけた。\n「ほ……」\n 洛陽の商人は、掌の上の目量を計りながら、\n「あるねえ。しかし、銀があらかたじゃないか。これでは、よい茶はいくらも上げられないが」\n「何ほどでも」\n「そんなに欲しいのかい」\n「母が眼を細めて、よろこぶ顔が見たいので――」\n「お前さん、商売は?」\n「蓆や簾を作っています」\n「じゃあ、失礼だが、これだけの銀をためるにはたいへんだろ」\n「二年かかりました。自分の食べたい物も、着たい物も、節約して」\n「そう聞くと、断われないな。けれどとても、これだけの銀と替えたんじゃ引合わない。なにかほかにないかね」\n「これも添えます」\n 劉備は、剣の緒にさげている琅玕の珠を解いて出した。洛陽の商人は琅玕などは珍しくない顔つきをして見ていたが、\n「よろしい。おまえさんの孝",
"dialogue": "あいにくと、お前さんに頒けてやるような安茶は持たないよ。一葉いくらというような佳品しか船にはないよ",
"dialogue_id": 37,
"quotation_type": "i"
}
|
052410
| 38
|
{
"annotated_speaker": "劉備",
"context": "く陽を負って黒く、徐々と眼の前に近づいてきた。ふつうの客船や貨船とちがい、洛陽船はひと目でわかる。無数の紅い龍舌旗を帆ばしらにひるがえし、船楼は五彩に塗ってあった。\n「おうーい」\n 劉備は手を振った。\n しかし船は一個の彼に見向きもしなかった。\n おもむろに舵を曲げ、スルスルと帆をおろしながら、黄河の流れにまかせて、そこからずっと下流の岸へ着いた。\n 百戸ばかりの水村がある。\n 今日、洛陽船を待っていたのは、劉備ひとりではない。岸にはがやがやと沢山な人影がかたまっていた。驢をひいた仲買人の群れだの、鶏車と呼ぶ手押し車に、土地の糸や綿を積んだ百姓だの、獣の肉や果物を籠に入れて待つ物売りだの――すでにそこには、洛陽船を迎えて、市が立とうとしていた。\n なにしろ、黄河の上流、洛陽の都には今、後漢の第十二代の帝王、霊帝の居城があるし、珍しい物産や、文化の粋は、ほとんどそこでつくられ、そこから全支那へ行きわたるのである。\n 幾月かに一度ずつ、文明の製品を積んだ洛陽船が、この地方へも下江してきた。そして沿岸の小都市、村、部落など、市の立つところに船を寄せて、交易した。\n ここでも。\n 夕方にかけて、おそろしく騒がしくまたあわただしい取引が始まった。\n 劉備は、そのやかましい人声と人影の中に立ちまじって、まごついていた。彼は、自分の求めようとしている茶が、仲買人の手にはいることを心配していた。一度、商人の手に移ると、莫大な値になって、とても自分の貧しい嚢中では購えなくなるからであった。\n またたく間に、市の取引は終った。仲買人も百姓も物売りたちも、三々五々、夕闇へ散ってゆく。\n 劉備は、船の商人らしい男を見かけてあわててそばへ寄って行った。\n「茶を売って下さい、茶が欲しいんですが」\n「え、茶だって?」\n 洛陽の商人は、鷹揚に彼を振向いた。\n「あいにくと、お前さんに頒けてやるような安茶は持たないよ。一葉いくらというような佳品しか船にはないよ」\n「結構です。たくさんは要りませんが」\n「おまえ茶をのんだことがあるのかね。地方の衆が何か葉を煮てのんでいるが、あれは茶ではないよ」\n「はい。その、ほんとの茶を頒けていただきたいのです」\n 彼の声は、懸命だった。\n 茶がいかに貴重か、高価か、また地方にもまだない物かは、彼もよくわきまえていた。\n その種子は、遠い熱帯の異国からわずかにもたらされて、周の代にようやく宮廷の秘用にたしなまれ、漢帝の代々になっても、後宮の茶園に少し摘まれる物と、民間のごく貴人の所有地にまれに栽培されたくらいなものだとも聞いている。\n また別な説には、一日に百草を嘗めつつ人間に食物を教えた神農はたびたび毒草にあたったが、茶を得てからこれを噛むとたちまち毒をけしたので、以来、秘愛せられたとも伝えられている。\n いずれにしろ、劉備の身分でそれを求めることの無謀は、よく知っていた。\n ――だが、彼の懸命な面もちと、真面目に、欲するわけを話す態度を見ると、洛陽の商人も、やや心を動かされたとみえて、\n「では少し頒けてあげてもよいが、お前さん、失礼だが、その代価をお持ちかね?」と訊いた。\n\n四\n\n「持っております」\n 彼は、懐中の革嚢を取出し、銀や砂金を取りまぜて、相手の両掌へ、惜しげもなくそれを皆あけた。\n「ほ……」\n 洛陽の商人は、掌の上の目量を計りながら、\n「あるねえ。しかし、銀があらかたじゃないか。これでは、よい茶はいくらも上げられないが」\n「何ほどでも」\n「そんなに欲しいのかい」\n「母が眼を細めて、よろこぶ顔が見たいので――」\n「お前さん、商売は?」\n「蓆や簾を作っています」\n「じゃあ、失礼だが、これだけの銀をためるにはたいへんだろ」\n「二年かかりました。自分の食べたい物も、着たい物も、節約して」\n「そう聞くと、断われないな。けれどとても、これだけの銀と替えたんじゃ引合わない。なにかほかにないかね」\n「これも添えます」\n 劉備は、剣の緒にさげている琅玕の珠を解いて出した。洛陽の商人は琅玕などは珍しくない顔つきをして見ていたが、\n「よろしい。おまえさんの孝心に免じて、茶と交易してやろう」\n",
"dialogue": "結構です。たくさんは要りませんが",
"dialogue_id": 38,
"quotation_type": "i"
}
|
052410
| 39
|
{
"annotated_speaker": "商人",
"context": "に近づいてきた。ふつうの客船や貨船とちがい、洛陽船はひと目でわかる。無数の紅い龍舌旗を帆ばしらにひるがえし、船楼は五彩に塗ってあった。\n「おうーい」\n 劉備は手を振った。\n しかし船は一個の彼に見向きもしなかった。\n おもむろに舵を曲げ、スルスルと帆をおろしながら、黄河の流れにまかせて、そこからずっと下流の岸へ着いた。\n 百戸ばかりの水村がある。\n 今日、洛陽船を待っていたのは、劉備ひとりではない。岸にはがやがやと沢山な人影がかたまっていた。驢をひいた仲買人の群れだの、鶏車と呼ぶ手押し車に、土地の糸や綿を積んだ百姓だの、獣の肉や果物を籠に入れて待つ物売りだの――すでにそこには、洛陽船を迎えて、市が立とうとしていた。\n なにしろ、黄河の上流、洛陽の都には今、後漢の第十二代の帝王、霊帝の居城があるし、珍しい物産や、文化の粋は、ほとんどそこでつくられ、そこから全支那へ行きわたるのである。\n 幾月かに一度ずつ、文明の製品を積んだ洛陽船が、この地方へも下江してきた。そして沿岸の小都市、村、部落など、市の立つところに船を寄せて、交易した。\n ここでも。\n 夕方にかけて、おそろしく騒がしくまたあわただしい取引が始まった。\n 劉備は、そのやかましい人声と人影の中に立ちまじって、まごついていた。彼は、自分の求めようとしている茶が、仲買人の手にはいることを心配していた。一度、商人の手に移ると、莫大な値になって、とても自分の貧しい嚢中では購えなくなるからであった。\n またたく間に、市の取引は終った。仲買人も百姓も物売りたちも、三々五々、夕闇へ散ってゆく。\n 劉備は、船の商人らしい男を見かけてあわててそばへ寄って行った。\n「茶を売って下さい、茶が欲しいんですが」\n「え、茶だって?」\n 洛陽の商人は、鷹揚に彼を振向いた。\n「あいにくと、お前さんに頒けてやるような安茶は持たないよ。一葉いくらというような佳品しか船にはないよ」\n「結構です。たくさんは要りませんが」\n「おまえ茶をのんだことがあるのかね。地方の衆が何か葉を煮てのんでいるが、あれは茶ではないよ」\n「はい。その、ほんとの茶を頒けていただきたいのです」\n 彼の声は、懸命だった。\n 茶がいかに貴重か、高価か、また地方にもまだない物かは、彼もよくわきまえていた。\n その種子は、遠い熱帯の異国からわずかにもたらされて、周の代にようやく宮廷の秘用にたしなまれ、漢帝の代々になっても、後宮の茶園に少し摘まれる物と、民間のごく貴人の所有地にまれに栽培されたくらいなものだとも聞いている。\n また別な説には、一日に百草を嘗めつつ人間に食物を教えた神農はたびたび毒草にあたったが、茶を得てからこれを噛むとたちまち毒をけしたので、以来、秘愛せられたとも伝えられている。\n いずれにしろ、劉備の身分でそれを求めることの無謀は、よく知っていた。\n ――だが、彼の懸命な面もちと、真面目に、欲するわけを話す態度を見ると、洛陽の商人も、やや心を動かされたとみえて、\n「では少し頒けてあげてもよいが、お前さん、失礼だが、その代価をお持ちかね?」と訊いた。\n\n四\n\n「持っております」\n 彼は、懐中の革嚢を取出し、銀や砂金を取りまぜて、相手の両掌へ、惜しげもなくそれを皆あけた。\n「ほ……」\n 洛陽の商人は、掌の上の目量を計りながら、\n「あるねえ。しかし、銀があらかたじゃないか。これでは、よい茶はいくらも上げられないが」\n「何ほどでも」\n「そんなに欲しいのかい」\n「母が眼を細めて、よろこぶ顔が見たいので――」\n「お前さん、商売は?」\n「蓆や簾を作っています」\n「じゃあ、失礼だが、これだけの銀をためるにはたいへんだろ」\n「二年かかりました。自分の食べたい物も、着たい物も、節約して」\n「そう聞くと、断われないな。けれどとても、これだけの銀と替えたんじゃ引合わない。なにかほかにないかね」\n「これも添えます」\n 劉備は、剣の緒にさげている琅玕の珠を解いて出した。洛陽の商人は琅玕などは珍しくない顔つきをして見ていたが、\n「よろしい。おまえさんの孝心に免じて、茶と交易してやろう」\n と、やがて船室の中から、錫の小さい壺を一つ持ってきて、劉備に与えた。\n 黄河は�",
"dialogue": "おまえ茶をのんだことがあるのかね。地方の衆が何か葉を煮てのんでいるが、あれは茶ではないよ",
"dialogue_id": 39,
"quotation_type": "i"
}
|
End of preview.