Dataset Viewer
Auto-converted to Parquet Duplicate
text
stringlengths
52
6.51k
len
int64
52
6.51k
split
int64
0
841
meta
dict
book_id
stringclasses
21 values
author_id
stringclasses
7 values
title
stringclasses
21 values
author
stringclasses
7 values
一  ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。 やがて御釈迦様はその池のふちに御佇みになって、水の面を蔽っている蓮の葉の間から、ふと下の容子を御覧になりました。この極楽の蓮池の下は、丁度地獄の底に当って居りますから、水晶のような水を透き徹して、三途の河や針の山の景色が、丁度覗き眼鏡を見るように、はっきりと見えるのでございます。 するとその地獄の底に、犍陀多と云う男が一人、ほかの罪人と一しょに蠢いて...
586
0
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-01-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "くものいと", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files...
000092
000879
蜘蛛の糸
芥川竜之介
 御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、この犍陀多には蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をした報には、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。幸い、側を見ますと、翡翠のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御下しなさいました。二  こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しょに、浮いたり沈んだりしていた犍陀多でございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上っているものがあると思い...
547
1
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-01-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "くものいと", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files...
000092
000879
蜘蛛の糸
芥川竜之介
 ところがある時の事でございます。何気なく犍陀多が頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。犍陀多はこれを見ると、思わず手を拍って喜びました。この糸に縋りついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられる事もなくなれば、血の池に沈められる事もある筈はございません。 こう思いましたから犍陀多は、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命...
540
2
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-01-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "くものいと", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files...
000092
000879
蜘蛛の糸
芥川竜之介
 すると、一生懸命にのぼった甲斐があって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう暗の底にいつの間にかかくれて居ります。それからあのぼんやり光っている恐しい針の山も、足の下になってしまいました。この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。犍陀多は両手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出した事のない声で、「しめた。しめた。」と笑いました。ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限もない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるで蟻の行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。犍陀多はこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、莫迦のように大き...
606
3
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-01-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "くものいと", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files...
000092
000879
蜘蛛の糸
芥川竜之介
 そこで犍陀多は大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚きました。 その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に犍陀多のぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて断れました。ですから犍陀多もたまりません。あっと云う間もなく風を切って、独楽のようにくるくるまわりながら、見る見る中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。 後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます。三  御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがて犍陀多が...
609
4
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-01-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "くものいと", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files...
000092
000879
蜘蛛の糸
芥川竜之介
一  或春の日暮です。  唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。 若者は名を杜子春といって、元は金持の息子でしたが、今は財産を費い尽して、その日の暮しにも困る位、憐な身分になっているのです。 何しろその頃洛陽といえば、天下に並ぶもののない、繁昌を極めた都ですから、往来にはまだしっきりなく、人や車が通っていました。門一ぱいに当っている、油のような夕日の光の中に、老人のかぶった紗の帽子や、土耳古の女の金の耳環や、白馬に飾った色糸の手綱が、絶えず流れて行く容子は、まるで画のような美しさです。 しかし杜子春は相変らず、門の壁に身を凭せて、ぼんやり空ばかり眺めていました。空には、もう細い月が、うらうらと靡...
354
0
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43015_17432.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-10-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "とししゆん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fi...
043015
000879
杜子春
芥川竜之介
「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行っても、泊めてくれる所はなさそうだし――こんな思いをして生きている位なら、一そ川へでも身を投げて、死んでしまった方がましかも知れない」 杜子春はひとりさっきから、こんな取りとめもないことを思いめぐらしていたのです。 するとどこからやって来たか、突然彼の前へ足を止めた、片目眇の老人があります。それが夕日の光を浴びて、大きな影を門へ落すと、じっと杜子春の顔を見ながら、「お前は何を考えているのだ」と、横柄に声をかけました。 「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです」 老人の尋ね方が急でしたから、杜子春はさすがに眼を伏せて、思わず正直な答をしました。
312
1
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43015_17432.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-10-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "とししゆん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fi...
043015
000879
杜子春
芥川竜之介
「そうか。それは可哀そうだな」  老人は暫く何事か考えているようでしたが、やがて、往来にさしている夕日の光を指さしながら、「ではおれが好いことを一つ教えてやろう。今この夕日の中に立って、お前の影が地に映ったら、その頭に当る所を夜中に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの黄金が埋まっている筈だから」「ほんとうですか」  杜子春は驚いて、伏せていた眼を挙げました。ところが更に不思議なことには、あの老人はどこへ行ったか、もうあたりにはそれらしい、影も形も見当りません。その代り空の月の色は前よりも猶白くなって、休みない往来の人通りの上には、もう気の早い蝙蝠が二三匹ひらひら舞っていました。二  杜子春は一日の内に、洛陽の都でも唯一人という大金...
588
2
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43015_17432.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-10-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "とししゆん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fi...
043015
000879
杜子春
芥川竜之介
 するとこういう噂を聞いて、今までは路で行き合っても、挨拶さえしなかった友だちなどが、朝夕遊びにやって来ました。それも一日毎に数が増して、半年ばかり経つ内には、洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子春の家へ来ないものは、一人もない位になってしまったのです。杜子春はこの御客たちを相手に、毎日酒盛りを開きました。その酒盛りの又盛なことは、中々口には尽されません。極かいつまんだだけをお話しても、杜子春が金の杯に西洋から来た葡萄酒を汲んで、天竺生れの魔法使が刀を呑んで見せる芸に見とれていると、そのまわりには二十人の女たちが、十人は翡翠の蓮の花を、十人は瑪瑙の牡丹の花を、いずれも髪に飾りながら、笛や琴を節面白く奏しているという景色な...
557
3
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43015_17432.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-10-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "とししゆん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fi...
043015
000879
杜子春
芥川竜之介
 そこで彼は或日の夕方、もう一度あの洛陽の西の門の下へ行って、ぼんやり空を眺めながら、途方に暮れて立っていました。するとやはり昔のように、片目眇の老人が、どこからか姿を現して、「お前は何を考えているのだ」と、声をかけるではありませんか。 杜子春は老人の顔を見ると、恥しそうに下を向いたまま、暫くは返事もしませんでした。が、老人はその日も親切そうに、同じ言葉を繰返しますから、こちらも前と同じように、「私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです」と、恐る恐る返事をしました。「そうか。それは可哀そうだな。ではおれが好いことを一つ教えてやろう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地に映ったら、その胸に当る所を、夜中に掘って見るが...
503
4
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43015_17432.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-10-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "とししゆん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fi...
043015
000879
杜子春
芥川竜之介
 ですから車に一ぱいにあった、あの夥しい黄金も、又三年ばかり経つ内には、すっかりなくなってしまいました。三 「お前は何を考えているのだ」  片目眇の老人は、三度杜子春の前へ来て、同じことを問いかけました。勿論彼はその時も、洛陽の西の門の下に、ほそぼそと霞を破っている三日月の光を眺めながら、ぼんやり佇んでいたのです。「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしようかと思っているのです」「そうか。それは可哀そうだな。ではおれが好いことを教えてやろう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地に映ったら、その腹に当る所を、夜中に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの――」 老人がここまで言いかけると、杜子春は急に手を挙げて、その言葉を遮りました...
507
5
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43015_17432.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-10-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "とししゆん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fi...
043015
000879
杜子春
芥川竜之介
「人間は皆薄情です。私が大金持になった時には、世辞も追従もしますけれど、一旦貧乏になって御覧なさい。柔しい顔さえもして見せはしません。そんなことを考えると、たといもう一度大金持になったところが、何にもならないような気がするのです」 老人は杜子春の言葉を聞くと、急ににやにや笑い出しました。 「そうか。いや、お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ。ではこれからは貧乏をしても、安らかに暮して行くつもりか」 杜子春はちょいとためらいました。が、すぐに思い切った眼を挙げると、訴えるように老人の顔を見ながら、「それも今の私には出来ません。ですから私はあなたの弟子になって、仙術の修業をしたいと思うのです。いいえ、隠してはいけません。あなたは...
561
6
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43015_17432.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-10-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "とししゆん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fi...
043015
000879
杜子春
芥川竜之介
 杜子春は喜んだの、喜ばないのではありません。老人の言葉がまだ終らない内に、彼は大地に額をつけて、何度も鉄冠子に御時宜をしました。「いや、そう御礼などは言って貰うまい。いくらおれの弟子にしたところが、立派な仙人になれるかなれないかは、お前次第で決まることだからな。――が、ともかくもまずおれと一しょに、峨眉山の奥へ来て見るが好い。おお、幸、ここに竹杖が一本落ちている。では早速これへ乗って、一飛びに空を渡るとしよう」 鉄冠子はそこにあった青竹を一本拾い上げると、口の中に咒文を唱えながら、杜子春と一しょにその竹へ、馬にでも乗るように跨りました。すると不思議ではありませんか。竹杖は忽ち竜のように、勢よく大空へ舞い上って、晴れ渡った春の夕空を...
554
7
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43015_17432.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-10-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "とししゆん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fi...
043015
000879
杜子春
芥川竜之介
 そこは深い谷に臨んだ、幅の広い一枚岩の上でしたが、よくよく高い所だと見えて、中空に垂れた北斗の星が、茶碗程の大きさに光っていました。元より人跡の絶えた山ですから、あたりはしんと静まり返って、やっと耳にはいるものは、後の絶壁に生えている、曲りくねった一株の松が、こうこうと夜風に鳴る音だけです。 二人がこの岩の上に来ると、鉄冠子は杜子春を絶壁の下に坐らせて、「おれはこれから天上へ行って、西王母に御眼にかかって来るから、お前はその間ここに坐って、おれの帰るのを待っているが好い。多分おれがいなくなると、いろいろな魔性が現れて、お前をたぶらかそうとするだろうが、たといどんなことが起ろうとも、決して声を出すのではないぞ。もし一言でも口を利いた...
579
8
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43015_17432.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-10-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "とししゆん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fi...
043015
000879
杜子春
芥川竜之介
「そこにいるのは何者だ」と、叱りつけるではありませんか。  しかし杜子春は仙人の教通り、何とも返事をしずにいました。 ところが又暫くすると、やはり同じ声が響いて、 「返事をしないと立ちどころに、命はないものと覚悟しろ」と、いかめしく嚇しつけるのです。 杜子春は勿論黙っていました。  と、どこから登って来たか、爛々と眼を光らせた虎が一匹、忽然と岩の上に躍り上って、杜子春の姿を睨みながら、一声高く哮りました。のみならずそれと同時に、頭の上の松の枝が、烈しくざわざわ揺れたと思うと、後の絶壁の頂からは、四斗樽程の白蛇が一匹、炎のような舌を吐いて、見る見る近くへ下りて来るのです。 杜子春はしかし平然と、眉毛も動かさずに坐っていました。  虎と...
530
9
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43015_17432.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-10-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "とししゆん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fi...
043015
000879
杜子春
芥川竜之介
 すると一陣の風が吹き起って、墨のような黒雲が一面にあたりをとざすや否や、うす紫の稲妻がやにわに闇を二つに裂いて、凄じく雷が鳴り出しました。いや、雷ばかりではありません。それと一しょに瀑のような雨も、いきなりどうどうと降り出したのです。杜子春はこの天変の中に、恐れ気もなく坐っていました。風の音、雨のしぶき、それから絶え間ない稲妻の光、――暫くはさすがの峨眉山も、覆るかと思う位でしたが、その内に耳をもつんざく程、大きな雷鳴が轟いたと思うと、空に渦巻いた黒雲の中から、まっ赤な一本の火柱が、杜子春の頭へ落ちかかりました。 杜子春は思わず耳を抑えて、一枚岩の上へひれ伏しました。が、すぐに眼を開いて見ると、空は以前の通り晴れ渡って、向うに聳え...
567
10
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43015_17432.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-10-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "とししゆん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fi...
043015
000879
杜子春
芥川竜之介
「こら、その方は一体何物だ。この峨眉山という山は、天地開闢の昔から、おれが住居をしている所だぞ。それも憚らずたった一人、ここへ足を踏み入れるとは、よもや唯の人間ではあるまい。さあ命が惜しかったら、一刻も早く返答しろ」と言うのです。 しかし杜子春は老人の言葉通り、黙然と口を噤んでいました。 「返事をしないか。――しないな。好し。しなければ、しないで勝手にしろ。その代りおれの眷属たちが、その方をずたずたに斬ってしまうぞ」 神将は戟を高く挙げて、向うの山の空を招きました。その途端に闇がさっと裂けると、驚いたことには無数の神兵が、雲の如く空に充満ちて、それが皆槍や刀をきらめかせながら、今にもここへ一なだれに攻め寄せようとしているのです。 こ...
573
11
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43015_17432.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-10-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "とししゆん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fi...
043015
000879
杜子春
芥川竜之介
 北斗の星は又寒そうに、一枚岩の上を照らし始めました。絶壁の松も前に変らず、こうこうと枝を鳴らせています。が、杜子春はとうに息が絶えて、仰向けにそこへ倒れていました。五  杜子春の体は岩の上へ、仰向けに倒れていましたが、杜子春の魂は、静に体から抜け出して、地獄の底へ下りて行きました。 この世と地獄との間には、闇穴道という道があって、そこは年中暗い空に、氷のような冷たい風がぴゅうぴゅう吹き荒んでいるのです。杜子春はその風に吹かれながら、暫くは唯木の葉のように、空を漂って行きましたが、やがて森羅殿という額の懸った立派な御殿の前へ出ました。 御殿の前にいた大勢の鬼は、杜子春の姿を見るや否や、すぐにそのまわりを取り捲いて、階の前へ引き据え...
593
12
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43015_17432.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-10-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "とししゆん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fi...
043015
000879
杜子春
芥川竜之介
「その方はここをどこだと思う? 速に返答をすれば好し、さもなければ時を移さず、地獄の呵責に遇わせてくれるぞ」と、威丈高に罵りました。 が、杜子春は相変らず唇一つ動かしません。それを見た閻魔大王は、すぐに鬼どもの方を向いて、荒々しく何か言いつけると、鬼どもは一度に畏って、忽ち杜子春を引き立てながら、森羅殿の空へ舞い上りました。 地獄には誰でも知っている通り、剣の山や血の池の外にも、焦熱地獄という焔の谷や極寒地獄という氷の海が、真暗な空の下に並んでいます。鬼どもはそういう地獄の中へ、代る代る杜子春を抛りこみました。ですから杜子春は無残にも、剣に胸を貫かれるやら、焔に顔を焼かれるやら、舌を抜かれるやら、皮を剥がれるやら、鉄の杵に撞かれるや...
442
13
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43015_17432.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-10-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "とししゆん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fi...
043015
000879
杜子春
芥川竜之介
 これにはさすがの鬼どもも、呆れ返ってしまったのでしょう。もう一度夜のような空を飛んで、森羅殿の前へ帰って来ると、さっきの通り杜子春を階の下に引き据えながら、御殿の上の閻魔大王に、「この罪人はどうしても、ものを言う気色がございません」と、口を揃えて言上しました。 閻魔大王は眉をひそめて、暫く思案に暮れていましたが、やがて何か思いついたと見えて、「この男の父母は、畜生道に落ちている筈だから、早速ここへ引き立てて来い」と、一匹の鬼に言いつけました。 鬼は忽ち風に乗って、地獄の空へ舞い上りました。と思うと、又星が流れるように、二匹の獣を駆り立てながら、さっと森羅殿の前へ下りて来ました。その獣を見た杜子春は、驚いたの驚かないのではありません...
376
14
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43015_17432.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-10-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "とししゆん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fi...
043015
000879
杜子春
芥川竜之介
「こら、その方は何のために、峨眉山の上に坐っていたか、まっすぐに白状しなければ、今度はその方の父母に痛い思いをさせてやるぞ」 杜子春はこう嚇されても、やはり返答をしずにいました。 「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合が好ければ、好いと思っているのだな」 閻魔大王は森羅殿も崩れる程、凄じい声で喚きました。 「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまえ」 鬼どもは一斉に「はっ」と答えながら、鉄の鞭をとって立ち上ると、四方八方から二匹の馬を、未練未釈なく打ちのめしました。鞭はりゅうりゅうと風を切って、所嫌わず雨のように、馬の皮肉を打ち破るのです。馬は、――畜生になった父母は、苦しそうに身を悶えて、眼には...
451
15
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43015_17432.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-10-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "とししゆん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fi...
043015
000879
杜子春
芥川竜之介
 杜子春は必死になって、鉄冠子の言葉を思い出しながら、緊く眼をつぶっていました。するとその時彼の耳には、殆声とはいえない位、かすかな声が伝わって来ました。「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰っても、言いたくないことは黙って御出で」 それは確に懐しい、母親の声に違いありません。杜子春は思わず、眼をあきました。そうして馬の一匹が、力なく地上に倒れたまま、悲しそうに彼の顔へ、じっと眼をやっているのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨む気色さえも見せないのです。大金持になれば御世辞を言い、貧乏人になれば...
544
16
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43015_17432.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-10-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "とししゆん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fi...
043015
000879
杜子春
芥川竜之介
「どうだな。おれの弟子になったところが、とても仙人にはなれはすまい」 片目眇の老人は微笑を含みながら言いました。 「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかったことも、反って嬉しい気がするのです」 杜子春はまだ眼に涙を浮べたまま、思わず老人の手を握りました。「いくら仙人になれたところが、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けている父母を見ては、黙っている訳には行きません」「もしお前が黙っていたら――」と鉄冠子は急に厳な顔になって、じっと杜子春を見つめました。「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ。――お前はもう仙人になりたいという望も持っていまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。...
593
17
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43015_17432.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-10-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "とししゆん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fi...
043015
000879
杜子春
芥川竜之介
 禅智内供の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。長さは五六寸あって上唇の上から顋の下まで下っている。形は元も先も同じように太い。云わば細長い腸詰めのような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下っているのである。 五十歳を越えた内供は、沙弥の昔から、内道場供奉の職に陞った今日まで、内心では始終この鼻を苦に病んで来た。勿論表面では、今でもさほど気にならないような顔をしてすましている。これは専念に当来の浄土を渇仰すべき僧侶の身で、鼻の心配をするのが悪いと思ったからばかりではない。それよりむしろ、自分で鼻を気にしていると云う事を、人に知られるのが嫌だったからである。内供は日常の談話の中に、鼻と云う語が出て来るのを何よりも惧れていた。
315
0
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42_15228.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-05-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "はな", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42...
000042
000879
芥川竜之介
 内供が鼻を持てあました理由は二つある。――一つは実際的に、鼻の長いのが不便だったからである。第一飯を食う時にも独りでは食えない。独りで食えば、鼻の先が鋺の中の飯へとどいてしまう。そこで内供は弟子の一人を膳の向うへ坐らせて、飯を食う間中、広さ一寸長さ二尺ばかりの板で、鼻を持上げていて貰う事にした。しかしこうして飯を食うと云う事は、持上げている弟子にとっても、持上げられている内供にとっても、決して容易な事ではない。一度この弟子の代りをした中童子が、嚏をした拍子に手がふるえて、鼻を粥の中へ落した話は、当時京都まで喧伝された。――けれどもこれは内供にとって、決して鼻を苦に病んだ重な理由ではない。内供は実にこの鼻によって傷つけられる自尊心の...
332
1
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42_15228.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-05-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "はな", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42...
000042
000879
芥川竜之介
 池の尾の町の者は、こう云う鼻をしている禅智内供のために、内供の俗でない事を仕合せだと云った。あの鼻では誰も妻になる女があるまいと思ったからである。中にはまた、あの鼻だから出家したのだろうと批評する者さえあった。しかし内供は、自分が僧であるために、幾分でもこの鼻に煩される事が少くなったと思っていない。内供の自尊心は、妻帯と云うような結果的な事実に左右されるためには、余りにデリケイトに出来ていたのである。そこで内供は、積極的にも消極的にも、この自尊心の毀損を恢復しようと試みた。 第一に内供の考えたのは、この長い鼻を実際以上に短く見せる方法である。これは人のいない時に、鏡へ向って、いろいろな角度から顔を映しながら、熱心に工夫を凝らして見...
528
2
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42_15228.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-05-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "はな", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42...
000042
000879
芥川竜之介
 それからまた内供は、絶えず人の鼻を気にしていた。池の尾の寺は、僧供講説などのしばしば行われる寺である。寺の内には、僧坊が隙なく建て続いて、湯屋では寺の僧が日毎に湯を沸かしている。従ってここへ出入する僧俗の類も甚だ多い。内供はこう云う人々の顔を根気よく物色した。一人でも自分のような鼻のある人間を見つけて、安心がしたかったからである。だから内供の眼には、紺の水干も白の帷子もはいらない。まして柑子色の帽子や、椎鈍の法衣なぞは、見慣れているだけに、有れども無きが如くである。内供は人を見ずに、ただ、鼻を見た。――しかし鍵鼻はあっても、内供のような鼻は一つも見当らない。その見当らない事が度重なるに従って、内供の心は次第にまた不快になった。内供...
572
3
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42_15228.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-05-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "はな", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42...
000042
000879
芥川竜之介
 内供がこう云う消極的な苦心をしながらも、一方ではまた、積極的に鼻の短くなる方法を試みた事は、わざわざここに云うまでもない。内供はこの方面でもほとんど出来るだけの事をした。烏瓜を煎じて飲んで見た事もある。鼠の尿を鼻へなすって見た事もある。しかし何をどうしても、鼻は依然として、五六寸の長さをぶらりと唇の上にぶら下げているではないか。 所がある年の秋、内供の用を兼ねて、京へ上った弟子の僧が、知己の医者から長い鼻を短くする法を教わって来た。その医者と云うのは、もと震旦から渡って来た男で、当時は長楽寺の供僧になっていたのである。 内供は、いつものように、鼻などは気にかけないと云う風をして、わざとその法もすぐにやって見ようとは云わずにいた。そ...
569
4
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42_15228.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-05-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "はな", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42...
000042
000879
芥川竜之介
 その法と云うのは、ただ、湯で鼻を茹でて、その鼻を人に踏ませると云う、極めて簡単なものであった。 湯は寺の湯屋で、毎日沸かしている。そこで弟子の僧は、指も入れられないような熱い湯を、すぐに提に入れて、湯屋から汲んで来た。しかしじかにこの提へ鼻を入れるとなると、湯気に吹かれて顔を火傷する惧がある。そこで折敷へ穴をあけて、それを提の蓋にして、その穴から鼻を湯の中へ入れる事にした。鼻だけはこの熱い湯の中へ浸しても、少しも熱くないのである。しばらくすると弟子の僧が云った。 ――もう茹った時分でござろう。  内供は苦笑した。これだけ聞いたのでは、誰も鼻の話とは気がつかないだろうと思ったからである。鼻は熱湯に蒸されて、蚤の食ったようにむず痒い。...
467
5
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42_15228.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-05-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "はな", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42...
000042
000879
芥川竜之介
 ――痛うはござらぬかな。医師は責めて踏めと申したで。じゃが、痛うはござらぬかな。 内供は首を振って、痛くないと云う意味を示そうとした。所が鼻を踏まれているので思うように首が動かない。そこで、上眼を使って、弟子の僧の足に皹のきれているのを眺めながら、腹を立てたような声で、――痛うはないて。  と答えた。実際鼻はむず痒い所を踏まれるので、痛いよりもかえって気もちのいいくらいだったのである。 しばらく踏んでいると、やがて、粟粒のようなものが、鼻へ出来はじめた。云わば毛をむしった小鳥をそっくり丸炙にしたような形である。弟子の僧はこれを見ると、足を止めて独り言のようにこう云った。 ――これを鑷子でぬけと申す事でござった。  内供は、不足らし...
507
6
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42_15228.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-05-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "はな", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42...
000042
000879
芥川竜之介
 やがてこれが一通りすむと、弟子の僧は、ほっと一息ついたような顔をして、 ――もう一度、これを茹でればようござる。  と云った。  内供はやはり、八の字をよせたまま不服らしい顔をして、弟子の僧の云うなりになっていた。 さて二度目に茹でた鼻を出して見ると、成程、いつになく短くなっている。これではあたりまえの鍵鼻と大した変りはない。内供はその短くなった鼻を撫でながら、弟子の僧の出してくれる鏡を、極りが悪るそうにおずおず覗いて見た。 鼻は――あの顋の下まで下っていた鼻は、ほとんど嘘のように萎縮して、今は僅に上唇の上で意気地なく残喘を保っている。所々まだらに赤くなっているのは、恐らく踏まれた時の痕であろう。こうなれば、もう誰も哂うものはない...
593
7
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42_15228.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-05-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "はな", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42...
000042
000879
芥川竜之介
 所が二三日たつ中に、内供は意外な事実を発見した。それは折から、用事があって、池の尾の寺を訪れた侍が、前よりも一層可笑しそうな顔をして、話も碌々せずに、じろじろ内供の鼻ばかり眺めていた事である。それのみならず、かつて、内供の鼻を粥の中へ落した事のある中童子なぞは、講堂の外で内供と行きちがった時に、始めは、下を向いて可笑しさをこらえていたが、とうとうこらえ兼ねたと見えて、一度にふっと吹き出してしまった。用を云いつかった下法師たちが、面と向っている間だけは、慎んで聞いていても、内供が後さえ向けば、すぐにくすくす笑い出したのは、一度や二度の事ではない。 内供ははじめ、これを自分の顔がわりがしたせいだと解釈した。しかしどうもこの解釈だけでは...
463
8
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42_15228.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-05-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "はな", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42...
000042
000879
芥川竜之介
 ――前にはあのようにつけつけとは哂わなんだて。  内供は、誦しかけた経文をやめて、禿げ頭を傾けながら、時々こう呟く事があった。愛すべき内供は、そう云う時になると、必ずぼんやり、傍にかけた普賢の画像を眺めながら、鼻の長かった四五日前の事を憶い出して、「今はむげにいやしくなりさがれる人の、さかえたる昔をしのぶがごとく」ふさぎこんでしまうのである。――内供には、遺憾ながらこの問に答を与える明が欠けていた。 ――人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その...
458
9
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42_15228.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-05-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "はな", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42...
000042
000879
芥川竜之介
 そこで内供は日毎に機嫌が悪くなった。二言目には、誰でも意地悪く叱りつける。しまいには鼻の療治をしたあの弟子の僧でさえ、「内供は法慳貪の罪を受けられるぞ」と陰口をきくほどになった。殊に内供を怒らせたのは、例の悪戯な中童子である。ある日、けたたましく犬の吠える声がするので、内供が何気なく外へ出て見ると、中童子は、二尺ばかりの木の片をふりまわして、毛の長い、痩せた尨犬を逐いまわしている。それもただ、逐いまわしているのではない。「鼻を打たれまい。それ、鼻を打たれまい」と囃しながら、逐いまわしているのである。内供は、中童子の手からその木の片をひったくって、したたかその顔を打った。木の片は以前の鼻持上げの木だったのである。 内供はなまじいに、...
519
10
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42_15228.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-05-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "はな", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42...
000042
000879
芥川竜之介
 ――無理に短うしたで、病が起ったのかも知れぬ。  内供は、仏前に香花を供えるような恭しい手つきで、鼻を抑えながら、こう呟いた。 翌朝、内供がいつものように早く眼をさまして見ると、寺内の銀杏や橡が一晩の中に葉を落したので、庭は黄金を敷いたように明るい。塔の屋根には霜が下りているせいであろう。まだうすい朝日に、九輪がまばゆく光っている。禅智内供は、蔀を上げた縁に立って、深く息をすいこんだ。 ほとんど、忘れようとしていたある感覚が、再び内供に帰って来たのはこの時である。 内供は慌てて鼻へ手をやった。手にさわるものは、昨夜の短い鼻ではない。上唇の上から顋の下まで、五六寸あまりもぶら下っている、昔の長い鼻である。内供は鼻が一夜の中に、また元...
463
11
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42_15228.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-05-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "はな", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42...
000042
000879
芥川竜之介
 ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。 広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。 何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云う災がつづいて起った。そこで洛中のさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪の料に売っていたと云う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理な...
475
0
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2022-07-16T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "らしようもん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fil...
000127
000879
羅生門
芥川竜之介
 その代りまた鴉がどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾のまわりを啼きながら、飛びまわっている。ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻をまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄みに来るのである。――もっとも今日は、刻限が遅いせいか、一羽も見えない。ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、鴉の糞が、点々と白くこびりついているのが見える。下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖の尻を据えて、右の頬に出来た、大きな面皰を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。
299
1
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2022-07-16T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "らしようもん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fil...
000127
000879
羅生門
芥川竜之介
 作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微していた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「下人が雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。申の刻下りからふり出した雨は、いまだに上るけしき...
434
2
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2022-07-16T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "らしようもん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fil...
000127
000879
羅生門
芥川竜之介
 雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍の先に、重たくうす暗い雲を支えている。 どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑はない。選んでいれば、築土の下か、道ばたの土の上で、饑死をするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来...
483
3
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2022-07-16T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "らしようもん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fil...
000127
000879
羅生門
芥川竜之介
 下人は、頸をちぢめながら、山吹の汗袗に重ねた、紺の襖の肩を高くして門のまわりを見まわした。雨風の患のない、人目にかかる惧のない、一晩楽にねられそうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かそうと思ったからである。すると、幸い門の上の楼へ上る、幅の広い、これも丹を塗った梯子が眼についた。上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである。下人はそこで、腰にさげた聖柄の太刀が鞘走らないように気をつけながら、藁草履をはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。 それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子を窺っていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、...
541
4
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2022-07-16T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "らしようもん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fil...
000127
000879
羅生門
芥川竜之介
 下人は、守宮のように足音をぬすんで、やっと急な梯子を、一番上の段まで這うようにして上りつめた。そうして体を出来るだけ、平にしながら、頸を出来るだけ、前へ出して、恐る恐る、楼の内を覗いて見た。 見ると、楼の内には、噂に聞いた通り、幾つかの死骸が、無造作に棄ててあるが、火の光の及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数は幾つともわからない。ただ、おぼろげながら、知れるのは、その中に裸の死骸と、着物を着た死骸とがあるという事である。勿論、中には女も男もまじっているらしい。そうして、その死骸は皆、それが、かつて、生きていた人間だと云う事実さえ疑われるほど、土を捏ねて造った人形のように、口を開いたり手を延ばしたりして、ごろごろ床の上にころがっていた...
485
5
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2022-07-16T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "らしようもん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fil...
000127
000879
羅生門
芥川竜之介
 下人の眼は、その時、はじめてその死骸の中に蹲っている人間を見た。檜皮色の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿のような老婆である。その老婆は、右の手に火をともした松の木片を持って、その死骸の一つの顔を覗きこむように眺めていた。髪の毛の長い所を見ると、多分女の死骸であろう。 下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸をするのさえ忘れていた。旧記の記者の語を借りれば、「頭身の毛も太る」ように感じたのである。すると老婆は、松の木片を、床板の間に挿して、それから、今まで眺めていた死骸の首に両手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱をとるように、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。髪は手に従って抜けるらしい。 その髪の毛...
596
6
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2022-07-16T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "らしようもん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fil...
000127
000879
羅生門
芥川竜之介
 下人には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。勿論、下人は、さっきまで自分が、盗人になる気でいた事なぞは、とうに忘れていたのである。 そこで、下人は、両足に力を入れて、いきなり、梯子から上へ飛び上った。そうして聖柄の太刀に手をかけながら、大股に老婆の前へ歩みよった。老婆が驚いたのは云うまでもない。 老婆は、一目下人を見ると、まるで弩にでも弾かれたように、飛び上った。「おのれ、どこへ行く。」  下人は、老婆が死骸につまずきながら...
494
7
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2022-07-16T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "らしようもん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fil...
000127
000879
羅生門
芥川竜之介
「何をしていた。云え。云わぬと、これだぞよ。」  下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘を払って、白い鋼の色をその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球が眶の外へ出そうになるほど、見開いて、唖のように執拗く黙っている。これを見ると、下人は始めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した。そうしてこの意識は、今までけわしく燃えていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。後に残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。そこで、下人は、老婆を見下しながら、少し声を柔らげてこう云...
600
8
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2022-07-16T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "らしようもん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fil...
000127
000879
羅生門
芥川竜之介
「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘にしようと思うたのじゃ。」 下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑と一しょに、心の中へはいって来た。すると、その気色が、先方へも通じたのであろう。老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったなり、蟇のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。「成程な、死人の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯の陣へ売りに往んだわ。疫病にか...
552
9
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2022-07-16T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "らしようもん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fil...
000127
000879
羅生門
芥川竜之介
 老婆は、大体こんな意味の事を云った。  下人は、太刀を鞘におさめて、その太刀の柄を左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていた。勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな面皰を気にしながら、聞いているのである。しかし、これを聞いている中に、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。
319
10
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2022-07-16T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "らしようもん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fil...
000127
000879
羅生門
芥川竜之介
「きっと、そうか。」  老婆の話が完ると、下人は嘲るような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を面皰から離して、老婆の襟上をつかみながら、噛みつくようにこう云った。「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」 下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった檜皮色の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。 しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、う...
440
11
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2022-07-16T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "らしようもん", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/fil...
000127
000879
羅生門
芥川竜之介
一  私は時々思うことがある。探偵小説家というものには二種類あって、一つの方は犯罪者型とでも云うか、犯罪ばかりに興味を持ち、仮令推理的な探偵小説を書くにしても、犯人の残虐な心理を思うさま書かないでは満足しない様な作家であるし、もう一つの方は探偵型とでも云うか、ごく健全で、理智的な探偵の径路にのみ興味を持ち、犯罪者の心理などには一向頓着しない様な作家であると。そして、私がこれから書こうとする探偵作家大江春泥は前者に属し、私自身は恐らく後者に属するのだ。随って私は、犯罪を取扱う商売にも拘らず、ただ探偵の科学的な推理が面白いので、聊かも悪人ではない。いや恐らく私程道徳的に敏感な人間は少いと云ってもいいだろう。そのお人好しで善人な私が、偶...
502
0
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57503_74223.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-09-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "いんしゆう", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/fi...
057503
001779
陰獣
江戸川乱歩
 事件が終ってから、大分月日がたったので、ある恐ろしい疑惑は未だに解けないけれど、私は生々しい現実を遠ざかって、いくらか回顧的になっている。それでこんな記録めいたものも書いて見る気になったのだが、そして、これを小説にしたら、仲々面白い小説になるだろうと思うのだが、併し私は終りまで書くことは書いたとしても、直ちに発表する勇気はない。何故と云って、この記録の重要な部分を為す所の小山田氏変死事件は、まだまだ世人の記憶に残っているのだから、どんなに変名を用い、潤色を加えて見た所で、誰も単なる空想小説とは受取ってくれないだろう。随って、広い世間にはこの小説によって迷惑を受ける人もないとは限らないし、又私自身それが分っては恥しくもあり不快でもあ...
514
1
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57503_74223.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-09-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "いんしゆう", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/fi...
057503
001779
陰獣
江戸川乱歩
 そんな訳で、私はこの記録を今直ぐ発表する気はないけれど、いつかは一度、これを基にして私の専門の探偵小説を書いて見たいと思っている。これは謂わばそのノートに過ぎないのだ。やや詳しい心覚えに過ぎないのだ。私は、だから、これを正月のところ丈けで、あとは余白になっている古い日記帳へ、丁度長々しい日記でもつける気持で、書きつけて行くのである。 私は事件の記述に先だって、この事件の主人公である探偵作家大江春泥の人となりについて、作風について、又彼の一種異様な生活について、詳しく説明して置くのが便利であるとは思うのだけれど、実は私は、この事件が起るまでは、書いたものでは彼を知ってもいたし、雑誌の上で議論さえしたことがあるのだけれど、個人的の交際...
481
2
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57503_74223.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-09-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "いんしゆう", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/fi...
057503
001779
陰獣
江戸川乱歩
 それは昨年の秋、十月なかばのことであった。私は古い仏像が見たくなって、上野の帝室博物館の、薄暗くガランとした部屋部屋を、足音を忍ばせて歩き廻っていた。部屋が広くて人気がないので、一寸した物音が怖い様な反響を起すので、足音ばかりではなく、咳ばらいさえ憚かられる様な気持だった。博物館というものが、どうしてこうも不人気であるかと疑われる程そこには人の影がなかった。陳列棚の大きなガラスが冷く光り、リノリウムには小さなほこりさえ落ちていなかった。お寺のお堂みたいに天井の高い建物は、まるで水の底にでも在る様に、森閑と静まり返っていた。 丁度私が、ある部屋の陳列棚の前に立って、古めかしい木彫の菩薩像の、夢の様なエロティクに見入っていた時、うしろ...
478
3
{ "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57503_74223.html", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-09-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "ソート用読み": "いんしゆう", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/fi...
057503
001779
陰獣
江戸川乱歩
End of preview. Expand in Data Studio

青空文庫の以下の作者と作品を改行などで分割

id_list = [
    {'name':'夏目 漱石','author': '000148', 
     'book':[
         '000773', # こころ
         '000752', # 坊っちゃん
         '000789', # 吾輩は猫である
         '000794', # 三四郎
         '000776', # 草枕
         ]
     },
    {'name':'芥川 竜之介','author': '000879', 
     'book':[
         '000127', # 羅生門
         '000042', # 鼻
         '000092', # 蜘蛛の糸
         '043015', # 杜子春
         #'000060', # 地獄変
         ]
     },
    {'name':'太宰 治','author': '000035', 
      'book':[
         '001567', # 走れメロス
         '000260', # 逆行
         '000301', # 人間失格
         ]
    },  
    {'name':'梶井 基次郎','author': '000074', 
      'book':[
         '000424' # 檸檬
         ]
     },
     {'name':'宮沢 賢治','author': '000081', 
      'book':[
         '043737', # 銀河鉄道の夜
         '001935', # ポラーノの広場
         '000473', # よだかの星
         '000470'  # セロ弾きのゴーシュ
         ]
     },
     {'name':'江戸川 乱歩','author': '001779', 
      'book':[
         '057503', # 陰獣
         '056650', # D坂
         '056647', # 二銭銅貨
         ]
     },
     {'name':'夢野 久作','author': '000096', 
       'book':[
         '002093', # ドグラ・マグラ
         ]
     },
]
Downloads last month
7