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|---|---|---|---|---|---|---|---|
一
ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。 やがて御釈迦様はその池のふちに御佇みになって、水の面を蔽っている蓮の葉の間から、ふと下の容子を御覧になりました。この極楽の蓮池の下は、丁度地獄の底に当って居りますから、水晶のような水を透き徹して、三途の河や針の山の景色が、丁度覗き眼鏡を見るように、はっきりと見えるのでございます。 するとその地獄の底に、犍陀多と云う男が一人、ほかの罪人と一しょに蠢いている姿が、御眼に止まりました。この犍陀多と云う男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊でございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛が一匹、路ばたを這って行くのが見えました。そこで犍陀多は早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
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芥川竜之介
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御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、この犍陀多には蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をした報には、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。幸い、側を見ますと、翡翠のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御下しなさいました。二
こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しょに、浮いたり沈んだりしていた犍陀多でございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云ったらございません。その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと云っては、ただ罪人がつく微な嘆息ばかりでございます。これはここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の責苦に疲れはてて、泣声を出す力さえなくなっているのでございましょう。ですからさすが大泥坊の犍陀多も、やはり血の池の血に咽びながら、まるで死にかかった蛙のように、ただもがいてばかり居りました。
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ところがある時の事でございます。何気なく犍陀多が頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。犍陀多はこれを見ると、思わず手を拍って喜びました。この糸に縋りついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられる事もなくなれば、血の池に沈められる事もある筈はございません。 こう思いましたから犍陀多は、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。元より大泥坊の事でございますから、こう云う事には昔から、慣れ切っているのでございます。 しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくら焦って見た所で、容易に上へは出られません。ややしばらくのぼる中に、とうとう犍陀多もくたびれて、もう一たぐりも上の方へはのぼれなくなってしまいました。そこで仕方がございませんから、まず一休み休むつもりで、糸の中途にぶら下りながら、遥かに目の下を見下しました。
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すると、一生懸命にのぼった甲斐があって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう暗の底にいつの間にかかくれて居ります。それからあのぼんやり光っている恐しい針の山も、足の下になってしまいました。この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。犍陀多は両手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出した事のない声で、「しめた。しめた。」と笑いました。ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限もない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるで蟻の行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。犍陀多はこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、莫迦のように大きな口を開いたまま、眼ばかり動かして居りました。自分一人でさえ断れそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに堪える事が出来ましょう。もし万一途中で断れたと致しましたら、折角ここへまでのぼって来たこの肝腎な自分までも、元の地獄へ逆落しに落ちてしまわなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。が、そう云う中にも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよと這い上って、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。
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そこで犍陀多は大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚きました。 その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に犍陀多のぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて断れました。ですから犍陀多もたまりません。あっと云う間もなく風を切って、独楽のようにくるくるまわりながら、見る見る中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。 後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます。三
御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがて犍陀多が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。 しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。(大正七年四月十六日)
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一
或春の日暮です。
唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。 若者は名を杜子春といって、元は金持の息子でしたが、今は財産を費い尽して、その日の暮しにも困る位、憐な身分になっているのです。 何しろその頃洛陽といえば、天下に並ぶもののない、繁昌を極めた都ですから、往来にはまだしっきりなく、人や車が通っていました。門一ぱいに当っている、油のような夕日の光の中に、老人のかぶった紗の帽子や、土耳古の女の金の耳環や、白馬に飾った色糸の手綱が、絶えず流れて行く容子は、まるで画のような美しさです。 しかし杜子春は相変らず、門の壁に身を凭せて、ぼんやり空ばかり眺めていました。空には、もう細い月が、うらうらと靡いた霞の中に、まるで爪の痕かと思う程、かすかに白く浮んでいるのです。
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芥川竜之介
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「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行っても、泊めてくれる所はなさそうだし――こんな思いをして生きている位なら、一そ川へでも身を投げて、死んでしまった方がましかも知れない」 杜子春はひとりさっきから、こんな取りとめもないことを思いめぐらしていたのです。 するとどこからやって来たか、突然彼の前へ足を止めた、片目眇の老人があります。それが夕日の光を浴びて、大きな影を門へ落すと、じっと杜子春の顔を見ながら、「お前は何を考えているのだ」と、横柄に声をかけました。
「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです」 老人の尋ね方が急でしたから、杜子春はさすがに眼を伏せて、思わず正直な答をしました。
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杜子春
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芥川竜之介
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「そうか。それは可哀そうだな」
老人は暫く何事か考えているようでしたが、やがて、往来にさしている夕日の光を指さしながら、「ではおれが好いことを一つ教えてやろう。今この夕日の中に立って、お前の影が地に映ったら、その頭に当る所を夜中に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの黄金が埋まっている筈だから」「ほんとうですか」
杜子春は驚いて、伏せていた眼を挙げました。ところが更に不思議なことには、あの老人はどこへ行ったか、もうあたりにはそれらしい、影も形も見当りません。その代り空の月の色は前よりも猶白くなって、休みない往来の人通りの上には、もう気の早い蝙蝠が二三匹ひらひら舞っていました。二
杜子春は一日の内に、洛陽の都でも唯一人という大金持になりました。あの老人の言葉通り、夕日に影を映して見て、その頭に当る所を、夜中にそっと掘って見たら、大きな車にも余る位、黄金が一山出て来たのです。 大金持になった杜子春は、すぐに立派な家を買って、玄宗皇帝にも負けない位、贅沢な暮しをし始めました。蘭陵の酒を買わせるやら、桂州の竜眼肉をとりよせるやら、日に四度色の変る牡丹を庭に植えさせるやら、白孔雀を何羽も放し飼いにするやら、玉を集めるやら、錦を縫わせるやら、香木の車を造らせるやら、象牙の椅子を誂えるやら、その贅沢を一々書いていては、いつになってもこの話がおしまいにならない位です。
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するとこういう噂を聞いて、今までは路で行き合っても、挨拶さえしなかった友だちなどが、朝夕遊びにやって来ました。それも一日毎に数が増して、半年ばかり経つ内には、洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子春の家へ来ないものは、一人もない位になってしまったのです。杜子春はこの御客たちを相手に、毎日酒盛りを開きました。その酒盛りの又盛なことは、中々口には尽されません。極かいつまんだだけをお話しても、杜子春が金の杯に西洋から来た葡萄酒を汲んで、天竺生れの魔法使が刀を呑んで見せる芸に見とれていると、そのまわりには二十人の女たちが、十人は翡翠の蓮の花を、十人は瑪瑙の牡丹の花を、いずれも髪に飾りながら、笛や琴を節面白く奏しているという景色なのです。 しかしいくら大金持でも、御金には際限がありますから、さすがに贅沢家の杜子春も、一年二年と経つ内には、だんだん貧乏になり出しました。そうすると人間は薄情なもので、昨日までは毎日来た友だちも、今日は門の前を通ってさえ、挨拶一つして行きません。ましてとうとう三年目の春、又杜子春が以前の通り、一文無しになって見ると、広い洛陽の都の中にも、彼に宿を貸そうという家は、一軒もなくなってしまいました。いや、宿を貸すどころか、今では椀に一杯の水も、恵んでくれるものはないのです。
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そこで彼は或日の夕方、もう一度あの洛陽の西の門の下へ行って、ぼんやり空を眺めながら、途方に暮れて立っていました。するとやはり昔のように、片目眇の老人が、どこからか姿を現して、「お前は何を考えているのだ」と、声をかけるではありませんか。
杜子春は老人の顔を見ると、恥しそうに下を向いたまま、暫くは返事もしませんでした。が、老人はその日も親切そうに、同じ言葉を繰返しますから、こちらも前と同じように、「私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです」と、恐る恐る返事をしました。「そうか。それは可哀そうだな。ではおれが好いことを一つ教えてやろう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地に映ったら、その胸に当る所を、夜中に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの黄金が埋まっている筈だから」 老人はこう言ったと思うと、今度もまた人ごみの中へ、掻き消すように隠れてしまいました。 杜子春はその翌日から、忽ち天下第一の大金持に返りました。と同時に相変らず、仕放題な贅沢をし始めました。庭に咲いている牡丹の花、その中に眠っている白孔雀、それから刀を呑んで見せる、天竺から来た魔法使――すべてが昔の通りなのです。
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ですから車に一ぱいにあった、あの夥しい黄金も、又三年ばかり経つ内には、すっかりなくなってしまいました。三
「お前は何を考えているのだ」
片目眇の老人は、三度杜子春の前へ来て、同じことを問いかけました。勿論彼はその時も、洛陽の西の門の下に、ほそぼそと霞を破っている三日月の光を眺めながら、ぼんやり佇んでいたのです。「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしようかと思っているのです」「そうか。それは可哀そうだな。ではおれが好いことを教えてやろう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地に映ったら、その腹に当る所を、夜中に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの――」 老人がここまで言いかけると、杜子春は急に手を挙げて、その言葉を遮りました。「いや、お金はもういらないのです」
「金はもういらない? ははあ、では贅沢をするにはとうとう飽きてしまったと見えるな」 老人は審しそうな眼つきをしながら、じっと杜子春の顔を見つめました。「何、贅沢に飽きたのじゃありません。人間というものに愛想がつきたのです」 杜子春は不平そうな顔をしながら、突慳貪にこう言いました。
「それは面白いな。どうして又人間に愛想が尽きたのだ?」
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「人間は皆薄情です。私が大金持になった時には、世辞も追従もしますけれど、一旦貧乏になって御覧なさい。柔しい顔さえもして見せはしません。そんなことを考えると、たといもう一度大金持になったところが、何にもならないような気がするのです」 老人は杜子春の言葉を聞くと、急ににやにや笑い出しました。
「そうか。いや、お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ。ではこれからは貧乏をしても、安らかに暮して行くつもりか」 杜子春はちょいとためらいました。が、すぐに思い切った眼を挙げると、訴えるように老人の顔を見ながら、「それも今の私には出来ません。ですから私はあなたの弟子になって、仙術の修業をしたいと思うのです。いいえ、隠してはいけません。あなたは道徳の高い仙人でしょう。仙人でなければ、一夜の内に私を天下第一の大金持にすることは出来ない筈です。どうか私の先生になって、不思議な仙術を教えて下さい」 老人は眉をひそめたまま、暫くは黙って、何事か考えているようでしたが、やがて又にっこり笑いながら、「いかにもおれは峨眉山に棲んでいる、鉄冠子という仙人だ。始めお前の顔を見た時、どこか物わかりが好さそうだったから、二度まで大金持にしてやったのだが、それ程仙人になりたければ、おれの弟子にとり立ててやろう」と、快く願を容れてくれました。
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杜子春
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芥川竜之介
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杜子春は喜んだの、喜ばないのではありません。老人の言葉がまだ終らない内に、彼は大地に額をつけて、何度も鉄冠子に御時宜をしました。「いや、そう御礼などは言って貰うまい。いくらおれの弟子にしたところが、立派な仙人になれるかなれないかは、お前次第で決まることだからな。――が、ともかくもまずおれと一しょに、峨眉山の奥へ来て見るが好い。おお、幸、ここに竹杖が一本落ちている。では早速これへ乗って、一飛びに空を渡るとしよう」 鉄冠子はそこにあった青竹を一本拾い上げると、口の中に咒文を唱えながら、杜子春と一しょにその竹へ、馬にでも乗るように跨りました。すると不思議ではありませんか。竹杖は忽ち竜のように、勢よく大空へ舞い上って、晴れ渡った春の夕空を峨眉山の方角へ飛んで行きました。 杜子春は胆をつぶしながら、恐る恐る下を見下しました。が、下には唯青い山々が夕明りの底に見えるばかりで、あの洛陽の都の西の門は、(とうに霞に紛れたのでしょう)どこを探しても見当りません。その内に鉄冠子は、白い鬢の毛を風に吹かせて、高らかに歌を唱い出しました。朝に北海に遊び、暮には蒼梧。
袖裏の青蛇、胆気粗なり。
三たび岳陽に入れども、人識らず。朗吟して、飛過す洞庭湖。
四
二人を乗せた青竹は、間もなく峨眉山へ舞い下りました。
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杜子春
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芥川竜之介
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そこは深い谷に臨んだ、幅の広い一枚岩の上でしたが、よくよく高い所だと見えて、中空に垂れた北斗の星が、茶碗程の大きさに光っていました。元より人跡の絶えた山ですから、あたりはしんと静まり返って、やっと耳にはいるものは、後の絶壁に生えている、曲りくねった一株の松が、こうこうと夜風に鳴る音だけです。 二人がこの岩の上に来ると、鉄冠子は杜子春を絶壁の下に坐らせて、「おれはこれから天上へ行って、西王母に御眼にかかって来るから、お前はその間ここに坐って、おれの帰るのを待っているが好い。多分おれがいなくなると、いろいろな魔性が現れて、お前をたぶらかそうとするだろうが、たといどんなことが起ろうとも、決して声を出すのではないぞ。もし一言でも口を利いたら、お前は到底仙人にはなれないものだと覚悟をしろ。好いか。天地が裂けても、黙っているのだぞ」と言いました。「大丈夫です。決して声なぞは出しません。命がなくなっても、黙っています」「そうか。それを聞いて、おれも安心した。ではおれは行って来るから」 老人は杜子春に別れを告げると、又あの竹杖に跨って、夜目にも削ったような山々の空へ、一文字に消えてしまいました。 杜子春はたった一人、岩の上に坐ったまま、静に星を眺めていました。するとかれこれ半時ばかり経って、深山の夜気が肌寒く薄い着物に透り出した頃、突然空中に声があって、
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「そこにいるのは何者だ」と、叱りつけるではありませんか。
しかし杜子春は仙人の教通り、何とも返事をしずにいました。 ところが又暫くすると、やはり同じ声が響いて、
「返事をしないと立ちどころに、命はないものと覚悟しろ」と、いかめしく嚇しつけるのです。 杜子春は勿論黙っていました。
と、どこから登って来たか、爛々と眼を光らせた虎が一匹、忽然と岩の上に躍り上って、杜子春の姿を睨みながら、一声高く哮りました。のみならずそれと同時に、頭の上の松の枝が、烈しくざわざわ揺れたと思うと、後の絶壁の頂からは、四斗樽程の白蛇が一匹、炎のような舌を吐いて、見る見る近くへ下りて来るのです。 杜子春はしかし平然と、眉毛も動かさずに坐っていました。
虎と蛇とは、一つ餌食を狙って、互に隙でも窺うのか、暫くは睨合いの体でしたが、やがてどちらが先ともなく、一時に杜子春に飛びかかりました。が虎の牙に噛まれるか、蛇の舌に呑まれるか、杜子春の命は瞬く内に、なくなってしまうと思った時、虎と蛇とは霧の如く、夜風と共に消え失せて、後には唯、絶壁の松が、さっきの通りこうこうと枝を鳴らしているばかりなのです。杜子春はほっと一息しながら、今度はどんなことが起るかと、心待ちに待っていました。
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すると一陣の風が吹き起って、墨のような黒雲が一面にあたりをとざすや否や、うす紫の稲妻がやにわに闇を二つに裂いて、凄じく雷が鳴り出しました。いや、雷ばかりではありません。それと一しょに瀑のような雨も、いきなりどうどうと降り出したのです。杜子春はこの天変の中に、恐れ気もなく坐っていました。風の音、雨のしぶき、それから絶え間ない稲妻の光、――暫くはさすがの峨眉山も、覆るかと思う位でしたが、その内に耳をもつんざく程、大きな雷鳴が轟いたと思うと、空に渦巻いた黒雲の中から、まっ赤な一本の火柱が、杜子春の頭へ落ちかかりました。 杜子春は思わず耳を抑えて、一枚岩の上へひれ伏しました。が、すぐに眼を開いて見ると、空は以前の通り晴れ渡って、向うに聳えた山々の上にも、茶碗ほどの北斗の星が、やはりきらきら輝いています。して見れば今の大あらしも、あの虎や白蛇と同じように、鉄冠子の留守をつけこんだ、魔性の悪戯に違いありません。杜子春は漸く安心して、額の冷汗を拭いながら、又岩の上に坐り直しました。 が、そのため息がまだ消えない内に、今度は彼の坐っている前へ、金の鎧を着下した、身の丈三丈もあろうという、厳かな神将が現れました。神将は手に三叉の戟を持っていましたが、いきなりその戟の切先を杜子春の胸もとへ向けながら、眼を嗔らせて叱りつけるのを聞けば、
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「こら、その方は一体何物だ。この峨眉山という山は、天地開闢の昔から、おれが住居をしている所だぞ。それも憚らずたった一人、ここへ足を踏み入れるとは、よもや唯の人間ではあるまい。さあ命が惜しかったら、一刻も早く返答しろ」と言うのです。 しかし杜子春は老人の言葉通り、黙然と口を噤んでいました。
「返事をしないか。――しないな。好し。しなければ、しないで勝手にしろ。その代りおれの眷属たちが、その方をずたずたに斬ってしまうぞ」 神将は戟を高く挙げて、向うの山の空を招きました。その途端に闇がさっと裂けると、驚いたことには無数の神兵が、雲の如く空に充満ちて、それが皆槍や刀をきらめかせながら、今にもここへ一なだれに攻め寄せようとしているのです。 この景色を見た杜子春は、思わずあっと叫びそうにしましたが、すぐに又鉄冠子の言葉を思い出して、一生懸命に黙っていました。神将は彼が恐れないのを見ると、怒ったの怒らないのではありません。「この剛情者め。どうしても返事をしなければ、約束通り命はとってやるぞ」 神将はこう喚くが早いか、三叉の戟を閃かせて、一突きに杜子春を突き殺しました。そうして峨眉山もどよむ程、からからと高く笑いながら、どこともなく消えてしまいました。勿論この時はもう無数の神兵も、吹き渡る夜風の音と一しょに、夢のように消え失せた後だったのです。
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杜子春
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芥川竜之介
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北斗の星は又寒そうに、一枚岩の上を照らし始めました。絶壁の松も前に変らず、こうこうと枝を鳴らせています。が、杜子春はとうに息が絶えて、仰向けにそこへ倒れていました。五
杜子春の体は岩の上へ、仰向けに倒れていましたが、杜子春の魂は、静に体から抜け出して、地獄の底へ下りて行きました。 この世と地獄との間には、闇穴道という道があって、そこは年中暗い空に、氷のような冷たい風がぴゅうぴゅう吹き荒んでいるのです。杜子春はその風に吹かれながら、暫くは唯木の葉のように、空を漂って行きましたが、やがて森羅殿という額の懸った立派な御殿の前へ出ました。 御殿の前にいた大勢の鬼は、杜子春の姿を見るや否や、すぐにそのまわりを取り捲いて、階の前へ引き据えました。階の上には一人の王様が、まっ黒な袍に金の冠をかぶって、いかめしくあたりを睨んでいます。これは兼ねて噂に聞いた、閻魔大王に違いありません。杜子春はどうなることかと思いながら、恐る恐るそこへ跪いていました。「こら、その方は何の為に、峨眉山の上へ坐っていた?」
閻魔大王の声は雷のように、階の上から響きました。杜子春は早速その問に答えようとしましたが、ふと又思い出したのは、「決して口を利くな」という鉄冠子の戒めの言葉です。そこで唯頭を垂れたまま、唖のように黙っていました。すると閻魔大王は、持っていた鉄の笏を挙げて、顔中の鬚を逆立てながら、
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杜子春
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芥川竜之介
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「その方はここをどこだと思う? 速に返答をすれば好し、さもなければ時を移さず、地獄の呵責に遇わせてくれるぞ」と、威丈高に罵りました。 が、杜子春は相変らず唇一つ動かしません。それを見た閻魔大王は、すぐに鬼どもの方を向いて、荒々しく何か言いつけると、鬼どもは一度に畏って、忽ち杜子春を引き立てながら、森羅殿の空へ舞い上りました。 地獄には誰でも知っている通り、剣の山や血の池の外にも、焦熱地獄という焔の谷や極寒地獄という氷の海が、真暗な空の下に並んでいます。鬼どもはそういう地獄の中へ、代る代る杜子春を抛りこみました。ですから杜子春は無残にも、剣に胸を貫かれるやら、焔に顔を焼かれるやら、舌を抜かれるやら、皮を剥がれるやら、鉄の杵に撞かれるやら、油の鍋に煮られるやら、毒蛇に脳味噌を吸われるやら、熊鷹に眼を食われるやら、――その苦しみを数え立てていては、到底際限がない位、あらゆる責苦に遇わされたのです。それでも杜子春は我慢強く、じっと歯を食いしばったまま、一言も口を利きませんでした。
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杜子春
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芥川竜之介
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これにはさすがの鬼どもも、呆れ返ってしまったのでしょう。もう一度夜のような空を飛んで、森羅殿の前へ帰って来ると、さっきの通り杜子春を階の下に引き据えながら、御殿の上の閻魔大王に、「この罪人はどうしても、ものを言う気色がございません」と、口を揃えて言上しました。 閻魔大王は眉をひそめて、暫く思案に暮れていましたが、やがて何か思いついたと見えて、「この男の父母は、畜生道に落ちている筈だから、早速ここへ引き立てて来い」と、一匹の鬼に言いつけました。 鬼は忽ち風に乗って、地獄の空へ舞い上りました。と思うと、又星が流れるように、二匹の獣を駆り立てながら、さっと森羅殿の前へ下りて来ました。その獣を見た杜子春は、驚いたの驚かないのではありません。なぜかといえばそれは二匹とも、形は見すぼらしい痩せ馬でしたが、顔は夢にも忘れない、死んだ父母の通りでしたから。
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「こら、その方は何のために、峨眉山の上に坐っていたか、まっすぐに白状しなければ、今度はその方の父母に痛い思いをさせてやるぞ」 杜子春はこう嚇されても、やはり返答をしずにいました。
「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合が好ければ、好いと思っているのだな」 閻魔大王は森羅殿も崩れる程、凄じい声で喚きました。
「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまえ」 鬼どもは一斉に「はっ」と答えながら、鉄の鞭をとって立ち上ると、四方八方から二匹の馬を、未練未釈なく打ちのめしました。鞭はりゅうりゅうと風を切って、所嫌わず雨のように、馬の皮肉を打ち破るのです。馬は、――畜生になった父母は、苦しそうに身を悶えて、眼には血の涙を浮べたまま、見てもいられない程嘶き立てました。「どうだ。まだその方は白状しないか」
閻魔大王は鬼どもに、暫く鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答を促しました。もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに階の前へ、倒れ伏していたのです。
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杜子春は必死になって、鉄冠子の言葉を思い出しながら、緊く眼をつぶっていました。するとその時彼の耳には、殆声とはいえない位、かすかな声が伝わって来ました。「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰っても、言いたくないことは黙って御出で」 それは確に懐しい、母親の声に違いありません。杜子春は思わず、眼をあきました。そうして馬の一匹が、力なく地上に倒れたまま、悲しそうに彼の顔へ、じっと眼をやっているのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨む気色さえも見せないのです。大金持になれば御世辞を言い、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何という有難い志でしょう。何という健気な決心でしょう。杜子春は老人の戒めも忘れて、転ぶようにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頸を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母さん」と一声を叫びました。…………六
その声に気がついて見ると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやり佇んでいるのでした。霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、――すべてがまだ峨眉山へ、行かない前と同じことです。
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「どうだな。おれの弟子になったところが、とても仙人にはなれはすまい」 片目眇の老人は微笑を含みながら言いました。
「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかったことも、反って嬉しい気がするのです」 杜子春はまだ眼に涙を浮べたまま、思わず老人の手を握りました。「いくら仙人になれたところが、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けている父母を見ては、黙っている訳には行きません」「もしお前が黙っていたら――」と鉄冠子は急に厳な顔になって、じっと杜子春を見つめました。「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ。――お前はもう仙人になりたいという望も持っていまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になったら好いと思うな」「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」
杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子が罩っていました。「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日限り、二度とお前には遇わないから」 鉄冠子はこう言う内に、もう歩き出していましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、「おお、幸、今思い出したが、おれは泰山の南の麓に一軒の家を持っている。その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住まうが好い。今頃は丁度家のまわりに、桃の花が一面に咲いているだろう」と、さも愉快そうにつけ加えました。
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杜子春
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芥川竜之介
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禅智内供の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。長さは五六寸あって上唇の上から顋の下まで下っている。形は元も先も同じように太い。云わば細長い腸詰めのような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下っているのである。 五十歳を越えた内供は、沙弥の昔から、内道場供奉の職に陞った今日まで、内心では始終この鼻を苦に病んで来た。勿論表面では、今でもさほど気にならないような顔をしてすましている。これは専念に当来の浄土を渇仰すべき僧侶の身で、鼻の心配をするのが悪いと思ったからばかりではない。それよりむしろ、自分で鼻を気にしていると云う事を、人に知られるのが嫌だったからである。内供は日常の談話の中に、鼻と云う語が出て来るのを何よりも惧れていた。
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鼻
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芥川竜之介
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内供が鼻を持てあました理由は二つある。――一つは実際的に、鼻の長いのが不便だったからである。第一飯を食う時にも独りでは食えない。独りで食えば、鼻の先が鋺の中の飯へとどいてしまう。そこで内供は弟子の一人を膳の向うへ坐らせて、飯を食う間中、広さ一寸長さ二尺ばかりの板で、鼻を持上げていて貰う事にした。しかしこうして飯を食うと云う事は、持上げている弟子にとっても、持上げられている内供にとっても、決して容易な事ではない。一度この弟子の代りをした中童子が、嚏をした拍子に手がふるえて、鼻を粥の中へ落した話は、当時京都まで喧伝された。――けれどもこれは内供にとって、決して鼻を苦に病んだ重な理由ではない。内供は実にこの鼻によって傷つけられる自尊心のために苦しんだのである。
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鼻
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芥川竜之介
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池の尾の町の者は、こう云う鼻をしている禅智内供のために、内供の俗でない事を仕合せだと云った。あの鼻では誰も妻になる女があるまいと思ったからである。中にはまた、あの鼻だから出家したのだろうと批評する者さえあった。しかし内供は、自分が僧であるために、幾分でもこの鼻に煩される事が少くなったと思っていない。内供の自尊心は、妻帯と云うような結果的な事実に左右されるためには、余りにデリケイトに出来ていたのである。そこで内供は、積極的にも消極的にも、この自尊心の毀損を恢復しようと試みた。 第一に内供の考えたのは、この長い鼻を実際以上に短く見せる方法である。これは人のいない時に、鏡へ向って、いろいろな角度から顔を映しながら、熱心に工夫を凝らして見た。どうかすると、顔の位置を換えるだけでは、安心が出来なくなって、頬杖をついたり頤の先へ指をあてがったりして、根気よく鏡を覗いて見る事もあった。しかし自分でも満足するほど、鼻が短く見えた事は、これまでにただの一度もない。時によると、苦心すればするほど、かえって長く見えるような気さえした。内供は、こう云う時には、鏡を箱へしまいながら、今更のようにため息をついて、不承不承にまた元の経机へ、観音経をよみに帰るのである。
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それからまた内供は、絶えず人の鼻を気にしていた。池の尾の寺は、僧供講説などのしばしば行われる寺である。寺の内には、僧坊が隙なく建て続いて、湯屋では寺の僧が日毎に湯を沸かしている。従ってここへ出入する僧俗の類も甚だ多い。内供はこう云う人々の顔を根気よく物色した。一人でも自分のような鼻のある人間を見つけて、安心がしたかったからである。だから内供の眼には、紺の水干も白の帷子もはいらない。まして柑子色の帽子や、椎鈍の法衣なぞは、見慣れているだけに、有れども無きが如くである。内供は人を見ずに、ただ、鼻を見た。――しかし鍵鼻はあっても、内供のような鼻は一つも見当らない。その見当らない事が度重なるに従って、内供の心は次第にまた不快になった。内供が人と話しながら、思わずぶらりと下っている鼻の先をつまんで見て、年甲斐もなく顔を赤らめたのは、全くこの不快に動かされての所為である。 最後に、内供は、内典外典の中に、自分と同じような鼻のある人物を見出して、せめても幾分の心やりにしようとさえ思った事がある。けれども、目連や、舎利弗の鼻が長かったとは、どの経文にも書いてない。勿論竜樹や馬鳴も、人並の鼻を備えた菩薩である。内供は、震旦の話の序に蜀漢の劉玄徳の耳が長かったと云う事を聞いた時に、それが鼻だったら、どのくらい自分は心細くなくなるだろうと思った。
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内供がこう云う消極的な苦心をしながらも、一方ではまた、積極的に鼻の短くなる方法を試みた事は、わざわざここに云うまでもない。内供はこの方面でもほとんど出来るだけの事をした。烏瓜を煎じて飲んで見た事もある。鼠の尿を鼻へなすって見た事もある。しかし何をどうしても、鼻は依然として、五六寸の長さをぶらりと唇の上にぶら下げているではないか。 所がある年の秋、内供の用を兼ねて、京へ上った弟子の僧が、知己の医者から長い鼻を短くする法を教わって来た。その医者と云うのは、もと震旦から渡って来た男で、当時は長楽寺の供僧になっていたのである。 内供は、いつものように、鼻などは気にかけないと云う風をして、わざとその法もすぐにやって見ようとは云わずにいた。そうして一方では、気軽な口調で、食事の度毎に、弟子の手数をかけるのが、心苦しいと云うような事を云った。内心では勿論弟子の僧が、自分を説伏せて、この法を試みさせるのを待っていたのである。弟子の僧にも、内供のこの策略がわからない筈はない。しかしそれに対する反感よりは、内供のそう云う策略をとる心もちの方が、より強くこの弟子の僧の同情を動かしたのであろう。弟子の僧は、内供の予期通り、口を極めて、この法を試みる事を勧め出した。そうして、内供自身もまた、その予期通り、結局この熱心な勧告に聴従する事になった。
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その法と云うのは、ただ、湯で鼻を茹でて、その鼻を人に踏ませると云う、極めて簡単なものであった。 湯は寺の湯屋で、毎日沸かしている。そこで弟子の僧は、指も入れられないような熱い湯を、すぐに提に入れて、湯屋から汲んで来た。しかしじかにこの提へ鼻を入れるとなると、湯気に吹かれて顔を火傷する惧がある。そこで折敷へ穴をあけて、それを提の蓋にして、その穴から鼻を湯の中へ入れる事にした。鼻だけはこの熱い湯の中へ浸しても、少しも熱くないのである。しばらくすると弟子の僧が云った。 ――もう茹った時分でござろう。
内供は苦笑した。これだけ聞いたのでは、誰も鼻の話とは気がつかないだろうと思ったからである。鼻は熱湯に蒸されて、蚤の食ったようにむず痒い。 弟子の僧は、内供が折敷の穴から鼻をぬくと、そのまだ湯気の立っている鼻を、両足に力を入れながら、踏みはじめた。内供は横になって、鼻を床板の上へのばしながら、弟子の僧の足が上下に動くのを眼の前に見ているのである。弟子の僧は、時々気の毒そうな顔をして、内供の禿げ頭を見下しながら、こんな事を云った。
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――痛うはござらぬかな。医師は責めて踏めと申したで。じゃが、痛うはござらぬかな。 内供は首を振って、痛くないと云う意味を示そうとした。所が鼻を踏まれているので思うように首が動かない。そこで、上眼を使って、弟子の僧の足に皹のきれているのを眺めながら、腹を立てたような声で、――痛うはないて。
と答えた。実際鼻はむず痒い所を踏まれるので、痛いよりもかえって気もちのいいくらいだったのである。 しばらく踏んでいると、やがて、粟粒のようなものが、鼻へ出来はじめた。云わば毛をむしった小鳥をそっくり丸炙にしたような形である。弟子の僧はこれを見ると、足を止めて独り言のようにこう云った。 ――これを鑷子でぬけと申す事でござった。
内供は、不足らしく頬をふくらせて、黙って弟子の僧のするなりに任せて置いた。勿論弟子の僧の親切がわからない訳ではない。それは分っても、自分の鼻をまるで物品のように取扱うのが、不愉快に思われたからである。内供は、信用しない医者の手術をうける患者のような顔をして、不承不承に弟子の僧が、鼻の毛穴から鑷子で脂をとるのを眺めていた。脂は、鳥の羽の茎のような形をして、四分ばかりの長さにぬけるのである。
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やがてこれが一通りすむと、弟子の僧は、ほっと一息ついたような顔をして、 ――もう一度、これを茹でればようござる。
と云った。
内供はやはり、八の字をよせたまま不服らしい顔をして、弟子の僧の云うなりになっていた。 さて二度目に茹でた鼻を出して見ると、成程、いつになく短くなっている。これではあたりまえの鍵鼻と大した変りはない。内供はその短くなった鼻を撫でながら、弟子の僧の出してくれる鏡を、極りが悪るそうにおずおず覗いて見た。 鼻は――あの顋の下まで下っていた鼻は、ほとんど嘘のように萎縮して、今は僅に上唇の上で意気地なく残喘を保っている。所々まだらに赤くなっているのは、恐らく踏まれた時の痕であろう。こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。――鏡の中にある内供の顔は、鏡の外にある内供の顔を見て、満足そうに眼をしばたたいた。 しかし、その日はまだ一日、鼻がまた長くなりはしないかと云う不安があった。そこで内供は誦経する時にも、食事をする時にも、暇さえあれば手を出して、そっと鼻の先にさわって見た。が、鼻は行儀よく唇の上に納まっているだけで、格別それより下へぶら下って来る景色もない。それから一晩寝てあくる日早く眼がさめると内供はまず、第一に、自分の鼻を撫でて見た。鼻は依然として短い。内供はそこで、幾年にもなく、法華経書写の功を積んだ時のような、のびのびした気分になった。
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鼻
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芥川竜之介
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所が二三日たつ中に、内供は意外な事実を発見した。それは折から、用事があって、池の尾の寺を訪れた侍が、前よりも一層可笑しそうな顔をして、話も碌々せずに、じろじろ内供の鼻ばかり眺めていた事である。それのみならず、かつて、内供の鼻を粥の中へ落した事のある中童子なぞは、講堂の外で内供と行きちがった時に、始めは、下を向いて可笑しさをこらえていたが、とうとうこらえ兼ねたと見えて、一度にふっと吹き出してしまった。用を云いつかった下法師たちが、面と向っている間だけは、慎んで聞いていても、内供が後さえ向けば、すぐにくすくす笑い出したのは、一度や二度の事ではない。 内供ははじめ、これを自分の顔がわりがしたせいだと解釈した。しかしどうもこの解釈だけでは十分に説明がつかないようである。――勿論、中童子や下法師が哂う原因は、そこにあるのにちがいない。けれども同じ哂うにしても、鼻の長かった昔とは、哂うのにどことなく容子がちがう。見慣れた長い鼻より、見慣れない短い鼻の方が滑稽に見えると云えば、それまでである。が、そこにはまだ何かあるらしい。
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鼻
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芥川竜之介
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――前にはあのようにつけつけとは哂わなんだて。
内供は、誦しかけた経文をやめて、禿げ頭を傾けながら、時々こう呟く事があった。愛すべき内供は、そう云う時になると、必ずぼんやり、傍にかけた普賢の画像を眺めながら、鼻の長かった四五日前の事を憶い出して、「今はむげにいやしくなりさがれる人の、さかえたる昔をしのぶがごとく」ふさぎこんでしまうのである。――内供には、遺憾ながらこの問に答を与える明が欠けていた。 ――人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。
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そこで内供は日毎に機嫌が悪くなった。二言目には、誰でも意地悪く叱りつける。しまいには鼻の療治をしたあの弟子の僧でさえ、「内供は法慳貪の罪を受けられるぞ」と陰口をきくほどになった。殊に内供を怒らせたのは、例の悪戯な中童子である。ある日、けたたましく犬の吠える声がするので、内供が何気なく外へ出て見ると、中童子は、二尺ばかりの木の片をふりまわして、毛の長い、痩せた尨犬を逐いまわしている。それもただ、逐いまわしているのではない。「鼻を打たれまい。それ、鼻を打たれまい」と囃しながら、逐いまわしているのである。内供は、中童子の手からその木の片をひったくって、したたかその顔を打った。木の片は以前の鼻持上げの木だったのである。 内供はなまじいに、鼻の短くなったのが、かえって恨めしくなった。 するとある夜の事である。日が暮れてから急に風が出たと見えて、塔の風鐸の鳴る音が、うるさいほど枕に通って来た。その上、寒さもめっきり加わったので、老年の内供は寝つこうとしても寝つかれない。そこで床の中でまじまじしていると、ふと鼻がいつになく、むず痒いのに気がついた。手をあてて見ると少し水気が来たようにむくんでいる。どうやらそこだけ、熱さえもあるらしい。
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――無理に短うしたで、病が起ったのかも知れぬ。
内供は、仏前に香花を供えるような恭しい手つきで、鼻を抑えながら、こう呟いた。 翌朝、内供がいつものように早く眼をさまして見ると、寺内の銀杏や橡が一晩の中に葉を落したので、庭は黄金を敷いたように明るい。塔の屋根には霜が下りているせいであろう。まだうすい朝日に、九輪がまばゆく光っている。禅智内供は、蔀を上げた縁に立って、深く息をすいこんだ。 ほとんど、忘れようとしていたある感覚が、再び内供に帰って来たのはこの時である。 内供は慌てて鼻へ手をやった。手にさわるものは、昨夜の短い鼻ではない。上唇の上から顋の下まで、五六寸あまりもぶら下っている、昔の長い鼻である。内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。 ――こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。
内供は心の中でこう自分に囁いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。(大正五年一月)
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鼻
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芥川竜之介
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ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。 広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。 何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云う災がつづいて起った。そこで洛中のさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪の料に売っていたと云う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸が棲む。盗人が棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。
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羅生門
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芥川竜之介
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その代りまた鴉がどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾のまわりを啼きながら、飛びまわっている。ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻をまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄みに来るのである。――もっとも今日は、刻限が遅いせいか、一羽も見えない。ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、鴉の糞が、点々と白くこびりついているのが見える。下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖の尻を据えて、右の頬に出来た、大きな面皰を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。
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羅生門
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芥川竜之介
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作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微していた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「下人が雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。申の刻下りからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。そこで、下人は、何をおいても差当り明日の暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。
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000127
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羅生門
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芥川竜之介
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雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍の先に、重たくうす暗い雲を支えている。 どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑はない。選んでいれば、築土の下か、道ばたの土の上で、饑死をするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「盗人になるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。 下人は、大きな嚔をして、それから、大儀そうに立上った。夕冷えのする京都は、もう火桶が欲しいほどの寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。丹塗の柱にとまっていた蟋蟀も、もうどこかへ行ってしまった。
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羅生門
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芥川竜之介
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下人は、頸をちぢめながら、山吹の汗袗に重ねた、紺の襖の肩を高くして門のまわりを見まわした。雨風の患のない、人目にかかる惧のない、一晩楽にねられそうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かそうと思ったからである。すると、幸い門の上の楼へ上る、幅の広い、これも丹を塗った梯子が眼についた。上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである。下人はそこで、腰にさげた聖柄の太刀が鞘走らないように気をつけながら、藁草履をはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。 それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子を窺っていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚の中に、赤く膿を持った面皰のある頬である。下人は、始めから、この上にいる者は、死人ばかりだと高を括っていた。それが、梯子を二三段上って見ると、上では誰か火をとぼして、しかもその火をそこここと動かしているらしい。これは、その濁った、黄いろい光が、隅々に蜘蛛の巣をかけた天井裏に、揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。
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芥川竜之介
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下人は、守宮のように足音をぬすんで、やっと急な梯子を、一番上の段まで這うようにして上りつめた。そうして体を出来るだけ、平にしながら、頸を出来るだけ、前へ出して、恐る恐る、楼の内を覗いて見た。 見ると、楼の内には、噂に聞いた通り、幾つかの死骸が、無造作に棄ててあるが、火の光の及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数は幾つともわからない。ただ、おぼろげながら、知れるのは、その中に裸の死骸と、着物を着た死骸とがあるという事である。勿論、中には女も男もまじっているらしい。そうして、その死骸は皆、それが、かつて、生きていた人間だと云う事実さえ疑われるほど、土を捏ねて造った人形のように、口を開いたり手を延ばしたりして、ごろごろ床の上にころがっていた。しかも、肩とか胸とかの高くなっている部分に、ぼんやりした火の光をうけて、低くなっている部分の影を一層暗くしながら、永久に唖の如く黙っていた。 下人は、それらの死骸の腐爛した臭気に思わず、鼻を掩った。しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻を掩う事を忘れていた。ある強い感情が、ほとんどことごとくこの男の嗅覚を奪ってしまったからだ。
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羅生門
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芥川竜之介
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下人の眼は、その時、はじめてその死骸の中に蹲っている人間を見た。檜皮色の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿のような老婆である。その老婆は、右の手に火をともした松の木片を持って、その死骸の一つの顔を覗きこむように眺めていた。髪の毛の長い所を見ると、多分女の死骸であろう。 下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸をするのさえ忘れていた。旧記の記者の語を借りれば、「頭身の毛も太る」ように感じたのである。すると老婆は、松の木片を、床板の間に挿して、それから、今まで眺めていた死骸の首に両手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱をとるように、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。髪は手に従って抜けるらしい。 その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。――いや、この老婆に対すると云っては、語弊があるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、饑死をするか盗人になるかと云う問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう。それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片のように、勢いよく燃え上り出していたのである。
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羅生門
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芥川竜之介
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下人には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。勿論、下人は、さっきまで自分が、盗人になる気でいた事なぞは、とうに忘れていたのである。 そこで、下人は、両足に力を入れて、いきなり、梯子から上へ飛び上った。そうして聖柄の太刀に手をかけながら、大股に老婆の前へ歩みよった。老婆が驚いたのは云うまでもない。 老婆は、一目下人を見ると、まるで弩にでも弾かれたように、飛び上った。「おのれ、どこへ行く。」
下人は、老婆が死骸につまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行手を塞いで、こう罵った。老婆は、それでも下人をつきのけて行こうとする。下人はまた、それを行かすまいとして、押しもどす。二人は死骸の中で、しばらく、無言のまま、つかみ合った。しかし勝敗は、はじめからわかっている。下人はとうとう、老婆の腕をつかんで、無理にそこへ扭じ倒した。丁度、鶏の脚のような、骨と皮ばかりの腕である。
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羅生門
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芥川竜之介
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「何をしていた。云え。云わぬと、これだぞよ。」
下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘を払って、白い鋼の色をその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球が眶の外へ出そうになるほど、見開いて、唖のように執拗く黙っている。これを見ると、下人は始めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した。そうしてこの意識は、今までけわしく燃えていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。後に残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。そこで、下人は、老婆を見下しながら、少し声を柔らげてこう云った。「己は検非違使の庁の役人などではない。今し方この門の下を通りかかった旅の者だ。だからお前に縄をかけて、どうしようと云うような事はない。ただ、今時分この門の上で、何をして居たのだか、それを己に話しさえすればいいのだ。」 すると、老婆は、見開いていた眼を、一層大きくして、じっとその下人の顔を見守った。眶の赤くなった、肉食鳥のような、鋭い眼で見たのである。それから、皺で、ほとんど、鼻と一つになった唇を、何か物でも噛んでいるように動かした。細い喉で、尖った喉仏の動いているのが見える。その時、その喉から、鴉の啼くような声が、喘ぎ喘ぎ、下人の耳へ伝わって来た。
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000127
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羅生門
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芥川竜之介
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「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘にしようと思うたのじゃ。」 下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑と一しょに、心の中へはいって来た。すると、その気色が、先方へも通じたのであろう。老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったなり、蟇のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。「成程な、死人の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯の陣へ売りに往んだわ。疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」
| 552
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羅生門
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芥川竜之介
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老婆は、大体こんな意味の事を云った。
下人は、太刀を鞘におさめて、その太刀の柄を左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていた。勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな面皰を気にしながら、聞いているのである。しかし、これを聞いている中に、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。
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羅生門
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「きっと、そうか。」
老婆の話が完ると、下人は嘲るような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を面皰から離して、老婆の襟上をつかみながら、噛みつくようにこう云った。「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」 下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった檜皮色の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。 しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そうして、そこから、短い白髪を倒にして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。 下人の行方は、誰も知らない。
(大正四年九月)
| 440
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羅生門
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芥川竜之介
|
一
私は時々思うことがある。探偵小説家というものには二種類あって、一つの方は犯罪者型とでも云うか、犯罪ばかりに興味を持ち、仮令推理的な探偵小説を書くにしても、犯人の残虐な心理を思うさま書かないでは満足しない様な作家であるし、もう一つの方は探偵型とでも云うか、ごく健全で、理智的な探偵の径路にのみ興味を持ち、犯罪者の心理などには一向頓着しない様な作家であると。そして、私がこれから書こうとする探偵作家大江春泥は前者に属し、私自身は恐らく後者に属するのだ。随って私は、犯罪を取扱う商売にも拘らず、ただ探偵の科学的な推理が面白いので、聊かも悪人ではない。いや恐らく私程道徳的に敏感な人間は少いと云ってもいいだろう。そのお人好しで善人な私が、偶然にもこの事件に関係したというのが、抑も事の間違いであった。若し私が道徳的にもう少し鈍感であったならば、私にいくらかでも悪人の素質があったならば、私はこうまで後悔しなくても済んだであろう。こんな恐ろしい疑惑の淵に沈まなくても済んだであろう。いや、それどころか、私はひょっとしたら、今頃は美しい女房と身に余る財産に恵まれて、ホクホクもので暮していたかも知れないのだ。
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陰獣
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江戸川乱歩
|
事件が終ってから、大分月日がたったので、ある恐ろしい疑惑は未だに解けないけれど、私は生々しい現実を遠ざかって、いくらか回顧的になっている。それでこんな記録めいたものも書いて見る気になったのだが、そして、これを小説にしたら、仲々面白い小説になるだろうと思うのだが、併し私は終りまで書くことは書いたとしても、直ちに発表する勇気はない。何故と云って、この記録の重要な部分を為す所の小山田氏変死事件は、まだまだ世人の記憶に残っているのだから、どんなに変名を用い、潤色を加えて見た所で、誰も単なる空想小説とは受取ってくれないだろう。随って、広い世間にはこの小説によって迷惑を受ける人もないとは限らないし、又私自身それが分っては恥しくもあり不快でもある。というよりは、本当を云うと私は恐ろしいのだ。事件そのものが、白昼の夢の様に、正体の掴めぬ、変に不気味な事柄であったばかりでなく、それについて私の描いた妄想が、自分でも不快を感じる様な恐ろしいものであったからだ。私は今でも、それを考えると、青空が夕立雲で一杯になって、耳の底でドロンドロンと太鼓の音みたいなものが鳴り出す。そんな風に眼の前が暗くなり、この世が変なものに思われて来るのだ。
| 514
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陰獣
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江戸川乱歩
|
そんな訳で、私はこの記録を今直ぐ発表する気はないけれど、いつかは一度、これを基にして私の専門の探偵小説を書いて見たいと思っている。これは謂わばそのノートに過ぎないのだ。やや詳しい心覚えに過ぎないのだ。私は、だから、これを正月のところ丈けで、あとは余白になっている古い日記帳へ、丁度長々しい日記でもつける気持で、書きつけて行くのである。 私は事件の記述に先だって、この事件の主人公である探偵作家大江春泥の人となりについて、作風について、又彼の一種異様な生活について、詳しく説明して置くのが便利であるとは思うのだけれど、実は私は、この事件が起るまでは、書いたものでは彼を知ってもいたし、雑誌の上で議論さえしたことがあるのだけれど、個人的の交際もなく、彼の生活もよくは知らなかった。それをやや詳しく知ったのは、事件が起ってから、私の友達の本田という男を通じてであったから、春泥のことは、私が本田に聞合せ調べ廻った事実を書く時に記すこととして、出来事の順序に従って、私がこの変な事件に捲き込まれるに至った、最初のきっかけから筆を起して行くのが、最も自然である様に思う。
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江戸川乱歩
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それは昨年の秋、十月なかばのことであった。私は古い仏像が見たくなって、上野の帝室博物館の、薄暗くガランとした部屋部屋を、足音を忍ばせて歩き廻っていた。部屋が広くて人気がないので、一寸した物音が怖い様な反響を起すので、足音ばかりではなく、咳ばらいさえ憚かられる様な気持だった。博物館というものが、どうしてこうも不人気であるかと疑われる程そこには人の影がなかった。陳列棚の大きなガラスが冷く光り、リノリウムには小さなほこりさえ落ちていなかった。お寺のお堂みたいに天井の高い建物は、まるで水の底にでも在る様に、森閑と静まり返っていた。 丁度私が、ある部屋の陳列棚の前に立って、古めかしい木彫の菩薩像の、夢の様なエロティクに見入っていた時、うしろに、忍ばせた足音と、幽かな絹ずれの音がして、誰かが私の方へ近づいて来るのが感じられた。私は何かしらゾッとして、前のガラスに映る人の姿を見た。そこには、今の菩薩像と影を重ねて、黄八丈の様な柄の袷を着た、品のいい丸髷姿の女が立っていた。女はやがて私の横に肩を並べて立止り、私の見ていた同じ仏像にじっと眼を注ぐのであった。
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江戸川乱歩
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私は、あさましいことだけれど、仏像を見ている様な顔をして、時々チラチラと女の方へ眼をやらないではいられなかった。それ程その女は私の心を惹いたのだ。彼女は青白い顔をしていたが、あんなに好もしい青白さを私は甞つて見たことがなかった。この世に若し人魚というものがあるならば、きっとあの女の様な優艷な肌を持っているに相違ない。どちらかと云えば昔風の瓜実顔で、眉も鼻も口も首筋も、肩も、悉くの線が優に弱々しく、なよなよとしていて、よく昔の小説家が形容した様な、触れば消えて行くかと思われる風情であった。私は今でも、あの時の彼女のまつげの長い、夢見る様なまなざしを忘れることは出来ない。 どちらが初め口を切ったのか、私は今妙に思い出せぬけれど、恐らくは私が何かのきっかけを作ったのであろう。彼女と私とはそこに並んでいた陳列品について二言三言口を利き合ったのが縁となって、それから博物館を一巡して、そこを出て上野の山内を山下へ通り抜けるまでの長い間、道づれとなってポッツリポッツリと、色々の事を話し合ったのである。
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そうして話をして見ると、彼女の美しさは一段と風情を増して来るのであった。中にも彼女が笑う時の、恥らい勝ちな、弱々しい美しさには、私は何か古めかしい油絵の聖女の像でも見ている様な、又はあのモナリザの不思議な微笑を思い起す様な、一種異様の感じにうたれないではいられなかった。彼女の糸切歯は真白で大きくて、笑う時には、唇の端がその糸切歯にかかって、謎の様な曲線を作るのだが、右の頬の青白い皮膚の上の大きな黒子が、その曲線に照応して、何とも云えぬ優しく懐しい表情になるのだった。 だが、若し私が彼女の項にあの妙なものを発見しなかったならば、彼女はただ上品で優しくて弱々しくて、触れば消えてしまいそうな美しい人という以上に、あんなにも強く私の心を惹かなかったであろう。彼女は巧みに衣紋をつくろって、少しも態とらしくなく、それを隠していたけれど、上野の山内を歩いている間に、私はチラと見てしまった。彼女の項には、恐らく背中の方まで深く、赤痣の様な太い蚯蚓脹れが出来ていたのだ。それは生れつきの痣の様にも見えたし、又、そうではなくて、近頃出来た傷痕の様にも思われた。青白い滑かな皮膚の上に、恰好のいいなよなよとした項の上に、赤黒い毛糸を這わせた様に見えるその蚯蚓脹れが、その残酷味が、不思議にもエロティクな感じを与えた。それを見ると、今迄夢の様に思われた彼女の美しさが、俄かに生々しい現実味を伴って、私に迫って来るのであった。
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江戸川乱歩
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話している間に、彼女は合資会社碌々商会の出資社員の一人である実業家小山田六郎氏の夫人、小山田静子であったことが分って来たが、幸なことには、彼女は探偵小説の読者であって、殊に私の作品は好きで愛読しているということで(それを聞いた時私はゾクゾクする程嬉しかったことを忘れない)つまり作者と愛読者の関係が私達を少しの不自然もなく親しませ、私はこの美しい人と、それきり別れてしまう本意なさを味わなくて済んだ。私達はそれを機縁に、それから度々手紙のやり取りをした程の間柄となったのである。 私は、若い女の癖に人気のない博物館などへ来ていた静子の上品な趣味も好ましかったし、探偵小説の中でも最も理智的だと云われている私の作品を愛読している彼女の好みも懐しく、私は全く彼女に溺れ切ってしまった形で、誠に屡々彼女に意味もない手紙を送ったものであるが、それに対して、彼女は一々鄭重な、女らしい返事をくれた。独身で淋しがりやの私は、この様なゆかしい女友達を得たことを、どんなに喜んだことであろう。
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二
小山田静子と私との手紙の上での交際は、そうして数ヶ月の間続いた。文通を重ねて行く内に、私は非常にびくびくしながら、私の手紙に、それとなく、ある意味を含ませていたことをいなめないのだが、気のせいか、静子の手紙にも、通り一ぺんの交際以上に、誠につつましやかではあったが、何かしら暖い心持がこめられて来る様になった。打開けて云うと、恥しいことだけれど、私は、静子の夫の小山田六郎氏が、年も静子よりは余程とっていた上に、その年よりも老けて見える方で、頭などもすっかりはげ上っている様な人だという事を、苦心をして探り出していたのだった。 それが、今年の二月頃になって、静子の手紙に妙な所が見え始めた。彼女は何かしら非常に怖がっている様に感じられた。「この頃大変心配なことが起りまして、夜も寝覚め勝ちでございます」 彼女はある手紙にこんなことを書いた。文言は簡単であったけれど、その文言の裏に、手紙全体に、恐怖に戦いている彼女の姿が、まざまざと見える様だった。
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江戸川乱歩
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「先生は同じ探偵作家でいらっしゃる大江春泥という方と、若しや御友達ではございませんでしょうか。その方の御住所が御分りでしたら御教え下さいませんでしょうか」 ある時の手紙にはこんなことが書いてあった。無論私は大江春泥の作品はよく知っていたが、春泥という男が非常な人嫌いで、作家の会合などにも一度も顔を出さなかったので、個人的なつき合いはなかった。それに、彼は昨年のなか頃からぱったり筆をとらなくなって、どこへ引越してしまったか、住所さえ分らないと云う噂を聞いていた。私は静子へはその通り答えてやったが、彼女のこの頃の恐怖は若しやあの大江春泥にかかわりがあるのではないかと思うと、私はあとで説明する様な理由の為に、何となくいやあな心持がした。 すると間もなく、静子から「一度御相談したいことがあるから、御伺いしても差支ないか」という端書が来た。私はその「御相談」の内容をおぼろげには感じていたけれど、まさかあんな恐ろしい事柄だとは想像もしなかったので、愚かにも浮き浮きと嬉しがって、彼女との二度目の対面の楽しさを、様々に妄想していた程であったが、「お待ちしています」という私の返事を受け取ると、直ぐその日の内に私を訪ねて来た静子は、もう私が下宿の玄関へ出迎えた時に、私を失望させた程も、うちしおれていて、彼女の「相談」というのが又、私の先の妄想などはどこかへ行ってしまった程、異常な事柄だったのである。
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陰獣
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江戸川乱歩
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「私本当に思い余って伺ったのでございます。先生なれば、聞いて頂ける様な気がしたものですから…………でも、まだ昨今の先生にこんな打割った御相談をしましては失礼ではございませんかしら」 その時、静子は例の糸切歯と黒子の目立つ、弱々しい笑い方をして、ソッと私の方を見上げた。寒い時分で、私は仕事机の傍に紫檀の長火鉢を置いていたが、彼女はその向側に行儀よく坐って、両手の指を火鉢の縁へかけている。その指は彼女の全身を象徴するかの様に、しなやかで、細くて、弱々しくて、と云っても決して痩せているのではなく、色は青白いけれど、決して不健康なのではなく、握りしめたならば、消えてしまい相に弱々しいけれど、しかも非常に微妙な弾力を持っている。指ばかりではなく、彼女全体が丁度そんな感じであった。 彼女の思込んだ様子を見ると、私もつい真剣になって、「私に出来ることなら」と答えると、彼女は「本当に気味の悪いことでございますの」と前置きして、彼女の幼年時代からの身の上話を混ぜて、次の様な異様な事実を私に告げたのである。
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その時静子の語った、彼女の身の上をごく簡単に記すと、彼女の郷里は静岡であったが、そこで彼女は女学校を卒業するという間際まで、至極幸福に育った。たった一つの不幸とも云えるのは、彼女が女学校の四年生の時、平田一郎という青年の巧みな誘惑に陥って、ほんの少しの間彼と恋仲になったことであった。なぜそれが不幸かと云うに、彼女は十八の娘の一寸した出来心から恋の真似事をして見た丈けで、決して真から相手の平田青年を好いていなかったからだ。そして、彼女の方では本当の恋でなかったのに、相手は真剣であったからだ。彼女はうるさくつき纒う平田一郎を避けよう避けようとする、そうされればされる程、青年の執着は深くなる。はては、深夜黒い人影が彼女の家の塀外をさまよったり、郵便受に気味の悪い脅迫状が舞込んだりし始めた。十八の娘は彼女の出来心の恐ろしい報いに震え上ってしまった。両親もただならぬ娘の様子に心附いて、胸をいためた。 丁度その時、静子にとっては、寧ろそれが幸であったとも云えるのだが、彼女の一家に大きな不幸が来た。当時経済界の大変動から、彼女の父は弥縫の出来ない多額の借財を残し、商売をたたんで、殆ど夜逃げ同然に、彦根在の一寸した知る辺をたよって、身を隠さねばならぬ羽目となった。この予期せぬ境遇の変化の為に、静子は今少しという所で女学校を中途退学しなければならなかったけれど、一方では、突然の転宅によって、気味の悪い平田一郎の執念から逃れることが出来たので、彼女はホッと胸なでおろす気持だった。
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江戸川乱歩
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彼女の父親はそれが元で、病の床につき、間もなく死んで行ったが、それから、たった二人になった母親と静子の上に、暫くの間みじめな生活が続いた。だが、その不幸は大して長くはなかった。やがて、彼女等が世を忍んでいた同じ村の出身者である実業家の小山田氏が彼女等の前に現われた。それが救いの手であった。小山田氏はある垣間見に静子を深く恋して、伝手を求めて結婚を申込んだ。静子も小山田氏が嫌いではなかった。年こそ十歳以上も違っていたけれど、小山田氏のスマートな紳士振りに、あるあこがれを感じていた。縁談はスラスラと運んで行った。小山田氏は母親と共に、花嫁の静子を伴って東京の邸に帰った。それから七年の歳月が流れた。彼等が結婚してから三年目かに、静子の母親が病死したこと、それから暫くして、小山田氏が会社の要務を帯びて、二年ばかり海外に旅をしたこと(帰朝したのはつい一昨年の暮であったが、その二年の間、静子は毎日茶、花、音楽等の師匠に通って、独居の淋しさを慰めていたのだと語った)などを除いては、彼等の一家にはこれという出来事もなく、夫婦の間柄も至極円満に、仕合せな月日が続いた。夫の小山田氏は大の奮闘家で、その七年間にメキメキと財をふやして行った。そして、今では同業者の間に押しも押されもせぬ地盤を築いていた。「本当にお恥しいことですけれど、わたくし、結婚の時小山田に嘘をついてしまったのでございます。その平田一郎のことを、つい隠してしまったのでございます」
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江戸川乱歩
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静子は、恥しさと悲しさの為に、あのまつげの長い目をふせて、そこに一杯涙さえためて、小さな声で細々と語るのであった。「小山田は平田一郎の名をどこかで聞いていて、いくらか疑っていた様でございましたが、わたくし、あくまで小山田の外には男を知らないと云い張って、平田との関係を秘し隠しに隠してしまったのでございます。そして、その嘘を今でも続けているのでございます。小山田が疑えば疑う丈け、私は余計に隠さなければならなかったのでございます。人の不幸って、どんな所に隠れているものか、本当に恐ろしいと思いますわ。七年前の嘘が、それも決して悪意でついた嘘ではありませんでしたのに、こんなにも恐ろしい姿で、今わたくしを苦しめる種になりましょうとは。わたくし、平田のことなんか、本当に忘れきってしまっていたのでございます。突然平田からあんな手紙が来ました時にも、平田一郎という差出人の名前を見ましても、暫らくは誰であったか思い出せない程、わたくし、すっかり忘れきっていたのでございます」 静子はそう云って、その平田から来たという数通の手紙を見せた。私はその後それらの手紙の保管を頼まれて、今でもここに持っているが、その内最初に来たものは、話の筋を運んで行くのに都合がよいから、それをここに貼りつけて置くことにしよう。
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江戸川乱歩
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静子さん。私はとうとう君を見つけた。君の方では気がつかなんだけれど、私は君に出逢った場所から君を尾行して、君の邸を知ることが出来た。小山田という今の君の姓も分った。君はまさか平田一郎を忘れはしないだろう。どんなに虫の好かぬ奴だったかを覚えているだろう。私は君に捨てられてどれ程悶えたか、薄情な君には分るまい。悶えに悶えて、深夜君の邸の廻りをさまよった事幾度であったろう。だが、君は、私の情熱が燃え立てば燃え立つ程、益々冷かになって行った。私を避け、私を恐れ、遂には私を憎んだ。君は恋人から憎まれた男の心持を察しることが出来るか。私の悶えが歎きとなり、歎きが恨みとなり、恨みが凝って、復讐の念と変って行ったのが無理であろうか。君が家庭の事情を幸いに、一言の挨拶もなく、逃げる様に私の前から消去った時、私は数日、飯も食わないで書斎に坐り通していた。そして、私は復讐を誓ったのだ。私は若かったので、君の行衛を探す術を知らなんだ。多くの債権者を持つ君の父親は、何人にもその行先を知らせないで、姿をくらましてしまった。私はいつ君に逢えることか分らなんだ。だが、私は長い一生を考えた。一生の間君に逢わないで済もうとはどうしても考えられなかった。
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私は貧乏だった。食う為に働かねばならぬ身の上だった。一つはそれが、あくまで君の行衛を尋ね廻ることを妨げたのだ。一年二年、月日は矢の様に過ぎ去って行ったが、私はいつまでも貧困と戦わねばならなかった。そして、その疲労が、忘れるともなく君への恨みを忘れさせた。私は食うことで夢中だったのだ。だが、三年ばかり前、私に予期せぬ好運が巡って来た。私はあらゆる職業に失敗して、失望のどん底にある時、うさはらしに一篇の小説を書いた。それが機縁となって、私は小説で飯の食える身分となったのだ。君は今でも小説を読んでいるのだから、多分大江春泥という探偵小説家を知っているだろう。彼はもう一年ばかり何も書かないけれど、世間の人は恐らく彼の名前を忘れてはいない。その大江春泥こそかく云う私なのだ。君は、私が小説家としての虚名に夢中になって、君に対する恨みを忘れてしまったとでも思うのか。否、否、私のあの血みどろな小説は、私の心に深き恨みを蔵していたからこそ書けたとも云えるのだ。あの猜疑心、あの執念、あの残虐、それらが悉く私の執拗なる復讐心から生れたものだと知ったなら、私の読者達は恐らく、そこに籠る妖気に身震いを禁じ得なかったであろう。
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江戸川乱歩
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静子さん。生活の安定を得た私は、金と時間の許す限り、君を探し出す為に努力した。勿論君の愛を取戻そうなどと不可能な望を抱いた訳ではない。私には已に妻がある。生活の不便を除く為に娶った形ばかりの妻がある。だが、私にとって、恋人と妻とは全然別箇のものだ。つまり、妻を娶ったからといって、恋人への恨みを忘れる私ではないのだ。 静子さん。今こそ私は君を見つけ出した。私は喜びに震えている。私の多年の願いを果す時が来たのだ。私は長い間、小説の筋を組み立てる時と同じ喜びを以て、君への復讐手段を組立てて来た。最も君を苦しめ、君を怖わがらす方法を熟慮して来た。愈々それを実行する時が来たのだ。私の歓喜を察してくれ給え。 君は警察その他の保護を仰ぎ私の計画を妨げることは出来ない。私の方にはあらゆる用意が出来ているのだ。ここ一年ばかりというもの、新聞記者、雑誌記者の間に私の行衛不明が伝えられている。これは何も君への復讐の為にしたことではなく、私の厭人癖と秘密好みから出た韜晦なのだが、それが計らずも役に立った。私は一層の綿密さを以て世間から私の姿をくらますであろう。そして、着々君への復讐計画を進めて行くであろう。
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江戸川乱歩
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君は私の計画を知りたがっているに相違ない。だが、私は今その全体を洩らすことは出来ぬ。恐怖は徐々に迫って行く程効果があるからだ。併し、君がたって聞きたいと云うならば、私は私の復讐事業の一端を洩らすことを惜しむものではない。例えば、私は今から三日以前、即ち一月三十一日の夜、君の家の中で君の身辺に起ったあらゆる些事を、寸分の間違いもなく君に告げることが出来る。 午後七時より七時半まで、君は君達の寝室にあてられている部屋の小机に凭れて小説を読んだ。小説は広津柳浪の短篇集「変目伝」その中の「変目伝」丈けを読了した。七時半より七時四十分まで、女中に茶菓を命じ、風月の最中を二箇、お茶を三碗喫した。七時四十分より上厠約五分にして、部屋へ戻った。それより九時十分頃まで、編物をしながら物思いに耽った。九時十分主人帰宅。九時二十分頃より十時少し過ぎまで、主人の晩酌の相手をして雑談した。その時君は主人に勧められて、グラスに半分ばかり葡萄酒を喫した。その葡萄酒は口をあけたばかりのもので、コルクの小片がグラスに入ったのを、君は指でつまみ出した。晩酌が終るとすぐ女中に命じて二つの床をのべさせ、両人上厠の後就寝した。それから十一時まで両人とも眠らず。君が再び君の寝床に横わった時君の家のおくれたボンボン時計が十一時を報じた。
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君はこの汽車の時間表の様に忠実な記録を読んで、恐怖を感じないでいられるだろうか。二月三日深夜復讐者より
我が生涯より恋を奪いし女へ
「わたくし、大江春泥という名前は可也以前から存じて居りましたけれど、それが平田一郎の筆名でしょうとは、ちっとも存じませんでした」 静子は気味悪そうに説明した。事実、大江春泥の本名を知っている者は、私達作家仲間にも少い位であった。私にしても、彼の著書の奥附を見たり、私の所へよく来る本田が本名で彼の噂をするのを聞かなかったら、いつまでも平田という名前を知らなかったであろう。それ程彼は人嫌いで、世間に顔出しをせぬ男であった。 平田のおどかしの手紙は、その外に三通ばかりあったが、いずれも大同小異で、(消印はどれもこれも違った局のであった)復讐の呪咀の言葉のあとに、静子のある夜の行為が、細大洩らさず、正確な時間を附加えて記入してあることに変りはなかった。殊にも、彼女の寝室の秘密は、どの様な隠微な点までも、はれがましくもまざまざと描き出されていた。顔の赤らむ様なある仕草、ある言葉さえもが、冷酷に描写してあった。
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江戸川乱歩
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静子はその様な手紙を他人に見せることは、どれ程恥しく苦痛であったか、察するに余りあったが、それを忍んでまで、彼女が私を相談相手に選んだのは、よくよくのことと云わねばならぬ。それは一方では、彼女が過去の秘密を、つまり彼女が結婚以前既に処女でなかったという事実を、夫の六郎氏に知られることを、どれ程恐れていたかということを示すものであり、同時に又一方では、彼女の私に対する信頼がどんなに厚いかということを証する訳でもあった。「わたくし、主人側の親類の外には、身内と云っては一人もございませんし、御友達にこんなことを相談する様な親身の方はありませんし、本当に無躾だとは思いましたけれど、わたくし、先生に御すがりすれば、私がどうすればいいか、御教え下さるでしょうと思いましたものですから」
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江戸川乱歩
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彼女にそんな風に云われると、この美しい女がこんなにも私をたよっているかと思うと、私は胸がワクワクする程嬉しかった。私が大江春泥と同じ探偵作家であったこと、少くとも小説の上では、私が仲々巧みな推理家であったことなどが、彼女が私を相談相手に選んだ幾分の理由を為していたには相違ないが、それにしても、彼女が私に対して余程の信頼と好意を持っていないでは、こんな相談がかけられるものではないのだ。 云うまでもなく、私は静子の申出を容れて、出来る丈けの助力をすることを承諾した。大江春泥が静子の行動を、これ程巨細に知る為には、小山田家の召使を買収するか、彼自身が邸内に忍込んで、静子の身近く身をひそめているか、又はそれに近い悪企みが行われていたと考える外はなかった。彼の作風から推察しても、春泥はそんな変てこな真似をし兼ねない男なのだから。私はそれについて、静子の心当りを尋ねて見たが、不思議なことには、その様な形跡は少しもないということであった。召使達は気心の分った長年住込みのものばかりだし、邸の門や塀などは主人が人一倍神経質の方で、可也厳重に出来ているし、それに仮令邸内に忍び込めたところで、召使達の目にふれないで、奥まった部屋にいる静子の身辺に近づくことは、殆ど不可能だということであった。
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だが、実を云うと私は大江春泥の実行力を軽蔑していた。高が探偵小説家の彼に、どれ程のことが出来るものか。せいぜい御手のものの手紙の文章で静子を怖がらせる位のことで、迚もそれ以上の悪企みが実行出来る筈はない。とたかを括っていた。彼がどうして静子の細い行動を探り出したかは、聊か不思議ではあったが、これも彼の御手のものの、手品使いみたいな機智で、大した手数をかけないで、誰かから聞出してでもいるのだろうと、軽く考えていた。で、私はその私の考えを話して静子を慰め、私にはその方の便宜もあるので、大江春泥の所在をつき止め、出来れば彼に意見を加えて、こんな馬鹿馬鹿しいいたずらを中止させる様に計らうからと、それはかたく請合って、静子を帰したのであった。私は大江春泥の脅迫めいた手紙について、あれこれと詮議立てをすることよりは、優しい言葉で静子を慰めることの方に力を注いだ。無論私にはそれが嬉しかったからだ。そして、別れる時に私は、「このことは一切御主人に御話なさらん方がいいでしょう。あなたの秘密を犠牲になさる程の大した事件ではありませんよ」という様なことを云った。愚かな私は、彼女の主人さえ知らぬ秘密について、彼女と二人きりで話し合う楽しみを、出来る丈け長く続けたかったのだ。
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陰獣
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江戸川乱歩
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併し、私は大江春泥の所在をつきとめる仕事丈けは、実際やる積りであった。私は以前から私と正反対の傾向の春泥を、ひどく虫が好かなんだ。女の腐った様な猜疑に満ちた繰言で変態読者をやんやと云わせて得意がっている彼が無性に癪に触っていた。だから、あわよくば、彼のこの隠険な不正行為をあばいて、吠面をかかせてやりたいものだとさえ思っていた。私は大江春泥の行衛を探すことが、あんなに難しかろうとは、まるで予想していなかったのだ。三
大江春泥は彼の手紙にもある通り今から四年ばかり前、商売違いの畑から突如として現われた探偵小説家であった。彼が処女作を発表すると、当時日本人の書いた探偵小説というものが殆どなかった読書界は、物珍らしさに非常な喝采を送った。大げさに云えば彼は一躍して読物界の寵児になってしまったのだ。彼は非常に寡作ではあったが、それでも色々な新聞雑誌に次々と新しい小説を発表して行った。それは一つ一つ、血みどろで、隠険で、邪悪で、一読肌に粟を生じる体の、無気味ないまわしいものばかりであったが、それが却って読者を惹きつける魅力となり、彼の人気は仲々衰えなかった。
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私も殆ど彼と同時位に、従来の少年少女小説から探偵小説の方へ鞍替えしたのであったが、そして人の少い探偵小説界では、相当名前を知られる様になったのであるが、大江春泥と私とは、作風が正反対と云ってもいい程違っていた。彼の作風が暗く、病的で、ネチネチしていたに反して、私のは明るく、常識的であった。当然の勢いとして、私達は妙に製作を競い合う様な形になっていた。そして、お互に作品をけなし合いさえした。と云っても癪に触ることには、けなすのは多くは私の方で、春泥は時たま私の議論を反駁して来ることもあったが、大抵は超然として沈黙を守っていた。そして、次々と恐ろしい作品を発表して行った。私はけなしながらも、彼の作に籠る一種の妖気にうたれないではいられなかった。彼は何かしら燃え立たぬ陰火の様な情熱を持っていた。(それが彼の手紙にある様に静子への執念深い怨恨からであったとすれば、やや肯くことが出来るのだが)えたいの知れぬ魅力が読者を捉えた。実をいうと、私は、彼の作品が喝采される毎に、云い様のない嫉妬を感じずにはいられなかった。私は子供らしい敵意をさえ抱いた。どうかして彼奴に打勝ってやり度いという願いが、絶えず私の心の隅に蟠っていた。だが、彼は一年ばかり前から、ぱったり小説を書かなくなり所在をさえくらましてしまった。人気が衰えた訳でもなく、雑誌記者などは散々彼の行衛を探し廻った程であったが、どうした訳か、彼はまるで行衛不明であった。私は虫の好かぬ彼ではあったが、さていなくなって見れば、一寸淋しくもあった。子供らしい云い方をすれば、好敵手を失ったという物足りなさが残った。そういう大江春泥の最近の消息が、しかも極めて変てこな消息が、小山田静子によって齎らされたのだ。私は恥しいことだけれど、かくも奇妙な事情の下に、昔の競争相手と再会したことを、心私かに喜ばないではいられなかった。
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だが、大江春泥が探偵物語の組立てに注いだ空想を、一転して実行にまで押進めて行ったことは、考えて見れば、或は当然の成行であったかも知れない。このことは世間でも大方は知っている筈だが、ある人が云った様に、彼は一箇の「空想的犯罪生活者」であった。彼は、丁度殺人鬼が人を殺すのと、同じ興味を以て、同じ感激を以て、原稿紙の上に彼の血みどろの犯罪生活を営んでいたのだ。彼の読者は、彼の小説につき纒っていた一種異様の鬼気を記憶するであろう。彼の作物が常に、並々ならぬ猜疑心、秘密癖、残虐性を以て満たされていたことを記憶するであろう。彼はある小説の中で、次の様な無気味な言葉をさえ洩らしていた。「遂に彼は単なる小説では満足出来ない時が来るのではありますまいか。彼はこの世の味気なさ、平凡さにあきあきして、彼の異常な空想を、せめては紙の上に書き現わすことを楽しんでいたのです。それが彼が小説を書き初めた動機だったのです。でも、彼は今、その小説にさえあきあきしてしまいました。この上は、彼は一体どこに刺戟を求めたらいいのでしょう。犯罪、アア、犯罪丈けが残されていました。あらゆることをし尽した彼の前は、世にも甘美なる犯罪の戦慄丈けが残されていました」
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彼は又、作家としての日常生活に於ても、甚だしく風変りであった。彼の厭人病と秘密癖は、作家仲間や雑誌記者の間に知れ渡っていた。訪問者が彼の書斎に通されることは極めて稀であった。彼はどんな先輩にも平気で玄関払いを喰わせた。それに、彼はよく転宅をしたし、殆ど年中病気と称して、作家の会合などにも顔を出したことがなかった。噂によると、彼は昼も夜も万年床の中に寝そべって、食事にしろ執筆にしろ、凡て寝ながらやっているということであった。そして、昼間も雨戸をしめ切って、態と五燭の電燈をつけて、薄暗い部屋の中で、彼一流の無気味な妄想を描きながら、蠢いているのだということであった。 私は彼が小説を書かなくなって、行衛不明を伝えられた時、ひょっとしたら、彼はよく小説の中で云っていた様に、浅草あたりのゴミゴミした裏町に巣を喰って、彼の妄想を実行し始めたのではあるまいかと、ひそかに想像を廻らしていたのだが、果せるかな、それから半年もたたぬ内に、彼は正しく一箇の妄想実行者として、私の前に現われたのであった。
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江戸川乱歩
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私は春泥の行衛を探すのには、新聞社の文芸部か雑誌社の外交記者に聞合せるのが最も早道であると考えた。それにしても、春泥の日常が甚しく風変りで、滅多に訪問者にも会わなかったという程だし、雑誌社などでも、一応は彼の行衛を探したあとなのだから、余程彼と昵懇であった記者を捉えなければならぬのだが、幸いにも丁度おあつらえ向きの人物が、私の心易い雑誌記者の中にあった。それは其道では敏腕の聞え高い博文館の本田という外交記者で、彼は殆ど春泥係りの様にして、春泥に原稿を書かせる仕事をやっていた時代があったし、彼はその上、外交記者丈けあって、探偵的な手腕も仲々あなどり難いものがあるのだ。 そこで、私は電話をかけて、本田に来て貰って、先ず、私の知らない春泥の生活について尋ねたのであるが、すると、本田はまるで遊び友達の様な呼び方で、
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江戸川乱歩
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「春泥ですか。あいつけしからん奴じゃ」
と大黒様の様な顔を、ニヤニヤさせて、さて快く私の問いに答えて呉れた。 本田の云う所によると、春泥は小説を書き始めた頃は郊外の池袋の小さな借家に住んでいたが、それから文名が上り、収入が増すに従って、少しずつ手広な家へ(と云っても大抵は長屋だったが)転々として移り歩いた。牛込の喜久井町、根岸、谷中初音町、日暮里金杉等々、本田はそうして春泥の約二年間に転居した場所を七つ程列挙した。根岸へ移り住んだ頃から、春泥は漸くはやりっ子となり、雑誌記者などが随分おしかけたものであるが、彼の人嫌いはその当時からで、いつも表戸をしめて、奥さんなどは裏口から出入りしているといった風であった。折角訪ねても逢ってはくれず、居留守を使って置いて、あとから手紙で、「私は人嫌いだから、用件は手紙で申送ってくれ」という詫状が来たりするので、大抵の記者はへこたれてしまい、春泥に会って話をしたものは、ほんの数える程しかなかった。小説家の奇癖には慣れっこになっている雑誌記者も、春泥の人嫌いを持余していた。
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陰獣
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江戸川乱歩
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併しよくしたもので、春泥の細君というのが、仲々の賢夫人で、本田は原稿の交渉や催促なども、この細君を通じてやることが多かった。でも、その細君に逢うのも仲々面倒で、表戸が締っている上に、時には「病中面会謝絶」とか、「旅行中」とか、「雑誌記者諸君。原稿の依頼は凡て手紙で願います。面会はお断りです」などという手厳しい掛け札さえぶら下がっているのだから、流石の本田も辟易して、空しく帰る場合も一度ならずあった。そんな風だから、転居をしても一々通知状を出すではなく、凡て記者の方で郵便物などを元にして探し出さなければならないのだった。「春泥と話をしたり、細君と冗談口を利き合ったものは、雑誌記者多しと雖も、恐らく僕位なもんでしょう」
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江戸川乱歩
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本田はそう云って自慢をした。
「春泥って、写真を見ると仲々好男子だが、実物もあんなかね」 私は段々好奇心を起して、こんなことを聞いて見た。
「いや、どうもあの写真はうそらしい。本人は若い時の写真だって云ってましたが、どうもおかしいですよ。春泥はあんな好男子じゃありませんよ。いやにブクブク肥っていて、運動をしないせいでしょう。(いつも寝ているんですからね)顔の皮膚なんか、肥っている癖に、ひどくたるんでいて、支那人の様に無表情で、目なんか、ドロンとにごっていて、云って見れば土左衛門見たいな感じなんですよ。それに非常な話下手で無口なんです。あんな男に、どうしてあんなすばらしい小説が書けるかと思われる位ですよ。宇野浩二の小説に『人癲癇』というのがありましたね。春泥は丁度あれですよ。寝胼胝が出来る程も、寝たっきりなんですからね。僕は二三度しか逢ってませんが、いつだって、あの男は寝ていて話をするんです。寝ていて食事をするというのも、あの調子なら本当ですよ。
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ところが、妙ですね。そんな人嫌いで、しょっちゅう寝ている男が、時々変装なんかして浅草辺をぶらつくっていう噂ですからね。しかもそれが極って夜中なんですよ。本当に泥棒か蝙蝠みたいな男ですね。僕思うに、あの男は極端な恥しがり屋じゃないでしょうか。つまりあのブクブクした自分の身体なり顔なりを人に見せるのがいやなのではないでしょうか。文名が高まれば高まる程、あのみっともない肉体が、益々恥しくなって来る。そこで友達も作らず訪問者にも逢わないで、そのうめ合せには夜などコッソリ雑踏の巷をさまようのじゃないでしょうか。春泥の気質や細君の口裏などから、どうもそんな風に思われるのですよ」 本田は仲々雄弁に、春泥の面影を髣髴させるのであった。そして、彼は最後に実に奇妙な事実を報告したのである。
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「ところがね、寒川さん、ついこの間のことですが、僕、あの行衛不明の大江春泥に会ったのですよ。余り様子が変っていたので挨拶もしなかったけれど、確かに春泥に相違ないのです」「どこで、どこで」
私は思わず聞返した。
「浅草公園ですよ。僕その時実は朝帰りの途中で、酔がさめ切っていなかったのか知れませんがね」本田はニヤニヤして頭をかいた。「ホラ来々軒っていう支那料理があるでしょう。あすこの角の所に、まだ人通りも少い朝っぱらから、真赤なとんがり帽に道化服の、よく太った広告ビラ配りが、ヒョコンと立っていたのです。何とも夢みたいな話だけど、それが大江春泥だったのですよ。ハッとして立止って、声をかけようかどうしようかと思い迷っている内に、相手の方でも気づいたのでしょう。併しやっぱりボヤッとした無表情な顔で、クルリと後向きになると、そのまま大急ぎで向うの路地へ這入って行ってしまいました。よっぽど追っかけ様かと思ったけれど、あの風体じゃ挨拶するのも却って変だと考え直して、そのまま帰ったのですが」
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大江春泥の異様な生活を聞いている内に、私は悪夢でも見ている様な、不愉快な気持になって来た。そして、彼が浅草公園で、とんがり帽と道化服をつけて立っていたと聞いた時には、何故かギョッとして、総毛立つ様な感じがした。 彼の道化姿と静子への脅迫状とにどんな因果関係があるのか私には分らなかったが(本田が浅草で春泥に会ったのは、丁度第一回の脅迫状が来た時分らしかった)何にしても打っちゃっては置けないという気がした。 私はその時序に、静子から預っていた、例の脅迫状のなるべく意味の分らない様な部分を一枚丈け選び出して、それを本田に見せ、果して春泥の筆蹟かどうかを確めることを忘れなかった。すると、彼はこれは春泥の手蹟に相違ないと断言したばかりでなく、形容詞や仮名遣いの癖まで、春泥でなくては書けない文章だと云った。彼はいつか、春泥の筆癖を真似て小説を書いて見た事があるので、それがよく分るが、
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江戸川乱歩
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「あのネチネチした文章は、一寸真似が出来ませんよ」
と云うのだ。私も彼のこの意見には賛成であった。数通の手紙の全体を読んでいる私は、本田以上に、そこに漂っている春泥の匂を感じていたのである。 そこで、私は本田に、出鱈目の理由をつけて、何とかして春泥のありかをつき止めては呉れないかと頼んだのである。本田は、「いいですとも、僕にお任せなさい」
と安請合をしたが、私はそれ丈けでは安心がならず、私自身も本田から聞いた春泥の最後に住んでいたという、上野桜木町三十二番地へ行って、近所で様子を探って見ることにした。四
翌日私は、書きかけの原稿をそのままにして置いて、桜木町へ出掛け、近所の女中だとか出入商人などをつかまえて、色々と春泥一家のことを聞き廻って見たが、本田の云ったことが決して嘘でなかったことを確めた以上には、春泥の其後の行衛については何事も分らなかった。あの辺は、小さな門などのある中流住宅が多いので、隣同志でも、裏長屋の様に話合うことはなく、行先を告げずに引越して行ったという位のことしか、誰も知らなかった。無論大江春泥の表札など出していないので、彼が有名な小説家だと知っている人もなかった。トラックを持って荷物を取りに来た引越屋さえ、どこの店だか分らないので、私は空しく帰る外はなかった。
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江戸川乱歩
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外に方法もないので、私は急ぎの原稿を書くひまひまには、毎日の様に本田に電話をかけて、探索の模様を聞くのだが、一向これという手掛りもないらしく、五日六日と日がたって行った。そして、私達がそんなことをしている間に、春泥の方では彼の執念深い企らみを、着々と進めていたのであった。 ある日小山田静子から私の宿へ電話がかかって、大変心配なことが出来たから、一度御出でが願い度い。主人は留守だし、召使達も、気の置ける様な者は、遠方に使いに出して、待っているから、ということであった。彼女は自宅の電話を使わず、態々自動電話からかけたらしく、彼女がこれ丈けのことを云うのに、非常にためらい勝ちであったものだから、途中で三分の時間が来て、一度電話が切れた程であった。
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陰獣
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江戸川乱歩
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主人の留守を幸、召使は使に出して、ソッと私を呼び寄せるという、このなまめかしい形式が、一寸私を妙な気持にした。勿論それだからというのではないが、私は直様承諾して、浅草山の宿にある彼女の家を訪ねた。小山田家は商家と商家の間を奥深く入った所にある、一寸昔の寮といった感じの古めかしい建物であった。正面から見たのでは分らぬけれど、多分裏を大川が流れているのではないかと思われた。だが、寮の見立てにふさわしくないのは、新しく建増したと見える、邸を取囲んだ甚だしく野暮なコンクリート塀と(その塀の上部には盗賊よけのガラスの破片さえ植えつけてあった)母屋の裏の方にそびえている二階建の西洋館であった。その二つのものが、如何にも昔風の日本建と不調和で、黄金万能の泥臭い感じを与えていた。 刺を通じると、田舎者らしい小女の取次で、洋館の方の応接間へ案内されたが、そこには静子が、ただならぬ様子で待構えていた。彼女は幾度も幾度も、私を呼びつけた無躾を詫びたあとで、何故か小声になって、「先ずこれを見て下さいまし」と云って、一通の封書を差出した。そして、何を恐れるのか、うしろを見る様にして、私の方へ寄って来るのだった。それはやっぱり大江春泥からの手紙であったが、内容がこれまでのものとは少々違っているので、左にその全文を貼りつけて置くことにする。
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陰獣
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江戸川乱歩
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静子。お前の苦しんでいる様子が目に見える様だ。お前が主人には秘密で、私の行衛をつきとめ様と苦心していることも、ちゃんと私には分っている。だが、無駄だから止すがいい。仮令お前に私の脅迫を主人に打開ける勇気があり、その結果警察の手を煩したところで、私の所在は分りっこはないのだ。私がどんなに用意周到な男であるかは、私の過去の作品を見ても分る筈ではないか。 さて、私の小手調べも、この辺で打切り時だろう。私の復讐事業は第二段に移る時期に達した様だ。それについて私は少しく君に予備知識を与えて置かねばなるまい。私がどうしてあんなにも正確に、夜毎のお前の行為を知ることが出来たか。もうお前にも大方想像がついているだろう。つまり、私はお前を発見して以来、影の様にお前の身辺につきまとっているのだ。お前の方からはどうしても見ることは出来ないけれど、私の方からはお前が家に居る時も、外出した時も、寸時の絶え間もなくお前の姿を凝視しているのだ。私はお前の影になり切ってしまったのだ。現に今、お前がこの手紙を読んで震えている様子をも、お前の影である私は、どこかの隅から、目を細めてじっと眺めているかも知れないのだ。
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陰獣
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江戸川乱歩
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お前も知っている通り、私は夜毎のお前の行為を眺めている内に、当然お前達の夫婦仲の睦じさを見せつけられた。私は無論烈しい嫉妬を感じないではいられなかった。これは最初復讐計画を立てた時、勘定に入れて置かなかった事柄だったが、併し、そんな事が毫も私の計画を妨げなかったばかりか、却って、この嫉妬は私の復讐心を燃え立たせる油となった。そして、私は私の予定にいささかの変更を加える方が、一層私の目的にとって有効であることを悟った。というのは外でもない。最初の予定では、私はお前を窘めに窘め抜き、恐わがらせに恐わがらせ抜いた上で、徐ろにお前の命を奪おうと思っていたのだが、此間からお前達の夫婦仲を見せつけられるに及んで、お前を殺すに先だって、お前の愛している夫の命を、お前の目の前で奪い、それから、その悲歎を充分味わせた上で、お前の番にした方が、仲々効果的ではないかと考える様になった。そして、私はそれに極めたのだ。だが慌てることはない。私はいつも急がないのだ。第一、この手紙を読んだお前が、充分苦しみ抜かぬ内に、その次の手段を実行するというのは、余りに勿体ないことだからな。
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陰獣
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江戸川乱歩
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三月十六日深夜復讐鬼より
静子殿
この残忍酷薄を極めた文言を読むと、私は流石にゾッとしないではいられなかった。そして、人でなし大江春泥を憎む心が幾倍するのを感じた。だが、私が恐れを為してしまったのでは、あのいじらしく打しおれた静子を誰が慰めるのだ。私は強いて平気を装いながら、この脅迫状が小説家の妄想に過ぎないことを、繰返し説く外はなかった。「どうか、先生、もっと御静かにおっしゃって下さいまし」
私が熱心に口説き立てるのを聞こうともせず、静子は何か外のことに気をとられている風で、時々じっと一つ所を見つめて、耳をすます様な仕草をした。そして、さも、誰かが立聞きでもしているかの様に声をひそめるのだった。彼女の唇は、青白い顔色と見分けられぬ程色を失っていた。
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江戸川乱歩
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「先生、わたくし、頭がどうかしたのではないかと思いますわ。でも、あんなことが、本当だったのでしょうか」 静子は気でも違ったのではないかと疑われる調子で、囁き声で、訳の分らぬことを口走るのだ。「何かあったのですか」私も誘込まれて、つい物々しい囁き声になっていた。「この家の中に平田さんがいるのでございます」
「どこにですか」私は彼女の意味が呑込めないで、ぼんやりしていた。 すると、静子は思切った様に立上って、真青になって、私をさし招くのだ。それを見ると、私も何かしらワクワクして、彼女のあとに従った。彼女は途中で私の腕時計に気づくと、何故か私にそれをはずさせ、テーブルの上へ置きに帰った。それから、私達は足音をさえ忍ばせて短い廊下を通って、日本建ての方の静子の居間だという部屋へ這入って行ったが、そこの襖を開ける時、静子は、すぐその向側に曲者が隠れてでもいる様な、恐怖を示した。「変ですね。昼日中、あの男が御宅へ忍込んでいるなんて、何かの思違いじゃありませんか」 私がそんなことを云いかけると、彼女はハッとした様に、それを手真似で制して、私の手を取って、部屋の一隅へ連れて行くと、目をその上の天井に向けて、「黙って聞いてごらんなさい」という様な合図をするのだ。
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陰獣
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江戸川乱歩
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私達はそこで、十分ばかりも、じっと目を見合せて、耳をすまして立ちつくしていた。昼間だったけれど、手広い邸の奥まった部屋なので、何の物音もなく、耳の底で血の流れる音さえ聞える程、しんと静まり返っていた。「時計のコチコチという音が聞えません?」やや暫くたって、静子は聞きとれぬ程の小声で私に尋ねた。「いいえ、時計って、どこにあるんです」
すると、静子は又黙って、暫く聞耳を立てていたが、やっと安心したものか、「もう聞えませんわねえ」と云って、又私を招いて洋館の元の部屋に戻ると、彼女は異常な息づかいで、次の様な妙なことを話し始めたのである。 その時彼女は居間で一寸した縫物をしていたが、そこへ女中が先に貼つけた春泥の手紙を持って来た。もう此頃では、上封を見ただけで一目でそれと分る様になっているので、彼女はそれを受取ると何とも云えぬいやあな心持になったが、でも、開けて見ないでは、一層不安なので、怖々封を切って読んで見た。そして、事が主人の上にまで及んで来たのを知ると、もうじっとしてはいられなかった。彼女は何故ということもなく立上って、部屋の隅へ歩いて行った。そして、丁度箪笥の前に立止った時、頭の上から、非常に幽かな地虫の鳴声でもある様な、物音が聞えて来る様に感じた。
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陰獣
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江戸川乱歩
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「わたくし、耳鳴りではないかと思ったのですけれど、じっと辛抱して聞いていますと、耳鳴とは違った、金のふれ合う様な、カチ、カチっていう音が、確かに聞えて来るのでございます」 それは、そこの天井板の上に人が潜んでいるのだ。その人の胸の懐中時計が秒を刻んでいるのだ。としか考えられなかった。偶然彼女の耳が天井に近くなったのと、部屋が非常に静かであった為に、神経が鋭くなっていた彼女には、天井裏の幽かな幽かな金属の囁きが聞えたのであろう。若しや違った方角にある時計の音が、光線の反射みたいな理窟で、天井裏からの様に聞えたのではないかと、その辺を隈なく調べて見たけれど、近くに時計なぞ置いてなかった。 彼女はふと「現に今、お前がこの手紙を読んで震えている様子をも、お前の影である私は、どこかの隅から、目を細めてじっと眺めているかも知れないのだ」という手紙の文句を思出した。すると、丁度そこの天井板が少しそり返って、隙間が出来ているのが彼女の注意を惹いた。その隙間の奥の方の真暗な中で、春泥の目が細く光っている様にさえ思われて来た。
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「そこにいらっしゃるのは、平田さんではありませんか」その時静子は、ふと異様な興奮に襲われた。彼女は思切って、敵の前に身を投げ出す様な気持で、ハラハラと涙をこぼしながら、屋根裏の人物に話しかけたのであった。「私、どんなになっても構いません。あなたのお気の済む様に、どんなことでも致します。仮令あなたに殺されても、少しもお恨みには思いません。でも、主人丈けは助けて下さい。私はあの人に嘘をついたのです。その上私の為にあの人が死ぬ様なことになっては、私、あんまり空恐ろしいのです。助けて下さい。助けて下さい」彼女は小さな声ではあったが、心をこめてかき口説いた。だが、上からは何の返事もないのだ。彼女は一時の興奮からさめて、気抜けのした様に、長い間そこに立ちつくしていた。併し、天井裏にはやっぱり幽かに時計の音がしているばかりで、外には少しの物音も聞えては来ないのだ。陰獣は闇の中で、息を殺して、唖の様に黙り返っているのだ。その異様な静けさに、彼女は突然非常な恐怖を覚えた。彼女は矢庭に居間を逃げ出して、家の中にも居たたまらなくて、何の気であったか、表へかけ出してしまったというのだ。そして、ふと私のことを思出すと、矢も楯もたまらず、そこにあった自動電話に入ったということであった。
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江戸川乱歩
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私は静子の話を聞いている内に、大江春泥の不気味な小説「屋根裏の遊戯」を思出さないではいられなかった。若し静子の聞いた時計の音が錯覚でなく、そこに春泥がひそんでいたとすれば、彼はあの小説の思附きを、そのまま実行に移したものであり、誠に春泥らしいやり方と肯くことが出来た。私は「屋根裏の遊戯」を読んでいた丈けに、この静子の一見突飛な話を、一笑に附し去ることが出来なかったばかりでなく、私自身激しい恐怖を感じないではいられなかった。私は屋根裏の暗闇の中で、真赤なとんがり帽と、道化服をつけた太っちょうの大江春泥が、ニヤニヤと笑っている幻覚をさえ感じた。五
私達は色々相談をした末、結局私が「屋根裏の遊戯」の中の素人探偵の様に、静子の居間の天井裏へ上って、そこに人のいた形跡があるかどうか、若しいたとすれば、一体どこから出入したのであるかを、確めて見ることになった。静子は、「そんな気味の悪いことを」と云ってしきりに止めたけれど、私はそれをふり切って、春泥の小説から教わった通り、押入れの天井板をはがして、電燈工夫の様にその穴の中へもぐって行った。丁度邸には、さっき取次に出た少女の外に誰れもいなかったし、その少女も勝手元の方で働いている様子だったから、私は誰に見とがめられる心配もなかったのだ。
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江戸川乱歩
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屋根裏なんて、決して春泥の小説の様に美しいものではなかった。古い家ではあったが、暮の煤掃の折、灰汁洗屋を入れて、天井板をはずしてすっかり洗わせたとのことで、ひどく汚くはなかったけれど、それでも、三月の間にはほこりも積んでいるし、蜘蛛の巣もはっていた。第一真暗でどうすることも出来ないので、私は静子の家にあった手提電燈を借りて、苦心をして梁を伝いながら、問題の箇所へ近づいて行った。そこには、天井板に隙間が出来ていて、多分灰汁洗をした為に、そんなに板がそり返ったのであろう、下から薄い光がさしていたので、それが目印になった。だが、私は半間も進まぬ内にドキンとする様なものを発見した。私はそうして屋根裏に上りながらも、実はまさかまさかと思っていたのだが、静子の想像は決して間違っていなかったのだ。そこには梁の上にも、天井板の上にも、確かに最近人の通ったらしい跡が残っていた。私はゾーッと寒気を感じた。小説を知っている丈けで、まだ逢ったことのない、毒蜘蛛の様な、あの大江春泥が、私と同じ恰好で、その天井裏を這い廻っていたのかと思うと、私は一種名状しがたい戦慄に襲われた。私は堅くなって、梁のほこりの上に残った手だか足だかの跡を追って行った。時計の音のしたという場所は、なるほど、ほこりがひどく乱れて、そこに長い間人のいた形跡があった。
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私はもう夢中になって、春泥と覚しき人物のあとをつけ始めた。彼は殆ど家中の天井裏を歩き廻ったらしく、どこまで行っても、梁の上のほこりの痕は尽きなんだ。そして、静子の居間と静子等の寝室の天井に、板のすいた所があって、その箇所丈けほこりが余計に乱れていた。 私は屋根裏の遊戯者を真似て、そこから下の部屋を覗いて見たが、春泥がそれに陶酔したのも決して無理ではなかった。天井板の隙間から見た「下界」の光景の不思議さは、誠に想像以上であった。殊にも、丁度私の目の下にうなだれていた静子の姿を眺めた時には、人間というものが、目の角度によっては、こうも異様に見えるものかと驚いた程であった。我々はいつも横の方から見られつけているので、どんなに自分の姿を意識している人でも、真上から見た恰好までは考えていない。そこには非常な隙がある筈だ。隙がある丈けに少しも飾らぬ生地のままの人間が、やや無恰好に曝露されているのだ。静子の艶々した丸髷には、(真上から見た丸髷というものの形からして、已に変であったが)前髪と髷との間の窪みに、薄くではあったが、ほこりが溜って、外の綺麗な部分とは比較にならぬ程汚れていたし、髷に続く項の奥には、着物の襟と背中との作る谷底を真上から覗くので、脊筋の窪みまで見えて、そして、そのねっとり青白い皮膚の上には例の毒々しい蚯蚓脹れが、ずっと奥の暗くなって見えぬ所までも、いたいたしく続いているのだ。上から見た静子は、やや上品さを失った様ではあったが、その代りに、彼女の持つ一種不可思議なオブシニティが一層色濃く私に迫って来るのを感じた。
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陰獣
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江戸川乱歩
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それは兎も角、私は何か大江春泥を証拠立てる様なものが残されていないかと、手提電燈の光を近づけて、梁や天井板の上を調べ廻ったが、手型も足跡も、皆曖昧で、無論指紋などは識別されなかった。春泥は定めし「屋根裏の遊戯」をそのままに、足袋や手袋の用意を忘れなかったのであろう。ただ一つ、丁度静子の居間の上の、梁から天井をつるした支え木の根元の、一寸目につかぬ場所に、小さな鼠色の丸いものが落ちていた。艶消の金属で、うつろな椀の形をしたボタンみたいなもので、表面にR・K・BROS・CO・という文字が浮彫りになっていた。それを拾った時私はすぐ様「屋根裏の遊戯」に出て来るシャツのボタンを思い出したが、併し、その品はボタンにしては少し変だった。帽子の飾りか何かではないかとも思ったけれど、確かなことは分らぬ。あとで静子に見せても、彼女も首をかしげるばかりであった。
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無論私は、春泥がどこから天井裏に忍び込んだかという点をも綿密に調べて見た。ほこりの乱れた跡をしたって行くと、それは玄関横の物置きの上で止まっていた。物置きの粗末な天井板は、持上げて見ると何なくとれた。私はそこに投込んである椅子のこわれを足場にして、下におり、内部から物置きの戸を開けて見たが、その戸には錠前がなくて、訳もなく開いた。そのすぐ外には、人の背よりは少し高いコンクリートの塀があった。恐らく大江春泥は、人通りのなくなった頃を見はからって、この塀をのり越え、(塀の上には前にも云った様にガラスの破片が植えつけてあったけれど、計画的な侵入者にはそんなものは問題ではないのだ)今の錠前のない物置から、屋根裏へ忍び込んだものであろう。
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そうしてすっかり種が分ってしまうと、私は聊かあっけない気がした。不良少年でもやり相な、子供らしい悪戯じゃないかと、相手を軽蔑してやり度い気持だった。妙なえたいの知れぬ恐怖がなくなって、その代りに現実的な不快ばかりが残った。(だが、そんな風に相手を軽蔑してしまったのは、飛んでもない間違いであったことが、後になって分った)静子は無性に怖がって、主人の身には換えられぬから、彼女の秘密を犠牲にしても、警察の手を煩わす方がよくはないかと云い出したが、私は相手を軽蔑し始めていたものだから、彼女を制して、まさか「屋根裏の遊戯」にある天井から毒薬をたらす様な、馬鹿馬鹿しい真似が出来る筈はないし、天井裏へ忍込んだからと云って、人が殺せるものではない。こんな怖がらせは、如何にも大江春泥らしい稚気で、こうしてさも何か犯罪を企らんでいる様に見せかけるのが、彼の手ではないか。高が小説家の彼に、それ以上の実行力があろうとは思われぬ。という風に彼女を慰めたのであった。そして、余り静子が怖がるものだから、気休めに、そんなことを好きな私の友達を頼んで、毎夜物置の辺の塀外を見張らせることを約束した。静子は丁度西洋館の二階に客用の寝室があるのを幸、何か口実を設けて、当分彼女達夫婦の寝間をそこへ移すことにすると云っていた。西洋館なれば、天井の隙見なぞ出来ないのだから。
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そして、この二つの防禦方法は、その翌日から実行されたのであったが、だが、陰獣大江春泥の恐るべき魔手は、その様な姑息手段を無視して、それから二日後の三月十九日深夜、彼の予告を厳守し、遂に第一の犠牲者を屠ったのである。小山田六郎氏の息の根を絶ったのである。六
春泥の手紙には六郎氏殺害の予告に附加えて「だが慌てることはない。私はいつも急がないのだ」という文句があった。それにも拘らず、彼はどうしてあんなに慌てて、たった二日しか間を置かないで、兇行を演じることになったのであろうか。それは或は、態と手紙では油断をさせて置いて、意表に出でる、一種の策略であったかも知れないのだが、私はふと、もっと別の理由があったのではないかと疑った。静子が時計の音を聞いて、屋根裏に春泥が潜んでいると信じ、涙を流して六郎氏の命乞いをしたということを聞いた時、已に私はそれを虞れたのだが、春泥はこの静子の純情を知るに及んで、一層激しい嫉妬を感じ、同時に身の危険をも悟ったに相違ない。そして、「よし、それ程お前の愛している亭主なら、長く待たさないで、早速やっつけて上げることにしよう」という気持になったことであろう。それは兎も角、小山田六郎氏の変死事件は、極めて異様な状態に於て発見されたのである。
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私は静子からの知らせで、その日の夕刻小山田家に駈けつけ、初めて凡ての事情を聞知ったのであるが、六郎氏はその前日別段変った様子もなく、いつもよりは少し早く会社から帰宅して、晩酌を済ませると、川向うの小梅の友人の所へ、碁を囲みに行くのだと云って、暖い晩だったので大島の袷に鹽瀬の羽織丈けで、外套は着ず、ブラリと出掛けた。それが午後七時頃のことだ。遠い所でもないので、彼はいつもの様に、散歩旁々、吾妻橋を迂回して、向島の土手を歩いて行った。そして、小梅の友人の家に十二時頃までいて、やはり徒歩でそこを出たと云う所まではハッキリ分っていた。だが、それから先が一切不明なのだ。 一晩待ち明かしても、帰りがないので、しかもそれが丁度大江春泥から恐ろしい予告を受けていた際なので、静子は非常に心をいため、朝になるのを待兼ねて、知っている限り心当りの所へ電話や使で聞合わせたが、どこにも立寄った形跡がない。彼女は無論私の所へも電話をかけたのだけれど、丁度その前夜から私は宿を留守にしていて、やっと夕方頃帰ったので、この騒動は少しも知らなかったのだ。やがていつもの出勤時刻が来ても、六郎氏は会社へも顔を出さない。会社の方でも色々と手を尽して探して見たが、どうしても行衛が分らぬ。そんなことをしている内に、もうお昼近くになってしまった。丁度そこへ、象潟警察から電話があって、六郎氏の変死を知らせて来たのであった。
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陰獣
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江戸川乱歩
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三月二十日の朝八時頃、浅草仲店の商家の若いお神さんが、千住へ用達しに行く為に、吾妻橋の汽船発着所へ来て、船を待合せる間に、今の便所へ入った。そして、入ったかと思うと、いきなりキャッと悲鳴を上げて飛び出して来た。切符切りのお爺さんが聞いて見ると、便所の長方形の穴の真下に、青い水の中から、一人の男の顔が彼女の方を見上げていたというのだ。切符切りのお爺さんは、最初は、船頭か何かのいたずらだと思ったが、(そういう水の中の出歯亀事件は、時たま無いでもなかったので)兎に角便所へ入って検べて見ると、やっぱり、穴の下一尺ばかりの間近に、ポッカリと人の顔が浮いていて、水の動揺につれて、顔が半分隠れるかと思うと、又ヌッと現われる。まるでゼンマイ仕掛けの玩具の様で、凄いったらなかったと、あとになって爺さんが話した。
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"底本名1": "江戸川乱歩全集 第3巻 陰獣",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"最終更新日": "2021-09-27T00:00:00",
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057503
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001779
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陰獣
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江戸川乱歩
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それが人の死骸だと分ると、爺さんは俄かに慌て出して、大声で発着所にいた若い者を呼んだ。船を待合せていた客の中にも、いなせな肴屋さんなどがいて、若い者と共力して死体引上げにかかったが、便所の中からでは迚も上げられないので、外側から竿で死骸を広い水の上までつき出した所が、妙なことには、死骸は猿股一つ切りで、丸裸体なのだ。四十前後の立派な人品だし、まさかこの陽気に隅田川で泳いでいたとも受取れぬので、変だと思って尚よく見ると、どうやら背中に刃物の突傷があるらしく、水死人にしては水も含んでいない様な鹽梅なのだ。ただの水死人ではなくて殺人事件だと分ると、騒ぎは一層大きくなったが、さて、水から引上げる段になって、又一つ奇妙なことが発見された。 知らせによって駈けつけた、花川戸交番の巡査の指図で、発着所の若い者が、モジャモジャした死骸の頭の毛を掴んで引上げようとすると、その頭髪が頭の地肌から、ズルズルとはがれて来たのだ。若い者は、余りの気味悪さに、ワッと云って手を離してしまったが、入水してからそんなに時間がたっている様でもないのに、髪の毛がズルズルむけて来るのは変だと思って、よく調べて見ると、何のことだ、髪の毛だと思ったのは、鬘で、本人の頭はテカテカに禿上っていたのであった。
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江戸川乱歩
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