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この『土佐日記』によって、私的な日記によって文学的な表現活動をするという文化が起こり、のちの時代の日記文学および女流文学に、大きな影響を与えた。
| 0.255
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しかし、ふつう古典文学の『土佐日記』や『蜻蛉日記』(かげろうにっき)、『和泉式部日記』(いずみしきぶにっき)、『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)、『更級日記』(さらしなにっき)など、古典での「○○日記」などは、日記文学として扱うのが普通である。
| 0.289855
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こうなので、ただ亡くなった人(紀貫之の娘)ばかりを恋しがって、船の中にいる人(紀貫之の妻)が歌を詠んだ、
と言ったところ、ある人(紀貫之)がこらえられなくなって、船旅の気晴らしに詠んだ、
と言ったのだった。
| 0.25
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なほ同じ所に日を経ることを嘆きて、ある女の詠める歌、
やはり、同じ場所で日を過ごすことを嘆いて、ある女の詠んだ歌、
この「忘れ貝」の章で「船なる人」と「ある人」との和歌のやり取りがあるが、他の章などの記述では「ある人」の正体が紀貫之だという場合が多く、そのため、この「忘れ貝」の章に登場する「ある人」も紀貫之だろうと考えられている。
| 0.439655
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読解
「たより」(頼り、便り):古語の「たより」は、多義語であり、「1.信頼できるもの 2.ついで・機会 3.音信・手紙」現代語と同じような意味の「信頼できるもの」というような用法もあるが、しかしこの場面では別の意味。
| 0.203125
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そうかといって、作りあがるのを待って寝ないでいるのも、みっともないだろうと思って、(部屋の)片隅によって寝たふりで(ぼたもちが)出来上がるのを待っていたところ、(僧たちが)もう作りあげた様子で騒ぎあっている。
この児、定めて 驚かさむ ず らむ と 待ちゐたる に、僧の、 「もの申しさぶらはむ。 驚かせたまへ。」と言ふを、うれしとは思へども、ただ一度にいらへむも、 待ちけるかと もぞ 思ふとて、いま一声(ひとこゑ、ヒトコエ)呼ばれていらへむと、念じて寝たるほどに、 「や、な 起こし奉り(たてまつり)そ。
| 0.275865
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」と言ふ声のしければ、あな わびし と 思ひて、いま一度起こせかしと、思ひ寝に聞けば、 ひしひしと ただ食ひに食ふ音のしければ、ずちなくて、 無期(むご) の のち に、 「えい。」と いらへ たり ければ、僧たち 笑ふこと 限りなし(かぎりなし)。
| 0.376812
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良秀は燃える家を見て、彼は炎の燃え方が理解できたので、家なんかよりも絵の理解のほうが彼には大切なので、炎を理解できたことを「得をした」などと言って、笑っていたりした。良秀の心を理解できない周囲の人は、「(良秀に)霊でも取りついたのか」と言ったりして心配したが、良秀に話しかけた周囲の人に、良秀は自慢のような説明をして、たとえ家が燃えて財産を失おうが絵などの仕事の才能さえあれば、家など、また建てられる金が稼げることを説明し、今回の火事の件で炎の燃え方が理解できたので、自分は炎が上手く書けるから、今後も金儲けが出来るので、家を建てられることを説明した。
| 0.338944
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「あはれ、しつる せうとくかな。年ごろはわろくかきけるものかな。」
と言ふ時に、とぶらひに来たる者ども、
「こはいかに、かくては立ちたまへるぞ。あさましきことかな。物(もの)のつきたまへるか。
| 0.377049
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業平の官位が「五位の中将」(ごいのちゅうじょう)なので、ほかの古典作品では業平のことを「在中将」(ざいのちゅうじょう)とか「在五中将」(ざいごちゅうじょう)とかと言い、伊勢物語のことを「在五物語」(ざいごものがたり)などと言う。
| 0.213333
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和歌の出来は良かったし、一行の者どもは京や恋人が恋しいので、一行の心にひびいたので、それぞれの和歌を詠んだあとの場面で、旅の一行は感動したり涙したりした。
| 0.236522
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「唐衣(からころも) きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ」は、このように重要であり、また有名なので、読者は、この句をまるごと全部、覚えてしまっても良い。
| 0.201111
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(当時は女の実家の親が、男の経済的な収入の世話をしていた。また、当時は一夫多妻制なので、複数の女との結婚は合法。なので、べつに不倫ではない。なので、女の親が死んで、夫の生活が貧しくなるのである。)
しかし、妻が不快なそぶりを見せないので、夫は浮気を疑った。
| 0.353659
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」と思ひ疑ひて、前栽(せんざい)の中に隠れゐて、河内へ往ぬる顔にて見れば、この女、いとよう化粧(けさう、ケショウ)じて、うち眺めて(ながめて)、
と詠み(よみ)けるを聞きて、限りなくかなしと思ひて、河内へも行かずなりにけり。
| 0.275362
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まれまれかの高安に来てみれば、初めこそ心にくくもつくりけれ、今はうちとけて、手づから飯匙(いひがひ、イイガイ)取りて、笥子(けこ)のうつはものに盛りけるを見て、心憂がりて(うがりて)行かずなりにけり。
| 0.318182
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行く先遠く、夜も更けにければ、鬼ある所(ところ)とも知らで、神(かみ)さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥におし入れて、男、弓・胡簶(やなぐひ)を負ひて、戸口に居り(をり)。
| 0.283784
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(小式部内侍の母の)和泉式部が、(藤原)保昌の妻として、丹後の国に下っていたころ、京で歌合せがあったが、小式部内侍が(歌合せの)詠み手に選ばれて、(和歌を)詠んだのだが、定頼中納言がふざけて、小式部内侍が(局に)いたときに、「(母君のいる)丹後へ出した使いの者は、帰ってまいりましたか。
| 0.207547
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家は西の京にありければ、公事(くじ)ありて内(うち)に参りて、夜ふけて家に帰りけるに、東(ひむがし)の中の御門(mかど)より出でて車に乗りて、大宮下り(おほみやくだり)にやらせて行きけるに、着たる装束(さうぞく)を皆解きて、片端より皆たたみて、車の畳の下にうるはしく置きて、その上に畳を敷きて、史は冠(かむり)をし、襪(したうづ)をはきて、裸になりて車の内に居たり。
| 0.246377
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盗人寄り来たりて、車の簾(すだれ)を引開けて見るに、裸にて史居たれば、盗人、「あさまし。」と思ひて、「こはいかに。」と問へば、史、「東の大宮にて、かくの如くなりつる。君達(きんだち)寄り来て己が装束をば皆召しつ。
| 0.328947
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歌の詞書(ことばがき)にも、「花見に参ったところ、とっくに散り去ってしまったので。」とか、「都合の悪いことがあってまいりませんで。」などと書いてあるのは、「花を見て。」と言ってるのに(比べて)劣っていることだろうか。
| 0.208955
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(いや、そうではない。)
会わないで終わってしまったつらさを思い、(約束の果たされなかった)はかない約束を嘆き、長い夜を一人で明かし、遠い大空の下にいる恋人を思いうかべて、茅が茂る荒れはてた住まいで昔(の恋人)をしみじみと思うことこそ、恋の情趣を理解しているのだろう。
| 0.272727
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望月の隈(くま)なきを、千里の外まで眺めたる(ながめたる)よりも、暁近くなりて待ち出で(いで)たるが、いと心深う、青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたるむら雲隠れのほど、またなくあはれなり。
| 0.346667
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(第一三七段)
「猫また」と言う怪獣が出るという、うわさを聞いていた連歌法師が、ある日の夜、動物に飛び掛られたので、てっきり猫またに襲われていると思って、おどろいて川に飛び込んだ。
| 0.278491
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「奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなる。」と人の言ひけるに、
「山ならねども、これらにも、猫の経上りて、猫またに成りて、人とる事はあなるものを。」
と言ふ者ありけるを、何阿弥陀仏(なにあみだぶつ)とかや、連歌(れんが)しける法師の、行願寺(ぎやうぐわんじ)のほとりにありけるが聞きて、ひとりありかん身は心すべきことにこそと思ひけるころしも、ある所にて夜更くる(ふくる)まで連歌して、ただひとり帰りけるに、小川の端にて、音に聞きし猫また、あやまたず、足許へふと寄り来て、やがてかきつくままに、頸(くび)のほどを食はんとす。肝心(きもごころ)も失せて(うせて)、防かんとするに力もなく、足も立たず、小川へ転び入りて、
「助けよや、猫また。よや、よや。」
と叫べば、家々より、松どもともして走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。
| 0.306626
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」
と言う者がいたので、なんとか阿弥陀仏とかいう連歌を(仕事または趣味などに)している法師で、行願寺の付近に住んでいた者がこれを聞いて、一人歩きをする者は用心すべきことであるな思った頃、ある所で夜が更けるまで連歌をして、たった一人で帰るときに、小川のほとりで、うわさに聞いていた猫また、(猫またの)狙いたがわずに首のあたりに食いつこうとする。
| 0.377358
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そこで、水車作りの名所である宇治から人を呼び寄せて、水車を作らせたところ、今度の水車は、思いどおりに回ってくれて、御池に川の水を汲み入れることができた。
| 0.222381
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筆者の兼好法師が、わけを尋ねたところ、「人間は、自分が危険な高い場所にいる時には、本人も用心するので、私は注意しないのです。ですが、降りるときは安心してしまうので、用心しなくなってしまいがちなので、用心させるように注意するのです。失敗は、むしろ安全そうな時にこそ、起こりやすいのです。」と言うようなことを言った。
| 0.409091
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高名(かうみやう)の木登りと言ひし男、人を掟てて(おきてて)、高き木に登せて梢(こずゑ)を切らせしに、いと危ふく見えしほどは言ふこともなくて、降るるときに軒たけばかりになりて、 「過ちすな。心して降りよ。」 とことばをかけ侍りしを、 「かばかりになりては、飛び降るるとも降りなん。いかにかく言ふぞ。」 と申し侍りしかば、 「そのことに候ふ。目くるめき、枝危ふきほどは、己が恐れ侍れば申さず。過ち(あやまち)は、安き(やすき)ところになりて、必ず仕まつる(つかまつる)ことに候ふ。
| 0.325
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有名な木登り(の名人だ、)と(世間が)言う男が、人を指図して、高い木に登らせて梢を切らせる時に、とても危険に見えるときには(注意を)言わないで、下りようとする時に、軒の高さほどになってから、「失敗をするな。注意して降りろ。」と言葉をかけましたので、(私は不思議に思って、わけを尋ねたました。そして私は言った。)「これくらいになっては、飛び降りても下りられるだろう。どうして、このように言うのか。」と申しましたところ、(木登りの名人は答えた、)「そのことでございます(か)。
| 0.202899
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社殿の前にある像の、狛犬(こまいぬ)の像と獅子(しし)の像とが背中合わせになっているのを見て、聖海上人は早合点をして、きっと深い理由があるのだろうと思い込み、しまいには上人は感動のあまり、上人は涙まで流し始めた。
| 0.369231
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」と言へば、おのおのあやしみて、「まことに他に異なりけり。都のつとに語らん。」など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく、物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社(みやしろ)の獅子の立てられやう、さだめて習ひある事に侍らん。
| 0.373333
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しだの何とかと言う人の治めている所なので、秋の頃に、(しだの何とかが誘って)聖海上人や、その他の人たちも大勢誘って、「さあ、行きましょう。出雲の神社を参拝に。ぼた餅をごちそうしましょう。」と言って(一行を)連れて行って、皆がそれぞれ拝んで、たいそう信仰心を起こした。
社殿の御前にある獅子と狛犬が、背中合わせに向いていて、後ろ向きに立っていたので、上人は(早合点して)とても感動して、「ああ、すばらしい。この獅子の立ち方は、とても珍しい。(きっと)深い理由があるのだろう。
| 0.270077
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よきほどにて出でたまひぬれど、なほ、事ざまの優におぼえて、物のかくれよりしばし見ゐたるに、妻戸をいま少し押し開けて、月見るけしきなり。
| 0.216585
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これも仁和寺の法師、童(わらは)の法師にならんとする名残とて、おのおの遊ぶことありけるに、酔ひて(ゑひて)興に入るあまり、傍らなる足鼎(あしがなへ)を取りて、頭(かしら)にかづきたれば、つまるやうにするを、鼻をおし平めて、顔をさし入れて舞ひ出でたるに、満座興に入ること限りなし。
| 0.344086
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とかくすれば、首のまはり欠けて、血垂り、ただ腫れ(はれ)に腫れみちて、息もつまりければ、打ち割らんとすれど、たやすく割れず、響きて堪へがたかりければ、かなはで、すべきやうなくて、三つ足なる角(つの)の上に帷子(かたびら)をうちかけて、手を引き杖をつかせて、京なる医師(くすし)のがり率て行きける道すがら、人のあやしみ見ること限りなし。
| 0.32381
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「かかることは、文にも見えず、伝へたる教へもなし。」と言へば、また仁和寺へ帰りて、親しき者、老いたる母など、枕上に寄りゐて泣き悲しめども、聞くらんともおぼえず。
かかるほどに、ある者の言ふやう、「たとひ耳鼻こそ切れ失すとも、命ばかりはなどか生きざらん。ただ力を立てて引きたまへ。」とて、藁のしべをまはりにさし入れて、かねを隔てて、首もちぎるばかり引きたるに、耳鼻欠けうげながら抜けにけり。
| 0.34825
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人静まりて後(のち)、長き夜のすさびに、何となき具足とりしたため、残し置かじと思ふ反古など破り棄つる中に、亡き人の手習ひ、絵描きすさびたる、見出でたるこそ、ただ、その折の心地すれ。
| 0.436316
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じつは、日本最古の軍記モノは平家物語ではないかもしれず、鎌倉初期の『保元物語』(ほうげんものがたり)や『平治物語』(へいじものがたり)という作品が知られており現代にも文章が伝えられているが、しかし成立の時期についてはあまり解明されてない。
| 0.343284
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敵に押し隔てられ、いふかひなき(イウカイナキ)人の郎等(らうどう、ロウドウ)に組み落とされさせたまひて、討たれさせたまひなば、『さばかり日本国(にっぽんごく)に聞こえさせたまひつる木曾殿をば、それがしが郎等の討ちたてまつたる。
| 0.257576
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」
(木曾殿の発言に対して、)今井四郎が申し上げたことには、「お体も、いまだお疲れになっていませんし、お馬も弱っていません。どうして、一着の鎧を重く思いになるはずがございましょうか。それは、見方に軍勢がございませんので、気落ちして、そのようにお思いになるのです。(残った味方は、この私、今井四郎)兼平ひとり(だけ)でございますが、他の武者の千騎だとお思いください。
| 0.234234
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」と言って、(木曾殿は馬の向きを敵のほうへ変え、兼平の敵方向へと向かう馬と)馬の鼻を並べて駆けようとしなさるので、今井四郎は馬から飛び降り、主君の馬の口に取り付いて申し上げたことには、「武士は、(たとえ)常日頃どんなに功績がありましても、(人生の)最期のときに失敗をしますと、(末代まで続く)長い不名誉でございます。
| 0.216495
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今井四郎ただ一騎、五十騎ばかりが中へ駆け入り、鐙(あぶみ)踏ん張り立ち上がり、大音声(だいおんじやう)あげて名乗りけるは、「日ごろは音にも聞きつらん、今は目にも見給へ。木曾殿の御 乳母子(めのとご)、今井四郎兼平、生年(しやうねん)三十三にまかりなる。
| 0.317647
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今井四郎はたったの一騎で、五十騎ばかりの(敵の)中へ駆け入り、鐙(あぶみ)に踏ん張って立ち上がり、大声を上げて(敵に)名乗ったことは、「日ごろは、うわさで聞いていたであろうが、今は目で見なされ。木曾殿の御乳母子(である)、今井四郎兼平、年齢は三十三歳になり申す。
| 0.277108
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木曾殿はただ一騎、粟津の松原へ駆け給ふが、正月二十一日、入相(いりあひ)ばかりのことなるに、薄氷(うすごほり)張つたりけり、深田(ふかた)ありとも知らずして、馬をざつと打ち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。
| 0.352113
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太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声を挙げて「この日ごろ日本国に聞こえさせ給つる木曽殿を、三浦の石田次郎為久が討ち奉りたるぞや。」と名乗りければ、今井四郎、いくさしけるがこれを聞き、「今は、誰(たれ)をかばはんとてかいくさをばすべき。
| 0.434211
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太刀の先に(義仲の首を)貫き、高く差し上げ、大声を挙げて「このごろ、日本国に名声の知れ渡っている木曾殿を、三浦の石田次郎為久が討ち取り申し上げたぞ。」と名乗ったので、今井四郎は、戦っていたが、これを聞き、(今井四郎は言った、)
「今は、誰をかばおうとして、戦いをする必要があるか。これを(=私を)ご覧になされ、東国の方々。
| 0.264706
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鐙(あぶみ)踏んばり立ちあがり、大音声(だいおんじやう)をあげて名のりけるは、「昔は聞きけん物を、木曾の冠者(くわんじや)、今は見るらむ、左馬頭兼伊予守(いよのかみ)、朝日の将軍源義仲ぞや。
| 0.218657
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それをも破つて(やぶつて)行くほどに、あそこでは四五百騎、ここでは二三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中を駆け割り駆け割りゆくほどに、主従五騎にぞなりにける。
| 0.211373
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開戦の予定の前日である10月23日、平家は戦場予定地の富士川で、付近の農民たちの炊事の煙を見て源氏の軍勢の火と勘違いし、さらに水鳥の羽音を源氏の襲撃の音と勘違いして、平家は大慌てで逃げ出した。
| 0.478197
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明日は、源平富士川にて矢合(やあはせ)と定めたりけるに、夜に入つて平家の方より、源氏の陣を見渡せば、伊豆、駿河(するが)の人民(にんみん)百姓等が戦におそれて、あるいは野に入り山に隠れ、あるいは舟にとり乗って、海川に浮かび、営みの火のみえけるを、平家の兵ども、「あなおびただし源氏の陣の遠火(とほひ)の多さよ。
| 0.346154
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その夜の夜半ばかり、富士の沼に、いくらも群れ居たりける水鳥ともが、何にか驚きたりけむ、ただ一度にばつと立ちける羽音の、大風いかづちなんどのやうに聞こえければ、平家の兵ども、「すはや源氏の大勢の寄するは。斎藤(さいとう)別当が申しつるやうに、定めてからめ手もまはるらむ。
| 0.395349
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明日は、源氏と平氏が富士川で開戦の合図をすると決めていたが、夜になって、平家のほうから源氏の陣を見渡すと、伊豆、駿河の人民や百姓たちが戦いを恐れて、ある者は野に逃げこみ山に隠れ、(また)ある者は船に乗って(逃げ)、海や川に浮かんでいたが、炊事などの火が見えたのを、平家の兵たちが、「ああ、とても多い数の源氏の陣営の火の多さっであることよ。なんと本当に野も山も生みも川も、皆敵である。どうしよう。」と慌てた。その夜の夜半ごろ、富士の沼にたくさん群がっていた水鳥たちが、何かに驚いたのであろうか、ただ一度にばっと飛び立った羽音が、(まるで)大風や雷などのように聞こえたので、平家の兵たちは、「ああっ、源氏の大軍が攻め寄せてきたぞ。斉藤別当が申したように、きっと(源氏軍は、平家軍の)背後にも回りこもうとしているだろう。
| 0.309944
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その(平清盛公の)先祖を調べてみると、(清盛は忠盛朝臣の長男であり)、桓武天皇の第五の皇子である一品式部卿葛原親王の九代目の子孫である讃岐守正盛の孫、忠盛朝臣の長男であり、刑部卿忠盛朝臣の長男である。
| 0.415385
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」と言ひければ、佐々木太刀(たち)を抜き、馬の足にかかりける大綱どもをば、ふつふつと打ち切り打ち切り、生食(いけずき)といふ世一(よいち)の馬には乗つたりけり、宇治川速しといへども、一文字にざつと渡いて、向かへの岸にうち上がる。
| 0.346154
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(おくれてしまった)佐々木四郎が、
「この川は、西国一の大河ですぞ。腹帯がゆるんで見えますぞ。お締めなされ。」
と言い、梶原は、そんなこともありえるのだろうと思ったのか、左右の鐙を踏ん張って、手綱を馬のたてがみに投げかけて、腹帯を解いて締めなおした。
| 0.369863
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佐々木は、鐙を踏ん場って立ち上がり、大声を上げて、名乗ったことは、
「宇多天皇から9代目の末裔、佐々木三郎秀義(ひでよし)の四男、佐々木四郎高綱である。
| 0.21
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畠山らが向こう岸にたどり着いて、畠山重忠が大串次郎を岸に投げ上げてやると、大串は「自分こそが徒歩での先陣だぞ。」などということを名乗りを上げたので、敵も味方も笑った。
| 0.273962
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「あまりに水が速うて、馬は押し流され候ひぬ。力及ばで付きまゐらせて候ふ。」
と言ひければ、
「いつもわ殿原は、重忠(しげただ)がやうなる者にこそ助けられむずれ。
| 0.21
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岩の上に岩が重なってて山になっており、松や檜などの常緑樹は年を経ており、土や石も古くなって苔(こけ)がなめらかに生えており、岩の上にある堂の扉は閉まっていて、物の音が(まったく)聞こえない。
| 0.26746
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家は西の京にありければ、公事(くじ)ありて内(うち)に参りて、夜ふけて家に帰りけるに、東(ひむがし)の中の御門(mかど)より出でて車に乗りて、大宮下り(おほみやくだり)にやらせて行きけるに、着たる装束(さうぞく)を皆解きて、片端より皆たたみて、車の畳の下にうるはしく置きて、その上に畳を敷きて、史は冠(かむり)をし、襪(したうづ)をはきて、裸になりて車の内に居たり。
| 0.246377
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盗人寄り来たりて、車の簾(すだれ)を引開けて見るに、裸にて史居たれば、盗人、「あさまし。」と思ひて、「こはいかに。」と問へば、史、「東の大宮にて、かくの如くなりつる。君達(きんだち)寄り来て己が装束をば皆召しつ。
| 0.328947
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歌の詞書(ことばがき)にも、「花見に参ったところ、とっくに散り去ってしまったので。」とか、「都合の悪いことがあってまいりませんで。」などと書いてあるのは、「花を見て。」と言ってるのに(比べて)劣っていることだろうか。
| 0.208955
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(いや、そうではない。)
会わないで終わってしまったつらさを思い、(約束の果たされなかった)はかない約束を嘆き、長い夜を一人で明かし、遠い大空の下にいる恋人を思いうかべて、茅が茂る荒れはてた住まいで昔(の恋人)をしみじみと思うことこそ、恋の情趣を理解しているのだろう。
| 0.272727
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望月の隈(くま)なきを、千里の外まで眺めたる(ながめたる)よりも、暁近くなりて待ち出で(いで)たるが、いと心深う、青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたるむら雲隠れのほど、またなくあはれなり。
| 0.346667
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(第一三七段)
「猫また」と言う怪獣が出るという、うわさを聞いていた連歌法師が、ある日の夜、動物に飛び掛られたので、てっきり猫またに襲われていると思って、おどろいて川に飛び込んだ。
| 0.278491
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「奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなる。」と人の言ひけるに、
「山ならねども、これらにも、猫の経上りて、猫またに成りて、人とる事はあなるものを。」
と言ふ者ありけるを、何阿弥陀仏(なにあみだぶつ)とかや、連歌(れんが)しける法師の、行願寺(ぎやうぐわんじ)のほとりにありけるが聞きて、ひとりありかん身は心すべきことにこそと思ひけるころしも、ある所にて夜更くる(ふくる)まで連歌して、ただひとり帰りけるに、小川の端にて、音に聞きし猫また、あやまたず、足許へふと寄り来て、やがてかきつくままに、頸(くび)のほどを食はんとす。肝心(きもごころ)も失せて(うせて)、防かんとするに力もなく、足も立たず、小川へ転び入りて、
「助けよや、猫また。よや、よや。」
と叫べば、家々より、松どもともして走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。
| 0.306626
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」
と言う者がいたので、なんとか阿弥陀仏とかいう連歌を(仕事または趣味などに)している法師で、行願寺の付近に住んでいた者がこれを聞いて、一人歩きをする者は用心すべきことであるな思った頃、ある所で夜が更けるまで連歌をして、たった一人で帰るときに、小川のほとりで、うわさに聞いていた猫また、(猫またの)狙いたがわずに首のあたりに食いつこうとする。
| 0.377358
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そこで、水車作りの名所である宇治から人を呼び寄せて、水車を作らせたところ、今度の水車は、思いどおりに回ってくれて、御池に川の水を汲み入れることができた。
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筆者の兼好法師が、わけを尋ねたところ、「人間は、自分が危険な高い場所にいる時には、本人も用心するので、私は注意しないのです。ですが、降りるときは安心してしまうので、用心しなくなってしまいがちなので、用心させるように注意するのです。失敗は、むしろ安全そうな時にこそ、起こりやすいのです。」と言うようなことを言った。
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高名(かうみやう)の木登りと言ひし男、人を掟てて(おきてて)、高き木に登せて梢(こずゑ)を切らせしに、いと危ふく見えしほどは言ふこともなくて、降るるときに軒たけばかりになりて、 「過ちすな。心して降りよ。」 とことばをかけ侍りしを、 「かばかりになりては、飛び降るるとも降りなん。いかにかく言ふぞ。」 と申し侍りしかば、 「そのことに候ふ。目くるめき、枝危ふきほどは、己が恐れ侍れば申さず。過ち(あやまち)は、安き(やすき)ところになりて、必ず仕まつる(つかまつる)ことに候ふ。
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有名な木登り(の名人だ、)と(世間が)言う男が、人を指図して、高い木に登らせて梢を切らせる時に、とても危険に見えるときには(注意を)言わないで、下りようとする時に、軒の高さほどになってから、「失敗をするな。注意して降りろ。」と言葉をかけましたので、(私は不思議に思って、わけを尋ねたました。そして私は言った。)「これくらいになっては、飛び降りても下りられるだろう。どうして、このように言うのか。」と申しましたところ、(木登りの名人は答えた、)「そのことでございます(か)。
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社殿の前にある像の、狛犬(こまいぬ)の像と獅子(しし)の像とが背中合わせになっているのを見て、聖海上人は早合点をして、きっと深い理由があるのだろうと思い込み、しまいには上人は感動のあまり、上人は涙まで流し始めた。
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」と言へば、おのおのあやしみて、「まことに他に異なりけり。都のつとに語らん。」など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく、物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社(みやしろ)の獅子の立てられやう、さだめて習ひある事に侍らん。
| 0.373333
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しだの何とかと言う人の治めている所なので、秋の頃に、(しだの何とかが誘って)聖海上人や、その他の人たちも大勢誘って、「さあ、行きましょう。出雲の神社を参拝に。ぼた餅をごちそうしましょう。」と言って(一行を)連れて行って、皆がそれぞれ拝んで、たいそう信仰心を起こした。
社殿の御前にある獅子と狛犬が、背中合わせに向いていて、後ろ向きに立っていたので、上人は(早合点して)とても感動して、「ああ、すばらしい。この獅子の立ち方は、とても珍しい。(きっと)深い理由があるのだろう。
| 0.270077
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よきほどにて出でたまひぬれど、なほ、事ざまの優におぼえて、物のかくれよりしばし見ゐたるに、妻戸をいま少し押し開けて、月見るけしきなり。
| 0.216585
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これも仁和寺の法師、童(わらは)の法師にならんとする名残とて、おのおの遊ぶことありけるに、酔ひて(ゑひて)興に入るあまり、傍らなる足鼎(あしがなへ)を取りて、頭(かしら)にかづきたれば、つまるやうにするを、鼻をおし平めて、顔をさし入れて舞ひ出でたるに、満座興に入ること限りなし。
| 0.344086
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とかくすれば、首のまはり欠けて、血垂り、ただ腫れ(はれ)に腫れみちて、息もつまりければ、打ち割らんとすれど、たやすく割れず、響きて堪へがたかりければ、かなはで、すべきやうなくて、三つ足なる角(つの)の上に帷子(かたびら)をうちかけて、手を引き杖をつかせて、京なる医師(くすし)のがり率て行きける道すがら、人のあやしみ見ること限りなし。
| 0.32381
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「かかることは、文にも見えず、伝へたる教へもなし。」と言へば、また仁和寺へ帰りて、親しき者、老いたる母など、枕上に寄りゐて泣き悲しめども、聞くらんともおぼえず。
かかるほどに、ある者の言ふやう、「たとひ耳鼻こそ切れ失すとも、命ばかりはなどか生きざらん。ただ力を立てて引きたまへ。」とて、藁のしべをまはりにさし入れて、かねを隔てて、首もちぎるばかり引きたるに、耳鼻欠けうげながら抜けにけり。
| 0.34825
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人静まりて後(のち)、長き夜のすさびに、何となき具足とりしたため、残し置かじと思ふ反古など破り棄つる中に、亡き人の手習ひ、絵描きすさびたる、見出でたるこそ、ただ、その折の心地すれ。
| 0.436316
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岩の上に岩が重なってて山になっており、松や檜などの常緑樹は年を経ており、土や石も古くなって苔(こけ)がなめらかに生えており、岩の上にある堂の扉は閉まっていて、物の音が(まったく)聞こえない。
| 0.26746
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(小式部内侍の母の)和泉式部が、(藤原)保昌の妻として、丹後の国に下っていたころ、京で歌合せがあったが、小式部内侍が(歌合せの)詠み手に選ばれて、(和歌を)詠んだのだが、定頼中納言がふざけて、小式部内侍が(局に)いたときに、「(母君のいる)丹後へ出した使いの者は、帰ってまいりましたか。
| 0.207547
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じつは、日本最古の軍記モノは平家物語ではないかもしれず、鎌倉初期の『保元物語』(ほうげんものがたり)や『平治物語』(へいじものがたり)という作品が知られており現代にも文章が伝えられているが、しかし成立の時期についてはあまり解明されてない。
| 0.343284
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敵に押し隔てられ、いふかひなき(イウカイナキ)人の郎等(らうどう、ロウドウ)に組み落とされさせたまひて、討たれさせたまひなば、『さばかり日本国(にっぽんごく)に聞こえさせたまひつる木曾殿をば、それがしが郎等の討ちたてまつたる。
| 0.257576
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」
(木曾殿の発言に対して、)今井四郎が申し上げたことには、「お体も、いまだお疲れになっていませんし、お馬も弱っていません。どうして、一着の鎧を重く思いになるはずがございましょうか。それは、見方に軍勢がございませんので、気落ちして、そのようにお思いになるのです。(残った味方は、この私、今井四郎)兼平ひとり(だけ)でございますが、他の武者の千騎だとお思いください。
| 0.234234
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」と言って、(木曾殿は馬の向きを敵のほうへ変え、兼平の敵方向へと向かう馬と)馬の鼻を並べて駆けようとしなさるので、今井四郎は馬から飛び降り、主君の馬の口に取り付いて申し上げたことには、「武士は、(たとえ)常日頃どんなに功績がありましても、(人生の)最期のときに失敗をしますと、(末代まで続く)長い不名誉でございます。
| 0.216495
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今井四郎ただ一騎、五十騎ばかりが中へ駆け入り、鐙(あぶみ)踏ん張り立ち上がり、大音声(だいおんじやう)あげて名乗りけるは、「日ごろは音にも聞きつらん、今は目にも見給へ。木曾殿の御 乳母子(めのとご)、今井四郎兼平、生年(しやうねん)三十三にまかりなる。
| 0.317647
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今井四郎はたったの一騎で、五十騎ばかりの(敵の)中へ駆け入り、鐙(あぶみ)に踏ん張って立ち上がり、大声を上げて(敵に)名乗ったことは、「日ごろは、うわさで聞いていたであろうが、今は目で見なされ。木曾殿の御乳母子(である)、今井四郎兼平、年齢は三十三歳になり申す。
| 0.277108
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木曾殿はただ一騎、粟津の松原へ駆け給ふが、正月二十一日、入相(いりあひ)ばかりのことなるに、薄氷(うすごほり)張つたりけり、深田(ふかた)ありとも知らずして、馬をざつと打ち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。
| 0.352113
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太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声を挙げて「この日ごろ日本国に聞こえさせ給つる木曽殿を、三浦の石田次郎為久が討ち奉りたるぞや。」と名乗りければ、今井四郎、いくさしけるがこれを聞き、「今は、誰(たれ)をかばはんとてかいくさをばすべき。
| 0.434211
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太刀の先に(義仲の首を)貫き、高く差し上げ、大声を挙げて「このごろ、日本国に名声の知れ渡っている木曾殿を、三浦の石田次郎為久が討ち取り申し上げたぞ。」と名乗ったので、今井四郎は、戦っていたが、これを聞き、(今井四郎は言った、)
「今は、誰をかばおうとして、戦いをする必要があるか。これを(=私を)ご覧になされ、東国の方々。
| 0.264706
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鐙(あぶみ)踏んばり立ちあがり、大音声(だいおんじやう)をあげて名のりけるは、「昔は聞きけん物を、木曾の冠者(くわんじや)、今は見るらむ、左馬頭兼伊予守(いよのかみ)、朝日の将軍源義仲ぞや。
| 0.218657
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それをも破つて(やぶつて)行くほどに、あそこでは四五百騎、ここでは二三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中を駆け割り駆け割りゆくほどに、主従五騎にぞなりにける。
| 0.211373
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開戦の予定の前日である10月23日、平家は戦場予定地の富士川で、付近の農民たちの炊事の煙を見て源氏の軍勢の火と勘違いし、さらに水鳥の羽音を源氏の襲撃の音と勘違いして、平家は大慌てで逃げ出した。
| 0.478197
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明日は、源平富士川にて矢合(やあはせ)と定めたりけるに、夜に入つて平家の方より、源氏の陣を見渡せば、伊豆、駿河(するが)の人民(にんみん)百姓等が戦におそれて、あるいは野に入り山に隠れ、あるいは舟にとり乗って、海川に浮かび、営みの火のみえけるを、平家の兵ども、「あなおびただし源氏の陣の遠火(とほひ)の多さよ。
| 0.346154
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その夜の夜半ばかり、富士の沼に、いくらも群れ居たりける水鳥ともが、何にか驚きたりけむ、ただ一度にばつと立ちける羽音の、大風いかづちなんどのやうに聞こえければ、平家の兵ども、「すはや源氏の大勢の寄するは。斎藤(さいとう)別当が申しつるやうに、定めてからめ手もまはるらむ。
| 0.395349
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明日は、源氏と平氏が富士川で開戦の合図をすると決めていたが、夜になって、平家のほうから源氏の陣を見渡すと、伊豆、駿河の人民や百姓たちが戦いを恐れて、ある者は野に逃げこみ山に隠れ、(また)ある者は船に乗って(逃げ)、海や川に浮かんでいたが、炊事などの火が見えたのを、平家の兵たちが、「ああ、とても多い数の源氏の陣営の火の多さっであることよ。なんと本当に野も山も生みも川も、皆敵である。どうしよう。」と慌てた。その夜の夜半ごろ、富士の沼にたくさん群がっていた水鳥たちが、何かに驚いたのであろうか、ただ一度にばっと飛び立った羽音が、(まるで)大風や雷などのように聞こえたので、平家の兵たちは、「ああっ、源氏の大軍が攻め寄せてきたぞ。斉藤別当が申したように、きっと(源氏軍は、平家軍の)背後にも回りこもうとしているだろう。
| 0.309944
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その(平清盛公の)先祖を調べてみると、(清盛は忠盛朝臣の長男であり)、桓武天皇の第五の皇子である一品式部卿葛原親王の九代目の子孫である讃岐守正盛の孫、忠盛朝臣の長男であり、刑部卿忠盛朝臣の長男である。
| 0.415385
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」と言ひければ、佐々木太刀(たち)を抜き、馬の足にかかりける大綱どもをば、ふつふつと打ち切り打ち切り、生食(いけずき)といふ世一(よいち)の馬には乗つたりけり、宇治川速しといへども、一文字にざつと渡いて、向かへの岸にうち上がる。
| 0.346154
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(おくれてしまった)佐々木四郎が、
「この川は、西国一の大河ですぞ。腹帯がゆるんで見えますぞ。お締めなされ。」
と言い、梶原は、そんなこともありえるのだろうと思ったのか、左右の鐙を踏ん張って、手綱を馬のたてがみに投げかけて、腹帯を解いて締めなおした。
| 0.369863
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佐々木は、鐙を踏ん場って立ち上がり、大声を上げて、名乗ったことは、
「宇多天皇から9代目の末裔、佐々木三郎秀義(ひでよし)の四男、佐々木四郎高綱である。
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