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1549
続いて第34回世界遺産委員会(2010年)で「水銀と銀の二名法。サン・ルイス・ポトシを伴うアルマデンとイドリヤ」(MercuryandSilverBinomial.AlmadénandIdrijawithSanLuisPotosí)というごくわずかに修正された名称で再審議されたときは、水銀鉱山遺跡をめぐる比較研究や顕著な普遍的価値について詳しい議論が展開されたものの、推薦資産の中でのサン・ルイス・ポトシの位置づけを再考すべきことなどの理由から、前年の決定よりも一段階下の「登録延期」の決定がなされた。 なお、メキシコの推薦予定資産であったサン・ルイス・ポトシの歴史地区については、同じ年に別の世界遺産である「カミノ・レアル・デ・ティエラ・アデントロ」(2001年暫定リスト記載、2010年正式登録)の一部として、世界遺産リストに登録された。
水銀の遺産アルマデンとイドリヤ
1550
「カミノ・レアル・デ・ティエラ・アデントロ」
水銀の遺産アルマデンとイドリヤ
1552
タマモクロス
オグリキャップ
1554
大西洋横断ケーブルを成し遂げた英国は、1870年、ロンドンからインドへ到る海底電信ケーブルを敷設、1902年には太平洋横断電信ケーブルを敷設した。こうして英国は当時の植民地を結ぶ大きなケーブル網(AllRedLine)を完成させた。このことによって英国は情報伝達面において圧倒的な力を得た。大西洋においては、最初に敷設した2本のケーブルはどちらも1870年代に不通になったが、アングロアメリカン・テレグラフ社によって新たに数本のケーブルがヴァレンティア-ニューファンドランド間に敷設され、さらに他の会社でも敷設が行われるなど、本数を増やしていった。また、1874年にはブラジルのペルナンブーコからマデイラ諸島(ポルトガル)を経由しカルカヴェロス(ポルトガル、リスボン近郊)へと至る南大西洋線も敷設した。
大西洋横断電信ケーブル
1555
大西洋
大西洋横断電信ケーブル
1557
1644年の航海では、タスマンはニューギニア島からトレス海峡を縦断し、オーストラリア北部の沿岸を周航した。しかし、航海の最大の目的である、有望な貿易商品(香料など)の発見は叶わなかった。 イギリスからは、海賊ウィリアム・ダンピア(WilliamDampier)が17世紀末に西海岸に上陸した。ダンピアの報告を受け、王立協会は改めて調査船を現地へ派遣した。 時代は下り1766年、イギリスはジェームズ・クック(JamesCook)を船長とする観測隊をタヒチ島に派遣した。1769年6月3日、予定通り金星の太陽面通過を観測した一行は太平洋を南下した。10月7日にニュージーランドを発見した一行は、同地を探検したのち進路を西に変え、1770年4月20日にオーストラリア東海岸に到達した。4月29日、シドニーの南方に位置するボタニー湾に上陸した。 クックは、大陸の東海岸一帯を国王ジョージ3世の名において領有すると宣言し、この地を「ニュー・サウス・ウェールズ」と命名した。なお、クックが領有を宣言した範囲は現在のニュー・サウス・ウェールズ州よりも広く、現在のビクトリア州、クイーンズランド州、タスマニア州などを含んでいた。
オーストラリアの歴史
1558
クック
オーストラリアの歴史
1560
1568年にハプスブルクとの関係が悪化すると、代わりにエリザベスはフランスのヴァロワ家の2人の王子との結婚を考えた。最初はアンジュー公アンリであり、その後は彼の弟のアンジュー公フランソワである。この最後の提案は南ネーデルラントを支配していたスペインに対抗するためのフランスとの同盟構想と結びついていた。1579年にアンジュー公フランソワは求婚のため来英してエリザベスと面会しており、エリザベスは彼が噂されていたよりは「それほど醜くはない」ので、彼に「蛙(frog)」の愛称をつけた。エリザベスはこの求婚を真剣に考慮していたようで、アンジュー公が彼女へ贈った蛙形のイアリングを身につけている。カトリックのフランス王族との結婚には反対論が非常に強く、結局、この縁談は成立しなかった。1584年にアンジュー公フランソワは若くして死去し、この報を受けたエリザベスは悲しみ喪に服した。 エリザベスの未婚は処女性の崇拝を生じさせた。詩や肖像画において、彼女は普通の女性ではなく処女や女神として描写された。当初はエリザベスの処女性を美徳とするものであった。1559年に彼女は庶民院において「大理石の墓石にこの時代を治めた女王、処女として生き、死んだと刻まれれば満足です」と発言している。これ以降、とりわけ1578年以降、詩人や作家たちはこの題材を取り上げ、エリザベスを称揚するイコンに転じた。隠喩(metaphor)や奇想(conceit)の時代、神の加護の元に彼女は王国そして臣民と結婚した者として描かれた。1599年にエリザベスは「私のよき臣民、すべてが私の夫だ」と語っている。
エリザベス1世
1561
「蛙(frog)」
エリザベス1世
1563
アジア系アメリカ人は「アメリカ人」ではなく、「永住外国人」と広く見なされている。 アジア系アメリカ人は自身や祖先がアメリカにどのくらいの期間住んでいるか、あるいはその社会の一部であるにも関わらずしばしば他のアメリカ人から「元々どこの出身なのか」と聞かれることが報じられている。 アジア系アメリカ人の多くはアメリカで生まれ育ち、移民ではない。 アジア系アメリカ人は居住期間や市民権の有無に関わらずアメリカ社会の多くから同化することができない「永住外国人」として見なされ、扱われ、描かれている。 カリフォルニア大学バークレー校のアジア系アメリカ学名誉教授リン・チー・ワンは同様の視点について語った。 アメリカでのアジア人コミュニティの主要メディアでの描かれ方は常に酷いと言い切った。 また「主要メディアおよび為政者の視点では、アジア系アメリカ人は存在しないことになっている。彼らのレーダーでは感知しない。政治でも同様だ」と語った。 カリフォルニア大学ロサンゼルス校の研究者たちによるアジア系アメリカ人司法センター(AAJC)の研究『AsianPacificAmericansinPrimeTime』(プライムタイムのアジア太平洋系アメリカ人)によると、アジア系アメリカ人俳優はテレビであまり登場する機会がない。 アメリカの総人口のうち5%がアジア系アメリカ人であるにも関わらず、テレビでは2.6%しか登場しない。 ニューヨークやロサンゼルスなどアジア系の割合が高い都市が舞台となってもアジア人役は少ない。
アメリカ合衆国における東アジア人のステレオタイプ
1564
「永住外国人」
アメリカ合衆国における東アジア人のステレオタイプ
1566
一方、6ヶ月に及ぶ戦いで、ギリシャ軍はモッティ戦術を用いて、イタリア軍を撃破することで、アルバニア南部を占領した。しかし、ギリシャには本格的軍事産業が無く、装備、弾薬の供給は、北アフリカでイギリス軍が撃破し、捕獲したイタリア軍の装備に依存していた。そのため、アルバニアでの戦いを継続するために、ギリシャ軍はマケドニア東部、トラキア西部から撤退せざるを得なかった。
ギリシャの戦い
1567
6ヶ月
ギリシャの戦い
1569
1924年にベルリンで『ネフェルティティの胸像』が公開されて以来、エジプト政府は胸像の返還要求を続けている。1925年に胸像を返還しない限りエジプトでのドイツの発掘を禁止すると警告した。1929年にはエジプトから『ネフェルティティの胸像』と他の遺物との交換の申し出があったが、ドイツは応じなかった。1950年代にもエジプトは交渉を試みたが、ドイツからの反応はなかった。ドイツは胸像の返還を強く拒み続けていたが、1933年に当時ナチス・ドイツの航空大臣だったヘルマン・ゲーリングが政治的思惑からエジプト王ファールーク1世への胸像の返還を検討したことがある。しかしアドルフ・ヒトラーはこの考えに反対し、エジプト政府に対して『ネフェルティティの胸像』のために新しくエジプト博物館を建設すると伝え、「この素晴らしい胸像は博物館中央の玉座に置く。女王の頭を放棄することは決してありえない」と語った。 大戦後、胸像がアメリカ軍の保護下にあったとき、エジプトはアメリカに胸像の引渡しを求めている。しかしアメリカは、エジプトは新設されるドイツの関連機関と交渉すべきだとして、引渡しを拒否した。1989年にエジプト大統領ホスニー・ムバーラクはベルリンでこの胸像を見たときに、この胸像は「エジプトにとって最高の駐独大使だ」と語っている。
ネフェルティティの胸像
1570
ホスニー・ムバーラク
ネフェルティティの胸像
1572
白鷺城
姫路城
1574
平安末期になると孔子に食肉を供えるはずの行事釈奠でも代わりに餅や乾燥棗などが用いられるようになったり、正月の歯固の膳でも鹿の代わりに鴫、猪の代わりにキジが出されるようになった。 また、穢れを信じるあまりに馬肉は有毒とまで考えられ、『小右記』の1016年(長和5年)の条には犯罪を犯した男に馬肉を食べさせた旨が記されている。 当時の医学書『医心方』にしし肉(獣肉)と魚肉の食い合わせが良くないと記されていたり、『今昔物語』には庶民がしし肉を買いに行く場面が出てきたりと、完全に食肉の習慣が無くなったわけではなかった。 平安時代の古語拾遺には古代のこととして「大地主神、田を営るの日、牛の宍を田人に食はせ」とあり、御歳神に対する神事として農民に牛肉を食わせたことが書かれている。 ただし古語拾遺内の創作であるとする可能性も指摘されている。
日本の獣肉食の歴史
1575
馬肉
日本の獣肉食の歴史
1577
キーズ公フランソワ
ユグノー戦争
1579
LEDは、極性のある直流によって発光し、適正電圧と耐圧がともに低いため、使用には専用の電源が必要となる。LEDはダイオードであるため、順方向電流と順電圧には相関があり、数ボルト程度の低い耐圧に応じた順電圧が少し上昇するだけで過大な順方向電流が流れて容易に損傷を受ける。これを回避するために、電流制限抵抗や定電流素子(定電流ダイオードや定電流ICなど)をLEDに直列に挿入して、電圧変動による影響を少なくする必要がある。一般にLED照明では複数のLED素子を使用するため、それらの接続方式には直列方式と並列方式、直並列方式の3種類がある。
LED照明
1580
耐圧
LED照明
1582
ただしトムソンは、この計画の技術的な問題点を指摘した。トムソンは1855年、マイケル・ファラデーの研究を元に電信方程式を発表していたが、この式によると、通信の速度はケーブルの断面積に比例し、長さの二乗に反比例する。つまり長い距離のケーブルでは伝送速度が遅くなってしまうことになる。これを防ぐために、計画よりも太いケーブルを作らなければならないと主張したのである。しかしこの意見はフィールドには受け入れられないものであった。ケーブルを太くすればその分費用もかさみ、敷設するのにも3隻の船が必要になってしまう。第一、すでにケーブルの一部は製作されていた。また、主任技師のホワイトハウスもトムソンの意見を「学者の作り話」と否定した。ホワイトハウスはモールスと共に、陸上で長さ3000kmのケーブルを使用して通信テストを行い、トムソンの主張する現象は起こらないことを確かめた。また、ホワイトハウスはファラデーから、「トムソンの主張は完全に正しくはなかったのではないか」というコメントを引き出し、これをトムソン説否定の根拠とした。こうしてトムソンの意見は無視される形となった。トムソン自身はその後もこの事業に関わり、敷設のための航海にもすべて参加することとなるのだが、技術的な指揮は基本的にホワイトハウスがとるようになった。一方、資金は順調に集まり、ケーブル製造は急ピッチで進められた。そして1857年7月にケーブルは完成し、敷設の準備は整った。
大西洋横断電信ケーブル
1583
ホワイトハウス
大西洋横断電信ケーブル
1585
矢作水力株式会社は、戦前期の電力業界において東邦電力・大同電力といった業界最大手「五大電力」に次ぐ規模を持っていた中堅電力会社の一つである。 社名が示す通り岐阜・愛知両県にまたがる矢作川水系での水力発電所建設を目的として設立された。 設立は第一次世界大戦終戦直後、新興の電力会社が相次いで発足した1919年(大正8年)。 創業者には大同電力の社長や東邦電力の前身名古屋電灯の社長を務めるなど、中部地方で複数の電力会社に関与した実業家福澤桃介が名を連ねる(矢作水力では相談役に就任)。 本社は愛知県名古屋市に構えた。
矢作水力
1586
愛知県
矢作水力
1588
1867年8月3日、スタンリー・ボールドウィンはイングランド・ウスターシャー・ビュードリーで鋳鉄業者アルフレッド・ボールドウィンとその妻ルイーザ・ボールドウィン(旧姓マクドナルド)(LouisaMacdonald)の間の一人息子として生まれた。
スタンリー・ボールドウィン
1589
イングランド・ウスターシャー・ビュードリー
スタンリー・ボールドウィン
1591
ニューアーク方式
津島市立図書館
1593
ナマダ
ウツボ
1595
瓶を用いる場合、天井入り口周辺の裏側にわざと規則的に凹凸を作ることによって、より大きな水滴ができる。 大きな水滴が落ちる時に生じる、従水という「小さな水滴」が「大きな水滴」に追随して共に落ちていく事で、大きな水滴が水面に生んだ椀状ドームの中に小さな水滴が落ちて、ドームと瓶の中で音が反響し、より綺麗な音が鳴るとされている。 水滴の落ち方にはいくつかの種類がある。 まず、間欠的な落ち方と連続的な落ち方があり、間欠的な落ち方には滴水の間隔が1秒ほどのもの(短間欠的点滴)と2秒以上のもの(長間欠的点滴)とがある。 また、水滴が1箇所から落ちる場合(一条点滴)と2箇所または3箇所から落ちる場合(二条点滴、三条点滴)とがある。 これらは水量で調整される。 水琴窟の音は「極めて静穏な庭園」において、縦穴の上部から半径2m以内の地点で明瞭に、半径4m以内の地点で比較的明瞭に聞き取ることができる。
水琴窟
1596
三条点滴
水琴窟
1598
バヤズィト1世は、王子時代より戦場で活躍し、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の皇子アンドロニコスと共謀して反乱を起こした長兄サヴジが処刑されると、彼がムラト1世の後継者に指名される。ムラトが取り決めた政略結婚によりゲルミヤン侯国の王女と結婚、婚資としてゲルミヤンの首都であるキュタヒヤなどの都市がオスマンに譲渡された。
バヤズィト1世
1599
アンドロニコス
バヤズィト1世
1601
グルナッシュ種は温暖な地域に適しているため、オーストラリアの気候にも適応した。1950年代には生産量最大の赤ワイン用品種はグルナッシュ種だったが、カベルネ・ソーヴィニヨン種とピノ・ノワール種の台頭で栽培面積を減少させ、今日では低価格のカスクワインなどに使用されることが多い。かつては酒精強化ワインやブレンド用がほとんどだったが、今日ではその香りを生かしたセパージュワインも生産されている。2000年代初頭に世界的にメルロー種の人気が高まり、オーストラリアでも特に内陸部で栽培面積が劇的に増加した。カベルネ・ソーヴィニヨン種とのブレンドに使用されることが多い。最良のメルロー種はマーガレット・リヴァーで生産される。マルベック種の人気は2000年代から落ち込んでおり、大半の地域ではブレンド用で終わる。テンプラニーリョ種は2001年に50ヘクタールだったが、2012年には710ヘクタールにまで急増した。セパージュワインとなることもあるが、一般的には赤ワインのブレンド用に使用される。プティ・ヴェルド種はオーストラリアの一部の産地では特に成熟が遅い品種であるものの、この国に適した品種といえる。カベルネ・ソーヴィニヨン種をベースにしたブレンドに使用されることが多いが、マクラーレン・ヴェイルなどではセパージュワインとなる。
オーストラリアワイン
1602
温暖な地域
オーストラリアワイン
1604
車体については、日本車輌・川崎車輛が担当することになり、研究所側は三木が主任担当者となった。 先頭車は車体長15,750mm・全長15,950mm、中間車は車体長12,300mm・全長12,700mmで、車体幅は2,800mmである。
小田急3000形電車(初代)
1605
先頭車
小田急3000形電車(初代)
1607
細川氏は道路整備や不動松並木の植樹、寺院の建立など城下町としての体裁を整えようとしたが、城下町は家臣が75人しかいないため流通・消費の拠点としての発達はなく、藩命で嘉永4年(1851年)から始めた定期市も大して繁盛しなかった。 近在の宿場町・真瀬村の賑わいには及ばなかったことから、「真瀬のようなる在所があるに、谷田部城下とは気が強い」、「谷田部も城下か、タニシも魚か」と揶揄(やゆ)された。 小さな城下町ではあったが、民間からは蘭学や絵画で才を発揮した谷田部藩医の広瀬周度(ひろせしゅうたく)や、からくり人形などを発明した名主の飯塚伊賀七という偉大な人物が現れ、不動松並木と合わせて「谷田部に過ぎたるもの三つあり」と言われた。 飯塚伊賀七の代表作の1つである五角形の建築物「五角堂」が現代に残されている。
谷田部(つくば市)
1608
飯塚伊賀七
谷田部(つくば市)
1610
アンリ2世の治世(1547年-1559年)でも迫害は断続的に続き、治世の終わり頃に異端審問のための新たな法廷が作られ、これはプロテスタントからは火刑法廷(lachambreardente)と呼ばれた。これはこの時期にカルヴァン派がルター派を凌いでフランス国内におけるプロテスタントの主流になり、急速に数を増やしたことの反動と見られる。フランス生まれのジャン・カルヴァンによって作られたカルヴァン主義は、社会階層や職業の違いなく人々を惹きつけ、更には地域差なく広範囲に広まっていた。
ユグノー戦争
1611
アンリ2世
ユグノー戦争
1613
チャンというキャラクター自体がステレオタイプを固定化することもあった。 チャンは小説作品の結末で毎回、中国の故事だとされる架空の金言を述べる。 たとえば「万里の長城を建てた秦の始皇帝は「過去の栄光を語って今日という日を無駄にする者は、明日には誇れるものが何もない」と語った」というものである。 フレッチャー・チャンは、ビガーズの小説のチャンは白人にこびへつらったりしないと述べている。 『シナの鸚鵡』ではチャンは差別的発言を聞いて怒り、殺人犯を暴き出してから「ことによると、チャイナマンの話に耳を貸しても恥ずかしくはないのかもしれませんね」と言ってのける。
アメリカ合衆国における東アジア人のステレオタイプ
1614
中国
アメリカ合衆国における東アジア人のステレオタイプ
1616
ディーリアス家は音楽一家であり、当時の有名な音楽家であるヨーゼフ・ヨアヒムやカルロ・アルフレード・ピアッティなどが来客として訪れ、演奏を披露したこともあった。ドイツの家系に生まれながらも、幼いディーリアスはドイツ=オーストリア系のモーツァルトやベートーヴェンではなく、ショパンやグリーグらの音楽により強く惹かれており、この好みは生涯にわたって続くこととなった。ディーリアスが受けた最初の音楽教育は、ハレ管弦楽団のバウアーケラーによるヴァイオリンの指導であり、その後リーズのジョージ・ハドックの下でさらに発展的な教育を施された。彼は後年ヴァイオリンの教師として仕事が出来るほどにヴァイオリンの腕を上げていたが、最も楽しみを見出していたのはピアノに向かって即興演奏をすることであり、彼が初めて音楽で我を忘れる体験をしたのはショパンのワルツであった。1874年から1878年にかけて、ディーリアスはブラッドフォード・グラマー・スクールで学んでおり、やや年長の学生にはテノール歌手のジョン・コーテスがいた。その後、彼は1878年から1880年の間にアイザルワースのインターナショナル・カレッジで学んだ。学生としてのディーリアスは利口でも勤勉でもなく、カレッジがロンドンにほどよく近かったためにコンサートやオペラに足を運んでいた。
フレデリック・ディーリアス
1617
ショパン
フレデリック・ディーリアス
1619
1903年(明治36年)10月1日、日本で最も早く百貨店における食堂を設置した白木屋は、1911年(明治44年)10月のエレベーター設置などの大幅な増改築時に本格的な食堂営業を開始した。その後関東大震災を経て1923年(大正12年)11月1日、茅場町に二階建て食堂を作った際に、食堂としては初めて「店頭に提供する飲食物の見本の陳列」および「店頭での食券販売による取引」を実施した。このときの見本陳列において、実物による展示では変色が激しく、なんとかならないだろうかと相談を持ちかけられ、蝋製の食品サンプルを提供したのが、東京日本橋で人体・生物模型技師をしていた須藤勉であった。須藤はパラフィン、ステアリン、木蝋などを混ぜ合わせ型に入れたものに油絵具で着色して食品サンプルを製作した。
食品サンプル
1620
明治44年
食品サンプル
1622
近代になり科学が進歩してくると、薬として用いられていた生薬から薬効成分を分離しようとする試みがなされるようになった。なお、実際に薬効成分としての化合物が初めて分離されたのは、ドイツ人薬剤師のフリードリヒ・ゼルチュルナーによるアヘンからのモルヒネ単離であり、19世紀初頭の1804年のことである。それから現在に至るまで、数多くの薬効成分が単離報告されているが、民間薬や伝統医療で用いられている生薬の有効成分の調査は現在でも活発に行われている。その中には、明らかに呪術的見地から選ばれていたであろう生薬から、具体的な薬効成分が見出された例も数多く知られており、これらはセレンディピティの例として示される場合がある。
ヒトに由来する生薬
1623
モルヒネ単離
ヒトに由来する生薬
1625
1856年
フレデリック・ディーリアス
1627
約20億円
ミネルバ_(ローバー)
1629
17号の搭乗員には、本来はサーナン、エバンスおよびジョー・アングル(JoeEngle)が指名されるはずであった。この3名は、アポロ14号で予備搭乗員を務めていた。アングルは極超音速実験機X-15のパイロットとして16回飛行し、最高時速7,272キロメートル、最高到達高度85.5キロメートルの記録を打ち立てたことのある人物だった。一方でシュミットは、アポロ15号の予備搭乗員を務めていた。アポロ計画の飛行士のローテーションでは、予備搭乗員はその3つあとの飛行で本搭乗員を務めるという規定があり、これに従えばシュミットはアポロ18号で月着陸船操縦士を務めることになっていたのだが、18号(さらに19号、20号)は1970年9月に中止が決定された。この決定を受け、科学者らの協会は17号では宇宙飛行士に訓練で地質学を学ばせるのではなく、地質学者そのものを月面に赴かせるようNASAに圧力をかけた。この科学者からの要望を考慮して、地質学の専門学者であるシュミットが着陸船操縦士に指名された。 この変更を受け、17号の残りの搭乗員には誰を指名するかという問題が発生した。15号の予備搭乗員であったリチャード・ゴードン(RichardF.Gordon,Jr.)、ヴァンス・ブランド(VanceD.Brand)をシュミットとともにスライドさせるのか、もしくは14号のサーナンとエヴァンスをそのまま搭乗させるのかという選択に迫られたが、NASAの飛行人事部長だったドナルド・スレイトン(DekeSlayton)は最終的にサーナンとエヴァンスを指名した。
アポロ17号
1630
アポロ18号
アポロ17号
1633
1897年、ディーリアスはドイツ人の画家であるイェルカ・ローゼンと出会った。彼女は後に彼の妻となる人物である。プロの絵描きであったイェルカはオーギュスト・ロダンとも親交があり、パリで開催される美術展のアンデパンダン展でも常連であった。彼女はすぐさま若き作曲家の作品への称賛を明らかにし、ドイツの哲学者ニーチェやグリーグの音楽への情熱を共有する2人は惹かれ合っていった。イェルカはパリから64キロ、フォンテーヌブローとの境に地点に位置するグレ=シュル=ロワン村に家を購入した。ディーリアスは彼女を訪ねてその地に向かい、一時フロリダへと戻った後は移り住んで彼女と暮らすようになった。2人は1903年に結婚し、ディーリアスはその後第一次世界大戦中にドイツ兵が進軍してくる危険に見舞われた一時期を除き、生涯をグレで過ごした。ディーリアスはこの頃から英国式にフレデリックと名乗るようになった。彼らの結婚生活は一般的なものではなかった。当初、夫婦の主な収入はイェルカの稼ぎであり、2人には子どもがおらず、さらにディーリアスは夫として信頼の置ける人物ではなかった。イェルカは夫の愛人関係にしばしば頭を悩ませていながらも、その献身的な態度が揺らぐことはなかった。
フレデリック・ディーリアス
1634
イェルカ・ローゼン
フレデリック・ディーリアス
1636
『ヘントの祭壇画』の作者がフーベルトとヤンのファン・エイク兄弟であることは、現存する制作依頼に関する記録や裏面のヤン自身の手による署名と制作年度の記述によって確実視されている。フーベルトは『ヘントの祭壇画』が最終的に完成する6年前に死去してしまい、後を引き継いだ弟ヤンは兄フーベルトを悼んでこの作品に関する自身の影響度を最小限に抑えようにしたともいわれている。また、「正しき裁き人」のパネルには騎乗する10人の人物が描かれているが、このうち3番目と4番目の人物はファン・エイク兄弟の肖像画ではないかとされている。ラムゼイ・ホーマは「神の子羊」のパネルに、ヤンのさまざまな作品に残るヤンの本名をもじった座右の銘「我に能う限り(ALSIKKAN)」の初期ヴァージョンが記されていると指摘した。銘が記されている箇所は「神の子羊」左前面の群集の後ろに描かれた預言者の頭飾りである。ヘブライ語で記されたこの銘は「Yod,Feh,Aleph」と読むことができ、すなわちヤンの頭文字「JvE」に音訳できるとしている。
ヘントの祭壇画
1637
「JvE」
ヘントの祭壇画
1639
ドイツに始まった宗教改革運動は各国に広まったが、ジャン・カルヴァンの思想がフランスでも勢力を持ち、プロテスタントはカトリック側からユグノー(huguenot)と呼ばれた。ユグノーには貴族も加わり、弾圧にもかかわらず勢力を広げていった。1562年にカトリックの中心人物ギーズ公によるヴァシーでのユグノー虐殺事件(ヴァシーの虐殺)が契機となり、内乱状態になった。妥協的な和平を挟んだ数次の戦争の後の1572年8月24日には、カトリックがユグノー数千人を虐殺するサン・バルテルミの虐殺が起こっている。
ユグノー戦争
1640
ギーズ公
ユグノー戦争
1642
1828年1月に成立したウェリントン公爵内閣(トーリー党政権)はカトリック解放問題や選挙法改正問題をめぐって内部分裂を起こし、カニング派やウルトラ・トーリーの政権離反を招いた。一方グレイ伯爵はカトリック解放・選挙法改正の実現を目標を掲げることでホイッグ党内の各派閥を一致団結させることに成功した。
チャールズ・グレイ(第2代グレイ伯爵)
1643
グレイ伯爵
チャールズ・グレイ(第2代グレイ伯爵)
1645
伝統的な水琴窟は茶室前の蹲踞(つくばい)に併設されることが多い。 空洞の中に溜まる水の量を一定に保つ(溜まり過ぎた水を排出する)ため、底には排水管が設けられる。 瓶を使用する場合、その底(空洞の頂上部)には穴が開けられ、地上から水を導くための管が取り付けられる。
水琴窟
1646
蹲踞
水琴窟
1648
1995年8月、宇宙開発委員会は小惑星サンプルリターン計画を承認した。MUSES-C計画のスタートである。計画の遂行には惑星探査機となるMUSES-Cとの通信や、地球帰還時のカプセル回収に際してアメリカの協力が不可欠であった。アメリカとの協力関係を固めていく中で、MUSES-CにNASAが開発する超小型ローバー、MUSES-CNを無償で搭載することになった。その一方でプロジェクトマネージャの川口淳一郎は、重量に余裕ができた場合、探査機の重量バランスを補正する重り代わりとして日本製の小惑星ローバーも搭載することを考えるようになった。川口は長年宇宙探査用のローバーを研究していた同僚の中谷一郎に、質量1キロ程度の小惑星探査ローバーを作れないかと声をかけてみた。川口の呼びかけに中谷は応じた。宇宙探査用のローバーを研究している宇宙科学研究所の教授を始め、大学教授、そしてメーカーの技術者らが集まり、1997年の夏、小惑星を探査するローバーの開発が始まった。
ミネルバ_(ローバー)
1649
1995年
ミネルバ_(ローバー)
1651
2010年
ゾング号事件
1653
1961年(昭和36年)6月24日-27日には梅雨前線豪雨(三六災害)が愛知県西部を襲い、日光川・領内川・目比川など近隣の河川が軒並み氾濫、尾西市・祖父江町・津島市などは広範囲に渡って冠水した。 図書館の玄関前の水位も約60cmに達したが、図書館の建物入口にはこれを上回る高さの階段があったため、床上浸水は免れている。 7月2日には水が引いたものの、後片付けなどのために7月13日まで休館した。 1962年(昭和37年)2月には津島町出身でアメリカ・ロサンゼルス在住の武藤竹代から洋書184冊の寄贈を受け、武藤文庫を設置した。 1964年(昭和39年)4月1日には津島市立津島図書館から津島市市立図書館に改称した。 9月には図書館専用の電話回線が開設された。 同年には津島市青少年問題協議会が「悪書」13トンを回収して古紙再生業者に売却し、図書館はその売上金で購入された300冊の寄贈を受けた。
津島市立図書館
1654
津島市青少年問題協議会
津島市立図書館
1656
社会主義体制
コソボ紛争
1658
聖リオバ教会
ヴェルトハイム
1660
1830年6月にはホイッグ嫌いのジョージ4世が崩御し、グレイ伯爵の友人だったウィリアム4世が国王に即位した。当時の慣例であった国王即位に伴う解散総選挙はトーリー党政権が多数を得たものの、グレイ伯爵はカニング派やウルトラ・トーリーなど他の野党勢力との連携を深めていき、1830年11月にも王室費に関する政府法案に反対する動議を233対204の僅差で可決させた。これによりウェリントン公爵内閣は総辞職に追い込まれた。
チャールズ・グレイ(第2代グレイ伯爵)
1662
1942年
神戸外国人居留地
1664
バンプは金線を使用したワイヤ・ボンディングを利用して作る。トーチで金線の先端を加熱しボールを作る。ボールをキャピラリで発光素子の配線パッド上に押し付け、荷重と超音波、加熱により配線パッドと金線を合金化するとともにバンプを形成する。キャピラリを配線パッドから離し、バンプだけを残す。加熱はバンプ形成では約230°Cである。張り合わせタイプではフリップチップの素子に似ているが形状が少し異なり、フリップした時に外部を向くサファイヤ層は除かれて反対に基部になる層として導電性基板が貼り付けられる。
LED照明
1665
金線を使用したワイヤ・ボンディング
LED照明
1667
1872年には、イギリスのジョン・ウッズとジョン・クラークが、耐候性と耐酸性のある鉄合金としてクロム30–35%とタングステン2%を含有する鉄合金の特許を取得した。この特許は、ステンレス鋼の最初の特許ともいわれる。ただし、彼らはこの高クロム鉄合金がカトラリーや硬貨、鏡に有用だと指摘したものの、この合金の追加研究の記録は残っていない。この後もイギリスやフランスで、クロム鋼の性質に関する報告がいくつかあり、高クロム鉄合金の耐食性を指摘したものもあった。しかし1892年、高マンガン鋼の発明で知られていたイギリスのロバート・ハドフィールドが、クロムは鋼の耐食性を下げるという報告をした。ハドフィールドが耐食性を試したのは1.18%から9.81%のクロムを含む鉄合金で、50%濃度の硫酸に浸漬させて腐食減量を測定した。その結果は、クロム量が多いほど腐食減量は多くなるというものであった。このような結果になった原因としては、試料の炭素量が高かったこと、高濃度の硫酸を使って耐食性を試したことが推定される。現代のステンレス鋼でも、硫酸に対する耐食性は限られている。高名なハドフィールドの報告の影響は大きく、クロムは耐食性を低下させるという説が広まってしまい、他の研究者たちの高クロム鋼研究への関心を損なうこととなった。
ステンレス鋼の歴史
1668
クロム
ステンレス鋼の歴史
1670
しかし一方でスペンサー・コンプトンは1707年に大蔵卿ゴドルフィン伯爵を支持して一時はジャントーと対立、1708年に和解したものの1710年イギリス総選挙で後援者のコーンウォリス男爵に外される一因となった(1710年の情勢がホイッグ党に不利だったことも関係した)。
スペンサー・コンプトン(初代ウィルミントン伯爵)
1671
ジャントー
スペンサー・コンプトン(初代ウィルミントン伯爵)
1673
翌1896年(明治29年)に海東西郡が東西に分割されると、海東郡教育会に蔵書721点、海西郡教育会に蔵書100点が分割された。 凱旋紀念書籍館の建物は海東郡教育会の附属となり、海東郡教育会附属凱戦紀念書籍館に改称したが、分割騒動、蔵書の縮小、水害などによって1896年度は図書館としてほとんど機能していなかったとされる。
津島市立図書館
1674
海東郡教育会附属凱戦紀念書籍館
津島市立図書館
1676
日本は1854年に日米和親条約、1858年に安政五カ国条約を結び、開国に至った。幕末の日本はまだ禁教下ではあったものの、宣教師たちが続々と入国し、日本伝道がいずれ解禁される時のための準備が進められた。この伝道準備の中の重要課題は、聖書翻訳であった。当初、日本に滞在した宣教師たちは、漢訳のキリスト教書籍を持ち込んで密かに頒布し、布教に努めた。ヘボンの見立てでは「すべての教養ある日本人は、我々がラテン語を読むのと全く同様に、困難もなくシナ語の聖書を読むことができる」とされたからである。他方で、ヘボンは該当する日本人を成人全体の50分の1以下と見積もっており、漢文の読めない大多数の一般人に布教するには、平易な日本語訳聖書を必要とした。 日本国内で最初に翻訳聖書を出版したのは、バプテスト派の宣教師で1860年に入国したジョナサン・ゴーブルである。ゴーブルは、極貧のうちにあって靴直しで糊口をしのぎながら、ギリシャ語本文からの口語和訳に挑んだ。原典翻訳を称してはいるが、彼は所属していた団体の欽定訳聖書改訳運動に影響されており、特にコナントが刊行した詳注付き新約聖書(欽定訳改訳の試訳版)への依存度が大きかった。このコナント版の刊行は1864年のことで、彼の翻訳は同じ年に始まっている。彼が訳したマタイ福音書は、1871年に『摩太(マタイ)福音書』として東京で出版された。版木屋は中身が聖書であることを知らずに引き受けたという。ゴーブルの方針は、新約聖書で用いられているギリシャ語が日常語であることに鑑み、俗語も交えた平易な日常語で訳すというものであった。その訳業は、バプテスト派の漢訳聖書『聖經新遺詔全書』(1853年)を書き下すことから始まったとされるが、平仮名書きのその文体には漢訳聖書の影響は希薄である。 ゴーブルは他の宣教師と折り合いが悪く、単独での日本語訳権をアメリカ聖書協会に請求して拒否される一幕もあった。これはアメリカ聖書協会が、特定の教派に偏らない翻訳方針を示していたヘボンの反対意見を受け入れたためで、ゴーブルは上述のように独立独歩でバプテスト派の解釈に基づく翻訳を行った。彼は、四福音書全体と使徒言行録も訳したとされるが、その稿本は残っていない。彼の翻訳は俗語交じりであることから、その訳文はあまり評価されていない。なお、ゴーブルの聖書翻訳作業は、1873年に日本での活動を開始したバプテスト派宣教師、ネイサン・ブラウンに引き継がれた。
日本語訳聖書
1677
日米和親条約
日本語訳聖書
1679
芥川龍之介賞は大正時代を代表する小説家の一人・芥川龍之介の業績を記念して、友人であった菊池寛が1935年に直木三十五賞とともに創設し以降年2回発表される。第二次世界大戦中の1945年から一時中断したが1949年に復活した。新人作家による発表済みの短編・中編作品が対象となり、選考委員の合議によって受賞作が決定される。受賞者には、正賞として懐中時計、副賞として100万円が授与され、受賞作は『文藝春秋』に掲載される。 選考委員は、小川洋子・奥泉光・川上弘美・島田雅彦・平野啓一郎・堀江敏幸・松浦寿輝・山田詠美・吉田修一の9名である。選考会は、料亭『新喜楽』の1階で行われる。受賞者の記者会見と、その翌月の授賞式は、長く東京會舘で行われていたが、同館の建て替えに伴い、現在は帝国ホテルで行われている。
芥川龍之介賞
1680
2回
芥川龍之介賞
1682
RobotOperatingSystem(ROS)とは、ロボット用のソフトウェアプラットフォームである。ROSはその名に「OperatingSystem」を含むが、MicrosoftWindowsやiOSのようなコンピュータのオペレーティングシステム(OS)ではなく、既存のOS上で動くミドルウェアやソフトウェアフレームワークの一種であり、「メタオペレーティングシステム」(meta-operatingsystem)とも説明される。 ROSはロボットソフトウェアの共同開発を世界規模で推進することを目指している。スタンフォード大学の学生が開発した「Switchyard」プロジェクトを起源にもち、それを引き継いだアメリカのウィローガレージ社が2007年に本格開発を開始し、2010年に最初のリリース版が公開された。その後、非営利団体「オープンソースロボット財団」が設立され、ROSの開発を主導する役割が引き継がれた。オープンソースソフトウェアとして開発・公開されており、世界中から多くの人々が開発に参加している。
RobotOperatingSystem
1683
スタンフォード大学
RobotOperatingSystem
1685
芥川賞・直木賞は今でこそジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となっているが設立当初は菊池が考えたほどには耳目を集めず、1935年の「話の屑籠」で菊池は「新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいいと思う」と不平をこぼしている。1954年に受賞した吉行淳之介は、自身の受賞当時の芥川賞について「社会的話題にはならず、受賞者がにわかに忙しくなることはなかった」と述べており、1955年に受賞した遠藤周作も、当時は「ショウではなくてほんとに賞だった」と話題性の低さを言い表している。遠藤によれば、授賞式も新聞関係と文藝春秋社内の人間が10人ほど集まるだけのごく小規模なものだったという。転機となったのは1956年の石原慎太郎「太陽の季節」の受賞である。作品のセンセーショナルな内容や学生作家であったことなどから大きな話題を呼び、受賞作がベストセラーとなっただけでなく「太陽族」という新語が生まれ石原の髪型を真似た「慎太郎カット」が流行するなど「慎太郎ブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした。これ以降芥川賞・直木賞はジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となり1957年下半期に開高健、1958年上半期に大江健三郎が受賞した頃には新聞社だけでなくテレビ、ラジオ局からも取材が押し寄せ、また新作の掲載権をめぐって雑誌社が争うほどになっていた。今日においても話題性の高さは変わらず特に受賞者が学生作家であるような場合にはジャーナリズムに大きく取り上げられ、受賞作はしばしばベストセラーとなっている。
芥川龍之介賞
1686
石原慎太郎
芥川龍之介賞
1688
村高は延享3年(1746年)時点では176石余だったが、天保(1830年から1844年)には168石余に減少している。 毎年6月1日には、国崎村をはじめとして神島・菅島・答志・石鏡・相差・安乗の7村から海女が集まる「御潜神事」が挙行され、アワビ採取を行った。 神事に集まる海女の滞在費用は国崎村持ちであり、重い負担であった。 神事は明治4年まで続いた。 宝永地震(宝永4年=1707年)では津波によって大半の漁船・漁具が流され、生活は困窮、捕鯨ができなくなったという。
国崎町
1689
1746年
国崎町
1691
4度目の敷設工事は1865年に行われることになった。今までの経験から、海上でのケーブルの接続作業には危険が伴うことが予想された。しかし幸いにも、イギリスの技術者イザムバード・キングダム・ブルネルが設計した当時最大の蒸気客船グレート・イースタンが使用できたので、ケーブルの接続の必要はなく1隻で大西洋を横断することが可能になった(ケーブルの重量が増したため、グレート・イースタンが使えなかった場合は3隻の船が必要になっていた)。グレート・イースタンは7月14日に英国を出港し、アメリカへ向けて敷設作業を行った。途中、ケーブルがショート(短絡)するという事故が2度起こった。これは、ケーブルを覆う鉄線が切れて絶縁部を貫通したことによるものだと分かったため、一旦ケーブルを引き上げ、該当部分を除去する作業を行うことで対処した。その後は順調に進んだが、全体の3分の2まで敷設を行った段階でケーブルが切断され、ケーブルの端は海底へと沈んでいった。ケーブルを引き上げようとしたが、道具が足りず、グレート・イースタンは一旦英国へと戻らなければならなくなった。
大西洋横断電信ケーブル
1692
イザムバード・キングダム・ブルネル
大西洋横断電信ケーブル
1694
チャールズ・ホイートストン
アレクサンダー・グラハム・ベル
1696
万次郎
君沢形
1698
「ヘダ」の船体は木骨木皮で、竜骨と主肋材35組および副肋材11組で支えられている。船底は生物付着防止のため銅板で被覆されている。部品は日本で製造され、木材は天領各地から切り出した松やクスノキを使用、金具のうち水線上のものは銅製、その他は鉄製だった。調達の難しい帆布やロープは最小限の量に抑えられ、例えば帆は船首の三角帆と各マストにガフセイル1枚ずつの計3枚のみで、予備帆は持たなかった。補助推進設備として和式の艪6丁が備えられており、これだけで3.5ノットの速力を得られた。武装は「ヘダ」には実装されなかった。もっとも、ボート・ホイッスル(艦載用の小型榴弾砲)など8門を装備できるように、火砲の設置場所が確保されていた。これに対して、自国用に建造された君沢形量産船では、大砲が搭載されて射撃演習にも使用されていた。「ヘダ」と同じく小型砲8門程度が装備可能だったと推定される。作業のうち、材木の加工は日本の大工によって手際よく進められたが、ボルトなど慣れない金属部品の製造は困難があった。また、舵の構造が和船と大きく異なるため、日本側の作業員が船体の一部に不必要な切開をしてしまう混乱もあった。日本の船大工や役人たちの知識欲は旺盛で、作業用の定規を個人ごとに製作したり、艤装の仕方を細かく記録していた。西洋式の進水作業が一瞬で終わったことは、日本人たちを驚かせた。なお、ロシア側は、日本の大工道具のうち墨壺の便利さを称賛している。
君沢形
1699
小型砲8門程度
君沢形
1701
1,509.03m2
松阪市図書館
1703
大正企業組合は初め25名の組合員を得て2万5千円の資金を集め、手取川・由良川・矢作川・十津川・櫛田川などに技術員を派遣して水力発電のための調査研究を進めた。 1919年(大正8年)3月の解散までに得た水利権は17地点8万馬力に及び、そのうち矢作川における4か所の水利権を元に矢作水力(発起当初の社名は「中央電力」)を設立することとなった。 1918年(大正7年)7月に2か所の水利権許可を得たのを機に創立事務に着手、資本金を500万円として関係者の間のみで募集した。 そして創立総会を1919年3月3日に開催、12日に電気事業経営許可を得て、20日登記を完了して会社設立を終えた。 設立時の役員は、取締役社長井上角五郎、専務取締役杉山栄(大正企業組合嘱託技師)、取締役寒川恒貞(大正企業組合常務委員)・青木信光・大岩勇夫・大口喜六ほか3名、監査役加藤重三郎ほか4名で、福澤自身は相談役に回った。 このうち社長となった井上は、福澤が北海道炭礦汽船に在籍していた当時の上司にあたり、福澤の依頼で大正企業組合の組合員となり、福澤の推薦で社長となった。
矢作水力
1704
福澤
矢作水力
1706
1980年5月4日のチトーの死によって、長期間にわたる政治的不安定が始まり、経済危機と民族主義者の台頭によって状況は次第に悪化していった。コソボで最初に発生した大規模な衝突は1981年3月、アルバニア人の学生が、売店の前の長い行列に対して暴徒化した。これは小規模な衝突であったが、やがてこれが引き金となってコソボ全土に急速に拡大し、各地で大規模なデモが発生するなど、国家的反乱の様相を呈した。抗議者らはコソボをユーゴスラビアの7番目の構成共和国とすることを求めた。しかしながら、この要求はセルビアおよびマケドニアには受け入れられるものではなかった。多くのセルビア人たち、そしてアルバニア人民族主義者ら自身も、この要求は大アルバニア主義への始まりと見ていた。大アルバニア主義はコソボ全土とモンテネグロ、マケドニアの一部をアルバニアへと組み込むことを目的としている。ユーゴスラビアの共産主義政府は非常事態を宣言し、軍や警察を大量投入して反乱を鎮圧した。しかし、このことによってセルビアの共産主義者らが要求していたコソボの自治権廃止には至らなかった。ユーゴスラビアの新聞は、11人が死亡し、4,200人が投獄されたと発表した。別の者は、この騒動での死者は1000人を超えると主張している。
コソボ紛争