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|---|---|---|
1228 | 当時は「高速走行のためには大出力の主電動機を使用して、粘着性能を稼ぐために車体も重く頑丈にする」ということが常識とされていた。しかし、この時の小田急の経営基盤はまだ脆弱で、スピードアップを目的として施設全般に多額の投資を行うことはできなかった。また、当時導入された国鉄モハ63形の改造車である1800形の乗り心地が悪く、保線部門から「線路を壊す車両」として嫌われたという事実もあった。このため、軌道や変電所などの投資を極力抑える一方で、車両の高速性能を向上するという方針が立てられた。この方針に従い、軽量・高性能な車両の開発が進められることとなり、研究や試験などを繰り返していた。
1954年に登場した2100形では車体の軽量化が実現、駆動方式についても同年に登場した2200形ではカルダン駆動方式が実用化された。また、この年の9月11日には新型特急車両の開発が正式に決定した。 | 小田急3000形電車(初代) |
1229 | 1954年 | 小田急3000形電車(初代) |
1231 | 1910年(明治43年)4月には巡回文庫を開始。
図書館外に設けた配本所に毎月数十冊の図書を置くものであり、当時としては珍しい試みだった。
1911年の蔵書数は4,600点超、利用者数は15,628人であり、愛知県下9図書館の中でも圧倒的に利用者数が多かった。
1913年(大正2年)に海東郡と海西郡が合併して海部郡となると、西柳原町の海部郡役所に移転して海部郡立図書館に改称。
海部郡立図書館は海部郡内の18町村すべてに巡回文庫を設置するという先駆的な試みを行った。
1923年(大正12年)から1926年(大正15年)の名称は海部郡教育会附属図書館である。
1926年に郡役所が廃止されると、海部郡立図書館は一時的に廃館となり、蔵書の30%に相当する約2,500冊が失われた。 | 津島市立図書館 |
1232 | 1910年 | 津島市立図書館 |
1234 | ペルシア文化圏 | マー・ワラー・アンナフル |
1236 | 2005年(平成17年)1月1日に松阪市は嬉野町・三雲町・飯南町・飯高町と新設合併し新・松阪市となり、松阪市松阪図書館に改称した。
同時に貸出冊数を10冊に増やし、三重県全体に貸し出し対象者を拡大する変更を行った。
この時、嬉野図書館も松阪市の管理運営となるが、システム統合が行われたのは2007年(平成19年)4月1日のことである。
2009年(平成21年)4月に指定管理者制度を導入し、図書館流通センターの管理に移行した。
2013年(平成25年)11月に入館者カウンターを設置した。 | 松阪市図書館 |
1237 | 図書館流通センター | 松阪市図書館 |
1239 | フー・マンチューとチャーリー・チャンはアメリカ文化史において最も重要でよく知られた架空の東アジア人登場人物の2人となっている。
20世紀初頭、フー・マンチューはサックス・ローマー、チャーリー・チャンはアール・ダー・ビガーズとどちらも白人作家により創作された。
フー・マンチューは皮肉的、博識で世界征服をたくらむ中国人殺人者で、東アジア人の移民の未知からくる脅威の具象化であった。
一方チャーリー・チャンは控えめで従順な中国系ハワイ先住民の探偵で、白人のアメリカ人により多くの差別的な侮辱を投げつけられつつ丁寧に問題を解決する、アメリカ人が考える典型的「良い」東アジア人である。
どちらのキャラクターも多くの小説や映画で広く人気を獲得した。 | アメリカ合衆国における東アジア人のステレオタイプ |
1240 | フー・マンチュー | アメリカ合衆国における東アジア人のステレオタイプ |
1242 | アレクサンドロス3世の死後、トランスオクシアナはセレウコス朝、バクトリア王国の支配下に入り、バクトリアの貨幣を模した貨幣が鋳造されはじめる。紀元前2世紀にバクトリア王国が大月氏によって滅ぼされた頃、トランスオクシアナは遊牧民族の康居によって支配されていたと言われている。トランスオクシアナと中国を結ぶ交易路は大月氏や匈奴などのタリム盆地に勢力を有する遊牧勢力に阻まれていたが、前漢の武帝によるフェルガナ(大苑)遠征の結果、紀元前2世紀から交易が開始される。トハーリスターンに建国されたクシャーナ朝はトランスオクシアナを支配下に置き、クシャーナ朝が衰退した後のトランスオクシアナにはオアシス都市の連合国家が成立する。5世紀半ばにトランスオクシアナを含むパミール高原以西のオアシス地帯は、遊牧民族のエフタルの支配下に入る。 | マー・ワラー・アンナフル |
1243 | 大月氏 | マー・ワラー・アンナフル |
1245 | 1907年 | ステンレス鋼の歴史 |
1248 | ユダヤ人の「追放」が始まった当初、ユダヤ人の抵抗組織のメンバーは会合を持ち、ドイツに対して戦わないことを決定していた。これは、ユダヤ人が殺されるのではなく、労働キャンプに送られるだけだと信じていたからであった。しかし、1942年の終わりには、「追放」と言うものが死の収容所へ送られることだとわかり、残ったユダヤ人は戦うことを決定した。 | ワルシャワ・ゲットー蜂起 |
1249 | 労働キャンプ | ワルシャワ・ゲットー蜂起 |
1251 | 真砂古が刊行された天明7年(1787年)春、葛飾派の重鎮、二六庵竹阿が約20年の大坂暮らしを終えて江戸へ戻ってきた。
竹阿はしばしば西日本各地を巡っており、その中で関西との縁が深まって約20年間、大坂暮らしをするようになった。
しかし竹阿と同じく関東の出身で親友であった石漱が関東に帰ることになり、その上、竹阿を大坂に誘った門人が死去したこともあって、江戸へ戻ることになった。
竹阿は西日本各地に多くの門人がおり、後に一茶が俳諧修行のために西日本各地を行脚した際、竹阿の門人を尋ねて廻ることになる。
一茶は天明7年(1787年)11月、二六庵で竹阿所蔵の「白砂人集」を書写している。
なおこの時の名乗りは小林圯橋であり、一茶ではなかった。
当時竹阿は78歳、一茶は素丸からの推薦もあって二六庵に住み込んで竹阿の内弟子となるとともに、高齢の竹阿の世話をするようになったと考えられる。
後述のように竹阿の教えは一茶に大きな影響を与えており、一茶は寛政2年(1790年)3月13日、81歳で亡くなった竹阿の最期を看取ったと見られている。 | 小林一茶 |
1252 | 二六庵 | 小林一茶 |
1254 | 食品サンプルはリアルであると同時に非現実性を兼ね備えている場合がある。いわゆる「瞬間の表現」であり、代表的なものでは土産物店などに見られる饅頭類に切れ込みを入れて中の食材を明確化したもの、麺類を提供する飲食店において麺を箸やフォークで持ち上げて動的表現を加えたものなどがある。
現代は食品売り場や飲食店の販促ツールとしての役目だけでなく、日本国外からの観光客への土産物、芸術品や玩具としての利用も広まっている。キーホルダーや携帯電話のストラップにできる小型版も作られるようになった。東京で飲食店関連用品の販売店が多く集まる合羽橋道具街や東京ソラマチ、横浜市、さらに関西地方などでは、食品サンプルを訪日外国人を含む一般消費者に販売したり、製作を体験させてくれたりする店もある。海外では「フード・サンプル」の他に「フェイク・フード」と呼ばれている。
2010年以降、ネットが普及して情報が集めやすくなったことで、審美的・技巧的な側面から食品サンプルを嗜好する層が現れた。ネット上の通信販売では製作キットの販売なども行われるようになっている。 | 食品サンプル |
1255 | 「フェイク・フード」 | 食品サンプル |
1257 | 『はつゆきさくら』に出現するMAP移動や選択肢により物語の展開が変化する恋愛アドベンチャーゲームである。初回のプレイでは特定の物語にしか進めないが、この物語を結末まで読むと、他の物語へ分岐する選択肢が出現する。ヒロイン全員の物語を結末まで読むと、Graduationという物語に進めるようになり、本作の真相がそこで明かされる。短い物語も含めると、本作にはエンディングが10個あり、その他にもバッドエンドが存在する。ゲームを1回以上クリアすると、起動直後のトップメニューにCGやBGMを閲覧できるメニューが追加される。 | はつゆきさくら |
1258 | 1回以上 | はつゆきさくら |
1260 | 北越北線はこの時点で路盤は完成していたが、軌道敷設は行われておらず、もともと優等列車の運転を想定して高い規格で建設されていたこともあり、翌1989年(平成元年)5月31日に高速化・電化に伴う工事実施計画の変更が申請され、路線の軌道は、最高速度200km/hも視野に入れた高規格路線での建設が開始された。
これにより、JRと直通の特急列車を走らせることとなり、高速化事業に要するとされた310億円は、建設に当たっていた公団の地方新線工事費から70億円、幹線鉄道活性化事業費補助金が42億円、北越急行出資金が40億円、JR東日本の負担金が158億円とされた。
JR東日本の負担分は、北越北線の利用権という無形財産取得名目として実施された。 | 北越急行ほくほく線 |
1261 | 200km/h | 北越急行ほくほく線 |
1263 | 信長の家臣との関係については、しばしば譜代の重臣の佐久間信盛が追放されたことが注目される。
この追放は、一般的には、信長は能力の足りない家臣を容赦なく追い出した事件だと評価されている。
例えば、池上裕子は「譜代・重臣であっても(中略)切り捨てる非情さ」の現れだと表現している。
しかし、神田によれば、追放前に信盛には名誉回復の機会が与えられていることや、信盛が高野山で平穏に余生を送ったと考えられることなどからすると、信長の対応は冷酷とまでは言えないという。
そして、信長が家臣の扱いに気を配ったことは、信長が信盛追放の理由の一つとして信盛家中に対する過大な負担を挙げていることからも裏付けられるという。 | 織田信長 |
1264 | 高野山 | 織田信長 |
1266 | 柱頭 | サフランの取引と利用 |
1268 | 初期の食品サンプルは実物を寒天で型取りして蝋を流し込んで作成された。蝋はあらかじめ絵の具を溶かして色付けしたものが用いられ、製品補強を行うために脱脂綿による裏打ちを行った後、表面によりリアルな彩色を施す。こうした一連の作業は手作業で行われているため、実際に飲食店で提供される特徴(皿、盛り付け、量など)に近い個々の食品サンプルの製作が行われた。
食品サンプルが高い集客能力を持ったイメージ喚起のための装置として、一般に広く認知されるようになると、それに伴って食品サンプル生産業者に対する受注が増加した。1970年代頃に入ると原材料は蝋製食品サンプルの持つ溶けやすい、壊れやすいといった欠点が改善された合成樹脂へと変化していき、生産の簡略化を目的とした合成樹脂用の金型などが開発された。これにより、より緻密でリアルな食品サンプルが製作されるようになった。 | 食品サンプル |
1269 | 蝋 | 食品サンプル |
1272 | 藤山は帰国後すぐに海軍より再度南方慰問の要請を受け、11月にスラウェシ島へ向けて出発した。
藤山はヨーロッパの文化にさらに触れ、現地の民謡を採譜したいという気持ちから要請を承諾した。
1回目の慰問での扱いは軍属で、藤山はこれに強い不満を覚えていたが、この時は月給1800円の海軍嘱託(奏任官5等・少佐待遇)としての派遣であった。
藤山の慰問団はスラウェシ島・ボルネオ島・小スンダ列島のバリ島・ロンボク島・スンバワ島・フローレス島・スンバ島・ティモール島などを巡った。
このうちスンバ島は多数の敵機が飛び交う最前線の島で、慰問に訪れた芸能人は藤山ただ一人であった。
なお、小スンダ列島を慰問するにあたり、軽装で着任するよう要請された藤山は、愛用していたイタリア・ダラッペ社製のアコーディオンをスラウェシ島に置いたまま出発したが、同島に戻ることなく敗戦を迎えたため手放す羽目になった。
これ以降藤山はジャワ島スラバヤで購入したドイツ・ホーナー社製のアコーディオンを愛用することになる。 | 藤山一郎 |
1273 | スラウェシ島 | 藤山一郎 |
1275 | 音楽観の違い | 藤山一郎 |
1277 | イドリヤはスロベニア西部のプリモルスカ地方の鉱山町で、1490年代に水銀鉱山が発見された。
16世紀の時点ではその鉱山で水銀があまり多くは採れなかったが、17世紀以降増加し、1689年には2000キンタール程度の水銀を産出していた。
しかし、同じ時期のアルマデンは1万キンタール程度、ウアンカベリカは15000キンタール以上であり、前述のようにその位置付けは補助的なものだった。
イドリヤの水銀はヌエバ・エスパーニャに回された時期が多かったが、17世紀前半においては、ヌエバ・エスパーニャで水銀が不足している際にも、ペルーに優先的に回されていた。
これはヌエバ・エスパーニャがスペイン王に支払っていたのが10分の1税だったのに対し、ペルーが5分の1税を支払っていたことなどと関係があったのではないかと指摘されている。 | 水銀の遺産アルマデンとイドリヤ |
1278 | 17世紀以降 | 水銀の遺産アルマデンとイドリヤ |
1280 | 百済は『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国を母体として、少なくとも4世紀前半頃までには漢城(現在のソウル)を中心として成立していたと見られ、日本の学界ではこの4世紀前半頃の成立とする説が定着している。後に編纂された『三国史記』(1143年成立)の記載に基づくと、百済の建国は紀元前18年となり、韓国の学界では1976年に千寛宇、李鍾旭らがこれを史実と定義して以来、現在でも有効な説の1つである。ただし、李丙燾が1985年に3世紀後半の成立とする説を提唱して以来、3世紀後半に置く説が現在の韓国で最も有力な説となっている。更に4世紀前半とする説もあるが、どちらの場合でも、中央集権的な国家の出現は4世紀半ば以後のことと見られている。 | 百済 |
1281 | 紀元前18年 | 百済 |
1283 | フリードリヒの宣言に満足したインノケンティウス3世はハインリヒが帝国に移ることを認め、翌1216年に没した。帝国滞在中、フリードリヒはエルザス、ライン河畔、ヴォルムス、シュパイアーに滞在し、諸侯に積極的に干渉しようとはしなかった。フリードリヒは帝国の統治において、ハインリヒ6世没後に諸侯が獲得した特権を1213年と1220年の2度にわたって承認し、聖俗両方から支持を獲得した。 | フリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝) |
1284 | 諸侯 | フリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝) |
1286 | 高橋元永 | 日立鉱山 |
1288 | 検出された800点あまりの木簡からは、長登銅山には銅山経営に携わる官衙があり、長門国直営の銅山であったことが判明した。
また木簡からは多くの人々を使役して銅生産を行い、産出された銅を平城京や豊前など、各地に出荷していたこともわかる。
『日本三代実録』や『類聚三代格』にある「長門国採銅所」、「採長門国銅使」とは、長登銅山のことであると考えられている。
銅の利用先としては和同開珎を鋳造していた鋳銭司があり、また東大寺の大仏に使用された可能性が極めて高いとされている。 | 長登銅山 |
1289 | 木簡 | 長登銅山 |
1291 | ジャウナギ | ウツボ |
1293 | A320は低翼配置の主翼下に左右1発ずつターボファンエンジンを装備し、尾翼は低翼配置、降着装置は前輪配置である。全長は37.57メートル、全高は11.76メートル、全幅は最大で35.80メートルである。最大離陸重量は66トンから77トンで最大巡航速度はマッハ0.82である。2018年末までの総納入数は、A320単体で5,213機、A320ファミリー全体で8,525機である。2019年10月現在、A320ファミリーの関係した機体損失事故および事件は、航空事故が30件、テロ等の事件が7件、その他駐機中の火災等によるものが7件発生している。30件の事故により951人、7件の事件により441人、1件のハイジャックにより犯人が死亡している。A320単体では、航空事故は25件、テロ等の事件が5件、その他駐機中の火災等によるものが6件である。11件の事故により計816人、2件の事件により計216人死亡しているほか、ハイジャック1件で犯人1人が死亡している。 | エアバスA320 |
1294 | A320 | エアバスA320 |
1296 | 一般的な鉄輪鉄軌条式の鉄道においては、車輪とレールはどちらもわずかに歪んで接触している。例えば新幹線に用いられている新品の車輪を新品の60kgレールに載せると、1輪あたりの重量8tの条件で、14mm×12mm程度の進行方向前後方向に長い楕円形状の領域で接触する。この楕円形状の領域に発生する力によって列車が支えられ、走行している。駆動または制動に際しては、車輪とレールの間で前後水平方向に力が働く。レールに対して車輪が滑らずに力を伝達できている時は、摩擦の現象でいう静摩擦力にあたり、滑っている時には動摩擦力にあたる。鉄道では車輪を滑らせずに走行することが基本であるため、静摩擦力の範囲で用いるように考慮されている。車輪とレールの間に働く摩擦力のことを鉄道では粘着力、あるいは接線力、クリープ力などと呼ぶ。静摩擦力の最大値である最大静摩擦力は、垂直抗力に静摩擦係数を掛けた値として求めることができ、これを超えた力が働くと物体は滑り始める。鉄道の場合垂直抗力は車輪に掛かっている車体の重量であり、輪重と呼ぶ。粘着力を輪重で割った値を接線力係数と呼び、このうち最大のものを粘着係数と称する。粘着係数が静摩擦係数に相当することになる。この時の粘着力を特に粘着限界と呼んでいる。 | 粘着式鉄道 |
1297 | 接線力係数 | 粘着式鉄道 |
1299 | 1432年5月6日 | ヘントの祭壇画 |
1301 | バヤズィトはセルビアと和約を結んでアナトリアに渡り、1390年より父の征服事業を引き継いでのアナトリア遠征を開始する。遠征軍にはビザンツ帝国、セルビア、ブルガリア、アルバニアなどのバルカン半島の臣従国も参加しており、アナトリアに残っていた最後のビザンツ領であるフィラデルフィア攻略にはビザンツの皇子マヌエルも従軍していた。 | バヤズィト1世 |
1302 | 1390年 | バヤズィト1世 |
1304 | ヴェルトハイムはバーデン=ヴュルテンベルク州最北の都市で、タウバー川がマイン川に注ぐ河口部のオーデンヴァルトの突出部に位置する。
マイン川の対岸はシュペッサルトである。
以下の市町村がヴェルトハイムと境を接する。
東から時計回りに列記する。
ホルツキルヒェン、ヘルムシュタット、ノイブルン(以上、バイエルン州ヴュルツブルク郡)、ヴェルバッハ、キュルスハイム(ともにマイン=タウバー郡)、ノインキルヒェン(バイエルン州ミルテンベルク郡)、フロイデンベルク(マイン=タウバー郡)、シュタットプロツェルテン、ファウルバッハ(ともにミルテンベルク郡)、ハスロッホ、クロイツヴェルトハイム、ティーフェンシュタイン(以上、バイエルン州マイン=シュペッサルト郡)である。 | ヴェルトハイム |
1305 | タウバー川 | ヴェルトハイム |
1307 | しかし、東洋汽船はサンフランシスコ航路と南米航路の定期航路以外は有力な航路を持っておらず、貨物船隊も揃っていなかった。
実際、「天洋丸」就航直後に創立以来初めての赤字を出し、1910年(明治43年)に遠洋航路補助を受けるまでの間は、天洋丸級貨客船の減価償却やアメリカの移民抑制策などに悩まされて経営が苦しい状況が続くこととなった。
経営不振は三番船「春洋丸」の建造に大きな影響を与え、建造期間が間延びする結果となった。
また、天洋丸級貨客船の特徴の一つであった蒸気タービンも期待したほどの成果を挙げなかった。
前述のように浅野総一郎はかねてから石油の有用性を説き、また建造当時のカリフォルニア原油の相場がトン当たり6.7円、日本産石炭がトン当たり8円だったこと、浅野総一郎が取引のほかに石油精製事業を手掛けていたことが蒸気タービン導入の大きな伏線となっていたが、「天洋丸」就航直後に原油関税が引き上げられた結果、「安い原油で運航する」という浅野総一郎の目論みは大きく崩れ去る結果となってしまった。
機関そのものも発展途上で先行のレシプロ機関にはかなわず、ライバルの「コリア」と比べても燃料消費量が35パーセント余分にかかる結果となった。
石炭焚きに切り替えざるを得なかったとはいえ完全な石炭焚きにはしなかったらしく、2本の煙突からはそれぞれ違った色の煙が出ていた。
遅れて竣工した「春洋丸」のタービン機関用のボイラーは、この理由により初めから石炭専焼であった。
浅野総一郎個人に起因しない理由もあるとはいえ、日本郵船が一割配当していたのとは対照的な東洋汽船の経営危機に株主は不満を持ち、株主総会では浅野総一郎の退陣を要求するまでになった。
自決を要求する者もいた。
経営危機は、浅野総一郎の音頭取りで成立した遠洋航路補助法による補助金により、当面去ることとなる。 | 天洋丸級貨客船 |
1309 | 検討を進めていく中で、ミネルバの移動機構はNASAのローバーが採用した車輪ではなく、ミネルバ内部のモーターが回転することによって生じるトルクを利用して、ホップをしながら小惑星表面を移動する機構が採用された。ミネルバ本体の開発は、限られた開発費用の中、宇宙科学研究所と日産自動車宇宙航空事業部(2000年からはアイ・エイチ・アイ・エアロスペース)と共同開発とし、設計から開発、そして資金面の手配も民間企業との共同で行った。また放射線耐性など試験を行いながら、宇宙用ではない民生品を積極的に採用して経費の節減に努めた。そして地球から遠く離れた小惑星を探査するミネルバにとって必須となる自律機能を持たせるため、様々な工夫を施した。NASAが開発を進めていたMUSES-CNは、2000年11月、開発中止となった。NASAのローバーの計画中止によってミネルバがMUSES-Cに搭載される可能性は著しく高まったが、ミネルバは正式プロジェクトに格上げされることは無く、最後までオプション扱いのままであった。結局2003年2月、直径12センチ、高さ10センチの正16角柱、本体重量は591g、分離機構などを含めても総重量1457gの超小型小惑星探査ローバー、ミネルバが完成した。ミネルバは日本初の宇宙探査用ローバーであり、また世界初の小惑星探査ローバーとなった。 | ミネルバ_(ローバー) |
1310 | 日本 | ミネルバ_(ローバー) |
1313 | 1905年(明治38年)12月、久原房之助は赤沢銅山を買収し、同年、日立鉱山と改名した。
日立鉱山は創業当初は様々な困難にぶつかり粗鉱産出量も伸び悩んだが、1907年(明治40年)頃からは次々と有望な新鉱床が発見され、新しい技術の積極的な導入もあって粗鉱産出量は急速に伸びていった。
しかし産出量の急速な増加にもかかわらず鉱毒水への対策は十分ではなく、1906年(明治39年)頃の状況は、粉鉱は野積み状態で放置され、廃石に至っては宮田川の渓谷に投棄していて、野積みの粉鉱や渓谷に投棄された廃石から重金属など鉱害の原因となる物質が宮田川に流出した。
そのため鉱山の規模が拡大を開始する1907年(明治40年)には、宮田川沿いの宮田地区では鉱毒水のために苗代が大きな被害を受け、約80パーセントもの水田が作付け不能に陥った。 | 日立鉱山の鉱害問題 |
1314 | 約80パーセント | 日立鉱山の鉱害問題 |
1316 | フォン・ブラウン博士に率いられる技術者たちのチームがアポロ計画を立ち上げた当初、ロケットはどのようなものを使用すべきかという点については不透明であった。このうち直接降下方式を採用するためには、計画中のノヴァのような巨大なペイロードを持つロケットが必要だった。やがてNASAが月周回ランデブー方式の採用を決定したことにより、マーシャル宇宙飛行センターはサターンIBおよびサターンVの開発へと向かうこととなった。これらのロケットはノヴァと比較すれば小型であったが同時期の他のロケットより遥かに大型であり、特にサターンVは初打ち上げから40年以上が経過した2013年現在においても、実用化に至った最大のロケットの座を保持し続けている。 | アポロ計画 |
1317 | サターンV | アポロ計画 |
1319 | 第11王朝はナイル川上流、上エジプトのテーベ州侯による政権であった。第1中間期、周辺の州侯との戦いに勝利を収めつつ勢力を拡大し、北のヘラクリオポリスに拠点を置く第10王朝とエジプトを南北に二分した。第11王朝のメンチュヘテプ2世の時、ヘラクレオポリスを占領して再びエジプトを統一した。この統一以降が中王国に分類される。しかしメンチュヘテプ2世の死後間もなく、政権は第12王朝に移った。 | エジプト中王国 |
1320 | ヘラクリオポリス | エジプト中王国 |
1322 | 赤水の丹霞は標高240mから1750mまでの地形によって成り立っており、1500mを超える高低差は、登録地域の中でも群を抜いている(次に大きい差は江郎山の645m)。
また、「千滝の故郷」の異名をとるほどに滝が多く、丹霞地形の滝としては最大の十丈洞滝などが見られる。
中国の丹霞地形の研究者には、規模、景観美、変化などの面で、赤水丹霞は中国随一の丹霞と評価する者もいる。 | 中国丹霞 |
1323 | 十丈洞滝 | 中国丹霞 |
1325 | テンポイントは1975年3月に小川厩舎に入厩した。
8月17日、函館競馬場の新馬戦でデビューした。
3日前に行われた調教で優れた動きを見せたことが評価され、50%近い単勝支持率を集め1番人気に支持された。
レースでは好スタートから序盤で先頭に立つとそのまま逃げ2着馬に10馬身の着差をつけてゴールし、優勝した。
走破タイムは函館競馬場芝1000mのコースレコードを0.5秒更新するものであった。
この時のレース内容からテンポイントは「クラシック候補」という評価を受けるようになった。 | テンポイント |
1326 | 函館競馬場 | テンポイント |
1328 | ユルゲン・シュトロープSS少将の報告書によると「検挙されたユダヤ人5万6065人のうち、7000人がゲットーでの作戦中に死亡。さらに6929人はトレブリンカへ移送して殺害した。あわせて1万3929人が命を落とした。この5万6065人とは別にさらに5000人から6000人が火災で焼け死んだ」という。しかし5万6065人のうち死亡した1万3929人をのぞく4万2136人の運命についてはシュトロープの報告書はまったく触れていない。しかし別の証言や資料から見て、どうやらマイダネク(ルブリン強制収容所)、もしくはトラヴニキやポニアトーヴァなどの強制労働収容所へ送られたようである。。もともと「労働不能者」と看做されたゲットー住民はとっくにトレブリンカへ送られて殺されていたのだから蜂起の時点でゲットーに残っている者たちはほとんどが「労働可能者」である。したがってほとんどが労働力として利用されたのであろうと考えられる。とはいえ結局この後にマイダネクで行われた「収穫祭作戦」によって大多数は殺されてしまったようである。 | ワルシャワ・ゲットー蜂起 |
1329 | 5万6065人 | ワルシャワ・ゲットー蜂起 |
1331 | 教師や校長は、「成績をよく考へ大それたことをするな。お前の学力では師範の二部が適当だ」と忠告するが、康成は教師らの反対を押し切り、すぐ3月21日に上京して、最初に上村龍之助(祖母の妹・トミの長男)を訪ね、その後浅草区浅草森田町11番地(現・台東区浅草蔵前)にいる従兄・田中岩太郎と伯母・ソノ(母の異母姉)の暮らす家に居候しながら、日土講習会や駿河台の明治大学の予備校に通い始めた。
この田中ソノ親子に川端は恩義を感じ、〈息子は苦学をしたほどだから、余裕のない暮しで、私のために質屋通ひもしてくれた。伯母は息子にさへかくして、私に小遣銭をくれた。それが伯母にとつてどんな金か私にはよく分つてゐた〉と語っている。
康成は、浅草公園などにもよく出かけ、上京一番に麻布区新龍土町12番地(現・港区六本木7丁目)にいる文通相手の南部修太郎宅も訪ねた。
南部宅へはその後一高入学後も何度か通った。 | 川端康成 |
1332 | 麻布区新龍土町12番地 | 川端康成 |
1334 | 斎藤智恵子は、日本の実業家だ。東京都台東区浅草のストリップ劇場であるロック座の元社長、後に会長、名誉会長。昭和中期に「東八千代(あずまやちよ)」の芸名で踊り子として活動した後、経営者に転向し、日本一といわれる劇場チェーンを築き上げた。その男勝りの性格や様々な武勇伝から「伝説の女傑」「浅草のドン」「浅草のゴッドマザー」とも呼ばれた。勝新太郎ら数多くの芸能人の支援、ビートたけしとの交友でも知られた。宮城県白石町出身である。 | 斎藤智恵子 |
1335 | 斎藤智恵子 | 斎藤智恵子 |
1337 | ROS1.0のリリースと並行して、ウィローガレージ社はROSで制御することを前提としたロボット「PR2」を開発・発表した。PR2は2本のロボットアームを備えた自律移動型の研究用ロボットである。そして、ウィローガレージ社はPR2を利用したアプリケーションの開発コンテスト「PR2ベータプログラム」の公募を行なった。78の応募の中からアメリカ、ヨーロッパ、日本を中心とした10の大学機関と民間企業1社が採択され、特に優れた提案に対してはPR2が無償で提供された。2010年9月には、40万ドルでPR2の一般販売も開始されオープンソースコミュニティへの貢献者には12万ドルの割引というインセンティブも与えられた。PR2ベータプログラムが行われた2年間に、ROSで再利用可能なツールやアプリケーションが次々と開発され、全体で2,000以上のROSパッケージがリリースされた。PR2やROSを利用した研究成果を映像化してYouTubeなどに投稿するグループも現れ、メディアの注目を受けたり、そこからROSに興味を持つ研究者が現れたりする好循環が生まれた。これらの施策を通してROSの研究と他のロボット研究とのコラボレーションも進み、ROSの知名度が飛躍的に高められたと評される。
2010年11月には、入門者への敷居を下げてROSの普及を図るため、ロボットキット「TurtleBot」が開発された。TurtleBotは、iRobot社のCreateを利用した車輪式の移動ロボットであり、翌年からウィローガレージ社により発売されたほか、オープンソースハードウェアとして設計データが公開された。 | RobotOperatingSystem |
1338 | 2010年11月 | RobotOperatingSystem |
1340 | 多くの大西洋横断電信ケーブルは、電流を流す銅線をガタパーチャで覆い、さらにケーブルを保護するためその周りを鉄線で覆うという構造になっている。これは元々1851年にドーバー海峡横断電信ケーブルで採用された構造である。以降、20世紀始めに装荷ケーブルが開発されるまで、大西洋横断電信ケーブルに限らずほとんどの海底ケーブルでこの構造が採用されていた。1857年に作られたケーブルは、銅線のまわりを3層のガタパーチャで覆い、さらにヘンプヤーン(麻糸)をらせん状に巻いてから18本の鉄線で覆っている。ケーブルの外径は16mm、重量は1kmあたり549kgであった。1865年に作られたケーブルは、信号の伝送速度を上げるために銅線の断面積を3倍にし、そしてガタパーチャは4層にして厚みを1.5倍にした。外径は28mm、重量は1kmあたり946kgであった。また、浅瀬に敷設するケーブルは深海のものに比べて磨耗が激しいため、さらに丈夫にした2重外装ケーブルを使用している。1866年に製造したケーブルも基本的には1865年のものと同じだが、4度目の敷設工事の際に発生した鉄線の貫通事故を教訓として、よりやわらかい鉄線を使い、それを亜鉛メッキしたものを外装に使用している。さらに時代が進むと、信号の減衰を抑えることのできる装荷ケーブルが採用されるようになり、通信速度が向上した。1926年に敷設されたケーブルはそのすべてが装荷されており、毎分2400字の通信能力を持っていた。 | 大西洋横断電信ケーブル |
1341 | 1865年 | 大西洋横断電信ケーブル |
1343 | 有限会社ノア | 国崎町 |
1345 | 75万円 | 津島市立図書館 |
1347 | 報国会島根支部は、松江市内の和田珍頼弁護士事務所の一室と、深田屋旅館(松江市殿町、「深田旅館」とする資料もある)別館2階を事務所としていた。
この旅館は、報国会島根支部長である桜井三郎右衛門(当時満41歳)の常宿でもあった。
岡崎は尊攘同志会と連絡を取りつつ、波多野安彦(尊攘同志会所属)、長谷川文明(当時24歳、大東塾所属)、森脇昭吉(島根県立農業技術員養成所所属)、白波瀬登らと、敗色の濃い戦局に焦り「昭和維新・一斉決起」を謀議していた。
支部長の桜井は決起に際して、民間だけではなく軍隊との連携も提案したが、岡崎はこれに反論した。
連絡を取る余裕はなく、民間から立ち上がれば軍も追従するとして昭和維新の捨て石となるべきと述べた。
この考えが波多野や長谷川など若い世代からの支持を得た。 | 松江騒擾事件 |
1348 | 松江市殿町 | 松江騒擾事件 |
1350 | このように中世における事例が見られるとはいえ、小辺路が参詣道として確立するのは近世になってのことであり、その呼称の初見も近世初期のことである。
小辺路の呼称を確認できる最古の史料は、寛永5年(1628年)に編纂された笑話集『醒睡笑』巻一に収められた次の小話で、小辺路の読み方(こへち)の典拠もここである。
著者である安楽庵策伝は、『醒睡笑』を京都所司代板倉重宗に寛永5年(1628年)に献呈している。
この成立年代を考えるならば、小辺路の名は早ければ戦国時代末期から近世初頭には知られていたことが推測できる。 | 小辺路 |
1351 | 『醒睡笑』 | 小辺路 |
1353 | 1食 | マルセル・プルースト |
1355 | とくに「荒川」の源流である荒川岳南西斜面の標高3000-2500m一帯は、「荒川大崩壊地」と呼ばれ、天竜川流域を代表する崩壊地である。
ここは3000m級の山頂付近から落差500mにも及ぶ「すさまじい」崩壊地で、いまも豪雨のたびに崩壊を続けている。
史料によれば、一帯では年貢として木材(榑木)の供出が課されており、江戸時代初頭から100年あまりにわたり木材の伐採が続けられた。
フォッサマグナと中央構造線の交点付近にあたるこの地域は元来地質が不安定であり、木材の伐採も相まって斜面の崩壊が始まったとされている。 | 小渋川 |
1356 | 3000-2500m | 小渋川 |
1358 | 新政府はすでに東海道・東山道・北陸道の三道から江戸を攻撃すべく、正月5日には橋本実梁を東海道鎮撫総督に、同9日には岩倉具定を東山道鎮撫総督に、高倉永祜を北陸道鎮撫総督に任命して出撃させていたが、2月6日天皇親征の方針が決まると、それまでの東海道・東山道・北陸道鎮撫総督は先鋒総督兼鎮撫使に改称された。
2月9日には新政府総裁の熾仁親王が東征大総督に任命(総裁と兼任)される。
先の鎮撫使はすべて大総督の指揮下に組み入れられた上、大総督には江戸城・徳川家の件のみならず東日本に関わる裁量のほぼ全権が与えられた。
大総督府参謀には正親町公董・西四辻公業(公家)が、下参謀には広沢真臣(長州)が任じられたが、寛典論の広沢は12日に辞退し、代わって14日強硬派の西郷隆盛(薩摩)と林通顕(宇和島)が補任された。
2月15日、熾仁親王以下東征軍は京都を進発して東下を開始し、3月5日に駿府に到着。
翌6日には大総督府の軍議において江戸城進撃の日付が3月15日と決定されたが、同時に、慶喜の恭順の意思が確認できれば一定の条件でこれを容れる用意があることも「別秘事」として示されている。
この頃にはすでに西郷や大久保利通らの間にも、慶喜の恭順が完全であれば厳罰には及ばないとの合意ができつつあったと思われる。
実際、これらの条件も前月に大久保利通が新政府に提出した意見書にほぼ添うものであった。 | 江戸開城 |
1359 | 橋本実梁 | 江戸開城 |
1361 | 江戸時代には建前としては獣肉食の禁忌が守られた。
特に上流階級はこの禁忌を守った。
例えば狸汁は戦国時代には狸を使っていたが、江戸時代にはコンニャク、ごぼう、大根を煮たものに変わっている。
1613年(慶長18年)、平戸島に商館を開設したイギリスのジョン・セーリスは陸路で大阪(osaca)から駿河(Surunga)に向かう行程で書かれたとみられる日本人の食習慣に関する記述の中で、豚が多く飼育されていることに言及している。
1643年(寛永20年)の刊行とされる『料理物語』には、鹿、狸、猪、兎、川獺、熊、犬を具とした汁料理や貝焼き、鶏卵料理等が紹介されている。
1669年(寛文9年)に刊行された料理書『料理食道記』にも獣肉料理が登場する。
1686年(貞享3年)に刊行された山城国の地理書『雍州府志』には、京都市中に獣肉店があったことが記されている。
江戸後期の国学者喜多村信節は、著書『嬉遊笑覧』の中で、元禄前の延宝・天和の頃には江戸四ツ谷に獣市が立ったことを述べている。
1718年(享保3年)には獣肉料理の専門店「豊田屋」が江戸の両国で開業している。 | 日本の獣肉食の歴史 |
1362 | 『料理食道記』 | 日本の獣肉食の歴史 |
1364 | オオタナゴ | イタセンパラ |
1366 | 前述の通り、あくまでもアルマデンとウアンカベリカの補助的位置付けであったが、18世紀にウアンカベリカの生産量が下落すると、これを上回るようになった。
水銀生産量は時期による乱高下が激しいが、参考までにいくつかの数値を示しておくと、1760年ごろのアルマデンの年平均生産量は9334キンタール、ウアンカベリカのそれは5901キンタール、これに対してイドリヤの1760年の生産量は3224キンタールであった。
しかし、1790年ごろの年平均はアルマデンが16800キンタール、ウアンカベリカが2268キンタールに対し、イドリヤの1790年の生産量は10967キンタールであった。
世界遺産としての価値を調査したICOMOSの評価書では、アルマデンに次いで世界で2番目に大きい水銀鉱山と位置付けられている。
この鉱山での採掘はアルマデンに先んじて1994年に停止されたが、イドリヤがそれまでの約500年間に世界に供給した水銀の量は、全体量の約8分の1に及ぶと見積もられている。 | 水銀の遺産アルマデンとイドリヤ |
1367 | 1790年ごろ | 水銀の遺産アルマデンとイドリヤ |
1369 | 第二次世界大戦がはじまり、東ヨーロッパの諸都市がドイツ軍に占領されると、それらの都市で暮らすユダヤ人たちはゲットーに隔離されるようになった。しかし1942年から1943年にかけてナチス親衛隊(SS)は「ラインハルト作戦」を開始し、ゲットーのユダヤ人たちを続々と絶滅収容所に移送するようになった。ワルシャワ・ゲットーでも過酷な移送作戦が行われ、数多くのユダヤ人がトレブリンカ絶滅収容所へ移送されて殺害された。 | ワルシャワ・ゲットー蜂起 |
1370 | 1942年から1943年 | ワルシャワ・ゲットー蜂起 |
1372 | イドリヤ | 水銀の遺産アルマデンとイドリヤ |
1374 | 菊花賞、有馬記念と続けて2着に敗れたテンポイントは一部から「悲運の貴公子」と呼ばれるようになった。
陣営は天皇賞(春)優勝を目標に据え、同レースの前に2回出走させる予定を立てた。
テンポイントは京都記念(春)、鳴尾記念をともに着差はクビ差ながら連勝し、天皇賞(春)では1番人気に支持された。
レースでは序盤は5、6番手でレースを進め、第4コーナーで先頭に立つとそのままゴールし、初の八大競走制覇を果たした。
前年の有馬記念のレース後、鹿戸は「なにかひとつ、テンポイントに大きなレースを勝たせてやりたかった。それが心残りだ。しかし、来年になれば、きっと......」とコメントしたが、この言葉は現実のものとなった。 | テンポイント |
1375 | 八大競走制覇 | テンポイント |
1377 | 約3.5km東 | 神戸外国人居留地 |
1379 | 大橋真六は古河市兵衛のもと長年足尾銅山で鉱山開発に従事した経験があり、鉱山経営に精通した人物であった。
ボイエス商会とそれに続く大橋の手によって、赤沢銅山は初めて本格的かつ近代的な開発、経営がなされるようになった。
まず常磐線の助川駅から鉱山までの道路の修繕が行われ、1904年(明治37年)には鉱山事務所など3ヵ所への電話敷設を行った。
また同年には水力発電所である陰作発電所の使用認可を受け、運輸、通信、電力といった近代的な鉱山経営に欠かすことが出来ないインフラ整備が行われた。
その結果、赤沢銅山の生産量は増加し、1905年(明治38年)には251.2トンの銅の生産を挙げるに至った。
しかし経営規模の拡張に伴い経営内容が悪化し、採掘される銅鉱石の品位も低下していた。
また後述する鉱害問題や鉱山周辺の立ち木の伐採問題で近隣住民との対立は激化しており、大橋真六と松村清吉、常二親子は赤沢銅山の経営に意欲を失っていき、1905年(明治38年)12月に久原房之助に鉱山を売却することになる。 | 日立鉱山 |
1380 | 足尾銅山 | 日立鉱山 |
1382 | 米料理 | サフランの取引と利用 |
1384 | 2007年11月、アメリカのロボット関連民間企業であるウィローガレージ社がSwitchyardの開発を引き継いだ。同社は、パーソナルロボットやサービスロボット産業の育成に取り組み、画像処理分野のオープンソースソフトウェア「OpenCV」などの開発支援も行なった企業である。さらに、のちにROSのネットワークプログラムに大きな影響を与えるPlayer/Stageプロジェクトの開発者であるブライアン・ガ―キーも加わった。彼らによってSwitchyardプロジェクトはROSとして組織化され、ROSがロボット用フレームワークとして多くのユーザを集める最初の転換点となった。
ウィローガレージ社は、オープンソースコミュニティを立ち上げてソフトウェアの共有・連携・再利用を促進する枠組みを構築した。そして同社は、学会や技術者・開発者向けイベントへの支援や参加を積極的に行った。また、初めてROSを利用する技術者向けに、ソフトウェアエンジニアではないヒューマンロボットインタラクション(Human-RobotInteraction;HRI)の専門家とともにマニュアル等の文書整備を推進した。
2010年1月22日にウィローガレージ社は「ROS1.0」を発表した。2010年3月には、ROSの最初の公式リリースである「ROSBoxTurtle」が公開された。その後もアップデートが重ねられ、Linuxのようにディストリビューションとしてリリースされた。同年8月に「CTurtle」、そして2011年3月に「Diamondback」が公開された。 | RobotOperatingSystem |
1386 | 1559年のアンリ2世の突発的な事故死は政治的空白を作り出し、フランソワ2世の妃であるスコットランド女王メアリーの母方の親族であるギーズ家が実権を握った。キーズ公フランソワはカレーをイングランドから奪回した英雄であり、その弟のロレーヌ枢機卿はフランス・カトリック教会の首長で、いずれも熱狂的なカトリックだった。一方のプロテスタントはブルボン家当主のナバラ王アントワーヌを盟主に戴いていたが、熱狂的プロテスタントの妻ナバラ女王ジャンヌ・ダルブレ(ナバラ王妃マルグリットの娘)に主導権を取られる頼りない人物で(戦争中は寝返ってカトリックに改宗している)、後に弟のコンデ公ルイがプロテスタントの中心となる。 | ユグノー戦争 |
1387 | カレー | ユグノー戦争 |
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