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|---|---|---|
4481 | 2か月 | 大西洋横断電信ケーブル |
4483 | 「国民の選挙権のより頻繁な行使」 | チャールズ・グレイ(第2代グレイ伯爵) |
4485 | 「五角堂」 | 谷田部(つくば市) |
4487 | レギンボードン家 | ヴェルトハイム |
4491 | 前述のフロイスの人物評でも言及されているように、信長は武芸の鍛錬に熱心であった。
若き日の信長は、馬術の訓練を欠かさず、冬以外の季節は水泳に励んでいたという。
さらに、平田三位などの専門家を師として、兵法や弓術、砲術といった事柄を修めた。
信長の趣味として、後述する茶の湯、相撲とともに鷹狩が知られる。
『信長公記』首巻にはすでに鷹狩の記述がみられ、青年期からの趣味であったことがわかる。
天下の政治を任されるようになってからも三河や、摂津での陣中、京都の東山などで鷹狩を行った。
天正7年(1579年)の2~3月には太田牛一が『信長公記』に「毎日のように」と記すほど頻繁に行い、翌天正8年(1580年)の春にもやはり「毎日」鷹狩りを行った。
前述したとおり、信長は馬術の鍛錬にも励んでいたようで、天正9年(1581年)には安土、岐阜の各城下に馬場を設けている。
足利義昭を京都から追放し、自ら天下の政治を取り仕切るようになった天正年間になると、全国の大名・領主から信長のもとに馬や鷹が献上されるようになった。
このように天正年間には、多くの大名、領主から信長の許へ鷹や馬が献上された。
信長はこれらの献上の対価として分国を安堵した。
またこうした献上行為は信長の政策が全国の大名・領主に受け入れられた結果でもあった。 | 織田信長 |
4492 | 平田三位 | 織田信長 |
4496 | 1287年12月 | 陳朝 |
4498 | 1944年 | 斎藤智恵子 |
4500 | 恵宗 | 陳朝 |
4502 | 1841年 | キリスト磔刑と最後の審判 |
4504 | 1856年6月 | オレゴン州会議事堂 |
4506 | 1万キンタール程度 | 水銀の遺産アルマデンとイドリヤ |
4508 | 1492年8月に父ロドリーゴがアレクサンデル6世として教皇の座を得たこの年に、チェーザレはバレンシア大司教として異例の抜擢を受けた。
1493年9月に開かれた枢機卿会議において、アレクサンデル6世は会議の賛同を得て、チェーザレをバレンシア枢機卿に任命した。
これにより、アレクサンデル6世が教会内での自らのボルジア家の後継者を暗示する形となった。 | チェーザレ・ボルジア |
4511 | 当時は敵の手に落ちた捕虜の身内が身代金を支払って、身柄の引き渡しを要求するのが普通だったが、ジャンヌの場合は異例の経過をたどることになった。
多くの歴史家が、シャルル7世がジャンヌの身柄引き渡しに介入せず見殺しにしたことを非難している。
母国フランスから見捨てられたも同然だったジャンヌは、幾度か脱走を試みている。
ブルゴーニュ公領のアラスに移送されたときには、監禁されていたヴェルマンドワの塔から21メートル下の堀へと飛び降りたこともあった。
水面下ではイングランドとブルゴーニュ公フィリップ3世および配下のリニー伯が交渉を行い、イングランドのシンパだったフランス人司教ピエール・コーションがイングランドの要人ベッドフォード公とウィンチェスター司教ヘンリー・ボーフォート枢機卿と相談、最終的にイングランドがリニー伯に身代金を支払ってジャンヌの身柄を引き取った。
そしてコーションがこれら一連の交渉ごとと、その後のジャンヌの異端審問に重要な役割を果たすことになる。 | ジャンヌ・ダルク |
4512 | ヴェルマンドワの塔 | ジャンヌ・ダルク |
4514 | 仏教 | アヴァ王朝 |
4516 | 3年 | 陳朝 |
4518 | 平松伸二のアシスタントを務めながら作品作りに取り組み、1980年にサッカーを題材とした『キャプテン翼』が月例賞で入選し、同年18号に読切として掲載され漫画家デビューを果たした。
なおこの作品は中学サッカーを題材としており、主人公の名前は「翼太郎」であるが、「南葛」「修哲」「若林」「石崎」といった、後の連載版のベースとなる設定や登場人物も登場した。
ただし、鈴木によれば後の連載版に描かれた爽快さとは若干異なる内容となっており、「キャラクターの個性が上手くはじけなかった」と評している。
この作品を基にして連載化するにあたり高橋は、読切短編と同様に中学生を主人公とした設定や、山奥に住む自然児を主人公にした設定を考案したが行き詰まり、試行錯誤を経て、後の作品へと繋がる「サッカーに情熱を燃やす小学生」を主人公とした構想へと転換した。 | キャプテン翼 |
4519 | 平松伸二 | キャプテン翼 |
4521 | 12月9日 | フリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝) |
4523 | 第二次世界大戦後も、日本聖書協会は文語での旧約聖書の改訂を継続しており、詩篇(第1巻1948年、全訳1951年)、ヨブ記(1950年)の二書のみは文語改訂版が出版された。この詩篇の翻訳で、明治訳の「ヱホバ」が「主」に訳し直された。しかし、この改訳作業は中断され、口語訳へと切り替えられることとなった。その理由として日本聖書協会が挙げたのは、戦後教育で採用された「新かなづかい」と「漢字制限」に対応することであった。ただし、これに加えて、改訂標準訳(RSV,新約1946年、旧約1952年)が現れたことが影響したという見解もある。1950年に口語訳聖書作成が決定され、翌年、松本卓夫、山谷省吾、高橋虔(以上、新約)、都留仙次、遠藤敏雄、手塚儀一郎(以上、旧約)が改訳委員に任命され、他にコンサルタントが任命された。先に刊行されたのは新約聖書で、1952年から1953年にかけて各福音書と使徒行伝が分冊で刊行された後、残りも含めた全訳が1954年に公刊された。その底本はネストレ版で、19版(1949年)から始まり、翻訳中に届いた20版(1950年)、21版(1952年)も参照したという。ただし、日本聖書協会では公式に認められていないが、その訳文の一致などからは、RSVが重要な参考文献の一つであり、それをそのまま訳出したと思われる箇所も少なくないことが指摘されている。旧約聖書のほうは1953年に創世記と出エジプト記が分冊で刊行され、全訳は1955年に公刊された。その底本はルドルフ・キッテルのビブリア・ヘブライカ第3版で、こちらについてはRSVの旧約部分が公刊される前に、アメリカ聖書協会の好意で未定稿を送ってもらい、大いに参考にしたことが公表されている。新約と旧約の合冊版はその年の内に刊行され、同年の毎日出版文化賞特別賞を受賞した。これは明治訳、大正改訳と違い、日本人の手でなしとげた最初の翻訳と言える。なお、口語体で書かれた和訳聖書はこの他にもカトリックのバルバロ訳など多種あるが、単に「口語訳」と言った場合には普通この1954年/1955年の日本聖書協会版を指す。ただし、「協会訳」、「協会口語訳」といった呼び方も存在する。 | 日本語訳聖書 |
4524 | 1954年/1955年の日本聖書協会版 | 日本語訳聖書 |
4526 | 学位授与式における宗教上の問題 | ヘンリー・キャヴェンディッシュ |
4528 | 巣鴨拘置所 | 松江騒擾事件 |
4530 | 尋問の後にヴィテロッツォ及びオリヴェロットはそれぞれ「教皇に自らの罪業の大赦を願いたい」「ヴァレンティーノ公に反逆したのはヴィテロッツォが唆したためである」の言葉を残し、反逆罪によってその場で処刑された。
パオロ及びフランチェスコは即時に処刑はされず、ローマでチェーザレの弟ホフレらが指揮を取る教皇軍がジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニやフィレンツェ大司教リナルド・オルシーニらを逮捕すると共にオルシーニ一党を討伐したのを聞いた後、1503年1月18日にカステッロ・デラ・ピエーヴェでパオロらを処刑した。
なお、ジョヴァンニ・バッティスタは後に獄死、リナルドは釈放された。
チェーザレは1503年1月より、反乱に加担した一味の壊滅を掲げて進軍、ヴィテロッツォの本拠地チッタ・ディ・カステッロを陥落させ、チェーザレの誅殺から逃れたバリオーニの本拠地ペルージャでは反乱の失敗に絶望したバリオーニが逃走して、ペルージャはチェーザレへの降伏を願い出た。
更にシエナもチェーザレの圧力に屈して、パンドルフォ・ペトゥルッチはフランスへと落ち延びていった(ペトゥルッチはルイ12世の干渉により1503年3月にシエナのシニョリーアへ復帰した)。
バリオーニやグイドバルドもフランスへ逃れた。
なお、フェルモはチェーザレの攻撃に晒されなかった。
その後、ローマへ進軍してオルシーニ党の勢力を攻撃したが、フランス寄りのオルシーニ家の処遇を巡ってチェーザレはフランスと対立、その後の暗転へつながることとなった。 | チェーザレ・ボルジア |
4531 | 1503年1月18日 | チェーザレ・ボルジア |
4533 | 勝との会談を受けて江戸を発った西郷は急ぎ上京し、3月20日にはさっそく朝議が催された。
強硬論者だった西郷が慶喜助命に転じたことは、木戸孝允・山内容堂・松平春嶽ら寛典論派にも驚きをもって迎えられた。
西郷の提議で勝の出した徳川方の新条件が検討された。
第一条、慶喜の水戸謹慎に対しては政府副総裁の岩倉具視が反対し、慶喜自ら大総督府に出頭して謝罪すること、徳川家は田安亀之助(徳川慶頼の子)に相続させるが、北国もしくは西国に移して石高は70万石ないし50万石とすることなどを要求した。
しかし結局は勝案に譲歩して水戸謹慎で確定された。
第二条に関しても、田安家に江戸城を即刻返すという勝案は却下されたものの、大総督に一任されることになった。
第三・四条の武器・軍艦引き渡しに関しては岩倉の要求が通り、いったん新政府軍が接収した後に改めて徳川家に入用の分を下げ渡すことになった。
第五・七条は原案通りであった。
第六条の慶喜を支えた面々の処分については副総裁三条実美が反対し、特に松平容保・松平定敬の両人に対しては、はっきり死罪を求める厳しい要求を主張した。
結局は会津・桑名に対して問罪の軍兵を派遣し、降伏すればよし、抗戦した場合は速やかに討伐すると修正された。
この決定が後の会津戦争に繋がることになる。
修正・確定された7箇条を携えて、西郷は再び江戸へ下ることとなった。 | 江戸開城 |
4534 | 松平容保 | 江戸開城 |
4536 | 陳柳 | 陳朝 |
4538 | エリザベスは哀悼されたが、多くの人々は彼女の死に安堵した。ジェームズ国王に対する期待は高く、当初、人々は1604年のスペインとの戦争の終結と減税によって報われている。1612年のロバート・セシルの死まで、政府は従来の政策を踏襲していた。だが、ジェームズが国政を寵臣に委ねるようになると人気は衰え、そして1620年代に郷愁的なエリザベス崇拝が復活する。エリザベスはプロテスタント主義と黄金時代のヒロインとして賞賛された。エリザベスの治世の晩年に培った勝利者のイメージ(背景にあった派閥闘争や軍事的、経済的な苦境に反してだが)が額面通りに受け取られ、彼女の評判が膨れ上がった。グロスター主教ゴッドフリー・グッドマンは「スコットランド人の政府を経験すると、女王は復活するように思われた。その時は彼女の記憶がとても拡大していた。」と語っている。エリザベスの治世は国王、教会そして議会がバランスよく機能していた時代だったかのように理想化された。 | エリザベス1世 |
4539 | グロスター主教ゴッドフリー・グッドマン | エリザベス1世 |
4541 | 香春 | 長登銅山 |
4544 | 南線案 | 北越急行ほくほく線 |
4546 | B-17 | ラバウル空襲 |
4548 | 大正時代に青木存義によって作られた唱歌集『かはいい唱歌』が初出である。発表年は2説ある。これは初出の『かはいい唱歌二冊目』の奥付が、初版本とその後の重版本とで異なることに起因する。巷に比較的現存している部数が多い重版本では、「一冊目」と同一日付の「大正十年十月」発行との記載があり、この1921年10月であるとする説が主流である。もう1説は、初版本に由来する。青木の故郷である松島町では昭和後期から青木の歌を歌い継ごうとする動きが活発となり、そうした活動を通じて地元の郷土史家らが青木家の関係者から本作が掲載されている「二冊目」を譲り受けた。この初版本の奥付には「大正十一年五月」との記載があるとされる。 | どんぐりころころ |
4549 | 青木存義 | どんぐりころころ |
4551 | スーパークリーク | オグリキャップ |
4553 | リボソーム | 赤血球 |
4555 | 新共同訳聖書 | 日本語訳聖書 |
4557 | 西 | マー・ワラー・アンナフル |
4559 | 5月21日 | ラバウル空襲 |
4561 | 以上で説明しているのは出生後のヒトの造血であるが、胎児の造血は出生後とは様相が違う。まずは胎生15-18日頃に卵黄嚢において一次造血が始まり胚型赤血球が産出される。胚型赤血球は胎生4週以降血液循環を行って酸素を運搬する。一次造血で産出される胚型赤血球は胎生5-6週頃から始まる二次造血による胎児型赤血球および成体型(出生後の)赤血球とは大きく異なる。胎生初期に卵黄嚢で作られる胚型赤血球は胎児型赤血球および成体型赤血球と比べて4-5倍の大きさがあり、成熟しても脱核はせず有核である。形態的には赤芽球に似るが、胚型赤血球のヘモグロビンは胎児型ヘモグロビンとも出生後の赤血球のヘモグロビンとも違うものである。この胚型赤血球は胎生10週頃には消滅する。ヒトでは胎生5-6週目辺りから肝臓での造血が始まる。この肝臓で始まる造血で生み出される赤血球は成人の赤血球と同じ造血幹細胞から産出され、同じ大きさ・構造であり、赤血球の細胞核は脱核する。この胎児型赤血球はヘモグロビンこそ主として胎児型ヘモグロビンで成体型とは違うものの出生後の造血に直接繋がるものであってこれを二次造血という。肝臓での造血は3-6ヶ月頃は造血の中心であり、胎生6-7ヶ月で肝臓での造血はピークに達する。また脾臓での造血も加わる。これらの肝臓・脾臓での造血はピークを迎えた後に減少し出生時には終了する。骨髄での造血は胎生4ヶ月頃から始まり徐々にその役割を増していく。6-7ヶ月以降は骨髄が造血の中心となり出生時には唯一の造血器官となる。胎児の赤血球では妊娠のごく初期には胚型ヘモグロビンを含むが、まもなく胎児の赤血球は胎児型ヘモグロビン(HbF)を含むようになる。妊娠期間の大部分では胎児の赤血球のヘモグロビンは胎児型ヘモグロビン(HbF)が大半を占め、成体型ヘモグロビン(HbA)はわずかであるが、出生が近づいていくにつれ成体型ヘモグロビン(HbA)は急激に割合を増していく。妊娠中期にはヘモグロビンのほとんどを占めていたHbFは、出生時にはヘモグロビンの60-80%になり、あるいは別の資料では妊娠末期の臍帯血のヘモグロビンでは平均で83%がHbFであるとされるが、出生後には急激にHbAに置き換わっていき、生後6ヶ月ではHbFは3%程度まで減り、成人のヘモグロビンではHbAが97%、HbA2が2%、HbFは1%以下の割合になる。HbFはHbAより高い酸素親和性を持ち、胎内での低い酸素濃度下での酸素運搬に適している(HbAは酸素濃度の高い環境(肺呼吸)での酸素運搬に適している)。 | 赤血球 |
4562 | 成体型赤血球 | 赤血球 |
4565 | 実在の中国系ハワイアン警官チャン・アパナ(1871年-1933年)を大まかに基にし、作家アール・ダー・ビガーズが架空の人物チャーリー・チャンを創作した。
1925年から1981年の間に小説10作、映画40作の他、コミック・ストリップ、ボードゲーム、カードゲームが作られ、1970年代にはアニメ化もされた。
映画でのチャーリー・チャン役はウォーナー・オランド、シドニー・トラー、ロランド・ウィンターズなど通常白人俳優により演じられてきた。 | アメリカ合衆国における東アジア人のステレオタイプ |
4567 | 538年 | 百済 |
4569 | この頃、国鉄でも高速車両の研究を進めていた。1946年には山本の友人である島秀雄が、日本海軍航空技術廠にいた三木忠直や松平精などを研究所に招き、「高速台車振動研究会」を設立して研究を行った。航空技術廠から研究所に移った研究者たちは航空機の技術を導入した鉄道の高速化を研究し、台車の振動問題については、松平の研究によって解決策が見出されつつあった。
それまでの研究所は、開発よりは試験を行うことが多い研究機関であったが、1949年9月に大塚誠之が所長として着任すると、大塚は研究者に自由な研究を奨励し、研究成果の発表も積極的に行うように指導した。また、外部からの研究受託や設計も積極的に受けるようにした。
この方針を受けて、1953年9月に三木が発表した研究成果の内容は「軽量で低重心の流線形車両であれば、狭軌においても最高160km/h・平均125km/hで走行が可能で、東京と大阪を4時間45分で結ぶことも可能である」というものであった。ただし、この時の想定では、突起物を全て車体内部に取り込むという徹底的な空力設計を採用する一方で、電車方式(動力分散方式)ではなく1,200馬力の電気機関車牽引による7両編成の客車列車(動力集中方式)とする構想であった。 | 小田急3000形電車(初代) |
4570 | 「高速台車振動研究会」 | 小田急3000形電車(初代) |
4572 | ファラデーとストダートの研究成果は、フランスの鉱山技師ピエール・ベルチェの関心を引き付けることとなった。1820年のファラデーとストダートの論文はフランス語にも翻訳され、ベルチェに研究のヒントを与えた。ベルチェは、鋼に金属クロムを添加した合金を作ることを考え付いた。まずベルチェは、この研究の過程でフェロクロムを初めて生み出した。フェロクロムとは鉄とクロムの合金のことで、現在のステンレス鋼製造における主要原料である。ベルチェはクロム鉱石と鉄鉱石の複合酸化物を木炭中で加熱して還元させて、クロムと鉄の合金、すなわちフェロクロムを作製した。ベルチェが作製したフェロクロムは、クロムを17%から60%含むもので、同時に炭素も多量に含んでおり、淡い灰色の結晶だった。作り出されたフェロクロムには、強い酸への耐性があることがわかった。次にベルチェは、作り出したフェロクロムをもとにクロム1%と1.5%含有のクロム鋼を作製した。作製したクロム鋼は切れ味に優れることをベルチェは発見し、腐食させて擦るとダマスク模様が現れること、カトラリーの材料に向いていることなどを報告した。ベルチェは、1821年にフェロクロムとクロム鋼の研究成果を発表した。この論文はファラデーの目にも留まり、ファラデーもクロム鋼を作製した。作製したのは1%と3%のクロム鋼で、充分な試験はできなかったが、ファラデーも見事なダマスク模様が現れることを確認した。このクロム鋼の試作結果は1822年の論文に加えられ、発表された。しかし、ストダートが1823年に急逝すると、共同研究者を失ったファラデーも1824年を最後に合金鋼の研究から去ることとなる。 | ステンレス鋼の歴史 |
4573 | ベルチェ | ステンレス鋼の歴史 |
4575 | クラウス・プリングスハイム | 藤山一郎 |
4577 | 1389年 | バヤズィト1世 |
4579 | 3着 | テンポイント |
4581 | エリザベト・ダネンス | ヘントの祭壇画 |
4583 | 『里程大和著聞記』の記述には「道幅一尺」「難所」「牛馬常通不申」といった表現が繰り返し見られ、険しい峰道か峠道、あるいは獣道程度の道でしかなく、困難な道であったことが分かる。
また小辺路で最も南にある峠である果無峠は果無山脈東端の峠であることから、果無山脈伝いに龍神方面(田辺市龍神村)からの往来があったという。
この道を龍神街道果無越といい、龍神方面と吉野・熊野および高野山とを果無峠および本宮(田辺市本宮町)を経由して結び、修験者や大峯参りの人々が行き交ったと伝えられている。 | 小辺路 |
4584 | 龍神街道果無越 | 小辺路 |
4586 | イタリア戦争 | ユグノー戦争 |
4588 | 鋳鉄業者 | スタンリー・ボールドウィン |
4590 | その結果、コンプトンは1710年の選挙ではコーンウォリス男爵の支持を受けられず、同年のヘンリー・サシェヴェレル弾劾裁判で人気を失ったため、ほかの選挙区で出馬することを選ばず議員を退任した。選挙の後に成立したハーレー内閣では年金主計官に留任したほか1711年1月に400ポンドの年金を与えられたが、1713年夏に年金を放棄、その直後に年金主計官を解任された。 | スペンサー・コンプトン(初代ウィルミントン伯爵) |
4591 | 1710年 | スペンサー・コンプトン(初代ウィルミントン伯爵) |
4593 | 江戸時代初期には長州藩直営の鉱山として隆盛をみたが、坑内からの出水や当時の技術水準では銅の採掘が困難になったため、江戸時代後半には再び休止状態となった。
その後も岩絵具の材料として緑青の採掘が続けられ、滝ノ下緑青として全国的に知られていた。
長登銅山にはそれら江戸期の遺構も遺されている。
明治時代から昭和時代にかけて長登銅山は再稼動し、銅や日本では珍しいコバルトが採掘された。
明治後期から大正時代にかけての精錬所である花の山精錬所は日本独自の吹床精錬法の精錬所であり、遺構の保存状況も良く、貴重な近代鉱業遺跡である。 | 長登銅山 |
4594 | 江戸時代後半 | 長登銅山 |
4596 | 純文学の新人賞として設けられている芥川賞であるが、大衆文学の賞として設けられている直木三十五賞(直木賞)との境界があいまいになることがしばしばある。第6回(1937年下半期)直木賞には純文学の作家として名をなしていた井伏鱒二が受賞しており、直木賞選考委員の久米正雄は「純文学として書かれたものだが、このくらいの名文は当然大衆文学の世界に持ち込まれなくてはならぬ」と述べている。のちに社会派推理作家として一般に認知された松本清張は、「或る『小倉日記』伝」で1952年下半期に芥川賞を取っており、これはもともと直木賞の候補となっていたものだったが候補作の下読みをしていた永井龍男のアドヴァイスによって芥川賞に回されたものであった。第46回(1961年下半期)の両賞では宇能鴻一郎が芥川賞を、伊藤桂一が直木賞をとり、このとき文芸評論家の平野謙は「芥川賞と直木賞が逆になったのではないかと錯覚する」と述べている。同様の事態は第111回(1998年上半期)にも起こり、このときには私小説の作家であった車谷長吉が直木賞を、大衆文学の作家とみなされていた花村萬月、ハードボイルド調の作品を書いていた藤沢周が芥川賞を取ったことで話題となった。
芥川賞に比べて直木賞のほうはある程度キャリアのある作家を対象としていることもあり、檀一雄、柴田錬三郎、山田詠美、角田光代、島本理生などのように芥川賞の候補になりながらその後直木賞を受賞した作家もいる。1950年代までは柴田錬三郎「デスマスク」(第25回・1951年上半期)、北川荘平「水の壁」(第39回・1958年上半期)など芥川賞と直木賞の両方で候補に挙がった作品もあった。 | 芥川龍之介賞 |
4597 | 平野謙 | 芥川龍之介賞 |
4599 | エリスはデュオ解散後も印刷会社で働いていたが、歌手になるという夢を諦めきれず、ある日オーディションを受けるため会社を無断欠勤してしまう。エリスはこれを理由に印刷会社を解雇されてしまったが、それを期に音楽活動にさらに没頭するようになる。1964年ごろエリスはジョン・ホルトとのデュオを結成し、ランディーズへ「ラム・バンパー("RumBumper")」など数曲を残した。しかしホルトはパラゴンズの新メンバーとして引き抜かれてしまったため、エリスとホルトとのコンビは短命に終わった。そのためエリスは弟のレスリーと、友人のノエル・"スカリー"・シムズ、ベイビーG、ロニーと共に新しいグループ、アルトン・エリス&ザ・フレイムス(AltonEllis&TheFlames)を結成、同時にスタジオ・ワンからデューク・リードのトレジャー・アイルへとレーベルを移籍し、「ドント・トラブル・ピープル("Don'tTroublePeople")」、「ダンス・クラッシャー("DanceCrasher")」、「クライ・タフ("CryTough")」といった楽曲を発表し、ヒットさせた。この時期のジャマイカの音楽業界では性急なテンポを特徴とする新たなジャンル・スカが誕生し、ウェイラーズやプリンス・バスター、デリック・モーガンによる攻撃的なルードボーイ賛歌が人気を博していたが、アルトン・エリス&フレイムスによる上記楽曲群は彼らとは対照的に平和とアンチ・ルードボーイを訴えたものだった。
なお、レーベル移籍によって心機一転を計ったエリスであったが、金銭的には不遇なままであった。 | アルトン・エリス |
4600 | エリス | アルトン・エリス |
4602 | 当初、大使一行の渡米の目的は、ユリシーズ・グラントアメリカ合衆国大統領に謁見し、アメリカ国務省でハミルトン・フィッシュ国務長官と会見して、万国公法(国際法)にもとづく国内法が日本で整備されるまで条約改正交渉開始の延期を要望し、その意向を打診することにあった。
当時の日本はまだ廃藩置県を終えたばかりであり、国内体制が十分に整わないうちに改正交渉に臨めば結果的に従前より不利な方向での改訂が進められる可能性も考えられたためであった。
また、予備交渉の機会をむしろ活用して、将来の条約改正を念頭におき、政府首脳が外国の諸法制・諸機構についての知見を深めるねらいもあった。
ところが、チャールズ・デロング駐日アメリカ公使と駐米日本代表の森有礼代理公使は、合衆国に来てから勢いづいている副使の伊藤博文に対して、条約改正の本交渉に入ることを進言、伊藤もその旨を大使岩倉具視に提案した。
デロングは、西部出身の弁護士で、アメリカの中央政界に打って出る機会をうかがっており、駐日英国公使のハリー・パークスとは対日外交上のライバル関係にあった。
開化論者であった森は26歳ながら、その率直で積極的な性格によりフィッシュ国務長官にかわいがられ、その知遇もあってワシントンの有力者からの評判もよかったが、外交経験には乏しかった。
伊藤は、米国滞在中、ユタ州ソルトレイクシティにおいて条約改正交渉についての意見書をまとめて大使・副使に示して意思統一を図るなど、意欲的であった。 | 条約改正 |
4603 | ユタ州ソルトレイクシティ | 条約改正 |
4605 | 1930年、第1期生の水の江瀧子が少女歌劇の生徒としてはじめて男性風に断髪し、以後「男装の麗人」として人気が急上昇する。レビュー人気が高まる一方、いたずらに扇情的であるとして警察から演出内容の指導通達も受けたが、翌1931年には歌舞伎座において、『ラーマーヤナ』を脚色した『奪われし我が愛しの妻よ』をもって、来日中のタイ国王・ラーマ7世の台覧に供され、社会的信用を高めた。楽劇部長である蒲生重右衛門による積極的な運営もあり、東京松竹楽劇部は東京名物といわれる一大劇団となり、本拠の浅草松竹座のみならず、歌舞伎座、東京劇場等でも優秀な興行成績を挙げた。
1932年10月、東京進出を図る宝塚少女歌劇が新橋演舞場で『ブーケ・ダムール』公演をはじめ、これに対抗した東京松竹も築地川をはさんだ対岸の東京劇場で大作『らぶ・ぱれいど』を上演した。築地川両岸で松竹と宝塚による集客競争・通称「レビュー合戦」がはじまった。両者は「踊る松竹、歌う宝塚」と対比され、この争いは宝塚が東京における新拠点・東京宝塚劇場へ移るまで続いた。なお、『らぶ・ぱれいど』の頃に、東京松竹楽劇部は名称を「松竹少女歌劇部(SSK)」と改めた。 | 松竹歌劇団 |
4606 | 浅草松竹座 | 松竹歌劇団 |
4608 | ほくほく線(ほくほくせん)は、新潟県南魚沼市の六日町駅を起点とし、新潟県上越市の犀潟駅(さいがたえき)までを結ぶ、北越急行が運営する鉄道路線である。
北陸方面への短絡線の役割を有する日本国有鉄道(国鉄)の予定線「北越北線」として1968年(昭和43年)に着工され、紆余曲折の末、北越急行によって1997年(平成9年)3月22日より営業を開始した。
開業以来、上越新幹線と連絡する列車の運行が行われており、2015年(平成27年)3月14日の北陸新幹線の長野駅-金沢駅間延伸開業までは、首都圏と北陸を結ぶメインルートとして特急「はくたか」が同線を経由して運転された。 | 北越急行ほくほく線 |
4610 | 長崎市 | 神戸外国人居留地 |
4613 | 川端は、〈受験生時分にはまだ少女よりも少年に誘惑を覚えるところもあつた〉と述懐している。
小笠原義人とはその後、康成が中学卒業して上京してからも文通し、一高と帝国大学入学後も小笠原の実家を訪ねている。
康成は、〈お前の指を、手を、腕を、胸を、頬を、瞼を、舌を、歯を、脚を愛着した〉と書き送っている。
小笠原義人との体験で康成は、〈生れて初めて感じるやうな安らぎ〉を味わい、〈孤児の感情〉の虜になっていた自分に、〈染着してゐたものから逃れようと志す道の明り〉を点じた。
川端は、清野(小笠原義人)との関係について、〈それは私が人生で出会つた最初の愛〉、〈初恋〉だとし、以下のように語っている。
この年の9月には、康成と同じ歳の中条百合子が坪内逍遥の推薦で『中央公論』に処女作を発表し、〈田舎者の私〉である康成を驚かせ、次第に康成の内に、中央文壇との繋がりを作りたいという気持ちが動き出していた頃であった。
また同年には、康成の作家志望を応援していた母方の従兄・秋岡義愛の紹介で、義愛の友人であった『三田文学』の新進作家の南部修太郎と文通が始まった。
なお、この年の秋には、祖父と暮らした豊川村大字宿久庄の家屋敷が、分家筋の川端岩次郎(川端松太郎の妹の婿)に売られた。 | 川端康成 |
4614 | 秋岡義愛 | 川端康成 |
4616 | シリア | エジプト中王国 |
4618 | 2015年10月 | 海辺の生と死(映画) |
4620 | 1533年9月7日 | エリザベス1世 |
4622 | 先祖についての確実な記録は、明和8年(1771年)に一茶の大叔父にあたる弥五右衛門が建立した、小林家一族の墓に刻まれた延宝9年(1681年)没の善右衛門まで遡れる。
善右衛門は一茶の高祖父にあたる。
一茶の曾祖父、弥兵衛は分家であったと考えられ、また祖父である弥五兵衛も享保18年(1733年)に、兄であり小林一族の墓を建立した弥五右衛門から分家したことが伝えられている。
当時、北信濃の山間部は兄弟同士で遺産を均分して相続する均分相続の習慣があり、一茶の祖父である弥五兵衛は兄の弥五右衛門と耕地をほぼ均等に分割している。 | 小林一茶 |
4623 | 一茶 | 小林一茶 |
4625 | 武豊 | オグリキャップ |
4627 | マクレガー | アルトン・エリス |
4629 | 鳥羽市南東部に位置し、離島部を除けば鳥羽市の最東端にある。
大王崎などと並ぶ海の難所として知られた地域である。
東側が太平洋に面し、沿岸は海岸侵食によって形成された断崖が多い。
集落は南東部の前之浜から丘陵部にかけて広がる。
海岸段丘に集落が展開し、その背後には畑作地があり、水田はわずかな窪地や谷あいに帯状に形成された。
畑地の奥は広大な森林地帯であるが、土地の栄養分が貧弱なため用材を生産する林業は発達していない。 | 国崎町 |
4630 | 大王崎 | 国崎町 |
4632 | 陳氏 | 陳朝 |
4634 | 1962年 | 飛騨川流域一貫開発計画 |
4636 | 加藤たみ | 川端康成 |
4638 | 2015年 | RobotOperatingSystem |
4640 | 一条点滴 | 水琴窟 |
4642 | 岐阜市は公共施設の再集約や中心市街地の活性化などを図る「つかさのまち夢プロジェクト」を計画した。プロジェクトの第1期には岐阜大学医学部跡地に新図書館を建設し、第2期には新図書館の南側に岐阜市役所新庁舎を建設し、第3期には現行の岐阜市役所本庁舎跡に市民文化ホールを建設する。プロジェクトの財源には、国からの補助金、蓄えてきた基金、有利な起債を最大限に利用している。
2005年度に基本構想を策定し、2010年度に基本計画を策定して設計者を選出した。設計プロポーザルには全国から70人の応募があり、まずは選考委員会が3者に絞ると、2011年2月6日の公開プレゼンテーションで伊東豊雄建築設計事務所を設計者に選出した。伊東は仙台市民図書館を内包するせんだいメディアテークや多摩美術大学八王子図書館の設計者でもあり、後の2013年にはプリツカー賞を受賞している。2012年度時点では総工費を100億円と見込んでおり、国からの補助金などを活用することで、岐阜市の負担は約30億円となる予定だった。しかし、最終的な総事業費は125億円に膨らんだ。 | みんなの森ぎふメディアコスモス |
4643 | 岐阜市の負担 | みんなの森ぎふメディアコスモス |
4645 | 17人 | ゾング号事件 |
4647 | 今井信郎 | 江戸開城 |
4649 | ウィルヘルム・キューネ | 酵素 |
4651 | 小説版は第1巻が2013年12月5日に集英社みらい文庫より刊行された。
この作品は翼らの小学生時代の活躍を描いたもので、執筆は『おおかみこどもの雨と雪』のアニメ絵本を手がけたワダヒトミが担当している。
なお、2014FIFAワールドカップが開催される2014年6月までに全3巻が刊行された。
続編として中学生編が上下巻で2018年12月21日(上巻)・2019年1月24日(下巻)に発売された。 | キャプテン翼 |
4652 | ワダヒトミ | キャプテン翼 |
4654 | 燃料タンク | エアバスA320 |
4656 | 大辺路 | 小辺路 |
4658 | 康成は学校を休みがちで、1年生の時は69日欠席し(258日のうち)、しばらくは近所の百姓女の田中みとが授業中も教室まで付き添っていた。
小学校時代の旧友によると、康成の成績はよく、作文が得意で群を抜いていたという。
小学校に上がる前から祖母に、〈うんと醤油をふくませたかつを節を入れて巻いた、からい海苔巻〉を食べさせてもらいながら、〈いろは〉を習っていたため、〈学校で教はることは、ほとんどみなもう知つてゐて、学校がつまらなかつた。小学校に入る前から、私はやさしい読み書きはできた〉と川端は当時を述懐している。
なお、笹川良一とは小学の同級生であった。
祖父同士が囲碁仲間で、笹川の父・鶴吉も、易学に凝っていた三八郎から私生活万端にわたって指示を受けていたという。 | 川端康成 |
4659 | 鶴吉 | 川端康成 |
4661 | 室町時代後期 | 日本の獣肉食の歴史 |
4663 | 白亜紀から古第三紀にかけて、日本列島に付加体である四万十帯が形成されていくのに伴い、現在の中国地方では火山活動が活発化した。
その中で約1億年前の白亜紀、秋吉台の石灰岩地帯に深成岩である花崗岩が貫入した。
そして石灰岩と花崗岩とが接触する部分にカルシウム、鉄、マグネシウム、アルミニウムなどを豊富に含むケイ酸塩鉱物の集合体、すなわちスカルンが形成され、そこに銅や鉛、銀などの金属が凝縮されることにより、接触交代鉱床(スカルン鉱床)である長登銅山が形成された。
長登銅山の鉱床は秋吉台を形成する石灰岩と白亜紀後期に形成された花崗斑岩との境界、そして石灰岩体の内部に存在する。
鉱床としては比較的小型で、幅は5-10メートル程度であったが、長さは50-80メートル、そして深さは100メートルに達する鉱床もあるなど、地中深くまでレンズ状ないし板状に続いている特徴がある。
長登銅山では銅以外にも鉛、亜鉛、銀、砒素、コバルトなどを産し、特にコバルトは日本国内では産出することが少なかったため、貴重な産地として知られていた。
また長登銅山の銅鉱石には砒素が多く含まれている特徴があり、奈良時代から平安時代前半にかけての日本の銅製品は砒素の含有量が多いことが知られており、これは長登銅山の銅鉱石が広く用いられていたことを示していると考えられている。 | 長登銅山 |
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