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|---|---|---|
4665 | 795ドル | コソボ紛争 |
4668 | 親不知子不知 | 北陸線列車雪崩直撃事故 |
4670 | 江戸へ再来した西郷は勝・大久保らとの間で最終的な条件を詰め、4月4日には大総督府と徳川宗家との間で最終合意に達し、東海道先鋒総督橋本実梁、副総督柳原前光、参謀西郷らが兵を率いて江戸城へ入城した。
橋本らは大広間上段に導かれ、下段に列した徳川慶頼・大久保一翁・浅野氏祐らに対し、徳川慶喜の死一等を減じ、水戸での謹慎を許可する勅旨を下した。
そして9日には静寛院宮が清水邸に、10日には天璋院が一橋邸に退去した。
11日には慶喜は謹慎所の寛永寺から水戸へ出発し、同日をもって江戸城は無血開城、大総督府が接収した。
それより前、4月8日に東征大総督熾仁親王は駿府を発し、同21日江戸城へ入城。
ここに江戸城は正式に大総督府の管下に入り、江戸城明け渡しが完了した。
また京都では4月9日、明治天皇が紫宸殿において軍神を祀り、徳川慶喜が謝罪し、江戸を平定したことを報告している。 | 江戸開城 |
4671 | 清水邸 | 江戸開城 |
4673 | かつては琵琶湖の内湖や巨椋池に多く生息したが、いずれも戦前までに絶滅した。
1941年に干拓で消滅した巨椋池の名残と考えられる京都競馬場内の池が京都府により1999年に生態調査されたが本種は確認されなかった。
ビワタナゴの別名は本種の模式産地である琵琶湖に由来する。
しかし1936年以降琵琶湖およびその周辺での確認例はなく、現在生息する可能性はない。
国立科学博物館や東京大学には琵琶湖産個体の標本が保存されている。 | イタセンパラ |
4675 | ポスト通り | ヴェルトハイム |
4677 | 成熟した赤血球は骨髄から血管内に移動し、血液循環によって肺から組織・組織から肺を巡る。組織内では細胞の活動により二酸化炭素が発生し血漿や組織液に溶け込んでいるが、細胞膜を通して二酸化炭素は赤血球内に取り込まれる。赤血球内で二酸化炭素(CO2)と水(H2O)は炭酸脱水酵素によって重炭酸イオン(HCO−3)と水素イオン(H+)になり、水素イオンが増加することにより酸性が強くなった赤血球内では、酸素とヘモグロビンが結びついたオキシヘモグロビンから酸素分子が遊離し、細胞膜を通って体細胞に酸素が供給される(ボーア効果)。酸素を放出したヘモグロビンは水素イオンと結びついて赤血球内が極端に酸性に傾くのを防ぐ。血液中の二酸化炭素のほとんどは赤血球内に取り込まれ、二酸化炭素の約70%は赤血球内の炭酸脱水酵素によって重炭酸イオンに変換され、重炭酸イオンの多くはバンド3(band3)と呼ばれる赤血球膜を縦貫する膜輸送たんぱく質によって塩素イオンと交換に赤血球外に出され血漿に溶け込んで肺に循環する。二酸化炭素の15-20%は酸素を放出したヘモグロビンに結びつきカルバミノヘモグロビンとして赤血球により肺に運ばれ、約10%はそのまま血漿に溶け込んで肺に循環する。人の場合だと肺では酸素分圧はほぼ100mmHgであり二酸化炭素はほとんどないので赤血球の酸素飽和度はほぼ100%になる。酸素を含んだ赤血球は組織に循環するが、組織内の酸素分圧は組織によって違い、一般的な組織内では40mmHg、活動中の筋肉内では20mmHg程度になる。酸素分圧の差でも赤血球は酸素を放出するが二酸化炭素が存在せず酸素分圧の差のみであると、赤血球は持っている酸素の内10-30%程度しか赤血球外へ放出できない。しかし組織内に二酸化炭素が発生していると二酸化炭素が炭酸に変換されることでpHが低下し、pHの低下によっておきるボーア効果で赤血球は大半の酸素を放出することができるようになる。 | 赤血球 |
4678 | 重炭酸イオン | 赤血球 |
4681 | 天璋院 | 江戸開城 |
4683 | エリザベス1世はヘンリー8世の王女として生まれたが、2年半後に母アン・ブーリンが処刑されたため、庶子とされた。弟のエドワード6世はジェーン・グレイへの王位継承に際して姉たちの王位継承権を無効としている。続くカトリックのメアリー1世の治世ではエリザベスはプロテスタントの反乱を計画したと疑われて1年近く投獄されたものの、1558年にメアリー1世が死去すると王位を継承した。 | エリザベス1世 |
4685 | セント・ポールズ・スクール | スペンサー・コンプトン(初代ウィルミントン伯爵) |
4687 | 度重なる失敗によって、株主は50万ポンドを失った。さらに、翌年に行った紅海横断ケーブルも失敗に終わったため、海底ケーブル事業は抜本的な見直しを迫られた。1859年、英国政府は特別委員会を設置し、専門家を集めて失敗の原因を探った。そして委員会は、これまでの事業の失敗は事前の調査を行っていれば防げたもので、大西洋ケーブル自体は技術的には実現可能だという報告を出した。この報告を受けたサイラス・フィールドは、再び大西洋横断ケーブル事業へ挑戦することを決意した。資金集めには苦労をしいられたが、英国の資本家から28.5万ポンド、米国の資本家から8万ポンドを集め、残りを新たに作られたケーブル製造会社であるTELCON社(TelegraphConstruction&Maintenance)からの出資で補うことで、必要資金を確保した。また、フィールドはホワイトハウスを解雇し、トムソンを後任に据えた。トムソンは以前からの主張に沿って、銅線および絶縁部の断面積を増やし、強度も上げた新しいケーブルを製作するよう指示した。ケーブルは綿密な研究や実験を行った上で設計された。またトムソンは、今までの航海でケーブルが幾度も断線したのは、海底の深さが正確に分からなかったからだと考えた。今まではおもりのついたケーブルを海底に降ろして水深を測っていたのだが、それでは不十分だと考えたトムソンは、新たにケミカルチューブと呼ばれる測深機を発明した。これは海底の水圧から水深を測定するための道具で、以前の方法と比べて正確で効率的だったため、以後の敷設工事に使われるようになった。 | 大西洋横断電信ケーブル |
4689 | 十済 | 百済 |
4691 | ナミダカワウツボ(涙河鱓)EchidnarhodochilusBleeker,1863は全長30センチほどの小型種である。
インド太平洋熱帯域に分布するが、日本では西表島周辺だけで生息が確認されている。
環境省レッドリストでは、2007年版で絶滅危惧IA類(CR)に指定された。
成魚は全身が紫褐色だが、生きているときは体表が淡緑色の粘液で覆われる。
和名は目の下に白い斑点があって涙を流しているように見えることと、汽水域に生息することに由来する。 | ウツボ |
4692 | 紫褐色 | ウツボ |
4694 | ハンス・バードン | ヴェルトハイム |
4696 | 35万ポンド | 大西洋横断電信ケーブル |
4698 | 南北 | 国崎町 |
4700 | カベルネ・ソーヴィニヨン種はオーストラリア産ワインの黎明期にバズビーらによって導入された。この国の暑さや干ばつなどが理由で適応に時間を有し、長らく忘れ去られた存在だったが、第二次世界大戦後に見直しが進んだ。1970年代から1980年代に栽培面積が劇的に増加し、特にクナワラやマーガレット・リヴァーで名声を博している。現在では高級品種として様々な地域で栽培されている。産地によって味わいや香り、品質の幅は多様であり、バロッサ・ヴァレーでは深い色合いで酸味の強いワインが、クナワラでは色が明るく酸味の弱い軽快なワインが生産されている。他品種とブレンドされることが多く、マーガレット・リヴァーでは一般的にメルロー種がブレンドパートナーであるが、ラングホーン・クリークやバロッサ・ヴァレーでは伝統的にシラーズ種とブレンドされる。 | オーストラリアワイン |
4701 | カベルネ・ソーヴィニヨン種 | オーストラリアワイン |
4703 | 基本構想の策定を行う研究会は、1954年11月から1955年1月までに合計8回行われた。1955年1月25日には基本構想が策定されたが、この時点では小田急の最長編成は17m車4両編成であったことから、全長70mの5両連接車という内容であった。1955年1月16日には共同設計者として日本車輌製造・川崎車輛(当時)・近畿車輛・東洋電機製造・東京芝浦電気(当時)・三菱電機が参画し、研究所の指導の下に具体的な設計に入った。小田急では創業当時から電装品は三菱電機、台車は住友金属工業の製品を採用しており、特に三菱グループとは主力取引銀行としての関係もあったが、新型特急車両の設計参画メーカーの決定に際しては純粋に技術的見地から決定され、どうしても優劣がつけがたく決定できない場合に限って、過去の小田急との取引を考慮して決定した。 | 小田急3000形電車(初代) |
4704 | 8回 | 小田急3000形電車(初代) |
4706 | 手足の爪 | ヒトに由来する生薬 |
4708 | 王墓建築 | エジプト中王国 |
4710 | フランス革命 | ジョゼフ・フーリエ |
4712 | 明治4年 | 国崎町 |
4714 | 1894年(明治27年)、明治政府はイギリスとの間に日英通商航海条約を締結し、領事裁判権の撤廃と外国人居留地の返還を実現した。
政府はその後同じ内容の条約をアメリカ、フランスなど14ヵ国と締結した。
これら一連の条約は1899年(明治32年)7月17日に発効し、同日をもって神戸外国人居留地は日本側に返還された。
これにより居留地は神戸市へ編入され、外国人に認められていた行政権と財政権は解消し、日本人が自由に立ち入り、居住することが可能となった。
居留地内にあった警察隊(居留地会議によって組織)は廃止され、消防隊(居留地住民が自主的に組織)は消防組として神戸市へ移管された。
返還に際して日本側は、行事局局長を兵庫県および神戸市の嘱託職員とし、行事局のあった場所に市の派出所を置く、治外法権撤廃に伴う紛争防止のために外国人が相談委員会(後に神戸国際委員会と改称)を設置することを認めるなど、外国人に対し一定の配慮をした。 | 神戸外国人居留地 |
4716 | リン脂質二重層膜上には他の部分より少し厚さが厚く少し硬い脂質二重層上を移動することができる領域があり、海に浮かぶ筏に例えられ脂質ラフト(LipidRaft)と呼ばれている。ラフト部分ではリン脂質は主にスフィンゴミエリン(SM)で構成され、SM分子の間にコレステロール分子が非常に多く入り込んで分子間の結合を強化している。スフィンゴミエリンの脂肪酸部分はPCやPS,PEより長いのでラフトは若干厚さを増し、コレステロールが分子間結合を強化するので硬くなる。ラフトではSMとコレステロールの他に、膜縦貫タンパクやレセプター、糖脂質なども多く存在している。多くの積荷を積んだ筏のようなイメージでラフトと通称されているが、通常の脂質二重層もラフトも、どちらもリン脂質を主要構成分子にしている点は海上に浮かぶ筏とは違う。ラフトの直径は数十nm程度で赤血球膜状には多数あり、タンパク質や糖鎖など多種の分子を多く載せているラフトは赤血球の機能に大きく関わっている部分だと考えられている。 | 赤血球 |
4717 | スフィンゴミエリン | 赤血球 |
4719 | 『ネフェルティティの胸像』はベルリンに運ばれ、ユダヤ系ドイツ人の実業家でアマルナ発掘の後援者でもあったジェームズ・ジーモンに寄贈された1913年以来ドイツにある。1913年にはジーモンの邸宅に飾られており、その後ほかのアマルナからの出土品とともにベルリン美術館に貸し出されている。1914年までほかのアマルナ出土品はベルリン美術館に展示されたが、ボルヒャルトの要望で『ネフェルティティの胸像』の存在は秘密にされていた。1918年にベルリン美術館は秘密にしていたこの胸像を一般公開することを検討したが、またもボルヒャルトからの要望で計画は頓挫してしまう。その後胸像は1920年にベルリン美術館に寄贈され、1923年にボルヒャルトの文書でその存在が公となり、1924年後半になってベルリンのエジプト美術館で一般公開された。その後、胸像は博物館島の新博物館で展示されている。第2次世界大戦勃発によりベルリン美術館が所蔵していた古代遺物がすべて安全な場所に移され、ベルリン美術館が閉鎖される1939年までそのまま新博物館に展示されていた。『ネフェルティティの胸像』は当初帝国銀行の地下金庫に保管され、1941年の秋になってベルリンの高射砲塔防空壕に移された。新博物館は1943年のイギリス空軍によるベルリン爆撃によって被害を受けている。さらに1945年5月6日に胸像はテューリンゲン州の岩塩坑に移された。
1945年5月にアメリカ陸軍が『ネフェルティティの胸像』を発見し、美術品を扱う部局に引き渡された。胸像はフランクフルトに運ばれ、1946年までヴィースバーデンの美術館で公開されている。1956年に胸像が西ベルリンへ返還され、ダーレム美術館に展示された。1946年初頭には東ドイツが『ネフェルティティの胸像』を、第2次世界大戦前に展示されていた博物館島へ返還するよう要求している。1967年にシャルロッテンブルクのエジプト美術館に移され、さらに2005年に旧博物館(AltesMuseum)に移された。そして2009年10月に修復再建された新博物館に戻され、収蔵品の目玉として展示されている。 | ネフェルティティの胸像 |
4720 | 1945年5月 | ネフェルティティの胸像 |
4722 | 2009年(平成21年)4月に指定管理者に管理が移行し、図書館流通センターが管理を行うことになった。
2012年1月よりインターネットによる予約サービスを開始、2014年(平成26年)8月よりナクソスミュージックライブラリーを導入した。
図書館流通センターの指定管理は更新が続き、2016年(平成28年)の更新により少なくとも2021年(令和3年)3月31日まで継続することが決定している。 | 松阪市図書館 |
4723 | 2012年1月 | 松阪市図書館 |
4726 | 2月25日 | エリザベス1世 |
4728 | 明智光秀や細川藤孝のようなごく一部の例外を除けば、信長は尾張出身の譜代ばかりを重要な地位に登用した。
これら譜代の人々で信長を裏切った者はいない一方で、松永久秀・荒木村重・明智光秀といった「外様」に当たる人々はやがて信長に反逆している。
池上裕子は、久秀や光秀らの造反の要因の一つとして、信長の譜代重用に対する反発を挙げている。
また、松永久秀、別所長治、荒木村重らの反乱は、信長の苛烈ともされる性格に起因しているという説もある。
己を恃むところが多く、実に気まぐれであり性格は猜疑心が強く執念深く、それが多くの謀反につながったと指摘する研究者もいる。
前述のフロイスの人物評に見られるように、家臣たちは信長への絶対服従を求められ、異議を唱えることも許されなかったともされる。 | 織田信長 |
4729 | 別所長治 | 織田信長 |
4731 | パガン | アヴァ王朝 |
4733 | 青年期 | 織田信長 |
4735 | 7か月 | バヤズィト1世 |
4738 | 夏期休養後の京都大賞典で63kgの斤量を背負いながら2着に8馬身の差をつけて逃げきり、続くオープンも逃げ切って優勝。
第22回有馬記念では1番人気に支持された。
レースではスタート直後からテンポイントとトウショウボーイが後続を大きく引き離し、マッチレースのような展開でレースを進めた。
鹿戸は宝塚記念の敗北を踏まえて「少しでも前に行かなければ勝てない」という考えに至っていたが、スタート直後に先頭に立ったトウショウボーイを交わそうとレースを進めるうちに引くに引けない展開にはまり込み、途中で鹿戸は「これで負けたら騎手をやめなけりゃいかんな」と覚悟を決めた。
それでも鹿戸は、1周目の直線でトウショウボーイの内にテンポイントを誘導できたことで「活路が見出せた」と振り返っており、鹿戸によると、トウショウボーイに騎乗していた武邦彦は自身の騎乗馬の内側に入ろうとする馬の進路を締める戦法を得意としていたが、このレースでは締め方が完全ではなかった。
抜きつ抜かれつの展開は最後の直線まで続き、激しい競り合いの末テンポイントが優勝。
トウショウボーイと対戦したレースで初めて優勝を果たした。
このレースは中央競馬史上最高の名勝負のひとつとされている。
トウショウボーイ鞍上の武邦彦はレース後、3着にグリーングラスが入ったことを聞かされると「3着?グリーングラス?来てたの。知らなかったよ」と答えた。
この年、テンポイントは1956年のメイヂヒカリ以来史上2頭目の満票で年度代表馬に選出された。 | テンポイント |
4739 | 第22回有馬記念 | テンポイント |
4742 | ローバーの移動機構は決まったが、実際のローバー開発は茨の道の連続となった。ミネルバ(MIcro/NanoExperimentalRobotVehicleAsteroid,MINERVA)と呼ばれるようになった計画にまず立ちはだかったのが、このプロジェクト自体が、あくまで小惑星探査機MUSES-Cの重量に余裕ができた場合のオプションという扱いであり、正式のプロジェクトではないということであった。ミネルバの開発には設計段階から日産自動車の宇宙航空事業部(2000年からはアイ・エイチ・アイ・エアロスペース)が参加しており、資金も提供していた。しかし正式プロジェクトではない日本製ローバーの開発に、MUSES-Cの開発を進める宇宙科学研究所もアイ・エイチ・アイ・エアロスペースも多くの資金を投入できるはずもなく、開発当初から資金難の壁にぶつかることになった。資金難の中でまず問題となったのが無重力状態での試験であった。まず試作機の作成予算は何とか確保したが、ローバー内蔵モーターのトルクによる移動機構の確認に不可欠である微小重力状態での実験を行う、岐阜県土岐市にあった日本無重量総合研究所の使用料は一回100万円近い費用がかかった。低予算での開発が宿命づけられていたミネルバで、100万円近い実験費用は極めて厳しかった。 | ミネルバ_(ローバー) |
4743 | 岐阜県土岐市 | ミネルバ_(ローバー) |
4745 | 実業家 | スタンリー・ボールドウィン |
4747 | 島 | 小田急3000形電車(初代) |
4749 | 無条件降伏 | 松江騒擾事件 |
4751 | 「ルビー」 | スージー(チンパンジー) |
4753 | 連合国側 | ラバウル空襲 |
4755 | 「パティオ精錬法」 | 水銀の遺産アルマデンとイドリヤ |
4757 | フーベルト | ヘントの祭壇画 |
4759 | ケーブルカー | 粘着式鉄道 |
4761 | 関西テレビ | テンポイント |
4765 | 2017年(平成29年)7月から本格的な工事が開始され、当初の工期は2018年(平成30年)2月までとなっていた。
総工費は約6億5千万円。
工事中松阪公民館に保管されていた26万冊の蔵書は、段ボール320箱に入れられて改修後に運び込まれる予定だった。
2018年(平成30年)4月1日、オープニングセレモニーが行われ、リニューアルオープンした。 | 松阪市図書館 |
4766 | 約6億5千万円 | 松阪市図書館 |
4769 | 奈良時代から平安時代にかけての長登銅山の主要な遺跡である大切谷からは、縄文時代の石器や弥生土器が出土しており、古くから人が居住していたことは明らかである。
しかし銅山がいつ発見され、稼動を開始したのかについては、大切谷を厚く覆うスラグのために遺跡の全貌が明らかになっておらずはっきりしていない。
しかし大切谷からは7世紀後半台の土器が検出されていて、大切谷は農業に適した場所とは考えにくいため、この頃から銅山の稼動が開始された可能性が指摘されている。
長登銅山は今のところ7世紀末から8世紀にかけて発見され、稼動が開始されたのではと考えられている。
長登銅山から見て秋吉台の反対側の旧秋芳町にある中村遺跡と国秀遺跡では、7世紀の遺跡から銅鉱石や銅塊が検出されており、7世紀には長登鉱山近隣で銅の採掘と製錬が始まっていたことが明らかになっている。
また美祢市の上ノ山遺跡は於福銅山、旧福栄村にある坂部遺跡は蔵目喜銅山と関連する遺跡と考えられ、ともに8世紀台の製錬関連の遺構が検出されている。
これらのことから7世紀末から8世紀にかけて、秋吉台の周辺では長登銅山を始めとした銅山の開発ラッシュがあったと見られている。
また国秀遺跡からは新羅製の土器が検出されており、銅山の開発には渡来人の持つ技術が活用されたと考えられている。
なお、国秀遺跡では8世紀に入ってまもなく銅の生産が中止されており、これは新規に開発された有望鉱山である長登銅山の開発に人員が振り向けられたためとの説もある。 | 長登銅山 |
4770 | 7世紀 | 長登銅山 |
4772 | ミナミハリイカも本種S.esculentaと混同されるが、以下の点で識別できる。
本種S.esculentaの交接腕は6列の縮小した吸盤に続いて5から6列の普通のサイズの吸盤を持つのに対し、ミナミハリイカS.ellipticaでは基部に7から8列の普通サイズの吸盤、中間に7列の縮小した吸盤、そして腕末端に普通サイズの吸盤を持つ。
交接腕の吸盤の背側の2列は腹側の縮小した吸盤よりも小さく、縮小した吸盤は普通の吸盤よりほんの僅かに小さいのみである。
本種S.esculentaでは背側と腹側の保護膜は触腕掌部の基部と接続しないが、この種S.ellipticaでは背側と腹側の保護膜は触腕掌部の基部と接続する。
本種S.esculentaでは甲の後方が鈍く丸まり、横線(striae)は逆V字型で内円錐側肢は後方で厚くなる。
この種S.ellipticaでは張り出しはより薄く平たく、前方は尖って、房錐の後端を覆っている。
Duc(1978,1993)はベトナムの近海でミナミハリイカS.ellipticaを報告したが、ミナミハリイカS.ellipticaはインド洋のみで見つかるため本種コウイカS.esculentaの誤同定と推測される。 | コウイカ |
4773 | インド洋 | コウイカ |
4775 | 三木忠直 | 小田急3000形電車(初代) |
4777 | シーマンズ | アポロ計画 |
4779 | 落選 | スタンリー・ボールドウィン |
4782 | ジャヤ・シンハヴァルマン5世 | 陳朝 |
4784 | 森下芳則 | 田原市図書館 |
4786 | 当時数学を教える学校は士官学校しかなかった。フーリエは貧乏な身分で軍人になれなかったため、卒業後彼は僧侶たちの勧めに従ってサン・ブノワ修道院(聖ベネディクト修道院)で修道士として修行を始めた。修道院でも、並行して数学を学んだ。 | ジョゼフ・フーリエ |
4787 | 軍人 | ジョゼフ・フーリエ |
4789 | 粘着力を予測するために粘着現象の理論の発展が行われてきた。鉄道分野におけるクリープ理論は、イギリス人の機関車技術者であったフレデリック・ウィリアム・カーターによるものが始まりとされる。以下、クリープ理論の発達の歴史を主な研究と共に記す。1874年に、オズボーン・レイノルズにより、ベルトやストラップによる動力伝達の研究の中でクリープの考え方が初めて説明された。レイノルズはクリープは鉄道車輪にも同じく適用できると述べている。その後1916年、カーターにより、鉄道車輪におけるクリープの基本コンセプトが導入され、粘着力がクリープに比例するという仮定が発表された。さらに1926年、カーターにより、ラヴのヘルツ接触に基づく接触弾性理論を用いて、機関車の粘着力について解析を行った論文が発表された。この研究の中で、摩擦を伴う転がり接触による2次元理論(前後、鉛直方向)による鉄道のクリープ問題への考察が行われ、クリープ力を接触面の凝着領域とすべり領域で分けて計算する考え方が初めて考案された。 | 粘着式鉄道 |
4790 | オズボーン・レイノルズ | 粘着式鉄道 |
4792 | 矢作水力では、矢作川水系と分水嶺を挟んで向かい合う天竜川水系和知野川とその支流売木川に目をつけて1919年に水利権を申請していたが、その北方にある天竜川水系阿知川にても南信電力株式会社を通じて開発を図った。
この南信電力は「南信電気工業」の名で発起され、1917年(大正6年)3月に阿知川で最も有利な長野県下伊那郡三穂村大字立石(現・飯田市立石)に位置する立石地点の水利権を申請。
1922年(大正11年)11月その水利権を得たことから、翌1923年(大正12年)5月18日に南信電力株式会社の設立に至った。
資本金100万円のうち3分の1を矢作水力が出資し、工事の実施・設計も矢作水力に委任されるなど設立時から密接な関係を持った。
その後合併の話がまとまり、1927年(昭和2年)10月1日付で合併が成立、「立石水力」の水利権も矢作水力に引き継がれた。
なお合併に伴い矢作水力の資本金は90万円増加し1290万円となっている。
そして立石発電所は1930年(昭和5年)3月に運転開始に至った。
発電所出力は5,400キロワット(1937年6月以降は6,000キロワット)。
発電設備は日立製作所製のフランシス水車・発電機各2台で、送電線は上村発電所との間を連絡する77キロボルト線が建設された。 | 矢作水力 |
4793 | 立石発電所 | 矢作水力 |
4795 | 近世以降 | 小辺路 |
4797 | 7月10日 | マルセル・プルースト |
4799 | アエロスパシアル社 | エアバスA320 |
4801 | 『拾芥抄』 | 日本の獣肉食の歴史 |
4803 | 台車 | 小田急3000形電車(初代) |
4805 | 高仙芝 | マー・ワラー・アンナフル |
4807 | Hoyle(1885),AnnalsandMagazineofNaturalHistory,5,16,p.188にて、SepiaesculentaHoyle,1885として記載された。
タイプ産地は日本の横浜市場である。
シンタイプがロンドン自然史博物館にあり、1個体の雄(1889.4.24.69、外套長160mm)と1個体の雌(1889.4.24.70、外套長143mm)である。 | コウイカ |
4808 | 雄 | コウイカ |
4810 | ドンレミ | ジャンヌ・ダルク |
4812 | ジョン・カートレット | スペンサー・コンプトン(初代ウィルミントン伯爵) |
4814 | 1695年 | 日本の獣肉食の歴史 |
4816 | 東久邇宮内閣 | 松江騒擾事件 |
4818 | ユダヤ人軍事同盟はユダヤ人戦闘組織より装備が良かったこともあり、ゲットーの中心であるムラノウスキー広場(MuranowskiSquare)付近の拠点を長い期間持ちこたえて戦った。しかし4月27日の戦闘でユダヤ人軍事同盟指導者ダヴィド・アプフェルバウムが負傷した。同日、ヘンリク・イヴァンスキ少佐率いる国内軍の部隊がゲットー外から地下道を通ってユダヤ人軍事同盟の負傷者の運び出しに駆け付けたが、アプフェルバウムはゲットーから離れることを拒否し、翌28日に死亡している。 | ワルシャワ・ゲットー蜂起 |
4819 | 4月 | ワルシャワ・ゲットー蜂起 |
4821 | 収や借り上げによって日立鉱山に占有された土地は、鉱毒水の被害を受けていたこともあって当初、多くが荒地として放置されていた。
耕作がなされなくなった荒地に1909年(明治42年)と翌1910年(明治43年)、コオロギが大量発生し、残存していた農地に大きな被害を与えた。
このときコオロギの駆除に要した費用は日立鉱山が負担した。
またこの頃になると鉱山の発展に伴って周辺地域から多くの農産物が鉱山にもたらされるようになっており、宮田川流域から生産される農産物の売れ行きに影響を与えるようになった。
これらの事態は宮田川流域の農民の営農意欲の更なる低下をもたらした。
結局宮田川流域の農業は、病気に強い苗であるとの高い評価を受けるようになった杉苗など一部の例外を除き、衰退の一途を辿った。
なお杉苗が高評価を受けるに至った理由としては、海辺に近い産地であったために苗の病気にかかりにくかったこと、後に触れる日立鉱山が設立した試験農場の苗木生産技術が活用されたこと、そして日立鉱山からの亜硫酸ガスなどの煙害が逆に杉苗の病気発生を防いだ可能性が指摘されている。 | 日立鉱山の鉱害問題 |
4822 | コオロギ | 日立鉱山の鉱害問題 |
4824 | カトリーヌ・ド・メディシス | ユグノー戦争 |
4826 | 三瀬忠俊 | 松江騒擾事件 |
4828 | 1948年6月1日に小田急が大東急から分離発足した際に取締役兼運輸担当として就任した山本利三郎は、学生時代にその存在を知って以来連接車に関心を抱き、スペインで開発された連接車であるタルゴの存在を知ってからは「あれを電車でやれないか」と考えていたという。国鉄東京鉄道局に在籍していた1935年には、業務研究資料で「関節式新電車ニ就イテ」と題する構想を出した。これは、「関節車(連接車)を導入することで騒音・動揺・乗り心地を改善した上で、先頭部を流線形にし、駆動方式も吊り掛け駆動方式から改良して騒音を低減した高速電車を東京と沼津の間で走らせる」という内容であった。この発想は当時の国鉄ではまったく受け入れられなかったが、山本はその後も連接車の導入に関心を持ちつづけ、1948年冬には当時まだ新入社員であった生方良雄とともに、当時既に連接車として運用されていた西日本鉄道500形の構造や保守について視察した。 | 小田急3000形電車(初代) |
4829 | 「関節式新電車ニ就イテ」 | 小田急3000形電車(初代) |
4831 | 1830年 | チャールズ・グレイ(第2代グレイ伯爵) |
4833 | エリザベス・グレイ | チャールズ・グレイ(第2代グレイ伯爵) |
4836 | 2018年12月 | 日本の路面標示 |
4838 | 秀吉 | 姫路城 |
4840 | 1948年6月1日 | 小田急3000形電車(初代) |
4842 | LED照明は、蛍光灯や白熱電球といった従来型の照明器具と比較すると長寿命・高信頼性と低消費電力・低発熱性、高価格、RoHSに対する高い順応性、耐衝撃性、小型・点光源、高速応答性、直流低電圧駆動などの特徴を備える。他の特徴として、内蔵した各色LEDの発光を切り替えることで、発光色を容易に変えられる。そのほか、赤外線を出さないため、放射熱も出さない。また、紫外線を出さないことで紫外線を好む虫類がほとんど寄ってこないなどの利点がある。 | LED照明 |
4843 | 照明器具 | LED照明 |
4845 | 関西 | コウイカ |
4847 | モルスコイ・ズボルニク | 君沢形 |
4849 | 有史以前のはるか古来より、人類は様々な物質を薬として用いてきたと考えられている。有史以降の現存する薬に関する書物としては、紀元前2000年頃のメソポタミア文明時代の粘土板を最古として、紀元前1550年頃の古代エジプトの『エベルス・パピルス』、紀元前3世紀頃の古代中国の『神農本草経』、紀元1世紀の古代ギリシャの『薬物誌』などの存在が知られている。科学的知見や医学的知識がほとんど存在しなかった当時、これらの薬の多くは実際に服用した先人による経験則や、呪術的な見地(形態学的に特異な物や疾患との対応性など)、ホメオパシー的見地、あるいは珍奇さから見出されてきたものであった。神話においては、中国の三皇五帝の1人である神農が、日々七十数種の植物を身を舐めて試し、薬となるかどうかを判別したとの伝説が知られている。 | ヒトに由来する生薬 |
4850 | 『神農本草経』 | ヒトに由来する生薬 |
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