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913
スペイン料理には、サフランの風味を付けたサフランライスが使われることが多い。 例えば、香辛料を加えた米とひき肉で作られたバレンシア風パエリア、魚のシチューであるサルスエラなどの料理が有名である。 ファバダ(アストゥリアス風白いんげん豆の煮込み)にも使われる。 フランス料理ではブイヤベース(マルセイユの魚のシチュー)、イタリア料理ではミラノ風リゾット、スウェーデンのパンの一種ルセカッテ(サフランバン)、それを模倣したイングランドコーンウォールのrevelbunにもサフランが使われる。
サフランの取引と利用
914
revelbun
サフランの取引と利用
916
有馬記念までの間は美浦トレーニングセンターで調整を行うこととなった。 瀬戸口はオグリキャップを血統からマイラーと見ていたため「2500mは長いのではないか」と感じていたが、岡部は「充分にこなせる」と手応えを感じた。 タマモクロスはファン投票1位、当日の単勝オッズも2.4倍で1番人気で、オグリキャップはタマモクロスに次ぐファン投票2位、単勝も3.7倍で2番人気での出走となった。 瀬戸口はレース前に岡部に「4コーナーあたりで、前の馬との差を1、2馬身に持っていって、勝負に出てほしいんや」と指示し、レースでは終始5、6番手の位置を進み、第4コーナーで前方への進出を開始すると直線で先頭に立ち、優勝。 GI競走初制覇を達成し、同年のJRA賞最優秀4歳牡馬に選出された。 タマモクロスを担当した調教助手の井高淳一と、オグリキャップの調教助手であった辻本は仲が良く、麻雀仲間でもあったが、天皇賞後に井高はオグリキャップの飼い葉桶を覗き「こんなもんを食わせていたんじゃ、オグリはずっとタマモに勝てへんで。」と声を掛けた。 当時オグリキャップに与えられていた飼い葉の中に、レースに使っている馬には必要がない体を太らせるための成分が含まれており、指摘を受けた辻本はすぐにその配合を取り止めた。 有馬記念終了後に、井高は「俺は結果的に、敵に塩を送る事になったんだな。」と苦笑した。
オグリキャップ
917
有馬記念
オグリキャップ
919
慶應義塾在籍中、藤山は福澤諭吉が説いた奉仕の精神を身につけた。 このことは後にロータリークラブやボーイスカウトに協力し、福祉施設に慰問を行うことに繋がった。
藤山一郎
920
福澤諭吉
藤山一郎
922
イングランド国王ヘンリー8世はテューダー家王位継承を安泰ならしめる嫡出男子の誕生を熱望していた。王妃キャサリン・オブ・アラゴンは6人の子を産んだが5人が死産または夭逝し、成長したのは女子のメアリーだけだった。王妃が男子を産むことはないと見切りをつけたヘンリー8世は愛人アン・ブーリンと結婚するため、王妃との離婚を教皇に要請したが、教皇はキャサリンの甥であった神聖ローマ皇帝カール5世との国際関係を考慮し、許可が下りなかった。ヘンリー8世は己の希望を通すため教皇と断絶、イングランドが「主権をもつ国家」であることを宣言して、新たにイングランド国教会を樹立した。そして国王至上法によって、イングランド国内においては、国王こそが政治的・宗教的に至高の存在であると位置づけた。
エリザベス1世
923
ヘンリー8世
エリザベス1世
925
イギリスやアメリカ、オーストラリアを中心とした連合軍側は日本軍がラバウルを足がかりにニューカレドニアやニューヘブリディーズ諸島へ進撃してくる可能性を念頭に、その出鼻を挫くためANZACへ爆撃機や機動部隊のアメリカ第11任務部隊を派遣した。この時派遣された第11任務部隊司令官ウィルソン・ブラウン中将の提案によりラバウル空襲作戦が計画され、2月21日にラバウル空襲作戦を行う予定であった。しかし、空襲予定日の前日である2月20日に、ラバウルに進出したばかりの第四海軍航空隊の攻撃を受ける(ニューギニア沖海戦)。攻撃自体は日本側の一方的な敗戦に終わったものの、第11任務部隊も回避運動により燃料を大幅に消費したため、ラバウル空襲は断念せざるを得なかった。
ラバウル空襲
926
ニューヘブリディーズ諸島
ラバウル空襲
928
アポロ17号は、アメリカ合衆国のアポロ計画における最後の飛行である。2019年現在、史上6度目にして最後の有人月面着陸を行い、また地球周回低軌道を越えて人類が宇宙を飛行した最後の例となっている。また、アポロ宇宙船を月面着陸という本来の目的で使用する最後の飛行ともなった。同宇宙船がこの後に使われたのは、スカイラブ計画とアポロ・ソユーズテスト計画のみであった。船長ユージン・サーナン(EugeneCernan)、司令船操縦士ロナルド・エヴァンス(RonaldEvans)、月着陸船操縦士ハリソン・シュミット(HarrisonSchmitt)の3名を乗せて1972年12月7日にフロリダ州ケープ・カナベラルのケネディ宇宙センターから打ち上げられた。
アポロ17号
929
アポロ17号
アポロ17号
931
泰阜発電所の運転開始後、矢作水力では同じ長野県内にて立て続けに水力発電所を完成させた。 1936年12月に豊発電所(出力1万3,600キロワット)、翌1937年(昭和12年)12月に和合発電所(出力3,000キロワット)、1939年(昭和14年)12月に和知野発電所(出力6,400キロワット)がそれぞれ運転を開始したのである。
矢作水力
932
和合発電所
矢作水力
934
多くの場合、空洞は瓶を逆さにして地中に埋めることによって作りだされる。 空洞の形状には吊鐘形(円柱形、上部は半球形)、銅壺形(角柱形、上部は水平もしくは若干反った形)、龕灯形(円柱形、上部はが大きく反った形)がある。 東京農業大学教授の平山勝蔵によると、音響面の効果は吊鐘形が最も大きい。 より大きな効果を得るための方法としては吊鐘形の空洞を二重に設ける、空洞の側壁の裏側に隙間を造り出すといった方法がある。 空洞の幅と深さの関係のバランスによって音の質に違いが生じる。 空洞の側面および上部は石・陶器・金属などによって造られ、側面には土留が設置される。 底部は丸小石、割石、煉瓦、瓦などによって造られる。 滴音の反響を大きくするには底部に水を溜める工夫をする必要がある。 空洞の上部には水を落とし、さらに音を空洞の外部に漏らすための縦穴をあける。 平山はこの縦穴の寸法について、「内法3cm、深さ3cm」が最適としている。 水が空洞の壁を伝って流れ落ちないようにするため、縦穴の下端には水切りを用意する必要がある。 縦穴の上部は方形または円形かつすり鉢状に整形される。 この部分は流れ落ちる水の量および勢いが必要以上のものとなることを防ぐための堤防の機能をもち、滴音が一定に保たれる。
水琴窟
935
銅壺形
水琴窟
937
スージーの死後、ビルは1992年7月22日に48歳の高齢で死亡した。 1969年8月29日に来園したメスの「ベレー」とも交尾することはなく、1985年1月24日に誕生したメスの「ルビー」は人工授精を試みた結果の子であった。 ルビーは1988年12月1日にインドのニューデリー動物園に贈られ、残ったベレーも1993年11月2日に多摩動物公園に移動して、上野動物園でのチンパンジーの飼育展示は終了することになった。
スージー(チンパンジー)
938
多摩動物公園
スージー(チンパンジー)
940
山本は「1gでも軽い部品を採用する」と公言し、1mあたりの重量を1tとすることを目標として、軽量車両で安全に走行するための条件が徹底的に追及されたほか、将来の格下げを考えずにあくまで特急専用として考えられた。さらに、「特急車は10年もすれば陳腐化する」「丈夫に長く使える車両と考えるから鉄道車両の進歩が遅れる」という山本の考えにより、耐用年数は10年と考えることになった。 前頭部の形状の決定に際して、東京大学航空研究所の風洞を使用して、日本の鉄道車両設計の歴史上初めてとなる本格的な風洞実験が行われたほか、ディスクブレーキの試験も行われた。また、高速運転に伴って踏切事故などを防止するために補助警報器(特殊警笛)の現車試験なども行われた。 また、前述の通り、連接車に強い関心を抱いていた山本の主張によって、新型特急車両には連接構造が採用されることになった。三木は連接車に賛成していたが、研究所では保守上の不便を心配していたという。しかし、山本は「保守・整備は小田急が考えればいい話」と主張し、連接車導入と決まった。この時期の経堂工場は、17.5m車の4両編成すらもまとめて入庫できるような設備ではなかったので、小田急社内でも連接車の整備については「経堂工場で整備できるか自信が持てない」という意見があったという。
小田急3000形電車(初代)
941
風洞
小田急3000形電車(初代)
943
政界引退後、チャールズ・グレイは再びノーサンバーランドで田園生活を送ることが多くなった。1834年11月14日、ラッセルらホイッグ左派を閣僚に入れる人事案をめぐって新首相メルバーン子爵と対立を深めていた国王は内閣更迭に踏み切り、短期間の保守党(旧トーリー党)政権を誕生させたが、1835年4月9日にも保守党政権はアイルランド教会税法案の採決に敗れて倒閣された。
チャールズ・グレイ(第2代グレイ伯爵)
944
1834年
チャールズ・グレイ(第2代グレイ伯爵)
946
赤血球の役割は酸素と二酸化炭素の運搬であり、その構造は表面の赤血球膜と内部の細胞質に分けられるが、赤血球細胞膜を通して酸素と二酸化炭素が交換され、細胞質のヘモグロビンと酵素の働きで酸素と二酸化炭素は輸送される。通常の細胞が持つ核などの細胞内器官を捨て去っているため、細胞質は水とヘモグロビンで容積のほとんどを占め、それ以外は解糖系やペントースリン酸経路に関わる酵素、炭酸脱水酵素、グルコース、炭酸、Na+,Ca2+,K+,Cl-などのイオンなどわずかであり、正常な赤血球の細胞質には顕微鏡観察で目に付く構造はない。形状は両面中央が凹んだ円盤状であるが、それは同じ体積の球に比べ表面積が30-40%大きく、その大きな表面積のため酸素・二酸化炭素の交換が球状の場合よりも有利であると考えられている。また赤血球は毛細血管では折り曲げられたり変形したりして通過するが、球に比べて両面が凹んだ円盤状だと体積に比べ表面の赤血球細胞膜に余裕があるため、変形のひずみの力に対して細胞膜にかかる力が小さくなると考えられている。成熟した赤血球は、通常の細胞が持つ核やミトコンドリア、リボゾーム、ゴルジ体、小胞体などを捨て去り、酸素の輸送に特化した細胞であるので、細胞の運動能やタンパク質・脂質の合成能を持たず、通常の細胞のようには多くのエネルギーを必要としない(そのために酸素を消費してエネルギーの産出を担うミトコンドリアを捨て去ることができる)。しかし、赤血球でもATPを用いての陽イオンの輸送や細胞膜やヘモグロビンなどの各タンパク質の維持のために(通常の細胞よりは少ないものの)エネルギーを必要とする。エネルギーはグルコースを分解することで得られるが、グルコースの90%は嫌気性解糖系と呼ばれる多数の酵素によるATP合成経路であるエムデン-マイヤーホフ経路によって消費されATPを産出する。このATPはNa+やK+などの陽イオンの輸送や膜タンパクのリン酸化、解糖系自身の維持などに使われる。残りのグルコース10%はNADPHを産出するためにペントースリン酸経路を経由することで消費される。NADPHはヘモグロビンなどの各タンパク質が酸化されることを防ぎ、保護する。
赤血球
947
二酸化炭素
赤血球
949
船の所有者は奴隷に保険をかけており、奴隷の全滅を防ぐために一部の奴隷を「投荷」、つまり海に捨てた場合は保険の補償対象となっていた。そこで、ゾング号の所有者らは死んだ奴隷の分の保険金を支払うよう求めた。だが、保険を引き受けたリヴァプールの商人らは支払いを拒否し、ゾング号側が提訴してこの事件は海上保険の支払いをめぐる法廷闘争となった。コリングウッド船長はジャマイカ到着後に既に死亡しており、乗客のロバート・スタブスと一等航海士のジェームズ・ケルサルの2人が証人となった。第一審では奴隷を海に捨てる行為自体は馬を海に捨てることと変わらないとして問題視されず、「投荷」を行う必然性が争点となったがゾング号側が勝訴した。だが、王座裁判所に上告した後、大雨が降って水を集めた後にも奴隷を海に捨てていたことが判明し、最終的に主席裁判官の初代マンスフィールド伯ウィリアム・マレーは保険金を支払う法的責任はないと判決を下した。 第一審の後、解放奴隷のオラウダ・イクイアーノが奴隷貿易廃止運動家のグランビル・シャープにこの事件を知らせ、この事件は彼の関心を引くことになった。シャープは船員を奴隷を殺害した罪で裁こうとしたが、彼の取り組みは失敗に終わった。だが、法廷闘争によりこの事件に関心をもつ人々が増え、18世紀後半から19世紀初期のイギリスにおける奴隷廃止運動に影響を及ぼした。1787年の奴隷貿易廃止協会設立に続いて、1788年には奴隷貿易を規制する初の法律ドルベン法が議会で可決されて船に乗せる奴隷の人数に上限が設けられ、1794年の改正では奴隷にかける保険の補償対象が制限された。
ゾング号事件
950
ゾング号側
ゾング号事件
953
ルーアン包囲戦
ユグノー戦争
955
君沢形(きみさわがた、くんたくがた)とは、幕末に日本の戸田村などで建造された西洋式帆船の型式である。原型は、下田沖で難破したロシア船員帰国用に戸田村で建造された「ヘダ号」で、同型船10隻を日本で使用するために量産した。帆装形式はスクーナーに分類される。ヘダ号の名は戸田村に由来し、君沢形の名前は戸田村が属した君沢郡に由来する。ヘダ号及び君沢形の建造は、日本人にとって、洋式船の建造技術を実地で習得する重要な機会となった。なお、「君沢形」の名は、同型船に限らずスクーナー全般をさす一般名詞としても用いられることがある。
君沢形
956
くんたくがた
君沢形
958
神の声を聴いたと公言するジャンヌの登場は、長年にわたるイングランドとフランスとの戦いに宗教戦争的な意味合いを帯びさせ始めた。 しかしながら、ジャンヌの存在は大きな危険をもはらんでいた。 シャルル7世の顧問たちは、ジャンヌの宗教的正当性が疑問の余地なく立証されたわけではなく、ジャンヌが異教の魔女でありシャルル7世の王国は悪魔からの賜物だと告発されかねないことに危機感を抱いた。 ジャンヌを異端とみなす可能性を否定してその高潔性を証明するために、シャルル7世はジャンヌの身元調査の審議会と、ポワチエでの教理問答を命じた。 そして1429年4月にジャンヌの審議にあたった委員会は、ジャンヌの「高潔な暮らしぶり、謙遜、誠実、純真な心映えのよきキリスト教徒であることを宣言」した。 一方で教理問答に携わったポワチエの神学者たちは、ジャンヌが神からの啓示を受けたかどうかは判断できないとした。 ただし、ジャンヌの役割の聖性を創りあげるに足る「有利な憶測」をシャルル7世に伝えた。
ジャンヌ・ダルク
959
1429年4月
ジャンヌ・ダルク
961
戦国時代には田中荘の一部として「やたへ」が登場し、『上杉氏文書』によれば永禄年間(1558年-1570年)には小田氏の盟友・岡見氏の拠点であった。 そのため、小田氏と敵対した佐竹氏や多賀谷氏によって谷田部侵攻がたびたび行われ、谷田部城をめぐる攻防が繰り返された。 元亀元年(1563年)、ついに岡見氏の谷田部城は多賀谷政経によって落城、多賀谷氏が慶長6年(1601年)に改易となるまで下妻城主の多賀谷氏配下となった。 文禄3年(1594年)、太閤検地が実施されたのをきっかけに、筑波郡へ組み込まれた。
谷田部(つくば市)
962
1601年
谷田部(つくば市)
964
1856年1月頃
君沢形
966
1588年にスペインの無敵艦隊が敗れてから、凋落したスペインに代わってオランダ、ポルトガル、イギリス、フランスが東洋での覇権争いに名乗りを上げた。 ヨーロッパ人航海者がオーストラリア大陸に最初に到達したのは1606年のことである。オランダ東インド会社のウィレム・ヤンスゾーン(WillemJanszoon)がケープヨーク半島の西側を視認して上陸し、周辺の海岸を海図に記した。同年にはスペイン人ルイス・バーエス・デ・トーレス(LuisVáezdeTorres)がニューギニア島との間の海峡を航海した。オーストラリア大陸を見ることはなかったものの、ニューギニアとオーストラリアが地続きでないことが明らかとなり、この海峡は彼の名を取って「トレス海峡」と呼ばれるようになった。1616年には喜望峰を回ってバダヴィアに向かうオランダ東インド会社の船長ダーク・ハートッグ(DirkHartog)がオーストラリア西岸をヨーロッパ人として初めて目にし、今日彼の名前で呼ばれるダークハートッグ島に上陸した。 オランダ人アベル・タスマン(AbelJanszoonTasman)は1642年、西海岸を回って南部に達してタスマニア島を発見し、さらに東進してニュージーランドを発見した。のちの植民地時代、タスマンの命名に従い、前者は「ヴァン・ディーメンズ・ランド(VanDiemen'sLand)」、後者は「ステイテン・ランド(StatenLand)」と呼ばれた。
オーストラリアの歴史
967
1606年
オーストラリアの歴史
969
そんな中で、シーマンズが1961年7月にゴロヴィン(Golovin)委員会を立ち上げたことが、計画の方針を決定するひとつの転機となった。この特別委員会にはアポロ計画で使用すべきロケットが推薦されることになっていたが、その判断をするためには、まず月着陸の方式を決定することが重要な要素であると考えられた。委員会は当初、地球周回方式と月周回方式の混成案を推薦していたが、フーボルトらの陰の働きかけもあり、LOR方式の検討が、着陸方式の実現可能性を公表する際の重要な役割を果たすようになった。1961年の終わりから1962年のはじめにかけ、ヒューストン有人宇宙センター内のNASA宇宙任務グループ(SpaceTaskGroup,1958年に創設された、技術者たちの集団からなる有人宇宙飛行計画のNASA内部研究グループ)もLOR支持に意見を変えはじめ、マーシャル宇宙飛行センターの技術者たちもやがて月周回ランデブー方式のメリットを確信するようになり、彼らの方針転換は1962年7月に、ウェルナー・フォン・ブラウン博士によって非公式に発表された。NASAがLOR方式採用を正式に表明したのは、同年11月のことであった。これについて宇宙開発史研究家のジェームズ・ハンセンは、「もし1962年に頑迷なNASAがこのささやかな変更を受け入れなかったとしても、アメリカは月面に到達していただろうが、ケネディが公約した「1960年代中に月に到達させる」という目標はほぼ確実に達成されることはなかっただろう」と述べている。 ちなみにLOR方式への変更は、ずっと後になってアポロ13号が月軌道の途中で酸素タンクの爆発事故を発生させた時、吉と出ることとなった。もしこの時、独自の生命維持装置を持つ月着陸船が存在していなければ、飛行士たちは確実に命を落としていたところであった。
アポロ計画
970
アポロ計画で使用すべきロケット
アポロ計画
972
サフランが高価であるにも関わらず、特に中国とインドではサフランを繊維の染料として用いた。 その色は不安定であり、当初は鮮やかなオレンジあるいは黄色を見せるが、すぐに褪色して青白くあるいはクリーム色になる。 サフランのおしべは、少量でも明るい黄色あるいはオレンジ色を呈する。 サフランの量を増やすと、濃い赤の色相となる。 伝統的に、サフランによる染色は、上位階級専用であった。 ヒンドゥー教、仏教の僧は、サフランで染色した朱と黄土色のローブをまとっていた。 中世アイルランドやスコットランドでは、裕福な修道士がléineと呼ばれるサフランで染められた長い麻のシャツを着ていた。 組織学では、顕微鏡観察用の細胞の染色に、ヘマトキシリン、フロキシン、サフランの混合物を利用したHPS染色法が使用される。
サフランの取引と利用
973
サフラン
サフランの取引と利用
975
勘定奉行兼陸軍奉行並の小栗忠順や、軍艦頭の榎本武揚らは主戦論を主張した。 小栗の作戦は、敵軍を箱根以東に誘い込んだところで、戦力的に勝る徳川海軍が駿河湾に出動して敵の退路を断ち、フランス式軍事演習で鍛えられた徳川陸軍で一挙に敵を粉砕、海軍をさらに兵庫・大阪方面に派遣して近畿を奪還するというものであったが、恭順の意思を固めつつあった慶喜の容れるところとならず、小栗は正月15日に罷免されてしまう。 19日には在江戸諸藩主を召し、恭順の意を伝えて協力を要請、翌日には静寛院宮(和宮親子内親王)にも同様の要請をしている。 続く23日、恭順派を中心として配置した徳川家人事の変更が行われた。
江戸開城
977
『キリスト磔刑と最後の審判』に関する現存する記録は1841年が最古のもので、当時の研究者たちはこの作品のことを中央パネルが失われた三連祭壇画の両翼だと考えていた。その後、1933年にニューヨークのメトロポリタン美術館が『キリスト磔刑と最後の審判』を購入している。当時はヤン・ファン・エイクの兄フーベルト・ファン・エイクの作品だとみなされていた。これは、複数の画家の手による挿絵が収載されている装飾写本『トリノ=ミラノ時祷書』のうち、当時はフーベルトが描いたとされていた挿絵が、この作品によく似ていたことによる。現在では、その絵画技法と描かれている人物像がまとう衣服の表現から、美術史家のほとんどがヤン・ファン・エイクの後期、おそらくは1430年代から死去する1441年の間に描かれた作品だと見なしている。ただし、制作年については異説もあり、まだヤン・ファン・エイクが若く未熟な1420年代初めごろの作品であると主張する美術史家もいる。
キリスト磔刑と最後の審判
978
フーベルト・ファン・エイク
キリスト磔刑と最後の審判
980
2011年12月末
はつゆきさくら
982
1502年12月31日、チェーザレは反乱側の5人のコンドッティエーレから、反乱軍が既に制圧していたシニガッリア(Sinigaglia、現:セニガッリア)で交渉を持ちかけられ、チェーザレおよび病を理由に欠席したバリオーニ以外の4人のコンドッティエーレが、シニガッリアへ軍を率いて集合した。 チェーザレは穏和な態度で4人と相対して油断させ、4人が自軍から離れてシニガッリアの城内に入ったところを、ミケロットらに命じて捕縛させた。 これと同時に、4人が率いた軍をチェーザレは攻撃して、これらを壊走させた。
チェーザレ・ボルジア
983
シニガッリア
チェーザレ・ボルジア
985
ラック式鉄道やケーブルカー(鋼索式鉄道)、索道(ロープウェイ)、磁気浮上式鉄道、鉄輪式リニアモーターカーなどは、駆動力と制動力が摩擦以外の方式で伝達され、粘着式鉄道ではない。こうした鉄道はエネルギー消費量が増加する欠点はあるものの(リニア誘導モーターの電力消費が従来の回転型電動機に比べて大幅に多いためと、ラックレールの抵抗によるエネルギーの損失がきわめて大きいため)、勾配を大きく取れるので、登山鉄道で多く見られる。例えばスイスのベルナーオーバーラント鉄道は粘着式鉄道とラック式鉄道の区間が両方ある。雨や露、油、落ち葉、摩耗くずなどがレールに付着した際や湿気の影響などにより、粘着が低下する。粘着式鉄道では多くの機関車が砂撒き装置あるいはセラミック噴射装置を備えており、滑りやすい状態では砂を撒いて粘着状態を改善する。落ち葉によって粘着が低下した状態に対処する方法としては、レールの洗浄列車を走らせたりウォータージェットを設置して吹き飛ばしたり、長期間にわたる線路際の植生管理をしたりといった方法がある。電動機やエンジンで車輪を駆動している時に粘着が失われると空転となり、ブレーキをかけている時に粘着が失われると滑走となる。空転・滑走を止めて再度正しく駆動・制動力がかかるように粘着状態に戻す制御を空転滑走再粘着制御と呼ぶ。
粘着式鉄道
986
粘着式鉄道
粘着式鉄道
988
サー・ギルバート・ドルベン
スペンサー・コンプトン(初代ウィルミントン伯爵)
990
これまでテレビアニメが4回、映画が5回、OVAが1回、発表されている。 1983年から放送された第1作目のアニメでは原作『キャプテン翼』の小学生編から中学生編までが描かれたが、テレビ東京開局以来のヒットと称され最高視聴率21.2%を記録し、日本国内にサッカーブームを起こした。 また、世界50か国以上でテレビ放送されるなど世界中で親しまれている。
キャプテン翼
991
テレビ東京
キャプテン翼
993
アルマデンはスペインのカスティーリャ=ラ・マンチャ州シウダ・レアル県にある鉱山町である。 その水銀生産は古代ローマ時代にまで遡り、ローマに辰砂を供給していたという記録もあるが、16世紀以前の詳しい鉱山開発については未詳であるという。 1511年から1524年までは国王会計のもと、個人との開発契約を結ぶ形で開発が行われたが、1524年にスペイン王カルロス1世が債権者であるフッガー家に開発権を譲渡した。 途中、アウグスブルクの別の金融業者に開発権が渡ったり、フッガー家が再経営に乗り出した後に火災で一時閉山されるなどもあったが、1563年からスペイン政府は再びフッガー家と契約を結んだ。 このときに付けられた条件は、産出される水銀をすべてヌエバ・エスパーニャ副王領に送付することであった。
水銀の遺産アルマデンとイドリヤ
994
古代ローマ時代
水銀の遺産アルマデンとイドリヤ
996
海底ケーブル網の広がりによって、情報伝達にかかる時間は大幅に短縮された。このことによって、経済市場の拡大、商品価格の低下と地域格差の減少などの効果を生み出し、さらにケーブルは国家戦略の面においても重要な要素となった。また、通信速度を上げるため、通信技術も向上していった。これらは当然大西洋横断電信ケーブルにも当てはまるが、ここでは特に大西洋横断電信ケーブルに関わりの深いことがらを挙げる。大西洋横断電信ケーブルの政治や経済への活用は、1858年に敷設されたケーブルですでに行われている。前述のように、このケーブルは約2ヶ月しか使われなかったが、その間にいくつかの重要なメッセージをやりとりしている。1858年、英国はインド大反乱を抑えるため、カナダから軍隊を派遣する計画であったが、戦況が変化したためその必要は無くなった。その旨をケーブルを通してカナダへ伝えることで、軍隊の輸送費5万ポンドを節約することができた。また、このケーブルは、プロイセン開院式勅語の全文を送信するなど、当時の世界に海底ケーブルの効果を示した。大西洋横断電信ケーブルが本格的に使用できるようになると、ロンドンとニューヨークの株式取引所の通信としても活用されるようになった。取引時間中に交わされる電報は1時間に25,000語に達した。スターリング・ポンドの愛称である「ケーブル」は、この大西洋横断電信ケーブルに由来する。
大西洋横断電信ケーブル
997
1858年
大西洋横断電信ケーブル
999
爪は四肢先端にある指先の角質が変化して形成される硬い組織だ。主成分はケラチンである。 「爪甲」:平安時代初期に記された現存する日本最古の薬物辞典である『本草和名』に「豆女」の名で収載されている。『本草綱目』にも収載されているほか、『多識編』では「豆米」の名で記されている。利小便(利尿)や催生(陣痛促進)に効果があるとされ、応用例では、淋病や脚気、胞衣不下(胎盤が降りてこない症状)、鼻血、に用いられた。 なお、西洋の民間療法では、ヒトの爪は病気の治療に用いられたほか、歯の痛みを癒すために手足の爪を交互に切ることが行われていたという。
ヒトに由来する生薬
1000
ケラチン
ヒトに由来する生薬
1003
冬の間、何週間も戦闘を重ねた1941年3月9日、イタリア軍は全ての戦線で反撃を開始、当初優勢ではあったものの、最終的には失敗に終わった。12,000名の犠牲者を出した一週間後、ムッソリーニは反撃を終了させ、作戦発動から12日後、アルバニアから脱出した。
ギリシャの戦い
1004
1941年3月9日
ギリシャの戦い
1006
1559年、66のカルヴァン派信徒団の代表が秘密裏にパリに集まって第1回全国教会会議を催し、信仰告白と教会規則を作成した。1560年時点で、カルヴァン派はフランス総人口1800万人の約10%と推定されている。
ユグノー戦争
1007
パリ
ユグノー戦争
1009
スタンリー・ボールドウィンは1917年にロイド・ジョージ挙国一致内閣で財務担当政務次官、1921年から商務庁長官に就任した。しかし大連立解消に主導的役割を果たした。
スタンリー・ボールドウィン
1010
ロイド・ジョージ
スタンリー・ボールドウィン
1012
1900年代の学術的基盤をもとに、1910年代になるとステンレス鋼が工業的・商業的な観点から発明、実用化され始める。ステンレス鋼は、主に産業界の研究者たちによって研究が進められることとなった。1910年代の初めに、欧米の研究者たちによってステンレス鋼の基本3鋼種フェライト系ステンレス鋼、マルテンサイト系ステンレス鋼、オーステナイト系ステンレス鋼が確立されるが、誰を「ステンレス鋼の発明者」と呼ぶにふさわしいかは一概には言えない。1900年代の研究者たちも含めて、ステンレス鋼には多くの発見者・発明者が居た。あえて発明者の名を一人だけ挙げる場合は、実用的観点からステンレス鋼の利点を明確にした後述のイギリスのハリー・ブレアリーの名を挙げることが多い。しかし、いずれにしても、ステンレス鋼の発明は一握りの人物や組織によって達成されたものではなく、数多くの研究者たちが蓄積してきた英知と努力の成果である。
ステンレス鋼の歴史
1013
1910年代
ステンレス鋼の歴史
1015
11月、アストール3世マンフレディを当主とするファエンツァに到着したが、ファエンツァはチェーザレの降伏勧告を拒否して抵抗する姿勢を示した。 ファエンツァの抵抗は激しく、チェーザレの再三にわたる攻撃を退けたものの、1501年4月にアストールの命を保証することを条件にファエンツァはチェーザレに降伏した。 後にアストールはローマへ送られ、1502年1月にサンタンジェロ城で暗殺された。 ファエンツァ陥落を受けて、アレクサンデルはチェーザレをロマーニャ公爵に任じた。
チェーザレ・ボルジア
1016
ローマ
チェーザレ・ボルジア
1018
崀山(ろうざん/Langshan,1335-005)は湖南省新寧県にある山で世界遺産登録面積は6600haである。 登録面積の大部分は崀山風景名勝区(LangshanNationalPark)と重なっている。 最高峰は818mで、最も低い地点が302mである。 壮年期に位置する丹霞地形が見られ、典型的な「一線天」が複数見られる。 「一線天」とは、浸食作用によって形成された切り立った崖の幅が狭く、そこを通っている時に空を見上げると細い線にしか見えない地形を指す。 崀山にはそうした一線天が10ほどあるが、その中でも「天一巷」は最大で1mもない細い道幅の両側に100m以上の高い崖が屹立している。
中国丹霞
1019
818m
中国丹霞
1021
1890年(明治23年)には新治郡土浦町(現在の土浦市中心部)と水海道町(現在の常総市中心部)を結ぶ「谷田部街道」が開通、1891年(明治24年)には五十銀行が谷田部支店を設置、1923年(大正12年)には現在の茨城県立つくば工科高等学校の前身である谷田部女子農業補習学校が開校するなど、筑波郡の中心としての機能を強めた。 常南電気鉄道が土浦と水海道を結ぶ鉄道の建設を計画し、谷田部でも一部線路を建設するための土手が完成していたが、開通には至らなかった。 1938年(昭和13年)には集中豪雨による谷田川の氾濫で大きな被害が発生するが、翌1939年(昭和14年)には谷田部町内に谷田部海軍航空隊が開隊したことで、休日には軍人が谷田部に来るようになり、商店街は賑わった。 谷田部には舞妓や芸者のいる旅館、映画館、料亭、雑貨店、薬局などがあり、賑いは戦後しばらくまで続いた。 このうち、映画館「玉川館」を運営していた和菓子店の玉川堂は2014年現在も大福などの販売を続けている。
谷田部(つくば市)
1022
昭和14年
谷田部(つくば市)
1024
ヘンリーの父親は多くの財産を所有していたが、息子に生活費として与える金額は年間500ポンドに過ぎなかったので、ヘンリーはつつましい生活をしていた。ところが1783年に父親が死去すると、長男であるヘンリーには多額の遺産が入りこんだ。そのため以後は生活に不自由することなく研究に打ち込めるようになった。ジョルジュ・キュヴィエやジャン=バティスト・ビオによれば、父親の遺産を相続する前にも、インドで財をなした伯父から財産を相続したとされており、ビオによるとその金額は年間30万ポンドとされている。さらにトマス・トムソンは、伯母がキャヴェンディッシュに多くの財産を残したと述べている。そのためキャヴェンディッシュは父の生前から巨額の富をもっていたという証言もあるが、キャヴェンディッシュ家の系図にはその伯父や伯母に該当する人物を見つけ出すことはできないため、その真偽は定かではない。 父親の死後、キャヴェンディッシュはモンタギュー広場とガウアー街の角にある屋敷に引っ越した。さらに資料を置くための別邸、および郊外のクラパムの別荘を所有した。別邸は図書館として一般にも開放した。またクラパムの別荘は、実験室と工作室として使用した。
ヘンリー・キャヴェンディッシュ
1025
1783年
ヘンリー・キャヴェンディッシュ
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定格範囲内で使用する限り発光素子自身は比較的長寿命である。ただし、発光素子を取り囲む樹脂材料は強い光や発熱で劣化するため発光素子が正常でも比較的早期に透明度が失われて実用には適さなくなる。また発光部(LED)以外、例えば電源回路の受動部品(コンデンサ等)や電源供給用半導体、基板・配線等も主に温度・湿度の変化を受けて照明器具の寿命を決める要素となる。照明器具全体での温度や湿度に対する耐久性が求められるが、その全体の寿命は発光部や電源回路だけでなく、スイッチや電線なども経年変化を受けるため、他の電気機器と同様に10年程度を目処に交換することが推奨される。白色LEDが登場した初期には、従来の赤色LEDと同様にエポキシ樹脂が用いられていたが、定格動作しただけで蛍光灯と同等かそれよりも早く劣化が進み、白色LEDの出力向上では一層それは顕著となった。いまではシリコーン樹脂を封止材料に選ぶことでかなりの改善が見られるが、依然として熱による劣化と透明度の低下がLED素子の寿命を決定している。従来のLEDが状態表示等に使われている限りは明るさの低下はその装置全体の性能の決定的な要素ではなかったが、照明器具としての白色LEDでは明るさの低下は使用者の利便を損なうだけでなくエネルギーの無駄となるため、明るさ低下の許容範囲は自ずと限られる。従来のLEDは電子部品の寿命として「輝度が初期の50%となるまで」と定義されているが、照明用途ではとても許容できない。例えば一般の蛍光灯では光束が初期の70%になるまでと定義されており、おそらく同様の規定になると考えられる。
LED照明
1028
樹脂材料
LED照明
1030
1945年(昭和20年)8月15日、藤山はジャワ島スラバヤをマディウンへ向かい移動する車中で日本の敗戦を知った。 藤山は独立を宣言したばかりのインドネシア共和国の捕虜となり、ジャワ島中部・ナウイの刑務所に収容され、その後ソロ川中流部にあるマゲタンの刑務所へ移送された。 1946年(昭和21年)、スカルノの命令によりマラン州プジョンの山村に移動した。 そこには三菱財閥が運営していた農園があり、旧大日本帝国海軍の将兵が一帯を「鞍馬村」と名づけて自給自足の生活を送っていた。 鞍馬村滞在中、藤山は休日になると海軍の兵士だった森田正四郎とともに各地の収容所を慰問して回った。 鞍馬村での生活は数か月で終わりを告げた。 太平洋戦争終結直後から行われていた独立戦争においてインドネシアとイギリスとの間に一時的な停戦協定が成立し、日本人捕虜を別の場所へ移送した後、帰国させることになったためである。 藤山はリアウ諸島のレンパン島に移送された。 この島で藤山はイギリス軍の用務員とされ、イギリス軍兵士の慰問をして過ごした。 1946年7月15日、藤山は復員輸送艦に改装された航空母艦・葛城に乗って帰国の途についた。
藤山一郎
1031
レンパン島
藤山一郎
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戦国時代になると、南蛮貿易などを通じた食品の輸入が本格化した。 この時代には新大陸(南北アメリカ大陸)の食材ももたらされている。 ジャン・クラッセ(JeanCrasset)の『日本西教史』には「日本人は、西洋人が馬肉を忌むのと同じく、牛、豚、羊の肉を忌む。牛乳も飲まない。猟で得た野獣肉を食べるが、食用の家畜はいない」と書かれている。 宣教師ルイス・フロイスの『日欧文化比較』には「ヨーロッパ人は牝鶏や鶉・パイ・プラモンジュなどを好む。日本人は野犬や鶴・大猿・猫・生の海藻などをよろこぶ」「ヨーロッパ人は犬は食べないで、牛を食べる。日本人は牛を食べず、家庭薬として見事に犬を食べる」と書かれている。 宣教師フランシスコ・ザビエルは日本の僧の食習慣を真似て肉食をしなかったが、その後の宣教師は信者にも牛肉を勧め、1557年(弘治3年)の復活祭では買った牝牛を殺して飯に炊き込んで信者に振舞っている。
日本の獣肉食の歴史
1034
『日欧文化比較』
日本の獣肉食の歴史
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1924年1月にマクドナルドに政権を譲った後、ボールドウィンは野党党首になった。ボールドウィンは労働党の漸進的な社会改良主義と共産主義は分けて考えており、労働党を全否定はしていなかった。特に首相マクドナルドの外交観はボールドウィンとそれほど差はなかったため、ボールドウィンはマクドナルドに信頼感を持っていた。そのことについて国王側近の初代スタンフォーダム男爵アーサー・ビッゲは、「ボールドウィンは首相マクドナルドを好み、信頼している。彼はしばしば首相と興味のある話をしていた。彼は首相が共産主義に対して冷静に断固として反対するであろうと考えていた」と評している。
スタンリー・ボールドウィン
1037
1924年1月
スタンリー・ボールドウィン
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ジャンヌはジャック・ダルクとイザベル・ロメの娘として生まれた。 父ジャック・ダルク(1380年-1440年)がロメと呼ばれていたイザベル・ヴトン(1387年-1468年)と結婚したのは1405年のことで、2人の間にはジャクマン、ジャン、ピエール、ジャンヌ、カトリーヌの5人の子が生まれている。 ジャンヌが生まれたのはバル公領の村ドンレミで、当時のバル公領は、マース川西部がフランス領、マース川東部が神聖ローマ帝国領で、ドンレミはマース川西部のフランス領に属していた。 バル公領はのちにロレーヌ公国に併合され、ドンレミはジャンヌの別称である「オルレアンの乙女(ラ・ピュセル・ドルレアン(laPucelled'Orléans)」にちなんでドンレミ=ラ=ピュセルと改名されている。 ジャンヌの両親は20ヘクタールほどの土地を所有しており、父ジャックは農業を営むとともに、租税徴収係と村の自警団団長も兼ねていた。 当時のドンレミはフランス東部の辺鄙な小村で、周囲をブルゴーニュ公領に囲まれてはいたが、フランス王家への素朴な忠誠心を持った村だった。 ジャンヌが幼少のころにドンレミも何度か襲撃に遭い、焼き払われたこともあった。
ジャンヌ・ダルク
1040
イザベル・ヴトン
ジャンヌ・ダルク
1042
十津川
小辺路
1044
1912年(明治45年・大正元年)、尋常小学校を卒業した康成は、親戚の川端松太郎を身許保証人として、4月に大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)に首席で入学し「甲組」となった。 茨木中学校は質実剛健の校風で体操や教練に厳しく、マラソンも盛んで、生徒の勤労奉仕で水泳プールが作られ、オリンピック選手も輩出していた。 登校後は教室でも運動場でも裸足となり、寒中だけ地下足袋が許されていた。 康成は学校まで約一里半(約6キロメートル)の道を毎日徒歩通学し、虚弱体質が改善され、1年の時は「精勤賞」をもらった。 しかし夜になると家にいる寂しさに耐えられず、康成は祖父を一人残して毎日のように、〈二組も兄弟もそろつてゐる〉友人(宮脇秀一、憲一の兄弟)の家に遊びに行き、温かい家庭の団欒に交ぜてもらっていた。 そして家に戻ると祖父を独りきりにしたことを詫びる気持ちでいつもいっぱいになった。 この当時の手記には、〈父母なく兄弟なき余は万人の愛より尚厚き祖父の愛とこの一家の人々の愛とに生くるなり〉と記されている。
川端康成
1045
大阪府立茨木中学校
川端康成
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トウショウボーイ
テンポイント
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明治政府は1868年8月7日(慶応4年6月19日)に成立した「大阪兵庫外国人居留地約定書」において、外国人に対して居留地における一定の行政権と財政権を認めた。 具体的には居留地内のインフラ整備・治安維持を中心とする自治行政を行うための最高議決機関として居留地会議を創設し、その運営費用には居留地の競売代金の一部と地税・警察税(地税と警察税の徴収は居留地側が行うことができた)を充てることを認めた。 居留地住民による自治行政は居留地が廃止されるまで続いた(なお、長崎や横浜の居留地にも当初は自治権があったが、途中で放棄されている)。 また、各国政府は神戸外国人居留地周辺に領事館を開設し、自国の経済的利益と国民を保護し領事裁判権を行使する領事を置いた。
神戸外国人居留地
1050
「大阪兵庫外国人居留地約定書」
神戸外国人居留地
1052
ヘンリーは1766年の論文で、亜鉛・鉄・スズに硫酸あるいは塩酸を加えると、可燃性の気体が発生すると発表した。この気体こそが水素である。しかしキャヴェンディッシュはフロギストン説を支持していたため、この気体は金属から発生したフロギストンであると考えた。さらにキャヴェンディッシュはこの気体の性質を調べ、これは通常の空気と比べて11分の1の質量しかもたないと発表した。 この実験において、硫酸や塩酸の代わりに硝酸を使用しても気体が発生することを確かめた。しかしこの気体は可燃性をもたなかった。この結果については、金属から出たフロギストンが、硝酸と結合することで可燃性を失うからだと考えた。
ヘンリー・キャヴェンディッシュ
1053
1766年
ヘンリー・キャヴェンディッシュ
1055
小辺路の生活道路としての形成時期ははっきりしないが、小辺路が通行する十津川村・野迫川村の領域に関係する史料には8世紀に遡るものが見られ、また、周辺に介在する遺跡・史資料などから少なくとも平安期には開創されていたと考えられている。 このことを裏付ける傍証として第21代熊野別当であった湛増が高野山往生院に住房を構えていた史実や、現在も小辺路からの下山口である八木尾口(田辺市本宮町)に正慶元年(1332年)に関所が設けられたことを伝える史料の記述(『紀伊続風土記』)がある。 さらに正保3年(1646年)付の『里程大和著聞記』は郡山藩主本多内記と高取藩主上村出羽守が幕命を受けて紀和国境のルートを調査した文書だが、この中には「中道筋」なる名で小辺路がとり上げられている。
小辺路
1056
上村出羽守
小辺路
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事前の作業として、塗装する位置や内容の選定が行われる。 この作業では道路利用者が充分視認でき、かつ正しく伝わるよう配慮する必要がある。 測量用具やチョークなどを用いて、路面に罫書きする。 チョークの粉を付けた糸を張って墨出しをすることもある。 矢印や数字は既に様式が定められているが、地名に用いる文字はバランスを考えて工事毎にレイアウトが考えられる。 なお、この罫書きの作業を自動的に行うためのロボットが技工社(鳥取県鳥取市)から開発されており、熟練作業員の手作業に比べおよそ3分の1の時間で完了できるとされる。 既設の路面標示を補修する場合、塗料と旧塗膜との密着具合を調査し、施工に影響が出る場合は消去する必要がある。 塗装前は箒やブラシによって路面を充分に清掃しなければならない。 この作業が不充分だとプライマーの接着不良が生じ、はがれの原因となる。 また、水分は強制的に乾燥するか、乾燥まで待たなければならない。 路面標示用塗料の3種を施工する場合は掃除・乾燥後はプライマーを必ず塗布する。 プライマーは塗料と路面との接着を強固にし、路面上の微細な汚れを洗浄する役割を持つ。
日本の路面標示
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プライマー
日本の路面標示
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エジプトのアマルナ文書によればシリアのビュブロス、テュロスは青銅器時代後期にエジプトと活発な交易を結んでいた。しかし、『前1200年のカタストロフ』によって最古のアルファベットを考案したウガリットは滅亡した。しかし、ビュブロスなどは早期に復活しており、旧約聖書によればテュロスは前10世紀にヒラム1世の元で復興しており、紅海やインド洋方面へ進出したとされており、北アフリカ地中海側沿岸部にも進出、カルタゴを建設している。
暗黒時代(古代ギリシア)
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テュロス
暗黒時代(古代ギリシア)
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1965年
アポロ計画
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2005年(平成17年)1月1日に嬉野町は松阪市・三雲町・飯南町・飯高町と新設合併し新・松阪市となり、松阪市嬉野図書館に改称した。 同時に三重県全体に貸し出し対象者を拡大した。 この時、松阪図書館も松阪市の管理運営となるが、システム統合が行われたのは2007年(平成19年)4月1日のことである。 2009年(平成21年)4月に指定管理者制度を導入し、図書館流通センターの管理に移行した。
松阪市図書館
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松阪市嬉野図書館
松阪市図書館