id stringlengths 7 14 | title stringclasses 710 values | context stringlengths 14 858 | question stringlengths 6 99 | answers dict | is_impossible bool 1 class |
|---|---|---|---|---|---|
a5157p32q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 文献資料においては、上述した266年の遣使を最後に、以後約150年近くにわたって、倭に関する記載は中国の史書から姿を消している。3世紀後半から4世紀前半にかけての日本列島はしたがって、金石文もふくめて史料をほとんど欠いているため、その政治や文化の様態は考古学的な資料をもとに検討するほかない。 | 倭に関する記載は中国の史書から姿を消している最後の遣使はいつ? | {
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a5157p32q2 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 文献資料においては、上述した266年の遣使を最後に、以後約150年近くにわたって、倭に関する記載は中国の史書から姿を消している。3世紀後半から4世紀前半にかけての日本列島はしたがって、金石文もふくめて史料をほとんど欠いているため、その政治や文化の様態は考古学的な資料をもとに検討するほかない。 | 中国の史書から倭に関する記載が消えたのはいつ | {
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a5157p32q3 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 文献資料においては、上述した266年の遣使を最後に、以後約150年近くにわたって、倭に関する記載は中国の史書から姿を消している。3世紀後半から4世紀前半にかけての日本列島はしたがって、金石文もふくめて史料をほとんど欠いているため、その政治や文化の様態は考古学的な資料をもとに検討するほかない。 | 倭に関して中国の史書に約150年記載されなくなったのは何年の遣使以降か? | {
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"266年"
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a5157p32q4 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 文献資料においては、上述した266年の遣使を最後に、以後約150年近くにわたって、倭に関する記載は中国の史書から姿を消している。3世紀後半から4世紀前半にかけての日本列島はしたがって、金石文もふくめて史料をほとんど欠いているため、その政治や文化の様態は考古学的な資料をもとに検討するほかない。 | 266年の遣使を最後に、以後約何年近くにわたって、倭に関する記載は中国の史書から姿を消しているか? | {
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a5157p33q0 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 定型化した古墳は、おそくとも4世紀の中葉までには東北地方南部から九州地方南部にまで波及した。これは東日本の広大な地域がヤマトを盟主とする広域政治連合(ヤマト王権)に組み込まれたことを意味する。ただし、出現当初における首長墓とみられる古墳の墳形は、西日本においては前方後円墳が多かったのに対し、東日本では前方後方墳が多かった。こうして日本列島の大半の地域で古墳時代がはじまり、本格的に古墳が営まれることとなった。 | 定型化した古墳は、おそくともいつ頃までには東北地方南部から九州地方南部にまで波及したか? | {
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"4世紀の中葉"
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a5157p33q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 定型化した古墳は、おそくとも4世紀の中葉までには東北地方南部から九州地方南部にまで波及した。これは東日本の広大な地域がヤマトを盟主とする広域政治連合(ヤマト王権)に組み込まれたことを意味する。ただし、出現当初における首長墓とみられる古墳の墳形は、西日本においては前方後円墳が多かったのに対し、東日本では前方後方墳が多かった。こうして日本列島の大半の地域で古墳時代がはじまり、本格的に古墳が営まれることとなった。 | 西日本において出現当初における首長墓とみられる古墳の墳形で多かったものは? | {
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"前方後円墳"
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a5157p33q2 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 定型化した古墳は、おそくとも4世紀の中葉までには東北地方南部から九州地方南部にまで波及した。これは東日本の広大な地域がヤマトを盟主とする広域政治連合(ヤマト王権)に組み込まれたことを意味する。ただし、出現当初における首長墓とみられる古墳の墳形は、西日本においては前方後円墳が多かったのに対し、東日本では前方後方墳が多かった。こうして日本列島の大半の地域で古墳時代がはじまり、本格的に古墳が営まれることとなった。 | 定型化した古墳が、東北地方南部から九州地方南部にまで波及したのは、おそくとも何世紀の中葉までか? | {
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"4世紀"
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a5157p33q3 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 定型化した古墳は、おそくとも4世紀の中葉までには東北地方南部から九州地方南部にまで波及した。これは東日本の広大な地域がヤマトを盟主とする広域政治連合(ヤマト王権)に組み込まれたことを意味する。ただし、出現当初における首長墓とみられる古墳の墳形は、西日本においては前方後円墳が多かったのに対し、東日本では前方後方墳が多かった。こうして日本列島の大半の地域で古墳時代がはじまり、本格的に古墳が営まれることとなった。 | たのに対し、東日本では前方後方墳が多いが、西日本で多い古墳の形は? | {
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"前方後円墳"
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a5157p33q4 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 定型化した古墳は、おそくとも4世紀の中葉までには東北地方南部から九州地方南部にまで波及した。これは東日本の広大な地域がヤマトを盟主とする広域政治連合(ヤマト王権)に組み込まれたことを意味する。ただし、出現当初における首長墓とみられる古墳の墳形は、西日本においては前方後円墳が多かったのに対し、東日本では前方後方墳が多かった。こうして日本列島の大半の地域で古墳時代がはじまり、本格的に古墳が営まれることとなった。 | 定型化した古墳は、おそくとも何世紀の中葉までには東北地方南部から九州地方南部にまで波及したか? | {
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"4世紀"
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a5157p34q0 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 古墳には、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳などさまざまな墳形がみられる。数としては円墳や方墳が多かったが、墳丘規模の面では上位44位まではすべて前方後円墳であり、もっとも重要とみなされた墳形であった。前方後円墳の分布は、北は山形盆地・北上盆地、南は大隅・日向におよんでおり、前方後円墳を営んだ階層は、列島各地で広大な領域を支配した首長層だと考えられる。 | 墳丘規模の面では何位まで前方後円墳か | {
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"上位44位"
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a5157p34q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 古墳には、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳などさまざまな墳形がみられる。数としては円墳や方墳が多かったが、墳丘規模の面では上位44位まではすべて前方後円墳であり、もっとも重要とみなされた墳形であった。前方後円墳の分布は、北は山形盆地・北上盆地、南は大隅・日向におよんでおり、前方後円墳を営んだ階層は、列島各地で広大な領域を支配した首長層だと考えられる。 | 前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳などさまざまな墳形がみられるものは何 | {
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a5157p35q0 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 前期古墳の墳丘上には、弥生時代末期の吉備地方の副葬品である特殊器台に起源をもつ円筒埴輪が立て並べられ、表面は葺石で覆われたものが多く、また周囲に濠をめぐらしたものがある。副葬品としては三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡などの青銅鏡や碧玉製の腕輪、玉(勾玉・管玉)、鉄製の武器・農耕具などがみられて全般に呪術的・宗教的色彩が濃く、被葬者である首長は、各地の政治的な指導者であったと同時に、実際に農耕儀礼をおこないながら神を祀る司祭者でもあったという性格をあらわしている(祭政一致)。 | 前期古墳の副葬品として青銅鏡や碧玉製の腕輪、鉄製の武器・農耕具と何がある? | {
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a5157p35q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 前期古墳の墳丘上には、弥生時代末期の吉備地方の副葬品である特殊器台に起源をもつ円筒埴輪が立て並べられ、表面は葺石で覆われたものが多く、また周囲に濠をめぐらしたものがある。副葬品としては三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡などの青銅鏡や碧玉製の腕輪、玉(勾玉・管玉)、鉄製の武器・農耕具などがみられて全般に呪術的・宗教的色彩が濃く、被葬者である首長は、各地の政治的な指導者であったと同時に、実際に農耕儀礼をおこないながら神を祀る司祭者でもあったという性格をあらわしている(祭政一致)。 | 副葬品としては三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡などの青銅鏡や碧玉製の腕輪、玉(勾玉・管玉)、鉄製の武器・農耕具などがみられて全般にどういう性質がが色濃く反映されている | {
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"呪術的・宗教的色彩"
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a5157p36q0 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] ヤマト連合政権を構成した首長のなかで、特に重視されたのが上述の吉備のほか北関東の地域であった。毛野地域とくに上野には大規模な古墳が営まれ、重要な位置をしめていた。また九州南部の日向や陸奥の仙台平野なども重視された地域であったが、白石太一郎はそれは両地方がヤマト政権連合にとってフロンティア的な役割をになった地域だったからとしている。 | ヤマト連合政権を構成した首長のなかで、特に重視されたのは | {
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a5157p36q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] ヤマト連合政権を構成した首長のなかで、特に重視されたのが上述の吉備のほか北関東の地域であった。毛野地域とくに上野には大規模な古墳が営まれ、重要な位置をしめていた。また九州南部の日向や陸奥の仙台平野なども重視された地域であったが、白石太一郎はそれは両地方がヤマト政権連合にとってフロンティア的な役割をになった地域だったからとしている。 | ヤマト連合政権を構成した首長のなかで、特に重視されたのが上述の吉備のほかどこの地域であった | {
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"北関東"
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a5157p36q2 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] ヤマト連合政権を構成した首長のなかで、特に重視されたのが上述の吉備のほか北関東の地域であった。毛野地域とくに上野には大規模な古墳が営まれ、重要な位置をしめていた。また九州南部の日向や陸奥の仙台平野なども重視された地域であったが、白石太一郎はそれは両地方がヤマト政権連合にとってフロンティア的な役割をになった地域だったからとしている。 | ヤマト連合政権を構成した首長のなかで、特に重視されたのが上述の吉備のほか北関東の地域であった。毛野地域とくに??には大規模な古墳が営まれ、重要な位置をしめていた。??はどこか | {
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"上野"
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a5157p37q0 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 4世紀後半にはいると、石上神宮(奈良県)につたわる七支刀の製作が、銘文により369年のこととされる。356年に馬韓の地に建国された百済王の世子(太子)が倭国王のためにつくったものであり、これはヤマト王権と百済の王権との提携が成立したことをあらわす。なお、七支刀が実際に倭王に贈られたことが『日本書紀』にあり、それは干支二順繰り下げで実年代を計算すると372年のこととなる。 | 4世紀後半にはいると、石上神宮(奈良県)につたわる七支刀の製作はいつ | {
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a5157p37q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 4世紀後半にはいると、石上神宮(奈良県)につたわる七支刀の製作が、銘文により369年のこととされる。356年に馬韓の地に建国された百済王の世子(太子)が倭国王のためにつくったものであり、これはヤマト王権と百済の王権との提携が成立したことをあらわす。なお、七支刀が実際に倭王に贈られたことが『日本書紀』にあり、それは干支二順繰り下げで実年代を計算すると372年のこととなる。 | 356年に馬韓の地に建国された百済王の世子(太子)が倭国王のためにつくったものはなに | {
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"石上神宮(奈良県)につたわる七支刀"
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a5157p37q2 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 4世紀後半にはいると、石上神宮(奈良県)につたわる七支刀の製作が、銘文により369年のこととされる。356年に馬韓の地に建国された百済王の世子(太子)が倭国王のためにつくったものであり、これはヤマト王権と百済の王権との提携が成立したことをあらわす。なお、七支刀が実際に倭王に贈られたことが『日本書紀』にあり、それは干支二順繰り下げで実年代を計算すると372年のこととなる。 | ヤマト王権と百済の王権との提携が成立した。何年のことか? | {
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a5157p38q0 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] いずれにせよ、倭国は任那諸国とりわけ任那(金官)と密接なかかわりをもち、この地に産する鉄資源を確保した。そこはまた生産技術を輸入する半島の窓口であり、勾玉、「倭式土器」(土師器)など日本列島特有の文物の出土により、倭の拠点が成立していたことが確認された。 | 任那諸国とりわけ任那(金官)と密接なかかわりをもち、この地に産する鉄資源を確保したのは | {
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a5157p38q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] いずれにせよ、倭国は任那諸国とりわけ任那(金官)と密接なかかわりをもち、この地に産する鉄資源を確保した。そこはまた生産技術を輸入する半島の窓口であり、勾玉、「倭式土器」(土師器)など日本列島特有の文物の出土により、倭の拠点が成立していたことが確認された。 | 倭式土器とは? | {
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a5157p38q2 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] いずれにせよ、倭国は任那諸国とりわけ任那(金官)と密接なかかわりをもち、この地に産する鉄資源を確保した。そこはまた生産技術を輸入する半島の窓口であり、勾玉、「倭式土器」(土師器)など日本列島特有の文物の出土により、倭の拠点が成立していたことが確認された。 | 倭国は任那諸国とりわけ任那(金官)と密接なかかわりをもち、この地に産する何の資源を確保したか? | {
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a5157p38q3 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] いずれにせよ、倭国は任那諸国とりわけ任那(金官)と密接なかかわりをもち、この地に産する鉄資源を確保した。そこはまた生産技術を輸入する半島の窓口であり、勾玉、「倭式土器」(土師器)など日本列島特有の文物の出土により、倭の拠点が成立していたことが確認された。 | 倭の拠点が成立していたことが確認されたのは何の存在がかくにんされたからか | {
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"「倭式土器」(土師器)"
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a5157p39q0 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] いっぽう半島北部では、満州東部の森林地帯に起源をもつツングース系貊族の国家高句麗が、313年に楽浪郡・帯方郡に侵入してこれを滅ぼし、4世紀後半にも南下をつづけた。中国吉林省集安に所在する広開土王碑には、高句麗が倭国に通じた百済を討ち、倭の侵入をうけた新羅を救援するため、400年と404年の2度にわたって倭軍と交戦し勝利したと刻んでいる(倭・倭人関連の朝鮮文献)。 | 満州東部の森林地帯に起源をもつツングース系貊族の国家は? | {
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a5157p39q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] いっぽう半島北部では、満州東部の森林地帯に起源をもつツングース系貊族の国家高句麗が、313年に楽浪郡・帯方郡に侵入してこれを滅ぼし、4世紀後半にも南下をつづけた。中国吉林省集安に所在する広開土王碑には、高句麗が倭国に通じた百済を討ち、倭の侵入をうけた新羅を救援するため、400年と404年の2度にわたって倭軍と交戦し勝利したと刻んでいる(倭・倭人関連の朝鮮文献)。 | 高句麗が楽浪郡・帯方郡を滅亡させたのはいつ? | {
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a5157p39q2 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] いっぽう半島北部では、満州東部の森林地帯に起源をもつツングース系貊族の国家高句麗が、313年に楽浪郡・帯方郡に侵入してこれを滅ぼし、4世紀後半にも南下をつづけた。中国吉林省集安に所在する広開土王碑には、高句麗が倭国に通じた百済を討ち、倭の侵入をうけた新羅を救援するため、400年と404年の2度にわたって倭軍と交戦し勝利したと刻んでいる(倭・倭人関連の朝鮮文献)。 | 国家高句麗が倭軍と交戦し勝利したのはいつか。 | {
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a5157p39q3 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] いっぽう半島北部では、満州東部の森林地帯に起源をもつツングース系貊族の国家高句麗が、313年に楽浪郡・帯方郡に侵入してこれを滅ぼし、4世紀後半にも南下をつづけた。中国吉林省集安に所在する広開土王碑には、高句麗が倭国に通じた百済を討ち、倭の侵入をうけた新羅を救援するため、400年と404年の2度にわたって倭軍と交戦し勝利したと刻んでいる(倭・倭人関連の朝鮮文献)。 | 313年に国家高句麗が侵入した地域名は。 | {
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a5157p39q4 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] いっぽう半島北部では、満州東部の森林地帯に起源をもつツングース系貊族の国家高句麗が、313年に楽浪郡・帯方郡に侵入してこれを滅ぼし、4世紀後半にも南下をつづけた。中国吉林省集安に所在する広開土王碑には、高句麗が倭国に通じた百済を討ち、倭の侵入をうけた新羅を救援するため、400年と404年の2度にわたって倭軍と交戦し勝利したと刻んでいる(倭・倭人関連の朝鮮文献)。 | 高句麗が400年と404年の2度にわたって倭軍と交戦し勝利したと刻んでいる碑は何か | {
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a5157p4q0 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] しかし「大和朝廷」も一部の研究者によって使用されている。これは、「大和(ヤマト)」と「朝廷」という言葉の使用について、学界でさまざまな見解が並立していることを反映している。 | 一部の研究者で使われてるのは? | {
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a5157p4q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] しかし「大和朝廷」も一部の研究者によって使用されている。これは、「大和(ヤマト)」と「朝廷」という言葉の使用について、学界でさまざまな見解が並立していることを反映している。 | 一部の研究者によって使用されているのは? | {
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"大和朝廷"
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a5157p4q2 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] しかし「大和朝廷」も一部の研究者によって使用されている。これは、「大和(ヤマト)」と「朝廷」という言葉の使用について、学界でさまざまな見解が並立していることを反映している。 | 一部の研究者によって使用されているヤマト王権の別名は? | {
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"大和朝廷"
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a5157p40q0 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] この時期のヤマト王権の政治組織については、文献記録がほとんど皆無であるため、朝鮮半島への出兵という重大事件があったことは明白であるにもかかわらず、将兵の構成や動員の様態をふくめ不詳な点が多い。しかし、対外的な軍事行動を可能とするヤマトの王権の基盤が既に整っていたことが理解できる。 | 朝鮮半島への出兵したのは? | {
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a5157p40q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] この時期のヤマト王権の政治組織については、文献記録がほとんど皆無であるため、朝鮮半島への出兵という重大事件があったことは明白であるにもかかわらず、将兵の構成や動員の様態をふくめ不詳な点が多い。しかし、対外的な軍事行動を可能とするヤマトの王権の基盤が既に整っていたことが理解できる。 | ヤマト王権が戦争のために兵士を派遣した場所はどこ? | {
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a5157p40q2 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] この時期のヤマト王権の政治組織については、文献記録がほとんど皆無であるため、朝鮮半島への出兵という重大事件があったことは明白であるにもかかわらず、将兵の構成や動員の様態をふくめ不詳な点が多い。しかし、対外的な軍事行動を可能とするヤマトの王権の基盤が既に整っていたことが理解できる。 | ヤマト王権の政治組織についての文献記録は残っているか。 | {
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a5157p40q3 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] この時期のヤマト王権の政治組織については、文献記録がほとんど皆無であるため、朝鮮半島への出兵という重大事件があったことは明白であるにもかかわらず、将兵の構成や動員の様態をふくめ不詳な点が多い。しかし、対外的な軍事行動を可能とするヤマトの王権の基盤が既に整っていたことが理解できる。 | ヤマト王権は、どこに出兵したか。 | {
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"朝鮮半島"
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a5157p41q0 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 4世紀末から5世紀全体を通じて、古墳時代の時期区分では中期とされる。この時期になると、副葬品のなかで武器や武具の比率が大きくなり、馬具もあらわれて短甲や冑など騎馬戦用の武具も増える。こうした騎馬技術や武具・道具は、上述した4世紀末から5世紀初頭の対高句麗戦争において、騎馬軍団との戦闘を通じてもたらされたものと考えられるが、かつては、このような副葬品の変化を過大に評価して、騎馬民族が日本列島の農耕民を征服して「大和朝廷」を立てたとする「騎馬民族征服王朝説」がさかんに唱えられた時期があった。 | 4世紀末から5世紀全体は何時代? | {
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a5157p41q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 4世紀末から5世紀全体を通じて、古墳時代の時期区分では中期とされる。この時期になると、副葬品のなかで武器や武具の比率が大きくなり、馬具もあらわれて短甲や冑など騎馬戦用の武具も増える。こうした騎馬技術や武具・道具は、上述した4世紀末から5世紀初頭の対高句麗戦争において、騎馬軍団との戦闘を通じてもたらされたものと考えられるが、かつては、このような副葬品の変化を過大に評価して、騎馬民族が日本列島の農耕民を征服して「大和朝廷」を立てたとする「騎馬民族征服王朝説」がさかんに唱えられた時期があった。 | 古墳時代の中期とは、4世紀末から何世紀を示すか。 | {
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a5157p41q2 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 4世紀末から5世紀全体を通じて、古墳時代の時期区分では中期とされる。この時期になると、副葬品のなかで武器や武具の比率が大きくなり、馬具もあらわれて短甲や冑など騎馬戦用の武具も増える。こうした騎馬技術や武具・道具は、上述した4世紀末から5世紀初頭の対高句麗戦争において、騎馬軍団との戦闘を通じてもたらされたものと考えられるが、かつては、このような副葬品の変化を過大に評価して、騎馬民族が日本列島の農耕民を征服して「大和朝廷」を立てたとする「騎馬民族征服王朝説」がさかんに唱えられた時期があった。 | 4世紀末から5世紀全体を通じて、古墳時代の時期区分では前期、中期、後期のいずれか | {
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"中期"
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a5157p41q3 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 4世紀末から5世紀全体を通じて、古墳時代の時期区分では中期とされる。この時期になると、副葬品のなかで武器や武具の比率が大きくなり、馬具もあらわれて短甲や冑など騎馬戦用の武具も増える。こうした騎馬技術や武具・道具は、上述した4世紀末から5世紀初頭の対高句麗戦争において、騎馬軍団との戦闘を通じてもたらされたものと考えられるが、かつては、このような副葬品の変化を過大に評価して、騎馬民族が日本列島の農耕民を征服して「大和朝廷」を立てたとする「騎馬民族征服王朝説」がさかんに唱えられた時期があった。 | 古墳時代中期において副葬品の中で比率が高まってきたものは何ですか? | {
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a5157p41q4 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 4世紀末から5世紀全体を通じて、古墳時代の時期区分では中期とされる。この時期になると、副葬品のなかで武器や武具の比率が大きくなり、馬具もあらわれて短甲や冑など騎馬戦用の武具も増える。こうした騎馬技術や武具・道具は、上述した4世紀末から5世紀初頭の対高句麗戦争において、騎馬軍団との戦闘を通じてもたらされたものと考えられるが、かつては、このような副葬品の変化を過大に評価して、騎馬民族が日本列島の農耕民を征服して「大和朝廷」を立てたとする「騎馬民族征服王朝説」がさかんに唱えられた時期があった。 | 副葬品のなかで武器や武具の比率が大きくなるのはいつ頃からか。 | {
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"4世紀末から5世紀全体"
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a5157p42q0 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 確かに、ヤマトを起源とされる前方後円墳が5世紀以前の朝鮮半島では見つかっているものの、江上波夫の説のように騎馬技術や武具・道具が倭国に急速に流入し政権が変貌したという証拠は乏しい。その間、日本においては首長墓・王墓の型式は3世紀以来変わらず連綿として前方後円墳がつくられるなど、前期古墳と中期古墳の間には、江上の指摘した断絶性よりも、むしろ強い連続性が認められることから、この説は現在では以前ほどの支持を得られなくなっている(→騎馬民族征服王朝説参照)。 | ヤマトを起源とされる前方後円墳が何世紀以前の朝鮮半島では見つかっているか? | {
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"5世紀"
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a5157p42q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 確かに、ヤマトを起源とされる前方後円墳が5世紀以前の朝鮮半島では見つかっているものの、江上波夫の説のように騎馬技術や武具・道具が倭国に急速に流入し政権が変貌したという証拠は乏しい。その間、日本においては首長墓・王墓の型式は3世紀以来変わらず連綿として前方後円墳がつくられるなど、前期古墳と中期古墳の間には、江上の指摘した断絶性よりも、むしろ強い連続性が認められることから、この説は現在では以前ほどの支持を得られなくなっている(→騎馬民族征服王朝説参照)。 | 騎馬技術や武具・道具が倭国に急速に流入し政権が変貌した説を提唱したのは誰か。 | {
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"江上波夫"
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a5157p42q2 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 確かに、ヤマトを起源とされる前方後円墳が5世紀以前の朝鮮半島では見つかっているものの、江上波夫の説のように騎馬技術や武具・道具が倭国に急速に流入し政権が変貌したという証拠は乏しい。その間、日本においては首長墓・王墓の型式は3世紀以来変わらず連綿として前方後円墳がつくられるなど、前期古墳と中期古墳の間には、江上の指摘した断絶性よりも、むしろ強い連続性が認められることから、この説は現在では以前ほどの支持を得られなくなっている(→騎馬民族征服王朝説参照)。 | ヤマトがルーツであるとされているお墓の形態は何ですか? | {
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"前方後円墳"
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a5157p42q3 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 確かに、ヤマトを起源とされる前方後円墳が5世紀以前の朝鮮半島では見つかっているものの、江上波夫の説のように騎馬技術や武具・道具が倭国に急速に流入し政権が変貌したという証拠は乏しい。その間、日本においては首長墓・王墓の型式は3世紀以来変わらず連綿として前方後円墳がつくられるなど、前期古墳と中期古墳の間には、江上の指摘した断絶性よりも、むしろ強い連続性が認められることから、この説は現在では以前ほどの支持を得られなくなっている(→騎馬民族征服王朝説参照)。 | ヤマトを起源とされる古墳形態は | {
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"前方後円墳"
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a5157p42q4 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 確かに、ヤマトを起源とされる前方後円墳が5世紀以前の朝鮮半島では見つかっているものの、江上波夫の説のように騎馬技術や武具・道具が倭国に急速に流入し政権が変貌したという証拠は乏しい。その間、日本においては首長墓・王墓の型式は3世紀以来変わらず連綿として前方後円墳がつくられるなど、前期古墳と中期古墳の間には、江上の指摘した断絶性よりも、むしろ強い連続性が認められることから、この説は現在では以前ほどの支持を得られなくなっている(→騎馬民族征服王朝説参照)。 | 前方後円墳は、どこの場所発見されたか。 | {
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"朝鮮半島"
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a5157p43q0 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 中期古墳の際だった傾向としては、何といってもその巨大化である。とくに5世紀前半に河内平野(大阪平野南部)に誉田山古墳(伝応神陵、墳丘長420メートル)や大山古墳(伝仁徳陵、墳丘長525メートル)は、いずれも秦の始皇帝陵とならぶ世界最大級の王墓であり、ヤマト王権の権力や権威の大きさをよくあらわしている。また、このことはヤマト王権の中枢が奈良盆地から河内平野に移ったことも意味しているが、水系に着目する白石太一郎は、大和・柳本古墳群(奈良盆地南東部)、佐紀盾列古墳群(奈良盆地北部)、馬見古墳群(奈良盆地南西部)、古市古墳群(河内平野)、百舌鳥古墳群(河内平野)など4世紀から6世紀における墳丘長200メートルを越す大型前方後円墳がもっぱら大和川流域に分布することから、古墳時代を通じて畿内支配者層の大型墳墓は、この水系のなかで移動しており、ヤマト王権内部での盟主権の移動を示すものとしている。また、井上光貞も河内の王は入り婿の形でそれ以前のヤマトの王家とつながっていることをかつて指摘したことがあり、少なくとも、他者が簡単に取って替わることのできない権威を確立していたことがうかがわれる。 | ヤマト王権の古墳はどこの国と並ぶほど世界最大級の王墓であったか。 | {
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"秦"
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a5157p43q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 中期古墳の際だった傾向としては、何といってもその巨大化である。とくに5世紀前半に河内平野(大阪平野南部)に誉田山古墳(伝応神陵、墳丘長420メートル)や大山古墳(伝仁徳陵、墳丘長525メートル)は、いずれも秦の始皇帝陵とならぶ世界最大級の王墓であり、ヤマト王権の権力や権威の大きさをよくあらわしている。また、このことはヤマト王権の中枢が奈良盆地から河内平野に移ったことも意味しているが、水系に着目する白石太一郎は、大和・柳本古墳群(奈良盆地南東部)、佐紀盾列古墳群(奈良盆地北部)、馬見古墳群(奈良盆地南西部)、古市古墳群(河内平野)、百舌鳥古墳群(河内平野)など4世紀から6世紀における墳丘長200メートルを越す大型前方後円墳がもっぱら大和川流域に分布することから、古墳時代を通じて畿内支配者層の大型墳墓は、この水系のなかで移動しており、ヤマト王権内部での盟主権の移動を示すものとしている。また、井上光貞も河内の王は入り婿の形でそれ以前のヤマトの王家とつながっていることをかつて指摘したことがあり、少なくとも、他者が簡単に取って替わることのできない権威を確立していたことがうかがわれる。 | 大山古墳の墳丘長はいくつですか? | {
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a5157p43q2 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 中期古墳の際だった傾向としては、何といってもその巨大化である。とくに5世紀前半に河内平野(大阪平野南部)に誉田山古墳(伝応神陵、墳丘長420メートル)や大山古墳(伝仁徳陵、墳丘長525メートル)は、いずれも秦の始皇帝陵とならぶ世界最大級の王墓であり、ヤマト王権の権力や権威の大きさをよくあらわしている。また、このことはヤマト王権の中枢が奈良盆地から河内平野に移ったことも意味しているが、水系に着目する白石太一郎は、大和・柳本古墳群(奈良盆地南東部)、佐紀盾列古墳群(奈良盆地北部)、馬見古墳群(奈良盆地南西部)、古市古墳群(河内平野)、百舌鳥古墳群(河内平野)など4世紀から6世紀における墳丘長200メートルを越す大型前方後円墳がもっぱら大和川流域に分布することから、古墳時代を通じて畿内支配者層の大型墳墓は、この水系のなかで移動しており、ヤマト王権内部での盟主権の移動を示すものとしている。また、井上光貞も河内の王は入り婿の形でそれ以前のヤマトの王家とつながっていることをかつて指摘したことがあり、少なくとも、他者が簡単に取って替わることのできない権威を確立していたことがうかがわれる。 | 4世紀から6世紀における墳丘長200メートルを越す大型前方後円墳がもっぱら分布している地域はどのあたりか。 | {
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a5157p43q3 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 中期古墳の際だった傾向としては、何といってもその巨大化である。とくに5世紀前半に河内平野(大阪平野南部)に誉田山古墳(伝応神陵、墳丘長420メートル)や大山古墳(伝仁徳陵、墳丘長525メートル)は、いずれも秦の始皇帝陵とならぶ世界最大級の王墓であり、ヤマト王権の権力や権威の大きさをよくあらわしている。また、このことはヤマト王権の中枢が奈良盆地から河内平野に移ったことも意味しているが、水系に着目する白石太一郎は、大和・柳本古墳群(奈良盆地南東部)、佐紀盾列古墳群(奈良盆地北部)、馬見古墳群(奈良盆地南西部)、古市古墳群(河内平野)、百舌鳥古墳群(河内平野)など4世紀から6世紀における墳丘長200メートルを越す大型前方後円墳がもっぱら大和川流域に分布することから、古墳時代を通じて畿内支配者層の大型墳墓は、この水系のなかで移動しており、ヤマト王権内部での盟主権の移動を示すものとしている。また、井上光貞も河内の王は入り婿の形でそれ以前のヤマトの王家とつながっていることをかつて指摘したことがあり、少なくとも、他者が簡単に取って替わることのできない権威を確立していたことがうかがわれる。 | 中期古墳の際だった傾向は? | {
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a5157p43q4 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 中期古墳の際だった傾向としては、何といってもその巨大化である。とくに5世紀前半に河内平野(大阪平野南部)に誉田山古墳(伝応神陵、墳丘長420メートル)や大山古墳(伝仁徳陵、墳丘長525メートル)は、いずれも秦の始皇帝陵とならぶ世界最大級の王墓であり、ヤマト王権の権力や権威の大きさをよくあらわしている。また、このことはヤマト王権の中枢が奈良盆地から河内平野に移ったことも意味しているが、水系に着目する白石太一郎は、大和・柳本古墳群(奈良盆地南東部)、佐紀盾列古墳群(奈良盆地北部)、馬見古墳群(奈良盆地南西部)、古市古墳群(河内平野)、百舌鳥古墳群(河内平野)など4世紀から6世紀における墳丘長200メートルを越す大型前方後円墳がもっぱら大和川流域に分布することから、古墳時代を通じて畿内支配者層の大型墳墓は、この水系のなかで移動しており、ヤマト王権内部での盟主権の移動を示すものとしている。また、井上光貞も河内の王は入り婿の形でそれ以前のヤマトの王家とつながっていることをかつて指摘したことがあり、少なくとも、他者が簡単に取って替わることのできない権威を確立していたことがうかがわれる。 | 仁徳陵と伝えられる古墳の名称は | {
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"大山古墳"
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a5157p44q0 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] いっぽう、4世紀の巨大古墳が奈良盆地の三輪山付近に集中するのに対し、5世紀代には河内に顕著に大古墳がつくられたことをもって、ここに王朝の交替を想定する説、すなわち「王朝交替説」がある。つまり、古墳分布という考古学上の知見に、記紀の天皇和風諡号の検討から、4世紀(古墳時代前期)の王朝を三輪王朝(「イリ」系、崇神王朝)というのに対し、5世紀(古墳時代中期)の河内の勢力は河内王朝(「ワケ」系、応神王朝もしくは仁徳王朝)と呼ばれる。この学説は水野祐によって唱えられ、井上光貞の応神新王朝論、上田正昭の河内王朝論などとして展開し、直木孝次郎、岡田精司らに引き継がれた。 | 応神新王朝論を唱えたのは誰か | {
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a5157p44q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] いっぽう、4世紀の巨大古墳が奈良盆地の三輪山付近に集中するのに対し、5世紀代には河内に顕著に大古墳がつくられたことをもって、ここに王朝の交替を想定する説、すなわち「王朝交替説」がある。つまり、古墳分布という考古学上の知見に、記紀の天皇和風諡号の検討から、4世紀(古墳時代前期)の王朝を三輪王朝(「イリ」系、崇神王朝)というのに対し、5世紀(古墳時代中期)の河内の勢力は河内王朝(「ワケ」系、応神王朝もしくは仁徳王朝)と呼ばれる。この学説は水野祐によって唱えられ、井上光貞の応神新王朝論、上田正昭の河内王朝論などとして展開し、直木孝次郎、岡田精司らに引き継がれた。 | 水野祐の学説は誰に引き継がれましたか | {
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"直木孝次郎、岡田精司ら"
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a5157p44q2 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] いっぽう、4世紀の巨大古墳が奈良盆地の三輪山付近に集中するのに対し、5世紀代には河内に顕著に大古墳がつくられたことをもって、ここに王朝の交替を想定する説、すなわち「王朝交替説」がある。つまり、古墳分布という考古学上の知見に、記紀の天皇和風諡号の検討から、4世紀(古墳時代前期)の王朝を三輪王朝(「イリ」系、崇神王朝)というのに対し、5世紀(古墳時代中期)の河内の勢力は河内王朝(「ワケ」系、応神王朝もしくは仁徳王朝)と呼ばれる。この学説は水野祐によって唱えられ、井上光貞の応神新王朝論、上田正昭の河内王朝論などとして展開し、直木孝次郎、岡田精司らに引き継がれた。 | 王朝交替説を唱えた人物は誰か? | {
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a5157p44q3 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] いっぽう、4世紀の巨大古墳が奈良盆地の三輪山付近に集中するのに対し、5世紀代には河内に顕著に大古墳がつくられたことをもって、ここに王朝の交替を想定する説、すなわち「王朝交替説」がある。つまり、古墳分布という考古学上の知見に、記紀の天皇和風諡号の検討から、4世紀(古墳時代前期)の王朝を三輪王朝(「イリ」系、崇神王朝)というのに対し、5世紀(古墳時代中期)の河内の勢力は河内王朝(「ワケ」系、応神王朝もしくは仁徳王朝)と呼ばれる。この学説は水野祐によって唱えられ、井上光貞の応神新王朝論、上田正昭の河内王朝論などとして展開し、直木孝次郎、岡田精司らに引き継がれた。 | 王朝交替説があるのは何なのか。 | {
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"ヤマト王権"
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a5157p44q4 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] いっぽう、4世紀の巨大古墳が奈良盆地の三輪山付近に集中するのに対し、5世紀代には河内に顕著に大古墳がつくられたことをもって、ここに王朝の交替を想定する説、すなわち「王朝交替説」がある。つまり、古墳分布という考古学上の知見に、記紀の天皇和風諡号の検討から、4世紀(古墳時代前期)の王朝を三輪王朝(「イリ」系、崇神王朝)というのに対し、5世紀(古墳時代中期)の河内の勢力は河内王朝(「ワケ」系、応神王朝もしくは仁徳王朝)と呼ばれる。この学説は水野祐によって唱えられ、井上光貞の応神新王朝論、上田正昭の河内王朝論などとして展開し、直木孝次郎、岡田精司らに引き継がれた。 | 4世紀の巨大古墳が奈良盆地の三輪山付近に集中するのに対し、5世紀代には河内に顕著に大古墳がつくられたことをもって、ここに王朝の交替を想定する説をなんというか? | {
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"王朝交替説"
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a5157p45q0 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] しかし、この王朝交替説に対してもいくつかの立場から批判が出されているのが現状である。その代表的なものに「地域国家論」がある。また、4世紀後半から5世紀にかけて大和の勢力と河内の勢力は一体化しており、両者は「大和・河内連合王権」ともいうべき連合関係にあったため王朝交替はなかったとするのが和田萃である。大和川流域間の移動を重視する白石太一郎も同様の見解に立つ。 | 4世紀後半から5世紀にかけて大和川流域間の移動を重視する説を唱えた人物は? | {
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a5157p45q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] しかし、この王朝交替説に対してもいくつかの立場から批判が出されているのが現状である。その代表的なものに「地域国家論」がある。また、4世紀後半から5世紀にかけて大和の勢力と河内の勢力は一体化しており、両者は「大和・河内連合王権」ともいうべき連合関係にあったため王朝交替はなかったとするのが和田萃である。大和川流域間の移動を重視する白石太一郎も同様の見解に立つ。 | 王朝交替説に反する理論はどのような理論家? | {
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"地域国家論"
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a5157p45q2 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] しかし、この王朝交替説に対してもいくつかの立場から批判が出されているのが現状である。その代表的なものに「地域国家論」がある。また、4世紀後半から5世紀にかけて大和の勢力と河内の勢力は一体化しており、両者は「大和・河内連合王権」ともいうべき連合関係にあったため王朝交替はなかったとするのが和田萃である。大和川流域間の移動を重視する白石太一郎も同様の見解に立つ。 | 大和の勢力と河内の勢力が一体化したのはいつですか | {
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a5157p45q3 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] しかし、この王朝交替説に対してもいくつかの立場から批判が出されているのが現状である。その代表的なものに「地域国家論」がある。また、4世紀後半から5世紀にかけて大和の勢力と河内の勢力は一体化しており、両者は「大和・河内連合王権」ともいうべき連合関係にあったため王朝交替はなかったとするのが和田萃である。大和川流域間の移動を重視する白石太一郎も同様の見解に立つ。 | 大和川流域間の移動を重視したのは誰か | {
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"白石太一郎"
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a5157p45q4 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] しかし、この王朝交替説に対してもいくつかの立場から批判が出されているのが現状である。その代表的なものに「地域国家論」がある。また、4世紀後半から5世紀にかけて大和の勢力と河内の勢力は一体化しており、両者は「大和・河内連合王権」ともいうべき連合関係にあったため王朝交替はなかったとするのが和田萃である。大和川流域間の移動を重視する白石太一郎も同様の見解に立つ。 | 地域国家論があるのは何なのか。 | {
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a5157p46q0 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 5世紀前半のヤマト以外の地に目を転ずると、日向、筑紫、吉備、毛野、丹後などでも大きな前方後円墳がつくられた。なかでも岡山市の造山古墳(墳丘長360メートル)は墳丘長で日本第4位の大古墳であり、のちの吉備氏へつながるような吉備の大豪族が大きな力をもち、鉄製の道具も駆使して、ヤマト政権の連合において重要な位置をしめていたことがうかがわれる。また、このことより、各地の豪族はヤマトの王権に服属しながらも、それぞれの地域で独自に勢力をのばしていたと考えられる。 | 岡山市にある墳丘長が第4位の古墳の名前は? | {
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a5157p46q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 5世紀前半のヤマト以外の地に目を転ずると、日向、筑紫、吉備、毛野、丹後などでも大きな前方後円墳がつくられた。なかでも岡山市の造山古墳(墳丘長360メートル)は墳丘長で日本第4位の大古墳であり、のちの吉備氏へつながるような吉備の大豪族が大きな力をもち、鉄製の道具も駆使して、ヤマト政権の連合において重要な位置をしめていたことがうかがわれる。また、このことより、各地の豪族はヤマトの王権に服属しながらも、それぞれの地域で独自に勢力をのばしていたと考えられる。 | 岡山市の造山古墳は日本何位の大きさですか | {
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a5157p46q2 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 5世紀前半のヤマト以外の地に目を転ずると、日向、筑紫、吉備、毛野、丹後などでも大きな前方後円墳がつくられた。なかでも岡山市の造山古墳(墳丘長360メートル)は墳丘長で日本第4位の大古墳であり、のちの吉備氏へつながるような吉備の大豪族が大きな力をもち、鉄製の道具も駆使して、ヤマト政権の連合において重要な位置をしめていたことがうかがわれる。また、このことより、各地の豪族はヤマトの王権に服属しながらも、それぞれの地域で独自に勢力をのばしていたと考えられる。 | 造山古墳はどこにあるのか。 | {
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a5157p46q3 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 5世紀前半のヤマト以外の地に目を転ずると、日向、筑紫、吉備、毛野、丹後などでも大きな前方後円墳がつくられた。なかでも岡山市の造山古墳(墳丘長360メートル)は墳丘長で日本第4位の大古墳であり、のちの吉備氏へつながるような吉備の大豪族が大きな力をもち、鉄製の道具も駆使して、ヤマト政権の連合において重要な位置をしめていたことがうかがわれる。また、このことより、各地の豪族はヤマトの王権に服属しながらも、それぞれの地域で独自に勢力をのばしていたと考えられる。 | 岡山市にある墳丘長で日本第4位の大古墳は? | {
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a5157p46q4 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 5世紀前半のヤマト以外の地に目を転ずると、日向、筑紫、吉備、毛野、丹後などでも大きな前方後円墳がつくられた。なかでも岡山市の造山古墳(墳丘長360メートル)は墳丘長で日本第4位の大古墳であり、のちの吉備氏へつながるような吉備の大豪族が大きな力をもち、鉄製の道具も駆使して、ヤマト政権の連合において重要な位置をしめていたことがうかがわれる。また、このことより、各地の豪族はヤマトの王権に服属しながらも、それぞれの地域で独自に勢力をのばしていたと考えられる。 | 日向、筑紫、吉備、毛野、丹後などでも大きな前方後円墳がつくられたか | {
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a5157p47q0 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 先述した「地域国家論」とは、5世紀前半においては吉備・筑紫・毛野・出雲など各地にかなりの規模の地域国家があり、そのような国家の1つとして当然畿内にも地域国家「ヤマト」があって並立ないし連合の関係にあり、その競合のなかから統一国家が生まれてくるという考えである。このような論に立つ研究者には佐々木健一らがいる。しかし、そうした地域においては国家として想定される、政治機構、徴税機構、軍事・裁判機構が存在していた証明がなされておらず、巨大古墳だけで地域国家論を唱えることは論理の飛躍であるとの反論もある。 | 5世紀前半においてかなりの規模の地域国家があったのはどこですか | {
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a5157p47q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 先述した「地域国家論」とは、5世紀前半においては吉備・筑紫・毛野・出雲など各地にかなりの規模の地域国家があり、そのような国家の1つとして当然畿内にも地域国家「ヤマト」があって並立ないし連合の関係にあり、その競合のなかから統一国家が生まれてくるという考えである。このような論に立つ研究者には佐々木健一らがいる。しかし、そうした地域においては国家として想定される、政治機構、徴税機構、軍事・裁判機構が存在していた証明がなされておらず、巨大古墳だけで地域国家論を唱えることは論理の飛躍であるとの反論もある。 | 地域国家論を唱えた代表的な研究者は? | {
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a5157p47q2 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 先述した「地域国家論」とは、5世紀前半においては吉備・筑紫・毛野・出雲など各地にかなりの規模の地域国家があり、そのような国家の1つとして当然畿内にも地域国家「ヤマト」があって並立ないし連合の関係にあり、その競合のなかから統一国家が生まれてくるという考えである。このような論に立つ研究者には佐々木健一らがいる。しかし、そうした地域においては国家として想定される、政治機構、徴税機構、軍事・裁判機構が存在していた証明がなされておらず、巨大古墳だけで地域国家論を唱えることは論理の飛躍であるとの反論もある。 | 地域国家論の研究者は誰なのか。 | {
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a5157p47q3 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 先述した「地域国家論」とは、5世紀前半においては吉備・筑紫・毛野・出雲など各地にかなりの規模の地域国家があり、そのような国家の1つとして当然畿内にも地域国家「ヤマト」があって並立ないし連合の関係にあり、その競合のなかから統一国家が生まれてくるという考えである。このような論に立つ研究者には佐々木健一らがいる。しかし、そうした地域においては国家として想定される、政治機構、徴税機構、軍事・裁判機構が存在していた証明がなされておらず、巨大古墳だけで地域国家論を唱えることは論理の飛躍であるとの反論もある。 | 地域国家論を唱えた人物は? | {
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a5157p48q0 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 5世紀初めはまた、渡来人(帰化人)の第一波のあった時期であり、『日本書紀』・『古事記』には、王仁、阿知使主、弓月君(東漢氏や秦氏の祖にあたる)が応神朝に帰化したと伝えている。須恵器の使用がはじまるのも、このころのことであり、渡来人がもたらした技術と考えられている。 | 渡来人がもたらした技術で作られた器は? | {
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a5157p48q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 5世紀初めはまた、渡来人(帰化人)の第一波のあった時期であり、『日本書紀』・『古事記』には、王仁、阿知使主、弓月君(東漢氏や秦氏の祖にあたる)が応神朝に帰化したと伝えている。須恵器の使用がはじまるのも、このころのことであり、渡来人がもたらした技術と考えられている。 | 渡来人いた時代にあったと思われるものは何なのか。 | {
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"須恵器"
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a5157p48q2 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 5世紀初めはまた、渡来人(帰化人)の第一波のあった時期であり、『日本書紀』・『古事記』には、王仁、阿知使主、弓月君(東漢氏や秦氏の祖にあたる)が応神朝に帰化したと伝えている。須恵器の使用がはじまるのも、このころのことであり、渡来人がもたらした技術と考えられている。 | 渡来人(帰化人)の第一波のあった時期はいつですか | {
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"5世紀初め"
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a5157p48q3 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 5世紀初めはまた、渡来人(帰化人)の第一波のあった時期であり、『日本書紀』・『古事記』には、王仁、阿知使主、弓月君(東漢氏や秦氏の祖にあたる)が応神朝に帰化したと伝えている。須恵器の使用がはじまるのも、このころのことであり、渡来人がもたらした技術と考えられている。 | 渡来人(帰化人)の第一波のあった時期はいつ | {
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"5世紀初め"
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a5157p49q0 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 5世紀にはいって、再び倭国が中国の史書にあらわれた。そこには、5世紀初めから約1世紀にわたって、讃・珍・済・興・武の5人の倭王があいついで中国の南朝に使いを送り、皇帝に対し朝貢したことが記されている。倭の五王は、それにより皇帝の臣下となり、官爵を授けられた。中国皇帝を頂点とする東アジアの国際秩序を冊封体制と呼んでいる。これは、朝鮮半島南部諸国(任那・加羅)における利権の獲得を有利に進める目的であろうと考えられており、実際に済や武は朝鮮半島南部の支配権が認められている。 | 5世紀初期から約1世紀の間に、中国の南朝に使いを送った倭の五王は誰か。 | {
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"讃・珍・済・興・武"
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a5157p49q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 5世紀にはいって、再び倭国が中国の史書にあらわれた。そこには、5世紀初めから約1世紀にわたって、讃・珍・済・興・武の5人の倭王があいついで中国の南朝に使いを送り、皇帝に対し朝貢したことが記されている。倭の五王は、それにより皇帝の臣下となり、官爵を授けられた。中国皇帝を頂点とする東アジアの国際秩序を冊封体制と呼んでいる。これは、朝鮮半島南部諸国(任那・加羅)における利権の獲得を有利に進める目的であろうと考えられており、実際に済や武は朝鮮半島南部の支配権が認められている。 | 5世紀、倭の王が朝貢した中国の王朝は | {
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"南朝"
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a5157p49q2 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 5世紀にはいって、再び倭国が中国の史書にあらわれた。そこには、5世紀初めから約1世紀にわたって、讃・珍・済・興・武の5人の倭王があいついで中国の南朝に使いを送り、皇帝に対し朝貢したことが記されている。倭の五王は、それにより皇帝の臣下となり、官爵を授けられた。中国皇帝を頂点とする東アジアの国際秩序を冊封体制と呼んでいる。これは、朝鮮半島南部諸国(任那・加羅)における利権の獲得を有利に進める目的であろうと考えられており、実際に済や武は朝鮮半島南部の支配権が認められている。 | 倭の五王を答えよ | {
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"讃・珍・済・興・武"
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a5157p49q3 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 5世紀にはいって、再び倭国が中国の史書にあらわれた。そこには、5世紀初めから約1世紀にわたって、讃・珍・済・興・武の5人の倭王があいついで中国の南朝に使いを送り、皇帝に対し朝貢したことが記されている。倭の五王は、それにより皇帝の臣下となり、官爵を授けられた。中国皇帝を頂点とする東アジアの国際秩序を冊封体制と呼んでいる。これは、朝鮮半島南部諸国(任那・加羅)における利権の獲得を有利に進める目的であろうと考えられており、実際に済や武は朝鮮半島南部の支配権が認められている。 | 倭の五王は皇帝の臣下となり、何を授けられたか。 | {
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a5157p5q0 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 「大和(ヤマト)」をめぐっては、8世紀前半完成の『古事記』や『日本書紀』や、その他の7世紀以前の文献史料・金石文・木簡などでは、「大和」の漢字表記はなされておらず、倭(ヤマト)として表記されている。三世紀には邪馬台国の記述が魏志倭人伝に登場する。その後701年の大宝律令施行により、国名(郡・里(後の郷)名も)は二文字とすることになって大倭となり、橘諸兄政権開始後間もなくの天平9年(737年)12月丙寅(27日)に、恭仁京遷都に先立って大養徳となったが(地名のみならずウジ名も)、藤原仲麻呂権勢下の天平19年(747年)3月辛卯(16日)(前年に恭仁京完全廃棄(9月に大極殿を山背国分寺に施入))に大倭に戻り、そして天平宝字元年(757年)(正月(改元前)に諸兄死去)の後半頃に、大和へと変化していく。同年に施行(仲麻呂の提案による)された養老令から、広く「大和」表記がなされるようになったことから、7世紀以前の政治勢力を指す言葉として「大和」を使用することは適切ではないという見解がある。ただし、武光誠のように3世紀末から「大和」を使用する研究者もいる。 | 邪馬台国の記述が登場する文献は? | {
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a5157p5q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 「大和(ヤマト)」をめぐっては、8世紀前半完成の『古事記』や『日本書紀』や、その他の7世紀以前の文献史料・金石文・木簡などでは、「大和」の漢字表記はなされておらず、倭(ヤマト)として表記されている。三世紀には邪馬台国の記述が魏志倭人伝に登場する。その後701年の大宝律令施行により、国名(郡・里(後の郷)名も)は二文字とすることになって大倭となり、橘諸兄政権開始後間もなくの天平9年(737年)12月丙寅(27日)に、恭仁京遷都に先立って大養徳となったが(地名のみならずウジ名も)、藤原仲麻呂権勢下の天平19年(747年)3月辛卯(16日)(前年に恭仁京完全廃棄(9月に大極殿を山背国分寺に施入))に大倭に戻り、そして天平宝字元年(757年)(正月(改元前)に諸兄死去)の後半頃に、大和へと変化していく。同年に施行(仲麻呂の提案による)された養老令から、広く「大和」表記がなされるようになったことから、7世紀以前の政治勢力を指す言葉として「大和」を使用することは適切ではないという見解がある。ただし、武光誠のように3世紀末から「大和」を使用する研究者もいる。 | 古事記や日本書紀では大和ではなくどの文字で表記されている | {
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a5157p5q2 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 「大和(ヤマト)」をめぐっては、8世紀前半完成の『古事記』や『日本書紀』や、その他の7世紀以前の文献史料・金石文・木簡などでは、「大和」の漢字表記はなされておらず、倭(ヤマト)として表記されている。三世紀には邪馬台国の記述が魏志倭人伝に登場する。その後701年の大宝律令施行により、国名(郡・里(後の郷)名も)は二文字とすることになって大倭となり、橘諸兄政権開始後間もなくの天平9年(737年)12月丙寅(27日)に、恭仁京遷都に先立って大養徳となったが(地名のみならずウジ名も)、藤原仲麻呂権勢下の天平19年(747年)3月辛卯(16日)(前年に恭仁京完全廃棄(9月に大極殿を山背国分寺に施入))に大倭に戻り、そして天平宝字元年(757年)(正月(改元前)に諸兄死去)の後半頃に、大和へと変化していく。同年に施行(仲麻呂の提案による)された養老令から、広く「大和」表記がなされるようになったことから、7世紀以前の政治勢力を指す言葉として「大和」を使用することは適切ではないという見解がある。ただし、武光誠のように3世紀末から「大和」を使用する研究者もいる。 | 大和の別の表記は? | {
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a5157p5q3 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 「大和(ヤマト)」をめぐっては、8世紀前半完成の『古事記』や『日本書紀』や、その他の7世紀以前の文献史料・金石文・木簡などでは、「大和」の漢字表記はなされておらず、倭(ヤマト)として表記されている。三世紀には邪馬台国の記述が魏志倭人伝に登場する。その後701年の大宝律令施行により、国名(郡・里(後の郷)名も)は二文字とすることになって大倭となり、橘諸兄政権開始後間もなくの天平9年(737年)12月丙寅(27日)に、恭仁京遷都に先立って大養徳となったが(地名のみならずウジ名も)、藤原仲麻呂権勢下の天平19年(747年)3月辛卯(16日)(前年に恭仁京完全廃棄(9月に大極殿を山背国分寺に施入))に大倭に戻り、そして天平宝字元年(757年)(正月(改元前)に諸兄死去)の後半頃に、大和へと変化していく。同年に施行(仲麻呂の提案による)された養老令から、広く「大和」表記がなされるようになったことから、7世紀以前の政治勢力を指す言葉として「大和」を使用することは適切ではないという見解がある。ただし、武光誠のように3世紀末から「大和」を使用する研究者もいる。 | 『古事記』や『日本書紀』では「ヤマト」の表記はどんな漢字を使用しているか? | {
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a5157p5q4 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 「大和(ヤマト)」をめぐっては、8世紀前半完成の『古事記』や『日本書紀』や、その他の7世紀以前の文献史料・金石文・木簡などでは、「大和」の漢字表記はなされておらず、倭(ヤマト)として表記されている。三世紀には邪馬台国の記述が魏志倭人伝に登場する。その後701年の大宝律令施行により、国名(郡・里(後の郷)名も)は二文字とすることになって大倭となり、橘諸兄政権開始後間もなくの天平9年(737年)12月丙寅(27日)に、恭仁京遷都に先立って大養徳となったが(地名のみならずウジ名も)、藤原仲麻呂権勢下の天平19年(747年)3月辛卯(16日)(前年に恭仁京完全廃棄(9月に大極殿を山背国分寺に施入))に大倭に戻り、そして天平宝字元年(757年)(正月(改元前)に諸兄死去)の後半頃に、大和へと変化していく。同年に施行(仲麻呂の提案による)された養老令から、広く「大和」表記がなされるようになったことから、7世紀以前の政治勢力を指す言葉として「大和」を使用することは適切ではないという見解がある。ただし、武光誠のように3世紀末から「大和」を使用する研究者もいる。 | 古事記や日本書紀が完成したのはいつなのか。 | {
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a5157p50q0 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 倭王たちは、朝鮮半島での支配権を南朝に認めさせるために冊封体制にはいり、珍が「安東将軍倭国王」(438年)、済がやはり「安東将軍倭国王」(443年)の称号を得、さらに済は451年に「使持節都督六国諸軍事」を加号されている。462年、興は「安東将軍倭国王」の称号を得ている。このなかで注目すべき動きとしては、珍や済が中国の皇帝に対し、みずからの臣下への官爵も求めていることが揚げられる。このことはヤマト政権内部の秩序づけに朝貢を役立てたものと考えられる。 | 倭王たちは、どこのの支配権を南朝に認めさせるために朝貢したと考えられるか? | {
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a5157p50q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 倭王たちは、朝鮮半島での支配権を南朝に認めさせるために冊封体制にはいり、珍が「安東将軍倭国王」(438年)、済がやはり「安東将軍倭国王」(443年)の称号を得、さらに済は451年に「使持節都督六国諸軍事」を加号されている。462年、興は「安東将軍倭国王」の称号を得ている。このなかで注目すべき動きとしては、珍や済が中国の皇帝に対し、みずからの臣下への官爵も求めていることが揚げられる。このことはヤマト政権内部の秩序づけに朝貢を役立てたものと考えられる。 | 珍が安東将軍倭国王の称号を得たのは何年か | {
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a5157p50q2 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 倭王たちは、朝鮮半島での支配権を南朝に認めさせるために冊封体制にはいり、珍が「安東将軍倭国王」(438年)、済がやはり「安東将軍倭国王」(443年)の称号を得、さらに済は451年に「使持節都督六国諸軍事」を加号されている。462年、興は「安東将軍倭国王」の称号を得ている。このなかで注目すべき動きとしては、珍や済が中国の皇帝に対し、みずからの臣下への官爵も求めていることが揚げられる。このことはヤマト政権内部の秩序づけに朝貢を役立てたものと考えられる。 | 438年に「東将軍倭国王」の称号を得た国はどこか。 | {
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a5157p50q3 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 倭王たちは、朝鮮半島での支配権を南朝に認めさせるために冊封体制にはいり、珍が「安東将軍倭国王」(438年)、済がやはり「安東将軍倭国王」(443年)の称号を得、さらに済は451年に「使持節都督六国諸軍事」を加号されている。462年、興は「安東将軍倭国王」の称号を得ている。このなかで注目すべき動きとしては、珍や済が中国の皇帝に対し、みずからの臣下への官爵も求めていることが揚げられる。このことはヤマト政権内部の秩序づけに朝貢を役立てたものと考えられる。 | 倭王の珍が438年に得た称号は何と言うか | {
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a5157p51q0 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 475年、高句麗の大軍によって百済の都漢城が陥落し、蓋鹵王はじめ王族の多くが殺害されて、都を南方の熊津へ遷した。こうした半島情勢により「今来漢人(いまきのあやひと)」と称される、主として百済系の人びとが多数日本に渡来した。5世紀後半から6世紀にかけての雄略天皇の時代は、渡来人第二波の時期でもあった。雄略天皇は、上述した倭の五王のうちの武であると比定される。 | 高句麗により百済の都漢城が陥落したのは何年か | {
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a5157p51q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 475年、高句麗の大軍によって百済の都漢城が陥落し、蓋鹵王はじめ王族の多くが殺害されて、都を南方の熊津へ遷した。こうした半島情勢により「今来漢人(いまきのあやひと)」と称される、主として百済系の人びとが多数日本に渡来した。5世紀後半から6世紀にかけての雄略天皇の時代は、渡来人第二波の時期でもあった。雄略天皇は、上述した倭の五王のうちの武であると比定される。 | 雄略天皇は、倭の五王のうちの誰であると言われているか。 | {
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a5157p51q2 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 475年、高句麗の大軍によって百済の都漢城が陥落し、蓋鹵王はじめ王族の多くが殺害されて、都を南方の熊津へ遷した。こうした半島情勢により「今来漢人(いまきのあやひと)」と称される、主として百済系の人びとが多数日本に渡来した。5世紀後半から6世紀にかけての雄略天皇の時代は、渡来人第二波の時期でもあった。雄略天皇は、上述した倭の五王のうちの武であると比定される。 | 高句麗によって百済の都漢城が陥落したのは何年? | {
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a5157p51q3 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 475年、高句麗の大軍によって百済の都漢城が陥落し、蓋鹵王はじめ王族の多くが殺害されて、都を南方の熊津へ遷した。こうした半島情勢により「今来漢人(いまきのあやひと)」と称される、主として百済系の人びとが多数日本に渡来した。5世紀後半から6世紀にかけての雄略天皇の時代は、渡来人第二波の時期でもあった。雄略天皇は、上述した倭の五王のうちの武であると比定される。 | 百済の都漢城が陥落した年 | {
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a5157p52q0 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 『宋書』倭国伝に引用された478年の「倭王武の上表文」には、倭の王権(倭王武の先祖)が東(毛人)、西(衆夷)、北(海北)の多くの国を征服したことを述べられており、みずからの勢力を拡大して地方豪族を服属させたことがうかがわれる。また、海北とは朝鮮半島を意味すると考えられるところから、渡来人第二波との関連も考慮される。 | 『宋書』倭国伝に引用された478年の「倭王武の上表文」で、倭の王権が東(毛人)、西(衆夷)、北(海北)の多くの国を征服したことを述べられているが、海北とはどこの地域を指すと考えられているか。 | {
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a5157p52q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 『宋書』倭国伝に引用された478年の「倭王武の上表文」には、倭の王権(倭王武の先祖)が東(毛人)、西(衆夷)、北(海北)の多くの国を征服したことを述べられており、みずからの勢力を拡大して地方豪族を服属させたことがうかがわれる。また、海北とは朝鮮半島を意味すると考えられるところから、渡来人第二波との関連も考慮される。 | 478年の「倭王武の上表文」が引用されている中国の歴史書は? | {
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a5157p52q2 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 『宋書』倭国伝に引用された478年の「倭王武の上表文」には、倭の王権(倭王武の先祖)が東(毛人)、西(衆夷)、北(海北)の多くの国を征服したことを述べられており、みずからの勢力を拡大して地方豪族を服属させたことがうかがわれる。また、海北とは朝鮮半島を意味すると考えられるところから、渡来人第二波との関連も考慮される。 | 海北を指す半島名は何か | {
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a5157p52q3 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] 『宋書』倭国伝に引用された478年の「倭王武の上表文」には、倭の王権(倭王武の先祖)が東(毛人)、西(衆夷)、北(海北)の多くの国を征服したことを述べられており、みずからの勢力を拡大して地方豪族を服属させたことがうかがわれる。また、海北とは朝鮮半島を意味すると考えられるところから、渡来人第二波との関連も考慮される。 | 海北とは何を意味するか | {
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a5157p53q0 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] この時代のものと考えられる埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣(金錯銘鉄剣)には辛亥年(471年)の紀年銘があり、そこには「ワカタケル大王」の名がみえる。これは『日本書紀』『古事記』の伝える雄略天皇の本名と一致しており、熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀銘にもみられる。東国と九州の古墳に「ワカタケル」の名のみえることは、上述の「倭王武の上表文」の征服事業の記載と整合的である。 | 「ワカタケル大王」の名がみえる鉄剣が出土した古墳は? | {
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a5157p53q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] この時代のものと考えられる埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣(金錯銘鉄剣)には辛亥年(471年)の紀年銘があり、そこには「ワカタケル大王」の名がみえる。これは『日本書紀』『古事記』の伝える雄略天皇の本名と一致しており、熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀銘にもみられる。東国と九州の古墳に「ワカタケル」の名のみえることは、上述の「倭王武の上表文」の征服事業の記載と整合的である。 | ワカタケル大王とは、何天皇と本名と一致しているか | {
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a5157p53q2 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] この時代のものと考えられる埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣(金錯銘鉄剣)には辛亥年(471年)の紀年銘があり、そこには「ワカタケル大王」の名がみえる。これは『日本書紀』『古事記』の伝える雄略天皇の本名と一致しており、熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀銘にもみられる。東国と九州の古墳に「ワカタケル」の名のみえることは、上述の「倭王武の上表文」の征服事業の記載と整合的である。 | 「ワカタケル」の文字が刻まれた鉄刀が発見された、江田船山古墳がある都道府県を答えよ。 | {
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a5157p53q3 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] この時代のものと考えられる埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣(金錯銘鉄剣)には辛亥年(471年)の紀年銘があり、そこには「ワカタケル大王」の名がみえる。これは『日本書紀』『古事記』の伝える雄略天皇の本名と一致しており、熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀銘にもみられる。東国と九州の古墳に「ワカタケル」の名のみえることは、上述の「倭王武の上表文」の征服事業の記載と整合的である。 | ワカタケル大王とは誰のことか | {
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"雄略天皇"
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a5157p54q0 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] また、稲荷山古墳出土鉄剣銘には東国の豪族が「大王」の宮に親衛隊長(「杖刀人首」)として、江田船山古墳出土鉄刀銘には西国の豪族が大王側近の文官(「典曹人」)として仕え、王権の一翼をになっていたことが知られている。職制と「人」とを結んで「厨人」「川瀬舎人」などのように表記する事例は、『日本書紀』雄略紀にもみられ、この時期の在地勢力とヤマト王権の仕奉関係は「人制」とよばれる。 | この時期の在地勢力とヤマト王権の仕奉関係はなにと呼ばれているか。 | {
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a5157p54q1 | ヤマト王権 | ヤマト王権 [SEP] また、稲荷山古墳出土鉄剣銘には東国の豪族が「大王」の宮に親衛隊長(「杖刀人首」)として、江田船山古墳出土鉄刀銘には西国の豪族が大王側近の文官(「典曹人」)として仕え、王権の一翼をになっていたことが知られている。職制と「人」とを結んで「厨人」「川瀬舎人」などのように表記する事例は、『日本書紀』雄略紀にもみられ、この時期の在地勢力とヤマト王権の仕奉関係は「人制」とよばれる。 | 古くからの書物で、古事記と並ぶものは | {
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