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JCRRAG_019101
歴史
1199年(正治元年)に偉大な父である源頼朝が急死したあと、征夷大将軍の権威と権力をすべて継承することになったのは、源頼家です。 源頼家は病床で妻子まで殺されたという知らせを聞いて激怒し、周囲の御家人に北条時政の討伐を命じますが、命に応じて立ち上がる者はいませんでした。それどころか源頼家は北条時政によって将軍職を解かれ、無理やり出家(しゅっけ:仏僧となること)させられ、伊豆の修善寺(しゅぜんじ)に幽閉させられてしまいます。 後日、源頼家は「北条政子」(ほうじょうまさこ:源頼家の母)に「1人でいるのは寂しいので、私に仕えていた近習[きんじゅ:そばに仕える部下]をよこしてほしい」とお願いしますが、北条政子は拒否。しかもその近習達まで流罪にしてしまいました。その翌年、源頼家は北条氏が送り込んだ刺客によって暗殺され、23年という短い命を終えました。 「吾妻鏡」(鎌倉時代後期に成立した鎌倉時代の歴史書)には、源頼家の奇行について記されています。これによると、権力を奪われた反発から、源頼家は自分に年齢の近い「小笠原長経」(おがさわらながつね)、「比企宗員」(ひきむねかず:比企能員の子)ら5名の近習を指名し、この者どもを通さない連絡は受けないと発表。 またその5人に対して、有力御家人の「安達景盛」(あだちかげもり)の留守に、美人として名高かったその妻を連れて来させ、我がものにしてしまいました。当然、安達景盛は激怒しますが、源頼家は逆にそれを謀反とみなして安達景盛の討伐を命じます。 このときは北条政子が「ならば私を先に殺しなさい」と割って入ったために事件は収まりました。他にも幕府を支えてきた有力御家人から領地を取り上げ、領地を持っていない自分の近習に分け与えようとしたこともありました。 こうした源頼家の奇妙な行動が御家人に不安を抱かせ、権力を制限されることにつながったのだと吾妻鏡には書かれています。
源頼朝が急死したあと、征夷大将軍の権威と権力をすべて継承することになった人物は、何歳で亡くなったか。
源頼朝が急死したあと、征夷大将軍の権威と権力をすべて継承することになった人物は、23歳で亡くなった。
JCRRAG_019102
歴史
鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の子で、2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)の弟は、「源実朝」(みなもとのさねとも)です。 源実朝は、1204年(元久元年)10月、12歳で元服(げんぷく:成人男子として認められる儀式)します。 「北条政子」(ほうじょうまさこ:源頼朝の妻で、源頼家・源実朝の母)は、武家の棟梁にふさわしく有力御家人の娘を妻として迎えようとしました。 しかし源実朝は、有力御家人の娘を妻として迎えることを激しく拒否。実はそのわずか2ヵ月前、有力御家人の比企家(ひきけ)から妻を迎えた兄が御家人の勢力争いの末に殺されました。 そのことから源実朝は、武家とは関係ない公家から妻を迎えようと思っていたのです。 源実朝は、1205年(元久2年)に将軍になったあとも、同じ理由から一切政治にかかわろうとはしませんでした。 北条氏の傀儡政権(かいらいせいけん:言いなりに行動する政権)であることを受け入れ、自身は歌道の世界に居場所を見つけたのです。 同年、藤原定家から「新古今和歌集」(しんこきんわかしゅう:後鳥羽上皇[ごとばじょうこう]の命で編纂された和歌集)が鎌倉に届きました。これを見た源実朝は大喜び。藤原定家を師と仰ぎ、自作の和歌の批評をお願いしています。 実際、源実朝は和歌について高い才能を持っており、「小倉百人一首」(おぐらひゃくにんいっしゅ:藤原定家が編纂した歌集)にも「世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ 海人の小舟の 綱手かなしも」(世の中は、このまま変わらずにあってほしい。渚をこぎだす小舟が綱をひく、そんな日常の光景が心にしみる)と言う源実朝(詠み人は[鎌倉右大臣])の歌が選ばれています。
2代将軍の源頼家の弟は、1204年(元久元年)10月、何歳で元服したか。
2代将軍の源頼家の弟は、1204年(元久元年)10月、12歳で元服した。
JCRRAG_019103
歴史
鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の子で、2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)の弟は、「源実朝」(みなもとのさねとも)です。 源実朝は、1204年(元久元年)10月、12歳で元服(げんぷく:成人男子として認められる儀式)します。 「北条政子」(ほうじょうまさこ:源頼朝の妻で、源頼家・源実朝の母)は、武家の棟梁にふさわしく有力御家人の娘を妻として迎えようとしました。 しかし源実朝は、有力御家人の娘を妻として迎えることを激しく拒否。実はそのわずか2ヵ月前、有力御家人の比企家(ひきけ)から妻を迎えた兄が御家人の勢力争いの末に殺されました。 そのことから源実朝は、武家とは関係ない公家から妻を迎えようと思っていたのです。 源実朝は、1205年(元久2年)に将軍になったあとも、同じ理由から一切政治にかかわろうとはしませんでした。 北条氏の傀儡政権(かいらいせいけん:言いなりに行動する政権)であることを受け入れ、自身は歌道の世界に居場所を見つけたのです。 同年、藤原定家から「新古今和歌集」(しんこきんわかしゅう:後鳥羽上皇[ごとばじょうこう]の命で編纂された和歌集)が鎌倉に届きました。これを見た源実朝は大喜び。藤原定家を師と仰ぎ、自作の和歌の批評をお願いしています。 実際、源実朝は和歌について高い才能を持っており、「小倉百人一首」(おぐらひゃくにんいっしゅ:藤原定家が編纂した歌集)にも「世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ 海人の小舟の 綱手かなしも」(世の中は、このまま変わらずにあってほしい。渚をこぎだす小舟が綱をひく、そんな日常の光景が心にしみる)と言う源実朝(詠み人は[鎌倉右大臣])の歌が選ばれています。
2代将軍の源頼家の弟は、どのような人を妻として迎えることを激しく拒否したか。
2代将軍の源頼家の弟は、有力御家人の娘を妻として迎えることを激しく拒否した。
JCRRAG_019104
歴史
鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の子で、2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)の弟は、「源実朝」(みなもとのさねとも)です。 源実朝は、1204年(元久元年)10月、12歳で元服(げんぷく:成人男子として認められる儀式)します。 「北条政子」(ほうじょうまさこ:源頼朝の妻で、源頼家・源実朝の母)は、武家の棟梁にふさわしく有力御家人の娘を妻として迎えようとしました。 しかし源実朝は、有力御家人の娘を妻として迎えることを激しく拒否。実はそのわずか2ヵ月前、有力御家人の比企家(ひきけ)から妻を迎えた兄が御家人の勢力争いの末に殺されました。 そのことから源実朝は、武家とは関係ない公家から妻を迎えようと思っていたのです。 源実朝は、1205年(元久2年)に将軍になったあとも、同じ理由から一切政治にかかわろうとはしませんでした。 北条氏の傀儡政権(かいらいせいけん:言いなりに行動する政権)であることを受け入れ、自身は歌道の世界に居場所を見つけたのです。 同年、藤原定家から「新古今和歌集」(しんこきんわかしゅう:後鳥羽上皇[ごとばじょうこう]の命で編纂された和歌集)が鎌倉に届きました。これを見た源実朝は大喜び。藤原定家を師と仰ぎ、自作の和歌の批評をお願いしています。 実際、源実朝は和歌について高い才能を持っており、「小倉百人一首」(おぐらひゃくにんいっしゅ:藤原定家が編纂した歌集)にも「世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ 海人の小舟の 綱手かなしも」(世の中は、このまま変わらずにあってほしい。渚をこぎだす小舟が綱をひく、そんな日常の光景が心にしみる)と言う源実朝(詠み人は[鎌倉右大臣])の歌が選ばれています。
2代将軍の源頼家の弟は、どのような人を妻に迎えようと思っていたか。
2代将軍の源頼家の弟は、武家とは関係ない公家から妻を迎えようと思っていた。
JCRRAG_019105
歴史
鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の子で、2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)の弟は、「源実朝」(みなもとのさねとも)です。 源実朝は、1204年(元久元年)10月、12歳で元服(げんぷく:成人男子として認められる儀式)します。 「北条政子」(ほうじょうまさこ:源頼朝の妻で、源頼家・源実朝の母)は、武家の棟梁にふさわしく有力御家人の娘を妻として迎えようとしました。 しかし源実朝は、有力御家人の娘を妻として迎えることを激しく拒否。実はそのわずか2ヵ月前、有力御家人の比企家(ひきけ)から妻を迎えた兄が御家人の勢力争いの末に殺されました。 そのことから源実朝は、武家とは関係ない公家から妻を迎えようと思っていたのです。 源実朝は、1205年(元久2年)に将軍になったあとも、同じ理由から一切政治にかかわろうとはしませんでした。 北条氏の傀儡政権(かいらいせいけん:言いなりに行動する政権)であることを受け入れ、自身は歌道の世界に居場所を見つけたのです。 同年、藤原定家から「新古今和歌集」(しんこきんわかしゅう:後鳥羽上皇[ごとばじょうこう]の命で編纂された和歌集)が鎌倉に届きました。これを見た源実朝は大喜び。藤原定家を師と仰ぎ、自作の和歌の批評をお願いしています。 実際、源実朝は和歌について高い才能を持っており、「小倉百人一首」(おぐらひゃくにんいっしゅ:藤原定家が編纂した歌集)にも「世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ 海人の小舟の 綱手かなしも」(世の中は、このまま変わらずにあってほしい。渚をこぎだす小舟が綱をひく、そんな日常の光景が心にしみる)と言う源実朝(詠み人は[鎌倉右大臣])の歌が選ばれています。
2代将軍の源頼家の弟は、何年に将軍になったか。
2代将軍の源頼家の弟は、1205年に将軍になった。
JCRRAG_019106
歴史
鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の子で、2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)の弟は、「源実朝」(みなもとのさねとも)です。 源実朝は、1204年(元久元年)10月、12歳で元服(げんぷく:成人男子として認められる儀式)します。 「北条政子」(ほうじょうまさこ:源頼朝の妻で、源頼家・源実朝の母)は、武家の棟梁にふさわしく有力御家人の娘を妻として迎えようとしました。 しかし源実朝は、有力御家人の娘を妻として迎えることを激しく拒否。実はそのわずか2ヵ月前、有力御家人の比企家(ひきけ)から妻を迎えた兄が御家人の勢力争いの末に殺されました。 そのことから源実朝は、武家とは関係ない公家から妻を迎えようと思っていたのです。 源実朝は、1205年(元久2年)に将軍になったあとも、同じ理由から一切政治にかかわろうとはしませんでした。 北条氏の傀儡政権(かいらいせいけん:言いなりに行動する政権)であることを受け入れ、自身は歌道の世界に居場所を見つけたのです。 同年、藤原定家から「新古今和歌集」(しんこきんわかしゅう:後鳥羽上皇[ごとばじょうこう]の命で編纂された和歌集)が鎌倉に届きました。これを見た源実朝は大喜び。藤原定家を師と仰ぎ、自作の和歌の批評をお願いしています。 実際、源実朝は和歌について高い才能を持っており、「小倉百人一首」(おぐらひゃくにんいっしゅ:藤原定家が編纂した歌集)にも「世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ 海人の小舟の 綱手かなしも」(世の中は、このまま変わらずにあってほしい。渚をこぎだす小舟が綱をひく、そんな日常の光景が心にしみる)と言う源実朝(詠み人は[鎌倉右大臣])の歌が選ばれています。
2代将軍の源頼家の弟は、和歌についての才能はあったか。
2代将軍の源頼家の弟は、和歌について高い才能を持っており、小倉百人一首にも歌が選ばれている。
JCRRAG_019107
歴史
鎌倉幕府3代将軍は、源実朝です。 源実朝が朝廷と交流している間にも、「北条義時」(ほうじょうよしとき:北条政子の兄)は着々と政権の掌握を進めました。1205年(元久2年)には、父「北条時政」(ほうじょうときまさ)の命で、早くから幕府を支えてきた有力御家人「畠山重忠」(はたけやましげただ)・「畠山重保」(はたけやましげやす)親子を謀殺。 しかしこれが冤罪だと知った北条義時は、激しく父を叱責します。そして、北条時政は若い後妻「牧の方」(まきのかた)にそそのかされ、牧の方の娘婿の「平賀朝雅」(ひらがともまさ)を次の将軍にするために源実朝を暗殺しようとします。これを北条義時が知り、計画は失敗。 この事件により、幕府設立の最大の立役者、北条時政は引退させられました。そして1213年(建暦3年)、北条義時は当時最大のライバルであった和田義盛の一族を激しい戦いの末に討ち果たします。これによって、幕府内部で北条義時・北条政子の敵は一掃されました。 源実朝は、1218年(建保6年)正月、朝廷から「権大納言」(ごんだいなごん)の官位を拝受。源実朝が27歳のとき、北条政子は上洛して次の将軍を公家から迎える交渉を開始しており、次の将軍の動きがあることを知り、源実朝は焦ります。 そして源実朝は朝廷に対してもっと高い官位を要求し、朝廷は望まれるままに官位を与え続けました。1218年(建保6年)3月には「左近大将」(さこんのだいしょう)、10月には「内大臣」(ないだいじん)に昇進。しかし、これは「官打ち」(かんうち)と言う朝廷の策略。 源実朝は朝廷のことが大好きでしたが、朝廷から見れば源実朝は憎き鎌倉幕府の棟梁。そんな敵の官位を徹底的に上げ、その重さに耐えきれずに相手が自滅するのを待つと言う作戦です。家臣がそれを告げると、源実朝は答えました。 「自分には子がない。源氏の政権は自分の代で絶える。だから、せめて高い官位を受けて家名を残したいのだ」。大好きな朝廷から憎まれ、恭順を誓う北条家から将軍の座を追われようとしている。そんな源実朝の言葉に、家臣は返す言葉がありませんでした。 1218年(建保6年)12月、源実朝は「右大臣」(うだいじん)に任ぜられ、1219年(承久元年)1月27日には鶴岡八幡宮で右大臣就任を祝う式典が挙行されました。夜になって式典が終わり、社殿の石段を下りていたとき、大銀杏の陰から男が現れて「親の仇はかく討つぞ」と叫んで源実朝の頭を一撃。隣にいた「源仲章」(みなもとのなかあきら)も切り殺しました。 犯人は源頼家の遺児、「公暁」(くぎょう)です。犯行後、公暁は有力御家人のひとり「三浦義村」(みうらよしむら)に「自分を将軍にせよ」と命じました。三浦義村は慌ててこれを北条義時に報告。その後北条義時の指示に従い、公暁を討ち取りました。
鎌倉幕府3代将軍は、1218年正月、朝廷から何の官位を拝受したか。
鎌倉幕府3代将軍は、1218年正月、朝廷から権大納言の官位を拝受した。
JCRRAG_019108
歴史
鎌倉幕府3代将軍は、源実朝です。 源実朝が朝廷と交流している間にも、「北条義時」(ほうじょうよしとき:北条政子の兄)は着々と政権の掌握を進めました。1205年(元久2年)には、父「北条時政」(ほうじょうときまさ)の命で、早くから幕府を支えてきた有力御家人「畠山重忠」(はたけやましげただ)・「畠山重保」(はたけやましげやす)親子を謀殺。 しかしこれが冤罪だと知った北条義時は、激しく父を叱責します。そして、北条時政は若い後妻「牧の方」(まきのかた)にそそのかされ、牧の方の娘婿の「平賀朝雅」(ひらがともまさ)を次の将軍にするために源実朝を暗殺しようとします。これを北条義時が知り、計画は失敗。 この事件により、幕府設立の最大の立役者、北条時政は引退させられました。そして1213年(建暦3年)、北条義時は当時最大のライバルであった和田義盛の一族を激しい戦いの末に討ち果たします。これによって、幕府内部で北条義時・北条政子の敵は一掃されました。 源実朝は、1218年(建保6年)正月、朝廷から「権大納言」(ごんだいなごん)の官位を拝受。源実朝が27歳のとき、北条政子は上洛して次の将軍を公家から迎える交渉を開始しており、次の将軍の動きがあることを知り、源実朝は焦ります。 そして源実朝は朝廷に対してもっと高い官位を要求し、朝廷は望まれるままに官位を与え続けました。1218年(建保6年)3月には「左近大将」(さこんのだいしょう)、10月には「内大臣」(ないだいじん)に昇進。しかし、これは「官打ち」(かんうち)と言う朝廷の策略。 源実朝は朝廷のことが大好きでしたが、朝廷から見れば源実朝は憎き鎌倉幕府の棟梁。そんな敵の官位を徹底的に上げ、その重さに耐えきれずに相手が自滅するのを待つと言う作戦です。家臣がそれを告げると、源実朝は答えました。 「自分には子がない。源氏の政権は自分の代で絶える。だから、せめて高い官位を受けて家名を残したいのだ」。大好きな朝廷から憎まれ、恭順を誓う北条家から将軍の座を追われようとしている。そんな源実朝の言葉に、家臣は返す言葉がありませんでした。 1218年(建保6年)12月、源実朝は「右大臣」(うだいじん)に任ぜられ、1219年(承久元年)1月27日には鶴岡八幡宮で右大臣就任を祝う式典が挙行されました。夜になって式典が終わり、社殿の石段を下りていたとき、大銀杏の陰から男が現れて「親の仇はかく討つぞ」と叫んで源実朝の頭を一撃。隣にいた「源仲章」(みなもとのなかあきら)も切り殺しました。 犯人は源頼家の遺児、「公暁」(くぎょう)です。犯行後、公暁は有力御家人のひとり「三浦義村」(みうらよしむら)に「自分を将軍にせよ」と命じました。三浦義村は慌ててこれを北条義時に報告。その後北条義時の指示に従い、公暁を討ち取りました。
鎌倉幕府3代将軍が27歳のとき、北条政子が行ったどのようなことに焦りを感じたか。
鎌倉幕府3代将軍が27歳のとき、北条政子が上洛して次の将軍を公家から迎える交渉を開始していることに焦りを感じた。
JCRRAG_019109
歴史
鎌倉幕府3代将軍は、源実朝です。 源実朝が朝廷と交流している間にも、「北条義時」(ほうじょうよしとき:北条政子の兄)は着々と政権の掌握を進めました。1205年(元久2年)には、父「北条時政」(ほうじょうときまさ)の命で、早くから幕府を支えてきた有力御家人「畠山重忠」(はたけやましげただ)・「畠山重保」(はたけやましげやす)親子を謀殺。 しかしこれが冤罪だと知った北条義時は、激しく父を叱責します。そして、北条時政は若い後妻「牧の方」(まきのかた)にそそのかされ、牧の方の娘婿の「平賀朝雅」(ひらがともまさ)を次の将軍にするために源実朝を暗殺しようとします。これを北条義時が知り、計画は失敗。 この事件により、幕府設立の最大の立役者、北条時政は引退させられました。そして1213年(建暦3年)、北条義時は当時最大のライバルであった和田義盛の一族を激しい戦いの末に討ち果たします。これによって、幕府内部で北条義時・北条政子の敵は一掃されました。 源実朝は、1218年(建保6年)正月、朝廷から「権大納言」(ごんだいなごん)の官位を拝受。源実朝が27歳のとき、北条政子は上洛して次の将軍を公家から迎える交渉を開始しており、次の将軍の動きがあることを知り、源実朝は焦ります。 そして源実朝は朝廷に対してもっと高い官位を要求し、朝廷は望まれるままに官位を与え続けました。1218年(建保6年)3月には「左近大将」(さこんのだいしょう)、10月には「内大臣」(ないだいじん)に昇進。しかし、これは「官打ち」(かんうち)と言う朝廷の策略。 源実朝は朝廷のことが大好きでしたが、朝廷から見れば源実朝は憎き鎌倉幕府の棟梁。そんな敵の官位を徹底的に上げ、その重さに耐えきれずに相手が自滅するのを待つと言う作戦です。家臣がそれを告げると、源実朝は答えました。 「自分には子がない。源氏の政権は自分の代で絶える。だから、せめて高い官位を受けて家名を残したいのだ」。大好きな朝廷から憎まれ、恭順を誓う北条家から将軍の座を追われようとしている。そんな源実朝の言葉に、家臣は返す言葉がありませんでした。 1218年(建保6年)12月、源実朝は「右大臣」(うだいじん)に任ぜられ、1219年(承久元年)1月27日には鶴岡八幡宮で右大臣就任を祝う式典が挙行されました。夜になって式典が終わり、社殿の石段を下りていたとき、大銀杏の陰から男が現れて「親の仇はかく討つぞ」と叫んで源実朝の頭を一撃。隣にいた「源仲章」(みなもとのなかあきら)も切り殺しました。 犯人は源頼家の遺児、「公暁」(くぎょう)です。犯行後、公暁は有力御家人のひとり「三浦義村」(みうらよしむら)に「自分を将軍にせよ」と命じました。三浦義村は慌ててこれを北条義時に報告。その後北条義時の指示に従い、公暁を討ち取りました。
鎌倉幕府3代将軍は、朝廷に対してもっと高い官位を要求したが、朝廷はどのように対応したか。
鎌倉幕府3代将軍は、朝廷に対してもっと高い官位を要求したが、朝廷は望まれるままに官位を与え続けた。
JCRRAG_019110
歴史
鎌倉幕府3代将軍は、源実朝です。 源実朝が朝廷と交流している間にも、「北条義時」(ほうじょうよしとき:北条政子の兄)は着々と政権の掌握を進めました。1205年(元久2年)には、父「北条時政」(ほうじょうときまさ)の命で、早くから幕府を支えてきた有力御家人「畠山重忠」(はたけやましげただ)・「畠山重保」(はたけやましげやす)親子を謀殺。 しかしこれが冤罪だと知った北条義時は、激しく父を叱責します。そして、北条時政は若い後妻「牧の方」(まきのかた)にそそのかされ、牧の方の娘婿の「平賀朝雅」(ひらがともまさ)を次の将軍にするために源実朝を暗殺しようとします。これを北条義時が知り、計画は失敗。 この事件により、幕府設立の最大の立役者、北条時政は引退させられました。そして1213年(建暦3年)、北条義時は当時最大のライバルであった和田義盛の一族を激しい戦いの末に討ち果たします。これによって、幕府内部で北条義時・北条政子の敵は一掃されました。 源実朝は、1218年(建保6年)正月、朝廷から「権大納言」(ごんだいなごん)の官位を拝受。源実朝が27歳のとき、北条政子は上洛して次の将軍を公家から迎える交渉を開始しており、次の将軍の動きがあることを知り、源実朝は焦ります。 そして源実朝は朝廷に対してもっと高い官位を要求し、朝廷は望まれるままに官位を与え続けました。1218年(建保6年)3月には「左近大将」(さこんのだいしょう)、10月には「内大臣」(ないだいじん)に昇進。しかし、これは「官打ち」(かんうち)と言う朝廷の策略。 源実朝は朝廷のことが大好きでしたが、朝廷から見れば源実朝は憎き鎌倉幕府の棟梁。そんな敵の官位を徹底的に上げ、その重さに耐えきれずに相手が自滅するのを待つと言う作戦です。家臣がそれを告げると、源実朝は答えました。 「自分には子がない。源氏の政権は自分の代で絶える。だから、せめて高い官位を受けて家名を残したいのだ」。大好きな朝廷から憎まれ、恭順を誓う北条家から将軍の座を追われようとしている。そんな源実朝の言葉に、家臣は返す言葉がありませんでした。 1218年(建保6年)12月、源実朝は「右大臣」(うだいじん)に任ぜられ、1219年(承久元年)1月27日には鶴岡八幡宮で右大臣就任を祝う式典が挙行されました。夜になって式典が終わり、社殿の石段を下りていたとき、大銀杏の陰から男が現れて「親の仇はかく討つぞ」と叫んで源実朝の頭を一撃。隣にいた「源仲章」(みなもとのなかあきら)も切り殺しました。 犯人は源頼家の遺児、「公暁」(くぎょう)です。犯行後、公暁は有力御家人のひとり「三浦義村」(みうらよしむら)に「自分を将軍にせよ」と命じました。三浦義村は慌ててこれを北条義時に報告。その後北条義時の指示に従い、公暁を討ち取りました。
鎌倉幕府3代将軍は、朝廷のことが大好きだったが、朝廷からはどのような存在か。
鎌倉幕府3代将軍は、朝廷のことが大好きだったが、朝廷から見れば源実朝は憎き鎌倉幕府の棟梁である。
JCRRAG_019111
歴史
3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)が暗殺されたあとに朝廷から「鎌倉殿」として迎えられたのは、「藤原頼経」(ふじわらよりつね)です。 鎌倉幕府における最大の有力者である北条氏は、源実朝の次の将軍には朝廷から親王(しんのう:天皇の子)を迎えたいと希望していました。親王を利用し、幕府の権威を高めようとしたのです。 しかし1219年(承久元年)に源実朝が暗殺されたことを見て、当時の「治天の君」(ちてんのきみ:朝廷における最大の権力者)であった「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)は北条氏の依頼を拒否。 北条氏は代替案として摂関家(せっかんけ:藤原氏の中でも、天皇を補佐する摂政・関白を輩出した格式の高い家柄)から藤原頼経(幼名は三寅[みとら])を迎えたいと希望してきました。藤原頼経は源頼朝の同母妹のひ孫に当たるため、わずかながら源氏の血を引いています。 それまで断ると全面戦争になりかねないため、後鳥羽上皇もしぶしぶ承諾せざるを得ませんでした。藤原頼経が鎌倉に来てから数年間は、「北条政子」(ほうじょうまさこ:源頼朝の妻)が後見人として将軍の代行を務めました。 このように、あくまでも北条氏は幕府トップの将軍にはならず、「執権」(しっけん:御家人の代表として将軍を補佐する役職)として政治の実権を握り続けるという戦略を取りました。最初に執権になったのは、源頼朝とともに平氏を討つために挙兵した「北条時政」(ほうじょうときまさ)でした。
朝廷から「鎌倉殿」として迎えられた人物は、源氏とどのような関係か。
朝廷から「鎌倉殿」として迎えられた人物は、源頼朝の同母妹のひ孫に当たるため、わずかながら源氏の血を引いている。
JCRRAG_019112
歴史
3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)が暗殺されたあとに朝廷から「鎌倉殿」(かまくらどの:鎌倉幕府における最大の権威者)として迎えられたのは、「藤原頼経」(ふじわらよりつね)です。 鎌倉幕府における最大の有力者である北条氏は、源実朝の次の将軍には朝廷から親王(しんのう:天皇の子)を迎えたいと希望していました。親王を利用し、幕府の権威を高めようとしたのです。 しかし1219年(承久元年)に源実朝が暗殺されたことを見て、当時の「治天の君」(ちてんのきみ:朝廷における最大の権力者)であった「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)は北条氏の依頼を拒否。 北条氏は代替案として摂関家(せっかんけ:藤原氏の中でも、天皇を補佐する摂政・関白を輩出した格式の高い家柄)から藤原頼経(幼名は三寅[みとら])を迎えたいと希望してきました。藤原頼経は源頼朝の同母妹のひ孫に当たるため、わずかながら源氏の血を引いています。 それまで断ると全面戦争になりかねないため、後鳥羽上皇もしぶしぶ承諾せざるを得ませんでした。藤原頼経が鎌倉に来てから数年間は、「北条政子」(ほうじょうまさこ:源頼朝の妻)が後見人として将軍の代行を務めました。 このように、あくまでも北条氏は幕府トップの将軍にはならず、「執権」(しっけん:御家人の代表として将軍を補佐する役職)として政治の実権を握り続けるという戦略を取りました。最初に執権になったのは、源頼朝とともに平氏を討つために挙兵した「北条時政」(ほうじょうときまさ)でした。
朝廷から鎌倉殿として迎えられた人物は、鎌倉に来てから数年間は、誰が後見人として将軍の代行を務めたか。
朝廷から鎌倉殿として迎えられた人物は、鎌倉に来てから数年間は、北条政子が後見人として将軍の代行を務めた。
JCRRAG_019113
歴史
3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)が暗殺されたあとに朝廷から「鎌倉殿」(かまくらどの:鎌倉幕府における最大の権威者)として迎えられたのは、「藤原頼経」(ふじわらよりつね)です。 1224年(元仁元年)、北条義時が死去。3代目の執権には、北条義時の子「北条泰時」(ほうじょうやすとき)が就任しました。北条泰時は幼い頃から曲がったことが大嫌いで、政治を行わず蹴鞠(けまり)に熱中する「源頼家」(みなもとのよりいえ:鎌倉2代将軍)を子供ながらに注意し、一時謹慎させられたほど。 北条泰時が執権になった翌年、源頼朝の側近として幕府に仕えてきた有力御家人の「大江広元」(おおえひろもと)が死去し、翌月には北条政子もあとを追うように亡くなります。こうして源頼朝時代からの実力者のほとんどがいなくなり、北条泰時が自由に手腕を振るうことができる環境が整ったのです。 藤原頼経は1225年(嘉禄元年)、4代将軍になりましたが、当時は9歳の将軍ですから、飾り物であることに変わりはありません。次に北条泰時は幕府の政治機構の改革に着手。 これで北条得宗の政権基盤は盤石になったかに見えましたが、実際には北条氏の中にもこれを快く思わない勢力がいました。特に「北条朝時」(ほうじょうともとき:北条義時の次男・北条泰時の弟)を中心とする反得宗集団が藤原頼経に接近。 藤原頼経はその勢力に取り込まれていきます。1242年(仁治3年)に北条泰時は59歳で死去。北条泰時の子である「北条時氏」(ほうじょうときうじ)はすでに他界していたため、孫の「北条経時」(ほうじょうつねとき)が4代目の執権に就任します。 そして2年後の1244年(寛元2年)、いきなり北条経時は藤原頼経の将軍職を解任しました。「吾妻鏡」(あづまかがみ:鎌倉時代後期に成立した、鎌倉時代の歴史書)には、「天変地異があったために突然の譲位を思いついた」とありますが、実際には反得宗勢力と結びついた藤原頼経の勢力を早めに摘んでしまおうという得宗側の方策でした。 5代将軍には、藤原頼経の子の「藤原頼嗣」(ふじわらよりつぐ)が就任。藤原頼経は将軍職を解かれたあとも「大殿」(おおとの)として幕府に残り、元将軍としての権威を保ち続けましたが、1245年(寛元3年)には出家させられています。 これも吾妻鏡には「星座に異変が起きたため」と理由が書かれていますが、実際には大殿としてなおも権威を保ち続けようとした藤原頼経を仏門にとじこめ、幕政にこれ以上かかわらせないための得宗側の措置だったと考えられます。 そして1246年(寛元4年)、北条氏の一族でありながら反得宗側の御家人であった「名越光時」(なごえみつとき:北条泰時の甥)の反乱が未然に制圧されると、首謀者として藤原頼経は都に送り返されました。そのあとも反得宗グループと組んで鎌倉復帰を画策し続けた藤原頼経でしたが、1256年(康元元年)に死去。最初から最後まで鎌倉幕府に翻弄され続けた39年の人生でした。
朝廷から鎌倉殿として迎えられた人物は、何年に4代将軍になったか。
朝廷から鎌倉殿として迎えられた人物は、1225年に4代将軍になった。
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歴史
3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)が暗殺されたあとに朝廷から「鎌倉殿」(かまくらどの:鎌倉幕府における最大の権威者)として迎えられたのは、「藤原頼経」(ふじわらよりつね)です。 1224年(元仁元年)、北条義時が死去。3代目の執権には、北条義時の子「北条泰時」(ほうじょうやすとき)が就任しました。北条泰時は幼い頃から曲がったことが大嫌いで、政治を行わず蹴鞠(けまり)に熱中する「源頼家」(みなもとのよりいえ:鎌倉2代将軍)を子供ながらに注意し、一時謹慎させられたほど。 北条泰時が執権になった翌年、源頼朝の側近として幕府に仕えてきた有力御家人の「大江広元」(おおえひろもと)が死去し、翌月には北条政子もあとを追うように亡くなります。こうして源頼朝時代からの実力者のほとんどがいなくなり、北条泰時が自由に手腕を振るうことができる環境が整ったのです。 藤原頼経は1225年(嘉禄元年)、4代将軍になりましたが、当時は9歳の将軍ですから、飾り物であることに変わりはありません。次に北条泰時は幕府の政治機構の改革に着手。 これで北条得宗の政権基盤は盤石になったかに見えましたが、実際には北条氏の中にもこれを快く思わない勢力がいました。特に「北条朝時」(ほうじょうともとき:北条義時の次男・北条泰時の弟)を中心とする反得宗集団が藤原頼経に接近。 藤原頼経はその勢力に取り込まれていきます。1242年(仁治3年)に北条泰時は59歳で死去。北条泰時の子である「北条時氏」(ほうじょうときうじ)はすでに他界していたため、孫の「北条経時」(ほうじょうつねとき)が4代目の執権に就任します。 そして2年後の1244年(寛元2年)、いきなり北条経時は藤原頼経の将軍職を解任しました。「吾妻鏡」(あづまかがみ:鎌倉時代後期に成立した、鎌倉時代の歴史書)には、「天変地異があったために突然の譲位を思いついた」とありますが、実際には反得宗勢力と結びついた藤原頼経の勢力を早めに摘んでしまおうという得宗側の方策でした。 5代将軍には、藤原頼経の子の「藤原頼嗣」(ふじわらよりつぐ)が就任。藤原頼経は将軍職を解かれたあとも「大殿」(おおとの)として幕府に残り、元将軍としての権威を保ち続けましたが、1245年(寛元3年)には出家させられています。 これも吾妻鏡には「星座に異変が起きたため」と理由が書かれていますが、実際には大殿としてなおも権威を保ち続けようとした藤原頼経を仏門にとじこめ、幕政にこれ以上かかわらせないための得宗側の措置だったと考えられます。 そして1246年(寛元4年)、北条氏の一族でありながら反得宗側の御家人であった「名越光時」(なごえみつとき:北条泰時の甥)の反乱が未然に制圧されると、首謀者として藤原頼経は都に送り返されました。そのあとも反得宗グループと組んで鎌倉復帰を画策し続けた藤原頼経でしたが、1256年(康元元年)に死去。最初から最後まで鎌倉幕府に翻弄され続けた39年の人生でした。
朝廷から鎌倉殿として迎えられた人物は、将軍就任当時は何歳だったか。
朝廷から鎌倉殿として迎えられた人物は、将軍就任当時は9歳だった。
JCRRAG_019115
歴史
3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)が暗殺されたあとに朝廷から「鎌倉殿」(かまくらどの:鎌倉幕府における最大の権威者)として迎えられたのは、「藤原頼経」(ふじわらよりつね)です。 1224年(元仁元年)、北条義時が死去。3代目の執権には、北条義時の子「北条泰時」(ほうじょうやすとき)が就任しました。北条泰時は幼い頃から曲がったことが大嫌いで、政治を行わず蹴鞠(けまり)に熱中する「源頼家」(みなもとのよりいえ:鎌倉2代将軍)を子供ながらに注意し、一時謹慎させられたほど。 北条泰時が執権になった翌年、源頼朝の側近として幕府に仕えてきた有力御家人の「大江広元」(おおえひろもと)が死去し、翌月には北条政子もあとを追うように亡くなります。こうして源頼朝時代からの実力者のほとんどがいなくなり、北条泰時が自由に手腕を振るうことができる環境が整ったのです。 藤原頼経は1225年(嘉禄元年)、4代将軍になりましたが、当時は9歳の将軍ですから、飾り物であることに変わりはありません。次に北条泰時は幕府の政治機構の改革に着手。 これで北条得宗の政権基盤は盤石になったかに見えましたが、実際には北条氏の中にもこれを快く思わない勢力がいました。特に「北条朝時」(ほうじょうともとき:北条義時の次男・北条泰時の弟)を中心とする反得宗集団が藤原頼経に接近。 藤原頼経はその勢力に取り込まれていきます。1242年(仁治3年)に北条泰時は59歳で死去。北条泰時の子である「北条時氏」(ほうじょうときうじ)はすでに他界していたため、孫の「北条経時」(ほうじょうつねとき)が4代目の執権に就任します。 そして2年後の1244年(寛元2年)、いきなり北条経時は藤原頼経の将軍職を解任しました。「吾妻鏡」(あづまかがみ:鎌倉時代後期に成立した、鎌倉時代の歴史書)には、「天変地異があったために突然の譲位を思いついた」とありますが、実際には反得宗勢力と結びついた藤原頼経の勢力を早めに摘んでしまおうという得宗側の方策でした。 5代将軍には、藤原頼経の子の「藤原頼嗣」(ふじわらよりつぐ)が就任。藤原頼経は将軍職を解かれたあとも「大殿」(おおとの)として幕府に残り、元将軍としての権威を保ち続けましたが、1245年(寛元3年)には出家させられています。 これも吾妻鏡には「星座に異変が起きたため」と理由が書かれていますが、実際には大殿としてなおも権威を保ち続けようとした藤原頼経を仏門にとじこめ、幕政にこれ以上かかわらせないための得宗側の措置だったと考えられます。 そして1246年(寛元4年)、北条氏の一族でありながら反得宗側の御家人であった「名越光時」(なごえみつとき:北条泰時の甥)の反乱が未然に制圧されると、首謀者として藤原頼経は都に送り返されました。そのあとも反得宗グループと組んで鎌倉復帰を画策し続けた藤原頼経でしたが、1256年(康元元年)に死去。最初から最後まで鎌倉幕府に翻弄され続けた39年の人生でした。
朝廷から鎌倉殿として迎えられた人物は、将軍職を解かれたあと、どのように行動したか。
朝廷から鎌倉殿として迎えられた人物は、将軍職を解かれたあとも大殿として幕府に残り、元将軍としての権威を保ち続けた。
JCRRAG_019116
歴史
3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)が暗殺されたあとに朝廷から「鎌倉殿」(かまくらどの:鎌倉幕府における最大の権威者)として迎えられたのは、「藤原頼経」(ふじわらよりつね)です。 1224年(元仁元年)、北条義時が死去。3代目の執権には、北条義時の子「北条泰時」(ほうじょうやすとき)が就任しました。北条泰時は幼い頃から曲がったことが大嫌いで、政治を行わず蹴鞠(けまり)に熱中する「源頼家」(みなもとのよりいえ:鎌倉2代将軍)を子供ながらに注意し、一時謹慎させられたほど。 北条泰時が執権になった翌年、源頼朝の側近として幕府に仕えてきた有力御家人の「大江広元」(おおえひろもと)が死去し、翌月には北条政子もあとを追うように亡くなります。こうして源頼朝時代からの実力者のほとんどがいなくなり、北条泰時が自由に手腕を振るうことができる環境が整ったのです。 藤原頼経は1225年(嘉禄元年)、4代将軍になりましたが、当時は9歳の将軍ですから、飾り物であることに変わりはありません。次に北条泰時は幕府の政治機構の改革に着手。 これで北条得宗の政権基盤は盤石になったかに見えましたが、実際には北条氏の中にもこれを快く思わない勢力がいました。特に「北条朝時」(ほうじょうともとき:北条義時の次男・北条泰時の弟)を中心とする反得宗集団が藤原頼経に接近。 藤原頼経はその勢力に取り込まれていきます。1242年(仁治3年)に北条泰時は59歳で死去。北条泰時の子である「北条時氏」(ほうじょうときうじ)はすでに他界していたため、孫の「北条経時」(ほうじょうつねとき)が4代目の執権に就任します。 そして2年後の1244年(寛元2年)、いきなり北条経時は藤原頼経の将軍職を解任しました。「吾妻鏡」(あづまかがみ:鎌倉時代後期に成立した、鎌倉時代の歴史書)には、「天変地異があったために突然の譲位を思いついた」とありますが、実際には反得宗勢力と結びついた藤原頼経の勢力を早めに摘んでしまおうという得宗側の方策でした。 5代将軍には、藤原頼経の子の「藤原頼嗣」(ふじわらよりつぐ)が就任。藤原頼経は将軍職を解かれたあとも「大殿」(おおとの)として幕府に残り、元将軍としての権威を保ち続けましたが、1245年(寛元3年)には出家させられています。 これも吾妻鏡には「星座に異変が起きたため」と理由が書かれていますが、実際には大殿としてなおも権威を保ち続けようとした藤原頼経を仏門にとじこめ、幕政にこれ以上かかわらせないための得宗側の措置だったと考えられます。 そして1246年(寛元4年)、北条氏の一族でありながら反得宗側の御家人であった「名越光時」(なごえみつとき:北条泰時の甥)の反乱が未然に制圧されると、首謀者として藤原頼経は都に送り返されました。そのあとも反得宗グループと組んで鎌倉復帰を画策し続けた藤原頼経でしたが、1256年(康元元年)に死去。最初から最後まで鎌倉幕府に翻弄され続けた39年の人生でした。
朝廷から鎌倉殿として迎えられた人物は、1245年に何をさせられたか。
朝廷から鎌倉殿として迎えられた人物は、1245年に出家させられた。
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歴史
朝廷を使って幕府を権威付けしようとする北条氏のやり方に、非常な憎しみを抱いていたのは後鳥羽上皇です。そして朝廷に味方する武士や僧兵に声をかけ、着々と倒幕の準備を続けます。 集められた兵は2万数千。その中には幕府の有力御家人であった「三浦胤義」(みうらたねよし)ら多くの御家人も加わっていました。 後鳥羽上皇は、1221年(承久3年)、幕府追討の命令を発し、都の「守護」(しゅご:幕府が国を治めるために置いた官僚)であった「伊賀光季」(いがみつすえ)を殺害。ついに全面戦争です。 当時はまだ朝廷の権威は大きく、御家人の中には朝廷と戦うことを躊躇していた者も多かったのです。それを見た北条政子が「あなた方は頼朝公のご恩を忘れたのですか!」と涙ながらの演説を行い、全軍の気持ちをひとつにまとめたのは有名な話。全国から鎌倉に集まった幕府軍は190,000。2代目執権を継いだ「北条義時」(ほうじょうよしとき:北条政子の弟)に率いられた幕府軍は朝廷軍を次々と撃破し、朝廷軍を壊滅させます。 そして後鳥羽上皇を隠岐島(おきのしま:現在の島根県隠岐郡)に流したのをはじめ、多くの皇族や御家人に過酷な処罰を与えました。これが「承久の乱」(じょうきゅうのらん)です。 日本の歴史上、天皇家以外の者が上皇を流罪にしたのはこれが初めてのことでした。承久の乱のあと、北条義時は都を監視するために「六波羅探題」(ろくはらたんだい)を設置。幕府からの政権奪回を目的とした後鳥羽上皇の目論見は見事に裏目に出て、逆に幕府の基礎固めが進む結果となりました。
朝廷を使って幕府を権威付けしようとする北条氏のやり方に、非常な憎しみを抱いていた人物は、1221年に何の命令を発し、何をしたか。
朝廷を使って幕府を権威付けしようとする北条氏のやり方に、非常な憎しみを抱いていた人物は、1221年に幕府追討の命令を発し、都の守護であった伊賀光季を殺害した。
JCRRAG_019118
歴史
朝廷を使って幕府を権威付けしようとする北条氏のやり方に、非常な憎しみを抱いていたのは後鳥羽上皇です。そして朝廷に味方する武士や僧兵に声をかけ、着々と倒幕の準備を続けます。 集められた兵は2万数千。その中には幕府の有力御家人であった「三浦胤義」(みうらたねよし)ら多くの御家人も加わっていました。 後鳥羽上皇は、1221年(承久3年)、幕府追討の命令を発し、都の「守護」(しゅご:幕府が国を治めるために置いた官僚)であった「伊賀光季」(いがみつすえ)を殺害。ついに全面戦争です。 当時はまだ朝廷の権威は大きく、御家人の中には朝廷と戦うことを躊躇していた者も多かったのです。それを見た北条政子が「あなた方は頼朝公のご恩を忘れたのですか!」と涙ながらの演説を行い、全軍の気持ちをひとつにまとめたのは有名な話。全国から鎌倉に集まった幕府軍は190,000。2代目執権を継いだ「北条義時」(ほうじょうよしとき:北条政子の弟)に率いられた幕府軍は朝廷軍を次々と撃破し、朝廷軍を壊滅させます。 そして後鳥羽上皇を隠岐島(おきのしま:現在の島根県隠岐郡)に流したのをはじめ、多くの皇族や御家人に過酷な処罰を与えました。これが「承久の乱」(じょうきゅうのらん)です。 日本の歴史上、天皇家以外の者が上皇を流罪にしたのはこれが初めてのことでした。承久の乱のあと、北条義時は都を監視するために「六波羅探題」(ろくはらたんだい)を設置。幕府からの政権奪回を目的とした後鳥羽上皇の目論見は見事に裏目に出て、逆に幕府の基礎固めが進む結果となりました。
朝廷を使って幕府を権威付けしようとする北条氏のやり方に、非常な憎しみを抱いていた人物は、どこに流されたか。
朝廷を使って幕府を権威付けしようとする北条氏のやり方に、非常な憎しみを抱いていた人物は、隠岐島に流された。
JCRRAG_019119
歴史
中国後漢末期の宦官で豫州潁川郡の人は張譲です。豫州潁川郡の人。弟は張朔。養子の張奉の妻は何太后の妹。 生涯 若い頃、趙忠と共に給事中の地位にあり、桓帝の時代に少黄門となった。霊帝の時代には趙忠と共に中常侍となり、曹節・王甫(中国語版)・侯覧らと共に権勢を誇り、皇帝の寵愛をいいことに私腹を肥やした。右扶風の人である孟佗(孟達の父)という人物は、宦官に賄賂を送り涼州刺史の地位を手にしたと言われているが、その宦官こそが張譲である。 侯覧が自害、王甫が刑死し、曹節も光和4年(181年)に病没すると、張譲が趙忠と共に宦官勢力の中心となった。張譲は霊帝に我が父とまで呼ばれ敬愛された。この時期に中常侍に任命された12名の宦官(十常侍)の中に張譲の名も挙がっており、彼等は皆列侯に封じられ、一族を各地の地方官に任命させ、栄華をほしいままにしたという。 中平元年(184年)、太平道の教主張角が乱を起こすと(黄巾の乱)、郎中の張鈞は十常侍が乱の原因であるとして、彼等を斬って天下に謝罪することを要請した。しかし十常侍らは霊帝に対し、自らの処罰を懇願すると共に各地の地方官である一族を罷免させ、さらに私財を国庫に提供したため、不問に付されることになった。その後、張譲達は早速張鈞を黄巾党の内通者であると讒言し、死に追いやった。しかし、実は張譲達十常侍こそが黄巾党との内通者であった。まもなく、中常侍の封諝(中国語版)・徐奉(中国語版)が黄巾党の内通者であることが発覚すると、さらに王允は、張譲こそが実は太平道の信者であることを暴露した上で、霊帝に処置を求めた。激怒する霊帝に対し、張譲は既に死去した王甫と侯覧に責任を擦り付け、またも処罰を逃れてしまった。そしてその後、早速王允を讒言し免職に追いやった。さらに宦官を批判した蔡邕も免職させた。 中平2年(185年)、宮殿が火災に遭い、修繕のため各地から税を追徴することになったが、張譲達はそれを着服し私腹を肥やしたため、宮殿は次の年になっても完成せず、負担に苦しむ地方の太守や民達の恨みを買った。 光熹元年(189年)、霊帝が没し劉弁が即位すると、宦官を敵視する外戚の何進と対立した。霊帝の生母董太后と親しかった蹇碩が何氏の排除を図ると、十常侍は蹇碩と通じていたものの、最終的には何氏に寝返って何進に蹇碩を殺害させ、董太后や董重を失脚させた。 しかし何進が、十常侍をも排除しようと敵対姿勢を強めると、劉弁の生母何太后(何進の異母妹)や何苗(何太后の異父兄)を味方につけ、これに抵抗しようとした。また、何進は十常侍や何太后の権力に対抗するため、地方で軍権を握っていた董卓や丁原を呼び寄せ軍事力で屈服させようとした。このため張譲ら十常侍は、何進を偽の詔勅で呼び出すことを考え、暗殺することに成功したが、その後の軍権の掌握に失敗した。このことで呉匡・袁紹・袁術らが宮廷に乱入し、趙忠ら宦官の多くを殺害したため、張譲や段珪ら一部の宦官は、皇帝とその弟の陳留王(劉協、後の献帝)を擁し城外に逃れた。しかし、呉匡・盧植の追撃を受けたため、進退窮まった張譲は入水自殺した。 小説『三国志演義』でも、十常侍のリーダー格の宦官として登場し、ほぼ同様の最期を遂げて河南中部掾の閔貢(中国語版)によってその首級を挙げられている。
中国後漢末期の宦官で豫州潁川郡の人は誰に責任を擦り付けたか。
中国後漢末期の宦官で豫州潁川郡の人は既に死去した王甫と侯覧に責任を擦り付けた。
JCRRAG_019120
歴史
中国後漢末期の宦官で豫州潁川郡の人は張譲です。豫州潁川郡の人。弟は張朔。養子の張奉の妻は何太后の妹。 生涯 若い頃、趙忠と共に給事中の地位にあり、桓帝の時代に少黄門となった。霊帝の時代には趙忠と共に中常侍となり、曹節・王甫(中国語版)・侯覧らと共に権勢を誇り、皇帝の寵愛をいいことに私腹を肥やした。右扶風の人である孟佗(孟達の父)という人物は、宦官に賄賂を送り涼州刺史の地位を手にしたと言われているが、その宦官こそが張譲である。 侯覧が自害、王甫が刑死し、曹節も光和4年(181年)に病没すると、張譲が趙忠と共に宦官勢力の中心となった。張譲は霊帝に我が父とまで呼ばれ敬愛された。この時期に中常侍に任命された12名の宦官(十常侍)の中に張譲の名も挙がっており、彼等は皆列侯に封じられ、一族を各地の地方官に任命させ、栄華をほしいままにしたという。 中平元年(184年)、太平道の教主張角が乱を起こすと(黄巾の乱)、郎中の張鈞は十常侍が乱の原因であるとして、彼等を斬って天下に謝罪することを要請した。しかし十常侍らは霊帝に対し、自らの処罰を懇願すると共に各地の地方官である一族を罷免させ、さらに私財を国庫に提供したため、不問に付されることになった。その後、張譲達は早速張鈞を黄巾党の内通者であると讒言し、死に追いやった。しかし、実は張譲達十常侍こそが黄巾党との内通者であった。まもなく、中常侍の封諝(中国語版)・徐奉(中国語版)が黄巾党の内通者であることが発覚すると、さらに王允は、張譲こそが実は太平道の信者であることを暴露した上で、霊帝に処置を求めた。激怒する霊帝に対し、張譲は既に死去した王甫と侯覧に責任を擦り付け、またも処罰を逃れてしまった。そしてその後、早速王允を讒言し免職に追いやった。さらに宦官を批判した蔡邕も免職させた。 中平2年(185年)、宮殿が火災に遭い、修繕のため各地から税を追徴することになったが、張譲達はそれを着服し私腹を肥やしたため、宮殿は次の年になっても完成せず、負担に苦しむ地方の太守や民達の恨みを買った。 光熹元年(189年)、霊帝が没し劉弁が即位すると、宦官を敵視する外戚の何進と対立した。霊帝の生母董太后と親しかった蹇碩が何氏の排除を図ると、十常侍は蹇碩と通じていたものの、最終的には何氏に寝返って何進に蹇碩を殺害させ、董太后や董重を失脚させた。 しかし何進が、十常侍をも排除しようと敵対姿勢を強めると、劉弁の生母何太后(何進の異母妹)や何苗(何太后の異父兄)を味方につけ、これに抵抗しようとした。また、何進は十常侍や何太后の権力に対抗するため、地方で軍権を握っていた董卓や丁原を呼び寄せ軍事力で屈服させようとした。このため張譲ら十常侍は、何進を偽の詔勅で呼び出すことを考え、暗殺することに成功したが、その後の軍権の掌握に失敗した。このことで呉匡・袁紹・袁術らが宮廷に乱入し、趙忠ら宦官の多くを殺害したため、張譲や段珪ら一部の宦官は、皇帝とその弟の陳留王(劉協、後の献帝)を擁し城外に逃れた。しかし、呉匡・盧植の追撃を受けたため、進退窮まった張譲は入水自殺した。 小説『三国志演義』でも、十常侍のリーダー格の宦官として登場し、ほぼ同様の最期を遂げて河南中部掾の閔貢(中国語版)によってその首級を挙げられている。
中国後漢末期の宦官で豫州潁川郡の人は霊帝に我が父とまで呼ばれ敬愛されたか。
中国後漢末期の宦官で豫州潁川郡の人は霊帝に我が父とまで呼ばれ敬愛された。
JCRRAG_019121
歴史
中国後漢末期の宦官で豫州潁川郡の人は張譲です。豫州潁川郡の人。弟は張朔。養子の張奉の妻は何太后の妹。 生涯 若い頃、趙忠と共に給事中の地位にあり、桓帝の時代に少黄門となった。霊帝の時代には趙忠と共に中常侍となり、曹節・王甫(中国語版)・侯覧らと共に権勢を誇り、皇帝の寵愛をいいことに私腹を肥やした。右扶風の人である孟佗(孟達の父)という人物は、宦官に賄賂を送り涼州刺史の地位を手にしたと言われているが、その宦官こそが張譲である。 侯覧が自害、王甫が刑死し、曹節も光和4年(181年)に病没すると、張譲が趙忠と共に宦官勢力の中心となった。張譲は霊帝に我が父とまで呼ばれ敬愛された。この時期に中常侍に任命された12名の宦官(十常侍)の中に張譲の名も挙がっており、彼等は皆列侯に封じられ、一族を各地の地方官に任命させ、栄華をほしいままにしたという。 中平元年(184年)、太平道の教主張角が乱を起こすと(黄巾の乱)、郎中の張鈞は十常侍が乱の原因であるとして、彼等を斬って天下に謝罪することを要請した。しかし十常侍らは霊帝に対し、自らの処罰を懇願すると共に各地の地方官である一族を罷免させ、さらに私財を国庫に提供したため、不問に付されることになった。その後、張譲達は早速張鈞を黄巾党の内通者であると讒言し、死に追いやった。しかし、実は張譲達十常侍こそが黄巾党との内通者であった。まもなく、中常侍の封諝(中国語版)・徐奉(中国語版)が黄巾党の内通者であることが発覚すると、さらに王允は、張譲こそが実は太平道の信者であることを暴露した上で、霊帝に処置を求めた。激怒する霊帝に対し、張譲は既に死去した王甫と侯覧に責任を擦り付け、またも処罰を逃れてしまった。そしてその後、早速王允を讒言し免職に追いやった。さらに宦官を批判した蔡邕も免職させた。 中平2年(185年)、宮殿が火災に遭い、修繕のため各地から税を追徴することになったが、張譲達はそれを着服し私腹を肥やしたため、宮殿は次の年になっても完成せず、負担に苦しむ地方の太守や民達の恨みを買った。 光熹元年(189年)、霊帝が没し劉弁が即位すると、宦官を敵視する外戚の何進と対立した。霊帝の生母董太后と親しかった蹇碩が何氏の排除を図ると、十常侍は蹇碩と通じていたものの、最終的には何氏に寝返って何進に蹇碩を殺害させ、董太后や董重を失脚させた。 しかし何進が、十常侍をも排除しようと敵対姿勢を強めると、劉弁の生母何太后(何進の異母妹)や何苗(何太后の異父兄)を味方につけ、これに抵抗しようとした。また、何進は十常侍や何太后の権力に対抗するため、地方で軍権を握っていた董卓や丁原を呼び寄せ軍事力で屈服させようとした。このため張譲ら十常侍は、何進を偽の詔勅で呼び出すことを考え、暗殺することに成功したが、その後の軍権の掌握に失敗した。このことで呉匡・袁紹・袁術らが宮廷に乱入し、趙忠ら宦官の多くを殺害したため、張譲や段珪ら一部の宦官は、皇帝とその弟の陳留王(劉協、後の献帝)を擁し城外に逃れた。しかし、呉匡・盧植の追撃を受けたため、進退窮まった張譲は入水自殺した。 小説『三国志演義』でも、十常侍のリーダー格の宦官として登場し、ほぼ同様の最期を遂げて河南中部掾の閔貢(中国語版)によってその首級を挙げられている。
中国後漢末期の宦官で豫州潁川郡の人はどうやって死んだか。
中国後漢末期の宦官で豫州潁川郡の人は入水自殺した。
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歴史
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、孝明天皇である。 皇位継承と国内情勢 幕末の混乱のなかでうまれた孝明天皇。まずは、うまれから皇位継承までの経緯、当時の国内情勢を振り返ります。 第121代天皇として即位 孝明天皇は天保2年(1831)仁孝天皇の第4皇子として誕生し、煕宮(ひろのみや)と命名されました。傳役(養育係)には近衛家第27代当主・近衛忠煕(このえただひろ)が就いています。天保6年(1835)親王宣下により統仁親王となり、天保11年(1840)には立太子の儀が行われ皇太子となりました。弘化3年(1846)に仁孝天皇が崩御すると、第121代の天皇に即位します。 対外情勢の緊迫 18世紀後半以降、日本では異国船の目撃例が増え、寛政4年(1792)には漂流民・大黒屋光太夫らを連れたロシアの遣日使節アダム・ラクスマンが正式な通商を求めてきました。それ以降、諸外国から開国と通商関係を迫られた日本ですが、鎖国中の幕府は拒否を続けます。しかし要求は増すばかりで、文化4年(1807)にはロシア外交使節ニコライ・レザノフによる日本の北方拠点への攻撃・文化露寇(ぶんかろこう)が起こり、その翌年にはイギリス軍艦が長崎で狼藉を働くというフェートン号事件が勃発。これらの事態に幕府は、文政8年(1825)異国船打払令を発令します。 こうして緊張感が増すなか、弘化3年(1846)孝明天皇は対外情勢の報告をするよう幕府に命じ、幕府は異国船の来航状況などを報告するようになりました。この頃の朝廷は「禁中並公家諸法度」により政治に関与できませんでしたが、この出来事により朝廷と幕府の関係は変化していきます。 開国を迫られた日本 諸外国の圧力により条約を結んだ日本。この問題をめぐる天皇と幕府の動向はどのようなものだったのでしょうか? 雄藩と協調しようとした幕府 嘉永6年(1853)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航し、大統領の国書を持って日本に開国を要求します。老中首座・阿部正弘は諸大名に開国についての意見を求め、国書の受理を朝廷に通達。これまで政治を独占してきた幕府にとって、このように雄藩と協調して意見を聞くというのは前代未聞のことでした。 当初、諸大名のあいだでは戦争も辞さないという強硬論もありましたが、開国を望む幕府による諮問を重ねた結果、幕府の開国策が主流となります。またこの頃の幕府内では将軍継嗣問題も勃発しており、一橋慶喜を推す一橋派と徳川慶福(のちの徳川家茂)を擁立する南紀派が対立しました。
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、いつ誕生したか。
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、天保2年(1831)に誕生した。
JCRRAG_019123
歴史
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、孝明天皇である。 皇位継承と国内情勢 幕末の混乱のなかでうまれた孝明天皇。まずは、うまれから皇位継承までの経緯、当時の国内情勢を振り返ります。 第121代天皇として即位 孝明天皇は天保2年(1831)仁孝天皇の第4皇子として誕生し、煕宮(ひろのみや)と命名されました。傳役(養育係)には近衛家第27代当主・近衛忠煕(このえただひろ)が就いています。天保6年(1835)親王宣下により統仁親王となり、天保11年(1840)には立太子の儀が行われ皇太子となりました。弘化3年(1846)に仁孝天皇が崩御すると、第121代の天皇に即位します。 対外情勢の緊迫 18世紀後半以降、日本では異国船の目撃例が増え、寛政4年(1792)には漂流民・大黒屋光太夫らを連れたロシアの遣日使節アダム・ラクスマンが正式な通商を求めてきました。それ以降、諸外国から開国と通商関係を迫られた日本ですが、鎖国中の幕府は拒否を続けます。しかし要求は増すばかりで、文化4年(1807)にはロシア外交使節ニコライ・レザノフによる日本の北方拠点への攻撃・文化露寇(ぶんかろこう)が起こり、その翌年にはイギリス軍艦が長崎で狼藉を働くというフェートン号事件が勃発。これらの事態に幕府は、文政8年(1825)異国船打払令を発令します。 こうして緊張感が増すなか、弘化3年(1846)孝明天皇は対外情勢の報告をするよう幕府に命じ、幕府は異国船の来航状況などを報告するようになりました。この頃の朝廷は「禁中並公家諸法度」により政治に関与できませんでしたが、この出来事により朝廷と幕府の関係は変化していきます。 開国を迫られた日本 諸外国の圧力により条約を結んだ日本。この問題をめぐる天皇と幕府の動向はどのようなものだったのでしょうか? 雄藩と協調しようとした幕府 嘉永6年(1853)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航し、大統領の国書を持って日本に開国を要求します。老中首座・阿部正弘は諸大名に開国についての意見を求め、国書の受理を朝廷に通達。これまで政治を独占してきた幕府にとって、このように雄藩と協調して意見を聞くというのは前代未聞のことでした。 当初、諸大名のあいだでは戦争も辞さないという強硬論もありましたが、開国を望む幕府による諮問を重ねた結果、幕府の開国策が主流となります。またこの頃の幕府内では将軍継嗣問題も勃発しており、一橋慶喜を推す一橋派と徳川慶福(のちの徳川家茂)を擁立する南紀派が対立しました。
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、誰の第4皇子として誕生したか。
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、仁孝天皇の第4皇子として誕生した。
JCRRAG_019124
歴史
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、孝明天皇である。 皇位継承と国内情勢 幕末の混乱のなかでうまれた孝明天皇。まずは、うまれから皇位継承までの経緯、当時の国内情勢を振り返ります。 第121代天皇として即位 孝明天皇は天保2年(1831)仁孝天皇の第4皇子として誕生し、煕宮(ひろのみや)と命名されました。傳役(養育係)には近衛家第27代当主・近衛忠煕(このえただひろ)が就いています。天保6年(1835)親王宣下により統仁親王となり、天保11年(1840)には立太子の儀が行われ皇太子となりました。弘化3年(1846)に仁孝天皇が崩御すると、第121代の天皇に即位します。 対外情勢の緊迫 18世紀後半以降、日本では異国船の目撃例が増え、寛政4年(1792)には漂流民・大黒屋光太夫らを連れたロシアの遣日使節アダム・ラクスマンが正式な通商を求めてきました。それ以降、諸外国から開国と通商関係を迫られた日本ですが、鎖国中の幕府は拒否を続けます。しかし要求は増すばかりで、文化4年(1807)にはロシア外交使節ニコライ・レザノフによる日本の北方拠点への攻撃・文化露寇(ぶんかろこう)が起こり、その翌年にはイギリス軍艦が長崎で狼藉を働くというフェートン号事件が勃発。これらの事態に幕府は、文政8年(1825)異国船打払令を発令します。 こうして緊張感が増すなか、弘化3年(1846)孝明天皇は対外情勢の報告をするよう幕府に命じ、幕府は異国船の来航状況などを報告するようになりました。この頃の朝廷は「禁中並公家諸法度」により政治に関与できませんでしたが、この出来事により朝廷と幕府の関係は変化していきます。 開国を迫られた日本 諸外国の圧力により条約を結んだ日本。この問題をめぐる天皇と幕府の動向はどのようなものだったのでしょうか? 雄藩と協調しようとした幕府 嘉永6年(1853)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航し、大統領の国書を持って日本に開国を要求します。老中首座・阿部正弘は諸大名に開国についての意見を求め、国書の受理を朝廷に通達。これまで政治を独占してきた幕府にとって、このように雄藩と協調して意見を聞くというのは前代未聞のことでした。 当初、諸大名のあいだでは戦争も辞さないという強硬論もありましたが、開国を望む幕府による諮問を重ねた結果、幕府の開国策が主流となります。またこの頃の幕府内では将軍継嗣問題も勃発しており、一橋慶喜を推す一橋派と徳川慶福(のちの徳川家茂)を擁立する南紀派が対立しました。
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、何と命名されたか。
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、煕宮(ひろのみや)と命名された。
JCRRAG_019125
歴史
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、孝明天皇である。 皇位継承と国内情勢 幕末の混乱のなかでうまれた孝明天皇。まずは、うまれから皇位継承までの経緯、当時の国内情勢を振り返ります。 第121代天皇として即位 孝明天皇は天保2年(1831)仁孝天皇の第4皇子として誕生し、煕宮(ひろのみや)と命名されました。傳役(養育係)には近衛家第27代当主・近衛忠煕(このえただひろ)が就いています。天保6年(1835)親王宣下により統仁親王となり、天保11年(1840)には立太子の儀が行われ皇太子となりました。弘化3年(1846)に仁孝天皇が崩御すると、第121代の天皇に即位します。 対外情勢の緊迫 18世紀後半以降、日本では異国船の目撃例が増え、寛政4年(1792)には漂流民・大黒屋光太夫らを連れたロシアの遣日使節アダム・ラクスマンが正式な通商を求めてきました。それ以降、諸外国から開国と通商関係を迫られた日本ですが、鎖国中の幕府は拒否を続けます。しかし要求は増すばかりで、文化4年(1807)にはロシア外交使節ニコライ・レザノフによる日本の北方拠点への攻撃・文化露寇(ぶんかろこう)が起こり、その翌年にはイギリス軍艦が長崎で狼藉を働くというフェートン号事件が勃発。これらの事態に幕府は、文政8年(1825)異国船打払令を発令します。 こうして緊張感が増すなか、弘化3年(1846)孝明天皇は対外情勢の報告をするよう幕府に命じ、幕府は異国船の来航状況などを報告するようになりました。この頃の朝廷は「禁中並公家諸法度」により政治に関与できませんでしたが、この出来事により朝廷と幕府の関係は変化していきます。 開国を迫られた日本 諸外国の圧力により条約を結んだ日本。この問題をめぐる天皇と幕府の動向はどのようなものだったのでしょうか? 雄藩と協調しようとした幕府 嘉永6年(1853)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航し、大統領の国書を持って日本に開国を要求します。老中首座・阿部正弘は諸大名に開国についての意見を求め、国書の受理を朝廷に通達。これまで政治を独占してきた幕府にとって、このように雄藩と協調して意見を聞くというのは前代未聞のことでした。 当初、諸大名のあいだでは戦争も辞さないという強硬論もありましたが、開国を望む幕府による諮問を重ねた結果、幕府の開国策が主流となります。またこの頃の幕府内では将軍継嗣問題も勃発しており、一橋慶喜を推す一橋派と徳川慶福(のちの徳川家茂)を擁立する南紀派が対立しました。
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、対外情勢の報告をするよう幕府に命じ、幕府は何を報告するようになったか。
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、対外情勢の報告をするよう幕府に命じ、幕府は異国船の来航状況などを報告するようになった。
JCRRAG_019126
歴史
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、孝明天皇である。 日米和親条約の締結 嘉永7年(1854)ペリーの再来航により幕府は日米和親条約を締結し、下田と箱館の開港、薪水や食料の給与、領事の滞在などを認可します。そしてイギリスやロシアとも同じ条約を締結し、鎖国に終止符を打ちました。孝明天皇がこの事態をどう考えていたのかはわかっていませんが、この時点では一定の理解は示していたと考えられています。しかしその後、急死した阿部に代わり老中・堀田正睦が日米修好通商条約の調印勅許を得ようとした際には、勅許を出すことを拒否しました。 勅許なしの日米修好通商条約 安政5年(1858)4月、井伊直弼が大老に就任し、孝明天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約が調印されます。井伊自身は勅許なしの条約調印に反対でしたが、幕閣会議では即刻調印を推す声が多く、井伊は「侵略戦争という最悪の事態を避けられるなら即時調印も仕方ない」との考えを口にしました。これが調印承諾と判断され、日米修好通商条約は勅許なしに調印されたのです。 井伊の行動に反発した徳川斉昭らは無断登城して井伊を詰問しましたが、安政の大獄により隠居謹慎処分になります。また、孝明天皇は勅許なき調印に怒り攘夷の意思を示しました。 攘夷を掲げた孝明天皇 開国をめぐって幕府と対立する孝明天皇でしたが、やがて公武合体の動きが現れ、孝明天皇は最期を迎えます。 「戊午の密勅」と幕府との対立 日米修好通商条約の調印後、幕府はフランス、イギリスなどと同様の条約を結びます。これを不服とした孝明天皇は、幕府を通さずに幕政改革や公武合体を指示する「戊午の密勅」を水戸藩に直接下賜します。この密勅はいざというときの出兵依頼も含め各藩に回送されました。幕府はその内容を秘匿するよう水戸藩主・徳川慶篤に命令し、密勅は朝廷の政治関与であるとして関係者を厳しく取り締まります。幕府や幕府寄りの関白・九条尚忠の圧力により密勅に関与した公卿・皇族が処分されるなか、老中・間部詮勝が調印に関して説明するために参内。しかし、孝明天皇は「開国は承知できない」として姿を現しませんでした。 公武合体と和宮降嫁 安政5年(1858)10月、井伊らが推す慶福が徳川家茂として第14代将軍に就任しますが、その2年後に桜田門外の変で井伊が暗殺されます。政局が不安定となる中、幕府は権威修復と公武合体実現のため、孝明天皇の異母妹である和宮の将軍家降嫁を求めます。孝明天皇は何度も拒絶しましたが、最終的には鎖国と攘夷実行の条件つきで承諾しました。 一方、直弼暗殺に恐れをなした幕府は、安政の大獄で謹慎していた一橋慶喜の処分を解除。文久2年(1862)7月、慶喜は将軍後見職に任命され、幕政改革を進めることになりました。攘夷実行を避けたい慶喜でしたが、朝廷との交渉は失敗。逆に攘夷の実行を命じられてしまいます。江戸に戻った慶喜は、攘夷拒否を主張する幕閣を押し切り、攘夷策として横浜港の鎖港を確定しました。こうした状況により、長州藩を中心とした尊王攘夷派はますます勢いを増していきます。 しかし文久3年(1863)8月18日、攘夷を望みつつも過激な戦争を恐れた孝明天皇は、薩摩藩などとともに長州藩や攘夷急進派の公家を排除しました(八月十八日の政変)。 最後は批判され、毒殺説も…… その後、孝明天皇の権威は幕府や諸藩、公家、志士らの権力闘争に巻き込まれて低下していきます。慶応元年(1865)諸外国は攘夷運動の要因が孝明天皇にあるとして条約の勅許を要求し、事態の深刻さを悟った孝明天皇は条約の勅許を出しました。やがて公武合体の維持を望む天皇に対する批判が高まり、天皇の方針に反対して追放された公家の復帰を求める「廷臣二十二卿列参事件」などが発生。 そんな中、孝明天皇は在位21年で崩御しました。死因は天然痘とされていますが、毒殺などの他殺説も存在しているようです。 孝明天皇の考えとは? 孝明天皇の意思は、幕末の混乱の一端となりました。孝明天皇の考えとはどのようなものだったのでしょうか? 攘夷派だが、倒幕派ではなかった 文久3年(1863)攘夷について話し合うため将軍・徳川家茂が上洛しますが、将軍名代の慶喜がそれに先んじて朝廷と交渉し、攘夷実行を含む国政全般を幕府に任せるか、政権を朝廷に返上するかという二者択一を迫ります。朝廷は幕府に政治を委任する一方、諸藩に直接命令することもあるとし、さらには攘夷実行を命じました。 尊王攘夷と倒幕は結びついているように感じられますが、このように孝明天皇は倒幕派ではありませんでした。また、攘夷派であっても過激な戦争は望んでおらず、あくまで幕府への攘夷委任(交渉による通商条約の破棄、鎖港)を支持していたようです。 京都守護職・松平容保を信任していた 孝明天皇は京都守護職である会津藩主・松平容保を厚く信任していたといわれています。一方、尊王攘夷派の公家が長州勢力と手を組んでさまざまな工作をしたことから、長州藩のことは最後まで嫌悪していたようです。これについては『孝明天皇記』で記録された書簡にも明記されています。
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、勅許なき調印に怒り、何を示したか。
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、勅許なき調印に怒り、攘夷の意思を示した。
JCRRAG_019127
歴史
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、孝明天皇である。 日米和親条約の締結 嘉永7年(1854)ペリーの再来航により幕府は日米和親条約を締結し、下田と箱館の開港、薪水や食料の給与、領事の滞在などを認可します。そしてイギリスやロシアとも同じ条約を締結し、鎖国に終止符を打ちました。孝明天皇がこの事態をどう考えていたのかはわかっていませんが、この時点では一定の理解は示していたと考えられています。しかしその後、急死した阿部に代わり老中・堀田正睦が日米修好通商条約の調印勅許を得ようとした際には、勅許を出すことを拒否しました。 勅許なしの日米修好通商条約 安政5年(1858)4月、井伊直弼が大老に就任し、孝明天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約が調印されます。井伊自身は勅許なしの条約調印に反対でしたが、幕閣会議では即刻調印を推す声が多く、井伊は「侵略戦争という最悪の事態を避けられるなら即時調印も仕方ない」との考えを口にしました。これが調印承諾と判断され、日米修好通商条約は勅許なしに調印されたのです。 井伊の行動に反発した徳川斉昭らは無断登城して井伊を詰問しましたが、安政の大獄により隠居謹慎処分になります。また、孝明天皇は勅許なき調印に怒り攘夷の意思を示しました。 攘夷を掲げた孝明天皇 開国をめぐって幕府と対立する孝明天皇でしたが、やがて公武合体の動きが現れ、孝明天皇は最期を迎えます。 「戊午の密勅」と幕府との対立 日米修好通商条約の調印後、幕府はフランス、イギリスなどと同様の条約を結びます。これを不服とした孝明天皇は、幕府を通さずに幕政改革や公武合体を指示する「戊午の密勅」を水戸藩に直接下賜します。この密勅はいざというときの出兵依頼も含め各藩に回送されました。幕府はその内容を秘匿するよう水戸藩主・徳川慶篤に命令し、密勅は朝廷の政治関与であるとして関係者を厳しく取り締まります。幕府や幕府寄りの関白・九条尚忠の圧力により密勅に関与した公卿・皇族が処分されるなか、老中・間部詮勝が調印に関して説明するために参内。しかし、孝明天皇は「開国は承知できない」として姿を現しませんでした。 公武合体と和宮降嫁 安政5年(1858)10月、井伊らが推す慶福が徳川家茂として第14代将軍に就任しますが、その2年後に桜田門外の変で井伊が暗殺されます。政局が不安定となる中、幕府は権威修復と公武合体実現のため、孝明天皇の異母妹である和宮の将軍家降嫁を求めます。孝明天皇は何度も拒絶しましたが、最終的には鎖国と攘夷実行の条件つきで承諾しました。 一方、直弼暗殺に恐れをなした幕府は、安政の大獄で謹慎していた一橋慶喜の処分を解除。文久2年(1862)7月、慶喜は将軍後見職に任命され、幕政改革を進めることになりました。攘夷実行を避けたい慶喜でしたが、朝廷との交渉は失敗。逆に攘夷の実行を命じられてしまいます。江戸に戻った慶喜は、攘夷拒否を主張する幕閣を押し切り、攘夷策として横浜港の鎖港を確定しました。こうした状況により、長州藩を中心とした尊王攘夷派はますます勢いを増していきます。 しかし文久3年(1863)8月18日、攘夷を望みつつも過激な戦争を恐れた孝明天皇は、薩摩藩などとともに長州藩や攘夷急進派の公家を排除しました(八月十八日の政変)。 最後は批判され、毒殺説も…… その後、孝明天皇の権威は幕府や諸藩、公家、志士らの権力闘争に巻き込まれて低下していきます。慶応元年(1865)諸外国は攘夷運動の要因が孝明天皇にあるとして条約の勅許を要求し、事態の深刻さを悟った孝明天皇は条約の勅許を出しました。やがて公武合体の維持を望む天皇に対する批判が高まり、天皇の方針に反対して追放された公家の復帰を求める「廷臣二十二卿列参事件」などが発生。 そんな中、孝明天皇は在位21年で崩御しました。死因は天然痘とされていますが、毒殺などの他殺説も存在しているようです。 孝明天皇の考えとは? 孝明天皇の意思は、幕末の混乱の一端となりました。孝明天皇の考えとはどのようなものだったのでしょうか? 攘夷派だが、倒幕派ではなかった 文久3年(1863)攘夷について話し合うため将軍・徳川家茂が上洛しますが、将軍名代の慶喜がそれに先んじて朝廷と交渉し、攘夷実行を含む国政全般を幕府に任せるか、政権を朝廷に返上するかという二者択一を迫ります。朝廷は幕府に政治を委任する一方、諸藩に直接命令することもあるとし、さらには攘夷実行を命じました。 尊王攘夷と倒幕は結びついているように感じられますが、このように孝明天皇は倒幕派ではありませんでした。また、攘夷派であっても過激な戦争は望んでおらず、あくまで幕府への攘夷委任(交渉による通商条約の破棄、鎖港)を支持していたようです。 京都守護職・松平容保を信任していた 孝明天皇は京都守護職である会津藩主・松平容保を厚く信任していたといわれています。一方、尊王攘夷派の公家が長州勢力と手を組んでさまざまな工作をしたことから、長州藩のことは最後まで嫌悪していたようです。これについては『孝明天皇記』で記録された書簡にも明記されています。
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、何を水戸藩に直接下賜したか。
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、幕府を通さずに幕政改革や公武合体を指示する「戊午の密勅」を水戸藩に直接下賜した。
JCRRAG_019128
歴史
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、孝明天皇である。 日米和親条約の締結 嘉永7年(1854)ペリーの再来航により幕府は日米和親条約を締結し、下田と箱館の開港、薪水や食料の給与、領事の滞在などを認可します。そしてイギリスやロシアとも同じ条約を締結し、鎖国に終止符を打ちました。孝明天皇がこの事態をどう考えていたのかはわかっていませんが、この時点では一定の理解は示していたと考えられています。しかしその後、急死した阿部に代わり老中・堀田正睦が日米修好通商条約の調印勅許を得ようとした際には、勅許を出すことを拒否しました。 勅許なしの日米修好通商条約 安政5年(1858)4月、井伊直弼が大老に就任し、孝明天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約が調印されます。井伊自身は勅許なしの条約調印に反対でしたが、幕閣会議では即刻調印を推す声が多く、井伊は「侵略戦争という最悪の事態を避けられるなら即時調印も仕方ない」との考えを口にしました。これが調印承諾と判断され、日米修好通商条約は勅許なしに調印されたのです。 井伊の行動に反発した徳川斉昭らは無断登城して井伊を詰問しましたが、安政の大獄により隠居謹慎処分になります。また、孝明天皇は勅許なき調印に怒り攘夷の意思を示しました。 攘夷を掲げた孝明天皇 開国をめぐって幕府と対立する孝明天皇でしたが、やがて公武合体の動きが現れ、孝明天皇は最期を迎えます。 「戊午の密勅」と幕府との対立 日米修好通商条約の調印後、幕府はフランス、イギリスなどと同様の条約を結びます。これを不服とした孝明天皇は、幕府を通さずに幕政改革や公武合体を指示する「戊午の密勅」を水戸藩に直接下賜します。この密勅はいざというときの出兵依頼も含め各藩に回送されました。幕府はその内容を秘匿するよう水戸藩主・徳川慶篤に命令し、密勅は朝廷の政治関与であるとして関係者を厳しく取り締まります。幕府や幕府寄りの関白・九条尚忠の圧力により密勅に関与した公卿・皇族が処分されるなか、老中・間部詮勝が調印に関して説明するために参内。しかし、孝明天皇は「開国は承知できない」として姿を現しませんでした。 公武合体と和宮降嫁 安政5年(1858)10月、井伊らが推す慶福が徳川家茂として第14代将軍に就任しますが、その2年後に桜田門外の変で井伊が暗殺されます。政局が不安定となる中、幕府は権威修復と公武合体実現のため、孝明天皇の異母妹である和宮の将軍家降嫁を求めます。孝明天皇は何度も拒絶しましたが、最終的には鎖国と攘夷実行の条件つきで承諾しました。 一方、直弼暗殺に恐れをなした幕府は、安政の大獄で謹慎していた一橋慶喜の処分を解除。文久2年(1862)7月、慶喜は将軍後見職に任命され、幕政改革を進めることになりました。攘夷実行を避けたい慶喜でしたが、朝廷との交渉は失敗。逆に攘夷の実行を命じられてしまいます。江戸に戻った慶喜は、攘夷拒否を主張する幕閣を押し切り、攘夷策として横浜港の鎖港を確定しました。こうした状況により、長州藩を中心とした尊王攘夷派はますます勢いを増していきます。 しかし文久3年(1863)8月18日、攘夷を望みつつも過激な戦争を恐れた孝明天皇は、薩摩藩などとともに長州藩や攘夷急進派の公家を排除しました(八月十八日の政変)。 最後は批判され、毒殺説も…… その後、孝明天皇の権威は幕府や諸藩、公家、志士らの権力闘争に巻き込まれて低下していきます。慶応元年(1865)諸外国は攘夷運動の要因が孝明天皇にあるとして条約の勅許を要求し、事態の深刻さを悟った孝明天皇は条約の勅許を出しました。やがて公武合体の維持を望む天皇に対する批判が高まり、天皇の方針に反対して追放された公家の復帰を求める「廷臣二十二卿列参事件」などが発生。 そんな中、孝明天皇は在位21年で崩御しました。死因は天然痘とされていますが、毒殺などの他殺説も存在しているようです。 孝明天皇の考えとは? 孝明天皇の意思は、幕末の混乱の一端となりました。孝明天皇の考えとはどのようなものだったのでしょうか? 攘夷派だが、倒幕派ではなかった 文久3年(1863)攘夷について話し合うため将軍・徳川家茂が上洛しますが、将軍名代の慶喜がそれに先んじて朝廷と交渉し、攘夷実行を含む国政全般を幕府に任せるか、政権を朝廷に返上するかという二者択一を迫ります。朝廷は幕府に政治を委任する一方、諸藩に直接命令することもあるとし、さらには攘夷実行を命じました。 尊王攘夷と倒幕は結びついているように感じられますが、このように孝明天皇は倒幕派ではありませんでした。また、攘夷派であっても過激な戦争は望んでおらず、あくまで幕府への攘夷委任(交渉による通商条約の破棄、鎖港)を支持していたようです。 京都守護職・松平容保を信任していた 孝明天皇は京都守護職である会津藩主・松平容保を厚く信任していたといわれています。一方、尊王攘夷派の公家が長州勢力と手を組んでさまざまな工作をしたことから、長州藩のことは最後まで嫌悪していたようです。これについては『孝明天皇記』で記録された書簡にも明記されています。
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、どのような幕閣を押し切ったか。
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、攘夷拒否を主張する幕閣を押し切った。
JCRRAG_019129
歴史
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、孝明天皇である。 日米和親条約の締結 嘉永7年(1854)ペリーの再来航により幕府は日米和親条約を締結し、下田と箱館の開港、薪水や食料の給与、領事の滞在などを認可します。そしてイギリスやロシアとも同じ条約を締結し、鎖国に終止符を打ちました。孝明天皇がこの事態をどう考えていたのかはわかっていませんが、この時点では一定の理解は示していたと考えられています。しかしその後、急死した阿部に代わり老中・堀田正睦が日米修好通商条約の調印勅許を得ようとした際には、勅許を出すことを拒否しました。 勅許なしの日米修好通商条約 安政5年(1858)4月、井伊直弼が大老に就任し、孝明天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約が調印されます。井伊自身は勅許なしの条約調印に反対でしたが、幕閣会議では即刻調印を推す声が多く、井伊は「侵略戦争という最悪の事態を避けられるなら即時調印も仕方ない」との考えを口にしました。これが調印承諾と判断され、日米修好通商条約は勅許なしに調印されたのです。 井伊の行動に反発した徳川斉昭らは無断登城して井伊を詰問しましたが、安政の大獄により隠居謹慎処分になります。また、孝明天皇は勅許なき調印に怒り攘夷の意思を示しました。 攘夷を掲げた孝明天皇 開国をめぐって幕府と対立する孝明天皇でしたが、やがて公武合体の動きが現れ、孝明天皇は最期を迎えます。 「戊午の密勅」と幕府との対立 日米修好通商条約の調印後、幕府はフランス、イギリスなどと同様の条約を結びます。これを不服とした孝明天皇は、幕府を通さずに幕政改革や公武合体を指示する「戊午の密勅」を水戸藩に直接下賜します。この密勅はいざというときの出兵依頼も含め各藩に回送されました。幕府はその内容を秘匿するよう水戸藩主・徳川慶篤に命令し、密勅は朝廷の政治関与であるとして関係者を厳しく取り締まります。幕府や幕府寄りの関白・九条尚忠の圧力により密勅に関与した公卿・皇族が処分されるなか、老中・間部詮勝が調印に関して説明するために参内。しかし、孝明天皇は「開国は承知できない」として姿を現しませんでした。 公武合体と和宮降嫁 安政5年(1858)10月、井伊らが推す慶福が徳川家茂として第14代将軍に就任しますが、その2年後に桜田門外の変で井伊が暗殺されます。政局が不安定となる中、幕府は権威修復と公武合体実現のため、孝明天皇の異母妹である和宮の将軍家降嫁を求めます。孝明天皇は何度も拒絶しましたが、最終的には鎖国と攘夷実行の条件つきで承諾しました。 一方、直弼暗殺に恐れをなした幕府は、安政の大獄で謹慎していた一橋慶喜の処分を解除。文久2年(1862)7月、慶喜は将軍後見職に任命され、幕政改革を進めることになりました。攘夷実行を避けたい慶喜でしたが、朝廷との交渉は失敗。逆に攘夷の実行を命じられてしまいます。江戸に戻った慶喜は、攘夷拒否を主張する幕閣を押し切り、攘夷策として横浜港の鎖港を確定しました。こうした状況により、長州藩を中心とした尊王攘夷派はますます勢いを増していきます。 しかし文久3年(1863)8月18日、攘夷を望みつつも過激な戦争を恐れた孝明天皇は、薩摩藩などとともに長州藩や攘夷急進派の公家を排除しました(八月十八日の政変)。 最後は批判され、毒殺説も…… その後、孝明天皇の権威は幕府や諸藩、公家、志士らの権力闘争に巻き込まれて低下していきます。慶応元年(1865)諸外国は攘夷運動の要因が孝明天皇にあるとして条約の勅許を要求し、事態の深刻さを悟った孝明天皇は条約の勅許を出しました。やがて公武合体の維持を望む天皇に対する批判が高まり、天皇の方針に反対して追放された公家の復帰を求める「廷臣二十二卿列参事件」などが発生。 そんな中、孝明天皇は在位21年で崩御しました。死因は天然痘とされていますが、毒殺などの他殺説も存在しているようです。 孝明天皇の考えとは? 孝明天皇の意思は、幕末の混乱の一端となりました。孝明天皇の考えとはどのようなものだったのでしょうか? 攘夷派だが、倒幕派ではなかった 文久3年(1863)攘夷について話し合うため将軍・徳川家茂が上洛しますが、将軍名代の慶喜がそれに先んじて朝廷と交渉し、攘夷実行を含む国政全般を幕府に任せるか、政権を朝廷に返上するかという二者択一を迫ります。朝廷は幕府に政治を委任する一方、諸藩に直接命令することもあるとし、さらには攘夷実行を命じました。 尊王攘夷と倒幕は結びついているように感じられますが、このように孝明天皇は倒幕派ではありませんでした。また、攘夷派であっても過激な戦争は望んでおらず、あくまで幕府への攘夷委任(交渉による通商条約の破棄、鎖港)を支持していたようです。 京都守護職・松平容保を信任していた 孝明天皇は京都守護職である会津藩主・松平容保を厚く信任していたといわれています。一方、尊王攘夷派の公家が長州勢力と手を組んでさまざまな工作をしたことから、長州藩のことは最後まで嫌悪していたようです。これについては『孝明天皇記』で記録された書簡にも明記されています。
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、攘夷策として何を確定したか。
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、攘夷策として横浜港の鎖港を確定した。
JCRRAG_019130
歴史
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、孝明天皇である。 日米和親条約の締結 嘉永7年(1854)ペリーの再来航により幕府は日米和親条約を締結し、下田と箱館の開港、薪水や食料の給与、領事の滞在などを認可します。そしてイギリスやロシアとも同じ条約を締結し、鎖国に終止符を打ちました。孝明天皇がこの事態をどう考えていたのかはわかっていませんが、この時点では一定の理解は示していたと考えられています。しかしその後、急死した阿部に代わり老中・堀田正睦が日米修好通商条約の調印勅許を得ようとした際には、勅許を出すことを拒否しました。 勅許なしの日米修好通商条約 安政5年(1858)4月、井伊直弼が大老に就任し、孝明天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約が調印されます。井伊自身は勅許なしの条約調印に反対でしたが、幕閣会議では即刻調印を推す声が多く、井伊は「侵略戦争という最悪の事態を避けられるなら即時調印も仕方ない」との考えを口にしました。これが調印承諾と判断され、日米修好通商条約は勅許なしに調印されたのです。 井伊の行動に反発した徳川斉昭らは無断登城して井伊を詰問しましたが、安政の大獄により隠居謹慎処分になります。また、孝明天皇は勅許なき調印に怒り攘夷の意思を示しました。 攘夷を掲げた孝明天皇 開国をめぐって幕府と対立する孝明天皇でしたが、やがて公武合体の動きが現れ、孝明天皇は最期を迎えます。 「戊午の密勅」と幕府との対立 日米修好通商条約の調印後、幕府はフランス、イギリスなどと同様の条約を結びます。これを不服とした孝明天皇は、幕府を通さずに幕政改革や公武合体を指示する「戊午の密勅」を水戸藩に直接下賜します。この密勅はいざというときの出兵依頼も含め各藩に回送されました。幕府はその内容を秘匿するよう水戸藩主・徳川慶篤に命令し、密勅は朝廷の政治関与であるとして関係者を厳しく取り締まります。幕府や幕府寄りの関白・九条尚忠の圧力により密勅に関与した公卿・皇族が処分されるなか、老中・間部詮勝が調印に関して説明するために参内。しかし、孝明天皇は「開国は承知できない」として姿を現しませんでした。 公武合体と和宮降嫁 安政5年(1858)10月、井伊らが推す慶福が徳川家茂として第14代将軍に就任しますが、その2年後に桜田門外の変で井伊が暗殺されます。政局が不安定となる中、幕府は権威修復と公武合体実現のため、孝明天皇の異母妹である和宮の将軍家降嫁を求めます。孝明天皇は何度も拒絶しましたが、最終的には鎖国と攘夷実行の条件つきで承諾しました。 一方、直弼暗殺に恐れをなした幕府は、安政の大獄で謹慎していた一橋慶喜の処分を解除。文久2年(1862)7月、慶喜は将軍後見職に任命され、幕政改革を進めることになりました。攘夷実行を避けたい慶喜でしたが、朝廷との交渉は失敗。逆に攘夷の実行を命じられてしまいます。江戸に戻った慶喜は、攘夷拒否を主張する幕閣を押し切り、攘夷策として横浜港の鎖港を確定しました。こうした状況により、長州藩を中心とした尊王攘夷派はますます勢いを増していきます。 しかし文久3年(1863)8月18日、攘夷を望みつつも過激な戦争を恐れた孝明天皇は、薩摩藩などとともに長州藩や攘夷急進派の公家を排除しました(八月十八日の政変)。 最後は批判され、毒殺説も…… その後、孝明天皇の権威は幕府や諸藩、公家、志士らの権力闘争に巻き込まれて低下していきます。慶応元年(1865)諸外国は攘夷運動の要因が孝明天皇にあるとして条約の勅許を要求し、事態の深刻さを悟った孝明天皇は条約の勅許を出しました。やがて公武合体の維持を望む天皇に対する批判が高まり、天皇の方針に反対して追放された公家の復帰を求める「廷臣二十二卿列参事件」などが発生。 そんな中、孝明天皇は在位21年で崩御しました。死因は天然痘とされていますが、毒殺などの他殺説も存在しているようです。 孝明天皇の考えとは? 孝明天皇の意思は、幕末の混乱の一端となりました。孝明天皇の考えとはどのようなものだったのでしょうか? 攘夷派だが、倒幕派ではなかった 文久3年(1863)攘夷について話し合うため将軍・徳川家茂が上洛しますが、将軍名代の慶喜がそれに先んじて朝廷と交渉し、攘夷実行を含む国政全般を幕府に任せるか、政権を朝廷に返上するかという二者択一を迫ります。朝廷は幕府に政治を委任する一方、諸藩に直接命令することもあるとし、さらには攘夷実行を命じました。 尊王攘夷と倒幕は結びついているように感じられますが、このように孝明天皇は倒幕派ではありませんでした。また、攘夷派であっても過激な戦争は望んでおらず、あくまで幕府への攘夷委任(交渉による通商条約の破棄、鎖港)を支持していたようです。 京都守護職・松平容保を信任していた 孝明天皇は京都守護職である会津藩主・松平容保を厚く信任していたといわれています。一方、尊王攘夷派の公家が長州勢力と手を組んでさまざまな工作をしたことから、長州藩のことは最後まで嫌悪していたようです。これについては『孝明天皇記』で記録された書簡にも明記されています。
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、誰を排除したか。
日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物は、薩摩藩などとともに長州藩や攘夷急進派の公家を排除した。
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歴史
常陸水戸藩の第2代藩主は、徳川光圀である。 徳川光圀の生涯とは? 『水戸黄門』として取り上げられた徳川光圀ですが、一体どのような経歴の持ち主だったのでしょうか。まずはその人生を振り返ってみましょう。 徳川家康の孫だった 光圀は、寛永5年(1628)に水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男として水戸城下柵町で生まれました。母が正式な側室ではなかったため家臣の屋敷で産声を上げましたが、血筋としては徳川家康の孫に当たります。 寛永9年(1632)水戸城に入城し、世子に決定してからは江戸の小石川邸で世子教育を受けます。承応3年(1654)に近衛信尋(このえのぶひろ)の娘・尋子(ちかこ、泰姫・たいひめ)と結婚したのち、紀伝体の歴史書『大日本史』の編纂(へんさん)に着手しました。 藩主となった光圀 寛文元年(1661)第2代水戸藩主に就任した光圀は藩政に乗り出します。井戸水の濁りを解消するため水道を整備し、村単位の開基帳を作成して寺社の廃止や移転を行いました。寛文5年(1665)には明の儒学者・朱舜水(しゅしゅんすい)を招いて水戸藩の学風の基礎を築いています。また『義公行実』によれば、全国初の殉死禁止令も出しました。 延宝元年(1673)江戸帰府の際に鎌倉に立ち寄り、名所を探訪して『甲寅紀行(こういんきこう)』、『鎌倉日記』を記します。また蝦夷(えぞ)地探検も3度行い、塩ザケ、熊皮、ラッコ、トドの皮といったものを入手していたようです。 隠居した後の行動とは 元禄3年(1690)に光圀は幕府から許可を受け、西山荘(せいざんそう)に隠居します。藩主は養嗣子・綱條(つなえだ)に継承され、光圀自身は権中納言に任命されました。 隠居後も碑の修繕や古墳の発掘を行ったり、製薬方法を記した『救民妙薬』を編集させたりと水戸藩に尽くした光圀ですが、重臣・藤井紋太夫(ふじいもんだゆう)を江戸で刺殺するという事件も起こしています。これは紋太夫が高慢な態度をとって家臣を不安にさせたことや、柳沢吉保とともに光圀の失脚を謀ったことが原因のようです。 こうしてさまざまな功績を遺した光圀は、元禄13年(1701)に食道がんで亡くなりました。水戸市常磐町の常磐神社では、光圀を主祭神として祭っています。
常陸水戸藩の第2代藩主は、いつ生まれたか。
常陸水戸藩の第2代藩主は、寛永5年(1628)に生まれた。
JCRRAG_019132
歴史
常陸水戸藩の第2代藩主は、徳川光圀である。 徳川光圀の生涯とは? 『水戸黄門』として取り上げられた徳川光圀ですが、一体どのような経歴の持ち主だったのでしょうか。まずはその人生を振り返ってみましょう。 徳川家康の孫だった 光圀は、寛永5年(1628)に水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男として水戸城下柵町で生まれました。母が正式な側室ではなかったため家臣の屋敷で産声を上げましたが、血筋としては徳川家康の孫に当たります。 寛永9年(1632)水戸城に入城し、世子に決定してからは江戸の小石川邸で世子教育を受けます。承応3年(1654)に近衛信尋(このえのぶひろ)の娘・尋子(ちかこ、泰姫・たいひめ)と結婚したのち、紀伝体の歴史書『大日本史』の編纂(へんさん)に着手しました。 藩主となった光圀 寛文元年(1661)第2代水戸藩主に就任した光圀は藩政に乗り出します。井戸水の濁りを解消するため水道を整備し、村単位の開基帳を作成して寺社の廃止や移転を行いました。寛文5年(1665)には明の儒学者・朱舜水(しゅしゅんすい)を招いて水戸藩の学風の基礎を築いています。また『義公行実』によれば、全国初の殉死禁止令も出しました。 延宝元年(1673)江戸帰府の際に鎌倉に立ち寄り、名所を探訪して『甲寅紀行(こういんきこう)』、『鎌倉日記』を記します。また蝦夷(えぞ)地探検も3度行い、塩ザケ、熊皮、ラッコ、トドの皮といったものを入手していたようです。 隠居した後の行動とは 元禄3年(1690)に光圀は幕府から許可を受け、西山荘(せいざんそう)に隠居します。藩主は養嗣子・綱條(つなえだ)に継承され、光圀自身は権中納言に任命されました。 隠居後も碑の修繕や古墳の発掘を行ったり、製薬方法を記した『救民妙薬』を編集させたりと水戸藩に尽くした光圀ですが、重臣・藤井紋太夫(ふじいもんだゆう)を江戸で刺殺するという事件も起こしています。これは紋太夫が高慢な態度をとって家臣を不安にさせたことや、柳沢吉保とともに光圀の失脚を謀ったことが原因のようです。 こうしてさまざまな功績を遺した光圀は、元禄13年(1701)に食道がんで亡くなりました。水戸市常磐町の常磐神社では、光圀を主祭神として祭っています。
常陸水戸藩の第2代藩主は、誰の三男として生まれたか。
常陸水戸藩の第2代藩主は、水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男として生まれた。
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歴史
常陸水戸藩の第2代藩主は、徳川光圀である。 徳川光圀の生涯とは? 『水戸黄門』として取り上げられた徳川光圀ですが、一体どのような経歴の持ち主だったのでしょうか。まずはその人生を振り返ってみましょう。 徳川家康の孫だった 光圀は、寛永5年(1628)に水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男として水戸城下柵町で生まれました。母が正式な側室ではなかったため家臣の屋敷で産声を上げましたが、血筋としては徳川家康の孫に当たります。 寛永9年(1632)水戸城に入城し、世子に決定してからは江戸の小石川邸で世子教育を受けます。承応3年(1654)に近衛信尋(このえのぶひろ)の娘・尋子(ちかこ、泰姫・たいひめ)と結婚したのち、紀伝体の歴史書『大日本史』の編纂(へんさん)に着手しました。 藩主となった光圀 寛文元年(1661)第2代水戸藩主に就任した光圀は藩政に乗り出します。井戸水の濁りを解消するため水道を整備し、村単位の開基帳を作成して寺社の廃止や移転を行いました。寛文5年(1665)には明の儒学者・朱舜水(しゅしゅんすい)を招いて水戸藩の学風の基礎を築いています。また『義公行実』によれば、全国初の殉死禁止令も出しました。 延宝元年(1673)江戸帰府の際に鎌倉に立ち寄り、名所を探訪して『甲寅紀行(こういんきこう)』、『鎌倉日記』を記します。また蝦夷(えぞ)地探検も3度行い、塩ザケ、熊皮、ラッコ、トドの皮といったものを入手していたようです。 隠居した後の行動とは 元禄3年(1690)に光圀は幕府から許可を受け、西山荘(せいざんそう)に隠居します。藩主は養嗣子・綱條(つなえだ)に継承され、光圀自身は権中納言に任命されました。 隠居後も碑の修繕や古墳の発掘を行ったり、製薬方法を記した『救民妙薬』を編集させたりと水戸藩に尽くした光圀ですが、重臣・藤井紋太夫(ふじいもんだゆう)を江戸で刺殺するという事件も起こしています。これは紋太夫が高慢な態度をとって家臣を不安にさせたことや、柳沢吉保とともに光圀の失脚を謀ったことが原因のようです。 こうしてさまざまな功績を遺した光圀は、元禄13年(1701)に食道がんで亡くなりました。水戸市常磐町の常磐神社では、光圀を主祭神として祭っています。
常陸水戸藩の第2代藩主は、どこで生まれたか。
常陸水戸藩の第2代藩主は、水戸城下柵町で生まれた。
JCRRAG_019134
歴史
常陸水戸藩の第2代藩主は、徳川光圀である。 徳川光圀の生涯とは? 『水戸黄門』として取り上げられた徳川光圀ですが、一体どのような経歴の持ち主だったのでしょうか。まずはその人生を振り返ってみましょう。 徳川家康の孫だった 光圀は、寛永5年(1628)に水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男として水戸城下柵町で生まれました。母が正式な側室ではなかったため家臣の屋敷で産声を上げましたが、血筋としては徳川家康の孫に当たります。 寛永9年(1632)水戸城に入城し、世子に決定してからは江戸の小石川邸で世子教育を受けます。承応3年(1654)に近衛信尋(このえのぶひろ)の娘・尋子(ちかこ、泰姫・たいひめ)と結婚したのち、紀伝体の歴史書『大日本史』の編纂(へんさん)に着手しました。 藩主となった光圀 寛文元年(1661)第2代水戸藩主に就任した光圀は藩政に乗り出します。井戸水の濁りを解消するため水道を整備し、村単位の開基帳を作成して寺社の廃止や移転を行いました。寛文5年(1665)には明の儒学者・朱舜水(しゅしゅんすい)を招いて水戸藩の学風の基礎を築いています。また『義公行実』によれば、全国初の殉死禁止令も出しました。 延宝元年(1673)江戸帰府の際に鎌倉に立ち寄り、名所を探訪して『甲寅紀行(こういんきこう)』、『鎌倉日記』を記します。また蝦夷(えぞ)地探検も3度行い、塩ザケ、熊皮、ラッコ、トドの皮といったものを入手していたようです。 隠居した後の行動とは 元禄3年(1690)に光圀は幕府から許可を受け、西山荘(せいざんそう)に隠居します。藩主は養嗣子・綱條(つなえだ)に継承され、光圀自身は権中納言に任命されました。 隠居後も碑の修繕や古墳の発掘を行ったり、製薬方法を記した『救民妙薬』を編集させたりと水戸藩に尽くした光圀ですが、重臣・藤井紋太夫(ふじいもんだゆう)を江戸で刺殺するという事件も起こしています。これは紋太夫が高慢な態度をとって家臣を不安にさせたことや、柳沢吉保とともに光圀の失脚を謀ったことが原因のようです。 こうしてさまざまな功績を遺した光圀は、元禄13年(1701)に食道がんで亡くなりました。水戸市常磐町の常磐神社では、光圀を主祭神として祭っています。
常陸水戸藩の第2代藩主は、いつ水戸城に入城したか。
常陸水戸藩の第2代藩主は、寛永9年(1632)水戸城に入城した。
JCRRAG_019135
歴史
常陸水戸藩の第2代藩主は、徳川光圀である。 徳川光圀の生涯とは? 『水戸黄門』として取り上げられた徳川光圀ですが、一体どのような経歴の持ち主だったのでしょうか。まずはその人生を振り返ってみましょう。 徳川家康の孫だった 光圀は、寛永5年(1628)に水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男として水戸城下柵町で生まれました。母が正式な側室ではなかったため家臣の屋敷で産声を上げましたが、血筋としては徳川家康の孫に当たります。 寛永9年(1632)水戸城に入城し、世子に決定してからは江戸の小石川邸で世子教育を受けます。承応3年(1654)に近衛信尋(このえのぶひろ)の娘・尋子(ちかこ、泰姫・たいひめ)と結婚したのち、紀伝体の歴史書『大日本史』の編纂(へんさん)に着手しました。 藩主となった光圀 寛文元年(1661)第2代水戸藩主に就任した光圀は藩政に乗り出します。井戸水の濁りを解消するため水道を整備し、村単位の開基帳を作成して寺社の廃止や移転を行いました。寛文5年(1665)には明の儒学者・朱舜水(しゅしゅんすい)を招いて水戸藩の学風の基礎を築いています。また『義公行実』によれば、全国初の殉死禁止令も出しました。 延宝元年(1673)江戸帰府の際に鎌倉に立ち寄り、名所を探訪して『甲寅紀行(こういんきこう)』、『鎌倉日記』を記します。また蝦夷(えぞ)地探検も3度行い、塩ザケ、熊皮、ラッコ、トドの皮といったものを入手していたようです。 隠居した後の行動とは 元禄3年(1690)に光圀は幕府から許可を受け、西山荘(せいざんそう)に隠居します。藩主は養嗣子・綱條(つなえだ)に継承され、光圀自身は権中納言に任命されました。 隠居後も碑の修繕や古墳の発掘を行ったり、製薬方法を記した『救民妙薬』を編集させたりと水戸藩に尽くした光圀ですが、重臣・藤井紋太夫(ふじいもんだゆう)を江戸で刺殺するという事件も起こしています。これは紋太夫が高慢な態度をとって家臣を不安にさせたことや、柳沢吉保とともに光圀の失脚を謀ったことが原因のようです。 こうしてさまざまな功績を遺した光圀は、元禄13年(1701)に食道がんで亡くなりました。水戸市常磐町の常磐神社では、光圀を主祭神として祭っています。
常陸水戸藩の第2代藩主は、どこで世子教育を受けたか。
常陸水戸藩の第2代藩主は、江戸の小石川邸で世子教育を受けた。
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歴史
常陸水戸藩の第2代藩主は、徳川光圀である。 水戸学の礎を築いた光圀 光圀は修史事業に尽力したことでも知られています。文化的な側面で大きな貢献を果たした彼の功績には、どのようなものがあるのでしょうか。 『大日本史』を編纂した 18歳のころ『史記』伯夷列伝(しき・はくいれつでん)に影響を受けた光圀は、紀伝体の日本の歴史書をまとめたいと考え『大日本史』の編纂に着手しました。当時はまだ藩主ではありませんでしたが、明暦3年(1657)に修史局を設け、人見卜幽(ひとみぼくゆう)、辻端亭(つじたんてい)など4人を史局員に迎えます。藩主就任後は修史事業が本格化し、史局員は20人まで増えました。この事業は光圀の死後も継続され、明治39年(1906)に完成を遂げます。 彰考館を設立する 寛文12年(1672)光圀は江戸駒込別邸内に置いた修史局を小石川邸内に移し「彰考館(しょうこうかん)」と名付けます。このころ幕府でも『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』の編纂事業が行われていたため、その影響を受けたようです。「彰考」は光圀の命名で、『春秋左氏伝』の「彰往考来(往事を彰[あき]らかにし来時を考察する)」という言葉に由来しています。この修史局には光圀直筆の額が掲げられ、5カ条の心得も記されました。 後世に大きな影響を与えた水戸学 水戸学とは、江戸時代に水戸藩で成立した学風を指します。朱子学が主となっていますが、国学・史学・神道などさまざまな学派を網羅しており、全国の藩校でも採用されていたようです。尊王敬幕の政治的思想が強く、この考えは吉田松陰や西郷隆盛など多くの幕末志士に影響を与えました。 一般的には、光圀の修史事業に携わった学者らの間で成立したものを前期水戸学、第9代藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)の藩政改革で大成したものを後期水戸学と呼んでいます。 水戸黄門のモデルはこんな人物だった さまざまな事業に貢献した光圀ですが、その人物像とは、どのようなものだったのでしょうか。残された逸話についてご紹介します。 少年時代は不良だった? 16~17歳の少年時代は、町で刀を振り回したり吉原遊郭に通ったりするなど、いわゆる不良だったといわれています。これは、兄・頼重を差しおいて自分が世子になったことに複雑な気持ちを抱いていたことが原因のようです。 しかし司馬遷の『史記』伯夷列伝に感銘を受けてからは学問に没頭し、19歳のころには人見卜幽によって「朝夕文武の道に励む向学の青年」と称されるほどになりました。 光圀と食べ物に関する逸話 好奇心旺盛だった光圀は、日本で初めて「餃子」「チーズ」「牛乳酒」「黒豆納豆」「ラーメン」を食べたといわれています。「生類憐(あわ)れみの令」を無視して牛肉や豚肉も口にしており、ワインを愛飲したり朝鮮ニンジンを取り寄せたりと、海外食品にも興味があったようです。 また、朱舜水から献上された中華麺をもとに自家製うどん(内容的には現在のラーメン)を作り、「後楽うどん」と名付けて客や家臣にふるまったという記録も残されています。 実は諸国漫遊していなかった? 『水戸黄門』の影響から諸国漫遊のイメージが強い光圀ですが、実際に訪れたのは日光、鎌倉、金沢八景、房総など関東地方の範囲です。『大日本史』の資料集めとして家臣をさまざまな国に派遣したため、諸国漫遊をしたイメージが付いたのでしょう。また徳川一門の長老として幕政にも影響力があったため、『水戸黄門』のような人物像が定着したと考えられます。 魅力あふれる人物として知られる TVドラマで人気の『水戸黄門』ですが、作中で描かれるイメージと史実の光圀とでは少し違いがあるようです。実際の光圀は諸国漫遊をしませんでしたが、いつもと違う道を通って名所をたどったり、蝦夷地探訪を構想したりと好奇心あふれる人物でした。また新しい食べ物を率先して試すなど、時代を先取りする能力の持ち主だったようです。光圀は創作作品の中だけでなく、史実としても多くの逸話を残す、魅力あふれる人物だったことは間違いないでしょう。
常陸水戸藩の第2代藩主は、18歳のころ何に影響を受けたか。
常陸水戸藩の第2代藩主は、18歳のころ『史記』伯夷列伝に影響を受けた。
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歴史
常陸水戸藩の第2代藩主は、徳川光圀である。 水戸学の礎を築いた光圀 光圀は修史事業に尽力したことでも知られています。文化的な側面で大きな貢献を果たした彼の功績には、どのようなものがあるのでしょうか。 『大日本史』を編纂した 18歳のころ『史記』伯夷列伝(しき・はくいれつでん)に影響を受けた光圀は、紀伝体の日本の歴史書をまとめたいと考え『大日本史』の編纂に着手しました。当時はまだ藩主ではありませんでしたが、明暦3年(1657)に修史局を設け、人見卜幽(ひとみぼくゆう)、辻端亭(つじたんてい)など4人を史局員に迎えます。藩主就任後は修史事業が本格化し、史局員は20人まで増えました。この事業は光圀の死後も継続され、明治39年(1906)に完成を遂げます。 彰考館を設立する 寛文12年(1672)光圀は江戸駒込別邸内に置いた修史局を小石川邸内に移し「彰考館(しょうこうかん)」と名付けます。このころ幕府でも『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』の編纂事業が行われていたため、その影響を受けたようです。「彰考」は光圀の命名で、『春秋左氏伝』の「彰往考来(往事を彰[あき]らかにし来時を考察する)」という言葉に由来しています。この修史局には光圀直筆の額が掲げられ、5カ条の心得も記されました。 後世に大きな影響を与えた水戸学 水戸学とは、江戸時代に水戸藩で成立した学風を指します。朱子学が主となっていますが、国学・史学・神道などさまざまな学派を網羅しており、全国の藩校でも採用されていたようです。尊王敬幕の政治的思想が強く、この考えは吉田松陰や西郷隆盛など多くの幕末志士に影響を与えました。 一般的には、光圀の修史事業に携わった学者らの間で成立したものを前期水戸学、第9代藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)の藩政改革で大成したものを後期水戸学と呼んでいます。 水戸黄門のモデルはこんな人物だった さまざまな事業に貢献した光圀ですが、その人物像とは、どのようなものだったのでしょうか。残された逸話についてご紹介します。 少年時代は不良だった? 16~17歳の少年時代は、町で刀を振り回したり吉原遊郭に通ったりするなど、いわゆる不良だったといわれています。これは、兄・頼重を差しおいて自分が世子になったことに複雑な気持ちを抱いていたことが原因のようです。 しかし司馬遷の『史記』伯夷列伝に感銘を受けてからは学問に没頭し、19歳のころには人見卜幽によって「朝夕文武の道に励む向学の青年」と称されるほどになりました。 光圀と食べ物に関する逸話 好奇心旺盛だった光圀は、日本で初めて「餃子」「チーズ」「牛乳酒」「黒豆納豆」「ラーメン」を食べたといわれています。「生類憐(あわ)れみの令」を無視して牛肉や豚肉も口にしており、ワインを愛飲したり朝鮮ニンジンを取り寄せたりと、海外食品にも興味があったようです。 また、朱舜水から献上された中華麺をもとに自家製うどん(内容的には現在のラーメン)を作り、「後楽うどん」と名付けて客や家臣にふるまったという記録も残されています。 実は諸国漫遊していなかった? 『水戸黄門』の影響から諸国漫遊のイメージが強い光圀ですが、実際に訪れたのは日光、鎌倉、金沢八景、房総など関東地方の範囲です。『大日本史』の資料集めとして家臣をさまざまな国に派遣したため、諸国漫遊をしたイメージが付いたのでしょう。また徳川一門の長老として幕政にも影響力があったため、『水戸黄門』のような人物像が定着したと考えられます。 魅力あふれる人物として知られる TVドラマで人気の『水戸黄門』ですが、作中で描かれるイメージと史実の光圀とでは少し違いがあるようです。実際の光圀は諸国漫遊をしませんでしたが、いつもと違う道を通って名所をたどったり、蝦夷地探訪を構想したりと好奇心あふれる人物でした。また新しい食べ物を率先して試すなど、時代を先取りする能力の持ち主だったようです。光圀は創作作品の中だけでなく、史実としても多くの逸話を残す、魅力あふれる人物だったことは間違いないでしょう。
常陸水戸藩の第2代藩主は、紀伝体の日本の歴史書をまとめたいと考え何の編纂に着手したか。
常陸水戸藩の第2代藩主は、紀伝体の日本の歴史書をまとめたいと考え『大日本史』の編纂に着手した。
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歴史
常陸水戸藩の第2代藩主は、徳川光圀である。 水戸学の礎を築いた光圀 光圀は修史事業に尽力したことでも知られています。文化的な側面で大きな貢献を果たした彼の功績には、どのようなものがあるのでしょうか。 『大日本史』を編纂した 18歳のころ『史記』伯夷列伝(しき・はくいれつでん)に影響を受けた光圀は、紀伝体の日本の歴史書をまとめたいと考え『大日本史』の編纂に着手しました。当時はまだ藩主ではありませんでしたが、明暦3年(1657)に修史局を設け、人見卜幽(ひとみぼくゆう)、辻端亭(つじたんてい)など4人を史局員に迎えます。藩主就任後は修史事業が本格化し、史局員は20人まで増えました。この事業は光圀の死後も継続され、明治39年(1906)に完成を遂げます。 彰考館を設立する 寛文12年(1672)光圀は江戸駒込別邸内に置いた修史局を小石川邸内に移し「彰考館(しょうこうかん)」と名付けます。このころ幕府でも『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』の編纂事業が行われていたため、その影響を受けたようです。「彰考」は光圀の命名で、『春秋左氏伝』の「彰往考来(往事を彰[あき]らかにし来時を考察する)」という言葉に由来しています。この修史局には光圀直筆の額が掲げられ、5カ条の心得も記されました。 後世に大きな影響を与えた水戸学 水戸学とは、江戸時代に水戸藩で成立した学風を指します。朱子学が主となっていますが、国学・史学・神道などさまざまな学派を網羅しており、全国の藩校でも採用されていたようです。尊王敬幕の政治的思想が強く、この考えは吉田松陰や西郷隆盛など多くの幕末志士に影響を与えました。 一般的には、光圀の修史事業に携わった学者らの間で成立したものを前期水戸学、第9代藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)の藩政改革で大成したものを後期水戸学と呼んでいます。 水戸黄門のモデルはこんな人物だった さまざまな事業に貢献した光圀ですが、その人物像とは、どのようなものだったのでしょうか。残された逸話についてご紹介します。 少年時代は不良だった? 16~17歳の少年時代は、町で刀を振り回したり吉原遊郭に通ったりするなど、いわゆる不良だったといわれています。これは、兄・頼重を差しおいて自分が世子になったことに複雑な気持ちを抱いていたことが原因のようです。 しかし司馬遷の『史記』伯夷列伝に感銘を受けてからは学問に没頭し、19歳のころには人見卜幽によって「朝夕文武の道に励む向学の青年」と称されるほどになりました。 光圀と食べ物に関する逸話 好奇心旺盛だった光圀は、日本で初めて「餃子」「チーズ」「牛乳酒」「黒豆納豆」「ラーメン」を食べたといわれています。「生類憐(あわ)れみの令」を無視して牛肉や豚肉も口にしており、ワインを愛飲したり朝鮮ニンジンを取り寄せたりと、海外食品にも興味があったようです。 また、朱舜水から献上された中華麺をもとに自家製うどん(内容的には現在のラーメン)を作り、「後楽うどん」と名付けて客や家臣にふるまったという記録も残されています。 実は諸国漫遊していなかった? 『水戸黄門』の影響から諸国漫遊のイメージが強い光圀ですが、実際に訪れたのは日光、鎌倉、金沢八景、房総など関東地方の範囲です。『大日本史』の資料集めとして家臣をさまざまな国に派遣したため、諸国漫遊をしたイメージが付いたのでしょう。また徳川一門の長老として幕政にも影響力があったため、『水戸黄門』のような人物像が定着したと考えられます。 魅力あふれる人物として知られる TVドラマで人気の『水戸黄門』ですが、作中で描かれるイメージと史実の光圀とでは少し違いがあるようです。実際の光圀は諸国漫遊をしませんでしたが、いつもと違う道を通って名所をたどったり、蝦夷地探訪を構想したりと好奇心あふれる人物でした。また新しい食べ物を率先して試すなど、時代を先取りする能力の持ち主だったようです。光圀は創作作品の中だけでなく、史実としても多くの逸話を残す、魅力あふれる人物だったことは間違いないでしょう。
常陸水戸藩の第2代藩主は、寛文12年(1672)江戸駒込別邸内に置いた修史局を小石川邸内に移し何と名付けたか。
常陸水戸藩の第2代藩主は、寛文12年(1672)江戸駒込別邸内に置いた修史局を小石川邸内に移し「彰考館」と名付けた。
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歴史
常陸水戸藩の第2代藩主は、徳川光圀である。 水戸学の礎を築いた光圀 光圀は修史事業に尽力したことでも知られています。文化的な側面で大きな貢献を果たした彼の功績には、どのようなものがあるのでしょうか。 『大日本史』を編纂した 18歳のころ『史記』伯夷列伝(しき・はくいれつでん)に影響を受けた光圀は、紀伝体の日本の歴史書をまとめたいと考え『大日本史』の編纂に着手しました。当時はまだ藩主ではありませんでしたが、明暦3年(1657)に修史局を設け、人見卜幽(ひとみぼくゆう)、辻端亭(つじたんてい)など4人を史局員に迎えます。藩主就任後は修史事業が本格化し、史局員は20人まで増えました。この事業は光圀の死後も継続され、明治39年(1906)に完成を遂げます。 彰考館を設立する 寛文12年(1672)光圀は江戸駒込別邸内に置いた修史局を小石川邸内に移し「彰考館(しょうこうかん)」と名付けます。このころ幕府でも『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』の編纂事業が行われていたため、その影響を受けたようです。「彰考」は光圀の命名で、『春秋左氏伝』の「彰往考来(往事を彰[あき]らかにし来時を考察する)」という言葉に由来しています。この修史局には光圀直筆の額が掲げられ、5カ条の心得も記されました。 後世に大きな影響を与えた水戸学 水戸学とは、江戸時代に水戸藩で成立した学風を指します。朱子学が主となっていますが、国学・史学・神道などさまざまな学派を網羅しており、全国の藩校でも採用されていたようです。尊王敬幕の政治的思想が強く、この考えは吉田松陰や西郷隆盛など多くの幕末志士に影響を与えました。 一般的には、光圀の修史事業に携わった学者らの間で成立したものを前期水戸学、第9代藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)の藩政改革で大成したものを後期水戸学と呼んでいます。 水戸黄門のモデルはこんな人物だった さまざまな事業に貢献した光圀ですが、その人物像とは、どのようなものだったのでしょうか。残された逸話についてご紹介します。 少年時代は不良だった? 16~17歳の少年時代は、町で刀を振り回したり吉原遊郭に通ったりするなど、いわゆる不良だったといわれています。これは、兄・頼重を差しおいて自分が世子になったことに複雑な気持ちを抱いていたことが原因のようです。 しかし司馬遷の『史記』伯夷列伝に感銘を受けてからは学問に没頭し、19歳のころには人見卜幽によって「朝夕文武の道に励む向学の青年」と称されるほどになりました。 光圀と食べ物に関する逸話 好奇心旺盛だった光圀は、日本で初めて「餃子」「チーズ」「牛乳酒」「黒豆納豆」「ラーメン」を食べたといわれています。「生類憐(あわ)れみの令」を無視して牛肉や豚肉も口にしており、ワインを愛飲したり朝鮮ニンジンを取り寄せたりと、海外食品にも興味があったようです。 また、朱舜水から献上された中華麺をもとに自家製うどん(内容的には現在のラーメン)を作り、「後楽うどん」と名付けて客や家臣にふるまったという記録も残されています。 実は諸国漫遊していなかった? 『水戸黄門』の影響から諸国漫遊のイメージが強い光圀ですが、実際に訪れたのは日光、鎌倉、金沢八景、房総など関東地方の範囲です。『大日本史』の資料集めとして家臣をさまざまな国に派遣したため、諸国漫遊をしたイメージが付いたのでしょう。また徳川一門の長老として幕政にも影響力があったため、『水戸黄門』のような人物像が定着したと考えられます。 魅力あふれる人物として知られる TVドラマで人気の『水戸黄門』ですが、作中で描かれるイメージと史実の光圀とでは少し違いがあるようです。実際の光圀は諸国漫遊をしませんでしたが、いつもと違う道を通って名所をたどったり、蝦夷地探訪を構想したりと好奇心あふれる人物でした。また新しい食べ物を率先して試すなど、時代を先取りする能力の持ち主だったようです。光圀は創作作品の中だけでなく、史実としても多くの逸話を残す、魅力あふれる人物だったことは間違いないでしょう。
常陸水戸藩の第2代藩主は、町で刀を振り回したり吉原遊郭に通ったりするなど、いわゆる何だったか。
常陸水戸藩の第2代藩主は、町で刀を振り回したり吉原遊郭に通ったりするなど、いわゆる不良だった。
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歴史
常陸水戸藩の第2代藩主は、徳川光圀である。 水戸学の礎を築いた光圀 光圀は修史事業に尽力したことでも知られています。文化的な側面で大きな貢献を果たした彼の功績には、どのようなものがあるのでしょうか。 『大日本史』を編纂した 18歳のころ『史記』伯夷列伝(しき・はくいれつでん)に影響を受けた光圀は、紀伝体の日本の歴史書をまとめたいと考え『大日本史』の編纂に着手しました。当時はまだ藩主ではありませんでしたが、明暦3年(1657)に修史局を設け、人見卜幽(ひとみぼくゆう)、辻端亭(つじたんてい)など4人を史局員に迎えます。藩主就任後は修史事業が本格化し、史局員は20人まで増えました。この事業は光圀の死後も継続され、明治39年(1906)に完成を遂げます。 彰考館を設立する 寛文12年(1672)光圀は江戸駒込別邸内に置いた修史局を小石川邸内に移し「彰考館(しょうこうかん)」と名付けます。このころ幕府でも『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』の編纂事業が行われていたため、その影響を受けたようです。「彰考」は光圀の命名で、『春秋左氏伝』の「彰往考来(往事を彰[あき]らかにし来時を考察する)」という言葉に由来しています。この修史局には光圀直筆の額が掲げられ、5カ条の心得も記されました。 後世に大きな影響を与えた水戸学 水戸学とは、江戸時代に水戸藩で成立した学風を指します。朱子学が主となっていますが、国学・史学・神道などさまざまな学派を網羅しており、全国の藩校でも採用されていたようです。尊王敬幕の政治的思想が強く、この考えは吉田松陰や西郷隆盛など多くの幕末志士に影響を与えました。 一般的には、光圀の修史事業に携わった学者らの間で成立したものを前期水戸学、第9代藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)の藩政改革で大成したものを後期水戸学と呼んでいます。 水戸黄門のモデルはこんな人物だった さまざまな事業に貢献した光圀ですが、その人物像とは、どのようなものだったのでしょうか。残された逸話についてご紹介します。 少年時代は不良だった? 16~17歳の少年時代は、町で刀を振り回したり吉原遊郭に通ったりするなど、いわゆる不良だったといわれています。これは、兄・頼重を差しおいて自分が世子になったことに複雑な気持ちを抱いていたことが原因のようです。 しかし司馬遷の『史記』伯夷列伝に感銘を受けてからは学問に没頭し、19歳のころには人見卜幽によって「朝夕文武の道に励む向学の青年」と称されるほどになりました。 光圀と食べ物に関する逸話 好奇心旺盛だった光圀は、日本で初めて「餃子」「チーズ」「牛乳酒」「黒豆納豆」「ラーメン」を食べたといわれています。「生類憐(あわ)れみの令」を無視して牛肉や豚肉も口にしており、ワインを愛飲したり朝鮮ニンジンを取り寄せたりと、海外食品にも興味があったようです。 また、朱舜水から献上された中華麺をもとに自家製うどん(内容的には現在のラーメン)を作り、「後楽うどん」と名付けて客や家臣にふるまったという記録も残されています。 実は諸国漫遊していなかった? 『水戸黄門』の影響から諸国漫遊のイメージが強い光圀ですが、実際に訪れたのは日光、鎌倉、金沢八景、房総など関東地方の範囲です。『大日本史』の資料集めとして家臣をさまざまな国に派遣したため、諸国漫遊をしたイメージが付いたのでしょう。また徳川一門の長老として幕政にも影響力があったため、『水戸黄門』のような人物像が定着したと考えられます。 魅力あふれる人物として知られる TVドラマで人気の『水戸黄門』ですが、作中で描かれるイメージと史実の光圀とでは少し違いがあるようです。実際の光圀は諸国漫遊をしませんでしたが、いつもと違う道を通って名所をたどったり、蝦夷地探訪を構想したりと好奇心あふれる人物でした。また新しい食べ物を率先して試すなど、時代を先取りする能力の持ち主だったようです。光圀は創作作品の中だけでなく、史実としても多くの逸話を残す、魅力あふれる人物だったことは間違いないでしょう。
常陸水戸藩の第2代藩主は、日本で初めて何を食べたか。
常陸水戸藩の第2代藩主は、日本で初めて「餃子」「チーズ」「牛乳酒」「黒豆納豆」「ラーメン」を食べた。
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歴史
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、国定忠治である。 侠客として知られる国定忠治の生涯 忠治の本名は長岡忠次郎といい、恵まれた家の生まれだったようです。そんな彼の人生を一変させたのは、賭場との出会いでした。 生まれから親分になるまで 忠次は、1810年に豪農の長岡家の子として上野国佐位郡国定村で生まれました。11歳のときに父が死去し将来を嘱望されますが、やがて賭場に入り浸るようになると、17歳で人殺しをして人別帳(戸籍)から除名され無宿者となります。このため実家は弟である友蔵が継ぎました。 忠治は博徒の親分・大前田英五郎のもとに身を寄せたのち、紹介された百々(どうどう)村の紋次のもとへ行き、紋次の死後はその縄張りを継承します。天保5年(1834)には上州一裕福な親分といわれていた島村伊三郎を殺害して縄張りを奪い、関東取締出役に目をつけられることとなりました。その後は子分の文蔵を連れて大戸の関所を破ったり、信州へ落ち延びて賭場を荒らしたりしましたが、やがて上州に戻ると赤城山を拠点に再び一家を形成します。その後も日光例幣使街道の玉村宿を本拠地とする玉村京蔵・主馬兄弟と対立し血みどろの抗争を繰り広げるなど、忠治は関東取締出役にとって頭の痛い存在になっていたようです。 天保の飢饉と国定忠次 忠治が侠客と呼ばれるようになった大きな理由は「天保の飢饉」での行動です。忠治は賭博で得たお金で赤城山近くに住む人々を援助したり、農業用水として使用していた川の泥やゴミを取り除いたりしました。羽倉外記の『赤城録』によれば、赤城山麓には一人も餓死者がおらず、住民は赤城山に背を向けて寝られないくらい感謝したのだそうです。忠治の度重なる逃亡や潜伏を支えたのは地域の人々の支えがあったからといわれていますが、忠治はそれだけ人々から慕われていたのですね。
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、いつ生まれたか。
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、1810年に生まれた。
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歴史
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、国定忠治である。 侠客として知られる国定忠治の生涯 忠治の本名は長岡忠次郎といい、恵まれた家の生まれだったようです。そんな彼の人生を一変させたのは、賭場との出会いでした。 生まれから親分になるまで 忠次は、1810年に豪農の長岡家の子として上野国佐位郡国定村で生まれました。11歳のときに父が死去し将来を嘱望されますが、やがて賭場に入り浸るようになると、17歳で人殺しをして人別帳(戸籍)から除名され無宿者となります。このため実家は弟である友蔵が継ぎました。 忠治は博徒の親分・大前田英五郎のもとに身を寄せたのち、紹介された百々(どうどう)村の紋次のもとへ行き、紋次の死後はその縄張りを継承します。天保5年(1834)には上州一裕福な親分といわれていた島村伊三郎を殺害して縄張りを奪い、関東取締出役に目をつけられることとなりました。その後は子分の文蔵を連れて大戸の関所を破ったり、信州へ落ち延びて賭場を荒らしたりしましたが、やがて上州に戻ると赤城山を拠点に再び一家を形成します。その後も日光例幣使街道の玉村宿を本拠地とする玉村京蔵・主馬兄弟と対立し血みどろの抗争を繰り広げるなど、忠治は関東取締出役にとって頭の痛い存在になっていたようです。 天保の飢饉と国定忠次 忠治が侠客と呼ばれるようになった大きな理由は「天保の飢饉」での行動です。忠治は賭博で得たお金で赤城山近くに住む人々を援助したり、農業用水として使用していた川の泥やゴミを取り除いたりしました。羽倉外記の『赤城録』によれば、赤城山麓には一人も餓死者がおらず、住民は赤城山に背を向けて寝られないくらい感謝したのだそうです。忠治の度重なる逃亡や潜伏を支えたのは地域の人々の支えがあったからといわれていますが、忠治はそれだけ人々から慕われていたのですね。
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、何家の子として生まれたか。
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、豪農の長岡家の子として生まれた。
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歴史
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、国定忠治である。 侠客として知られる国定忠治の生涯 忠治の本名は長岡忠次郎といい、恵まれた家の生まれだったようです。そんな彼の人生を一変させたのは、賭場との出会いでした。 生まれから親分になるまで 忠次は、1810年に豪農の長岡家の子として上野国佐位郡国定村で生まれました。11歳のときに父が死去し将来を嘱望されますが、やがて賭場に入り浸るようになると、17歳で人殺しをして人別帳(戸籍)から除名され無宿者となります。このため実家は弟である友蔵が継ぎました。 忠治は博徒の親分・大前田英五郎のもとに身を寄せたのち、紹介された百々(どうどう)村の紋次のもとへ行き、紋次の死後はその縄張りを継承します。天保5年(1834)には上州一裕福な親分といわれていた島村伊三郎を殺害して縄張りを奪い、関東取締出役に目をつけられることとなりました。その後は子分の文蔵を連れて大戸の関所を破ったり、信州へ落ち延びて賭場を荒らしたりしましたが、やがて上州に戻ると赤城山を拠点に再び一家を形成します。その後も日光例幣使街道の玉村宿を本拠地とする玉村京蔵・主馬兄弟と対立し血みどろの抗争を繰り広げるなど、忠治は関東取締出役にとって頭の痛い存在になっていたようです。 天保の飢饉と国定忠次 忠治が侠客と呼ばれるようになった大きな理由は「天保の飢饉」での行動です。忠治は賭博で得たお金で赤城山近くに住む人々を援助したり、農業用水として使用していた川の泥やゴミを取り除いたりしました。羽倉外記の『赤城録』によれば、赤城山麓には一人も餓死者がおらず、住民は赤城山に背を向けて寝られないくらい感謝したのだそうです。忠治の度重なる逃亡や潜伏を支えたのは地域の人々の支えがあったからといわれていますが、忠治はそれだけ人々から慕われていたのですね。
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、どこで生まれたか。
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、上野国佐位郡国定村で生まれた。
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歴史
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、国定忠治である。 侠客として知られる国定忠治の生涯 忠治の本名は長岡忠次郎といい、恵まれた家の生まれだったようです。そんな彼の人生を一変させたのは、賭場との出会いでした。 生まれから親分になるまで 忠次は、1810年に豪農の長岡家の子として上野国佐位郡国定村で生まれました。11歳のときに父が死去し将来を嘱望されますが、やがて賭場に入り浸るようになると、17歳で人殺しをして人別帳(戸籍)から除名され無宿者となります。このため実家は弟である友蔵が継ぎました。 忠治は博徒の親分・大前田英五郎のもとに身を寄せたのち、紹介された百々(どうどう)村の紋次のもとへ行き、紋次の死後はその縄張りを継承します。天保5年(1834)には上州一裕福な親分といわれていた島村伊三郎を殺害して縄張りを奪い、関東取締出役に目をつけられることとなりました。その後は子分の文蔵を連れて大戸の関所を破ったり、信州へ落ち延びて賭場を荒らしたりしましたが、やがて上州に戻ると赤城山を拠点に再び一家を形成します。その後も日光例幣使街道の玉村宿を本拠地とする玉村京蔵・主馬兄弟と対立し血みどろの抗争を繰り広げるなど、忠治は関東取締出役にとって頭の痛い存在になっていたようです。 天保の飢饉と国定忠次 忠治が侠客と呼ばれるようになった大きな理由は「天保の飢饉」での行動です。忠治は賭博で得たお金で赤城山近くに住む人々を援助したり、農業用水として使用していた川の泥やゴミを取り除いたりしました。羽倉外記の『赤城録』によれば、赤城山麓には一人も餓死者がおらず、住民は赤城山に背を向けて寝られないくらい感謝したのだそうです。忠治の度重なる逃亡や潜伏を支えたのは地域の人々の支えがあったからといわれていますが、忠治はそれだけ人々から慕われていたのですね。
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、賭博で得たお金で何をしたか。
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、賭博で得たお金で赤城山近くに住む人々を援助したり、農業用水として使用していた川の泥やゴミを取り除いたりした。
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歴史
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、国定忠治である。 侠客として知られる国定忠治の生涯 忠治の本名は長岡忠次郎といい、恵まれた家の生まれだったようです。そんな彼の人生を一変させたのは、賭場との出会いでした。 生まれから親分になるまで 忠次は、1810年に豪農の長岡家の子として上野国佐位郡国定村で生まれました。11歳のときに父が死去し将来を嘱望されますが、やがて賭場に入り浸るようになると、17歳で人殺しをして人別帳(戸籍)から除名され無宿者となります。このため実家は弟である友蔵が継ぎました。 忠治は博徒の親分・大前田英五郎のもとに身を寄せたのち、紹介された百々(どうどう)村の紋次のもとへ行き、紋次の死後はその縄張りを継承します。天保5年(1834)には上州一裕福な親分といわれていた島村伊三郎を殺害して縄張りを奪い、関東取締出役に目をつけられることとなりました。その後は子分の文蔵を連れて大戸の関所を破ったり、信州へ落ち延びて賭場を荒らしたりしましたが、やがて上州に戻ると赤城山を拠点に再び一家を形成します。その後も日光例幣使街道の玉村宿を本拠地とする玉村京蔵・主馬兄弟と対立し血みどろの抗争を繰り広げるなど、忠治は関東取締出役にとって頭の痛い存在になっていたようです。 天保の飢饉と国定忠次 忠治が侠客と呼ばれるようになった大きな理由は「天保の飢饉」での行動です。忠治は賭博で得たお金で赤城山近くに住む人々を援助したり、農業用水として使用していた川の泥やゴミを取り除いたりしました。羽倉外記の『赤城録』によれば、赤城山麓には一人も餓死者がおらず、住民は赤城山に背を向けて寝られないくらい感謝したのだそうです。忠治の度重なる逃亡や潜伏を支えたのは地域の人々の支えがあったからといわれていますが、忠治はそれだけ人々から慕われていたのですね。
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、誰のもとに身を寄せたか。
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、博徒の親分・大前田英五郎のもとに身を寄せた。
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歴史
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、国定忠治である。 関所破りの罪で磔の刑に 派手に暴れまわっていた忠治ですが、役人の追及がいよいよ激しくなると、一家を解散して逃亡する決意を固めます。弘化3年(1846)再び赤城山に戻りますが、その頃にはかつての勢いはなく、さらには中風(脳卒中)で半身不随になっていました。忠治は子分に後を託し隠遁(いんとん)しましたが、嘉永3年(1850)ついに逮捕され、江戸の勘定奉行・池田頼方のもとに送られた後に磔の刑となります。適用された罪状は「関所破り」でした。忠治には賭博や殺人などあまりに罪状が多かったため、一番罪の重いものが適用されたといわれています。 こうして41年の人生に終止符を打った忠治ですが、その遺体は3日間さらされた後、何者かに盗まれました。これは国定村の養寿寺住職・法印貞然が密かに供養したといわれ、関東取締出役が探索を強化すると貞然は遺体を別の場所に埋め直したそうです。現在では、群馬県伊勢崎市国定町の金城山養寿寺と、曲輪町の善應寺に忠治の墓があります。また、長野県権堂町にある秋葉神社の境内にも、忠次にゆかりのある柳の木があったことから、墓が作られています。 武勇伝を元にした逸話 数々の犯罪に手を染めた忠治ですが、飢饉の際に民衆を救った武勇伝を持つなど、人々を魅了するカリスマ性があったことは確かでしょう。そんな忠治には、武勇伝とともに語られる逸話が残されています。 剣術に自信があった忠次 忠治は剣の腕に自信があったため、その当時日本で一番だと評判だった「北辰一刀流」に乗り込んで道場破りをしようとしました。負けたら最後の真剣勝負でしたが、対峙した千葉周作は忠治の構えを見て勝負の結果を悟ると、早々にその場を立ち去ったといいます。この態度にもちろん忠治は怒りましたが、門下生たちに諭され命拾いしたことを悟ったのだそうです。相手の方が一枚上手だったようですが、堂々と道場に乗り込む勇気は目をみはるものがありますね。 『遠州侠客伝』に残る逸話 忠治が遠州を旅していたときのこと、堂山の龍蔵という親分の世話を受けずに旅籠に泊まったことがありました。他の親分のところに泊まる際は、食事から眠り方まで決められた礼儀作法に従うのが当然で、面倒だからといって世話にならずに泊まるのはマナー違反でした。彼らの世界は、同業者間で使う挨拶を一言でも間違えたら斬られても仕方ないというほどルールが厳しかったのです。そのため龍蔵は「面子を潰された」と激怒し、命を奪おうと追いかけてきました。しかし忠治は相手が龍蔵だとわかると、「忠治の伊勢参りだ。共をするか」と言い残し、顔色一つ変えずに去っていったといいます。予想外の展開に呆気にとられた龍蔵でしたが、後にはこの時の忠治の度胸の良さを振り返って褒め称えたそうです。 創作作品として語られる忠次の魅力 逸話が多い忠治は創作作品でも人気を博しています。後世まで語り継がれるということは、それだけ忠治に魅力があるという証拠でしょう。 大衆演劇では定番の演目に 忠治は芝居や映画の世界で多く描かれ、大衆演劇や新国劇では定番の演目になっています。忠治の演目が人気を博している理由の一つは、迫力のある剣劇です。アクションものの映画が爽快なのと同じように、これは見せ場の一つといえるでしょう。しかし何より大きな理由は、やはり侠客としての生き様が人々の心を打つからだといえそうです。忠治の活躍の裏には、権力者たちが貧しい人々を苦しめていたという背景があります。民衆の中にある怒りを鎮める数々の行動を取った、忠治のヒーロー性に魅力を感じるのかもしれませんね。 歌にもなった国定忠治 忠治は芝居などの演目だけではなく、歌にもなっています。時代劇映画『浅太郎赤城の唄』の主題歌として作曲された『赤城の子守唄』のほか、忠治を主人公にした『名月赤城山』などが有名で、新国劇・映画・芝居ではこれらの曲がよく流れました。また群馬県と栃木県で愛されている民謡の『八木節』は、忠治の一代記になっています。忠治は歌としても民衆の心をつかんだといえそうです。 よく知られた名セリフ 強きを挫き弱きを助ける存在は、いつの時代も注目を浴び、人々から愛されますよね。忠治は多くの犯罪に手を染めましたが、その反面、義理人情に厚く自分なりの正義に忠実な性格だったといえそうです。新国劇の演目でのセリフ「赤城の山も今宵限り、縄張りを捨て国を捨て、かわいい子分のてめえたちとも別れ別れになる首途(かどで)だ」が有名な忠治ですが、カリスマ性あふれるその生き様は、きっと後世にも語り継がれていくことでしょう。
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、派手にどうしていたか。
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、派手に暴れまわっていた。
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歴史
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、国定忠治である。 関所破りの罪で磔の刑に 派手に暴れまわっていた忠治ですが、役人の追及がいよいよ激しくなると、一家を解散して逃亡する決意を固めます。弘化3年(1846)再び赤城山に戻りますが、その頃にはかつての勢いはなく、さらには中風(脳卒中)で半身不随になっていました。忠治は子分に後を託し隠遁(いんとん)しましたが、嘉永3年(1850)ついに逮捕され、江戸の勘定奉行・池田頼方のもとに送られた後に磔の刑となります。適用された罪状は「関所破り」でした。忠治には賭博や殺人などあまりに罪状が多かったため、一番罪の重いものが適用されたといわれています。 こうして41年の人生に終止符を打った忠治ですが、その遺体は3日間さらされた後、何者かに盗まれました。これは国定村の養寿寺住職・法印貞然が密かに供養したといわれ、関東取締出役が探索を強化すると貞然は遺体を別の場所に埋め直したそうです。現在では、群馬県伊勢崎市国定町の金城山養寿寺と、曲輪町の善應寺に忠治の墓があります。また、長野県権堂町にある秋葉神社の境内にも、忠次にゆかりのある柳の木があったことから、墓が作られています。 武勇伝を元にした逸話 数々の犯罪に手を染めた忠治ですが、飢饉の際に民衆を救った武勇伝を持つなど、人々を魅了するカリスマ性があったことは確かでしょう。そんな忠治には、武勇伝とともに語られる逸話が残されています。 剣術に自信があった忠次 忠治は剣の腕に自信があったため、その当時日本で一番だと評判だった「北辰一刀流」に乗り込んで道場破りをしようとしました。負けたら最後の真剣勝負でしたが、対峙した千葉周作は忠治の構えを見て勝負の結果を悟ると、早々にその場を立ち去ったといいます。この態度にもちろん忠治は怒りましたが、門下生たちに諭され命拾いしたことを悟ったのだそうです。相手の方が一枚上手だったようですが、堂々と道場に乗り込む勇気は目をみはるものがありますね。 『遠州侠客伝』に残る逸話 忠治が遠州を旅していたときのこと、堂山の龍蔵という親分の世話を受けずに旅籠に泊まったことがありました。他の親分のところに泊まる際は、食事から眠り方まで決められた礼儀作法に従うのが当然で、面倒だからといって世話にならずに泊まるのはマナー違反でした。彼らの世界は、同業者間で使う挨拶を一言でも間違えたら斬られても仕方ないというほどルールが厳しかったのです。そのため龍蔵は「面子を潰された」と激怒し、命を奪おうと追いかけてきました。しかし忠治は相手が龍蔵だとわかると、「忠治の伊勢参りだ。共をするか」と言い残し、顔色一つ変えずに去っていったといいます。予想外の展開に呆気にとられた龍蔵でしたが、後にはこの時の忠治の度胸の良さを振り返って褒め称えたそうです。 創作作品として語られる忠次の魅力 逸話が多い忠治は創作作品でも人気を博しています。後世まで語り継がれるということは、それだけ忠治に魅力があるという証拠でしょう。 大衆演劇では定番の演目に 忠治は芝居や映画の世界で多く描かれ、大衆演劇や新国劇では定番の演目になっています。忠治の演目が人気を博している理由の一つは、迫力のある剣劇です。アクションものの映画が爽快なのと同じように、これは見せ場の一つといえるでしょう。しかし何より大きな理由は、やはり侠客としての生き様が人々の心を打つからだといえそうです。忠治の活躍の裏には、権力者たちが貧しい人々を苦しめていたという背景があります。民衆の中にある怒りを鎮める数々の行動を取った、忠治のヒーロー性に魅力を感じるのかもしれませんね。 歌にもなった国定忠治 忠治は芝居などの演目だけではなく、歌にもなっています。時代劇映画『浅太郎赤城の唄』の主題歌として作曲された『赤城の子守唄』のほか、忠治を主人公にした『名月赤城山』などが有名で、新国劇・映画・芝居ではこれらの曲がよく流れました。また群馬県と栃木県で愛されている民謡の『八木節』は、忠治の一代記になっています。忠治は歌としても民衆の心をつかんだといえそうです。 よく知られた名セリフ 強きを挫き弱きを助ける存在は、いつの時代も注目を浴び、人々から愛されますよね。忠治は多くの犯罪に手を染めましたが、その反面、義理人情に厚く自分なりの正義に忠実な性格だったといえそうです。新国劇の演目でのセリフ「赤城の山も今宵限り、縄張りを捨て国を捨て、かわいい子分のてめえたちとも別れ別れになる首途(かどで)だ」が有名な忠治ですが、カリスマ性あふれるその生き様は、きっと後世にも語り継がれていくことでしょう。
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、役人の追及がいよいよ激しくなると、どのような決意を固めたか。
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、役人の追及がいよいよ激しくなると、一家を解散して逃亡する決意を固めた。
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歴史
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、国定忠治である。 関所破りの罪で磔の刑に 派手に暴れまわっていた忠治ですが、役人の追及がいよいよ激しくなると、一家を解散して逃亡する決意を固めます。弘化3年(1846)再び赤城山に戻りますが、その頃にはかつての勢いはなく、さらには中風(脳卒中)で半身不随になっていました。忠治は子分に後を託し隠遁(いんとん)しましたが、嘉永3年(1850)ついに逮捕され、江戸の勘定奉行・池田頼方のもとに送られた後に磔の刑となります。適用された罪状は「関所破り」でした。忠治には賭博や殺人などあまりに罪状が多かったため、一番罪の重いものが適用されたといわれています。 こうして41年の人生に終止符を打った忠治ですが、その遺体は3日間さらされた後、何者かに盗まれました。これは国定村の養寿寺住職・法印貞然が密かに供養したといわれ、関東取締出役が探索を強化すると貞然は遺体を別の場所に埋め直したそうです。現在では、群馬県伊勢崎市国定町の金城山養寿寺と、曲輪町の善應寺に忠治の墓があります。また、長野県権堂町にある秋葉神社の境内にも、忠次にゆかりのある柳の木があったことから、墓が作られています。 武勇伝を元にした逸話 数々の犯罪に手を染めた忠治ですが、飢饉の際に民衆を救った武勇伝を持つなど、人々を魅了するカリスマ性があったことは確かでしょう。そんな忠治には、武勇伝とともに語られる逸話が残されています。 剣術に自信があった忠次 忠治は剣の腕に自信があったため、その当時日本で一番だと評判だった「北辰一刀流」に乗り込んで道場破りをしようとしました。負けたら最後の真剣勝負でしたが、対峙した千葉周作は忠治の構えを見て勝負の結果を悟ると、早々にその場を立ち去ったといいます。この態度にもちろん忠治は怒りましたが、門下生たちに諭され命拾いしたことを悟ったのだそうです。相手の方が一枚上手だったようですが、堂々と道場に乗り込む勇気は目をみはるものがありますね。 『遠州侠客伝』に残る逸話 忠治が遠州を旅していたときのこと、堂山の龍蔵という親分の世話を受けずに旅籠に泊まったことがありました。他の親分のところに泊まる際は、食事から眠り方まで決められた礼儀作法に従うのが当然で、面倒だからといって世話にならずに泊まるのはマナー違反でした。彼らの世界は、同業者間で使う挨拶を一言でも間違えたら斬られても仕方ないというほどルールが厳しかったのです。そのため龍蔵は「面子を潰された」と激怒し、命を奪おうと追いかけてきました。しかし忠治は相手が龍蔵だとわかると、「忠治の伊勢参りだ。共をするか」と言い残し、顔色一つ変えずに去っていったといいます。予想外の展開に呆気にとられた龍蔵でしたが、後にはこの時の忠治の度胸の良さを振り返って褒め称えたそうです。 創作作品として語られる忠次の魅力 逸話が多い忠治は創作作品でも人気を博しています。後世まで語り継がれるということは、それだけ忠治に魅力があるという証拠でしょう。 大衆演劇では定番の演目に 忠治は芝居や映画の世界で多く描かれ、大衆演劇や新国劇では定番の演目になっています。忠治の演目が人気を博している理由の一つは、迫力のある剣劇です。アクションものの映画が爽快なのと同じように、これは見せ場の一つといえるでしょう。しかし何より大きな理由は、やはり侠客としての生き様が人々の心を打つからだといえそうです。忠治の活躍の裏には、権力者たちが貧しい人々を苦しめていたという背景があります。民衆の中にある怒りを鎮める数々の行動を取った、忠治のヒーロー性に魅力を感じるのかもしれませんね。 歌にもなった国定忠治 忠治は芝居などの演目だけではなく、歌にもなっています。時代劇映画『浅太郎赤城の唄』の主題歌として作曲された『赤城の子守唄』のほか、忠治を主人公にした『名月赤城山』などが有名で、新国劇・映画・芝居ではこれらの曲がよく流れました。また群馬県と栃木県で愛されている民謡の『八木節』は、忠治の一代記になっています。忠治は歌としても民衆の心をつかんだといえそうです。 よく知られた名セリフ 強きを挫き弱きを助ける存在は、いつの時代も注目を浴び、人々から愛されますよね。忠治は多くの犯罪に手を染めましたが、その反面、義理人情に厚く自分なりの正義に忠実な性格だったといえそうです。新国劇の演目でのセリフ「赤城の山も今宵限り、縄張りを捨て国を捨て、かわいい子分のてめえたちとも別れ別れになる首途(かどで)だ」が有名な忠治ですが、カリスマ性あふれるその生き様は、きっと後世にも語り継がれていくことでしょう。
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、何の腕に自信があったか。
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、剣の腕に自信があった。
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歴史
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、国定忠治である。 関所破りの罪で磔の刑に 派手に暴れまわっていた忠治ですが、役人の追及がいよいよ激しくなると、一家を解散して逃亡する決意を固めます。弘化3年(1846)再び赤城山に戻りますが、その頃にはかつての勢いはなく、さらには中風(脳卒中)で半身不随になっていました。忠治は子分に後を託し隠遁(いんとん)しましたが、嘉永3年(1850)ついに逮捕され、江戸の勘定奉行・池田頼方のもとに送られた後に磔の刑となります。適用された罪状は「関所破り」でした。忠治には賭博や殺人などあまりに罪状が多かったため、一番罪の重いものが適用されたといわれています。 こうして41年の人生に終止符を打った忠治ですが、その遺体は3日間さらされた後、何者かに盗まれました。これは国定村の養寿寺住職・法印貞然が密かに供養したといわれ、関東取締出役が探索を強化すると貞然は遺体を別の場所に埋め直したそうです。現在では、群馬県伊勢崎市国定町の金城山養寿寺と、曲輪町の善應寺に忠治の墓があります。また、長野県権堂町にある秋葉神社の境内にも、忠次にゆかりのある柳の木があったことから、墓が作られています。 武勇伝を元にした逸話 数々の犯罪に手を染めた忠治ですが、飢饉の際に民衆を救った武勇伝を持つなど、人々を魅了するカリスマ性があったことは確かでしょう。そんな忠治には、武勇伝とともに語られる逸話が残されています。 剣術に自信があった忠次 忠治は剣の腕に自信があったため、その当時日本で一番だと評判だった「北辰一刀流」に乗り込んで道場破りをしようとしました。負けたら最後の真剣勝負でしたが、対峙した千葉周作は忠治の構えを見て勝負の結果を悟ると、早々にその場を立ち去ったといいます。この態度にもちろん忠治は怒りましたが、門下生たちに諭され命拾いしたことを悟ったのだそうです。相手の方が一枚上手だったようですが、堂々と道場に乗り込む勇気は目をみはるものがありますね。 『遠州侠客伝』に残る逸話 忠治が遠州を旅していたときのこと、堂山の龍蔵という親分の世話を受けずに旅籠に泊まったことがありました。他の親分のところに泊まる際は、食事から眠り方まで決められた礼儀作法に従うのが当然で、面倒だからといって世話にならずに泊まるのはマナー違反でした。彼らの世界は、同業者間で使う挨拶を一言でも間違えたら斬られても仕方ないというほどルールが厳しかったのです。そのため龍蔵は「面子を潰された」と激怒し、命を奪おうと追いかけてきました。しかし忠治は相手が龍蔵だとわかると、「忠治の伊勢参りだ。共をするか」と言い残し、顔色一つ変えずに去っていったといいます。予想外の展開に呆気にとられた龍蔵でしたが、後にはこの時の忠治の度胸の良さを振り返って褒め称えたそうです。 創作作品として語られる忠次の魅力 逸話が多い忠治は創作作品でも人気を博しています。後世まで語り継がれるということは、それだけ忠治に魅力があるという証拠でしょう。 大衆演劇では定番の演目に 忠治は芝居や映画の世界で多く描かれ、大衆演劇や新国劇では定番の演目になっています。忠治の演目が人気を博している理由の一つは、迫力のある剣劇です。アクションものの映画が爽快なのと同じように、これは見せ場の一つといえるでしょう。しかし何より大きな理由は、やはり侠客としての生き様が人々の心を打つからだといえそうです。忠治の活躍の裏には、権力者たちが貧しい人々を苦しめていたという背景があります。民衆の中にある怒りを鎮める数々の行動を取った、忠治のヒーロー性に魅力を感じるのかもしれませんね。 歌にもなった国定忠治 忠治は芝居などの演目だけではなく、歌にもなっています。時代劇映画『浅太郎赤城の唄』の主題歌として作曲された『赤城の子守唄』のほか、忠治を主人公にした『名月赤城山』などが有名で、新国劇・映画・芝居ではこれらの曲がよく流れました。また群馬県と栃木県で愛されている民謡の『八木節』は、忠治の一代記になっています。忠治は歌としても民衆の心をつかんだといえそうです。 よく知られた名セリフ 強きを挫き弱きを助ける存在は、いつの時代も注目を浴び、人々から愛されますよね。忠治は多くの犯罪に手を染めましたが、その反面、義理人情に厚く自分なりの正義に忠実な性格だったといえそうです。新国劇の演目でのセリフ「赤城の山も今宵限り、縄張りを捨て国を捨て、かわいい子分のてめえたちとも別れ別れになる首途(かどで)だ」が有名な忠治ですが、カリスマ性あふれるその生き様は、きっと後世にも語り継がれていくことでしょう。
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、どこに乗り込んで道場破りをしようとしたか。
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、その当時日本で一番だと評判だった「北辰一刀流」に乗り込んで道場破りをしようとした。
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歴史
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、国定忠治である。 関所破りの罪で磔の刑に 派手に暴れまわっていた忠治ですが、役人の追及がいよいよ激しくなると、一家を解散して逃亡する決意を固めます。弘化3年(1846)再び赤城山に戻りますが、その頃にはかつての勢いはなく、さらには中風(脳卒中)で半身不随になっていました。忠治は子分に後を託し隠遁(いんとん)しましたが、嘉永3年(1850)ついに逮捕され、江戸の勘定奉行・池田頼方のもとに送られた後に磔の刑となります。適用された罪状は「関所破り」でした。忠治には賭博や殺人などあまりに罪状が多かったため、一番罪の重いものが適用されたといわれています。 こうして41年の人生に終止符を打った忠治ですが、その遺体は3日間さらされた後、何者かに盗まれました。これは国定村の養寿寺住職・法印貞然が密かに供養したといわれ、関東取締出役が探索を強化すると貞然は遺体を別の場所に埋め直したそうです。現在では、群馬県伊勢崎市国定町の金城山養寿寺と、曲輪町の善應寺に忠治の墓があります。また、長野県権堂町にある秋葉神社の境内にも、忠次にゆかりのある柳の木があったことから、墓が作られています。 武勇伝を元にした逸話 数々の犯罪に手を染めた忠治ですが、飢饉の際に民衆を救った武勇伝を持つなど、人々を魅了するカリスマ性があったことは確かでしょう。そんな忠治には、武勇伝とともに語られる逸話が残されています。 剣術に自信があった忠次 忠治は剣の腕に自信があったため、その当時日本で一番だと評判だった「北辰一刀流」に乗り込んで道場破りをしようとしました。負けたら最後の真剣勝負でしたが、対峙した千葉周作は忠治の構えを見て勝負の結果を悟ると、早々にその場を立ち去ったといいます。この態度にもちろん忠治は怒りましたが、門下生たちに諭され命拾いしたことを悟ったのだそうです。相手の方が一枚上手だったようですが、堂々と道場に乗り込む勇気は目をみはるものがありますね。 『遠州侠客伝』に残る逸話 忠治が遠州を旅していたときのこと、堂山の龍蔵という親分の世話を受けずに旅籠に泊まったことがありました。他の親分のところに泊まる際は、食事から眠り方まで決められた礼儀作法に従うのが当然で、面倒だからといって世話にならずに泊まるのはマナー違反でした。彼らの世界は、同業者間で使う挨拶を一言でも間違えたら斬られても仕方ないというほどルールが厳しかったのです。そのため龍蔵は「面子を潰された」と激怒し、命を奪おうと追いかけてきました。しかし忠治は相手が龍蔵だとわかると、「忠治の伊勢参りだ。共をするか」と言い残し、顔色一つ変えずに去っていったといいます。予想外の展開に呆気にとられた龍蔵でしたが、後にはこの時の忠治の度胸の良さを振り返って褒め称えたそうです。 創作作品として語られる忠次の魅力 逸話が多い忠治は創作作品でも人気を博しています。後世まで語り継がれるということは、それだけ忠治に魅力があるという証拠でしょう。 大衆演劇では定番の演目に 忠治は芝居や映画の世界で多く描かれ、大衆演劇や新国劇では定番の演目になっています。忠治の演目が人気を博している理由の一つは、迫力のある剣劇です。アクションものの映画が爽快なのと同じように、これは見せ場の一つといえるでしょう。しかし何より大きな理由は、やはり侠客としての生き様が人々の心を打つからだといえそうです。忠治の活躍の裏には、権力者たちが貧しい人々を苦しめていたという背景があります。民衆の中にある怒りを鎮める数々の行動を取った、忠治のヒーロー性に魅力を感じるのかもしれませんね。 歌にもなった国定忠治 忠治は芝居などの演目だけではなく、歌にもなっています。時代劇映画『浅太郎赤城の唄』の主題歌として作曲された『赤城の子守唄』のほか、忠治を主人公にした『名月赤城山』などが有名で、新国劇・映画・芝居ではこれらの曲がよく流れました。また群馬県と栃木県で愛されている民謡の『八木節』は、忠治の一代記になっています。忠治は歌としても民衆の心をつかんだといえそうです。 よく知られた名セリフ 強きを挫き弱きを助ける存在は、いつの時代も注目を浴び、人々から愛されますよね。忠治は多くの犯罪に手を染めましたが、その反面、義理人情に厚く自分なりの正義に忠実な性格だったといえそうです。新国劇の演目でのセリフ「赤城の山も今宵限り、縄張りを捨て国を捨て、かわいい子分のてめえたちとも別れ別れになる首途(かどで)だ」が有名な忠治ですが、カリスマ性あふれるその生き様は、きっと後世にも語り継がれていくことでしょう。
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、多くの犯罪に手を染めましたが、どのような性格だったか。
上州から信州にかけて「盗区」として支配していた博徒として有名な人物は、多くの犯罪に手を染めましたが、その反面、義理人情に厚く自分なりの正義に忠実な性格だった。
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歴史
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、平賀源内である。 平賀源内は、享保13(1728)年に現在の香川県、高松藩の中心地から離れた志度と呼ばれる港町で下級武士の親の元に生まれました。 源内の運命は、24歳の時に大きく変わります。高松藩から長崎へ遊学することになったのです。 当時の長崎は、鎖国政策のなか、唯一海外に開かれた貿易港。オランダから中国等々を経て、珍しい貿易品や工業品が輸入されていました。 そこで望遠鏡や映写機という精密機器、見たこともない動物が描かれた学術書、医療書などに出会い、世界の広さを感じた源内はこう感じます。 「藩の枠にいては何もなす事が出来ない」と。長崎から戻るや否や、源内は破天荒な行動に出ます。藩の仕事を辞め、源内は浪人になり、大都会江戸へ旅立ったのです。 事業家としての才能を発揮し「全国物産展」を実現 宝暦6(1756)年、源内は28歳の頃、江戸に到着します。この時代の江戸は、才能溢れる文化人や学者等が集まり、学問や芸術の成長が著しい頃でした。 源内は、ここでも画期的なアイディアを捻り出し、他の学者や研究者の度肝を抜きます。それは、全国の珍しい物産を集め、藩の壁を超えた物産展を開くことです。交通や物流がまだまだ未発達な江戸時代、全国から物産を集めるは困難を極めました。この困難に対し、まずは全国に散らばる飛脚問屋と契約し独自の物流網を整備しました。
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、いつ生まれたか。
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、享保13(1728)年に生まれた。
JCRRAG_019152
歴史
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、平賀源内である。 平賀源内は、享保13(1728)年に現在の香川県、高松藩の中心地から離れた志度と呼ばれる港町で下級武士の親の元に生まれました。 源内の運命は、24歳の時に大きく変わります。高松藩から長崎へ遊学することになったのです。 当時の長崎は、鎖国政策のなか、唯一海外に開かれた貿易港。オランダから中国等々を経て、珍しい貿易品や工業品が輸入されていました。 そこで望遠鏡や映写機という精密機器、見たこともない動物が描かれた学術書、医療書などに出会い、世界の広さを感じた源内はこう感じます。 「藩の枠にいては何もなす事が出来ない」と。長崎から戻るや否や、源内は破天荒な行動に出ます。藩の仕事を辞め、源内は浪人になり、大都会江戸へ旅立ったのです。 事業家としての才能を発揮し「全国物産展」を実現 宝暦6(1756)年、源内は28歳の頃、江戸に到着します。この時代の江戸は、才能溢れる文化人や学者等が集まり、学問や芸術の成長が著しい頃でした。 源内は、ここでも画期的なアイディアを捻り出し、他の学者や研究者の度肝を抜きます。それは、全国の珍しい物産を集め、藩の壁を超えた物産展を開くことです。交通や物流がまだまだ未発達な江戸時代、全国から物産を集めるは困難を極めました。この困難に対し、まずは全国に散らばる飛脚問屋と契約し独自の物流網を整備しました。
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、どこで生まれたか。
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、現在の香川県、高松藩の中心地から離れた志度と呼ばれる港町で生まれた。
JCRRAG_019153
歴史
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、平賀源内である。 平賀源内は、享保13(1728)年に現在の香川県、高松藩の中心地から離れた志度と呼ばれる港町で下級武士の親の元に生まれました。 源内の運命は、24歳の時に大きく変わります。高松藩から長崎へ遊学することになったのです。 当時の長崎は、鎖国政策のなか、唯一海外に開かれた貿易港。オランダから中国等々を経て、珍しい貿易品や工業品が輸入されていました。 そこで望遠鏡や映写機という精密機器、見たこともない動物が描かれた学術書、医療書などに出会い、世界の広さを感じた源内はこう感じます。 「藩の枠にいては何もなす事が出来ない」と。長崎から戻るや否や、源内は破天荒な行動に出ます。藩の仕事を辞め、源内は浪人になり、大都会江戸へ旅立ったのです。 事業家としての才能を発揮し「全国物産展」を実現 宝暦6(1756)年、源内は28歳の頃、江戸に到着します。この時代の江戸は、才能溢れる文化人や学者等が集まり、学問や芸術の成長が著しい頃でした。 源内は、ここでも画期的なアイディアを捻り出し、他の学者や研究者の度肝を抜きます。それは、全国の珍しい物産を集め、藩の壁を超えた物産展を開くことです。交通や物流がまだまだ未発達な江戸時代、全国から物産を集めるは困難を極めました。この困難に対し、まずは全国に散らばる飛脚問屋と契約し独自の物流網を整備しました。
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、どのような親の元に生まれたか。
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、下級武士の親の元に生まれた。
JCRRAG_019154
歴史
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、平賀源内である。 平賀源内は、享保13(1728)年に現在の香川県、高松藩の中心地から離れた志度と呼ばれる港町で下級武士の親の元に生まれました。 源内の運命は、24歳の時に大きく変わります。高松藩から長崎へ遊学することになったのです。 当時の長崎は、鎖国政策のなか、唯一海外に開かれた貿易港。オランダから中国等々を経て、珍しい貿易品や工業品が輸入されていました。 そこで望遠鏡や映写機という精密機器、見たこともない動物が描かれた学術書、医療書などに出会い、世界の広さを感じた源内はこう感じます。 「藩の枠にいては何もなす事が出来ない」と。長崎から戻るや否や、源内は破天荒な行動に出ます。藩の仕事を辞め、源内は浪人になり、大都会江戸へ旅立ったのです。 事業家としての才能を発揮し「全国物産展」を実現 宝暦6(1756)年、源内は28歳の頃、江戸に到着します。この時代の江戸は、才能溢れる文化人や学者等が集まり、学問や芸術の成長が著しい頃でした。 源内は、ここでも画期的なアイディアを捻り出し、他の学者や研究者の度肝を抜きます。それは、全国の珍しい物産を集め、藩の壁を超えた物産展を開くことです。交通や物流がまだまだ未発達な江戸時代、全国から物産を集めるは困難を極めました。この困難に対し、まずは全国に散らばる飛脚問屋と契約し独自の物流網を整備しました。
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、浪人になり、どこへ旅立ったか。
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、浪人になり、大都会江戸へ旅立った。
JCRRAG_019155
歴史
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、平賀源内である。 平賀源内は、享保13(1728)年に現在の香川県、高松藩の中心地から離れた志度と呼ばれる港町で下級武士の親の元に生まれました。 源内の運命は、24歳の時に大きく変わります。高松藩から長崎へ遊学することになったのです。 当時の長崎は、鎖国政策のなか、唯一海外に開かれた貿易港。オランダから中国等々を経て、珍しい貿易品や工業品が輸入されていました。 そこで望遠鏡や映写機という精密機器、見たこともない動物が描かれた学術書、医療書などに出会い、世界の広さを感じた源内はこう感じます。 「藩の枠にいては何もなす事が出来ない」と。長崎から戻るや否や、源内は破天荒な行動に出ます。藩の仕事を辞め、源内は浪人になり、大都会江戸へ旅立ったのです。 事業家としての才能を発揮し「全国物産展」を実現 宝暦6(1756)年、源内は28歳の頃、江戸に到着します。この時代の江戸は、才能溢れる文化人や学者等が集まり、学問や芸術の成長が著しい頃でした。 源内は、ここでも画期的なアイディアを捻り出し、他の学者や研究者の度肝を抜きます。それは、全国の珍しい物産を集め、藩の壁を超えた物産展を開くことです。交通や物流がまだまだ未発達な江戸時代、全国から物産を集めるは困難を極めました。この困難に対し、まずは全国に散らばる飛脚問屋と契約し独自の物流網を整備しました。
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、事業家としての才能を発揮し何を実現したか。
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、事業家としての才能を発揮し「全国物産展」を実現した。
JCRRAG_019156
歴史
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、平賀源内である。 事業家としての才能を発揮し「全国物産展」を実現し、また画期的なアイディアを捻り出し、全国に散らばる飛脚問屋と契約し独自の物流網を整備しました。 さらに引札(ひきふだ)と呼ばれるチラシを作り、全国の学者に物産の提供を呼びかけました。引札には全国約20箇所の地名と取次所(とりつぎしょ)が書かれ、そこから物産を中継して江戸に運ぶネットワークを構築したのです。 さらに、物産を送りやすくするために、江戸での着払いで物産が届くよう、出品者に対して細かな気配りをしています。 物産展引札には、こう書かれています。 「日本の国内の産物を出し尽くせば、中国、オランダなどから輸入しなくとも事足りるはずである」 輸入に頼らず、国内の物産で産業を起こして、国益に繋げる。それこそ源内が目指した目標です。 文芸家として人々の心を魅了する この革命児は戯作家(げさくか)としても有名です。 戯作とは当時でいう大衆小説事を指しています。源内の代表作品として挙げられるのが、『放屁論(ほうひろん)』という作品です。これは、オナラの音を自在に操り人気を博していた芸人を、独自の視点で褒めたたえたエッセイ集でした。 また、『根南志具佐(ねなしぐさ)』は源内のデビュー作。あの世とこの世を行き来し、閻魔大王・歌舞伎の女形(おんながた)である瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)・カッパという異色のメンツが織り成すドタバタ恋愛コメディという奇想天外なお話を書いています。 偉大なる発明は理解されず? そして何より発明家としても有名です。量程器(りょうていき)と呼ばれる腰に付ける歩数計等を発明した他、火浣布(かかんぷ)と呼ばれる火に燃えない布も発明。江戸幕府などに売り込んだものの、他の仕事に夢中になってしまったようで、それ以後どうなったかは記録に残っていません。源内の周りにいる人達は振り回されて、大変だったのではないでしょうか? 人生の晩年には、人工的に静電気を発する装置・エレキテルの復元に着手します。その後、6年に及ぶ苦闘の末、壊れたエレキテルの復元に成功します。源内がエレキテルの復元に成功したことで、外国から高価な製品を輸入をしなくても、日本国内で作ることができることを人々に知らしめました。 しかし、当時の庶民からしてみたら、電気と言われても暗がりに光る火にしか見えず、その偉大さが伝わらなかったようです。時代の先を行く革命児ならではの苦悩ですね。 革命児の型破りで孤独な最期 源内は徐々に追い詰められていきます。 「功ならず、名ばかり遂げて、年暮れぬ」源内が友人に送った苦しみの一句です。早過ぎた天才の悲劇、源内は些細なことで怒りやすくなり人々の心は離れていきます。 エレキテル復元から3年後の安永8(1779)年、人間不信の境地に達していた源内は、勘違いが元で人を殺めてしまいます。 捕らえられた源内は獄中で破傷風に掛かり、52歳で死去した。江戸を賑わせた天才の最期はとても孤独なものでした。
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、何を作り、全国の学者に物産の提供を呼びかけたか。
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、引札(ひきふだ)と呼ばれるチラシを作り、全国の学者に物産の提供を呼びかけた。
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歴史
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、平賀源内である。 事業家としての才能を発揮し「全国物産展」を実現し、また画期的なアイディアを捻り出し、全国に散らばる飛脚問屋と契約し独自の物流網を整備しました。 さらに引札(ひきふだ)と呼ばれるチラシを作り、全国の学者に物産の提供を呼びかけました。引札には全国約20箇所の地名と取次所(とりつぎしょ)が書かれ、そこから物産を中継して江戸に運ぶネットワークを構築したのです。 さらに、物産を送りやすくするために、江戸での着払いで物産が届くよう、出品者に対して細かな気配りをしています。 物産展引札には、こう書かれています。 「日本の国内の産物を出し尽くせば、中国、オランダなどから輸入しなくとも事足りるはずである」 輸入に頼らず、国内の物産で産業を起こして、国益に繋げる。それこそ源内が目指した目標です。 文芸家として人々の心を魅了する この革命児は戯作家(げさくか)としても有名です。 戯作とは当時でいう大衆小説事を指しています。源内の代表作品として挙げられるのが、『放屁論(ほうひろん)』という作品です。これは、オナラの音を自在に操り人気を博していた芸人を、独自の視点で褒めたたえたエッセイ集でした。 また、『根南志具佐(ねなしぐさ)』は源内のデビュー作。あの世とこの世を行き来し、閻魔大王・歌舞伎の女形(おんながた)である瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)・カッパという異色のメンツが織り成すドタバタ恋愛コメディという奇想天外なお話を書いています。 偉大なる発明は理解されず? そして何より発明家としても有名です。量程器(りょうていき)と呼ばれる腰に付ける歩数計等を発明した他、火浣布(かかんぷ)と呼ばれる火に燃えない布も発明。江戸幕府などに売り込んだものの、他の仕事に夢中になってしまったようで、それ以後どうなったかは記録に残っていません。源内の周りにいる人達は振り回されて、大変だったのではないでしょうか? 人生の晩年には、人工的に静電気を発する装置・エレキテルの復元に着手します。その後、6年に及ぶ苦闘の末、壊れたエレキテルの復元に成功します。源内がエレキテルの復元に成功したことで、外国から高価な製品を輸入をしなくても、日本国内で作ることができることを人々に知らしめました。 しかし、当時の庶民からしてみたら、電気と言われても暗がりに光る火にしか見えず、その偉大さが伝わらなかったようです。時代の先を行く革命児ならではの苦悩ですね。 革命児の型破りで孤独な最期 源内は徐々に追い詰められていきます。 「功ならず、名ばかり遂げて、年暮れぬ」源内が友人に送った苦しみの一句です。早過ぎた天才の悲劇、源内は些細なことで怒りやすくなり人々の心は離れていきます。 エレキテル復元から3年後の安永8(1779)年、人間不信の境地に達していた源内は、勘違いが元で人を殺めてしまいます。 捕らえられた源内は獄中で破傷風に掛かり、52歳で死去した。江戸を賑わせた天才の最期はとても孤独なものでした。
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、どこで死去したか。
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、獄中で死去した。
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歴史
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、平賀源内である。 事業家としての才能を発揮し「全国物産展」を実現し、また画期的なアイディアを捻り出し、全国に散らばる飛脚問屋と契約し独自の物流網を整備しました。 さらに引札(ひきふだ)と呼ばれるチラシを作り、全国の学者に物産の提供を呼びかけました。引札には全国約20箇所の地名と取次所(とりつぎしょ)が書かれ、そこから物産を中継して江戸に運ぶネットワークを構築したのです。 さらに、物産を送りやすくするために、江戸での着払いで物産が届くよう、出品者に対して細かな気配りをしています。 物産展引札には、こう書かれています。 「日本の国内の産物を出し尽くせば、中国、オランダなどから輸入しなくとも事足りるはずである」 輸入に頼らず、国内の物産で産業を起こして、国益に繋げる。それこそ源内が目指した目標です。 文芸家として人々の心を魅了する この革命児は戯作家(げさくか)としても有名です。 戯作とは当時でいう大衆小説事を指しています。源内の代表作品として挙げられるのが、『放屁論(ほうひろん)』という作品です。これは、オナラの音を自在に操り人気を博していた芸人を、独自の視点で褒めたたえたエッセイ集でした。 また、『根南志具佐(ねなしぐさ)』は源内のデビュー作。あの世とこの世を行き来し、閻魔大王・歌舞伎の女形(おんながた)である瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)・カッパという異色のメンツが織り成すドタバタ恋愛コメディという奇想天外なお話を書いています。 偉大なる発明は理解されず? そして何より発明家としても有名です。量程器(りょうていき)と呼ばれる腰に付ける歩数計等を発明した他、火浣布(かかんぷ)と呼ばれる火に燃えない布も発明。江戸幕府などに売り込んだものの、他の仕事に夢中になってしまったようで、それ以後どうなったかは記録に残っていません。源内の周りにいる人達は振り回されて、大変だったのではないでしょうか? 人生の晩年には、人工的に静電気を発する装置・エレキテルの復元に着手します。その後、6年に及ぶ苦闘の末、壊れたエレキテルの復元に成功します。源内がエレキテルの復元に成功したことで、外国から高価な製品を輸入をしなくても、日本国内で作ることができることを人々に知らしめました。 しかし、当時の庶民からしてみたら、電気と言われても暗がりに光る火にしか見えず、その偉大さが伝わらなかったようです。時代の先を行く革命児ならではの苦悩ですね。 革命児の型破りで孤独な最期 源内は徐々に追い詰められていきます。 「功ならず、名ばかり遂げて、年暮れぬ」源内が友人に送った苦しみの一句です。早過ぎた天才の悲劇、源内は些細なことで怒りやすくなり人々の心は離れていきます。 エレキテル復元から3年後の安永8(1779)年、人間不信の境地に達していた源内は、勘違いが元で人を殺めてしまいます。 捕らえられた源内は獄中で破傷風に掛かり、52歳で死去した。江戸を賑わせた天才の最期はとても孤独なものでした。
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、何に掛かり死去したか。
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、破傷風に掛かり死去した。
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鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、平賀源内である。 事業家としての才能を発揮し「全国物産展」を実現し、また画期的なアイディアを捻り出し、全国に散らばる飛脚問屋と契約し独自の物流網を整備しました。 さらに引札(ひきふだ)と呼ばれるチラシを作り、全国の学者に物産の提供を呼びかけました。引札には全国約20箇所の地名と取次所(とりつぎしょ)が書かれ、そこから物産を中継して江戸に運ぶネットワークを構築したのです。 さらに、物産を送りやすくするために、江戸での着払いで物産が届くよう、出品者に対して細かな気配りをしています。 物産展引札には、こう書かれています。 「日本の国内の産物を出し尽くせば、中国、オランダなどから輸入しなくとも事足りるはずである」 輸入に頼らず、国内の物産で産業を起こして、国益に繋げる。それこそ源内が目指した目標です。 文芸家として人々の心を魅了する この革命児は戯作家(げさくか)としても有名です。 戯作とは当時でいう大衆小説事を指しています。源内の代表作品として挙げられるのが、『放屁論(ほうひろん)』という作品です。これは、オナラの音を自在に操り人気を博していた芸人を、独自の視点で褒めたたえたエッセイ集でした。 また、『根南志具佐(ねなしぐさ)』は源内のデビュー作。あの世とこの世を行き来し、閻魔大王・歌舞伎の女形(おんながた)である瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)・カッパという異色のメンツが織り成すドタバタ恋愛コメディという奇想天外なお話を書いています。 偉大なる発明は理解されず? そして何より発明家としても有名です。量程器(りょうていき)と呼ばれる腰に付ける歩数計等を発明した他、火浣布(かかんぷ)と呼ばれる火に燃えない布も発明。江戸幕府などに売り込んだものの、他の仕事に夢中になってしまったようで、それ以後どうなったかは記録に残っていません。源内の周りにいる人達は振り回されて、大変だったのではないでしょうか? 人生の晩年には、人工的に静電気を発する装置・エレキテルの復元に着手します。その後、6年に及ぶ苦闘の末、壊れたエレキテルの復元に成功します。源内がエレキテルの復元に成功したことで、外国から高価な製品を輸入をしなくても、日本国内で作ることができることを人々に知らしめました。 しかし、当時の庶民からしてみたら、電気と言われても暗がりに光る火にしか見えず、その偉大さが伝わらなかったようです。時代の先を行く革命児ならではの苦悩ですね。 革命児の型破りで孤独な最期 源内は徐々に追い詰められていきます。 「功ならず、名ばかり遂げて、年暮れぬ」源内が友人に送った苦しみの一句です。早過ぎた天才の悲劇、源内は些細なことで怒りやすくなり人々の心は離れていきます。 エレキテル復元から3年後の安永8(1779)年、人間不信の境地に達していた源内は、勘違いが元で人を殺めてしまいます。 捕らえられた源内は獄中で破傷風に掛かり、52歳で死去した。江戸を賑わせた天才の最期はとても孤独なものでした。
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、何歳で死去したか。
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、52歳で死去した。
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歴史
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、平賀源内である。 事業家としての才能を発揮し「全国物産展」を実現し、また画期的なアイディアを捻り出し、全国に散らばる飛脚問屋と契約し独自の物流網を整備しました。 さらに引札(ひきふだ)と呼ばれるチラシを作り、全国の学者に物産の提供を呼びかけました。引札には全国約20箇所の地名と取次所(とりつぎしょ)が書かれ、そこから物産を中継して江戸に運ぶネットワークを構築したのです。 さらに、物産を送りやすくするために、江戸での着払いで物産が届くよう、出品者に対して細かな気配りをしています。 物産展引札には、こう書かれています。 「日本の国内の産物を出し尽くせば、中国、オランダなどから輸入しなくとも事足りるはずである」 輸入に頼らず、国内の物産で産業を起こして、国益に繋げる。それこそ源内が目指した目標です。 文芸家として人々の心を魅了する この革命児は戯作家(げさくか)としても有名です。 戯作とは当時でいう大衆小説事を指しています。源内の代表作品として挙げられるのが、『放屁論(ほうひろん)』という作品です。これは、オナラの音を自在に操り人気を博していた芸人を、独自の視点で褒めたたえたエッセイ集でした。 また、『根南志具佐(ねなしぐさ)』は源内のデビュー作。あの世とこの世を行き来し、閻魔大王・歌舞伎の女形(おんながた)である瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)・カッパという異色のメンツが織り成すドタバタ恋愛コメディという奇想天外なお話を書いています。 偉大なる発明は理解されず? そして何より発明家としても有名です。量程器(りょうていき)と呼ばれる腰に付ける歩数計等を発明した他、火浣布(かかんぷ)と呼ばれる火に燃えない布も発明。江戸幕府などに売り込んだものの、他の仕事に夢中になってしまったようで、それ以後どうなったかは記録に残っていません。源内の周りにいる人達は振り回されて、大変だったのではないでしょうか? 人生の晩年には、人工的に静電気を発する装置・エレキテルの復元に着手します。その後、6年に及ぶ苦闘の末、壊れたエレキテルの復元に成功します。源内がエレキテルの復元に成功したことで、外国から高価な製品を輸入をしなくても、日本国内で作ることができることを人々に知らしめました。 しかし、当時の庶民からしてみたら、電気と言われても暗がりに光る火にしか見えず、その偉大さが伝わらなかったようです。時代の先を行く革命児ならではの苦悩ですね。 革命児の型破りで孤独な最期 源内は徐々に追い詰められていきます。 「功ならず、名ばかり遂げて、年暮れぬ」源内が友人に送った苦しみの一句です。早過ぎた天才の悲劇、源内は些細なことで怒りやすくなり人々の心は離れていきます。 エレキテル復元から3年後の安永8(1779)年、人間不信の境地に達していた源内は、勘違いが元で人を殺めてしまいます。 捕らえられた源内は獄中で破傷風に掛かり、52歳で死去した。江戸を賑わせた天才の最期はとても孤独なものでした。
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、何の復元に着手したか。
鳩渓、風来山人など数多くのペンネームを持つ発明家は、人工的に静電気を発する装置・エレキテルの復元に着手した。
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歴史
新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、井上源三郎である。 生い立ち〜試衛館時代 まずは源三郎の生い立ちから、試衛館時代のエピソードをご紹介します。 武蔵の日野宿に生まれる 源三郎は、文政12年(1829)3月1日に八王子千人同心頭を世話する井上藤左衛門の三男として武蔵国日野宿北原で生まれました。井上家の先祖は今川氏真・武田信玄・武田勝頼に仕えた「井上掃部頭」であり、武田家滅亡の際に日野に移住したという伝承が残っています。 源三郎は子供のころ、八王子千人同心のひとりである日野義貴の寺子屋で学問を学びました。弘化4年(1847)頃、2人の兄に続いて天然理心流3代宗家・近藤周助(近藤勇の養父)の道場に入門。土方歳三の義兄である佐藤彦五郎の手解きを受け、農業の合間をみては剣術修行に励んだとされています。 近藤勇・土方歳三らと稽古に励んだ試衛館時代 勇の兄弟子にあたる源三郎は、その後も日野で勇や歳三、沖田総司ら試衛館の仲間と剣術に励みました。この日野試衛館にて、後の新選組の中核が作られていったとされています。源三郎は「源さん」の愛称で親しまれ、年嵩のイメージが強いのですが、近藤勇より5歳年上なだけで、他の隊士と比べてもそれほど年齢が離れているわけではありません。 なお、井上家の分家にあたる井上林太郎は総司の姉に婿入りし、沖田家を継いでいます。総司の母が日野にいた時期もあり、4歳ごろの総司が親戚でもあった源三郎の家によく遊びに来ていたこともわかっています。 源三郎は試衛館入門から約13年の年月をかけ、万延元年(1860)に天然理心流の免許皆伝となりました。派手さはないものの、実直な努力家であることがうかがえます。
新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、いつ生まれたか。
新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、文政12年(1829)3月1日に生まれた。
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歴史
新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、井上源三郎である。 生い立ち〜試衛館時代 まずは源三郎の生い立ちから、試衛館時代のエピソードをご紹介します。 武蔵の日野宿に生まれる 源三郎は、文政12年(1829)3月1日に八王子千人同心頭を世話する井上藤左衛門の三男として武蔵国日野宿北原で生まれました。井上家の先祖は今川氏真・武田信玄・武田勝頼に仕えた「井上掃部頭」であり、武田家滅亡の際に日野に移住したという伝承が残っています。 源三郎は子供のころ、八王子千人同心のひとりである日野義貴の寺子屋で学問を学びました。弘化4年(1847)頃、2人の兄に続いて天然理心流3代宗家・近藤周助(近藤勇の養父)の道場に入門。土方歳三の義兄である佐藤彦五郎の手解きを受け、農業の合間をみては剣術修行に励んだとされています。 近藤勇・土方歳三らと稽古に励んだ試衛館時代 勇の兄弟子にあたる源三郎は、その後も日野で勇や歳三、沖田総司ら試衛館の仲間と剣術に励みました。この日野試衛館にて、後の新選組の中核が作られていったとされています。源三郎は「源さん」の愛称で親しまれ、年嵩のイメージが強いのですが、近藤勇より5歳年上なだけで、他の隊士と比べてもそれほど年齢が離れているわけではありません。 なお、井上家の分家にあたる井上林太郎は総司の姉に婿入りし、沖田家を継いでいます。総司の母が日野にいた時期もあり、4歳ごろの総司が親戚でもあった源三郎の家によく遊びに来ていたこともわかっています。 源三郎は試衛館入門から約13年の年月をかけ、万延元年(1860)に天然理心流の免許皆伝となりました。派手さはないものの、実直な努力家であることがうかがえます。
新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、誰の三男として生まれたか。
新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、八王子千人同心頭を世話する井上藤左衛門の三男として生まれた。
JCRRAG_019163
歴史
新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、井上源三郎である。 生い立ち〜試衛館時代 まずは源三郎の生い立ちから、試衛館時代のエピソードをご紹介します。 武蔵の日野宿に生まれる 源三郎は、文政12年(1829)3月1日に八王子千人同心頭を世話する井上藤左衛門の三男として武蔵国日野宿北原で生まれました。井上家の先祖は今川氏真・武田信玄・武田勝頼に仕えた「井上掃部頭」であり、武田家滅亡の際に日野に移住したという伝承が残っています。 源三郎は子供のころ、八王子千人同心のひとりである日野義貴の寺子屋で学問を学びました。弘化4年(1847)頃、2人の兄に続いて天然理心流3代宗家・近藤周助(近藤勇の養父)の道場に入門。土方歳三の義兄である佐藤彦五郎の手解きを受け、農業の合間をみては剣術修行に励んだとされています。 近藤勇・土方歳三らと稽古に励んだ試衛館時代 勇の兄弟子にあたる源三郎は、その後も日野で勇や歳三、沖田総司ら試衛館の仲間と剣術に励みました。この日野試衛館にて、後の新選組の中核が作られていったとされています。源三郎は「源さん」の愛称で親しまれ、年嵩のイメージが強いのですが、近藤勇より5歳年上なだけで、他の隊士と比べてもそれほど年齢が離れているわけではありません。 なお、井上家の分家にあたる井上林太郎は総司の姉に婿入りし、沖田家を継いでいます。総司の母が日野にいた時期もあり、4歳ごろの総司が親戚でもあった源三郎の家によく遊びに来ていたこともわかっています。 源三郎は試衛館入門から約13年の年月をかけ、万延元年(1860)に天然理心流の免許皆伝となりました。派手さはないものの、実直な努力家であることがうかがえます。
新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、どこで生まれたか。
新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、武蔵国日野宿北原で生まれた。
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新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、井上源三郎である。 生い立ち〜試衛館時代 まずは源三郎の生い立ちから、試衛館時代のエピソードをご紹介します。 武蔵の日野宿に生まれる 源三郎は、文政12年(1829)3月1日に八王子千人同心頭を世話する井上藤左衛門の三男として武蔵国日野宿北原で生まれました。井上家の先祖は今川氏真・武田信玄・武田勝頼に仕えた「井上掃部頭」であり、武田家滅亡の際に日野に移住したという伝承が残っています。 源三郎は子供のころ、八王子千人同心のひとりである日野義貴の寺子屋で学問を学びました。弘化4年(1847)頃、2人の兄に続いて天然理心流3代宗家・近藤周助(近藤勇の養父)の道場に入門。土方歳三の義兄である佐藤彦五郎の手解きを受け、農業の合間をみては剣術修行に励んだとされています。 近藤勇・土方歳三らと稽古に励んだ試衛館時代 勇の兄弟子にあたる源三郎は、その後も日野で勇や歳三、沖田総司ら試衛館の仲間と剣術に励みました。この日野試衛館にて、後の新選組の中核が作られていったとされています。源三郎は「源さん」の愛称で親しまれ、年嵩のイメージが強いのですが、近藤勇より5歳年上なだけで、他の隊士と比べてもそれほど年齢が離れているわけではありません。 なお、井上家の分家にあたる井上林太郎は総司の姉に婿入りし、沖田家を継いでいます。総司の母が日野にいた時期もあり、4歳ごろの総司が親戚でもあった源三郎の家によく遊びに来ていたこともわかっています。 源三郎は試衛館入門から約13年の年月をかけ、万延元年(1860)に天然理心流の免許皆伝となりました。派手さはないものの、実直な努力家であることがうかがえます。
新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、子供のころ、どこで学問を学んだか。
新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、子供のころ、八王子千人同心のひとりである日野義貴の寺子屋で学問を学んだ。
JCRRAG_019165
歴史
新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、井上源三郎である。 生い立ち〜試衛館時代 まずは源三郎の生い立ちから、試衛館時代のエピソードをご紹介します。 武蔵の日野宿に生まれる 源三郎は、文政12年(1829)3月1日に八王子千人同心頭を世話する井上藤左衛門の三男として武蔵国日野宿北原で生まれました。井上家の先祖は今川氏真・武田信玄・武田勝頼に仕えた「井上掃部頭」であり、武田家滅亡の際に日野に移住したという伝承が残っています。 源三郎は子供のころ、八王子千人同心のひとりである日野義貴の寺子屋で学問を学びました。弘化4年(1847)頃、2人の兄に続いて天然理心流3代宗家・近藤周助(近藤勇の養父)の道場に入門。土方歳三の義兄である佐藤彦五郎の手解きを受け、農業の合間をみては剣術修行に励んだとされています。 近藤勇・土方歳三らと稽古に励んだ試衛館時代 勇の兄弟子にあたる源三郎は、その後も日野で勇や歳三、沖田総司ら試衛館の仲間と剣術に励みました。この日野試衛館にて、後の新選組の中核が作られていったとされています。源三郎は「源さん」の愛称で親しまれ、年嵩のイメージが強いのですが、近藤勇より5歳年上なだけで、他の隊士と比べてもそれほど年齢が離れているわけではありません。 なお、井上家の分家にあたる井上林太郎は総司の姉に婿入りし、沖田家を継いでいます。総司の母が日野にいた時期もあり、4歳ごろの総司が親戚でもあった源三郎の家によく遊びに来ていたこともわかっています。 源三郎は試衛館入門から約13年の年月をかけ、万延元年(1860)に天然理心流の免許皆伝となりました。派手さはないものの、実直な努力家であることがうかがえます。
新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、何という愛称で親しまれたか。
新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、「源さん」の愛称で親しまれた。
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新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、井上源三郎である。 新選組での活躍 源三郎の、新選組での活躍についてご紹介します。 浪士組参加〜芹沢派の粛清 文久2年(1862)2月、源三郎は14代将軍・徳川家茂の上洛警護を行う「浪士組」に勇・歳三らと参加しました。日野からは総司の義兄で源三郎の親戚にあたる林太郎も参加しています。しかし、浪士組を立ち上げた清河八郎と、後の新選組となる勇・芹沢鴨らの思想の違いにより、源三郎を含む試衛館一派は江戸に帰還する清河らと分裂し、京都に残留して壬生浪士となりました。 文久3年(1863)には「新選組」の隊名をもらい、派閥争いの末に芹沢一派が粛清されると、古参幹部のひとりとして副長助勤に就任しました。源三郎は対外的な交渉も行っていたとされています。 池田屋事件 新選組の歴史の中でも特に有名な、元治元年(1864)の池田屋事件。源三郎は歳三の支隊指揮を務めており、勇の隊が少人数で斬り込んだのち加勢として駆けつけました。池田屋に到着するなり2階に素早く駆け上がり、長州藩士1人を切り倒し8人を捕縛したといわれています。いつも物静かだった源三郎が戦で武功を上げる様子は幹部仲間にとっても驚がくだったようで、のちに永倉新八が語っているほどです。 六番隊組長としての働き 慶応元年(1865)6月には六番隊組長に任命され、慶応3年(1867)6月には新選組が幕府直参となったことで、副長助勤の源三郎は70俵3人扶持(給料)となります。慶応3年(1867)10月には歳三と江戸に戻り、新入隊士の募集を行いました。このとき、次兄・松五郎の息子である井上泰助が隊士に加わります。同時期、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、王政復古が決定。旧幕府側への風当たりはますます強くなっていきました。 鳥羽・伏見の戦い 鳥羽・伏見の戦いにおける源三郎の様子と、最期についてご紹介します。 淀千両松での戦死 慶応4年(1868)1月3日、旧幕府軍1万5000人が鳥羽街道を京都に向けて進み、薩摩軍と開戦。新選組もこの戦いに巻き込まれていきます。1月5日には淀千両松で薩摩軍と激突。鉄砲や大砲など近代兵器をそろえた薩摩軍に対し、新選組の装備は刀や槍がメインでした。撤退命令が出ていたにもかかわらず、源三郎をはじめとする新選組は「幕府への恩を返すときは今である」として果敢に戦い続けます。 源三郎は放棄された大砲を奪って応戦するなど善戦しますが、薩摩軍の銃弾を腹部に受けて戦死。享年40歳でした。共に戦っていた甥・泰助は「叔父さんは、撃たれて倒れると手当をする間もなく息を引き取ってしまった」とのちに語っています。源三郎が戦死した地には「幕軍戦死者埋葬地」の碑が建てられています。 甥・井上泰助が首を持ち帰るも…… 源三郎の最期を看取った泰助はその後、首だけでも敵に奪われる前に持ち帰ろうとしましたが、戦いの最中で自分や仲間の命も危なくなったため、仲間から諭されて戦場近くの寺院の境内に首と刀を埋葬した、というエピソードがあります。 寺院の正確な場所は長らく不明とされていましたが、のちに郷土史家と新選組研究家の調査により、黒染(現在の京都市伏見区)にある欣浄寺という寺院ではないかと推測されています。なお、墨染欣浄寺は現在では廃寺となっており、発掘調査などは行われていません。 無口ながら、誰からも慕われた兄貴分 源三郎は勇や歳三らと親交が深く、かつ年上という立場から兄貴分のような立ち位置にあったとされ、若い隊士も含めて人望厚く慕われていました。八木為三郎によれば「ひどく無口な、それでいて非常に人の良い人だった」とのことです。そうかと思えば、粛清などの汚れ仕事にも積極的に参加していたことから、剣技にも優れていたことがわかります。 壬生で子どもたちと遊んでいた総司が通りすがりの源三郎に「また稽古ですか、熱心ですね」と声をかけた際には、「わかっているなら稽古をしたらいいのに」とたしなめるなど、年長者らしい導きもうかがえます。源三郎のこうした実直な性格は、隊内でも対外的な職務や要人の接待等の総務などを任されていたことからもわかるでしょう。 隊内での人望厚い、努力家の「源さん」 源三郎は、沖田総司や永倉新八、斎藤一ら名だたる隊士と比べると派手さこそないものの、近藤勇の兄弟子であり、同じ天然理心流の免許皆伝であり、学問にも剣術にも優れた努力家でした。隊内でも年長者の立場から若い隊士をたしなめる立場になることもあり、誰からも慕われる兄貴分だったようです。最期も幕府への恩を返すための戦死であり、非常に実直で義理堅い人柄がうかがえます。
新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、何により、江戸に帰還する清河らと分裂したか。
新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、清河八郎と勇・芹沢鴨らの思想の違いにより、江戸に帰還する清河らと分裂した。
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新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、井上源三郎である。 新選組での活躍 源三郎の、新選組での活躍についてご紹介します。 浪士組参加〜芹沢派の粛清 文久2年(1862)2月、源三郎は14代将軍・徳川家茂の上洛警護を行う「浪士組」に勇・歳三らと参加しました。日野からは総司の義兄で源三郎の親戚にあたる林太郎も参加しています。しかし、浪士組を立ち上げた清河八郎と、後の新選組となる勇・芹沢鴨らの思想の違いにより、源三郎を含む試衛館一派は江戸に帰還する清河らと分裂し、京都に残留して壬生浪士となりました。 文久3年(1863)には「新選組」の隊名をもらい、派閥争いの末に芹沢一派が粛清されると、古参幹部のひとりとして副長助勤に就任しました。源三郎は対外的な交渉も行っていたとされています。 池田屋事件 新選組の歴史の中でも特に有名な、元治元年(1864)の池田屋事件。源三郎は歳三の支隊指揮を務めており、勇の隊が少人数で斬り込んだのち加勢として駆けつけました。池田屋に到着するなり2階に素早く駆け上がり、長州藩士1人を切り倒し8人を捕縛したといわれています。いつも物静かだった源三郎が戦で武功を上げる様子は幹部仲間にとっても驚がくだったようで、のちに永倉新八が語っているほどです。 六番隊組長としての働き 慶応元年(1865)6月には六番隊組長に任命され、慶応3年(1867)6月には新選組が幕府直参となったことで、副長助勤の源三郎は70俵3人扶持(給料)となります。慶応3年(1867)10月には歳三と江戸に戻り、新入隊士の募集を行いました。このとき、次兄・松五郎の息子である井上泰助が隊士に加わります。同時期、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、王政復古が決定。旧幕府側への風当たりはますます強くなっていきました。 鳥羽・伏見の戦い 鳥羽・伏見の戦いにおける源三郎の様子と、最期についてご紹介します。 淀千両松での戦死 慶応4年(1868)1月3日、旧幕府軍1万5000人が鳥羽街道を京都に向けて進み、薩摩軍と開戦。新選組もこの戦いに巻き込まれていきます。1月5日には淀千両松で薩摩軍と激突。鉄砲や大砲など近代兵器をそろえた薩摩軍に対し、新選組の装備は刀や槍がメインでした。撤退命令が出ていたにもかかわらず、源三郎をはじめとする新選組は「幕府への恩を返すときは今である」として果敢に戦い続けます。 源三郎は放棄された大砲を奪って応戦するなど善戦しますが、薩摩軍の銃弾を腹部に受けて戦死。享年40歳でした。共に戦っていた甥・泰助は「叔父さんは、撃たれて倒れると手当をする間もなく息を引き取ってしまった」とのちに語っています。源三郎が戦死した地には「幕軍戦死者埋葬地」の碑が建てられています。 甥・井上泰助が首を持ち帰るも…… 源三郎の最期を看取った泰助はその後、首だけでも敵に奪われる前に持ち帰ろうとしましたが、戦いの最中で自分や仲間の命も危なくなったため、仲間から諭されて戦場近くの寺院の境内に首と刀を埋葬した、というエピソードがあります。 寺院の正確な場所は長らく不明とされていましたが、のちに郷土史家と新選組研究家の調査により、黒染(現在の京都市伏見区)にある欣浄寺という寺院ではないかと推測されています。なお、墨染欣浄寺は現在では廃寺となっており、発掘調査などは行われていません。 無口ながら、誰からも慕われた兄貴分 源三郎は勇や歳三らと親交が深く、かつ年上という立場から兄貴分のような立ち位置にあったとされ、若い隊士も含めて人望厚く慕われていました。八木為三郎によれば「ひどく無口な、それでいて非常に人の良い人だった」とのことです。そうかと思えば、粛清などの汚れ仕事にも積極的に参加していたことから、剣技にも優れていたことがわかります。 壬生で子どもたちと遊んでいた総司が通りすがりの源三郎に「また稽古ですか、熱心ですね」と声をかけた際には、「わかっているなら稽古をしたらいいのに」とたしなめるなど、年長者らしい導きもうかがえます。源三郎のこうした実直な性格は、隊内でも対外的な職務や要人の接待等の総務などを任されていたことからもわかるでしょう。 隊内での人望厚い、努力家の「源さん」 源三郎は、沖田総司や永倉新八、斎藤一ら名だたる隊士と比べると派手さこそないものの、近藤勇の兄弟子であり、同じ天然理心流の免許皆伝であり、学問にも剣術にも優れた努力家でした。隊内でも年長者の立場から若い隊士をたしなめる立場になることもあり、誰からも慕われる兄貴分だったようです。最期も幕府への恩を返すための戦死であり、非常に実直で義理堅い人柄がうかがえます。
新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、京都に残留して何となったか。
新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、京都に残留して壬生浪士となった。
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新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、井上源三郎である。 新選組での活躍 源三郎の、新選組での活躍についてご紹介します。 浪士組参加〜芹沢派の粛清 文久2年(1862)2月、源三郎は14代将軍・徳川家茂の上洛警護を行う「浪士組」に勇・歳三らと参加しました。日野からは総司の義兄で源三郎の親戚にあたる林太郎も参加しています。しかし、浪士組を立ち上げた清河八郎と、後の新選組となる勇・芹沢鴨らの思想の違いにより、源三郎を含む試衛館一派は江戸に帰還する清河らと分裂し、京都に残留して壬生浪士となりました。 文久3年(1863)には「新選組」の隊名をもらい、派閥争いの末に芹沢一派が粛清されると、古参幹部のひとりとして副長助勤に就任しました。源三郎は対外的な交渉も行っていたとされています。 池田屋事件 新選組の歴史の中でも特に有名な、元治元年(1864)の池田屋事件。源三郎は歳三の支隊指揮を務めており、勇の隊が少人数で斬り込んだのち加勢として駆けつけました。池田屋に到着するなり2階に素早く駆け上がり、長州藩士1人を切り倒し8人を捕縛したといわれています。いつも物静かだった源三郎が戦で武功を上げる様子は幹部仲間にとっても驚がくだったようで、のちに永倉新八が語っているほどです。 六番隊組長としての働き 慶応元年(1865)6月には六番隊組長に任命され、慶応3年(1867)6月には新選組が幕府直参となったことで、副長助勤の源三郎は70俵3人扶持(給料)となります。井上源三郎は、慶応3年(1867)10月には歳三と江戸に戻り、新入隊士の募集を行いました。このとき、次兄・松五郎の息子である井上泰助が隊士に加わります。同時期、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、王政復古が決定。旧幕府側への風当たりはますます強くなっていきました。 鳥羽・伏見の戦い 鳥羽・伏見の戦いにおける源三郎の様子と、最期についてご紹介します。 淀千両松での戦死 慶応4年(1868)1月3日、旧幕府軍1万5000人が鳥羽街道を京都に向けて進み、薩摩軍と開戦。新選組もこの戦いに巻き込まれていきます。1月5日には淀千両松で薩摩軍と激突。鉄砲や大砲など近代兵器をそろえた薩摩軍に対し、新選組の装備は刀や槍がメインでした。撤退命令が出ていたにもかかわらず、源三郎をはじめとする新選組は「幕府への恩を返すときは今である」として果敢に戦い続けます。 源三郎は放棄された大砲を奪って応戦するなど善戦しますが、薩摩軍の銃弾を腹部に受けて戦死。享年40歳でした。共に戦っていた甥・泰助は「叔父さんは、撃たれて倒れると手当をする間もなく息を引き取ってしまった」とのちに語っています。源三郎が戦死した地には「幕軍戦死者埋葬地」の碑が建てられています。 甥・井上泰助が首を持ち帰るも…… 源三郎の最期を看取った泰助はその後、首だけでも敵に奪われる前に持ち帰ろうとしましたが、戦いの最中で自分や仲間の命も危なくなったため、仲間から諭されて戦場近くの寺院の境内に首と刀を埋葬した、というエピソードがあります。 寺院の正確な場所は長らく不明とされていましたが、のちに郷土史家と新選組研究家の調査により、黒染(現在の京都市伏見区)にある欣浄寺という寺院ではないかと推測されています。なお、墨染欣浄寺は現在では廃寺となっており、発掘調査などは行われていません。 無口ながら、誰からも慕われた兄貴分 源三郎は勇や歳三らと親交が深く、かつ年上という立場から兄貴分のような立ち位置にあったとされ、若い隊士も含めて人望厚く慕われていました。八木為三郎によれば「ひどく無口な、それでいて非常に人の良い人だった」とのことです。そうかと思えば、粛清などの汚れ仕事にも積極的に参加していたことから、剣技にも優れていたことがわかります。 壬生で子どもたちと遊んでいた総司が通りすがりの源三郎に「また稽古ですか、熱心ですね」と声をかけた際には、「わかっているなら稽古をしたらいいのに」とたしなめるなど、年長者らしい導きもうかがえます。源三郎のこうした実直な性格は、隊内でも対外的な職務や要人の接待等の総務などを任されていたことからもわかるでしょう。 隊内での人望厚い、努力家の「源さん」 源三郎は、沖田総司や永倉新八、斎藤一ら名だたる隊士と比べると派手さこそないものの、近藤勇の兄弟子であり、同じ天然理心流の免許皆伝であり、学問にも剣術にも優れた努力家でした。隊内でも年長者の立場から若い隊士をたしなめる立場になることもあり、誰からも慕われる兄貴分だったようです。最期も幕府への恩を返すための戦死であり、非常に実直で義理堅い人柄がうかがえます。
新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、歳三と江戸に戻り、何の募集を行ったか。
新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、歳三と江戸に戻り、新入隊士の募集を行った。
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新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、井上源三郎である。 新選組での活躍 源三郎の、新選組での活躍についてご紹介します。 浪士組参加〜芹沢派の粛清 文久2年(1862)2月、源三郎は14代将軍・徳川家茂の上洛警護を行う「浪士組」に勇・歳三らと参加しました。日野からは総司の義兄で源三郎の親戚にあたる林太郎も参加しています。しかし、浪士組を立ち上げた清河八郎と、後の新選組となる勇・芹沢鴨らの思想の違いにより、源三郎を含む試衛館一派は江戸に帰還する清河らと分裂し、京都に残留して壬生浪士となりました。 文久3年(1863)には「新選組」の隊名をもらい、派閥争いの末に芹沢一派が粛清されると、古参幹部のひとりとして副長助勤に就任しました。源三郎は対外的な交渉も行っていたとされています。 池田屋事件 新選組の歴史の中でも特に有名な、元治元年(1864)の池田屋事件。源三郎は歳三の支隊指揮を務めており、勇の隊が少人数で斬り込んだのち加勢として駆けつけました。池田屋に到着するなり2階に素早く駆け上がり、長州藩士1人を切り倒し8人を捕縛したといわれています。いつも物静かだった源三郎が戦で武功を上げる様子は幹部仲間にとっても驚がくだったようで、のちに永倉新八が語っているほどです。 六番隊組長としての働き 慶応元年(1865)6月には六番隊組長に任命され、慶応3年(1867)6月には新選組が幕府直参となったことで、副長助勤の源三郎は70俵3人扶持(給料)となります。慶応3年(1867)10月には歳三と江戸に戻り、新入隊士の募集を行いました。このとき、次兄・松五郎の息子である井上泰助が隊士に加わります。同時期、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、王政復古が決定。旧幕府側への風当たりはますます強くなっていきました。 鳥羽・伏見の戦い 鳥羽・伏見の戦いにおける源三郎の様子と、最期についてご紹介します。 淀千両松での戦死 慶応4年(1868)1月3日、旧幕府軍1万5000人が鳥羽街道を京都に向けて進み、薩摩軍と開戦。新選組もこの戦いに巻き込まれていきます。1月5日には淀千両松で薩摩軍と激突。鉄砲や大砲など近代兵器をそろえた薩摩軍に対し、新選組の装備は刀や槍がメインでした。撤退命令が出ていたにもかかわらず、源三郎をはじめとする新選組は「幕府への恩を返すときは今である」として果敢に戦い続けます。 源三郎は放棄された大砲を奪って応戦するなど善戦しますが、薩摩軍の銃弾を腹部に受けて戦死。享年40歳でした。共に戦っていた甥・泰助は「叔父さんは、撃たれて倒れると手当をする間もなく息を引き取ってしまった」とのちに語っています。源三郎が戦死した地には「幕軍戦死者埋葬地」の碑が建てられています。 甥・井上泰助が首を持ち帰るも…… 源三郎の最期を看取った泰助はその後、首だけでも敵に奪われる前に持ち帰ろうとしましたが、戦いの最中で自分や仲間の命も危なくなったため、仲間から諭されて戦場近くの寺院の境内に首と刀を埋葬した、というエピソードがあります。 寺院の正確な場所は長らく不明とされていましたが、のちに郷土史家と新選組研究家の調査により、黒染(現在の京都市伏見区)にある欣浄寺という寺院ではないかと推測されています。なお、墨染欣浄寺は現在では廃寺となっており、発掘調査などは行われていません。 無口ながら、誰からも慕われた兄貴分 源三郎は勇や歳三らと親交が深く、かつ年上という立場から兄貴分のような立ち位置にあったとされ、若い隊士も含めて人望厚く慕われていました。八木為三郎によれば「ひどく無口な、それでいて非常に人の良い人だった」とのことです。そうかと思えば、粛清などの汚れ仕事にも積極的に参加していたことから、剣技にも優れていたことがわかります。 壬生で子どもたちと遊んでいた総司が通りすがりの源三郎に「また稽古ですか、熱心ですね」と声をかけた際には、「わかっているなら稽古をしたらいいのに」とたしなめるなど、年長者らしい導きもうかがえます。源三郎のこうした実直な性格は、隊内でも対外的な職務や要人の接待等の総務などを任されていたことからもわかるでしょう。 隊内での人望厚い、努力家の「源さん」 源三郎は、沖田総司や永倉新八、斎藤一ら名だたる隊士と比べると派手さこそないものの、近藤勇の兄弟子であり、同じ天然理心流の免許皆伝であり、学問にも剣術にも優れた努力家でした。隊内でも年長者の立場から若い隊士をたしなめる立場になることもあり、誰からも慕われる兄貴分だったようです。最期も幕府への恩を返すための戦死であり、非常に実直で義理堅い人柄がうかがえます。
新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、芹沢一派が粛清された後、古参幹部のひとりとして何に就任したか。
新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、芹沢一派が粛清された後、古参幹部のひとりとして副長助勤に就任した。
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新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、井上源三郎である。 新選組での活躍 源三郎の、新選組での活躍についてご紹介します。 浪士組参加〜芹沢派の粛清 文久2年(1862)2月、源三郎は14代将軍・徳川家茂の上洛警護を行う「浪士組」に勇・歳三らと参加しました。日野からは総司の義兄で源三郎の親戚にあたる林太郎も参加しています。しかし、浪士組を立ち上げた清河八郎と、後の新選組となる勇・芹沢鴨らの思想の違いにより、源三郎を含む試衛館一派は江戸に帰還する清河らと分裂し、京都に残留して壬生浪士となりました。 文久3年(1863)には「新選組」の隊名をもらい、派閥争いの末に芹沢一派が粛清されると、古参幹部のひとりとして副長助勤に就任しました。源三郎は対外的な交渉も行っていたとされています。 池田屋事件 新選組の歴史の中でも特に有名な、元治元年(1864)の池田屋事件。源三郎は歳三の支隊指揮を務めており、勇の隊が少人数で斬り込んだのち加勢として駆けつけました。池田屋に到着するなり2階に素早く駆け上がり、長州藩士1人を切り倒し8人を捕縛したといわれています。いつも物静かだった源三郎が戦で武功を上げる様子は幹部仲間にとっても驚がくだったようで、のちに永倉新八が語っているほどです。 六番隊組長としての働き 慶応元年(1865)6月には六番隊組長に任命され、慶応3年(1867)6月には新選組が幕府直参となったことで、副長助勤の源三郎は70俵3人扶持(給料)となります。慶応3年(1867)10月には歳三と江戸に戻り、新入隊士の募集を行いました。このとき、次兄・松五郎の息子である井上泰助が隊士に加わります。同時期、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、王政復古が決定。旧幕府側への風当たりはますます強くなっていきました。 鳥羽・伏見の戦い 鳥羽・伏見の戦いにおける源三郎の様子と、最期についてご紹介します。 淀千両松での戦死 慶応4年(1868)1月3日、旧幕府軍1万5000人が鳥羽街道を京都に向けて進み、薩摩軍と開戦。新選組もこの戦いに巻き込まれていきます。1月5日には淀千両松で薩摩軍と激突。鉄砲や大砲など近代兵器をそろえた薩摩軍に対し、新選組の装備は刀や槍がメインでした。撤退命令が出ていたにもかかわらず、源三郎をはじめとする新選組は「幕府への恩を返すときは今である」として果敢に戦い続けます。 源三郎は放棄された大砲を奪って応戦するなど善戦しますが、薩摩軍の銃弾を腹部に受けて戦死。享年40歳でした。共に戦っていた甥・泰助は「叔父さんは、撃たれて倒れると手当をする間もなく息を引き取ってしまった」とのちに語っています。源三郎が戦死した地には「幕軍戦死者埋葬地」の碑が建てられています。 甥・井上泰助が首を持ち帰るも…… 源三郎の最期を看取った泰助はその後、首だけでも敵に奪われる前に持ち帰ろうとしましたが、戦いの最中で自分や仲間の命も危なくなったため、仲間から諭されて戦場近くの寺院の境内に首と刀を埋葬した、というエピソードがあります。 寺院の正確な場所は長らく不明とされていましたが、のちに郷土史家と新選組研究家の調査により、黒染(現在の京都市伏見区)にある欣浄寺という寺院ではないかと推測されています。なお、墨染欣浄寺は現在では廃寺となっており、発掘調査などは行われていません。 無口ながら、誰からも慕われた兄貴分 源三郎は勇や歳三らと親交が深く、かつ年上という立場から兄貴分のような立ち位置にあったとされ、若い隊士も含めて人望厚く慕われていました。八木為三郎によれば「ひどく無口な、それでいて非常に人の良い人だった」とのことです。そうかと思えば、粛清などの汚れ仕事にも積極的に参加していたことから、剣技にも優れていたことがわかります。 壬生で子どもたちと遊んでいた総司が通りすがりの源三郎に「また稽古ですか、熱心ですね」と声をかけた際には、「わかっているなら稽古をしたらいいのに」とたしなめるなど、年長者らしい導きもうかがえます。源三郎のこうした実直な性格は、隊内でも対外的な職務や要人の接待等の総務などを任されていたことからもわかるでしょう。 隊内での人望厚い、努力家の「源さん」 源三郎は、沖田総司や永倉新八、斎藤一ら名だたる隊士と比べると派手さこそないものの、近藤勇の兄弟子であり、同じ天然理心流の免許皆伝であり、学問にも剣術にも優れた努力家でした。隊内でも年長者の立場から若い隊士をたしなめる立場になることもあり、誰からも慕われる兄貴分だったようです。最期も幕府への恩を返すための戦死であり、非常に実直で義理堅い人柄がうかがえます。
新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、どのように戦死したか。
新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物は、薩摩軍の銃弾を腹部に受けて戦死した。
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歴史
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、丹羽長秀である。 長秀の生まれと佐和山城主になるまで 長秀の出自はどのようなものだったのでしょうか。その生まれから戦功をあげて台頭するまでを振り返ります。 尾張で生まれ信長に仕える 長秀は、天文4年(1535)丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれました。もともとは斯波氏の家臣だった丹羽氏ですが、長秀は15歳のときから信長に仕えています。 長秀は天文22年(1553)19歳になり梅津表の合戦で初陣を果たします。その後は、弘治2年(1556)稲生の戦い、永禄3年(1560)桶狭間の戦いに織田軍団として従軍しました。 美濃国の戦いで台頭する 長秀は斎藤龍興との美濃国の戦いで台頭したと考えられており、その後も信長のもとで武功を上げています。信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛した際にも、南近江の六角氏を攻めた観音寺城の戦いで活躍しました。また姉川の戦い後は、信長が半年以上も包囲して落とした近江・佐和山城の城主になっています。 「織田家の双璧」と呼ばれる実力者に 信長のもとで頭角を表した長秀は、その後も実力を発揮していきます。そして織田家の中で重要なポジションに上り詰めたのです。 若狭一国を支配した 天正元年(1573)信長から若狭一国を与えられた長秀は、織田家初の国持大名となりました。当初国内では、長秀、粟屋氏、逸見氏が各地方の領主を務め独立の支配権を持っていましたが、軍事、治安維持、流通統制など一国単位のものについては長秀が取りまとめていたようです。中には、長秀の家臣・溝口秀勝が信長直臣に取り立てられ、独立した知行を受ける例もありました。
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、いつ生まれたか。
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、天文4年(1535)に生まれた。
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歴史
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、丹羽長秀である。 長秀の生まれと佐和山城主になるまで 長秀の出自はどのようなものだったのでしょうか。その生まれから戦功をあげて台頭するまでを振り返ります。 尾張で生まれ信長に仕える 長秀は、天文4年(1535)丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれました。もともとは斯波氏の家臣だった丹羽氏ですが、長秀は15歳のときから信長に仕えています。 長秀は天文22年(1553)19歳になり梅津表の合戦で初陣を果たします。その後は、弘治2年(1556)稲生の戦い、永禄3年(1560)桶狭間の戦いに織田軍団として従軍しました。 美濃国の戦いで台頭する 長秀は斎藤龍興との美濃国の戦いで台頭したと考えられており、その後も信長のもとで武功を上げています。信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛した際にも、南近江の六角氏を攻めた観音寺城の戦いで活躍しました。また姉川の戦い後は、信長が半年以上も包囲して落とした近江・佐和山城の城主になっています。 「織田家の双璧」と呼ばれる実力者に 信長のもとで頭角を表した長秀は、その後も実力を発揮していきます。そして織田家の中で重要なポジションに上り詰めたのです。 若狭一国を支配した 天正元年(1573)信長から若狭一国を与えられた長秀は、織田家初の国持大名となりました。当初国内では、長秀、粟屋氏、逸見氏が各地方の領主を務め独立の支配権を持っていましたが、軍事、治安維持、流通統制など一国単位のものについては長秀が取りまとめていたようです。中には、長秀の家臣・溝口秀勝が信長直臣に取り立てられ、独立した知行を受ける例もありました。
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、誰の次男として生まれたか。
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、丹羽長政の次男として生まれた。
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歴史
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、丹羽長秀である。 長秀の生まれと佐和山城主になるまで 長秀の出自はどのようなものだったのでしょうか。その生まれから戦功をあげて台頭するまでを振り返ります。 尾張で生まれ信長に仕える 長秀は、天文4年(1535)丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれました。もともとは斯波氏の家臣だった丹羽氏ですが、長秀は15歳のときから信長に仕えています。 長秀は天文22年(1553)19歳になり梅津表の合戦で初陣を果たします。その後は、弘治2年(1556)稲生の戦い、永禄3年(1560)桶狭間の戦いに織田軍団として従軍しました。 美濃国の戦いで台頭する 長秀は斎藤龍興との美濃国の戦いで台頭したと考えられており、その後も信長のもとで武功を上げています。信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛した際にも、南近江の六角氏を攻めた観音寺城の戦いで活躍しました。また姉川の戦い後は、信長が半年以上も包囲して落とした近江・佐和山城の城主になっています。 「織田家の双璧」と呼ばれる実力者に 信長のもとで頭角を表した長秀は、その後も実力を発揮していきます。そして織田家の中で重要なポジションに上り詰めたのです。 若狭一国を支配した 天正元年(1573)信長から若狭一国を与えられた長秀は、織田家初の国持大名となりました。当初国内では、長秀、粟屋氏、逸見氏が各地方の領主を務め独立の支配権を持っていましたが、軍事、治安維持、流通統制など一国単位のものについては長秀が取りまとめていたようです。中には、長秀の家臣・溝口秀勝が信長直臣に取り立てられ、独立した知行を受ける例もありました。
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、どこで生まれたか。
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれた。
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歴史
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、丹羽長秀である。 長秀の生まれと佐和山城主になるまで 長秀の出自はどのようなものだったのでしょうか。その生まれから戦功をあげて台頭するまでを振り返ります。 尾張で生まれ信長に仕える 長秀は、天文4年(1535)丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれました。もともとは斯波氏の家臣だった丹羽氏ですが、長秀は15歳のときから信長に仕えています。 長秀は天文22年(1553)19歳になり梅津表の合戦で初陣を果たします。その後は、弘治2年(1556)稲生の戦い、永禄3年(1560)桶狭間の戦いに織田軍団として従軍しました。 美濃国の戦いで台頭する 長秀は斎藤龍興との美濃国の戦いで台頭したと考えられており、その後も信長のもとで武功を上げています。信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛した際にも、南近江の六角氏を攻めた観音寺城の戦いで活躍しました。また姉川の戦い後は、信長が半年以上も包囲して落とした近江・佐和山城の城主になっています。 「織田家の双璧」と呼ばれる実力者に 信長のもとで頭角を表した長秀は、その後も実力を発揮していきます。そして織田家の中で重要なポジションに上り詰めたのです。 若狭一国を支配した 天正元年(1573)信長から若狭一国を与えられた長秀は、織田家初の国持大名となりました。当初国内では、長秀、粟屋氏、逸見氏が各地方の領主を務め独立の支配権を持っていましたが、軍事、治安維持、流通統制など一国単位のものについては長秀が取りまとめていたようです。中には、長秀の家臣・溝口秀勝が信長直臣に取り立てられ、独立した知行を受ける例もありました。
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、いつ初陣を果たしたか。
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、天文22年(1553)19歳になり梅津表の合戦で初陣を果たした。
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柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、丹羽長秀である。 長秀の生まれと佐和山城主になるまで 長秀の出自はどのようなものだったのでしょうか。その生まれから戦功をあげて台頭するまでを振り返ります。 尾張で生まれ信長に仕える 長秀は、天文4年(1535)丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれました。もともとは斯波氏の家臣だった丹羽氏ですが、長秀は15歳のときから信長に仕えています。 長秀は天文22年(1553)19歳になり梅津表の合戦で初陣を果たします。その後は、弘治2年(1556)稲生の戦い、永禄3年(1560)桶狭間の戦いに織田軍団として従軍しました。 美濃国の戦いで台頭する 長秀は斎藤龍興との美濃国の戦いで台頭したと考えられており、その後も信長のもとで武功を上げています。信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛した際にも、南近江の六角氏を攻めた観音寺城の戦いで活躍しました。また姉川の戦い後は、信長が半年以上も包囲して落とした近江・佐和山城の城主になっています。 「織田家の双璧」と呼ばれる実力者に 信長のもとで頭角を表した長秀は、その後も実力を発揮していきます。そして織田家の中で重要なポジションに上り詰めたのです。 若狭一国を支配した 天正元年(1573)信長から若狭一国を与えられた長秀は、織田家初の国持大名となりました。当初国内では、長秀、粟屋氏、逸見氏が各地方の領主を務め独立の支配権を持っていましたが、軍事、治安維持、流通統制など一国単位のものについては長秀が取りまとめていたようです。中には、長秀の家臣・溝口秀勝が信長直臣に取り立てられ、独立した知行を受ける例もありました。
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、誰との美濃国の戦いで台頭したか。
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、斎藤龍興との美濃国の戦いで台頭した。
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柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、丹羽長秀である。 織田家の二番家老になる その後も長秀は高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆で戦功を挙げ、天正伊賀の乱にも従軍。また安土城の建築では総奉行を務めるなど、政治面でも大きな功績を残しました。誅殺や幽閉といった命令にも忠実に応え、京都で行われた御馬揃え(いわゆる軍事パレード)では一番に入場するという高待遇を受けたほどです。功績が認められた長秀は二番家老の地位を与えられ、それ以降、勝家とともに織田家の双璧といわれるようになりました。 本能寺の変後の長秀 信長から厚い信頼を受けた長秀ですが、本能寺の変で主君を失ってしまいます。その後の長秀はどのような行動を起こしたのでしょうか。 本能寺の変と山崎の戦い 天正10年(1582)6月2日、明智光秀の裏切りにより本能寺の変がおこります。信長の三男・信孝とともに四国出陣の準備中だった長秀は、このとき徳川家康らの接待のため軍を離れていました。大将不在の中で本能寺の変の報せを聞いた兵の多くは逃げてしまいましたが、長秀は残った兵をまとめると、光秀の娘婿・津田信澄を共謀者として殺害。その後、秀吉軍の到着を待って合流します。軍議の結果、総大将は信孝に決まりましたが、これは名目上のもので、実際には秀吉が軍を主導することになりました。こうして、長秀も加わった秀吉軍は山崎の戦いで明智軍を破り、主君の敵討ちに成功したのです。 約123万石の大名に上り詰める 天正10年(1582)織田家の今後を問う清洲会議が開かれ、長秀は秀吉が後継者として推した信長の嫡孫にあたる三法師を支持します。秀吉と勝家が争った天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護。この戦いのあと長秀は、若狭に加えて越前と加賀2郡を与えられ、約123万石という有数の大名になりました。 しかし、それからわずか2年後の天正13年(1585)4月16日、長秀は51歳でこの世を去ったのです。 長秀にまつわる逸話 長秀は一つずつ戦功を積み重ね、信長や秀吉のもとで出世していきました。質実剛健な長秀にはどんな逸話が残されているのでしょうか。 死因は腹の寄生虫だった? 長秀の死は奇怪なことで知られています。死因は腹に巣食った寄生虫で、痛みに耐えかねた長秀は腹を切り裂き二日後に死亡しました。この事実はさまざまな資料に残されており、『多聞院日記』では病気で死ぬのは無念だと腹を切ったとあり、『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には腹から鳥のようなくちばしをもつ石亀に似た虫が出てきたという記載があります。 米五郎左の通称で知られる 長秀には米五郎左という通称がありました。これは織田家内で流行した家臣を讃える歌「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」が元になっており、秀吉は木綿のように質素だが重宝し、長秀は米のように必要不可欠、勝家の先鋒での勇猛さは素晴らしく、佐久間信盛は難関な殿軍(最後尾)を任せられるという意味です。 信長は酔って機嫌が良くなると、「不動行光、つくも髪、人には五郎左御座候」と歌いました。不動行光は名刀、つくも髪は九十九髪茄子茶入という茶器、五郎左は長秀。信長にとって長秀は、宝物と並ぶ自慢の家臣だったのです。 名刀あざ丸を所有したが…… 武将にとっての刀は、武器であり誇りでもありました。ある時、長秀は名刀「あざ丸」を所有しましたが、それからというもの眼病に悩まされたといいます。 この刀はかつて熱田神宮の神職で織田方の武将だった千秋季光が所有していたもので、彼の戦死後に陰山一景が奪ったものの、その直後の織田方との戦いで両目を射抜かれたといういわくつきの品でした。 長秀は周囲の助言に従いあざ丸を熱田神宮へ奉納、それ以降は眼病も収まったそうです。 受け継がれた長秀の血筋 長秀の死後、丹羽家は西軍として関ヶ原の戦いに参加しますが、西軍が敗れたために改易され領地を失ってしまいました。しかし、徳川秀忠のとりなしで大名に復帰。幕末には新政府軍と敵対し敗北を喫しますが、降伏したことで5万石の領地が残され、廃藩置県後も華族として名を残しています。 織田家宿老に上り詰めた長秀は、地道に功績を積み重ね主君の信頼を得ました。その血筋は現在まで脈々と受け継がれています。
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、何の戦いで戦功を挙げたか。
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、高屋城の戦い、長篠の戦いで戦功を挙げた。
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歴史
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、丹羽長秀である。 織田家の二番家老になる その後も長秀は高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆で戦功を挙げ、天正伊賀の乱にも従軍。また安土城の建築では総奉行を務めるなど、政治面でも大きな功績を残しました。誅殺や幽閉といった命令にも忠実に応え、京都で行われた御馬揃え(いわゆる軍事パレード)では一番に入場するという高待遇を受けたほどです。功績が認められた長秀は二番家老の地位を与えられ、それ以降、勝家とともに織田家の双璧といわれるようになりました。 本能寺の変後の長秀 信長から厚い信頼を受けた長秀ですが、本能寺の変で主君を失ってしまいます。その後の長秀はどのような行動を起こしたのでしょうか。 本能寺の変と山崎の戦い 天正10年(1582)6月2日、明智光秀の裏切りにより本能寺の変がおこります。信長の三男・信孝とともに四国出陣の準備中だった長秀は、このとき徳川家康らの接待のため軍を離れていました。大将不在の中で本能寺の変の報せを聞いた兵の多くは逃げてしまいましたが、長秀は残った兵をまとめると、光秀の娘婿・津田信澄を共謀者として殺害。その後、秀吉軍の到着を待って合流します。軍議の結果、総大将は信孝に決まりましたが、これは名目上のもので、実際には秀吉が軍を主導することになりました。こうして、長秀も加わった秀吉軍は山崎の戦いで明智軍を破り、主君の敵討ちに成功したのです。 約123万石の大名に上り詰める 天正10年(1582)織田家の今後を問う清洲会議が開かれ、長秀は秀吉が後継者として推した信長の嫡孫にあたる三法師を支持します。秀吉と勝家が争った天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護。この戦いのあと長秀は、若狭に加えて越前と加賀2郡を与えられ、約123万石という有数の大名になりました。 しかし、それからわずか2年後の天正13年(1585)4月16日、長秀は51歳でこの世を去ったのです。 長秀にまつわる逸話 長秀は一つずつ戦功を積み重ね、信長や秀吉のもとで出世していきました。質実剛健な長秀にはどんな逸話が残されているのでしょうか。 死因は腹の寄生虫だった? 長秀の死は奇怪なことで知られています。死因は腹に巣食った寄生虫で、痛みに耐えかねた長秀は腹を切り裂き二日後に死亡しました。この事実はさまざまな資料に残されており、『多聞院日記』では病気で死ぬのは無念だと腹を切ったとあり、『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には腹から鳥のようなくちばしをもつ石亀に似た虫が出てきたという記載があります。 米五郎左の通称で知られる 長秀には米五郎左という通称がありました。これは織田家内で流行した家臣を讃える歌「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」が元になっており、秀吉は木綿のように質素だが重宝し、長秀は米のように必要不可欠、勝家の先鋒での勇猛さは素晴らしく、佐久間信盛は難関な殿軍(最後尾)を任せられるという意味です。 信長は酔って機嫌が良くなると、「不動行光、つくも髪、人には五郎左御座候」と歌いました。不動行光は名刀、つくも髪は九十九髪茄子茶入という茶器、五郎左は長秀。信長にとって長秀は、宝物と並ぶ自慢の家臣だったのです。 名刀あざ丸を所有したが…… 武将にとっての刀は、武器であり誇りでもありました。ある時、長秀は名刀「あざ丸」を所有しましたが、それからというもの眼病に悩まされたといいます。 この刀はかつて熱田神宮の神職で織田方の武将だった千秋季光が所有していたもので、彼の戦死後に陰山一景が奪ったものの、その直後の織田方との戦いで両目を射抜かれたといういわくつきの品でした。 長秀は周囲の助言に従いあざ丸を熱田神宮へ奉納、それ以降は眼病も収まったそうです。 受け継がれた長秀の血筋 長秀の死後、丹羽家は西軍として関ヶ原の戦いに参加しますが、西軍が敗れたために改易され領地を失ってしまいました。しかし、徳川秀忠のとりなしで大名に復帰。幕末には新政府軍と敵対し敗北を喫しますが、降伏したことで5万石の領地が残され、廃藩置県後も華族として名を残しています。 織田家宿老に上り詰めた長秀は、地道に功績を積み重ね主君の信頼を得ました。その血筋は現在まで脈々と受け継がれています。
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、何の一揆で戦功を挙げたか。
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、越前一向一揆で戦功を挙げた。
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柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、丹羽長秀である。 織田家の二番家老になる その後も長秀は高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆で戦功を挙げ、天正伊賀の乱にも従軍。また安土城の建築では総奉行を務めるなど、政治面でも大きな功績を残しました。誅殺や幽閉といった命令にも忠実に応え、京都で行われた御馬揃え(いわゆる軍事パレード)では一番に入場するという高待遇を受けたほどです。功績が認められた長秀は二番家老の地位を与えられ、それ以降、勝家とともに織田家の双璧といわれるようになりました。 本能寺の変後の長秀 信長から厚い信頼を受けた長秀ですが、本能寺の変で主君を失ってしまいます。その後の長秀はどのような行動を起こしたのでしょうか。 本能寺の変と山崎の戦い 天正10年(1582)6月2日、明智光秀の裏切りにより本能寺の変がおこります。信長の三男・信孝とともに四国出陣の準備中だった長秀は、このとき徳川家康らの接待のため軍を離れていました。大将不在の中で本能寺の変の報せを聞いた兵の多くは逃げてしまいましたが、長秀は残った兵をまとめると、光秀の娘婿・津田信澄を共謀者として殺害。その後、秀吉軍の到着を待って合流します。軍議の結果、総大将は信孝に決まりましたが、これは名目上のもので、実際には秀吉が軍を主導することになりました。こうして、長秀も加わった秀吉軍は山崎の戦いで明智軍を破り、主君の敵討ちに成功したのです。 約123万石の大名に上り詰める 天正10年(1582)織田家の今後を問う清洲会議が開かれ、長秀は秀吉が後継者として推した信長の嫡孫にあたる三法師を支持します。秀吉と勝家が争った天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護。この戦いのあと長秀は、若狭に加えて越前と加賀2郡を与えられ、約123万石という有数の大名になりました。 しかし、それからわずか2年後の天正13年(1585)4月16日、長秀は51歳でこの世を去ったのです。 長秀にまつわる逸話 長秀は一つずつ戦功を積み重ね、信長や秀吉のもとで出世していきました。質実剛健な長秀にはどんな逸話が残されているのでしょうか。 死因は腹の寄生虫だった? 長秀の死は奇怪なことで知られています。死因は腹に巣食った寄生虫で、痛みに耐えかねた長秀は腹を切り裂き二日後に死亡しました。この事実はさまざまな資料に残されており、『多聞院日記』では病気で死ぬのは無念だと腹を切ったとあり、『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には腹から鳥のようなくちばしをもつ石亀に似た虫が出てきたという記載があります。 米五郎左の通称で知られる 長秀には米五郎左という通称がありました。これは織田家内で流行した家臣を讃える歌「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」が元になっており、秀吉は木綿のように質素だが重宝し、長秀は米のように必要不可欠、勝家の先鋒での勇猛さは素晴らしく、佐久間信盛は難関な殿軍(最後尾)を任せられるという意味です。 信長は酔って機嫌が良くなると、「不動行光、つくも髪、人には五郎左御座候」と歌いました。不動行光は名刀、つくも髪は九十九髪茄子茶入という茶器、五郎左は長秀。信長にとって長秀は、宝物と並ぶ自慢の家臣だったのです。 名刀あざ丸を所有したが…… 武将にとっての刀は、武器であり誇りでもありました。ある時、長秀は名刀「あざ丸」を所有しましたが、それからというもの眼病に悩まされたといいます。 この刀はかつて熱田神宮の神職で織田方の武将だった千秋季光が所有していたもので、彼の戦死後に陰山一景が奪ったものの、その直後の織田方との戦いで両目を射抜かれたといういわくつきの品でした。 長秀は周囲の助言に従いあざ丸を熱田神宮へ奉納、それ以降は眼病も収まったそうです。 受け継がれた長秀の血筋 長秀の死後、丹羽家は西軍として関ヶ原の戦いに参加しますが、西軍が敗れたために改易され領地を失ってしまいました。しかし、徳川秀忠のとりなしで大名に復帰。幕末には新政府軍と敵対し敗北を喫しますが、降伏したことで5万石の領地が残され、廃藩置県後も華族として名を残しています。 織田家宿老に上り詰めた長秀は、地道に功績を積み重ね主君の信頼を得ました。その血筋は現在まで脈々と受け継がれています。
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、何の乱に従軍したか。
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、天正伊賀の乱に従軍した。
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歴史
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、丹羽長秀である。 織田家の二番家老になる その後も長秀は高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆で戦功を挙げ、天正伊賀の乱にも従軍。また安土城の建築では総奉行を務めるなど、政治面でも大きな功績を残しました。誅殺や幽閉といった命令にも忠実に応え、京都で行われた御馬揃え(いわゆる軍事パレード)では一番に入場するという高待遇を受けたほどです。功績が認められた長秀は二番家老の地位を与えられ、それ以降、勝家とともに織田家の双璧といわれるようになりました。 本能寺の変後の長秀 信長から厚い信頼を受けた長秀ですが、本能寺の変で主君を失ってしまいます。その後の長秀はどのような行動を起こしたのでしょうか。 本能寺の変と山崎の戦い 天正10年(1582)6月2日、明智光秀の裏切りにより本能寺の変がおこります。信長の三男・信孝とともに四国出陣の準備中だった長秀は、このとき徳川家康らの接待のため軍を離れていました。大将不在の中で本能寺の変の報せを聞いた兵の多くは逃げてしまいましたが、長秀は残った兵をまとめると、光秀の娘婿・津田信澄を共謀者として殺害。その後、秀吉軍の到着を待って合流します。軍議の結果、総大将は信孝に決まりましたが、これは名目上のもので、実際には秀吉が軍を主導することになりました。こうして、長秀も加わった秀吉軍は山崎の戦いで明智軍を破り、主君の敵討ちに成功したのです。 約123万石の大名に上り詰める 天正10年(1582)織田家の今後を問う清洲会議が開かれ、長秀は秀吉が後継者として推した信長の嫡孫にあたる三法師を支持します。秀吉と勝家が争った天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護。この戦いのあと長秀は、若狭に加えて越前と加賀2郡を与えられ、約123万石という有数の大名になりました。 しかし、それからわずか2年後の天正13年(1585)4月16日、長秀は51歳でこの世を去ったのです。 長秀にまつわる逸話 長秀は一つずつ戦功を積み重ね、信長や秀吉のもとで出世していきました。質実剛健な長秀にはどんな逸話が残されているのでしょうか。 死因は腹の寄生虫だった? 長秀の死は奇怪なことで知られています。死因は腹に巣食った寄生虫で、痛みに耐えかねた長秀は腹を切り裂き二日後に死亡しました。この事実はさまざまな資料に残されており、『多聞院日記』では病気で死ぬのは無念だと腹を切ったとあり、『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には腹から鳥のようなくちばしをもつ石亀に似た虫が出てきたという記載があります。 米五郎左の通称で知られる 長秀には米五郎左という通称がありました。これは織田家内で流行した家臣を讃える歌「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」が元になっており、秀吉は木綿のように質素だが重宝し、長秀は米のように必要不可欠、勝家の先鋒での勇猛さは素晴らしく、佐久間信盛は難関な殿軍(最後尾)を任せられるという意味です。 信長は酔って機嫌が良くなると、「不動行光、つくも髪、人には五郎左御座候」と歌いました。不動行光は名刀、つくも髪は九十九髪茄子茶入という茶器、五郎左は長秀。信長にとって長秀は、宝物と並ぶ自慢の家臣だったのです。 名刀あざ丸を所有したが…… 武将にとっての刀は、武器であり誇りでもありました。ある時、長秀は名刀「あざ丸」を所有しましたが、それからというもの眼病に悩まされたといいます。 この刀はかつて熱田神宮の神職で織田方の武将だった千秋季光が所有していたもので、彼の戦死後に陰山一景が奪ったものの、その直後の織田方との戦いで両目を射抜かれたといういわくつきの品でした。 長秀は周囲の助言に従いあざ丸を熱田神宮へ奉納、それ以降は眼病も収まったそうです。 受け継がれた長秀の血筋 長秀の死後、丹羽家は西軍として関ヶ原の戦いに参加しますが、西軍が敗れたために改易され領地を失ってしまいました。しかし、徳川秀忠のとりなしで大名に復帰。幕末には新政府軍と敵対し敗北を喫しますが、降伏したことで5万石の領地が残され、廃藩置県後も華族として名を残しています。 織田家宿老に上り詰めた長秀は、地道に功績を積み重ね主君の信頼を得ました。その血筋は現在まで脈々と受け継がれています。
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、誰を共謀者として殺害したか。
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、光秀の娘婿・津田信澄を共謀者として殺害した。
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歴史
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、丹羽長秀である。 織田家の二番家老になる その後も長秀は高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆で戦功を挙げ、天正伊賀の乱にも従軍。また安土城の建築では総奉行を務めるなど、政治面でも大きな功績を残しました。誅殺や幽閉といった命令にも忠実に応え、京都で行われた御馬揃え(いわゆる軍事パレード)では一番に入場するという高待遇を受けたほどです。功績が認められた長秀は二番家老の地位を与えられ、それ以降、勝家とともに織田家の双璧といわれるようになりました。 本能寺の変後の長秀 信長から厚い信頼を受けた長秀ですが、本能寺の変で主君を失ってしまいます。その後の長秀はどのような行動を起こしたのでしょうか。 本能寺の変と山崎の戦い 天正10年(1582)6月2日、明智光秀の裏切りにより本能寺の変がおこります。信長の三男・信孝とともに四国出陣の準備中だった長秀は、このとき徳川家康らの接待のため軍を離れていました。大将不在の中で本能寺の変の報せを聞いた兵の多くは逃げてしまいましたが、長秀は残った兵をまとめると、光秀の娘婿・津田信澄を共謀者として殺害。その後、秀吉軍の到着を待って合流します。軍議の結果、総大将は信孝に決まりましたが、これは名目上のもので、実際には秀吉が軍を主導することになりました。こうして、長秀も加わった秀吉軍は山崎の戦いで明智軍を破り、主君の敵討ちに成功したのです。 約123万石の大名に上り詰める 天正10年(1582)織田家の今後を問う清洲会議が開かれ、長秀は秀吉が後継者として推した信長の嫡孫にあたる三法師を支持します。秀吉と勝家が争った天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護。この戦いのあと長秀は、若狭に加えて越前と加賀2郡を与えられ、約123万石という有数の大名になりました。 しかし、それからわずか2年後の天正13年(1585)4月16日、長秀は51歳でこの世を去ったのです。 長秀にまつわる逸話 長秀は一つずつ戦功を積み重ね、信長や秀吉のもとで出世していきました。質実剛健な長秀にはどんな逸話が残されているのでしょうか。 死因は腹の寄生虫だった? 長秀の死は奇怪なことで知られています。死因は腹に巣食った寄生虫で、痛みに耐えかねた長秀は腹を切り裂き二日後に死亡しました。この事実はさまざまな資料に残されており、『多聞院日記』では病気で死ぬのは無念だと腹を切ったとあり、『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には腹から鳥のようなくちばしをもつ石亀に似た虫が出てきたという記載があります。 米五郎左の通称で知られる 長秀には米五郎左という通称がありました。これは織田家内で流行した家臣を讃える歌「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」が元になっており、秀吉は木綿のように質素だが重宝し、長秀は米のように必要不可欠、勝家の先鋒での勇猛さは素晴らしく、佐久間信盛は難関な殿軍(最後尾)を任せられるという意味です。 信長は酔って機嫌が良くなると、「不動行光、つくも髪、人には五郎左御座候」と歌いました。不動行光は名刀、つくも髪は九十九髪茄子茶入という茶器、五郎左は長秀。信長にとって長秀は、宝物と並ぶ自慢の家臣だったのです。 名刀あざ丸を所有したが…… 武将にとっての刀は、武器であり誇りでもありました。ある時、長秀は名刀「あざ丸」を所有しましたが、それからというもの眼病に悩まされたといいます。 この刀はかつて熱田神宮の神職で織田方の武将だった千秋季光が所有していたもので、彼の戦死後に陰山一景が奪ったものの、その直後の織田方との戦いで両目を射抜かれたといういわくつきの品でした。 長秀は周囲の助言に従いあざ丸を熱田神宮へ奉納、それ以降は眼病も収まったそうです。 受け継がれた長秀の血筋 長秀の死後、丹羽家は西軍として関ヶ原の戦いに参加しますが、西軍が敗れたために改易され領地を失ってしまいました。しかし、徳川秀忠のとりなしで大名に復帰。幕末には新政府軍と敵対し敗北を喫しますが、降伏したことで5万石の領地が残され、廃藩置県後も華族として名を残しています。 織田家宿老に上り詰めた長秀は、地道に功績を積み重ね主君の信頼を得ました。その血筋は現在まで脈々と受け継がれています。
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、何歳でこの世を去ったか。
柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、51歳でこの世を去った。
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歴史
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、島津豊久である。 豊久の生い立ちと戦場での活躍 豊久が生まれたのは戦国最強とも評される、九州最大勢力の島津家です。豪傑揃いの島津四兄弟を父にもつ彼は、若くして実力を発揮しました。 幼少期から初陣まで 豊久は、元亀元年(1570)島津四兄弟の末弟・家久の子として串木野城で生まれました。天正12年(1584)「沖田畷の戦い」で初陣を果たし、元服前にも関わらず敵の首級1つを討ち取ります。 父の家久は四兄弟の中で唯一側室の子でしたが、若年の頃から「軍法戦術に妙を得たり」と祖父に評価されており、兄弟がその戦功を妬んだという噂もあるほどでした。豊久は父譲りの戦闘センスをいかんなく発揮したのです。 18歳で家督を継承する 天正15年(1587)「戸次川の戦い」で父に従い先陣を切るも敗北。天正15年(1587)には父が急死したため、家督を継いで日向佐土原城の城主となります。 島津氏はこの年に豊臣秀吉に降伏しており、家久は豊臣の陣中から帰った直後に亡くなりました。これは暗殺ともいわれており、秀吉はその疑惑を避けるかのように、豊久に所領を与えるよう命じたといいます。 父を失った後の豊久は、伯父・義弘によって実子同様に養育されました。 秀吉のもとで戦功をあげる その後、豊久はさまざまな戦いで活躍をみせます。天正18年(1590)小田原征伐に従軍したのち、文禄元年(1592)文禄・慶長の役で朝鮮に出兵。ここでの活躍は目覚ましく、「豊久跳んで敵船に移り敵を斬ること麻の如し」と記録されるほどでした。敵から奪った船を献上した際は感謝の書状をもらっており、敵の首級も複数討ち取るなど戦功をあげています。慶長3年(1598)帰国を命じられると、6年間滞在した朝鮮から日本に戻りました。
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、いつ生まれたか。
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、元亀元年(1570)に生まれた。
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関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、島津豊久である。 豊久の生い立ちと戦場での活躍 豊久が生まれたのは戦国最強とも評される、九州最大勢力の島津家です。豪傑揃いの島津四兄弟を父にもつ彼は、若くして実力を発揮しました。 幼少期から初陣まで 豊久は、元亀元年(1570)島津四兄弟の末弟・家久の子として串木野城で生まれました。天正12年(1584)「沖田畷の戦い」で初陣を果たし、元服前にも関わらず敵の首級1つを討ち取ります。 父の家久は四兄弟の中で唯一側室の子でしたが、若年の頃から「軍法戦術に妙を得たり」と祖父に評価されており、兄弟がその戦功を妬んだという噂もあるほどでした。豊久は父譲りの戦闘センスをいかんなく発揮したのです。 18歳で家督を継承する 天正15年(1587)「戸次川の戦い」で父に従い先陣を切るも敗北。天正15年(1587)には父が急死したため、家督を継いで日向佐土原城の城主となります。 島津氏はこの年に豊臣秀吉に降伏しており、家久は豊臣の陣中から帰った直後に亡くなりました。これは暗殺ともいわれており、秀吉はその疑惑を避けるかのように、豊久に所領を与えるよう命じたといいます。 父を失った後の豊久は、伯父・義弘によって実子同様に養育されました。 秀吉のもとで戦功をあげる その後、豊久はさまざまな戦いで活躍をみせます。天正18年(1590)小田原征伐に従軍したのち、文禄元年(1592)文禄・慶長の役で朝鮮に出兵。ここでの活躍は目覚ましく、「豊久跳んで敵船に移り敵を斬ること麻の如し」と記録されるほどでした。敵から奪った船を献上した際は感謝の書状をもらっており、敵の首級も複数討ち取るなど戦功をあげています。慶長3年(1598)帰国を命じられると、6年間滞在した朝鮮から日本に戻りました。
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、誰の子として生まれたか。
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、島津四兄弟の末弟・家久の子として生まれた。
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関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、島津豊久である。 豊久の生い立ちと戦場での活躍 豊久が生まれたのは戦国最強とも評される、九州最大勢力の島津家です。豪傑揃いの島津四兄弟を父にもつ彼は、若くして実力を発揮しました。 幼少期から初陣まで 豊久は、元亀元年(1570)島津四兄弟の末弟・家久の子として串木野城で生まれました。天正12年(1584)「沖田畷の戦い」で初陣を果たし、元服前にも関わらず敵の首級1つを討ち取ります。 父の家久は四兄弟の中で唯一側室の子でしたが、若年の頃から「軍法戦術に妙を得たり」と祖父に評価されており、兄弟がその戦功を妬んだという噂もあるほどでした。豊久は父譲りの戦闘センスをいかんなく発揮したのです。 18歳で家督を継承する 天正15年(1587)「戸次川の戦い」で父に従い先陣を切るも敗北。天正15年(1587)には父が急死したため、家督を継いで日向佐土原城の城主となります。 島津氏はこの年に豊臣秀吉に降伏しており、家久は豊臣の陣中から帰った直後に亡くなりました。これは暗殺ともいわれており、秀吉はその疑惑を避けるかのように、豊久に所領を与えるよう命じたといいます。 父を失った後の豊久は、伯父・義弘によって実子同様に養育されました。 秀吉のもとで戦功をあげる その後、豊久はさまざまな戦いで活躍をみせます。天正18年(1590)小田原征伐に従軍したのち、文禄元年(1592)文禄・慶長の役で朝鮮に出兵。ここでの活躍は目覚ましく、「豊久跳んで敵船に移り敵を斬ること麻の如し」と記録されるほどでした。敵から奪った船を献上した際は感謝の書状をもらっており、敵の首級も複数討ち取るなど戦功をあげています。慶長3年(1598)帰国を命じられると、6年間滞在した朝鮮から日本に戻りました。
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、どこで生まれたか。
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、串木野城で生まれた。
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関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、島津豊久である。 豊久の生い立ちと戦場での活躍 豊久が生まれたのは戦国最強とも評される、九州最大勢力の島津家です。豪傑揃いの島津四兄弟を父にもつ彼は、若くして実力を発揮しました。 幼少期から初陣まで 豊久は、元亀元年(1570)島津四兄弟の末弟・家久の子として串木野城で生まれました。天正12年(1584)「沖田畷の戦い」で初陣を果たし、元服前にも関わらず敵の首級1つを討ち取ります。 父の家久は四兄弟の中で唯一側室の子でしたが、若年の頃から「軍法戦術に妙を得たり」と祖父に評価されており、兄弟がその戦功を妬んだという噂もあるほどでした。豊久は父譲りの戦闘センスをいかんなく発揮したのです。 18歳で家督を継承する 天正15年(1587)「戸次川の戦い」で父に従い先陣を切るも敗北。天正15年(1587)には父が急死したため、家督を継いで日向佐土原城の城主となります。 島津氏はこの年に豊臣秀吉に降伏しており、家久は豊臣の陣中から帰った直後に亡くなりました。これは暗殺ともいわれており、秀吉はその疑惑を避けるかのように、豊久に所領を与えるよう命じたといいます。 父を失った後の豊久は、伯父・義弘によって実子同様に養育されました。 秀吉のもとで戦功をあげる その後、豊久はさまざまな戦いで活躍をみせます。天正18年(1590)小田原征伐に従軍したのち、文禄元年(1592)文禄・慶長の役で朝鮮に出兵。ここでの活躍は目覚ましく、「豊久跳んで敵船に移り敵を斬ること麻の如し」と記録されるほどでした。敵から奪った船を献上した際は感謝の書状をもらっており、敵の首級も複数討ち取るなど戦功をあげています。慶長3年(1598)帰国を命じられると、6年間滞在した朝鮮から日本に戻りました。
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、いつ初陣を果たしたか。
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、天正12年(1584)「沖田畷の戦い」で初陣を果たした。
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歴史
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、島津豊久である。 豊久の生い立ちと戦場での活躍 豊久が生まれたのは戦国最強とも評される、九州最大勢力の島津家です。豪傑揃いの島津四兄弟を父にもつ彼は、若くして実力を発揮しました。 幼少期から初陣まで 豊久は、元亀元年(1570)島津四兄弟の末弟・家久の子として串木野城で生まれました。天正12年(1584)「沖田畷の戦い」で初陣を果たし、元服前にも関わらず敵の首級1つを討ち取ります。 父の家久は四兄弟の中で唯一側室の子でしたが、若年の頃から「軍法戦術に妙を得たり」と祖父に評価されており、兄弟がその戦功を妬んだという噂もあるほどでした。豊久は父譲りの戦闘センスをいかんなく発揮したのです。 18歳で家督を継承する 天正15年(1587)「戸次川の戦い」で父に従い先陣を切るも敗北。天正15年(1587)には父が急死したため、家督を継いで日向佐土原城の城主となります。 島津氏はこの年に豊臣秀吉に降伏しており、家久は豊臣の陣中から帰った直後に亡くなりました。これは暗殺ともいわれており、秀吉はその疑惑を避けるかのように、豊久に所領を与えるよう命じたといいます。 父を失った後の豊久は、伯父・義弘によって実子同様に養育されました。 秀吉のもとで戦功をあげる その後、豊久はさまざまな戦いで活躍をみせます。天正18年(1590)小田原征伐に従軍したのち、文禄元年(1592)文禄・慶長の役で朝鮮に出兵。ここでの活躍は目覚ましく、「豊久跳んで敵船に移り敵を斬ること麻の如し」と記録されるほどでした。敵から奪った船を献上した際は感謝の書状をもらっており、敵の首級も複数討ち取るなど戦功をあげています。慶長3年(1598)帰国を命じられると、6年間滞在した朝鮮から日本に戻りました。
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、何にも関わらず敵の首級1つを討ち取ったか。
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、元服前にも関わらず敵の首級1つを討ち取った。
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関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、島津豊久である。 有名な「島津の退き口」とは? 多くの戦いで武勇を発揮した豊久ですが、関ヶ原の戦いにおける「島津の退き口」は最も勇猛果敢だったといえます。彼の最期はどのようなものだったのでしょうか。 関ヶ原の戦いに西軍として参加 豊久は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに義弘とともに参加します。当初義弘は東軍の援軍要請に応えましたが、やむを得ない事情により西軍として戦うことを決意。しかし義弘には本国の軍を動かす力がなく、手勢がわずかだったことから石田三成らに軽視されてしまいます。さらに大垣での軍議では、夜襲を提案したものの田舎戦法だと笑われました。 そのような事情もあり、いざ戦いが始まると豊久らは攻撃せず静観を決め込みます。驚いた三成は加勢を要請しますが、使者が下馬しなかったため豊久は激怒しました。このような島津方の動きは、西軍敗北の一因となったようです。 多くの犠牲を伴った決死の敵中突破 戦局が東軍に有利となると、島津軍は戦場で孤立し退路を断たれました。義弘は切腹を覚悟しますが、「戦後の難局に立ち向かうには義弘公が生き残らなければならない」という豊久の言葉を受け、薩摩に帰ることを決意します。 このとき義弘がとった方法が、敵の陣中を正面から突っ切る敵中突破です。しかし東軍の追撃は激しく、島津隊は「捨てがまり(捨て奸)」で時間を稼ぎました。これは最後尾の約10人が鉄砲で迎撃し、全員死ぬと次の10人がまた迎撃する捨て身の戦法です。 死を覚悟した島津隊の形相はただならぬもので、東軍の勇将・福島正則は手出ししなかったといいます。また本多忠勝は落馬させられ、松平忠吉や井伊直政も重傷を負いました。 豊久の最期 「島津の退き口」では、家老・長寿院淳盛に続き、豊久も捨てがまりを務めました。付き従う13騎とともに敵軍に入った豊久は、死闘を繰り広げて討ち死にします。その最期は壮絶で、複数の槍に突かれて3度宙を舞い、陣羽織はボロボロになったといいます。 このような豊久らの活躍により、義弘は無事に薩摩に帰還しました。 残されている逸話 生涯を通して勇猛果敢だった豊久ですが、若くして亡くなったためかその人物像はあまり知られていません。ここでは彼にまつわる逸話をご紹介します。 家臣想いで美少年だった 薩摩藩の伝承によれば豊久は美少年だったようで、残された史料には「比べるものがないくらい美しく、知略と武勇にも優れた少年」「無双の美童」「美少人」といった記載があります。 また家臣一人一人に自ら酒を振る舞うなど思いやりのある人物だったようで、家臣らは自分のことを想ってくれているのだと感じ、より一層奮闘したということです。 義弘を慕い自ら身代わりになる 「島津の退き口」で捨てがまりを務める際、豊久は義弘の別称である島津惟新を名乗り敵陣に進撃したといわれています。彼は義弘の身代わりになることを宣言し、見事その役目を果たしたのです。 豊久は自分を養育してくれた義弘に恩義を感じていました。関ヶ原の戦いで義弘のもとに真っ先に駆け付けたのも、恩義に報いるためだったのでしょう。 豊久の死にまつわる異説 豊久は関ヶ原の戦いで討ち死にしたとされますが、戦地から落ち延びたという異説も残されています。1つは無念の死を遂げ祟りで草木が生えなくなったというもの、もう1つは看病してくれる村人が疑われないように自刃したというものです。 なお、生き延びた義弘は豊久の討ち死にに確証がもてず、秘密裏に安否を探らせたといわれています。 戦国一の壮絶な死を遂げた武将 豊久には子が無く、姪の婿・喜入忠栄が家督を継承したものの断絶してしまいます。そのため島津久雄が継嗣に入り、永吉島津家として受け継がれました。 島津氏が治めた薩摩藩は、幕末には雄藩として強い影響力をもつようになります。その源流は豊久が見せた死闘や勇猛さにあったといえるでしょう。 豊久の討ち死に場所は諸説あり、墓所も複数存在しています。永吉島津家当主が入手した豊久の鎧は、現在でも鹿児島市にある尚古集成館で見ることができます。
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに誰とともに参加したか。
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに義弘とともに参加した。
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歴史
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、島津豊久である。 有名な「島津の退き口」とは? 多くの戦いで武勇を発揮した豊久ですが、関ヶ原の戦いにおける「島津の退き口」は最も勇猛果敢だったといえます。彼の最期はどのようなものだったのでしょうか。 関ヶ原の戦いに西軍として参加 豊久は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに義弘とともに参加します。当初義弘は東軍の援軍要請に応えましたが、やむを得ない事情により西軍として戦うことを決意。しかし義弘には本国の軍を動かす力がなく、手勢がわずかだったことから石田三成らに軽視されてしまいます。さらに大垣での軍議では、夜襲を提案したものの田舎戦法だと笑われました。 そのような事情もあり、いざ戦いが始まると豊久らは攻撃せず静観を決め込みます。驚いた三成は加勢を要請しますが、使者が下馬しなかったため豊久は激怒しました。このような島津方の動きは、西軍敗北の一因となったようです。 多くの犠牲を伴った決死の敵中突破 戦局が東軍に有利となると、島津軍は戦場で孤立し退路を断たれました。義弘は切腹を覚悟しますが、「戦後の難局に立ち向かうには義弘公が生き残らなければならない」という豊久の言葉を受け、薩摩に帰ることを決意します。 このとき義弘がとった方法が、敵の陣中を正面から突っ切る敵中突破です。しかし東軍の追撃は激しく、島津隊は「捨てがまり(捨て奸)」で時間を稼ぎました。これは最後尾の約10人が鉄砲で迎撃し、全員死ぬと次の10人がまた迎撃する捨て身の戦法です。 死を覚悟した島津隊の形相はただならぬもので、東軍の勇将・福島正則は手出ししなかったといいます。また本多忠勝は落馬させられ、松平忠吉や井伊直政も重傷を負いました。 豊久の最期 「島津の退き口」では、家老・長寿院淳盛に続き、豊久も捨てがまりを務めました。付き従う13騎とともに敵軍に入った豊久は、死闘を繰り広げて討ち死にします。その最期は壮絶で、複数の槍に突かれて3度宙を舞い、陣羽織はボロボロになったといいます。 このような豊久らの活躍により、義弘は無事に薩摩に帰還しました。 残されている逸話 生涯を通して勇猛果敢だった豊久ですが、若くして亡くなったためかその人物像はあまり知られていません。ここでは彼にまつわる逸話をご紹介します。 家臣想いで美少年だった 薩摩藩の伝承によれば豊久は美少年だったようで、残された史料には「比べるものがないくらい美しく、知略と武勇にも優れた少年」「無双の美童」「美少人」といった記載があります。 また家臣一人一人に自ら酒を振る舞うなど思いやりのある人物だったようで、家臣らは自分のことを想ってくれているのだと感じ、より一層奮闘したということです。 義弘を慕い自ら身代わりになる 「島津の退き口」で捨てがまりを務める際、豊久は義弘の別称である島津惟新を名乗り敵陣に進撃したといわれています。彼は義弘の身代わりになることを宣言し、見事その役目を果たしたのです。 豊久は自分を養育してくれた義弘に恩義を感じていました。関ヶ原の戦いで義弘のもとに真っ先に駆け付けたのも、恩義に報いるためだったのでしょう。 豊久の死にまつわる異説 豊久は関ヶ原の戦いで討ち死にしたとされますが、戦地から落ち延びたという異説も残されています。1つは無念の死を遂げ祟りで草木が生えなくなったというもの、もう1つは看病してくれる村人が疑われないように自刃したというものです。 なお、生き延びた義弘は豊久の討ち死にに確証がもてず、秘密裏に安否を探らせたといわれています。 戦国一の壮絶な死を遂げた武将 豊久には子が無く、姪の婿・喜入忠栄が家督を継承したものの断絶してしまいます。そのため島津久雄が継嗣に入り、永吉島津家として受け継がれました。 島津氏が治めた薩摩藩は、幕末には雄藩として強い影響力をもつようになります。その源流は豊久が見せた死闘や勇猛さにあったといえるでしょう。 豊久の討ち死に場所は諸説あり、墓所も複数存在しています。永吉島津家当主が入手した豊久の鎧は、現在でも鹿児島市にある尚古集成館で見ることができます。
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、夜襲を提案したものの何だと笑われたか。
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、夜襲を提案したものの田舎戦法だと笑われた。
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関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、島津豊久である。 有名な「島津の退き口」とは? 多くの戦いで武勇を発揮した豊久ですが、関ヶ原の戦いにおける「島津の退き口」は最も勇猛果敢だったといえます。彼の最期はどのようなものだったのでしょうか。 関ヶ原の戦いに西軍として参加 豊久は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに義弘とともに参加します。当初義弘は東軍の援軍要請に応えましたが、やむを得ない事情により西軍として戦うことを決意。しかし義弘には本国の軍を動かす力がなく、手勢がわずかだったことから石田三成らに軽視されてしまいます。さらに大垣での軍議では、夜襲を提案したものの田舎戦法だと笑われました。 そのような事情もあり、いざ戦いが始まると豊久らは攻撃せず静観を決め込みます。驚いた三成は加勢を要請しますが、使者が下馬しなかったため豊久は激怒しました。このような島津方の動きは、西軍敗北の一因となったようです。 多くの犠牲を伴った決死の敵中突破 戦局が東軍に有利となると、島津軍は戦場で孤立し退路を断たれました。義弘は切腹を覚悟しますが、「戦後の難局に立ち向かうには義弘公が生き残らなければならない」という豊久の言葉を受け、薩摩に帰ることを決意します。 このとき義弘がとった方法が、敵の陣中を正面から突っ切る敵中突破です。しかし東軍の追撃は激しく、島津隊は「捨てがまり(捨て奸)」で時間を稼ぎました。これは最後尾の約10人が鉄砲で迎撃し、全員死ぬと次の10人がまた迎撃する捨て身の戦法です。 死を覚悟した島津隊の形相はただならぬもので、東軍の勇将・福島正則は手出ししなかったといいます。また本多忠勝は落馬させられ、松平忠吉や井伊直政も重傷を負いました。 豊久の最期 「島津の退き口」では、家老・長寿院淳盛に続き、豊久も捨てがまりを務めました。付き従う13騎とともに敵軍に入った豊久は、死闘を繰り広げて討ち死にします。その最期は壮絶で、複数の槍に突かれて3度宙を舞い、陣羽織はボロボロになったといいます。 このような豊久らの活躍により、義弘は無事に薩摩に帰還しました。 残されている逸話 生涯を通して勇猛果敢だった豊久ですが、若くして亡くなったためかその人物像はあまり知られていません。ここでは彼にまつわる逸話をご紹介します。 家臣想いで美少年だった 薩摩藩の伝承によれば豊久は美少年だったようで、残された史料には「比べるものがないくらい美しく、知略と武勇にも優れた少年」「無双の美童」「美少人」といった記載があります。 また家臣一人一人に自ら酒を振る舞うなど思いやりのある人物だったようで、家臣らは自分のことを想ってくれているのだと感じ、より一層奮闘したということです。 義弘を慕い自ら身代わりになる 「島津の退き口」で捨てがまりを務める際、豊久は義弘の別称である島津惟新を名乗り敵陣に進撃したといわれています。彼は義弘の身代わりになることを宣言し、見事その役目を果たしたのです。 豊久は自分を養育してくれた義弘に恩義を感じていました。関ヶ原の戦いで義弘のもとに真っ先に駆け付けたのも、恩義に報いるためだったのでしょう。 豊久の死にまつわる異説 豊久は関ヶ原の戦いで討ち死にしたとされますが、戦地から落ち延びたという異説も残されています。1つは無念の死を遂げ祟りで草木が生えなくなったというもの、もう1つは看病してくれる村人が疑われないように自刃したというものです。 なお、生き延びた義弘は豊久の討ち死にに確証がもてず、秘密裏に安否を探らせたといわれています。 戦国一の壮絶な死を遂げた武将 豊久には子が無く、姪の婿・喜入忠栄が家督を継承したものの断絶してしまいます。そのため島津久雄が継嗣に入り、永吉島津家として受け継がれました。 島津氏が治めた薩摩藩は、幕末には雄藩として強い影響力をもつようになります。その源流は豊久が見せた死闘や勇猛さにあったといえるでしょう。 豊久の討ち死に場所は諸説あり、墓所も複数存在しています。永吉島津家当主が入手した豊久の鎧は、現在でも鹿児島市にある尚古集成館で見ることができます。
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、なぜ激怒したか。
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、使者が下馬しなかったため激怒した。
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歴史
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、島津豊久である。 有名な「島津の退き口」とは? 多くの戦いで武勇を発揮した豊久ですが、関ヶ原の戦いにおける「島津の退き口」は最も勇猛果敢だったといえます。彼の最期はどのようなものだったのでしょうか。 関ヶ原の戦いに西軍として参加 豊久は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに義弘とともに参加します。当初義弘は東軍の援軍要請に応えましたが、やむを得ない事情により西軍として戦うことを決意。しかし義弘には本国の軍を動かす力がなく、手勢がわずかだったことから石田三成らに軽視されてしまいます。さらに大垣での軍議では、夜襲を提案したものの田舎戦法だと笑われました。 そのような事情もあり、いざ戦いが始まると豊久らは攻撃せず静観を決め込みます。驚いた三成は加勢を要請しますが、使者が下馬しなかったため豊久は激怒しました。このような島津方の動きは、西軍敗北の一因となったようです。 多くの犠牲を伴った決死の敵中突破 戦局が東軍に有利となると、島津軍は戦場で孤立し退路を断たれました。義弘は切腹を覚悟しますが、「戦後の難局に立ち向かうには義弘公が生き残らなければならない」という豊久の言葉を受け、薩摩に帰ることを決意します。 このとき義弘がとった方法が、敵の陣中を正面から突っ切る敵中突破です。しかし東軍の追撃は激しく、島津隊は「捨てがまり(捨て奸)」で時間を稼ぎました。これは最後尾の約10人が鉄砲で迎撃し、全員死ぬと次の10人がまた迎撃する捨て身の戦法です。 死を覚悟した島津隊の形相はただならぬもので、東軍の勇将・福島正則は手出ししなかったといいます。また本多忠勝は落馬させられ、松平忠吉や井伊直政も重傷を負いました。 豊久の最期 「島津の退き口」では、家老・長寿院淳盛に続き、豊久も捨てがまりを務めました。付き従う13騎とともに敵軍に入った豊久は、死闘を繰り広げて討ち死にします。その最期は壮絶で、複数の槍に突かれて3度宙を舞い、陣羽織はボロボロになったといいます。 このような豊久らの活躍により、義弘は無事に薩摩に帰還しました。 残されている逸話 生涯を通して勇猛果敢だった豊久ですが、若くして亡くなったためかその人物像はあまり知られていません。ここでは彼にまつわる逸話をご紹介します。 家臣想いで美少年だった 薩摩藩の伝承によれば豊久は美少年だったようで、残された史料には「比べるものがないくらい美しく、知略と武勇にも優れた少年」「無双の美童」「美少人」といった記載があります。 また家臣一人一人に自ら酒を振る舞うなど思いやりのある人物だったようで、家臣らは自分のことを想ってくれているのだと感じ、より一層奮闘したということです。 義弘を慕い自ら身代わりになる 「島津の退き口」で捨てがまりを務める際、豊久は義弘の別称である島津惟新を名乗り敵陣に進撃したといわれています。彼は義弘の身代わりになることを宣言し、見事その役目を果たしたのです。 豊久は自分を養育してくれた義弘に恩義を感じていました。関ヶ原の戦いで義弘のもとに真っ先に駆け付けたのも、恩義に報いるためだったのでしょう。 豊久の死にまつわる異説 豊久は関ヶ原の戦いで討ち死にしたとされますが、戦地から落ち延びたという異説も残されています。1つは無念の死を遂げ祟りで草木が生えなくなったというもの、もう1つは看病してくれる村人が疑われないように自刃したというものです。 なお、生き延びた義弘は豊久の討ち死にに確証がもてず、秘密裏に安否を探らせたといわれています。 戦国一の壮絶な死を遂げた武将 豊久には子が無く、姪の婿・喜入忠栄が家督を継承したものの断絶してしまいます。そのため島津久雄が継嗣に入り、永吉島津家として受け継がれました。 島津氏が治めた薩摩藩は、幕末には雄藩として強い影響力をもつようになります。その源流は豊久が見せた死闘や勇猛さにあったといえるでしょう。 豊久の討ち死に場所は諸説あり、墓所も複数存在しています。永吉島津家当主が入手した豊久の鎧は、現在でも鹿児島市にある尚古集成館で見ることができます。
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、何と名乗り敵陣に進撃したか。
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、義弘の別称である島津惟新を名乗り敵陣に進撃した。
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歴史
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、島津豊久である。 有名な「島津の退き口」とは? 多くの戦いで武勇を発揮した豊久ですが、関ヶ原の戦いにおける「島津の退き口」は最も勇猛果敢だったといえます。彼の最期はどのようなものだったのでしょうか。 関ヶ原の戦いに西軍として参加 豊久は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに義弘とともに参加します。当初義弘は東軍の援軍要請に応えましたが、やむを得ない事情により西軍として戦うことを決意。しかし義弘には本国の軍を動かす力がなく、手勢がわずかだったことから石田三成らに軽視されてしまいます。さらに大垣での軍議では、夜襲を提案したものの田舎戦法だと笑われました。 そのような事情もあり、いざ戦いが始まると豊久らは攻撃せず静観を決め込みます。驚いた三成は加勢を要請しますが、使者が下馬しなかったため豊久は激怒しました。このような島津方の動きは、西軍敗北の一因となったようです。 多くの犠牲を伴った決死の敵中突破 戦局が東軍に有利となると、島津軍は戦場で孤立し退路を断たれました。義弘は切腹を覚悟しますが、「戦後の難局に立ち向かうには義弘公が生き残らなければならない」という豊久の言葉を受け、薩摩に帰ることを決意します。 このとき義弘がとった方法が、敵の陣中を正面から突っ切る敵中突破です。しかし東軍の追撃は激しく、島津隊は「捨てがまり(捨て奸)」で時間を稼ぎました。これは最後尾の約10人が鉄砲で迎撃し、全員死ぬと次の10人がまた迎撃する捨て身の戦法です。 死を覚悟した島津隊の形相はただならぬもので、東軍の勇将・福島正則は手出ししなかったといいます。また本多忠勝は落馬させられ、松平忠吉や井伊直政も重傷を負いました。 豊久の最期 「島津の退き口」では、家老・長寿院淳盛に続き、豊久も捨てがまりを務めました。付き従う13騎とともに敵軍に入った豊久は、死闘を繰り広げて討ち死にします。その最期は壮絶で、複数の槍に突かれて3度宙を舞い、陣羽織はボロボロになったといいます。 このような豊久らの活躍により、義弘は無事に薩摩に帰還しました。 残されている逸話 生涯を通して勇猛果敢だった豊久ですが、若くして亡くなったためかその人物像はあまり知られていません。ここでは彼にまつわる逸話をご紹介します。 家臣想いで美少年だった 薩摩藩の伝承によれば豊久は美少年だったようで、残された史料には「比べるものがないくらい美しく、知略と武勇にも優れた少年」「無双の美童」「美少人」といった記載があります。 また家臣一人一人に自ら酒を振る舞うなど思いやりのある人物だったようで、家臣らは自分のことを想ってくれているのだと感じ、より一層奮闘したということです。 義弘を慕い自ら身代わりになる 「島津の退き口」で捨てがまりを務める際、豊久は義弘の別称である島津惟新を名乗り敵陣に進撃したといわれています。彼は義弘の身代わりになることを宣言し、見事その役目を果たしたのです。 豊久は自分を養育してくれた義弘に恩義を感じていました。関ヶ原の戦いで義弘のもとに真っ先に駆け付けたのも、恩義に報いるためだったのでしょう。 豊久の死にまつわる異説 豊久は関ヶ原の戦いで討ち死にしたとされますが、戦地から落ち延びたという異説も残されています。1つは無念の死を遂げ祟りで草木が生えなくなったというもの、もう1つは看病してくれる村人が疑われないように自刃したというものです。 なお、生き延びた義弘は豊久の討ち死にに確証がもてず、秘密裏に安否を探らせたといわれています。 戦国一の壮絶な死を遂げた武将 豊久には子が無く、姪の婿・喜入忠栄が家督を継承したものの断絶してしまいます。そのため島津久雄が継嗣に入り、永吉島津家として受け継がれました。 島津氏が治めた薩摩藩は、幕末には雄藩として強い影響力をもつようになります。その源流は豊久が見せた死闘や勇猛さにあったといえるでしょう。 豊久の討ち死に場所は諸説あり、墓所も複数存在しています。永吉島津家当主が入手した豊久の鎧は、現在でも鹿児島市にある尚古集成館で見ることができます。
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、誰に恩義を感じていたか。
関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、自分を養育してくれた義弘に恩義を感じていた。
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歴史
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、浅井長政である。 長政の生い立ちと浅井家の台頭 北近江国の戦国大名として知られる長政ですが、生まれたときの勢力図は複雑なものでした。彼はどうような状況で育ったのでしょうか。 生まれから家督相続まで 長政は、天文14年(1545)浅井久政の嫡男として南近江の観音寺城下で生まれました。 この頃の浅井氏は北近江の守護・京極氏に下剋上を果たしたものの、南近江の守護・六角氏に敗れて臣従している状態でした。臣従関係を明確にしたい六角氏は、長政に対し当主・六角義賢から一字とった賢政を名乗らせ、家臣・平井定武の娘との婚姻を強制します。 しかし永禄3年(1560)15歳で元服した長政が、野良田の戦いで六角氏に勝利。六角氏に臣従する現状に不満をもつ家臣たちは、この勝利で長政に期待を寄せるようになりました。そして、ついには久政を追放して隠居させてしまいます。こうして長政は強奪するように家督を継ぎました。 六角家から離反!成長を遂げる浅井家 長政は六角氏から離反する意思を示すため、名前を戻し平井定武の娘も返します。また永禄6年(1563)六角氏の筆頭家臣・後藤賢豊が暗殺されると、多くの六角氏家臣が浅井氏に仕官するようになりました。徐々に浅井家が成長を遂げる中、長政の美濃遠征中に六角氏が留守を攻撃するという事件も勃発。長政は見事この攻撃を破り、領土を拡大していったのです。 信長の義弟になるも敵対関係へ 勢力を増していった長政は、のちに天下人と呼ばれるようになる信長と同盟を結びます。しかしこれは長くは続きませんでした。 お市の方との政略結婚 尾張から勢力を拡大していた信長は、美濃の斎藤氏を攻略するため長政に同盟をもちかけました。これは長政に有利な内容でしたが、父の盟友・朝倉義景と信長が不仲だったため、浅井家では反対の声も多かったようです。 結果的に同盟は成立し、長政は戦国一の美女といわれる信長の妹・お市の方と政略結婚します。信長はこの同盟を喜び、通常なら長政側が用意すべき結婚資金も全額負担するほどでした。
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、いつ生まれたか。
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、天文14年(1545)に生まれた。
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天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、浅井長政である。 長政の生い立ちと浅井家の台頭 北近江国の戦国大名として知られる長政ですが、生まれたときの勢力図は複雑なものでした。彼はどうような状況で育ったのでしょうか。 生まれから家督相続まで 長政は、天文14年(1545)浅井久政の嫡男として南近江の観音寺城下で生まれました。 この頃の浅井氏は北近江の守護・京極氏に下剋上を果たしたものの、南近江の守護・六角氏に敗れて臣従している状態でした。臣従関係を明確にしたい六角氏は、長政に対し当主・六角義賢から一字とった賢政を名乗らせ、家臣・平井定武の娘との婚姻を強制します。 しかし永禄3年(1560)15歳で元服した長政が、野良田の戦いで六角氏に勝利。六角氏に臣従する現状に不満をもつ家臣たちは、この勝利で長政に期待を寄せるようになりました。そして、ついには久政を追放して隠居させてしまいます。こうして長政は強奪するように家督を継ぎました。 六角家から離反!成長を遂げる浅井家 長政は六角氏から離反する意思を示すため、名前を戻し平井定武の娘も返します。また永禄6年(1563)六角氏の筆頭家臣・後藤賢豊が暗殺されると、多くの六角氏家臣が浅井氏に仕官するようになりました。徐々に浅井家が成長を遂げる中、長政の美濃遠征中に六角氏が留守を攻撃するという事件も勃発。長政は見事この攻撃を破り、領土を拡大していったのです。 信長の義弟になるも敵対関係へ 勢力を増していった長政は、のちに天下人と呼ばれるようになる信長と同盟を結びます。しかしこれは長くは続きませんでした。 お市の方との政略結婚 尾張から勢力を拡大していた信長は、美濃の斎藤氏を攻略するため長政に同盟をもちかけました。これは長政に有利な内容でしたが、父の盟友・朝倉義景と信長が不仲だったため、浅井家では反対の声も多かったようです。 結果的に同盟は成立し、長政は戦国一の美女といわれる信長の妹・お市の方と政略結婚します。信長はこの同盟を喜び、通常なら長政側が用意すべき結婚資金も全額負担するほどでした。
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、誰の嫡男として生まれたか。
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、浅井久政の嫡男として生まれた。
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歴史
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、浅井長政である。 長政の生い立ちと浅井家の台頭 北近江国の戦国大名として知られる長政ですが、生まれたときの勢力図は複雑なものでした。彼はどうような状況で育ったのでしょうか。 生まれから家督相続まで 長政は、天文14年(1545)浅井久政の嫡男として南近江の観音寺城下で生まれました。 この頃の浅井氏は北近江の守護・京極氏に下剋上を果たしたものの、南近江の守護・六角氏に敗れて臣従している状態でした。臣従関係を明確にしたい六角氏は、長政に対し当主・六角義賢から一字とった賢政を名乗らせ、家臣・平井定武の娘との婚姻を強制します。 しかし永禄3年(1560)15歳で元服した長政が、野良田の戦いで六角氏に勝利。六角氏に臣従する現状に不満をもつ家臣たちは、この勝利で長政に期待を寄せるようになりました。そして、ついには久政を追放して隠居させてしまいます。こうして長政は強奪するように家督を継ぎました。 六角家から離反!成長を遂げる浅井家 長政は六角氏から離反する意思を示すため、名前を戻し平井定武の娘も返します。また永禄6年(1563)六角氏の筆頭家臣・後藤賢豊が暗殺されると、多くの六角氏家臣が浅井氏に仕官するようになりました。徐々に浅井家が成長を遂げる中、長政の美濃遠征中に六角氏が留守を攻撃するという事件も勃発。長政は見事この攻撃を破り、領土を拡大していったのです。 信長の義弟になるも敵対関係へ 勢力を増していった長政は、のちに天下人と呼ばれるようになる信長と同盟を結びます。しかしこれは長くは続きませんでした。 お市の方との政略結婚 尾張から勢力を拡大していた信長は、美濃の斎藤氏を攻略するため長政に同盟をもちかけました。これは長政に有利な内容でしたが、父の盟友・朝倉義景と信長が不仲だったため、浅井家では反対の声も多かったようです。 結果的に同盟は成立し、長政は戦国一の美女といわれる信長の妹・お市の方と政略結婚します。信長はこの同盟を喜び、通常なら長政側が用意すべき結婚資金も全額負担するほどでした。
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、どこで生まれたか。
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、南近江の観音寺城下で生まれた。
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天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、浅井長政である。 長政の生い立ちと浅井家の台頭 北近江国の戦国大名として知られる長政ですが、生まれたときの勢力図は複雑なものでした。彼はどうような状況で育ったのでしょうか。 生まれから家督相続まで 長政は、天文14年(1545)浅井久政の嫡男として南近江の観音寺城下で生まれました。 この頃の浅井氏は北近江の守護・京極氏に下剋上を果たしたものの、南近江の守護・六角氏に敗れて臣従している状態でした。臣従関係を明確にしたい六角氏は、長政に対し当主・六角義賢から一字とった賢政を名乗らせ、家臣・平井定武の娘との婚姻を強制します。 しかし永禄3年(1560)15歳で元服した長政が、野良田の戦いで六角氏に勝利。六角氏に臣従する現状に不満をもつ家臣たちは、この勝利で長政に期待を寄せるようになりました。そして、ついには久政を追放して隠居させてしまいます。こうして長政は強奪するように家督を継ぎました。 六角家から離反!成長を遂げる浅井家 長政は六角氏から離反する意思を示すため、名前を戻し平井定武の娘も返します。また永禄6年(1563)六角氏の筆頭家臣・後藤賢豊が暗殺されると、多くの六角氏家臣が浅井氏に仕官するようになりました。徐々に浅井家が成長を遂げる中、長政の美濃遠征中に六角氏が留守を攻撃するという事件も勃発。長政は見事この攻撃を破り、領土を拡大していったのです。 信長の義弟になるも敵対関係へ 勢力を増していった長政は、のちに天下人と呼ばれるようになる信長と同盟を結びます。しかしこれは長くは続きませんでした。 お市の方との政略結婚 尾張から勢力を拡大していた信長は、美濃の斎藤氏を攻略するため長政に同盟をもちかけました。これは長政に有利な内容でしたが、父の盟友・朝倉義景と信長が不仲だったため、浅井家では反対の声も多かったようです。 結果的に同盟は成立し、長政は戦国一の美女といわれる信長の妹・お市の方と政略結婚します。信長はこの同盟を喜び、通常なら長政側が用意すべき結婚資金も全額負担するほどでした。
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、どのように家督を継いだか。
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、強奪するように家督を継いだ。
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歴史
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、浅井長政である。 長政の生い立ちと浅井家の台頭 北近江国の戦国大名として知られる長政ですが、生まれたときの勢力図は複雑なものでした。彼はどうような状況で育ったのでしょうか。 生まれから家督相続まで 長政は、天文14年(1545)浅井久政の嫡男として南近江の観音寺城下で生まれました。 この頃の浅井氏は北近江の守護・京極氏に下剋上を果たしたものの、南近江の守護・六角氏に敗れて臣従している状態でした。臣従関係を明確にしたい六角氏は、長政に対し当主・六角義賢から一字とった賢政を名乗らせ、家臣・平井定武の娘との婚姻を強制します。 しかし永禄3年(1560)15歳で元服した長政が、野良田の戦いで六角氏に勝利。六角氏に臣従する現状に不満をもつ家臣たちは、この勝利で長政に期待を寄せるようになりました。そして、ついには久政を追放して隠居させてしまいます。こうして長政は強奪するように家督を継ぎました。 六角家から離反!成長を遂げる浅井家 長政は六角氏から離反する意思を示すため、名前を戻し平井定武の娘も返します。また永禄6年(1563)六角氏の筆頭家臣・後藤賢豊が暗殺されると、多くの六角氏家臣が浅井氏に仕官するようになりました。徐々に浅井家が成長を遂げる中、長政の美濃遠征中に六角氏が留守を攻撃するという事件も勃発。長政は見事この攻撃を破り、領土を拡大していったのです。 信長の義弟になるも敵対関係へ 勢力を増していった長政は、のちに天下人と呼ばれるようになる信長と同盟を結びます。しかしこれは長くは続きませんでした。 お市の方との政略結婚 尾張から勢力を拡大していた信長は、美濃の斎藤氏を攻略するため長政に同盟をもちかけました。これは長政に有利な内容でしたが、父の盟友・朝倉義景と信長が不仲だったため、浅井家では反対の声も多かったようです。 結果的に同盟は成立し、長政は戦国一の美女といわれる信長の妹・お市の方と政略結婚します。信長はこの同盟を喜び、通常なら長政側が用意すべき結婚資金も全額負担するほどでした。
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、誰と政略結婚したか。
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、戦国一の美女といわれる信長の妹・お市の方と政略結婚した。
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天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、浅井長政である。 信長による裏切り 元亀元年(1570)信長は長政と結んだ「朝倉への不戦の誓い」を破ります。義景は足利義昭が上洛する際の援護要請に応じず、義昭が将軍となった後も2度の上洛命令を拒否しました。これに怒った信長は義景を攻撃。義兄の裏切りを知った長政は、悩んだ末に朝倉家との同盟を重視し、織田・徳川連合軍を背後から急襲します。こうして義理の兄弟だった長政と信長の関係は一気に崩れていきました。 姉川の戦いで信長と対立 信長と敵対することになった長政は、姉川の戦いで織田・徳川連合軍と激突します。織田方は徳川家康の援軍とあわせて約3万の兵力、長政も義景に援軍を求めますがこちらは約2万の兵力。当初は浅井・朝倉連合軍が優勢でしたが、家康軍の活躍によりこの戦いは織田・徳川連合軍の勝利に終わりました。この時、信長軍が敗走の用意をしていたという逸話も残されていますが、信ぴょう性は薄いようです。 浅井家の滅亡 天正元年(1573)信長による北近江攻撃が再開されました。応戦する長政ですが、織田軍の兵力は約6倍と歴然の差で、浅井家は滅亡に追い込まれます。 小谷城の戦いで籠城する 信長の攻撃により本拠地の小谷城を包囲された長政は、5千の軍勢とともに籠城しました。対抗手段は義景の援軍のみでしたが、2万の兵力で駆けつけた朝倉軍は前哨戦での敗北や城砦の失陥もあり越前国へと撤退。信長はこの朝倉軍を追撃して壊滅に追い込みます。 浅井家では家臣の離反が相次ぎ孤立が強まりましたが、それでも長政は使者・秀吉による降伏勧告を最後まで断り続けました。 『信長公記』にみる長政の最期 信長に徹底抗戦した長政でしたが、最期は自害してこの世を去ります。『信長公記』では天正元年(1573)8月27日に父・久政が、翌28日に長政が小谷城内赤尾屋敷で自害したとされますが、29日付の配下に当てた書状が発見されたことから命日は9月1日と判明しています。これにより浅井家は滅亡し、3代目当主だった長政は29年の人生に幕を閉じました。 義を重んじた長政の人物像とは? 信長と敵対し短い一生を終えた長政ですが、その逸話からは義理人情に厚い戦国武将だったことがうかがえます。ここでは長政の人物像がわかる逸話をいくつかご紹介します。 信長の足利義昭上洛を支援 将軍・義昭を奉じて上洛する際、信長は長政に協力を願い出ました。これを了承した長政は家臣に信長の接待をさせます。 少ない手勢で宿泊する信長を見た家臣は「ここで夜襲をかけて討ち取るべき」と進言しましたが、長政は義兄の信長を騙し討ちするような卑怯なことはできないと拒否。その後は将軍・義昭の警護にも協力し信長を助けました。 小谷城落城の際に妻子を逃がした 長政のエピソードとして最も有名なのが、小谷城落城の際の妻子への対応です。長政はまだ若い妻と幼い3人の子供たちの命を保証するよう、信長に引き渡して生かしました。お市の方は共に自刃することを申し出ましたが、長政の説得を受け入れ、残された子供たちを立派に育て上げたのです。 最期まで家臣に感謝した書状が残る 小谷城落城前、長政は家臣・片桐直貞に書状を残しました。この長政による最後の書状には、家臣らが相次いで寝返るなか最後まで忠義を尽くしてくれたことへの感謝が綴られていたといいます。これは新しい主君への推薦状にもなっており、直貞はこの書状により羽柴家に召し抱えられました。 信長との仲は?頭蓋骨の盃の意味 信長が長政の頭蓋骨を盃にした話は、信長の残虐性を示す逸話として知られています。しかし『信長公記』には、頭蓋骨を箔濃(はくだみ)にして宴酒を催したとあります。 箔濃とは漆塗りの上に金粉をかけたもので、中国では倒した敵将に敬意を払って弔う意味がありました。信長が何度も降伏勧告したのは、それだけ長政を買っていたからとも考えられます。髑髏(どくろ)を飾ったのは供養と成仏のためで、それが信長なりの義の貫き方だったのかもしれません。 浅井家最後の当主となった長政 義勇に優れ29歳という若さで亡くなった長政。華々しく歴史に名を刻むことはありませんでしたが、その義理堅さと人情味溢れるエピソードは広く知られるようになりました。 浅井氏は3代目の長政で断絶しましたが、お市の方との間に生まれた三姉妹は有力武将らに嫁いで浅井家の血を残しています。特に三女・江は徳川将軍家の繁栄にも貢献しました。
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、誰の命を保証するよう、信長に引き渡して生かしたか。
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、まだ若い妻と幼い3人の子供たちの命を保証するよう、信長に引き渡して生かした。
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歴史
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、浅井長政である。 信長による裏切り 元亀元年(1570)信長は長政と結んだ「朝倉への不戦の誓い」を破ります。義景は足利義昭が上洛する際の援護要請に応じず、義昭が将軍となった後も2度の上洛命令を拒否しました。これに怒った信長は義景を攻撃。義兄の裏切りを知った長政は、悩んだ末に朝倉家との同盟を重視し、織田・徳川連合軍を背後から急襲します。こうして義理の兄弟だった長政と信長の関係は一気に崩れていきました。 姉川の戦いで信長と対立 信長と敵対することになった長政は、姉川の戦いで織田・徳川連合軍と激突します。織田方は徳川家康の援軍とあわせて約3万の兵力、長政も義景に援軍を求めますがこちらは約2万の兵力。当初は浅井・朝倉連合軍が優勢でしたが、家康軍の活躍によりこの戦いは織田・徳川連合軍の勝利に終わりました。この時、信長軍が敗走の用意をしていたという逸話も残されていますが、信ぴょう性は薄いようです。 浅井家の滅亡 天正元年(1573)信長による北近江攻撃が再開されました。応戦する長政ですが、織田軍の兵力は約6倍と歴然の差で、浅井家は滅亡に追い込まれます。 小谷城の戦いで籠城する 信長の攻撃により本拠地の小谷城を包囲された長政は、5千の軍勢とともに籠城しました。対抗手段は義景の援軍のみでしたが、2万の兵力で駆けつけた朝倉軍は前哨戦での敗北や城砦の失陥もあり越前国へと撤退。信長はこの朝倉軍を追撃して壊滅に追い込みます。 浅井家では家臣の離反が相次ぎ孤立が強まりましたが、それでも長政は使者・秀吉による降伏勧告を最後まで断り続けました。 『信長公記』にみる長政の最期 信長に徹底抗戦した長政でしたが、最期は自害してこの世を去ります。『信長公記』では天正元年(1573)8月27日に父・久政が、翌28日に長政が小谷城内赤尾屋敷で自害したとされますが、29日付の配下に当てた書状が発見されたことから命日は9月1日と判明しています。これにより浅井家は滅亡し、3代目当主だった長政は29年の人生に幕を閉じました。 義を重んじた長政の人物像とは? 信長と敵対し短い一生を終えた長政ですが、その逸話からは義理人情に厚い戦国武将だったことがうかがえます。ここでは長政の人物像がわかる逸話をいくつかご紹介します。 信長の足利義昭上洛を支援 将軍・義昭を奉じて上洛する際、信長は長政に協力を願い出ました。これを了承した長政は家臣に信長の接待をさせます。 少ない手勢で宿泊する信長を見た家臣は「ここで夜襲をかけて討ち取るべき」と進言しましたが、長政は義兄の信長を騙し討ちするような卑怯なことはできないと拒否。その後は将軍・義昭の警護にも協力し信長を助けました。 小谷城落城の際に妻子を逃がした 長政のエピソードとして最も有名なのが、小谷城落城の際の妻子への対応です。長政はまだ若い妻と幼い3人の子供たちの命を保証するよう、信長に引き渡して生かしました。お市の方は共に自刃することを申し出ましたが、長政の説得を受け入れ、残された子供たちを立派に育て上げたのです。 最期まで家臣に感謝した書状が残る 小谷城落城前、長政は家臣・片桐直貞に書状を残しました。この長政による最後の書状には、家臣らが相次いで寝返るなか最後まで忠義を尽くしてくれたことへの感謝が綴られていたといいます。これは新しい主君への推薦状にもなっており、直貞はこの書状により羽柴家に召し抱えられました。 信長との仲は?頭蓋骨の盃の意味 信長が長政の頭蓋骨を盃にした話は、信長の残虐性を示す逸話として知られています。しかし『信長公記』には、頭蓋骨を箔濃(はくだみ)にして宴酒を催したとあります。 箔濃とは漆塗りの上に金粉をかけたもので、中国では倒した敵将に敬意を払って弔う意味がありました。信長が何度も降伏勧告したのは、それだけ長政を買っていたからとも考えられます。髑髏(どくろ)を飾ったのは供養と成仏のためで、それが信長なりの義の貫き方だったのかもしれません。 浅井家最後の当主となった長政 義勇に優れ29歳という若さで亡くなった長政。華々しく歴史に名を刻むことはありませんでしたが、その義理堅さと人情味溢れるエピソードは広く知られるようになりました。 浅井氏は3代目の長政で断絶しましたが、お市の方との間に生まれた三姉妹は有力武将らに嫁いで浅井家の血を残しています。特に三女・江は徳川将軍家の繁栄にも貢献しました。
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、悩んだ末に何を重視したか。
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、悩んだ末に朝倉家との同盟を重視した。
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歴史
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、浅井長政である。 信長による裏切り 元亀元年(1570)信長は長政と結んだ「朝倉への不戦の誓い」を破ります。義景は足利義昭が上洛する際の援護要請に応じず、義昭が将軍となった後も2度の上洛命令を拒否しました。これに怒った信長は義景を攻撃。義兄の裏切りを知った長政は、悩んだ末に朝倉家との同盟を重視し、織田・徳川連合軍を背後から急襲します。こうして義理の兄弟だった長政と信長の関係は一気に崩れていきました。 姉川の戦いで信長と対立 信長と敵対することになった長政は、姉川の戦いで織田・徳川連合軍と激突します。織田方は徳川家康の援軍とあわせて約3万の兵力、長政も義景に援軍を求めますがこちらは約2万の兵力。当初は浅井・朝倉連合軍が優勢でしたが、家康軍の活躍によりこの戦いは織田・徳川連合軍の勝利に終わりました。この時、信長軍が敗走の用意をしていたという逸話も残されていますが、信ぴょう性は薄いようです。 浅井家の滅亡 天正元年(1573)信長による北近江攻撃が再開されました。応戦する長政ですが、織田軍の兵力は約6倍と歴然の差で、浅井家は滅亡に追い込まれます。 小谷城の戦いで籠城する 信長の攻撃により本拠地の小谷城を包囲された長政は、5千の軍勢とともに籠城しました。対抗手段は義景の援軍のみでしたが、2万の兵力で駆けつけた朝倉軍は前哨戦での敗北や城砦の失陥もあり越前国へと撤退。信長はこの朝倉軍を追撃して壊滅に追い込みます。 浅井家では家臣の離反が相次ぎ孤立が強まりましたが、それでも長政は使者・秀吉による降伏勧告を最後まで断り続けました。 『信長公記』にみる長政の最期 信長に徹底抗戦した長政でしたが、最期は自害してこの世を去ります。『信長公記』では天正元年(1573)8月27日に父・久政が、翌28日に長政が小谷城内赤尾屋敷で自害したとされますが、29日付の配下に当てた書状が発見されたことから命日は9月1日と判明しています。これにより浅井家は滅亡し、3代目当主だった長政は29年の人生に幕を閉じました。 義を重んじた長政の人物像とは? 信長と敵対し短い一生を終えた長政ですが、その逸話からは義理人情に厚い戦国武将だったことがうかがえます。ここでは長政の人物像がわかる逸話をいくつかご紹介します。 信長の足利義昭上洛を支援 将軍・義昭を奉じて上洛する際、信長は長政に協力を願い出ました。これを了承した長政は家臣に信長の接待をさせます。 少ない手勢で宿泊する信長を見た家臣は「ここで夜襲をかけて討ち取るべき」と進言しましたが、長政は義兄の信長を騙し討ちするような卑怯なことはできないと拒否。その後は将軍・義昭の警護にも協力し信長を助けました。 小谷城落城の際に妻子を逃がした 長政のエピソードとして最も有名なのが、小谷城落城の際の妻子への対応です。長政はまだ若い妻と幼い3人の子供たちの命を保証するよう、信長に引き渡して生かしました。お市の方は共に自刃することを申し出ましたが、長政の説得を受け入れ、残された子供たちを立派に育て上げたのです。 最期まで家臣に感謝した書状が残る 小谷城落城前、長政は家臣・片桐直貞に書状を残しました。この長政による最後の書状には、家臣らが相次いで寝返るなか最後まで忠義を尽くしてくれたことへの感謝が綴られていたといいます。これは新しい主君への推薦状にもなっており、直貞はこの書状により羽柴家に召し抱えられました。 信長との仲は?頭蓋骨の盃の意味 信長が長政の頭蓋骨を盃にした話は、信長の残虐性を示す逸話として知られています。しかし『信長公記』には、頭蓋骨を箔濃(はくだみ)にして宴酒を催したとあります。 箔濃とは漆塗りの上に金粉をかけたもので、中国では倒した敵将に敬意を払って弔う意味がありました。信長が何度も降伏勧告したのは、それだけ長政を買っていたからとも考えられます。髑髏(どくろ)を飾ったのは供養と成仏のためで、それが信長なりの義の貫き方だったのかもしれません。 浅井家最後の当主となった長政 義勇に優れ29歳という若さで亡くなった長政。華々しく歴史に名を刻むことはありませんでしたが、その義理堅さと人情味溢れるエピソードは広く知られるようになりました。 浅井氏は3代目の長政で断絶しましたが、お市の方との間に生まれた三姉妹は有力武将らに嫁いで浅井家の血を残しています。特に三女・江は徳川将軍家の繁栄にも貢献しました。
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、何軍を背後から急襲したか。
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、織田・徳川連合軍を背後から急襲した。
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歴史
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、浅井長政である。 信長による裏切り 元亀元年(1570)信長は長政と結んだ「朝倉への不戦の誓い」を破ります。義景は足利義昭が上洛する際の援護要請に応じず、義昭が将軍となった後も2度の上洛命令を拒否しました。これに怒った信長は義景を攻撃。義兄の裏切りを知った長政は、悩んだ末に朝倉家との同盟を重視し、織田・徳川連合軍を背後から急襲します。こうして義理の兄弟だった長政と信長の関係は一気に崩れていきました。 姉川の戦いで信長と対立 信長と敵対することになった長政は、姉川の戦いで織田・徳川連合軍と激突します。織田方は徳川家康の援軍とあわせて約3万の兵力、長政も義景に援軍を求めますがこちらは約2万の兵力。当初は浅井・朝倉連合軍が優勢でしたが、家康軍の活躍によりこの戦いは織田・徳川連合軍の勝利に終わりました。この時、信長軍が敗走の用意をしていたという逸話も残されていますが、信ぴょう性は薄いようです。 浅井家の滅亡 天正元年(1573)信長による北近江攻撃が再開されました。応戦する長政ですが、織田軍の兵力は約6倍と歴然の差で、浅井家は滅亡に追い込まれます。 小谷城の戦いで籠城する 信長の攻撃により本拠地の小谷城を包囲された長政は、5千の軍勢とともに籠城しました。対抗手段は義景の援軍のみでしたが、2万の兵力で駆けつけた朝倉軍は前哨戦での敗北や城砦の失陥もあり越前国へと撤退。信長はこの朝倉軍を追撃して壊滅に追い込みます。 浅井家では家臣の離反が相次ぎ孤立が強まりましたが、それでも長政は使者・秀吉による降伏勧告を最後まで断り続けました。 『信長公記』にみる長政の最期 信長に徹底抗戦した長政でしたが、最期は自害してこの世を去ります。『信長公記』では天正元年(1573)8月27日に父・久政が、翌28日に長政が小谷城内赤尾屋敷で自害したとされますが、29日付の配下に当てた書状が発見されたことから命日は9月1日と判明しています。これにより浅井家は滅亡し、3代目当主だった長政は29年の人生に幕を閉じました。 義を重んじた長政の人物像とは? 信長と敵対し短い一生を終えた長政ですが、その逸話からは義理人情に厚い戦国武将だったことがうかがえます。ここでは長政の人物像がわかる逸話をいくつかご紹介します。 信長の足利義昭上洛を支援 将軍・義昭を奉じて上洛する際、信長は長政に協力を願い出ました。これを了承した長政は家臣に信長の接待をさせます。 少ない手勢で宿泊する信長を見た家臣は「ここで夜襲をかけて討ち取るべき」と進言しましたが、長政は義兄の信長を騙し討ちするような卑怯なことはできないと拒否。その後は将軍・義昭の警護にも協力し信長を助けました。 小谷城落城の際に妻子を逃がした 長政のエピソードとして最も有名なのが、小谷城落城の際の妻子への対応です。長政はまだ若い妻と幼い3人の子供たちの命を保証するよう、信長に引き渡して生かしました。お市の方は共に自刃することを申し出ましたが、長政の説得を受け入れ、残された子供たちを立派に育て上げたのです。 最期まで家臣に感謝した書状が残る 小谷城落城前、長政は家臣・片桐直貞に書状を残しました。この長政による最後の書状には、家臣らが相次いで寝返るなか最後まで忠義を尽くしてくれたことへの感謝が綴られていたといいます。これは新しい主君への推薦状にもなっており、直貞はこの書状により羽柴家に召し抱えられました。 信長との仲は?頭蓋骨の盃の意味 信長が長政の頭蓋骨を盃にした話は、信長の残虐性を示す逸話として知られています。しかし『信長公記』には、頭蓋骨を箔濃(はくだみ)にして宴酒を催したとあります。 箔濃とは漆塗りの上に金粉をかけたもので、中国では倒した敵将に敬意を払って弔う意味がありました。信長が何度も降伏勧告したのは、それだけ長政を買っていたからとも考えられます。髑髏(どくろ)を飾ったのは供養と成仏のためで、それが信長なりの義の貫き方だったのかもしれません。 浅井家最後の当主となった長政 義勇に優れ29歳という若さで亡くなった長政。華々しく歴史に名を刻むことはありませんでしたが、その義理堅さと人情味溢れるエピソードは広く知られるようになりました。 浅井氏は3代目の長政で断絶しましたが、お市の方との間に生まれた三姉妹は有力武将らに嫁いで浅井家の血を残しています。特に三女・江は徳川将軍家の繁栄にも貢献しました。
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、何の戦いで織田・徳川連合軍と激突したか。
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、信長と敵対することになった姉川の戦いで織田・徳川連合軍と激突した。
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歴史
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、浅井長政である。 信長による裏切り 元亀元年(1570)信長は長政と結んだ「朝倉への不戦の誓い」を破ります。義景は足利義昭が上洛する際の援護要請に応じず、義昭が将軍となった後も2度の上洛命令を拒否しました。これに怒った信長は義景を攻撃。義兄の裏切りを知った長政は、悩んだ末に朝倉家との同盟を重視し、織田・徳川連合軍を背後から急襲します。こうして義理の兄弟だった長政と信長の関係は一気に崩れていきました。 姉川の戦いで信長と対立 信長と敵対することになった長政は、姉川の戦いで織田・徳川連合軍と激突します。織田方は徳川家康の援軍とあわせて約3万の兵力、長政も義景に援軍を求めますがこちらは約2万の兵力。当初は浅井・朝倉連合軍が優勢でしたが、家康軍の活躍によりこの戦いは織田・徳川連合軍の勝利に終わりました。この時、信長軍が敗走の用意をしていたという逸話も残されていますが、信ぴょう性は薄いようです。 浅井家の滅亡 天正元年(1573)信長による北近江攻撃が再開されました。応戦する長政ですが、織田軍の兵力は約6倍と歴然の差で、浅井家は滅亡に追い込まれます。 小谷城の戦いで籠城する 信長の攻撃により本拠地の小谷城を包囲された長政は、5千の軍勢とともに籠城しました。対抗手段は義景の援軍のみでしたが、2万の兵力で駆けつけた朝倉軍は前哨戦での敗北や城砦の失陥もあり越前国へと撤退。信長はこの朝倉軍を追撃して壊滅に追い込みます。 浅井家では家臣の離反が相次ぎ孤立が強まりましたが、それでも長政は使者・秀吉による降伏勧告を最後まで断り続けました。 『信長公記』にみる長政の最期 信長に徹底抗戦した長政でしたが、最期は自害してこの世を去ります。『信長公記』では天正元年(1573)8月27日に父・久政が、翌28日に長政が小谷城内赤尾屋敷で自害したとされますが、29日付の配下に当てた書状が発見されたことから命日は9月1日と判明しています。これにより浅井家は滅亡し、3代目当主だった長政は29年の人生に幕を閉じました。 義を重んじた長政の人物像とは? 信長と敵対し短い一生を終えた長政ですが、その逸話からは義理人情に厚い戦国武将だったことがうかがえます。ここでは長政の人物像がわかる逸話をいくつかご紹介します。 信長の足利義昭上洛を支援 将軍・義昭を奉じて上洛する際、信長は長政に協力を願い出ました。これを了承した長政は家臣に信長の接待をさせます。 少ない手勢で宿泊する信長を見た家臣は「ここで夜襲をかけて討ち取るべき」と進言しましたが、長政は義兄の信長を騙し討ちするような卑怯なことはできないと拒否。その後は将軍・義昭の警護にも協力し信長を助けました。 小谷城落城の際に妻子を逃がした 長政のエピソードとして最も有名なのが、小谷城落城の際の妻子への対応です。長政はまだ若い妻と幼い3人の子供たちの命を保証するよう、信長に引き渡して生かしました。お市の方は共に自刃することを申し出ましたが、長政の説得を受け入れ、残された子供たちを立派に育て上げたのです。 最期まで家臣に感謝した書状が残る 小谷城落城前、長政は家臣・片桐直貞に書状を残しました。この長政による最後の書状には、家臣らが相次いで寝返るなか最後まで忠義を尽くしてくれたことへの感謝が綴られていたといいます。これは新しい主君への推薦状にもなっており、直貞はこの書状により羽柴家に召し抱えられました。 信長との仲は?頭蓋骨の盃の意味 信長が長政の頭蓋骨を盃にした話は、信長の残虐性を示す逸話として知られています。しかし『信長公記』には、頭蓋骨を箔濃(はくだみ)にして宴酒を催したとあります。 箔濃とは漆塗りの上に金粉をかけたもので、中国では倒した敵将に敬意を払って弔う意味がありました。信長が何度も降伏勧告したのは、それだけ長政を買っていたからとも考えられます。髑髏(どくろ)を飾ったのは供養と成仏のためで、それが信長なりの義の貫き方だったのかもしれません。 浅井家最後の当主となった長政 義勇に優れ29歳という若さで亡くなった長政。華々しく歴史に名を刻むことはありませんでしたが、その義理堅さと人情味溢れるエピソードは広く知られるようになりました。 浅井氏は3代目の長政で断絶しましたが、お市の方との間に生まれた三姉妹は有力武将らに嫁いで浅井家の血を残しています。特に三女・江は徳川将軍家の繁栄にも貢献しました。
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、信長の攻撃によりどこを包囲され、5千の軍勢とともに籠城したか。
天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、信長の攻撃により本拠地の小谷城を包囲され、5千の軍勢とともに籠城した。