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歴史
室町幕府最後の将軍は、足利義昭である。 足利義昭の生い立ちと室町幕府 義昭が将軍になるまでには長い道のりがありました。彼が将軍になった背景には、どのような事情があったのでしょうか。 生まれから将軍になるまで 義昭は天文6年(1537)第12代将軍・義晴の次男として京都で生まれました。将軍職は兄・義輝が継ぐことになっていたため、嗣子以外の男子は出家させるという足利家の慣習にならい仏門に入ります。その後は覚慶(かくけい)と名乗り、興福寺一乗院で権少僧都(ごんのしょうそうづ)になりました。 しかし、永禄8年(1565)、第13代将軍の兄が松永久通や三好三人衆によって暗殺されると状況が一変。彼自身も興福寺に幽閉されましたが、兄の側近に助けられ脱出に成功し、以降は室町幕府再興を掲げて自分が足利将軍家当主になることを決意します。 将軍就任のために上洛を目指す義昭でしたが、道中を援護してくれる者はなかなかいません。そんな中で義昭が頼ったのが、数ある戦国大名の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いだった信長でした。交渉役となった明智光秀により信長と通じることに成功した義昭は、信長に擁立されてついに入京。14代将軍・義栄が死去したのち、朝廷の宣下によって第15代将軍に就任したのです。 室町幕府の権力の復興を誓う 将軍となった義昭は、幕府再興のためにさまざまな行動を起こしました。まずは三好三人衆を庇った近衛前久(さきひさ)を朝廷から追放。幕府の実務には義輝と同じく摂津晴門を起用し、義昭とともに行動していた奉行衆を復職させます。また管領家や関白家には領地を与えるなど、政権の安定を計りました。 その他にも烏丸中御門第(からすまるなかみかどだい)を本拠として整備し、二重の水堀や高い石垣など防御力の高い将軍邸を築いています。この本拠には代々室町幕府に仕えてきた者や旧守護家の者が参勤するようになり、義昭は室町幕府再興を果たしたのです。
室町幕府最後の将軍は、いつ生まれたか。
室町幕府最後の将軍は、天文6年(1537)に生まれた。
JCRRAG_019202
歴史
室町幕府最後の将軍は、足利義昭である。 足利義昭の生い立ちと室町幕府 義昭が将軍になるまでには長い道のりがありました。彼が将軍になった背景には、どのような事情があったのでしょうか。 生まれから将軍になるまで 義昭は天文6年(1537)第12代将軍・義晴の次男として京都で生まれました。将軍職は兄・義輝が継ぐことになっていたため、嗣子以外の男子は出家させるという足利家の慣習にならい仏門に入ります。その後は覚慶(かくけい)と名乗り、興福寺一乗院で権少僧都(ごんのしょうそうづ)になりました。 しかし、永禄8年(1565)、第13代将軍の兄が松永久通や三好三人衆によって暗殺されると状況が一変。彼自身も興福寺に幽閉されましたが、兄の側近に助けられ脱出に成功し、以降は室町幕府再興を掲げて自分が足利将軍家当主になることを決意します。 将軍就任のために上洛を目指す義昭でしたが、道中を援護してくれる者はなかなかいません。そんな中で義昭が頼ったのが、数ある戦国大名の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いだった信長でした。交渉役となった明智光秀により信長と通じることに成功した義昭は、信長に擁立されてついに入京。14代将軍・義栄が死去したのち、朝廷の宣下によって第15代将軍に就任したのです。 室町幕府の権力の復興を誓う 将軍となった義昭は、幕府再興のためにさまざまな行動を起こしました。まずは三好三人衆を庇った近衛前久(さきひさ)を朝廷から追放。幕府の実務には義輝と同じく摂津晴門を起用し、義昭とともに行動していた奉行衆を復職させます。また管領家や関白家には領地を与えるなど、政権の安定を計りました。 その他にも烏丸中御門第(からすまるなかみかどだい)を本拠として整備し、二重の水堀や高い石垣など防御力の高い将軍邸を築いています。この本拠には代々室町幕府に仕えてきた者や旧守護家の者が参勤するようになり、義昭は室町幕府再興を果たしたのです。
室町幕府最後の将軍は、誰の次男として生まれたか。
室町幕府最後の将軍は、第12代将軍・義晴の次男として生まれた。
JCRRAG_019203
歴史
室町幕府最後の将軍は、足利義昭である。 足利義昭の生い立ちと室町幕府 義昭が将軍になるまでには長い道のりがありました。彼が将軍になった背景には、どのような事情があったのでしょうか。 生まれから将軍になるまで 義昭は天文6年(1537)第12代将軍・義晴の次男として京都で生まれました。将軍職は兄・義輝が継ぐことになっていたため、嗣子以外の男子は出家させるという足利家の慣習にならい仏門に入ります。その後は覚慶(かくけい)と名乗り、興福寺一乗院で権少僧都(ごんのしょうそうづ)になりました。 しかし、永禄8年(1565)、第13代将軍の兄が松永久通や三好三人衆によって暗殺されると状況が一変。彼自身も興福寺に幽閉されましたが、兄の側近に助けられ脱出に成功し、以降は室町幕府再興を掲げて自分が足利将軍家当主になることを決意します。 将軍就任のために上洛を目指す義昭でしたが、道中を援護してくれる者はなかなかいません。そんな中で義昭が頼ったのが、数ある戦国大名の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いだった信長でした。交渉役となった明智光秀により信長と通じることに成功した義昭は、信長に擁立されてついに入京。14代将軍・義栄が死去したのち、朝廷の宣下によって第15代将軍に就任したのです。 室町幕府の権力の復興を誓う 将軍となった義昭は、幕府再興のためにさまざまな行動を起こしました。まずは三好三人衆を庇った近衛前久(さきひさ)を朝廷から追放。幕府の実務には義輝と同じく摂津晴門を起用し、義昭とともに行動していた奉行衆を復職させます。また管領家や関白家には領地を与えるなど、政権の安定を計りました。 その他にも烏丸中御門第(からすまるなかみかどだい)を本拠として整備し、二重の水堀や高い石垣など防御力の高い将軍邸を築いています。この本拠には代々室町幕府に仕えてきた者や旧守護家の者が参勤するようになり、義昭は室町幕府再興を果たしたのです。
室町幕府最後の将軍は、どこで生まれたか。
室町幕府最後の将軍は、京都で生まれた。
JCRRAG_019204
歴史
室町幕府最後の将軍は、足利義昭である。 足利義昭の生い立ちと室町幕府 義昭が将軍になるまでには長い道のりがありました。彼が将軍になった背景には、どのような事情があったのでしょうか。 生まれから将軍になるまで 義昭は天文6年(1537)第12代将軍・義晴の次男として京都で生まれました。将軍職は兄・義輝が継ぐことになっていたため、嗣子以外の男子は出家させるという足利家の慣習にならい仏門に入ります。その後は覚慶(かくけい)と名乗り、興福寺一乗院で権少僧都(ごんのしょうそうづ)になりました。 しかし、永禄8年(1565)、第13代将軍の兄が松永久通や三好三人衆によって暗殺されると状況が一変。彼自身も興福寺に幽閉されましたが、兄の側近に助けられ脱出に成功し、以降は室町幕府再興を掲げて自分が足利将軍家当主になることを決意します。 将軍就任のために上洛を目指す義昭でしたが、道中を援護してくれる者はなかなかいません。そんな中で義昭が頼ったのが、数ある戦国大名の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いだった信長でした。交渉役となった明智光秀により信長と通じることに成功した義昭は、信長に擁立されてついに入京。14代将軍・義栄が死去したのち、朝廷の宣下によって第15代将軍に就任したのです。 室町幕府の権力の復興を誓う 将軍となった義昭は、幕府再興のためにさまざまな行動を起こしました。まずは三好三人衆を庇った近衛前久(さきひさ)を朝廷から追放。幕府の実務には義輝と同じく摂津晴門を起用し、義昭とともに行動していた奉行衆を復職させます。また管領家や関白家には領地を与えるなど、政権の安定を計りました。 その他にも烏丸中御門第(からすまるなかみかどだい)を本拠として整備し、二重の水堀や高い石垣など防御力の高い将軍邸を築いています。この本拠には代々室町幕府に仕えてきた者や旧守護家の者が参勤するようになり、義昭は室町幕府再興を果たしたのです。
室町幕府最後の将軍は、興福寺に幽閉されましたが、誰に助けられ脱出に成功したか。
室町幕府最後の将軍は、興福寺に幽閉されましたが、兄の側近に助けられ脱出に成功した。
JCRRAG_019205
歴史
室町幕府最後の将軍は、足利義昭である。 足利義昭の生い立ちと室町幕府 義昭が将軍になるまでには長い道のりがありました。彼が将軍になった背景には、どのような事情があったのでしょうか。 生まれから将軍になるまで 義昭は天文6年(1537)第12代将軍・義晴の次男として京都で生まれました。将軍職は兄・義輝が継ぐことになっていたため、嗣子以外の男子は出家させるという足利家の慣習にならい仏門に入ります。その後は覚慶(かくけい)と名乗り、興福寺一乗院で権少僧都(ごんのしょうそうづ)になりました。 しかし、永禄8年(1565)、第13代将軍の兄が松永久通や三好三人衆によって暗殺されると状況が一変。彼自身も興福寺に幽閉されましたが、兄の側近に助けられ脱出に成功し、以降は室町幕府再興を掲げて自分が足利将軍家当主になることを決意します。 将軍就任のために上洛を目指す義昭でしたが、道中を援護してくれる者はなかなかいません。そんな中で義昭が頼ったのが、数ある戦国大名の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いだった信長でした。交渉役となった明智光秀により信長と通じることに成功した義昭は、信長に擁立されてついに入京。14代将軍・義栄が死去したのち、朝廷の宣下によって第15代将軍に就任したのです。 室町幕府の権力の復興を誓う 将軍となった義昭は、幕府再興のためにさまざまな行動を起こしました。まずは三好三人衆を庇った近衛前久(さきひさ)を朝廷から追放。幕府の実務には義輝と同じく摂津晴門を起用し、義昭とともに行動していた奉行衆を復職させます。また管領家や関白家には領地を与えるなど、政権の安定を計りました。 その他にも烏丸中御門第(からすまるなかみかどだい)を本拠として整備し、二重の水堀や高い石垣など防御力の高い将軍邸を築いています。この本拠には代々室町幕府に仕えてきた者や旧守護家の者が参勤するようになり、義昭は室町幕府再興を果たしたのです。
室町幕府最後の将軍は、何になることを決意したか。
室町幕府最後の将軍は、室町幕府再興を掲げて自分が足利将軍家当主になることを決意した。
JCRRAG_019206
歴史
室町幕府最後の将軍は、足利義昭である。 強まる織田信長との対立 念願の幕府再興を遂げた義昭ですが、上洛の際に頼った信長との関係が徐々に悪化していきます。そして、やがて二人は対立するようになったのです。 信長包囲網と義昭 義昭は信長の武功を称え、彼が望んでいた尾張・美濃の領有と和泉の支配を認めました。さらに管領の地位や副将軍への推挙もしています。しかし、幕府再興を願う義昭に対し信長は武力による天下統一を目指しており、この思惑の違いが両者の溝を深めていきます。 この頃の信長は将軍の後見人として権勢を振るっており、将軍の権力を牽制するため「殿中御掟」という掟書を義昭に承認させました。このような状況に不満を募らせた義昭は、信長の影響力を抑制しようと考え、上杉謙信、毛利輝元、本願寺顕如、武田信玄、六角義賢らに御内書を送り、反信長連合の「信長包囲網」を張ります。この包囲網は、以前から信長と対立していた朝倉義景や浅井長政、義輝の敵だった松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わるほど大きなものでした。 信長に敗れ、京を追われる 信長包囲網により信長と対立した義昭でしたが、二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠ったものの最後には降伏することとなります。信長は京都から義昭を追放し、将軍家の領地を自分のものにしました。こうして信長包囲網は瓦解し、天下人となった信長による織田政権が誕生したのです。 追放された義昭は、顕如らの仲介で河内若江城へ、ついで和泉の堺へと移りました。また翌年には紀伊国の興国寺、田辺の泊城にも移っています。天正4年(1576)には輝元を頼って備後国の鞆へ移動、ここでの生活は御料所からの年貢や武将からの支援もあり窮迫していなかったようです。 この頃、義昭は京への帰還や信長追討を願い、全国の大名に御内書を出しました。再び信長包囲網を形成するために、対立していた武田、北条、上杉氏に和睦(甲相越三和)を命じるなど、室町幕府再興をもう一度目指したようです。 関白秀吉と将軍義昭 京を追放された義昭ですが、信長が本能寺で命を落とし、信長に代わって秀吉が天下人となったことで状況が大きく変化します。信長の死と関白秀吉の登場は、義昭にどのような影響を与えたのでしょうか。 信長の死の影響 天正10年(1582)信長とその嫡子・信忠が明智光秀に討たれる「本能寺の変」が起こります。義昭はこれを機に輝元や秀吉、柴田勝家らに上洛の支援を依頼し、翌年には輝元・勝家・徳川家康から上洛の支持を受けます。 天正13年(1585)秀吉が関白になると、その後2年半は「関白秀吉と将軍義昭」という時代が続きました。九州を治める島津義久に対して秀吉と和睦するよう勧めるなど、信長時代とは違い、義昭は秀吉とうまく連携していたといえるでしょう。 将軍義昭の最期 義昭は京への帰還を果たしますが、その翌年には将軍を辞し、戒名をもらって昌山(道休)と称するようになります。この頃の義昭は山城国槇島の1万石を領地として認められており、殿中では元将軍として厚い待遇を受けていたようです。 秀吉との関係は良好だったようで、文禄・慶長の役の際は秀吉から要請を受け軍勢200人を引きつれて参戦しています。晩年には秀吉の御伽衆の一人となり、良き話し相手となりました。 仏門に入ったのち将軍に就任するという数奇な運命を辿った義昭ですが、慶長2年(1597)8月に腫物で死去した。 流浪生活を経験した将軍 義昭は幕臣に守られたり諸大名を頼ったりしながら、何度も諸国を流浪しました。そのような背景から「貧乏公方」と噂されたといいます。しかし彼は、紆余曲折ありながらも61歳まで生きのびました。当時の日本人としては長生きだったといえるでしょう。 有力な戦国武将が台頭したこの時期、幕府再興は容易ではありませんでした。それでも義昭は、流浪生活に耐えながら室町幕府最後の将軍となったのです。
室町幕府最後の将軍は、信長の武功を称え、どこの支配を認めたか。
室町幕府最後の将軍は、信長の武功を称え、彼が望んでいた尾張・美濃の領有と和泉の支配を認めた。
JCRRAG_019207
歴史
室町幕府最後の将軍は、足利義昭である。 強まる織田信長との対立 念願の幕府再興を遂げた義昭ですが、上洛の際に頼った信長との関係が徐々に悪化していきます。そして、やがて二人は対立するようになったのです。 信長包囲網と義昭 義昭は信長の武功を称え、彼が望んでいた尾張・美濃の領有と和泉の支配を認めました。さらに管領の地位や副将軍への推挙もしています。しかし、幕府再興を願う義昭に対し信長は武力による天下統一を目指しており、この思惑の違いが両者の溝を深めていきます。 この頃の信長は将軍の後見人として権勢を振るっており、将軍の権力を牽制するため「殿中御掟」という掟書を義昭に承認させました。このような状況に不満を募らせた義昭は、信長の影響力を抑制しようと考え、上杉謙信、毛利輝元、本願寺顕如、武田信玄、六角義賢らに御内書を送り、反信長連合の「信長包囲網」を張ります。この包囲網は、以前から信長と対立していた朝倉義景や浅井長政、義輝の敵だった松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わるほど大きなものでした。 信長に敗れ、京を追われる 信長包囲網により信長と対立した義昭でしたが、二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠ったものの最後には降伏することとなります。信長は京都から義昭を追放し、将軍家の領地を自分のものにしました。こうして信長包囲網は瓦解し、天下人となった信長による織田政権が誕生したのです。 追放された義昭は、顕如らの仲介で河内若江城へ、ついで和泉の堺へと移りました。また翌年には紀伊国の興国寺、田辺の泊城にも移っています。天正4年(1576)には輝元を頼って備後国の鞆へ移動、ここでの生活は御料所からの年貢や武将からの支援もあり窮迫していなかったようです。 この頃、義昭は京への帰還や信長追討を願い、全国の大名に御内書を出しました。再び信長包囲網を形成するために、対立していた武田、北条、上杉氏に和睦(甲相越三和)を命じるなど、室町幕府再興をもう一度目指したようです。 関白秀吉と将軍義昭 京を追放された義昭ですが、信長が本能寺で命を落とし、信長に代わって秀吉が天下人となったことで状況が大きく変化します。信長の死と関白秀吉の登場は、義昭にどのような影響を与えたのでしょうか。 信長の死の影響 天正10年(1582)信長とその嫡子・信忠が明智光秀に討たれる「本能寺の変」が起こります。義昭はこれを機に輝元や秀吉、柴田勝家らに上洛の支援を依頼し、翌年には輝元・勝家・徳川家康から上洛の支持を受けます。 天正13年(1585)秀吉が関白になると、その後2年半は「関白秀吉と将軍義昭」という時代が続きました。九州を治める島津義久に対して秀吉と和睦するよう勧めるなど、信長時代とは違い、義昭は秀吉とうまく連携していたといえるでしょう。 将軍義昭の最期 義昭は京への帰還を果たしますが、その翌年には将軍を辞し、戒名をもらって昌山(道休)と称するようになります。この頃の義昭は山城国槇島の1万石を領地として認められており、殿中では元将軍として厚い待遇を受けていたようです。 秀吉との関係は良好だったようで、文禄・慶長の役の際は秀吉から要請を受け軍勢200人を引きつれて参戦しています。晩年には秀吉の御伽衆の一人となり、良き話し相手となりました。 仏門に入ったのち将軍に就任するという数奇な運命を辿った義昭ですが、慶長2年(1597)8月に腫物で死去した。 流浪生活を経験した将軍 義昭は幕臣に守られたり諸大名を頼ったりしながら、何度も諸国を流浪しました。そのような背景から「貧乏公方」と噂されたといいます。しかし彼は、紆余曲折ありながらも61歳まで生きのびました。当時の日本人としては長生きだったといえるでしょう。 有力な戦国武将が台頭したこの時期、幕府再興は容易ではありませんでした。それでも義昭は、流浪生活に耐えながら室町幕府最後の将軍となったのです。
室町幕府最後の将軍は、信長の影響力を抑制しようと考え、誰に御内書を送り、反信長連合の「信長包囲網」を張ったか。
室町幕府最後の将軍は、信長の影響力を抑制しようと考え、上杉謙信、毛利輝元、本願寺顕如、武田信玄、六角義賢らに御内書を送り、反信長連合の「信長包囲網」を張った。
JCRRAG_019208
歴史
室町幕府最後の将軍は、足利義昭である。 強まる織田信長との対立 念願の幕府再興を遂げた義昭ですが、上洛の際に頼った信長との関係が徐々に悪化していきます。そして、やがて二人は対立するようになったのです。 信長包囲網と義昭 義昭は信長の武功を称え、彼が望んでいた尾張・美濃の領有と和泉の支配を認めました。さらに管領の地位や副将軍への推挙もしています。しかし、幕府再興を願う義昭に対し信長は武力による天下統一を目指しており、この思惑の違いが両者の溝を深めていきます。 この頃の信長は将軍の後見人として権勢を振るっており、将軍の権力を牽制するため「殿中御掟」という掟書を義昭に承認させました。このような状況に不満を募らせた義昭は、信長の影響力を抑制しようと考え、上杉謙信、毛利輝元、本願寺顕如、武田信玄、六角義賢らに御内書を送り、反信長連合の「信長包囲網」を張ります。この包囲網は、以前から信長と対立していた朝倉義景や浅井長政、義輝の敵だった松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わるほど大きなものでした。 信長に敗れ、京を追われる 信長包囲網により信長と対立した義昭でしたが、二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠ったものの最後には降伏することとなります。信長は京都から義昭を追放し、将軍家の領地を自分のものにしました。こうして信長包囲網は瓦解し、天下人となった信長による織田政権が誕生したのです。 追放された義昭は、顕如らの仲介で河内若江城へ、ついで和泉の堺へと移りました。また翌年には紀伊国の興国寺、田辺の泊城にも移っています。天正4年(1576)には輝元を頼って備後国の鞆へ移動、ここでの生活は御料所からの年貢や武将からの支援もあり窮迫していなかったようです。 この頃、義昭は京への帰還や信長追討を願い、全国の大名に御内書を出しました。再び信長包囲網を形成するために、対立していた武田、北条、上杉氏に和睦(甲相越三和)を命じるなど、室町幕府再興をもう一度目指したようです。 関白秀吉と将軍義昭 京を追放された義昭ですが、信長が本能寺で命を落とし、信長に代わって秀吉が天下人となったことで状況が大きく変化します。信長の死と関白秀吉の登場は、義昭にどのような影響を与えたのでしょうか。 信長の死の影響 天正10年(1582)信長とその嫡子・信忠が明智光秀に討たれる「本能寺の変」が起こります。義昭はこれを機に輝元や秀吉、柴田勝家らに上洛の支援を依頼し、翌年には輝元・勝家・徳川家康から上洛の支持を受けます。 天正13年(1585)秀吉が関白になると、その後2年半は「関白秀吉と将軍義昭」という時代が続きました。九州を治める島津義久に対して秀吉と和睦するよう勧めるなど、信長時代とは違い、義昭は秀吉とうまく連携していたといえるでしょう。 将軍義昭の最期 義昭は京への帰還を果たしますが、その翌年には将軍を辞し、戒名をもらって昌山(道休)と称するようになります。この頃の義昭は山城国槇島の1万石を領地として認められており、殿中では元将軍として厚い待遇を受けていたようです。 秀吉との関係は良好だったようで、文禄・慶長の役の際は秀吉から要請を受け軍勢200人を引きつれて参戦しています。晩年には秀吉の御伽衆の一人となり、良き話し相手となりました。 仏門に入ったのち将軍に就任するという数奇な運命を辿った義昭ですが、慶長2年(1597)8月に腫物で死去した。 流浪生活を経験した将軍 義昭は幕臣に守られたり諸大名を頼ったりしながら、何度も諸国を流浪しました。そのような背景から「貧乏公方」と噂されたといいます。しかし彼は、紆余曲折ありながらも61歳まで生きのびました。当時の日本人としては長生きだったといえるでしょう。 有力な戦国武将が台頭したこの時期、幕府再興は容易ではありませんでした。それでも義昭は、流浪生活に耐えながら室町幕府最後の将軍となったのです。
室町幕府最後の将軍は、顕如らの仲介でどこへと移ったか。
室町幕府最後の将軍は、顕如らの仲介で河内若江城へ、ついで和泉の堺へと移った。
JCRRAG_019209
歴史
室町幕府最後の将軍は、足利義昭である。 強まる織田信長との対立 念願の幕府再興を遂げた義昭ですが、上洛の際に頼った信長との関係が徐々に悪化していきます。そして、やがて二人は対立するようになったのです。 信長包囲網と義昭 義昭は信長の武功を称え、彼が望んでいた尾張・美濃の領有と和泉の支配を認めました。さらに管領の地位や副将軍への推挙もしています。しかし、幕府再興を願う義昭に対し信長は武力による天下統一を目指しており、この思惑の違いが両者の溝を深めていきます。 この頃の信長は将軍の後見人として権勢を振るっており、将軍の権力を牽制するため「殿中御掟」という掟書を義昭に承認させました。このような状況に不満を募らせた義昭は、信長の影響力を抑制しようと考え、上杉謙信、毛利輝元、本願寺顕如、武田信玄、六角義賢らに御内書を送り、反信長連合の「信長包囲網」を張ります。この包囲網は、以前から信長と対立していた朝倉義景や浅井長政、義輝の敵だった松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わるほど大きなものでした。 信長に敗れ、京を追われる 信長包囲網により信長と対立した義昭でしたが、二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠ったものの最後には降伏することとなります。信長は京都から義昭を追放し、将軍家の領地を自分のものにしました。こうして信長包囲網は瓦解し、天下人となった信長による織田政権が誕生したのです。 追放された義昭は、顕如らの仲介で河内若江城へ、ついで和泉の堺へと移りました。また翌年には紀伊国の興国寺、田辺の泊城にも移っています。天正4年(1576)には輝元を頼って備後国の鞆へ移動、ここでの生活は御料所からの年貢や武将からの支援もあり窮迫していなかったようです。 この頃、義昭は京への帰還や信長追討を願い、全国の大名に御内書を出しました。再び信長包囲網を形成するために、対立していた武田、北条、上杉氏に和睦(甲相越三和)を命じるなど、室町幕府再興をもう一度目指したようです。 関白秀吉と将軍義昭 京を追放された義昭ですが、信長が本能寺で命を落とし、信長に代わって秀吉が天下人となったことで状況が大きく変化します。信長の死と関白秀吉の登場は、義昭にどのような影響を与えたのでしょうか。 信長の死の影響 天正10年(1582)信長とその嫡子・信忠が明智光秀に討たれる「本能寺の変」が起こります。義昭はこれを機に輝元や秀吉、柴田勝家らに上洛の支援を依頼し、翌年には輝元・勝家・徳川家康から上洛の支持を受けます。 天正13年(1585)秀吉が関白になると、その後2年半は「関白秀吉と将軍義昭」という時代が続きました。九州を治める島津義久に対して秀吉と和睦するよう勧めるなど、信長時代とは違い、義昭は秀吉とうまく連携していたといえるでしょう。 将軍義昭の最期 義昭は京への帰還を果たしますが、その翌年には将軍を辞し、戒名をもらって昌山(道休)と称するようになります。この頃の義昭は山城国槇島の1万石を領地として認められており、殿中では元将軍として厚い待遇を受けていたようです。 秀吉との関係は良好だったようで、文禄・慶長の役の際は秀吉から要請を受け軍勢200人を引きつれて参戦しています。晩年には秀吉の御伽衆の一人となり、良き話し相手となりました。 仏門に入ったのち将軍に就任するという数奇な運命を辿った義昭ですが、慶長2年(1597)8月に腫物で死去した。 流浪生活を経験した将軍 義昭は幕臣に守られたり諸大名を頼ったりしながら、何度も諸国を流浪しました。そのような背景から「貧乏公方」と噂されたといいます。しかし彼は、紆余曲折ありながらも61歳まで生きのびました。当時の日本人としては長生きだったといえるでしょう。 有力な戦国武将が台頭したこの時期、幕府再興は容易ではありませんでした。それでも義昭は、流浪生活に耐えながら室町幕府最後の将軍となったのです。
室町幕府最後の将軍は、いつ死去したか。
室町幕府最後の将軍は、慶長2年(1597)8月に死去した。
JCRRAG_019210
歴史
室町幕府最後の将軍は、足利義昭である。 強まる織田信長との対立 念願の幕府再興を遂げた義昭ですが、上洛の際に頼った信長との関係が徐々に悪化していきます。そして、やがて二人は対立するようになったのです。 信長包囲網と義昭 義昭は信長の武功を称え、彼が望んでいた尾張・美濃の領有と和泉の支配を認めました。さらに管領の地位や副将軍への推挙もしています。しかし、幕府再興を願う義昭に対し信長は武力による天下統一を目指しており、この思惑の違いが両者の溝を深めていきます。 この頃の信長は将軍の後見人として権勢を振るっており、将軍の権力を牽制するため「殿中御掟」という掟書を義昭に承認させました。このような状況に不満を募らせた義昭は、信長の影響力を抑制しようと考え、上杉謙信、毛利輝元、本願寺顕如、武田信玄、六角義賢らに御内書を送り、反信長連合の「信長包囲網」を張ります。この包囲網は、以前から信長と対立していた朝倉義景や浅井長政、義輝の敵だった松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わるほど大きなものでした。 信長に敗れ、京を追われる 信長包囲網により信長と対立した義昭でしたが、二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠ったものの最後には降伏することとなります。信長は京都から義昭を追放し、将軍家の領地を自分のものにしました。こうして信長包囲網は瓦解し、天下人となった信長による織田政権が誕生したのです。 追放された義昭は、顕如らの仲介で河内若江城へ、ついで和泉の堺へと移りました。また翌年には紀伊国の興国寺、田辺の泊城にも移っています。天正4年(1576)には輝元を頼って備後国の鞆へ移動、ここでの生活は御料所からの年貢や武将からの支援もあり窮迫していなかったようです。 この頃、義昭は京への帰還や信長追討を願い、全国の大名に御内書を出しました。再び信長包囲網を形成するために、対立していた武田、北条、上杉氏に和睦(甲相越三和)を命じるなど、室町幕府再興をもう一度目指したようです。 関白秀吉と将軍義昭 京を追放された義昭ですが、信長が本能寺で命を落とし、信長に代わって秀吉が天下人となったことで状況が大きく変化します。信長の死と関白秀吉の登場は、義昭にどのような影響を与えたのでしょうか。 信長の死の影響 天正10年(1582)信長とその嫡子・信忠が明智光秀に討たれる「本能寺の変」が起こります。義昭はこれを機に輝元や秀吉、柴田勝家らに上洛の支援を依頼し、翌年には輝元・勝家・徳川家康から上洛の支持を受けます。 天正13年(1585)秀吉が関白になると、その後2年半は「関白秀吉と将軍義昭」という時代が続きました。九州を治める島津義久に対して秀吉と和睦するよう勧めるなど、信長時代とは違い、義昭は秀吉とうまく連携していたといえるでしょう。 将軍義昭の最期 義昭は京への帰還を果たしますが、その翌年には将軍を辞し、戒名をもらって昌山(道休)と称するようになります。この頃の義昭は山城国槇島の1万石を領地として認められており、殿中では元将軍として厚い待遇を受けていたようです。 秀吉との関係は良好だったようで、文禄・慶長の役の際は秀吉から要請を受け軍勢200人を引きつれて参戦しています。晩年には秀吉の御伽衆の一人となり、良き話し相手となりました。 仏門に入ったのち将軍に就任するという数奇な運命を辿った義昭ですが、慶長2年(1597)8月に腫物で死去した。 流浪生活を経験した将軍 義昭は幕臣に守られたり諸大名を頼ったりしながら、何度も諸国を流浪しました。そのような背景から「貧乏公方」と噂されたといいます。しかし彼は、紆余曲折ありながらも61歳まで生きのびました。当時の日本人としては長生きだったといえるでしょう。 有力な戦国武将が台頭したこの時期、幕府再興は容易ではありませんでした。それでも義昭は、流浪生活に耐えながら室町幕府最後の将軍となったのです。
室町幕府最後の将軍は、何が死因で死去したか。
室町幕府最後の将軍は、腫物で死去した。
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歴史
丹後田辺城主だった戦国武将は、細川藤孝である。 将軍・足利義輝に仕える 戦国時代には多くの戦国大名が誕生し、歴史の表舞台に登場しました。そのような中で幕臣として仕えた藤孝は、一体どのような出自だったのでしょうか。 藤孝の生まれから永禄の変まで 藤孝は、天文3年(1534)三淵晴員の次男として京都東山に生まれました。7歳のときに伯父・細川元常の養子となり、将軍・足利義藤(後の義輝)から偏諱を受けて、幼名の萬吉から「藤孝」を名乗るようになります。 その後は幕臣となり義輝に仕えましたが、永禄8年(1565)に永禄の変が勃発。これにより義輝は三好三人衆に暗殺され、その弟の義昭も興福寺に幽閉されてしまいます。 藤孝は兄らと協力してこれを救い出すと、義昭の将軍就任を目指して奔走することとなりました。 明智光秀との出会いとその関係性 光秀の盟友といわれる藤孝ですが、光秀の前半生が謎に包まれているため、二人の出会いについてもはっきりしたことはわかっていません。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの記述によれば、光秀はもともと藤孝の家臣だったようです。 足利将軍家に仕えていた藤孝は光秀と共謀し、義昭を上洛させることを計画します。上洛の援護を受けてくれる者はなかなかいませんでしたが、光秀が信長と交渉して援助を得ることに成功。義昭は上洛を果たし、藤孝は将軍を奉じて入京した信長に従いました。 長岡藤孝を名乗り信長に仕える 藤孝の計画通り上洛して15代将軍となった義昭でしたが、やがて信長との関係が悪化すると京を追放されてしまいます。藤孝はそんな義昭を見限り、信長に恭順を示したのです。 信長の家臣として活躍! 元亀4年(1573)上洛した信長を出迎えた藤孝は、恭順の姿勢を表し信長の家臣となりました。これにより藤孝は山城国長岡の知行を認められ、名字を改めて長岡藤孝と名乗るようになります。 信長の武将となった藤孝は、山城淀城の戦いで功績を挙げ、畿内を転戦するようになりました。高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦、紀州征伐、信貴山城の戦いとさまざまな戦いで結果を残し、光秀の与力としても活躍したようです。
丹後田辺城主だった戦国武将は、いつ生まれたか。
丹後田辺城主だった戦国武将は、天文3年(1534)に生まれた。
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歴史
丹後田辺城主だった戦国武将は、細川藤孝である。 将軍・足利義輝に仕える 戦国時代には多くの戦国大名が誕生し、歴史の表舞台に登場しました。そのような中で幕臣として仕えた藤孝は、一体どのような出自だったのでしょうか。 藤孝の生まれから永禄の変まで 藤孝は、天文3年(1534)三淵晴員の次男として京都東山に生まれました。7歳のときに伯父・細川元常の養子となり、将軍・足利義藤(後の義輝)から偏諱を受けて、幼名の萬吉から「藤孝」を名乗るようになります。 その後は幕臣となり義輝に仕えましたが、永禄8年(1565)に永禄の変が勃発。これにより義輝は三好三人衆に暗殺され、その弟の義昭も興福寺に幽閉されてしまいます。 藤孝は兄らと協力してこれを救い出すと、義昭の将軍就任を目指して奔走することとなりました。 明智光秀との出会いとその関係性 光秀の盟友といわれる藤孝ですが、光秀の前半生が謎に包まれているため、二人の出会いについてもはっきりしたことはわかっていません。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの記述によれば、光秀はもともと藤孝の家臣だったようです。 足利将軍家に仕えていた藤孝は光秀と共謀し、義昭を上洛させることを計画します。上洛の援護を受けてくれる者はなかなかいませんでしたが、光秀が信長と交渉して援助を得ることに成功。義昭は上洛を果たし、藤孝は将軍を奉じて入京した信長に従いました。 長岡藤孝を名乗り信長に仕える 藤孝の計画通り上洛して15代将軍となった義昭でしたが、やがて信長との関係が悪化すると京を追放されてしまいます。藤孝はそんな義昭を見限り、信長に恭順を示したのです。 信長の家臣として活躍! 元亀4年(1573)上洛した信長を出迎えた藤孝は、恭順の姿勢を表し信長の家臣となりました。これにより藤孝は山城国長岡の知行を認められ、名字を改めて長岡藤孝と名乗るようになります。 信長の武将となった藤孝は、山城淀城の戦いで功績を挙げ、畿内を転戦するようになりました。高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦、紀州征伐、信貴山城の戦いとさまざまな戦いで結果を残し、光秀の与力としても活躍したようです。
丹後田辺城主だった戦国武将は、誰の次男として生まれたか。
丹後田辺城主だった戦国武将は、三淵晴員の次男として生まれた。
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歴史
丹後田辺城主だった戦国武将は、細川藤孝である。 将軍・足利義輝に仕える 戦国時代には多くの戦国大名が誕生し、歴史の表舞台に登場しました。そのような中で幕臣として仕えた藤孝は、一体どのような出自だったのでしょうか。 藤孝の生まれから永禄の変まで 藤孝は、天文3年(1534)三淵晴員の次男として京都東山に生まれました。7歳のときに伯父・細川元常の養子となり、将軍・足利義藤(後の義輝)から偏諱を受けて、幼名の萬吉から「藤孝」を名乗るようになります。 その後は幕臣となり義輝に仕えましたが、永禄8年(1565)に永禄の変が勃発。これにより義輝は三好三人衆に暗殺され、その弟の義昭も興福寺に幽閉されてしまいます。 藤孝は兄らと協力してこれを救い出すと、義昭の将軍就任を目指して奔走することとなりました。 明智光秀との出会いとその関係性 光秀の盟友といわれる藤孝ですが、光秀の前半生が謎に包まれているため、二人の出会いについてもはっきりしたことはわかっていません。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの記述によれば、光秀はもともと藤孝の家臣だったようです。 足利将軍家に仕えていた藤孝は光秀と共謀し、義昭を上洛させることを計画します。上洛の援護を受けてくれる者はなかなかいませんでしたが、光秀が信長と交渉して援助を得ることに成功。義昭は上洛を果たし、藤孝は将軍を奉じて入京した信長に従いました。 長岡藤孝を名乗り信長に仕える 藤孝の計画通り上洛して15代将軍となった義昭でしたが、やがて信長との関係が悪化すると京を追放されてしまいます。藤孝はそんな義昭を見限り、信長に恭順を示したのです。 信長の家臣として活躍! 元亀4年(1573)上洛した信長を出迎えた藤孝は、恭順の姿勢を表し信長の家臣となりました。これにより藤孝は山城国長岡の知行を認められ、名字を改めて長岡藤孝と名乗るようになります。 信長の武将となった藤孝は、山城淀城の戦いで功績を挙げ、畿内を転戦するようになりました。高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦、紀州征伐、信貴山城の戦いとさまざまな戦いで結果を残し、光秀の与力としても活躍したようです。
丹後田辺城主だった戦国武将は、どこに生まれたか。
丹後田辺城主だった戦国武将は、京都東山に生まれた。
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歴史
丹後田辺城主だった戦国武将は、細川藤孝である。 将軍・足利義輝に仕える 戦国時代には多くの戦国大名が誕生し、歴史の表舞台に登場しました。そのような中で幕臣として仕えた藤孝は、一体どのような出自だったのでしょうか。 藤孝の生まれから永禄の変まで 藤孝は、天文3年(1534)三淵晴員の次男として京都東山に生まれました。7歳のときに伯父・細川元常の養子となり、将軍・足利義藤(後の義輝)から偏諱を受けて、幼名の萬吉から「藤孝」を名乗るようになります。 その後は幕臣となり義輝に仕えましたが、永禄8年(1565)に永禄の変が勃発。これにより義輝は三好三人衆に暗殺され、その弟の義昭も興福寺に幽閉されてしまいます。 藤孝は兄らと協力してこれを救い出すと、義昭の将軍就任を目指して奔走することとなりました。 明智光秀との出会いとその関係性 光秀の盟友といわれる藤孝ですが、光秀の前半生が謎に包まれているため、二人の出会いについてもはっきりしたことはわかっていません。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの記述によれば、光秀はもともと藤孝の家臣だったようです。 足利将軍家に仕えていた藤孝は光秀と共謀し、義昭を上洛させることを計画します。上洛の援護を受けてくれる者はなかなかいませんでしたが、光秀が信長と交渉して援助を得ることに成功。義昭は上洛を果たし、藤孝は将軍を奉じて入京した信長に従いました。 長岡藤孝を名乗り信長に仕える 藤孝の計画通り上洛して15代将軍となった義昭でしたが、やがて信長との関係が悪化すると京を追放されてしまいます。藤孝はそんな義昭を見限り、信長に恭順を示したのです。 信長の家臣として活躍! 元亀4年(1573)上洛した信長を出迎えた藤孝は、恭順の姿勢を表し信長の家臣となりました。これにより藤孝は山城国長岡の知行を認められ、名字を改めて長岡藤孝と名乗るようになります。 信長の武将となった藤孝は、山城淀城の戦いで功績を挙げ、畿内を転戦するようになりました。高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦、紀州征伐、信貴山城の戦いとさまざまな戦いで結果を残し、光秀の与力としても活躍したようです。
丹後田辺城主だった戦国武将は、光秀と共謀し、何を計画したか。
丹後田辺城主だった戦国武将は、光秀と共謀し、義昭を上洛させることを計画した。
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歴史
丹後田辺城主だった戦国武将は、細川藤孝である。 将軍・足利義輝に仕える 戦国時代には多くの戦国大名が誕生し、歴史の表舞台に登場しました。そのような中で幕臣として仕えた藤孝は、一体どのような出自だったのでしょうか。 藤孝の生まれから永禄の変まで 藤孝は、天文3年(1534)三淵晴員の次男として京都東山に生まれました。7歳のときに伯父・細川元常の養子となり、将軍・足利義藤(後の義輝)から偏諱を受けて、幼名の萬吉から「藤孝」を名乗るようになります。 その後は幕臣となり義輝に仕えましたが、永禄8年(1565)に永禄の変が勃発。これにより義輝は三好三人衆に暗殺され、その弟の義昭も興福寺に幽閉されてしまいます。 藤孝は兄らと協力してこれを救い出すと、義昭の将軍就任を目指して奔走することとなりました。 明智光秀との出会いとその関係性 光秀の盟友といわれる藤孝ですが、光秀の前半生が謎に包まれているため、二人の出会いについてもはっきりしたことはわかっていません。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの記述によれば、光秀はもともと藤孝の家臣だったようです。 足利将軍家に仕えていた藤孝は光秀と共謀し、義昭を上洛させることを計画します。上洛の援護を受けてくれる者はなかなかいませんでしたが、光秀が信長と交渉して援助を得ることに成功。義昭は上洛を果たし、藤孝は将軍を奉じて入京した信長に従いました。 長岡藤孝を名乗り信長に仕える 藤孝の計画通り上洛して15代将軍となった義昭でしたが、やがて信長との関係が悪化すると京を追放されてしまいます。藤孝はそんな義昭を見限り、信長に恭順を示したのです。 信長の家臣として活躍! 元亀4年(1573)上洛した信長を出迎えた藤孝は、恭順の姿勢を表し信長の家臣となりました。これにより藤孝は山城国長岡の知行を認められ、名字を改めて長岡藤孝と名乗るようになります。 信長の武将となった藤孝は、山城淀城の戦いで功績を挙げ、畿内を転戦するようになりました。高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦、紀州征伐、信貴山城の戦いとさまざまな戦いで結果を残し、光秀の与力としても活躍したようです。
丹後田辺城主だった戦国武将は、何で功績を挙げ、畿内を転戦するようになったか。
丹後田辺城主だった戦国武将は、山城淀城の戦いで功績を挙げ、畿内を転戦するようになった。
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歴史
丹後田辺城主だった戦国武将は、細川藤孝である。 嫡男・忠興が光秀の娘・ガラシャを娶る 天正6年(1578)信長の薦めにより、嫡男・忠興と光秀の娘・玉(ガラシャ)が結婚することとなります。二人はともに16歳という若さで、信長はこの婚姻に満足していたようです。二人の間には、忠隆・興秋・忠利という三人の男子と二女が生まれました。 玉は美貌の持ち主で、忠興はこの妻をことさら愛していたようです。庭から妻を見たという職人の首をはねたり、のちに妻を幽閉したりしたなどの過激なエピソードも残されています。 信長の死後の藤孝 信長の家臣として活躍した藤孝でしたが、やがて「本能寺の変」が起こり、信長がこの世を去ります。主君を失った藤孝はその後どのような行動に移ったのでしょうか。 剃髪し家督を譲る 本能寺の変のあと、にわか天下人となった光秀は「山崎の戦い」で羽柴秀吉軍と対立することになります。光秀はこのとき、盟友だった藤孝に味方につくよう再三依頼しました。 ところが藤孝はこの要請を拒否、剃髪して田辺城に隠居し、家督を息子の忠興に譲ります。あとを任された息子も光秀からの要請に応えず、光秀と関係が深かった筒井順慶も参戦を断ったため、光秀は敗死する結果となりました。 藤孝にとって光秀は、もともと自分の下で足利将軍家に仕えた存在です。盟友だったとはいえ、光秀の支配下に入ることは許せなかったのかもしれません。 田辺城の戦いの経緯 その後の藤孝は秀吉に仕え、山城西ヶ岡に3000石を与えられました。紀州征伐や九州平定での戦功により大隅国3000石も加増されるなど武将としても優れていた藤孝でしたが、主に文化人として千利休らとともに重用されたようです。 しかし慶長3年(1598)に秀吉が死去し、今度は親交のあった徳川家康に接近。慶長5年(1600)に石田三成が挙兵すると、家康側だった藤孝は三男・幸隆とともにわずか500ほどの兵力で田辺城を守ることとなります。この「田辺城の戦い」では1万5000もの大軍に囲まれましたが、藤孝側の士気は高く、藤孝の歌道の弟子が多くいた敵方の戦意も低かったため、長期戦にもつれこみました。最終的には勅命によって「関ヶ原の戦い」の2日前に講和が結ばれ、戦いは終了しています。 残された逸話について 戦国の世を戦略的に生きた藤孝ですが、秀吉も重用したように、実は文化人として大きな影響力をもつ人物でもありました。 当代随一の教養人として知られる 藤孝は和歌・茶道・蹴鞠といった文芸のほか、囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深かったといわれています。剣術・弓術など武芸の素質も高く、腕力もあり遊泳術にも優れていたようです。 また歌人・三条西実枝(にしさねき)からは「古今伝授」を受けていました。これは『古今和歌集』の解釈を秘伝として師から弟子に伝えたもので、「田辺城の戦い」の際にはこれを知る者が藤孝だけだったため、後陽成(ごようぜい)天皇が勅命で藤孝を助けたともいわれています。 藤孝には後陽成天皇の弟宮・八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王をはじめとして、公家から武将までさまざまな門人がいました。 藤孝と小夜左文字 藤孝の愛刀として知られるのが、短刀・小夜左文字です。この刀には悲しい逸話が残されています。 ある日、左文字の所有者だった浪人の妻が盗賊に殺され、左文字が奪われました。残された息子は掛川の研師に弟子入りし、盗賊が左文字の研磨にやってきたときに仇討ちしたのです。 この逸話を耳にした当時の掛川城主・山内一豊は、この研師を召し抱えて左文字を入手しました。この刀を懇願して譲ってもらった藤孝は、仇討ち話と西行法師の歌の一節から「小夜左文字」と名づけ、その後も愛蔵したそうです。 武芸に秀で茶の湯でも 藤孝は戦国武将として優秀だっただけではなく、教養人としても優れた才能を発揮しました。関ヶ原の戦いの時点ですでに70歳近かった藤孝は、その後も京都で隠居生活をし、江戸時代に入った慶長15年(1610)に亡くなります。残された和歌には江戸時代のものもあるため、彼は最後まで文化人として過ごしたといえそうです。 歴史の授業ではあまり詳しく語られないかもしれませんが、文武両道の藤孝の勇姿は、日本史上でも突出していたといえるでしょう。
丹後田辺城主だった戦国武将は、秀吉に仕え、何を与えられたか。
丹後田辺城主だった戦国武将は、秀吉に仕え、山城西ヶ岡に3000石を与えられた。
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歴史
丹後田辺城主だった戦国武将は、細川藤孝である。 嫡男・忠興が光秀の娘・ガラシャを娶る 天正6年(1578)信長の薦めにより、嫡男・忠興と光秀の娘・玉(ガラシャ)が結婚することとなります。二人はともに16歳という若さで、信長はこの婚姻に満足していたようです。二人の間には、忠隆・興秋・忠利という三人の男子と二女が生まれました。 玉は美貌の持ち主で、忠興はこの妻をことさら愛していたようです。庭から妻を見たという職人の首をはねたり、のちに妻を幽閉したりしたなどの過激なエピソードも残されています。 信長の死後の藤孝 信長の家臣として活躍した藤孝でしたが、やがて「本能寺の変」が起こり、信長がこの世を去ります。主君を失った藤孝はその後どのような行動に移ったのでしょうか。 剃髪し家督を譲る 本能寺の変のあと、にわか天下人となった光秀は「山崎の戦い」で羽柴秀吉軍と対立することになります。光秀はこのとき、盟友だった藤孝に味方につくよう再三依頼しました。 ところが藤孝はこの要請を拒否、剃髪して田辺城に隠居し、家督を息子の忠興に譲ります。あとを任された息子も光秀からの要請に応えず、光秀と関係が深かった筒井順慶も参戦を断ったため、光秀は敗死する結果となりました。 藤孝にとって光秀は、もともと自分の下で足利将軍家に仕えた存在です。盟友だったとはいえ、光秀の支配下に入ることは許せなかったのかもしれません。 田辺城の戦いの経緯 その後の藤孝は秀吉に仕え、山城西ヶ岡に3000石を与えられました。紀州征伐や九州平定での戦功により大隅国3000石も加増されるなど武将としても優れていた藤孝でしたが、主に文化人として千利休らとともに重用されたようです。 しかし慶長3年(1598)に秀吉が死去し、今度は親交のあった徳川家康に接近。慶長5年(1600)に石田三成が挙兵すると、家康側だった藤孝は三男・幸隆とともにわずか500ほどの兵力で田辺城を守ることとなります。この「田辺城の戦い」では1万5000もの大軍に囲まれましたが、藤孝側の士気は高く、藤孝の歌道の弟子が多くいた敵方の戦意も低かったため、長期戦にもつれこみました。最終的には勅命によって「関ヶ原の戦い」の2日前に講和が結ばれ、戦いは終了しています。 残された逸話について 戦国の世を戦略的に生きた藤孝ですが、秀吉も重用したように、実は文化人として大きな影響力をもつ人物でもありました。 当代随一の教養人として知られる 藤孝は和歌・茶道・蹴鞠といった文芸のほか、囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深かったといわれています。剣術・弓術など武芸の素質も高く、腕力もあり遊泳術にも優れていたようです。 また歌人・三条西実枝(にしさねき)からは「古今伝授」を受けていました。これは『古今和歌集』の解釈を秘伝として師から弟子に伝えたもので、「田辺城の戦い」の際にはこれを知る者が藤孝だけだったため、後陽成(ごようぜい)天皇が勅命で藤孝を助けたともいわれています。 藤孝には後陽成天皇の弟宮・八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王をはじめとして、公家から武将までさまざまな門人がいました。 藤孝と小夜左文字 藤孝の愛刀として知られるのが、短刀・小夜左文字です。この刀には悲しい逸話が残されています。 ある日、左文字の所有者だった浪人の妻が盗賊に殺され、左文字が奪われました。残された息子は掛川の研師に弟子入りし、盗賊が左文字の研磨にやってきたときに仇討ちしたのです。 この逸話を耳にした当時の掛川城主・山内一豊は、この研師を召し抱えて左文字を入手しました。この刀を懇願して譲ってもらった藤孝は、仇討ち話と西行法師の歌の一節から「小夜左文字」と名づけ、その後も愛蔵したそうです。 武芸に秀で茶の湯でも 藤孝は戦国武将として優秀だっただけではなく、教養人としても優れた才能を発揮しました。関ヶ原の戦いの時点ですでに70歳近かった藤孝は、その後も京都で隠居生活をし、江戸時代に入った慶長15年(1610)に亡くなります。残された和歌には江戸時代のものもあるため、彼は最後まで文化人として過ごしたといえそうです。 歴史の授業ではあまり詳しく語られないかもしれませんが、文武両道の藤孝の勇姿は、日本史上でも突出していたといえるでしょう。
丹後田辺城主だった戦国武将は、三男・幸隆とともにわずか500ほどの兵力でどこを守ったか。
丹後田辺城主だった戦国武将は、三男・幸隆とともにわずか500ほどの兵力で田辺城を守った。
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丹後田辺城主だった戦国武将は、細川藤孝である。 嫡男・忠興が光秀の娘・ガラシャを娶る 天正6年(1578)信長の薦めにより、嫡男・忠興と光秀の娘・玉(ガラシャ)が結婚することとなります。二人はともに16歳という若さで、信長はこの婚姻に満足していたようです。二人の間には、忠隆・興秋・忠利という三人の男子と二女が生まれました。 玉は美貌の持ち主で、忠興はこの妻をことさら愛していたようです。庭から妻を見たという職人の首をはねたり、のちに妻を幽閉したりしたなどの過激なエピソードも残されています。 信長の死後の藤孝 信長の家臣として活躍した藤孝でしたが、やがて「本能寺の変」が起こり、信長がこの世を去ります。主君を失った藤孝はその後どのような行動に移ったのでしょうか。 剃髪し家督を譲る 本能寺の変のあと、にわか天下人となった光秀は「山崎の戦い」で羽柴秀吉軍と対立することになります。光秀はこのとき、盟友だった藤孝に味方につくよう再三依頼しました。 ところが藤孝はこの要請を拒否、剃髪して田辺城に隠居し、家督を息子の忠興に譲ります。あとを任された息子も光秀からの要請に応えず、光秀と関係が深かった筒井順慶も参戦を断ったため、光秀は敗死する結果となりました。 藤孝にとって光秀は、もともと自分の下で足利将軍家に仕えた存在です。盟友だったとはいえ、光秀の支配下に入ることは許せなかったのかもしれません。 田辺城の戦いの経緯 その後の藤孝は秀吉に仕え、山城西ヶ岡に3000石を与えられました。紀州征伐や九州平定での戦功により大隅国3000石も加増されるなど武将としても優れていた藤孝でしたが、主に文化人として千利休らとともに重用されたようです。 しかし慶長3年(1598)に秀吉が死去し、今度は親交のあった徳川家康に接近。慶長5年(1600)に石田三成が挙兵すると、家康側だった藤孝は三男・幸隆とともにわずか500ほどの兵力で田辺城を守ることとなります。この「田辺城の戦い」では1万5000もの大軍に囲まれましたが、藤孝側の士気は高く、藤孝の歌道の弟子が多くいた敵方の戦意も低かったため、長期戦にもつれこみました。最終的には勅命によって「関ヶ原の戦い」の2日前に講和が結ばれ、戦いは終了しています。 残された逸話について 戦国の世を戦略的に生きた藤孝ですが、秀吉も重用したように、実は文化人として大きな影響力をもつ人物でもありました。 当代随一の教養人として知られる 藤孝は和歌・茶道・蹴鞠といった文芸のほか、囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深かったといわれています。剣術・弓術など武芸の素質も高く、腕力もあり遊泳術にも優れていたようです。 また歌人・三条西実枝(にしさねき)からは「古今伝授」を受けていました。これは『古今和歌集』の解釈を秘伝として師から弟子に伝えたもので、「田辺城の戦い」の際にはこれを知る者が藤孝だけだったため、後陽成(ごようぜい)天皇が勅命で藤孝を助けたともいわれています。 藤孝には後陽成天皇の弟宮・八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王をはじめとして、公家から武将までさまざまな門人がいました。 藤孝と小夜左文字 藤孝の愛刀として知られるのが、短刀・小夜左文字です。この刀には悲しい逸話が残されています。 ある日、左文字の所有者だった浪人の妻が盗賊に殺され、左文字が奪われました。残された息子は掛川の研師に弟子入りし、盗賊が左文字の研磨にやってきたときに仇討ちしたのです。 この逸話を耳にした当時の掛川城主・山内一豊は、この研師を召し抱えて左文字を入手しました。この刀を懇願して譲ってもらった藤孝は、仇討ち話と西行法師の歌の一節から「小夜左文字」と名づけ、その後も愛蔵したそうです。 武芸に秀で茶の湯でも 藤孝は戦国武将として優秀だっただけではなく、教養人としても優れた才能を発揮しました。関ヶ原の戦いの時点ですでに70歳近かった藤孝は、その後も京都で隠居生活をし、江戸時代に入った慶長15年(1610)に亡くなります。残された和歌には江戸時代のものもあるため、彼は最後まで文化人として過ごしたといえそうです。 歴史の授業ではあまり詳しく語られないかもしれませんが、文武両道の藤孝の勇姿は、日本史上でも突出していたといえるでしょう。
丹後田辺城主だった戦国武将は、和歌・茶道・蹴鞠といった文芸のほか、何にも造詣が深かったか。
丹後田辺城主だった戦国武将は、和歌・茶道・蹴鞠といった文芸のほか、囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深かった。
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歴史
丹後田辺城主だった戦国武将は、細川藤孝である。 嫡男・忠興が光秀の娘・ガラシャを娶る 天正6年(1578)信長の薦めにより、嫡男・忠興と光秀の娘・玉(ガラシャ)が結婚することとなります。二人はともに16歳という若さで、信長はこの婚姻に満足していたようです。二人の間には、忠隆・興秋・忠利という三人の男子と二女が生まれました。 玉は美貌の持ち主で、忠興はこの妻をことさら愛していたようです。庭から妻を見たという職人の首をはねたり、のちに妻を幽閉したりしたなどの過激なエピソードも残されています。 信長の死後の藤孝 信長の家臣として活躍した藤孝でしたが、やがて「本能寺の変」が起こり、信長がこの世を去ります。主君を失った藤孝はその後どのような行動に移ったのでしょうか。 剃髪し家督を譲る 本能寺の変のあと、にわか天下人となった光秀は「山崎の戦い」で羽柴秀吉軍と対立することになります。光秀はこのとき、盟友だった藤孝に味方につくよう再三依頼しました。 ところが藤孝はこの要請を拒否、剃髪して田辺城に隠居し、家督を息子の忠興に譲ります。あとを任された息子も光秀からの要請に応えず、光秀と関係が深かった筒井順慶も参戦を断ったため、光秀は敗死する結果となりました。 藤孝にとって光秀は、もともと自分の下で足利将軍家に仕えた存在です。盟友だったとはいえ、光秀の支配下に入ることは許せなかったのかもしれません。 田辺城の戦いの経緯 その後の藤孝は秀吉に仕え、山城西ヶ岡に3000石を与えられました。紀州征伐や九州平定での戦功により大隅国3000石も加増されるなど武将としても優れていた藤孝でしたが、主に文化人として千利休らとともに重用されたようです。 しかし慶長3年(1598)に秀吉が死去し、今度は親交のあった徳川家康に接近。慶長5年(1600)に石田三成が挙兵すると、家康側だった藤孝は三男・幸隆とともにわずか500ほどの兵力で田辺城を守ることとなります。この「田辺城の戦い」では1万5000もの大軍に囲まれましたが、藤孝側の士気は高く、藤孝の歌道の弟子が多くいた敵方の戦意も低かったため、長期戦にもつれこみました。最終的には勅命によって「関ヶ原の戦い」の2日前に講和が結ばれ、戦いは終了しています。 残された逸話について 戦国の世を戦略的に生きた藤孝ですが、秀吉も重用したように、実は文化人として大きな影響力をもつ人物でもありました。 当代随一の教養人として知られる 藤孝は和歌・茶道・蹴鞠といった文芸のほか、囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深かったといわれています。剣術・弓術など武芸の素質も高く、腕力もあり遊泳術にも優れていたようです。 また歌人・三条西実枝(にしさねき)からは「古今伝授」を受けていました。これは『古今和歌集』の解釈を秘伝として師から弟子に伝えたもので、「田辺城の戦い」の際にはこれを知る者が藤孝だけだったため、後陽成(ごようぜい)天皇が勅命で藤孝を助けたともいわれています。 藤孝には後陽成天皇の弟宮・八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王をはじめとして、公家から武将までさまざまな門人がいました。 藤孝と小夜左文字 藤孝の愛刀として知られるのが、短刀・小夜左文字です。この刀には悲しい逸話が残されています。 ある日、左文字の所有者だった浪人の妻が盗賊に殺され、左文字が奪われました。残された息子は掛川の研師に弟子入りし、盗賊が左文字の研磨にやってきたときに仇討ちしたのです。 この逸話を耳にした当時の掛川城主・山内一豊は、この研師を召し抱えて左文字を入手しました。この刀を懇願して譲ってもらった藤孝は、仇討ち話と西行法師の歌の一節から「小夜左文字」と名づけ、その後も愛蔵したそうです。 武芸に秀で茶の湯でも 藤孝は戦国武将として優秀だっただけではなく、教養人としても優れた才能を発揮しました。関ヶ原の戦いの時点ですでに70歳近かった藤孝は、その後も京都で隠居生活をし、江戸時代に入った慶長15年(1610)に亡くなります。残された和歌には江戸時代のものもあるため、彼は最後まで文化人として過ごしたといえそうです。 歴史の授業ではあまり詳しく語られないかもしれませんが、文武両道の藤孝の勇姿は、日本史上でも突出していたといえるでしょう。
丹後田辺城主だった戦国武将は、どこで隠居生活をしたか。
丹後田辺城主だった戦国武将は、京都で隠居生活をした。
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歴史
丹後田辺城主だった戦国武将は、細川藤孝である。 嫡男・忠興が光秀の娘・ガラシャを娶る 天正6年(1578)信長の薦めにより、嫡男・忠興と光秀の娘・玉(ガラシャ)が結婚することとなります。二人はともに16歳という若さで、信長はこの婚姻に満足していたようです。二人の間には、忠隆・興秋・忠利という三人の男子と二女が生まれました。 玉は美貌の持ち主で、忠興はこの妻をことさら愛していたようです。庭から妻を見たという職人の首をはねたり、のちに妻を幽閉したりしたなどの過激なエピソードも残されています。 信長の死後の藤孝 信長の家臣として活躍した藤孝でしたが、やがて「本能寺の変」が起こり、信長がこの世を去ります。主君を失った藤孝はその後どのような行動に移ったのでしょうか。 剃髪し家督を譲る 本能寺の変のあと、にわか天下人となった光秀は「山崎の戦い」で羽柴秀吉軍と対立することになります。光秀はこのとき、盟友だった藤孝に味方につくよう再三依頼しました。 ところが藤孝はこの要請を拒否、剃髪して田辺城に隠居し、家督を息子の忠興に譲ります。あとを任された息子も光秀からの要請に応えず、光秀と関係が深かった筒井順慶も参戦を断ったため、光秀は敗死する結果となりました。 藤孝にとって光秀は、もともと自分の下で足利将軍家に仕えた存在です。盟友だったとはいえ、光秀の支配下に入ることは許せなかったのかもしれません。 田辺城の戦いの経緯 その後の藤孝は秀吉に仕え、山城西ヶ岡に3000石を与えられました。紀州征伐や九州平定での戦功により大隅国3000石も加増されるなど武将としても優れていた藤孝でしたが、主に文化人として千利休らとともに重用されたようです。 しかし慶長3年(1598)に秀吉が死去し、今度は親交のあった徳川家康に接近。慶長5年(1600)に石田三成が挙兵すると、家康側だった藤孝は三男・幸隆とともにわずか500ほどの兵力で田辺城を守ることとなります。この「田辺城の戦い」では1万5000もの大軍に囲まれましたが、藤孝側の士気は高く、藤孝の歌道の弟子が多くいた敵方の戦意も低かったため、長期戦にもつれこみました。最終的には勅命によって「関ヶ原の戦い」の2日前に講和が結ばれ、戦いは終了しています。 残された逸話について 戦国の世を戦略的に生きた藤孝ですが、秀吉も重用したように、実は文化人として大きな影響力をもつ人物でもありました。 当代随一の教養人として知られる 藤孝は和歌・茶道・蹴鞠といった文芸のほか、囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深かったといわれています。剣術・弓術など武芸の素質も高く、腕力もあり遊泳術にも優れていたようです。 また歌人・三条西実枝(にしさねき)からは「古今伝授」を受けていました。これは『古今和歌集』の解釈を秘伝として師から弟子に伝えたもので、「田辺城の戦い」の際にはこれを知る者が藤孝だけだったため、後陽成(ごようぜい)天皇が勅命で藤孝を助けたともいわれています。 藤孝には後陽成天皇の弟宮・八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王をはじめとして、公家から武将までさまざまな門人がいました。 藤孝と小夜左文字 藤孝の愛刀として知られるのが、短刀・小夜左文字です。この刀には悲しい逸話が残されています。 ある日、左文字の所有者だった浪人の妻が盗賊に殺され、左文字が奪われました。残された息子は掛川の研師に弟子入りし、盗賊が左文字の研磨にやってきたときに仇討ちしたのです。 この逸話を耳にした当時の掛川城主・山内一豊は、この研師を召し抱えて左文字を入手しました。この刀を懇願して譲ってもらった藤孝は、仇討ち話と西行法師の歌の一節から「小夜左文字」と名づけ、その後も愛蔵したそうです。 武芸に秀で茶の湯でも 藤孝は戦国武将として優秀だっただけではなく、教養人としても優れた才能を発揮しました。関ヶ原の戦いの時点ですでに70歳近かった藤孝は、その後も京都で隠居生活をし、江戸時代に入った慶長15年(1610)に亡くなります。残された和歌には江戸時代のものもあるため、彼は最後まで文化人として過ごしたといえそうです。 歴史の授業ではあまり詳しく語られないかもしれませんが、文武両道の藤孝の勇姿は、日本史上でも突出していたといえるでしょう。
丹後田辺城主だった戦国武将は、いつ亡くなったか。
丹後田辺城主だった戦国武将は、江戸時代に入った慶長15年(1610)に亡くなった。
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歴史
伊達政宗の母は、義姫である。 政宗の母:義姫の生い立ちと人物像 まずは義姫の生い立ちと人物像について見ていきましょう。戦国の世をたくましく生きた義姫とは、一体どのような女性だったのでしょうか。 最上家に生まれ伊達家に嫁いだ 義姫は天文17年(1548)出羽国の戦国大名・最上義守の娘として山形城で生まれました。出羽山形藩の初代藩主となった最上義光(よしあき)は2歳年上の実兄です。二人は仲が良かったようで手紙も多数残されています。 最上家と対立していた伊達輝宗に嫁いだ義姫は、19歳で政宗を出産しました。その後、次男の小次郎と2人の娘にも恵まれますが、娘は2人とも早くに亡くなっています。 米沢城の東館に住んだため「お東の方」や「最上御前」とも呼ばれており、出家後は保春院と名乗りました。 勝ち気で頭が良いとされる人物像 義姫はとても気丈で男勝りな性格だったため、「奥羽の鬼姫」と呼ばれるほどでした。また、頭が良く政治にも積極的に関わっており、伊達家の中で大きな発言権があったようです。 歴史上には義姫以外にも政治に関わった女性がいますが、義姫の場合は抜群の行動力を伴っていました。もし男性に生まれていたら兄・義光と肩を並べる武将になっていたかもしれません。
伊達政宗の母は、いつ生まれたか。
伊達政宗の母は、天文17年(1548)に生まれた。
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歴史
伊達政宗の母は、義姫である。 政宗の母:義姫の生い立ちと人物像 まずは義姫の生い立ちと人物像について見ていきましょう。戦国の世をたくましく生きた義姫とは、一体どのような女性だったのでしょうか。 最上家に生まれ伊達家に嫁いだ 義姫は天文17年(1548)出羽国の戦国大名・最上義守の娘として山形城で生まれました。出羽山形藩の初代藩主となった最上義光(よしあき)は2歳年上の実兄です。二人は仲が良かったようで手紙も多数残されています。 最上家と対立していた伊達輝宗に嫁いだ義姫は、19歳で政宗を出産しました。その後、次男の小次郎と2人の娘にも恵まれますが、娘は2人とも早くに亡くなっています。 米沢城の東館に住んだため「お東の方」や「最上御前」とも呼ばれており、出家後は保春院と名乗りました。 勝ち気で頭が良いとされる人物像 義姫はとても気丈で男勝りな性格だったため、「奥羽の鬼姫」と呼ばれるほどでした。また、頭が良く政治にも積極的に関わっており、伊達家の中で大きな発言権があったようです。 歴史上には義姫以外にも政治に関わった女性がいますが、義姫の場合は抜群の行動力を伴っていました。もし男性に生まれていたら兄・義光と肩を並べる武将になっていたかもしれません。
伊達政宗の母は、誰の娘として生まれたか。
伊達政宗の母は、出羽国の戦国大名・最上義守の娘として生まれた。
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歴史
伊達政宗の母は、義姫である。 政宗の母:義姫の生い立ちと人物像 まずは義姫の生い立ちと人物像について見ていきましょう。戦国の世をたくましく生きた義姫とは、一体どのような女性だったのでしょうか。 最上家に生まれ伊達家に嫁いだ 義姫は天文17年(1548)出羽国の戦国大名・最上義守の娘として山形城で生まれました。出羽山形藩の初代藩主となった最上義光(よしあき)は2歳年上の実兄です。二人は仲が良かったようで手紙も多数残されています。 最上家と対立していた伊達輝宗に嫁いだ義姫は、19歳で政宗を出産しました。その後、次男の小次郎と2人の娘にも恵まれますが、娘は2人とも早くに亡くなっています。 米沢城の東館に住んだため「お東の方」や「最上御前」とも呼ばれており、出家後は保春院と名乗りました。 勝ち気で頭が良いとされる人物像 義姫はとても気丈で男勝りな性格だったため、「奥羽の鬼姫」と呼ばれるほどでした。また、頭が良く政治にも積極的に関わっており、伊達家の中で大きな発言権があったようです。 歴史上には義姫以外にも政治に関わった女性がいますが、義姫の場合は抜群の行動力を伴っていました。もし男性に生まれていたら兄・義光と肩を並べる武将になっていたかもしれません。
伊達政宗の母は、どこで生まれたか。
伊達政宗の母は、山形城で生まれた。
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歴史
伊達政宗の母は、義姫である。 政宗の母:義姫の生い立ちと人物像 まずは義姫の生い立ちと人物像について見ていきましょう。戦国の世をたくましく生きた義姫とは、一体どのような女性だったのでしょうか。 最上家に生まれ伊達家に嫁いだ 義姫は天文17年(1548)出羽国の戦国大名・最上義守の娘として山形城で生まれました。出羽山形藩の初代藩主となった最上義光(よしあき)は2歳年上の実兄です。二人は仲が良かったようで手紙も多数残されています。 最上家と対立していた伊達輝宗に嫁いだ義姫は、19歳で政宗を出産しました。その後、次男の小次郎と2人の娘にも恵まれますが、娘は2人とも早くに亡くなっています。 米沢城の東館に住んだため「お東の方」や「最上御前」とも呼ばれており、出家後は保春院と名乗りました。 勝ち気で頭が良いとされる人物像 義姫はとても気丈で男勝りな性格だったため、「奥羽の鬼姫」と呼ばれるほどでした。また、頭が良く政治にも積極的に関わっており、伊達家の中で大きな発言権があったようです。 歴史上には義姫以外にも政治に関わった女性がいますが、義姫の場合は抜群の行動力を伴っていました。もし男性に生まれていたら兄・義光と肩を並べる武将になっていたかもしれません。
伊達政宗の母は、何歳で政宗を出産したか。
伊達政宗の母は、19歳で政宗を出産した。
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歴史
伊達政宗の母は、義姫である。 政宗の母:義姫の生い立ちと人物像 まずは義姫の生い立ちと人物像について見ていきましょう。戦国の世をたくましく生きた義姫とは、一体どのような女性だったのでしょうか。 最上家に生まれ伊達家に嫁いだ 義姫は天文17年(1548)出羽国の戦国大名・最上義守の娘として山形城で生まれました。出羽山形藩の初代藩主となった最上義光(よしあき)は2歳年上の実兄です。二人は仲が良かったようで手紙も多数残されています。 最上家と対立していた伊達輝宗に嫁いだ義姫は、19歳で政宗を出産しました。その後、次男の小次郎と2人の娘にも恵まれますが、娘は2人とも早くに亡くなっています。 米沢城の東館に住んだため「お東の方」や「最上御前」とも呼ばれており、出家後は保春院と名乗りました。 勝ち気で頭が良いとされる人物像 義姫はとても気丈で男勝りな性格だったため、「奥羽の鬼姫」と呼ばれるほどでした。また、頭が良く政治にも積極的に関わっており、伊達家の中で大きな発言権があったようです。 歴史上には義姫以外にも政治に関わった女性がいますが、義姫の場合は抜群の行動力を伴っていました。もし男性に生まれていたら兄・義光と肩を並べる武将になっていたかもしれません。
伊達政宗の母は、とても気丈で男勝りな性格だったため、何と呼ばれたか。
伊達政宗の母は、とても気丈で男勝りな性格だったため、「奥羽の鬼姫」と呼ばれた。
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歴史
伊達政宗の母は、義姫である。 義姫の驚くべき行動力とは? 男性に引けを取らない豪快さをもつ義姫ですが、実際にどのようなエピソードがあるのでしょうか。その驚くべき行動力を示す逸話をご紹介します。 駕籠で陣中へ!夫を撤退させる 戦国時代は親子や兄弟間で争うことも少なくありませんでしたが、天正6年(1578)義姫の身にもそのような事件が起こります。夫の輝宗が上山城主・上山満兼と連合して兄の義光を攻め始めたのです。 このとき義光は不利な状況にあり、義姫は兄の危機を察知し、駕籠で陣中を走り抜け夫の輝宗のもとに向かい、輝宗に抗議し停戦を訴えます。この行動は功を奏し、伊達軍は戦場から撤収しました。 大崎合戦でも輿に乗って登場! 天正16年(1588)の大崎合戦でも義姫は戦場に駆けつけています。政宗はこの戦いで伊達家に離反しようとする大崎義隆を攻めましたが、敵方に義光の援軍が駆けつけたため危機に陥りました。 このとき義姫は、甲冑を身に着けて輿に乗り、兄に停戦を要求したといいます。しかも輿に乗ったまま両軍の間に居座り、両者に対し睨みをきかせました。これにより伊達側も最上側も攻撃できなくなり、80日後ついに撤退。政宗と義光は和睦することとなったのです。 【政宗毒殺未遂事件】その真相は? 並外れた度胸と行動力で知られる義姫ですが、その一方で息子・政宗との不穏なエピソードも有名です。この逸話から母子の不仲説が囁かれていますが、果たして真実はどうなのでしょうか。 伝えられてきた毒殺事件の概要 義姫には政宗を毒殺しようとしたという逸話が残されています。その事件は天正18年(1590)4月、政宗が関白・豊臣秀吉への謁見のため小田原に向かう直前に起こりました。 伊達家の正史『伊達治家記録』によれば、お祝いとして母が用意した膳に箸をつけたところ、政宗は腹痛を起こし、急いで投薬を受けて一命をとりとめたといいます。 この一件でショックを受けた政宗は、母が溺愛する弟に家督を継がせようとしているのではないか、また母の実家である最上家の陰謀ではないかと考え、自ら弟を手討ちにしました。その晩、義姫は実家のある山形に逃げたとされています。 諸説あるまま真相はわからず 通説ではこの事件の首謀者は義姫とされてきました。しかし平成11年(1999)に発見された資料によれば、義姫が出奔したのは弟である小次郎が手討ちにされた晩ではなく、その4年後であることがわかっています。この間、義姫は政宗と共にいたことになるため、首謀者とは考えづらいでしょう。 『伊達治家記録』の記録の中には、政宗が事件の経緯を知らせた手紙があります。ここで政宗は、毒を盛ったのは母だと考えられること、その背後に弟擁立派の存在があること、伊達家の内乱を避けるために仕方なく弟を手討ちにしたことなどを詳しく語っています。 しかしこの事件には諸説あり、果たして何が真実かは未だにわかっていません。 母と息子の仲は良かった事実 不仲説が囁かれる親子ですが、実際は仲が良かったようです。伊達家には親子間の手紙がたくさん残されており、二人は事件後も手紙をやりとりしています。その内容はどれも仲の睦まじさを感じさせるもので、とても事件のわだかまりを感じさせるものではないのだとか。 政宗が朝鮮出兵した際も義姫は手紙を出しており、政宗はそれに感激して「無事に帰ってもう一度会いたい」と返事をしています。 毒殺しようとした政宗とこのような手紙をやりとりすることは考えづらいため、この事実は義姫首謀者説を否定する理由にもなっています。 最期を仙台で迎えた 最上家に出奔した義姫はのちに仙台城へ戻り政宗と再会しました。これは二人が離れてから28年後のことで、再会の際に交わした贈答歌は政宗の歌集に残されています。 驚くべき行動力を発揮した義姫は元和9年(1623)7月17日に死去しました。政宗は十三回忌に菩提を弔うため臨済宗少林山保春院を建立し、自ら母の位牌を作りました。保春院は宝暦2年(1757)の火事で焼けてしまいましたが後に再建され、現在も本堂には政宗がつくった義姫の位牌が残されています。
伊達政宗の母は、誰の危機を察知したか。
伊達政宗の母は、兄の危機を察知した。
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歴史
伊達政宗の母は、義姫である。 義姫の驚くべき行動力とは? 男性に引けを取らない豪快さをもつ義姫ですが、実際にどのようなエピソードがあるのでしょうか。その驚くべき行動力を示す逸話をご紹介します。 駕籠で陣中へ!夫を撤退させる 戦国時代は親子や兄弟間で争うことも少なくありませんでしたが、天正6年(1578)義姫の身にもそのような事件が起こります。夫の輝宗が上山城主・上山満兼と連合して兄の義光を攻め始めたのです。 このとき義光は不利な状況にあり、義姫は兄の危機を察知し、駕籠で陣中を走り抜け夫の輝宗のもとに向かい、輝宗に抗議し停戦を訴えます。この行動は功を奏し、伊達軍は戦場から撤収しました。 大崎合戦でも輿に乗って登場! 天正16年(1588)の大崎合戦でも義姫は戦場に駆けつけています。政宗はこの戦いで伊達家に離反しようとする大崎義隆を攻めましたが、敵方に義光の援軍が駆けつけたため危機に陥りました。 このとき義姫は、甲冑を身に着けて輿に乗り、兄に停戦を要求したといいます。しかも輿に乗ったまま両軍の間に居座り、両者に対し睨みをきかせました。これにより伊達側も最上側も攻撃できなくなり、80日後ついに撤退。政宗と義光は和睦することとなったのです。 【政宗毒殺未遂事件】その真相は? 並外れた度胸と行動力で知られる義姫ですが、その一方で息子・政宗との不穏なエピソードも有名です。この逸話から母子の不仲説が囁かれていますが、果たして真実はどうなのでしょうか。 伝えられてきた毒殺事件の概要 義姫には政宗を毒殺しようとしたという逸話が残されています。その事件は天正18年(1590)4月、政宗が関白・豊臣秀吉への謁見のため小田原に向かう直前に起こりました。 伊達家の正史『伊達治家記録』によれば、お祝いとして母が用意した膳に箸をつけたところ、政宗は腹痛を起こし、急いで投薬を受けて一命をとりとめたといいます。 この一件でショックを受けた政宗は、母が溺愛する弟に家督を継がせようとしているのではないか、また母の実家である最上家の陰謀ではないかと考え、自ら弟を手討ちにしました。その晩、義姫は実家のある山形に逃げたとされています。 諸説あるまま真相はわからず 通説ではこの事件の首謀者は義姫とされてきました。しかし平成11年(1999)に発見された資料によれば、義姫が出奔したのは弟である小次郎が手討ちにされた晩ではなく、その4年後であることがわかっています。この間、義姫は政宗と共にいたことになるため、首謀者とは考えづらいでしょう。 『伊達治家記録』の記録の中には、政宗が事件の経緯を知らせた手紙があります。ここで政宗は、毒を盛ったのは母だと考えられること、その背後に弟擁立派の存在があること、伊達家の内乱を避けるために仕方なく弟を手討ちにしたことなどを詳しく語っています。 しかしこの事件には諸説あり、果たして何が真実かは未だにわかっていません。 母と息子の仲は良かった事実 不仲説が囁かれる親子ですが、実際は仲が良かったようです。伊達家には親子間の手紙がたくさん残されており、二人は事件後も手紙をやりとりしています。その内容はどれも仲の睦まじさを感じさせるもので、とても事件のわだかまりを感じさせるものではないのだとか。 政宗が朝鮮出兵した際も義姫は手紙を出しており、政宗はそれに感激して「無事に帰ってもう一度会いたい」と返事をしています。 毒殺しようとした政宗とこのような手紙をやりとりすることは考えづらいため、この事実は義姫首謀者説を否定する理由にもなっています。 最期を仙台で迎えた 最上家に出奔した義姫はのちに仙台城へ戻り政宗と再会しました。これは二人が離れてから28年後のことで、再会の際に交わした贈答歌は政宗の歌集に残されています。 驚くべき行動力を発揮した義姫は元和9年(1623)7月17日に死去しました。政宗は十三回忌に菩提を弔うため臨済宗少林山保春院を建立し、自ら母の位牌を作りました。保春院は宝暦2年(1757)の火事で焼けてしまいましたが後に再建され、現在も本堂には政宗がつくった義姫の位牌が残されています。
伊達政宗の母は、駕籠で陣中を走り抜け誰のもとに向かったか。
伊達政宗の母は、駕籠で陣中を走り抜け夫の輝宗のもとに向かった。
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歴史
伊達政宗の母は、義姫である。 義姫の驚くべき行動力とは? 男性に引けを取らない豪快さをもつ義姫ですが、実際にどのようなエピソードがあるのでしょうか。その驚くべき行動力を示す逸話をご紹介します。 駕籠で陣中へ!夫を撤退させる 戦国時代は親子や兄弟間で争うことも少なくありませんでしたが、天正6年(1578)義姫の身にもそのような事件が起こります。夫の輝宗が上山城主・上山満兼と連合して兄の義光を攻め始めたのです。 このとき義光は不利な状況にあり、義姫は兄の危機を察知し、駕籠で陣中を走り抜け夫の輝宗のもとに向かい、輝宗に抗議し停戦を訴えます。この行動は功を奏し、伊達軍は戦場から撤収しました。 大崎合戦でも輿に乗って登場! 天正16年(1588)の大崎合戦でも義姫は戦場に駆けつけています。政宗はこの戦いで伊達家に離反しようとする大崎義隆を攻めましたが、敵方に義光の援軍が駆けつけたため危機に陥りました。 このとき義姫は、甲冑を身に着けて輿に乗り、兄に停戦を要求したといいます。しかも輿に乗ったまま両軍の間に居座り、両者に対し睨みをきかせました。これにより伊達側も最上側も攻撃できなくなり、80日後ついに撤退。政宗と義光は和睦することとなったのです。 【政宗毒殺未遂事件】その真相は? 並外れた度胸と行動力で知られる義姫ですが、その一方で息子・政宗との不穏なエピソードも有名です。この逸話から母子の不仲説が囁かれていますが、果たして真実はどうなのでしょうか。 伝えられてきた毒殺事件の概要 義姫には政宗を毒殺しようとしたという逸話が残されています。その事件は天正18年(1590)4月、政宗が関白・豊臣秀吉への謁見のため小田原に向かう直前に起こりました。 伊達家の正史『伊達治家記録』によれば、お祝いとして母が用意した膳に箸をつけたところ、政宗は腹痛を起こし、急いで投薬を受けて一命をとりとめたといいます。 この一件でショックを受けた政宗は、母が溺愛する弟に家督を継がせようとしているのではないか、また母の実家である最上家の陰謀ではないかと考え、自ら弟を手討ちにしました。その晩、義姫は実家のある山形に逃げたとされています。 諸説あるまま真相はわからず 通説ではこの事件の首謀者は義姫とされてきました。しかし平成11年(1999)に発見された資料によれば、義姫が出奔したのは弟である小次郎が手討ちにされた晩ではなく、その4年後であることがわかっています。この間、義姫は政宗と共にいたことになるため、首謀者とは考えづらいでしょう。 『伊達治家記録』の記録の中には、政宗が事件の経緯を知らせた手紙があります。ここで政宗は、毒を盛ったのは母だと考えられること、その背後に弟擁立派の存在があること、伊達家の内乱を避けるために仕方なく弟を手討ちにしたことなどを詳しく語っています。 しかしこの事件には諸説あり、果たして何が真実かは未だにわかっていません。 母と息子の仲は良かった事実 不仲説が囁かれる親子ですが、実際は仲が良かったようです。伊達家には親子間の手紙がたくさん残されており、二人は事件後も手紙をやりとりしています。その内容はどれも仲の睦まじさを感じさせるもので、とても事件のわだかまりを感じさせるものではないのだとか。 政宗が朝鮮出兵した際も義姫は手紙を出しており、政宗はそれに感激して「無事に帰ってもう一度会いたい」と返事をしています。 毒殺しようとした政宗とこのような手紙をやりとりすることは考えづらいため、この事実は義姫首謀者説を否定する理由にもなっています。 最期を仙台で迎えた 最上家に出奔した義姫はのちに仙台城へ戻り政宗と再会しました。これは二人が離れてから28年後のことで、再会の際に交わした贈答歌は政宗の歌集に残されています。 驚くべき行動力を発揮した義姫は元和9年(1623)7月17日に死去しました。政宗は十三回忌に菩提を弔うため臨済宗少林山保春院を建立し、自ら母の位牌を作りました。保春院は宝暦2年(1757)の火事で焼けてしまいましたが後に再建され、現在も本堂には政宗がつくった義姫の位牌が残されています。
伊達政宗の母は、輝宗に抗議し何を訴えたか。
伊達政宗の母は、輝宗に抗議し停戦を訴えた。
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歴史
伊達政宗の母は、義姫である。 義姫の驚くべき行動力とは? 男性に引けを取らない豪快さをもつ義姫ですが、実際にどのようなエピソードがあるのでしょうか。その驚くべき行動力を示す逸話をご紹介します。 駕籠で陣中へ!夫を撤退させる 戦国時代は親子や兄弟間で争うことも少なくありませんでしたが、天正6年(1578)義姫の身にもそのような事件が起こります。夫の輝宗が上山城主・上山満兼と連合して兄の義光を攻め始めたのです。 このとき義光は不利な状況にあり、義姫は兄の危機を察知し、駕籠で陣中を走り抜け夫の輝宗のもとに向かい、輝宗に抗議し停戦を訴えます。この行動は功を奏し、伊達軍は戦場から撤収しました。 大崎合戦でも輿に乗って登場! 天正16年(1588)の大崎合戦でも義姫は戦場に駆けつけています。政宗はこの戦いで伊達家に離反しようとする大崎義隆を攻めましたが、敵方に義光の援軍が駆けつけたため危機に陥りました。 このとき義姫は、甲冑を身に着けて輿に乗り、兄に停戦を要求したといいます。しかも輿に乗ったまま両軍の間に居座り、両者に対し睨みをきかせました。これにより伊達側も最上側も攻撃できなくなり、80日後ついに撤退。政宗と義光は和睦することとなったのです。 【政宗毒殺未遂事件】その真相は? 並外れた度胸と行動力で知られる義姫ですが、その一方で息子・政宗との不穏なエピソードも有名です。この逸話から母子の不仲説が囁かれていますが、果たして真実はどうなのでしょうか。 伝えられてきた毒殺事件の概要 義姫には政宗を毒殺しようとしたという逸話が残されています。その事件は天正18年(1590)4月、政宗が関白・豊臣秀吉への謁見のため小田原に向かう直前に起こりました。 伊達家の正史『伊達治家記録』によれば、お祝いとして母が用意した膳に箸をつけたところ、政宗は腹痛を起こし、急いで投薬を受けて一命をとりとめたといいます。 この一件でショックを受けた政宗は、母が溺愛する弟に家督を継がせようとしているのではないか、また母の実家である最上家の陰謀ではないかと考え、自ら弟を手討ちにしました。その晩、義姫は実家のある山形に逃げたとされています。 諸説あるまま真相はわからず 通説ではこの事件の首謀者は義姫とされてきました。しかし平成11年(1999)に発見された資料によれば、義姫が出奔したのは弟である小次郎が手討ちにされた晩ではなく、その4年後であることがわかっています。この間、義姫は政宗と共にいたことになるため、首謀者とは考えづらいでしょう。 『伊達治家記録』の記録の中には、政宗が事件の経緯を知らせた手紙があります。ここで政宗は、毒を盛ったのは母だと考えられること、その背後に弟擁立派の存在があること、伊達家の内乱を避けるために仕方なく弟を手討ちにしたことなどを詳しく語っています。 しかしこの事件には諸説あり、果たして何が真実かは未だにわかっていません。 母と息子の仲は良かった事実 不仲説が囁かれる親子ですが、実際は仲が良かったようです。伊達家には親子間の手紙がたくさん残されており、二人は事件後も手紙をやりとりしています。その内容はどれも仲の睦まじさを感じさせるもので、とても事件のわだかまりを感じさせるものではないのだとか。 政宗が朝鮮出兵した際も義姫は手紙を出しており、政宗はそれに感激して「無事に帰ってもう一度会いたい」と返事をしています。 毒殺しようとした政宗とこのような手紙をやりとりすることは考えづらいため、この事実は義姫首謀者説を否定する理由にもなっています。 最期を仙台で迎えた 最上家に出奔した義姫はのちに仙台城へ戻り政宗と再会しました。これは二人が離れてから28年後のことで、再会の際に交わした贈答歌は政宗の歌集に残されています。 驚くべき行動力を発揮した義姫は元和9年(1623)7月17日に死去しました。政宗は十三回忌に菩提を弔うため臨済宗少林山保春院を建立し、自ら母の位牌を作りました。保春院は宝暦2年(1757)の火事で焼けてしまいましたが後に再建され、現在も本堂には政宗がつくった義姫の位牌が残されています。
伊達政宗の母は、どこへ戻り政宗と再会したか。
伊達政宗の母は、のちに仙台城へ戻り政宗と再会した。
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歴史
伊達政宗の母は、義姫である。 義姫の驚くべき行動力とは? 男性に引けを取らない豪快さをもつ義姫ですが、実際にどのようなエピソードがあるのでしょうか。その驚くべき行動力を示す逸話をご紹介します。 駕籠で陣中へ!夫を撤退させる 戦国時代は親子や兄弟間で争うことも少なくありませんでしたが、天正6年(1578)義姫の身にもそのような事件が起こります。夫の輝宗が上山城主・上山満兼と連合して兄の義光を攻め始めたのです。 このとき義光は不利な状況にあり、義姫は兄の危機を察知し、駕籠で陣中を走り抜け夫の輝宗のもとに向かい、輝宗に抗議し停戦を訴えます。この行動は功を奏し、伊達軍は戦場から撤収しました。 大崎合戦でも輿に乗って登場! 天正16年(1588)の大崎合戦でも義姫は戦場に駆けつけています。政宗はこの戦いで伊達家に離反しようとする大崎義隆を攻めましたが、敵方に義光の援軍が駆けつけたため危機に陥りました。 このとき義姫は、甲冑を身に着けて輿に乗り、兄に停戦を要求したといいます。しかも輿に乗ったまま両軍の間に居座り、両者に対し睨みをきかせました。これにより伊達側も最上側も攻撃できなくなり、80日後ついに撤退。政宗と義光は和睦することとなったのです。 【政宗毒殺未遂事件】その真相は? 並外れた度胸と行動力で知られる義姫ですが、その一方で息子・政宗との不穏なエピソードも有名です。この逸話から母子の不仲説が囁かれていますが、果たして真実はどうなのでしょうか。 伝えられてきた毒殺事件の概要 義姫には政宗を毒殺しようとしたという逸話が残されています。その事件は天正18年(1590)4月、政宗が関白・豊臣秀吉への謁見のため小田原に向かう直前に起こりました。 伊達家の正史『伊達治家記録』によれば、お祝いとして母が用意した膳に箸をつけたところ、政宗は腹痛を起こし、急いで投薬を受けて一命をとりとめたといいます。 この一件でショックを受けた政宗は、母が溺愛する弟に家督を継がせようとしているのではないか、また母の実家である最上家の陰謀ではないかと考え、自ら弟を手討ちにしました。その晩、義姫は実家のある山形に逃げたとされています。 諸説あるまま真相はわからず 通説ではこの事件の首謀者は義姫とされてきました。しかし平成11年(1999)に発見された資料によれば、義姫が出奔したのは弟である小次郎が手討ちにされた晩ではなく、その4年後であることがわかっています。この間、義姫は政宗と共にいたことになるため、首謀者とは考えづらいでしょう。 『伊達治家記録』の記録の中には、政宗が事件の経緯を知らせた手紙があります。ここで政宗は、毒を盛ったのは母だと考えられること、その背後に弟擁立派の存在があること、伊達家の内乱を避けるために仕方なく弟を手討ちにしたことなどを詳しく語っています。 しかしこの事件には諸説あり、果たして何が真実かは未だにわかっていません。 母と息子の仲は良かった事実 不仲説が囁かれる親子ですが、実際は仲が良かったようです。伊達家には親子間の手紙がたくさん残されており、二人は事件後も手紙をやりとりしています。その内容はどれも仲の睦まじさを感じさせるもので、とても事件のわだかまりを感じさせるものではないのだとか。 政宗が朝鮮出兵した際も義姫は手紙を出しており、政宗はそれに感激して「無事に帰ってもう一度会いたい」と返事をしています。 毒殺しようとした政宗とこのような手紙をやりとりすることは考えづらいため、この事実は義姫首謀者説を否定する理由にもなっています。 最期を仙台で迎えた 最上家に出奔した義姫はのちに仙台城へ戻り政宗と再会しました。これは二人が離れてから28年後のことで、再会の際に交わした贈答歌は政宗の歌集に残されています。 驚くべき行動力を発揮した義姫は元和9年(1623)7月17日に死去しました。政宗は十三回忌に菩提を弔うため臨済宗少林山保春院を建立し、自ら母の位牌を作りました。保春院は宝暦2年(1757)の火事で焼けてしまいましたが後に再建され、現在も本堂には政宗がつくった義姫の位牌が残されています。
伊達政宗の母は、いつ死去したか。
伊達政宗の母は、元和9年(1623)7月17日に死去した。
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歴史
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、三好長慶である。 三好長慶の波乱に満ちた生涯 長慶の人生は幼少期から晩年にいたるまで波乱万丈でした。それは彼の出自にも関係があります。まずはその生い立ちと彼の残した功績について見ていきましょう。 幼くして父を殺される 長慶は大永2年(1522)管領・細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として、現在の徳島県に生まれました。 細川家は足利将軍家の重臣「三管領」の一つで、政治的にも軍事的にも大きな力を持つ大名家です。その家臣だった父・元長は、晴元の政敵である細川高国を討つなど大きな功績を残しました。ところがその勢いを警戒した晴元や同族の三好政長・木沢長政らが謀略して一向一揆を起こし、元長は暗殺されてしまいます。そのため長慶はわずか10歳で家督を継承し、本拠地の阿波に逃げることとなったのです。 父の仇:細川晴元に仕える 元長殺害のために起こした一向一揆は、やがて晴元でも抑えられないほど大きくなり、享禄・天文の乱へと発展していきました。収拾がつかなくなったこの一揆を鎮静化させたのは、父親を殺された長慶です。『本福寺明宗跡書』によると、当時12歳だった長慶が、晴元と石山本願寺の一向一揆勢力の和睦を斡旋したとされています。これは元長が戦死して1年たらずの出来事でした。 長慶はこの直後に元服し、数年後には本願寺に味方をして晴元や政長と戦っています。しかし晴元の家臣の仲介もあり、まだ若年であることを理由に許され、その後は晴元の家臣となりました。 晴元・三好政長との対立 晴元のもとで離反や帰参を繰り返して勢力を拡大した長慶は、やがて石山本願寺からも一目置かれるほどの存在になりました。そんな中、ついに父の仇の一人・長政の征伐に成功します。また天文17年(1548)にはもう一人の仇である政長の追討を決意。これは政長が父の死に関係していたことを知ったからともいわれますが、理由は諸説あるようです。 しかし、政長は晴元から厚く信任されている人物だったため、長慶は越水城で軍議を開き「もし晴元が政長を庇うなら、主君である晴元も敵とみなす」ことを決定します。
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、いつ生まれたか。
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、大永2年(1522)に生まれた。
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歴史
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、三好長慶である。 三好長慶の波乱に満ちた生涯 長慶の人生は幼少期から晩年にいたるまで波乱万丈でした。それは彼の出自にも関係があります。まずはその生い立ちと彼の残した功績について見ていきましょう。 幼くして父を殺される 長慶は大永2年(1522)管領・細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として、現在の徳島県に生まれました。 細川家は足利将軍家の重臣「三管領」の一つで、政治的にも軍事的にも大きな力を持つ大名家です。その家臣だった父・元長は、晴元の政敵である細川高国を討つなど大きな功績を残しました。ところがその勢いを警戒した晴元や同族の三好政長・木沢長政らが謀略して一向一揆を起こし、元長は暗殺されてしまいます。そのため長慶はわずか10歳で家督を継承し、本拠地の阿波に逃げることとなったのです。 父の仇:細川晴元に仕える 元長殺害のために起こした一向一揆は、やがて晴元でも抑えられないほど大きくなり、享禄・天文の乱へと発展していきました。収拾がつかなくなったこの一揆を鎮静化させたのは、父親を殺された長慶です。『本福寺明宗跡書』によると、当時12歳だった長慶が、晴元と石山本願寺の一向一揆勢力の和睦を斡旋したとされています。これは元長が戦死して1年たらずの出来事でした。 長慶はこの直後に元服し、数年後には本願寺に味方をして晴元や政長と戦っています。しかし晴元の家臣の仲介もあり、まだ若年であることを理由に許され、その後は晴元の家臣となりました。 晴元・三好政長との対立 晴元のもとで離反や帰参を繰り返して勢力を拡大した長慶は、やがて石山本願寺からも一目置かれるほどの存在になりました。そんな中、ついに父の仇の一人・長政の征伐に成功します。また天文17年(1548)にはもう一人の仇である政長の追討を決意。これは政長が父の死に関係していたことを知ったからともいわれますが、理由は諸説あるようです。 しかし、政長は晴元から厚く信任されている人物だったため、長慶は越水城で軍議を開き「もし晴元が政長を庇うなら、主君である晴元も敵とみなす」ことを決定します。
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、誰の嫡男として生まれたか。
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、管領・細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として生まれた。
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歴史
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、三好長慶である。 三好長慶の波乱に満ちた生涯 長慶の人生は幼少期から晩年にいたるまで波乱万丈でした。それは彼の出自にも関係があります。まずはその生い立ちと彼の残した功績について見ていきましょう。 幼くして父を殺される 長慶は大永2年(1522)管領・細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として、現在の徳島県に生まれました。 細川家は足利将軍家の重臣「三管領」の一つで、政治的にも軍事的にも大きな力を持つ大名家です。その家臣だった父・元長は、晴元の政敵である細川高国を討つなど大きな功績を残しました。ところがその勢いを警戒した晴元や同族の三好政長・木沢長政らが謀略して一向一揆を起こし、元長は暗殺されてしまいます。そのため長慶はわずか10歳で家督を継承し、本拠地の阿波に逃げることとなったのです。 父の仇:細川晴元に仕える 元長殺害のために起こした一向一揆は、やがて晴元でも抑えられないほど大きくなり、享禄・天文の乱へと発展していきました。収拾がつかなくなったこの一揆を鎮静化させたのは、父親を殺された長慶です。『本福寺明宗跡書』によると、当時12歳だった長慶が、晴元と石山本願寺の一向一揆勢力の和睦を斡旋したとされています。これは元長が戦死して1年たらずの出来事でした。 長慶はこの直後に元服し、数年後には本願寺に味方をして晴元や政長と戦っています。しかし晴元の家臣の仲介もあり、まだ若年であることを理由に許され、その後は晴元の家臣となりました。 晴元・三好政長との対立 晴元のもとで離反や帰参を繰り返して勢力を拡大した長慶は、やがて石山本願寺からも一目置かれるほどの存在になりました。そんな中、ついに父の仇の一人・長政の征伐に成功します。また天文17年(1548)にはもう一人の仇である政長の追討を決意。これは政長が父の死に関係していたことを知ったからともいわれますが、理由は諸説あるようです。 しかし、政長は晴元から厚く信任されている人物だったため、長慶は越水城で軍議を開き「もし晴元が政長を庇うなら、主君である晴元も敵とみなす」ことを決定します。
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、どこで生まれたか。
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、現在の徳島県に生まれた。
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歴史
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、三好長慶である。 三好長慶の波乱に満ちた生涯 長慶の人生は幼少期から晩年にいたるまで波乱万丈でした。それは彼の出自にも関係があります。まずはその生い立ちと彼の残した功績について見ていきましょう。 幼くして父を殺される 長慶は大永2年(1522)管領・細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として、現在の徳島県に生まれました。 細川家は足利将軍家の重臣「三管領」の一つで、政治的にも軍事的にも大きな力を持つ大名家です。その家臣だった父・元長は、晴元の政敵である細川高国を討つなど大きな功績を残しました。ところがその勢いを警戒した晴元や同族の三好政長・木沢長政らが謀略して一向一揆を起こし、元長は暗殺されてしまいます。そのため長慶はわずか10歳で家督を継承し、本拠地の阿波に逃げることとなったのです。 父の仇:細川晴元に仕える 元長殺害のために起こした一向一揆は、やがて晴元でも抑えられないほど大きくなり、享禄・天文の乱へと発展していきました。収拾がつかなくなったこの一揆を鎮静化させたのは、父親を殺された長慶です。『本福寺明宗跡書』によると、当時12歳だった長慶が、晴元と石山本願寺の一向一揆勢力の和睦を斡旋したとされています。これは元長が戦死して1年たらずの出来事でした。 長慶はこの直後に元服し、数年後には本願寺に味方をして晴元や政長と戦っています。しかし晴元の家臣の仲介もあり、まだ若年であることを理由に許され、その後は晴元の家臣となりました。 晴元・三好政長との対立 晴元のもとで離反や帰参を繰り返して勢力を拡大した長慶は、やがて石山本願寺からも一目置かれるほどの存在になりました。そんな中、ついに父の仇の一人・長政の征伐に成功します。また天文17年(1548)にはもう一人の仇である政長の追討を決意。これは政長が父の死に関係していたことを知ったからともいわれますが、理由は諸説あるようです。 しかし、政長は晴元から厚く信任されている人物だったため、長慶は越水城で軍議を開き「もし晴元が政長を庇うなら、主君である晴元も敵とみなす」ことを決定します。
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、何歳で家督を継承し、本拠地の阿波に逃げることとなったか。
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、わずか10歳で家督を継承し、本拠地の阿波に逃げることとなった。
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歴史
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、三好長慶である。 三好長慶の波乱に満ちた生涯 長慶の人生は幼少期から晩年にいたるまで波乱万丈でした。それは彼の出自にも関係があります。まずはその生い立ちと彼の残した功績について見ていきましょう。 幼くして父を殺される 長慶は大永2年(1522)管領・細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として、現在の徳島県に生まれました。 細川家は足利将軍家の重臣「三管領」の一つで、政治的にも軍事的にも大きな力を持つ大名家です。その家臣だった父・元長は、晴元の政敵である細川高国を討つなど大きな功績を残しました。ところがその勢いを警戒した晴元や同族の三好政長・木沢長政らが謀略して一向一揆を起こし、元長は暗殺されてしまいます。そのため長慶はわずか10歳で家督を継承し、本拠地の阿波に逃げることとなったのです。 父の仇:細川晴元に仕える 元長殺害のために起こした一向一揆は、やがて晴元でも抑えられないほど大きくなり、享禄・天文の乱へと発展していきました。収拾がつかなくなったこの一揆を鎮静化させたのは、父親を殺された長慶です。『本福寺明宗跡書』によると、当時12歳だった長慶が、晴元と石山本願寺の一向一揆勢力の和睦を斡旋したとされています。これは元長が戦死して1年たらずの出来事でした。 長慶はこの直後に元服し、数年後には本願寺に味方をして晴元や政長と戦っています。しかし晴元の家臣の仲介もあり、まだ若年であることを理由に許され、その後は晴元の家臣となりました。 晴元・三好政長との対立 晴元のもとで離反や帰参を繰り返して勢力を拡大した長慶は、やがて石山本願寺からも一目置かれるほどの存在になりました。そんな中、ついに父の仇の一人・長政の征伐に成功します。また天文17年(1548)にはもう一人の仇である政長の追討を決意。これは政長が父の死に関係していたことを知ったからともいわれますが、理由は諸説あるようです。 しかし、政長は晴元から厚く信任されている人物だったため、長慶は越水城で軍議を開き「もし晴元が政長を庇うなら、主君である晴元も敵とみなす」ことを決定します。
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、越水城で軍議を開き何を決定したか。
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、越水城で軍議を開き「もし晴元が政長を庇うなら、主君である晴元も敵とみなす」ことを決定した。
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歴史
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、三好長慶である。 足利将軍を都から追放する 長慶は晴元に政長父子の討伐を願い出ましたが、その意見は受け入れられませんでした。そのため、長慶はかつて敵だった細川氏綱・遊佐長教と手を組んで晴元に反旗を翻します。これにより政長は討ち取られ、晴元らは将軍・足利義晴と義輝父子たちを連れて逃亡、都は将軍不在の状況に陥りました。 将軍を都から追放した長慶は、主君として氏綱を立て、晴元派の伊丹親興がいる伊丹城を開城させ摂津を平定します。こうして幕府の実権を掌握した彼は、畿内を中心に8か国を支配する大名にまで上り詰めたのです。これは事実上の三好政権の誕生でした。 松永久秀の謀略と長慶の最期 10歳で家督を継いでから怒涛の巻き返しをはかった長慶。最初の天下人という呼び名に相応しい活躍を見せた彼ですが、その状況は長くは続きませんでした。 十河一存の急死が引き金に 長慶の衰退のきっかけは、永禄4年(1561)に起こった弟・十河一存(そごうかずまさ)の急死でした。一存は軍事的に重要な立場にいたため、これは三好家にとって大きな事件だったといえるでしょう。死因は病気とも事故ともいわれますが、陰謀説もあるようです。 一存の死によって彼が治めていた和泉の支配が弱まると、その隙をついて晴元の次男・晴之を盟主とした畠山高政と六角義賢の攻撃が始まります。この戦いは翌年まで続き、さらには弟の一人である三好実休(じっきゅう)が戦死しました。 嫡男の病死が追い打ちをかける 短期間に2人の弟を亡くした長慶ですが、翌年の永禄6年(1563)8月には嫡男・義興が22歳の若さで早世します。そのため一存の息子・重存(義継)を養子に迎えますが、将来を嘱望していた義興を失ったことは長慶にとって大きなショックでした。 またその年の12月には名目上の主君・氏綱も病死し、三好家の政権維持に必要な形式的な管領も失ってしまいます。 安宅冬康を誅殺し、病が悪化! 永禄7年(1564)5月9日、長慶は弟・安宅冬康(あたぎふゆやす)を飯盛山城に呼び出し誅殺するという事件を起こします。これは家臣・松永久秀から「冬康が謀反を起こそうとしている」と知らされたからでしたが、後に久秀の讒言だったことが発覚します。 『足利季世記』によると、この頃の長慶は相次ぐ不幸により心身に異常をきたし、病にかかって思慮を失っていたといいます。冬康の死後はさらに容体が悪化し、最後は飯盛山城で病死しました。 長慶の人物像とは 猛々しく戦い、政権を握った長慶ですが、その功績とは反対に性格は穏やかだったようです。長慶の人物像とはどのようなものだったのでしょうか。 早熟の天才型だった? 長慶はわずか12歳で晴元と一向一揆の和睦を仲介しています。元服前の少年が交渉を取りまとめるのは誰でもできるようなことではありません。このことから早熟の天才肌だったといえそうです。 また長慶は、信長と同じように堺の経済力に注目しており、貿易によって莫大な軍事費や軍需品を入手していました。曽祖父の代から受け継いだ周辺諸国との関係や軍事力に加え、このような鋭い視点があったことが勢力拡大につながったのでしょう。 和睦を繰り返す寛大な性格 戦いを繰り返した長慶ですが、最後まで敵を追い詰めることはなく、和睦をはかる寛大な性格でした。晴元と将軍・義輝を破った際は追撃せず、弟から晴元の三宅城を落とそうと提案されたときも拒否しています。それどころか晴元が帰京する際は警護し、優位な立場にありながら和睦を希望しました。『足利季世記』によれば、長慶はかつての主君と和睦できたことに涙したそうです。 また長慶は晴元の長男・昭元を人質にしていましたが、彼を殺すことなく晴元と再会させています。 晩年は連歌を好んだ 長慶には文化人としての側面もありました。当時の武将の中でも高い教養を誇っていた彼は、たびたび連歌会を開いていたといいます。晩年の彼が勇猛さを失っていたのは、連歌に没頭していたからという見方もあるようです。 松永貞徳の随筆集『戴恩記(たいおんき)』によれば、当時は長慶のこのような一面をなじる者もいたのだとか。しかし長慶はこれに対し和歌で反論しています。 短期間で消滅した三好政権 信長よりも早く天下人になったといわれる長慶は、戦いと和睦を繰り返しながら勢力を拡大していきました。それは三好政権を成立させるほど強大でしたが、残念ながらその名前は信長や秀吉ほど知れ渡ることはありませんでした。そこには長慶の寛大な性格が関係していたのかもしれません。 長慶の栄華は弟の死をきっかけに崩れ始め、最後は心身ともに病に侵されるという結末を迎えています。最初の天下人といわれる長慶は、短くも濃い、波乱万丈な生涯を送ったといえるでしょう。
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、何を願い出たが、その意見は受け入れられなかったか。
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、晴元に政長父子の討伐を願い出たが、その意見は受け入れられなかった。
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歴史
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、三好長慶である。 足利将軍を都から追放する 長慶は晴元に政長父子の討伐を願い出ましたが、その意見は受け入れられませんでした。そのため、長慶はかつて敵だった細川氏綱・遊佐長教と手を組んで晴元に反旗を翻します。これにより政長は討ち取られ、晴元らは将軍・足利義晴と義輝父子たちを連れて逃亡、都は将軍不在の状況に陥りました。 将軍を都から追放した長慶は、主君として氏綱を立て、晴元派の伊丹親興がいる伊丹城を開城させ摂津を平定します。こうして幕府の実権を掌握した彼は、畿内を中心に8か国を支配する大名にまで上り詰めたのです。これは事実上の三好政権の誕生でした。 松永久秀の謀略と長慶の最期 10歳で家督を継いでから怒涛の巻き返しをはかった長慶。最初の天下人という呼び名に相応しい活躍を見せた彼ですが、その状況は長くは続きませんでした。 十河一存の急死が引き金に 長慶の衰退のきっかけは、永禄4年(1561)に起こった弟・十河一存(そごうかずまさ)の急死でした。一存は軍事的に重要な立場にいたため、これは三好家にとって大きな事件だったといえるでしょう。死因は病気とも事故ともいわれますが、陰謀説もあるようです。 一存の死によって彼が治めていた和泉の支配が弱まると、その隙をついて晴元の次男・晴之を盟主とした畠山高政と六角義賢の攻撃が始まります。この戦いは翌年まで続き、さらには弟の一人である三好実休(じっきゅう)が戦死しました。 嫡男の病死が追い打ちをかける 短期間に2人の弟を亡くした長慶ですが、翌年の永禄6年(1563)8月には嫡男・義興が22歳の若さで早世します。そのため一存の息子・重存(義継)を養子に迎えますが、将来を嘱望していた義興を失ったことは長慶にとって大きなショックでした。 またその年の12月には名目上の主君・氏綱も病死し、三好家の政権維持に必要な形式的な管領も失ってしまいます。 安宅冬康を誅殺し、病が悪化! 永禄7年(1564)5月9日、長慶は弟・安宅冬康(あたぎふゆやす)を飯盛山城に呼び出し誅殺するという事件を起こします。これは家臣・松永久秀から「冬康が謀反を起こそうとしている」と知らされたからでしたが、後に久秀の讒言だったことが発覚します。 『足利季世記』によると、この頃の長慶は相次ぐ不幸により心身に異常をきたし、病にかかって思慮を失っていたといいます。冬康の死後はさらに容体が悪化し、最後は飯盛山城で病死しました。 長慶の人物像とは 猛々しく戦い、政権を握った長慶ですが、その功績とは反対に性格は穏やかだったようです。長慶の人物像とはどのようなものだったのでしょうか。 早熟の天才型だった? 長慶はわずか12歳で晴元と一向一揆の和睦を仲介しています。元服前の少年が交渉を取りまとめるのは誰でもできるようなことではありません。このことから早熟の天才肌だったといえそうです。 また長慶は、信長と同じように堺の経済力に注目しており、貿易によって莫大な軍事費や軍需品を入手していました。曽祖父の代から受け継いだ周辺諸国との関係や軍事力に加え、このような鋭い視点があったことが勢力拡大につながったのでしょう。 和睦を繰り返す寛大な性格 戦いを繰り返した長慶ですが、最後まで敵を追い詰めることはなく、和睦をはかる寛大な性格でした。晴元と将軍・義輝を破った際は追撃せず、弟から晴元の三宅城を落とそうと提案されたときも拒否しています。それどころか晴元が帰京する際は警護し、優位な立場にありながら和睦を希望しました。『足利季世記』によれば、長慶はかつての主君と和睦できたことに涙したそうです。 また長慶は晴元の長男・昭元を人質にしていましたが、彼を殺すことなく晴元と再会させています。 晩年は連歌を好んだ 長慶には文化人としての側面もありました。当時の武将の中でも高い教養を誇っていた彼は、たびたび連歌会を開いていたといいます。晩年の彼が勇猛さを失っていたのは、連歌に没頭していたからという見方もあるようです。 松永貞徳の随筆集『戴恩記(たいおんき)』によれば、当時は長慶のこのような一面をなじる者もいたのだとか。しかし長慶はこれに対し和歌で反論しています。 短期間で消滅した三好政権 信長よりも早く天下人になったといわれる長慶は、戦いと和睦を繰り返しながら勢力を拡大していきました。それは三好政権を成立させるほど強大でしたが、残念ながらその名前は信長や秀吉ほど知れ渡ることはありませんでした。そこには長慶の寛大な性格が関係していたのかもしれません。 長慶の栄華は弟の死をきっかけに崩れ始め、最後は心身ともに病に侵されるという結末を迎えています。最初の天下人といわれる長慶は、短くも濃い、波乱万丈な生涯を送ったといえるでしょう。
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、誰と手を組んで晴元に反旗を翻したか。
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、かつて敵だった細川氏綱・遊佐長教と手を組んで晴元に反旗を翻した。
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歴史
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、三好長慶である。 足利将軍を都から追放する 長慶は晴元に政長父子の討伐を願い出ましたが、その意見は受け入れられませんでした。そのため、長慶はかつて敵だった細川氏綱・遊佐長教と手を組んで晴元に反旗を翻します。これにより政長は討ち取られ、晴元らは将軍・足利義晴と義輝父子たちを連れて逃亡、都は将軍不在の状況に陥りました。 将軍を都から追放した長慶は、主君として氏綱を立て、晴元派の伊丹親興がいる伊丹城を開城させ摂津を平定します。こうして幕府の実権を掌握した彼は、畿内を中心に8か国を支配する大名にまで上り詰めたのです。これは事実上の三好政権の誕生でした。 松永久秀の謀略と長慶の最期 10歳で家督を継いでから怒涛の巻き返しをはかった長慶。最初の天下人という呼び名に相応しい活躍を見せた彼ですが、その状況は長くは続きませんでした。 十河一存の急死が引き金に 長慶の衰退のきっかけは、永禄4年(1561)に起こった弟・十河一存(そごうかずまさ)の急死でした。一存は軍事的に重要な立場にいたため、これは三好家にとって大きな事件だったといえるでしょう。死因は病気とも事故ともいわれますが、陰謀説もあるようです。 一存の死によって彼が治めていた和泉の支配が弱まると、その隙をついて晴元の次男・晴之を盟主とした畠山高政と六角義賢の攻撃が始まります。この戦いは翌年まで続き、さらには弟の一人である三好実休(じっきゅう)が戦死しました。 嫡男の病死が追い打ちをかける 短期間に2人の弟を亡くした長慶ですが、翌年の永禄6年(1563)8月には嫡男・義興が22歳の若さで早世します。そのため一存の息子・重存(義継)を養子に迎えますが、将来を嘱望していた義興を失ったことは長慶にとって大きなショックでした。 またその年の12月には名目上の主君・氏綱も病死し、三好家の政権維持に必要な形式的な管領も失ってしまいます。 安宅冬康を誅殺し、病が悪化! 永禄7年(1564)5月9日、長慶は弟・安宅冬康(あたぎふゆやす)を飯盛山城に呼び出し誅殺するという事件を起こします。これは家臣・松永久秀から「冬康が謀反を起こそうとしている」と知らされたからでしたが、後に久秀の讒言だったことが発覚します。 『足利季世記』によると、この頃の長慶は相次ぐ不幸により心身に異常をきたし、病にかかって思慮を失っていたといいます。冬康の死後はさらに容体が悪化し、最後は飯盛山城で病死しました。 長慶の人物像とは 猛々しく戦い、政権を握った長慶ですが、その功績とは反対に性格は穏やかだったようです。長慶の人物像とはどのようなものだったのでしょうか。 早熟の天才型だった? 長慶はわずか12歳で晴元と一向一揆の和睦を仲介しています。元服前の少年が交渉を取りまとめるのは誰でもできるようなことではありません。このことから早熟の天才肌だったといえそうです。 また長慶は、信長と同じように堺の経済力に注目しており、貿易によって莫大な軍事費や軍需品を入手していました。曽祖父の代から受け継いだ周辺諸国との関係や軍事力に加え、このような鋭い視点があったことが勢力拡大につながったのでしょう。 和睦を繰り返す寛大な性格 戦いを繰り返した長慶ですが、最後まで敵を追い詰めることはなく、和睦をはかる寛大な性格でした。晴元と将軍・義輝を破った際は追撃せず、弟から晴元の三宅城を落とそうと提案されたときも拒否しています。それどころか晴元が帰京する際は警護し、優位な立場にありながら和睦を希望しました。『足利季世記』によれば、長慶はかつての主君と和睦できたことに涙したそうです。 また長慶は晴元の長男・昭元を人質にしていましたが、彼を殺すことなく晴元と再会させています。 晩年は連歌を好んだ 長慶には文化人としての側面もありました。当時の武将の中でも高い教養を誇っていた彼は、たびたび連歌会を開いていたといいます。晩年の彼が勇猛さを失っていたのは、連歌に没頭していたからという見方もあるようです。 松永貞徳の随筆集『戴恩記(たいおんき)』によれば、当時は長慶のこのような一面をなじる者もいたのだとか。しかし長慶はこれに対し和歌で反論しています。 短期間で消滅した三好政権 信長よりも早く天下人になったといわれる長慶は、戦いと和睦を繰り返しながら勢力を拡大していきました。それは三好政権を成立させるほど強大でしたが、残念ながらその名前は信長や秀吉ほど知れ渡ることはありませんでした。そこには長慶の寛大な性格が関係していたのかもしれません。 長慶の栄華は弟の死をきっかけに崩れ始め、最後は心身ともに病に侵されるという結末を迎えています。最初の天下人といわれる長慶は、短くも濃い、波乱万丈な生涯を送ったといえるでしょう。
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、何歳で晴元と一向一揆の和睦を仲介したか。
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、わずか12歳で晴元と一向一揆の和睦を仲介した。
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歴史
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、三好長慶である。 足利将軍を都から追放する 長慶は晴元に政長父子の討伐を願い出ましたが、その意見は受け入れられませんでした。そのため、長慶はかつて敵だった細川氏綱・遊佐長教と手を組んで晴元に反旗を翻します。これにより政長は討ち取られ、晴元らは将軍・足利義晴と義輝父子たちを連れて逃亡、都は将軍不在の状況に陥りました。 将軍を都から追放した長慶は、主君として氏綱を立て、晴元派の伊丹親興がいる伊丹城を開城させ摂津を平定します。こうして幕府の実権を掌握した彼は、畿内を中心に8か国を支配する大名にまで上り詰めたのです。これは事実上の三好政権の誕生でした。 松永久秀の謀略と長慶の最期 10歳で家督を継いでから怒涛の巻き返しをはかった長慶。最初の天下人という呼び名に相応しい活躍を見せた彼ですが、その状況は長くは続きませんでした。 十河一存の急死が引き金に 長慶の衰退のきっかけは、永禄4年(1561)に起こった弟・十河一存(そごうかずまさ)の急死でした。一存は軍事的に重要な立場にいたため、これは三好家にとって大きな事件だったといえるでしょう。死因は病気とも事故ともいわれますが、陰謀説もあるようです。 一存の死によって彼が治めていた和泉の支配が弱まると、その隙をついて晴元の次男・晴之を盟主とした畠山高政と六角義賢の攻撃が始まります。この戦いは翌年まで続き、さらには弟の一人である三好実休(じっきゅう)が戦死しました。 嫡男の病死が追い打ちをかける 短期間に2人の弟を亡くした長慶ですが、翌年の永禄6年(1563)8月には嫡男・義興が22歳の若さで早世します。そのため一存の息子・重存(義継)を養子に迎えますが、将来を嘱望していた義興を失ったことは長慶にとって大きなショックでした。 またその年の12月には名目上の主君・氏綱も病死し、三好家の政権維持に必要な形式的な管領も失ってしまいます。 安宅冬康を誅殺し、病が悪化! 永禄7年(1564)5月9日、長慶は弟・安宅冬康(あたぎふゆやす)を飯盛山城に呼び出し誅殺するという事件を起こします。これは家臣・松永久秀から「冬康が謀反を起こそうとしている」と知らされたからでしたが、後に久秀の讒言だったことが発覚します。 『足利季世記』によると、この頃の長慶は相次ぐ不幸により心身に異常をきたし、病にかかって思慮を失っていたといいます。冬康の死後はさらに容体が悪化し、最後は飯盛山城で病死しました。 長慶の人物像とは 猛々しく戦い、政権を握った長慶ですが、その功績とは反対に性格は穏やかだったようです。長慶の人物像とはどのようなものだったのでしょうか。 早熟の天才型だった? 長慶はわずか12歳で晴元と一向一揆の和睦を仲介しています。元服前の少年が交渉を取りまとめるのは誰でもできるようなことではありません。このことから早熟の天才肌だったといえそうです。 また長慶は、信長と同じように堺の経済力に注目しており、貿易によって莫大な軍事費や軍需品を入手していました。曽祖父の代から受け継いだ周辺諸国との関係や軍事力に加え、このような鋭い視点があったことが勢力拡大につながったのでしょう。 和睦を繰り返す寛大な性格 戦いを繰り返した長慶ですが、最後まで敵を追い詰めることはなく、和睦をはかる寛大な性格でした。晴元と将軍・義輝を破った際は追撃せず、弟から晴元の三宅城を落とそうと提案されたときも拒否しています。それどころか晴元が帰京する際は警護し、優位な立場にありながら和睦を希望しました。『足利季世記』によれば、長慶はかつての主君と和睦できたことに涙したそうです。 また長慶は晴元の長男・昭元を人質にしていましたが、彼を殺すことなく晴元と再会させています。 晩年は連歌を好んだ 長慶には文化人としての側面もありました。当時の武将の中でも高い教養を誇っていた彼は、たびたび連歌会を開いていたといいます。晩年の彼が勇猛さを失っていたのは、連歌に没頭していたからという見方もあるようです。 松永貞徳の随筆集『戴恩記(たいおんき)』によれば、当時は長慶のこのような一面をなじる者もいたのだとか。しかし長慶はこれに対し和歌で反論しています。 短期間で消滅した三好政権 信長よりも早く天下人になったといわれる長慶は、戦いと和睦を繰り返しながら勢力を拡大していきました。それは三好政権を成立させるほど強大でしたが、残念ながらその名前は信長や秀吉ほど知れ渡ることはありませんでした。そこには長慶の寛大な性格が関係していたのかもしれません。 長慶の栄華は弟の死をきっかけに崩れ始め、最後は心身ともに病に侵されるという結末を迎えています。最初の天下人といわれる長慶は、短くも濃い、波乱万丈な生涯を送ったといえるでしょう。
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、信長と同じように堺の経済力に注目しており、貿易によって何を入手したか。
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、信長と同じように堺の経済力に注目しており、貿易によって莫大な軍事費や軍需品を入手した。
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歴史
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、三好長慶である。 足利将軍を都から追放する 長慶は晴元に政長父子の討伐を願い出ましたが、その意見は受け入れられませんでした。そのため、長慶はかつて敵だった細川氏綱・遊佐長教と手を組んで晴元に反旗を翻します。これにより政長は討ち取られ、晴元らは将軍・足利義晴と義輝父子たちを連れて逃亡、都は将軍不在の状況に陥りました。 将軍を都から追放した長慶は、主君として氏綱を立て、晴元派の伊丹親興がいる伊丹城を開城させ摂津を平定します。こうして幕府の実権を掌握した彼は、畿内を中心に8か国を支配する大名にまで上り詰めたのです。これは事実上の三好政権の誕生でした。 松永久秀の謀略と長慶の最期 10歳で家督を継いでから怒涛の巻き返しをはかった長慶。最初の天下人という呼び名に相応しい活躍を見せた彼ですが、その状況は長くは続きませんでした。 十河一存の急死が引き金に 長慶の衰退のきっかけは、永禄4年(1561)に起こった弟・十河一存(そごうかずまさ)の急死でした。一存は軍事的に重要な立場にいたため、これは三好家にとって大きな事件だったといえるでしょう。死因は病気とも事故ともいわれますが、陰謀説もあるようです。 一存の死によって彼が治めていた和泉の支配が弱まると、その隙をついて晴元の次男・晴之を盟主とした畠山高政と六角義賢の攻撃が始まります。この戦いは翌年まで続き、さらには弟の一人である三好実休(じっきゅう)が戦死しました。 嫡男の病死が追い打ちをかける 短期間に2人の弟を亡くした長慶ですが、翌年の永禄6年(1563)8月には嫡男・義興が22歳の若さで早世します。そのため一存の息子・重存(義継)を養子に迎えますが、将来を嘱望していた義興を失ったことは長慶にとって大きなショックでした。 またその年の12月には名目上の主君・氏綱も病死し、三好家の政権維持に必要な形式的な管領も失ってしまいます。 安宅冬康を誅殺し、病が悪化! 永禄7年(1564)5月9日、長慶は弟・安宅冬康(あたぎふゆやす)を飯盛山城に呼び出し誅殺するという事件を起こします。これは家臣・松永久秀から「冬康が謀反を起こそうとしている」と知らされたからでしたが、後に久秀の讒言だったことが発覚します。 『足利季世記』によると、この頃の長慶は相次ぐ不幸により心身に異常をきたし、病にかかって思慮を失っていたといいます。冬康の死後はさらに容体が悪化し、最後は飯盛山城で病死しました。 長慶の人物像とは 猛々しく戦い、政権を握った長慶ですが、その功績とは反対に性格は穏やかだったようです。長慶の人物像とはどのようなものだったのでしょうか。 早熟の天才型だった? 長慶はわずか12歳で晴元と一向一揆の和睦を仲介しています。元服前の少年が交渉を取りまとめるのは誰でもできるようなことではありません。このことから早熟の天才肌だったといえそうです。 また長慶は、信長と同じように堺の経済力に注目しており、貿易によって莫大な軍事費や軍需品を入手していました。曽祖父の代から受け継いだ周辺諸国との関係や軍事力に加え、このような鋭い視点があったことが勢力拡大につながったのでしょう。 和睦を繰り返す寛大な性格 戦いを繰り返した長慶ですが、最後まで敵を追い詰めることはなく、和睦をはかる寛大な性格でした。晴元と将軍・義輝を破った際は追撃せず、弟から晴元の三宅城を落とそうと提案されたときも拒否しています。それどころか晴元が帰京する際は警護し、優位な立場にありながら和睦を希望しました。『足利季世記』によれば、長慶はかつての主君と和睦できたことに涙したそうです。 また長慶は晴元の長男・昭元を人質にしていましたが、彼を殺すことなく晴元と再会させています。 晩年は連歌を好んだ 長慶には文化人としての側面もありました。当時の武将の中でも高い教養を誇っていた彼は、たびたび連歌会を開いていたといいます。晩年の彼が勇猛さを失っていたのは、連歌に没頭していたからという見方もあるようです。 松永貞徳の随筆集『戴恩記(たいおんき)』によれば、当時は長慶のこのような一面をなじる者もいたのだとか。しかし長慶はこれに対し和歌で反論しています。 短期間で消滅した三好政権 信長よりも早く天下人になったといわれる長慶は、戦いと和睦を繰り返しながら勢力を拡大していきました。それは三好政権を成立させるほど強大でしたが、残念ながらその名前は信長や秀吉ほど知れ渡ることはありませんでした。そこには長慶の寛大な性格が関係していたのかもしれません。 長慶の栄華は弟の死をきっかけに崩れ始め、最後は心身ともに病に侵されるという結末を迎えています。最初の天下人といわれる長慶は、短くも濃い、波乱万丈な生涯を送ったといえるでしょう。
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、相次ぐ不幸により心身に異常をきたし、何を失っていたか。
戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、相次ぐ不幸により心身に異常をきたし、病にかかって思慮を失っていた。
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歴史
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、竹中半兵衛である。 竹中半兵衛の生い立ち 半兵衛は10代前半から合戦に身を投じ、若くして家督を継ぎました。秀吉に仕えるようになるまで、どのような人生を送っていたのでしょうか。 長良川の戦いで初陣 半兵衛は、天文13年(1544)美濃斎藤氏の家臣で竹中重元(しげちか/しげもと)の子として大御堂城で生まれました。弟に竹中重矩(しげのり)、従弟に府内藩の初代藩主・竹中重利などがいます。 弘治2年(1556)、斎藤道三(どうさん)とその嫡男・義龍による「長良川の戦い」が勃発すると、道三側に味方をして初陣を果たします。このとき父が不在だったため、代理で大将を務め籠城戦を乗り切ったといいます。この頃から天才軍師としての片りんをのぞかせていたのかもしれません。 斎藤龍興に仕える 永禄3年(1560)に家督を相続した半兵衛は義龍に仕え、のちにはその子・斎藤龍興(さいとうたつおき)に仕えます。その当時、尾張国・織田信長による美濃侵攻は激しさを増しており、若い龍興が当主になってからは攻防が難しくなっていました。それでも半兵衛の戦略で斎藤軍は勝利しましたが、龍興は酒や女性に溺れ、一部の側近のみ寵愛(ちょうあい)して半兵衛や有力家臣の美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)を避けたのです。そのため半兵衛らは、龍興の居城・稲葉山城(後の岐阜城)を襲撃します。 約半年後、稲葉山城は龍興に返還されましたが、永禄10年(1567)、信長の侵攻で再び陥落。半兵衛は斎藤家を後にして北近江国・浅井長政の客分(一時的な家来)となりますが、約1年で禄を辞退して旧領に帰りました。 半兵衛の経歴と功績について 若い頃から頭角を現していた半兵衛ですが、斎藤氏や浅井氏のもとを去ってからは浪人として暮らします。しかしその後、後世まで語り継がれるような経歴や功績が生み出されるのです。
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、いつ生まれたか。
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、天文13年(1544)に生まれた。
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歴史
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、竹中半兵衛である。 竹中半兵衛の生い立ち 半兵衛は10代前半から合戦に身を投じ、若くして家督を継ぎました。秀吉に仕えるようになるまで、どのような人生を送っていたのでしょうか。 長良川の戦いで初陣 半兵衛は、天文13年(1544)美濃斎藤氏の家臣で竹中重元(しげちか/しげもと)の子として大御堂城で生まれました。弟に竹中重矩(しげのり)、従弟に府内藩の初代藩主・竹中重利などがいます。 弘治2年(1556)、斎藤道三(どうさん)とその嫡男・義龍による「長良川の戦い」が勃発すると、道三側に味方をして初陣を果たします。このとき父が不在だったため、代理で大将を務め籠城戦を乗り切ったといいます。この頃から天才軍師としての片りんをのぞかせていたのかもしれません。 斎藤龍興に仕える 永禄3年(1560)に家督を相続した半兵衛は義龍に仕え、のちにはその子・斎藤龍興(さいとうたつおき)に仕えます。その当時、尾張国・織田信長による美濃侵攻は激しさを増しており、若い龍興が当主になってからは攻防が難しくなっていました。それでも半兵衛の戦略で斎藤軍は勝利しましたが、龍興は酒や女性に溺れ、一部の側近のみ寵愛(ちょうあい)して半兵衛や有力家臣の美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)を避けたのです。そのため半兵衛らは、龍興の居城・稲葉山城(後の岐阜城)を襲撃します。 約半年後、稲葉山城は龍興に返還されましたが、永禄10年(1567)、信長の侵攻で再び陥落。半兵衛は斎藤家を後にして北近江国・浅井長政の客分(一時的な家来)となりますが、約1年で禄を辞退して旧領に帰りました。 半兵衛の経歴と功績について 若い頃から頭角を現していた半兵衛ですが、斎藤氏や浅井氏のもとを去ってからは浪人として暮らします。しかしその後、後世まで語り継がれるような経歴や功績が生み出されるのです。
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、誰の子として生まれたか。
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、美濃斎藤氏の家臣で竹中重元(しげちか/しげもと)の子として生まれた。
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歴史
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、竹中半兵衛である。 竹中半兵衛の生い立ち 半兵衛は10代前半から合戦に身を投じ、若くして家督を継ぎました。秀吉に仕えるようになるまで、どのような人生を送っていたのでしょうか。 長良川の戦いで初陣 半兵衛は、天文13年(1544)美濃斎藤氏の家臣で竹中重元(しげちか/しげもと)の子として大御堂城で生まれました。弟に竹中重矩(しげのり)、従弟に府内藩の初代藩主・竹中重利などがいます。 弘治2年(1556)、斎藤道三(どうさん)とその嫡男・義龍による「長良川の戦い」が勃発すると、道三側に味方をして初陣を果たします。このとき父が不在だったため、代理で大将を務め籠城戦を乗り切ったといいます。この頃から天才軍師としての片りんをのぞかせていたのかもしれません。 斎藤龍興に仕える 永禄3年(1560)に家督を相続した半兵衛は義龍に仕え、のちにはその子・斎藤龍興(さいとうたつおき)に仕えます。その当時、尾張国・織田信長による美濃侵攻は激しさを増しており、若い龍興が当主になってからは攻防が難しくなっていました。それでも半兵衛の戦略で斎藤軍は勝利しましたが、龍興は酒や女性に溺れ、一部の側近のみ寵愛(ちょうあい)して半兵衛や有力家臣の美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)を避けたのです。そのため半兵衛らは、龍興の居城・稲葉山城(後の岐阜城)を襲撃します。 約半年後、稲葉山城は龍興に返還されましたが、永禄10年(1567)、信長の侵攻で再び陥落。半兵衛は斎藤家を後にして北近江国・浅井長政の客分(一時的な家来)となりますが、約1年で禄を辞退して旧領に帰りました。 半兵衛の経歴と功績について 若い頃から頭角を現していた半兵衛ですが、斎藤氏や浅井氏のもとを去ってからは浪人として暮らします。しかしその後、後世まで語り継がれるような経歴や功績が生み出されるのです。
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、どこで生まれたか。
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、大御堂城で生まれた。
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黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、竹中半兵衛である。 竹中半兵衛の生い立ち 半兵衛は10代前半から合戦に身を投じ、若くして家督を継ぎました。秀吉に仕えるようになるまで、どのような人生を送っていたのでしょうか。 長良川の戦いで初陣 半兵衛は、天文13年(1544)美濃斎藤氏の家臣で竹中重元(しげちか/しげもと)の子として大御堂城で生まれました。弟に竹中重矩(しげのり)、従弟に府内藩の初代藩主・竹中重利などがいます。 弘治2年(1556)、斎藤道三(どうさん)とその嫡男・義龍による「長良川の戦い」が勃発すると、道三側に味方をして初陣を果たします。このとき父が不在だったため、代理で大将を務め籠城戦を乗り切ったといいます。この頃から天才軍師としての片りんをのぞかせていたのかもしれません。 斎藤龍興に仕える 永禄3年(1560)に家督を相続した半兵衛は義龍に仕え、のちにはその子・斎藤龍興(さいとうたつおき)に仕えます。その当時、尾張国・織田信長による美濃侵攻は激しさを増しており、若い龍興が当主になってからは攻防が難しくなっていました。それでも半兵衛の戦略で斎藤軍は勝利しましたが、龍興は酒や女性に溺れ、一部の側近のみ寵愛(ちょうあい)して半兵衛や有力家臣の美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)を避けたのです。そのため半兵衛らは、龍興の居城・稲葉山城(後の岐阜城)を襲撃します。 約半年後、稲葉山城は龍興に返還されましたが、永禄10年(1567)、信長の侵攻で再び陥落。半兵衛は斎藤家を後にして北近江国・浅井長政の客分(一時的な家来)となりますが、約1年で禄を辞退して旧領に帰りました。 半兵衛の経歴と功績について 若い頃から頭角を現していた半兵衛ですが、斎藤氏や浅井氏のもとを去ってからは浪人として暮らします。しかしその後、後世まで語り継がれるような経歴や功績が生み出されるのです。
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、誰に仕えたか。
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、義龍に仕え、のちにはその子・斎藤龍興に仕えた。
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歴史
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、竹中半兵衛である。 竹中半兵衛の生い立ち 半兵衛は10代前半から合戦に身を投じ、若くして家督を継ぎました。秀吉に仕えるようになるまで、どのような人生を送っていたのでしょうか。 長良川の戦いで初陣 半兵衛は、天文13年(1544)美濃斎藤氏の家臣で竹中重元(しげちか/しげもと)の子として大御堂城で生まれました。弟に竹中重矩(しげのり)、従弟に府内藩の初代藩主・竹中重利などがいます。 弘治2年(1556)、斎藤道三(どうさん)とその嫡男・義龍による「長良川の戦い」が勃発すると、道三側に味方をして初陣を果たします。このとき父が不在だったため、代理で大将を務め籠城戦を乗り切ったといいます。この頃から天才軍師としての片りんをのぞかせていたのかもしれません。 斎藤龍興に仕える 永禄3年(1560)に家督を相続した半兵衛は義龍に仕え、のちにはその子・斎藤龍興(さいとうたつおき)に仕えます。その当時、尾張国・織田信長による美濃侵攻は激しさを増しており、若い龍興が当主になってからは攻防が難しくなっていました。それでも半兵衛の戦略で斎藤軍は勝利しましたが、龍興は酒や女性に溺れ、一部の側近のみ寵愛(ちょうあい)して半兵衛や有力家臣の美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)を避けたのです。そのため半兵衛らは、龍興の居城・稲葉山城(後の岐阜城)を襲撃します。 約半年後、稲葉山城は龍興に返還されましたが、永禄10年(1567)、信長の侵攻で再び陥落。半兵衛は斎藤家を後にして北近江国・浅井長政の客分(一時的な家来)となりますが、約1年で禄を辞退して旧領に帰りました。 半兵衛の経歴と功績について 若い頃から頭角を現していた半兵衛ですが、斎藤氏や浅井氏のもとを去ってからは浪人として暮らします。しかしその後、後世まで語り継がれるような経歴や功績が生み出されるのです。
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、斎藤家を後にして誰の客分となったか。
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、斎藤家を後にして北近江国・浅井長政の客分となった。
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歴史
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、竹中半兵衛である。 三顧の礼で秀吉のもとへ かつて敵対関係にあった信長ですが、半兵衛を家臣にしたいと考えていました。勧誘を命じられた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、「三顧の礼」で半兵衛を味方に引き入れます。 「三顧の礼」とは目上の人間が格下の者のもとに三度出向いてお願いをすることで、中国の『三国志演義』において劉備が諸葛亮を味方にしたことに由来します。諸葛亮は歴史に名を刻む名軍師ですが、半兵衛もそれほど能力を買われていたのでしょう。 調略活動で活躍した 信長の影響が強まると、反信長勢力による「信長包囲網」が敷かれるようになります。これにより、かつての主君・浅井長政と敵対すると、半兵衛は浅井家臣団との人脈を生かして調略を行いました。浅井氏の長亭軒城や長比城を織田側に寝返らせるなど、見事な活躍をみせています。 その後の「姉川の戦い」にも参加しており、この頃、信長の直臣から秀吉の与力になったと考えられています。 中国攻めに参加する 天正5年(1577)、信長は毛利輝元が治める山陰・山陽地方への侵攻「中国攻め」を開始します。この総大将に任命されたのが秀吉で、半兵衛もこれに従い中国遠征に参加しました。 半兵衛はここでも調略活動で活躍し、宇喜多氏の備前八幡山城を落城させます。これを京都の信長に報告すると、称賛されるとともに100両を授けられたそうです。 有岡城の戦いと黒田官兵衛 天正6年(1578)7月、秀吉軍に加わっていた荒木村重が信長に反旗を翻し「有岡城の戦い」が勃発。秀吉は、村重と旧知の仲である黒田官兵衛を派遣し説得させようと試みますが、官兵衛はそのまま城に監禁されてしまいます。官兵衛が村重に加担したと思い込んだ信長は、秀吉に官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を命じました。 半兵衛はここでも一計を案じ、信長には偽者の首を提出し、松寿丸の命を助けるよう提案します。これにより松寿丸は助かり、家臣・不破矢足の屋敷にかくまわれました。のちに救出された官兵衛は、これに心から感謝したそうです。 半兵衛にまつわる逸話 さまざまな活躍を遂げた半兵衛ですが、史実としての実像は不明瞭といわれています。現在語り継がれている逸話には、どのようなものがあるのでしょうか。 天才軍師や美談は?その真相 半兵衛の活躍は、嫡子・竹中重門によって著された『豊鑑』や、『武功夜話』『太閤記』などに描かれています。江戸時代には官兵衛とともに講談で描かれ、天才軍師のイメージが定着しました。 しかし『信長公記』(しんちょうこうき)には記述が少なく、残されている資料がわずかなため、実態は明らかではありません。一次史料には秀吉の正式な家臣であったという証拠がなく、織田家から秀吉に付けられた与力武将の一人という見方が強いようです。 竹中家譜で語られる半兵衛 竹中一族の系図『竹中家譜』には、「長篠の戦い」でのエピソードが残されています。 戦いの最中、武田勢の一部が左側に移動したため、横から襲われるのではと焦った秀吉は迎撃しようと兵を動かしました。しかし半兵衛はこれを陽動作戦だと捉え、その場を離れなかったといいます。この読みは見事当たりました。 また、半兵衛は天正7年(1579)、中国攻めの最中に病死しますが、秀吉から京での養生を勧められたものの「陣中で死ぬのが武士の本望だ」と断ったそうです。そんな半兵衛が最期に秀吉に授けた兵糧攻め作戦は、その後の秀吉の戦いにも勝利をもたらしています。 太閤記で描かれるイメージ 『太閤記』や『常山紀談』によると、半兵衛は体が弱く、女性のような痩身(そうしん)で、出陣の際も静かに馬に乗るだけだったそうです。そのため斎藤氏時代は、主君・龍興や家臣たちに甘く見られ、龍興の寵臣(ちょうしん)・斎藤飛騨守からは小便を顔にかけられるといった侮辱まで受けました。 この数日後、半兵衛は武具を隠し持って稲葉山城に入城し、宿直部屋にいた飛騨守を斬殺して城を乗っ取ったといわれています。 天才軍師の生き様 半兵衛は現代でも天才軍師として人気がある戦国武将です。さまざまな逸話が残されていますが、史料が少ないため、その活躍や美談は後世の創作という見方もあります。 講談で人気が高い人物はほかにもいますが、いずれにしても語るにふさわしい人物ばかりです。主君への下克上、浪人から軍師への転身など、一筋縄ではいかない人生を歩んだ半兵衛。彼は人々に語られるに十分な、魅力あふれる人物だったといえるでしょう。
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、いつ病死したか。
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、天正7年(1579)、中国攻めの最中に病死した。
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歴史
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、竹中半兵衛である。 三顧の礼で秀吉のもとへ かつて敵対関係にあった信長ですが、半兵衛を家臣にしたいと考えていました。勧誘を命じられた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、「三顧の礼」で半兵衛を味方に引き入れます。 「三顧の礼」とは目上の人間が格下の者のもとに三度出向いてお願いをすることで、中国の『三国志演義』において劉備が諸葛亮を味方にしたことに由来します。諸葛亮は歴史に名を刻む名軍師ですが、半兵衛もそれほど能力を買われていたのでしょう。 調略活動で活躍した 信長の影響が強まると、反信長勢力による「信長包囲網」が敷かれるようになります。これにより、かつての主君・浅井長政と敵対すると、半兵衛は浅井家臣団との人脈を生かして調略を行いました。浅井氏の長亭軒城や長比城を織田側に寝返らせるなど、見事な活躍をみせています。 その後の「姉川の戦い」にも参加しており、この頃、信長の直臣から秀吉の与力になったと考えられています。 中国攻めに参加する 天正5年(1577)、信長は毛利輝元が治める山陰・山陽地方への侵攻「中国攻め」を開始します。この総大将に任命されたのが秀吉で、半兵衛もこれに従い中国遠征に参加しました。 半兵衛はここでも調略活動で活躍し、宇喜多氏の備前八幡山城を落城させます。これを京都の信長に報告すると、称賛されるとともに100両を授けられたそうです。 有岡城の戦いと黒田官兵衛 天正6年(1578)7月、秀吉軍に加わっていた荒木村重が信長に反旗を翻し「有岡城の戦い」が勃発。秀吉は、村重と旧知の仲である黒田官兵衛を派遣し説得させようと試みますが、官兵衛はそのまま城に監禁されてしまいます。官兵衛が村重に加担したと思い込んだ信長は、秀吉に官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を命じました。 半兵衛はここでも一計を案じ、信長には偽者の首を提出し、松寿丸の命を助けるよう提案します。これにより松寿丸は助かり、家臣・不破矢足の屋敷にかくまわれました。のちに救出された官兵衛は、これに心から感謝したそうです。 半兵衛にまつわる逸話 さまざまな活躍を遂げた半兵衛ですが、史実としての実像は不明瞭といわれています。現在語り継がれている逸話には、どのようなものがあるのでしょうか。 天才軍師や美談は?その真相 半兵衛の活躍は、嫡子・竹中重門によって著された『豊鑑』や、『武功夜話』『太閤記』などに描かれています。江戸時代には官兵衛とともに講談で描かれ、天才軍師のイメージが定着しました。 しかし『信長公記』(しんちょうこうき)には記述が少なく、残されている資料がわずかなため、実態は明らかではありません。一次史料には秀吉の正式な家臣であったという証拠がなく、織田家から秀吉に付けられた与力武将の一人という見方が強いようです。 竹中家譜で語られる半兵衛 竹中一族の系図『竹中家譜』には、「長篠の戦い」でのエピソードが残されています。 戦いの最中、武田勢の一部が左側に移動したため、横から襲われるのではと焦った秀吉は迎撃しようと兵を動かしました。しかし半兵衛はこれを陽動作戦だと捉え、その場を離れなかったといいます。この読みは見事当たりました。 また、半兵衛は天正7年(1579)、中国攻めの最中に病死しますが、秀吉から京での養生を勧められたものの「陣中で死ぬのが武士の本望だ」と断ったそうです。そんな半兵衛が最期に秀吉に授けた兵糧攻め作戦は、その後の秀吉の戦いにも勝利をもたらしています。 太閤記で描かれるイメージ 『太閤記』や『常山紀談』によると、半兵衛は体が弱く、女性のような痩身(そうしん)で、出陣の際も静かに馬に乗るだけだったそうです。そのため斎藤氏時代は、主君・龍興や家臣たちに甘く見られ、龍興の寵臣(ちょうしん)・斎藤飛騨守からは小便を顔にかけられるといった侮辱まで受けました。 この数日後、半兵衛は武具を隠し持って稲葉山城に入城し、宿直部屋にいた飛騨守を斬殺して城を乗っ取ったといわれています。 天才軍師の生き様 半兵衛は現代でも天才軍師として人気がある戦国武将です。さまざまな逸話が残されていますが、史料が少ないため、その活躍や美談は後世の創作という見方もあります。 講談で人気が高い人物はほかにもいますが、いずれにしても語るにふさわしい人物ばかりです。主君への下克上、浪人から軍師への転身など、一筋縄ではいかない人生を歩んだ半兵衛。彼は人々に語られるに十分な、魅力あふれる人物だったといえるでしょう。
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、天正7年(1579)秀吉から京での養生を勧められたものの何と断ったか。
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、天正7年(1579)秀吉から京での養生を勧められたものの「陣中で死ぬのが武士の本望だ」と断った。
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黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、竹中半兵衛である。 三顧の礼で秀吉のもとへ かつて敵対関係にあった信長ですが、半兵衛を家臣にしたいと考えていました。勧誘を命じられた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、「三顧の礼」で半兵衛を味方に引き入れます。 「三顧の礼」とは目上の人間が格下の者のもとに三度出向いてお願いをすることで、中国の『三国志演義』において劉備が諸葛亮を味方にしたことに由来します。諸葛亮は歴史に名を刻む名軍師ですが、半兵衛もそれほど能力を買われていたのでしょう。 調略活動で活躍した 信長の影響が強まると、反信長勢力による「信長包囲網」が敷かれるようになります。これにより、かつての主君・浅井長政と敵対すると、半兵衛は浅井家臣団との人脈を生かして調略を行いました。浅井氏の長亭軒城や長比城を織田側に寝返らせるなど、見事な活躍をみせています。 その後の「姉川の戦い」にも参加しており、この頃、信長の直臣から秀吉の与力になったと考えられています。 中国攻めに参加する 天正5年(1577)、信長は毛利輝元が治める山陰・山陽地方への侵攻「中国攻め」を開始します。この総大将に任命されたのが秀吉で、半兵衛もこれに従い中国遠征に参加しました。 半兵衛はここでも調略活動で活躍し、宇喜多氏の備前八幡山城を落城させます。これを京都の信長に報告すると、称賛されるとともに100両を授けられたそうです。 有岡城の戦いと黒田官兵衛 天正6年(1578)7月、秀吉軍に加わっていた荒木村重が信長に反旗を翻し「有岡城の戦い」が勃発。秀吉は、村重と旧知の仲である黒田官兵衛を派遣し説得させようと試みますが、官兵衛はそのまま城に監禁されてしまいます。官兵衛が村重に加担したと思い込んだ信長は、秀吉に官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を命じました。 半兵衛はここでも一計を案じ、信長には偽者の首を提出し、松寿丸の命を助けるよう提案します。これにより松寿丸は助かり、家臣・不破矢足の屋敷にかくまわれました。のちに救出された官兵衛は、これに心から感謝したそうです。 半兵衛にまつわる逸話 さまざまな活躍を遂げた半兵衛ですが、史実としての実像は不明瞭といわれています。現在語り継がれている逸話には、どのようなものがあるのでしょうか。 天才軍師や美談は?その真相 半兵衛の活躍は、嫡子・竹中重門によって著された『豊鑑』や、『武功夜話』『太閤記』などに描かれています。江戸時代には官兵衛とともに講談で描かれ、天才軍師のイメージが定着しました。 しかし『信長公記』(しんちょうこうき)には記述が少なく、残されている資料がわずかなため、実態は明らかではありません。一次史料には秀吉の正式な家臣であったという証拠がなく、織田家から秀吉に付けられた与力武将の一人という見方が強いようです。 竹中家譜で語られる半兵衛 竹中一族の系図『竹中家譜』には、「長篠の戦い」でのエピソードが残されています。 戦いの最中、武田勢の一部が左側に移動したため、横から襲われるのではと焦った秀吉は迎撃しようと兵を動かしました。しかし半兵衛はこれを陽動作戦だと捉え、その場を離れなかったといいます。この読みは見事当たりました。 また、半兵衛は天正7年(1579)、中国攻めの最中に病死しますが、秀吉から京での養生を勧められたものの「陣中で死ぬのが武士の本望だ」と断ったそうです。そんな半兵衛が最期に秀吉に授けた兵糧攻め作戦は、その後の秀吉の戦いにも勝利をもたらしています。 太閤記で描かれるイメージ 『太閤記』や『常山紀談』によると、半兵衛は体が弱く、女性のような痩身(そうしん)で、出陣の際も静かに馬に乗るだけだったそうです。そのため斎藤氏時代は、主君・龍興や家臣たちに甘く見られ、龍興の寵臣(ちょうしん)・斎藤飛騨守からは小便を顔にかけられるといった侮辱まで受けました。 この数日後、半兵衛は武具を隠し持って稲葉山城に入城し、宿直部屋にいた飛騨守を斬殺して城を乗っ取ったといわれています。 天才軍師の生き様 半兵衛は現代でも天才軍師として人気がある戦国武将です。さまざまな逸話が残されていますが、史料が少ないため、その活躍や美談は後世の創作という見方もあります。 講談で人気が高い人物はほかにもいますが、いずれにしても語るにふさわしい人物ばかりです。主君への下克上、浪人から軍師への転身など、一筋縄ではいかない人生を歩んだ半兵衛。彼は人々に語られるに十分な、魅力あふれる人物だったといえるでしょう。
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、どのような体型で、出陣の際も静かに馬に乗るだけだったか。
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、体が弱く、女性のような痩身で、出陣の際も静かに馬に乗るだけだった。
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歴史
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、竹中半兵衛である。 三顧の礼で秀吉のもとへ かつて敵対関係にあった信長ですが、半兵衛を家臣にしたいと考えていました。勧誘を命じられた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、「三顧の礼」で半兵衛を味方に引き入れます。 「三顧の礼」とは目上の人間が格下の者のもとに三度出向いてお願いをすることで、中国の『三国志演義』において劉備が諸葛亮を味方にしたことに由来します。諸葛亮は歴史に名を刻む名軍師ですが、半兵衛もそれほど能力を買われていたのでしょう。 調略活動で活躍した 信長の影響が強まると、反信長勢力による「信長包囲網」が敷かれるようになります。これにより、かつての主君・浅井長政と敵対すると、半兵衛は浅井家臣団との人脈を生かして調略を行いました。浅井氏の長亭軒城や長比城を織田側に寝返らせるなど、見事な活躍をみせています。 その後の「姉川の戦い」にも参加しており、この頃、信長の直臣から秀吉の与力になったと考えられています。 中国攻めに参加する 天正5年(1577)、信長は毛利輝元が治める山陰・山陽地方への侵攻「中国攻め」を開始します。この総大将に任命されたのが秀吉で、半兵衛もこれに従い中国遠征に参加しました。 半兵衛はここでも調略活動で活躍し、宇喜多氏の備前八幡山城を落城させます。これを京都の信長に報告すると、称賛されるとともに100両を授けられたそうです。 有岡城の戦いと黒田官兵衛 天正6年(1578)7月、秀吉軍に加わっていた荒木村重が信長に反旗を翻し「有岡城の戦い」が勃発。秀吉は、村重と旧知の仲である黒田官兵衛を派遣し説得させようと試みますが、官兵衛はそのまま城に監禁されてしまいます。官兵衛が村重に加担したと思い込んだ信長は、秀吉に官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を命じました。 半兵衛はここでも一計を案じ、信長には偽者の首を提出し、松寿丸の命を助けるよう提案します。これにより松寿丸は助かり、家臣・不破矢足の屋敷にかくまわれました。のちに救出された官兵衛は、これに心から感謝したそうです。 半兵衛にまつわる逸話 さまざまな活躍を遂げた半兵衛ですが、史実としての実像は不明瞭といわれています。現在語り継がれている逸話には、どのようなものがあるのでしょうか。 天才軍師や美談は?その真相 半兵衛の活躍は、嫡子・竹中重門によって著された『豊鑑』や、『武功夜話』『太閤記』などに描かれています。江戸時代には官兵衛とともに講談で描かれ、天才軍師のイメージが定着しました。 しかし『信長公記』(しんちょうこうき)には記述が少なく、残されている資料がわずかなため、実態は明らかではありません。一次史料には秀吉の正式な家臣であったという証拠がなく、織田家から秀吉に付けられた与力武将の一人という見方が強いようです。 竹中家譜で語られる半兵衛 竹中一族の系図『竹中家譜』には、「長篠の戦い」でのエピソードが残されています。 戦いの最中、武田勢の一部が左側に移動したため、横から襲われるのではと焦った秀吉は迎撃しようと兵を動かしました。しかし半兵衛はこれを陽動作戦だと捉え、その場を離れなかったといいます。この読みは見事当たりました。 また、半兵衛は天正7年(1579)、中国攻めの最中に病死しますが、秀吉から京での養生を勧められたものの「陣中で死ぬのが武士の本望だ」と断ったそうです。そんな半兵衛が最期に秀吉に授けた兵糧攻め作戦は、その後の秀吉の戦いにも勝利をもたらしています。 太閤記で描かれるイメージ 『太閤記』や『常山紀談』によると、半兵衛は体が弱く、女性のような痩身(そうしん)で、出陣の際も静かに馬に乗るだけだったそうです。そのため斎藤氏時代は、主君・龍興や家臣たちに甘く見られ、龍興の寵臣(ちょうしん)・斎藤飛騨守からは小便を顔にかけられるといった侮辱まで受けました。 この数日後、半兵衛は武具を隠し持って稲葉山城に入城し、宿直部屋にいた飛騨守を斬殺して城を乗っ取ったといわれています。 天才軍師の生き様 半兵衛は現代でも天才軍師として人気がある戦国武将です。さまざまな逸話が残されていますが、史料が少ないため、その活躍や美談は後世の創作という見方もあります。 講談で人気が高い人物はほかにもいますが、いずれにしても語るにふさわしい人物ばかりです。主君への下克上、浪人から軍師への転身など、一筋縄ではいかない人生を歩んだ半兵衛。彼は人々に語られるに十分な、魅力あふれる人物だったといえるでしょう。
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は誰に甘く見られ、龍興の寵臣・斎藤飛騨守からは小便を顔にかけられるといった侮辱まで受けたか。
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、主君・龍興や家臣たちに甘く見られ、龍興の寵臣・斎藤飛騨守からは小便を顔にかけられるといった侮辱まで受けた。
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歴史
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、竹中半兵衛である。 三顧の礼で秀吉のもとへ かつて敵対関係にあった信長ですが、半兵衛を家臣にしたいと考えていました。勧誘を命じられた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、「三顧の礼」で半兵衛を味方に引き入れます。 「三顧の礼」とは目上の人間が格下の者のもとに三度出向いてお願いをすることで、中国の『三国志演義』において劉備が諸葛亮を味方にしたことに由来します。諸葛亮は歴史に名を刻む名軍師ですが、半兵衛もそれほど能力を買われていたのでしょう。 調略活動で活躍した 信長の影響が強まると、反信長勢力による「信長包囲網」が敷かれるようになります。これにより、かつての主君・浅井長政と敵対すると、半兵衛は浅井家臣団との人脈を生かして調略を行いました。浅井氏の長亭軒城や長比城を織田側に寝返らせるなど、見事な活躍をみせています。 その後の「姉川の戦い」にも参加しており、この頃、信長の直臣から秀吉の与力になったと考えられています。 中国攻めに参加する 天正5年(1577)、信長は毛利輝元が治める山陰・山陽地方への侵攻「中国攻め」を開始します。この総大将に任命されたのが秀吉で、半兵衛もこれに従い中国遠征に参加しました。 半兵衛はここでも調略活動で活躍し、宇喜多氏の備前八幡山城を落城させます。これを京都の信長に報告すると、称賛されるとともに100両を授けられたそうです。 有岡城の戦いと黒田官兵衛 天正6年(1578)7月、秀吉軍に加わっていた荒木村重が信長に反旗を翻し「有岡城の戦い」が勃発。秀吉は、村重と旧知の仲である黒田官兵衛を派遣し説得させようと試みますが、官兵衛はそのまま城に監禁されてしまいます。官兵衛が村重に加担したと思い込んだ信長は、秀吉に官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を命じました。 半兵衛はここでも一計を案じ、信長には偽者の首を提出し、松寿丸の命を助けるよう提案します。これにより松寿丸は助かり、家臣・不破矢足の屋敷にかくまわれました。のちに救出された官兵衛は、これに心から感謝したそうです。 半兵衛にまつわる逸話 さまざまな活躍を遂げた半兵衛ですが、史実としての実像は不明瞭といわれています。現在語り継がれている逸話には、どのようなものがあるのでしょうか。 天才軍師や美談は?その真相 半兵衛の活躍は、嫡子・竹中重門によって著された『豊鑑』や、『武功夜話』『太閤記』などに描かれています。江戸時代には官兵衛とともに講談で描かれ、天才軍師のイメージが定着しました。 しかし『信長公記』(しんちょうこうき)には記述が少なく、残されている資料がわずかなため、実態は明らかではありません。一次史料には秀吉の正式な家臣であったという証拠がなく、織田家から秀吉に付けられた与力武将の一人という見方が強いようです。 竹中家譜で語られる半兵衛 竹中一族の系図『竹中家譜』には、「長篠の戦い」でのエピソードが残されています。 戦いの最中、武田勢の一部が左側に移動したため、横から襲われるのではと焦った秀吉は迎撃しようと兵を動かしました。しかし半兵衛はこれを陽動作戦だと捉え、その場を離れなかったといいます。この読みは見事当たりました。 また、半兵衛は天正7年(1579)、中国攻めの最中に病死しますが、秀吉から京での養生を勧められたものの「陣中で死ぬのが武士の本望だ」と断ったそうです。そんな半兵衛が最期に秀吉に授けた兵糧攻め作戦は、その後の秀吉の戦いにも勝利をもたらしています。 太閤記で描かれるイメージ 『太閤記』や『常山紀談』によると、半兵衛は体が弱く、女性のような痩身(そうしん)で、出陣の際も静かに馬に乗るだけだったそうです。そのため斎藤氏時代は、主君・龍興や家臣たちに甘く見られ、龍興の寵臣(ちょうしん)・斎藤飛騨守からは小便を顔にかけられるといった侮辱まで受けました。 この数日後、半兵衛は武具を隠し持って稲葉山城に入城し、宿直部屋にいた飛騨守を斬殺して城を乗っ取ったといわれています。 天才軍師の生き様 半兵衛は現代でも天才軍師として人気がある戦国武将です。さまざまな逸話が残されていますが、史料が少ないため、その活躍や美談は後世の創作という見方もあります。 講談で人気が高い人物はほかにもいますが、いずれにしても語るにふさわしい人物ばかりです。主君への下克上、浪人から軍師への転身など、一筋縄ではいかない人生を歩んだ半兵衛。彼は人々に語られるに十分な、魅力あふれる人物だったといえるでしょう。
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、どのようにして城を乗っ取ったか。
黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、武具を隠し持って稲葉山城に入城し、宿直部屋にいた飛騨守を斬殺して城を乗っ取った。
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歴史
“尾張の虎”と呼ばれた人物は、織田信秀である。 信長の父・織田信秀の生まれと功績 織田信秀は永正8年(1511)に織田信定の長男として尾張国で生まれました。ただ、尾張が統一されるのは、実は子の信長の代になってからのこと。信秀が生まれた時代の尾張には、織田の本家や分家、さらに彼らが支える主君もいるなど、いろいろな勢力が存在していたのです。 では、その勢力の詳細と、信秀が力をつけていった過程について見ていきましょう。 信秀の家柄とは? 信秀の一家は、尾張の南の4郡を支配する守護代・織田大和守家に仕える清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)の一角、弾正忠(だんじょうのちゅう)家でした。つまり、大和守家が織田の本家、信秀の家柄はそれを支える分家の一つだったのです。 そして、大永6年(1526)4月から7年(1527)6月ごろに家督を受け継いだ信秀は、相続から数年の時を経て勢力拡大に動き出します。 他の有力大名にはない「居城移動」 信秀は天文7年(1538)ごろ、那古野(なごや)城を謀略によって今川氏豊から奪い取ると、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に進出。さらに、古渡城、末森城と、同地域で10年の間に築城と移動を繰り返して勢力を拡大していきました。当時、度重なる拠点の変更は戦国大名としては珍しく、武田氏や毛利氏ら各地の有力大名も生涯居城を移すことはありませんでした。それだけに、信秀の戦略には他の大名にはない特異性があったといえるでしょう。
“尾張の虎”と呼ばれた人物は、いつ生まれたか。
“尾張の虎”と呼ばれた人物は、永正8年(1511)に生まれた。
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歴史
“尾張の虎”と呼ばれた人物は、織田信秀である。 信長の父・織田信秀の生まれと功績 織田信秀は永正8年(1511)に織田信定の長男として尾張国で生まれました。ただ、尾張が統一されるのは、実は子の信長の代になってからのこと。信秀が生まれた時代の尾張には、織田の本家や分家、さらに彼らが支える主君もいるなど、いろいろな勢力が存在していたのです。 では、その勢力の詳細と、信秀が力をつけていった過程について見ていきましょう。 信秀の家柄とは? 信秀の一家は、尾張の南の4郡を支配する守護代・織田大和守家に仕える清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)の一角、弾正忠(だんじょうのちゅう)家でした。つまり、大和守家が織田の本家、信秀の家柄はそれを支える分家の一つだったのです。 そして、大永6年(1526)4月から7年(1527)6月ごろに家督を受け継いだ信秀は、相続から数年の時を経て勢力拡大に動き出します。 他の有力大名にはない「居城移動」 信秀は天文7年(1538)ごろ、那古野(なごや)城を謀略によって今川氏豊から奪い取ると、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に進出。さらに、古渡城、末森城と、同地域で10年の間に築城と移動を繰り返して勢力を拡大していきました。当時、度重なる拠点の変更は戦国大名としては珍しく、武田氏や毛利氏ら各地の有力大名も生涯居城を移すことはありませんでした。それだけに、信秀の戦略には他の大名にはない特異性があったといえるでしょう。
“尾張の虎”と呼ばれた人物は、誰の長男として生まれたか。
“尾張の虎”と呼ばれた人物は、織田信定の長男として生まれた。
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“尾張の虎”と呼ばれた人物は、織田信秀である。 信長の父・織田信秀の生まれと功績 織田信秀は永正8年(1511)に織田信定の長男として尾張国で生まれました。ただ、尾張が統一されるのは、実は子の信長の代になってからのこと。信秀が生まれた時代の尾張には、織田の本家や分家、さらに彼らが支える主君もいるなど、いろいろな勢力が存在していたのです。 では、その勢力の詳細と、信秀が力をつけていった過程について見ていきましょう。 信秀の家柄とは? 信秀の一家は、尾張の南の4郡を支配する守護代・織田大和守家に仕える清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)の一角、弾正忠(だんじょうのちゅう)家でした。つまり、大和守家が織田の本家、信秀の家柄はそれを支える分家の一つだったのです。 そして、大永6年(1526)4月から7年(1527)6月ごろに家督を受け継いだ信秀は、相続から数年の時を経て勢力拡大に動き出します。 他の有力大名にはない「居城移動」 信秀は天文7年(1538)ごろ、那古野(なごや)城を謀略によって今川氏豊から奪い取ると、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に進出。さらに、古渡城、末森城と、同地域で10年の間に築城と移動を繰り返して勢力を拡大していきました。当時、度重なる拠点の変更は戦国大名としては珍しく、武田氏や毛利氏ら各地の有力大名も生涯居城を移すことはありませんでした。それだけに、信秀の戦略には他の大名にはない特異性があったといえるでしょう。
“尾張の虎”と呼ばれた人物は、どこで生まれたか。
“尾張の虎”と呼ばれた人物は、尾張国で生まれた。
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“尾張の虎”と呼ばれた人物は、織田信秀である。 信長の父・織田信秀の生まれと功績 織田信秀は永正8年(1511)に織田信定の長男として尾張国で生まれました。ただ、尾張が統一されるのは、実は子の信長の代になってからのこと。信秀が生まれた時代の尾張には、織田の本家や分家、さらに彼らが支える主君もいるなど、いろいろな勢力が存在していたのです。 では、その勢力の詳細と、信秀が力をつけていった過程について見ていきましょう。 信秀の家柄とは? 信秀の一家は、尾張の南の4郡を支配する守護代・織田大和守家に仕える清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)の一角、弾正忠(だんじょうのちゅう)家でした。つまり、大和守家が織田の本家、信秀の家柄はそれを支える分家の一つだったのです。 そして、大永6年(1526)4月から7年(1527)6月ごろに家督を受け継いだ信秀は、相続から数年の時を経て勢力拡大に動き出します。 他の有力大名にはない「居城移動」 信秀は天文7年(1538)ごろ、那古野(なごや)城を謀略によって今川氏豊から奪い取ると、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に進出。さらに、古渡城、末森城と、同地域で10年の間に築城と移動を繰り返して勢力を拡大していきました。当時、度重なる拠点の変更は戦国大名としては珍しく、武田氏や毛利氏ら各地の有力大名も生涯居城を移すことはありませんでした。それだけに、信秀の戦略には他の大名にはない特異性があったといえるでしょう。
“尾張の虎”と呼ばれた人物は、天文7年(1538)ごろ、那古野城を謀略によって誰から奪い取ったか。
“尾張の虎”と呼ばれた人物は、天文7年(1538)ごろ、那古野城を謀略によって今川氏豊から奪い取った。
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“尾張の虎”と呼ばれた人物は、織田信秀である。 信長の父・織田信秀の生まれと功績 織田信秀は永正8年(1511)に織田信定の長男として尾張国で生まれました。ただ、尾張が統一されるのは、実は子の信長の代になってからのこと。信秀が生まれた時代の尾張には、織田の本家や分家、さらに彼らが支える主君もいるなど、いろいろな勢力が存在していたのです。 では、その勢力の詳細と、信秀が力をつけていった過程について見ていきましょう。 信秀の家柄とは? 信秀の一家は、尾張の南の4郡を支配する守護代・織田大和守家に仕える清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)の一角、弾正忠(だんじょうのちゅう)家でした。つまり、大和守家が織田の本家、信秀の家柄はそれを支える分家の一つだったのです。 そして、大永6年(1526)4月から7年(1527)6月ごろに家督を受け継いだ信秀は、相続から数年の時を経て勢力拡大に動き出します。 他の有力大名にはない「居城移動」 信秀は天文7年(1538)ごろ、那古野(なごや)城を謀略によって今川氏豊から奪い取ると、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に進出。さらに、古渡城、末森城と、同地域で10年の間に築城と移動を繰り返して勢力を拡大していきました。当時、度重なる拠点の変更は戦国大名としては珍しく、武田氏や毛利氏ら各地の有力大名も生涯居城を移すことはありませんでした。それだけに、信秀の戦略には他の大名にはない特異性があったといえるでしょう。
“尾張の虎”と呼ばれた人物は、天文7年(1538)ごろ、那古野城に居城を移してどこに進出したか。
“尾張の虎”と呼ばれた人物は、天文7年(1538)ごろ、那古野城に居城を移して愛知郡に進出した。
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“尾張の虎”と呼ばれた人物は、織田信秀である。 朝廷に献金、将軍に拝謁! 足利義輝 信秀が拝謁した13代将軍の足利義輝です。 築城と移動を繰り返す中で各地の商工業を発展させて経済的基盤を複数確保した信秀は、上洛して朝廷に献金し身分の序列を高めると、室町幕府に参じて第13代将軍である足利義輝にも拝謁します。さらに、伊勢神宮遷宮や内裏修理のために財を投じるなど、朝廷を重視する姿勢を強く示して信頼を勝ち取っていきました。こうして、経済力と地位、双方を同時進行的に高めていくことに力を注いだのです。 松平氏・斎藤氏と戦った 松平清康 徳川家康の祖父である松平清康です。 一方、近隣諸国との領土争いはどうだったのでしょうか。享禄2年(1529)、徳川家康の祖父にあたる松平清康に侵入され一時的に領土を奪われた信秀ですが、清康の不慮の死に乗じて攻勢に転じると、天文9年(1540)には三河国(現在の愛知県東半部)の安祥城を攻略します。その後、清康死後の土地をめぐって信秀と今川義元が争う小豆坂(あずきざか)の戦いが起こります。このさなかに人質として織田家に連れてこられたのが竹千代、のちの徳川家康というわけです。 信秀は天文13年(1544)、国が乱れていた好機を突いて美濃(現在の岐阜県)にも出兵。斎藤道三と争って一進一退の攻防を繰り広げます。こうして領土拡大に努めた信秀は、朝廷工作の成果も相まって、いつしか本家の大和守家はおろか、本家も仕える主君である斯波(しば)家をもしのぐ地位と勢力を築くに至りました。まさに下の者が才覚を発揮して成り上がっていく下克上です。 信秀の人物像とは? 信秀が尾張とその周辺地域への勢力拡大に動き始めた頃の天文3年(1534)、信長が誕生します。のちに型破りな戦略と思考で天下取りにばく進する信長は、信秀からどんな才覚、精神を受け継いだのでしょうか。信秀の人物像と信長への信頼の在り方から探っていきます。 息子に受け継がれる精神 居城を次々に移し、各支配地域の商工業の発展を促した信秀の戦略は、経済基盤の強化が勢力拡大に大きな影響を与えることを子の信長に悟らせたのかもしれません。朝廷や幕府に取り入って地位の向上を図るという政略も同様で、信長がのちの世で楽市・楽座などの政策を投じた背景には、信秀の背を見て育った影響があったのは間違いなさそうです。 軍事面はもとより、経済強化や朝廷の取り込みといった点の重要性を見抜いた信秀の先見性が継承されたことで、信長は他の有力大名をリードすることができたのでしょう。 信長とは信頼関係があった 織田信長 信秀の息子・信長。幼少期に那古野城を継ぎました。 そして、信秀の先見性が最も発揮されたのは、“跡継ぎに信長を選んだこと”なのかもしれません。品行方正だったという信長の弟、信行を後継者に推す声もある中で、「天下の大うつけ」などと悪評高かった信長に幼少の頃に那古野城を譲り、後継に決めて揺るがなかったという信秀。天下取りという偉業に挑むことまで見えていたわけではないでしょうが、いかに信秀が信長の才を信じていたかということは想像に難くありません。 信秀は攻防を繰り広げていた道三と和睦し、信長と道三の娘、濃姫(のうひめ)を結ばせます。道三はその後に信長を支援しました。信秀は生前に織田の本家や主君と本格的に争うことはありませんでしたが、隣国への憂いが薄らいだ信長は尾張を統一、これを機に天下取りに向けて本格的に動き出します。 この親にしてこの子あり 信秀は道三と和睦したわずか4年後の天文21年(1552)に、はやり病でこの世を去りました。尾張の中の小さな勢力だった織田弾正忠家を率い、本家や主君を上回る尾張随一の勢力に押し上げた信秀。その戦略や精神は、後を託した子の信長に色濃く受け継がれました。 信秀が尾張と周辺地域に敷いた勢力拡大の道は、型破りな子の信長により、血縁や幕府、神や仏をも恐れぬ天下布武に昇華され、覇道へとつながっていったのです。
“尾張の虎”と呼ばれた人物は、築城と移動を繰り返す中で何を発展させたか。
“尾張の虎”と呼ばれた人物は、築城と移動を繰り返す中で各地の商工業を発展させた。
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“尾張の虎”と呼ばれた人物は、織田信秀である。 朝廷に献金、将軍に拝謁! 足利義輝 信秀が拝謁した13代将軍の足利義輝です。 築城と移動を繰り返す中で各地の商工業を発展させて経済的基盤を複数確保した信秀は、上洛して朝廷に献金し身分の序列を高めると、室町幕府に参じて第13代将軍である足利義輝にも拝謁します。さらに、伊勢神宮遷宮や内裏修理のために財を投じるなど、朝廷を重視する姿勢を強く示して信頼を勝ち取っていきました。こうして、経済力と地位、双方を同時進行的に高めていくことに力を注いだのです。 松平氏・斎藤氏と戦った 松平清康 徳川家康の祖父である松平清康です。 一方、近隣諸国との領土争いはどうだったのでしょうか。享禄2年(1529)、徳川家康の祖父にあたる松平清康に侵入され一時的に領土を奪われた信秀ですが、清康の不慮の死に乗じて攻勢に転じると、天文9年(1540)には三河国(現在の愛知県東半部)の安祥城を攻略します。その後、清康死後の土地をめぐって信秀と今川義元が争う小豆坂(あずきざか)の戦いが起こります。このさなかに人質として織田家に連れてこられたのが竹千代、のちの徳川家康というわけです。 信秀は天文13年(1544)、国が乱れていた好機を突いて美濃(現在の岐阜県)にも出兵。斎藤道三と争って一進一退の攻防を繰り広げます。こうして領土拡大に努めた信秀は、朝廷工作の成果も相まって、いつしか本家の大和守家はおろか、本家も仕える主君である斯波(しば)家をもしのぐ地位と勢力を築くに至りました。まさに下の者が才覚を発揮して成り上がっていく下克上です。 信秀の人物像とは? 信秀が尾張とその周辺地域への勢力拡大に動き始めた頃の天文3年(1534)、信長が誕生します。のちに型破りな戦略と思考で天下取りにばく進する信長は、信秀からどんな才覚、精神を受け継いだのでしょうか。信秀の人物像と信長への信頼の在り方から探っていきます。 息子に受け継がれる精神 居城を次々に移し、各支配地域の商工業の発展を促した信秀の戦略は、経済基盤の強化が勢力拡大に大きな影響を与えることを子の信長に悟らせたのかもしれません。朝廷や幕府に取り入って地位の向上を図るという政略も同様で、信長がのちの世で楽市・楽座などの政策を投じた背景には、信秀の背を見て育った影響があったのは間違いなさそうです。 軍事面はもとより、経済強化や朝廷の取り込みといった点の重要性を見抜いた信秀の先見性が継承されたことで、信長は他の有力大名をリードすることができたのでしょう。 信長とは信頼関係があった 織田信長 信秀の息子・信長。幼少期に那古野城を継ぎました。 そして、信秀の先見性が最も発揮されたのは、“跡継ぎに信長を選んだこと”なのかもしれません。品行方正だったという信長の弟、信行を後継者に推す声もある中で、「天下の大うつけ」などと悪評高かった信長に幼少の頃に那古野城を譲り、後継に決めて揺るがなかったという信秀。天下取りという偉業に挑むことまで見えていたわけではないでしょうが、いかに信秀が信長の才を信じていたかということは想像に難くありません。 信秀は攻防を繰り広げていた道三と和睦し、信長と道三の娘、濃姫(のうひめ)を結ばせます。道三はその後に信長を支援しました。信秀は生前に織田の本家や主君と本格的に争うことはありませんでしたが、隣国への憂いが薄らいだ信長は尾張を統一、これを機に天下取りに向けて本格的に動き出します。 この親にしてこの子あり 信秀は道三と和睦したわずか4年後の天文21年(1552)に、はやり病でこの世を去りました。尾張の中の小さな勢力だった織田弾正忠家を率い、本家や主君を上回る尾張随一の勢力に押し上げた信秀。その戦略や精神は、後を託した子の信長に色濃く受け継がれました。 信秀が尾張と周辺地域に敷いた勢力拡大の道は、型破りな子の信長により、血縁や幕府、神や仏をも恐れぬ天下布武に昇華され、覇道へとつながっていったのです。
“尾張の虎”と呼ばれた人物は、上洛して朝廷に献金し何を高めたか。
“尾張の虎”と呼ばれた人物は、上洛して朝廷に献金し身分の序列を高めた。
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“尾張の虎”と呼ばれた人物は、織田信秀である。 朝廷に献金、将軍に拝謁! 足利義輝 信秀が拝謁した13代将軍の足利義輝です。 築城と移動を繰り返す中で各地の商工業を発展させて経済的基盤を複数確保した信秀は、上洛して朝廷に献金し身分の序列を高めると、室町幕府に参じて第13代将軍である足利義輝にも拝謁します。さらに、伊勢神宮遷宮や内裏修理のために財を投じるなど、朝廷を重視する姿勢を強く示して信頼を勝ち取っていきました。こうして、経済力と地位、双方を同時進行的に高めていくことに力を注いだのです。 松平氏・斎藤氏と戦った 松平清康 徳川家康の祖父である松平清康です。 一方、近隣諸国との領土争いはどうだったのでしょうか。享禄2年(1529)、徳川家康の祖父にあたる松平清康に侵入され一時的に領土を奪われた信秀ですが、清康の不慮の死に乗じて攻勢に転じると、天文9年(1540)には三河国(現在の愛知県東半部)の安祥城を攻略します。その後、清康死後の土地をめぐって信秀と今川義元が争う小豆坂(あずきざか)の戦いが起こります。このさなかに人質として織田家に連れてこられたのが竹千代、のちの徳川家康というわけです。 信秀は天文13年(1544)、国が乱れていた好機を突いて美濃(現在の岐阜県)にも出兵。斎藤道三と争って一進一退の攻防を繰り広げます。こうして領土拡大に努めた信秀は、朝廷工作の成果も相まって、いつしか本家の大和守家はおろか、本家も仕える主君である斯波(しば)家をもしのぐ地位と勢力を築くに至りました。まさに下の者が才覚を発揮して成り上がっていく下克上です。 信秀の人物像とは? 信秀が尾張とその周辺地域への勢力拡大に動き始めた頃の天文3年(1534)、信長が誕生します。のちに型破りな戦略と思考で天下取りにばく進する信長は、信秀からどんな才覚、精神を受け継いだのでしょうか。信秀の人物像と信長への信頼の在り方から探っていきます。 息子に受け継がれる精神 居城を次々に移し、各支配地域の商工業の発展を促した信秀の戦略は、経済基盤の強化が勢力拡大に大きな影響を与えることを子の信長に悟らせたのかもしれません。朝廷や幕府に取り入って地位の向上を図るという政略も同様で、信長がのちの世で楽市・楽座などの政策を投じた背景には、信秀の背を見て育った影響があったのは間違いなさそうです。 軍事面はもとより、経済強化や朝廷の取り込みといった点の重要性を見抜いた信秀の先見性が継承されたことで、信長は他の有力大名をリードすることができたのでしょう。 信長とは信頼関係があった 織田信長 信秀の息子・信長。幼少期に那古野城を継ぎました。 そして、信秀の先見性が最も発揮されたのは、“跡継ぎに信長を選んだこと”なのかもしれません。品行方正だったという信長の弟、信行を後継者に推す声もある中で、「天下の大うつけ」などと悪評高かった信長に幼少の頃に那古野城を譲り、後継に決めて揺るがなかったという信秀。天下取りという偉業に挑むことまで見えていたわけではないでしょうが、いかに信秀が信長の才を信じていたかということは想像に難くありません。 信秀は攻防を繰り広げていた道三と和睦し、信長と道三の娘、濃姫(のうひめ)を結ばせます。道三はその後に信長を支援しました。信秀は生前に織田の本家や主君と本格的に争うことはありませんでしたが、隣国への憂いが薄らいだ信長は尾張を統一、これを機に天下取りに向けて本格的に動き出します。 この親にしてこの子あり 信秀は道三と和睦したわずか4年後の天文21年(1552)に、はやり病でこの世を去りました。尾張の中の小さな勢力だった織田弾正忠家を率い、本家や主君を上回る尾張随一の勢力に押し上げた信秀。その戦略や精神は、後を託した子の信長に色濃く受け継がれました。 信秀が尾張と周辺地域に敷いた勢力拡大の道は、型破りな子の信長により、血縁や幕府、神や仏をも恐れぬ天下布武に昇華され、覇道へとつながっていったのです。
“尾張の虎”と呼ばれた人物は、室町幕府に参じて誰に拝謁したか。
“尾張の虎”と呼ばれた人物は、室町幕府に参じて第13代将軍である足利義輝に拝謁した。
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“尾張の虎”と呼ばれた人物は、織田信秀である。 朝廷に献金、将軍に拝謁! 足利義輝 信秀が拝謁した13代将軍の足利義輝です。 築城と移動を繰り返す中で各地の商工業を発展させて経済的基盤を複数確保した信秀は、上洛して朝廷に献金し身分の序列を高めると、室町幕府に参じて第13代将軍である足利義輝にも拝謁します。さらに、伊勢神宮遷宮や内裏修理のために財を投じるなど、朝廷を重視する姿勢を強く示して信頼を勝ち取っていきました。こうして、経済力と地位、双方を同時進行的に高めていくことに力を注いだのです。 松平氏・斎藤氏と戦った 松平清康 徳川家康の祖父である松平清康です。 一方、近隣諸国との領土争いはどうだったのでしょうか。享禄2年(1529)、徳川家康の祖父にあたる松平清康に侵入され一時的に領土を奪われた信秀ですが、清康の不慮の死に乗じて攻勢に転じると、天文9年(1540)には三河国(現在の愛知県東半部)の安祥城を攻略します。その後、清康死後の土地をめぐって信秀と今川義元が争う小豆坂(あずきざか)の戦いが起こります。このさなかに人質として織田家に連れてこられたのが竹千代、のちの徳川家康というわけです。 信秀は天文13年(1544)、国が乱れていた好機を突いて美濃(現在の岐阜県)にも出兵。斎藤道三と争って一進一退の攻防を繰り広げます。こうして領土拡大に努めた信秀は、朝廷工作の成果も相まって、いつしか本家の大和守家はおろか、本家も仕える主君である斯波(しば)家をもしのぐ地位と勢力を築くに至りました。まさに下の者が才覚を発揮して成り上がっていく下克上です。 信秀の人物像とは? 信秀が尾張とその周辺地域への勢力拡大に動き始めた頃の天文3年(1534)、信長が誕生します。のちに型破りな戦略と思考で天下取りにばく進する信長は、信秀からどんな才覚、精神を受け継いだのでしょうか。信秀の人物像と信長への信頼の在り方から探っていきます。 息子に受け継がれる精神 居城を次々に移し、各支配地域の商工業の発展を促した信秀の戦略は、経済基盤の強化が勢力拡大に大きな影響を与えることを子の信長に悟らせたのかもしれません。朝廷や幕府に取り入って地位の向上を図るという政略も同様で、信長がのちの世で楽市・楽座などの政策を投じた背景には、信秀の背を見て育った影響があったのは間違いなさそうです。 軍事面はもとより、経済強化や朝廷の取り込みといった点の重要性を見抜いた信秀の先見性が継承されたことで、信長は他の有力大名をリードすることができたのでしょう。 信長とは信頼関係があった 織田信長 信秀の息子・信長。幼少期に那古野城を継ぎました。 そして、信秀の先見性が最も発揮されたのは、“跡継ぎに信長を選んだこと”なのかもしれません。品行方正だったという信長の弟、信行を後継者に推す声もある中で、「天下の大うつけ」などと悪評高かった信長に幼少の頃に那古野城を譲り、後継に決めて揺るがなかったという信秀。天下取りという偉業に挑むことまで見えていたわけではないでしょうが、いかに信秀が信長の才を信じていたかということは想像に難くありません。 信秀は攻防を繰り広げていた道三と和睦し、信長と道三の娘、濃姫(のうひめ)を結ばせます。道三はその後に信長を支援しました。信秀は生前に織田の本家や主君と本格的に争うことはありませんでしたが、隣国への憂いが薄らいだ信長は尾張を統一、これを機に天下取りに向けて本格的に動き出します。 この親にしてこの子あり 信秀は道三と和睦したわずか4年後の天文21年(1552)に、はやり病でこの世を去りました。尾張の中の小さな勢力だった織田弾正忠家を率い、本家や主君を上回る尾張随一の勢力に押し上げた信秀。その戦略や精神は、後を託した子の信長に色濃く受け継がれました。 信秀が尾張と周辺地域に敷いた勢力拡大の道は、型破りな子の信長により、血縁や幕府、神や仏をも恐れぬ天下布武に昇華され、覇道へとつながっていったのです。
“尾張の虎”と呼ばれた人物は、天文9年(1540)にはどこを攻略したか。
“尾張の虎”と呼ばれた人物は、天文9年(1540)には三河国の安祥城を攻略した。
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“尾張の虎”と呼ばれた人物は、織田信秀である。 朝廷に献金、将軍に拝謁! 足利義輝 信秀が拝謁した13代将軍の足利義輝です。 築城と移動を繰り返す中で各地の商工業を発展させて経済的基盤を複数確保した信秀は、上洛して朝廷に献金し身分の序列を高めると、室町幕府に参じて第13代将軍である足利義輝にも拝謁します。さらに、伊勢神宮遷宮や内裏修理のために財を投じるなど、朝廷を重視する姿勢を強く示して信頼を勝ち取っていきました。こうして、経済力と地位、双方を同時進行的に高めていくことに力を注いだのです。 松平氏・斎藤氏と戦った 松平清康 徳川家康の祖父である松平清康です。 一方、近隣諸国との領土争いはどうだったのでしょうか。享禄2年(1529)、徳川家康の祖父にあたる松平清康に侵入され一時的に領土を奪われた信秀ですが、清康の不慮の死に乗じて攻勢に転じると、天文9年(1540)には三河国(現在の愛知県東半部)の安祥城を攻略します。その後、清康死後の土地をめぐって信秀と今川義元が争う小豆坂(あずきざか)の戦いが起こります。このさなかに人質として織田家に連れてこられたのが竹千代、のちの徳川家康というわけです。 信秀は天文13年(1544)、国が乱れていた好機を突いて美濃(現在の岐阜県)にも出兵。斎藤道三と争って一進一退の攻防を繰り広げます。こうして領土拡大に努めた信秀は、朝廷工作の成果も相まって、いつしか本家の大和守家はおろか、本家も仕える主君である斯波(しば)家をもしのぐ地位と勢力を築くに至りました。まさに下の者が才覚を発揮して成り上がっていく下克上です。 信秀の人物像とは? 信秀が尾張とその周辺地域への勢力拡大に動き始めた頃の天文3年(1534)、信長が誕生します。のちに型破りな戦略と思考で天下取りにばく進する信長は、信秀からどんな才覚、精神を受け継いだのでしょうか。信秀の人物像と信長への信頼の在り方から探っていきます。 息子に受け継がれる精神 居城を次々に移し、各支配地域の商工業の発展を促した信秀の戦略は、経済基盤の強化が勢力拡大に大きな影響を与えることを子の信長に悟らせたのかもしれません。朝廷や幕府に取り入って地位の向上を図るという政略も同様で、信長がのちの世で楽市・楽座などの政策を投じた背景には、信秀の背を見て育った影響があったのは間違いなさそうです。 軍事面はもとより、経済強化や朝廷の取り込みといった点の重要性を見抜いた信秀の先見性が継承されたことで、信長は他の有力大名をリードすることができたのでしょう。 信長とは信頼関係があった 織田信長 信秀の息子・信長。幼少期に那古野城を継ぎました。 そして、信秀の先見性が最も発揮されたのは、“跡継ぎに信長を選んだこと”なのかもしれません。品行方正だったという信長の弟、信行を後継者に推す声もある中で、「天下の大うつけ」などと悪評高かった信長に幼少の頃に那古野城を譲り、後継に決めて揺るがなかったという信秀。天下取りという偉業に挑むことまで見えていたわけではないでしょうが、いかに信秀が信長の才を信じていたかということは想像に難くありません。 信秀は攻防を繰り広げていた道三と和睦し、信長と道三の娘、濃姫(のうひめ)を結ばせます。道三はその後に信長を支援しました。信秀は生前に織田の本家や主君と本格的に争うことはありませんでしたが、隣国への憂いが薄らいだ信長は尾張を統一、これを機に天下取りに向けて本格的に動き出します。 この親にしてこの子あり 信秀は道三と和睦したわずか4年後の天文21年(1552)に、はやり病でこの世を去りました。尾張の中の小さな勢力だった織田弾正忠家を率い、本家や主君を上回る尾張随一の勢力に押し上げた信秀。その戦略や精神は、後を託した子の信長に色濃く受け継がれました。 信秀が尾張と周辺地域に敷いた勢力拡大の道は、型破りな子の信長により、血縁や幕府、神や仏をも恐れぬ天下布武に昇華され、覇道へとつながっていったのです。
“尾張の虎”と呼ばれた人物は、天文13年(1544)、国が乱れていた好機を突いてどこに出兵したか。
“尾張の虎”と呼ばれた人物は、天文13年(1544)、国が乱れていた好機を突いて美濃にも出兵した。
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歴史
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、徳川家光である。 うまれから将軍になるまで 徳川家に生まれた家光ですが、将軍になるまでにはどのような出来事があったのでしょうか? 徳川秀忠の嫡男として誕生 家光は、慶長9年(1604)2代将軍・徳川秀忠の次男として江戸城でうまれました。母は浅井長政の三女・江で、彼女は織田信長の姪にあたります。また、乳母は斎藤利三の娘・福(後の春日局)が務めました。 父・秀忠には数年前に生まれた長男・長丸がいましたが、既に亡くなっていたため、家光が跡継ぎとして扱われました。幼名は祖父・家康と同じ「竹千代」で、幼いころの家光は病弱で言葉に不自由があったといわれています。 弟・国松(忠長)と継承争いした? 2年後の慶長11年(1606)、秀忠に三男・国松(後の忠長)が誕生しました。『武野燭談』によれば、秀忠は家光より容姿や才気に優れた国松を寵愛し、2人の間で次期将軍の座をめぐる争いが起きたといいます。そのため、家光廃嫡の危機を感じた乳母・福は、駿府の家康に直訴しました。これにより家光が後継になることが確定したといわれています。 竹千代から将軍・家光へ 家康死後の元和6年(1620)、元服して竹千代から家光へと名を改めます。「家」の字は家康からとったもので、以降、徳川将軍家の嫡男の名前には「家」が使用されるようになりました。 元和9年(1623)3月、家光は将軍家の跡継ぎとして朝廷から右近衛大将に任命されます。6月に父・秀忠とともに上洛し、7月には伏見城で将軍宣下を受けました。その後、父・秀忠は江戸城西の丸で隠居し、家光は本丸へと移ります。またこの年、家光は摂家・鷹司家の鷹司孝子(たかつかさたかこ)と結婚しました。 二元政治から親政へ 江戸幕府の将軍に就任した家光は、幕政改革に着手します。ここで決定された制度は後世にも影響を与えました。 家光の幕政改革 家光の将軍就任後、父・秀忠は大御所として政治的実権を握り続けました。そのため、幕政は家光側の本丸年寄と、秀忠側の西の丸年寄の合議による二元政治となります。これが解消されたのは秀忠が死去した寛永9年(1632)1月のこと。ようやく実権を集約した家光は、親政を開始し幕政改革に着手しました。家光は旗本中心の直轄軍を再編。また、老中・若年寄・奉行・大目付などの役職を定めて、将軍を最高権力者とする幕府機構を確立します。寛永12年(1635)には、幕府が諸大名をまとめるために制定した武家諸法度を改訂し、大名らに参勤交代を義務づけました。
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、いつうまれたか。
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、慶長9年(1604)にうまれた。
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歴史
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、徳川家光である。 うまれから将軍になるまで 徳川家に生まれた家光ですが、将軍になるまでにはどのような出来事があったのでしょうか? 徳川秀忠の嫡男として誕生 家光は、慶長9年(1604)2代将軍・徳川秀忠の次男として江戸城でうまれました。母は浅井長政の三女・江で、彼女は織田信長の姪にあたります。また、乳母は斎藤利三の娘・福(後の春日局)が務めました。 父・秀忠には数年前に生まれた長男・長丸がいましたが、既に亡くなっていたため、家光が跡継ぎとして扱われました。幼名は祖父・家康と同じ「竹千代」で、幼いころの家光は病弱で言葉に不自由があったといわれています。 弟・国松(忠長)と継承争いした? 2年後の慶長11年(1606)、秀忠に三男・国松(後の忠長)が誕生しました。『武野燭談』によれば、秀忠は家光より容姿や才気に優れた国松を寵愛し、2人の間で次期将軍の座をめぐる争いが起きたといいます。そのため、家光廃嫡の危機を感じた乳母・福は、駿府の家康に直訴しました。これにより家光が後継になることが確定したといわれています。 竹千代から将軍・家光へ 家康死後の元和6年(1620)、元服して竹千代から家光へと名を改めます。「家」の字は家康からとったもので、以降、徳川将軍家の嫡男の名前には「家」が使用されるようになりました。 元和9年(1623)3月、家光は将軍家の跡継ぎとして朝廷から右近衛大将に任命されます。6月に父・秀忠とともに上洛し、7月には伏見城で将軍宣下を受けました。その後、父・秀忠は江戸城西の丸で隠居し、家光は本丸へと移ります。またこの年、家光は摂家・鷹司家の鷹司孝子(たかつかさたかこ)と結婚しました。 二元政治から親政へ 江戸幕府の将軍に就任した家光は、幕政改革に着手します。ここで決定された制度は後世にも影響を与えました。 家光の幕政改革 家光の将軍就任後、父・秀忠は大御所として政治的実権を握り続けました。そのため、幕政は家光側の本丸年寄と、秀忠側の西の丸年寄の合議による二元政治となります。これが解消されたのは秀忠が死去した寛永9年(1632)1月のこと。ようやく実権を集約した家光は、親政を開始し幕政改革に着手しました。家光は旗本中心の直轄軍を再編。また、老中・若年寄・奉行・大目付などの役職を定めて、将軍を最高権力者とする幕府機構を確立します。寛永12年(1635)には、幕府が諸大名をまとめるために制定した武家諸法度を改訂し、大名らに参勤交代を義務づけました。
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、誰の次男としてうまれたか。
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、2代将軍・徳川秀忠の次男としてうまれた。
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歴史
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、徳川家光である。 うまれから将軍になるまで 徳川家に生まれた家光ですが、将軍になるまでにはどのような出来事があったのでしょうか? 徳川秀忠の嫡男として誕生 家光は、慶長9年(1604)2代将軍・徳川秀忠の次男として江戸城でうまれました。母は浅井長政の三女・江で、彼女は織田信長の姪にあたります。また、乳母は斎藤利三の娘・福(後の春日局)が務めました。 父・秀忠には数年前に生まれた長男・長丸がいましたが、既に亡くなっていたため、家光が跡継ぎとして扱われました。幼名は祖父・家康と同じ「竹千代」で、幼いころの家光は病弱で言葉に不自由があったといわれています。 弟・国松(忠長)と継承争いした? 2年後の慶長11年(1606)、秀忠に三男・国松(後の忠長)が誕生しました。『武野燭談』によれば、秀忠は家光より容姿や才気に優れた国松を寵愛し、2人の間で次期将軍の座をめぐる争いが起きたといいます。そのため、家光廃嫡の危機を感じた乳母・福は、駿府の家康に直訴しました。これにより家光が後継になることが確定したといわれています。 竹千代から将軍・家光へ 家康死後の元和6年(1620)、元服して竹千代から家光へと名を改めます。「家」の字は家康からとったもので、以降、徳川将軍家の嫡男の名前には「家」が使用されるようになりました。 元和9年(1623)3月、家光は将軍家の跡継ぎとして朝廷から右近衛大将に任命されます。6月に父・秀忠とともに上洛し、7月には伏見城で将軍宣下を受けました。その後、父・秀忠は江戸城西の丸で隠居し、家光は本丸へと移ります。またこの年、家光は摂家・鷹司家の鷹司孝子(たかつかさたかこ)と結婚しました。 二元政治から親政へ 江戸幕府の将軍に就任した家光は、幕政改革に着手します。ここで決定された制度は後世にも影響を与えました。 家光の幕政改革 家光の将軍就任後、父・秀忠は大御所として政治的実権を握り続けました。そのため、幕政は家光側の本丸年寄と、秀忠側の西の丸年寄の合議による二元政治となります。これが解消されたのは秀忠が死去した寛永9年(1632)1月のこと。ようやく実権を集約した家光は、親政を開始し幕政改革に着手しました。家光は旗本中心の直轄軍を再編。また、老中・若年寄・奉行・大目付などの役職を定めて、将軍を最高権力者とする幕府機構を確立します。寛永12年(1635)には、幕府が諸大名をまとめるために制定した武家諸法度を改訂し、大名らに参勤交代を義務づけました。
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、どこでうまれたか。
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、江戸城でうまれた。
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歴史
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、徳川家光である。 うまれから将軍になるまで 徳川家に生まれた家光ですが、将軍になるまでにはどのような出来事があったのでしょうか? 徳川秀忠の嫡男として誕生 家光は、慶長9年(1604)2代将軍・徳川秀忠の次男として江戸城でうまれました。母は浅井長政の三女・江で、彼女は織田信長の姪にあたります。また、乳母は斎藤利三の娘・福(後の春日局)が務めました。 父・秀忠には数年前に生まれた長男・長丸がいましたが、既に亡くなっていたため、家光が跡継ぎとして扱われました。幼名は祖父・家康と同じ「竹千代」で、幼いころの家光は病弱で言葉に不自由があったといわれています。 弟・国松(忠長)と継承争いした? 2年後の慶長11年(1606)、秀忠に三男・国松(後の忠長)が誕生しました。『武野燭談』によれば、秀忠は家光より容姿や才気に優れた国松を寵愛し、2人の間で次期将軍の座をめぐる争いが起きたといいます。そのため、家光廃嫡の危機を感じた乳母・福は、駿府の家康に直訴しました。これにより家光が後継になることが確定したといわれています。 竹千代から将軍・家光へ 家康死後の元和6年(1620)、元服して竹千代から家光へと名を改めます。「家」の字は家康からとったもので、以降、徳川将軍家の嫡男の名前には「家」が使用されるようになりました。 元和9年(1623)3月、家光は将軍家の跡継ぎとして朝廷から右近衛大将に任命されます。6月に父・秀忠とともに上洛し、7月には伏見城で将軍宣下を受けました。その後、父・秀忠は江戸城西の丸で隠居し、家光は本丸へと移ります。またこの年、家光は摂家・鷹司家の鷹司孝子(たかつかさたかこ)と結婚しました。 二元政治から親政へ 江戸幕府の将軍に就任した家光は、幕政改革に着手します。ここで決定された制度は後世にも影響を与えました。 家光の幕政改革 家光の将軍就任後、父・秀忠は大御所として政治的実権を握り続けました。そのため、幕政は家光側の本丸年寄と、秀忠側の西の丸年寄の合議による二元政治となります。これが解消されたのは秀忠が死去した寛永9年(1632)1月のこと。ようやく実権を集約した家光は、親政を開始し幕政改革に着手しました。家光は旗本中心の直轄軍を再編。また、老中・若年寄・奉行・大目付などの役職を定めて、将軍を最高権力者とする幕府機構を確立します。寛永12年(1635)には、幕府が諸大名をまとめるために制定した武家諸法度を改訂し、大名らに参勤交代を義務づけました。
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、元服して何から家光へと名を改めたか。
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、元服して竹千代から家光へと名を改めた。
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歴史
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、徳川家光である。 うまれから将軍になるまで 徳川家に生まれた家光ですが、将軍になるまでにはどのような出来事があったのでしょうか? 徳川秀忠の嫡男として誕生 家光は、慶長9年(1604)2代将軍・徳川秀忠の次男として江戸城でうまれました。母は浅井長政の三女・江で、彼女は織田信長の姪にあたります。また、乳母は斎藤利三の娘・福(後の春日局)が務めました。 父・秀忠には数年前に生まれた長男・長丸がいましたが、既に亡くなっていたため、家光が跡継ぎとして扱われました。幼名は祖父・家康と同じ「竹千代」で、幼いころの家光は病弱で言葉に不自由があったといわれています。 弟・国松(忠長)と継承争いした? 2年後の慶長11年(1606)、秀忠に三男・国松(後の忠長)が誕生しました。『武野燭談』によれば、秀忠は家光より容姿や才気に優れた国松を寵愛し、2人の間で次期将軍の座をめぐる争いが起きたといいます。そのため、家光廃嫡の危機を感じた乳母・福は、駿府の家康に直訴しました。これにより家光が後継になることが確定したといわれています。 竹千代から将軍・家光へ 家康死後の元和6年(1620)、元服して竹千代から家光へと名を改めます。「家」の字は家康からとったもので、以降、徳川将軍家の嫡男の名前には「家」が使用されるようになりました。 元和9年(1623)3月、家光は将軍家の跡継ぎとして朝廷から右近衛大将に任命されます。6月に父・秀忠とともに上洛し、7月には伏見城で将軍宣下を受けました。その後、父・秀忠は江戸城西の丸で隠居し、家光は本丸へと移ります。またこの年、家光は摂家・鷹司家の鷹司孝子(たかつかさたかこ)と結婚しました。 二元政治から親政へ 江戸幕府の将軍に就任した家光は、幕政改革に着手します。ここで決定された制度は後世にも影響を与えました。 家光の幕政改革 家光の将軍就任後、父・秀忠は大御所として政治的実権を握り続けました。そのため、幕政は家光側の本丸年寄と、秀忠側の西の丸年寄の合議による二元政治となります。これが解消されたのは秀忠が死去した寛永9年(1632)1月のこと。ようやく実権を集約した家光は、親政を開始し幕政改革に着手しました。家光は旗本中心の直轄軍を再編。また、老中・若年寄・奉行・大目付などの役職を定めて、将軍を最高権力者とする幕府機構を確立します。寛永12年(1635)には、幕府が諸大名をまとめるために制定した武家諸法度を改訂し、大名らに参勤交代を義務づけました。
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、将軍家の跡継ぎとして朝廷から何に任命されたか。
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、将軍家の跡継ぎとして朝廷から右近衛大将に任命された。
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参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、徳川家光である。 対外貿易の管理と統制 対外政策としては、長崎貿易での利益独占・キリスト教禁止令の強化・国際紛争の回避を目的に、貿易の管理や統制を進めました。家光は、東南アジア方面との貿易を管理する目的で長崎奉行に職務規定(鎖国令)を発布。寛永12年(1635)には日本人が海外に行くことも帰国することも禁じます。こうして宣教師の密航手段となっていた朱印船貿易は終わりを告げ、九州各地のポルトガル人は長崎の出島に隔離されました。 島原の乱が勃発! 家光が幕政改革を進めるなか、寛永14年(1637)に島原の乱が勃発します。島原半島と天草諸島の領民は以前から藩の圧政や重税に苦しんでいましたが、そこに家光によるキリシタン弾圧への不満が重なりついに蜂起。これは日本の歴史上最大の一揆といわれ、幕末以前では最後の本格的な戦いとなりました。家光はこの乱を鎮圧し、ポルトガルとの断交を決意。さらには、長崎奉行や九州地方の大名らに対してポルトガル人の追放を命令します。寛永18年(1641)には貿易拠点であるオランダ商館を長崎の出島に移転し、貿易の管理・統制として鎖国体制を固めました。 寛永の大飢饉が発生 寛永19年(1642)からは寛永の大飢饉が発生し、国内の大名や百姓たちが大打撃を受けます。幕府の基盤を固めてきた家光は、この災厄により体制の立て直しを迫られました。家光は諸藩に対し、米作離れ防止のために煙草・酒造・饅頭・南蛮菓子・そばきりなどの製造販売を禁止するなど具体策を指示。また、農民の没落を防ぐために田畑の売買(永代売)を禁止する田畑永代売買禁止令も発布しました。 この大飢饉の原因は大規模な異常気象のほか、武士の困窮、武断政治のための多額の出費など、さまざまな要因があったと考えられています。 家光の最期とその後の幕府 さまざまな障害が起こるなか親政を進めていった家光。その最期はどのようなものだったのでしょうか? 江戸城内で急死する 慶安4年(1651)家光は献上品の茶碗を見ていた際に突然震え出し、倒れて意識が戻らないまま翌日に死去しました。歩行障害があったことから、死因は脳卒中だったと考えられています。前年にはすでに病気になっており、儀礼などは嫡男・徳川家綱が代行していたようです。遺体は日光・輪王寺に葬られ、のちに廟所・大猷院(たいゆういん)が造られました。 武断政治から文治政治へ 家光死後、家綱が第4代将軍に就任しますが、わずか11歳だったことも作用し討幕未遂事件(慶安の変)が起こります。家綱は叔父・保科正之や家光時代からの大老・名臣らの補佐により政情不安を乗り越え、以後約30年間の安定政権を築きました。幕藩体制はさらに整備され、家光時代までの武断政治は終焉を迎えます。そして新たに文治政治の時代が始まったのでした。 家光にまつわるエピソード 家光はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわるエピソードをご紹介します。 祖父・家康を崇拝した「二世権現」 家光はたびたび夢で祖父・家康の姿を見ており、その肖像を絵師・狩野探幽に描かせていました。その絵は「霊夢像」といわれ、現在に伝わっています。また、身につけていたお守りに「二世権現、二世将軍」「生きるも死ぬるも何事もみな大権現様次第に」という内容が書かれた紙を入れていたそうです。権現とは家康の敬称であるため、家光は家康を尊崇していたことがうかがえます。 異母弟・保科正之を重用した 家光は父・秀忠の落とし子である異母弟・正之を可愛がり、別格扱いしていました。正之は出羽国山形藩20万石を拝領したのち、陸奥国会津藩23万石の大名に引き立てられています。家光の死後は、遺言通りに家綱を補佐して幕政改革を主導。家光の引き立てにより活躍の場を得た正之は名君といわれるほどになり、彼を藩祖とした会津藩は幕末にいたるまで幕府を守り続けました。 ヘタウマ絵の描き手だった!? 墨絵をたしなんでいた家光は、自作の絵を家臣に与えることがありました。主に描いていたのは鶺鴒(せきれい)や兎といった動物で、十数点ほど確認されています。決してうまくはないものの素朴で愛嬌があり、現在では「ヘタウマ」として注目されているようです。 江戸時代初期の幕府機構を確立した 3代将軍・家光の親政により、参勤交代や幕府の諸役職など、後世まで続く重要な制度が定まりました。このように功績を残した家光ですが、家康や秀忠と違って重臣たちが重要事項をすべて決定していたという指摘もあり、一部では厳しい評価もあるようです。次代の家綱からは文治政治がスタートしたことから、家光の治世は江戸時代最後の武断政治となりました。
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、何の目的で長崎奉行に職務規定(鎖国令)を発布したか。
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、東南アジア方面との貿易を管理する目的で長崎奉行に職務規定(鎖国令)を発布した。
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歴史
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、徳川家光である。 対外貿易の管理と統制 対外政策としては、長崎貿易での利益独占・キリスト教禁止令の強化・国際紛争の回避を目的に、貿易の管理や統制を進めました。家光は、東南アジア方面との貿易を管理する目的で長崎奉行に職務規定(鎖国令)を発布。寛永12年(1635)には日本人が海外に行くことも帰国することも禁じます。こうして宣教師の密航手段となっていた朱印船貿易は終わりを告げ、九州各地のポルトガル人は長崎の出島に隔離されました。 島原の乱が勃発! 家光が幕政改革を進めるなか、寛永14年(1637)に島原の乱が勃発します。島原半島と天草諸島の領民は以前から藩の圧政や重税に苦しんでいましたが、そこに家光によるキリシタン弾圧への不満が重なりついに蜂起。これは日本の歴史上最大の一揆といわれ、幕末以前では最後の本格的な戦いとなりました。家光はこの乱を鎮圧し、ポルトガルとの断交を決意。さらには、長崎奉行や九州地方の大名らに対してポルトガル人の追放を命令します。寛永18年(1641)には貿易拠点であるオランダ商館を長崎の出島に移転し、貿易の管理・統制として鎖国体制を固めました。 寛永の大飢饉が発生 寛永19年(1642)からは寛永の大飢饉が発生し、国内の大名や百姓たちが大打撃を受けます。幕府の基盤を固めてきた家光は、この災厄により体制の立て直しを迫られました。家光は諸藩に対し、米作離れ防止のために煙草・酒造・饅頭・南蛮菓子・そばきりなどの製造販売を禁止するなど具体策を指示。また、農民の没落を防ぐために田畑の売買(永代売)を禁止する田畑永代売買禁止令も発布しました。 この大飢饉の原因は大規模な異常気象のほか、武士の困窮、武断政治のための多額の出費など、さまざまな要因があったと考えられています。 家光の最期とその後の幕府 さまざまな障害が起こるなか親政を進めていった家光。その最期はどのようなものだったのでしょうか? 江戸城内で急死する 慶安4年(1651)家光は献上品の茶碗を見ていた際に突然震え出し、倒れて意識が戻らないまま翌日に死去しました。歩行障害があったことから、死因は脳卒中だったと考えられています。前年にはすでに病気になっており、儀礼などは嫡男・徳川家綱が代行していたようです。遺体は日光・輪王寺に葬られ、のちに廟所・大猷院(たいゆういん)が造られました。 武断政治から文治政治へ 家光死後、家綱が第4代将軍に就任しますが、わずか11歳だったことも作用し討幕未遂事件(慶安の変)が起こります。家綱は叔父・保科正之や家光時代からの大老・名臣らの補佐により政情不安を乗り越え、以後約30年間の安定政権を築きました。幕藩体制はさらに整備され、家光時代までの武断政治は終焉を迎えます。そして新たに文治政治の時代が始まったのでした。 家光にまつわるエピソード 家光はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわるエピソードをご紹介します。 祖父・家康を崇拝した「二世権現」 家光はたびたび夢で祖父・家康の姿を見ており、その肖像を絵師・狩野探幽に描かせていました。その絵は「霊夢像」といわれ、現在に伝わっています。また、身につけていたお守りに「二世権現、二世将軍」「生きるも死ぬるも何事もみな大権現様次第に」という内容が書かれた紙を入れていたそうです。権現とは家康の敬称であるため、家光は家康を尊崇していたことがうかがえます。 異母弟・保科正之を重用した 家光は父・秀忠の落とし子である異母弟・正之を可愛がり、別格扱いしていました。正之は出羽国山形藩20万石を拝領したのち、陸奥国会津藩23万石の大名に引き立てられています。家光の死後は、遺言通りに家綱を補佐して幕政改革を主導。家光の引き立てにより活躍の場を得た正之は名君といわれるほどになり、彼を藩祖とした会津藩は幕末にいたるまで幕府を守り続けました。 ヘタウマ絵の描き手だった!? 墨絵をたしなんでいた家光は、自作の絵を家臣に与えることがありました。主に描いていたのは鶺鴒(せきれい)や兎といった動物で、十数点ほど確認されています。決してうまくはないものの素朴で愛嬌があり、現在では「ヘタウマ」として注目されているようです。 江戸時代初期の幕府機構を確立した 3代将軍・家光の親政により、参勤交代や幕府の諸役職など、後世まで続く重要な制度が定まりました。このように功績を残した家光ですが、家康や秀忠と違って重臣たちが重要事項をすべて決定していたという指摘もあり、一部では厳しい評価もあるようです。次代の家綱からは文治政治がスタートしたことから、家光の治世は江戸時代最後の武断政治となりました。
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、どこの国との断交を決意したか。
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、ポルトガルとの断交を決意した。
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参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、徳川家光である。 対外貿易の管理と統制 対外政策としては、長崎貿易での利益独占・キリスト教禁止令の強化・国際紛争の回避を目的に、貿易の管理や統制を進めました。家光は、東南アジア方面との貿易を管理する目的で長崎奉行に職務規定(鎖国令)を発布。寛永12年(1635)には日本人が海外に行くことも帰国することも禁じます。こうして宣教師の密航手段となっていた朱印船貿易は終わりを告げ、九州各地のポルトガル人は長崎の出島に隔離されました。 島原の乱が勃発! 家光が幕政改革を進めるなか、寛永14年(1637)に島原の乱が勃発します。島原半島と天草諸島の領民は以前から藩の圧政や重税に苦しんでいましたが、そこに家光によるキリシタン弾圧への不満が重なりついに蜂起。これは日本の歴史上最大の一揆といわれ、幕末以前では最後の本格的な戦いとなりました。家光はこの乱を鎮圧し、ポルトガルとの断交を決意。さらには、長崎奉行や九州地方の大名らに対してポルトガル人の追放を命令します。寛永18年(1641)には貿易拠点であるオランダ商館を長崎の出島に移転し、貿易の管理・統制として鎖国体制を固めました。 寛永の大飢饉が発生 寛永19年(1642)からは寛永の大飢饉が発生し、国内の大名や百姓たちが大打撃を受けます。幕府の基盤を固めてきた家光は、この災厄により体制の立て直しを迫られました。家光は諸藩に対し、米作離れ防止のために煙草・酒造・饅頭・南蛮菓子・そばきりなどの製造販売を禁止するなど具体策を指示。また、農民の没落を防ぐために田畑の売買(永代売)を禁止する田畑永代売買禁止令も発布しました。 この大飢饉の原因は大規模な異常気象のほか、武士の困窮、武断政治のための多額の出費など、さまざまな要因があったと考えられています。 家光の最期とその後の幕府 さまざまな障害が起こるなか親政を進めていった家光。その最期はどのようなものだったのでしょうか? 江戸城内で急死する 慶安4年(1651)家光は献上品の茶碗を見ていた際に突然震え出し、倒れて意識が戻らないまま翌日に死去しました。歩行障害があったことから、死因は脳卒中だったと考えられています。前年にはすでに病気になっており、儀礼などは嫡男・徳川家綱が代行していたようです。遺体は日光・輪王寺に葬られ、のちに廟所・大猷院(たいゆういん)が造られました。 武断政治から文治政治へ 家光死後、家綱が第4代将軍に就任しますが、わずか11歳だったことも作用し討幕未遂事件(慶安の変)が起こります。家綱は叔父・保科正之や家光時代からの大老・名臣らの補佐により政情不安を乗り越え、以後約30年間の安定政権を築きました。幕藩体制はさらに整備され、家光時代までの武断政治は終焉を迎えます。そして新たに文治政治の時代が始まったのでした。 家光にまつわるエピソード 家光はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわるエピソードをご紹介します。 祖父・家康を崇拝した「二世権現」 家光はたびたび夢で祖父・家康の姿を見ており、その肖像を絵師・狩野探幽に描かせていました。その絵は「霊夢像」といわれ、現在に伝わっています。また、身につけていたお守りに「二世権現、二世将軍」「生きるも死ぬるも何事もみな大権現様次第に」という内容が書かれた紙を入れていたそうです。権現とは家康の敬称であるため、家光は家康を尊崇していたことがうかがえます。 異母弟・保科正之を重用した 家光は父・秀忠の落とし子である異母弟・正之を可愛がり、別格扱いしていました。正之は出羽国山形藩20万石を拝領したのち、陸奥国会津藩23万石の大名に引き立てられています。家光の死後は、遺言通りに家綱を補佐して幕政改革を主導。家光の引き立てにより活躍の場を得た正之は名君といわれるほどになり、彼を藩祖とした会津藩は幕末にいたるまで幕府を守り続けました。 ヘタウマ絵の描き手だった!? 墨絵をたしなんでいた家光は、自作の絵を家臣に与えることがありました。主に描いていたのは鶺鴒(せきれい)や兎といった動物で、十数点ほど確認されています。決してうまくはないものの素朴で愛嬌があり、現在では「ヘタウマ」として注目されているようです。 江戸時代初期の幕府機構を確立した 3代将軍・家光の親政により、参勤交代や幕府の諸役職など、後世まで続く重要な制度が定まりました。このように功績を残した家光ですが、家康や秀忠と違って重臣たちが重要事項をすべて決定していたという指摘もあり、一部では厳しい評価もあるようです。次代の家綱からは文治政治がスタートしたことから、家光の治世は江戸時代最後の武断政治となりました。
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、諸藩に対し、米作離れ防止のために何の製造販売を禁止するなど具体策を指示したか。
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、諸藩に対し、米作離れ防止のために煙草・酒造・饅頭・南蛮菓子・そばきりなどの製造販売を禁止するなど具体策を指示した。
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歴史
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、徳川家光である。 対外貿易の管理と統制 対外政策としては、長崎貿易での利益独占・キリスト教禁止令の強化・国際紛争の回避を目的に、貿易の管理や統制を進めました。家光は、東南アジア方面との貿易を管理する目的で長崎奉行に職務規定(鎖国令)を発布。寛永12年(1635)には日本人が海外に行くことも帰国することも禁じます。こうして宣教師の密航手段となっていた朱印船貿易は終わりを告げ、九州各地のポルトガル人は長崎の出島に隔離されました。 島原の乱が勃発! 家光が幕政改革を進めるなか、寛永14年(1637)に島原の乱が勃発します。島原半島と天草諸島の領民は以前から藩の圧政や重税に苦しんでいましたが、そこに家光によるキリシタン弾圧への不満が重なりついに蜂起。これは日本の歴史上最大の一揆といわれ、幕末以前では最後の本格的な戦いとなりました。家光はこの乱を鎮圧し、ポルトガルとの断交を決意。さらには、長崎奉行や九州地方の大名らに対してポルトガル人の追放を命令します。寛永18年(1641)には貿易拠点であるオランダ商館を長崎の出島に移転し、貿易の管理・統制として鎖国体制を固めました。 寛永の大飢饉が発生 寛永19年(1642)からは寛永の大飢饉が発生し、国内の大名や百姓たちが大打撃を受けます。幕府の基盤を固めてきた家光は、この災厄により体制の立て直しを迫られました。家光は諸藩に対し、米作離れ防止のために煙草・酒造・饅頭・南蛮菓子・そばきりなどの製造販売を禁止するなど具体策を指示。また、農民の没落を防ぐために田畑の売買(永代売)を禁止する田畑永代売買禁止令も発布しました。 この大飢饉の原因は大規模な異常気象のほか、武士の困窮、武断政治のための多額の出費など、さまざまな要因があったと考えられています。 家光の最期とその後の幕府 さまざまな障害が起こるなか親政を進めていった家光。その最期はどのようなものだったのでしょうか? 江戸城内で急死する 慶安4年(1651)家光は献上品の茶碗を見ていた際に突然震え出し、倒れて意識が戻らないまま翌日に死去しました。歩行障害があったことから、死因は脳卒中だったと考えられています。前年にはすでに病気になっており、儀礼などは嫡男・徳川家綱が代行していたようです。遺体は日光・輪王寺に葬られ、のちに廟所・大猷院(たいゆういん)が造られました。 武断政治から文治政治へ 家光死後、家綱が第4代将軍に就任しますが、わずか11歳だったことも作用し討幕未遂事件(慶安の変)が起こります。家綱は叔父・保科正之や家光時代からの大老・名臣らの補佐により政情不安を乗り越え、以後約30年間の安定政権を築きました。幕藩体制はさらに整備され、家光時代までの武断政治は終焉を迎えます。そして新たに文治政治の時代が始まったのでした。 家光にまつわるエピソード 家光はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわるエピソードをご紹介します。 祖父・家康を崇拝した「二世権現」 家光はたびたび夢で祖父・家康の姿を見ており、その肖像を絵師・狩野探幽に描かせていました。その絵は「霊夢像」といわれ、現在に伝わっています。また、身につけていたお守りに「二世権現、二世将軍」「生きるも死ぬるも何事もみな大権現様次第に」という内容が書かれた紙を入れていたそうです。権現とは家康の敬称であるため、家光は家康を尊崇していたことがうかがえます。 異母弟・保科正之を重用した 家光は父・秀忠の落とし子である異母弟・正之を可愛がり、別格扱いしていました。正之は出羽国山形藩20万石を拝領したのち、陸奥国会津藩23万石の大名に引き立てられています。家光の死後は、遺言通りに家綱を補佐して幕政改革を主導。家光の引き立てにより活躍の場を得た正之は名君といわれるほどになり、彼を藩祖とした会津藩は幕末にいたるまで幕府を守り続けました。 ヘタウマ絵の描き手だった!? 墨絵をたしなんでいた家光は、自作の絵を家臣に与えることがありました。主に描いていたのは鶺鴒(せきれい)や兎といった動物で、十数点ほど確認されています。決してうまくはないものの素朴で愛嬌があり、現在では「ヘタウマ」として注目されているようです。 江戸時代初期の幕府機構を確立した 3代将軍・家光の親政により、参勤交代や幕府の諸役職など、後世まで続く重要な制度が定まりました。このように功績を残した家光ですが、家康や秀忠と違って重臣たちが重要事項をすべて決定していたという指摘もあり、一部では厳しい評価もあるようです。次代の家綱からは文治政治がスタートしたことから、家光の治世は江戸時代最後の武断政治となりました。
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、何をしている際に突然震え出し、倒れて意識が戻らないまま翌日に死去したか。
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、献上品の茶碗を見ていた際に突然震え出し、倒れて意識が戻らないまま翌日に死去した。
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歴史
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、徳川家光である。 対外貿易の管理と統制 対外政策としては、長崎貿易での利益独占・キリスト教禁止令の強化・国際紛争の回避を目的に、貿易の管理や統制を進めました。家光は、東南アジア方面との貿易を管理する目的で長崎奉行に職務規定(鎖国令)を発布。寛永12年(1635)には日本人が海外に行くことも帰国することも禁じます。こうして宣教師の密航手段となっていた朱印船貿易は終わりを告げ、九州各地のポルトガル人は長崎の出島に隔離されました。 島原の乱が勃発! 家光が幕政改革を進めるなか、寛永14年(1637)に島原の乱が勃発します。島原半島と天草諸島の領民は以前から藩の圧政や重税に苦しんでいましたが、そこに家光によるキリシタン弾圧への不満が重なりついに蜂起。これは日本の歴史上最大の一揆といわれ、幕末以前では最後の本格的な戦いとなりました。家光はこの乱を鎮圧し、ポルトガルとの断交を決意。さらには、長崎奉行や九州地方の大名らに対してポルトガル人の追放を命令します。寛永18年(1641)には貿易拠点であるオランダ商館を長崎の出島に移転し、貿易の管理・統制として鎖国体制を固めました。 寛永の大飢饉が発生 寛永19年(1642)からは寛永の大飢饉が発生し、国内の大名や百姓たちが大打撃を受けます。幕府の基盤を固めてきた家光は、この災厄により体制の立て直しを迫られました。家光は諸藩に対し、米作離れ防止のために煙草・酒造・饅頭・南蛮菓子・そばきりなどの製造販売を禁止するなど具体策を指示。また、農民の没落を防ぐために田畑の売買(永代売)を禁止する田畑永代売買禁止令も発布しました。 この大飢饉の原因は大規模な異常気象のほか、武士の困窮、武断政治のための多額の出費など、さまざまな要因があったと考えられています。 家光の最期とその後の幕府 さまざまな障害が起こるなか親政を進めていった家光。その最期はどのようなものだったのでしょうか? 江戸城内で急死する 慶安4年(1651)家光は献上品の茶碗を見ていた際に突然震え出し、倒れて意識が戻らないまま翌日に死去しました。歩行障害があったことから、死因は脳卒中だったと考えられています。前年にはすでに病気になっており、儀礼などは嫡男・徳川家綱が代行していたようです。遺体は日光・輪王寺に葬られ、のちに廟所・大猷院(たいゆういん)が造られました。 武断政治から文治政治へ 家光死後、家綱が第4代将軍に就任しますが、わずか11歳だったことも作用し討幕未遂事件(慶安の変)が起こります。家綱は叔父・保科正之や家光時代からの大老・名臣らの補佐により政情不安を乗り越え、以後約30年間の安定政権を築きました。幕藩体制はさらに整備され、家光時代までの武断政治は終焉を迎えます。そして新たに文治政治の時代が始まったのでした。 家光にまつわるエピソード 家光はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわるエピソードをご紹介します。 祖父・家康を崇拝した「二世権現」 家光はたびたび夢で祖父・家康の姿を見ており、その肖像を絵師・狩野探幽に描かせていました。その絵は「霊夢像」といわれ、現在に伝わっています。また、身につけていたお守りに「二世権現、二世将軍」「生きるも死ぬるも何事もみな大権現様次第に」という内容が書かれた紙を入れていたそうです。権現とは家康の敬称であるため、家光は家康を尊崇していたことがうかがえます。 異母弟・保科正之を重用した 家光は父・秀忠の落とし子である異母弟・正之を可愛がり、別格扱いしていました。正之は出羽国山形藩20万石を拝領したのち、陸奥国会津藩23万石の大名に引き立てられています。家光の死後は、遺言通りに家綱を補佐して幕政改革を主導。家光の引き立てにより活躍の場を得た正之は名君といわれるほどになり、彼を藩祖とした会津藩は幕末にいたるまで幕府を守り続けました。 ヘタウマ絵の描き手だった!? 墨絵をたしなんでいた家光は、自作の絵を家臣に与えることがありました。主に描いていたのは鶺鴒(せきれい)や兎といった動物で、十数点ほど確認されています。決してうまくはないものの素朴で愛嬌があり、現在では「ヘタウマ」として注目されているようです。 江戸時代初期の幕府機構を確立した 3代将軍・家光の親政により、参勤交代や幕府の諸役職など、後世まで続く重要な制度が定まりました。このように功績を残した家光ですが、家康や秀忠と違って重臣たちが重要事項をすべて決定していたという指摘もあり、一部では厳しい評価もあるようです。次代の家綱からは文治政治がスタートしたことから、家光の治世は江戸時代最後の武断政治となりました。
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、たびたび夢で祖父・家康の姿を見ており、その肖像を誰に描かせていたか。
参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、たびたび夢で祖父・家康の姿を見ており、その肖像を絵師・狩野探幽に描かせていた。
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歴史
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、柳生十兵衛である。 剣豪・柳生宗矩の子として 剣豪として有名な十兵衛ですが、青年期は紆余曲折あったようです。彼のうまれや徳川家光への出仕について振り返ります。 小姓として徳川家光に仕える 十兵衛は慶長12年(1607)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)で、新陰流免許皆伝者の柳生宗矩(やぎゅうむねのり)とその妻・おりんの長男として生まれました。幼名は七郎、十兵衛という名前は通称です。父・宗矩は徳川秀忠の兵法指南役でもあり、のちに柳生藩の初代藩主となりました。10歳のときに父に連れられて秀忠に謁見した十兵衛は、13歳で徳川家光の小姓となります。元和7年(1621)に宗矩が家光の兵法指南役に就任すると、家光の稽古の相手となり特別な待遇をうけました。 蟄居命令により、故郷へ 寛永3年(1626)家光の怒りに触れた十兵衛は、蟄居を命じられます。家光の怒りの原因は定かではありませんが、なかなか再出仕は許されず、10年前後にわたり江戸を離れました。故郷の柳生庄に引きこもった十兵衛は、祖父や父の口伝や目録について研究したり兵法を研さんしたりしたといいます。また、祖父の門人を訪問することもあったようです。ただし十兵衛にはさまざまな伝説があり、この蟄居期間に諸国を巡って武者修行したという説も残されています。 江戸への帰還と再出仕 長いあいだ蟄居していた十兵衛ですが、やがて江戸へと戻ります。その後の十兵衛はどのように過ごしたのでしょうか? 父から剣術の印可を受ける 家光の兵法指南役に就いた父・宗矩は、家光からの信任を得て累進し、寛永13年(1636)には大名となり大和国柳生藩を立藩していました。そんななか、寛永14年(1637)に十兵衛はついに江戸に帰還します。柳生藩邸に滞在しながら新陰流の相伝を受けた十兵衛は、同年、それらの至極を伝書にまとめました。しかし、その内容を見た父からすべて焼き捨てるよう命じられてしまいます。驚いた十兵衛は、宗矩の友人である臨済宗の禅僧・沢庵宗彭に相談。すると沢庵は宗矩の真意を説き、伝書を加筆修正しました。これにより父の言わんとするところを悟った十兵衛は、再度伝書を提出し、ようやく宗矩に認められて印可(悟りを得たことを証明認可すること)を受けたのでした。
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、いつ生まれたか。
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、慶長12年(1607)に生まれた。
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歴史
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、柳生十兵衛である。 剣豪・柳生宗矩の子として 剣豪として有名な十兵衛ですが、青年期は紆余曲折あったようです。彼のうまれや徳川家光への出仕について振り返ります。 小姓として徳川家光に仕える 十兵衛は慶長12年(1607)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)で、新陰流免許皆伝者の柳生宗矩(やぎゅうむねのり)とその妻・おりんの長男として生まれました。幼名は七郎、十兵衛という名前は通称です。父・宗矩は徳川秀忠の兵法指南役でもあり、のちに柳生藩の初代藩主となりました。10歳のときに父に連れられて秀忠に謁見した十兵衛は、13歳で徳川家光の小姓となります。元和7年(1621)に宗矩が家光の兵法指南役に就任すると、家光の稽古の相手となり特別な待遇をうけました。 蟄居命令により、故郷へ 寛永3年(1626)家光の怒りに触れた十兵衛は、蟄居を命じられます。家光の怒りの原因は定かではありませんが、なかなか再出仕は許されず、10年前後にわたり江戸を離れました。故郷の柳生庄に引きこもった十兵衛は、祖父や父の口伝や目録について研究したり兵法を研さんしたりしたといいます。また、祖父の門人を訪問することもあったようです。ただし十兵衛にはさまざまな伝説があり、この蟄居期間に諸国を巡って武者修行したという説も残されています。 江戸への帰還と再出仕 長いあいだ蟄居していた十兵衛ですが、やがて江戸へと戻ります。その後の十兵衛はどのように過ごしたのでしょうか? 父から剣術の印可を受ける 家光の兵法指南役に就いた父・宗矩は、家光からの信任を得て累進し、寛永13年(1636)には大名となり大和国柳生藩を立藩していました。そんななか、寛永14年(1637)に十兵衛はついに江戸に帰還します。柳生藩邸に滞在しながら新陰流の相伝を受けた十兵衛は、同年、それらの至極を伝書にまとめました。しかし、その内容を見た父からすべて焼き捨てるよう命じられてしまいます。驚いた十兵衛は、宗矩の友人である臨済宗の禅僧・沢庵宗彭に相談。すると沢庵は宗矩の真意を説き、伝書を加筆修正しました。これにより父の言わんとするところを悟った十兵衛は、再度伝書を提出し、ようやく宗矩に認められて印可(悟りを得たことを証明認可すること)を受けたのでした。
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、どこで生まれたか。
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)で生まれた。
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歴史
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、柳生十兵衛である。 剣豪・柳生宗矩の子として 剣豪として有名な十兵衛ですが、青年期は紆余曲折あったようです。彼のうまれや徳川家光への出仕について振り返ります。 小姓として徳川家光に仕える 十兵衛は慶長12年(1607)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)で、新陰流免許皆伝者の柳生宗矩(やぎゅうむねのり)とその妻・おりんの長男として生まれました。幼名は七郎、十兵衛という名前は通称です。父・宗矩は徳川秀忠の兵法指南役でもあり、のちに柳生藩の初代藩主となりました。10歳のときに父に連れられて秀忠に謁見した十兵衛は、13歳で徳川家光の小姓となります。元和7年(1621)に宗矩が家光の兵法指南役に就任すると、家光の稽古の相手となり特別な待遇をうけました。 蟄居命令により、故郷へ 寛永3年(1626)家光の怒りに触れた十兵衛は、蟄居を命じられます。家光の怒りの原因は定かではありませんが、なかなか再出仕は許されず、10年前後にわたり江戸を離れました。故郷の柳生庄に引きこもった十兵衛は、祖父や父の口伝や目録について研究したり兵法を研さんしたりしたといいます。また、祖父の門人を訪問することもあったようです。ただし十兵衛にはさまざまな伝説があり、この蟄居期間に諸国を巡って武者修行したという説も残されています。 江戸への帰還と再出仕 長いあいだ蟄居していた十兵衛ですが、やがて江戸へと戻ります。その後の十兵衛はどのように過ごしたのでしょうか? 父から剣術の印可を受ける 家光の兵法指南役に就いた父・宗矩は、家光からの信任を得て累進し、寛永13年(1636)には大名となり大和国柳生藩を立藩していました。そんななか、寛永14年(1637)に十兵衛はついに江戸に帰還します。柳生藩邸に滞在しながら新陰流の相伝を受けた十兵衛は、同年、それらの至極を伝書にまとめました。しかし、その内容を見た父からすべて焼き捨てるよう命じられてしまいます。驚いた十兵衛は、宗矩の友人である臨済宗の禅僧・沢庵宗彭に相談。すると沢庵は宗矩の真意を説き、伝書を加筆修正しました。これにより父の言わんとするところを悟った十兵衛は、再度伝書を提出し、ようやく宗矩に認められて印可(悟りを得たことを証明認可すること)を受けたのでした。
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、誰の長男として生まれたか。
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、新陰流免許皆伝者の柳生宗矩(やぎゅうむねのり)とその妻・おりんの長男として生まれた。
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歴史
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、柳生十兵衛である。 剣豪・柳生宗矩の子として 剣豪として有名な十兵衛ですが、青年期は紆余曲折あったようです。彼のうまれや徳川家光への出仕について振り返ります。 小姓として徳川家光に仕える 十兵衛は慶長12年(1607)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)で、新陰流免許皆伝者の柳生宗矩(やぎゅうむねのり)とその妻・おりんの長男として生まれました。幼名は七郎、十兵衛という名前は通称です。父・宗矩は徳川秀忠の兵法指南役でもあり、のちに柳生藩の初代藩主となりました。10歳のときに父に連れられて秀忠に謁見した十兵衛は、13歳で徳川家光の小姓となります。元和7年(1621)に宗矩が家光の兵法指南役に就任すると、家光の稽古の相手となり特別な待遇をうけました。 蟄居命令により、故郷へ 寛永3年(1626)家光の怒りに触れた十兵衛は、蟄居を命じられます。家光の怒りの原因は定かではありませんが、なかなか再出仕は許されず、10年前後にわたり江戸を離れました。故郷の柳生庄に引きこもった十兵衛は、祖父や父の口伝や目録について研究したり兵法を研さんしたりしたといいます。また、祖父の門人を訪問することもあったようです。ただし十兵衛にはさまざまな伝説があり、この蟄居期間に諸国を巡って武者修行したという説も残されています。 江戸への帰還と再出仕 長いあいだ蟄居していた十兵衛ですが、やがて江戸へと戻ります。その後の十兵衛はどのように過ごしたのでしょうか? 父から剣術の印可を受ける 家光の兵法指南役に就いた父・宗矩は、家光からの信任を得て累進し、寛永13年(1636)には大名となり大和国柳生藩を立藩していました。そんななか、寛永14年(1637)に十兵衛はついに江戸に帰還します。柳生藩邸に滞在しながら新陰流の相伝を受けた十兵衛は、同年、それらの至極を伝書にまとめました。しかし、その内容を見た父からすべて焼き捨てるよう命じられてしまいます。驚いた十兵衛は、宗矩の友人である臨済宗の禅僧・沢庵宗彭に相談。すると沢庵は宗矩の真意を説き、伝書を加筆修正しました。これにより父の言わんとするところを悟った十兵衛は、再度伝書を提出し、ようやく宗矩に認められて印可(悟りを得たことを証明認可すること)を受けたのでした。
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、何歳で徳川家光の小姓となったか。
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、13歳で徳川家光の小姓となった。
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歴史
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、柳生十兵衛である。 剣豪・柳生宗矩の子として 剣豪として有名な十兵衛ですが、青年期は紆余曲折あったようです。彼のうまれや徳川家光への出仕について振り返ります。 小姓として徳川家光に仕える 十兵衛は慶長12年(1607)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)で、新陰流免許皆伝者の柳生宗矩(やぎゅうむねのり)とその妻・おりんの長男として生まれました。幼名は七郎、十兵衛という名前は通称です。父・宗矩は徳川秀忠の兵法指南役でもあり、のちに柳生藩の初代藩主となりました。10歳のときに父に連れられて秀忠に謁見した十兵衛は、13歳で徳川家光の小姓となります。元和7年(1621)に宗矩が家光の兵法指南役に就任すると、家光の稽古の相手となり特別な待遇をうけました。 蟄居命令により、故郷へ 寛永3年(1626)家光の怒りに触れた十兵衛は、蟄居を命じられます。家光の怒りの原因は定かではありませんが、なかなか再出仕は許されず、10年前後にわたり江戸を離れました。故郷の柳生庄に引きこもった十兵衛は、祖父や父の口伝や目録について研究したり兵法を研さんしたりしたといいます。また、祖父の門人を訪問することもあったようです。ただし十兵衛にはさまざまな伝説があり、この蟄居期間に諸国を巡って武者修行したという説も残されています。 江戸への帰還と再出仕 長いあいだ蟄居していた十兵衛ですが、やがて江戸へと戻ります。その後の十兵衛はどのように過ごしたのでしょうか? 父から剣術の印可を受ける 家光の兵法指南役に就いた父・宗矩は、家光からの信任を得て累進し、寛永13年(1636)には大名となり大和国柳生藩を立藩していました。そんななか、寛永14年(1637)に十兵衛はついに江戸に帰還します。柳生藩邸に滞在しながら新陰流の相伝を受けた十兵衛は、同年、それらの至極を伝書にまとめました。しかし、その内容を見た父からすべて焼き捨てるよう命じられてしまいます。驚いた十兵衛は、宗矩の友人である臨済宗の禅僧・沢庵宗彭に相談。すると沢庵は宗矩の真意を説き、伝書を加筆修正しました。これにより父の言わんとするところを悟った十兵衛は、再度伝書を提出し、ようやく宗矩に認められて印可(悟りを得たことを証明認可すること)を受けたのでした。
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、何について研究したり兵法を研さんしたか。
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、祖父や父の口伝や目録について研究したり兵法を研さんした。
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歴史
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、柳生十兵衛である。 江戸城御書院番に就任 寛永15年(1638)家光に重用されていた異母弟・柳生友矩(とものり)が病により辞職し、再出仕が許された十兵衛は江戸城御書院番に就任しました。書院番とは江戸幕府の徳川将軍直属の軍団で、その職務は江戸城内の警備や江戸市中の巡回、将軍外出時の随行、幕府巡見使としての諸国派遣など多岐にわたります。十兵衛の場合は、家光の前での兵法披露などもしていたようです。寛永19年(1642)には、故郷に引きこもっていたあいだに収集した資料などをもとに、新陰流の知識をまとめて『月之抄』を執筆。これはのちに彼の代表作となりました。 家督継承と最期 家光に再出仕した十兵衛でしたが、父の死により状況が変わります。十兵衛の家督の継承から最期までについて振り返ります。 8300石を相続して藩主へ 正保3年(1646)父・宗矩が死去し、遺領は家光の裁量によって兄弟間で分けられることになりました。十兵衛は8300石を相続して家督を継承。このとき1万石を下回ったため、立藩から11年目にして大名から旗本の地位に戻りました。そのため十兵衛は大名ではありませんが、便宜上、柳生藩2代目藩主とされています。 十兵衛は強く勇ましく、周囲がそのようすを恐れて従うような人物でした。しかし、家督継承後は寛容な性格になり、家風を守りながら政務に励んだといいます。また身分の低い者にも哀れみを持ち、処罰もしなかったようです。その一方では家業の兵法の発展にも努めました。 大名に返り咲いた柳生家 柳生藩主となった十兵衛でしたが、慶安3年(1650)鷹狩のために出かけた先で急死します。奈良奉行により検死が行われ村人たちも尋問されましたが、死因は不明のまま柳生家の菩提寺・中宮寺(奈良市柳生下町)に埋葬されました。十兵衛には跡継ぎとなる嫡子がいませんでしたが、父の勲功により柳生藩の存続が認められ、同母弟・柳生宗冬が自身の領地を返上して柳生藩を継承。宗冬は加増を重ねていき、やがて総石高1万石以上で再度大名となり柳生藩の地位を回復させました。 十兵衛にまつわる逸話 十兵衛はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわる逸話についてご紹介します。 隻眼の剣豪といわれる理由とは? 十兵衛は片目に眼帯をつけた隻眼の剣豪として知られています。『正傳新陰流』には、幼いころの稽古で父・宗矩の木剣が目に当たったとあり、『柳荒美談』では、宗矩が十兵衛の技量を見極めるために小石を投げて目に当たったと記されています。このように隻眼の理由にはさまざまな説がありますが、当時の史料には隻眼との記述はなく、肖像画とされる人物には両目が描かれているようです。もしかすると、強い剣豪のイメージとして創作されたものかもしれません。 桂小五郎・高杉晋作も学んだ「新陰柳生当流」 十兵衛の祖父・柳生宗厳(むねよし/むねとし/そうごん)には柳生松右衛門という高弟がおり、彼の伝えた新陰流は長州藩で広まっていました。松右衛門の高弟である内藤元幸は、子・就幸にそれを伝授。就幸は家中で新陰流を指南していましたが、十兵衛の噂を聞いて江戸で弟子入りします。内藤家では十兵衛により近代化された新陰流を「新陰柳生当流」と呼んで代々伝えました。これはのちに長州藩の藩校・明倫館でも採用され、幕末で活躍する桂小五郎や高杉晋作らも学んだそうです。 蟄居の原因は酒グセの悪さ!? 十兵衛は酒好きで、酔うと言動が荒くなるタイプだったようです。家光からの蟄居命令もこの酒グセの悪さが原因ではないかといわれており、再出仕の際に沢庵からも忠告されています。しかし、彼の酒好きはおさまらなかったようで、朝から寺に酒を持参し僧たちに振る舞うなどの行動が『沢庵和尚書簡集』に記されています。 柳生十兵衛と宮本武蔵 十兵衛と近い時期に活躍した剣豪に宮本武蔵がいます。もし戦ったらどちらが強いのか……そんなふうに思う人も多いのではないでしょうか。史料には二人の接点はありませんが、十兵衛の父・宗矩と武蔵については、武蔵が将軍家指南役として招かれそうになったところを宗矩が妨害したといった逸話が残されています。ただし、宗矩と武蔵についても確かな史料には接点が見られず、創作の可能性が高いようです。 講談でさらなるヒーローに! 剣豪として幕府に仕え、将軍に剣術を指南・披露するなど活躍した十兵衛。後世では彼を主人公とする講談が多く創作されました。それらの作品のなかで活躍を盛られたことで、十兵衛はヒーローとして広く知られるようになったといえるでしょう。酒グセの悪さなど素行に少々問題があった十兵衛ですが、剣術の腕は達人です。その大きなギャップが彼の魅力といえるかもしれませんね。
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、何に就任したか。
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、江戸城御書院番に就任した。
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歴史
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、柳生十兵衛である。 江戸城御書院番に就任 寛永15年(1638)家光に重用されていた異母弟・柳生友矩(とものり)が病により辞職し、再出仕が許された十兵衛は江戸城御書院番に就任しました。書院番とは江戸幕府の徳川将軍直属の軍団で、その職務は江戸城内の警備や江戸市中の巡回、将軍外出時の随行、幕府巡見使としての諸国派遣など多岐にわたります。十兵衛の場合は、家光の前での兵法披露などもしていたようです。寛永19年(1642)には、故郷に引きこもっていたあいだに収集した資料などをもとに、新陰流の知識をまとめて『月之抄』を執筆。これはのちに彼の代表作となりました。 家督継承と最期 家光に再出仕した十兵衛でしたが、父の死により状況が変わります。十兵衛の家督の継承から最期までについて振り返ります。 8300石を相続して藩主へ 正保3年(1646)父・宗矩が死去し、遺領は家光の裁量によって兄弟間で分けられることになりました。十兵衛は8300石を相続して家督を継承。このとき1万石を下回ったため、立藩から11年目にして大名から旗本の地位に戻りました。そのため十兵衛は大名ではありませんが、便宜上、柳生藩2代目藩主とされています。 十兵衛は強く勇ましく、周囲がそのようすを恐れて従うような人物でした。しかし、家督継承後は寛容な性格になり、家風を守りながら政務に励んだといいます。また身分の低い者にも哀れみを持ち、処罰もしなかったようです。その一方では家業の兵法の発展にも努めました。 大名に返り咲いた柳生家 柳生藩主となった十兵衛でしたが、慶安3年(1650)鷹狩のために出かけた先で急死します。奈良奉行により検死が行われ村人たちも尋問されましたが、死因は不明のまま柳生家の菩提寺・中宮寺(奈良市柳生下町)に埋葬されました。十兵衛には跡継ぎとなる嫡子がいませんでしたが、父の勲功により柳生藩の存続が認められ、同母弟・柳生宗冬が自身の領地を返上して柳生藩を継承。宗冬は加増を重ねていき、やがて総石高1万石以上で再度大名となり柳生藩の地位を回復させました。 十兵衛にまつわる逸話 十兵衛はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわる逸話についてご紹介します。 隻眼の剣豪といわれる理由とは? 十兵衛は片目に眼帯をつけた隻眼の剣豪として知られています。『正傳新陰流』には、幼いころの稽古で父・宗矩の木剣が目に当たったとあり、『柳荒美談』では、宗矩が十兵衛の技量を見極めるために小石を投げて目に当たったと記されています。このように隻眼の理由にはさまざまな説がありますが、当時の史料には隻眼との記述はなく、肖像画とされる人物には両目が描かれているようです。もしかすると、強い剣豪のイメージとして創作されたものかもしれません。 桂小五郎・高杉晋作も学んだ「新陰柳生当流」 十兵衛の祖父・柳生宗厳(むねよし/むねとし/そうごん)には柳生松右衛門という高弟がおり、彼の伝えた新陰流は長州藩で広まっていました。松右衛門の高弟である内藤元幸は、子・就幸にそれを伝授。就幸は家中で新陰流を指南していましたが、十兵衛の噂を聞いて江戸で弟子入りします。内藤家では十兵衛により近代化された新陰流を「新陰柳生当流」と呼んで代々伝えました。これはのちに長州藩の藩校・明倫館でも採用され、幕末で活躍する桂小五郎や高杉晋作らも学んだそうです。 蟄居の原因は酒グセの悪さ!? 十兵衛は酒好きで、酔うと言動が荒くなるタイプだったようです。家光からの蟄居命令もこの酒グセの悪さが原因ではないかといわれており、再出仕の際に沢庵からも忠告されています。しかし、彼の酒好きはおさまらなかったようで、朝から寺に酒を持参し僧たちに振る舞うなどの行動が『沢庵和尚書簡集』に記されています。 柳生十兵衛と宮本武蔵 十兵衛と近い時期に活躍した剣豪に宮本武蔵がいます。もし戦ったらどちらが強いのか……そんなふうに思う人も多いのではないでしょうか。史料には二人の接点はありませんが、十兵衛の父・宗矩と武蔵については、武蔵が将軍家指南役として招かれそうになったところを宗矩が妨害したといった逸話が残されています。ただし、宗矩と武蔵についても確かな史料には接点が見られず、創作の可能性が高いようです。 講談でさらなるヒーローに! 剣豪として幕府に仕え、将軍に剣術を指南・披露するなど活躍した十兵衛。後世では彼を主人公とする講談が多く創作されました。それらの作品のなかで活躍を盛られたことで、十兵衛はヒーローとして広く知られるようになったといえるでしょう。酒グセの悪さなど素行に少々問題があった十兵衛ですが、剣術の腕は達人です。その大きなギャップが彼の魅力といえるかもしれませんね。
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、故郷に引きこもっていたあいだに収集した資料などをもとに、新陰流の知識をまとめて何を執筆したか。
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、故郷に引きこもっていたあいだに収集した資料などをもとに、新陰流の知識をまとめて『月之抄』を執筆した。
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歴史
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、柳生十兵衛である。 江戸城御書院番に就任 寛永15年(1638)家光に重用されていた異母弟・柳生友矩(とものり)が病により辞職し、再出仕が許された十兵衛は江戸城御書院番に就任しました。書院番とは江戸幕府の徳川将軍直属の軍団で、その職務は江戸城内の警備や江戸市中の巡回、将軍外出時の随行、幕府巡見使としての諸国派遣など多岐にわたります。十兵衛の場合は、家光の前での兵法披露などもしていたようです。寛永19年(1642)には、故郷に引きこもっていたあいだに収集した資料などをもとに、新陰流の知識をまとめて『月之抄』を執筆。これはのちに彼の代表作となりました。 家督継承と最期 家光に再出仕した十兵衛でしたが、父の死により状況が変わります。十兵衛の家督の継承から最期までについて振り返ります。 8300石を相続して藩主へ 正保3年(1646)父・宗矩が死去し、遺領は家光の裁量によって兄弟間で分けられることになりました。十兵衛は8300石を相続して家督を継承。このとき1万石を下回ったため、立藩から11年目にして大名から旗本の地位に戻りました。そのため十兵衛は大名ではありませんが、便宜上、柳生藩2代目藩主とされています。 十兵衛は強く勇ましく、周囲がそのようすを恐れて従うような人物でした。しかし、家督継承後は寛容な性格になり、家風を守りながら政務に励んだといいます。また身分の低い者にも哀れみを持ち、処罰もしなかったようです。その一方では家業の兵法の発展にも努めました。 大名に返り咲いた柳生家 柳生藩主となった十兵衛でしたが、慶安3年(1650)鷹狩のために出かけた先で急死します。奈良奉行により検死が行われ村人たちも尋問されましたが、死因は不明のまま柳生家の菩提寺・中宮寺(奈良市柳生下町)に埋葬されました。十兵衛には跡継ぎとなる嫡子がいませんでしたが、父の勲功により柳生藩の存続が認められ、同母弟・柳生宗冬が自身の領地を返上して柳生藩を継承。宗冬は加増を重ねていき、やがて総石高1万石以上で再度大名となり柳生藩の地位を回復させました。 十兵衛にまつわる逸話 十兵衛はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわる逸話についてご紹介します。 隻眼の剣豪といわれる理由とは? 十兵衛は片目に眼帯をつけた隻眼の剣豪として知られています。『正傳新陰流』には、幼いころの稽古で父・宗矩の木剣が目に当たったとあり、『柳荒美談』では、宗矩が十兵衛の技量を見極めるために小石を投げて目に当たったと記されています。このように隻眼の理由にはさまざまな説がありますが、当時の史料には隻眼との記述はなく、肖像画とされる人物には両目が描かれているようです。もしかすると、強い剣豪のイメージとして創作されたものかもしれません。 桂小五郎・高杉晋作も学んだ「新陰柳生当流」 十兵衛の祖父・柳生宗厳(むねよし/むねとし/そうごん)には柳生松右衛門という高弟がおり、彼の伝えた新陰流は長州藩で広まっていました。松右衛門の高弟である内藤元幸は、子・就幸にそれを伝授。就幸は家中で新陰流を指南していましたが、十兵衛の噂を聞いて江戸で弟子入りします。内藤家では十兵衛により近代化された新陰流を「新陰柳生当流」と呼んで代々伝えました。これはのちに長州藩の藩校・明倫館でも採用され、幕末で活躍する桂小五郎や高杉晋作らも学んだそうです。 蟄居の原因は酒グセの悪さ!? 十兵衛は酒好きで、酔うと言動が荒くなるタイプだったようです。家光からの蟄居命令もこの酒グセの悪さが原因ではないかといわれており、再出仕の際に沢庵からも忠告されています。しかし、彼の酒好きはおさまらなかったようで、朝から寺に酒を持参し僧たちに振る舞うなどの行動が『沢庵和尚書簡集』に記されています。 柳生十兵衛と宮本武蔵 十兵衛と近い時期に活躍した剣豪に宮本武蔵がいます。もし戦ったらどちらが強いのか……そんなふうに思う人も多いのではないでしょうか。史料には二人の接点はありませんが、十兵衛の父・宗矩と武蔵については、武蔵が将軍家指南役として招かれそうになったところを宗矩が妨害したといった逸話が残されています。ただし、宗矩と武蔵についても確かな史料には接点が見られず、創作の可能性が高いようです。 講談でさらなるヒーローに! 剣豪として幕府に仕え、将軍に剣術を指南・披露するなど活躍した十兵衛。後世では彼を主人公とする講談が多く創作されました。それらの作品のなかで活躍を盛られたことで、十兵衛はヒーローとして広く知られるようになったといえるでしょう。酒グセの悪さなど素行に少々問題があった十兵衛ですが、剣術の腕は達人です。その大きなギャップが彼の魅力といえるかもしれませんね。
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、何を相続して家督を継承したか。
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、8300石を相続して家督を継承した。
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歴史
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、柳生十兵衛である。 江戸城御書院番に就任 寛永15年(1638)家光に重用されていた異母弟・柳生友矩(とものり)が病により辞職し、再出仕が許された十兵衛は江戸城御書院番に就任しました。書院番とは江戸幕府の徳川将軍直属の軍団で、その職務は江戸城内の警備や江戸市中の巡回、将軍外出時の随行、幕府巡見使としての諸国派遣など多岐にわたります。十兵衛の場合は、家光の前での兵法披露などもしていたようです。寛永19年(1642)には、故郷に引きこもっていたあいだに収集した資料などをもとに、新陰流の知識をまとめて『月之抄』を執筆。これはのちに彼の代表作となりました。 家督継承と最期 家光に再出仕した十兵衛でしたが、父の死により状況が変わります。十兵衛の家督の継承から最期までについて振り返ります。 8300石を相続して藩主へ 正保3年(1646)父・宗矩が死去し、遺領は家光の裁量によって兄弟間で分けられることになりました。十兵衛は8300石を相続して家督を継承。このとき1万石を下回ったため、立藩から11年目にして大名から旗本の地位に戻りました。そのため十兵衛は大名ではありませんが、便宜上、柳生藩2代目藩主とされています。 十兵衛は強く勇ましく、周囲がそのようすを恐れて従うような人物でした。しかし、家督継承後は寛容な性格になり、家風を守りながら政務に励んだといいます。また身分の低い者にも哀れみを持ち、処罰もしなかったようです。その一方では家業の兵法の発展にも努めました。 大名に返り咲いた柳生家 柳生藩主となった十兵衛でしたが、慶安3年(1650)鷹狩のために出かけた先で急死します。奈良奉行により検死が行われ村人たちも尋問されましたが、死因は不明のまま柳生家の菩提寺・中宮寺(奈良市柳生下町)に埋葬されました。十兵衛には跡継ぎとなる嫡子がいませんでしたが、父の勲功により柳生藩の存続が認められ、同母弟・柳生宗冬が自身の領地を返上して柳生藩を継承。宗冬は加増を重ねていき、やがて総石高1万石以上で再度大名となり柳生藩の地位を回復させました。 十兵衛にまつわる逸話 十兵衛はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわる逸話についてご紹介します。 隻眼の剣豪といわれる理由とは? 十兵衛は片目に眼帯をつけた隻眼の剣豪として知られています。『正傳新陰流』には、幼いころの稽古で父・宗矩の木剣が目に当たったとあり、『柳荒美談』では、宗矩が十兵衛の技量を見極めるために小石を投げて目に当たったと記されています。このように隻眼の理由にはさまざまな説がありますが、当時の史料には隻眼との記述はなく、肖像画とされる人物には両目が描かれているようです。もしかすると、強い剣豪のイメージとして創作されたものかもしれません。 桂小五郎・高杉晋作も学んだ「新陰柳生当流」 十兵衛の祖父・柳生宗厳(むねよし/むねとし/そうごん)には柳生松右衛門という高弟がおり、彼の伝えた新陰流は長州藩で広まっていました。松右衛門の高弟である内藤元幸は、子・就幸にそれを伝授。就幸は家中で新陰流を指南していましたが、十兵衛の噂を聞いて江戸で弟子入りします。内藤家では十兵衛により近代化された新陰流を「新陰柳生当流」と呼んで代々伝えました。これはのちに長州藩の藩校・明倫館でも採用され、幕末で活躍する桂小五郎や高杉晋作らも学んだそうです。 蟄居の原因は酒グセの悪さ!? 十兵衛は酒好きで、酔うと言動が荒くなるタイプだったようです。家光からの蟄居命令もこの酒グセの悪さが原因ではないかといわれており、再出仕の際に沢庵からも忠告されています。しかし、彼の酒好きはおさまらなかったようで、朝から寺に酒を持参し僧たちに振る舞うなどの行動が『沢庵和尚書簡集』に記されています。 柳生十兵衛と宮本武蔵 十兵衛と近い時期に活躍した剣豪に宮本武蔵がいます。もし戦ったらどちらが強いのか……そんなふうに思う人も多いのではないでしょうか。史料には二人の接点はありませんが、十兵衛の父・宗矩と武蔵については、武蔵が将軍家指南役として招かれそうになったところを宗矩が妨害したといった逸話が残されています。ただし、宗矩と武蔵についても確かな史料には接点が見られず、創作の可能性が高いようです。 講談でさらなるヒーローに! 剣豪として幕府に仕え、将軍に剣術を指南・披露するなど活躍した十兵衛。後世では彼を主人公とする講談が多く創作されました。それらの作品のなかで活躍を盛られたことで、十兵衛はヒーローとして広く知られるようになったといえるでしょう。酒グセの悪さなど素行に少々問題があった十兵衛ですが、剣術の腕は達人です。その大きなギャップが彼の魅力といえるかもしれませんね。
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、慶安3年(1650)何のために出かけた先で急死したか。
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、慶安3年(1650)鷹狩のために出かけた先で急死した。
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歴史
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、柳生十兵衛である。 江戸城御書院番に就任 寛永15年(1638)家光に重用されていた異母弟・柳生友矩(とものり)が病により辞職し、再出仕が許された十兵衛は江戸城御書院番に就任しました。書院番とは江戸幕府の徳川将軍直属の軍団で、その職務は江戸城内の警備や江戸市中の巡回、将軍外出時の随行、幕府巡見使としての諸国派遣など多岐にわたります。十兵衛の場合は、家光の前での兵法披露などもしていたようです。寛永19年(1642)には、故郷に引きこもっていたあいだに収集した資料などをもとに、新陰流の知識をまとめて『月之抄』を執筆。これはのちに彼の代表作となりました。 家督継承と最期 家光に再出仕した十兵衛でしたが、父の死により状況が変わります。十兵衛の家督の継承から最期までについて振り返ります。 8300石を相続して藩主へ 正保3年(1646)父・宗矩が死去し、遺領は家光の裁量によって兄弟間で分けられることになりました。十兵衛は8300石を相続して家督を継承。このとき1万石を下回ったため、立藩から11年目にして大名から旗本の地位に戻りました。そのため十兵衛は大名ではありませんが、便宜上、柳生藩2代目藩主とされています。 十兵衛は強く勇ましく、周囲がそのようすを恐れて従うような人物でした。しかし、家督継承後は寛容な性格になり、家風を守りながら政務に励んだといいます。また身分の低い者にも哀れみを持ち、処罰もしなかったようです。その一方では家業の兵法の発展にも努めました。 大名に返り咲いた柳生家 柳生藩主となった十兵衛でしたが、慶安3年(1650)鷹狩のために出かけた先で急死します。奈良奉行により検死が行われ村人たちも尋問されましたが、死因は不明のまま柳生家の菩提寺・中宮寺(奈良市柳生下町)に埋葬されました。十兵衛には跡継ぎとなる嫡子がいませんでしたが、父の勲功により柳生藩の存続が認められ、同母弟・柳生宗冬が自身の領地を返上して柳生藩を継承。宗冬は加増を重ねていき、やがて総石高1万石以上で再度大名となり柳生藩の地位を回復させました。 十兵衛にまつわる逸話 十兵衛はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわる逸話についてご紹介します。 隻眼の剣豪といわれる理由とは? 十兵衛は片目に眼帯をつけた隻眼の剣豪として知られています。『正傳新陰流』には、幼いころの稽古で父・宗矩の木剣が目に当たったとあり、『柳荒美談』では、宗矩が十兵衛の技量を見極めるために小石を投げて目に当たったと記されています。このように隻眼の理由にはさまざまな説がありますが、当時の史料には隻眼との記述はなく、肖像画とされる人物には両目が描かれているようです。もしかすると、強い剣豪のイメージとして創作されたものかもしれません。 桂小五郎・高杉晋作も学んだ「新陰柳生当流」 十兵衛の祖父・柳生宗厳(むねよし/むねとし/そうごん)には柳生松右衛門という高弟がおり、彼の伝えた新陰流は長州藩で広まっていました。松右衛門の高弟である内藤元幸は、子・就幸にそれを伝授。就幸は家中で新陰流を指南していましたが、十兵衛の噂を聞いて江戸で弟子入りします。内藤家では十兵衛により近代化された新陰流を「新陰柳生当流」と呼んで代々伝えました。これはのちに長州藩の藩校・明倫館でも採用され、幕末で活躍する桂小五郎や高杉晋作らも学んだそうです。 蟄居の原因は酒グセの悪さ!? 十兵衛は酒好きで、酔うと言動が荒くなるタイプだったようです。家光からの蟄居命令もこの酒グセの悪さが原因ではないかといわれており、再出仕の際に沢庵からも忠告されています。しかし、彼の酒好きはおさまらなかったようで、朝から寺に酒を持参し僧たちに振る舞うなどの行動が『沢庵和尚書簡集』に記されています。 柳生十兵衛と宮本武蔵 十兵衛と近い時期に活躍した剣豪に宮本武蔵がいます。もし戦ったらどちらが強いのか……そんなふうに思う人も多いのではないでしょうか。史料には二人の接点はありませんが、十兵衛の父・宗矩と武蔵については、武蔵が将軍家指南役として招かれそうになったところを宗矩が妨害したといった逸話が残されています。ただし、宗矩と武蔵についても確かな史料には接点が見られず、創作の可能性が高いようです。 講談でさらなるヒーローに! 剣豪として幕府に仕え、将軍に剣術を指南・披露するなど活躍した十兵衛。後世では彼を主人公とする講談が多く創作されました。それらの作品のなかで活躍を盛られたことで、十兵衛はヒーローとして広く知られるようになったといえるでしょう。酒グセの悪さなど素行に少々問題があった十兵衛ですが、剣術の腕は達人です。その大きなギャップが彼の魅力といえるかもしれませんね。
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、どのような剣豪として知られたか。
新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、片目に眼帯をつけた隻眼の剣豪として知られた。
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歴史
初代会津藩主は、保科正之である。 隠された出生 名君と呼ばれる正之も、幼いころはさまざまな苦労をしたようです。その理由は出生の秘密に隠されていました。 2代将軍・徳川秀忠のご落胤 正之は、慶長16年(1611)2代将軍・徳川秀忠の四男として江戸近郊で誕生しました。幼名、幸松。母の静(のちの浄光院)は秀忠の乳母・大姥局(おおうばのつぼね)の侍女だったため、正之は正室以外からうまれた庶子という立場でした。 この当時、正室・側室以外の子は江戸城内で出産を行わないのが通例だったこと、また、秀忠の正室・お江の方の気性が激しかったことから、静は武田信玄の次女・見性院の庇護を受けてひっそりと出産します。正之の出生を知っていたのは秀忠側近の老中ら数人のみで、異母兄である秀忠の長兄・家光さえ当初は知らなかったようです。 高遠藩主・保科正光の子として育つ 元和3年(1617)見性院の縁により、正之は旧武田家臣で高遠藩主・保科正光の子として養育されることになりました。高遠入りしてからは高遠城の三の丸に建てられた新居で母とともに暮らし、正光の家臣が守役を務めたといいます。正光はすでに養子だった左源太や弟・正貞を廃嫡し、正之を正式な後継者として指名。藩の重臣らが養育係についた正之は、論語の素読や建福寺での儒学の勉強、甲冑を着けての泳ぎの練習などをしました。 徳川家光が正之の存在を知ったのは… 家光が正之の存在を知ったのはほんの偶然からだったようです。『徳川実紀』によれば、鷹狩りの際、身分を隠してわずかな供回りと目黒・成就院で休憩していた家光は、住職との会話のなかで「肥後守殿は徳川将軍家の弟君なのになぜ不遇されているのか」という言葉を聞いたといいます。 これにより異母弟の存在を知った家光は、のちに成就院に寺領を寄進しました。その後の正之の活躍を考えると、この出来事は奇跡的なものだったといえるでしょう。 なお、正之は寛永6年(1629)に初めて家光に会い、次兄・徳川忠長とも対面しています。
初代会津藩主は、いつ誕生したか。
初代会津藩主は、慶長16年(1611)に誕生した。
JCRRAG_019282
歴史
初代会津藩主は、保科正之である。 隠された出生 名君と呼ばれる正之も、幼いころはさまざまな苦労をしたようです。その理由は出生の秘密に隠されていました。 2代将軍・徳川秀忠のご落胤 正之は、慶長16年(1611)2代将軍・徳川秀忠の四男として江戸近郊で誕生しました。幼名、幸松。母の静(のちの浄光院)は秀忠の乳母・大姥局(おおうばのつぼね)の侍女だったため、正之は正室以外からうまれた庶子という立場でした。 この当時、正室・側室以外の子は江戸城内で出産を行わないのが通例だったこと、また、秀忠の正室・お江の方の気性が激しかったことから、静は武田信玄の次女・見性院の庇護を受けてひっそりと出産します。正之の出生を知っていたのは秀忠側近の老中ら数人のみで、異母兄である秀忠の長兄・家光さえ当初は知らなかったようです。 高遠藩主・保科正光の子として育つ 元和3年(1617)見性院の縁により、正之は旧武田家臣で高遠藩主・保科正光の子として養育されることになりました。高遠入りしてからは高遠城の三の丸に建てられた新居で母とともに暮らし、正光の家臣が守役を務めたといいます。正光はすでに養子だった左源太や弟・正貞を廃嫡し、正之を正式な後継者として指名。藩の重臣らが養育係についた正之は、論語の素読や建福寺での儒学の勉強、甲冑を着けての泳ぎの練習などをしました。 徳川家光が正之の存在を知ったのは… 家光が正之の存在を知ったのはほんの偶然からだったようです。『徳川実紀』によれば、鷹狩りの際、身分を隠してわずかな供回りと目黒・成就院で休憩していた家光は、住職との会話のなかで「肥後守殿は徳川将軍家の弟君なのになぜ不遇されているのか」という言葉を聞いたといいます。 これにより異母弟の存在を知った家光は、のちに成就院に寺領を寄進しました。その後の正之の活躍を考えると、この出来事は奇跡的なものだったといえるでしょう。 なお、正之は寛永6年(1629)に初めて家光に会い、次兄・徳川忠長とも対面しています。
初代会津藩主は、誰の四男として誕生したか。
初代会津藩主は、2代将軍・徳川秀忠の四男として誕生した。
JCRRAG_019283
歴史
初代会津藩主は、保科正之である。 隠された出生 名君と呼ばれる正之も、幼いころはさまざまな苦労をしたようです。その理由は出生の秘密に隠されていました。 2代将軍・徳川秀忠のご落胤 正之は、慶長16年(1611)2代将軍・徳川秀忠の四男として江戸近郊で誕生しました。幼名、幸松。母の静(のちの浄光院)は秀忠の乳母・大姥局(おおうばのつぼね)の侍女だったため、正之は正室以外からうまれた庶子という立場でした。 この当時、正室・側室以外の子は江戸城内で出産を行わないのが通例だったこと、また、秀忠の正室・お江の方の気性が激しかったことから、静は武田信玄の次女・見性院の庇護を受けてひっそりと出産します。正之の出生を知っていたのは秀忠側近の老中ら数人のみで、異母兄である秀忠の長兄・家光さえ当初は知らなかったようです。 高遠藩主・保科正光の子として育つ 元和3年(1617)見性院の縁により、正之は旧武田家臣で高遠藩主・保科正光の子として養育されることになりました。高遠入りしてからは高遠城の三の丸に建てられた新居で母とともに暮らし、正光の家臣が守役を務めたといいます。正光はすでに養子だった左源太や弟・正貞を廃嫡し、正之を正式な後継者として指名。藩の重臣らが養育係についた正之は、論語の素読や建福寺での儒学の勉強、甲冑を着けての泳ぎの練習などをしました。 徳川家光が正之の存在を知ったのは… 家光が正之の存在を知ったのはほんの偶然からだったようです。『徳川実紀』によれば、鷹狩りの際、身分を隠してわずかな供回りと目黒・成就院で休憩していた家光は、住職との会話のなかで「肥後守殿は徳川将軍家の弟君なのになぜ不遇されているのか」という言葉を聞いたといいます。 これにより異母弟の存在を知った家光は、のちに成就院に寺領を寄進しました。その後の正之の活躍を考えると、この出来事は奇跡的なものだったといえるでしょう。 なお、正之は寛永6年(1629)に初めて家光に会い、次兄・徳川忠長とも対面しています。
初代会津藩主は、どこで誕生したか。
初代会津藩主は、江戸近郊で誕生した。
JCRRAG_019284
歴史
初代会津藩主は、保科正之である。 隠された出生 名君と呼ばれる正之も、幼いころはさまざまな苦労をしたようです。その理由は出生の秘密に隠されていました。 2代将軍・徳川秀忠のご落胤 正之は、慶長16年(1611)2代将軍・徳川秀忠の四男として江戸近郊で誕生しました。幼名、幸松。母の静(のちの浄光院)は秀忠の乳母・大姥局(おおうばのつぼね)の侍女だったため、正之は正室以外からうまれた庶子という立場でした。 この当時、正室・側室以外の子は江戸城内で出産を行わないのが通例だったこと、また、秀忠の正室・お江の方の気性が激しかったことから、静は武田信玄の次女・見性院の庇護を受けてひっそりと出産します。正之の出生を知っていたのは秀忠側近の老中ら数人のみで、異母兄である秀忠の長兄・家光さえ当初は知らなかったようです。 高遠藩主・保科正光の子として育つ 元和3年(1617)見性院の縁により、正之は旧武田家臣で高遠藩主・保科正光の子として養育されることになりました。高遠入りしてからは高遠城の三の丸に建てられた新居で母とともに暮らし、正光の家臣が守役を務めたといいます。正光はすでに養子だった左源太や弟・正貞を廃嫡し、正之を正式な後継者として指名。藩の重臣らが養育係についた正之は、論語の素読や建福寺での儒学の勉強、甲冑を着けての泳ぎの練習などをしました。 徳川家光が正之の存在を知ったのは… 家光が正之の存在を知ったのはほんの偶然からだったようです。『徳川実紀』によれば、鷹狩りの際、身分を隠してわずかな供回りと目黒・成就院で休憩していた家光は、住職との会話のなかで「肥後守殿は徳川将軍家の弟君なのになぜ不遇されているのか」という言葉を聞いたといいます。 これにより異母弟の存在を知った家光は、のちに成就院に寺領を寄進しました。その後の正之の活躍を考えると、この出来事は奇跡的なものだったといえるでしょう。 なお、正之は寛永6年(1629)に初めて家光に会い、次兄・徳川忠長とも対面しています。
初代会津藩主は、どのような立場だったか。
初代会津藩主は、正室以外からうまれた庶子という立場だった。
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歴史
初代会津藩主は、保科正之である。 隠された出生 名君と呼ばれる正之も、幼いころはさまざまな苦労をしたようです。その理由は出生の秘密に隠されていました。 2代将軍・徳川秀忠のご落胤 正之は、慶長16年(1611)2代将軍・徳川秀忠の四男として江戸近郊で誕生しました。幼名、幸松。母の静(のちの浄光院)は秀忠の乳母・大姥局(おおうばのつぼね)の侍女だったため、正之は正室以外からうまれた庶子という立場でした。 この当時、正室・側室以外の子は江戸城内で出産を行わないのが通例だったこと、また、秀忠の正室・お江の方の気性が激しかったことから、静は武田信玄の次女・見性院の庇護を受けてひっそりと出産します。正之の出生を知っていたのは秀忠側近の老中ら数人のみで、異母兄である秀忠の長兄・家光さえ当初は知らなかったようです。 高遠藩主・保科正光の子として育つ 元和3年(1617)見性院の縁により、正之は旧武田家臣で高遠藩主・保科正光の子として養育されることになりました。高遠入りしてからは高遠城の三の丸に建てられた新居で母とともに暮らし、正光の家臣が守役を務めたといいます。正光はすでに養子だった左源太や弟・正貞を廃嫡し、正之を正式な後継者として指名。藩の重臣らが養育係についた正之は、論語の素読や建福寺での儒学の勉強、甲冑を着けての泳ぎの練習などをしました。 徳川家光が正之の存在を知ったのは… 家光が正之の存在を知ったのはほんの偶然からだったようです。『徳川実紀』によれば、鷹狩りの際、身分を隠してわずかな供回りと目黒・成就院で休憩していた家光は、住職との会話のなかで「肥後守殿は徳川将軍家の弟君なのになぜ不遇されているのか」という言葉を聞いたといいます。 これにより異母弟の存在を知った家光は、のちに成就院に寺領を寄進しました。その後の正之の活躍を考えると、この出来事は奇跡的なものだったといえるでしょう。 なお、正之は寛永6年(1629)に初めて家光に会い、次兄・徳川忠長とも対面しています。
初代会津藩主は、寛永6年(1629)に誰と対面したか。
初代会津藩主は、寛永6年(1629)に初めて家光に会い、次兄・徳川忠長とも対面した。
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初代会津藩主は、保科正之である。 大名への出世 素性を隠して養育された正之ですが、家光らがその存在を知ったこともあり、徐々に出世していきます。やがて、大名へと成長していくのです。 高遠藩主に就任 寛永8年(1631)幕府から出府命令を受けた正之は、重臣5名とともに江戸に向かいます。そこで、養父の死にともない高遠藩3万石を相続するよう秀忠から命じられました。こうして正之は若くして高遠藩主に就任。ここから次々と出世していくことになります。ただし幕府は、正之が家光の異母弟と知りながらもすぐには処遇を改めませんでした。 変化した幕府からの扱い 秀忠の死後に3代将軍となった家光は、謹直で有能な正之を気に入り、徐々に引き立てていきました。秀忠の御遺物として銀500枚を授けたり、徳川家の菩提寺・増上寺の廟建立の責任者に任命したり、家康の十七回忌には日光東照宮へのお参りにも同行させています。 また、10万石以上の大名に与えられる官位を授け、上洛時の先発隊にも指名。これはまさに別格の待遇で、正之が特別であることを周囲に知らしめるのに十分なものでした。このような家光の行動には、正之を肉親として扱う意味合いもあったようです。 山形藩から会津藩主へ 寛永13年(1636)正之は出羽国山形藩20万石を拝領、次いで寛永20年(1643)には陸奥国会津藩23万石の大名に引き立てられます。正之は藩で善政を敷いたことでも知られており、高遠から山形に移る際は約3000人の領民が彼を慕って山形に移動したほどでした。 家光死後は4代将軍・家綱を支えて幕政にも参加し、その後は嫡男・正経(まさつね)に家督を継承して隠居先の江戸三田藩邸で死去。墓所は福島県耶麻郡猪苗代町にあり、隣接する土津神社(はにつじんじゃ)に祭神として祀られています。正之の子孫である会津松平家は、幕末まで会津藩主を務めました。 保科正之の功績とは? 正之が名君といわれる理由は、藩政・幕政ともに善政を敷いたことにあります。正之のおもな功績をご紹介します。 文治政治の推進 4代将軍・家綱の補佐として幕政に参加した正之は、文治政治を推進しました。大名から人質を出す大名証人制度の廃止、先君への殉死禁止のほか、浪人発生の原因となっていた大名の改易を減らすために末期養子の禁を緩和しました。 明暦3年(1657)の明暦の大火では庶民の救済を優先し、焼失した江戸城の天守再建に反対します。これにより無駄な出費を抑えた正之は、大規模火災対策や都市整備など、江戸の防災性を向上させることにお金をあてました。 産業振興や貧民救済に尽力 藩政としては、漆・鉛・蝋など8品目の藩外への持ち出しを手形で制限したり、伐採できない樹木を定めたりと産業を振興しました。また、飢饉時の貧民救済制度の創設、升と秤の統一、朱子学を藩学とした藩士教育の推奨などにも努めています。身分を問わず90歳以上の高齢者に1日あたり玄米5合を支給したことは、日本の年金制度の始まりともいわれています。 「会津家訓十五箇条」の制定 死の床にあった家光は、子・家綱を頼むと正之に遺言しました。これに感銘をうけた正之は、寛文8年(1668)「会津家訓十五箇条」を定めます。「会津藩は将軍家を守る存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と定めたこの家訓は、正之死後も影響力をもち続けました。幕末の会津藩主・松平容保はこの家訓を守り、最後まで佐幕派として戦ったことで知られています。 江戸初期の三名君と称えられる 将軍の落胤(らくいん=正妻以外にうませた子)でありながら質素な生活をしていた正之ですが、異母兄・家光に目をかけてもらい、その後は藩政や幕政で功績を残しました。そのことから、水戸藩主・徳川光圀、岡山藩主・池田光政とならんで、江戸初期の三名君といわれています。 正之は松平姓の許可を受けたものの、保科家への恩義から生涯保科姓を通したといいます。このような義理堅さこそが、名君を作り上げたのかもしれませんね。
初代会津藩主は、若くして何に就任したか。
初代会津藩主は、若くして高遠藩主に就任した。
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初代会津藩主は、保科正之である。 大名への出世 素性を隠して養育された正之ですが、家光らがその存在を知ったこともあり、徐々に出世していきます。やがて、大名へと成長していくのです。 高遠藩主に就任 寛永8年(1631)幕府から出府命令を受けた正之は、重臣5名とともに江戸に向かいます。そこで、養父の死にともない高遠藩3万石を相続するよう秀忠から命じられました。こうして正之は若くして高遠藩主に就任。ここから次々と出世していくことになります。ただし幕府は、正之が家光の異母弟と知りながらもすぐには処遇を改めませんでした。 変化した幕府からの扱い 秀忠の死後に3代将軍となった家光は、謹直で有能な正之を気に入り、徐々に引き立てていきました。秀忠の御遺物として銀500枚を授けたり、徳川家の菩提寺・増上寺の廟建立の責任者に任命したり、家康の十七回忌には日光東照宮へのお参りにも同行させています。 また、10万石以上の大名に与えられる官位を授け、上洛時の先発隊にも指名。これはまさに別格の待遇で、正之が特別であることを周囲に知らしめるのに十分なものでした。このような家光の行動には、正之を肉親として扱う意味合いもあったようです。 山形藩から会津藩主へ 寛永13年(1636)正之は出羽国山形藩20万石を拝領、次いで寛永20年(1643)には陸奥国会津藩23万石の大名に引き立てられます。正之は藩で善政を敷いたことでも知られており、高遠から山形に移る際は約3000人の領民が彼を慕って山形に移動したほどでした。 家光死後は4代将軍・家綱を支えて幕政にも参加し、その後は嫡男・正経(まさつね)に家督を継承して隠居先の江戸三田藩邸で死去。墓所は福島県耶麻郡猪苗代町にあり、隣接する土津神社(はにつじんじゃ)に祭神として祀られています。正之の子孫である会津松平家は、幕末まで会津藩主を務めました。 保科正之の功績とは? 正之が名君といわれる理由は、藩政・幕政ともに善政を敷いたことにあります。正之のおもな功績をご紹介します。 文治政治の推進 4代将軍・家綱の補佐として幕政に参加した正之は、文治政治を推進しました。大名から人質を出す大名証人制度の廃止、先君への殉死禁止のほか、浪人発生の原因となっていた大名の改易を減らすために末期養子の禁を緩和しました。 明暦3年(1657)の明暦の大火では庶民の救済を優先し、焼失した江戸城の天守再建に反対します。これにより無駄な出費を抑えた正之は、大規模火災対策や都市整備など、江戸の防災性を向上させることにお金をあてました。 産業振興や貧民救済に尽力 藩政としては、漆・鉛・蝋など8品目の藩外への持ち出しを手形で制限したり、伐採できない樹木を定めたりと産業を振興しました。また、飢饉時の貧民救済制度の創設、升と秤の統一、朱子学を藩学とした藩士教育の推奨などにも努めています。身分を問わず90歳以上の高齢者に1日あたり玄米5合を支給したことは、日本の年金制度の始まりともいわれています。 「会津家訓十五箇条」の制定 死の床にあった家光は、子・家綱を頼むと正之に遺言しました。これに感銘をうけた正之は、寛文8年(1668)「会津家訓十五箇条」を定めます。「会津藩は将軍家を守る存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と定めたこの家訓は、正之死後も影響力をもち続けました。幕末の会津藩主・松平容保はこの家訓を守り、最後まで佐幕派として戦ったことで知られています。 江戸初期の三名君と称えられる 将軍の落胤(らくいん=正妻以外にうませた子)でありながら質素な生活をしていた正之ですが、異母兄・家光に目をかけてもらい、その後は藩政や幕政で功績を残しました。そのことから、水戸藩主・徳川光圀、岡山藩主・池田光政とならんで、江戸初期の三名君といわれています。 正之は松平姓の許可を受けたものの、保科家への恩義から生涯保科姓を通したといいます。このような義理堅さこそが、名君を作り上げたのかもしれませんね。
初代会津藩主は、どのような官位を授けられたか。
初代会津藩主は、10万石以上の大名に与えられる官位を授けられた。
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初代会津藩主は、保科正之である。 大名への出世 素性を隠して養育された正之ですが、家光らがその存在を知ったこともあり、徐々に出世していきます。やがて、大名へと成長していくのです。 高遠藩主に就任 寛永8年(1631)幕府から出府命令を受けた正之は、重臣5名とともに江戸に向かいます。そこで、養父の死にともない高遠藩3万石を相続するよう秀忠から命じられました。こうして正之は若くして高遠藩主に就任。ここから次々と出世していくことになります。ただし幕府は、正之が家光の異母弟と知りながらもすぐには処遇を改めませんでした。 変化した幕府からの扱い 秀忠の死後に3代将軍となった家光は、謹直で有能な正之を気に入り、徐々に引き立てていきました。秀忠の御遺物として銀500枚を授けたり、徳川家の菩提寺・増上寺の廟建立の責任者に任命したり、家康の十七回忌には日光東照宮へのお参りにも同行させています。 また、10万石以上の大名に与えられる官位を授け、上洛時の先発隊にも指名。これはまさに別格の待遇で、正之が特別であることを周囲に知らしめるのに十分なものでした。このような家光の行動には、正之を肉親として扱う意味合いもあったようです。 山形藩から会津藩主へ 寛永13年(1636)正之は出羽国山形藩20万石を拝領、次いで寛永20年(1643)には陸奥国会津藩23万石の大名に引き立てられます。正之は藩で善政を敷いたことでも知られており、高遠から山形に移る際は約3000人の領民が彼を慕って山形に移動したほどでした。 家光死後は4代将軍・家綱を支えて幕政にも参加し、その後は嫡男・正経(まさつね)に家督を継承して隠居先の江戸三田藩邸で死去。墓所は福島県耶麻郡猪苗代町にあり、隣接する土津神社(はにつじんじゃ)に祭神として祀られています。正之の子孫である会津松平家は、幕末まで会津藩主を務めました。 保科正之の功績とは? 正之が名君といわれる理由は、藩政・幕政ともに善政を敷いたことにあります。正之のおもな功績をご紹介します。 文治政治の推進 4代将軍・家綱の補佐として幕政に参加した正之は、文治政治を推進しました。大名から人質を出す大名証人制度の廃止、先君への殉死禁止のほか、浪人発生の原因となっていた大名の改易を減らすために末期養子の禁を緩和しました。 明暦3年(1657)の明暦の大火では庶民の救済を優先し、焼失した江戸城の天守再建に反対します。これにより無駄な出費を抑えた正之は、大規模火災対策や都市整備など、江戸の防災性を向上させることにお金をあてました。 産業振興や貧民救済に尽力 藩政としては、漆・鉛・蝋など8品目の藩外への持ち出しを手形で制限したり、伐採できない樹木を定めたりと産業を振興しました。また、飢饉時の貧民救済制度の創設、升と秤の統一、朱子学を藩学とした藩士教育の推奨などにも努めています。身分を問わず90歳以上の高齢者に1日あたり玄米5合を支給したことは、日本の年金制度の始まりともいわれています。 「会津家訓十五箇条」の制定 死の床にあった家光は、子・家綱を頼むと正之に遺言しました。これに感銘をうけた正之は、寛文8年(1668)「会津家訓十五箇条」を定めます。「会津藩は将軍家を守る存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と定めたこの家訓は、正之死後も影響力をもち続けました。幕末の会津藩主・松平容保はこの家訓を守り、最後まで佐幕派として戦ったことで知られています。 江戸初期の三名君と称えられる 将軍の落胤(らくいん=正妻以外にうませた子)でありながら質素な生活をしていた正之ですが、異母兄・家光に目をかけてもらい、その後は藩政や幕政で功績を残しました。そのことから、水戸藩主・徳川光圀、岡山藩主・池田光政とならんで、江戸初期の三名君といわれています。 正之は松平姓の許可を受けたものの、保科家への恩義から生涯保科姓を通したといいます。このような義理堅さこそが、名君を作り上げたのかもしれませんね。
初代会津藩主は、上洛時の何に指名されたか。
初代会津藩主は、上洛時の先発隊にも指名された。
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初代会津藩主は、保科正之である。 大名への出世 素性を隠して養育された正之ですが、家光らがその存在を知ったこともあり、徐々に出世していきます。やがて、大名へと成長していくのです。 高遠藩主に就任 寛永8年(1631)幕府から出府命令を受けた正之は、重臣5名とともに江戸に向かいます。そこで、養父の死にともない高遠藩3万石を相続するよう秀忠から命じられました。こうして正之は若くして高遠藩主に就任。ここから次々と出世していくことになります。ただし幕府は、正之が家光の異母弟と知りながらもすぐには処遇を改めませんでした。 変化した幕府からの扱い 秀忠の死後に3代将軍となった家光は、謹直で有能な正之を気に入り、徐々に引き立てていきました。秀忠の御遺物として銀500枚を授けたり、徳川家の菩提寺・増上寺の廟建立の責任者に任命したり、家康の十七回忌には日光東照宮へのお参りにも同行させています。 また、10万石以上の大名に与えられる官位を授け、上洛時の先発隊にも指名。これはまさに別格の待遇で、正之が特別であることを周囲に知らしめるのに十分なものでした。このような家光の行動には、正之を肉親として扱う意味合いもあったようです。 山形藩から会津藩主へ 寛永13年(1636)正之は出羽国山形藩20万石を拝領、次いで寛永20年(1643)には陸奥国会津藩23万石の大名に引き立てられます。正之は藩で善政を敷いたことでも知られており、高遠から山形に移る際は約3000人の領民が彼を慕って山形に移動したほどでした。 家光死後は4代将軍・家綱を支えて幕政にも参加し、その後は嫡男・正経(まさつね)に家督を継承して隠居先の江戸三田藩邸で死去。墓所は福島県耶麻郡猪苗代町にあり、隣接する土津神社(はにつじんじゃ)に祭神として祀られています。正之の子孫である会津松平家は、幕末まで会津藩主を務めました。 保科正之の功績とは? 正之が名君といわれる理由は、藩政・幕政ともに善政を敷いたことにあります。正之のおもな功績をご紹介します。 文治政治の推進 4代将軍・家綱の補佐として幕政に参加した正之は、文治政治を推進しました。大名から人質を出す大名証人制度の廃止、先君への殉死禁止のほか、浪人発生の原因となっていた大名の改易を減らすために末期養子の禁を緩和しました。 明暦3年(1657)の明暦の大火では庶民の救済を優先し、焼失した江戸城の天守再建に反対します。これにより無駄な出費を抑えた正之は、大規模火災対策や都市整備など、江戸の防災性を向上させることにお金をあてました。 産業振興や貧民救済に尽力 藩政としては、漆・鉛・蝋など8品目の藩外への持ち出しを手形で制限したり、伐採できない樹木を定めたりと産業を振興しました。また、飢饉時の貧民救済制度の創設、升と秤の統一、朱子学を藩学とした藩士教育の推奨などにも努めています。身分を問わず90歳以上の高齢者に1日あたり玄米5合を支給したことは、日本の年金制度の始まりともいわれています。 「会津家訓十五箇条」の制定 死の床にあった家光は、子・家綱を頼むと正之に遺言しました。これに感銘をうけた正之は、寛文8年(1668)「会津家訓十五箇条」を定めます。「会津藩は将軍家を守る存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と定めたこの家訓は、正之死後も影響力をもち続けました。幕末の会津藩主・松平容保はこの家訓を守り、最後まで佐幕派として戦ったことで知られています。 江戸初期の三名君と称えられる 将軍の落胤(らくいん=正妻以外にうませた子)でありながら質素な生活をしていた正之ですが、異母兄・家光に目をかけてもらい、その後は藩政や幕政で功績を残しました。そのことから、水戸藩主・徳川光圀、岡山藩主・池田光政とならんで、江戸初期の三名君といわれています。 正之は松平姓の許可を受けたものの、保科家への恩義から生涯保科姓を通したといいます。このような義理堅さこそが、名君を作り上げたのかもしれませんね。
初代会津藩主は、家光死後、誰を支えて幕政にも参加したか。
初代会津藩主は、家光死後、4代将軍・家綱を支えて幕政にも参加した。
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歴史
初代会津藩主は、保科正之である。 大名への出世 素性を隠して養育された正之ですが、家光らがその存在を知ったこともあり、徐々に出世していきます。やがて、大名へと成長していくのです。 高遠藩主に就任 寛永8年(1631)幕府から出府命令を受けた正之は、重臣5名とともに江戸に向かいます。そこで、養父の死にともない高遠藩3万石を相続するよう秀忠から命じられました。こうして正之は若くして高遠藩主に就任。ここから次々と出世していくことになります。ただし幕府は、正之が家光の異母弟と知りながらもすぐには処遇を改めませんでした。 変化した幕府からの扱い 秀忠の死後に3代将軍となった家光は、謹直で有能な正之を気に入り、徐々に引き立てていきました。秀忠の御遺物として銀500枚を授けたり、徳川家の菩提寺・増上寺の廟建立の責任者に任命したり、家康の十七回忌には日光東照宮へのお参りにも同行させています。 また、10万石以上の大名に与えられる官位を授け、上洛時の先発隊にも指名。これはまさに別格の待遇で、正之が特別であることを周囲に知らしめるのに十分なものでした。このような家光の行動には、正之を肉親として扱う意味合いもあったようです。 山形藩から会津藩主へ 寛永13年(1636)正之は出羽国山形藩20万石を拝領、次いで寛永20年(1643)には陸奥国会津藩23万石の大名に引き立てられます。正之は藩で善政を敷いたことでも知られており、高遠から山形に移る際は約3000人の領民が彼を慕って山形に移動したほどでした。 家光死後は4代将軍・家綱を支えて幕政にも参加し、その後は嫡男・正経(まさつね)に家督を継承して隠居先の江戸三田藩邸で死去。墓所は福島県耶麻郡猪苗代町にあり、隣接する土津神社(はにつじんじゃ)に祭神として祀られています。正之の子孫である会津松平家は、幕末まで会津藩主を務めました。 保科正之の功績とは? 正之が名君といわれる理由は、藩政・幕政ともに善政を敷いたことにあります。正之のおもな功績をご紹介します。 文治政治の推進 4代将軍・家綱の補佐として幕政に参加した正之は、文治政治を推進しました。大名から人質を出す大名証人制度の廃止、先君への殉死禁止のほか、浪人発生の原因となっていた大名の改易を減らすために末期養子の禁を緩和しました。 明暦3年(1657)の明暦の大火では庶民の救済を優先し、焼失した江戸城の天守再建に反対します。これにより無駄な出費を抑えた正之は、大規模火災対策や都市整備など、江戸の防災性を向上させることにお金をあてました。 産業振興や貧民救済に尽力 藩政としては、漆・鉛・蝋など8品目の藩外への持ち出しを手形で制限したり、伐採できない樹木を定めたりと産業を振興しました。また、飢饉時の貧民救済制度の創設、升と秤の統一、朱子学を藩学とした藩士教育の推奨などにも努めています。身分を問わず90歳以上の高齢者に1日あたり玄米5合を支給したことは、日本の年金制度の始まりともいわれています。 「会津家訓十五箇条」の制定 死の床にあった家光は、子・家綱を頼むと正之に遺言しました。これに感銘をうけた正之は、寛文8年(1668)「会津家訓十五箇条」を定めます。「会津藩は将軍家を守る存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と定めたこの家訓は、正之死後も影響力をもち続けました。幕末の会津藩主・松平容保はこの家訓を守り、最後まで佐幕派として戦ったことで知られています。 江戸初期の三名君と称えられる 将軍の落胤(らくいん=正妻以外にうませた子)でありながら質素な生活をしていた正之ですが、異母兄・家光に目をかけてもらい、その後は藩政や幕政で功績を残しました。そのことから、水戸藩主・徳川光圀、岡山藩主・池田光政とならんで、江戸初期の三名君といわれています。 正之は松平姓の許可を受けたものの、保科家への恩義から生涯保科姓を通したといいます。このような義理堅さこそが、名君を作り上げたのかもしれませんね。
初代会津藩主は、どこで死去したか。
初代会津藩主は、隠居先の江戸三田藩邸で死去した。
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オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、杉田玄白である。 うまれから家督継承まで 玄白はどのような出自だったのでしょうか。うまれから家督継承するまでについて振り返ります。 小浜藩医のもとに生まれる 玄白は、享保18年(1733)小浜藩医・杉田甫仙の子として江戸の牛込で誕生しました。難産だったため母は出産時に死去しています。小浜藩酒井家の下屋敷で育ったのち、一家で小浜へと転居。その後は父が江戸詰めを命じられるまで小浜で暮らしました。青年期には家業である医学の修行を始め、17歳からは幕府の奥医師・西玄哲のもとで蘭方外科を学びます。また、本郷に開塾していた古学派の儒者・宮瀬竜門に漢学も学びました。 家督と侍医の職を継承する 宝暦2年(1752)玄白は小浜藩医として上屋敷に勤務し、宝暦7年(1757)には江戸・日本橋で町医者として開業しました。この頃には平賀源内や中川淳庵との交流も始まっていたようです。 それ以前の宝暦4年(1754)には山脇東洋が国内初の人体解剖を行い、日本の医学界に波紋が広がります。この出来事は、のちに玄白が『解体新書』を翻訳するキッカケとなりました。 やがて藩の奥医師(医官)となった玄白は、オランダ商館長一行が江戸へ参府した際、彼らが滞在する長崎屋を訪問。このときオランダ語の難しさを諭され、習得を断念したといわれています。その後、明和6年(1769)に父が死去。玄白は家督と侍医の職を継承しました。 解体新書の翻訳に着手 医師として活躍していた玄白は『ターヘル・アナトミア』と出合い、大偉業への一歩を踏み出します。しかし、それは簡単なものではありませんでした。
オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、いつ誕生したか。
オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、享保18年(1733)に誕生した。
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オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、杉田玄白である。 うまれから家督継承まで 玄白はどのような出自だったのでしょうか。うまれから家督継承するまでについて振り返ります。 小浜藩医のもとに生まれる 玄白は、享保18年(1733)小浜藩医・杉田甫仙の子として江戸の牛込で誕生しました。難産だったため母は出産時に死去しています。小浜藩酒井家の下屋敷で育ったのち、一家で小浜へと転居。その後は父が江戸詰めを命じられるまで小浜で暮らしました。青年期には家業である医学の修行を始め、17歳からは幕府の奥医師・西玄哲のもとで蘭方外科を学びます。また、本郷に開塾していた古学派の儒者・宮瀬竜門に漢学も学びました。 家督と侍医の職を継承する 宝暦2年(1752)玄白は小浜藩医として上屋敷に勤務し、宝暦7年(1757)には江戸・日本橋で町医者として開業しました。この頃には平賀源内や中川淳庵との交流も始まっていたようです。 それ以前の宝暦4年(1754)には山脇東洋が国内初の人体解剖を行い、日本の医学界に波紋が広がります。この出来事は、のちに玄白が『解体新書』を翻訳するキッカケとなりました。 やがて藩の奥医師(医官)となった玄白は、オランダ商館長一行が江戸へ参府した際、彼らが滞在する長崎屋を訪問。このときオランダ語の難しさを諭され、習得を断念したといわれています。その後、明和6年(1769)に父が死去。玄白は家督と侍医の職を継承しました。 解体新書の翻訳に着手 医師として活躍していた玄白は『ターヘル・アナトミア』と出合い、大偉業への一歩を踏み出します。しかし、それは簡単なものではありませんでした。
オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、誰の子として誕生したか。
オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、小浜藩医・杉田甫仙の子として誕生した。
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歴史
オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、杉田玄白である。 うまれから家督継承まで 玄白はどのような出自だったのでしょうか。うまれから家督継承するまでについて振り返ります。 小浜藩医のもとに生まれる 玄白は、享保18年(1733)小浜藩医・杉田甫仙の子として江戸の牛込で誕生しました。難産だったため母は出産時に死去しています。小浜藩酒井家の下屋敷で育ったのち、一家で小浜へと転居。その後は父が江戸詰めを命じられるまで小浜で暮らしました。青年期には家業である医学の修行を始め、17歳からは幕府の奥医師・西玄哲のもとで蘭方外科を学びます。また、本郷に開塾していた古学派の儒者・宮瀬竜門に漢学も学びました。 家督と侍医の職を継承する 宝暦2年(1752)玄白は小浜藩医として上屋敷に勤務し、宝暦7年(1757)には江戸・日本橋で町医者として開業しました。この頃には平賀源内や中川淳庵との交流も始まっていたようです。 それ以前の宝暦4年(1754)には山脇東洋が国内初の人体解剖を行い、日本の医学界に波紋が広がります。この出来事は、のちに玄白が『解体新書』を翻訳するキッカケとなりました。 やがて藩の奥医師(医官)となった玄白は、オランダ商館長一行が江戸へ参府した際、彼らが滞在する長崎屋を訪問。このときオランダ語の難しさを諭され、習得を断念したといわれています。その後、明和6年(1769)に父が死去。玄白は家督と侍医の職を継承しました。 解体新書の翻訳に着手 医師として活躍していた玄白は『ターヘル・アナトミア』と出合い、大偉業への一歩を踏み出します。しかし、それは簡単なものではありませんでした。
オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、どこで誕生したか。
オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、江戸の牛込で誕生した。
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オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、杉田玄白である。 うまれから家督継承まで 玄白はどのような出自だったのでしょうか。うまれから家督継承するまでについて振り返ります。 小浜藩医のもとに生まれる 玄白は、享保18年(1733)小浜藩医・杉田甫仙の子として江戸の牛込で誕生しました。難産だったため母は出産時に死去しています。小浜藩酒井家の下屋敷で育ったのち、一家で小浜へと転居。その後は父が江戸詰めを命じられるまで小浜で暮らしました。青年期には家業である医学の修行を始め、17歳からは幕府の奥医師・西玄哲のもとで蘭方外科を学びます。また、本郷に開塾していた古学派の儒者・宮瀬竜門に漢学も学びました。 家督と侍医の職を継承する 宝暦2年(1752)玄白は小浜藩医として上屋敷に勤務し、宝暦7年(1757)には江戸・日本橋で町医者として開業しました。この頃には平賀源内や中川淳庵との交流も始まっていたようです。 それ以前の宝暦4年(1754)には山脇東洋が国内初の人体解剖を行い、日本の医学界に波紋が広がります。この出来事は、のちに玄白が『解体新書』を翻訳するキッカケとなりました。 やがて藩の奥医師(医官)となった玄白は、オランダ商館長一行が江戸へ参府した際、彼らが滞在する長崎屋を訪問。このときオランダ語の難しさを諭され、習得を断念したといわれています。その後、明和6年(1769)に父が死去。玄白は家督と侍医の職を継承しました。 解体新書の翻訳に着手 医師として活躍していた玄白は『ターヘル・アナトミア』と出合い、大偉業への一歩を踏み出します。しかし、それは簡単なものではありませんでした。
オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、小浜藩酒井家の下屋敷で育ったのち、一家でどこへと転居したか。
オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、小浜藩酒井家の下屋敷で育ったのち、一家で小浜へと転居した。
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オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、杉田玄白である。 うまれから家督継承まで 玄白はどのような出自だったのでしょうか。うまれから家督継承するまでについて振り返ります。 小浜藩医のもとに生まれる 玄白は、享保18年(1733)小浜藩医・杉田甫仙の子として江戸の牛込で誕生しました。難産だったため母は出産時に死去しています。小浜藩酒井家の下屋敷で育ったのち、一家で小浜へと転居。その後は父が江戸詰めを命じられるまで小浜で暮らしました。青年期には家業である医学の修行を始め、17歳からは幕府の奥医師・西玄哲のもとで蘭方外科を学びます。また、本郷に開塾していた古学派の儒者・宮瀬竜門に漢学も学びました。 家督と侍医の職を継承する 宝暦2年(1752)玄白は小浜藩医として上屋敷に勤務し、宝暦7年(1757)には江戸・日本橋で町医者として開業しました。この頃には平賀源内や中川淳庵との交流も始まっていたようです。 それ以前の宝暦4年(1754)には山脇東洋が国内初の人体解剖を行い、日本の医学界に波紋が広がります。この出来事は、のちに玄白が『解体新書』を翻訳するキッカケとなりました。 やがて藩の奥医師(医官)となった玄白は、オランダ商館長一行が江戸へ参府した際、彼らが滞在する長崎屋を訪問。このときオランダ語の難しさを諭され、習得を断念したといわれています。その後、明和6年(1769)に父が死去。玄白は家督と侍医の職を継承しました。 解体新書の翻訳に着手 医師として活躍していた玄白は『ターヘル・アナトミア』と出合い、大偉業への一歩を踏み出します。しかし、それは簡単なものではありませんでした。
オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、オランダ商館長一行が江戸へ参府した際、どこを訪問したか。
オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、オランダ商館長一行が江戸へ参府した際、彼らが滞在する長崎屋を訪問した。
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オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、杉田玄白である。 オランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』との出合い 明和8年(1771)玄白はオランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を見てその精密な解剖図に驚きます。そこに描かれた骨格や内臓は、今まで学んだ「五臓六腑(ごぞうろっぷ)」の図とは異なっていたため、本物の人体と比較したいという気持ちが膨らみました。玄白は藩に相談しこの本を購入。その後、前野良沢や淳庵らとともに死体解剖に立ち会う機会を得て、『ターヘル・アナトミア』の解剖図の正確さに感嘆します。このとき玄白は、「基本的な人体の中も知らずに医者をしていたとは…」と感じたといいます。こうして玄白は、この本を翻訳して世の中に役立てようと思い立ったのです。 前野良沢らと翻訳を手掛ける 玄白は、良沢・淳庵らとともに『ターヘル・アナトミア』を和訳しました。当時は満足な辞書もなかったため、簡単な一文を翻訳するにも丸一日かかったといいます。「軟骨」「神経」といった言葉は、このとき玄白らによってつくられました。彼らは月に7回ほど集まって勉強し、動物を解剖したり通訳者に聞いたりするなどしたそうです。そして3年の月日を費やし、ようやく翻訳を完成させました。11回も書き直されたといわれる翻訳は、安永3年(1774)に『解体新書』5巻(図1巻・図説4巻)として刊行。この快挙はオランダ医学書翻訳の先駆けとなり、日本の医学史上に大きな影響を及ぼしました。 その後の活躍と晩年 大偉業を成し遂げた玄白は、その後どのように過ごしたのでしょうか?その活躍と晩年についてご紹介します。 医学塾・天真楼を開業 『解体新書』が出版されたあと、西洋医学をめざす若者たちが教えを乞うべく玄白のもとに集まりました。玄白は「天真楼」という医学塾を開き、多くの弟子を抱えるようになります。主家への勤務や患者の診療など医者としての仕事も続けていた玄白ですが、医学を論じたり政治・社会問題を論評したりと、多数の門人の育成にも尽力。また、蘭書を収集して門人たちに提供するなど蘭学の発展にも貢献しました。 『蘭学事始』が公刊される 83歳のころ、玄白は『蘭学事始(らんがくことはじめ)』という手記を弟子の大槻玄沢に送ります。これは翻訳業の苦労を回想したもので、自分の死により蘭学の草創期を知る者がいなくなることを惜しんで書き残したものでした。この手記は当時写本のみで伝わりましたが、幕末にこれを読んで感動した福沢諭吉が学問の継承や保存を目的に出版。その後は広く一般に読まれるようになりました。 かなりの高齢まで医者を続け、殿様から貧民まで平等に治療したといわれる玄白ですが、文化14年(1817)に病没。現在の東京都港区愛宕の栄閑院に葬られました。その墓は東京都史跡にも指定されています。 杉田玄白の人物像とは? 玄白はどのような人物だったのでしょうか?ここでは人物像がわかるエピソードをご紹介します。 江戸一番と評される医師 玄白は外科に優れた医師だったといわれています。毎日多くの患者が訪れ、毎年1000人あまり療治していたといわれる玄白は、患者からの信頼も厚い医師だったといえるでしょう。儒学者の柴野栗山は、「当時、江戸一番の上手だった」と玄白について書き記しています。 多趣味で勉強熱心だった 玄白は医学だけでなく、連歌、詩、俳諧なども学んでいました。江戸の洋風画家とも交流があり、画の技術も高かったといわれています。解剖書の翻訳という大偉業を成し遂げて年老いたあと、玄白はますます活動範囲を広げ、漢学や国学などさまざまな分野の学者と交流して学問を勉強したようです。 「医食同源」と「養生七不可」を説く 玄白は、病気を治す薬と食べ物は本来根源を同じくするもので、食事に注意することが病気予防の最善策であるという「医食同源」の考えや、健康長寿のための心得である「養生七不可」などの理念を説きました。玄白のこの思想は現代にも根付いており、食育などの考えにも通じています。江戸時代にこの思想を説いた玄白は、先進的な考えの持ち主だったといえるかもしれません。 日本医学と蘭学を前進させた 『解体新書』の翻訳により日本の医学は大きく発展しました。同時にオランダ語の翻訳技術が進み、蘭学を学ぶ人が増え、全国の寺小屋は学問の場として発展したといわれています。このような背景から、玄白は蘭学の先駆者ともいわれているようです。 玄白が翻訳した言葉のなかには、現在でも使われている言葉がたくさんあります。歴史に名を残した玄白ですが、そうした言葉を知っていくと、意外と身近に感じられるのではないでしょうか?
オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、誰とともに『ターヘル・アナトミア』を和訳したか。
オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、良沢・淳庵らとともに『ターヘル・アナトミア』を和訳した。
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歴史
オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、杉田玄白である。 オランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』との出合い 明和8年(1771)玄白はオランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を見てその精密な解剖図に驚きます。そこに描かれた骨格や内臓は、今まで学んだ「五臓六腑(ごぞうろっぷ)」の図とは異なっていたため、本物の人体と比較したいという気持ちが膨らみました。玄白は藩に相談しこの本を購入。その後、前野良沢や淳庵らとともに死体解剖に立ち会う機会を得て、『ターヘル・アナトミア』の解剖図の正確さに感嘆します。このとき玄白は、「基本的な人体の中も知らずに医者をしていたとは…」と感じたといいます。こうして玄白は、この本を翻訳して世の中に役立てようと思い立ったのです。 前野良沢らと翻訳を手掛ける 玄白は、良沢・淳庵らとともに『ターヘル・アナトミア』を和訳しました。当時は満足な辞書もなかったため、簡単な一文を翻訳するにも丸一日かかったといいます。「軟骨」「神経」といった言葉は、このとき玄白らによってつくられました。彼らは月に7回ほど集まって勉強し、動物を解剖したり通訳者に聞いたりするなどしたそうです。そして3年の月日を費やし、ようやく翻訳を完成させました。11回も書き直されたといわれる翻訳は、安永3年(1774)に『解体新書』5巻(図1巻・図説4巻)として刊行。この快挙はオランダ医学書翻訳の先駆けとなり、日本の医学史上に大きな影響を及ぼしました。 その後の活躍と晩年 大偉業を成し遂げた玄白は、その後どのように過ごしたのでしょうか?その活躍と晩年についてご紹介します。 医学塾・天真楼を開業 『解体新書』が出版されたあと、西洋医学をめざす若者たちが教えを乞うべく玄白のもとに集まりました。玄白は「天真楼」という医学塾を開き、多くの弟子を抱えるようになります。主家への勤務や患者の診療など医者としての仕事も続けていた玄白ですが、医学を論じたり政治・社会問題を論評したりと、多数の門人の育成にも尽力。また、蘭書を収集して門人たちに提供するなど蘭学の発展にも貢献しました。 『蘭学事始』が公刊される 83歳のころ、玄白は『蘭学事始(らんがくことはじめ)』という手記を弟子の大槻玄沢に送ります。これは翻訳業の苦労を回想したもので、自分の死により蘭学の草創期を知る者がいなくなることを惜しんで書き残したものでした。この手記は当時写本のみで伝わりましたが、幕末にこれを読んで感動した福沢諭吉が学問の継承や保存を目的に出版。その後は広く一般に読まれるようになりました。 かなりの高齢まで医者を続け、殿様から貧民まで平等に治療したといわれる玄白ですが、文化14年(1817)に病没。現在の東京都港区愛宕の栄閑院に葬られました。その墓は東京都史跡にも指定されています。 杉田玄白の人物像とは? 玄白はどのような人物だったのでしょうか?ここでは人物像がわかるエピソードをご紹介します。 江戸一番と評される医師 玄白は外科に優れた医師だったといわれています。毎日多くの患者が訪れ、毎年1000人あまり療治していたといわれる玄白は、患者からの信頼も厚い医師だったといえるでしょう。儒学者の柴野栗山は、「当時、江戸一番の上手だった」と玄白について書き記しています。 多趣味で勉強熱心だった 玄白は医学だけでなく、連歌、詩、俳諧なども学んでいました。江戸の洋風画家とも交流があり、画の技術も高かったといわれています。解剖書の翻訳という大偉業を成し遂げて年老いたあと、玄白はますます活動範囲を広げ、漢学や国学などさまざまな分野の学者と交流して学問を勉強したようです。 「医食同源」と「養生七不可」を説く 玄白は、病気を治す薬と食べ物は本来根源を同じくするもので、食事に注意することが病気予防の最善策であるという「医食同源」の考えや、健康長寿のための心得である「養生七不可」などの理念を説きました。玄白のこの思想は現代にも根付いており、食育などの考えにも通じています。江戸時代にこの思想を説いた玄白は、先進的な考えの持ち主だったといえるかもしれません。 日本医学と蘭学を前進させた 『解体新書』の翻訳により日本の医学は大きく発展しました。同時にオランダ語の翻訳技術が進み、蘭学を学ぶ人が増え、全国の寺小屋は学問の場として発展したといわれています。このような背景から、玄白は蘭学の先駆者ともいわれているようです。 玄白が翻訳した言葉のなかには、現在でも使われている言葉がたくさんあります。歴史に名を残した玄白ですが、そうした言葉を知っていくと、意外と身近に感じられるのではないでしょうか?
オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、いつ病没したか。
オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、文化14年(1817)に病没した。
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歴史
オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、杉田玄白である。 オランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』との出合い 明和8年(1771)玄白はオランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を見てその精密な解剖図に驚きます。そこに描かれた骨格や内臓は、今まで学んだ「五臓六腑(ごぞうろっぷ)」の図とは異なっていたため、本物の人体と比較したいという気持ちが膨らみました。玄白は藩に相談しこの本を購入。その後、前野良沢や淳庵らとともに死体解剖に立ち会う機会を得て、『ターヘル・アナトミア』の解剖図の正確さに感嘆します。このとき玄白は、「基本的な人体の中も知らずに医者をしていたとは…」と感じたといいます。こうして玄白は、この本を翻訳して世の中に役立てようと思い立ったのです。 前野良沢らと翻訳を手掛ける 玄白は、良沢・淳庵らとともに『ターヘル・アナトミア』を和訳しました。当時は満足な辞書もなかったため、簡単な一文を翻訳するにも丸一日かかったといいます。「軟骨」「神経」といった言葉は、このとき玄白らによってつくられました。彼らは月に7回ほど集まって勉強し、動物を解剖したり通訳者に聞いたりするなどしたそうです。そして3年の月日を費やし、ようやく翻訳を完成させました。11回も書き直されたといわれる翻訳は、安永3年(1774)に『解体新書』5巻(図1巻・図説4巻)として刊行。この快挙はオランダ医学書翻訳の先駆けとなり、日本の医学史上に大きな影響を及ぼしました。 その後の活躍と晩年 大偉業を成し遂げた玄白は、その後どのように過ごしたのでしょうか?その活躍と晩年についてご紹介します。 医学塾・天真楼を開業 『解体新書』が出版されたあと、西洋医学をめざす若者たちが教えを乞うべく玄白のもとに集まりました。玄白は「天真楼」という医学塾を開き、多くの弟子を抱えるようになります。主家への勤務や患者の診療など医者としての仕事も続けていた玄白ですが、医学を論じたり政治・社会問題を論評したりと、多数の門人の育成にも尽力。また、蘭書を収集して門人たちに提供するなど蘭学の発展にも貢献しました。 『蘭学事始』が公刊される 83歳のころ、玄白は『蘭学事始(らんがくことはじめ)』という手記を弟子の大槻玄沢に送ります。これは翻訳業の苦労を回想したもので、自分の死により蘭学の草創期を知る者がいなくなることを惜しんで書き残したものでした。この手記は当時写本のみで伝わりましたが、幕末にこれを読んで感動した福沢諭吉が学問の継承や保存を目的に出版。その後は広く一般に読まれるようになりました。 かなりの高齢まで医者を続け、殿様から貧民まで平等に治療したといわれる玄白ですが、文化14年(1817)に病没。現在の東京都港区愛宕の栄閑院に葬られました。その墓は東京都史跡にも指定されています。 杉田玄白の人物像とは? 玄白はどのような人物だったのでしょうか?ここでは人物像がわかるエピソードをご紹介します。 江戸一番と評される医師 玄白は外科に優れた医師だったといわれています。毎日多くの患者が訪れ、毎年1000人あまり療治していたといわれる玄白は、患者からの信頼も厚い医師だったといえるでしょう。儒学者の柴野栗山は、「当時、江戸一番の上手だった」と玄白について書き記しています。 多趣味で勉強熱心だった 玄白は医学だけでなく、連歌、詩、俳諧なども学んでいました。江戸の洋風画家とも交流があり、画の技術も高かったといわれています。解剖書の翻訳という大偉業を成し遂げて年老いたあと、玄白はますます活動範囲を広げ、漢学や国学などさまざまな分野の学者と交流して学問を勉強したようです。 「医食同源」と「養生七不可」を説く 玄白は、病気を治す薬と食べ物は本来根源を同じくするもので、食事に注意することが病気予防の最善策であるという「医食同源」の考えや、健康長寿のための心得である「養生七不可」などの理念を説きました。玄白のこの思想は現代にも根付いており、食育などの考えにも通じています。江戸時代にこの思想を説いた玄白は、先進的な考えの持ち主だったといえるかもしれません。 日本医学と蘭学を前進させた 『解体新書』の翻訳により日本の医学は大きく発展しました。同時にオランダ語の翻訳技術が進み、蘭学を学ぶ人が増え、全国の寺小屋は学問の場として発展したといわれています。このような背景から、玄白は蘭学の先駆者ともいわれているようです。 玄白が翻訳した言葉のなかには、現在でも使われている言葉がたくさんあります。歴史に名を残した玄白ですが、そうした言葉を知っていくと、意外と身近に感じられるのではないでしょうか?
オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、医学だけでなく、何も学んだか。
オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、医学だけでなく、連歌、詩、俳諧なども学んだ。
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オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、杉田玄白である。 オランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』との出合い 明和8年(1771)玄白はオランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を見てその精密な解剖図に驚きます。そこに描かれた骨格や内臓は、今まで学んだ「五臓六腑(ごぞうろっぷ)」の図とは異なっていたため、本物の人体と比較したいという気持ちが膨らみました。玄白は藩に相談しこの本を購入。その後、前野良沢や淳庵らとともに死体解剖に立ち会う機会を得て、『ターヘル・アナトミア』の解剖図の正確さに感嘆します。このとき玄白は、「基本的な人体の中も知らずに医者をしていたとは…」と感じたといいます。こうして玄白は、この本を翻訳して世の中に役立てようと思い立ったのです。 前野良沢らと翻訳を手掛ける 玄白は、良沢・淳庵らとともに『ターヘル・アナトミア』を和訳しました。当時は満足な辞書もなかったため、簡単な一文を翻訳するにも丸一日かかったといいます。「軟骨」「神経」といった言葉は、このとき玄白らによってつくられました。彼らは月に7回ほど集まって勉強し、動物を解剖したり通訳者に聞いたりするなどしたそうです。そして3年の月日を費やし、ようやく翻訳を完成させました。11回も書き直されたといわれる翻訳は、安永3年(1774)に『解体新書』5巻(図1巻・図説4巻)として刊行。この快挙はオランダ医学書翻訳の先駆けとなり、日本の医学史上に大きな影響を及ぼしました。 その後の活躍と晩年 大偉業を成し遂げた玄白は、その後どのように過ごしたのでしょうか?その活躍と晩年についてご紹介します。 医学塾・天真楼を開業 『解体新書』が出版されたあと、西洋医学をめざす若者たちが教えを乞うべく玄白のもとに集まりました。玄白は「天真楼」という医学塾を開き、多くの弟子を抱えるようになります。主家への勤務や患者の診療など医者としての仕事も続けていた玄白ですが、医学を論じたり政治・社会問題を論評したりと、多数の門人の育成にも尽力。また、蘭書を収集して門人たちに提供するなど蘭学の発展にも貢献しました。 『蘭学事始』が公刊される 83歳のころ、玄白は『蘭学事始(らんがくことはじめ)』という手記を弟子の大槻玄沢に送ります。これは翻訳業の苦労を回想したもので、自分の死により蘭学の草創期を知る者がいなくなることを惜しんで書き残したものでした。この手記は当時写本のみで伝わりましたが、幕末にこれを読んで感動した福沢諭吉が学問の継承や保存を目的に出版。その後は広く一般に読まれるようになりました。 かなりの高齢まで医者を続け、殿様から貧民まで平等に治療したといわれる玄白ですが、文化14年(1817)に病没。現在の東京都港区愛宕の栄閑院に葬られました。その墓は東京都史跡にも指定されています。 杉田玄白の人物像とは? 玄白はどのような人物だったのでしょうか?ここでは人物像がわかるエピソードをご紹介します。 江戸一番と評される医師 玄白は外科に優れた医師だったといわれています。毎日多くの患者が訪れ、毎年1000人あまり療治していたといわれる玄白は、患者からの信頼も厚い医師だったといえるでしょう。儒学者の柴野栗山は、「当時、江戸一番の上手だった」と玄白について書き記しています。 多趣味で勉強熱心だった 玄白は医学だけでなく、連歌、詩、俳諧なども学んでいました。江戸の洋風画家とも交流があり、画の技術も高かったといわれています。解剖書の翻訳という大偉業を成し遂げて年老いたあと、玄白はますます活動範囲を広げ、漢学や国学などさまざまな分野の学者と交流して学問を勉強したようです。 「医食同源」と「養生七不可」を説く 玄白は、病気を治す薬と食べ物は本来根源を同じくするもので、食事に注意することが病気予防の最善策であるという「医食同源」の考えや、健康長寿のための心得である「養生七不可」などの理念を説きました。玄白のこの思想は現代にも根付いており、食育などの考えにも通じています。江戸時代にこの思想を説いた玄白は、先進的な考えの持ち主だったといえるかもしれません。 日本医学と蘭学を前進させた 『解体新書』の翻訳により日本の医学は大きく発展しました。同時にオランダ語の翻訳技術が進み、蘭学を学ぶ人が増え、全国の寺小屋は学問の場として発展したといわれています。このような背景から、玄白は蘭学の先駆者ともいわれているようです。 玄白が翻訳した言葉のなかには、現在でも使われている言葉がたくさんあります。歴史に名を残した玄白ですが、そうした言葉を知っていくと、意外と身近に感じられるのではないでしょうか?
オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、ますます活動範囲を広げ、どのような分野の学者と交流して学問を勉強したか。
オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、ますます活動範囲を広げ、漢学や国学などさまざまな分野の学者と交流して学問を勉強した。
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オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、杉田玄白である。 オランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』との出合い 明和8年(1771)玄白はオランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を見てその精密な解剖図に驚きます。そこに描かれた骨格や内臓は、今まで学んだ「五臓六腑(ごぞうろっぷ)」の図とは異なっていたため、本物の人体と比較したいという気持ちが膨らみました。玄白は藩に相談しこの本を購入。その後、前野良沢や淳庵らとともに死体解剖に立ち会う機会を得て、『ターヘル・アナトミア』の解剖図の正確さに感嘆します。このとき玄白は、「基本的な人体の中も知らずに医者をしていたとは…」と感じたといいます。こうして玄白は、この本を翻訳して世の中に役立てようと思い立ったのです。 前野良沢らと翻訳を手掛ける 玄白は、良沢・淳庵らとともに『ターヘル・アナトミア』を和訳しました。当時は満足な辞書もなかったため、簡単な一文を翻訳するにも丸一日かかったといいます。「軟骨」「神経」といった言葉は、このとき玄白らによってつくられました。彼らは月に7回ほど集まって勉強し、動物を解剖したり通訳者に聞いたりするなどしたそうです。そして3年の月日を費やし、ようやく翻訳を完成させました。11回も書き直されたといわれる翻訳は、安永3年(1774)に『解体新書』5巻(図1巻・図説4巻)として刊行。この快挙はオランダ医学書翻訳の先駆けとなり、日本の医学史上に大きな影響を及ぼしました。 その後の活躍と晩年 大偉業を成し遂げた玄白は、その後どのように過ごしたのでしょうか?その活躍と晩年についてご紹介します。 医学塾・天真楼を開業 『解体新書』が出版されたあと、西洋医学をめざす若者たちが教えを乞うべく玄白のもとに集まりました。玄白は「天真楼」という医学塾を開き、多くの弟子を抱えるようになります。主家への勤務や患者の診療など医者としての仕事も続けていた玄白ですが、医学を論じたり政治・社会問題を論評したりと、多数の門人の育成にも尽力。また、蘭書を収集して門人たちに提供するなど蘭学の発展にも貢献しました。 『蘭学事始』が公刊される 83歳のころ、玄白は『蘭学事始(らんがくことはじめ)』という手記を弟子の大槻玄沢に送ります。これは翻訳業の苦労を回想したもので、自分の死により蘭学の草創期を知る者がいなくなることを惜しんで書き残したものでした。この手記は当時写本のみで伝わりましたが、幕末にこれを読んで感動した福沢諭吉が学問の継承や保存を目的に出版。その後は広く一般に読まれるようになりました。 かなりの高齢まで医者を続け、殿様から貧民まで平等に治療したといわれる玄白ですが、文化14年(1817)に病没。現在の東京都港区愛宕の栄閑院に葬られました。その墓は東京都史跡にも指定されています。 杉田玄白の人物像とは? 玄白はどのような人物だったのでしょうか?ここでは人物像がわかるエピソードをご紹介します。 江戸一番と評される医師 玄白は外科に優れた医師だったといわれています。毎日多くの患者が訪れ、毎年1000人あまり療治していたといわれる玄白は、患者からの信頼も厚い医師だったといえるでしょう。儒学者の柴野栗山は、「当時、江戸一番の上手だった」と玄白について書き記しています。 多趣味で勉強熱心だった 玄白は医学だけでなく、連歌、詩、俳諧なども学んでいました。江戸の洋風画家とも交流があり、画の技術も高かったといわれています。解剖書の翻訳という大偉業を成し遂げて年老いたあと、玄白はますます活動範囲を広げ、漢学や国学などさまざまな分野の学者と交流して学問を勉強したようです。 「医食同源」と「養生七不可」を説く 玄白は、病気を治す薬と食べ物は本来根源を同じくするもので、食事に注意することが病気予防の最善策であるという「医食同源」の考えや、健康長寿のための心得である「養生七不可」などの理念を説きました。玄白のこの思想は現代にも根付いており、食育などの考えにも通じています。江戸時代にこの思想を説いた玄白は、先進的な考えの持ち主だったといえるかもしれません。 日本医学と蘭学を前進させた 『解体新書』の翻訳により日本の医学は大きく発展しました。同時にオランダ語の翻訳技術が進み、蘭学を学ぶ人が増え、全国の寺小屋は学問の場として発展したといわれています。このような背景から、玄白は蘭学の先駆者ともいわれているようです。 玄白が翻訳した言葉のなかには、現在でも使われている言葉がたくさんあります。歴史に名を残した玄白ですが、そうした言葉を知っていくと、意外と身近に感じられるのではないでしょうか?
オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、どのような理念を説いたか。
オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した医学者で蘭学者は、「医食同源」の考えや「養生七不可」などの理念を説いた。