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 母の姿も記憶と違っていた。
 母の服装はみすぼらしい。服は継ぎ当てだらけだし、布地も薄汚れている。いつもあんなに「綺麗にしなさい!」って僕たちを怒ってたのに。母の顔の作りは整っている。けど、痩せこけて不健康な顔だ。二十代の筈だけど、ずっと年上に見える。そりゃ、いつもあんな粗食じゃしょうがない。
 母は僕と一緒に戦士様が来たのでおどおどしている。元々人見知りで、父にも思ったことが言えない人。
 戦士様から何か言付かった後は、這いつくばらんばかりだった。
 とても悲しかった。
 何が悲しいか僕にも分からないけど。
 母に手伝いが無いことを確認すると、僕は家から逃げ出した。
 五月の朝。ひんやりとした空気。綺麗に晴れた空では太陽がのんきに照っている。穏やかな風。
 道沿いの秋まき麦はもう少ししたら収穫。麦の背は1mしかない僕とほとんど変わらない。ただ、僕の《《記憶にある麦》》と比べると随分《《実が多かったけど》》。
 村の川は大きい。河原も広い。でも、底は浅かった。治水対策がされてないんだと思う。川岸から10mは離れた所から、立ったまま川を眺めて居ると、ロジャーおじさんの声がした。
『坊っちゃん、何をそんなに悩んでいらっしゃるんで? 普通、ギフトが有ったりあんなクソでかい泡倉なんて代物を眼にしたら、浮かれちまうもんじゃないですかい? あの神官みたいに』
『やっぱり、実感がわかないんだよ。僕は昨日《《目覚めた》》ばかりで、《《この世界の普通》》を全然知らない。自分の家がどんなご立派な物かもさっき知ったばかりだし。自分の母親が、自分の前であんなへーこらする人だってのもさっき知ったんだ。父親と兄がどんな風に《《見えてしまう》》のか、僕は怖いよ。
 僕の泡倉は確かに凄いんだろうね。縦横500kmなんて想像も付かない。
 鑑定結果も凄いんだろうね。《《普通を知ってる》》神官様達があんなに驚いてるんだもの。
 でも僕にはそれがどれほどの物なのか、ちっとも心に響かないんだ。だって普通を知らないんだから。
 だから僕は、なんか置いて行かれたような気分なのかもしれない』
『さようで。しかし、あっしは、もうちっとばかり五歳らしくはしゃいで欲しい気がしまさー。……あ』
『どうしたの?』
 頭の中で何かがはまり、ロジャーおじさんが言いたい事が分かった。
 何か近くに居る。
 少し離れたところに、犬が三頭いる。野犬だ。大きい。四つ足の状態でも僕の肩くらい。のしかかられたら終わりだと思う。
「……」
 にげよう、と、声に出したつもりだったが、喉の奥が張り付いたかのように動かない。そのまま後ろを向いて走り出そうとするが、足が動かない。動けば後ろから襲いかかられる。
 後ろを向けない。
 できない。
 できなければ、襲われる。
 おそわれればしぬ!
 こわい!
 さむい!
「すいやせん。坊っちゃんの戦闘能力を忘れておりやした。魔物だけ引っかかるようにしてたもんで、気がつきませんで」
 ロジャーおじさんが隣に立っていた。暗い色の上等な服。右手に短剣。とは言っても刃渡り50cm程の物。左手は開いている。
 体の力が抜けた。歯を凄い力で食いしばっていたみたい。意識してなかった。
 もう大丈夫なんだと思った。
「あ、そーいや、あっしは人目がある所では基本出てこれないんで」
 そう言うと、ロジャーおじさんは普通に野犬の方に歩いて行く。これから戦うという風じゃ無くて、ちょっと道ばたで知り合いに会ったような気安い感じ。
 野犬は歯を剥いて唸っていたけど、尻尾がお尻の下だね。
 ロジャーおじさんは、犬と数mのところまで近づいた所で、唐突に短剣を頭上に振りかぶり、地面に振り下ろした。途端、大きな音がして、地面が爆発したみたいに土砂が吹き上がった。
 ほぼ同時に、ギャンッ! と野犬の悲鳴が聞こえる。
 土砂が収まると、野犬は全部倒れてる。一瞬だ。すごい。どうやったんだろう? 短剣で切ったのかな?
 野犬は数秒したところで立ち上がった。ロジャーおじさんを見ながら後ずさっている。そこに
「オラァ!」
 と、ロジャーおじさんが怒鳴ると、野犬はひゃん! と情けない声を出しながら逃げていった。前から思ってたけど、ロジャーおじさん柄悪いよね。服は上等なのに。
 しかし、こんなにびびってしまうとは思わなかった。もう少し冷静なものだと思ってたけど。なんでだろうなぁ。
 等と考えていると、ロジャーおじさんが周りを見渡しながら戻って来た。
 多分次は大丈夫。
「ねぇおじさん、なんで殺さなかったの?」
「死体を処理するのが面倒で。って坊っちゃん、さっきまであんな様子だったのに大胆なことを聞きやすね?」
「確かに僕もずーずーしいと思う」
 つい苦笑いしてしまう。
「じゃぁ、戻ろう」
「へい。そりゃ構いやせんが、心の整理はついたんで?」
「うーん、全然整理ついてないね。でも、そろそろお昼の手伝いも有るだろうし」
「坊っちゃん、五つにしちゃ分別良すぎまさぁ」
 ブツブツ言いながらロジャーおじさんが視界から消え、僕は川から家に帰った。
 家に戻ると、母がパタパタ忙しそうにしていた。手伝うことを伝えると、優しい笑顔で喜んでくれた。水を運んだり、次に使うものを渡したり、火の調整をしたりしていると、母が褒めてくれた。
「あら、サウルちゃん今日は悪さもせずにお利口ね。お陰で早く準備が終わって、母さん助かったわ」
 しばらくすると、不機嫌そうな父とへとへとになったブラス兄が帰ってきた。既に昼食が用意されていたのに驚いて、僕が手伝った事を知ると、二人とも顔をほころばせる。
「倒れたときにはびっくりしたぞ。神官様は何もおっしゃらなかったが、悪いもんでもついたんじゃないかって、言った奴がいたもんだから肝が冷えた。もう大丈夫なのか?」
「うん、もう大丈夫だよ。鑑定もしてもらったんだ」
 渡された黒いタブレットをみんなに見せる。
「あ、サウルそれいいな! 俺にもくれよ」
「ブラス兄ちゃん、これは僕のだから上げられないよ! 欲しかったら神官様にお願いして!」
 そこで、あぁ、と母が
「そうそうあなた、サウルが戻って来たときに戦士様も一緒にいらっしゃったのよ。それでサウルを本鑑定してくださったそうなんだけど、お代は要らないって」
「本鑑定といえば、相当高かったんじゃ無かったか? お前、ちゃんと何か渡したのか?」
「え? 戦士様はお代は要らないって……」
 目をぱちくりさせる母。その様子にいらだったように父が言葉を重ねていく。
 ガミガミ同じ事を繰り返す父と、おどおどしてしまって何も言えない母の様子を横目に急いで昼食をかき込む。
 さっさと家を出て、牛小屋のそばに座り込む。そういえば僕、まだ名付けの儀の服のままだ。隣にブラス兄が座った。
「サウルにしちゃ上出来だな」
 ブラス兄が、腕を組んで言うが、八歳じゃそれほど迫力は無い。