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歴史
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、上杉謙信である。 遠征を目前にして病に倒れる 天正5年(1577)12月、遠征から春日山城に帰還した謙信は、翌年の遠征にむけて大動員令を出しました。しかしその直前、城内の厠で倒れて昏睡状態に陥り、享年49歳で急死してしまいます。死因は諸説ありますが、脳溢血の可能性が高いようです。謙信の死後は養子の景勝が家督を継ぎましたが、内乱により上杉家は衰退していきました。 猛威を振るった謙信の戦いとは? 謙信はその強さから後世では軍神とも称えられています。ここでは、名だたる武将と激突してきた謙信の戦いを振り返ります。 川中島の戦い:武田信玄と激戦を繰り広げる 謙信といえばすぐに思い浮かぶのが甲斐国の戦国大名・武田信玄との5度にわたる「川中島の戦い」でしょう。これは北信濃の支配権をめぐる戦いで、もっとも激戦となった第四次の戦いが川中島(現在の長野県長野市)で行われたことからこの総称がつけられています。この戦いは戦国時代最大の激戦ともいわれ、第四次の戦いは両者本陣にまで至り、謙信みずから信玄に切りつけたほどだったそうです。 小田原城の戦い:北条氏康の討伐を狙う 永禄3年(1560)桶狭間の戦いによって甲相駿三国同盟の一つである今川家が崩れ、これに乗じて謙信は北条氏康討伐に出陣します。北条方の諸城を攻略して厩橋城で年を越すと、翌年3月には10万余の軍を率いて氏康の居城を包囲。ところが氏康と同盟関係にある信玄が謙信の背後を牽制したことや、長期出兵できない武将が撤兵したことから、結局落城できずに兵を引きました。謙信は越後に帰る途中、武蔵国の松山城を落城し、厩橋城に城代をおいて帰国しています。 信長包囲網:織田信長と対立する 謙信は一向一揆に苦しめられていましたが、織田信長との戦いで苦境にあった石山本願寺の顕如と和睦しています。これは将軍・義昭が幕府再興の援助を願い出たからだといわれており、この謙信の決断によって信長包囲網が築かれました。もともと信長とは同盟関係にあった謙信ですが、毛利元就とも同盟を組んだことで信長との同盟が破綻。それ以降、上杉氏と織田氏は敵対することになりました。 謙信にまつわる逸話 圧倒的な強さを誇る謙信は、どのような人物だったのでしょうか? ここでは謙信にまつわるエピソードを4つご紹介します。 故事「敵に塩を送る」の語源に 永禄10年(1567)信玄は同盟を組んでいた今川氏真との関係が悪化し、塩を止められてしまいます。信玄の治める信濃は内陸で塩が採れないため、これは厳しい経済封鎖でした。謙信はこれを卑怯な行為だと批判し、宿敵である信玄に塩を送ります。これはのちに「敵に塩を送る」という故事にもなりました。 そのときお礼として贈られた日本刀は、重要文化財として現在も東京国立博物館に所蔵されています。 武神・毘沙門天の化身と呼ばれた 謙信は毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「毘」の文字を用いました。毘沙門天は四天王の一人で、北方の守護神とされる武神です。謙信はその生涯で70回ほど戦をしましたが、大きな合戦では一度も敗戦しておらず、死後も「武田軍と上杉軍の強さは天下一だ」と称えられるほどでした。まさに毘沙門天の化身といえるでしょう。 唐沢山城での圧巻の的中突破 唐沢山城が北条氏政によって包囲されたときのこと、救援に向かった謙信はその戦況から城主・佐野昌綱の危機を感じ、自ら城に入り力を貸そうと考えました。そして、甲冑も着けずに十文字槍を構え、わずか数十騎で3万5千の北条軍の中を敵中突破したのです。北条軍は、襲えば奇策によって報いられると思い誰も攻撃しませんでした。これを聞いた北条方の将兵らは、「夜叉羅刹とは是なるべし」と謙信を恐れたといわれています。 実は女性だったという説も… 戦国時代の武将にしては珍しく、謙信は生涯独身を貫き側室もいませんでした。このことから、実は女性だったのではないかという説も囁かれています。その根拠としては、毎月腹痛を起こし合戦中でも部屋に籠っていたこと、瞽女(ゴゼ)歌という民謡で「男も及ばぬ大力無双」と歌われていたことなどが挙げられます。 真実は定かではありませんが、もし女性であれば戦国最強の女傑といえるかもしれません。 生涯不犯の軍神だった 多くの合戦で勝利し確固たる地位を築いた謙信ですが、最後は病に倒れて亡くなりました。病没前の遠征では、上洛して信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたともいわれています。謙信がもう少し長く生きていたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。 彼は妻帯せず子がいませんでしたが、養子に引き継がれた上杉家はその後も継承され現在に至っています。
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、側室を持たず何を貫いたか。
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、側室を持たず生涯独身を貫いた。
JCRRAG_018702
歴史
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、斎藤義龍である。 謎に包まれた出生 義龍は美濃国を治める戦国武将・斎藤道三の息子として育ちました。しかしその出自には俗説も囁かれています。 側室:深芳野から生まれる 義龍は、大永7年(1527)斎藤道三の長男として美濃国で生まれました。母親は側室の深芳野(みよしの)で、美濃一ともいわれていた長身の美女です。この頃の道三は美濃の守護・土岐頼芸(ときよりなり)に仕えており、深芳野はもともと頼芸のお気に入りの妾(めかけ)でした。それが道三に譲られる形になり、直後に義龍が生まれたのです。 そのため江戸時代にまとめられた『美濃国諸家系譜』で、頼芸の子を懐妊していたのではないかという俗説が生まれました。 家督を継承し稲葉山城主になる 天文23年(1554)道三の隠居により、義龍は家督を継いで稲葉山城主となります。この隠居は領国経営につまずいたためといわれますが、『信長公記』や『江美濃記』には記述がなく、隠居していないという説もあります。 道三は小坊主から油売りになり、祖父の地盤を受け継いで美濃の守護・土岐家へと食い込みました。主君を追放し一代で美濃を乗っ取ったことから「美濃のマムシ」と呼ばれますが、近年の研究では父子二代で美濃の国盗りを行ったことがわかっています。 そのように入手した美濃を受け継いだ義龍は、徐々に道三との間に溝を深めていくのです。 深刻化する父との確執 義龍は幼いころから父との確執を抱えていました。それはやがて、父殺しへと発展していきます。 道三は弟たちを溺愛していた 道三は義龍に冷たい態度をとり、弟の孫四郎や喜平次らを「利口者」だと溺愛するようになりました。そして、義龍の相続権を廃し、正室・小見の方の子である孫四郎を嫡子に、末弟の喜平次に名門一色氏を名乗らせようとしたのです。これにより道三と義龍の関係は悪化し、弟たちも大きな態度を取るようになります。 さらに当時の美濃では家中の不満がたまっており、多方面から危機感を抱いた義龍は戦いを決意します。
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、いつ生まれたか。
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、大永7年(1527)に生まれた。
JCRRAG_018703
歴史
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、斎藤義龍である。 謎に包まれた出生 義龍は美濃国を治める戦国武将・斎藤道三の息子として育ちました。しかしその出自には俗説も囁かれています。 側室:深芳野から生まれる 義龍は、大永7年(1527)斎藤道三の長男として美濃国で生まれました。母親は側室の深芳野(みよしの)で、美濃一ともいわれていた長身の美女です。この頃の道三は美濃の守護・土岐頼芸(ときよりなり)に仕えており、深芳野はもともと頼芸のお気に入りの妾(めかけ)でした。それが道三に譲られる形になり、直後に義龍が生まれたのです。 そのため江戸時代にまとめられた『美濃国諸家系譜』で、頼芸の子を懐妊していたのではないかという俗説が生まれました。 家督を継承し稲葉山城主になる 天文23年(1554)道三の隠居により、義龍は家督を継いで稲葉山城主となります。この隠居は領国経営につまずいたためといわれますが、『信長公記』や『江美濃記』には記述がなく、隠居していないという説もあります。 道三は小坊主から油売りになり、祖父の地盤を受け継いで美濃の守護・土岐家へと食い込みました。主君を追放し一代で美濃を乗っ取ったことから「美濃のマムシ」と呼ばれますが、近年の研究では父子二代で美濃の国盗りを行ったことがわかっています。 そのように入手した美濃を受け継いだ義龍は、徐々に道三との間に溝を深めていくのです。 深刻化する父との確執 義龍は幼いころから父との確執を抱えていました。それはやがて、父殺しへと発展していきます。 道三は弟たちを溺愛していた 道三は義龍に冷たい態度をとり、弟の孫四郎や喜平次らを「利口者」だと溺愛するようになりました。そして、義龍の相続権を廃し、正室・小見の方の子である孫四郎を嫡子に、末弟の喜平次に名門一色氏を名乗らせようとしたのです。これにより道三と義龍の関係は悪化し、弟たちも大きな態度を取るようになります。 さらに当時の美濃では家中の不満がたまっており、多方面から危機感を抱いた義龍は戦いを決意します。
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、誰の長男として生まれたか。
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、斎藤道三の長男として生まれた。
JCRRAG_018704
歴史
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、斎藤義龍である。 謎に包まれた出生 義龍は美濃国を治める戦国武将・斎藤道三の息子として育ちました。しかしその出自には俗説も囁かれています。 側室:深芳野から生まれる 義龍は、大永7年(1527)斎藤道三の長男として美濃国で生まれました。母親は側室の深芳野(みよしの)で、美濃一ともいわれていた長身の美女です。この頃の道三は美濃の守護・土岐頼芸(ときよりなり)に仕えており、深芳野はもともと頼芸のお気に入りの妾(めかけ)でした。それが道三に譲られる形になり、直後に義龍が生まれたのです。 そのため江戸時代にまとめられた『美濃国諸家系譜』で、頼芸の子を懐妊していたのではないかという俗説が生まれました。 家督を継承し稲葉山城主になる 天文23年(1554)道三の隠居により、義龍は家督を継いで稲葉山城主となります。この隠居は領国経営につまずいたためといわれますが、『信長公記』や『江美濃記』には記述がなく、隠居していないという説もあります。 道三は小坊主から油売りになり、祖父の地盤を受け継いで美濃の守護・土岐家へと食い込みました。主君を追放し一代で美濃を乗っ取ったことから「美濃のマムシ」と呼ばれますが、近年の研究では父子二代で美濃の国盗りを行ったことがわかっています。 そのように入手した美濃を受け継いだ義龍は、徐々に道三との間に溝を深めていくのです。 深刻化する父との確執 義龍は幼いころから父との確執を抱えていました。それはやがて、父殺しへと発展していきます。 道三は弟たちを溺愛していた 道三は義龍に冷たい態度をとり、弟の孫四郎や喜平次らを「利口者」だと溺愛するようになりました。そして、義龍の相続権を廃し、正室・小見の方の子である孫四郎を嫡子に、末弟の喜平次に名門一色氏を名乗らせようとしたのです。これにより道三と義龍の関係は悪化し、弟たちも大きな態度を取るようになります。 さらに当時の美濃では家中の不満がたまっており、多方面から危機感を抱いた義龍は戦いを決意します。
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、どこで生まれたか。
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、美濃国で生まれた。
JCRRAG_018705
歴史
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、斎藤義龍である。 謎に包まれた出生 義龍は美濃国を治める戦国武将・斎藤道三の息子として育ちました。しかしその出自には俗説も囁かれています。 側室:深芳野から生まれる 義龍は、大永7年(1527)斎藤道三の長男として美濃国で生まれました。母親は側室の深芳野(みよしの)で、美濃一ともいわれていた長身の美女です。この頃の道三は美濃の守護・土岐頼芸(ときよりなり)に仕えており、深芳野はもともと頼芸のお気に入りの妾(めかけ)でした。それが道三に譲られる形になり、直後に義龍が生まれたのです。 そのため江戸時代にまとめられた『美濃国諸家系譜』で、頼芸の子を懐妊していたのではないかという俗説が生まれました。 家督を継承し稲葉山城主になる 天文23年(1554)道三の隠居により、義龍は家督を継いで稲葉山城主となります。この隠居は領国経営につまずいたためといわれますが、『信長公記』や『江美濃記』には記述がなく、隠居していないという説もあります。 道三は小坊主から油売りになり、祖父の地盤を受け継いで美濃の守護・土岐家へと食い込みました。主君を追放し一代で美濃を乗っ取ったことから「美濃のマムシ」と呼ばれますが、近年の研究では父子二代で美濃の国盗りを行ったことがわかっています。 そのように入手した美濃を受け継いだ義龍は、徐々に道三との間に溝を深めていくのです。 深刻化する父との確執 義龍は幼いころから父との確執を抱えていました。それはやがて、父殺しへと発展していきます。 道三は弟たちを溺愛していた 道三は義龍に冷たい態度をとり、弟の孫四郎や喜平次らを「利口者」だと溺愛するようになりました。そして、義龍の相続権を廃し、正室・小見の方の子である孫四郎を嫡子に、末弟の喜平次に名門一色氏を名乗らせようとしたのです。これにより道三と義龍の関係は悪化し、弟たちも大きな態度を取るようになります。 さらに当時の美濃では家中の不満がたまっており、多方面から危機感を抱いた義龍は戦いを決意します。
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、天文23年(1554)道三の隠居により家督を継ぎ、何となったか。
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、天文23年(1554)道三の隠居により家督を継ぎ、稲葉山城主となった。
JCRRAG_018706
歴史
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、斎藤義龍である。 謎に包まれた出生 義龍は美濃国を治める戦国武将・斎藤道三の息子として育ちました。しかしその出自には俗説も囁かれています。 側室:深芳野から生まれる 義龍は、大永7年(1527)斎藤道三の長男として美濃国で生まれました。母親は側室の深芳野(みよしの)で、美濃一ともいわれていた長身の美女です。この頃の道三は美濃の守護・土岐頼芸(ときよりなり)に仕えており、深芳野はもともと頼芸のお気に入りの妾(めかけ)でした。それが道三に譲られる形になり、直後に義龍が生まれたのです。 そのため江戸時代にまとめられた『美濃国諸家系譜』で、頼芸の子を懐妊していたのではないかという俗説が生まれました。 家督を継承し稲葉山城主になる 天文23年(1554)道三の隠居により、義龍は家督を継いで稲葉山城主となります。この隠居は領国経営につまずいたためといわれますが、『信長公記』や『江美濃記』には記述がなく、隠居していないという説もあります。 道三は小坊主から油売りになり、祖父の地盤を受け継いで美濃の守護・土岐家へと食い込みました。主君を追放し一代で美濃を乗っ取ったことから「美濃のマムシ」と呼ばれますが、近年の研究では父子二代で美濃の国盗りを行ったことがわかっています。 そのように入手した美濃を受け継いだ義龍は、徐々に道三との間に溝を深めていくのです。 深刻化する父との確執 義龍は幼いころから父との確執を抱えていました。それはやがて、父殺しへと発展していきます。 道三は弟たちを溺愛していた 道三は義龍に冷たい態度をとり、弟の孫四郎や喜平次らを「利口者」だと溺愛するようになりました。そして、義龍の相続権を廃し、正室・小見の方の子である孫四郎を嫡子に、末弟の喜平次に名門一色氏を名乗らせようとしたのです。これにより道三と義龍の関係は悪化し、弟たちも大きな態度を取るようになります。 さらに当時の美濃では家中の不満がたまっており、多方面から危機感を抱いた義龍は戦いを決意します。
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、誰に冷たい態度を取られ、弟の孫四郎や喜平次らを「利口者」だと溺愛されたか。
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、道三に冷たい態度を取られ、弟の孫四郎や喜平次らを「利口者」だと溺愛された。
JCRRAG_018707
歴史
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、斎藤義龍である。 長良川の戦いで父を討つ 弘治元年(1555)義龍は長井道利と共謀し、稲葉山城におびきだした弟たちを酒に酔わせ殺害。これに驚いた道三は大桑城に落ち延びましたが、翌年には長良川で義龍と対峙します。このとき道三に味方する勢力は少なく、旧土岐氏の支持を得た義龍はその勢力に支えられて父を討ちました。兵力の差は歴然で、義龍軍1万7500人に対し道三軍は2700人余りだったといいます。 手腕を発揮するも認めてもらえず…… 道三に味方した勢力には明智氏もいましたが、義龍は別動隊を率いて攻め滅ぼしています。また、道三の娘婿である尾張国の織田信長は道三に援軍を送ったものの、少し戦っただけで撤退したようです。 幼いころから能力を認められなかった義龍ですが、長良川の戦いで存分に手腕を発揮しました。しかし、道三は戦死前に「美濃を信長に譲る」という遺言状を残しており、義龍は最後まで認められなかったのです。 美濃国主となった義龍 父を討ち美濃国主となった義龍は、領国経営に乗り出します。ここで義龍は、内政手腕を発揮しました。 内政に着手し新しい基礎を築く 義龍は所領問題の解決や宿老による合議制を導入するなど、戦国大名としての基礎を築き、官位の獲得にも注力し、永禄元年(1558)には、治部省の正五位にあたる、治部大輔(ちぶのたいふ)という位に任命されています。この役職は清和天皇から出て源姓を名のった清和源氏の血をひく者が任命されるため、土岐氏の末裔であることを誇示する意味もあったかもしれません。 永禄2年(1559)には将軍を補佐する名誉職「相伴衆(しょうばんしゅう)」にも加わっています。 信長と対立する 父の親戚にあたる信長とも敵対することになった義龍は、信長と不仲だった彼の兄弟たちに目を付けました。 家督を狙い謀反した信長の実弟・織田信行は、義龍と連絡をとりあい陰謀を巡らせたのです。しかし、それが信長の耳に入り処刑されてしまいます。また信長の庶兄・織田信広も義龍と共謀して謀反を企みますが、やはり信長に知られ未遂に終わりました。 突然訪れた最期 美濃を支配し権威を手に入れた義龍ですが、その栄華は長くは続きませんでした。永禄3年(1560)第一子が早逝すると、悲しみにくれた妻が続けて亡くなってしまいます。さらにその翌年、32歳という若さで義龍自身も急死したのです。一説にはハンセン病だったとされていますが、その真実は定かではありません。 義龍の跡を継いだ龍興は、信長の侵攻を止められず美濃を追われました。こうして情勢は急展開を迎えたのです。 残された逸話 父に冷遇された義龍は、短いながらも美濃国主を務めるなどの功績を残しました。ここでは彼にまつわる逸話を2つご紹介します。 信長暗殺を狙っていた! 永禄2年(1559)信長がわずかな家臣をつれて上洛した際、義龍は暗殺を企てました。そのとき派遣したのは火縄銃を装備した兵士たちで、これは日本初の狙撃として記録に残されています。火縄銃といえば信長のイメージがありますが、義龍もうまく銃を使う発想をもっていたといえそうです。 義龍が改名した理由とは? 義龍は何度か改名していますが、これは父殺しに関連していました。 一つは「一色左京大夫」という名前で、足利氏一門の一色氏を名乗ることで自分の正当性を主張したと考えられます。母・深芳野は一色氏出身とされていたため、一色氏を名乗れば頼芸の子だとアピールでき、土岐氏家臣たちを味方につけやすかったのです。 道三死後に名乗った「范可(はんか)」は、中国・唐の時代に仕方なく父殺しをした人物の名前でした。義龍は自分と重ねてこの名を使ったといわれますが、故事の実在は確認されておらず、真偽のほどはわかりません。 信長の美濃攻略が遅れた可能性も 父・道三から「耄者(ほれもの/馬鹿者の意味)」と呼ばれた義龍ですが、実際には優れた才覚をもつ人物だったようです。長良川の戦いで苦しめられた道三は、かつて義龍を無能だと評したことを後悔したともいわれています。 義龍は志半ばで亡くなりましたが、もし生きていればさらに猛威を振るったことでしょう。もしかすると、信長の美濃攻略を大幅に遅らせるほどの存在になっていたかもしれません。
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、誰と共謀し、稲葉山城におびきだした弟たちを酒に酔わせ殺害したか。
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、美濃国で生まれ長井道利と共謀し、稲葉山城におびきだした弟たちを酒に酔わせ殺害した。
JCRRAG_018708
歴史
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、斎藤義龍である。 長良川の戦いで父を討つ 弘治元年(1555)義龍は長井道利と共謀し、稲葉山城におびきだした弟たちを酒に酔わせ殺害。これに驚いた道三は大桑城に落ち延びましたが、翌年には長良川で義龍と対峙します。このとき道三に味方する勢力は少なく、旧土岐氏の支持を得た義龍はその勢力に支えられて父を討ちました。兵力の差は歴然で、義龍軍1万7500人に対し道三軍は2700人余りだったといいます。 手腕を発揮するも認めてもらえず…… 道三に味方した勢力には明智氏もいましたが、義龍は別動隊を率いて攻め滅ぼしています。また、道三の娘婿である尾張国の織田信長は道三に援軍を送ったものの、少し戦っただけで撤退したようです。 幼いころから能力を認められなかった義龍ですが、長良川の戦いで存分に手腕を発揮しました。しかし、道三は戦死前に「美濃を信長に譲る」という遺言状を残しており、義龍は最後まで認められなかったのです。 美濃国主となった義龍 父を討ち美濃国主となった義龍は、領国経営に乗り出します。ここで義龍は、内政手腕を発揮しました。 内政に着手し新しい基礎を築く 義龍は所領問題の解決や宿老による合議制を導入するなど、戦国大名としての基礎を築き、官位の獲得にも注力し、永禄元年(1558)には、治部省の正五位にあたる、治部大輔(ちぶのたいふ)という位に任命されています。この役職は清和天皇から出て源姓を名のった清和源氏の血をひく者が任命されるため、土岐氏の末裔であることを誇示する意味もあったかもしれません。 永禄2年(1559)には将軍を補佐する名誉職「相伴衆(しょうばんしゅう)」にも加わっています。 信長と対立する 父の親戚にあたる信長とも敵対することになった義龍は、信長と不仲だった彼の兄弟たちに目を付けました。 家督を狙い謀反した信長の実弟・織田信行は、義龍と連絡をとりあい陰謀を巡らせたのです。しかし、それが信長の耳に入り処刑されてしまいます。また信長の庶兄・織田信広も義龍と共謀して謀反を企みますが、やはり信長に知られ未遂に終わりました。 突然訪れた最期 美濃を支配し権威を手に入れた義龍ですが、その栄華は長くは続きませんでした。永禄3年(1560)第一子が早逝すると、悲しみにくれた妻が続けて亡くなってしまいます。さらにその翌年、32歳という若さで義龍自身も急死したのです。一説にはハンセン病だったとされていますが、その真実は定かではありません。 義龍の跡を継いだ龍興は、信長の侵攻を止められず美濃を追われました。こうして情勢は急展開を迎えたのです。 残された逸話 父に冷遇された義龍は、短いながらも美濃国主を務めるなどの功績を残しました。ここでは彼にまつわる逸話を2つご紹介します。 信長暗殺を狙っていた! 永禄2年(1559)信長がわずかな家臣をつれて上洛した際、義龍は暗殺を企てました。そのとき派遣したのは火縄銃を装備した兵士たちで、これは日本初の狙撃として記録に残されています。火縄銃といえば信長のイメージがありますが、義龍もうまく銃を使う発想をもっていたといえそうです。 義龍が改名した理由とは? 義龍は何度か改名していますが、これは父殺しに関連していました。 一つは「一色左京大夫」という名前で、足利氏一門の一色氏を名乗ることで自分の正当性を主張したと考えられます。母・深芳野は一色氏出身とされていたため、一色氏を名乗れば頼芸の子だとアピールでき、土岐氏家臣たちを味方につけやすかったのです。 道三死後に名乗った「范可(はんか)」は、中国・唐の時代に仕方なく父殺しをした人物の名前でした。義龍は自分と重ねてこの名を使ったといわれますが、故事の実在は確認されておらず、真偽のほどはわかりません。 信長の美濃攻略が遅れた可能性も 父・道三から「耄者(ほれもの/馬鹿者の意味)」と呼ばれた義龍ですが、実際には優れた才覚をもつ人物だったようです。長良川の戦いで苦しめられた道三は、かつて義龍を無能だと評したことを後悔したともいわれています。 義龍は志半ばで亡くなりましたが、もし生きていればさらに猛威を振るったことでしょう。もしかすると、信長の美濃攻略を大幅に遅らせるほどの存在になっていたかもしれません。
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、何をするなどして、戦国大名としての基礎を築いたか。
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、所領問題の解決や宿老による合議制を導入するなど、戦国大名としての基礎を築いた。
JCRRAG_018709
歴史
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、斎藤義龍である。 長良川の戦いで父を討つ 弘治元年(1555)義龍は長井道利と共謀し、稲葉山城におびきだした弟たちを酒に酔わせ殺害。これに驚いた道三は大桑城に落ち延びましたが、翌年には長良川で義龍と対峙します。このとき道三に味方する勢力は少なく、旧土岐氏の支持を得た義龍はその勢力に支えられて父を討ちました。兵力の差は歴然で、義龍軍1万7500人に対し道三軍は2700人余りだったといいます。 手腕を発揮するも認めてもらえず…… 道三に味方した勢力には明智氏もいましたが、義龍は別動隊を率いて攻め滅ぼしています。また、道三の娘婿である尾張国の織田信長は道三に援軍を送ったものの、少し戦っただけで撤退したようです。 幼いころから能力を認められなかった義龍ですが、長良川の戦いで存分に手腕を発揮しました。しかし、道三は戦死前に「美濃を信長に譲る」という遺言状を残しており、義龍は最後まで認められなかったのです。 美濃国主となった義龍 父を討ち美濃国主となった義龍は、領国経営に乗り出します。ここで義龍は、内政手腕を発揮しました。 内政に着手し新しい基礎を築く 義龍は所領問題の解決や宿老による合議制を導入するなど、戦国大名としての基礎を築き、官位の獲得にも注力し、永禄元年(1558)には、治部省の正五位にあたる、治部大輔(ちぶのたいふ)という位に任命されています。この役職は清和天皇から出て源姓を名のった清和源氏の血をひく者が任命されるため、土岐氏の末裔であることを誇示する意味もあったかもしれません。 永禄2年(1559)には将軍を補佐する名誉職「相伴衆(しょうばんしゅう)」にも加わっています。 信長と対立する 父の親戚にあたる信長とも敵対することになった義龍は、信長と不仲だった彼の兄弟たちに目を付けました。 家督を狙い謀反した信長の実弟・織田信行は、義龍と連絡をとりあい陰謀を巡らせたのです。しかし、それが信長の耳に入り処刑されてしまいます。また信長の庶兄・織田信広も義龍と共謀して謀反を企みますが、やはり信長に知られ未遂に終わりました。 突然訪れた最期 美濃を支配し権威を手に入れた義龍ですが、その栄華は長くは続きませんでした。永禄3年(1560)第一子が早逝すると、悲しみにくれた妻が続けて亡くなってしまいます。さらにその翌年、32歳という若さで義龍自身も急死したのです。一説にはハンセン病だったとされていますが、その真実は定かではありません。 義龍の跡を継いだ龍興は、信長の侵攻を止められず美濃を追われました。こうして情勢は急展開を迎えたのです。 残された逸話 父に冷遇された義龍は、短いながらも美濃国主を務めるなどの功績を残しました。ここでは彼にまつわる逸話を2つご紹介します。 信長暗殺を狙っていた! 永禄2年(1559)信長がわずかな家臣をつれて上洛した際、義龍は暗殺を企てました。そのとき派遣したのは火縄銃を装備した兵士たちで、これは日本初の狙撃として記録に残されています。火縄銃といえば信長のイメージがありますが、義龍もうまく銃を使う発想をもっていたといえそうです。 義龍が改名した理由とは? 義龍は何度か改名していますが、これは父殺しに関連していました。 一つは「一色左京大夫」という名前で、足利氏一門の一色氏を名乗ることで自分の正当性を主張したと考えられます。母・深芳野は一色氏出身とされていたため、一色氏を名乗れば頼芸の子だとアピールでき、土岐氏家臣たちを味方につけやすかったのです。 道三死後に名乗った「范可(はんか)」は、中国・唐の時代に仕方なく父殺しをした人物の名前でした。義龍は自分と重ねてこの名を使ったといわれますが、故事の実在は確認されておらず、真偽のほどはわかりません。 信長の美濃攻略が遅れた可能性も 父・道三から「耄者(ほれもの/馬鹿者の意味)」と呼ばれた義龍ですが、実際には優れた才覚をもつ人物だったようです。長良川の戦いで苦しめられた道三は、かつて義龍を無能だと評したことを後悔したともいわれています。 義龍は志半ばで亡くなりましたが、もし生きていればさらに猛威を振るったことでしょう。もしかすると、信長の美濃攻略を大幅に遅らせるほどの存在になっていたかもしれません。
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、何に注力したか。
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、官位の獲得にも注力した。
JCRRAG_018710
歴史
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、斎藤義龍である。 長良川の戦いで父を討つ 弘治元年(1555)義龍は長井道利と共謀し、稲葉山城におびきだした弟たちを酒に酔わせ殺害。これに驚いた道三は大桑城に落ち延びましたが、翌年には長良川で義龍と対峙します。このとき道三に味方する勢力は少なく、旧土岐氏の支持を得た義龍はその勢力に支えられて父を討ちました。兵力の差は歴然で、義龍軍1万7500人に対し道三軍は2700人余りだったといいます。 手腕を発揮するも認めてもらえず…… 道三に味方した勢力には明智氏もいましたが、義龍は別動隊を率いて攻め滅ぼしています。また、道三の娘婿である尾張国の織田信長は道三に援軍を送ったものの、少し戦っただけで撤退したようです。 幼いころから能力を認められなかった義龍ですが、長良川の戦いで存分に手腕を発揮しました。しかし、道三は戦死前に「美濃を信長に譲る」という遺言状を残しており、義龍は最後まで認められなかったのです。 美濃国主となった義龍 父を討ち美濃国主となった義龍は、領国経営に乗り出します。ここで義龍は、内政手腕を発揮しました。 内政に着手し新しい基礎を築く 義龍は所領問題の解決や宿老による合議制を導入するなど、戦国大名としての基礎を築き、官位の獲得にも注力し、永禄元年(1558)には、治部省の正五位にあたる、治部大輔(ちぶのたいふ)という位に任命されています。この役職は清和天皇から出て源姓を名のった清和源氏の血をひく者が任命されるため、土岐氏の末裔であることを誇示する意味もあったかもしれません。 永禄2年(1559)には将軍を補佐する名誉職「相伴衆(しょうばんしゅう)」にも加わっています。 信長と対立する 父の親戚にあたる信長とも敵対することになった義龍は、信長と不仲だった彼の兄弟たちに目を付けました。 家督を狙い謀反した信長の実弟・織田信行は、義龍と連絡をとりあい陰謀を巡らせたのです。しかし、それが信長の耳に入り処刑されてしまいます。また信長の庶兄・織田信広も義龍と共謀して謀反を企みますが、やはり信長に知られ未遂に終わりました。 突然訪れた最期 美濃を支配し権威を手に入れた義龍ですが、その栄華は長くは続きませんでした。永禄3年(1560)第一子が早逝すると、悲しみにくれた妻が続けて亡くなってしまいます。さらにその翌年、32歳という若さで義龍自身も急死したのです。一説にはハンセン病だったとされていますが、その真実は定かではありません。 義龍の跡を継いだ龍興は、信長の侵攻を止められず美濃を追われました。こうして情勢は急展開を迎えたのです。 残された逸話 父に冷遇された義龍は、短いながらも美濃国主を務めるなどの功績を残しました。ここでは彼にまつわる逸話を2つご紹介します。 信長暗殺を狙っていた! 永禄2年(1559)信長がわずかな家臣をつれて上洛した際、義龍は暗殺を企てました。そのとき派遣したのは火縄銃を装備した兵士たちで、これは日本初の狙撃として記録に残されています。火縄銃といえば信長のイメージがありますが、義龍もうまく銃を使う発想をもっていたといえそうです。 義龍が改名した理由とは? 義龍は何度か改名していますが、これは父殺しに関連していました。 一つは「一色左京大夫」という名前で、足利氏一門の一色氏を名乗ることで自分の正当性を主張したと考えられます。母・深芳野は一色氏出身とされていたため、一色氏を名乗れば頼芸の子だとアピールでき、土岐氏家臣たちを味方につけやすかったのです。 道三死後に名乗った「范可(はんか)」は、中国・唐の時代に仕方なく父殺しをした人物の名前でした。義龍は自分と重ねてこの名を使ったといわれますが、故事の実在は確認されておらず、真偽のほどはわかりません。 信長の美濃攻略が遅れた可能性も 父・道三から「耄者(ほれもの/馬鹿者の意味)」と呼ばれた義龍ですが、実際には優れた才覚をもつ人物だったようです。長良川の戦いで苦しめられた道三は、かつて義龍を無能だと評したことを後悔したともいわれています。 義龍は志半ばで亡くなりましたが、もし生きていればさらに猛威を振るったことでしょう。もしかすると、信長の美濃攻略を大幅に遅らせるほどの存在になっていたかもしれません。
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、永禄元年(1558)には、そのような位に任命されたか。
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、永禄元年(1558)には、治部省の正五位にあたる、治部大輔(ちぶのたいふ)という位に任命された。
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歴史
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、斎藤義龍である。 長良川の戦いで父を討つ 弘治元年(1555)義龍は長井道利と共謀し、稲葉山城におびきだした弟たちを酒に酔わせ殺害。これに驚いた道三は大桑城に落ち延びましたが、翌年には長良川で義龍と対峙します。このとき道三に味方する勢力は少なく、旧土岐氏の支持を得た義龍はその勢力に支えられて父を討ちました。兵力の差は歴然で、義龍軍1万7500人に対し道三軍は2700人余りだったといいます。 手腕を発揮するも認めてもらえず…… 道三に味方した勢力には明智氏もいましたが、義龍は別動隊を率いて攻め滅ぼしています。また、道三の娘婿である尾張国の織田信長は道三に援軍を送ったものの、少し戦っただけで撤退したようです。 幼いころから能力を認められなかった義龍ですが、長良川の戦いで存分に手腕を発揮しました。しかし、道三は戦死前に「美濃を信長に譲る」という遺言状を残しており、義龍は最後まで認められなかったのです。 美濃国主となった義龍 父を討ち美濃国主となった義龍は、領国経営に乗り出します。ここで義龍は、内政手腕を発揮しました。 内政に着手し新しい基礎を築く 義龍は所領問題の解決や宿老による合議制を導入するなど、戦国大名としての基礎を築き、官位の獲得にも注力し、永禄元年(1558)には、治部省の正五位にあたる、治部大輔(ちぶのたいふ)という位に任命されています。この役職は清和天皇から出て源姓を名のった清和源氏の血をひく者が任命されるため、土岐氏の末裔であることを誇示する意味もあったかもしれません。 永禄2年(1559)には将軍を補佐する名誉職「相伴衆(しょうばんしゅう)」にも加わっています。 信長と対立する 父の親戚にあたる信長とも敵対することになった義龍は、信長と不仲だった彼の兄弟たちに目を付けました。 家督を狙い謀反した信長の実弟・織田信行は、義龍と連絡をとりあい陰謀を巡らせたのです。しかし、それが信長の耳に入り処刑されてしまいます。また信長の庶兄・織田信広も義龍と共謀して謀反を企みますが、やはり信長に知られ未遂に終わりました。 突然訪れた最期 美濃を支配し権威を手に入れた義龍ですが、その栄華は長くは続きませんでした。永禄3年(1560)第一子が早逝すると、悲しみにくれた妻が続けて亡くなってしまいます。さらにその翌年、32歳という若さで義龍自身も急死したのです。一説にはハンセン病だったとされていますが、その真実は定かではありません。 義龍の跡を継いだ龍興は、信長の侵攻を止められず美濃を追われました。こうして情勢は急展開を迎えたのです。 残された逸話 父に冷遇された義龍は、短いながらも美濃国主を務めるなどの功績を残しました。ここでは彼にまつわる逸話を2つご紹介します。 信長暗殺を狙っていた! 永禄2年(1559)信長がわずかな家臣をつれて上洛した際、義龍は暗殺を企てました。そのとき派遣したのは火縄銃を装備した兵士たちで、これは日本初の狙撃として記録に残されています。火縄銃といえば信長のイメージがありますが、義龍もうまく銃を使う発想をもっていたといえそうです。 義龍が改名した理由とは? 義龍は何度か改名していますが、これは父殺しに関連していました。 一つは「一色左京大夫」という名前で、足利氏一門の一色氏を名乗ることで自分の正当性を主張したと考えられます。母・深芳野は一色氏出身とされていたため、一色氏を名乗れば頼芸の子だとアピールでき、土岐氏家臣たちを味方につけやすかったのです。 道三死後に名乗った「范可(はんか)」は、中国・唐の時代に仕方なく父殺しをした人物の名前でした。義龍は自分と重ねてこの名を使ったといわれますが、故事の実在は確認されておらず、真偽のほどはわかりません。 信長の美濃攻略が遅れた可能性も 父・道三から「耄者(ほれもの/馬鹿者の意味)」と呼ばれた義龍ですが、実際には優れた才覚をもつ人物だったようです。長良川の戦いで苦しめられた道三は、かつて義龍を無能だと評したことを後悔したともいわれています。 義龍は志半ばで亡くなりましたが、もし生きていればさらに猛威を振るったことでしょう。もしかすると、信長の美濃攻略を大幅に遅らせるほどの存在になっていたかもしれません。
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、短いながらもどのような功績を残したか。
父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、短いながらも美濃国主を務めるなどの功績を残した。
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歴史
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、足利義輝である。 生まれから将軍就任まで 義輝の生まれはどのようなものだったのでしょうか。激動の幼少期を振り返ります。 11歳で幕府将軍職を譲られる 義輝は、天文5年(1536)12代将軍・足利義晴の子として、京都の東山南禅寺で誕生しました。幼名は菊童丸といい、将軍と正室の間に生まれた男子は9代将軍・義尚以来、また摂関家出身の母を持つのは彼が初めてでした。 天文15年(1546)菊童丸はわずか11歳で幕府将軍職を譲位されます。これには、自分が健在なうちに地位を譲って後見しようという父・義晴の考えがあったようです。 将軍就任式は近江坂本の日吉神社で行われ、元服以降は義藤と名乗りました。 細川晴元と和睦して帰京 義輝が幼いころ、父・義晴は管領の細川晴元と権威争いを繰り広げていました。晴元は同族の細川高国と家督争いをしており、高国が将軍・義晴を擁立したため、対立関係に陥っていたのです。 義晴は戦で負けるたびに近江坂本に逃れ、京への復帰と坂本・朽木への脱出を繰り返しました。義輝もそれに従ったため、将軍家の嫡男は伊勢氏邸宅で養育される慣例だったものの、彼は両親のもとで育てられました。 慌ただしい環境で育った義輝ですが、天文17年(1548)父・義晴が晴元と和睦したため京に戻ります。このとき晴元も義輝の将軍就任を承諾しました。 将軍復権を目指し奔走 将軍として帰京した義輝は、足利将軍家の復権を目指します。しかし、それは一筋縄ではいきませんでした。 三好長慶と対立するが… 晴元は高国を討ち権力基盤を築きましたが、その後も細川家の闘争は続き、義輝はこの戦いに巻き込まれます。 亡き高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて挙兵すると、晴元の家臣・三好長慶が離反し氏綱に味方しました。そのため義輝は長慶と対峙しますが、戦局はなかなか好転せず長慶暗殺を図るも失敗。天文21年(1552)ようやく長慶と和睦すると、義輝は京都に戻りました。これにより長慶は幕臣に取り立てられ、晴元は京を脱出しています。
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、いつ誕生したか。
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、天文5年(1536)に誕生した。
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歴史
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、足利義輝である。 生まれから将軍就任まで 義輝の生まれはどのようなものだったのでしょうか。激動の幼少期を振り返ります。 11歳で幕府将軍職を譲られる 義輝は、天文5年(1536)12代将軍・足利義晴の子として、京都の東山南禅寺で誕生しました。幼名は菊童丸といい、将軍と正室の間に生まれた男子は9代将軍・義尚以来、また摂関家出身の母を持つのは彼が初めてでした。 天文15年(1546)菊童丸はわずか11歳で幕府将軍職を譲位されます。これには、自分が健在なうちに地位を譲って後見しようという父・義晴の考えがあったようです。 将軍就任式は近江坂本の日吉神社で行われ、元服以降は義藤と名乗りました。 細川晴元と和睦して帰京 義輝が幼いころ、父・義晴は管領の細川晴元と権威争いを繰り広げていました。晴元は同族の細川高国と家督争いをしており、高国が将軍・義晴を擁立したため、対立関係に陥っていたのです。 義晴は戦で負けるたびに近江坂本に逃れ、京への復帰と坂本・朽木への脱出を繰り返しました。義輝もそれに従ったため、将軍家の嫡男は伊勢氏邸宅で養育される慣例だったものの、彼は両親のもとで育てられました。 慌ただしい環境で育った義輝ですが、天文17年(1548)父・義晴が晴元と和睦したため京に戻ります。このとき晴元も義輝の将軍就任を承諾しました。 将軍復権を目指し奔走 将軍として帰京した義輝は、足利将軍家の復権を目指します。しかし、それは一筋縄ではいきませんでした。 三好長慶と対立するが… 晴元は高国を討ち権力基盤を築きましたが、その後も細川家の闘争は続き、義輝はこの戦いに巻き込まれます。 亡き高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて挙兵すると、晴元の家臣・三好長慶が離反し氏綱に味方しました。そのため義輝は長慶と対峙しますが、戦局はなかなか好転せず長慶暗殺を図るも失敗。天文21年(1552)ようやく長慶と和睦すると、義輝は京都に戻りました。これにより長慶は幕臣に取り立てられ、晴元は京を脱出しています。
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、誰の子として誕生したか。
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、12代将軍・足利義晴の子として誕生した。
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歴史
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、足利義輝である。 生まれから将軍就任まで 義輝の生まれはどのようなものだったのでしょうか。激動の幼少期を振り返ります。 11歳で幕府将軍職を譲られる 義輝は、天文5年(1536)12代将軍・足利義晴の子として、京都の東山南禅寺で誕生しました。幼名は菊童丸といい、将軍と正室の間に生まれた男子は9代将軍・義尚以来、また摂関家出身の母を持つのは彼が初めてでした。 天文15年(1546)菊童丸はわずか11歳で幕府将軍職を譲位されます。これには、自分が健在なうちに地位を譲って後見しようという父・義晴の考えがあったようです。 将軍就任式は近江坂本の日吉神社で行われ、元服以降は義藤と名乗りました。 細川晴元と和睦して帰京 義輝が幼いころ、父・義晴は管領の細川晴元と権威争いを繰り広げていました。晴元は同族の細川高国と家督争いをしており、高国が将軍・義晴を擁立したため、対立関係に陥っていたのです。 義晴は戦で負けるたびに近江坂本に逃れ、京への復帰と坂本・朽木への脱出を繰り返しました。義輝もそれに従ったため、将軍家の嫡男は伊勢氏邸宅で養育される慣例だったものの、彼は両親のもとで育てられました。 慌ただしい環境で育った義輝ですが、天文17年(1548)父・義晴が晴元と和睦したため京に戻ります。このとき晴元も義輝の将軍就任を承諾しました。 将軍復権を目指し奔走 将軍として帰京した義輝は、足利将軍家の復権を目指します。しかし、それは一筋縄ではいきませんでした。 三好長慶と対立するが… 晴元は高国を討ち権力基盤を築きましたが、その後も細川家の闘争は続き、義輝はこの戦いに巻き込まれます。 亡き高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて挙兵すると、晴元の家臣・三好長慶が離反し氏綱に味方しました。そのため義輝は長慶と対峙しますが、戦局はなかなか好転せず長慶暗殺を図るも失敗。天文21年(1552)ようやく長慶と和睦すると、義輝は京都に戻りました。これにより長慶は幕臣に取り立てられ、晴元は京を脱出しています。
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、どこで誕生したか。
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、京都の東山南禅寺で誕生した。
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歴史
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、足利義輝である。 生まれから将軍就任まで 義輝の生まれはどのようなものだったのでしょうか。激動の幼少期を振り返ります。 11歳で幕府将軍職を譲られる 義輝は、天文5年(1536)12代将軍・足利義晴の子として、京都の東山南禅寺で誕生しました。幼名は菊童丸といい、将軍と正室の間に生まれた男子は9代将軍・義尚以来、また摂関家出身の母を持つのは彼が初めてでした。 天文15年(1546)菊童丸はわずか11歳で幕府将軍職を譲位されます。これには、自分が健在なうちに地位を譲って後見しようという父・義晴の考えがあったようです。 将軍就任式は近江坂本の日吉神社で行われ、元服以降は義藤と名乗りました。 細川晴元と和睦して帰京 義輝が幼いころ、父・義晴は管領の細川晴元と権威争いを繰り広げていました。晴元は同族の細川高国と家督争いをしており、高国が将軍・義晴を擁立したため、対立関係に陥っていたのです。 義晴は戦で負けるたびに近江坂本に逃れ、京への復帰と坂本・朽木への脱出を繰り返しました。義輝もそれに従ったため、将軍家の嫡男は伊勢氏邸宅で養育される慣例だったものの、彼は両親のもとで育てられました。 慌ただしい環境で育った義輝ですが、天文17年(1548)父・義晴が晴元と和睦したため京に戻ります。このとき晴元も義輝の将軍就任を承諾しました。 将軍復権を目指し奔走 将軍として帰京した義輝は、足利将軍家の復権を目指します。しかし、それは一筋縄ではいきませんでした。 三好長慶と対立するが… 晴元は高国を討ち権力基盤を築きましたが、その後も細川家の闘争は続き、義輝はこの戦いに巻き込まれます。 亡き高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて挙兵すると、晴元の家臣・三好長慶が離反し氏綱に味方しました。そのため義輝は長慶と対峙しますが、戦局はなかなか好転せず長慶暗殺を図るも失敗。天文21年(1552)ようやく長慶と和睦すると、義輝は京都に戻りました。これにより長慶は幕臣に取り立てられ、晴元は京を脱出しています。
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、誰と対峙したか。
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、長慶と対峙した。
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歴史
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、足利義輝である。 生まれから将軍就任まで 義輝の生まれはどのようなものだったのでしょうか。激動の幼少期を振り返ります。 11歳で幕府将軍職を譲られる 義輝は、天文5年(1536)12代将軍・足利義晴の子として、京都の東山南禅寺で誕生しました。幼名は菊童丸といい、将軍と正室の間に生まれた男子は9代将軍・義尚以来、また摂関家出身の母を持つのは彼が初めてでした。 天文15年(1546)菊童丸はわずか11歳で幕府将軍職を譲位されます。これには、自分が健在なうちに地位を譲って後見しようという父・義晴の考えがあったようです。 将軍就任式は近江坂本の日吉神社で行われ、元服以降は義藤と名乗りました。 細川晴元と和睦して帰京 義輝が幼いころ、父・義晴は管領の細川晴元と権威争いを繰り広げていました。晴元は同族の細川高国と家督争いをしており、高国が将軍・義晴を擁立したため、対立関係に陥っていたのです。 義晴は戦で負けるたびに近江坂本に逃れ、京への復帰と坂本・朽木への脱出を繰り返しました。義輝もそれに従ったため、将軍家の嫡男は伊勢氏邸宅で養育される慣例だったものの、彼は両親のもとで育てられました。 慌ただしい環境で育った義輝ですが、天文17年(1548)父・義晴が晴元と和睦したため京に戻ります。このとき晴元も義輝の将軍就任を承諾しました。 将軍復権を目指し奔走 将軍として帰京した義輝は、足利将軍家の復権を目指します。しかし、それは一筋縄ではいきませんでした。 三好長慶と対立するが… 晴元は高国を討ち権力基盤を築きましたが、その後も細川家の闘争は続き、義輝はこの戦いに巻き込まれます。 亡き高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて挙兵すると、晴元の家臣・三好長慶が離反し氏綱に味方しました。そのため義輝は長慶と対峙しますが、戦局はなかなか好転せず長慶暗殺を図るも失敗。天文21年(1552)ようやく長慶と和睦すると、義輝は京都に戻りました。これにより長慶は幕臣に取り立てられ、晴元は京を脱出しています。
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、戦局はなかなか好転せず何をするも失敗したか。
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、戦局はなかなか好転せず長慶暗殺を図るも失敗した。
JCRRAG_018717
歴史
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、足利義輝である。 戦国大名との修好に尽力する 幕府権力の復活を目指していた義輝は、戦国大名らと親しい関係を築きました。有力武将同士の抗争が起きた際は頻繁に調停を行い、場合によっては守護などに任命することもありました。 また、自分の名前の一部である「藤」や「輝」の字を家臣や諸大名に与えるだけでなく、さらには、足利将軍家の通字「義」を与えることもあったようです。 永禄の変で散る!義輝の最期 将軍家に尽くした義輝は「永禄の変」で命を落とします。この戦いはどのような経緯で起こったのでしょうか。 松永久秀・三好三人衆と激突 義輝は激しい戦局を潜り抜け将軍復権に尽力しましたが、そのような動きを疎む人物がいました。それは飾り物の将軍を擁立しようと企てていた松永久秀と三好三人衆です。 彼らは義輝の叔父・足利義維と組み、その嫡男で義輝の従兄弟にあたる義栄を新将軍にしようとしていました。しかし、朝廷は耳を貸さなかったため、将軍への直訴として永禄8年(1565)約1万人の軍を率いて二条御所に侵入したのです。この「永禄の変」で義輝は自ら奮戦しましたが、最後は一斉に襲い掛かられて殺害されました。 多くの群衆がその死を悼んだ 義輝の死後、京都の天台宗の寺院・真正極楽寺(真如堂)で、義輝を弔う仏事が行われました。ここでは民間芸能の六斎踊りが披露され、摂津や近江坂本から集った約3000人が鉦鼓(しょうこ/念仏の時にたたく青銅製のかね)を鳴らし、身分を問わず7~8万の人々がその死を悼みました。これには三好三人衆政権への抵抗の意味もあったと考えられています。 語り継がれる人物像とは? 将軍でありながら生涯で多くの戦いを経験した義輝ですが、そもそもどのような人物だったのでしょうか。 武勇に優れた果敢な人物 義輝は『足利季世記(あしかがきせいき)』や『日本外史(にほんがいし)』で、武芸に秀でた剣豪として描写されています。この人物像は後世の創作といわれていますが、宣教師ルイス・フロイスもその著書のなかで「とても武勇に優れて、勇気ある人だった」と称えているため、勇猛果敢な人物だったことは確かでしょう。 塚原卜伝も認めた剣の腕前 義輝は剣聖・塚原卜伝の直弟子の一人で、奥義「一之太刀」を伝授されたといわれています。必ずしも奥義を極めたとは言い切れませんが、このような側面からも武術に秀でた人物だったと想像できます。 義輝は剣豪将軍の異名でも知られていますが、そのような名前が付けられたのも剣術に優れていたからでしょう。 最期は名刀で奮戦 永禄の変で、義輝は多数の日本刀を用いて奮闘したとされています。ルイス・フロイスの『日本史』には「自ら薙刀を振るい、その技量の見事さに人々は驚いた。その後は薙刀を投げ捨てて刀を抜いて戦った」と描かれ、『日本外史』には「足利家の名刀を畳に刺して、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて戦った」という記述がみられます。 使用されたのは「鬼丸國綱」「大包平」「九字兼定」「朝嵐兼光」「綾小路定利」「二つ銘則宗」「三日月宗近」など名刀ばかり。しかし、これらの名前が登場するのは歴史小説の中で、信憑性の高い史料には見当たらないようです。 このような創作をされるほど、義輝は人々を魅了する存在だったのでしょう。 誇り高き室町幕府将軍 長らく名ばかり将軍となっていた足利将軍家ですが、義輝は復権に尽力し親政を行いました。しかし、次期将軍となった弟・義昭により、将軍は再度飾り物になってしまいます。そして、織田信長の台頭により、ついに室町幕府は滅亡するのです。 多くの戦国武将たちがしのぎを削りあうようになったこの時期に、足利将軍として義輝が果たした役割は大きいでしょう。最後まで果敢に戦った義輝は、誇り高い将軍だったといえそうです。
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、幕府権力の復活を目指しており、誰と親しい関係を築いたか。
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、幕府権力の復活を目指しており、戦国大名らと親しい関係を築いた。
JCRRAG_018718
歴史
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、足利義輝である。 戦国大名との修好に尽力する 幕府権力の復活を目指していた義輝は、戦国大名らと親しい関係を築きました。有力武将同士の抗争が起きた際は頻繁に調停を行い、場合によっては守護などに任命することもありました。 また、自分の名前の一部である「藤」や「輝」の字を家臣や諸大名に与えるだけでなく、さらには、足利将軍家の通字「義」を与えることもあったようです。 永禄の変で散る!義輝の最期 将軍家に尽くした義輝は「永禄の変」で命を落とします。この戦いはどのような経緯で起こったのでしょうか。 松永久秀・三好三人衆と激突 義輝は激しい戦局を潜り抜け将軍復権に尽力しましたが、そのような動きを疎む人物がいました。それは飾り物の将軍を擁立しようと企てていた松永久秀と三好三人衆です。 彼らは義輝の叔父・足利義維と組み、その嫡男で義輝の従兄弟にあたる義栄を新将軍にしようとしていました。しかし、朝廷は耳を貸さなかったため、将軍への直訴として永禄8年(1565)約1万人の軍を率いて二条御所に侵入したのです。この「永禄の変」で義輝は自ら奮戦しましたが、最後は一斉に襲い掛かられて殺害されました。 多くの群衆がその死を悼んだ 義輝の死後、京都の天台宗の寺院・真正極楽寺(真如堂)で、義輝を弔う仏事が行われました。ここでは民間芸能の六斎踊りが披露され、摂津や近江坂本から集った約3000人が鉦鼓(しょうこ/念仏の時にたたく青銅製のかね)を鳴らし、身分を問わず7~8万の人々がその死を悼みました。これには三好三人衆政権への抵抗の意味もあったと考えられています。 語り継がれる人物像とは? 将軍でありながら生涯で多くの戦いを経験した義輝ですが、そもそもどのような人物だったのでしょうか。 武勇に優れた果敢な人物 義輝は『足利季世記(あしかがきせいき)』や『日本外史(にほんがいし)』で、武芸に秀でた剣豪として描写されています。この人物像は後世の創作といわれていますが、宣教師ルイス・フロイスもその著書のなかで「とても武勇に優れて、勇気ある人だった」と称えているため、勇猛果敢な人物だったことは確かでしょう。 塚原卜伝も認めた剣の腕前 義輝は剣聖・塚原卜伝の直弟子の一人で、奥義「一之太刀」を伝授されたといわれています。必ずしも奥義を極めたとは言い切れませんが、このような側面からも武術に秀でた人物だったと想像できます。 義輝は剣豪将軍の異名でも知られていますが、そのような名前が付けられたのも剣術に優れていたからでしょう。 最期は名刀で奮戦 永禄の変で、義輝は多数の日本刀を用いて奮闘したとされています。ルイス・フロイスの『日本史』には「自ら薙刀を振るい、その技量の見事さに人々は驚いた。その後は薙刀を投げ捨てて刀を抜いて戦った」と描かれ、『日本外史』には「足利家の名刀を畳に刺して、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて戦った」という記述がみられます。 使用されたのは「鬼丸國綱」「大包平」「九字兼定」「朝嵐兼光」「綾小路定利」「二つ銘則宗」「三日月宗近」など名刀ばかり。しかし、これらの名前が登場するのは歴史小説の中で、信憑性の高い史料には見当たらないようです。 このような創作をされるほど、義輝は人々を魅了する存在だったのでしょう。 誇り高き室町幕府将軍 長らく名ばかり将軍となっていた足利将軍家ですが、義輝は復権に尽力し親政を行いました。しかし、次期将軍となった弟・義昭により、将軍は再度飾り物になってしまいます。そして、織田信長の台頭により、ついに室町幕府は滅亡するのです。 多くの戦国武将たちがしのぎを削りあうようになったこの時期に、足利将軍として義輝が果たした役割は大きいでしょう。最後まで果敢に戦った義輝は、誇り高い将軍だったといえそうです。
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、何で命を落としたか。
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、「永禄の変」で命を落とした。
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歴史
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、足利義輝である。 戦国大名との修好に尽力する 幕府権力の復活を目指していた義輝は、戦国大名らと親しい関係を築きました。有力武将同士の抗争が起きた際は頻繁に調停を行い、場合によっては守護などに任命することもありました。 また、自分の名前の一部である「藤」や「輝」の字を家臣や諸大名に与えるだけでなく、さらには、足利将軍家の通字「義」を与えることもあったようです。 永禄の変で散る!義輝の最期 将軍家に尽くした義輝は「永禄の変」で命を落とします。この戦いはどのような経緯で起こったのでしょうか。 松永久秀・三好三人衆と激突 義輝は激しい戦局を潜り抜け将軍復権に尽力しましたが、そのような動きを疎む人物がいました。それは飾り物の将軍を擁立しようと企てていた松永久秀と三好三人衆です。 彼らは義輝の叔父・足利義維と組み、その嫡男で義輝の従兄弟にあたる義栄を新将軍にしようとしていました。しかし、朝廷は耳を貸さなかったため、将軍への直訴として永禄8年(1565)約1万人の軍を率いて二条御所に侵入したのです。この「永禄の変」で義輝は自ら奮戦しましたが、最後は一斉に襲い掛かられて殺害されました。 多くの群衆がその死を悼んだ 義輝の死後、京都の天台宗の寺院・真正極楽寺(真如堂)で、義輝を弔う仏事が行われました。ここでは民間芸能の六斎踊りが披露され、摂津や近江坂本から集った約3000人が鉦鼓(しょうこ/念仏の時にたたく青銅製のかね)を鳴らし、身分を問わず7~8万の人々がその死を悼みました。これには三好三人衆政権への抵抗の意味もあったと考えられています。 語り継がれる人物像とは? 将軍でありながら生涯で多くの戦いを経験した義輝ですが、そもそもどのような人物だったのでしょうか。 武勇に優れた果敢な人物 義輝は『足利季世記(あしかがきせいき)』や『日本外史(にほんがいし)』で、武芸に秀でた剣豪として描写されています。この人物像は後世の創作といわれていますが、宣教師ルイス・フロイスもその著書のなかで「とても武勇に優れて、勇気ある人だった」と称えているため、勇猛果敢な人物だったことは確かでしょう。 塚原卜伝も認めた剣の腕前 義輝は剣聖・塚原卜伝の直弟子の一人で、奥義「一之太刀」を伝授されたといわれています。必ずしも奥義を極めたとは言い切れませんが、このような側面からも武術に秀でた人物だったと想像できます。 義輝は剣豪将軍の異名でも知られていますが、そのような名前が付けられたのも剣術に優れていたからでしょう。 最期は名刀で奮戦 永禄の変で、義輝は多数の日本刀を用いて奮闘したとされています。ルイス・フロイスの『日本史』には「自ら薙刀を振るい、その技量の見事さに人々は驚いた。その後は薙刀を投げ捨てて刀を抜いて戦った」と描かれ、『日本外史』には「足利家の名刀を畳に刺して、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて戦った」という記述がみられます。 使用されたのは「鬼丸國綱」「大包平」「九字兼定」「朝嵐兼光」「綾小路定利」「二つ銘則宗」「三日月宗近」など名刀ばかり。しかし、これらの名前が登場するのは歴史小説の中で、信憑性の高い史料には見当たらないようです。 このような創作をされるほど、義輝は人々を魅了する存在だったのでしょう。 誇り高き室町幕府将軍 長らく名ばかり将軍となっていた足利将軍家ですが、義輝は復権に尽力し親政を行いました。しかし、次期将軍となった弟・義昭により、将軍は再度飾り物になってしまいます。そして、織田信長の台頭により、ついに室町幕府は滅亡するのです。 多くの戦国武将たちがしのぎを削りあうようになったこの時期に、足利将軍として義輝が果たした役割は大きいでしょう。最後まで果敢に戦った義輝は、誇り高い将軍だったといえそうです。
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、激しい戦局を潜り抜け何に尽力したか。
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、激しい戦局を潜り抜け将軍復権に尽力した。
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歴史
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、足利義輝である。 戦国大名との修好に尽力する 幕府権力の復活を目指していた義輝は、戦国大名らと親しい関係を築きました。有力武将同士の抗争が起きた際は頻繁に調停を行い、場合によっては守護などに任命することもありました。 また、自分の名前の一部である「藤」や「輝」の字を家臣や諸大名に与えるだけでなく、さらには、足利将軍家の通字「義」を与えることもあったようです。 永禄の変で散る!義輝の最期 将軍家に尽くした義輝は「永禄の変」で命を落とします。この戦いはどのような経緯で起こったのでしょうか。 松永久秀・三好三人衆と激突 義輝は激しい戦局を潜り抜け将軍復権に尽力しましたが、そのような動きを疎む人物がいました。それは飾り物の将軍を擁立しようと企てていた松永久秀と三好三人衆です。 彼らは義輝の叔父・足利義維と組み、その嫡男で義輝の従兄弟にあたる義栄を新将軍にしようとしていました。しかし、朝廷は耳を貸さなかったため、将軍への直訴として永禄8年(1565)約1万人の軍を率いて二条御所に侵入したのです。この「永禄の変」で義輝は自ら奮戦しましたが、最後は一斉に襲い掛かられて殺害されました。 多くの群衆がその死を悼んだ 義輝の死後、京都の天台宗の寺院・真正極楽寺(真如堂)で、義輝を弔う仏事が行われました。ここでは民間芸能の六斎踊りが披露され、摂津や近江坂本から集った約3000人が鉦鼓(しょうこ/念仏の時にたたく青銅製のかね)を鳴らし、身分を問わず7~8万の人々がその死を悼みました。これには三好三人衆政権への抵抗の意味もあったと考えられています。 語り継がれる人物像とは? 将軍でありながら生涯で多くの戦いを経験した義輝ですが、そもそもどのような人物だったのでしょうか。 武勇に優れた果敢な人物 義輝は『足利季世記(あしかがきせいき)』や『日本外史(にほんがいし)』で、武芸に秀でた剣豪として描写されています。この人物像は後世の創作といわれていますが、宣教師ルイス・フロイスもその著書のなかで「とても武勇に優れて、勇気ある人だった」と称えているため、勇猛果敢な人物だったことは確かでしょう。 塚原卜伝も認めた剣の腕前 義輝は剣聖・塚原卜伝の直弟子の一人で、奥義「一之太刀」を伝授されたといわれています。必ずしも奥義を極めたとは言い切れませんが、このような側面からも武術に秀でた人物だったと想像できます。 義輝は剣豪将軍の異名でも知られていますが、そのような名前が付けられたのも剣術に優れていたからでしょう。 最期は名刀で奮戦 永禄の変で、義輝は多数の日本刀を用いて奮闘したとされています。ルイス・フロイスの『日本史』には「自ら薙刀を振るい、その技量の見事さに人々は驚いた。その後は薙刀を投げ捨てて刀を抜いて戦った」と描かれ、『日本外史』には「足利家の名刀を畳に刺して、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて戦った」という記述がみられます。 使用されたのは「鬼丸國綱」「大包平」「九字兼定」「朝嵐兼光」「綾小路定利」「二つ銘則宗」「三日月宗近」など名刀ばかり。しかし、これらの名前が登場するのは歴史小説の中で、信憑性の高い史料には見当たらないようです。 このような創作をされるほど、義輝は人々を魅了する存在だったのでしょう。 誇り高き室町幕府将軍 長らく名ばかり将軍となっていた足利将軍家ですが、義輝は復権に尽力し親政を行いました。しかし、次期将軍となった弟・義昭により、将軍は再度飾り物になってしまいます。そして、織田信長の台頭により、ついに室町幕府は滅亡するのです。 多くの戦国武将たちがしのぎを削りあうようになったこの時期に、足利将軍として義輝が果たした役割は大きいでしょう。最後まで果敢に戦った義輝は、誇り高い将軍だったといえそうです。
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、『足利季世記(あしかがきせいき)』や『日本外史(にほんがいし)』で、どのような人物として描写されていたか。
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、『足利季世記(あしかがきせいき)』や『日本外史(にほんがいし)』で、武芸に秀でた剣豪として描写されていた。
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歴史
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、足利義輝である。 戦国大名との修好に尽力する 幕府権力の復活を目指していた義輝は、戦国大名らと親しい関係を築きました。有力武将同士の抗争が起きた際は頻繁に調停を行い、場合によっては守護などに任命することもありました。 また、自分の名前の一部である「藤」や「輝」の字を家臣や諸大名に与えるだけでなく、さらには、足利将軍家の通字「義」を与えることもあったようです。 永禄の変で散る!義輝の最期 将軍家に尽くした義輝は「永禄の変」で命を落とします。この戦いはどのような経緯で起こったのでしょうか。 松永久秀・三好三人衆と激突 義輝は激しい戦局を潜り抜け将軍復権に尽力しましたが、そのような動きを疎む人物がいました。それは飾り物の将軍を擁立しようと企てていた松永久秀と三好三人衆です。 彼らは義輝の叔父・足利義維と組み、その嫡男で義輝の従兄弟にあたる義栄を新将軍にしようとしていました。しかし、朝廷は耳を貸さなかったため、将軍への直訴として永禄8年(1565)約1万人の軍を率いて二条御所に侵入したのです。この「永禄の変」で義輝は自ら奮戦しましたが、最後は一斉に襲い掛かられて殺害されました。 多くの群衆がその死を悼んだ 義輝の死後、京都の天台宗の寺院・真正極楽寺(真如堂)で、義輝を弔う仏事が行われました。ここでは民間芸能の六斎踊りが披露され、摂津や近江坂本から集った約3000人が鉦鼓(しょうこ/念仏の時にたたく青銅製のかね)を鳴らし、身分を問わず7~8万の人々がその死を悼みました。これには三好三人衆政権への抵抗の意味もあったと考えられています。 語り継がれる人物像とは? 将軍でありながら生涯で多くの戦いを経験した義輝ですが、そもそもどのような人物だったのでしょうか。 武勇に優れた果敢な人物 義輝は『足利季世記(あしかがきせいき)』や『日本外史(にほんがいし)』で、武芸に秀でた剣豪として描写されています。この人物像は後世の創作といわれていますが、宣教師ルイス・フロイスもその著書のなかで「とても武勇に優れて、勇気ある人だった」と称えているため、勇猛果敢な人物だったことは確かでしょう。 塚原卜伝も認めた剣の腕前 義輝は剣聖・塚原卜伝の直弟子の一人で、奥義「一之太刀」を伝授されたといわれています。必ずしも奥義を極めたとは言い切れませんが、このような側面からも武術に秀でた人物だったと想像できます。 義輝は剣豪将軍の異名でも知られていますが、そのような名前が付けられたのも剣術に優れていたからでしょう。 最期は名刀で奮戦 永禄の変で、義輝は多数の日本刀を用いて奮闘したとされています。ルイス・フロイスの『日本史』には「自ら薙刀を振るい、その技量の見事さに人々は驚いた。その後は薙刀を投げ捨てて刀を抜いて戦った」と描かれ、『日本外史』には「足利家の名刀を畳に刺して、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて戦った」という記述がみられます。 使用されたのは「鬼丸國綱」「大包平」「九字兼定」「朝嵐兼光」「綾小路定利」「二つ銘則宗」「三日月宗近」など名刀ばかり。しかし、これらの名前が登場するのは歴史小説の中で、信憑性の高い史料には見当たらないようです。 このような創作をされるほど、義輝は人々を魅了する存在だったのでしょう。 誇り高き室町幕府将軍 長らく名ばかり将軍となっていた足利将軍家ですが、義輝は復権に尽力し親政を行いました。しかし、次期将軍となった弟・義昭により、将軍は再度飾り物になってしまいます。そして、織田信長の台頭により、ついに室町幕府は滅亡するのです。 多くの戦国武将たちがしのぎを削りあうようになったこの時期に、足利将軍として義輝が果たした役割は大きいでしょう。最後まで果敢に戦った義輝は、誇り高い将軍だったといえそうです。
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、誰の直弟子の一人で、奥義「一之太刀」を伝授されたか。
室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、剣聖・塚原卜伝の直弟子の一人で、奥義「一之太刀」を伝授された。
JCRRAG_018722
歴史
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、斎藤利三である。 明智家の家臣になった経緯 利三は光秀の家臣になるまでにさまざまな主君に仕えていました。どのような経緯で光秀の重臣となったのでしょうか。 美濃斎藤氏の一族出身 利三は天文3年(1534)戦国武将・斎藤利賢の次男として美濃国で誕生しました。斎藤道三とは別の系譜で、美濃斎藤氏の一族出身ではあるものの、その家系については諸説あるようです。 母は越中蜷川家・蜷川親順の娘といわれていますが、徳川家の正史『徳川実紀』には「斎藤利三は明智光秀の妹の子」とも記載されています。 幕府の奉公衆から稲葉家の家臣に 妙心寺智勝院所蔵の稲葉一鉄像です。 もともと利三は実兄・石谷頼辰や光秀と同じように幕府の奉公衆でしたが、上京後は摂津国・松山新介に、次いで斎藤義龍に仕えるようになりました。 ところが同じく義龍の家臣だった西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄(良通)が、斎藤家から離反して織田家に従属。利三はこれに従い、その後は稲葉氏の家臣となります。 光秀に重用され丹波黒井城主になる 一鉄の家臣となった利三ですが、元亀元年(1570)以降は光秀の配下になったようです。この鞍替えについては、利三が一鉄といさかいを起こして袂を分かち、親戚関係にあった光秀をたよったからともいわれています。 光秀の家臣になってからは、明智秀満と並んで筆頭家老として重用されました。光秀の丹波平定後は、1万石の丹波黒井城主になり氷上郡の統治にもあたっています。
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、いつ誕生したか。
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、天文3年(1534)に誕生した。
JCRRAG_018723
歴史
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、斎藤利三である。 明智家の家臣になった経緯 利三は光秀の家臣になるまでにさまざまな主君に仕えていました。どのような経緯で光秀の重臣となったのでしょうか。 美濃斎藤氏の一族出身 利三は天文3年(1534)戦国武将・斎藤利賢の次男として美濃国で誕生しました。斎藤道三とは別の系譜で、美濃斎藤氏の一族出身ではあるものの、その家系については諸説あるようです。 母は越中蜷川家・蜷川親順の娘といわれていますが、徳川家の正史『徳川実紀』には「斎藤利三は明智光秀の妹の子」とも記載されています。 幕府の奉公衆から稲葉家の家臣に 妙心寺智勝院所蔵の稲葉一鉄像です。 もともと利三は実兄・石谷頼辰や光秀と同じように幕府の奉公衆でしたが、上京後は摂津国・松山新介に、次いで斎藤義龍に仕えるようになりました。 ところが同じく義龍の家臣だった西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄(良通)が、斎藤家から離反して織田家に従属。利三はこれに従い、その後は稲葉氏の家臣となります。 光秀に重用され丹波黒井城主になる 一鉄の家臣となった利三ですが、元亀元年(1570)以降は光秀の配下になったようです。この鞍替えについては、利三が一鉄といさかいを起こして袂を分かち、親戚関係にあった光秀をたよったからともいわれています。 光秀の家臣になってからは、明智秀満と並んで筆頭家老として重用されました。光秀の丹波平定後は、1万石の丹波黒井城主になり氷上郡の統治にもあたっています。
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、誰の次男として誕生したか。
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、戦国武将・斎藤利賢の次男として誕生した。
JCRRAG_018724
歴史
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、斎藤利三である。 明智家の家臣になった経緯 利三は光秀の家臣になるまでにさまざまな主君に仕えていました。どのような経緯で光秀の重臣となったのでしょうか。 美濃斎藤氏の一族出身 利三は天文3年(1534)戦国武将・斎藤利賢の次男として美濃国で誕生しました。斎藤道三とは別の系譜で、美濃斎藤氏の一族出身ではあるものの、その家系については諸説あるようです。 母は越中蜷川家・蜷川親順の娘といわれていますが、徳川家の正史『徳川実紀』には「斎藤利三は明智光秀の妹の子」とも記載されています。 幕府の奉公衆から稲葉家の家臣に 妙心寺智勝院所蔵の稲葉一鉄像です。 もともと利三は実兄・石谷頼辰や光秀と同じように幕府の奉公衆でしたが、上京後は摂津国・松山新介に、次いで斎藤義龍に仕えるようになりました。 ところが同じく義龍の家臣だった西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄(良通)が、斎藤家から離反して織田家に従属。利三はこれに従い、その後は稲葉氏の家臣となります。 光秀に重用され丹波黒井城主になる 一鉄の家臣となった利三ですが、元亀元年(1570)以降は光秀の配下になったようです。この鞍替えについては、利三が一鉄といさかいを起こして袂を分かち、親戚関係にあった光秀をたよったからともいわれています。 光秀の家臣になってからは、明智秀満と並んで筆頭家老として重用されました。光秀の丹波平定後は、1万石の丹波黒井城主になり氷上郡の統治にもあたっています。
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、どこで誕生したか。
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、美濃国で誕生した。
JCRRAG_018725
歴史
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、斎藤利三である。 明智家の家臣になった経緯 利三は光秀の家臣になるまでにさまざまな主君に仕えていました。どのような経緯で光秀の重臣となったのでしょうか。 美濃斎藤氏の一族出身 利三は天文3年(1534)戦国武将・斎藤利賢の次男として美濃国で誕生しました。斎藤道三とは別の系譜で、美濃斎藤氏の一族出身ではあるものの、その家系については諸説あるようです。 母は越中蜷川家・蜷川親順の娘といわれていますが、徳川家の正史『徳川実紀』には「斎藤利三は明智光秀の妹の子」とも記載されています。 幕府の奉公衆から稲葉家の家臣に 妙心寺智勝院所蔵の稲葉一鉄像です。 もともと利三は実兄・石谷頼辰や光秀と同じように幕府の奉公衆でしたが、上京後は摂津国・松山新介に、次いで斎藤義龍に仕えるようになりました。 ところが同じく義龍の家臣だった西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄(良通)が、斎藤家から離反して織田家に従属。利三はこれに従い、その後は稲葉氏の家臣となります。 光秀に重用され丹波黒井城主になる 一鉄の家臣となった利三ですが、元亀元年(1570)以降は光秀の配下になったようです。この鞍替えについては、利三が一鉄といさかいを起こして袂を分かち、親戚関係にあった光秀をたよったからともいわれています。 光秀の家臣になってからは、明智秀満と並んで筆頭家老として重用されました。光秀の丹波平定後は、1万石の丹波黒井城主になり氷上郡の統治にもあたっています。
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、誰と同じように幕府の奉公衆だったか。
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、実兄・石谷頼辰や光秀と同じように幕府の奉公衆だった。
JCRRAG_018726
歴史
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、斎藤利三である。 明智家の家臣になった経緯 利三は光秀の家臣になるまでにさまざまな主君に仕えていました。どのような経緯で光秀の重臣となったのでしょうか。 美濃斎藤氏の一族出身 利三は天文3年(1534)戦国武将・斎藤利賢の次男として美濃国で誕生しました。斎藤道三とは別の系譜で、美濃斎藤氏の一族出身ではあるものの、その家系については諸説あるようです。 母は越中蜷川家・蜷川親順の娘といわれていますが、徳川家の正史『徳川実紀』には「斎藤利三は明智光秀の妹の子」とも記載されています。 幕府の奉公衆から稲葉家の家臣に 妙心寺智勝院所蔵の稲葉一鉄像です。 もともと利三は実兄・石谷頼辰や光秀と同じように幕府の奉公衆でしたが、上京後は摂津国・松山新介に、次いで斎藤義龍に仕えるようになりました。 ところが同じく義龍の家臣だった西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄(良通)が、斎藤家から離反して織田家に従属。利三はこれに従い、その後は稲葉氏の家臣となります。 光秀に重用され丹波黒井城主になる 一鉄の家臣となった利三ですが、元亀元年(1570)以降は光秀の配下になったようです。この鞍替えについては、利三が一鉄といさかいを起こして袂を分かち、親戚関係にあった光秀をたよったからともいわれています。 光秀の家臣になってからは、明智秀満と並んで筆頭家老として重用されました。光秀の丹波平定後は、1万石の丹波黒井城主になり氷上郡の統治にもあたっています。
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、上京後は摂津国・松山新介に次いで誰に仕えるようになったか。
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、上京後は摂津国・松山新介に次いで斎藤義龍に仕えるようになった。
JCRRAG_018727
歴史
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、斎藤利三である。 利三は、本能寺の変において主君・光秀に付き従い、最期までその忠義を貫きました。 本能寺の変は光秀だけでなく、家臣である利三にとっても運命を左右する重要な出来事でした。 利三は、本能寺の変の計画を光秀から打ち明けられた際、その無謀さに反対しましたが、主君の命令に従う決意を固めます。 秀満とともに反対意見を述べたものの、光秀の恩義に応えるため、首謀者の一人として行動を共にしたのです。 利三は、山崎の戦いで先鋒を務めて奮戦し、敗北後も最後まで抗い続けました。 しかし逃亡中に力尽き、近江堅田で捕らえられ、六条河原で斬首されました。 また、利三は、本能寺の変に関わった黒幕の一人ではないかとも疑われています。 信長から切腹を命じられた経緯や、親しい関係にあった長宗我部氏とのつながりがその理由に挙げられます。 信長から切腹を命じられた 利三の口利きにより稲葉家から那波直治を光秀が引き抜いた際、一鉄はこれを不服として信長に抗議しました。その意見を聞き入れた信長は、那波を稲葉家に返し、利三を切腹させるよう命じます。しかし光秀はこの命令を拒否したため、激怒した信長から折檻されました。 信長の判断が下されたのは、本能寺の変のわずか3~4日前のことです。切腹は周囲のとりなしで撤回されたものの、信長に不服を感じた利三が、主君の光秀に働きかけたのではないかと考えられています。 親戚・長宗我部氏との関係 光秀は織田氏と同盟関係にあった四国・長宗我部氏との取次役を務めており、家臣の利三も長宗我部元親と姻戚関係にあるなど深い関係にありました。 ところが石山本願寺が降伏したことで、その背面に位置していた長宗我部氏の価値が薄れ、信長は同盟関係を結んでいたにもかかわらず四国に勢力を拡大しようと動き出します。利三はこれを阻止しようとしたとも考えられており、山科言経の『言経卿記(ときつねきょうき)』には「日向守内斎藤蔵助 今度謀叛随一也」と事件の中心人物とするような記載もみられます。 なお、長宗我部氏も信長の裏切りには反発しましたが、のちの史料から降伏を決意していたことがわかっています。 娘は徳川家光の乳母・春日局 麟祥院所蔵の春日局蔵です。 利三の後室は一鉄の娘で、2人の間には斎藤利宗、斎藤三存らが生まれました。しかし最も有名なのは末娘の福でしょう。 母方の親戚である三条西公国に養育された彼女は、書道、歌道、香道など公家の教養を身につけた後、伯父・稲葉重通の養女になり、稲葉正成の後妻となりました。 その後は2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の徳川家光)の乳母に任命され、家光の将軍継嗣において功績を残したり大奥をまとめたりと権勢を振るいました。朝廷から賜った「春日局」という称号で広く知られています。 明智家の重臣として全うした 利三はさまざまな主君に仕えましたが、最期は明智家の重臣としてこの世を去りました。光秀に対しては大きな恩義を感じていたのかもしれません。 利三の死後、その首は親交のあった絵師・海北友松によって京都の真正極楽寺へと葬られました。斬首後は光秀の首とともに本能寺に晒されたとも言われており、まさに最後まで主君と運命を共にしたといえるでしょう。
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、本能寺の変において誰に付き従い、最期までその忠義を貫いたか。
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、本能寺の変において主君・光秀に付き従い、最期までその忠義を貫いた。
JCRRAG_018728
歴史
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、斎藤利三である。 利三は、本能寺の変において主君・光秀に付き従い、最期までその忠義を貫きました。 本能寺の変は光秀だけでなく、家臣である利三にとっても運命を左右する重要な出来事でした。 利三は、本能寺の変の計画を光秀から打ち明けられた際、その無謀さに反対しましたが、主君の命令に従う決意を固めます。 秀満とともに反対意見を述べたものの、光秀の恩義に応えるため、首謀者の一人として行動を共にしたのです。 利三は、山崎の戦いで先鋒を務めて奮戦し、敗北後も最後まで抗い続けました。 しかし逃亡中に力尽き、近江堅田で捕らえられ、六条河原で斬首されました。 また、利三は、本能寺の変に関わった黒幕の一人ではないかとも疑われています。 信長から切腹を命じられた経緯や、親しい関係にあった長宗我部氏とのつながりがその理由に挙げられます。 信長から切腹を命じられた 利三の口利きにより稲葉家から那波直治を光秀が引き抜いた際、一鉄はこれを不服として信長に抗議しました。その意見を聞き入れた信長は、那波を稲葉家に返し、利三を切腹させるよう命じます。しかし光秀はこの命令を拒否したため、激怒した信長から折檻されました。 信長の判断が下されたのは、本能寺の変のわずか3~4日前のことです。切腹は周囲のとりなしで撤回されたものの、信長に不服を感じた利三が、主君の光秀に働きかけたのではないかと考えられています。 親戚・長宗我部氏との関係 光秀は織田氏と同盟関係にあった四国・長宗我部氏との取次役を務めており、家臣の利三も長宗我部元親と姻戚関係にあるなど深い関係にありました。 ところが石山本願寺が降伏したことで、その背面に位置していた長宗我部氏の価値が薄れ、信長は同盟関係を結んでいたにもかかわらず四国に勢力を拡大しようと動き出します。利三はこれを阻止しようとしたとも考えられており、山科言経の『言経卿記(ときつねきょうき)』には「日向守内斎藤蔵助 今度謀叛随一也」と事件の中心人物とするような記載もみられます。 なお、長宗我部氏も信長の裏切りには反発しましたが、のちの史料から降伏を決意していたことがわかっています。 娘は徳川家光の乳母・春日局 麟祥院所蔵の春日局蔵です。 利三の後室は一鉄の娘で、2人の間には斎藤利宗、斎藤三存らが生まれました。しかし最も有名なのは末娘の福でしょう。 母方の親戚である三条西公国に養育された彼女は、書道、歌道、香道など公家の教養を身につけた後、伯父・稲葉重通の養女になり、稲葉正成の後妻となりました。 その後は2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の徳川家光)の乳母に任命され、家光の将軍継嗣において功績を残したり大奥をまとめたりと権勢を振るいました。朝廷から賜った「春日局」という称号で広く知られています。 明智家の重臣として全うした 利三はさまざまな主君に仕えましたが、最期は明智家の重臣としてこの世を去りました。光秀に対しては大きな恩義を感じていたのかもしれません。 利三の死後、その首は親交のあった絵師・海北友松によって京都の真正極楽寺へと葬られました。斬首後は光秀の首とともに本能寺に晒されたとも言われており、まさに最後まで主君と運命を共にしたといえるでしょう。
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、本能寺の変の計画を光秀から打ち明けられた際、その無謀さにどうしたか。
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、本能寺の変の計画を光秀から打ち明けられた際、その無謀さに反対した。
JCRRAG_018729
歴史
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、斎藤利三である。 利三は、本能寺の変において主君・光秀に付き従い、最期までその忠義を貫きました。 本能寺の変は光秀だけでなく、家臣である利三にとっても運命を左右する重要な出来事でした。 利三は、本能寺の変の計画を光秀から打ち明けられた際、その無謀さに反対しましたが、主君の命令に従う決意を固めます。 秀満とともに反対意見を述べたものの、光秀の恩義に応えるため、首謀者の一人として行動を共にしたのです。 利三は、山崎の戦いで先鋒を務めて奮戦し、敗北後も最後まで抗い続けました。 しかし逃亡中に力尽き、近江堅田で捕らえられ、六条河原で斬首されました。 また、利三は、本能寺の変に関わった黒幕の一人ではないかとも疑われています。 信長から切腹を命じられた経緯や、親しい関係にあった長宗我部氏とのつながりがその理由に挙げられます。 信長から切腹を命じられた 利三の口利きにより稲葉家から那波直治を光秀が引き抜いた際、一鉄はこれを不服として信長に抗議しました。その意見を聞き入れた信長は、那波を稲葉家に返し、利三を切腹させるよう命じます。しかし光秀はこの命令を拒否したため、激怒した信長から折檻されました。 信長の判断が下されたのは、本能寺の変のわずか3~4日前のことです。切腹は周囲のとりなしで撤回されたものの、信長に不服を感じた利三が、主君の光秀に働きかけたのではないかと考えられています。 親戚・長宗我部氏との関係 光秀は織田氏と同盟関係にあった四国・長宗我部氏との取次役を務めており、家臣の利三も長宗我部元親と姻戚関係にあるなど深い関係にありました。 ところが石山本願寺が降伏したことで、その背面に位置していた長宗我部氏の価値が薄れ、信長は同盟関係を結んでいたにもかかわらず四国に勢力を拡大しようと動き出します。利三はこれを阻止しようとしたとも考えられており、山科言経の『言経卿記(ときつねきょうき)』には「日向守内斎藤蔵助 今度謀叛随一也」と事件の中心人物とするような記載もみられます。 なお、長宗我部氏も信長の裏切りには反発しましたが、のちの史料から降伏を決意していたことがわかっています。 娘は徳川家光の乳母・春日局 麟祥院所蔵の春日局蔵です。 利三の後室は一鉄の娘で、2人の間には斎藤利宗、斎藤三存らが生まれました。しかし最も有名なのは末娘の福でしょう。 母方の親戚である三条西公国に養育された彼女は、書道、歌道、香道など公家の教養を身につけた後、伯父・稲葉重通の養女になり、稲葉正成の後妻となりました。 その後は2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の徳川家光)の乳母に任命され、家光の将軍継嗣において功績を残したり大奥をまとめたりと権勢を振るいました。朝廷から賜った「春日局」という称号で広く知られています。 明智家の重臣として全うした 利三はさまざまな主君に仕えましたが、最期は明智家の重臣としてこの世を去りました。光秀に対しては大きな恩義を感じていたのかもしれません。 利三の死後、その首は親交のあった絵師・海北友松によって京都の真正極楽寺へと葬られました。斬首後は光秀の首とともに本能寺に晒されたとも言われており、まさに最後まで主君と運命を共にしたといえるでしょう。
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、本能寺の変の計画を光秀から打ち明けられた際、どのような決意を固めたか。
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、本能寺の変の計画を光秀から打ち明けられた際、主君の命令に従う決意を固めた。
JCRRAG_018730
歴史
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、斎藤利三である。 利三は、本能寺の変において主君・光秀に付き従い、最期までその忠義を貫きました。 本能寺の変は光秀だけでなく、家臣である利三にとっても運命を左右する重要な出来事でした。 利三は、本能寺の変の計画を光秀から打ち明けられた際、その無謀さに反対しましたが、主君の命令に従う決意を固めます。 秀満とともに反対意見を述べたものの、光秀の恩義に応えるため、首謀者の一人として行動を共にしたのです。 利三は、山崎の戦いで先鋒を務めて奮戦し、敗北後も最後まで抗い続けました。 しかし逃亡中に力尽き、近江堅田で捕らえられ、六条河原で斬首されました。 また、利三は、本能寺の変に関わった黒幕の一人ではないかとも疑われています。 信長から切腹を命じられた経緯や、親しい関係にあった長宗我部氏とのつながりがその理由に挙げられます。 信長から切腹を命じられた 利三の口利きにより稲葉家から那波直治を光秀が引き抜いた際、一鉄はこれを不服として信長に抗議しました。その意見を聞き入れた信長は、那波を稲葉家に返し、利三を切腹させるよう命じます。しかし光秀はこの命令を拒否したため、激怒した信長から折檻されました。 信長の判断が下されたのは、本能寺の変のわずか3~4日前のことです。切腹は周囲のとりなしで撤回されたものの、信長に不服を感じた利三が、主君の光秀に働きかけたのではないかと考えられています。 親戚・長宗我部氏との関係 光秀は織田氏と同盟関係にあった四国・長宗我部氏との取次役を務めており、家臣の利三も長宗我部元親と姻戚関係にあるなど深い関係にありました。 ところが石山本願寺が降伏したことで、その背面に位置していた長宗我部氏の価値が薄れ、信長は同盟関係を結んでいたにもかかわらず四国に勢力を拡大しようと動き出します。利三はこれを阻止しようとしたとも考えられており、山科言経の『言経卿記(ときつねきょうき)』には「日向守内斎藤蔵助 今度謀叛随一也」と事件の中心人物とするような記載もみられます。 なお、長宗我部氏も信長の裏切りには反発しましたが、のちの史料から降伏を決意していたことがわかっています。 娘は徳川家光の乳母・春日局 麟祥院所蔵の春日局蔵です。 利三の後室は一鉄の娘で、2人の間には斎藤利宗、斎藤三存らが生まれました。しかし最も有名なのは末娘の福でしょう。 母方の親戚である三条西公国に養育された彼女は、書道、歌道、香道など公家の教養を身につけた後、伯父・稲葉重通の養女になり、稲葉正成の後妻となりました。 その後は2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の徳川家光)の乳母に任命され、家光の将軍継嗣において功績を残したり大奥をまとめたりと権勢を振るいました。朝廷から賜った「春日局」という称号で広く知られています。 明智家の重臣として全うした 利三はさまざまな主君に仕えましたが、最期は明智家の重臣としてこの世を去りました。光秀に対しては大きな恩義を感じていたのかもしれません。 利三の死後、その首は親交のあった絵師・海北友松によって京都の真正極楽寺へと葬られました。斬首後は光秀の首とともに本能寺に晒されたとも言われており、まさに最後まで主君と運命を共にしたといえるでしょう。
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、山崎の戦いでどのように最後まで抗い続けたか。
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、山崎の戦いで先鋒を務めて奮戦し、敗北後も最後まで抗い続けた。
JCRRAG_018731
歴史
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、斎藤利三である。 利三は、本能寺の変において主君・光秀に付き従い、最期までその忠義を貫きました。 本能寺の変は光秀だけでなく、家臣である利三にとっても運命を左右する重要な出来事でした。 利三は、本能寺の変の計画を光秀から打ち明けられた際、その無謀さに反対しましたが、主君の命令に従う決意を固めます。 秀満とともに反対意見を述べたものの、光秀の恩義に応えるため、首謀者の一人として行動を共にしたのです。 利三は、山崎の戦いで先鋒を務めて奮戦し、敗北後も最後まで抗い続けました。 しかし逃亡中に力尽き、近江堅田で捕らえられ、六条河原で斬首されました。 また、利三は、本能寺の変に関わった黒幕の一人ではないかとも疑われています。 信長から切腹を命じられた経緯や、親しい関係にあった長宗我部氏とのつながりがその理由に挙げられます。 信長から切腹を命じられた 利三の口利きにより稲葉家から那波直治を光秀が引き抜いた際、一鉄はこれを不服として信長に抗議しました。その意見を聞き入れた信長は、那波を稲葉家に返し、利三を切腹させるよう命じます。しかし光秀はこの命令を拒否したため、激怒した信長から折檻されました。 信長の判断が下されたのは、本能寺の変のわずか3~4日前のことです。切腹は周囲のとりなしで撤回されたものの、信長に不服を感じた利三が、主君の光秀に働きかけたのではないかと考えられています。 親戚・長宗我部氏との関係 光秀は織田氏と同盟関係にあった四国・長宗我部氏との取次役を務めており、家臣の利三も長宗我部元親と姻戚関係にあるなど深い関係にありました。 ところが石山本願寺が降伏したことで、その背面に位置していた長宗我部氏の価値が薄れ、信長は同盟関係を結んでいたにもかかわらず四国に勢力を拡大しようと動き出します。利三はこれを阻止しようとしたとも考えられており、山科言経の『言経卿記(ときつねきょうき)』には「日向守内斎藤蔵助 今度謀叛随一也」と事件の中心人物とするような記載もみられます。 なお、長宗我部氏も信長の裏切りには反発しましたが、のちの史料から降伏を決意していたことがわかっています。 娘は徳川家光の乳母・春日局 麟祥院所蔵の春日局蔵です。 利三の後室は一鉄の娘で、2人の間には斎藤利宗、斎藤三存らが生まれました。しかし最も有名なのは末娘の福でしょう。 母方の親戚である三条西公国に養育された彼女は、書道、歌道、香道など公家の教養を身につけた後、伯父・稲葉重通の養女になり、稲葉正成の後妻となりました。 その後は2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の徳川家光)の乳母に任命され、家光の将軍継嗣において功績を残したり大奥をまとめたりと権勢を振るいました。朝廷から賜った「春日局」という称号で広く知られています。 明智家の重臣として全うした 利三はさまざまな主君に仕えましたが、最期は明智家の重臣としてこの世を去りました。光秀に対しては大きな恩義を感じていたのかもしれません。 利三の死後、その首は親交のあった絵師・海北友松によって京都の真正極楽寺へと葬られました。斬首後は光秀の首とともに本能寺に晒されたとも言われており、まさに最後まで主君と運命を共にしたといえるでしょう。
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、何ではないかと疑われたか。
明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、本能寺の変に関わった黒幕の一人ではないかとも疑われた。
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歴史
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、黒田官兵衛である。 生まれから播磨での活躍 軍師として活躍した官兵衛は、幼い頃から文武両道な人物でした。また、英傑に仕える以前にも戦で功績を残しています。 播磨国に生まれる 官兵衛は天文15年(1546)、黒田職隆(もとたか)の嫡男として播磨国で生まれました。黒田氏は祖父の代から播磨で権力をもつ赤松家の分家・小寺氏に仕えており、祖父は能力を高く買われ姫路城主に、父は小寺政職(まさもと)の養女と結婚しています。 幼い頃の官兵衛は和歌や連歌が好きでしたが、僧侶の説得もありその道を断念。父と同じく政職の近くに仕え、その翌年には初陣を飾りました。永禄10年(1567)頃には家督と家老職を継承し、政職の姪にあたる櫛橋伊定(くしはし・これさだ)の娘・光(てる)と結婚して姫路城主になっています。 青山・土器山の戦いでの奇襲 永禄12年(1569)青山・土器山の戦い(あおやま・かわらけやまのたたかい)が起こります。 発端は長く対立関係にあった赤松宗家の当主・赤松義祐と龍野赤松氏の赤松政秀による政争でした。足利義昭や信長に取り入って支援を得た政秀は、義祐に味方した小寺政職の配下である姫路城に兵を差し向けます。赤松政秀軍は約3000人の兵力、それに対し姫路城主の官兵衛率いる軍勢はわずか約300人でしたが、官兵衛は奇襲をかけこの難局を乗り越えます。翌月には政秀側の夜襲により窮地に陥りますが、援軍によりなんとか危機を回避。しかし、このまま戦いが長引けば勝ち目はないと判断した官兵衛は敢えて体力の回復していない兵に出撃命令を出して敵を強襲、赤松政秀軍は予想外の攻撃に混乱して敗走しました。
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、いつ生まれたか。
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、天文15年(1546)に生まれた。
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歴史
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、黒田官兵衛である。 生まれから播磨での活躍 軍師として活躍した官兵衛は、幼い頃から文武両道な人物でした。また、英傑に仕える以前にも戦で功績を残しています。 播磨国に生まれる 官兵衛は天文15年(1546)、黒田職隆(もとたか)の嫡男として播磨国で生まれました。黒田氏は祖父の代から播磨で権力をもつ赤松家の分家・小寺氏に仕えており、祖父は能力を高く買われ姫路城主に、父は小寺政職(まさもと)の養女と結婚しています。 幼い頃の官兵衛は和歌や連歌が好きでしたが、僧侶の説得もありその道を断念。父と同じく政職の近くに仕え、その翌年には初陣を飾りました。永禄10年(1567)頃には家督と家老職を継承し、政職の姪にあたる櫛橋伊定(くしはし・これさだ)の娘・光(てる)と結婚して姫路城主になっています。 青山・土器山の戦いでの奇襲 永禄12年(1569)青山・土器山の戦い(あおやま・かわらけやまのたたかい)が起こります。 発端は長く対立関係にあった赤松宗家の当主・赤松義祐と龍野赤松氏の赤松政秀による政争でした。足利義昭や信長に取り入って支援を得た政秀は、義祐に味方した小寺政職の配下である姫路城に兵を差し向けます。赤松政秀軍は約3000人の兵力、それに対し姫路城主の官兵衛率いる軍勢はわずか約300人でしたが、官兵衛は奇襲をかけこの難局を乗り越えます。翌月には政秀側の夜襲により窮地に陥りますが、援軍によりなんとか危機を回避。しかし、このまま戦いが長引けば勝ち目はないと判断した官兵衛は敢えて体力の回復していない兵に出撃命令を出して敵を強襲、赤松政秀軍は予想外の攻撃に混乱して敗走しました。
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、誰の嫡男として生まれたか。
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、黒田職隆の嫡男として生まれた。
JCRRAG_018734
歴史
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、黒田官兵衛である。 生まれから播磨での活躍 軍師として活躍した官兵衛は、幼い頃から文武両道な人物でした。また、英傑に仕える以前にも戦で功績を残しています。 播磨国に生まれる 官兵衛は天文15年(1546)、黒田職隆(もとたか)の嫡男として播磨国で生まれました。黒田氏は祖父の代から播磨で権力をもつ赤松家の分家・小寺氏に仕えており、祖父は能力を高く買われ姫路城主に、父は小寺政職(まさもと)の養女と結婚しています。 幼い頃の官兵衛は和歌や連歌が好きでしたが、僧侶の説得もありその道を断念。父と同じく政職の近くに仕え、その翌年には初陣を飾りました。永禄10年(1567)頃には家督と家老職を継承し、政職の姪にあたる櫛橋伊定(くしはし・これさだ)の娘・光(てる)と結婚して姫路城主になっています。 青山・土器山の戦いでの奇襲 永禄12年(1569)青山・土器山の戦い(あおやま・かわらけやまのたたかい)が起こります。 発端は長く対立関係にあった赤松宗家の当主・赤松義祐と龍野赤松氏の赤松政秀による政争でした。足利義昭や信長に取り入って支援を得た政秀は、義祐に味方した小寺政職の配下である姫路城に兵を差し向けます。赤松政秀軍は約3000人の兵力、それに対し姫路城主の官兵衛率いる軍勢はわずか約300人でしたが、官兵衛は奇襲をかけこの難局を乗り越えます。翌月には政秀側の夜襲により窮地に陥りますが、援軍によりなんとか危機を回避。しかし、このまま戦いが長引けば勝ち目はないと判断した官兵衛は敢えて体力の回復していない兵に出撃命令を出して敵を強襲、赤松政秀軍は予想外の攻撃に混乱して敗走しました。
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、どこで生まれたか。
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、播磨国で生まれた。
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歴史
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、黒田官兵衛である。 生まれから播磨での活躍 軍師として活躍した官兵衛は、幼い頃から文武両道な人物でした。また、英傑に仕える以前にも戦で功績を残しています。 播磨国に生まれる 官兵衛は天文15年(1546)、黒田職隆(もとたか)の嫡男として播磨国で生まれました。黒田氏は祖父の代から播磨で権力をもつ赤松家の分家・小寺氏に仕えており、祖父は能力を高く買われ姫路城主に、父は小寺政職(まさもと)の養女と結婚しています。 幼い頃の官兵衛は和歌や連歌が好きでしたが、僧侶の説得もありその道を断念。父と同じく政職の近くに仕え、その翌年には初陣を飾りました。永禄10年(1567)頃には家督と家老職を継承し、政職の姪にあたる櫛橋伊定(くしはし・これさだ)の娘・光(てる)と結婚して姫路城主になっています。 青山・土器山の戦いでの奇襲 永禄12年(1569)青山・土器山の戦い(あおやま・かわらけやまのたたかい)が起こります。 発端は長く対立関係にあった赤松宗家の当主・赤松義祐と龍野赤松氏の赤松政秀による政争でした。足利義昭や信長に取り入って支援を得た政秀は、義祐に味方した小寺政職の配下である姫路城に兵を差し向けます。赤松政秀軍は約3000人の兵力、それに対し姫路城主の官兵衛率いる軍勢はわずか約300人でしたが、官兵衛は奇襲をかけこの難局を乗り越えます。翌月には政秀側の夜襲により窮地に陥りますが、援軍によりなんとか危機を回避。しかし、このまま戦いが長引けば勝ち目はないと判断した官兵衛は敢えて体力の回復していない兵に出撃命令を出して敵を強襲、赤松政秀軍は予想外の攻撃に混乱して敗走しました。
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、いつの戦いで奇襲を成功させたか。
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、永禄12年(1569)の青山・土器山の戦いで奇襲を成功させた。
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竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、黒田官兵衛である。 生まれから播磨での活躍 軍師として活躍した官兵衛は、幼い頃から文武両道な人物でした。また、英傑に仕える以前にも戦で功績を残しています。 播磨国に生まれる 官兵衛は天文15年(1546)、黒田職隆(もとたか)の嫡男として播磨国で生まれました。黒田氏は祖父の代から播磨で権力をもつ赤松家の分家・小寺氏に仕えており、祖父は能力を高く買われ姫路城主に、父は小寺政職(まさもと)の養女と結婚しています。 幼い頃の官兵衛は和歌や連歌が好きでしたが、僧侶の説得もありその道を断念。父と同じく政職の近くに仕え、その翌年には初陣を飾りました。永禄10年(1567)頃には家督と家老職を継承し、政職の姪にあたる櫛橋伊定(くしはし・これさだ)の娘・光(てる)と結婚して姫路城主になっています。 青山・土器山の戦いでの奇襲 永禄12年(1569)青山・土器山の戦い(あおやま・かわらけやまのたたかい)が起こります。 発端は長く対立関係にあった赤松宗家の当主・赤松義祐と龍野赤松氏の赤松政秀による政争でした。足利義昭や信長に取り入って支援を得た政秀は、義祐に味方した小寺政職の配下である姫路城に兵を差し向けます。赤松政秀軍は約3000人の兵力、それに対し姫路城主の官兵衛率いる軍勢はわずか約300人でしたが、官兵衛は奇襲をかけこの難局を乗り越えます。翌月には政秀側の夜襲により窮地に陥りますが、援軍によりなんとか危機を回避。しかし、このまま戦いが長引けば勝ち目はないと判断した官兵衛は敢えて体力の回復していない兵に出撃命令を出して敵を強襲、赤松政秀軍は予想外の攻撃に混乱して敗走しました。
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、和歌や連歌を好みましたが、誰の説得もありその道を断念したか。
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、和歌や連歌を好みましたが、僧侶の説得もありその道を断念した。
JCRRAG_018737
歴史
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、黒田官兵衛である。 英傑のもとで暗躍! 小寺家家臣だった官兵衛は、やがて天下人に重用されるようになります。その活躍や功績はどのようなものだったのでしょうか。 信長に臣従する このころの小寺家は、西には毛利家、東には赤松家を通じて播磨支配を進めていた織田家という脅威がありました。どちらかにつくか評定したところ、重臣たちの中で官兵衛だけが織田家を支持します。結果的に臣従が決まったものの、誰も信長のもとに行きたがらず、官兵衛自身がこの役を引き受けることになりました。 秀吉の取り次ぎにより信長に謁見した官兵衛は、播磨の情勢などについて聞かれ意見を述べます。官兵衛の能力を認めた信長は、彼を気に入って名刀「圧切長谷部(へしきりはせべ)」を授けました。 秀吉への献策と官兵衛の活躍 その後、織田家臣となった官兵衛は、秀吉の与力として多くの活躍をしました。このころ中国方面の軍事司令を任されていた秀吉は、播磨平定後に毛利家を討つべく備中高松城を目指します。この城は沼地に囲まれ攻略が困難でしたが、官兵衛は水没させるという前代未聞の水攻めを進言し成功させました。 また本能寺の変で信長が非業の死を遂げたことを知った際は、秀吉に対して直ちに毛利家との和睦をまとめて明智光秀を討つことを進言。この「中国大返し」と呼ばれる行軍によって信長の仇を討ったことが、秀吉の天下人への第一歩となりました。 12万石の豊前国主となる 九州平定後の天正15年(1587)官兵衛は豊前国の中の約12万石を与えられ、中津城を築城し始めました。その間もさまざまな一揆や反乱がおこり、嫡男の長政とともに鎮圧のために尽力します。 やがて中津城が完成すると長政に家督を継承。中津城は長政に任せ、自身は伏見の京屋敷や天満の大坂屋敷を拠点として秀吉に仕え続けました。 殉死を禁じた最期 秀吉の死後、関ヶ原の戦いが起こります。長政は豊臣恩顧の大名を家康方に引き込んで西軍を敗退させ、この功績により豊前国中津12万石から筑前国名島52万石に大幅に増加されました。官兵衛にも勲功恩賞や領地加増が提示されますが、彼はこれを辞退し政治から離れて隠居生活を送ります。 最期は京都伏見藩邸で病死し、その際には家臣の殉死を禁止したといわれています。 官兵衛の人物像とは 英傑のもとで暗躍した官兵衛ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか。彼の逸話をいくつかご紹介します。 キリシタン大名だった 官兵衛はキリシタン大名としても知られており、ドン・シメオンという洗礼名をもっています。秀吉は天正15年(1587)に「バテレン追放令」を出しましたが、官兵衛はそれでも信仰を貫きました。キリスト教に関してたびたび対立したものの、秀吉は官兵衛を追放することなく重用し続けています。 官兵衛はのちに出家して「如水」とも名乗っており、葬儀はキリスト教式と仏式教の両方で行われました。 築城の名手として知られる 優れた調略で知られる官兵衛ですが、築城の名手という側面もありました。居住した妻鹿城、中津城、福岡城のほかにも、姫路城、大坂城、讃岐高松城、石垣山城、名護屋城、広島城など主要な築城に関わり、総奉行として縄張りや助言を行っています。同じく築城の名手として知られる加藤清正は「自分の城は3~4日で落城するが、福岡城は30~40日は落ちない」と官兵衛の腕を賞賛しています。 秀吉もその智謀を恐れていた? 本能寺の変が起こった際、官兵衛は秀吉に「光秀が裏切ったことで天下の道が開けた」と献策しましたが、秀吉はこれ以降、官兵衛を恐れるようになったといいます。 『名将言行録』によれば、秀吉が家臣に「自分の次に天下を治めるのは誰か」と尋ねたところ、家臣らは徳川家康や前田利家の名前を挙げました。しかし秀吉は官兵衛の名を出し「奴に100万石を与えたら途端に天下を奪うだろう」と言ったのです。これを聞いた官兵衛は「我家の禍なり」と、剃髪して如水を名乗ったといわれます。 ”両兵衛”として知られる竹中半兵衛との絆 天正6年(1578)小寺家と信長の間を取り次いでいた戦国武将・荒木村重が信長に反旗を翻し、有岡城の戦いが勃発します。官兵衛は説得の使者として荒木のもとに向かいますが、捕縛され地下牢に監禁されてしまいました。 信長は官兵衛が裏切ったと考えて、人質になっていた長政を殺すよう命令します。この役目を買って出た半兵衛は、官兵衛が裏切るなどありえないと信じ、命がけで長政を守りました。 約1年後に解放されたとき半兵衛はすでに亡くなっていましたが、官兵衛は心から感謝したといわれています。 晩年は連歌や茶の湯もたしなんだ官兵衛 天才軍師といわれ智謀や調略で活躍した官兵衛ですが、晩年は子供時代に好きだった連歌や茶の湯を楽しんだようです。連歌の大家・細川幽斎と交流を深め、茶道もたしなむようになりました。政治を離れた官兵衛は心穏やかな晩年を過ごしたといえるでしょう。
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、小寺家家臣として仕えたのち、誰に重用されるようになったか。
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、小寺家家臣として仕えたのち、やがて天下人に重用されるようになった。
JCRRAG_018738
歴史
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、黒田官兵衛である。 英傑のもとで暗躍! 小寺家家臣だった官兵衛は、やがて天下人に重用されるようになります。その活躍や功績はどのようなものだったのでしょうか。 信長に臣従する このころの小寺家は、西には毛利家、東には赤松家を通じて播磨支配を進めていた織田家という脅威がありました。どちらかにつくか評定したところ、重臣たちの中で官兵衛だけが織田家を支持します。結果的に臣従が決まったものの、誰も信長のもとに行きたがらず、官兵衛自身がこの役を引き受けることになりました。 秀吉の取り次ぎにより信長に謁見した官兵衛は、播磨の情勢などについて聞かれ意見を述べます。官兵衛の能力を認めた信長は、彼を気に入って名刀「圧切長谷部(へしきりはせべ)」を授けました。 秀吉への献策と官兵衛の活躍 その後、織田家臣となった官兵衛は、秀吉の与力として多くの活躍をしました。このころ中国方面の軍事司令を任されていた秀吉は、播磨平定後に毛利家を討つべく備中高松城を目指します。この城は沼地に囲まれ攻略が困難でしたが、官兵衛は水没させるという前代未聞の水攻めを進言し成功させました。 また本能寺の変で信長が非業の死を遂げたことを知った際は、秀吉に対して直ちに毛利家との和睦をまとめて明智光秀を討つことを進言。この「中国大返し」と呼ばれる行軍によって信長の仇を討ったことが、秀吉の天下人への第一歩となりました。 12万石の豊前国主となる 九州平定後の天正15年(1587)官兵衛は豊前国の中の約12万石を与えられ、中津城を築城し始めました。その間もさまざまな一揆や反乱がおこり、嫡男の長政とともに鎮圧のために尽力します。 やがて中津城が完成すると長政に家督を継承。中津城は長政に任せ、自身は伏見の京屋敷や天満の大坂屋敷を拠点として秀吉に仕え続けました。 殉死を禁じた最期 秀吉の死後、関ヶ原の戦いが起こります。長政は豊臣恩顧の大名を家康方に引き込んで西軍を敗退させ、この功績により豊前国中津12万石から筑前国名島52万石に大幅に増加されました。官兵衛にも勲功恩賞や領地加増が提示されますが、彼はこれを辞退し政治から離れて隠居生活を送ります。 最期は京都伏見藩邸で病死し、その際には家臣の殉死を禁止したといわれています。 官兵衛の人物像とは 英傑のもとで暗躍した官兵衛ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか。彼の逸話をいくつかご紹介します。 キリシタン大名だった 官兵衛はキリシタン大名としても知られており、ドン・シメオンという洗礼名をもっています。秀吉は天正15年(1587)に「バテレン追放令」を出しましたが、官兵衛はそれでも信仰を貫きました。キリスト教に関してたびたび対立したものの、秀吉は官兵衛を追放することなく重用し続けています。 官兵衛はのちに出家して「如水」とも名乗っており、葬儀はキリスト教式と仏式教の両方で行われました。 築城の名手として知られる 優れた調略で知られる官兵衛ですが、築城の名手という側面もありました。居住した妻鹿城、中津城、福岡城のほかにも、姫路城、大坂城、讃岐高松城、石垣山城、名護屋城、広島城など主要な築城に関わり、総奉行として縄張りや助言を行っています。同じく築城の名手として知られる加藤清正は「自分の城は3~4日で落城するが、福岡城は30~40日は落ちない」と官兵衛の腕を賞賛しています。 秀吉もその智謀を恐れていた? 本能寺の変が起こった際、官兵衛は秀吉に「光秀が裏切ったことで天下の道が開けた」と献策しましたが、秀吉はこれ以降、官兵衛を恐れるようになったといいます。 『名将言行録』によれば、秀吉が家臣に「自分の次に天下を治めるのは誰か」と尋ねたところ、家臣らは徳川家康や前田利家の名前を挙げました。しかし秀吉は官兵衛の名を出し「奴に100万石を与えたら途端に天下を奪うだろう」と言ったのです。これを聞いた官兵衛は「我家の禍なり」と、剃髪して如水を名乗ったといわれます。 ”両兵衛”として知られる竹中半兵衛との絆 天正6年(1578)小寺家と信長の間を取り次いでいた戦国武将・荒木村重が信長に反旗を翻し、有岡城の戦いが勃発します。官兵衛は説得の使者として荒木のもとに向かいますが、捕縛され地下牢に監禁されてしまいました。 信長は官兵衛が裏切ったと考えて、人質になっていた長政を殺すよう命令します。この役目を買って出た半兵衛は、官兵衛が裏切るなどありえないと信じ、命がけで長政を守りました。 約1年後に解放されたとき半兵衛はすでに亡くなっていましたが、官兵衛は心から感謝したといわれています。 晩年は連歌や茶の湯もたしなんだ官兵衛 天才軍師といわれ智謀や調略で活躍した官兵衛ですが、晩年は子供時代に好きだった連歌や茶の湯を楽しんだようです。連歌の大家・細川幽斎と交流を深め、茶道もたしなむようになりました。政治を離れた官兵衛は心穏やかな晩年を過ごしたといえるでしょう。
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、小寺家の重臣の中で唯一、何を主張したか。
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、小寺家の重臣の中で唯一、織田家への臣従を主張した。
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歴史
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、黒田官兵衛である。 英傑のもとで暗躍! 小寺家家臣だった官兵衛は、やがて天下人に重用されるようになります。その活躍や功績はどのようなものだったのでしょうか。 信長に臣従する このころの小寺家は、西には毛利家、東には赤松家を通じて播磨支配を進めていた織田家という脅威がありました。どちらかにつくか評定したところ、重臣たちの中で官兵衛だけが織田家を支持します。結果的に臣従が決まったものの、誰も信長のもとに行きたがらず、官兵衛自身がこの役を引き受けることになりました。 秀吉の取り次ぎにより信長に謁見した官兵衛は、播磨の情勢などについて聞かれ意見を述べます。官兵衛の能力を認めた信長は、彼を気に入って名刀「圧切長谷部(へしきりはせべ)」を授けました。 秀吉への献策と官兵衛の活躍 その後、織田家臣となった官兵衛は、秀吉の与力として多くの活躍をしました。このころ中国方面の軍事司令を任されていた秀吉は、播磨平定後に毛利家を討つべく備中高松城を目指します。この城は沼地に囲まれ攻略が困難でしたが、官兵衛は水没させるという前代未聞の水攻めを進言し成功させました。 また本能寺の変で信長が非業の死を遂げたことを知った際は、秀吉に対して直ちに毛利家との和睦をまとめて明智光秀を討つことを進言。この「中国大返し」と呼ばれる行軍によって信長の仇を討ったことが、秀吉の天下人への第一歩となりました。 12万石の豊前国主となる 九州平定後の天正15年(1587)官兵衛は豊前国の中の約12万石を与えられ、中津城を築城し始めました。その間もさまざまな一揆や反乱がおこり、嫡男の長政とともに鎮圧のために尽力します。 やがて中津城が完成すると長政に家督を継承。中津城は長政に任せ、自身は伏見の京屋敷や天満の大坂屋敷を拠点として秀吉に仕え続けました。 殉死を禁じた最期 秀吉の死後、関ヶ原の戦いが起こります。長政は豊臣恩顧の大名を家康方に引き込んで西軍を敗退させ、この功績により豊前国中津12万石から筑前国名島52万石に大幅に増加されました。官兵衛にも勲功恩賞や領地加増が提示されますが、彼はこれを辞退し政治から離れて隠居生活を送ります。 最期は京都伏見藩邸で病死し、その際には家臣の殉死を禁止したといわれています。 官兵衛の人物像とは 英傑のもとで暗躍した官兵衛ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか。彼の逸話をいくつかご紹介します。 キリシタン大名だった 官兵衛はキリシタン大名としても知られており、ドン・シメオンという洗礼名をもっています。秀吉は天正15年(1587)に「バテレン追放令」を出しましたが、官兵衛はそれでも信仰を貫きました。キリスト教に関してたびたび対立したものの、秀吉は官兵衛を追放することなく重用し続けています。 官兵衛はのちに出家して「如水」とも名乗っており、葬儀はキリスト教式と仏式教の両方で行われました。 築城の名手として知られる 優れた調略で知られる官兵衛ですが、築城の名手という側面もありました。居住した妻鹿城、中津城、福岡城のほかにも、姫路城、大坂城、讃岐高松城、石垣山城、名護屋城、広島城など主要な築城に関わり、総奉行として縄張りや助言を行っています。同じく築城の名手として知られる加藤清正は「自分の城は3~4日で落城するが、福岡城は30~40日は落ちない」と官兵衛の腕を賞賛しています。 秀吉もその智謀を恐れていた? 本能寺の変が起こった際、官兵衛は秀吉に「光秀が裏切ったことで天下の道が開けた」と献策しましたが、秀吉はこれ以降、官兵衛を恐れるようになったといいます。 『名将言行録』によれば、秀吉が家臣に「自分の次に天下を治めるのは誰か」と尋ねたところ、家臣らは徳川家康や前田利家の名前を挙げました。しかし秀吉は官兵衛の名を出し「奴に100万石を与えたら途端に天下を奪うだろう」と言ったのです。これを聞いた官兵衛は「我家の禍なり」と、剃髪して如水を名乗ったといわれます。 ”両兵衛”として知られる竹中半兵衛との絆 天正6年(1578)小寺家と信長の間を取り次いでいた戦国武将・荒木村重が信長に反旗を翻し、有岡城の戦いが勃発します。官兵衛は説得の使者として荒木のもとに向かいますが、捕縛され地下牢に監禁されてしまいました。 信長は官兵衛が裏切ったと考えて、人質になっていた長政を殺すよう命令します。この役目を買って出た半兵衛は、官兵衛が裏切るなどありえないと信じ、命がけで長政を守りました。 約1年後に解放されたとき半兵衛はすでに亡くなっていましたが、官兵衛は心から感謝したといわれています。 晩年は連歌や茶の湯もたしなんだ官兵衛 天才軍師といわれ智謀や調略で活躍した官兵衛ですが、晩年は子供時代に好きだった連歌や茶の湯を楽しんだようです。連歌の大家・細川幽斎と交流を深め、茶道もたしなむようになりました。政治を離れた官兵衛は心穏やかな晩年を過ごしたといえるでしょう。
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、信長から何という名刀を賜ったか。
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、信長から名刀「圧切長谷部」を賜った。
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歴史
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、黒田官兵衛である。 英傑のもとで暗躍! 小寺家家臣だった官兵衛は、やがて天下人に重用されるようになります。その活躍や功績はどのようなものだったのでしょうか。 信長に臣従する このころの小寺家は、西には毛利家、東には赤松家を通じて播磨支配を進めていた織田家という脅威がありました。どちらかにつくか評定したところ、重臣たちの中で官兵衛だけが織田家を支持します。結果的に臣従が決まったものの、誰も信長のもとに行きたがらず、官兵衛自身がこの役を引き受けることになりました。 秀吉の取り次ぎにより信長に謁見した官兵衛は、播磨の情勢などについて聞かれ意見を述べます。官兵衛の能力を認めた信長は、彼を気に入って名刀「圧切長谷部(へしきりはせべ)」を授けました。 秀吉への献策と官兵衛の活躍 その後、織田家臣となった官兵衛は、秀吉の与力として多くの活躍をしました。このころ中国方面の軍事司令を任されていた秀吉は、播磨平定後に毛利家を討つべく備中高松城を目指します。この城は沼地に囲まれ攻略が困難でしたが、官兵衛は水没させるという前代未聞の水攻めを進言し成功させました。 また本能寺の変で信長が非業の死を遂げたことを知った際は、秀吉に対して直ちに毛利家との和睦をまとめて明智光秀を討つことを進言。この「中国大返し」と呼ばれる行軍によって信長の仇を討ったことが、秀吉の天下人への第一歩となりました。 12万石の豊前国主となる 九州平定後の天正15年(1587)官兵衛は豊前国の中の約12万石を与えられ、中津城を築城し始めました。その間もさまざまな一揆や反乱がおこり、嫡男の長政とともに鎮圧のために尽力します。 やがて中津城が完成すると長政に家督を継承。中津城は長政に任せ、自身は伏見の京屋敷や天満の大坂屋敷を拠点として秀吉に仕え続けました。 殉死を禁じた最期 秀吉の死後、関ヶ原の戦いが起こります。長政は豊臣恩顧の大名を家康方に引き込んで西軍を敗退させ、この功績により豊前国中津12万石から筑前国名島52万石に大幅に増加されました。官兵衛にも勲功恩賞や領地加増が提示されますが、彼はこれを辞退し政治から離れて隠居生活を送ります。 最期は京都伏見藩邸で病死し、その際には家臣の殉死を禁止したといわれています。 官兵衛の人物像とは 英傑のもとで暗躍した官兵衛ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか。彼の逸話をいくつかご紹介します。 キリシタン大名だった 官兵衛はキリシタン大名としても知られており、ドン・シメオンという洗礼名をもっています。秀吉は天正15年(1587)に「バテレン追放令」を出しましたが、官兵衛はそれでも信仰を貫きました。キリスト教に関してたびたび対立したものの、秀吉は官兵衛を追放することなく重用し続けています。 官兵衛はのちに出家して「如水」とも名乗っており、葬儀はキリスト教式と仏式教の両方で行われました。 築城の名手として知られる 優れた調略で知られる官兵衛ですが、築城の名手という側面もありました。居住した妻鹿城、中津城、福岡城のほかにも、姫路城、大坂城、讃岐高松城、石垣山城、名護屋城、広島城など主要な築城に関わり、総奉行として縄張りや助言を行っています。同じく築城の名手として知られる加藤清正は「自分の城は3~4日で落城するが、福岡城は30~40日は落ちない」と官兵衛の腕を賞賛しています。 秀吉もその智謀を恐れていた? 本能寺の変が起こった際、官兵衛は秀吉に「光秀が裏切ったことで天下の道が開けた」と献策しましたが、秀吉はこれ以降、官兵衛を恐れるようになったといいます。 『名将言行録』によれば、秀吉が家臣に「自分の次に天下を治めるのは誰か」と尋ねたところ、家臣らは徳川家康や前田利家の名前を挙げました。しかし秀吉は官兵衛の名を出し「奴に100万石を与えたら途端に天下を奪うだろう」と言ったのです。これを聞いた官兵衛は「我家の禍なり」と、剃髪して如水を名乗ったといわれます。 ”両兵衛”として知られる竹中半兵衛との絆 天正6年(1578)小寺家と信長の間を取り次いでいた戦国武将・荒木村重が信長に反旗を翻し、有岡城の戦いが勃発します。官兵衛は説得の使者として荒木のもとに向かいますが、捕縛され地下牢に監禁されてしまいました。 信長は官兵衛が裏切ったと考えて、人質になっていた長政を殺すよう命令します。この役目を買って出た半兵衛は、官兵衛が裏切るなどありえないと信じ、命がけで長政を守りました。 約1年後に解放されたとき半兵衛はすでに亡くなっていましたが、官兵衛は心から感謝したといわれています。 晩年は連歌や茶の湯もたしなんだ官兵衛 天才軍師といわれ智謀や調略で活躍した官兵衛ですが、晩年は子供時代に好きだった連歌や茶の湯を楽しんだようです。連歌の大家・細川幽斎と交流を深め、茶道もたしなむようになりました。政治を離れた官兵衛は心穏やかな晩年を過ごしたといえるでしょう。
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、九州平定後に何を拝領したか。
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、九州平定後に豊前国中津12万石を拝領した。
JCRRAG_018741
歴史
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、黒田官兵衛である。 英傑のもとで暗躍! 小寺家家臣だった官兵衛は、やがて天下人に重用されるようになります。その活躍や功績はどのようなものだったのでしょうか。 信長に臣従する このころの小寺家は、西には毛利家、東には赤松家を通じて播磨支配を進めていた織田家という脅威がありました。どちらかにつくか評定したところ、重臣たちの中で官兵衛だけが織田家を支持します。結果的に臣従が決まったものの、誰も信長のもとに行きたがらず、官兵衛自身がこの役を引き受けることになりました。 秀吉の取り次ぎにより信長に謁見した官兵衛は、播磨の情勢などについて聞かれ意見を述べます。官兵衛の能力を認めた信長は、彼を気に入って名刀「圧切長谷部(へしきりはせべ)」を授けました。 秀吉への献策と官兵衛の活躍 その後、織田家臣となった官兵衛は、秀吉の与力として多くの活躍をしました。このころ中国方面の軍事司令を任されていた秀吉は、播磨平定後に毛利家を討つべく備中高松城を目指します。この城は沼地に囲まれ攻略が困難でしたが、官兵衛は水没させるという前代未聞の水攻めを進言し成功させました。 また本能寺の変で信長が非業の死を遂げたことを知った際は、秀吉に対して直ちに毛利家との和睦をまとめて明智光秀を討つことを進言。この「中国大返し」と呼ばれる行軍によって信長の仇を討ったことが、秀吉の天下人への第一歩となりました。 12万石の豊前国主となる 九州平定後の天正15年(1587)官兵衛は豊前国の中の約12万石を与えられ、中津城を築城し始めました。その間もさまざまな一揆や反乱がおこり、嫡男の長政とともに鎮圧のために尽力します。 やがて中津城が完成すると長政に家督を継承。中津城は長政に任せ、自身は伏見の京屋敷や天満の大坂屋敷を拠点として秀吉に仕え続けました。 殉死を禁じた最期 秀吉の死後、関ヶ原の戦いが起こります。長政は豊臣恩顧の大名を家康方に引き込んで西軍を敗退させ、この功績により豊前国中津12万石から筑前国名島52万石に大幅に増加されました。官兵衛にも勲功恩賞や領地加増が提示されますが、彼はこれを辞退し政治から離れて隠居生活を送ります。 最期は京都伏見藩邸で病死し、その際には家臣の殉死を禁止したといわれています。 官兵衛の人物像とは 英傑のもとで暗躍した官兵衛ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか。彼の逸話をいくつかご紹介します。 キリシタン大名だった 官兵衛はキリシタン大名としても知られており、ドン・シメオンという洗礼名をもっています。秀吉は天正15年(1587)に「バテレン追放令」を出しましたが、官兵衛はそれでも信仰を貫きました。キリスト教に関してたびたび対立したものの、秀吉は官兵衛を追放することなく重用し続けています。 官兵衛はのちに出家して「如水」とも名乗っており、葬儀はキリスト教式と仏式教の両方で行われました。 築城の名手として知られる 優れた調略で知られる官兵衛ですが、築城の名手という側面もありました。居住した妻鹿城、中津城、福岡城のほかにも、姫路城、大坂城、讃岐高松城、石垣山城、名護屋城、広島城など主要な築城に関わり、総奉行として縄張りや助言を行っています。同じく築城の名手として知られる加藤清正は「自分の城は3~4日で落城するが、福岡城は30~40日は落ちない」と官兵衛の腕を賞賛しています。 秀吉もその智謀を恐れていた? 本能寺の変が起こった際、官兵衛は秀吉に「光秀が裏切ったことで天下の道が開けた」と献策しましたが、秀吉はこれ以降、官兵衛を恐れるようになったといいます。 『名将言行録』によれば、秀吉が家臣に「自分の次に天下を治めるのは誰か」と尋ねたところ、家臣らは徳川家康や前田利家の名前を挙げました。しかし秀吉は官兵衛の名を出し「奴に100万石を与えたら途端に天下を奪うだろう」と言ったのです。これを聞いた官兵衛は「我家の禍なり」と、剃髪して如水を名乗ったといわれます。 ”両兵衛”として知られる竹中半兵衛との絆 天正6年(1578)小寺家と信長の間を取り次いでいた戦国武将・荒木村重が信長に反旗を翻し、有岡城の戦いが勃発します。官兵衛は説得の使者として荒木のもとに向かいますが、捕縛され地下牢に監禁されてしまいました。 信長は官兵衛が裏切ったと考えて、人質になっていた長政を殺すよう命令します。この役目を買って出た半兵衛は、官兵衛が裏切るなどありえないと信じ、命がけで長政を守りました。 約1年後に解放されたとき半兵衛はすでに亡くなっていましたが、官兵衛は心から感謝したといわれています。 晩年は連歌や茶の湯もたしなんだ官兵衛 天才軍師といわれ智謀や調略で活躍した官兵衛ですが、晩年は子供時代に好きだった連歌や茶の湯を楽しんだようです。連歌の大家・細川幽斎と交流を深め、茶道もたしなむようになりました。政治を離れた官兵衛は心穏やかな晩年を過ごしたといえるでしょう。
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、九州平定後に何を築城したか。
竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、九州平定後に中津城を築城した。
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歴史
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、北条氏康である。 氏康の生涯と代表的な戦い 戦国時代、伊豆・相模・武蔵・上野と4つの国を支配し後北条氏の全盛を築いた氏康。その生い立ちとはどのようなものだったのでしょうか。 家督を継いで第3代当主に 氏康は永正12年(1515)北条氏綱の嫡男として相模国小田原城で生まれました。初代の早雲にとっては孫にあたります。享禄3年(1530)小沢原の戦いで初陣を果たし大勝を収めた彼は、その後も甲斐山中合戦などの戦いで功績を重ねました。天文7年(1538)の第一次国府台の戦いでは、父と共に敵の総大将を討つなど活躍しています。 天文10年(1541)氏綱が死去すると、家督を継承して後北条氏第3代当主に就任しました。 河越城の戦いに勝利する 天文14年(1545)今川義元が父・氏綱に奪われた東駿河を奪還すべく挙兵します。氏康は駿河に急ぎましたが、今川軍に押され状況は不利でした。それに加え、義元と組んでいた山内上杉家の関東管領・上杉憲政や扇谷上杉家の上杉朝定らが、義弟・北条綱成が守る河越城を包囲します。東西からの挟み撃ちに陥った氏康は、武田信玄の斡旋により義元と和睦。東駿河の河東地域を割譲することになりました。 しかし、関東では両上杉氏に加えて氏康の義兄弟だった古河公方・足利晴氏も敵方にまわり、河越城の包囲に加わります。約8万人の連合軍に包囲された河越城は半年ほど籠城戦に耐えましたが、義元との戦いから関東に戻った北条本軍は1万人未満の兵力しかなく圧倒的に不利でした。 そこで氏康は、河越城の返上と降伏を申し出て油断させると、綱成と連携して夜襲をかけます。連合軍は混乱のうちに敗走し、勝利した氏康は関東の主導権を確保しました。この河越夜戦は、桶狭間の戦い、厳島合戦と並んで「日本三大奇襲戦」の一つといわれています。 このとき敗走した憲政は、北条征伐を条件として関東管領職と上杉姓を越後・長尾景虎に譲渡。景虎は上杉謙信と名乗り、関東に侵攻します。氏康は武田家や今川家と同盟を結び、謙信と戦い続けることになりました。
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、いつ生まれたか。
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、永正12年(1515)に生まれた。
JCRRAG_018743
歴史
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、北条氏康である。 氏康の生涯と代表的な戦い 戦国時代、伊豆・相模・武蔵・上野と4つの国を支配し後北条氏の全盛を築いた氏康。その生い立ちとはどのようなものだったのでしょうか。 家督を継いで第3代当主に 氏康は永正12年(1515)北条氏綱の嫡男として相模国小田原城で生まれました。初代の早雲にとっては孫にあたります。享禄3年(1530)小沢原の戦いで初陣を果たし大勝を収めた彼は、その後も甲斐山中合戦などの戦いで功績を重ねました。天文7年(1538)の第一次国府台の戦いでは、父と共に敵の総大将を討つなど活躍しています。 天文10年(1541)氏綱が死去すると、家督を継承して後北条氏第3代当主に就任しました。 河越城の戦いに勝利する 天文14年(1545)今川義元が父・氏綱に奪われた東駿河を奪還すべく挙兵します。氏康は駿河に急ぎましたが、今川軍に押され状況は不利でした。それに加え、義元と組んでいた山内上杉家の関東管領・上杉憲政や扇谷上杉家の上杉朝定らが、義弟・北条綱成が守る河越城を包囲します。東西からの挟み撃ちに陥った氏康は、武田信玄の斡旋により義元と和睦。東駿河の河東地域を割譲することになりました。 しかし、関東では両上杉氏に加えて氏康の義兄弟だった古河公方・足利晴氏も敵方にまわり、河越城の包囲に加わります。約8万人の連合軍に包囲された河越城は半年ほど籠城戦に耐えましたが、義元との戦いから関東に戻った北条本軍は1万人未満の兵力しかなく圧倒的に不利でした。 そこで氏康は、河越城の返上と降伏を申し出て油断させると、綱成と連携して夜襲をかけます。連合軍は混乱のうちに敗走し、勝利した氏康は関東の主導権を確保しました。この河越夜戦は、桶狭間の戦い、厳島合戦と並んで「日本三大奇襲戦」の一つといわれています。 このとき敗走した憲政は、北条征伐を条件として関東管領職と上杉姓を越後・長尾景虎に譲渡。景虎は上杉謙信と名乗り、関東に侵攻します。氏康は武田家や今川家と同盟を結び、謙信と戦い続けることになりました。
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、誰の嫡男として生まれたか。
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、北条氏綱の嫡男として生まれた。
JCRRAG_018744
歴史
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、北条氏康である。 氏康の生涯と代表的な戦い 戦国時代、伊豆・相模・武蔵・上野と4つの国を支配し後北条氏の全盛を築いた氏康。その生い立ちとはどのようなものだったのでしょうか。 家督を継いで第3代当主に 氏康は永正12年(1515)北条氏綱の嫡男として相模国小田原城で生まれました。初代の早雲にとっては孫にあたります。享禄3年(1530)小沢原の戦いで初陣を果たし大勝を収めた彼は、その後も甲斐山中合戦などの戦いで功績を重ねました。天文7年(1538)の第一次国府台の戦いでは、父と共に敵の総大将を討つなど活躍しています。 天文10年(1541)氏綱が死去すると、家督を継承して後北条氏第3代当主に就任しました。 河越城の戦いに勝利する 天文14年(1545)今川義元が父・氏綱に奪われた東駿河を奪還すべく挙兵します。氏康は駿河に急ぎましたが、今川軍に押され状況は不利でした。それに加え、義元と組んでいた山内上杉家の関東管領・上杉憲政や扇谷上杉家の上杉朝定らが、義弟・北条綱成が守る河越城を包囲します。東西からの挟み撃ちに陥った氏康は、武田信玄の斡旋により義元と和睦。東駿河の河東地域を割譲することになりました。 しかし、関東では両上杉氏に加えて氏康の義兄弟だった古河公方・足利晴氏も敵方にまわり、河越城の包囲に加わります。約8万人の連合軍に包囲された河越城は半年ほど籠城戦に耐えましたが、義元との戦いから関東に戻った北条本軍は1万人未満の兵力しかなく圧倒的に不利でした。 そこで氏康は、河越城の返上と降伏を申し出て油断させると、綱成と連携して夜襲をかけます。連合軍は混乱のうちに敗走し、勝利した氏康は関東の主導権を確保しました。この河越夜戦は、桶狭間の戦い、厳島合戦と並んで「日本三大奇襲戦」の一つといわれています。 このとき敗走した憲政は、北条征伐を条件として関東管領職と上杉姓を越後・長尾景虎に譲渡。景虎は上杉謙信と名乗り、関東に侵攻します。氏康は武田家や今川家と同盟を結び、謙信と戦い続けることになりました。
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、どこに生まれたか。
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、相模国小田原城に生まれた。
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歴史
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、北条氏康である。 氏康の生涯と代表的な戦い 戦国時代、伊豆・相模・武蔵・上野と4つの国を支配し後北条氏の全盛を築いた氏康。その生い立ちとはどのようなものだったのでしょうか。 家督を継いで第3代当主に 氏康は永正12年(1515)北条氏綱の嫡男として相模国小田原城で生まれました。初代の早雲にとっては孫にあたります。享禄3年(1530)小沢原の戦いで初陣を果たし大勝を収めた彼は、その後も甲斐山中合戦などの戦いで功績を重ねました。天文7年(1538)の第一次国府台の戦いでは、父と共に敵の総大将を討つなど活躍しています。 天文10年(1541)氏綱が死去すると、家督を継承して後北条氏第3代当主に就任しました。 河越城の戦いに勝利する 天文14年(1545)今川義元が父・氏綱に奪われた東駿河を奪還すべく挙兵します。氏康は駿河に急ぎましたが、今川軍に押され状況は不利でした。それに加え、義元と組んでいた山内上杉家の関東管領・上杉憲政や扇谷上杉家の上杉朝定らが、義弟・北条綱成が守る河越城を包囲します。東西からの挟み撃ちに陥った氏康は、武田信玄の斡旋により義元と和睦。東駿河の河東地域を割譲することになりました。 しかし、関東では両上杉氏に加えて氏康の義兄弟だった古河公方・足利晴氏も敵方にまわり、河越城の包囲に加わります。約8万人の連合軍に包囲された河越城は半年ほど籠城戦に耐えましたが、義元との戦いから関東に戻った北条本軍は1万人未満の兵力しかなく圧倒的に不利でした。 そこで氏康は、河越城の返上と降伏を申し出て油断させると、綱成と連携して夜襲をかけます。連合軍は混乱のうちに敗走し、勝利した氏康は関東の主導権を確保しました。この河越夜戦は、桶狭間の戦い、厳島合戦と並んで「日本三大奇襲戦」の一つといわれています。 このとき敗走した憲政は、北条征伐を条件として関東管領職と上杉姓を越後・長尾景虎に譲渡。景虎は上杉謙信と名乗り、関東に侵攻します。氏康は武田家や今川家と同盟を結び、謙信と戦い続けることになりました。
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、天文14年(1545)何に対抗したか。
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、天文14年(1545)今川義元の東駿河奪還の動きに対抗した。
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戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、北条氏康である。 氏康の生涯と代表的な戦い 戦国時代、伊豆・相模・武蔵・上野と4つの国を支配し後北条氏の全盛を築いた氏康。その生い立ちとはどのようなものだったのでしょうか。 家督を継いで第3代当主に 氏康は永正12年(1515)北条氏綱の嫡男として相模国小田原城で生まれました。初代の早雲にとっては孫にあたります。享禄3年(1530)小沢原の戦いで初陣を果たし大勝を収めた彼は、その後も甲斐山中合戦などの戦いで功績を重ねました。天文7年(1538)の第一次国府台の戦いでは、父と共に敵の総大将を討つなど活躍しています。 天文10年(1541)氏綱が死去すると、家督を継承して後北条氏第3代当主に就任しました。 河越城の戦いに勝利する 天文14年(1545)今川義元が父・氏綱に奪われた東駿河を奪還すべく挙兵します。氏康は駿河に急ぎましたが、今川軍に押され状況は不利でした。それに加え、義元と組んでいた山内上杉家の関東管領・上杉憲政や扇谷上杉家の上杉朝定らが、義弟・北条綱成が守る河越城を包囲します。東西からの挟み撃ちに陥った氏康は、武田信玄の斡旋により義元と和睦。東駿河の河東地域を割譲することになりました。 しかし、関東では両上杉氏に加えて氏康の義兄弟だった古河公方・足利晴氏も敵方にまわり、河越城の包囲に加わります。約8万人の連合軍に包囲された河越城は半年ほど籠城戦に耐えましたが、義元との戦いから関東に戻った北条本軍は1万人未満の兵力しかなく圧倒的に不利でした。 そこで氏康は、河越城の返上と降伏を申し出て油断させると、綱成と連携して夜襲をかけます。連合軍は混乱のうちに敗走し、勝利した氏康は関東の主導権を確保しました。この河越夜戦は、桶狭間の戦い、厳島合戦と並んで「日本三大奇襲戦」の一つといわれています。 このとき敗走した憲政は、北条征伐を条件として関東管領職と上杉姓を越後・長尾景虎に譲渡。景虎は上杉謙信と名乗り、関東に侵攻します。氏康は武田家や今川家と同盟を結び、謙信と戦い続けることになりました。
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、誰と同盟を結びながら、上杉謙信との戦いを続けたか。
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、武田家や今川家と同盟を結びながら、上杉謙信との戦いを続けた。
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歴史
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、北条氏康である。 隠居とその最期 永禄2年(1559)氏康は嫡子・氏政に家督を譲り隠居しますが、その後も小田原城に残り、氏政を後見しながら政治や軍事の実権を握り続けました。 永禄3年(1560)桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれると、信玄の駿河侵攻が始まります。またその4年後には、上総国などの支配をめぐり里見義堯(よしたか)・義弘父子と対立しました。 隠居後も数々の戦いに身を投じた氏康でしたが、永禄9年(1566)以降は多くの戦を息子らに任せるようになります。また元亀元年(1570)の夏頃からは半身不随や言語障害と思われる症状になり、最期は小田原城で死没しました。 外交や内政にも手腕を発揮! “相模の獅子”の異名をもつ氏康は、戦いだけではなく外交や内政でも大きな結果を残しました。ここではその功績を振り返ります。 甲相駿三国同盟を結んだ 氏康は、甲斐の信玄、駿河の義元とともに「甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)」という和平協定を結びました。攻守軍事、相互不可侵、領土、婚姻といった要素からなり、幾度となく戦を繰り返しながら完成したこの協定は、当時の東国情勢に大きな影響を及ぼしたと考えられています。 検地を徹底し税制改革を行った 氏康は徹底した検地を行い、税制改革にも熱心に取り組みました。領民の負担軽減にも尽力し、それまで継続されてきた諸点役(しょてんやく)という多様な税を整理。貫高の6%の懸銭を納めさせることで、不定期の徴収から領民を解放したのです。 また租税を50文から35文に減額し、凶作や飢饉が起こったときは年貢を減らしたり免除したりしました。 通貨と度量衡を統一した 当時は全国的に良質な永楽銭が不足し悪銭が増加していましたが、氏康は他大名に先駆けて永楽銭への通貨統一を進めました。地域ごとに異なっていた枡も遠江の榛原枡を公定枡と定め、度量衡を統一しています。また、誰でも直接不法を訴えられるよう目安箱も設置しました。 小田原城下町の都市開発を行った 氏康は小田原の城下町を発展させるために、全国から職人や文化人を呼び寄せて大規模な都市開発を行いました。清掃にも気を遣い清潔な都市となった小田原の城下町は、東国最大の都市といわれるほどに成長したのです。 京都南禅寺の僧・東嶺智旺(とうれいちおう)は「町の小路数万間、地一塵無し。東南は海。海水小田原の麓を遶る」とその様子を記しています。 残された逸話 関東覇者として君臨した氏康は、ほかの武将たちからも一目置かれる存在でした。そんな彼の人物像がわかる逸話をご紹介します。 諸将が恐れた氏康傷 氏康の顔面には2つの傷があったといわれています。これは戦場で常に先陣をきり、敵に背を向けず正面から立ち向かったことを示すものです。諸将はこの向こう傷を「氏康傷」と呼び、その武勇を称えました。また身体には7つの刀傷もあったといわれています。 12歳で堂々たる態度を会得 猛将と名高い氏康ですが、『北条五代記』によれば、12歳の頃に武術の調練を見て気絶したことがあったようです。このとき氏康は、家臣の前で恥を晒したといい自害しようとしました。しかし家老が「初めて見るものに驚くのは当然で恥ではない、むしろあらかじめの心構えが大切なのだ」と忠言したため、以降の氏康は常にしっかりと心構えをし、堂々とした態度をとったということです。 民衆に慕われた実力者 信玄、義元、謙信らとしのぎを削った氏康は、戦国を代表する勇猛果敢な武将の一人でした。また、民意を積極的に取り入れ善政を敷いた名将としても知られています。 氏康の政治手腕は称賛され、のちに関東に入った徳川家康はこれを踏襲し15代に及ぶ徳川治世の基にしたといわれています。関東の覇者として君臨した氏康が後世に与えた影響は大きいといえるでしょう。
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、永禄2年(1559)に誰に家督を譲り隠居したか。
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、永禄2年(1559)に嫡子・氏政に家督を譲り隠居した。
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歴史
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、北条氏康である。 隠居とその最期 永禄2年(1559)氏康は嫡子・氏政に家督を譲り隠居しますが、その後も小田原城に残り、氏政を後見しながら政治や軍事の実権を握り続けました。 永禄3年(1560)桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれると、信玄の駿河侵攻が始まります。またその4年後には、上総国などの支配をめぐり里見義堯(よしたか)・義弘父子と対立しました。 隠居後も数々の戦いに身を投じた氏康でしたが、永禄9年(1566)以降は多くの戦を息子らに任せるようになります。また元亀元年(1570)の夏頃からは半身不随や言語障害と思われる症状になり、最期は小田原城で死没しました。 外交や内政にも手腕を発揮! “相模の獅子”の異名をもつ氏康は、戦いだけではなく外交や内政でも大きな結果を残しました。ここではその功績を振り返ります。 甲相駿三国同盟を結んだ 氏康は、甲斐の信玄、駿河の義元とともに「甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)」という和平協定を結びました。攻守軍事、相互不可侵、領土、婚姻といった要素からなり、幾度となく戦を繰り返しながら完成したこの協定は、当時の東国情勢に大きな影響を及ぼしたと考えられています。 検地を徹底し税制改革を行った 氏康は徹底した検地を行い、税制改革にも熱心に取り組みました。領民の負担軽減にも尽力し、それまで継続されてきた諸点役(しょてんやく)という多様な税を整理。貫高の6%の懸銭を納めさせることで、不定期の徴収から領民を解放したのです。 また租税を50文から35文に減額し、凶作や飢饉が起こったときは年貢を減らしたり免除したりしました。 通貨と度量衡を統一した 当時は全国的に良質な永楽銭が不足し悪銭が増加していましたが、氏康は他大名に先駆けて永楽銭への通貨統一を進めました。地域ごとに異なっていた枡も遠江の榛原枡を公定枡と定め、度量衡を統一しています。また、誰でも直接不法を訴えられるよう目安箱も設置しました。 小田原城下町の都市開発を行った 氏康は小田原の城下町を発展させるために、全国から職人や文化人を呼び寄せて大規模な都市開発を行いました。清掃にも気を遣い清潔な都市となった小田原の城下町は、東国最大の都市といわれるほどに成長したのです。 京都南禅寺の僧・東嶺智旺(とうれいちおう)は「町の小路数万間、地一塵無し。東南は海。海水小田原の麓を遶る」とその様子を記しています。 残された逸話 関東覇者として君臨した氏康は、ほかの武将たちからも一目置かれる存在でした。そんな彼の人物像がわかる逸話をご紹介します。 諸将が恐れた氏康傷 氏康の顔面には2つの傷があったといわれています。これは戦場で常に先陣をきり、敵に背を向けず正面から立ち向かったことを示すものです。諸将はこの向こう傷を「氏康傷」と呼び、その武勇を称えました。また身体には7つの刀傷もあったといわれています。 12歳で堂々たる態度を会得 猛将と名高い氏康ですが、『北条五代記』によれば、12歳の頃に武術の調練を見て気絶したことがあったようです。このとき氏康は、家臣の前で恥を晒したといい自害しようとしました。しかし家老が「初めて見るものに驚くのは当然で恥ではない、むしろあらかじめの心構えが大切なのだ」と忠言したため、以降の氏康は常にしっかりと心構えをし、堂々とした態度をとったということです。 民衆に慕われた実力者 信玄、義元、謙信らとしのぎを削った氏康は、戦国を代表する勇猛果敢な武将の一人でした。また、民意を積極的に取り入れ善政を敷いた名将としても知られています。 氏康の政治手腕は称賛され、のちに関東に入った徳川家康はこれを踏襲し15代に及ぶ徳川治世の基にしたといわれています。関東の覇者として君臨した氏康が後世に与えた影響は大きいといえるでしょう。
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、小田原城に残り、どのように政治や軍事の実権を握り続けたか。
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、小田原城に残り、氏政を後見しながら政治や軍事の実権を握り続けた。
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歴史
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、北条氏康である。 隠居とその最期 永禄2年(1559)氏康は嫡子・氏政に家督を譲り隠居しますが、その後も小田原城に残り、氏政を後見しながら政治や軍事の実権を握り続けました。 永禄3年(1560)桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれると、信玄の駿河侵攻が始まります。またその4年後には、上総国などの支配をめぐり里見義堯(よしたか)・義弘父子と対立しました。 隠居後も数々の戦いに身を投じた氏康でしたが、永禄9年(1566)以降は多くの戦を息子らに任せるようになります。また元亀元年(1570)の夏頃からは半身不随や言語障害と思われる症状になり、最期は小田原城で死没しました。 外交や内政にも手腕を発揮! “相模の獅子”の異名をもつ氏康は、戦いだけではなく外交や内政でも大きな結果を残しました。ここではその功績を振り返ります。 甲相駿三国同盟を結んだ 氏康は、甲斐の信玄、駿河の義元とともに「甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)」という和平協定を結びました。攻守軍事、相互不可侵、領土、婚姻といった要素からなり、幾度となく戦を繰り返しながら完成したこの協定は、当時の東国情勢に大きな影響を及ぼしたと考えられています。 検地を徹底し税制改革を行った 氏康は徹底した検地を行い、税制改革にも熱心に取り組みました。領民の負担軽減にも尽力し、それまで継続されてきた諸点役(しょてんやく)という多様な税を整理。貫高の6%の懸銭を納めさせることで、不定期の徴収から領民を解放したのです。 また租税を50文から35文に減額し、凶作や飢饉が起こったときは年貢を減らしたり免除したりしました。 通貨と度量衡を統一した 当時は全国的に良質な永楽銭が不足し悪銭が増加していましたが、氏康は他大名に先駆けて永楽銭への通貨統一を進めました。地域ごとに異なっていた枡も遠江の榛原枡を公定枡と定め、度量衡を統一しています。また、誰でも直接不法を訴えられるよう目安箱も設置しました。 小田原城下町の都市開発を行った 氏康は小田原の城下町を発展させるために、全国から職人や文化人を呼び寄せて大規模な都市開発を行いました。清掃にも気を遣い清潔な都市となった小田原の城下町は、東国最大の都市といわれるほどに成長したのです。 京都南禅寺の僧・東嶺智旺(とうれいちおう)は「町の小路数万間、地一塵無し。東南は海。海水小田原の麓を遶る」とその様子を記しています。 残された逸話 関東覇者として君臨した氏康は、ほかの武将たちからも一目置かれる存在でした。そんな彼の人物像がわかる逸話をご紹介します。 諸将が恐れた氏康傷 氏康の顔面には2つの傷があったといわれています。これは戦場で常に先陣をきり、敵に背を向けず正面から立ち向かったことを示すものです。諸将はこの向こう傷を「氏康傷」と呼び、その武勇を称えました。また身体には7つの刀傷もあったといわれています。 12歳で堂々たる態度を会得 猛将と名高い氏康ですが、『北条五代記』によれば、12歳の頃に武術の調練を見て気絶したことがあったようです。このとき氏康は、家臣の前で恥を晒したといい自害しようとしました。しかし家老が「初めて見るものに驚くのは当然で恥ではない、むしろあらかじめの心構えが大切なのだ」と忠言したため、以降の氏康は常にしっかりと心構えをし、堂々とした態度をとったということです。 民衆に慕われた実力者 信玄、義元、謙信らとしのぎを削った氏康は、戦国を代表する勇猛果敢な武将の一人でした。また、民意を積極的に取り入れ善政を敷いた名将としても知られています。 氏康の政治手腕は称賛され、のちに関東に入った徳川家康はこれを踏襲し15代に及ぶ徳川治世の基にしたといわれています。関東の覇者として君臨した氏康が後世に与えた影響は大きいといえるでしょう。
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、どのような異名をもったか。
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、“相模の獅子”の異名をもった。
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歴史
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、北条氏康である。 隠居とその最期 永禄2年(1559)氏康は嫡子・氏政に家督を譲り隠居しますが、その後も小田原城に残り、氏政を後見しながら政治や軍事の実権を握り続けました。 永禄3年(1560)桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれると、信玄の駿河侵攻が始まります。またその4年後には、上総国などの支配をめぐり里見義堯(よしたか)・義弘父子と対立しました。 隠居後も数々の戦いに身を投じた氏康でしたが、永禄9年(1566)以降は多くの戦を息子らに任せるようになります。また元亀元年(1570)の夏頃からは半身不随や言語障害と思われる症状になり、最期は小田原城で死没しました。 外交や内政にも手腕を発揮! “相模の獅子”の異名をもつ氏康は、戦いだけではなく外交や内政でも大きな結果を残しました。ここではその功績を振り返ります。 甲相駿三国同盟を結んだ 氏康は、甲斐の信玄、駿河の義元とともに「甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)」という和平協定を結びました。攻守軍事、相互不可侵、領土、婚姻といった要素からなり、幾度となく戦を繰り返しながら完成したこの協定は、当時の東国情勢に大きな影響を及ぼしたと考えられています。 検地を徹底し税制改革を行った 氏康は徹底した検地を行い、税制改革にも熱心に取り組みました。領民の負担軽減にも尽力し、それまで継続されてきた諸点役(しょてんやく)という多様な税を整理。貫高の6%の懸銭を納めさせることで、不定期の徴収から領民を解放したのです。 また租税を50文から35文に減額し、凶作や飢饉が起こったときは年貢を減らしたり免除したりしました。 通貨と度量衡を統一した 当時は全国的に良質な永楽銭が不足し悪銭が増加していましたが、氏康は他大名に先駆けて永楽銭への通貨統一を進めました。地域ごとに異なっていた枡も遠江の榛原枡を公定枡と定め、度量衡を統一しています。また、誰でも直接不法を訴えられるよう目安箱も設置しました。 小田原城下町の都市開発を行った 氏康は小田原の城下町を発展させるために、全国から職人や文化人を呼び寄せて大規模な都市開発を行いました。清掃にも気を遣い清潔な都市となった小田原の城下町は、東国最大の都市といわれるほどに成長したのです。 京都南禅寺の僧・東嶺智旺(とうれいちおう)は「町の小路数万間、地一塵無し。東南は海。海水小田原の麓を遶る」とその様子を記しています。 残された逸話 関東覇者として君臨した氏康は、ほかの武将たちからも一目置かれる存在でした。そんな彼の人物像がわかる逸話をご紹介します。 諸将が恐れた氏康傷 氏康の顔面には2つの傷があったといわれています。これは戦場で常に先陣をきり、敵に背を向けず正面から立ち向かったことを示すものです。諸将はこの向こう傷を「氏康傷」と呼び、その武勇を称えました。また身体には7つの刀傷もあったといわれています。 12歳で堂々たる態度を会得 猛将と名高い氏康ですが、『北条五代記』によれば、12歳の頃に武術の調練を見て気絶したことがあったようです。このとき氏康は、家臣の前で恥を晒したといい自害しようとしました。しかし家老が「初めて見るものに驚くのは当然で恥ではない、むしろあらかじめの心構えが大切なのだ」と忠言したため、以降の氏康は常にしっかりと心構えをし、堂々とした態度をとったということです。 民衆に慕われた実力者 信玄、義元、謙信らとしのぎを削った氏康は、戦国を代表する勇猛果敢な武将の一人でした。また、民意を積極的に取り入れ善政を敷いた名将としても知られています。 氏康の政治手腕は称賛され、のちに関東に入った徳川家康はこれを踏襲し15代に及ぶ徳川治世の基にしたといわれています。関東の覇者として君臨した氏康が後世に与えた影響は大きいといえるでしょう。
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、戦いだけでなくどのようなことでも大きな功績を残したか。
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、戦いだけでなく外交や内政でも大きな功績を残した。
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歴史
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、北条氏康である。 隠居とその最期 永禄2年(1559)氏康は嫡子・氏政に家督を譲り隠居しますが、その後も小田原城に残り、氏政を後見しながら政治や軍事の実権を握り続けました。 永禄3年(1560)桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれると、信玄の駿河侵攻が始まります。またその4年後には、上総国などの支配をめぐり里見義堯(よしたか)・義弘父子と対立しました。 隠居後も数々の戦いに身を投じた氏康でしたが、永禄9年(1566)以降は多くの戦を息子らに任せるようになります。また元亀元年(1570)の夏頃からは半身不随や言語障害と思われる症状になり、最期は小田原城で死没しました。 外交や内政にも手腕を発揮! “相模の獅子”の異名をもつ氏康は、戦いだけではなく外交や内政でも大きな結果を残しました。ここではその功績を振り返ります。 甲相駿三国同盟を結んだ 氏康は、甲斐の信玄、駿河の義元とともに「甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)」という和平協定を結びました。攻守軍事、相互不可侵、領土、婚姻といった要素からなり、幾度となく戦を繰り返しながら完成したこの協定は、当時の東国情勢に大きな影響を及ぼしたと考えられています。 検地を徹底し税制改革を行った 氏康は徹底した検地を行い、税制改革にも熱心に取り組みました。領民の負担軽減にも尽力し、それまで継続されてきた諸点役(しょてんやく)という多様な税を整理。貫高の6%の懸銭を納めさせることで、不定期の徴収から領民を解放したのです。 また租税を50文から35文に減額し、凶作や飢饉が起こったときは年貢を減らしたり免除したりしました。 通貨と度量衡を統一した 当時は全国的に良質な永楽銭が不足し悪銭が増加していましたが、氏康は他大名に先駆けて永楽銭への通貨統一を進めました。地域ごとに異なっていた枡も遠江の榛原枡を公定枡と定め、度量衡を統一しています。また、誰でも直接不法を訴えられるよう目安箱も設置しました。 小田原城下町の都市開発を行った 氏康は小田原の城下町を発展させるために、全国から職人や文化人を呼び寄せて大規模な都市開発を行いました。清掃にも気を遣い清潔な都市となった小田原の城下町は、東国最大の都市といわれるほどに成長したのです。 京都南禅寺の僧・東嶺智旺(とうれいちおう)は「町の小路数万間、地一塵無し。東南は海。海水小田原の麓を遶る」とその様子を記しています。 残された逸話 関東覇者として君臨した氏康は、ほかの武将たちからも一目置かれる存在でした。そんな彼の人物像がわかる逸話をご紹介します。 諸将が恐れた氏康傷 氏康の顔面には2つの傷があったといわれています。これは戦場で常に先陣をきり、敵に背を向けず正面から立ち向かったことを示すものです。諸将はこの向こう傷を「氏康傷」と呼び、その武勇を称えました。また身体には7つの刀傷もあったといわれています。 12歳で堂々たる態度を会得 猛将と名高い氏康ですが、『北条五代記』によれば、12歳の頃に武術の調練を見て気絶したことがあったようです。このとき氏康は、家臣の前で恥を晒したといい自害しようとしました。しかし家老が「初めて見るものに驚くのは当然で恥ではない、むしろあらかじめの心構えが大切なのだ」と忠言したため、以降の氏康は常にしっかりと心構えをし、堂々とした態度をとったということです。 民衆に慕われた実力者 信玄、義元、謙信らとしのぎを削った氏康は、戦国を代表する勇猛果敢な武将の一人でした。また、民意を積極的に取り入れ善政を敷いた名将としても知られています。 氏康の政治手腕は称賛され、のちに関東に入った徳川家康はこれを踏襲し15代に及ぶ徳川治世の基にしたといわれています。関東の覇者として君臨した氏康が後世に与えた影響は大きいといえるでしょう。
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、どのようなことにも着手したか。
戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、通貨統一や度量衡の整備にも着手した。
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歴史
関ヶ原で斬首された怪僧は、安国寺恵瓊である。 恵瓊の生まれから毛利家臣時代まで そもそも恵瓊はなぜ毛利家の外交僧となったのでしょうか。その経緯について振り返ります。 安芸武田氏の滅亡により出家 恵瓊は、天文8年(1539年)武田信重(光広)の子として安芸国に生まれた。天文10年(1541)毛利元就により安芸武田氏が滅亡すると、安国寺(不動院)に入って出家。その後は京都の東福寺に入り、臨済宗の僧・竺雲恵心(じくうんえしん)の弟子になりました。 天正2年(1574)には安国寺の住職になり、その後は東福寺や南禅寺の住職を経て、中央禅林最高の位につきます。建仁寺、方丈寺、霊仙寺の再興や、凌雲寺仏殿の安国寺への移築など、僧としてさまざまな功績を残しました。 毛利氏の外交僧となる 毛利家が恵心に帰依していたことがキッカケで、恵瓊は毛利家の外交僧になります。永禄11年(1568)に起こった大友家との合戦では、豪族らを毛利方の味方にする交渉で貢献。また元亀2年(1571)には将軍・足利義昭に対して大友家、浦上家、三好家との和議の斡旋を依頼し、大友、浦上との講和を成功させます。天正元年(1573)織田信長により将軍・義昭が京都を追放された際は、帰京を要請する会議に毛利家の使者として参加しました。 僧でありながら豊臣大名に!? 本能寺の変が起こった後の恵瓊は、秀吉の側近としても活躍しました。毛利家の外交僧だった彼はどのようにその地位を手に入れたのでしょうか。 毛利氏と秀吉の和睦を取りまとめる 天正10年(1582)毛利家と秀吉は備中高松城の戦いで対陣していました。この最中に本能寺の変によって信長が死去しましたが、秀吉はそれを隠して毛利氏に和睦案を提示。恵瓊はこれを取りまとめ、もし和睦できず毛利家が滅亡したときは、小早川秀包と吉川広家を秀吉の家臣に取り立てるよう願い出ます。交渉の甲斐あってか、毛利家の領国は無事に認められました。 このとき恵瓊は、秀吉の躍進を予測し、進んで和睦を取りまとめたとされています。この態度が秀吉の信任に繋がったのです。
関ヶ原で斬首された怪僧は、いつ生まれたか。
関ヶ原で斬首された怪僧は、天文8年(1539年)に生まれた。
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関ヶ原で斬首された怪僧は、安国寺恵瓊である。 恵瓊の生まれから毛利家臣時代まで そもそも恵瓊はなぜ毛利家の外交僧となったのでしょうか。その経緯について振り返ります。 安芸武田氏の滅亡により出家 恵瓊は、天文8年(1539年)武田信重(光広)の子として安芸国に生まれた。天文10年(1541)毛利元就により安芸武田氏が滅亡すると、安国寺(不動院)に入って出家。その後は京都の東福寺に入り、臨済宗の僧・竺雲恵心(じくうんえしん)の弟子になりました。 天正2年(1574)には安国寺の住職になり、その後は東福寺や南禅寺の住職を経て、中央禅林最高の位につきます。建仁寺、方丈寺、霊仙寺の再興や、凌雲寺仏殿の安国寺への移築など、僧としてさまざまな功績を残しました。 毛利氏の外交僧となる 毛利家が恵心に帰依していたことがキッカケで、恵瓊は毛利家の外交僧になります。永禄11年(1568)に起こった大友家との合戦では、豪族らを毛利方の味方にする交渉で貢献。また元亀2年(1571)には将軍・足利義昭に対して大友家、浦上家、三好家との和議の斡旋を依頼し、大友、浦上との講和を成功させます。天正元年(1573)織田信長により将軍・義昭が京都を追放された際は、帰京を要請する会議に毛利家の使者として参加しました。 僧でありながら豊臣大名に!? 本能寺の変が起こった後の恵瓊は、秀吉の側近としても活躍しました。毛利家の外交僧だった彼はどのようにその地位を手に入れたのでしょうか。 毛利氏と秀吉の和睦を取りまとめる 天正10年(1582)毛利家と秀吉は備中高松城の戦いで対陣していました。この最中に本能寺の変によって信長が死去しましたが、秀吉はそれを隠して毛利氏に和睦案を提示。恵瓊はこれを取りまとめ、もし和睦できず毛利家が滅亡したときは、小早川秀包と吉川広家を秀吉の家臣に取り立てるよう願い出ます。交渉の甲斐あってか、毛利家の領国は無事に認められました。 このとき恵瓊は、秀吉の躍進を予測し、進んで和睦を取りまとめたとされています。この態度が秀吉の信任に繋がったのです。
関ヶ原で斬首された怪僧は、誰の子として生まれたか。
関ヶ原で斬首された怪僧は、武田信重(光広)の子として生まれた。
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歴史
関ヶ原で斬首された怪僧は、安国寺恵瓊である。 恵瓊の生まれから毛利家臣時代まで そもそも恵瓊はなぜ毛利家の外交僧となったのでしょうか。その経緯について振り返ります。 安芸武田氏の滅亡により出家 恵瓊は、天文8年(1539年)武田信重(光広)の子として安芸国に生まれた。天文10年(1541)毛利元就により安芸武田氏が滅亡すると、安国寺(不動院)に入って出家。その後は京都の東福寺に入り、臨済宗の僧・竺雲恵心(じくうんえしん)の弟子になりました。 天正2年(1574)には安国寺の住職になり、その後は東福寺や南禅寺の住職を経て、中央禅林最高の位につきます。建仁寺、方丈寺、霊仙寺の再興や、凌雲寺仏殿の安国寺への移築など、僧としてさまざまな功績を残しました。 毛利氏の外交僧となる 毛利家が恵心に帰依していたことがキッカケで、恵瓊は毛利家の外交僧になります。永禄11年(1568)に起こった大友家との合戦では、豪族らを毛利方の味方にする交渉で貢献。また元亀2年(1571)には将軍・足利義昭に対して大友家、浦上家、三好家との和議の斡旋を依頼し、大友、浦上との講和を成功させます。天正元年(1573)織田信長により将軍・義昭が京都を追放された際は、帰京を要請する会議に毛利家の使者として参加しました。 僧でありながら豊臣大名に!? 本能寺の変が起こった後の恵瓊は、秀吉の側近としても活躍しました。毛利家の外交僧だった彼はどのようにその地位を手に入れたのでしょうか。 毛利氏と秀吉の和睦を取りまとめる 天正10年(1582)毛利家と秀吉は備中高松城の戦いで対陣していました。この最中に本能寺の変によって信長が死去しましたが、秀吉はそれを隠して毛利氏に和睦案を提示。恵瓊はこれを取りまとめ、もし和睦できず毛利家が滅亡したときは、小早川秀包と吉川広家を秀吉の家臣に取り立てるよう願い出ます。交渉の甲斐あってか、毛利家の領国は無事に認められました。 このとき恵瓊は、秀吉の躍進を予測し、進んで和睦を取りまとめたとされています。この態度が秀吉の信任に繋がったのです。
関ヶ原で斬首された怪僧は、どこに生まれたか。
関ヶ原で斬首された怪僧は、安芸国に生まれた。
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歴史
関ヶ原で斬首された怪僧は、安国寺恵瓊である。 恵瓊の生まれから毛利家臣時代まで そもそも恵瓊はなぜ毛利家の外交僧となったのでしょうか。その経緯について振り返ります。 安芸武田氏の滅亡により出家 恵瓊は、天文8年(1539年)武田信重(光広)の子として安芸国に生まれた。天文10年(1541)毛利元就により安芸武田氏が滅亡すると、安国寺(不動院)に入って出家。その後は京都の東福寺に入り、臨済宗の僧・竺雲恵心(じくうんえしん)の弟子になりました。 天正2年(1574)には安国寺の住職になり、その後は東福寺や南禅寺の住職を経て、中央禅林最高の位につきます。建仁寺、方丈寺、霊仙寺の再興や、凌雲寺仏殿の安国寺への移築など、僧としてさまざまな功績を残しました。 毛利氏の外交僧となる 毛利家が恵心に帰依していたことがキッカケで、恵瓊は毛利家の外交僧になります。永禄11年(1568)に起こった大友家との合戦では、豪族らを毛利方の味方にする交渉で貢献。また元亀2年(1571)には将軍・足利義昭に対して大友家、浦上家、三好家との和議の斡旋を依頼し、大友、浦上との講和を成功させます。天正元年(1573)織田信長により将軍・義昭が京都を追放された際は、帰京を要請する会議に毛利家の使者として参加しました。 僧でありながら豊臣大名に!? 本能寺の変が起こった後の恵瓊は、秀吉の側近としても活躍しました。毛利家の外交僧だった彼はどのようにその地位を手に入れたのでしょうか。 毛利氏と秀吉の和睦を取りまとめる 天正10年(1582)毛利家と秀吉は備中高松城の戦いで対陣していました。この最中に本能寺の変によって信長が死去しましたが、秀吉はそれを隠して毛利氏に和睦案を提示。恵瓊はこれを取りまとめ、もし和睦できず毛利家が滅亡したときは、小早川秀包と吉川広家を秀吉の家臣に取り立てるよう願い出ます。交渉の甲斐あってか、毛利家の領国は無事に認められました。 このとき恵瓊は、秀吉の躍進を予測し、進んで和睦を取りまとめたとされています。この態度が秀吉の信任に繋がったのです。
関ヶ原で斬首された怪僧は、どこに入って出家したか。
関ヶ原で斬首された怪僧は、安国寺(不動院)に入って出家した。
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歴史
関ヶ原で斬首された怪僧は、安国寺恵瓊である。 恵瓊の生まれから毛利家臣時代まで そもそも恵瓊はなぜ毛利家の外交僧となったのでしょうか。その経緯について振り返ります。 安芸武田氏の滅亡により出家 恵瓊は、天文8年(1539年)武田信重(光広)の子として安芸国に生まれた。天文10年(1541)毛利元就により安芸武田氏が滅亡すると、安国寺(不動院)に入って出家。その後は京都の東福寺に入り、臨済宗の僧・竺雲恵心(じくうんえしん)の弟子になりました。 天正2年(1574)には安国寺の住職になり、その後は東福寺や南禅寺の住職を経て、中央禅林最高の位につきます。建仁寺、方丈寺、霊仙寺の再興や、凌雲寺仏殿の安国寺への移築など、僧としてさまざまな功績を残しました。 毛利氏の外交僧となる 毛利家が恵心に帰依していたことがキッカケで、恵瓊は毛利家の外交僧になります。永禄11年(1568)に起こった大友家との合戦では、豪族らを毛利方の味方にする交渉で貢献。また元亀2年(1571)には将軍・足利義昭に対して大友家、浦上家、三好家との和議の斡旋を依頼し、大友、浦上との講和を成功させます。天正元年(1573)織田信長により将軍・義昭が京都を追放された際は、帰京を要請する会議に毛利家の使者として参加しました。 僧でありながら豊臣大名に!? 本能寺の変が起こった後の恵瓊は、秀吉の側近としても活躍しました。毛利家の外交僧だった彼はどのようにその地位を手に入れたのでしょうか。 毛利氏と秀吉の和睦を取りまとめる 天正10年(1582)毛利家と秀吉は備中高松城の戦いで対陣していました。この最中に本能寺の変によって信長が死去しましたが、秀吉はそれを隠して毛利氏に和睦案を提示。恵瓊はこれを取りまとめ、もし和睦できず毛利家が滅亡したときは、小早川秀包と吉川広家を秀吉の家臣に取り立てるよう願い出ます。交渉の甲斐あってか、毛利家の領国は無事に認められました。 このとき恵瓊は、秀吉の躍進を予測し、進んで和睦を取りまとめたとされています。この態度が秀吉の信任に繋がったのです。
関ヶ原で斬首された怪僧は、何をきっかけに、毛利家の外交僧となったか。
関ヶ原で斬首された怪僧は、毛利家が恵心に帰依していたことをきっかけに、毛利家の外交僧となった。
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歴史
関ヶ原で斬首された怪僧は、安国寺恵瓊である。 6万石の秀吉近臣に上り詰める 天正13年(1585)毛利家の秀吉への臣従について交渉を担当した恵瓊は秀吉から賞賛されます。このころの彼はすでに秀吉の側近も兼ねており、四国征伐後には伊予国和気郡に2万3000石を与えられ、九州征伐後には6万石に加増と、僧でありながら豊臣大名という異例の位置づけでした。 その活躍は目覚ましく、九州征伐に先立ち黒田官兵衛らとともに大友家と毛利家の和睦を締結。秀吉による検地や厳島神社の作事の奉行を務めたほか、戦国武将としても小田原征伐や朝鮮出兵に参加して功績を残しています。 関ヶ原の戦いでの働きとは? 秀吉のもとで目覚ましい活躍を遂げた恵瓊ですが、やがて最期の瞬間が訪れます。関ヶ原の戦いで恵瓊はどのような働きをしたのでしょうか。 石田三成と通じ西軍として参加 恵瓊は毛利一族の中でも親秀吉派だった小早川隆景に近い存在で、秀吉が病に伏した際、隆景が死去すると毛利が軽視されると心配しました。この読みは的中し、自身も小早川家と並ぶ毛利家の支柱・吉川広家と対立します。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、懇意だった西軍の石田三成と通じ、毛利家当主・毛利輝元を西軍総大将として担ぎ出すことに成功。合戦で毛利秀元・吉川広家とともに徳川家康軍の後方に陣取りますが、前に布陣していた広家が家康に内通しており毛利軍の参戦を阻止しました。そのため恵瓊は、戦闘に参加できずに終わってしまいます。 逃亡するも斬首される 西軍の敗北後、毛利本家の陣に赴いた恵瓊は広家に諭され逃亡。鞍馬寺や本願寺に匿われ息をひそめましたが、敵将・鳥居信商に捕縛され家康の陣所に送られます。 その後、恵瓊は六条河原で斬首され、三成、小西行長とともにさらし首に処せられました。 交渉手腕に長けた恵瓊の逸話 さまざまな交渉に尽力した恵瓊はどんな人物だったのでしょうか。ここでは彼にまつわるエピソードをご紹介します。 天下を予見する慧眼の持ち主だった 信長の上洛前から毛利家の外交僧として活躍していた恵瓊。彼は信長の突然の死や秀吉の躍進を予見しており、その読みが見事に的中したことからすぐれた眼力の持ち主といわれています。 『太閤記』には、無名時代の秀吉に「将来天下を取る相がある」と言い、のちに天下人となった秀吉から領地を与えられる描写があります。 恵瓊はなぜ斬首されたのか? 関ヶ原の戦いで戦闘に参加しなかったにもかかわらず斬首された恵瓊。その理由は、恵瓊も西軍の首脳の1人とみなされたからだったようです。 彼は輝元を西軍総大将として担ぎ出しましたが、この功績こそが彼を死に至らしめました。毛利家からの助命の嘆願はなかったため、恵瓊はいざとなれば切り捨てられる存在だったとも考えられます。 戦国一の寝業師だった 弁舌や調略でうまく交渉を重ね、戦国の世を渡り歩いた恵瓊。彼には先見の明がありましたが、斬首という自分の最期までは予見できなかったようです。 大名になったかどうかについては諸説あるものの、秀吉の近臣として取り立てられたことは確かでした。もし逃亡という道を選ばずに家康との交渉をうまく進めていたら、関ヶ原の戦い後も家康のもとで活躍していたかもしれませんね。
関ヶ原で斬首された怪僧は、天正13年(1585)何をして秀吉から賞賛されたか。
関ヶ原で斬首された怪僧は、天正13年(1585)毛利家の秀吉への臣従交渉を担当して秀吉から賞賛された。
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関ヶ原で斬首された怪僧は、安国寺恵瓊である。 6万石の秀吉近臣に上り詰める 天正13年(1585)毛利家の秀吉への臣従について交渉を担当した恵瓊は秀吉から賞賛されます。このころの彼はすでに秀吉の側近も兼ねており、四国征伐後には伊予国和気郡に2万3000石を与えられ、九州征伐後には6万石に加増と、僧でありながら豊臣大名という異例の位置づけでした。 その活躍は目覚ましく、九州征伐に先立ち黒田官兵衛らとともに大友家と毛利家の和睦を締結。秀吉による検地や厳島神社の作事の奉行を務めたほか、戦国武将としても小田原征伐や朝鮮出兵に参加して功績を残しています。 関ヶ原の戦いでの働きとは? 秀吉のもとで目覚ましい活躍を遂げた恵瓊ですが、やがて最期の瞬間が訪れます。関ヶ原の戦いで恵瓊はどのような働きをしたのでしょうか。 石田三成と通じ西軍として参加 恵瓊は毛利一族の中でも親秀吉派だった小早川隆景に近い存在で、秀吉が病に伏した際、隆景が死去すると毛利が軽視されると心配しました。この読みは的中し、自身も小早川家と並ぶ毛利家の支柱・吉川広家と対立します。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、懇意だった西軍の石田三成と通じ、毛利家当主・毛利輝元を西軍総大将として担ぎ出すことに成功。合戦で毛利秀元・吉川広家とともに徳川家康軍の後方に陣取りますが、前に布陣していた広家が家康に内通しており毛利軍の参戦を阻止しました。そのため恵瓊は、戦闘に参加できずに終わってしまいます。 逃亡するも斬首される 西軍の敗北後、毛利本家の陣に赴いた恵瓊は広家に諭され逃亡。鞍馬寺や本願寺に匿われ息をひそめましたが、敵将・鳥居信商に捕縛され家康の陣所に送られます。 その後、恵瓊は六条河原で斬首され、三成、小西行長とともにさらし首に処せられました。 交渉手腕に長けた恵瓊の逸話 さまざまな交渉に尽力した恵瓊はどんな人物だったのでしょうか。ここでは彼にまつわるエピソードをご紹介します。 天下を予見する慧眼の持ち主だった 信長の上洛前から毛利家の外交僧として活躍していた恵瓊。彼は信長の突然の死や秀吉の躍進を予見しており、その読みが見事に的中したことからすぐれた眼力の持ち主といわれています。 『太閤記』には、無名時代の秀吉に「将来天下を取る相がある」と言い、のちに天下人となった秀吉から領地を与えられる描写があります。 恵瓊はなぜ斬首されたのか? 関ヶ原の戦いで戦闘に参加しなかったにもかかわらず斬首された恵瓊。その理由は、恵瓊も西軍の首脳の1人とみなされたからだったようです。 彼は輝元を西軍総大将として担ぎ出しましたが、この功績こそが彼を死に至らしめました。毛利家からの助命の嘆願はなかったため、恵瓊はいざとなれば切り捨てられる存在だったとも考えられます。 戦国一の寝業師だった 弁舌や調略でうまく交渉を重ね、戦国の世を渡り歩いた恵瓊。彼には先見の明がありましたが、斬首という自分の最期までは予見できなかったようです。 大名になったかどうかについては諸説あるものの、秀吉の近臣として取り立てられたことは確かでした。もし逃亡という道を選ばずに家康との交渉をうまく進めていたら、関ヶ原の戦い後も家康のもとで活躍していたかもしれませんね。
関ヶ原で斬首された怪僧は、誰の側近も兼ねたか。
関ヶ原で斬首された怪僧は、秀吉の側近も兼ねた。
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関ヶ原で斬首された怪僧は、安国寺恵瓊である。 6万石の秀吉近臣に上り詰める 天正13年(1585)毛利家の秀吉への臣従について交渉を担当した恵瓊は秀吉から賞賛されます。このころの彼はすでに秀吉の側近も兼ねており、四国征伐後には伊予国和気郡に2万3000石を与えられ、九州征伐後には6万石に加増と、僧でありながら豊臣大名という異例の位置づけでした。 その活躍は目覚ましく、九州征伐に先立ち黒田官兵衛らとともに大友家と毛利家の和睦を締結。秀吉による検地や厳島神社の作事の奉行を務めたほか、戦国武将としても小田原征伐や朝鮮出兵に参加して功績を残しています。 関ヶ原の戦いでの働きとは? 秀吉のもとで目覚ましい活躍を遂げた恵瓊ですが、やがて最期の瞬間が訪れます。関ヶ原の戦いで恵瓊はどのような働きをしたのでしょうか。 石田三成と通じ西軍として参加 恵瓊は毛利一族の中でも親秀吉派だった小早川隆景に近い存在で、秀吉が病に伏した際、隆景が死去すると毛利が軽視されると心配しました。この読みは的中し、自身も小早川家と並ぶ毛利家の支柱・吉川広家と対立します。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、懇意だった西軍の石田三成と通じ、毛利家当主・毛利輝元を西軍総大将として担ぎ出すことに成功。合戦で毛利秀元・吉川広家とともに徳川家康軍の後方に陣取りますが、前に布陣していた広家が家康に内通しており毛利軍の参戦を阻止しました。そのため恵瓊は、戦闘に参加できずに終わってしまいます。 逃亡するも斬首される 西軍の敗北後、毛利本家の陣に赴いた恵瓊は広家に諭され逃亡。鞍馬寺や本願寺に匿われ息をひそめましたが、敵将・鳥居信商に捕縛され家康の陣所に送られます。 その後、恵瓊は六条河原で斬首され、三成、小西行長とともにさらし首に処せられました。 交渉手腕に長けた恵瓊の逸話 さまざまな交渉に尽力した恵瓊はどんな人物だったのでしょうか。ここでは彼にまつわるエピソードをご紹介します。 天下を予見する慧眼の持ち主だった 信長の上洛前から毛利家の外交僧として活躍していた恵瓊。彼は信長の突然の死や秀吉の躍進を予見しており、その読みが見事に的中したことからすぐれた眼力の持ち主といわれています。 『太閤記』には、無名時代の秀吉に「将来天下を取る相がある」と言い、のちに天下人となった秀吉から領地を与えられる描写があります。 恵瓊はなぜ斬首されたのか? 関ヶ原の戦いで戦闘に参加しなかったにもかかわらず斬首された恵瓊。その理由は、恵瓊も西軍の首脳の1人とみなされたからだったようです。 彼は輝元を西軍総大将として担ぎ出しましたが、この功績こそが彼を死に至らしめました。毛利家からの助命の嘆願はなかったため、恵瓊はいざとなれば切り捨てられる存在だったとも考えられます。 戦国一の寝業師だった 弁舌や調略でうまく交渉を重ね、戦国の世を渡り歩いた恵瓊。彼には先見の明がありましたが、斬首という自分の最期までは予見できなかったようです。 大名になったかどうかについては諸説あるものの、秀吉の近臣として取り立てられたことは確かでした。もし逃亡という道を選ばずに家康との交渉をうまく進めていたら、関ヶ原の戦い後も家康のもとで活躍していたかもしれませんね。
関ヶ原で斬首された怪僧は、四国征伐後にどこに2万3000石を与えられたか。
関ヶ原で斬首された怪僧は、四国征伐後に伊予国和気郡に2万3000石を与えられた。
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歴史
関ヶ原で斬首された怪僧は、安国寺恵瓊である。 6万石の秀吉近臣に上り詰める 天正13年(1585)毛利家の秀吉への臣従について交渉を担当した恵瓊は秀吉から賞賛されます。このころの彼はすでに秀吉の側近も兼ねており、四国征伐後には伊予国和気郡に2万3000石を与えられ、九州征伐後には6万石に加増と、僧でありながら豊臣大名という異例の位置づけでした。 その活躍は目覚ましく、九州征伐に先立ち黒田官兵衛らとともに大友家と毛利家の和睦を締結。秀吉による検地や厳島神社の作事の奉行を務めたほか、戦国武将としても小田原征伐や朝鮮出兵に参加して功績を残しています。 関ヶ原の戦いでの働きとは? 秀吉のもとで目覚ましい活躍を遂げた恵瓊ですが、やがて最期の瞬間が訪れます。関ヶ原の戦いで恵瓊はどのような働きをしたのでしょうか。 石田三成と通じ西軍として参加 恵瓊は毛利一族の中でも親秀吉派だった小早川隆景に近い存在で、秀吉が病に伏した際、隆景が死去すると毛利が軽視されると心配しました。この読みは的中し、自身も小早川家と並ぶ毛利家の支柱・吉川広家と対立します。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、懇意だった西軍の石田三成と通じ、毛利家当主・毛利輝元を西軍総大将として担ぎ出すことに成功。合戦で毛利秀元・吉川広家とともに徳川家康軍の後方に陣取りますが、前に布陣していた広家が家康に内通しており毛利軍の参戦を阻止しました。そのため恵瓊は、戦闘に参加できずに終わってしまいます。 逃亡するも斬首される 西軍の敗北後、毛利本家の陣に赴いた恵瓊は広家に諭され逃亡。鞍馬寺や本願寺に匿われ息をひそめましたが、敵将・鳥居信商に捕縛され家康の陣所に送られます。 その後、恵瓊は六条河原で斬首され、三成、小西行長とともにさらし首に処せられました。 交渉手腕に長けた恵瓊の逸話 さまざまな交渉に尽力した恵瓊はどんな人物だったのでしょうか。ここでは彼にまつわるエピソードをご紹介します。 天下を予見する慧眼の持ち主だった 信長の上洛前から毛利家の外交僧として活躍していた恵瓊。彼は信長の突然の死や秀吉の躍進を予見しており、その読みが見事に的中したことからすぐれた眼力の持ち主といわれています。 『太閤記』には、無名時代の秀吉に「将来天下を取る相がある」と言い、のちに天下人となった秀吉から領地を与えられる描写があります。 恵瓊はなぜ斬首されたのか? 関ヶ原の戦いで戦闘に参加しなかったにもかかわらず斬首された恵瓊。その理由は、恵瓊も西軍の首脳の1人とみなされたからだったようです。 彼は輝元を西軍総大将として担ぎ出しましたが、この功績こそが彼を死に至らしめました。毛利家からの助命の嘆願はなかったため、恵瓊はいざとなれば切り捨てられる存在だったとも考えられます。 戦国一の寝業師だった 弁舌や調略でうまく交渉を重ね、戦国の世を渡り歩いた恵瓊。彼には先見の明がありましたが、斬首という自分の最期までは予見できなかったようです。 大名になったかどうかについては諸説あるものの、秀吉の近臣として取り立てられたことは確かでした。もし逃亡という道を選ばずに家康との交渉をうまく進めていたら、関ヶ原の戦い後も家康のもとで活躍していたかもしれませんね。
関ヶ原で斬首された怪僧は、何の後に6万石に加増されたか。
関ヶ原で斬首された怪僧は、九州征伐後には6万石に加増された。
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関ヶ原で斬首された怪僧は、安国寺恵瓊である。 6万石の秀吉近臣に上り詰める 天正13年(1585)毛利家の秀吉への臣従について交渉を担当した恵瓊は秀吉から賞賛されます。このころの彼はすでに秀吉の側近も兼ねており、四国征伐後には伊予国和気郡に2万3000石を与えられ、九州征伐後には6万石に加増と、僧でありながら豊臣大名という異例の位置づけでした。 その活躍は目覚ましく、九州征伐に先立ち黒田官兵衛らとともに大友家と毛利家の和睦を締結。秀吉による検地や厳島神社の作事の奉行を務めたほか、戦国武将としても小田原征伐や朝鮮出兵に参加して功績を残しています。 関ヶ原の戦いでの働きとは? 秀吉のもとで目覚ましい活躍を遂げた恵瓊ですが、やがて最期の瞬間が訪れます。関ヶ原の戦いで恵瓊はどのような働きをしたのでしょうか。 石田三成と通じ西軍として参加 恵瓊は毛利一族の中でも親秀吉派だった小早川隆景に近い存在で、秀吉が病に伏した際、隆景が死去すると毛利が軽視されると心配しました。この読みは的中し、自身も小早川家と並ぶ毛利家の支柱・吉川広家と対立します。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、懇意だった西軍の石田三成と通じ、毛利家当主・毛利輝元を西軍総大将として担ぎ出すことに成功。合戦で毛利秀元・吉川広家とともに徳川家康軍の後方に陣取りますが、前に布陣していた広家が家康に内通しており毛利軍の参戦を阻止しました。そのため恵瓊は、戦闘に参加できずに終わってしまいます。 逃亡するも斬首される 西軍の敗北後、毛利本家の陣に赴いた恵瓊は広家に諭され逃亡。鞍馬寺や本願寺に匿われ息をひそめましたが、敵将・鳥居信商に捕縛され家康の陣所に送られます。 その後、恵瓊は六条河原で斬首され、三成、小西行長とともにさらし首に処せられました。 交渉手腕に長けた恵瓊の逸話 さまざまな交渉に尽力した恵瓊はどんな人物だったのでしょうか。ここでは彼にまつわるエピソードをご紹介します。 天下を予見する慧眼の持ち主だった 信長の上洛前から毛利家の外交僧として活躍していた恵瓊。彼は信長の突然の死や秀吉の躍進を予見しており、その読みが見事に的中したことからすぐれた眼力の持ち主といわれています。 『太閤記』には、無名時代の秀吉に「将来天下を取る相がある」と言い、のちに天下人となった秀吉から領地を与えられる描写があります。 恵瓊はなぜ斬首されたのか? 関ヶ原の戦いで戦闘に参加しなかったにもかかわらず斬首された恵瓊。その理由は、恵瓊も西軍の首脳の1人とみなされたからだったようです。 彼は輝元を西軍総大将として担ぎ出しましたが、この功績こそが彼を死に至らしめました。毛利家からの助命の嘆願はなかったため、恵瓊はいざとなれば切り捨てられる存在だったとも考えられます。 戦国一の寝業師だった 弁舌や調略でうまく交渉を重ね、戦国の世を渡り歩いた恵瓊。彼には先見の明がありましたが、斬首という自分の最期までは予見できなかったようです。 大名になったかどうかについては諸説あるものの、秀吉の近臣として取り立てられたことは確かでした。もし逃亡という道を選ばずに家康との交渉をうまく進めていたら、関ヶ原の戦い後も家康のもとで活躍していたかもしれませんね。
関ヶ原で斬首された怪僧は、懇意だった石田三成と通じて何に成功したか。
関ヶ原で斬首された怪僧は、懇意だった石田三成と通じて毛利家当主・毛利輝元を西軍総大将に担ぎ出すことに成功した。
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歴史
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、明智秀満である。 秀満の謎多き前半生とは? 秀満はどのような人物だったのでしょうか?まずは彼の前半生について振り返ります。 出自には諸説ある 秀満の前半生については諸説ありますが、秀満は天文5年(1536年)明智光安の次男として美濃国で生まれた。もともとは三宅弥平次といい、光秀の娘との結婚後に明智姓を名乗ったといわれています。光秀とは従兄弟という関係性になっています。後世の書物では、光春の通称として「明智左馬助」と呼ばれることもあるようです。なお、秀満の妻についても諸説あり、通説では光秀の長女といわれています。 明智光秀とともに城を脱出 もともと明智氏だったという説をとる『明智軍記』によれば、秀満は明智嫡流の光秀の後見として、父・光安に従っていました。しかし、弘治2年(1556)斎藤道三とその子・斎藤義龍の争いである長良川の戦いが起こり、敗北した道三方に加担していたため、義龍方に居城を攻撃されてしまいます。秀満は光秀らとともに城を脱出し、浪人となりました。 明智光秀の右腕として活躍 その後、秀満は光秀の家臣団として活躍していきます。その働きは光秀の右腕といえるほどのものでした。 光秀の娘と結婚、領国経営に関わる 天正6年(1578)以降、秀満は光秀の娘を妻に迎え、明智姓を名乗るようになります。ただし、史料にその名が登場するのは天正10年(1582)4月以降のことです。光秀と姻戚関係を結んだ秀満は、坂本城の築城に関わるなど、光秀の領国経営に大きく携わるようになりました。 戦略拠点・福知山城の城代に このころ光秀は丹波平定の命令を信長から受けており、福智山城をその戦略拠点としました。この城は山城・丹後・但馬へと続く交通の要所で、光秀は丹波平定後、秀満をこの城の城代としました。重要な拠点を任されたことからも、光秀の信頼がいかに厚かったのかがわかるでしょう。秀満の在城は天正10年(1582)までとされ、そのあいだに茶人・津田宗及らをこの城でもてなしています。
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、天文5年(1536年)に生まれた。
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、天文5年(1536年)に生まれた。
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光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、明智秀満である。 秀満の謎多き前半生とは? 秀満はどのような人物だったのでしょうか?まずは彼の前半生について振り返ります。 出自には諸説ある 秀満の前半生については諸説ありますが、秀満は天文5年(1536年)明智光安の次男として美濃国で生まれた。もともとは三宅弥平次といい、光秀の娘との結婚後に明智姓を名乗ったといわれています。光秀とは従兄弟という関係性になっています。後世の書物では、光春の通称として「明智左馬助」と呼ばれることもあるようです。なお、秀満の妻についても諸説あり、通説では光秀の長女といわれています。 明智光秀とともに城を脱出 もともと明智氏だったという説をとる『明智軍記』によれば、秀満は明智嫡流の光秀の後見として、父・光安に従っていました。しかし、弘治2年(1556)斎藤道三とその子・斎藤義龍の争いである長良川の戦いが起こり、敗北した道三方に加担していたため、義龍方に居城を攻撃されてしまいます。秀満は光秀らとともに城を脱出し、浪人となりました。 明智光秀の右腕として活躍 その後、秀満は光秀の家臣団として活躍していきます。その働きは光秀の右腕といえるほどのものでした。 光秀の娘と結婚、領国経営に関わる 天正6年(1578)以降、秀満は光秀の娘を妻に迎え、明智姓を名乗るようになります。ただし、史料にその名が登場するのは天正10年(1582)4月以降のことです。光秀と姻戚関係を結んだ秀満は、坂本城の築城に関わるなど、光秀の領国経営に大きく携わるようになりました。 戦略拠点・福知山城の城代に このころ光秀は丹波平定の命令を信長から受けており、福智山城をその戦略拠点としました。この城は山城・丹後・但馬へと続く交通の要所で、光秀は丹波平定後、秀満をこの城の城代としました。重要な拠点を任されたことからも、光秀の信頼がいかに厚かったのかがわかるでしょう。秀満の在城は天正10年(1582)までとされ、そのあいだに茶人・津田宗及らをこの城でもてなしています。
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、明智光安の次男として生まれた。
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、明智光安の次男として生まれた。
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光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、明智秀満である。 秀満の謎多き前半生とは? 秀満はどのような人物だったのでしょうか?まずは彼の前半生について振り返ります。 出自には諸説ある 秀満の前半生については諸説ありますが、秀満は天文5年(1536年)明智光安の次男として美濃国で生まれた。もともとは三宅弥平次といい、光秀の娘との結婚後に明智姓を名乗ったといわれています。光秀とは従兄弟という関係性になっています。後世の書物では、光春の通称として「明智左馬助」と呼ばれることもあるようです。なお、秀満の妻についても諸説あり、通説では光秀の長女といわれています。 明智光秀とともに城を脱出 もともと明智氏だったという説をとる『明智軍記』によれば、秀満は明智嫡流の光秀の後見として、父・光安に従っていました。しかし、弘治2年(1556)斎藤道三とその子・斎藤義龍の争いである長良川の戦いが起こり、敗北した道三方に加担していたため、義龍方に居城を攻撃されてしまいます。秀満は光秀らとともに城を脱出し、浪人となりました。 明智光秀の右腕として活躍 その後、秀満は光秀の家臣団として活躍していきます。その働きは光秀の右腕といえるほどのものでした。 光秀の娘と結婚、領国経営に関わる 天正6年(1578)以降、秀満は光秀の娘を妻に迎え、明智姓を名乗るようになります。ただし、史料にその名が登場するのは天正10年(1582)4月以降のことです。光秀と姻戚関係を結んだ秀満は、坂本城の築城に関わるなど、光秀の領国経営に大きく携わるようになりました。 戦略拠点・福知山城の城代に このころ光秀は丹波平定の命令を信長から受けており、福智山城をその戦略拠点としました。この城は山城・丹後・但馬へと続く交通の要所で、光秀は丹波平定後、秀満をこの城の城代としました。重要な拠点を任されたことからも、光秀の信頼がいかに厚かったのかがわかるでしょう。秀満の在城は天正10年(1582)までとされ、そのあいだに茶人・津田宗及らをこの城でもてなしています。
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、天美濃国で生まれた。
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、天美濃国で生まれた。
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光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、明智秀満である。 秀満の謎多き前半生とは? 秀満はどのような人物だったのでしょうか?まずは彼の前半生について振り返ります。 出自には諸説ある 秀満の前半生については諸説ありますが、秀満は天文5年(1536年)明智光安の次男として美濃国で生まれた。もともとは三宅弥平次といい、光秀の娘との結婚後に明智姓を名乗ったといわれています。光秀とは従兄弟という関係性になっています。後世の書物では、光春の通称として「明智左馬助」と呼ばれることもあるようです。なお、秀満の妻についても諸説あり、通説では光秀の長女といわれています。 明智光秀とともに城を脱出 もともと明智氏だったという説をとる『明智軍記』によれば、秀満は明智嫡流の光秀の後見として、父・光安に従っていました。しかし、弘治2年(1556)斎藤道三とその子・斎藤義龍の争いである長良川の戦いが起こり、敗北した道三方に加担していたため、義龍方に居城を攻撃されてしまいます。秀満は光秀らとともに城を脱出し、浪人となりました。 明智光秀の右腕として活躍 その後、秀満は光秀の家臣団として活躍していきます。その働きは光秀の右腕といえるほどのものでした。 光秀の娘と結婚、領国経営に関わる 天正6年(1578)以降、秀満は光秀の娘を妻に迎え、明智姓を名乗るようになります。ただし、史料にその名が登場するのは天正10年(1582)4月以降のことです。光秀と姻戚関係を結んだ秀満は、坂本城の築城に関わるなど、光秀の領国経営に大きく携わるようになりました。 戦略拠点・福知山城の城代に このころ光秀は丹波平定の命令を信長から受けており、福智山城をその戦略拠点としました。この城は山城・丹後・但馬へと続く交通の要所で、光秀は丹波平定後、秀満をこの城の城代としました。重要な拠点を任されたことからも、光秀の信頼がいかに厚かったのかがわかるでしょう。秀満の在城は天正10年(1582)までとされ、そのあいだに茶人・津田宗及らをこの城でもてなしています。
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、明智嫡流の光秀の後見として、父・光安に従っていた。
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、明智嫡流の光秀の後見として、父・光安に従っていた。
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光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、明智秀満である。 秀満の謎多き前半生とは? 秀満はどのような人物だったのでしょうか?まずは彼の前半生について振り返ります。 出自には諸説ある 秀満の前半生については諸説ありますが、秀満は天文5年(1536年)明智光安の次男として美濃国で生まれた。もともとは三宅弥平次といい、光秀の娘との結婚後に明智姓を名乗ったといわれています。光秀とは従兄弟という関係性になっています。後世の書物では、光春の通称として「明智左馬助」と呼ばれることもあるようです。なお、秀満の妻についても諸説あり、通説では光秀の長女といわれています。 明智光秀とともに城を脱出 もともと明智氏だったという説をとる『明智軍記』によれば、秀満は明智嫡流の光秀の後見として、父・光安に従っていました。しかし、弘治2年(1556)斎藤道三とその子・斎藤義龍の争いである長良川の戦いが起こり、敗北した道三方に加担していたため、義龍方に居城を攻撃されてしまいます。秀満は光秀らとともに城を脱出し、浪人となりました。 明智光秀の右腕として活躍 その後、秀満は光秀の家臣団として活躍していきます。その働きは光秀の右腕といえるほどのものでした。 光秀の娘と結婚、領国経営に関わる 天正6年(1578)以降、秀満は光秀の娘を妻に迎え、明智姓を名乗るようになります。ただし、史料にその名が登場するのは天正10年(1582)4月以降のことです。光秀と姻戚関係を結んだ秀満は、坂本城の築城に関わるなど、光秀の領国経営に大きく携わるようになりました。 戦略拠点・福知山城の城代に このころ光秀は丹波平定の命令を信長から受けており、福智山城をその戦略拠点としました。この城は山城・丹後・但馬へと続く交通の要所で、光秀は丹波平定後、秀満をこの城の城代としました。重要な拠点を任されたことからも、光秀の信頼がいかに厚かったのかがわかるでしょう。秀満の在城は天正10年(1582)までとされ、そのあいだに茶人・津田宗及らをこの城でもてなしています。
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、坂本城の築城に関わるなど、光秀の領国経営に大きく携わるようになった。
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、坂本城の築城に関わるなど、光秀の領国経営に大きく携わるようになった。
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歴史
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、明智秀満である。 本能寺の変と秀満の最期 光秀の右腕として活躍した秀満ですが、やがて大きく運命が変わります。そのきっかけは本能寺の変でした。 先鋒となって信長を襲撃! 福智山城の築城から3年、光秀は謀反の計画を秀満ふくめ5人の重臣に伝えます。『信長公記』によれば、このとき4人は押し黙ったものの、秀満が了承したため追随したといいます。そして秀満は、「もはや躊躇(ちゅうちょ)することはない」と光秀の謀反を後押ししたのです。天正10年(1582)6月、いよいよ本能寺の変が勃発すると、秀満は先鋒となって突撃し見事に信長を倒しました。 安土城に入り光秀天下に備えたが… 信長の自害後、別動隊を与えられた秀満は、信長の本拠地である安土城の守備に就きます。これは光秀天下の世を作るための戦略でしたが、あろうことか光秀は、その数日後に羽柴秀吉との山崎の戦いで敗死してしまいました。不測の事態に陥った秀満は、すぐに安土城を捨てて坂本城へと向かいます。 堀秀政に坂本城を包囲され覚悟を決める 秀満はなんとか坂本城に辿り着きましたが、秀吉軍の先鋒武将・堀秀政の軍勢に城を包囲されました。しばらく防戦したもののついに策が尽き、最後は光秀の妻子や自分の妻を刺殺し、城に火を放って自害。それに先立ち、名刀や茶器などの名物がなくならぬよう、目録を添えて秀政方に引き渡したといいます。秀満は、自分が築城に関わった坂本城で最期を迎えたのでした。 残された逸話 史料が少なく明確なことがわかっていない秀満ですが、彼にまつわる逸話がいくつか残されています。ここでは2つのエピソードをご紹介します。 「明智左馬助の湖水渡り」伝説 本能寺の変後、安土城から坂本城にひきあげた秀満は、道中の大津(現在の大津市打出浜周辺)で秀政の兵に遭遇しました。味方の兵士らが次々と討たれ窮地に陥った秀満は、ピンチを切り抜けるためにある行動に出ます。それは、馬に乗ったまま琵琶湖を泳いで渡るという大胆な作戦でした。秀政は秀満が沈むときを待ち構えていましたが、秀満は対岸まで渡りきり、無事に坂本城に辿り着いたのです。 これは『川角太閤記』に登場する「明智左馬助の湖水渡り伝説」ですが、真偽は不明とされています。現在ではこの場所に「明智左馬之助湖水渡」の石碑や、「明智左馬之介駒止の松」といった松の木が残されています。 安土城を放火した犯人にされた? 山崎の戦い後、安土城は謎の火災で本丸周辺が焼失しました。『秀吉事記』や『太閤記』では安土城を去った際に秀満が放火したとされていますが、この火災が起こったころ秀満はすでに坂本城にいたため、犯人とはいえないようです。秀満のあとに安土城に入ったのは、信長の次男・織田信雄でした。ルイス・フロイスの書状には、安土城を焼いたのは信雄だと記述されていますが、これも伝聞によるものなので真偽はわかりません。信雄については失火説もあるものの、放火であれば動機が不明瞭といえるでしょう。 安土城の焼失後、秀吉はごく近くに城を建てました。もしかすると犯人はもっと別の人物かもしれません。 見事な散り際を見せた戦国武将 秀満は光秀の右腕として活躍し、最後まで重臣としての役目を全うしました。史料の少なさから詳細がわからない部分も多いですが、その毅然とした散り際だけ見ても、彼の武勇や手腕がうかがえるでしょう。本能寺の変後に安土城に入ったことからも、光秀が天下人となった暁には、重要な役割を担う予定だった武将といえそうです。 彼は坂本城で秀政方に名物を引き渡した際、光秀秘蔵の脇差だけは「あの世で光秀に渡すから」と自らの腰に差したといわれています。もし光秀の世となっていたら、秀満もさらに大きく飛躍していたかもしれません。
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、何と言って光秀の謀反を後押ししたか。
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、「もはや躊躇することはない」と光秀の謀反を後押しした。
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光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、明智秀満である。 本能寺の変と秀満の最期 光秀の右腕として活躍した秀満ですが、やがて大きく運命が変わります。そのきっかけは本能寺の変でした。 先鋒となって信長を襲撃! 福智山城の築城から3年、光秀は謀反の計画を秀満ふくめ5人の重臣に伝えます。『信長公記』によれば、このとき4人は押し黙ったものの、秀満が了承したため追随したといいます。そして秀満は、「もはや躊躇(ちゅうちょ)することはない」と光秀の謀反を後押ししたのです。天正10年(1582)6月、いよいよ本能寺の変が勃発すると、秀満は先鋒となって突撃し見事に信長を倒しました。 安土城に入り光秀天下に備えたが… 信長の自害後、別動隊を与えられた秀満は、信長の本拠地である安土城の守備に就きます。これは光秀天下の世を作るための戦略でしたが、あろうことか光秀は、その数日後に羽柴秀吉との山崎の戦いで敗死してしまいました。不測の事態に陥った秀満は、すぐに安土城を捨てて坂本城へと向かいます。 堀秀政に坂本城を包囲され覚悟を決める 秀満はなんとか坂本城に辿り着きましたが、秀吉軍の先鋒武将・堀秀政の軍勢に城を包囲されました。しばらく防戦したもののついに策が尽き、最後は光秀の妻子や自分の妻を刺殺し、城に火を放って自害。それに先立ち、名刀や茶器などの名物がなくならぬよう、目録を添えて秀政方に引き渡したといいます。秀満は、自分が築城に関わった坂本城で最期を迎えたのでした。 残された逸話 史料が少なく明確なことがわかっていない秀満ですが、彼にまつわる逸話がいくつか残されています。ここでは2つのエピソードをご紹介します。 「明智左馬助の湖水渡り」伝説 本能寺の変後、安土城から坂本城にひきあげた秀満は、道中の大津(現在の大津市打出浜周辺)で秀政の兵に遭遇しました。味方の兵士らが次々と討たれ窮地に陥った秀満は、ピンチを切り抜けるためにある行動に出ます。それは、馬に乗ったまま琵琶湖を泳いで渡るという大胆な作戦でした。秀政は秀満が沈むときを待ち構えていましたが、秀満は対岸まで渡りきり、無事に坂本城に辿り着いたのです。 これは『川角太閤記』に登場する「明智左馬助の湖水渡り伝説」ですが、真偽は不明とされています。現在ではこの場所に「明智左馬之助湖水渡」の石碑や、「明智左馬之介駒止の松」といった松の木が残されています。 安土城を放火した犯人にされた? 山崎の戦い後、安土城は謎の火災で本丸周辺が焼失しました。『秀吉事記』や『太閤記』では安土城を去った際に秀満が放火したとされていますが、この火災が起こったころ秀満はすでに坂本城にいたため、犯人とはいえないようです。秀満のあとに安土城に入ったのは、信長の次男・織田信雄でした。ルイス・フロイスの書状には、安土城を焼いたのは信雄だと記述されていますが、これも伝聞によるものなので真偽はわかりません。信雄については失火説もあるものの、放火であれば動機が不明瞭といえるでしょう。 安土城の焼失後、秀吉はごく近くに城を建てました。もしかすると犯人はもっと別の人物かもしれません。 見事な散り際を見せた戦国武将 秀満は光秀の右腕として活躍し、最後まで重臣としての役目を全うしました。史料の少なさから詳細がわからない部分も多いですが、その毅然とした散り際だけ見ても、彼の武勇や手腕がうかがえるでしょう。本能寺の変後に安土城に入ったことからも、光秀が天下人となった暁には、重要な役割を担う予定だった武将といえそうです。 彼は坂本城で秀政方に名物を引き渡した際、光秀秘蔵の脇差だけは「あの世で光秀に渡すから」と自らの腰に差したといわれています。もし光秀の世となっていたら、秀満もさらに大きく飛躍していたかもしれません。
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、どこの守備に就いたか。
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、信長の本拠地である安土城の守備に就いた。
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歴史
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、明智秀満である。 本能寺の変と秀満の最期 光秀の右腕として活躍した秀満ですが、やがて大きく運命が変わります。そのきっかけは本能寺の変でした。 先鋒となって信長を襲撃! 福智山城の築城から3年、光秀は謀反の計画を秀満ふくめ5人の重臣に伝えます。『信長公記』によれば、このとき4人は押し黙ったものの、秀満が了承したため追随したといいます。そして秀満は、「もはや躊躇(ちゅうちょ)することはない」と光秀の謀反を後押ししたのです。天正10年(1582)6月、いよいよ本能寺の変が勃発すると、秀満は先鋒となって突撃し見事に信長を倒しました。 安土城に入り光秀天下に備えたが… 信長の自害後、別動隊を与えられた秀満は、信長の本拠地である安土城の守備に就きます。これは光秀天下の世を作るための戦略でしたが、あろうことか光秀は、その数日後に羽柴秀吉との山崎の戦いで敗死してしまいました。不測の事態に陥った秀満は、すぐに安土城を捨てて坂本城へと向かいます。 堀秀政に坂本城を包囲され覚悟を決める 秀満はなんとか坂本城に辿り着きましたが、秀吉軍の先鋒武将・堀秀政の軍勢に城を包囲されました。しばらく防戦したもののついに策が尽き、最後は光秀の妻子や自分の妻を刺殺し、城に火を放って自害。それに先立ち、名刀や茶器などの名物がなくならぬよう、目録を添えて秀政方に引き渡したといいます。秀満は、自分が築城に関わった坂本城で最期を迎えたのでした。 残された逸話 史料が少なく明確なことがわかっていない秀満ですが、彼にまつわる逸話がいくつか残されています。ここでは2つのエピソードをご紹介します。 「明智左馬助の湖水渡り」伝説 本能寺の変後、安土城から坂本城にひきあげた秀満は、道中の大津(現在の大津市打出浜周辺)で秀政の兵に遭遇しました。味方の兵士らが次々と討たれ窮地に陥った秀満は、ピンチを切り抜けるためにある行動に出ます。それは、馬に乗ったまま琵琶湖を泳いで渡るという大胆な作戦でした。秀政は秀満が沈むときを待ち構えていましたが、秀満は対岸まで渡りきり、無事に坂本城に辿り着いたのです。 これは『川角太閤記』に登場する「明智左馬助の湖水渡り伝説」ですが、真偽は不明とされています。現在ではこの場所に「明智左馬之助湖水渡」の石碑や、「明智左馬之介駒止の松」といった松の木が残されています。 安土城を放火した犯人にされた? 山崎の戦い後、安土城は謎の火災で本丸周辺が焼失しました。『秀吉事記』や『太閤記』では安土城を去った際に秀満が放火したとされていますが、この火災が起こったころ秀満はすでに坂本城にいたため、犯人とはいえないようです。秀満のあとに安土城に入ったのは、信長の次男・織田信雄でした。ルイス・フロイスの書状には、安土城を焼いたのは信雄だと記述されていますが、これも伝聞によるものなので真偽はわかりません。信雄については失火説もあるものの、放火であれば動機が不明瞭といえるでしょう。 安土城の焼失後、秀吉はごく近くに城を建てました。もしかすると犯人はもっと別の人物かもしれません。 見事な散り際を見せた戦国武将 秀満は光秀の右腕として活躍し、最後まで重臣としての役目を全うしました。史料の少なさから詳細がわからない部分も多いですが、その毅然とした散り際だけ見ても、彼の武勇や手腕がうかがえるでしょう。本能寺の変後に安土城に入ったことからも、光秀が天下人となった暁には、重要な役割を担う予定だった武将といえそうです。 彼は坂本城で秀政方に名物を引き渡した際、光秀秘蔵の脇差だけは「あの世で光秀に渡すから」と自らの腰に差したといわれています。もし光秀の世となっていたら、秀満もさらに大きく飛躍していたかもしれません。
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、すぐに安土城を捨ててどこへと向かったか。
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、すぐに安土城を捨てて坂本城へと向かった。
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歴史
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、明智秀満である。 本能寺の変と秀満の最期 光秀の右腕として活躍した秀満ですが、やがて大きく運命が変わります。そのきっかけは本能寺の変でした。 先鋒となって信長を襲撃! 福智山城の築城から3年、光秀は謀反の計画を秀満ふくめ5人の重臣に伝えます。『信長公記』によれば、このとき4人は押し黙ったものの、秀満が了承したため追随したといいます。そして秀満は、「もはや躊躇(ちゅうちょ)することはない」と光秀の謀反を後押ししたのです。天正10年(1582)6月、いよいよ本能寺の変が勃発すると、秀満は先鋒となって突撃し見事に信長を倒しました。 安土城に入り光秀天下に備えたが… 信長の自害後、別動隊を与えられた秀満は、信長の本拠地である安土城の守備に就きます。これは光秀天下の世を作るための戦略でしたが、あろうことか光秀は、その数日後に羽柴秀吉との山崎の戦いで敗死してしまいました。不測の事態に陥った秀満は、すぐに安土城を捨てて坂本城へと向かいます。 堀秀政に坂本城を包囲され覚悟を決める 秀満はなんとか坂本城に辿り着きましたが、秀吉軍の先鋒武将・堀秀政の軍勢に城を包囲されました。しばらく防戦したもののついに策が尽き、最後は光秀の妻子や自分の妻を刺殺し、城に火を放って自害。それに先立ち、名刀や茶器などの名物がなくならぬよう、目録を添えて秀政方に引き渡したといいます。秀満は、自分が築城に関わった坂本城で最期を迎えたのでした。 残された逸話 史料が少なく明確なことがわかっていない秀満ですが、彼にまつわる逸話がいくつか残されています。ここでは2つのエピソードをご紹介します。 「明智左馬助の湖水渡り」伝説 本能寺の変後、安土城から坂本城にひきあげた秀満は、道中の大津(現在の大津市打出浜周辺)で秀政の兵に遭遇しました。味方の兵士らが次々と討たれ窮地に陥った秀満は、ピンチを切り抜けるためにある行動に出ます。それは、馬に乗ったまま琵琶湖を泳いで渡るという大胆な作戦でした。秀政は秀満が沈むときを待ち構えていましたが、秀満は対岸まで渡りきり、無事に坂本城に辿り着いたのです。 これは『川角太閤記』に登場する「明智左馬助の湖水渡り伝説」ですが、真偽は不明とされています。現在ではこの場所に「明智左馬之助湖水渡」の石碑や、「明智左馬之介駒止の松」といった松の木が残されています。 安土城を放火した犯人にされた? 山崎の戦い後、安土城は謎の火災で本丸周辺が焼失しました。『秀吉事記』や『太閤記』では安土城を去った際に秀満が放火したとされていますが、この火災が起こったころ秀満はすでに坂本城にいたため、犯人とはいえないようです。秀満のあとに安土城に入ったのは、信長の次男・織田信雄でした。ルイス・フロイスの書状には、安土城を焼いたのは信雄だと記述されていますが、これも伝聞によるものなので真偽はわかりません。信雄については失火説もあるものの、放火であれば動機が不明瞭といえるでしょう。 安土城の焼失後、秀吉はごく近くに城を建てました。もしかすると犯人はもっと別の人物かもしれません。 見事な散り際を見せた戦国武将 秀満は光秀の右腕として活躍し、最後まで重臣としての役目を全うしました。史料の少なさから詳細がわからない部分も多いですが、その毅然とした散り際だけ見ても、彼の武勇や手腕がうかがえるでしょう。本能寺の変後に安土城に入ったことからも、光秀が天下人となった暁には、重要な役割を担う予定だった武将といえそうです。 彼は坂本城で秀政方に名物を引き渡した際、光秀秘蔵の脇差だけは「あの世で光秀に渡すから」と自らの腰に差したといわれています。もし光秀の世となっていたら、秀満もさらに大きく飛躍していたかもしれません。
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、どこで最期を迎えたか。
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、自分が築城に関わった坂本城で最期を迎えた。
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歴史
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、明智秀満である。 本能寺の変と秀満の最期 光秀の右腕として活躍した秀満ですが、やがて大きく運命が変わります。そのきっかけは本能寺の変でした。 先鋒となって信長を襲撃! 福智山城の築城から3年、光秀は謀反の計画を秀満ふくめ5人の重臣に伝えます。『信長公記』によれば、このとき4人は押し黙ったものの、秀満が了承したため追随したといいます。そして秀満は、「もはや躊躇(ちゅうちょ)することはない」と光秀の謀反を後押ししたのです。天正10年(1582)6月、いよいよ本能寺の変が勃発すると、秀満は先鋒となって突撃し見事に信長を倒しました。 安土城に入り光秀天下に備えたが… 信長の自害後、別動隊を与えられた秀満は、信長の本拠地である安土城の守備に就きます。これは光秀天下の世を作るための戦略でしたが、あろうことか光秀は、その数日後に羽柴秀吉との山崎の戦いで敗死してしまいました。不測の事態に陥った秀満は、すぐに安土城を捨てて坂本城へと向かいます。 堀秀政に坂本城を包囲され覚悟を決める 秀満はなんとか坂本城に辿り着きましたが、秀吉軍の先鋒武将・堀秀政の軍勢に城を包囲されました。しばらく防戦したもののついに策が尽き、最後は光秀の妻子や自分の妻を刺殺し、城に火を放って自害。それに先立ち、名刀や茶器などの名物がなくならぬよう、目録を添えて秀政方に引き渡したといいます。秀満は、自分が築城に関わった坂本城で最期を迎えたのでした。 残された逸話 史料が少なく明確なことがわかっていない秀満ですが、彼にまつわる逸話がいくつか残されています。ここでは2つのエピソードをご紹介します。 「明智左馬助の湖水渡り」伝説 本能寺の変後、安土城から坂本城にひきあげた秀満は、道中の大津(現在の大津市打出浜周辺)で秀政の兵に遭遇しました。味方の兵士らが次々と討たれ窮地に陥った秀満は、ピンチを切り抜けるためにある行動に出ます。それは、馬に乗ったまま琵琶湖を泳いで渡るという大胆な作戦でした。秀政は秀満が沈むときを待ち構えていましたが、秀満は対岸まで渡りきり、無事に坂本城に辿り着いたのです。 これは『川角太閤記』に登場する「明智左馬助の湖水渡り伝説」ですが、真偽は不明とされています。現在ではこの場所に「明智左馬之助湖水渡」の石碑や、「明智左馬之介駒止の松」といった松の木が残されています。 安土城を放火した犯人にされた? 山崎の戦い後、安土城は謎の火災で本丸周辺が焼失しました。『秀吉事記』や『太閤記』では安土城を去った際に秀満が放火したとされていますが、この火災が起こったころ秀満はすでに坂本城にいたため、犯人とはいえないようです。秀満のあとに安土城に入ったのは、信長の次男・織田信雄でした。ルイス・フロイスの書状には、安土城を焼いたのは信雄だと記述されていますが、これも伝聞によるものなので真偽はわかりません。信雄については失火説もあるものの、放火であれば動機が不明瞭といえるでしょう。 安土城の焼失後、秀吉はごく近くに城を建てました。もしかすると犯人はもっと別の人物かもしれません。 見事な散り際を見せた戦国武将 秀満は光秀の右腕として活躍し、最後まで重臣としての役目を全うしました。史料の少なさから詳細がわからない部分も多いですが、その毅然とした散り際だけ見ても、彼の武勇や手腕がうかがえるでしょう。本能寺の変後に安土城に入ったことからも、光秀が天下人となった暁には、重要な役割を担う予定だった武将といえそうです。 彼は坂本城で秀政方に名物を引き渡した際、光秀秘蔵の脇差だけは「あの世で光秀に渡すから」と自らの腰に差したといわれています。もし光秀の世となっていたら、秀満もさらに大きく飛躍していたかもしれません。
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、ピンチを切り抜けるためにどんな作戦に出たか。
光秀の重臣で右腕ともいわれる人物は、ピンチを切り抜けるために馬に乗ったまま琵琶湖を泳いで渡るという大胆な作戦に出た。
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歴史
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、武田信玄である。 うまれから家督継承まで 信玄はどのような環境でうまれたのでしょうか?その誕生から武田氏当主になるまでの経緯を振り返ります。 甲斐国守護の嫡男となるが… 信玄は、大永元年(1521)武田信虎の嫡長子として甲斐国で誕生しました。この数年前、父・信虎は甲斐を統一し、甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を本拠として武田城下町を整備。家臣団も整備し、戦国大名としての地位を確立します。大永3年(1523)兄の竹松が若くして世を去り信玄が嫡男となりますが、2年後に父と大井夫人の間に弟・武田信繁が誕生。父は弟を寵愛するようになり、信玄のことを疎むようになりました。 父親を追放し武田家第19代目当主へ 天文5年(1536)信玄は元服して名を「晴信」と改めます。『甲陽軍鑑』によれば、天文5年(1536)佐久郡海ノ口城主・平賀源心攻めで初陣を飾り、一夜にして落城させたといいます。この伝承は疑問視されていますが、初陣の時期はこの頃のようです。信玄は信虎の信濃侵攻にも従軍しますが、甲府へ帰陣したのち、重臣らとともに信虎を駿河に追放。その後、武田家第19代目の家督を相続しました。 勢力拡大していく武田氏 父が統一した甲斐を手に入れた信玄は、さらに勢力を拡大していきます。それは信濃侵攻から始まりました。 信濃侵攻を本格化させる 信玄は父の路線から変更して、今まで同盟を結んでいた信濃諏訪領に侵攻します。天文19年(1550)には小笠原領にも侵攻し、中信地方は武田氏の支配下となりました。信玄はそのままの勢いで村上義清の支城・砥石城を攻撃しますが、この戦いでは「砥石崩れ」といわれる大敗を喫します。しかし翌年、家臣・真田幸隆(幸綱)の調略で砥石城が落城し、義清が逃亡。こうして信玄は東信地方も手に入れ、北信地方以外の信濃をほぼ平定したのです。
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、いつ誕生したか。
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、大永元年(1521)に誕生した。
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歴史
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、武田信玄である。 うまれから家督継承まで 信玄はどのような環境でうまれたのでしょうか?その誕生から武田氏当主になるまでの経緯を振り返ります。 甲斐国守護の嫡男となるが… 信玄は、大永元年(1521)武田信虎の嫡長子として甲斐国で誕生しました。この数年前、父・信虎は甲斐を統一し、甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を本拠として武田城下町を整備。家臣団も整備し、戦国大名としての地位を確立します。大永3年(1523)兄の竹松が若くして世を去り信玄が嫡男となりますが、2年後に父と大井夫人の間に弟・武田信繁が誕生。父は弟を寵愛するようになり、信玄のことを疎むようになりました。 父親を追放し武田家第19代目当主へ 天文5年(1536)信玄は元服して名を「晴信」と改めます。『甲陽軍鑑』によれば、天文5年(1536)佐久郡海ノ口城主・平賀源心攻めで初陣を飾り、一夜にして落城させたといいます。この伝承は疑問視されていますが、初陣の時期はこの頃のようです。信玄は信虎の信濃侵攻にも従軍しますが、甲府へ帰陣したのち、重臣らとともに信虎を駿河に追放。その後、武田家第19代目の家督を相続しました。 勢力拡大していく武田氏 父が統一した甲斐を手に入れた信玄は、さらに勢力を拡大していきます。それは信濃侵攻から始まりました。 信濃侵攻を本格化させる 信玄は父の路線から変更して、今まで同盟を結んでいた信濃諏訪領に侵攻します。天文19年(1550)には小笠原領にも侵攻し、中信地方は武田氏の支配下となりました。信玄はそのままの勢いで村上義清の支城・砥石城を攻撃しますが、この戦いでは「砥石崩れ」といわれる大敗を喫します。しかし翌年、家臣・真田幸隆(幸綱)の調略で砥石城が落城し、義清が逃亡。こうして信玄は東信地方も手に入れ、北信地方以外の信濃をほぼ平定したのです。
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、誰の嫡長子として誕生したか。
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、武田信虎の嫡長子として誕生した。
JCRRAG_018774
歴史
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、武田信玄である。 うまれから家督継承まで 信玄はどのような環境でうまれたのでしょうか?その誕生から武田氏当主になるまでの経緯を振り返ります。 甲斐国守護の嫡男となるが… 信玄は、大永元年(1521)武田信虎の嫡長子として甲斐国で誕生しました。この数年前、父・信虎は甲斐を統一し、甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を本拠として武田城下町を整備。家臣団も整備し、戦国大名としての地位を確立します。大永3年(1523)兄の竹松が若くして世を去り信玄が嫡男となりますが、2年後に父と大井夫人の間に弟・武田信繁が誕生。父は弟を寵愛するようになり、信玄のことを疎むようになりました。 父親を追放し武田家第19代目当主へ 天文5年(1536)信玄は元服して名を「晴信」と改めます。『甲陽軍鑑』によれば、天文5年(1536)佐久郡海ノ口城主・平賀源心攻めで初陣を飾り、一夜にして落城させたといいます。この伝承は疑問視されていますが、初陣の時期はこの頃のようです。信玄は信虎の信濃侵攻にも従軍しますが、甲府へ帰陣したのち、重臣らとともに信虎を駿河に追放。その後、武田家第19代目の家督を相続しました。 勢力拡大していく武田氏 父が統一した甲斐を手に入れた信玄は、さらに勢力を拡大していきます。それは信濃侵攻から始まりました。 信濃侵攻を本格化させる 信玄は父の路線から変更して、今まで同盟を結んでいた信濃諏訪領に侵攻します。天文19年(1550)には小笠原領にも侵攻し、中信地方は武田氏の支配下となりました。信玄はそのままの勢いで村上義清の支城・砥石城を攻撃しますが、この戦いでは「砥石崩れ」といわれる大敗を喫します。しかし翌年、家臣・真田幸隆(幸綱)の調略で砥石城が落城し、義清が逃亡。こうして信玄は東信地方も手に入れ、北信地方以外の信濃をほぼ平定したのです。
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、どこで誕生したか。
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、甲斐国で誕生した。
JCRRAG_018775
歴史
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、武田信玄である。 うまれから家督継承まで 信玄はどのような環境でうまれたのでしょうか?その誕生から武田氏当主になるまでの経緯を振り返ります。 甲斐国守護の嫡男となるが… 信玄は、大永元年(1521)武田信虎の嫡長子として甲斐国で誕生しました。この数年前、父・信虎は甲斐を統一し、甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を本拠として武田城下町を整備。家臣団も整備し、戦国大名としての地位を確立します。大永3年(1523)兄の竹松が若くして世を去り信玄が嫡男となりますが、2年後に父と大井夫人の間に弟・武田信繁が誕生。父は弟を寵愛するようになり、信玄のことを疎むようになりました。 父親を追放し武田家第19代目当主へ 天文5年(1536)信玄は元服して名を「晴信」と改めます。『甲陽軍鑑』によれば、天文5年(1536)佐久郡海ノ口城主・平賀源心攻めで初陣を飾り、一夜にして落城させたといいます。この伝承は疑問視されていますが、初陣の時期はこの頃のようです。信玄は信虎の信濃侵攻にも従軍しますが、甲府へ帰陣したのち、重臣らとともに信虎を駿河に追放。その後、武田家第19代目の家督を相続しました。 勢力拡大していく武田氏 父が統一した甲斐を手に入れた信玄は、さらに勢力を拡大していきます。それは信濃侵攻から始まりました。 信濃侵攻を本格化させる 信玄は父の路線から変更して、今まで同盟を結んでいた信濃諏訪領に侵攻します。天文19年(1550)には小笠原領にも侵攻し、中信地方は武田氏の支配下となりました。信玄はそのままの勢いで村上義清の支城・砥石城を攻撃しますが、この戦いでは「砥石崩れ」といわれる大敗を喫します。しかし翌年、家臣・真田幸隆(幸綱)の調略で砥石城が落城し、義清が逃亡。こうして信玄は東信地方も手に入れ、北信地方以外の信濃をほぼ平定したのです。
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、元服して名を何と改めたか。
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、元服して名を「晴信」と改めた。
JCRRAG_018776
歴史
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、武田信玄である。 うまれから家督継承まで 信玄はどのような環境でうまれたのでしょうか?その誕生から武田氏当主になるまでの経緯を振り返ります。 甲斐国守護の嫡男となるが… 信玄は、大永元年(1521)武田信虎の嫡長子として甲斐国で誕生しました。この数年前、父・信虎は甲斐を統一し、甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を本拠として武田城下町を整備。家臣団も整備し、戦国大名としての地位を確立します。大永3年(1523)兄の竹松が若くして世を去り信玄が嫡男となりますが、2年後に父と大井夫人の間に弟・武田信繁が誕生。父は弟を寵愛するようになり、信玄のことを疎むようになりました。 父親を追放し武田家第19代目当主へ 天文5年(1536)信玄は元服して名を「晴信」と改めます。『甲陽軍鑑』によれば、天文5年(1536)佐久郡海ノ口城主・平賀源心攻めで初陣を飾り、一夜にして落城させたといいます。この伝承は疑問視されていますが、初陣の時期はこの頃のようです。信玄は信虎の信濃侵攻にも従軍しますが、甲府へ帰陣したのち、重臣らとともに信虎を駿河に追放。その後、武田家第19代目の家督を相続しました。 勢力拡大していく武田氏 父が統一した甲斐を手に入れた信玄は、さらに勢力を拡大していきます。それは信濃侵攻から始まりました。 信濃侵攻を本格化させる 信玄は父の路線から変更して、今まで同盟を結んでいた信濃諏訪領に侵攻します。天文19年(1550)には小笠原領にも侵攻し、中信地方は武田氏の支配下となりました。信玄はそのままの勢いで村上義清の支城・砥石城を攻撃しますが、この戦いでは「砥石崩れ」といわれる大敗を喫します。しかし翌年、家臣・真田幸隆(幸綱)の調略で砥石城が落城し、義清が逃亡。こうして信玄は東信地方も手に入れ、北信地方以外の信濃をほぼ平定したのです。
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、どこを平定したか。
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、東信地方も手に入れ、北信地方以外の信濃をほぼ平定した。
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歴史
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、武田信玄である。 川中島の戦いで上杉謙信と5度対決! 天文22年(1553)越後の上杉謙信が、義清や北信豪族から助けを求められ信濃に出兵します。これ以降、信玄は信濃の支配権をめぐって5度にわたり謙信と戦うことになります。とくに永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いは大規模なものとなり、武田軍も信玄の実弟・信繁や重臣・諸角虎定、山本勘助らを失うなど大きな痛手を負いました。この戦いの後も上杉軍と対峙しましたが、衝突することなく終了。信玄の信濃侵攻は一段落を迎えます。 今川氏・北条氏との合戦 永禄3年(1560)桶狭間の戦いで駿河の今川義元が尾張国の織田信長に敗北しました。今川領国内では三河の徳川家康が独立し、信玄は家康とともに駿河に侵攻します。その際、相模の北条氏康にも協調を持ちかけますが、氏康は今川方を救援し、上杉氏と同盟を結んで信玄に圧力をかけました。そこで信玄は、将軍・足利義昭を通じて上杉氏と和睦し、反北条勢力と結んで北条氏を攻撃します。こうして信玄は、近隣諸国との対戦と同盟回復を繰り返しました。 中断された西上作戦と信玄の遺言 今川氏や北条氏と戦い続けてきた信玄は、上洛を見据えた西上作戦に乗り出します。しかし、この作戦の途中で、この世を去ることになるのです。 徳川家康を討つべく遠江・三河侵攻を行うが… 元亀2年(1571)信玄は影響力を増した信長の存在を危惧し、その盟友・家康を討つべく大規模な遠江・三河侵攻を行いました。約3か月で5つの城を落としたものの、その途中で信玄が吐血したため甲斐に帰還します。 同年、氏康が死去し、嫡男・北条氏政により同盟が回復。徳川氏とは三河・遠江をめぐって対立していましたが、織田氏とは縁戚関係を結び友好を保っていました。この時点で武田氏は約120万石を領していたといいます。 将軍・足利義昭の信長包囲網に応じる 元亀3年(1572)信玄は将軍・義昭の信長討伐令に応じ遠江に侵攻しました。信玄本隊と別動隊はそれぞれ徳川方の諸城を落とし合流。遠江の要衝である二俣城も陥落させます。家康は遠江一言坂で武田軍と戦うも敗走し、武田軍の次の狙いを居城・浜松城だとみて籠城戦を覚悟しました。ところが、武田軍はわざと浜松城を通り過ぎる作戦を決行し、この挑発に乗った家康は家臣の助言を聞かずに出陣。両軍は三方ヶ原で激突し、信玄はこの戦いに圧勝します。 秘匿された信玄の死 快進撃を続ける武田軍でしたが、信玄の病状が悪化し侵攻がとまります。信玄は長篠城で療養後、甲斐に帰国する途中で死去しました。『甲陽軍鑑』によると、信玄は遺言で「自身の死を3年間隠すように」と言い残したといいます。家督を相続した勝頼はこれを守り、信玄の葬儀を行わず死を秘匿しました。しかし武田軍の動きに異変を感じ取ったのか、謙信は2週間程度でその死を知り、信長や家康も1か月ほどで察知したようです。 信玄の強さの秘密がわかる3つのエピソード 戦国最強と呼ばれた武田軍ですが、なぜそこまでの強さを誇っていたのでしょうか?その強さの秘密がわかる逸話を3つご紹介します。 水洗トイレで作戦を練っていた!? 信玄は躑躅ヶ崎館に六畳もの広さの自分専用の水洗トイレを設置していました。このトイレは、信玄がひもを引いて鈴を鳴らすと上流に控えている家臣が水を流すという仕組みでした。この空間には机や硯(すずり)も設置されており、信玄は用を足しながら書状を書いたり作戦を考えたりしていたといわれています。時と場所を選ばずに常に作戦を練っていたことがうかがえる、彼らしいエピソードです。 隠密組織「三ツ者」で情報収集 情報収集を重要視した信玄は、隠密組織を用いて諜報活動を行っていました。身寄りの無い少女を集めて、表向きは「歩き巫女」として全国で諜報活動を行わせていたといいます。このような活動により信玄は甲斐にいながら全国の情報を知っていたといわれ、「足長坊主」と称されたそうです。 『甲陽軍鑑』は甲州流軍学の聖典に 武田氏の戦略・戦術・軍法・刑法などを記した軍学書『甲陽軍鑑』は、武田氏滅亡後も参考とされました。のちに甲州を治めるようになった家康は武田遺臣を用い、家臣・井伊直政が武田の武将・山県昌景の遺志?を継いで赤備えを継承。井伊氏は幕末に至るまで赤備えを基本とした軍装を貫いたそうです。 多大な影響力をもつ戦国武将 甲斐一国から約120万石まで勢力を増した信玄は、西上作戦の半ばで病に倒れました。天下統一こそしなかったものの、その存在はその後創作などで取り上げられ、現代に至るまで長く親しまれています。 信玄には人生訓などの名言も多く、現代人でも共感できるものが多数残されています。この機会に信玄の人生を振り返ってみてはいかがでしょうか?
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、家康とともに駿河に侵攻したか。
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、家康とともに駿河に侵攻した。
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歴史
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、武田信玄である。 川中島の戦いで上杉謙信と5度対決! 天文22年(1553)越後の上杉謙信が、義清や北信豪族から助けを求められ信濃に出兵します。これ以降、信玄は信濃の支配権をめぐって5度にわたり謙信と戦うことになります。とくに永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いは大規模なものとなり、武田軍も信玄の実弟・信繁や重臣・諸角虎定、山本勘助らを失うなど大きな痛手を負いました。この戦いの後も上杉軍と対峙しましたが、衝突することなく終了。信玄の信濃侵攻は一段落を迎えます。 今川氏・北条氏との合戦 永禄3年(1560)桶狭間の戦いで駿河の今川義元が尾張国の織田信長に敗北しました。今川領国内では三河の徳川家康が独立し、信玄は家康とともに駿河に侵攻します。その際、相模の北条氏康にも協調を持ちかけますが、氏康は今川方を救援し、上杉氏と同盟を結んで信玄に圧力をかけました。そこで信玄は、将軍・足利義昭を通じて上杉氏と和睦し、反北条勢力と結んで北条氏を攻撃します。こうして信玄は、近隣諸国との対戦と同盟回復を繰り返しました。 中断された西上作戦と信玄の遺言 今川氏や北条氏と戦い続けてきた信玄は、上洛を見据えた西上作戦に乗り出します。しかし、この作戦の途中で、この世を去ることになるのです。 徳川家康を討つべく遠江・三河侵攻を行うが… 元亀2年(1571)信玄は影響力を増した信長の存在を危惧し、その盟友・家康を討つべく大規模な遠江・三河侵攻を行いました。約3か月で5つの城を落としたものの、その途中で信玄が吐血したため甲斐に帰還します。 同年、氏康が死去し、嫡男・北条氏政により同盟が回復。徳川氏とは三河・遠江をめぐって対立していましたが、織田氏とは縁戚関係を結び友好を保っていました。この時点で武田氏は約120万石を領していたといいます。 将軍・足利義昭の信長包囲網に応じる 元亀3年(1572)信玄は将軍・義昭の信長討伐令に応じ遠江に侵攻しました。信玄本隊と別動隊はそれぞれ徳川方の諸城を落とし合流。遠江の要衝である二俣城も陥落させます。家康は遠江一言坂で武田軍と戦うも敗走し、武田軍の次の狙いを居城・浜松城だとみて籠城戦を覚悟しました。ところが、武田軍はわざと浜松城を通り過ぎる作戦を決行し、この挑発に乗った家康は家臣の助言を聞かずに出陣。両軍は三方ヶ原で激突し、信玄はこの戦いに圧勝します。 秘匿された信玄の死 快進撃を続ける武田軍でしたが、信玄の病状が悪化し侵攻がとまります。信玄は長篠城で療養後、甲斐に帰国する途中で死去しました。『甲陽軍鑑』によると、信玄は遺言で「自身の死を3年間隠すように」と言い残したといいます。家督を相続した勝頼はこれを守り、信玄の葬儀を行わず死を秘匿しました。しかし武田軍の動きに異変を感じ取ったのか、謙信は2週間程度でその死を知り、信長や家康も1か月ほどで察知したようです。 信玄の強さの秘密がわかる3つのエピソード 戦国最強と呼ばれた武田軍ですが、なぜそこまでの強さを誇っていたのでしょうか?その強さの秘密がわかる逸話を3つご紹介します。 水洗トイレで作戦を練っていた!? 信玄は躑躅ヶ崎館に六畳もの広さの自分専用の水洗トイレを設置していました。このトイレは、信玄がひもを引いて鈴を鳴らすと上流に控えている家臣が水を流すという仕組みでした。この空間には机や硯(すずり)も設置されており、信玄は用を足しながら書状を書いたり作戦を考えたりしていたといわれています。時と場所を選ばずに常に作戦を練っていたことがうかがえる、彼らしいエピソードです。 隠密組織「三ツ者」で情報収集 情報収集を重要視した信玄は、隠密組織を用いて諜報活動を行っていました。身寄りの無い少女を集めて、表向きは「歩き巫女」として全国で諜報活動を行わせていたといいます。このような活動により信玄は甲斐にいながら全国の情報を知っていたといわれ、「足長坊主」と称されたそうです。 『甲陽軍鑑』は甲州流軍学の聖典に 武田氏の戦略・戦術・軍法・刑法などを記した軍学書『甲陽軍鑑』は、武田氏滅亡後も参考とされました。のちに甲州を治めるようになった家康は武田遺臣を用い、家臣・井伊直政が武田の武将・山県昌景の遺志?を継いで赤備えを継承。井伊氏は幕末に至るまで赤備えを基本とした軍装を貫いたそうです。 多大な影響力をもつ戦国武将 甲斐一国から約120万石まで勢力を増した信玄は、西上作戦の半ばで病に倒れました。天下統一こそしなかったものの、その存在はその後創作などで取り上げられ、現代に至るまで長く親しまれています。 信玄には人生訓などの名言も多く、現代人でも共感できるものが多数残されています。この機会に信玄の人生を振り返ってみてはいかがでしょうか?
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、将軍・足利義昭を通じて誰と和睦したか。
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、将軍・足利義昭を通じて上杉氏と和睦した。
JCRRAG_018779
歴史
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、武田信玄である。 川中島の戦いで上杉謙信と5度対決! 天文22年(1553)越後の上杉謙信が、義清や北信豪族から助けを求められ信濃に出兵します。これ以降、信玄は信濃の支配権をめぐって5度にわたり謙信と戦うことになります。とくに永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いは大規模なものとなり、武田軍も信玄の実弟・信繁や重臣・諸角虎定、山本勘助らを失うなど大きな痛手を負いました。この戦いの後も上杉軍と対峙しましたが、衝突することなく終了。信玄の信濃侵攻は一段落を迎えます。 今川氏・北条氏との合戦 永禄3年(1560)桶狭間の戦いで駿河の今川義元が尾張国の織田信長に敗北しました。今川領国内では三河の徳川家康が独立し、信玄は家康とともに駿河に侵攻します。その際、相模の北条氏康にも協調を持ちかけますが、氏康は今川方を救援し、上杉氏と同盟を結んで信玄に圧力をかけました。そこで信玄は、将軍・足利義昭を通じて上杉氏と和睦し、反北条勢力と結んで北条氏を攻撃します。こうして信玄は、近隣諸国との対戦と同盟回復を繰り返しました。 中断された西上作戦と信玄の遺言 今川氏や北条氏と戦い続けてきた信玄は、上洛を見据えた西上作戦に乗り出します。しかし、この作戦の途中で、この世を去ることになるのです。 徳川家康を討つべく遠江・三河侵攻を行うが… 元亀2年(1571)信玄は影響力を増した信長の存在を危惧し、その盟友・家康を討つべく大規模な遠江・三河侵攻を行いました。約3か月で5つの城を落としたものの、その途中で信玄が吐血したため甲斐に帰還します。 同年、氏康が死去し、嫡男・北条氏政により同盟が回復。徳川氏とは三河・遠江をめぐって対立していましたが、織田氏とは縁戚関係を結び友好を保っていました。この時点で武田氏は約120万石を領していたといいます。 将軍・足利義昭の信長包囲網に応じる 元亀3年(1572)信玄は将軍・義昭の信長討伐令に応じ遠江に侵攻しました。信玄本隊と別動隊はそれぞれ徳川方の諸城を落とし合流。遠江の要衝である二俣城も陥落させます。家康は遠江一言坂で武田軍と戦うも敗走し、武田軍の次の狙いを居城・浜松城だとみて籠城戦を覚悟しました。ところが、武田軍はわざと浜松城を通り過ぎる作戦を決行し、この挑発に乗った家康は家臣の助言を聞かずに出陣。両軍は三方ヶ原で激突し、信玄はこの戦いに圧勝します。 秘匿された信玄の死 快進撃を続ける武田軍でしたが、信玄の病状が悪化し侵攻がとまります。信玄は長篠城で療養後、甲斐に帰国する途中で死去しました。『甲陽軍鑑』によると、信玄は遺言で「自身の死を3年間隠すように」と言い残したといいます。家督を相続した勝頼はこれを守り、信玄の葬儀を行わず死を秘匿しました。しかし武田軍の動きに異変を感じ取ったのか、謙信は2週間程度でその死を知り、信長や家康も1か月ほどで察知したようです。 信玄の強さの秘密がわかる3つのエピソード 戦国最強と呼ばれた武田軍ですが、なぜそこまでの強さを誇っていたのでしょうか?その強さの秘密がわかる逸話を3つご紹介します。 水洗トイレで作戦を練っていた!? 信玄は躑躅ヶ崎館に六畳もの広さの自分専用の水洗トイレを設置していました。このトイレは、信玄がひもを引いて鈴を鳴らすと上流に控えている家臣が水を流すという仕組みでした。この空間には机や硯(すずり)も設置されており、信玄は用を足しながら書状を書いたり作戦を考えたりしていたといわれています。時と場所を選ばずに常に作戦を練っていたことがうかがえる、彼らしいエピソードです。 隠密組織「三ツ者」で情報収集 情報収集を重要視した信玄は、隠密組織を用いて諜報活動を行っていました。身寄りの無い少女を集めて、表向きは「歩き巫女」として全国で諜報活動を行わせていたといいます。このような活動により信玄は甲斐にいながら全国の情報を知っていたといわれ、「足長坊主」と称されたそうです。 『甲陽軍鑑』は甲州流軍学の聖典に 武田氏の戦略・戦術・軍法・刑法などを記した軍学書『甲陽軍鑑』は、武田氏滅亡後も参考とされました。のちに甲州を治めるようになった家康は武田遺臣を用い、家臣・井伊直政が武田の武将・山県昌景の遺志?を継いで赤備えを継承。井伊氏は幕末に至るまで赤備えを基本とした軍装を貫いたそうです。 多大な影響力をもつ戦国武将 甲斐一国から約120万石まで勢力を増した信玄は、西上作戦の半ばで病に倒れました。天下統一こそしなかったものの、その存在はその後創作などで取り上げられ、現代に至るまで長く親しまれています。 信玄には人生訓などの名言も多く、現代人でも共感できるものが多数残されています。この機会に信玄の人生を振り返ってみてはいかがでしょうか?
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、反北条勢力と結んで誰を攻撃したか。
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、反北条勢力と結んで北条氏を攻撃した。
JCRRAG_018780
歴史
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、武田信玄である。 川中島の戦いで上杉謙信と5度対決! 天文22年(1553)越後の上杉謙信が、義清や北信豪族から助けを求められ信濃に出兵します。これ以降、信玄は信濃の支配権をめぐって5度にわたり謙信と戦うことになります。とくに永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いは大規模なものとなり、武田軍も信玄の実弟・信繁や重臣・諸角虎定、山本勘助らを失うなど大きな痛手を負いました。この戦いの後も上杉軍と対峙しましたが、衝突することなく終了。信玄の信濃侵攻は一段落を迎えます。 今川氏・北条氏との合戦 永禄3年(1560)桶狭間の戦いで駿河の今川義元が尾張国の織田信長に敗北しました。今川領国内では三河の徳川家康が独立し、信玄は家康とともに駿河に侵攻します。その際、相模の北条氏康にも協調を持ちかけますが、氏康は今川方を救援し、上杉氏と同盟を結んで信玄に圧力をかけました。そこで信玄は、将軍・足利義昭を通じて上杉氏と和睦し、反北条勢力と結んで北条氏を攻撃します。こうして信玄は、近隣諸国との対戦と同盟回復を繰り返しました。 中断された西上作戦と信玄の遺言 今川氏や北条氏と戦い続けてきた信玄は、上洛を見据えた西上作戦に乗り出します。しかし、この作戦の途中で、この世を去ることになるのです。 徳川家康を討つべく遠江・三河侵攻を行うが… 元亀2年(1571)信玄は影響力を増した信長の存在を危惧し、その盟友・家康を討つべく大規模な遠江・三河侵攻を行いました。約3か月で5つの城を落としたものの、その途中で信玄が吐血したため甲斐に帰還します。 同年、氏康が死去し、嫡男・北条氏政により同盟が回復。徳川氏とは三河・遠江をめぐって対立していましたが、織田氏とは縁戚関係を結び友好を保っていました。この時点で武田氏は約120万石を領していたといいます。 将軍・足利義昭の信長包囲網に応じる 元亀3年(1572)信玄は将軍・義昭の信長討伐令に応じ遠江に侵攻しました。信玄本隊と別動隊はそれぞれ徳川方の諸城を落とし合流。遠江の要衝である二俣城も陥落させます。家康は遠江一言坂で武田軍と戦うも敗走し、武田軍の次の狙いを居城・浜松城だとみて籠城戦を覚悟しました。ところが、武田軍はわざと浜松城を通り過ぎる作戦を決行し、この挑発に乗った家康は家臣の助言を聞かずに出陣。両軍は三方ヶ原で激突し、信玄はこの戦いに圧勝します。 秘匿された信玄の死 快進撃を続ける武田軍でしたが、信玄の病状が悪化し侵攻がとまります。信玄は長篠城で療養後、甲斐に帰国する途中で死去しました。『甲陽軍鑑』によると、信玄は遺言で「自身の死を3年間隠すように」と言い残したといいます。家督を相続した勝頼はこれを守り、信玄の葬儀を行わず死を秘匿しました。しかし武田軍の動きに異変を感じ取ったのか、謙信は2週間程度でその死を知り、信長や家康も1か月ほどで察知したようです。 信玄の強さの秘密がわかる3つのエピソード 戦国最強と呼ばれた武田軍ですが、なぜそこまでの強さを誇っていたのでしょうか?その強さの秘密がわかる逸話を3つご紹介します。 水洗トイレで作戦を練っていた!? 信玄は躑躅ヶ崎館に六畳もの広さの自分専用の水洗トイレを設置していました。このトイレは、信玄がひもを引いて鈴を鳴らすと上流に控えている家臣が水を流すという仕組みでした。この空間には机や硯(すずり)も設置されており、信玄は用を足しながら書状を書いたり作戦を考えたりしていたといわれています。時と場所を選ばずに常に作戦を練っていたことがうかがえる、彼らしいエピソードです。 隠密組織「三ツ者」で情報収集 情報収集を重要視した信玄は、隠密組織を用いて諜報活動を行っていました。身寄りの無い少女を集めて、表向きは「歩き巫女」として全国で諜報活動を行わせていたといいます。このような活動により信玄は甲斐にいながら全国の情報を知っていたといわれ、「足長坊主」と称されたそうです。 『甲陽軍鑑』は甲州流軍学の聖典に 武田氏の戦略・戦術・軍法・刑法などを記した軍学書『甲陽軍鑑』は、武田氏滅亡後も参考とされました。のちに甲州を治めるようになった家康は武田遺臣を用い、家臣・井伊直政が武田の武将・山県昌景の遺志?を継いで赤備えを継承。井伊氏は幕末に至るまで赤備えを基本とした軍装を貫いたそうです。 多大な影響力をもつ戦国武将 甲斐一国から約120万石まで勢力を増した信玄は、西上作戦の半ばで病に倒れました。天下統一こそしなかったものの、その存在はその後創作などで取り上げられ、現代に至るまで長く親しまれています。 信玄には人生訓などの名言も多く、現代人でも共感できるものが多数残されています。この機会に信玄の人生を振り返ってみてはいかがでしょうか?
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、誰の存在を危惧したか。
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、影響力を増した信長の存在を危惧した。
JCRRAG_018781
歴史
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、武田信玄である。 川中島の戦いで上杉謙信と5度対決! 天文22年(1553)越後の上杉謙信が、義清や北信豪族から助けを求められ信濃に出兵します。これ以降、信玄は信濃の支配権をめぐって5度にわたり謙信と戦うことになります。とくに永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いは大規模なものとなり、武田軍も信玄の実弟・信繁や重臣・諸角虎定、山本勘助らを失うなど大きな痛手を負いました。この戦いの後も上杉軍と対峙しましたが、衝突することなく終了。信玄の信濃侵攻は一段落を迎えます。 今川氏・北条氏との合戦 永禄3年(1560)桶狭間の戦いで駿河の今川義元が尾張国の織田信長に敗北しました。今川領国内では三河の徳川家康が独立し、信玄は家康とともに駿河に侵攻します。その際、相模の北条氏康にも協調を持ちかけますが、氏康は今川方を救援し、上杉氏と同盟を結んで信玄に圧力をかけました。そこで信玄は、将軍・足利義昭を通じて上杉氏と和睦し、反北条勢力と結んで北条氏を攻撃します。こうして信玄は、近隣諸国との対戦と同盟回復を繰り返しました。 中断された西上作戦と信玄の遺言 今川氏や北条氏と戦い続けてきた信玄は、上洛を見据えた西上作戦に乗り出します。しかし、この作戦の途中で、この世を去ることになるのです。 徳川家康を討つべく遠江・三河侵攻を行うが… 元亀2年(1571)信玄は影響力を増した信長の存在を危惧し、その盟友・家康を討つべく大規模な遠江・三河侵攻を行いました。約3か月で5つの城を落としたものの、その途中で信玄が吐血したため甲斐に帰還します。 同年、氏康が死去し、嫡男・北条氏政により同盟が回復。徳川氏とは三河・遠江をめぐって対立していましたが、織田氏とは縁戚関係を結び友好を保っていました。この時点で武田氏は約120万石を領していたといいます。 将軍・足利義昭の信長包囲網に応じる 元亀3年(1572)信玄は将軍・義昭の信長討伐令に応じ遠江に侵攻しました。信玄本隊と別動隊はそれぞれ徳川方の諸城を落とし合流。遠江の要衝である二俣城も陥落させます。家康は遠江一言坂で武田軍と戦うも敗走し、武田軍の次の狙いを居城・浜松城だとみて籠城戦を覚悟しました。ところが、武田軍はわざと浜松城を通り過ぎる作戦を決行し、この挑発に乗った家康は家臣の助言を聞かずに出陣。両軍は三方ヶ原で激突し、信玄はこの戦いに圧勝します。 秘匿された信玄の死 快進撃を続ける武田軍でしたが、信玄の病状が悪化し侵攻がとまります。信玄は長篠城で療養後、甲斐に帰国する途中で死去しました。『甲陽軍鑑』によると、信玄は遺言で「自身の死を3年間隠すように」と言い残したといいます。家督を相続した勝頼はこれを守り、信玄の葬儀を行わず死を秘匿しました。しかし武田軍の動きに異変を感じ取ったのか、謙信は2週間程度でその死を知り、信長や家康も1か月ほどで察知したようです。 信玄の強さの秘密がわかる3つのエピソード 戦国最強と呼ばれた武田軍ですが、なぜそこまでの強さを誇っていたのでしょうか?その強さの秘密がわかる逸話を3つご紹介します。 水洗トイレで作戦を練っていた!? 信玄は躑躅ヶ崎館に六畳もの広さの自分専用の水洗トイレを設置していました。このトイレは、信玄がひもを引いて鈴を鳴らすと上流に控えている家臣が水を流すという仕組みでした。この空間には机や硯(すずり)も設置されており、信玄は用を足しながら書状を書いたり作戦を考えたりしていたといわれています。時と場所を選ばずに常に作戦を練っていたことがうかがえる、彼らしいエピソードです。 隠密組織「三ツ者」で情報収集 情報収集を重要視した信玄は、隠密組織を用いて諜報活動を行っていました。身寄りの無い少女を集めて、表向きは「歩き巫女」として全国で諜報活動を行わせていたといいます。このような活動により信玄は甲斐にいながら全国の情報を知っていたといわれ、「足長坊主」と称されたそうです。 『甲陽軍鑑』は甲州流軍学の聖典に 武田氏の戦略・戦術・軍法・刑法などを記した軍学書『甲陽軍鑑』は、武田氏滅亡後も参考とされました。のちに甲州を治めるようになった家康は武田遺臣を用い、家臣・井伊直政が武田の武将・山県昌景の遺志?を継いで赤備えを継承。井伊氏は幕末に至るまで赤備えを基本とした軍装を貫いたそうです。 多大な影響力をもつ戦国武将 甲斐一国から約120万石まで勢力を増した信玄は、西上作戦の半ばで病に倒れました。天下統一こそしなかったものの、その存在はその後創作などで取り上げられ、現代に至るまで長く親しまれています。 信玄には人生訓などの名言も多く、現代人でも共感できるものが多数残されています。この機会に信玄の人生を振り返ってみてはいかがでしょうか?
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、盟友・家康を討つべくどこに侵攻を行ったか。
「甲斐の虎」と呼ばれた人物は、盟友・家康を討つべく大規模な遠江・三河侵攻を行った。
JCRRAG_018782
歴史
信長の妹・お市の方と散った人物は、柴田勝家である。 うまれから信長に仕えるまで 勝家はどのようにして信長に仕えるようになったのでしょうか?信長の父・信秀の時代を振り返ります。 織田信秀の家臣になる 生年には諸説ありますが、『張州府誌』によれば、勝家は、大永2年(1522)柴田勝義の子として尾張国愛知郡上社村(現在の愛知県名古屋市名東区)で誕生したとされています。 若いころから織田信秀の家臣として仕えていた勝家は、信長が家督継承する頃には織田家の重鎮でした。また天文20年(1551)に信秀が亡くなると、その後は子・織田信行(織田信勝)の家老として仕えるようになります。 織田信行を後継者にしようと画策するが… 信行に仕えていた勝家は、織田家の後継者に信行を推し、信長を排除しようと考えました。しかし、弘治2年(1556)8月に信長との戦いに敗れ降伏。信長たちの生母・土田御前のはたらきにより赦免され、それ以降は信長を認めるようになります。一方、信行との関係は悪化し、信行が謀反を企てた際は信長に密告しています。信行はその後、仮病を装った信長に呼び出され殺害されました。信行の遺児は、信長の命により勝家が養育したようです。 織田信長のもとでの活躍 勝家は信長の家臣となり手腕を発揮していきます。猛将といわれる勝家の活躍ぶりを振り返りましょう。 赦免され信長の重臣に 信行の死後、赦免された勝家は信長の家臣となりました。永禄8年(1565)夏ごろには信長の奉行の一人となっており、尾張国の寂光院宛の文書にその名前が残されています。ただし、信長に逆らった過去があることから、桶狭間の戦いや美濃斎藤氏攻めなど、家臣になってしばらくは合戦に参加できなかったようです。 織田軍の先鋒として武功を挙げる 上洛作戦以降、勝家は織田軍の先鋒として武功を上げ、京都・畿内の行政を担当する五人のうちの一人になりました。その後、姉川の戦いや長島一向一揆の鎮圧、比叡山の焼き討ちなど、さまざまな戦いで活躍します。信長が将軍・足利義昭と対立した際は、義昭を降伏させることにも成功しました。信長包囲網が敷かれてからは、織田軍の有力武将として各地を転戦。天正元年(1573)の一乗谷城の戦い、天正3年(1575)の長篠の戦いにも参加しています。
信長の妹・お市の方と散った人物は、いつ誕生したか。
信長の妹・お市の方と散った人物は、大永2年(1522)に誕生した。
JCRRAG_018783
歴史
信長の妹・お市の方と散った人物は、柴田勝家である。 うまれから信長に仕えるまで 勝家はどのようにして信長に仕えるようになったのでしょうか?信長の父・信秀の時代を振り返ります。 織田信秀の家臣になる 生年には諸説ありますが、『張州府誌』によれば、勝家は、大永2年(1522)柴田勝義の子として尾張国愛知郡上社村(現在の愛知県名古屋市名東区)で誕生したとされています。 若いころから織田信秀の家臣として仕えていた勝家は、信長が家督継承する頃には織田家の重鎮でした。また天文20年(1551)に信秀が亡くなると、その後は子・織田信行(織田信勝)の家老として仕えるようになります。 織田信行を後継者にしようと画策するが… 信行に仕えていた勝家は、織田家の後継者に信行を推し、信長を排除しようと考えました。しかし、弘治2年(1556)8月に信長との戦いに敗れ降伏。信長たちの生母・土田御前のはたらきにより赦免され、それ以降は信長を認めるようになります。一方、信行との関係は悪化し、信行が謀反を企てた際は信長に密告しています。信行はその後、仮病を装った信長に呼び出され殺害されました。信行の遺児は、信長の命により勝家が養育したようです。 織田信長のもとでの活躍 勝家は信長の家臣となり手腕を発揮していきます。猛将といわれる勝家の活躍ぶりを振り返りましょう。 赦免され信長の重臣に 信行の死後、赦免された勝家は信長の家臣となりました。永禄8年(1565)夏ごろには信長の奉行の一人となっており、尾張国の寂光院宛の文書にその名前が残されています。ただし、信長に逆らった過去があることから、桶狭間の戦いや美濃斎藤氏攻めなど、家臣になってしばらくは合戦に参加できなかったようです。 織田軍の先鋒として武功を挙げる 上洛作戦以降、勝家は織田軍の先鋒として武功を上げ、京都・畿内の行政を担当する五人のうちの一人になりました。その後、姉川の戦いや長島一向一揆の鎮圧、比叡山の焼き討ちなど、さまざまな戦いで活躍します。信長が将軍・足利義昭と対立した際は、義昭を降伏させることにも成功しました。信長包囲網が敷かれてからは、織田軍の有力武将として各地を転戦。天正元年(1573)の一乗谷城の戦い、天正3年(1575)の長篠の戦いにも参加しています。
信長の妹・お市の方と散った人物は、誰の子として誕生したか。
信長の妹・お市の方と散った人物は、柴田勝義の子として誕生した。
JCRRAG_018784
歴史
信長の妹・お市の方と散った人物は、柴田勝家である。 うまれから信長に仕えるまで 勝家はどのようにして信長に仕えるようになったのでしょうか?信長の父・信秀の時代を振り返ります。 織田信秀の家臣になる 生年には諸説ありますが、『張州府誌』によれば、勝家は、大永2年(1522)柴田勝義の子として尾張国愛知郡上社村(現在の愛知県名古屋市名東区)で誕生したとされています。 若いころから織田信秀の家臣として仕えていた勝家は、信長が家督継承する頃には織田家の重鎮でした。また天文20年(1551)に信秀が亡くなると、その後は子・織田信行(織田信勝)の家老として仕えるようになります。 織田信行を後継者にしようと画策するが… 信行に仕えていた勝家は、織田家の後継者に信行を推し、信長を排除しようと考えました。しかし、弘治2年(1556)8月に信長との戦いに敗れ降伏。信長たちの生母・土田御前のはたらきにより赦免され、それ以降は信長を認めるようになります。一方、信行との関係は悪化し、信行が謀反を企てた際は信長に密告しています。信行はその後、仮病を装った信長に呼び出され殺害されました。信行の遺児は、信長の命により勝家が養育したようです。 織田信長のもとでの活躍 勝家は信長の家臣となり手腕を発揮していきます。猛将といわれる勝家の活躍ぶりを振り返りましょう。 赦免され信長の重臣に 信行の死後、赦免された勝家は信長の家臣となりました。永禄8年(1565)夏ごろには信長の奉行の一人となっており、尾張国の寂光院宛の文書にその名前が残されています。ただし、信長に逆らった過去があることから、桶狭間の戦いや美濃斎藤氏攻めなど、家臣になってしばらくは合戦に参加できなかったようです。 織田軍の先鋒として武功を挙げる 上洛作戦以降、勝家は織田軍の先鋒として武功を上げ、京都・畿内の行政を担当する五人のうちの一人になりました。その後、姉川の戦いや長島一向一揆の鎮圧、比叡山の焼き討ちなど、さまざまな戦いで活躍します。信長が将軍・足利義昭と対立した際は、義昭を降伏させることにも成功しました。信長包囲網が敷かれてからは、織田軍の有力武将として各地を転戦。天正元年(1573)の一乗谷城の戦い、天正3年(1575)の長篠の戦いにも参加しています。
信長の妹・お市の方と散った人物は、どこで誕生したか。
信長の妹・お市の方と散った人物は、尾張国愛知郡上社村(現在の愛知県名古屋市名東区)で誕生した。
JCRRAG_018785
歴史
信長の妹・お市の方と散った人物は、柴田勝家である。 うまれから信長に仕えるまで 勝家はどのようにして信長に仕えるようになったのでしょうか?信長の父・信秀の時代を振り返ります。 織田信秀の家臣になる 生年には諸説ありますが、『張州府誌』によれば、勝家は、大永2年(1522)柴田勝義の子として尾張国愛知郡上社村(現在の愛知県名古屋市名東区)で誕生したとされています。 若いころから織田信秀の家臣として仕えていた勝家は、信長が家督継承する頃には織田家の重鎮でした。また天文20年(1551)に信秀が亡くなると、その後は子・織田信行(織田信勝)の家老として仕えるようになります。 織田信行を後継者にしようと画策するが… 信行に仕えていた勝家は、織田家の後継者に信行を推し、信長を排除しようと考えました。しかし、弘治2年(1556)8月に信長との戦いに敗れ降伏。信長たちの生母・土田御前のはたらきにより赦免され、それ以降は信長を認めるようになります。一方、信行との関係は悪化し、信行が謀反を企てた際は信長に密告しています。信行はその後、仮病を装った信長に呼び出され殺害されました。信行の遺児は、信長の命により勝家が養育したようです。 織田信長のもとでの活躍 勝家は信長の家臣となり手腕を発揮していきます。猛将といわれる勝家の活躍ぶりを振り返りましょう。 赦免され信長の重臣に 信行の死後、赦免された勝家は信長の家臣となりました。永禄8年(1565)夏ごろには信長の奉行の一人となっており、尾張国の寂光院宛の文書にその名前が残されています。ただし、信長に逆らった過去があることから、桶狭間の戦いや美濃斎藤氏攻めなど、家臣になってしばらくは合戦に参加できなかったようです。 織田軍の先鋒として武功を挙げる 上洛作戦以降、勝家は織田軍の先鋒として武功を上げ、京都・畿内の行政を担当する五人のうちの一人になりました。その後、姉川の戦いや長島一向一揆の鎮圧、比叡山の焼き討ちなど、さまざまな戦いで活躍します。信長が将軍・足利義昭と対立した際は、義昭を降伏させることにも成功しました。信長包囲網が敷かれてからは、織田軍の有力武将として各地を転戦。天正元年(1573)の一乗谷城の戦い、天正3年(1575)の長篠の戦いにも参加しています。
信長の妹・お市の方と散った人物は、どのように武功を上げたか。
信長の妹・お市の方と散った人物は、織田軍の先鋒として武功を上げた。
JCRRAG_018786
歴史
信長の妹・お市の方と散った人物は、柴田勝家である。 うまれから信長に仕えるまで 勝家はどのようにして信長に仕えるようになったのでしょうか?信長の父・信秀の時代を振り返ります。 織田信秀の家臣になる 生年には諸説ありますが、『張州府誌』によれば、勝家は、大永2年(1522)柴田勝義の子として尾張国愛知郡上社村(現在の愛知県名古屋市名東区)で誕生したとされています。 若いころから織田信秀の家臣として仕えていた勝家は、信長が家督継承する頃には織田家の重鎮でした。また天文20年(1551)に信秀が亡くなると、その後は子・織田信行(織田信勝)の家老として仕えるようになります。 織田信行を後継者にしようと画策するが… 信行に仕えていた勝家は、織田家の後継者に信行を推し、信長を排除しようと考えました。しかし、弘治2年(1556)8月に信長との戦いに敗れ降伏。信長たちの生母・土田御前のはたらきにより赦免され、それ以降は信長を認めるようになります。一方、信行との関係は悪化し、信行が謀反を企てた際は信長に密告しています。信行はその後、仮病を装った信長に呼び出され殺害されました。信行の遺児は、信長の命により勝家が養育したようです。 織田信長のもとでの活躍 勝家は信長の家臣となり手腕を発揮していきます。猛将といわれる勝家の活躍ぶりを振り返りましょう。 赦免され信長の重臣に 信行の死後、赦免された勝家は信長の家臣となりました。永禄8年(1565)夏ごろには信長の奉行の一人となっており、尾張国の寂光院宛の文書にその名前が残されています。ただし、信長に逆らった過去があることから、桶狭間の戦いや美濃斎藤氏攻めなど、家臣になってしばらくは合戦に参加できなかったようです。 織田軍の先鋒として武功を挙げる 上洛作戦以降、勝家は織田軍の先鋒として武功を上げ、京都・畿内の行政を担当する五人のうちの一人になりました。その後、姉川の戦いや長島一向一揆の鎮圧、比叡山の焼き討ちなど、さまざまな戦いで活躍します。信長が将軍・足利義昭と対立した際は、義昭を降伏させることにも成功しました。信長包囲網が敷かれてからは、織田軍の有力武将として各地を転戦。天正元年(1573)の一乗谷城の戦い、天正3年(1575)の長篠の戦いにも参加しています。
信長の妹・お市の方と散った人物は、何を担当する五人のうちの一人になったか。
信長の妹・お市の方と散った人物は、京都・畿内の行政を担当する五人のうちの一人になった。
JCRRAG_018787
歴史
信長の妹・お市の方と散った人物は、柴田勝家である。 北陸の軍司令官に任命され、加賀国を平定 朝倉氏の滅亡後、勝家は越前国八郡49万石と北ノ庄城を与えられます。また北陸方面の軍司令官に任命され、前田利家・佐々成政・不破光治といった与力とともに加賀国平定を一任されました。越後国の上杉謙信の加賀進出などに対応したのち、北加賀・越中境まで軍を進め、天正8年(1580)11月に加賀を平定。さらには能登国・越中国にも進出しました。 本能寺の変後、秀吉と対立 名実ともに織田家の筆頭家老となった勝家ですが、本能寺の変で主君を失います。信長死後の勝家はどのように動いたのでしょうか? 明智光秀を討とうとしていた勝家 天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で信長が横死します。勝家は3月から越中国の魚津城・松倉城を攻囲しており、信長の死を知らぬまま6月3日に魚津城を落としました。事件を知った勝家は、6日の夜から全軍撤退し北ノ庄城へ帰還。その後、大坂にいた丹羽長秀と連携して光秀を討とうと企てます。 しかし、失地を回復しようとする越中・能登の国衆らを止めるために時間をとられ、ようやく18日に近江に出発したときには秀吉が「中国大返し」でいち早く弔い合戦を仕掛け、光秀を討っていたのです。 織田家の後継者問題で秀吉と対立 本能寺の変後、織田氏の後継者や遺領配分などについて話し合う清洲会議が開かれました。勝家は信長の三男・織田信孝を推しましたが、秀吉は信長の嫡孫・三法師(織田秀信)を擁立。二人は対立しましたが、信長の仇である光秀を討った秀吉の発言力は大きく、結果的に織田氏の家督は三法師が継承します。また遺領配分についても秀吉と立場が逆転し、この会議のあとは秀吉との権力抗争が始まりました。 勝家はこの会議で、信長の妹・お市の方との結婚について諸将の承諾を得ています。これは、秀吉が勝家の不満を抑えようとして斡旋したとも考えられているようです。 賤ヶ岳の戦いで妻・お市の方と自害 天正11年(1583)勝家と秀吉による賤ヶ岳の戦いが勃発します。勝家は義昭に対し、義昭を庇護している毛利氏とともに出兵するよう要請し、秀吉の背後を突こうとしました。しかし、この作戦はうまくいかず、高野山に対する同様の呼びかけも失敗に終わります。結果的に、勝家は、天正11年(1583)「美濃大返し」を敢行した秀吉に敗れ、北ノ庄城でお市の方とともに自害してこの世を去りました。 勝家の人物像とは? 織田家の重臣としてさまざまな活躍をした勝家ですが、その人物像とはどのようなものだったのでしょうか? 武勇に秀でていた 勝家には「鬼柴田」「かかれ柴田」といった異名があります。これは、勝家が武勇に優れ、戦場で随一の突進力を誇っていたことからつけられた呼び名です。最後は秀吉に敗れたものの、織田家の先鋒を務めるにふさわしい人物だったといえるでしょう。 温情ある人柄だった ルイス・フロイスの『日本報告』によれば、賤ヶ岳の戦いの際、勝家は離反した家臣に恨み言を言わず、最後まで付き従った家臣たちには生き延びることを勧めたそうです。さらには、家臣たちに報いる術がないことを嘆いたともいわれています。前田家家臣・村井重頼の覚書にも似たような話が残されており、勝家が温かみのある人物だったことがうかがえます。また、妻のお市の方に逃げるよう勧めたエピソードも有名です。 織田家に捧げた生涯だった 勝家は織田家の重臣として信秀や信長に仕え、最後は信長の妹・お市の方とともに人生を終えました。若い頃から織田家に尽力してきた勝家ですが、秀吉と立場が逆転したことをキッカケに大きく人生が変わったといえるかもしれません。勝家が残した辞世の句は、お市の方の句に返句する形で詠まれています。最後まで織田家の人間と寄り添ったことを考えると、勝家はまさに織田家と生涯をともにしたといえるでしょう。
信長の妹・お市の方と散った人物は、いつこの世を去ったか。
信長の妹・お市の方と散った人物は、天正11年(1583)にこの世を去った。
JCRRAG_018788
歴史
信長の妹・お市の方と散った人物は、柴田勝家である。 北陸の軍司令官に任命され、加賀国を平定 朝倉氏の滅亡後、勝家は越前国八郡49万石と北ノ庄城を与えられます。また北陸方面の軍司令官に任命され、前田利家・佐々成政・不破光治といった与力とともに加賀国平定を一任されました。越後国の上杉謙信の加賀進出などに対応したのち、北加賀・越中境まで軍を進め、天正8年(1580)11月に加賀を平定。さらには能登国・越中国にも進出しました。 本能寺の変後、秀吉と対立 名実ともに織田家の筆頭家老となった勝家ですが、本能寺の変で主君を失います。信長死後の勝家はどのように動いたのでしょうか? 明智光秀を討とうとしていた勝家 天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で信長が横死します。勝家は3月から越中国の魚津城・松倉城を攻囲しており、信長の死を知らぬまま6月3日に魚津城を落としました。事件を知った勝家は、6日の夜から全軍撤退し北ノ庄城へ帰還。その後、大坂にいた丹羽長秀と連携して光秀を討とうと企てます。 しかし、失地を回復しようとする越中・能登の国衆らを止めるために時間をとられ、ようやく18日に近江に出発したときには秀吉が「中国大返し」でいち早く弔い合戦を仕掛け、光秀を討っていたのです。 織田家の後継者問題で秀吉と対立 本能寺の変後、織田氏の後継者や遺領配分などについて話し合う清洲会議が開かれました。勝家は信長の三男・織田信孝を推しましたが、秀吉は信長の嫡孫・三法師(織田秀信)を擁立。二人は対立しましたが、信長の仇である光秀を討った秀吉の発言力は大きく、結果的に織田氏の家督は三法師が継承します。また遺領配分についても秀吉と立場が逆転し、この会議のあとは秀吉との権力抗争が始まりました。 勝家はこの会議で、信長の妹・お市の方との結婚について諸将の承諾を得ています。これは、秀吉が勝家の不満を抑えようとして斡旋したとも考えられているようです。 賤ヶ岳の戦いで妻・お市の方と自害 天正11年(1583)勝家と秀吉による賤ヶ岳の戦いが勃発します。勝家は義昭に対し、義昭を庇護している毛利氏とともに出兵するよう要請し、秀吉の背後を突こうとしました。しかし、この作戦はうまくいかず、高野山に対する同様の呼びかけも失敗に終わります。結果的に、勝家は、天正11年(1583)「美濃大返し」を敢行した秀吉に敗れ、北ノ庄城でお市の方とともに自害してこの世を去りました。 勝家の人物像とは? 織田家の重臣としてさまざまな活躍をした勝家ですが、その人物像とはどのようなものだったのでしょうか? 武勇に秀でていた 勝家には「鬼柴田」「かかれ柴田」といった異名があります。これは、勝家が武勇に優れ、戦場で随一の突進力を誇っていたことからつけられた呼び名です。最後は秀吉に敗れたものの、織田家の先鋒を務めるにふさわしい人物だったといえるでしょう。 温情ある人柄だった ルイス・フロイスの『日本報告』によれば、賤ヶ岳の戦いの際、勝家は離反した家臣に恨み言を言わず、最後まで付き従った家臣たちには生き延びることを勧めたそうです。さらには、家臣たちに報いる術がないことを嘆いたともいわれています。前田家家臣・村井重頼の覚書にも似たような話が残されており、勝家が温かみのある人物だったことがうかがえます。また、妻のお市の方に逃げるよう勧めたエピソードも有名です。 織田家に捧げた生涯だった 勝家は織田家の重臣として信秀や信長に仕え、最後は信長の妹・お市の方とともに人生を終えました。若い頃から織田家に尽力してきた勝家ですが、秀吉と立場が逆転したことをキッカケに大きく人生が変わったといえるかもしれません。勝家が残した辞世の句は、お市の方の句に返句する形で詠まれています。最後まで織田家の人間と寄り添ったことを考えると、勝家はまさに織田家と生涯をともにしたといえるでしょう。
信長の妹・お市の方と散った人物は、誰に敗れたか。
信長の妹・お市の方と散った人物は、「美濃大返し」を敢行した秀吉に敗れこの世を去った。
JCRRAG_018789
歴史
信長の妹・お市の方と散った人物は、柴田勝家である。 北陸の軍司令官に任命され、加賀国を平定 朝倉氏の滅亡後、勝家は越前国八郡49万石と北ノ庄城を与えられます。また北陸方面の軍司令官に任命され、前田利家・佐々成政・不破光治といった与力とともに加賀国平定を一任されました。越後国の上杉謙信の加賀進出などに対応したのち、北加賀・越中境まで軍を進め、天正8年(1580)11月に加賀を平定。さらには能登国・越中国にも進出しました。 本能寺の変後、秀吉と対立 名実ともに織田家の筆頭家老となった勝家ですが、本能寺の変で主君を失います。信長死後の勝家はどのように動いたのでしょうか? 明智光秀を討とうとしていた勝家 天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で信長が横死します。勝家は3月から越中国の魚津城・松倉城を攻囲しており、信長の死を知らぬまま6月3日に魚津城を落としました。事件を知った勝家は、6日の夜から全軍撤退し北ノ庄城へ帰還。その後、大坂にいた丹羽長秀と連携して光秀を討とうと企てます。 しかし、失地を回復しようとする越中・能登の国衆らを止めるために時間をとられ、ようやく18日に近江に出発したときには秀吉が「中国大返し」でいち早く弔い合戦を仕掛け、光秀を討っていたのです。 織田家の後継者問題で秀吉と対立 本能寺の変後、織田氏の後継者や遺領配分などについて話し合う清洲会議が開かれました。勝家は信長の三男・織田信孝を推しましたが、秀吉は信長の嫡孫・三法師(織田秀信)を擁立。二人は対立しましたが、信長の仇である光秀を討った秀吉の発言力は大きく、結果的に織田氏の家督は三法師が継承します。また遺領配分についても秀吉と立場が逆転し、この会議のあとは秀吉との権力抗争が始まりました。 勝家はこの会議で、信長の妹・お市の方との結婚について諸将の承諾を得ています。これは、秀吉が勝家の不満を抑えようとして斡旋したとも考えられているようです。 賤ヶ岳の戦いで妻・お市の方と自害 天正11年(1583)勝家と秀吉による賤ヶ岳の戦いが勃発します。勝家は義昭に対し、義昭を庇護している毛利氏とともに出兵するよう要請し、秀吉の背後を突こうとしました。しかし、この作戦はうまくいかず、高野山に対する同様の呼びかけも失敗に終わります。結果的に、勝家は、天正11年(1583)「美濃大返し」を敢行した秀吉に敗れ、北ノ庄城でお市の方とともに自害してこの世を去りました。 勝家の人物像とは? 織田家の重臣としてさまざまな活躍をした勝家ですが、その人物像とはどのようなものだったのでしょうか? 武勇に秀でていた 勝家には「鬼柴田」「かかれ柴田」といった異名があります。これは、勝家が武勇に優れ、戦場で随一の突進力を誇っていたことからつけられた呼び名です。最後は秀吉に敗れたものの、織田家の先鋒を務めるにふさわしい人物だったといえるでしょう。 温情ある人柄だった ルイス・フロイスの『日本報告』によれば、賤ヶ岳の戦いの際、勝家は離反した家臣に恨み言を言わず、最後まで付き従った家臣たちには生き延びることを勧めたそうです。さらには、家臣たちに報いる術がないことを嘆いたともいわれています。前田家家臣・村井重頼の覚書にも似たような話が残されており、勝家が温かみのある人物だったことがうかがえます。また、妻のお市の方に逃げるよう勧めたエピソードも有名です。 織田家に捧げた生涯だった 勝家は織田家の重臣として信秀や信長に仕え、最後は信長の妹・お市の方とともに人生を終えました。若い頃から織田家に尽力してきた勝家ですが、秀吉と立場が逆転したことをキッカケに大きく人生が変わったといえるかもしれません。勝家が残した辞世の句は、お市の方の句に返句する形で詠まれています。最後まで織田家の人間と寄り添ったことを考えると、勝家はまさに織田家と生涯をともにしたといえるでしょう。
信長の妹・お市の方と散った人物は、どこでこの世を去ったか。
信長の妹・お市の方と散った人物は、北ノ庄城でこの世を去った。
JCRRAG_018790
歴史
信長の妹・お市の方と散った人物は、柴田勝家である。 北陸の軍司令官に任命され、加賀国を平定 朝倉氏の滅亡後、勝家は越前国八郡49万石と北ノ庄城を与えられます。また北陸方面の軍司令官に任命され、前田利家・佐々成政・不破光治といった与力とともに加賀国平定を一任されました。越後国の上杉謙信の加賀進出などに対応したのち、北加賀・越中境まで軍を進め、天正8年(1580)11月に加賀を平定。さらには能登国・越中国にも進出しました。 本能寺の変後、秀吉と対立 名実ともに織田家の筆頭家老となった勝家ですが、本能寺の変で主君を失います。信長死後の勝家はどのように動いたのでしょうか? 明智光秀を討とうとしていた勝家 天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で信長が横死します。勝家は3月から越中国の魚津城・松倉城を攻囲しており、信長の死を知らぬまま6月3日に魚津城を落としました。事件を知った勝家は、6日の夜から全軍撤退し北ノ庄城へ帰還。その後、大坂にいた丹羽長秀と連携して光秀を討とうと企てます。 しかし、失地を回復しようとする越中・能登の国衆らを止めるために時間をとられ、ようやく18日に近江に出発したときには秀吉が「中国大返し」でいち早く弔い合戦を仕掛け、光秀を討っていたのです。 織田家の後継者問題で秀吉と対立 本能寺の変後、織田氏の後継者や遺領配分などについて話し合う清洲会議が開かれました。勝家は信長の三男・織田信孝を推しましたが、秀吉は信長の嫡孫・三法師(織田秀信)を擁立。二人は対立しましたが、信長の仇である光秀を討った秀吉の発言力は大きく、結果的に織田氏の家督は三法師が継承します。また遺領配分についても秀吉と立場が逆転し、この会議のあとは秀吉との権力抗争が始まりました。 勝家はこの会議で、信長の妹・お市の方との結婚について諸将の承諾を得ています。これは、秀吉が勝家の不満を抑えようとして斡旋したとも考えられているようです。 賤ヶ岳の戦いで妻・お市の方と自害 天正11年(1583)勝家と秀吉による賤ヶ岳の戦いが勃発します。勝家は義昭に対し、義昭を庇護している毛利氏とともに出兵するよう要請し、秀吉の背後を突こうとしました。しかし、この作戦はうまくいかず、高野山に対する同様の呼びかけも失敗に終わります。結果的に、勝家は、天正11年(1583)「美濃大返し」を敢行した秀吉に敗れ、北ノ庄城でお市の方とともに自害してこの世を去りました。 勝家の人物像とは? 織田家の重臣としてさまざまな活躍をした勝家ですが、その人物像とはどのようなものだったのでしょうか? 武勇に秀でていた 勝家には「鬼柴田」「かかれ柴田」といった異名があります。これは、勝家が武勇に優れ、戦場で随一の突進力を誇っていたことからつけられた呼び名です。最後は秀吉に敗れたものの、織田家の先鋒を務めるにふさわしい人物だったといえるでしょう。 温情ある人柄だった ルイス・フロイスの『日本報告』によれば、賤ヶ岳の戦いの際、勝家は離反した家臣に恨み言を言わず、最後まで付き従った家臣たちには生き延びることを勧めたそうです。さらには、家臣たちに報いる術がないことを嘆いたともいわれています。前田家家臣・村井重頼の覚書にも似たような話が残されており、勝家が温かみのある人物だったことがうかがえます。また、妻のお市の方に逃げるよう勧めたエピソードも有名です。 織田家に捧げた生涯だった 勝家は織田家の重臣として信秀や信長に仕え、最後は信長の妹・お市の方とともに人生を終えました。若い頃から織田家に尽力してきた勝家ですが、秀吉と立場が逆転したことをキッカケに大きく人生が変わったといえるかもしれません。勝家が残した辞世の句は、お市の方の句に返句する形で詠まれています。最後まで織田家の人間と寄り添ったことを考えると、勝家はまさに織田家と生涯をともにしたといえるでしょう。
信長の妹・お市の方と散った人物は、お市の方とともにどのようにしてこの世を去ったか。
信長の妹・お市の方と散った人物は、お市の方とともに自害してこの世を去った。
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歴史
信長の妹・お市の方と散った人物は、柴田勝家である。 北陸の軍司令官に任命され、加賀国を平定 朝倉氏の滅亡後、勝家は越前国八郡49万石と北ノ庄城を与えられます。また北陸方面の軍司令官に任命され、前田利家・佐々成政・不破光治といった与力とともに加賀国平定を一任されました。越後国の上杉謙信の加賀進出などに対応したのち、北加賀・越中境まで軍を進め、天正8年(1580)11月に加賀を平定。さらには能登国・越中国にも進出しました。 本能寺の変後、秀吉と対立 名実ともに織田家の筆頭家老となった勝家ですが、本能寺の変で主君を失います。信長死後の勝家はどのように動いたのでしょうか? 明智光秀を討とうとしていた勝家 天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で信長が横死します。勝家は3月から越中国の魚津城・松倉城を攻囲しており、信長の死を知らぬまま6月3日に魚津城を落としました。事件を知った勝家は、6日の夜から全軍撤退し北ノ庄城へ帰還。その後、大坂にいた丹羽長秀と連携して光秀を討とうと企てます。 しかし、失地を回復しようとする越中・能登の国衆らを止めるために時間をとられ、ようやく18日に近江に出発したときには秀吉が「中国大返し」でいち早く弔い合戦を仕掛け、光秀を討っていたのです。 織田家の後継者問題で秀吉と対立 本能寺の変後、織田氏の後継者や遺領配分などについて話し合う清洲会議が開かれました。勝家は信長の三男・織田信孝を推しましたが、秀吉は信長の嫡孫・三法師(織田秀信)を擁立。二人は対立しましたが、信長の仇である光秀を討った秀吉の発言力は大きく、結果的に織田氏の家督は三法師が継承します。また遺領配分についても秀吉と立場が逆転し、この会議のあとは秀吉との権力抗争が始まりました。 勝家はこの会議で、信長の妹・お市の方との結婚について諸将の承諾を得ています。これは、秀吉が勝家の不満を抑えようとして斡旋したとも考えられているようです。 賤ヶ岳の戦いで妻・お市の方と自害 天正11年(1583)勝家と秀吉による賤ヶ岳の戦いが勃発します。勝家は義昭に対し、義昭を庇護している毛利氏とともに出兵するよう要請し、秀吉の背後を突こうとしました。しかし、この作戦はうまくいかず、高野山に対する同様の呼びかけも失敗に終わります。結果的に、勝家は、天正11年(1583)「美濃大返し」を敢行した秀吉に敗れ、北ノ庄城でお市の方とともに自害してこの世を去りました。 勝家の人物像とは? 織田家の重臣としてさまざまな活躍をした勝家ですが、その人物像とはどのようなものだったのでしょうか? 武勇に秀でていた 勝家には「鬼柴田」「かかれ柴田」といった異名があります。これは、勝家が武勇に優れ、戦場で随一の突進力を誇っていたことからつけられた呼び名です。最後は秀吉に敗れたものの、織田家の先鋒を務めるにふさわしい人物だったといえるでしょう。 温情ある人柄だった ルイス・フロイスの『日本報告』によれば、賤ヶ岳の戦いの際、勝家は離反した家臣に恨み言を言わず、最後まで付き従った家臣たちには生き延びることを勧めたそうです。さらには、家臣たちに報いる術がないことを嘆いたともいわれています。前田家家臣・村井重頼の覚書にも似たような話が残されており、勝家が温かみのある人物だったことがうかがえます。また、妻のお市の方に逃げるよう勧めたエピソードも有名です。 織田家に捧げた生涯だった 勝家は織田家の重臣として信秀や信長に仕え、最後は信長の妹・お市の方とともに人生を終えました。若い頃から織田家に尽力してきた勝家ですが、秀吉と立場が逆転したことをキッカケに大きく人生が変わったといえるかもしれません。勝家が残した辞世の句は、お市の方の句に返句する形で詠まれています。最後まで織田家の人間と寄り添ったことを考えると、勝家はまさに織田家と生涯をともにしたといえるでしょう。
信長の妹・お市の方と散った人物は、何を与えられたか。
信長の妹・お市の方と散った人物は、越前国八郡49万石と北ノ庄城を与えられた。
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歴史
頑固一徹の語源となった人物は、稲葉一鉄である。 うまれから斎藤家時代まで 一鉄の出自はどのようなものだったのでしょうか。土岐家に仕えたのち斎藤家の家臣として活躍するまでを振り返ります。 還俗して家督と曽根城を相続する 一鉄は、永正12年(1515)美濃の国人・稲葉通則の六男として本郷城で誕生しました。幼少時に崇福寺に入り僧侶となりましたが、大永5年(1525)の牧田の戦いで父と5人の兄を失い、僧籍を離れて戻ることを余儀なくされます。そして祖父・稲葉塩塵(通貞)と叔父・稲葉忠通の後見のもと、家督と曽根城を継承しました。 土岐頼芸につぎ斎藤道三に仕える 一鉄がまず仕えたのは、美濃国の守護大名・土岐頼芸(ときよりのり )でした。しかし、のちに斎藤道三が頼芸を追放して美濃を治めると、以後は道三に仕えるようになります。一鉄の姉・深芳野はもともと頼芸の側室でしたが、道三の側室となり嫡男・斎藤義龍を産んでいます。義龍はのちに父・道三と対立し長良川の戦いで衝突しますが、このとき一鉄は義龍に味方しています。 西美濃三人衆として活躍するが… 安藤守就、氏家直元(卜全)とともに「西美濃三人衆」と呼ばれた一鉄は、斎藤家の重臣として活躍しました。しかし義龍にかわって主君となった龍興は、酒色に溺れ一部の側近のみ重用し、三人衆の意見に耳を傾けなかったのです。そのため主要な家臣が離反し、永禄7年(1564)には守就が稲葉山城を占拠。その3年後には、一鉄も三人衆と連盟で斎藤家から離脱し、新たに美濃の支配者となった信長に従うようになりました。
頑固一徹の語源となった人物は、いつ誕生したか。
頑固一徹の語源となった人物は、永正12年(1515)に誕生した。
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歴史
頑固一徹の語源となった人物は、稲葉一鉄である。 うまれから斎藤家時代まで 一鉄の出自はどのようなものだったのでしょうか。土岐家に仕えたのち斎藤家の家臣として活躍するまでを振り返ります。 還俗して家督と曽根城を相続する 一鉄は、永正12年(1515)美濃の国人・稲葉通則の六男として本郷城で誕生しました。幼少時に崇福寺に入り僧侶となりましたが、大永5年(1525)の牧田の戦いで父と5人の兄を失い、僧籍を離れて戻ることを余儀なくされます。そして祖父・稲葉塩塵(通貞)と叔父・稲葉忠通の後見のもと、家督と曽根城を継承しました。 土岐頼芸につぎ斎藤道三に仕える 一鉄がまず仕えたのは、美濃国の守護大名・土岐頼芸(ときよりのり )でした。しかし、のちに斎藤道三が頼芸を追放して美濃を治めると、以後は道三に仕えるようになります。一鉄の姉・深芳野はもともと頼芸の側室でしたが、道三の側室となり嫡男・斎藤義龍を産んでいます。義龍はのちに父・道三と対立し長良川の戦いで衝突しますが、このとき一鉄は義龍に味方しています。 西美濃三人衆として活躍するが… 安藤守就、氏家直元(卜全)とともに「西美濃三人衆」と呼ばれた一鉄は、斎藤家の重臣として活躍しました。しかし義龍にかわって主君となった龍興は、酒色に溺れ一部の側近のみ重用し、三人衆の意見に耳を傾けなかったのです。そのため主要な家臣が離反し、永禄7年(1564)には守就が稲葉山城を占拠。その3年後には、一鉄も三人衆と連盟で斎藤家から離脱し、新たに美濃の支配者となった信長に従うようになりました。
頑固一徹の語源となった人物は、誰の六男として誕生したか。
頑固一徹の語源となった人物は、美濃の国人・稲葉通則の六男として誕生した。
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歴史
頑固一徹の語源となった人物は、稲葉一鉄である。 うまれから斎藤家時代まで 一鉄の出自はどのようなものだったのでしょうか。土岐家に仕えたのち斎藤家の家臣として活躍するまでを振り返ります。 還俗して家督と曽根城を相続する 一鉄は、永正12年(1515)美濃の国人・稲葉通則の六男として本郷城で誕生しました。幼少時に崇福寺に入り僧侶となりましたが、大永5年(1525)の牧田の戦いで父と5人の兄を失い、僧籍を離れて戻ることを余儀なくされます。そして祖父・稲葉塩塵(通貞)と叔父・稲葉忠通の後見のもと、家督と曽根城を継承しました。 土岐頼芸につぎ斎藤道三に仕える 一鉄がまず仕えたのは、美濃国の守護大名・土岐頼芸(ときよりのり )でした。しかし、のちに斎藤道三が頼芸を追放して美濃を治めると、以後は道三に仕えるようになります。一鉄の姉・深芳野はもともと頼芸の側室でしたが、道三の側室となり嫡男・斎藤義龍を産んでいます。義龍はのちに父・道三と対立し長良川の戦いで衝突しますが、このとき一鉄は義龍に味方しています。 西美濃三人衆として活躍するが… 安藤守就、氏家直元(卜全)とともに「西美濃三人衆」と呼ばれた一鉄は、斎藤家の重臣として活躍しました。しかし義龍にかわって主君となった龍興は、酒色に溺れ一部の側近のみ重用し、三人衆の意見に耳を傾けなかったのです。そのため主要な家臣が離反し、永禄7年(1564)には守就が稲葉山城を占拠。その3年後には、一鉄も三人衆と連盟で斎藤家から離脱し、新たに美濃の支配者となった信長に従うようになりました。
頑固一徹の語源となった人物は、どこで誕生したか。
頑固一徹の語源となった人物は、本郷城で誕生した。
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頑固一徹の語源となった人物は、稲葉一鉄である。 うまれから斎藤家時代まで 一鉄の出自はどのようなものだったのでしょうか。土岐家に仕えたのち斎藤家の家臣として活躍するまでを振り返ります。 還俗して家督と曽根城を相続する 一鉄は、永正12年(1515)美濃の国人・稲葉通則の六男として本郷城で誕生しました。幼少時に崇福寺に入り僧侶となりましたが、大永5年(1525)の牧田の戦いで父と5人の兄を失い、僧籍を離れて戻ることを余儀なくされます。そして祖父・稲葉塩塵(通貞)と叔父・稲葉忠通の後見のもと、家督と曽根城を継承しました。 土岐頼芸につぎ斎藤道三に仕える 一鉄がまず仕えたのは、美濃国の守護大名・土岐頼芸(ときよりのり )でした。しかし、のちに斎藤道三が頼芸を追放して美濃を治めると、以後は道三に仕えるようになります。一鉄の姉・深芳野はもともと頼芸の側室でしたが、道三の側室となり嫡男・斎藤義龍を産んでいます。義龍はのちに父・道三と対立し長良川の戦いで衝突しますが、このとき一鉄は義龍に味方しています。 西美濃三人衆として活躍するが… 安藤守就、氏家直元(卜全)とともに「西美濃三人衆」と呼ばれた一鉄は、斎藤家の重臣として活躍しました。しかし義龍にかわって主君となった龍興は、酒色に溺れ一部の側近のみ重用し、三人衆の意見に耳を傾けなかったのです。そのため主要な家臣が離反し、永禄7年(1564)には守就が稲葉山城を占拠。その3年後には、一鉄も三人衆と連盟で斎藤家から離脱し、新たに美濃の支配者となった信長に従うようになりました。
頑固一徹の語源となった人物は、大永5年(1525)の牧田の戦いで誰を失ったか。
頑固一徹の語源となった人物は、大永5年(1525)の牧田の戦いで父と5人の兄を失った。
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頑固一徹の語源となった人物は、稲葉一鉄である。 うまれから斎藤家時代まで 一鉄の出自はどのようなものだったのでしょうか。土岐家に仕えたのち斎藤家の家臣として活躍するまでを振り返ります。 還俗して家督と曽根城を相続する 一鉄は、永正12年(1515)美濃の国人・稲葉通則の六男として本郷城で誕生しました。幼少時に崇福寺に入り僧侶となりましたが、大永5年(1525)の牧田の戦いで父と5人の兄を失い、僧籍を離れて戻ることを余儀なくされます。そして祖父・稲葉塩塵(通貞)と叔父・稲葉忠通の後見のもと、家督と曽根城を継承しました。 土岐頼芸につぎ斎藤道三に仕える 一鉄がまず仕えたのは、美濃国の守護大名・土岐頼芸(ときよりのり )でした。しかし、のちに斎藤道三が頼芸を追放して美濃を治めると、以後は道三に仕えるようになります。一鉄の姉・深芳野はもともと頼芸の側室でしたが、道三の側室となり嫡男・斎藤義龍を産んでいます。義龍はのちに父・道三と対立し長良川の戦いで衝突しますが、このとき一鉄は義龍に味方しています。 西美濃三人衆として活躍するが… 安藤守就、氏家直元(卜全)とともに「西美濃三人衆」と呼ばれた一鉄は、斎藤家の重臣として活躍しました。しかし義龍にかわって主君となった龍興は、酒色に溺れ一部の側近のみ重用し、三人衆の意見に耳を傾けなかったのです。そのため主要な家臣が離反し、永禄7年(1564)には守就が稲葉山城を占拠。その3年後には、一鉄も三人衆と連盟で斎藤家から離脱し、新たに美濃の支配者となった信長に従うようになりました。
頑固一徹の語源となった人物は、何家の重臣として活躍したか。
頑固一徹の語源となった人物は、斎藤家の重臣として活躍した。
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頑固一徹の語源となった人物は、稲葉一鉄である。 信長家臣から秀吉家臣へ 斎藤家の重臣から信長の家臣となった一鉄は、のちに豊臣秀吉にも仕えるようになります。天下人のもとでの活躍はどのようなものだったのでしょうか? 織田信長のもとで武功を立てる! 信長の上洛の際に第一隊を担った一鉄は、姉川の戦いで徳川家康とともに戦功をあげ、そのほかの戦いにおいても殿軍(最後部の軍勢)を指揮したり軍師を務めたりしました。また、一乗谷城の戦いでは朝倉義景を追い詰めるなどの武功も立て、新たに美濃清水城を与えられています。 その後も、長篠の戦い、越前一向一揆攻め、有岡城の戦いなどさまざまな合戦に参加して活躍した一鉄でしたが、天正7年(1579)には家督と曽根城を嫡子・貞通に譲り、美濃清水城で隠居しました。 本能寺の変後、美濃の独立を画策 隠居して数年後の天正10年(1582)明智光秀による本能寺の変が勃発します。信長の死後、一鉄は美濃の国人衆に呼びかけ美濃独立を画策しました。内通の疑いで織田家を追放されていた守就も、復権を目指して光秀と手を組み反乱を起こしますが、一鉄はこれを討伐し守就らを敗死させています。 秀吉に仕えて小牧・長久手の戦いで奮闘 天正10年(1582)の清洲会議の後、美濃は信長の三男・織田信孝の支配下に置かれることになりましたが、一鉄は信孝と対立する秀吉に従うようになります。翌年の賤ヶ岳の戦いでは秀吉・織田信雄の側につき、小牧・長久手の戦いでも秀吉方で参陣。一鉄はここでも武功を立てていますが、それを最後に前線から遠ざかりました。 一鉄はどんな人物だったのか? さまざまな君主に仕え、多くの戦いに身を置いてきた一鉄。その人物像とは、どのようなものなのでしょうか? 武勇に優れ謀略にも長けていた 一鉄は、信長や秀吉だけでなく徳川家康にも認められるほど武勇や謀略に優れていました。姉川の戦いの際、信長が家康に「自分の家臣であれば誰でも連れていってよい」と言ったところ、家康は一鉄だけを指名したといいます。これが織田家中で評判になり、一鉄を羨む声が上がったといわれています。 茶道・医道にも関心が深かった 多くの武功を挙げた一鉄には、教養人としての顔もありました。茶道に造詣が深く、茶の湯秘伝書『数奇厳之図』を相伝されたほか、香道家・志野省巴から目録も伝授。また公家・三条西公条からは専門的な薬方も相伝されており、関心が深かった医道については『稲葉一鉄薬方覚書』という覚書きを残しています。 情けをもって接する親切心があった 信長が武田攻めをした際、武田領内に身を寄せていた頼芸が発見されました。このとき頼芸は失明しており、一鉄はかつての君主である頼芸のために働きかけたといわれています。これにより頼芸は、余命の半年間を美濃で過ごせたのです。 残された逸話 一鉄にはどのようなエピソードが残されているのでしょうか。彼にまつわる2つの逸話をご紹介します。 「頑固一徹」の語源になった 一鉄には頑固な一面があり、「一鉄」の号にかけて「頑固一徹」の言葉が生まれたといわれています。 現在でも使われるこの言葉は、「非常に頑なで一度決めた考えや態度を変えようとしないさま」という意味です。『名将言行録』には「貞通人となり敢決強直。ゆえに世人、敢決強直なる人を呼びて一鉄という」という一文が記されています。 明智光秀との間でトラブルが!? 光秀には斎藤利三という重臣がいますが、利三はもともと一鉄に仕えており、二人は縁戚関係でした。しかし光秀が利三を自分の家臣として引き抜いたため、一鉄は信長に不服を訴えます。信長は利三の返還を命じますが、光秀が拒否したため一鉄は激高。最終的に利三への切腹命令で騒動は収束しましたが、これが本能寺の変の4日前の出来事だったため、原因の一旦になったのではないかと考えられています。 美濃清水城で永眠した 西美濃三人衆の筆頭とされた一鉄は、何度も主君を換え激動の戦国時代を生き抜きました。一鉄のように時機を読んで主君を換えるのは、謀略に長けた人物ならではの生存戦略だったといえるでしょう。どんな君主のもとでも武功を立て、それでも独立勢力を貫いたその生き様は、まさに「頑固一徹」の言葉にふさわしいものでした。 天下人のもとでさまざまな戦いに身を投じた一鉄は、美濃清水城で静かにこの世を去っています。
頑固一徹の語源となった人物は、姉川の戦いで誰とともに戦功をあげたか。
頑固一徹の語源となった人物は、姉川の戦いで徳川家康とともに戦功をあげた。
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頑固一徹の語源となった人物は、稲葉一鉄である。 信長家臣から秀吉家臣へ 斎藤家の重臣から信長の家臣となった一鉄は、のちに豊臣秀吉にも仕えるようになります。天下人のもとでの活躍はどのようなものだったのでしょうか? 織田信長のもとで武功を立てる! 信長の上洛の際に第一隊を担った一鉄は、姉川の戦いで徳川家康とともに戦功をあげ、そのほかの戦いにおいても殿軍(最後部の軍勢)を指揮したり軍師を務めたりしました。また、一乗谷城の戦いでは朝倉義景を追い詰めるなどの武功も立て、新たに美濃清水城を与えられています。 その後も、長篠の戦い、越前一向一揆攻め、有岡城の戦いなどさまざまな合戦に参加して活躍した一鉄でしたが、天正7年(1579)には家督と曽根城を嫡子・貞通に譲り、美濃清水城で隠居しました。 本能寺の変後、美濃の独立を画策 隠居して数年後の天正10年(1582)明智光秀による本能寺の変が勃発します。信長の死後、一鉄は美濃の国人衆に呼びかけ美濃独立を画策しました。内通の疑いで織田家を追放されていた守就も、復権を目指して光秀と手を組み反乱を起こしますが、一鉄はこれを討伐し守就らを敗死させています。 秀吉に仕えて小牧・長久手の戦いで奮闘 天正10年(1582)の清洲会議の後、美濃は信長の三男・織田信孝の支配下に置かれることになりましたが、一鉄は信孝と対立する秀吉に従うようになります。翌年の賤ヶ岳の戦いでは秀吉・織田信雄の側につき、小牧・長久手の戦いでも秀吉方で参陣。一鉄はここでも武功を立てていますが、それを最後に前線から遠ざかりました。 一鉄はどんな人物だったのか? さまざまな君主に仕え、多くの戦いに身を置いてきた一鉄。その人物像とは、どのようなものなのでしょうか? 武勇に優れ謀略にも長けていた 一鉄は、信長や秀吉だけでなく徳川家康にも認められるほど武勇や謀略に優れていました。姉川の戦いの際、信長が家康に「自分の家臣であれば誰でも連れていってよい」と言ったところ、家康は一鉄だけを指名したといいます。これが織田家中で評判になり、一鉄を羨む声が上がったといわれています。 茶道・医道にも関心が深かった 多くの武功を挙げた一鉄には、教養人としての顔もありました。茶道に造詣が深く、茶の湯秘伝書『数奇厳之図』を相伝されたほか、香道家・志野省巴から目録も伝授。また公家・三条西公条からは専門的な薬方も相伝されており、関心が深かった医道については『稲葉一鉄薬方覚書』という覚書きを残しています。 情けをもって接する親切心があった 信長が武田攻めをした際、武田領内に身を寄せていた頼芸が発見されました。このとき頼芸は失明しており、一鉄はかつての君主である頼芸のために働きかけたといわれています。これにより頼芸は、余命の半年間を美濃で過ごせたのです。 残された逸話 一鉄にはどのようなエピソードが残されているのでしょうか。彼にまつわる2つの逸話をご紹介します。 「頑固一徹」の語源になった 一鉄には頑固な一面があり、「一鉄」の号にかけて「頑固一徹」の言葉が生まれたといわれています。 現在でも使われるこの言葉は、「非常に頑なで一度決めた考えや態度を変えようとしないさま」という意味です。『名将言行録』には「貞通人となり敢決強直。ゆえに世人、敢決強直なる人を呼びて一鉄という」という一文が記されています。 明智光秀との間でトラブルが!? 光秀には斎藤利三という重臣がいますが、利三はもともと一鉄に仕えており、二人は縁戚関係でした。しかし光秀が利三を自分の家臣として引き抜いたため、一鉄は信長に不服を訴えます。信長は利三の返還を命じますが、光秀が拒否したため一鉄は激高。最終的に利三への切腹命令で騒動は収束しましたが、これが本能寺の変の4日前の出来事だったため、原因の一旦になったのではないかと考えられています。 美濃清水城で永眠した 西美濃三人衆の筆頭とされた一鉄は、何度も主君を換え激動の戦国時代を生き抜きました。一鉄のように時機を読んで主君を換えるのは、謀略に長けた人物ならではの生存戦略だったといえるでしょう。どんな君主のもとでも武功を立て、それでも独立勢力を貫いたその生き様は、まさに「頑固一徹」の言葉にふさわしいものでした。 天下人のもとでさまざまな戦いに身を投じた一鉄は、美濃清水城で静かにこの世を去っています。
頑固一徹の語源となった人物は、姉川の戦いで徳川家康とともに戦功をあげ、そのほかの戦いにおいても何を務めたりしたか。
頑固一徹の語源となった人物は、姉川の戦いで徳川家康とともに戦功をあげ、そのほかの戦いにおいても殿軍(最後部の軍勢)を指揮したり軍師を務めたりした。
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頑固一徹の語源となった人物は、稲葉一鉄である。 信長家臣から秀吉家臣へ 斎藤家の重臣から信長の家臣となった一鉄は、のちに豊臣秀吉にも仕えるようになります。天下人のもとでの活躍はどのようなものだったのでしょうか? 織田信長のもとで武功を立てる! 信長の上洛の際に第一隊を担った一鉄は、姉川の戦いで徳川家康とともに戦功をあげ、そのほかの戦いにおいても殿軍(最後部の軍勢)を指揮したり軍師を務めたりしました。また、一乗谷城の戦いでは朝倉義景を追い詰めるなどの武功も立て、新たに美濃清水城を与えられています。 その後も、長篠の戦い、越前一向一揆攻め、有岡城の戦いなどさまざまな合戦に参加して活躍した一鉄でしたが、天正7年(1579)には家督と曽根城を嫡子・貞通に譲り、美濃清水城で隠居しました。 本能寺の変後、美濃の独立を画策 隠居して数年後の天正10年(1582)明智光秀による本能寺の変が勃発します。信長の死後、一鉄は美濃の国人衆に呼びかけ美濃独立を画策しました。内通の疑いで織田家を追放されていた守就も、復権を目指して光秀と手を組み反乱を起こしますが、一鉄はこれを討伐し守就らを敗死させています。 秀吉に仕えて小牧・長久手の戦いで奮闘 天正10年(1582)の清洲会議の後、美濃は信長の三男・織田信孝の支配下に置かれることになりましたが、一鉄は信孝と対立する秀吉に従うようになります。翌年の賤ヶ岳の戦いでは秀吉・織田信雄の側につき、小牧・長久手の戦いでも秀吉方で参陣。一鉄はここでも武功を立てていますが、それを最後に前線から遠ざかりました。 一鉄はどんな人物だったのか? さまざまな君主に仕え、多くの戦いに身を置いてきた一鉄。その人物像とは、どのようなものなのでしょうか? 武勇に優れ謀略にも長けていた 一鉄は、信長や秀吉だけでなく徳川家康にも認められるほど武勇や謀略に優れていました。姉川の戦いの際、信長が家康に「自分の家臣であれば誰でも連れていってよい」と言ったところ、家康は一鉄だけを指名したといいます。これが織田家中で評判になり、一鉄を羨む声が上がったといわれています。 茶道・医道にも関心が深かった 多くの武功を挙げた一鉄には、教養人としての顔もありました。茶道に造詣が深く、茶の湯秘伝書『数奇厳之図』を相伝されたほか、香道家・志野省巴から目録も伝授。また公家・三条西公条からは専門的な薬方も相伝されており、関心が深かった医道については『稲葉一鉄薬方覚書』という覚書きを残しています。 情けをもって接する親切心があった 信長が武田攻めをした際、武田領内に身を寄せていた頼芸が発見されました。このとき頼芸は失明しており、一鉄はかつての君主である頼芸のために働きかけたといわれています。これにより頼芸は、余命の半年間を美濃で過ごせたのです。 残された逸話 一鉄にはどのようなエピソードが残されているのでしょうか。彼にまつわる2つの逸話をご紹介します。 「頑固一徹」の語源になった 一鉄には頑固な一面があり、「一鉄」の号にかけて「頑固一徹」の言葉が生まれたといわれています。 現在でも使われるこの言葉は、「非常に頑なで一度決めた考えや態度を変えようとしないさま」という意味です。『名将言行録』には「貞通人となり敢決強直。ゆえに世人、敢決強直なる人を呼びて一鉄という」という一文が記されています。 明智光秀との間でトラブルが!? 光秀には斎藤利三という重臣がいますが、利三はもともと一鉄に仕えており、二人は縁戚関係でした。しかし光秀が利三を自分の家臣として引き抜いたため、一鉄は信長に不服を訴えます。信長は利三の返還を命じますが、光秀が拒否したため一鉄は激高。最終的に利三への切腹命令で騒動は収束しましたが、これが本能寺の変の4日前の出来事だったため、原因の一旦になったのではないかと考えられています。 美濃清水城で永眠した 西美濃三人衆の筆頭とされた一鉄は、何度も主君を換え激動の戦国時代を生き抜きました。一鉄のように時機を読んで主君を換えるのは、謀略に長けた人物ならではの生存戦略だったといえるでしょう。どんな君主のもとでも武功を立て、それでも独立勢力を貫いたその生き様は、まさに「頑固一徹」の言葉にふさわしいものでした。 天下人のもとでさまざまな戦いに身を投じた一鉄は、美濃清水城で静かにこの世を去っています。
頑固一徹の語源となった人物は、美濃の国人衆に呼びかけ美濃独立を画策したか。
頑固一徹の語源となった人物は、美濃の国人衆に呼びかけ美濃独立を画策した。
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頑固一徹の語源となった人物は、稲葉一鉄である。 信長家臣から秀吉家臣へ 斎藤家の重臣から信長の家臣となった一鉄は、のちに豊臣秀吉にも仕えるようになります。天下人のもとでの活躍はどのようなものだったのでしょうか? 織田信長のもとで武功を立てる! 信長の上洛の際に第一隊を担った一鉄は、姉川の戦いで徳川家康とともに戦功をあげ、そのほかの戦いにおいても殿軍(最後部の軍勢)を指揮したり軍師を務めたりしました。また、一乗谷城の戦いでは朝倉義景を追い詰めるなどの武功も立て、新たに美濃清水城を与えられています。 その後も、長篠の戦い、越前一向一揆攻め、有岡城の戦いなどさまざまな合戦に参加して活躍した一鉄でしたが、天正7年(1579)には家督と曽根城を嫡子・貞通に譲り、美濃清水城で隠居しました。 本能寺の変後、美濃の独立を画策 隠居して数年後の天正10年(1582)明智光秀による本能寺の変が勃発します。信長の死後、一鉄は美濃の国人衆に呼びかけ美濃独立を画策しました。内通の疑いで織田家を追放されていた守就も、復権を目指して光秀と手を組み反乱を起こしますが、一鉄はこれを討伐し守就らを敗死させています。 秀吉に仕えて小牧・長久手の戦いで奮闘 天正10年(1582)の清洲会議の後、美濃は信長の三男・織田信孝の支配下に置かれることになりましたが、一鉄は信孝と対立する秀吉に従うようになります。翌年の賤ヶ岳の戦いでは秀吉・織田信雄の側につき、小牧・長久手の戦いでも秀吉方で参陣。一鉄はここでも武功を立てていますが、それを最後に前線から遠ざかりました。 一鉄はどんな人物だったのか? さまざまな君主に仕え、多くの戦いに身を置いてきた一鉄。その人物像とは、どのようなものなのでしょうか? 武勇に優れ謀略にも長けていた 一鉄は、信長や秀吉だけでなく徳川家康にも認められるほど武勇や謀略に優れていました。姉川の戦いの際、信長が家康に「自分の家臣であれば誰でも連れていってよい」と言ったところ、家康は一鉄だけを指名したといいます。これが織田家中で評判になり、一鉄を羨む声が上がったといわれています。 茶道・医道にも関心が深かった 多くの武功を挙げた一鉄には、教養人としての顔もありました。茶道に造詣が深く、茶の湯秘伝書『数奇厳之図』を相伝されたほか、香道家・志野省巴から目録も伝授。また公家・三条西公条からは専門的な薬方も相伝されており、関心が深かった医道については『稲葉一鉄薬方覚書』という覚書きを残しています。 情けをもって接する親切心があった 信長が武田攻めをした際、武田領内に身を寄せていた頼芸が発見されました。このとき頼芸は失明しており、一鉄はかつての君主である頼芸のために働きかけたといわれています。これにより頼芸は、余命の半年間を美濃で過ごせたのです。 残された逸話 一鉄にはどのようなエピソードが残されているのでしょうか。彼にまつわる2つの逸話をご紹介します。 「頑固一徹」の語源になった 一鉄には頑固な一面があり、「一鉄」の号にかけて「頑固一徹」の言葉が生まれたといわれています。 現在でも使われるこの言葉は、「非常に頑なで一度決めた考えや態度を変えようとしないさま」という意味です。『名将言行録』には「貞通人となり敢決強直。ゆえに世人、敢決強直なる人を呼びて一鉄という」という一文が記されています。 明智光秀との間でトラブルが!? 光秀には斎藤利三という重臣がいますが、利三はもともと一鉄に仕えており、二人は縁戚関係でした。しかし光秀が利三を自分の家臣として引き抜いたため、一鉄は信長に不服を訴えます。信長は利三の返還を命じますが、光秀が拒否したため一鉄は激高。最終的に利三への切腹命令で騒動は収束しましたが、これが本能寺の変の4日前の出来事だったため、原因の一旦になったのではないかと考えられています。 美濃清水城で永眠した 西美濃三人衆の筆頭とされた一鉄は、何度も主君を換え激動の戦国時代を生き抜きました。一鉄のように時機を読んで主君を換えるのは、謀略に長けた人物ならではの生存戦略だったといえるでしょう。どんな君主のもとでも武功を立て、それでも独立勢力を貫いたその生き様は、まさに「頑固一徹」の言葉にふさわしいものでした。 天下人のもとでさまざまな戦いに身を投じた一鉄は、美濃清水城で静かにこの世を去っています。
頑固一徹の語源となった人物は、信孝と対立する誰に従うようになったか。
頑固一徹の語源となった人物は、信孝と対立する秀吉に従うようになった。