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歴史
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、池田輝政である。 厚遇を受けた輝政 吉田城主時代の輝政は豊臣秀次(秀吉の甥で豊臣家2代目関白)に付属していたと考えられており、文禄の役の際は秀次に近侍して国内の東国警衛に、朝鮮出兵に関しては大船建造や兵糧米の回送などに努めました。 また、輝政は秀吉から豊臣一族に準じて厚遇をうけていたようで、文禄3年(1594)には秀吉の仲介で徳川家康の娘・督姫(とくひめ)と結婚。秀次の失脚時には秀次の妻や妾の多くが殺害されたにもかかわらず、秀次の正室だった輝政の妹・若政所は助命されました。それほど輝政は秀吉に重用されていたといえるでしょう。 徳川家康への接近 やがて秀吉が死去すると、輝政は家康に接近していきます。家康のもとではどのような働きをしたのでしょうか? 石田三成と対立し…… 秀吉死後に家康へと接近した輝政は、それ以降、福島正則、加藤清正といった武断派(秀吉政権下で軍務を担った派閥)の諸将とともに行動しました。これにより、文治派(同政務)の石田三成らと対立。両派の仲裁役だった前田利家が死去すると、秀吉の子飼いだった七将(福島正則、加藤清正、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政)の一人として石田三成襲撃事件を起こします。 この対立の延長上にある慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川方として参加し、前哨戦の岐阜城攻略で福島正則とともに軍功をあげました。 初代姫路藩主に就任 関ヶ原の戦い後は、岐阜城攻略の功績により52万石を領し初代姫路藩主に就任します。当時これは8番目に高い知行で、輝政は国持大名として政治的な地位を獲得しました。その後も正則に次いで高い位に任官されるなど出世を重ね、初期の徳川政権において重要な政治的役割を担当。慶長6年(1601)からは姫路城の大規模改修に着手し、加古川流域の河川開発や下流域の都市開発などにも尽力します。 また諸大名らとともに江戸城や篠山城、名古屋城などの天下普請(土木工事)にも従事し、慶長14年(1609)には火災で失われた伊勢神宮の摩尼殿(まにでん)の再建にも貢献しました。 徳川家の信頼を得る 徳川家の信頼を得た輝政は、慶長16年(1611)二条城で行われた家康と豊臣秀頼との会見に同席し、慶長17年(1612)には徳川一門以外で初めて参議に任官されます。また松平姓を名乗ることを許され、松平播磨宰相と称されることもあったようです。 こうして徳川政権下でも盤石な地位を築いた輝政ですが、最後は脳卒中の後遺症から姫路で亡くなりました。輝政が病を患ったと知った家康は薬を遣わし、その死を知った秀頼の重臣らはがく然としたそうです。それほど輝政の存在は大きかったといえるでしょう。 輝政にまつわる逸話 天下人に重用され戦国の世を渡り歩いた輝政。そんな彼にまつわる逸話をご紹介します。 寡黙で寛容な人物だった 幼少期の輝政は潑剌(はつらつ)としており、成長とともにたくましくなりました。大人になってからの彼は口数の少ない人物で、物事にこだわらない寛容な性格だったようです。家康の命令による岐阜城攻めの際、輝政は正則と功名争いをしていました。この戦いで一番乗りの手柄を上げたのは輝政でしたが、最終的にはあっさりと功を譲ったといわれています。このような寛容さが信用につながり、ひいては重用につながったのかもしれません。 愛刀「大包平」は日本刀の最高傑作! 輝政は平安時代に活躍した古備前派の刀工・包平による太刀「大包平(おおかねひら)」を愛用していました。この刀は現存する日本刀のなかでも最高傑作といわれ、「童子切安綱(どうじぎり)」と並んで「日本刀の東西の両横綱」と例えられることがあります。江戸時代に池田光政が入手したという逸話がありますが、実際には輝政の代には池田家にあり、年中行事などに用いられていたようです。現在は国宝に指定され、東京国立博物館に収蔵されています。 明治維新まで繁栄した 織田家重臣だった輝政は、秀吉・家康と天下人のもとで次々と活躍しました。その厚遇ぶりからしても、輝政が家臣として十分に手腕を発揮していたことがわかるでしょう。幕府が変わりゆくなか活躍しつづけた輝政は、一族の繁栄の基盤を築いたといっても過言ではありません。五男・忠継、六男・忠雄、弟・長吉も合わせて一族で約100万石の大領を有するほど勢力を拡大した池田家は、明治維新にいたるまで繁栄しました。
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、何を愛用していたか。
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、平安時代に活躍した古備前派の刀工・包平による太刀「大包平(おおかねひら)」を愛用していた。
JCRRAG_018602
歴史
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、酒井忠次である。 うまれから家老になるまで 忠次はどのように家康の功臣になったのでしょうか?幼少期から家老になるまでの経緯を振り返ります。 松平氏の譜代家臣・酒井家に生まれる 忠次は、大永7年(1527)徳川氏の前身・松平氏の譜代家臣である酒井忠親の次男として三河で誕生しました。一説によれば、酒井氏は松平氏と先祖を同じくする庶流であり、由緒ある系譜だといわれています。 忠次は家康が生まれたころに元服し、それ以降は家康の父・松平広忠に仕えました。天文18年(1549)家康が今川義元への人質として駿府に送られる際に同行し、それ以降は家康配下となります。 この当時の松平氏は今川氏に服属していたため、忠次は今川方として尾張・織田信秀との戦いに参加し、戦功をあげました。また、居城の福谷城が織田軍に攻められたときは、激戦の末に織田方の柴田勝家を敗走させ勝利しています。この攻防戦は『東照軍艦』『徳川実紀』など多くの書物に記述されました。 徳川家の家老、東三河の旗頭へ 永禄3年(1560)桶狭間の戦いが勃発します。この戦いで忠次は先鋒隊として活躍、家康にとっても大きな転機が訪れました。家康らは今川氏敗北の混乱に乗じ、松平氏の本拠である岡崎城に入城。忠次は織田信長と和睦して手を組むよう進言し、家康はついに今川からの独立を果たします。 その後、忠次は徳川家の家老に就任。永禄6年(1563)の三河一向一揆では、多くの酒井氏が一向一揆側に味方するなか、忠次は家康に従って戦いました。その翌年の吉田城攻めでは先鋒を務め、無血開城を実現して吉田城主となっています。このような功績から、忠次は東三河の旗頭に取り立てられました。 戦場で活躍し続けた忠次 家康のもとで出世し、数々の戦いで活躍を遂げた忠次。しかし、悔恨を残す事件もあったようです。 織田信長から称賛される 忠次は、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、高天神城の戦い、長篠の戦いなど主な戦いに参加し、家康から厚い信頼を得ました。とくに武田勝頼と対立した長篠の戦いでは、武田軍の背後をついて落城させたことから「背に目を持つごとし」と信長の称賛もうけています。また、忠次は外交の窓口としての役割も担っており、取り次ぎとしても活躍していたようです。当時の家康にとっては欠かせない存在だったといえるでしょう。
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、いつ誕生したか。
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、大永7年(1527)に誕生した。
JCRRAG_018603
歴史
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、酒井忠次である。 うまれから家老になるまで 忠次はどのように家康の功臣になったのでしょうか?幼少期から家老になるまでの経緯を振り返ります。 松平氏の譜代家臣・酒井家に生まれる 忠次は、大永7年(1527)徳川氏の前身・松平氏の譜代家臣である酒井忠親の次男として三河で誕生しました。一説によれば、酒井氏は松平氏と先祖を同じくする庶流であり、由緒ある系譜だといわれています。 忠次は家康が生まれたころに元服し、それ以降は家康の父・松平広忠に仕えました。天文18年(1549)家康が今川義元への人質として駿府に送られる際に同行し、それ以降は家康配下となります。 この当時の松平氏は今川氏に服属していたため、忠次は今川方として尾張・織田信秀との戦いに参加し、戦功をあげました。また、居城の福谷城が織田軍に攻められたときは、激戦の末に織田方の柴田勝家を敗走させ勝利しています。この攻防戦は『東照軍艦』『徳川実紀』など多くの書物に記述されました。 徳川家の家老、東三河の旗頭へ 永禄3年(1560)桶狭間の戦いが勃発します。この戦いで忠次は先鋒隊として活躍、家康にとっても大きな転機が訪れました。家康らは今川氏敗北の混乱に乗じ、松平氏の本拠である岡崎城に入城。忠次は織田信長と和睦して手を組むよう進言し、家康はついに今川からの独立を果たします。 その後、忠次は徳川家の家老に就任。永禄6年(1563)の三河一向一揆では、多くの酒井氏が一向一揆側に味方するなか、忠次は家康に従って戦いました。その翌年の吉田城攻めでは先鋒を務め、無血開城を実現して吉田城主となっています。このような功績から、忠次は東三河の旗頭に取り立てられました。 戦場で活躍し続けた忠次 家康のもとで出世し、数々の戦いで活躍を遂げた忠次。しかし、悔恨を残す事件もあったようです。 織田信長から称賛される 忠次は、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、高天神城の戦い、長篠の戦いなど主な戦いに参加し、家康から厚い信頼を得ました。とくに武田勝頼と対立した長篠の戦いでは、武田軍の背後をついて落城させたことから「背に目を持つごとし」と信長の称賛もうけています。また、忠次は外交の窓口としての役割も担っており、取り次ぎとしても活躍していたようです。当時の家康にとっては欠かせない存在だったといえるでしょう。
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、誰の次男として誕生したか。
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、徳川氏の前身・松平氏の譜代家臣である酒井忠親の次男として誕生した。
JCRRAG_018604
歴史
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、酒井忠次である。 うまれから家老になるまで 忠次はどのように家康の功臣になったのでしょうか?幼少期から家老になるまでの経緯を振り返ります。 松平氏の譜代家臣・酒井家に生まれる 忠次は、大永7年(1527)徳川氏の前身・松平氏の譜代家臣である酒井忠親の次男として三河で誕生しました。一説によれば、酒井氏は松平氏と先祖を同じくする庶流であり、由緒ある系譜だといわれています。 忠次は家康が生まれたころに元服し、それ以降は家康の父・松平広忠に仕えました。天文18年(1549)家康が今川義元への人質として駿府に送られる際に同行し、それ以降は家康配下となります。 この当時の松平氏は今川氏に服属していたため、忠次は今川方として尾張・織田信秀との戦いに参加し、戦功をあげました。また、居城の福谷城が織田軍に攻められたときは、激戦の末に織田方の柴田勝家を敗走させ勝利しています。この攻防戦は『東照軍艦』『徳川実紀』など多くの書物に記述されました。 徳川家の家老、東三河の旗頭へ 永禄3年(1560)桶狭間の戦いが勃発します。この戦いで忠次は先鋒隊として活躍、家康にとっても大きな転機が訪れました。家康らは今川氏敗北の混乱に乗じ、松平氏の本拠である岡崎城に入城。忠次は織田信長と和睦して手を組むよう進言し、家康はついに今川からの独立を果たします。 その後、忠次は徳川家の家老に就任。永禄6年(1563)の三河一向一揆では、多くの酒井氏が一向一揆側に味方するなか、忠次は家康に従って戦いました。その翌年の吉田城攻めでは先鋒を務め、無血開城を実現して吉田城主となっています。このような功績から、忠次は東三河の旗頭に取り立てられました。 戦場で活躍し続けた忠次 家康のもとで出世し、数々の戦いで活躍を遂げた忠次。しかし、悔恨を残す事件もあったようです。 織田信長から称賛される 忠次は、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、高天神城の戦い、長篠の戦いなど主な戦いに参加し、家康から厚い信頼を得ました。とくに武田勝頼と対立した長篠の戦いでは、武田軍の背後をついて落城させたことから「背に目を持つごとし」と信長の称賛もうけています。また、忠次は外交の窓口としての役割も担っており、取り次ぎとしても活躍していたようです。当時の家康にとっては欠かせない存在だったといえるでしょう。
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、どこで誕生した。
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、三河で誕生した。
JCRRAG_018605
歴史
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、酒井忠次である。 うまれから家老になるまで 忠次はどのように家康の功臣になったのでしょうか?幼少期から家老になるまでの経緯を振り返ります。 松平氏の譜代家臣・酒井家に生まれる 忠次は、大永7年(1527)徳川氏の前身・松平氏の譜代家臣である酒井忠親の次男として三河で誕生しました。一説によれば、酒井氏は松平氏と先祖を同じくする庶流であり、由緒ある系譜だといわれています。 忠次は家康が生まれたころに元服し、それ以降は家康の父・松平広忠に仕えました。天文18年(1549)家康が今川義元への人質として駿府に送られる際に同行し、それ以降は家康配下となります。 この当時の松平氏は今川氏に服属していたため、忠次は今川方として尾張・織田信秀との戦いに参加し、戦功をあげました。また、居城の福谷城が織田軍に攻められたときは、激戦の末に織田方の柴田勝家を敗走させ勝利しています。この攻防戦は『東照軍艦』『徳川実紀』など多くの書物に記述されました。 徳川家の家老、東三河の旗頭へ 永禄3年(1560)桶狭間の戦いが勃発します。この戦いで忠次は先鋒隊として活躍、家康にとっても大きな転機が訪れました。家康らは今川氏敗北の混乱に乗じ、松平氏の本拠である岡崎城に入城。忠次は織田信長と和睦して手を組むよう進言し、家康はついに今川からの独立を果たします。 その後、忠次は徳川家の家老に就任。永禄6年(1563)の三河一向一揆では、多くの酒井氏が一向一揆側に味方するなか、忠次は家康に従って戦いました。その翌年の吉田城攻めでは先鋒を務め、無血開城を実現して吉田城主となっています。このような功績から、忠次は東三河の旗頭に取り立てられました。 戦場で活躍し続けた忠次 家康のもとで出世し、数々の戦いで活躍を遂げた忠次。しかし、悔恨を残す事件もあったようです。 織田信長から称賛される 忠次は、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、高天神城の戦い、長篠の戦いなど主な戦いに参加し、家康から厚い信頼を得ました。とくに武田勝頼と対立した長篠の戦いでは、武田軍の背後をついて落城させたことから「背に目を持つごとし」と信長の称賛もうけています。また、忠次は外交の窓口としての役割も担っており、取り次ぎとしても活躍していたようです。当時の家康にとっては欠かせない存在だったといえるでしょう。
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、何の戦いに参加し、戦功をあげたか。
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、今川方として尾張・織田信秀との戦いに参加し、戦功をあげた。
JCRRAG_018606
歴史
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、酒井忠次である。 うまれから家老になるまで 忠次はどのように家康の功臣になったのでしょうか?幼少期から家老になるまでの経緯を振り返ります。 松平氏の譜代家臣・酒井家に生まれる 忠次は、大永7年(1527)徳川氏の前身・松平氏の譜代家臣である酒井忠親の次男として三河で誕生しました。一説によれば、酒井氏は松平氏と先祖を同じくする庶流であり、由緒ある系譜だといわれています。 忠次は家康が生まれたころに元服し、それ以降は家康の父・松平広忠に仕えました。天文18年(1549)家康が今川義元への人質として駿府に送られる際に同行し、それ以降は家康配下となります。 この当時の松平氏は今川氏に服属していたため、忠次は今川方として尾張・織田信秀との戦いに参加し、戦功をあげました。また、居城の福谷城が織田軍に攻められたときは、激戦の末に織田方の柴田勝家を敗走させ勝利しています。この攻防戦は『東照軍艦』『徳川実紀』など多くの書物に記述されました。 徳川家の家老、東三河の旗頭へ 永禄3年(1560)桶狭間の戦いが勃発します。この戦いで忠次は先鋒隊として活躍、家康にとっても大きな転機が訪れました。家康らは今川氏敗北の混乱に乗じ、松平氏の本拠である岡崎城に入城。忠次は織田信長と和睦して手を組むよう進言し、家康はついに今川からの独立を果たします。 その後、忠次は徳川家の家老に就任。永禄6年(1563)の三河一向一揆では、多くの酒井氏が一向一揆側に味方するなか、忠次は家康に従って戦いました。その翌年の吉田城攻めでは先鋒を務め、無血開城を実現して吉田城主となっています。このような功績から、忠次は東三河の旗頭に取り立てられました。 戦場で活躍し続けた忠次 家康のもとで出世し、数々の戦いで活躍を遂げた忠次。しかし、悔恨を残す事件もあったようです。 織田信長から称賛される 忠次は、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、高天神城の戦い、長篠の戦いなど主な戦いに参加し、家康から厚い信頼を得ました。とくに武田勝頼と対立した長篠の戦いでは、武田軍の背後をついて落城させたことから「背に目を持つごとし」と信長の称賛もうけています。また、忠次は外交の窓口としての役割も担っており、取り次ぎとしても活躍していたようです。当時の家康にとっては欠かせない存在だったといえるでしょう。
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、何に就任したか。
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、徳川家の家老に就任した。
JCRRAG_018607
歴史
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、酒井忠次である。 家康の嫡子・松平信康の事件で… 天正7年(1579)家康の妻・築山殿と嫡男・徳川信康が死罪になる事件が起きました。信康の正室・徳姫は信長の娘で、今川の血を引く築山殿や信康に不満を抱き、夫との不仲や、築山殿が勝頼と内通したことなどを信長に報告します。それが事実かどうか詰問された忠次は、信康を庇うことなく事実だと容認。家康は信長から妻子の切腹命令を受け、やむを得ず処断しました。その後、忠次が長男・家次の知行を加増するよう嘆願した際、家康から「おまえも子がかわいいか?」と暗になじられたといわれています。 徳川家の台頭と忠次の隠退 時は流れ、本能寺の変で信長が横死します。羽柴秀吉の時代が到来すると、徳川家も徐々に台頭していきました。 家康第一の重臣となる 天正10年(1582)本能寺の変が勃発した際、家康はわずかな供回りと堺を遊覧中でした。しかし信長横死の知らせを受け、危険な道のりを経て三河に帰還します。この「神君伊賀越え」には忠次も同行しました。 三河帰国後、領主不在状態になった甲斐・信濃・上野の武田旧領をめぐり、天正壬午の乱が勃発。忠次は信濃に侵攻して国衆たちを次々と懐柔し、甲斐・信濃を得て5カ国を領有します。また天正13年(1585)家康の宿老・石川数正が出奔すると、忠次は家康第一の重臣となり、家中で最高位となる従四位下・左衛門督に任命されました。 家督を譲り隠居する 長らく家康と苦楽を共にしてきた忠次ですが、天正16年(1588)には長男・家次に家督を譲って京都で隠居します。この隠居は年齢のせいもあるものの、眼病でほとんど目が見えなかったからともいわれています。このころ家康は秀吉の軍門に降っており、忠次は秀吉から京都の屋敷と在京料1000石を与えられていたようです。 そして、忠次は慶長元年(1596)に京都の桜井屋敷で亡くなりました。墓所は、知恩院の塔頭・先求院にあります。 忠次にまつわる逸話 家康の重臣として活躍した忠次は、どのような人物だったのでしょうか?忠次にまつわるエピソードをご紹介します。 「酒井の太鼓」は歌舞伎の演目に 家康の生涯で最大のピンチだったともいわれる三方ヶ原の戦い。この合戦で家康が浜松城に逃げ帰った後、忠次は城の櫓上で太鼓を鳴らしました。これにより武田方は、伏兵がいると思い引き返したといわれています。この「酒井の太鼓」の逸話は、明治6年(1873)東京村山座で歌舞伎の演目として初演され人気を博しました。 門松の斜め切りの由来になった? 元亀4年(1573)の正月のこと、武田家から「まつかれて たけたぐひなき あしたかな」という句が送られてきました。この句は、松は松平、竹は武田を示し、「松平が滅んで武田が栄える年の始めだ」いう意味だったため、家康や家臣らは激怒したといいます。そこで忠次は、その句にいくつか濁点を加えて「松枯れで武田首(たけだくび)なき明日かな」と詠み返し、「松平は滅びず武田信玄の首が飛ぶめでたい年の始めだ」という意味に変えてしまったのです。 このような逸話から、正月の門松を斜めに切り落とすのが習慣になったという説があります。 「海老すくい」の踊りが得意! 忠次は「海老すくい」という踊りが得意で、諸将の前で踊りを見せて場を盛り上げたといわれています。家康と北条氏政の同盟締結の際も、酒宴でこの踊りを披露したのだとか。この「海老すくい」がどのような踊りかは不明ですが、重臣でありながら気さくな振る舞いをする人物だったようです。 日本刀「猪切」を愛用した 忠次の愛刀は村正の高弟・正真の作「猪切(いのししぎり)」で、家康が狩りに出た際、忠次がこの刀で猪を斬ったことから「猪切」の金象嵌(きんぞうがん)を入れたといわれています。この刀は、忠次の四男・松平甚三郎の家系に伝わりました。また、忠次所有としては「甕通槍(かめどおしやり)」も有名です。この槍には、戦場で窮した敵が水瓶をかぶって隠れた際、その瓶ごと槍で貫いたといういわれがあり、酒井家の重宝とされています。 徳川家康の天下取りに貢献した 徳川四天王だけでなく徳川十六神将の筆頭でもあった忠次。一人だけ年上だったため、四天王のほかの武将とは活躍時期が異なりますが、人質時代から家康のそばに仕えていた彼の功績はあまりにも大きいでしょう。その実力は信長や秀吉からも認められるほどで、徳川家の台頭にはなくてはならない存在でした。
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、信濃に侵攻して何をしたか。
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、信濃に侵攻して国衆たちを次々と懐柔した。
JCRRAG_018608
歴史
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、酒井忠次である。 家康の嫡子・松平信康の事件で… 天正7年(1579)家康の妻・築山殿と嫡男・徳川信康が死罪になる事件が起きました。信康の正室・徳姫は信長の娘で、今川の血を引く築山殿や信康に不満を抱き、夫との不仲や、築山殿が勝頼と内通したことなどを信長に報告します。それが事実かどうか詰問された忠次は、信康を庇うことなく事実だと容認。家康は信長から妻子の切腹命令を受け、やむを得ず処断しました。その後、忠次が長男・家次の知行を加増するよう嘆願した際、家康から「おまえも子がかわいいか?」と暗になじられたといわれています。 徳川家の台頭と忠次の隠退 時は流れ、本能寺の変で信長が横死します。羽柴秀吉の時代が到来すると、徳川家も徐々に台頭していきました。 家康第一の重臣となる 天正10年(1582)本能寺の変が勃発した際、家康はわずかな供回りと堺を遊覧中でした。しかし信長横死の知らせを受け、危険な道のりを経て三河に帰還します。この「神君伊賀越え」には忠次も同行しました。 三河帰国後、領主不在状態になった甲斐・信濃・上野の武田旧領をめぐり、天正壬午の乱が勃発。忠次は信濃に侵攻して国衆たちを次々と懐柔し、甲斐・信濃を得て5カ国を領有します。また天正13年(1585)家康の宿老・石川数正が出奔すると、忠次は家康第一の重臣となり、家中で最高位となる従四位下・左衛門督に任命されました。 家督を譲り隠居する 長らく家康と苦楽を共にしてきた忠次ですが、天正16年(1588)には長男・家次に家督を譲って京都で隠居します。この隠居は年齢のせいもあるものの、眼病でほとんど目が見えなかったからともいわれています。このころ家康は秀吉の軍門に降っており、忠次は秀吉から京都の屋敷と在京料1000石を与えられていたようです。 そして、忠次は慶長元年(1596)に京都の桜井屋敷で亡くなりました。墓所は、知恩院の塔頭・先求院にあります。 忠次にまつわる逸話 家康の重臣として活躍した忠次は、どのような人物だったのでしょうか?忠次にまつわるエピソードをご紹介します。 「酒井の太鼓」は歌舞伎の演目に 家康の生涯で最大のピンチだったともいわれる三方ヶ原の戦い。この合戦で家康が浜松城に逃げ帰った後、忠次は城の櫓上で太鼓を鳴らしました。これにより武田方は、伏兵がいると思い引き返したといわれています。この「酒井の太鼓」の逸話は、明治6年(1873)東京村山座で歌舞伎の演目として初演され人気を博しました。 門松の斜め切りの由来になった? 元亀4年(1573)の正月のこと、武田家から「まつかれて たけたぐひなき あしたかな」という句が送られてきました。この句は、松は松平、竹は武田を示し、「松平が滅んで武田が栄える年の始めだ」いう意味だったため、家康や家臣らは激怒したといいます。そこで忠次は、その句にいくつか濁点を加えて「松枯れで武田首(たけだくび)なき明日かな」と詠み返し、「松平は滅びず武田信玄の首が飛ぶめでたい年の始めだ」という意味に変えてしまったのです。 このような逸話から、正月の門松を斜めに切り落とすのが習慣になったという説があります。 「海老すくい」の踊りが得意! 忠次は「海老すくい」という踊りが得意で、諸将の前で踊りを見せて場を盛り上げたといわれています。家康と北条氏政の同盟締結の際も、酒宴でこの踊りを披露したのだとか。この「海老すくい」がどのような踊りかは不明ですが、重臣でありながら気さくな振る舞いをする人物だったようです。 日本刀「猪切」を愛用した 忠次の愛刀は村正の高弟・正真の作「猪切(いのししぎり)」で、家康が狩りに出た際、忠次がこの刀で猪を斬ったことから「猪切」の金象嵌(きんぞうがん)を入れたといわれています。この刀は、忠次の四男・松平甚三郎の家系に伝わりました。また、忠次所有としては「甕通槍(かめどおしやり)」も有名です。この槍には、戦場で窮した敵が水瓶をかぶって隠れた際、その瓶ごと槍で貫いたといういわれがあり、酒井家の重宝とされています。 徳川家康の天下取りに貢献した 徳川四天王だけでなく徳川十六神将の筆頭でもあった忠次。一人だけ年上だったため、四天王のほかの武将とは活躍時期が異なりますが、人質時代から家康のそばに仕えていた彼の功績はあまりにも大きいでしょう。その実力は信長や秀吉からも認められるほどで、徳川家の台頭にはなくてはならない存在でした。
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、甲斐・信濃を得て何か国を領有したか。
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、甲斐・信濃を得て5カ国を領有した。
JCRRAG_018609
歴史
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、酒井忠次である。 家康の嫡子・松平信康の事件で… 天正7年(1579)家康の妻・築山殿と嫡男・徳川信康が死罪になる事件が起きました。信康の正室・徳姫は信長の娘で、今川の血を引く築山殿や信康に不満を抱き、夫との不仲や、築山殿が勝頼と内通したことなどを信長に報告します。それが事実かどうか詰問された忠次は、信康を庇うことなく事実だと容認。家康は信長から妻子の切腹命令を受け、やむを得ず処断しました。その後、忠次が長男・家次の知行を加増するよう嘆願した際、家康から「おまえも子がかわいいか?」と暗になじられたといわれています。 徳川家の台頭と忠次の隠退 時は流れ、本能寺の変で信長が横死します。羽柴秀吉の時代が到来すると、徳川家も徐々に台頭していきました。 家康第一の重臣となる 天正10年(1582)本能寺の変が勃発した際、家康はわずかな供回りと堺を遊覧中でした。しかし信長横死の知らせを受け、危険な道のりを経て三河に帰還します。この「神君伊賀越え」には忠次も同行しました。 三河帰国後、領主不在状態になった甲斐・信濃・上野の武田旧領をめぐり、天正壬午の乱が勃発。忠次は信濃に侵攻して国衆たちを次々と懐柔し、甲斐・信濃を得て5カ国を領有します。また天正13年(1585)家康の宿老・石川数正が出奔すると、忠次は家康第一の重臣となり、家中で最高位となる従四位下・左衛門督に任命されました。 家督を譲り隠居する 長らく家康と苦楽を共にしてきた忠次ですが、天正16年(1588)には長男・家次に家督を譲って京都で隠居します。この隠居は年齢のせいもあるものの、眼病でほとんど目が見えなかったからともいわれています。このころ家康は秀吉の軍門に降っており、忠次は秀吉から京都の屋敷と在京料1000石を与えられていたようです。 そして、忠次は慶長元年(1596)に京都の桜井屋敷で亡くなりました。墓所は、知恩院の塔頭・先求院にあります。 忠次にまつわる逸話 家康の重臣として活躍した忠次は、どのような人物だったのでしょうか?忠次にまつわるエピソードをご紹介します。 「酒井の太鼓」は歌舞伎の演目に 家康の生涯で最大のピンチだったともいわれる三方ヶ原の戦い。この合戦で家康が浜松城に逃げ帰った後、忠次は城の櫓上で太鼓を鳴らしました。これにより武田方は、伏兵がいると思い引き返したといわれています。この「酒井の太鼓」の逸話は、明治6年(1873)東京村山座で歌舞伎の演目として初演され人気を博しました。 門松の斜め切りの由来になった? 元亀4年(1573)の正月のこと、武田家から「まつかれて たけたぐひなき あしたかな」という句が送られてきました。この句は、松は松平、竹は武田を示し、「松平が滅んで武田が栄える年の始めだ」いう意味だったため、家康や家臣らは激怒したといいます。そこで忠次は、その句にいくつか濁点を加えて「松枯れで武田首(たけだくび)なき明日かな」と詠み返し、「松平は滅びず武田信玄の首が飛ぶめでたい年の始めだ」という意味に変えてしまったのです。 このような逸話から、正月の門松を斜めに切り落とすのが習慣になったという説があります。 「海老すくい」の踊りが得意! 忠次は「海老すくい」という踊りが得意で、諸将の前で踊りを見せて場を盛り上げたといわれています。家康と北条氏政の同盟締結の際も、酒宴でこの踊りを披露したのだとか。この「海老すくい」がどのような踊りかは不明ですが、重臣でありながら気さくな振る舞いをする人物だったようです。 日本刀「猪切」を愛用した 忠次の愛刀は村正の高弟・正真の作「猪切(いのししぎり)」で、家康が狩りに出た際、忠次がこの刀で猪を斬ったことから「猪切」の金象嵌(きんぞうがん)を入れたといわれています。この刀は、忠次の四男・松平甚三郎の家系に伝わりました。また、忠次所有としては「甕通槍(かめどおしやり)」も有名です。この槍には、戦場で窮した敵が水瓶をかぶって隠れた際、その瓶ごと槍で貫いたといういわれがあり、酒井家の重宝とされています。 徳川家康の天下取りに貢献した 徳川四天王だけでなく徳川十六神将の筆頭でもあった忠次。一人だけ年上だったため、四天王のほかの武将とは活躍時期が異なりますが、人質時代から家康のそばに仕えていた彼の功績はあまりにも大きいでしょう。その実力は信長や秀吉からも認められるほどで、徳川家の台頭にはなくてはならない存在でした。
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、何に任命されたか。
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、家中で最高位となる従四位下・左衛門督に任命された。
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歴史
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、酒井忠次である。 家康の嫡子・松平信康の事件で… 天正7年(1579)家康の妻・築山殿と嫡男・徳川信康が死罪になる事件が起きました。信康の正室・徳姫は信長の娘で、今川の血を引く築山殿や信康に不満を抱き、夫との不仲や、築山殿が勝頼と内通したことなどを信長に報告します。それが事実かどうか詰問された忠次は、信康を庇うことなく事実だと容認。家康は信長から妻子の切腹命令を受け、やむを得ず処断しました。その後、忠次が長男・家次の知行を加増するよう嘆願した際、家康から「おまえも子がかわいいか?」と暗になじられたといわれています。 徳川家の台頭と忠次の隠退 時は流れ、本能寺の変で信長が横死します。羽柴秀吉の時代が到来すると、徳川家も徐々に台頭していきました。 家康第一の重臣となる 天正10年(1582)本能寺の変が勃発した際、家康はわずかな供回りと堺を遊覧中でした。しかし信長横死の知らせを受け、危険な道のりを経て三河に帰還します。この「神君伊賀越え」には忠次も同行しました。 三河帰国後、領主不在状態になった甲斐・信濃・上野の武田旧領をめぐり、天正壬午の乱が勃発。忠次は信濃に侵攻して国衆たちを次々と懐柔し、甲斐・信濃を得て5カ国を領有します。また天正13年(1585)家康の宿老・石川数正が出奔すると、忠次は家康第一の重臣となり、家中で最高位となる従四位下・左衛門督に任命されました。 家督を譲り隠居する 長らく家康と苦楽を共にしてきた忠次ですが、天正16年(1588)には長男・家次に家督を譲って京都で隠居します。この隠居は年齢のせいもあるものの、眼病でほとんど目が見えなかったからともいわれています。このころ家康は秀吉の軍門に降っており、忠次は秀吉から京都の屋敷と在京料1000石を与えられていたようです。 そして、忠次は慶長元年(1596)に京都の桜井屋敷で亡くなりました。墓所は、知恩院の塔頭・先求院にあります。 忠次にまつわる逸話 家康の重臣として活躍した忠次は、どのような人物だったのでしょうか?忠次にまつわるエピソードをご紹介します。 「酒井の太鼓」は歌舞伎の演目に 家康の生涯で最大のピンチだったともいわれる三方ヶ原の戦い。この合戦で家康が浜松城に逃げ帰った後、忠次は城の櫓上で太鼓を鳴らしました。これにより武田方は、伏兵がいると思い引き返したといわれています。この「酒井の太鼓」の逸話は、明治6年(1873)東京村山座で歌舞伎の演目として初演され人気を博しました。 門松の斜め切りの由来になった? 元亀4年(1573)の正月のこと、武田家から「まつかれて たけたぐひなき あしたかな」という句が送られてきました。この句は、松は松平、竹は武田を示し、「松平が滅んで武田が栄える年の始めだ」いう意味だったため、家康や家臣らは激怒したといいます。そこで忠次は、その句にいくつか濁点を加えて「松枯れで武田首(たけだくび)なき明日かな」と詠み返し、「松平は滅びず武田信玄の首が飛ぶめでたい年の始めだ」という意味に変えてしまったのです。 このような逸話から、正月の門松を斜めに切り落とすのが習慣になったという説があります。 「海老すくい」の踊りが得意! 忠次は「海老すくい」という踊りが得意で、諸将の前で踊りを見せて場を盛り上げたといわれています。家康と北条氏政の同盟締結の際も、酒宴でこの踊りを披露したのだとか。この「海老すくい」がどのような踊りかは不明ですが、重臣でありながら気さくな振る舞いをする人物だったようです。 日本刀「猪切」を愛用した 忠次の愛刀は村正の高弟・正真の作「猪切(いのししぎり)」で、家康が狩りに出た際、忠次がこの刀で猪を斬ったことから「猪切」の金象嵌(きんぞうがん)を入れたといわれています。この刀は、忠次の四男・松平甚三郎の家系に伝わりました。また、忠次所有としては「甕通槍(かめどおしやり)」も有名です。この槍には、戦場で窮した敵が水瓶をかぶって隠れた際、その瓶ごと槍で貫いたといういわれがあり、酒井家の重宝とされています。 徳川家康の天下取りに貢献した 徳川四天王だけでなく徳川十六神将の筆頭でもあった忠次。一人だけ年上だったため、四天王のほかの武将とは活躍時期が異なりますが、人質時代から家康のそばに仕えていた彼の功績はあまりにも大きいでしょう。その実力は信長や秀吉からも認められるほどで、徳川家の台頭にはなくてはならない存在でした。
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、いつ亡くなったか。
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、慶長元年(1596)に亡くなった。
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歴史
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、酒井忠次である。 家康の嫡子・松平信康の事件で… 天正7年(1579)家康の妻・築山殿と嫡男・徳川信康が死罪になる事件が起きました。信康の正室・徳姫は信長の娘で、今川の血を引く築山殿や信康に不満を抱き、夫との不仲や、築山殿が勝頼と内通したことなどを信長に報告します。それが事実かどうか詰問された忠次は、信康を庇うことなく事実だと容認。家康は信長から妻子の切腹命令を受け、やむを得ず処断しました。その後、忠次が長男・家次の知行を加増するよう嘆願した際、家康から「おまえも子がかわいいか?」と暗になじられたといわれています。 徳川家の台頭と忠次の隠退 時は流れ、本能寺の変で信長が横死します。羽柴秀吉の時代が到来すると、徳川家も徐々に台頭していきました。 家康第一の重臣となる 天正10年(1582)本能寺の変が勃発した際、家康はわずかな供回りと堺を遊覧中でした。しかし信長横死の知らせを受け、危険な道のりを経て三河に帰還します。この「神君伊賀越え」には忠次も同行しました。 三河帰国後、領主不在状態になった甲斐・信濃・上野の武田旧領をめぐり、天正壬午の乱が勃発。忠次は信濃に侵攻して国衆たちを次々と懐柔し、甲斐・信濃を得て5カ国を領有します。また天正13年(1585)家康の宿老・石川数正が出奔すると、忠次は家康第一の重臣となり、家中で最高位となる従四位下・左衛門督に任命されました。 家督を譲り隠居する 長らく家康と苦楽を共にしてきた忠次ですが、天正16年(1588)には長男・家次に家督を譲って京都で隠居します。この隠居は年齢のせいもあるものの、眼病でほとんど目が見えなかったからともいわれています。このころ家康は秀吉の軍門に降っており、忠次は秀吉から京都の屋敷と在京料1000石を与えられていたようです。 そして、忠次は慶長元年(1596)に京都の桜井屋敷で亡くなりました。墓所は、知恩院の塔頭・先求院にあります。 忠次にまつわる逸話 家康の重臣として活躍した忠次は、どのような人物だったのでしょうか?忠次にまつわるエピソードをご紹介します。 「酒井の太鼓」は歌舞伎の演目に 家康の生涯で最大のピンチだったともいわれる三方ヶ原の戦い。この合戦で家康が浜松城に逃げ帰った後、忠次は城の櫓上で太鼓を鳴らしました。これにより武田方は、伏兵がいると思い引き返したといわれています。この「酒井の太鼓」の逸話は、明治6年(1873)東京村山座で歌舞伎の演目として初演され人気を博しました。 門松の斜め切りの由来になった? 元亀4年(1573)の正月のこと、武田家から「まつかれて たけたぐひなき あしたかな」という句が送られてきました。この句は、松は松平、竹は武田を示し、「松平が滅んで武田が栄える年の始めだ」いう意味だったため、家康や家臣らは激怒したといいます。そこで忠次は、その句にいくつか濁点を加えて「松枯れで武田首(たけだくび)なき明日かな」と詠み返し、「松平は滅びず武田信玄の首が飛ぶめでたい年の始めだ」という意味に変えてしまったのです。 このような逸話から、正月の門松を斜めに切り落とすのが習慣になったという説があります。 「海老すくい」の踊りが得意! 忠次は「海老すくい」という踊りが得意で、諸将の前で踊りを見せて場を盛り上げたといわれています。家康と北条氏政の同盟締結の際も、酒宴でこの踊りを披露したのだとか。この「海老すくい」がどのような踊りかは不明ですが、重臣でありながら気さくな振る舞いをする人物だったようです。 日本刀「猪切」を愛用した 忠次の愛刀は村正の高弟・正真の作「猪切(いのししぎり)」で、家康が狩りに出た際、忠次がこの刀で猪を斬ったことから「猪切」の金象嵌(きんぞうがん)を入れたといわれています。この刀は、忠次の四男・松平甚三郎の家系に伝わりました。また、忠次所有としては「甕通槍(かめどおしやり)」も有名です。この槍には、戦場で窮した敵が水瓶をかぶって隠れた際、その瓶ごと槍で貫いたといういわれがあり、酒井家の重宝とされています。 徳川家康の天下取りに貢献した 徳川四天王だけでなく徳川十六神将の筆頭でもあった忠次。一人だけ年上だったため、四天王のほかの武将とは活躍時期が異なりますが、人質時代から家康のそばに仕えていた彼の功績はあまりにも大きいでしょう。その実力は信長や秀吉からも認められるほどで、徳川家の台頭にはなくてはならない存在でした。
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、どこで亡くなったか。
徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力し徳川四天王筆頭だった人物は、京都の桜井屋敷で亡くなった。
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歴史
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、於大である。 うまれから母になるまで 於大の方の出自はどのようなものだったのでしょうか?まずは、うまれから家康誕生までについて振り返ります。 水野家と松平家の関係とは? 於大の方は、享禄元年(1528)尾張の国人で緒川城主・水野忠政の子として尾張国南部で誕生しました。水野家は尾張国南部と西三河に所領を持ち、当時三河で権勢を振るっていた松平家とは対立関係にありました。しかしそんな中、忠政は松平家当主・松平清康から妻の於富(華陽院)を譲るよう打診されます。於富については詳しいことはわかっていませんが、美しい女性だったといわれています。忠政は領国安定を図るため妻と離縁し、於富は娘・於大を連れて清康に再嫁しました。 岡崎城で竹千代を出産 天文4年(1535)清康が「森山崩れ」という事件で家臣に暗殺されると、松平家は一気に弱体化していきます。清康の嫡男・松平広忠は亡命生活を余儀なくされますが、駿河の今川家が手を差し伸べたため、その庇護下に入りました。広忠が松平家の居城・岡崎城に帰参したのは天文7年(1537)のことで、それ以降、松平家は今川家に従属して生きていくことになります。 一方、於大の実家である水野家では、父・忠政が於富と清康の死別により両家の繋がりが失われたことに不安を感じていました。そのため忠政は、まだ若かった広忠の正室として於大を嫁がせます。そして翌年、於大は岡崎城で竹千代(家康)を出産したのです。 離縁と再嫁 於大は三河国妙心寺で竹千代の長生きを祈念したといわれています。しかし、幸せはそう長く続かず、勢力図の変化に伴い離縁と再嫁を余儀なくされました。
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、いつ誕生したか。
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、享禄元年(1528)に誕生した。
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歴史
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、於大である。 うまれから母になるまで 於大の方の出自はどのようなものだったのでしょうか?まずは、うまれから家康誕生までについて振り返ります。 水野家と松平家の関係とは? 於大の方は、享禄元年(1528)尾張の国人で緒川城主・水野忠政の子として尾張国南部で誕生しました。水野家は尾張国南部と西三河に所領を持ち、当時三河で権勢を振るっていた松平家とは対立関係にありました。しかしそんな中、忠政は松平家当主・松平清康から妻の於富(華陽院)を譲るよう打診されます。於富については詳しいことはわかっていませんが、美しい女性だったといわれています。忠政は領国安定を図るため妻と離縁し、於富は娘・於大を連れて清康に再嫁しました。 岡崎城で竹千代を出産 天文4年(1535)清康が「森山崩れ」という事件で家臣に暗殺されると、松平家は一気に弱体化していきます。清康の嫡男・松平広忠は亡命生活を余儀なくされますが、駿河の今川家が手を差し伸べたため、その庇護下に入りました。広忠が松平家の居城・岡崎城に帰参したのは天文7年(1537)のことで、それ以降、松平家は今川家に従属して生きていくことになります。 一方、於大の実家である水野家では、父・忠政が於富と清康の死別により両家の繋がりが失われたことに不安を感じていました。そのため忠政は、まだ若かった広忠の正室として於大を嫁がせます。そして翌年、於大は岡崎城で竹千代(家康)を出産したのです。 離縁と再嫁 於大は三河国妙心寺で竹千代の長生きを祈念したといわれています。しかし、幸せはそう長く続かず、勢力図の変化に伴い離縁と再嫁を余儀なくされました。
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、誰の子として誕生したか。
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、尾張の国人で緒川城主・水野忠政の子として誕生した。
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歴史
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、於大である。 うまれから母になるまで 於大の方の出自はどのようなものだったのでしょうか?まずは、うまれから家康誕生までについて振り返ります。 水野家と松平家の関係とは? 於大の方は、享禄元年(1528)尾張の国人で緒川城主・水野忠政の子として尾張国南部で誕生しました。水野家は尾張国南部と西三河に所領を持ち、当時三河で権勢を振るっていた松平家とは対立関係にありました。しかしそんな中、忠政は松平家当主・松平清康から妻の於富(華陽院)を譲るよう打診されます。於富については詳しいことはわかっていませんが、美しい女性だったといわれています。忠政は領国安定を図るため妻と離縁し、於富は娘・於大を連れて清康に再嫁しました。 岡崎城で竹千代を出産 天文4年(1535)清康が「森山崩れ」という事件で家臣に暗殺されると、松平家は一気に弱体化していきます。清康の嫡男・松平広忠は亡命生活を余儀なくされますが、駿河の今川家が手を差し伸べたため、その庇護下に入りました。広忠が松平家の居城・岡崎城に帰参したのは天文7年(1537)のことで、それ以降、松平家は今川家に従属して生きていくことになります。 一方、於大の実家である水野家では、父・忠政が於富と清康の死別により両家の繋がりが失われたことに不安を感じていました。そのため忠政は、まだ若かった広忠の正室として於大を嫁がせます。そして翌年、於大は岡崎城で竹千代(家康)を出産したのです。 離縁と再嫁 於大は三河国妙心寺で竹千代の長生きを祈念したといわれています。しかし、幸せはそう長く続かず、勢力図の変化に伴い離縁と再嫁を余儀なくされました。
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、どこで誕生したか。
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、尾張国南部で誕生した。
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歴史
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、於大である。 うまれから母になるまで 於大の方の出自はどのようなものだったのでしょうか?まずは、うまれから家康誕生までについて振り返ります。 水野家と松平家の関係とは? 於大の方は、享禄元年(1528)尾張の国人で緒川城主・水野忠政の子として尾張国南部で誕生しました。水野家は尾張国南部と西三河に所領を持ち、当時三河で権勢を振るっていた松平家とは対立関係にありました。しかしそんな中、忠政は松平家当主・松平清康から妻の於富(華陽院)を譲るよう打診されます。於富については詳しいことはわかっていませんが、美しい女性だったといわれています。忠政は領国安定を図るため妻と離縁し、於富は娘・於大を連れて清康に再嫁しました。 岡崎城で竹千代を出産 天文4年(1535)清康が「森山崩れ」という事件で家臣に暗殺されると、松平家は一気に弱体化していきます。清康の嫡男・松平広忠は亡命生活を余儀なくされますが、駿河の今川家が手を差し伸べたため、その庇護下に入りました。広忠が松平家の居城・岡崎城に帰参したのは天文7年(1537)のことで、それ以降、松平家は今川家に従属して生きていくことになります。 一方、於大の実家である水野家では、父・忠政が於富と清康の死別により両家の繋がりが失われたことに不安を感じていました。そのため忠政は、まだ若かった広忠の正室として於大を嫁がせます。そして翌年、於大は岡崎城で竹千代(家康)を出産したのです。 離縁と再嫁 於大は三河国妙心寺で竹千代の長生きを祈念したといわれています。しかし、幸せはそう長く続かず、勢力図の変化に伴い離縁と再嫁を余儀なくされました。
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、どこで竹千代(家康)を出産したか。
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、岡崎城で竹千代(家康)を出産した。
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歴史
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、於大である。 うまれから母になるまで 於大の方の出自はどのようなものだったのでしょうか?まずは、うまれから家康誕生までについて振り返ります。 水野家と松平家の関係とは? 於大の方は、享禄元年(1528)尾張の国人で緒川城主・水野忠政の子として尾張国南部で誕生しました。水野家は尾張国南部と西三河に所領を持ち、当時三河で権勢を振るっていた松平家とは対立関係にありました。しかしそんな中、忠政は松平家当主・松平清康から妻の於富(華陽院)を譲るよう打診されます。於富については詳しいことはわかっていませんが、美しい女性だったといわれています。忠政は領国安定を図るため妻と離縁し、於富は娘・於大を連れて清康に再嫁しました。 岡崎城で竹千代を出産 天文4年(1535)清康が「森山崩れ」という事件で家臣に暗殺されると、松平家は一気に弱体化していきます。清康の嫡男・松平広忠は亡命生活を余儀なくされますが、駿河の今川家が手を差し伸べたため、その庇護下に入りました。広忠が松平家の居城・岡崎城に帰参したのは天文7年(1537)のことで、それ以降、松平家は今川家に従属して生きていくことになります。 一方、於大の実家である水野家では、父・忠政が於富と清康の死別により両家の繋がりが失われたことに不安を感じていました。そのため忠政は、まだ若かった広忠の正室として於大を嫁がせます。そして翌年、於大は岡崎城で竹千代(家康)を出産したのです。 離縁と再嫁 於大は三河国妙心寺で竹千代の長生きを祈念したといわれています。しかし、幸せはそう長く続かず、勢力図の変化に伴い離縁と再嫁を余儀なくされました。
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、どこで竹千代の長生きを祈念したか。
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、三河国妙心寺で竹千代の長生きを祈念した。
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歴史
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、於大である。 竹千代と生き別れに… 竹千代の誕生後まもなく、実家の水野家では父・忠政が亡くなり、於大の異父兄・水野信元が家督を継承しました。信元は天文13年(1544)松平家の主君・今川家を裏切り、織田家に従うようになります。これにより於大は、今川家との関係を配慮した広忠により離縁され、水野家の三河国刈谷城に返されました。こうして3歳の竹千代と生き別れになった彼女は、実家に身を寄せ、椎の木屋敷で暮らすことになったのです。 阿古居城主・久松俊勝に再嫁 天文17年(1547)於大は信元の意向で阿古居城主・久松俊勝に再嫁します。俊勝はもともと水野家の女性を妻に迎えていましたが、妻の死後は水野家と松平家のあいだで緊張感が高まっていました。そのような状況から、俊勝は水野家と関係強化を図るために於大と再嫁したと考えられています。これは於大にとって2度目の政略結婚でしたが、夫婦仲は良かったようで、二人は3男3女をもうけました。子宝に恵まれた於大は、それでも竹千代への配慮を忘れず、連絡が絶えないように贈り物などをしていたようです。 息子との再会 於大と竹千代は離れ離れになりましたが、のちに再会を果たします。再会までの流れと、その後の二人についてご紹介します。 転機となった桶狭間の戦い 竹千代は6歳のころ今川家の人質として駿府に送られるはずが、今川家から離反した戸田康光の裏切りで織田側へ送られました。そして2年後、今川家と織田家の人質交換で今川家の人質となります。このころ家康を養育していたのは、三河の国人に再嫁を繰り返したのち今川家を頼り、出家して源応尼(げんおうに)と名乗るようになった於大の母・於富でした。実の母が子の面倒を見てくれているということは、於大にとって安心だったかもしれません。 天文24年(1555)竹千代は今川家のもとで元服し次郎三郎元信と改名、のちに元康と改めます。そして永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川側の先鋒を務めることになり、退却時に岡崎城に入城し、ついに帰還を果たしました。 松平家に迎え入れられる 桶狭間の戦いのあと、元康は今川家から独立して織田家と同盟を結びます。また、今川義元からもらった偏諱である「元」を返上し、家康と改名。さらには、俊勝と於大の息子らに松平姓を与えたうえで家臣として召し抱え、於大を母として迎えました。このときの家康の年齢は20歳前後。うまれてすぐ子と生き別れになった於大にとってみれば、立派に成長した息子が迎えにきてくれたことは嬉しいできごとだったでしょう。 於大の苦悩と悲劇 我が子との再会を果たした於大ですが、家康の台頭とともに苦悩は増えていったようです。晩年の於大はどのように生きたのでしょうか? 兄の謀殺と夫の隠遁 天正3年(1576)謀反の疑いをかけられた於大の兄・信元が信長の命令で家康に謀殺され、水野家は一時滅亡に追い込まれます。このとき真相を知らずに家康のもとに信元を案内したのは夫・俊勝で、彼はその後に隠退してしまいました。また、織田家に仕えていた俊勝の子・久松信俊(俊勝の先妻の子)も信長から謀反を疑われ、自害のうえ所領を没収。このような悲運が続いた於大は、俊勝の菩提寺である安楽寺で剃髪し、伝通院と号しました。 子を他家に出すのを阻止 天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いのあと、於大の子・松平定勝が羽柴秀吉の養子になるという話が浮上します。しかし、於大は猛反対し家康にこの件を断念させました。於大は自分の側に子供を置いておけないのを寂しく感じ、末子の定勝が他家に行かないよう阻止したといわれています。これにより、家康の次男・於義丸(のちの結城秀康)が秀吉の養子になりましたが、定勝はしばらく家康から疎んじられたそうです。ただし、家康と定勝は親子ほどの歳が離れていたため、異父兄弟ながら基本的には仲が良かったと考えられています。 伝通院として生涯を閉じる 家康が天下人となったのち、伏見城に呼び寄せられた於大は、息子に看取られながらこの世を去りました。時代に翻弄され波乱の生涯を送った彼女ですが、幸せな最期だったといえるかもしれません。
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、誰により離縁されたか。
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、今川家との関係を配慮した広忠により離縁された。
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歴史
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、於大である。 竹千代と生き別れに… 竹千代の誕生後まもなく、実家の水野家では父・忠政が亡くなり、於大の異父兄・水野信元が家督を継承しました。信元は天文13年(1544)松平家の主君・今川家を裏切り、織田家に従うようになります。これにより於大は、今川家との関係を配慮した広忠により離縁され、水野家の三河国刈谷城に返されました。こうして3歳の竹千代と生き別れになった彼女は、実家に身を寄せ、椎の木屋敷で暮らすことになったのです。 阿古居城主・久松俊勝に再嫁 天文17年(1547)於大は信元の意向で阿古居城主・久松俊勝に再嫁します。俊勝はもともと水野家の女性を妻に迎えていましたが、妻の死後は水野家と松平家のあいだで緊張感が高まっていました。そのような状況から、俊勝は水野家と関係強化を図るために於大と再嫁したと考えられています。これは於大にとって2度目の政略結婚でしたが、夫婦仲は良かったようで、二人は3男3女をもうけました。子宝に恵まれた於大は、それでも竹千代への配慮を忘れず、連絡が絶えないように贈り物などをしていたようです。 息子との再会 於大と竹千代は離れ離れになりましたが、のちに再会を果たします。再会までの流れと、その後の二人についてご紹介します。 転機となった桶狭間の戦い 竹千代は6歳のころ今川家の人質として駿府に送られるはずが、今川家から離反した戸田康光の裏切りで織田側へ送られました。そして2年後、今川家と織田家の人質交換で今川家の人質となります。このころ家康を養育していたのは、三河の国人に再嫁を繰り返したのち今川家を頼り、出家して源応尼(げんおうに)と名乗るようになった於大の母・於富でした。実の母が子の面倒を見てくれているということは、於大にとって安心だったかもしれません。 天文24年(1555)竹千代は今川家のもとで元服し次郎三郎元信と改名、のちに元康と改めます。そして永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川側の先鋒を務めることになり、退却時に岡崎城に入城し、ついに帰還を果たしました。 松平家に迎え入れられる 桶狭間の戦いのあと、元康は今川家から独立して織田家と同盟を結びます。また、今川義元からもらった偏諱である「元」を返上し、家康と改名。さらには、俊勝と於大の息子らに松平姓を与えたうえで家臣として召し抱え、於大を母として迎えました。このときの家康の年齢は20歳前後。うまれてすぐ子と生き別れになった於大にとってみれば、立派に成長した息子が迎えにきてくれたことは嬉しいできごとだったでしょう。 於大の苦悩と悲劇 我が子との再会を果たした於大ですが、家康の台頭とともに苦悩は増えていったようです。晩年の於大はどのように生きたのでしょうか? 兄の謀殺と夫の隠遁 天正3年(1576)謀反の疑いをかけられた於大の兄・信元が信長の命令で家康に謀殺され、水野家は一時滅亡に追い込まれます。このとき真相を知らずに家康のもとに信元を案内したのは夫・俊勝で、彼はその後に隠退してしまいました。また、織田家に仕えていた俊勝の子・久松信俊(俊勝の先妻の子)も信長から謀反を疑われ、自害のうえ所領を没収。このような悲運が続いた於大は、俊勝の菩提寺である安楽寺で剃髪し、伝通院と号しました。 子を他家に出すのを阻止 天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いのあと、於大の子・松平定勝が羽柴秀吉の養子になるという話が浮上します。しかし、於大は猛反対し家康にこの件を断念させました。於大は自分の側に子供を置いておけないのを寂しく感じ、末子の定勝が他家に行かないよう阻止したといわれています。これにより、家康の次男・於義丸(のちの結城秀康)が秀吉の養子になりましたが、定勝はしばらく家康から疎んじられたそうです。ただし、家康と定勝は親子ほどの歳が離れていたため、異父兄弟ながら基本的には仲が良かったと考えられています。 伝通院として生涯を閉じる 家康が天下人となったのち、伏見城に呼び寄せられた於大は、息子に看取られながらこの世を去りました。時代に翻弄され波乱の生涯を送った彼女ですが、幸せな最期だったといえるかもしれません。
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、どこに返されたか。
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、水野家の三河国刈谷城に返された。
JCRRAG_018619
歴史
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、於大である。 竹千代と生き別れに… 竹千代の誕生後まもなく、実家の水野家では父・忠政が亡くなり、於大の異父兄・水野信元が家督を継承しました。信元は天文13年(1544)松平家の主君・今川家を裏切り、織田家に従うようになります。これにより於大は、今川家との関係を配慮した広忠により離縁され、水野家の三河国刈谷城に返されました。こうして3歳の竹千代と生き別れになった彼女は、実家に身を寄せ、椎の木屋敷で暮らすことになったのです。 阿古居城主・久松俊勝に再嫁 天文17年(1547)於大は信元の意向で阿古居城主・久松俊勝に再嫁します。俊勝はもともと水野家の女性を妻に迎えていましたが、妻の死後は水野家と松平家のあいだで緊張感が高まっていました。そのような状況から、俊勝は水野家と関係強化を図るために於大と再嫁したと考えられています。これは於大にとって2度目の政略結婚でしたが、夫婦仲は良かったようで、二人は3男3女をもうけました。子宝に恵まれた於大は、それでも竹千代への配慮を忘れず、連絡が絶えないように贈り物などをしていたようです。 息子との再会 於大と竹千代は離れ離れになりましたが、のちに再会を果たします。再会までの流れと、その後の二人についてご紹介します。 転機となった桶狭間の戦い 竹千代は6歳のころ今川家の人質として駿府に送られるはずが、今川家から離反した戸田康光の裏切りで織田側へ送られました。そして2年後、今川家と織田家の人質交換で今川家の人質となります。このころ家康を養育していたのは、三河の国人に再嫁を繰り返したのち今川家を頼り、出家して源応尼(げんおうに)と名乗るようになった於大の母・於富でした。実の母が子の面倒を見てくれているということは、於大にとって安心だったかもしれません。 天文24年(1555)竹千代は今川家のもとで元服し次郎三郎元信と改名、のちに元康と改めます。そして永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川側の先鋒を務めることになり、退却時に岡崎城に入城し、ついに帰還を果たしました。 松平家に迎え入れられる 桶狭間の戦いのあと、元康は今川家から独立して織田家と同盟を結びます。また、今川義元からもらった偏諱である「元」を返上し、家康と改名。さらには、俊勝と於大の息子らに松平姓を与えたうえで家臣として召し抱え、於大を母として迎えました。このときの家康の年齢は20歳前後。うまれてすぐ子と生き別れになった於大にとってみれば、立派に成長した息子が迎えにきてくれたことは嬉しいできごとだったでしょう。 於大の苦悩と悲劇 我が子との再会を果たした於大ですが、家康の台頭とともに苦悩は増えていったようです。晩年の於大はどのように生きたのでしょうか? 兄の謀殺と夫の隠遁 天正3年(1576)謀反の疑いをかけられた於大の兄・信元が信長の命令で家康に謀殺され、水野家は一時滅亡に追い込まれます。このとき真相を知らずに家康のもとに信元を案内したのは夫・俊勝で、彼はその後に隠退してしまいました。また、織田家に仕えていた俊勝の子・久松信俊(俊勝の先妻の子)も信長から謀反を疑われ、自害のうえ所領を没収。このような悲運が続いた於大は、俊勝の菩提寺である安楽寺で剃髪し、伝通院と号しました。 子を他家に出すのを阻止 天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いのあと、於大の子・松平定勝が羽柴秀吉の養子になるという話が浮上します。しかし、於大は猛反対し家康にこの件を断念させました。於大は自分の側に子供を置いておけないのを寂しく感じ、末子の定勝が他家に行かないよう阻止したといわれています。これにより、家康の次男・於義丸(のちの結城秀康)が秀吉の養子になりましたが、定勝はしばらく家康から疎んじられたそうです。ただし、家康と定勝は親子ほどの歳が離れていたため、異父兄弟ながら基本的には仲が良かったと考えられています。 伝通院として生涯を閉じる 家康が天下人となったのち、伏見城に呼び寄せられた於大は、息子に看取られながらこの世を去りました。時代に翻弄され波乱の生涯を送った彼女ですが、幸せな最期だったといえるかもしれません。
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、誰に再嫁したか。
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、信元の意向で阿古居城主・久松俊勝に再嫁した。
JCRRAG_018620
歴史
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、於大である。 竹千代と生き別れに… 竹千代の誕生後まもなく、実家の水野家では父・忠政が亡くなり、於大の異父兄・水野信元が家督を継承しました。信元は天文13年(1544)松平家の主君・今川家を裏切り、織田家に従うようになります。これにより於大は、今川家との関係を配慮した広忠により離縁され、水野家の三河国刈谷城に返されました。こうして3歳の竹千代と生き別れになった彼女は、実家に身を寄せ、椎の木屋敷で暮らすことになったのです。 阿古居城主・久松俊勝に再嫁 天文17年(1547)於大は信元の意向で阿古居城主・久松俊勝に再嫁します。俊勝はもともと水野家の女性を妻に迎えていましたが、妻の死後は水野家と松平家のあいだで緊張感が高まっていました。そのような状況から、俊勝は水野家と関係強化を図るために於大と再嫁したと考えられています。これは於大にとって2度目の政略結婚でしたが、夫婦仲は良かったようで、二人は3男3女をもうけました。子宝に恵まれた於大は、それでも竹千代への配慮を忘れず、連絡が絶えないように贈り物などをしていたようです。 息子との再会 於大と竹千代は離れ離れになりましたが、のちに再会を果たします。再会までの流れと、その後の二人についてご紹介します。 転機となった桶狭間の戦い 竹千代は6歳のころ今川家の人質として駿府に送られるはずが、今川家から離反した戸田康光の裏切りで織田側へ送られました。そして2年後、今川家と織田家の人質交換で今川家の人質となります。このころ家康を養育していたのは、三河の国人に再嫁を繰り返したのち今川家を頼り、出家して源応尼(げんおうに)と名乗るようになった於大の母・於富でした。実の母が子の面倒を見てくれているということは、於大にとって安心だったかもしれません。 天文24年(1555)竹千代は今川家のもとで元服し次郎三郎元信と改名、のちに元康と改めます。そして永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川側の先鋒を務めることになり、退却時に岡崎城に入城し、ついに帰還を果たしました。 松平家に迎え入れられる 桶狭間の戦いのあと、元康は今川家から独立して織田家と同盟を結びます。また、今川義元からもらった偏諱である「元」を返上し、家康と改名。さらには、俊勝と於大の息子らに松平姓を与えたうえで家臣として召し抱え、於大を母として迎えました。このときの家康の年齢は20歳前後。うまれてすぐ子と生き別れになった於大にとってみれば、立派に成長した息子が迎えにきてくれたことは嬉しいできごとだったでしょう。 於大の苦悩と悲劇 我が子との再会を果たした於大ですが、家康の台頭とともに苦悩は増えていったようです。晩年の於大はどのように生きたのでしょうか? 兄の謀殺と夫の隠遁 天正3年(1576)謀反の疑いをかけられた於大の兄・信元が信長の命令で家康に謀殺され、水野家は一時滅亡に追い込まれます。このとき真相を知らずに家康のもとに信元を案内したのは夫・俊勝で、彼はその後に隠退してしまいました。また、織田家に仕えていた俊勝の子・久松信俊(俊勝の先妻の子)も信長から謀反を疑われ、自害のうえ所領を没収。このような悲運が続いた於大は、俊勝の菩提寺である安楽寺で剃髪し、伝通院と号しました。 子を他家に出すのを阻止 天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いのあと、於大の子・松平定勝が羽柴秀吉の養子になるという話が浮上します。しかし、於大は猛反対し家康にこの件を断念させました。於大は自分の側に子供を置いておけないのを寂しく感じ、末子の定勝が他家に行かないよう阻止したといわれています。これにより、家康の次男・於義丸(のちの結城秀康)が秀吉の養子になりましたが、定勝はしばらく家康から疎んじられたそうです。ただし、家康と定勝は親子ほどの歳が離れていたため、異父兄弟ながら基本的には仲が良かったと考えられています。 伝通院として生涯を閉じる 家康が天下人となったのち、伏見城に呼び寄せられた於大は、息子に看取られながらこの世を去りました。時代に翻弄され波乱の生涯を送った彼女ですが、幸せな最期だったといえるかもしれません。
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、どこで剃髪したか。
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、俊勝の菩提寺である安楽寺で剃髪した。
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歴史
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、於大である。 竹千代と生き別れに… 竹千代の誕生後まもなく、実家の水野家では父・忠政が亡くなり、於大の異父兄・水野信元が家督を継承しました。信元は天文13年(1544)松平家の主君・今川家を裏切り、織田家に従うようになります。これにより於大は、今川家との関係を配慮した広忠により離縁され、水野家の三河国刈谷城に返されました。こうして3歳の竹千代と生き別れになった彼女は、実家に身を寄せ、椎の木屋敷で暮らすことになったのです。 阿古居城主・久松俊勝に再嫁 天文17年(1547)於大は信元の意向で阿古居城主・久松俊勝に再嫁します。俊勝はもともと水野家の女性を妻に迎えていましたが、妻の死後は水野家と松平家のあいだで緊張感が高まっていました。そのような状況から、俊勝は水野家と関係強化を図るために於大と再嫁したと考えられています。これは於大にとって2度目の政略結婚でしたが、夫婦仲は良かったようで、二人は3男3女をもうけました。子宝に恵まれた於大は、それでも竹千代への配慮を忘れず、連絡が絶えないように贈り物などをしていたようです。 息子との再会 於大と竹千代は離れ離れになりましたが、のちに再会を果たします。再会までの流れと、その後の二人についてご紹介します。 転機となった桶狭間の戦い 竹千代は6歳のころ今川家の人質として駿府に送られるはずが、今川家から離反した戸田康光の裏切りで織田側へ送られました。そして2年後、今川家と織田家の人質交換で今川家の人質となります。このころ家康を養育していたのは、三河の国人に再嫁を繰り返したのち今川家を頼り、出家して源応尼(げんおうに)と名乗るようになった於大の母・於富でした。実の母が子の面倒を見てくれているということは、於大にとって安心だったかもしれません。 天文24年(1555)竹千代は今川家のもとで元服し次郎三郎元信と改名、のちに元康と改めます。そして永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川側の先鋒を務めることになり、退却時に岡崎城に入城し、ついに帰還を果たしました。 松平家に迎え入れられる 桶狭間の戦いのあと、元康は今川家から独立して織田家と同盟を結びます。また、今川義元からもらった偏諱である「元」を返上し、家康と改名。さらには、俊勝と於大の息子らに松平姓を与えたうえで家臣として召し抱え、於大を母として迎えました。このときの家康の年齢は20歳前後。うまれてすぐ子と生き別れになった於大にとってみれば、立派に成長した息子が迎えにきてくれたことは嬉しいできごとだったでしょう。 於大の苦悩と悲劇 我が子との再会を果たした於大ですが、家康の台頭とともに苦悩は増えていったようです。晩年の於大はどのように生きたのでしょうか? 兄の謀殺と夫の隠遁 天正3年(1576)謀反の疑いをかけられた於大の兄・信元が信長の命令で家康に謀殺され、水野家は一時滅亡に追い込まれます。このとき真相を知らずに家康のもとに信元を案内したのは夫・俊勝で、彼はその後に隠退してしまいました。また、織田家に仕えていた俊勝の子・久松信俊(俊勝の先妻の子)も信長から謀反を疑われ、自害のうえ所領を没収。このような悲運が続いた於大は、俊勝の菩提寺である安楽寺で剃髪し、伝通院と号しました。 子を他家に出すのを阻止 天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いのあと、於大の子・松平定勝が羽柴秀吉の養子になるという話が浮上します。しかし、於大は猛反対し家康にこの件を断念させました。於大は自分の側に子供を置いておけないのを寂しく感じ、末子の定勝が他家に行かないよう阻止したといわれています。これにより、家康の次男・於義丸(のちの結城秀康)が秀吉の養子になりましたが、定勝はしばらく家康から疎んじられたそうです。ただし、家康と定勝は親子ほどの歳が離れていたため、異父兄弟ながら基本的には仲が良かったと考えられています。 伝通院として生涯を閉じる 家康が天下人となったのち、伏見城に呼び寄せられた於大は、息子に看取られながらこの世を去りました。時代に翻弄され波乱の生涯を送った彼女ですが、幸せな最期だったといえるかもしれません。
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、俊勝の菩提寺である安楽寺で何と号したか。
江戸幕府初代将軍である徳川家康の生みの親である人物は、俊勝の菩提寺である安楽寺で伝通院と号した。
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歴史
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、織田信忠である。 生まれから家督相続まで 信長に期待されていたといわれる信忠ですが、どのような幼少期を過ごしたのでしょうか。まずは家督を継承するまでの信忠について振り返ります。 信長の嫡男:奇妙丸として生まれる 信忠は、弘治3年(1557)信長の長男として尾張国で誕生しました。母は生駒吉乃(または久庵慶珠)、乳母は慈徳院といわれています。信長の正室は濃姫(帰蝶)ですが、彼女との間には子供がいなかったことから、吉乃は事実上正室のような立場だったようです。信忠は顔が奇妙だったことから奇妙丸と名付けられ、『信長公記』の記録から17~19歳ごろに元服したと考えられています。元服後は勘九郎信重と名乗り、のちに信忠と改めました。 織田家を継いで岐阜城主に 信長に従って北近江の浅井攻めに出陣した信忠は、それ以降も石山合戦、岩村城の戦い、伊勢長島攻めなどを転戦しました。そして、天正4年(1576)濃姫の養子となり織田家の家督を継承。これは信長にとって、天下人と織田家当主の立場を分けるためだったようです。 美濃東部と尾張の一部を任され岐阜城主となった信忠は、次々と出世し将軍格になることを目指します。しかし、足利義昭が征夷大将軍だったため、信忠は征狄将軍に就任することになりました。 総大将としての活躍と武田攻め 織田家当主となった信忠は、さまざまな戦いで総大将として武功をあげ、武田攻めでも活躍しました。 諸将の指揮を執っていた信忠 長篠の戦いに勝利した信忠は、続く岩村城の戦いで総大将として敵方の武将・秋山虎繁を降伏させて岩村城を開城させ、天正5年(1577)の雑賀攻めでも中野城を落として雑賀孫一らを降伏させるなど武功を上げました。また、反逆した松永久秀の討伐では明智光秀や秀吉ら諸将の指揮を執っており、この頃から信長に代わり総帥として活躍していったようです。
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、いつ誕生したか。
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、弘治3年(1557)に誕生した。
JCRRAG_018623
歴史
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、織田信忠である。 生まれから家督相続まで 信長に期待されていたといわれる信忠ですが、どのような幼少期を過ごしたのでしょうか。まずは家督を継承するまでの信忠について振り返ります。 信長の嫡男:奇妙丸として生まれる 信忠は、弘治3年(1557)信長の長男として尾張国で誕生しました。母は生駒吉乃(または久庵慶珠)、乳母は慈徳院といわれています。信長の正室は濃姫(帰蝶)ですが、彼女との間には子供がいなかったことから、吉乃は事実上正室のような立場だったようです。信忠は顔が奇妙だったことから奇妙丸と名付けられ、『信長公記』の記録から17~19歳ごろに元服したと考えられています。元服後は勘九郎信重と名乗り、のちに信忠と改めました。 織田家を継いで岐阜城主に 信長に従って北近江の浅井攻めに出陣した信忠は、それ以降も石山合戦、岩村城の戦い、伊勢長島攻めなどを転戦しました。そして、天正4年(1576)濃姫の養子となり織田家の家督を継承。これは信長にとって、天下人と織田家当主の立場を分けるためだったようです。 美濃東部と尾張の一部を任され岐阜城主となった信忠は、次々と出世し将軍格になることを目指します。しかし、足利義昭が征夷大将軍だったため、信忠は征狄将軍に就任することになりました。 総大将としての活躍と武田攻め 織田家当主となった信忠は、さまざまな戦いで総大将として武功をあげ、武田攻めでも活躍しました。 諸将の指揮を執っていた信忠 長篠の戦いに勝利した信忠は、続く岩村城の戦いで総大将として敵方の武将・秋山虎繁を降伏させて岩村城を開城させ、天正5年(1577)の雑賀攻めでも中野城を落として雑賀孫一らを降伏させるなど武功を上げました。また、反逆した松永久秀の討伐では明智光秀や秀吉ら諸将の指揮を執っており、この頃から信長に代わり総帥として活躍していったようです。
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、誰の長男として誕生したか。
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、信長の長男として誕生した。
JCRRAG_018624
歴史
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、織田信忠である。 生まれから家督相続まで 信長に期待されていたといわれる信忠ですが、どのような幼少期を過ごしたのでしょうか。まずは家督を継承するまでの信忠について振り返ります。 信長の嫡男:奇妙丸として生まれる 信忠は、弘治3年(1557)信長の長男として尾張国で誕生しました。母は生駒吉乃(または久庵慶珠)、乳母は慈徳院といわれています。信長の正室は濃姫(帰蝶)ですが、彼女との間には子供がいなかったことから、吉乃は事実上正室のような立場だったようです。信忠は顔が奇妙だったことから奇妙丸と名付けられ、『信長公記』の記録から17~19歳ごろに元服したと考えられています。元服後は勘九郎信重と名乗り、のちに信忠と改めました。 織田家を継いで岐阜城主に 信長に従って北近江の浅井攻めに出陣した信忠は、それ以降も石山合戦、岩村城の戦い、伊勢長島攻めなどを転戦しました。そして、天正4年(1576)濃姫の養子となり織田家の家督を継承。これは信長にとって、天下人と織田家当主の立場を分けるためだったようです。 美濃東部と尾張の一部を任され岐阜城主となった信忠は、次々と出世し将軍格になることを目指します。しかし、足利義昭が征夷大将軍だったため、信忠は征狄将軍に就任することになりました。 総大将としての活躍と武田攻め 織田家当主となった信忠は、さまざまな戦いで総大将として武功をあげ、武田攻めでも活躍しました。 諸将の指揮を執っていた信忠 長篠の戦いに勝利した信忠は、続く岩村城の戦いで総大将として敵方の武将・秋山虎繁を降伏させて岩村城を開城させ、天正5年(1577)の雑賀攻めでも中野城を落として雑賀孫一らを降伏させるなど武功を上げました。また、反逆した松永久秀の討伐では明智光秀や秀吉ら諸将の指揮を執っており、この頃から信長に代わり総帥として活躍していったようです。
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、どこで誕生したか。
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、尾張国で誕生した。
JCRRAG_018625
歴史
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、織田信忠である。 生まれから家督相続まで 信長に期待されていたといわれる信忠ですが、どのような幼少期を過ごしたのでしょうか。まずは家督を継承するまでの信忠について振り返ります。 信長の嫡男:奇妙丸として生まれる 信忠は、弘治3年(1557)信長の長男として尾張国で誕生しました。母は生駒吉乃(または久庵慶珠)、乳母は慈徳院といわれています。信長の正室は濃姫(帰蝶)ですが、彼女との間には子供がいなかったことから、吉乃は事実上正室のような立場だったようです。信忠は顔が奇妙だったことから奇妙丸と名付けられ、『信長公記』の記録から17~19歳ごろに元服したと考えられています。元服後は勘九郎信重と名乗り、のちに信忠と改めました。 織田家を継いで岐阜城主に 信長に従って北近江の浅井攻めに出陣した信忠は、それ以降も石山合戦、岩村城の戦い、伊勢長島攻めなどを転戦しました。そして、天正4年(1576)濃姫の養子となり織田家の家督を継承。これは信長にとって、天下人と織田家当主の立場を分けるためだったようです。 美濃東部と尾張の一部を任され岐阜城主となった信忠は、次々と出世し将軍格になることを目指します。しかし、足利義昭が征夷大将軍だったため、信忠は征狄将軍に就任することになりました。 総大将としての活躍と武田攻め 織田家当主となった信忠は、さまざまな戦いで総大将として武功をあげ、武田攻めでも活躍しました。 諸将の指揮を執っていた信忠 長篠の戦いに勝利した信忠は、続く岩村城の戦いで総大将として敵方の武将・秋山虎繁を降伏させて岩村城を開城させ、天正5年(1577)の雑賀攻めでも中野城を落として雑賀孫一らを降伏させるなど武功を上げました。また、反逆した松永久秀の討伐では明智光秀や秀吉ら諸将の指揮を執っており、この頃から信長に代わり総帥として活躍していったようです。
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、顔が奇妙だったことから何と名付けられたか。
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、顔が奇妙だったことから奇妙丸と名付けられた。
JCRRAG_018626
歴史
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、織田信忠である。 生まれから家督相続まで 信長に期待されていたといわれる信忠ですが、どのような幼少期を過ごしたのでしょうか。まずは家督を継承するまでの信忠について振り返ります。 信長の嫡男:奇妙丸として生まれる 信忠は、弘治3年(1557)信長の長男として尾張国で誕生しました。母は生駒吉乃(または久庵慶珠)、乳母は慈徳院といわれています。信長の正室は濃姫(帰蝶)ですが、彼女との間には子供がいなかったことから、吉乃は事実上正室のような立場だったようです。信忠は顔が奇妙だったことから奇妙丸と名付けられ、『信長公記』の記録から17~19歳ごろに元服したと考えられています。元服後は勘九郎信重と名乗り、のちに信忠と改めました。 織田家を継いで岐阜城主に 信長に従って北近江の浅井攻めに出陣した信忠は、それ以降も石山合戦、岩村城の戦い、伊勢長島攻めなどを転戦しました。そして、天正4年(1576)濃姫の養子となり織田家の家督を継承。これは信長にとって、天下人と織田家当主の立場を分けるためだったようです。 美濃東部と尾張の一部を任され岐阜城主となった信忠は、次々と出世し将軍格になることを目指します。しかし、足利義昭が征夷大将軍だったため、信忠は征狄将軍に就任することになりました。 総大将としての活躍と武田攻め 織田家当主となった信忠は、さまざまな戦いで総大将として武功をあげ、武田攻めでも活躍しました。 諸将の指揮を執っていた信忠 長篠の戦いに勝利した信忠は、続く岩村城の戦いで総大将として敵方の武将・秋山虎繁を降伏させて岩村城を開城させ、天正5年(1577)の雑賀攻めでも中野城を落として雑賀孫一らを降伏させるなど武功を上げました。また、反逆した松永久秀の討伐では明智光秀や秀吉ら諸将の指揮を執っており、この頃から信長に代わり総帥として活躍していったようです。
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、次々と出世し何になることを目指したか。
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、次々と出世し将軍格になることを目指した。
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天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、織田信忠である。 武田勝頼を倒し、武田家は滅亡へ 信忠は天正10年(1582)の甲州征伐でも総大将として出陣しており、徳川家康や北条氏政とともに、5万人の軍勢を率いて武田領に侵攻しています。この戦いでは武田方の拠点である信濃南部の飯田城や高遠城を攻略し、信忠自ら陣頭に立つなど奮戦しました。信忠軍の進撃の速さが予想以上だったことから、武田軍は態勢を立て直せずに撤退。城を捨てて敗走した武田勝頼は信忠の追撃により自害に追い込まれ、武田氏は滅亡します。この戦功を称えた信長が信忠軍団に旧武田領を与えたため、信忠の影響力はさらに増大しました。 本能寺の変とその最期 数々の戦いで総大将を務めて活躍した信忠ですが、早くも最期がやってきます。その散り際はどのようなものだったのでしょうか? 父・信長と宴を楽しんだあと… 本能寺の変の前夜、信長と信忠は茶会に招いた公卿や僧侶らとともに深夜まで宴を開いていました。信忠は備中高松城を包囲する秀吉の援軍に向かうために滞在していた京都・妙覚寺に戻りましたが、光秀の強襲を知ると、信長と合流すべく本能寺に向かいます。しかし、信長自害の知らせを受けたため、家臣の進言に従い堅固な二条御所に立て籠もることを決意。誠仁親王を脱出させた後、1万人以上の光秀軍を相手に、無防備ながら1時間も抗戦しました。 名誉を守り、逃げずに自害 わずかな供廻りとともに善戦した信忠でしたが、ついには御所に敵が侵入し、建物に火が放たれます。周囲には逃げるよう進言する者もいましたが、信忠は「雑兵の手にかかって死ぬのは後々までの不名誉だ」として、鎌田新介の介錯で潔く自刃しました。このとき、遺体は床下に隠すよう命じたといわれており、その首は信長同様に発見されなかったということです。 信忠にまつわる逸話 信長とともに本能寺の変で散った信忠。わずか26歳という短い人生でしたが、そんな彼にまつわるエピソードをご紹介します。 独身だが…松姫とのロマンスも? 信忠は独身のまま亡くなりましたが、11歳のころ武田家との関係強化として信玄六女・松姫と婚約していました。 ところが、武田家は織田家と同盟を組んでいた家康の領国内に侵攻し、さらには将軍・義昭の信長包囲網に呼応して西上作戦を開始。そのため、松姫との婚約は事実上解消となり、約10年後には2人は敵同士となりました。 それでも、松姫は信忠を想って何度かあった縁談を断り続けたといわれています。また、一部の史料では、信忠の子・秀信の生母は松姫だとされているようです。 英才教育を受けていた! 将来を期待されていた信忠は、雑用を一切させず信長から戦闘を学ぶという、いわば英才教育を受けていました。実は信長自身も父・信秀からこのような教育を受けていたため、信長にとってはそれが普通だったのかもしれません。信長は信忠を「見た目だけの器用者は愚か者と同じ」と評したといいますが、甲州征伐での活躍によりその武才を認めたといわれています。 天下の命運をわけた 信長の後継者として早くから活躍した信忠。最後は織田家の名誉を守り自害しましたが、もし逃げ延びていたら織田家の天下は続いていたことでしょう。信忠が天下人になっていた可能性もあることから、彼の死が天下の命運を分けたといえそうです。 信忠が自害を選択したのは最初から勝ち目がなかったためとも考えられますが、天下人の後継者として、その死はあまりにも潔すぎるものでした。
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、天正10年(1582)の甲州征伐でどんな立場で出陣したか。
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、天正10年(1582)の甲州征伐でも総大将として出陣した。
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天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、織田信忠である。 武田勝頼を倒し、武田家は滅亡へ 信忠は天正10年(1582)の甲州征伐でも総大将として出陣しており、徳川家康や北条氏政とともに、5万人の軍勢を率いて武田領に侵攻しています。この戦いでは武田方の拠点である信濃南部の飯田城や高遠城を攻略し、信忠自ら陣頭に立つなど奮戦しました。信忠軍の進撃の速さが予想以上だったことから、武田軍は態勢を立て直せずに撤退。城を捨てて敗走した武田勝頼は信忠の追撃により自害に追い込まれ、武田氏は滅亡します。この戦功を称えた信長が信忠軍団に旧武田領を与えたため、信忠の影響力はさらに増大しました。 本能寺の変とその最期 数々の戦いで総大将を務めて活躍した信忠ですが、早くも最期がやってきます。その散り際はどのようなものだったのでしょうか? 父・信長と宴を楽しんだあと… 本能寺の変の前夜、信長と信忠は茶会に招いた公卿や僧侶らとともに深夜まで宴を開いていました。信忠は備中高松城を包囲する秀吉の援軍に向かうために滞在していた京都・妙覚寺に戻りましたが、光秀の強襲を知ると、信長と合流すべく本能寺に向かいます。しかし、信長自害の知らせを受けたため、家臣の進言に従い堅固な二条御所に立て籠もることを決意。誠仁親王を脱出させた後、1万人以上の光秀軍を相手に、無防備ながら1時間も抗戦しました。 名誉を守り、逃げずに自害 わずかな供廻りとともに善戦した信忠でしたが、ついには御所に敵が侵入し、建物に火が放たれます。周囲には逃げるよう進言する者もいましたが、信忠は「雑兵の手にかかって死ぬのは後々までの不名誉だ」として、鎌田新介の介錯で潔く自刃しました。このとき、遺体は床下に隠すよう命じたといわれており、その首は信長同様に発見されなかったということです。 信忠にまつわる逸話 信長とともに本能寺の変で散った信忠。わずか26歳という短い人生でしたが、そんな彼にまつわるエピソードをご紹介します。 独身だが…松姫とのロマンスも? 信忠は独身のまま亡くなりましたが、11歳のころ武田家との関係強化として信玄六女・松姫と婚約していました。 ところが、武田家は織田家と同盟を組んでいた家康の領国内に侵攻し、さらには将軍・義昭の信長包囲網に呼応して西上作戦を開始。そのため、松姫との婚約は事実上解消となり、約10年後には2人は敵同士となりました。 それでも、松姫は信忠を想って何度かあった縁談を断り続けたといわれています。また、一部の史料では、信忠の子・秀信の生母は松姫だとされているようです。 英才教育を受けていた! 将来を期待されていた信忠は、雑用を一切させず信長から戦闘を学ぶという、いわば英才教育を受けていました。実は信長自身も父・信秀からこのような教育を受けていたため、信長にとってはそれが普通だったのかもしれません。信長は信忠を「見た目だけの器用者は愚か者と同じ」と評したといいますが、甲州征伐での活躍によりその武才を認めたといわれています。 天下の命運をわけた 信長の後継者として早くから活躍した信忠。最後は織田家の名誉を守り自害しましたが、もし逃げ延びていたら織田家の天下は続いていたことでしょう。信忠が天下人になっていた可能性もあることから、彼の死が天下の命運を分けたといえそうです。 信忠が自害を選択したのは最初から勝ち目がなかったためとも考えられますが、天下人の後継者として、その死はあまりにも潔すぎるものでした。
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、天正10年(1582)の甲州征伐で、誰とともに侵攻したか。
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、天正10年(1582)の甲州征伐で、徳川家康や北条氏政とともに侵攻した。
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天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、織田信忠である。 武田勝頼を倒し、武田家は滅亡へ 信忠は天正10年(1582)の甲州征伐でも総大将として出陣しており、徳川家康や北条氏政とともに、5万人の軍勢を率いて武田領に侵攻しています。この戦いでは武田方の拠点である信濃南部の飯田城や高遠城を攻略し、信忠自ら陣頭に立つなど奮戦しました。信忠軍の進撃の速さが予想以上だったことから、武田軍は態勢を立て直せずに撤退。城を捨てて敗走した武田勝頼は信忠の追撃により自害に追い込まれ、武田氏は滅亡します。この戦功を称えた信長が信忠軍団に旧武田領を与えたため、信忠の影響力はさらに増大しました。 本能寺の変とその最期 数々の戦いで総大将を務めて活躍した信忠ですが、早くも最期がやってきます。その散り際はどのようなものだったのでしょうか? 父・信長と宴を楽しんだあと… 本能寺の変の前夜、信長と信忠は茶会に招いた公卿や僧侶らとともに深夜まで宴を開いていました。信忠は備中高松城を包囲する秀吉の援軍に向かうために滞在していた京都・妙覚寺に戻りましたが、光秀の強襲を知ると、信長と合流すべく本能寺に向かいます。しかし、信長自害の知らせを受けたため、家臣の進言に従い堅固な二条御所に立て籠もることを決意。誠仁親王を脱出させた後、1万人以上の光秀軍を相手に、無防備ながら1時間も抗戦しました。 名誉を守り、逃げずに自害 わずかな供廻りとともに善戦した信忠でしたが、ついには御所に敵が侵入し、建物に火が放たれます。周囲には逃げるよう進言する者もいましたが、信忠は「雑兵の手にかかって死ぬのは後々までの不名誉だ」として、鎌田新介の介錯で潔く自刃しました。このとき、遺体は床下に隠すよう命じたといわれており、その首は信長同様に発見されなかったということです。 信忠にまつわる逸話 信長とともに本能寺の変で散った信忠。わずか26歳という短い人生でしたが、そんな彼にまつわるエピソードをご紹介します。 独身だが…松姫とのロマンスも? 信忠は独身のまま亡くなりましたが、11歳のころ武田家との関係強化として信玄六女・松姫と婚約していました。 ところが、武田家は織田家と同盟を組んでいた家康の領国内に侵攻し、さらには将軍・義昭の信長包囲網に呼応して西上作戦を開始。そのため、松姫との婚約は事実上解消となり、約10年後には2人は敵同士となりました。 それでも、松姫は信忠を想って何度かあった縁談を断り続けたといわれています。また、一部の史料では、信忠の子・秀信の生母は松姫だとされているようです。 英才教育を受けていた! 将来を期待されていた信忠は、雑用を一切させず信長から戦闘を学ぶという、いわば英才教育を受けていました。実は信長自身も父・信秀からこのような教育を受けていたため、信長にとってはそれが普通だったのかもしれません。信長は信忠を「見た目だけの器用者は愚か者と同じ」と評したといいますが、甲州征伐での活躍によりその武才を認めたといわれています。 天下の命運をわけた 信長の後継者として早くから活躍した信忠。最後は織田家の名誉を守り自害しましたが、もし逃げ延びていたら織田家の天下は続いていたことでしょう。信忠が天下人になっていた可能性もあることから、彼の死が天下の命運を分けたといえそうです。 信忠が自害を選択したのは最初から勝ち目がなかったためとも考えられますが、天下人の後継者として、その死はあまりにも潔すぎるものでした。
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、天正10年(1582)の甲州征伐で、5万人の軍勢を率いてどこに侵攻した。
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、天正10年(1582)の甲州征伐で、5万人の軍勢を率いて武田領に侵攻した。
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天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、織田信忠である。 武田勝頼を倒し、武田家は滅亡へ 信忠は天正10年(1582)の甲州征伐でも総大将として出陣しており、徳川家康や北条氏政とともに、5万人の軍勢を率いて武田領に侵攻しています。この戦いでは武田方の拠点である信濃南部の飯田城や高遠城を攻略し、信忠自ら陣頭に立つなど奮戦しました。信忠軍の進撃の速さが予想以上だったことから、武田軍は態勢を立て直せずに撤退。城を捨てて敗走した武田勝頼は信忠の追撃により自害に追い込まれ、武田氏は滅亡します。この戦功を称えた信長が信忠軍団に旧武田領を与えたため、信忠の影響力はさらに増大しました。 本能寺の変とその最期 数々の戦いで総大将を務めて活躍した信忠ですが、早くも最期がやってきます。その散り際はどのようなものだったのでしょうか? 父・信長と宴を楽しんだあと… 本能寺の変の前夜、信長と信忠は茶会に招いた公卿や僧侶らとともに深夜まで宴を開いていました。信忠は備中高松城を包囲する秀吉の援軍に向かうために滞在していた京都・妙覚寺に戻りましたが、光秀の強襲を知ると、信長と合流すべく本能寺に向かいます。しかし、信長自害の知らせを受けたため、家臣の進言に従い堅固な二条御所に立て籠もることを決意。誠仁親王を脱出させた後、1万人以上の光秀軍を相手に、無防備ながら1時間も抗戦しました。 名誉を守り、逃げずに自害 わずかな供廻りとともに善戦した信忠でしたが、ついには御所に敵が侵入し、建物に火が放たれます。周囲には逃げるよう進言する者もいましたが、信忠は「雑兵の手にかかって死ぬのは後々までの不名誉だ」として、鎌田新介の介錯で潔く自刃しました。このとき、遺体は床下に隠すよう命じたといわれており、その首は信長同様に発見されなかったということです。 信忠にまつわる逸話 信長とともに本能寺の変で散った信忠。わずか26歳という短い人生でしたが、そんな彼にまつわるエピソードをご紹介します。 独身だが…松姫とのロマンスも? 信忠は独身のまま亡くなりましたが、11歳のころ武田家との関係強化として信玄六女・松姫と婚約していました。 ところが、武田家は織田家と同盟を組んでいた家康の領国内に侵攻し、さらには将軍・義昭の信長包囲網に呼応して西上作戦を開始。そのため、松姫との婚約は事実上解消となり、約10年後には2人は敵同士となりました。 それでも、松姫は信忠を想って何度かあった縁談を断り続けたといわれています。また、一部の史料では、信忠の子・秀信の生母は松姫だとされているようです。 英才教育を受けていた! 将来を期待されていた信忠は、雑用を一切させず信長から戦闘を学ぶという、いわば英才教育を受けていました。実は信長自身も父・信秀からこのような教育を受けていたため、信長にとってはそれが普通だったのかもしれません。信長は信忠を「見た目だけの器用者は愚か者と同じ」と評したといいますが、甲州征伐での活躍によりその武才を認めたといわれています。 天下の命運をわけた 信長の後継者として早くから活躍した信忠。最後は織田家の名誉を守り自害しましたが、もし逃げ延びていたら織田家の天下は続いていたことでしょう。信忠が天下人になっていた可能性もあることから、彼の死が天下の命運を分けたといえそうです。 信忠が自害を選択したのは最初から勝ち目がなかったためとも考えられますが、天下人の後継者として、その死はあまりにも潔すぎるものでした。
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、備中高松城を包囲する秀吉の援軍に向かうためにどこに戻ったか。
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、備中高松城を包囲する秀吉の援軍に向かうために滞在していた京都・妙覚寺に戻った。
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天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、織田信忠である。 武田勝頼を倒し、武田家は滅亡へ 信忠は天正10年(1582)の甲州征伐でも総大将として出陣しており、徳川家康や北条氏政とともに、5万人の軍勢を率いて武田領に侵攻しています。この戦いでは武田方の拠点である信濃南部の飯田城や高遠城を攻略し、信忠自ら陣頭に立つなど奮戦しました。信忠軍の進撃の速さが予想以上だったことから、武田軍は態勢を立て直せずに撤退。城を捨てて敗走した武田勝頼は信忠の追撃により自害に追い込まれ、武田氏は滅亡します。この戦功を称えた信長が信忠軍団に旧武田領を与えたため、信忠の影響力はさらに増大しました。 本能寺の変とその最期 数々の戦いで総大将を務めて活躍した信忠ですが、早くも最期がやってきます。その散り際はどのようなものだったのでしょうか? 父・信長と宴を楽しんだあと… 本能寺の変の前夜、信長と信忠は茶会に招いた公卿や僧侶らとともに深夜まで宴を開いていました。信忠は備中高松城を包囲する秀吉の援軍に向かうために滞在していた京都・妙覚寺に戻りましたが、光秀の強襲を知ると、信長と合流すべく本能寺に向かいます。しかし、信長自害の知らせを受けたため、家臣の進言に従い堅固な二条御所に立て籠もることを決意。誠仁親王を脱出させた後、1万人以上の光秀軍を相手に、無防備ながら1時間も抗戦しました。 名誉を守り、逃げずに自害 わずかな供廻りとともに善戦した信忠でしたが、ついには御所に敵が侵入し、建物に火が放たれます。周囲には逃げるよう進言する者もいましたが、信忠は「雑兵の手にかかって死ぬのは後々までの不名誉だ」として、鎌田新介の介錯で潔く自刃しました。このとき、遺体は床下に隠すよう命じたといわれており、その首は信長同様に発見されなかったということです。 信忠にまつわる逸話 信長とともに本能寺の変で散った信忠。わずか26歳という短い人生でしたが、そんな彼にまつわるエピソードをご紹介します。 独身だが…松姫とのロマンスも? 信忠は独身のまま亡くなりましたが、11歳のころ武田家との関係強化として信玄六女・松姫と婚約していました。 ところが、武田家は織田家と同盟を組んでいた家康の領国内に侵攻し、さらには将軍・義昭の信長包囲網に呼応して西上作戦を開始。そのため、松姫との婚約は事実上解消となり、約10年後には2人は敵同士となりました。 それでも、松姫は信忠を想って何度かあった縁談を断り続けたといわれています。また、一部の史料では、信忠の子・秀信の生母は松姫だとされているようです。 英才教育を受けていた! 将来を期待されていた信忠は、雑用を一切させず信長から戦闘を学ぶという、いわば英才教育を受けていました。実は信長自身も父・信秀からこのような教育を受けていたため、信長にとってはそれが普通だったのかもしれません。信長は信忠を「見た目だけの器用者は愚か者と同じ」と評したといいますが、甲州征伐での活躍によりその武才を認めたといわれています。 天下の命運をわけた 信長の後継者として早くから活躍した信忠。最後は織田家の名誉を守り自害しましたが、もし逃げ延びていたら織田家の天下は続いていたことでしょう。信忠が天下人になっていた可能性もあることから、彼の死が天下の命運を分けたといえそうです。 信忠が自害を選択したのは最初から勝ち目がなかったためとも考えられますが、天下人の後継者として、その死はあまりにも潔すぎるものでした。
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、光秀の強襲を知ると、どこに向かったか。
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物は、光秀の強襲を知ると、信長と合流すべく本能寺に向かった。
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後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、真田昌幸である。 うまれから武田家の家臣時代まで 昌幸は武田家の家臣として活躍していたことでも知られています。武田家臣としての前半生を振り返ります。 7歳で人質になり足軽大将に抜擢される 昌幸は天文16年(1547)真田幸隆(幸綱)の三男として信濃国小県郡真田郷で誕生しました。同母兄がいたため家督相続権が無かった昌幸は、7歳で甲斐武田家の人質になり武田信玄の奥近習衆(側近中の側近)に加わります。また信玄の母系の支族・武藤家の養子になり、足軽大将にも任命されました。永禄9年(1566)に開かれた茶会では信玄の配膳役を務め、武田勝頼の嫡男・信勝が誕生した際には信玄の使者として勝頼のもとに出向。この頃の昌幸は重臣に近い地位にあったと考えられており、父と兄と並んで武田二十四将にも数えられました。 復姓して真田家の家督を相続する 信玄死後、昌幸は勝頼に仕えます。また、天正2年(1574)に父・幸隆が死去し、翌年の長篠の戦いで長兄・信綱と次兄・昌輝が亡くなったため復姓して真田家の家督を継承。その後は本領と甲斐の往復を繰り返しました。 天正6年(1578年)越後の上杉景勝との間に甲越同盟が成立し、昌幸は勝頼の命令で北条氏政の所領である沼田領に侵攻します。昌幸は調略をつくして入手した名胡桃城と小川城を拠点に沼田城を攻撃しますが、北条側に援軍がきたため撤退。のちに攻撃を再開し、敵将を投降させ沼田城を落としました。 知略と武勇でのし上がった昌幸 信玄と勝頼のもとで頭角を現した昌幸ですが、やがて武田氏が滅亡します。その後の昌幸はどのように生きたのでしょうか? 臣従しては裏切り…次々と主君を替えた 天正10年(1582)織田信長・徳川家康連合軍の甲州征伐により武田氏が滅亡。昌幸は織田家重臣・滝川一益の与力となりましたが、わずか3ヶ月後に本能寺の変が起こります。これにより旧武田領を任されていた織田家臣らが逃走し、家康、上杉景勝、北条氏直らによる領地争奪の天正壬午の乱が勃発しました。昌幸はこれを機に、信濃に潜伏していた旧武田家臣と主従関係を結んで沼田城を奪回。その後は景勝、次いで氏直に臣従し、のちに北条氏を裏切って家康に仕えました。昌幸は領土を守るために、次々と主を替えていったのです。
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、いつ誕生したか。
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、天文16年(1547)に誕生した。
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後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、真田昌幸である。 うまれから武田家の家臣時代まで 昌幸は武田家の家臣として活躍していたことでも知られています。武田家臣としての前半生を振り返ります。 7歳で人質になり足軽大将に抜擢される 昌幸は天文16年(1547)真田幸隆(幸綱)の三男として信濃国小県郡真田郷で誕生しました。同母兄がいたため家督相続権が無かった昌幸は、7歳で甲斐武田家の人質になり武田信玄の奥近習衆(側近中の側近)に加わります。また信玄の母系の支族・武藤家の養子になり、足軽大将にも任命されました。永禄9年(1566)に開かれた茶会では信玄の配膳役を務め、武田勝頼の嫡男・信勝が誕生した際には信玄の使者として勝頼のもとに出向。この頃の昌幸は重臣に近い地位にあったと考えられており、父と兄と並んで武田二十四将にも数えられました。 復姓して真田家の家督を相続する 信玄死後、昌幸は勝頼に仕えます。また、天正2年(1574)に父・幸隆が死去し、翌年の長篠の戦いで長兄・信綱と次兄・昌輝が亡くなったため復姓して真田家の家督を継承。その後は本領と甲斐の往復を繰り返しました。 天正6年(1578年)越後の上杉景勝との間に甲越同盟が成立し、昌幸は勝頼の命令で北条氏政の所領である沼田領に侵攻します。昌幸は調略をつくして入手した名胡桃城と小川城を拠点に沼田城を攻撃しますが、北条側に援軍がきたため撤退。のちに攻撃を再開し、敵将を投降させ沼田城を落としました。 知略と武勇でのし上がった昌幸 信玄と勝頼のもとで頭角を現した昌幸ですが、やがて武田氏が滅亡します。その後の昌幸はどのように生きたのでしょうか? 臣従しては裏切り…次々と主君を替えた 天正10年(1582)織田信長・徳川家康連合軍の甲州征伐により武田氏が滅亡。昌幸は織田家重臣・滝川一益の与力となりましたが、わずか3ヶ月後に本能寺の変が起こります。これにより旧武田領を任されていた織田家臣らが逃走し、家康、上杉景勝、北条氏直らによる領地争奪の天正壬午の乱が勃発しました。昌幸はこれを機に、信濃に潜伏していた旧武田家臣と主従関係を結んで沼田城を奪回。その後は景勝、次いで氏直に臣従し、のちに北条氏を裏切って家康に仕えました。昌幸は領土を守るために、次々と主を替えていったのです。
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、誰の三男として誕生したか。
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、真田幸隆(幸綱)の三男として誕生した。
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歴史
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、真田昌幸である。 うまれから武田家の家臣時代まで 昌幸は武田家の家臣として活躍していたことでも知られています。武田家臣としての前半生を振り返ります。 7歳で人質になり足軽大将に抜擢される 昌幸は天文16年(1547)真田幸隆(幸綱)の三男として信濃国小県郡真田郷で誕生しました。同母兄がいたため家督相続権が無かった昌幸は、7歳で甲斐武田家の人質になり武田信玄の奥近習衆(側近中の側近)に加わります。また信玄の母系の支族・武藤家の養子になり、足軽大将にも任命されました。永禄9年(1566)に開かれた茶会では信玄の配膳役を務め、武田勝頼の嫡男・信勝が誕生した際には信玄の使者として勝頼のもとに出向。この頃の昌幸は重臣に近い地位にあったと考えられており、父と兄と並んで武田二十四将にも数えられました。 復姓して真田家の家督を相続する 信玄死後、昌幸は勝頼に仕えます。また、天正2年(1574)に父・幸隆が死去し、翌年の長篠の戦いで長兄・信綱と次兄・昌輝が亡くなったため復姓して真田家の家督を継承。その後は本領と甲斐の往復を繰り返しました。 天正6年(1578年)越後の上杉景勝との間に甲越同盟が成立し、昌幸は勝頼の命令で北条氏政の所領である沼田領に侵攻します。昌幸は調略をつくして入手した名胡桃城と小川城を拠点に沼田城を攻撃しますが、北条側に援軍がきたため撤退。のちに攻撃を再開し、敵将を投降させ沼田城を落としました。 知略と武勇でのし上がった昌幸 信玄と勝頼のもとで頭角を現した昌幸ですが、やがて武田氏が滅亡します。その後の昌幸はどのように生きたのでしょうか? 臣従しては裏切り…次々と主君を替えた 天正10年(1582)織田信長・徳川家康連合軍の甲州征伐により武田氏が滅亡。昌幸は織田家重臣・滝川一益の与力となりましたが、わずか3ヶ月後に本能寺の変が起こります。これにより旧武田領を任されていた織田家臣らが逃走し、家康、上杉景勝、北条氏直らによる領地争奪の天正壬午の乱が勃発しました。昌幸はこれを機に、信濃に潜伏していた旧武田家臣と主従関係を結んで沼田城を奪回。その後は景勝、次いで氏直に臣従し、のちに北条氏を裏切って家康に仕えました。昌幸は領土を守るために、次々と主を替えていったのです。
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、どこで誕生したか。
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、信濃国小県郡真田郷で誕生した。
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歴史
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、真田昌幸である。 うまれから武田家の家臣時代まで 昌幸は武田家の家臣として活躍していたことでも知られています。武田家臣としての前半生を振り返ります。 7歳で人質になり足軽大将に抜擢される 昌幸は天文16年(1547)真田幸隆(幸綱)の三男として信濃国小県郡真田郷で誕生しました。同母兄がいたため家督相続権が無かった昌幸は、7歳で甲斐武田家の人質になり武田信玄の奥近習衆(側近中の側近)に加わります。また信玄の母系の支族・武藤家の養子になり、足軽大将にも任命されました。永禄9年(1566)に開かれた茶会では信玄の配膳役を務め、武田勝頼の嫡男・信勝が誕生した際には信玄の使者として勝頼のもとに出向。この頃の昌幸は重臣に近い地位にあったと考えられており、父と兄と並んで武田二十四将にも数えられました。 復姓して真田家の家督を相続する 信玄死後、昌幸は勝頼に仕えます。また、天正2年(1574)に父・幸隆が死去し、翌年の長篠の戦いで長兄・信綱と次兄・昌輝が亡くなったため復姓して真田家の家督を継承。その後は本領と甲斐の往復を繰り返しました。 天正6年(1578年)越後の上杉景勝との間に甲越同盟が成立し、昌幸は勝頼の命令で北条氏政の所領である沼田領に侵攻します。昌幸は調略をつくして入手した名胡桃城と小川城を拠点に沼田城を攻撃しますが、北条側に援軍がきたため撤退。のちに攻撃を再開し、敵将を投降させ沼田城を落としました。 知略と武勇でのし上がった昌幸 信玄と勝頼のもとで頭角を現した昌幸ですが、やがて武田氏が滅亡します。その後の昌幸はどのように生きたのでしょうか? 臣従しては裏切り…次々と主君を替えた 天正10年(1582)織田信長・徳川家康連合軍の甲州征伐により武田氏が滅亡。昌幸は織田家重臣・滝川一益の与力となりましたが、わずか3ヶ月後に本能寺の変が起こります。これにより旧武田領を任されていた織田家臣らが逃走し、家康、上杉景勝、北条氏直らによる領地争奪の天正壬午の乱が勃発しました。昌幸はこれを機に、信濃に潜伏していた旧武田家臣と主従関係を結んで沼田城を奪回。その後は景勝、次いで氏直に臣従し、のちに北条氏を裏切って家康に仕えました。昌幸は領土を守るために、次々と主を替えていったのです。
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、誰の命令で沼田領に侵攻したか。
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、勝頼の命令で沼田領に侵攻した。
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歴史
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、真田昌幸である。 うまれから武田家の家臣時代まで 昌幸は武田家の家臣として活躍していたことでも知られています。武田家臣としての前半生を振り返ります。 7歳で人質になり足軽大将に抜擢される 昌幸は天文16年(1547)真田幸隆(幸綱)の三男として信濃国小県郡真田郷で誕生しました。同母兄がいたため家督相続権が無かった昌幸は、7歳で甲斐武田家の人質になり武田信玄の奥近習衆(側近中の側近)に加わります。また信玄の母系の支族・武藤家の養子になり、足軽大将にも任命されました。永禄9年(1566)に開かれた茶会では信玄の配膳役を務め、武田勝頼の嫡男・信勝が誕生した際には信玄の使者として勝頼のもとに出向。この頃の昌幸は重臣に近い地位にあったと考えられており、父と兄と並んで武田二十四将にも数えられました。 復姓して真田家の家督を相続する 信玄死後、昌幸は勝頼に仕えます。また、天正2年(1574)に父・幸隆が死去し、翌年の長篠の戦いで長兄・信綱と次兄・昌輝が亡くなったため復姓して真田家の家督を継承。その後は本領と甲斐の往復を繰り返しました。 天正6年(1578年)越後の上杉景勝との間に甲越同盟が成立し、昌幸は勝頼の命令で北条氏政の所領である沼田領に侵攻します。昌幸は調略をつくして入手した名胡桃城と小川城を拠点に沼田城を攻撃しますが、北条側に援軍がきたため撤退。のちに攻撃を再開し、敵将を投降させ沼田城を落としました。 知略と武勇でのし上がった昌幸 信玄と勝頼のもとで頭角を現した昌幸ですが、やがて武田氏が滅亡します。その後の昌幸はどのように生きたのでしょうか? 臣従しては裏切り…次々と主君を替えた 天正10年(1582)織田信長・徳川家康連合軍の甲州征伐により武田氏が滅亡。昌幸は織田家重臣・滝川一益の与力となりましたが、わずか3ヶ月後に本能寺の変が起こります。これにより旧武田領を任されていた織田家臣らが逃走し、家康、上杉景勝、北条氏直らによる領地争奪の天正壬午の乱が勃発しました。昌幸はこれを機に、信濃に潜伏していた旧武田家臣と主従関係を結んで沼田城を奪回。その後は景勝、次いで氏直に臣従し、のちに北条氏を裏切って家康に仕えました。昌幸は領土を守るために、次々と主を替えていったのです。
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、誰の所領である沼田領に侵攻したか。
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、北条氏政の所領である沼田領に侵攻した。
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後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、真田昌幸である。 第一次上田合戦で徳川軍を撃退! 天正11年(1583)昌幸は家康の命により上田城と城下町を築きます。その翌年の小牧・長久手の戦いでは、家康の隙をついて沼田・吾妻・小県を掌握。こうして領土を広げた昌幸でしたが、家康から沼田領を引き渡すよう命じられたため徳川氏との手切れを決断しました。昌幸は家康の侵攻に備え、次男・信繁を人質に上杉氏に従属。家康は約7000人の兵力で上田城を攻撃しますが、昌幸はわずか2000人の兵力で大勝します。この上田合戦により、真田氏は信濃の独立勢力として認知されるようになりました。 豊臣秀吉の家臣になり活躍する 天正13年(1585)信繁が上杉家から豊臣家の人質として大坂に出仕したため、昌幸は秀吉に臣従し、その命で家康の与力となりました。その後は小田原征伐などで活躍し、沼田領が嫡子・信幸に与えられます。これにより、信幸は家康配下の大名として昌幸から独立しました。 また、文禄元年(1592)の文禄の役では、名護屋城に在陣したのち大坂に帰還。渡海はしませんでしたが、その代償として伏見城の普請役建築や土木工事を負担し、その働きから正式に従五位下安房守に任官されました。 関ヶ原の戦いとその後 豊臣家臣として地位を築いた昌幸ですが、やがて秀吉もこの世を後にします。そして、ついに天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発するのです。 真田家存続のための「犬伏の別れ」 秀吉の死後、五大老筆頭である家康が台頭し、強い影響力を持つようになりました。家康は出仕を拒否する上杉氏の討伐に向かいますが、家康と対立していた五奉行・石田三成がその間に挙兵し、諸大名に家康弾劾の書状を送ります。下野国犬伏でこれを受け取った昌幸は、家康の東軍につくか三成の西軍につくかを息子と話し合いました。昌幸は三成と姻戚関係にあったため信繁とともに西軍に、信幸は徳川側の本多忠勝の娘・小松姫が正室であることから東軍に与することになり、ここで父子は決別します。これはどちらが負けても家名存続するための策でした。 第二次上田合戦で徳川秀忠を惨敗させる 関ヶ原の戦いが勃発すると、家康の三男・徳川秀忠が約38000人の兵力で上田城に攻め寄せました。秀忠から帰順を勧告された昌幸は、応じるように見せかけて抗戦。昌幸はわずか2000人の兵力で籠城し、出撃と奇策を駆使して秀忠軍を翻弄しました。惨敗した秀忠は家康からの上洛命令に従って上田攻略を諦めましたが、利根川の増水により関ヶ原の戦いに遅参するという失態をおかします。昌幸は三成の敗戦を知ってもなお戦い続けましたが、やがて徳川からの降伏要請に応じました。 西軍敗北により蟄居する 戦後処理では、昌幸と信繁に上田領没収と死罪が言い渡されました。昌幸は死を覚悟で籠城しようとしますが、信之(父との決別を表すため名を信幸から改名)とその舅(しゅうと)・忠勝の助命嘆願により高野山に蟄居(謹慎)となります。昌幸はのちに九度山に配所されましたが、家臣の屋敷も造られるなどかなり厚遇されていたようです。このような流人生活は10年ほど続きましたが、昌幸は病により慶長16年(1611)6月4日に九度山で亡くなりました。 残された逸話 昌幸は最後まで家康を討てなかったことを無念に思っていたようです。そんな昌幸にまつわる逸話をご紹介します。 「表裏比興の者」と評された 昌幸は秀吉から「表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの)」といわれ恐れられていました。表裏比興とは「経験豊富な悪賢い食わせ者」といった意味で、武将にとっては誉め言葉だったようです。家康もまた「稀代の横着者」と評価し昌幸を恐れましたが、かつての主君・信玄は「わが眼の如し」と言って深い信頼をおいていました。 徳川家康がもっとも恐れた男だった!? 大坂の陣で真田氏が大坂城に入ったと聞いた家康は、昌幸と信繁のどちらなのか尋ねたといわれています。昌幸はすでに病死していましたが、家康をはじめとする当時の武将はその死を疑っていたようです。このとき家康は手を震わせて恐怖し、信繁の名をきいて安堵したということです。 講談でも人気の戦国武将 真田家は小勢力でしたが、昌幸の活躍により天下人の家臣に成り上がり、最後は家康を脅かす存在になりました。つぎつぎと主君を替えながら常に野心を捨てなかったからこそ、歴史にその名を刻むことになったのでしょう。昌幸の活躍は多くの講談や軍記物で描かれ、広く知られるようになりました。そんな彼は、現在でも人気の戦国武将として高い知名度を誇っています。
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、誰の命により上田城と城下町を築いたか。
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、家康の命により上田城と城下町を築いた。
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歴史
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、真田昌幸である。 第一次上田合戦で徳川軍を撃退! 天正11年(1583)昌幸は家康の命により上田城と城下町を築きます。その翌年の小牧・長久手の戦いでは、家康の隙をついて沼田・吾妻・小県を掌握。こうして領土を広げた昌幸でしたが、家康から沼田領を引き渡すよう命じられたため徳川氏との手切れを決断しました。昌幸は家康の侵攻に備え、次男・信繁を人質に上杉氏に従属。家康は約7000人の兵力で上田城を攻撃しますが、昌幸はわずか2000人の兵力で大勝します。この上田合戦により、真田氏は信濃の独立勢力として認知されるようになりました。 豊臣秀吉の家臣になり活躍する 天正13年(1585)信繁が上杉家から豊臣家の人質として大坂に出仕したため、昌幸は秀吉に臣従し、その命で家康の与力となりました。その後は小田原征伐などで活躍し、沼田領が嫡子・信幸に与えられます。これにより、信幸は家康配下の大名として昌幸から独立しました。 また、文禄元年(1592)の文禄の役では、名護屋城に在陣したのち大坂に帰還。渡海はしませんでしたが、その代償として伏見城の普請役建築や土木工事を負担し、その働きから正式に従五位下安房守に任官されました。 関ヶ原の戦いとその後 豊臣家臣として地位を築いた昌幸ですが、やがて秀吉もこの世を後にします。そして、ついに天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発するのです。 真田家存続のための「犬伏の別れ」 秀吉の死後、五大老筆頭である家康が台頭し、強い影響力を持つようになりました。家康は出仕を拒否する上杉氏の討伐に向かいますが、家康と対立していた五奉行・石田三成がその間に挙兵し、諸大名に家康弾劾の書状を送ります。下野国犬伏でこれを受け取った昌幸は、家康の東軍につくか三成の西軍につくかを息子と話し合いました。昌幸は三成と姻戚関係にあったため信繁とともに西軍に、信幸は徳川側の本多忠勝の娘・小松姫が正室であることから東軍に与することになり、ここで父子は決別します。これはどちらが負けても家名存続するための策でした。 第二次上田合戦で徳川秀忠を惨敗させる 関ヶ原の戦いが勃発すると、家康の三男・徳川秀忠が約38000人の兵力で上田城に攻め寄せました。秀忠から帰順を勧告された昌幸は、応じるように見せかけて抗戦。昌幸はわずか2000人の兵力で籠城し、出撃と奇策を駆使して秀忠軍を翻弄しました。惨敗した秀忠は家康からの上洛命令に従って上田攻略を諦めましたが、利根川の増水により関ヶ原の戦いに遅参するという失態をおかします。昌幸は三成の敗戦を知ってもなお戦い続けましたが、やがて徳川からの降伏要請に応じました。 西軍敗北により蟄居する 戦後処理では、昌幸と信繁に上田領没収と死罪が言い渡されました。昌幸は死を覚悟で籠城しようとしますが、信之(父との決別を表すため名を信幸から改名)とその舅(しゅうと)・忠勝の助命嘆願により高野山に蟄居(謹慎)となります。昌幸はのちに九度山に配所されましたが、家臣の屋敷も造られるなどかなり厚遇されていたようです。このような流人生活は10年ほど続きましたが、昌幸は病により慶長16年(1611)6月4日に九度山で亡くなりました。 残された逸話 昌幸は最後まで家康を討てなかったことを無念に思っていたようです。そんな昌幸にまつわる逸話をご紹介します。 「表裏比興の者」と評された 昌幸は秀吉から「表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの)」といわれ恐れられていました。表裏比興とは「経験豊富な悪賢い食わせ者」といった意味で、武将にとっては誉め言葉だったようです。家康もまた「稀代の横着者」と評価し昌幸を恐れましたが、かつての主君・信玄は「わが眼の如し」と言って深い信頼をおいていました。 徳川家康がもっとも恐れた男だった!? 大坂の陣で真田氏が大坂城に入ったと聞いた家康は、昌幸と信繁のどちらなのか尋ねたといわれています。昌幸はすでに病死していましたが、家康をはじめとする当時の武将はその死を疑っていたようです。このとき家康は手を震わせて恐怖し、信繁の名をきいて安堵したということです。 講談でも人気の戦国武将 真田家は小勢力でしたが、昌幸の活躍により天下人の家臣に成り上がり、最後は家康を脅かす存在になりました。つぎつぎと主君を替えながら常に野心を捨てなかったからこそ、歴史にその名を刻むことになったのでしょう。昌幸の活躍は多くの講談や軍記物で描かれ、広く知られるようになりました。そんな彼は、現在でも人気の戦国武将として高い知名度を誇っています。
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、何を知ってもなお戦い続けたか。
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、三成の敗戦を知ってもなお戦い続けた。
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歴史
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、真田昌幸である。 第一次上田合戦で徳川軍を撃退! 天正11年(1583)昌幸は家康の命により上田城と城下町を築きます。その翌年の小牧・長久手の戦いでは、家康の隙をついて沼田・吾妻・小県を掌握。こうして領土を広げた昌幸でしたが、家康から沼田領を引き渡すよう命じられたため徳川氏との手切れを決断しました。昌幸は家康の侵攻に備え、次男・信繁を人質に上杉氏に従属。家康は約7000人の兵力で上田城を攻撃しますが、昌幸はわずか2000人の兵力で大勝します。この上田合戦により、真田氏は信濃の独立勢力として認知されるようになりました。 豊臣秀吉の家臣になり活躍する 天正13年(1585)信繁が上杉家から豊臣家の人質として大坂に出仕したため、昌幸は秀吉に臣従し、その命で家康の与力となりました。その後は小田原征伐などで活躍し、沼田領が嫡子・信幸に与えられます。これにより、信幸は家康配下の大名として昌幸から独立しました。 また、文禄元年(1592)の文禄の役では、名護屋城に在陣したのち大坂に帰還。渡海はしませんでしたが、その代償として伏見城の普請役建築や土木工事を負担し、その働きから正式に従五位下安房守に任官されました。 関ヶ原の戦いとその後 豊臣家臣として地位を築いた昌幸ですが、やがて秀吉もこの世を後にします。そして、ついに天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発するのです。 真田家存続のための「犬伏の別れ」 秀吉の死後、五大老筆頭である家康が台頭し、強い影響力を持つようになりました。家康は出仕を拒否する上杉氏の討伐に向かいますが、家康と対立していた五奉行・石田三成がその間に挙兵し、諸大名に家康弾劾の書状を送ります。下野国犬伏でこれを受け取った昌幸は、家康の東軍につくか三成の西軍につくかを息子と話し合いました。昌幸は三成と姻戚関係にあったため信繁とともに西軍に、信幸は徳川側の本多忠勝の娘・小松姫が正室であることから東軍に与することになり、ここで父子は決別します。これはどちらが負けても家名存続するための策でした。 第二次上田合戦で徳川秀忠を惨敗させる 関ヶ原の戦いが勃発すると、家康の三男・徳川秀忠が約38000人の兵力で上田城に攻め寄せました。秀忠から帰順を勧告された昌幸は、応じるように見せかけて抗戦。昌幸はわずか2000人の兵力で籠城し、出撃と奇策を駆使して秀忠軍を翻弄しました。惨敗した秀忠は家康からの上洛命令に従って上田攻略を諦めましたが、利根川の増水により関ヶ原の戦いに遅参するという失態をおかします。昌幸は三成の敗戦を知ってもなお戦い続けましたが、やがて徳川からの降伏要請に応じました。 西軍敗北により蟄居する 戦後処理では、昌幸と信繁に上田領没収と死罪が言い渡されました。昌幸は死を覚悟で籠城しようとしますが、信之(父との決別を表すため名を信幸から改名)とその舅(しゅうと)・忠勝の助命嘆願により高野山に蟄居(謹慎)となります。昌幸はのちに九度山に配所されましたが、家臣の屋敷も造られるなどかなり厚遇されていたようです。このような流人生活は10年ほど続きましたが、昌幸は病により慶長16年(1611)6月4日に九度山で亡くなりました。 残された逸話 昌幸は最後まで家康を討てなかったことを無念に思っていたようです。そんな昌幸にまつわる逸話をご紹介します。 「表裏比興の者」と評された 昌幸は秀吉から「表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの)」といわれ恐れられていました。表裏比興とは「経験豊富な悪賢い食わせ者」といった意味で、武将にとっては誉め言葉だったようです。家康もまた「稀代の横着者」と評価し昌幸を恐れましたが、かつての主君・信玄は「わが眼の如し」と言って深い信頼をおいていました。 徳川家康がもっとも恐れた男だった!? 大坂の陣で真田氏が大坂城に入ったと聞いた家康は、昌幸と信繁のどちらなのか尋ねたといわれています。昌幸はすでに病死していましたが、家康をはじめとする当時の武将はその死を疑っていたようです。このとき家康は手を震わせて恐怖し、信繁の名をきいて安堵したということです。 講談でも人気の戦国武将 真田家は小勢力でしたが、昌幸の活躍により天下人の家臣に成り上がり、最後は家康を脅かす存在になりました。つぎつぎと主君を替えながら常に野心を捨てなかったからこそ、歴史にその名を刻むことになったのでしょう。昌幸の活躍は多くの講談や軍記物で描かれ、広く知られるようになりました。そんな彼は、現在でも人気の戦国武将として高い知名度を誇っています。
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、何が原因で亡くなったか。
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、病により亡くなった。
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後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、真田昌幸である。 第一次上田合戦で徳川軍を撃退! 天正11年(1583)昌幸は家康の命により上田城と城下町を築きます。その翌年の小牧・長久手の戦いでは、家康の隙をついて沼田・吾妻・小県を掌握。こうして領土を広げた昌幸でしたが、家康から沼田領を引き渡すよう命じられたため徳川氏との手切れを決断しました。昌幸は家康の侵攻に備え、次男・信繁を人質に上杉氏に従属。家康は約7000人の兵力で上田城を攻撃しますが、昌幸はわずか2000人の兵力で大勝します。この上田合戦により、真田氏は信濃の独立勢力として認知されるようになりました。 豊臣秀吉の家臣になり活躍する 天正13年(1585)信繁が上杉家から豊臣家の人質として大坂に出仕したため、昌幸は秀吉に臣従し、その命で家康の与力となりました。その後は小田原征伐などで活躍し、沼田領が嫡子・信幸に与えられます。これにより、信幸は家康配下の大名として昌幸から独立しました。 また、文禄元年(1592)の文禄の役では、名護屋城に在陣したのち大坂に帰還。渡海はしませんでしたが、その代償として伏見城の普請役建築や土木工事を負担し、その働きから正式に従五位下安房守に任官されました。 関ヶ原の戦いとその後 豊臣家臣として地位を築いた昌幸ですが、やがて秀吉もこの世を後にします。そして、ついに天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発するのです。 真田家存続のための「犬伏の別れ」 秀吉の死後、五大老筆頭である家康が台頭し、強い影響力を持つようになりました。家康は出仕を拒否する上杉氏の討伐に向かいますが、家康と対立していた五奉行・石田三成がその間に挙兵し、諸大名に家康弾劾の書状を送ります。下野国犬伏でこれを受け取った昌幸は、家康の東軍につくか三成の西軍につくかを息子と話し合いました。昌幸は三成と姻戚関係にあったため信繁とともに西軍に、信幸は徳川側の本多忠勝の娘・小松姫が正室であることから東軍に与することになり、ここで父子は決別します。これはどちらが負けても家名存続するための策でした。 第二次上田合戦で徳川秀忠を惨敗させる 関ヶ原の戦いが勃発すると、家康の三男・徳川秀忠が約38000人の兵力で上田城に攻め寄せました。秀忠から帰順を勧告された昌幸は、応じるように見せかけて抗戦。昌幸はわずか2000人の兵力で籠城し、出撃と奇策を駆使して秀忠軍を翻弄しました。惨敗した秀忠は家康からの上洛命令に従って上田攻略を諦めましたが、利根川の増水により関ヶ原の戦いに遅参するという失態をおかします。昌幸は三成の敗戦を知ってもなお戦い続けましたが、やがて徳川からの降伏要請に応じました。 西軍敗北により蟄居する 戦後処理では、昌幸と信繁に上田領没収と死罪が言い渡されました。昌幸は死を覚悟で籠城しようとしますが、信之(父との決別を表すため名を信幸から改名)とその舅(しゅうと)・忠勝の助命嘆願により高野山に蟄居(謹慎)となります。昌幸はのちに九度山に配所されましたが、家臣の屋敷も造られるなどかなり厚遇されていたようです。このような流人生活は10年ほど続きましたが、昌幸は病により慶長16年(1611)6月4日に九度山で亡くなりました。 残された逸話 昌幸は最後まで家康を討てなかったことを無念に思っていたようです。そんな昌幸にまつわる逸話をご紹介します。 「表裏比興の者」と評された 昌幸は秀吉から「表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの)」といわれ恐れられていました。表裏比興とは「経験豊富な悪賢い食わせ者」といった意味で、武将にとっては誉め言葉だったようです。家康もまた「稀代の横着者」と評価し昌幸を恐れましたが、かつての主君・信玄は「わが眼の如し」と言って深い信頼をおいていました。 徳川家康がもっとも恐れた男だった!? 大坂の陣で真田氏が大坂城に入ったと聞いた家康は、昌幸と信繁のどちらなのか尋ねたといわれています。昌幸はすでに病死していましたが、家康をはじめとする当時の武将はその死を疑っていたようです。このとき家康は手を震わせて恐怖し、信繁の名をきいて安堵したということです。 講談でも人気の戦国武将 真田家は小勢力でしたが、昌幸の活躍により天下人の家臣に成り上がり、最後は家康を脅かす存在になりました。つぎつぎと主君を替えながら常に野心を捨てなかったからこそ、歴史にその名を刻むことになったのでしょう。昌幸の活躍は多くの講談や軍記物で描かれ、広く知られるようになりました。そんな彼は、現在でも人気の戦国武将として高い知名度を誇っています。
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、いつ亡くなったか。
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、慶長16年(1611)6月4日に亡くなった。
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歴史
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、真田昌幸である。 第一次上田合戦で徳川軍を撃退! 天正11年(1583)昌幸は家康の命により上田城と城下町を築きます。その翌年の小牧・長久手の戦いでは、家康の隙をついて沼田・吾妻・小県を掌握。こうして領土を広げた昌幸でしたが、家康から沼田領を引き渡すよう命じられたため徳川氏との手切れを決断しました。昌幸は家康の侵攻に備え、次男・信繁を人質に上杉氏に従属。家康は約7000人の兵力で上田城を攻撃しますが、昌幸はわずか2000人の兵力で大勝します。この上田合戦により、真田氏は信濃の独立勢力として認知されるようになりました。 豊臣秀吉の家臣になり活躍する 天正13年(1585)信繁が上杉家から豊臣家の人質として大坂に出仕したため、昌幸は秀吉に臣従し、その命で家康の与力となりました。その後は小田原征伐などで活躍し、沼田領が嫡子・信幸に与えられます。これにより、信幸は家康配下の大名として昌幸から独立しました。 また、文禄元年(1592)の文禄の役では、名護屋城に在陣したのち大坂に帰還。渡海はしませんでしたが、その代償として伏見城の普請役建築や土木工事を負担し、その働きから正式に従五位下安房守に任官されました。 関ヶ原の戦いとその後 豊臣家臣として地位を築いた昌幸ですが、やがて秀吉もこの世を後にします。そして、ついに天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発するのです。 真田家存続のための「犬伏の別れ」 秀吉の死後、五大老筆頭である家康が台頭し、強い影響力を持つようになりました。家康は出仕を拒否する上杉氏の討伐に向かいますが、家康と対立していた五奉行・石田三成がその間に挙兵し、諸大名に家康弾劾の書状を送ります。下野国犬伏でこれを受け取った昌幸は、家康の東軍につくか三成の西軍につくかを息子と話し合いました。昌幸は三成と姻戚関係にあったため信繁とともに西軍に、信幸は徳川側の本多忠勝の娘・小松姫が正室であることから東軍に与することになり、ここで父子は決別します。これはどちらが負けても家名存続するための策でした。 第二次上田合戦で徳川秀忠を惨敗させる 関ヶ原の戦いが勃発すると、家康の三男・徳川秀忠が約38000人の兵力で上田城に攻め寄せました。秀忠から帰順を勧告された昌幸は、応じるように見せかけて抗戦。昌幸はわずか2000人の兵力で籠城し、出撃と奇策を駆使して秀忠軍を翻弄しました。惨敗した秀忠は家康からの上洛命令に従って上田攻略を諦めましたが、利根川の増水により関ヶ原の戦いに遅参するという失態をおかします。昌幸は三成の敗戦を知ってもなお戦い続けましたが、やがて徳川からの降伏要請に応じました。 西軍敗北により蟄居する 戦後処理では、昌幸と信繁に上田領没収と死罪が言い渡されました。昌幸は死を覚悟で籠城しようとしますが、信之(父との決別を表すため名を信幸から改名)とその舅(しゅうと)・忠勝の助命嘆願により高野山に蟄居(謹慎)となります。昌幸はのちに九度山に配所されましたが、家臣の屋敷も造られるなどかなり厚遇されていたようです。このような流人生活は10年ほど続きましたが、昌幸は病により慶長16年(1611)6月4日に九度山で亡くなりました。 残された逸話 昌幸は最後まで家康を討てなかったことを無念に思っていたようです。そんな昌幸にまつわる逸話をご紹介します。 「表裏比興の者」と評された 昌幸は秀吉から「表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの)」といわれ恐れられていました。表裏比興とは「経験豊富な悪賢い食わせ者」といった意味で、武将にとっては誉め言葉だったようです。家康もまた「稀代の横着者」と評価し昌幸を恐れましたが、かつての主君・信玄は「わが眼の如し」と言って深い信頼をおいていました。 徳川家康がもっとも恐れた男だった!? 大坂の陣で真田氏が大坂城に入ったと聞いた家康は、昌幸と信繁のどちらなのか尋ねたといわれています。昌幸はすでに病死していましたが、家康をはじめとする当時の武将はその死を疑っていたようです。このとき家康は手を震わせて恐怖し、信繁の名をきいて安堵したということです。 講談でも人気の戦国武将 真田家は小勢力でしたが、昌幸の活躍により天下人の家臣に成り上がり、最後は家康を脅かす存在になりました。つぎつぎと主君を替えながら常に野心を捨てなかったからこそ、歴史にその名を刻むことになったのでしょう。昌幸の活躍は多くの講談や軍記物で描かれ、広く知られるようになりました。そんな彼は、現在でも人気の戦国武将として高い知名度を誇っています。
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、どこで亡くなったか。
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている人物は、九度山で亡くなった。
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歴史
近衛家17代当主となった人物は、近衛前久である。 若くして要職にのぼりつめた前久 五摂家にうまれた前久は、若くして要職を歴任しました。その華々しい経歴を振り返ります。 5歳にして公卿となり、藤氏長者に 前久は、天文5年(1536)近衛稙家の長男として京都で誕生しました。元服時、第12代将軍・足利義晴から偏諱(へんき=名の一字を賜うこと)を受け晴嗣(はるつぐ)と改名。天文10年(1541)に従三位に叙せられ公卿となり、内大臣、右大臣に昇格します。その後、わずか18歳で関白・左大臣を務め、藤氏長者(とうしのちょうじゃ/藤原氏一族全体を束ねる代表者のこと)に就任しました。また天文24年(1555)には従一位に昇叙し、前嗣(さきつぐ)と改名しています。 上杉謙信と盟約を結ぶ 当時の京は混乱しており、その状況に心を痛めた前久は、地方の戦国大名の助力を得ようとしました。永禄2年(1559)越後国の上杉謙信と盟約を結び、関白でありながら越後に下向。謙信の関東平定を助けようと上野・下総にも赴きます。前久と改名したのはこの頃で、花押も公家様式から武家様式に変更するなどの気概を見せました。公家らしからぬ行動力を見せた前久でしたが、武田氏や北条氏の台頭により謙信の関東平定が難しくなると、永禄5年(1562)に落胆して帰洛します。 朝廷からの追放と関白の解任 謙信と盟約を結んだ前久でしたが、のちに織田信長との関わりが大きくなっていきます。しかし、それ以前に立場を脅かされる出来事もあったようです。 将軍・足利義昭との対立 永禄8年(1565)三好三人衆による将軍・足利義輝の殺害「永禄の変」が起こります。彼らは罪に問われることを恐れ、義輝の従兄弟である前久を頼りました。前久は自分の姉(義輝の正室)を保護したことを評価し、彼らが擁立する足利義栄を次期将軍に決定します。 こうして義栄が第14代将軍に就任しましたが、信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛。三好三人衆は信長に抗戦したものの敗れ、義栄も病死してしまいます。第15代将軍となった義昭は、義輝の死に前久が関与しているのではないかと疑い、先の関白・二条晴良も前久を追及しました。そのため、前久は朝廷から追放されたのです。
近衛家17代当主となった人物は、いつ誕生したか。
近衛家17代当主となった人物は、天文5年(1536)に誕生した。
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歴史
近衛家17代当主となった人物は、近衛前久である。 若くして要職にのぼりつめた前久 五摂家にうまれた前久は、若くして要職を歴任しました。その華々しい経歴を振り返ります。 5歳にして公卿となり、藤氏長者に 前久は、天文5年(1536)近衛稙家の長男として京都で誕生しました。元服時、第12代将軍・足利義晴から偏諱(へんき=名の一字を賜うこと)を受け晴嗣(はるつぐ)と改名。天文10年(1541)に従三位に叙せられ公卿となり、内大臣、右大臣に昇格します。その後、わずか18歳で関白・左大臣を務め、藤氏長者(とうしのちょうじゃ/藤原氏一族全体を束ねる代表者のこと)に就任しました。また天文24年(1555)には従一位に昇叙し、前嗣(さきつぐ)と改名しています。 上杉謙信と盟約を結ぶ 当時の京は混乱しており、その状況に心を痛めた前久は、地方の戦国大名の助力を得ようとしました。永禄2年(1559)越後国の上杉謙信と盟約を結び、関白でありながら越後に下向。謙信の関東平定を助けようと上野・下総にも赴きます。前久と改名したのはこの頃で、花押も公家様式から武家様式に変更するなどの気概を見せました。公家らしからぬ行動力を見せた前久でしたが、武田氏や北条氏の台頭により謙信の関東平定が難しくなると、永禄5年(1562)に落胆して帰洛します。 朝廷からの追放と関白の解任 謙信と盟約を結んだ前久でしたが、のちに織田信長との関わりが大きくなっていきます。しかし、それ以前に立場を脅かされる出来事もあったようです。 将軍・足利義昭との対立 永禄8年(1565)三好三人衆による将軍・足利義輝の殺害「永禄の変」が起こります。彼らは罪に問われることを恐れ、義輝の従兄弟である前久を頼りました。前久は自分の姉(義輝の正室)を保護したことを評価し、彼らが擁立する足利義栄を次期将軍に決定します。 こうして義栄が第14代将軍に就任しましたが、信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛。三好三人衆は信長に抗戦したものの敗れ、義栄も病死してしまいます。第15代将軍となった義昭は、義輝の死に前久が関与しているのではないかと疑い、先の関白・二条晴良も前久を追及しました。そのため、前久は朝廷から追放されたのです。
近衛家17代当主となった人物は、誰の長男として誕生したか。
近衛家17代当主となった人物は、近衛稙家の長男として誕生した。
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歴史
近衛家17代当主となった人物は、近衛前久である。 若くして要職にのぼりつめた前久 五摂家にうまれた前久は、若くして要職を歴任しました。その華々しい経歴を振り返ります。 5歳にして公卿となり、藤氏長者に 前久は、天文5年(1536)近衛稙家の長男として京都で誕生しました。元服時、第12代将軍・足利義晴から偏諱(へんき=名の一字を賜うこと)を受け晴嗣(はるつぐ)と改名。天文10年(1541)に従三位に叙せられ公卿となり、内大臣、右大臣に昇格します。その後、わずか18歳で関白・左大臣を務め、藤氏長者(とうしのちょうじゃ/藤原氏一族全体を束ねる代表者のこと)に就任しました。また天文24年(1555)には従一位に昇叙し、前嗣(さきつぐ)と改名しています。 上杉謙信と盟約を結ぶ 当時の京は混乱しており、その状況に心を痛めた前久は、地方の戦国大名の助力を得ようとしました。永禄2年(1559)越後国の上杉謙信と盟約を結び、関白でありながら越後に下向。謙信の関東平定を助けようと上野・下総にも赴きます。前久と改名したのはこの頃で、花押も公家様式から武家様式に変更するなどの気概を見せました。公家らしからぬ行動力を見せた前久でしたが、武田氏や北条氏の台頭により謙信の関東平定が難しくなると、永禄5年(1562)に落胆して帰洛します。 朝廷からの追放と関白の解任 謙信と盟約を結んだ前久でしたが、のちに織田信長との関わりが大きくなっていきます。しかし、それ以前に立場を脅かされる出来事もあったようです。 将軍・足利義昭との対立 永禄8年(1565)三好三人衆による将軍・足利義輝の殺害「永禄の変」が起こります。彼らは罪に問われることを恐れ、義輝の従兄弟である前久を頼りました。前久は自分の姉(義輝の正室)を保護したことを評価し、彼らが擁立する足利義栄を次期将軍に決定します。 こうして義栄が第14代将軍に就任しましたが、信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛。三好三人衆は信長に抗戦したものの敗れ、義栄も病死してしまいます。第15代将軍となった義昭は、義輝の死に前久が関与しているのではないかと疑い、先の関白・二条晴良も前久を追及しました。そのため、前久は朝廷から追放されたのです。
近衛家17代当主となった人物は、どこで誕生したか。
近衛家17代当主となった人物は、京都で誕生した。
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歴史
近衛家17代当主となった人物は、近衛前久である。 若くして要職にのぼりつめた前久 五摂家にうまれた前久は、若くして要職を歴任しました。その華々しい経歴を振り返ります。 5歳にして公卿となり、藤氏長者に 前久は、天文5年(1536)近衛稙家の長男として京都で誕生しました。元服時、第12代将軍・足利義晴から偏諱(へんき=名の一字を賜うこと)を受け晴嗣(はるつぐ)と改名。天文10年(1541)に従三位に叙せられ公卿となり、内大臣、右大臣に昇格します。その後、わずか18歳で関白・左大臣を務め、藤氏長者(とうしのちょうじゃ/藤原氏一族全体を束ねる代表者のこと)に就任しました。また天文24年(1555)には従一位に昇叙し、前嗣(さきつぐ)と改名しています。 上杉謙信と盟約を結ぶ 当時の京は混乱しており、その状況に心を痛めた前久は、地方の戦国大名の助力を得ようとしました。永禄2年(1559)越後国の上杉謙信と盟約を結び、関白でありながら越後に下向。謙信の関東平定を助けようと上野・下総にも赴きます。前久と改名したのはこの頃で、花押も公家様式から武家様式に変更するなどの気概を見せました。公家らしからぬ行動力を見せた前久でしたが、武田氏や北条氏の台頭により謙信の関東平定が難しくなると、永禄5年(1562)に落胆して帰洛します。 朝廷からの追放と関白の解任 謙信と盟約を結んだ前久でしたが、のちに織田信長との関わりが大きくなっていきます。しかし、それ以前に立場を脅かされる出来事もあったようです。 将軍・足利義昭との対立 永禄8年(1565)三好三人衆による将軍・足利義輝の殺害「永禄の変」が起こります。彼らは罪に問われることを恐れ、義輝の従兄弟である前久を頼りました。前久は自分の姉(義輝の正室)を保護したことを評価し、彼らが擁立する足利義栄を次期将軍に決定します。 こうして義栄が第14代将軍に就任しましたが、信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛。三好三人衆は信長に抗戦したものの敗れ、義栄も病死してしまいます。第15代将軍となった義昭は、義輝の死に前久が関与しているのではないかと疑い、先の関白・二条晴良も前久を追及しました。そのため、前久は朝廷から追放されたのです。
近衛家17代当主となった人物は、誰の助力を得ようとしたか。
近衛家17代当主となった人物は、地方の戦国大名の助力を得ようとした。
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歴史
近衛家17代当主となった人物は、近衛前久である。 若くして要職にのぼりつめた前久 五摂家にうまれた前久は、若くして要職を歴任しました。その華々しい経歴を振り返ります。 5歳にして公卿となり、藤氏長者に 前久は、天文5年(1536)近衛稙家の長男として京都で誕生しました。元服時、第12代将軍・足利義晴から偏諱(へんき=名の一字を賜うこと)を受け晴嗣(はるつぐ)と改名。天文10年(1541)に従三位に叙せられ公卿となり、内大臣、右大臣に昇格します。その後、わずか18歳で関白・左大臣を務め、藤氏長者(とうしのちょうじゃ/藤原氏一族全体を束ねる代表者のこと)に就任しました。また天文24年(1555)には従一位に昇叙し、前嗣(さきつぐ)と改名しています。 上杉謙信と盟約を結ぶ 当時の京は混乱しており、その状況に心を痛めた前久は、地方の戦国大名の助力を得ようとしました。永禄2年(1559)越後国の上杉謙信と盟約を結び、関白でありながら越後に下向。謙信の関東平定を助けようと上野・下総にも赴きます。前久と改名したのはこの頃で、花押も公家様式から武家様式に変更するなどの気概を見せました。公家らしからぬ行動力を見せた前久でしたが、武田氏や北条氏の台頭により謙信の関東平定が難しくなると、永禄5年(1562)に落胆して帰洛します。 朝廷からの追放と関白の解任 謙信と盟約を結んだ前久でしたが、のちに織田信長との関わりが大きくなっていきます。しかし、それ以前に立場を脅かされる出来事もあったようです。 将軍・足利義昭との対立 永禄8年(1565)三好三人衆による将軍・足利義輝の殺害「永禄の変」が起こります。彼らは罪に問われることを恐れ、義輝の従兄弟である前久を頼りました。前久は自分の姉(義輝の正室)を保護したことを評価し、彼らが擁立する足利義栄を次期将軍に決定します。 こうして義栄が第14代将軍に就任しましたが、信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛。三好三人衆は信長に抗戦したものの敗れ、義栄も病死してしまいます。第15代将軍となった義昭は、義輝の死に前久が関与しているのではないかと疑い、先の関白・二条晴良も前久を追及しました。そのため、前久は朝廷から追放されたのです。
近衛家17代当主となった人物は、どこから追放されたか。
近衛家17代当主となった人物は、朝廷から追放された。
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歴史
近衛家17代当主となった人物は、近衛前久である。 関白解任と信長包囲網への参加 京を追放された前久は、丹波国・赤井直正を頼って黒井城の下館に住み、次には本願寺の顕如を頼り摂津国の石山本願寺に移りました。このとき、前久は関白を解任されましたが、信長包囲網が動き始めると三好三人衆の依頼でこれに参加し、顕如を決起させるという働きをみせています。しかし、前久には信長への敵意はなく、彼の目的はあくまで将軍・義昭と関白・晴良の排除でした。そのため、義昭が京から追放され、晴良も疎んじられるようになると、前久は信長包囲網を離脱しています。 信長の要請に応える 天正3年(1575)信長の奏上によって帰洛した前久は、その後も信長との親交を深めていきました。信長に要請され大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏らの和議を図り、さらには、信長と本願寺の調停にも着手。これにより、顕如が石山本願寺を退去すると、長らく一向一揆に悩まされてきた信長は大いに喜び、「天下平定の暁には近衛家に一国を献上する」と約束したといいます。前久は天正10年(1582)には太政大臣になりましたが、わずか3か月程度で辞任しました。これは、信長にその座を譲ろうとしていたからともいわれています。 本能寺の変とその後 信長から厚く信頼されていた前久ですが、本能寺の変で信長が横死すると状況が一変します。その後の前久はどのように過ごしたのでしょうか? 明智光秀と結んだと誤解され… 本能寺の変で信長が死去すると、落胆した前久は仏門に入り龍山と号するようになりました。ところが、「明智光秀軍が前久邸から本能寺を銃撃した」というありもしない情報が伝えられると、織田信孝や羽柴秀吉から詰問され、それ以後は徳川家康を頼って遠江に下向します。家康の斡旋もあり一年後には誤解が解けますが、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで家康と秀吉が激突。立場が危うくなった前久は、両者の和議成立後にようやく帰洛しました。 慈照寺東求堂で隠棲する その後、前久は足利将軍家ゆかりの慈照寺東求堂で晩年を過ごします。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、東軍とも西軍とも関係をもちながら中立を保ち、かつての活躍ぶりがうかがえる行動を見せたようです。激動の時代を生きた前久は、慶長17年(1612)5月8日に亡くなり、京都東福寺に葬られました。 近衛前久の人物像とは? 公家ながら抜群の行動力を発揮した前久は、どのような人物だったのでしょうか?前久の人物像がわかるエピソードをご紹介します。 和歌・連歌に優れていた 藤原氏の総本家である五摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)は、公家の家格の最高峰です。そのような家柄にうまれた前久は、和歌や連歌に優れた才能を発揮し、信長の七回忌にも追悼歌を詠みました。また、『龍山公鷹百首』という鷹狩りの解説を兼ねた歌集も執筆しており、秀吉と家康にこの写本を与えたようです。 鷹狩りで信長と意気投合! 前久は馬術や鷹狩りにも秀でており、同じく鷹狩りが趣味だった信長とはお互いの成果を自慢しあう仲でした。二人で鷹狩りに出かけた際、信長はその場で加増の命令書を書いて渡したこともあったようです。公家領としては破格の1500石だったことから、信長の前久への信頼の厚さがわかるでしょう。 波乱の人生を送った五摂家の公卿 歴史ある近衛家に生まれた前久は、幼少期からさまざまな地位を歴任し、太政大臣にまで上り詰めました。京から追放されたあとは放浪を余儀なくされた前久ですが、これは困窮のためではなく積極的に政治に参加するための手段だったとも考えられています。謙信や信長といった有力武将と交流を深め、公家とは思えぬ抜群の行動力を発揮した前久は、五摂家の公卿でありながら波乱の人生を送ったといえるでしょう。
近衛家17代当主となった人物は、丹波国・赤井直正を頼ってどこに住んだか。
近衛家17代当主となった人物は、丹波国・赤井直正を頼って黒井城の下館に住んだ。
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歴史
近衛家17代当主となった人物は、近衛前久である。 関白解任と信長包囲網への参加 京を追放された前久は、丹波国・赤井直正を頼って黒井城の下館に住み、次には本願寺の顕如を頼り摂津国の石山本願寺に移りました。このとき、前久は関白を解任されましたが、信長包囲網が動き始めると三好三人衆の依頼でこれに参加し、顕如を決起させるという働きをみせています。しかし、前久には信長への敵意はなく、彼の目的はあくまで将軍・義昭と関白・晴良の排除でした。そのため、義昭が京から追放され、晴良も疎んじられるようになると、前久は信長包囲網を離脱しています。 信長の要請に応える 天正3年(1575)信長の奏上によって帰洛した前久は、その後も信長との親交を深めていきました。信長に要請され大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏らの和議を図り、さらには、信長と本願寺の調停にも着手。これにより、顕如が石山本願寺を退去すると、長らく一向一揆に悩まされてきた信長は大いに喜び、「天下平定の暁には近衛家に一国を献上する」と約束したといいます。前久は天正10年(1582)には太政大臣になりましたが、わずか3か月程度で辞任しました。これは、信長にその座を譲ろうとしていたからともいわれています。 本能寺の変とその後 信長から厚く信頼されていた前久ですが、本能寺の変で信長が横死すると状況が一変します。その後の前久はどのように過ごしたのでしょうか? 明智光秀と結んだと誤解され… 本能寺の変で信長が死去すると、落胆した前久は仏門に入り龍山と号するようになりました。ところが、「明智光秀軍が前久邸から本能寺を銃撃した」というありもしない情報が伝えられると、織田信孝や羽柴秀吉から詰問され、それ以後は徳川家康を頼って遠江に下向します。家康の斡旋もあり一年後には誤解が解けますが、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで家康と秀吉が激突。立場が危うくなった前久は、両者の和議成立後にようやく帰洛しました。 慈照寺東求堂で隠棲する その後、前久は足利将軍家ゆかりの慈照寺東求堂で晩年を過ごします。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、東軍とも西軍とも関係をもちながら中立を保ち、かつての活躍ぶりがうかがえる行動を見せたようです。激動の時代を生きた前久は、慶長17年(1612)5月8日に亡くなり、京都東福寺に葬られました。 近衛前久の人物像とは? 公家ながら抜群の行動力を発揮した前久は、どのような人物だったのでしょうか?前久の人物像がわかるエピソードをご紹介します。 和歌・連歌に優れていた 藤原氏の総本家である五摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)は、公家の家格の最高峰です。そのような家柄にうまれた前久は、和歌や連歌に優れた才能を発揮し、信長の七回忌にも追悼歌を詠みました。また、『龍山公鷹百首』という鷹狩りの解説を兼ねた歌集も執筆しており、秀吉と家康にこの写本を与えたようです。 鷹狩りで信長と意気投合! 前久は馬術や鷹狩りにも秀でており、同じく鷹狩りが趣味だった信長とはお互いの成果を自慢しあう仲でした。二人で鷹狩りに出かけた際、信長はその場で加増の命令書を書いて渡したこともあったようです。公家領としては破格の1500石だったことから、信長の前久への信頼の厚さがわかるでしょう。 波乱の人生を送った五摂家の公卿 歴史ある近衛家に生まれた前久は、幼少期からさまざまな地位を歴任し、太政大臣にまで上り詰めました。京から追放されたあとは放浪を余儀なくされた前久ですが、これは困窮のためではなく積極的に政治に参加するための手段だったとも考えられています。謙信や信長といった有力武将と交流を深め、公家とは思えぬ抜群の行動力を発揮した前久は、五摂家の公卿でありながら波乱の人生を送ったといえるでしょう。
近衛家17代当主となった人物は、本願寺の顕如を頼りどこに移ったか。
近衛家17代当主となった人物は、本願寺の顕如を頼り摂津国の石山本願寺に移った。
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歴史
近衛家17代当主となった人物は、近衛前久である。 関白解任と信長包囲網への参加 京を追放された前久は、丹波国・赤井直正を頼って黒井城の下館に住み、次には本願寺の顕如を頼り摂津国の石山本願寺に移りました。このとき、前久は関白を解任されましたが、信長包囲網が動き始めると三好三人衆の依頼でこれに参加し、顕如を決起させるという働きをみせています。しかし、前久には信長への敵意はなく、彼の目的はあくまで将軍・義昭と関白・晴良の排除でした。そのため、義昭が京から追放され、晴良も疎んじられるようになると、前久は信長包囲網を離脱しています。 信長の要請に応える 天正3年(1575)信長の奏上によって帰洛した前久は、その後も信長との親交を深めていきました。信長に要請され大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏らの和議を図り、さらには、信長と本願寺の調停にも着手。これにより、顕如が石山本願寺を退去すると、長らく一向一揆に悩まされてきた信長は大いに喜び、「天下平定の暁には近衛家に一国を献上する」と約束したといいます。前久は天正10年(1582)には太政大臣になりましたが、わずか3か月程度で辞任しました。これは、信長にその座を譲ろうとしていたからともいわれています。 本能寺の変とその後 信長から厚く信頼されていた前久ですが、本能寺の変で信長が横死すると状況が一変します。その後の前久はどのように過ごしたのでしょうか? 明智光秀と結んだと誤解され… 本能寺の変で信長が死去すると、落胆した前久は仏門に入り龍山と号するようになりました。ところが、「明智光秀軍が前久邸から本能寺を銃撃した」というありもしない情報が伝えられると、織田信孝や羽柴秀吉から詰問され、それ以後は徳川家康を頼って遠江に下向します。家康の斡旋もあり一年後には誤解が解けますが、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで家康と秀吉が激突。立場が危うくなった前久は、両者の和議成立後にようやく帰洛しました。 慈照寺東求堂で隠棲する その後、前久は足利将軍家ゆかりの慈照寺東求堂で晩年を過ごします。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、東軍とも西軍とも関係をもちながら中立を保ち、かつての活躍ぶりがうかがえる行動を見せたようです。激動の時代を生きた前久は、慶長17年(1612)5月8日に亡くなり、京都東福寺に葬られました。 近衛前久の人物像とは? 公家ながら抜群の行動力を発揮した前久は、どのような人物だったのでしょうか?前久の人物像がわかるエピソードをご紹介します。 和歌・連歌に優れていた 藤原氏の総本家である五摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)は、公家の家格の最高峰です。そのような家柄にうまれた前久は、和歌や連歌に優れた才能を発揮し、信長の七回忌にも追悼歌を詠みました。また、『龍山公鷹百首』という鷹狩りの解説を兼ねた歌集も執筆しており、秀吉と家康にこの写本を与えたようです。 鷹狩りで信長と意気投合! 前久は馬術や鷹狩りにも秀でており、同じく鷹狩りが趣味だった信長とはお互いの成果を自慢しあう仲でした。二人で鷹狩りに出かけた際、信長はその場で加増の命令書を書いて渡したこともあったようです。公家領としては破格の1500石だったことから、信長の前久への信頼の厚さがわかるでしょう。 波乱の人生を送った五摂家の公卿 歴史ある近衛家に生まれた前久は、幼少期からさまざまな地位を歴任し、太政大臣にまで上り詰めました。京から追放されたあとは放浪を余儀なくされた前久ですが、これは困窮のためではなく積極的に政治に参加するための手段だったとも考えられています。謙信や信長といった有力武将と交流を深め、公家とは思えぬ抜群の行動力を発揮した前久は、五摂家の公卿でありながら波乱の人生を送ったといえるでしょう。
近衛家17代当主となった人物は、天正10年(1582)には太政大臣になりましたが、どの程度で辞任したか。
近衛家17代当主となった人物は、天正10年(1582)には太政大臣になりましたが、わずか3か月程度で辞任した。
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歴史
近衛家17代当主となった人物は、近衛前久である。 関白解任と信長包囲網への参加 京を追放された前久は、丹波国・赤井直正を頼って黒井城の下館に住み、次には本願寺の顕如を頼り摂津国の石山本願寺に移りました。このとき、前久は関白を解任されましたが、信長包囲網が動き始めると三好三人衆の依頼でこれに参加し、顕如を決起させるという働きをみせています。しかし、前久には信長への敵意はなく、彼の目的はあくまで将軍・義昭と関白・晴良の排除でした。そのため、義昭が京から追放され、晴良も疎んじられるようになると、前久は信長包囲網を離脱しています。 信長の要請に応える 天正3年(1575)信長の奏上によって帰洛した前久は、その後も信長との親交を深めていきました。信長に要請され大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏らの和議を図り、さらには、信長と本願寺の調停にも着手。これにより、顕如が石山本願寺を退去すると、長らく一向一揆に悩まされてきた信長は大いに喜び、「天下平定の暁には近衛家に一国を献上する」と約束したといいます。前久は天正10年(1582)には太政大臣になりましたが、わずか3か月程度で辞任しました。これは、信長にその座を譲ろうとしていたからともいわれています。 本能寺の変とその後 信長から厚く信頼されていた前久ですが、本能寺の変で信長が横死すると状況が一変します。その後の前久はどのように過ごしたのでしょうか? 明智光秀と結んだと誤解され… 本能寺の変で信長が死去すると、落胆した前久は仏門に入り龍山と号するようになりました。ところが、「明智光秀軍が前久邸から本能寺を銃撃した」というありもしない情報が伝えられると、織田信孝や羽柴秀吉から詰問され、それ以後は徳川家康を頼って遠江に下向します。家康の斡旋もあり一年後には誤解が解けますが、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで家康と秀吉が激突。立場が危うくなった前久は、両者の和議成立後にようやく帰洛しました。 慈照寺東求堂で隠棲する その後、前久は足利将軍家ゆかりの慈照寺東求堂で晩年を過ごします。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、東軍とも西軍とも関係をもちながら中立を保ち、かつての活躍ぶりがうかがえる行動を見せたようです。激動の時代を生きた前久は、慶長17年(1612)5月8日に亡くなり、京都東福寺に葬られました。 近衛前久の人物像とは? 公家ながら抜群の行動力を発揮した前久は、どのような人物だったのでしょうか?前久の人物像がわかるエピソードをご紹介します。 和歌・連歌に優れていた 藤原氏の総本家である五摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)は、公家の家格の最高峰です。そのような家柄にうまれた前久は、和歌や連歌に優れた才能を発揮し、信長の七回忌にも追悼歌を詠みました。また、『龍山公鷹百首』という鷹狩りの解説を兼ねた歌集も執筆しており、秀吉と家康にこの写本を与えたようです。 鷹狩りで信長と意気投合! 前久は馬術や鷹狩りにも秀でており、同じく鷹狩りが趣味だった信長とはお互いの成果を自慢しあう仲でした。二人で鷹狩りに出かけた際、信長はその場で加増の命令書を書いて渡したこともあったようです。公家領としては破格の1500石だったことから、信長の前久への信頼の厚さがわかるでしょう。 波乱の人生を送った五摂家の公卿 歴史ある近衛家に生まれた前久は、幼少期からさまざまな地位を歴任し、太政大臣にまで上り詰めました。京から追放されたあとは放浪を余儀なくされた前久ですが、これは困窮のためではなく積極的に政治に参加するための手段だったとも考えられています。謙信や信長といった有力武将と交流を深め、公家とは思えぬ抜群の行動力を発揮した前久は、五摂家の公卿でありながら波乱の人生を送ったといえるでしょう。
近衛家17代当主となった人物は、いつ亡くなったか。
近衛家17代当主となった人物は、慶長17年(1612)5月8日に亡くなった。
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近衛家17代当主となった人物は、近衛前久である。 関白解任と信長包囲網への参加 京を追放された前久は、丹波国・赤井直正を頼って黒井城の下館に住み、次には本願寺の顕如を頼り摂津国の石山本願寺に移りました。このとき、前久は関白を解任されましたが、信長包囲網が動き始めると三好三人衆の依頼でこれに参加し、顕如を決起させるという働きをみせています。しかし、前久には信長への敵意はなく、彼の目的はあくまで将軍・義昭と関白・晴良の排除でした。そのため、義昭が京から追放され、晴良も疎んじられるようになると、前久は信長包囲網を離脱しています。 信長の要請に応える 天正3年(1575)信長の奏上によって帰洛した前久は、その後も信長との親交を深めていきました。信長に要請され大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏らの和議を図り、さらには、信長と本願寺の調停にも着手。これにより、顕如が石山本願寺を退去すると、長らく一向一揆に悩まされてきた信長は大いに喜び、「天下平定の暁には近衛家に一国を献上する」と約束したといいます。前久は天正10年(1582)には太政大臣になりましたが、わずか3か月程度で辞任しました。これは、信長にその座を譲ろうとしていたからともいわれています。 本能寺の変とその後 信長から厚く信頼されていた前久ですが、本能寺の変で信長が横死すると状況が一変します。その後の前久はどのように過ごしたのでしょうか? 明智光秀と結んだと誤解され… 本能寺の変で信長が死去すると、落胆した前久は仏門に入り龍山と号するようになりました。ところが、「明智光秀軍が前久邸から本能寺を銃撃した」というありもしない情報が伝えられると、織田信孝や羽柴秀吉から詰問され、それ以後は徳川家康を頼って遠江に下向します。家康の斡旋もあり一年後には誤解が解けますが、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで家康と秀吉が激突。立場が危うくなった前久は、両者の和議成立後にようやく帰洛しました。 慈照寺東求堂で隠棲する その後、前久は足利将軍家ゆかりの慈照寺東求堂で晩年を過ごします。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、東軍とも西軍とも関係をもちながら中立を保ち、かつての活躍ぶりがうかがえる行動を見せたようです。激動の時代を生きた前久は、慶長17年(1612)5月8日に亡くなり、京都東福寺に葬られました。 近衛前久の人物像とは? 公家ながら抜群の行動力を発揮した前久は、どのような人物だったのでしょうか?前久の人物像がわかるエピソードをご紹介します。 和歌・連歌に優れていた 藤原氏の総本家である五摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)は、公家の家格の最高峰です。そのような家柄にうまれた前久は、和歌や連歌に優れた才能を発揮し、信長の七回忌にも追悼歌を詠みました。また、『龍山公鷹百首』という鷹狩りの解説を兼ねた歌集も執筆しており、秀吉と家康にこの写本を与えたようです。 鷹狩りで信長と意気投合! 前久は馬術や鷹狩りにも秀でており、同じく鷹狩りが趣味だった信長とはお互いの成果を自慢しあう仲でした。二人で鷹狩りに出かけた際、信長はその場で加増の命令書を書いて渡したこともあったようです。公家領としては破格の1500石だったことから、信長の前久への信頼の厚さがわかるでしょう。 波乱の人生を送った五摂家の公卿 歴史ある近衛家に生まれた前久は、幼少期からさまざまな地位を歴任し、太政大臣にまで上り詰めました。京から追放されたあとは放浪を余儀なくされた前久ですが、これは困窮のためではなく積極的に政治に参加するための手段だったとも考えられています。謙信や信長といった有力武将と交流を深め、公家とは思えぬ抜群の行動力を発揮した前久は、五摂家の公卿でありながら波乱の人生を送ったといえるでしょう。
近衛家17代当主となった人物は、どこに葬られたか。
近衛家17代当主となった人物は、京都東福寺に葬られた。
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歴史
越前朝倉氏最後の当主である人物は、朝倉義景である。 うまれから地位確立まで 義景の幼少期については不明な点が多く、詳しい逸話は残されていないようです。ここでは、その地位を確立するまでの経緯を振り返ります。 家督相続し、歴代当主一の官位を得る 義景は、天文2年(1533)朝倉孝景の長男として越前国で誕生しました。生母は若狭武田氏の一族の娘・広徳院(光徳院)といわれています。父の死により16歳で家督を継承し、11代当主となって延景を名乗りますが、当初は従曾祖父・朝倉宗滴が政務や軍事を補佐したようです。その後、第13代将軍・足利義輝から「義」の字を与えられ義景と改名、歴代当主一の地位・左衛門督に就きます。これは朝倉氏が管領・細川氏と縁戚関係にあり、衰退しつつある室町幕府がその力を必要として優遇したからと考えられています。 美濃を落ち延びた明智光秀を助ける 弘治2年(1556)美濃国で斎藤道三とその子・義龍による「長良川の戦い」が勃発。この戦いで浪人となった道三の家臣・明智光秀は、美濃から越前に落ち延びて義景に身を寄せます。光秀はその後10年ほど越前の称念寺の門前に居住し、義景のもとで過ごしながら再起を図りました。このころ、兄の義輝を殺害された足利義昭も朝倉氏を頼って訪問していたため、光秀と義昭はここで知り合い、のちに信長と義昭が繋がるきっかけとなります。 将軍・足利義昭とのかかわり 幕府からも信頼されていた義景ですが、やがてその関わりにも亀裂が入りました。室町幕府最後の将軍となった義昭との関係はどのようなものだったのでしょうか? 足利義輝、暗殺!その裏で義景は…? 永禄8年(1565)将軍・義輝が三好義継らによって暗殺されました。この「永禄の変」により、覚慶(かくけい)という僧侶として生きていた義昭も奈良の興福寺に幽閉・監視されてしまいます。しかしその後、義輝の側近たちに助けられ近江への脱出に成功。この脱出の背景には義景の画策があり、義景は義輝の家臣らと連絡を取り合っていたといわれています。義景は義昭の越前敦賀への来訪を歓迎し、義昭も朝倉家の後援を期待して加賀一向一揆との和睦を成立させるなど、両者の関係は深まりました。 義昭に上洛を求められるも応じず 義昭は正統な血筋による室町幕府の再興を目指し、上杉謙信ら諸大名に上洛するよう書状を送りました。しかし、政治情勢から彼らの上洛は難しく、やがて義景に上洛戦を求めるようになります。ところが、義景の態度が冷淡だったため、義昭は勢いを増していた信長を頼ることを決意。このとき義景が上洛に応じなかったのは、当時の状況を考慮してのことだったようです。なお、この頃の義景は管領のような立場で、『朝倉系図』に管領代と記載されるほどでした。
越前朝倉氏最後の当主である人物は、いつ誕生したか。
越前朝倉氏最後の当主である人物は、天文2年(1533)に誕生した。
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歴史
越前朝倉氏最後の当主である人物は、朝倉義景である。 うまれから地位確立まで 義景の幼少期については不明な点が多く、詳しい逸話は残されていないようです。ここでは、その地位を確立するまでの経緯を振り返ります。 家督相続し、歴代当主一の官位を得る 義景は、天文2年(1533)朝倉孝景の長男として越前国で誕生しました。生母は若狭武田氏の一族の娘・広徳院(光徳院)といわれています。父の死により16歳で家督を継承し、11代当主となって延景を名乗りますが、当初は従曾祖父・朝倉宗滴が政務や軍事を補佐したようです。その後、第13代将軍・足利義輝から「義」の字を与えられ義景と改名、歴代当主一の地位・左衛門督に就きます。これは朝倉氏が管領・細川氏と縁戚関係にあり、衰退しつつある室町幕府がその力を必要として優遇したからと考えられています。 美濃を落ち延びた明智光秀を助ける 弘治2年(1556)美濃国で斎藤道三とその子・義龍による「長良川の戦い」が勃発。この戦いで浪人となった道三の家臣・明智光秀は、美濃から越前に落ち延びて義景に身を寄せます。光秀はその後10年ほど越前の称念寺の門前に居住し、義景のもとで過ごしながら再起を図りました。このころ、兄の義輝を殺害された足利義昭も朝倉氏を頼って訪問していたため、光秀と義昭はここで知り合い、のちに信長と義昭が繋がるきっかけとなります。 将軍・足利義昭とのかかわり 幕府からも信頼されていた義景ですが、やがてその関わりにも亀裂が入りました。室町幕府最後の将軍となった義昭との関係はどのようなものだったのでしょうか? 足利義輝、暗殺!その裏で義景は…? 永禄8年(1565)将軍・義輝が三好義継らによって暗殺されました。この「永禄の変」により、覚慶(かくけい)という僧侶として生きていた義昭も奈良の興福寺に幽閉・監視されてしまいます。しかしその後、義輝の側近たちに助けられ近江への脱出に成功。この脱出の背景には義景の画策があり、義景は義輝の家臣らと連絡を取り合っていたといわれています。義景は義昭の越前敦賀への来訪を歓迎し、義昭も朝倉家の後援を期待して加賀一向一揆との和睦を成立させるなど、両者の関係は深まりました。 義昭に上洛を求められるも応じず 義昭は正統な血筋による室町幕府の再興を目指し、上杉謙信ら諸大名に上洛するよう書状を送りました。しかし、政治情勢から彼らの上洛は難しく、やがて義景に上洛戦を求めるようになります。ところが、義景の態度が冷淡だったため、義昭は勢いを増していた信長を頼ることを決意。このとき義景が上洛に応じなかったのは、当時の状況を考慮してのことだったようです。なお、この頃の義景は管領のような立場で、『朝倉系図』に管領代と記載されるほどでした。
越前朝倉氏最後の当主である人物は、誰の長男として誕生したか。
越前朝倉氏最後の当主である人物は、朝倉孝景の長男として誕生した。
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歴史
越前朝倉氏最後の当主である人物は、朝倉義景である。 うまれから地位確立まで 義景の幼少期については不明な点が多く、詳しい逸話は残されていないようです。ここでは、その地位を確立するまでの経緯を振り返ります。 家督相続し、歴代当主一の官位を得る 義景は、天文2年(1533)朝倉孝景の長男として越前国で誕生しました。生母は若狭武田氏の一族の娘・広徳院(光徳院)といわれています。父の死により16歳で家督を継承し、11代当主となって延景を名乗りますが、当初は従曾祖父・朝倉宗滴が政務や軍事を補佐したようです。その後、第13代将軍・足利義輝から「義」の字を与えられ義景と改名、歴代当主一の地位・左衛門督に就きます。これは朝倉氏が管領・細川氏と縁戚関係にあり、衰退しつつある室町幕府がその力を必要として優遇したからと考えられています。 美濃を落ち延びた明智光秀を助ける 弘治2年(1556)美濃国で斎藤道三とその子・義龍による「長良川の戦い」が勃発。この戦いで浪人となった道三の家臣・明智光秀は、美濃から越前に落ち延びて義景に身を寄せます。光秀はその後10年ほど越前の称念寺の門前に居住し、義景のもとで過ごしながら再起を図りました。このころ、兄の義輝を殺害された足利義昭も朝倉氏を頼って訪問していたため、光秀と義昭はここで知り合い、のちに信長と義昭が繋がるきっかけとなります。 将軍・足利義昭とのかかわり 幕府からも信頼されていた義景ですが、やがてその関わりにも亀裂が入りました。室町幕府最後の将軍となった義昭との関係はどのようなものだったのでしょうか? 足利義輝、暗殺!その裏で義景は…? 永禄8年(1565)将軍・義輝が三好義継らによって暗殺されました。この「永禄の変」により、覚慶(かくけい)という僧侶として生きていた義昭も奈良の興福寺に幽閉・監視されてしまいます。しかしその後、義輝の側近たちに助けられ近江への脱出に成功。この脱出の背景には義景の画策があり、義景は義輝の家臣らと連絡を取り合っていたといわれています。義景は義昭の越前敦賀への来訪を歓迎し、義昭も朝倉家の後援を期待して加賀一向一揆との和睦を成立させるなど、両者の関係は深まりました。 義昭に上洛を求められるも応じず 義昭は正統な血筋による室町幕府の再興を目指し、上杉謙信ら諸大名に上洛するよう書状を送りました。しかし、政治情勢から彼らの上洛は難しく、やがて義景に上洛戦を求めるようになります。ところが、義景の態度が冷淡だったため、義昭は勢いを増していた信長を頼ることを決意。このとき義景が上洛に応じなかったのは、当時の状況を考慮してのことだったようです。なお、この頃の義景は管領のような立場で、『朝倉系図』に管領代と記載されるほどでした。
越前朝倉氏最後の当主である人物は、どこで誕生したか。
越前朝倉氏最後の当主である人物は、越前国で誕生した。
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歴史
越前朝倉氏最後の当主である人物は、朝倉義景である。 うまれから地位確立まで 義景の幼少期については不明な点が多く、詳しい逸話は残されていないようです。ここでは、その地位を確立するまでの経緯を振り返ります。 家督相続し、歴代当主一の官位を得る 義景は、天文2年(1533)朝倉孝景の長男として越前国で誕生しました。生母は若狭武田氏の一族の娘・広徳院(光徳院)といわれています。父の死により16歳で家督を継承し、11代当主となって延景を名乗りますが、当初は従曾祖父・朝倉宗滴が政務や軍事を補佐したようです。その後、第13代将軍・足利義輝から「義」の字を与えられ義景と改名、歴代当主一の地位・左衛門督に就きます。これは朝倉氏が管領・細川氏と縁戚関係にあり、衰退しつつある室町幕府がその力を必要として優遇したからと考えられています。 美濃を落ち延びた明智光秀を助ける 弘治2年(1556)美濃国で斎藤道三とその子・義龍による「長良川の戦い」が勃発。この戦いで浪人となった道三の家臣・明智光秀は、美濃から越前に落ち延びて義景に身を寄せます。光秀はその後10年ほど越前の称念寺の門前に居住し、義景のもとで過ごしながら再起を図りました。このころ、兄の義輝を殺害された足利義昭も朝倉氏を頼って訪問していたため、光秀と義昭はここで知り合い、のちに信長と義昭が繋がるきっかけとなります。 将軍・足利義昭とのかかわり 幕府からも信頼されていた義景ですが、やがてその関わりにも亀裂が入りました。室町幕府最後の将軍となった義昭との関係はどのようなものだったのでしょうか? 足利義輝、暗殺!その裏で義景は…? 永禄8年(1565)将軍・義輝が三好義継らによって暗殺されました。この「永禄の変」により、覚慶(かくけい)という僧侶として生きていた義昭も奈良の興福寺に幽閉・監視されてしまいます。しかしその後、義輝の側近たちに助けられ近江への脱出に成功。この脱出の背景には義景の画策があり、義景は義輝の家臣らと連絡を取り合っていたといわれています。義景は義昭の越前敦賀への来訪を歓迎し、義昭も朝倉家の後援を期待して加賀一向一揆との和睦を成立させるなど、両者の関係は深まりました。 義昭に上洛を求められるも応じず 義昭は正統な血筋による室町幕府の再興を目指し、上杉謙信ら諸大名に上洛するよう書状を送りました。しかし、政治情勢から彼らの上洛は難しく、やがて義景に上洛戦を求めるようになります。ところが、義景の態度が冷淡だったため、義昭は勢いを増していた信長を頼ることを決意。このとき義景が上洛に応じなかったのは、当時の状況を考慮してのことだったようです。なお、この頃の義景は管領のような立場で、『朝倉系図』に管領代と記載されるほどでした。
越前朝倉氏最後の当主である人物は、誰を助けたか。
越前朝倉氏最後の当主である人物は、美濃を落ち延びた明智光秀を助けた。
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歴史
越前朝倉氏最後の当主である人物は、朝倉義景である。 うまれから地位確立まで 義景の幼少期については不明な点が多く、詳しい逸話は残されていないようです。ここでは、その地位を確立するまでの経緯を振り返ります。 家督相続し、歴代当主一の官位を得る 義景は、天文2年(1533)朝倉孝景の長男として越前国で誕生しました。生母は若狭武田氏の一族の娘・広徳院(光徳院)といわれています。父の死により16歳で家督を継承し、11代当主となって延景を名乗りますが、当初は従曾祖父・朝倉宗滴が政務や軍事を補佐したようです。その後、第13代将軍・足利義輝から「義」の字を与えられ義景と改名、歴代当主一の地位・左衛門督に就きます。これは朝倉氏が管領・細川氏と縁戚関係にあり、衰退しつつある室町幕府がその力を必要として優遇したからと考えられています。 美濃を落ち延びた明智光秀を助ける 弘治2年(1556)美濃国で斎藤道三とその子・義龍による「長良川の戦い」が勃発。この戦いで浪人となった道三の家臣・明智光秀は、美濃から越前に落ち延びて義景に身を寄せます。光秀はその後10年ほど越前の称念寺の門前に居住し、義景のもとで過ごしながら再起を図りました。このころ、兄の義輝を殺害された足利義昭も朝倉氏を頼って訪問していたため、光秀と義昭はここで知り合い、のちに信長と義昭が繋がるきっかけとなります。 将軍・足利義昭とのかかわり 幕府からも信頼されていた義景ですが、やがてその関わりにも亀裂が入りました。室町幕府最後の将軍となった義昭との関係はどのようなものだったのでしょうか? 足利義輝、暗殺!その裏で義景は…? 永禄8年(1565)将軍・義輝が三好義継らによって暗殺されました。この「永禄の変」により、覚慶(かくけい)という僧侶として生きていた義昭も奈良の興福寺に幽閉・監視されてしまいます。しかしその後、義輝の側近たちに助けられ近江への脱出に成功。この脱出の背景には義景の画策があり、義景は義輝の家臣らと連絡を取り合っていたといわれています。義景は義昭の越前敦賀への来訪を歓迎し、義昭も朝倉家の後援を期待して加賀一向一揆との和睦を成立させるなど、両者の関係は深まりました。 義昭に上洛を求められるも応じず 義昭は正統な血筋による室町幕府の再興を目指し、上杉謙信ら諸大名に上洛するよう書状を送りました。しかし、政治情勢から彼らの上洛は難しく、やがて義景に上洛戦を求めるようになります。ところが、義景の態度が冷淡だったため、義昭は勢いを増していた信長を頼ることを決意。このとき義景が上洛に応じなかったのは、当時の状況を考慮してのことだったようです。なお、この頃の義景は管領のような立場で、『朝倉系図』に管領代と記載されるほどでした。
越前朝倉氏最後の当主である人物は、誰の越前敦賀への来訪を歓迎したか。
越前朝倉氏最後の当主である人物は、義昭の越前敦賀への来訪を歓迎した。
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歴史
越前朝倉氏最後の当主である人物は、朝倉義景である。 織田信長との対立と戦い 永禄11年(1568)義昭を奉じて上洛した信長は、地位を確立して勢力を拡大していきます。義景はそんな信長と対立し攻防戦を繰り広げました。 上洛要請を拒否し支城を攻略される 義昭によって室町幕府が再興されると、信長は義昭の命令だとして義景に上洛を求めます。しかし、義景は織田家への従属や長期的な留守を避けるため、2度にわたるこの要請を拒否。信長は叛意ありとして義景を攻めました。 信長に攻められた義景は、支城である天筒山城や金ヶ崎城を奪われピンチに陥ります。しかし、北近江の浅井長政が信長との同盟を破って織田軍の背後を襲撃すると、挟撃された信長は朝倉軍の追撃をかわして京都に撤退。(金ヶ崎の退き口)このとき織田方の有力武将を取り逃がしたことが、信長に再挙の機会を与えることにつながりました。 姉川の戦いで激突! 元亀元年(1570)織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍による「姉川の戦い」が勃発します。このとき朝倉軍の総大将を務めたのは一族の朝倉景健で、徳川軍と対戦したものの側面を攻撃され敗北。『信長公記』によれば、朝倉・浅井軍は1100人ほどの被害をだしたといいます。朝倉軍は3か月後に再度出兵しますが、姉川の戦いで多くの支城を失ったことが不利となりました。 その後も続いた信長との攻防戦 義景は、信長が石山本願寺討伐で出兵している隙に、織田領の近江坂本に侵攻します。信長の弟・織田信治や、重臣・森可成を敗死させるなど成果をあげた義景でしたが、信長軍が近江に引き返してきたため比叡山に立てこもりました。このときは将軍・義昭の和睦調停により勅命講和したものの、再び長政と協力して織田領を攻撃して敗退する結果となり、信長は朝倉軍に協力した過去がある比叡山を焼き討ちしました。 一乗谷城の戦いと義景の最期 信長と戦い続けた義景でしたが、そんな彼にもついに最期がやってきます。それは、長らく繁栄してきた越前朝倉氏の終焉でもありました。 信長の奇襲により敗退する 天正元年(1573)8月、信長は30000人の軍勢で近江に侵攻し、義景もこれに対抗して出陣しようとします。しかし、この頃の義景は家臣からの信頼が薄れており、重臣・朝倉景鏡や魚住景固らは疲労を理由に出陣命令を拒否しました。義景は20000人の兵力で出陣しますが、信長の奇襲により敗退を余儀なくされます。さらには長政との連携も取れなくなり越前への撤退を決意。しかし、これを見抜いた信長から激しい追撃を受け、撤退途中の刀根坂で織田軍に追いつかれ大きな被害を受けました。 一乗谷に帰還するも家臣は逃走し… 義景は疋壇城に逃げ込み、その後に一乗谷を目指しました。そうする間にも次々と兵士らが逃亡し、最後に残ったのは側近わずか10人ほどだったといいます。こうして一乗谷に帰還した義景でしたが、留守を頼んだはずの将兵の多くは朝倉軍の壊滅を知って逃走していました。もはや義景が命令しても、ほぼ誰も出陣しない状況になっていたのです。 炎上する一乗谷、自刃する義景 このような状況から自害を考えた義景でしたが、近臣らに止められ思いとどまります。そして従兄弟・景鏡の進言に従って一乗谷を放棄すると、東雲寺に次いで賢松寺へと逃亡。ところが、信長と通じていた景鏡によって200騎に囲まれ、義景はついに自刃しました。このとき一乗谷では織田軍によって居館や神社仏閣が燃やされ、その炎が3日3晩続いたといわれています。 戦国大名・朝倉氏が滅亡した 越前朝倉家当主のなかでも突出した地位に就き幕府の信頼を得た義景。もし彼が将軍・義昭の上洛戦を請け負っていれば、もう少し違う結果になっていたかもしれません。しかし、信長との戦いは避けて通れなかったでしょう。 義景の死後、その首は京都で獄門に晒されました。景鏡はのちに信長に仕えますが、血族の多くは信長の命を受けた丹羽長秀によって殺害されています。こうして100年以上続いた戦国大名・朝倉氏は滅亡したのです。
越前朝倉氏最後の当主である人物は、何を拒否し支城を攻略されたか。
越前朝倉氏最後の当主である人物は、上洛要請を拒否し支城を攻略された。
JCRRAG_018658
歴史
越前朝倉氏最後の当主である人物は、朝倉義景である。 織田信長との対立と戦い 永禄11年(1568)義昭を奉じて上洛した信長は、地位を確立して勢力を拡大していきます。義景はそんな信長と対立し攻防戦を繰り広げました。 上洛要請を拒否し支城を攻略される 義昭によって室町幕府が再興されると、信長は義昭の命令だとして義景に上洛を求めます。しかし、義景は織田家への従属や長期的な留守を避けるため、2度にわたるこの要請を拒否。信長は叛意ありとして義景を攻めました。 信長に攻められた義景は、支城である天筒山城や金ヶ崎城を奪われピンチに陥ります。しかし、北近江の浅井長政が信長との同盟を破って織田軍の背後を襲撃すると、挟撃された信長は朝倉軍の追撃をかわして京都に撤退。(金ヶ崎の退き口)このとき織田方の有力武将を取り逃がしたことが、信長に再挙の機会を与えることにつながりました。 姉川の戦いで激突! 元亀元年(1570)織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍による「姉川の戦い」が勃発します。このとき朝倉軍の総大将を務めたのは一族の朝倉景健で、徳川軍と対戦したものの側面を攻撃され敗北。『信長公記』によれば、朝倉・浅井軍は1100人ほどの被害をだしたといいます。朝倉軍は3か月後に再度出兵しますが、姉川の戦いで多くの支城を失ったことが不利となりました。 その後も続いた信長との攻防戦 義景は、信長が石山本願寺討伐で出兵している隙に、織田領の近江坂本に侵攻します。信長の弟・織田信治や、重臣・森可成を敗死させるなど成果をあげた義景でしたが、信長軍が近江に引き返してきたため比叡山に立てこもりました。このときは将軍・義昭の和睦調停により勅命講和したものの、再び長政と協力して織田領を攻撃して敗退する結果となり、信長は朝倉軍に協力した過去がある比叡山を焼き討ちしました。 一乗谷城の戦いと義景の最期 信長と戦い続けた義景でしたが、そんな彼にもついに最期がやってきます。それは、長らく繁栄してきた越前朝倉氏の終焉でもありました。 信長の奇襲により敗退する 天正元年(1573)8月、信長は30000人の軍勢で近江に侵攻し、義景もこれに対抗して出陣しようとします。しかし、この頃の義景は家臣からの信頼が薄れており、重臣・朝倉景鏡や魚住景固らは疲労を理由に出陣命令を拒否しました。義景は20000人の兵力で出陣しますが、信長の奇襲により敗退を余儀なくされます。さらには長政との連携も取れなくなり越前への撤退を決意。しかし、これを見抜いた信長から激しい追撃を受け、撤退途中の刀根坂で織田軍に追いつかれ大きな被害を受けました。 一乗谷に帰還するも家臣は逃走し… 義景は疋壇城に逃げ込み、その後に一乗谷を目指しました。そうする間にも次々と兵士らが逃亡し、最後に残ったのは側近わずか10人ほどだったといいます。こうして一乗谷に帰還した義景でしたが、留守を頼んだはずの将兵の多くは朝倉軍の壊滅を知って逃走していました。もはや義景が命令しても、ほぼ誰も出陣しない状況になっていたのです。 炎上する一乗谷、自刃する義景 このような状況から自害を考えた義景でしたが、近臣らに止められ思いとどまります。そして従兄弟・景鏡の進言に従って一乗谷を放棄すると、東雲寺に次いで賢松寺へと逃亡。ところが、信長と通じていた景鏡によって200騎に囲まれ、義景はついに自刃しました。このとき一乗谷では織田軍によって居館や神社仏閣が燃やされ、その炎が3日3晩続いたといわれています。 戦国大名・朝倉氏が滅亡した 越前朝倉家当主のなかでも突出した地位に就き幕府の信頼を得た義景。もし彼が将軍・義昭の上洛戦を請け負っていれば、もう少し違う結果になっていたかもしれません。しかし、信長との戦いは避けて通れなかったでしょう。 義景の死後、その首は京都で獄門に晒されました。景鏡はのちに信長に仕えますが、血族の多くは信長の命を受けた丹羽長秀によって殺害されています。こうして100年以上続いた戦国大名・朝倉氏は滅亡したのです。
越前朝倉氏最後の当主である人物は、何の隙に侵攻したか。
越前朝倉氏最後の当主である人物は、信長が石山本願寺討伐で出兵している隙に侵攻した。
JCRRAG_018659
歴史
越前朝倉氏最後の当主である人物は、朝倉義景である。 織田信長との対立と戦い 永禄11年(1568)義昭を奉じて上洛した信長は、地位を確立して勢力を拡大していきます。義景はそんな信長と対立し攻防戦を繰り広げました。 上洛要請を拒否し支城を攻略される 義昭によって室町幕府が再興されると、信長は義昭の命令だとして義景に上洛を求めます。しかし、義景は織田家への従属や長期的な留守を避けるため、2度にわたるこの要請を拒否。信長は叛意ありとして義景を攻めました。 信長に攻められた義景は、支城である天筒山城や金ヶ崎城を奪われピンチに陥ります。しかし、北近江の浅井長政が信長との同盟を破って織田軍の背後を襲撃すると、挟撃された信長は朝倉軍の追撃をかわして京都に撤退。(金ヶ崎の退き口)このとき織田方の有力武将を取り逃がしたことが、信長に再挙の機会を与えることにつながりました。 姉川の戦いで激突! 元亀元年(1570)織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍による「姉川の戦い」が勃発します。このとき朝倉軍の総大将を務めたのは一族の朝倉景健で、徳川軍と対戦したものの側面を攻撃され敗北。『信長公記』によれば、朝倉・浅井軍は1100人ほどの被害をだしたといいます。朝倉軍は3か月後に再度出兵しますが、姉川の戦いで多くの支城を失ったことが不利となりました。 その後も続いた信長との攻防戦 義景は、信長が石山本願寺討伐で出兵している隙に、織田領の近江坂本に侵攻します。信長の弟・織田信治や、重臣・森可成を敗死させるなど成果をあげた義景でしたが、信長軍が近江に引き返してきたため比叡山に立てこもりました。このときは将軍・義昭の和睦調停により勅命講和したものの、再び長政と協力して織田領を攻撃して敗退する結果となり、信長は朝倉軍に協力した過去がある比叡山を焼き討ちしました。 一乗谷城の戦いと義景の最期 信長と戦い続けた義景でしたが、そんな彼にもついに最期がやってきます。それは、長らく繁栄してきた越前朝倉氏の終焉でもありました。 信長の奇襲により敗退する 天正元年(1573)8月、信長は30000人の軍勢で近江に侵攻し、義景もこれに対抗して出陣しようとします。しかし、この頃の義景は家臣からの信頼が薄れており、重臣・朝倉景鏡や魚住景固らは疲労を理由に出陣命令を拒否しました。義景は20000人の兵力で出陣しますが、信長の奇襲により敗退を余儀なくされます。さらには長政との連携も取れなくなり越前への撤退を決意。しかし、これを見抜いた信長から激しい追撃を受け、撤退途中の刀根坂で織田軍に追いつかれ大きな被害を受けました。 一乗谷に帰還するも家臣は逃走し… 義景は疋壇城に逃げ込み、その後に一乗谷を目指しました。そうする間にも次々と兵士らが逃亡し、最後に残ったのは側近わずか10人ほどだったといいます。こうして一乗谷に帰還した義景でしたが、留守を頼んだはずの将兵の多くは朝倉軍の壊滅を知って逃走していました。もはや義景が命令しても、ほぼ誰も出陣しない状況になっていたのです。 炎上する一乗谷、自刃する義景 このような状況から自害を考えた義景でしたが、近臣らに止められ思いとどまります。そして従兄弟・景鏡の進言に従って一乗谷を放棄すると、東雲寺に次いで賢松寺へと逃亡。ところが、信長と通じていた景鏡によって200騎に囲まれ、義景はついに自刃しました。このとき一乗谷では織田軍によって居館や神社仏閣が燃やされ、その炎が3日3晩続いたといわれています。 戦国大名・朝倉氏が滅亡した 越前朝倉家当主のなかでも突出した地位に就き幕府の信頼を得た義景。もし彼が将軍・義昭の上洛戦を請け負っていれば、もう少し違う結果になっていたかもしれません。しかし、信長との戦いは避けて通れなかったでしょう。 義景の死後、その首は京都で獄門に晒されました。景鏡はのちに信長に仕えますが、血族の多くは信長の命を受けた丹羽長秀によって殺害されています。こうして100年以上続いた戦国大名・朝倉氏は滅亡したのです。
越前朝倉氏最後の当主である人物は、どこに侵攻したか。
越前朝倉氏最後の当主である人物は、織田領の近江坂本に侵攻した。
JCRRAG_018660
歴史
越前朝倉氏最後の当主である人物は、朝倉義景である。 織田信長との対立と戦い 永禄11年(1568)義昭を奉じて上洛した信長は、地位を確立して勢力を拡大していきます。義景はそんな信長と対立し攻防戦を繰り広げました。 上洛要請を拒否し支城を攻略される 義昭によって室町幕府が再興されると、信長は義昭の命令だとして義景に上洛を求めます。しかし、義景は織田家への従属や長期的な留守を避けるため、2度にわたるこの要請を拒否。信長は叛意ありとして義景を攻めました。 信長に攻められた義景は、支城である天筒山城や金ヶ崎城を奪われピンチに陥ります。しかし、北近江の浅井長政が信長との同盟を破って織田軍の背後を襲撃すると、挟撃された信長は朝倉軍の追撃をかわして京都に撤退。(金ヶ崎の退き口)このとき織田方の有力武将を取り逃がしたことが、信長に再挙の機会を与えることにつながりました。 姉川の戦いで激突! 元亀元年(1570)織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍による「姉川の戦い」が勃発します。このとき朝倉軍の総大将を務めたのは一族の朝倉景健で、徳川軍と対戦したものの側面を攻撃され敗北。『信長公記』によれば、朝倉・浅井軍は1100人ほどの被害をだしたといいます。朝倉軍は3か月後に再度出兵しますが、姉川の戦いで多くの支城を失ったことが不利となりました。 その後も続いた信長との攻防戦 義景は、信長が石山本願寺討伐で出兵している隙に、織田領の近江坂本に侵攻します。信長の弟・織田信治や、重臣・森可成を敗死させるなど成果をあげた義景でしたが、信長軍が近江に引き返してきたため比叡山に立てこもりました。このときは将軍・義昭の和睦調停により勅命講和したものの、再び長政と協力して織田領を攻撃して敗退する結果となり、信長は朝倉軍に協力した過去がある比叡山を焼き討ちしました。 一乗谷城の戦いと義景の最期 信長と戦い続けた義景でしたが、そんな彼にもついに最期がやってきます。それは、長らく繁栄してきた越前朝倉氏の終焉でもありました。 信長の奇襲により敗退する 天正元年(1573)8月、信長は30000人の軍勢で近江に侵攻し、義景もこれに対抗して出陣しようとします。しかし、この頃の義景は家臣からの信頼が薄れており、重臣・朝倉景鏡や魚住景固らは疲労を理由に出陣命令を拒否しました。義景は20000人の兵力で出陣しますが、信長の奇襲により敗退を余儀なくされます。さらには長政との連携も取れなくなり越前への撤退を決意。しかし、これを見抜いた信長から激しい追撃を受け、撤退途中の刀根坂で織田軍に追いつかれ大きな被害を受けました。 一乗谷に帰還するも家臣は逃走し… 義景は疋壇城に逃げ込み、その後に一乗谷を目指しました。そうする間にも次々と兵士らが逃亡し、最後に残ったのは側近わずか10人ほどだったといいます。こうして一乗谷に帰還した義景でしたが、留守を頼んだはずの将兵の多くは朝倉軍の壊滅を知って逃走していました。もはや義景が命令しても、ほぼ誰も出陣しない状況になっていたのです。 炎上する一乗谷、自刃する義景 このような状況から自害を考えた義景でしたが、近臣らに止められ思いとどまります。そして従兄弟・景鏡の進言に従って一乗谷を放棄すると、東雲寺に次いで賢松寺へと逃亡。ところが、信長と通じていた景鏡によって200騎に囲まれ、義景はついに自刃しました。このとき一乗谷では織田軍によって居館や神社仏閣が燃やされ、その炎が3日3晩続いたといわれています。 戦国大名・朝倉氏が滅亡した 越前朝倉家当主のなかでも突出した地位に就き幕府の信頼を得た義景。もし彼が将軍・義昭の上洛戦を請け負っていれば、もう少し違う結果になっていたかもしれません。しかし、信長との戦いは避けて通れなかったでしょう。 義景の死後、その首は京都で獄門に晒されました。景鏡はのちに信長に仕えますが、血族の多くは信長の命を受けた丹羽長秀によって殺害されています。こうして100年以上続いた戦国大名・朝倉氏は滅亡したのです。
越前朝倉氏最後の当主である人物は、誰の奇襲により敗退したか。
越前朝倉氏最後の当主である人物は、信長の奇襲により敗退した。
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歴史
越前朝倉氏最後の当主である人物は、朝倉義景である。 織田信長との対立と戦い 永禄11年(1568)義昭を奉じて上洛した信長は、地位を確立して勢力を拡大していきます。義景はそんな信長と対立し攻防戦を繰り広げました。 上洛要請を拒否し支城を攻略される 義昭によって室町幕府が再興されると、信長は義昭の命令だとして義景に上洛を求めます。しかし、義景は織田家への従属や長期的な留守を避けるため、2度にわたるこの要請を拒否。信長は叛意ありとして義景を攻めました。 信長に攻められた義景は、支城である天筒山城や金ヶ崎城を奪われピンチに陥ります。しかし、北近江の浅井長政が信長との同盟を破って織田軍の背後を襲撃すると、挟撃された信長は朝倉軍の追撃をかわして京都に撤退。(金ヶ崎の退き口)このとき織田方の有力武将を取り逃がしたことが、信長に再挙の機会を与えることにつながりました。 姉川の戦いで激突! 元亀元年(1570)織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍による「姉川の戦い」が勃発します。このとき朝倉軍の総大将を務めたのは一族の朝倉景健で、徳川軍と対戦したものの側面を攻撃され敗北。『信長公記』によれば、朝倉・浅井軍は1100人ほどの被害をだしたといいます。朝倉軍は3か月後に再度出兵しますが、姉川の戦いで多くの支城を失ったことが不利となりました。 その後も続いた信長との攻防戦 義景は、信長が石山本願寺討伐で出兵している隙に、織田領の近江坂本に侵攻します。信長の弟・織田信治や、重臣・森可成を敗死させるなど成果をあげた義景でしたが、信長軍が近江に引き返してきたため比叡山に立てこもりました。このときは将軍・義昭の和睦調停により勅命講和したものの、再び長政と協力して織田領を攻撃して敗退する結果となり、信長は朝倉軍に協力した過去がある比叡山を焼き討ちしました。 一乗谷城の戦いと義景の最期 信長と戦い続けた義景でしたが、そんな彼にもついに最期がやってきます。それは、長らく繁栄してきた越前朝倉氏の終焉でもありました。 信長の奇襲により敗退する 天正元年(1573)8月、信長は30000人の軍勢で近江に侵攻し、義景もこれに対抗して出陣しようとします。しかし、この頃の義景は家臣からの信頼が薄れており、重臣・朝倉景鏡や魚住景固らは疲労を理由に出陣命令を拒否しました。義景は20000人の兵力で出陣しますが、信長の奇襲により敗退を余儀なくされます。さらには長政との連携も取れなくなり越前への撤退を決意。しかし、これを見抜いた信長から激しい追撃を受け、撤退途中の刀根坂で織田軍に追いつかれ大きな被害を受けました。 一乗谷に帰還するも家臣は逃走し… 義景は疋壇城に逃げ込み、その後に一乗谷を目指しました。そうする間にも次々と兵士らが逃亡し、最後に残ったのは側近わずか10人ほどだったといいます。こうして一乗谷に帰還した義景でしたが、留守を頼んだはずの将兵の多くは朝倉軍の壊滅を知って逃走していました。もはや義景が命令しても、ほぼ誰も出陣しない状況になっていたのです。 炎上する一乗谷、自刃する義景 このような状況から自害を考えた義景でしたが、近臣らに止められ思いとどまります。そして従兄弟・景鏡の進言に従って一乗谷を放棄すると、東雲寺に次いで賢松寺へと逃亡。ところが、信長と通じていた景鏡によって200騎に囲まれ、義景はついに自刃しました。このとき一乗谷では織田軍によって居館や神社仏閣が燃やされ、その炎が3日3晩続いたといわれています。 戦国大名・朝倉氏が滅亡した 越前朝倉家当主のなかでも突出した地位に就き幕府の信頼を得た義景。もし彼が将軍・義昭の上洛戦を請け負っていれば、もう少し違う結果になっていたかもしれません。しかし、信長との戦いは避けて通れなかったでしょう。 義景の死後、その首は京都で獄門に晒されました。景鏡はのちに信長に仕えますが、血族の多くは信長の命を受けた丹羽長秀によって殺害されています。こうして100年以上続いた戦国大名・朝倉氏は滅亡したのです。
越前朝倉氏最後の当主である人物は、疋壇城に逃げ込み、その後にどこを目指したか。
越前朝倉氏最後の当主である人物は、疋壇城に逃げ込み、その後に一乗谷を目指した。
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歴史
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、千利休である。 茶の湯で出世した利休 茶の湯で大成した利休は、若くして茶の湯の世界に入りました。その出自はどのようなものだったのでしょうか? 17歳で茶の湯を習う 利休は大永2年(1522年)商家・田中与兵衛の息子として和泉国の堺で生まれました。家業は塩魚を独占的に扱う商人や倉庫を貸す「問」だったのではないかといわれています。本名は田中与四郎といい、法名は宗易、利休は晩年の居士号(法名の下につく名前)です。 17歳のころ、教養や知識を深めるために茶の湯を習い始め、北向道陳(きたむきどうちん)に師事。『南方録』には、その後は武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事し茶の湯の改革に取り組んだことが記されています。 利休は堺の実質的支配者だった三好家の御用商人となって財を成したと考えられており、村田珠光が使っていた名物道具・珠光茶碗を三好実休に売った記録も残されています。また、京都紫野の大徳寺とも親交があったようです。 茶頭として織田信長に召し抱えられる 永禄12年(1569)堺は織田信長の直轄地となり、利休は豪商茶人・今井宗久や津田宗及とともに茶頭(茶の師匠)として信長に召し抱えられます。天正2年(1574)3月に開かれた信長の茶会にも参加しており、宗及の『信長茶会記』には堺の有力商人9人とともに招待されたという記録が残っています。 利休の働きは茶の湯にとどまらず、越前一向一揆掃討戦では鉄砲玉を信長に送り、謝状も受け取っています。 豊臣秀吉の側近として活躍 信長に見出された利休は、のちに豊臣家に仕えるようになります。 そしてさらなる活躍を見せるようになりますが、その人生の最期は意外なものでした。
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、いつ生まれたか。
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、大永2年(1522年)に生まれた。
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歴史
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、千利休である。 茶の湯で出世した利休 茶の湯で大成した利休は、若くして茶の湯の世界に入りました。その出自はどのようなものだったのでしょうか? 17歳で茶の湯を習う 利休は大永2年(1522年)商家・田中与兵衛の息子として和泉国の堺で生まれました。家業は塩魚を独占的に扱う商人や倉庫を貸す「問」だったのではないかといわれています。本名は田中与四郎といい、法名は宗易、利休は晩年の居士号(法名の下につく名前)です。 17歳のころ、教養や知識を深めるために茶の湯を習い始め、北向道陳(きたむきどうちん)に師事。『南方録』には、その後は武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事し茶の湯の改革に取り組んだことが記されています。 利休は堺の実質的支配者だった三好家の御用商人となって財を成したと考えられており、村田珠光が使っていた名物道具・珠光茶碗を三好実休に売った記録も残されています。また、京都紫野の大徳寺とも親交があったようです。 茶頭として織田信長に召し抱えられる 永禄12年(1569)堺は織田信長の直轄地となり、利休は豪商茶人・今井宗久や津田宗及とともに茶頭(茶の師匠)として信長に召し抱えられます。天正2年(1574)3月に開かれた信長の茶会にも参加しており、宗及の『信長茶会記』には堺の有力商人9人とともに招待されたという記録が残っています。 利休の働きは茶の湯にとどまらず、越前一向一揆掃討戦では鉄砲玉を信長に送り、謝状も受け取っています。 豊臣秀吉の側近として活躍 信長に見出された利休は、のちに豊臣家に仕えるようになります。 そしてさらなる活躍を見せるようになりますが、その人生の最期は意外なものでした。
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、誰の息子として生まれたか。
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、商家・田中与兵衛の息子として生まれた。
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歴史
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、千利休である。 茶の湯で出世した利休 茶の湯で大成した利休は、若くして茶の湯の世界に入りました。その出自はどのようなものだったのでしょうか? 17歳で茶の湯を習う 利休は大永2年(1522年)商家・田中与兵衛の息子として和泉国の堺で生まれました。家業は塩魚を独占的に扱う商人や倉庫を貸す「問」だったのではないかといわれています。本名は田中与四郎といい、法名は宗易、利休は晩年の居士号(法名の下につく名前)です。 17歳のころ、教養や知識を深めるために茶の湯を習い始め、北向道陳(きたむきどうちん)に師事。『南方録』には、その後は武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事し茶の湯の改革に取り組んだことが記されています。 利休は堺の実質的支配者だった三好家の御用商人となって財を成したと考えられており、村田珠光が使っていた名物道具・珠光茶碗を三好実休に売った記録も残されています。また、京都紫野の大徳寺とも親交があったようです。 茶頭として織田信長に召し抱えられる 永禄12年(1569)堺は織田信長の直轄地となり、利休は豪商茶人・今井宗久や津田宗及とともに茶頭(茶の師匠)として信長に召し抱えられます。天正2年(1574)3月に開かれた信長の茶会にも参加しており、宗及の『信長茶会記』には堺の有力商人9人とともに招待されたという記録が残っています。 利休の働きは茶の湯にとどまらず、越前一向一揆掃討戦では鉄砲玉を信長に送り、謝状も受け取っています。 豊臣秀吉の側近として活躍 信長に見出された利休は、のちに豊臣家に仕えるようになります。 そしてさらなる活躍を見せるようになりますが、その人生の最期は意外なものでした。
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、どこで生まれたか。
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、和泉国の堺で生まれた。
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歴史
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、千利休である。 茶の湯で出世した利休 茶の湯で大成した利休は、若くして茶の湯の世界に入りました。その出自はどのようなものだったのでしょうか? 17歳で茶の湯を習う 利休は大永2年(1522年)商家・田中与兵衛の息子として和泉国の堺で生まれました。家業は塩魚を独占的に扱う商人や倉庫を貸す「問」だったのではないかといわれています。本名は田中与四郎といい、法名は宗易、利休は晩年の居士号(法名の下につく名前)です。 17歳のころ、教養や知識を深めるために茶の湯を習い始め、北向道陳(きたむきどうちん)に師事。『南方録』には、その後は武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事し茶の湯の改革に取り組んだことが記されています。 利休は堺の実質的支配者だった三好家の御用商人となって財を成したと考えられており、村田珠光が使っていた名物道具・珠光茶碗を三好実休に売った記録も残されています。また、京都紫野の大徳寺とも親交があったようです。 茶頭として織田信長に召し抱えられる 永禄12年(1569)堺は織田信長の直轄地となり、利休は豪商茶人・今井宗久や津田宗及とともに茶頭(茶の師匠)として信長に召し抱えられます。天正2年(1574)3月に開かれた信長の茶会にも参加しており、宗及の『信長茶会記』には堺の有力商人9人とともに招待されたという記録が残っています。 利休の働きは茶の湯にとどまらず、越前一向一揆掃討戦では鉄砲玉を信長に送り、謝状も受け取っています。 豊臣秀吉の側近として活躍 信長に見出された利休は、のちに豊臣家に仕えるようになります。 そしてさらなる活躍を見せるようになりますが、その人生の最期は意外なものでした。
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、誰の御用商人となって財を成したか。
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、堺の実質的支配者だった三好家の御用商人となって財を成した。
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「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、千利休である。 茶の湯で出世した利休 茶の湯で大成した利休は、若くして茶の湯の世界に入りました。その出自はどのようなものだったのでしょうか? 17歳で茶の湯を習う 利休は大永2年(1522年)商家・田中与兵衛の息子として和泉国の堺で生まれました。家業は塩魚を独占的に扱う商人や倉庫を貸す「問」だったのではないかといわれています。本名は田中与四郎といい、法名は宗易、利休は晩年の居士号(法名の下につく名前)です。 17歳のころ、教養や知識を深めるために茶の湯を習い始め、北向道陳(きたむきどうちん)に師事。『南方録』には、その後は武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事し茶の湯の改革に取り組んだことが記されています。 利休は堺の実質的支配者だった三好家の御用商人となって財を成したと考えられており、村田珠光が使っていた名物道具・珠光茶碗を三好実休に売った記録も残されています。また、京都紫野の大徳寺とも親交があったようです。 茶頭として織田信長に召し抱えられる 永禄12年(1569)堺は織田信長の直轄地となり、利休は豪商茶人・今井宗久や津田宗及とともに茶頭(茶の師匠)として信長に召し抱えられます。天正2年(1574)3月に開かれた信長の茶会にも参加しており、宗及の『信長茶会記』には堺の有力商人9人とともに招待されたという記録が残っています。 利休の働きは茶の湯にとどまらず、越前一向一揆掃討戦では鉄砲玉を信長に送り、謝状も受け取っています。 豊臣秀吉の側近として活躍 信長に見出された利休は、のちに豊臣家に仕えるようになります。 そしてさらなる活躍を見せるようになりますが、その人生の最期は意外なものでした。
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、誰とともに茶頭(茶の師匠)として信長に召し抱えられたか。
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、豪商茶人・今井宗久や津田宗及とともに茶頭(茶の師匠)として信長に召し抱えられた。
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「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、千利休である。 茶室「待庵」をてがける 天正10年(1582)6月、本能寺の変があった後、利休は信長に代わって豊臣秀吉(羽柴秀吉)に仕えます。そして同年8月、秀吉から茶室を作るよう命じられ、約半年間かけて茶室「待庵」を完成させました。これは現存する利休作の唯一の茶室で、現在は国宝となっています。 天正11年(1583)5月に開かれた秀吉の茶会では初めて茶頭を務め、『宗湛日記』によればその翌年には大坂城内の庭園に2畳の茶室を制作。これ以後、利休は茶道具も創作するようになりました。禁欲主義を思わせる装飾性のない彼の作品は利休道具と呼ばれています。 居士号「利休」を賜り名声を得る 天正13年(1585)秀吉の禁中茶会に奉仕した彼は、正親町天皇から居士号「利休」を賜ります。その後の活躍は目覚ましく、同年中に「黄金の茶室」を設計し、その2年後には北野大茶湯を主管。また聚楽第内に利休屋敷を構えて3000石を賜わるなど名声と権威を誇りました。 秀吉の逆鱗に触れ、切腹! 秀吉のもとで大きく飛躍した利休ですが、天正19年(1591)突然秀吉の逆鱗に触れてしまいます。堺で蟄居(自宅謹慎)を命じられた利休は、京都に呼び戻されたのち聚楽屋敷内で自害を迫られ切腹。利休の弟子だった前田利家、古田織部、細川忠興らの大名達が奔走したものの助命はかなわず、利休の首は一条戻橋でさらされました。 利休が残したおもな功績 千利休の名前は現代でもよく知られていますが、おもな功績とはどんなものなのでしょうか。利休が残した2つの偉業をご紹介します。 「わび茶」の完成 利休は「わび茶」と呼ばれる茶の湯の様式を完成させました。これは安土桃山時代に流行した簡素簡略の境地「わび」の精神を重んじたものです。当時の茶の湯は高価な茶碗や派手な演出が好まれましたが、「わび茶」ではそのような無駄は排除されたのです。 利休は自ら器具をデザインしたり、茶を飲む空間にも手を加えたりしました。それまで数寄屋と呼ばれる書院造の部屋の一部を茶席としていましたが、彼は茶室を独立させて「草庵」を生みだします。これはのちに「囲い」とも呼ばれるようになりました。 「黄金の茶室」の制作 利休のもう1つの功績といえば、黄金の茶室を作ったことでしょう。これは運搬できる組み立て式の茶室で、正親町天皇や北野大茶湯などでも披露されました。当時の記録によれば、壁、天井、柱、障子などすべてが金張りで、使用の際は黄金の台子や皆具が置かれたといいます。 利休は秀吉の命令でこの茶室を作りましたが、これは「わび茶」とは対極にあるものです。そのため、利休は秀吉に対して不満を持っていたのではないかとも考えられています。 利休はどんな人物だったのか? 茶人として名を成した利休ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか。利休にまつわるエピソードをご紹介します。 秀吉の相談役でもあった 秀吉の信頼を得ていた利休は、相談役を担い政治にも関わっていました。この時代の茶室は密談の場としても使われていたため、利休は多くの情報を耳にしていたことになります。天下人である秀吉にとって、利休は相談役に適していたといえるでしょう。 そんな利休は諸大名からの評価も高く、大坂城内でも秀吉の弟・秀長と同等の権威を持っていました。しかしこれはのちに、秀吉から警戒される理由にもなります。利休の切腹は、秀吉がその力を恐れたからだともいわれています。 多くの弟子を抱えていた 利休には、「利休七哲」を筆頭に多数の弟子がいました。武将や大名の中にも弟子がおり、秀吉が恐れた蒲生氏郷をはじめ、明智光秀の娘・ガラシャの夫である忠興や織田有楽斎など、幅広い人々と交流をもっていたのです。利休の「わび茶」の精神はそれだけ多くの人を魅了したといえるでしょう。 茶道の総合プロデューサーだった!? 利休はただの茶人ではなく、茶道の総合プロディースも行っていました。茶室内の光を自在に操る合理的で自由な空間作りや、茶室の設計、花入・茶杓の制作など、茶道の世界に次々と新しいものを取り入れたのです。茶会の形式を簡略化してわび道具を制作するといった総合プロデュース力こそ、彼が茶聖と呼ばれるようになった理由かもしれません。 切腹の真相は謎とされる 時の権力者に重用され歴史の表舞台に躍り出た利休は、「わび茶」を大成させその名を残しました。信長や秀吉をはじめ名だたる武将に信頼されていたことから、利休の人格や能力の高さがうかがい知れるでしょう。 最後は武士のように潔く切腹しましたが、自害理由は諸説あり真相はわかっていません。しかし彼が残した功績は、後世に大きな影響を及ぼしました。
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、信長に代わって誰に仕えたか。
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、信長に代わって豊臣秀吉(羽柴秀吉)に仕えた。
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歴史
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、千利休である。 茶室「待庵」をてがける 天正10年(1582)6月、本能寺の変があった後、利休は信長に代わって豊臣秀吉(羽柴秀吉)に仕えます。そして同年8月、秀吉から茶室を作るよう命じられ、約半年間かけて茶室「待庵」を完成させました。これは現存する利休作の唯一の茶室で、現在は国宝となっています。 天正11年(1583)5月に開かれた秀吉の茶会では初めて茶頭を務め、『宗湛日記』によればその翌年には大坂城内の庭園に2畳の茶室を制作。これ以後、利休は茶道具も創作するようになりました。禁欲主義を思わせる装飾性のない彼の作品は利休道具と呼ばれています。 居士号「利休」を賜り名声を得る 天正13年(1585)秀吉の禁中茶会に奉仕した彼は、正親町天皇から居士号「利休」を賜ります。その後の活躍は目覚ましく、同年中に「黄金の茶室」を設計し、その2年後には北野大茶湯を主管。また聚楽第内に利休屋敷を構えて3000石を賜わるなど名声と権威を誇りました。 秀吉の逆鱗に触れ、切腹! 秀吉のもとで大きく飛躍した利休ですが、天正19年(1591)突然秀吉の逆鱗に触れてしまいます。堺で蟄居(自宅謹慎)を命じられた利休は、京都に呼び戻されたのち聚楽屋敷内で自害を迫られ切腹。利休の弟子だった前田利家、古田織部、細川忠興らの大名達が奔走したものの助命はかなわず、利休の首は一条戻橋でさらされました。 利休が残したおもな功績 千利休の名前は現代でもよく知られていますが、おもな功績とはどんなものなのでしょうか。利休が残した2つの偉業をご紹介します。 「わび茶」の完成 利休は「わび茶」と呼ばれる茶の湯の様式を完成させました。これは安土桃山時代に流行した簡素簡略の境地「わび」の精神を重んじたものです。当時の茶の湯は高価な茶碗や派手な演出が好まれましたが、「わび茶」ではそのような無駄は排除されたのです。 利休は自ら器具をデザインしたり、茶を飲む空間にも手を加えたりしました。それまで数寄屋と呼ばれる書院造の部屋の一部を茶席としていましたが、彼は茶室を独立させて「草庵」を生みだします。これはのちに「囲い」とも呼ばれるようになりました。 「黄金の茶室」の制作 利休のもう1つの功績といえば、黄金の茶室を作ったことでしょう。これは運搬できる組み立て式の茶室で、正親町天皇や北野大茶湯などでも披露されました。当時の記録によれば、壁、天井、柱、障子などすべてが金張りで、使用の際は黄金の台子や皆具が置かれたといいます。 利休は秀吉の命令でこの茶室を作りましたが、これは「わび茶」とは対極にあるものです。そのため、利休は秀吉に対して不満を持っていたのではないかとも考えられています。 利休はどんな人物だったのか? 茶人として名を成した利休ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか。利休にまつわるエピソードをご紹介します。 秀吉の相談役でもあった 秀吉の信頼を得ていた利休は、相談役を担い政治にも関わっていました。この時代の茶室は密談の場としても使われていたため、利休は多くの情報を耳にしていたことになります。天下人である秀吉にとって、利休は相談役に適していたといえるでしょう。 そんな利休は諸大名からの評価も高く、大坂城内でも秀吉の弟・秀長と同等の権威を持っていました。しかしこれはのちに、秀吉から警戒される理由にもなります。利休の切腹は、秀吉がその力を恐れたからだともいわれています。 多くの弟子を抱えていた 利休には、「利休七哲」を筆頭に多数の弟子がいました。武将や大名の中にも弟子がおり、秀吉が恐れた蒲生氏郷をはじめ、明智光秀の娘・ガラシャの夫である忠興や織田有楽斎など、幅広い人々と交流をもっていたのです。利休の「わび茶」の精神はそれだけ多くの人を魅了したといえるでしょう。 茶道の総合プロデューサーだった!? 利休はただの茶人ではなく、茶道の総合プロディースも行っていました。茶室内の光を自在に操る合理的で自由な空間作りや、茶室の設計、花入・茶杓の制作など、茶道の世界に次々と新しいものを取り入れたのです。茶会の形式を簡略化してわび道具を制作するといった総合プロデュース力こそ、彼が茶聖と呼ばれるようになった理由かもしれません。 切腹の真相は謎とされる 時の権力者に重用され歴史の表舞台に躍り出た利休は、「わび茶」を大成させその名を残しました。信長や秀吉をはじめ名だたる武将に信頼されていたことから、利休の人格や能力の高さがうかがい知れるでしょう。 最後は武士のように潔く切腹しましたが、自害理由は諸説あり真相はわかっていません。しかし彼が残した功績は、後世に大きな影響を及ぼしました。
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、誰から居士号「利休」を賜ったか。
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、正親町天皇から居士号「利休」を賜った。
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「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、千利休である。 茶室「待庵」をてがける 天正10年(1582)6月、本能寺の変があった後、利休は信長に代わって豊臣秀吉(羽柴秀吉)に仕えます。そして同年8月、秀吉から茶室を作るよう命じられ、約半年間かけて茶室「待庵」を完成させました。これは現存する利休作の唯一の茶室で、現在は国宝となっています。 天正11年(1583)5月に開かれた秀吉の茶会では初めて茶頭を務め、『宗湛日記』によればその翌年には大坂城内の庭園に2畳の茶室を制作。これ以後、利休は茶道具も創作するようになりました。禁欲主義を思わせる装飾性のない彼の作品は利休道具と呼ばれています。 居士号「利休」を賜り名声を得る 天正13年(1585)秀吉の禁中茶会に奉仕した彼は、正親町天皇から居士号「利休」を賜ります。その後の活躍は目覚ましく、同年中に「黄金の茶室」を設計し、その2年後には北野大茶湯を主管。また聚楽第内に利休屋敷を構えて3000石を賜わるなど名声と権威を誇りました。 秀吉の逆鱗に触れ、切腹! 秀吉のもとで大きく飛躍した利休ですが、天正19年(1591)突然秀吉の逆鱗に触れてしまいます。堺で蟄居(自宅謹慎)を命じられた利休は、京都に呼び戻されたのち聚楽屋敷内で自害を迫られ切腹。利休の弟子だった前田利家、古田織部、細川忠興らの大名達が奔走したものの助命はかなわず、利休の首は一条戻橋でさらされました。 利休が残したおもな功績 千利休の名前は現代でもよく知られていますが、おもな功績とはどんなものなのでしょうか。利休が残した2つの偉業をご紹介します。 「わび茶」の完成 利休は「わび茶」と呼ばれる茶の湯の様式を完成させました。これは安土桃山時代に流行した簡素簡略の境地「わび」の精神を重んじたものです。当時の茶の湯は高価な茶碗や派手な演出が好まれましたが、「わび茶」ではそのような無駄は排除されたのです。 利休は自ら器具をデザインしたり、茶を飲む空間にも手を加えたりしました。それまで数寄屋と呼ばれる書院造の部屋の一部を茶席としていましたが、彼は茶室を独立させて「草庵」を生みだします。これはのちに「囲い」とも呼ばれるようになりました。 「黄金の茶室」の制作 利休のもう1つの功績といえば、黄金の茶室を作ったことでしょう。これは運搬できる組み立て式の茶室で、正親町天皇や北野大茶湯などでも披露されました。当時の記録によれば、壁、天井、柱、障子などすべてが金張りで、使用の際は黄金の台子や皆具が置かれたといいます。 利休は秀吉の命令でこの茶室を作りましたが、これは「わび茶」とは対極にあるものです。そのため、利休は秀吉に対して不満を持っていたのではないかとも考えられています。 利休はどんな人物だったのか? 茶人として名を成した利休ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか。利休にまつわるエピソードをご紹介します。 秀吉の相談役でもあった 秀吉の信頼を得ていた利休は、相談役を担い政治にも関わっていました。この時代の茶室は密談の場としても使われていたため、利休は多くの情報を耳にしていたことになります。天下人である秀吉にとって、利休は相談役に適していたといえるでしょう。 そんな利休は諸大名からの評価も高く、大坂城内でも秀吉の弟・秀長と同等の権威を持っていました。しかしこれはのちに、秀吉から警戒される理由にもなります。利休の切腹は、秀吉がその力を恐れたからだともいわれています。 多くの弟子を抱えていた 利休には、「利休七哲」を筆頭に多数の弟子がいました。武将や大名の中にも弟子がおり、秀吉が恐れた蒲生氏郷をはじめ、明智光秀の娘・ガラシャの夫である忠興や織田有楽斎など、幅広い人々と交流をもっていたのです。利休の「わび茶」の精神はそれだけ多くの人を魅了したといえるでしょう。 茶道の総合プロデューサーだった!? 利休はただの茶人ではなく、茶道の総合プロディースも行っていました。茶室内の光を自在に操る合理的で自由な空間作りや、茶室の設計、花入・茶杓の制作など、茶道の世界に次々と新しいものを取り入れたのです。茶会の形式を簡略化してわび道具を制作するといった総合プロデュース力こそ、彼が茶聖と呼ばれるようになった理由かもしれません。 切腹の真相は謎とされる 時の権力者に重用され歴史の表舞台に躍り出た利休は、「わび茶」を大成させその名を残しました。信長や秀吉をはじめ名だたる武将に信頼されていたことから、利休の人格や能力の高さがうかがい知れるでしょう。 最後は武士のように潔く切腹しましたが、自害理由は諸説あり真相はわかっていません。しかし彼が残した功績は、後世に大きな影響を及ぼしました。
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、どこに呼び戻されたのち自害を迫られ切腹したか。
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、京都に呼び戻されたのち自害を迫られ切腹した。
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歴史
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、千利休である。 茶室「待庵」をてがける 天正10年(1582)6月、本能寺の変があった後、利休は信長に代わって豊臣秀吉(羽柴秀吉)に仕えます。そして同年8月、秀吉から茶室を作るよう命じられ、約半年間かけて茶室「待庵」を完成させました。これは現存する利休作の唯一の茶室で、現在は国宝となっています。 天正11年(1583)5月に開かれた秀吉の茶会では初めて茶頭を務め、『宗湛日記』によればその翌年には大坂城内の庭園に2畳の茶室を制作。これ以後、利休は茶道具も創作するようになりました。禁欲主義を思わせる装飾性のない彼の作品は利休道具と呼ばれています。 居士号「利休」を賜り名声を得る 天正13年(1585)秀吉の禁中茶会に奉仕した彼は、正親町天皇から居士号「利休」を賜ります。その後の活躍は目覚ましく、同年中に「黄金の茶室」を設計し、その2年後には北野大茶湯を主管。また聚楽第内に利休屋敷を構えて3000石を賜わるなど名声と権威を誇りました。 秀吉の逆鱗に触れ、切腹! 秀吉のもとで大きく飛躍した利休ですが、天正19年(1591)突然秀吉の逆鱗に触れてしまいます。堺で蟄居(自宅謹慎)を命じられた利休は、京都に呼び戻されたのち聚楽屋敷内で自害を迫られ切腹。利休の弟子だった前田利家、古田織部、細川忠興らの大名達が奔走したものの助命はかなわず、利休の首は一条戻橋でさらされました。 利休が残したおもな功績 千利休の名前は現代でもよく知られていますが、おもな功績とはどんなものなのでしょうか。利休が残した2つの偉業をご紹介します。 「わび茶」の完成 利休は「わび茶」と呼ばれる茶の湯の様式を完成させました。これは安土桃山時代に流行した簡素簡略の境地「わび」の精神を重んじたものです。当時の茶の湯は高価な茶碗や派手な演出が好まれましたが、「わび茶」ではそのような無駄は排除されたのです。 利休は自ら器具をデザインしたり、茶を飲む空間にも手を加えたりしました。それまで数寄屋と呼ばれる書院造の部屋の一部を茶席としていましたが、彼は茶室を独立させて「草庵」を生みだします。これはのちに「囲い」とも呼ばれるようになりました。 「黄金の茶室」の制作 利休のもう1つの功績といえば、黄金の茶室を作ったことでしょう。これは運搬できる組み立て式の茶室で、正親町天皇や北野大茶湯などでも披露されました。当時の記録によれば、壁、天井、柱、障子などすべてが金張りで、使用の際は黄金の台子や皆具が置かれたといいます。 利休は秀吉の命令でこの茶室を作りましたが、これは「わび茶」とは対極にあるものです。そのため、利休は秀吉に対して不満を持っていたのではないかとも考えられています。 利休はどんな人物だったのか? 茶人として名を成した利休ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか。利休にまつわるエピソードをご紹介します。 秀吉の相談役でもあった 秀吉の信頼を得ていた利休は、相談役を担い政治にも関わっていました。この時代の茶室は密談の場としても使われていたため、利休は多くの情報を耳にしていたことになります。天下人である秀吉にとって、利休は相談役に適していたといえるでしょう。 そんな利休は諸大名からの評価も高く、大坂城内でも秀吉の弟・秀長と同等の権威を持っていました。しかしこれはのちに、秀吉から警戒される理由にもなります。利休の切腹は、秀吉がその力を恐れたからだともいわれています。 多くの弟子を抱えていた 利休には、「利休七哲」を筆頭に多数の弟子がいました。武将や大名の中にも弟子がおり、秀吉が恐れた蒲生氏郷をはじめ、明智光秀の娘・ガラシャの夫である忠興や織田有楽斎など、幅広い人々と交流をもっていたのです。利休の「わび茶」の精神はそれだけ多くの人を魅了したといえるでしょう。 茶道の総合プロデューサーだった!? 利休はただの茶人ではなく、茶道の総合プロディースも行っていました。茶室内の光を自在に操る合理的で自由な空間作りや、茶室の設計、花入・茶杓の制作など、茶道の世界に次々と新しいものを取り入れたのです。茶会の形式を簡略化してわび道具を制作するといった総合プロデュース力こそ、彼が茶聖と呼ばれるようになった理由かもしれません。 切腹の真相は謎とされる 時の権力者に重用され歴史の表舞台に躍り出た利休は、「わび茶」を大成させその名を残しました。信長や秀吉をはじめ名だたる武将に信頼されていたことから、利休の人格や能力の高さがうかがい知れるでしょう。 最後は武士のように潔く切腹しましたが、自害理由は諸説あり真相はわかっていません。しかし彼が残した功績は、後世に大きな影響を及ぼしました。
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、どこで自害を迫られ切腹したか。
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、聚楽屋敷内で自害を迫られ切腹した。
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「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、千利休である。 茶室「待庵」をてがける 天正10年(1582)6月、本能寺の変があった後、利休は信長に代わって豊臣秀吉(羽柴秀吉)に仕えます。そして同年8月、秀吉から茶室を作るよう命じられ、約半年間かけて茶室「待庵」を完成させました。これは現存する利休作の唯一の茶室で、現在は国宝となっています。 天正11年(1583)5月に開かれた秀吉の茶会では初めて茶頭を務め、『宗湛日記』によればその翌年には大坂城内の庭園に2畳の茶室を制作。これ以後、利休は茶道具も創作するようになりました。禁欲主義を思わせる装飾性のない彼の作品は利休道具と呼ばれています。 居士号「利休」を賜り名声を得る 天正13年(1585)秀吉の禁中茶会に奉仕した彼は、正親町天皇から居士号「利休」を賜ります。その後の活躍は目覚ましく、同年中に「黄金の茶室」を設計し、その2年後には北野大茶湯を主管。また聚楽第内に利休屋敷を構えて3000石を賜わるなど名声と権威を誇りました。 秀吉の逆鱗に触れ、切腹! 秀吉のもとで大きく飛躍した利休ですが、天正19年(1591)突然秀吉の逆鱗に触れてしまいます。堺で蟄居(自宅謹慎)を命じられた利休は、京都に呼び戻されたのち聚楽屋敷内で自害を迫られ切腹。利休の弟子だった前田利家、古田織部、細川忠興らの大名達が奔走したものの助命はかなわず、利休の首は一条戻橋でさらされました。 利休が残したおもな功績 千利休の名前は現代でもよく知られていますが、おもな功績とはどんなものなのでしょうか。利休が残した2つの偉業をご紹介します。 「わび茶」の完成 利休は「わび茶」と呼ばれる茶の湯の様式を完成させました。これは安土桃山時代に流行した簡素簡略の境地「わび」の精神を重んじたものです。当時の茶の湯は高価な茶碗や派手な演出が好まれましたが、「わび茶」ではそのような無駄は排除されたのです。 利休は自ら器具をデザインしたり、茶を飲む空間にも手を加えたりしました。それまで数寄屋と呼ばれる書院造の部屋の一部を茶席としていましたが、彼は茶室を独立させて「草庵」を生みだします。これはのちに「囲い」とも呼ばれるようになりました。 「黄金の茶室」の制作 利休のもう1つの功績といえば、黄金の茶室を作ったことでしょう。これは運搬できる組み立て式の茶室で、正親町天皇や北野大茶湯などでも披露されました。当時の記録によれば、壁、天井、柱、障子などすべてが金張りで、使用の際は黄金の台子や皆具が置かれたといいます。 利休は秀吉の命令でこの茶室を作りましたが、これは「わび茶」とは対極にあるものです。そのため、利休は秀吉に対して不満を持っていたのではないかとも考えられています。 利休はどんな人物だったのか? 茶人として名を成した利休ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか。利休にまつわるエピソードをご紹介します。 秀吉の相談役でもあった 秀吉の信頼を得ていた利休は、相談役を担い政治にも関わっていました。この時代の茶室は密談の場としても使われていたため、利休は多くの情報を耳にしていたことになります。天下人である秀吉にとって、利休は相談役に適していたといえるでしょう。 そんな利休は諸大名からの評価も高く、大坂城内でも秀吉の弟・秀長と同等の権威を持っていました。しかしこれはのちに、秀吉から警戒される理由にもなります。利休の切腹は、秀吉がその力を恐れたからだともいわれています。 多くの弟子を抱えていた 利休には、「利休七哲」を筆頭に多数の弟子がいました。武将や大名の中にも弟子がおり、秀吉が恐れた蒲生氏郷をはじめ、明智光秀の娘・ガラシャの夫である忠興や織田有楽斎など、幅広い人々と交流をもっていたのです。利休の「わび茶」の精神はそれだけ多くの人を魅了したといえるでしょう。 茶道の総合プロデューサーだった!? 利休はただの茶人ではなく、茶道の総合プロディースも行っていました。茶室内の光を自在に操る合理的で自由な空間作りや、茶室の設計、花入・茶杓の制作など、茶道の世界に次々と新しいものを取り入れたのです。茶会の形式を簡略化してわび道具を制作するといった総合プロデュース力こそ、彼が茶聖と呼ばれるようになった理由かもしれません。 切腹の真相は謎とされる 時の権力者に重用され歴史の表舞台に躍り出た利休は、「わび茶」を大成させその名を残しました。信長や秀吉をはじめ名だたる武将に信頼されていたことから、利休の人格や能力の高さがうかがい知れるでしょう。 最後は武士のように潔く切腹しましたが、自害理由は諸説あり真相はわかっていません。しかし彼が残した功績は、後世に大きな影響を及ぼしました。
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、茶室を独立させて何を生みだしたか。
「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、茶室を独立させて「草庵」を生みだした。
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歴史
井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、井伊直政である。 生まれから徳川家康に仕えるまで 直政の生まれは、どのようなものだったのでしょうか。 家康に仕えるまでの経緯を振り返ります。 今川家家臣・井伊家の嫡男として誕生 直政は、永禄4年(1561)今川氏の家臣・井伊直親の嫡男として遠江国井伊谷で誕生しました。幼名は虎松です。 井伊家は代々国人領主で、当時の当主・井伊直盛(直親の従兄)は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死しました。また父・直親は、直政が誕生した翌年に謀反を疑われ、今川氏真に殺されてしまいます。直政は新野親矩の嘆願により助命されましたが、のちに井伊家家老・小野道好(政次)から命を狙われたため、出家して浄土寺や鳳来寺に入りました。 家康に小姓として取り立てられる その後、母・おひよが徳川家臣・松下清景と再婚し、直政は松下家の養子となります。これにより家康に見出された直政は、天正3年(1575)には井伊氏に復することを許され、井伊万千代に改名。さらには旧領・井伊谷の領有を認められて家康の小姓に取り立てられました。 徳川の重臣として地位を確立する 家康の小姓となった直政は、武田氏との戦いにより戦功を挙げます。そして、家康の重臣として目覚ましい活躍を見せていったのです。 「井伊の赤鬼」と呼ばれるように 天正10年(1582)22歳で元服した彼は名前を直政と改めます。同年に起こった本能寺の変では家康の伊賀越えに従い、天正壬午の乱では北条家との講和交渉を担当。家康が武田家旧領の信濃国・甲斐国を得ると、武田家の旧臣達を編成した部隊の大将となりました。この部隊は「武田の赤備え」と呼ばれ戦国最強を誇った武田の兵法や軍装を継承しており、小牧・長久手の戦いで初めて赤備えを率いて武功を挙げた直政は、その勇猛果敢さから「井伊の赤鬼」と呼ばれ諸大名から恐れられました。
井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、いつ誕生したか。
井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、永禄4年(1561)に誕生した。
JCRRAG_018673
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井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、井伊直政である。 生まれから徳川家康に仕えるまで 直政の生まれは、どのようなものだったのでしょうか。 家康に仕えるまでの経緯を振り返ります。 今川家家臣・井伊家の嫡男として誕生 直政は、永禄4年(1561)今川氏の家臣・井伊直親の嫡男として遠江国井伊谷で誕生しました。幼名は虎松です。 井伊家は代々国人領主で、当時の当主・井伊直盛(直親の従兄)は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死しました。また父・直親は、直政が誕生した翌年に謀反を疑われ、今川氏真に殺されてしまいます。直政は新野親矩の嘆願により助命されましたが、のちに井伊家家老・小野道好(政次)から命を狙われたため、出家して浄土寺や鳳来寺に入りました。 家康に小姓として取り立てられる その後、母・おひよが徳川家臣・松下清景と再婚し、直政は松下家の養子となります。これにより家康に見出された直政は、天正3年(1575)には井伊氏に復することを許され、井伊万千代に改名。さらには旧領・井伊谷の領有を認められて家康の小姓に取り立てられました。 徳川の重臣として地位を確立する 家康の小姓となった直政は、武田氏との戦いにより戦功を挙げます。そして、家康の重臣として目覚ましい活躍を見せていったのです。 「井伊の赤鬼」と呼ばれるように 天正10年(1582)22歳で元服した彼は名前を直政と改めます。同年に起こった本能寺の変では家康の伊賀越えに従い、天正壬午の乱では北条家との講和交渉を担当。家康が武田家旧領の信濃国・甲斐国を得ると、武田家の旧臣達を編成した部隊の大将となりました。この部隊は「武田の赤備え」と呼ばれ戦国最強を誇った武田の兵法や軍装を継承しており、小牧・長久手の戦いで初めて赤備えを率いて武功を挙げた直政は、その勇猛果敢さから「井伊の赤鬼」と呼ばれ諸大名から恐れられました。
井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、誰の嫡男として誕生したか。
井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、今川氏の家臣・井伊直親の嫡男として誕生した。
JCRRAG_018674
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井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、井伊直政である。 生まれから徳川家康に仕えるまで 直政の生まれは、どのようなものだったのでしょうか。 家康に仕えるまでの経緯を振り返ります。 今川家家臣・井伊家の嫡男として誕生 直政は、永禄4年(1561)今川氏の家臣・井伊直親の嫡男として遠江国井伊谷で誕生しました。幼名は虎松です。 井伊家は代々国人領主で、当時の当主・井伊直盛(直親の従兄)は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死しました。また父・直親は、直政が誕生した翌年に謀反を疑われ、今川氏真に殺されてしまいます。直政は新野親矩の嘆願により助命されましたが、のちに井伊家家老・小野道好(政次)から命を狙われたため、出家して浄土寺や鳳来寺に入りました。 家康に小姓として取り立てられる その後、母・おひよが徳川家臣・松下清景と再婚し、直政は松下家の養子となります。これにより家康に見出された直政は、天正3年(1575)には井伊氏に復することを許され、井伊万千代に改名。さらには旧領・井伊谷の領有を認められて家康の小姓に取り立てられました。 徳川の重臣として地位を確立する 家康の小姓となった直政は、武田氏との戦いにより戦功を挙げます。そして、家康の重臣として目覚ましい活躍を見せていったのです。 「井伊の赤鬼」と呼ばれるように 天正10年(1582)22歳で元服した彼は名前を直政と改めます。同年に起こった本能寺の変では家康の伊賀越えに従い、天正壬午の乱では北条家との講和交渉を担当。家康が武田家旧領の信濃国・甲斐国を得ると、武田家の旧臣達を編成した部隊の大将となりました。この部隊は「武田の赤備え」と呼ばれ戦国最強を誇った武田の兵法や軍装を継承しており、小牧・長久手の戦いで初めて赤備えを率いて武功を挙げた直政は、その勇猛果敢さから「井伊の赤鬼」と呼ばれ諸大名から恐れられました。
井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、どこで誕生したか。
井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、遠江国井伊谷で誕生した。
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井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、井伊直政である。 生まれから徳川家康に仕えるまで 直政の生まれは、どのようなものだったのでしょうか。 家康に仕えるまでの経緯を振り返ります。 今川家家臣・井伊家の嫡男として誕生 直政は、永禄4年(1561)今川氏の家臣・井伊直親の嫡男として遠江国井伊谷で誕生しました。幼名は虎松です。 井伊家は代々国人領主で、当時の当主・井伊直盛(直親の従兄)は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死しました。また父・直親は、直政が誕生した翌年に謀反を疑われ、今川氏真に殺されてしまいます。直政は新野親矩の嘆願により助命されましたが、のちに井伊家家老・小野道好(政次)から命を狙われたため、出家して浄土寺や鳳来寺に入りました。 家康に小姓として取り立てられる その後、母・おひよが徳川家臣・松下清景と再婚し、直政は松下家の養子となります。これにより家康に見出された直政は、天正3年(1575)には井伊氏に復することを許され、井伊万千代に改名。さらには旧領・井伊谷の領有を認められて家康の小姓に取り立てられました。 徳川の重臣として地位を確立する 家康の小姓となった直政は、武田氏との戦いにより戦功を挙げます。そして、家康の重臣として目覚ましい活躍を見せていったのです。 「井伊の赤鬼」と呼ばれるように 天正10年(1582)22歳で元服した彼は名前を直政と改めます。同年に起こった本能寺の変では家康の伊賀越えに従い、天正壬午の乱では北条家との講和交渉を担当。家康が武田家旧領の信濃国・甲斐国を得ると、武田家の旧臣達を編成した部隊の大将となりました。この部隊は「武田の赤備え」と呼ばれ戦国最強を誇った武田の兵法や軍装を継承しており、小牧・長久手の戦いで初めて赤備えを率いて武功を挙げた直政は、その勇猛果敢さから「井伊の赤鬼」と呼ばれ諸大名から恐れられました。
井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、誰の養子となったか。
井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、松下家の養子となった。
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歴史
井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、井伊直政である。 生まれから徳川家康に仕えるまで 直政の生まれは、どのようなものだったのでしょうか。 家康に仕えるまでの経緯を振り返ります。 今川家家臣・井伊家の嫡男として誕生 直政は、永禄4年(1561)今川氏の家臣・井伊直親の嫡男として遠江国井伊谷で誕生しました。幼名は虎松です。 井伊家は代々国人領主で、当時の当主・井伊直盛(直親の従兄)は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死しました。また父・直親は、直政が誕生した翌年に謀反を疑われ、今川氏真に殺されてしまいます。直政は新野親矩の嘆願により助命されましたが、のちに井伊家家老・小野道好(政次)から命を狙われたため、出家して浄土寺や鳳来寺に入りました。 家康に小姓として取り立てられる その後、母・おひよが徳川家臣・松下清景と再婚し、直政は松下家の養子となります。これにより家康に見出された直政は、天正3年(1575)には井伊氏に復することを許され、井伊万千代に改名。さらには旧領・井伊谷の領有を認められて家康の小姓に取り立てられました。 徳川の重臣として地位を確立する 家康の小姓となった直政は、武田氏との戦いにより戦功を挙げます。そして、家康の重臣として目覚ましい活躍を見せていったのです。 「井伊の赤鬼」と呼ばれるように 天正10年(1582)22歳で元服した彼は名前を直政と改めます。同年に起こった本能寺の変では家康の伊賀越えに従い、天正壬午の乱では北条家との講和交渉を担当。家康が武田家旧領の信濃国・甲斐国を得ると、武田家の旧臣達を編成した部隊の大将となりました。この部隊は「武田の赤備え」と呼ばれ戦国最強を誇った武田の兵法や軍装を継承しており、小牧・長久手の戦いで初めて赤備えを率いて武功を挙げた直政は、その勇猛果敢さから「井伊の赤鬼」と呼ばれ諸大名から恐れられました。
井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、何と呼ばれ諸大名から恐れられたか。
井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、その勇猛果敢さから「井伊の赤鬼」と呼ばれ諸大名から恐れられた。
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井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、井伊直政である。 秀吉から武勇や政治的手腕を評価される 家康のもとで本領を発揮した直政は、豊臣秀吉からも高い評価を受けることになります。 天正14年(1586)家康が秀吉に臣従すると、直政は秀吉から武勇や政治的手腕を評価され、従五位下に叙位されたほか豊臣姓も賜りました。その2年後の聚楽第行幸(じゅらくていぎょうこう)の際には、徳川重臣のなかで直政だけ一つ身分が上の侍従に任官されます。こうして直政は、徳川家で最も格式の高い重臣となったのです。 豊臣方の武将を徳川に引き込んだ 直政はもともと外様の新参者でしたが、小田原征伐や奥州仕置などで次々と戦功を挙げました。その活躍もあってか、家康が江戸に入った際は、徳川家臣団のなかで最も高い12万石を与えられています。 秀吉の死後に起こった政治抗争では豊臣方の武将を家康の味方に引き入れるなど交渉にも手腕を発揮しており、特に黒田如水(官兵衛)・長政父子と盟約を結んで、他の武将を徳川方に組み入れたことは大きな功績だったといえるでしょう。 関ヶ原の戦いとその後の繁栄 家康のもとで手腕を発揮していった直政は、関ヶ原の戦いや江戸幕府の開府にも大きく貢献しました。 東軍の軍監に任命され指揮をとった 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが勃発すると、直政は本多忠勝と共に軍監となって指揮をとり、東軍の中心的存在となりました。この戦いで直政は、全国の名だたる諸大名を西軍から東軍に取り込むことに成功しています。 開戦後は島津義弘の甥・島津豊久を討ち、退却する島津軍を追撃。狙撃されて落馬したものの、その猛追ぶりには配下も追いつけなかったといいます。 江戸幕府の基礎固めに尽力 直政は関ヶ原の戦いで大怪我をしましたが、戦後処理や江戸幕府の基礎固めにも尽力しました。西軍の総大将・毛利輝元との交渉役も担当しており、この交渉により所領を与えられた輝元は、直政に感謝するとともに指南役も頼んでいます。また、徳川家と島津家の和平交渉の仲立ちや真田昌幸・幸村(信繁)親子の助命にも尽力しました。 佐和山藩から彦根藩へ 直政はこれらの功績により、家康から石田三成の旧領・近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石を与えられました。京都近くに配置されたのは、西国の抑えや朝廷の守護という意味合いがあったと考えられています。それだけ家康から厚い信頼を得ていたといえるでしょう。 慶長7年(1602)直政はついにこの世から去ります。直政がいた佐和山藩は彦根城の築城にともなって廃止され、新たに彦根藩30万石が置かれました。それ以降、彦根藩は井伊家の藩として明治時代まで栄えました。 直政の人物像とは? 徳川家に尽力しさまざまな功績を残した直政ですが、一体どのような人物だったのでしょうか。 その人物像がうかがえるエピソードを3つご紹介します。 優しい美男子として知られる 直政は複数の史料から美男子だったといわれています。家康は直政を寵愛しており、自邸近くに直政の住まいを作り通っていたそうです。また、人質として徳川方にやってきた秀吉の母やその侍女達も、直政の優しく丁寧なもてなしに惚れ込んだといいます。直政には男女ともに虜にする魅力があったといえるでしょう。 「人斬り兵部」と呼ばれ家臣に恐れられた 直政は多くの領国を与えられるほど厚く家康に奉公していましたが、それを自分の家臣にも強要していました。わずかな失敗でも手討ちにしたため当時の官位に由来して「人斬り兵部」と呼ばれ、耐えかねて忠勝のもとに去る家臣も多かったようです。直政は厳格で気性が激しかったといわれますが、それ故に家康も厚く信頼していたといえそうです。 妻に頭が上がらない恐妻家だった!? そんな厳しい性格の直政ですが、正室・唐梅院(とうばいいん)には頭が上がらなかったようです。 彼女は、侍女が夫の子供をはらんだと知ると父親のもとに帰してしまいました。直政は正室に遠慮してしばらくこの子供に会いませんでしたが、12歳になりようやく召し寄せます。この子こそ、大坂冬の陣で井伊家大将として活躍し、やがて井伊宗家の家督を継ぐことになる直孝でした。 天下無双と評された猛将 その気になれば天下統一も可能だと諸将から評価されていたといわれる直政。しかし彼は、そのような野心を見せることなく、家康が天下人になるよう貢献しました。その働きは、『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』にも「家康が幕府を開くにあたっての一番の功労者」と記載されるほどです。彼は関ヶ原の戦いで負った傷が原因で42歳で亡くなりましたが、井伊家はその後も繁栄し、江戸264年間を通じて井伊直弼など4名の大老を輩出しました。
井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、秀吉から何を評価されたか。
井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、秀吉から武勇や政治的手腕を評価された。
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井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、井伊直政である。 秀吉から武勇や政治的手腕を評価される 家康のもとで本領を発揮した直政は、豊臣秀吉からも高い評価を受けることになります。 天正14年(1586)家康が秀吉に臣従すると、直政は秀吉から武勇や政治的手腕を評価され、従五位下に叙位されたほか豊臣姓も賜りました。その2年後の聚楽第行幸(じゅらくていぎょうこう)の際には、徳川重臣のなかで直政だけ一つ身分が上の侍従に任官されます。こうして直政は、徳川家で最も格式の高い重臣となったのです。 豊臣方の武将を徳川に引き込んだ 直政はもともと外様の新参者でしたが、小田原征伐や奥州仕置などで次々と戦功を挙げました。その活躍もあってか、家康が江戸に入った際は、徳川家臣団のなかで最も高い12万石を与えられています。 秀吉の死後に起こった政治抗争では豊臣方の武将を家康の味方に引き入れるなど交渉にも手腕を発揮しており、特に黒田如水(官兵衛)・長政父子と盟約を結んで、他の武将を徳川方に組み入れたことは大きな功績だったといえるでしょう。 関ヶ原の戦いとその後の繁栄 家康のもとで手腕を発揮していった直政は、関ヶ原の戦いや江戸幕府の開府にも大きく貢献しました。 東軍の軍監に任命され指揮をとった 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが勃発すると、直政は本多忠勝と共に軍監となって指揮をとり、東軍の中心的存在となりました。この戦いで直政は、全国の名だたる諸大名を西軍から東軍に取り込むことに成功しています。 開戦後は島津義弘の甥・島津豊久を討ち、退却する島津軍を追撃。狙撃されて落馬したものの、その猛追ぶりには配下も追いつけなかったといいます。 江戸幕府の基礎固めに尽力 直政は関ヶ原の戦いで大怪我をしましたが、戦後処理や江戸幕府の基礎固めにも尽力しました。西軍の総大将・毛利輝元との交渉役も担当しており、この交渉により所領を与えられた輝元は、直政に感謝するとともに指南役も頼んでいます。また、徳川家と島津家の和平交渉の仲立ちや真田昌幸・幸村(信繁)親子の助命にも尽力しました。 佐和山藩から彦根藩へ 直政はこれらの功績により、家康から石田三成の旧領・近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石を与えられました。京都近くに配置されたのは、西国の抑えや朝廷の守護という意味合いがあったと考えられています。それだけ家康から厚い信頼を得ていたといえるでしょう。 慶長7年(1602)直政はついにこの世から去ります。直政がいた佐和山藩は彦根城の築城にともなって廃止され、新たに彦根藩30万石が置かれました。それ以降、彦根藩は井伊家の藩として明治時代まで栄えました。 直政の人物像とは? 徳川家に尽力しさまざまな功績を残した直政ですが、一体どのような人物だったのでしょうか。 その人物像がうかがえるエピソードを3つご紹介します。 優しい美男子として知られる 直政は複数の史料から美男子だったといわれています。家康は直政を寵愛しており、自邸近くに直政の住まいを作り通っていたそうです。また、人質として徳川方にやってきた秀吉の母やその侍女達も、直政の優しく丁寧なもてなしに惚れ込んだといいます。直政には男女ともに虜にする魅力があったといえるでしょう。 「人斬り兵部」と呼ばれ家臣に恐れられた 直政は多くの領国を与えられるほど厚く家康に奉公していましたが、それを自分の家臣にも強要していました。わずかな失敗でも手討ちにしたため当時の官位に由来して「人斬り兵部」と呼ばれ、耐えかねて忠勝のもとに去る家臣も多かったようです。直政は厳格で気性が激しかったといわれますが、それ故に家康も厚く信頼していたといえそうです。 妻に頭が上がらない恐妻家だった!? そんな厳しい性格の直政ですが、正室・唐梅院(とうばいいん)には頭が上がらなかったようです。 彼女は、侍女が夫の子供をはらんだと知ると父親のもとに帰してしまいました。直政は正室に遠慮してしばらくこの子供に会いませんでしたが、12歳になりようやく召し寄せます。この子こそ、大坂冬の陣で井伊家大将として活躍し、やがて井伊宗家の家督を継ぐことになる直孝でした。 天下無双と評された猛将 その気になれば天下統一も可能だと諸将から評価されていたといわれる直政。しかし彼は、そのような野心を見せることなく、家康が天下人になるよう貢献しました。その働きは、『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』にも「家康が幕府を開くにあたっての一番の功労者」と記載されるほどです。彼は関ヶ原の戦いで負った傷が原因で42歳で亡くなりましたが、井伊家はその後も繁栄し、江戸264年間を通じて井伊直弼など4名の大老を輩出しました。
井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、秀吉から何を賜ったか。
井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、秀吉から従五位下に叙位されたほか豊臣姓も賜った。
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井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、井伊直政である。 秀吉から武勇や政治的手腕を評価される 家康のもとで本領を発揮した直政は、豊臣秀吉からも高い評価を受けることになります。 天正14年(1586)家康が秀吉に臣従すると、直政は秀吉から武勇や政治的手腕を評価され、従五位下に叙位されたほか豊臣姓も賜りました。その2年後の聚楽第行幸(じゅらくていぎょうこう)の際には、徳川重臣のなかで直政だけ一つ身分が上の侍従に任官されます。こうして直政は、徳川家で最も格式の高い重臣となったのです。 豊臣方の武将を徳川に引き込んだ 直政はもともと外様の新参者でしたが、小田原征伐や奥州仕置などで次々と戦功を挙げました。その活躍もあってか、家康が江戸に入った際は、徳川家臣団のなかで最も高い12万石を与えられています。 秀吉の死後に起こった政治抗争では豊臣方の武将を家康の味方に引き入れるなど交渉にも手腕を発揮しており、特に黒田如水(官兵衛)・長政父子と盟約を結んで、他の武将を徳川方に組み入れたことは大きな功績だったといえるでしょう。 関ヶ原の戦いとその後の繁栄 家康のもとで手腕を発揮していった直政は、関ヶ原の戦いや江戸幕府の開府にも大きく貢献しました。 東軍の軍監に任命され指揮をとった 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが勃発すると、直政は本多忠勝と共に軍監となって指揮をとり、東軍の中心的存在となりました。この戦いで直政は、全国の名だたる諸大名を西軍から東軍に取り込むことに成功しています。 開戦後は島津義弘の甥・島津豊久を討ち、退却する島津軍を追撃。狙撃されて落馬したものの、その猛追ぶりには配下も追いつけなかったといいます。 江戸幕府の基礎固めに尽力 直政は関ヶ原の戦いで大怪我をしましたが、戦後処理や江戸幕府の基礎固めにも尽力しました。西軍の総大将・毛利輝元との交渉役も担当しており、この交渉により所領を与えられた輝元は、直政に感謝するとともに指南役も頼んでいます。また、徳川家と島津家の和平交渉の仲立ちや真田昌幸・幸村(信繁)親子の助命にも尽力しました。 佐和山藩から彦根藩へ 直政はこれらの功績により、家康から石田三成の旧領・近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石を与えられました。京都近くに配置されたのは、西国の抑えや朝廷の守護という意味合いがあったと考えられています。それだけ家康から厚い信頼を得ていたといえるでしょう。 慶長7年(1602)直政はついにこの世から去ります。直政がいた佐和山藩は彦根城の築城にともなって廃止され、新たに彦根藩30万石が置かれました。それ以降、彦根藩は井伊家の藩として明治時代まで栄えました。 直政の人物像とは? 徳川家に尽力しさまざまな功績を残した直政ですが、一体どのような人物だったのでしょうか。 その人物像がうかがえるエピソードを3つご紹介します。 優しい美男子として知られる 直政は複数の史料から美男子だったといわれています。家康は直政を寵愛しており、自邸近くに直政の住まいを作り通っていたそうです。また、人質として徳川方にやってきた秀吉の母やその侍女達も、直政の優しく丁寧なもてなしに惚れ込んだといいます。直政には男女ともに虜にする魅力があったといえるでしょう。 「人斬り兵部」と呼ばれ家臣に恐れられた 直政は多くの領国を与えられるほど厚く家康に奉公していましたが、それを自分の家臣にも強要していました。わずかな失敗でも手討ちにしたため当時の官位に由来して「人斬り兵部」と呼ばれ、耐えかねて忠勝のもとに去る家臣も多かったようです。直政は厳格で気性が激しかったといわれますが、それ故に家康も厚く信頼していたといえそうです。 妻に頭が上がらない恐妻家だった!? そんな厳しい性格の直政ですが、正室・唐梅院(とうばいいん)には頭が上がらなかったようです。 彼女は、侍女が夫の子供をはらんだと知ると父親のもとに帰してしまいました。直政は正室に遠慮してしばらくこの子供に会いませんでしたが、12歳になりようやく召し寄せます。この子こそ、大坂冬の陣で井伊家大将として活躍し、やがて井伊宗家の家督を継ぐことになる直孝でした。 天下無双と評された猛将 その気になれば天下統一も可能だと諸将から評価されていたといわれる直政。しかし彼は、そのような野心を見せることなく、家康が天下人になるよう貢献しました。その働きは、『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』にも「家康が幕府を開くにあたっての一番の功労者」と記載されるほどです。彼は関ヶ原の戦いで負った傷が原因で42歳で亡くなりましたが、井伊家はその後も繁栄し、江戸264年間を通じて井伊直弼など4名の大老を輩出しました。
井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、どのようなことに貢献したか。
井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、関ヶ原の戦いや江戸幕府の開府にも大きく貢献した。
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歴史
井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、井伊直政である。 秀吉から武勇や政治的手腕を評価される 家康のもとで本領を発揮した直政は、豊臣秀吉からも高い評価を受けることになります。 天正14年(1586)家康が秀吉に臣従すると、直政は秀吉から武勇や政治的手腕を評価され、従五位下に叙位されたほか豊臣姓も賜りました。その2年後の聚楽第行幸(じゅらくていぎょうこう)の際には、徳川重臣のなかで直政だけ一つ身分が上の侍従に任官されます。こうして直政は、徳川家で最も格式の高い重臣となったのです。 豊臣方の武将を徳川に引き込んだ 直政はもともと外様の新参者でしたが、小田原征伐や奥州仕置などで次々と戦功を挙げました。その活躍もあってか、家康が江戸に入った際は、徳川家臣団のなかで最も高い12万石を与えられています。 秀吉の死後に起こった政治抗争では豊臣方の武将を家康の味方に引き入れるなど交渉にも手腕を発揮しており、特に黒田如水(官兵衛)・長政父子と盟約を結んで、他の武将を徳川方に組み入れたことは大きな功績だったといえるでしょう。 関ヶ原の戦いとその後の繁栄 家康のもとで手腕を発揮していった直政は、関ヶ原の戦いや江戸幕府の開府にも大きく貢献しました。 東軍の軍監に任命され指揮をとった 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが勃発すると、直政は本多忠勝と共に軍監となって指揮をとり、東軍の中心的存在となりました。この戦いで直政は、全国の名だたる諸大名を西軍から東軍に取り込むことに成功しています。 開戦後は島津義弘の甥・島津豊久を討ち、退却する島津軍を追撃。狙撃されて落馬したものの、その猛追ぶりには配下も追いつけなかったといいます。 江戸幕府の基礎固めに尽力 直政は関ヶ原の戦いで大怪我をしましたが、戦後処理や江戸幕府の基礎固めにも尽力しました。西軍の総大将・毛利輝元との交渉役も担当しており、この交渉により所領を与えられた輝元は、直政に感謝するとともに指南役も頼んでいます。また、徳川家と島津家の和平交渉の仲立ちや真田昌幸・幸村(信繁)親子の助命にも尽力しました。 佐和山藩から彦根藩へ 直政はこれらの功績により、家康から石田三成の旧領・近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石を与えられました。京都近くに配置されたのは、西国の抑えや朝廷の守護という意味合いがあったと考えられています。それだけ家康から厚い信頼を得ていたといえるでしょう。 慶長7年(1602)直政はついにこの世から去ります。直政がいた佐和山藩は彦根城の築城にともなって廃止され、新たに彦根藩30万石が置かれました。それ以降、彦根藩は井伊家の藩として明治時代まで栄えました。 直政の人物像とは? 徳川家に尽力しさまざまな功績を残した直政ですが、一体どのような人物だったのでしょうか。 その人物像がうかがえるエピソードを3つご紹介します。 優しい美男子として知られる 直政は複数の史料から美男子だったといわれています。家康は直政を寵愛しており、自邸近くに直政の住まいを作り通っていたそうです。また、人質として徳川方にやってきた秀吉の母やその侍女達も、直政の優しく丁寧なもてなしに惚れ込んだといいます。直政には男女ともに虜にする魅力があったといえるでしょう。 「人斬り兵部」と呼ばれ家臣に恐れられた 直政は多くの領国を与えられるほど厚く家康に奉公していましたが、それを自分の家臣にも強要していました。わずかな失敗でも手討ちにしたため当時の官位に由来して「人斬り兵部」と呼ばれ、耐えかねて忠勝のもとに去る家臣も多かったようです。直政は厳格で気性が激しかったといわれますが、それ故に家康も厚く信頼していたといえそうです。 妻に頭が上がらない恐妻家だった!? そんな厳しい性格の直政ですが、正室・唐梅院(とうばいいん)には頭が上がらなかったようです。 彼女は、侍女が夫の子供をはらんだと知ると父親のもとに帰してしまいました。直政は正室に遠慮してしばらくこの子供に会いませんでしたが、12歳になりようやく召し寄せます。この子こそ、大坂冬の陣で井伊家大将として活躍し、やがて井伊宗家の家督を継ぐことになる直孝でした。 天下無双と評された猛将 その気になれば天下統一も可能だと諸将から評価されていたといわれる直政。しかし彼は、そのような野心を見せることなく、家康が天下人になるよう貢献しました。その働きは、『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』にも「家康が幕府を開くにあたっての一番の功労者」と記載されるほどです。彼は関ヶ原の戦いで負った傷が原因で42歳で亡くなりましたが、井伊家はその後も繁栄し、江戸264年間を通じて井伊直弼など4名の大老を輩出しました。
井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、どのようなことをして東軍の中心的存在となったか。
井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、本多忠勝と共に軍監となって指揮をとり、東軍の中心的存在となった。
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歴史
井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、井伊直政である。 秀吉から武勇や政治的手腕を評価される 家康のもとで本領を発揮した直政は、豊臣秀吉からも高い評価を受けることになります。 天正14年(1586)家康が秀吉に臣従すると、直政は秀吉から武勇や政治的手腕を評価され、従五位下に叙位されたほか豊臣姓も賜りました。その2年後の聚楽第行幸(じゅらくていぎょうこう)の際には、徳川重臣のなかで直政だけ一つ身分が上の侍従に任官されます。こうして直政は、徳川家で最も格式の高い重臣となったのです。 豊臣方の武将を徳川に引き込んだ 直政はもともと外様の新参者でしたが、小田原征伐や奥州仕置などで次々と戦功を挙げました。その活躍もあってか、家康が江戸に入った際は、徳川家臣団のなかで最も高い12万石を与えられています。 秀吉の死後に起こった政治抗争では豊臣方の武将を家康の味方に引き入れるなど交渉にも手腕を発揮しており、特に黒田如水(官兵衛)・長政父子と盟約を結んで、他の武将を徳川方に組み入れたことは大きな功績だったといえるでしょう。 関ヶ原の戦いとその後の繁栄 家康のもとで手腕を発揮していった直政は、関ヶ原の戦いや江戸幕府の開府にも大きく貢献しました。 東軍の軍監に任命され指揮をとった 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが勃発すると、直政は本多忠勝と共に軍監となって指揮をとり、東軍の中心的存在となりました。この戦いで直政は、全国の名だたる諸大名を西軍から東軍に取り込むことに成功しています。 開戦後は島津義弘の甥・島津豊久を討ち、退却する島津軍を追撃。狙撃されて落馬したものの、その猛追ぶりには配下も追いつけなかったといいます。 江戸幕府の基礎固めに尽力 直政は関ヶ原の戦いで大怪我をしましたが、戦後処理や江戸幕府の基礎固めにも尽力しました。西軍の総大将・毛利輝元との交渉役も担当しており、この交渉により所領を与えられた輝元は、直政に感謝するとともに指南役も頼んでいます。また、徳川家と島津家の和平交渉の仲立ちや真田昌幸・幸村(信繁)親子の助命にも尽力しました。 佐和山藩から彦根藩へ 直政はこれらの功績により、家康から石田三成の旧領・近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石を与えられました。京都近くに配置されたのは、西国の抑えや朝廷の守護という意味合いがあったと考えられています。それだけ家康から厚い信頼を得ていたといえるでしょう。 慶長7年(1602)直政はついにこの世から去ります。直政がいた佐和山藩は彦根城の築城にともなって廃止され、新たに彦根藩30万石が置かれました。それ以降、彦根藩は井伊家の藩として明治時代まで栄えました。 直政の人物像とは? 徳川家に尽力しさまざまな功績を残した直政ですが、一体どのような人物だったのでしょうか。 その人物像がうかがえるエピソードを3つご紹介します。 優しい美男子として知られる 直政は複数の史料から美男子だったといわれています。家康は直政を寵愛しており、自邸近くに直政の住まいを作り通っていたそうです。また、人質として徳川方にやってきた秀吉の母やその侍女達も、直政の優しく丁寧なもてなしに惚れ込んだといいます。直政には男女ともに虜にする魅力があったといえるでしょう。 「人斬り兵部」と呼ばれ家臣に恐れられた 直政は多くの領国を与えられるほど厚く家康に奉公していましたが、それを自分の家臣にも強要していました。わずかな失敗でも手討ちにしたため当時の官位に由来して「人斬り兵部」と呼ばれ、耐えかねて忠勝のもとに去る家臣も多かったようです。直政は厳格で気性が激しかったといわれますが、それ故に家康も厚く信頼していたといえそうです。 妻に頭が上がらない恐妻家だった!? そんな厳しい性格の直政ですが、正室・唐梅院(とうばいいん)には頭が上がらなかったようです。 彼女は、侍女が夫の子供をはらんだと知ると父親のもとに帰してしまいました。直政は正室に遠慮してしばらくこの子供に会いませんでしたが、12歳になりようやく召し寄せます。この子こそ、大坂冬の陣で井伊家大将として活躍し、やがて井伊宗家の家督を継ぐことになる直孝でした。 天下無双と評された猛将 その気になれば天下統一も可能だと諸将から評価されていたといわれる直政。しかし彼は、そのような野心を見せることなく、家康が天下人になるよう貢献しました。その働きは、『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』にも「家康が幕府を開くにあたっての一番の功労者」と記載されるほどです。彼は関ヶ原の戦いで負った傷が原因で42歳で亡くなりましたが、井伊家はその後も繁栄し、江戸264年間を通じて井伊直弼など4名の大老を輩出しました。
井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、家康から何を与えられたか。
井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、家康から石田三成の旧領・近江国佐和山18万石を与えられた。
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歴史
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、森蘭丸である。 信長の側近として生きた蘭丸 まずは蘭丸の生涯について振り返りましょう。その出自から、彼が信長のもとで活躍することは決まっていたといえるかもしれません。 織田家重臣:森可成の子として生まれる 蘭丸は、永禄8年(1565)信長の家臣で金山城主だった森可成(よしなり)の三男として尾張国葉栗郡で誕生しました。本名は森成利(なりとし)といい、名前には諸説あります。文書には「乱」「乱法師」が用いられ諱は長定とあるものの、当時の古文書では「成利」と署名されているようです。 武勇に優れた父は信長から厚い信頼を得ており、その跡を継いだ兄・長可(ながよし)も重用されました。蘭丸は天正5年(1577)5月に弟らとともに小姓として召し抱えられ、それ以降は信長の側近として活動。17歳の頃には近江に500石の知行を与えられました。 使者や側近として活躍する 蘭丸の活躍は『信長公記』(しんちょうこうき)にも記されており、信長の息子たちに刀を贈り届けたり、朱印状を与えたりと、使者としての仕事も多くこなしています。母・妙向尼が信長と石山本願寺の和睦に奔走したときは、蘭丸を通して信長に直談判したといわれているため、間接的に大きな役割を担っていたともいえるでしょう。 天正10年(1582)には、甲州征伐に貢献した兄が恩賞として旧武田領を得て領地替えとなったため、兄の所領だった美濃金山城を与えられています。 本能寺の変で明智光秀軍と奮戦! 蘭丸は、天正10年(1582)本能寺の変で1万の光秀軍に囲まれて奮闘しました。しかし明智配下の安田国継により、わずか18歳で2人の弟とともに討ち死にします。こうして最期まで主君と運命をともにした蘭丸でしたが、一説では以前から光秀の謀反を疑っていたともいわれています。もし信長が蘭丸の言葉を信じていたら、本能寺の変は防げていたのかもしれませんね。
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、いつ誕生したか。
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、永禄8年(1565)に誕生した。
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歴史
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、森蘭丸である。 信長の側近として生きた蘭丸 まずは蘭丸の生涯について振り返りましょう。その出自から、彼が信長のもとで活躍することは決まっていたといえるかもしれません。 織田家重臣:森可成の子として生まれる 蘭丸は、永禄8年(1565)信長の家臣で金山城主だった森可成(よしなり)の三男として尾張国葉栗郡で誕生しました。本名は森成利(なりとし)といい、名前には諸説あります。文書には「乱」「乱法師」が用いられ諱は長定とあるものの、当時の古文書では「成利」と署名されているようです。 武勇に優れた父は信長から厚い信頼を得ており、その跡を継いだ兄・長可(ながよし)も重用されました。蘭丸は天正5年(1577)5月に弟らとともに小姓として召し抱えられ、それ以降は信長の側近として活動。17歳の頃には近江に500石の知行を与えられました。 使者や側近として活躍する 蘭丸の活躍は『信長公記』(しんちょうこうき)にも記されており、信長の息子たちに刀を贈り届けたり、朱印状を与えたりと、使者としての仕事も多くこなしています。母・妙向尼が信長と石山本願寺の和睦に奔走したときは、蘭丸を通して信長に直談判したといわれているため、間接的に大きな役割を担っていたともいえるでしょう。 天正10年(1582)には、甲州征伐に貢献した兄が恩賞として旧武田領を得て領地替えとなったため、兄の所領だった美濃金山城を与えられています。 本能寺の変で明智光秀軍と奮戦! 蘭丸は、天正10年(1582)本能寺の変で1万の光秀軍に囲まれて奮闘しました。しかし明智配下の安田国継により、わずか18歳で2人の弟とともに討ち死にします。こうして最期まで主君と運命をともにした蘭丸でしたが、一説では以前から光秀の謀反を疑っていたともいわれています。もし信長が蘭丸の言葉を信じていたら、本能寺の変は防げていたのかもしれませんね。
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、誰の三男として誕生したか。
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、信長の家臣で金山城主だった森可成の三男として誕生した。
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歴史
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、森蘭丸である。 信長の側近として生きた蘭丸 まずは蘭丸の生涯について振り返りましょう。その出自から、彼が信長のもとで活躍することは決まっていたといえるかもしれません。 織田家重臣:森可成の子として生まれる 蘭丸は、永禄8年(1565)信長の家臣で金山城主だった森可成(よしなり)の三男として尾張国葉栗郡で誕生しました。本名は森成利(なりとし)といい、名前には諸説あります。文書には「乱」「乱法師」が用いられ諱は長定とあるものの、当時の古文書では「成利」と署名されているようです。 武勇に優れた父は信長から厚い信頼を得ており、その跡を継いだ兄・長可(ながよし)も重用されました。蘭丸は天正5年(1577)5月に弟らとともに小姓として召し抱えられ、それ以降は信長の側近として活動。17歳の頃には近江に500石の知行を与えられました。 使者や側近として活躍する 蘭丸の活躍は『信長公記』(しんちょうこうき)にも記されており、信長の息子たちに刀を贈り届けたり、朱印状を与えたりと、使者としての仕事も多くこなしています。母・妙向尼が信長と石山本願寺の和睦に奔走したときは、蘭丸を通して信長に直談判したといわれているため、間接的に大きな役割を担っていたともいえるでしょう。 天正10年(1582)には、甲州征伐に貢献した兄が恩賞として旧武田領を得て領地替えとなったため、兄の所領だった美濃金山城を与えられています。 本能寺の変で明智光秀軍と奮戦! 蘭丸は、天正10年(1582)本能寺の変で1万の光秀軍に囲まれて奮闘しました。しかし明智配下の安田国継により、わずか18歳で2人の弟とともに討ち死にします。こうして最期まで主君と運命をともにした蘭丸でしたが、一説では以前から光秀の謀反を疑っていたともいわれています。もし信長が蘭丸の言葉を信じていたら、本能寺の変は防げていたのかもしれませんね。
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、どこで誕生したか。
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、尾張国葉栗郡で誕生した。
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信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、森蘭丸である。 信長の側近として生きた蘭丸 まずは蘭丸の生涯について振り返りましょう。その出自から、彼が信長のもとで活躍することは決まっていたといえるかもしれません。 織田家重臣:森可成の子として生まれる 蘭丸は、永禄8年(1565)信長の家臣で金山城主だった森可成(よしなり)の三男として尾張国葉栗郡で誕生しました。本名は森成利(なりとし)といい、名前には諸説あります。文書には「乱」「乱法師」が用いられ諱は長定とあるものの、当時の古文書では「成利」と署名されているようです。 武勇に優れた父は信長から厚い信頼を得ており、その跡を継いだ兄・長可(ながよし)も重用されました。蘭丸は天正5年(1577)5月に弟らとともに小姓として召し抱えられ、それ以降は信長の側近として活動。17歳の頃には近江に500石の知行を与えられました。 使者や側近として活躍する 蘭丸の活躍は『信長公記』(しんちょうこうき)にも記されており、信長の息子たちに刀を贈り届けたり、朱印状を与えたりと、使者としての仕事も多くこなしています。母・妙向尼が信長と石山本願寺の和睦に奔走したときは、蘭丸を通して信長に直談判したといわれているため、間接的に大きな役割を担っていたともいえるでしょう。 天正10年(1582)には、甲州征伐に貢献した兄が恩賞として旧武田領を得て領地替えとなったため、兄の所領だった美濃金山城を与えられています。 本能寺の変で明智光秀軍と奮戦! 蘭丸は、天正10年(1582)本能寺の変で1万の光秀軍に囲まれて奮闘しました。しかし明智配下の安田国継により、わずか18歳で2人の弟とともに討ち死にします。こうして最期まで主君と運命をともにした蘭丸でしたが、一説では以前から光秀の謀反を疑っていたともいわれています。もし信長が蘭丸の言葉を信じていたら、本能寺の変は防げていたのかもしれませんね。
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、いつ弟らとともに小姓として召し抱えられたか。
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、天正5年(1577)5月に弟らとともに小姓として召し抱えられた。
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歴史
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、森蘭丸である。 信長の側近として生きた蘭丸 まずは蘭丸の生涯について振り返りましょう。その出自から、彼が信長のもとで活躍することは決まっていたといえるかもしれません。 織田家重臣:森可成の子として生まれる 蘭丸は、永禄8年(1565)信長の家臣で金山城主だった森可成(よしなり)の三男として尾張国葉栗郡で誕生しました。本名は森成利(なりとし)といい、名前には諸説あります。文書には「乱」「乱法師」が用いられ諱は長定とあるものの、当時の古文書では「成利」と署名されているようです。 武勇に優れた父は信長から厚い信頼を得ており、その跡を継いだ兄・長可(ながよし)も重用されました。蘭丸は天正5年(1577)5月に弟らとともに小姓として召し抱えられ、それ以降は信長の側近として活動。17歳の頃には近江に500石の知行を与えられました。 使者や側近として活躍する 蘭丸の活躍は『信長公記』(しんちょうこうき)にも記されており、信長の息子たちに刀を贈り届けたり、朱印状を与えたりと、使者としての仕事も多くこなしています。母・妙向尼が信長と石山本願寺の和睦に奔走したときは、蘭丸を通して信長に直談判したといわれているため、間接的に大きな役割を担っていたともいえるでしょう。 天正10年(1582)には、甲州征伐に貢献した兄が恩賞として旧武田領を得て領地替えとなったため、兄の所領だった美濃金山城を与えられています。 本能寺の変で明智光秀軍と奮戦! 蘭丸は、天正10年(1582)本能寺の変で1万の光秀軍に囲まれて奮闘しました。しかし明智配下の安田国継により、わずか18歳で2人の弟とともに討ち死にします。こうして最期まで主君と運命をともにした蘭丸でしたが、一説では以前から光秀の謀反を疑っていたともいわれています。もし信長が蘭丸の言葉を信じていたら、本能寺の変は防げていたのかもしれませんね。
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、天正10年(1582)本能寺の変で誰に囲まれて奮闘したか。
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、天正10年(1582)本能寺の変で1万の光秀軍に囲まれて奮闘した。
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歴史
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、森蘭丸である。 蘭丸と信長の関係とは? 信長の小姓だった蘭丸ですが、信長とはどのような関係にあったのでしょうか。二人の関係性に迫ります。 有能な秘書的ポジション 小姓は秘書的な立場で、武将の話し相手になったり身の回りの世話をしたり来客の取り次ぎをしたりと、さまざまな雑務をこなす役職です。また身辺警護の親衛隊役も担っており、いざという時は主君を守らねばなりませんでした。そのため小姓は、幅広い知識や武芸を身につけていたのです。信長に寵愛された蘭丸も聡明な人物だったといわれています。 信長とは衆道関係にあった? 日本の歴史では男色が当前という風潮だったため、小姓と衆道関係をもつことも普通でした。戦場には女性を連れていけないことや、小姓なら有事の際も主君を守れるという理由から、徐々にこうした関係が広がったようです。 蘭丸の場合、信長の着替えを手伝ったり風呂で体を洗ったり、寝所を共にして夜の相手をすることもあったといわれています。 愛刀・不動行光をもらい受ける 蘭丸は信長から愛刀・不動行光をもらいうけています。ある日、信長は近習たちに向かって、愛刀・不動行光の菊模様の花弁の数を当てた者にこの刀をやろうと言いました。しかし答えを知っていた蘭丸は黙っており、その態度に感心した信長は蘭丸に刀を与えたのです。愛刀を譲るほど蘭丸を信頼していたといえるでしょう。 明智光秀を怒らせた?蘭丸の立場 蘭丸と光秀はともに信長から信頼を得ていた人物ですが、二人の扱いには少し違いがあったようです。蘭丸が特別だったと思われる逸話を2つご紹介します。 光秀の所領をプレゼント!? あるとき蘭丸は、信長から褒美を与えようとされたものの、提示されたものを望みませんでした。そこで信長は、お互いの手のひらに蘭丸がほしがっているものを書き、それが一致したら褒美として与えようと提案します。すると、見事に内容が一致しました。蘭丸は、亡き父の領地だった近江坂本6万石を欲していましたが、それは当時、光秀の本拠地となっていました。 このことを襖越しに聞いていた光秀は、蘭丸への特別扱いに不満を募らせ、信長への恨みを抱くようになり、これが本能寺の変の動機の一つになったともいわれています。 自ら進んで鉄扇で光秀を折檻した 本能寺の変の約1カ月前、信長は家康の接待役を光秀に命じました。これを喜んだ光秀は贅沢の限りをつくして家康をもてなしましたが、その内容を知った信長は「関東の上客にこのようなもてなしをするなら、朝廷から勅使を迎えるときはどうするつもりだ」と怒って饗宴役を解任してしまいます。 信長は反省の色を見せない光秀を見て、誰か光秀の頭を打つよう命令しますが、誰も名乗りを上げません。そんな中、蘭丸が立ち上がって鉄扇で光秀を打ったのです。 人物像がわかる逸話 蘭丸は若くして亡くなったため、史料も少なく詳しい人物像はわかっていません。しかし残された逸話からその性格が見えてきます。 爪が1つ足りなくて… 『老談一言記』や『朝野雑載』には、このようなエピソードが載っています。 信長は自分の爪を切った後、それを扇子の上に乗せ、捨ててくるよう蘭丸に命じました。命令通りに爪を捨てにいった蘭丸でしたが、次の間に移動すると爪が9つしかないことに気づきます。そのため蘭丸は、信長の部屋に戻って残りの爪を探したのです。この逸話から、蘭丸は素直で真面目な性格だといえるでしょう。 閉まっていた障子をまた閉めた あるとき信長は、隣の座敷の障子を閉めてくるよう蘭丸に命じました。しかし実際には障子は閉まっていたため、蘭丸は自ら障子を開け、もう一度音を立てて閉めたのです。これは、開いていると言ったにも関わらず閉まっていたとあっては信長が軽率だと思われてしまうため、周囲に音を聞かせるための行動でした。蘭丸は小姓として細かい配慮ができたようです。 18歳で散った若き武将 信長の小姓として活躍した蘭丸はわずか18歳で討ち死にしました。森氏は信長の父の代からの重臣だったこともあり、父・可成や兄・可長も信長の厚い信頼のもと武功を上げています。本能寺の変がなければ、蘭丸も信長の側近としてさらに多くの活躍を見せたかもしれません。 最期まで主君につき従って散った蘭丸は、小姓としての役目を全うしたといえるでしょう。彼は今も、森氏の菩提寺として知られる可成寺に眠っています。
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、信長から愛刀・不動行光をもらいうけた。
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、信長から愛刀・不動行光をもらいうけた。
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歴史
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、森蘭丸である。 蘭丸と信長の関係とは? 信長の小姓だった蘭丸ですが、信長とはどのような関係にあったのでしょうか。二人の関係性に迫ります。 有能な秘書的ポジション 小姓は秘書的な立場で、武将の話し相手になったり身の回りの世話をしたり来客の取り次ぎをしたりと、さまざまな雑務をこなす役職です。また身辺警護の親衛隊役も担っており、いざという時は主君を守らねばなりませんでした。そのため小姓は、幅広い知識や武芸を身につけていたのです。信長に寵愛された蘭丸も聡明な人物だったといわれています。 信長とは衆道関係にあった? 日本の歴史では男色が当前という風潮だったため、小姓と衆道関係をもつことも普通でした。戦場には女性を連れていけないことや、小姓なら有事の際も主君を守れるという理由から、徐々にこうした関係が広がったようです。 蘭丸の場合、信長の着替えを手伝ったり風呂で体を洗ったり、寝所を共にして夜の相手をすることもあったといわれています。 愛刀・不動行光をもらい受ける 蘭丸は信長から愛刀・不動行光をもらいうけています。ある日、信長は近習たちに向かって、愛刀・不動行光の菊模様の花弁の数を当てた者にこの刀をやろうと言いました。しかし答えを知っていた蘭丸は黙っており、その態度に感心した信長は蘭丸に刀を与えたのです。愛刀を譲るほど蘭丸を信頼していたといえるでしょう。 明智光秀を怒らせた?蘭丸の立場 蘭丸と光秀はともに信長から信頼を得ていた人物ですが、二人の扱いには少し違いがあったようです。蘭丸が特別だったと思われる逸話を2つご紹介します。 光秀の所領をプレゼント!? あるとき蘭丸は、信長から褒美を与えようとされたものの、提示されたものを望みませんでした。そこで信長は、お互いの手のひらに蘭丸がほしがっているものを書き、それが一致したら褒美として与えようと提案します。すると、見事に内容が一致しました。蘭丸は、亡き父の領地だった近江坂本6万石を欲していましたが、それは当時、光秀の本拠地となっていました。 このことを襖越しに聞いていた光秀は、蘭丸への特別扱いに不満を募らせ、信長への恨みを抱くようになり、これが本能寺の変の動機の一つになったともいわれています。 自ら進んで鉄扇で光秀を折檻した 本能寺の変の約1カ月前、信長は家康の接待役を光秀に命じました。これを喜んだ光秀は贅沢の限りをつくして家康をもてなしましたが、その内容を知った信長は「関東の上客にこのようなもてなしをするなら、朝廷から勅使を迎えるときはどうするつもりだ」と怒って饗宴役を解任してしまいます。 信長は反省の色を見せない光秀を見て、誰か光秀の頭を打つよう命令しますが、誰も名乗りを上げません。そんな中、蘭丸が立ち上がって鉄扇で光秀を打ったのです。 人物像がわかる逸話 蘭丸は若くして亡くなったため、史料も少なく詳しい人物像はわかっていません。しかし残された逸話からその性格が見えてきます。 爪が1つ足りなくて… 『老談一言記』や『朝野雑載』には、このようなエピソードが載っています。 信長は自分の爪を切った後、それを扇子の上に乗せ、捨ててくるよう蘭丸に命じました。命令通りに爪を捨てにいった蘭丸でしたが、次の間に移動すると爪が9つしかないことに気づきます。そのため蘭丸は、信長の部屋に戻って残りの爪を探したのです。この逸話から、蘭丸は素直で真面目な性格だといえるでしょう。 閉まっていた障子をまた閉めた あるとき信長は、隣の座敷の障子を閉めてくるよう蘭丸に命じました。しかし実際には障子は閉まっていたため、蘭丸は自ら障子を開け、もう一度音を立てて閉めたのです。これは、開いていると言ったにも関わらず閉まっていたとあっては信長が軽率だと思われてしまうため、周囲に音を聞かせるための行動でした。蘭丸は小姓として細かい配慮ができたようです。 18歳で散った若き武将 信長の小姓として活躍した蘭丸はわずか18歳で討ち死にしました。森氏は信長の父の代からの重臣だったこともあり、父・可成や兄・可長も信長の厚い信頼のもと武功を上げています。本能寺の変がなければ、蘭丸も信長の側近としてさらに多くの活躍を見せたかもしれません。 最期まで主君につき従って散った蘭丸は、小姓としての役目を全うしたといえるでしょう。彼は今も、森氏の菩提寺として知られる可成寺に眠っています。
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、誰から褒美を与えようとされたものの、提示されたものを望まなかったか。
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、信長から褒美を与えようとされたものの、提示されたものを望まなかった。
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歴史
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、森蘭丸である。 蘭丸と信長の関係とは? 信長の小姓だった蘭丸ですが、信長とはどのような関係にあったのでしょうか。二人の関係性に迫ります。 有能な秘書的ポジション 小姓は秘書的な立場で、武将の話し相手になったり身の回りの世話をしたり来客の取り次ぎをしたりと、さまざまな雑務をこなす役職です。また身辺警護の親衛隊役も担っており、いざという時は主君を守らねばなりませんでした。そのため小姓は、幅広い知識や武芸を身につけていたのです。信長に寵愛された蘭丸も聡明な人物だったといわれています。 信長とは衆道関係にあった? 日本の歴史では男色が当前という風潮だったため、小姓と衆道関係をもつことも普通でした。戦場には女性を連れていけないことや、小姓なら有事の際も主君を守れるという理由から、徐々にこうした関係が広がったようです。 蘭丸の場合、信長の着替えを手伝ったり風呂で体を洗ったり、寝所を共にして夜の相手をすることもあったといわれています。 愛刀・不動行光をもらい受ける 蘭丸は信長から愛刀・不動行光をもらいうけています。ある日、信長は近習たちに向かって、愛刀・不動行光の菊模様の花弁の数を当てた者にこの刀をやろうと言いました。しかし答えを知っていた蘭丸は黙っており、その態度に感心した信長は蘭丸に刀を与えたのです。愛刀を譲るほど蘭丸を信頼していたといえるでしょう。 明智光秀を怒らせた?蘭丸の立場 蘭丸と光秀はともに信長から信頼を得ていた人物ですが、二人の扱いには少し違いがあったようです。蘭丸が特別だったと思われる逸話を2つご紹介します。 光秀の所領をプレゼント!? あるとき蘭丸は、信長から褒美を与えようとされたものの、提示されたものを望みませんでした。そこで信長は、お互いの手のひらに蘭丸がほしがっているものを書き、それが一致したら褒美として与えようと提案します。すると、見事に内容が一致しました。蘭丸は、亡き父の領地だった近江坂本6万石を欲していましたが、それは当時、光秀の本拠地となっていました。 このことを襖越しに聞いていた光秀は、蘭丸への特別扱いに不満を募らせ、信長への恨みを抱くようになり、これが本能寺の変の動機の一つになったともいわれています。 自ら進んで鉄扇で光秀を折檻した 本能寺の変の約1カ月前、信長は家康の接待役を光秀に命じました。これを喜んだ光秀は贅沢の限りをつくして家康をもてなしましたが、その内容を知った信長は「関東の上客にこのようなもてなしをするなら、朝廷から勅使を迎えるときはどうするつもりだ」と怒って饗宴役を解任してしまいます。 信長は反省の色を見せない光秀を見て、誰か光秀の頭を打つよう命令しますが、誰も名乗りを上げません。そんな中、蘭丸が立ち上がって鉄扇で光秀を打ったのです。 人物像がわかる逸話 蘭丸は若くして亡くなったため、史料も少なく詳しい人物像はわかっていません。しかし残された逸話からその性格が見えてきます。 爪が1つ足りなくて… 『老談一言記』や『朝野雑載』には、このようなエピソードが載っています。 信長は自分の爪を切った後、それを扇子の上に乗せ、捨ててくるよう蘭丸に命じました。命令通りに爪を捨てにいった蘭丸でしたが、次の間に移動すると爪が9つしかないことに気づきます。そのため蘭丸は、信長の部屋に戻って残りの爪を探したのです。この逸話から、蘭丸は素直で真面目な性格だといえるでしょう。 閉まっていた障子をまた閉めた あるとき信長は、隣の座敷の障子を閉めてくるよう蘭丸に命じました。しかし実際には障子は閉まっていたため、蘭丸は自ら障子を開け、もう一度音を立てて閉めたのです。これは、開いていると言ったにも関わらず閉まっていたとあっては信長が軽率だと思われてしまうため、周囲に音を聞かせるための行動でした。蘭丸は小姓として細かい配慮ができたようです。 18歳で散った若き武将 信長の小姓として活躍した蘭丸はわずか18歳で討ち死にしました。森氏は信長の父の代からの重臣だったこともあり、父・可成や兄・可長も信長の厚い信頼のもと武功を上げています。本能寺の変がなければ、蘭丸も信長の側近としてさらに多くの活躍を見せたかもしれません。 最期まで主君につき従って散った蘭丸は、小姓としての役目を全うしたといえるでしょう。彼は今も、森氏の菩提寺として知られる可成寺に眠っています。
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、亡き父の何を欲していたか。
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、亡き父の領地だった近江坂本6万石を欲していた。
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歴史
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、森蘭丸である。 蘭丸と信長の関係とは? 信長の小姓だった蘭丸ですが、信長とはどのような関係にあったのでしょうか。二人の関係性に迫ります。 有能な秘書的ポジション 小姓は秘書的な立場で、武将の話し相手になったり身の回りの世話をしたり来客の取り次ぎをしたりと、さまざまな雑務をこなす役職です。また身辺警護の親衛隊役も担っており、いざという時は主君を守らねばなりませんでした。そのため小姓は、幅広い知識や武芸を身につけていたのです。信長に寵愛された蘭丸も聡明な人物だったといわれています。 信長とは衆道関係にあった? 日本の歴史では男色が当前という風潮だったため、小姓と衆道関係をもつことも普通でした。戦場には女性を連れていけないことや、小姓なら有事の際も主君を守れるという理由から、徐々にこうした関係が広がったようです。 蘭丸の場合、信長の着替えを手伝ったり風呂で体を洗ったり、寝所を共にして夜の相手をすることもあったといわれています。 愛刀・不動行光をもらい受ける 蘭丸は信長から愛刀・不動行光をもらいうけています。ある日、信長は近習たちに向かって、愛刀・不動行光の菊模様の花弁の数を当てた者にこの刀をやろうと言いました。しかし答えを知っていた蘭丸は黙っており、その態度に感心した信長は蘭丸に刀を与えたのです。愛刀を譲るほど蘭丸を信頼していたといえるでしょう。 明智光秀を怒らせた?蘭丸の立場 蘭丸と光秀はともに信長から信頼を得ていた人物ですが、二人の扱いには少し違いがあったようです。蘭丸が特別だったと思われる逸話を2つご紹介します。 光秀の所領をプレゼント!? あるとき蘭丸は、信長から褒美を与えようとされたものの、提示されたものを望みませんでした。そこで信長は、お互いの手のひらに蘭丸がほしがっているものを書き、それが一致したら褒美として与えようと提案します。すると、見事に内容が一致しました。蘭丸は、亡き父の領地だった近江坂本6万石を欲していましたが、それは当時、光秀の本拠地となっていました。 このことを襖越しに聞いていた光秀は、蘭丸への特別扱いに不満を募らせ、信長への恨みを抱くようになり、これが本能寺の変の動機の一つになったともいわれています。 自ら進んで鉄扇で光秀を折檻した 本能寺の変の約1カ月前、信長は家康の接待役を光秀に命じました。これを喜んだ光秀は贅沢の限りをつくして家康をもてなしましたが、その内容を知った信長は「関東の上客にこのようなもてなしをするなら、朝廷から勅使を迎えるときはどうするつもりだ」と怒って饗宴役を解任してしまいます。 信長は反省の色を見せない光秀を見て、誰か光秀の頭を打つよう命令しますが、誰も名乗りを上げません。そんな中、蘭丸が立ち上がって鉄扇で光秀を打ったのです。 人物像がわかる逸話 蘭丸は若くして亡くなったため、史料も少なく詳しい人物像はわかっていません。しかし残された逸話からその性格が見えてきます。 爪が1つ足りなくて… 『老談一言記』や『朝野雑載』には、このようなエピソードが載っています。 信長は自分の爪を切った後、それを扇子の上に乗せ、捨ててくるよう蘭丸に命じました。命令通りに爪を捨てにいった蘭丸でしたが、次の間に移動すると爪が9つしかないことに気づきます。そのため蘭丸は、信長の部屋に戻って残りの爪を探したのです。この逸話から、蘭丸は素直で真面目な性格だといえるでしょう。 閉まっていた障子をまた閉めた あるとき信長は、隣の座敷の障子を閉めてくるよう蘭丸に命じました。しかし実際には障子は閉まっていたため、蘭丸は自ら障子を開け、もう一度音を立てて閉めたのです。これは、開いていると言ったにも関わらず閉まっていたとあっては信長が軽率だと思われてしまうため、周囲に音を聞かせるための行動でした。蘭丸は小姓として細かい配慮ができたようです。 18歳で散った若き武将 信長の小姓として活躍した蘭丸はわずか18歳で討ち死にしました。森氏は信長の父の代からの重臣だったこともあり、父・可成や兄・可長も信長の厚い信頼のもと武功を上げています。本能寺の変がなければ、蘭丸も信長の側近としてさらに多くの活躍を見せたかもしれません。 最期まで主君につき従って散った蘭丸は、小姓としての役目を全うしたといえるでしょう。彼は今も、森氏の菩提寺として知られる可成寺に眠っています。
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、どのような性格だったか。
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、素直で真面目な性格だった。
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歴史
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、森蘭丸である。 蘭丸と信長の関係とは? 信長の小姓だった蘭丸ですが、信長とはどのような関係にあったのでしょうか。二人の関係性に迫ります。 有能な秘書的ポジション 小姓は秘書的な立場で、武将の話し相手になったり身の回りの世話をしたり来客の取り次ぎをしたりと、さまざまな雑務をこなす役職です。また身辺警護の親衛隊役も担っており、いざという時は主君を守らねばなりませんでした。そのため小姓は、幅広い知識や武芸を身につけていたのです。信長に寵愛された蘭丸も聡明な人物だったといわれています。 信長とは衆道関係にあった? 日本の歴史では男色が当前という風潮だったため、小姓と衆道関係をもつことも普通でした。戦場には女性を連れていけないことや、小姓なら有事の際も主君を守れるという理由から、徐々にこうした関係が広がったようです。 蘭丸の場合、信長の着替えを手伝ったり風呂で体を洗ったり、寝所を共にして夜の相手をすることもあったといわれています。 愛刀・不動行光をもらい受ける 蘭丸は信長から愛刀・不動行光をもらいうけています。ある日、信長は近習たちに向かって、愛刀・不動行光の菊模様の花弁の数を当てた者にこの刀をやろうと言いました。しかし答えを知っていた蘭丸は黙っており、その態度に感心した信長は蘭丸に刀を与えたのです。愛刀を譲るほど蘭丸を信頼していたといえるでしょう。 明智光秀を怒らせた?蘭丸の立場 蘭丸と光秀はともに信長から信頼を得ていた人物ですが、二人の扱いには少し違いがあったようです。蘭丸が特別だったと思われる逸話を2つご紹介します。 光秀の所領をプレゼント!? あるとき蘭丸は、信長から褒美を与えようとされたものの、提示されたものを望みませんでした。そこで信長は、お互いの手のひらに蘭丸がほしがっているものを書き、それが一致したら褒美として与えようと提案します。すると、見事に内容が一致しました。蘭丸は、亡き父の領地だった近江坂本6万石を欲していましたが、それは当時、光秀の本拠地となっていました。 このことを襖越しに聞いていた光秀は、蘭丸への特別扱いに不満を募らせ、信長への恨みを抱くようになり、これが本能寺の変の動機の一つになったともいわれています。 自ら進んで鉄扇で光秀を折檻した 本能寺の変の約1カ月前、信長は家康の接待役を光秀に命じました。これを喜んだ光秀は贅沢の限りをつくして家康をもてなしましたが、その内容を知った信長は「関東の上客にこのようなもてなしをするなら、朝廷から勅使を迎えるときはどうするつもりだ」と怒って饗宴役を解任してしまいます。 信長は反省の色を見せない光秀を見て、誰か光秀の頭を打つよう命令しますが、誰も名乗りを上げません。そんな中、蘭丸が立ち上がって鉄扇で光秀を打ったのです。 人物像がわかる逸話 蘭丸は若くして亡くなったため、史料も少なく詳しい人物像はわかっていません。しかし残された逸話からその性格が見えてきます。 爪が1つ足りなくて… 『老談一言記』や『朝野雑載』には、このようなエピソードが載っています。 信長は自分の爪を切った後、それを扇子の上に乗せ、捨ててくるよう蘭丸に命じました。命令通りに爪を捨てにいった蘭丸でしたが、次の間に移動すると爪が9つしかないことに気づきます。そのため蘭丸は、信長の部屋に戻って残りの爪を探したのです。この逸話から、蘭丸は素直で真面目な性格だといえるでしょう。 閉まっていた障子をまた閉めた あるとき信長は、隣の座敷の障子を閉めてくるよう蘭丸に命じました。しかし実際には障子は閉まっていたため、蘭丸は自ら障子を開け、もう一度音を立てて閉めたのです。これは、開いていると言ったにも関わらず閉まっていたとあっては信長が軽率だと思われてしまうため、周囲に音を聞かせるための行動でした。蘭丸は小姓として細かい配慮ができたようです。 18歳で散った若き武将 信長の小姓として活躍した蘭丸はわずか18歳で討ち死にしました。森氏は信長の父の代からの重臣だったこともあり、父・可成や兄・可長も信長の厚い信頼のもと武功を上げています。本能寺の変がなければ、蘭丸も信長の側近としてさらに多くの活躍を見せたかもしれません。 最期まで主君につき従って散った蘭丸は、小姓としての役目を全うしたといえるでしょう。彼は今も、森氏の菩提寺として知られる可成寺に眠っています。
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、何歳で討ち死にしたか。
信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、わずか18歳で討ち死にした。
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歴史
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、上杉謙信である。 生まれから越後統一まで 謙信の出自はどのようなものだったのでしょうか。まずは、誕生から越後統一までの経緯を振り返りましょう。 初陣で謀反を鎮圧 謙信は、享禄3年(1530)越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として春日山城で誕生しました。母は越後栖吉城主・長尾房景(古志長尾家)の娘の虎御前。謙信の名は法号で、本名は長尾景虎(かげとら)といい、のちに将軍・足利義輝から一字賜って輝虎(てるとら)と改めています。 この当時の越後は内乱が激しく、父・為景は戦を繰り返して権勢を振るったものの越後を平定できませんでした。 父の隠居後は兄・晴景が家督を継承しましたが、病弱な兄には越後をまとめられず豪族による謀反が勃発。謙信はこれを見事壊滅させ、15歳で初陣を飾ります。 家督相続して越後国主となる 天文17年(1548)晴景が謙信を養子にして隠退すると、春日山城に入った謙信は19歳で家督を継承し守護代になりました。その2年後、主君・上杉定実が後継者を遺さず死去し、将軍・義輝から越後守護の代行を命じられて越後国主となります。しかし同年12月に、一族の坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)が謙信の家督相続に不満を持ち挙兵。これを鎮圧すると国内の内乱は収まり、謙信は22歳で越後統一を果たしました。 合戦を重ねて勢力を強める 若くして越後を統一した謙信は、その後も勢力を強めていきます。それは亡くなる寸前まで続きましたが、そんな謙信でも病には勝てなかったようです。 関東管領職に就任 永禄4年(1561)関東管領・上杉憲政の養子となった謙信は、山内上杉家の家督を譲られます。このとき上杉姓と憲政の「政」の一字を与えられ、上杉政虎(うえすぎまさとら)と改名。さらに上杉家が世襲してきた幕府の要職・関東管領も相続しました。上杉家はもともと足利宗家の外戚という名門で、関東管領はそのような縁から代々任命されてきた役職です。謙信は新しく将軍就任した足利義昭からも引き続き関東管領に任命されています。 越中・能登を平定する 天正4年(1576)越中国で一向一揆支配下の城を次々と落城させた謙信は、越中守護代・椎名康胤(やすたね)を討ちついに越中も平定。また、重臣の謀反を鎮圧したことから出羽庄内地方も手に入れました。 上洛のため越後から京に軍勢を進めたい考えだった謙信は、輸送や供給の連絡路として重要な能登国に次の狙いを定めます。そして、信長派と謙信派で対立する能登を調略で支配下に入れたのです。
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、いつ誕生したか。
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、享禄3年(1530)に誕生した。
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歴史
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、上杉謙信である。 生まれから越後統一まで 謙信の出自はどのようなものだったのでしょうか。まずは、誕生から越後統一までの経緯を振り返りましょう。 初陣で謀反を鎮圧 謙信は、享禄3年(1530)越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として春日山城で誕生しました。母は越後栖吉城主・長尾房景(古志長尾家)の娘の虎御前。謙信の名は法号で、本名は長尾景虎(かげとら)といい、のちに将軍・足利義輝から一字賜って輝虎(てるとら)と改めています。 この当時の越後は内乱が激しく、父・為景は戦を繰り返して権勢を振るったものの越後を平定できませんでした。 父の隠居後は兄・晴景が家督を継承しましたが、病弱な兄には越後をまとめられず豪族による謀反が勃発。謙信はこれを見事壊滅させ、15歳で初陣を飾ります。 家督相続して越後国主となる 天文17年(1548)晴景が謙信を養子にして隠退すると、春日山城に入った謙信は19歳で家督を継承し守護代になりました。その2年後、主君・上杉定実が後継者を遺さず死去し、将軍・義輝から越後守護の代行を命じられて越後国主となります。しかし同年12月に、一族の坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)が謙信の家督相続に不満を持ち挙兵。これを鎮圧すると国内の内乱は収まり、謙信は22歳で越後統一を果たしました。 合戦を重ねて勢力を強める 若くして越後を統一した謙信は、その後も勢力を強めていきます。それは亡くなる寸前まで続きましたが、そんな謙信でも病には勝てなかったようです。 関東管領職に就任 永禄4年(1561)関東管領・上杉憲政の養子となった謙信は、山内上杉家の家督を譲られます。このとき上杉姓と憲政の「政」の一字を与えられ、上杉政虎(うえすぎまさとら)と改名。さらに上杉家が世襲してきた幕府の要職・関東管領も相続しました。上杉家はもともと足利宗家の外戚という名門で、関東管領はそのような縁から代々任命されてきた役職です。謙信は新しく将軍就任した足利義昭からも引き続き関東管領に任命されています。 越中・能登を平定する 天正4年(1576)越中国で一向一揆支配下の城を次々と落城させた謙信は、越中守護代・椎名康胤(やすたね)を討ちついに越中も平定。また、重臣の謀反を鎮圧したことから出羽庄内地方も手に入れました。 上洛のため越後から京に軍勢を進めたい考えだった謙信は、輸送や供給の連絡路として重要な能登国に次の狙いを定めます。そして、信長派と謙信派で対立する能登を調略で支配下に入れたのです。
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、誰の四男として誕生したか。
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として誕生した。
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歴史
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、上杉謙信である。 生まれから越後統一まで 謙信の出自はどのようなものだったのでしょうか。まずは、誕生から越後統一までの経緯を振り返りましょう。 初陣で謀反を鎮圧 謙信は、享禄3年(1530)越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として春日山城で誕生しました。母は越後栖吉城主・長尾房景(古志長尾家)の娘の虎御前。謙信の名は法号で、本名は長尾景虎(かげとら)といい、のちに将軍・足利義輝から一字賜って輝虎(てるとら)と改めています。 この当時の越後は内乱が激しく、父・為景は戦を繰り返して権勢を振るったものの越後を平定できませんでした。 父の隠居後は兄・晴景が家督を継承しましたが、病弱な兄には越後をまとめられず豪族による謀反が勃発。謙信はこれを見事壊滅させ、15歳で初陣を飾ります。 家督相続して越後国主となる 天文17年(1548)晴景が謙信を養子にして隠退すると、春日山城に入った謙信は19歳で家督を継承し守護代になりました。その2年後、主君・上杉定実が後継者を遺さず死去し、将軍・義輝から越後守護の代行を命じられて越後国主となります。しかし同年12月に、一族の坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)が謙信の家督相続に不満を持ち挙兵。これを鎮圧すると国内の内乱は収まり、謙信は22歳で越後統一を果たしました。 合戦を重ねて勢力を強める 若くして越後を統一した謙信は、その後も勢力を強めていきます。それは亡くなる寸前まで続きましたが、そんな謙信でも病には勝てなかったようです。 関東管領職に就任 永禄4年(1561)関東管領・上杉憲政の養子となった謙信は、山内上杉家の家督を譲られます。このとき上杉姓と憲政の「政」の一字を与えられ、上杉政虎(うえすぎまさとら)と改名。さらに上杉家が世襲してきた幕府の要職・関東管領も相続しました。上杉家はもともと足利宗家の外戚という名門で、関東管領はそのような縁から代々任命されてきた役職です。謙信は新しく将軍就任した足利義昭からも引き続き関東管領に任命されています。 越中・能登を平定する 天正4年(1576)越中国で一向一揆支配下の城を次々と落城させた謙信は、越中守護代・椎名康胤(やすたね)を討ちついに越中も平定。また、重臣の謀反を鎮圧したことから出羽庄内地方も手に入れました。 上洛のため越後から京に軍勢を進めたい考えだった謙信は、輸送や供給の連絡路として重要な能登国に次の狙いを定めます。そして、信長派と謙信派で対立する能登を調略で支配下に入れたのです。
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、どこで誕生したか。
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、春日山城で誕生した。
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歴史
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、上杉謙信である。 生まれから越後統一まで 謙信の出自はどのようなものだったのでしょうか。まずは、誕生から越後統一までの経緯を振り返りましょう。 初陣で謀反を鎮圧 謙信は、享禄3年(1530)越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として春日山城で誕生しました。母は越後栖吉城主・長尾房景(古志長尾家)の娘の虎御前。謙信の名は法号で、本名は長尾景虎(かげとら)といい、のちに将軍・足利義輝から一字賜って輝虎(てるとら)と改めています。 この当時の越後は内乱が激しく、父・為景は戦を繰り返して権勢を振るったものの越後を平定できませんでした。 父の隠居後は兄・晴景が家督を継承しましたが、病弱な兄には越後をまとめられず豪族による謀反が勃発。謙信はこれを見事壊滅させ、15歳で初陣を飾ります。 家督相続して越後国主となる 天文17年(1548)晴景が謙信を養子にして隠退すると、春日山城に入った謙信は19歳で家督を継承し守護代になりました。その2年後、主君・上杉定実が後継者を遺さず死去し、将軍・義輝から越後守護の代行を命じられて越後国主となります。しかし同年12月に、一族の坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)が謙信の家督相続に不満を持ち挙兵。これを鎮圧すると国内の内乱は収まり、謙信は22歳で越後統一を果たしました。 合戦を重ねて勢力を強める 若くして越後を統一した謙信は、その後も勢力を強めていきます。それは亡くなる寸前まで続きましたが、そんな謙信でも病には勝てなかったようです。 関東管領職に就任 永禄4年(1561)関東管領・上杉憲政の養子となった謙信は、山内上杉家の家督を譲られます。このとき上杉姓と憲政の「政」の一字を与えられ、上杉政虎(うえすぎまさとら)と改名。さらに上杉家が世襲してきた幕府の要職・関東管領も相続しました。上杉家はもともと足利宗家の外戚という名門で、関東管領はそのような縁から代々任命されてきた役職です。謙信は新しく将軍就任した足利義昭からも引き続き関東管領に任命されています。 越中・能登を平定する 天正4年(1576)越中国で一向一揆支配下の城を次々と落城させた謙信は、越中守護代・椎名康胤(やすたね)を討ちついに越中も平定。また、重臣の謀反を鎮圧したことから出羽庄内地方も手に入れました。 上洛のため越後から京に軍勢を進めたい考えだった謙信は、輸送や供給の連絡路として重要な能登国に次の狙いを定めます。そして、信長派と謙信派で対立する能登を調略で支配下に入れたのです。
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、いつ関東管領・上杉憲政の養子となり、山内上杉家の家督を譲られたか。
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、永禄4年(1561)関東管領・上杉憲政の養子となり、山内上杉家の家督を譲られた。
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歴史
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、上杉謙信である。 生まれから越後統一まで 謙信の出自はどのようなものだったのでしょうか。まずは、誕生から越後統一までの経緯を振り返りましょう。 初陣で謀反を鎮圧 謙信は、享禄3年(1530)越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として春日山城で誕生しました。母は越後栖吉城主・長尾房景(古志長尾家)の娘の虎御前。謙信の名は法号で、本名は長尾景虎(かげとら)といい、のちに将軍・足利義輝から一字賜って輝虎(てるとら)と改めています。 この当時の越後は内乱が激しく、父・為景は戦を繰り返して権勢を振るったものの越後を平定できませんでした。 父の隠居後は兄・晴景が家督を継承しましたが、病弱な兄には越後をまとめられず豪族による謀反が勃発。謙信はこれを見事壊滅させ、15歳で初陣を飾ります。 家督相続して越後国主となる 天文17年(1548)晴景が謙信を養子にして隠退すると、春日山城に入った謙信は19歳で家督を継承し守護代になりました。その2年後、主君・上杉定実が後継者を遺さず死去し、将軍・義輝から越後守護の代行を命じられて越後国主となります。しかし同年12月に、一族の坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)が謙信の家督相続に不満を持ち挙兵。これを鎮圧すると国内の内乱は収まり、謙信は22歳で越後統一を果たしました。 合戦を重ねて勢力を強める 若くして越後を統一した謙信は、その後も勢力を強めていきます。それは亡くなる寸前まで続きましたが、そんな謙信でも病には勝てなかったようです。 関東管領職に就任 永禄4年(1561)関東管領・上杉憲政の養子となった謙信は、山内上杉家の家督を譲られます。このとき上杉姓と憲政の「政」の一字を与えられ、上杉政虎(うえすぎまさとら)と改名。さらに上杉家が世襲してきた幕府の要職・関東管領も相続しました。上杉家はもともと足利宗家の外戚という名門で、関東管領はそのような縁から代々任命されてきた役職です。謙信は新しく将軍就任した足利義昭からも引き続き関東管領に任命されています。 越中・能登を平定する 天正4年(1576)越中国で一向一揆支配下の城を次々と落城させた謙信は、越中守護代・椎名康胤(やすたね)を討ちついに越中も平定。また、重臣の謀反を鎮圧したことから出羽庄内地方も手に入れました。 上洛のため越後から京に軍勢を進めたい考えだった謙信は、輸送や供給の連絡路として重要な能登国に次の狙いを定めます。そして、信長派と謙信派で対立する能登を調略で支配下に入れたのです。
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、いつ越中国で一向一揆支配下の城を次々と落城したか。
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、天正4年(1576)越中国で一向一揆支配下の城を次々と落城した。
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歴史
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、上杉謙信である。 遠征を目前にして病に倒れる 天正5年(1577)12月、遠征から春日山城に帰還した謙信は、翌年の遠征にむけて大動員令を出しました。しかしその直前、城内の厠で倒れて昏睡状態に陥り、享年49歳で急死してしまいます。死因は諸説ありますが、脳溢血の可能性が高いようです。謙信の死後は養子の景勝が家督を継ぎましたが、内乱により上杉家は衰退していきました。 猛威を振るった謙信の戦いとは? 謙信はその強さから後世では軍神とも称えられています。ここでは、名だたる武将と激突してきた謙信の戦いを振り返ります。 川中島の戦い:武田信玄と激戦を繰り広げる 謙信といえばすぐに思い浮かぶのが甲斐国の戦国大名・武田信玄との5度にわたる「川中島の戦い」でしょう。これは北信濃の支配権をめぐる戦いで、もっとも激戦となった第四次の戦いが川中島(現在の長野県長野市)で行われたことからこの総称がつけられています。この戦いは戦国時代最大の激戦ともいわれ、第四次の戦いは両者本陣にまで至り、謙信みずから信玄に切りつけたほどだったそうです。 小田原城の戦い:北条氏康の討伐を狙う 永禄3年(1560)桶狭間の戦いによって甲相駿三国同盟の一つである今川家が崩れ、これに乗じて謙信は北条氏康討伐に出陣します。北条方の諸城を攻略して厩橋城で年を越すと、翌年3月には10万余の軍を率いて氏康の居城を包囲。ところが氏康と同盟関係にある信玄が謙信の背後を牽制したことや、長期出兵できない武将が撤兵したことから、結局落城できずに兵を引きました。謙信は越後に帰る途中、武蔵国の松山城を落城し、厩橋城に城代をおいて帰国しています。 信長包囲網:織田信長と対立する 謙信は一向一揆に苦しめられていましたが、織田信長との戦いで苦境にあった石山本願寺の顕如と和睦しています。これは将軍・義昭が幕府再興の援助を願い出たからだといわれており、この謙信の決断によって信長包囲網が築かれました。もともと信長とは同盟関係にあった謙信ですが、毛利元就とも同盟を組んだことで信長との同盟が破綻。それ以降、上杉氏と織田氏は敵対することになりました。 謙信にまつわる逸話 圧倒的な強さを誇る謙信は、どのような人物だったのでしょうか? ここでは謙信にまつわるエピソードを4つご紹介します。 故事「敵に塩を送る」の語源に 永禄10年(1567)信玄は同盟を組んでいた今川氏真との関係が悪化し、塩を止められてしまいます。信玄の治める信濃は内陸で塩が採れないため、これは厳しい経済封鎖でした。謙信はこれを卑怯な行為だと批判し、宿敵である信玄に塩を送ります。これはのちに「敵に塩を送る」という故事にもなりました。 そのときお礼として贈られた日本刀は、重要文化財として現在も東京国立博物館に所蔵されています。 武神・毘沙門天の化身と呼ばれた 謙信は毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「毘」の文字を用いました。毘沙門天は四天王の一人で、北方の守護神とされる武神です。謙信はその生涯で70回ほど戦をしましたが、大きな合戦では一度も敗戦しておらず、死後も「武田軍と上杉軍の強さは天下一だ」と称えられるほどでした。まさに毘沙門天の化身といえるでしょう。 唐沢山城での圧巻の的中突破 唐沢山城が北条氏政によって包囲されたときのこと、救援に向かった謙信はその戦況から城主・佐野昌綱の危機を感じ、自ら城に入り力を貸そうと考えました。そして、甲冑も着けずに十文字槍を構え、わずか数十騎で3万5千の北条軍の中を敵中突破したのです。北条軍は、襲えば奇策によって報いられると思い誰も攻撃しませんでした。これを聞いた北条方の将兵らは、「夜叉羅刹とは是なるべし」と謙信を恐れたといわれています。 実は女性だったという説も… 戦国時代の武将にしては珍しく、謙信は生涯独身を貫き側室もいませんでした。このことから、実は女性だったのではないかという説も囁かれています。その根拠としては、毎月腹痛を起こし合戦中でも部屋に籠っていたこと、瞽女(ゴゼ)歌という民謡で「男も及ばぬ大力無双」と歌われていたことなどが挙げられます。 真実は定かではありませんが、もし女性であれば戦国最強の女傑といえるかもしれません。 生涯不犯の軍神だった 多くの合戦で勝利し確固たる地位を築いた謙信ですが、最後は病に倒れて亡くなりました。病没前の遠征では、上洛して信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたともいわれています。謙信がもう少し長く生きていたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。 彼は妻帯せず子がいませんでしたが、養子に引き継がれた上杉家はその後も継承され現在に至っています。
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、天正5年(1577)12月、遠征からどこに帰還したか。
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、天正5年(1577)12月、遠征から春日山城に帰還した。
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歴史
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、上杉謙信である。 遠征を目前にして病に倒れる 天正5年(1577)12月、遠征から春日山城に帰還した謙信は、翌年の遠征にむけて大動員令を出しました。しかしその直前、城内の厠で倒れて昏睡状態に陥り、享年49歳で急死してしまいます。死因は諸説ありますが、脳溢血の可能性が高いようです。謙信の死後は養子の景勝が家督を継ぎましたが、内乱により上杉家は衰退していきました。 猛威を振るった謙信の戦いとは? 謙信はその強さから後世では軍神とも称えられています。ここでは、名だたる武将と激突してきた謙信の戦いを振り返ります。 川中島の戦い:武田信玄と激戦を繰り広げる 謙信といえばすぐに思い浮かぶのが甲斐国の戦国大名・武田信玄との5度にわたる「川中島の戦い」でしょう。これは北信濃の支配権をめぐる戦いで、もっとも激戦となった第四次の戦いが川中島(現在の長野県長野市)で行われたことからこの総称がつけられています。この戦いは戦国時代最大の激戦ともいわれ、第四次の戦いは両者本陣にまで至り、謙信みずから信玄に切りつけたほどだったそうです。 小田原城の戦い:北条氏康の討伐を狙う 永禄3年(1560)桶狭間の戦いによって甲相駿三国同盟の一つである今川家が崩れ、これに乗じて謙信は北条氏康討伐に出陣します。北条方の諸城を攻略して厩橋城で年を越すと、翌年3月には10万余の軍を率いて氏康の居城を包囲。ところが氏康と同盟関係にある信玄が謙信の背後を牽制したことや、長期出兵できない武将が撤兵したことから、結局落城できずに兵を引きました。謙信は越後に帰る途中、武蔵国の松山城を落城し、厩橋城に城代をおいて帰国しています。 信長包囲網:織田信長と対立する 謙信は一向一揆に苦しめられていましたが、織田信長との戦いで苦境にあった石山本願寺の顕如と和睦しています。これは将軍・義昭が幕府再興の援助を願い出たからだといわれており、この謙信の決断によって信長包囲網が築かれました。もともと信長とは同盟関係にあった謙信ですが、毛利元就とも同盟を組んだことで信長との同盟が破綻。それ以降、上杉氏と織田氏は敵対することになりました。 謙信にまつわる逸話 圧倒的な強さを誇る謙信は、どのような人物だったのでしょうか? ここでは謙信にまつわるエピソードを4つご紹介します。 故事「敵に塩を送る」の語源に 永禄10年(1567)信玄は同盟を組んでいた今川氏真との関係が悪化し、塩を止められてしまいます。信玄の治める信濃は内陸で塩が採れないため、これは厳しい経済封鎖でした。謙信はこれを卑怯な行為だと批判し、宿敵である信玄に塩を送ります。これはのちに「敵に塩を送る」という故事にもなりました。 そのときお礼として贈られた日本刀は、重要文化財として現在も東京国立博物館に所蔵されています。 武神・毘沙門天の化身と呼ばれた 謙信は毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「毘」の文字を用いました。毘沙門天は四天王の一人で、北方の守護神とされる武神です。謙信はその生涯で70回ほど戦をしましたが、大きな合戦では一度も敗戦しておらず、死後も「武田軍と上杉軍の強さは天下一だ」と称えられるほどでした。まさに毘沙門天の化身といえるでしょう。 唐沢山城での圧巻の的中突破 唐沢山城が北条氏政によって包囲されたときのこと、救援に向かった謙信はその戦況から城主・佐野昌綱の危機を感じ、自ら城に入り力を貸そうと考えました。そして、甲冑も着けずに十文字槍を構え、わずか数十騎で3万5千の北条軍の中を敵中突破したのです。北条軍は、襲えば奇策によって報いられると思い誰も攻撃しませんでした。これを聞いた北条方の将兵らは、「夜叉羅刹とは是なるべし」と謙信を恐れたといわれています。 実は女性だったという説も… 戦国時代の武将にしては珍しく、謙信は生涯独身を貫き側室もいませんでした。このことから、実は女性だったのではないかという説も囁かれています。その根拠としては、毎月腹痛を起こし合戦中でも部屋に籠っていたこと、瞽女(ゴゼ)歌という民謡で「男も及ばぬ大力無双」と歌われていたことなどが挙げられます。 真実は定かではありませんが、もし女性であれば戦国最強の女傑といえるかもしれません。 生涯不犯の軍神だった 多くの合戦で勝利し確固たる地位を築いた謙信ですが、最後は病に倒れて亡くなりました。病没前の遠征では、上洛して信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたともいわれています。謙信がもう少し長く生きていたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。 彼は妻帯せず子がいませんでしたが、養子に引き継がれた上杉家はその後も継承され現在に至っています。
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、天正5年(1577)12月、翌年の遠征に向けて何を出したか。
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、天正5年(1577)12月、翌年の遠征に向けて大動員令を出した。
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歴史
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、上杉謙信である。 遠征を目前にして病に倒れる 天正5年(1577)12月、遠征から春日山城に帰還した謙信は、翌年の遠征にむけて大動員令を出しました。しかしその直前、城内の厠で倒れて昏睡状態に陥り、享年49歳で急死してしまいます。死因は諸説ありますが、脳溢血の可能性が高いようです。謙信の死後は養子の景勝が家督を継ぎましたが、内乱により上杉家は衰退していきました。 猛威を振るった謙信の戦いとは? 謙信はその強さから後世では軍神とも称えられています。ここでは、名だたる武将と激突してきた謙信の戦いを振り返ります。 川中島の戦い:武田信玄と激戦を繰り広げる 謙信といえばすぐに思い浮かぶのが甲斐国の戦国大名・武田信玄との5度にわたる「川中島の戦い」でしょう。これは北信濃の支配権をめぐる戦いで、もっとも激戦となった第四次の戦いが川中島(現在の長野県長野市)で行われたことからこの総称がつけられています。この戦いは戦国時代最大の激戦ともいわれ、第四次の戦いは両者本陣にまで至り、謙信みずから信玄に切りつけたほどだったそうです。 小田原城の戦い:北条氏康の討伐を狙う 永禄3年(1560)桶狭間の戦いによって甲相駿三国同盟の一つである今川家が崩れ、これに乗じて謙信は北条氏康討伐に出陣します。北条方の諸城を攻略して厩橋城で年を越すと、翌年3月には10万余の軍を率いて氏康の居城を包囲。ところが氏康と同盟関係にある信玄が謙信の背後を牽制したことや、長期出兵できない武将が撤兵したことから、結局落城できずに兵を引きました。謙信は越後に帰る途中、武蔵国の松山城を落城し、厩橋城に城代をおいて帰国しています。 信長包囲網:織田信長と対立する 謙信は一向一揆に苦しめられていましたが、織田信長との戦いで苦境にあった石山本願寺の顕如と和睦しています。これは将軍・義昭が幕府再興の援助を願い出たからだといわれており、この謙信の決断によって信長包囲網が築かれました。もともと信長とは同盟関係にあった謙信ですが、毛利元就とも同盟を組んだことで信長との同盟が破綻。それ以降、上杉氏と織田氏は敵対することになりました。 謙信にまつわる逸話 圧倒的な強さを誇る謙信は、どのような人物だったのでしょうか? ここでは謙信にまつわるエピソードを4つご紹介します。 故事「敵に塩を送る」の語源に 永禄10年(1567)信玄は同盟を組んでいた今川氏真との関係が悪化し、塩を止められてしまいます。信玄の治める信濃は内陸で塩が採れないため、これは厳しい経済封鎖でした。謙信はこれを卑怯な行為だと批判し、宿敵である信玄に塩を送ります。これはのちに「敵に塩を送る」という故事にもなりました。 そのときお礼として贈られた日本刀は、重要文化財として現在も東京国立博物館に所蔵されています。 武神・毘沙門天の化身と呼ばれた 謙信は毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「毘」の文字を用いました。毘沙門天は四天王の一人で、北方の守護神とされる武神です。謙信はその生涯で70回ほど戦をしましたが、大きな合戦では一度も敗戦しておらず、死後も「武田軍と上杉軍の強さは天下一だ」と称えられるほどでした。まさに毘沙門天の化身といえるでしょう。 唐沢山城での圧巻の的中突破 唐沢山城が北条氏政によって包囲されたときのこと、救援に向かった謙信はその戦況から城主・佐野昌綱の危機を感じ、自ら城に入り力を貸そうと考えました。そして、甲冑も着けずに十文字槍を構え、わずか数十騎で3万5千の北条軍の中を敵中突破したのです。北条軍は、襲えば奇策によって報いられると思い誰も攻撃しませんでした。これを聞いた北条方の将兵らは、「夜叉羅刹とは是なるべし」と謙信を恐れたといわれています。 実は女性だったという説も… 戦国時代の武将にしては珍しく、謙信は生涯独身を貫き側室もいませんでした。このことから、実は女性だったのではないかという説も囁かれています。その根拠としては、毎月腹痛を起こし合戦中でも部屋に籠っていたこと、瞽女(ゴゼ)歌という民謡で「男も及ばぬ大力無双」と歌われていたことなどが挙げられます。 真実は定かではありませんが、もし女性であれば戦国最強の女傑といえるかもしれません。 生涯不犯の軍神だった 多くの合戦で勝利し確固たる地位を築いた謙信ですが、最後は病に倒れて亡くなりました。病没前の遠征では、上洛して信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたともいわれています。謙信がもう少し長く生きていたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。 彼は妻帯せず子がいませんでしたが、養子に引き継がれた上杉家はその後も継承され現在に至っています。
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、毘沙門天の熱心な信仰者であり、本陣の旗印に何を掲げたか。
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、毘沙門天の熱心な信仰者であり、本陣の旗印に「毘」の文字を掲げた。
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歴史
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、上杉謙信である。 遠征を目前にして病に倒れる 天正5年(1577)12月、遠征から春日山城に帰還した謙信は、翌年の遠征にむけて大動員令を出しました。しかしその直前、城内の厠で倒れて昏睡状態に陥り、享年49歳で急死してしまいます。死因は諸説ありますが、脳溢血の可能性が高いようです。謙信の死後は養子の景勝が家督を継ぎましたが、内乱により上杉家は衰退していきました。 猛威を振るった謙信の戦いとは? 謙信はその強さから後世では軍神とも称えられています。ここでは、名だたる武将と激突してきた謙信の戦いを振り返ります。 川中島の戦い:武田信玄と激戦を繰り広げる 謙信といえばすぐに思い浮かぶのが甲斐国の戦国大名・武田信玄との5度にわたる「川中島の戦い」でしょう。これは北信濃の支配権をめぐる戦いで、もっとも激戦となった第四次の戦いが川中島(現在の長野県長野市)で行われたことからこの総称がつけられています。この戦いは戦国時代最大の激戦ともいわれ、第四次の戦いは両者本陣にまで至り、謙信みずから信玄に切りつけたほどだったそうです。 小田原城の戦い:北条氏康の討伐を狙う 永禄3年(1560)桶狭間の戦いによって甲相駿三国同盟の一つである今川家が崩れ、これに乗じて謙信は北条氏康討伐に出陣します。北条方の諸城を攻略して厩橋城で年を越すと、翌年3月には10万余の軍を率いて氏康の居城を包囲。ところが氏康と同盟関係にある信玄が謙信の背後を牽制したことや、長期出兵できない武将が撤兵したことから、結局落城できずに兵を引きました。謙信は越後に帰る途中、武蔵国の松山城を落城し、厩橋城に城代をおいて帰国しています。 信長包囲網:織田信長と対立する 謙信は一向一揆に苦しめられていましたが、織田信長との戦いで苦境にあった石山本願寺の顕如と和睦しています。これは将軍・義昭が幕府再興の援助を願い出たからだといわれており、この謙信の決断によって信長包囲網が築かれました。もともと信長とは同盟関係にあった謙信ですが、毛利元就とも同盟を組んだことで信長との同盟が破綻。それ以降、上杉氏と織田氏は敵対することになりました。 謙信にまつわる逸話 圧倒的な強さを誇る謙信は、どのような人物だったのでしょうか? ここでは謙信にまつわるエピソードを4つご紹介します。 故事「敵に塩を送る」の語源に 永禄10年(1567)信玄は同盟を組んでいた今川氏真との関係が悪化し、塩を止められてしまいます。信玄の治める信濃は内陸で塩が採れないため、これは厳しい経済封鎖でした。謙信はこれを卑怯な行為だと批判し、宿敵である信玄に塩を送ります。これはのちに「敵に塩を送る」という故事にもなりました。 そのときお礼として贈られた日本刀は、重要文化財として現在も東京国立博物館に所蔵されています。 武神・毘沙門天の化身と呼ばれた 謙信は毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「毘」の文字を用いました。毘沙門天は四天王の一人で、北方の守護神とされる武神です。謙信はその生涯で70回ほど戦をしましたが、大きな合戦では一度も敗戦しておらず、死後も「武田軍と上杉軍の強さは天下一だ」と称えられるほどでした。まさに毘沙門天の化身といえるでしょう。 唐沢山城での圧巻の的中突破 唐沢山城が北条氏政によって包囲されたときのこと、救援に向かった謙信はその戦況から城主・佐野昌綱の危機を感じ、自ら城に入り力を貸そうと考えました。そして、甲冑も着けずに十文字槍を構え、わずか数十騎で3万5千の北条軍の中を敵中突破したのです。北条軍は、襲えば奇策によって報いられると思い誰も攻撃しませんでした。これを聞いた北条方の将兵らは、「夜叉羅刹とは是なるべし」と謙信を恐れたといわれています。 実は女性だったという説も… 戦国時代の武将にしては珍しく、謙信は生涯独身を貫き側室もいませんでした。このことから、実は女性だったのではないかという説も囁かれています。その根拠としては、毎月腹痛を起こし合戦中でも部屋に籠っていたこと、瞽女(ゴゼ)歌という民謡で「男も及ばぬ大力無双」と歌われていたことなどが挙げられます。 真実は定かではありませんが、もし女性であれば戦国最強の女傑といえるかもしれません。 生涯不犯の軍神だった 多くの合戦で勝利し確固たる地位を築いた謙信ですが、最後は病に倒れて亡くなりました。病没前の遠征では、上洛して信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたともいわれています。謙信がもう少し長く生きていたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。 彼は妻帯せず子がいませんでしたが、養子に引き継がれた上杉家はその後も継承され現在に至っています。
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、唐沢山城が北条氏政に包囲された際、どのようにして北条軍の中を敵中突破したか。
越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、唐沢山城が北条氏政に包囲された際、甲冑もつけず十文字槍を構え数十騎で北条軍の中を敵中突破した。