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歴史
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、フランス国王・ルイ14世である。 ヴェルサイユ宮殿の造営 1660年代ごろから、ルイ14世はヴェルサイユ宮殿の建設を開始しました。これはルイ13世が狩猟の館として使っていた城館を改修・拡張したもので、ルイ14世の晩年まで工事が続けられたといいます。建設事業にあたったのは、当時一番の建築家と言われたル・ヴォーや、造園の名師ル・ノートルなどです。最高の職人を招いて完成した宮殿はバロック建築の代表作とされており、ルイ14世の治世を象徴するものとなりました。 フランス王家は代々パリ市内の王宮を転々としていましたが、1682年5月以降はヴェルサイユ宮殿に固定されます。こうして政治の中心はパリからヴェルサイユへと移り、王を頂点としたフランス絶対王政が確立しました。 カトリック信仰の強化とナント勅令の破棄 1683年、王妃マリー・テレーズが亡くなり、ルイ14世は寵姫マントノン侯爵夫人と秘密裏に結婚します。彼女は王妃ではなかったものの、国王の決定に影響を与えたとも考えられているようです。その1つが宗教問題で、ルイ14世はローマ教皇と交流を深め、カトリックの強化を目指してジャンセニスト(厳格主義信仰運動)やユグノー(フランス・プロテスタント)を弾圧しました。1685年には自由信仰を認めたナント勅令を破棄し、国内で反乱が起こります。ルイ14世はこの混乱を武力で鎮圧すると、国外への亡命者を追跡して虐殺しました。 長く続いた侵略戦争 その後も侵略戦争は続き、1688年にはアウクスブルク同盟戦争(ファルツ戦争、大同盟戦争)が起こります。神聖ローマ帝国の公領ファルツで男子相続者が絶えた際、ルイ14世は弟の妃が同家出身だとして領土を要求し侵攻しました。これに対しヨーロッパ諸国は対仏のアウクスブルク同盟を結成。この戦いは1697年のレイスウェイク条約で終結します。 次に狙ったのは広大な植民地から莫大な利益を得られるスペイン王位継承権で、ルイ14世は縁戚関係から孫のアンジュー公フィリップの継承権を主張。これに対しヨーロッパ諸国はハーグ同盟を結成し、スペイン継承戦争が勃発します。この戦いの結果、フィリップはスペイン王になりましたが、フランスは領土や植民地を多く失いました。 晩年とその後のフランス 幼くして即位し積極的に政治を推し進めてきたルイ14世ですが、やがて最期が訪れます。彼の死はフランスにどのような影響を与えたのでしょうか? 民衆に歓喜された死 晩年、長年にわたる戦費で国家財政は破綻しかけており、フランス国民は重税で困窮しきっていました。そんな中、1715年9月1日、ルイ14世は77歳の誕生日を前にしてこの世を去ります。民衆は王の崩御を歓喜し、葬列に罵声を浴びせたそうです。ルイ14世は72年もの在位期間を誇りましたが、これはフランス史上最長であり、「中世以後の国家元首として最長の在位期間を持つ人物」としてギネス世界記録にも認定されています。 そしてフランス革命へ ルイ14世の死後、ひ孫にあたる5歳の王太子がルイ15世として即位しました。ルイ14世は死の床で「自分のようになってはならない」と王太子を戒めましたが、その言葉も空しく、ルイ15世は多くの戦争を繰り広げます。彼の治世は60年近く続いたものの、崩御時にはフランスの財政は破綻寸前でした。次代のルイ16世はこの苦境を乗り切れず、やがてフランス革命へと突入していきます。 ヨーロッパ最大の国力を築いた 侵略戦争で領土を拡大し続け、ヨーロッパ最大の国力と陸軍力を築いたフランス国王ルイ14世。しかし、戦費によって財政は悪化し、民衆は重税に苦しみました。国力を示す事業の1つとして造営されたヴェルサイユ宮殿は、後に起こるフランス革命の舞台としても有名です。ルイ14世を代表するこの宮殿は、現在、フランス随一の豪華絢爛さを誇る観光地となっています。
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、死の床で王太子を何と戒めましたか。
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、死の床で「自分のようになってはならない」と王太子を戒めました。
JCRRAG_018502
歴史
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、メアリー・ステュアートである。 生後6日でスコットランド女王に即位 メアリー・ステュアートは、1542年にスコットランド王ジェームズ5世とフランス貴族ギーズ公家出身のマリー・ド・ギーズの長女として誕生しました。しかし、父の早世により、生後6日でスコットランド女王となります。 当時のスコットランドは、宗教や領土をめぐって隣国イングランドの脅威にさらされていました。メアリーの叔父でもあるイングランド王のヘンリー8世は、これを機に息子エドワード6世とメアリーを婚約させ、スコットランドを手に入れようと画策します。しかし、ヘンリー8世を警戒した母マリー・ド・ギーズは、幼いメアリーを人目の届かない修道院に匿いました。そしてヘンリー8世の死をきっかけに、スコットランドと同じくカトリックを信仰する祖国フランスの王太子フランソワとメアリーを婚約させることに成功します。わずか6歳だった花嫁メアリーは、母と離れてフランスへと渡り、未来の王妃としてフランス王宮で大切に育てられていきます。 1558年4月、美しく成長した15歳のメアリーは、婚約者の王太子フランソワとパリのノートルダム寺院で結婚式をあげました。翌年、国王アンリ2世が事故死したことで、王太子がフランソワ2世として即位し、メアリーはスコットランド女王にしてフランス王妃となります。まさに人生の絶頂期でした。 イングランド女王エリザベス1世との確執 メアリーとフランソワが結婚式を挙げた年の11月、イングランドで新たな女王が即位しました。かの有名なエリザベス1世です。 彼女がイングランド女王に即位した際、フランス国王アンリ2世は「エリザベスはヘンリー8世の庶子にすぎず、メアリーこそ正当なイングランド王位継承権者だ!」と抗議しました。エリザベスはイングランド王ヘンリー8世と愛人アン・ブーリンとの間に生まれましたが、母が罪人として処刑されたことで王女から庶子に降格させられていたのです。一方で、祖母がヘンリー8世の姉マーガレット・テューダーであるメアリーは、イングランドの正当な王位継承権を有していました。 イングランド国内でもエリザベスの王位継承に不当性を唱える大貴族がいるような不安定な情勢の中、メアリー自身もイングランドの王位継承権を主張したことで、エリザベスはメアリーを危険なライバルとみなすようになっていきます。 メアリーとエリザベスをめぐり、フランス・イングランド・スコットランドによる様々な思惑が交錯する中、フランス王宮に衝撃が走ります。即位からわずか1年、生まれつき病弱であったフランソワ2世が、16歳の若さで病死してしまったのです。フランソワ2世との間には子どもがいなかったため、メアリーはフランス王妃の地位を失いました。しかも夫の死から半年足らずで今度はスコットランドを統治していた母マリー・ド・ギーズが亡くなります。メアリーは華やかなフランス王宮での生活に別れを告げ、スコットランドへ帰国せざるをえませんでした。 輝かしい未来が約束されていると思われたメアリーの人生は、ここから大きく狂いだしていきます。
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、どこで結婚式を挙げたか。
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、パリのノートルダム寺院で結婚式をあげた。
JCRRAG_018503
歴史
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、メアリー・ステュアートである。 生後6日でスコットランド女王に即位 メアリー・ステュアートは、1542年にスコットランド王ジェームズ5世とフランス貴族ギーズ公家出身のマリー・ド・ギーズの長女として誕生しました。しかし、父の早世により、生後6日でスコットランド女王となります。 当時のスコットランドは、宗教や領土をめぐって隣国イングランドの脅威にさらされていました。メアリーの叔父でもあるイングランド王のヘンリー8世は、これを機に息子エドワード6世とメアリーを婚約させ、スコットランドを手に入れようと画策します。しかし、ヘンリー8世を警戒した母マリー・ド・ギーズは、幼いメアリーを人目の届かない修道院に匿いました。そしてヘンリー8世の死をきっかけに、スコットランドと同じくカトリックを信仰する祖国フランスの王太子フランソワとメアリーを婚約させることに成功します。わずか6歳だった花嫁メアリーは、母と離れてフランスへと渡り、未来の王妃としてフランス王宮で大切に育てられていきます。 1558年4月、美しく成長した15歳のメアリーは、婚約者の王太子フランソワとパリのノートルダム寺院で結婚式をあげました。翌年、国王アンリ2世が事故死したことで、王太子がフランソワ2世として即位し、メアリーはスコットランド女王にしてフランス王妃となります。まさに人生の絶頂期でした。 イングランド女王エリザベス1世との確執 メアリーとフランソワが結婚式を挙げた年の11月、イングランドで新たな女王が即位しました。かの有名なエリザベス1世です。 彼女がイングランド女王に即位した際、フランス国王アンリ2世は「エリザベスはヘンリー8世の庶子にすぎず、メアリーこそ正当なイングランド王位継承権者だ!」と抗議しました。エリザベスはイングランド王ヘンリー8世と愛人アン・ブーリンとの間に生まれましたが、母が罪人として処刑されたことで王女から庶子に降格させられていたのです。一方で、祖母がヘンリー8世の姉マーガレット・テューダーであるメアリーは、イングランドの正当な王位継承権を有していました。 イングランド国内でもエリザベスの王位継承に不当性を唱える大貴族がいるような不安定な情勢の中、メアリー自身もイングランドの王位継承権を主張したことで、エリザベスはメアリーを危険なライバルとみなすようになっていきます。 メアリーとエリザベスをめぐり、フランス・イングランド・スコットランドによる様々な思惑が交錯する中、フランス王宮に衝撃が走ります。即位からわずか1年、生まれつき病弱であったフランソワ2世が、16歳の若さで病死してしまったのです。フランソワ2世との間には子どもがいなかったため、メアリーはフランス王妃の地位を失いました。しかも夫の死から半年足らずで今度はスコットランドを統治していた母マリー・ド・ギーズが亡くなります。メアリーは華やかなフランス王宮での生活に別れを告げ、スコットランドへ帰国せざるをえませんでした。 輝かしい未来が約束されていると思われたメアリーの人生は、ここから大きく狂いだしていきます。
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、何歳でスコットランド女王となったか。
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、生後6日でスコットランド女王となった。
JCRRAG_018504
歴史
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、メアリー・ステュアートである。 生後6日でスコットランド女王に即位 メアリー・ステュアートは、1542年にスコットランド王ジェームズ5世とフランス貴族ギーズ公家出身のマリー・ド・ギーズの長女として誕生しました。しかし、父の早世により、生後6日でスコットランド女王となります。 当時のスコットランドは、宗教や領土をめぐって隣国イングランドの脅威にさらされていました。メアリーの叔父でもあるイングランド王のヘンリー8世は、これを機に息子エドワード6世とメアリーを婚約させ、スコットランドを手に入れようと画策します。しかし、ヘンリー8世を警戒した母マリー・ド・ギーズは、幼いメアリーを人目の届かない修道院に匿いました。そしてヘンリー8世の死をきっかけに、スコットランドと同じくカトリックを信仰する祖国フランスの王太子フランソワとメアリーを婚約させることに成功します。わずか6歳だった花嫁メアリーは、母と離れてフランスへと渡り、未来の王妃としてフランス王宮で大切に育てられていきます。 1558年4月、美しく成長した15歳のメアリーは、婚約者の王太子フランソワとパリのノートルダム寺院で結婚式をあげました。翌年、国王アンリ2世が事故死したことで、王太子がフランソワ2世として即位し、メアリーはスコットランド女王にしてフランス王妃となります。まさに人生の絶頂期でした。 イングランド女王エリザベス1世との確執 メアリーとフランソワが結婚式を挙げた年の11月、イングランドで新たな女王が即位しました。かの有名なエリザベス1世です。 彼女がイングランド女王に即位した際、フランス国王アンリ2世は「エリザベスはヘンリー8世の庶子にすぎず、メアリーこそ正当なイングランド王位継承権者だ!」と抗議しました。エリザベスはイングランド王ヘンリー8世と愛人アン・ブーリンとの間に生まれましたが、母が罪人として処刑されたことで王女から庶子に降格させられていたのです。一方で、祖母がヘンリー8世の姉マーガレット・テューダーであるメアリーは、イングランドの正当な王位継承権を有していました。 イングランド国内でもエリザベスの王位継承に不当性を唱える大貴族がいるような不安定な情勢の中、メアリー自身もイングランドの王位継承権を主張したことで、エリザベスはメアリーを危険なライバルとみなすようになっていきます。 メアリーとエリザベスをめぐり、フランス・イングランド・スコットランドによる様々な思惑が交錯する中、フランス王宮に衝撃が走ります。即位からわずか1年、生まれつき病弱であったフランソワ2世が、16歳の若さで病死してしまったのです。フランソワ2世との間には子どもがいなかったため、メアリーはフランス王妃の地位を失いました。しかも夫の死から半年足らずで今度はスコットランドを統治していた母マリー・ド・ギーズが亡くなります。メアリーは華やかなフランス王宮での生活に別れを告げ、スコットランドへ帰国せざるをえませんでした。 輝かしい未来が約束されていると思われたメアリーの人生は、ここから大きく狂いだしていきます。
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、誰と結婚したか。
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、フランソワ2世と結婚した。
JCRRAG_018505
歴史
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、メアリー・ステュアートである。 生後6日でスコットランド女王に即位 メアリー・ステュアートは、1542年にスコットランド王ジェームズ5世とフランス貴族ギーズ公家出身のマリー・ド・ギーズの長女として誕生しました。しかし、父の早世により、生後6日でスコットランド女王となります。 当時のスコットランドは、宗教や領土をめぐって隣国イングランドの脅威にさらされていました。メアリーの叔父でもあるイングランド王のヘンリー8世は、これを機に息子エドワード6世とメアリーを婚約させ、スコットランドを手に入れようと画策します。しかし、ヘンリー8世を警戒した母マリー・ド・ギーズは、幼いメアリーを人目の届かない修道院に匿いました。そしてヘンリー8世の死をきっかけに、スコットランドと同じくカトリックを信仰する祖国フランスの王太子フランソワとメアリーを婚約させることに成功します。わずか6歳だった花嫁メアリーは、母と離れてフランスへと渡り、未来の王妃としてフランス王宮で大切に育てられていきます。 1558年4月、美しく成長した15歳のメアリーは、婚約者の王太子フランソワとパリのノートルダム寺院で結婚式をあげました。翌年、国王アンリ2世が事故死したことで、王太子がフランソワ2世として即位し、メアリーはスコットランド女王にしてフランス王妃となります。まさに人生の絶頂期でした。 イングランド女王エリザベス1世との確執 メアリーとフランソワが結婚式を挙げた年の11月、イングランドで新たな女王が即位しました。かの有名なエリザベス1世です。 彼女がイングランド女王に即位した際、フランス国王アンリ2世は「エリザベスはヘンリー8世の庶子にすぎず、メアリーこそ正当なイングランド王位継承権者だ!」と抗議しました。エリザベスはイングランド王ヘンリー8世と愛人アン・ブーリンとの間に生まれましたが、母が罪人として処刑されたことで王女から庶子に降格させられていたのです。一方で、祖母がヘンリー8世の姉マーガレット・テューダーであるメアリーは、イングランドの正当な王位継承権を有していました。 イングランド国内でもエリザベスの王位継承に不当性を唱える大貴族がいるような不安定な情勢の中、メアリー自身もイングランドの王位継承権を主張したことで、エリザベスはメアリーを危険なライバルとみなすようになっていきます。 メアリーとエリザベスをめぐり、フランス・イングランド・スコットランドによる様々な思惑が交錯する中、フランス王宮に衝撃が走ります。即位からわずか1年、生まれつき病弱であったフランソワ2世が、16歳の若さで病死してしまったのです。フランソワ2世との間には子どもがいなかったため、メアリーはフランス王妃の地位を失いました。しかも夫の死から半年足らずで今度はスコットランドを統治していた母マリー・ド・ギーズが亡くなります。メアリーは華やかなフランス王宮での生活に別れを告げ、スコットランドへ帰国せざるをえませんでした。 輝かしい未来が約束されていると思われたメアリーの人生は、ここから大きく狂いだしていきます。
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、誰の死によってスコットランドに戻ったか。
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、マリー・ド・ギーズの死によってスコットランドに戻った。
JCRRAG_018506
歴史
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、メアリー・ステュアートである。 生後6日でスコットランド女王に即位 メアリー・ステュアートは、1542年にスコットランド王ジェームズ5世とフランス貴族ギーズ公家出身のマリー・ド・ギーズの長女として誕生しました。しかし、父の早世により、生後6日でスコットランド女王となります。 当時のスコットランドは、宗教や領土をめぐって隣国イングランドの脅威にさらされていました。メアリーの叔父でもあるイングランド王のヘンリー8世は、これを機に息子エドワード6世とメアリーを婚約させ、スコットランドを手に入れようと画策します。しかし、ヘンリー8世を警戒した母マリー・ド・ギーズは、幼いメアリーを人目の届かない修道院に匿いました。そしてヘンリー8世の死をきっかけに、スコットランドと同じくカトリックを信仰する祖国フランスの王太子フランソワとメアリーを婚約させることに成功します。わずか6歳だった花嫁メアリーは、母と離れてフランスへと渡り、未来の王妃としてフランス王宮で大切に育てられていきます。 1558年4月、美しく成長した15歳のメアリーは、婚約者の王太子フランソワとパリのノートルダム寺院で結婚式をあげました。翌年、国王アンリ2世が事故死したことで、王太子がフランソワ2世として即位し、メアリーはスコットランド女王にしてフランス王妃となります。まさに人生の絶頂期でした。 イングランド女王エリザベス1世との確執 メアリーとフランソワが結婚式を挙げた年の11月、イングランドで新たな女王が即位しました。かの有名なエリザベス1世です。 彼女がイングランド女王に即位した際、フランス国王アンリ2世は「エリザベスはヘンリー8世の庶子にすぎず、メアリーこそ正当なイングランド王位継承権者だ!」と抗議しました。エリザベスはイングランド王ヘンリー8世と愛人アン・ブーリンとの間に生まれましたが、母が罪人として処刑されたことで王女から庶子に降格させられていたのです。一方で、祖母がヘンリー8世の姉マーガレット・テューダーであるメアリーは、イングランドの正当な王位継承権を有していました。 イングランド国内でもエリザベスの王位継承に不当性を唱える大貴族がいるような不安定な情勢の中、メアリー自身もイングランドの王位継承権を主張したことで、エリザベスはメアリーを危険なライバルとみなすようになっていきます。 メアリーとエリザベスをめぐり、フランス・イングランド・スコットランドによる様々な思惑が交錯する中、フランス王宮に衝撃が走ります。即位からわずか1年、生まれつき病弱であったフランソワ2世が、16歳の若さで病死してしまったのです。フランソワ2世との間には子どもがいなかったため、メアリーはフランス王妃の地位を失いました。しかも夫の死から半年足らずで今度はスコットランドを統治していた母マリー・ド・ギーズが亡くなります。メアリーは華やかなフランス王宮での生活に別れを告げ、スコットランドへ帰国せざるをえませんでした。 輝かしい未来が約束されていると思われたメアリーの人生は、ここから大きく狂いだしていきます。
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、フランスでどのように育てられたか。
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、未来の王妃としてフランス王宮で大切に育てられていきます。
JCRRAG_018507
歴史
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、メアリー・ステュアートである。 スコットランドでのスキャンダラスな恋 13年ぶりに帰国したスコットランドはカトリックとプロテスタントの対立が激化し、国民のほとんどがプロテスタントとなっていました。メアリーはカトリックでしたが、宗教の争いを避けるためにプロテスタントである異母兄のマリ伯を重臣にするなど、宗教の選択には寛容な姿勢をとりました。メアリーの美しさや穏やかな人柄も国民の心をつかみ、当初は反発していた人々もしだいに彼女を支持するようになっていったそうです。 若くして未亡人となったスコットランド女王には、他国から多くの政略結婚の申し出がありました。ところが、メアリーは4才年下で従弟のダーンリー卿と結婚して世界を驚かせます。メアリーが恋に落ちたダーンリー卿は金髪の美男子で、メアリーと同じステュアート家の血筋で家柄も申し分ありません。しかし、権力への執着が強く、傲慢で感情的な性格だったため、2人の関係は1年もたたないうちに冷え切ってしまいます やがてメアリーは有能で細やかな気づかいをする音楽家で秘書のダヴィッド・リッチオを寵愛し、重用するようになりました。しかし、そのことに嫉妬したダーンリー卿は、女王に不満をもつ貴族たちと共謀し、妊娠中だったメアリーの目の前でリッチオを殺害してしまいます。メアリーはショックのあまり流産しかけますが、無事にジェームズを出産。子供は生まれましたが、ダーンリー卿との関係は以前と変わらぬままでした。 愛を渇望していたメアリーは、今度は寵臣であった年上のボスウェル伯に惹かれていきます。しかし、メアリーには夫がおり、彼女が信仰するカトリックは離婚を認めていませんでした。そんな中、エジンバラ郊外で療養していたダーンリー卿の屋敷が爆破され、殺害されるという大事件が起こります。そしてなんとその3か月後、メアリーはボスウェル伯と3度目の結婚式を挙げたのです。当時、ダーンリー卿殺害はボスウェル伯が首謀者で、メアリーも共謀していたと噂されていたため、国内外の非難が集中し大スキャンダルとなりました。 完全に国民や臣下からの信頼を失ったスコットランド女王。間もなく、反ボスウェル派の貴族たちが反乱を起こし、メアリーは捉えられてしまいます。逃げ延びたボスウェル伯も反撃を試みましたが失敗し、デンマークで逮捕された後に獄死しました。ロッホリーヴン城に幽閉されたメアリーは、ついに廃位となりスコットランド女王の地位を失います。(その後、スコットランド王には息子のジェームズが即位しました) メアリーは城を脱走し、6,000人の兵士を集めて復位を目指しましたが失敗。万策尽きたメアリーはイングランドに逃れ、なんと宿敵エリザベス女王に保護を求めたのでした。愛した男性も、女王の地位も失ってしまったメアリー。まだ25才だった彼女は、このときが人生の事実上の終わりであることを知る由もありませんでした。 19年間の幽閉生活の果てに エリザベスにとって、正統な王位継承権を持つメアリーは危険きわまりない人物でした。しかし、慈悲深い女王としての立場から血縁のメアリーをスコットランドに送り返してみすみす死なせるわけにもいかず、イングランドに受け入れて幽閉生活をさせることにしました。各地を転々とさせられたメアリーでしたが、軟禁状態とは思えないほど自由に近い生活をしていたそうです。 しかし、メアリーはたびたびイングランド王位継承権者であることを主張し、幾度もエリザベス廃位の陰謀に加担してました。そしてついに動かぬ証拠をつきつけられたメアリーは、死刑を言い渡されます。1587年2月8日、メアリーは19年間の幽閉生活の果てにフォザリンゲイ城の大広間で処刑され、44年の生涯を終えました。 悲劇の女王?悪女?現代に受け継がれるメアリー・ステュアート 国家間の権力争いに巻き込まれ、断頭台に消えていった悲劇の女王として、多くの人々を魅了してきたメアリー・ステュアート。しかしながら、イングランドの王位継承権を主張してエリザベス廃位を企てたり、愛した男性が次々と不幸な死を遂げたことから、愛のために生きたわがままで愚かな女王という描かれ方をされることも少なくありません。どちらが本当のメアリーなのかはわかりませんが、そんな危うさをも孕んだ壮絶な生涯だったからこそ、今でも舞台やドラマの題材として人々に愛され続けているのかもしれませんね。 そんなメアリーは生前に「わが終わりにわが始まりあり」という予言のような言葉を刺繍の中に縫い込んでいました。そしてそれは現実のものとなります。メアリーの息子であるスコットランド王ジェームズ6世は、エリザベス1世の死後、ジェームズ1世としてイングランド王位を継ぎ、2つの国を統べる王となりました。その後もメアリーの血筋は脈々と受け継がれ、現代のイギリス王室まで繋がっているのです。 44年という短い人生だったメアリー・ステュアートですが、彼女の生きた証は、きっとこれから先も何百年と受け継がれていくことでしょう。
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、誰を寵愛したか。
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、ダヴィッド・リッチオを寵愛した。
JCRRAG_018508
歴史
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、メアリー・ステュアートである。 スコットランドでのスキャンダラスな恋 13年ぶりに帰国したスコットランドはカトリックとプロテスタントの対立が激化し、国民のほとんどがプロテスタントとなっていました。メアリーはカトリックでしたが、宗教の争いを避けるためにプロテスタントである異母兄のマリ伯を重臣にするなど、宗教の選択には寛容な姿勢をとりました。メアリーの美しさや穏やかな人柄も国民の心をつかみ、当初は反発していた人々もしだいに彼女を支持するようになっていったそうです。 若くして未亡人となったスコットランド女王には、他国から多くの政略結婚の申し出がありました。ところが、メアリーは4才年下で従弟のダーンリー卿と結婚して世界を驚かせます。メアリーが恋に落ちたダーンリー卿は金髪の美男子で、メアリーと同じステュアート家の血筋で家柄も申し分ありません。しかし、権力への執着が強く、傲慢で感情的な性格だったため、2人の関係は1年もたたないうちに冷え切ってしまいます やがてメアリーは有能で細やかな気づかいをする音楽家で秘書のダヴィッド・リッチオを寵愛し、重用するようになりました。しかし、そのことに嫉妬したダーンリー卿は、女王に不満をもつ貴族たちと共謀し、妊娠中だったメアリーの目の前でリッチオを殺害してしまいます。メアリーはショックのあまり流産しかけますが、無事にジェームズを出産。子供は生まれましたが、ダーンリー卿との関係は以前と変わらぬままでした。 愛を渇望していたメアリーは、今度は寵臣であった年上のボスウェル伯に惹かれていきます。しかし、メアリーには夫がおり、彼女が信仰するカトリックは離婚を認めていませんでした。そんな中、エジンバラ郊外で療養していたダーンリー卿の屋敷が爆破され、殺害されるという大事件が起こります。そしてなんとその3か月後、メアリーはボスウェル伯と3度目の結婚式を挙げたのです。当時、ダーンリー卿殺害はボスウェル伯が首謀者で、メアリーも共謀していたと噂されていたため、国内外の非難が集中し大スキャンダルとなりました。 完全に国民や臣下からの信頼を失ったスコットランド女王。間もなく、反ボスウェル派の貴族たちが反乱を起こし、メアリーは捉えられてしまいます。逃げ延びたボスウェル伯も反撃を試みましたが失敗し、デンマークで逮捕された後に獄死しました。ロッホリーヴン城に幽閉されたメアリーは、ついに廃位となりスコットランド女王の地位を失います。(その後、スコットランド王には息子のジェームズが即位しました) メアリーは城を脱走し、6,000人の兵士を集めて復位を目指しましたが失敗。万策尽きたメアリーはイングランドに逃れ、なんと宿敵エリザベス女王に保護を求めたのでした。愛した男性も、女王の地位も失ってしまったメアリー。まだ25才だった彼女は、このときが人生の事実上の終わりであることを知る由もありませんでした。 19年間の幽閉生活の果てに エリザベスにとって、正統な王位継承権を持つメアリーは危険きわまりない人物でした。しかし、慈悲深い女王としての立場から血縁のメアリーをスコットランドに送り返してみすみす死なせるわけにもいかず、イングランドに受け入れて幽閉生活をさせることにしました。各地を転々とさせられたメアリーでしたが、軟禁状態とは思えないほど自由に近い生活をしていたそうです。 しかし、メアリーはたびたびイングランド王位継承権者であることを主張し、幾度もエリザベス廃位の陰謀に加担してました。そしてついに動かぬ証拠をつきつけられたメアリーは、死刑を言い渡されます。1587年2月8日、メアリーは19年間の幽閉生活の果てにフォザリンゲイ城の大広間で処刑され、44年の生涯を終えました。 悲劇の女王?悪女?現代に受け継がれるメアリー・ステュアート 国家間の権力争いに巻き込まれ、断頭台に消えていった悲劇の女王として、多くの人々を魅了してきたメアリー・ステュアート。しかしながら、イングランドの王位継承権を主張してエリザベス廃位を企てたり、愛した男性が次々と不幸な死を遂げたことから、愛のために生きたわがままで愚かな女王という描かれ方をされることも少なくありません。どちらが本当のメアリーなのかはわかりませんが、そんな危うさをも孕んだ壮絶な生涯だったからこそ、今でも舞台やドラマの題材として人々に愛され続けているのかもしれませんね。 そんなメアリーは生前に「わが終わりにわが始まりあり」という予言のような言葉を刺繍の中に縫い込んでいました。そしてそれは現実のものとなります。メアリーの息子であるスコットランド王ジェームズ6世は、エリザベス1世の死後、ジェームズ1世としてイングランド王位を継ぎ、2つの国を統べる王となりました。その後もメアリーの血筋は脈々と受け継がれ、現代のイギリス王室まで繋がっているのです。 44年という短い人生だったメアリー・ステュアートですが、彼女の生きた証は、きっとこれから先も何百年と受け継がれていくことでしょう。
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、どこに幽閉されたか。
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、ロッホリーヴン城に幽閉された。
JCRRAG_018509
歴史
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、メアリー・ステュアートである。 スコットランドでのスキャンダラスな恋 13年ぶりに帰国したスコットランドはカトリックとプロテスタントの対立が激化し、国民のほとんどがプロテスタントとなっていました。メアリーはカトリックでしたが、宗教の争いを避けるためにプロテスタントである異母兄のマリ伯を重臣にするなど、宗教の選択には寛容な姿勢をとりました。メアリーの美しさや穏やかな人柄も国民の心をつかみ、当初は反発していた人々もしだいに彼女を支持するようになっていったそうです。 若くして未亡人となったスコットランド女王には、他国から多くの政略結婚の申し出がありました。ところが、メアリーは4才年下で従弟のダーンリー卿と結婚して世界を驚かせます。メアリーが恋に落ちたダーンリー卿は金髪の美男子で、メアリーと同じステュアート家の血筋で家柄も申し分ありません。しかし、権力への執着が強く、傲慢で感情的な性格だったため、2人の関係は1年もたたないうちに冷え切ってしまいます やがてメアリーは有能で細やかな気づかいをする音楽家で秘書のダヴィッド・リッチオを寵愛し、重用するようになりました。しかし、そのことに嫉妬したダーンリー卿は、女王に不満をもつ貴族たちと共謀し、妊娠中だったメアリーの目の前でリッチオを殺害してしまいます。メアリーはショックのあまり流産しかけますが、無事にジェームズを出産。子供は生まれましたが、ダーンリー卿との関係は以前と変わらぬままでした。 愛を渇望していたメアリーは、今度は寵臣であった年上のボスウェル伯に惹かれていきます。しかし、メアリーには夫がおり、彼女が信仰するカトリックは離婚を認めていませんでした。そんな中、エジンバラ郊外で療養していたダーンリー卿の屋敷が爆破され、殺害されるという大事件が起こります。そしてなんとその3か月後、メアリーはボスウェル伯と3度目の結婚式を挙げたのです。当時、ダーンリー卿殺害はボスウェル伯が首謀者で、メアリーも共謀していたと噂されていたため、国内外の非難が集中し大スキャンダルとなりました。 完全に国民や臣下からの信頼を失ったスコットランド女王。間もなく、反ボスウェル派の貴族たちが反乱を起こし、メアリーは捉えられてしまいます。逃げ延びたボスウェル伯も反撃を試みましたが失敗し、デンマークで逮捕された後に獄死しました。ロッホリーヴン城に幽閉されたメアリーは、ついに廃位となりスコットランド女王の地位を失います。(その後、スコットランド王には息子のジェームズが即位しました) メアリーは城を脱走し、6,000人の兵士を集めて復位を目指しましたが失敗。万策尽きたメアリーはイングランドに逃れ、なんと宿敵エリザベス女王に保護を求めたのでした。愛した男性も、女王の地位も失ってしまったメアリー。まだ25才だった彼女は、このときが人生の事実上の終わりであることを知る由もありませんでした。 19年間の幽閉生活の果てに エリザベスにとって、正統な王位継承権を持つメアリーは危険きわまりない人物でした。しかし、慈悲深い女王としての立場から血縁のメアリーをスコットランドに送り返してみすみす死なせるわけにもいかず、イングランドに受け入れて幽閉生活をさせることにしました。各地を転々とさせられたメアリーでしたが、軟禁状態とは思えないほど自由に近い生活をしていたそうです。 しかし、メアリーはたびたびイングランド王位継承権者であることを主張し、幾度もエリザベス廃位の陰謀に加担してました。そしてついに動かぬ証拠をつきつけられたメアリーは、死刑を言い渡されます。1587年2月8日、メアリーは19年間の幽閉生活の果てにフォザリンゲイ城の大広間で処刑され、44年の生涯を終えました。 悲劇の女王?悪女?現代に受け継がれるメアリー・ステュアート 国家間の権力争いに巻き込まれ、断頭台に消えていった悲劇の女王として、多くの人々を魅了してきたメアリー・ステュアート。しかしながら、イングランドの王位継承権を主張してエリザベス廃位を企てたり、愛した男性が次々と不幸な死を遂げたことから、愛のために生きたわがままで愚かな女王という描かれ方をされることも少なくありません。どちらが本当のメアリーなのかはわかりませんが、そんな危うさをも孕んだ壮絶な生涯だったからこそ、今でも舞台やドラマの題材として人々に愛され続けているのかもしれませんね。 そんなメアリーは生前に「わが終わりにわが始まりあり」という予言のような言葉を刺繍の中に縫い込んでいました。そしてそれは現実のものとなります。メアリーの息子であるスコットランド王ジェームズ6世は、エリザベス1世の死後、ジェームズ1世としてイングランド王位を継ぎ、2つの国を統べる王となりました。その後もメアリーの血筋は脈々と受け継がれ、現代のイギリス王室まで繋がっているのです。 44年という短い人生だったメアリー・ステュアートですが、彼女の生きた証は、きっとこれから先も何百年と受け継がれていくことでしょう。
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、誰に保護を求めたか。
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、エリザベスに保護を求めた。
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歴史
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、メアリー・ステュアートである。 スコットランドでのスキャンダラスな恋 13年ぶりに帰国したスコットランドはカトリックとプロテスタントの対立が激化し、国民のほとんどがプロテスタントとなっていました。メアリーはカトリックでしたが、宗教の争いを避けるためにプロテスタントである異母兄のマリ伯を重臣にするなど、宗教の選択には寛容な姿勢をとりました。メアリーの美しさや穏やかな人柄も国民の心をつかみ、当初は反発していた人々もしだいに彼女を支持するようになっていったそうです。 若くして未亡人となったスコットランド女王には、他国から多くの政略結婚の申し出がありました。ところが、メアリーは4才年下で従弟のダーンリー卿と結婚して世界を驚かせます。メアリーが恋に落ちたダーンリー卿は金髪の美男子で、メアリーと同じステュアート家の血筋で家柄も申し分ありません。しかし、権力への執着が強く、傲慢で感情的な性格だったため、2人の関係は1年もたたないうちに冷え切ってしまいます やがてメアリーは有能で細やかな気づかいをする音楽家で秘書のダヴィッド・リッチオを寵愛し、重用するようになりました。しかし、そのことに嫉妬したダーンリー卿は、女王に不満をもつ貴族たちと共謀し、妊娠中だったメアリーの目の前でリッチオを殺害してしまいます。メアリーはショックのあまり流産しかけますが、無事にジェームズを出産。子供は生まれましたが、ダーンリー卿との関係は以前と変わらぬままでした。 愛を渇望していたメアリーは、今度は寵臣であった年上のボスウェル伯に惹かれていきます。しかし、メアリーには夫がおり、彼女が信仰するカトリックは離婚を認めていませんでした。そんな中、エジンバラ郊外で療養していたダーンリー卿の屋敷が爆破され、殺害されるという大事件が起こります。そしてなんとその3か月後、メアリーはボスウェル伯と3度目の結婚式を挙げたのです。当時、ダーンリー卿殺害はボスウェル伯が首謀者で、メアリーも共謀していたと噂されていたため、国内外の非難が集中し大スキャンダルとなりました。 完全に国民や臣下からの信頼を失ったスコットランド女王。間もなく、反ボスウェル派の貴族たちが反乱を起こし、メアリーは捉えられてしまいます。逃げ延びたボスウェル伯も反撃を試みましたが失敗し、デンマークで逮捕された後に獄死しました。ロッホリーヴン城に幽閉されたメアリーは、ついに廃位となりスコットランド女王の地位を失います。(その後、スコットランド王には息子のジェームズが即位しました) メアリーは城を脱走し、6,000人の兵士を集めて復位を目指しましたが失敗。万策尽きたメアリーはイングランドに逃れ、なんと宿敵エリザベス女王に保護を求めたのでした。愛した男性も、女王の地位も失ってしまったメアリー。まだ25才だった彼女は、このときが人生の事実上の終わりであることを知る由もありませんでした。 19年間の幽閉生活の果てに エリザベスにとって、正統な王位継承権を持つメアリーは危険きわまりない人物でした。しかし、慈悲深い女王としての立場から血縁のメアリーをスコットランドに送り返してみすみす死なせるわけにもいかず、イングランドに受け入れて幽閉生活をさせることにしました。各地を転々とさせられたメアリーでしたが、軟禁状態とは思えないほど自由に近い生活をしていたそうです。 しかし、メアリーはたびたびイングランド王位継承権者であることを主張し、幾度もエリザベス廃位の陰謀に加担してました。そしてついに動かぬ証拠をつきつけられたメアリーは、死刑を言い渡されます。1587年2月8日、メアリーは19年間の幽閉生活の果てにフォザリンゲイ城の大広間で処刑され、44年の生涯を終えました。 悲劇の女王?悪女?現代に受け継がれるメアリー・ステュアート 国家間の権力争いに巻き込まれ、断頭台に消えていった悲劇の女王として、多くの人々を魅了してきたメアリー・ステュアート。しかしながら、イングランドの王位継承権を主張してエリザベス廃位を企てたり、愛した男性が次々と不幸な死を遂げたことから、愛のために生きたわがままで愚かな女王という描かれ方をされることも少なくありません。どちらが本当のメアリーなのかはわかりませんが、そんな危うさをも孕んだ壮絶な生涯だったからこそ、今でも舞台やドラマの題材として人々に愛され続けているのかもしれませんね。 そんなメアリーは生前に「わが終わりにわが始まりあり」という予言のような言葉を刺繍の中に縫い込んでいました。そしてそれは現実のものとなります。メアリーの息子であるスコットランド王ジェームズ6世は、エリザベス1世の死後、ジェームズ1世としてイングランド王位を継ぎ、2つの国を統べる王となりました。その後もメアリーの血筋は脈々と受け継がれ、現代のイギリス王室まで繋がっているのです。 44年という短い人生だったメアリー・ステュアートですが、彼女の生きた証は、きっとこれから先も何百年と受け継がれていくことでしょう。
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、何年間の幽閉生活を送ったか。
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、19年間の幽閉生活を送った。
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歴史
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、メアリー・ステュアートである。 スコットランドでのスキャンダラスな恋 13年ぶりに帰国したスコットランドはカトリックとプロテスタントの対立が激化し、国民のほとんどがプロテスタントとなっていました。メアリーはカトリックでしたが、宗教の争いを避けるためにプロテスタントである異母兄のマリ伯を重臣にするなど、宗教の選択には寛容な姿勢をとりました。メアリーの美しさや穏やかな人柄も国民の心をつかみ、当初は反発していた人々もしだいに彼女を支持するようになっていったそうです。 若くして未亡人となったスコットランド女王には、他国から多くの政略結婚の申し出がありました。ところが、メアリーは4才年下で従弟のダーンリー卿と結婚して世界を驚かせます。メアリーが恋に落ちたダーンリー卿は金髪の美男子で、メアリーと同じステュアート家の血筋で家柄も申し分ありません。しかし、権力への執着が強く、傲慢で感情的な性格だったため、2人の関係は1年もたたないうちに冷え切ってしまいます やがてメアリーは有能で細やかな気づかいをする音楽家で秘書のダヴィッド・リッチオを寵愛し、重用するようになりました。しかし、そのことに嫉妬したダーンリー卿は、女王に不満をもつ貴族たちと共謀し、妊娠中だったメアリーの目の前でリッチオを殺害してしまいます。メアリーはショックのあまり流産しかけますが、無事にジェームズを出産。子供は生まれましたが、ダーンリー卿との関係は以前と変わらぬままでした。 愛を渇望していたメアリーは、今度は寵臣であった年上のボスウェル伯に惹かれていきます。しかし、メアリーには夫がおり、彼女が信仰するカトリックは離婚を認めていませんでした。そんな中、エジンバラ郊外で療養していたダーンリー卿の屋敷が爆破され、殺害されるという大事件が起こります。そしてなんとその3か月後、メアリーはボスウェル伯と3度目の結婚式を挙げたのです。当時、ダーンリー卿殺害はボスウェル伯が首謀者で、メアリーも共謀していたと噂されていたため、国内外の非難が集中し大スキャンダルとなりました。 完全に国民や臣下からの信頼を失ったスコットランド女王。間もなく、反ボスウェル派の貴族たちが反乱を起こし、メアリーは捉えられてしまいます。逃げ延びたボスウェル伯も反撃を試みましたが失敗し、デンマークで逮捕された後に獄死しました。ロッホリーヴン城に幽閉されたメアリーは、ついに廃位となりスコットランド女王の地位を失います。(その後、スコットランド王には息子のジェームズが即位しました) メアリーは城を脱走し、6,000人の兵士を集めて復位を目指しましたが失敗。万策尽きたメアリーはイングランドに逃れ、なんと宿敵エリザベス女王に保護を求めたのでした。愛した男性も、女王の地位も失ってしまったメアリー。まだ25才だった彼女は、このときが人生の事実上の終わりであることを知る由もありませんでした。 19年間の幽閉生活の果てに エリザベスにとって、正統な王位継承権を持つメアリーは危険きわまりない人物でした。しかし、慈悲深い女王としての立場から血縁のメアリーをスコットランドに送り返してみすみす死なせるわけにもいかず、イングランドに受け入れて幽閉生活をさせることにしました。各地を転々とさせられたメアリーでしたが、軟禁状態とは思えないほど自由に近い生活をしていたそうです。 しかし、メアリーはたびたびイングランド王位継承権者であることを主張し、幾度もエリザベス廃位の陰謀に加担してました。そしてついに動かぬ証拠をつきつけられたメアリーは、死刑を言い渡されます。1587年2月8日、メアリーは19年間の幽閉生活の果てにフォザリンゲイ城の大広間で処刑され、44年の生涯を終えました。 悲劇の女王?悪女?現代に受け継がれるメアリー・ステュアート 国家間の権力争いに巻き込まれ、断頭台に消えていった悲劇の女王として、多くの人々を魅了してきたメアリー・ステュアート。しかしながら、イングランドの王位継承権を主張してエリザベス廃位を企てたり、愛した男性が次々と不幸な死を遂げたことから、愛のために生きたわがままで愚かな女王という描かれ方をされることも少なくありません。どちらが本当のメアリーなのかはわかりませんが、そんな危うさをも孕んだ壮絶な生涯だったからこそ、今でも舞台やドラマの題材として人々に愛され続けているのかもしれませんね。 そんなメアリーは生前に「わが終わりにわが始まりあり」という予言のような言葉を刺繍の中に縫い込んでいました。そしてそれは現実のものとなります。メアリーの息子であるスコットランド王ジェームズ6世は、エリザベス1世の死後、ジェームズ1世としてイングランド王位を継ぎ、2つの国を統べる王となりました。その後もメアリーの血筋は脈々と受け継がれ、現代のイギリス王室まで繋がっているのです。 44年という短い人生だったメアリー・ステュアートですが、彼女の生きた証は、きっとこれから先も何百年と受け継がれていくことでしょう。
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、何年で生涯を終えたか。
スコットランドの女王で現在も数多くの芸術作品の題材となっている人物は、44年の生涯を終えた。
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歴史
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、直江兼続である。 生い立ち〜直江家相続まで 兼続の生い立ちから、直江家を相続するまでを解説します。 謎に包まれた生い立ち 兼続の生まれについては信ぴょう性の高い史料が残っておらず、諸説あります。通説では永禄3年(1560)に越後上田庄(現・新潟県南魚沼市)坂戸城下で樋口兼豊の長男として生まれたとされていますが、樋口姓は現在の新潟県南魚沼郡湯沢町に多いことから、出身は湯沢ではないかとする説もあります。兼続は幼名が「与六」である。 また、父である兼豊についてもその身分について見解が分かれています。米沢藩の記録書によれば「長尾政景の家老であり、上田長尾氏の執事職であった」とありますが、江戸時代中期の儒学者・新井白石が記した「藩翰譜(はんかんふ)」という家系書によれば、薪や炭を扱う役人だったとされています。ただし、「藩翰譜」は史料を当たったものではなく、伝聞と白石自身の主観が強いという指摘もあり、この記述は疑問視されています。 母は上杉家重臣・直江景綱の妹だったとも、信濃国(現・長野県と岐阜県の一部)の豪族・泉重歳の娘だったとも、どちらでもないとする説もあり、はっきりしません。とはいえ、重臣の妹や豪族の娘だったとする場合、兼豊が薪や炭を扱う役人だったとすると身分がつり合わないため、この点でも兼豊の身分が低かったとする説には疑問が残ります。 上杉家の近習となり、直江家を相続する 永禄7年(1564)、上田長尾家の当主であり、坂戸城主でもあった政景が死去すると、政景の子・長尾顕景(あきかげ)は9歳で上杉謙信の養子となります。4歳の与六もこれに伴い、顕景の小姓・近習として謙信の春日山城へ入りました。ただしこれも通説であり、謙信の実姉で顕景の母でもある仙桃院に望まれ、幼い頃から顕景に近侍していた、という説もあります。 謙信には家督を継ぐ実子がいなかったため、顕景の他に北条氏政の弟・三郎を養子に迎えていましたが、これが後に家督争いの原因となります。なお、顕景は天正3年(1575)に名を景勝と改め、三郎は養子に迎えられた際に名を景虎と改めています。 天正6年(1578)に謙信が急死すると、景勝と景虎の間で家督争いが勃発しました(御館の乱)。家督争いは景勝が勝利し、上杉家は景勝が相続しました。この乱の後処理あたりから、景勝への取次など兼続が側近として活動している様子が史料に記載され始めます。 天正9年(1581)、御館の乱の恩賞を巡る争いから景勝の側近であった直江信綱が殺害されてしまいます。直江家には子どもがいなかったため、兼続は未亡人となった信綱の妻・お船(おせん)と結婚し、兼続が直江家を継ぐことで直江家の断絶を防ぎました。その翌年、本能寺の変で織田信長が死去。時代は豊臣政権へ移行します。
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、何をすることで直江家の断絶を防いだか。
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、直江家を継ぐことで直江家の断絶を防いだ。
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歴史
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、直江兼続である。 生い立ち〜直江家相続まで 兼続の生い立ちから、直江家を相続するまでを解説します。 謎に包まれた生い立ち 兼続の生まれについては信ぴょう性の高い史料が残っておらず、諸説あります。通説では永禄3年(1560)に越後上田庄(現・新潟県南魚沼市)坂戸城下で樋口兼豊の長男として生まれたとされていますが、樋口姓は現在の新潟県南魚沼郡湯沢町に多いことから、出身は湯沢ではないかとする説もあります。兼続は幼名が「与六」である。 また、父である兼豊についてもその身分について見解が分かれています。米沢藩の記録書によれば「長尾政景の家老であり、上田長尾氏の執事職であった」とありますが、江戸時代中期の儒学者・新井白石が記した「藩翰譜(はんかんふ)」という家系書によれば、薪や炭を扱う役人だったとされています。ただし、「藩翰譜」は史料を当たったものではなく、伝聞と白石自身の主観が強いという指摘もあり、この記述は疑問視されています。 母は上杉家重臣・直江景綱の妹だったとも、信濃国(現・長野県と岐阜県の一部)の豪族・泉重歳の娘だったとも、どちらでもないとする説もあり、はっきりしません。とはいえ、重臣の妹や豪族の娘だったとする場合、兼豊が薪や炭を扱う役人だったとすると身分がつり合わないため、この点でも兼豊の身分が低かったとする説には疑問が残ります。 上杉家の近習となり、直江家を相続する 永禄7年(1564)、上田長尾家の当主であり、坂戸城主でもあった政景が死去すると、政景の子・長尾顕景(あきかげ)は9歳で上杉謙信の養子となります。4歳の与六もこれに伴い、顕景の小姓・近習として謙信の春日山城へ入りました。ただしこれも通説であり、謙信の実姉で顕景の母でもある仙桃院に望まれ、幼い頃から顕景に近侍していた、という説もあります。 謙信には家督を継ぐ実子がいなかったため、顕景の他に北条氏政の弟・三郎を養子に迎えていましたが、これが後に家督争いの原因となります。なお、顕景は天正3年(1575)に名を景勝と改め、三郎は養子に迎えられた際に名を景虎と改めています。 天正6年(1578)に謙信が急死すると、景勝と景虎の間で家督争いが勃発しました(御館の乱)。家督争いは景勝が勝利し、上杉家は景勝が相続しました。この乱の後処理あたりから、景勝への取次など兼続が側近として活動している様子が史料に記載され始めます。 天正9年(1581)、御館の乱の恩賞を巡る争いから景勝の側近であった直江信綱が殺害されてしまいます。直江家には子どもがいなかったため、兼続は未亡人となった信綱の妻・お船(おせん)と結婚し、兼続が直江家を継ぐことで直江家の断絶を防ぎました。その翌年、本能寺の変で織田信長が死去。時代は豊臣政権へ移行します。
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、幼名が何か。
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、幼名が与六である。
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歴史
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、直江兼続である。 生い立ち〜直江家相続まで 兼続の生い立ちから、直江家を相続するまでを解説します。 謎に包まれた生い立ち 兼続の生まれについては信ぴょう性の高い史料が残っておらず、諸説あります。通説では永禄3年(1560)に越後上田庄(現・新潟県南魚沼市)坂戸城下で樋口兼豊の長男として生まれたとされていますが、樋口姓は現在の新潟県南魚沼郡湯沢町に多いことから、出身は湯沢ではないかとする説もあります。兼続は幼名が「与六」である。 また、父である兼豊についてもその身分について見解が分かれています。米沢藩の記録書によれば「長尾政景の家老であり、上田長尾氏の執事職であった」とありますが、江戸時代中期の儒学者・新井白石が記した「藩翰譜(はんかんふ)」という家系書によれば、薪や炭を扱う役人だったとされています。ただし、「藩翰譜」は史料を当たったものではなく、伝聞と白石自身の主観が強いという指摘もあり、この記述は疑問視されています。 母は上杉家重臣・直江景綱の妹だったとも、信濃国(現・長野県と岐阜県の一部)の豪族・泉重歳の娘だったとも、どちらでもないとする説もあり、はっきりしません。とはいえ、重臣の妹や豪族の娘だったとする場合、兼豊が薪や炭を扱う役人だったとすると身分がつり合わないため、この点でも兼豊の身分が低かったとする説には疑問が残ります。 上杉家の近習となり、直江家を相続する 永禄7年(1564)、上田長尾家の当主であり、坂戸城主でもあった政景が死去すると、政景の子・長尾顕景(あきかげ)は9歳で上杉謙信の養子となります。4歳の与六もこれに伴い、顕景の小姓・近習として謙信の春日山城へ入りました。ただしこれも通説であり、謙信の実姉で顕景の母でもある仙桃院に望まれ、幼い頃から顕景に近侍していた、という説もあります。 謙信には家督を継ぐ実子がいなかったため、顕景の他に北条氏政の弟・三郎を養子に迎えていましたが、これが後に家督争いの原因となります。なお、顕景は天正3年(1575)に名を景勝と改め、三郎は養子に迎えられた際に名を景虎と改めています。 天正6年(1578)に謙信が急死すると、景勝と景虎の間で家督争いが勃発しました(御館の乱)。家督争いは景勝が勝利し、上杉家は景勝が相続しました。この乱の後処理あたりから、景勝への取次など兼続が側近として活動している様子が史料に記載され始めます。 天正9年(1581)、御館の乱の恩賞を巡る争いから景勝の側近であった直江信綱が殺害されてしまいます。直江家には子どもがいなかったため、兼続は未亡人となった信綱の妻・お船(おせん)と結婚し、兼続が直江家を継ぐことで直江家の断絶を防ぎました。その翌年、本能寺の変で織田信長が死去。時代は豊臣政権へ移行します。
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、顕景の小姓・近習として謙信の春日山城へ入ったか。
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、顕景の小姓・近習として謙信の春日山城へ入った。
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歴史
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、直江兼続である。 生い立ち〜直江家相続まで 兼続の生い立ちから、直江家を相続するまでを解説します。 謎に包まれた生い立ち 兼続の生まれについては信ぴょう性の高い史料が残っておらず、諸説あります。通説では永禄3年(1560)に越後上田庄(現・新潟県南魚沼市)坂戸城下で樋口兼豊の長男として生まれたとされていますが、樋口姓は現在の新潟県南魚沼郡湯沢町に多いことから、出身は湯沢ではないかとする説もあります。兼続は幼名が「与六」である。 また、父である兼豊についてもその身分について見解が分かれています。米沢藩の記録書によれば「長尾政景の家老であり、上田長尾氏の執事職であった」とありますが、江戸時代中期の儒学者・新井白石が記した「藩翰譜(はんかんふ)」という家系書によれば、薪や炭を扱う役人だったとされています。ただし、「藩翰譜」は史料を当たったものではなく、伝聞と白石自身の主観が強いという指摘もあり、この記述は疑問視されています。 母は上杉家重臣・直江景綱の妹だったとも、信濃国(現・長野県と岐阜県の一部)の豪族・泉重歳の娘だったとも、どちらでもないとする説もあり、はっきりしません。とはいえ、重臣の妹や豪族の娘だったとする場合、兼豊が薪や炭を扱う役人だったとすると身分がつり合わないため、この点でも兼豊の身分が低かったとする説には疑問が残ります。 上杉家の近習となり、直江家を相続する 永禄7年(1564)、上田長尾家の当主であり、坂戸城主でもあった政景が死去すると、政景の子・長尾顕景(あきかげ)は9歳で上杉謙信の養子となります。4歳の与六もこれに伴い、顕景の小姓・近習として謙信の春日山城へ入りました。ただしこれも通説であり、謙信の実姉で顕景の母でもある仙桃院に望まれ、幼い頃から顕景に近侍していた、という説もあります。 謙信には家督を継ぐ実子がいなかったため、顕景の他に北条氏政の弟・三郎を養子に迎えていましたが、これが後に家督争いの原因となります。なお、顕景は天正3年(1575)に名を景勝と改め、三郎は養子に迎えられた際に名を景虎と改めています。 天正6年(1578)に謙信が急死すると、景勝と景虎の間で家督争いが勃発しました(御館の乱)。家督争いは景勝が勝利し、上杉家は景勝が相続しました。この乱の後処理あたりから、景勝への取次など兼続が側近として活動している様子が史料に記載され始めます。 天正9年(1581)、御館の乱の恩賞を巡る争いから景勝の側近であった直江信綱が殺害されてしまいます。直江家には子どもがいなかったため、兼続は未亡人となった信綱の妻・お船(おせん)と結婚し、兼続が直江家を継ぐことで直江家の断絶を防ぎました。その翌年、本能寺の変で織田信長が死去。時代は豊臣政権へ移行します。
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、誰と結婚したか。
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、未亡人となった信綱の妻・お船(おせん)と結婚した。
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歴史
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、直江兼続である。 生い立ち〜直江家相続まで 兼続の生い立ちから、直江家を相続するまでを解説します。 謎に包まれた生い立ち 兼続の生まれについては信ぴょう性の高い史料が残っておらず、諸説あります。通説では永禄3年(1560)に越後上田庄(現・新潟県南魚沼市)坂戸城下で樋口兼豊の長男として生まれたとされていますが、樋口姓は現在の新潟県南魚沼郡湯沢町に多いことから、出身は湯沢ではないかとする説もあります。兼続は幼名が「与六」である。 また、父である兼豊についてもその身分について見解が分かれています。米沢藩の記録書によれば「長尾政景の家老であり、上田長尾氏の執事職であった」とありますが、江戸時代中期の儒学者・新井白石が記した「藩翰譜(はんかんふ)」という家系書によれば、薪や炭を扱う役人だったとされています。ただし、「藩翰譜」は史料を当たったものではなく、伝聞と白石自身の主観が強いという指摘もあり、この記述は疑問視されています。 母は上杉家重臣・直江景綱の妹だったとも、信濃国(現・長野県と岐阜県の一部)の豪族・泉重歳の娘だったとも、どちらでもないとする説もあり、はっきりしません。とはいえ、重臣の妹や豪族の娘だったとする場合、兼豊が薪や炭を扱う役人だったとすると身分がつり合わないため、この点でも兼豊の身分が低かったとする説には疑問が残ります。 上杉家の近習となり、直江家を相続する 永禄7年(1564)、上田長尾家の当主であり、坂戸城主でもあった政景が死去すると、政景の子・長尾顕景(あきかげ)は9歳で上杉謙信の養子となります。4歳の与六もこれに伴い、顕景の小姓・近習として謙信の春日山城へ入りました。ただしこれも通説であり、謙信の実姉で顕景の母でもある仙桃院に望まれ、幼い頃から顕景に近侍していた、という説もあります。 謙信には家督を継ぐ実子がいなかったため、顕景の他に北条氏政の弟・三郎を養子に迎えていましたが、これが後に家督争いの原因となります。なお、顕景は天正3年(1575)に名を景勝と改め、三郎は養子に迎えられた際に名を景虎と改めています。 天正6年(1578)に謙信が急死すると、景勝と景虎の間で家督争いが勃発しました(御館の乱)。家督争いは景勝が勝利し、上杉家は景勝が相続しました。この乱の後処理あたりから、景勝への取次など兼続が側近として活動している様子が史料に記載され始めます。 天正9年(1581)、御館の乱の恩賞を巡る争いから景勝の側近であった直江信綱が殺害されてしまいます。直江家には子どもがいなかったため、兼続は未亡人となった信綱の妻・お船(おせん)と結婚し、兼続が直江家を継ぐことで直江家の断絶を防ぎました。その翌年、本能寺の変で織田信長が死去。時代は豊臣政権へ移行します。
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、生まれについてどういう説があるか。
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、生まれについては信ぴょう性の高い史料が残っておらず、諸説ある。
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上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、直江兼続である。 豊臣時代〜関ヶ原の戦い 豊臣政権の時代から、関ヶ原の戦いでの兼続についてご紹介します。 豊臣時代の兼続 景勝の腹心は兼続の他に狩野秀治がいましたが、天正12年(1584)に病に倒れて以降は、上杉家に関する内外の取次、執政のほとんどを兼続が行うようになります。しかし、その後も不満分子が反乱を起こすなど、越後国自体が疲弊してしまいます。その状況を打開するために、兼続は新田開発に力を入れるとともに、特産品である青苧(あおそ、衣類の原料)の増産に注力し、莫大な利益を得ることに成功しました。 兼続は秀吉からも信頼を得ていて、「伏見城」の惣構堀普請や、改築のための伏見舟入奉行に命じられていました。信頼の厚さは秀吉の「天下の政治を任せられるのは数人しかいないが、そのうちの一人が直江兼続」という言葉にも表れています。 徳川家康に突きつけた「直江状」 秀吉亡き後、後継者である豊臣秀頼はまだ5歳だったため、政治は「五大老」と「五奉行」の合議制で行われていました。五大老の筆頭だったのが徳川家康ですが、景勝も五大老のひとりとして政治に参加。そして、家康が幅をきかせるようになったことに反発したのが五奉行のひとり、石田三成でした。 景勝は家康の横行に対する抑止力となっていましたが、反面、お互いに不信感を抱く相手でもありました。そんな中、越後の領主、堀秀治が家康に対し「上杉家は謀反を企てているらしい」と上杉家をおとしめる情報を伝え、家康は景勝に上洛と申し開きを要求。これに対して兼続が毅然と反論したのが「直江状」です。以下に要約を記載します。 「景勝が謀反を企てている、という者こそが怪しいのだから、先にその者を調べるべきだ。ろくに調べもせず、簡単に讒言(ざんげん)を聞き入れる家康様の方にこそ、やましいところがあるのではありませんか」 「上杉家が武器を集めているから謀反を企てていると言いますが、上方の武士が茶器などを集めるように、田舎武士は鉄砲や弓矢を集めることが趣味なのです」 「そもそも、讒言した者は上杉家を出奔した者。裏切り者は彼の者の方なのです。景勝と家康様のどちらが正しいのか、明らかではありませんか」 直江状は本物か偽物かの論争があるほど、史料として決定的なものではありません。そのため、本当に兼続が書いたものなのかは定かではありませんが、家康に兼続が書状を送り、それが家康を激怒させた、というのは事実だといわれています。 家康軍に敗北 三成と家康が激突した関ヶ原の戦いでは、家康が勝利をおさめました。兼続はこのとき、景勝とともに三成側(西軍)についています。西軍の敗北を知った兼続は上杉軍を撤退させるべく、自らしんがりを務め、無事上杉軍を撤退させることに成功。撤退戦での働きは、後に家康も称賛するほどだったといわれています。 上杉家は敗北後、上洛して家康に謝罪することで会津120万石から米沢30万石へ所領を減らし、移動する処分となりました。このとき、兼続は徳川家に忠誠を誓い、重光と改名しています。石高が減ったことで、兼続は国力増強に向けさらなる新田開発に注力。30万石だった米沢藩の石高を約2倍の50万石以上へと成長させました。 他にも、氾濫しやすい最上川の上流に大きな堤防を築くなど治水事業に力を入れて農業を行いやすくしたり、城下町の整備や鉱山開発、教育環境の整備を行うなど、政治家としての手腕をいかんなく発揮します。 晩年の兼続 関ヶ原の戦い以降、兼続は上杉家と徳川家の関係改善に努め、家康の重臣でもあった本多正信の次男である本田政重を娘の婿養子として迎え入れました。しかし、政重との養子縁組はのちに解消され、直江家には他に男子がいなかったことから、兼続の死後、直江家は断絶することとなります。 兜に「愛」を掲げた理由とは? 兼続は幼い頃から才気煥発で眉目秀麗、武道にも優れていたとされています。また、兜に「愛」の文字をあしらっていました。景勝への忠心などを見ると間違いでもありませんが、当時「愛」の文字は現代でいう愛の意味では使われておらず、ネガティブな意味合いが強いものでした。そのため、兜に「愛」とあしらっていた理由として、以下2つの説が有力です。 「愛染明王」由来説 謙信が自らを毘沙門天の生まれ変わりだと信じて「毘」の文字を掲げたように、弓を持ち軍神としても知られる愛染明王の文字を掲げたのだ、とされています。 「愛宕権現」由来説 謙信が戦の際に、新潟県上越市にある愛宕神社へ戦勝祈願に訪れていたため、とされています。愛宕権現は各地に分霊され、軍神として信仰されたことから、各地の愛宕神社はそれぞれの土地を治める武将に武運をもたらすとして庇護されていました。 生涯にわたり上杉家を守った忠臣 兼続は出自に諸説ありますが、幼い頃から景勝の忠臣であったことは間違いないようです。秀治の死後は上杉家の内外の取次をひとりで行い、度々所領の立て直しにも成功。関ヶ原での敗戦後は積極的に徳川家との関係改善に努めるなど政治的手腕も発揮しています。美貌にも才気にも恵まれたとされていますが、私欲に走らず参謀としてその手腕を活かしたことが、今もなお愛されている理由なのかもしれません。
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、越後国自体が疲弊してしまった状況を打開するために何に力を入れたか。
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、越後国自体が疲弊してしまった状況を打開するために新田開発に力を入れた。
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上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、直江兼続である。 豊臣時代〜関ヶ原の戦い 豊臣政権の時代から、関ヶ原の戦いでの兼続についてご紹介します。 豊臣時代の兼続 景勝の腹心は兼続の他に狩野秀治がいましたが、天正12年(1584)に病に倒れて以降は、上杉家に関する内外の取次、執政のほとんどを兼続が行うようになります。しかし、その後も不満分子が反乱を起こすなど、越後国自体が疲弊してしまいます。その状況を打開するために、兼続は新田開発に力を入れるとともに、特産品である青苧(あおそ、衣類の原料)の増産に注力し、莫大な利益を得ることに成功しました。 兼続は秀吉からも信頼を得ていて、「伏見城」の惣構堀普請や、改築のための伏見舟入奉行に命じられていました。信頼の厚さは秀吉の「天下の政治を任せられるのは数人しかいないが、そのうちの一人が直江兼続」という言葉にも表れています。 徳川家康に突きつけた「直江状」 秀吉亡き後、後継者である豊臣秀頼はまだ5歳だったため、政治は「五大老」と「五奉行」の合議制で行われていました。五大老の筆頭だったのが徳川家康ですが、景勝も五大老のひとりとして政治に参加。そして、家康が幅をきかせるようになったことに反発したのが五奉行のひとり、石田三成でした。 景勝は家康の横行に対する抑止力となっていましたが、反面、お互いに不信感を抱く相手でもありました。そんな中、越後の領主、堀秀治が家康に対し「上杉家は謀反を企てているらしい」と上杉家をおとしめる情報を伝え、家康は景勝に上洛と申し開きを要求。これに対して兼続が毅然と反論したのが「直江状」です。以下に要約を記載します。 「景勝が謀反を企てている、という者こそが怪しいのだから、先にその者を調べるべきだ。ろくに調べもせず、簡単に讒言(ざんげん)を聞き入れる家康様の方にこそ、やましいところがあるのではありませんか」 「上杉家が武器を集めているから謀反を企てていると言いますが、上方の武士が茶器などを集めるように、田舎武士は鉄砲や弓矢を集めることが趣味なのです」 「そもそも、讒言した者は上杉家を出奔した者。裏切り者は彼の者の方なのです。景勝と家康様のどちらが正しいのか、明らかではありませんか」 直江状は本物か偽物かの論争があるほど、史料として決定的なものではありません。そのため、本当に兼続が書いたものなのかは定かではありませんが、家康に兼続が書状を送り、それが家康を激怒させた、というのは事実だといわれています。 家康軍に敗北 三成と家康が激突した関ヶ原の戦いでは、家康が勝利をおさめました。兼続はこのとき、景勝とともに三成側(西軍)についています。西軍の敗北を知った兼続は上杉軍を撤退させるべく、自らしんがりを務め、無事上杉軍を撤退させることに成功。撤退戦での働きは、後に家康も称賛するほどだったといわれています。 上杉家は敗北後、上洛して家康に謝罪することで会津120万石から米沢30万石へ所領を減らし、移動する処分となりました。このとき、兼続は徳川家に忠誠を誓い、重光と改名しています。石高が減ったことで、兼続は国力増強に向けさらなる新田開発に注力。30万石だった米沢藩の石高を約2倍の50万石以上へと成長させました。 他にも、氾濫しやすい最上川の上流に大きな堤防を築くなど治水事業に力を入れて農業を行いやすくしたり、城下町の整備や鉱山開発、教育環境の整備を行うなど、政治家としての手腕をいかんなく発揮します。 晩年の兼続 関ヶ原の戦い以降、兼続は上杉家と徳川家の関係改善に努め、家康の重臣でもあった本多正信の次男である本田政重を娘の婿養子として迎え入れました。しかし、政重との養子縁組はのちに解消され、直江家には他に男子がいなかったことから、兼続の死後、直江家は断絶することとなります。 兜に「愛」を掲げた理由とは? 兼続は幼い頃から才気煥発で眉目秀麗、武道にも優れていたとされています。また、兜に「愛」の文字をあしらっていました。景勝への忠心などを見ると間違いでもありませんが、当時「愛」の文字は現代でいう愛の意味では使われておらず、ネガティブな意味合いが強いものでした。そのため、兜に「愛」とあしらっていた理由として、以下2つの説が有力です。 「愛染明王」由来説 謙信が自らを毘沙門天の生まれ変わりだと信じて「毘」の文字を掲げたように、弓を持ち軍神としても知られる愛染明王の文字を掲げたのだ、とされています。 「愛宕権現」由来説 謙信が戦の際に、新潟県上越市にある愛宕神社へ戦勝祈願に訪れていたため、とされています。愛宕権現は各地に分霊され、軍神として信仰されたことから、各地の愛宕神社はそれぞれの土地を治める武将に武運をもたらすとして庇護されていました。 生涯にわたり上杉家を守った忠臣 兼続は出自に諸説ありますが、幼い頃から景勝の忠臣であったことは間違いないようです。秀治の死後は上杉家の内外の取次をひとりで行い、度々所領の立て直しにも成功。関ヶ原での敗戦後は積極的に徳川家との関係改善に努めるなど政治的手腕も発揮しています。美貌にも才気にも恵まれたとされていますが、私欲に走らず参謀としてその手腕を活かしたことが、今もなお愛されている理由なのかもしれません。
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、何を命じられていたか。
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、伏見城の惣構堀普請を命じられていた。
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上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、直江兼続である。 豊臣時代〜関ヶ原の戦い 豊臣政権の時代から、関ヶ原の戦いでの兼続についてご紹介します。 豊臣時代の兼続 景勝の腹心は兼続の他に狩野秀治がいましたが、天正12年(1584)に病に倒れて以降は、上杉家に関する内外の取次、執政のほとんどを兼続が行うようになります。しかし、その後も不満分子が反乱を起こすなど、越後国自体が疲弊してしまいます。その状況を打開するために、兼続は新田開発に力を入れるとともに、特産品である青苧(あおそ、衣類の原料)の増産に注力し、莫大な利益を得ることに成功しました。 兼続は秀吉からも信頼を得ていて、「伏見城」の惣構堀普請や、改築のための伏見舟入奉行に命じられていました。信頼の厚さは秀吉の「天下の政治を任せられるのは数人しかいないが、そのうちの一人が直江兼続」という言葉にも表れています。 徳川家康に突きつけた「直江状」 秀吉亡き後、後継者である豊臣秀頼はまだ5歳だったため、政治は「五大老」と「五奉行」の合議制で行われていました。五大老の筆頭だったのが徳川家康ですが、景勝も五大老のひとりとして政治に参加。そして、家康が幅をきかせるようになったことに反発したのが五奉行のひとり、石田三成でした。 景勝は家康の横行に対する抑止力となっていましたが、反面、お互いに不信感を抱く相手でもありました。そんな中、越後の領主、堀秀治が家康に対し「上杉家は謀反を企てているらしい」と上杉家をおとしめる情報を伝え、家康は景勝に上洛と申し開きを要求。これに対して兼続が毅然と反論したのが「直江状」です。以下に要約を記載します。 「景勝が謀反を企てている、という者こそが怪しいのだから、先にその者を調べるべきだ。ろくに調べもせず、簡単に讒言(ざんげん)を聞き入れる家康様の方にこそ、やましいところがあるのではありませんか」 「上杉家が武器を集めているから謀反を企てていると言いますが、上方の武士が茶器などを集めるように、田舎武士は鉄砲や弓矢を集めることが趣味なのです」 「そもそも、讒言した者は上杉家を出奔した者。裏切り者は彼の者の方なのです。景勝と家康様のどちらが正しいのか、明らかではありませんか」 直江状は本物か偽物かの論争があるほど、史料として決定的なものではありません。そのため、本当に兼続が書いたものなのかは定かではありませんが、家康に兼続が書状を送り、それが家康を激怒させた、というのは事実だといわれています。 家康軍に敗北 三成と家康が激突した関ヶ原の戦いでは、家康が勝利をおさめました。兼続はこのとき、景勝とともに三成側(西軍)についています。西軍の敗北を知った兼続は上杉軍を撤退させるべく、自らしんがりを務め、無事上杉軍を撤退させることに成功。撤退戦での働きは、後に家康も称賛するほどだったといわれています。 上杉家は敗北後、上洛して家康に謝罪することで会津120万石から米沢30万石へ所領を減らし、移動する処分となりました。このとき、兼続は徳川家に忠誠を誓い、重光と改名しています。石高が減ったことで、兼続は国力増強に向けさらなる新田開発に注力。30万石だった米沢藩の石高を約2倍の50万石以上へと成長させました。 他にも、氾濫しやすい最上川の上流に大きな堤防を築くなど治水事業に力を入れて農業を行いやすくしたり、城下町の整備や鉱山開発、教育環境の整備を行うなど、政治家としての手腕をいかんなく発揮します。 晩年の兼続 関ヶ原の戦い以降、兼続は上杉家と徳川家の関係改善に努め、家康の重臣でもあった本多正信の次男である本田政重を娘の婿養子として迎え入れました。しかし、政重との養子縁組はのちに解消され、直江家には他に男子がいなかったことから、兼続の死後、直江家は断絶することとなります。 兜に「愛」を掲げた理由とは? 兼続は幼い頃から才気煥発で眉目秀麗、武道にも優れていたとされています。また、兜に「愛」の文字をあしらっていました。景勝への忠心などを見ると間違いでもありませんが、当時「愛」の文字は現代でいう愛の意味では使われておらず、ネガティブな意味合いが強いものでした。そのため、兜に「愛」とあしらっていた理由として、以下2つの説が有力です。 「愛染明王」由来説 謙信が自らを毘沙門天の生まれ変わりだと信じて「毘」の文字を掲げたように、弓を持ち軍神としても知られる愛染明王の文字を掲げたのだ、とされています。 「愛宕権現」由来説 謙信が戦の際に、新潟県上越市にある愛宕神社へ戦勝祈願に訪れていたため、とされています。愛宕権現は各地に分霊され、軍神として信仰されたことから、各地の愛宕神社はそれぞれの土地を治める武将に武運をもたらすとして庇護されていました。 生涯にわたり上杉家を守った忠臣 兼続は出自に諸説ありますが、幼い頃から景勝の忠臣であったことは間違いないようです。秀治の死後は上杉家の内外の取次をひとりで行い、度々所領の立て直しにも成功。関ヶ原での敗戦後は積極的に徳川家との関係改善に努めるなど政治的手腕も発揮しています。美貌にも才気にも恵まれたとされていますが、私欲に走らず参謀としてその手腕を活かしたことが、今もなお愛されている理由なのかもしれません。
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、撤退戦での働きを後に誰から称賛されたか。
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、撤退戦での働きを後に家康から称賛された。
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上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、直江兼続である。 豊臣時代〜関ヶ原の戦い 豊臣政権の時代から、関ヶ原の戦いでの兼続についてご紹介します。 豊臣時代の兼続 景勝の腹心は兼続の他に狩野秀治がいましたが、天正12年(1584)に病に倒れて以降は、上杉家に関する内外の取次、執政のほとんどを兼続が行うようになります。しかし、その後も不満分子が反乱を起こすなど、越後国自体が疲弊してしまいます。その状況を打開するために、兼続は新田開発に力を入れるとともに、特産品である青苧(あおそ、衣類の原料)の増産に注力し、莫大な利益を得ることに成功しました。 兼続は秀吉からも信頼を得ていて、「伏見城」の惣構堀普請や、改築のための伏見舟入奉行に命じられていました。信頼の厚さは秀吉の「天下の政治を任せられるのは数人しかいないが、そのうちの一人が直江兼続」という言葉にも表れています。 徳川家康に突きつけた「直江状」 秀吉亡き後、後継者である豊臣秀頼はまだ5歳だったため、政治は「五大老」と「五奉行」の合議制で行われていました。五大老の筆頭だったのが徳川家康ですが、景勝も五大老のひとりとして政治に参加。そして、家康が幅をきかせるようになったことに反発したのが五奉行のひとり、石田三成でした。 景勝は家康の横行に対する抑止力となっていましたが、反面、お互いに不信感を抱く相手でもありました。そんな中、越後の領主、堀秀治が家康に対し「上杉家は謀反を企てているらしい」と上杉家をおとしめる情報を伝え、家康は景勝に上洛と申し開きを要求。これに対して兼続が毅然と反論したのが「直江状」です。以下に要約を記載します。 「景勝が謀反を企てている、という者こそが怪しいのだから、先にその者を調べるべきだ。ろくに調べもせず、簡単に讒言(ざんげん)を聞き入れる家康様の方にこそ、やましいところがあるのではありませんか」 「上杉家が武器を集めているから謀反を企てていると言いますが、上方の武士が茶器などを集めるように、田舎武士は鉄砲や弓矢を集めることが趣味なのです」 「そもそも、讒言した者は上杉家を出奔した者。裏切り者は彼の者の方なのです。景勝と家康様のどちらが正しいのか、明らかではありませんか」 直江状は本物か偽物かの論争があるほど、史料として決定的なものではありません。そのため、本当に兼続が書いたものなのかは定かではありませんが、家康に兼続が書状を送り、それが家康を激怒させた、というのは事実だといわれています。 家康軍に敗北 三成と家康が激突した関ヶ原の戦いでは、家康が勝利をおさめました。兼続はこのとき、景勝とともに三成側(西軍)についています。西軍の敗北を知った兼続は上杉軍を撤退させるべく、自らしんがりを務め、無事上杉軍を撤退させることに成功。撤退戦での働きは、後に家康も称賛するほどだったといわれています。 上杉家は敗北後、上洛して家康に謝罪することで会津120万石から米沢30万石へ所領を減らし、移動する処分となりました。このとき、兼続は徳川家に忠誠を誓い、重光と改名しています。石高が減ったことで、兼続は国力増強に向けさらなる新田開発に注力。30万石だった米沢藩の石高を約2倍の50万石以上へと成長させました。 他にも、氾濫しやすい最上川の上流に大きな堤防を築くなど治水事業に力を入れて農業を行いやすくしたり、城下町の整備や鉱山開発、教育環境の整備を行うなど、政治家としての手腕をいかんなく発揮します。 晩年の兼続 関ヶ原の戦い以降、兼続は上杉家と徳川家の関係改善に努め、家康の重臣でもあった本多正信の次男である本田政重を娘の婿養子として迎え入れました。しかし、政重との養子縁組はのちに解消され、直江家には他に男子がいなかったことから、兼続の死後、直江家は断絶することとなります。 兜に「愛」を掲げた理由とは? 兼続は幼い頃から才気煥発で眉目秀麗、武道にも優れていたとされています。また、兜に「愛」の文字をあしらっていました。景勝への忠心などを見ると間違いでもありませんが、当時「愛」の文字は現代でいう愛の意味では使われておらず、ネガティブな意味合いが強いものでした。そのため、兜に「愛」とあしらっていた理由として、以下2つの説が有力です。 「愛染明王」由来説 謙信が自らを毘沙門天の生まれ変わりだと信じて「毘」の文字を掲げたように、弓を持ち軍神としても知られる愛染明王の文字を掲げたのだ、とされています。 「愛宕権現」由来説 謙信が戦の際に、新潟県上越市にある愛宕神社へ戦勝祈願に訪れていたため、とされています。愛宕権現は各地に分霊され、軍神として信仰されたことから、各地の愛宕神社はそれぞれの土地を治める武将に武運をもたらすとして庇護されていました。 生涯にわたり上杉家を守った忠臣 兼続は出自に諸説ありますが、幼い頃から景勝の忠臣であったことは間違いないようです。秀治の死後は上杉家の内外の取次をひとりで行い、度々所領の立て直しにも成功。関ヶ原での敗戦後は積極的に徳川家との関係改善に努めるなど政治的手腕も発揮しています。美貌にも才気にも恵まれたとされていますが、私欲に走らず参謀としてその手腕を活かしたことが、今もなお愛されている理由なのかもしれません。
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、どこの整備や開発を行ったか。
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、城下町の整備や鉱山開発を行った。
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歴史
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、直江兼続である。 豊臣時代〜関ヶ原の戦い 豊臣政権の時代から、関ヶ原の戦いでの兼続についてご紹介します。 豊臣時代の兼続 景勝の腹心は兼続の他に狩野秀治がいましたが、天正12年(1584)に病に倒れて以降は、上杉家に関する内外の取次、執政のほとんどを兼続が行うようになります。しかし、その後も不満分子が反乱を起こすなど、越後国自体が疲弊してしまいます。その状況を打開するために、兼続は新田開発に力を入れるとともに、特産品である青苧(あおそ、衣類の原料)の増産に注力し、莫大な利益を得ることに成功しました。 兼続は秀吉からも信頼を得ていて、「伏見城」の惣構堀普請や、改築のための伏見舟入奉行に命じられていました。信頼の厚さは秀吉の「天下の政治を任せられるのは数人しかいないが、そのうちの一人が直江兼続」という言葉にも表れています。 徳川家康に突きつけた「直江状」 秀吉亡き後、後継者である豊臣秀頼はまだ5歳だったため、政治は「五大老」と「五奉行」の合議制で行われていました。五大老の筆頭だったのが徳川家康ですが、景勝も五大老のひとりとして政治に参加。そして、家康が幅をきかせるようになったことに反発したのが五奉行のひとり、石田三成でした。 景勝は家康の横行に対する抑止力となっていましたが、反面、お互いに不信感を抱く相手でもありました。そんな中、越後の領主、堀秀治が家康に対し「上杉家は謀反を企てているらしい」と上杉家をおとしめる情報を伝え、家康は景勝に上洛と申し開きを要求。これに対して兼続が毅然と反論したのが「直江状」です。以下に要約を記載します。 「景勝が謀反を企てている、という者こそが怪しいのだから、先にその者を調べるべきだ。ろくに調べもせず、簡単に讒言(ざんげん)を聞き入れる家康様の方にこそ、やましいところがあるのではありませんか」 「上杉家が武器を集めているから謀反を企てていると言いますが、上方の武士が茶器などを集めるように、田舎武士は鉄砲や弓矢を集めることが趣味なのです」 「そもそも、讒言した者は上杉家を出奔した者。裏切り者は彼の者の方なのです。景勝と家康様のどちらが正しいのか、明らかではありませんか」 直江状は本物か偽物かの論争があるほど、史料として決定的なものではありません。そのため、本当に兼続が書いたものなのかは定かではありませんが、家康に兼続が書状を送り、それが家康を激怒させた、というのは事実だといわれています。 家康軍に敗北 三成と家康が激突した関ヶ原の戦いでは、家康が勝利をおさめました。兼続はこのとき、景勝とともに三成側(西軍)についています。西軍の敗北を知った兼続は上杉軍を撤退させるべく、自らしんがりを務め、無事上杉軍を撤退させることに成功。撤退戦での働きは、後に家康も称賛するほどだったといわれています。 上杉家は敗北後、上洛して家康に謝罪することで会津120万石から米沢30万石へ所領を減らし、移動する処分となりました。このとき、兼続は徳川家に忠誠を誓い、重光と改名しています。石高が減ったことで、兼続は国力増強に向けさらなる新田開発に注力。30万石だった米沢藩の石高を約2倍の50万石以上へと成長させました。 他にも、氾濫しやすい最上川の上流に大きな堤防を築くなど治水事業に力を入れて農業を行いやすくしたり、城下町の整備や鉱山開発、教育環境の整備を行うなど、政治家としての手腕をいかんなく発揮します。 晩年の兼続 関ヶ原の戦い以降、兼続は上杉家と徳川家の関係改善に努め、家康の重臣でもあった本多正信の次男である本田政重を娘の婿養子として迎え入れました。しかし、政重との養子縁組はのちに解消され、直江家には他に男子がいなかったことから、兼続の死後、直江家は断絶することとなります。 兜に「愛」を掲げた理由とは? 兼続は幼い頃から才気煥発で眉目秀麗、武道にも優れていたとされています。また、兜に「愛」の文字をあしらっていました。景勝への忠心などを見ると間違いでもありませんが、当時「愛」の文字は現代でいう愛の意味では使われておらず、ネガティブな意味合いが強いものでした。そのため、兜に「愛」とあしらっていた理由として、以下2つの説が有力です。 「愛染明王」由来説 謙信が自らを毘沙門天の生まれ変わりだと信じて「毘」の文字を掲げたように、弓を持ち軍神としても知られる愛染明王の文字を掲げたのだ、とされています。 「愛宕権現」由来説 謙信が戦の際に、新潟県上越市にある愛宕神社へ戦勝祈願に訪れていたため、とされています。愛宕権現は各地に分霊され、軍神として信仰されたことから、各地の愛宕神社はそれぞれの土地を治める武将に武運をもたらすとして庇護されていました。 生涯にわたり上杉家を守った忠臣 兼続は出自に諸説ありますが、幼い頃から景勝の忠臣であったことは間違いないようです。秀治の死後は上杉家の内外の取次をひとりで行い、度々所領の立て直しにも成功。関ヶ原での敗戦後は積極的に徳川家との関係改善に努めるなど政治的手腕も発揮しています。美貌にも才気にも恵まれたとされていますが、私欲に走らず参謀としてその手腕を活かしたことが、今もなお愛されている理由なのかもしれません。
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、誰を娘の婿養子として迎え入れたか。
上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、本多正信の次男を娘の婿養子として迎え入れた。
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歴史
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、武田勝頼である。 生い立ちから家督を相続するまで まずは、勝頼の生い立ちから、家督を相続するまでをご紹介します。 戦国武将、武田信玄の4男として生まれる 勝頼は、天文15年(1546)に戦国武将・武田信玄の4男として生まれました。母は信玄の側室であり、信濃国(現在の長野県)の領主・諏訪頼重の娘である諏訪御料人(本名は不明、諏訪御前とも)です。 勝頼の名前は、父・信玄の幼名「勝千代」と、諏訪氏の通字である「頼」から取られたとされています。母の出身・諏訪氏とは信玄の父(勝頼の祖父)の時代に同盟関係であったものの、その後信玄が滅ぼしたという経緯がありました。そこで、武田家内で諏訪氏を良く思わない勢力を納得させるため、兄弟の中で唯一、武田氏の通字である「信」を継がなかったとされています。 元服して高遠城へ 元服すると、高遠(信濃国伊那谷)の城主に任じられます。ここから「伊奈四郎勝頼」の呼び名も生まれました。高遠城主時代の具体的な状況を書いた史料は見つかっていませんが、城を中心とした独自支配権を持つ支城領だったとされています。 一方その頃、武田氏の嫡男・武田義信は父・信玄に謀反を疑われていました。実際に武田家は信玄派と義信派で分裂していて、永禄8年(1565)には義信の家臣たちが信玄暗殺を秘密裏に計画し処刑されるという事態が起こっています。義信自身も2年にわたって幽閉されたのち、自害させられました。 このとき、次男の海野信親は盲目だったため既に出家しており、3男の武田信之は早世していたことから、4男であった勝頼にお鉢が回ってきます。なお、勝頼は義信が幽閉された後、織田信長の養女・龍勝院(血縁では織田信長の姪にあたる)を正室としており、織田・武田同盟が強化されています。 正式な跡継ぎにはなれなかった勝頼 義信の自害の翌月には、勝頼に嫡男である武田信勝が誕生しています。信玄は武田家と織田家の血を引く信勝の誕生を大喜びし、遺言には正式な跡継ぎを信勝と定め、信勝が元服するまでの後見役として、父である勝頼を一時的な武田家当主としました。なお、龍勝院は難産だったとされ、信勝を産んだ4年後に死去しています。 信勝は正式な跡継ぎとしたのに、その父である勝頼を正式な跡継ぎにできなかったのは、勝頼を担ぎ出して諏訪氏が復讐することを恐れた家臣に配慮したからとされています。実際に、勝頼が信玄の死に際して武田家20代当主の座を引き継ぐと、武田家内で信玄派と勝頼派の対立が深まってしまうのです。 長篠の戦いから武田家滅亡まで 長篠の戦いから、武田家が滅亡するまでのエピソードをご紹介します。 武田家の転落のきっかけとなった「長篠の戦い」 勝頼が対立する家臣をまとめられないでいると、天下統一に向けて勢力を伸ばしていた信長と徳川家康の進攻を許してしまいます。勝頼は織田領である東美濃の明知城、徳川領である遠江国の高天神城を続けて落とし、浜松城にも迫るなど武功を重ねますが、徳川方に寝返った奥平親子の討伐に手こずります。 この間に織田・徳川連合軍が長篠城へ到着し、天正3年(1575)6月、ついに長篠の戦いが開戦しました。連合軍は陣城を築いたため、信玄以来の家臣たちは野戦ではなく攻城戦になると感じ取り、圧倒的な兵力差の影響で勝つことはほぼ不可能と確信。撤退を進言するも、勝頼は決戦を選択してしまいます。戦は8時間にも及び、武田軍は攻めあぐねて守りの戦いを強いられた挙句、数々の名将を含む1万人以上もの死傷者を出したとされています。
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、いつ生まれたか。
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、天文15年(1546)に生まれた。
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歴史
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、武田勝頼である。 生い立ちから家督を相続するまで まずは、勝頼の生い立ちから、家督を相続するまでをご紹介します。 戦国武将、武田信玄の4男として生まれる 勝頼は、天文15年(1546)に戦国武将・武田信玄の4男として生まれました。母は信玄の側室であり、信濃国(現在の長野県)の領主・諏訪頼重の娘である諏訪御料人(本名は不明、諏訪御前とも)です。 勝頼の名前は、父・信玄の幼名「勝千代」と、諏訪氏の通字である「頼」から取られたとされています。母の出身・諏訪氏とは信玄の父(勝頼の祖父)の時代に同盟関係であったものの、その後信玄が滅ぼしたという経緯がありました。そこで、武田家内で諏訪氏を良く思わない勢力を納得させるため、兄弟の中で唯一、武田氏の通字である「信」を継がなかったとされています。 元服して高遠城へ 元服すると、高遠(信濃国伊那谷)の城主に任じられます。ここから「伊奈四郎勝頼」の呼び名も生まれました。高遠城主時代の具体的な状況を書いた史料は見つかっていませんが、城を中心とした独自支配権を持つ支城領だったとされています。 一方その頃、武田氏の嫡男・武田義信は父・信玄に謀反を疑われていました。実際に武田家は信玄派と義信派で分裂していて、永禄8年(1565)には義信の家臣たちが信玄暗殺を秘密裏に計画し処刑されるという事態が起こっています。義信自身も2年にわたって幽閉されたのち、自害させられました。 このとき、次男の海野信親は盲目だったため既に出家しており、3男の武田信之は早世していたことから、4男であった勝頼にお鉢が回ってきます。なお、勝頼は義信が幽閉された後、織田信長の養女・龍勝院(血縁では織田信長の姪にあたる)を正室としており、織田・武田同盟が強化されています。 正式な跡継ぎにはなれなかった勝頼 義信の自害の翌月には、勝頼に嫡男である武田信勝が誕生しています。信玄は武田家と織田家の血を引く信勝の誕生を大喜びし、遺言には正式な跡継ぎを信勝と定め、信勝が元服するまでの後見役として、父である勝頼を一時的な武田家当主としました。なお、龍勝院は難産だったとされ、信勝を産んだ4年後に死去しています。 信勝は正式な跡継ぎとしたのに、その父である勝頼を正式な跡継ぎにできなかったのは、勝頼を担ぎ出して諏訪氏が復讐することを恐れた家臣に配慮したからとされています。実際に、勝頼が信玄の死に際して武田家20代当主の座を引き継ぐと、武田家内で信玄派と勝頼派の対立が深まってしまうのです。 長篠の戦いから武田家滅亡まで 長篠の戦いから、武田家が滅亡するまでのエピソードをご紹介します。 武田家の転落のきっかけとなった「長篠の戦い」 勝頼が対立する家臣をまとめられないでいると、天下統一に向けて勢力を伸ばしていた信長と徳川家康の進攻を許してしまいます。勝頼は織田領である東美濃の明知城、徳川領である遠江国の高天神城を続けて落とし、浜松城にも迫るなど武功を重ねますが、徳川方に寝返った奥平親子の討伐に手こずります。 この間に織田・徳川連合軍が長篠城へ到着し、天正3年(1575)6月、ついに長篠の戦いが開戦しました。連合軍は陣城を築いたため、信玄以来の家臣たちは野戦ではなく攻城戦になると感じ取り、圧倒的な兵力差の影響で勝つことはほぼ不可能と確信。撤退を進言するも、勝頼は決戦を選択してしまいます。戦は8時間にも及び、武田軍は攻めあぐねて守りの戦いを強いられた挙句、数々の名将を含む1万人以上もの死傷者を出したとされています。
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、どういった家にうまれたか。
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、戦国武将・武田信玄の4男として生まれた。
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400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、武田勝頼である。 生い立ちから家督を相続するまで まずは、勝頼の生い立ちから、家督を相続するまでをご紹介します。 戦国武将、武田信玄の4男として生まれる 勝頼は、天文15年(1546)に戦国武将・武田信玄の4男として生まれました。母は信玄の側室であり、信濃国(現在の長野県)の領主・諏訪頼重の娘である諏訪御料人(本名は不明、諏訪御前とも)です。 勝頼の名前は、父・信玄の幼名「勝千代」と、諏訪氏の通字である「頼」から取られたとされています。母の出身・諏訪氏とは信玄の父(勝頼の祖父)の時代に同盟関係であったものの、その後信玄が滅ぼしたという経緯がありました。そこで、武田家内で諏訪氏を良く思わない勢力を納得させるため、兄弟の中で唯一、武田氏の通字である「信」を継がなかったとされています。 元服して高遠城へ 元服すると、高遠(信濃国伊那谷)の城主に任じられます。ここから「伊奈四郎勝頼」の呼び名も生まれました。高遠城主時代の具体的な状況を書いた史料は見つかっていませんが、城を中心とした独自支配権を持つ支城領だったとされています。 一方その頃、武田氏の嫡男・武田義信は父・信玄に謀反を疑われていました。実際に武田家は信玄派と義信派で分裂していて、永禄8年(1565)には義信の家臣たちが信玄暗殺を秘密裏に計画し処刑されるという事態が起こっています。義信自身も2年にわたって幽閉されたのち、自害させられました。 このとき、次男の海野信親は盲目だったため既に出家しており、3男の武田信之は早世していたことから、4男であった勝頼にお鉢が回ってきます。なお、勝頼は義信が幽閉された後、織田信長の養女・龍勝院(血縁では織田信長の姪にあたる)を正室としており、織田・武田同盟が強化されています。 正式な跡継ぎにはなれなかった勝頼 義信の自害の翌月には、勝頼に嫡男である武田信勝が誕生しています。信玄は武田家と織田家の血を引く信勝の誕生を大喜びし、遺言には正式な跡継ぎを信勝と定め、信勝が元服するまでの後見役として、父である勝頼を一時的な武田家当主としました。なお、龍勝院は難産だったとされ、信勝を産んだ4年後に死去しています。 信勝は正式な跡継ぎとしたのに、その父である勝頼を正式な跡継ぎにできなかったのは、勝頼を担ぎ出して諏訪氏が復讐することを恐れた家臣に配慮したからとされています。実際に、勝頼が信玄の死に際して武田家20代当主の座を引き継ぐと、武田家内で信玄派と勝頼派の対立が深まってしまうのです。 長篠の戦いから武田家滅亡まで 長篠の戦いから、武田家が滅亡するまでのエピソードをご紹介します。 武田家の転落のきっかけとなった「長篠の戦い」 勝頼が対立する家臣をまとめられないでいると、天下統一に向けて勢力を伸ばしていた信長と徳川家康の進攻を許してしまいます。勝頼は織田領である東美濃の明知城、徳川領である遠江国の高天神城を続けて落とし、浜松城にも迫るなど武功を重ねますが、徳川方に寝返った奥平親子の討伐に手こずります。 この間に織田・徳川連合軍が長篠城へ到着し、天正3年(1575)6月、ついに長篠の戦いが開戦しました。連合軍は陣城を築いたため、信玄以来の家臣たちは野戦ではなく攻城戦になると感じ取り、圧倒的な兵力差の影響で勝つことはほぼ不可能と確信。撤退を進言するも、勝頼は決戦を選択してしまいます。戦は8時間にも及び、武田軍は攻めあぐねて守りの戦いを強いられた挙句、数々の名将を含む1万人以上もの死傷者を出したとされています。
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、どこを続けて落としたか。
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、織田領である東美濃の明知城、徳川領である遠江国の高天神城を続けて落とした。
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400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、武田勝頼である。 生い立ちから家督を相続するまで まずは、勝頼の生い立ちから、家督を相続するまでをご紹介します。 戦国武将、武田信玄の4男として生まれる 勝頼は、天文15年(1546)に戦国武将・武田信玄の4男として生まれました。母は信玄の側室であり、信濃国(現在の長野県)の領主・諏訪頼重の娘である諏訪御料人(本名は不明、諏訪御前とも)です。 勝頼の名前は、父・信玄の幼名「勝千代」と、諏訪氏の通字である「頼」から取られたとされています。母の出身・諏訪氏とは信玄の父(勝頼の祖父)の時代に同盟関係であったものの、その後信玄が滅ぼしたという経緯がありました。そこで、武田家内で諏訪氏を良く思わない勢力を納得させるため、兄弟の中で唯一、武田氏の通字である「信」を継がなかったとされています。 元服して高遠城へ 元服すると、高遠(信濃国伊那谷)の城主に任じられます。ここから「伊奈四郎勝頼」の呼び名も生まれました。高遠城主時代の具体的な状況を書いた史料は見つかっていませんが、城を中心とした独自支配権を持つ支城領だったとされています。 一方その頃、武田氏の嫡男・武田義信は父・信玄に謀反を疑われていました。実際に武田家は信玄派と義信派で分裂していて、永禄8年(1565)には義信の家臣たちが信玄暗殺を秘密裏に計画し処刑されるという事態が起こっています。義信自身も2年にわたって幽閉されたのち、自害させられました。 このとき、次男の海野信親は盲目だったため既に出家しており、3男の武田信之は早世していたことから、4男であった勝頼にお鉢が回ってきます。なお、勝頼は義信が幽閉された後、織田信長の養女・龍勝院(血縁では織田信長の姪にあたる)を正室としており、織田・武田同盟が強化されています。 正式な跡継ぎにはなれなかった勝頼 義信の自害の翌月には、勝頼に嫡男である武田信勝が誕生しています。信玄は武田家と織田家の血を引く信勝の誕生を大喜びし、遺言には正式な跡継ぎを信勝と定め、信勝が元服するまでの後見役として、父である勝頼を一時的な武田家当主としました。なお、龍勝院は難産だったとされ、信勝を産んだ4年後に死去しています。 信勝は正式な跡継ぎとしたのに、その父である勝頼を正式な跡継ぎにできなかったのは、勝頼を担ぎ出して諏訪氏が復讐することを恐れた家臣に配慮したからとされています。実際に、勝頼が信玄の死に際して武田家20代当主の座を引き継ぐと、武田家内で信玄派と勝頼派の対立が深まってしまうのです。 長篠の戦いから武田家滅亡まで 長篠の戦いから、武田家が滅亡するまでのエピソードをご紹介します。 武田家の転落のきっかけとなった「長篠の戦い」 勝頼が対立する家臣をまとめられないでいると、天下統一に向けて勢力を伸ばしていた信長と徳川家康の進攻を許してしまいます。勝頼は織田領である東美濃の明知城、徳川領である遠江国の高天神城を続けて落とし、浜松城にも迫るなど武功を重ねますが、徳川方に寝返った奥平親子の討伐に手こずります。 この間に織田・徳川連合軍が長篠城へ到着し、天正3年(1575)6月、ついに長篠の戦いが開戦しました。連合軍は陣城を築いたため、信玄以来の家臣たちは野戦ではなく攻城戦になると感じ取り、圧倒的な兵力差の影響で勝つことはほぼ不可能と確信。撤退を進言するも、勝頼は決戦を選択してしまいます。戦は8時間にも及び、武田軍は攻めあぐねて守りの戦いを強いられた挙句、数々の名将を含む1万人以上もの死傷者を出したとされています。
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、どこに迫るなど武功を重ねたか。
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、浜松城にも迫るなど武功を重ねた。
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歴史
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、武田勝頼である。 生い立ちから家督を相続するまで まずは、勝頼の生い立ちから、家督を相続するまでをご紹介します。 戦国武将、武田信玄の4男として生まれる 勝頼は、天文15年(1546)に戦国武将・武田信玄の4男として生まれました。母は信玄の側室であり、信濃国(現在の長野県)の領主・諏訪頼重の娘である諏訪御料人(本名は不明、諏訪御前とも)です。 勝頼の名前は、父・信玄の幼名「勝千代」と、諏訪氏の通字である「頼」から取られたとされています。母の出身・諏訪氏とは信玄の父(勝頼の祖父)の時代に同盟関係であったものの、その後信玄が滅ぼしたという経緯がありました。そこで、武田家内で諏訪氏を良く思わない勢力を納得させるため、兄弟の中で唯一、武田氏の通字である「信」を継がなかったとされています。 元服して高遠城へ 元服すると、高遠(信濃国伊那谷)の城主に任じられます。ここから「伊奈四郎勝頼」の呼び名も生まれました。高遠城主時代の具体的な状況を書いた史料は見つかっていませんが、城を中心とした独自支配権を持つ支城領だったとされています。 一方その頃、武田氏の嫡男・武田義信は父・信玄に謀反を疑われていました。実際に武田家は信玄派と義信派で分裂していて、永禄8年(1565)には義信の家臣たちが信玄暗殺を秘密裏に計画し処刑されるという事態が起こっています。義信自身も2年にわたって幽閉されたのち、自害させられました。 このとき、次男の海野信親は盲目だったため既に出家しており、3男の武田信之は早世していたことから、4男であった勝頼にお鉢が回ってきます。なお、勝頼は義信が幽閉された後、織田信長の養女・龍勝院(血縁では織田信長の姪にあたる)を正室としており、織田・武田同盟が強化されています。 正式な跡継ぎにはなれなかった勝頼 義信の自害の翌月には、勝頼に嫡男である武田信勝が誕生しています。信玄は武田家と織田家の血を引く信勝の誕生を大喜びし、遺言には正式な跡継ぎを信勝と定め、信勝が元服するまでの後見役として、父である勝頼を一時的な武田家当主としました。なお、龍勝院は難産だったとされ、信勝を産んだ4年後に死去しています。 信勝は正式な跡継ぎとしたのに、その父である勝頼を正式な跡継ぎにできなかったのは、勝頼を担ぎ出して諏訪氏が復讐することを恐れた家臣に配慮したからとされています。実際に、勝頼が信玄の死に際して武田家20代当主の座を引き継ぐと、武田家内で信玄派と勝頼派の対立が深まってしまうのです。 長篠の戦いから武田家滅亡まで 長篠の戦いから、武田家が滅亡するまでのエピソードをご紹介します。 武田家の転落のきっかけとなった「長篠の戦い」 勝頼が対立する家臣をまとめられないでいると、天下統一に向けて勢力を伸ばしていた信長と徳川家康の進攻を許してしまいます。勝頼は織田領である東美濃の明知城、徳川領である遠江国の高天神城を続けて落とし、浜松城にも迫るなど武功を重ねますが、徳川方に寝返った奥平親子の討伐に手こずります。 この間に織田・徳川連合軍が長篠城へ到着し、天正3年(1575)6月、ついに長篠の戦いが開戦しました。連合軍は陣城を築いたため、信玄以来の家臣たちは野戦ではなく攻城戦になると感じ取り、圧倒的な兵力差の影響で勝つことはほぼ不可能と確信。撤退を進言するも、勝頼は決戦を選択してしまいます。戦は8時間にも及び、武田軍は攻めあぐねて守りの戦いを強いられた挙句、数々の名将を含む1万人以上もの死傷者を出したとされています。
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、誰の討伐に手こずったか。
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、徳川方に寝返った奥平親子の討伐に手こずった。
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歴史
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、武田勝頼である。 武田家の衰退 11月、信長の嫡男・織田信忠を総大将とした織田軍によって東美濃の岩村城が落とされると、12月には徳川軍によって遠江国の二俣城を開城させられます。さらに、武田家家臣である依田信蕃が高天神城に撤退したことで、高天神城が地理的に孤立してしまいました。 勝頼はこれを救おうと天正4年(1576)、徳川方の横須賀城を攻めるも、相手の徹底抗戦を受けて撤退。天正5年(1577)にとうとう家康が高天神城を攻めてきたことで、徳川と何度も交戦することになります。 また、勝頼は天正5年(1577)に北条氏政の妹(北条夫人)を後室に迎えます。北条氏と結びつきを強めることで、越後の上杉氏との関係修復をはかったのです。しかし、天正6年(1578)に上杉謙信が死去したのち、上杉氏は養子である上杉景勝と上杉景虎の間で家督争いが勃発。勝頼は両者の和睦調停を買って出て、氏政の実弟である景虎を支持します。しかし、景勝が莫大なお金と領土の割譲を提示したことで、勝頼は景勝に鞍替えしてしまいました。最終的に景虎は自害してしまい、上杉家の家督争いはひとまずおさまるのですが、これにより武田家は織田・徳川だけでなく北条氏も敵に回してしまうことになります。 勝頼の死と武田家の滅亡 北条氏からの信頼を失った勝頼を見て、徳川軍は天正9年(1581)、一気に高天神城を奪回します。勝頼は援軍を送る余力もなく、高天神城は全滅状態で陥落。武田家の威信は墜落し、武田一族の重鎮であった穴山梅雪をはじめとして多くの家臣が織田・徳川方に内通したり、離反したりしました。 天正10年(1582)、外縁にあたる木曾義昌が織田方に寝返ったことで勝頼は激怒、討伐軍を送るも織田・徳川・北条の総攻撃で総崩れに。最後まで徹底抗戦した高遠城も、ことごとく討死して陥落してしまいます。とうとう勝頼は本拠地としていた新府城を捨て、真田昌幸に勧められた上田城へ向かおうとするも、小山田信茂らの進言に加えて不吉とされる浅間山の噴火などを受けて、結局は信茂の居城である岩殿城へ向かいました。 しかし、勝頼を裏切った信茂に鉄砲で撃たれかけたため、最終的に天目山(現在の山梨県甲府市)を目指します。天目山は、かつて武田家13代当主が自害した場所。ここでも織田軍に攻撃されますが、最後まで付き従っていた40人ほどの家臣は徹底抗戦しました。中でも、土屋昌恒は片手で織田軍を次々と斬る「片手千人斬り」の伝説を残すほどの奮闘をみせています。 戦いの混乱が落ち着いたところで、勝頼は嫡子である信勝、夫人、従者を集めて自害。自害に先立ち、信勝に正式に家督相続の儀を行ったとされています。こうして、400年続いた名門武田家は滅亡しました。 戦の手腕は武田信玄に引けを取らなかった!? 初陣で臆することなく敵に突撃して討ち取る、東美濃への進軍後は織田方の支城を一挙に18も攻め落とした、などの武功があることから、勝頼の戦の手腕は父・信玄に引けを取らなかったとされています。また、勝頼は父・信玄が落とせなかった高天神城も落としています。高天神城は、戦国時代「高天神を制する者は遠江を制す」とまで言われたほどの拠点で、誰もが狙っていた城でした。 信長はこうした勝頼の猛攻を非常に警戒しており、「武田勝頼は武田信玄の遺言や法をしっかり守っていて、武田信玄に勝るとも劣らぬ人物。油断すると大変なことになるから注意してほしい。越後から勝頼を牽制してくれ」と謙信に打診するほどでした。勝頼の死後、首級と対面した信長は「日本に比類なき武者だったが、運が尽きてしまったのだな」と漏らすなど、その能力を高く買っていたことがわかります。 類まれなる才能を持った武田家最後の当主 勝頼は母の出自から家臣に信頼してもらえず、兄と父の死によって武田家の当主となったものの、結局は武田家を滅ぼしてしまいます。しかし一方で、勝頼は信長をもってして「信玄に勝るとも劣らない」と言わしめるほどの能力も持ち合わせていました。逆に、こうした父から受け継いだ才能によって織田・徳川両名を強く警戒させてしまったことが、武田家の敗因だったのかもしれません。
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、天正4年(1576)、徳川方の横須賀城を攻めるもどうなったか。
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、天正4年(1576)、徳川方の横須賀城を攻めるも、相手の徹底抗戦を受けて撤退した。
JCRRAG_018528
歴史
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、武田勝頼である。 武田家の衰退 11月、信長の嫡男・織田信忠を総大将とした織田軍によって東美濃の岩村城が落とされると、12月には徳川軍によって遠江国の二俣城を開城させられます。さらに、武田家家臣である依田信蕃が高天神城に撤退したことで、高天神城が地理的に孤立してしまいました。 勝頼はこれを救おうと天正4年(1576)、徳川方の横須賀城を攻めるも、相手の徹底抗戦を受けて撤退。天正5年(1577)にとうとう家康が高天神城を攻めてきたことで、徳川と何度も交戦することになります。 また、勝頼は天正5年(1577)に北条氏政の妹(北条夫人)を後室に迎えます。北条氏と結びつきを強めることで、越後の上杉氏との関係修復をはかったのです。しかし、天正6年(1578)に上杉謙信が死去したのち、上杉氏は養子である上杉景勝と上杉景虎の間で家督争いが勃発。勝頼は両者の和睦調停を買って出て、氏政の実弟である景虎を支持します。しかし、景勝が莫大なお金と領土の割譲を提示したことで、勝頼は景勝に鞍替えしてしまいました。最終的に景虎は自害してしまい、上杉家の家督争いはひとまずおさまるのですが、これにより武田家は織田・徳川だけでなく北条氏も敵に回してしまうことになります。 勝頼の死と武田家の滅亡 北条氏からの信頼を失った勝頼を見て、徳川軍は天正9年(1581)、一気に高天神城を奪回します。勝頼は援軍を送る余力もなく、高天神城は全滅状態で陥落。武田家の威信は墜落し、武田一族の重鎮であった穴山梅雪をはじめとして多くの家臣が織田・徳川方に内通したり、離反したりしました。 天正10年(1582)、外縁にあたる木曾義昌が織田方に寝返ったことで勝頼は激怒、討伐軍を送るも織田・徳川・北条の総攻撃で総崩れに。最後まで徹底抗戦した高遠城も、ことごとく討死して陥落してしまいます。とうとう勝頼は本拠地としていた新府城を捨て、真田昌幸に勧められた上田城へ向かおうとするも、小山田信茂らの進言に加えて不吉とされる浅間山の噴火などを受けて、結局は信茂の居城である岩殿城へ向かいました。 しかし、勝頼を裏切った信茂に鉄砲で撃たれかけたため、最終的に天目山(現在の山梨県甲府市)を目指します。天目山は、かつて武田家13代当主が自害した場所。ここでも織田軍に攻撃されますが、最後まで付き従っていた40人ほどの家臣は徹底抗戦しました。中でも、土屋昌恒は片手で織田軍を次々と斬る「片手千人斬り」の伝説を残すほどの奮闘をみせています。 戦いの混乱が落ち着いたところで、勝頼は嫡子である信勝、夫人、従者を集めて自害。自害に先立ち、信勝に正式に家督相続の儀を行ったとされています。こうして、400年続いた名門武田家は滅亡しました。 戦の手腕は武田信玄に引けを取らなかった!? 初陣で臆することなく敵に突撃して討ち取る、東美濃への進軍後は織田方の支城を一挙に18も攻め落とした、などの武功があることから、勝頼の戦の手腕は父・信玄に引けを取らなかったとされています。また、勝頼は父・信玄が落とせなかった高天神城も落としています。高天神城は、戦国時代「高天神を制する者は遠江を制す」とまで言われたほどの拠点で、誰もが狙っていた城でした。 信長はこうした勝頼の猛攻を非常に警戒しており、「武田勝頼は武田信玄の遺言や法をしっかり守っていて、武田信玄に勝るとも劣らぬ人物。油断すると大変なことになるから注意してほしい。越後から勝頼を牽制してくれ」と謙信に打診するほどでした。勝頼の死後、首級と対面した信長は「日本に比類なき武者だったが、運が尽きてしまったのだな」と漏らすなど、その能力を高く買っていたことがわかります。 類まれなる才能を持った武田家最後の当主 勝頼は母の出自から家臣に信頼してもらえず、兄と父の死によって武田家の当主となったものの、結局は武田家を滅ぼしてしまいます。しかし一方で、勝頼は信長をもってして「信玄に勝るとも劣らない」と言わしめるほどの能力も持ち合わせていました。逆に、こうした父から受け継いだ才能によって織田・徳川両名を強く警戒させてしまったことが、武田家の敗因だったのかもしれません。
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、誰を後室に迎えたか。
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、北条氏政の妹(北条夫人)を後室に迎えた。
JCRRAG_018529
歴史
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、武田勝頼である。 武田家の衰退 11月、信長の嫡男・織田信忠を総大将とした織田軍によって東美濃の岩村城が落とされると、12月には徳川軍によって遠江国の二俣城を開城させられます。さらに、武田家家臣である依田信蕃が高天神城に撤退したことで、高天神城が地理的に孤立してしまいました。 勝頼はこれを救おうと天正4年(1576)、徳川方の横須賀城を攻めるも、相手の徹底抗戦を受けて撤退。天正5年(1577)にとうとう家康が高天神城を攻めてきたことで、徳川と何度も交戦することになります。 また、勝頼は天正5年(1577)に北条氏政の妹(北条夫人)を後室に迎えます。北条氏と結びつきを強めることで、越後の上杉氏との関係修復をはかったのです。しかし、天正6年(1578)に上杉謙信が死去したのち、上杉氏は養子である上杉景勝と上杉景虎の間で家督争いが勃発。勝頼は両者の和睦調停を買って出て、氏政の実弟である景虎を支持します。しかし、景勝が莫大なお金と領土の割譲を提示したことで、勝頼は景勝に鞍替えしてしまいました。最終的に景虎は自害してしまい、上杉家の家督争いはひとまずおさまるのですが、これにより武田家は織田・徳川だけでなく北条氏も敵に回してしまうことになります。 勝頼の死と武田家の滅亡 北条氏からの信頼を失った勝頼を見て、徳川軍は天正9年(1581)、一気に高天神城を奪回します。勝頼は援軍を送る余力もなく、高天神城は全滅状態で陥落。武田家の威信は墜落し、武田一族の重鎮であった穴山梅雪をはじめとして多くの家臣が織田・徳川方に内通したり、離反したりしました。 天正10年(1582)、外縁にあたる木曾義昌が織田方に寝返ったことで勝頼は激怒、討伐軍を送るも織田・徳川・北条の総攻撃で総崩れに。最後まで徹底抗戦した高遠城も、ことごとく討死して陥落してしまいます。とうとう勝頼は本拠地としていた新府城を捨て、真田昌幸に勧められた上田城へ向かおうとするも、小山田信茂らの進言に加えて不吉とされる浅間山の噴火などを受けて、結局は信茂の居城である岩殿城へ向かいました。 しかし、勝頼を裏切った信茂に鉄砲で撃たれかけたため、最終的に天目山(現在の山梨県甲府市)を目指します。天目山は、かつて武田家13代当主が自害した場所。ここでも織田軍に攻撃されますが、最後まで付き従っていた40人ほどの家臣は徹底抗戦しました。中でも、土屋昌恒は片手で織田軍を次々と斬る「片手千人斬り」の伝説を残すほどの奮闘をみせています。 戦いの混乱が落ち着いたところで、勝頼は嫡子である信勝、夫人、従者を集めて自害。自害に先立ち、信勝に正式に家督相続の儀を行ったとされています。こうして、400年続いた名門武田家は滅亡しました。 戦の手腕は武田信玄に引けを取らなかった!? 初陣で臆することなく敵に突撃して討ち取る、東美濃への進軍後は織田方の支城を一挙に18も攻め落とした、などの武功があることから、勝頼の戦の手腕は父・信玄に引けを取らなかったとされています。また、勝頼は父・信玄が落とせなかった高天神城も落としています。高天神城は、戦国時代「高天神を制する者は遠江を制す」とまで言われたほどの拠点で、誰もが狙っていた城でした。 信長はこうした勝頼の猛攻を非常に警戒しており、「武田勝頼は武田信玄の遺言や法をしっかり守っていて、武田信玄に勝るとも劣らぬ人物。油断すると大変なことになるから注意してほしい。越後から勝頼を牽制してくれ」と謙信に打診するほどでした。勝頼の死後、首級と対面した信長は「日本に比類なき武者だったが、運が尽きてしまったのだな」と漏らすなど、その能力を高く買っていたことがわかります。 類まれなる才能を持った武田家最後の当主 勝頼は母の出自から家臣に信頼してもらえず、兄と父の死によって武田家の当主となったものの、結局は武田家を滅ぼしてしまいます。しかし一方で、勝頼は信長をもってして「信玄に勝るとも劣らない」と言わしめるほどの能力も持ち合わせていました。逆に、こうした父から受け継いだ才能によって織田・徳川両名を強く警戒させてしまったことが、武田家の敗因だったのかもしれません。
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、いつ北条氏政の妹(北条夫人)を後室に迎えたか。
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、天正5年(1577)に北条氏政の妹(北条夫人)を後室に迎えた。
JCRRAG_018530
歴史
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、武田勝頼である。 武田家の衰退 11月、信長の嫡男・織田信忠を総大将とした織田軍によって東美濃の岩村城が落とされると、12月には徳川軍によって遠江国の二俣城を開城させられます。さらに、武田家家臣である依田信蕃が高天神城に撤退したことで、高天神城が地理的に孤立してしまいました。 勝頼はこれを救おうと天正4年(1576)、徳川方の横須賀城を攻めるも、相手の徹底抗戦を受けて撤退。天正5年(1577)にとうとう家康が高天神城を攻めてきたことで、徳川と何度も交戦することになります。 また、勝頼は天正5年(1577)に北条氏政の妹(北条夫人)を後室に迎えます。北条氏と結びつきを強めることで、越後の上杉氏との関係修復をはかったのです。しかし、天正6年(1578)に上杉謙信が死去したのち、上杉氏は養子である上杉景勝と上杉景虎の間で家督争いが勃発。勝頼は両者の和睦調停を買って出て、氏政の実弟である景虎を支持します。しかし、景勝が莫大なお金と領土の割譲を提示したことで、勝頼は景勝に鞍替えしてしまいました。最終的に景虎は自害してしまい、上杉家の家督争いはひとまずおさまるのですが、これにより武田家は織田・徳川だけでなく北条氏も敵に回してしまうことになります。 勝頼の死と武田家の滅亡 北条氏からの信頼を失った勝頼を見て、徳川軍は天正9年(1581)、一気に高天神城を奪回します。勝頼は援軍を送る余力もなく、高天神城は全滅状態で陥落。武田家の威信は墜落し、武田一族の重鎮であった穴山梅雪をはじめとして多くの家臣が織田・徳川方に内通したり、離反したりしました。 天正10年(1582)、外縁にあたる木曾義昌が織田方に寝返ったことで勝頼は激怒、討伐軍を送るも織田・徳川・北条の総攻撃で総崩れに。最後まで徹底抗戦した高遠城も、ことごとく討死して陥落してしまいます。とうとう勝頼は本拠地としていた新府城を捨て、真田昌幸に勧められた上田城へ向かおうとするも、小山田信茂らの進言に加えて不吉とされる浅間山の噴火などを受けて、結局は信茂の居城である岩殿城へ向かいました。 しかし、勝頼を裏切った信茂に鉄砲で撃たれかけたため、最終的に天目山(現在の山梨県甲府市)を目指します。天目山は、かつて武田家13代当主が自害した場所。ここでも織田軍に攻撃されますが、最後まで付き従っていた40人ほどの家臣は徹底抗戦しました。中でも、土屋昌恒は片手で織田軍を次々と斬る「片手千人斬り」の伝説を残すほどの奮闘をみせています。 戦いの混乱が落ち着いたところで、勝頼は嫡子である信勝、夫人、従者を集めて自害。自害に先立ち、信勝に正式に家督相続の儀を行ったとされています。こうして、400年続いた名門武田家は滅亡しました。 戦の手腕は武田信玄に引けを取らなかった!? 初陣で臆することなく敵に突撃して討ち取る、東美濃への進軍後は織田方の支城を一挙に18も攻め落とした、などの武功があることから、勝頼の戦の手腕は父・信玄に引けを取らなかったとされています。また、勝頼は父・信玄が落とせなかった高天神城も落としています。高天神城は、戦国時代「高天神を制する者は遠江を制す」とまで言われたほどの拠点で、誰もが狙っていた城でした。 信長はこうした勝頼の猛攻を非常に警戒しており、「武田勝頼は武田信玄の遺言や法をしっかり守っていて、武田信玄に勝るとも劣らぬ人物。油断すると大変なことになるから注意してほしい。越後から勝頼を牽制してくれ」と謙信に打診するほどでした。勝頼の死後、首級と対面した信長は「日本に比類なき武者だったが、運が尽きてしまったのだな」と漏らすなど、その能力を高く買っていたことがわかります。 類まれなる才能を持った武田家最後の当主 勝頼は母の出自から家臣に信頼してもらえず、兄と父の死によって武田家の当主となったものの、結局は武田家を滅ぼしてしまいます。しかし一方で、勝頼は信長をもってして「信玄に勝るとも劣らない」と言わしめるほどの能力も持ち合わせていました。逆に、こうした父から受け継いだ才能によって織田・徳川両名を強く警戒させてしまったことが、武田家の敗因だったのかもしれません。
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、結局はどこへ向かったか。
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、結局は信茂の居城である岩殿城へ向かった。
JCRRAG_018531
歴史
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、武田勝頼である。 武田家の衰退 11月、信長の嫡男・織田信忠を総大将とした織田軍によって東美濃の岩村城が落とされると、12月には徳川軍によって遠江国の二俣城を開城させられます。さらに、武田家家臣である依田信蕃が高天神城に撤退したことで、高天神城が地理的に孤立してしまいました。 勝頼はこれを救おうと天正4年(1576)、徳川方の横須賀城を攻めるも、相手の徹底抗戦を受けて撤退。天正5年(1577)にとうとう家康が高天神城を攻めてきたことで、徳川と何度も交戦することになります。 また、勝頼は天正5年(1577)に北条氏政の妹(北条夫人)を後室に迎えます。北条氏と結びつきを強めることで、越後の上杉氏との関係修復をはかったのです。しかし、天正6年(1578)に上杉謙信が死去したのち、上杉氏は養子である上杉景勝と上杉景虎の間で家督争いが勃発。勝頼は両者の和睦調停を買って出て、氏政の実弟である景虎を支持します。しかし、景勝が莫大なお金と領土の割譲を提示したことで、勝頼は景勝に鞍替えしてしまいました。最終的に景虎は自害してしまい、上杉家の家督争いはひとまずおさまるのですが、これにより武田家は織田・徳川だけでなく北条氏も敵に回してしまうことになります。 勝頼の死と武田家の滅亡 北条氏からの信頼を失った勝頼を見て、徳川軍は天正9年(1581)、一気に高天神城を奪回します。勝頼は援軍を送る余力もなく、高天神城は全滅状態で陥落。武田家の威信は墜落し、武田一族の重鎮であった穴山梅雪をはじめとして多くの家臣が織田・徳川方に内通したり、離反したりしました。 天正10年(1582)、外縁にあたる木曾義昌が織田方に寝返ったことで勝頼は激怒、討伐軍を送るも織田・徳川・北条の総攻撃で総崩れに。最後まで徹底抗戦した高遠城も、ことごとく討死して陥落してしまいます。とうとう勝頼は本拠地としていた新府城を捨て、真田昌幸に勧められた上田城へ向かおうとするも、小山田信茂らの進言に加えて不吉とされる浅間山の噴火などを受けて、結局は信茂の居城である岩殿城へ向かいました。 しかし、勝頼を裏切った信茂に鉄砲で撃たれかけたため、最終的に天目山(現在の山梨県甲府市)を目指します。天目山は、かつて武田家13代当主が自害した場所。ここでも織田軍に攻撃されますが、最後まで付き従っていた40人ほどの家臣は徹底抗戦しました。中でも、土屋昌恒は片手で織田軍を次々と斬る「片手千人斬り」の伝説を残すほどの奮闘をみせています。 戦いの混乱が落ち着いたところで、勝頼は嫡子である信勝、夫人、従者を集めて自害。自害に先立ち、信勝に正式に家督相続の儀を行ったとされています。こうして、400年続いた名門武田家は滅亡しました。 戦の手腕は武田信玄に引けを取らなかった!? 初陣で臆することなく敵に突撃して討ち取る、東美濃への進軍後は織田方の支城を一挙に18も攻め落とした、などの武功があることから、勝頼の戦の手腕は父・信玄に引けを取らなかったとされています。また、勝頼は父・信玄が落とせなかった高天神城も落としています。高天神城は、戦国時代「高天神を制する者は遠江を制す」とまで言われたほどの拠点で、誰もが狙っていた城でした。 信長はこうした勝頼の猛攻を非常に警戒しており、「武田勝頼は武田信玄の遺言や法をしっかり守っていて、武田信玄に勝るとも劣らぬ人物。油断すると大変なことになるから注意してほしい。越後から勝頼を牽制してくれ」と謙信に打診するほどでした。勝頼の死後、首級と対面した信長は「日本に比類なき武者だったが、運が尽きてしまったのだな」と漏らすなど、その能力を高く買っていたことがわかります。 類まれなる才能を持った武田家最後の当主 勝頼は母の出自から家臣に信頼してもらえず、兄と父の死によって武田家の当主となったものの、結局は武田家を滅ぼしてしまいます。しかし一方で、勝頼は信長をもってして「信玄に勝るとも劣らない」と言わしめるほどの能力も持ち合わせていました。逆に、こうした父から受け継いだ才能によって織田・徳川両名を強く警戒させてしまったことが、武田家の敗因だったのかもしれません。
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、どこを捨てたか。
400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、本拠地としていた新府城を捨てた。
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歴史
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、前田利家である。 「傾奇者」から「槍の又左」へ 若き日は「傾奇者」とされた利家。生まれから武功を上げ始めた青年時代を振り返ります。 荒子前田家当主の四男として誕生 利家は、天文7年(1539)12月25日に尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)を支配していた土豪・荒子前田家の当主である前田利春(利昌とも)の四男として生まれます。幼名は犬千代といい、織田家筆頭家老の林秀貞のもとで与力となっていましたが、天文20年(1551)頃から織田信長の小姓となります。若き日の利家は派手、奇抜な身なりを好み傾奇者とされていました。この点、周囲が驚く行動を好んだ若き日の信長と通じる一面があったといえるでしょう。 赤母衣衆筆頭に抜擢 若き日の利家は血気盛んな青年で、勇猛果敢に戦い武功を上げていきます。天文21年(1552)の萱津(かやづ)の戦いでは、敵の首級一つを上げて初陣を飾りました。元服し前田又左衞門利家と名乗った利家は、稲生の戦いでは右目の下を矢で射抜かれながらも敵を討ち取ります。永禄元年(1558年)の浮野の戦いにも従軍、得意の槍で功績を上げ「槍の又左衞門」や「槍の又左」などの異名で呼ばれるようになります。これらの武功から、利家は信長直属の精鋭部隊である赤母衣衆(あかほろしゅう)筆頭に抜擢。信長の命のもと数多くの戦場を駆け巡ったのです。 浪人時代と帰参 順調に出世街道を進んでいるように見えた利家でしたが、ある事件をきっかけに信長を激怒させてしまいます。 拾阿弥を斬殺 赤母衣衆筆頭となった同じ年に利家は、まつと結ばれ長女の幸を授かりました。順調に人生を歩む利家でしたが、その翌年に「笄(こうがい)斬り」と呼ばれる事件をおこします。きっかけは信長の寵愛を受けていた同朋衆の拾阿弥が利家の笄(結髪用具)を盗んだことでした。大切にしていた笄を盗まれた利家は、拾阿弥を成敗すると憤りましたが、信長が取り成したことで大事にはなりませんでした。しかし、拾阿弥はその後も利家に非礼な態度を続けたため、信長の面前で拾阿弥を斬殺し利家は出奔してしまったのです。 出仕停止処分 拾阿弥の斬殺は信長を激怒させ、利家の成敗は避けられない状況でした。この窮地を救ったのが柴田勝家や森可成らです。彼らが助命に尽力したことにより、利家の罪は減刑され出仕停止処分となりました。 出仕停止となった身では、当然これまでのような生活はできず、利家は浪人として過ごします。浪人の身となった利家は、熱田神宮社家である松岡家の庇護を受けながら織田家への帰参の道を模索し、ある方法を思いつきました。 無断参戦 利家が考えた織田家へ帰参する方法とは、織田軍と共に戦場で戦うことでした。戦場で武功を上げれば出仕停止の処分が解かれると考えたのです。利家は桶狭間の戦いに無断参戦、今川義元率いる2万5000人の大軍を相手に奮戦し計3つの首をとるも、この戦いでの帰参は許されませんでした。 利家の帰参が許されたのは、永禄4年(1561)のこと。無断参戦した利家は豪傑として知られた斎藤家重臣の家臣で、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛を討ち取ります。ほかにも首級を上げた利家は、戦功が認められ2年ぶりに帰参が許されたのです。 帰参と家督相続 帰参が許された利家は永禄12年(1569)、信長の突然の命令により前田家の家督を相続することになります。当時、父の利春はこの世を去り前田家の家督は長兄の利久が継いでいました。信長が利家に前田家の家督を相続させた理由には、利久には実子がいないことにくわえ、病弱で長い間戦場に出ていないことも影響したといわれています。 織田信長の死 前田家の家督を継いだ利家ですが、信長の死によって大きな決断を迫られることになります。
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、いつ生まれたか。
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、天文7年(1539)12月25日に生まれた。
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歴史
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、前田利家である。 「傾奇者」から「槍の又左」へ 若き日は「傾奇者」とされた利家。生まれから武功を上げ始めた青年時代を振り返ります。 荒子前田家当主の四男として誕生 利家は、天文7年(1539)12月25日に尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)を支配していた土豪・荒子前田家の当主である前田利春(利昌とも)の四男として生まれます。幼名は犬千代といい、織田家筆頭家老の林秀貞のもとで与力となっていましたが、天文20年(1551)頃から織田信長の小姓となります。若き日の利家は派手、奇抜な身なりを好み傾奇者とされていました。この点、周囲が驚く行動を好んだ若き日の信長と通じる一面があったといえるでしょう。 赤母衣衆筆頭に抜擢 若き日の利家は血気盛んな青年で、勇猛果敢に戦い武功を上げていきます。天文21年(1552)の萱津(かやづ)の戦いでは、敵の首級一つを上げて初陣を飾りました。元服し前田又左衞門利家と名乗った利家は、稲生の戦いでは右目の下を矢で射抜かれながらも敵を討ち取ります。永禄元年(1558年)の浮野の戦いにも従軍、得意の槍で功績を上げ「槍の又左衞門」や「槍の又左」などの異名で呼ばれるようになります。これらの武功から、利家は信長直属の精鋭部隊である赤母衣衆(あかほろしゅう)筆頭に抜擢。信長の命のもと数多くの戦場を駆け巡ったのです。 浪人時代と帰参 順調に出世街道を進んでいるように見えた利家でしたが、ある事件をきっかけに信長を激怒させてしまいます。 拾阿弥を斬殺 赤母衣衆筆頭となった同じ年に利家は、まつと結ばれ長女の幸を授かりました。順調に人生を歩む利家でしたが、その翌年に「笄(こうがい)斬り」と呼ばれる事件をおこします。きっかけは信長の寵愛を受けていた同朋衆の拾阿弥が利家の笄(結髪用具)を盗んだことでした。大切にしていた笄を盗まれた利家は、拾阿弥を成敗すると憤りましたが、信長が取り成したことで大事にはなりませんでした。しかし、拾阿弥はその後も利家に非礼な態度を続けたため、信長の面前で拾阿弥を斬殺し利家は出奔してしまったのです。 出仕停止処分 拾阿弥の斬殺は信長を激怒させ、利家の成敗は避けられない状況でした。この窮地を救ったのが柴田勝家や森可成らです。彼らが助命に尽力したことにより、利家の罪は減刑され出仕停止処分となりました。 出仕停止となった身では、当然これまでのような生活はできず、利家は浪人として過ごします。浪人の身となった利家は、熱田神宮社家である松岡家の庇護を受けながら織田家への帰参の道を模索し、ある方法を思いつきました。 無断参戦 利家が考えた織田家へ帰参する方法とは、織田軍と共に戦場で戦うことでした。戦場で武功を上げれば出仕停止の処分が解かれると考えたのです。利家は桶狭間の戦いに無断参戦、今川義元率いる2万5000人の大軍を相手に奮戦し計3つの首をとるも、この戦いでの帰参は許されませんでした。 利家の帰参が許されたのは、永禄4年(1561)のこと。無断参戦した利家は豪傑として知られた斎藤家重臣の家臣で、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛を討ち取ります。ほかにも首級を上げた利家は、戦功が認められ2年ぶりに帰参が許されたのです。 帰参と家督相続 帰参が許された利家は永禄12年(1569)、信長の突然の命令により前田家の家督を相続することになります。当時、父の利春はこの世を去り前田家の家督は長兄の利久が継いでいました。信長が利家に前田家の家督を相続させた理由には、利久には実子がいないことにくわえ、病弱で長い間戦場に出ていないことも影響したといわれています。 織田信長の死 前田家の家督を継いだ利家ですが、信長の死によって大きな決断を迫られることになります。
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、誰の四男として生まれたか。
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、土豪・荒子前田家の当主である前田利春(利昌とも)の四男として生まれた。
JCRRAG_018534
歴史
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、前田利家である。 「傾奇者」から「槍の又左」へ 若き日は「傾奇者」とされた利家。生まれから武功を上げ始めた青年時代を振り返ります。 荒子前田家当主の四男として誕生 利家は、天文7年(1539)12月25日に尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)を支配していた土豪・荒子前田家の当主である前田利春(利昌とも)の四男として生まれます。幼名は犬千代といい、織田家筆頭家老の林秀貞のもとで与力となっていましたが、天文20年(1551)頃から織田信長の小姓となります。若き日の利家は派手、奇抜な身なりを好み傾奇者とされていました。この点、周囲が驚く行動を好んだ若き日の信長と通じる一面があったといえるでしょう。 赤母衣衆筆頭に抜擢 若き日の利家は血気盛んな青年で、勇猛果敢に戦い武功を上げていきます。天文21年(1552)の萱津(かやづ)の戦いでは、敵の首級一つを上げて初陣を飾りました。元服し前田又左衞門利家と名乗った利家は、稲生の戦いでは右目の下を矢で射抜かれながらも敵を討ち取ります。永禄元年(1558年)の浮野の戦いにも従軍、得意の槍で功績を上げ「槍の又左衞門」や「槍の又左」などの異名で呼ばれるようになります。これらの武功から、利家は信長直属の精鋭部隊である赤母衣衆(あかほろしゅう)筆頭に抜擢。信長の命のもと数多くの戦場を駆け巡ったのです。 浪人時代と帰参 順調に出世街道を進んでいるように見えた利家でしたが、ある事件をきっかけに信長を激怒させてしまいます。 拾阿弥を斬殺 赤母衣衆筆頭となった同じ年に利家は、まつと結ばれ長女の幸を授かりました。順調に人生を歩む利家でしたが、その翌年に「笄(こうがい)斬り」と呼ばれる事件をおこします。きっかけは信長の寵愛を受けていた同朋衆の拾阿弥が利家の笄(結髪用具)を盗んだことでした。大切にしていた笄を盗まれた利家は、拾阿弥を成敗すると憤りましたが、信長が取り成したことで大事にはなりませんでした。しかし、拾阿弥はその後も利家に非礼な態度を続けたため、信長の面前で拾阿弥を斬殺し利家は出奔してしまったのです。 出仕停止処分 拾阿弥の斬殺は信長を激怒させ、利家の成敗は避けられない状況でした。この窮地を救ったのが柴田勝家や森可成らです。彼らが助命に尽力したことにより、利家の罪は減刑され出仕停止処分となりました。 出仕停止となった身では、当然これまでのような生活はできず、利家は浪人として過ごします。浪人の身となった利家は、熱田神宮社家である松岡家の庇護を受けながら織田家への帰参の道を模索し、ある方法を思いつきました。 無断参戦 利家が考えた織田家へ帰参する方法とは、織田軍と共に戦場で戦うことでした。戦場で武功を上げれば出仕停止の処分が解かれると考えたのです。利家は桶狭間の戦いに無断参戦、今川義元率いる2万5000人の大軍を相手に奮戦し計3つの首をとるも、この戦いでの帰参は許されませんでした。 利家の帰参が許されたのは、永禄4年(1561)のこと。無断参戦した利家は豪傑として知られた斎藤家重臣の家臣で、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛を討ち取ります。ほかにも首級を上げた利家は、戦功が認められ2年ぶりに帰参が許されたのです。 帰参と家督相続 帰参が許された利家は永禄12年(1569)、信長の突然の命令により前田家の家督を相続することになります。当時、父の利春はこの世を去り前田家の家督は長兄の利久が継いでいました。信長が利家に前田家の家督を相続させた理由には、利久には実子がいないことにくわえ、病弱で長い間戦場に出ていないことも影響したといわれています。 織田信長の死 前田家の家督を継いだ利家ですが、信長の死によって大きな決断を迫られることになります。
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、稲生の戦いでどのように敵を討ち取ったか。
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、稲生の戦いでは右目の下を矢で射抜かれながらも敵を討ち取った。
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歴史
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、前田利家である。 「傾奇者」から「槍の又左」へ 若き日は「傾奇者」とされた利家。生まれから武功を上げ始めた青年時代を振り返ります。 荒子前田家当主の四男として誕生 利家は、天文7年(1539)12月25日に尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)を支配していた土豪・荒子前田家の当主である前田利春(利昌とも)の四男として生まれます。幼名は犬千代といい、織田家筆頭家老の林秀貞のもとで与力となっていましたが、天文20年(1551)頃から織田信長の小姓となります。若き日の利家は派手、奇抜な身なりを好み傾奇者とされていました。この点、周囲が驚く行動を好んだ若き日の信長と通じる一面があったといえるでしょう。 赤母衣衆筆頭に抜擢 若き日の利家は血気盛んな青年で、勇猛果敢に戦い武功を上げていきます。天文21年(1552)の萱津(かやづ)の戦いでは、敵の首級一つを上げて初陣を飾りました。元服し前田又左衞門利家と名乗った利家は、稲生の戦いでは右目の下を矢で射抜かれながらも敵を討ち取ります。永禄元年(1558年)の浮野の戦いにも従軍、得意の槍で功績を上げ「槍の又左衞門」や「槍の又左」などの異名で呼ばれるようになります。これらの武功から、利家は信長直属の精鋭部隊である赤母衣衆(あかほろしゅう)筆頭に抜擢。信長の命のもと数多くの戦場を駆け巡ったのです。 浪人時代と帰参 順調に出世街道を進んでいるように見えた利家でしたが、ある事件をきっかけに信長を激怒させてしまいます。 拾阿弥を斬殺 赤母衣衆筆頭となった同じ年に利家は、まつと結ばれ長女の幸を授かりました。順調に人生を歩む利家でしたが、その翌年に「笄(こうがい)斬り」と呼ばれる事件をおこします。きっかけは信長の寵愛を受けていた同朋衆の拾阿弥が利家の笄(結髪用具)を盗んだことでした。大切にしていた笄を盗まれた利家は、拾阿弥を成敗すると憤りましたが、信長が取り成したことで大事にはなりませんでした。しかし、拾阿弥はその後も利家に非礼な態度を続けたため、信長の面前で拾阿弥を斬殺し利家は出奔してしまったのです。 出仕停止処分 拾阿弥の斬殺は信長を激怒させ、利家の成敗は避けられない状況でした。この窮地を救ったのが柴田勝家や森可成らです。彼らが助命に尽力したことにより、利家の罪は減刑され出仕停止処分となりました。 出仕停止となった身では、当然これまでのような生活はできず、利家は浪人として過ごします。浪人の身となった利家は、熱田神宮社家である松岡家の庇護を受けながら織田家への帰参の道を模索し、ある方法を思いつきました。 無断参戦 利家が考えた織田家へ帰参する方法とは、織田軍と共に戦場で戦うことでした。戦場で武功を上げれば出仕停止の処分が解かれると考えたのです。利家は桶狭間の戦いに無断参戦、今川義元率いる2万5000人の大軍を相手に奮戦し計3つの首をとるも、この戦いでの帰参は許されませんでした。 利家の帰参が許されたのは、永禄4年(1561)のこと。無断参戦した利家は豪傑として知られた斎藤家重臣の家臣で、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛を討ち取ります。ほかにも首級を上げた利家は、戦功が認められ2年ぶりに帰参が許されたのです。 帰参と家督相続 帰参が許された利家は永禄12年(1569)、信長の突然の命令により前田家の家督を相続することになります。当時、父の利春はこの世を去り前田家の家督は長兄の利久が継いでいました。信長が利家に前田家の家督を相続させた理由には、利久には実子がいないことにくわえ、病弱で長い間戦場に出ていないことも影響したといわれています。 織田信長の死 前田家の家督を継いだ利家ですが、信長の死によって大きな決断を迫られることになります。
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、誰と結ばれたか。
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、まつと結ばれた。
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歴史
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、前田利家である。 「傾奇者」から「槍の又左」へ 若き日は「傾奇者」とされた利家。生まれから武功を上げ始めた青年時代を振り返ります。 荒子前田家当主の四男として誕生 利家は、天文7年(1539)12月25日に尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)を支配していた土豪・荒子前田家の当主である前田利春(利昌とも)の四男として生まれます。幼名は犬千代といい、織田家筆頭家老の林秀貞のもとで与力となっていましたが、天文20年(1551)頃から織田信長の小姓となります。若き日の利家は派手、奇抜な身なりを好み傾奇者とされていました。この点、周囲が驚く行動を好んだ若き日の信長と通じる一面があったといえるでしょう。 赤母衣衆筆頭に抜擢 若き日の利家は血気盛んな青年で、勇猛果敢に戦い武功を上げていきます。天文21年(1552)の萱津(かやづ)の戦いでは、敵の首級一つを上げて初陣を飾りました。元服し前田又左衞門利家と名乗った利家は、稲生の戦いでは右目の下を矢で射抜かれながらも敵を討ち取ります。永禄元年(1558年)の浮野の戦いにも従軍、得意の槍で功績を上げ「槍の又左衞門」や「槍の又左」などの異名で呼ばれるようになります。これらの武功から、利家は信長直属の精鋭部隊である赤母衣衆(あかほろしゅう)筆頭に抜擢。信長の命のもと数多くの戦場を駆け巡ったのです。 浪人時代と帰参 順調に出世街道を進んでいるように見えた利家でしたが、ある事件をきっかけに信長を激怒させてしまいます。 拾阿弥を斬殺 赤母衣衆筆頭となった同じ年に利家は、まつと結ばれ長女の幸を授かりました。順調に人生を歩む利家でしたが、その翌年に「笄(こうがい)斬り」と呼ばれる事件をおこします。きっかけは信長の寵愛を受けていた同朋衆の拾阿弥が利家の笄(結髪用具)を盗んだことでした。大切にしていた笄を盗まれた利家は、拾阿弥を成敗すると憤りましたが、信長が取り成したことで大事にはなりませんでした。しかし、拾阿弥はその後も利家に非礼な態度を続けたため、信長の面前で拾阿弥を斬殺し利家は出奔してしまったのです。 出仕停止処分 拾阿弥の斬殺は信長を激怒させ、利家の成敗は避けられない状況でした。この窮地を救ったのが柴田勝家や森可成らです。彼らが助命に尽力したことにより、利家の罪は減刑され出仕停止処分となりました。 出仕停止となった身では、当然これまでのような生活はできず、利家は浪人として過ごします。浪人の身となった利家は、熱田神宮社家である松岡家の庇護を受けながら織田家への帰参の道を模索し、ある方法を思いつきました。 無断参戦 利家が考えた織田家へ帰参する方法とは、織田軍と共に戦場で戦うことでした。戦場で武功を上げれば出仕停止の処分が解かれると考えたのです。利家は桶狭間の戦いに無断参戦、今川義元率いる2万5000人の大軍を相手に奮戦し計3つの首をとるも、この戦いでの帰参は許されませんでした。 利家の帰参が許されたのは、永禄4年(1561)のこと。無断参戦した利家は豪傑として知られた斎藤家重臣の家臣で、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛を討ち取ります。ほかにも首級を上げた利家は、戦功が認められ2年ぶりに帰参が許されたのです。 帰参と家督相続 帰参が許された利家は永禄12年(1569)、信長の突然の命令により前田家の家督を相続することになります。当時、父の利春はこの世を去り前田家の家督は長兄の利久が継いでいました。信長が利家に前田家の家督を相続させた理由には、利久には実子がいないことにくわえ、病弱で長い間戦場に出ていないことも影響したといわれています。 織田信長の死 前田家の家督を継いだ利家ですが、信長の死によって大きな決断を迫られることになります。
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、誰を授かったか。
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、長女の幸を授かった。。
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歴史
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、前田利家である。 清洲会議 明智光秀による謀反「本能寺の変」で信長が討たれたことにより、織田家は継嗣問題に直面しました。武将たちのさまざまな思惑が渦巻くなか、信長の後継者を決める清洲会議がおこなわれます。 会議では、信長の次男の織田信雄と三男である織田信孝が後継者の地位を主張。しかし、山崎の戦いで明智軍を破り、信長の仇を討った秀吉が会議を優勢に進め、信長の嫡孫である三法師を後継者としました。後継者決定の過程で秀吉と勝家は対立し、利家はその後の人生を左右する大きな決断を迫られます。 秀吉と勝家のあいだで 秀吉と勝家の間で起こった対立は利家の心を苦しめました。利家は秀吉が足軽時代だった頃から夫婦ぐるみで親交を深め、子どものなかった秀吉夫婦に四女の豪姫を授けるほどでした。一方、勝家との信頼関係もとても深く、「笄斬り」の件で助命に尽力してくれたことに恩義を感じていました。どちらとも戦いたくはないと葛藤する利家でしたが、最終的には意外な行動をとります。勝家と秀吉が対峙した「賤ヶ岳の戦い」で柴田軍として布陣した利家は、突然戦線を離脱。秀吉が有利となる行動をとったのです。 まつに救われた利家 賤ヶ岳の戦いにおける利家の戦線離脱は、秀吉の勝利を決定づけました。しかし、利家は勝家側についた理由を秀吉に問われ、またも苦境に立たされます。このピンチを救ったのが、利家の正妻・まつでした。まつは秀吉と直接会い、利家の心情や敵対する意思がないことを伝えました。その結果、利家はこの危機を乗り越えることができ、秀吉の家臣になることができたのです。 利家の晩年 秀吉の家臣となり奮戦した利家は、天正13年(1585)に能登・加賀・越中を領土に持つ大名となりました。利家の晩年は秀吉の息子である秀頼の守役を任じられるなど、より一層の信頼を秀吉から寄せられています。利家は慶長3年(1598)嫡子である利長に家督を譲りますが隠居はせずに、五大老の一人に選ばれました。 秀吉の死後も、利家は大きな影響力を持ちます。ルール違反ともいえる強引な婚姻政策を進めていた徳川家康に対して、病に侵された身でありながらも利家は激しく反発。家康は利家との対立を望まず和解しており、のちに天下人となる家康に対しても大きな存在であったことがうかがえます。 家康との騒動の直後、利家の病状は悪化。前田利家は、慶長4年(1599)閏3月3日に、大阪の自邸で亡くなりました。 利家の人物像とは? 利家の人物像を振り返ってみましょう。 晩年まで傾奇者を好んだ 青年時代は傾奇者で通っていた利家は、晩年においても傾いた若者を好んだといわれています。この時代の有名な傾奇者といえば、義理の甥にあたる前田利益(慶次郎)です。前田慶次の名で知られる傾奇者と利家の仲は良くなかったといわれていますが、同時代の史料や利家の回顧録には不仲に関する記述がありません。利家は慶次の父にあたる利久から前田家の家督を奪い取った人物です。それが負い目であった可能性は否定できませんが、傾奇者としての生き方を貫いた慶次に好感を持っていたとも考えられます。 前田家の決済はすべて自分で 当時としては扱えるものが少なかった算盤を愛用していた利家は、前田家の決済をすべて自分で行っていました。これは、浪人時代の苦しい生活で金銭の大切さを学んだからといわれています。度が過ぎる節約や倹約に励む利家の姿をみて、まつはケチとまで口にしたほどです。しかし、利家は北条家が滅んだあと困窮する大名にお金を貸しており、遺言においても「こちらから借金の催促はするな、返せない者の借金はなかったことにするように」と利長に残しています。利家がただのケチではなく、義理人情がある人物だということがうかがえます。 戦国時代を駆け抜けた義に熱い人物 短気で喧嘩っ早い傾奇者の青年は、戦国時代を駆け抜け義に熱い人物へと成長しました。義に熱く恩を忘れない人物だからこそ、葛藤し苦しむこともありましたが、その経験が秀吉をはじめ多くの人物の人望を勝ち得たといえるでしょう。
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、いつ頃から夫婦ぐるみで親交を深めたか。
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、秀吉が足軽時代だった頃から夫婦ぐるみで親交を深めた。
JCRRAG_018538
歴史
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、前田利家である。 清洲会議 明智光秀による謀反「本能寺の変」で信長が討たれたことにより、織田家は継嗣問題に直面しました。武将たちのさまざまな思惑が渦巻くなか、信長の後継者を決める清洲会議がおこなわれます。 会議では、信長の次男の織田信雄と三男である織田信孝が後継者の地位を主張。しかし、山崎の戦いで明智軍を破り、信長の仇を討った秀吉が会議を優勢に進め、信長の嫡孫である三法師を後継者としました。後継者決定の過程で秀吉と勝家は対立し、利家はその後の人生を左右する大きな決断を迫られます。 秀吉と勝家のあいだで 秀吉と勝家の間で起こった対立は利家の心を苦しめました。利家は秀吉が足軽時代だった頃から夫婦ぐるみで親交を深め、子どものなかった秀吉夫婦に四女の豪姫を授けるほどでした。一方、勝家との信頼関係もとても深く、「笄斬り」の件で助命に尽力してくれたことに恩義を感じていました。どちらとも戦いたくはないと葛藤する利家でしたが、最終的には意外な行動をとります。勝家と秀吉が対峙した「賤ヶ岳の戦い」で柴田軍として布陣した利家は、突然戦線を離脱。秀吉が有利となる行動をとったのです。 まつに救われた利家 賤ヶ岳の戦いにおける利家の戦線離脱は、秀吉の勝利を決定づけました。しかし、利家は勝家側についた理由を秀吉に問われ、またも苦境に立たされます。このピンチを救ったのが、利家の正妻・まつでした。まつは秀吉と直接会い、利家の心情や敵対する意思がないことを伝えました。その結果、利家はこの危機を乗り越えることができ、秀吉の家臣になることができたのです。 利家の晩年 秀吉の家臣となり奮戦した利家は、天正13年(1585)に能登・加賀・越中を領土に持つ大名となりました。利家の晩年は秀吉の息子である秀頼の守役を任じられるなど、より一層の信頼を秀吉から寄せられています。利家は慶長3年(1598)嫡子である利長に家督を譲りますが隠居はせずに、五大老の一人に選ばれました。 秀吉の死後も、利家は大きな影響力を持ちます。ルール違反ともいえる強引な婚姻政策を進めていた徳川家康に対して、病に侵された身でありながらも利家は激しく反発。家康は利家との対立を望まず和解しており、のちに天下人となる家康に対しても大きな存在であったことがうかがえます。 家康との騒動の直後、利家の病状は悪化。前田利家は、慶長4年(1599)閏3月3日に、大阪の自邸で亡くなりました。 利家の人物像とは? 利家の人物像を振り返ってみましょう。 晩年まで傾奇者を好んだ 青年時代は傾奇者で通っていた利家は、晩年においても傾いた若者を好んだといわれています。この時代の有名な傾奇者といえば、義理の甥にあたる前田利益(慶次郎)です。前田慶次の名で知られる傾奇者と利家の仲は良くなかったといわれていますが、同時代の史料や利家の回顧録には不仲に関する記述がありません。利家は慶次の父にあたる利久から前田家の家督を奪い取った人物です。それが負い目であった可能性は否定できませんが、傾奇者としての生き方を貫いた慶次に好感を持っていたとも考えられます。 前田家の決済はすべて自分で 当時としては扱えるものが少なかった算盤を愛用していた利家は、前田家の決済をすべて自分で行っていました。これは、浪人時代の苦しい生活で金銭の大切さを学んだからといわれています。度が過ぎる節約や倹約に励む利家の姿をみて、まつはケチとまで口にしたほどです。しかし、利家は北条家が滅んだあと困窮する大名にお金を貸しており、遺言においても「こちらから借金の催促はするな、返せない者の借金はなかったことにするように」と利長に残しています。利家がただのケチではなく、義理人情がある人物だということがうかがえます。 戦国時代を駆け抜けた義に熱い人物 短気で喧嘩っ早い傾奇者の青年は、戦国時代を駆け抜け義に熱い人物へと成長しました。義に熱く恩を忘れない人物だからこそ、葛藤し苦しむこともありましたが、その経験が秀吉をはじめ多くの人物の人望を勝ち得たといえるでしょう。
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、子どものなかった秀吉夫婦に誰を授けたか。
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、子どものなかった秀吉夫婦に四女の豪姫を授けた。
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歴史
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、前田利家である。 清洲会議 明智光秀による謀反「本能寺の変」で信長が討たれたことにより、織田家は継嗣問題に直面しました。武将たちのさまざまな思惑が渦巻くなか、信長の後継者を決める清洲会議がおこなわれます。 会議では、信長の次男の織田信雄と三男である織田信孝が後継者の地位を主張。しかし、山崎の戦いで明智軍を破り、信長の仇を討った秀吉が会議を優勢に進め、信長の嫡孫である三法師を後継者としました。後継者決定の過程で秀吉と勝家は対立し、利家はその後の人生を左右する大きな決断を迫られます。 秀吉と勝家のあいだで 秀吉と勝家の間で起こった対立は利家の心を苦しめました。利家は秀吉が足軽時代だった頃から夫婦ぐるみで親交を深め、子どものなかった秀吉夫婦に四女の豪姫を授けるほどでした。一方、勝家との信頼関係もとても深く、「笄斬り」の件で助命に尽力してくれたことに恩義を感じていました。どちらとも戦いたくはないと葛藤する利家でしたが、最終的には意外な行動をとります。勝家と秀吉が対峙した「賤ヶ岳の戦い」で柴田軍として布陣した利家は、突然戦線を離脱。秀吉が有利となる行動をとったのです。 まつに救われた利家 賤ヶ岳の戦いにおける利家の戦線離脱は、秀吉の勝利を決定づけました。しかし、利家は勝家側についた理由を秀吉に問われ、またも苦境に立たされます。このピンチを救ったのが、利家の正妻・まつでした。まつは秀吉と直接会い、利家の心情や敵対する意思がないことを伝えました。その結果、利家はこの危機を乗り越えることができ、秀吉の家臣になることができたのです。 利家の晩年 秀吉の家臣となり奮戦した利家は、天正13年(1585)に能登・加賀・越中を領土に持つ大名となりました。利家の晩年は秀吉の息子である秀頼の守役を任じられるなど、より一層の信頼を秀吉から寄せられています。利家は慶長3年(1598)嫡子である利長に家督を譲りますが隠居はせずに、五大老の一人に選ばれました。 秀吉の死後も、利家は大きな影響力を持ちます。ルール違反ともいえる強引な婚姻政策を進めていた徳川家康に対して、病に侵された身でありながらも利家は激しく反発。家康は利家との対立を望まず和解しており、のちに天下人となる家康に対しても大きな存在であったことがうかがえます。 家康との騒動の直後、利家の病状は悪化。前田利家は、慶長4年(1599)閏3月3日に、大阪の自邸で亡くなりました。 利家の人物像とは? 利家の人物像を振り返ってみましょう。 晩年まで傾奇者を好んだ 青年時代は傾奇者で通っていた利家は、晩年においても傾いた若者を好んだといわれています。この時代の有名な傾奇者といえば、義理の甥にあたる前田利益(慶次郎)です。前田慶次の名で知られる傾奇者と利家の仲は良くなかったといわれていますが、同時代の史料や利家の回顧録には不仲に関する記述がありません。利家は慶次の父にあたる利久から前田家の家督を奪い取った人物です。それが負い目であった可能性は否定できませんが、傾奇者としての生き方を貫いた慶次に好感を持っていたとも考えられます。 前田家の決済はすべて自分で 当時としては扱えるものが少なかった算盤を愛用していた利家は、前田家の決済をすべて自分で行っていました。これは、浪人時代の苦しい生活で金銭の大切さを学んだからといわれています。度が過ぎる節約や倹約に励む利家の姿をみて、まつはケチとまで口にしたほどです。しかし、利家は北条家が滅んだあと困窮する大名にお金を貸しており、遺言においても「こちらから借金の催促はするな、返せない者の借金はなかったことにするように」と利長に残しています。利家がただのケチではなく、義理人情がある人物だということがうかがえます。 戦国時代を駆け抜けた義に熱い人物 短気で喧嘩っ早い傾奇者の青年は、戦国時代を駆け抜け義に熱い人物へと成長しました。義に熱く恩を忘れない人物だからこそ、葛藤し苦しむこともありましたが、その経験が秀吉をはじめ多くの人物の人望を勝ち得たといえるでしょう。
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、いつ大名となったか。
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、天正13年(1585)に能登・加賀・越中を領土に持つ大名となった。
JCRRAG_018540
歴史
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、前田利家である。 清洲会議 明智光秀による謀反「本能寺の変」で信長が討たれたことにより、織田家は継嗣問題に直面しました。武将たちのさまざまな思惑が渦巻くなか、信長の後継者を決める清洲会議がおこなわれます。 会議では、信長の次男の織田信雄と三男である織田信孝が後継者の地位を主張。しかし、山崎の戦いで明智軍を破り、信長の仇を討った秀吉が会議を優勢に進め、信長の嫡孫である三法師を後継者としました。後継者決定の過程で秀吉と勝家は対立し、利家はその後の人生を左右する大きな決断を迫られます。 秀吉と勝家のあいだで 秀吉と勝家の間で起こった対立は利家の心を苦しめました。利家は秀吉が足軽時代だった頃から夫婦ぐるみで親交を深め、子どものなかった秀吉夫婦に四女の豪姫を授けるほどでした。一方、勝家との信頼関係もとても深く、「笄斬り」の件で助命に尽力してくれたことに恩義を感じていました。どちらとも戦いたくはないと葛藤する利家でしたが、最終的には意外な行動をとります。勝家と秀吉が対峙した「賤ヶ岳の戦い」で柴田軍として布陣した利家は、突然戦線を離脱。秀吉が有利となる行動をとったのです。 まつに救われた利家 賤ヶ岳の戦いにおける利家の戦線離脱は、秀吉の勝利を決定づけました。しかし、利家は勝家側についた理由を秀吉に問われ、またも苦境に立たされます。このピンチを救ったのが、利家の正妻・まつでした。まつは秀吉と直接会い、利家の心情や敵対する意思がないことを伝えました。その結果、利家はこの危機を乗り越えることができ、秀吉の家臣になることができたのです。 利家の晩年 秀吉の家臣となり奮戦した利家は、天正13年(1585)に能登・加賀・越中を領土に持つ大名となりました。利家の晩年は秀吉の息子である秀頼の守役を任じられるなど、より一層の信頼を秀吉から寄せられています。利家は慶長3年(1598)嫡子である利長に家督を譲りますが隠居はせずに、五大老の一人に選ばれました。 秀吉の死後も、利家は大きな影響力を持ちます。ルール違反ともいえる強引な婚姻政策を進めていた徳川家康に対して、病に侵された身でありながらも利家は激しく反発。家康は利家との対立を望まず和解しており、のちに天下人となる家康に対しても大きな存在であったことがうかがえます。 家康との騒動の直後、利家の病状は悪化。前田利家は、慶長4年(1599)閏3月3日に、大阪の自邸で亡くなりました。 利家の人物像とは? 利家の人物像を振り返ってみましょう。 晩年まで傾奇者を好んだ 青年時代は傾奇者で通っていた利家は、晩年においても傾いた若者を好んだといわれています。この時代の有名な傾奇者といえば、義理の甥にあたる前田利益(慶次郎)です。前田慶次の名で知られる傾奇者と利家の仲は良くなかったといわれていますが、同時代の史料や利家の回顧録には不仲に関する記述がありません。利家は慶次の父にあたる利久から前田家の家督を奪い取った人物です。それが負い目であった可能性は否定できませんが、傾奇者としての生き方を貫いた慶次に好感を持っていたとも考えられます。 前田家の決済はすべて自分で 当時としては扱えるものが少なかった算盤を愛用していた利家は、前田家の決済をすべて自分で行っていました。これは、浪人時代の苦しい生活で金銭の大切さを学んだからといわれています。度が過ぎる節約や倹約に励む利家の姿をみて、まつはケチとまで口にしたほどです。しかし、利家は北条家が滅んだあと困窮する大名にお金を貸しており、遺言においても「こちらから借金の催促はするな、返せない者の借金はなかったことにするように」と利長に残しています。利家がただのケチではなく、義理人情がある人物だということがうかがえます。 戦国時代を駆け抜けた義に熱い人物 短気で喧嘩っ早い傾奇者の青年は、戦国時代を駆け抜け義に熱い人物へと成長しました。義に熱く恩を忘れない人物だからこそ、葛藤し苦しむこともありましたが、その経験が秀吉をはじめ多くの人物の人望を勝ち得たといえるでしょう。
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、いつ亡くなったか。
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、慶長4年(1599)閏3月3日に亡くなった。
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歴史
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、前田利家である。 清洲会議 明智光秀による謀反「本能寺の変」で信長が討たれたことにより、織田家は継嗣問題に直面しました。武将たちのさまざまな思惑が渦巻くなか、信長の後継者を決める清洲会議がおこなわれます。 会議では、信長の次男の織田信雄と三男である織田信孝が後継者の地位を主張。しかし、山崎の戦いで明智軍を破り、信長の仇を討った秀吉が会議を優勢に進め、信長の嫡孫である三法師を後継者としました。後継者決定の過程で秀吉と勝家は対立し、利家はその後の人生を左右する大きな決断を迫られます。 秀吉と勝家のあいだで 秀吉と勝家の間で起こった対立は利家の心を苦しめました。利家は秀吉が足軽時代だった頃から夫婦ぐるみで親交を深め、子どものなかった秀吉夫婦に四女の豪姫を授けるほどでした。一方、勝家との信頼関係もとても深く、「笄斬り」の件で助命に尽力してくれたことに恩義を感じていました。どちらとも戦いたくはないと葛藤する利家でしたが、最終的には意外な行動をとります。勝家と秀吉が対峙した「賤ヶ岳の戦い」で柴田軍として布陣した利家は、突然戦線を離脱。秀吉が有利となる行動をとったのです。 まつに救われた利家 賤ヶ岳の戦いにおける利家の戦線離脱は、秀吉の勝利を決定づけました。しかし、利家は勝家側についた理由を秀吉に問われ、またも苦境に立たされます。このピンチを救ったのが、利家の正妻・まつでした。まつは秀吉と直接会い、利家の心情や敵対する意思がないことを伝えました。その結果、利家はこの危機を乗り越えることができ、秀吉の家臣になることができたのです。 利家の晩年 秀吉の家臣となり奮戦した利家は、天正13年(1585)に能登・加賀・越中を領土に持つ大名となりました。利家の晩年は秀吉の息子である秀頼の守役を任じられるなど、より一層の信頼を秀吉から寄せられています。利家は慶長3年(1598)嫡子である利長に家督を譲りますが隠居はせずに、五大老の一人に選ばれました。 秀吉の死後も、利家は大きな影響力を持ちます。ルール違反ともいえる強引な婚姻政策を進めていた徳川家康に対して、病に侵された身でありながらも利家は激しく反発。家康は利家との対立を望まず和解しており、のちに天下人となる家康に対しても大きな存在であったことがうかがえます。 家康との騒動の直後、利家の病状は悪化。前田利家は、慶長4年(1599)閏3月3日に、大阪の自邸で亡くなりました。 利家の人物像とは? 利家の人物像を振り返ってみましょう。 晩年まで傾奇者を好んだ 青年時代は傾奇者で通っていた利家は、晩年においても傾いた若者を好んだといわれています。この時代の有名な傾奇者といえば、義理の甥にあたる前田利益(慶次郎)です。前田慶次の名で知られる傾奇者と利家の仲は良くなかったといわれていますが、同時代の史料や利家の回顧録には不仲に関する記述がありません。利家は慶次の父にあたる利久から前田家の家督を奪い取った人物です。それが負い目であった可能性は否定できませんが、傾奇者としての生き方を貫いた慶次に好感を持っていたとも考えられます。 前田家の決済はすべて自分で 当時としては扱えるものが少なかった算盤を愛用していた利家は、前田家の決済をすべて自分で行っていました。これは、浪人時代の苦しい生活で金銭の大切さを学んだからといわれています。度が過ぎる節約や倹約に励む利家の姿をみて、まつはケチとまで口にしたほどです。しかし、利家は北条家が滅んだあと困窮する大名にお金を貸しており、遺言においても「こちらから借金の催促はするな、返せない者の借金はなかったことにするように」と利長に残しています。利家がただのケチではなく、義理人情がある人物だということがうかがえます。 戦国時代を駆け抜けた義に熱い人物 短気で喧嘩っ早い傾奇者の青年は、戦国時代を駆け抜け義に熱い人物へと成長しました。義に熱く恩を忘れない人物だからこそ、葛藤し苦しむこともありましたが、その経験が秀吉をはじめ多くの人物の人望を勝ち得たといえるでしょう。
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、どこで亡くなったか。
奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、大阪の自邸で亡くなった。
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歴史
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、北条氏政である。 北条氏康の後を継いだ氏政 氏政はどのように家督を継承したのでしょうか?うまれから武田領国への侵攻までについて振り返ります。 後北条氏第4代当主に就任 氏政は、天文7年(1538)第3代当主・北条氏康の次男としてうまれ、兄・氏親が早くに亡くなったため世子となりました。天文23年(1554)氏康、武田信玄、今川義元との間で甲相駿三国同盟が成立すると、氏政は信玄の娘・黄梅院を正室に迎えます。政略結婚でしたが、夫婦仲は良かったようです。永禄2年(1559)に父が隠居すると、家督を継承して第4代当主に就任。しかし、氏康の存命中は氏康・氏政の両頭体制が続きました。 上杉謙信との戦い 永禄4年(1561)上杉謙信との小田原城の戦いで後北条氏は窮地に陥ります。しかし、信玄の支援もあり、氏政は籠城戦で上杉軍を撃退。謙信が第4次川中島の戦いで被害を受けると、氏政は信玄に呼応して北関東方面に侵攻し、上杉方に奪われた領土を奪還しました。永禄7年(1564)の第2次国府台合戦では、苦戦しつつも北条綱成とともに安房の里見氏に勝利します。これにより、謙信を盟主としていた諸将が氏政に帰順し、後北条氏は上野国にも勢力を拡大しました。 甲相同盟と越相同盟 永禄3年(1560)桶狭間の戦いで駿河の義元が討死し、甲駿関係が手切れとなったことから、信玄は駿河侵攻を開始しました。これにより、義元の嫡男であり氏政の義弟・今川氏真が没落。後北条氏は駿相同盟を優先し、甲相同盟が破綻します。氏政は武田方から離反した徳川家康と和議を結び、信玄に対抗するため、弟(上杉景虎)を宿敵・謙信に差し出し越相同盟を締結しました。しかし、元亀2年(1571)に父・氏康が病没すると、越相同盟を破棄して甲相同盟を復活させ、信玄の西上作戦に参加。謙信との戦いも再び始まり、氏政は関東の上杉派勢力をほぼ一掃して勢力を拡大しました。 武田領国を挟撃する 天正6年(1578)に謙信が死去すると、謙信の甥・上杉景勝と、氏政の弟で謙信の養子・景虎の間で、後継者をめぐる御館の乱が勃発します。氏政は武田勝頼に援軍を依頼し、勝頼の調停により景虎・景勝は和睦しました。ところが勝頼の撤兵中に和睦が破綻し、景勝が乱を制する形となり景虎は自害。これにより氏政は甲相同盟を破棄し、家康と同盟を結んで武田領国を挟撃します。その後は織田信長に臣従し、家督を氏直に譲って隠居しましたが、政治・軍事の実権は氏政が掌握し続けました。 勢力拡大し、最大版図を築く その後も氏政は勢力を拡大し、後北条氏の最大版図を築きます。しかし、その裏には天下人との摩擦もありました。 織田家重臣・滝川一益と激突 天正10年(1582)織田氏が甲州征伐に乗り出すと、氏政はこれに呼応し武田領に侵攻。同年、勝頼が天目山の戦いで自刃し、甲斐武田氏が滅亡します。このころ信長は、滝川一益を関東管領として関東統治を目論んでいました。後北条氏は織田氏との婚姻を条件に関東一括統治を願い出ましたが、信長は好意的ではなかったようです。そんな中、明智光秀の謀反により信長が死去します。これにより武田氏旧領の甲斐・信濃をめぐる天正壬午の乱が勃発。後北条氏は一益と対立するも信濃東部から中部を占領下に置き、家康は真田昌幸を調略して北条軍と対立します。この騒動により織田氏は多くの領地を失い、一益も失脚しました。 徳川家康との和睦 その後、後北条氏と家康は対陣しましたが、氏政の子・氏直と家康の娘・督姫の結婚により和睦します。甲斐・信濃は徳川領、上野は北条領とすることで合意しましたが、家康についていた昌幸はこれを不服としました。自分で入手した上野・沼田城が後北条氏に明け渡されることを拒んだ昌幸は、対上杉という名目で新築した上田城に本拠を移すと、そのまま上杉氏に寝返り、徳川・北条と抗戦します。その後、徳川が上田に攻め入る第一次上田合戦が勃発。北条も沼田に攻め入りますが、戦いは真田陣営の勝利となりました。一方、上方では織田家の事実上の後継者となり、柴田勝家と対立していた羽柴秀吉が景勝と同盟を締結。景勝は上野を巡って氏政と争っていたことから、秀吉はこの時点で反北条の姿勢だったと考えられています。
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、いつうまれたか。
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、天文7年(1538)にうまれた。
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歴史
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、北条氏政である。 北条氏康の後を継いだ氏政 氏政はどのように家督を継承したのでしょうか?うまれから武田領国への侵攻までについて振り返ります。 後北条氏第4代当主に就任 氏政は、天文7年(1538)第3代当主・北条氏康の次男としてうまれ、兄・氏親が早くに亡くなったため世子となりました。天文23年(1554)氏康、武田信玄、今川義元との間で甲相駿三国同盟が成立すると、氏政は信玄の娘・黄梅院を正室に迎えます。政略結婚でしたが、夫婦仲は良かったようです。永禄2年(1559)に父が隠居すると、家督を継承して第4代当主に就任。しかし、氏康の存命中は氏康・氏政の両頭体制が続きました。 上杉謙信との戦い 永禄4年(1561)上杉謙信との小田原城の戦いで後北条氏は窮地に陥ります。しかし、信玄の支援もあり、氏政は籠城戦で上杉軍を撃退。謙信が第4次川中島の戦いで被害を受けると、氏政は信玄に呼応して北関東方面に侵攻し、上杉方に奪われた領土を奪還しました。永禄7年(1564)の第2次国府台合戦では、苦戦しつつも北条綱成とともに安房の里見氏に勝利します。これにより、謙信を盟主としていた諸将が氏政に帰順し、後北条氏は上野国にも勢力を拡大しました。 甲相同盟と越相同盟 永禄3年(1560)桶狭間の戦いで駿河の義元が討死し、甲駿関係が手切れとなったことから、信玄は駿河侵攻を開始しました。これにより、義元の嫡男であり氏政の義弟・今川氏真が没落。後北条氏は駿相同盟を優先し、甲相同盟が破綻します。氏政は武田方から離反した徳川家康と和議を結び、信玄に対抗するため、弟(上杉景虎)を宿敵・謙信に差し出し越相同盟を締結しました。しかし、元亀2年(1571)に父・氏康が病没すると、越相同盟を破棄して甲相同盟を復活させ、信玄の西上作戦に参加。謙信との戦いも再び始まり、氏政は関東の上杉派勢力をほぼ一掃して勢力を拡大しました。 武田領国を挟撃する 天正6年(1578)に謙信が死去すると、謙信の甥・上杉景勝と、氏政の弟で謙信の養子・景虎の間で、後継者をめぐる御館の乱が勃発します。氏政は武田勝頼に援軍を依頼し、勝頼の調停により景虎・景勝は和睦しました。ところが勝頼の撤兵中に和睦が破綻し、景勝が乱を制する形となり景虎は自害。これにより氏政は甲相同盟を破棄し、家康と同盟を結んで武田領国を挟撃します。その後は織田信長に臣従し、家督を氏直に譲って隠居しましたが、政治・軍事の実権は氏政が掌握し続けました。 勢力拡大し、最大版図を築く その後も氏政は勢力を拡大し、後北条氏の最大版図を築きます。しかし、その裏には天下人との摩擦もありました。 織田家重臣・滝川一益と激突 天正10年(1582)織田氏が甲州征伐に乗り出すと、氏政はこれに呼応し武田領に侵攻。同年、勝頼が天目山の戦いで自刃し、甲斐武田氏が滅亡します。このころ信長は、滝川一益を関東管領として関東統治を目論んでいました。後北条氏は織田氏との婚姻を条件に関東一括統治を願い出ましたが、信長は好意的ではなかったようです。そんな中、明智光秀の謀反により信長が死去します。これにより武田氏旧領の甲斐・信濃をめぐる天正壬午の乱が勃発。後北条氏は一益と対立するも信濃東部から中部を占領下に置き、家康は真田昌幸を調略して北条軍と対立します。この騒動により織田氏は多くの領地を失い、一益も失脚しました。 徳川家康との和睦 その後、後北条氏と家康は対陣しましたが、氏政の子・氏直と家康の娘・督姫の結婚により和睦します。甲斐・信濃は徳川領、上野は北条領とすることで合意しましたが、家康についていた昌幸はこれを不服としました。自分で入手した上野・沼田城が後北条氏に明け渡されることを拒んだ昌幸は、対上杉という名目で新築した上田城に本拠を移すと、そのまま上杉氏に寝返り、徳川・北条と抗戦します。その後、徳川が上田に攻め入る第一次上田合戦が勃発。北条も沼田に攻め入りますが、戦いは真田陣営の勝利となりました。一方、上方では織田家の事実上の後継者となり、柴田勝家と対立していた羽柴秀吉が景勝と同盟を締結。景勝は上野を巡って氏政と争っていたことから、秀吉はこの時点で反北条の姿勢だったと考えられています。
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、誰の次男としてうまれたか。
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、第3代当主・北条氏康の次男としてうまれた。
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歴史
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、北条氏政である。 北条氏康の後を継いだ氏政 氏政はどのように家督を継承したのでしょうか?うまれから武田領国への侵攻までについて振り返ります。 後北条氏第4代当主に就任 氏政は、天文7年(1538)第3代当主・北条氏康の次男としてうまれ、兄・氏親が早くに亡くなったため世子となりました。天文23年(1554)氏康、武田信玄、今川義元との間で甲相駿三国同盟が成立すると、氏政は信玄の娘・黄梅院を正室に迎えます。政略結婚でしたが、夫婦仲は良かったようです。永禄2年(1559)に父が隠居すると、家督を継承して第4代当主に就任。しかし、氏康の存命中は氏康・氏政の両頭体制が続きました。 上杉謙信との戦い 永禄4年(1561)上杉謙信との小田原城の戦いで後北条氏は窮地に陥ります。しかし、信玄の支援もあり、氏政は籠城戦で上杉軍を撃退。謙信が第4次川中島の戦いで被害を受けると、氏政は信玄に呼応して北関東方面に侵攻し、上杉方に奪われた領土を奪還しました。永禄7年(1564)の第2次国府台合戦では、苦戦しつつも北条綱成とともに安房の里見氏に勝利します。これにより、謙信を盟主としていた諸将が氏政に帰順し、後北条氏は上野国にも勢力を拡大しました。 甲相同盟と越相同盟 永禄3年(1560)桶狭間の戦いで駿河の義元が討死し、甲駿関係が手切れとなったことから、信玄は駿河侵攻を開始しました。これにより、義元の嫡男であり氏政の義弟・今川氏真が没落。後北条氏は駿相同盟を優先し、甲相同盟が破綻します。氏政は武田方から離反した徳川家康と和議を結び、信玄に対抗するため、弟(上杉景虎)を宿敵・謙信に差し出し越相同盟を締結しました。しかし、元亀2年(1571)に父・氏康が病没すると、越相同盟を破棄して甲相同盟を復活させ、信玄の西上作戦に参加。謙信との戦いも再び始まり、氏政は関東の上杉派勢力をほぼ一掃して勢力を拡大しました。 武田領国を挟撃する 天正6年(1578)に謙信が死去すると、謙信の甥・上杉景勝と、氏政の弟で謙信の養子・景虎の間で、後継者をめぐる御館の乱が勃発します。氏政は武田勝頼に援軍を依頼し、勝頼の調停により景虎・景勝は和睦しました。ところが勝頼の撤兵中に和睦が破綻し、景勝が乱を制する形となり景虎は自害。これにより氏政は甲相同盟を破棄し、家康と同盟を結んで武田領国を挟撃します。その後は織田信長に臣従し、家督を氏直に譲って隠居しましたが、政治・軍事の実権は氏政が掌握し続けました。 勢力拡大し、最大版図を築く その後も氏政は勢力を拡大し、後北条氏の最大版図を築きます。しかし、その裏には天下人との摩擦もありました。 織田家重臣・滝川一益と激突 天正10年(1582)織田氏が甲州征伐に乗り出すと、氏政はこれに呼応し武田領に侵攻。同年、勝頼が天目山の戦いで自刃し、甲斐武田氏が滅亡します。このころ信長は、滝川一益を関東管領として関東統治を目論んでいました。後北条氏は織田氏との婚姻を条件に関東一括統治を願い出ましたが、信長は好意的ではなかったようです。そんな中、明智光秀の謀反により信長が死去します。これにより武田氏旧領の甲斐・信濃をめぐる天正壬午の乱が勃発。後北条氏は一益と対立するも信濃東部から中部を占領下に置き、家康は真田昌幸を調略して北条軍と対立します。この騒動により織田氏は多くの領地を失い、一益も失脚しました。 徳川家康との和睦 その後、後北条氏と家康は対陣しましたが、氏政の子・氏直と家康の娘・督姫の結婚により和睦します。甲斐・信濃は徳川領、上野は北条領とすることで合意しましたが、家康についていた昌幸はこれを不服としました。自分で入手した上野・沼田城が後北条氏に明け渡されることを拒んだ昌幸は、対上杉という名目で新築した上田城に本拠を移すと、そのまま上杉氏に寝返り、徳川・北条と抗戦します。その後、徳川が上田に攻め入る第一次上田合戦が勃発。北条も沼田に攻め入りますが、戦いは真田陣営の勝利となりました。一方、上方では織田家の事実上の後継者となり、柴田勝家と対立していた羽柴秀吉が景勝と同盟を締結。景勝は上野を巡って氏政と争っていたことから、秀吉はこの時点で反北条の姿勢だったと考えられています。
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、織田信長に臣従し、誰と和議を結んだか。
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、武田方から離反した徳川家康と和議を結んだ。
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歴史
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、北条氏政である。 北条氏康の後を継いだ氏政 氏政はどのように家督を継承したのでしょうか?うまれから武田領国への侵攻までについて振り返ります。 後北条氏第4代当主に就任 氏政は、天文7年(1538)第3代当主・北条氏康の次男としてうまれ、兄・氏親が早くに亡くなったため世子となりました。天文23年(1554)氏康、武田信玄、今川義元との間で甲相駿三国同盟が成立すると、氏政は信玄の娘・黄梅院を正室に迎えます。政略結婚でしたが、夫婦仲は良かったようです。永禄2年(1559)に父が隠居すると、家督を継承して第4代当主に就任。しかし、氏康の存命中は氏康・氏政の両頭体制が続きました。 上杉謙信との戦い 永禄4年(1561)上杉謙信との小田原城の戦いで後北条氏は窮地に陥ります。しかし、信玄の支援もあり、氏政は籠城戦で上杉軍を撃退。謙信が第4次川中島の戦いで被害を受けると、氏政は信玄に呼応して北関東方面に侵攻し、上杉方に奪われた領土を奪還しました。永禄7年(1564)の第2次国府台合戦では、苦戦しつつも北条綱成とともに安房の里見氏に勝利します。これにより、謙信を盟主としていた諸将が氏政に帰順し、後北条氏は上野国にも勢力を拡大しました。 甲相同盟と越相同盟 永禄3年(1560)桶狭間の戦いで駿河の義元が討死し、甲駿関係が手切れとなったことから、信玄は駿河侵攻を開始しました。これにより、義元の嫡男であり氏政の義弟・今川氏真が没落。後北条氏は駿相同盟を優先し、甲相同盟が破綻します。氏政は武田方から離反した徳川家康と和議を結び、信玄に対抗するため、弟(上杉景虎)を宿敵・謙信に差し出し越相同盟を締結しました。しかし、元亀2年(1571)に父・氏康が病没すると、越相同盟を破棄して甲相同盟を復活させ、信玄の西上作戦に参加。謙信との戦いも再び始まり、氏政は関東の上杉派勢力をほぼ一掃して勢力を拡大しました。 武田領国を挟撃する 天正6年(1578)に謙信が死去すると、謙信の甥・上杉景勝と、氏政の弟で謙信の養子・景虎の間で、後継者をめぐる御館の乱が勃発します。氏政は武田勝頼に援軍を依頼し、勝頼の調停により景虎・景勝は和睦しました。ところが勝頼の撤兵中に和睦が破綻し、景勝が乱を制する形となり景虎は自害。これにより氏政は甲相同盟を破棄し、家康と同盟を結んで武田領国を挟撃します。その後は織田信長に臣従し、家督を氏直に譲って隠居しましたが、政治・軍事の実権は氏政が掌握し続けました。 勢力拡大し、最大版図を築く その後も氏政は勢力を拡大し、後北条氏の最大版図を築きます。しかし、その裏には天下人との摩擦もありました。 織田家重臣・滝川一益と激突 天正10年(1582)織田氏が甲州征伐に乗り出すと、氏政はこれに呼応し武田領に侵攻。同年、勝頼が天目山の戦いで自刃し、甲斐武田氏が滅亡します。このころ信長は、滝川一益を関東管領として関東統治を目論んでいました。後北条氏は織田氏との婚姻を条件に関東一括統治を願い出ましたが、信長は好意的ではなかったようです。そんな中、明智光秀の謀反により信長が死去します。これにより武田氏旧領の甲斐・信濃をめぐる天正壬午の乱が勃発。後北条氏は一益と対立するも信濃東部から中部を占領下に置き、家康は真田昌幸を調略して北条軍と対立します。この騒動により織田氏は多くの領地を失い、一益も失脚しました。 徳川家康との和睦 その後、後北条氏と家康は対陣しましたが、氏政の子・氏直と家康の娘・督姫の結婚により和睦します。甲斐・信濃は徳川領、上野は北条領とすることで合意しましたが、家康についていた昌幸はこれを不服としました。自分で入手した上野・沼田城が後北条氏に明け渡されることを拒んだ昌幸は、対上杉という名目で新築した上田城に本拠を移すと、そのまま上杉氏に寝返り、徳川・北条と抗戦します。その後、徳川が上田に攻め入る第一次上田合戦が勃発。北条も沼田に攻め入りますが、戦いは真田陣営の勝利となりました。一方、上方では織田家の事実上の後継者となり、柴田勝家と対立していた羽柴秀吉が景勝と同盟を締結。景勝は上野を巡って氏政と争っていたことから、秀吉はこの時点で反北条の姿勢だったと考えられています。
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、信玄に対抗するため、何を締結したか。
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、信玄に対抗するため、弟(上杉景虎)を宿敵・謙信に差し出し越相同盟を締結した。
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歴史
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、北条氏政である。 北条氏康の後を継いだ氏政 氏政はどのように家督を継承したのでしょうか?うまれから武田領国への侵攻までについて振り返ります。 後北条氏第4代当主に就任 氏政は、天文7年(1538)第3代当主・北条氏康の次男としてうまれ、兄・氏親が早くに亡くなったため世子となりました。天文23年(1554)氏康、武田信玄、今川義元との間で甲相駿三国同盟が成立すると、氏政は信玄の娘・黄梅院を正室に迎えます。政略結婚でしたが、夫婦仲は良かったようです。永禄2年(1559)に父が隠居すると、家督を継承して第4代当主に就任。しかし、氏康の存命中は氏康・氏政の両頭体制が続きました。 上杉謙信との戦い 永禄4年(1561)上杉謙信との小田原城の戦いで後北条氏は窮地に陥ります。しかし、信玄の支援もあり、氏政は籠城戦で上杉軍を撃退。謙信が第4次川中島の戦いで被害を受けると、氏政は信玄に呼応して北関東方面に侵攻し、上杉方に奪われた領土を奪還しました。永禄7年(1564)の第2次国府台合戦では、苦戦しつつも北条綱成とともに安房の里見氏に勝利します。これにより、謙信を盟主としていた諸将が氏政に帰順し、後北条氏は上野国にも勢力を拡大しました。 甲相同盟と越相同盟 永禄3年(1560)桶狭間の戦いで駿河の義元が討死し、甲駿関係が手切れとなったことから、信玄は駿河侵攻を開始しました。これにより、義元の嫡男であり氏政の義弟・今川氏真が没落。後北条氏は駿相同盟を優先し、甲相同盟が破綻します。氏政は武田方から離反した徳川家康と和議を結び、信玄に対抗するため、弟(上杉景虎)を宿敵・謙信に差し出し越相同盟を締結しました。しかし、元亀2年(1571)に父・氏康が病没すると、越相同盟を破棄して甲相同盟を復活させ、信玄の西上作戦に参加。謙信との戦いも再び始まり、氏政は関東の上杉派勢力をほぼ一掃して勢力を拡大しました。 武田領国を挟撃する 天正6年(1578)に謙信が死去すると、謙信の甥・上杉景勝と、氏政の弟で謙信の養子・景虎の間で、後継者をめぐる御館の乱が勃発します。氏政は武田勝頼に援軍を依頼し、勝頼の調停により景虎・景勝は和睦しました。ところが勝頼の撤兵中に和睦が破綻し、景勝が乱を制する形となり景虎は自害。これにより氏政は甲相同盟を破棄し、家康と同盟を結んで武田領国を挟撃します。その後は織田信長に臣従し、家督を氏直に譲って隠居しましたが、政治・軍事の実権は氏政が掌握し続けました。 勢力拡大し、最大版図を築く その後も氏政は勢力を拡大し、後北条氏の最大版図を築きます。しかし、その裏には天下人との摩擦もありました。 織田家重臣・滝川一益と激突 天正10年(1582)織田氏が甲州征伐に乗り出すと、氏政はこれに呼応し武田領に侵攻。同年、勝頼が天目山の戦いで自刃し、甲斐武田氏が滅亡します。このころ信長は、滝川一益を関東管領として関東統治を目論んでいました。後北条氏は織田氏との婚姻を条件に関東一括統治を願い出ましたが、信長は好意的ではなかったようです。そんな中、明智光秀の謀反により信長が死去します。これにより武田氏旧領の甲斐・信濃をめぐる天正壬午の乱が勃発。後北条氏は一益と対立するも信濃東部から中部を占領下に置き、家康は真田昌幸を調略して北条軍と対立します。この騒動により織田氏は多くの領地を失い、一益も失脚しました。 徳川家康との和睦 その後、後北条氏と家康は対陣しましたが、氏政の子・氏直と家康の娘・督姫の結婚により和睦します。甲斐・信濃は徳川領、上野は北条領とすることで合意しましたが、家康についていた昌幸はこれを不服としました。自分で入手した上野・沼田城が後北条氏に明け渡されることを拒んだ昌幸は、対上杉という名目で新築した上田城に本拠を移すと、そのまま上杉氏に寝返り、徳川・北条と抗戦します。その後、徳川が上田に攻め入る第一次上田合戦が勃発。北条も沼田に攻め入りますが、戦いは真田陣営の勝利となりました。一方、上方では織田家の事実上の後継者となり、柴田勝家と対立していた羽柴秀吉が景勝と同盟を締結。景勝は上野を巡って氏政と争っていたことから、秀吉はこの時点で反北条の姿勢だったと考えられています。
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、甲相同盟を破棄し、家康と同盟を結んでどこを挟撃したか。
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、甲相同盟を破棄し、家康と同盟を結んで武田領国を挟撃した。
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関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、北条氏政である。 240万石を領し、関東の頂点に 天正11年(1583)古河公方・足利義氏が死去すると、氏政は官途補任により権力を掌握し関東の頂点に立ちます。利根川・常陸川水系を確保し流通・交通体系を支配したため、反北条を掲げる関東の武将たちは従属か徹底抗戦かを選択することになりました。その後、氏政は下野侵攻により下野国の南半分を支配下に置き、常陸南部にも勢力を広げます。こうして後北条氏の領国は240万石となり、氏政は後北条氏の最大版図を築き上げました。 小田原征伐と最期 有力武将らとの戦いを重ね、絶頂期を迎えた氏政。しかしその後、秀吉との対立によりすべてを失うことになります。 沼田裁定と名胡桃城事件 天正16年(1588)、氏政は秀吉から聚楽第行幸への列席を求められましたが、これを拒否します。しかし、家康から説得され、最終的には秀吉への従属を決意。翌年、評定衆・板部岡江雪斎が沼田問題の解決を要請したことから、秀吉は沼田裁定を行います。これは、2/3が後北条氏、1/3が真田氏のものとするという内容で、領地の引き渡し後、北条方は沼田城と権現山城に、真田方は名胡桃城に家臣を配備しました。ところが同年10月、北条氏邦の家臣・猪俣邦憲による名胡桃城奪取事件が勃発。これに対し秀吉は、諸大名に後北条氏追討の出陣をするよう促しました。 小田原城籠城の末、切腹 秀吉と対立した氏政・氏直親子は、家臣や他国衆に対し小田原への参陣を命じ、各方面から侵攻してくる豊臣軍を迎撃します。氏政は小田原城に籠城して抗戦したものの、領国内の諸城が次々と落城。押し寄せる敵の大軍に敵わず、最後は「武蔵・相模・伊豆のみを領地とする」「氏直に上洛をさせる」という条件のもと降伏しました。しかし、秀吉はこの和睦条件を破って氏政らに切腹を命じ、氏直を高野山に追放することを決意します。氏直は全将兵の助命を嘆願し、氏直の舅・家康も氏政の助命を乞いましたが、その願いも空しく氏政は切腹してこの世を去りました。 氏政にまるわるエピソード 一般的に知られる氏政の逸話には否定的なものも多いようです。ここでは彼にまつわるエピソードをご紹介します。 「汁かけ飯」と「麦飯」の逸話 氏政は食事の際に飯に汁をかけ、少なかったためもう一度汁をかけ足しました。それを見た父・氏康は、「汁かけ飯の量も量れぬ者に、領国や家臣を推し量ることなど出来ない」と嘆息したという逸話が残されています。 また『甲陽軍鑑』には、氏政が麦刈り中の農民を見て、「あの採れたての麦で昼飯にしよう」と言ったというエピソードもあり、これは氏政の無知さを示しているようです。ただし、これらは後世の創作ともいわれています。 家族思いで愛妻家だった 氏政は家族思いの愛妻家としても知られています。正室・黄梅院とは武田の駿河侵攻を機に離婚させられましたが、最後まで離婚を渋り、父の死後に武田氏と和睦した際には、真っ先に妻の遺骨をもらって手厚く葬ったと言われています。また、有能な弟たちとも良好な関係を維持していたようです。 戦国大名・後北条氏が滅亡した 戦国時代、後北条氏における最大勢力を築いた氏政。しかし、秀吉との対立から小田原征伐をまねき、結果として戦国大名としての後北条氏は滅びました。氏政は後北条氏滅亡時の実権者だったことから無能と評価されることもありますが、氏康時代以上に勢力を広げ、兄弟や家臣とも良い関係を築いていることから、実際は有能な人物だったといえるでしょう。
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、どうやって関東の頂点に立ったか。
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、官途補任により権力を掌握し関東の頂点に立った。
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関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、北条氏政である。 240万石を領し、関東の頂点に 天正11年(1583)古河公方・足利義氏が死去すると、氏政は官途補任により権力を掌握し関東の頂点に立ちます。利根川・常陸川水系を確保し流通・交通体系を支配したため、反北条を掲げる関東の武将たちは従属か徹底抗戦かを選択することになりました。その後、氏政は下野侵攻により下野国の南半分を支配下に置き、常陸南部にも勢力を広げます。こうして後北条氏の領国は240万石となり、氏政は後北条氏の最大版図を築き上げました。 小田原征伐と最期 有力武将らとの戦いを重ね、絶頂期を迎えた氏政。しかしその後、秀吉との対立によりすべてを失うことになります。 沼田裁定と名胡桃城事件 天正16年(1588)、氏政は秀吉から聚楽第行幸への列席を求められましたが、これを拒否します。しかし、家康から説得され、最終的には秀吉への従属を決意。翌年、評定衆・板部岡江雪斎が沼田問題の解決を要請したことから、秀吉は沼田裁定を行います。これは、2/3が後北条氏、1/3が真田氏のものとするという内容で、領地の引き渡し後、北条方は沼田城と権現山城に、真田方は名胡桃城に家臣を配備しました。ところが同年10月、北条氏邦の家臣・猪俣邦憲による名胡桃城奪取事件が勃発。これに対し秀吉は、諸大名に後北条氏追討の出陣をするよう促しました。 小田原城籠城の末、切腹 秀吉と対立した氏政・氏直親子は、家臣や他国衆に対し小田原への参陣を命じ、各方面から侵攻してくる豊臣軍を迎撃します。氏政は小田原城に籠城して抗戦したものの、領国内の諸城が次々と落城。押し寄せる敵の大軍に敵わず、最後は「武蔵・相模・伊豆のみを領地とする」「氏直に上洛をさせる」という条件のもと降伏しました。しかし、秀吉はこの和睦条件を破って氏政らに切腹を命じ、氏直を高野山に追放することを決意します。氏直は全将兵の助命を嘆願し、氏直の舅・家康も氏政の助命を乞いましたが、その願いも空しく氏政は切腹してこの世を去りました。 氏政にまるわるエピソード 一般的に知られる氏政の逸話には否定的なものも多いようです。ここでは彼にまつわるエピソードをご紹介します。 「汁かけ飯」と「麦飯」の逸話 氏政は食事の際に飯に汁をかけ、少なかったためもう一度汁をかけ足しました。それを見た父・氏康は、「汁かけ飯の量も量れぬ者に、領国や家臣を推し量ることなど出来ない」と嘆息したという逸話が残されています。 また『甲陽軍鑑』には、氏政が麦刈り中の農民を見て、「あの採れたての麦で昼飯にしよう」と言ったというエピソードもあり、これは氏政の無知さを示しているようです。ただし、これらは後世の創作ともいわれています。 家族思いで愛妻家だった 氏政は家族思いの愛妻家としても知られています。正室・黄梅院とは武田の駿河侵攻を機に離婚させられましたが、最後まで離婚を渋り、父の死後に武田氏と和睦した際には、真っ先に妻の遺骨をもらって手厚く葬ったと言われています。また、有能な弟たちとも良好な関係を維持していたようです。 戦国大名・後北条氏が滅亡した 戦国時代、後北条氏における最大勢力を築いた氏政。しかし、秀吉との対立から小田原征伐をまねき、結果として戦国大名としての後北条氏は滅びました。氏政は後北条氏滅亡時の実権者だったことから無能と評価されることもありますが、氏康時代以上に勢力を広げ、兄弟や家臣とも良い関係を築いていることから、実際は有能な人物だったといえるでしょう。
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、下野侵攻によりどこを支配下に置いたか。
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、下野侵攻により下野国の南半分を支配下に置いた。
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関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、北条氏政である。 240万石を領し、関東の頂点に 天正11年(1583)古河公方・足利義氏が死去すると、氏政は官途補任により権力を掌握し関東の頂点に立ちます。利根川・常陸川水系を確保し流通・交通体系を支配したため、反北条を掲げる関東の武将たちは従属か徹底抗戦かを選択することになりました。その後、氏政は下野侵攻により下野国の南半分を支配下に置き、常陸南部にも勢力を広げます。こうして後北条氏の領国は240万石となり、氏政は後北条氏の最大版図を築き上げました。 小田原征伐と最期 有力武将らとの戦いを重ね、絶頂期を迎えた氏政。しかしその後、秀吉との対立によりすべてを失うことになります。 沼田裁定と名胡桃城事件 天正16年(1588)、氏政は秀吉から聚楽第行幸への列席を求められましたが、これを拒否します。しかし、家康から説得され、最終的には秀吉への従属を決意。翌年、評定衆・板部岡江雪斎が沼田問題の解決を要請したことから、秀吉は沼田裁定を行います。これは、2/3が後北条氏、1/3が真田氏のものとするという内容で、領地の引き渡し後、北条方は沼田城と権現山城に、真田方は名胡桃城に家臣を配備しました。ところが同年10月、北条氏邦の家臣・猪俣邦憲による名胡桃城奪取事件が勃発。これに対し秀吉は、諸大名に後北条氏追討の出陣をするよう促しました。 小田原城籠城の末、切腹 秀吉と対立した氏政・氏直親子は、家臣や他国衆に対し小田原への参陣を命じ、各方面から侵攻してくる豊臣軍を迎撃します。氏政は小田原城に籠城して抗戦したものの、領国内の諸城が次々と落城。押し寄せる敵の大軍に敵わず、最後は「武蔵・相模・伊豆のみを領地とする」「氏直に上洛をさせる」という条件のもと降伏しました。しかし、秀吉はこの和睦条件を破って氏政らに切腹を命じ、氏直を高野山に追放することを決意します。氏直は全将兵の助命を嘆願し、氏直の舅・家康も氏政の助命を乞いましたが、その願いも空しく氏政は切腹してこの世を去りました。 氏政にまるわるエピソード 一般的に知られる氏政の逸話には否定的なものも多いようです。ここでは彼にまつわるエピソードをご紹介します。 「汁かけ飯」と「麦飯」の逸話 氏政は食事の際に飯に汁をかけ、少なかったためもう一度汁をかけ足しました。それを見た父・氏康は、「汁かけ飯の量も量れぬ者に、領国や家臣を推し量ることなど出来ない」と嘆息したという逸話が残されています。 また『甲陽軍鑑』には、氏政が麦刈り中の農民を見て、「あの採れたての麦で昼飯にしよう」と言ったというエピソードもあり、これは氏政の無知さを示しているようです。ただし、これらは後世の創作ともいわれています。 家族思いで愛妻家だった 氏政は家族思いの愛妻家としても知られています。正室・黄梅院とは武田の駿河侵攻を機に離婚させられましたが、最後まで離婚を渋り、父の死後に武田氏と和睦した際には、真っ先に妻の遺骨をもらって手厚く葬ったと言われています。また、有能な弟たちとも良好な関係を維持していたようです。 戦国大名・後北条氏が滅亡した 戦国時代、後北条氏における最大勢力を築いた氏政。しかし、秀吉との対立から小田原征伐をまねき、結果として戦国大名としての後北条氏は滅びました。氏政は後北条氏滅亡時の実権者だったことから無能と評価されることもありますが、氏康時代以上に勢力を広げ、兄弟や家臣とも良い関係を築いていることから、実際は有能な人物だったといえるでしょう。
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、下野侵攻によりどこまで勢力を広げたか。
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、下野侵攻により常陸南部にも勢力を広げた。
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関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、北条氏政である。 240万石を領し、関東の頂点に 天正11年(1583)古河公方・足利義氏が死去すると、氏政は官途補任により権力を掌握し関東の頂点に立ちます。利根川・常陸川水系を確保し流通・交通体系を支配したため、反北条を掲げる関東の武将たちは従属か徹底抗戦かを選択することになりました。その後、氏政は下野侵攻により下野国の南半分を支配下に置き、常陸南部にも勢力を広げます。こうして後北条氏の領国は240万石となり、氏政は後北条氏の最大版図を築き上げました。 小田原征伐と最期 有力武将らとの戦いを重ね、絶頂期を迎えた氏政。しかしその後、秀吉との対立によりすべてを失うことになります。 沼田裁定と名胡桃城事件 天正16年(1588)、氏政は秀吉から聚楽第行幸への列席を求められましたが、これを拒否します。しかし、家康から説得され、最終的には秀吉への従属を決意。翌年、評定衆・板部岡江雪斎が沼田問題の解決を要請したことから、秀吉は沼田裁定を行います。これは、2/3が後北条氏、1/3が真田氏のものとするという内容で、領地の引き渡し後、北条方は沼田城と権現山城に、真田方は名胡桃城に家臣を配備しました。ところが同年10月、北条氏邦の家臣・猪俣邦憲による名胡桃城奪取事件が勃発。これに対し秀吉は、諸大名に後北条氏追討の出陣をするよう促しました。 小田原城籠城の末、切腹 秀吉と対立した氏政・氏直親子は、家臣や他国衆に対し小田原への参陣を命じ、各方面から侵攻してくる豊臣軍を迎撃します。氏政は小田原城に籠城して抗戦したものの、領国内の諸城が次々と落城。押し寄せる敵の大軍に敵わず、最後は「武蔵・相模・伊豆のみを領地とする」「氏直に上洛をさせる」という条件のもと降伏しました。しかし、秀吉はこの和睦条件を破って氏政らに切腹を命じ、氏直を高野山に追放することを決意します。氏直は全将兵の助命を嘆願し、氏直の舅・家康も氏政の助命を乞いましたが、その願いも空しく氏政は切腹してこの世を去りました。 氏政にまるわるエピソード 一般的に知られる氏政の逸話には否定的なものも多いようです。ここでは彼にまつわるエピソードをご紹介します。 「汁かけ飯」と「麦飯」の逸話 氏政は食事の際に飯に汁をかけ、少なかったためもう一度汁をかけ足しました。それを見た父・氏康は、「汁かけ飯の量も量れぬ者に、領国や家臣を推し量ることなど出来ない」と嘆息したという逸話が残されています。 また『甲陽軍鑑』には、氏政が麦刈り中の農民を見て、「あの採れたての麦で昼飯にしよう」と言ったというエピソードもあり、これは氏政の無知さを示しているようです。ただし、これらは後世の創作ともいわれています。 家族思いで愛妻家だった 氏政は家族思いの愛妻家としても知られています。正室・黄梅院とは武田の駿河侵攻を機に離婚させられましたが、最後まで離婚を渋り、父の死後に武田氏と和睦した際には、真っ先に妻の遺骨をもらって手厚く葬ったと言われています。また、有能な弟たちとも良好な関係を維持していたようです。 戦国大名・後北条氏が滅亡した 戦国時代、後北条氏における最大勢力を築いた氏政。しかし、秀吉との対立から小田原征伐をまねき、結果として戦国大名としての後北条氏は滅びました。氏政は後北条氏滅亡時の実権者だったことから無能と評価されることもありますが、氏康時代以上に勢力を広げ、兄弟や家臣とも良い関係を築いていることから、実際は有能な人物だったといえるでしょう。
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、何を拒否したか。
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、秀吉から聚楽第行幸への列席を求められましたが、これを拒否した。
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関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、北条氏政である。 240万石を領し、関東の頂点に 天正11年(1583)古河公方・足利義氏が死去すると、氏政は官途補任により権力を掌握し関東の頂点に立ちます。利根川・常陸川水系を確保し流通・交通体系を支配したため、反北条を掲げる関東の武将たちは従属か徹底抗戦かを選択することになりました。その後、氏政は下野侵攻により下野国の南半分を支配下に置き、常陸南部にも勢力を広げます。こうして後北条氏の領国は240万石となり、氏政は後北条氏の最大版図を築き上げました。 小田原征伐と最期 有力武将らとの戦いを重ね、絶頂期を迎えた氏政。しかしその後、秀吉との対立によりすべてを失うことになります。 沼田裁定と名胡桃城事件 天正16年(1588)、氏政は秀吉から聚楽第行幸への列席を求められましたが、これを拒否します。しかし、家康から説得され、最終的には秀吉への従属を決意。翌年、評定衆・板部岡江雪斎が沼田問題の解決を要請したことから、秀吉は沼田裁定を行います。これは、2/3が後北条氏、1/3が真田氏のものとするという内容で、領地の引き渡し後、北条方は沼田城と権現山城に、真田方は名胡桃城に家臣を配備しました。ところが同年10月、北条氏邦の家臣・猪俣邦憲による名胡桃城奪取事件が勃発。これに対し秀吉は、諸大名に後北条氏追討の出陣をするよう促しました。 小田原城籠城の末、切腹 秀吉と対立した氏政・氏直親子は、家臣や他国衆に対し小田原への参陣を命じ、各方面から侵攻してくる豊臣軍を迎撃します。氏政は小田原城に籠城して抗戦したものの、領国内の諸城が次々と落城。押し寄せる敵の大軍に敵わず、最後は「武蔵・相模・伊豆のみを領地とする」「氏直に上洛をさせる」という条件のもと降伏しました。しかし、秀吉はこの和睦条件を破って氏政らに切腹を命じ、氏直を高野山に追放することを決意します。氏直は全将兵の助命を嘆願し、氏直の舅・家康も氏政の助命を乞いましたが、その願いも空しく氏政は切腹してこの世を去りました。 氏政にまるわるエピソード 一般的に知られる氏政の逸話には否定的なものも多いようです。ここでは彼にまつわるエピソードをご紹介します。 「汁かけ飯」と「麦飯」の逸話 氏政は食事の際に飯に汁をかけ、少なかったためもう一度汁をかけ足しました。それを見た父・氏康は、「汁かけ飯の量も量れぬ者に、領国や家臣を推し量ることなど出来ない」と嘆息したという逸話が残されています。 また『甲陽軍鑑』には、氏政が麦刈り中の農民を見て、「あの採れたての麦で昼飯にしよう」と言ったというエピソードもあり、これは氏政の無知さを示しているようです。ただし、これらは後世の創作ともいわれています。 家族思いで愛妻家だった 氏政は家族思いの愛妻家としても知られています。正室・黄梅院とは武田の駿河侵攻を機に離婚させられましたが、最後まで離婚を渋り、父の死後に武田氏と和睦した際には、真っ先に妻の遺骨をもらって手厚く葬ったと言われています。また、有能な弟たちとも良好な関係を維持していたようです。 戦国大名・後北条氏が滅亡した 戦国時代、後北条氏における最大勢力を築いた氏政。しかし、秀吉との対立から小田原征伐をまねき、結果として戦国大名としての後北条氏は滅びました。氏政は後北条氏滅亡時の実権者だったことから無能と評価されることもありますが、氏康時代以上に勢力を広げ、兄弟や家臣とも良い関係を築いていることから、実際は有能な人物だったといえるでしょう。
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、どういう人として知られたか。
関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、家族思いの愛妻家としても知られた。
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歴史
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、真田幸村である。 真田家の名が知れわたるまで 幼少期の幸村はどんな生活をしていたのか、うまれから真田の家名が広まるまでについて振り返ります。 真田昌幸の次男として生まれる 幸村は真田昌幸の次男として誕生しました。本名は真田信繁で、幸村という名称は後世の講談などにより広まったものだといわれています。生年は定かではなく、永禄10年(1567)または元亀元年(1570)と考えられています。 信濃国小県郡の国衆だった真田家は祖父・幸隆のころに武田家に帰属し、父・昌幸は武田信玄の足軽大将として武田24将にも数えられる武将でした。昌幸は長兄と次兄が長篠の戦いで戦死したことから真田家を継承し、幸隆が担っていた上野国岩櫃城代も受け継ぎました。幸村はそんな父に付き従い、甲府から岩櫃に移ったと考えられています。 第一次上田合戦で徳川家康を撃退! 天正10年(1582)3月、織田・徳川連合軍の甲州征伐により武田家が滅亡すると、君主を失った真田家は信長に恭順し、幸村は関東管領・滝川一益の人質となりました。しかし、同年6月には本能寺の変で信長が死去し、上杉家・北条家・徳川家など近隣勢力が武田遺領を巡って天正壬午の乱をおこします。昌幸はこれを機に、信濃に潜伏していた旧武田家臣と主従関係を結んで沼田城を奪回。その後は上杉家、次いで北条家に帰属しますが、のちに離反して徳川家に仕えるようになります。 しかし、家康が北条家との和睦条件として真田家の沼田領を勝手に譲ったことに激怒。そのため、幸村を人質として上杉家と同盟を組み、第一次上田合戦で家康と激突します。昌幸は上田城に籠城し、不利な状況のなか優れた智謀で徳川軍を敗走させました。この活躍により真田家の名は全国へ知れわたることになったのです。 立身出世と関ヶ原の戦い 真田家は時勢を見ながら臣従する相手を替え生き延びました。人質として貢献した幸村は、やがて戦いでその力量を発揮していきます。 豊臣秀吉の馬廻衆となった幸村 その後、真田家は豊臣秀吉に服属し、昌幸は独立した大名として扱われました。幸村はここでも人質となり、大坂に移って大谷吉継の娘・竹林院を妻に迎えています。豊臣政権時の幸村の動向については史料が少なく詳細は不明ですが、近年の研究によれば、秀吉の馬廻衆となった幸村は1万9000石の知行を有し、独立した大名として遇されていたことがわかっています。知行地の支配については、昌幸の家臣らに任せていたようです。 なお、小田原征伐では吉継とともに石田三成の指揮で忍城攻めに参戦、文禄の役では昌幸や兄・信幸(信之)とともに在陣したと考えられており、文禄3年(1594)11月には従五位下左衛門佐に叙任され豊臣姓を賜りました。 犬伏の別れ、そして西軍への従属 慶長3年(1598)、朝鮮出兵半ばで秀吉が病没します。その後、豊臣政権内で三成らと家康らが対立し、関ヶ原の戦いが勃発しました。昌幸・信幸・幸村の3人は家康の命で上杉征伐に向かいますが、西軍の三成から家康討伐の協力要請を受け、下野犬伏で真田家の今後について話し合います。 そして、吉継の娘を妻にもつ幸村は父と共に西軍に、本多忠勝の娘を妻にもつ信幸は東軍に与し、親子で別々の道を歩むことを決めました。この「犬伏の別れ」は、通説ではどちらが負けても家名を存続できるようにする戦略だったといわれています。
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、誰の次男として誕生したか。
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、真田昌幸の次男として誕生した。
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歴史
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、真田幸村である。 真田家の名が知れわたるまで 幼少期の幸村はどんな生活をしていたのか、うまれから真田の家名が広まるまでについて振り返ります。 真田昌幸の次男として生まれる 幸村は真田昌幸の次男として誕生しました。本名は真田信繁で、幸村という名称は後世の講談などにより広まったものだといわれています。生年は定かではなく、永禄10年(1567)または元亀元年(1570)と考えられています。 信濃国小県郡の国衆だった真田家は祖父・幸隆のころに武田家に帰属し、父・昌幸は武田信玄の足軽大将として武田24将にも数えられる武将でした。昌幸は長兄と次兄が長篠の戦いで戦死したことから真田家を継承し、幸隆が担っていた上野国岩櫃城代も受け継ぎました。幸村はそんな父に付き従い、甲府から岩櫃に移ったと考えられています。 第一次上田合戦で徳川家康を撃退! 天正10年(1582)3月、織田・徳川連合軍の甲州征伐により武田家が滅亡すると、君主を失った真田家は信長に恭順し、幸村は関東管領・滝川一益の人質となりました。しかし、同年6月には本能寺の変で信長が死去し、上杉家・北条家・徳川家など近隣勢力が武田遺領を巡って天正壬午の乱をおこします。昌幸はこれを機に、信濃に潜伏していた旧武田家臣と主従関係を結んで沼田城を奪回。その後は上杉家、次いで北条家に帰属しますが、のちに離反して徳川家に仕えるようになります。 しかし、家康が北条家との和睦条件として真田家の沼田領を勝手に譲ったことに激怒。そのため、幸村を人質として上杉家と同盟を組み、第一次上田合戦で家康と激突します。昌幸は上田城に籠城し、不利な状況のなか優れた智謀で徳川軍を敗走させました。この活躍により真田家の名は全国へ知れわたることになったのです。 立身出世と関ヶ原の戦い 真田家は時勢を見ながら臣従する相手を替え生き延びました。人質として貢献した幸村は、やがて戦いでその力量を発揮していきます。 豊臣秀吉の馬廻衆となった幸村 その後、真田家は豊臣秀吉に服属し、昌幸は独立した大名として扱われました。幸村はここでも人質となり、大坂に移って大谷吉継の娘・竹林院を妻に迎えています。豊臣政権時の幸村の動向については史料が少なく詳細は不明ですが、近年の研究によれば、秀吉の馬廻衆となった幸村は1万9000石の知行を有し、独立した大名として遇されていたことがわかっています。知行地の支配については、昌幸の家臣らに任せていたようです。 なお、小田原征伐では吉継とともに石田三成の指揮で忍城攻めに参戦、文禄の役では昌幸や兄・信幸(信之)とともに在陣したと考えられており、文禄3年(1594)11月には従五位下左衛門佐に叙任され豊臣姓を賜りました。 犬伏の別れ、そして西軍への従属 慶長3年(1598)、朝鮮出兵半ばで秀吉が病没します。その後、豊臣政権内で三成らと家康らが対立し、関ヶ原の戦いが勃発しました。昌幸・信幸・幸村の3人は家康の命で上杉征伐に向かいますが、西軍の三成から家康討伐の協力要請を受け、下野犬伏で真田家の今後について話し合います。 そして、吉継の娘を妻にもつ幸村は父と共に西軍に、本多忠勝の娘を妻にもつ信幸は東軍に与し、親子で別々の道を歩むことを決めました。この「犬伏の別れ」は、通説ではどちらが負けても家名を存続できるようにする戦略だったといわれています。
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、そんな父に付き従い、甲府からどこに移ったか。
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、そんな父に付き従い、甲府から岩櫃に移った。
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歴史
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、真田幸村である。 真田家の名が知れわたるまで 幼少期の幸村はどんな生活をしていたのか、うまれから真田の家名が広まるまでについて振り返ります。 真田昌幸の次男として生まれる 幸村は真田昌幸の次男として誕生しました。本名は真田信繁で、幸村という名称は後世の講談などにより広まったものだといわれています。生年は定かではなく、永禄10年(1567)または元亀元年(1570)と考えられています。 信濃国小県郡の国衆だった真田家は祖父・幸隆のころに武田家に帰属し、父・昌幸は武田信玄の足軽大将として武田24将にも数えられる武将でした。昌幸は長兄と次兄が長篠の戦いで戦死したことから真田家を継承し、幸隆が担っていた上野国岩櫃城代も受け継ぎました。幸村はそんな父に付き従い、甲府から岩櫃に移ったと考えられています。 第一次上田合戦で徳川家康を撃退! 天正10年(1582)3月、織田・徳川連合軍の甲州征伐により武田家が滅亡すると、君主を失った真田家は信長に恭順し、幸村は関東管領・滝川一益の人質となりました。しかし、同年6月には本能寺の変で信長が死去し、上杉家・北条家・徳川家など近隣勢力が武田遺領を巡って天正壬午の乱をおこします。昌幸はこれを機に、信濃に潜伏していた旧武田家臣と主従関係を結んで沼田城を奪回。その後は上杉家、次いで北条家に帰属しますが、のちに離反して徳川家に仕えるようになります。 しかし、家康が北条家との和睦条件として真田家の沼田領を勝手に譲ったことに激怒。そのため、幸村を人質として上杉家と同盟を組み、第一次上田合戦で家康と激突します。昌幸は上田城に籠城し、不利な状況のなか優れた智謀で徳川軍を敗走させました。この活躍により真田家の名は全国へ知れわたることになったのです。 立身出世と関ヶ原の戦い 真田家は時勢を見ながら臣従する相手を替え生き延びました。人質として貢献した幸村は、やがて戦いでその力量を発揮していきます。 豊臣秀吉の馬廻衆となった幸村 その後、真田家は豊臣秀吉に服属し、昌幸は独立した大名として扱われました。幸村はここでも人質となり、大坂に移って大谷吉継の娘・竹林院を妻に迎えています。豊臣政権時の幸村の動向については史料が少なく詳細は不明ですが、近年の研究によれば、秀吉の馬廻衆となった幸村は1万9000石の知行を有し、独立した大名として遇されていたことがわかっています。知行地の支配については、昌幸の家臣らに任せていたようです。 なお、小田原征伐では吉継とともに石田三成の指揮で忍城攻めに参戦、文禄の役では昌幸や兄・信幸(信之)とともに在陣したと考えられており、文禄3年(1594)11月には従五位下左衛門佐に叙任され豊臣姓を賜りました。 犬伏の別れ、そして西軍への従属 慶長3年(1598)、朝鮮出兵半ばで秀吉が病没します。その後、豊臣政権内で三成らと家康らが対立し、関ヶ原の戦いが勃発しました。昌幸・信幸・幸村の3人は家康の命で上杉征伐に向かいますが、西軍の三成から家康討伐の協力要請を受け、下野犬伏で真田家の今後について話し合います。 そして、吉継の娘を妻にもつ幸村は父と共に西軍に、本多忠勝の娘を妻にもつ信幸は東軍に与し、親子で別々の道を歩むことを決めました。この「犬伏の別れ」は、通説ではどちらが負けても家名を存続できるようにする戦略だったといわれています。
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、誰の人質となった。
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、関東管領・滝川一益の人質となった。
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大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、真田幸村である。 真田家の名が知れわたるまで 幼少期の幸村はどんな生活をしていたのか、うまれから真田の家名が広まるまでについて振り返ります。 真田昌幸の次男として生まれる 幸村は真田昌幸の次男として誕生しました。本名は真田信繁で、幸村という名称は後世の講談などにより広まったものだといわれています。生年は定かではなく、永禄10年(1567)または元亀元年(1570)と考えられています。 信濃国小県郡の国衆だった真田家は祖父・幸隆のころに武田家に帰属し、父・昌幸は武田信玄の足軽大将として武田24将にも数えられる武将でした。昌幸は長兄と次兄が長篠の戦いで戦死したことから真田家を継承し、幸隆が担っていた上野国岩櫃城代も受け継ぎました。幸村はそんな父に付き従い、甲府から岩櫃に移ったと考えられています。 第一次上田合戦で徳川家康を撃退! 天正10年(1582)3月、織田・徳川連合軍の甲州征伐により武田家が滅亡すると、君主を失った真田家は信長に恭順し、幸村は関東管領・滝川一益の人質となりました。しかし、同年6月には本能寺の変で信長が死去し、上杉家・北条家・徳川家など近隣勢力が武田遺領を巡って天正壬午の乱をおこします。昌幸はこれを機に、信濃に潜伏していた旧武田家臣と主従関係を結んで沼田城を奪回。その後は上杉家、次いで北条家に帰属しますが、のちに離反して徳川家に仕えるようになります。 しかし、家康が北条家との和睦条件として真田家の沼田領を勝手に譲ったことに激怒。そのため、幸村を人質として上杉家と同盟を組み、第一次上田合戦で家康と激突します。昌幸は上田城に籠城し、不利な状況のなか優れた智謀で徳川軍を敗走させました。この活躍により真田家の名は全国へ知れわたることになったのです。 立身出世と関ヶ原の戦い 真田家は時勢を見ながら臣従する相手を替え生き延びました。人質として貢献した幸村は、やがて戦いでその力量を発揮していきます。 豊臣秀吉の馬廻衆となった幸村 その後、真田家は豊臣秀吉に服属し、昌幸は独立した大名として扱われました。幸村はここでも人質となり、大坂に移って大谷吉継の娘・竹林院を妻に迎えています。豊臣政権時の幸村の動向については史料が少なく詳細は不明ですが、近年の研究によれば、秀吉の馬廻衆となった幸村は1万9000石の知行を有し、独立した大名として遇されていたことがわかっています。知行地の支配については、昌幸の家臣らに任せていたようです。 なお、小田原征伐では吉継とともに石田三成の指揮で忍城攻めに参戦、文禄の役では昌幸や兄・信幸(信之)とともに在陣したと考えられており、文禄3年(1594)11月には従五位下左衛門佐に叙任され豊臣姓を賜りました。 犬伏の別れ、そして西軍への従属 慶長3年(1598)、朝鮮出兵半ばで秀吉が病没します。その後、豊臣政権内で三成らと家康らが対立し、関ヶ原の戦いが勃発しました。昌幸・信幸・幸村の3人は家康の命で上杉征伐に向かいますが、西軍の三成から家康討伐の協力要請を受け、下野犬伏で真田家の今後について話し合います。 そして、吉継の娘を妻にもつ幸村は父と共に西軍に、本多忠勝の娘を妻にもつ信幸は東軍に与し、親子で別々の道を歩むことを決めました。この「犬伏の別れ」は、通説ではどちらが負けても家名を存続できるようにする戦略だったといわれています。
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、大坂に移って誰を妻に迎えたか。
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、大坂に移って大谷吉継の娘・竹林院を妻に迎えた。
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歴史
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、真田幸村である。 真田家の名が知れわたるまで 幼少期の幸村はどんな生活をしていたのか、うまれから真田の家名が広まるまでについて振り返ります。 真田昌幸の次男として生まれる 幸村は真田昌幸の次男として誕生しました。本名は真田信繁で、幸村という名称は後世の講談などにより広まったものだといわれています。生年は定かではなく、永禄10年(1567)または元亀元年(1570)と考えられています。 信濃国小県郡の国衆だった真田家は祖父・幸隆のころに武田家に帰属し、父・昌幸は武田信玄の足軽大将として武田24将にも数えられる武将でした。昌幸は長兄と次兄が長篠の戦いで戦死したことから真田家を継承し、幸隆が担っていた上野国岩櫃城代も受け継ぎました。幸村はそんな父に付き従い、甲府から岩櫃に移ったと考えられています。 第一次上田合戦で徳川家康を撃退! 天正10年(1582)3月、織田・徳川連合軍の甲州征伐により武田家が滅亡すると、君主を失った真田家は信長に恭順し、幸村は関東管領・滝川一益の人質となりました。しかし、同年6月には本能寺の変で信長が死去し、上杉家・北条家・徳川家など近隣勢力が武田遺領を巡って天正壬午の乱をおこします。昌幸はこれを機に、信濃に潜伏していた旧武田家臣と主従関係を結んで沼田城を奪回。その後は上杉家、次いで北条家に帰属しますが、のちに離反して徳川家に仕えるようになります。 しかし、家康が北条家との和睦条件として真田家の沼田領を勝手に譲ったことに激怒。そのため、幸村を人質として上杉家と同盟を組み、第一次上田合戦で家康と激突します。昌幸は上田城に籠城し、不利な状況のなか優れた智謀で徳川軍を敗走させました。この活躍により真田家の名は全国へ知れわたることになったのです。 立身出世と関ヶ原の戦い 真田家は時勢を見ながら臣従する相手を替え生き延びました。人質として貢献した幸村は、やがて戦いでその力量を発揮していきます。 豊臣秀吉の馬廻衆となった幸村 その後、真田家は豊臣秀吉に服属し、昌幸は独立した大名として扱われました。幸村はここでも人質となり、大坂に移って大谷吉継の娘・竹林院を妻に迎えています。豊臣政権時の幸村の動向については史料が少なく詳細は不明ですが、近年の研究によれば、秀吉の馬廻衆となった幸村は1万9000石の知行を有し、独立した大名として遇されていたことがわかっています。知行地の支配については、昌幸の家臣らに任せていたようです。 なお、小田原征伐では吉継とともに石田三成の指揮で忍城攻めに参戦、文禄の役では昌幸や兄・信幸(信之)とともに在陣したと考えられており、文禄3年(1594)11月には従五位下左衛門佐に叙任され豊臣姓を賜りました。 犬伏の別れ、そして西軍への従属 慶長3年(1598)、朝鮮出兵半ばで秀吉が病没します。その後、豊臣政権内で三成らと家康らが対立し、関ヶ原の戦いが勃発しました。昌幸・信幸・幸村の3人は家康の命で上杉征伐に向かいますが、西軍の三成から家康討伐の協力要請を受け、下野犬伏で真田家の今後について話し合います。 そして、吉継の娘を妻にもつ幸村は父と共に西軍に、本多忠勝の娘を妻にもつ信幸は東軍に与し、親子で別々の道を歩むことを決めました。この「犬伏の別れ」は、通説ではどちらが負けても家名を存続できるようにする戦略だったといわれています。
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、父と共に西軍に、誰は東軍に与したか。
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、父と共に西軍に、本多忠勝の娘を妻にもつ信幸は東軍に与した。
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歴史
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、真田幸村である。 第二次上田合戦で圧勝! 徳川秀忠の軍勢が上田に接近すると、幸村は昌幸とともに居城・上田城に籠城しました。兵力では劣勢だったものの、時間稼ぎをして敵をおびき寄せてから一気に攻め込むという戦略で敵を迎撃。少数の真田隊に手こずった秀忠軍は、家康からの上洛命令を受け攻略を断念します。秀忠が去ったあとも徳川方の監視は続きましたが、幸村は夜討ちと朝駆けを敢行しました。しかし、幸村の奮闘もむなしく、関ヶ原の戦いは東軍が勝利します。昌幸と幸村は本来なら死罪でしたが、信幸と忠勝の助命嘆願により高野山に配流され、次いで九度山に移りました。 大坂の陣での奮戦 蟄居中の昌幸が死去したあと、残された幸村は再び活躍の場を得ます。しかし、ここで幸村は最期を迎えることとなりました。 赤備えにて大坂城に入城 慶長19年(1614)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川家と豊臣家の関係が悪化し、大坂の陣が勃発します。大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集めることになり、九度山の幸村にも声がかかりました。幽閉中の幸村は監視されていましたが、参戦要請を受けたときは酒宴で村人を酔わせて脱出したといいます。幸村は上田にいる昌幸の旧臣たちにも参戦を呼びかけ、大坂での自軍を武田家由来の赤備えで統一しました。 大坂冬の陣:真田丸での攻防 慶長19年(1614)の大坂冬の陣の際、幸村は近江まで積極的に討って出て家康本軍を迎え撃つという作戦をたてました。しかし淀殿らの主張により大坂城籠城案に決まると、幸村は大坂城の三の丸南側に出城「真田丸」を築き、敵を撃退して武名を天下に知らしめます。真田丸には大坂城の最弱部から敵の注意を反らし、仮に真田丸が落ちても背後の深い谷が大坂城を守ってくれるという利点がありました。 戦後、真田丸は講和に伴う堀の埋め立ての際に取り壊され、幸村は家康方から寝返るよう調略をうけます。このときの条件は信濃一国ともいわれ、幸村はこの高待遇を蹴って豊臣家への忠誠を貫いたといわれています。 大坂夏の陣:徳川家康本陣に突撃! その後、豊臣方と徳川方はまたも対立し、慶長20年(1615)には大坂夏の陣が勃発しました。浪人の解雇などにより戦力が激減していたなか、幸村は最後の作戦を実行します。しかし、計画通りには進まず、最終的には覚悟を決めて決死の突撃を行いました。幸村は徳川の精鋭部隊を蹴散らし、2度にわたり家康本陣へと突入。その凄まじさは家康が自害を覚悟したといわれるほどでしたが、やがて大坂方が崩れ始めたため大坂城に撤退します。 その後、幸村は安居神社の境内で休んでいたところを越前松平家の鉄砲組頭・西尾宗次に発見され、討ち取られたといわれています。しかし、最期には諸説あり、生存説も囁かれていたようです。 幸村にまつわる逸話 家康を追いつめた幸村はどのような人物だったのでしょうか?幸村にまつわる逸話をご紹介します。 家紋・六文銭に込められた意味 真田家が家紋として使用した六文銭は、冥銭を表しているといわれています。冥銭とは亡くなった人の棺に入れるお金で、仏教での「六道銭」という三途の川の渡し賃を意味します。そのため幸村の旗印の六文銭は、決死の覚悟で戦う意気込みを表していたとも考えられています。 兜が鹿の角である理由は? 幸村は鹿の角がついた兜を使用しましたが、このモチーフは戦国時代によく好まれていたようです。鹿は古くから神の使いとして大切にされてきた動物の一つで、武の神・建御雷神(たけみかづちのかみ)のもとに遣わされた使者とされていることから、武運を願うにふさわしいモチーフだといえるでしょう。 敵将も幸村の武勇を称えた! 夏の陣後、幸村の名将ぶりは軍記物や講談で人々のあいだに広まりましたが、幕府側はそれを禁じませんでした。これには、「最後まで主君に忠義を尽くす姿が幕府に認められた」などの理由があったと考えられています。戦いに参加した黒田長政は『大坂夏の陣図屏風』に勇猛果敢な幸村軍を描かせており、薩摩藩初代藩主・島津忠恒も「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」と称えました。
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、誰とともに籠城したか。
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、昌幸とともに籠城した。
JCRRAG_018558
歴史
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、真田幸村である。 第二次上田合戦で圧勝! 徳川秀忠の軍勢が上田に接近すると、幸村は昌幸とともに居城・上田城に籠城しました。兵力では劣勢だったものの、時間稼ぎをして敵をおびき寄せてから一気に攻め込むという戦略で敵を迎撃。少数の真田隊に手こずった秀忠軍は、家康からの上洛命令を受け攻略を断念します。秀忠が去ったあとも徳川方の監視は続きましたが、幸村は夜討ちと朝駆けを敢行しました。しかし、幸村の奮闘もむなしく、関ヶ原の戦いは東軍が勝利します。昌幸と幸村は本来なら死罪でしたが、信幸と忠勝の助命嘆願により高野山に配流され、次いで九度山に移りました。 大坂の陣での奮戦 蟄居中の昌幸が死去したあと、残された幸村は再び活躍の場を得ます。しかし、ここで幸村は最期を迎えることとなりました。 赤備えにて大坂城に入城 慶長19年(1614)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川家と豊臣家の関係が悪化し、大坂の陣が勃発します。大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集めることになり、九度山の幸村にも声がかかりました。幽閉中の幸村は監視されていましたが、参戦要請を受けたときは酒宴で村人を酔わせて脱出したといいます。幸村は上田にいる昌幸の旧臣たちにも参戦を呼びかけ、大坂での自軍を武田家由来の赤備えで統一しました。 大坂冬の陣:真田丸での攻防 慶長19年(1614)の大坂冬の陣の際、幸村は近江まで積極的に討って出て家康本軍を迎え撃つという作戦をたてました。しかし淀殿らの主張により大坂城籠城案に決まると、幸村は大坂城の三の丸南側に出城「真田丸」を築き、敵を撃退して武名を天下に知らしめます。真田丸には大坂城の最弱部から敵の注意を反らし、仮に真田丸が落ちても背後の深い谷が大坂城を守ってくれるという利点がありました。 戦後、真田丸は講和に伴う堀の埋め立ての際に取り壊され、幸村は家康方から寝返るよう調略をうけます。このときの条件は信濃一国ともいわれ、幸村はこの高待遇を蹴って豊臣家への忠誠を貫いたといわれています。 大坂夏の陣:徳川家康本陣に突撃! その後、豊臣方と徳川方はまたも対立し、慶長20年(1615)には大坂夏の陣が勃発しました。浪人の解雇などにより戦力が激減していたなか、幸村は最後の作戦を実行します。しかし、計画通りには進まず、最終的には覚悟を決めて決死の突撃を行いました。幸村は徳川の精鋭部隊を蹴散らし、2度にわたり家康本陣へと突入。その凄まじさは家康が自害を覚悟したといわれるほどでしたが、やがて大坂方が崩れ始めたため大坂城に撤退します。 その後、幸村は安居神社の境内で休んでいたところを越前松平家の鉄砲組頭・西尾宗次に発見され、討ち取られたといわれています。しかし、最期には諸説あり、生存説も囁かれていたようです。 幸村にまつわる逸話 家康を追いつめた幸村はどのような人物だったのでしょうか?幸村にまつわる逸話をご紹介します。 家紋・六文銭に込められた意味 真田家が家紋として使用した六文銭は、冥銭を表しているといわれています。冥銭とは亡くなった人の棺に入れるお金で、仏教での「六道銭」という三途の川の渡し賃を意味します。そのため幸村の旗印の六文銭は、決死の覚悟で戦う意気込みを表していたとも考えられています。 兜が鹿の角である理由は? 幸村は鹿の角がついた兜を使用しましたが、このモチーフは戦国時代によく好まれていたようです。鹿は古くから神の使いとして大切にされてきた動物の一つで、武の神・建御雷神(たけみかづちのかみ)のもとに遣わされた使者とされていることから、武運を願うにふさわしいモチーフだといえるでしょう。 敵将も幸村の武勇を称えた! 夏の陣後、幸村の名将ぶりは軍記物や講談で人々のあいだに広まりましたが、幕府側はそれを禁じませんでした。これには、「最後まで主君に忠義を尽くす姿が幕府に認められた」などの理由があったと考えられています。戦いに参加した黒田長政は『大坂夏の陣図屏風』に勇猛果敢な幸村軍を描かせており、薩摩藩初代藩主・島津忠恒も「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」と称えました。
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、どこに籠城したか。
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、居城・上田城に籠城した。
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歴史
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、真田幸村である。 第二次上田合戦で圧勝! 徳川秀忠の軍勢が上田に接近すると、幸村は昌幸とともに居城・上田城に籠城しました。兵力では劣勢だったものの、時間稼ぎをして敵をおびき寄せてから一気に攻め込むという戦略で敵を迎撃。少数の真田隊に手こずった秀忠軍は、家康からの上洛命令を受け攻略を断念します。秀忠が去ったあとも徳川方の監視は続きましたが、幸村は夜討ちと朝駆けを敢行しました。しかし、幸村の奮闘もむなしく、関ヶ原の戦いは東軍が勝利します。昌幸と幸村は本来なら死罪でしたが、信幸と忠勝の助命嘆願により高野山に配流され、次いで九度山に移りました。 大坂の陣での奮戦 蟄居中の昌幸が死去したあと、残された幸村は再び活躍の場を得ます。しかし、ここで幸村は最期を迎えることとなりました。 赤備えにて大坂城に入城 慶長19年(1614)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川家と豊臣家の関係が悪化し、大坂の陣が勃発します。大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集めることになり、九度山の幸村にも声がかかりました。幽閉中の幸村は監視されていましたが、参戦要請を受けたときは酒宴で村人を酔わせて脱出したといいます。幸村は上田にいる昌幸の旧臣たちにも参戦を呼びかけ、大坂での自軍を武田家由来の赤備えで統一しました。 大坂冬の陣:真田丸での攻防 慶長19年(1614)の大坂冬の陣の際、幸村は近江まで積極的に討って出て家康本軍を迎え撃つという作戦をたてました。しかし淀殿らの主張により大坂城籠城案に決まると、幸村は大坂城の三の丸南側に出城「真田丸」を築き、敵を撃退して武名を天下に知らしめます。真田丸には大坂城の最弱部から敵の注意を反らし、仮に真田丸が落ちても背後の深い谷が大坂城を守ってくれるという利点がありました。 戦後、真田丸は講和に伴う堀の埋め立ての際に取り壊され、幸村は家康方から寝返るよう調略をうけます。このときの条件は信濃一国ともいわれ、幸村はこの高待遇を蹴って豊臣家への忠誠を貫いたといわれています。 大坂夏の陣:徳川家康本陣に突撃! その後、豊臣方と徳川方はまたも対立し、慶長20年(1615)には大坂夏の陣が勃発しました。浪人の解雇などにより戦力が激減していたなか、幸村は最後の作戦を実行します。しかし、計画通りには進まず、最終的には覚悟を決めて決死の突撃を行いました。幸村は徳川の精鋭部隊を蹴散らし、2度にわたり家康本陣へと突入。その凄まじさは家康が自害を覚悟したといわれるほどでしたが、やがて大坂方が崩れ始めたため大坂城に撤退します。 その後、幸村は安居神社の境内で休んでいたところを越前松平家の鉄砲組頭・西尾宗次に発見され、討ち取られたといわれています。しかし、最期には諸説あり、生存説も囁かれていたようです。 幸村にまつわる逸話 家康を追いつめた幸村はどのような人物だったのでしょうか?幸村にまつわる逸話をご紹介します。 家紋・六文銭に込められた意味 真田家が家紋として使用した六文銭は、冥銭を表しているといわれています。冥銭とは亡くなった人の棺に入れるお金で、仏教での「六道銭」という三途の川の渡し賃を意味します。そのため幸村の旗印の六文銭は、決死の覚悟で戦う意気込みを表していたとも考えられています。 兜が鹿の角である理由は? 幸村は鹿の角がついた兜を使用しましたが、このモチーフは戦国時代によく好まれていたようです。鹿は古くから神の使いとして大切にされてきた動物の一つで、武の神・建御雷神(たけみかづちのかみ)のもとに遣わされた使者とされていることから、武運を願うにふさわしいモチーフだといえるでしょう。 敵将も幸村の武勇を称えた! 夏の陣後、幸村の名将ぶりは軍記物や講談で人々のあいだに広まりましたが、幕府側はそれを禁じませんでした。これには、「最後まで主君に忠義を尽くす姿が幕府に認められた」などの理由があったと考えられています。戦いに参加した黒田長政は『大坂夏の陣図屏風』に勇猛果敢な幸村軍を描かせており、薩摩藩初代藩主・島津忠恒も「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」と称えました。
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、どこにいる昌幸の旧臣たちにも参戦を呼びかけたか。
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、上田にいる昌幸の旧臣たちにも参戦を呼びかけた。
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歴史
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、真田幸村である。 第二次上田合戦で圧勝! 徳川秀忠の軍勢が上田に接近すると、幸村は昌幸とともに居城・上田城に籠城しました。兵力では劣勢だったものの、時間稼ぎをして敵をおびき寄せてから一気に攻め込むという戦略で敵を迎撃。少数の真田隊に手こずった秀忠軍は、家康からの上洛命令を受け攻略を断念します。秀忠が去ったあとも徳川方の監視は続きましたが、幸村は夜討ちと朝駆けを敢行しました。しかし、幸村の奮闘もむなしく、関ヶ原の戦いは東軍が勝利します。昌幸と幸村は本来なら死罪でしたが、信幸と忠勝の助命嘆願により高野山に配流され、次いで九度山に移りました。 大坂の陣での奮戦 蟄居中の昌幸が死去したあと、残された幸村は再び活躍の場を得ます。しかし、ここで幸村は最期を迎えることとなりました。 赤備えにて大坂城に入城 慶長19年(1614)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川家と豊臣家の関係が悪化し、大坂の陣が勃発します。大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集めることになり、九度山の幸村にも声がかかりました。幽閉中の幸村は監視されていましたが、参戦要請を受けたときは酒宴で村人を酔わせて脱出したといいます。幸村は上田にいる昌幸の旧臣たちにも参戦を呼びかけ、大坂での自軍を武田家由来の赤備えで統一しました。 大坂冬の陣:真田丸での攻防 慶長19年(1614)の大坂冬の陣の際、幸村は近江まで積極的に討って出て家康本軍を迎え撃つという作戦をたてました。しかし淀殿らの主張により大坂城籠城案に決まると、幸村は大坂城の三の丸南側に出城「真田丸」を築き、敵を撃退して武名を天下に知らしめます。真田丸には大坂城の最弱部から敵の注意を反らし、仮に真田丸が落ちても背後の深い谷が大坂城を守ってくれるという利点がありました。 戦後、真田丸は講和に伴う堀の埋め立ての際に取り壊され、幸村は家康方から寝返るよう調略をうけます。このときの条件は信濃一国ともいわれ、幸村はこの高待遇を蹴って豊臣家への忠誠を貫いたといわれています。 大坂夏の陣:徳川家康本陣に突撃! その後、豊臣方と徳川方はまたも対立し、慶長20年(1615)には大坂夏の陣が勃発しました。浪人の解雇などにより戦力が激減していたなか、幸村は最後の作戦を実行します。しかし、計画通りには進まず、最終的には覚悟を決めて決死の突撃を行いました。幸村は徳川の精鋭部隊を蹴散らし、2度にわたり家康本陣へと突入。その凄まじさは家康が自害を覚悟したといわれるほどでしたが、やがて大坂方が崩れ始めたため大坂城に撤退します。 その後、幸村は安居神社の境内で休んでいたところを越前松平家の鉄砲組頭・西尾宗次に発見され、討ち取られたといわれています。しかし、最期には諸説あり、生存説も囁かれていたようです。 幸村にまつわる逸話 家康を追いつめた幸村はどのような人物だったのでしょうか?幸村にまつわる逸話をご紹介します。 家紋・六文銭に込められた意味 真田家が家紋として使用した六文銭は、冥銭を表しているといわれています。冥銭とは亡くなった人の棺に入れるお金で、仏教での「六道銭」という三途の川の渡し賃を意味します。そのため幸村の旗印の六文銭は、決死の覚悟で戦う意気込みを表していたとも考えられています。 兜が鹿の角である理由は? 幸村は鹿の角がついた兜を使用しましたが、このモチーフは戦国時代によく好まれていたようです。鹿は古くから神の使いとして大切にされてきた動物の一つで、武の神・建御雷神(たけみかづちのかみ)のもとに遣わされた使者とされていることから、武運を願うにふさわしいモチーフだといえるでしょう。 敵将も幸村の武勇を称えた! 夏の陣後、幸村の名将ぶりは軍記物や講談で人々のあいだに広まりましたが、幕府側はそれを禁じませんでした。これには、「最後まで主君に忠義を尽くす姿が幕府に認められた」などの理由があったと考えられています。戦いに参加した黒田長政は『大坂夏の陣図屏風』に勇猛果敢な幸村軍を描かせており、薩摩藩初代藩主・島津忠恒も「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」と称えました。
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、大坂での自軍を何で統一したか。
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、大坂での自軍を武田家由来の赤備えで統一した。
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歴史
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、真田幸村である。 第二次上田合戦で圧勝! 徳川秀忠の軍勢が上田に接近すると、幸村は昌幸とともに居城・上田城に籠城しました。兵力では劣勢だったものの、時間稼ぎをして敵をおびき寄せてから一気に攻め込むという戦略で敵を迎撃。少数の真田隊に手こずった秀忠軍は、家康からの上洛命令を受け攻略を断念します。秀忠が去ったあとも徳川方の監視は続きましたが、幸村は夜討ちと朝駆けを敢行しました。しかし、幸村の奮闘もむなしく、関ヶ原の戦いは東軍が勝利します。昌幸と幸村は本来なら死罪でしたが、信幸と忠勝の助命嘆願により高野山に配流され、次いで九度山に移りました。 大坂の陣での奮戦 蟄居中の昌幸が死去したあと、残された幸村は再び活躍の場を得ます。しかし、ここで幸村は最期を迎えることとなりました。 赤備えにて大坂城に入城 慶長19年(1614)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川家と豊臣家の関係が悪化し、大坂の陣が勃発します。大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集めることになり、九度山の幸村にも声がかかりました。幽閉中の幸村は監視されていましたが、参戦要請を受けたときは酒宴で村人を酔わせて脱出したといいます。幸村は上田にいる昌幸の旧臣たちにも参戦を呼びかけ、大坂での自軍を武田家由来の赤備えで統一しました。 大坂冬の陣:真田丸での攻防 慶長19年(1614)の大坂冬の陣の際、幸村は近江まで積極的に討って出て家康本軍を迎え撃つという作戦をたてました。しかし淀殿らの主張により大坂城籠城案に決まると、幸村は大坂城の三の丸南側に出城「真田丸」を築き、敵を撃退して武名を天下に知らしめます。真田丸には大坂城の最弱部から敵の注意を反らし、仮に真田丸が落ちても背後の深い谷が大坂城を守ってくれるという利点がありました。 戦後、真田丸は講和に伴う堀の埋め立ての際に取り壊され、幸村は家康方から寝返るよう調略をうけます。このときの条件は信濃一国ともいわれ、幸村はこの高待遇を蹴って豊臣家への忠誠を貫いたといわれています。 大坂夏の陣:徳川家康本陣に突撃! その後、豊臣方と徳川方はまたも対立し、慶長20年(1615)には大坂夏の陣が勃発しました。浪人の解雇などにより戦力が激減していたなか、幸村は最後の作戦を実行します。しかし、計画通りには進まず、最終的には覚悟を決めて決死の突撃を行いました。幸村は徳川の精鋭部隊を蹴散らし、2度にわたり家康本陣へと突入。その凄まじさは家康が自害を覚悟したといわれるほどでしたが、やがて大坂方が崩れ始めたため大坂城に撤退します。 その後、幸村は安居神社の境内で休んでいたところを越前松平家の鉄砲組頭・西尾宗次に発見され、討ち取られたといわれています。しかし、最期には諸説あり、生存説も囁かれていたようです。 幸村にまつわる逸話 家康を追いつめた幸村はどのような人物だったのでしょうか?幸村にまつわる逸話をご紹介します。 家紋・六文銭に込められた意味 真田家が家紋として使用した六文銭は、冥銭を表しているといわれています。冥銭とは亡くなった人の棺に入れるお金で、仏教での「六道銭」という三途の川の渡し賃を意味します。そのため幸村の旗印の六文銭は、決死の覚悟で戦う意気込みを表していたとも考えられています。 兜が鹿の角である理由は? 幸村は鹿の角がついた兜を使用しましたが、このモチーフは戦国時代によく好まれていたようです。鹿は古くから神の使いとして大切にされてきた動物の一つで、武の神・建御雷神(たけみかづちのかみ)のもとに遣わされた使者とされていることから、武運を願うにふさわしいモチーフだといえるでしょう。 敵将も幸村の武勇を称えた! 夏の陣後、幸村の名将ぶりは軍記物や講談で人々のあいだに広まりましたが、幕府側はそれを禁じませんでした。これには、「最後まで主君に忠義を尽くす姿が幕府に認められた」などの理由があったと考えられています。戦いに参加した黒田長政は『大坂夏の陣図屏風』に勇猛果敢な幸村軍を描かせており、薩摩藩初代藩主・島津忠恒も「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」と称えました。
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、どのような調略をうけたか。
大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、家康方から寝返るよう調略をうけた。
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歴史
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、井伊直虎である。 女城主の誕生まで 直虎はなぜ城主となったのでしょうか?井伊家に女城主が誕生するまでの経緯について振り返ります。 井伊家の歴史とは? 藤原家の流れを汲む井伊家の始まりは約1000年前で、龍潭寺(りょうたんじ)の井戸の傍らで保護された藤原共保(ともやす)が初代とされています。鎌倉時代には遠江・井伊谷に勢力を築いて国人領主として栄え、南北朝時代には南朝方の拠点として後醍醐天皇の皇子・宗良親王を迎えて一大勢力を形成。しかし、戦国時代になると、今川家の圧力により支配下に置かれました。 直虎はこの井伊谷の地で、井伊直盛の娘として誕生します。「井伊直虎」という名は歴史上1通の書状のみにしか見られませんが、通説では、江戸時代に書かれた『井伊家伝記』に記載される次郎法師(じろうほうし)と同一人物とされています。生年は定かではなく、天文5年(1536)前後にうまれたと推測されています。 井伊家当主だった父・井伊直盛 直虎の父・直盛は、井伊家の22代当主でした。『井伊年譜』には「井伊直平の娘が築山殿を生んだ」とあり、これが本当ならば直盛と築山殿(徳川家康の正室)は従兄妹となります。直盛は戦場において大軍の先陣を任されるほどでしたが、今川家が織田信長と対立した永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで家臣とともに討ち死にしました。この戦いでは総大将だった今川義元の首も討ち取られ、今川勢は敗退。義元の死をうけて、義元の子・今川氏真が今川家12代当主に就任しました。 元許嫁・井伊直親の死 跡継ぎとなる男子がいなかった直盛は、叔父・井伊直満の子である直親を娘の直虎の許嫁にします。しかし、井伊家家老・小野政直の調略により直満が義元に誅殺され、直親は家臣に連れられて信濃国へと逃亡。直虎は悲しみから井伊家菩提寺・龍潭寺に出家し、次郎法師と名乗るようになりました。数年後、井伊谷に帰参した直親は直盛の養子となりますが、すでに仏門に入っていた直虎は結婚できず、生涯独身を貫くことになりました。直親は井伊一族の奥山朝利の娘・ひよと結婚し、養父・直盛の戦死により家督を継承。しかし、家老・小野政次(道好)の調略により主君・氏真から家康との内通を疑われ、陳謝に向かう道中、今川家重臣・朝比奈泰朝に殺害されました。 次郎法師、還俗して領主に 直親の死後、井伊家の男児は直親の遺児・虎松(後の井伊直政)のみでした。そのため、永禄8年(1565)出家していた次郎法師が還俗(げんぞく=僧籍を離れること)。以降、彼女は井伊直虎と名乗り遠江・井伊谷の女城主となります。この背景には、龍潭寺の和尚・南渓瑞聞(なんけいずいもん)の考えがありました。嫡流が絶え幼い虎松しか男児のいない井伊家はもはや断絶寸前。そこで南溪和尚の提案を受けた井伊家は、直系の血筋である直虎を当主とし、虎松の後見人にしたのです。この相続は君主・今川家にも認められ、直虎はいずれ虎松に家督を継承すべく己の務めを果たすことになったのでした。
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、どこで誕生したか。
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、井伊谷の地で誕生した。
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歴史
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、井伊直虎である。 女城主の誕生まで 直虎はなぜ城主となったのでしょうか?井伊家に女城主が誕生するまでの経緯について振り返ります。 井伊家の歴史とは? 藤原家の流れを汲む井伊家の始まりは約1000年前で、龍潭寺(りょうたんじ)の井戸の傍らで保護された藤原共保(ともやす)が初代とされています。鎌倉時代には遠江・井伊谷に勢力を築いて国人領主として栄え、南北朝時代には南朝方の拠点として後醍醐天皇の皇子・宗良親王を迎えて一大勢力を形成。しかし、戦国時代になると、今川家の圧力により支配下に置かれました。 直虎はこの井伊谷の地で、井伊直盛の娘として誕生します。「井伊直虎」という名は歴史上1通の書状のみにしか見られませんが、通説では、江戸時代に書かれた『井伊家伝記』に記載される次郎法師(じろうほうし)と同一人物とされています。生年は定かではなく、天文5年(1536)前後にうまれたと推測されています。 井伊家当主だった父・井伊直盛 直虎の父・直盛は、井伊家の22代当主でした。『井伊年譜』には「井伊直平の娘が築山殿を生んだ」とあり、これが本当ならば直盛と築山殿(徳川家康の正室)は従兄妹となります。直盛は戦場において大軍の先陣を任されるほどでしたが、今川家が織田信長と対立した永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで家臣とともに討ち死にしました。この戦いでは総大将だった今川義元の首も討ち取られ、今川勢は敗退。義元の死をうけて、義元の子・今川氏真が今川家12代当主に就任しました。 元許嫁・井伊直親の死 跡継ぎとなる男子がいなかった直盛は、叔父・井伊直満の子である直親を娘の直虎の許嫁にします。しかし、井伊家家老・小野政直の調略により直満が義元に誅殺され、直親は家臣に連れられて信濃国へと逃亡。直虎は悲しみから井伊家菩提寺・龍潭寺に出家し、次郎法師と名乗るようになりました。数年後、井伊谷に帰参した直親は直盛の養子となりますが、すでに仏門に入っていた直虎は結婚できず、生涯独身を貫くことになりました。直親は井伊一族の奥山朝利の娘・ひよと結婚し、養父・直盛の戦死により家督を継承。しかし、家老・小野政次(道好)の調略により主君・氏真から家康との内通を疑われ、陳謝に向かう道中、今川家重臣・朝比奈泰朝に殺害されました。 次郎法師、還俗して領主に 直親の死後、井伊家の男児は直親の遺児・虎松(後の井伊直政)のみでした。そのため、永禄8年(1565)出家していた次郎法師が還俗(げんぞく=僧籍を離れること)。以降、彼女は井伊直虎と名乗り遠江・井伊谷の女城主となります。この背景には、龍潭寺の和尚・南渓瑞聞(なんけいずいもん)の考えがありました。嫡流が絶え幼い虎松しか男児のいない井伊家はもはや断絶寸前。そこで南溪和尚の提案を受けた井伊家は、直系の血筋である直虎を当主とし、虎松の後見人にしたのです。この相続は君主・今川家にも認められ、直虎はいずれ虎松に家督を継承すべく己の務めを果たすことになったのでした。
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、誰の娘として誕生したか。
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、井伊直盛の娘として誕生した。
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歴史
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、井伊直虎である。 女城主の誕生まで 直虎はなぜ城主となったのでしょうか?井伊家に女城主が誕生するまでの経緯について振り返ります。 井伊家の歴史とは? 藤原家の流れを汲む井伊家の始まりは約1000年前で、龍潭寺(りょうたんじ)の井戸の傍らで保護された藤原共保(ともやす)が初代とされています。鎌倉時代には遠江・井伊谷に勢力を築いて国人領主として栄え、南北朝時代には南朝方の拠点として後醍醐天皇の皇子・宗良親王を迎えて一大勢力を形成。しかし、戦国時代になると、今川家の圧力により支配下に置かれました。 直虎はこの井伊谷の地で、井伊直盛の娘として誕生します。「井伊直虎」という名は歴史上1通の書状のみにしか見られませんが、通説では、江戸時代に書かれた『井伊家伝記』に記載される次郎法師(じろうほうし)と同一人物とされています。生年は定かではなく、天文5年(1536)前後にうまれたと推測されています。 井伊家当主だった父・井伊直盛 直虎の父・直盛は、井伊家の22代当主でした。『井伊年譜』には「井伊直平の娘が築山殿を生んだ」とあり、これが本当ならば直盛と築山殿(徳川家康の正室)は従兄妹となります。直盛は戦場において大軍の先陣を任されるほどでしたが、今川家が織田信長と対立した永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで家臣とともに討ち死にしました。この戦いでは総大将だった今川義元の首も討ち取られ、今川勢は敗退。義元の死をうけて、義元の子・今川氏真が今川家12代当主に就任しました。 元許嫁・井伊直親の死 跡継ぎとなる男子がいなかった直盛は、叔父・井伊直満の子である直親を娘の直虎の許嫁にします。しかし、井伊家家老・小野政直の調略により直満が義元に誅殺され、直親は家臣に連れられて信濃国へと逃亡。直虎は悲しみから井伊家菩提寺・龍潭寺に出家し、次郎法師と名乗るようになりました。数年後、井伊谷に帰参した直親は直盛の養子となりますが、すでに仏門に入っていた直虎は結婚できず、生涯独身を貫くことになりました。直親は井伊一族の奥山朝利の娘・ひよと結婚し、養父・直盛の戦死により家督を継承。しかし、家老・小野政次(道好)の調略により主君・氏真から家康との内通を疑われ、陳謝に向かう道中、今川家重臣・朝比奈泰朝に殺害されました。 次郎法師、還俗して領主に 直親の死後、井伊家の男児は直親の遺児・虎松(後の井伊直政)のみでした。そのため、永禄8年(1565)出家していた次郎法師が還俗(げんぞく=僧籍を離れること)。以降、彼女は井伊直虎と名乗り遠江・井伊谷の女城主となります。この背景には、龍潭寺の和尚・南渓瑞聞(なんけいずいもん)の考えがありました。嫡流が絶え幼い虎松しか男児のいない井伊家はもはや断絶寸前。そこで南溪和尚の提案を受けた井伊家は、直系の血筋である直虎を当主とし、虎松の後見人にしたのです。この相続は君主・今川家にも認められ、直虎はいずれ虎松に家督を継承すべく己の務めを果たすことになったのでした。
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、悲しみからどこに出家したか。
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、悲しみから井伊家菩提寺・龍潭寺に出家した。
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歴史
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、井伊直虎である。 女城主の誕生まで 直虎はなぜ城主となったのでしょうか?井伊家に女城主が誕生するまでの経緯について振り返ります。 井伊家の歴史とは? 藤原家の流れを汲む井伊家の始まりは約1000年前で、龍潭寺(りょうたんじ)の井戸の傍らで保護された藤原共保(ともやす)が初代とされています。鎌倉時代には遠江・井伊谷に勢力を築いて国人領主として栄え、南北朝時代には南朝方の拠点として後醍醐天皇の皇子・宗良親王を迎えて一大勢力を形成。しかし、戦国時代になると、今川家の圧力により支配下に置かれました。 直虎はこの井伊谷の地で、井伊直盛の娘として誕生します。「井伊直虎」という名は歴史上1通の書状のみにしか見られませんが、通説では、江戸時代に書かれた『井伊家伝記』に記載される次郎法師(じろうほうし)と同一人物とされています。生年は定かではなく、天文5年(1536)前後にうまれたと推測されています。 井伊家当主だった父・井伊直盛 直虎の父・直盛は、井伊家の22代当主でした。『井伊年譜』には「井伊直平の娘が築山殿を生んだ」とあり、これが本当ならば直盛と築山殿(徳川家康の正室)は従兄妹となります。直盛は戦場において大軍の先陣を任されるほどでしたが、今川家が織田信長と対立した永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで家臣とともに討ち死にしました。この戦いでは総大将だった今川義元の首も討ち取られ、今川勢は敗退。義元の死をうけて、義元の子・今川氏真が今川家12代当主に就任しました。 元許嫁・井伊直親の死 跡継ぎとなる男子がいなかった直盛は、叔父・井伊直満の子である直親を娘の直虎の許嫁にします。しかし、井伊家家老・小野政直の調略により直満が義元に誅殺され、直親は家臣に連れられて信濃国へと逃亡。直虎は悲しみから井伊家菩提寺・龍潭寺に出家し、次郎法師と名乗るようになりました。数年後、井伊谷に帰参した直親は直盛の養子となりますが、すでに仏門に入っていた直虎は結婚できず、生涯独身を貫くことになりました。直親は井伊一族の奥山朝利の娘・ひよと結婚し、養父・直盛の戦死により家督を継承。しかし、家老・小野政次(道好)の調略により主君・氏真から家康との内通を疑われ、陳謝に向かう道中、今川家重臣・朝比奈泰朝に殺害されました。 次郎法師、還俗して領主に 直親の死後、井伊家の男児は直親の遺児・虎松(後の井伊直政)のみでした。そのため、永禄8年(1565)出家していた次郎法師が還俗(げんぞく=僧籍を離れること)。以降、彼女は井伊直虎と名乗り遠江・井伊谷の女城主となります。この背景には、龍潭寺の和尚・南渓瑞聞(なんけいずいもん)の考えがありました。嫡流が絶え幼い虎松しか男児のいない井伊家はもはや断絶寸前。そこで南溪和尚の提案を受けた井伊家は、直系の血筋である直虎を当主とし、虎松の後見人にしたのです。この相続は君主・今川家にも認められ、直虎はいずれ虎松に家督を継承すべく己の務めを果たすことになったのでした。
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、何と名乗るようになったか。
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、次郎法師と名乗るようになった。
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歴史
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、井伊直虎である。 女城主の誕生まで 直虎はなぜ城主となったのでしょうか?井伊家に女城主が誕生するまでの経緯について振り返ります。 井伊家の歴史とは? 藤原家の流れを汲む井伊家の始まりは約1000年前で、龍潭寺(りょうたんじ)の井戸の傍らで保護された藤原共保(ともやす)が初代とされています。鎌倉時代には遠江・井伊谷に勢力を築いて国人領主として栄え、南北朝時代には南朝方の拠点として後醍醐天皇の皇子・宗良親王を迎えて一大勢力を形成。しかし、戦国時代になると、今川家の圧力により支配下に置かれました。 直虎はこの井伊谷の地で、井伊直盛の娘として誕生します。「井伊直虎」という名は歴史上1通の書状のみにしか見られませんが、通説では、江戸時代に書かれた『井伊家伝記』に記載される次郎法師(じろうほうし)と同一人物とされています。生年は定かではなく、天文5年(1536)前後にうまれたと推測されています。 井伊家当主だった父・井伊直盛 直虎の父・直盛は、井伊家の22代当主でした。『井伊年譜』には「井伊直平の娘が築山殿を生んだ」とあり、これが本当ならば直盛と築山殿(徳川家康の正室)は従兄妹となります。直盛は戦場において大軍の先陣を任されるほどでしたが、今川家が織田信長と対立した永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで家臣とともに討ち死にしました。この戦いでは総大将だった今川義元の首も討ち取られ、今川勢は敗退。義元の死をうけて、義元の子・今川氏真が今川家12代当主に就任しました。 元許嫁・井伊直親の死 跡継ぎとなる男子がいなかった直盛は、叔父・井伊直満の子である直親を娘の直虎の許嫁にします。しかし、井伊家家老・小野政直の調略により直満が義元に誅殺され、直親は家臣に連れられて信濃国へと逃亡。直虎は悲しみから井伊家菩提寺・龍潭寺に出家し、次郎法師と名乗るようになりました。数年後、井伊谷に帰参した直親は直盛の養子となりますが、すでに仏門に入っていた直虎は結婚できず、生涯独身を貫くことになりました。直親は井伊一族の奥山朝利の娘・ひよと結婚し、養父・直盛の戦死により家督を継承。しかし、家老・小野政次(道好)の調略により主君・氏真から家康との内通を疑われ、陳謝に向かう道中、今川家重臣・朝比奈泰朝に殺害されました。 次郎法師、還俗して領主に 直親の死後、井伊家の男児は直親の遺児・虎松(後の井伊直政)のみでした。そのため、永禄8年(1565)出家していた次郎法師が還俗(げんぞく=僧籍を離れること)。以降、彼女は井伊直虎と名乗り遠江・井伊谷の女城主となります。この背景には、龍潭寺の和尚・南渓瑞聞(なんけいずいもん)の考えがありました。嫡流が絶え幼い虎松しか男児のいない井伊家はもはや断絶寸前。そこで南溪和尚の提案を受けた井伊家は、直系の血筋である直虎を当主とし、虎松の後見人にしたのです。この相続は君主・今川家にも認められ、直虎はいずれ虎松に家督を継承すべく己の務めを果たすことになったのでした。
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、結婚できず、どうなったか。
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、結婚できず、生涯独身を貫くことになった。
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歴史
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、井伊直虎である。 領土をめぐる攻防戦 還俗して女城主となった直虎ですが、時代は混乱状態にあり、領土をめぐる戦いが絶えませんでした。井伊家をとりまく攻防戦について振り返ります。 武田信玄の外交方針の転換 桶狭間の戦いで義元が敗死した後、今川領では動揺が広がりました。それまで今川家に臣従してきた家康が独立し、信長と同盟を組んで今川家と対立。このような情勢の変化に伴い、武田家と今川家の同盟関係にも緊張が生じます。永禄10年(1567)今川家の塩止めにより甲相駿三国同盟が破綻。武田家では、親今川派の嫡男・武田義信が廃嫡される事件も発生しました。そして永禄11年(1568)、武田信玄は家康と今川領の遠江と駿河を分け合うことを約束して、共同で侵攻を開始します。 家老・小野政次の支配 永禄9年(1566)今川家は井伊家の力を弱めるための徳政令(借金帳消し令)を出しましたが、直虎は2年間引き延ばしました。徳政令が施行されると、借り手の領民は救われるものの貸し手の商人は苦しくなります。そうなれば井伊家の経済基盤は弱まり、領主としての立場を失いかねませんでした。しかし永禄11年(1568)、ついに徳政令を受け入れざるを得なくなると、直虎は統治権をはく奪され、家老・小野政次(道好)が井伊領を支配。居城・井伊谷城も奪われてしまいますが、反旗を翻した井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に遠江侵攻中だった家康が加担し、実権を回復します。 武田家と徳川・織田連合軍の対立 駿河・遠江へ侵攻を開始した武田・徳川両軍は、破竹の勢いで今川領を攻略しました。わずか半年後の永禄12年(1569)5月には、氏真が掛川城で降伏し大名としての今川家が滅亡します。しかしその後、武田家と徳川家が対立。元亀3年(1572)武田家が遠江へ侵攻すると、井伊谷城は武田家臣・山県昌景に明け渡し、直虎は徳川家の浜松城へと逃亡しました。徳川家と武田家は遠江の領有を巡って対立し、その後は武田軍と徳川・織田連合軍が対立するようになります。 井伊家の再興を目指して 直虎は戦乱のなかで井伊家の再興を目指します。彼女は直政の養育によってその使命を果たしました。 井伊直政の出世道をひらく 直虎が後見人となっていた虎松は、政次が井伊谷の領主となったときに命を狙われたことから三河国・鳳来寺に匿われていました。天正2年(1574)12月、直親の十三回忌法要が龍譚寺で営まれることになると、南渓和尚の取り計らいにより虎松が井伊谷に呼び寄せられます。このとき、虎松の母、直虎の母、直虎、南渓和尚らで話し合いが行われ、虎松を徳川家に出仕させ井伊家復興をはかる方針が定まりました。虎松の母は徳川家臣・松下清景と再婚し、虎松は養嗣子(家督相続のための養子)として松下虎松と名乗るようになります。そして天正3年(1575)、虎松は鷹狩りに出ていた家康と面会し、小姓として取り立てられました。 直政、徳川四天王へ! 家康への出仕が決まると、直虎は母とともに小袖を仕立て直政に与えたといわれています。その後、井伊姓を名乗ることを許された虎松は井伊万千代と改名し、元服後は井伊直政と名乗りました。直政が元服する前の天正10年(1582)8月、直虎はその晴れ姿を見ることなく激動の生涯に幕を閉じます。直虎は菩提寺の龍潭寺に葬られ、生前には結ばれることのなかった直親の隣で眠りにつきました。その後、直政は家康のもとで出世を重ね、やがて徳川四天王の1人に数えられるほどに成長します。そして、徳川幕府の基礎づくりに大きく貢献したのでした。 歴史ある井伊家を存続させた 桶狭間の戦い後の混乱により、お家断絶の危機に直面した井伊家。直虎は女の身で城主となり、井伊家を存続させるべく直政を養育し、見事に井伊家を再興させました。直政はのちに彦根藩の初代藩主となり、譜代大名の筆頭として江戸幕府を支えています。彼が築いた彦根藩は、その後も井伊直弼ら多くの傑物を輩出。その流れの礎は、歴史ある井伊家を存続させた直虎にあったともいえるでしょう。
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、何をはく奪されたか。
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、統治権をはく奪された。
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歴史
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、井伊直虎である。 領土をめぐる攻防戦 還俗して女城主となった直虎ですが、時代は混乱状態にあり、領土をめぐる戦いが絶えませんでした。井伊家をとりまく攻防戦について振り返ります。 武田信玄の外交方針の転換 桶狭間の戦いで義元が敗死した後、今川領では動揺が広がりました。それまで今川家に臣従してきた家康が独立し、信長と同盟を組んで今川家と対立。このような情勢の変化に伴い、武田家と今川家の同盟関係にも緊張が生じます。永禄10年(1567)今川家の塩止めにより甲相駿三国同盟が破綻。武田家では、親今川派の嫡男・武田義信が廃嫡される事件も発生しました。そして永禄11年(1568)、武田信玄は家康と今川領の遠江と駿河を分け合うことを約束して、共同で侵攻を開始します。 家老・小野政次の支配 永禄9年(1566)今川家は井伊家の力を弱めるための徳政令(借金帳消し令)を出しましたが、直虎は2年間引き延ばしました。徳政令が施行されると、借り手の領民は救われるものの貸し手の商人は苦しくなります。そうなれば井伊家の経済基盤は弱まり、領主としての立場を失いかねませんでした。しかし永禄11年(1568)、ついに徳政令を受け入れざるを得なくなると、直虎は統治権をはく奪され、家老・小野政次(道好)が井伊領を支配。居城・井伊谷城も奪われてしまいますが、反旗を翻した井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に遠江侵攻中だった家康が加担し、実権を回復します。 武田家と徳川・織田連合軍の対立 駿河・遠江へ侵攻を開始した武田・徳川両軍は、破竹の勢いで今川領を攻略しました。わずか半年後の永禄12年(1569)5月には、氏真が掛川城で降伏し大名としての今川家が滅亡します。しかしその後、武田家と徳川家が対立。元亀3年(1572)武田家が遠江へ侵攻すると、井伊谷城は武田家臣・山県昌景に明け渡し、直虎は徳川家の浜松城へと逃亡しました。徳川家と武田家は遠江の領有を巡って対立し、その後は武田軍と徳川・織田連合軍が対立するようになります。 井伊家の再興を目指して 直虎は戦乱のなかで井伊家の再興を目指します。彼女は直政の養育によってその使命を果たしました。 井伊直政の出世道をひらく 直虎が後見人となっていた虎松は、政次が井伊谷の領主となったときに命を狙われたことから三河国・鳳来寺に匿われていました。天正2年(1574)12月、直親の十三回忌法要が龍譚寺で営まれることになると、南渓和尚の取り計らいにより虎松が井伊谷に呼び寄せられます。このとき、虎松の母、直虎の母、直虎、南渓和尚らで話し合いが行われ、虎松を徳川家に出仕させ井伊家復興をはかる方針が定まりました。虎松の母は徳川家臣・松下清景と再婚し、虎松は養嗣子(家督相続のための養子)として松下虎松と名乗るようになります。そして天正3年(1575)、虎松は鷹狩りに出ていた家康と面会し、小姓として取り立てられました。 直政、徳川四天王へ! 家康への出仕が決まると、直虎は母とともに小袖を仕立て直政に与えたといわれています。その後、井伊姓を名乗ることを許された虎松は井伊万千代と改名し、元服後は井伊直政と名乗りました。直政が元服する前の天正10年(1582)8月、直虎はその晴れ姿を見ることなく激動の生涯に幕を閉じます。直虎は菩提寺の龍潭寺に葬られ、生前には結ばれることのなかった直親の隣で眠りにつきました。その後、直政は家康のもとで出世を重ね、やがて徳川四天王の1人に数えられるほどに成長します。そして、徳川幕府の基礎づくりに大きく貢献したのでした。 歴史ある井伊家を存続させた 桶狭間の戦い後の混乱により、お家断絶の危機に直面した井伊家。直虎は女の身で城主となり、井伊家を存続させるべく直政を養育し、見事に井伊家を再興させました。直政はのちに彦根藩の初代藩主となり、譜代大名の筆頭として江戸幕府を支えています。彼が築いた彦根藩は、その後も井伊直弼ら多くの傑物を輩出。その流れの礎は、歴史ある井伊家を存続させた直虎にあったともいえるでしょう。
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、どこへと逃亡したか。
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、徳川家の浜松城へと逃亡した。
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歴史
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、井伊直虎である。 領土をめぐる攻防戦 還俗して女城主となった直虎ですが、時代は混乱状態にあり、領土をめぐる戦いが絶えませんでした。井伊家をとりまく攻防戦について振り返ります。 武田信玄の外交方針の転換 桶狭間の戦いで義元が敗死した後、今川領では動揺が広がりました。それまで今川家に臣従してきた家康が独立し、信長と同盟を組んで今川家と対立。このような情勢の変化に伴い、武田家と今川家の同盟関係にも緊張が生じます。永禄10年(1567)今川家の塩止めにより甲相駿三国同盟が破綻。武田家では、親今川派の嫡男・武田義信が廃嫡される事件も発生しました。そして永禄11年(1568)、武田信玄は家康と今川領の遠江と駿河を分け合うことを約束して、共同で侵攻を開始します。 家老・小野政次の支配 永禄9年(1566)今川家は井伊家の力を弱めるための徳政令(借金帳消し令)を出しましたが、直虎は2年間引き延ばしました。徳政令が施行されると、借り手の領民は救われるものの貸し手の商人は苦しくなります。そうなれば井伊家の経済基盤は弱まり、領主としての立場を失いかねませんでした。しかし永禄11年(1568)、ついに徳政令を受け入れざるを得なくなると、直虎は統治権をはく奪され、家老・小野政次(道好)が井伊領を支配。居城・井伊谷城も奪われてしまいますが、反旗を翻した井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に遠江侵攻中だった家康が加担し、実権を回復します。 武田家と徳川・織田連合軍の対立 駿河・遠江へ侵攻を開始した武田・徳川両軍は、破竹の勢いで今川領を攻略しました。わずか半年後の永禄12年(1569)5月には、氏真が掛川城で降伏し大名としての今川家が滅亡します。しかしその後、武田家と徳川家が対立。元亀3年(1572)武田家が遠江へ侵攻すると、井伊谷城は武田家臣・山県昌景に明け渡し、直虎は徳川家の浜松城へと逃亡しました。徳川家と武田家は遠江の領有を巡って対立し、その後は武田軍と徳川・織田連合軍が対立するようになります。 井伊家の再興を目指して 直虎は戦乱のなかで井伊家の再興を目指します。彼女は直政の養育によってその使命を果たしました。 井伊直政の出世道をひらく 直虎が後見人となっていた虎松は、政次が井伊谷の領主となったときに命を狙われたことから三河国・鳳来寺に匿われていました。天正2年(1574)12月、直親の十三回忌法要が龍譚寺で営まれることになると、南渓和尚の取り計らいにより虎松が井伊谷に呼び寄せられます。このとき、虎松の母、直虎の母、直虎、南渓和尚らで話し合いが行われ、虎松を徳川家に出仕させ井伊家復興をはかる方針が定まりました。虎松の母は徳川家臣・松下清景と再婚し、虎松は養嗣子(家督相続のための養子)として松下虎松と名乗るようになります。そして天正3年(1575)、虎松は鷹狩りに出ていた家康と面会し、小姓として取り立てられました。 直政、徳川四天王へ! 家康への出仕が決まると、直虎は母とともに小袖を仕立て直政に与えたといわれています。その後、井伊姓を名乗ることを許された虎松は井伊万千代と改名し、元服後は井伊直政と名乗りました。直政が元服する前の天正10年(1582)8月、直虎はその晴れ姿を見ることなく激動の生涯に幕を閉じます。直虎は菩提寺の龍潭寺に葬られ、生前には結ばれることのなかった直親の隣で眠りにつきました。その後、直政は家康のもとで出世を重ね、やがて徳川四天王の1人に数えられるほどに成長します。そして、徳川幕府の基礎づくりに大きく貢献したのでした。 歴史ある井伊家を存続させた 桶狭間の戦い後の混乱により、お家断絶の危機に直面した井伊家。直虎は女の身で城主となり、井伊家を存続させるべく直政を養育し、見事に井伊家を再興させました。直政はのちに彦根藩の初代藩主となり、譜代大名の筆頭として江戸幕府を支えています。彼が築いた彦根藩は、その後も井伊直弼ら多くの傑物を輩出。その流れの礎は、歴史ある井伊家を存続させた直虎にあったともいえるでしょう。
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、母とともに小袖を仕立て誰に与えたか。
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、母とともに小袖を仕立て直政に与えた。
JCRRAG_018570
歴史
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、井伊直虎である。 領土をめぐる攻防戦 還俗して女城主となった直虎ですが、時代は混乱状態にあり、領土をめぐる戦いが絶えませんでした。井伊家をとりまく攻防戦について振り返ります。 武田信玄の外交方針の転換 桶狭間の戦いで義元が敗死した後、今川領では動揺が広がりました。それまで今川家に臣従してきた家康が独立し、信長と同盟を組んで今川家と対立。このような情勢の変化に伴い、武田家と今川家の同盟関係にも緊張が生じます。永禄10年(1567)今川家の塩止めにより甲相駿三国同盟が破綻。武田家では、親今川派の嫡男・武田義信が廃嫡される事件も発生しました。そして永禄11年(1568)、武田信玄は家康と今川領の遠江と駿河を分け合うことを約束して、共同で侵攻を開始します。 家老・小野政次の支配 永禄9年(1566)今川家は井伊家の力を弱めるための徳政令(借金帳消し令)を出しましたが、直虎は2年間引き延ばしました。徳政令が施行されると、借り手の領民は救われるものの貸し手の商人は苦しくなります。そうなれば井伊家の経済基盤は弱まり、領主としての立場を失いかねませんでした。しかし永禄11年(1568)、ついに徳政令を受け入れざるを得なくなると、直虎は統治権をはく奪され、家老・小野政次(道好)が井伊領を支配。居城・井伊谷城も奪われてしまいますが、反旗を翻した井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に遠江侵攻中だった家康が加担し、実権を回復します。 武田家と徳川・織田連合軍の対立 駿河・遠江へ侵攻を開始した武田・徳川両軍は、破竹の勢いで今川領を攻略しました。わずか半年後の永禄12年(1569)5月には、氏真が掛川城で降伏し大名としての今川家が滅亡します。しかしその後、武田家と徳川家が対立。元亀3年(1572)武田家が遠江へ侵攻すると、井伊谷城は武田家臣・山県昌景に明け渡し、直虎は徳川家の浜松城へと逃亡しました。徳川家と武田家は遠江の領有を巡って対立し、その後は武田軍と徳川・織田連合軍が対立するようになります。 井伊家の再興を目指して 直虎は戦乱のなかで井伊家の再興を目指します。彼女は直政の養育によってその使命を果たしました。 井伊直政の出世道をひらく 直虎が後見人となっていた虎松は、政次が井伊谷の領主となったときに命を狙われたことから三河国・鳳来寺に匿われていました。天正2年(1574)12月、直親の十三回忌法要が龍譚寺で営まれることになると、南渓和尚の取り計らいにより虎松が井伊谷に呼び寄せられます。このとき、虎松の母、直虎の母、直虎、南渓和尚らで話し合いが行われ、虎松を徳川家に出仕させ井伊家復興をはかる方針が定まりました。虎松の母は徳川家臣・松下清景と再婚し、虎松は養嗣子(家督相続のための養子)として松下虎松と名乗るようになります。そして天正3年(1575)、虎松は鷹狩りに出ていた家康と面会し、小姓として取り立てられました。 直政、徳川四天王へ! 家康への出仕が決まると、直虎は母とともに小袖を仕立て直政に与えたといわれています。その後、井伊姓を名乗ることを許された虎松は井伊万千代と改名し、元服後は井伊直政と名乗りました。直政が元服する前の天正10年(1582)8月、直虎はその晴れ姿を見ることなく激動の生涯に幕を閉じます。直虎は菩提寺の龍潭寺に葬られ、生前には結ばれることのなかった直親の隣で眠りにつきました。その後、直政は家康のもとで出世を重ね、やがて徳川四天王の1人に数えられるほどに成長します。そして、徳川幕府の基礎づくりに大きく貢献したのでした。 歴史ある井伊家を存続させた 桶狭間の戦い後の混乱により、お家断絶の危機に直面した井伊家。直虎は女の身で城主となり、井伊家を存続させるべく直政を養育し、見事に井伊家を再興させました。直政はのちに彦根藩の初代藩主となり、譜代大名の筆頭として江戸幕府を支えています。彼が築いた彦根藩は、その後も井伊直弼ら多くの傑物を輩出。その流れの礎は、歴史ある井伊家を存続させた直虎にあったともいえるでしょう。
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、どこに葬られたか。
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、菩提寺の龍潭寺に葬られた。
JCRRAG_018571
歴史
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、井伊直虎である。 領土をめぐる攻防戦 還俗して女城主となった直虎ですが、時代は混乱状態にあり、領土をめぐる戦いが絶えませんでした。井伊家をとりまく攻防戦について振り返ります。 武田信玄の外交方針の転換 桶狭間の戦いで義元が敗死した後、今川領では動揺が広がりました。それまで今川家に臣従してきた家康が独立し、信長と同盟を組んで今川家と対立。このような情勢の変化に伴い、武田家と今川家の同盟関係にも緊張が生じます。永禄10年(1567)今川家の塩止めにより甲相駿三国同盟が破綻。武田家では、親今川派の嫡男・武田義信が廃嫡される事件も発生しました。そして永禄11年(1568)、武田信玄は家康と今川領の遠江と駿河を分け合うことを約束して、共同で侵攻を開始します。 家老・小野政次の支配 永禄9年(1566)今川家は井伊家の力を弱めるための徳政令(借金帳消し令)を出しましたが、直虎は2年間引き延ばしました。徳政令が施行されると、借り手の領民は救われるものの貸し手の商人は苦しくなります。そうなれば井伊家の経済基盤は弱まり、領主としての立場を失いかねませんでした。しかし永禄11年(1568)、ついに徳政令を受け入れざるを得なくなると、直虎は統治権をはく奪され、家老・小野政次(道好)が井伊領を支配。居城・井伊谷城も奪われてしまいますが、反旗を翻した井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に遠江侵攻中だった家康が加担し、実権を回復します。 武田家と徳川・織田連合軍の対立 駿河・遠江へ侵攻を開始した武田・徳川両軍は、破竹の勢いで今川領を攻略しました。わずか半年後の永禄12年(1569)5月には、氏真が掛川城で降伏し大名としての今川家が滅亡します。しかしその後、武田家と徳川家が対立。元亀3年(1572)武田家が遠江へ侵攻すると、井伊谷城は武田家臣・山県昌景に明け渡し、直虎は徳川家の浜松城へと逃亡しました。徳川家と武田家は遠江の領有を巡って対立し、その後は武田軍と徳川・織田連合軍が対立するようになります。 井伊家の再興を目指して 直虎は戦乱のなかで井伊家の再興を目指します。彼女は直政の養育によってその使命を果たしました。 井伊直政の出世道をひらく 直虎が後見人となっていた虎松は、政次が井伊谷の領主となったときに命を狙われたことから三河国・鳳来寺に匿われていました。天正2年(1574)12月、直親の十三回忌法要が龍譚寺で営まれることになると、南渓和尚の取り計らいにより虎松が井伊谷に呼び寄せられます。このとき、虎松の母、直虎の母、直虎、南渓和尚らで話し合いが行われ、虎松を徳川家に出仕させ井伊家復興をはかる方針が定まりました。虎松の母は徳川家臣・松下清景と再婚し、虎松は養嗣子(家督相続のための養子)として松下虎松と名乗るようになります。そして天正3年(1575)、虎松は鷹狩りに出ていた家康と面会し、小姓として取り立てられました。 直政、徳川四天王へ! 家康への出仕が決まると、直虎は母とともに小袖を仕立て直政に与えたといわれています。その後、井伊姓を名乗ることを許された虎松は井伊万千代と改名し、元服後は井伊直政と名乗りました。直政が元服する前の天正10年(1582)8月、直虎はその晴れ姿を見ることなく激動の生涯に幕を閉じます。直虎は菩提寺の龍潭寺に葬られ、生前には結ばれることのなかった直親の隣で眠りにつきました。その後、直政は家康のもとで出世を重ね、やがて徳川四天王の1人に数えられるほどに成長します。そして、徳川幕府の基礎づくりに大きく貢献したのでした。 歴史ある井伊家を存続させた 桶狭間の戦い後の混乱により、お家断絶の危機に直面した井伊家。直虎は女の身で城主となり、井伊家を存続させるべく直政を養育し、見事に井伊家を再興させました。直政はのちに彦根藩の初代藩主となり、譜代大名の筆頭として江戸幕府を支えています。彼が築いた彦根藩は、その後も井伊直弼ら多くの傑物を輩出。その流れの礎は、歴史ある井伊家を存続させた直虎にあったともいえるでしょう。
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、誰の隣で眠りについたか。
戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、生前には結ばれることのなかった直親の隣で眠りについた。
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歴史
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、本多忠勝である。 旗本部隊の将になるまで 忠勝は古くから家康の家臣として仕えていました。その出会いは幼少期にさかのぼります。 徳川家の最古参譜代として 忠勝は、天文17年(1548)本多忠高の長男として三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市)で誕生しました。本多氏は松平氏に仕えた最古参の譜代で、忠勝も幼い頃から家康に仕えていたといいます。うまれてすぐに父を亡くした彼は、叔父・本多忠真のもとで育ち、永禄3年(1560)13歳のときに桶狭間の戦いの前哨戦となる大高城兵糧入れで初陣を果たしました。 一方、主君・家康は幼少時から人質生活を送っており、桶狭間の戦いのころは今川義元の配下として動いていましたが、この戦いで義元が織田信長に倒されると今川家からの独立を果たします。 三河一向一揆で家康方に 独立した家康が信長と清洲同盟を締結したあと、忠勝はさまざまな戦いに参加しました。永禄6年(1563)9月には、三河の一向宗門徒が家康に反抗し三河一向一揆が勃発。この一揆では、のちに家康の参謀となる本多正信をはじめ多くの本多一族が敵になりましたが、忠勝は一向宗から浄土宗に改宗し、家康側として戦い武功を上げました。これらの功績により、忠勝は旗本先手役に抜擢。以後は家康の居城近くに住んで旗本部隊の将として活躍しました。 徳川四天王としての活躍 忠勝は躍進を続け、徳川四天王と呼ばれるほどの人物になります。そして徳川家中で盤石な地位を築いたのです。 多くの戦いで勇名を馳せる! 元亀元年(1570)姉川の戦いが勃発し、忠勝は1万人の朝倉軍の中に乗り込み敵将・真柄直隆(十郎左衛門)との一騎討ちで勇名を馳せました。元亀3年(1572)の二俣城の戦いでは、前哨戦の偵察隊として動くも武田軍に遭遇。このとき忠勝は殿軍を務め家康本隊を無事に撤退させています。その後も、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、高天神城奪還戦などで武功を上げ、その活躍は敵味方を問わず称賛されました。家康も「まことに我が家の良将なり」と絶賛したといいます。 わずか500人で大軍を威嚇 天正10年(1582)信長が本能寺の変で死去した際、家康は信長から招かれわずかな供回りで堺を見物中でした。信長の死を知った家康は決死の「伊賀越え」を敢行しますが、この家康最大のピンチといわれる場面にも忠勝は付き従っています。また、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、留守を任されたものの徳川軍が苦戦していることを知り、わずか500の兵で駆け付け豊臣方の大軍の戦意を喪失させました。この活躍は、豊臣秀吉から「東国一の勇士」と称賛され、織田信雄も刀を授けるほどだったそうです。 家臣団中2位の石高を得る 家康が秀吉の傘下に入り関東に移封されると、忠勝は上総国夷隅郡大多喜(現在の千葉県夷隅郡大多喜町)に10万石を与えられました。これは徳川家臣団中、第2位の石高だったといいます。家康は江戸から遠くに忠勝を配置していますが、これは敵が攻めてくる国境に譜代の武将を配置するという考えによるものでした。忠勝は安房国・里見氏の北上を防ぐため、居城・大多喜城を大改修するとともに城下町を建設。この城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしました。
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、いつ誕生したか。
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、天文17年(1548)に誕生した。
JCRRAG_018573
歴史
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、本多忠勝である。 旗本部隊の将になるまで 忠勝は古くから家康の家臣として仕えていました。その出会いは幼少期にさかのぼります。 徳川家の最古参譜代として 忠勝は、天文17年(1548)本多忠高の長男として三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市)で誕生しました。本多氏は松平氏に仕えた最古参の譜代で、忠勝も幼い頃から家康に仕えていたといいます。うまれてすぐに父を亡くした彼は、叔父・本多忠真のもとで育ち、永禄3年(1560)13歳のときに桶狭間の戦いの前哨戦となる大高城兵糧入れで初陣を果たしました。 一方、主君・家康は幼少時から人質生活を送っており、桶狭間の戦いのころは今川義元の配下として動いていましたが、この戦いで義元が織田信長に倒されると今川家からの独立を果たします。 三河一向一揆で家康方に 独立した家康が信長と清洲同盟を締結したあと、忠勝はさまざまな戦いに参加しました。永禄6年(1563)9月には、三河の一向宗門徒が家康に反抗し三河一向一揆が勃発。この一揆では、のちに家康の参謀となる本多正信をはじめ多くの本多一族が敵になりましたが、忠勝は一向宗から浄土宗に改宗し、家康側として戦い武功を上げました。これらの功績により、忠勝は旗本先手役に抜擢。以後は家康の居城近くに住んで旗本部隊の将として活躍しました。 徳川四天王としての活躍 忠勝は躍進を続け、徳川四天王と呼ばれるほどの人物になります。そして徳川家中で盤石な地位を築いたのです。 多くの戦いで勇名を馳せる! 元亀元年(1570)姉川の戦いが勃発し、忠勝は1万人の朝倉軍の中に乗り込み敵将・真柄直隆(十郎左衛門)との一騎討ちで勇名を馳せました。元亀3年(1572)の二俣城の戦いでは、前哨戦の偵察隊として動くも武田軍に遭遇。このとき忠勝は殿軍を務め家康本隊を無事に撤退させています。その後も、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、高天神城奪還戦などで武功を上げ、その活躍は敵味方を問わず称賛されました。家康も「まことに我が家の良将なり」と絶賛したといいます。 わずか500人で大軍を威嚇 天正10年(1582)信長が本能寺の変で死去した際、家康は信長から招かれわずかな供回りで堺を見物中でした。信長の死を知った家康は決死の「伊賀越え」を敢行しますが、この家康最大のピンチといわれる場面にも忠勝は付き従っています。また、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、留守を任されたものの徳川軍が苦戦していることを知り、わずか500の兵で駆け付け豊臣方の大軍の戦意を喪失させました。この活躍は、豊臣秀吉から「東国一の勇士」と称賛され、織田信雄も刀を授けるほどだったそうです。 家臣団中2位の石高を得る 家康が秀吉の傘下に入り関東に移封されると、忠勝は上総国夷隅郡大多喜(現在の千葉県夷隅郡大多喜町)に10万石を与えられました。これは徳川家臣団中、第2位の石高だったといいます。家康は江戸から遠くに忠勝を配置していますが、これは敵が攻めてくる国境に譜代の武将を配置するという考えによるものでした。忠勝は安房国・里見氏の北上を防ぐため、居城・大多喜城を大改修するとともに城下町を建設。この城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしました。
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、誰の長男として誕生したか。
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、本多忠高の長男として誕生した。
JCRRAG_018574
歴史
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、本多忠勝である。 旗本部隊の将になるまで 忠勝は古くから家康の家臣として仕えていました。その出会いは幼少期にさかのぼります。 徳川家の最古参譜代として 忠勝は、天文17年(1548)本多忠高の長男として三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市)で誕生しました。本多氏は松平氏に仕えた最古参の譜代で、忠勝も幼い頃から家康に仕えていたといいます。うまれてすぐに父を亡くした彼は、叔父・本多忠真のもとで育ち、永禄3年(1560)13歳のときに桶狭間の戦いの前哨戦となる大高城兵糧入れで初陣を果たしました。 一方、主君・家康は幼少時から人質生活を送っており、桶狭間の戦いのころは今川義元の配下として動いていましたが、この戦いで義元が織田信長に倒されると今川家からの独立を果たします。 三河一向一揆で家康方に 独立した家康が信長と清洲同盟を締結したあと、忠勝はさまざまな戦いに参加しました。永禄6年(1563)9月には、三河の一向宗門徒が家康に反抗し三河一向一揆が勃発。この一揆では、のちに家康の参謀となる本多正信をはじめ多くの本多一族が敵になりましたが、忠勝は一向宗から浄土宗に改宗し、家康側として戦い武功を上げました。これらの功績により、忠勝は旗本先手役に抜擢。以後は家康の居城近くに住んで旗本部隊の将として活躍しました。 徳川四天王としての活躍 忠勝は躍進を続け、徳川四天王と呼ばれるほどの人物になります。そして徳川家中で盤石な地位を築いたのです。 多くの戦いで勇名を馳せる! 元亀元年(1570)姉川の戦いが勃発し、忠勝は1万人の朝倉軍の中に乗り込み敵将・真柄直隆(十郎左衛門)との一騎討ちで勇名を馳せました。元亀3年(1572)の二俣城の戦いでは、前哨戦の偵察隊として動くも武田軍に遭遇。このとき忠勝は殿軍を務め家康本隊を無事に撤退させています。その後も、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、高天神城奪還戦などで武功を上げ、その活躍は敵味方を問わず称賛されました。家康も「まことに我が家の良将なり」と絶賛したといいます。 わずか500人で大軍を威嚇 天正10年(1582)信長が本能寺の変で死去した際、家康は信長から招かれわずかな供回りで堺を見物中でした。信長の死を知った家康は決死の「伊賀越え」を敢行しますが、この家康最大のピンチといわれる場面にも忠勝は付き従っています。また、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、留守を任されたものの徳川軍が苦戦していることを知り、わずか500の兵で駆け付け豊臣方の大軍の戦意を喪失させました。この活躍は、豊臣秀吉から「東国一の勇士」と称賛され、織田信雄も刀を授けるほどだったそうです。 家臣団中2位の石高を得る 家康が秀吉の傘下に入り関東に移封されると、忠勝は上総国夷隅郡大多喜(現在の千葉県夷隅郡大多喜町)に10万石を与えられました。これは徳川家臣団中、第2位の石高だったといいます。家康は江戸から遠くに忠勝を配置していますが、これは敵が攻めてくる国境に譜代の武将を配置するという考えによるものでした。忠勝は安房国・里見氏の北上を防ぐため、居城・大多喜城を大改修するとともに城下町を建設。この城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしました。
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、どこで誕生したか。
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市)で誕生した。
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歴史
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、本多忠勝である。 旗本部隊の将になるまで 忠勝は古くから家康の家臣として仕えていました。その出会いは幼少期にさかのぼります。 徳川家の最古参譜代として 忠勝は、天文17年(1548)本多忠高の長男として三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市)で誕生しました。本多氏は松平氏に仕えた最古参の譜代で、忠勝も幼い頃から家康に仕えていたといいます。うまれてすぐに父を亡くした彼は、叔父・本多忠真のもとで育ち、永禄3年(1560)13歳のときに桶狭間の戦いの前哨戦となる大高城兵糧入れで初陣を果たしました。 一方、主君・家康は幼少時から人質生活を送っており、桶狭間の戦いのころは今川義元の配下として動いていましたが、この戦いで義元が織田信長に倒されると今川家からの独立を果たします。 三河一向一揆で家康方に 独立した家康が信長と清洲同盟を締結したあと、忠勝はさまざまな戦いに参加しました。永禄6年(1563)9月には、三河の一向宗門徒が家康に反抗し三河一向一揆が勃発。この一揆では、のちに家康の参謀となる本多正信をはじめ多くの本多一族が敵になりましたが、忠勝は一向宗から浄土宗に改宗し、家康側として戦い武功を上げました。これらの功績により、忠勝は旗本先手役に抜擢。以後は家康の居城近くに住んで旗本部隊の将として活躍しました。 徳川四天王としての活躍 忠勝は躍進を続け、徳川四天王と呼ばれるほどの人物になります。そして徳川家中で盤石な地位を築いたのです。 多くの戦いで勇名を馳せる! 元亀元年(1570)姉川の戦いが勃発し、忠勝は1万人の朝倉軍の中に乗り込み敵将・真柄直隆(十郎左衛門)との一騎討ちで勇名を馳せました。元亀3年(1572)の二俣城の戦いでは、前哨戦の偵察隊として動くも武田軍に遭遇。このとき忠勝は殿軍を務め家康本隊を無事に撤退させています。その後も、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、高天神城奪還戦などで武功を上げ、その活躍は敵味方を問わず称賛されました。家康も「まことに我が家の良将なり」と絶賛したといいます。 わずか500人で大軍を威嚇 天正10年(1582)信長が本能寺の変で死去した際、家康は信長から招かれわずかな供回りで堺を見物中でした。信長の死を知った家康は決死の「伊賀越え」を敢行しますが、この家康最大のピンチといわれる場面にも忠勝は付き従っています。また、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、留守を任されたものの徳川軍が苦戦していることを知り、わずか500の兵で駆け付け豊臣方の大軍の戦意を喪失させました。この活躍は、豊臣秀吉から「東国一の勇士」と称賛され、織田信雄も刀を授けるほどだったそうです。 家臣団中2位の石高を得る 家康が秀吉の傘下に入り関東に移封されると、忠勝は上総国夷隅郡大多喜(現在の千葉県夷隅郡大多喜町)に10万石を与えられました。これは徳川家臣団中、第2位の石高だったといいます。家康は江戸から遠くに忠勝を配置していますが、これは敵が攻めてくる国境に譜代の武将を配置するという考えによるものでした。忠勝は安房国・里見氏の北上を防ぐため、居城・大多喜城を大改修するとともに城下町を建設。この城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしました。
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、何宗に改宗したか。
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、一向宗から浄土宗に改宗した。
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歴史
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、本多忠勝である。 旗本部隊の将になるまで 忠勝は古くから家康の家臣として仕えていました。その出会いは幼少期にさかのぼります。 徳川家の最古参譜代として 忠勝は、天文17年(1548)本多忠高の長男として三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市)で誕生しました。本多氏は松平氏に仕えた最古参の譜代で、忠勝も幼い頃から家康に仕えていたといいます。うまれてすぐに父を亡くした彼は、叔父・本多忠真のもとで育ち、永禄3年(1560)13歳のときに桶狭間の戦いの前哨戦となる大高城兵糧入れで初陣を果たしました。 一方、主君・家康は幼少時から人質生活を送っており、桶狭間の戦いのころは今川義元の配下として動いていましたが、この戦いで義元が織田信長に倒されると今川家からの独立を果たします。 三河一向一揆で家康方に 独立した家康が信長と清洲同盟を締結したあと、忠勝はさまざまな戦いに参加しました。永禄6年(1563)9月には、三河の一向宗門徒が家康に反抗し三河一向一揆が勃発。この一揆では、のちに家康の参謀となる本多正信をはじめ多くの本多一族が敵になりましたが、忠勝は一向宗から浄土宗に改宗し、家康側として戦い武功を上げました。これらの功績により、忠勝は旗本先手役に抜擢。以後は家康の居城近くに住んで旗本部隊の将として活躍しました。 徳川四天王としての活躍 忠勝は躍進を続け、徳川四天王と呼ばれるほどの人物になります。そして徳川家中で盤石な地位を築いたのです。 多くの戦いで勇名を馳せる! 元亀元年(1570)姉川の戦いが勃発し、忠勝は1万人の朝倉軍の中に乗り込み敵将・真柄直隆(十郎左衛門)との一騎討ちで勇名を馳せました。元亀3年(1572)の二俣城の戦いでは、前哨戦の偵察隊として動くも武田軍に遭遇。このとき忠勝は殿軍を務め家康本隊を無事に撤退させています。その後も、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、高天神城奪還戦などで武功を上げ、その活躍は敵味方を問わず称賛されました。家康も「まことに我が家の良将なり」と絶賛したといいます。 わずか500人で大軍を威嚇 天正10年(1582)信長が本能寺の変で死去した際、家康は信長から招かれわずかな供回りで堺を見物中でした。信長の死を知った家康は決死の「伊賀越え」を敢行しますが、この家康最大のピンチといわれる場面にも忠勝は付き従っています。また、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、留守を任されたものの徳川軍が苦戦していることを知り、わずか500の兵で駆け付け豊臣方の大軍の戦意を喪失させました。この活躍は、豊臣秀吉から「東国一の勇士」と称賛され、織田信雄も刀を授けるほどだったそうです。 家臣団中2位の石高を得る 家康が秀吉の傘下に入り関東に移封されると、忠勝は上総国夷隅郡大多喜(現在の千葉県夷隅郡大多喜町)に10万石を与えられました。これは徳川家臣団中、第2位の石高だったといいます。家康は江戸から遠くに忠勝を配置していますが、これは敵が攻めてくる国境に譜代の武将を配置するという考えによるものでした。忠勝は安房国・里見氏の北上を防ぐため、居城・大多喜城を大改修するとともに城下町を建設。この城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしました。
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、どのように戦い武功を上げたか。
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、家康側として戦い武功を上げた。
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歴史
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、本多忠勝である。 関ヶ原の戦いとその後 秀吉の死後、徳川方と豊臣方が対立し関ヶ原の戦いが勃発します。ここでの忠勝の動きはどのようなものだったのでしょうか? 家康本隊にて武功をあげる 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、本多本隊は家康本軍に従軍しました。指揮をとっていたのは嫡男・忠政で、忠勝は生前秀吉に目をかけられていた武将を監視していたともいわれています。忠勝は井伊直政とともに敵将を調略し、本戦でも少人数で約90の首級をあげるなど活躍。この功績により伊勢国桑名10万石に移されると、ただちに城の改修や宿場の整備などに着手します。そして、藩政確立への尽力から桑名藩創設の名君と仰がれるようになりました。 病を患い、隠居 勇将として名を轟かせた忠勝ですが、晩年は幕府中枢から遠ざかったようです。この頃には頭脳で幕府を支える文治派が台頭してきており、忠勝は病に侵されていました。一度は隠居願いを慰留された忠勝ですが、眼病も患い、慶長14年(1609)には嫡男・忠政に家督を譲って隠居。翌年、桑名の地でこの世を去りました。このとき重臣2名が殉死し、忠勝の左右に埋葬されたということです。 忠勝にまつわる逸話 並外れた武勇をもち、徳川家臣団一の強さを誇ったといわれる忠勝。そんな彼にまつわる逸話をご紹介します。 愛槍「蜻蛉切」と「鹿角脇立兜」 忠勝は、天下三名槍の1つ「蜻蛉切(とんぼきり)」を愛用していました。通常の長槍は約4.5mですが、蜻蛉切は約6mもあったそうです。この槍には、穂先にとまったトンボが真っ二つになったという逸話が残されています。また、鹿の角をあしらった「鹿角脇立兜(しかつのわきだてかぶと)」を使用。これらの装備品は忠勝の強さの象徴でもあり、「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」という川柳も残されています。 負け知らず!?並外れた武勇 生涯で参戦した57回ほどの合戦で、かすり傷一つ負わなかったといわれる忠勝。その名采配ぶりは、配下の将たちから「忠勝の指揮で戦うと背中に盾を背負っているようなものだ」と称賛されました。信長からは「花も実も兼ね備えた武将」とまで評された忠勝は、福島正則から武勇を褒め称えられた際に「采配が良かったのではなく敵が弱すぎた」と答えたといわれています。 主君に敵将の助命を嘆願 関ヶ原の戦い後、忠勝は真田信之(信幸)とともに敵方の真田昌幸・幸村親子の助命を嘆願しました。しかし、家康は強く拒否し徳川秀忠も死罪を主張。というのも、2人とも真田親子には散々な目にあわされていたからです。それでも最終的には嘆願を受け入れる形で真田親子は助かり、信濃上田領は信之に与えられました。なお、忠勝の娘・小松姫は信之の妻となっており、その気丈さから「さすが忠勝の娘だ」と昌幸に感心されたという逸話も残されています。 徳川家康への厚い忠誠心 忠勝は武勇に優れるだけでなく誠実な人でもあったようです。家康への忠誠は厚く、秀吉から「秀吉の恩と家康の恩、どちらが重いか」と質問された際、「君のご恩は海より深いといえども、家康は譜代相伝の主君であって月日の論には及びがたし」と答えたといわれています。また、辞世の句「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば」には、家康を残して死にゆくことへの後悔がにじんでいます。 敵も味方も称賛した猛将 徳川四天王だけでなく、徳川十六神将・徳川三傑としても歴史に名を刻む忠勝。幼少時から家康を支え続けた彼は、徳川功臣として現在も顕彰されています。群雄割拠の戦国時代に、多くの戦いでみせたその武勇は、味方だけでなく敵をも魅了しました。彼の勇猛ぶりは、時を超えて今後も私達を魅了し続けることでしょう。
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、誰を監視していたか。
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、生前秀吉に目をかけられていた武将を監視していた。
JCRRAG_018578
歴史
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、本多忠勝である。 関ヶ原の戦いとその後 秀吉の死後、徳川方と豊臣方が対立し関ヶ原の戦いが勃発します。ここでの忠勝の動きはどのようなものだったのでしょうか? 家康本隊にて武功をあげる 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、本多本隊は家康本軍に従軍しました。指揮をとっていたのは嫡男・忠政で、忠勝は生前秀吉に目をかけられていた武将を監視していたともいわれています。忠勝は井伊直政とともに敵将を調略し、本戦でも少人数で約90の首級をあげるなど活躍。この功績により伊勢国桑名10万石に移されると、ただちに城の改修や宿場の整備などに着手します。そして、藩政確立への尽力から桑名藩創設の名君と仰がれるようになりました。 病を患い、隠居 勇将として名を轟かせた忠勝ですが、晩年は幕府中枢から遠ざかったようです。この頃には頭脳で幕府を支える文治派が台頭してきており、忠勝は病に侵されていました。一度は隠居願いを慰留された忠勝ですが、眼病も患い、慶長14年(1609)には嫡男・忠政に家督を譲って隠居。翌年、桑名の地でこの世を去りました。このとき重臣2名が殉死し、忠勝の左右に埋葬されたということです。 忠勝にまつわる逸話 並外れた武勇をもち、徳川家臣団一の強さを誇ったといわれる忠勝。そんな彼にまつわる逸話をご紹介します。 愛槍「蜻蛉切」と「鹿角脇立兜」 忠勝は、天下三名槍の1つ「蜻蛉切(とんぼきり)」を愛用していました。通常の長槍は約4.5mですが、蜻蛉切は約6mもあったそうです。この槍には、穂先にとまったトンボが真っ二つになったという逸話が残されています。また、鹿の角をあしらった「鹿角脇立兜(しかつのわきだてかぶと)」を使用。これらの装備品は忠勝の強さの象徴でもあり、「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」という川柳も残されています。 負け知らず!?並外れた武勇 生涯で参戦した57回ほどの合戦で、かすり傷一つ負わなかったといわれる忠勝。その名采配ぶりは、配下の将たちから「忠勝の指揮で戦うと背中に盾を背負っているようなものだ」と称賛されました。信長からは「花も実も兼ね備えた武将」とまで評された忠勝は、福島正則から武勇を褒め称えられた際に「采配が良かったのではなく敵が弱すぎた」と答えたといわれています。 主君に敵将の助命を嘆願 関ヶ原の戦い後、忠勝は真田信之(信幸)とともに敵方の真田昌幸・幸村親子の助命を嘆願しました。しかし、家康は強く拒否し徳川秀忠も死罪を主張。というのも、2人とも真田親子には散々な目にあわされていたからです。それでも最終的には嘆願を受け入れる形で真田親子は助かり、信濃上田領は信之に与えられました。なお、忠勝の娘・小松姫は信之の妻となっており、その気丈さから「さすが忠勝の娘だ」と昌幸に感心されたという逸話も残されています。 徳川家康への厚い忠誠心 忠勝は武勇に優れるだけでなく誠実な人でもあったようです。家康への忠誠は厚く、秀吉から「秀吉の恩と家康の恩、どちらが重いか」と質問された際、「君のご恩は海より深いといえども、家康は譜代相伝の主君であって月日の論には及びがたし」と答えたといわれています。また、辞世の句「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば」には、家康を残して死にゆくことへの後悔がにじんでいます。 敵も味方も称賛した猛将 徳川四天王だけでなく、徳川十六神将・徳川三傑としても歴史に名を刻む忠勝。幼少時から家康を支え続けた彼は、徳川功臣として現在も顕彰されています。群雄割拠の戦国時代に、多くの戦いでみせたその武勇は、味方だけでなく敵をも魅了しました。彼の勇猛ぶりは、時を超えて今後も私達を魅了し続けることでしょう。
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、誰とともに敵将を調略したか。
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、井伊直政とともに敵将を調略した。
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歴史
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、本多忠勝である。 関ヶ原の戦いとその後 秀吉の死後、徳川方と豊臣方が対立し関ヶ原の戦いが勃発します。ここでの忠勝の動きはどのようなものだったのでしょうか? 家康本隊にて武功をあげる 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、本多本隊は家康本軍に従軍しました。指揮をとっていたのは嫡男・忠政で、忠勝は生前秀吉に目をかけられていた武将を監視していたともいわれています。忠勝は井伊直政とともに敵将を調略し、本戦でも少人数で約90の首級をあげるなど活躍。この功績により伊勢国桑名10万石に移されると、ただちに城の改修や宿場の整備などに着手します。そして、藩政確立への尽力から桑名藩創設の名君と仰がれるようになりました。 病を患い、隠居 勇将として名を轟かせた忠勝ですが、晩年は幕府中枢から遠ざかったようです。この頃には頭脳で幕府を支える文治派が台頭してきており、忠勝は病に侵されていました。一度は隠居願いを慰留された忠勝ですが、眼病も患い、慶長14年(1609)には嫡男・忠政に家督を譲って隠居。翌年、桑名の地でこの世を去りました。このとき重臣2名が殉死し、忠勝の左右に埋葬されたということです。 忠勝にまつわる逸話 並外れた武勇をもち、徳川家臣団一の強さを誇ったといわれる忠勝。そんな彼にまつわる逸話をご紹介します。 愛槍「蜻蛉切」と「鹿角脇立兜」 忠勝は、天下三名槍の1つ「蜻蛉切(とんぼきり)」を愛用していました。通常の長槍は約4.5mですが、蜻蛉切は約6mもあったそうです。この槍には、穂先にとまったトンボが真っ二つになったという逸話が残されています。また、鹿の角をあしらった「鹿角脇立兜(しかつのわきだてかぶと)」を使用。これらの装備品は忠勝の強さの象徴でもあり、「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」という川柳も残されています。 負け知らず!?並外れた武勇 生涯で参戦した57回ほどの合戦で、かすり傷一つ負わなかったといわれる忠勝。その名采配ぶりは、配下の将たちから「忠勝の指揮で戦うと背中に盾を背負っているようなものだ」と称賛されました。信長からは「花も実も兼ね備えた武将」とまで評された忠勝は、福島正則から武勇を褒め称えられた際に「采配が良かったのではなく敵が弱すぎた」と答えたといわれています。 主君に敵将の助命を嘆願 関ヶ原の戦い後、忠勝は真田信之(信幸)とともに敵方の真田昌幸・幸村親子の助命を嘆願しました。しかし、家康は強く拒否し徳川秀忠も死罪を主張。というのも、2人とも真田親子には散々な目にあわされていたからです。それでも最終的には嘆願を受け入れる形で真田親子は助かり、信濃上田領は信之に与えられました。なお、忠勝の娘・小松姫は信之の妻となっており、その気丈さから「さすが忠勝の娘だ」と昌幸に感心されたという逸話も残されています。 徳川家康への厚い忠誠心 忠勝は武勇に優れるだけでなく誠実な人でもあったようです。家康への忠誠は厚く、秀吉から「秀吉の恩と家康の恩、どちらが重いか」と質問された際、「君のご恩は海より深いといえども、家康は譜代相伝の主君であって月日の論には及びがたし」と答えたといわれています。また、辞世の句「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば」には、家康を残して死にゆくことへの後悔がにじんでいます。 敵も味方も称賛した猛将 徳川四天王だけでなく、徳川十六神将・徳川三傑としても歴史に名を刻む忠勝。幼少時から家康を支え続けた彼は、徳川功臣として現在も顕彰されています。群雄割拠の戦国時代に、多くの戦いでみせたその武勇は、味方だけでなく敵をも魅了しました。彼の勇猛ぶりは、時を超えて今後も私達を魅了し続けることでしょう。
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、どのような活躍をしたか。
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、本戦でも少人数で約90の首級をあげるなど活躍した。
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歴史
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、本多忠勝である。 関ヶ原の戦いとその後 秀吉の死後、徳川方と豊臣方が対立し関ヶ原の戦いが勃発します。ここでの忠勝の動きはどのようなものだったのでしょうか? 家康本隊にて武功をあげる 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、本多本隊は家康本軍に従軍しました。指揮をとっていたのは嫡男・忠政で、忠勝は生前秀吉に目をかけられていた武将を監視していたともいわれています。忠勝は井伊直政とともに敵将を調略し、本戦でも少人数で約90の首級をあげるなど活躍。この功績により伊勢国桑名10万石に移されると、ただちに城の改修や宿場の整備などに着手します。そして、藩政確立への尽力から桑名藩創設の名君と仰がれるようになりました。 病を患い、隠居 勇将として名を轟かせた忠勝ですが、晩年は幕府中枢から遠ざかったようです。この頃には頭脳で幕府を支える文治派が台頭してきており、忠勝は病に侵されていました。一度は隠居願いを慰留された忠勝ですが、眼病も患い、慶長14年(1609)には嫡男・忠政に家督を譲って隠居。翌年、桑名の地でこの世を去りました。このとき重臣2名が殉死し、忠勝の左右に埋葬されたということです。 忠勝にまつわる逸話 並外れた武勇をもち、徳川家臣団一の強さを誇ったといわれる忠勝。そんな彼にまつわる逸話をご紹介します。 愛槍「蜻蛉切」と「鹿角脇立兜」 忠勝は、天下三名槍の1つ「蜻蛉切(とんぼきり)」を愛用していました。通常の長槍は約4.5mですが、蜻蛉切は約6mもあったそうです。この槍には、穂先にとまったトンボが真っ二つになったという逸話が残されています。また、鹿の角をあしらった「鹿角脇立兜(しかつのわきだてかぶと)」を使用。これらの装備品は忠勝の強さの象徴でもあり、「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」という川柳も残されています。 負け知らず!?並外れた武勇 生涯で参戦した57回ほどの合戦で、かすり傷一つ負わなかったといわれる忠勝。その名采配ぶりは、配下の将たちから「忠勝の指揮で戦うと背中に盾を背負っているようなものだ」と称賛されました。信長からは「花も実も兼ね備えた武将」とまで評された忠勝は、福島正則から武勇を褒め称えられた際に「采配が良かったのではなく敵が弱すぎた」と答えたといわれています。 主君に敵将の助命を嘆願 関ヶ原の戦い後、忠勝は真田信之(信幸)とともに敵方の真田昌幸・幸村親子の助命を嘆願しました。しかし、家康は強く拒否し徳川秀忠も死罪を主張。というのも、2人とも真田親子には散々な目にあわされていたからです。それでも最終的には嘆願を受け入れる形で真田親子は助かり、信濃上田領は信之に与えられました。なお、忠勝の娘・小松姫は信之の妻となっており、その気丈さから「さすが忠勝の娘だ」と昌幸に感心されたという逸話も残されています。 徳川家康への厚い忠誠心 忠勝は武勇に優れるだけでなく誠実な人でもあったようです。家康への忠誠は厚く、秀吉から「秀吉の恩と家康の恩、どちらが重いか」と質問された際、「君のご恩は海より深いといえども、家康は譜代相伝の主君であって月日の論には及びがたし」と答えたといわれています。また、辞世の句「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば」には、家康を残して死にゆくことへの後悔がにじんでいます。 敵も味方も称賛した猛将 徳川四天王だけでなく、徳川十六神将・徳川三傑としても歴史に名を刻む忠勝。幼少時から家康を支え続けた彼は、徳川功臣として現在も顕彰されています。群雄割拠の戦国時代に、多くの戦いでみせたその武勇は、味方だけでなく敵をも魅了しました。彼の勇猛ぶりは、時を超えて今後も私達を魅了し続けることでしょう。
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、何を愛用していたか。
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、天下三名槍の1つ「蜻蛉切(とんぼきり)」を愛用していた。
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歴史
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、本多忠勝である。 関ヶ原の戦いとその後 秀吉の死後、徳川方と豊臣方が対立し関ヶ原の戦いが勃発します。ここでの忠勝の動きはどのようなものだったのでしょうか? 家康本隊にて武功をあげる 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、本多本隊は家康本軍に従軍しました。指揮をとっていたのは嫡男・忠政で、忠勝は生前秀吉に目をかけられていた武将を監視していたともいわれています。忠勝は井伊直政とともに敵将を調略し、本戦でも少人数で約90の首級をあげるなど活躍。この功績により伊勢国桑名10万石に移されると、ただちに城の改修や宿場の整備などに着手します。そして、藩政確立への尽力から桑名藩創設の名君と仰がれるようになりました。 病を患い、隠居 勇将として名を轟かせた忠勝ですが、晩年は幕府中枢から遠ざかったようです。この頃には頭脳で幕府を支える文治派が台頭してきており、忠勝は病に侵されていました。一度は隠居願いを慰留された忠勝ですが、眼病も患い、慶長14年(1609)には嫡男・忠政に家督を譲って隠居。翌年、桑名の地でこの世を去りました。このとき重臣2名が殉死し、忠勝の左右に埋葬されたということです。 忠勝にまつわる逸話 並外れた武勇をもち、徳川家臣団一の強さを誇ったといわれる忠勝。そんな彼にまつわる逸話をご紹介します。 愛槍「蜻蛉切」と「鹿角脇立兜」 忠勝は、天下三名槍の1つ「蜻蛉切(とんぼきり)」を愛用していました。通常の長槍は約4.5mですが、蜻蛉切は約6mもあったそうです。この槍には、穂先にとまったトンボが真っ二つになったという逸話が残されています。また、鹿の角をあしらった「鹿角脇立兜(しかつのわきだてかぶと)」を使用。これらの装備品は忠勝の強さの象徴でもあり、「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」という川柳も残されています。 負け知らず!?並外れた武勇 生涯で参戦した57回ほどの合戦で、かすり傷一つ負わなかったといわれる忠勝。その名采配ぶりは、配下の将たちから「忠勝の指揮で戦うと背中に盾を背負っているようなものだ」と称賛されました。信長からは「花も実も兼ね備えた武将」とまで評された忠勝は、福島正則から武勇を褒め称えられた際に「采配が良かったのではなく敵が弱すぎた」と答えたといわれています。 主君に敵将の助命を嘆願 関ヶ原の戦い後、忠勝は真田信之(信幸)とともに敵方の真田昌幸・幸村親子の助命を嘆願しました。しかし、家康は強く拒否し徳川秀忠も死罪を主張。というのも、2人とも真田親子には散々な目にあわされていたからです。それでも最終的には嘆願を受け入れる形で真田親子は助かり、信濃上田領は信之に与えられました。なお、忠勝の娘・小松姫は信之の妻となっており、その気丈さから「さすが忠勝の娘だ」と昌幸に感心されたという逸話も残されています。 徳川家康への厚い忠誠心 忠勝は武勇に優れるだけでなく誠実な人でもあったようです。家康への忠誠は厚く、秀吉から「秀吉の恩と家康の恩、どちらが重いか」と質問された際、「君のご恩は海より深いといえども、家康は譜代相伝の主君であって月日の論には及びがたし」と答えたといわれています。また、辞世の句「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば」には、家康を残して死にゆくことへの後悔がにじんでいます。 敵も味方も称賛した猛将 徳川四天王だけでなく、徳川十六神将・徳川三傑としても歴史に名を刻む忠勝。幼少時から家康を支え続けた彼は、徳川功臣として現在も顕彰されています。群雄割拠の戦国時代に、多くの戦いでみせたその武勇は、味方だけでなく敵をも魅了しました。彼の勇猛ぶりは、時を超えて今後も私達を魅了し続けることでしょう。
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、どのような人であったか。
徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、武勇に優れるだけでなく誠実な人でもあった。
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歴史
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、藤堂高虎である。 浅井家臣から豊臣家臣時代まで 高虎がまず仕えたのは、織田信長の義弟としても知られる浅井長政でした。浅井家臣時代から豊臣家臣時代までの高虎について振り返ります。 浅井長政に仕える 高虎は、弘治2年(1556)に藤堂虎高の次男として近江国で生まれました。幼名、与吉。藤堂氏は先祖代々の小領主でしたが、戦国時代には没落し農民の身分だったといいます。そんな中、高虎は近江国の戦国大名・浅井長政に足軽として仕え、元亀元年(1570)の姉川の戦いで首級を取るなど武功を上げます。この活躍により感状を受けた高虎でしたが、天正元年(1573)織田信長の攻撃により小谷城の戦いで浅井氏が滅亡。そのため高虎は、浅井氏旧臣・阿閉貞征(あつじさだゆき)、次いで磯野員昌(いそのかずまさ)の家臣となり、のちに信長の甥・織田信澄に仕えました。 豊臣秀長のもとで活躍 天正4年(1576)からは信長の重臣・豊臣秀長に仕え、明智光秀の丹波攻めや但馬国の土豪討伐などで活躍し、300石から3000石に加増され鉄砲大将となりました。中国攻め、賤ヶ岳の戦い、紀州征伐、四国攻めなどにも従軍し、猿岡山城、和歌山城の築城にあたっては普請奉行も担当。これが高虎の初めての築城となります。次々と武功を上げた高虎は徐々に加増され、やがて1万石の大名へと成長しました。 高虎、築城手腕を発揮! 天正14年(1586)に豊臣秀吉が関白になると、秀吉から指示を受けた秀長の指名により上洛する徳川家康の屋敷を聚楽第の邸内に建設します。作事奉行となった高虎は設計図に警備上の問題を発見し、独断で設計を変更して自費で補填しました。家康はそのこまやかな心遣いに感謝したといいます。翌年の九州征伐では仲間を救援する活躍により2万石に加増。また天正17年(1589)の北山一揆では鎮圧の拠点として赤木城を築城し、建築手腕を発揮しました。 出家するも還俗し、大名に復帰 天正19年(1591)に秀長が亡くなると、その養子である豊臣秀保に仕え、代理として文禄の役に出征します。そして、4年後に秀保が早世したため、出家して高野山に上りました。こうして世俗と離れた高虎でしたが、秀吉から才能を惜しまれて伊予国板島7万石を領する大名に復帰すると、慶長2年(1597)からの慶長の役で水軍を率いて活躍します。この戦いで武功を上げた高虎は8万石に加増されました。
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、いつ生まれたか。
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、弘治2年(1556)に生まれた。
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歴史
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、藤堂高虎である。 浅井家臣から豊臣家臣時代まで 高虎がまず仕えたのは、織田信長の義弟としても知られる浅井長政でした。浅井家臣時代から豊臣家臣時代までの高虎について振り返ります。 浅井長政に仕える 高虎は、弘治2年(1556)に藤堂虎高の次男として近江国で生まれました。幼名、与吉。藤堂氏は先祖代々の小領主でしたが、戦国時代には没落し農民の身分だったといいます。そんな中、高虎は近江国の戦国大名・浅井長政に足軽として仕え、元亀元年(1570)の姉川の戦いで首級を取るなど武功を上げます。この活躍により感状を受けた高虎でしたが、天正元年(1573)織田信長の攻撃により小谷城の戦いで浅井氏が滅亡。そのため高虎は、浅井氏旧臣・阿閉貞征(あつじさだゆき)、次いで磯野員昌(いそのかずまさ)の家臣となり、のちに信長の甥・織田信澄に仕えました。 豊臣秀長のもとで活躍 天正4年(1576)からは信長の重臣・豊臣秀長に仕え、明智光秀の丹波攻めや但馬国の土豪討伐などで活躍し、300石から3000石に加増され鉄砲大将となりました。中国攻め、賤ヶ岳の戦い、紀州征伐、四国攻めなどにも従軍し、猿岡山城、和歌山城の築城にあたっては普請奉行も担当。これが高虎の初めての築城となります。次々と武功を上げた高虎は徐々に加増され、やがて1万石の大名へと成長しました。 高虎、築城手腕を発揮! 天正14年(1586)に豊臣秀吉が関白になると、秀吉から指示を受けた秀長の指名により上洛する徳川家康の屋敷を聚楽第の邸内に建設します。作事奉行となった高虎は設計図に警備上の問題を発見し、独断で設計を変更して自費で補填しました。家康はそのこまやかな心遣いに感謝したといいます。翌年の九州征伐では仲間を救援する活躍により2万石に加増。また天正17年(1589)の北山一揆では鎮圧の拠点として赤木城を築城し、建築手腕を発揮しました。 出家するも還俗し、大名に復帰 天正19年(1591)に秀長が亡くなると、その養子である豊臣秀保に仕え、代理として文禄の役に出征します。そして、4年後に秀保が早世したため、出家して高野山に上りました。こうして世俗と離れた高虎でしたが、秀吉から才能を惜しまれて伊予国板島7万石を領する大名に復帰すると、慶長2年(1597)からの慶長の役で水軍を率いて活躍します。この戦いで武功を上げた高虎は8万石に加増されました。
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、誰の次男として生まれたか。
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、藤堂虎高の次男として生まれた。
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歴史
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、藤堂高虎である。 浅井家臣から豊臣家臣時代まで 高虎がまず仕えたのは、織田信長の義弟としても知られる浅井長政でした。浅井家臣時代から豊臣家臣時代までの高虎について振り返ります。 浅井長政に仕える 高虎は、弘治2年(1556)に藤堂虎高の次男として近江国で生まれました。幼名、与吉。藤堂氏は先祖代々の小領主でしたが、戦国時代には没落し農民の身分だったといいます。そんな中、高虎は近江国の戦国大名・浅井長政に足軽として仕え、元亀元年(1570)の姉川の戦いで首級を取るなど武功を上げます。この活躍により感状を受けた高虎でしたが、天正元年(1573)織田信長の攻撃により小谷城の戦いで浅井氏が滅亡。そのため高虎は、浅井氏旧臣・阿閉貞征(あつじさだゆき)、次いで磯野員昌(いそのかずまさ)の家臣となり、のちに信長の甥・織田信澄に仕えました。 豊臣秀長のもとで活躍 天正4年(1576)からは信長の重臣・豊臣秀長に仕え、明智光秀の丹波攻めや但馬国の土豪討伐などで活躍し、300石から3000石に加増され鉄砲大将となりました。中国攻め、賤ヶ岳の戦い、紀州征伐、四国攻めなどにも従軍し、猿岡山城、和歌山城の築城にあたっては普請奉行も担当。これが高虎の初めての築城となります。次々と武功を上げた高虎は徐々に加増され、やがて1万石の大名へと成長しました。 高虎、築城手腕を発揮! 天正14年(1586)に豊臣秀吉が関白になると、秀吉から指示を受けた秀長の指名により上洛する徳川家康の屋敷を聚楽第の邸内に建設します。作事奉行となった高虎は設計図に警備上の問題を発見し、独断で設計を変更して自費で補填しました。家康はそのこまやかな心遣いに感謝したといいます。翌年の九州征伐では仲間を救援する活躍により2万石に加増。また天正17年(1589)の北山一揆では鎮圧の拠点として赤木城を築城し、建築手腕を発揮しました。 出家するも還俗し、大名に復帰 天正19年(1591)に秀長が亡くなると、その養子である豊臣秀保に仕え、代理として文禄の役に出征します。そして、4年後に秀保が早世したため、出家して高野山に上りました。こうして世俗と離れた高虎でしたが、秀吉から才能を惜しまれて伊予国板島7万石を領する大名に復帰すると、慶長2年(1597)からの慶長の役で水軍を率いて活躍します。この戦いで武功を上げた高虎は8万石に加増されました。
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、どこで生まれたか。
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、近江国で生まれた。
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歴史
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、藤堂高虎である。 浅井家臣から豊臣家臣時代まで 高虎がまず仕えたのは、織田信長の義弟としても知られる浅井長政でした。浅井家臣時代から豊臣家臣時代までの高虎について振り返ります。 浅井長政に仕える 高虎は、弘治2年(1556)に藤堂虎高の次男として近江国で生まれました。幼名、与吉。藤堂氏は先祖代々の小領主でしたが、戦国時代には没落し農民の身分だったといいます。そんな中、高虎は近江国の戦国大名・浅井長政に足軽として仕え、元亀元年(1570)の姉川の戦いで首級を取るなど武功を上げます。この活躍により感状を受けた高虎でしたが、天正元年(1573)織田信長の攻撃により小谷城の戦いで浅井氏が滅亡。そのため高虎は、浅井氏旧臣・阿閉貞征(あつじさだゆき)、次いで磯野員昌(いそのかずまさ)の家臣となり、のちに信長の甥・織田信澄に仕えました。 豊臣秀長のもとで活躍 天正4年(1576)からは信長の重臣・豊臣秀長に仕え、明智光秀の丹波攻めや但馬国の土豪討伐などで活躍し、300石から3000石に加増され鉄砲大将となりました。中国攻め、賤ヶ岳の戦い、紀州征伐、四国攻めなどにも従軍し、猿岡山城、和歌山城の築城にあたっては普請奉行も担当。これが高虎の初めての築城となります。次々と武功を上げた高虎は徐々に加増され、やがて1万石の大名へと成長しました。 高虎、築城手腕を発揮! 天正14年(1586)に豊臣秀吉が関白になると、秀吉から指示を受けた秀長の指名により上洛する徳川家康の屋敷を聚楽第の邸内に建設します。作事奉行となった高虎は設計図に警備上の問題を発見し、独断で設計を変更して自費で補填しました。家康はそのこまやかな心遣いに感謝したといいます。翌年の九州征伐では仲間を救援する活躍により2万石に加増。また天正17年(1589)の北山一揆では鎮圧の拠点として赤木城を築城し、建築手腕を発揮しました。 出家するも還俗し、大名に復帰 天正19年(1591)に秀長が亡くなると、その養子である豊臣秀保に仕え、代理として文禄の役に出征します。そして、4年後に秀保が早世したため、出家して高野山に上りました。こうして世俗と離れた高虎でしたが、秀吉から才能を惜しまれて伊予国板島7万石を領する大名に復帰すると、慶長2年(1597)からの慶長の役で水軍を率いて活躍します。この戦いで武功を上げた高虎は8万石に加増されました。
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、誰に足軽として仕えたか。
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、近江国の戦国大名・浅井長政に足軽として仕えた。
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歴史
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、藤堂高虎である。 浅井家臣から豊臣家臣時代まで 高虎がまず仕えたのは、織田信長の義弟としても知られる浅井長政でした。浅井家臣時代から豊臣家臣時代までの高虎について振り返ります。 浅井長政に仕える 高虎は、弘治2年(1556)に藤堂虎高の次男として近江国で生まれました。幼名、与吉。藤堂氏は先祖代々の小領主でしたが、戦国時代には没落し農民の身分だったといいます。そんな中、高虎は近江国の戦国大名・浅井長政に足軽として仕え、元亀元年(1570)の姉川の戦いで首級を取るなど武功を上げます。この活躍により感状を受けた高虎でしたが、天正元年(1573)織田信長の攻撃により小谷城の戦いで浅井氏が滅亡。そのため高虎は、浅井氏旧臣・阿閉貞征(あつじさだゆき)、次いで磯野員昌(いそのかずまさ)の家臣となり、のちに信長の甥・織田信澄に仕えました。 豊臣秀長のもとで活躍 天正4年(1576)からは信長の重臣・豊臣秀長に仕え、明智光秀の丹波攻めや但馬国の土豪討伐などで活躍し、300石から3000石に加増され鉄砲大将となりました。中国攻め、賤ヶ岳の戦い、紀州征伐、四国攻めなどにも従軍し、猿岡山城、和歌山城の築城にあたっては普請奉行も担当。これが高虎の初めての築城となります。次々と武功を上げた高虎は徐々に加増され、やがて1万石の大名へと成長しました。 高虎、築城手腕を発揮! 天正14年(1586)に豊臣秀吉が関白になると、秀吉から指示を受けた秀長の指名により上洛する徳川家康の屋敷を聚楽第の邸内に建設します。作事奉行となった高虎は設計図に警備上の問題を発見し、独断で設計を変更して自費で補填しました。家康はそのこまやかな心遣いに感謝したといいます。翌年の九州征伐では仲間を救援する活躍により2万石に加増。また天正17年(1589)の北山一揆では鎮圧の拠点として赤木城を築城し、建築手腕を発揮しました。 出家するも還俗し、大名に復帰 天正19年(1591)に秀長が亡くなると、その養子である豊臣秀保に仕え、代理として文禄の役に出征します。そして、4年後に秀保が早世したため、出家して高野山に上りました。こうして世俗と離れた高虎でしたが、秀吉から才能を惜しまれて伊予国板島7万石を領する大名に復帰すると、慶長2年(1597)からの慶長の役で水軍を率いて活躍します。この戦いで武功を上げた高虎は8万石に加増されました。
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、何の戦いで首級を取るなど武功を上げたか。
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、元亀元年(1570)の姉川の戦いで首級を取るなど武功を上げた。
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歴史
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、藤堂高虎である。 関ヶ原の戦いから江戸時代 豊臣家臣として合戦や築城で活躍した高虎は、その後も才能を発揮していきます。関ヶ原の戦い後の高虎はどのように生きていったのでしょうか? 徳川家康に与し、東軍として戦う 慶長3年(1598)8月の秀吉死後、豊臣家臣団は武断派・文治派に分裂しました。以前から家康と親交があった高虎は家康側に与し、関ヶ原の戦いも東軍として参戦します。会津征伐、河渡川の戦いのほか、関ヶ原本戦で大谷吉継や石田三成と戦い、複数の武将に対する東軍への寝返り調略も担当。この軍功により加増された高虎は、宇和島城を与えられたほか、今治城12万石が加増され、合計20万石の大名となります。高虎は今治城を改築し、新たな居城としました。 徳川家の重臣になり津藩主に その後、徳川家重臣となった高虎は江戸城改築にも着手します。この功績により伊賀・伊勢へ移って合計22万石加増され、津藩主に就任。家康から才能と忠義心を評価された高虎は、外様大名ながら別格譜代として重用されました。慶長19年(1614)の大坂冬の陣、その翌年の大坂夏の陣では徳川方として参戦し、河内方面の先鋒として活躍。この功績により5万石が加増され従四位下に昇任しました。 家康死後、徳川秀忠に仕える 家康の死後は2代将軍・徳川秀忠に仕え、ここでも加増などがあり津藩の石高は合計32万3000石となります。高虎は城下町の建設や農地の開発、寺社の復興といった内政に取り組み、藩政の確立に尽力しました。また、幕命により後見役となった陸奥の会津藩、讃岐の高松藩、肥後の熊本藩についても、家臣を派遣して藩政を執り行っています。主君に重用され出世を重ねた高虎ですが、晩年は眼病から失明し、最後は江戸の藤堂藩邸で亡くなりました。墓所は東京・上野恩賜公園内の寒松院にあります。 高虎の人物像がわかる逸話 武将として有能だった高虎は、どのような性格の人物だったのでしょうか?彼の人物像がわかるエピソードをご紹介します。 家臣の帰参を許した 高虎は、自分のもとを離れ他家に仕えようとする家臣に対し、「行く先が思わしくなければ、いつでも帰ってきてよい」と言って送り出していたそうです。江村専斎の『老人雑話』によれば、実際に士官先で失敗した者に、もとの所領を与えて帰参を許可したのだとか。高虎は情に厚く懐の深い性格だったようです。 主君・家康のために改宗! 家康は死に際して高虎を枕元に招き、「宗派が違うので来世で会えないのが残念だ」と伝えたといわれています。これを聞いた高虎は別室にいた天海を訪ね、すぐに改宗の儀式を行い「寒松院」の法名を得ました。そして家康のもとに戻ると、これで来世も奉公できると涙を流したそうです。高虎の厚い忠義心がわかるエピソードだといえるでしょう。 旗指物「三つ餅」の由来とは? 高虎の旗指物は「三つ餅」ですが、このユニークな模様には心温まる逸話があります。高虎がまだ若く浪人生活を送っていたころ、空腹のあまり吉田屋という餅屋で三河餅を無銭飲食しました。のちに大名として出世した高虎は、参勤交代の際に吉田屋に立ち寄り、餅代を返したということです。 戦国時代の三大築城名人の1人 生涯に7回も主君を替えたことから変節漢と評された高虎は、「7度主君を替えなければ武士ではない」と反論したともいわれています。彼は合戦で軍功を上げるだけでなく、三大築城名人(加藤清正、藤堂高虎、黒田官兵衛)の1人として多くの城の建築や改修に携わりました。秀吉や家康ら天下人に重用されたのは、その忠義心はもちろん、さまざまな主君に仕えるなかで築城の才能を見出されたからといえるでしょう。
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、何を与えられたか。
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、宇和島城を与えられた。
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歴史
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、藤堂高虎である。 関ヶ原の戦いから江戸時代 豊臣家臣として合戦や築城で活躍した高虎は、その後も才能を発揮していきます。関ヶ原の戦い後の高虎はどのように生きていったのでしょうか? 徳川家康に与し、東軍として戦う 慶長3年(1598)8月の秀吉死後、豊臣家臣団は武断派・文治派に分裂しました。以前から家康と親交があった高虎は家康側に与し、関ヶ原の戦いも東軍として参戦します。会津征伐、河渡川の戦いのほか、関ヶ原本戦で大谷吉継や石田三成と戦い、複数の武将に対する東軍への寝返り調略も担当。この軍功により加増された高虎は、宇和島城を与えられたほか、今治城12万石が加増され、合計20万石の大名となります。高虎は今治城を改築し、新たな居城としました。 徳川家の重臣になり津藩主に その後、徳川家重臣となった高虎は江戸城改築にも着手します。この功績により伊賀・伊勢へ移って合計22万石加増され、津藩主に就任。家康から才能と忠義心を評価された高虎は、外様大名ながら別格譜代として重用されました。慶長19年(1614)の大坂冬の陣、その翌年の大坂夏の陣では徳川方として参戦し、河内方面の先鋒として活躍。この功績により5万石が加増され従四位下に昇任しました。 家康死後、徳川秀忠に仕える 家康の死後は2代将軍・徳川秀忠に仕え、ここでも加増などがあり津藩の石高は合計32万3000石となります。高虎は城下町の建設や農地の開発、寺社の復興といった内政に取り組み、藩政の確立に尽力しました。また、幕命により後見役となった陸奥の会津藩、讃岐の高松藩、肥後の熊本藩についても、家臣を派遣して藩政を執り行っています。主君に重用され出世を重ねた高虎ですが、晩年は眼病から失明し、最後は江戸の藤堂藩邸で亡くなりました。墓所は東京・上野恩賜公園内の寒松院にあります。 高虎の人物像がわかる逸話 武将として有能だった高虎は、どのような性格の人物だったのでしょうか?彼の人物像がわかるエピソードをご紹介します。 家臣の帰参を許した 高虎は、自分のもとを離れ他家に仕えようとする家臣に対し、「行く先が思わしくなければ、いつでも帰ってきてよい」と言って送り出していたそうです。江村専斎の『老人雑話』によれば、実際に士官先で失敗した者に、もとの所領を与えて帰参を許可したのだとか。高虎は情に厚く懐の深い性格だったようです。 主君・家康のために改宗! 家康は死に際して高虎を枕元に招き、「宗派が違うので来世で会えないのが残念だ」と伝えたといわれています。これを聞いた高虎は別室にいた天海を訪ね、すぐに改宗の儀式を行い「寒松院」の法名を得ました。そして家康のもとに戻ると、これで来世も奉公できると涙を流したそうです。高虎の厚い忠義心がわかるエピソードだといえるでしょう。 旗指物「三つ餅」の由来とは? 高虎の旗指物は「三つ餅」ですが、このユニークな模様には心温まる逸話があります。高虎がまだ若く浪人生活を送っていたころ、空腹のあまり吉田屋という餅屋で三河餅を無銭飲食しました。のちに大名として出世した高虎は、参勤交代の際に吉田屋に立ち寄り、餅代を返したということです。 戦国時代の三大築城名人の1人 生涯に7回も主君を替えたことから変節漢と評された高虎は、「7度主君を替えなければ武士ではない」と反論したともいわれています。彼は合戦で軍功を上げるだけでなく、三大築城名人(加藤清正、藤堂高虎、黒田官兵衛)の1人として多くの城の建築や改修に携わりました。秀吉や家康ら天下人に重用されたのは、その忠義心はもちろん、さまざまな主君に仕えるなかで築城の才能を見出されたからといえるでしょう。
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、何万石の大名となったか。
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、今治城12万石が加増され、合計20万石の大名となった。
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歴史
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、藤堂高虎である。 関ヶ原の戦いから江戸時代 豊臣家臣として合戦や築城で活躍した高虎は、その後も才能を発揮していきます。関ヶ原の戦い後の高虎はどのように生きていったのでしょうか? 徳川家康に与し、東軍として戦う 慶長3年(1598)8月の秀吉死後、豊臣家臣団は武断派・文治派に分裂しました。以前から家康と親交があった高虎は家康側に与し、関ヶ原の戦いも東軍として参戦します。会津征伐、河渡川の戦いのほか、関ヶ原本戦で大谷吉継や石田三成と戦い、複数の武将に対する東軍への寝返り調略も担当。この軍功により加増された高虎は、宇和島城を与えられたほか、今治城12万石が加増され、合計20万石の大名となります。高虎は今治城を改築し、新たな居城としました。 徳川家の重臣になり津藩主に その後、徳川家重臣となった高虎は江戸城改築にも着手します。この功績により伊賀・伊勢へ移って合計22万石加増され、津藩主に就任。家康から才能と忠義心を評価された高虎は、外様大名ながら別格譜代として重用されました。慶長19年(1614)の大坂冬の陣、その翌年の大坂夏の陣では徳川方として参戦し、河内方面の先鋒として活躍。この功績により5万石が加増され従四位下に昇任しました。 家康死後、徳川秀忠に仕える 家康の死後は2代将軍・徳川秀忠に仕え、ここでも加増などがあり津藩の石高は合計32万3000石となります。高虎は城下町の建設や農地の開発、寺社の復興といった内政に取り組み、藩政の確立に尽力しました。また、幕命により後見役となった陸奥の会津藩、讃岐の高松藩、肥後の熊本藩についても、家臣を派遣して藩政を執り行っています。主君に重用され出世を重ねた高虎ですが、晩年は眼病から失明し、最後は江戸の藤堂藩邸で亡くなりました。墓所は東京・上野恩賜公園内の寒松院にあります。 高虎の人物像がわかる逸話 武将として有能だった高虎は、どのような性格の人物だったのでしょうか?彼の人物像がわかるエピソードをご紹介します。 家臣の帰参を許した 高虎は、自分のもとを離れ他家に仕えようとする家臣に対し、「行く先が思わしくなければ、いつでも帰ってきてよい」と言って送り出していたそうです。江村専斎の『老人雑話』によれば、実際に士官先で失敗した者に、もとの所領を与えて帰参を許可したのだとか。高虎は情に厚く懐の深い性格だったようです。 主君・家康のために改宗! 家康は死に際して高虎を枕元に招き、「宗派が違うので来世で会えないのが残念だ」と伝えたといわれています。これを聞いた高虎は別室にいた天海を訪ね、すぐに改宗の儀式を行い「寒松院」の法名を得ました。そして家康のもとに戻ると、これで来世も奉公できると涙を流したそうです。高虎の厚い忠義心がわかるエピソードだといえるでしょう。 旗指物「三つ餅」の由来とは? 高虎の旗指物は「三つ餅」ですが、このユニークな模様には心温まる逸話があります。高虎がまだ若く浪人生活を送っていたころ、空腹のあまり吉田屋という餅屋で三河餅を無銭飲食しました。のちに大名として出世した高虎は、参勤交代の際に吉田屋に立ち寄り、餅代を返したということです。 戦国時代の三大築城名人の1人 生涯に7回も主君を替えたことから変節漢と評された高虎は、「7度主君を替えなければ武士ではない」と反論したともいわれています。彼は合戦で軍功を上げるだけでなく、三大築城名人(加藤清正、藤堂高虎、黒田官兵衛)の1人として多くの城の建築や改修に携わりました。秀吉や家康ら天下人に重用されたのは、その忠義心はもちろん、さまざまな主君に仕えるなかで築城の才能を見出されたからといえるでしょう。
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、どのように重用されたか。
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、外様大名ながら別格譜代として重用された。
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歴史
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、藤堂高虎である。 関ヶ原の戦いから江戸時代 豊臣家臣として合戦や築城で活躍した高虎は、その後も才能を発揮していきます。関ヶ原の戦い後の高虎はどのように生きていったのでしょうか? 徳川家康に与し、東軍として戦う 慶長3年(1598)8月の秀吉死後、豊臣家臣団は武断派・文治派に分裂しました。以前から家康と親交があった高虎は家康側に与し、関ヶ原の戦いも東軍として参戦します。会津征伐、河渡川の戦いのほか、関ヶ原本戦で大谷吉継や石田三成と戦い、複数の武将に対する東軍への寝返り調略も担当。この軍功により加増された高虎は、宇和島城を与えられたほか、今治城12万石が加増され、合計20万石の大名となります。高虎は今治城を改築し、新たな居城としました。 徳川家の重臣になり津藩主に その後、徳川家重臣となった高虎は江戸城改築にも着手します。この功績により伊賀・伊勢へ移って合計22万石加増され、津藩主に就任。家康から才能と忠義心を評価された高虎は、外様大名ながら別格譜代として重用されました。慶長19年(1614)の大坂冬の陣、その翌年の大坂夏の陣では徳川方として参戦し、河内方面の先鋒として活躍。この功績により5万石が加増され従四位下に昇任しました。 家康死後、徳川秀忠に仕える 家康の死後は2代将軍・徳川秀忠に仕え、ここでも加増などがあり津藩の石高は合計32万3000石となります。高虎は城下町の建設や農地の開発、寺社の復興といった内政に取り組み、藩政の確立に尽力しました。また、幕命により後見役となった陸奥の会津藩、讃岐の高松藩、肥後の熊本藩についても、家臣を派遣して藩政を執り行っています。主君に重用され出世を重ねた高虎ですが、晩年は眼病から失明し、最後は江戸の藤堂藩邸で亡くなりました。墓所は東京・上野恩賜公園内の寒松院にあります。 高虎の人物像がわかる逸話 武将として有能だった高虎は、どのような性格の人物だったのでしょうか?彼の人物像がわかるエピソードをご紹介します。 家臣の帰参を許した 高虎は、自分のもとを離れ他家に仕えようとする家臣に対し、「行く先が思わしくなければ、いつでも帰ってきてよい」と言って送り出していたそうです。江村専斎の『老人雑話』によれば、実際に士官先で失敗した者に、もとの所領を与えて帰参を許可したのだとか。高虎は情に厚く懐の深い性格だったようです。 主君・家康のために改宗! 家康は死に際して高虎を枕元に招き、「宗派が違うので来世で会えないのが残念だ」と伝えたといわれています。これを聞いた高虎は別室にいた天海を訪ね、すぐに改宗の儀式を行い「寒松院」の法名を得ました。そして家康のもとに戻ると、これで来世も奉公できると涙を流したそうです。高虎の厚い忠義心がわかるエピソードだといえるでしょう。 旗指物「三つ餅」の由来とは? 高虎の旗指物は「三つ餅」ですが、このユニークな模様には心温まる逸話があります。高虎がまだ若く浪人生活を送っていたころ、空腹のあまり吉田屋という餅屋で三河餅を無銭飲食しました。のちに大名として出世した高虎は、参勤交代の際に吉田屋に立ち寄り、餅代を返したということです。 戦国時代の三大築城名人の1人 生涯に7回も主君を替えたことから変節漢と評された高虎は、「7度主君を替えなければ武士ではない」と反論したともいわれています。彼は合戦で軍功を上げるだけでなく、三大築城名人(加藤清正、藤堂高虎、黒田官兵衛)の1人として多くの城の建築や改修に携わりました。秀吉や家康ら天下人に重用されたのは、その忠義心はもちろん、さまざまな主君に仕えるなかで築城の才能を見出されたからといえるでしょう。
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、どのような取り組みで、藩政の確立に尽力したか。
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、城下町の建設や農地の開発、寺社の復興といった内政に取り組み、藩政の確立に尽力した。
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歴史
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、藤堂高虎である。 関ヶ原の戦いから江戸時代 豊臣家臣として合戦や築城で活躍した高虎は、その後も才能を発揮していきます。関ヶ原の戦い後の高虎はどのように生きていったのでしょうか? 徳川家康に与し、東軍として戦う 慶長3年(1598)8月の秀吉死後、豊臣家臣団は武断派・文治派に分裂しました。以前から家康と親交があった高虎は家康側に与し、関ヶ原の戦いも東軍として参戦します。会津征伐、河渡川の戦いのほか、関ヶ原本戦で大谷吉継や石田三成と戦い、複数の武将に対する東軍への寝返り調略も担当。この軍功により加増された高虎は、宇和島城を与えられたほか、今治城12万石が加増され、合計20万石の大名となります。高虎は今治城を改築し、新たな居城としました。 徳川家の重臣になり津藩主に その後、徳川家重臣となった高虎は江戸城改築にも着手します。この功績により伊賀・伊勢へ移って合計22万石加増され、津藩主に就任。家康から才能と忠義心を評価された高虎は、外様大名ながら別格譜代として重用されました。慶長19年(1614)の大坂冬の陣、その翌年の大坂夏の陣では徳川方として参戦し、河内方面の先鋒として活躍。この功績により5万石が加増され従四位下に昇任しました。 家康死後、徳川秀忠に仕える 家康の死後は2代将軍・徳川秀忠に仕え、ここでも加増などがあり津藩の石高は合計32万3000石となります。高虎は城下町の建設や農地の開発、寺社の復興といった内政に取り組み、藩政の確立に尽力しました。また、幕命により後見役となった陸奥の会津藩、讃岐の高松藩、肥後の熊本藩についても、家臣を派遣して藩政を執り行っています。主君に重用され出世を重ねた高虎ですが、晩年は眼病から失明し、最後は江戸の藤堂藩邸で亡くなりました。墓所は東京・上野恩賜公園内の寒松院にあります。 高虎の人物像がわかる逸話 武将として有能だった高虎は、どのような性格の人物だったのでしょうか?彼の人物像がわかるエピソードをご紹介します。 家臣の帰参を許した 高虎は、自分のもとを離れ他家に仕えようとする家臣に対し、「行く先が思わしくなければ、いつでも帰ってきてよい」と言って送り出していたそうです。江村専斎の『老人雑話』によれば、実際に士官先で失敗した者に、もとの所領を与えて帰参を許可したのだとか。高虎は情に厚く懐の深い性格だったようです。 主君・家康のために改宗! 家康は死に際して高虎を枕元に招き、「宗派が違うので来世で会えないのが残念だ」と伝えたといわれています。これを聞いた高虎は別室にいた天海を訪ね、すぐに改宗の儀式を行い「寒松院」の法名を得ました。そして家康のもとに戻ると、これで来世も奉公できると涙を流したそうです。高虎の厚い忠義心がわかるエピソードだといえるでしょう。 旗指物「三つ餅」の由来とは? 高虎の旗指物は「三つ餅」ですが、このユニークな模様には心温まる逸話があります。高虎がまだ若く浪人生活を送っていたころ、空腹のあまり吉田屋という餅屋で三河餅を無銭飲食しました。のちに大名として出世した高虎は、参勤交代の際に吉田屋に立ち寄り、餅代を返したということです。 戦国時代の三大築城名人の1人 生涯に7回も主君を替えたことから変節漢と評された高虎は、「7度主君を替えなければ武士ではない」と反論したともいわれています。彼は合戦で軍功を上げるだけでなく、三大築城名人(加藤清正、藤堂高虎、黒田官兵衛)の1人として多くの城の建築や改修に携わりました。秀吉や家康ら天下人に重用されたのは、その忠義心はもちろん、さまざまな主君に仕えるなかで築城の才能を見出されたからといえるでしょう。
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、どのような性格だったか。
主君を替え続け「変節漢」と呼ばれた人物は、情に厚く懐の深い性格だった。
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歴史
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、池田輝政である。 織田家重臣としての活躍 輝政が最初に仕えた君主は織田信長でした。これには生まれた家系が大きく関係していたようです。 織田信長の近習になる 輝政は、永禄7年(1564)池田恒興(いけだつねおき)の次男として尾張国清洲で誕生しました。幼名、古新。父・恒興はのちに清洲会議に出席したことでも知られる4人の織田家重臣のうちのひとりです。そのような家系にうまれたことから、輝政は信長のそばに仕える役(近習)となり、父や兄・元助とともに信長を支えました。 戦いで軍功をたてる 天正元年(1573)母方の伯父・荒尾善次(あらおよしつぐ)の養子となって木田城主に就任。信長に重用されていた荒木村重が謀反を起こした際は、有岡城の戦いで父とともに摂津倉橋に布陣、また花熊城の戦いでは北諏訪ヶ峰で戦いました。輝政はこれらの合戦で敵軍の武士5~6人を討ち取るという軍功をたてています。この働きは主君・信長に評価され、感状を授けられるほどでした。その後は兄とともに甲州征伐にも参戦しています。 豊臣秀吉の家臣に 本能寺の変で信長が死去すると、その後は秀吉の家臣として活躍します。輝政は秀吉のもとでさらなる躍進を遂げました。 美濃大垣城主から岐阜城主へ 天正10年(1582)の本能寺の変後、父兄とともに豊臣家に仕えた輝政は、京都大徳寺で行われた信長の葬儀で棺を担ぐという大役を任されます。その後、父が美濃大垣城主に、輝政が池尻城主に就任。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで父兄が討死すると、輝政は家督を継承して美濃大垣城主となり、その翌年には岐阜城主となりました。 輝政は秀吉の主要な戦いのほとんどに参加しており、紀州征伐、富山の役、九州平定のほか、小田原征伐や奥州仕置にも従軍。この功により東三河で15万2000石に加増されて吉田城主になるなど勢力を広げていきました。
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、いつ誕生したか。
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、永禄7年(1564)に誕生した。
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歴史
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、池田輝政である。 織田家重臣としての活躍 輝政が最初に仕えた君主は織田信長でした。これには生まれた家系が大きく関係していたようです。 織田信長の近習になる 輝政は、永禄7年(1564)池田恒興(いけだつねおき)の次男として尾張国清洲で誕生しました。幼名、古新。父・恒興はのちに清洲会議に出席したことでも知られる4人の織田家重臣のうちのひとりです。そのような家系にうまれたことから、輝政は信長のそばに仕える役(近習)となり、父や兄・元助とともに信長を支えました。 戦いで軍功をたてる 天正元年(1573)母方の伯父・荒尾善次(あらおよしつぐ)の養子となって木田城主に就任。信長に重用されていた荒木村重が謀反を起こした際は、有岡城の戦いで父とともに摂津倉橋に布陣、また花熊城の戦いでは北諏訪ヶ峰で戦いました。輝政はこれらの合戦で敵軍の武士5~6人を討ち取るという軍功をたてています。この働きは主君・信長に評価され、感状を授けられるほどでした。その後は兄とともに甲州征伐にも参戦しています。 豊臣秀吉の家臣に 本能寺の変で信長が死去すると、その後は秀吉の家臣として活躍します。輝政は秀吉のもとでさらなる躍進を遂げました。 美濃大垣城主から岐阜城主へ 天正10年(1582)の本能寺の変後、父兄とともに豊臣家に仕えた輝政は、京都大徳寺で行われた信長の葬儀で棺を担ぐという大役を任されます。その後、父が美濃大垣城主に、輝政が池尻城主に就任。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで父兄が討死すると、輝政は家督を継承して美濃大垣城主となり、その翌年には岐阜城主となりました。 輝政は秀吉の主要な戦いのほとんどに参加しており、紀州征伐、富山の役、九州平定のほか、小田原征伐や奥州仕置にも従軍。この功により東三河で15万2000石に加増されて吉田城主になるなど勢力を広げていきました。
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、誰の次男として誕生したか。
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、池田恒興(いけだつねおき)の次男として誕生した。
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歴史
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、池田輝政である。 織田家重臣としての活躍 輝政が最初に仕えた君主は織田信長でした。これには生まれた家系が大きく関係していたようです。 織田信長の近習になる 輝政は、永禄7年(1564)池田恒興(いけだつねおき)の次男として尾張国清洲で誕生しました。幼名、古新。父・恒興はのちに清洲会議に出席したことでも知られる4人の織田家重臣のうちのひとりです。そのような家系にうまれたことから、輝政は信長のそばに仕える役(近習)となり、父や兄・元助とともに信長を支えました。 戦いで軍功をたてる 天正元年(1573)母方の伯父・荒尾善次(あらおよしつぐ)の養子となって木田城主に就任。信長に重用されていた荒木村重が謀反を起こした際は、有岡城の戦いで父とともに摂津倉橋に布陣、また花熊城の戦いでは北諏訪ヶ峰で戦いました。輝政はこれらの合戦で敵軍の武士5~6人を討ち取るという軍功をたてています。この働きは主君・信長に評価され、感状を授けられるほどでした。その後は兄とともに甲州征伐にも参戦しています。 豊臣秀吉の家臣に 本能寺の変で信長が死去すると、その後は秀吉の家臣として活躍します。輝政は秀吉のもとでさらなる躍進を遂げました。 美濃大垣城主から岐阜城主へ 天正10年(1582)の本能寺の変後、父兄とともに豊臣家に仕えた輝政は、京都大徳寺で行われた信長の葬儀で棺を担ぐという大役を任されます。その後、父が美濃大垣城主に、輝政が池尻城主に就任。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで父兄が討死すると、輝政は家督を継承して美濃大垣城主となり、その翌年には岐阜城主となりました。 輝政は秀吉の主要な戦いのほとんどに参加しており、紀州征伐、富山の役、九州平定のほか、小田原征伐や奥州仕置にも従軍。この功により東三河で15万2000石に加増されて吉田城主になるなど勢力を広げていきました。
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、どこで誕生したか。
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、尾張国清洲で誕生した。
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歴史
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、池田輝政である。 織田家重臣としての活躍 輝政が最初に仕えた君主は織田信長でした。これには生まれた家系が大きく関係していたようです。 織田信長の近習になる 輝政は、永禄7年(1564)池田恒興(いけだつねおき)の次男として尾張国清洲で誕生しました。幼名、古新。父・恒興はのちに清洲会議に出席したことでも知られる4人の織田家重臣のうちのひとりです。そのような家系にうまれたことから、輝政は信長のそばに仕える役(近習)となり、父や兄・元助とともに信長を支えました。 戦いで軍功をたてる 天正元年(1573)母方の伯父・荒尾善次(あらおよしつぐ)の養子となって木田城主に就任。信長に重用されていた荒木村重が謀反を起こした際は、有岡城の戦いで父とともに摂津倉橋に布陣、また花熊城の戦いでは北諏訪ヶ峰で戦いました。輝政はこれらの合戦で敵軍の武士5~6人を討ち取るという軍功をたてています。この働きは主君・信長に評価され、感状を授けられるほどでした。その後は兄とともに甲州征伐にも参戦しています。 豊臣秀吉の家臣に 本能寺の変で信長が死去すると、その後は秀吉の家臣として活躍します。輝政は秀吉のもとでさらなる躍進を遂げました。 美濃大垣城主から岐阜城主へ 天正10年(1582)の本能寺の変後、父兄とともに豊臣家に仕えた輝政は、京都大徳寺で行われた信長の葬儀で棺を担ぐという大役を任されます。その後、父が美濃大垣城主に、輝政が池尻城主に就任。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで父兄が討死すると、輝政は家督を継承して美濃大垣城主となり、その翌年には岐阜城主となりました。 輝政は秀吉の主要な戦いのほとんどに参加しており、紀州征伐、富山の役、九州平定のほか、小田原征伐や奥州仕置にも従軍。この功により東三河で15万2000石に加増されて吉田城主になるなど勢力を広げていきました。
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、どのような大役を任されか。
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、京都大徳寺で行われた信長の葬儀で棺を担ぐという大役を任された。
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歴史
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、池田輝政である。 織田家重臣としての活躍 輝政が最初に仕えた君主は織田信長でした。これには生まれた家系が大きく関係していたようです。 織田信長の近習になる 輝政は、永禄7年(1564)池田恒興(いけだつねおき)の次男として尾張国清洲で誕生しました。幼名、古新。父・恒興はのちに清洲会議に出席したことでも知られる4人の織田家重臣のうちのひとりです。そのような家系にうまれたことから、輝政は信長のそばに仕える役(近習)となり、父や兄・元助とともに信長を支えました。 戦いで軍功をたてる 天正元年(1573)母方の伯父・荒尾善次(あらおよしつぐ)の養子となって木田城主に就任。信長に重用されていた荒木村重が謀反を起こした際は、有岡城の戦いで父とともに摂津倉橋に布陣、また花熊城の戦いでは北諏訪ヶ峰で戦いました。輝政はこれらの合戦で敵軍の武士5~6人を討ち取るという軍功をたてています。この働きは主君・信長に評価され、感状を授けられるほどでした。その後は兄とともに甲州征伐にも参戦しています。 豊臣秀吉の家臣に 本能寺の変で信長が死去すると、その後は秀吉の家臣として活躍します。輝政は秀吉のもとでさらなる躍進を遂げました。 美濃大垣城主から岐阜城主へ 天正10年(1582)の本能寺の変後、父兄とともに豊臣家に仕えた輝政は、京都大徳寺で行われた信長の葬儀で棺を担ぐという大役を任されます。その後、父が美濃大垣城主に、輝政が池尻城主に就任。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで父兄が討死すると、輝政は家督を継承して美濃大垣城主となり、その翌年には岐阜城主となりました。 輝政は秀吉の主要な戦いのほとんどに参加しており、紀州征伐、富山の役、九州平定のほか、小田原征伐や奥州仕置にも従軍。この功により東三河で15万2000石に加増されて吉田城主になるなど勢力を広げていきました。
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、何に就任したか。
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、池尻城主に就任した。
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歴史
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、池田輝政である。 厚遇を受けた輝政 吉田城主時代の輝政は豊臣秀次(秀吉の甥で豊臣家2代目関白)に付属していたと考えられており、文禄の役の際は秀次に近侍して国内の東国警衛に、朝鮮出兵に関しては大船建造や兵糧米の回送などに努めました。 また、輝政は秀吉から豊臣一族に準じて厚遇をうけていたようで、文禄3年(1594)には秀吉の仲介で徳川家康の娘・督姫(とくひめ)と結婚。秀次の失脚時には秀次の妻や妾の多くが殺害されたにもかかわらず、秀次の正室だった輝政の妹・若政所は助命されました。それほど輝政は秀吉に重用されていたといえるでしょう。 徳川家康への接近 やがて秀吉が死去すると、輝政は家康に接近していきます。家康のもとではどのような働きをしたのでしょうか? 石田三成と対立し…… 秀吉死後に家康へと接近した輝政は、それ以降、福島正則、加藤清正といった武断派(秀吉政権下で軍務を担った派閥)の諸将とともに行動しました。これにより、文治派(同政務)の石田三成らと対立。両派の仲裁役だった前田利家が死去すると、秀吉の子飼いだった七将(福島正則、加藤清正、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政)の一人として石田三成襲撃事件を起こします。 この対立の延長上にある慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川方として参加し、前哨戦の岐阜城攻略で福島正則とともに軍功をあげました。 初代姫路藩主に就任 関ヶ原の戦い後は、岐阜城攻略の功績により52万石を領し初代姫路藩主に就任します。当時これは8番目に高い知行で、輝政は国持大名として政治的な地位を獲得しました。その後も正則に次いで高い位に任官されるなど出世を重ね、初期の徳川政権において重要な政治的役割を担当。慶長6年(1601)からは姫路城の大規模改修に着手し、加古川流域の河川開発や下流域の都市開発などにも尽力します。 また諸大名らとともに江戸城や篠山城、名古屋城などの天下普請(土木工事)にも従事し、慶長14年(1609)には火災で失われた伊勢神宮の摩尼殿(まにでん)の再建にも貢献しました。 徳川家の信頼を得る 徳川家の信頼を得た輝政は、慶長16年(1611)二条城で行われた家康と豊臣秀頼との会見に同席し、慶長17年(1612)には徳川一門以外で初めて参議に任官されます。また松平姓を名乗ることを許され、松平播磨宰相と称されることもあったようです。 こうして徳川政権下でも盤石な地位を築いた輝政ですが、最後は脳卒中の後遺症から姫路で亡くなりました。輝政が病を患ったと知った家康は薬を遣わし、その死を知った秀頼の重臣らはがく然としたそうです。それほど輝政の存在は大きかったといえるでしょう。 輝政にまつわる逸話 天下人に重用され戦国の世を渡り歩いた輝政。そんな彼にまつわる逸話をご紹介します。 寡黙で寛容な人物だった 幼少期の輝政は潑剌(はつらつ)としており、成長とともにたくましくなりました。大人になってからの彼は口数の少ない人物で、物事にこだわらない寛容な性格だったようです。家康の命令による岐阜城攻めの際、輝政は正則と功名争いをしていました。この戦いで一番乗りの手柄を上げたのは輝政でしたが、最終的にはあっさりと功を譲ったといわれています。このような寛容さが信用につながり、ひいては重用につながったのかもしれません。 愛刀「大包平」は日本刀の最高傑作! 輝政は平安時代に活躍した古備前派の刀工・包平による太刀「大包平(おおかねひら)」を愛用していました。この刀は現存する日本刀のなかでも最高傑作といわれ、「童子切安綱(どうじぎり)」と並んで「日本刀の東西の両横綱」と例えられることがあります。江戸時代に池田光政が入手したという逸話がありますが、実際には輝政の代には池田家にあり、年中行事などに用いられていたようです。現在は国宝に指定され、東京国立博物館に収蔵されています。 明治維新まで繁栄した 織田家重臣だった輝政は、秀吉・家康と天下人のもとで次々と活躍しました。その厚遇ぶりからしても、輝政が家臣として十分に手腕を発揮していたことがわかるでしょう。幕府が変わりゆくなか活躍しつづけた輝政は、一族の繁栄の基盤を築いたといっても過言ではありません。五男・忠継、六男・忠雄、弟・長吉も合わせて一族で約100万石の大領を有するほど勢力を拡大した池田家は、明治維新にいたるまで繁栄しました。
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、文禄の役の際どのような役に努めたか。
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、文禄の役の際は秀次に近侍して国内の東国警衛に努めた。
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歴史
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、池田輝政である。 厚遇を受けた輝政 吉田城主時代の輝政は豊臣秀次(秀吉の甥で豊臣家2代目関白)に付属していたと考えられており、文禄の役の際は秀次に近侍して国内の東国警衛に、朝鮮出兵に関しては大船建造や兵糧米の回送などに努めました。 また、輝政は秀吉から豊臣一族に準じて厚遇をうけていたようで、文禄3年(1594)には秀吉の仲介で徳川家康の娘・督姫(とくひめ)と結婚。秀次の失脚時には秀次の妻や妾の多くが殺害されたにもかかわらず、秀次の正室だった輝政の妹・若政所は助命されました。それほど輝政は秀吉に重用されていたといえるでしょう。 徳川家康への接近 やがて秀吉が死去すると、輝政は家康に接近していきます。家康のもとではどのような働きをしたのでしょうか? 石田三成と対立し…… 秀吉死後に家康へと接近した輝政は、それ以降、福島正則、加藤清正といった武断派(秀吉政権下で軍務を担った派閥)の諸将とともに行動しました。これにより、文治派(同政務)の石田三成らと対立。両派の仲裁役だった前田利家が死去すると、秀吉の子飼いだった七将(福島正則、加藤清正、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政)の一人として石田三成襲撃事件を起こします。 この対立の延長上にある慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川方として参加し、前哨戦の岐阜城攻略で福島正則とともに軍功をあげました。 初代姫路藩主に就任 関ヶ原の戦い後は、岐阜城攻略の功績により52万石を領し初代姫路藩主に就任します。当時これは8番目に高い知行で、輝政は国持大名として政治的な地位を獲得しました。その後も正則に次いで高い位に任官されるなど出世を重ね、初期の徳川政権において重要な政治的役割を担当。慶長6年(1601)からは姫路城の大規模改修に着手し、加古川流域の河川開発や下流域の都市開発などにも尽力します。 また諸大名らとともに江戸城や篠山城、名古屋城などの天下普請(土木工事)にも従事し、慶長14年(1609)には火災で失われた伊勢神宮の摩尼殿(まにでん)の再建にも貢献しました。 徳川家の信頼を得る 徳川家の信頼を得た輝政は、慶長16年(1611)二条城で行われた家康と豊臣秀頼との会見に同席し、慶長17年(1612)には徳川一門以外で初めて参議に任官されます。また松平姓を名乗ることを許され、松平播磨宰相と称されることもあったようです。 こうして徳川政権下でも盤石な地位を築いた輝政ですが、最後は脳卒中の後遺症から姫路で亡くなりました。輝政が病を患ったと知った家康は薬を遣わし、その死を知った秀頼の重臣らはがく然としたそうです。それほど輝政の存在は大きかったといえるでしょう。 輝政にまつわる逸話 天下人に重用され戦国の世を渡り歩いた輝政。そんな彼にまつわる逸話をご紹介します。 寡黙で寛容な人物だった 幼少期の輝政は潑剌(はつらつ)としており、成長とともにたくましくなりました。大人になってからの彼は口数の少ない人物で、物事にこだわらない寛容な性格だったようです。家康の命令による岐阜城攻めの際、輝政は正則と功名争いをしていました。この戦いで一番乗りの手柄を上げたのは輝政でしたが、最終的にはあっさりと功を譲ったといわれています。このような寛容さが信用につながり、ひいては重用につながったのかもしれません。 愛刀「大包平」は日本刀の最高傑作! 輝政は平安時代に活躍した古備前派の刀工・包平による太刀「大包平(おおかねひら)」を愛用していました。この刀は現存する日本刀のなかでも最高傑作といわれ、「童子切安綱(どうじぎり)」と並んで「日本刀の東西の両横綱」と例えられることがあります。江戸時代に池田光政が入手したという逸話がありますが、実際には輝政の代には池田家にあり、年中行事などに用いられていたようです。現在は国宝に指定され、東京国立博物館に収蔵されています。 明治維新まで繁栄した 織田家重臣だった輝政は、秀吉・家康と天下人のもとで次々と活躍しました。その厚遇ぶりからしても、輝政が家臣として十分に手腕を発揮していたことがわかるでしょう。幕府が変わりゆくなか活躍しつづけた輝政は、一族の繁栄の基盤を築いたといっても過言ではありません。五男・忠継、六男・忠雄、弟・長吉も合わせて一族で約100万石の大領を有するほど勢力を拡大した池田家は、明治維新にいたるまで繁栄しました。
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、朝鮮出兵に関してどのような役に努めたか。
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、朝鮮出兵に関しては大船建造や兵糧米の回送などに努めた。
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歴史
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、池田輝政である。 厚遇を受けた輝政 吉田城主時代の輝政は豊臣秀次(秀吉の甥で豊臣家2代目関白)に付属していたと考えられており、文禄の役の際は秀次に近侍して国内の東国警衛に、朝鮮出兵に関しては大船建造や兵糧米の回送などに努めました。 また、輝政は秀吉から豊臣一族に準じて厚遇をうけていたようで、文禄3年(1594)には秀吉の仲介で徳川家康の娘・督姫(とくひめ)と結婚。秀次の失脚時には秀次の妻や妾の多くが殺害されたにもかかわらず、秀次の正室だった輝政の妹・若政所は助命されました。それほど輝政は秀吉に重用されていたといえるでしょう。 徳川家康への接近 やがて秀吉が死去すると、輝政は家康に接近していきます。家康のもとではどのような働きをしたのでしょうか? 石田三成と対立し…… 秀吉死後に家康へと接近した輝政は、それ以降、福島正則、加藤清正といった武断派(秀吉政権下で軍務を担った派閥)の諸将とともに行動しました。これにより、文治派(同政務)の石田三成らと対立。両派の仲裁役だった前田利家が死去すると、秀吉の子飼いだった七将(福島正則、加藤清正、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政)の一人として石田三成襲撃事件を起こします。 この対立の延長上にある慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川方として参加し、前哨戦の岐阜城攻略で福島正則とともに軍功をあげました。 初代姫路藩主に就任 関ヶ原の戦い後は、岐阜城攻略の功績により52万石を領し初代姫路藩主に就任します。当時これは8番目に高い知行で、輝政は国持大名として政治的な地位を獲得しました。その後も正則に次いで高い位に任官されるなど出世を重ね、初期の徳川政権において重要な政治的役割を担当。慶長6年(1601)からは姫路城の大規模改修に着手し、加古川流域の河川開発や下流域の都市開発などにも尽力します。 また諸大名らとともに江戸城や篠山城、名古屋城などの天下普請(土木工事)にも従事し、慶長14年(1609)には火災で失われた伊勢神宮の摩尼殿(まにでん)の再建にも貢献しました。 徳川家の信頼を得る 徳川家の信頼を得た輝政は、慶長16年(1611)二条城で行われた家康と豊臣秀頼との会見に同席し、慶長17年(1612)には徳川一門以外で初めて参議に任官されます。また松平姓を名乗ることを許され、松平播磨宰相と称されることもあったようです。 こうして徳川政権下でも盤石な地位を築いた輝政ですが、最後は脳卒中の後遺症から姫路で亡くなりました。輝政が病を患ったと知った家康は薬を遣わし、その死を知った秀頼の重臣らはがく然としたそうです。それほど輝政の存在は大きかったといえるでしょう。 輝政にまつわる逸話 天下人に重用され戦国の世を渡り歩いた輝政。そんな彼にまつわる逸話をご紹介します。 寡黙で寛容な人物だった 幼少期の輝政は潑剌(はつらつ)としており、成長とともにたくましくなりました。大人になってからの彼は口数の少ない人物で、物事にこだわらない寛容な性格だったようです。家康の命令による岐阜城攻めの際、輝政は正則と功名争いをしていました。この戦いで一番乗りの手柄を上げたのは輝政でしたが、最終的にはあっさりと功を譲ったといわれています。このような寛容さが信用につながり、ひいては重用につながったのかもしれません。 愛刀「大包平」は日本刀の最高傑作! 輝政は平安時代に活躍した古備前派の刀工・包平による太刀「大包平(おおかねひら)」を愛用していました。この刀は現存する日本刀のなかでも最高傑作といわれ、「童子切安綱(どうじぎり)」と並んで「日本刀の東西の両横綱」と例えられることがあります。江戸時代に池田光政が入手したという逸話がありますが、実際には輝政の代には池田家にあり、年中行事などに用いられていたようです。現在は国宝に指定され、東京国立博物館に収蔵されています。 明治維新まで繁栄した 織田家重臣だった輝政は、秀吉・家康と天下人のもとで次々と活躍しました。その厚遇ぶりからしても、輝政が家臣として十分に手腕を発揮していたことがわかるでしょう。幕府が変わりゆくなか活躍しつづけた輝政は、一族の繁栄の基盤を築いたといっても過言ではありません。五男・忠継、六男・忠雄、弟・長吉も合わせて一族で約100万石の大領を有するほど勢力を拡大した池田家は、明治維新にいたるまで繁栄しました。
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、慶長16年(1611)何に同席したか。
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、慶長16年(1611)二条城で行われた家康と豊臣秀頼との会見に同席した。
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歴史
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、池田輝政である。 厚遇を受けた輝政 吉田城主時代の輝政は豊臣秀次(秀吉の甥で豊臣家2代目関白)に付属していたと考えられており、文禄の役の際は秀次に近侍して国内の東国警衛に、朝鮮出兵に関しては大船建造や兵糧米の回送などに努めました。 また、輝政は秀吉から豊臣一族に準じて厚遇をうけていたようで、文禄3年(1594)には秀吉の仲介で徳川家康の娘・督姫(とくひめ)と結婚。秀次の失脚時には秀次の妻や妾の多くが殺害されたにもかかわらず、秀次の正室だった輝政の妹・若政所は助命されました。それほど輝政は秀吉に重用されていたといえるでしょう。 徳川家康への接近 やがて秀吉が死去すると、輝政は家康に接近していきます。家康のもとではどのような働きをしたのでしょうか? 石田三成と対立し…… 秀吉死後に家康へと接近した輝政は、それ以降、福島正則、加藤清正といった武断派(秀吉政権下で軍務を担った派閥)の諸将とともに行動しました。これにより、文治派(同政務)の石田三成らと対立。両派の仲裁役だった前田利家が死去すると、秀吉の子飼いだった七将(福島正則、加藤清正、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政)の一人として石田三成襲撃事件を起こします。 この対立の延長上にある慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川方として参加し、前哨戦の岐阜城攻略で福島正則とともに軍功をあげました。 初代姫路藩主に就任 関ヶ原の戦い後は、岐阜城攻略の功績により52万石を領し初代姫路藩主に就任します。当時これは8番目に高い知行で、輝政は国持大名として政治的な地位を獲得しました。その後も正則に次いで高い位に任官されるなど出世を重ね、初期の徳川政権において重要な政治的役割を担当。慶長6年(1601)からは姫路城の大規模改修に着手し、加古川流域の河川開発や下流域の都市開発などにも尽力します。 また諸大名らとともに江戸城や篠山城、名古屋城などの天下普請(土木工事)にも従事し、慶長14年(1609)には火災で失われた伊勢神宮の摩尼殿(まにでん)の再建にも貢献しました。 徳川家の信頼を得る 徳川家の信頼を得た輝政は、慶長16年(1611)二条城で行われた家康と豊臣秀頼との会見に同席し、慶長17年(1612)には徳川一門以外で初めて参議に任官されます。また松平姓を名乗ることを許され、松平播磨宰相と称されることもあったようです。 こうして徳川政権下でも盤石な地位を築いた輝政ですが、最後は脳卒中の後遺症から姫路で亡くなりました。輝政が病を患ったと知った家康は薬を遣わし、その死を知った秀頼の重臣らはがく然としたそうです。それほど輝政の存在は大きかったといえるでしょう。 輝政にまつわる逸話 天下人に重用され戦国の世を渡り歩いた輝政。そんな彼にまつわる逸話をご紹介します。 寡黙で寛容な人物だった 幼少期の輝政は潑剌(はつらつ)としており、成長とともにたくましくなりました。大人になってからの彼は口数の少ない人物で、物事にこだわらない寛容な性格だったようです。家康の命令による岐阜城攻めの際、輝政は正則と功名争いをしていました。この戦いで一番乗りの手柄を上げたのは輝政でしたが、最終的にはあっさりと功を譲ったといわれています。このような寛容さが信用につながり、ひいては重用につながったのかもしれません。 愛刀「大包平」は日本刀の最高傑作! 輝政は平安時代に活躍した古備前派の刀工・包平による太刀「大包平(おおかねひら)」を愛用していました。この刀は現存する日本刀のなかでも最高傑作といわれ、「童子切安綱(どうじぎり)」と並んで「日本刀の東西の両横綱」と例えられることがあります。江戸時代に池田光政が入手したという逸話がありますが、実際には輝政の代には池田家にあり、年中行事などに用いられていたようです。現在は国宝に指定され、東京国立博物館に収蔵されています。 明治維新まで繁栄した 織田家重臣だった輝政は、秀吉・家康と天下人のもとで次々と活躍しました。その厚遇ぶりからしても、輝政が家臣として十分に手腕を発揮していたことがわかるでしょう。幕府が変わりゆくなか活躍しつづけた輝政は、一族の繁栄の基盤を築いたといっても過言ではありません。五男・忠継、六男・忠雄、弟・長吉も合わせて一族で約100万石の大領を有するほど勢力を拡大した池田家は、明治維新にいたるまで繁栄しました。
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、慶長17年(1612)には何に任官されたか。
播磨国姫路藩の初代藩主となった人物は、慶長17年(1612)には徳川一門以外で初めて参議に任官された。