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|---|---|---|---|---|
JCRRAG_003901
|
歴史
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フィリピン群島のほぼ中央に位置するレイテ島。リゾート地として知られるセブ島から高速船で2時間半、観光地化されていない静かな島です。
太平洋戦争末期、当時日本が占領していたこの島にアメリカ軍が上陸して激戦地となりました。
アメリカ軍との壮絶な戦いと飢餓で、大半の将兵が命を落としたと言われています。
この戦場から生還した松本實さんは、101歳になった今、レイテ戦での体験を書き続けています。松本さんが伝え、残したい記憶とは?
【フィリピン・レイテ島の戦い】
1944年10月、日本軍は敗勢を盛り返そうとレイテ島を決戦場に選び、当時の小磯國昭首相はレイテ島の戦いを「日米の雌雄を決する天王山」と位置づけました。
日本軍は急きょ、陸軍の精鋭部隊の第1師団1万3000人を派遣、松本さんも師団副官(師団長の秘書役)としてレイテ島に上陸しました。
当時のレイテ島周辺は、すでにアメリカ軍に制空権も制海権も握られていました。
日本軍は武器や食料を補給できず、圧倒的な戦力差の前に、1944年の暮れには壊滅状態となりました。
第1師団を含む、派遣された8万4000人のうち9割以上の8万人が命を落としました。
【生還した松本實さん 101歳】
松本さんは1920年(大正9年)に、今の東京・新宿区にある、きりだんす店の三男として生まれました。
20歳の時に陸軍の第1師団・野砲第1連隊に入隊します。
野砲とは野戦で使う大砲の事で、当時は馬で引くことが多かったため、馬に触れる任務につきたいと思っていた松本さんには望み通りの配属だったと言います。
入隊直後に旧満州(今の中国東北部)に渡り、幹部候補生として将校に選抜されました。
【レイテ戦の記憶を手記に】
松本さんは去年の夏から戦争での体験を、手記にまとめはじめました。
この1年間、毎日のように部屋にこもって書き続けています。
手が震えるため、手書きではなくワープロで、忘れられない記憶をつづります。
(1944年11月2日 レイテ島上陸の翌日の手記より)
『米軍の集中砲撃が始まる。すぐ近くで兵のうめき声がする。匍匐で行くと兵が倒れ、背を破片で切られ私では手がつけられない。初めての戦死者を見る。』
事前の情報では「先遣部隊がアメリカ軍をおさえている」と聞かされていました。
しかし戦場では、アメリカ軍との圧倒的な戦力の差を目の当たりにします。
レイテ戦で最大の激戦地となった「リモン峠」。
島の南北を結ぶ幹線道路が通り、戦略上重要な意味を持つこの峠をめぐって、11月から12月にかけて激しい戦闘が繰り広げられました。
第1師団は50日間に渡ってこの峠を守りました。
しかしその引き換えに、派遣された1万3000人の将兵のうち、1万人が命を落としました。
この戦闘で、松本さん自身も大けがをします。
何とか司令部にたどり着いたものの、雨のように降り注ぐアメリカ軍の砲弾の中、2人を助けに戻ることはできませんでした。
「そこにいろ」と命じておきながら…。
【「生き残った者の責務だから」】
松本さんは、今は娘と孫の家族と暮らしています。
毎朝、自宅の仏壇と神棚に手を合わせ、戦友の冥福を祈る事から一日が始まります。
戦後、松本さんたち第1師団の生還者は、戦死した日時が確認できない多くの戦友の命日を7月1日としました。
そして、毎年この日には浅草寺に、またレイテ島に上陸した11月1日には靖国神社に、欠かさずに慰霊のための参拝をしています。
それが生き残った者の責務だと言います。
松本さんが何よりも大切にしているのがレイテ島への訪問です。
戦後、松本さんには家族ができ子や孫に恵まれましたが、戦友の多くは20代前半で独身のままこの世を去りました。
戦死した仲間の魂を慰めることができるのは自分だけになってしまったと、新型コロナウイルスの感染が拡大する前は、毎年のようにレイテ島を訪れていました。
【「迎えに来たぞ!」】
松本さんが戦後初めてレイテ島を訪れることができたのは、終戦から四半世紀がたってからでした。
当時の厚生省が行った遺骨収集に案内役として参加しました。
約100万人の国民が戦争の犠牲になったフィリピンでは、反日感情が強く、戦後しばらくは旧日本軍の軍人の入国が認められていなかったのです。
久しぶりに訪れたレイテ島は、松本さんが戦時中に見た、焼けて地形があらわになった景色とは全く違いました。
草木が生い茂るジャングルを、現地の人の証言をもとに1週間歩き回りました。
松本さんが残した当時の記録には、この時だけで2495体の遺骨を収容したと書かれています。
中でも忘れられないのは、5人の兵士の遺骨を見つけた時のことだと言います。
積まれた石に身を隠すように、地面に伏せて機関銃を構えた状態で白骨化していました。
そこだけは戦闘が続いているように見えました。
20年以上、骨になっても銃を構え続けていたのです。
「迎えに来たぞ!」と、松本さんは夢中になって骨を集めたと言います。
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松本さんの20代前半でこの世を去った戦友の多くは結婚していましたか?
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いいえ、松本さんの20代前半でこの世を去った戦友の多くは結婚していませんでした。
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JCRRAG_003902
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歴史
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フィリピン群島のほぼ中央に位置するレイテ島。リゾート地として知られるセブ島から高速船で2時間半、観光地化されていない静かな島です。
太平洋戦争末期、当時日本が占領していたこの島にアメリカ軍が上陸して激戦地となりました。
アメリカ軍との壮絶な戦いと飢餓で、大半の将兵が命を落としたと言われています。
この戦場から生還した松本實さんは、101歳になった今、レイテ戦での体験を書き続けています。松本さんが伝え、残したい記憶とは?
【フィリピン・レイテ島の戦い】
1944年10月、日本軍は敗勢を盛り返そうとレイテ島を決戦場に選び、当時の小磯國昭首相はレイテ島の戦いを「日米の雌雄を決する天王山」と位置づけました。
日本軍は急きょ、陸軍の精鋭部隊の第1師団1万3000人を派遣、松本さんも師団副官(師団長の秘書役)としてレイテ島に上陸しました。
当時のレイテ島周辺は、すでにアメリカ軍に制空権も制海権も握られていました。
日本軍は武器や食料を補給できず、圧倒的な戦力差の前に、1944年の暮れには壊滅状態となりました。
第1師団を含む、派遣された8万4000人のうち9割以上の8万人が命を落としました。
【生還した松本實さん 101歳】
松本さんは1920年(大正9年)に、今の東京・新宿区にある、きりだんす店の三男として生まれました。
20歳の時に陸軍の第1師団・野砲第1連隊に入隊します。
野砲とは野戦で使う大砲の事で、当時は馬で引くことが多かったため、馬に触れる任務につきたいと思っていた松本さんには望み通りの配属だったと言います。
入隊直後に旧満州(今の中国東北部)に渡り、幹部候補生として将校に選抜されました。
【レイテ戦の記憶を手記に】
松本さんは去年の夏から戦争での体験を、手記にまとめはじめました。
この1年間、毎日のように部屋にこもって書き続けています。
手が震えるため、手書きではなくワープロで、忘れられない記憶をつづります。
(1944年11月2日 レイテ島上陸の翌日の手記より)
『米軍の集中砲撃が始まる。すぐ近くで兵のうめき声がする。匍匐で行くと兵が倒れ、背を破片で切られ私では手がつけられない。初めての戦死者を見る。』
事前の情報では「先遣部隊がアメリカ軍をおさえている」と聞かされていました。
しかし戦場では、アメリカ軍との圧倒的な戦力の差を目の当たりにします。
レイテ戦で最大の激戦地となった「リモン峠」。
島の南北を結ぶ幹線道路が通り、戦略上重要な意味を持つこの峠をめぐって、11月から12月にかけて激しい戦闘が繰り広げられました。
第1師団は50日間に渡ってこの峠を守りました。
しかしその引き換えに、派遣された1万3000人の将兵のうち、1万人が命を落としました。
この戦闘で、松本さん自身も大けがをします。
何とか司令部にたどり着いたものの、雨のように降り注ぐアメリカ軍の砲弾の中、2人を助けに戻ることはできませんでした。
「そこにいろ」と命じておきながら…。
【「生き残った者の責務だから」】
松本さんは、今は娘と孫の家族と暮らしています。
毎朝、自宅の仏壇と神棚に手を合わせ、戦友の冥福を祈る事から一日が始まります。
戦後、松本さんたち第1師団の生還者は、戦死した日時が確認できない多くの戦友の命日を7月1日としました。
そして、毎年この日には浅草寺に、またレイテ島に上陸した11月1日には靖国神社に、欠かさずに慰霊のための参拝をしています。
それが生き残った者の責務だと言います。
松本さんが何よりも大切にしているのがレイテ島への訪問です。
戦後、松本さんには家族ができ子や孫に恵まれましたが、戦友の多くは20代前半で独身のままこの世を去りました。
戦死した仲間の魂を慰めることができるのは自分だけになってしまったと、新型コロナウイルスの感染が拡大する前は、毎年のようにレイテ島を訪れていました。
【「迎えに来たぞ!」】
松本さんが戦後初めてレイテ島を訪れることができたのは、終戦から四半世紀がたってからでした。
当時の厚生省が行った遺骨収集に案内役として参加しました。
約100万人の国民が戦争の犠牲になったフィリピンでは、反日感情が強く、戦後しばらくは旧日本軍の軍人の入国が認められていなかったのです。
久しぶりに訪れたレイテ島は、松本さんが戦時中に見た、焼けて地形があらわになった景色とは全く違いました。
草木が生い茂るジャングルを、現地の人の証言をもとに1週間歩き回りました。
松本さんが残した当時の記録には、この時だけで2495体の遺骨を収容したと書かれています。
中でも忘れられないのは、5人の兵士の遺骨を見つけた時のことだと言います。
積まれた石に身を隠すように、地面に伏せて機関銃を構えた状態で白骨化していました。
そこだけは戦闘が続いているように見えました。
20年以上、骨になっても銃を構え続けていたのです。
「迎えに来たぞ!」と、松本さんは夢中になって骨を集めたと言います。
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松本さんは、1世紀以上生きていますか?
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はい、松本さんは、1世紀以上生きています。
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JCRRAG_003903
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歴史
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戦に負けた者は多くの場合、
・逃亡する
・領地や兵を失う
・更迭される
・処刑される
・自害する
といった道をたどります。
【前九年の役の戦いの流れ】
陸奥で強大な勢力をもつ豪族の安倍氏が国司と争うと、源頼義にいったんは屈しますが再び乱をおこします。長期戦となりますが、頼義は子の義家や東国の武士とともに安倍氏と戦い、さらには、豪族清原氏の協力を得て安倍氏を滅ぼしました。
(1)鬼切部(おにきりべ)の戦い
陸奥の有力豪族であった安倍氏は、陸奥国奥六(おくろく)郡に柵を築いて独立的な勢力をつくりあげていました。1051年に、安倍氏が朝廷への納税をしなくなったことから、陸奥守藤原登任が懲罰のため数千の兵を向けると鬼切部で争いとなります。登任側に国司軍などの加勢はあったものの登任は更迭。その後は河内源氏の源頼義が陸奥守となりました。すると、安倍氏はいったん頼義に服することになります。1053年には頼義は鎮守府(ちんじゅふ)将軍となります。
(2)阿久利川事件
頼義が陸奥守任期満了の年の1056年、密使による情報に端を発し安倍氏と朝廷との戦いが再開されることとなりました。さらに、頼義は讒言からから平永衡を殺害すると、身の危険を感じた藤原経清は安倍軍に属することになります。1057年、頼義は安倍氏挟撃策を講じると、津軽の安倍富忠を味方に引き入れることに成功し、頼時を死に追いやります。頼時の跡は貞任(さだとう)が継ぐことになりました。
(3)黄海(きのみ)の戦い
同年11月、頼義は陸奥国府から安倍軍が立て籠もる河崎柵に向けて出撃するも、対する安倍軍は2倍の兵力を集めます。また、頼義の国府軍は兵力で劣るばかりか、疲弊していたうえに物資も乏しい状況でした。さらには慣れない土地柄での風雪にも悩まされました。黄海で安倍軍と対決した頼義は義家の活躍により辛くも逃げのびますが、多くの忠臣を失う大打撃を受けることになりました。頼義は大損害を受けました。隣国の出羽守源斉頼に援軍を頼むことができれば勝機があったのですが、斉頼が要請に応じることはなく、逆に安倍氏は勢力を広め、国へ納めるべき徴納物を奪うなど頼義をあざ笑うかのような行動に出ます。
(4)清原氏の参加
変わらず安倍氏の勢力は増す中で、これまでの戦で戦力を失った頼義は関東、東海、畿内から苦心して兵力を集めます。そのころ、頼義は中立を保っていた出羽の豪族清原氏の懐柔に成功すると、族長の清原光頼の弟武則を総大将とする軍勢が派遣されることになりました。これにより陣を七つの陣に整え、朝廷側の兵力はおよそ1万人のうち頼義自身の軍勢はおよそ3000人ほどでした。ここから官軍の反抗が始まり、北上しながら柵をひとつひとつ制圧していくことになります。安倍軍の拠点である小松柵の戦いが始まります。小松柵は天然の要害でしたが、官軍の将や直属の武将たちの活躍もあり、新制官軍の初勝利となります。こののち貞任の奇襲を受けますが、6時間続く戦闘の末に迎撃しました。北へと敗走する安倍軍は、衣川の関に籠ります。衣川の関も要害として知られる柵でしたが、武則の指示で潜入した武将が火を放ち安倍軍を大混乱に陥れます。さらに官軍が攻め込むと衣川の関を制圧しました。さらに北に退いた安倍軍は鳥海柵を通り越し、本拠地の厨川柵まで退いて守りを固めます。ところが、官軍は風を利用して火をかけると、厨川柵を焼き上げました。経清が斬首され、安倍氏は深手を負った貞任が亡くなり滅亡し、長きに渡る戦が終わります。
前九年の役のその後
1063年2月に頼義は朝廷に報告すると、頼義は伊予守に任じられます。被害も大きく年月もかかったことを考慮すると、高い評価となる論功でした。ただ、頼義は郎従への恩賞が出なかったことには納得できず、交渉を続けます。郎従への恩賞は主従関係を維持する生命線であるためです。平忠常の乱を鎮めた頼信に続き、その子の頼義が前九年の役を鎮めたことにより、源氏の東国進出は確たるものとなります。この後の後三年(ごさんねん)の役では、頼義の子の義家が活躍し、さらに源氏は武士の棟梁としての地位を固めていきました。
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鬼切部の戦いではどちらが勝利しましたか?
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安倍氏が勝利しました。
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JCRRAG_003904
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歴史
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【前九年の役とは?簡単にわかりやすく解説!!反乱が起こった背景や経過・その後など】
【前九年の役とは?】
前九年の役とは、平安時代後期の11世紀、陸奥国で起こった反乱のことです。陸奥国の有力豪族である安部氏が反乱をおこし、長期戦の末に源頼義が出羽の豪族清原氏の助けを得て討伐しました。(※前九年の役は「前九年合戦」と表記されることもあります)戦いの発端は、11世紀半ばに陸奥で強大な勢力をもつ安倍氏が朝廷への納税の義務を果たさなくなったため、1051年に陸奥守「藤原登任(なりとう)」と衝突することによって始まりました。乱は長引くも清原氏の参戦によって一気に収束に向かいます。陸奥守となっていた源頼義の活躍は、平忠常の乱を鎮めた父についでの源氏の活躍となり、源氏の東国進出が決定的なものになりました。
【前九年の役が起こった背景】
10世紀頃から豪族や有力農民が武士として台頭し、武士団をつくると大規模な反乱をおこすようになります。これらの乱で武士は力を見せつけることとなり、また、朝廷にとっても武士は欠かせない存在になっていった中でおこったのが前九年の役でした。
1.武士の台頭
10世紀に入ると、地方の豪族や有力農民が勢力を拡大するために武装して、兵(つわもの)と呼ばれるようになります。この兵は一族や郎党を従えて互いに争ったり、ときには国司に反抗したりすることもありました。畿内付近では、成長した豪族が武士と呼ばれるようになり、朝廷の武官となったり貴族に武芸をもって仕えるようになったりしていきます。さらには、滝口の武士などの宮中の警備にあたる重職を担うこともありました。武士となった勢力は、各地で一族の結びつきを強めながら次第に拡大し武士団を形成。中央から離れた地域では、旧来の豪族のほか任地に土着した国司の子孫の多くが武士団の中心となりました。
2.武士の大規模な反乱
東国は良馬を産することもあり、武士団の成長が著しい地域でした。その東国で勢力を広めたのが、桓武天皇の曽孫の高望王から平姓を与えられた桓武平氏でした。高望王の孫にあたる平将門は、下総を根拠地にして一族と私闘を繰り返すうちに反乱に発展していきます。(平将門の乱)将門は東国の大半を征服し新皇(しんのう)を称するに至りますが、父国香を殺された平貞盛らによって倒されます。瀬戸内海では、藤原純友が海賊を率いて反乱をおこします。(藤原純友の乱)伊予の国府を奪うと淡路から大宰府まで広範囲に勢力を広げましたが、小野好古(よしふる)や清和源氏の祖である源経基らによって討たれ乱は鎮圧されます。前九年の役の直前に起きたのは、平忠常の乱でした。平氏は将門の乱以降も関東に勢力を保ち続けており、もと上総の国司であった平忠常が乱をおこしますが、源頼信によって乱は鎮められます。
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良馬を産する地域は、新皇を称するようになる誰によってその大半を征服されましたか?
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良馬を産する地域は、新皇を称するようになる平将門によって征服されました。
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JCRRAG_003905
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歴史
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【平忠常の乱とは?簡単にわかりやすく解説!!反乱が起こった背景や経過・その後など】
10世紀後半には武士の家が「兵(つわもの)の家」として定着しつつあり、中央貴族の血筋を引くものを棟梁(とうりょう)として武家を形成して力をつけていきました。とくに、源経基の子である満仲、さらには満仲の子の頼光、頼信も摂関家に近づき棟梁としての権勢を強めていきます。そのころ、東国でおこったのが「平忠常(たいらのただつね)の乱」でした。今回は、この『平忠常の乱』について簡単にわかりやすく解説していきます。
【平忠常の乱とは?】
平忠常の乱とは、1028年に元上総の国司であった「平忠常」が上総(かずさ)・下総(しもうさ)に勢力を広げて起こした反乱のことです。忠常は、上総国、下総国、常陸国を広大な所領を持ちながら、国司の命に背いたり事件を起こしたりすることもありました。そんな中、役人との対立が激しくなり反乱を起こすと、加担する国人もおり規模が拡大します。朝廷は平直方(なおかた)に追討を命じ、さらに源頼信を甲斐の国司から追討使に任じると、忠常は戦わずして降伏します。これにより源氏の東国進出が加速することになりました。
【平忠盛の乱が起こった背景】
10世紀に入ると、豪族や有力農民が武士と呼ばれ、一族の結びつきから武士団を形成するまでに成長します。さらに国司に反抗するなど武士の力を見せつけることになった平将門の乱や藤原純友(すみとも)の乱はのちに大きな影響を及ぼしました。
1.武士の成長
10世紀になると、地方で成長した豪族や有力農民が、勢力を広げるために武装して戦うようになります。兵と呼ばれるようになり、一族や郎党などを率いて互いに争ったり、国司に反抗したりすることもありました。さらに畿内付近では、成長した豪族の中から、朝廷の武官になったり、貴族に仕えたりするものもでてきました。兵や武士と呼ばれ、滝口の武士として宮中の警備にあたったり、貴族の身辺の警護にあたったりしました。これらの兵たちは交流しながら各地に結びつきをつくると、旧来の大豪族や任期終了後も土着した国司の子孫などを中心として武士団を形成します。とくに東国での武士団の成長は著しいものがありました。
2.平将門の乱
桓武天皇の曽孫にあたる高望王(たかもちおう)から平姓を与えられた桓武平氏は、東国に根を下ろして勢力を広げます。さらに高望王の孫の平将門は、親族間の抗争に勝つと勢力を伸ばしていきました。常陸の国司に反抗していた藤原玄明(はるあき)と手を結ぶと、939年に反抗は反乱に発展し、将門は常陸の国府を襲って国印を奪います。すぐに下野や上野まで攻略すると、東国の大半を征服してしまいます。こののち将門は親王を称することになりますが、朝廷が藤原忠文を征東大将軍として送るも、平貞盛が藤原秀郷などの協力を得ながら将門の本拠を襲い倒したことで乱は収束しました。
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元上総の国司であった人物は、誰が甲斐の国司から追討使に任じられると戦わずして降伏しましたか?
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元上総の国司であった人物は、源頼信が甲斐の国司から追討使に任じられると戦わずして降伏しました。
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JCRRAG_003906
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歴史
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【天平文化と国風文化の違い】それぞれの特徴&共通点など詳しく解説!
奈良時代の天平文化と平安時代の国風文化は、律令制度の発展に伴い文化的にも大いに成長しました。後世への影響も大きく、現代にも残るような文化的影響も多くあります。しかしこの二つの文化には明らかな違いも見られます。今回は天平文化と国風文化の違い、それぞれの特徴や共通点などについて、詳しく解説していきます。
天平文化と国風文化の違い
天平文化は、8世紀初めから8世紀末にかけての奈良時代に栄えた文化のことです。一方、国風文化は平安時代の中期頃に栄えた文化のことです。二つの文化の最も大きな違いは、天平文化が唐の影響を強く受けた国際色豊かな文化であるのに対して、国風文化は日本独自のスタイルを反映して生まれた文化であるという点です。貴族の服装を見ても、天平文化の頃の服装は「浦島太郎」の乙姫様のような中国風の服装であるのに対し、国風文化はお雛様のような純日本風の和服であることから、二つの文化の背景には中国風であるか、日本風であるかの違いがハッキリと見られます。
天平文化の特徴
(1) 天平文化は唐のフォロアー
当時の中国、唐は発展の頂点にあった盛唐と呼ばれる時期でした。そのため世界中の人々が唐を目指し、それぞれの国に政治的・文化的な文物を持ち帰りました。日本も例外でなく、遣唐使を送り律令制度を学んで取り入れたり、都長安を参考に平城京を造りました。文化も盛唐の影響を色濃く受けた、国際色豊かな文化でした。東大寺の正倉院には唐だけでなく、インドやギリシャ・ローマにルーツを持つような宝物が約9000点も収められています。
(2) 仏教中心の文化
天平文化の大きな特徴を表す言葉に「鎮護国家思想」という言葉があります。聖武天皇は東大寺をはじめとして諸国に国分寺・国分尼寺を建立することによって全国的に仏教を広め、仏教によって国をまとめようとしました。そして寺院が多く建てられるとともに仏像も多く造られました。それまでの仏像が平面的で動きの少ないものが多かったのに対し、躍動感のある仏像が生まれました。これは新しい手法が用いられたことによる技術向上が大きく影響しています。粘土で造られた塑像は東大寺戒壇院四天王像、そして漆で麻布を貼って乾かした乾漆像は興福寺阿修羅像が有名です。新しい手法によって、西洋や唐の彫刻とも似たような写実的で動きのある仏像が多く造られました。
(3) 国家プロジェクトとしての編纂事業
律令制度が形成されていく中で、朝廷が統治を行うことつまり中央集権体制の正当性を明らかにしようという動きが生まれます。そこで国史の編纂が進められ、天平文化の頃に完成します。712年には天武天皇が稗田阿礼に誦み習わせていた「帝紀」「旧辞」を太安万侶が撰録し、『古事記』が完成しました。さらに720年には舎人親王らが編纂した『日本書紀』が完成しました。こういったプロジェクトは中国でも行われていたため、中国の史書編纂事業を参考にして行われたものと思われます。また文学としては史書だけでなく、最初の和歌集である『万葉集』が生まれました。これは勅撰ではありませんが、天皇から庶民まで様々な人の詠んだ和歌が約4500首も収められているという点で、かなり大きなプロジェクトだったことが窺えます。
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8世紀初めから8世紀末にかけての奈良時代に栄えた、国際色豊かな文化とは何ですか?
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8世紀初めから8世紀末にかけての奈良時代に栄えた、国際色豊かな文化とは天平文化です。
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JCRRAG_003907
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歴史
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【アメリカ大統領史:これまでの大統領に関する豆知識】
これまでにアメリカ合衆国の大統領を務めてきた人物について、年代別に紹介しましょう。
(1)1940年代の大統領は皆、民主党出身でした。1940年代に大統領を務めたのは、フランクリン・ルーズベルトとハリー・トルーマンの2人です。
(2)1970年代に大統領を務めた人物は皆、第二次大戦が終わった1945年よりも前に生まれました。1970年代に大統領を務めたのは、リチャード・ニクソン、ジェラルド・フォード、ジミー・カーターの3人です。
(3)1980年代に就任した大統領は皆、就任日が1月20日でした。1980年代に就任した大統領は、ロナルド・レーガンとジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュの2人です。
(4)2000年代は皆、2期8年にわたって大統領を務めました。2000年代に大統領を務めたのは、ビル・クリントン、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ、バラク・オバマの3人です。
(5)2010年代に大統領を務めた人物は皆、2025年2月1日時点で生きています。2010年代に大統領を務めたのは、バラク・オバマとドナルド・トランプの2人です。
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トルーマンの出身政党はどこでしたか。
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トルーマンの出身政党は民主党でした。
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JCRRAG_003908
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歴史
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【アメリカ大統領史:これまでの大統領に関する豆知識】
これまでにアメリカ合衆国の大統領を務めてきた人物について、年代別に紹介しましょう。
(1)1940年代の大統領は皆、民主党出身でした。1940年代に大統領を務めたのは、フランクリン・ルーズベルトとハリー・トルーマンの2人です。
(2)1970年代に大統領を務めた人物は皆、第二次大戦が終わった1945年よりも前に生まれました。1970年代に大統領を務めたのは、リチャード・ニクソン、ジェラルド・フォード、ジミー・カーターの3人です。
(3)1980年代に就任した大統領は皆、就任日が1月20日でした。1980年代に就任した大統領は、ロナルド・レーガンとジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュの2人です。
(4)2000年代は皆、2期8年にわたって大統領を務めました。2000年代に大統領を務めたのは、ビル・クリントン、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ、バラク・オバマの3人です。
(5)2010年代に大統領を務めた人物は皆、2025年2月1日時点で生きています。2010年代に大統領を務めたのは、バラク・オバマとドナルド・トランプの2人です。
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レーガン大統領の就任日は何月何日でしたか。
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レーガン大統領の就任日は1月20日でした。
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JCRRAG_003909
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歴史
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【自由民主党の歴史:近年の総裁について】
第二次大戦後の日本では、自由民主党(以下「自民党」)が長年、政権を握ってきましたが、その間に多くの政治家が総裁を務めてきました。最近15年を振り返ると、5人が自民党の総裁を務めました。5人がどのような人物だったのか、順に紹介しましょう。第24代総裁は、2009年10月から2012年9月にかけて在任した谷垣禎一でした。谷垣は1945年生まれの東京都出身で、大学は東京大学を卒業しました。第25代総裁は、2012年10月から2020年9月にかけて在任した安倍晋三でした。安倍は1954年生まれの東京都出身で、大学は成蹊大学を卒業しました。第26代総裁は、2020年9月から2021年9月にかけて在任した菅義偉でした。菅は1948年生まれの秋田県出身で、大学は法政大学を卒業しました。第27代総裁は、2021年10月から2024年9月にかけて在任した岸田文雄でした。岸田は1957年生まれの東京都出身で、大学は早稲田大学を卒業しました。第28代総裁は、2024年10月に就任し、現在在任中の石破茂です。石破は1957年生まれの東京都出身で、大学は慶応義塾大学を卒業しました。
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2009年10月から総裁を務めた人物が生まれた年は、いつですか?
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2009年10月から総裁を務めた人物が生まれた年は、1945年です。
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JCRRAG_003910
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歴史
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【自由民主党の歴史:近年の総裁について】
第二次大戦後の日本では、自由民主党(以下「自民党」)が長年、政権を握ってきましたが、その間に多くの政治家が総裁を務めてきました。最近15年を振り返ると、5人が自民党の総裁を務めました。5人がどのような人物だったのか、順に紹介しましょう。第24代総裁は、2009年10月から2012年9月にかけて在任した谷垣禎一でした。谷垣は1945年生まれの東京都出身で、大学は東京大学を卒業しました。第25代総裁は、2012年10月から2020年9月にかけて在任した安倍晋三でした。安倍は1954年生まれの東京都出身で、大学は成蹊大学を卒業しました。第26代総裁は、2020年9月から2021年9月にかけて在任した菅義偉でした。菅は1948年生まれの秋田県出身で、大学は法政大学を卒業しました。第27代総裁は、2021年10月から2024年9月にかけて在任した岸田文雄でした。岸田は1957年生まれの東京都出身で、大学は早稲田大学を卒業しました。第28代総裁は、2024年10月に就任し、現在在任中の石破茂です。石破は1957年生まれの東京都出身で、大学は慶応義塾大学を卒業しました。
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【自由民主党の歴史:近年の総裁について】の説明によると、早稲田大学を卒業した人物は、いつまで総裁を務めましたか。
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【自由民主党の歴史:近年の総裁について】の説明によると、早稲田大学を卒業した人物は、2024年9月まで総裁を務めました。
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歴史
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平安時代といえば、漢字だらけの朝廷の役職を覚えるのすごく大変ですよね。筆者も経験があるので、非常によくわかります。それに教科書だけではイマイチ内容も不透明で、何だかよくわからないんですよね。今回解説していく『押領使(おうりょうし)と追捕使(ついぶし)』は、その典型的な例です。少しでも違いが良くわからなくて頭を抱えているあなたのために、わかりやすく解説していきたいと思います。
では、軍隊を率いる指揮官的役割でもあり、警察的な役割を果たす「押領使」と「追捕使」では、何が違うんでしょうか。こちらでまとめてみました。
(1)押領使は平安時代初期に誕生
押領使は、実は追捕使よりも先に誕生した役職で、8世紀ごろの平安時代の最初あたりに誕生しました。
(2)東日本の守護者だった
押領使は、平安京が置かれていた京都の東側を管轄していました。東側というのは、現在の中部地方や関東地方といった東日本側のことです。この時代に、東日本を守っていた押領使が鎮圧した反乱があります。それは、10世紀ごろの下総で勢力を振るっていた平将門が起こした乱、平将門の乱です。そしてこれを鎮圧したのが、押領使であった藤原秀郷(ふじわらのひでさと)です。
(3)実は戦闘に参加はしない!
押領使は、あくまで兵を率いて反乱を鎮圧するだけの存在でした。なので、実際の戦闘にはかかわっていないところが特徴です。やがて、移動させる兵士の指揮官として戦闘を指揮する職務へと変わっていくのです。
(4)平将門の乱以降、常設となった役職
平将門の乱は、藤原純友の乱と併せて承平・天慶の乱と呼ばれます。押領使は、反乱がおきる前までは臨時の役職でした。しかし、この乱以降は臨時ではなくなり、常設の役職として定められるようになります。押領使は、警察の中で言うところの本部長的な役割をはたしています。警察ドラマを見ていると、捜査会議とかにそういう人物いますよね。あんな感じです。
(4)武芸に長けた者が任命されるようになる
(3)でもお話の遠い、押領使は○○警察本部長の人とイメージしていただくのが一番近いです。押領使の人は、それぞれの地域の官僚たちの中で、最も強いと判断された人が抜粋されています。やがて常設された押領使を任される人物は、国司や郡司の中で武芸に長けた者が兼任するようになります。やがて土地の豪族を任命することが主流となりました。ちなみに、荘園にも押領使がおり、荘園内の治安の統制と行っていたそうです。
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押領使は地域の中で最も強い人や武芸に秀でた人が選ばれるため、土地のどんな人に任命されることが主流となりましたか?
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押領使にはその土地の豪族を任命することが主流となりました。
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歴史
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平安時代といえば、漢字だらけの朝廷の役職を覚えるのすごく大変ですよね。筆者も経験があるので、非常によくわかります。それに教科書だけではイマイチ内容も不透明で、何だかよくわからないんですよね。今回解説していく『押領使(おうりょうし)と追捕使(ついぶし)』は、その典型的な例です。少しでも違いが良くわからなくて頭を抱えているあなたのために、わかりやすく解説していきたいと思います。
では、軍隊を率いる指揮官的役割でもあり、警察的な役割を果たす「押領使」と「追捕使」では、何が違うんでしょうか。こちらでまとめてみました。
(1)押領使は平安時代初期に誕生
押領使は、実は追捕使よりも先に誕生した役職で、8世紀ごろの平安時代の最初あたりに誕生しました。
(2)東日本の守護者だった
押領使は、平安京が置かれていた京都の東側を管轄していました。東側というのは、現在の中部地方や関東地方といった東日本側のことです。この時代に、東日本を守っていた押領使が鎮圧した反乱があります。それは、10世紀ごろの下総で勢力を振るっていた平将門が起こした乱、平将門の乱です。そしてこれを鎮圧したのが、押領使であった藤原秀郷(ふじわらのひでさと)です。
(3)実は戦闘に参加はしない!
押領使は、あくまで兵を率いて反乱を鎮圧するだけの存在でした。なので、実際の戦闘にはかかわっていないところが特徴です。やがて、移動させる兵士の指揮官として戦闘を指揮する職務へと変わっていくのです。
(4)平将門の乱以降、常設となった役職
平将門の乱は、藤原純友の乱と併せて承平・天慶の乱と呼ばれます。押領使は、反乱がおきる前までは臨時の役職でした。しかし、この乱以降は臨時ではなくなり、常設の役職として定められるようになります。押領使は、警察の中で言うところの本部長的な役割をはたしています。警察ドラマを見ていると、捜査会議とかにそういう人物いますよね。あんな感じです。
(4)武芸に長けた者が任命されるようになる
(3)でもお話の遠い、押領使は○○警察本部長の人とイメージしていただくのが一番近いです。押領使の人は、それぞれの地域の官僚たちの中で、最も強いと判断された人が抜粋されています。やがて常設された押領使を任される人物は、国司や郡司の中で武芸に長けた者が兼任するようになります。やがて土地の豪族を任命することが主流となりました。ちなみに、荘園にも押領使がおり、荘園内の治安の統制と行っていたそうです。
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京都の東側を管轄していた押領使は、10世紀ごろの下総で勢力をふるっていた誰が起こした乱を鎮圧しましたか?
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押領使は、平将門が起こした乱を鎮圧しました。
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歴史
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「○○の変」と名前のついた事件は、様々なものがあり、平安時代だけでも多くあります。歴史を学ぶ上では、それぞれの事件について正確に理解し、その事件が歴史上、どのような意義を持つのか、前後の歴史とどのように結びつくのか、考察することでより深い理解が生まれます。その上で、承和の変・応天門の変・安和の変は、いずれも平安時代に起きた事件ですが、その名称から、それぞれの内容を思い浮かべることができますでしょうか?いずれも藤原氏による他氏排斥事件ですが、それぞれの事件の性質や内容は異なっているので、混同される方もいると思います。そこで今回は、承和の変・応天門の変・安和の変の違いについて、簡単にわかりやすく解説したいと思います。
承和の変についてわかりやすく解説!
833年(天長10年)、淳和天皇の譲位により、正良親王が仁明天皇として即位しましたが、この仁明天皇の皇太子には、嵯峨上皇の強い意向により、淳和上皇の子である恒貞親王が立てられました。これに先立ち、藤原北家の藤原冬嗣は810年(弘仁元年)、天皇の秘書的役割を持つ蔵人所の蔵人頭に就任しており、時の天皇である嵯峨天皇との結びつきを深め、冬嗣の子である藤原良房も、嵯峨上皇とその皇太后の信任を獲得し、急速に台頭していきました。良房の妹は仁明天皇の后となり、道康親王(後の文徳天皇)が生まれたため、良房は道康親王の皇位継承を望むようになっていました。840年(承和7年)、淳和上皇が崩御し、842年(承和9年)には、嵯峨上皇も重い病に伏したため、皇太子である恒貞親王に仕える伴健岑、橘逸勢は危機感を募らせました。そして彼らは、恒貞親王を東国へ移すことを画策し、その計画を阿保親王(平城天皇の皇子)に相談しましたが、阿保親王は、嵯峨上皇の皇太后にこの策謀を伝えてしまいました。皇太后はこれに驚き、良房に相談したところ、良房はこれを仁明天皇に伝えました。その後、842年(承和9年)7月に嵯峨上皇が崩御し、仁明天皇は、伴健岑と橘逸勢とその一味を逮捕しました。逮捕の理由は、2人が恒貞親王を奉じて東国に赴き、反乱を企てているというものでした!仁明天皇は詔を発し、伴健岑、橘逸勢らを謀反人と断じ、恒貞親王は事件とは無関係としながらも責任を取らせるため、皇太子を廃しました。また、伴健岑は隠岐(その後出雲国へ左遷)、橘逸勢は伊豆に流罪(移動途中、遠江国で死亡)となるなど、関係者が処分されました。後に、良房が望んだように、道康親王が皇太子となっています。以上が世にいう承和の変です。2人が反乱を企てているというのは、冤罪の可能性が高く、良房が、権力の確立を図るために行った陰謀と推定されています。承和の変は、藤原氏による最初の他氏排斥事件と言われています。
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伴健岑と橘逸勢は仁明天皇に逮捕され、どのような処分を受けましたか?
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伴健岑は隠岐、橘逸勢は伊豆に流罪となる処分を受けました。
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歴史
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【承和の変とは】簡単にわかりやすく解説!!事件の原因や内容・その後の影響など
みなさんは、承和の変という事件を聞いたことがあるでしょうか?名前を聞いてピンとこない方や、他の事件と混同している方もいる方も少なくないと思います。こうした○○の変という名前の事件は、とても多く混同しやすいので、一つ一つ正確に理解するのがとても大事です。そこで今回は、『承和の変』の原因や内容・その後の影響などについて簡単にわかりやすく解説していきます。また、承和の変の年号の語呂合わせの覚え方も紹介いたします。
承和の変とは?
承和の変とは、平安時代初期の842年(承和9年)、天皇の皇位継承を巡り、藤原良房が有力氏族の伴健岑・橘逸勢などを排斥した事件です。時の仁明天皇の皇太子は、恒貞親王が定められていましたが、良房は、自身の妹と仁明天皇との間に生まれた道康親王の皇位継承を望んでいました。良房は恒貞親王に仕える伴健岑、橘逸勢が恒貞親王を東国に移す画策を行っている旨を仁明天皇に伝え、仁明天皇によって伴健岑・橘逸勢らは逮捕され、謀反人として処分されました。そして事件後、良房の望みどおり、道康親王は皇太子に立てられます。
承和の変が起こった背景や原因
次に、承和の変の背景・原因について見ていきましょう。
1薬子の変
平安時代初期の810年(弘仁元年)、朝廷では平城上皇が再び天皇位に復位を試み、時の天皇である、嵯峨天皇と対立しました。しかし、嵯峨天皇側がこの試みを打ち砕き、平城上皇は出家して決着します。この事件は、平城上皇の愛妾である藤原薬子などが関与したことから「薬子の変」と呼ばれています。薬子の変の後、嵯峨天皇は実子を皇太子とせず、嵯峨天皇の異母弟である大伴親王(後の淳和天皇)を皇太弟としました。これは嵯峨天皇自身が平城上皇に実子がいるのにかかわらず、皇太弟に擁立された経緯があるため、実子を皇太子にすることを憚ったと考えられています。結果的に、この皇太弟擁立が承和の変の遠因となっていきます。
2淳和天皇、仁明天皇の即位
823年(弘仁14年)、嵯峨天皇は大伴親王に譲位して淳和天皇が即位し、皇太子として嵯峨天皇の実子である、正良親王(後の仁明天皇)が定められました。その後、833年(天長10年)、淳和天皇の譲位により正良親王が仁明天皇として即位しましたが、この仁明天皇の皇太子には嵯峨上皇の強い意向により、淳和上皇の子である恒貞親王が立てられました。
3藤原良房の台頭
810年(弘仁元年)、天皇の秘書的役割を持つ蔵人所が令外官として設置され、蔵人頭に藤原北家の藤原冬嗣が就任しました。冬嗣は時の天皇である嵯峨天皇に仕え、嵯峨天皇との結びつきを深めていました。そして、冬嗣の子である藤原良房も嵯峨上皇とその皇太后の信任を獲得し、急速に台頭していきました。また、良房の妹は仁明天皇の后となっており、その間に道康親王(後の文徳天皇)が生まれたため、良房は道康親王の皇位継承を望むようになりました。
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810年に起きた事件は誰の名前にちなんでその名がつきましたか?
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810年に起きた事件の薬子の変は、平城上皇の愛妾である藤原薬子にちなんでその名がつきました。
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歴史
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平忠常の乱の発生と経過
忠常の国司との対立がしだいに大きくなり、三ヶ国におよぶ乱となります。朝廷は追討使を任命して鎮圧を試みますが、長期戦となり新たに追討使を任命し直しての収束となりました。
(1)乱のおこり
平良文、忠頼、忠常と三代にわたり関東で勢力を伸ばし、忠常は上総国、下総国、常陸国におよぶ広範囲の領地を手にします。しかし、忠常は国司の命に背き税を納めないなど、好き勝手に振る舞っていました。忠常は、1028年に安房国の国府を襲うと、安房守平維忠を焼き殺す事件をおこします。さらに上総国の国衙(こくが)を占領すると、忠常に加担する上総国の国人たちが増えて、上総国、下総国、安房国の房総三ヶ国に広がっていきます。
(2)追討使任命
このようすが朝廷に伝わると、追討使を送るべく候補者があげられました。藤原実資(さねすけ)は、常陸介在任中に忠常を家人としていた源頼信を推薦。賛成者は多かったものの、後一条天皇は検非違使(けびいし)平直方と中道成通を追討使として派遣します。これは、関白藤原頼通の抜擢によるものでした。直方は頼通の家人であったため、自身の派閥と敵対関係にある忠常を大義名分をもって討つために頼通に進言したのではないかとされています。同じく1028年の8月、任命から40日以上経ってから平直方と中原成通は兵を率いて京を出発。翌年2月には、直方の父である維時が上総介に任命され、源頼信は甲斐守に任じられ、本格的に討伐が始まるかに見えました。
(3)追討使交代
追討使の中道成通は、関東に向かう途中で母の病を理由に兵をすすめないなど消極的な姿勢を見せます。積極的に討伐しようとする直方とは意見が合わず、討伐軍は苦戦を続け、乱をおさえるには至りませんでした。これを知った朝廷は、諸国へ忠常追討の命を下して援軍を送り込みますが、乱を鎮圧することはできませんでした。同年12月、ついに朝廷は中道成通を追討使から解任してしまいます。1030年3月には、忠常は安房国の国衙を襲ったあと上総国で要害に立て篭り抵抗を続けます。これにより乱はさらに長期戦となり、戦場では餓死者がでるなど深刻な状況に陥ると、ついに朝廷は直方を呼び戻し9月に甲斐守になっていた源頼信を追討使に任じます。
(4)乱の収束
追討使となった頼信が1031年に上総国へ向かうと、忠常は出家し、二人の子と従者を連れて自ら出頭して降伏します。のちの同年6月に京へ連行される途中で病没すると、斬首され京で梟首とされたものの首は親族に返されました。また、二人の子も罪を許されます。直方には長期戦になり疲弊しても屈しなかったのに対し、頼信には自ら降伏したのは忠常が頼信の家人であったからではないかとされています。なお、この乱の平定により、頼信の配下となる関東の平氏が多く、源氏が東国で勢力を広げていく一因となりました。
平忠常の乱のその後
平忠常の乱は、平直方が退き源頼信により鎮圧されたことから、関東の平氏が頼信のもとに集まり源氏は東国での基盤をつくることになります。こののち、さらに前九年合戦がおこったことにより、源氏の東国進出を決定づけます。前九年合戦は陸奥の豪族阿部氏と国司との争いがもとで、源頼信の子の頼義が赴くと一旦阿部氏は服します。しかし、阿部氏が再び乱をおこすと、頼義とその子の義家が東国の武士を率いて阿部氏を滅ぼします。その後、12世紀中頃には平氏が盛り返し全盛期を迎えますが、12世紀末には源平の争乱(治承・寿永の乱)の末に源氏が平氏を滅ぼすことになります。
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後一条天皇は検非違使中道成通と頼通の家人であった誰を追討使として派遣しましたか?
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後一条天皇は中道成通と頼通の家人であった平直方を追討使として派遣しました。
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歴史
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平将門の乱の経過
当初は一族の私闘であった内紛が徐々に拡大し、将門が関東の大半を制圧すると新皇(しんのう)と称するようになり、朝廷が征東大将軍を派遣するまでに及びます。
(1)一族の私闘
935年、源扶(たすく)、源隆、源繁の三兄弟は常陸国で将門を襲い合戦となります。将門は源三兄弟を討ち取り、さらに伯父の平国香も討ち取ってしまいましたが、この時点では、国香の子である貞盛は将門との和睦を望んでいたとされます。一方で三人の息子を討たれた源護は、高望の直系である平良正に訴えると良正は兵を率いて将門の本拠である豊田に向かいます。将門はこれに迎え撃つと、鬼怒川付近での合戦となり、将門が大勝する結果となりました。良正は兄の平良兼に協力を求めると、良兼は貞盛を味方に引き入れて、935年に大軍を率いて将門の本拠豊田を包囲します。しかし、将門はこれを打ち破り、逆に下野国で連合軍を包囲しますが、良兼らは一命を取り留めました。こののち、朝廷から召喚され検非違使(けびいし)に尋問を受けることもありましたが、小競り合いは続きます。939年に良兼の勢力は衰えると、939年に病いに倒れ亡くなりました。
(2)私闘から乱へ
939年2月、武蔵国へ赴任した興世王(おきよおう)と源経基は郡司との紛争に陥りますが、将門がお互いの和解に導きました。経基は京へ戻り紛争のことで訴えるも、逆に経基は罰せられることになり、将門の評価が上げることになります。武蔵権守となった興世王は、受領と不和になると将門を頼るようになります。また、常陸国の藤原玄明も将門を頼り、租税を一切納めていない玄明を匿ったのちに玄明の追補撤回を求めます。これに対して、常陸国府が武装して要求を拒否し合戦となると、兵力の乏しい将門側が圧勝し国府を占領してしまいます。これにより、坂東の平氏一族の私闘から朝廷への反乱へと発展するに至りました。
(3)新皇を名乗る
常陸の国印を奪った将門は、さらに下野(しもつけ)、上野(こうずけ)の国府を攻め落とし、東国の大半を征服しました。さらに将門は、独自に除目(じもく)を行い関東諸国の国司を任命すると、巫女の宣託があったとして新皇を称するに至ります。将門は関東全域にまで勢力を広げると、上総の興世王を始め、下野、上野、常陸、安房、相模、伊豆、下総の国司を任命します。
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将門と和睦を望んでいたとされる人物は、誰に引き入れられて将門の本拠を包囲しましたか?
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将門と和睦を望んでいたとされる貞盛は、良兼に引き入れられて将門の本拠を包囲しました。
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歴史
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【明治時代 1】
1867年に発足した明治維新政府は、戊辰戦争のかたわら着々と中央集権の体制をつくっていきました。1868年に年号が明治に改まると、1871年には廃藩置県がおこなわれ、3府72県が置かれました。このときに、宇都宮県が誕生しています。
これとともに、四民平等が唱えられ江戸時代の身分制度も改められました。しかし、皇族・華族といった特別な身分が設けられる一方、差別されてきた人々の人権回復や実際の生活を向上させるための政策は不十分なものでした。
1872年、戊辰戦争で焼け残った宇都宮城の櫓や門が、払い下げられたり壊されたりし、一方、県庁や病院、郵便局、東京鎮台の駐屯地などが次々と建設されました。戦災後の宇都宮に、近代のまちの姿があらわれはじめたのです。 また、この年には学制が発布されて藩校の修道館は廃止となり、翌年には6校の小学校が設立されました。また、これらが統合され、1878年に西校、翌年には東校が開校しました。
明治政府は、殖産興業を進め資本主義の育成に努めました。官営のものでは1872年設立の富岡製糸場がありますが、その前年、川村伝左衛門が現在の石井町に大嶹商舎を設立しています。これは私設の工場でしたが、米国前大統領グラント将軍など内外の指導者が訪問するなど、明治初期の模範工場として認められました。
1873年2月、二荒山神社が国幣中社から県社に降格となりました。二荒山神社が延喜式神名帳に記された下野一ノ宮であるという確証がないというのが理由でしたが、実際には日光二荒山神社との社格争いが原因でした。宇都宮藩の重臣として幕末に活躍した県六石らは、これを宇都宮の歴史的名誉を傷つけるものとして社格回復運動を展開し、1883年に国幣中社の栄誉を回復することに成功しました。翌年の3月の臨時大祭は「ひっくり返るような大祭礼」といわれるほど盛大なものでした。
このころの宇都宮県は、現在の栃木県の北半分を県域にしていました。しかし、1873年6月15日に宇都宮県は廃止され、栃木県に組み入れられることになりました。県庁は栃木町にあったため、その後、1884年に宇都宮町に県庁が移転するまで、宇都宮は県政の中心から外れることになったのです。
県庁の移転運動は1882年からはじまりました。論点としては、宇都宮が県の中央に位置していること、道路網が宇都宮を中心に四方八方に伸びていること、県北東部の開発に便利であること、宇都宮には軍隊が駐屯していることなどでした。また、市場取引高を見てもけた違いに宇都宮がまさっており、町民感情としても移転運動は盛り上がりを見せたのです。はじめは栃木町の根強い反対運動もありましたが、1883年に三島通庸が県令となると、おどろくほどの速さで移転が決定されました。
県庁の新築工事にあわせて、大通りの貫通工事や諸官庁、学校などが整備され、宇都宮は名実ともに栃木県の政治・文化・経済の中心地となったのです。三島県令時代は2年足らずでしたが、江戸時代の本多正純とともに宇都宮の町並みを一変させた人物でした。
【明治時代 2】
1885年、埼玉県大宮駅から宇都宮までの鉄道が開通し、宇都宮駅が誕生しました。当時、宇都宮駅は停車場とよばれていましたが、翌年には日本最初の駅弁が白木屋によって発売されました。この路線は、1891年には青森まで開通し、1906年に国有化されました。また、日光線は1890年に全線が開通しています。
これ以外にも、1896年には大谷石の輸送と観光開発を目的とした宇都宮軌道運輸株式会社が、また、1898年には野州人車鉄道が設立され、人車鉄道(トロッコ)が走るようになりました。1906年にはこの2社は1つになって宇都宮石材軌道株式会社となり、荒針・新里・徳次郎の3路線の営業をおこないました。
大日本帝国憲法が発布された直後の1889年4月1日、市制町村制が施行され、宇都宮町と、旧宇都宮市を形成する11か村が誕生しました。宇都宮町では、町会議員選挙が行われ30名の議員が、また、その中から町長に矢島中、助役に田中勝次郎が選ばれました。翌年、収入役に松井元儀が選ばれ、22名の吏員が任用されました。宇都宮町役場は、現在の中央3丁目に置かれました。
1892年、それまで陸軍用地となっていた宇都宮城跡が払い下げになりました。本丸は旧城主の戸田家に、二の丸は士族一同に、三の丸は町有になりました。1890年になって、三の丸の土手をくずして三日月堀を埋め、二荒山神社前通りを延長して御橋をかけ、本丸に真っすぐ通じるようにしました。この年には、曲師町・江野町・材木町を結ぶ、現在のオリオン通り・ユニオン通りが開通になりました。
この時期の宇都宮では、企業熱が盛り上がった時期でした。特に、1896年に宇都宮銀行が設立されて金融活動が円滑になると、株式会社をはじめ、たくさんの企業が誕生しています。国重要文化財の旧篠原家住宅は、1895年に建てられたこの時期を代表する商家建築ですが、同様の豪壮な建築物がほかにも見られました。
1896年4月1日、宇都宮は市になりました。初代市長は町長であった矢島中でした。当時の人口は約35233人、戸数6991戸でした。市長の選出は、市会が候補者3名を国に推薦し、その中から内務大臣が決定する方法がとられていました。
旧篠原家住宅明治時代の日本は、欧米の列強に遅れまいと海外への進出を図っていました。1894年の日清戦争では約100名、つづく1904年におこった日露戦争では、654名の出征者が宇都宮市から出ています。日露戦争による軍備拡張により、陸軍第14師団が福岡県の小倉で編制され満州に出兵していましたが、戦後、正式な駐屯地が宇都宮に決定され、1907年から次々に施設が建設されました。14師団が直接市内に落とす金額は、当時の市一般会計の5倍にあたり、市の商工業界に大きな影響を与えました。ここに、宇都宮は「軍都」という新しい顔を持つことになったのです。
1908年に14師団が宇都宮にやってくると、材木町から西へ大谷街道が開通し、さらに野砲兵第20連隊から師団司令部までの約1.4キロメートルに、軍道と呼ばれる道幅10間の道路が開通し、両側に約1000本のサクラが植えられました。
【大正時代】
大正時代に入ると、列国の帝国主義政策が衝突して、1914年に第一次世界大戦が起こりました。日本も、日英同盟を理由に参戦しドイツと戦っています。この時期の日本は、中国政府に二十一か条の要求を突きつけたり、1917年に起こったロシア革命を妨害するために、イギリス・アメリカ・フランスとともにシベリア出兵をおこなったりするなど、中国大陸に勢力を伸ばす動きを起こしました。
大正時代には、水道やガスが普及し都市生活が大きく変化しました。また、自動車交通が飛躍的に進展し、陸上輸送に大きな変化を見せ始めました。
宇都宮は、豊富な地下水がある一方、上町に比べて下町は不良水であったため、チフスや赤痢の流行に悩まされていました。また、釜川の水量は少なく、火災の被害も大きかったため、明治時代から水道をひくための議論が行われていました。足かけ4年にわたる大工事のすえ、大谷川を水源とする水道が完成したのは、1916年のことです。これにより、全戸数の32%が水道を利用するようになりました。
第一次世界大戦で直接の被害を受けなかった日本は、海外への輸出が伸びたことから空前の好景気となりました。しかし、国内では品不足による物価高が続いて人々の生活は苦しくなり、全国的に米騒動がおこりました。宇都宮でも、1918年1月に1石15円の米が、7月には30円を越すといった値上がりを見せています。
このような中で、1923年9月1日、関東大震災が起きました。東京・横浜では大規模な火災が発生し、死者・行方不明者が14万人を超えました。この大災害の中、大谷石で建築された東京の旧帝国ホテルが焼け残り、大谷石は、その耐火性・耐震性の優秀さが認められ、第一級の建築材として一躍有名になりました。
大谷石採掘の歴史は古く、奈良時代の795年に建立された下野国分寺の土台にも使われています。江戸時代には、本多正純の宇都宮城大改築にも利用されたほか、商店の石蔵や釜川の護岸に用いられている様子が『宇陽略記』に描かれています。また、鬼怒川を利用して江戸へ輸送され、隅田川沿いには大谷石をあつかう問屋が16軒あったといわれています。明治に入ると、鉄道の開通など陸上交通の発展にともなって販売網は関東一円に広がりました。しかし、大戦後の不況の中、職工たちは大谷石石材労働組合を組織してストを決行し、深刻な労働争議に発展しました。
大正時代には、大通り沿いに蔵造りの店が並び、1925年には、上野呉服店が東京風の百貨店形式の店を相生町に新築し、バンバのにぎわいともあいまって二荒山神社前が最大の繁華街になりました。また、乗合いバスやタクシー乗務員の洋装が人気を集め、このころには、軍道のサクラも成長し市内随一の名所になりました。
大正15年、市制30周年祝賀式が行われ、八幡山では東洋花火大会が開催されて三尺玉を打ち上げました。この年の人口は72238人、戸数15525戸となり、30年で倍増していますが、一方で、さまざまな都市問題を引き起こすことになりました。
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大正時代に、軍道のサクラは有名になりましたか?
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はい、大正時代に、軍道のサクラは有名になりました。
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歴史
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原子爆弾(原爆)は1945年8月6日に広島に、9日に長崎に投下され、同年末までに広島でおよそ14万人、長崎でおよそ7万人が亡くなりました。戦争が終わってからも、放射線によって多くの人々が苦しめられました。
【ドイツが降伏し日本への投下が決まった】
原爆は当初、日本への使用を想定して開発されたものではありませんでした。ナチス・ドイツの原爆開発を恐れたアインシュタイン博士らが、アメリカのルーズベルト大統領に研究を進言、1942年に大統領が開発計画を承認しました。原爆が完成する前にドイツが降伏したため、日本への使用が決まったのです。
【広島への空襲を控えていたアメリカ その理由とは】
アメリカは投下する都市を絞り込み、広島市が第一目標となりました。当時アメリカは焼夷弾による空襲を行い、東京、大阪から中小都市にいたるまで壊滅的な被害を与えていましたが、広島への空襲を控えました。原爆の威力を測定するために“温存”したのです。
8月6日午前8時15分、アメリカの爆撃機が広島市に原爆を投下、上空600メートルで炸裂させました。広島は広大な軍事施設を抱える軍都でしたが、およそ35万人が生活する街でもありました。その人々を、爆風、熱線、放射線が襲ったのです。
【至近距離で被爆した中学生たち】
原爆がどのような被害をもたらしたのか、ある中学校を例にみていきます。
広島県立第一中学校の1年生のうち、半数の150人は、原爆がさく裂した地点(爆心地)から900メートルほどの屋外で作業をしていました。強烈な熱線で生徒の皮膚は焼けただれ、全身に致命的なやけどを負いました。さらに、爆風によって地面に叩きつけられたり、飛んできたがれきによって傷つけられたりしました。また、この地点には致死量の放射線が降り注いでもいました。生存できた生徒は1人もいません。
もう半数の150人は、爆心地から900メートル弱の場所にあった校舎で自習をしていました。爆風で木造の建物は押しつぶされ、生徒たちは下敷きになりました。熱線によって、崩れた建物に火がつき、生徒は「お母さん」「天皇陛下万歳」などと叫びながら焼かれていきました。
下敷きになった150人のうち、数十人は何とか脱出し家族のもとに帰ることができましたが、1週間経つと頭髪が抜け、歯ぐきから出血するなどの症状が現れました。建物を通り抜けた放射線が、生徒たちの細胞を傷つけていたためです。白血球がつくれなくなるなどして、免疫機能が極度に低下し、感染症に襲われました。また、全身で内出血が起こって体中に斑点が生じ、腸の内部が崩れるなどして、下血が始まりました。生徒たちは衰弱し、亡くなっていきました。
原爆では、行方不明となった人も大勢います。軍隊、役場、警察、医療機関などが壊滅的な被害を受けたために、いつ、どこで、誰が亡くなったのか、記録もほとんどないのです。広島市の原爆供養塔には、引き取り手のない7万柱の遺骨がいまも安置されています。
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この爆弾が投下されたときの季節は何ですか?
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この爆弾が投下されたときの季節は夏です。
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歴史
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原子爆弾(原爆)は1945年8月6日に広島に、9日に長崎に投下され、同年末までに広島でおよそ14万人、長崎でおよそ7万人が亡くなりました。戦争が終わってからも、放射線によって多くの人々が苦しめられました。
【ドイツが降伏し日本への投下が決まった】
原爆は当初、日本への使用を想定して開発されたものではありませんでした。ナチス・ドイツの原爆開発を恐れたアインシュタイン博士らが、アメリカのルーズベルト大統領に研究を進言、1942年に大統領が開発計画を承認しました。原爆が完成する前にドイツが降伏したため、日本への使用が決まったのです。
【広島への空襲を控えていたアメリカ その理由とは】
アメリカは投下する都市を絞り込み、広島市が第一目標となりました。当時アメリカは焼夷弾による空襲を行い、東京、大阪から中小都市にいたるまで壊滅的な被害を与えていましたが、広島への空襲を控えました。原爆の威力を測定するために“温存”したのです。
8月6日午前8時15分、アメリカの爆撃機が広島市に原爆を投下、上空600メートルで炸裂させました。広島は広大な軍事施設を抱える軍都でしたが、およそ35万人が生活する街でもありました。その人々を、爆風、熱線、放射線が襲ったのです。
【至近距離で被爆した中学生たち】
原爆がどのような被害をもたらしたのか、ある中学校を例にみていきます。
広島県立第一中学校の1年生のうち、半数の150人は、原爆がさく裂した地点(爆心地)から900メートルほどの屋外で作業をしていました。強烈な熱線で生徒の皮膚は焼けただれ、全身に致命的なやけどを負いました。さらに、爆風によって地面に叩きつけられたり、飛んできたがれきによって傷つけられたりしました。また、この地点には致死量の放射線が降り注いでもいました。生存できた生徒は1人もいません。
もう半数の150人は、爆心地から900メートル弱の場所にあった校舎で自習をしていました。爆風で木造の建物は押しつぶされ、生徒たちは下敷きになりました。熱線によって、崩れた建物に火がつき、生徒は「お母さん」「天皇陛下万歳」などと叫びながら焼かれていきました。
下敷きになった150人のうち、数十人は何とか脱出し家族のもとに帰ることができましたが、1週間経つと頭髪が抜け、歯ぐきから出血するなどの症状が現れました。建物を通り抜けた放射線が、生徒たちの細胞を傷つけていたためです。白血球がつくれなくなるなどして、免疫機能が極度に低下し、感染症に襲われました。また、全身で内出血が起こって体中に斑点が生じ、腸の内部が崩れるなどして、下血が始まりました。生徒たちは衰弱し、亡くなっていきました。
原爆では、行方不明となった人も大勢います。軍隊、役場、警察、医療機関などが壊滅的な被害を受けたために、いつ、どこで、誰が亡くなったのか、記録もほとんどないのです。広島市の原爆供養塔には、引き取り手のない7万柱の遺骨がいまも安置されています。
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第一中学校の半数の150人は、爆心地から1km以内で作業をしていましたか?
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はい、第一中学校の半数の150人は、爆心地から1km以内で作業をしていました。
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歴史
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原子爆弾(原爆)は1945年8月6日に広島に、9日に長崎に投下され、同年末までに広島でおよそ14万人、長崎でおよそ7万人が亡くなりました。戦争が終わってからも、放射線によって多くの人々が苦しめられました。
【ドイツが降伏し日本への投下が決まった】
原爆は当初、日本への使用を想定して開発されたものではありませんでした。ナチス・ドイツの原爆開発を恐れたアインシュタイン博士らが、アメリカのルーズベルト大統領に研究を進言、1942年に大統領が開発計画を承認しました。原爆が完成する前にドイツが降伏したため、日本への使用が決まったのです。
【広島への空襲を控えていたアメリカ その理由とは】
アメリカは投下する都市を絞り込み、広島市が第一目標となりました。当時アメリカは焼夷弾による空襲を行い、東京、大阪から中小都市にいたるまで壊滅的な被害を与えていましたが、広島への空襲を控えました。原爆の威力を測定するために“温存”したのです。
8月6日午前8時15分、アメリカの爆撃機が広島市に原爆を投下、上空600メートルで炸裂させました。広島は広大な軍事施設を抱える軍都でしたが、およそ35万人が生活する街でもありました。その人々を、爆風、熱線、放射線が襲ったのです。
【至近距離で被爆した中学生たち】
原爆がどのような被害をもたらしたのか、ある中学校を例にみていきます。
広島県立第一中学校の1年生のうち、半数の150人は、原爆がさく裂した地点(爆心地)から900メートルほどの屋外で作業をしていました。強烈な熱線で生徒の皮膚は焼けただれ、全身に致命的なやけどを負いました。さらに、爆風によって地面に叩きつけられたり、飛んできたがれきによって傷つけられたりしました。また、この地点には致死量の放射線が降り注いでもいました。生存できた生徒は1人もいません。
もう半数の150人は、爆心地から900メートル弱の場所にあった校舎で自習をしていました。爆風で木造の建物は押しつぶされ、生徒たちは下敷きになりました。熱線によって、崩れた建物に火がつき、生徒は「お母さん」「天皇陛下万歳」などと叫びながら焼かれていきました。
下敷きになった150人のうち、数十人は何とか脱出し家族のもとに帰ることができましたが、1週間経つと頭髪が抜け、歯ぐきから出血するなどの症状が現れました。建物を通り抜けた放射線が、生徒たちの細胞を傷つけていたためです。白血球がつくれなくなるなどして、免疫機能が極度に低下し、感染症に襲われました。また、全身で内出血が起こって体中に斑点が生じ、腸の内部が崩れるなどして、下血が始まりました。生徒たちは衰弱し、亡くなっていきました。
原爆では、行方不明となった人も大勢います。軍隊、役場、警察、医療機関などが壊滅的な被害を受けたために、いつ、どこで、誰が亡くなったのか、記録もほとんどないのです。広島市の原爆供養塔には、引き取り手のない7万柱の遺骨がいまも安置されています。
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この爆弾が上空600メートルで炸裂したのは朝ですか?
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はい、この爆弾が上空600メートルで炸裂したのは朝です。
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歴史
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パリに居る知人が近頃、日本国内では入手しにくい洋書をたくさん送ってくれた。知人が送ってくれた洋書の中に、アレキサンダー・モスコフスキーの『アインシュタイン』という書物があった。「停車場などで売っている俗書だが、退屈しのぎに……」と断ってよこしてくれたのである。欧米における昨今のアインシュタインの盛名は非常なもので、彼の名や「相対原理」という言葉などが色々な第二次的な意味の流行語になっているらしい。ロンドンからの便りでは、新聞や通俗雑誌くらいしか売っていない店先にも、ちゃんとアインシュタインの著書(英訳)だけは並べてあるそうである。新聞の漫画を見ていると、野良のむすこが親爺の金を誤魔化しておいて、これがレラチヴィティだなどと済ましているのがある。こうなってはさすがのアインシュタインも苦い顔をしている事であろう。我邦ではまだそれほどでもないが、それでも彼の名前は理学者以外の方面にも近頃だいぶ拡まって来たようである。そして彼の仕事の内容は分らないまでも、それが非常に重要なものであって、それを仕遂げた彼が非常な優れた頭脳の所有者である事を認め信じている人はかなりに多数である。そうして彼の仕事のみならず、彼の「人」について特別な興味を抱いていて、その面影を知りたがっている人もかなりに多い。そういう人々にとってこのモスコフスキーの著書は甚だ興味のあるものであろう。モスコフスキーとはどういう人か私は知らない。ある人の話ではジャーナリストらしい。自身の序文にもそうらしく見える事が書いてある。いずれにしても著述家として多少認められ、相当な学識もあり、科学に対してもかなりな理解をもっている人である事は、この書の内容からも了解する事が出来る。この人のアインシュタインに対する関係は、一見ボスウェルのジョンソン、ないしエッカーマンのゲーテに対するようなものかもしれない。彼自身も後者の類例をある程度まで承認している。「琥珀の中の蝿」などと自分で云っているが、単なるボスウェリズムでない事は明らかに認められる。時々アインシュタインに会って雑談をする機会があるので、その時々の談片を題目とし、それの注釈や祖述、あるいはそれに関する評論を書いたものが纏まった書物になったという体裁である。無論記事の全責任は記者すなわち著者にあることが特に断ってある。一体人の談話を聞いてこれを正確に伝えるという事は、それが精密な科学上の定理や方則でない限り、厳密に云えばほとんど不可能なほど困難な事である。たとえ言葉だけは精密に書き留めても、その時の顔の表情や声のニュアンスは全然失われてしまう。それだからある人の云った事を、その外形だけ正しく伝えることによって、話した本人を他人の前に陥れることも揚げることも勝手に出来る。これは無責任ないし悪意あるゴシップによって日常行われている現象である。
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アレキサンダー・モスコフスキーの『アインシュタイン』は、日本国内で入手しにくいですか?
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はい、アレキサンダー・モスコフスキーの『アインシュタイン』は、日本国内で入手しにくいです。
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歴史
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【新宿区史:江戸時代(1600-1868年)】
慶長7(1602)年:後の大久保鉄砲百人組、大久保に組屋敷を拝領
慶長8(1603)年:徳川家康、江戸幕府を開く
慶長9(1604)年:五街道・諸街道を修理し一里塚を築く
*五街道は、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の5つ
元和2(1616)年:四谷大木戸を設置、甲州道中往来の人馬を検閲
寛永5(1628)年:川越藩主(後の小浜藩主)酒井忠勝、牛込矢来屋敷を拝領
寛永13(1636)年:江戸城外堀の牛込〜赤坂間を建設。同時に外堀地域の枡形石垣が構築。前年より、麹町周辺の寺院が外堀地域に多数移転。高田馬場の造営開始
*外堀地域は、牛込、市谷、四谷を指す
承応3(1654)年:玉川上水、羽村から四谷大木戸まで開通
明暦2(1656)年:尾張徳川家二代藩主・光友、市谷上屋敷を拝領
明暦3(1657)年:明暦の大火(振袖火事)。焼死者10万7000人余
寛文2(1662)年:外堀地域全域に定火消を設置
寛文8(1668)年:尾張徳川家二代藩主・光友、戸山屋敷を拝領
元禄7(1694)年:五代将軍綱吉、生類あわれみの令により、大久保に犬屋敷設置。翌年四谷にも犬屋敷が設置され、野犬を飼育
元禄10(1697)年:5人の商人、幕府に甲州道中の宿場開設を請願
*5人の商人は、喜兵衛、市左衛門、忠右衛門、嘉吉、五兵衛
元禄11(1698)年:内藤新宿開発が許可される
元禄12(1699)年:内藤新宿開設が許可され、業務を開始
享保3(1718)年:内藤新宿廃駅
享保13(1728)年:八代将軍吉宗、世継ぎの病気平癒祈願として穴八幡宮に流鏑馬を奉納
明和2(1765)年:牛込光照寺門前に新暦調御用所(牛込天文台)を開設
明和9(1772)年:内藤新宿再開(明和の立ち返り)
天保14(1843)年:角筈に大筒打場(大筒射撃場)を設置
弘化4(1847)年:内藤新宿太宗寺の閻魔大王、正受院の奪衣婆などの信仰が高まる(流行神)
安政元(1854)年:淀橋の水車小屋(火薬製造所)で爆発、火災
安政2(1855)年:安政の大地震。死傷者7000人余
文久元(1861)年:内藤新宿で火災。旅籠の半数以上が焼失
慶応3(1867)年:夏目漱石、牛込馬場下横町(現・喜久井町)で生まれる
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喜兵衛が幕府に甲州道中の宿場開設を請願したのは、何年ですか?
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喜兵衛が幕府に甲州道中の宿場開設を請願したのは、元禄10(1697)年です。
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歴史
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「○○の変」と名前のついた事件は、様々なものがあり、平安時代だけでも多くあります。歴史を学ぶ上では、それぞれの事件について正確に理解し、その事件が歴史上、どのような意義を持つのか、前後の歴史とどのように結びつくのか、考察することでより深い理解が生まれます。その上で、承和の変・応天門の変・安和の変は、いずれも平安時代に起きた事件ですが、その名称から、それぞれの内容を思い浮かべることができますでしょうか?いずれも藤原氏による他氏排斥事件ですが、それぞれの事件の性質や内容は異なっているので、混同される方もいると思います。そこで今回は、承和の変・応天門の変・安和の変の違いについて、簡単にわかりやすく解説したいと思います。
承和の変についてわかりやすく解説!
833年(天長10年)、淳和天皇の譲位により、正良親王が仁明天皇として即位しましたが、この仁明天皇の皇太子には、嵯峨上皇の強い意向により、淳和上皇の子である恒貞親王が立てられました。これに先立ち、藤原北家の藤原冬嗣は810年(弘仁元年)、天皇の秘書的役割を持つ蔵人所の蔵人頭に就任しており、時の天皇である嵯峨天皇との結びつきを深め、冬嗣の子である藤原良房も、嵯峨上皇とその皇太后の信任を獲得し、急速に台頭していきました。良房の妹は仁明天皇の后となり、道康親王(後の文徳天皇)が生まれたため、良房は道康親王の皇位継承を望むようになっていました。840年(承和7年)、淳和上皇が崩御し、842年(承和9年)には、嵯峨上皇も重い病に伏したため、皇太子である恒貞親王に仕える伴健岑、橘逸勢は危機感を募らせました。そして彼らは、恒貞親王を東国へ移すことを画策し、その計画を阿保親王(平城天皇の皇子)に相談しましたが、阿保親王は、嵯峨上皇の皇太后にこの策謀を伝えてしまいました。皇太后はこれに驚き、良房に相談したところ、良房はこれを仁明天皇に伝えました。その後、842年(承和9年)7月に嵯峨上皇が崩御し、仁明天皇は、伴健岑と橘逸勢とその一味を逮捕しました。逮捕の理由は、2人が恒貞親王を奉じて東国に赴き、反乱を企てているというものでした!仁明天皇は詔を発し、伴健岑、橘逸勢らを謀反人と断じ、恒貞親王は事件とは無関係としながらも責任を取らせるため、皇太子を廃しました。また、伴健岑は隠岐(その後出雲国へ左遷)、橘逸勢は伊豆に流罪(移動途中、遠江国で死亡)となるなど、関係者が処分されました。後に、良房が望んだように、道康親王が皇太子となっています。以上が世にいう承和の変です。2人が反乱を企てているというのは、冤罪の可能性が高く、良房が、権力の確立を図るために行った陰謀と推定されています。承和の変は、藤原氏による最初の他氏排斥事件と言われています。
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淳和上皇の子である親王は、隠岐や伊豆への流罪者を生むことになった事件に関して、何を廃されましたか?
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淳和上皇の子である親王は、隠岐や伊豆への流罪者を生むことになった伴健岑・橘逸勢の反乱事件に関して、事件とは無関係とされながらもその責任を取るため、皇太子を廃されました。
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歴史
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【承和の変とは?簡単にわかりやすく解説!!事件の原因や内容・その後の影響など】
みなさんは、承和の変という事件を聞いたことがあるでしょうか?名前を聞いてピンとこない方や、他の事件と混同している方もいる方も少なくないと思います。こうした○○の変という名前の事件は、とても多く混同しやすいので、一つ一つ正確に理解するのがとても大事です。そこで今回は、『承和の変』の原因や内容・その後の影響などについて簡単にわかりやすく解説していきます。また、承和の変の年号の語呂合わせの覚え方も紹介いたします。
【承和の変とは?】
承和の変とは、平安時代初期の842年(承和9年)、天皇の皇位継承を巡り、藤原良房が有力氏族の伴健岑・橘逸勢などを排斥した事件です。時の仁明天皇の皇太子は、恒貞親王が定められていましたが、良房は、自身の妹と仁明天皇との間に生まれた道康親王の皇位継承を望んでいました。良房は恒貞親王に仕える伴健岑、橘逸勢が恒貞親王を東国に移す画策を行っている旨を仁明天皇に伝え、仁明天皇によって伴健岑・橘逸勢らは逮捕され、謀反人として処分されました。そして事件後、良房の望みどおり、道康親王は皇太子に立てられます。
【承和の変が起こった背景や原因】
次に、承和の変の背景・原因について見ていきましょう。
1.薬子の変
平安時代初期の810年(弘仁元年)、朝廷では平城上皇が再び天皇位に復位を試み、時の天皇である、嵯峨天皇と対立しました。しかし、嵯峨天皇側がこの試みを打ち砕き、平城上皇は出家して決着します。この事件は、平城上皇の愛妾である藤原薬子などが関与したことから「薬子の変」と呼ばれています。薬子の変の後、嵯峨天皇は実子を皇太子とせず、嵯峨天皇の異母弟である大伴親王(後の淳和天皇)を皇太弟としました。これは嵯峨天皇自身が平城上皇に実子がいるのにかかわらず、皇太弟に擁立された経緯があるため、実子を皇太子にすることを憚ったと考えられています。結果的に、この皇太弟擁立が承和の変の遠因となっていきます。
2.淳和天皇、仁明天皇の即位
823年(弘仁14年)、嵯峨天皇は大伴親王に譲位して淳和天皇が即位し、皇太子として嵯峨天皇の実子である、正良親王(後の仁明天皇)が定められました。その後、833年(天長10年)、淳和天皇の譲位により正良親王が仁明天皇として即位しましたが、この仁明天皇の皇太子には嵯峨上皇の強い意向により、淳和上皇の子である恒貞親王が立てられました。
3.藤原良房の台頭
810年(弘仁元年)、天皇の秘書的役割を持つ蔵人所が令外官として設置され、蔵人頭に藤原北家の藤原冬嗣が就任しました。冬嗣は時の天皇である嵯峨天皇に仕え、嵯峨天皇との結びつきを深めていました。そして、冬嗣の子である藤原良房も嵯峨上皇とその皇太后の信任を獲得し、急速に台頭していきました。また、良房の妹は仁明天皇の后となっており、その間に道康親王(後の文徳天皇)が生まれたため、良房は道康親王の皇位継承を望むようになりました。
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承和の変で有力氏族の伴健岑・橘逸勢などを排斥した人物は、自身の妹と仁明天皇との間に生まれた誰の皇位継承を望んでいましたか?
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承和の変で有力氏族の伴健岑・橘逸勢などを排斥した人物は、自身の妹と仁明天皇との間に生まれた道康親王の皇位継承を望んでいました。
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歴史
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【前九年の役とは?簡単にわかりやすく解説!!反乱が起こった背景や経過・その後など】
【前九年の役とは?】
前九年の役とは、平安時代後期の11世紀、陸奥国で起こった反乱のことです。陸奥国の有力豪族である安部氏が反乱をおこし、長期戦の末に源頼義が出羽の豪族清原氏の助けを得て討伐しました。(※前九年の役は「前九年合戦」と表記されることもあります)戦いの発端は、11世紀半ばに陸奥で強大な勢力をもつ安倍氏が朝廷への納税の義務を果たさなくなったため、1051年に陸奥守「藤原登任(なりとう)」と衝突することによって始まりました。乱は長引くも清原氏の参戦によって一気に収束に向かいます。陸奥守となっていた源頼義の活躍は、平忠常の乱を鎮めた父についでの源氏の活躍となり、源氏の東国進出が決定的なものになりました。
【前九年の役が起こった背景】
10世紀頃から豪族や有力農民が武士として台頭し、武士団をつくると大規模な反乱をおこすようになります。これらの乱で武士は力を見せつけることとなり、また、朝廷にとっても武士は欠かせない存在になっていった中でおこったのが前九年の役でした。
1.武士の台頭
10世紀に入ると、地方の豪族や有力農民が勢力を拡大するために武装して、兵(つわもの)と呼ばれるようになります。この兵は一族や郎党を従えて互いに争ったり、ときには国司に反抗したりすることもありました。畿内付近では、成長した豪族が武士と呼ばれるようになり、朝廷の武官となったり貴族に武芸をもって仕えるようになったりしていきます。さらには、滝口の武士などの宮中の警備にあたる重職を担うこともありました。武士となった勢力は、各地で一族の結びつきを強めながら次第に拡大し武士団を形成。中央から離れた地域では、旧来の豪族のほか任地に土着した国司の子孫の多くが武士団の中心となりました。
2.武士の大規模な反乱
東国は良馬を産することもあり、武士団の成長が著しい地域でした。その東国で勢力を広めたのが、桓武天皇の曽孫の高望王から平姓を与えられた桓武平氏でした。高望王の孫にあたる平将門は、下総を根拠地にして一族と私闘を繰り返すうちに反乱に発展していきます。(平将門の乱)将門は東国の大半を征服し新皇(しんのう)を称するに至りますが、父国香を殺された平貞盛らによって倒されます。瀬戸内海では、藤原純友が海賊を率いて反乱をおこします。(藤原純友の乱)伊予の国府を奪うと淡路から大宰府まで広範囲に勢力を広げましたが、小野好古(よしふる)や清和源氏の祖である源経基らによって討たれ乱は鎮圧されます。前九年の役の直前に起きたのは、平忠常の乱でした。平氏は将門の乱以降も関東に勢力を保ち続けており、もと上総の国司であった平忠常が乱をおこしますが、源頼信によって乱は鎮められます。
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高望王の孫にあたる人物は、どこを征服して新皇を称するに至りましたか?
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高望王の孫にあたる平将門は、東国の大半を征服して新皇を称するに至りました。
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歴史
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【前九年の役とは?簡単にわかりやすく解説!!反乱が起こった背景や経過・その後など】
【前九年の役とは?】
前九年の役とは、平安時代後期の11世紀、陸奥国で起こった反乱のことです。陸奥国の有力豪族である安部氏が反乱をおこし、長期戦の末に源頼義が出羽の豪族清原氏の助けを得て討伐しました。(※前九年の役は「前九年合戦」と表記されることもあります)戦いの発端は、11世紀半ばに陸奥で強大な勢力をもつ安倍氏が朝廷への納税の義務を果たさなくなったため、1051年に陸奥守「藤原登任(なりとう)」と衝突することによって始まりました。乱は長引くも清原氏の参戦によって一気に収束に向かいます。陸奥守となっていた源頼義の活躍は、平忠常の乱を鎮めた父についでの源氏の活躍となり、源氏の東国進出が決定的なものになりました。
【前九年の役が起こった背景】
10世紀頃から豪族や有力農民が武士として台頭し、武士団をつくると大規模な反乱をおこすようになります。これらの乱で武士は力を見せつけることとなり、また、朝廷にとっても武士は欠かせない存在になっていった中でおこったのが前九年の役でした。
1.武士の台頭
10世紀に入ると、地方の豪族や有力農民が勢力を拡大するために武装して、兵(つわもの)と呼ばれるようになります。この兵は一族や郎党を従えて互いに争ったり、ときには国司に反抗したりすることもありました。畿内付近では、成長した豪族が武士と呼ばれるようになり、朝廷の武官となったり貴族に武芸をもって仕えるようになったりしていきます。さらには、滝口の武士などの宮中の警備にあたる重職を担うこともありました。武士となった勢力は、各地で一族の結びつきを強めながら次第に拡大し武士団を形成。中央から離れた地域では、旧来の豪族のほか任地に土着した国司の子孫の多くが武士団の中心となりました。
2.武士の大規模な反乱
東国は良馬を産することもあり、武士団の成長が著しい地域でした。その東国で勢力を広めたのが、桓武天皇の曽孫の高望王から平姓を与えられた桓武平氏でした。高望王の孫にあたる平将門は、下総を根拠地にして一族と私闘を繰り返すうちに反乱に発展していきます。(平将門の乱)将門は東国の大半を征服し新皇(しんのう)を称するに至りますが、父国香を殺された平貞盛らによって倒されます。瀬戸内海では、藤原純友が海賊を率いて反乱をおこします。(藤原純友の乱)伊予の国府を奪うと淡路から大宰府まで広範囲に勢力を広げましたが、小野好古(よしふる)や清和源氏の祖である源経基らによって討たれ乱は鎮圧されます。前九年の役の直前に起きたのは、平忠常の乱でした。平氏は将門の乱以降も関東に勢力を保ち続けており、もと上総の国司であった平忠常が乱をおこしますが、源頼信によって乱は鎮められます。
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平安時代後期の11世紀、陸奥国で起こった反乱の直前に起きた反乱は何ですか?
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平安時代後期の11世紀、陸奥国で起こった反乱の直前に起きた反乱は平忠常の乱です。
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歴史
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618年に中国で唐がおこると、律令法に基づき中央集権的な国家体制の充実を図ります。より統治しやすくするために均田制や租庸調制などを確立しました。日本では大化の改新の翌年、改新の詔(みことのり)が発せられたと「日本書紀」に記されており、唐にならい公地公民、国郡里制、税制が規定されました。それとともに戸籍をもとにして口分田を班給することが定められたのが「班田収授法」の始まりです。今回は、『班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)』について、簡単にわかりやすく解説していきます。
【班田収授法とは?】
班田収授法とは、飛鳥時代後期から平安時代にかけて行われた、6歳以上の男女に口分田を班給する制度のことです。大化の改新後、唐にならって律令国家を目指す改革の一つに班田収授法があり、人口と田地の調査をして税を確保する狙いがありました。班給について細かく取り決められていましたが、奈良時代末期になると浮浪や逃亡する者が増え、平安時代初期には実施されなくなっていきました。
【班田収授法が制定された背景】
班田収授法は中央集権的な律令制度の一環として採り入れられたものですが、お手本となったのは唐の均田制でした。日本では大化の改新後、律令国家を目指した改新の詔が発せられ、戸籍が整備されることで班田収授法に向けた準備が整っていきます。
1.唐の律令制
唐では日本に先駆けて中央集権的な律令国家の整備がすすみました。7世紀に唐がおこると、三省六部制(さんしょうりくぶせい)と呼ばれる中央官制やのちに班田収授法のお手本となった均田制を採り入れ、租庸調による税制を確立しました。均田制は北魏に始まり隋でも制度化されますが、唐での均田制は大人の男性に口分田が割り当てられたほか世襲できる永業田(えいぎょうでん)が認められました制度です。土地が不足する地域では貧しい者を優先して給田される一方、官人などは地位によって官人永業田を与えられるなど身分による違いがありました。唐で取り入れられた均田制は支配層に有利に働きました。
2.改新の詔
大化の改新後の646年、4条からなる改新の詔が発せられます。いずれも中央集権的な律令国家を目指す上で重要なものでした。改新の詔の条項は少しずつすすめられますが、班田収授法についてはこの時点では戸籍はなく実際に実施されるのはまだ先になります。ただし、改新の詔は時代に合わない記述が多く、実際の646年よりも後に書かれたものだという説もあります。
3.戸籍の整備から班田収授法の実現へ
670年に庚午年籍(こうごねんじゃく)と呼ばれる戸籍がつくられます。これは、全国的で豪族から公民・部曲(かきべ)・奴婢(ぬひ)までの全ての階層で戸籍としては全国で初めてのものでした。庚午年籍は全国民に氏姓を定めて、氏姓の根本台帳として保存されました。これにより、徴税と徴兵が容易になりますが、まだ公地公民が徹底しきれていなかったために豪族の不満は高まることになります。持統天皇は、689年に飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を施行し戸籍の作成を命じると、690年に庚寅年籍(こういんねんじゃく)が完成しました。この庚寅年籍により五十戸を一里とした国・評・里・戸の制が確立すると、戸籍に基づく口分田が班給され全国的に班田収授法が始まったとされています。こののち、701年の大宝律令や718年の養老律令でも班田収授法が規定されました。このように、政府は全国の人民を戸籍・計帳に登録し、律令体制による支配を隅々まで浸透させようとしました。戸籍とは、戸を単位とした課役(かえき)、良民と賎民(せんみん)の区別、氏姓の確定、兵士の徴発、班田収授などの基本台帳とされ、6年ごとにつくられました。また、計帳は調と庸を徴収するための基本台帳であり、全国の推移を把握するために毎年つくりかえられました。
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飛鳥時代後期から平安時代にかけて行われた、6歳以上の男女に口分田を班給する制度は何をお手本としましたか?
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飛鳥時代後期から平安時代にかけて行われた、6歳以上の男女に口分田を班給する制度は唐の均田制をお手本としました。
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歴史
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【明治ってどんな時代?】
(1)はじまりの時代
日本の「明治時代」は、私たちが暮らす「現代」の礎が築かれた時代です。今の私たちにとって当たり前の物事は、明治時代に始まりました。
*今の私たちにとって当たり前の物事の例
電灯、暦(1日=24時間、1年=365日)、新聞、日本初の選挙、国会
(2)いざ開国!
明治が始まる前、長く「鎖国」の状態にあった日本は、1853年、黒船の来航とともに世界と出会いました。欧米の強国がアジアに迫り来る中、日本は西洋から制度や文化、技術を取り入れ、「近代国家」への道を歩みました。急激な変化の中では混乱もありましたが、西洋からの新しい価値観を柔軟に受け入れ、日本古来のものと組み合わせながら、世界に類を見ない速度で大変革を遂げたのです。そんなエネルギーに満ち溢れた日本の「青春時代」、それが明治時代です。
*西洋から取り入れた制度や文化、技術の例
郵便制度、鉄道、小学校教育、富岡製糸場稼働
(3)建築
日本の建築は、古来より木造が主体であり、古くは中国大陸からの仏教の伝来とともに工法、構造技術を取り入れ、長い期間をかけて独自に成熟させていったものでした。
明治時代に入ると、西洋の建築技術であるトラス構造(=複数の三角形で構成され、節点がボルト等で固定された骨組構造)が屋根の骨組みに取り入れられ、長大な木材を用いずとも一室の大空間を設けることが可能になりました。トラス構造は、トラス橋の建設にも用いられました。
そして、新たな素材としてレンガや石材が取り入れられ、木材と併用、あるいは木材にとって代わり、これら新素材ならではのアーチ構造を用いた新たな建造物を出現させました。アーチ構造は、今でも残るアーチ橋にも採用されました。
明治時代も中頃を過ぎると、西洋建築スタイルのさらなる理解への欲求は、当時の西洋諸国における最新の建築スタイル潮流へもその対象を広げていきます。当時の世界で最先端の建築スタイルが、日本国内における第2世代の建築家たちによって紹介、実践されていきました。
*トラス橋の例
六郷川橋梁、弾正橋
*今でも残るアーチ橋の例
日本橋、錦帯橋
*当時の世界で最先端の建築スタイルの例
アール・ヌーヴォー、セセッション、表現主義
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錦帯橋はアーチ構造ですか?
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はい、錦帯橋はアーチ構造です。
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歴史
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【明治ってどんな時代?】
(1)はじまりの時代
日本の「明治時代」は、私たちが暮らす「現代」の礎が築かれた時代です。今の私たちにとって当たり前の物事は、明治時代に始まりました。
*今の私たちにとって当たり前の物事の例
電灯、暦(1日=24時間、1年=365日)、新聞、日本初の選挙、国会
(2)いざ開国!
明治が始まる前、長く「鎖国」の状態にあった日本は、1853年、黒船の来航とともに世界と出会いました。欧米の強国がアジアに迫り来る中、日本は西洋から制度や文化、技術を取り入れ、「近代国家」への道を歩みました。急激な変化の中では混乱もありましたが、西洋からの新しい価値観を柔軟に受け入れ、日本古来のものと組み合わせながら、世界に類を見ない速度で大変革を遂げたのです。そんなエネルギーに満ち溢れた日本の「青春時代」、それが明治時代です。
*西洋から取り入れた制度や文化、技術の例
郵便制度、鉄道、小学校教育、富岡製糸場稼働
(3)建築
日本の建築は、古来より木造が主体であり、古くは中国大陸からの仏教の伝来とともに工法、構造技術を取り入れ、長い期間をかけて独自に成熟させていったものでした。
明治時代に入ると、西洋の建築技術であるトラス構造(=複数の三角形で構成され、節点がボルト等で固定された骨組構造)が屋根の骨組みに取り入れられ、長大な木材を用いずとも一室の大空間を設けることが可能になりました。トラス構造は、トラス橋の建設にも用いられました。
そして、新たな素材としてレンガや石材が取り入れられ、木材と併用、あるいは木材にとって代わり、これら新素材ならではのアーチ構造を用いた新たな建造物を出現させました。アーチ構造は、今でも残るアーチ橋にも採用されました。
明治時代も中頃を過ぎると、西洋建築スタイルのさらなる理解への欲求は、当時の西洋諸国における最新の建築スタイル潮流へもその対象を広げていきます。当時の世界で最先端の建築スタイルが、日本国内における第2世代の建築家たちによって紹介、実践されていきました。
*トラス橋の例
六郷川橋梁、弾正橋
*今でも残るアーチ橋の例
日本橋、錦帯橋
*当時の世界で最先端の建築スタイルの例
アール・ヌーヴォー、セセッション、表現主義
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トラス構造は、六郷川橋梁の建設に用いられましたか?
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はい、トラス構造は、六郷川橋梁の建設に用いられました。
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歴史
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平安時代といえば、漢字だらけの朝廷の役職を覚えるのすごく大変ですよね。筆者も経験があるので、非常によくわかります。それに教科書だけではイマイチ内容も不透明で、何だかよくわからないんですよね。今回解説していく『押領使(おうりょうし)と追捕使(ついぶし)』は、その典型的な例です。少しでも違いが良くわからなくて頭を抱えているあなたのために、わかりやすく解説していきたいと思います。
では、軍隊を率いる指揮官的役割でもあり、警察的な役割を果たす「押領使」と「追捕使」では、何が違うんでしょうか。こちらでまとめてみました。
(1)押領使は平安時代初期に誕生
押領使は、実は追捕使よりも先に誕生した役職で、8世紀ごろの平安時代の最初あたりに誕生しました。
(2)東日本の守護者だった
押領使は、平安京が置かれていた京都の東側を管轄していました。東側というのは、現在の中部地方や関東地方といった東日本側のことです。この時代に、東日本を守っていた押領使が鎮圧した反乱があります。それは、10世紀ごろの下総で勢力を振るっていた平将門が起こした乱、平将門の乱です。そしてこれを鎮圧したのが、押領使であった藤原秀郷(ふじわらのひでさと)です。
(3)実は戦闘に参加はしない!
押領使は、あくまで兵を率いて反乱を鎮圧するだけの存在でした。なので、実際の戦闘にはかかわっていないところが特徴です。やがて、移動させる兵士の指揮官として戦闘を指揮する職務へと変わっていくのです。
(4)平将門の乱以降、常設となった役職
平将門の乱は、藤原純友の乱と併せて承平・天慶の乱と呼ばれます。押領使は、反乱がおきる前までは臨時の役職でした。しかし、この乱以降は臨時ではなくなり、常設の役職として定められるようになります。押領使は、警察の中で言うところの本部長的な役割をはたしています。警察ドラマを見ていると、捜査会議とかにそういう人物いますよね。あんな感じです。
(5)武芸に長けた者が任命されるようになる
(3)でもお話の遠い、押領使は○○警察本部長の人とイメージしていただくのが一番近いです。押領使の人は、それぞれの地域の官僚たちの中で、最も強いと判断された人が抜粋されています。やがて常設された押領使を任される人物は、国司や郡司の中で武芸に長けた者が兼任するようになります。やがて土地の豪族を任命することが主流となりました。ちなみに、荘園にも押領使がおり、荘園内の治安の統制と行っていたそうです。
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8世紀ごろの平安時代の最初あたりに追捕使よりも先に誕生した役職はどこを管轄していましたか?
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8世紀ごろの平安時代の最初あたりに追捕使よりも先に誕生した役職である押領使は、京都の東側を管轄していました。
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歴史
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「○○の変」と名前のついた事件は、様々なものがあり、平安時代だけでも多くあります。歴史を学ぶ上では、それぞれの事件について正確に理解し、その事件が歴史上、どのような意義を持つのか、前後の歴史とどのように結びつくのか、考察することでより深い理解が生まれます。その上で、承和の変・応天門の変・安和の変は、いずれも平安時代に起きた事件ですが、その名称から、それぞれの内容を思い浮かべることができますでしょうか?いずれも藤原氏による他氏排斥事件ですが、それぞれの事件の性質や内容は異なっているので、混同される方もいると思います。そこで今回は、承和の変・応天門の変・安和の変の違いについて、簡単にわかりやすく解説したいと思います。
承和の変についてわかりやすく解説!
833年(天長10年)、淳和天皇の譲位により、正良親王が仁明天皇として即位しましたが、この仁明天皇の皇太子には、嵯峨上皇の強い意向により、淳和上皇の子である恒貞親王が立てられました。これに先立ち、藤原北家の藤原冬嗣は810年(弘仁元年)、天皇の秘書的役割を持つ蔵人所の蔵人頭に就任しており、時の天皇である嵯峨天皇との結びつきを深め、冬嗣の子である藤原良房も、嵯峨上皇とその皇太后の信任を獲得し、急速に台頭していきました。良房の妹は仁明天皇の后となり、道康親王(後の文徳天皇)が生まれたため、良房は道康親王の皇位継承を望むようになっていました。840年(承和7年)、淳和上皇が崩御し、842年(承和9年)には、嵯峨上皇も重い病に伏したため、皇太子である恒貞親王に仕える伴健岑、橘逸勢は危機感を募らせました。そして彼らは、恒貞親王を東国へ移すことを画策し、その計画を阿保親王(平城天皇の皇子)に相談しましたが、阿保親王は、嵯峨上皇の皇太后にこの策謀を伝えてしまいました。皇太后はこれに驚き、良房に相談したところ、良房はこれを仁明天皇に伝えました。その後、842年(承和9年)7月に嵯峨上皇が崩御し、仁明天皇は、伴健岑と橘逸勢とその一味を逮捕しました。逮捕の理由は、2人が恒貞親王を奉じて東国に赴き、反乱を企てているというものでした!仁明天皇は詔を発し、伴健岑、橘逸勢らを謀反人と断じ、恒貞親王は事件とは無関係としながらも責任を取らせるため、皇太子を廃しました。また、伴健岑は隠岐(その後出雲国へ左遷)、橘逸勢は伊豆に流罪(移動途中、遠江国で死亡)となるなど、関係者が処分されました。後に、良房が望んだように、道康親王が皇太子となっています。以上が世にいう承和の変です。2人が反乱を企てているというのは、冤罪の可能性が高く、良房が、権力の確立を図るために行った陰謀と推定されています。承和の変は、藤原氏による最初の他氏排斥事件と言われています。
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藤原氏による最初の他氏排斥事件はいつ起きましたか?
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藤原氏による最初の他氏排斥事件は平安時代に起きました。
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歴史
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【天平文化と国風文化の違い】それぞれの特徴&共通点など詳しく解説!
奈良時代の天平文化と平安時代の国風文化は、律令制度の発展に伴い文化的にも大いに成長しました。後世への影響も大きく、現代にも残るような文化的影響も多くあります。しかしこの二つの文化には明らかな違いも見られます。今回は天平文化と国風文化の違い、それぞれの特徴や共通点などについて、詳しく解説していきます。
天平文化と国風文化の違い
天平文化は、8世紀初めから8世紀末にかけての奈良時代に栄えた文化のことです。一方、国風文化は平安時代の中期頃に栄えた文化のことです。二つの文化の最も大きな違いは、天平文化が唐の影響を強く受けた国際色豊かな文化であるのに対して、国風文化は日本独自のスタイルを反映して生まれた文化であるという点です。貴族の服装を見ても、天平文化の頃の服装は「浦島太郎」の乙姫様のような中国風の服装であるのに対し、国風文化はお雛様のような純日本風の和服であることから、二つの文化の背景には中国風であるか、日本風であるかの違いがハッキリと見られます。
天平文化の特徴
(1)天平文化は唐のフォロアー
当時の中国、唐は発展の頂点にあった盛唐と呼ばれる時期でした。そのため世界中の人々が唐を目指し、それぞれの国に政治的・文化的な文物を持ち帰りました。日本も例外でなく、遣唐使を送り律令制度を学んで取り入れたり、都長安を参考に平城京を造りました。文化も盛唐の影響を色濃く受けた、国際色豊かな文化でした。東大寺の正倉院には唐だけでなく、インドやギリシャ・ローマにルーツを持つような宝物が約9000点も収められています。
(2)仏教中心の文化
天平文化の大きな特徴を表す言葉に「鎮護国家思想」という言葉があります。聖武天皇は東大寺をはじめとして諸国に国分寺・国分尼寺を建立することによって全国的に仏教を広め、仏教によって国をまとめようとしました。そして寺院が多く建てられるとともに仏像も多く造られました。それまでの仏像が平面的で動きの少ないものが多かったのに対し、躍動感のある仏像が生まれました。これは新しい手法が用いられたことによる技術向上が大きく影響しています。粘土で造られた塑像は東大寺戒壇院四天王像、そして漆で麻布を貼って乾かした乾漆像は興福寺阿修羅像が有名です。新しい手法によって、西洋や唐の彫刻とも似たような写実的で動きのある仏像が多く造られました。
(3)国家プロジェクトとしての編纂事業
律令制度が形成されていく中で、朝廷が統治を行うことつまり中央集権体制の正当性を明らかにしようという動きが生まれます。そこで国史の編纂が進められ、天平文化の頃に完成します。712年には天武天皇が稗田阿礼に誦み習わせていた「帝紀」「旧辞」を太安万侶が撰録し、『古事記』が完成しました。さらに720年には舎人親王らが編纂した『日本書紀』が完成しました。こういったプロジェクトは中国でも行われていたため、中国の史書編纂事業を参考にして行われたものと思われます。また文学としては史書だけでなく、最初の和歌集である『万葉集』が生まれました。これは勅撰ではありませんが、天皇から庶民まで様々な人の詠んだ和歌が約4500首も収められているという点で、かなり大きなプロジェクトだったことが窺えます。
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唐の影響を強く受けた天平文化では、貴族の服装はどんな服装でしたか?
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天平文化の貴族の服装は「浦島太郎」の乙姫様のような中国風の服装でした。
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歴史
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国風文化の特徴
1 オリジナリティが生まれた国風文化
平安時代も中期に差し掛かると、唐はそれまでのような力をすでに持ってはいませんでした。また国内の律令制度も文化も、唐のものを自分達なりに昇華して、独自のスタイルを確立しつつありました。894年、菅原道真の提案によって遣唐使が廃止となったのはその象徴的な出来事です。こうした世の中の流れによって、国風文化はオリジナリティにあふれたいわゆる日本的な文化となりました。具体的には貴族の邸宅の建築様式である寝殿造や衣冠束帯・十二単のような貴族の衣服、「鳥獣戯画」や「伴大納言絵巻」のような大和絵など、優美で柔らかい印象の色彩や造形が特徴です。私たちがお雛様などで知る、いわゆる「日本の貴族」といったスタイルはまさにこの国風文化の頃のスタイルです。
2 女性が最も活躍した文化
国風文化で最も発展したジャンルは文学です。そしてその中心にいたのが貴族という点では天平文化も国風文化も共通していますが、国風文化では特に女性貴族たちが活躍しました。清少納言の『枕草子』や紫式部の『源氏物語』、また多くの和歌を残した和泉式部はあまりにも有名ですが、他にも多くの女流文学作品が生まれました。彼女たちは「女房」と呼ばれる人でした。皇后の身の回りの世話をしたり、教育係を務めるのが「女房」の役割です。この皇后となる人は当時、藤原氏が外戚となるべく嫁がされた娘たちでした。つまり当時摂関家として強大な力をもっていた藤原氏が、娘たちのために優秀な「女房」を仕えさせ、その「女房」たちが宮廷で綴ったのが国風文化の文学なのです。日本史の中でもこれほど女性が中心となって活躍した文化は他にありません。彼女たちがこの時代に多くの作品を残した理由は、仮名文字の使用にあります。仮名文字とはひらがなのことです。当時男性は主に漢字を用いていましたが、それに対し漢字の草書体をもとに作られた仮名文字は主に女性によって使われました。文学という点では天平文化の頃に『万葉集』で花開いた和歌がさらに発展し、905年には最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が成立しました。
3 極楽浄土を目指した人々
天平文化と同様、国風文化も仏教の影響を大きく受けています。この頃仏教では1052年に末法元年を迎え、世の中は釈迦の教えが衰える末法の時代へ突入すると言われていました。当時、前九年の役などの戦乱が起きたり疫病が流行するなどしていたことも相まって、人々は不安を抱いていました。そこで極楽浄土を願う人々の間で浄土教が流行し、慶重保胤による『日本往生極楽記』のような往生伝が出されたり、貴族は阿弥陀堂を建てました。藤原頼通によって建てられた平等院鳳凰堂は国風文化を代表する阿弥陀堂建築です。また、阿弥陀堂には衆生来迎図や阿弥陀如来像が収められたので、阿弥陀如来像を造るのにこれまで以上のスピードと効率が求められました。そこで仏師定朝は、複数の材を組み合わせて造る寄木造の技法を用いて、分業によって大量の仏像を造ることができるようになりました。
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藤原氏が仕えさせた「女房」たちはどんな文字を使っていましたか?
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藤原氏が仕えさせた「女房」たちは仮名文字、つまりひらがなを使っていました。
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歴史
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【明治時代 1】
1867年に発足した明治維新政府は、戊辰戦争のかたわら着々と中央集権の体制をつくっていきました。1868年に年号が明治に改まると、1871年には廃藩置県がおこなわれ、3府72県が置かれました。このときに、宇都宮県が誕生しています。
これとともに、四民平等が唱えられ江戸時代の身分制度も改められました。しかし、皇族・華族といった特別な身分が設けられる一方、差別されてきた人々の人権回復や実際の生活を向上させるための政策は不十分なものでした。
1872年、戊辰戦争で焼け残った宇都宮城の櫓や門が、払い下げられたり壊されたりし、一方、県庁や病院、郵便局、東京鎮台の駐屯地などが次々と建設されました。戦災後の宇都宮に、近代のまちの姿があらわれはじめたのです。 また、この年には学制が発布されて藩校の修道館は廃止となり、翌年には6校の小学校が設立されました。また、これらが統合され、1878年に西校、翌年には東校が開校しました。
明治政府は、殖産興業を進め資本主義の育成に努めました。官営のものでは1872年設立の富岡製糸場がありますが、その前年、川村伝左衛門が現在の石井町に大嶹商舎を設立しています。これは私設の工場でしたが、米国前大統領グラント将軍など内外の指導者が訪問するなど、明治初期の模範工場として認められました。
1873年2月、二荒山神社が国幣中社から県社に降格となりました。二荒山神社が延喜式神名帳に記された下野一ノ宮であるという確証がないというのが理由でしたが、実際には日光二荒山神社との社格争いが原因でした。宇都宮藩の重臣として幕末に活躍した県六石らは、これを宇都宮の歴史的名誉を傷つけるものとして社格回復運動を展開し、1883年に国幣中社の栄誉を回復することに成功しました。翌年の3月の臨時大祭は「ひっくり返るような大祭礼」といわれるほど盛大なものでした。
このころの宇都宮県は、現在の栃木県の北半分を県域にしていました。しかし、1873年6月15日に宇都宮県は廃止され、栃木県に組み入れられることになりました。県庁は栃木町にあったため、その後、1884年に宇都宮町に県庁が移転するまで、宇都宮は県政の中心から外れることになったのです。
県庁の移転運動は1882年からはじまりました。論点としては、宇都宮が県の中央に位置していること、道路網が宇都宮を中心に四方八方に伸びていること、県北東部の開発に便利であること、宇都宮には軍隊が駐屯していることなどでした。また、市場取引高を見てもけた違いに宇都宮がまさっており、町民感情としても移転運動は盛り上がりを見せたのです。はじめは栃木町の根強い反対運動もありましたが、1883年に三島通庸が県令となると、おどろくほどの速さで移転が決定されました。
県庁の新築工事にあわせて、大通りの貫通工事や諸官庁、学校などが整備され、宇都宮は名実ともに栃木県の政治・文化・経済の中心地となったのです。三島県令時代は2年足らずでしたが、江戸時代の本多正純とともに宇都宮の町並みを一変させた人物でした。
【明治時代 2】
1885年、埼玉県大宮駅から宇都宮までの鉄道が開通し、宇都宮駅が誕生しました。当時、宇都宮駅は停車場とよばれていましたが、翌年には日本最初の駅弁が白木屋によって発売されました。この路線は、1891年には青森まで開通し、1906年に国有化されました。また、日光線は1890年に全線が開通しています。
これ以外にも、1896年には大谷石の輸送と観光開発を目的とした宇都宮軌道運輸株式会社が、また、1898年には野州人車鉄道が設立され、人車鉄道(トロッコ)が走るようになりました。1906年にはこの2社は1つになって宇都宮石材軌道株式会社となり、荒針・新里・徳次郎の3路線の営業をおこないました。
大日本帝国憲法が発布された直後の1889年4月1日、市制町村制が施行され、宇都宮町と、旧宇都宮市を形成する11か村が誕生しました。宇都宮町では、町会議員選挙が行われ30名の議員が、また、その中から町長に矢島中、助役に田中勝次郎が選ばれました。翌年、収入役に松井元儀が選ばれ、22名の吏員が任用されました。宇都宮町役場は、現在の中央3丁目に置かれました。
1892年、それまで陸軍用地となっていた宇都宮城跡が払い下げになりました。本丸は旧城主の戸田家に、二の丸は士族一同に、三の丸は町有になりました。1890年になって、三の丸の土手をくずして三日月堀を埋め、二荒山神社前通りを延長して御橋をかけ、本丸に真っすぐ通じるようにしました。この年には、曲師町・江野町・材木町を結ぶ、現在のオリオン通り・ユニオン通りが開通になりました。
この時期の宇都宮では、企業熱が盛り上がった時期でした。特に、1896年に宇都宮銀行が設立されて金融活動が円滑になると、株式会社をはじめ、たくさんの企業が誕生しています。国重要文化財の旧篠原家住宅は、1895年に建てられたこの時期を代表する商家建築ですが、同様の豪壮な建築物がほかにも見られました。
1896年4月1日、宇都宮は市になりました。初代市長は町長であった矢島中でした。当時の人口は約35233人、戸数6991戸でした。市長の選出は、市会が候補者3名を国に推薦し、その中から内務大臣が決定する方法がとられていました。
旧篠原家住宅明治時代の日本は、欧米の列強に遅れまいと海外への進出を図っていました。1894年の日清戦争では約100名、つづく1904年におこった日露戦争では、654名の出征者が宇都宮市から出ています。日露戦争による軍備拡張により、陸軍第14師団が福岡県の小倉で編制され満州に出兵していましたが、戦後、正式な駐屯地が宇都宮に決定され、1907年から次々に施設が建設されました。14師団が直接市内に落とす金額は、当時の市一般会計の5倍にあたり、市の商工業界に大きな影響を与えました。ここに、宇都宮は「軍都」という新しい顔を持つことになったのです。
1908年に14師団が宇都宮にやってくると、材木町から西へ大谷街道が開通し、さらに野砲兵第20連隊から師団司令部までの約1.4キロメートルに、軍道と呼ばれる道幅10間の道路が開通し、両側に約1000本のサクラが植えられました。
【大正時代】
大正時代に入ると、列国の帝国主義政策が衝突して、1914年に第一次世界大戦が起こりました。日本も、日英同盟を理由に参戦しドイツと戦っています。この時期の日本は、中国政府に二十一か条の要求を突きつけたり、1917年に起こったロシア革命を妨害するために、イギリス・アメリカ・フランスとともにシベリア出兵をおこなったりするなど、中国大陸に勢力を伸ばす動きを起こしました。
大正時代には、水道やガスが普及し都市生活が大きく変化しました。また、自動車交通が飛躍的に進展し、陸上輸送に大きな変化を見せ始めました。
宇都宮は、豊富な地下水がある一方、上町に比べて下町は不良水であったため、チフスや赤痢の流行に悩まされていました。また、釜川の水量は少なく、火災の被害も大きかったため、明治時代から水道をひくための議論が行われていました。足かけ4年にわたる大工事のすえ、大谷川を水源とする水道が完成したのは、1916年のことです。これにより、全戸数の32%が水道を利用するようになりました。
第一次世界大戦で直接の被害を受けなかった日本は、海外への輸出が伸びたことから空前の好景気となりました。しかし、国内では品不足による物価高が続いて人々の生活は苦しくなり、全国的に米騒動がおこりました。宇都宮でも、1918年1月に1石15円の米が、7月には30円を越すといった値上がりを見せています。
このような中で、1923年9月1日、関東大震災が起きました。東京・横浜では大規模な火災が発生し、死者・行方不明者が14万人を超えました。この大災害の中、大谷石で建築された東京の旧帝国ホテルが焼け残り、大谷石は、その耐火性・耐震性の優秀さが認められ、第一級の建築材として一躍有名になりました。
大谷石採掘の歴史は古く、奈良時代の795年に建立された下野国分寺の土台にも使われています。江戸時代には、本多正純の宇都宮城大改築にも利用されたほか、商店の石蔵や釜川の護岸に用いられている様子が『宇陽略記』に描かれています。また、鬼怒川を利用して江戸へ輸送され、隅田川沿いには大谷石をあつかう問屋が16軒あったといわれています。明治に入ると、鉄道の開通など陸上交通の発展にともなって販売網は関東一円に広がりました。しかし、大戦後の不況の中、職工たちは大谷石石材労働組合を組織してストを決行し、深刻な労働争議に発展しました。
大正時代には、大通り沿いに蔵造りの店が並び、1925年には、上野呉服店が東京風の百貨店形式の店を相生町に新築し、バンバのにぎわいともあいまって二荒山神社前が最大の繁華街になりました。また、乗合いバスやタクシー乗務員の洋装が人気を集め、このころには、軍道のサクラも成長し市内随一の名所になりました。
大正15年、市制30周年祝賀式が行われ、八幡山では東洋花火大会が開催されて三尺玉を打ち上げました。この年の人口は72238人、戸数15525戸となり、30年で倍増していますが、一方で、さまざまな都市問題を引き起こすことになりました。
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大正時代に人出が多かったのはどの神社の前ですか?
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大正時代に人出が多かったのは二荒山神社前です。
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歴史
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【明治ってどんな時代?】
(1)はじまりの時代
日本の「明治時代」は、私たちが暮らす「現代」の礎が築かれた時代です。今の私たちにとって当たり前の物事は、明治時代に始まりました。
*今の私たちにとって当たり前の物事の例
電灯、暦(1日=24時間、1年=365日)、新聞、日本初の選挙、国会
(2)いざ開国!
明治が始まる前、長く「鎖国」の状態にあった日本は、1853年、黒船の来航とともに世界と出会いました。欧米の強国がアジアに迫り来る中、日本は西洋から制度や文化、技術を取り入れ、「近代国家」への道を歩みました。急激な変化の中では混乱もありましたが、西洋からの新しい価値観を柔軟に受け入れ、日本古来のものと組み合わせながら、世界に類を見ない速度で大変革を遂げたのです。そんなエネルギーに満ち溢れた日本の「青春時代」、それが明治時代です。
*西洋から取り入れた制度や文化、技術の例
郵便制度、鉄道、小学校教育、富岡製糸場稼働
(3)建築
日本の建築は、古来より木造が主体であり、古くは中国大陸からの仏教の伝来とともに工法、構造技術を取り入れ、長い期間をかけて独自に成熟させていったものでした。
明治時代に入ると、西洋の建築技術であるトラス構造(=複数の三角形で構成され、節点がボルト等で固定された骨組構造)が屋根の骨組みに取り入れられ、長大な木材を用いずとも一室の大空間を設けることが可能になりました。トラス構造は、トラス橋の建設にも用いられました。
そして、新たな素材としてレンガや石材が取り入れられ、木材と併用、あるいは木材にとって代わり、これら新素材ならではのアーチ構造を用いた新たな建造物を出現させました。アーチ構造は、今でも残るアーチ橋にも採用されました。
明治時代も中頃を過ぎると、西洋建築スタイルのさらなる理解への欲求は、当時の西洋諸国における最新の建築スタイル潮流へもその対象を広げていきます。当時の世界で最先端の建築スタイルが、日本国内における第2世代の建築家たちによって紹介、実践されていきました。
*トラス橋の例
六郷川橋梁、弾正橋
*今でも残るアーチ橋の例
日本橋、錦帯橋
*当時の世界で最先端の建築スタイルの例
アール・ヌーヴォー、セセッション、表現主義
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表現主義は、日本国内における第2世代の建築家たちによって紹介、実践されていきましたか?
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はい、表現主義は、日本国内における第2世代の建築家たちによって紹介、実践されていきました。
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歴史
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【X国政治史】
今回は、アジアの大国であるX国の政治史について勉強しましょう。
X国には、1946年から下院と上院の2つの議院があります。これらにおいて、国会が開かれてきました。
国会議員は、これら2院のどちらかの議員になります。
与党議員について言えば、下院で3回当選した人は、省庁の副大臣か党内委員会の副委員長に登用されてきました。
また、下院で4回当選した人は、外務省と財務省以外の大臣か、党内委員会の委員長に登用されてきました。
さらに、下院で5回以上当選した人は、外務省か財務省の大臣に登用されるか、党首すなわち首相になりました。
野党の場合はどうでしょうか。X国では「影の内閣」(Shadow cabinet)制度が存在してきたため、野党議員の役職も、それに応じたものが設けられてきました。
下院で3回当選した人は、省庁の「影の副大臣」か党内委員会の副委員長に登用されてきました。
また、下院で4回当選した人は、外務省と財務省以外の「影の大臣」か、党内委員会の委員長に登用されてきました。
さらに、下院で5回以上当選した人は、外務省か財務省の「影の大臣」に登用されるか、党首すなわち「影の首相」になりました。
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X国の下院の野党議員で3回当選したD氏が党内委員会の副委員長にならなかった場合、何に登用されましたか?
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X国の下院の野党議員で3回当選したD氏は、省庁の「影の副大臣」に登用されました。
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歴史
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【承和の変の勃発】
840年(承和7年)、淳和上皇が崩御し、842年(承和9年)には嵯峨上皇も重い病に伏しました。こうした状況に危機感を持ったのが、皇太子である恒貞親王に仕える伴健岑・橘逸勢でした。彼らは恒貞親王を東国へ移すことを画策し、その計画を阿保親王(平城天皇の皇子)に相談しました。しかし、阿保親王はあろうことか、嵯峨上皇の皇太后にこの策謀を伝えてしまいました。皇太后はこれに驚き、良房に相談。良房は仁明天皇に伝えるという事態に発展します。842年(承和9年)7月、嵯峨上皇が崩御し、仁明天皇は伴健岑と橘逸勢とその一味を逮捕しました。そして仁明天皇は詔を発し、伴健岑・橘逸勢らを謀反人と断じ、恒貞親王は事件とは無関係としながらも責任を取らせるため、皇太子を廃しました。また、伴健岑は隠岐(その後出雲国へ左遷)、橘逸勢は伊豆に流罪(移動途中、遠江国で死亡)となるなど、関係者が処分されました。これが世にいう承和の変です。承和の変は、藤原氏による最初の他氏排斥事件と言われています。また、承和の変の意義として平城・嵯峨・淳和と続く天皇位の兄弟による継承を解消し、嵯峨・仁明・文徳と続く直系の皇統を成立させた点も挙げられます。年号の語呂合わせは、「良房の842(野心に)脱帽、承和の変」と覚えてみましょう!
【承和の変のその後の影響】
承和の変の後、藤原良房は大納言に昇進し、良房の望んだとおり道康親王が皇太子に立てられました。良房は承和の変によって、有力氏族である伴氏(大伴氏)と橘氏に大きな打撃を与えるなど、藤原北家のその後の勢力拡大につながる事件となりました。その後、良房はこの事件を契機として、その権力を確立して昇進を重ねていき、後の清和天皇の時代に臣下として初めての摂政となるなど、後の摂関家・藤原氏の繁栄の基礎を築いたと評価されています。藤原北家は、良房以降、藤原氏の氏長者として一族の中心となり、多くの摂政・関白を輩出する家柄となりました。藤原北家は天皇の后に藤原の娘を嫁がせ、天皇の外戚としての地位を利用し、摂政・関白として朝廷の政治の実権を握っていきます。特に、平安時代後期の藤原道長の代にその権勢は最盛期を迎えました。
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承和の変によって勢力を拡大した家は、何を輩出する家柄となりましたか?
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承和の変によって勢力を拡大した家は、多くの摂政・関白を輩出する家柄となりました。
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歴史
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618年に中国で唐がおこると、律令法に基づき中央集権的な国家体制の充実を図ります。より統治しやすくするために均田制や租庸調制などを確立しました。日本では大化の改新の翌年、改新の詔(みことのり)が発せられたと「日本書紀」に記されており、唐にならい公地公民、国郡里制、税制が規定されました。それとともに戸籍をもとにして口分田を班給することが定められたのが「班田収授法」の始まりです。今回は、『班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)』について、簡単にわかりやすく解説していきます。
【班田収授法とは?】
班田収授法とは、飛鳥時代後期から平安時代にかけて行われた、6歳以上の男女に口分田を班給する制度のことです。大化の改新後、唐にならって律令国家を目指す改革の一つに班田収授法があり、人口と田地の調査をして税を確保する狙いがありました。班給について細かく取り決められていましたが、奈良時代末期になると浮浪や逃亡する者が増え、平安時代初期には実施されなくなっていきました。
【班田収授法が制定された背景】
班田収授法は中央集権的な律令制度の一環として採り入れられたものですが、お手本となったのは唐の均田制でした。日本では大化の改新後、律令国家を目指した改新の詔が発せられ、戸籍が整備されることで班田収授法に向けた準備が整っていきます。
1.唐の律令制
唐では日本に先駆けて中央集権的な律令国家の整備がすすみました。7世紀に唐がおこると、三省六部制(さんしょうりくぶせい)と呼ばれる中央官制やのちに班田収授法のお手本となった均田制を採り入れ、租庸調による税制を確立しました。均田制は北魏に始まり隋でも制度化されますが、唐での均田制は大人の男性に口分田が割り当てられたほか世襲できる永業田(えいぎょうでん)が認められました制度です。土地が不足する地域では貧しい者を優先して給田される一方、官人などは地位によって官人永業田を与えられるなど身分による違いがありました。唐で取り入れられた均田制は支配層に有利に働きました。
2.改新の詔
大化の改新後の646年、4条からなる改新の詔が発せられます。いずれも中央集権的な律令国家を目指す上で重要なものでした。改新の詔の条項は少しずつすすめられますが、班田収授法についてはこの時点では戸籍はなく実際に実施されるのはまだ先になります。ただし、改新の詔は時代に合わない記述が多く、実際の646年よりも後に書かれたものだという説もあります。
3.戸籍の整備から班田収授法の実現へ
670年に庚午年籍(こうごねんじゃく)と呼ばれる戸籍がつくられます。これは、全国的で豪族から公民・部曲(かきべ)・奴婢(ぬひ)までの全ての階層で戸籍としては全国で初めてのものでした。庚午年籍は全国民に氏姓を定めて、氏姓の根本台帳として保存されました。これにより、徴税と徴兵が容易になりますが、まだ公地公民が徹底しきれていなかったために豪族の不満は高まることになります。持統天皇は、689年に飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を施行し戸籍の作成を命じると、690年に庚寅年籍(こういんねんじゃく)が完成しました。この庚寅年籍により五十戸を一里とした国・評・里・戸の制が確立すると、戸籍に基づく口分田が班給され全国的に班田収授法が始まったとされています。こののち、701年の大宝律令や718年の養老律令でも班田収授法が規定されました。このように、政府は全国の人民を戸籍・計帳に登録し、律令体制による支配を隅々まで浸透させようとしました。戸籍とは、戸を単位とした課役(かえき)、良民と賎民(せんみん)の区別、氏姓の確定、兵士の徴発、班田収授などの基本台帳とされ、6年ごとにつくられました。また、計帳は調と庸を徴収するための基本台帳であり、全国の推移を把握するために毎年つくりかえられました。
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7世紀におこった唐で採り入れられた班田収授法のお手本となった制度は、誰に口分田が割り当てられた制度ですか?
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7世紀におこった唐で採り入れられた班田収授法のお手本となった制度は、大人の男性に口分田が割り当てられた制度です。
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歴史
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平成から令和にかけての日本の国立国会図書館の出来事は以下のとおりです。
平成2年3月13日に日ソ図書館セミナーが開催されました。
平成14年9月26日に電子図書館基盤システムの第一次本稼働が始まりました。
平成14年10月5日に関西館の開館記念式典が挙行されました。
平成16年3月8日に特別展「東南アジアの人々と生活」が開催されました。
平成16年12月15日に安江明夫が副館長に任命されました。
平成17年8月22日にオランダ王立図書館と協定が締結されました。
平成19年10月23日に韓国国会図書館と業務交流に関する合意書が締結されました。
平成23年12月12日に田屋裕之が副館長に任命されました。
平成26年6月17日にルーマニア国立図書館と協力協定が締結されました。
平成28年6月13日に日仏フォーラム「書籍とデジタル」が開催されました。
平成29年3月14日にデジタル化録音資料の提供開始
平成30年10月31日に第12回アジア太平洋議会図書館長協会(APLAP)東京大会が開催されました。
令和2年2月26日にフランス国立図書館との協力協定が締結されました。
令和2年8月25日にジャパンサーチの正式版が公開されました。
令和5年6月22日に新型コロナウイルス感染症拡大防止のための来館利用の制限を全て終了しました。
令和6年3月31日にマイクロ製品を作成する複写サービスを終了しました。
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朝鮮民主主義人民共和国との間で朝鮮戦争を休戦中の国の図書館と日本の国立国会図書館が業務交流に関する合意書を締結したのは、いつですか。
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朝鮮民主主義人民共和国との間で朝鮮戦争を休戦中の国の図書館と日本の国立国会図書館が業務交流に関する合意書を締結したのは平成19年10月23日です。
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歴史
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平成から令和にかけての日本の国立国会図書館の出来事は以下のとおりです。
平成2年3月13日に日ソ図書館セミナーが開催されました。
平成14年9月26日に電子図書館基盤システムの第一次本稼働が始まりました。
平成14年10月5日に関西館の開館記念式典が挙行されました。
平成16年3月8日に特別展「東南アジアの人々と生活」が開催されました。
平成16年12月15日に安江明夫が副館長に任命されました。
平成17年8月22日にオランダ王立図書館と協定が締結されました。
平成19年10月23日に韓国国会図書館と業務交流に関する合意書が締結されました。
平成23年12月12日に田屋裕之が副館長に任命されました。
平成26年6月17日にルーマニア国立図書館と協力協定が締結されました。
平成28年6月13日に日仏フォーラム「書籍とデジタル」が開催されました。
平成29年3月14日にデジタル化録音資料の提供開始
平成30年10月31日に第12回アジア太平洋議会図書館長協会(APLAP)東京大会が開催されました。
令和2年2月26日にフランス国立図書館との協力協定が締結されました。
令和2年8月25日にジャパンサーチの正式版が公開されました。
令和5年6月22日に新型コロナウイルス感染症拡大防止のための来館利用の制限を全て終了しました。
令和6年3月31日にマイクロ製品を作成する複写サービスを終了しました。
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日本の国立国会図書館が、ヨーロッパ有数の貿易港をロッテルダムに有する国の図書館と協定を締結したのはいつですか。
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日本の国立国会図書館が、ヨーロッパ有数の貿易港をロッテルダムに有する国の図書館と協定を締結したのは平成17年8月22日です。
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JCRRAG_003941
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歴史
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本稿は,康熙帝がハルハ(Mon. Qalq-a)左右翼の内紛を調停するために開催した康熙25(1686)年のフレン=ベルチル(Mon. Küreng Belčir)の会盟から,康熙27(1688)年のジューン=ガルのガルダンの侵攻によってハルハが清朝に保護を求めるまでの過程を『清内閣蒙古堂檔』(2005年刊行。以下『蒙古堂檔』と略記)を主に利用して分析し,清朝によるハルハの内紛に対する介入の実態と背景をハルハ左右翼の状況やジューン=ガル,ロシア,チベットなどの周辺情勢を踏まえて明らかにするものである。
ハルハはダヤン=ハーンの末子ゲレセンジェ(Mon. Gersenǰe 1513–1548)の7人の子に分封され,清朝の支配下に入るまで「七ホショー(七旗)ハルハ」とも呼称された。現在のモンゴル国の母体となった集団である。元来はハルハ河周辺に遊牧していたと考えられるが[和田 1959: 776],トゥメドのアルタン=ハーン(1508–1582)のオイラド討伐を受け継いで,牧地をゴビ砂漠以北(以下,漠北と略記)一帯に拡大していった[宮脇 1983: 172]。17世紀初め頃には漠北東側の集団である左翼と,西側の集団である右翼に分かれ,トゥシェート=ハーン(Mon. Tüsiyetü qaγan),セツェン=ハーン(Mon. Sečen qaγan)の称号を有する首長が左翼を,ザサグト=ハーン(Mon. J̌asaγtu qaγan)の称号を有する首長が右翼を率いていた[宮脇 1979]。崇徳元(1636)年にゴビ砂漠以南(漠南)に遊牧するほとんどのモンゴル諸部が清朝に服属する一方で,ハルハはなおも事実上の独立を保ち清朝に朝貢を行なっていった。ところが,康熙元(1662)年にハルハ右翼のザサグト=ハーン・グムブ=ビント=アハイ(Mon. Gümbü ǰaγ bintü aqai)が,同じく右翼のロブサン=タイジ(Mon. Lobsang tayiǰi:第3代アルタン=ハーン)に殺害される事件が発生すると(以下,ザサグト=ハーン殺害事件と略記),ハルハは混乱の一途を辿っていくこととなる。ロブサン=タイジに殺害されたグムブの後を継ぎ,ザサグト=ハーン位を継承したのはワンチュク(Mon. Wangčuγ)であったが,彼はほどなくして死去し,康熙5(1666)年に彼の弟であるチェンブン(Mon. Čenbün)がジューン=ガルのセンゲとその弟ガルダンの後ろ盾のもと,ザサグト=ハーン位を継承した[Buyandelger 2000]。すると,チェンブンは康熙元年のザサグト=ハーン殺害事件の際に,窮地を脱するためハルハ左翼へ逃亡した右翼の属衆の返還を求め,次第にトゥシェート=ハーン・チャホンドルジ(Mon. Čaqundorǰi 以下,トゥシェート=ハーンとはチャホンドルジを指す)と対立を深めていく。そこで康熙帝は,ダライ=ラマ5世と共同でハルハの対立を調停しようと康熙25年にフレン=ベルチルで講和会議を開いたが,トゥシェート=ハーンは右翼の属衆を半分しか返還せず,その上,康熙26(1687)年,ジューン=ガルのガルダンのもとに援助を求めるために向かったザサグト=ハーン・シャラ(Mon. Šara チェンブンは会盟の直前に死去したため,子のシャラがハーン位を継承)を追撃して殺害するに至る。これにより,ガルダンは康熙27年にハルハへ侵攻しトゥシェート=ハーンを破ると,ハルハ左右翼の多くの属衆が清朝・康熙帝に保護を求め,康熙30(1691)年にハルハは正式に清朝の支配下に入った。
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『清内閣蒙古堂檔』が刊行されたのは平成何年ですか。
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『清内閣蒙古堂檔』は平成17年に刊行されました。
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JCRRAG_003942
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歴史
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ミャンマー(1)は多民族国家である。政府は135民族を認定しており、その上位分類として8大民族を認定する。「本土(ピーマ)」と呼ばれる地域ではビルマ族が多数を占め、「山岳地域(タウンダンデタ)」あるいは「辺境地域(ニサッデタ)」と呼ばれる地域では、各地の主要少数民族が多数派を構成する。このように多様性に富んだミャンマーで、1960年代初頭、地方格差の解消を目指して連邦制の実現を求めたのが、フェデラルムーブメントである。本稿は、ミャンマー連邦共和国憲法(以下、1947年憲法と表記する)で形作られた中央集権的な国家構造の見直しを試みたこの運動を、国家が反体制活動として見なした結果、国軍体制下のミャンマーで連邦制の実現を語ることが国是と反する禁忌にされたことを明らかにする。
ミャンマーでは、アジア・太平洋戦争後から1950年代を通じて、国民をいかに統合すべきなのか模索が続いた。まず行動を起こしたのが、連合シャン諸州(独立後のシャン州)の藩王たちで、現在のシャン州パンロンで2回の会議を開催した。1946年3月に開催された第1回パンロン会議は、連合シャン諸州や辺境地域の戦後復興や自治をめぐって意見を出し合うため招集された。当初、パンロン会議は公聴会としての意味合いが強かったが、翌年1月、ビルマ族ナショナリストの指導者アウンサンとイギリス首相アトリーが、少数民族たちが新生国家に参加する意思があるのか確認する場としてこの会議を設定したため、その意味は大きく変わった。同年2月に開催された第2回パンロン会議では、連合シャン諸州の藩王たちに加えて、そこに招待された連合シャン諸州の平民代表、カチン丘陵地域の代表、チン丘陵地域の代表、そしてミャンマー本土の代表アウンサンたちが、共に国家を建設することで合意した。しかし、実際に1948年1月4日にイギリス植民地から独立した直後、当時の与党であった反ファシスト人民自由連盟(パサパラ)から共産党が離反し、つづいてシャン州の軍閥やカレン民族同盟が武装闘争に突入した。さらに、1953年には国共内戦に敗れて、シャン州との国境に流入した中国国民党とも紛争が生じた。
以上の経緯から、1962年に軍事クーデタで国家運営を奪取した政府は、絶えず国民が団結する必要性と必然性を訴えてきた。これを呼びかけるために使われたのが、前述のパンロン会議である。この出来事を繰り返し語ることで、政府は国軍による統治の正当性を示してきた。その際には、連合シャン諸州の藩王たちの統治に批判的で、ビルマ族ナショナリストたちと連携しながら、国民国家の建設を積極的に支援した連合シャン諸州出身の平民たちの語りや回想が、国家の主張に沿うよう恣意的に参照され、国民国家へ自発的に参加する「模範的な少数民族」のイメージが作られた(菊池 2022)。
こうした事情の裏返しとして、国家は独立以降のミャンマー政治を、植民地からの独立闘争を戦った政治活動家たちが仲違いした時代として説明した。特に、自治権拡大を求めたシャン州の政治家たちが1960年代初頭に起こしたフェデラルムーブメントは、1962年から約半世紀続いた国軍体制下で、シャン族が独立を求めた民族運動という評価を受けてきた。
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第2回パンロン会議が開催されたのは西暦何年の2月ですか。
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第2回パンロン会議が開催されたのは、西暦1947年2月です。
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JCRRAG_003943
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歴史
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【アメリカ大統領史:これまでの大統領に関する豆知識】
これまでにアメリカ合衆国の大統領を務めてきた人物について、年代別に紹介しましょう。
(1)1940年代の大統領は皆、民主党出身でした。1940年代に大統領を務めたのは、フランクリン・ルーズベルトとハリー・トルーマンの2人です。
(2)1970年代に大統領を務めた人物は皆、第二次大戦が終わった1945年よりも前に生まれました。1970年代に大統領を務めたのは、リチャード・ニクソン、ジェラルド・フォード、ジミー・カーターの3人です。
(3)1980年代に就任した大統領は皆、就任日が1月20日でした。1980年代に就任した大統領は、ロナルド・レーガンとジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュの2人です。
(4)2000年代は皆、2期8年にわたって大統領を務めました。2000年代に大統領を務めたのは、ビル・クリントン、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ、バラク・オバマの3人です。
(5)2010年代に大統領を務めた人物は皆、2025年2月1日時点で生きています。2010年代に大統領を務めたのは、バラク・オバマとドナルド・トランプの2人です。
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フォード大統領は1945年よりも前の生まれですか。
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はい、フォード大統領は1945年よりも前の生まれです。
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歴史
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【アメリカ大統領史:これまでの大統領に関する豆知識】
これまでにアメリカ合衆国の大統領を務めてきた人物について、年代別に紹介しましょう。
(1)1940年代の大統領は皆、民主党出身でした。1940年代に大統領を務めたのは、フランクリン・ルーズベルトとハリー・トルーマンの2人です。
(2)1970年代に大統領を務めた人物は皆、第二次大戦が終わった1945年よりも前に生まれました。1970年代に大統領を務めたのは、リチャード・ニクソン、ジェラルド・フォード、ジミー・カーターの3人です。
(3)1980年代に就任した大統領は皆、就任日が1月20日でした。1980年代に就任した大統領は、ロナルド・レーガンとジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュの2人です。
(4)2000年代は皆、2期8年にわたって大統領を務めました。2000年代に大統領を務めたのは、ビル・クリントン、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ、バラク・オバマの3人です。
(5)2010年代に大統領を務めた人物は皆、2025年2月1日時点で生きています。2010年代に大統領を務めたのは、バラク・オバマとドナルド・トランプの2人です。
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ドナルド・トランプは2025年2月1日時点で生きていますか。
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はい、ドナルド・トランプは2025年2月1日時点で生きています。
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歴史
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【自由民主党の歴史:近年の総裁について】
第二次大戦後の日本では、自由民主党(以下「自民党」)が長年、政権を握ってきましたが、その間に多くの政治家が総裁を務めてきました。最近15年を振り返ると、5人が自民党の総裁を務めました。5人がどのような人物だったのか、順に紹介しましょう。第24代総裁は、2009年10月から2012年9月にかけて在任した谷垣禎一でした。谷垣は1945年生まれの東京都出身で、大学は東京大学を卒業しました。第25代総裁は、2012年10月から2020年9月にかけて在任した安倍晋三でした。安倍は1954年生まれの東京都出身で、大学は成蹊大学を卒業しました。第26代総裁は、2020年9月から2021年9月にかけて在任した菅義偉でした。菅は1948年生まれの秋田県出身で、大学は法政大学を卒業しました。第27代総裁は、2021年10月から2024年9月にかけて在任した岸田文雄でした。岸田は1957年生まれの東京都出身で、大学は早稲田大学を卒業しました。第28代総裁は、2024年10月に就任し、現在在任中の石破茂です。石破は1957年生まれの東京都出身で、大学は慶応義塾大学を卒業しました。
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2020年9月まで総裁を務めた人物の出身は、どこですか?
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2020年9月まで総裁を務めた人物の出身は東京都です。
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歴史
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【自由民主党の歴史:近年の総裁について】
第二次大戦後の日本では、自由民主党(以下「自民党」)が長年、政権を握ってきましたが、その間に多くの政治家が総裁を務めてきました。最近15年を振り返ると、5人が自民党の総裁を務めました。5人がどのような人物だったのか、順に紹介しましょう。第24代総裁は、2009年10月から2012年9月にかけて在任した谷垣禎一でした。谷垣は1945年生まれの東京都出身で、大学は東京大学を卒業しました。第25代総裁は、2012年10月から2020年9月にかけて在任した安倍晋三でした。安倍は1954年生まれの東京都出身で、大学は成蹊大学を卒業しました。第26代総裁は、2020年9月から2021年9月にかけて在任した菅義偉でした。菅は1948年生まれの秋田県出身で、大学は法政大学を卒業しました。第27代総裁は、2021年10月から2024年9月にかけて在任した岸田文雄でした。岸田は1957年生まれの東京都出身で、大学は早稲田大学を卒業しました。第28代総裁は、2024年10月に就任し、現在在任中の石破茂です。石破は1957年生まれの東京都出身で、大学は慶応義塾大学を卒業しました。
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第26代総裁が卒業した大学はどこですか?
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第26代総裁が卒業した大学は法政大学です。
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歴史
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【自由民主党の歴史:近年の総裁について】
第二次大戦後の日本では、自由民主党(以下「自民党」)が長年、政権を握ってきましたが、その間に多くの政治家が総裁を務めてきました。最近15年を振り返ると、5人が自民党の総裁を務めました。5人がどのような人物だったのか、順に紹介しましょう。第24代総裁は、2009年10月から2012年9月にかけて在任した谷垣禎一でした。谷垣は1945年生まれの東京都出身で、大学は東京大学を卒業しました。第25代総裁は、2012年10月から2020年9月にかけて在任した安倍晋三でした。安倍は1954年生まれの東京都出身で、大学は成蹊大学を卒業しました。第26代総裁は、2020年9月から2021年9月にかけて在任した菅義偉でした。菅は1948年生まれの秋田県出身で、大学は法政大学を卒業しました。第27代総裁は、2021年10月から2024年9月にかけて在任した岸田文雄でした。岸田は1957年生まれの東京都出身で、大学は早稲田大学を卒業しました。第28代総裁は、2024年10月に就任し、現在在任中の石破茂です。石破は1957年生まれの東京都出身で、大学は慶応義塾大学を卒業しました。
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【自由民主党の歴史:近年の総裁について】の説明によると、東京都出身で、慶応義塾大学を卒業した人物が総裁に就任したのは、いつですか。
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【自由民主党の歴史:近年の総裁について】の説明によると、東京都出身で、慶応義塾大学を卒業した人物が総裁に就任したのは、2024年10月です。
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歴史
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平安時代といえば、漢字だらけの朝廷の役職を覚えるのすごく大変ですよね。筆者も経験があるので、非常によくわかります。それに教科書だけではイマイチ内容も不透明で、何だかよくわからないんですよね。今回解説していく『押領使(おうりょうし)と追捕使(ついぶし)』は、その典型的な例です。少しでも違いが良くわからなくて頭を抱えているあなたのために、わかりやすく解説していきたいと思います。
では、軍隊を率いる指揮官的役割でもあり、警察的な役割を果たす「押領使」と「追捕使」では、何が違うんでしょうか。こちらでまとめてみました。
(1)押領使は平安時代初期に誕生
押領使は、実は追捕使よりも先に誕生した役職で、8世紀ごろの平安時代の最初あたりに誕生しました。
(2)東日本の守護者だった
押領使は、平安京が置かれていた京都の東側を管轄していました。東側というのは、現在の中部地方や関東地方といった東日本側のことです。この時代に、東日本を守っていた押領使が鎮圧した反乱があります。それは、10世紀ごろの下総で勢力を振るっていた平将門が起こした乱、平将門の乱です。そしてこれを鎮圧したのが、押領使であった藤原秀郷(ふじわらのひでさと)です。
(3)実は戦闘に参加はしない!
押領使は、あくまで兵を率いて反乱を鎮圧するだけの存在でした。なので、実際の戦闘にはかかわっていないところが特徴です。やがて、移動させる兵士の指揮官として戦闘を指揮する職務へと変わっていくのです。
(4)平将門の乱以降、常設となった役職
平将門の乱は、藤原純友の乱と併せて承平・天慶の乱と呼ばれます。押領使は、反乱がおきる前までは臨時の役職でした。しかし、この乱以降は臨時ではなくなり、常設の役職として定められるようになります。押領使は、警察の中で言うところの本部長的な役割をはたしています。警察ドラマを見ていると、捜査会議とかにそういう人物いますよね。あんな感じです。
(4)武芸に長けた者が任命されるようになる
(3)でもお話の遠い、押領使は○○警察本部長の人とイメージしていただくのが一番近いです。押領使の人は、それぞれの地域の官僚たちの中で、最も強いと判断された人が抜粋されています。やがて常設された押領使を任される人物は、国司や郡司の中で武芸に長けた者が兼任するようになります。やがて土地の豪族を任命することが主流となりました。ちなみに、荘園にも押領使がおり、荘園内の治安の統制と行っていたそうです。
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東日本側を管轄し、平将門の乱を鎮圧した押領使は誰ですか?
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東日本側を管轄し、平将門の乱を鎮圧した押領使は藤原秀郷です。
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JCRRAG_003949
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歴史
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応天門の変についてわかりやすく解説!
866年(貞観8年)応天門が放火され、炎上する事件が起きました。この事件について大納言・伴善男は、右大臣・藤原良相に対し、源信が犯人であると告発しました。藤原良相は源信の逮捕を命じて兵を出し、邸宅を包囲したところ、これを察知した太政大臣・藤原良房は、清和天皇に奏上し、源信を弁護しました。結果、源信は無実とされ、邸を包囲していた兵は引き上げていきました。その後、応天門放火の犯人として伴善男が告発され、政治的事件として表面化しました。善男は尋問に対し強く否認しましたが、善男の従者は善男が源信を失脚させるために善男の息子に命じて放火させたと自白しました。これを受け、朝廷は伴善男らを応天門の放火の犯人であると断罪し、流罪と決定しました。善男は伊豆国、その息子・中庸は隠岐国への流罪となるなど、放火の関係者とその親族が罰せられました。以上が世に言う応天門の変です。この事件の処理に当たった藤原良房は伴氏などの有力官人を排斥し、事件後には清和天皇の摂政となり、藤原氏の勢力を拡大することに成功しました。そのため、応天門の変は藤原氏による伴氏追い落としのための陰謀とする見方が強いです。
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太政大臣・藤原良房は事件後には清和天皇のどんな役職につきましたか?
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太政大臣・藤原良房は事件後に清和天皇の摂政になりました。
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JCRRAG_003950
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歴史
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平忠常の乱の発生と経過
忠常の国司との対立がしだいに大きくなり、三ヶ国におよぶ乱となります。朝廷は追討使を任命して鎮圧を試みますが、長期戦となり新たに追討使を任命し直しての収束となりました。
(1)乱のおこり
平良文、忠頼、忠常と三代にわたり関東で勢力を伸ばし、忠常は上総国、下総国、常陸国におよぶ広範囲の領地を手にします。しかし、忠常は国司の命に背き税を納めないなど、好き勝手に振る舞っていました。忠常は、1028年に安房国の国府を襲うと、安房守平維忠を焼き殺す事件をおこします。さらに上総国の国衙(こくが)を占領すると、忠常に加担する上総国の国人たちが増えて、上総国、下総国、安房国の房総三ヶ国に広がっていきます。
(2)追討使任命
このようすが朝廷に伝わると、追討使を送るべく候補者があげられました。藤原実資(さねすけ)は、常陸介在任中に忠常を家人としていた源頼信を推薦。賛成者は多かったものの、後一条天皇は検非違使(けびいし)平直方と中道成通を追討使として派遣します。これは、関白藤原頼通の抜擢によるものでした。直方は頼通の家人であったため、自身の派閥と敵対関係にある忠常を大義名分をもって討つために頼通に進言したのではないかとされています。同じく1028年の8月、任命から40日以上経ってから平直方と中原成通は兵を率いて京を出発。翌年2月には、直方の父である維時が上総介に任命され、源頼信は甲斐守に任じられ、本格的に討伐が始まるかに見えました。
(3)追討使交代
追討使の中道成通は、関東に向かう途中で母の病を理由に兵をすすめないなど消極的な姿勢を見せます。積極的に討伐しようとする直方とは意見が合わず、討伐軍は苦戦を続け、乱をおさえるには至りませんでした。これを知った朝廷は、諸国へ忠常追討の命を下して援軍を送り込みますが、乱を鎮圧することはできませんでした。同年12月、ついに朝廷は中道成通を追討使から解任してしまいます。1030年3月には、忠常は安房国の国衙を襲ったあと上総国で要害に立て篭り抵抗を続けます。これにより乱はさらに長期戦となり、戦場では餓死者がでるなど深刻な状況に陥ると、ついに朝廷は直方を呼び戻し9月に甲斐守になっていた源頼信を追討使に任じます。
(4)乱の収束
追討使となった頼信が1031年に上総国へ向かうと、忠常は出家し、二人の子と従者を連れて自ら出頭して降伏します。のちの同年6月に京へ連行される途中で病没すると、斬首され京で梟首とされたものの首は親族に返されました。また、二人の子も罪を許されます。直方には長期戦になり疲弊しても屈しなかったのに対し、頼信には自ら降伏したのは忠常が頼信の家人であったからではないかとされています。なお、この乱の平定により、頼信の配下となる関東の平氏が多く、源氏が東国で勢力を広げていく一因となりました。
平忠常の乱のその後
平忠常の乱は、平直方が退き源頼信により鎮圧されたことから、関東の平氏が頼信のもとに集まり源氏は東国での基盤をつくることになります。こののち、さらに前九年合戦がおこったことにより、源氏の東国進出を決定づけます。前九年合戦は陸奥の豪族阿部氏と国司との争いがもとで、源頼信の子の頼義が赴くと一旦阿部氏は服します。しかし、阿部氏が再び乱をおこすと、頼義とその子の義家が東国の武士を率いて阿部氏を滅ぼします。その後、12世紀中頃には平氏が盛り返し全盛期を迎えますが、12世紀末には源平の争乱(治承・寿永の乱)の末に源氏が平氏を滅ぼすことになります。
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積極的に討伐しようとする直方とは意見が合わず、また援軍が来ても乱を鎮圧できなかった中道成通は、のちに解任されることになりますが、なぜ兵をすすめないなどの消極的な姿勢を見せたのですか?
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中道成通が消極的な姿勢を見せたのは、母の病があったためです。
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JCRRAG_003951
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歴史
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【明治ってどんな時代?】
(1)はじまりの時代
日本の「明治時代」は、私たちが暮らす「現代」の礎が築かれた時代です。今の私たちにとって当たり前の物事は、明治時代に始まりました。
*今の私たちにとって当たり前の物事の例
電灯、暦(1日=24時間、1年=365日)、新聞、日本初の選挙、国会
(2)いざ開国!
明治が始まる前、長く「鎖国」の状態にあった日本は、1853年、黒船の来航とともに世界と出会いました。欧米の強国がアジアに迫り来る中、日本は西洋から制度や文化、技術を取り入れ、「近代国家」への道を歩みました。急激な変化の中では混乱もありましたが、西洋からの新しい価値観を柔軟に受け入れ、日本古来のものと組み合わせながら、世界に類を見ない速度で大変革を遂げたのです。そんなエネルギーに満ち溢れた日本の「青春時代」、それが明治時代です。
*西洋から取り入れた制度や文化、技術の例
郵便制度、鉄道、小学校教育、富岡製糸場稼働
(3)建築
日本の建築は、古来より木造が主体であり、古くは中国大陸からの仏教の伝来とともに工法、構造技術を取り入れ、長い期間をかけて独自に成熟させていったものでした。
明治時代に入ると、西洋の建築技術であるトラス構造(=複数の三角形で構成され、節点がボルト等で固定された骨組構造)が屋根の骨組みに取り入れられ、長大な木材を用いずとも一室の大空間を設けることが可能になりました。トラス構造は、トラス橋の建設にも用いられました。
そして、新たな素材としてレンガや石材が取り入れられ、木材と併用、あるいは木材にとって代わり、これら新素材ならではのアーチ構造を用いた新たな建造物を出現させました。アーチ構造は、今でも残るアーチ橋にも採用されました。
明治時代も中頃を過ぎると、西洋建築スタイルのさらなる理解への欲求は、当時の西洋諸国における最新の建築スタイル潮流へもその対象を広げていきます。当時の世界で最先端の建築スタイルが、日本国内における第2世代の建築家たちによって紹介、実践されていきました。
*トラス橋の例
六郷川橋梁、弾正橋
*今でも残るアーチ橋の例
日本橋、錦帯橋
*当時の世界で最先端の建築スタイルの例
アール・ヌーヴォー、セセッション、表現主義
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日本初の選挙は、明治時代に始まりましたか?
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はい、日本初の選挙は、明治時代に始まりました。
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歴史
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平安時代といえば、漢字だらけの朝廷の役職を覚えるのすごく大変ですよね。筆者も経験があるので、非常によくわかります。それに教科書だけではイマイチ内容も不透明で、何だかよくわからないんですよね。今回解説していく『押領使(おうりょうし)と追捕使(ついぶし)』は、その典型的な例です。少しでも違いが良くわからなくて頭を抱えているあなたのために、わかりやすく解説していきたいと思います。
では、軍隊を率いる指揮官的役割でもあり、警察的な役割を果たす「押領使」と「追捕使」では、何が違うんでしょうか。こちらでまとめてみました。
(1)押領使は平安時代初期に誕生
押領使は、実は追捕使よりも先に誕生した役職で、8世紀ごろの平安時代の最初あたりに誕生しました。
(2)東日本の守護者だった
押領使は、平安京が置かれていた京都の東側を管轄していました。東側というのは、現在の中部地方や関東地方といった東日本側のことです。この時代に、東日本を守っていた押領使が鎮圧した反乱があります。それは、10世紀ごろの下総で勢力を振るっていた平将門が起こした乱、平将門の乱です。そしてこれを鎮圧したのが、押領使であった藤原秀郷(ふじわらのひでさと)です。
(3)実は戦闘に参加はしない!
押領使は、あくまで兵を率いて反乱を鎮圧するだけの存在でした。なので、実際の戦闘にはかかわっていないところが特徴です。やがて、移動させる兵士の指揮官として戦闘を指揮する職務へと変わっていくのです。
(4)平将門の乱以降、常設となった役職
平将門の乱は、藤原純友の乱と併せて承平・天慶の乱と呼ばれます。押領使は、反乱がおきる前までは臨時の役職でした。しかし、この乱以降は臨時ではなくなり、常設の役職として定められるようになります。押領使は、警察の中で言うところの本部長的な役割をはたしています。警察ドラマを見ていると、捜査会議とかにそういう人物いますよね。あんな感じです。
(5)武芸に長けた者が任命されるようになる
(3)でもお話の遠い、押領使は○○警察本部長の人とイメージしていただくのが一番近いです。押領使の人は、それぞれの地域の官僚たちの中で、最も強いと判断された人が抜粋されています。やがて常設された押領使を任される人物は、国司や郡司の中で武芸に長けた者が兼任するようになります。やがて土地の豪族を任命することが主流となりました。ちなみに、荘園にも押領使がおり、荘園内の治安の統制と行っていたそうです。
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押領使は何世紀以降常設の役職となりましたか?
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押領使は10世紀以降常設の役職となりました。
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歴史
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「○○の変」と名前のついた事件は、様々なものがあり、平安時代だけでも多くあります。歴史を学ぶ上では、それぞれの事件について正確に理解し、その事件が歴史上、どのような意義を持つのか、前後の歴史とどのように結びつくのか、考察することでより深い理解が生まれます。その上で、承和の変・応天門の変・安和の変は、いずれも平安時代に起きた事件ですが、その名称から、それぞれの内容を思い浮かべることができますでしょうか?いずれも藤原氏による他氏排斥事件ですが、それぞれの事件の性質や内容は異なっているので、混同される方もいると思います。そこで今回は、承和の変・応天門の変・安和の変の違いについて、簡単にわかりやすく解説したいと思います。
承和の変についてわかりやすく解説!
833年(天長10年)、淳和天皇の譲位により、正良親王が仁明天皇として即位しましたが、この仁明天皇の皇太子には、嵯峨上皇の強い意向により、淳和上皇の子である恒貞親王が立てられました。これに先立ち、藤原北家の藤原冬嗣は810年(弘仁元年)、天皇の秘書的役割を持つ蔵人所の蔵人頭に就任しており、時の天皇である嵯峨天皇との結びつきを深め、冬嗣の子である藤原良房も、嵯峨上皇とその皇太后の信任を獲得し、急速に台頭していきました。良房の妹は仁明天皇の后となり、道康親王(後の文徳天皇)が生まれたため、良房は道康親王の皇位継承を望むようになっていました。840年(承和7年)、淳和上皇が崩御し、842年(承和9年)には、嵯峨上皇も重い病に伏したため、皇太子である恒貞親王に仕える伴健岑、橘逸勢は危機感を募らせました。そして彼らは、恒貞親王を東国へ移すことを画策し、その計画を阿保親王(平城天皇の皇子)に相談しましたが、阿保親王は、嵯峨上皇の皇太后にこの策謀を伝えてしまいました。皇太后はこれに驚き、良房に相談したところ、良房はこれを仁明天皇に伝えました。その後、842年(承和9年)7月に嵯峨上皇が崩御し、仁明天皇は、伴健岑と橘逸勢とその一味を逮捕しました。逮捕の理由は、2人が恒貞親王を奉じて東国に赴き、反乱を企てているというものでした!仁明天皇は詔を発し、伴健岑、橘逸勢らを謀反人と断じ、恒貞親王は事件とは無関係としながらも責任を取らせるため、皇太子を廃しました。また、伴健岑は隠岐(その後出雲国へ左遷)、橘逸勢は伊豆に流罪(移動途中、遠江国で死亡)となるなど、関係者が処分されました。後に、良房が望んだように、道康親王が皇太子となっています。以上が世にいう承和の変です。2人が反乱を企てているというのは、冤罪の可能性が高く、良房が、権力の確立を図るために行った陰謀と推定されています。承和の変は、藤原氏による最初の他氏排斥事件と言われています。
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平安時代に起きた藤原氏による変はどんな事件ですか?
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平安時代に起きた藤原氏による変は、他氏排斥事件です。
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歴史
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「○○の変」と名前のついた事件は、様々なものがあり、平安時代だけでも多くあります。歴史を学ぶ上では、それぞれの事件について正確に理解し、その事件が歴史上、どのような意義を持つのか、前後の歴史とどのように結びつくのか、考察することでより深い理解が生まれます。その上で、承和の変・応天門の変・安和の変は、いずれも平安時代に起きた事件ですが、その名称から、それぞれの内容を思い浮かべることができますでしょうか?いずれも藤原氏による他氏排斥事件ですが、それぞれの事件の性質や内容は異なっているので、混同される方もいると思います。そこで今回は、承和の変・応天門の変・安和の変の違いについて、簡単にわかりやすく解説したいと思います。
承和の変についてわかりやすく解説!
833年(天長10年)、淳和天皇の譲位により、正良親王が仁明天皇として即位しましたが、この仁明天皇の皇太子には、嵯峨上皇の強い意向により、淳和上皇の子である恒貞親王が立てられました。これに先立ち、藤原北家の藤原冬嗣は810年(弘仁元年)、天皇の秘書的役割を持つ蔵人所の蔵人頭に就任しており、時の天皇である嵯峨天皇との結びつきを深め、冬嗣の子である藤原良房も、嵯峨上皇とその皇太后の信任を獲得し、急速に台頭していきました。良房の妹は仁明天皇の后となり、道康親王(後の文徳天皇)が生まれたため、良房は道康親王の皇位継承を望むようになっていました。840年(承和7年)、淳和上皇が崩御し、842年(承和9年)には、嵯峨上皇も重い病に伏したため、皇太子である恒貞親王に仕える伴健岑、橘逸勢は危機感を募らせました。そして彼らは、恒貞親王を東国へ移すことを画策し、その計画を阿保親王(平城天皇の皇子)に相談しましたが、阿保親王は、嵯峨上皇の皇太后にこの策謀を伝えてしまいました。皇太后はこれに驚き、良房に相談したところ、良房はこれを仁明天皇に伝えました。その後、842年(承和9年)7月に嵯峨上皇が崩御し、仁明天皇は、伴健岑と橘逸勢とその一味を逮捕しました。逮捕の理由は、2人が恒貞親王を奉じて東国に赴き、反乱を企てているというものでした!仁明天皇は詔を発し、伴健岑、橘逸勢らを謀反人と断じ、恒貞親王は事件とは無関係としながらも責任を取らせるため、皇太子を廃しました。また、伴健岑は隠岐(その後出雲国へ左遷)、橘逸勢は伊豆に流罪(移動途中、遠江国で死亡)となるなど、関係者が処分されました。後に、良房が望んだように、道康親王が皇太子となっています。以上が世にいう承和の変です。2人が反乱を企てているというのは、冤罪の可能性が高く、良房が、権力の確立を図るために行った陰謀と推定されています。承和の変は、藤原氏による最初の他氏排斥事件と言われています。
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蔵人所の蔵人頭の子は任明天皇の后となり、誰を生みましたか?
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蔵人所の蔵人頭の子は任明天皇の后となり、道康親王を生みました。
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JCRRAG_003955
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歴史
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安和の変についてわかりやすく解説!
967年(康保4年)、村上天皇が崩御し、冷泉天皇が即位、関白太政大臣に藤原実頼、左大臣に源高明、右大臣には藤原師尹が就任しました。冷泉天皇には皇子がなく、その同母弟であり、年長の為平親王が皇太子の有力候補でしたが、藤原氏は、為平親王の同母弟である、守平親王の立太子を成功させました。これは、為平親王の后の父親は源高明であり、藤原氏が高明の権勢拡大を恐れたためであるとされています。969年(安和2年)、源満仲が源連の謀反を密告したのを契機に、右大臣・藤原師伊らはただちに内裏警固・固関を行い、謀叛の関係者を逮捕しました。その後、高明は、太宰権師に左遷されました。また、密告の功績により、源満仲は昇進し、師尹が左大臣となり、右大臣には大納言・藤原在衡が昇任しました。以上が世にいう安和の変です。醍醐天皇を父に持つ源高明を失脚させ、昇進を果たした藤原氏は、中央政界において、さらに権勢を強めていき、藤原道長の時代に最盛期を迎えます。
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967年に即位した皇子がいない天皇とは誰ですか?
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967年に即位した皇子がいない天皇は冷泉天皇です。
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JCRRAG_003956
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歴史
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平忠常の乱の発生と経過
忠常の国司との対立がしだいに大きくなり、三ヶ国におよぶ乱となります。朝廷は追討使を任命して鎮圧を試みますが、長期戦となり新たに追討使を任命し直しての収束となりました。
(1)乱のおこり
平良文、忠頼、忠常と三代にわたり関東で勢力を伸ばし、忠常は上総国、下総国、常陸国におよぶ広範囲の領地を手にします。しかし、忠常は国司の命に背き税を納めないなど、好き勝手に振る舞っていました。忠常は、1028年に安房国の国府を襲うと、安房守平維忠を焼き殺す事件をおこします。さらに上総国の国衙(こくが)を占領すると、忠常に加担する上総国の国人たちが増えて、上総国、下総国、安房国の房総三ヶ国に広がっていきます。
(2)追討使任命
このようすが朝廷に伝わると、追討使を送るべく候補者があげられました。藤原実資(さねすけ)は、常陸介在任中に忠常を家人としていた源頼信を推薦。賛成者は多かったものの、後一条天皇は検非違使(けびいし)平直方と中道成通を追討使として派遣します。これは、関白藤原頼通の抜擢によるものでした。直方は頼通の家人であったため、自身の派閥と敵対関係にある忠常を大義名分をもって討つために頼通に進言したのではないかとされています。同じく1028年の8月、任命から40日以上経ってから平直方と中原成通は兵を率いて京を出発。翌年2月には、直方の父である維時が上総介に任命され、源頼信は甲斐守に任じられ、本格的に討伐が始まるかに見えました。
(3)追討使交代
追討使の中道成通は、関東に向かう途中で母の病を理由に兵をすすめないなど消極的な姿勢を見せます。積極的に討伐しようとする直方とは意見が合わず、討伐軍は苦戦を続け、乱をおさえるには至りませんでした。これを知った朝廷は、諸国へ忠常追討の命を下して援軍を送り込みますが、乱を鎮圧することはできませんでした。同年12月、ついに朝廷は中道成通を追討使から解任してしまいます。1030年3月には、忠常は安房国の国衙を襲ったあと上総国で要害に立て篭り抵抗を続けます。これにより乱はさらに長期戦となり、戦場では餓死者がでるなど深刻な状況に陥ると、ついに朝廷は直方を呼び戻し9月に甲斐守になっていた源頼信を追討使に任じます。
(4)乱の収束
追討使となった頼信が1031年に上総国へ向かうと、忠常は出家し、二人の子と従者を連れて自ら出頭して降伏します。のちの同年6月に京へ連行される途中で病没すると、斬首され京で梟首とされたものの首は親族に返されました。また、二人の子も罪を許されます。直方には長期戦になり疲弊しても屈しなかったのに対し、頼信には自ら降伏したのは忠常が頼信の家人であったからではないかとされています。なお、この乱の平定により、頼信の配下となる関東の平氏が多く、源氏が東国で勢力を広げていく一因となりました。
平忠常の乱のその後
平忠常の乱は、平直方が退き源頼信により鎮圧されたことから、関東の平氏が頼信のもとに集まり源氏は東国での基盤をつくることになります。こののち、さらに前九年合戦がおこったことにより、源氏の東国進出を決定づけます。前九年合戦は陸奥の豪族阿部氏と国司との争いがもとで、源頼信の子の頼義が赴くと一旦阿部氏は服します。しかし、阿部氏が再び乱をおこすと、頼義とその子の義家が東国の武士を率いて阿部氏を滅ぼします。その後、12世紀中頃には平氏が盛り返し全盛期を迎えますが、12世紀末には源平の争乱(治承・寿永の乱)の末に源氏が平氏を滅ぼすことになります。
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国司の命に背き税を納めないなど好き勝手に振る舞っていた忠常は、何年に安房国の国府を襲いましたか?
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忠常は1028年に安房国の国府を襲いました。
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歴史
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平将門の乱の経過
当初は一族の私闘であった内紛が徐々に拡大し、将門が関東の大半を制圧すると新皇(しんのう)と称するようになり、朝廷が征東大将軍を派遣するまでに及びます。
(1)一族の私闘
935年、源扶(たすく)、源隆、源繁の三兄弟は常陸国で将門を襲い合戦となります。将門は源三兄弟を討ち取り、さらに伯父の平国香も討ち取ってしまいましたが、この時点では、国香の子である貞盛は将門との和睦を望んでいたとされます。一方で三人の息子を討たれた源護は、高望の直系である平良正に訴えると良正は兵を率いて将門の本拠である豊田に向かいます。将門はこれに迎え撃つと、鬼怒川付近での合戦となり、将門が大勝する結果となりました。良正は兄の平良兼に協力を求めると、良兼は貞盛を味方に引き入れて、935年に大軍を率いて将門の本拠豊田を包囲します。しかし、将門はこれを打ち破り、逆に下野国で連合軍を包囲しますが、良兼らは一命を取り留めました。こののち、朝廷から召喚され検非違使(けびいし)に尋問を受けることもありましたが、小競り合いは続きます。939年に良兼の勢力は衰えると、939年に病いに倒れ亡くなりました。
(2)私闘から乱へ
939年2月、武蔵国へ赴任した興世王(おきよおう)と源経基は郡司との紛争に陥りますが、将門がお互いの和解に導きました。経基は京へ戻り紛争のことで訴えるも、逆に経基は罰せられることになり、将門の評価が上げることになります。武蔵権守となった興世王は、受領と不和になると将門を頼るようになります。また、常陸国の藤原玄明も将門を頼り、租税を一切納めていない玄明を匿ったのちに玄明の追補撤回を求めます。これに対して、常陸国府が武装して要求を拒否し合戦となると、兵力の乏しい将門側が圧勝し国府を占領してしまいます。これにより、坂東の平氏一族の私闘から朝廷への反乱へと発展するに至りました。
(3)新皇を名乗る
常陸の国印を奪った将門は、さらに下野(しもつけ)、上野(こうずけ)の国府を攻め落とし、東国の大半を征服しました。さらに将門は、独自に除目(じもく)を行い関東諸国の国司を任命すると、巫女の宣託があったとして新皇を称するに至ります。将門は関東全域にまで勢力を広げると、上総の興世王を始め、下野、上野、常陸、安房、相模、伊豆、下総の国司を任命します。
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935年、源護による訴えを受けた人物は、それを受け、どこに向かいましたか?
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935年、源護による訴えを受けた平良正は、それを受け、将門の本拠である豊田に向かいました。
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歴史
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平将門の乱の経過
当初は一族の私闘であった内紛が徐々に拡大し、将門が関東の大半を制圧すると新皇(しんのう)と称するようになり、朝廷が征東大将軍を派遣するまでに及びます。
(1)一族の私闘
935年、源扶(たすく)、源隆、源繁の三兄弟は常陸国で将門を襲い合戦となります。将門は源三兄弟を討ち取り、さらに伯父の平国香も討ち取ってしまいましたが、この時点では、国香の子である貞盛は将門との和睦を望んでいたとされます。一方で三人の息子を討たれた源護は、高望の直系である平良正に訴えると良正は兵を率いて将門の本拠である豊田に向かいます。将門はこれに迎え撃つと、鬼怒川付近での合戦となり、将門が大勝する結果となりました。良正は兄の平良兼に協力を求めると、良兼は貞盛を味方に引き入れて、935年に大軍を率いて将門の本拠豊田を包囲します。しかし、将門はこれを打ち破り、逆に下野国で連合軍を包囲しますが、良兼らは一命を取り留めました。こののち、朝廷から召喚され検非違使(けびいし)に尋問を受けることもありましたが、小競り合いは続きます。939年に良兼の勢力は衰えると、939年に病いに倒れ亡くなりました。
(2)私闘から乱へ
939年2月、武蔵国へ赴任した興世王(おきよおう)と源経基は郡司との紛争に陥りますが、将門がお互いの和解に導きました。経基は京へ戻り紛争のことで訴えるも、逆に経基は罰せられることになり、将門の評価が上げることになります。武蔵権守となった興世王は、受領と不和になると将門を頼るようになります。また、常陸国の藤原玄明も将門を頼り、租税を一切納めていない玄明を匿ったのちに玄明の追補撤回を求めます。これに対して、常陸国府が武装して要求を拒否し合戦となると、兵力の乏しい将門側が圧勝し国府を占領してしまいます。これにより、坂東の平氏一族の私闘から朝廷への反乱へと発展するに至りました。
(3)新皇を名乗る
常陸の国印を奪った将門は、さらに下野(しもつけ)、上野(こうずけ)の国府を攻め落とし、東国の大半を征服しました。さらに将門は、独自に除目(じもく)を行い関東諸国の国司を任命すると、巫女の宣託があったとして新皇を称するに至ります。将門は関東全域にまで勢力を広げると、上総の興世王を始め、下野、上野、常陸、安房、相模、伊豆、下総の国司を任命します。
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東国の大半を征服した将門は誰の宣託があったとして新皇を称するようになりますか?
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将門は巫女の宣託があったとして新皇を称するようになりました。
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歴史
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(4)将門追討
将門の乱は京にも伝わり、940年1月には将門謀反の密告をした源経基が従五位以下に叙され参議藤原忠文が征東大将軍に任じられると、追討軍を率いて京を出発します。そのころ平貞盛は身を隠していましたが、下野国押領使の藤原秀郷とあわせ4000の兵を集めます。将門は1000人にも満たない兵しかおりませんでしたが、2月1日に出陣し迎え討ちます。貞盛と秀郷は将門軍先鋒の藤原玄茂を破り追撃すると将門は退却します。さらに兵を集めた貞盛と秀郷の軍は、2月13日に将門の本拠に攻め込み火を放ちます。慌てて兵を集めた将門は僅か400の兵で陣を敷きました。貞盛側にはさらに藤原為憲が加わり、将門軍との合戦が始まります。春一番の南風が吹く中で、将門は優位に野戦を展開し貞盛らの軍を攻め込み、逆に寒の戻りとなり風が北風に変わると、貞盛らの軍は勢いを増し反撃。将門自ら奮闘しますが、額に矢が的中し将門は討ち死にします。こうして、将門の死によって関東独立国は僅か2ヶ月で滅びます。将門の弟たちのほか、興世王や藤原玄明、藤原玄茂らは誅殺され乱は幕を閉じました。
(5)藤原純友の乱
同じころ、瀬戸内海で藤原純友が海賊を率いて反乱をおこし、伊予の国府を奪い、さらに勢力を広げていきました。これは平将門の乱とあわせて、朝廷に衝撃を与えることになります。この2つの乱をあわせて天慶(てんぎょう)の乱と呼ばれます。瀬戸内海では海賊による被害が続いており、藤原純友は海賊の討伐に当たっていたはずが、936年ごろには伊予国日振島を根拠とする海賊の頭目になっていたとされています。939年には純友の部下である藤原文元らに摂津国須岐駅を襲撃させると、朝廷は東国の平将門の乱と共謀かと恐れます。940年、朝廷は山陽道追補使に小野好古(よしふる)、その次官に源経基を任じますが、東国に力を集中させるため純友には懐柔するにとどまります。将門の乱が決着すると朝廷は積極的に純友討伐にのりだし、6月に藤原文元に追討令を出します。対する純友は8月に400艘の船で伊予国、讃岐国を襲撃すると、10月には太宰府と追捕使を破り、さらに中国四国地方で勢力を広げました。ところが、翌941年2月に純友軍幹部の寝返りにより純友軍は西へ逃れます。これにより九州に逃れた純友軍は、朝廷の官軍である小野好古らとの激しい戦いの末、捕らえられ獄中で死を迎えました。
平将門の乱のその後
平将門の乱と藤原純友の乱から、朝廷は軍事力の不足と地方武士の実力を思い知ることになり、朝廷や貴族は積極的に武士を侍として仕えさせるようになりました。また、地方の武士を国司の元に組織するとともに、諸国で盗賊や反乱者を追捕する追捕使や内乱などの際に兵士を統率する押領使などに任命し、武士を治安の維持に活躍の場を与えることが増えました。
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936年ごろには伊予国日振島を根拠とする海賊の頭目になっていた藤原純友は、何艘の船で伊予国、讃岐国を襲撃しましたか?
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藤原純友は400艘の船で伊予国、讃岐国を襲撃しました。
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歴史
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【天平文化と国風文化の違い】それぞれの特徴&共通点など詳しく解説!
奈良時代の天平文化と平安時代の国風文化は、律令制度の発展に伴い文化的にも大いに成長しました。後世への影響も大きく、現代にも残るような文化的影響も多くあります。しかしこの二つの文化には明らかな違いも見られます。今回は天平文化と国風文化の違い、それぞれの特徴や共通点などについて、詳しく解説していきます。
天平文化と国風文化の違い
天平文化は、8世紀初めから8世紀末にかけての奈良時代に栄えた文化のことです。一方、国風文化は平安時代の中期頃に栄えた文化のことです。二つの文化の最も大きな違いは、天平文化が唐の影響を強く受けた国際色豊かな文化であるのに対して、国風文化は日本独自のスタイルを反映して生まれた文化であるという点です。貴族の服装を見ても、天平文化の頃の服装は「浦島太郎」の乙姫様のような中国風の服装であるのに対し、国風文化はお雛様のような純日本風の和服であることから、二つの文化の背景には中国風であるか、日本風であるかの違いがハッキリと見られます。
天平文化の特徴
(1)天平文化は唐のフォロアー
当時の中国、唐は発展の頂点にあった盛唐と呼ばれる時期でした。そのため世界中の人々が唐を目指し、それぞれの国に政治的・文化的な文物を持ち帰りました。日本も例外でなく、遣唐使を送り律令制度を学んで取り入れたり、都長安を参考に平城京を造りました。文化も盛唐の影響を色濃く受けた、国際色豊かな文化でした。東大寺の正倉院には唐だけでなく、インドやギリシャ・ローマにルーツを持つような宝物が約9000点も収められています。
(2)仏教中心の文化
天平文化の大きな特徴を表す言葉に「鎮護国家思想」という言葉があります。聖武天皇は東大寺をはじめとして諸国に国分寺・国分尼寺を建立することによって全国的に仏教を広め、仏教によって国をまとめようとしました。そして寺院が多く建てられるとともに仏像も多く造られました。それまでの仏像が平面的で動きの少ないものが多かったのに対し、躍動感のある仏像が生まれました。これは新しい手法が用いられたことによる技術向上が大きく影響しています。粘土で造られた塑像は東大寺戒壇院四天王像、そして漆で麻布を貼って乾かした乾漆像は興福寺阿修羅像が有名です。新しい手法によって、西洋や唐の彫刻とも似たような写実的で動きのある仏像が多く造られました。
(3)国家プロジェクトとしての編纂事業
律令制度が形成されていく中で、朝廷が統治を行うことつまり中央集権体制の正当性を明らかにしようという動きが生まれます。そこで国史の編纂が進められ、天平文化の頃に完成します。712年には天武天皇が稗田阿礼に誦み習わせていた「帝紀」「旧辞」を太安万侶が撰録し、『古事記』が完成しました。さらに720年には舎人親王らが編纂した『日本書紀』が完成しました。こういったプロジェクトは中国でも行われていたため、中国の史書編纂事業を参考にして行われたものと思われます。また文学としては史書だけでなく、最初の和歌集である『万葉集』が生まれました。これは勅撰ではありませんが、天皇から庶民まで様々な人の詠んだ和歌が約4500首も収められているという点で、かなり大きなプロジェクトだったことが窺えます。
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天平文化の頃に中国の史書編纂事業を参考にして行われたプロジェクトは720年に何を完成させましたか?
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天平文化の頃に中国の史書編纂事業を参考にして行われたプロジェクトは、舎人親王らが編纂した『日本書紀』を720年に完成させました。
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歴史
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【天平文化と国風文化の違い】それぞれの特徴&共通点など詳しく解説!
奈良時代の天平文化と平安時代の国風文化は、律令制度の発展に伴い文化的にも大いに成長しました。後世への影響も大きく、現代にも残るような文化的影響も多くあります。しかしこの二つの文化には明らかな違いも見られます。今回は天平文化と国風文化の違い、それぞれの特徴や共通点などについて、詳しく解説していきます。
天平文化と国風文化の違い
天平文化は、8世紀初めから8世紀末にかけての奈良時代に栄えた文化のことです。一方、国風文化は平安時代の中期頃に栄えた文化のことです。二つの文化の最も大きな違いは、天平文化が唐の影響を強く受けた国際色豊かな文化であるのに対して、国風文化は日本独自のスタイルを反映して生まれた文化であるという点です。貴族の服装を見ても、天平文化の頃の服装は「浦島太郎」の乙姫様のような中国風の服装であるのに対し、国風文化はお雛様のような純日本風の和服であることから、二つの文化の背景には中国風であるか、日本風であるかの違いがハッキリと見られます。
天平文化の特徴
(1)天平文化は唐のフォロアー
当時の中国、唐は発展の頂点にあった盛唐と呼ばれる時期でした。そのため世界中の人々が唐を目指し、それぞれの国に政治的・文化的な文物を持ち帰りました。日本も例外でなく、遣唐使を送り律令制度を学んで取り入れたり、都長安を参考に平城京を造りました。文化も盛唐の影響を色濃く受けた、国際色豊かな文化でした。東大寺の正倉院には唐だけでなく、インドやギリシャ・ローマにルーツを持つような宝物が約9000点も収められています。
(2)仏教中心の文化
天平文化の大きな特徴を表す言葉に「鎮護国家思想」という言葉があります。聖武天皇は東大寺をはじめとして諸国に国分寺・国分尼寺を建立することによって全国的に仏教を広め、仏教によって国をまとめようとしました。そして寺院が多く建てられるとともに仏像も多く造られました。それまでの仏像が平面的で動きの少ないものが多かったのに対し、躍動感のある仏像が生まれました。これは新しい手法が用いられたことによる技術向上が大きく影響しています。粘土で造られた塑像は東大寺戒壇院四天王像、そして漆で麻布を貼って乾かした乾漆像は興福寺阿修羅像が有名です。新しい手法によって、西洋や唐の彫刻とも似たような写実的で動きのある仏像が多く造られました。
(3)国家プロジェクトとしての編纂事業
律令制度が形成されていく中で、朝廷が統治を行うことつまり中央集権体制の正当性を明らかにしようという動きが生まれます。そこで国史の編纂が進められ、天平文化の頃に完成します。712年には天武天皇が稗田阿礼に誦み習わせていた「帝紀」「旧辞」を太安万侶が撰録し、『古事記』が完成しました。さらに720年には舎人親王らが編纂した『日本書紀』が完成しました。こういったプロジェクトは中国でも行われていたため、中国の史書編纂事業を参考にして行われたものと思われます。また文学としては史書だけでなく、最初の和歌集である『万葉集』が生まれました。これは勅撰ではありませんが、天皇から庶民まで様々な人の詠んだ和歌が約4500首も収められているという点で、かなり大きなプロジェクトだったことが窺えます。
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国際色豊かな天平文化の大きな特徴を表す言葉とは何ですか?
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国際色豊かな天平文化の大きな特徴を表す言葉は「鎮護国家思想」です。
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歴史
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国風文化の特徴
1 オリジナリティが生まれた国風文化
平安時代も中期に差し掛かると、唐はそれまでのような力をすでに持ってはいませんでした。また国内の律令制度も文化も、唐のものを自分達なりに昇華して、独自のスタイルを確立しつつありました。894年、菅原道真の提案によって遣唐使が廃止となったのはその象徴的な出来事です。こうした世の中の流れによって、国風文化はオリジナリティにあふれたいわゆる日本的な文化となりました。具体的には貴族の邸宅の建築様式である寝殿造や衣冠束帯・十二単のような貴族の衣服、「鳥獣戯画」や「伴大納言絵巻」のような大和絵など、優美で柔らかい印象の色彩や造形が特徴です。私たちがお雛様などで知る、いわゆる「日本の貴族」といったスタイルはまさにこの国風文化の頃のスタイルです。
2 女性が最も活躍した文化
国風文化で最も発展したジャンルは文学です。そしてその中心にいたのが貴族という点では天平文化も国風文化も共通していますが、国風文化では特に女性貴族たちが活躍しました。清少納言の『枕草子』や紫式部の『源氏物語』、また多くの和歌を残した和泉式部はあまりにも有名ですが、他にも多くの女流文学作品が生まれました。彼女たちは「女房」と呼ばれる人でした。皇后の身の回りの世話をしたり、教育係を務めるのが「女房」の役割です。この皇后となる人は当時、藤原氏が外戚となるべく嫁がされた娘たちでした。つまり当時摂関家として強大な力をもっていた藤原氏が、娘たちのために優秀な「女房」を仕えさせ、その「女房」たちが宮廷で綴ったのが国風文化の文学なのです。日本史の中でもこれほど女性が中心となって活躍した文化は他にありません。彼女たちがこの時代に多くの作品を残した理由は、仮名文字の使用にあります。仮名文字とはひらがなのことです。当時男性は主に漢字を用いていましたが、それに対し漢字の草書体をもとに作られた仮名文字は主に女性によって使われました。文学という点では天平文化の頃に『万葉集』で花開いた和歌がさらに発展し、905年には最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が成立しました。
3 極楽浄土を目指した人々
天平文化と同様、国風文化も仏教の影響を大きく受けています。この頃仏教では1052年に末法元年を迎え、世の中は釈迦の教えが衰える末法の時代へ突入すると言われていました。当時、前九年の役などの戦乱が起きたり疫病が流行するなどしていたことも相まって、人々は不安を抱いていました。そこで極楽浄土を願う人々の間で浄土教が流行し、慶重保胤による『日本往生極楽記』のような往生伝が出されたり、貴族は阿弥陀堂を建てました。藤原頼通によって建てられた平等院鳳凰堂は国風文化を代表する阿弥陀堂建築です。また、阿弥陀堂には衆生来迎図や阿弥陀如来像が収められたので、阿弥陀如来像を造るのにこれまで以上のスピードと効率が求められました。そこで仏師定朝は、複数の材を組み合わせて造る寄木造の技法を用いて、分業によって大量の仏像を造ることができるようになりました。
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「女房」たちが国風文化を綴るためなどに使った文字に対して、当時の男性はどんな文字を使っていましたか?
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「女房」たちが国風文化を綴るためなどに使った仮名文字に対して、当時の男性は漢字を使っていました。
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歴史
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【応天門の変についてわかりやすく解説!】
866年(貞観8年)応天門が放火され、炎上する事件が起きました。この事件について大納言・伴善男は、右大臣・藤原良相に対し、源信が犯人であると告発しました。藤原良相は源信の逮捕を命じて兵を出し、邸宅を包囲したところ、これを察知した太政大臣・藤原良房は、清和天皇に奏上し、源信を弁護しました。結果、源信は無実とされ、邸を包囲していた兵は引き上げていきました。その後、応天門放火の犯人として伴善男が告発され、政治的事件として表面化しました。善男は尋問に対し強く否認しましたが、善男の従者は善男が源信を失脚させるために善男の息子に命じて放火させたと自白しました。これを受け、朝廷は伴善男らを応天門の放火の犯人であると断罪し、流罪と決定しました。善男は伊豆国、共犯の息子・中庸は隠岐国への流罪となるなど、放火の関係者とその親族が罰せられました。以上が世に言う応天門の変です。この事件の処理に当たった藤原良房は伴氏などの有力官人を排斥し、事件後には清和天皇の摂政となり、藤原氏の勢力を拡大することに成功しました。今日では応天門の変は伴氏追い落としのための陰謀とする見方が強いです。
(注)
1. 放火犯の親族は、軟禁下に置かれるか、労役が課されました。
2. 伴善男の親族には、伴善正がいました。
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軟禁下に置かれなかった、放火犯の伴善男の親族である伴善正は、どのような刑に処せられましたか?
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軟禁下に置かれなかった、放火犯の伴善男の親族である伴善正は、労役が課されました。
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歴史
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【明治時代 1】
1867年に発足した明治維新政府は、戊辰戦争のかたわら着々と中央集権の体制をつくっていきました。1868年に年号が明治に改まると、1871年には廃藩置県がおこなわれ、3府72県が置かれました。このときに、宇都宮県が誕生しています。
これとともに、四民平等が唱えられ江戸時代の身分制度も改められました。しかし、皇族・華族といった特別な身分が設けられる一方、差別されてきた人々の人権回復や実際の生活を向上させるための政策は不十分なものでした。
1872年、戊辰戦争で焼け残った宇都宮城の櫓や門が、払い下げられたり壊されたりし、一方、県庁や病院、郵便局、東京鎮台の駐屯地などが次々と建設されました。戦災後の宇都宮に、近代のまちの姿があらわれはじめたのです。 また、この年には学制が発布されて藩校の修道館は廃止となり、翌年には6校の小学校が設立されました。また、これらが統合され、1878年に西校、翌年には東校が開校しました。
明治政府は、殖産興業を進め資本主義の育成に努めました。官営のものでは1872年設立の富岡製糸場がありますが、その前年、川村伝左衛門が現在の石井町に大嶹商舎を設立しています。これは私設の工場でしたが、米国前大統領グラント将軍など内外の指導者が訪問するなど、明治初期の模範工場として認められました。
1873年2月、二荒山神社が国幣中社から県社に降格となりました。二荒山神社が延喜式神名帳に記された下野一ノ宮であるという確証がないというのが理由でしたが、実際には日光二荒山神社との社格争いが原因でした。宇都宮藩の重臣として幕末に活躍した県六石らは、これを宇都宮の歴史的名誉を傷つけるものとして社格回復運動を展開し、1883年に国幣中社の栄誉を回復することに成功しました。翌年の3月の臨時大祭は「ひっくり返るような大祭礼」といわれるほど盛大なものでした。
このころの宇都宮県は、現在の栃木県の北半分を県域にしていました。しかし、1873年6月15日に宇都宮県は廃止され、栃木県に組み入れられることになりました。県庁は栃木町にあったため、その後、1884年に宇都宮町に県庁が移転するまで、宇都宮は県政の中心から外れることになったのです。
県庁の移転運動は1882年からはじまりました。論点としては、宇都宮が県の中央に位置していること、道路網が宇都宮を中心に四方八方に伸びていること、県北東部の開発に便利であること、宇都宮には軍隊が駐屯していることなどでした。また、市場取引高を見てもけた違いに宇都宮がまさっており、町民感情としても移転運動は盛り上がりを見せたのです。はじめは栃木町の根強い反対運動もありましたが、1883年に三島通庸が県令となると、おどろくほどの速さで移転が決定されました。
県庁の新築工事にあわせて、大通りの貫通工事や諸官庁、学校などが整備され、宇都宮は名実ともに栃木県の政治・文化・経済の中心地となったのです。三島県令時代は2年足らずでしたが、江戸時代の本多正純とともに宇都宮の町並みを一変させた人物でした。
【明治時代 2】
1885年、埼玉県大宮駅から宇都宮までの鉄道が開通し、宇都宮駅が誕生しました。当時、宇都宮駅は停車場とよばれていましたが、翌年には日本最初の駅弁が白木屋によって発売されました。この路線は、1891年には青森まで開通し、1906年に国有化されました。また、日光線は1890年に全線が開通しています。
これ以外にも、1896年には大谷石の輸送と観光開発を目的とした宇都宮軌道運輸株式会社が、また、1898年には野州人車鉄道が設立され、人車鉄道(トロッコ)が走るようになりました。1906年にはこの2社は1つになって宇都宮石材軌道株式会社となり、荒針・新里・徳次郎の3路線の営業をおこないました。
大日本帝国憲法が発布された直後の1889年4月1日、市制町村制が施行され、宇都宮町と、旧宇都宮市を形成する11か村が誕生しました。宇都宮町では、町会議員選挙が行われ30名の議員が、また、その中から町長に矢島中、助役に田中勝次郎が選ばれました。翌年、収入役に松井元儀が選ばれ、22名の吏員が任用されました。宇都宮町役場は、現在の中央3丁目に置かれました。
1892年、それまで陸軍用地となっていた宇都宮城跡が払い下げになりました。本丸は旧城主の戸田家に、二の丸は士族一同に、三の丸は町有になりました。1890年になって、三の丸の土手をくずして三日月堀を埋め、二荒山神社前通りを延長して御橋をかけ、本丸に真っすぐ通じるようにしました。この年には、曲師町・江野町・材木町を結ぶ、現在のオリオン通り・ユニオン通りが開通になりました。
この時期の宇都宮では、企業熱が盛り上がった時期でした。特に、1896年に宇都宮銀行が設立されて金融活動が円滑になると、株式会社をはじめ、たくさんの企業が誕生しています。国重要文化財の旧篠原家住宅は、1895年に建てられたこの時期を代表する商家建築ですが、同様の豪壮な建築物がほかにも見られました。
1896年4月1日、宇都宮は市になりました。初代市長は町長であった矢島中でした。当時の人口は約35233人、戸数6991戸でした。市長の選出は、市会が候補者3名を国に推薦し、その中から内務大臣が決定する方法がとられていました。
旧篠原家住宅明治時代の日本は、欧米の列強に遅れまいと海外への進出を図っていました。1894年の日清戦争では約100名、つづく1904年におこった日露戦争では、654名の出征者が宇都宮市から出ています。日露戦争による軍備拡張により、陸軍第14師団が福岡県の小倉で編制され満州に出兵していましたが、戦後、正式な駐屯地が宇都宮に決定され、1907年から次々に施設が建設されました。14師団が直接市内に落とす金額は、当時の市一般会計の5倍にあたり、市の商工業界に大きな影響を与えました。ここに、宇都宮は「軍都」という新しい顔を持つことになったのです。
1908年に14師団が宇都宮にやってくると、材木町から西へ大谷街道が開通し、さらに野砲兵第20連隊から師団司令部までの約1.4キロメートルに、軍道と呼ばれる道幅10間の道路が開通し、両側に約1000本のサクラが植えられました。
【大正時代】
大正時代に入ると、列国の帝国主義政策が衝突して、1914年に第一次世界大戦が起こりました。日本も、日英同盟を理由に参戦しドイツと戦っています。この時期の日本は、中国政府に二十一か条の要求を突きつけたり、1917年に起こったロシア革命を妨害するために、イギリス・アメリカ・フランスとともにシベリア出兵をおこなったりするなど、中国大陸に勢力を伸ばす動きを起こしました。
大正時代には、水道やガスが普及し都市生活が大きく変化しました。また、自動車交通が飛躍的に進展し、陸上輸送に大きな変化を見せ始めました。
宇都宮は、豊富な地下水がある一方、上町に比べて下町は不良水であったため、チフスや赤痢の流行に悩まされていました。また、釜川の水量は少なく、火災の被害も大きかったため、明治時代から水道をひくための議論が行われていました。足かけ4年にわたる大工事のすえ、大谷川を水源とする水道が完成したのは、1916年のことです。これにより、全戸数の32%が水道を利用するようになりました。
第一次世界大戦で直接の被害を受けなかった日本は、海外への輸出が伸びたことから空前の好景気となりました。しかし、国内では品不足による物価高が続いて人々の生活は苦しくなり、全国的に米騒動がおこりました。宇都宮でも、1918年1月に1石15円の米が、7月には30円を越すといった値上がりを見せています。
このような中で、1923年9月1日、関東大震災が起きました。東京・横浜では大規模な火災が発生し、死者・行方不明者が14万人を超えました。この大災害の中、大谷石で建築された東京の旧帝国ホテルが焼け残り、大谷石は、その耐火性・耐震性の優秀さが認められ、第一級の建築材として一躍有名になりました。
大谷石採掘の歴史は古く、奈良時代の795年に建立された下野国分寺の土台にも使われています。江戸時代には、本多正純の宇都宮城大改築にも利用されたほか、商店の石蔵や釜川の護岸に用いられている様子が『宇陽略記』に描かれています。また、鬼怒川を利用して江戸へ輸送され、隅田川沿いには大谷石をあつかう問屋が16軒あったといわれています。明治に入ると、鉄道の開通など陸上交通の発展にともなって販売網は関東一円に広がりました。しかし、大戦後の不況の中、職工たちは大谷石石材労働組合を組織してストを決行し、深刻な労働争議に発展しました。
大正時代には、大通り沿いに蔵造りの店が並び、1925年には、上野呉服店が東京風の百貨店形式の店を相生町に新築し、バンバのにぎわいともあいまって二荒山神社前が最大の繁華街になりました。また、乗合いバスやタクシー乗務員の洋装が人気を集め、このころには、軍道のサクラも成長し市内随一の名所になりました。
大正15年、市制30周年祝賀式が行われ、八幡山では東洋花火大会が開催されて三尺玉を打ち上げました。この年の人口は72238人、戸数15525戸となり、30年で倍増していますが、一方で、さまざまな都市問題を引き起こすことになりました。
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大正15年にこの市に住んでいた人は何人ですか?
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大正15年にこの市に住んでいた人は72238人です。
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歴史
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【明治時代 1】
1867年に発足した明治維新政府は、戊辰戦争のかたわら着々と中央集権の体制をつくっていきました。1868年に年号が明治に改まると、1871年には廃藩置県がおこなわれ、3府72県が置かれました。このときに、宇都宮県が誕生しています。
これとともに、四民平等が唱えられ江戸時代の身分制度も改められました。しかし、皇族・華族といった特別な身分が設けられる一方、差別されてきた人々の人権回復や実際の生活を向上させるための政策は不十分なものでした。
1872年、戊辰戦争で焼け残った宇都宮城の櫓や門が、払い下げられたり壊されたりし、一方、県庁や病院、郵便局、東京鎮台の駐屯地などが次々と建設されました。戦災後の宇都宮に、近代のまちの姿があらわれはじめたのです。 また、この年には学制が発布されて藩校の修道館は廃止となり、翌年には6校の小学校が設立されました。また、これらが統合され、1878年に西校、翌年には東校が開校しました。
明治政府は、殖産興業を進め資本主義の育成に努めました。官営のものでは1872年設立の富岡製糸場がありますが、その前年、川村伝左衛門が現在の石井町に大嶹商舎を設立しています。これは私設の工場でしたが、米国前大統領グラント将軍など内外の指導者が訪問するなど、明治初期の模範工場として認められました。
1873年2月、二荒山神社が国幣中社から県社に降格となりました。二荒山神社が延喜式神名帳に記された下野一ノ宮であるという確証がないというのが理由でしたが、実際には日光二荒山神社との社格争いが原因でした。宇都宮藩の重臣として幕末に活躍した県六石らは、これを宇都宮の歴史的名誉を傷つけるものとして社格回復運動を展開し、1883年に国幣中社の栄誉を回復することに成功しました。翌年の3月の臨時大祭は「ひっくり返るような大祭礼」といわれるほど盛大なものでした。
このころの宇都宮県は、現在の栃木県の北半分を県域にしていました。しかし、1873年6月15日に宇都宮県は廃止され、栃木県に組み入れられることになりました。県庁は栃木町にあったため、その後、1884年に宇都宮町に県庁が移転するまで、宇都宮は県政の中心から外れることになったのです。
県庁の移転運動は1882年からはじまりました。論点としては、宇都宮が県の中央に位置していること、道路網が宇都宮を中心に四方八方に伸びていること、県北東部の開発に便利であること、宇都宮には軍隊が駐屯していることなどでした。また、市場取引高を見てもけた違いに宇都宮がまさっており、町民感情としても移転運動は盛り上がりを見せたのです。はじめは栃木町の根強い反対運動もありましたが、1883年に三島通庸が県令となると、おどろくほどの速さで移転が決定されました。
県庁の新築工事にあわせて、大通りの貫通工事や諸官庁、学校などが整備され、宇都宮は名実ともに栃木県の政治・文化・経済の中心地となったのです。三島県令時代は2年足らずでしたが、江戸時代の本多正純とともに宇都宮の町並みを一変させた人物でした。
【明治時代 2】
1885年、埼玉県大宮駅から宇都宮までの鉄道が開通し、宇都宮駅が誕生しました。当時、宇都宮駅は停車場とよばれていましたが、翌年には日本最初の駅弁が白木屋によって発売されました。この路線は、1891年には青森まで開通し、1906年に国有化されました。また、日光線は1890年に全線が開通しています。
これ以外にも、1896年には大谷石の輸送と観光開発を目的とした宇都宮軌道運輸株式会社が、また、1898年には野州人車鉄道が設立され、人車鉄道(トロッコ)が走るようになりました。1906年にはこの2社は1つになって宇都宮石材軌道株式会社となり、荒針・新里・徳次郎の3路線の営業をおこないました。
大日本帝国憲法が発布された直後の1889年4月1日、市制町村制が施行され、宇都宮町と、旧宇都宮市を形成する11か村が誕生しました。宇都宮町では、町会議員選挙が行われ30名の議員が、また、その中から町長に矢島中、助役に田中勝次郎が選ばれました。翌年、収入役に松井元儀が選ばれ、22名の吏員が任用されました。宇都宮町役場は、現在の中央3丁目に置かれました。
1892年、それまで陸軍用地となっていた宇都宮城跡が払い下げになりました。本丸は旧城主の戸田家に、二の丸は士族一同に、三の丸は町有になりました。1890年になって、三の丸の土手をくずして三日月堀を埋め、二荒山神社前通りを延長して御橋をかけ、本丸に真っすぐ通じるようにしました。この年には、曲師町・江野町・材木町を結ぶ、現在のオリオン通り・ユニオン通りが開通になりました。
この時期の宇都宮では、企業熱が盛り上がった時期でした。特に、1896年に宇都宮銀行が設立されて金融活動が円滑になると、株式会社をはじめ、たくさんの企業が誕生しています。国重要文化財の旧篠原家住宅は、1895年に建てられたこの時期を代表する商家建築ですが、同様の豪壮な建築物がほかにも見られました。
1896年4月1日、宇都宮は市になりました。初代市長は町長であった矢島中でした。当時の人口は約35233人、戸数6991戸でした。市長の選出は、市会が候補者3名を国に推薦し、その中から内務大臣が決定する方法がとられていました。
旧篠原家住宅明治時代の日本は、欧米の列強に遅れまいと海外への進出を図っていました。1894年の日清戦争では約100名、つづく1904年におこった日露戦争では、654名の出征者が宇都宮市から出ています。日露戦争による軍備拡張により、陸軍第14師団が福岡県の小倉で編制され満州に出兵していましたが、戦後、正式な駐屯地が宇都宮に決定され、1907年から次々に施設が建設されました。14師団が直接市内に落とす金額は、当時の市一般会計の5倍にあたり、市の商工業界に大きな影響を与えました。ここに、宇都宮は「軍都」という新しい顔を持つことになったのです。
1908年に14師団が宇都宮にやってくると、材木町から西へ大谷街道が開通し、さらに野砲兵第20連隊から師団司令部までの約1.4キロメートルに、軍道と呼ばれる道幅10間の道路が開通し、両側に約1000本のサクラが植えられました。
【大正時代】
大正時代に入ると、列国の帝国主義政策が衝突して、1914年に第一次世界大戦が起こりました。日本も、日英同盟を理由に参戦しドイツと戦っています。この時期の日本は、中国政府に二十一か条の要求を突きつけたり、1917年に起こったロシア革命を妨害するために、イギリス・アメリカ・フランスとともにシベリア出兵をおこなったりするなど、中国大陸に勢力を伸ばす動きを起こしました。
大正時代には、水道やガスが普及し都市生活が大きく変化しました。また、自動車交通が飛躍的に進展し、陸上輸送に大きな変化を見せ始めました。
宇都宮は、豊富な地下水がある一方、上町に比べて下町は不良水であったため、チフスや赤痢の流行に悩まされていました。また、釜川の水量は少なく、火災の被害も大きかったため、明治時代から水道をひくための議論が行われていました。足かけ4年にわたる大工事のすえ、大谷川を水源とする水道が完成したのは、1916年のことです。これにより、全戸数の32%が水道を利用するようになりました。
第一次世界大戦で直接の被害を受けなかった日本は、海外への輸出が伸びたことから空前の好景気となりました。しかし、国内では品不足による物価高が続いて人々の生活は苦しくなり、全国的に米騒動がおこりました。宇都宮でも、1918年1月に1石15円の米が、7月には30円を越すといった値上がりを見せています。
このような中で、1923年9月1日、関東大震災が起きました。東京・横浜では大規模な火災が発生し、死者・行方不明者が14万人を超えました。この大災害の中、大谷石で建築された東京の旧帝国ホテルが焼け残り、大谷石は、その耐火性・耐震性の優秀さが認められ、第一級の建築材として一躍有名になりました。
大谷石採掘の歴史は古く、奈良時代の795年に建立された下野国分寺の土台にも使われています。江戸時代には、本多正純の宇都宮城大改築にも利用されたほか、商店の石蔵や釜川の護岸に用いられている様子が『宇陽略記』に描かれています。また、鬼怒川を利用して江戸へ輸送され、隅田川沿いには大谷石をあつかう問屋が16軒あったといわれています。明治に入ると、鉄道の開通など陸上交通の発展にともなって販売網は関東一円に広がりました。しかし、大戦後の不況の中、職工たちは大谷石石材労働組合を組織してストを決行し、深刻な労働争議に発展しました。
大正時代には、大通り沿いに蔵造りの店が並び、1925年には、上野呉服店が東京風の百貨店形式の店を相生町に新築し、バンバのにぎわいともあいまって二荒山神社前が最大の繁華街になりました。また、乗合いバスやタクシー乗務員の洋装が人気を集め、このころには、軍道のサクラも成長し市内随一の名所になりました。
大正15年、市制30周年祝賀式が行われ、八幡山では東洋花火大会が開催されて三尺玉を打ち上げました。この年の人口は72238人、戸数15525戸となり、30年で倍増していますが、一方で、さまざまな都市問題を引き起こすことになりました。
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大正15年のこの市の人口は、30年前と比べて2倍になりましたか?
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はい、大正15年のこの市の人口は、30年前と比べて2倍になりました。
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歴史
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【明治時代 1】
1867年に発足した明治維新政府は、戊辰戦争のかたわら着々と中央集権の体制をつくっていきました。1868年に年号が明治に改まると、1871年には廃藩置県がおこなわれ、3府72県が置かれました。このときに、宇都宮県が誕生しています。
これとともに、四民平等が唱えられ江戸時代の身分制度も改められました。しかし、皇族・華族といった特別な身分が設けられる一方、差別されてきた人々の人権回復や実際の生活を向上させるための政策は不十分なものでした。
1872年、戊辰戦争で焼け残った宇都宮城の櫓や門が、払い下げられたり壊されたりし、一方、県庁や病院、郵便局、東京鎮台の駐屯地などが次々と建設されました。戦災後の宇都宮に、近代のまちの姿があらわれはじめたのです。 また、この年には学制が発布されて藩校の修道館は廃止となり、翌年には6校の小学校が設立されました。また、これらが統合され、1878年に西校、翌年には東校が開校しました。
明治政府は、殖産興業を進め資本主義の育成に努めました。官営のものでは1872年設立の富岡製糸場がありますが、その前年、川村伝左衛門が現在の石井町に大嶹商舎を設立しています。これは私設の工場でしたが、米国前大統領グラント将軍など内外の指導者が訪問するなど、明治初期の模範工場として認められました。
1873年2月、二荒山神社が国幣中社から県社に降格となりました。二荒山神社が延喜式神名帳に記された下野一ノ宮であるという確証がないというのが理由でしたが、実際には日光二荒山神社との社格争いが原因でした。宇都宮藩の重臣として幕末に活躍した県六石らは、これを宇都宮の歴史的名誉を傷つけるものとして社格回復運動を展開し、1883年に国幣中社の栄誉を回復することに成功しました。翌年の3月の臨時大祭は「ひっくり返るような大祭礼」といわれるほど盛大なものでした。
このころの宇都宮県は、現在の栃木県の北半分を県域にしていました。しかし、1873年6月15日に宇都宮県は廃止され、栃木県に組み入れられることになりました。県庁は栃木町にあったため、その後、1884年に宇都宮町に県庁が移転するまで、宇都宮は県政の中心から外れることになったのです。
県庁の移転運動は1882年からはじまりました。論点としては、宇都宮が県の中央に位置していること、道路網が宇都宮を中心に四方八方に伸びていること、県北東部の開発に便利であること、宇都宮には軍隊が駐屯していることなどでした。また、市場取引高を見てもけた違いに宇都宮がまさっており、町民感情としても移転運動は盛り上がりを見せたのです。はじめは栃木町の根強い反対運動もありましたが、1883年に三島通庸が県令となると、おどろくほどの速さで移転が決定されました。
県庁の新築工事にあわせて、大通りの貫通工事や諸官庁、学校などが整備され、宇都宮は名実ともに栃木県の政治・文化・経済の中心地となったのです。三島県令時代は2年足らずでしたが、江戸時代の本多正純とともに宇都宮の町並みを一変させた人物でした。
【明治時代 2】
1885年、埼玉県大宮駅から宇都宮までの鉄道が開通し、宇都宮駅が誕生しました。当時、宇都宮駅は停車場とよばれていましたが、翌年には日本最初の駅弁が白木屋によって発売されました。この路線は、1891年には青森まで開通し、1906年に国有化されました。また、日光線は1890年に全線が開通しています。
これ以外にも、1896年には大谷石の輸送と観光開発を目的とした宇都宮軌道運輸株式会社が、また、1898年には野州人車鉄道が設立され、人車鉄道(トロッコ)が走るようになりました。1906年にはこの2社は1つになって宇都宮石材軌道株式会社となり、荒針・新里・徳次郎の3路線の営業をおこないました。
大日本帝国憲法が発布された直後の1889年4月1日、市制町村制が施行され、宇都宮町と、旧宇都宮市を形成する11か村が誕生しました。宇都宮町では、町会議員選挙が行われ30名の議員が、また、その中から町長に矢島中、助役に田中勝次郎が選ばれました。翌年、収入役に松井元儀が選ばれ、22名の吏員が任用されました。宇都宮町役場は、現在の中央3丁目に置かれました。
1892年、それまで陸軍用地となっていた宇都宮城跡が払い下げになりました。本丸は旧城主の戸田家に、二の丸は士族一同に、三の丸は町有になりました。1890年になって、三の丸の土手をくずして三日月堀を埋め、二荒山神社前通りを延長して御橋をかけ、本丸に真っすぐ通じるようにしました。この年には、曲師町・江野町・材木町を結ぶ、現在のオリオン通り・ユニオン通りが開通になりました。
この時期の宇都宮では、企業熱が盛り上がった時期でした。特に、1896年に宇都宮銀行が設立されて金融活動が円滑になると、株式会社をはじめ、たくさんの企業が誕生しています。国重要文化財の旧篠原家住宅は、1895年に建てられたこの時期を代表する商家建築ですが、同様の豪壮な建築物がほかにも見られました。
1896年4月1日、宇都宮は市になりました。初代市長は町長であった矢島中でした。当時の人口は約35233人、戸数6991戸でした。市長の選出は、市会が候補者3名を国に推薦し、その中から内務大臣が決定する方法がとられていました。
旧篠原家住宅明治時代の日本は、欧米の列強に遅れまいと海外への進出を図っていました。1894年の日清戦争では約100名、つづく1904年におこった日露戦争では、654名の出征者が宇都宮市から出ています。日露戦争による軍備拡張により、陸軍第14師団が福岡県の小倉で編制され満州に出兵していましたが、戦後、正式な駐屯地が宇都宮に決定され、1907年から次々に施設が建設されました。14師団が直接市内に落とす金額は、当時の市一般会計の5倍にあたり、市の商工業界に大きな影響を与えました。ここに、宇都宮は「軍都」という新しい顔を持つことになったのです。
1908年に14師団が宇都宮にやってくると、材木町から西へ大谷街道が開通し、さらに野砲兵第20連隊から師団司令部までの約1.4キロメートルに、軍道と呼ばれる道幅10間の道路が開通し、両側に約1000本のサクラが植えられました。
【大正時代】
大正時代に入ると、列国の帝国主義政策が衝突して、1914年に第一次世界大戦が起こりました。日本も、日英同盟を理由に参戦しドイツと戦っています。この時期の日本は、中国政府に二十一か条の要求を突きつけたり、1917年に起こったロシア革命を妨害するために、イギリス・アメリカ・フランスとともにシベリア出兵をおこなったりするなど、中国大陸に勢力を伸ばす動きを起こしました。
大正時代には、水道やガスが普及し都市生活が大きく変化しました。また、自動車交通が飛躍的に進展し、陸上輸送に大きな変化を見せ始めました。
宇都宮は、豊富な地下水がある一方、上町に比べて下町は不良水であったため、チフスや赤痢の流行に悩まされていました。また、釜川の水量は少なく、火災の被害も大きかったため、明治時代から水道をひくための議論が行われていました。足かけ4年にわたる大工事のすえ、大谷川を水源とする水道が完成したのは、1916年のことです。これにより、全戸数の32%が水道を利用するようになりました。
第一次世界大戦で直接の被害を受けなかった日本は、海外への輸出が伸びたことから空前の好景気となりました。しかし、国内では品不足による物価高が続いて人々の生活は苦しくなり、全国的に米騒動がおこりました。宇都宮でも、1918年1月に1石15円の米が、7月には30円を越すといった値上がりを見せています。
このような中で、1923年9月1日、関東大震災が起きました。東京・横浜では大規模な火災が発生し、死者・行方不明者が14万人を超えました。この大災害の中、大谷石で建築された東京の旧帝国ホテルが焼け残り、大谷石は、その耐火性・耐震性の優秀さが認められ、第一級の建築材として一躍有名になりました。
大谷石採掘の歴史は古く、奈良時代の795年に建立された下野国分寺の土台にも使われています。江戸時代には、本多正純の宇都宮城大改築にも利用されたほか、商店の石蔵や釜川の護岸に用いられている様子が『宇陽略記』に描かれています。また、鬼怒川を利用して江戸へ輸送され、隅田川沿いには大谷石をあつかう問屋が16軒あったといわれています。明治に入ると、鉄道の開通など陸上交通の発展にともなって販売網は関東一円に広がりました。しかし、大戦後の不況の中、職工たちは大谷石石材労働組合を組織してストを決行し、深刻な労働争議に発展しました。
大正時代には、大通り沿いに蔵造りの店が並び、1925年には、上野呉服店が東京風の百貨店形式の店を相生町に新築し、バンバのにぎわいともあいまって二荒山神社前が最大の繁華街になりました。また、乗合いバスやタクシー乗務員の洋装が人気を集め、このころには、軍道のサクラも成長し市内随一の名所になりました。
大正15年、市制30周年祝賀式が行われ、八幡山では東洋花火大会が開催されて三尺玉を打ち上げました。この年の人口は72238人、戸数15525戸となり、30年で倍増していますが、一方で、さまざまな都市問題を引き起こすことになりました。
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1868年に終わったものは何ですか?
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1868年に終わったものは前の年号です。
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歴史
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フィリピン群島のほぼ中央に位置するレイテ島。リゾート地として知られるセブ島から高速船で2時間半、観光地化されていない静かな島です。
太平洋戦争末期、当時日本が占領していたこの島にアメリカ軍が上陸して激戦地となりました。
アメリカ軍との壮絶な戦いと飢餓で、大半の将兵が命を落としたと言われています。
この戦場から生還した松本實さんは、101歳になった今、レイテ戦での体験を書き続けています。松本さんが伝え、残したい記憶とは?
【フィリピン・レイテ島の戦い】
1944年10月、日本軍は敗勢を盛り返そうとレイテ島を決戦場に選び、当時の小磯國昭首相はレイテ島の戦いを「日米の雌雄を決する天王山」と位置づけました。
日本軍は急きょ、陸軍の精鋭部隊の第1師団1万3000人を派遣、松本さんも師団副官(師団長の秘書役)としてレイテ島に上陸しました。
当時のレイテ島周辺は、すでにアメリカ軍に制空権も制海権も握られていました。
日本軍は武器や食料を補給できず、圧倒的な戦力差の前に、1944年の暮れには壊滅状態となりました。
第1師団を含む、派遣された8万4000人のうち9割以上の8万人が命を落としました。
【生還した松本實さん 101歳】
松本さんは1920年(大正9年)に、今の東京・新宿区にある、きりだんす店の三男として生まれました。
20歳の時に陸軍の第1師団・野砲第1連隊に入隊します。
野砲とは野戦で使う大砲の事で、当時は馬で引くことが多かったため、馬に触れる任務につきたいと思っていた松本さんには望み通りの配属だったと言います。
入隊直後に旧満州(今の中国東北部)に渡り、幹部候補生として将校に選抜されました。
【レイテ戦の記憶を手記に】
松本さんは去年の夏から戦争での体験を、手記にまとめはじめました。
この1年間、毎日のように部屋にこもって書き続けています。
手が震えるため、手書きではなくワープロで、忘れられない記憶をつづります。
(1944年11月2日 レイテ島上陸の翌日の手記より)
『米軍の集中砲撃が始まる。すぐ近くで兵のうめき声がする。匍匐で行くと兵が倒れ、背を破片で切られ私では手がつけられない。初めての戦死者を見る。』
事前の情報では「先遣部隊がアメリカ軍をおさえている」と聞かされていました。
しかし戦場では、アメリカ軍との圧倒的な戦力の差を目の当たりにします。
レイテ戦で最大の激戦地となった「リモン峠」。
島の南北を結ぶ幹線道路が通り、戦略上重要な意味を持つこの峠をめぐって、11月から12月にかけて激しい戦闘が繰り広げられました。
第1師団は50日間に渡ってこの峠を守りました。
しかしその引き換えに、派遣された1万3000人の将兵のうち、1万人が命を落としました。
この戦闘で、松本さん自身も大けがをします。
何とか司令部にたどり着いたものの、雨のように降り注ぐアメリカ軍の砲弾の中、2人を助けに戻ることはできませんでした。
「そこにいろ」と命じておきながら…。
【「生き残った者の責務だから」】
松本さんは、今は娘と孫の家族と暮らしています。
毎朝、自宅の仏壇と神棚に手を合わせ、戦友の冥福を祈る事から一日が始まります。
戦後、松本さんたち第1師団の生還者は、戦死した日時が確認できない多くの戦友の命日を7月1日としました。
そして、毎年この日には浅草寺に、またレイテ島に上陸した11月1日には靖国神社に、欠かさずに慰霊のための参拝をしています。
それが生き残った者の責務だと言います。
松本さんが何よりも大切にしているのがレイテ島への訪問です。
戦後、松本さんには家族ができ子や孫に恵まれましたが、戦友の多くは20代前半で独身のままこの世を去りました。
戦死した仲間の魂を慰めることができるのは自分だけになってしまったと、新型コロナウイルスの感染が拡大する前は、毎年のようにレイテ島を訪れていました。
【「迎えに来たぞ!」】
松本さんが戦後初めてレイテ島を訪れることができたのは、終戦から四半世紀がたってからでした。
当時の厚生省が行った遺骨収集に案内役として参加しました。
約100万人の国民が戦争の犠牲になったフィリピンでは、反日感情が強く、戦後しばらくは旧日本軍の軍人の入国が認められていなかったのです。
久しぶりに訪れたレイテ島は、松本さんが戦時中に見た、焼けて地形があらわになった景色とは全く違いました。
草木が生い茂るジャングルを、現地の人の証言をもとに1週間歩き回りました。
松本さんが残した当時の記録には、この時だけで2495体の遺骨を収容したと書かれています。
中でも忘れられないのは、5人の兵士の遺骨を見つけた時のことだと言います。
積まれた石に身を隠すように、地面に伏せて機関銃を構えた状態で白骨化していました。
そこだけは戦闘が続いているように見えました。
20年以上、骨になっても銃を構え続けていたのです。
「迎えに来たぞ!」と、松本さんは夢中になって骨を集めたと言います。
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松本さんが戦後初めて島を訪れることができたのは、終戦から何年たってからですか?
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松本さんが戦後初めて島を訪れることができたのは、終戦から25年たってからです。
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歴史
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【杉原千畝】
1900年(明治33)1月1日生まれ 領事館員のち外交官
杉原千畝は第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスで、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人たちにビザを発給し、約6,000人のユダヤ人難民を救ったといわれる。杉原の発給したビザは「命のビザ」とよばれ、このビザで救われた人たちはその子孫も合わせて現在25万人以上にも及ぶと言われ、世界各国で活躍している。
海外では、チウネ・センポ・スギハラ、と呼ばれる。「センポ」と音読みで呼ばれた理由は主に「ちうね」という発音が難しく、千畝自身がユダヤ人に「センポ」と呼ばせたとされている。
【1939年~1940年の東ヨーロッパとユダヤ系ポーランド避難民】
リトアニアにおいては、1940年7月より数多くの主としてユダヤ系ポーランド人の避難民が、日本通過ビザを得るため日本領事館へ殺到していたが、その大多数は日本政府が定めていた外国人入国令による通過ビザの発給要件を満たしていない者であった。ヨーロッパにおける戦争勃発後という切迫した状況のなか、杉原千畝は外交官としての服務規律と人命救助の間で葛藤する。しかし、最終的には人道主義・博愛精神に基づく独断により、要件を満たしていない避難民に対しても、大量の日本通過ビザを発給した。日本通過ビザの発給を受けた避難民はその後、シベリア鉄道でソ連を横断し日本へ渡り、さらにアメリカ大陸や上海などへと逃避しその命が救われた。
杉原がリトアニア国のカウナスに日本領事館開設のため領事代理として赴任した1939年8月は、第二次世界大戦が勃発する直前であった。ヨーロッパにおける戦禍は、1939年9月のナチス・ドイツによるポーランド侵攻により始まり、1940年4月以降の同国によるデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスへの侵攻と広がっていき、無数の避難民が発生した。特に、ユダヤ系の人々は、1933年にドイツにおけるナチスの独裁政権の成立と同時に「ユダヤ人排斥運動」が始まって以降、後にホロコーストと称されることとなる厳しい迫害政策の対象となっていた。
とりわけポーランドにおいては、当時ヨーロッパ最大のユダヤ系社会を有していたことから、同国が1939年9月にナチス・ドイツとソ連に分割されて以降、多数のユダヤ系ポーランド人が避難民として迫害から逃れようとした。それら避難民があらゆる方面に脱出を試みるなか、一部は、ソ連支配下のポーランド領ヴィリニュスが1939年10月にリトアニアに返還されるに伴い、当時はまだ独立した中立国であったリトアニアに逃げ込むことに成功した。しかし、同国も、1940年に6月にソ連軍が進駐し、同年8月にソ連に実質的に併合されることとなり、彼らは再び逃避を余儀なくされた。
【通過ビザ発給の経緯】
杉原による日本通過ビザは、このような切迫した状況において大量発給されたものである。本人により晩年にまとめられた手記 によると、多数の避難民が日本領事館に通過ビザを求めて殺到し始めたのは、1940年7月18日の朝である。リトアニアにおいては前日に行われた総選挙により親ソ政権が樹立しており、同国はソ連の完全な支配下におかれるとの認識が広まっていた。また、当時は上述のとおりナチス・ドイツにより西および北ヨーロッパが制圧されていたことなどにより、避難民にとりヨーロッパからの脱出ルートとしては、東のソ連・シベリア経由で日本に渡り、さらに第三国を目指すルートしか実質的に残されていない極めて追い詰められた状況であった。さらに、在リトアニアの各国公館はソ連から8月末日までの閉鎖を要請されており、当時の実質的な首都であったカウナスにおいて続々と閉館されている状況であり、避難民にとっては国外脱出のための必須条件であるビザ取得が日々困難になっていく状態であった。
当時の日本における外国人入国令によると、日本通過ビザの発給には、パスポートの所持、行先国の入国許可と十分な旅費の所持がその主たる発給要件であり、通常であれば在外公館の判断で可能であった。しかし、上述の手記によると、日本領事館に殺到していた避難民はいずれの要件も充たしていない者が多く、また、その数が極めて多数であったため、避難民からの要請を受けて直ちに、外務本省に対し2度に渡り、通過ビザ発給の可否についての請訓電報を送っている。その内容は、人道上どうしても拒否できないことを記したうえで、形式要件に拘泥せず領事の裁量によって通過ビザを発給する許可を求めたものであるが、それらは本省により否決されたとのことである。
【ビザ発給後の杉原千畝】
1947年、杉原は家族を連れて日本に引きあげてくるが、帰国した彼を待っていたのは、独断でビザを発給したことの責任による外務省からの辞職勧告であった。
杉原千畝自筆手記によれば、「本件について、私が今日まで余り語らないのは、カウナスでのビザ発給が、博愛人道精神から決行したことではあっても、暴徒に近い大群衆の請いを容れると同時にそれは、本省訓令の無視であり、従って終戦後の引揚げ(昭和三二年四月の事)、帰国と同時に、このかどにより四七才で依願免官となった思い出に、つながるからであります。」とある。
その後の杉原は、商社等の現地駐在員として日々を送り、ビザのことは自ら語ることはなかった。しかし、1968年8月、突然に杉原へ一人のユダヤ人から連絡があった。杉原と会ったイスラエル大使館のニシュリ参事官は、ボロボロになった当時のビザを手にし、涙をこぼして杉原に感謝の言葉をのべた。「ミスター・スギハラ、私たちはあなたのことを忘れたことはありません。」世界中のユダヤ人たちは、杉原のことを探し続けていたのであった。翌年、彼らを救った功績から、ビザの受給者でもあるバルハフティク・イスラエル宗教大臣と面会する。さらに、1974年に「イスラエル建国の恩人」として表彰される。1985年には、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受賞した。
2000年10月10日、日本国政府による公式な杉原の名誉回復が行われた。
【年表】
1900年
(明治33年) 岐阜県加茂郡八百津町北山に杉原好水とその妻やつの次男として誕生する
1918年
(大正7年) 早稲田大学高等師範部(現在の教育学部)英語科予科に入学
1919年
(大正8年) 外務省留学生採用試験に合格
外務省ロシア語留学生としてハルピンに留学
1924年
(大正13年) 外務省書記生として採用
在ハルピン総領事館の勤務を命ぜられる
1932年
(昭和7年) 満州国外交部特派員公署事務官に任命
1935年
(昭和10年) 北満州鉄道の譲渡交渉で活躍する
1936年
(昭和11年) 菊池幸子と結婚
1937年
(昭和12年) フィンランドのヘルシンキ公使館に赴任
1939年
(昭和14) リトアニア・カウナス日本領事館領事代理に任命
1940年
(昭和15年) ユダヤ人難民が領事館に集まる
ユダヤ人難民に大量のビザ発給を始める
領事館閉鎖後ホテルへ移動する
カウナス駅からベルリンに向かう
総領事代理としてプラハに赴任
1941年
(昭和16年) 東プロイセン・ケーニヒスベルク日本総領事館に赴任
ルーマニア・ブカレスト日本公使館に赴任
1945年
(昭和20年) ブカレストの捕虜収容所に入る
1947年~1960年
(昭和22年) ウラジオストクから興安丸で博多港に上陸 外務省を退職 PX支配人、ニコライ堂ロシア語教授、翻訳業など職場を転々とする
1960年
(昭和35年) 貿易会社に就職し、ロシアに駐在する
1968年
(昭和43年) ユダヤ人難民だったニシュリと再会
1969年
(昭和44年) イスラエルで宗教大臣のバルハフティグ氏と再会する
同氏は千畝が独断でビザを発給したことを初めて知る
1977年
(昭和52年) 国際交易(株)を退社、モスクワより帰国
1985年
(昭和60年) イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受賞
1986年
(昭和61年) 鎌倉にて永眠(享年86歳)
2000年
(平成12年10月10日) 日本国政府による公式な杉原の名誉回復
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1947年から1960年までの間、この人物は複数の職場で働きましたか?
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はい、1947年から1960年までの間、この人物は複数の職場で働きました。
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JCRRAG_003969
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歴史
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【杉原千畝】
1900年(明治33)1月1日生まれ 領事館員のち外交官
杉原千畝は第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスで、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人たちにビザを発給し、約6,000人のユダヤ人難民を救ったといわれる。杉原の発給したビザは「命のビザ」とよばれ、このビザで救われた人たちはその子孫も合わせて現在25万人以上にも及ぶと言われ、世界各国で活躍している。
海外では、チウネ・センポ・スギハラ、と呼ばれる。「センポ」と音読みで呼ばれた理由は主に「ちうね」という発音が難しく、千畝自身がユダヤ人に「センポ」と呼ばせたとされている。
【1939年~1940年の東ヨーロッパとユダヤ系ポーランド避難民】
リトアニアにおいては、1940年7月より数多くの主としてユダヤ系ポーランド人の避難民が、日本通過ビザを得るため日本領事館へ殺到していたが、その大多数は日本政府が定めていた外国人入国令による通過ビザの発給要件を満たしていない者であった。ヨーロッパにおける戦争勃発後という切迫した状況のなか、杉原千畝は外交官としての服務規律と人命救助の間で葛藤する。しかし、最終的には人道主義・博愛精神に基づく独断により、要件を満たしていない避難民に対しても、大量の日本通過ビザを発給した。日本通過ビザの発給を受けた避難民はその後、シベリア鉄道でソ連を横断し日本へ渡り、さらにアメリカ大陸や上海などへと逃避しその命が救われた。
杉原がリトアニア国のカウナスに日本領事館開設のため領事代理として赴任した1939年8月は、第二次世界大戦が勃発する直前であった。ヨーロッパにおける戦禍は、1939年9月のナチス・ドイツによるポーランド侵攻により始まり、1940年4月以降の同国によるデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスへの侵攻と広がっていき、無数の避難民が発生した。特に、ユダヤ系の人々は、1933年にドイツにおけるナチスの独裁政権の成立と同時に「ユダヤ人排斥運動」が始まって以降、後にホロコーストと称されることとなる厳しい迫害政策の対象となっていた。
とりわけポーランドにおいては、当時ヨーロッパ最大のユダヤ系社会を有していたことから、同国が1939年9月にナチス・ドイツとソ連に分割されて以降、多数のユダヤ系ポーランド人が避難民として迫害から逃れようとした。それら避難民があらゆる方面に脱出を試みるなか、一部は、ソ連支配下のポーランド領ヴィリニュスが1939年10月にリトアニアに返還されるに伴い、当時はまだ独立した中立国であったリトアニアに逃げ込むことに成功した。しかし、同国も、1940年に6月にソ連軍が進駐し、同年8月にソ連に実質的に併合されることとなり、彼らは再び逃避を余儀なくされた。
【通過ビザ発給の経緯】
杉原による日本通過ビザは、このような切迫した状況において大量発給されたものである。本人により晩年にまとめられた手記 によると、多数の避難民が日本領事館に通過ビザを求めて殺到し始めたのは、1940年7月18日の朝である。リトアニアにおいては前日に行われた総選挙により親ソ政権が樹立しており、同国はソ連の完全な支配下におかれるとの認識が広まっていた。また、当時は上述のとおりナチス・ドイツにより西および北ヨーロッパが制圧されていたことなどにより、避難民にとりヨーロッパからの脱出ルートとしては、東のソ連・シベリア経由で日本に渡り、さらに第三国を目指すルートしか実質的に残されていない極めて追い詰められた状況であった。さらに、在リトアニアの各国公館はソ連から8月末日までの閉鎖を要請されており、当時の実質的な首都であったカウナスにおいて続々と閉館されている状況であり、避難民にとっては国外脱出のための必須条件であるビザ取得が日々困難になっていく状態であった。
当時の日本における外国人入国令によると、日本通過ビザの発給には、パスポートの所持、行先国の入国許可と十分な旅費の所持がその主たる発給要件であり、通常であれば在外公館の判断で可能であった。しかし、上述の手記によると、日本領事館に殺到していた避難民はいずれの要件も充たしていない者が多く、また、その数が極めて多数であったため、避難民からの要請を受けて直ちに、外務本省に対し2度に渡り、通過ビザ発給の可否についての請訓電報を送っている。その内容は、人道上どうしても拒否できないことを記したうえで、形式要件に拘泥せず領事の裁量によって通過ビザを発給する許可を求めたものであるが、それらは本省により否決されたとのことである。
【ビザ発給後の杉原千畝】
1947年、杉原は家族を連れて日本に引きあげてくるが、帰国した彼を待っていたのは、独断でビザを発給したことの責任による外務省からの辞職勧告であった。
杉原千畝自筆手記によれば、「本件について、私が今日まで余り語らないのは、カウナスでのビザ発給が、博愛人道精神から決行したことではあっても、暴徒に近い大群衆の請いを容れると同時にそれは、本省訓令の無視であり、従って終戦後の引揚げ(昭和三二年四月の事)、帰国と同時に、このかどにより四七才で依願免官となった思い出に、つながるからであります。」とある。
その後の杉原は、商社等の現地駐在員として日々を送り、ビザのことは自ら語ることはなかった。しかし、1968年8月、突然に杉原へ一人のユダヤ人から連絡があった。杉原と会ったイスラエル大使館のニシュリ参事官は、ボロボロになった当時のビザを手にし、涙をこぼして杉原に感謝の言葉をのべた。「ミスター・スギハラ、私たちはあなたのことを忘れたことはありません。」世界中のユダヤ人たちは、杉原のことを探し続けていたのであった。翌年、彼らを救った功績から、ビザの受給者でもあるバルハフティク・イスラエル宗教大臣と面会する。さらに、1974年に「イスラエル建国の恩人」として表彰される。1985年には、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受賞した。
2000年10月10日、日本国政府による公式な杉原の名誉回復が行われた。
【年表】
1900年
(明治33年) 岐阜県加茂郡八百津町北山に杉原好水とその妻やつの次男として誕生する
1918年
(大正7年) 早稲田大学高等師範部(現在の教育学部)英語科予科に入学
1919年
(大正8年) 外務省留学生採用試験に合格
外務省ロシア語留学生としてハルピンに留学
1924年
(大正13年) 外務省書記生として採用
在ハルピン総領事館の勤務を命ぜられる
1932年
(昭和7年) 満州国外交部特派員公署事務官に任命
1935年
(昭和10年) 北満州鉄道の譲渡交渉で活躍する
1936年
(昭和11年) 菊池幸子と結婚
1937年
(昭和12年) フィンランドのヘルシンキ公使館に赴任
1939年
(昭和14) リトアニア・カウナス日本領事館領事代理に任命
1940年
(昭和15年) ユダヤ人難民が領事館に集まる
ユダヤ人難民に大量のビザ発給を始める
領事館閉鎖後ホテルへ移動する
カウナス駅からベルリンに向かう
総領事代理としてプラハに赴任
1941年
(昭和16年) 東プロイセン・ケーニヒスベルク日本総領事館に赴任
ルーマニア・ブカレスト日本公使館に赴任
1945年
(昭和20年) ブカレストの捕虜収容所に入る
1947年~1960年
(昭和22年) ウラジオストクから興安丸で博多港に上陸 外務省を退職 PX支配人、ニコライ堂ロシア語教授、翻訳業など職場を転々とする
1960年
(昭和35年) 貿易会社に就職し、ロシアに駐在する
1968年
(昭和43年) ユダヤ人難民だったニシュリと再会
1969年
(昭和44年) イスラエルで宗教大臣のバルハフティグ氏と再会する
同氏は千畝が独断でビザを発給したことを初めて知る
1977年
(昭和52年) 国際交易(株)を退社、モスクワより帰国
1985年
(昭和60年) イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受賞
1986年
(昭和61年) 鎌倉にて永眠(享年86歳)
2000年
(平成12年10月10日) 日本国政府による公式な杉原の名誉回復
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この人物は外国で何と呼ばれていますか?
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この人物は外国でチウネ・センポ・スギハラと呼ばれています。
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歴史
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【杉原千畝】
1900年(明治33)1月1日生まれ 領事館員のち外交官
杉原千畝は第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスで、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人たちにビザを発給し、約6,000人のユダヤ人難民を救ったといわれる。杉原の発給したビザは「命のビザ」とよばれ、このビザで救われた人たちはその子孫も合わせて現在25万人以上にも及ぶと言われ、世界各国で活躍している。
海外では、チウネ・センポ・スギハラ、と呼ばれる。「センポ」と音読みで呼ばれた理由は主に「ちうね」という発音が難しく、千畝自身がユダヤ人に「センポ」と呼ばせたとされている。
【1939年~1940年の東ヨーロッパとユダヤ系ポーランド避難民】
リトアニアにおいては、1940年7月より数多くの主としてユダヤ系ポーランド人の避難民が、日本通過ビザを得るため日本領事館へ殺到していたが、その大多数は日本政府が定めていた外国人入国令による通過ビザの発給要件を満たしていない者であった。ヨーロッパにおける戦争勃発後という切迫した状況のなか、杉原千畝は外交官としての服務規律と人命救助の間で葛藤する。しかし、最終的には人道主義・博愛精神に基づく独断により、要件を満たしていない避難民に対しても、大量の日本通過ビザを発給した。日本通過ビザの発給を受けた避難民はその後、シベリア鉄道でソ連を横断し日本へ渡り、さらにアメリカ大陸や上海などへと逃避しその命が救われた。
杉原がリトアニア国のカウナスに日本領事館開設のため領事代理として赴任した1939年8月は、第二次世界大戦が勃発する直前であった。ヨーロッパにおける戦禍は、1939年9月のナチス・ドイツによるポーランド侵攻により始まり、1940年4月以降の同国によるデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスへの侵攻と広がっていき、無数の避難民が発生した。特に、ユダヤ系の人々は、1933年にドイツにおけるナチスの独裁政権の成立と同時に「ユダヤ人排斥運動」が始まって以降、後にホロコーストと称されることとなる厳しい迫害政策の対象となっていた。
とりわけポーランドにおいては、当時ヨーロッパ最大のユダヤ系社会を有していたことから、同国が1939年9月にナチス・ドイツとソ連に分割されて以降、多数のユダヤ系ポーランド人が避難民として迫害から逃れようとした。それら避難民があらゆる方面に脱出を試みるなか、一部は、ソ連支配下のポーランド領ヴィリニュスが1939年10月にリトアニアに返還されるに伴い、当時はまだ独立した中立国であったリトアニアに逃げ込むことに成功した。しかし、同国も、1940年に6月にソ連軍が進駐し、同年8月にソ連に実質的に併合されることとなり、彼らは再び逃避を余儀なくされた。
【通過ビザ発給の経緯】
杉原による日本通過ビザは、このような切迫した状況において大量発給されたものである。本人により晩年にまとめられた手記 によると、多数の避難民が日本領事館に通過ビザを求めて殺到し始めたのは、1940年7月18日の朝である。リトアニアにおいては前日に行われた総選挙により親ソ政権が樹立しており、同国はソ連の完全な支配下におかれるとの認識が広まっていた。また、当時は上述のとおりナチス・ドイツにより西および北ヨーロッパが制圧されていたことなどにより、避難民にとりヨーロッパからの脱出ルートとしては、東のソ連・シベリア経由で日本に渡り、さらに第三国を目指すルートしか実質的に残されていない極めて追い詰められた状況であった。さらに、在リトアニアの各国公館はソ連から8月末日までの閉鎖を要請されており、当時の実質的な首都であったカウナスにおいて続々と閉館されている状況であり、避難民にとっては国外脱出のための必須条件であるビザ取得が日々困難になっていく状態であった。
当時の日本における外国人入国令によると、日本通過ビザの発給には、パスポートの所持、行先国の入国許可と十分な旅費の所持がその主たる発給要件であり、通常であれば在外公館の判断で可能であった。しかし、上述の手記によると、日本領事館に殺到していた避難民はいずれの要件も充たしていない者が多く、また、その数が極めて多数であったため、避難民からの要請を受けて直ちに、外務本省に対し2度に渡り、通過ビザ発給の可否についての請訓電報を送っている。その内容は、人道上どうしても拒否できないことを記したうえで、形式要件に拘泥せず領事の裁量によって通過ビザを発給する許可を求めたものであるが、それらは本省により否決されたとのことである。
【ビザ発給後の杉原千畝】
1947年、杉原は家族を連れて日本に引きあげてくるが、帰国した彼を待っていたのは、独断でビザを発給したことの責任による外務省からの辞職勧告であった。
杉原千畝自筆手記によれば、「本件について、私が今日まで余り語らないのは、カウナスでのビザ発給が、博愛人道精神から決行したことではあっても、暴徒に近い大群衆の請いを容れると同時にそれは、本省訓令の無視であり、従って終戦後の引揚げ(昭和三二年四月の事)、帰国と同時に、このかどにより四七才で依願免官となった思い出に、つながるからであります。」とある。
その後の杉原は、商社等の現地駐在員として日々を送り、ビザのことは自ら語ることはなかった。しかし、1968年8月、突然に杉原へ一人のユダヤ人から連絡があった。杉原と会ったイスラエル大使館のニシュリ参事官は、ボロボロになった当時のビザを手にし、涙をこぼして杉原に感謝の言葉をのべた。「ミスター・スギハラ、私たちはあなたのことを忘れたことはありません。」世界中のユダヤ人たちは、杉原のことを探し続けていたのであった。翌年、彼らを救った功績から、ビザの受給者でもあるバルハフティク・イスラエル宗教大臣と面会する。さらに、1974年に「イスラエル建国の恩人」として表彰される。1985年には、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受賞した。
2000年10月10日、日本国政府による公式な杉原の名誉回復が行われた。
【年表】
1900年
(明治33年) 岐阜県加茂郡八百津町北山に杉原好水とその妻やつの次男として誕生する
1918年
(大正7年) 早稲田大学高等師範部(現在の教育学部)英語科予科に入学
1919年
(大正8年) 外務省留学生採用試験に合格
外務省ロシア語留学生としてハルピンに留学
1924年
(大正13年) 外務省書記生として採用
在ハルピン総領事館の勤務を命ぜられる
1932年
(昭和7年) 満州国外交部特派員公署事務官に任命
1935年
(昭和10年) 北満州鉄道の譲渡交渉で活躍する
1936年
(昭和11年) 菊池幸子と結婚
1937年
(昭和12年) フィンランドのヘルシンキ公使館に赴任
1939年
(昭和14) リトアニア・カウナス日本領事館領事代理に任命
1940年
(昭和15年) ユダヤ人難民が領事館に集まる
ユダヤ人難民に大量のビザ発給を始める
領事館閉鎖後ホテルへ移動する
カウナス駅からベルリンに向かう
総領事代理としてプラハに赴任
1941年
(昭和16年) 東プロイセン・ケーニヒスベルク日本総領事館に赴任
ルーマニア・ブカレスト日本公使館に赴任
1945年
(昭和20年) ブカレストの捕虜収容所に入る
1947年~1960年
(昭和22年) ウラジオストクから興安丸で博多港に上陸 外務省を退職 PX支配人、ニコライ堂ロシア語教授、翻訳業など職場を転々とする
1960年
(昭和35年) 貿易会社に就職し、ロシアに駐在する
1968年
(昭和43年) ユダヤ人難民だったニシュリと再会
1969年
(昭和44年) イスラエルで宗教大臣のバルハフティグ氏と再会する
同氏は千畝が独断でビザを発給したことを初めて知る
1977年
(昭和52年) 国際交易(株)を退社、モスクワより帰国
1985年
(昭和60年) イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受賞
1986年
(昭和61年) 鎌倉にて永眠(享年86歳)
2000年
(平成12年10月10日) 日本国政府による公式な杉原の名誉回復
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この日本の外交官の両親は誰ですか?
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この日本の外交官の両親は杉原好水とその妻やつです。
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歴史
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【杉原千畝】
1900年(明治33)1月1日生まれ 領事館員のち外交官
杉原千畝は第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスで、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人たちにビザを発給し、約6,000人のユダヤ人難民を救ったといわれる。杉原の発給したビザは「命のビザ」とよばれ、このビザで救われた人たちはその子孫も合わせて現在25万人以上にも及ぶと言われ、世界各国で活躍している。
海外では、チウネ・センポ・スギハラ、と呼ばれる。「センポ」と音読みで呼ばれた理由は主に「ちうね」という発音が難しく、千畝自身がユダヤ人に「センポ」と呼ばせたとされている。
【1939年~1940年の東ヨーロッパとユダヤ系ポーランド避難民】
リトアニアにおいては、1940年7月より数多くの主としてユダヤ系ポーランド人の避難民が、日本通過ビザを得るため日本領事館へ殺到していたが、その大多数は日本政府が定めていた外国人入国令による通過ビザの発給要件を満たしていない者であった。ヨーロッパにおける戦争勃発後という切迫した状況のなか、杉原千畝は外交官としての服務規律と人命救助の間で葛藤する。しかし、最終的には人道主義・博愛精神に基づく独断により、要件を満たしていない避難民に対しても、大量の日本通過ビザを発給した。日本通過ビザの発給を受けた避難民はその後、シベリア鉄道でソ連を横断し日本へ渡り、さらにアメリカ大陸や上海などへと逃避しその命が救われた。
杉原がリトアニア国のカウナスに日本領事館開設のため領事代理として赴任した1939年8月は、第二次世界大戦が勃発する直前であった。ヨーロッパにおける戦禍は、1939年9月のナチス・ドイツによるポーランド侵攻により始まり、1940年4月以降の同国によるデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスへの侵攻と広がっていき、無数の避難民が発生した。特に、ユダヤ系の人々は、1933年にドイツにおけるナチスの独裁政権の成立と同時に「ユダヤ人排斥運動」が始まって以降、後にホロコーストと称されることとなる厳しい迫害政策の対象となっていた。
とりわけポーランドにおいては、当時ヨーロッパ最大のユダヤ系社会を有していたことから、同国が1939年9月にナチス・ドイツとソ連に分割されて以降、多数のユダヤ系ポーランド人が避難民として迫害から逃れようとした。それら避難民があらゆる方面に脱出を試みるなか、一部は、ソ連支配下のポーランド領ヴィリニュスが1939年10月にリトアニアに返還されるに伴い、当時はまだ独立した中立国であったリトアニアに逃げ込むことに成功した。しかし、同国も、1940年に6月にソ連軍が進駐し、同年8月にソ連に実質的に併合されることとなり、彼らは再び逃避を余儀なくされた。
【通過ビザ発給の経緯】
杉原による日本通過ビザは、このような切迫した状況において大量発給されたものである。本人により晩年にまとめられた手記 によると、多数の避難民が日本領事館に通過ビザを求めて殺到し始めたのは、1940年7月18日の朝である。リトアニアにおいては前日に行われた総選挙により親ソ政権が樹立しており、同国はソ連の完全な支配下におかれるとの認識が広まっていた。また、当時は上述のとおりナチス・ドイツにより西および北ヨーロッパが制圧されていたことなどにより、避難民にとりヨーロッパからの脱出ルートとしては、東のソ連・シベリア経由で日本に渡り、さらに第三国を目指すルートしか実質的に残されていない極めて追い詰められた状況であった。さらに、在リトアニアの各国公館はソ連から8月末日までの閉鎖を要請されており、当時の実質的な首都であったカウナスにおいて続々と閉館されている状況であり、避難民にとっては国外脱出のための必須条件であるビザ取得が日々困難になっていく状態であった。
当時の日本における外国人入国令によると、日本通過ビザの発給には、パスポートの所持、行先国の入国許可と十分な旅費の所持がその主たる発給要件であり、通常であれば在外公館の判断で可能であった。しかし、上述の手記によると、日本領事館に殺到していた避難民はいずれの要件も充たしていない者が多く、また、その数が極めて多数であったため、避難民からの要請を受けて直ちに、外務本省に対し2度に渡り、通過ビザ発給の可否についての請訓電報を送っている。その内容は、人道上どうしても拒否できないことを記したうえで、形式要件に拘泥せず領事の裁量によって通過ビザを発給する許可を求めたものであるが、それらは本省により否決されたとのことである。
【ビザ発給後の杉原千畝】
1947年、杉原は家族を連れて日本に引きあげてくるが、帰国した彼を待っていたのは、独断でビザを発給したことの責任による外務省からの辞職勧告であった。
杉原千畝自筆手記によれば、「本件について、私が今日まで余り語らないのは、カウナスでのビザ発給が、博愛人道精神から決行したことではあっても、暴徒に近い大群衆の請いを容れると同時にそれは、本省訓令の無視であり、従って終戦後の引揚げ(昭和三二年四月の事)、帰国と同時に、このかどにより四七才で依願免官となった思い出に、つながるからであります。」とある。
その後の杉原は、商社等の現地駐在員として日々を送り、ビザのことは自ら語ることはなかった。しかし、1968年8月、突然に杉原へ一人のユダヤ人から連絡があった。杉原と会ったイスラエル大使館のニシュリ参事官は、ボロボロになった当時のビザを手にし、涙をこぼして杉原に感謝の言葉をのべた。「ミスター・スギハラ、私たちはあなたのことを忘れたことはありません。」世界中のユダヤ人たちは、杉原のことを探し続けていたのであった。翌年、彼らを救った功績から、ビザの受給者でもあるバルハフティク・イスラエル宗教大臣と面会する。さらに、1974年に「イスラエル建国の恩人」として表彰される。1985年には、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受賞した。
2000年10月10日、日本国政府による公式な杉原の名誉回復が行われた。
【年表】
1900年
(明治33年) 岐阜県加茂郡八百津町北山に杉原好水とその妻やつの次男として誕生する
1918年
(大正7年) 早稲田大学高等師範部(現在の教育学部)英語科予科に入学
1919年
(大正8年) 外務省留学生採用試験に合格
外務省ロシア語留学生としてハルピンに留学
1924年
(大正13年) 外務省書記生として採用
在ハルピン総領事館の勤務を命ぜられる
1932年
(昭和7年) 満州国外交部特派員公署事務官に任命
1935年
(昭和10年) 北満州鉄道の譲渡交渉で活躍する
1936年
(昭和11年) 菊池幸子と結婚
1937年
(昭和12年) フィンランドのヘルシンキ公使館に赴任
1939年
(昭和14) リトアニア・カウナス日本領事館領事代理に任命
1940年
(昭和15年) ユダヤ人難民が領事館に集まる
ユダヤ人難民に大量のビザ発給を始める
領事館閉鎖後ホテルへ移動する
カウナス駅からベルリンに向かう
総領事代理としてプラハに赴任
1941年
(昭和16年) 東プロイセン・ケーニヒスベルク日本総領事館に赴任
ルーマニア・ブカレスト日本公使館に赴任
1945年
(昭和20年) ブカレストの捕虜収容所に入る
1947年~1960年
(昭和22年) ウラジオストクから興安丸で博多港に上陸 外務省を退職 PX支配人、ニコライ堂ロシア語教授、翻訳業など職場を転々とする
1960年
(昭和35年) 貿易会社に就職し、ロシアに駐在する
1968年
(昭和43年) ユダヤ人難民だったニシュリと再会
1969年
(昭和44年) イスラエルで宗教大臣のバルハフティグ氏と再会する
同氏は千畝が独断でビザを発給したことを初めて知る
1977年
(昭和52年) 国際交易(株)を退社、モスクワより帰国
1985年
(昭和60年) イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受賞
1986年
(昭和61年) 鎌倉にて永眠(享年86歳)
2000年
(平成12年10月10日) 日本国政府による公式な杉原の名誉回復
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この人物が国際交易(株)を辞めた年は何年ですか?
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この人物が国際交易(株)を辞めた年は1977年です。
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歴史
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原子爆弾(原爆)は1945年8月6日に広島に、9日に長崎に投下され、同年末までに広島でおよそ14万人、長崎でおよそ7万人が亡くなりました。戦争が終わってからも、放射線によって多くの人々が苦しめられました。
【ドイツが降伏し日本への投下が決まった】
原爆は当初、日本への使用を想定して開発されたものではありませんでした。ナチス・ドイツの原爆開発を恐れたアインシュタイン博士らが、アメリカのルーズベルト大統領に研究を進言、1942年に大統領が開発計画を承認しました。原爆が完成する前にドイツが降伏したため、日本への使用が決まったのです。
【広島への空襲を控えていたアメリカ その理由とは】
アメリカは投下する都市を絞り込み、広島市が第一目標となりました。当時アメリカは焼夷弾による空襲を行い、東京、大阪から中小都市にいたるまで壊滅的な被害を与えていましたが、広島への空襲を控えました。原爆の威力を測定するために“温存”したのです。
8月6日午前8時15分、アメリカの爆撃機が広島市に原爆を投下、上空600メートルで炸裂させました。広島は広大な軍事施設を抱える軍都でしたが、およそ35万人が生活する街でもありました。その人々を、爆風、熱線、放射線が襲ったのです。
【至近距離で被爆した中学生たち】
原爆がどのような被害をもたらしたのか、ある中学校を例にみていきます。
広島県立第一中学校の1年生のうち、半数の150人は、原爆がさく裂した地点(爆心地)から900メートルほどの屋外で作業をしていました。強烈な熱線で生徒の皮膚は焼けただれ、全身に致命的なやけどを負いました。さらに、爆風によって地面に叩きつけられたり、飛んできたがれきによって傷つけられたりしました。また、この地点には致死量の放射線が降り注いでもいました。生存できた生徒は1人もいません。
もう半数の150人は、爆心地から900メートル弱の場所にあった校舎で自習をしていました。爆風で木造の建物は押しつぶされ、生徒たちは下敷きになりました。熱線によって、崩れた建物に火がつき、生徒は「お母さん」「天皇陛下万歳」などと叫びながら焼かれていきました。
下敷きになった150人のうち、数十人は何とか脱出し家族のもとに帰ることができましたが、1週間経つと頭髪が抜け、歯ぐきから出血するなどの症状が現れました。建物を通り抜けた放射線が、生徒たちの細胞を傷つけていたためです。白血球がつくれなくなるなどして、免疫機能が極度に低下し、感染症に襲われました。また、全身で内出血が起こって体中に斑点が生じ、腸の内部が崩れるなどして、下血が始まりました。生徒たちは衰弱し、亡くなっていきました。
原爆では、行方不明となった人も大勢います。軍隊、役場、警察、医療機関などが壊滅的な被害を受けたために、いつ、どこで、誰が亡くなったのか、記録もほとんどないのです。広島市の原爆供養塔には、引き取り手のない7万柱の遺骨がいまも安置されています。
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この爆弾が投下された結果、広島において、1945年の何月何日までにおよそ14万人が亡くなりましたか?
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この爆弾が投下された結果、広島において、1945年の12月31日までにおよそ14万人が亡くなりました。
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JCRRAG_003973
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歴史
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【沖縄戦とは】
沖縄戦は、太平洋戦争末期の1945年、南西諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連合軍と日本軍との間で行われた戦いでした。
沖縄戦は1945年3月26日の慶良間諸島米軍上陸から始まり、主要な戦闘は沖縄本島で行われました。沖縄守備軍(第32軍)の任務は、南西諸島を本土として守りぬくことではなく、出血消耗によって米軍を沖縄に釘付けし、国体護持・本土決戦に備えることでありました。
【米軍本島上陸】
米軍は、沖縄本島上陸前の1週間の間で約40,000発の砲弾を撃ち込み、1,600機の艦載機で爆撃・機銃を加えたといわれています。そして、4月1日、本島中部西海岸(北谷村、読谷村)から日本軍の抵抗をほとんど受けることなく、無血上陸に成功し、米軍は、その日の午後2時頃には北飛行場(読谷飛行場)と中飛行場(嘉手納飛行場)を占領し、翌2日ないし3日には石川や泡瀬方面の東海岸まで到達して本島を二分する作戦にでました。そして、4月5日頃までには宜野湾村宜野湾以北の中部一帯をほぼ制圧したのです。
【日本軍主戦力の8割を失う】
米軍の主力は、4月7日頃から沖縄守備軍の陣取っていた首里方面をめざして総攻撃開始。これに対し、日本軍は首里陣地本部を死守しようと反撃し、日米両軍は首里北方の浦添村前田、宜野湾村の嘉数高地を中心に一進一退の攻防戦を40日間も展開し、この戦闘で日本軍は主戦力の8割を失い、5月下旬、首里を放棄して本島南端の摩文仁へ撤退しました。
【沖縄戦の終結】
沖縄戦の降伏調印式は、沖縄市の前身である旧越来村森根(現、嘉手納飛行場)で行われました。米第10軍の司令部が置かれていた旧越来村森根に、宮古島の第28師団長・納見中将、奄美大島から高田少将、加藤少将らが呼ばれ、正式に降伏調印式が執行されました。1945年(昭和20年)9月7日のことであります。
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米軍の主力が総攻撃を開始した時期の日本の季節は何ですか?
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米軍の主力が総攻撃を開始した時期の日本の季節は春です。
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歴史
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【沖縄戦とは】
沖縄戦は、太平洋戦争末期の1945年、南西諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連合軍と日本軍との間で行われた戦いでした。
沖縄戦は1945年3月26日の慶良間諸島米軍上陸から始まり、主要な戦闘は沖縄本島で行われました。沖縄守備軍(第32軍)の任務は、南西諸島を本土として守りぬくことではなく、出血消耗によって米軍を沖縄に釘付けし、国体護持・本土決戦に備えることでありました。
【米軍本島上陸】
米軍は、沖縄本島上陸前の1週間の間で約40,000発の砲弾を撃ち込み、1,600機の艦載機で爆撃・機銃を加えたといわれています。そして、4月1日、本島中部西海岸(北谷村、読谷村)から日本軍の抵抗をほとんど受けることなく、無血上陸に成功し、米軍は、その日の午後2時頃には北飛行場(読谷飛行場)と中飛行場(嘉手納飛行場)を占領し、翌2日ないし3日には石川や泡瀬方面の東海岸まで到達して本島を二分する作戦にでました。そして、4月5日頃までには宜野湾村宜野湾以北の中部一帯をほぼ制圧したのです。
【日本軍主戦力の8割を失う】
米軍の主力は、4月7日頃から沖縄守備軍の陣取っていた首里方面をめざして総攻撃開始。これに対し、日本軍は首里陣地本部を死守しようと反撃し、日米両軍は首里北方の浦添村前田、宜野湾村の嘉数高地を中心に一進一退の攻防戦を40日間も展開し、この戦闘で日本軍は主戦力の8割を失い、5月下旬、首里を放棄して本島南端の摩文仁へ撤退しました。
【沖縄戦の終結】
沖縄戦の降伏調印式は、沖縄市の前身である旧越来村森根(現、嘉手納飛行場)で行われました。米第10軍の司令部が置かれていた旧越来村森根に、宮古島の第28師団長・納見中将、奄美大島から高田少将、加藤少将らが呼ばれ、正式に降伏調印式が執行されました。1945年(昭和20年)9月7日のことであります。
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米軍が約40,000発の砲弾を撃ち込んだのは何日の間ですか?
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米軍が約40,000発の砲弾を撃ち込んだのは7日の間です。
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JCRRAG_003975
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歴史
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【明治ってどんな時代?】
(1)はじまりの時代
日本の「明治時代」は、私たちが暮らす「現代」の礎が築かれた時代です。今の私たちにとって当たり前の物事は、明治時代に始まりました。
*今の私たちにとって当たり前の物事の例
電灯、暦(1日=24時間、1年=365日)、新聞、日本初の選挙、国会
(2)いざ開国!
明治が始まる前、長く「鎖国」の状態にあった日本は、1853年、黒船の来航とともに世界と出会いました。欧米の強国がアジアに迫り来る中、日本は西洋から制度や文化、技術を取り入れ、「近代国家」への道を歩みました。急激な変化の中では混乱もありましたが、西洋からの新しい価値観を柔軟に受け入れ、日本古来のものと組み合わせながら、世界に類を見ない速度で大変革を遂げたのです。そんなエネルギーに満ち溢れた日本の「青春時代」、それが明治時代です。
*西洋から取り入れた制度や文化、技術の例
郵便制度、鉄道、小学校教育、富岡製糸場稼働
(3)建築
日本の建築は、古来より木造が主体であり、古くは中国大陸からの仏教の伝来とともに工法、構造技術を取り入れ、長い期間をかけて独自に成熟させていったものでした。
明治時代に入ると、西洋の建築技術であるトラス構造(=複数の三角形で構成され、節点がボルト等で固定された骨組構造)が屋根の骨組みに取り入れられ、長大な木材を用いずとも一室の大空間を設けることが可能になりました。トラス構造は、トラス橋の建設にも用いられました。
そして、新たな素材としてレンガや石材が取り入れられ、木材と併用、あるいは木材にとって代わり、これら新素材ならではのアーチ構造を用いた新たな建造物を出現させました。アーチ構造は、今でも残るアーチ橋にも採用されました。
明治時代も中頃を過ぎると、西洋建築スタイルのさらなる理解への欲求は、当時の西洋諸国における最新の建築スタイル潮流へもその対象を広げていきます。当時の世界で最先端の建築スタイルが、日本国内における第2世代の建築家たちによって紹介、実践されていきました。
*トラス橋の例
六郷川橋梁、弾正橋
*今でも残るアーチ橋の例
日本橋、錦帯橋
*当時の世界で最先端の建築スタイルの例
アール・ヌーヴォー、セセッション、表現主義
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日本は「近代国家」への道を歩む中で、小学校教育を西洋から取り入れましたか?
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はい、日本は「近代国家」への道を歩む中で、小学校教育を西洋から取り入れました。
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JCRRAG_003976
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歴史
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【新宿区史:江戸時代(1600-1868年)】
慶長7(1602)年:後の大久保鉄砲百人組、大久保に組屋敷を拝領
慶長8(1603)年:徳川家康、江戸幕府を開く
慶長9(1604)年:五街道・諸街道を修理し一里塚を築く
*五街道は、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の5つ
元和2(1616)年:四谷大木戸を設置、甲州道中往来の人馬を検閲
寛永5(1628)年:川越藩主(後の小浜藩主)酒井忠勝、牛込矢来屋敷を拝領
寛永13(1636)年:江戸城外堀の牛込〜赤坂間を建設。同時に外堀地域の枡形石垣が構築。前年より、麹町周辺の寺院が外堀地域に多数移転。高田馬場の造営開始
*外堀地域は、牛込、市谷、四谷を指す
承応3(1654)年:玉川上水、羽村から四谷大木戸まで開通
明暦2(1656)年:尾張徳川家二代藩主・光友、市谷上屋敷を拝領
明暦3(1657)年:明暦の大火(振袖火事)。焼死者10万7000人余
寛文2(1662)年:外堀地域全域に定火消を設置
寛文8(1668)年:尾張徳川家二代藩主・光友、戸山屋敷を拝領
元禄7(1694)年:五代将軍綱吉、生類あわれみの令により、大久保に犬屋敷設置。翌年四谷にも犬屋敷が設置され、野犬を飼育
元禄10(1697)年:5人の商人、幕府に甲州道中の宿場開設を請願
*5人の商人は、喜兵衛、市左衛門、忠右衛門、嘉吉、五兵衛
元禄11(1698)年:内藤新宿開発が許可される
元禄12(1699)年:内藤新宿開設が許可され、業務を開始
享保3(1718)年:内藤新宿廃駅
享保13(1728)年:八代将軍吉宗、世継ぎの病気平癒祈願として穴八幡宮に流鏑馬を奉納
明和2(1765)年:牛込光照寺門前に新暦調御用所(牛込天文台)を開設
明和9(1772)年:内藤新宿再開(明和の立ち返り)
天保14(1843)年:角筈に大筒打場(大筒射撃場)を設置
弘化4(1847)年:内藤新宿太宗寺の閻魔大王、正受院の奪衣婆などの信仰が高まる(流行神)
安政元(1854)年:淀橋の水車小屋(火薬製造所)で爆発、火災
安政2(1855)年:安政の大地震。死傷者7000人余
文久元(1861)年:内藤新宿で火災。旅籠の半数以上が焼失
慶応3(1867)年:夏目漱石、牛込馬場下横町(現・喜久井町)で生まれる
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中山道が修理され、一里塚が築かれたのは、慶長9(1604)年ですか?
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はい、中山道が修理され、一里塚が築かれたのは、慶長9(1604)年です。
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JCRRAG_003977
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歴史
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【新宿区史:江戸時代(1600-1868年)】
慶長7(1602)年:後の大久保鉄砲百人組、大久保に組屋敷を拝領
慶長8(1603)年:徳川家康、江戸幕府を開く
慶長9(1604)年:五街道・諸街道を修理し一里塚を築く
*五街道は、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の5つ
元和2(1616)年:四谷大木戸を設置、甲州道中往来の人馬を検閲
寛永5(1628)年:川越藩主(後の小浜藩主)酒井忠勝、牛込矢来屋敷を拝領
寛永13(1636)年:江戸城外堀の牛込〜赤坂間を建設。同時に外堀地域の枡形石垣が構築。前年より、麹町周辺の寺院が外堀地域に多数移転。高田馬場の造営開始
*外堀地域は、牛込、市谷、四谷を指す
承応3(1654)年:玉川上水、羽村から四谷大木戸まで開通
明暦2(1656)年:尾張徳川家二代藩主・光友、市谷上屋敷を拝領
明暦3(1657)年:明暦の大火(振袖火事)。焼死者10万7000人余
寛文2(1662)年:外堀地域全域に定火消を設置
寛文8(1668)年:尾張徳川家二代藩主・光友、戸山屋敷を拝領
元禄7(1694)年:五代将軍綱吉、生類あわれみの令により、大久保に犬屋敷設置。翌年四谷にも犬屋敷が設置され、野犬を飼育
元禄10(1697)年:5人の商人、幕府に甲州道中の宿場開設を請願
*5人の商人は、喜兵衛、市左衛門、忠右衛門、嘉吉、五兵衛
元禄11(1698)年:内藤新宿開発が許可される
元禄12(1699)年:内藤新宿開設が許可され、業務を開始
享保3(1718)年:内藤新宿廃駅
享保13(1728)年:八代将軍吉宗、世継ぎの病気平癒祈願として穴八幡宮に流鏑馬を奉納
明和2(1765)年:牛込光照寺門前に新暦調御用所(牛込天文台)を開設
明和9(1772)年:内藤新宿再開(明和の立ち返り)
天保14(1843)年:角筈に大筒打場(大筒射撃場)を設置
弘化4(1847)年:内藤新宿太宗寺の閻魔大王、正受院の奪衣婆などの信仰が高まる(流行神)
安政元(1854)年:淀橋の水車小屋(火薬製造所)で爆発、火災
安政2(1855)年:安政の大地震。死傷者7000人余
文久元(1861)年:内藤新宿で火災。旅籠の半数以上が焼失
慶応3(1867)年:夏目漱石、牛込馬場下横町(現・喜久井町)で生まれる
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市谷の枡形石垣が構築されたのは、何年ですか?
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市谷の枡形石垣が構築されたのは、寛永13(1636)年です。
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JCRRAG_003978
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歴史
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【新宿区史:江戸時代(1600-1868年)】
慶長7(1602)年:後の大久保鉄砲百人組、大久保に組屋敷を拝領
慶長8(1603)年:徳川家康、江戸幕府を開く
慶長9(1604)年:五街道・諸街道を修理し一里塚を築く
*五街道は、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の5つ
元和2(1616)年:四谷大木戸を設置、甲州道中往来の人馬を検閲
寛永5(1628)年:川越藩主(後の小浜藩主)酒井忠勝、牛込矢来屋敷を拝領
寛永13(1636)年:江戸城外堀の牛込〜赤坂間を建設。同時に外堀地域の枡形石垣が構築。前年より、麹町周辺の寺院が外堀地域に多数移転。高田馬場の造営開始
*外堀地域は、牛込、市谷、四谷を指す
承応3(1654)年:玉川上水、羽村から四谷大木戸まで開通
明暦2(1656)年:尾張徳川家二代藩主・光友、市谷上屋敷を拝領
明暦3(1657)年:明暦の大火(振袖火事)。焼死者10万7000人余
寛文2(1662)年:外堀地域全域に定火消を設置
寛文8(1668)年:尾張徳川家二代藩主・光友、戸山屋敷を拝領
元禄7(1694)年:五代将軍綱吉、生類あわれみの令により、大久保に犬屋敷設置。翌年四谷にも犬屋敷が設置され、野犬を飼育
元禄10(1697)年:5人の商人、幕府に甲州道中の宿場開設を請願
*5人の商人は、喜兵衛、市左衛門、忠右衛門、嘉吉、五兵衛
元禄11(1698)年:内藤新宿開発が許可される
元禄12(1699)年:内藤新宿開設が許可され、業務を開始
享保3(1718)年:内藤新宿廃駅
享保13(1728)年:八代将軍吉宗、世継ぎの病気平癒祈願として穴八幡宮に流鏑馬を奉納
明和2(1765)年:牛込光照寺門前に新暦調御用所(牛込天文台)を開設
明和9(1772)年:内藤新宿再開(明和の立ち返り)
天保14(1843)年:角筈に大筒打場(大筒射撃場)を設置
弘化4(1847)年:内藤新宿太宗寺の閻魔大王、正受院の奪衣婆などの信仰が高まる(流行神)
安政元(1854)年:淀橋の水車小屋(火薬製造所)で爆発、火災
安政2(1855)年:安政の大地震。死傷者7000人余
文久元(1861)年:内藤新宿で火災。旅籠の半数以上が焼失
慶応3(1867)年:夏目漱石、牛込馬場下横町(現・喜久井町)で生まれる
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定火消が牛込に設置されたのは、寛文2(1662)年ですか?
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はい、定火消が牛込に設置されたのは、寛文2(1662)年です。
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JCRRAG_003979
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歴史
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次郎は一月のある寒い日に、革命博物館の見物に出かけた。モスクワでは、東京の銀座のような賑やかなトゥウェルスカヤ通りをずっと行って、イズヴェスチア新聞社の高い時計台、詩人プーシキンの雪を冠った銅像の見えるストラスナヤ広場を横切る。間もなく左手に広い前庭をもった黄色い大きな建物がある。小さい門から、ゾロゾロいろんな人が出入りしている。ここが革命博物館だ。切符を買って、外套預場へ入ると、ちょうど、モスクワ市の何処かの小学校から見学団がやって来ているところだ。男の子や女の子が、各々の班長を囲んで、かたまり合い、陽気に笑ったりしゃべったりしながら、案内者の来るのを待っている。革命博物館は、まとまった見学団が来た場合、いつでもちゃんとした案内者をつけて、一つ一つの室について親切な説明をしてくれる。自分達は、僅か二人だ。案内者はたのめない。同じように切符を買って入って来た、六七人の工場労働者らしい人達と一緒に、まず正面の階段を昇る。壁に、大きいステンカ・ラージンの絵がかかっている。すこし行くと、プガチョフの物語を描いたこれも大きい油絵がかかっている。ステンカ・ラージンやプガチョフは、民謡の中にうたわれ、昔からロシアの勤労大衆に親しまれて来た農民革命家だ。農民革命家は、封建時代のロシアの辺土から起って、時の支配者に反抗した連中だ。しかし、一揆的な反抗は成功しないで捕われ、モスクワへ連れて来られた上今も赤い広場にある首切台で、処刑された。
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まとまった見学団が来た場合、いつでもちゃんとした案内者をつけて、一つ一つの室について親切な説明をしてくれる場所に次郎が見学に出かけたのは、いつですか?
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まとまった見学団が来た場合、いつでもちゃんとした案内者をつけて、一つ一つの室について親切な説明をしてくれる場所に次郎が見学に出かけたのは、一月のある寒い日です。
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JCRRAG_003980
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歴史
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戦に負けた者は多くの場合、
・逃亡する
・領地や兵を失う
・更迭される
・処刑される
・自害する
といった道をたどります。
【前九年の役の戦いの流れ】
陸奥で強大な勢力をもつ豪族の安倍氏が国司と争うと、源頼義にいったんは屈しますが再び乱をおこします。長期戦となりますが、頼義は子の義家や東国の武士とともに安倍氏と戦い、さらには、豪族清原氏の協力を得て安倍氏を滅ぼしました。
(1)鬼切部(おにきりべ)の戦い
陸奥の有力豪族であった安倍氏は、陸奥国奥六(おくろく)郡に柵を築いて独立的な勢力をつくりあげていました。1051年に、安倍氏が朝廷への納税をしなくなったことから、陸奥守藤原登任が懲罰のため数千の兵を向けると鬼切部で争いとなります。登任側に国司軍などの加勢はあったものの登任は更迭。その後は河内源氏の源頼義が陸奥守となりました。すると、安倍氏はいったん頼義に服することになります。1053年には頼義は鎮守府(ちんじゅふ)将軍となります。
(2)阿久利川事件
頼義が陸奥守任期満了の年の1056年、密使による情報に端を発し安倍氏と朝廷との戦いが再開されることとなりました。さらに、頼義は讒言からから平永衡を殺害すると、身の危険を感じた藤原経清は安倍軍に属することになります。1057年、頼義は安倍氏挟撃策を講じると、津軽の安倍富忠を味方に引き入れることに成功し、頼時を死に追いやります。頼時の跡は貞任(さだとう)が継ぐことになりました。
(3)黄海(きのみ)の戦い
同年11月、頼義は陸奥国府から安倍軍が立て籠もる河崎柵に向けて出撃するも、対する安倍軍は2倍の兵力を集めます。また、頼義の国府軍は兵力で劣るばかりか、疲弊していたうえに物資も乏しい状況でした。さらには慣れない土地柄での風雪にも悩まされました。黄海で安倍軍と対決した頼義は義家の活躍により辛くも逃げのびますが、多くの忠臣を失う大打撃を受けることになりました。頼義は大損害を受けました。隣国の出羽守源斉頼に援軍を頼むことができれば勝機があったのですが、斉頼が要請に応じることはなく、逆に安倍氏は勢力を広め、国へ納めるべき徴納物を奪うなど頼義をあざ笑うかのような行動に出ます。
(4)清原氏の参加
変わらず安倍氏の勢力は増す中で、これまでの戦で戦力を失った頼義は関東、東海、畿内から苦心して兵力を集めます。そのころ、頼義は中立を保っていた出羽の豪族清原氏の懐柔に成功すると、族長の清原光頼の弟武則を総大将とする軍勢が派遣されることになりました。これにより陣を七つの陣に整え、朝廷側の兵力はおよそ1万人のうち頼義自身の軍勢はおよそ3000人ほどでした。ここから官軍の反抗が始まり、北上しながら柵をひとつひとつ制圧していくことになります。安倍軍の拠点である小松柵の戦いが始まります。小松柵は天然の要害でしたが、官軍の将や直属の武将たちの活躍もあり、新制官軍の初勝利となります。こののち貞任の奇襲を受けますが、6時間続く戦闘の末に迎撃しました。北へと敗走する安倍軍は、衣川の関に籠ります。衣川の関も要害として知られる柵でしたが、武則の指示で潜入した武将が火を放ち安倍軍を大混乱に陥れます。さらに官軍が攻め込むと衣川の関を制圧しました。さらに北に退いた安倍軍は鳥海柵を通り越し、本拠地の厨川柵まで退いて守りを固めます。ところが、官軍は風を利用して火をかけると、厨川柵を焼き上げました。経清が斬首され、安倍氏は深手を負った貞任が亡くなり滅亡し、長きに渡る戦が終わります。
前九年の役のその後
1063年2月に頼義は朝廷に報告すると、頼義は伊予守に任じられます。被害も大きく年月もかかったことを考慮すると、高い評価となる論功でした。ただ、頼義は郎従への恩賞が出なかったことには納得できず、交渉を続けます。郎従への恩賞は主従関係を維持する生命線であるためです。平忠常の乱を鎮めた頼信に続き、その子の頼義が前九年の役を鎮めたことにより、源氏の東国進出は確たるものとなります。この後の後三年(ごさんねん)の役では、頼義の子の義家が活躍し、さらに源氏は武士の棟梁としての地位を固めていきました。
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伊予守に任じられたにもかかわらず頼義はなぜ交渉を続けたのですか?
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なぜなら、郎従への恩賞が出ないということは主従関係を維持する生命線が絶たれるということだからです。
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JCRRAG_003981
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歴史
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戦に負けた者は多くの場合、
・逃亡する
・領地や兵を失う
・更迭される
・処刑される
・自害する
といった道をたどります。
【前九年の役の戦いの流れ】
陸奥で強大な勢力をもつ豪族の安倍氏が国司と争うと、源頼義にいったんは屈しますが再び乱をおこします。長期戦となりますが、頼義は子の義家や東国の武士とともに安倍氏と戦い、さらには、豪族清原氏の協力を得て安倍氏を滅ぼしました。
(1)鬼切部(おにきりべ)の戦い
陸奥の有力豪族であった安倍氏は、陸奥国奥六(おくろく)郡に柵を築いて独立的な勢力をつくりあげていました。1051年に、安倍氏が朝廷への納税をしなくなったことから、陸奥守藤原登任が懲罰のため数千の兵を向けると鬼切部で争いとなります。登任側に国司軍などの加勢はあったものの登任は更迭。その後は河内源氏の源頼義が陸奥守となりました。すると、安倍氏はいったん頼義に服することになります。1053年には頼義は鎮守府(ちんじゅふ)将軍となります。
(2)阿久利川事件
頼義が陸奥守任期満了の年の1056年、密使による情報に端を発し安倍氏と朝廷との戦いが再開されることとなりました。さらに、頼義は讒言からから平永衡を殺害すると、身の危険を感じた藤原経清は安倍軍に属することになります。1057年、頼義は安倍氏挟撃策を講じると、津軽の安倍富忠を味方に引き入れることに成功し、頼時を死に追いやります。頼時の跡は貞任(さだとう)が継ぐことになりました。
(3)黄海(きのみ)の戦い
同年11月、頼義は陸奥国府から安倍軍が立て籠もる河崎柵に向けて出撃するも、対する安倍軍は2倍の兵力を集めます。また、頼義の国府軍は兵力で劣るばかりか、疲弊していたうえに物資も乏しい状況でした。さらには慣れない土地柄での風雪にも悩まされました。黄海で安倍軍と対決した頼義は義家の活躍により辛くも逃げのびますが、多くの忠臣を失う大打撃を受けることになりました。頼義は大損害を受けました。隣国の出羽守源斉頼に援軍を頼むことができれば勝機があったのですが、斉頼が要請に応じることはなく、逆に安倍氏は勢力を広め、国へ納めるべき徴納物を奪うなど頼義をあざ笑うかのような行動に出ます。
(4)清原氏の参加
変わらず安倍氏の勢力は増す中で、これまでの戦で戦力を失った頼義は関東、東海、畿内から苦心して兵力を集めます。そのころ、頼義は中立を保っていた出羽の豪族清原氏の懐柔に成功すると、族長の清原光頼の弟武則を総大将とする軍勢が派遣されることになりました。これにより陣を七つの陣に整え、朝廷側の兵力はおよそ1万人のうち頼義自身の軍勢はおよそ3000人ほどでした。ここから官軍の反抗が始まり、北上しながら柵をひとつひとつ制圧していくことになります。安倍軍の拠点である小松柵の戦いが始まります。小松柵は天然の要害でしたが、官軍の将や直属の武将たちの活躍もあり、新制官軍の初勝利となります。こののち貞任の奇襲を受けますが、6時間続く戦闘の末に迎撃しました。北へと敗走する安倍軍は、衣川の関に籠ります。衣川の関も要害として知られる柵でしたが、武則の指示で潜入した武将が火を放ち安倍軍を大混乱に陥れます。さらに官軍が攻め込むと衣川の関を制圧しました。さらに北に退いた安倍軍は鳥海柵を通り越し、本拠地の厨川柵まで退いて守りを固めます。ところが、官軍は風を利用して火をかけると、厨川柵を焼き上げました。経清が斬首され、安倍氏は深手を負った貞任が亡くなり滅亡し、長きに渡る戦が終わります。
前九年の役のその後
1063年2月に頼義は朝廷に報告すると、頼義は伊予守に任じられます。被害も大きく年月もかかったことを考慮すると、高い評価となる論功でした。ただ、頼義は郎従への恩賞が出なかったことには納得できず、交渉を続けます。郎従への恩賞は主従関係を維持する生命線であるためです。平忠常の乱を鎮めた頼信に続き、その子の頼義が前九年の役を鎮めたことにより、源氏の東国進出は確たるものとなります。この後の後三年(ごさんねん)の役では、頼義の子の義家が活躍し、さらに源氏は武士の棟梁としての地位を固めていきました。
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黄海の戦いでは安倍氏が勝利しましたか?
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はい、安倍氏が勝利しました。
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歴史
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戦に負けた者は多くの場合、
・逃亡する
・領地や兵を失う
・更迭される
・処刑される
・自害する
といった道をたどります。
【前九年の役の戦いの流れ】
陸奥で強大な勢力をもつ豪族の安倍氏が国司と争うと、源頼義にいったんは屈しますが再び乱をおこします。長期戦となりますが、頼義は子の義家や東国の武士とともに安倍氏と戦い、さらには、豪族清原氏の協力を得て安倍氏を滅ぼしました。
(1)鬼切部(おにきりべ)の戦い
陸奥の有力豪族であった安倍氏は、陸奥国奥六(おくろく)郡に柵を築いて独立的な勢力をつくりあげていました。1051年に、安倍氏が朝廷への納税をしなくなったことから、陸奥守藤原登任が懲罰のため数千の兵を向けると鬼切部で争いとなります。登任側に国司軍などの加勢はあったものの登任は更迭。その後は河内源氏の源頼義が陸奥守となりました。すると、安倍氏はいったん頼義に服することになります。1053年には頼義は鎮守府(ちんじゅふ)将軍となります。
(2)阿久利川事件
頼義が陸奥守任期満了の年の1056年、密使による情報に端を発し安倍氏と朝廷との戦いが再開されることとなりました。さらに、頼義は讒言からから平永衡を殺害すると、身の危険を感じた藤原経清は安倍軍に属することになります。1057年、頼義は安倍氏挟撃策を講じると、津軽の安倍富忠を味方に引き入れることに成功し、頼時を死に追いやります。頼時の跡は貞任(さだとう)が継ぐことになりました。
(3)黄海(きのみ)の戦い
同年11月、頼義は陸奥国府から安倍軍が立て籠もる河崎柵に向けて出撃するも、対する安倍軍は2倍の兵力を集めます。また、頼義の国府軍は兵力で劣るばかりか、疲弊していたうえに物資も乏しい状況でした。さらには慣れない土地柄での風雪にも悩まされました。黄海で安倍軍と対決した頼義は義家の活躍により辛くも逃げのびますが、多くの忠臣を失う大打撃を受けることになりました。頼義は大損害を受けました。隣国の出羽守源斉頼に援軍を頼むことができれば勝機があったのですが、斉頼が要請に応じることはなく、逆に安倍氏は勢力を広め、国へ納めるべき徴納物を奪うなど頼義をあざ笑うかのような行動に出ます。
(4)清原氏の参加
変わらず安倍氏の勢力は増す中で、これまでの戦で戦力を失った頼義は関東、東海、畿内から苦心して兵力を集めます。そのころ、頼義は中立を保っていた出羽の豪族清原氏の懐柔に成功すると、族長の清原光頼の弟武則を総大将とする軍勢が派遣されることになりました。これにより陣を七つの陣に整え、朝廷側の兵力はおよそ1万人のうち頼義自身の軍勢はおよそ3000人ほどでした。ここから官軍の反抗が始まり、北上しながら柵をひとつひとつ制圧していくことになります。安倍軍の拠点である小松柵の戦いが始まります。小松柵は天然の要害でしたが、官軍の将や直属の武将たちの活躍もあり、新制官軍の初勝利となります。こののち貞任の奇襲を受けますが、6時間続く戦闘の末に迎撃しました。北へと敗走する安倍軍は、衣川の関に籠ります。衣川の関も要害として知られる柵でしたが、武則の指示で潜入した武将が火を放ち安倍軍を大混乱に陥れます。さらに官軍が攻め込むと衣川の関を制圧しました。さらに北に退いた安倍軍は鳥海柵を通り越し、本拠地の厨川柵まで退いて守りを固めます。ところが、官軍は風を利用して火をかけると、厨川柵を焼き上げました。経清が斬首され、安倍氏は深手を負った貞任が亡くなり滅亡し、長きに渡る戦が終わります。
前九年の役のその後
1063年2月に頼義は朝廷に報告すると、頼義は伊予守に任じられます。被害も大きく年月もかかったことを考慮すると、高い評価となる論功でした。ただ、頼義は郎従への恩賞が出なかったことには納得できず、交渉を続けます。郎従への恩賞は主従関係を維持する生命線であるためです。平忠常の乱を鎮めた頼信に続き、その子の頼義が前九年の役を鎮めたことにより、源氏の東国進出は確たるものとなります。この後の後三年(ごさんねん)の役では、頼義の子の義家が活躍し、さらに源氏は武士の棟梁としての地位を固めていきました。
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黄海の戦いで頼義は安倍氏に勝利しましたか?
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いいえ、頼義は安倍氏に勝利しませんでした。
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歴史
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618年に中国で唐がおこると、律令法に基づき中央集権的な国家体制の充実を図ります。より統治しやすくするために均田制や租庸調制などを確立しました。日本では大化の改新の翌年、改新の詔(みことのり)が発せられたと「日本書紀」に記されており、唐にならい公地公民、国郡里制、税制が規定されました。それとともに戸籍をもとにして口分田を班給することが定められたのが「班田収授法」の始まりです。今回は、『班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)』について、簡単にわかりやすく解説していきます。
【班田収授法とは?】
班田収授法とは、飛鳥時代後期から平安時代にかけて行われた、6歳以上の男女に口分田を班給する制度のことです。大化の改新後、唐にならって律令国家を目指す改革の一つに班田収授法があり、人口と田地の調査をして税を確保する狙いがありました。班給について細かく取り決められていましたが、奈良時代末期になると浮浪や逃亡する者が増え、平安時代初期には実施されなくなっていきました。
【班田収授法が制定された背景】
班田収授法は中央集権的な律令制度の一環として採り入れられたものですが、お手本となったのは唐の均田制でした。日本では大化の改新後、律令国家を目指した改新の詔が発せられ、戸籍が整備されることで班田収授法に向けた準備が整っていきます。
1.唐の律令制
唐では日本に先駆けて中央集権的な律令国家の整備がすすみました。7世紀に唐がおこると、三省六部制(さんしょうりくぶせい)と呼ばれる中央官制やのちに班田収授法のお手本となった均田制を採り入れ、租庸調による税制を確立しました。均田制は北魏に始まり隋でも制度化されますが、唐での均田制は大人の男性に口分田が割り当てられたほか世襲できる永業田(えいぎょうでん)が認められました制度です。土地が不足する地域では貧しい者を優先して給田される一方、官人などは地位によって官人永業田を与えられるなど身分による違いがありました。唐で取り入れられた均田制は支配層に有利に働きました。
2.改新の詔
大化の改新後の646年、4条からなる改新の詔が発せられます。いずれも中央集権的な律令国家を目指す上で重要なものでした。改新の詔の条項は少しずつすすめられますが、班田収授法についてはこの時点では戸籍はなく実際に実施されるのはまだ先になります。ただし、改新の詔は時代に合わない記述が多く、実際の646年よりも後に書かれたものだという説もあります。
3.戸籍の整備から班田収授法の実現へ
670年に庚午年籍(こうごねんじゃく)と呼ばれる戸籍がつくられます。これは、全国的で豪族から公民・部曲(かきべ)・奴婢(ぬひ)までの全ての階層で戸籍としては全国で初めてのものでした。庚午年籍は全国民に氏姓を定めて、氏姓の根本台帳として保存されました。これにより、徴税と徴兵が容易になりますが、まだ公地公民が徹底しきれていなかったために豪族の不満は高まることになります。持統天皇は、689年に飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を施行し戸籍の作成を命じると、690年に庚寅年籍(こういんねんじゃく)が完成しました。この庚寅年籍により五十戸を一里とした国・評・里・戸の制が確立すると、戸籍に基づく口分田が班給され全国的に班田収授法が始まったとされています。こののち、701年の大宝律令や718年の養老律令でも班田収授法が規定されました。このように、政府は全国の人民を戸籍・計帳に登録し、律令体制による支配を隅々まで浸透させようとしました。戸籍とは、戸を単位とした課役(かえき)、良民と賎民(せんみん)の区別、氏姓の確定、兵士の徴発、班田収授などの基本台帳とされ、6年ごとにつくられました。また、計帳は調と庸を徴収するための基本台帳であり、全国の推移を把握するために毎年つくりかえられました。
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大人の男性に口分田が割り当てられたほか世襲できる永業田が認められた制度は、誰に有利に働きましたか?
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大人の男性に口分田が割り当てられたほか世襲できる永業田が認められた制度は、支配層に有利に働きました。
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歴史
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【X国政治史】
今回は、アジアの大国であるX国の政治史について勉強しましょう。
X国には、1946年から下院と上院の2つの議院があります。これらにおいて、国会が開かれてきました。
国会議員は、これら2院のどちらかの議員になります。
与党議員について言えば、下院で3回当選した人は、省庁の副大臣か党内委員会の副委員長に登用されてきました。
また、下院で4回当選した人は、外務省と財務省以外の大臣か、党内委員会の委員長に登用されてきました。
さらに、下院で5回以上当選した人は、外務省か財務省の大臣に登用されるか、党首すなわち首相になりました。
野党の場合はどうでしょうか。X国では「影の内閣」(Shadow cabinet)制度が存在してきたため、野党議員の役職も、それに応じたものが設けられてきました。
下院で3回当選した人は、省庁の「影の副大臣」か党内委員会の副委員長に登用されてきました。
また、下院で4回当選した人は、外務省と財務省以外の「影の大臣」か、党内委員会の委員長に登用されてきました。
さらに、下院で5回以上当選した人は、外務省か財務省の「影の大臣」に登用されるか、党首すなわち「影の首相」になりました。
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X国の下院の野党議員で5回当選したE氏が「影の首相」にならなかった場合、何に登用されましたか?
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X国の下院の野党議員で5回当選したE氏は、外務省か財務省の「影の大臣」に登用されました。
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歴史
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【X国政治史】
今回は、アジアの大国であるX国の政治史について勉強しましょう。
X国には、1946年から下院と上院の2つの議院があります。これらにおいて、国会が開かれてきました。
国会議員は、これら2院のどちらかの議員になります。
与党議員について言えば、下院で3回当選した人は、省庁の副大臣か党内委員会の副委員長に登用されてきました。
また、下院で4回当選した人は、外務省と財務省以外の大臣か、党内委員会の委員長に登用されてきました。
さらに、下院で5回以上当選した人は、外務省か財務省の大臣に登用されるか、党首すなわち首相になりました。
野党の場合はどうでしょうか。X国では「影の内閣」(Shadow cabinet)制度が存在してきたため、野党議員の役職も、それに応じたものが設けられてきました。
下院で3回当選した人は、省庁の「影の副大臣」か党内委員会の副委員長に登用されてきました。
また、下院で4回当選した人は、外務省と財務省以外の「影の大臣」か、党内委員会の委員長に登用されてきました。
さらに、下院で5回以上当選した人は、外務省か財務省の「影の大臣」に登用されるか、党首すなわち「影の首相」になりました。
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X国の下院の与党議員で5回当選したC氏が党首にならなかった場合、何に登用されましたか?
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X国の下院の与党議員で5回当選したC氏は、外務省か財務省の大臣に登用されました。
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歴史
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【X国政治史】
今回は、アジアの大国であるX国の政治史について勉強しましょう。
X国には、1946年から下院と上院の2つの議院があります。これらにおいて、国会が開かれてきました。
国会議員は、これら2院のどちらかの議員になります。
与党議員について言えば、下院で3回当選した人は、省庁の副大臣か党内委員会の副委員長に登用されてきました。
また、下院で4回当選した人は、外務省と財務省以外の大臣か、党内委員会の委員長に登用されてきました。
さらに、下院で5回以上当選した人は、外務省か財務省の大臣に登用されるか、党首すなわち首相になりました。
野党の場合はどうでしょうか。X国では「影の内閣」(Shadow cabinet)制度が存在してきたため、野党議員の役職も、それに応じたものが設けられてきました。
下院で3回当選した人は、省庁の「影の副大臣」か党内委員会の副委員長に登用されてきました。
また、下院で4回当選した人は、外務省と財務省以外の「影の大臣」か、党内委員会の委員長に登用されてきました。
さらに、下院で5回以上当選した人は、外務省か財務省の「影の大臣」に登用されるか、党首すなわち「影の首相」になりました。
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X国の下院の与党議員で3回当選したA氏が省庁の副大臣にならなかった場合、何に登用されましたか?
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X国の下院の与党議員で3回当選したA氏は、党内委員会の副委員長に登用されました。
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歴史
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【X国政治史】
今回は、アジアの大国であるX国の政治史について勉強しましょう。
X国には、1946年から下院と上院の2つの議院があります。これらにおいて、国会が開かれてきました。
国会議員は、これら2院のどちらかの議員になります。
与党議員について言えば、下院で3回当選した人は、省庁の副大臣か党内委員会の副委員長に登用されてきました。
また、下院で4回当選した人は、外務省と財務省以外の大臣か、党内委員会の委員長に登用されてきました。
さらに、下院で5回以上当選した人は、外務省か財務省の大臣に登用されるか、党首すなわち首相になりました。
野党の場合はどうでしょうか。X国では「影の内閣」(Shadow cabinet)制度が存在してきたため、野党議員の役職も、それに応じたものが設けられてきました。
下院で3回当選した人は、省庁の「影の副大臣」か党内委員会の副委員長に登用されてきました。
また、下院で4回当選した人は、外務省と財務省以外の「影の大臣」か、党内委員会の委員長に登用されてきました。
さらに、下院で5回以上当選した人は、外務省か財務省の「影の大臣」に登用されるか、党首すなわち「影の首相」になりました。
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X国の下院の与党議員で4回当選したB氏が党内委員会の委員長に登用されなかった場合、何に登用されましたか?
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X国の下院の与党議員で4回当選したB氏は、外務省と財務省以外の大臣に登用されました。
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歴史
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1源義経の快進撃
一の谷の戦い前に、源氏同士の争いがあり、平氏はその間に力を盛り返します。いったん、九州へと逃げた平氏ですが、福原(現在の兵庫県神戸市)まで進出して、瀬戸内海を制圧。中国、四国、九州地方を支配するようになりました。宇治川の戦いの後、後白河法皇は三種の神器を奪い返すよう源頼朝に命令を下します。そして、範頼軍と義経軍は摂津(現在の大阪と兵庫の間)まで兵を進め、その後、義経軍は丹波路(現在の京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部の地域)を通って、播磨国(現在の兵庫県南西部)に陣を取っていた平資盛(すけもり)と平有盛(ありもり)の軍を撃破します。軍を進める義経は鵯越(ひよどりごえ)で、軍を二手に分けて、自分は70騎のみで山道へと進んでいきます。
2一の谷の戦いの始まり
1184年3月20日、義経軍から抜け出した熊谷直実(なおざね)と直家(なおいえ)の親子ら5騎が平忠度(ただのり)軍に名乗りを上げて、戦いが始まりました。平氏は福原を中心に数か所に陣を構えていました。「生田口」はその一つです。平氏の平知盛(とももり)と重衡(しげひら)は陣を組んでいました。その陣に、範頼軍5万騎が矢を放って攻撃を仕掛けます。しかし、平氏軍は壕をめぐらして待ち構えており、逆に平氏軍も激しく矢を放って源氏軍に応戦します。福原を守るために置いた平氏の陣は、生田口の他に夢野口と塩屋口がありましたが、いずれの陣でも平氏は奮戦して、源氏は簡単に陣を破ることはできませんでした。
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平知盛と重衡はどこを中心に陣を構えていましたか?
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平知盛と重衡は福原を中心に陣を組んでいました。
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歴史
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【承和の変の勃発】
840年(承和7年)、淳和上皇が崩御し、842年(承和9年)には嵯峨上皇も重い病に伏しました。こうした状況に危機感を持ったのが、皇太子である恒貞親王に仕える伴健岑・橘逸勢でした。彼らは恒貞親王を東国へ移すことを画策し、その計画を阿保親王(平城天皇の皇子)に相談しました。しかし、阿保親王はあろうことか、嵯峨上皇の皇太后にこの策謀を伝えてしまいました。皇太后はこれに驚き、良房に相談。良房は仁明天皇に伝えるという事態に発展します。842年(承和9年)7月、嵯峨上皇が崩御し、仁明天皇は伴健岑と橘逸勢とその一味を逮捕しました。そして仁明天皇は詔を発し、伴健岑・橘逸勢らを謀反人と断じ、恒貞親王は事件とは無関係としながらも責任を取らせるため、皇太子を廃しました。また、伴健岑は隠岐(その後出雲国へ左遷)、橘逸勢は伊豆に流罪(移動途中、遠江国で死亡)となるなど、関係者が処分されました。これが世にいう承和の変です。承和の変は、藤原氏による最初の他氏排斥事件と言われています。また、承和の変の意義として平城・嵯峨・淳和と続く天皇位の兄弟による継承を解消し、嵯峨・仁明・文徳と続く直系の皇統を成立させた点も挙げられます。年号の語呂合わせは、「良房の842(野心に)脱帽、承和の変」と覚えてみましょう!
【承和の変のその後の影響】
承和の変の後、藤原良房は大納言に昇進し、良房の望んだとおり道康親王が皇太子に立てられました。良房は承和の変によって、有力氏族である伴氏(大伴氏)と橘氏に大きな打撃を与えるなど、藤原北家のその後の勢力拡大につながる事件となりました。その後、良房はこの事件を契機として、その権力を確立して昇進を重ねていき、後の清和天皇の時代に臣下として初めての摂政となるなど、後の摂関家・藤原氏の繁栄の基礎を築いたと評価されています。藤原北家は、良房以降、藤原氏の氏長者として一族の中心となり、多くの摂政・関白を輩出する家柄となりました。藤原北家は天皇の后に藤原の娘を嫁がせ、天皇の外戚としての地位を利用し、摂政・関白として朝廷の政治の実権を握っていきます。特に、平安時代後期の藤原道長の代にその権勢は最盛期を迎えました。
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承和の変により有力氏族である伴氏と橘氏に大きな打撃を与えた人物は何に昇進しましたか?
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承和の変により有力氏族である伴氏と橘氏に大きな打撃を与えた人物は大納言に昇進しました。
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歴史
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【後三年の役とは?簡単にわかりやすく解説!!戦いが起こった背景や経過・その後など】
10世紀末には平将門の乱や藤原純友の乱がおこり、最終的には乱を鎮めるものの朝廷は地方武士の実力を思い知ることになりました。続いて11世紀には前九年の役がおこると、源頼義が陸奥の豪族安倍氏による反乱を清原氏の協力により鎮めます。しかし、その清原氏の内紛が発展し「後三年の役」がおこります。今回は、この「後三年の役」について、簡単にわかりやすく解説していきます。
【後三年の役とは?】
後三年の役とは、平安時代後期、前九年の役で勢力を伸ばした清原氏の内紛に陸奥守の源義家が介入し、藤原清衡(きよひら)を助けて清原家衡(いえひら)・武衡(たけひら)を滅ぼした戦いのことです。前九年の役で功のあった清原氏は、安倍氏に代わって陸奥や出羽で大きな力を伸ばしますが、内部の勢力争いから内紛が後三年の役に発展していきます。源義家が藤原清衡を助けて平定すると、源義家は東国で基盤を築き、奥羽での地盤を引き継いだ藤原清衡はのちに平泉を根拠地に強大な勢力を築きました。
【後三年の役が起こった背景】
後三年の役がおこる約20年前、安倍氏の反乱により長期化していた前九年の役が清原氏の協力もあって収束することになります。そこで、出羽・奥羽に強大な勢力をもつことになった清原氏に内紛がおこったことが後三年の役のきっかけとなりました。
【前九年の役の状況】
11世紀の半ばから、陸奥で大きな勢力をもつ阿部氏と国司との争いが激しくなります。しかし、源頼信の子の頼義が陸奥守鎮守府将軍となると、阿部氏は服して乱は鎮まったかに見ました。しかし、阿部氏は再び乱をおこすと頼時や頼時の死後に引き継いだ貞任(さだとう)らが中心になって抵抗し乱は長期戦となります。その後、1057年11月の黄海の戦いでは、阿部氏は大兵力で国府軍を圧倒しました。
【清原氏の参戦により終結へ】
国府軍の頼義らは回復を待つほか、関東、畿内、東海の武士にはたらきかけるなど兵力の増強に奔走します。一方で、中立を保ち続けてきた出羽の豪族清原氏にも参戦を依頼すると、1062年7月に族長清原光頼は弟の武則を総大将とする軍を派遣しました。これにより、朝廷側の形勢は一気に好転すると、次々に柵を陥落させて阿部氏を滅ぼすことに成功します。のちに、1063年の除目(じもく)で武則は戦功により従五位下鎮守府将軍に任じられ、さらに奥六郡を与えられると清原氏は奥羽で揺るぎない権勢を手に入れました。
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陸奥の豪族安倍氏による反乱を源頼義とともに鎮めた一族の内紛が発展した結果、何がおこりましたか?
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陸奥の豪族安倍氏による反乱を源頼義とともに鎮めた一族の内紛が発展した結果、「後三年の役」がおこりました。
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歴史
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【後三年の役のはじまりと経過】
前九年の役のあと陸奥出羽で大勢力を持つようになった清原氏でしたが、一族内で内紛がおこります。内紛が激しくなると、源義家が介入して藤原清衡を助けて家衡を討ち取り、乱は平定されます。
1.清原氏の内部分裂
前九年の役で戦功を得た清原武則はのちに清原家の当主となり、息子の武貞、その嫡子の真衡(さねひら)へと当主は継承されます。一方で、武貞はもともと阿部氏の有力豪族の藤原経清の妻であった有加一乃末陪と婚姻関係を結んでいました。有加一乃末陪には連れ子がおり、武貞の養子となると清原清衡と名乗ります。その後に生まれたのが惣領家の血を引く家衡でした。清衡の父は違いますが、これで真衡、家衡、清衡の三兄弟となります。武貞が亡くなり当主の座についた真衡は、嫡男が生まれなかったために桓武平氏の血を引く養子を迎えます。これが成衡でした。さらに、真衡は源氏の血を引く娘を迎えて成衡と婚姻させると、惣領家に近い系統の血統となりました。これにより、家衡は清原氏と阿部氏の惣領家の血を引いているため、清原氏の嫡流から外れることになってしまいます。
2.源義家の陸奥入りと真衡の死
真衡は不仲となっていた叔父の吉彦秀武に討伐の兵を挙げると、秀武のほうは家衡と清衡に蜂起を促し2人を味方につけて真衡の館に迫ります。真衡が軍を返して家衡と清衡を討とうとすると2人は本拠地に退きました。真衡が秀武を狙う中、1083年秋に成衡の義兄にあたる源義家が陸奥守として陸奥国に入ると、真衡は多賀城で3日間にわたってもてなします。ところが、その後すぐに出羽に出撃し、家衡と清衡の本拠地への攻撃を守りきます。真衡は国府の加勢もあって大勝し家衡と清衡に降伏させましたが、出羽に向かう行軍中で病により急死してしまいます。
3.清衡と家衡の争い
真衡が死んだあと義家は真衡の所領の奥六郡を3郡ずつ分け与えますが、これに不満を持つ家衡は1086年に清衡の館を襲撃しました。清衡は妻子を含む一族みな殺されてしまいますが、自身は一命を取り留めます。身寄りを失った清衡は義家を頼って家衡に対抗しますが、清衡・義家連合軍が沼柵に籠る家衡を攻撃した際には敗れてしまいます。この結果から、武貞の弟である武衡は家衡と合流し、難攻不落の金沢柵に陣を構えました。1087年、清衡・義家軍は家衡・武衡軍が籠る金沢柵を攻めたてますが、善戦するも金沢柵を落とすにはいたりませんでした。そこで、吉彦秀武の提案により兵糧攻めを転じると、食糧の尽きた家衡・武衡軍は金沢柵に火をつけて逃走します。しかし、武衡は逃亡中に捕らえられて斬首され、家衡も逃亡を図るも討ち取られます。
4.戦後の動き
この戦を私戦とした朝廷は、恩賞を与えることもなく戦費の支払いもしませんでした。それどころか、戦の間に貢納を怠って戦費にまわしていたとして遡って未納分を請求され続け、高位の官職に就くことはありませんでした。義家は恩賞に預かることはありませんでしたが、関東から戦地に向かった軍には私財から恩賞を出したことが関東での源氏の名声を高めた一因であると言われています。清衡のほうは奥六郡を領する大勢力を持つこととなり、のちに実父の姓である藤原に姓を戻しました。これが奥州藤原氏の祖となります。
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藤原経清の妻であった人物の連れ子は、武貞の養子となると何と名乗りましたか?
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藤原経清の妻であった人物の連れ子は、武貞の養子となると清原清衡と名乗りました。
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歴史
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【前九年の役とは?簡単にわかりやすく解説!!反乱が起こった背景や経過・その後など】
【前九年の役とは?】
前九年の役とは、平安時代後期の11世紀、陸奥国で起こった反乱のことです。陸奥国の有力豪族である安部氏が反乱をおこし、長期戦の末に源頼義が出羽の豪族清原氏の助けを得て討伐しました。(※前九年の役は「前九年合戦」と表記されることもあります)戦いの発端は、11世紀半ばに陸奥で強大な勢力をもつ安倍氏が朝廷への納税の義務を果たさなくなったため、1051年に陸奥守「藤原登任(なりとう)」と衝突することによって始まりました。乱は長引くも清原氏の参戦によって一気に収束に向かいます。陸奥守となっていた源頼義の活躍は、平忠常の乱を鎮めた父についでの源氏の活躍となり、源氏の東国進出が決定的なものになりました。
【前九年の役が起こった背景】
10世紀頃から豪族や有力農民が武士として台頭し、武士団をつくると大規模な反乱をおこすようになります。これらの乱で武士は力を見せつけることとなり、また、朝廷にとっても武士は欠かせない存在になっていった中でおこったのが前九年の役でした。
1.武士の台頭
10世紀に入ると、地方の豪族や有力農民が勢力を拡大するために武装して、兵(つわもの)と呼ばれるようになります。この兵は一族や郎党を従えて互いに争ったり、ときには国司に反抗したりすることもありました。畿内付近では、成長した豪族が武士と呼ばれるようになり、朝廷の武官となったり貴族に武芸をもって仕えるようになったりしていきます。さらには、滝口の武士などの宮中の警備にあたる重職を担うこともありました。武士となった勢力は、各地で一族の結びつきを強めながら次第に拡大し武士団を形成。中央から離れた地域では、旧来の豪族のほか任地に土着した国司の子孫の多くが武士団の中心となりました。
2.武士の大規模な反乱
東国は良馬を産することもあり、武士団の成長が著しい地域でした。その東国で勢力を広めたのが、桓武天皇の曽孫の高望王から平姓を与えられた桓武平氏でした。高望王の孫にあたる平将門は、下総を根拠地にして一族と私闘を繰り返すうちに反乱に発展していきます。(平将門の乱)将門は東国の大半を征服し新皇(しんのう)を称するに至りますが、父国香を殺された平貞盛らによって倒されます。瀬戸内海では、藤原純友が海賊を率いて反乱をおこします。(藤原純友の乱)伊予の国府を奪うと淡路から大宰府まで広範囲に勢力を広げましたが、小野好古(よしふる)や清和源氏の祖である源経基らによって討たれ乱は鎮圧されます。前九年の役の直前に起きたのは、平忠常の乱でした。平氏は将門の乱以降も関東に勢力を保ち続けており、もと上総の国司であった平忠常が乱をおこしますが、源頼信によって乱は鎮められます。
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10世紀頃から大規模な反乱をおこすようになった集団が、力を見せつけるようになり、朝廷にとっても欠かせない存在になっていった中でおこったのは何ですか?
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10世紀頃から大規模な反乱をおこすようになった集団が、力を見せつけるようになり、朝廷にとっても欠かせない存在になっていった中でおこったのは、前九年の役です。
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歴史
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【前九年の役とは?簡単にわかりやすく解説!!反乱が起こった背景や経過・その後など】
【前九年の役とは?】
前九年の役とは、平安時代後期の11世紀、陸奥国で起こった反乱のことです。陸奥国の有力豪族である安部氏が反乱をおこし、長期戦の末に源頼義が出羽の豪族清原氏の助けを得て討伐しました。(※前九年の役は「前九年合戦」と表記されることもあります)戦いの発端は、11世紀半ばに陸奥で強大な勢力をもつ安倍氏が朝廷への納税の義務を果たさなくなったため、1051年に陸奥守「藤原登任(なりとう)」と衝突することによって始まりました。乱は長引くも清原氏の参戦によって一気に収束に向かいます。陸奥守となっていた源頼義の活躍は、平忠常の乱を鎮めた父についでの源氏の活躍となり、源氏の東国進出が決定的なものになりました。
【前九年の役が起こった背景】
10世紀頃から豪族や有力農民が武士として台頭し、武士団をつくると大規模な反乱をおこすようになります。これらの乱で武士は力を見せつけることとなり、また、朝廷にとっても武士は欠かせない存在になっていった中でおこったのが前九年の役でした。
1.武士の台頭
10世紀に入ると、地方の豪族や有力農民が勢力を拡大するために武装して、兵(つわもの)と呼ばれるようになります。この兵は一族や郎党を従えて互いに争ったり、ときには国司に反抗したりすることもありました。畿内付近では、成長した豪族が武士と呼ばれるようになり、朝廷の武官となったり貴族に武芸をもって仕えるようになったりしていきます。さらには、滝口の武士などの宮中の警備にあたる重職を担うこともありました。武士となった勢力は、各地で一族の結びつきを強めながら次第に拡大し武士団を形成。中央から離れた地域では、旧来の豪族のほか任地に土着した国司の子孫の多くが武士団の中心となりました。
2.武士の大規模な反乱
東国は良馬を産することもあり、武士団の成長が著しい地域でした。その東国で勢力を広めたのが、桓武天皇の曽孫の高望王から平姓を与えられた桓武平氏でした。高望王の孫にあたる平将門は、下総を根拠地にして一族と私闘を繰り返すうちに反乱に発展していきます。(平将門の乱)将門は東国の大半を征服し新皇(しんのう)を称するに至りますが、父国香を殺された平貞盛らによって倒されます。瀬戸内海では、藤原純友が海賊を率いて反乱をおこします。(藤原純友の乱)伊予の国府を奪うと淡路から大宰府まで広範囲に勢力を広げましたが、小野好古(よしふる)や清和源氏の祖である源経基らによって討たれ乱は鎮圧されます。前九年の役の直前に起きたのは、平忠常の乱でした。平氏は将門の乱以降も関東に勢力を保ち続けており、もと上総の国司であった平忠常が乱をおこしますが、源頼信によって乱は鎮められます。
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10世紀、地方の豪族や有力農民が勢力を拡大するために武装した集団は、一族や郎党を従えてどうしていましたか?
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10世紀、地方の豪族や有力農民が勢力を拡大するために武装した集団は、一族や郎党を従えて互いに争ったり、ときには国司に反抗したりしていました。
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歴史
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【摂関政治とは】わかりやすく解説!!始まりから終わりまで!全盛期を築いた人物など
平安時代に強い勢力を持った藤原家。この藤原家の権力を強めたのが、摂関政治と呼ばれる政治でした。今回はそんな藤原家の権力を強め、最盛期を築き上げるようになった原因である『摂関政治』についてわかりやすく解説していきます。
摂関政治とは?
摂関政治とは、平安時代中期から行われた藤原北家の人達が摂政や関白に就任して天皇の代わりに政治を行うことを指します。藤原北家は自分の家出身の女性を次々と天皇家に嫁がせて権力を拡大していきました。
摂政と関白ってどんな役職?
摂関政治について話す前にまずは摂政と関白とはどのような役職だったのかをみていきましょう。摂政というのは幼い天皇や病弱な天皇が即位していた時に天皇に変わって政治を行う役職のことです。この役職の歴史は意外に古く、聖徳太子は摂政に就任しており、また近代でも病弱でもあった大正天皇の時には当時皇太子であった昭和天皇が摂政として就任しています。ちなみに今でも宮内庁の許可が下りれば普通に摂政を置くことができるのです。一方で関白は成人した天皇が政治のことで困った時にサポートする役職のことです。一番有名な関白はかの有名な豊臣秀吉。秀吉は1585年に関白に就任していますが、秀吉はこの関白の役割を利用して日本の政治を牛耳っていました。このように摂政と関白はお互いに天皇に深く関わる重要な役職だったのです。
摂関政治の始まり
1 ぶいぶいいわせ始める藤原北家
平安時代初期、日本の政治は中臣鎌足を始祖とする藤原家や橘家、そして長屋王をはじめとする皇族が対立していた時代でもありました。この頃の藤原家はまだ藤原不比等が偉かったのみで権力がなかったのですね。しかし、729年に長屋王の変が起こり、長屋王一族が暗殺されると時勢は一気に藤原家に傾いていきます。藤原不比等の跡を継いだ藤原四兄弟とも呼ばれる人たちは自身の娘達を天皇の妃にすることで権力を確立。一時期、藤原四兄弟が疫病で病死したり、道鏡というやばいお坊さんが孝謙天皇をたらしこんで藤原四兄弟の一派である藤原南家を滅ぼしかけたりするなど危ない場面もありましたが、藤原北家と藤原式家と呼ばれる2つの一族がなんとか立て直して光仁天皇という天皇を擁立し権力を強化。さらに薬子の変で藤原式家が没落すると藤原北家の一人勝ちとなり、藤原冬嗣の時代になると天皇の信任を完璧に得ることに成功しました。これからの藤原家はこの冬嗣の家系で最盛期を迎えることになるのです。
2 独裁化を果たす藤原北家
こうして藤原四兄弟の中で一番権力を持つようになった藤原北家。さらに、藤原冬嗣の息子である藤原頼良の時になると自分の長女の息子が文徳天皇として即位し、自身は天皇のおじいさんとしての地位を手に入れます。こうなるといくら天皇に関係ない藤原家も天皇と同じような地位を確立し、857年には良房は朝廷の中で一番偉い太政大臣に就任。これに勢いづいた藤原北家はさらに866年に応天門の変に乗じて藤原家から見たらやっかいな一族を失脚させます。また、皇族以外では史上初めてとなる摂政にも就任し、ついに摂関政治がスタートすることになったのです。
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摂関政治は藤原四兄弟の中で一番権力を持つようになったどの家系によるものですか?
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摂関政治は藤原四兄弟の中で一番権力を持つようになった藤原北家によるものです。
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歴史
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618年に中国で唐がおこると、律令法に基づき中央集権的な国家体制の充実を図ります。より統治しやすくするために均田制や租庸調制などを確立しました。日本では大化の改新の翌年、改新の詔(みことのり)が発せられたと「日本書紀」に記されており、唐にならい公地公民、国郡里制、税制が規定されました。それとともに戸籍をもとにして口分田を班給することが定められたのが「班田収授法」の始まりです。今回は、『班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)』について、簡単にわかりやすく解説していきます。
【班田収授法とは?】
班田収授法とは、飛鳥時代後期から平安時代にかけて行われた、6歳以上の男女に口分田を班給する制度のことです。大化の改新後、唐にならって律令国家を目指す改革の一つに班田収授法があり、人口と田地の調査をして税を確保する狙いがありました。班給について細かく取り決められていましたが、奈良時代末期になると浮浪や逃亡する者が増え、平安時代初期には実施されなくなっていきました。
【班田収授法が制定された背景】
班田収授法は中央集権的な律令制度の一環として採り入れられたものですが、お手本となったのは唐の均田制でした。日本では大化の改新後、律令国家を目指した改新の詔が発せられ、戸籍が整備されることで班田収授法に向けた準備が整っていきます。
1.唐の律令制
唐では日本に先駆けて中央集権的な律令国家の整備がすすみました。7世紀に唐がおこると、三省六部制(さんしょうりくぶせい)と呼ばれる中央官制やのちに班田収授法のお手本となった均田制を採り入れ、租庸調による税制を確立しました。均田制は北魏に始まり隋でも制度化されますが、唐での均田制は大人の男性に口分田が割り当てられたほか世襲できる永業田(えいぎょうでん)が認められました制度です。土地が不足する地域では貧しい者を優先して給田される一方、官人などは地位によって官人永業田を与えられるなど身分による違いがありました。唐で取り入れられた均田制は支配層に有利に働きました。
2.改新の詔
大化の改新後の646年、4条からなる改新の詔が発せられます。いずれも中央集権的な律令国家を目指す上で重要なものでした。改新の詔の条項は少しずつすすめられますが、班田収授法についてはこの時点では戸籍はなく実際に実施されるのはまだ先になります。ただし、改新の詔は時代に合わない記述が多く、実際の646年よりも後に書かれたものだという説もあります。
3.戸籍の整備から班田収授法の実現へ
670年に庚午年籍(こうごねんじゃく)と呼ばれる戸籍がつくられます。これは、全国的で豪族から公民・部曲(かきべ)・奴婢(ぬひ)までの全ての階層で戸籍としては全国で初めてのものでした。庚午年籍は全国民に氏姓を定めて、氏姓の根本台帳として保存されました。これにより、徴税と徴兵が容易になりますが、まだ公地公民が徹底しきれていなかったために豪族の不満は高まることになります。持統天皇は、689年に飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を施行し戸籍の作成を命じると、690年に庚寅年籍(こういんねんじゃく)が完成しました。この庚寅年籍により五十戸を一里とした国・評・里・戸の制が確立すると、戸籍に基づく口分田が班給され全国的に班田収授法が始まったとされています。こののち、701年の大宝律令や718年の養老律令でも班田収授法が規定されました。このように、政府は全国の人民を戸籍・計帳に登録し、律令体制による支配を隅々まで浸透させようとしました。戸籍とは、戸を単位とした課役(かえき)、良民と賎民(せんみん)の区別、氏姓の確定、兵士の徴発、班田収授などの基本台帳とされ、6年ごとにつくられました。また、計帳は調と庸を徴収するための基本台帳であり、全国の推移を把握するために毎年つくりかえられました。
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大化の改新後、唐にならって律令国家を目指す改革の一つで、人口と田地の調査をして税を確保する狙いがあった制度は、6歳以上の男女に何を班給する制度ですか?
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大化の改新後、唐にならって律令国家を目指す改革の一つで、人口と田地の調査をして税を確保する狙いがあった制度は、6歳以上の男女に口分田を班給する制度です。
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歴史
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オスカー・シンドラー(1908~1974年)はモラビアのスビタビ(当時のオーストリア・ハンガリー君主国の州)で生まれました。ドイツ系のカソリック教徒であるシンドラーは、第二次世界大戦中、1,200人近いユダヤ人をアウシュビッツへの移送から救いました。シンドラーは1936年にドイツ国防軍諜報部で働き始め、1939年2月にナチ党に加わりました。華美な生活を好む日和見主義の実業家、シンドラーは戦時中の救世主にはなりそうもない人物でした。
ドイツ軍のポーランド侵攻に伴って、シンドラーはクラクフに移住しました。商取引から「ユダヤ人を駆逐する」ドイツの計画を利用して、1939年11月にユダヤ人所有のホーロー鉄器メーカーを買い取り、同年、クラクフにエマリアという工場を建設したのです。シンドラーは他に2つ工場を運営していましたが、近くのクラクフゲットーからユダヤ人の強制労働者を雇用したのはエマリアだけでした。1943年3月のゲットーの解体中、シンドラーはユダヤ人の工員が比較的安全な工場に一泊することを許可しました。1944年のピーク時には、エマリアで1,700人の工員を雇っており、1,000人以上が後にプラショフ強制収容所に移ったユダヤ人強制労働者でした。クラクフは、ポーランドの南に位置し、11世紀から16世紀にかけて500年以上もの間、ポーランドの古都でした。
エマリアに配属された囚人たちはプラショフ収容所の悲惨な状況を免れなかったものの、シンドラーは彼らのために賄賂や個人的な駆け引きで何度も介入しました。ドイツの戦力に工員が不可欠であるという主張を裏付けるために、彼はエマリアに兵器製造部門を加えました。彼の従業員として登録されている約1,000人のユダヤ人強制労働者に加え、シンドラーは450人のユダヤ人がエマリアで暮らせるように近くの工場で働かせました。シンドラーがこれらの労働者と一部の商取引を保護していることで、ドイツ当局は汚職と不当なユダヤ人援助の疑惑を抱きました。親衛隊と警察官は3度も彼を逮捕しましたが、告発することはできませんでした。
1944年10月、シンドラーはエマリアをモラビアのブリュンリッツに移転する許可を得て、移転しました。補佐の1人が、新工場で働く必要のある1,200人ものユダヤ人の囚人リストを何種類か作成しました。これらのリストは、まとめて「シンドラーのリスト」として知られるようになりました。ブリュンリッツ工場は兵器工場として分類されていますが、操業8か月近くで積荷一個分だけの実弾を生産しただけでした。シンドラーは偽りの生産数を提示して、ドイツ当局にその存在を正当化しました。
1949年、シンドラーと妻はアルゼンチンに移住しました。アルゼンチンの首都ブエノスアイレスには、 ホロコースト博物館が450万ドルを投資してリニューアルされています。1962年、イスラエルのホロコースト追悼、ヤド・ヴァシェムは戦時中の救済努力を讃えてシンドラーに「諸国民の中の正義の人」という称号を授与しました。1974年10月、シンドラーはドイツで人知れず無一文で亡くなりました。シンドラーの物語は1993年製作のスティーブン・スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」のおかげで注目を浴びるようになりました。スティーブン・スピルバーグ監督はウクライナ系ユダヤ人です。結局、ホロコースト時代にシンドラーは約800人のユダヤ人男性と300~400人のユダヤ人女性の命を救ったことになります。
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シンドラーが1939年に建設した工場が、1944年に移転した場所はどこですか?
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シンドラーが1939年に建設した工場が、1944年に移転した場所はモラビアのブリュンリッツです。
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歴史
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オスカー・シンドラー(1908~1974年)はモラビアのスビタビ(当時のオーストリア・ハンガリー君主国の州)で生まれました。ドイツ系のカソリック教徒であるシンドラーは、第二次世界大戦中、1,200人近いユダヤ人をアウシュビッツへの移送から救いました。シンドラーは1936年にドイツ国防軍諜報部で働き始め、1939年2月にナチ党に加わりました。華美な生活を好む日和見主義の実業家、シンドラーは戦時中の救世主にはなりそうもない人物でした。
ドイツ軍のポーランド侵攻に伴って、シンドラーはクラクフに移住しました。商取引から「ユダヤ人を駆逐する」ドイツの計画を利用して、1939年11月にユダヤ人所有のホーロー鉄器メーカーを買い取り、同年、クラクフにエマリアという工場を建設したのです。シンドラーは他に2つ工場を運営していましたが、近くのクラクフゲットーからユダヤ人の強制労働者を雇用したのはエマリアだけでした。1943年3月のゲットーの解体中、シンドラーはユダヤ人の工員が比較的安全な工場に一泊することを許可しました。1944年のピーク時には、エマリアで1,700人の工員を雇っており、1,000人以上が後にプラショフ強制収容所に移ったユダヤ人強制労働者でした。クラクフは、ポーランドの南に位置し、11世紀から16世紀にかけて500年以上もの間、ポーランドの古都でした。
エマリアに配属された囚人たちはプラショフ収容所の悲惨な状況を免れなかったものの、シンドラーは彼らのために賄賂や個人的な駆け引きで何度も介入しました。ドイツの戦力に工員が不可欠であるという主張を裏付けるために、彼はエマリアに兵器製造部門を加えました。彼の従業員として登録されている約1,000人のユダヤ人強制労働者に加え、シンドラーは450人のユダヤ人がエマリアで暮らせるように近くの工場で働かせました。シンドラーがこれらの労働者と一部の商取引を保護していることで、ドイツ当局は汚職と不当なユダヤ人援助の疑惑を抱きました。親衛隊と警察官は3度も彼を逮捕しましたが、告発することはできませんでした。
1944年10月、シンドラーはエマリアをモラビアのブリュンリッツに移転する許可を得て、移転しました。補佐の1人が、新工場で働く必要のある1,200人ものユダヤ人の囚人リストを何種類か作成しました。これらのリストは、まとめて「シンドラーのリスト」として知られるようになりました。ブリュンリッツ工場は兵器工場として分類されていますが、操業8か月近くで積荷一個分だけの実弾を生産しただけでした。シンドラーは偽りの生産数を提示して、ドイツ当局にその存在を正当化しました。
1949年、シンドラーと妻はアルゼンチンに移住しました。アルゼンチンの首都ブエノスアイレスには、 ホロコースト博物館が450万ドルを投資してリニューアルされています。1962年、イスラエルのホロコースト追悼、ヤド・ヴァシェムは戦時中の救済努力を讃えてシンドラーに「諸国民の中の正義の人」という称号を授与しました。1974年10月、シンドラーはドイツで人知れず無一文で亡くなりました。シンドラーの物語は1993年製作のスティーブン・スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」のおかげで注目を浴びるようになりました。スティーブン・スピルバーグ監督はウクライナ系ユダヤ人です。結局、ホロコースト時代にシンドラーは約800人のユダヤ人男性と300~400人のユダヤ人女性の命を救ったことになります。
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シンドラーに関する映画を1993年に制作した監督は何人ですか?
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シンドラーに関する映画を1993年に制作した監督はウクライナ系ユダヤ人です。
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歴史
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オスカー・シンドラー(1908~1974年)はモラビアのスビタビ(当時のオーストリア・ハンガリー君主国の州)で生まれました。ドイツ系のカソリック教徒であるシンドラーは、第二次世界大戦中、1,200人近いユダヤ人をアウシュビッツへの移送から救いました。シンドラーは1936年にドイツ国防軍諜報部で働き始め、1939年2月にナチ党に加わりました。華美な生活を好む日和見主義の実業家、シンドラーは戦時中の救世主にはなりそうもない人物でした。
ドイツ軍のポーランド侵攻に伴って、シンドラーはクラクフに移住しました。商取引から「ユダヤ人を駆逐する」ドイツの計画を利用して、1939年11月にユダヤ人所有のホーロー鉄器メーカーを買い取り、同年、クラクフにエマリアという工場を建設したのです。シンドラーは他に2つ工場を運営していましたが、近くのクラクフゲットーからユダヤ人の強制労働者を雇用したのはエマリアだけでした。1943年3月のゲットーの解体中、シンドラーはユダヤ人の工員が比較的安全な工場に一泊することを許可しました。1944年のピーク時には、エマリアで1,700人の工員を雇っており、1,000人以上が後にプラショフ強制収容所に移ったユダヤ人強制労働者でした。クラクフは、ポーランドの南に位置し、11世紀から16世紀にかけて500年以上もの間、ポーランドの古都でした。
エマリアに配属された囚人たちはプラショフ収容所の悲惨な状況を免れなかったものの、シンドラーは彼らのために賄賂や個人的な駆け引きで何度も介入しました。ドイツの戦力に工員が不可欠であるという主張を裏付けるために、彼はエマリアに兵器製造部門を加えました。彼の従業員として登録されている約1,000人のユダヤ人強制労働者に加え、シンドラーは450人のユダヤ人がエマリアで暮らせるように近くの工場で働かせました。シンドラーがこれらの労働者と一部の商取引を保護していることで、ドイツ当局は汚職と不当なユダヤ人援助の疑惑を抱きました。親衛隊と警察官は3度も彼を逮捕しましたが、告発することはできませんでした。
1944年10月、シンドラーはエマリアをモラビアのブリュンリッツに移転する許可を得て、移転しました。補佐の1人が、新工場で働く必要のある1,200人ものユダヤ人の囚人リストを何種類か作成しました。これらのリストは、まとめて「シンドラーのリスト」として知られるようになりました。ブリュンリッツ工場は兵器工場として分類されていますが、操業8か月近くで積荷一個分だけの実弾を生産しただけでした。シンドラーは偽りの生産数を提示して、ドイツ当局にその存在を正当化しました。
1949年、シンドラーと妻はアルゼンチンに移住しました。アルゼンチンの首都ブエノスアイレスには、 ホロコースト博物館が450万ドルを投資してリニューアルされています。1962年、イスラエルのホロコースト追悼、ヤド・ヴァシェムは戦時中の救済努力を讃えてシンドラーに「諸国民の中の正義の人」という称号を授与しました。1974年10月、シンドラーはドイツで人知れず無一文で亡くなりました。シンドラーの物語は1993年製作のスティーブン・スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」のおかげで注目を浴びるようになりました。スティーブン・スピルバーグ監督はウクライナ系ユダヤ人です。結局、ホロコースト時代にシンドラーは約800人のユダヤ人男性と300~400人のユダヤ人女性の命を救ったことになります。
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シンドラーが1939年に工場を建設した場所は、どこの古都でしたか?
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シンドラーが1939年に工場を建設した場所は、ポーランドの古都でした。
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歴史
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オスカー・シンドラー(1908~1974年)はモラビアのスビタビ(当時のオーストリア・ハンガリー君主国の州)で生まれました。ドイツ系のカソリック教徒であるシンドラーは、第二次世界大戦中、1,200人近いユダヤ人をアウシュビッツへの移送から救いました。シンドラーは1936年にドイツ国防軍諜報部で働き始め、1939年2月にナチ党に加わりました。華美な生活を好む日和見主義の実業家、シンドラーは戦時中の救世主にはなりそうもない人物でした。
ドイツ軍のポーランド侵攻に伴って、シンドラーはクラクフに移住しました。商取引から「ユダヤ人を駆逐する」ドイツの計画を利用して、1939年11月にユダヤ人所有のホーロー鉄器メーカーを買い取り、同年、クラクフにエマリアという工場を建設したのです。シンドラーは他に2つ工場を運営していましたが、近くのクラクフゲットーからユダヤ人の強制労働者を雇用したのはエマリアだけでした。1943年3月のゲットーの解体中、シンドラーはユダヤ人の工員が比較的安全な工場に一泊することを許可しました。1944年のピーク時には、エマリアで1,700人の工員を雇っており、1,000人以上が後にプラショフ強制収容所に移ったユダヤ人強制労働者でした。クラクフは、ポーランドの南に位置し、11世紀から16世紀にかけて500年以上もの間、ポーランドの古都でした。
エマリアに配属された囚人たちはプラショフ収容所の悲惨な状況を免れなかったものの、シンドラーは彼らのために賄賂や個人的な駆け引きで何度も介入しました。ドイツの戦力に工員が不可欠であるという主張を裏付けるために、彼はエマリアに兵器製造部門を加えました。彼の従業員として登録されている約1,000人のユダヤ人強制労働者に加え、シンドラーは450人のユダヤ人がエマリアで暮らせるように近くの工場で働かせました。シンドラーがこれらの労働者と一部の商取引を保護していることで、ドイツ当局は汚職と不当なユダヤ人援助の疑惑を抱きました。親衛隊と警察官は3度も彼を逮捕しましたが、告発することはできませんでした。
1944年10月、シンドラーはエマリアをモラビアのブリュンリッツに移転する許可を得て、移転しました。補佐の1人が、新工場で働く必要のある1,200人ものユダヤ人の囚人リストを何種類か作成しました。これらのリストは、まとめて「シンドラーのリスト」として知られるようになりました。ブリュンリッツ工場は兵器工場として分類されていますが、操業8か月近くで積荷一個分だけの実弾を生産しただけでした。シンドラーは偽りの生産数を提示して、ドイツ当局にその存在を正当化しました。
1949年、シンドラーと妻はアルゼンチンに移住しました。アルゼンチンの首都ブエノスアイレスには、 ホロコースト博物館が450万ドルを投資してリニューアルされています。1962年、イスラエルのホロコースト追悼、ヤド・ヴァシェムは戦時中の救済努力を讃えてシンドラーに「諸国民の中の正義の人」という称号を授与しました。1974年10月、シンドラーはドイツで人知れず無一文で亡くなりました。シンドラーの物語は1993年製作のスティーブン・スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」のおかげで注目を浴びるようになりました。スティーブン・スピルバーグ監督はウクライナ系ユダヤ人です。結局、ホロコースト時代にシンドラーは約800人のユダヤ人男性と300~400人のユダヤ人女性の命を救ったことになります。
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シンドラーと妻が1949年に移住した国で、450万ドルの投資によってリニューアルされた博物館は何ですか?
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シンドラーと妻が1949年に移住した国で、450万ドルの投資によってリニューアルされた博物館はホロコースト博物館です。
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歴史
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西郷隆盛は、新しい近代国家の成立に最も功績のあった人です。西郷隆盛は1827年に薩摩藩の下級武士の長男として生まれました。薩摩藩には「郷中教育」といって、地域の武士の子を集めて厳しくしつけ育てる自治組織があり、西郷隆盛も子どもの頃からそこで学びます。大久保利通も同じ郷中仲間で、幼い頃からの友達でした。
西郷隆盛は28歳の時に薩摩藩主・島津斉彬に見出されて側近に取り立てられると、島津斉彬の命令で、江戸や京都などで幕府の重役や全国の有力大名、側近などと会って人脈を広げるとともに、今後の国のあり方について深く考えるようになりました。
1864年、薩摩藩の軍隊指揮官に任命された西郷隆盛は、大久保利通とともに藩を倒幕勢力の急先鋒へと導いていきます。そこで大きな役割を果たしたのが、土佐藩出身の坂本龍馬でした。坂本龍馬の仲介によって、1866(慶応2)年に西郷隆盛は薩摩藩と対立していた長州藩の木戸孝允と話し合い「薩長同盟」を結ぶと、倒幕運動を加速させていきます。
西郷隆盛と大久保利通は公家の岩倉具視とも協力し、朝廷から討幕の密勅を引き出そうと画策しました。西郷隆盛の部下たちも、朝廷の関係者に朝廷内の動向を尋ねたり、長州藩の人々と話し合いを重ねたりしました。しかし、幕府側は1867(慶応3)年10月に15代将軍となった徳川慶喜が「大政奉還」を行って、政権を朝廷に返すことで倒幕を無意味なものにしようとしました。そこで、西郷隆盛と大久保利通は同年12月に岩倉具視と結んで朝廷に「王政復古」の大号令を出させて、武力で一気に幕府を倒そうと動き出したのです。
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新しい近代国家の成立に最も功績のあった人は、何年に薩摩藩の軍隊指揮官に任命されましたか?
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新しい近代国家の成立に最も功績のあった人は、1864年に薩摩藩の軍隊指揮官に任命されました。
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