ID stringlengths 13 13 | Category stringclasses 12 values | Context stringlengths 1 4.96k | Question stringlengths 7 248 | GroundtruthAnswer stringlengths 2 663 |
|---|---|---|---|---|
JCRRAG_010401 | 国語 | 内供は、積極的にも消極的にも、この傷つけられたプライドを回復しようと思っていた。
第一に内供が考えたのは、この長い鼻を実際のサイズ以上に短く見せる方法である。これは人のいない時に、鏡へ向かって、いろいろな角度から顔を映しながら、熱心に工夫してみた。どうしても、顔の位置を変えるだけでは、安心が出来なくなって、頬杖をついたりアゴの先へ指をあてがったりして、根気よく鏡を覗いて見る事もあった。しかし自分でも満足するほど、鼻が短く見えた事は、これまでただの一度もない。場合によっては苦心すればするほど、かえって鼻が長く見えるような気さえしてきた。内供は、こういう時には、鏡を箱へ片付けながら、今更のようにため息をついて、不承不承にまた元の経机へ、観音経をよみに帰るのである。
それからまた内供は、絶えず人の鼻を気にしていた。池の尾の寺は、僧供による講説などがしばしば行われる寺である。寺の中には、僧坊が隙間なく並んでいて、湯屋では寺の僧が毎日お湯を沸かしている。つまりここへ出入りする僧侶や一般人が非常に多い。内供はこういう人々の顔を根気よく観察した。一人でも自分のような鼻のある人間を見つけて、安心したかったからである。だから内供の眼には、紺の水干も白の帷子もはいらない。ましてオレンジ色の帽子や、暗い茶色の法衣なんてものは、見慣れているだけにあってないようなものである。内供は人を見ないで、ただ鼻を見た。
しかし鍵鼻はあっても、内供のような鼻は一つも見当たらない。その見当たらない事が度重なっていくうちに、内供の心は次第にまた不快になった。内供が人と話しながら、思わずぶらりと下っている鼻の先をつまんで見て、年甲斐もなく顔を赤らめたのは、全てこの時不快感によるものである。
最後に、内供は、仏教の経典や色んな宗教の経典の中に、自分と同じような鼻のある人物を見つけて、すこしでも心の支えにしようとさえ思った事がある。けれども、目連や、舎利弗の鼻が長かったとはどの経文にも書いてない。もちろん竜樹や馬鳴も、人並の鼻を備えた菩薩である。内供は、中国の話をするついでに蜀漢にいた劉備玄徳の耳が長かったという事を聞いた時に、「それが鼻だったら、どのくらい自分は心細くなくなるだろうか」と思った。
内供がこういう消極的な苦心をしている一方で、積極的に鼻の短くなる方法を試みた事は、わざわざここにいうまでもない。内供はこの方面でもほとんど出来るだけの事をした。烏瓜を煎じて飲んで見た事もある。鼠の尿を乾かした物を鼻へすりつけて見た事もある。しかし何をしたとしても、鼻は依然として、五・六寸の長さをぶらりと唇の上にぶら下げていた。 | 内供が湯屋で人々を観察していたのはなんでですか。 | 池の尾の寺は、僧供による講説などがしばしば行われる寺である。寺の中には、僧坊が隙間なく並んでいて、湯屋では寺の僧が毎日お湯を沸かしている。つまりここへ出入りする僧侶や一般人が非常に多い。内供はこういう人々の顔を根気よく観察した。一人でも自分のような鼻のある人間を見つけて、安心したかったからである。 |
JCRRAG_010402 | 国語 | 内供は、積極的にも消極的にも、この傷つけられたプライドを回復しようと思っていた。
第一に内供が考えたのは、この長い鼻を実際のサイズ以上に短く見せる方法である。これは人のいない時に、鏡へ向かって、いろいろな角度から顔を映しながら、熱心に工夫してみた。どうしても、顔の位置を変えるだけでは、安心が出来なくなって、頬杖をついたりアゴの先へ指をあてがったりして、根気よく鏡を覗いて見る事もあった。しかし自分でも満足するほど、鼻が短く見えた事は、これまでただの一度もない。場合によっては苦心すればするほど、かえって鼻が長く見えるような気さえしてきた。内供は、こういう時には、鏡を箱へ片付けながら、今更のようにため息をついて、不承不承にまた元の経机へ、観音経をよみに帰るのである。
それからまた内供は、絶えず人の鼻を気にしていた。池の尾の寺は、僧供による講説などがしばしば行われる寺である。寺の中には、僧坊が隙間なく並んでいて、湯屋では寺の僧が毎日お湯を沸かしている。つまりここへ出入りする僧侶や一般人が非常に多い。内供はこういう人々の顔を根気よく観察した。一人でも自分のような鼻のある人間を見つけて、安心したかったからである。だから内供の眼には、紺の水干も白の帷子もはいらない。ましてオレンジ色の帽子や、暗い茶色の法衣なんてものは、見慣れているだけにあってないようなものである。内供は人を見ないで、ただ鼻を見た。
しかし鍵鼻はあっても、内供のような鼻は一つも見当たらない。その見当たらない事が度重なっていくうちに、内供の心は次第にまた不快になった。内供が人と話しながら、思わずぶらりと下っている鼻の先をつまんで見て、年甲斐もなく顔を赤らめたのは、全てこの時不快感によるものである。
最後に、内供は、仏教の経典や色んな宗教の経典の中に、自分と同じような鼻のある人物を見つけて、すこしでも心の支えにしようとさえ思った事がある。けれども、目連や、舎利弗の鼻が長かったとはどの経文にも書いてない。もちろん竜樹や馬鳴も、人並の鼻を備えた菩薩である。内供は、中国の話をするついでに蜀漢にいた劉備玄徳の耳が長かったという事を聞いた時に、「それが鼻だったら、どのくらい自分は心細くなくなるだろうか」と思った。
内供がこういう消極的な苦心をしている一方で、積極的に鼻の短くなる方法を試みた事は、わざわざここにいうまでもない。内供はこの方面でもほとんど出来るだけの事をした。烏瓜を煎じて飲んで見た事もある。鼠の尿を乾かした物を鼻へすりつけて見た事もある。しかし何をしたとしても、鼻は依然として、五・六寸の長さをぶらりと唇の上にぶら下げていた。 | 内供は積極的に鼻の短くなる方法をしてどうなりましたか。 | 烏瓜を煎じて飲んで見た事もある。鼠の尿を乾かした物を鼻へすりつけて見た事もある。しかし何をしたとしても、鼻は依然として、五・六寸の長さをぶらりと唇の上にぶら下げていた。 |
JCRRAG_010403 | 国語 | ある年の秋、内供の仕事も兼ねて、京都へ行った弟子の僧侶が、知り合いの医者から長い鼻を短くする方法を教わって来た。その医者というのは、中国から渡って来た男で、当時は長楽寺の僧侶になっていたのである。
内供は、いつものように鼻などは気にかけないという雰囲気を出していて、わざとその方法もすぐにやって見ようとはいわずにいた。そうして一方では、気軽な口調で「食事するたびに弟子の手間をかけるのが心苦しいんだよなあ」みたいな事を言った。だが内心ではもちろん弟子の僧が、自分を説得して、この方法をやらせようとするのを待っていたのである。
弟子の僧にも、内供のこの策略がわからない筈はない。しかしそれに対する反感よりは、内供のそういう策略をとる心境の方が、より強くこの弟子の僧に同情させたのだろう。弟子の僧は、内供の予定通りに、この方法をやってみる事を非常に強い口調で勧め出した。そうして、内供自身もまた、その予定通り、結局この熱心なアドバイスを聞いてやってみる事になった。
その方法というのは、ただ、お湯で鼻を茹でて、その鼻を人に踏ませるという、極めて簡単なものであった。
お湯は寺の湯屋で、毎日沸かしている。そこで弟子の僧は、指も入れられないような熱い湯を、すぐに提げに入れて、湯屋から汲んで来た。しかし直接この提げに鼻を入れるとなると、湯気を浴びて顔を火傷する危険性がある。そこで折敷に穴をあけて、それを提の蓋にして、その穴から鼻を湯の中へ入れる事にした。鼻だけはこの熱い湯の中へ浸しても少しも熱くないのである。しばらくすると弟子の僧がいった。
もう茹で上がったんじゃないですかね?
内供は苦笑した。これだけ聞いたのでは、誰も鼻の話とは気がつかないだろうと思ったからである。鼻は熱湯に蒸されて、蚤に食われたようにむず痒い。
弟子の僧は、内供が折敷の穴から鼻をぬくと、そのまだ湯気の立っている鼻を、両足に力を入れながら、踏みはじめた。内供は横になって、鼻を床板の上へのばしながら、弟子の僧の足が上下に動くのを眼の前で見ているのである。弟子の僧は、時々気の毒そうな顔をして、内供の禿頭を見下ろしながら、こんな事をいった。
痛くないですか?医師は強く踏めと言ったものですから。痛くないですか?
内供は首を振って、痛くないという意思を伝えようとした。ところが鼻を踏まれているので思うように首が動かない。そこで、上目使いをして、弟子の僧の足にあかぎれが出来ているのを眺めながら、腹を立てたような声で、
痛くはない。
と答えた。実際鼻はむず痒い所を踏まれるので、痛いよりもかえって気持ちいいくらいだったのである。
しばらく踏んでいると、やがて、粟粒のようなものが、鼻へ出来始めた。例えるなら毛をむしった小鳥をそっくり丸焼きにしたような形である。弟子の僧はこれを見ると、足を止めて独り言のようにこういった。
これをピンセットで抜くと言ってましたね。
内供は、不満そうに頬をふくらませて、黙って弟子の僧のしたいようにさせた。もちろん弟子の僧の親切がわからない訳ではない。それは分かっていても、自分の鼻をまるで物のように取り扱うのが、不愉快に思われたからである。内供は、信用しない医者の手術をうける患者のような顔をして、弟子の僧が、いやいや鼻の毛穴からピンセットで脂をとるのを眺めていた。脂は、鳥の羽の茎くきのような形をして、1.3センチばかりの長さにぬけるのである。
やがて一通り脂を取りおわると、弟子の僧は、ほっと一息ついたような顔をして、
もう一度、これを茹でればいいみたいですよ。
といった。
内供はやはり、眉間に八の字を寄せたまま不服そうな顔をして、弟子の僧の言いなりになっていた。
さて二度目に茹でた鼻を出して見ると、成程確かに今までないくらいに短くなっている。これではその辺にいる鍵鼻と大した変わりはない。内供はその短くなった鼻を撫でながら、弟子の僧の出してくれる鏡を、照れくさそうにおずおずと覗いて見た。
鼻はあのアゴの下まで下がっていた鼻は、ほとんど嘘のように縮み上がって、今はわずかに上唇の上で意気地なくなんとか残ってるようになっていた。ところどころが赤くなっているのは、恐らく踏まれた時の名残であろう。こうなれば、もう誰もわらうものはないにちがいない。鏡の中にある内供の顔は、鏡の外にある内供の顔を見て、満足そうに眼をパチパチさせていた。
しかし、その日はまだ一日中、鼻がまた長くなりはしないかという不安があった。そこで内供は声を出して経をとなえている時にも、食事をする時にも、暇さえあれば手を出して、そっと鼻の先にさわってみた。だが、鼻は行儀よく唇の上に納まっているだけで、それより下へぶら下がって来る様子もない。それから一晩寝て翌日早く眼がさめると内供はまず、第一に、自分の鼻を撫でて見た。鼻は依然として短かった。内供はそこで、ここ数年なかったような、法華経の書写の功を積んだ時のような、のびのびした気分になった。
| 内供が弟子が教わって来た長い鼻を短くする方法をやろうとしなかったのはなぜですか。 | 内心ではもちろん弟子の僧が、自分を説得して、この方法をやらせようとするのを待っていたのである。 |
JCRRAG_010404 | 国語 | ある年の秋、内供の仕事も兼ねて、京都へ行った弟子の僧侶が、知り合いの医者から長い鼻を短くする方法を教わって来た。その医者というのは、中国から渡って来た男で、当時は長楽寺の僧侶になっていたのである。
内供は、いつものように鼻などは気にかけないという雰囲気を出していて、わざとその方法もすぐにやって見ようとはいわずにいた。そうして一方では、気軽な口調で「食事するたびに弟子の手間をかけるのが心苦しいんだよなあ」みたいな事を言った。だが内心ではもちろん弟子の僧が、自分を説得して、この方法をやらせようとするのを待っていたのである。
弟子の僧にも、内供のこの策略がわからない筈はない。しかしそれに対する反感よりは、内供のそういう策略をとる心境の方が、より強くこの弟子の僧に同情させたのだろう。弟子の僧は、内供の予定通りに、この方法をやってみる事を非常に強い口調で勧め出した。そうして、内供自身もまた、その予定通り、結局この熱心なアドバイスを聞いてやってみる事になった。
その方法というのは、ただ、お湯で鼻を茹でて、その鼻を人に踏ませるという、極めて簡単なものであった。
お湯は寺の湯屋で、毎日沸かしている。そこで弟子の僧は、指も入れられないような熱い湯を、すぐに提げに入れて、湯屋から汲んで来た。しかし直接この提げに鼻を入れるとなると、湯気を浴びて顔を火傷する危険性がある。そこで折敷に穴をあけて、それを提の蓋にして、その穴から鼻を湯の中へ入れる事にした。鼻だけはこの熱い湯の中へ浸しても少しも熱くないのである。しばらくすると弟子の僧がいった。
もう茹で上がったんじゃないですかね?
内供は苦笑した。これだけ聞いたのでは、誰も鼻の話とは気がつかないだろうと思ったからである。鼻は熱湯に蒸されて、蚤に食われたようにむず痒い。
弟子の僧は、内供が折敷の穴から鼻をぬくと、そのまだ湯気の立っている鼻を、両足に力を入れながら、踏みはじめた。内供は横になって、鼻を床板の上へのばしながら、弟子の僧の足が上下に動くのを眼の前で見ているのである。弟子の僧は、時々気の毒そうな顔をして、内供の禿頭を見下ろしながら、こんな事をいった。
痛くないですか?医師は強く踏めと言ったものですから。痛くないですか?
内供は首を振って、痛くないという意思を伝えようとした。ところが鼻を踏まれているので思うように首が動かない。そこで、上目使いをして、弟子の僧の足にあかぎれが出来ているのを眺めながら、腹を立てたような声で、
痛くはない。
と答えた。実際鼻はむず痒い所を踏まれるので、痛いよりもかえって気持ちいいくらいだったのである。
しばらく踏んでいると、やがて、粟粒のようなものが、鼻へ出来始めた。例えるなら毛をむしった小鳥をそっくり丸焼きにしたような形である。弟子の僧はこれを見ると、足を止めて独り言のようにこういった。
これをピンセットで抜くと言ってましたね。
内供は、不満そうに頬をふくらませて、黙って弟子の僧のしたいようにさせた。もちろん弟子の僧の親切がわからない訳ではない。それは分かっていても、自分の鼻をまるで物のように取り扱うのが、不愉快に思われたからである。内供は、信用しない医者の手術をうける患者のような顔をして、弟子の僧が、いやいや鼻の毛穴からピンセットで脂をとるのを眺めていた。脂は、鳥の羽の茎くきのような形をして、1.3センチばかりの長さにぬけるのである。
やがて一通り脂を取りおわると、弟子の僧は、ほっと一息ついたような顔をして、
もう一度、これを茹でればいいみたいですよ。
といった。
内供はやはり、眉間に八の字を寄せたまま不服そうな顔をして、弟子の僧の言いなりになっていた。
さて二度目に茹でた鼻を出して見ると、成程確かに今までないくらいに短くなっている。これではその辺にいる鍵鼻と大した変わりはない。内供はその短くなった鼻を撫でながら、弟子の僧の出してくれる鏡を、照れくさそうにおずおずと覗いて見た。
鼻はあのアゴの下まで下がっていた鼻は、ほとんど嘘のように縮み上がって、今はわずかに上唇の上で意気地なくなんとか残ってるようになっていた。ところどころが赤くなっているのは、恐らく踏まれた時の名残であろう。こうなれば、もう誰もわらうものはないにちがいない。鏡の中にある内供の顔は、鏡の外にある内供の顔を見て、満足そうに眼をパチパチさせていた。
しかし、その日はまだ一日中、鼻がまた長くなりはしないかという不安があった。そこで内供は声を出して経をとなえている時にも、食事をする時にも、暇さえあれば手を出して、そっと鼻の先にさわってみた。だが、鼻は行儀よく唇の上に納まっているだけで、それより下へぶら下がって来る様子もない。それから一晩寝て翌日早く眼がさめると内供はまず、第一に、自分の鼻を撫でて見た。鼻は依然として短かった。内供はそこで、ここ数年なかったような、法華経の書写の功を積んだ時のような、のびのびした気分になった。
| 折敷に穴をあけて、それを提の蓋にして、その穴から鼻を湯の中へ入れる事にしたのはなぜですか。 | 直接この提げに鼻を入れるとなると、湯気を浴びて顔を火傷する危険性がある。 |
JCRRAG_010405 | 国語 | ある年の秋、内供の仕事も兼ねて、京都へ行った弟子の僧侶が、知り合いの医者から長い鼻を短くする方法を教わって来た。その医者というのは、中国から渡って来た男で、当時は長楽寺の僧侶になっていたのである。
内供は、いつものように鼻などは気にかけないという雰囲気を出していて、わざとその方法もすぐにやって見ようとはいわずにいた。そうして一方では、気軽な口調で「食事するたびに弟子の手間をかけるのが心苦しいんだよなあ」みたいな事を言った。だが内心ではもちろん弟子の僧が、自分を説得して、この方法をやらせようとするのを待っていたのである。
弟子の僧にも、内供のこの策略がわからない筈はない。しかしそれに対する反感よりは、内供のそういう策略をとる心境の方が、より強くこの弟子の僧に同情させたのだろう。弟子の僧は、内供の予定通りに、この方法をやってみる事を非常に強い口調で勧め出した。そうして、内供自身もまた、その予定通り、結局この熱心なアドバイスを聞いてやってみる事になった。
その方法というのは、ただ、お湯で鼻を茹でて、その鼻を人に踏ませるという、極めて簡単なものであった。
お湯は寺の湯屋で、毎日沸かしている。そこで弟子の僧は、指も入れられないような熱い湯を、すぐに提げに入れて、湯屋から汲んで来た。しかし直接この提げに鼻を入れるとなると、湯気を浴びて顔を火傷する危険性がある。そこで折敷に穴をあけて、それを提の蓋にして、その穴から鼻を湯の中へ入れる事にした。鼻だけはこの熱い湯の中へ浸しても少しも熱くないのである。しばらくすると弟子の僧がいった。
もう茹で上がったんじゃないですかね?
内供は苦笑した。これだけ聞いたのでは、誰も鼻の話とは気がつかないだろうと思ったからである。鼻は熱湯に蒸されて、蚤に食われたようにむず痒い。
弟子の僧は、内供が折敷の穴から鼻をぬくと、そのまだ湯気の立っている鼻を、両足に力を入れながら、踏みはじめた。内供は横になって、鼻を床板の上へのばしながら、弟子の僧の足が上下に動くのを眼の前で見ているのである。弟子の僧は、時々気の毒そうな顔をして、内供の禿頭を見下ろしながら、こんな事をいった。
痛くないですか?医師は強く踏めと言ったものですから。痛くないですか?
内供は首を振って、痛くないという意思を伝えようとした。ところが鼻を踏まれているので思うように首が動かない。そこで、上目使いをして、弟子の僧の足にあかぎれが出来ているのを眺めながら、腹を立てたような声で、
痛くはない。
と答えた。実際鼻はむず痒い所を踏まれるので、痛いよりもかえって気持ちいいくらいだったのである。
しばらく踏んでいると、やがて、粟粒のようなものが、鼻へ出来始めた。例えるなら毛をむしった小鳥をそっくり丸焼きにしたような形である。弟子の僧はこれを見ると、足を止めて独り言のようにこういった。
これをピンセットで抜くと言ってましたね。
内供は、不満そうに頬をふくらませて、黙って弟子の僧のしたいようにさせた。もちろん弟子の僧の親切がわからない訳ではない。それは分かっていても、自分の鼻をまるで物のように取り扱うのが、不愉快に思われたからである。内供は、信用しない医者の手術をうける患者のような顔をして、弟子の僧が、いやいや鼻の毛穴からピンセットで脂をとるのを眺めていた。脂は、鳥の羽の茎くきのような形をして、1.3センチばかりの長さにぬけるのである。
やがて一通り脂を取りおわると、弟子の僧は、ほっと一息ついたような顔をして、
もう一度、これを茹でればいいみたいですよ。
といった。
内供はやはり、眉間に八の字を寄せたまま不服そうな顔をして、弟子の僧の言いなりになっていた。
さて二度目に茹でた鼻を出して見ると、成程確かに今までないくらいに短くなっている。これではその辺にいる鍵鼻と大した変わりはない。内供はその短くなった鼻を撫でながら、弟子の僧の出してくれる鏡を、照れくさそうにおずおずと覗いて見た。
鼻はあのアゴの下まで下がっていた鼻は、ほとんど嘘のように縮み上がって、今はわずかに上唇の上で意気地なくなんとか残ってるようになっていた。ところどころが赤くなっているのは、恐らく踏まれた時の名残であろう。こうなれば、もう誰もわらうものはないにちがいない。鏡の中にある内供の顔は、鏡の外にある内供の顔を見て、満足そうに眼をパチパチさせていた。
しかし、その日はまだ一日中、鼻がまた長くなりはしないかという不安があった。そこで内供は声を出して経をとなえている時にも、食事をする時にも、暇さえあれば手を出して、そっと鼻の先にさわってみた。だが、鼻は行儀よく唇の上に納まっているだけで、それより下へぶら下がって来る様子もない。それから一晩寝て翌日早く眼がさめると内供はまず、第一に、自分の鼻を撫でて見た。鼻は依然として短かった。内供はそこで、ここ数年なかったような、法華経の書写の功を積んだ時のような、のびのびした気分になった。
| 内供はなぜ弟子の僧が長い鼻を短くする方法をやっているのに不愉快になったのですか。 | 自分の鼻をまるで物のように取り扱うのが、不愉快に思われたからである。 |
JCRRAG_010406 | 国語 | ある年の秋、内供の仕事も兼ねて、京都へ行った弟子の僧侶が、知り合いの医者から長い鼻を短くする方法を教わって来た。その医者というのは、中国から渡って来た男で、当時は長楽寺の僧侶になっていたのである。
内供は、いつものように鼻などは気にかけないという雰囲気を出していて、わざとその方法もすぐにやって見ようとはいわずにいた。そうして一方では、気軽な口調で「食事するたびに弟子の手間をかけるのが心苦しいんだよなあ」みたいな事を言った。だが内心ではもちろん弟子の僧が、自分を説得して、この方法をやらせようとするのを待っていたのである。
弟子の僧にも、内供のこの策略がわからない筈はない。しかしそれに対する反感よりは、内供のそういう策略をとる心境の方が、より強くこの弟子の僧に同情させたのだろう。弟子の僧は、内供の予定通りに、この方法をやってみる事を非常に強い口調で勧め出した。そうして、内供自身もまた、その予定通り、結局この熱心なアドバイスを聞いてやってみる事になった。
その方法というのは、ただ、お湯で鼻を茹でて、その鼻を人に踏ませるという、極めて簡単なものであった。
お湯は寺の湯屋で、毎日沸かしている。そこで弟子の僧は、指も入れられないような熱い湯を、すぐに提げに入れて、湯屋から汲んで来た。しかし直接この提げに鼻を入れるとなると、湯気を浴びて顔を火傷する危険性がある。そこで折敷に穴をあけて、それを提の蓋にして、その穴から鼻を湯の中へ入れる事にした。鼻だけはこの熱い湯の中へ浸しても少しも熱くないのである。しばらくすると弟子の僧がいった。
もう茹で上がったんじゃないですかね?
内供は苦笑した。これだけ聞いたのでは、誰も鼻の話とは気がつかないだろうと思ったからである。鼻は熱湯に蒸されて、蚤に食われたようにむず痒い。
弟子の僧は、内供が折敷の穴から鼻をぬくと、そのまだ湯気の立っている鼻を、両足に力を入れながら、踏みはじめた。内供は横になって、鼻を床板の上へのばしながら、弟子の僧の足が上下に動くのを眼の前で見ているのである。弟子の僧は、時々気の毒そうな顔をして、内供の禿頭を見下ろしながら、こんな事をいった。
痛くないですか?医師は強く踏めと言ったものですから。痛くないですか?
内供は首を振って、痛くないという意思を伝えようとした。ところが鼻を踏まれているので思うように首が動かない。そこで、上目使いをして、弟子の僧の足にあかぎれが出来ているのを眺めながら、腹を立てたような声で、
痛くはない。
と答えた。実際鼻はむず痒い所を踏まれるので、痛いよりもかえって気持ちいいくらいだったのである。
しばらく踏んでいると、やがて、粟粒のようなものが、鼻へ出来始めた。例えるなら毛をむしった小鳥をそっくり丸焼きにしたような形である。弟子の僧はこれを見ると、足を止めて独り言のようにこういった。
これをピンセットで抜くと言ってましたね。
内供は、不満そうに頬をふくらませて、黙って弟子の僧のしたいようにさせた。もちろん弟子の僧の親切がわからない訳ではない。それは分かっていても、自分の鼻をまるで物のように取り扱うのが、不愉快に思われたからである。内供は、信用しない医者の手術をうける患者のような顔をして、弟子の僧が、いやいや鼻の毛穴からピンセットで脂をとるのを眺めていた。脂は、鳥の羽の茎くきのような形をして、1.3センチばかりの長さにぬけるのである。
やがて一通り脂を取りおわると、弟子の僧は、ほっと一息ついたような顔をして、
もう一度、これを茹でればいいみたいですよ。
といった。
内供はやはり、眉間に八の字を寄せたまま不服そうな顔をして、弟子の僧の言いなりになっていた。
さて二度目に茹でた鼻を出して見ると、成程確かに今までないくらいに短くなっている。これではその辺にいる鍵鼻と大した変わりはない。内供はその短くなった鼻を撫でながら、弟子の僧の出してくれる鏡を、照れくさそうにおずおずと覗いて見た。
鼻はあのアゴの下まで下がっていた鼻は、ほとんど嘘のように縮み上がって、今はわずかに上唇の上で意気地なくなんとか残ってるようになっていた。ところどころが赤くなっているのは、恐らく踏まれた時の名残であろう。こうなれば、もう誰もわらうものはないにちがいない。鏡の中にある内供の顔は、鏡の外にある内供の顔を見て、満足そうに眼をパチパチさせていた。
しかし、その日はまだ一日中、鼻がまた長くなりはしないかという不安があった。そこで内供は声を出して経をとなえている時にも、食事をする時にも、暇さえあれば手を出して、そっと鼻の先にさわってみた。だが、鼻は行儀よく唇の上に納まっているだけで、それより下へぶら下がって来る様子もない。それから一晩寝て翌日早く眼がさめると内供はまず、第一に、自分の鼻を撫でて見た。鼻は依然として短かった。内供はそこで、ここ数年なかったような、法華経の書写の功を積んだ時のような、のびのびした気分になった。
| 内供の短くなった鼻は、翌日になっても短かったですか。 | 一晩寝て翌日早く眼がさめると内供はまず、第一に、自分の鼻を撫でて見た。鼻は依然として短かった。 |
JCRRAG_010407 | 国語 | 二・三日経ってくると、内供は意外な事実を発見した。それはその頃に、用事があって池の尾の寺を訪れた侍が、前よりも一段と面白そうな顔をして、話もろくにしないで、内供の鼻ばっかりじろじろと眺めていた事である。
それだけではなく、かつて、内供の鼻を粥の中へ落とした事のある中童子なぞは、講堂の外で内供と行きちがった時に、始めは、下を向いて笑いをこらえていたが、とうとう耐え切れなかったのか、ブッと吹き出してしまった。用事を言い渡された下法師たちが、面と向かっている間だけはつつしんで聞いていても、内供が後ろを向いたら、すぐにくすくす笑い出したのは、一度や二度の事ではない。
内供ははじめ、これを自分の顔が変わってしまったせいだと解釈した。しかしどうもこの解釈だけでは十分に説明がつかないようである。もちろん、中童子や下法師が笑う原因は、そこにあるのにちがいない。けれども同じ笑うにしても、鼻の長かった昔とは、笑っている内容の意味が違うように思えた。見慣れた長い鼻より、見慣れない短い鼻の方が滑稽に見えるといえば、それまでである。が、そこにはまだ何かあるらしい。
前はあのようにバカ笑いしなかった。
内供は、音読しかけた経文をやめて、禿頭を傾けながら、時々こうつぶやいていた。愛すべき内供は、そういう時になると、必ずぼんやり、近くにかけた普賢の画像を眺めながら、鼻の長かった四・五日前の事をおもい出して、「今落ちぶれてしまった人が、昔の良かった時代を思い出すかのように」ふさぎこんでしまうのである。内供には、残念ながらこの問題に答えを見出すための知恵が欠けていた。
人間の心にはお互いに矛盾した二つの感情がある。もちろん、他人の不幸に同情しない者は誰もいない。ところがその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような気持ちになる。少し誇張していえば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れてみたいような気にさえなってしまう。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。
そこで内供は日毎に機嫌が悪くなった。二言目には、誰でも意地悪く叱りつけるようになった。しまいには鼻の治療をしたあの弟子の僧でさえ、「内供は法慳貪の罪を受けるぞ」と陰口を言うほどになった。なにより内供を怒らせたのは、例のいたずらな中童子である。ある日、うるさく犬の吠える声がするので、内供が何気なく外へ出て見ると、中童子は、二尺ばかりの木の片きれをふりまわして、毛の長い、痩せた犬をおいまわしている。それもただ、おいまわしているのではない。「鼻を打たれないようにしろよ。それ、鼻を打たれないようしろ」とからかいながら、おいまわしているのである。内供は、中童子の手からその木の片をひったくって、したたかにその顔を打った。木の片は以前鼻を持ち上げていた木だったのである。
内供は無理に、鼻を短くしたのがかえって恨めしく思うようになった。
するとある夜の事である。日が暮れてから急に風が出たと見えて、塔の風鐸の鳴る音が、うるさいほど寝ている所に響いて来た。その上、寒さもひどくなってきたので、老年の内供は寝ようとしてもなかなか眠れなかった。そこで床の中でじっとしていると、ふと鼻がいつになく、むず痒いのに気がついた。手をあてて見ると少し水気が来たようにむくんでいる。どうやらそこだけ、熱を持っているようだ。
無理に短くしたから、病気になったのかもしれないな。
内供は、仏前に香花を供えるような丁寧な手つきで、鼻を抑えながら、こう呟いた。
翌朝、内供がいつものように早く眼をさますと、寺内の銀杏や橡が一晩で葉を落としたので、庭は黄金を敷いたように明るい。塔の屋根に霜が下りているせいであろう。まだうすい朝日に、九輪がまばゆく光っている。禅智内供は、障子を開けて縁側に立って、深く息をすいこんだ。
ほとんど忘れようとしていたある感覚が、再び内供に帰って来たのはこの時である。
内供は慌てて鼻へ手をやった。手にさわるものは、昨夜の短い鼻ではない。上唇の上からあごの下まで、五・六寸あまりもぶら下がっている、昔の長い鼻である。内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした気持ちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。
こうなれば、もう誰もわらうものはないにちがいない。
内供は心の中でこう自分にささやいた。長い鼻を明け方の秋風にぶらつかせながら。
| 用事があって池の尾の寺を訪れた侍は内供を見てどうしましたか。 | 前よりも一段と面白そうな顔をして、話もろくにしないで、内供の鼻ばっかりじろじろと眺めていた。 |
JCRRAG_010408 | 国語 | 二・三日経ってくると、内供は意外な事実を発見した。それはその頃に、用事があって池の尾の寺を訪れた侍が、前よりも一段と面白そうな顔をして、話もろくにしないで、内供の鼻ばっかりじろじろと眺めていた事である。
それだけではなく、かつて、内供の鼻を粥の中へ落とした事のある中童子なぞは、講堂の外で内供と行きちがった時に、始めは、下を向いて笑いをこらえていたが、とうとう耐え切れなかったのか、ブッと吹き出してしまった。用事を言い渡された下法師たちが、面と向かっている間だけはつつしんで聞いていても、内供が後ろを向いたら、すぐにくすくす笑い出したのは、一度や二度の事ではない。
内供ははじめ、これを自分の顔が変わってしまったせいだと解釈した。しかしどうもこの解釈だけでは十分に説明がつかないようである。もちろん、中童子や下法師が笑う原因は、そこにあるのにちがいない。けれども同じ笑うにしても、鼻の長かった昔とは、笑っている内容の意味が違うように思えた。見慣れた長い鼻より、見慣れない短い鼻の方が滑稽に見えるといえば、それまでである。が、そこにはまだ何かあるらしい。
前はあのようにバカ笑いしなかった。
内供は、音読しかけた経文をやめて、禿頭を傾けながら、時々こうつぶやいていた。愛すべき内供は、そういう時になると、必ずぼんやり、近くにかけた普賢の画像を眺めながら、鼻の長かった四・五日前の事をおもい出して、「今落ちぶれてしまった人が、昔の良かった時代を思い出すかのように」ふさぎこんでしまうのである。内供には、残念ながらこの問題に答えを見出すための知恵が欠けていた。
人間の心にはお互いに矛盾した二つの感情がある。もちろん、他人の不幸に同情しない者は誰もいない。ところがその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような気持ちになる。少し誇張していえば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れてみたいような気にさえなってしまう。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。
そこで内供は日毎に機嫌が悪くなった。二言目には、誰でも意地悪く叱りつけるようになった。しまいには鼻の治療をしたあの弟子の僧でさえ、「内供は法慳貪の罪を受けるぞ」と陰口を言うほどになった。なにより内供を怒らせたのは、例のいたずらな中童子である。ある日、うるさく犬の吠える声がするので、内供が何気なく外へ出て見ると、中童子は、二尺ばかりの木の片きれをふりまわして、毛の長い、痩せた犬をおいまわしている。それもただ、おいまわしているのではない。「鼻を打たれないようにしろよ。それ、鼻を打たれないようしろ」とからかいながら、おいまわしているのである。内供は、中童子の手からその木の片をひったくって、したたかにその顔を打った。木の片は以前鼻を持ち上げていた木だったのである。
内供は無理に、鼻を短くしたのがかえって恨めしく思うようになった。
するとある夜の事である。日が暮れてから急に風が出たと見えて、塔の風鐸の鳴る音が、うるさいほど寝ている所に響いて来た。その上、寒さもひどくなってきたので、老年の内供は寝ようとしてもなかなか眠れなかった。そこで床の中でじっとしていると、ふと鼻がいつになく、むず痒いのに気がついた。手をあてて見ると少し水気が来たようにむくんでいる。どうやらそこだけ、熱を持っているようだ。
無理に短くしたから、病気になったのかもしれないな。
内供は、仏前に香花を供えるような丁寧な手つきで、鼻を抑えながら、こう呟いた。
翌朝、内供がいつものように早く眼をさますと、寺内の銀杏や橡が一晩で葉を落としたので、庭は黄金を敷いたように明るい。塔の屋根に霜が下りているせいであろう。まだうすい朝日に、九輪がまばゆく光っている。禅智内供は、障子を開けて縁側に立って、深く息をすいこんだ。
ほとんど忘れようとしていたある感覚が、再び内供に帰って来たのはこの時である。
内供は慌てて鼻へ手をやった。手にさわるものは、昨夜の短い鼻ではない。上唇の上からあごの下まで、五・六寸あまりもぶら下がっている、昔の長い鼻である。内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした気持ちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。
こうなれば、もう誰もわらうものはないにちがいない。
内供は心の中でこう自分にささやいた。長い鼻を明け方の秋風にぶらつかせながら。
| 内供が日毎に機嫌が悪くなってどうしましたか。 | 二言目には、誰でも意地悪く叱りつけるようになった。 |
JCRRAG_010409 | 国語 | 二・三日経ってくると、内供は意外な事実を発見した。それはその頃に、用事があって池の尾の寺を訪れた侍が、前よりも一段と面白そうな顔をして、話もろくにしないで、内供の鼻ばっかりじろじろと眺めていた事である。
それだけではなく、かつて、内供の鼻を粥の中へ落とした事のある中童子なぞは、講堂の外で内供と行きちがった時に、始めは、下を向いて笑いをこらえていたが、とうとう耐え切れなかったのか、ブッと吹き出してしまった。用事を言い渡された下法師たちが、面と向かっている間だけはつつしんで聞いていても、内供が後ろを向いたら、すぐにくすくす笑い出したのは、一度や二度の事ではない。
内供ははじめ、これを自分の顔が変わってしまったせいだと解釈した。しかしどうもこの解釈だけでは十分に説明がつかないようである。もちろん、中童子や下法師が笑う原因は、そこにあるのにちがいない。けれども同じ笑うにしても、鼻の長かった昔とは、笑っている内容の意味が違うように思えた。見慣れた長い鼻より、見慣れない短い鼻の方が滑稽に見えるといえば、それまでである。が、そこにはまだ何かあるらしい。
前はあのようにバカ笑いしなかった。
内供は、音読しかけた経文をやめて、禿頭を傾けながら、時々こうつぶやいていた。愛すべき内供は、そういう時になると、必ずぼんやり、近くにかけた普賢の画像を眺めながら、鼻の長かった四・五日前の事をおもい出して、「今落ちぶれてしまった人が、昔の良かった時代を思い出すかのように」ふさぎこんでしまうのである。内供には、残念ながらこの問題に答えを見出すための知恵が欠けていた。
人間の心にはお互いに矛盾した二つの感情がある。もちろん、他人の不幸に同情しない者は誰もいない。ところがその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような気持ちになる。少し誇張していえば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れてみたいような気にさえなってしまう。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。
そこで内供は日毎に機嫌が悪くなった。二言目には、誰でも意地悪く叱りつけるようになった。しまいには鼻の治療をしたあの弟子の僧でさえ、「内供は法慳貪の罪を受けるぞ」と陰口を言うほどになった。なにより内供を怒らせたのは、例のいたずらな中童子である。ある日、うるさく犬の吠える声がするので、内供が何気なく外へ出て見ると、中童子は、二尺ばかりの木の片きれをふりまわして、毛の長い、痩せた犬をおいまわしている。それもただ、おいまわしているのではない。「鼻を打たれないようにしろよ。それ、鼻を打たれないようしろ」とからかいながら、おいまわしているのである。内供は、中童子の手からその木の片をひったくって、したたかにその顔を打った。木の片は以前鼻を持ち上げていた木だったのである。
内供は無理に、鼻を短くしたのがかえって恨めしく思うようになった。
するとある夜の事である。日が暮れてから急に風が出たと見えて、塔の風鐸の鳴る音が、うるさいほど寝ている所に響いて来た。その上、寒さもひどくなってきたので、老年の内供は寝ようとしてもなかなか眠れなかった。そこで床の中でじっとしていると、ふと鼻がいつになく、むず痒いのに気がついた。手をあてて見ると少し水気が来たようにむくんでいる。どうやらそこだけ、熱を持っているようだ。
無理に短くしたから、病気になったのかもしれないな。
内供は、仏前に香花を供えるような丁寧な手つきで、鼻を抑えながら、こう呟いた。
翌朝、内供がいつものように早く眼をさますと、寺内の銀杏や橡が一晩で葉を落としたので、庭は黄金を敷いたように明るい。塔の屋根に霜が下りているせいであろう。まだうすい朝日に、九輪がまばゆく光っている。禅智内供は、障子を開けて縁側に立って、深く息をすいこんだ。
ほとんど忘れようとしていたある感覚が、再び内供に帰って来たのはこの時である。
内供は慌てて鼻へ手をやった。手にさわるものは、昨夜の短い鼻ではない。上唇の上からあごの下まで、五・六寸あまりもぶら下がっている、昔の長い鼻である。内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした気持ちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。
こうなれば、もう誰もわらうものはないにちがいない。
内供は心の中でこう自分にささやいた。長い鼻を明け方の秋風にぶらつかせながら。
| 中童子が犬をおいまわしていたら内供はどうしましたか。 | 内供は、中童子の手からその木の片をひったくって、したたかにその顔を打った。 |
JCRRAG_010410 | 国語 | 二・三日経ってくると、内供は意外な事実を発見した。それはその頃に、用事があって池の尾の寺を訪れた侍が、前よりも一段と面白そうな顔をして、話もろくにしないで、内供の鼻ばっかりじろじろと眺めていた事である。
それだけではなく、かつて、内供の鼻を粥の中へ落とした事のある中童子なぞは、講堂の外で内供と行きちがった時に、始めは、下を向いて笑いをこらえていたが、とうとう耐え切れなかったのか、ブッと吹き出してしまった。用事を言い渡された下法師たちが、面と向かっている間だけはつつしんで聞いていても、内供が後ろを向いたら、すぐにくすくす笑い出したのは、一度や二度の事ではない。
内供ははじめ、これを自分の顔が変わってしまったせいだと解釈した。しかしどうもこの解釈だけでは十分に説明がつかないようである。もちろん、中童子や下法師が笑う原因は、そこにあるのにちがいない。けれども同じ笑うにしても、鼻の長かった昔とは、笑っている内容の意味が違うように思えた。見慣れた長い鼻より、見慣れない短い鼻の方が滑稽に見えるといえば、それまでである。が、そこにはまだ何かあるらしい。
前はあのようにバカ笑いしなかった。
内供は、音読しかけた経文をやめて、禿頭を傾けながら、時々こうつぶやいていた。愛すべき内供は、そういう時になると、必ずぼんやり、近くにかけた普賢の画像を眺めながら、鼻の長かった四・五日前の事をおもい出して、「今落ちぶれてしまった人が、昔の良かった時代を思い出すかのように」ふさぎこんでしまうのである。内供には、残念ながらこの問題に答えを見出すための知恵が欠けていた。
人間の心にはお互いに矛盾した二つの感情がある。もちろん、他人の不幸に同情しない者は誰もいない。ところがその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような気持ちになる。少し誇張していえば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れてみたいような気にさえなってしまう。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。
そこで内供は日毎に機嫌が悪くなった。二言目には、誰でも意地悪く叱りつけるようになった。しまいには鼻の治療をしたあの弟子の僧でさえ、「内供は法慳貪の罪を受けるぞ」と陰口を言うほどになった。なにより内供を怒らせたのは、例のいたずらな中童子である。ある日、うるさく犬の吠える声がするので、内供が何気なく外へ出て見ると、中童子は、二尺ばかりの木の片きれをふりまわして、毛の長い、痩せた犬をおいまわしている。それもただ、おいまわしているのではない。「鼻を打たれないようにしろよ。それ、鼻を打たれないようしろ」とからかいながら、おいまわしているのである。内供は、中童子の手からその木の片をひったくって、したたかにその顔を打った。木の片は以前鼻を持ち上げていた木だったのである。
内供は無理に、鼻を短くしたのがかえって恨めしく思うようになった。
するとある夜の事である。日が暮れてから急に風が出たと見えて、塔の風鐸の鳴る音が、うるさいほど寝ている所に響いて来た。その上、寒さもひどくなってきたので、老年の内供は寝ようとしてもなかなか眠れなかった。そこで床の中でじっとしていると、ふと鼻がいつになく、むず痒いのに気がついた。手をあてて見ると少し水気が来たようにむくんでいる。どうやらそこだけ、熱を持っているようだ。
無理に短くしたから、病気になったのかもしれないな。
内供は、仏前に香花を供えるような丁寧な手つきで、鼻を抑えながら、こう呟いた。
翌朝、内供がいつものように早く眼をさますと、寺内の銀杏や橡が一晩で葉を落としたので、庭は黄金を敷いたように明るい。塔の屋根に霜が下りているせいであろう。まだうすい朝日に、九輪がまばゆく光っている。禅智内供は、障子を開けて縁側に立って、深く息をすいこんだ。
ほとんど忘れようとしていたある感覚が、再び内供に帰って来たのはこの時である。
内供は慌てて鼻へ手をやった。手にさわるものは、昨夜の短い鼻ではない。上唇の上からあごの下まで、五・六寸あまりもぶら下がっている、昔の長い鼻である。内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした気持ちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。
こうなれば、もう誰もわらうものはないにちがいない。
内供は心の中でこう自分にささやいた。長い鼻を明け方の秋風にぶらつかせながら。
| 自分の鼻が元通り長くなったのを知った内供はどう思いましたか。 | 鼻が短くなった時と同じような、はればれした気持ちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。こうなれば、もう誰もわらうものはないにちがいない。内供は心の中でこう自分にささやいた。 |
JCRRAG_010411 | 国語 | 二人の若い紳士が、すっかりイギリスの兵隊の格好をして、ぴかぴかに光る鉄砲をかついで、白熊のような犬を二匹つれて、だいぶ山奥の、木の葉のかさかさしたとこを、こんなことをいいながら、あるいておりました。
「ここらの山は全体的に良くないね。鳥も獣も一匹もいやしない。なんでもいいから、早くタンタアーンと、銃を撃ってみたいもんだ」
「鹿の黄色の横っ腹に、二・三発お見舞いしたら、ずいぶん痛快だろうねえ。くるくるまわって、それからどたっと倒れるだろうねえ。」
それはかなりの山奥でした。案内してきた専門の鉄砲打ちも、ちょっと迷って、どこかへ行ってしまったくらいの山奥でした。
それに、あまりに山が物凄いので、その白熊のような犬が、二匹いっしょにめまいを起こして、しばらくうなって、それから泡を吐いて死んでしまいました。
「ぼくは、二千四百円の損害だ」と一人の紳士が、その犬の眼を、ちょっとかえしてみて言いました。
「ぼくは二千八百円の損害だ。」と、もうひとりが、くやしそうに、あたまを捻って言いました。
はじめの紳士は、すこし顔色を悪くして、じっと、もうひとりの紳士の、顔色を見ながらいいました。
「ぼくはもう戻ろうとおもう。」
「そうだね、ぼくもちょうど寒くはなったし腹は空いてきたし戻ろうとおもう。」
「それじゃ、これで切り上げよう。なあに戻りに、昨日の宿屋で、山鳥を十円分くらい買って帰ればいい。」
「兎も料理に出てたから買えるな。買えば結局おんなじこった。では帰ろうじゃないか」
ところがどうも困ったことに、どっちへ行けば戻れるのか、いっこうに見当がつかなくなっていました。
風がどうと吹ふいてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。
「どうも腹が空いた。さっきから横っ腹が痛くてたまらないんだ。」
「ぼくもそうだ。もうあんまりあるきたくないな。」
「あるきたくないよ。ああ困ったなあ、何かたべたいなあ。」
「喰べたいもんだなあ」
二人の紳士は、ざわざわ鳴るすすきの中で、こんなことをいいました。
ふとうしろを見ると、立派な一軒の西洋造りの家がありました。
そして玄関には
RESTAURANT
西洋料理店
WILDCAT HOUSE
山猫軒
という札がでていました。
「君、ちょうどいい。この山はこう見えても人がいて賑やかなんだろうな。入ろうじゃないか」
「おや、こんなところにおかしいな。しかしとにかく何か食事ができるんだろう」
「もちろんできるさ。看板にそう書いてあるじゃないか」
「はいろうじゃないか。ぼくはもう何か喰べたくて倒れそうなんだ。」
二人は玄関に立ちました。玄関は白い瀬戸の煉瓦で組んで、実に立派なものでした。
そして硝子の開き戸がたって、そこに金文字でこう書いてありました。
「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」
二人はそこで、ひどくよろこんで言いました。
「こいつはどうだ、やっぱり世の中はうまくできてるねえ、きょう一日苦労したけれど、こんどはこんないいこともある。ここは料理店だけれどもただでご馳走するんだぜ。」
「どうもそうらしい。決してご遠慮はありませんというのはその意味だ。」 | 二人の若い紳士が連れてきた犬はどうなりましたか。 | あまりに山が物凄いので、その白熊のような犬が、二匹いっしょにめまいを起こして、しばらくうなって、それから泡を吐いて死んでしまいました。 |
JCRRAG_010412 | 国語 | 二人の若い紳士が、すっかりイギリスの兵隊の格好をして、ぴかぴかに光る鉄砲をかついで、白熊のような犬を二匹つれて、だいぶ山奥の、木の葉のかさかさしたとこを、こんなことをいいながら、あるいておりました。
「ここらの山は全体的に良くないね。鳥も獣も一匹もいやしない。なんでもいいから、早くタンタアーンと、銃を撃ってみたいもんだ」
「鹿の黄色の横っ腹に、二・三発お見舞いしたら、ずいぶん痛快だろうねえ。くるくるまわって、それからどたっと倒れるだろうねえ。」
それはかなりの山奥でした。案内してきた専門の鉄砲打ちも、ちょっと迷って、どこかへ行ってしまったくらいの山奥でした。
それに、あまりに山が物凄いので、その白熊のような犬が、二匹いっしょにめまいを起こして、しばらくうなって、それから泡を吐いて死んでしまいました。
「ぼくは、二千四百円の損害だ」と一人の紳士が、その犬の眼を、ちょっとかえしてみて言いました。
「ぼくは二千八百円の損害だ。」と、もうひとりが、くやしそうに、あたまを捻って言いました。
はじめの紳士は、すこし顔色を悪くして、じっと、もうひとりの紳士の、顔色を見ながらいいました。
「ぼくはもう戻ろうとおもう。」
「そうだね、ぼくもちょうど寒くはなったし腹は空いてきたし戻ろうとおもう。」
「それじゃ、これで切り上げよう。なあに戻りに、昨日の宿屋で、山鳥を十円分くらい買って帰ればいい。」
「兎も料理に出てたから買えるな。買えば結局おんなじこった。では帰ろうじゃないか」
ところがどうも困ったことに、どっちへ行けば戻れるのか、いっこうに見当がつかなくなっていました。
風がどうと吹ふいてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。
「どうも腹が空いた。さっきから横っ腹が痛くてたまらないんだ。」
「ぼくもそうだ。もうあんまりあるきたくないな。」
「あるきたくないよ。ああ困ったなあ、何かたべたいなあ。」
「喰べたいもんだなあ」
二人の紳士は、ざわざわ鳴るすすきの中で、こんなことをいいました。
ふとうしろを見ると、立派な一軒の西洋造りの家がありました。
そして玄関には
RESTAURANT
西洋料理店
WILDCAT HOUSE
山猫軒
という札がでていました。
「君、ちょうどいい。この山はこう見えても人がいて賑やかなんだろうな。入ろうじゃないか」
「おや、こんなところにおかしいな。しかしとにかく何か食事ができるんだろう」
「もちろんできるさ。看板にそう書いてあるじゃないか」
「はいろうじゃないか。ぼくはもう何か喰べたくて倒れそうなんだ。」
二人は玄関に立ちました。玄関は白い瀬戸の煉瓦で組んで、実に立派なものでした。
そして硝子の開き戸がたって、そこに金文字でこう書いてありました。
「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」
二人はそこで、ひどくよろこんで言いました。
「こいつはどうだ、やっぱり世の中はうまくできてるねえ、きょう一日苦労したけれど、こんどはこんないいこともある。ここは料理店だけれどもただでご馳走するんだぜ。」
「どうもそうらしい。決してご遠慮はありませんというのはその意味だ。」 | 山猫軒の玄関には金文字でなんと書かれていましたか。 | 二人は玄関に立ちました。玄関は白い瀬戸の煉瓦で組んで、実に立派なものでした。そして硝子の開き戸がたって、そこに金文字でこう書いてありました。「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」 |
JCRRAG_010413 | 国語 | むかし、あるところに、三人むすこをもった、粉ひき男がいました。もともと、びんぼうでしたから、死んだあとで、こどもたちに分けてやる財産といっても、粉ひき臼をまわす大きな風車と、ロバと、それから、小さい猫一ぴきだけしかありませんでした。さていよいよ財産を分けることになりましたが、公証人や役場の書記を呼ぶではなし、至極無造作に、一番上のむすこが、大きな風車をもらいました。二番目のむすこが、ロバをもらい、すえのむすこが、一匹の小さい猫をもらうことになりました。
すえのむすこは、こんなつまらない財産を分けてもらったので、すっかりしょげかえってしまいました。
「にいさんたちは、めいめいにもらった財産をいっしょにして働けば、りっぱにくらしていけるのに、ぼくだけはまあ、この猫をたべてしまって、それからその毛皮で手袋をこしらえると、あとにはもうなんにも、のこりゃしない。おなかがへって、死んでしまうだけだ。」
すえの子は、不服そうにこういいました。すると、そばでこれを聞いていた猫は、なにを考えたのか、ひどくもったいぶった、しかつめらしいようすをつくりながら、こんなことをいいました。
「だんな、そんなご心配はなさらなくてもよございますよ。そのかわり、わたしにひとつ袋をこしらえてください。それから、ぬかるみの中でも、バラ藪の中でも、かけぬけられるように、長靴を一足作ってください。そうすれば、わたしが、きっとだんなを、しあわせにしてあげますよ。ねえ、そうなれば、だんなはきっと、わたしを遺産に分けてもらったのを、お喜びなさるにちがいありません。」
主人は猫のいうことを、そう、たいしてあてにもしませんでした。けれども、この猫がいつもねずみをとるときに、あと足で梁にぶらさがって、小麦粉をかぶって、死んだふりをしてみせたりして、なかなかずるい、はなれわざをするのを知っていましたから、なにか都合して、当面の難儀を、すくってくれる工夫があるのかもしれない、とおもって、とにかく、猫のいうままに、袋と長ぐつをこしらえてやりました。
| 小さい猫をもらったすえのむすこはどうしましたか。 | すえのむすこは、こんなつまらない財産を分けてもらったので、すっかりしょげかえってしまいました。 |
JCRRAG_010414 | 国語 | 二人は戸を押して、なかへ入りました。そこはすぐ廊下になっていました。その硝子戸の裏側には、金文字でこうなっていました。
「ことにふとったお方や若いお方は、大歓迎いたします」
二人は大歓迎というので、もう大いによろこびました。
「君、ぼくらは大歓迎されてるようなもんだな。」
「ぼくらは両方条件を満たしているからな」
ずんずん廊下を進んで行くと、こんどは水いろのペンキ塗りの扉がありました。
「どうも変な家だ。どうしてこんなにたくさん戸があるのだろう。」
「これはロシア式だ。寒いとこや山の中はみんなこうさ。」
そして二人はその扉をあけようとしますと、上に黄いろな字でこう書いてありました。
「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」
「なかなか流行ってるんだな。こんな山の中で。」
「それはそうだ。見たまえ、東京の大きな料理屋だって大通りにはすくないだろう」
二人はいいながら、その扉をあけました。するとその裏側に、
「注文はたくさんありますがどうか一個一個聞いて下さい。」
「これは一体どういうことなんだ。」ひとりの紳士は顔をしかめました。
「うん、これはきっと注文があまり多くて支度が手間取るけれどもごめん下さいってことなんだろう。」
「そうだろう。早くどこかの部屋の中にはいりたいもんだな。」
「そしてテーブルに座りたいもんだな。」
ところがどうもわずらわしいことに、また扉が一つありました。そしてそのわきに鏡がかかって、その下には長い柄のついたブラシが置いてあったのです。
扉には赤い字で、
「お客さまがた、ここで髪をきちんとして、それからはきものの泥を落としてください。」
と書いてありました。
「これは確かにそうだ。僕もさっき玄関で、山のなかだとおもって見くびったんだよ」
「作法の厳しい家だ。きっとよほど偉い人たちが、よく来るんだろうな。」
そこで二人は、きれいに髪をとかして、靴の泥を落としました。
そしたら、どうでしょう。ブラシを板の上に置いたしゅんかん、そいつがぼうっとかすんで無くなって、風がどうっと室の中に入ってきました。
二人はびっくりして、おたがいによりそって、扉をがたんと開けて、次の部屋へ入って行きました。早く何か暖かいものでもたべて、元気をつけないと、もうとんでもないことになってしまうと、二人とも思ったのでした。
扉の内側に、また変なことが書いてありました。
「鉄砲と弾丸をここへ置いてください。」
見るとすぐ横に黒い台がありました。
「なるほど、鉄砲を持って食事するという作法はない。」
「いや、よほど偉いひとが始終来ているんだな。」
二人は鉄砲をはずし、帯皮を解いて、それを台の上に置きました。
また黒い扉がありました。
「どうか帽子とコートと靴をおとり下さい。」
「どうだ、帽子とコートをとるか。」
「仕方ない、とろう。たしかによっぽどえらいひとなんだ。奥に来ているのは」
二人は帽子とオーバーコートを釘にかけ、靴をぬいでぺたぺたあるいて扉の中にはいりました。
扉の裏側には、
「ネクタイピン、カフスボタン、眼鏡、財布、その他金物類、
ことに尖ったものは、みんなここに置いてください」
と書いてありました。扉のすぐ横には黒塗りの立派な金庫も、ちゃんと口を開けて置いてありました。鍵まで添えてあったのです。
「ははあ、何かの料理に電気をつかうように見えるね。金属はあぶない。さらに尖った金属はあぶないってことなんだろう。」
「そうだろう。して見ると勘定は帰りにここで払うのだろうか。」
「どうもそうらしい。」
「そうだ。きっと。」
二人はめがねをはずしたり、カフスボタンをとったり、みんな金庫のなかに入れて、ぱちんと錠をかけました。
| ブラシを板の上に置いたらどうなりましたか。 | ブラシを板の上に置いたしゅんかん、そいつがぼうっとかすんで無くなって、風がどうっと室の中に入ってきました。 |
JCRRAG_010415 | 国語 | 二人は戸を押して、なかへ入りました。そこはすぐ廊下になっていました。その硝子戸の裏側には、金文字でこうなっていました。
「ことにふとったお方や若いお方は、大歓迎いたします」
二人は大歓迎というので、もう大いによろこびました。
「君、ぼくらは大歓迎されてるようなもんだな。」
「ぼくらは両方条件を満たしているからな」
ずんずん廊下を進んで行くと、こんどは水いろのペンキ塗りの扉がありました。
「どうも変な家だ。どうしてこんなにたくさん戸があるのだろう。」
「これはロシア式だ。寒いとこや山の中はみんなこうさ。」
そして二人はその扉をあけようとしますと、上に黄いろな字でこう書いてありました。
「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」
「なかなか流行ってるんだな。こんな山の中で。」
「それはそうだ。見たまえ、東京の大きな料理屋だって大通りにはすくないだろう」
二人はいいながら、その扉をあけました。するとその裏側に、
「注文はたくさんありますがどうか一個一個聞いて下さい。」
「これは一体どういうことなんだ。」ひとりの紳士は顔をしかめました。
「うん、これはきっと注文があまり多くて支度が手間取るけれどもごめん下さいってことなんだろう。」
「そうだろう。早くどこかの部屋の中にはいりたいもんだな。」
「そしてテーブルに座りたいもんだな。」
ところがどうもわずらわしいことに、また扉が一つありました。そしてそのわきに鏡がかかって、その下には長い柄のついたブラシが置いてあったのです。
扉には赤い字で、
「お客さまがた、ここで髪をきちんとして、それからはきものの泥を落としてください。」
と書いてありました。
「これは確かにそうだ。僕もさっき玄関で、山のなかだとおもって見くびったんだよ」
「作法の厳しい家だ。きっとよほど偉い人たちが、よく来るんだろうな。」
そこで二人は、きれいに髪をとかして、靴の泥を落としました。
そしたら、どうでしょう。ブラシを板の上に置いたしゅんかん、そいつがぼうっとかすんで無くなって、風がどうっと室の中に入ってきました。
二人はびっくりして、おたがいによりそって、扉をがたんと開けて、次の部屋へ入って行きました。早く何か暖かいものでもたべて、元気をつけないと、もうとんでもないことになってしまうと、二人とも思ったのでした。
扉の内側に、また変なことが書いてありました。
「鉄砲と弾丸をここへ置いてください。」
見るとすぐ横に黒い台がありました。
「なるほど、鉄砲を持って食事するという作法はない。」
「いや、よほど偉いひとが始終来ているんだな。」
二人は鉄砲をはずし、帯皮を解いて、それを台の上に置きました。
また黒い扉がありました。
「どうか帽子とコートと靴をおとり下さい。」
「どうだ、帽子とコートをとるか。」
「仕方ない、とろう。たしかによっぽどえらいひとなんだ。奥に来ているのは」
二人は帽子とオーバーコートを釘にかけ、靴をぬいでぺたぺたあるいて扉の中にはいりました。
扉の裏側には、
「ネクタイピン、カフスボタン、眼鏡、財布、その他金物類、
ことに尖ったものは、みんなここに置いてください」
と書いてありました。扉のすぐ横には黒塗りの立派な金庫も、ちゃんと口を開けて置いてありました。鍵まで添えてあったのです。
「ははあ、何かの料理に電気をつかうように見えるね。金属はあぶない。さらに尖った金属はあぶないってことなんだろう。」
「そうだろう。して見ると勘定は帰りにここで払うのだろうか。」
「どうもそうらしい。」
「そうだ。きっと。」
二人はめがねをはずしたり、カフスボタンをとったり、みんな金庫のなかに入れて、ぱちんと錠をかけました。
| 二人は「どうか帽子とコートと靴をおとり下さい。」と黒い扉に書かれていたのをみてどうしましたか。 | 二人は帽子とオーバーコートを釘にかけ、靴をぬいでぺたぺたあるいて扉の中にはいりました。 |
JCRRAG_010416 | 国語 | 二人は戸を押して、なかへ入りました。そこはすぐ廊下になっていました。その硝子戸の裏側には、金文字でこうなっていました。
「ことにふとったお方や若いお方は、大歓迎いたします」
二人は大歓迎というので、もう大いによろこびました。
「君、ぼくらは大歓迎されてるようなもんだな。」
「ぼくらは両方条件を満たしているからな」
ずんずん廊下を進んで行くと、こんどは水いろのペンキ塗りの扉がありました。
「どうも変な家だ。どうしてこんなにたくさん戸があるのだろう。」
「これはロシア式だ。寒いとこや山の中はみんなこうさ。」
そして二人はその扉をあけようとしますと、上に黄いろな字でこう書いてありました。
「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」
「なかなか流行ってるんだな。こんな山の中で。」
「それはそうだ。見たまえ、東京の大きな料理屋だって大通りにはすくないだろう」
二人はいいながら、その扉をあけました。するとその裏側に、
「注文はたくさんありますがどうか一個一個聞いて下さい。」
「これは一体どういうことなんだ。」ひとりの紳士は顔をしかめました。
「うん、これはきっと注文があまり多くて支度が手間取るけれどもごめん下さいってことなんだろう。」
「そうだろう。早くどこかの部屋の中にはいりたいもんだな。」
「そしてテーブルに座りたいもんだな。」
ところがどうもわずらわしいことに、また扉が一つありました。そしてそのわきに鏡がかかって、その下には長い柄のついたブラシが置いてあったのです。
扉には赤い字で、
「お客さまがた、ここで髪をきちんとして、それからはきものの泥を落としてください。」
と書いてありました。
「これは確かにそうだ。僕もさっき玄関で、山のなかだとおもって見くびったんだよ」
「作法の厳しい家だ。きっとよほど偉い人たちが、よく来るんだろうな。」
そこで二人は、きれいに髪をとかして、靴の泥を落としました。
そしたら、どうでしょう。ブラシを板の上に置いたしゅんかん、そいつがぼうっとかすんで無くなって、風がどうっと室の中に入ってきました。
二人はびっくりして、おたがいによりそって、扉をがたんと開けて、次の部屋へ入って行きました。早く何か暖かいものでもたべて、元気をつけないと、もうとんでもないことになってしまうと、二人とも思ったのでした。
扉の内側に、また変なことが書いてありました。
「鉄砲と弾丸をここへ置いてください。」
見るとすぐ横に黒い台がありました。
「なるほど、鉄砲を持って食事するという作法はない。」
「いや、よほど偉いひとが始終来ているんだな。」
二人は鉄砲をはずし、帯皮を解いて、それを台の上に置きました。
また黒い扉がありました。
「どうか帽子とコートと靴をおとり下さい。」
「どうだ、帽子とコートをとるか。」
「仕方ない、とろう。たしかによっぽどえらいひとなんだ。奥に来ているのは」
二人は帽子とオーバーコートを釘にかけ、靴をぬいでぺたぺたあるいて扉の中にはいりました。
扉の裏側には、
「ネクタイピン、カフスボタン、眼鏡、財布、その他金物類、
ことに尖ったものは、みんなここに置いてください」
と書いてありました。扉のすぐ横には黒塗りの立派な金庫も、ちゃんと口を開けて置いてありました。鍵まで添えてあったのです。
「ははあ、何かの料理に電気をつかうように見えるね。金属はあぶない。さらに尖った金属はあぶないってことなんだろう。」
「そうだろう。して見ると勘定は帰りにここで払うのだろうか。」
「どうもそうらしい。」
「そうだ。きっと。」
二人はめがねをはずしたり、カフスボタンをとったり、みんな金庫のなかに入れて、ぱちんと錠をかけました。
| 二人は「お客さまがた、ここで髪をきちんとして、それからはきものの泥を落としてください。」という文字をみてどうしましたか。 | 二人は、きれいに髪をとかして、靴の泥を落としました。 |
JCRRAG_010417 | 国語 | 二人は戸を押して、なかへ入りました。そこはすぐ廊下になっていました。その硝子戸の裏側には、金文字でこうなっていました。
「ことにふとったお方や若いお方は、大歓迎いたします」
二人は大歓迎というので、もう大いによろこびました。
「君、ぼくらは大歓迎されてるようなもんだな。」
「ぼくらは両方条件を満たしているからな」
ずんずん廊下を進んで行くと、こんどは水いろのペンキ塗りの扉がありました。
「どうも変な家だ。どうしてこんなにたくさん戸があるのだろう。」
「これはロシア式だ。寒いとこや山の中はみんなこうさ。」
そして二人はその扉をあけようとしますと、上に黄いろな字でこう書いてありました。
「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」
「なかなか流行ってるんだな。こんな山の中で。」
「それはそうだ。見たまえ、東京の大きな料理屋だって大通りにはすくないだろう」
二人はいいながら、その扉をあけました。するとその裏側に、
「注文はたくさんありますがどうか一個一個聞いて下さい。」
「これは一体どういうことなんだ。」ひとりの紳士は顔をしかめました。
「うん、これはきっと注文があまり多くて支度が手間取るけれどもごめん下さいってことなんだろう。」
「そうだろう。早くどこかの部屋の中にはいりたいもんだな。」
「そしてテーブルに座りたいもんだな。」
ところがどうもわずらわしいことに、また扉が一つありました。そしてそのわきに鏡がかかって、その下には長い柄のついたブラシが置いてあったのです。
扉には赤い字で、
「お客さまがた、ここで髪をきちんとして、それからはきものの泥を落としてください。」
と書いてありました。
「これは確かにそうだ。僕もさっき玄関で、山のなかだとおもって見くびったんだよ」
「作法の厳しい家だ。きっとよほど偉い人たちが、よく来るんだろうな。」
そこで二人は、きれいに髪をとかして、靴の泥を落としました。
そしたら、どうでしょう。ブラシを板の上に置いたしゅんかん、そいつがぼうっとかすんで無くなって、風がどうっと室の中に入ってきました。
二人はびっくりして、おたがいによりそって、扉をがたんと開けて、次の部屋へ入って行きました。早く何か暖かいものでもたべて、元気をつけないと、もうとんでもないことになってしまうと、二人とも思ったのでした。
扉の内側に、また変なことが書いてありました。
「鉄砲と弾丸をここへ置いてください。」
見るとすぐ横に黒い台がありました。
「なるほど、鉄砲を持って食事するという作法はない。」
「いや、よほど偉いひとが始終来ているんだな。」
二人は鉄砲をはずし、帯皮を解いて、それを台の上に置きました。
また黒い扉がありました。
「どうか帽子とコートと靴をおとり下さい。」
「どうだ、帽子とコートをとるか。」
「仕方ない、とろう。たしかによっぽどえらいひとなんだ。奥に来ているのは」
二人は帽子とオーバーコートを釘にかけ、靴をぬいでぺたぺたあるいて扉の中にはいりました。
扉の裏側には、
「ネクタイピン、カフスボタン、眼鏡、財布、その他金物類、
ことに尖ったものは、みんなここに置いてください」
と書いてありました。扉のすぐ横には黒塗りの立派な金庫も、ちゃんと口を開けて置いてありました。鍵まで添えてあったのです。
「ははあ、何かの料理に電気をつかうように見えるね。金属はあぶない。さらに尖った金属はあぶないってことなんだろう。」
「そうだろう。して見ると勘定は帰りにここで払うのだろうか。」
「どうもそうらしい。」
「そうだ。きっと。」
二人はめがねをはずしたり、カフスボタンをとったり、みんな金庫のなかに入れて、ぱちんと錠をかけました。
| 二人は「鉄砲と弾丸をここへ置いてください。」と扉の内側に書かれていたのをどうしましたか。 | 二人は鉄砲をはずし、帯皮を解いて、それを台の上に置きました。 |
JCRRAG_010418 | 国語 | 二人は戸を押して、なかへ入りました。そこはすぐ廊下になっていました。その硝子戸の裏側には、金文字でこうなっていました。
「ことにふとったお方や若いお方は、大歓迎いたします」
二人は大歓迎というので、もう大いによろこびました。
「君、ぼくらは大歓迎されてるようなもんだな。」
「ぼくらは両方条件を満たしているからな」
ずんずん廊下を進んで行くと、こんどは水いろのペンキ塗りの扉がありました。
「どうも変な家だ。どうしてこんなにたくさん戸があるのだろう。」
「これはロシア式だ。寒いとこや山の中はみんなこうさ。」
そして二人はその扉をあけようとしますと、上に黄いろな字でこう書いてありました。
「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」
「なかなか流行ってるんだな。こんな山の中で。」
「それはそうだ。見たまえ、東京の大きな料理屋だって大通りにはすくないだろう」
二人はいいながら、その扉をあけました。するとその裏側に、
「注文はたくさんありますがどうか一個一個聞いて下さい。」
「これは一体どういうことなんだ。」ひとりの紳士は顔をしかめました。
「うん、これはきっと注文があまり多くて支度が手間取るけれどもごめん下さいってことなんだろう。」
「そうだろう。早くどこかの部屋の中にはいりたいもんだな。」
「そしてテーブルに座りたいもんだな。」
ところがどうもわずらわしいことに、また扉が一つありました。そしてそのわきに鏡がかかって、その下には長い柄のついたブラシが置いてあったのです。
扉には赤い字で、
「お客さまがた、ここで髪をきちんとして、それからはきものの泥を落としてください。」
と書いてありました。
「これは確かにそうだ。僕もさっき玄関で、山のなかだとおもって見くびったんだよ」
「作法の厳しい家だ。きっとよほど偉い人たちが、よく来るんだろうな。」
そこで二人は、きれいに髪をとかして、靴の泥を落としました。
そしたら、どうでしょう。ブラシを板の上に置いたしゅんかん、そいつがぼうっとかすんで無くなって、風がどうっと室の中に入ってきました。
二人はびっくりして、おたがいによりそって、扉をがたんと開けて、次の部屋へ入って行きました。早く何か暖かいものでもたべて、元気をつけないと、もうとんでもないことになってしまうと、二人とも思ったのでした。
扉の内側に、また変なことが書いてありました。
「鉄砲と弾丸をここへ置いてください。」
見るとすぐ横に黒い台がありました。
「なるほど、鉄砲を持って食事するという作法はない。」
「いや、よほど偉いひとが始終来ているんだな。」
二人は鉄砲をはずし、帯皮を解いて、それを台の上に置きました。
また黒い扉がありました。
「どうか帽子とコートと靴をおとり下さい。」
「どうだ、帽子とコートをとるか。」
「仕方ない、とろう。たしかによっぽどえらいひとなんだ。奥に来ているのは」
二人は帽子とオーバーコートを釘にかけ、靴をぬいでぺたぺたあるいて扉の中にはいりました。
扉の裏側には、
「ネクタイピン、カフスボタン、眼鏡、財布、その他金物類、
ことに尖ったものは、みんなここに置いてください」
と書いてありました。扉のすぐ横には黒塗りの立派な金庫も、ちゃんと口を開けて置いてありました。鍵まで添えてあったのです。
「ははあ、何かの料理に電気をつかうように見えるね。金属はあぶない。さらに尖った金属はあぶないってことなんだろう。」
「そうだろう。して見ると勘定は帰りにここで払うのだろうか。」
「どうもそうらしい。」
「そうだ。きっと。」
二人はめがねをはずしたり、カフスボタンをとったり、みんな金庫のなかに入れて、ぱちんと錠をかけました。
| 二人は「ネクタイピン、カフスボタン、眼鏡、財布、その他金物類、特に尖った物は、みんなここに置いてください」と書いてあったのを見てどうしましたか。 | 二人はめがねをはずしたり、カフスボタンをとったり、みんな金庫のなかに入れて、ぱちんと錠をかけました。 |
JCRRAG_010419 | 国語 | すこし行くとまた扉があって、その前に硝子の壺が一つありました。扉にはこう書いてありました。
「壺のなかのクリームを顔や手足にしっかり塗ってください。」
みるとたしかに壺のなかのものは牛乳のクリームでした。
「クリームをぬれというのはどういうことなんだ?」
「これはね、外がひじょうに寒いだろう。へやのなかがあんまり暖かいと肌がひび割れるから、その予防なんだ。どうも奥には、よほどえらいひとがきている。こんなとこで、もしかしたらぼくらは貴族とお知り合いになるかも知れないよ。」
二人は壺のクリームを、顔に塗って手に塗ってそれから靴下をぬいで足に塗りました。それでもまだ残っていましたから、それは二人ともそれぞれこっそり顔へ塗るふりをしながら食べました。
それから大急ぎで扉をあけますと、その裏側には、
「クリームをよく塗りましたか、耳にもよく塗りましたか、」
と書いてあって、ちいさなクリームの壺がここにも置いてありました。
「そうそう、ぼくは耳には塗らなかった。あぶなく耳にひびを切らすところだった。ここの主人はじつに用意周到だね。」
「ああ、細かいとこまでよく気がつくよ。ところでぼくは早く何か喰べたいんだが、こうどこまでも廊下じゃ仕方ないね。」
するとすぐその前に次の戸がありました。
「料理はもうすぐできます。
十五分とお待たせはいたしません。
すぐたべられます。
早くあなたの頭に瓶の中の香水をよくふりかけてください。」
そして戸の前には金ピカの香水の瓶が置いてありました。
二人はその香水を、頭へぱちゃぱちゃ振りかけました。
ところがその香水は、どうも酢のような匂いがするのでした。
「この香水はへんに酢くさい匂いがする。どうしたんだろう。」
「まちがえたんだ。下女が風邪でも引いてまちがえて入れたんだ。」
二人は扉をあけて中にはいりました。 | 二人は「壺のなかのクリームを顔や手足にしっかり塗ってください。」と書かれていたのをみるとどうしましたか。 | 二人は壺のクリームを、顔に塗って手に塗ってそれから靴下をぬいで足に塗りました。 |
JCRRAG_010420 | 国語 | 二人は扉をあけて中にはいりました。
扉の裏側には、大きな字でこう書いてありました。
「いろいろ注文が多くてうるさかったですよね。お気の毒でした。
もうこれだけです。どうかからだ中に、壺の中の塩をたくさんよくもみ込んでください。」
なるほど立派な青い瀬戸の塩壺は置いてありましたが、こんどというこんどは二人ともぎょっとしてお互いにクリームをたくさん塗った顔を見ました。
「どうもおかしいぜ。」
「ぼくもおかしいとおもう。」
「たくさんの注文というのは、向こうがこっちへ注文してるんだよ。」
「だからさ、西洋料理店というのは、ぼくの考えるところでは、西洋料理を、来た人にたべさせるのではなくて、来た人を西洋料理にして、食べてやる家ということなんだ。これは、その、つ、つ、つ、つまり、ぼ、ぼ、ぼくらが……。」がたがたがたがた、ふるえだしてもうものが言えませんでした。
「その、ぼ、ぼくらが、……うわあ。」がたがたがたがたふるえだして、もうものが言えませんでした。
「にげ……。」がたがたしながら一人の紳士はうしろの戸を押そうとしましたが、どうです、戸はもう少しも動きませんでした。
奥の方にはまだ一枚扉があって、大きなかぎ穴が二つつき、銀いろのホークとナイフの形が切りだしてあって、
「いや、わざわざご苦労です。
大へん結構できました。
さあさあおなかにおはいりください。」
と書いてありました。おまけにかぎ穴からはきょろきょろ二つの青い眼玉がこっちをのぞいています。
「うわあ。」がたがたがたがた。
「うわあ。」がたがたがたがた。
二人は泣き出しました。
すると戸の中では、こそこそこんなことをいっています。
「だめだよ。もう気がついたよ。塩をもみこまないようだよ。」
「あたりまえさ。親分の書き方が良くないんだ。あそこへ、いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう、お気の毒でしたなんて、間抜けなことを書いたもんだ。」
「どっちでもいいよ。どうせぼくらには、骨も分けてくれないんだしさ。」
「それはそうだ。けれどももしここへあいつらがはいって来なかったら、それはぼくらの責任だぜ。」
「呼ぼうか、呼ぼう。おい、お客さん方、早くいらっしゃい。いらっしゃい。いらっしゃい。お皿も洗ってありますし、菜っ葉ももうよく塩でもんで置きました。あとはあなたがたと、菜っ葉をうまくとりあわせて、まっ白なお皿にのせるだけです。はやくいらっしゃい。」
「へい、いらっしゃい、いらっしゃい。それともサラダはきらいですか。それならこれから火を起こしてフライにしてあげましょうか。とにかくはやくいらっしゃい。」
二人はあまりに心を痛めたために、顔がまるでくしゃくしゃの紙屑のようになり、お互いにその顔を見合せ、ぶるぶるふるえ、声もなく泣きました。
中ではふっふっとわらってまたさけんでいます。
「いらっしゃい、いらっしゃい。そんなに泣いては折角のクリームが流れるじゃありませんか。へい、ただいま。じきもってまいります。さあ、早くいらっしゃい。」
「早くいらっしゃい。親方がもうナフキンをかけて、ナイフをもって、舌なめずりして、お客さま方を待っていられます。」
二人は泣いて泣いて泣いて泣いて泣きました。
そのときうしろからいきなり、
「わん、わん、ぐゎあ。」という声がして、あの白熊のような犬が二匹、扉をつきやぶって部屋の中に飛び込んできました。鍵穴の眼玉はたちまちなくなり、犬どもはうぅとと唸ってしばらく部屋の中をくるくるまわっていましたが、また一声
「わん。」と高く吠えて、いきなり次の扉に飛びつきました。戸はがたりとひらき、犬どもは吸い込まれるように飛んで行きました。
その扉の向こうのまっくらやみのなかで、
「にゃあお、くゎあ、ごろごろ。」という声がして、それからがさがさ鳴りました。
部屋はけむりのように消え、二人は寒さにぶるぶるふるえて、草の中に立っていました。
見ると、上着や靴や財布やネクタイピンは、あっちの枝にぶらさがったり、こっちの根もとにちらばったりしています。風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。
犬がふうとうなってもどってきました。
そしてうしろからは、
「旦那あ、旦那あ、」と叫ぶものがあります。
二人は少し元気がついて
「おおい、おおい、ここだぞ、早く来い。」と叫びました。
簔帽子をかぶった専門の猟師が、草をざわざわ分けてやってきました。
そこで二人はやっと安心しました。
そして猟師のもってきた団子をたべ、途中で十円だけ山鳥を買って東京に帰りました。
しかし、さっき一ぺん紙くずのようになった二人の顔だけは、東京に帰っても、お風呂にはいっても、もう元通りになおりませんでした。 | 二人は「壺の中の塩をたくさんよくもみ込んでください。」と書かれていた文字を見てどうしましたか。 | 二人ともぎょっとしてお互いにクリームをたくさん塗った顔を見ました。 |
JCRRAG_010421 | 国語 | 二人は扉をあけて中にはいりました。
扉の裏側には、大きな字でこう書いてありました。
「いろいろ注文が多くてうるさかったですよね。お気の毒でした。
もうこれだけです。どうかからだ中に、壺の中の塩をたくさんよくもみ込んでください。」
なるほど立派な青い瀬戸の塩壺は置いてありましたが、こんどというこんどは二人ともぎょっとしてお互いにクリームをたくさん塗った顔を見ました。
「どうもおかしいぜ。」
「ぼくもおかしいとおもう。」
「たくさんの注文というのは、向こうがこっちへ注文してるんだよ。」
「だからさ、西洋料理店というのは、ぼくの考えるところでは、西洋料理を、来た人にたべさせるのではなくて、来た人を西洋料理にして、食べてやる家ということなんだ。これは、その、つ、つ、つ、つまり、ぼ、ぼ、ぼくらが……。」がたがたがたがた、ふるえだしてもうものが言えませんでした。
「その、ぼ、ぼくらが、……うわあ。」がたがたがたがたふるえだして、もうものが言えませんでした。
「にげ……。」がたがたしながら一人の紳士はうしろの戸を押そうとしましたが、どうです、戸はもう少しも動きませんでした。
奥の方にはまだ一枚扉があって、大きなかぎ穴が二つつき、銀いろのホークとナイフの形が切りだしてあって、
「いや、わざわざご苦労です。
大へん結構できました。
さあさあおなかにおはいりください。」
と書いてありました。おまけにかぎ穴からはきょろきょろ二つの青い眼玉がこっちをのぞいています。
「うわあ。」がたがたがたがた。
「うわあ。」がたがたがたがた。
二人は泣き出しました。
すると戸の中では、こそこそこんなことをいっています。
「だめだよ。もう気がついたよ。塩をもみこまないようだよ。」
「あたりまえさ。親分の書き方が良くないんだ。あそこへ、いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう、お気の毒でしたなんて、間抜けなことを書いたもんだ。」
「どっちでもいいよ。どうせぼくらには、骨も分けてくれないんだしさ。」
「それはそうだ。けれどももしここへあいつらがはいって来なかったら、それはぼくらの責任だぜ。」
「呼ぼうか、呼ぼう。おい、お客さん方、早くいらっしゃい。いらっしゃい。いらっしゃい。お皿も洗ってありますし、菜っ葉ももうよく塩でもんで置きました。あとはあなたがたと、菜っ葉をうまくとりあわせて、まっ白なお皿にのせるだけです。はやくいらっしゃい。」
「へい、いらっしゃい、いらっしゃい。それともサラダはきらいですか。それならこれから火を起こしてフライにしてあげましょうか。とにかくはやくいらっしゃい。」
二人はあまりに心を痛めたために、顔がまるでくしゃくしゃの紙屑のようになり、お互いにその顔を見合せ、ぶるぶるふるえ、声もなく泣きました。
中ではふっふっとわらってまたさけんでいます。
「いらっしゃい、いらっしゃい。そんなに泣いては折角のクリームが流れるじゃありませんか。へい、ただいま。じきもってまいります。さあ、早くいらっしゃい。」
「早くいらっしゃい。親方がもうナフキンをかけて、ナイフをもって、舌なめずりして、お客さま方を待っていられます。」
二人は泣いて泣いて泣いて泣いて泣きました。
そのときうしろからいきなり、
「わん、わん、ぐゎあ。」という声がして、あの白熊のような犬が二匹、扉をつきやぶって部屋の中に飛び込んできました。鍵穴の眼玉はたちまちなくなり、犬どもはうぅとと唸ってしばらく部屋の中をくるくるまわっていましたが、また一声
「わん。」と高く吠えて、いきなり次の扉に飛びつきました。戸はがたりとひらき、犬どもは吸い込まれるように飛んで行きました。
その扉の向こうのまっくらやみのなかで、
「にゃあお、くゎあ、ごろごろ。」という声がして、それからがさがさ鳴りました。
部屋はけむりのように消え、二人は寒さにぶるぶるふるえて、草の中に立っていました。
見ると、上着や靴や財布やネクタイピンは、あっちの枝にぶらさがったり、こっちの根もとにちらばったりしています。風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。
犬がふうとうなってもどってきました。
そしてうしろからは、
「旦那あ、旦那あ、」と叫ぶものがあります。
二人は少し元気がついて
「おおい、おおい、ここだぞ、早く来い。」と叫びました。
簔帽子をかぶった専門の猟師が、草をざわざわ分けてやってきました。
そこで二人はやっと安心しました。
そして猟師のもってきた団子をたべ、途中で十円だけ山鳥を買って東京に帰りました。
しかし、さっき一ぺん紙くずのようになった二人の顔だけは、東京に帰っても、お風呂にはいっても、もう元通りになおりませんでした。 | かぎ穴からはきょろきょろ二つの青い眼玉がこっちをのぞいているのをみた二人はどうしましたか。 | 「うわあ。」がたがたがたがた。二人は泣き出しました。 |
JCRRAG_010422 | 国語 | むかしむかし、イギリスの大昔、アルフレッド大王の御代のことでございます。ロンドンの都からとおくはなれたいなかのこやに、未亡人の女のひとが、ちいさいむすこのジャックをあいてに、さびしくくらしていました。かけがえのないひとりむすこですし、それに、ずいぶんのんきで、ずぼらで、なまけものでしたが、ほんとうは気だてのやさしい子でしたから、母親は、あけてもくれても、ジャック、ジャックといって、それこそ目の中にでも入れてしまいたいくらいにかわいがって、なんにもしごとはさせず、ただ遊ばせておきました。
こんなふうで、のらくらむすこをかかえた上に、このやもめの人は、どういうものか運がわるくて、年々ものが足たりなくなるばかり、ある年の冬には、もう手まわりの道具や衣類まで売って、手に入れたおかねも、手内職なんかして、わずかばかりかせぎためたおかねも、きれいにつかってしまって、とうとう、うちの中で、どうにかおかねになるものといっては、たった一ぴきのこった牝牛だけになってしまいました。
そこで、ある日、母親は、ジャックをよんで、
「ほんとうに、おかあさんは、自分のからだを半分もって行かれるほどつらいけれど、いよいよ、あの牝牛を、手ばなさなければならないことになったのだよ。おまえ、ごくろうだけれど、市場まで牛をつれて行って、いいひとをみつけて、なるたけたかく売って来ておくれな。」といいました。
そこで、ジャックは、牛をひっぱって出かけました。
しばらくあるいて行くと、むこうから、肉屋の親方がやって来ました。
「これこれ坊や、牝牛なんかひっぱって、どこへ行くのだい。」と、親方は声をかけました。
「売りに行くんだよ。」と、ジャックはこたえました。
「ふうん。」と、親方はいいながら、片手にもった帽子をふってみせました。がさがさ音がするので、気がついて、ジャックが、帽子のなかを、ふとのぞいてみますと、きみょうな形をした豆が、袋の中から、ちらちらみえました。
「やあ、きれいな豆だなあ。」
そうジャックはおもって、なんだか、むやみとそれがほしくなりました。そのようすを、相手の男は、すぐに見つけてしまいました。そして、このすこし知恵のたりないこどもを、うまくひっかけてやろうとおもって、わざと袋の口をあけてみせて、
「坊や、これがほしいんだろう。」といいました。
ジャックは、そういわれて、にこにこになると、親方はもったいらしく首をふって、「いけない、いけない、こりゃあふしぎな、魔法の豆さ。どうしても、ただではあげられないな。どうだ、その牝牛と、とりかえっこしようかね。」といいました。
ジャックは、その男のいうなりに、牝牛と豆の袋ととりかえっこしました。そして、おたがい、これはとんだもうけものをしたとおもって、ほくほくしながら、わかれました。
ジャックは、豆の袋をかかえて、うちまでとんでかえりました。うちへはいるか、はいらないに、ジャックは、
「おかあさん、きょうはほんとに、うまく行ったよ。」と、いきなりそういって、だいとくいで、牛と豆のとりかえっこした話をしました。ところが、母親は、それをきいてよろこぶどころか、あべこべにひどくしかりました。
「まあ、なんというばかなことをしてくれたのだね。ほんとにあきれてしまう。こんなつまらない、えんどう豆の袋なんかにつられて、だいじな牝牛一ぴき、もとも子もなくしてしまうなんて、神さま、まあ、このばかな子をどうしましょう。」
母親はぷんぷんおこって、いまいましそうに、窓のそとへ、袋の中の豆をのこらず、なげすててしまいました。そして、つくづくなさけなさそうに、しくしく泣きだしました。
きっとよろこんでもらえるとおもっているが真逆で、うまれてはじめて、おかあさんのこんなにおこった顔をみたので、ジャックはびっくりして、じぶんもかなしくなりました。そして、なんにもたべるものがないので、おなかのすいたまま、その晩ははやくから、ころんとねてしまいました。
| ジャックの母親はなぜジャックをかわいがってどうしましたか。 | 母親は、あけてもくれても、ジャック、ジャックといって、それこそ目の中にでも入れてしまいたいくらいにかわいがって、なんにもしごとはさせず、ただ遊ばせておきました。 |
JCRRAG_010423 | 国語 | むかしむかし、イギリスの大昔、アルフレッド大王の御代のことでございます。ロンドンの都からとおくはなれたいなかのこやに、未亡人の女のひとが、ちいさいむすこのジャックをあいてに、さびしくくらしていました。かけがえのないひとりむすこですし、それに、ずいぶんのんきで、ずぼらで、なまけものでしたが、ほんとうは気だてのやさしい子でしたから、母親は、あけてもくれても、ジャック、ジャックといって、それこそ目の中にでも入れてしまいたいくらいにかわいがって、なんにもしごとはさせず、ただ遊ばせておきました。
こんなふうで、のらくらむすこをかかえた上に、このやもめの人は、どういうものか運がわるくて、年々ものが足たりなくなるばかり、ある年の冬には、もう手まわりの道具や衣類まで売って、手に入れたおかねも、手内職なんかして、わずかばかりかせぎためたおかねも、きれいにつかってしまって、とうとう、うちの中で、どうにかおかねになるものといっては、たった一ぴきのこった牝牛だけになってしまいました。
そこで、ある日、母親は、ジャックをよんで、
「ほんとうに、おかあさんは、自分のからだを半分もって行かれるほどつらいけれど、いよいよ、あの牝牛を、手ばなさなければならないことになったのだよ。おまえ、ごくろうだけれど、市場まで牛をつれて行って、いいひとをみつけて、なるたけたかく売って来ておくれな。」といいました。
そこで、ジャックは、牛をひっぱって出かけました。
しばらくあるいて行くと、むこうから、肉屋の親方がやって来ました。
「これこれ坊や、牝牛なんかひっぱって、どこへ行くのだい。」と、親方は声をかけました。
「売りに行くんだよ。」と、ジャックはこたえました。
「ふうん。」と、親方はいいながら、片手にもった帽子をふってみせました。がさがさ音がするので、気がついて、ジャックが、帽子のなかを、ふとのぞいてみますと、きみょうな形をした豆が、袋の中から、ちらちらみえました。
「やあ、きれいな豆だなあ。」
そうジャックはおもって、なんだか、むやみとそれがほしくなりました。そのようすを、相手の男は、すぐに見つけてしまいました。そして、このすこし知恵のたりないこどもを、うまくひっかけてやろうとおもって、わざと袋の口をあけてみせて、
「坊や、これがほしいんだろう。」といいました。
ジャックは、そういわれて、にこにこになると、親方はもったいらしく首をふって、「いけない、いけない、こりゃあふしぎな、魔法の豆さ。どうしても、ただではあげられないな。どうだ、その牝牛と、とりかえっこしようかね。」といいました。
ジャックは、その男のいうなりに、牝牛と豆の袋ととりかえっこしました。そして、おたがい、これはとんだもうけものをしたとおもって、ほくほくしながら、わかれました。
ジャックは、豆の袋をかかえて、うちまでとんでかえりました。うちへはいるか、はいらないに、ジャックは、
「おかあさん、きょうはほんとに、うまく行ったよ。」と、いきなりそういって、だいとくいで、牛と豆のとりかえっこした話をしました。ところが、母親は、それをきいてよろこぶどころか、あべこべにひどくしかりました。
「まあ、なんというばかなことをしてくれたのだね。ほんとにあきれてしまう。こんなつまらない、えんどう豆の袋なんかにつられて、だいじな牝牛一ぴき、もとも子もなくしてしまうなんて、神さま、まあ、このばかな子をどうしましょう。」
母親はぷんぷんおこって、いまいましそうに、窓のそとへ、袋の中の豆をのこらず、なげすててしまいました。そして、つくづくなさけなさそうに、しくしく泣きだしました。
きっとよろこんでもらえるとおもっているが真逆で、うまれてはじめて、おかあさんのこんなにおこった顔をみたので、ジャックはびっくりして、じぶんもかなしくなりました。そして、なんにもたべるものがないので、おなかのすいたまま、その晩ははやくから、ころんとねてしまいました。
| ジャックの家でおかねになるものはどれだけになってしまいましたか。 | うちの中で、どうにかおかねになるものといっては、たった一ぴきのこった牝牛だけになってしまいました。 |
JCRRAG_010424 | 国語 | むかしむかし、イギリスの大昔、アルフレッド大王の御代のことでございます。ロンドンの都からとおくはなれたいなかのこやに、未亡人の女のひとが、ちいさいむすこのジャックをあいてに、さびしくくらしていました。かけがえのないひとりむすこですし、それに、ずいぶんのんきで、ずぼらで、なまけものでしたが、ほんとうは気だてのやさしい子でしたから、母親は、あけてもくれても、ジャック、ジャックといって、それこそ目の中にでも入れてしまいたいくらいにかわいがって、なんにもしごとはさせず、ただ遊ばせておきました。
こんなふうで、のらくらむすこをかかえた上に、このやもめの人は、どういうものか運がわるくて、年々ものが足たりなくなるばかり、ある年の冬には、もう手まわりの道具や衣類まで売って、手に入れたおかねも、手内職なんかして、わずかばかりかせぎためたおかねも、きれいにつかってしまって、とうとう、うちの中で、どうにかおかねになるものといっては、たった一ぴきのこった牝牛だけになってしまいました。
そこで、ある日、母親は、ジャックをよんで、
「ほんとうに、おかあさんは、自分のからだを半分もって行かれるほどつらいけれど、いよいよ、あの牝牛を、手ばなさなければならないことになったのだよ。おまえ、ごくろうだけれど、市場まで牛をつれて行って、いいひとをみつけて、なるたけたかく売って来ておくれな。」といいました。
そこで、ジャックは、牛をひっぱって出かけました。
しばらくあるいて行くと、むこうから、肉屋の親方がやって来ました。
「これこれ坊や、牝牛なんかひっぱって、どこへ行くのだい。」と、親方は声をかけました。
「売りに行くんだよ。」と、ジャックはこたえました。
「ふうん。」と、親方はいいながら、片手にもった帽子をふってみせました。がさがさ音がするので、気がついて、ジャックが、帽子のなかを、ふとのぞいてみますと、きみょうな形をした豆が、袋の中から、ちらちらみえました。
「やあ、きれいな豆だなあ。」
そうジャックはおもって、なんだか、むやみとそれがほしくなりました。そのようすを、相手の男は、すぐに見つけてしまいました。そして、このすこし知恵のたりないこどもを、うまくひっかけてやろうとおもって、わざと袋の口をあけてみせて、
「坊や、これがほしいんだろう。」といいました。
ジャックは、そういわれて、にこにこになると、親方はもったいらしく首をふって、「いけない、いけない、こりゃあふしぎな、魔法の豆さ。どうしても、ただではあげられないな。どうだ、その牝牛と、とりかえっこしようかね。」といいました。
ジャックは、その男のいうなりに、牝牛と豆の袋ととりかえっこしました。そして、おたがい、これはとんだもうけものをしたとおもって、ほくほくしながら、わかれました。
ジャックは、豆の袋をかかえて、うちまでとんでかえりました。うちへはいるか、はいらないに、ジャックは、
「おかあさん、きょうはほんとに、うまく行ったよ。」と、いきなりそういって、だいとくいで、牛と豆のとりかえっこした話をしました。ところが、母親は、それをきいてよろこぶどころか、あべこべにひどくしかりました。
「まあ、なんというばかなことをしてくれたのだね。ほんとにあきれてしまう。こんなつまらない、えんどう豆の袋なんかにつられて、だいじな牝牛一ぴき、もとも子もなくしてしまうなんて、神さま、まあ、このばかな子をどうしましょう。」
母親はぷんぷんおこって、いまいましそうに、窓のそとへ、袋の中の豆をのこらず、なげすててしまいました。そして、つくづくなさけなさそうに、しくしく泣きだしました。
きっとよろこんでもらえるとおもっているが真逆で、うまれてはじめて、おかあさんのこんなにおこった顔をみたので、ジャックはびっくりして、じぶんもかなしくなりました。そして、なんにもたべるものがないので、おなかのすいたまま、その晩ははやくから、ころんとねてしまいました。
| ジャックは親方に魔法の豆と牝牛をとりかえっこしようといわれてどうしましたか。 | ジャックは、その男のいうなりに、牝牛と豆の袋ととりかえっこしました。 |
JCRRAG_010425 | 国語 | むかしむかし、イギリスの大昔、アルフレッド大王の御代のことでございます。ロンドンの都からとおくはなれたいなかのこやに、未亡人の女のひとが、ちいさいむすこのジャックをあいてに、さびしくくらしていました。かけがえのないひとりむすこですし、それに、ずいぶんのんきで、ずぼらで、なまけものでしたが、ほんとうは気だてのやさしい子でしたから、母親は、あけてもくれても、ジャック、ジャックといって、それこそ目の中にでも入れてしまいたいくらいにかわいがって、なんにもしごとはさせず、ただ遊ばせておきました。
こんなふうで、のらくらむすこをかかえた上に、このやもめの人は、どういうものか運がわるくて、年々ものが足たりなくなるばかり、ある年の冬には、もう手まわりの道具や衣類まで売って、手に入れたおかねも、手内職なんかして、わずかばかりかせぎためたおかねも、きれいにつかってしまって、とうとう、うちの中で、どうにかおかねになるものといっては、たった一ぴきのこった牝牛だけになってしまいました。
そこで、ある日、母親は、ジャックをよんで、
「ほんとうに、おかあさんは、自分のからだを半分もって行かれるほどつらいけれど、いよいよ、あの牝牛を、手ばなさなければならないことになったのだよ。おまえ、ごくろうだけれど、市場まで牛をつれて行って、いいひとをみつけて、なるたけたかく売って来ておくれな。」といいました。
そこで、ジャックは、牛をひっぱって出かけました。
しばらくあるいて行くと、むこうから、肉屋の親方がやって来ました。
「これこれ坊や、牝牛なんかひっぱって、どこへ行くのだい。」と、親方は声をかけました。
「売りに行くんだよ。」と、ジャックはこたえました。
「ふうん。」と、親方はいいながら、片手にもった帽子をふってみせました。がさがさ音がするので、気がついて、ジャックが、帽子のなかを、ふとのぞいてみますと、きみょうな形をした豆が、袋の中から、ちらちらみえました。
「やあ、きれいな豆だなあ。」
そうジャックはおもって、なんだか、むやみとそれがほしくなりました。そのようすを、相手の男は、すぐに見つけてしまいました。そして、このすこし知恵のたりないこどもを、うまくひっかけてやろうとおもって、わざと袋の口をあけてみせて、
「坊や、これがほしいんだろう。」といいました。
ジャックは、そういわれて、にこにこになると、親方はもったいらしく首をふって、「いけない、いけない、こりゃあふしぎな、魔法の豆さ。どうしても、ただではあげられないな。どうだ、その牝牛と、とりかえっこしようかね。」といいました。
ジャックは、その男のいうなりに、牝牛と豆の袋ととりかえっこしました。そして、おたがい、これはとんだもうけものをしたとおもって、ほくほくしながら、わかれました。
ジャックは、豆の袋をかかえて、うちまでとんでかえりました。うちへはいるか、はいらないに、ジャックは、
「おかあさん、きょうはほんとに、うまく行ったよ。」と、いきなりそういって、だいとくいで、牛と豆のとりかえっこした話をしました。ところが、母親は、それをきいてよろこぶどころか、あべこべにひどくしかりました。
「まあ、なんというばかなことをしてくれたのだね。ほんとにあきれてしまう。こんなつまらない、えんどう豆の袋なんかにつられて、だいじな牝牛一ぴき、もとも子もなくしてしまうなんて、神さま、まあ、このばかな子をどうしましょう。」
母親はぷんぷんおこって、いまいましそうに、窓のそとへ、袋の中の豆をのこらず、なげすててしまいました。そして、つくづくなさけなさそうに、しくしく泣きだしました。
きっとよろこんでもらえるとおもっているが真逆で、うまれてはじめて、おかあさんのこんなにおこった顔をみたので、ジャックはびっくりして、じぶんもかなしくなりました。そして、なんにもたべるものがないので、おなかのすいたまま、その晩ははやくから、ころんとねてしまいました。
| ジャックが豆と牝牛をとりかえっこしたことを母親に言ったら母親はどうしましたか。 | 母親は、それをきいてよろこぶどころか、あべこべにひどくしかりました。 |
JCRRAG_010426 | 国語 | その翌朝、ジャックは目をさまして、もう夜があけたのに、なんだかくらいなとおもって、ふと窓のそとをみました。するとどうでしょう、きのう庭になげすてた豆の種子から、芽が生えて、ひと晩のうちに、ふとい、じょうぶそうな豆の大木が、みあげるほどたかくのびて、それこそ庭いっぱい、うっそうとしげっているではありませんか。
びっくりしてとびおきて、すぐと庭へおりてみますと、どうして、たかいといって、豆の木は、それこそほうずのしれないたかさに、空の上までのびていました。つると葉とがからみあって、それは、空の中をどんとつきぬけて、まるで豆の木のはしごのように、しっかりと立っていました。
「あれをつたわって、てっぺんまでのぼって行ったら、一体どこまで行けるんだろう。」
そうおもって、ジャックは、すぐにはしごにのぼりはじめました。だんだんのぼって行くうち、ジャックの家は、ずんずん、ずんずん、目の下がちいさくなって行きました。そしていつのまにかみえなくなってしまいました。それでもまだてっぺんには来ていませんでした。ジャックは、いったいどこまで行くのかとおもって、すこしきみがわるくなりました。それでもいっしょうけんめい、はしごにしがみついて、のぼって行きました。あんまりたかくのぼって、目はくらむし、手も足もくたびれきって、もうしびれて、ふらふらになりかけたころ、やっとてっぺんにのぼりました。
ジャックは、そのとき、まずそこらを見まわしました。すると、そこはふしぎな国で、青々としげった、しずかな森がありました。うつくしい花のさいている草原もありました。水晶のようにきれいな水のながれている川もありました。こんなたかい空の上に、こんなきれいな国があるとは、おもってもいませんでしたから、ジャックはあっけにとられて、ただきょとんとしていました。
いつもまにか、ふと、赤い角ずきんをかぶった、みょうな顔のおばあさんが、どこから出て来たか、ふと目の前にあらわれました。ジャックは、ふしぎそうに、このみょうな顔をしたおばあさんをみつめました。おばあさんは、でも、やさしい声でいいました。
「そんなにびっくりしないでもいいのだよ。わたしはいったい、お前さんたち一家のものを守ってあげている妖女なのだけれど、この五、六年のあいだというものは、わるいまもののために、魔法でしばられていて、お前さんたちをたすけてあげることができなかったのさ。だが、こんどやっと魔法がとけたから、これからはおもいのままに、たすけてあげられるだろうよ。」
だしぬけに、こんなことをいわれて、ジャックは、なおさらあっけにとられてしまいました。そのぽかんとした顔を、妖女はおもしろそうにながめながら、そのわけをくわしく話しだしました。それをかいつまんでいうと、まあこんなものでした。
「ここからそうとおくはない所に、おそろしい鬼の大男が、すみかにしている、お城のような家がある。じつはその鬼が、むかし、そのお城に住んでいたお前のおとうさんをころして、城といっしょに、そのもっていたおたからのこらずとってしまったものだから、お前のうちは、すっかり貧乏になってしまったのさ。そうしてお前も、赤ちゃんのときから、かわいそうに、お前のおかあさんのふところにだかれたまま、下界におちぶれて、なさけないくらしをするようになったのだよ。だから、もういちど、そのたからをとりかえして、わるいその鬼を、ひどいめにあわしてやるのが、お前のやくめなのだよ。」
こういうふうにいいきかされると、ぐうたらなジャックのこころも、ぴんと張ってきました。知らないおとうさんのことが、なつかしくなって、どうしてもこの鬼をこらしめて、かすめられた宝を、とりかえさなくてはならないとおもいました。そうおもって、とてもいさましい気になって、おなかのすいていることも、くたびれていることも、きれいにわすれてしまいました。そこで、妖女にお礼をいってわかれますと、さっそく、鬼の住んでいるお城にむかって、いそいで行きました。
やがて、お日さまが西にしずむころ、ジャックは、なるほどお城のように大きな家の前に来ました。
まず、とんとんと門をたたくと、なかから、目のひとつしかない、鬼のおかみさんが出て来ました。きみのわるい顔に似合わず、鬼のおかみさんは、ジャックのひもじそうなようすをみて、かわいそうにおもいました。それで、さもこまったように首をふって、
「いけない、いけない。きのどくだけれど、とめてあげることはできないよ。ここは、人くい鬼のうちだから、みつかると、晩のごはんのかわりに、すぐたべられてしまうからね。」といいました。
「どうか、おばさん、知らないようにしてとめてくださいよ。ぼく、もうくたびれて、ひと足もあるけないんです。」と、たのむように、ジャックはいいました。
「しかたのない子だね。じゃあ今夜だけとめてあげるから、朝になったら、すぐおかえりよ。」
こういっているさいちゅう、にわかにずしん、ずしん、地ひびきするほど大きな足音がきこえて来ました。それは主人の人食い鬼が、もう、そとからかえって来たのです。鬼のおかみさんは、大あわてにあわてて、ジャックを、だんろの中にかくしてしまいました。
鬼は、へやの中にはいると、いきなり、ふうと鼻をならしながら、たれだってびっくりしてふるえ上がるような大ごえで、
「フン、フン、フン、イギリス人の香りがするぞ。生きていようが死んでようが、骨ごとひいてパンにしてやるぞ。」
と、いいました。すると、おかみさんが、
「いいえ、それはあなたが、つかまえて、土の牢屋に入れてあるひとたちの、においでしょう。」といいました。
けれど鬼の大男は、まだきょろきょろそこらを見まわして、鼻をくんくんやっていました。でも、どうしても、ジャックをみつけることができませんでした。
とうとうあきらめて、鬼は、椅子の上に腰をおろしました。そしてがつがつ、がぶがぶ、たべたりのんだりしはじめました。そっとジャックがのぞいてみてみると、それはあとからあとから、いつおしまいになるかとおもうほどかっこむので、ジャックは、目ばかりまるくしていました。 | ジャックは空の上までのびていた豆の木をみてどうしましたか。 | 「あれをつたわって、てっぺんまでのぼって行ったら、一体どこまで行けるんだろう。」そうおもって、ジャックは、すぐにはしごにのぼりはじめました。 |
JCRRAG_010427 | 国語 | その翌朝、ジャックは目をさまして、もう夜があけたのに、なんだかくらいなとおもって、ふと窓のそとをみました。するとどうでしょう、きのう庭になげすてた豆の種子から、芽が生えて、ひと晩のうちに、ふとい、じょうぶそうな豆の大木が、みあげるほどたかくのびて、それこそ庭いっぱい、うっそうとしげっているではありませんか。
びっくりしてとびおきて、すぐと庭へおりてみますと、どうして、たかいといって、豆の木は、それこそほうずのしれないたかさに、空の上までのびていました。つると葉とがからみあって、それは、空の中をどんとつきぬけて、まるで豆の木のはしごのように、しっかりと立っていました。
「あれをつたわって、てっぺんまでのぼって行ったら、一体どこまで行けるんだろう。」
そうおもって、ジャックは、すぐにはしごにのぼりはじめました。だんだんのぼって行くうち、ジャックの家は、ずんずん、ずんずん、目の下がちいさくなって行きました。そしていつのまにかみえなくなってしまいました。それでもまだてっぺんには来ていませんでした。ジャックは、いったいどこまで行くのかとおもって、すこしきみがわるくなりました。それでもいっしょうけんめい、はしごにしがみついて、のぼって行きました。あんまりたかくのぼって、目はくらむし、手も足もくたびれきって、もうしびれて、ふらふらになりかけたころ、やっとてっぺんにのぼりました。
ジャックは、そのとき、まずそこらを見まわしました。すると、そこはふしぎな国で、青々としげった、しずかな森がありました。うつくしい花のさいている草原もありました。水晶のようにきれいな水のながれている川もありました。こんなたかい空の上に、こんなきれいな国があるとは、おもってもいませんでしたから、ジャックはあっけにとられて、ただきょとんとしていました。
いつもまにか、ふと、赤い角ずきんをかぶった、みょうな顔のおばあさんが、どこから出て来たか、ふと目の前にあらわれました。ジャックは、ふしぎそうに、このみょうな顔をしたおばあさんをみつめました。おばあさんは、でも、やさしい声でいいました。
「そんなにびっくりしないでもいいのだよ。わたしはいったい、お前さんたち一家のものを守ってあげている妖女なのだけれど、この五、六年のあいだというものは、わるいまもののために、魔法でしばられていて、お前さんたちをたすけてあげることができなかったのさ。だが、こんどやっと魔法がとけたから、これからはおもいのままに、たすけてあげられるだろうよ。」
だしぬけに、こんなことをいわれて、ジャックは、なおさらあっけにとられてしまいました。そのぽかんとした顔を、妖女はおもしろそうにながめながら、そのわけをくわしく話しだしました。それをかいつまんでいうと、まあこんなものでした。
「ここからそうとおくはない所に、おそろしい鬼の大男が、すみかにしている、お城のような家がある。じつはその鬼が、むかし、そのお城に住んでいたお前のおとうさんをころして、城といっしょに、そのもっていたおたからのこらずとってしまったものだから、お前のうちは、すっかり貧乏になってしまったのさ。そうしてお前も、赤ちゃんのときから、かわいそうに、お前のおかあさんのふところにだかれたまま、下界におちぶれて、なさけないくらしをするようになったのだよ。だから、もういちど、そのたからをとりかえして、わるいその鬼を、ひどいめにあわしてやるのが、お前のやくめなのだよ。」
こういうふうにいいきかされると、ぐうたらなジャックのこころも、ぴんと張ってきました。知らないおとうさんのことが、なつかしくなって、どうしてもこの鬼をこらしめて、かすめられた宝を、とりかえさなくてはならないとおもいました。そうおもって、とてもいさましい気になって、おなかのすいていることも、くたびれていることも、きれいにわすれてしまいました。そこで、妖女にお礼をいってわかれますと、さっそく、鬼の住んでいるお城にむかって、いそいで行きました。
やがて、お日さまが西にしずむころ、ジャックは、なるほどお城のように大きな家の前に来ました。
まず、とんとんと門をたたくと、なかから、目のひとつしかない、鬼のおかみさんが出て来ました。きみのわるい顔に似合わず、鬼のおかみさんは、ジャックのひもじそうなようすをみて、かわいそうにおもいました。それで、さもこまったように首をふって、
「いけない、いけない。きのどくだけれど、とめてあげることはできないよ。ここは、人くい鬼のうちだから、みつかると、晩のごはんのかわりに、すぐたべられてしまうからね。」といいました。
「どうか、おばさん、知らないようにしてとめてくださいよ。ぼく、もうくたびれて、ひと足もあるけないんです。」と、たのむように、ジャックはいいました。
「しかたのない子だね。じゃあ今夜だけとめてあげるから、朝になったら、すぐおかえりよ。」
こういっているさいちゅう、にわかにずしん、ずしん、地ひびきするほど大きな足音がきこえて来ました。それは主人の人食い鬼が、もう、そとからかえって来たのです。鬼のおかみさんは、大あわてにあわてて、ジャックを、だんろの中にかくしてしまいました。
鬼は、へやの中にはいると、いきなり、ふうと鼻をならしながら、たれだってびっくりしてふるえ上がるような大ごえで、
「フン、フン、フン、イギリス人の香りがするぞ。生きていようが死んでようが、骨ごとひいてパンにしてやるぞ。」
と、いいました。すると、おかみさんが、
「いいえ、それはあなたが、つかまえて、土の牢屋に入れてあるひとたちの、においでしょう。」といいました。
けれど鬼の大男は、まだきょろきょろそこらを見まわして、鼻をくんくんやっていました。でも、どうしても、ジャックをみつけることができませんでした。
とうとうあきらめて、鬼は、椅子の上に腰をおろしました。そしてがつがつ、がぶがぶ、たべたりのんだりしはじめました。そっとジャックがのぞいてみてみると、それはあとからあとから、いつおしまいになるかとおもうほどかっこむので、ジャックは、目ばかりまるくしていました。 | 雲の上のふしぎな国はどんな景色でしたか。 | 青々としげった、しずかな森がありました。うつくしい花のさいている草原もありました。水晶のようにきれいな水のながれている川もありました。 |
JCRRAG_010428 | 国語 | その翌朝、ジャックは目をさまして、もう夜があけたのに、なんだかくらいなとおもって、ふと窓のそとをみました。するとどうでしょう、きのう庭になげすてた豆の種子から、芽が生えて、ひと晩のうちに、ふとい、じょうぶそうな豆の大木が、みあげるほどたかくのびて、それこそ庭いっぱい、うっそうとしげっているではありませんか。
びっくりしてとびおきて、すぐと庭へおりてみますと、どうして、たかいといって、豆の木は、それこそほうずのしれないたかさに、空の上までのびていました。つると葉とがからみあって、それは、空の中をどんとつきぬけて、まるで豆の木のはしごのように、しっかりと立っていました。
「あれをつたわって、てっぺんまでのぼって行ったら、一体どこまで行けるんだろう。」
そうおもって、ジャックは、すぐにはしごにのぼりはじめました。だんだんのぼって行くうち、ジャックの家は、ずんずん、ずんずん、目の下がちいさくなって行きました。そしていつのまにかみえなくなってしまいました。それでもまだてっぺんには来ていませんでした。ジャックは、いったいどこまで行くのかとおもって、すこしきみがわるくなりました。それでもいっしょうけんめい、はしごにしがみついて、のぼって行きました。あんまりたかくのぼって、目はくらむし、手も足もくたびれきって、もうしびれて、ふらふらになりかけたころ、やっとてっぺんにのぼりました。
ジャックは、そのとき、まずそこらを見まわしました。すると、そこはふしぎな国で、青々としげった、しずかな森がありました。うつくしい花のさいている草原もありました。水晶のようにきれいな水のながれている川もありました。こんなたかい空の上に、こんなきれいな国があるとは、おもってもいませんでしたから、ジャックはあっけにとられて、ただきょとんとしていました。
いつもまにか、ふと、赤い角ずきんをかぶった、みょうな顔のおばあさんが、どこから出て来たか、ふと目の前にあらわれました。ジャックは、ふしぎそうに、このみょうな顔をしたおばあさんをみつめました。おばあさんは、でも、やさしい声でいいました。
「そんなにびっくりしないでもいいのだよ。わたしはいったい、お前さんたち一家のものを守ってあげている妖女なのだけれど、この五、六年のあいだというものは、わるいまもののために、魔法でしばられていて、お前さんたちをたすけてあげることができなかったのさ。だが、こんどやっと魔法がとけたから、これからはおもいのままに、たすけてあげられるだろうよ。」
だしぬけに、こんなことをいわれて、ジャックは、なおさらあっけにとられてしまいました。そのぽかんとした顔を、妖女はおもしろそうにながめながら、そのわけをくわしく話しだしました。それをかいつまんでいうと、まあこんなものでした。
「ここからそうとおくはない所に、おそろしい鬼の大男が、すみかにしている、お城のような家がある。じつはその鬼が、むかし、そのお城に住んでいたお前のおとうさんをころして、城といっしょに、そのもっていたおたからのこらずとってしまったものだから、お前のうちは、すっかり貧乏になってしまったのさ。そうしてお前も、赤ちゃんのときから、かわいそうに、お前のおかあさんのふところにだかれたまま、下界におちぶれて、なさけないくらしをするようになったのだよ。だから、もういちど、そのたからをとりかえして、わるいその鬼を、ひどいめにあわしてやるのが、お前のやくめなのだよ。」
こういうふうにいいきかされると、ぐうたらなジャックのこころも、ぴんと張ってきました。知らないおとうさんのことが、なつかしくなって、どうしてもこの鬼をこらしめて、かすめられた宝を、とりかえさなくてはならないとおもいました。そうおもって、とてもいさましい気になって、おなかのすいていることも、くたびれていることも、きれいにわすれてしまいました。そこで、妖女にお礼をいってわかれますと、さっそく、鬼の住んでいるお城にむかって、いそいで行きました。
やがて、お日さまが西にしずむころ、ジャックは、なるほどお城のように大きな家の前に来ました。
まず、とんとんと門をたたくと、なかから、目のひとつしかない、鬼のおかみさんが出て来ました。きみのわるい顔に似合わず、鬼のおかみさんは、ジャックのひもじそうなようすをみて、かわいそうにおもいました。それで、さもこまったように首をふって、
「いけない、いけない。きのどくだけれど、とめてあげることはできないよ。ここは、人くい鬼のうちだから、みつかると、晩のごはんのかわりに、すぐたべられてしまうからね。」といいました。
「どうか、おばさん、知らないようにしてとめてくださいよ。ぼく、もうくたびれて、ひと足もあるけないんです。」と、たのむように、ジャックはいいました。
「しかたのない子だね。じゃあ今夜だけとめてあげるから、朝になったら、すぐおかえりよ。」
こういっているさいちゅう、にわかにずしん、ずしん、地ひびきするほど大きな足音がきこえて来ました。それは主人の人食い鬼が、もう、そとからかえって来たのです。鬼のおかみさんは、大あわてにあわてて、ジャックを、だんろの中にかくしてしまいました。
鬼は、へやの中にはいると、いきなり、ふうと鼻をならしながら、たれだってびっくりしてふるえ上がるような大ごえで、
「フン、フン、フン、イギリス人の香りがするぞ。生きていようが死んでようが、骨ごとひいてパンにしてやるぞ。」
と、いいました。すると、おかみさんが、
「いいえ、それはあなたが、つかまえて、土の牢屋に入れてあるひとたちの、においでしょう。」といいました。
けれど鬼の大男は、まだきょろきょろそこらを見まわして、鼻をくんくんやっていました。でも、どうしても、ジャックをみつけることができませんでした。
とうとうあきらめて、鬼は、椅子の上に腰をおろしました。そしてがつがつ、がぶがぶ、たべたりのんだりしはじめました。そっとジャックがのぞいてみてみると、それはあとからあとから、いつおしまいになるかとおもうほどかっこむので、ジャックは、目ばかりまるくしていました。 | ジャックが城に入れるのを鬼のおかみさんがことわったらジャックはどうしましたか。 | 「どうか、おばさん、知らないようにしてとめてくださいよ。ぼく、もうくたびれて、ひと足もあるけないんです。」と、たのむように、ジャックはいいました。 |
JCRRAG_010429 | 国語 | その翌朝、ジャックは目をさまして、もう夜があけたのに、なんだかくらいなとおもって、ふと窓のそとをみました。するとどうでしょう、きのう庭になげすてた豆の種子から、芽が生えて、ひと晩のうちに、ふとい、じょうぶそうな豆の大木が、みあげるほどたかくのびて、それこそ庭いっぱい、うっそうとしげっているではありませんか。
びっくりしてとびおきて、すぐと庭へおりてみますと、どうして、たかいといって、豆の木は、それこそほうずのしれないたかさに、空の上までのびていました。つると葉とがからみあって、それは、空の中をどんとつきぬけて、まるで豆の木のはしごのように、しっかりと立っていました。
「あれをつたわって、てっぺんまでのぼって行ったら、一体どこまで行けるんだろう。」
そうおもって、ジャックは、すぐにはしごにのぼりはじめました。だんだんのぼって行くうち、ジャックの家は、ずんずん、ずんずん、目の下がちいさくなって行きました。そしていつのまにかみえなくなってしまいました。それでもまだてっぺんには来ていませんでした。ジャックは、いったいどこまで行くのかとおもって、すこしきみがわるくなりました。それでもいっしょうけんめい、はしごにしがみついて、のぼって行きました。あんまりたかくのぼって、目はくらむし、手も足もくたびれきって、もうしびれて、ふらふらになりかけたころ、やっとてっぺんにのぼりました。
ジャックは、そのとき、まずそこらを見まわしました。すると、そこはふしぎな国で、青々としげった、しずかな森がありました。うつくしい花のさいている草原もありました。水晶のようにきれいな水のながれている川もありました。こんなたかい空の上に、こんなきれいな国があるとは、おもってもいませんでしたから、ジャックはあっけにとられて、ただきょとんとしていました。
いつもまにか、ふと、赤い角ずきんをかぶった、みょうな顔のおばあさんが、どこから出て来たか、ふと目の前にあらわれました。ジャックは、ふしぎそうに、このみょうな顔をしたおばあさんをみつめました。おばあさんは、でも、やさしい声でいいました。
「そんなにびっくりしないでもいいのだよ。わたしはいったい、お前さんたち一家のものを守ってあげている妖女なのだけれど、この五、六年のあいだというものは、わるいまもののために、魔法でしばられていて、お前さんたちをたすけてあげることができなかったのさ。だが、こんどやっと魔法がとけたから、これからはおもいのままに、たすけてあげられるだろうよ。」
だしぬけに、こんなことをいわれて、ジャックは、なおさらあっけにとられてしまいました。そのぽかんとした顔を、妖女はおもしろそうにながめながら、そのわけをくわしく話しだしました。それをかいつまんでいうと、まあこんなものでした。
「ここからそうとおくはない所に、おそろしい鬼の大男が、すみかにしている、お城のような家がある。じつはその鬼が、むかし、そのお城に住んでいたお前のおとうさんをころして、城といっしょに、そのもっていたおたからのこらずとってしまったものだから、お前のうちは、すっかり貧乏になってしまったのさ。そうしてお前も、赤ちゃんのときから、かわいそうに、お前のおかあさんのふところにだかれたまま、下界におちぶれて、なさけないくらしをするようになったのだよ。だから、もういちど、そのたからをとりかえして、わるいその鬼を、ひどいめにあわしてやるのが、お前のやくめなのだよ。」
こういうふうにいいきかされると、ぐうたらなジャックのこころも、ぴんと張ってきました。知らないおとうさんのことが、なつかしくなって、どうしてもこの鬼をこらしめて、かすめられた宝を、とりかえさなくてはならないとおもいました。そうおもって、とてもいさましい気になって、おなかのすいていることも、くたびれていることも、きれいにわすれてしまいました。そこで、妖女にお礼をいってわかれますと、さっそく、鬼の住んでいるお城にむかって、いそいで行きました。
やがて、お日さまが西にしずむころ、ジャックは、なるほどお城のように大きな家の前に来ました。
まず、とんとんと門をたたくと、なかから、目のひとつしかない、鬼のおかみさんが出て来ました。きみのわるい顔に似合わず、鬼のおかみさんは、ジャックのひもじそうなようすをみて、かわいそうにおもいました。それで、さもこまったように首をふって、
「いけない、いけない。きのどくだけれど、とめてあげることはできないよ。ここは、人くい鬼のうちだから、みつかると、晩のごはんのかわりに、すぐたべられてしまうからね。」といいました。
「どうか、おばさん、知らないようにしてとめてくださいよ。ぼく、もうくたびれて、ひと足もあるけないんです。」と、たのむように、ジャックはいいました。
「しかたのない子だね。じゃあ今夜だけとめてあげるから、朝になったら、すぐおかえりよ。」
こういっているさいちゅう、にわかにずしん、ずしん、地ひびきするほど大きな足音がきこえて来ました。それは主人の人食い鬼が、もう、そとからかえって来たのです。鬼のおかみさんは、大あわてにあわてて、ジャックを、だんろの中にかくしてしまいました。
鬼は、へやの中にはいると、いきなり、ふうと鼻をならしながら、たれだってびっくりしてふるえ上がるような大ごえで、
「フン、フン、フン、イギリス人の香りがするぞ。生きていようが死んでようが、骨ごとひいてパンにしてやるぞ。」
と、いいました。すると、おかみさんが、
「いいえ、それはあなたが、つかまえて、土の牢屋に入れてあるひとたちの、においでしょう。」といいました。
けれど鬼の大男は、まだきょろきょろそこらを見まわして、鼻をくんくんやっていました。でも、どうしても、ジャックをみつけることができませんでした。
とうとうあきらめて、鬼は、椅子の上に腰をおろしました。そしてがつがつ、がぶがぶ、たべたりのんだりしはじめました。そっとジャックがのぞいてみてみると、それはあとからあとから、いつおしまいになるかとおもうほどかっこむので、ジャックは、目ばかりまるくしていました。 | 大男はジャックをみつけることができなくてどうしましたか。 | 鬼は、椅子の上に腰をおろしました。そしてがつがつ、がぶがぶ、たべたりのんだりしはじめました。 |
JCRRAG_010430 | 国語 | たらふくたべてのんだあげく、おかみさんに、
「おい、にわとりをつれてこい。」といいつけました。
それは、ふしぎなめんどりでした。テーブルの上にのせて、鬼が、「生め。」といいますと、すぐ金のたまごをひとつ生みました。鬼がまた、「生め。」といいますと、またひとつ、金のたまごを生みました。
「やあ、ずいぶん、とくなにわとりだな。おとうさんのおたからというのは、きっとこれにちがいない。」と、下からそっとながめながら、ジャックはそうおもいました。
鬼はおもしろがって、あとからあとから、いくつもいくつも、金のたまごを生ましているうち、おなかがはってねむたくなったとみえて、ぐすぐすと壁のうごくほどすごい大いびきを立てながら、ぐっすりねこんでしまいました。
ジャックは、鬼のすっかりねむったのを見すまして、ちょうど鬼のおかみさんが、台所へ行っているのをさいわい、そっとだんろの中からぬけだしました。そして、テーブルの上のめんどりを、ちょろり小わきにかかえて、すたこらお城を出て行きました。
それから、どんどん、どんどん、かけだして行って、豆の木のはしごのかかっている所までくると、するするとつたわっておりて、うちへかえりました。
ジャックのおかあさんは、むすこが、鬼か魔女にでもとられたのではないかと心配していると、ぶじでひょっこりかえって来たので、とても大さわぎしてよろこびました。それからは、ジャックのもってかえった、金のたまごを生むにわとりのおかげで、おや子はお金もちにもなりましたし、しあわせにもなりました。
| ジャックは鬼がぐっすりねこんでしまったらどうしましたか。 | テーブルの上のめんどりを、ちょろり小わきにかかえて、すたこらお城を出て行きました。それから、どんどん、どんどん、かけだして行って、豆の木のはしごのかかっている所までくると、するするとつたわっておりて、うちへかえりました。 |
JCRRAG_010431 | 国語 | しばらくすると、ジャックはまた、もういちど空の上のお城に行ってみたくなりました。そこで、こんどは、この間とは違った変装をして、ある日、豆の木のはしごを、またするするとのぼって行きました。鬼のお城に行って、門をたたくと、鬼のおかみさんが出てきました。ジャックが、またかなしそうに、とめてもらいたいといって、たのみますと、おかみさんは、まさかジャックとは気がつかないようでしたが、それでも手をふって、
「いけない、いけない。この前も、お前とおなじような貧乏たらしいこどもをとめて、主人のだいじなにわとりを、ちょっくらもって行かせた。それからはまい晩、そのことをいいだして、わたしが、延々としかられているじゃないか。またもあんなひどいめにあうのはこりごりだよ。」といいました。
それでも、ジャックは、しつこくたのんで、とうとう中へ入れてもらいました。すると、大男がかえって来て、また、そこらをくんくんかいでまわりましたが、ジャックは、あかがねの箱の中にかくれているので、どうしてもみつかりませんでした。
大男は、この前とおなじように、晩の食事をたらふくやったあとで、こんどは、金のたまごをうむにわとりの代わりに、金や銀のおたからのたくさんつまった袋を出させて、それをざあっとテーブルの上にあけて、一枚一枚かぞえてみて、それから、おはじきでもしてあそぶように、それをチャラチャラいわせて、さんざんあそんでいましたが、ひととおりたのしむと、また袋の中にしまって、ひもをかたくしめました。そして、天井にひびくほどの大あくびをひとつして、それなりぐうぐう、大いびきでねてしまいました。
そこで、こんども、ジャックは、そろりそろり、あかがねの箱からはいだして、金と銀のおたからのいっぱいつまった袋を、両方の腕に、しっかりかかえるがはやいか、さっさとにげだして行きました。ところが、この袋の番人に、一ぴきの小犬がつけてあったので、そいつが、とたんに、きゃんきゃん吠えだしました。
ジャックは、こんどこそだめだとおもいました。それでも、大男は、とても死んだようによくねていて、目をさましませんでした。ジャックはむちゅうで、後ろをみずにどんどん、走って行って、とうとう豆の木のはしごに行きつきました。
さて、にわとりとちがって、こんどはおもたい金と銀の袋をはこぶのに、ほねがおれました。それでもがまんして、うんすら、うんすら、二日がかりで、豆の木のはしごを、ジャックはおりました。
やっとこさ、うちまでたどりつくと、おかあさんは、ジャックがいなくなったので、すっかり、がっかりして、ひどい病人になって、戸をしめてねていました。それでも、ぶじなジャックの顔をみると、まるで死んだ人が生きかえったようになって、それからずんずんよくなって、やがて、しゃんしゃんあるきだしました。その上、お金がたくさんできたときいて、よけいげんきになりました。
| ジャックはこの間とは違った変装をして空の上のお城に行ったらおかみさんはどうしましたか。 | おかみさんは、まさかジャックとは気がつかないようでした。 |
JCRRAG_010432 | 国語 | しばらくすると、ジャックはまた、もういちど空の上のお城に行ってみたくなりました。そこで、こんどは、この間とは違った変装をして、ある日、豆の木のはしごを、またするするとのぼって行きました。鬼のお城に行って、門をたたくと、鬼のおかみさんが出てきました。ジャックが、またかなしそうに、とめてもらいたいといって、たのみますと、おかみさんは、まさかジャックとは気がつかないようでしたが、それでも手をふって、
「いけない、いけない。この前も、お前とおなじような貧乏たらしいこどもをとめて、主人のだいじなにわとりを、ちょっくらもって行かせた。それからはまい晩、そのことをいいだして、わたしが、延々としかられているじゃないか。またもあんなひどいめにあうのはこりごりだよ。」といいました。
それでも、ジャックは、しつこくたのんで、とうとう中へ入れてもらいました。すると、大男がかえって来て、また、そこらをくんくんかいでまわりましたが、ジャックは、あかがねの箱の中にかくれているので、どうしてもみつかりませんでした。
大男は、この前とおなじように、晩の食事をたらふくやったあとで、こんどは、金のたまごをうむにわとりの代わりに、金や銀のおたからのたくさんつまった袋を出させて、それをざあっとテーブルの上にあけて、一枚一枚かぞえてみて、それから、おはじきでもしてあそぶように、それをチャラチャラいわせて、さんざんあそんでいましたが、ひととおりたのしむと、また袋の中にしまって、ひもをかたくしめました。そして、天井にひびくほどの大あくびをひとつして、それなりぐうぐう、大いびきでねてしまいました。
そこで、こんども、ジャックは、そろりそろり、あかがねの箱からはいだして、金と銀のおたからのいっぱいつまった袋を、両方の腕に、しっかりかかえるがはやいか、さっさとにげだして行きました。ところが、この袋の番人に、一ぴきの小犬がつけてあったので、そいつが、とたんに、きゃんきゃん吠えだしました。
ジャックは、こんどこそだめだとおもいました。それでも、大男は、とても死んだようによくねていて、目をさましませんでした。ジャックはむちゅうで、後ろをみずにどんどん、走って行って、とうとう豆の木のはしごに行きつきました。
さて、にわとりとちがって、こんどはおもたい金と銀の袋をはこぶのに、ほねがおれました。それでもがまんして、うんすら、うんすら、二日がかりで、豆の木のはしごを、ジャックはおりました。
やっとこさ、うちまでたどりつくと、おかあさんは、ジャックがいなくなったので、すっかり、がっかりして、ひどい病人になって、戸をしめてねていました。それでも、ぶじなジャックの顔をみると、まるで死んだ人が生きかえったようになって、それからずんずんよくなって、やがて、しゃんしゃんあるきだしました。その上、お金がたくさんできたときいて、よけいげんきになりました。
| 金と銀のおたからのいっぱいつまった袋の番人である小犬がきゃんきゃん吠えだしたら大男はどうなりましたか。 | 大男は、とても死んだようによくねていて、目をさましませんでした。 |
JCRRAG_010433 | 国語 | しばらくすると、ジャックはまた、もういちど空の上のお城に行ってみたくなりました。そこで、こんどは、この間とは違った変装をして、ある日、豆の木のはしごを、またするするとのぼって行きました。鬼のお城に行って、門をたたくと、鬼のおかみさんが出てきました。ジャックが、またかなしそうに、とめてもらいたいといって、たのみますと、おかみさんは、まさかジャックとは気がつかないようでしたが、それでも手をふって、
「いけない、いけない。この前も、お前とおなじような貧乏たらしいこどもをとめて、主人のだいじなにわとりを、ちょっくらもって行かせた。それからはまい晩、そのことをいいだして、わたしが、延々としかられているじゃないか。またもあんなひどいめにあうのはこりごりだよ。」といいました。
それでも、ジャックは、しつこくたのんで、とうとう中へ入れてもらいました。すると、大男がかえって来て、また、そこらをくんくんかいでまわりましたが、ジャックは、あかがねの箱の中にかくれているので、どうしてもみつかりませんでした。
大男は、この前とおなじように、晩の食事をたらふくやったあとで、こんどは、金のたまごをうむにわとりの代わりに、金や銀のおたからのたくさんつまった袋を出させて、それをざあっとテーブルの上にあけて、一枚一枚かぞえてみて、それから、おはじきでもしてあそぶように、それをチャラチャラいわせて、さんざんあそんでいましたが、ひととおりたのしむと、また袋の中にしまって、ひもをかたくしめました。そして、天井にひびくほどの大あくびをひとつして、それなりぐうぐう、大いびきでねてしまいました。
そこで、こんども、ジャックは、そろりそろり、あかがねの箱からはいだして、金と銀のおたからのいっぱいつまった袋を、両方の腕に、しっかりかかえるがはやいか、さっさとにげだして行きました。ところが、この袋の番人に、一ぴきの小犬がつけてあったので、そいつが、とたんに、きゃんきゃん吠えだしました。
ジャックは、こんどこそだめだとおもいました。それでも、大男は、とても死んだようによくねていて、目をさましませんでした。ジャックはむちゅうで、後ろをみずにどんどん、走って行って、とうとう豆の木のはしごに行きつきました。
さて、にわとりとちがって、こんどはおもたい金と銀の袋をはこぶのに、ほねがおれました。それでもがまんして、うんすら、うんすら、二日がかりで、豆の木のはしごを、ジャックはおりました。
やっとこさ、うちまでたどりつくと、おかあさんは、ジャックがいなくなったので、すっかり、がっかりして、ひどい病人になって、戸をしめてねていました。それでも、ぶじなジャックの顔をみると、まるで死んだ人が生きかえったようになって、それからずんずんよくなって、やがて、しゃんしゃんあるきだしました。その上、お金がたくさんできたときいて、よけいげんきになりました。
| おかあさんはジャックの顔をみるとどうなりましたか。 | ぶじなジャックの顔をみるとまるで死んだ人が生きかえったようになって、それからずんずんよくなって、やがて、しゃんしゃんあるきだしました。 |
JCRRAG_010434 | 国語 | しばらくの間、ジャックは、うちで、おとなしくしていました。そうするうちに、だんだん、からだじゅう、むずむずして来ました。もうまた天上の城に行きたくなって、まいにち、豆の木のはしごばかりながめていました。するとそれが気になって、気になって、憂鬱になってきました。
そこで、ジャックは、ある日また、そっと豆の木のはしごをつたわってのぼりました。こんども顔から姿から、すっかりほかのこどもになって行きましたから、鬼のおかみさんは、まただまされて、中に入れました。そして、大男がかえると、あわてて、お釜のなかにかくしてくれました。
鬼の大男は、へや中をかぎまわって、ふん、ふん、人くさいぞといいました。そして、こんどは、なんでもさがしだしてやるといって、へやの中のものを、ひとつひとつみてまわりました。そしてさいごに、ジャックのかくれているお釜のふたに手をかけました。ジャックは、ああ、こんどこそだめだとおもって、ふるえていますと、それこそ妖女がまもっていてくれるのでしょうか、大男は、ふと気がかわって、それなりろばたにすわりこんで、
「まあいいや。おなかがすいた。晩飯にしようよ。」といいました。
さて、晩飯がすむと、大男はおかみさんに、
「にわとりはとられる、金の袋、銀の袋はぬすまれる、しかたがない、こん夜はハープでもならすかな。」といいました。
ジャックが、そっとお釜のふたをあけてのぞいてみますと、玉でかざった、みごとなハープの琴が目にはいりました。
鬼の大男は、ハープをテーブルの上にのせて、
「なりだせ。」といいました。
すると、ハープは、ひとりでになりだしました。しかもその音のうつくしいことといったら、どんな楽器だって、とてもこれだけの音にはひびかないほどでしたから、ジャックは、金のたまごのにわとりよりも、金と銀とのいっぱいつまった袋よりも、もっともっと、このハープがほしくなりました。
するうち、ハープの音楽を、たのしい子守うたにして、さすがの鬼も、いい心もちになってねむってしまいました。ジャックは、しめたとおもって、そっとお釜の中からぬけだすと、すばやくハープをかかえてにげだしました。ところが、あいにく、このハープには、魔法がしかけてあって、とたんに、大きな声で、
「おきろよ、だんなさん、おきろよ、だんなさん。」と、どなりました。
これで、大男も目をさましました。むうんと立ち上がってみると、ちっぽけな小僧が、大きなハープを、やっこらさとかかえて、にげて行くのがみえました。
「待て小僧、きさま、にわとりをぬすんで、金の袋、銀の袋をぬすんで、こんどはハープまでぬすむのかあ。」と、大男はわめきながら、あとを追っかけました。
「つかまるならつかまえてみろ。」
ジャックは、まけずにどなりながら、それでもいっしょうけんめいかけました。大男も、お酒によった足をふみしめふみしめ、よたよたはしりました。そのあいだ、ハープは、たえず、からんからん、なりつづけました。
やっとこさと、豆の木のはしごの所までくると、ジャックは、ハープにむかって、
「もうやめろ。」といいますと、ハープはだまりました。ジャックは、ハープをかかえて、豆の木のはしごをおりはじめました。はるか目の下に、おかあさんが、こやの前に立って、泣きはらした目で、空をみつめていました。
そうこうするうち、大男が追ってきて、もう片足をはしごにかけました。
「おかあさん、なかないで!」と、ジャックは、上からせいいっぱいよびました。
「それより、斧をもってきておくれ。はやく、はやく。」
もう一分も待っていられません。大男はみしり、みしり、はしごをつたわって来ます。ジャックは、気が気ではありません、身が軽いのをさいわいに、ハープをかかえたまま、はしごの途中、つばめのようなはやわざで、くるりとひっくりかえって、たかい上からとびおりました。そこへおかあさんが、斧をもってかけつけたので、ジャックは斧をふるって、いきなり、はしごの根もとから、ぷっつり切りはなしました。そのとき、まだ、はしごの中ほどをおりかけていた大男が、切れた豆のつるをつかんだまま、大きなからだのおもみで、ずしんと、それこそ地びたが、めりこむような音を立てて、落ちてきました。そして、それから、目をまわして死んでしまいました。
ちょうどそのとき、いつぞや、はじめてジャックにあって、道をおしえてくれた妖女が、こんどはまるでちがって、目のさめるように美しい女の人の姿になって、またそこへ出て来ました。きらびやかで品のいい貴婦人のような身なりをして、白い杖を手にもっていました。杖のあたまには、純金のくじゃくを、とまらせていました。そしてふしぎな豆が、ジャックの手にはいるようになったのも、ジャックをためすために、自分がはからってしたことだといって、
「あのとき、豆のはしごをみて、すぐとそのまま、どこまでものぼって行こうという気をおこしたのが、そもそもジャックの運のひらけるはじまりだったのです。あれを、ただぼんやり、ふしぎだなあとおもってながめたまま時が過ぎてしまえば、とりかえっこした牝牛は、運よく手にもどることがあるにしても、あなたたちは、あいかわらず貧乏でくらさなければならない。だから、豆の木のはしごをのぼったのが、とりもなおさず、幸運のはしごをのぼったわけなのだよ。」
と、こう妖女は、いいきかせて、ジャックにも、ジャックのおかあさんにもわかれて、かえって行きました。 | ジャックは天上の城に行きたくなって、憂鬱になった後どうしましたか。 | ジャックは、ある日また、そっと豆の木のはしごをつたわってのぼりました。 |
JCRRAG_010435 | 国語 | しばらくの間、ジャックは、うちで、おとなしくしていました。そうするうちに、だんだん、からだじゅう、むずむずして来ました。もうまた天上の城に行きたくなって、まいにち、豆の木のはしごばかりながめていました。するとそれが気になって、気になって、憂鬱になってきました。
そこで、ジャックは、ある日また、そっと豆の木のはしごをつたわってのぼりました。こんども顔から姿から、すっかりほかのこどもになって行きましたから、鬼のおかみさんは、まただまされて、中に入れました。そして、大男がかえると、あわてて、お釜のなかにかくしてくれました。
鬼の大男は、へや中をかぎまわって、ふん、ふん、人くさいぞといいました。そして、こんどは、なんでもさがしだしてやるといって、へやの中のものを、ひとつひとつみてまわりました。そしてさいごに、ジャックのかくれているお釜のふたに手をかけました。ジャックは、ああ、こんどこそだめだとおもって、ふるえていますと、それこそ妖女がまもっていてくれるのでしょうか、大男は、ふと気がかわって、それなりろばたにすわりこんで、
「まあいいや。おなかがすいた。晩飯にしようよ。」といいました。
さて、晩飯がすむと、大男はおかみさんに、
「にわとりはとられる、金の袋、銀の袋はぬすまれる、しかたがない、こん夜はハープでもならすかな。」といいました。
ジャックが、そっとお釜のふたをあけてのぞいてみますと、玉でかざった、みごとなハープの琴が目にはいりました。
鬼の大男は、ハープをテーブルの上にのせて、
「なりだせ。」といいました。
すると、ハープは、ひとりでになりだしました。しかもその音のうつくしいことといったら、どんな楽器だって、とてもこれだけの音にはひびかないほどでしたから、ジャックは、金のたまごのにわとりよりも、金と銀とのいっぱいつまった袋よりも、もっともっと、このハープがほしくなりました。
するうち、ハープの音楽を、たのしい子守うたにして、さすがの鬼も、いい心もちになってねむってしまいました。ジャックは、しめたとおもって、そっとお釜の中からぬけだすと、すばやくハープをかかえてにげだしました。ところが、あいにく、このハープには、魔法がしかけてあって、とたんに、大きな声で、
「おきろよ、だんなさん、おきろよ、だんなさん。」と、どなりました。
これで、大男も目をさましました。むうんと立ち上がってみると、ちっぽけな小僧が、大きなハープを、やっこらさとかかえて、にげて行くのがみえました。
「待て小僧、きさま、にわとりをぬすんで、金の袋、銀の袋をぬすんで、こんどはハープまでぬすむのかあ。」と、大男はわめきながら、あとを追っかけました。
「つかまるならつかまえてみろ。」
ジャックは、まけずにどなりながら、それでもいっしょうけんめいかけました。大男も、お酒によった足をふみしめふみしめ、よたよたはしりました。そのあいだ、ハープは、たえず、からんからん、なりつづけました。
やっとこさと、豆の木のはしごの所までくると、ジャックは、ハープにむかって、
「もうやめろ。」といいますと、ハープはだまりました。ジャックは、ハープをかかえて、豆の木のはしごをおりはじめました。はるか目の下に、おかあさんが、こやの前に立って、泣きはらした目で、空をみつめていました。
そうこうするうち、大男が追ってきて、もう片足をはしごにかけました。
「おかあさん、なかないで!」と、ジャックは、上からせいいっぱいよびました。
「それより、斧をもってきておくれ。はやく、はやく。」
もう一分も待っていられません。大男はみしり、みしり、はしごをつたわって来ます。ジャックは、気が気ではありません、身が軽いのをさいわいに、ハープをかかえたまま、はしごの途中、つばめのようなはやわざで、くるりとひっくりかえって、たかい上からとびおりました。そこへおかあさんが、斧をもってかけつけたので、ジャックは斧をふるって、いきなり、はしごの根もとから、ぷっつり切りはなしました。そのとき、まだ、はしごの中ほどをおりかけていた大男が、切れた豆のつるをつかんだまま、大きなからだのおもみで、ずしんと、それこそ地びたが、めりこむような音を立てて、落ちてきました。そして、それから、目をまわして死んでしまいました。
ちょうどそのとき、いつぞや、はじめてジャックにあって、道をおしえてくれた妖女が、こんどはまるでちがって、目のさめるように美しい女の人の姿になって、またそこへ出て来ました。きらびやかで品のいい貴婦人のような身なりをして、白い杖を手にもっていました。杖のあたまには、純金のくじゃくを、とまらせていました。そしてふしぎな豆が、ジャックの手にはいるようになったのも、ジャックをためすために、自分がはからってしたことだといって、
「あのとき、豆のはしごをみて、すぐとそのまま、どこまでものぼって行こうという気をおこしたのが、そもそもジャックの運のひらけるはじまりだったのです。あれを、ただぼんやり、ふしぎだなあとおもってながめたまま時が過ぎてしまえば、とりかえっこした牝牛は、運よく手にもどることがあるにしても、あなたたちは、あいかわらず貧乏でくらさなければならない。だから、豆の木のはしごをのぼったのが、とりもなおさず、幸運のはしごをのぼったわけなのだよ。」
と、こう妖女は、いいきかせて、ジャックにも、ジャックのおかあさんにもわかれて、かえって行きました。 | ジャックはハープの音色を聞いたらどうなりましたか。 | ジャックは、金のたまごのにわとりよりも、金と銀とのいっぱいつまった袋よりも、もっともっと、このハープがほしくなりました。 |
JCRRAG_010436 | 国語 | しばらくの間、ジャックは、うちで、おとなしくしていました。そうするうちに、だんだん、からだじゅう、むずむずして来ました。もうまた天上の城に行きたくなって、まいにち、豆の木のはしごばかりながめていました。するとそれが気になって、気になって、憂鬱になってきました。
そこで、ジャックは、ある日また、そっと豆の木のはしごをつたわってのぼりました。こんども顔から姿から、すっかりほかのこどもになって行きましたから、鬼のおかみさんは、まただまされて、中に入れました。そして、大男がかえると、あわてて、お釜のなかにかくしてくれました。
鬼の大男は、へや中をかぎまわって、ふん、ふん、人くさいぞといいました。そして、こんどは、なんでもさがしだしてやるといって、へやの中のものを、ひとつひとつみてまわりました。そしてさいごに、ジャックのかくれているお釜のふたに手をかけました。ジャックは、ああ、こんどこそだめだとおもって、ふるえていますと、それこそ妖女がまもっていてくれるのでしょうか、大男は、ふと気がかわって、それなりろばたにすわりこんで、
「まあいいや。おなかがすいた。晩飯にしようよ。」といいました。
さて、晩飯がすむと、大男はおかみさんに、
「にわとりはとられる、金の袋、銀の袋はぬすまれる、しかたがない、こん夜はハープでもならすかな。」といいました。
ジャックが、そっとお釜のふたをあけてのぞいてみますと、玉でかざった、みごとなハープの琴が目にはいりました。
鬼の大男は、ハープをテーブルの上にのせて、
「なりだせ。」といいました。
すると、ハープは、ひとりでになりだしました。しかもその音のうつくしいことといったら、どんな楽器だって、とてもこれだけの音にはひびかないほどでしたから、ジャックは、金のたまごのにわとりよりも、金と銀とのいっぱいつまった袋よりも、もっともっと、このハープがほしくなりました。
するうち、ハープの音楽を、たのしい子守うたにして、さすがの鬼も、いい心もちになってねむってしまいました。ジャックは、しめたとおもって、そっとお釜の中からぬけだすと、すばやくハープをかかえてにげだしました。ところが、あいにく、このハープには、魔法がしかけてあって、とたんに、大きな声で、
「おきろよ、だんなさん、おきろよ、だんなさん。」と、どなりました。
これで、大男も目をさましました。むうんと立ち上がってみると、ちっぽけな小僧が、大きなハープを、やっこらさとかかえて、にげて行くのがみえました。
「待て小僧、きさま、にわとりをぬすんで、金の袋、銀の袋をぬすんで、こんどはハープまでぬすむのかあ。」と、大男はわめきながら、あとを追っかけました。
「つかまるならつかまえてみろ。」
ジャックは、まけずにどなりながら、それでもいっしょうけんめいかけました。大男も、お酒によった足をふみしめふみしめ、よたよたはしりました。そのあいだ、ハープは、たえず、からんからん、なりつづけました。
やっとこさと、豆の木のはしごの所までくると、ジャックは、ハープにむかって、
「もうやめろ。」といいますと、ハープはだまりました。ジャックは、ハープをかかえて、豆の木のはしごをおりはじめました。はるか目の下に、おかあさんが、こやの前に立って、泣きはらした目で、空をみつめていました。
そうこうするうち、大男が追ってきて、もう片足をはしごにかけました。
「おかあさん、なかないで!」と、ジャックは、上からせいいっぱいよびました。
「それより、斧をもってきておくれ。はやく、はやく。」
もう一分も待っていられません。大男はみしり、みしり、はしごをつたわって来ます。ジャックは、気が気ではありません、身が軽いのをさいわいに、ハープをかかえたまま、はしごの途中、つばめのようなはやわざで、くるりとひっくりかえって、たかい上からとびおりました。そこへおかあさんが、斧をもってかけつけたので、ジャックは斧をふるって、いきなり、はしごの根もとから、ぷっつり切りはなしました。そのとき、まだ、はしごの中ほどをおりかけていた大男が、切れた豆のつるをつかんだまま、大きなからだのおもみで、ずしんと、それこそ地びたが、めりこむような音を立てて、落ちてきました。そして、それから、目をまわして死んでしまいました。
ちょうどそのとき、いつぞや、はじめてジャックにあって、道をおしえてくれた妖女が、こんどはまるでちがって、目のさめるように美しい女の人の姿になって、またそこへ出て来ました。きらびやかで品のいい貴婦人のような身なりをして、白い杖を手にもっていました。杖のあたまには、純金のくじゃくを、とまらせていました。そしてふしぎな豆が、ジャックの手にはいるようになったのも、ジャックをためすために、自分がはからってしたことだといって、
「あのとき、豆のはしごをみて、すぐとそのまま、どこまでものぼって行こうという気をおこしたのが、そもそもジャックの運のひらけるはじまりだったのです。あれを、ただぼんやり、ふしぎだなあとおもってながめたまま時が過ぎてしまえば、とりかえっこした牝牛は、運よく手にもどることがあるにしても、あなたたちは、あいかわらず貧乏でくらさなければならない。だから、豆の木のはしごをのぼったのが、とりもなおさず、幸運のはしごをのぼったわけなのだよ。」
と、こう妖女は、いいきかせて、ジャックにも、ジャックのおかあさんにもわかれて、かえって行きました。 | ジャックが豆の木を切ったら大男はどうなりましたか。 | 切れた豆のつるをつかんだまま、大きなからだのおもみで、ずしんと、それこそ地びたが、めりこむような音を立てて、落ちてきました。そして、それから、目をまわして死んでしまいました。 |
JCRRAG_010437 | 国語 | しばらくの間、ジャックは、うちで、おとなしくしていました。そうするうちに、だんだん、からだじゅう、むずむずして来ました。もうまた天上の城に行きたくなって、まいにち、豆の木のはしごばかりながめていました。するとそれが気になって、気になって、憂鬱になってきました。
そこで、ジャックは、ある日また、そっと豆の木のはしごをつたわってのぼりました。こんども顔から姿から、すっかりほかのこどもになって行きましたから、鬼のおかみさんは、まただまされて、中に入れました。そして、大男がかえると、あわてて、お釜のなかにかくしてくれました。
鬼の大男は、へや中をかぎまわって、ふん、ふん、人くさいぞといいました。そして、こんどは、なんでもさがしだしてやるといって、へやの中のものを、ひとつひとつみてまわりました。そしてさいごに、ジャックのかくれているお釜のふたに手をかけました。ジャックは、ああ、こんどこそだめだとおもって、ふるえていますと、それこそ妖女がまもっていてくれるのでしょうか、大男は、ふと気がかわって、それなりろばたにすわりこんで、
「まあいいや。おなかがすいた。晩飯にしようよ。」といいました。
さて、晩飯がすむと、大男はおかみさんに、
「にわとりはとられる、金の袋、銀の袋はぬすまれる、しかたがない、こん夜はハープでもならすかな。」といいました。
ジャックが、そっとお釜のふたをあけてのぞいてみますと、玉でかざった、みごとなハープの琴が目にはいりました。
鬼の大男は、ハープをテーブルの上にのせて、
「なりだせ。」といいました。
すると、ハープは、ひとりでになりだしました。しかもその音のうつくしいことといったら、どんな楽器だって、とてもこれだけの音にはひびかないほどでしたから、ジャックは、金のたまごのにわとりよりも、金と銀とのいっぱいつまった袋よりも、もっともっと、このハープがほしくなりました。
するうち、ハープの音楽を、たのしい子守うたにして、さすがの鬼も、いい心もちになってねむってしまいました。ジャックは、しめたとおもって、そっとお釜の中からぬけだすと、すばやくハープをかかえてにげだしました。ところが、あいにく、このハープには、魔法がしかけてあって、とたんに、大きな声で、
「おきろよ、だんなさん、おきろよ、だんなさん。」と、どなりました。
これで、大男も目をさましました。むうんと立ち上がってみると、ちっぽけな小僧が、大きなハープを、やっこらさとかかえて、にげて行くのがみえました。
「待て小僧、きさま、にわとりをぬすんで、金の袋、銀の袋をぬすんで、こんどはハープまでぬすむのかあ。」と、大男はわめきながら、あとを追っかけました。
「つかまるならつかまえてみろ。」
ジャックは、まけずにどなりながら、それでもいっしょうけんめいかけました。大男も、お酒によった足をふみしめふみしめ、よたよたはしりました。そのあいだ、ハープは、たえず、からんからん、なりつづけました。
やっとこさと、豆の木のはしごの所までくると、ジャックは、ハープにむかって、
「もうやめろ。」といいますと、ハープはだまりました。ジャックは、ハープをかかえて、豆の木のはしごをおりはじめました。はるか目の下に、おかあさんが、こやの前に立って、泣きはらした目で、空をみつめていました。
そうこうするうち、大男が追ってきて、もう片足をはしごにかけました。
「おかあさん、なかないで!」と、ジャックは、上からせいいっぱいよびました。
「それより、斧をもってきておくれ。はやく、はやく。」
もう一分も待っていられません。大男はみしり、みしり、はしごをつたわって来ます。ジャックは、気が気ではありません、身が軽いのをさいわいに、ハープをかかえたまま、はしごの途中、つばめのようなはやわざで、くるりとひっくりかえって、たかい上からとびおりました。そこへおかあさんが、斧をもってかけつけたので、ジャックは斧をふるって、いきなり、はしごの根もとから、ぷっつり切りはなしました。そのとき、まだ、はしごの中ほどをおりかけていた大男が、切れた豆のつるをつかんだまま、大きなからだのおもみで、ずしんと、それこそ地びたが、めりこむような音を立てて、落ちてきました。そして、それから、目をまわして死んでしまいました。
ちょうどそのとき、いつぞや、はじめてジャックにあって、道をおしえてくれた妖女が、こんどはまるでちがって、目のさめるように美しい女の人の姿になって、またそこへ出て来ました。きらびやかで品のいい貴婦人のような身なりをして、白い杖を手にもっていました。杖のあたまには、純金のくじゃくを、とまらせていました。そしてふしぎな豆が、ジャックの手にはいるようになったのも、ジャックをためすために、自分がはからってしたことだといって、
「あのとき、豆のはしごをみて、すぐとそのまま、どこまでものぼって行こうという気をおこしたのが、そもそもジャックの運のひらけるはじまりだったのです。あれを、ただぼんやり、ふしぎだなあとおもってながめたまま時が過ぎてしまえば、とりかえっこした牝牛は、運よく手にもどることがあるにしても、あなたたちは、あいかわらず貧乏でくらさなければならない。だから、豆の木のはしごをのぼったのが、とりもなおさず、幸運のはしごをのぼったわけなのだよ。」
と、こう妖女は、いいきかせて、ジャックにも、ジャックのおかあさんにもわかれて、かえって行きました。 | 大男が死んだあとに、妖女はどんな姿になってジャックの前に現れましたか。 | 目のさめるように美しい女の人の姿になって、またそこへ出て来ました。きらびやかで品のいい貴婦人のような身なりをして、白い杖を手にもっていました。杖のあたまには、純金のくじゃくを、とまらせていました。 |
JCRRAG_010438 | 国語 | 森の中。三人の盗人が宝を争っている。宝とはひとっとび千里を飛ぶ長靴、着れば姿の隠れるマント、鉄でも真っ二つに切れる剣、ただしどれも見たところは、古道具らしい物ばかりである。
第一の盗人 そのマントをこっちへよこせ。
第二の盗人 よけいな事をいうな。その剣こそこっちへよこせ。おや、おれの長靴を盗んだな。
第三の盗人 この長靴はおれの物じゃないか? 貴様こそおれの物を盗んだのだ。
第一の盗人 よしよし、ではこのマントはおれが貰って置こう。
第二の盗人 こんちくしょう! 貴様なんかに渡してたまるものか。
第一の盗人 よくもおれをなぐったな。おや、またおれの剣も盗んだな?
第三の盗人 何だ、このマント泥棒め!
三人の者が大喧嘩になる。そこへ馬にまたがった王子が一人、森の中の路を通りかかる。
王子 おいおい、お前たちは何をしているのだ? (馬から下りる)
第一の盗人 何、こいつが悪いのです。わたしの剣を盗んだ上、マントさえよこせというものですから、
第三の盗人 いえ、そいつが悪いのです。マントはわたしのを盗んだのです。
第二の盗人 いえ、こいつ等は二人とも大泥棒です。これは皆わたしのものなのですから。
第一の盗人 嘘をつけ!
第二の盗人 この大嘘つきめ!
三人はまた喧嘩をしようとする。
王子 待て待て。たかが古いマントや、穴のあいた長靴ぐらい、誰が取ってもいいじゃないか?
第二の盗人 いえ、そうは行きません。このマントは着たら、姿の隠れるマントなのです。
第一の盗人 どんな鉄の兜でも、この剣で切れば切れるのです。
第三の盗人 この長靴もはきさえすれば、一飛びに千里飛べるのです。
王子 なるほど、そういう宝なら、喧嘩をするのももっともな話だ。が、それならば欲張らずに、一つずつ分ければいいじゃないか?
第二の盗人 そんな事をしてごらんなさい。わたしの首はいつ、あの剣に切られるかわかりはしません。
第一の盗人 いえ、それよりも困るのは、あのマントを着られれば、何を盗まれるか知れません。
第二の盗人 いえ、何を盗んだ所が、あの長靴をはかなければ、思うようには逃げられないわけです。
王子 それもなるほど一理あるな。では物は相談だが、わたしにみんな売ってくれないか? そうすれば心配も入らないはずだから。
第一の盗人 どうだい、この殿様に売ってしまうのは?
第三の盗人 なるほど、それもいいかも知れない。
第二の盗人 ただ値段次第だな。
王子 値段は、そうだ。そのマントの代わりに、この赤いマントをやろう、これには刺繍の縁もついている。それからその長靴の代わりに、この宝石のはいった靴をやろう。この黄金細工の剣をやれば、その真っ二つに切れる剣を私にくれても損はあるまい。どうだ、この値段では?
第二の盗人 わたしはこのマントの代わりに、そのマントを頂きましょう。
第一の盗人と第三の盗人 わたしたちも言うことはありません。
王子 そうか。では取り替えて貰おう。
王子はマント、剣、長靴等を取り換えた後、また馬の上にまたがりながら、森の中の路を行きかける。
王子 この先に宿屋はないか?
第一の盗人 森の外へ出さえすれば「黄金の角笛」という宿屋があります。では御大事に。
王子 そうか。ではさようなら。(去る)
第三の盗人 うまい商売をしたな。おれはあの長靴が、こんな靴になるとは思わなかった。見ろ。止め金にはダイヤモンドがついている。
第二の盗人 おれのマントも立派な物じゃないか? こんなマントを着たら、殿様のように見えるだろう。
第一の盗人 この剣も大した物だぜ。何しろ柄も鞘も黄金だからな。しかしああも簡単に騙されるとは、あの王子もおおばかじゃないか?
第二の盗人 しっ! 壁に耳あり、徳利にも口だ。まあ、どこかへ行って一杯やろう。
三人の盗人は嘲笑いながら、王子とは反対の路へ行ってしまう。 | 三人の盗人が争っている三つの宝はなんですか。 | 宝とはひとっとび千里を飛ぶ長靴、着れば姿の隠れるマント、鉄でも真っ二つに切れる剣、ただしどれも見たところは、古道具らしい物ばかりである。 |
JCRRAG_010439 | 国語 | もう一つ見世物があります。これは皇帝と皇后と総理大臣の前だけで、やらされる特別の余興なのです。皇帝はテーブルの上に、長さ六インチの細い絹糸を三本置きます。一つは青色の糸、一つは赤色の糸、もう一つは緑色の糸です。皇帝は、特に取り立てて目をかけてやろうとする人たちに、この賞品をやるのです。
まず宮廷の大広間で、候補者たちは、皇帝からいろんな試験を受けます。皇帝が手に一本の棒を構えていると、候補者たちが一人ずつ進んで来ます。棒の指図にしたがって、人々は、その上を跳び越えたり、潜ったり、前へ行ったり後へ行ったり、そんなことを何度も繰り返すのです。
皇帝からの試験を一番うまく熱心にやった者に、もっとも優れた者として、皇帝から青色の糸が授けられます。赤色の糸はその次に優れたものに渡され、緑色の糸は試験をちゃんと頑張ったものに渡されます。もらった糸は、みんな腰のまわりに巻いて飾ります。ですから、宮廷の大官は大概、この帯をしています。
青色の帯をしている者はとても誇らしげに立っています。緑の帯をしている者はどこか悔しげで青色の帯や赤色の帯を羨ましそうに見ています。
軍隊の馬も皇室の馬も、毎日、私の前を引きまわされたので、もう私を怖がらなくなり、平気で私の足許までやって来るようになりました。
この間私が地面に手を差し出すと、乗手が馬を躍らせて手をヒラリと跳び越えたのが三人いました。大きな馬を躍らせて、私の片足を靴ごと跳び越える人が二人いました。これは実に見事なものでした。
| 皇帝からの試験を一番うまく熱心にやった者に授けられるのはなんですか。 | 皇帝からの試験を一番うまく熱心にやった者に、もっとも優れた者として、皇帝から青色の糸が授けられます。 |
JCRRAG_010440 | 国語 | もう一つ見世物があります。これは皇帝と皇后と総理大臣の前だけで、やらされる特別の余興なのです。皇帝はテーブルの上に、長さ六インチの細い絹糸を三本置きます。一つは青色の糸、一つは赤色の糸、もう一つは緑色の糸です。皇帝は、特に取り立てて目をかけてやろうとする人たちに、この賞品をやるのです。
まず宮廷の大広間で、候補者たちは、皇帝からいろんな試験を受けます。皇帝が手に一本の棒を構えていると、候補者たちが一人ずつ進んで来ます。棒の指図にしたがって、人々は、その上を跳び越えたり、潜ったり、前へ行ったり後へ行ったり、そんなことを何度も繰り返すのです。
皇帝からの試験を一番うまく熱心にやった者に、もっとも優れた者として、皇帝から青色の糸が授けられます。赤色の糸はその次に優れたものに渡され、緑色の糸は試験をちゃんと頑張ったものに渡されます。もらった糸は、みんな腰のまわりに巻いて飾ります。ですから、宮廷の大官は大概、この帯をしています。
青色の帯をしている者はとても誇らしげに立っています。緑の帯をしている者はどこか悔しげで青色の帯や赤色の帯を羨ましそうに見ています。
軍隊の馬も皇室の馬も、毎日、私の前を引きまわされたので、もう私を怖がらなくなり、平気で私の足許までやって来るようになりました。
この間私が地面に手を差し出すと、乗手が馬を躍らせて手をヒラリと跳び越えたのが三人いました。大きな馬を躍らせて、私の片足を靴ごと跳び越える人が二人いました。これは実に見事なものでした。
| 皇帝と皇后と総理大臣の前だけでやらされる特別な余興とはなんですか。 | 宮廷の大広間で、候補者たちは、皇帝からいろんな試験を受けます。皇帝が手に一本の棒を構えていると、候補者たちが一人ずつ進んで来ます。棒の指図にしたがって、人々は、その上を跳び越えたり、潜ったり、前へ行ったり後へ行ったり、そんなことを何度も繰り返すのです。 |
JCRRAG_010441 | 国語 | 「黄金の角笛」という宿屋の酒場。酒場の隅では王子がパンをかじっている。王子のほかにも客が七・八人、これは皆村の農夫らしい。
宿屋の主人 いよいよ王女の御婚礼があるそうだね。
第一の農夫 そういう話だ。なんでも御壻になる人は、黒人の王様だというじゃないか?
第二の農夫 しかし王女はあの王様が大嫌いだという噂だぜ。
第一の農夫 嫌いならやめればいいのに。
主人 ところがその黒人の王様は、三つの宝ものを持っている。第一が千里飛べる長靴、第二が鉄さえ切れる剣、第三が姿の隠れるマント、それを皆献上するというものだから、欲の深いこの国の王様は、王女をやるとおっしゃったのだそうだ。
第二の農夫 おかわいそうなのは王女御一人だな。
第一の農夫 誰か王女を助けられる奴はいないだろうか?
主人 いや、いろいろな国の王子の中には、そういう人もいるそうだが、何分あの黒人の王様にはかなわないから、みんな指をくわえているのだとさ。
第二の農夫 おまけに欲の深い王様は、王女を人に盗まれないように、竜の番人を置いてあるそうだ。
主人 竜じゃなく、兵隊だそうだ。
第一の農夫 わたしが魔法でも知っていれば、まっ先に御助けできるのだが…
主人 当然だ、わたしも魔法を知っていれば、お前さんなどにまかせておかないよ。(一同笑い出す)
王子 (突然一同の中へ飛び出しながら)よし心配するな! きっとわたしが助けてあげる。
一同 (驚いたように)あなたが!?
王子 そうだ、黒人の王など何人でも来るがいい。(腕組をしたまま、一同を見まわす)わたしは片っ端から退治して見せる。
主人 ですがあの王様には、三つの宝があるそうです。第一には千里飛ぶ長靴、第二には。
王子 鉄でも切れる剣か? そんな物はわたしも持っている。この長靴を見ろ。この剣を見ろ。この古いマントを見ろ。黒人の王が持っているのと、寸分も違わない宝ばかりだ。
一同 (再び驚いたように)その靴が!? その剣が!? そのマントが!?
主人 (疑わしそうに)しかしその長靴には、穴があいているじゃありませんか?
王子 それは穴があいている。が、穴はあいていても、ひとっとびに千里飛ばれるのだ。
主人 ほんとうですか?
王子 (憐れむように)お前にはうそだと思われるかも知れない。よし、それならば飛んで見せる。入口の戸をあけて置いてくれ。いいか。飛び上ったと思うと見えなくなるぞ。
主人 その前に勘定を頂きましょうか?
王子 なに、すぐに帰って来る。土産には何を持って来てやろう。イタリアの柘榴か、イスパニアのまくわうりか、それともずっと遠いアラビアのいちじくか?
主人 おみやげならば何でも結構です。まあ飛んで見せて下さい。
王子 では飛ぶぞ。一、二、三!
王子はいきおいよく飛び上がる。が、戸口へも届かない内に、どたりと尻餅をついてしまう。
一同どっと笑い立てる。
主人 こんな事だろうと思ったよ。
第一の農夫 干里どころか、数メートルも飛ばなかったぜ。
第二の農夫 何をいう、千里を飛んだのさ。一度千里飛んで置いて、また千里飛び返ったから、もとの所へ来てしまったのだろう。
第一の農夫 冗談じゃない。そんなばかな事があるものか。
一同大笑いになる。王子はすごすご起き上がりながら、酒場の外へ行こうとする。
主人 もしもし?御勘定を置いて行って下さい。
王子は無言のまま、金を投げる。
第二の農夫 御土産は?
王子 (剣の柄へ手をかける)何だと?
第二の農夫 (尻ごみしながら)いえ、何でもない。(独り語のように)剣だけは首くらい斬れるかも知れない。
主人 (なだめるように)まあ、あなたなどはまだわかいのですから、ひとまず御父様の御国へお帰りなさい。いくらあなたが騒いで見たところで、とても黒人の王様にはかないません。とにかく人間とは、何でも身のほどを忘れないように慎しみ深くするのが最も的確な判断です。
一同 そうなさい。そうなさい。悪い事はいわないから。
王子 わたしは何でも、何でも出来ると思ったのに、(突然涙を落す)お前たちにも恥ずかしい(顔を隠しながら)ああ、このまま消えてしまいたいよ。
第一の農夫 そのマントを着て御覧なさい。そうすれば消えるかも知れません。
王子 ちくしょう!(じだんだを踏む)よし、いくらでもばかにしろ。わたしはきっと黒人の王からかわいそうな王女を助けて見せる。長靴は千里飛ばれなかったが、まだ剣もある。マントも、(一生懸命に)いや、何も持ってなくても助けて見せる。その時に後悔しないようにしろ。(狂ったように酒場を飛び出してしまう。)
主人 困ったものだ、黒人の王様に殺されなければいいが。 | 「黄金の角笛」という宿屋の酒場で王子は何をしていましたか。 | 酒場の隅では王子がパンをかじっている。 |
JCRRAG_010442 | 国語 | 「黄金の角笛」という宿屋の酒場。酒場の隅では王子がパンをかじっている。王子のほかにも客が七・八人、これは皆村の農夫らしい。
宿屋の主人 いよいよ王女の御婚礼があるそうだね。
第一の農夫 そういう話だ。なんでも御壻になる人は、黒人の王様だというじゃないか?
第二の農夫 しかし王女はあの王様が大嫌いだという噂だぜ。
第一の農夫 嫌いならやめればいいのに。
主人 ところがその黒人の王様は、三つの宝ものを持っている。第一が千里飛べる長靴、第二が鉄さえ切れる剣、第三が姿の隠れるマント、それを皆献上するというものだから、欲の深いこの国の王様は、王女をやるとおっしゃったのだそうだ。
第二の農夫 おかわいそうなのは王女御一人だな。
第一の農夫 誰か王女を助けられる奴はいないだろうか?
主人 いや、いろいろな国の王子の中には、そういう人もいるそうだが、何分あの黒人の王様にはかなわないから、みんな指をくわえているのだとさ。
第二の農夫 おまけに欲の深い王様は、王女を人に盗まれないように、竜の番人を置いてあるそうだ。
主人 竜じゃなく、兵隊だそうだ。
第一の農夫 わたしが魔法でも知っていれば、まっ先に御助けできるのだが…
主人 当然だ、わたしも魔法を知っていれば、お前さんなどにまかせておかないよ。(一同笑い出す)
王子 (突然一同の中へ飛び出しながら)よし心配するな! きっとわたしが助けてあげる。
一同 (驚いたように)あなたが!?
王子 そうだ、黒人の王など何人でも来るがいい。(腕組をしたまま、一同を見まわす)わたしは片っ端から退治して見せる。
主人 ですがあの王様には、三つの宝があるそうです。第一には千里飛ぶ長靴、第二には。
王子 鉄でも切れる剣か? そんな物はわたしも持っている。この長靴を見ろ。この剣を見ろ。この古いマントを見ろ。黒人の王が持っているのと、寸分も違わない宝ばかりだ。
一同 (再び驚いたように)その靴が!? その剣が!? そのマントが!?
主人 (疑わしそうに)しかしその長靴には、穴があいているじゃありませんか?
王子 それは穴があいている。が、穴はあいていても、ひとっとびに千里飛ばれるのだ。
主人 ほんとうですか?
王子 (憐れむように)お前にはうそだと思われるかも知れない。よし、それならば飛んで見せる。入口の戸をあけて置いてくれ。いいか。飛び上ったと思うと見えなくなるぞ。
主人 その前に勘定を頂きましょうか?
王子 なに、すぐに帰って来る。土産には何を持って来てやろう。イタリアの柘榴か、イスパニアのまくわうりか、それともずっと遠いアラビアのいちじくか?
主人 おみやげならば何でも結構です。まあ飛んで見せて下さい。
王子 では飛ぶぞ。一、二、三!
王子はいきおいよく飛び上がる。が、戸口へも届かない内に、どたりと尻餅をついてしまう。
一同どっと笑い立てる。
主人 こんな事だろうと思ったよ。
第一の農夫 干里どころか、数メートルも飛ばなかったぜ。
第二の農夫 何をいう、千里を飛んだのさ。一度千里飛んで置いて、また千里飛び返ったから、もとの所へ来てしまったのだろう。
第一の農夫 冗談じゃない。そんなばかな事があるものか。
一同大笑いになる。王子はすごすご起き上がりながら、酒場の外へ行こうとする。
主人 もしもし?御勘定を置いて行って下さい。
王子は無言のまま、金を投げる。
第二の農夫 御土産は?
王子 (剣の柄へ手をかける)何だと?
第二の農夫 (尻ごみしながら)いえ、何でもない。(独り語のように)剣だけは首くらい斬れるかも知れない。
主人 (なだめるように)まあ、あなたなどはまだわかいのですから、ひとまず御父様の御国へお帰りなさい。いくらあなたが騒いで見たところで、とても黒人の王様にはかないません。とにかく人間とは、何でも身のほどを忘れないように慎しみ深くするのが最も的確な判断です。
一同 そうなさい。そうなさい。悪い事はいわないから。
王子 わたしは何でも、何でも出来ると思ったのに、(突然涙を落す)お前たちにも恥ずかしい(顔を隠しながら)ああ、このまま消えてしまいたいよ。
第一の農夫 そのマントを着て御覧なさい。そうすれば消えるかも知れません。
王子 ちくしょう!(じだんだを踏む)よし、いくらでもばかにしろ。わたしはきっと黒人の王からかわいそうな王女を助けて見せる。長靴は千里飛ばれなかったが、まだ剣もある。マントも、(一生懸命に)いや、何も持ってなくても助けて見せる。その時に後悔しないようにしろ。(狂ったように酒場を飛び出してしまう。)
主人 困ったものだ、黒人の王様に殺されなければいいが。 | 王女を助けられる人はいないのかという問いに主人はなんと答えましたか。 | いろいろな国の王子の中には、そういう人もいるそうだが、何分あの黒人の王様にはかなわないから、みんな指をくわえているのだとさ。 |
JCRRAG_010443 | 国語 | 「黄金の角笛」という宿屋の酒場。酒場の隅では王子がパンをかじっている。王子のほかにも客が七・八人、これは皆村の農夫らしい。
宿屋の主人 いよいよ王女の御婚礼があるそうだね。
第一の農夫 そういう話だ。なんでも御壻になる人は、黒人の王様だというじゃないか?
第二の農夫 しかし王女はあの王様が大嫌いだという噂だぜ。
第一の農夫 嫌いならやめればいいのに。
主人 ところがその黒人の王様は、三つの宝ものを持っている。第一が千里飛べる長靴、第二が鉄さえ切れる剣、第三が姿の隠れるマント、それを皆献上するというものだから、欲の深いこの国の王様は、王女をやるとおっしゃったのだそうだ。
第二の農夫 おかわいそうなのは王女御一人だな。
第一の農夫 誰か王女を助けられる奴はいないだろうか?
主人 いや、いろいろな国の王子の中には、そういう人もいるそうだが、何分あの黒人の王様にはかなわないから、みんな指をくわえているのだとさ。
第二の農夫 おまけに欲の深い王様は、王女を人に盗まれないように、竜の番人を置いてあるそうだ。
主人 竜じゃなく、兵隊だそうだ。
第一の農夫 わたしが魔法でも知っていれば、まっ先に御助けできるのだが…
主人 当然だ、わたしも魔法を知っていれば、お前さんなどにまかせておかないよ。(一同笑い出す)
王子 (突然一同の中へ飛び出しながら)よし心配するな! きっとわたしが助けてあげる。
一同 (驚いたように)あなたが!?
王子 そうだ、黒人の王など何人でも来るがいい。(腕組をしたまま、一同を見まわす)わたしは片っ端から退治して見せる。
主人 ですがあの王様には、三つの宝があるそうです。第一には千里飛ぶ長靴、第二には。
王子 鉄でも切れる剣か? そんな物はわたしも持っている。この長靴を見ろ。この剣を見ろ。この古いマントを見ろ。黒人の王が持っているのと、寸分も違わない宝ばかりだ。
一同 (再び驚いたように)その靴が!? その剣が!? そのマントが!?
主人 (疑わしそうに)しかしその長靴には、穴があいているじゃありませんか?
王子 それは穴があいている。が、穴はあいていても、ひとっとびに千里飛ばれるのだ。
主人 ほんとうですか?
王子 (憐れむように)お前にはうそだと思われるかも知れない。よし、それならば飛んで見せる。入口の戸をあけて置いてくれ。いいか。飛び上ったと思うと見えなくなるぞ。
主人 その前に勘定を頂きましょうか?
王子 なに、すぐに帰って来る。土産には何を持って来てやろう。イタリアの柘榴か、イスパニアのまくわうりか、それともずっと遠いアラビアのいちじくか?
主人 おみやげならば何でも結構です。まあ飛んで見せて下さい。
王子 では飛ぶぞ。一、二、三!
王子はいきおいよく飛び上がる。が、戸口へも届かない内に、どたりと尻餅をついてしまう。
一同どっと笑い立てる。
主人 こんな事だろうと思ったよ。
第一の農夫 干里どころか、数メートルも飛ばなかったぜ。
第二の農夫 何をいう、千里を飛んだのさ。一度千里飛んで置いて、また千里飛び返ったから、もとの所へ来てしまったのだろう。
第一の農夫 冗談じゃない。そんなばかな事があるものか。
一同大笑いになる。王子はすごすご起き上がりながら、酒場の外へ行こうとする。
主人 もしもし?御勘定を置いて行って下さい。
王子は無言のまま、金を投げる。
第二の農夫 御土産は?
王子 (剣の柄へ手をかける)何だと?
第二の農夫 (尻ごみしながら)いえ、何でもない。(独り語のように)剣だけは首くらい斬れるかも知れない。
主人 (なだめるように)まあ、あなたなどはまだわかいのですから、ひとまず御父様の御国へお帰りなさい。いくらあなたが騒いで見たところで、とても黒人の王様にはかないません。とにかく人間とは、何でも身のほどを忘れないように慎しみ深くするのが最も的確な判断です。
一同 そうなさい。そうなさい。悪い事はいわないから。
王子 わたしは何でも、何でも出来ると思ったのに、(突然涙を落す)お前たちにも恥ずかしい(顔を隠しながら)ああ、このまま消えてしまいたいよ。
第一の農夫 そのマントを着て御覧なさい。そうすれば消えるかも知れません。
王子 ちくしょう!(じだんだを踏む)よし、いくらでもばかにしろ。わたしはきっと黒人の王からかわいそうな王女を助けて見せる。長靴は千里飛ばれなかったが、まだ剣もある。マントも、(一生懸命に)いや、何も持ってなくても助けて見せる。その時に後悔しないようにしろ。(狂ったように酒場を飛び出してしまう。)
主人 困ったものだ、黒人の王様に殺されなければいいが。 | 王子が飛び上がったらどうなりましたか。 | 王子はいきおいよく飛び上がる。が、戸口へも届かない内に、どたりと尻餅をついてしまう。 |
JCRRAG_010444 | 国語 | 王城の庭。薔薇の花の中に噴水が上がっている。誰もいなかったが、しばらくしたら、マントを着た王子が出て来た。
王子 やはりこのマントを着たと思うと、たちまち姿が隠れるように見える。わたしは城の門をはいってから、兵士にもあったし侍女にもあった。が、誰も私を咎めない。このマントさえ着ていれば、この薔薇を吹いている風のように、王女の部屋へもはいれるだろう。おや、あそこへ歩いて来たのは、噂に聞いた王女じゃないか? どこかへ一時身を隠すかいや、そんな必要はない、わたしはここに立っていても、王女の眼には見えないはずだ。
王女は噴水の縁へ来ると、悲しそうにため息をついた。
王女 わたしは何という不幸者なのだろう。もう一週間もたたない内に、あの憎らしい黒人の王は、わたしをアフリカへつれて行ってしまう。
獅子やワニのいるアフリカへ、(そこの芝の上に坐りながら)わたしはいつまでもこの城にいたい。この薔薇の花の中で、噴水の音を聞いていたい。……
王子 何という美しい王女だろう。わたしはたとえ命を捨てても、この王女を助けてみせる。
王女 (驚いたように王子を見ながら)誰ですか、あなたは?
王子 (独り語のように)しまった! 声を出したのは悪かったのだ!
王女 声を出したのが悪い? 頭がおかしいのかしら? あんな可愛い顔をしているけれども。
王子 顔? あなたにはわたしの顔が見えるのですか?
王女 見えますわ。まあ、何を不思議そうに考えていらっしゃるの?
王子 このマントも見えますか?
王女 ええ、ずいぶん古いマントじゃありませんか?
王子 (落胆したように)わたしの姿は見えないはずなのですがね。
王女 (驚いたように)どうして?
王子 これは一度着さえすれば、姿が隠れるマントなのです。
王女 それはあの黒人の王のマントルです。
王子 いえ、これもそうなのです。
王女 だって姿が見えないじゃありませんか?
王子 兵士や侍女に会った時は、確かに姿が隠れていたのですがね。その証拠には誰に会っても、とがめられた事がなかったのですから。
王女 (笑い出す)それはそのはずですわ。そんな古いマントを着ていらっしゃれば下男か何かと思われますもの。
王子 下男!(落胆したように座ってしまう)やはりこの長靴と同じ事だ。
王女 その長靴もどうかしましたか?
王子 これも千里飛ぶ長靴なのです。
王女 黒人の王の長靴のように?
王子 ええ、ところがこの間飛んで見たら、たった数メートルも飛べないのです。御覧ください。まだ剣もあります。これは鉄でも切れるはずなのですが、王女 何か切って見てくださいな
王子 いえ、黒人の王の首を斬るまでは、何も斬らないつもりなのです。
王女 あら、あなたは黒人の王と、腕くらべをなさりにきたの?
王子 いえ、腕くらべなどに来たのじゃありません。あなたを助けに来たのです。
王女 ほんとうに?
王子 ほんとうです。
王女 まあ、嬉しい! | 王子がマントを着ていたら兵士にも侍女にも咎められなかったにといったら、王女はなんと答えましたか。 | そんな古いマントを着ていらっしゃれば下男か何かと思われますもの。 |
JCRRAG_010445 | 国語 | ブレフスキュ帝国というのは、リリパットの北東にあたる島で、この国とはわずか八百ヤードの海峡で隔っています。私はまだ一度もその島を見たことはなかったのですが、こんどの話を聞いてからは、敵の船に見つけられるといけないので、そちら側の海岸へは、出て行かないように努めました。戦争になって以来、両国の人々は行き来してはいけないことになっており、船が港に出入りすることも皇帝の命令でとめられていたので、私のことは、敵側にはまだ知られていないはずです。
私は一つの計略を皇帝に申し上げました。
「なんでも斥候の報告では、敵の全艦隊は、順風を待って出動しようとして、今、港に錨をおろしているそうですから、これを全部とっつかまえて御覧にいれましょう。」
その計略に大臣は相手をいたずらに怒らせるだけだと反対しましたが、皇帝はその計略を見事だと納得して許可してくれました。
そこで、私は水夫たちに、海峡の深さを聞いてみました。彼等は何度もはかってみたことがあるので、よく知っていましたが、それによると、満潮のときが真中の深さが六フィート、そのほかの場所なら、まず四フィートだということです。
私はちょうど正面にブレフスキュ島が見える北東海岸に行きました。小山の陰に腹這いになりながら、望遠鏡を取り出して見ると、敵の艦隊は五十隻の軍艦と、八十の運送船が碇泊しているのです。
私の姿にびっくりした敵は、すっかりあわてて、われ先に海に飛び込んでは、岸の方へ泳いで行きます。勇敢な者は私に向かって武器を構えています。そこで、私は綱を取り出すと、軍艦の舳へさきの穴に、一つ一つ鈎を引っかけ、全部の綱の端を一つに結び合わせました。こうしているうちにも、敵は、矢を一せいに射かけてきます。
矢は、私の両手に五百本や顔に七百本は降りそそぎ、痛いのも痛いのですが、これでは全く、仕事のじゃまになって仕方がありません。一番、心配したのは目をやられることです。今につぶされやしないかと、いらいらしました。ところが、ふと、私はいいことを思いついたので、やっと助かりました。私には、あの身体検査のとき見せないで、そっとポケットに隠しておいた、眼鏡があります。その眼鏡を取り出すと、しっかり鼻にかけました。これさえあれば、もう大丈夫、私は敵の矢など気にかけず、平気で仕事をつづけました。眼鏡のガラスにあたる矢もだいぶありますが、これは、眼鏡をちょっとグラつかせるだけで、大したことはありません。
どの船にもみんな鈎をかけてしまうと、私は綱の結び目をつかんで、ぐいと引っ張りました。ところが、どうしたことか、船は一隻も動きません。見ると、船はみんな錨で、しっかりとめてあるのです。そこで、また、やっかいな、骨の折れる仕事がはじまりました。鈎のかかったままの綱を、一旦手から放し、それから、小刀を取り出して、錨の綱をズンズン切ってゆきました。このときも、手に顔に矢が飛んで来ました。さて、私は鈎をかけた綱を手に取ると、今度はすぐ簡単に動き出しました。こうして、私は敵の軍艦を引っ張って帰りました。
ブレフスキュの人たちは、私が何をしようとしているのか、見当がつかなかったので、はじめのうちは、ただ呆れているようでした。私が錨の綱を切るのを見て、船を流してしまうのか、それとも、お互いに衝突させるのかしら、と思っていましたが、いよいよ全艦隊が私の綱に引っ張られて、うまく動きだしたのに気づくと、にわかに泣き叫びだしました。怒り吠える者もいました。彼らの嘆き悲しむ有様といったら、まあ、なんといっていいのかわからないほどでした。
さて、私は一休みするために、立ち止まって、手や顔に一ぱい刺さっている矢を引き抜きました。前に小人からつけてもらった、矢の妙薬を、そのきずあとに塗り込みました。それから、眼鏡をはずして、潮が退くのをしばらく待ち、やがて荷物を引きながら、海峡の真中を渡り、無事に、リリパットの港へ帰り着いたのです。 | 私が皇帝に申し上げた計略を教えてください。 | 私は一つの計略を皇帝に申し上げました。
「なんでも斥候の報告では、敵の全艦隊は、順風を待って出動しようとして、今、港に錨をおろしているそうですから、これを全部とっつかまえて御覧にいれましょう。」
その計略に大臣は相手をいたずらに怒らせるだけだと反対しましたが、皇帝はその計略を見事だと納得して許可してくれました。 |
JCRRAG_010446 | 国語 | ブレフスキュ帝国というのは、リリパットの北東にあたる島で、この国とはわずか八百ヤードの海峡で隔っています。私はまだ一度もその島を見たことはなかったのですが、こんどの話を聞いてからは、敵の船に見つけられるといけないので、そちら側の海岸へは、出て行かないように努めました。戦争になって以来、両国の人々は行き来してはいけないことになっており、船が港に出入りすることも皇帝の命令でとめられていたので、私のことは、敵側にはまだ知られていないはずです。
私は一つの計略を皇帝に申し上げました。
「なんでも斥候の報告では、敵の全艦隊は、順風を待って出動しようとして、今、港に錨をおろしているそうですから、これを全部とっつかまえて御覧にいれましょう。」
その計略に大臣は相手をいたずらに怒らせるだけだと反対しましたが、皇帝はその計略を見事だと納得して許可してくれました。
そこで、私は水夫たちに、海峡の深さを聞いてみました。彼等は何度もはかってみたことがあるので、よく知っていましたが、それによると、満潮のときが真中の深さが六フィート、そのほかの場所なら、まず四フィートだということです。
私はちょうど正面にブレフスキュ島が見える北東海岸に行きました。小山の陰に腹這いになりながら、望遠鏡を取り出して見ると、敵の艦隊は五十隻の軍艦と、八十の運送船が碇泊しているのです。
私の姿にびっくりした敵は、すっかりあわてて、われ先に海に飛び込んでは、岸の方へ泳いで行きます。勇敢な者は私に向かって武器を構えています。そこで、私は綱を取り出すと、軍艦の舳へさきの穴に、一つ一つ鈎を引っかけ、全部の綱の端を一つに結び合わせました。こうしているうちにも、敵は、矢を一せいに射かけてきます。
矢は、私の両手に五百本や顔に七百本は降りそそぎ、痛いのも痛いのですが、これでは全く、仕事のじゃまになって仕方がありません。一番、心配したのは目をやられることです。今につぶされやしないかと、いらいらしました。ところが、ふと、私はいいことを思いついたので、やっと助かりました。私には、あの身体検査のとき見せないで、そっとポケットに隠しておいた、眼鏡があります。その眼鏡を取り出すと、しっかり鼻にかけました。これさえあれば、もう大丈夫、私は敵の矢など気にかけず、平気で仕事をつづけました。眼鏡のガラスにあたる矢もだいぶありますが、これは、眼鏡をちょっとグラつかせるだけで、大したことはありません。
どの船にもみんな鈎をかけてしまうと、私は綱の結び目をつかんで、ぐいと引っ張りました。ところが、どうしたことか、船は一隻も動きません。見ると、船はみんな錨で、しっかりとめてあるのです。そこで、また、やっかいな、骨の折れる仕事がはじまりました。鈎のかかったままの綱を、一旦手から放し、それから、小刀を取り出して、錨の綱をズンズン切ってゆきました。このときも、手に顔に矢が飛んで来ました。さて、私は鈎をかけた綱を手に取ると、今度はすぐ簡単に動き出しました。こうして、私は敵の軍艦を引っ張って帰りました。
ブレフスキュの人たちは、私が何をしようとしているのか、見当がつかなかったので、はじめのうちは、ただ呆れているようでした。私が錨の綱を切るのを見て、船を流してしまうのか、それとも、お互いに衝突させるのかしら、と思っていましたが、いよいよ全艦隊が私の綱に引っ張られて、うまく動きだしたのに気づくと、にわかに泣き叫びだしました。怒り吠える者もいました。彼らの嘆き悲しむ有様といったら、まあ、なんといっていいのかわからないほどでした。
さて、私は一休みするために、立ち止まって、手や顔に一ぱい刺さっている矢を引き抜きました。前に小人からつけてもらった、矢の妙薬を、そのきずあとに塗り込みました。それから、眼鏡をはずして、潮が退くのをしばらく待ち、やがて荷物を引きながら、海峡の真中を渡り、無事に、リリパットの港へ帰り着いたのです。 | 私は水夫たちに海峡の深さを聞いたら答えはなんでしたか。 | 私は水夫たちに、海峡の深さを聞いてみました。彼等は何度もはかってみたことがあるので、よく知っていましたが、それによると、満潮のときが真中の深さが六フィート、そのほかの場所なら、まず四フィートだということです。 |
JCRRAG_010447 | 国語 | ブレフスキュ帝国というのは、リリパットの北東にあたる島で、この国とはわずか八百ヤードの海峡で隔っています。私はまだ一度もその島を見たことはなかったのですが、こんどの話を聞いてからは、敵の船に見つけられるといけないので、そちら側の海岸へは、出て行かないように努めました。戦争になって以来、両国の人々は行き来してはいけないことになっており、船が港に出入りすることも皇帝の命令でとめられていたので、私のことは、敵側にはまだ知られていないはずです。
私は一つの計略を皇帝に申し上げました。
「なんでも斥候の報告では、敵の全艦隊は、順風を待って出動しようとして、今、港に錨をおろしているそうですから、これを全部とっつかまえて御覧にいれましょう。」
その計略に大臣は相手をいたずらに怒らせるだけだと反対しましたが、皇帝はその計略を見事だと納得して許可してくれました。
そこで、私は水夫たちに、海峡の深さを聞いてみました。彼等は何度もはかってみたことがあるので、よく知っていましたが、それによると、満潮のときが真中の深さが六フィート、そのほかの場所なら、まず四フィートだということです。
私はちょうど正面にブレフスキュ島が見える北東海岸に行きました。小山の陰に腹這いになりながら、望遠鏡を取り出して見ると、敵の艦隊は五十隻の軍艦と、八十の運送船が碇泊しているのです。
私の姿にびっくりした敵は、すっかりあわてて、われ先に海に飛び込んでは、岸の方へ泳いで行きます。勇敢な者は私に向かって武器を構えています。そこで、私は綱を取り出すと、軍艦の舳へさきの穴に、一つ一つ鈎を引っかけ、全部の綱の端を一つに結び合わせました。こうしているうちにも、敵は、矢を一せいに射かけてきます。
矢は、私の両手に五百本や顔に七百本は降りそそぎ、痛いのも痛いのですが、これでは全く、仕事のじゃまになって仕方がありません。一番、心配したのは目をやられることです。今につぶされやしないかと、いらいらしました。ところが、ふと、私はいいことを思いついたので、やっと助かりました。私には、あの身体検査のとき見せないで、そっとポケットに隠しておいた、眼鏡があります。その眼鏡を取り出すと、しっかり鼻にかけました。これさえあれば、もう大丈夫、私は敵の矢など気にかけず、平気で仕事をつづけました。眼鏡のガラスにあたる矢もだいぶありますが、これは、眼鏡をちょっとグラつかせるだけで、大したことはありません。
どの船にもみんな鈎をかけてしまうと、私は綱の結び目をつかんで、ぐいと引っ張りました。ところが、どうしたことか、船は一隻も動きません。見ると、船はみんな錨で、しっかりとめてあるのです。そこで、また、やっかいな、骨の折れる仕事がはじまりました。鈎のかかったままの綱を、一旦手から放し、それから、小刀を取り出して、錨の綱をズンズン切ってゆきました。このときも、手に顔に矢が飛んで来ました。さて、私は鈎をかけた綱を手に取ると、今度はすぐ簡単に動き出しました。こうして、私は敵の軍艦を引っ張って帰りました。
ブレフスキュの人たちは、私が何をしようとしているのか、見当がつかなかったので、はじめのうちは、ただ呆れているようでした。私が錨の綱を切るのを見て、船を流してしまうのか、それとも、お互いに衝突させるのかしら、と思っていましたが、いよいよ全艦隊が私の綱に引っ張られて、うまく動きだしたのに気づくと、にわかに泣き叫びだしました。怒り吠える者もいました。彼らの嘆き悲しむ有様といったら、まあ、なんといっていいのかわからないほどでした。
さて、私は一休みするために、立ち止まって、手や顔に一ぱい刺さっている矢を引き抜きました。前に小人からつけてもらった、矢の妙薬を、そのきずあとに塗り込みました。それから、眼鏡をはずして、潮が退くのをしばらく待ち、やがて荷物を引きながら、海峡の真中を渡り、無事に、リリパットの港へ帰り着いたのです。 | 私の姿にびっくりした敵はどうしましたか。 | 私の姿にびっくりした敵は、すっかりあわてて、われ先に海に飛び込んでは、岸の方へ泳いで行きます。勇敢な者は私に向かって武器を構えています。 |
JCRRAG_010448 | 国語 | 一本木の野原の北のはずれに、少し小高く盛りあがった所がありました。エノコログサがいっぱいに生え、そのまん中には一本の奇麗な女の樺の木がありました。
それはそんなに大きくはありませんでしたが幹はてかてか黒く光り、枝は美しく伸びて、五月には白い花を雲のようにつけ、秋は黄金や紅や色んな葉を降らせました。
ですから渡り鳥のカッコウや百舌も、また小さなミソサザイやメジロもみんなこの木に止まりました。ただもしも若い鷹などが来ているときは小さな鳥は遠くからそれを見つけて決して近くへ寄りませんでした。
この木に二人の友達がいました。一人は丁度、五百歩ばかり離れたぐちゃぐちゃの谷地の中に住んでいる土神で、一人はいつも野原の南の方からやって来る茶いろの狐だったのです。
樺の木はどちらかといえば狐の方がすきでした。なぜなら土神の方は神という名前こそついてはいましたがすごく乱暴で髪もぼろぼろの木綿糸の束のよう眼も赤く、着物だってまるでわかめのようになっており、いつもはだしで爪も黒く長いのでした。ところが狐の方はとても上品で滅多に人をおこらせたり気にさわるようなことをしなかったのです。
ただこの二人をじっくり比較して見たら土神の方は正直で狐は少し不正直だったかも知れません。
| 樺の木に鷹が止まってる時はほかの鳥はどうしていましたか。 | 小さな鳥は遠くからそれを見つけて決して近くへ寄りませんでした。 |
JCRRAG_010449 | 国語 | 夏のはじめのある晩でした。樺には新しいやわらかな葉がいっぱいついて、いい香りがそこら中に溢れ、空にはもう天の川がキラキラと渡り、星は一面ふるえたりゆれたり灯ったり消えたりしていました。
その下を狐が詩集をもって遊びに行ったのでした。仕立ておろした紺の背広を着て、赤革の靴もキッキッと鳴ったのです。
「実にしずかな晩ですねえ。」
「ええ。」樺の木はそっと返事をしました。
「蝎座が向こうをはっていますね。あの赤い大きなやつ(アンタレス)を昔は中国では火といったんですよ。」
「火星とはちがうんでしょうか。」
「火星とはちがいますよ。火星は惑星ですね、ところがあいつは立派な恒星なんです。」
「惑星、恒星ってどうちがうんですか?。」
「惑星というのはですね、自分で光らないやつです。つまりほかから光を受けてやっと光るように見えるんです。恒星の方は自分で光るやつなんです。お日さまなんかはもちろん恒星ですね。あんなに大きくてまぶしいんですがもしとてつもない遠くから見たらやっぱり小さな星に見えるんでしょうね。」
「まあ、お日さまも星のうちだったんですわね。そうして見ると空にはずいぶん沢山のお日さまが、あら、お星さまが、あらやっぱり変だわ、お日さまがあるんですね。」
狐はゆっくりと笑いました。
「まあそうですね。」
「お星さまにはどうしてああ赤いのや黄のや緑のやあるんでしょうね。」
狐はまたゆっくり笑って腕を高く組みました。詩集はぷらぷらしましたがなかなかそれで落ちませんでした。
「星に橙や青やいろいろある理由ですか。それはこうですね。全体的に星というものは最初はぼんやりした雲のようなもんだったんです。いまの空にも沢山あります。たとえばアンドロメダにもオリオンにも猟犬座にもみんないます。猟犬座のは渦巻です。それから環状星雲(リングネビュラ)というのもあります。魚の口の形ですから魚口星雲(フィッシュマウスネビュラ)ともいいますね。そんなのが今の空にも沢山あるんです。」ようにうなって荒々しく自分の谷地に帰って行ったのでした。 | 夏のはじめのある晩に樺の木の元へ遊びに来た狐の格好を教えてください。 | 仕立ておろした紺の背広を着て、赤革の靴もキッキッと鳴ったのです。 |
JCRRAG_010450 | 国語 | 「まあ、あたしもいつか見たいわ。魚の口の形の星だなんてまあどんなに立派でしょう。」
「それは立派ですよ。僕は水沢の天文台で見ましたがね。」
「まあ、あたしも見たいわ。」
「見せてあげましょう。僕、実は望遠鏡をドイツのツァイスに注文してあるんです。来年の春までには来ますから、来たらすぐ見せてあげましょう。」狐は思わずこういってしまいました。そしてすぐ考えたのです。ああ僕はたった一人のお友達にまたついウソをいってしまった。ああ僕はほんとうにだめなやつだ。けれども決して悪い気でいったんじゃない。よろこばせようと思っていったんだ。あとですっかり本当のことをいってしまおう、狐はしばらく静まりながらこう考えていたのでした。樺の木はそんなことも知らないでよろこんで言いました。
「まあうれしい。あなた本当にいつでも親切だわ。」
狐は少ししょげながら答えました。
「ええ、そして僕はあなたの為ならば他にもどんなことでもやりますよ。この詩集、ごらんなさいませんか。ハイネという人のですよ。翻訳ですけれども仲々よくできてるんです。」
「まあ、お借りしていいんでしょうか。」
「構いませんとも。どうかゆっくり見てください。じゃ僕はもう失礼します。そういえば、なにかいい残したことがあったような。」
「お星さまのいろのことですわ。」
「ああそうそう、だけどそれは今度にしましょう。僕あんまり長くお邪魔しちゃいけないから。」
「あら、いいんですよ。」
「僕はまた来ますから、じゃさよなら。本をあげてきます。じゃ、さよなら。」狐はいそがしく帰って行きました。そして樺の木はその時吹いて来た南風にざわざわ葉を鳴らしながら狐の置いて行った詩集をとりあげて天の川やそらいちめんの星から来るかすかなあかりにすかしてページをめくりました。そのハイネの詩集にはロウレライやさまざま美しい歌がいっぱいありました。そして樺の木は一晩中よみ続けました。
夜が明けました。太陽がのぼりました。
草には露がきらめき花はみな力いっぱい咲きました。
その東北の方から熔けた銅の汁をからだ中に被ったように朝日をいっぱいに浴びて土神がゆっくりゆっくりやって来ました。いかにも思慮深そうに腕組みしながらゆっくりゆっくりやって来たのでした。
樺の木は何だか少し困ったように思いながら、それでも青い葉をきらきらと動かして土神の来る方を向きました。その影は草に落ちてちらちらちらちらゆれました。土神はしずかにやって来て樺の木の前に立ちました。
「樺の木さん。お早う。」
「お早うございます。」
「わしはね、どうも考えて見るとわからんことが沢山ある、なかなかわからんことが多いもんだね。」
「まあ、どんなことでございますの。」
「たとえばだね、草というものは黒い土から出るのだがなぜこう青いもんだろう。黄や白の花さえ咲くんだ。どうもわからんねえ。」
「それは草の種子が青や白をもっているためではないでございましょうか。」
「そうだ。まあそういえばそうだがそれでもやっぱりわからんな。たとえば秋のきのこのようなものは種子もなし全く土の中からばかり出て行くもんだ、それにもやっぱり赤や黄いろやいろいろある、わからんねえ。」
「狐さんにでも聞いて見ましたらいかがでございましょう。」
樺の木はうっとり昨夜の星のはなしをおもっていたのでついこういってしまいました。
この言葉を聞いて土神は突然顔色を変えました。そしてこぶしを握りました。
「何だ。狐? 狐が何を言いやがったのだ?」
樺の木はおろおろした声になりました。
「なにか言ったわけではございませんがひょっとしたらご存知かと思いましたので。」
「狐なんぞに神が物を教わるとは一体何たることだ。えい。」
樺の木はもうすっかりこわくなってぷりぷりぷりぷりゆれました。土神は歯をきしきし噛みながら高く腕を組んでそこらをあるきまわりました。その影はまっ黒に草に落ち草も恐ろしくふるえたのです。
「狐の奴は実にこの世の害悪だ。ただ一言も真実を言うことなく卑怯で臆病でそれに非常にねたみ深いのだ。うぬ、畜生の分際で。」
樺の木はやっと気をとり直してくれました。
「もうあなたの方のお祭も近づきましたね。」
土神は少し顔色を和らげました。
「そうじゃ。今日は五月三日、あと六日だ。」
土神はしばらく考えていましたが、また突然大声をあげました。
「しかしながら人間どもは不届きだ。近頃はわしの祭にも供物一つ持って来ない!おのれ、今度わしの領分に最初に足を入れたものはかならず泥の底に引き擦り込こんでやろう。」土神はまたきりきり歯噛みしました。
樺の木は折角なだめようと思っていったことがまたもやかえってこんなことになったのでもうどうしたらいいかわからなくなり、ただちらちらとその葉を風にゆすっていました。土神は日光を受けてまるで燃えるようになりながら高く腕を組みキリキリ歯噛みをしてその辺をうろうろしていましたが、考えれば考えるほど何もかもしゃくにさわって来るようでした。そしてとうとうこらえ切れなくなって、吠えるようにうなって荒々しく自分の谷地に帰って行ったのでした。 | 樺の木は狐から借りたハイネの詩集をどうしましたか。 | 樺の木はその時吹いて来た南風にざわざわ葉を鳴らしながら狐の置いて行った詩集をとりあげて天の川やそらいちめんの星から来るかすかなあかりにすかしてページをめくりました。そのハイネの詩集にはロウレライやさまざま美しい歌がいっぱいありました。そして樺の木は一晩中よみ続けました。 |
JCRRAG_010451 | 国語 | 「まあ、あたしもいつか見たいわ。魚の口の形の星だなんてまあどんなに立派でしょう。」
「それは立派ですよ。僕は水沢の天文台で見ましたがね。」
「まあ、あたしも見たいわ。」
「見せてあげましょう。僕、実は望遠鏡をドイツのツァイスに注文してあるんです。来年の春までには来ますから、来たらすぐ見せてあげましょう。」狐は思わずこういってしまいました。そしてすぐ考えたのです。ああ僕はたった一人のお友達にまたついウソをいってしまった。ああ僕はほんとうにだめなやつだ。けれども決して悪い気でいったんじゃない。よろこばせようと思っていったんだ。あとですっかり本当のことをいってしまおう、狐はしばらく静まりながらこう考えていたのでした。樺の木はそんなことも知らないでよろこんで言いました。
「まあうれしい。あなた本当にいつでも親切だわ。」
狐は少ししょげながら答えました。
「ええ、そして僕はあなたの為ならば他にもどんなことでもやりますよ。この詩集、ごらんなさいませんか。ハイネという人のですよ。翻訳ですけれども仲々よくできてるんです。」
「まあ、お借りしていいんでしょうか。」
「構いませんとも。どうかゆっくり見てください。じゃ僕はもう失礼します。そういえば、なにかいい残したことがあったような。」
「お星さまのいろのことですわ。」
「ああそうそう、だけどそれは今度にしましょう。僕あんまり長くお邪魔しちゃいけないから。」
「あら、いいんですよ。」
「僕はまた来ますから、じゃさよなら。本をあげてきます。じゃ、さよなら。」狐はいそがしく帰って行きました。そして樺の木はその時吹いて来た南風にざわざわ葉を鳴らしながら狐の置いて行った詩集をとりあげて天の川やそらいちめんの星から来るかすかなあかりにすかしてページをめくりました。そのハイネの詩集にはロウレライやさまざま美しい歌がいっぱいありました。そして樺の木は一晩中よみ続けました。
夜が明けました。太陽がのぼりました。
草には露がきらめき花はみな力いっぱい咲きました。
その東北の方から熔けた銅の汁をからだ中に被ったように朝日をいっぱいに浴びて土神がゆっくりゆっくりやって来ました。いかにも思慮深そうに腕組みしながらゆっくりゆっくりやって来たのでした。
樺の木は何だか少し困ったように思いながら、それでも青い葉をきらきらと動かして土神の来る方を向きました。その影は草に落ちてちらちらちらちらゆれました。土神はしずかにやって来て樺の木の前に立ちました。
「樺の木さん。お早う。」
「お早うございます。」
「わしはね、どうも考えて見るとわからんことが沢山ある、なかなかわからんことが多いもんだね。」
「まあ、どんなことでございますの。」
「たとえばだね、草というものは黒い土から出るのだがなぜこう青いもんだろう。黄や白の花さえ咲くんだ。どうもわからんねえ。」
「それは草の種子が青や白をもっているためではないでございましょうか。」
「そうだ。まあそういえばそうだがそれでもやっぱりわからんな。たとえば秋のきのこのようなものは種子もなし全く土の中からばかり出て行くもんだ、それにもやっぱり赤や黄いろやいろいろある、わからんねえ。」
「狐さんにでも聞いて見ましたらいかがでございましょう。」
樺の木はうっとり昨夜の星のはなしをおもっていたのでついこういってしまいました。
この言葉を聞いて土神は突然顔色を変えました。そしてこぶしを握りました。
「何だ。狐? 狐が何を言いやがったのだ?」
樺の木はおろおろした声になりました。
「なにか言ったわけではございませんがひょっとしたらご存知かと思いましたので。」
「狐なんぞに神が物を教わるとは一体何たることだ。えい。」
樺の木はもうすっかりこわくなってぷりぷりぷりぷりゆれました。土神は歯をきしきし噛みながら高く腕を組んでそこらをあるきまわりました。その影はまっ黒に草に落ち草も恐ろしくふるえたのです。
「狐の奴は実にこの世の害悪だ。ただ一言も真実を言うことなく卑怯で臆病でそれに非常にねたみ深いのだ。うぬ、畜生の分際で。」
樺の木はやっと気をとり直してくれました。
「もうあなたの方のお祭も近づきましたね。」
土神は少し顔色を和らげました。
「そうじゃ。今日は五月三日、あと六日だ。」
土神はしばらく考えていましたが、また突然大声をあげました。
「しかしながら人間どもは不届きだ。近頃はわしの祭にも供物一つ持って来ない!おのれ、今度わしの領分に最初に足を入れたものはかならず泥の底に引き擦り込こんでやろう。」土神はまたきりきり歯噛みしました。
樺の木は折角なだめようと思っていったことがまたもやかえってこんなことになったのでもうどうしたらいいかわからなくなり、ただちらちらとその葉を風にゆすっていました。土神は日光を受けてまるで燃えるようになりながら高く腕を組みキリキリ歯噛みをしてその辺をうろうろしていましたが、考えれば考えるほど何もかもしゃくにさわって来るようでした。そしてとうとうこらえ切れなくなって、吠えるようにうなって荒々しく自分の谷地に帰って行ったのでした。 | 狐は望遠鏡をどこに注文したと言いましたか。 | 望遠鏡をドイツのツァイスに注文してあるんです。来年の春までには来ますから、来たらすぐ見せてあげましょう。狐は思わずこういってしまいました。 |
JCRRAG_010452 | 国語 | 「まあ、あたしもいつか見たいわ。魚の口の形の星だなんてまあどんなに立派でしょう。」
「それは立派ですよ。僕は水沢の天文台で見ましたがね。」
「まあ、あたしも見たいわ。」
「見せてあげましょう。僕、実は望遠鏡をドイツのツァイスに注文してあるんです。来年の春までには来ますから、来たらすぐ見せてあげましょう。」狐は思わずこういってしまいました。そしてすぐ考えたのです。ああ僕はたった一人のお友達にまたついウソをいってしまった。ああ僕はほんとうにだめなやつだ。けれども決して悪い気でいったんじゃない。よろこばせようと思っていったんだ。あとですっかり本当のことをいってしまおう、狐はしばらく静まりながらこう考えていたのでした。樺の木はそんなことも知らないでよろこんで言いました。
「まあうれしい。あなた本当にいつでも親切だわ。」
狐は少ししょげながら答えました。
「ええ、そして僕はあなたの為ならば他にもどんなことでもやりますよ。この詩集、ごらんなさいませんか。ハイネという人のですよ。翻訳ですけれども仲々よくできてるんです。」
「まあ、お借りしていいんでしょうか。」
「構いませんとも。どうかゆっくり見てください。じゃ僕はもう失礼します。そういえば、なにかいい残したことがあったような。」
「お星さまのいろのことですわ。」
「ああそうそう、だけどそれは今度にしましょう。僕あんまり長くお邪魔しちゃいけないから。」
「あら、いいんですよ。」
「僕はまた来ますから、じゃさよなら。本をあげてきます。じゃ、さよなら。」狐はいそがしく帰って行きました。そして樺の木はその時吹いて来た南風にざわざわ葉を鳴らしながら狐の置いて行った詩集をとりあげて天の川やそらいちめんの星から来るかすかなあかりにすかしてページをめくりました。そのハイネの詩集にはロウレライやさまざま美しい歌がいっぱいありました。そして樺の木は一晩中よみ続けました。
夜が明けました。太陽がのぼりました。
草には露がきらめき花はみな力いっぱい咲きました。
その東北の方から熔けた銅の汁をからだ中に被ったように朝日をいっぱいに浴びて土神がゆっくりゆっくりやって来ました。いかにも思慮深そうに腕組みしながらゆっくりゆっくりやって来たのでした。
樺の木は何だか少し困ったように思いながら、それでも青い葉をきらきらと動かして土神の来る方を向きました。その影は草に落ちてちらちらちらちらゆれました。土神はしずかにやって来て樺の木の前に立ちました。
「樺の木さん。お早う。」
「お早うございます。」
「わしはね、どうも考えて見るとわからんことが沢山ある、なかなかわからんことが多いもんだね。」
「まあ、どんなことでございますの。」
「たとえばだね、草というものは黒い土から出るのだがなぜこう青いもんだろう。黄や白の花さえ咲くんだ。どうもわからんねえ。」
「それは草の種子が青や白をもっているためではないでございましょうか。」
「そうだ。まあそういえばそうだがそれでもやっぱりわからんな。たとえば秋のきのこのようなものは種子もなし全く土の中からばかり出て行くもんだ、それにもやっぱり赤や黄いろやいろいろある、わからんねえ。」
「狐さんにでも聞いて見ましたらいかがでございましょう。」
樺の木はうっとり昨夜の星のはなしをおもっていたのでついこういってしまいました。
この言葉を聞いて土神は突然顔色を変えました。そしてこぶしを握りました。
「何だ。狐? 狐が何を言いやがったのだ?」
樺の木はおろおろした声になりました。
「なにか言ったわけではございませんがひょっとしたらご存知かと思いましたので。」
「狐なんぞに神が物を教わるとは一体何たることだ。えい。」
樺の木はもうすっかりこわくなってぷりぷりぷりぷりゆれました。土神は歯をきしきし噛みながら高く腕を組んでそこらをあるきまわりました。その影はまっ黒に草に落ち草も恐ろしくふるえたのです。
「狐の奴は実にこの世の害悪だ。ただ一言も真実を言うことなく卑怯で臆病でそれに非常にねたみ深いのだ。うぬ、畜生の分際で。」
樺の木はやっと気をとり直してくれました。
「もうあなたの方のお祭も近づきましたね。」
土神は少し顔色を和らげました。
「そうじゃ。今日は五月三日、あと六日だ。」
土神はしばらく考えていましたが、また突然大声をあげました。
「しかしながら人間どもは不届きだ。近頃はわしの祭にも供物一つ持って来ない!おのれ、今度わしの領分に最初に足を入れたものはかならず泥の底に引き擦り込こんでやろう。」土神はまたきりきり歯噛みしました。
樺の木は折角なだめようと思っていったことがまたもやかえってこんなことになったのでもうどうしたらいいかわからなくなり、ただちらちらとその葉を風にゆすっていました。土神は日光を受けてまるで燃えるようになりながら高く腕を組みキリキリ歯噛みをしてその辺をうろうろしていましたが、考えれば考えるほど何もかもしゃくにさわって来るようでした。そしてとうとうこらえ切れなくなって、吠えるようにうなって荒々しく自分の谷地に帰って行ったのでした。 | 土神はこらえ切れなくなってどうしましたか。 | 土神は日光を受けてまるで燃えるようになりながら高く腕を組みキリキリ歯噛みをしてその辺をうろうろしていましたが、考えれば考えるほど何もかもしゃくにさわって来るようでした。そしてとうとうこらえ切れなくなって、吠えるようにうなって荒々しく自分の谷地に帰って行ったのでした。 |
JCRRAG_010453 | 国語 | 「まあ、あたしもいつか見たいわ。魚の口の形の星だなんてまあどんなに立派でしょう。」
「それは立派ですよ。僕は水沢の天文台で見ましたがね。」
「まあ、あたしも見たいわ。」
「見せてあげましょう。僕、実は望遠鏡をドイツのツァイスに注文してあるんです。来年の春までには来ますから、来たらすぐ見せてあげましょう。」狐は思わずこういってしまいました。そしてすぐ考えたのです。ああ僕はたった一人のお友達にまたついウソをいってしまった。ああ僕はほんとうにだめなやつだ。けれども決して悪い気でいったんじゃない。よろこばせようと思っていったんだ。あとですっかり本当のことをいってしまおう、狐はしばらく静まりながらこう考えていたのでした。樺の木はそんなことも知らないでよろこんで言いました。
「まあうれしい。あなた本当にいつでも親切だわ。」
狐は少ししょげながら答えました。
「ええ、そして僕はあなたの為ならば他にもどんなことでもやりますよ。この詩集、ごらんなさいませんか。ハイネという人のですよ。翻訳ですけれども仲々よくできてるんです。」
「まあ、お借りしていいんでしょうか。」
「構いませんとも。どうかゆっくり見てください。じゃ僕はもう失礼します。そういえば、なにかいい残したことがあったような。」
「お星さまのいろのことですわ。」
「ああそうそう、だけどそれは今度にしましょう。僕あんまり長くお邪魔しちゃいけないから。」
「あら、いいんですよ。」
「僕はまた来ますから、じゃさよなら。本をあげてきます。じゃ、さよなら。」狐はいそがしく帰って行きました。そして樺の木はその時吹いて来た南風にざわざわ葉を鳴らしながら狐の置いて行った詩集をとりあげて天の川やそらいちめんの星から来るかすかなあかりにすかしてページをめくりました。そのハイネの詩集にはロウレライやさまざま美しい歌がいっぱいありました。そして樺の木は一晩中よみ続けました。
夜が明けました。太陽がのぼりました。
草には露がきらめき花はみな力いっぱい咲きました。
その東北の方から熔けた銅の汁をからだ中に被ったように朝日をいっぱいに浴びて土神がゆっくりゆっくりやって来ました。いかにも思慮深そうに腕組みしながらゆっくりゆっくりやって来たのでした。
樺の木は何だか少し困ったように思いながら、それでも青い葉をきらきらと動かして土神の来る方を向きました。その影は草に落ちてちらちらちらちらゆれました。土神はしずかにやって来て樺の木の前に立ちました。
「樺の木さん。お早う。」
「お早うございます。」
「わしはね、どうも考えて見るとわからんことが沢山ある、なかなかわからんことが多いもんだね。」
「まあ、どんなことでございますの。」
「たとえばだね、草というものは黒い土から出るのだがなぜこう青いもんだろう。黄や白の花さえ咲くんだ。どうもわからんねえ。」
「それは草の種子が青や白をもっているためではないでございましょうか。」
「そうだ。まあそういえばそうだがそれでもやっぱりわからんな。たとえば秋のきのこのようなものは種子もなし全く土の中からばかり出て行くもんだ、それにもやっぱり赤や黄いろやいろいろある、わからんねえ。」
「狐さんにでも聞いて見ましたらいかがでございましょう。」
樺の木はうっとり昨夜の星のはなしをおもっていたのでついこういってしまいました。
この言葉を聞いて土神は突然顔色を変えました。そしてこぶしを握りました。
「何だ。狐? 狐が何を言いやがったのだ?」
樺の木はおろおろした声になりました。
「なにか言ったわけではございませんがひょっとしたらご存知かと思いましたので。」
「狐なんぞに神が物を教わるとは一体何たることだ。えい。」
樺の木はもうすっかりこわくなってぷりぷりぷりぷりゆれました。土神は歯をきしきし噛みながら高く腕を組んでそこらをあるきまわりました。その影はまっ黒に草に落ち草も恐ろしくふるえたのです。
「狐の奴は実にこの世の害悪だ。ただ一言も真実を言うことなく卑怯で臆病でそれに非常にねたみ深いのだ。うぬ、畜生の分際で。」
樺の木はやっと気をとり直してくれました。
「もうあなたの方のお祭も近づきましたね。」
土神は少し顔色を和らげました。
「そうじゃ。今日は五月三日、あと六日だ。」
土神はしばらく考えていましたが、また突然大声をあげました。
「しかしながら人間どもは不届きだ。近頃はわしの祭にも供物一つ持って来ない!おのれ、今度わしの領分に最初に足を入れたものはかならず泥の底に引き擦り込こんでやろう。」土神はまたきりきり歯噛みしました。
樺の木は折角なだめようと思っていったことがまたもやかえってこんなことになったのでもうどうしたらいいかわからなくなり、ただちらちらとその葉を風にゆすっていました。土神は日光を受けてまるで燃えるようになりながら高く腕を組みキリキリ歯噛みをしてその辺をうろうろしていましたが、考えれば考えるほど何もかもしゃくにさわって来るようでした。そしてとうとうこらえ切れなくなって、吠えるようにうなって荒々しく自分の谷地に帰って行ったのでした。 | 樺の木がどうしていいかわからなくなった理由はなんですか。 | 樺の木は折角なだめようと思っていったことがまたもやかえってこんなことになったのでもうどうしたらいいかわからなくなり、ただちらちらとその葉を風にゆすっていました。 |
JCRRAG_010454 | 国語 | 土神の棲んでいる所は小さな競馬場ぐらいあり、冷たい湿地で苔やから草や短い蘆などが生えていましたがまた所々にはアザミや背の低いひどくねじれたヤナギなどもいました。
水がじめじめしてその表面にはあちこち赤い鉄の渋が湧きあがり見るからにどろどろで気味も悪いのでした。
そのまん中の小さな島のようになった所に丸太でこしらえた高さ一間ばかりの土神の祠があったのです。
土神はその島に帰って来て祠の横に長々と寝そべりました。そして黒いやせた脚をがりがり掻きました。土神は一羽の鳥が自分の頭の上をまっすぐに翔けて行くのを見ました。すぐ土神は起き上がって座り「しっ」と叫びました。鳥はびっくりしてよろよろっと落ちそうになり、それからまるではねも何もしびれたようにだんだん低く落ちながら向こうへにげて行きました。
土神は少し笑って立ち上がりました。けれどもまたすぐ向こうの樺の木の立っている高みの方を見るとはっと顔色を変えて棒立ちになりました。それからいかにもむしゃくしゃするという風にそのぼろぼろの髪の毛を両手で掻きむしっていました。
その時、谷地の南の方から一人の木こりがやって来ました。三つ森山の方へ稼ぎに出るらしく谷地のふちに沿った細い路を大股で歩いて行くのでしたがやっぱり土神のことは知っていたようで時々心配そうに土神の祠の方を見ていました。けれども木こりには土神の姿は見えなかったのです。
土神はそれを見るとよろこんでぱっと顔をほてらせました。それから右手をそっちへ突き出して左手でその右手の手首をつかみこっちへ引き寄せるようにしました。するとおかしなことに木こりは路を歩いていると思いながらだんだん谷地の中に踏み込んで来るようでした。それからびっくりしたように足が早くなり顔も青ざめて口を開けて呼吸をしました。土神は右手のこぶしをゆっくりぐるっとまわしました。すると木こりはだんだんぐるっと丸くまわって歩いていましたがいよいよひどく大いにあわてて、まるではあはあはあはあしながら何回も同じ所をまわり出しました。何でも早く谷地からにげようとするらしいのでしたが、あせってもあせっても同じところをまわっているばかりなのです。とうとう木こりは泣き出しました。そして両手をあげて走り出したのです。土神はいかにも嬉しそうにニヤニヤニヤニヤ笑って寝そべったままそれを見ていましたが、間もなく木こりがすっかりのぼせて疲れてばたっと水の中に倒れてしまいますと、ゆっくりと立ちあがりました。そしてぐちゃぐちゃ大股にそっちへ歩いて行って倒れている木こりのからだを向こうの草はらの方へぽんと投げ出しました。木こりは草の中にどっしりと落ちてううんといいながら少し動いたようでしたがまだ気がつきませんでした。
土神は大声で笑いました。その声はあやしい波になって空の方へ行きました。
空へ行った声はまもなくそっちからはねかえってガサリと樺の木のところにも落ちて行きました。樺の木ははっと顔色を変えて日光に青くすきとおりせわしくせわしくふるえました。
土神はたまらなそうに両手で髪を掻きむしりながらひとりで考えました。おれがこんなに面白くない原因のトップは狐のせいだ。狐のためというよりは樺の木のためだ。狐と樺の木のためだ。けれども樺の木の方はおれは怒ってはいないのだ。樺の木を怒らせないためにおれはこんなにつらいのだ。樺の木さえどうでもよければ狐などはなおさらどうでもいいのだ。おれは仮にも神の分際だ。それに狐のことなどを気にかけなければならないというのは情けない。それでも気にかかるから仕方ない。樺の木のことなどは忘れてしまえ。ところがどうしても忘れられない。今朝は青ざめてふるえたぞ。あの立派だった姿が、どうしても忘られない。おれは苛立ちまぎれにあんなあわれな樺の木をいじめてしまったのだ。けれども仕方ない。誰だってむしゃくしゃしたときは何をするかわからないのだ。
土神はひとりで切ながってばたばたしました。空をまた一羽の鷹が翔けて行きましたが土神はこんどは何もいわずだまってそれを見ました。
ずうっとずうっと遠くで騎兵の演習らしいパチパチパチパチ塩のはぜるような鉄砲の音が聞こえました。空から青光りがどくどくと野原に流れて来ました。それを吸ったためかさっきの草の中に投げ出された木こりはやっと気がついておずおずと起きあがりしきりにあたりを見回しました。
それから突然立って一目散ににげ出しました。三つ森山の方へ一目散ににげました。
土神はそれを見てまた大きな声で笑いました。その声はまた青空の方まで行く途中とちゅうから、バサリと樺の木の方へ落ちました。
樺の木はハッと葉の色を変えて見えない位こまかくふるえました。
土神は自分のほこらのまわりをうろうろうろうろ何度も歩き回ってからやっと気がしずまったように見えて、すっと形を消して融けるようにほこらの中へ入って行きました。
| 土神は起き上がって座り「しっ」と叫んだら鳥はどうなりましたか。 | 鳥はびっくりしてよろよろっと落ちそうになり、それからまるではねも何もしびれたようにだんだん低く落ちながら向こうへにげて行きました。 |
JCRRAG_010455 | 国語 | 土神の棲んでいる所は小さな競馬場ぐらいあり、冷たい湿地で苔やから草や短い蘆などが生えていましたがまた所々にはアザミや背の低いひどくねじれたヤナギなどもいました。
水がじめじめしてその表面にはあちこち赤い鉄の渋が湧きあがり見るからにどろどろで気味も悪いのでした。
そのまん中の小さな島のようになった所に丸太でこしらえた高さ一間ばかりの土神の祠があったのです。
土神はその島に帰って来て祠の横に長々と寝そべりました。そして黒いやせた脚をがりがり掻きました。土神は一羽の鳥が自分の頭の上をまっすぐに翔けて行くのを見ました。すぐ土神は起き上がって座り「しっ」と叫びました。鳥はびっくりしてよろよろっと落ちそうになり、それからまるではねも何もしびれたようにだんだん低く落ちながら向こうへにげて行きました。
土神は少し笑って立ち上がりました。けれどもまたすぐ向こうの樺の木の立っている高みの方を見るとはっと顔色を変えて棒立ちになりました。それからいかにもむしゃくしゃするという風にそのぼろぼろの髪の毛を両手で掻きむしっていました。
その時、谷地の南の方から一人の木こりがやって来ました。三つ森山の方へ稼ぎに出るらしく谷地のふちに沿った細い路を大股で歩いて行くのでしたがやっぱり土神のことは知っていたようで時々心配そうに土神の祠の方を見ていました。けれども木こりには土神の姿は見えなかったのです。
土神はそれを見るとよろこんでぱっと顔をほてらせました。それから右手をそっちへ突き出して左手でその右手の手首をつかみこっちへ引き寄せるようにしました。するとおかしなことに木こりは路を歩いていると思いながらだんだん谷地の中に踏み込んで来るようでした。それからびっくりしたように足が早くなり顔も青ざめて口を開けて呼吸をしました。土神は右手のこぶしをゆっくりぐるっとまわしました。すると木こりはだんだんぐるっと丸くまわって歩いていましたがいよいよひどく大いにあわてて、まるではあはあはあはあしながら何回も同じ所をまわり出しました。何でも早く谷地からにげようとするらしいのでしたが、あせってもあせっても同じところをまわっているばかりなのです。とうとう木こりは泣き出しました。そして両手をあげて走り出したのです。土神はいかにも嬉しそうにニヤニヤニヤニヤ笑って寝そべったままそれを見ていましたが、間もなく木こりがすっかりのぼせて疲れてばたっと水の中に倒れてしまいますと、ゆっくりと立ちあがりました。そしてぐちゃぐちゃ大股にそっちへ歩いて行って倒れている木こりのからだを向こうの草はらの方へぽんと投げ出しました。木こりは草の中にどっしりと落ちてううんといいながら少し動いたようでしたがまだ気がつきませんでした。
土神は大声で笑いました。その声はあやしい波になって空の方へ行きました。
空へ行った声はまもなくそっちからはねかえってガサリと樺の木のところにも落ちて行きました。樺の木ははっと顔色を変えて日光に青くすきとおりせわしくせわしくふるえました。
土神はたまらなそうに両手で髪を掻きむしりながらひとりで考えました。おれがこんなに面白くない原因のトップは狐のせいだ。狐のためというよりは樺の木のためだ。狐と樺の木のためだ。けれども樺の木の方はおれは怒ってはいないのだ。樺の木を怒らせないためにおれはこんなにつらいのだ。樺の木さえどうでもよければ狐などはなおさらどうでもいいのだ。おれは仮にも神の分際だ。それに狐のことなどを気にかけなければならないというのは情けない。それでも気にかかるから仕方ない。樺の木のことなどは忘れてしまえ。ところがどうしても忘れられない。今朝は青ざめてふるえたぞ。あの立派だった姿が、どうしても忘られない。おれは苛立ちまぎれにあんなあわれな樺の木をいじめてしまったのだ。けれども仕方ない。誰だってむしゃくしゃしたときは何をするかわからないのだ。
土神はひとりで切ながってばたばたしました。空をまた一羽の鷹が翔けて行きましたが土神はこんどは何もいわずだまってそれを見ました。
ずうっとずうっと遠くで騎兵の演習らしいパチパチパチパチ塩のはぜるような鉄砲の音が聞こえました。空から青光りがどくどくと野原に流れて来ました。それを吸ったためかさっきの草の中に投げ出された木こりはやっと気がついておずおずと起きあがりしきりにあたりを見回しました。
それから突然立って一目散ににげ出しました。三つ森山の方へ一目散ににげました。
土神はそれを見てまた大きな声で笑いました。その声はまた青空の方まで行く途中とちゅうから、バサリと樺の木の方へ落ちました。
樺の木はハッと葉の色を変えて見えない位こまかくふるえました。
土神は自分のほこらのまわりをうろうろうろうろ何度も歩き回ってからやっと気がしずまったように見えて、すっと形を消して融けるようにほこらの中へ入って行きました。
| 樺の木の立っている高みの方を見ると土神はどうなりましたか。 | はっと顔色を変えて棒立ちになりました。それからいかにもむしゃくしゃするという風にそのぼろぼろの髪の毛を両手で掻きむしっていました。 |
JCRRAG_010456 | 国語 | 土神の棲んでいる所は小さな競馬場ぐらいあり、冷たい湿地で苔やから草や短い蘆などが生えていましたがまた所々にはアザミや背の低いひどくねじれたヤナギなどもいました。
水がじめじめしてその表面にはあちこち赤い鉄の渋が湧きあがり見るからにどろどろで気味も悪いのでした。
そのまん中の小さな島のようになった所に丸太でこしらえた高さ一間ばかりの土神の祠があったのです。
土神はその島に帰って来て祠の横に長々と寝そべりました。そして黒いやせた脚をがりがり掻きました。土神は一羽の鳥が自分の頭の上をまっすぐに翔けて行くのを見ました。すぐ土神は起き上がって座り「しっ」と叫びました。鳥はびっくりしてよろよろっと落ちそうになり、それからまるではねも何もしびれたようにだんだん低く落ちながら向こうへにげて行きました。
土神は少し笑って立ち上がりました。けれどもまたすぐ向こうの樺の木の立っている高みの方を見るとはっと顔色を変えて棒立ちになりました。それからいかにもむしゃくしゃするという風にそのぼろぼろの髪の毛を両手で掻きむしっていました。
その時、谷地の南の方から一人の木こりがやって来ました。三つ森山の方へ稼ぎに出るらしく谷地のふちに沿った細い路を大股で歩いて行くのでしたがやっぱり土神のことは知っていたようで時々心配そうに土神の祠の方を見ていました。けれども木こりには土神の姿は見えなかったのです。
土神はそれを見るとよろこんでぱっと顔をほてらせました。それから右手をそっちへ突き出して左手でその右手の手首をつかみこっちへ引き寄せるようにしました。するとおかしなことに木こりは路を歩いていると思いながらだんだん谷地の中に踏み込んで来るようでした。それからびっくりしたように足が早くなり顔も青ざめて口を開けて呼吸をしました。土神は右手のこぶしをゆっくりぐるっとまわしました。すると木こりはだんだんぐるっと丸くまわって歩いていましたがいよいよひどく大いにあわてて、まるではあはあはあはあしながら何回も同じ所をまわり出しました。何でも早く谷地からにげようとするらしいのでしたが、あせってもあせっても同じところをまわっているばかりなのです。とうとう木こりは泣き出しました。そして両手をあげて走り出したのです。土神はいかにも嬉しそうにニヤニヤニヤニヤ笑って寝そべったままそれを見ていましたが、間もなく木こりがすっかりのぼせて疲れてばたっと水の中に倒れてしまいますと、ゆっくりと立ちあがりました。そしてぐちゃぐちゃ大股にそっちへ歩いて行って倒れている木こりのからだを向こうの草はらの方へぽんと投げ出しました。木こりは草の中にどっしりと落ちてううんといいながら少し動いたようでしたがまだ気がつきませんでした。
土神は大声で笑いました。その声はあやしい波になって空の方へ行きました。
空へ行った声はまもなくそっちからはねかえってガサリと樺の木のところにも落ちて行きました。樺の木ははっと顔色を変えて日光に青くすきとおりせわしくせわしくふるえました。
土神はたまらなそうに両手で髪を掻きむしりながらひとりで考えました。おれがこんなに面白くない原因のトップは狐のせいだ。狐のためというよりは樺の木のためだ。狐と樺の木のためだ。けれども樺の木の方はおれは怒ってはいないのだ。樺の木を怒らせないためにおれはこんなにつらいのだ。樺の木さえどうでもよければ狐などはなおさらどうでもいいのだ。おれは仮にも神の分際だ。それに狐のことなどを気にかけなければならないというのは情けない。それでも気にかかるから仕方ない。樺の木のことなどは忘れてしまえ。ところがどうしても忘れられない。今朝は青ざめてふるえたぞ。あの立派だった姿が、どうしても忘られない。おれは苛立ちまぎれにあんなあわれな樺の木をいじめてしまったのだ。けれども仕方ない。誰だってむしゃくしゃしたときは何をするかわからないのだ。
土神はひとりで切ながってばたばたしました。空をまた一羽の鷹が翔けて行きましたが土神はこんどは何もいわずだまってそれを見ました。
ずうっとずうっと遠くで騎兵の演習らしいパチパチパチパチ塩のはぜるような鉄砲の音が聞こえました。空から青光りがどくどくと野原に流れて来ました。それを吸ったためかさっきの草の中に投げ出された木こりはやっと気がついておずおずと起きあがりしきりにあたりを見回しました。
それから突然立って一目散ににげ出しました。三つ森山の方へ一目散ににげました。
土神はそれを見てまた大きな声で笑いました。その声はまた青空の方まで行く途中とちゅうから、バサリと樺の木の方へ落ちました。
樺の木はハッと葉の色を変えて見えない位こまかくふるえました。
土神は自分のほこらのまわりをうろうろうろうろ何度も歩き回ってからやっと気がしずまったように見えて、すっと形を消して融けるようにほこらの中へ入って行きました。
| 土神はきこりに向かって右手をそっちへ突き出して左手でその右手の手首をつかみ、こっちへ引き寄せるようにしたらどうなりましたか。 | おかしなことに木こりは路を歩いていると思いながらだんだん谷地の中に踏み込んで来るようでした。それからびっくりしたように足が早くなり顔も青ざめて口を開けて呼吸をしました。 |
JCRRAG_010457 | 国語 | 土神の棲んでいる所は小さな競馬場ぐらいあり、冷たい湿地で苔やから草や短い蘆などが生えていましたがまた所々にはアザミや背の低いひどくねじれたヤナギなどもいました。
水がじめじめしてその表面にはあちこち赤い鉄の渋が湧きあがり見るからにどろどろで気味も悪いのでした。
そのまん中の小さな島のようになった所に丸太でこしらえた高さ一間ばかりの土神の祠があったのです。
土神はその島に帰って来て祠の横に長々と寝そべりました。そして黒いやせた脚をがりがり掻きました。土神は一羽の鳥が自分の頭の上をまっすぐに翔けて行くのを見ました。すぐ土神は起き上がって座り「しっ」と叫びました。鳥はびっくりしてよろよろっと落ちそうになり、それからまるではねも何もしびれたようにだんだん低く落ちながら向こうへにげて行きました。
土神は少し笑って立ち上がりました。けれどもまたすぐ向こうの樺の木の立っている高みの方を見るとはっと顔色を変えて棒立ちになりました。それからいかにもむしゃくしゃするという風にそのぼろぼろの髪の毛を両手で掻きむしっていました。
その時、谷地の南の方から一人の木こりがやって来ました。三つ森山の方へ稼ぎに出るらしく谷地のふちに沿った細い路を大股で歩いて行くのでしたがやっぱり土神のことは知っていたようで時々心配そうに土神の祠の方を見ていました。けれども木こりには土神の姿は見えなかったのです。
土神はそれを見るとよろこんでぱっと顔をほてらせました。それから右手をそっちへ突き出して左手でその右手の手首をつかみこっちへ引き寄せるようにしました。するとおかしなことに木こりは路を歩いていると思いながらだんだん谷地の中に踏み込んで来るようでした。それからびっくりしたように足が早くなり顔も青ざめて口を開けて呼吸をしました。土神は右手のこぶしをゆっくりぐるっとまわしました。すると木こりはだんだんぐるっと丸くまわって歩いていましたがいよいよひどく大いにあわてて、まるではあはあはあはあしながら何回も同じ所をまわり出しました。何でも早く谷地からにげようとするらしいのでしたが、あせってもあせっても同じところをまわっているばかりなのです。とうとう木こりは泣き出しました。そして両手をあげて走り出したのです。土神はいかにも嬉しそうにニヤニヤニヤニヤ笑って寝そべったままそれを見ていましたが、間もなく木こりがすっかりのぼせて疲れてばたっと水の中に倒れてしまいますと、ゆっくりと立ちあがりました。そしてぐちゃぐちゃ大股にそっちへ歩いて行って倒れている木こりのからだを向こうの草はらの方へぽんと投げ出しました。木こりは草の中にどっしりと落ちてううんといいながら少し動いたようでしたがまだ気がつきませんでした。
土神は大声で笑いました。その声はあやしい波になって空の方へ行きました。
空へ行った声はまもなくそっちからはねかえってガサリと樺の木のところにも落ちて行きました。樺の木ははっと顔色を変えて日光に青くすきとおりせわしくせわしくふるえました。
土神はたまらなそうに両手で髪を掻きむしりながらひとりで考えました。おれがこんなに面白くない原因のトップは狐のせいだ。狐のためというよりは樺の木のためだ。狐と樺の木のためだ。けれども樺の木の方はおれは怒ってはいないのだ。樺の木を怒らせないためにおれはこんなにつらいのだ。樺の木さえどうでもよければ狐などはなおさらどうでもいいのだ。おれは仮にも神の分際だ。それに狐のことなどを気にかけなければならないというのは情けない。それでも気にかかるから仕方ない。樺の木のことなどは忘れてしまえ。ところがどうしても忘れられない。今朝は青ざめてふるえたぞ。あの立派だった姿が、どうしても忘られない。おれは苛立ちまぎれにあんなあわれな樺の木をいじめてしまったのだ。けれども仕方ない。誰だってむしゃくしゃしたときは何をするかわからないのだ。
土神はひとりで切ながってばたばたしました。空をまた一羽の鷹が翔けて行きましたが土神はこんどは何もいわずだまってそれを見ました。
ずうっとずうっと遠くで騎兵の演習らしいパチパチパチパチ塩のはぜるような鉄砲の音が聞こえました。空から青光りがどくどくと野原に流れて来ました。それを吸ったためかさっきの草の中に投げ出された木こりはやっと気がついておずおずと起きあがりしきりにあたりを見回しました。
それから突然立って一目散ににげ出しました。三つ森山の方へ一目散ににげました。
土神はそれを見てまた大きな声で笑いました。その声はまた青空の方まで行く途中とちゅうから、バサリと樺の木の方へ落ちました。
樺の木はハッと葉の色を変えて見えない位こまかくふるえました。
土神は自分のほこらのまわりをうろうろうろうろ何度も歩き回ってからやっと気がしずまったように見えて、すっと形を消して融けるようにほこらの中へ入って行きました。
| 空から青光りがどくどくと野原に流れて来ました。それを吸った木こりは起き上がってどうしましたか。 | 突然立って一目散ににげ出しました。三つ森山の方へ一目散ににげました。 |
JCRRAG_010458 | 国語 | 土神の棲んでいる所は小さな競馬場ぐらいあり、冷たい湿地で苔やから草や短い蘆などが生えていましたがまた所々にはアザミや背の低いひどくねじれたヤナギなどもいました。
水がじめじめしてその表面にはあちこち赤い鉄の渋が湧きあがり見るからにどろどろで気味も悪いのでした。
そのまん中の小さな島のようになった所に丸太でこしらえた高さ一間ばかりの土神の祠があったのです。
土神はその島に帰って来て祠の横に長々と寝そべりました。そして黒いやせた脚をがりがり掻きました。土神は一羽の鳥が自分の頭の上をまっすぐに翔けて行くのを見ました。すぐ土神は起き上がって座り「しっ」と叫びました。鳥はびっくりしてよろよろっと落ちそうになり、それからまるではねも何もしびれたようにだんだん低く落ちながら向こうへにげて行きました。
土神は少し笑って立ち上がりました。けれどもまたすぐ向こうの樺の木の立っている高みの方を見るとはっと顔色を変えて棒立ちになりました。それからいかにもむしゃくしゃするという風にそのぼろぼろの髪の毛を両手で掻きむしっていました。
その時、谷地の南の方から一人の木こりがやって来ました。三つ森山の方へ稼ぎに出るらしく谷地のふちに沿った細い路を大股で歩いて行くのでしたがやっぱり土神のことは知っていたようで時々心配そうに土神の祠の方を見ていました。けれども木こりには土神の姿は見えなかったのです。
土神はそれを見るとよろこんでぱっと顔をほてらせました。それから右手をそっちへ突き出して左手でその右手の手首をつかみこっちへ引き寄せるようにしました。するとおかしなことに木こりは路を歩いていると思いながらだんだん谷地の中に踏み込んで来るようでした。それからびっくりしたように足が早くなり顔も青ざめて口を開けて呼吸をしました。土神は右手のこぶしをゆっくりぐるっとまわしました。すると木こりはだんだんぐるっと丸くまわって歩いていましたがいよいよひどく大いにあわてて、まるではあはあはあはあしながら何回も同じ所をまわり出しました。何でも早く谷地からにげようとするらしいのでしたが、あせってもあせっても同じところをまわっているばかりなのです。とうとう木こりは泣き出しました。そして両手をあげて走り出したのです。土神はいかにも嬉しそうにニヤニヤニヤニヤ笑って寝そべったままそれを見ていましたが、間もなく木こりがすっかりのぼせて疲れてばたっと水の中に倒れてしまいますと、ゆっくりと立ちあがりました。そしてぐちゃぐちゃ大股にそっちへ歩いて行って倒れている木こりのからだを向こうの草はらの方へぽんと投げ出しました。木こりは草の中にどっしりと落ちてううんといいながら少し動いたようでしたがまだ気がつきませんでした。
土神は大声で笑いました。その声はあやしい波になって空の方へ行きました。
空へ行った声はまもなくそっちからはねかえってガサリと樺の木のところにも落ちて行きました。樺の木ははっと顔色を変えて日光に青くすきとおりせわしくせわしくふるえました。
土神はたまらなそうに両手で髪を掻きむしりながらひとりで考えました。おれがこんなに面白くない原因のトップは狐のせいだ。狐のためというよりは樺の木のためだ。狐と樺の木のためだ。けれども樺の木の方はおれは怒ってはいないのだ。樺の木を怒らせないためにおれはこんなにつらいのだ。樺の木さえどうでもよければ狐などはなおさらどうでもいいのだ。おれは仮にも神の分際だ。それに狐のことなどを気にかけなければならないというのは情けない。それでも気にかかるから仕方ない。樺の木のことなどは忘れてしまえ。ところがどうしても忘れられない。今朝は青ざめてふるえたぞ。あの立派だった姿が、どうしても忘られない。おれは苛立ちまぎれにあんなあわれな樺の木をいじめてしまったのだ。けれども仕方ない。誰だってむしゃくしゃしたときは何をするかわからないのだ。
土神はひとりで切ながってばたばたしました。空をまた一羽の鷹が翔けて行きましたが土神はこんどは何もいわずだまってそれを見ました。
ずうっとずうっと遠くで騎兵の演習らしいパチパチパチパチ塩のはぜるような鉄砲の音が聞こえました。空から青光りがどくどくと野原に流れて来ました。それを吸ったためかさっきの草の中に投げ出された木こりはやっと気がついておずおずと起きあがりしきりにあたりを見回しました。
それから突然立って一目散ににげ出しました。三つ森山の方へ一目散ににげました。
土神はそれを見てまた大きな声で笑いました。その声はまた青空の方まで行く途中とちゅうから、バサリと樺の木の方へ落ちました。
樺の木はハッと葉の色を変えて見えない位こまかくふるえました。
土神は自分のほこらのまわりをうろうろうろうろ何度も歩き回ってからやっと気がしずまったように見えて、すっと形を消して融けるようにほこらの中へ入って行きました。
| 土神の大声で笑った声が樺の木のところにも落ちたら、樺の木はどうしましたか。 | 樺の木ははっと顔色を変えて日光に青くすきとおりせわしくせわしくふるえました。 |
JCRRAG_010459 | 国語 | 八月のある霧のふかい晩でした。土神は何ともいえずさびしくてそれにむしゃくしゃして仕方ないのでふらっと自分の祠を出ました。足はいつの間にかあの樺の木の方へ向かっていたのです。本当に土神は樺の木のことを考えるとなぜか胸がどきっとするのでした。そしてとても切なくなるのです。このごろは大へんに気持ちが変わってよくなっていたのです。ですからなるべく狐のことなど樺の木のことなど考えたくないと思ったのでしたが、どうしてもそれが思い出されて仕方ありませんでした。おれは仮にも神じゃないか、一本の樺の木がおれに何の価値があると毎日毎日土神は繰り返して自分で自分に教えました。それでもどうしてもかなしくて仕方なかったのです。特にちょっとでもあの狐のことを思い出したらまるでからだが灼けるくらい辛かったのです。
土神はいろいろ深く考え込みながらだんだん樺の木の近くに近寄っていきました。そのうちとうとう自分が樺の木のとこへ行こうとしているのだということにハッキリと気が付きました。すると突然気持ちがおどるようになりました。ずいぶんの間しばらく行かなかったのだから、ことによっては樺の木は自分を待っているのかも知れない、どうもそうらしい、そうだとすればとてもに気の毒だというような考えが強く土神に生まれて来ました。土神は草をどしどし踏み胸を踊らせながら大股にあるいて行きました。ところがその強い足並みもいつかよろよろしてしまい、土神はまるで頭から青い色のかなしみを浴びてつっ立たなければなりませんでした。それは狐が来ていたのです。もうすっかり夜でしたが、ぼんやり月のあかりによどんだ霧の向こうから狐の声が聞こえて来るのでした。
「ええ、もちろんそうなんです。器械的にシンメトリーの法則に完全に合っているからといってそれで美しいというわけにはいかないんです。それは死んだ美です。」
「全くそうですわ。」しずかな樺の木の音がしました。
「ほんとうの美はそんな固定した化石した模型のようなもんじゃないんです。対称の法則に合うっていったって実は対称の精神をもっているというぐらいのことが望ましいのです。」
「ほんとうにそうだと思いますわ。」樺の木のやさしい声が聞こえました。土神は今度はまるでべらべらした桃色の火で体中が燃えているようにおもいました。呼吸が忙しくなってほんとうにたまらなくなりました。なにがそんなにおまえを切なくするのか、たかが樺の木と狐との野原の中でのみじかい会話ではないか、そんなものに心を乱されてそれでもお前は神といえるか、土神は自分で自分を責めました。狐がまた言いました。
「ですから、どの美学の本にもこれくらいのことは論じてあるんです。」
「美学の方の本沢山たくさんお持ちですのね。」樺の木はたずねました。
「ええ、そんなには持っていませんがまあ日本語と英語とドイツ語なら大抵はありますね。イタリアのは新しいんですがまだ来ないんです。」
「あなたのお書斎は、どんなに立派なのでしょう。」
「いいえ、まるでちらばってますよ、それに研究室兼用ですからね、あっちの隅には顕微鏡こっちにはロンドンタイムス、大理石のシーザーがころがったりまるっきりごったごたです。」
「まあ、立派だわねえ、ほんとに立派だわ。」
ふん、と狐の謙遜のような自慢のような息の音がしてしばらくしいんとなりました。
土神はもう居ても立っても居られませんでした。狐の言っている話を聞くとまるで狐の方が自分より偉いように聞こえます。仮にも神ではないかと今まで自分で自分に教えていたのが今度はできなくなったのです。ああつらいつらい、もう飛び出して行って狐を一裂きに裂いてやろうか、けれどもそんなことは夢にもおれの考えるべきことじゃない、けれどもそのおれというものは何だ結局狐にも劣ったもんじゃないか、一体おれはどうすればいいのだ、土神は胸をかきむしるようにしてもだえました。
「いつかの望遠鏡まだ来ないんですの。」樺の木がまた言いました。
「ええ、いつかの望遠鏡ですか。まだ来ないんです。なかなか来ないです。欧州航路は大分混乱してますからね。来たらすぐ持って来てお目にかけますよ。土星の環なんかそれはもう美しいんですからね。」
土神は突然両手で耳を押さえて一目散に北の方へ走りました。だまっていたら自分が何をするかわからないのが恐ろしくなったのです。
まるで一目散に走って行きました。息がつづかなくなってばったり倒れたところは三つ森山の麓でした。
土神は頭の毛をかきむしりながら草をころげまわりました。それから大声で泣きました。その声は時でもない雷のように空へ行って野原中へ聞こえたのです。土神は泣いて泣いて疲れて明け方のころにぼんやり自分の祠に戻りました。
| 土神が狐のことを思い出すとどうなりましたか。 | ちょっとでもあの狐のことを思い出したらまるでからだが灼けるくらい辛かったのです。 |
JCRRAG_010460 | 国語 | 八月のある霧のふかい晩でした。土神は何ともいえずさびしくてそれにむしゃくしゃして仕方ないのでふらっと自分の祠を出ました。足はいつの間にかあの樺の木の方へ向かっていたのです。本当に土神は樺の木のことを考えるとなぜか胸がどきっとするのでした。そしてとても切なくなるのです。このごろは大へんに気持ちが変わってよくなっていたのです。ですからなるべく狐のことなど樺の木のことなど考えたくないと思ったのでしたが、どうしてもそれが思い出されて仕方ありませんでした。おれは仮にも神じゃないか、一本の樺の木がおれに何の価値があると毎日毎日土神は繰り返して自分で自分に教えました。それでもどうしてもかなしくて仕方なかったのです。特にちょっとでもあの狐のことを思い出したらまるでからだが灼けるくらい辛かったのです。
土神はいろいろ深く考え込みながらだんだん樺の木の近くに近寄っていきました。そのうちとうとう自分が樺の木のとこへ行こうとしているのだということにハッキリと気が付きました。すると突然気持ちがおどるようになりました。ずいぶんの間しばらく行かなかったのだから、ことによっては樺の木は自分を待っているのかも知れない、どうもそうらしい、そうだとすればとてもに気の毒だというような考えが強く土神に生まれて来ました。土神は草をどしどし踏み胸を踊らせながら大股にあるいて行きました。ところがその強い足並みもいつかよろよろしてしまい、土神はまるで頭から青い色のかなしみを浴びてつっ立たなければなりませんでした。それは狐が来ていたのです。もうすっかり夜でしたが、ぼんやり月のあかりによどんだ霧の向こうから狐の声が聞こえて来るのでした。
「ええ、もちろんそうなんです。器械的にシンメトリーの法則に完全に合っているからといってそれで美しいというわけにはいかないんです。それは死んだ美です。」
「全くそうですわ。」しずかな樺の木の音がしました。
「ほんとうの美はそんな固定した化石した模型のようなもんじゃないんです。対称の法則に合うっていったって実は対称の精神をもっているというぐらいのことが望ましいのです。」
「ほんとうにそうだと思いますわ。」樺の木のやさしい声が聞こえました。土神は今度はまるでべらべらした桃色の火で体中が燃えているようにおもいました。呼吸が忙しくなってほんとうにたまらなくなりました。なにがそんなにおまえを切なくするのか、たかが樺の木と狐との野原の中でのみじかい会話ではないか、そんなものに心を乱されてそれでもお前は神といえるか、土神は自分で自分を責めました。狐がまた言いました。
「ですから、どの美学の本にもこれくらいのことは論じてあるんです。」
「美学の方の本沢山たくさんお持ちですのね。」樺の木はたずねました。
「ええ、そんなには持っていませんがまあ日本語と英語とドイツ語なら大抵はありますね。イタリアのは新しいんですがまだ来ないんです。」
「あなたのお書斎は、どんなに立派なのでしょう。」
「いいえ、まるでちらばってますよ、それに研究室兼用ですからね、あっちの隅には顕微鏡こっちにはロンドンタイムス、大理石のシーザーがころがったりまるっきりごったごたです。」
「まあ、立派だわねえ、ほんとに立派だわ。」
ふん、と狐の謙遜のような自慢のような息の音がしてしばらくしいんとなりました。
土神はもう居ても立っても居られませんでした。狐の言っている話を聞くとまるで狐の方が自分より偉いように聞こえます。仮にも神ではないかと今まで自分で自分に教えていたのが今度はできなくなったのです。ああつらいつらい、もう飛び出して行って狐を一裂きに裂いてやろうか、けれどもそんなことは夢にもおれの考えるべきことじゃない、けれどもそのおれというものは何だ結局狐にも劣ったもんじゃないか、一体おれはどうすればいいのだ、土神は胸をかきむしるようにしてもだえました。
「いつかの望遠鏡まだ来ないんですの。」樺の木がまた言いました。
「ええ、いつかの望遠鏡ですか。まだ来ないんです。なかなか来ないです。欧州航路は大分混乱してますからね。来たらすぐ持って来てお目にかけますよ。土星の環なんかそれはもう美しいんですからね。」
土神は突然両手で耳を押さえて一目散に北の方へ走りました。だまっていたら自分が何をするかわからないのが恐ろしくなったのです。
まるで一目散に走って行きました。息がつづかなくなってばったり倒れたところは三つ森山の麓でした。
土神は頭の毛をかきむしりながら草をころげまわりました。それから大声で泣きました。その声は時でもない雷のように空へ行って野原中へ聞こえたのです。土神は泣いて泣いて疲れて明け方のころにぼんやり自分の祠に戻りました。
| 土神が、自分が樺の木のとこへ行こうとしているのだということにハッキリと気が付いたらどうなりましたか。 | ずいぶんの間しばらく行かなかったのだから、ことによっては樺の木は自分を待っているのかも知れない、どうもそうらしい、そうだとすればとてもに気の毒だというような考えが強く土神に生まれて来ました。 |
JCRRAG_010461 | 国語 | 八月のある霧のふかい晩でした。土神は何ともいえずさびしくてそれにむしゃくしゃして仕方ないのでふらっと自分の祠を出ました。足はいつの間にかあの樺の木の方へ向かっていたのです。本当に土神は樺の木のことを考えるとなぜか胸がどきっとするのでした。そしてとても切なくなるのです。このごろは大へんに気持ちが変わってよくなっていたのです。ですからなるべく狐のことなど樺の木のことなど考えたくないと思ったのでしたが、どうしてもそれが思い出されて仕方ありませんでした。おれは仮にも神じゃないか、一本の樺の木がおれに何の価値があると毎日毎日土神は繰り返して自分で自分に教えました。それでもどうしてもかなしくて仕方なかったのです。特にちょっとでもあの狐のことを思い出したらまるでからだが灼けるくらい辛かったのです。
土神はいろいろ深く考え込みながらだんだん樺の木の近くに近寄っていきました。そのうちとうとう自分が樺の木のとこへ行こうとしているのだということにハッキリと気が付きました。すると突然気持ちがおどるようになりました。ずいぶんの間しばらく行かなかったのだから、ことによっては樺の木は自分を待っているのかも知れない、どうもそうらしい、そうだとすればとてもに気の毒だというような考えが強く土神に生まれて来ました。土神は草をどしどし踏み胸を踊らせながら大股にあるいて行きました。ところがその強い足並みもいつかよろよろしてしまい、土神はまるで頭から青い色のかなしみを浴びてつっ立たなければなりませんでした。それは狐が来ていたのです。もうすっかり夜でしたが、ぼんやり月のあかりによどんだ霧の向こうから狐の声が聞こえて来るのでした。
「ええ、もちろんそうなんです。器械的にシンメトリーの法則に完全に合っているからといってそれで美しいというわけにはいかないんです。それは死んだ美です。」
「全くそうですわ。」しずかな樺の木の音がしました。
「ほんとうの美はそんな固定した化石した模型のようなもんじゃないんです。対称の法則に合うっていったって実は対称の精神をもっているというぐらいのことが望ましいのです。」
「ほんとうにそうだと思いますわ。」樺の木のやさしい声が聞こえました。土神は今度はまるでべらべらした桃色の火で体中が燃えているようにおもいました。呼吸が忙しくなってほんとうにたまらなくなりました。なにがそんなにおまえを切なくするのか、たかが樺の木と狐との野原の中でのみじかい会話ではないか、そんなものに心を乱されてそれでもお前は神といえるか、土神は自分で自分を責めました。狐がまた言いました。
「ですから、どの美学の本にもこれくらいのことは論じてあるんです。」
「美学の方の本沢山たくさんお持ちですのね。」樺の木はたずねました。
「ええ、そんなには持っていませんがまあ日本語と英語とドイツ語なら大抵はありますね。イタリアのは新しいんですがまだ来ないんです。」
「あなたのお書斎は、どんなに立派なのでしょう。」
「いいえ、まるでちらばってますよ、それに研究室兼用ですからね、あっちの隅には顕微鏡こっちにはロンドンタイムス、大理石のシーザーがころがったりまるっきりごったごたです。」
「まあ、立派だわねえ、ほんとに立派だわ。」
ふん、と狐の謙遜のような自慢のような息の音がしてしばらくしいんとなりました。
土神はもう居ても立っても居られませんでした。狐の言っている話を聞くとまるで狐の方が自分より偉いように聞こえます。仮にも神ではないかと今まで自分で自分に教えていたのが今度はできなくなったのです。ああつらいつらい、もう飛び出して行って狐を一裂きに裂いてやろうか、けれどもそんなことは夢にもおれの考えるべきことじゃない、けれどもそのおれというものは何だ結局狐にも劣ったもんじゃないか、一体おれはどうすればいいのだ、土神は胸をかきむしるようにしてもだえました。
「いつかの望遠鏡まだ来ないんですの。」樺の木がまた言いました。
「ええ、いつかの望遠鏡ですか。まだ来ないんです。なかなか来ないです。欧州航路は大分混乱してますからね。来たらすぐ持って来てお目にかけますよ。土星の環なんかそれはもう美しいんですからね。」
土神は突然両手で耳を押さえて一目散に北の方へ走りました。だまっていたら自分が何をするかわからないのが恐ろしくなったのです。
まるで一目散に走って行きました。息がつづかなくなってばったり倒れたところは三つ森山の麓でした。
土神は頭の毛をかきむしりながら草をころげまわりました。それから大声で泣きました。その声は時でもない雷のように空へ行って野原中へ聞こえたのです。土神は泣いて泣いて疲れて明け方のころにぼんやり自分の祠に戻りました。
| 狐と樺の木の望遠鏡の話を聞いて土神はどうしましたか。 | 土神は突然両手で耳を押さえて一目散に北の方へ走りました。 |
JCRRAG_010462 | 国語 | 八月のある霧のふかい晩でした。土神は何ともいえずさびしくてそれにむしゃくしゃして仕方ないのでふらっと自分の祠を出ました。足はいつの間にかあの樺の木の方へ向かっていたのです。本当に土神は樺の木のことを考えるとなぜか胸がどきっとするのでした。そしてとても切なくなるのです。このごろは大へんに気持ちが変わってよくなっていたのです。ですからなるべく狐のことなど樺の木のことなど考えたくないと思ったのでしたが、どうしてもそれが思い出されて仕方ありませんでした。おれは仮にも神じゃないか、一本の樺の木がおれに何の価値があると毎日毎日土神は繰り返して自分で自分に教えました。それでもどうしてもかなしくて仕方なかったのです。特にちょっとでもあの狐のことを思い出したらまるでからだが灼けるくらい辛かったのです。
土神はいろいろ深く考え込みながらだんだん樺の木の近くに近寄っていきました。そのうちとうとう自分が樺の木のとこへ行こうとしているのだということにハッキリと気が付きました。すると突然気持ちがおどるようになりました。ずいぶんの間しばらく行かなかったのだから、ことによっては樺の木は自分を待っているのかも知れない、どうもそうらしい、そうだとすればとてもに気の毒だというような考えが強く土神に生まれて来ました。土神は草をどしどし踏み胸を踊らせながら大股にあるいて行きました。ところがその強い足並みもいつかよろよろしてしまい、土神はまるで頭から青い色のかなしみを浴びてつっ立たなければなりませんでした。それは狐が来ていたのです。もうすっかり夜でしたが、ぼんやり月のあかりによどんだ霧の向こうから狐の声が聞こえて来るのでした。
「ええ、もちろんそうなんです。器械的にシンメトリーの法則に完全に合っているからといってそれで美しいというわけにはいかないんです。それは死んだ美です。」
「全くそうですわ。」しずかな樺の木の音がしました。
「ほんとうの美はそんな固定した化石した模型のようなもんじゃないんです。対称の法則に合うっていったって実は対称の精神をもっているというぐらいのことが望ましいのです。」
「ほんとうにそうだと思いますわ。」樺の木のやさしい声が聞こえました。土神は今度はまるでべらべらした桃色の火で体中が燃えているようにおもいました。呼吸が忙しくなってほんとうにたまらなくなりました。なにがそんなにおまえを切なくするのか、たかが樺の木と狐との野原の中でのみじかい会話ではないか、そんなものに心を乱されてそれでもお前は神といえるか、土神は自分で自分を責めました。狐がまた言いました。
「ですから、どの美学の本にもこれくらいのことは論じてあるんです。」
「美学の方の本沢山たくさんお持ちですのね。」樺の木はたずねました。
「ええ、そんなには持っていませんがまあ日本語と英語とドイツ語なら大抵はありますね。イタリアのは新しいんですがまだ来ないんです。」
「あなたのお書斎は、どんなに立派なのでしょう。」
「いいえ、まるでちらばってますよ、それに研究室兼用ですからね、あっちの隅には顕微鏡こっちにはロンドンタイムス、大理石のシーザーがころがったりまるっきりごったごたです。」
「まあ、立派だわねえ、ほんとに立派だわ。」
ふん、と狐の謙遜のような自慢のような息の音がしてしばらくしいんとなりました。
土神はもう居ても立っても居られませんでした。狐の言っている話を聞くとまるで狐の方が自分より偉いように聞こえます。仮にも神ではないかと今まで自分で自分に教えていたのが今度はできなくなったのです。ああつらいつらい、もう飛び出して行って狐を一裂きに裂いてやろうか、けれどもそんなことは夢にもおれの考えるべきことじゃない、けれどもそのおれというものは何だ結局狐にも劣ったもんじゃないか、一体おれはどうすればいいのだ、土神は胸をかきむしるようにしてもだえました。
「いつかの望遠鏡まだ来ないんですの。」樺の木がまた言いました。
「ええ、いつかの望遠鏡ですか。まだ来ないんです。なかなか来ないです。欧州航路は大分混乱してますからね。来たらすぐ持って来てお目にかけますよ。土星の環なんかそれはもう美しいんですからね。」
土神は突然両手で耳を押さえて一目散に北の方へ走りました。だまっていたら自分が何をするかわからないのが恐ろしくなったのです。
まるで一目散に走って行きました。息がつづかなくなってばったり倒れたところは三つ森山の麓でした。
土神は頭の毛をかきむしりながら草をころげまわりました。それから大声で泣きました。その声は時でもない雷のように空へ行って野原中へ聞こえたのです。土神は泣いて泣いて疲れて明け方のころにぼんやり自分の祠に戻りました。
| 一目散に走って行った土神が倒れたのはどこですか。 | 息がつづかなくなってばったり倒れたところは三つ森山の麓でした。 |
JCRRAG_010463 | 国語 | とうとう秋になりました。樺の木はまだまっ青でしたがその辺のエノコログサはもうすっかり黄金の穂を出して風に光りところどころすずらんの実も赤く熟しました。
あるすきとおるように黄金の秋の日、土神はとても上機嫌でした。今年の夏からのいろいろな辛い思いが何だかぼうっとみんな立派なもやのようなものに変わって頭の上に環になってかかったように思いました。そしてもうあの不思議に意地の悪い性質もどこかへ行ってしまって、樺の木なども狐と話したいなら話すがいい、両方ともうれしくてはなすのならほんとうにいいことなんだ、今日はそのことを樺の木にいってやろうと思いながら土神は心も軽く樺の木の方へ歩いて行きました。
樺の木は遠くからそれを見ていました。
そしてやっぱり心配そうにぶるぶるふるえて待ちました。
土神は進んで行って気軽に挨拶しました。
「樺の木さん。おはよう。実にいい天気だな。」
「お早うございます。いいお天気でございます。」
「天道というものはありがたいもんだ。春は赤く夏は白く秋は黄いろく、秋が黄いろになると葡萄は紫になる。実にありがたいもんだ。」
「全くでございます。」
「わしはな、今日は大へんに気分がいいんだ。今年の夏から実にいろいろつらい目にあったのだがやっと今朝からにわかに心持ちが軽くなった。」
樺の木は返事しようとしましたがなぜかそれが非常に重苦しいことのように思われて返事しかねました。
「わしはいまなら誰のためにでも命をやる。みみずが死ななければならんならそれにもわしはかわってやっていいのだ。」土神は遠くの青いそらを見て言いました。その眼も黒く立派でした。
樺の木は又何とか返事しようとしましたがやっぱり何か大へん重苦しくてわずか吐息をつくばかりでした。
そのときです。狐がやって来たのです。
狐は土神がいるのを見るとはっと顔色を変えました。けれども戻るわけにも行かず少しふるえながら樺の木の前に進んで来ました。
「樺の木さん、お早う、そちらに居られるのは土神ですね。」狐は赤革の靴をはき茶色のレインコートを着てまだ夏帽子をかぶりながらこう言いました。
「わしは土神だ。いい天気だ。な。」土神はほんとうに明るい気持ちでこう言いました。狐は嫉ましさに顔を青くしながら樺の木に言いました。
「お客さまが来てる所に入ってしまって失礼いたしました。これはこの間約束した本です。それから望遠鏡はいつかはれた晩にお目にかけます。さよなら。」
「まあ、ありがとうございます。」と樺の木が言っているうちに狐はもう土神に挨拶もしないでさっさと戻りはじめました。樺の木はさっと青くなってまた小さくぷりぷりふるいました。
土神はしばらくの間ただぼんやりと狐を見送って立っていましたが、ふと狐の赤革の靴がキラッと草に光るのにびっくりして我に返ったと思ったら突然頭がぐらっとしました。狐がいかにも意地をはったように肩をいからせてぐんぐん向こうへ歩いているのです。土神はむらむらっと怒りました。顔も物凄くまっ黒に変わったのです。美学の本だの望遠鏡だのと、ちくしょう、さあ、どうするか見てろ、といきなり狐のあとを追いかけました。樺の木はあわてて枝が一ぺんにがたがたふるえ、狐もその気配にどうかしたのかと思って何気なくうしろを見たら、土神がまるで黒くなって嵐のように追って来るのでした。さあ狐はさっと顔いろを変え口もまがり風のように走ってにげ出しました。
土神はまるでそこら中の草がまっ白な火になって燃えているように思いました。青く光っていた空さえ突然ガランとまっ暗な穴になってその底では赤い焔がどうどう音を立てて燃えるのかと思ったのです。
二人はごうごう鳴って汽車のように走りました。
「もうおしまいだ、もうおしまいだ、望遠鏡、望遠鏡、望遠鏡」と狐は一心に頭の隅のとこで考えながら夢のように走っていました。
向こうに小さな赤剥の丘がありました。狐はその下の丸い穴に入ろうとしてくるっと一つまわりました。それから首を低くしていきなり中へ飛び込もうとして後足をちらっとあげた時、もう土神はうしろからぱっと飛びかかっていました。と思うと狐はもう土神に体をねじられて口を尖らせて少し笑ったようになったままぐんにゃりと土神の手の上に首を垂れていたのです。
土神はいきなり狐を地べたに投げつけてぐちゃぐちゃ四・五回踏みつけました。
それからいきなり狐の穴の中にとび込んで行きました。中はがらんとして暗く、ただ赤土が奇麗に固められているだけでした。土神は大きく口をまげてあけながら少し変な気がして外へ出て来ました。
それからぐったり横になっている狐の屍骸のレインコートの隠しポケットの中に手を入れてみました。その隠しポケットの中には茶色いカモガヤの穂が二本入っていました。土神はさっきからあいていた口をそのまま、まるでとんでもない声で泣き出しました。
そのなみだは雨のように狐に降り、狐はますます首をぐんにゃりとさせてうすら笑ったようになって死んでいたのです。 | 土神は上機嫌になってなにをしましたか。 | 樺の木なども狐と話したいなら話すがいい、両方ともうれしくてはなすのならほんとうにいいことなんだ、今日はそのことを樺の木にいってやろうと思いながら土神は心も軽く樺の木の方へ歩いて行きました。 |
JCRRAG_010464 | 国語 | とうとう秋になりました。樺の木はまだまっ青でしたがその辺のエノコログサはもうすっかり黄金の穂を出して風に光りところどころすずらんの実も赤く熟しました。
あるすきとおるように黄金の秋の日、土神はとても上機嫌でした。今年の夏からのいろいろな辛い思いが何だかぼうっとみんな立派なもやのようなものに変わって頭の上に環になってかかったように思いました。そしてもうあの不思議に意地の悪い性質もどこかへ行ってしまって、樺の木なども狐と話したいなら話すがいい、両方ともうれしくてはなすのならほんとうにいいことなんだ、今日はそのことを樺の木にいってやろうと思いながら土神は心も軽く樺の木の方へ歩いて行きました。
樺の木は遠くからそれを見ていました。
そしてやっぱり心配そうにぶるぶるふるえて待ちました。
土神は進んで行って気軽に挨拶しました。
「樺の木さん。おはよう。実にいい天気だな。」
「お早うございます。いいお天気でございます。」
「天道というものはありがたいもんだ。春は赤く夏は白く秋は黄いろく、秋が黄いろになると葡萄は紫になる。実にありがたいもんだ。」
「全くでございます。」
「わしはな、今日は大へんに気分がいいんだ。今年の夏から実にいろいろつらい目にあったのだがやっと今朝からにわかに心持ちが軽くなった。」
樺の木は返事しようとしましたがなぜかそれが非常に重苦しいことのように思われて返事しかねました。
「わしはいまなら誰のためにでも命をやる。みみずが死ななければならんならそれにもわしはかわってやっていいのだ。」土神は遠くの青いそらを見て言いました。その眼も黒く立派でした。
樺の木は又何とか返事しようとしましたがやっぱり何か大へん重苦しくてわずか吐息をつくばかりでした。
そのときです。狐がやって来たのです。
狐は土神がいるのを見るとはっと顔色を変えました。けれども戻るわけにも行かず少しふるえながら樺の木の前に進んで来ました。
「樺の木さん、お早う、そちらに居られるのは土神ですね。」狐は赤革の靴をはき茶色のレインコートを着てまだ夏帽子をかぶりながらこう言いました。
「わしは土神だ。いい天気だ。な。」土神はほんとうに明るい気持ちでこう言いました。狐は嫉ましさに顔を青くしながら樺の木に言いました。
「お客さまが来てる所に入ってしまって失礼いたしました。これはこの間約束した本です。それから望遠鏡はいつかはれた晩にお目にかけます。さよなら。」
「まあ、ありがとうございます。」と樺の木が言っているうちに狐はもう土神に挨拶もしないでさっさと戻りはじめました。樺の木はさっと青くなってまた小さくぷりぷりふるいました。
土神はしばらくの間ただぼんやりと狐を見送って立っていましたが、ふと狐の赤革の靴がキラッと草に光るのにびっくりして我に返ったと思ったら突然頭がぐらっとしました。狐がいかにも意地をはったように肩をいからせてぐんぐん向こうへ歩いているのです。土神はむらむらっと怒りました。顔も物凄くまっ黒に変わったのです。美学の本だの望遠鏡だのと、ちくしょう、さあ、どうするか見てろ、といきなり狐のあとを追いかけました。樺の木はあわてて枝が一ぺんにがたがたふるえ、狐もその気配にどうかしたのかと思って何気なくうしろを見たら、土神がまるで黒くなって嵐のように追って来るのでした。さあ狐はさっと顔いろを変え口もまがり風のように走ってにげ出しました。
土神はまるでそこら中の草がまっ白な火になって燃えているように思いました。青く光っていた空さえ突然ガランとまっ暗な穴になってその底では赤い焔がどうどう音を立てて燃えるのかと思ったのです。
二人はごうごう鳴って汽車のように走りました。
「もうおしまいだ、もうおしまいだ、望遠鏡、望遠鏡、望遠鏡」と狐は一心に頭の隅のとこで考えながら夢のように走っていました。
向こうに小さな赤剥の丘がありました。狐はその下の丸い穴に入ろうとしてくるっと一つまわりました。それから首を低くしていきなり中へ飛び込もうとして後足をちらっとあげた時、もう土神はうしろからぱっと飛びかかっていました。と思うと狐はもう土神に体をねじられて口を尖らせて少し笑ったようになったままぐんにゃりと土神の手の上に首を垂れていたのです。
土神はいきなり狐を地べたに投げつけてぐちゃぐちゃ四・五回踏みつけました。
それからいきなり狐の穴の中にとび込んで行きました。中はがらんとして暗く、ただ赤土が奇麗に固められているだけでした。土神は大きく口をまげてあけながら少し変な気がして外へ出て来ました。
それからぐったり横になっている狐の屍骸のレインコートの隠しポケットの中に手を入れてみました。その隠しポケットの中には茶色いカモガヤの穂が二本入っていました。土神はさっきからあいていた口をそのまま、まるでとんでもない声で泣き出しました。
そのなみだは雨のように狐に降り、狐はますます首をぐんにゃりとさせてうすら笑ったようになって死んでいたのです。 | 上機嫌な土神が歩いてくるのを見ていた樺の木はどうしましたか。 | 心配そうにぶるぶるふるえて待ちました。 |
JCRRAG_010465 | 国語 | とうとう秋になりました。樺の木はまだまっ青でしたがその辺のエノコログサはもうすっかり黄金の穂を出して風に光りところどころすずらんの実も赤く熟しました。
あるすきとおるように黄金の秋の日、土神はとても上機嫌でした。今年の夏からのいろいろな辛い思いが何だかぼうっとみんな立派なもやのようなものに変わって頭の上に環になってかかったように思いました。そしてもうあの不思議に意地の悪い性質もどこかへ行ってしまって、樺の木なども狐と話したいなら話すがいい、両方ともうれしくてはなすのならほんとうにいいことなんだ、今日はそのことを樺の木にいってやろうと思いながら土神は心も軽く樺の木の方へ歩いて行きました。
樺の木は遠くからそれを見ていました。
そしてやっぱり心配そうにぶるぶるふるえて待ちました。
土神は進んで行って気軽に挨拶しました。
「樺の木さん。おはよう。実にいい天気だな。」
「お早うございます。いいお天気でございます。」
「天道というものはありがたいもんだ。春は赤く夏は白く秋は黄いろく、秋が黄いろになると葡萄は紫になる。実にありがたいもんだ。」
「全くでございます。」
「わしはな、今日は大へんに気分がいいんだ。今年の夏から実にいろいろつらい目にあったのだがやっと今朝からにわかに心持ちが軽くなった。」
樺の木は返事しようとしましたがなぜかそれが非常に重苦しいことのように思われて返事しかねました。
「わしはいまなら誰のためにでも命をやる。みみずが死ななければならんならそれにもわしはかわってやっていいのだ。」土神は遠くの青いそらを見て言いました。その眼も黒く立派でした。
樺の木は又何とか返事しようとしましたがやっぱり何か大へん重苦しくてわずか吐息をつくばかりでした。
そのときです。狐がやって来たのです。
狐は土神がいるのを見るとはっと顔色を変えました。けれども戻るわけにも行かず少しふるえながら樺の木の前に進んで来ました。
「樺の木さん、お早う、そちらに居られるのは土神ですね。」狐は赤革の靴をはき茶色のレインコートを着てまだ夏帽子をかぶりながらこう言いました。
「わしは土神だ。いい天気だ。な。」土神はほんとうに明るい気持ちでこう言いました。狐は嫉ましさに顔を青くしながら樺の木に言いました。
「お客さまが来てる所に入ってしまって失礼いたしました。これはこの間約束した本です。それから望遠鏡はいつかはれた晩にお目にかけます。さよなら。」
「まあ、ありがとうございます。」と樺の木が言っているうちに狐はもう土神に挨拶もしないでさっさと戻りはじめました。樺の木はさっと青くなってまた小さくぷりぷりふるいました。
土神はしばらくの間ただぼんやりと狐を見送って立っていましたが、ふと狐の赤革の靴がキラッと草に光るのにびっくりして我に返ったと思ったら突然頭がぐらっとしました。狐がいかにも意地をはったように肩をいからせてぐんぐん向こうへ歩いているのです。土神はむらむらっと怒りました。顔も物凄くまっ黒に変わったのです。美学の本だの望遠鏡だのと、ちくしょう、さあ、どうするか見てろ、といきなり狐のあとを追いかけました。樺の木はあわてて枝が一ぺんにがたがたふるえ、狐もその気配にどうかしたのかと思って何気なくうしろを見たら、土神がまるで黒くなって嵐のように追って来るのでした。さあ狐はさっと顔いろを変え口もまがり風のように走ってにげ出しました。
土神はまるでそこら中の草がまっ白な火になって燃えているように思いました。青く光っていた空さえ突然ガランとまっ暗な穴になってその底では赤い焔がどうどう音を立てて燃えるのかと思ったのです。
二人はごうごう鳴って汽車のように走りました。
「もうおしまいだ、もうおしまいだ、望遠鏡、望遠鏡、望遠鏡」と狐は一心に頭の隅のとこで考えながら夢のように走っていました。
向こうに小さな赤剥の丘がありました。狐はその下の丸い穴に入ろうとしてくるっと一つまわりました。それから首を低くしていきなり中へ飛び込もうとして後足をちらっとあげた時、もう土神はうしろからぱっと飛びかかっていました。と思うと狐はもう土神に体をねじられて口を尖らせて少し笑ったようになったままぐんにゃりと土神の手の上に首を垂れていたのです。
土神はいきなり狐を地べたに投げつけてぐちゃぐちゃ四・五回踏みつけました。
それからいきなり狐の穴の中にとび込んで行きました。中はがらんとして暗く、ただ赤土が奇麗に固められているだけでした。土神は大きく口をまげてあけながら少し変な気がして外へ出て来ました。
それからぐったり横になっている狐の屍骸のレインコートの隠しポケットの中に手を入れてみました。その隠しポケットの中には茶色いカモガヤの穂が二本入っていました。土神はさっきからあいていた口をそのまま、まるでとんでもない声で泣き出しました。
そのなみだは雨のように狐に降り、狐はますます首をぐんにゃりとさせてうすら笑ったようになって死んでいたのです。 | 狐の屍骸のレインコートの隠しポケットの中に入っていたのはなんですか。 | 隠しポケットの中には茶色いカモガヤの穂が二本入っていました。 |
JCRRAG_010466 | 国語 | とうとう秋になりました。樺の木はまだまっ青でしたがその辺のエノコログサはもうすっかり黄金の穂を出して風に光りところどころすずらんの実も赤く熟しました。
あるすきとおるように黄金の秋の日、土神はとても上機嫌でした。今年の夏からのいろいろな辛い思いが何だかぼうっとみんな立派なもやのようなものに変わって頭の上に環になってかかったように思いました。そしてもうあの不思議に意地の悪い性質もどこかへ行ってしまって、樺の木なども狐と話したいなら話すがいい、両方ともうれしくてはなすのならほんとうにいいことなんだ、今日はそのことを樺の木にいってやろうと思いながら土神は心も軽く樺の木の方へ歩いて行きました。
樺の木は遠くからそれを見ていました。
そしてやっぱり心配そうにぶるぶるふるえて待ちました。
土神は進んで行って気軽に挨拶しました。
「樺の木さん。おはよう。実にいい天気だな。」
「お早うございます。いいお天気でございます。」
「天道というものはありがたいもんだ。春は赤く夏は白く秋は黄いろく、秋が黄いろになると葡萄は紫になる。実にありがたいもんだ。」
「全くでございます。」
「わしはな、今日は大へんに気分がいいんだ。今年の夏から実にいろいろつらい目にあったのだがやっと今朝からにわかに心持ちが軽くなった。」
樺の木は返事しようとしましたがなぜかそれが非常に重苦しいことのように思われて返事しかねました。
「わしはいまなら誰のためにでも命をやる。みみずが死ななければならんならそれにもわしはかわってやっていいのだ。」土神は遠くの青いそらを見て言いました。その眼も黒く立派でした。
樺の木は又何とか返事しようとしましたがやっぱり何か大へん重苦しくてわずか吐息をつくばかりでした。
そのときです。狐がやって来たのです。
狐は土神がいるのを見るとはっと顔色を変えました。けれども戻るわけにも行かず少しふるえながら樺の木の前に進んで来ました。
「樺の木さん、お早う、そちらに居られるのは土神ですね。」狐は赤革の靴をはき茶色のレインコートを着てまだ夏帽子をかぶりながらこう言いました。
「わしは土神だ。いい天気だ。な。」土神はほんとうに明るい気持ちでこう言いました。狐は嫉ましさに顔を青くしながら樺の木に言いました。
「お客さまが来てる所に入ってしまって失礼いたしました。これはこの間約束した本です。それから望遠鏡はいつかはれた晩にお目にかけます。さよなら。」
「まあ、ありがとうございます。」と樺の木が言っているうちに狐はもう土神に挨拶もしないでさっさと戻りはじめました。樺の木はさっと青くなってまた小さくぷりぷりふるいました。
土神はしばらくの間ただぼんやりと狐を見送って立っていましたが、ふと狐の赤革の靴がキラッと草に光るのにびっくりして我に返ったと思ったら突然頭がぐらっとしました。狐がいかにも意地をはったように肩をいからせてぐんぐん向こうへ歩いているのです。土神はむらむらっと怒りました。顔も物凄くまっ黒に変わったのです。美学の本だの望遠鏡だのと、ちくしょう、さあ、どうするか見てろ、といきなり狐のあとを追いかけました。樺の木はあわてて枝が一ぺんにがたがたふるえ、狐もその気配にどうかしたのかと思って何気なくうしろを見たら、土神がまるで黒くなって嵐のように追って来るのでした。さあ狐はさっと顔いろを変え口もまがり風のように走ってにげ出しました。
土神はまるでそこら中の草がまっ白な火になって燃えているように思いました。青く光っていた空さえ突然ガランとまっ暗な穴になってその底では赤い焔がどうどう音を立てて燃えるのかと思ったのです。
二人はごうごう鳴って汽車のように走りました。
「もうおしまいだ、もうおしまいだ、望遠鏡、望遠鏡、望遠鏡」と狐は一心に頭の隅のとこで考えながら夢のように走っていました。
向こうに小さな赤剥の丘がありました。狐はその下の丸い穴に入ろうとしてくるっと一つまわりました。それから首を低くしていきなり中へ飛び込もうとして後足をちらっとあげた時、もう土神はうしろからぱっと飛びかかっていました。と思うと狐はもう土神に体をねじられて口を尖らせて少し笑ったようになったままぐんにゃりと土神の手の上に首を垂れていたのです。
土神はいきなり狐を地べたに投げつけてぐちゃぐちゃ四・五回踏みつけました。
それからいきなり狐の穴の中にとび込んで行きました。中はがらんとして暗く、ただ赤土が奇麗に固められているだけでした。土神は大きく口をまげてあけながら少し変な気がして外へ出て来ました。
それからぐったり横になっている狐の屍骸のレインコートの隠しポケットの中に手を入れてみました。その隠しポケットの中には茶色いカモガヤの穂が二本入っていました。土神はさっきからあいていた口をそのまま、まるでとんでもない声で泣き出しました。
そのなみだは雨のように狐に降り、狐はますます首をぐんにゃりとさせてうすら笑ったようになって死んでいたのです。 | 土神がとび込んだ狐の穴の中はどうなっていましたか。 | 中はがらんとして暗く、ただ赤土が奇麗に固められているだけでした。 |
JCRRAG_010467 | 国語 | ある小雨の降る晩のことです。私を乗せた人力車は、何度も大森界隈の険しい坂を上ったり下りたりして、やっと竹藪に囲まれた小さな西洋館の前に梶棒を下ろしました。もう鼠色のペンキのはげかかった、狭苦しい玄関には、車夫の出した提灯の明りで見ると、インド人マティラム・ミスラと日本字で書いた、これだけは新しい、瀬戸物の表札がかかっています。
マティラム・ミスラ君といえば、もう皆さんの中にも、御存じの方が少なくないかも知れません。ミスラ君は長年インドの独立を計っているカルカッタ生まれの愛国者で、同時にまたハッサン・カンという名高いバラモンの秘法を学んだ、年の若い魔術の大家なのです。私はちょうど一月ばかり以前から、ある友人の紹介でミスラ君と交際していましたが、政治経済の問題などはいろいろ議論したことがあっても、肝心の魔術を使う時には、まだ一度も居合わせたことがありません。そこで今夜は前もって、魔術を使って見せてくれるように、手紙で頼んでおいてから、当時ミスラ君の住んでいた、寂しい大森の町はずれまで、人力車を急がせて来たのです。
私は雨に濡れながら、おぼつかない車夫の提灯の明りを便りにその表札の下にある呼鈴のボタンを押しました。すると間もなく戸が開いて、玄関へ顔を出したのは、ミスラ君の世話をしている、背の低い日本人のお婆さんです。
「ミスラ君はいらっしゃいますか。」
「おります。先ほどからあなた様をお待ち兼ねでございました。」
お婆さんは愛想よくこう言いながら、すぐその玄関のつきあたりにある、ミスラ君の部屋へ私を案内しました。
「今晩は、雨が降っているのによくいらっしゃいましたね。」
色のまっ黒な、眼の大きい、柔らかな口髭のミスラ君は、テーブルの上にある石油ランプの芯をねじりながら、元気よく私に挨拶しました。
「いや、あなたの魔術さえ拝見出来れば、雨くらいは何ともありません。」
私は椅子に腰かけてから、うす暗い石油ランプの光に照らされた、陰気な部屋の中を見回しました。
ミスラ君の部屋は質素な西洋間で、真ん中にテーブルが一つ、壁側に手ごろな書棚が一つ、それから窓の前に机が一つ、他にはただ我々の腰をかける椅子が並んでいるだけです。しかもその椅子や机が、みんな古ぼけた物ばかりで、縁にかけて赤く花模様を織り出した、派手なテーブル掛けでさえ、今にもずたずたに裂けるかと思うほど、糸目があらわになっていました。
私たちは挨拶をすませてから、しばらくは外の竹藪に降る雨の音を聞くともなく聞いていましたが、やがてまたあの召使いのお婆さんが、紅茶の道具を持ってはいって来ると、ミスラ君は葉巻の箱の蓋を開けて、
「どうですか。一本。」と勧めてくれました。
「ありがとう。」
私は遠慮なく葉巻を一本取って、マッチの火をうつしながら、
「確かあなたのお使いになる精霊は、ジンとかいう名前でしたね。するとこれから私が拝見する魔術と言うのも、そのジンの力を借りてなさるのですか。」
ミスラ君は自分も葉巻へ火をつけると、にやにや笑いながら、においの好い煙を吐いて、
「ジンなどという精霊がいると思ったのは、もう何百年も昔のことです。アラビヤ夜話の時代のこととでも言いましょうか。私がハッサン・カンから学んだ魔術は、あなたでも使おうと思えば使えますよ。たかが進歩した催眠術に過ぎないのですから。ごらんなさい。この手をただ、こうすればいいのです。」
ミスラ君は手を挙げて、二度三度私の眼の前へ三角形のようなものを描きましたが、やがてその手をテーブルの上へやると、縁へ赤く織り出した模様の花をつまみ上げました。私はびっくりして、思わず椅子をずりよせながら、よくよくその花を眺めましたが、確かにそれは今の今まで、テーブル掛けの中にあった花模様の一つに違いありません。が、ミスラ君がその花を私の鼻の先へ持って来ると、ちょうど麝香か何かのように重苦しい匂いさえするのです。私はあまりの不思議さに、何度も感嘆の声をもらしますと、ミスラ君はやはり微笑したまま、また無造作にその花をテーブル掛けの上へ落としました。もちろん落とすともとの通り花は織り出した模様になって、つまみ上げるどころか、花びら一つ自由には動かせなくなってしまうのです。
| 瀬戸物の表札に書かれた名前はなんでしたか。 | 狭苦しい玄関には、車夫の出した提灯の明りで見ると、インド人マティラム・ミスラと日本字で書いた、これだけは新しい、瀬戸物の表札がかかっています。 |
JCRRAG_010468 | 国語 | ある小雨の降る晩のことです。私を乗せた人力車は、何度も大森界隈の険しい坂を上ったり下りたりして、やっと竹藪に囲まれた小さな西洋館の前に梶棒を下ろしました。もう鼠色のペンキのはげかかった、狭苦しい玄関には、車夫の出した提灯の明りで見ると、インド人マティラム・ミスラと日本字で書いた、これだけは新しい、瀬戸物の表札がかかっています。
マティラム・ミスラ君といえば、もう皆さんの中にも、御存じの方が少なくないかも知れません。ミスラ君は長年インドの独立を計っているカルカッタ生まれの愛国者で、同時にまたハッサン・カンという名高いバラモンの秘法を学んだ、年の若い魔術の大家なのです。私はちょうど一月ばかり以前から、ある友人の紹介でミスラ君と交際していましたが、政治経済の問題などはいろいろ議論したことがあっても、肝心の魔術を使う時には、まだ一度も居合わせたことがありません。そこで今夜は前もって、魔術を使って見せてくれるように、手紙で頼んでおいてから、当時ミスラ君の住んでいた、寂しい大森の町はずれまで、人力車を急がせて来たのです。
私は雨に濡れながら、おぼつかない車夫の提灯の明りを便りにその表札の下にある呼鈴のボタンを押しました。すると間もなく戸が開いて、玄関へ顔を出したのは、ミスラ君の世話をしている、背の低い日本人のお婆さんです。
「ミスラ君はいらっしゃいますか。」
「おります。先ほどからあなた様をお待ち兼ねでございました。」
お婆さんは愛想よくこう言いながら、すぐその玄関のつきあたりにある、ミスラ君の部屋へ私を案内しました。
「今晩は、雨が降っているのによくいらっしゃいましたね。」
色のまっ黒な、眼の大きい、柔らかな口髭のミスラ君は、テーブルの上にある石油ランプの芯をねじりながら、元気よく私に挨拶しました。
「いや、あなたの魔術さえ拝見出来れば、雨くらいは何ともありません。」
私は椅子に腰かけてから、うす暗い石油ランプの光に照らされた、陰気な部屋の中を見回しました。
ミスラ君の部屋は質素な西洋間で、真ん中にテーブルが一つ、壁側に手ごろな書棚が一つ、それから窓の前に机が一つ、他にはただ我々の腰をかける椅子が並んでいるだけです。しかもその椅子や机が、みんな古ぼけた物ばかりで、縁にかけて赤く花模様を織り出した、派手なテーブル掛けでさえ、今にもずたずたに裂けるかと思うほど、糸目があらわになっていました。
私たちは挨拶をすませてから、しばらくは外の竹藪に降る雨の音を聞くともなく聞いていましたが、やがてまたあの召使いのお婆さんが、紅茶の道具を持ってはいって来ると、ミスラ君は葉巻の箱の蓋を開けて、
「どうですか。一本。」と勧めてくれました。
「ありがとう。」
私は遠慮なく葉巻を一本取って、マッチの火をうつしながら、
「確かあなたのお使いになる精霊は、ジンとかいう名前でしたね。するとこれから私が拝見する魔術と言うのも、そのジンの力を借りてなさるのですか。」
ミスラ君は自分も葉巻へ火をつけると、にやにや笑いながら、においの好い煙を吐いて、
「ジンなどという精霊がいると思ったのは、もう何百年も昔のことです。アラビヤ夜話の時代のこととでも言いましょうか。私がハッサン・カンから学んだ魔術は、あなたでも使おうと思えば使えますよ。たかが進歩した催眠術に過ぎないのですから。ごらんなさい。この手をただ、こうすればいいのです。」
ミスラ君は手を挙げて、二度三度私の眼の前へ三角形のようなものを描きましたが、やがてその手をテーブルの上へやると、縁へ赤く織り出した模様の花をつまみ上げました。私はびっくりして、思わず椅子をずりよせながら、よくよくその花を眺めましたが、確かにそれは今の今まで、テーブル掛けの中にあった花模様の一つに違いありません。が、ミスラ君がその花を私の鼻の先へ持って来ると、ちょうど麝香か何かのように重苦しい匂いさえするのです。私はあまりの不思議さに、何度も感嘆の声をもらしますと、ミスラ君はやはり微笑したまま、また無造作にその花をテーブル掛けの上へ落としました。もちろん落とすともとの通り花は織り出した模様になって、つまみ上げるどころか、花びら一つ自由には動かせなくなってしまうのです。
| マティラム・ミスラ君はどんな人物ですか。 | ミスラ君は長年インドの独立を計っているカルカッタ生まれの愛国者で、同時にまたハッサン・カンという名高いバラモンの秘法を学んだ、年の若い魔術の大家なのです。 |
JCRRAG_010469 | 国語 | ある小雨の降る晩のことです。私を乗せた人力車は、何度も大森界隈の険しい坂を上ったり下りたりして、やっと竹藪に囲まれた小さな西洋館の前に梶棒を下ろしました。もう鼠色のペンキのはげかかった、狭苦しい玄関には、車夫の出した提灯の明りで見ると、インド人マティラム・ミスラと日本字で書いた、これだけは新しい、瀬戸物の表札がかかっています。
マティラム・ミスラ君といえば、もう皆さんの中にも、御存じの方が少なくないかも知れません。ミスラ君は長年インドの独立を計っているカルカッタ生まれの愛国者で、同時にまたハッサン・カンという名高いバラモンの秘法を学んだ、年の若い魔術の大家なのです。私はちょうど一月ばかり以前から、ある友人の紹介でミスラ君と交際していましたが、政治経済の問題などはいろいろ議論したことがあっても、肝心の魔術を使う時には、まだ一度も居合わせたことがありません。そこで今夜は前もって、魔術を使って見せてくれるように、手紙で頼んでおいてから、当時ミスラ君の住んでいた、寂しい大森の町はずれまで、人力車を急がせて来たのです。
私は雨に濡れながら、おぼつかない車夫の提灯の明りを便りにその表札の下にある呼鈴のボタンを押しました。すると間もなく戸が開いて、玄関へ顔を出したのは、ミスラ君の世話をしている、背の低い日本人のお婆さんです。
「ミスラ君はいらっしゃいますか。」
「おります。先ほどからあなた様をお待ち兼ねでございました。」
お婆さんは愛想よくこう言いながら、すぐその玄関のつきあたりにある、ミスラ君の部屋へ私を案内しました。
「今晩は、雨が降っているのによくいらっしゃいましたね。」
色のまっ黒な、眼の大きい、柔らかな口髭のミスラ君は、テーブルの上にある石油ランプの芯をねじりながら、元気よく私に挨拶しました。
「いや、あなたの魔術さえ拝見出来れば、雨くらいは何ともありません。」
私は椅子に腰かけてから、うす暗い石油ランプの光に照らされた、陰気な部屋の中を見回しました。
ミスラ君の部屋は質素な西洋間で、真ん中にテーブルが一つ、壁側に手ごろな書棚が一つ、それから窓の前に机が一つ、他にはただ我々の腰をかける椅子が並んでいるだけです。しかもその椅子や机が、みんな古ぼけた物ばかりで、縁にかけて赤く花模様を織り出した、派手なテーブル掛けでさえ、今にもずたずたに裂けるかと思うほど、糸目があらわになっていました。
私たちは挨拶をすませてから、しばらくは外の竹藪に降る雨の音を聞くともなく聞いていましたが、やがてまたあの召使いのお婆さんが、紅茶の道具を持ってはいって来ると、ミスラ君は葉巻の箱の蓋を開けて、
「どうですか。一本。」と勧めてくれました。
「ありがとう。」
私は遠慮なく葉巻を一本取って、マッチの火をうつしながら、
「確かあなたのお使いになる精霊は、ジンとかいう名前でしたね。するとこれから私が拝見する魔術と言うのも、そのジンの力を借りてなさるのですか。」
ミスラ君は自分も葉巻へ火をつけると、にやにや笑いながら、においの好い煙を吐いて、
「ジンなどという精霊がいると思ったのは、もう何百年も昔のことです。アラビヤ夜話の時代のこととでも言いましょうか。私がハッサン・カンから学んだ魔術は、あなたでも使おうと思えば使えますよ。たかが進歩した催眠術に過ぎないのですから。ごらんなさい。この手をただ、こうすればいいのです。」
ミスラ君は手を挙げて、二度三度私の眼の前へ三角形のようなものを描きましたが、やがてその手をテーブルの上へやると、縁へ赤く織り出した模様の花をつまみ上げました。私はびっくりして、思わず椅子をずりよせながら、よくよくその花を眺めましたが、確かにそれは今の今まで、テーブル掛けの中にあった花模様の一つに違いありません。が、ミスラ君がその花を私の鼻の先へ持って来ると、ちょうど麝香か何かのように重苦しい匂いさえするのです。私はあまりの不思議さに、何度も感嘆の声をもらしますと、ミスラ君はやはり微笑したまま、また無造作にその花をテーブル掛けの上へ落としました。もちろん落とすともとの通り花は織り出した模様になって、つまみ上げるどころか、花びら一つ自由には動かせなくなってしまうのです。
| 私が呼び鈴のボタンを押すと出てきたのはだれですか。 | 玄関へ顔を出したのは、ミスラ君の世話をしている、背の低い日本人のお婆さんです。 |
JCRRAG_010470 | 国語 | 「どうですか。訳はないでしょう。今度は、このランプをごらんなさい。」
ミスラ君はこう言いながら、ちょいとテーブルの上のランプを置き直しましたが、その拍子にどういう訳か、ランプはまるでコマのように、ぐるぐる回り始めました。それもちゃんと一か所に止まったまま、ホヤを心棒のようにして、勢いよく回り始めたのです。はじめの内は私も大層驚いて、万が一にでも火事になっては大変だと、何度もひやひやしましたが、ミスラ君は静かに紅茶を飲みながら、一向に騒ぐようすもありません。そこで私もしまいには、すっかり度胸がすわってしまって、だんだん早くなるランプの運動を、眼も離さず眺めていました。
また実際ランプの蓋が風を起こして回る中に、黄色い焔がたった一つ、またたきもせずに灯っているのは、何とも言えず美しい、不思議な見物だったのです。が、その内にランプの回るのが、いよいよ早くなって行って、とうとう回っているとは見えないほど、澄み渡ったと思うと、いつの間にか、前のようにホヤ一つゆがんだ様子もなく、テーブルの上に据っていました。
「驚きましたか。こんなことはほんの子供だましですよ。それともあなたが御望みなら、もう一つ何かご覧に入れましょう。」
ミスラ君はうしろを振り返って、壁側の書棚を眺めましたが、やがてその方へ手をさし伸ばして、招くように指を動かすと、今度は書棚に並んでいた書物が一冊ずつ動き出して、自然にテーブルの上まで飛んで来ました。そのまた飛び方が両方へ表紙を開いて、夏の夕方に飛び交うコウモリのように、ひらひらと宙へ舞い上るのです。私は葉巻を口にくわえたまま、呆気にとられて見ていましたが、書物はうす暗いランプの光の中に何冊も自由に飛び回って、ひとつひとつ行儀よくテーブルの上へピラミッドの形に積み上がりました。しかも残らずこちらへ移ってしまったと思うと、すぐに最初に来たのから動き出して、もとの書棚へ順々に飛び返って行くじゃありませんか。
が、中でも一番面白かったのは、うすい仮綴じの書物が一冊、やはり翼のように表紙を開いて、ふわりと空へ上がりましたが、しばらくテーブルの上で輪を描いてから、急にページをざわつかせると、逆落としに私の膝へさっと下りて来たことです。どうしたのかと思って手にとって見ると、これは私が一週間ばかり前にミスラ君へ貸した覚えがある、フランスの新しい小説でした。
「ながなが本をありがとう。」
ミスラ君はまだ微笑を含んだ声で、こう私に礼を言いました。もちろんその時はもう多くの書物が、みんなテーブルの上から書棚の中へ舞い戻ってしまっていたのです。
| ミスラ君が書棚に手をさし伸ばすとどうなりましたか。 | 今度は書棚に並んでいた書物が一冊ずつ動き出して、自然にテーブルの上まで飛んで来ました。そのまた飛び方が両方へ表紙を開いて、夏の夕方に飛び交うコウモリのように、ひらひらと宙へ舞い上るのです。私は葉巻を口にくわえたまま、呆気にとられて見ていましたが、書物はうす暗いランプの光の中に何冊も自由に飛び回って、ひとつひとつ行儀よくテーブルの上へピラミッドの形に積み上がりました。しかも残らずこちらへ移ってしまったと思うと、すぐに最初に来たのから動き出して、もとの書棚へ順々に飛び返って行くじゃありませんか。 |
JCRRAG_010471 | 国語 | 「どうですか。訳はないでしょう。今度は、このランプをごらんなさい。」
ミスラ君はこう言いながら、ちょいとテーブルの上のランプを置き直しましたが、その拍子にどういう訳か、ランプはまるでコマのように、ぐるぐる回り始めました。それもちゃんと一か所に止まったまま、ホヤを心棒のようにして、勢いよく回り始めたのです。はじめの内は私も大層驚いて、万が一にでも火事になっては大変だと、何度もひやひやしましたが、ミスラ君は静かに紅茶を飲みながら、一向に騒ぐようすもありません。そこで私もしまいには、すっかり度胸がすわってしまって、だんだん早くなるランプの運動を、眼も離さず眺めていました。
また実際ランプの蓋が風を起こして回る中に、黄色い焔がたった一つ、またたきもせずに灯っているのは、何とも言えず美しい、不思議な見物だったのです。が、その内にランプの回るのが、いよいよ早くなって行って、とうとう回っているとは見えないほど、澄み渡ったと思うと、いつの間にか、前のようにホヤ一つゆがんだ様子もなく、テーブルの上に据っていました。
「驚きましたか。こんなことはほんの子供だましですよ。それともあなたが御望みなら、もう一つ何かご覧に入れましょう。」
ミスラ君はうしろを振り返って、壁側の書棚を眺めましたが、やがてその方へ手をさし伸ばして、招くように指を動かすと、今度は書棚に並んでいた書物が一冊ずつ動き出して、自然にテーブルの上まで飛んで来ました。そのまた飛び方が両方へ表紙を開いて、夏の夕方に飛び交うコウモリのように、ひらひらと宙へ舞い上るのです。私は葉巻を口にくわえたまま、呆気にとられて見ていましたが、書物はうす暗いランプの光の中に何冊も自由に飛び回って、ひとつひとつ行儀よくテーブルの上へピラミッドの形に積み上がりました。しかも残らずこちらへ移ってしまったと思うと、すぐに最初に来たのから動き出して、もとの書棚へ順々に飛び返って行くじゃありませんか。
が、中でも一番面白かったのは、うすい仮綴じの書物が一冊、やはり翼のように表紙を開いて、ふわりと空へ上がりましたが、しばらくテーブルの上で輪を描いてから、急にページをざわつかせると、逆落としに私の膝へさっと下りて来たことです。どうしたのかと思って手にとって見ると、これは私が一週間ばかり前にミスラ君へ貸した覚えがある、フランスの新しい小説でした。
「ながなが本をありがとう。」
ミスラ君はまだ微笑を含んだ声で、こう私に礼を言いました。もちろんその時はもう多くの書物が、みんなテーブルの上から書棚の中へ舞い戻ってしまっていたのです。
| ミスラ君の魔術によって、私の膝へさっと下りて来た書物はなんでしたか。 | 私が一週間ばかり前にミスラ君へ貸した覚えがある、フランスの新しい小説でした。 |
JCRRAG_010472 | 国語 | 私は夢からさめたような気持ちで、しばらくは挨拶さえ出来ませんでしたが、その内にさっきミスラ君の言った、「私の魔術などというものは、あなたでも使おうと思えば使えるのです。」という言葉を思い出しましたから、
「いや、以前から評判は聞いていましたが、あなたのお使いなさる魔術が、これほど不思議なものだろうとは、実際、思いもよりませんでした。ところで私のような人間にも、使って使えないことがないと言うのは、ご冗談ではないのですか。」
「使えますとも。誰にでもたやすく使えます。ただ」と言いかけてミスラ君はじっと私の顔を眺めながら、いつになく真面目な口調になって、
「ただ、欲のある人間には使えません。ハッサン・カンの魔術を習おうと思ったら、まず欲を捨てることです。あなたにはそれが出来ますか。」
と聞いてきました。
「出来るつもりです。」
私はこう答えましたが、何となく不安な気もしたので、すぐにまた後から言葉を添えました。
「魔術さえ教えて頂ければ。」
それでもミスラ君は疑わしそうな眼つきを見せましたが、さすがにこの上に念を押すのは無責任だとでも思ったのでしょう。やがて大きくに頷きながら、
「では教えてあげましょう。が、いくらたやすく使えると言っても、習うのには時間もかかりますから、今夜は私の所へ御泊まりなさい。」
「どうもいろいろ恐れ入ります。」
私は魔術を教えて貰う嬉しさに、何度もミスラ君へ御礼を言いました。が、ミスラ君はそんなことに気にする様子もなく、静かに椅子から立ち上がると、
「御婆サン。御婆サン。今夜ハ御客様ガ御泊リニナルカラ、寝床ノ仕度ヲシテ置イテオクレ。」
私は胸を躍らしながら、葉巻の灰をはたくのも忘れて、まともに石油ランプの光を浴びた、親切そうなミスラ君の顔を思わずじっと見上げました。
" | ミスラ君の魔術を使うにはどうすればいいとミスラ君は言いましたか。 | ミスラ君はじっと私の顔を眺めながら、いつになく真面目な口調になって、「ただ、欲のある人間には使えません。ハッサン・カンの魔術を習おうと思ったら、まず欲を捨てることです。あなたにはそれが出来ますか。」と聞いてきました。 |
JCRRAG_010473 | 国語 | 私がミスラ君に魔術を教わってから、一月ばかりたった後のことです。これもやはりざあざあ雨の降る晩でしたが、私は銀座のあるクラブの一室で、五・六人の友人と、暖炉の前へ陣取りながら、気軽な雑談に耽っていました。
何しろここは東京の中心ですから、窓の外に降る雨脚も、ひっきりなしに往来する自働車や馬車の屋根を濡らすせいか、あの、大森の竹藪にしぶくような、ものさびしい音は聞えません。
もちろん窓の内の陽気なことも、明るい電燈の光といい、大きなモロッコ皮の椅子といい、あるいはまた滑かに光っている寄木細工の床といい、見るからに精霊でも出て来そうな、ミスラ君の部屋などとは、まるで比べものにはならないのです。
私たちは葉巻の煙の中に、しばらくは猟の話だの競馬の話だのをしていましたが、その内に一人の友人が、吸いさしの葉巻を暖炉の中に放りこんで、私の方へ振り向きながら、
「君は近頃魔術を使うという評判だが、どうだい。今夜は一つ僕たちの前で使って見せてくれないか。」
「いいとも。」
私は椅子の背に頭をもたせたまま、さも魔術の名人らしく、横柄にこう答えました。
「じゃ、何でも君に任せるから、世間の手品師などには出来そうもない、不思議な術を使って見せてくれたまえ。」
友人たちは皆賛成だと見えて、とても椅子をすり寄せながら、促すように私の方を眺めました。そこで私はおもむろに立ち上って、
「よく見ていてくれたまえよ。僕の使う魔術には、種もしかけもないのだから。」
私はこう言いながら、両手のカフスをまくり上げて、暖炉の中で燃え盛っている石炭を、無造作に掌の上へすくい上げました。私を囲んでいた友人たちは、これだけでも、もう非常に驚いたのでしょう。皆顔を見合せながらうっかり側へ寄って火傷でもしては大変だと、気味悪そうにしりごみさえし始めるのです。
そこで私の方はいよいよ落ち着き払って、その掌の上の石炭の火を、しばらく一同の眼の前へつきつけてから、今度はそれを勢いよく寄木細工の床へ撒き散らしました。その途端です、窓の外に降る雨の音を圧して、もう一つ変わった雨の音が突然床の上から起こったのは。と言うのはまっ赤な石炭の火が、私の手の平を離れると同時に、無数の美しい金貨になって、雨のように床の上へこぼれ落ちました。
友人たちは皆、夢でも見ているように、茫然と喝采するのさえも忘れていました。
「まずちょいとこんなものさ。」
私は得意の微笑を浮かべながら、静かにまた元の椅子に腰を下しました。
「こりゃ全部ほんとうの金貨かい。」
呆気にとられていた友人の一人が、ようやくこう私に尋ねたのは、それから五分ばかりたった後のことです。
「ほんとうの金貨さ。嘘だと思ったら、手にとって見たまえ。」
友人の一人は恐る恐る、床の上の金貨を手にとって見ましたが、「なるほど、こりゃほんとうの金貨だ」友人は納得しました。
「おい、給仕、箒とちり取りを持って来て、これを皆掃き集めてくれ。」
給仕はすぐに言いつけられた通り、床の上の金貨を掃き集めて、うずたかく側のテーブルへ盛り上げました。友人たちは皆そのテーブルのまわりを囲みながら、
「ざっと二十万円くらいはありそうだね。」
「いや、もっとありそうだ。華奢なテーブルだった日には、つぶれてしまうくらいあるじゃないか。」
「何しろ大した魔術を習ったものだ。石炭の火がすぐに金貨になるのだから。」
「これじゃ一週間とたたない内に、岩崎や三井にも負けないような金満家になってしまうだろう。」などと、口々に私の魔術を褒めたたえました。が、私はやはり椅子によりかかったまま、悠然と葉巻の煙を吐いて、
「いや、僕の魔術というやつは、一旦欲の心を起こしたら、二度と使うことが出来ないのだ。だからこの金貨にしても、君たちが見てしまった上は、すぐにまた元の暖炉の中へほうりこんでしまおうと思っている。」
と言いました。
友人たちは私の言葉を聞くと、打ち合わせしたかのように、反対し始めました。これだけの大金を元の石炭にしてしまうのは、もったいない話だと言うのです。が、私はミスラ君に約束した手前もありますから、どうしても暖炉にほうりこむと、剛情に友人たちと争いました。
| 私が魔術を使って掌の上の石炭の火を床へ撒き散らしたらどうなりましたか。 | まっ赤な石炭の火が、私の手の平を離れると同時に、無数の美しい金貨になって、雨のように床の上へこぼれ落ちました。 |
JCRRAG_010474 | 国語 | 私がミスラ君に魔術を教わってから、一月ばかりたった後のことです。これもやはりざあざあ雨の降る晩でしたが、私は銀座のあるクラブの一室で、五・六人の友人と、暖炉の前へ陣取りながら、気軽な雑談に耽っていました。
何しろここは東京の中心ですから、窓の外に降る雨脚も、ひっきりなしに往来する自働車や馬車の屋根を濡らすせいか、あの、大森の竹藪にしぶくような、ものさびしい音は聞えません。
もちろん窓の内の陽気なことも、明るい電燈の光といい、大きなモロッコ皮の椅子といい、あるいはまた滑かに光っている寄木細工の床といい、見るからに精霊でも出て来そうな、ミスラ君の部屋などとは、まるで比べものにはならないのです。
私たちは葉巻の煙の中に、しばらくは猟の話だの競馬の話だのをしていましたが、その内に一人の友人が、吸いさしの葉巻を暖炉の中に放りこんで、私の方へ振り向きながら、
「君は近頃魔術を使うという評判だが、どうだい。今夜は一つ僕たちの前で使って見せてくれないか。」
「いいとも。」
私は椅子の背に頭をもたせたまま、さも魔術の名人らしく、横柄にこう答えました。
「じゃ、何でも君に任せるから、世間の手品師などには出来そうもない、不思議な術を使って見せてくれたまえ。」
友人たちは皆賛成だと見えて、とても椅子をすり寄せながら、促すように私の方を眺めました。そこで私はおもむろに立ち上って、
「よく見ていてくれたまえよ。僕の使う魔術には、種もしかけもないのだから。」
私はこう言いながら、両手のカフスをまくり上げて、暖炉の中で燃え盛っている石炭を、無造作に掌の上へすくい上げました。私を囲んでいた友人たちは、これだけでも、もう非常に驚いたのでしょう。皆顔を見合せながらうっかり側へ寄って火傷でもしては大変だと、気味悪そうにしりごみさえし始めるのです。
そこで私の方はいよいよ落ち着き払って、その掌の上の石炭の火を、しばらく一同の眼の前へつきつけてから、今度はそれを勢いよく寄木細工の床へ撒き散らしました。その途端です、窓の外に降る雨の音を圧して、もう一つ変わった雨の音が突然床の上から起こったのは。と言うのはまっ赤な石炭の火が、私の手の平を離れると同時に、無数の美しい金貨になって、雨のように床の上へこぼれ落ちました。
友人たちは皆、夢でも見ているように、茫然と喝采するのさえも忘れていました。
「まずちょいとこんなものさ。」
私は得意の微笑を浮かべながら、静かにまた元の椅子に腰を下しました。
「こりゃ全部ほんとうの金貨かい。」
呆気にとられていた友人の一人が、ようやくこう私に尋ねたのは、それから五分ばかりたった後のことです。
「ほんとうの金貨さ。嘘だと思ったら、手にとって見たまえ。」
友人の一人は恐る恐る、床の上の金貨を手にとって見ましたが、「なるほど、こりゃほんとうの金貨だ」友人は納得しました。
「おい、給仕、箒とちり取りを持って来て、これを皆掃き集めてくれ。」
給仕はすぐに言いつけられた通り、床の上の金貨を掃き集めて、うずたかく側のテーブルへ盛り上げました。友人たちは皆そのテーブルのまわりを囲みながら、
「ざっと二十万円くらいはありそうだね。」
「いや、もっとありそうだ。華奢なテーブルだった日には、つぶれてしまうくらいあるじゃないか。」
「何しろ大した魔術を習ったものだ。石炭の火がすぐに金貨になるのだから。」
「これじゃ一週間とたたない内に、岩崎や三井にも負けないような金満家になってしまうだろう。」などと、口々に私の魔術を褒めたたえました。が、私はやはり椅子によりかかったまま、悠然と葉巻の煙を吐いて、
「いや、僕の魔術というやつは、一旦欲の心を起こしたら、二度と使うことが出来ないのだ。だからこの金貨にしても、君たちが見てしまった上は、すぐにまた元の暖炉の中へほうりこんでしまおうと思っている。」
と言いました。
友人たちは私の言葉を聞くと、打ち合わせしたかのように、反対し始めました。これだけの大金を元の石炭にしてしまうのは、もったいない話だと言うのです。が、私はミスラ君に約束した手前もありますから、どうしても暖炉にほうりこむと、剛情に友人たちと争いました。
| 私が魔術で出した金貨はほんとうの金貨でしたか。 | 友人の一人は恐る恐る、床の上の金貨を手にとって見ましたが、「なるほど、こりゃほんとうの金貨だ」友人は納得しました。 |
JCRRAG_010475 | 国語 | 私がミスラ君に魔術を教わってから、一月ばかりたった後のことです。これもやはりざあざあ雨の降る晩でしたが、私は銀座のあるクラブの一室で、五・六人の友人と、暖炉の前へ陣取りながら、気軽な雑談に耽っていました。
何しろここは東京の中心ですから、窓の外に降る雨脚も、ひっきりなしに往来する自働車や馬車の屋根を濡らすせいか、あの、大森の竹藪にしぶくような、ものさびしい音は聞えません。
もちろん窓の内の陽気なことも、明るい電燈の光といい、大きなモロッコ皮の椅子といい、あるいはまた滑かに光っている寄木細工の床といい、見るからに精霊でも出て来そうな、ミスラ君の部屋などとは、まるで比べものにはならないのです。
私たちは葉巻の煙の中に、しばらくは猟の話だの競馬の話だのをしていましたが、その内に一人の友人が、吸いさしの葉巻を暖炉の中に放りこんで、私の方へ振り向きながら、
「君は近頃魔術を使うという評判だが、どうだい。今夜は一つ僕たちの前で使って見せてくれないか。」
「いいとも。」
私は椅子の背に頭をもたせたまま、さも魔術の名人らしく、横柄にこう答えました。
「じゃ、何でも君に任せるから、世間の手品師などには出来そうもない、不思議な術を使って見せてくれたまえ。」
友人たちは皆賛成だと見えて、とても椅子をすり寄せながら、促すように私の方を眺めました。そこで私はおもむろに立ち上って、
「よく見ていてくれたまえよ。僕の使う魔術には、種もしかけもないのだから。」
私はこう言いながら、両手のカフスをまくり上げて、暖炉の中で燃え盛っている石炭を、無造作に掌の上へすくい上げました。私を囲んでいた友人たちは、これだけでも、もう非常に驚いたのでしょう。皆顔を見合せながらうっかり側へ寄って火傷でもしては大変だと、気味悪そうにしりごみさえし始めるのです。
そこで私の方はいよいよ落ち着き払って、その掌の上の石炭の火を、しばらく一同の眼の前へつきつけてから、今度はそれを勢いよく寄木細工の床へ撒き散らしました。その途端です、窓の外に降る雨の音を圧して、もう一つ変わった雨の音が突然床の上から起こったのは。と言うのはまっ赤な石炭の火が、私の手の平を離れると同時に、無数の美しい金貨になって、雨のように床の上へこぼれ落ちました。
友人たちは皆、夢でも見ているように、茫然と喝采するのさえも忘れていました。
「まずちょいとこんなものさ。」
私は得意の微笑を浮かべながら、静かにまた元の椅子に腰を下しました。
「こりゃ全部ほんとうの金貨かい。」
呆気にとられていた友人の一人が、ようやくこう私に尋ねたのは、それから五分ばかりたった後のことです。
「ほんとうの金貨さ。嘘だと思ったら、手にとって見たまえ。」
友人の一人は恐る恐る、床の上の金貨を手にとって見ましたが、「なるほど、こりゃほんとうの金貨だ」友人は納得しました。
「おい、給仕、箒とちり取りを持って来て、これを皆掃き集めてくれ。」
給仕はすぐに言いつけられた通り、床の上の金貨を掃き集めて、うずたかく側のテーブルへ盛り上げました。友人たちは皆そのテーブルのまわりを囲みながら、
「ざっと二十万円くらいはありそうだね。」
「いや、もっとありそうだ。華奢なテーブルだった日には、つぶれてしまうくらいあるじゃないか。」
「何しろ大した魔術を習ったものだ。石炭の火がすぐに金貨になるのだから。」
「これじゃ一週間とたたない内に、岩崎や三井にも負けないような金満家になってしまうだろう。」などと、口々に私の魔術を褒めたたえました。が、私はやはり椅子によりかかったまま、悠然と葉巻の煙を吐いて、
「いや、僕の魔術というやつは、一旦欲の心を起こしたら、二度と使うことが出来ないのだ。だからこの金貨にしても、君たちが見てしまった上は、すぐにまた元の暖炉の中へほうりこんでしまおうと思っている。」
と言いました。
友人たちは私の言葉を聞くと、打ち合わせしたかのように、反対し始めました。これだけの大金を元の石炭にしてしまうのは、もったいない話だと言うのです。が、私はミスラ君に約束した手前もありますから、どうしても暖炉にほうりこむと、剛情に友人たちと争いました。
| 私は魔術で出した金貨をどうすると言いましたか。 | 私はやはり椅子によりかかったまま、悠然と葉巻の煙を吐いて、「いや、僕の魔術というやつは、一旦欲の心を起こしたら、二度と使うことが出来ないのだ。だからこの金貨にしても、君たちが見てしまった上は、すぐにまた元の暖炉の中へほうりこんでしまおうと思っている。」と言いました。 |
JCRRAG_010476 | 国語 | 私がミスラ君に魔術を教わってから、一月ばかりたった後のことです。これもやはりざあざあ雨の降る晩でしたが、私は銀座のあるクラブの一室で、五・六人の友人と、暖炉の前へ陣取りながら、気軽な雑談に耽っていました。
何しろここは東京の中心ですから、窓の外に降る雨脚も、ひっきりなしに往来する自働車や馬車の屋根を濡らすせいか、あの、大森の竹藪にしぶくような、ものさびしい音は聞えません。
もちろん窓の内の陽気なことも、明るい電燈の光といい、大きなモロッコ皮の椅子といい、あるいはまた滑かに光っている寄木細工の床といい、見るからに精霊でも出て来そうな、ミスラ君の部屋などとは、まるで比べものにはならないのです。
私たちは葉巻の煙の中に、しばらくは猟の話だの競馬の話だのをしていましたが、その内に一人の友人が、吸いさしの葉巻を暖炉の中に放りこんで、私の方へ振り向きながら、
「君は近頃魔術を使うという評判だが、どうだい。今夜は一つ僕たちの前で使って見せてくれないか。」
「いいとも。」
私は椅子の背に頭をもたせたまま、さも魔術の名人らしく、横柄にこう答えました。
「じゃ、何でも君に任せるから、世間の手品師などには出来そうもない、不思議な術を使って見せてくれたまえ。」
友人たちは皆賛成だと見えて、とても椅子をすり寄せながら、促すように私の方を眺めました。そこで私はおもむろに立ち上って、
「よく見ていてくれたまえよ。僕の使う魔術には、種もしかけもないのだから。」
私はこう言いながら、両手のカフスをまくり上げて、暖炉の中で燃え盛っている石炭を、無造作に掌の上へすくい上げました。私を囲んでいた友人たちは、これだけでも、もう非常に驚いたのでしょう。皆顔を見合せながらうっかり側へ寄って火傷でもしては大変だと、気味悪そうにしりごみさえし始めるのです。
そこで私の方はいよいよ落ち着き払って、その掌の上の石炭の火を、しばらく一同の眼の前へつきつけてから、今度はそれを勢いよく寄木細工の床へ撒き散らしました。その途端です、窓の外に降る雨の音を圧して、もう一つ変わった雨の音が突然床の上から起こったのは。と言うのはまっ赤な石炭の火が、私の手の平を離れると同時に、無数の美しい金貨になって、雨のように床の上へこぼれ落ちました。
友人たちは皆、夢でも見ているように、茫然と喝采するのさえも忘れていました。
「まずちょいとこんなものさ。」
私は得意の微笑を浮かべながら、静かにまた元の椅子に腰を下しました。
「こりゃ全部ほんとうの金貨かい。」
呆気にとられていた友人の一人が、ようやくこう私に尋ねたのは、それから五分ばかりたった後のことです。
「ほんとうの金貨さ。嘘だと思ったら、手にとって見たまえ。」
友人の一人は恐る恐る、床の上の金貨を手にとって見ましたが、「なるほど、こりゃほんとうの金貨だ」友人は納得しました。
「おい、給仕、箒とちり取りを持って来て、これを皆掃き集めてくれ。」
給仕はすぐに言いつけられた通り、床の上の金貨を掃き集めて、うずたかく側のテーブルへ盛り上げました。友人たちは皆そのテーブルのまわりを囲みながら、
「ざっと二十万円くらいはありそうだね。」
「いや、もっとありそうだ。華奢なテーブルだった日には、つぶれてしまうくらいあるじゃないか。」
「何しろ大した魔術を習ったものだ。石炭の火がすぐに金貨になるのだから。」
「これじゃ一週間とたたない内に、岩崎や三井にも負けないような金満家になってしまうだろう。」などと、口々に私の魔術を褒めたたえました。が、私はやはり椅子によりかかったまま、悠然と葉巻の煙を吐いて、
「いや、僕の魔術というやつは、一旦欲の心を起こしたら、二度と使うことが出来ないのだ。だからこの金貨にしても、君たちが見てしまった上は、すぐにまた元の暖炉の中へほうりこんでしまおうと思っている。」
と言いました。
友人たちは私の言葉を聞くと、打ち合わせしたかのように、反対し始めました。これだけの大金を元の石炭にしてしまうのは、もったいない話だと言うのです。が、私はミスラ君に約束した手前もありますから、どうしても暖炉にほうりこむと、剛情に友人たちと争いました。
| 私が金貨を暖炉の中へとほうりこんでしまおうと思っていると言ったら友人はどうしましたか。 | 友人たちは私の言葉を聞くと、打ち合わせしたかのように、反対し始めました。これだけの大金を元の石炭にしてしまうのは、もったいない話だと言うのです。が、私はミスラ君に約束した手前もありますから、どうしても暖炉にほうりこむと、剛情に友人たちと争いました。 |
JCRRAG_010477 | 国語 | その友人たちの中でも、一番狡猾だという評判のある奴が、鼻の先で、せせら笑いながら、
「君はこの金貨を元の石炭にしようと言う。僕たちはまたしたくないと言う。それじゃいつまでたった所で、議論が終わらないのは当たり前だろう。そこで僕が思うには、この金貨を元手にして、君が僕たちとかるたをするのだ。そうしてもし君が勝ったなら、石炭にするとも何にするとも、自由に君が始末するがいい。が、もし僕たちが勝ったなら、金貨のまま僕たちへ渡したまえ。そうすればお互いの意見も立って、至極満足するじゃないか。」
という提案をしました。
それでも私はまだ首を振って、簡単にはその申し出に賛成しようとはしませんでした。ところがその友人は、いよいよあざけるような笑みを浮べながら、私とテーブルの上の金貨とをずる賢そうにじろじろ見比べて、
「君が僕たちとかるたをしないのは、つまりその金貨を僕たちに取られたくないと思うからだろう。それなら魔術を使うために、欲心を捨てたとか何とかいう、折角の君の決心も怪しくなってくる訳じゃないか。」
「いや、何も僕は、この金貨が惜しいから石炭にするのじゃない。」
「それならかるたをやりたまえよ。」
何度もこういう押し問答を繰り返した後で、とうとう私はその友人の言葉通りに、テーブルの上の金貨を元手に、どうしてもかるたを闘わなければならない羽目になりました。勿論友人たちは皆大喜びで、すぐにトランプを一組取り寄せると、部屋の片隅にあるかるた机を囲みながら、まだためらいがちな私を早く早くと急き立てるのです。
ですから私も仕方がなく、しばらくの間は友人たちを相手に、いやいやかるたをしていました。が、どういうものか、その夜に限って、ふだんは格別かるた上手でもない私が、嘘のようにどんどん勝つのです。するとまた妙なもので、始めは気乗りもしなかったのが、だんだん面白くなり始めて、ものの十分とたたない内に、いつか私は全てを忘れて、熱心にかるたを引き始めました。
友人たちは、元々私から、あの金貨を残らずまき上げるつもりで、わざわざかるたを始めたのですから、こうなると皆焦りに焦って、ほとんど血相さえ変わるかと思うほど、夢中になって勝負を争いました。が、いくら友人たちが躍起となっても、私は一度も負けないばかりか、とうとうしまいには、あの金貨とほぼ同じほどの金額分、私の方が勝ってしまったじゃありませんか。するとさっきの人の悪い友人が、まるで、狂ったような勢いで、私の前に、札をつきつけながら、
「さあ、引きたまえ。僕は僕の財産にすっかり賭ける。地面も、家作も、馬も、自動車も、一つ残らず賭けてしまう。その代わり君はあの金貨のほかに、今まで君が勝った金をことごとく賭けるのだ。さあ、引きたまえ。」
私はこの瞬間に欲が出ました。テーブルの上に積んである、山のような金貨ばかりか、せっかく私が勝った金さえ、今度運悪く負けたが最後、皆相手の友人に取られてしまわなければなりません。のみならずこの勝負に勝ちさえすれば、私は向こうの全財産を一度に手に入れることが出来るのです。こんな時に使わなければどこで魔術などを教わった、苦労の甲斐があるのでしょう。そう思うと私は矢も楯もたまらなくなって、そっと魔術を使いました。決闘でもするような勢いで、
「よろしい。まず君から引き給え。」
友人は九を引きました。
私はキングを引きました。
私は勝ち誇った声を挙げながら、真っ青になった相手の眼の前へ、引き当てた札を出して見せました。すると不思議にもそのかるたのキングが、まるで魂がはいったように、冠をかぶった頭をもたげて、ひょいと札の外へ体を出すと、行儀よく剣を持ったまま、にやりと気味の悪い微笑を浮べて、
「御婆サン。御婆サン。御客様ハ御帰リニナルソウダカラ、寝床ノ仕度ハシナクテモ好イヨ。」
と、聞き覚えのある声で言うのです。と思うと、どういう訳か、窓の外に降る雨脚までが、急にまたあの大森の竹藪にしぶくような、寂しいざんざん降りの音を立て始めました。
ふと気がついてあたりを見回すと、私はまだうす暗い石油ランプの光を浴びながら、まるであのかるたのキングのような微笑を浮かべているミスラ君と、向かい合って座っていたのです。
私が指の間にはさんだ葉巻の灰さえ、やはり落ちずにたまっている所を見ても、私が一月ばかり経ったと思ったのは、ほんの二・三分の間に見た、ミスラ君による催眠術が見せた夢だったのに違いありません。けれどもその二・三分の短い間に、私がハッサン・カンの魔術の秘法を習う資格のない人間だということは、私自身にもミスラ君にも、明らかになってしまったのです。私は恥ずかしそうに頭を下げたまま、しばらくは口もきけませんでした。
「私の魔術を使おうと思ったら、まず欲を捨てなければなりません。あなたはそれだけの修業が出来ていないのです。」
ミスラ君は気の毒そうな眼つきをしながら、縁へ赤く花模様を織り出したテーブル掛けの上に肘をついて、静かにこう私をたしなめました。 | 友人の中でも一番狡猾な奴の提案を私はうけましたか。 | それでも私はまだ首を振って、簡単にはその申し出に賛成しようとはしませんでした。 |
JCRRAG_010478 | 国語 | その友人たちの中でも、一番狡猾だという評判のある奴が、鼻の先で、せせら笑いながら、
「君はこの金貨を元の石炭にしようと言う。僕たちはまたしたくないと言う。それじゃいつまでたった所で、議論が終わらないのは当たり前だろう。そこで僕が思うには、この金貨を元手にして、君が僕たちとかるたをするのだ。そうしてもし君が勝ったなら、石炭にするとも何にするとも、自由に君が始末するがいい。が、もし僕たちが勝ったなら、金貨のまま僕たちへ渡したまえ。そうすればお互いの意見も立って、至極満足するじゃないか。」
という提案をしました。
それでも私はまだ首を振って、簡単にはその申し出に賛成しようとはしませんでした。ところがその友人は、いよいよあざけるような笑みを浮べながら、私とテーブルの上の金貨とをずる賢そうにじろじろ見比べて、
「君が僕たちとかるたをしないのは、つまりその金貨を僕たちに取られたくないと思うからだろう。それなら魔術を使うために、欲心を捨てたとか何とかいう、折角の君の決心も怪しくなってくる訳じゃないか。」
「いや、何も僕は、この金貨が惜しいから石炭にするのじゃない。」
「それならかるたをやりたまえよ。」
何度もこういう押し問答を繰り返した後で、とうとう私はその友人の言葉通りに、テーブルの上の金貨を元手に、どうしてもかるたを闘わなければならない羽目になりました。勿論友人たちは皆大喜びで、すぐにトランプを一組取り寄せると、部屋の片隅にあるかるた机を囲みながら、まだためらいがちな私を早く早くと急き立てるのです。
ですから私も仕方がなく、しばらくの間は友人たちを相手に、いやいやかるたをしていました。が、どういうものか、その夜に限って、ふだんは格別かるた上手でもない私が、嘘のようにどんどん勝つのです。するとまた妙なもので、始めは気乗りもしなかったのが、だんだん面白くなり始めて、ものの十分とたたない内に、いつか私は全てを忘れて、熱心にかるたを引き始めました。
友人たちは、元々私から、あの金貨を残らずまき上げるつもりで、わざわざかるたを始めたのですから、こうなると皆焦りに焦って、ほとんど血相さえ変わるかと思うほど、夢中になって勝負を争いました。が、いくら友人たちが躍起となっても、私は一度も負けないばかりか、とうとうしまいには、あの金貨とほぼ同じほどの金額分、私の方が勝ってしまったじゃありませんか。するとさっきの人の悪い友人が、まるで、狂ったような勢いで、私の前に、札をつきつけながら、
「さあ、引きたまえ。僕は僕の財産にすっかり賭ける。地面も、家作も、馬も、自動車も、一つ残らず賭けてしまう。その代わり君はあの金貨のほかに、今まで君が勝った金をことごとく賭けるのだ。さあ、引きたまえ。」
私はこの瞬間に欲が出ました。テーブルの上に積んである、山のような金貨ばかりか、せっかく私が勝った金さえ、今度運悪く負けたが最後、皆相手の友人に取られてしまわなければなりません。のみならずこの勝負に勝ちさえすれば、私は向こうの全財産を一度に手に入れることが出来るのです。こんな時に使わなければどこで魔術などを教わった、苦労の甲斐があるのでしょう。そう思うと私は矢も楯もたまらなくなって、そっと魔術を使いました。決闘でもするような勢いで、
「よろしい。まず君から引き給え。」
友人は九を引きました。
私はキングを引きました。
私は勝ち誇った声を挙げながら、真っ青になった相手の眼の前へ、引き当てた札を出して見せました。すると不思議にもそのかるたのキングが、まるで魂がはいったように、冠をかぶった頭をもたげて、ひょいと札の外へ体を出すと、行儀よく剣を持ったまま、にやりと気味の悪い微笑を浮べて、
「御婆サン。御婆サン。御客様ハ御帰リニナルソウダカラ、寝床ノ仕度ハシナクテモ好イヨ。」
と、聞き覚えのある声で言うのです。と思うと、どういう訳か、窓の外に降る雨脚までが、急にまたあの大森の竹藪にしぶくような、寂しいざんざん降りの音を立て始めました。
ふと気がついてあたりを見回すと、私はまだうす暗い石油ランプの光を浴びながら、まるであのかるたのキングのような微笑を浮かべているミスラ君と、向かい合って座っていたのです。
私が指の間にはさんだ葉巻の灰さえ、やはり落ちずにたまっている所を見ても、私が一月ばかり経ったと思ったのは、ほんの二・三分の間に見た、ミスラ君による催眠術が見せた夢だったのに違いありません。けれどもその二・三分の短い間に、私がハッサン・カンの魔術の秘法を習う資格のない人間だということは、私自身にもミスラ君にも、明らかになってしまったのです。私は恥ずかしそうに頭を下げたまま、しばらくは口もきけませんでした。
「私の魔術を使おうと思ったら、まず欲を捨てなければなりません。あなたはそれだけの修業が出来ていないのです。」
ミスラ君は気の毒そうな眼つきをしながら、縁へ赤く花模様を織り出したテーブル掛けの上に肘をついて、静かにこう私をたしなめました。 | 私はかるたの勝負をはじめてどうなりましたか。 | 私も仕方がなく、しばらくの間は友人たちを相手に、いやいやかるたをしていました。が、どういうものか、その夜に限って、ふだんは格別かるた上手でもない私が、嘘のようにどんどん勝つのです。するとまた妙なもので、始めは気乗りもしなかったのが、だんだん面白くなり始めて、ものの十分とたたない内に、いつか私は全てを忘れて、熱心にかるたを引き始めました。 |
JCRRAG_010479 | 国語 | その友人たちの中でも、一番狡猾だという評判のある奴が、鼻の先で、せせら笑いながら、
「君はこの金貨を元の石炭にしようと言う。僕たちはまたしたくないと言う。それじゃいつまでたった所で、議論が終わらないのは当たり前だろう。そこで僕が思うには、この金貨を元手にして、君が僕たちとかるたをするのだ。そうしてもし君が勝ったなら、石炭にするとも何にするとも、自由に君が始末するがいい。が、もし僕たちが勝ったなら、金貨のまま僕たちへ渡したまえ。そうすればお互いの意見も立って、至極満足するじゃないか。」
という提案をしました。
それでも私はまだ首を振って、簡単にはその申し出に賛成しようとはしませんでした。ところがその友人は、いよいよあざけるような笑みを浮べながら、私とテーブルの上の金貨とをずる賢そうにじろじろ見比べて、
「君が僕たちとかるたをしないのは、つまりその金貨を僕たちに取られたくないと思うからだろう。それなら魔術を使うために、欲心を捨てたとか何とかいう、折角の君の決心も怪しくなってくる訳じゃないか。」
「いや、何も僕は、この金貨が惜しいから石炭にするのじゃない。」
「それならかるたをやりたまえよ。」
何度もこういう押し問答を繰り返した後で、とうとう私はその友人の言葉通りに、テーブルの上の金貨を元手に、どうしてもかるたを闘わなければならない羽目になりました。勿論友人たちは皆大喜びで、すぐにトランプを一組取り寄せると、部屋の片隅にあるかるた机を囲みながら、まだためらいがちな私を早く早くと急き立てるのです。
ですから私も仕方がなく、しばらくの間は友人たちを相手に、いやいやかるたをしていました。が、どういうものか、その夜に限って、ふだんは格別かるた上手でもない私が、嘘のようにどんどん勝つのです。するとまた妙なもので、始めは気乗りもしなかったのが、だんだん面白くなり始めて、ものの十分とたたない内に、いつか私は全てを忘れて、熱心にかるたを引き始めました。
友人たちは、元々私から、あの金貨を残らずまき上げるつもりで、わざわざかるたを始めたのですから、こうなると皆焦りに焦って、ほとんど血相さえ変わるかと思うほど、夢中になって勝負を争いました。が、いくら友人たちが躍起となっても、私は一度も負けないばかりか、とうとうしまいには、あの金貨とほぼ同じほどの金額分、私の方が勝ってしまったじゃありませんか。するとさっきの人の悪い友人が、まるで、狂ったような勢いで、私の前に、札をつきつけながら、
「さあ、引きたまえ。僕は僕の財産にすっかり賭ける。地面も、家作も、馬も、自動車も、一つ残らず賭けてしまう。その代わり君はあの金貨のほかに、今まで君が勝った金をことごとく賭けるのだ。さあ、引きたまえ。」
私はこの瞬間に欲が出ました。テーブルの上に積んである、山のような金貨ばかりか、せっかく私が勝った金さえ、今度運悪く負けたが最後、皆相手の友人に取られてしまわなければなりません。のみならずこの勝負に勝ちさえすれば、私は向こうの全財産を一度に手に入れることが出来るのです。こんな時に使わなければどこで魔術などを教わった、苦労の甲斐があるのでしょう。そう思うと私は矢も楯もたまらなくなって、そっと魔術を使いました。決闘でもするような勢いで、
「よろしい。まず君から引き給え。」
友人は九を引きました。
私はキングを引きました。
私は勝ち誇った声を挙げながら、真っ青になった相手の眼の前へ、引き当てた札を出して見せました。すると不思議にもそのかるたのキングが、まるで魂がはいったように、冠をかぶった頭をもたげて、ひょいと札の外へ体を出すと、行儀よく剣を持ったまま、にやりと気味の悪い微笑を浮べて、
「御婆サン。御婆サン。御客様ハ御帰リニナルソウダカラ、寝床ノ仕度ハシナクテモ好イヨ。」
と、聞き覚えのある声で言うのです。と思うと、どういう訳か、窓の外に降る雨脚までが、急にまたあの大森の竹藪にしぶくような、寂しいざんざん降りの音を立て始めました。
ふと気がついてあたりを見回すと、私はまだうす暗い石油ランプの光を浴びながら、まるであのかるたのキングのような微笑を浮かべているミスラ君と、向かい合って座っていたのです。
私が指の間にはさんだ葉巻の灰さえ、やはり落ちずにたまっている所を見ても、私が一月ばかり経ったと思ったのは、ほんの二・三分の間に見た、ミスラ君による催眠術が見せた夢だったのに違いありません。けれどもその二・三分の短い間に、私がハッサン・カンの魔術の秘法を習う資格のない人間だということは、私自身にもミスラ君にも、明らかになってしまったのです。私は恥ずかしそうに頭を下げたまま、しばらくは口もきけませんでした。
「私の魔術を使おうと思ったら、まず欲を捨てなければなりません。あなたはそれだけの修業が出来ていないのです。」
ミスラ君は気の毒そうな眼つきをしながら、縁へ赤く花模様を織り出したテーブル掛けの上に肘をついて、静かにこう私をたしなめました。 | 友人が全財産を賭けた勝負を持ち掛けたら、私はどうしましたか。 | 私はこの瞬間に欲が出ました。テーブルの上に積んである、山のような金貨ばかりか、せっかく私が勝った金さえ、今度運悪く負けたが最後、皆相手の友人に取られてしまわなければなりません。のみならずこの勝負に勝ちさえすれば、私は向こうの全財産を一度に手に入れることが出来るのです。こんな時に使わなければどこで魔術などを教わった、苦労の甲斐があるのでしょう。そう思うと私は矢も楯もたまらなくなって、そっと魔術を使いました。 |
JCRRAG_010480 | 国語 | その友人たちの中でも、一番狡猾だという評判のある奴が、鼻の先で、せせら笑いながら、
「君はこの金貨を元の石炭にしようと言う。僕たちはまたしたくないと言う。それじゃいつまでたった所で、議論が終わらないのは当たり前だろう。そこで僕が思うには、この金貨を元手にして、君が僕たちとかるたをするのだ。そうしてもし君が勝ったなら、石炭にするとも何にするとも、自由に君が始末するがいい。が、もし僕たちが勝ったなら、金貨のまま僕たちへ渡したまえ。そうすればお互いの意見も立って、至極満足するじゃないか。」
という提案をしました。
それでも私はまだ首を振って、簡単にはその申し出に賛成しようとはしませんでした。ところがその友人は、いよいよあざけるような笑みを浮べながら、私とテーブルの上の金貨とをずる賢そうにじろじろ見比べて、
「君が僕たちとかるたをしないのは、つまりその金貨を僕たちに取られたくないと思うからだろう。それなら魔術を使うために、欲心を捨てたとか何とかいう、折角の君の決心も怪しくなってくる訳じゃないか。」
「いや、何も僕は、この金貨が惜しいから石炭にするのじゃない。」
「それならかるたをやりたまえよ。」
何度もこういう押し問答を繰り返した後で、とうとう私はその友人の言葉通りに、テーブルの上の金貨を元手に、どうしてもかるたを闘わなければならない羽目になりました。勿論友人たちは皆大喜びで、すぐにトランプを一組取り寄せると、部屋の片隅にあるかるた机を囲みながら、まだためらいがちな私を早く早くと急き立てるのです。
ですから私も仕方がなく、しばらくの間は友人たちを相手に、いやいやかるたをしていました。が、どういうものか、その夜に限って、ふだんは格別かるた上手でもない私が、嘘のようにどんどん勝つのです。するとまた妙なもので、始めは気乗りもしなかったのが、だんだん面白くなり始めて、ものの十分とたたない内に、いつか私は全てを忘れて、熱心にかるたを引き始めました。
友人たちは、元々私から、あの金貨を残らずまき上げるつもりで、わざわざかるたを始めたのですから、こうなると皆焦りに焦って、ほとんど血相さえ変わるかと思うほど、夢中になって勝負を争いました。が、いくら友人たちが躍起となっても、私は一度も負けないばかりか、とうとうしまいには、あの金貨とほぼ同じほどの金額分、私の方が勝ってしまったじゃありませんか。するとさっきの人の悪い友人が、まるで、狂ったような勢いで、私の前に、札をつきつけながら、
「さあ、引きたまえ。僕は僕の財産にすっかり賭ける。地面も、家作も、馬も、自動車も、一つ残らず賭けてしまう。その代わり君はあの金貨のほかに、今まで君が勝った金をことごとく賭けるのだ。さあ、引きたまえ。」
私はこの瞬間に欲が出ました。テーブルの上に積んである、山のような金貨ばかりか、せっかく私が勝った金さえ、今度運悪く負けたが最後、皆相手の友人に取られてしまわなければなりません。のみならずこの勝負に勝ちさえすれば、私は向こうの全財産を一度に手に入れることが出来るのです。こんな時に使わなければどこで魔術などを教わった、苦労の甲斐があるのでしょう。そう思うと私は矢も楯もたまらなくなって、そっと魔術を使いました。決闘でもするような勢いで、
「よろしい。まず君から引き給え。」
友人は九を引きました。
私はキングを引きました。
私は勝ち誇った声を挙げながら、真っ青になった相手の眼の前へ、引き当てた札を出して見せました。すると不思議にもそのかるたのキングが、まるで魂がはいったように、冠をかぶった頭をもたげて、ひょいと札の外へ体を出すと、行儀よく剣を持ったまま、にやりと気味の悪い微笑を浮べて、
「御婆サン。御婆サン。御客様ハ御帰リニナルソウダカラ、寝床ノ仕度ハシナクテモ好イヨ。」
と、聞き覚えのある声で言うのです。と思うと、どういう訳か、窓の外に降る雨脚までが、急にまたあの大森の竹藪にしぶくような、寂しいざんざん降りの音を立て始めました。
ふと気がついてあたりを見回すと、私はまだうす暗い石油ランプの光を浴びながら、まるであのかるたのキングのような微笑を浮かべているミスラ君と、向かい合って座っていたのです。
私が指の間にはさんだ葉巻の灰さえ、やはり落ちずにたまっている所を見ても、私が一月ばかり経ったと思ったのは、ほんの二・三分の間に見た、ミスラ君による催眠術が見せた夢だったのに違いありません。けれどもその二・三分の短い間に、私がハッサン・カンの魔術の秘法を習う資格のない人間だということは、私自身にもミスラ君にも、明らかになってしまったのです。私は恥ずかしそうに頭を下げたまま、しばらくは口もきけませんでした。
「私の魔術を使おうと思ったら、まず欲を捨てなければなりません。あなたはそれだけの修業が出来ていないのです。」
ミスラ君は気の毒そうな眼つきをしながら、縁へ赤く花模様を織り出したテーブル掛けの上に肘をついて、静かにこう私をたしなめました。 | 私が恥ずかしそうに頭を下げたまま、しばらくは口もきけなかったのはなぜですか。 | 私が一月ばかり経ったと思ったのは、ほんの二・三分の間に見た、ミスラ君による催眠術が見せた夢だったのに違いありません。けれどもその二・三分の短い間に、私がハッサン・カンの魔術の秘法を習う資格のない人間だということは、私自身にもミスラ君にも、明らかになってしまったのです。 |
JCRRAG_010481 | 国語 | 「きみ! ブルはなまいきじゃないか?」と、一人が小声で、ささやくと、
「そうだよ、ブルはなまいきだとも! あんなにいばる男は、世界じゅうにないぜ」と、別の一人が答える。しかし、これも小声だ。
みんなが「ブルはなまいきだ」という。けれど、大きな声でいうものは一人もない。ブルにきこえたら、それこそ、どんな目にあわされるかしれないからだ。なにしろブルは強い。すごく強いんだ。ボクシングのトップ選手だし、おまけに、非常ならんぼうものだ。だれ一人、ブルにかなうものはない。
「来たよ来たよ、だまって!」
ブルがくると、だれもがだまってしまう。うっかりして、相手になると、すぐにらんぼうされるからだ。それほど、みんながブルのことを、こわがってる。ガンと一発顔でもなぐられたら、頬が五日もいたんで、一切れのパンも、かめなくなる。スープばかりすすっていなければならない、という評判なのだ。
そんな評判が、ほんとうだろうか? しかし、ブルの顔とからだつきを見ると、だれでも「なるほど」と思わずにいられない。犬に「ブルドッグ」というのがいる。からだの幅はばがひろくて、骨組みが太い。筋肉という筋肉がはりきってる。頭が大きくてまるい。鼻は低くて上を向いてる。下のあごが上のあごよりつき出ていて、口がひらべったく大きい。かみついたとなったら、死んでもはなさない。すごい猛犬だ。この猛犬の「ブルドッグ」と、いまみんなが「なまいき」だというブルとは、顔も、からだつきも、かみついたら、死んでもはなさないというすごい性質まで、そっくり似てるんだ。いや、似てるから「ブル」とあだ名をつけたのだ。ほんとうの名前は「ポール」だ。けれど、だれも、「ポール」なんて、やさしい呼び方をするものは、一人もいない。かげで「ブル」「ブル」という。そのブルと顔を見合わせたときは、ソッとだまってしまう。
| ブルはなまいきだとみんなが小声で言い合うのはなぜですか。 | みんなが「ブルはなまいきだ」という。けれど、大きな声でいうものは一人もない。ブルにきこえたら、それこそ、どんな目にあわされるかしれないからだ。 |
JCRRAG_010482 | 国語 | 「きみ! ブルはなまいきじゃないか?」と、一人が小声で、ささやくと、
「そうだよ、ブルはなまいきだとも! あんなにいばる男は、世界じゅうにないぜ」と、別の一人が答える。しかし、これも小声だ。
みんなが「ブルはなまいきだ」という。けれど、大きな声でいうものは一人もない。ブルにきこえたら、それこそ、どんな目にあわされるかしれないからだ。なにしろブルは強い。すごく強いんだ。ボクシングのトップ選手だし、おまけに、非常ならんぼうものだ。だれ一人、ブルにかなうものはない。
「来たよ来たよ、だまって!」
ブルがくると、だれもがだまってしまう。うっかりして、相手になると、すぐにらんぼうされるからだ。それほど、みんながブルのことを、こわがってる。ガンと一発顔でもなぐられたら、頬が五日もいたんで、一切れのパンも、かめなくなる。スープばかりすすっていなければならない、という評判なのだ。
そんな評判が、ほんとうだろうか? しかし、ブルの顔とからだつきを見ると、だれでも「なるほど」と思わずにいられない。犬に「ブルドッグ」というのがいる。からだの幅はばがひろくて、骨組みが太い。筋肉という筋肉がはりきってる。頭が大きくてまるい。鼻は低くて上を向いてる。下のあごが上のあごよりつき出ていて、口がひらべったく大きい。かみついたとなったら、死んでもはなさない。すごい猛犬だ。この猛犬の「ブルドッグ」と、いまみんなが「なまいき」だというブルとは、顔も、からだつきも、かみついたら、死んでもはなさないというすごい性質まで、そっくり似てるんだ。いや、似てるから「ブル」とあだ名をつけたのだ。ほんとうの名前は「ポール」だ。けれど、だれも、「ポール」なんて、やさしい呼び方をするものは、一人もいない。かげで「ブル」「ブル」という。そのブルと顔を見合わせたときは、ソッとだまってしまう。
| ブルはなまいきじゃないか?と、一人が小声でささやくとどうなりますか。 | 「そうだよ、ブルはなまいきだとも! あんなにいばる男は、世界じゅうにないぜ」と、別の一人が答える。しかし、これも小声だ。 |
JCRRAG_010483 | 国語 | 「きみ! ブルはなまいきじゃないか?」と、一人が小声で、ささやくと、
「そうだよ、ブルはなまいきだとも! あんなにいばる男は、世界じゅうにないぜ」と、別の一人が答える。しかし、これも小声だ。
みんなが「ブルはなまいきだ」という。けれど、大きな声でいうものは一人もない。ブルにきこえたら、それこそ、どんな目にあわされるかしれないからだ。なにしろブルは強い。すごく強いんだ。ボクシングのトップ選手だし、おまけに、非常ならんぼうものだ。だれ一人、ブルにかなうものはない。
「来たよ来たよ、だまって!」
ブルがくると、だれもがだまってしまう。うっかりして、相手になると、すぐにらんぼうされるからだ。それほど、みんながブルのことを、こわがってる。ガンと一発顔でもなぐられたら、頬が五日もいたんで、一切れのパンも、かめなくなる。スープばかりすすっていなければならない、という評判なのだ。
そんな評判が、ほんとうだろうか? しかし、ブルの顔とからだつきを見ると、だれでも「なるほど」と思わずにいられない。犬に「ブルドッグ」というのがいる。からだの幅はばがひろくて、骨組みが太い。筋肉という筋肉がはりきってる。頭が大きくてまるい。鼻は低くて上を向いてる。下のあごが上のあごよりつき出ていて、口がひらべったく大きい。かみついたとなったら、死んでもはなさない。すごい猛犬だ。この猛犬の「ブルドッグ」と、いまみんなが「なまいき」だというブルとは、顔も、からだつきも、かみついたら、死んでもはなさないというすごい性質まで、そっくり似てるんだ。いや、似てるから「ブル」とあだ名をつけたのだ。ほんとうの名前は「ポール」だ。けれど、だれも、「ポール」なんて、やさしい呼び方をするものは、一人もいない。かげで「ブル」「ブル」という。そのブルと顔を見合わせたときは、ソッとだまってしまう。
| ブルはポールがほんとうの名前なのになぜブルといわれるのですか。 | 「ブルドッグ」と、いまみんなが「なまいき」だというブルとは、顔も、からだつきも、かみついたら、死んでもはなさないというすごい性質まで、そっくり似てるんだ。いや、似てるから「ブル」とあだ名をつけたのだ。 |
JCRRAG_010484 | 国語 | ブルは、みんながだまって、相手にしなくなったから、二、三日前から一人でおこってる。おこっても、相手がいないから、けんかができない。そこで、洗濯代をはらわないのだ。すると、洗濯屋のジョージが、さいそくにきた。この洗濯屋のジョージも強い。牧場で牛があばれだしたとき、走っていってとりおさえたのは、ほかでもないこのジョージだった。
「ポールさん、洗濯代をはらってください」と、ジョージがブルに対して言うと、
「なに?」ブルが下あごをつき出して、喧嘩ができるとニヤリとわらった。
さあブルのらんぼうがはじまるぞ! と、みんなが青くなった。ちょうど食堂にいたときだ。中には焼き肉を半分、食いかけたままで、コソコソと逃げだしたものもいる。ぼくは、このとき、すみの方で、ジャガイモを食いかけていた。
「なにって、前の月の洗濯代を、まだ払ってもらってないんです。ぼくが主人にさいそくされて、こまってるんですから、どうかおはらいください、ポールさん」と、ジョージがブルに、ていねいにいってる。
「ハッハッハッ」と、ブルが、わらったかと思うと、いきなりどなりだした。
「ヤイ、ジョージ! きさまはおれに、恥をかかせたな、みんなの前で、さいそくなんかしやがって、こい! もうすこし前へこい!」
「いや、恥をかかせるなんて、そんなことが、あるもんですか。みんなの前でとおっしゃっても、ここの倶楽部の方ばかりで、みなさんは仲のいい兄弟のような方じゃありませんか」と、ジョージが、やさしくいうと、
「だまれッ! なにが兄弟だ。きさままでおれに反対するかッ」
と、いきなりブルが立ち上がった、と思うと、ジョージにとびかかっていった。ジョージもおこった。ものもいわずにブルへ打ってかかる。打たれてブルはすごく顔色をかえた。と思った瞬間組みついた。大げんか、大格闘になった。みんながバラバラと逃げだした。ケンカを止めたりしたら、あとで、「ヤイ、なぜとめた。おれの勝つけんかを、なぜとめた」と、ブルがくってかかる。しかし、だまって見てたら、「きさま、なんで見てた。なぜ加勢しなかったんだ」と、やはりおこってくる。もしも加勢したら、「オイ、おれが弱いと思ったのか。さあこい、きさまが相手だ」と、どうしてもつっかかってくる。それを知ってるから、みんなが逃げだしてしまった。
結果としてぼくだけがのこった。ジャガイモを食いながら、目の前の大格闘を見てると、
「エイッ!」すごい気合いとともに、ブルが、ジョージのからだを、つり上げた、と思うと、
「ウッ!」ジョージが、ブルに、しがみついた。
「な、なにをッ!」
と、すごい力をからだ中にこめたブル、いきなり、ジョージを肩の上までグッとさしあげると、そのまま下へ力いっぱい投げつけた。
「ウーン」と、いったきり、さすがのジョージも、床の上にひらたくなったまま、肩で息をしてる。起きられないのだ。
ブルは、息もつかずに、ぼくの方を、ジロリと見て、
「どうだ? おれに歯向かうやつは、ヘッ、こんなものだぞ!」
と、いうと、廊下の方へ、ノソリノソリと出ていった。どうしたのか、ぼくにくってかからない。ハハア、ブルのやつ、ぼくが日本人だから、すこしはこわがってるんかな? と、そう思いながら、ぼくはジョージの倒れてるところへいって、だきおこしてやった。 | 牧場で牛があばれだしたとき、とりおさえたのは誰ですか。 | 牧場で牛があばれだしたとき、走っていってとりおさえたのは、ほかでもないこのジョージだった。 |
JCRRAG_010485 | 国語 | ブルは、みんながだまって、相手にしなくなったから、二、三日前から一人でおこってる。おこっても、相手がいないから、けんかができない。そこで、洗濯代をはらわないのだ。すると、洗濯屋のジョージが、さいそくにきた。この洗濯屋のジョージも強い。牧場で牛があばれだしたとき、走っていってとりおさえたのは、ほかでもないこのジョージだった。
「ポールさん、洗濯代をはらってください」と、ジョージがブルに対して言うと、
「なに?」ブルが下あごをつき出して、喧嘩ができるとニヤリとわらった。
さあブルのらんぼうがはじまるぞ! と、みんなが青くなった。ちょうど食堂にいたときだ。中には焼き肉を半分、食いかけたままで、コソコソと逃げだしたものもいる。ぼくは、このとき、すみの方で、ジャガイモを食いかけていた。
「なにって、前の月の洗濯代を、まだ払ってもらってないんです。ぼくが主人にさいそくされて、こまってるんですから、どうかおはらいください、ポールさん」と、ジョージがブルに、ていねいにいってる。
「ハッハッハッ」と、ブルが、わらったかと思うと、いきなりどなりだした。
「ヤイ、ジョージ! きさまはおれに、恥をかかせたな、みんなの前で、さいそくなんかしやがって、こい! もうすこし前へこい!」
「いや、恥をかかせるなんて、そんなことが、あるもんですか。みんなの前でとおっしゃっても、ここの倶楽部の方ばかりで、みなさんは仲のいい兄弟のような方じゃありませんか」と、ジョージが、やさしくいうと、
「だまれッ! なにが兄弟だ。きさままでおれに反対するかッ」
と、いきなりブルが立ち上がった、と思うと、ジョージにとびかかっていった。ジョージもおこった。ものもいわずにブルへ打ってかかる。打たれてブルはすごく顔色をかえた。と思った瞬間組みついた。大げんか、大格闘になった。みんながバラバラと逃げだした。ケンカを止めたりしたら、あとで、「ヤイ、なぜとめた。おれの勝つけんかを、なぜとめた」と、ブルがくってかかる。しかし、だまって見てたら、「きさま、なんで見てた。なぜ加勢しなかったんだ」と、やはりおこってくる。もしも加勢したら、「オイ、おれが弱いと思ったのか。さあこい、きさまが相手だ」と、どうしてもつっかかってくる。それを知ってるから、みんなが逃げだしてしまった。
結果としてぼくだけがのこった。ジャガイモを食いながら、目の前の大格闘を見てると、
「エイッ!」すごい気合いとともに、ブルが、ジョージのからだを、つり上げた、と思うと、
「ウッ!」ジョージが、ブルに、しがみついた。
「な、なにをッ!」
と、すごい力をからだ中にこめたブル、いきなり、ジョージを肩の上までグッとさしあげると、そのまま下へ力いっぱい投げつけた。
「ウーン」と、いったきり、さすがのジョージも、床の上にひらたくなったまま、肩で息をしてる。起きられないのだ。
ブルは、息もつかずに、ぼくの方を、ジロリと見て、
「どうだ? おれに歯向かうやつは、ヘッ、こんなものだぞ!」
と、いうと、廊下の方へ、ノソリノソリと出ていった。どうしたのか、ぼくにくってかからない。ハハア、ブルのやつ、ぼくが日本人だから、すこしはこわがってるんかな? と、そう思いながら、ぼくはジョージの倒れてるところへいって、だきおこしてやった。 | ブルの喧嘩をみんなが止めないで逃げるのはなぜですか。 | ケンカを止めたりしたら、あとで、「ヤイ、なぜとめた。おれの勝つけんかを、なぜとめた」と、ブルがくってかかる。しかし、だまって見てたら、「きさま、なんで見てた。なぜ加勢しなかったんだ」と、やはりおこってくる。もしも加勢したら、「オイ、おれが弱いと思ったのか。さあこい、きさまが相手だ」と、どうしてもつっかかってくる。それを知ってるから、みんなが逃げだしてしまった。 |
JCRRAG_010486 | 国語 | ブルは、牛より強いジョージに勝ってから、いよいよらんぼうになった。洗濯代ばかりでなく、倶楽部の代金まで、まるではらわなくなった。この倶楽部というのは、学生の寄宿舎なのだ。名前を「ラサハ倶楽部」という。「ラサハ」というのは、ギリシャのことばで、「友だちの愛」という意味だ。ところが、ブル一人のらんぼうで、みんながビクビクしてる。「友だちの愛」が、ブルのために、やぶれてるのだ。このみんなは、カリフォルニア大学の学生で、その大学は、米国の大都会サンフランシスコにある。ぼくは、和歌山中学を卒業してから、このカリフォルニア大学へはいって、そして、ラサハ倶楽部に、寄宿していたのだ。日本人はぼくばかり、ほかはみんな、米国人だ。ブルを合わせて四十八人、そのほかに、フランクという倶楽部長がいた。このフランクが、ぼくの部屋へきて、ほんとうにこまってる顔をしながら、
「内村君、ブルのやつが、下宿代をはらわないんだ。しかし、追い出すといったりしたら、それこそたいへんだしね。どうしたものだろう?」と、相談しだした。
「さあ、ボクシングのトップ選手だというんだから、いばらしておくさ」と、ぼくは、ブルなんかなんとも思ってない。すると、
「ただいばるだけならいいが、ブルがいるので、倶楽部を出ていくものもあるしね、なんとかならないものだろうか?」と、倶楽部長フランクが小声でいう。
「なんとかならないものかって、どうするんだ?」と、きいてみると、
「きみはこの前、ブルが洗濯屋のジョージを、たたきつけたときに、一人ひとりでジャガイモを食ってたそうだね、ほんとうかい?」と、また、たずねる。
「ウン、食ってたよ、うまかった」
「フウム、すると、ほんとうだね。それがみんなの評判になってるんだが、きみは、いったい、ブルがこわかないのかい」
「べつにこわかないね」
「ホウ、すると、どうだろう? きみとブルと試合したら、どっちが勝つと思う? 内村君」
「それは、やってみないとわからないさ。しかし、まず負けることはあるまいね」
「エッ、きみ、すると、勝てるつもりかい、ほんとうに?」
「そうさ、日本人は勝つといったら勝つよ」
「フウム、やはり、ボクシングでやるかい? 試合となったら」
「なあに、ボクシングなんか、いらないだろう。ブルが相手なら。そうだね、まず、小指一本さ」
「エエッ? 小、小指、一本? きみ、それ、ほんとうかい? 小指一本?」
と、うっかり「小指一本」とぼくがいったのを、倶楽部長のフランクは、びっくりしてしまって、自分の小指を出して見せながら、
「こ、これで、きみ、ブルに勝つというのかい?」と、目をみはって、真剣にたずねる。
さあぼくは弱った。フランクの真剣な顔を見ると、「いまいったのはちがうよ、うそだよ、冗談だよ」ともいえなくなってしまった。しかたがないから思いきって、
「ウン、まず小指一本、……で、いいだろう」と、いうと、
「ありがたいッ! 実にありがたい!」と、フランクが、いきなり立ち上がった。と思うと、
「きみはラサハ倶楽部の救い主だ!」と、大声でさけびだしながら、部屋を出ていってしまった。 | フランクは内村の部屋に来てどうしましたか。 | ほんとうにこまってる顔をしながら、「内村君、ブルのやつが、下宿代をはらわないんだ。しかし、追い出すといったりしたら、それこそたいへんだしね。どうしたものだろう?」と、相談しだした。 |
JCRRAG_010487 | 国語 | ブルは、牛より強いジョージに勝ってから、いよいよらんぼうになった。洗濯代ばかりでなく、倶楽部の代金まで、まるではらわなくなった。この倶楽部というのは、学生の寄宿舎なのだ。名前を「ラサハ倶楽部」という。「ラサハ」というのは、ギリシャのことばで、「友だちの愛」という意味だ。ところが、ブル一人のらんぼうで、みんながビクビクしてる。「友だちの愛」が、ブルのために、やぶれてるのだ。このみんなは、カリフォルニア大学の学生で、その大学は、米国の大都会サンフランシスコにある。ぼくは、和歌山中学を卒業してから、このカリフォルニア大学へはいって、そして、ラサハ倶楽部に、寄宿していたのだ。日本人はぼくばかり、ほかはみんな、米国人だ。ブルを合わせて四十八人、そのほかに、フランクという倶楽部長がいた。このフランクが、ぼくの部屋へきて、ほんとうにこまってる顔をしながら、
「内村君、ブルのやつが、下宿代をはらわないんだ。しかし、追い出すといったりしたら、それこそたいへんだしね。どうしたものだろう?」と、相談しだした。
「さあ、ボクシングのトップ選手だというんだから、いばらしておくさ」と、ぼくは、ブルなんかなんとも思ってない。すると、
「ただいばるだけならいいが、ブルがいるので、倶楽部を出ていくものもあるしね、なんとかならないものだろうか?」と、倶楽部長フランクが小声でいう。
「なんとかならないものかって、どうするんだ?」と、きいてみると、
「きみはこの前、ブルが洗濯屋のジョージを、たたきつけたときに、一人ひとりでジャガイモを食ってたそうだね、ほんとうかい?」と、また、たずねる。
「ウン、食ってたよ、うまかった」
「フウム、すると、ほんとうだね。それがみんなの評判になってるんだが、きみは、いったい、ブルがこわかないのかい」
「べつにこわかないね」
「ホウ、すると、どうだろう? きみとブルと試合したら、どっちが勝つと思う? 内村君」
「それは、やってみないとわからないさ。しかし、まず負けることはあるまいね」
「エッ、きみ、すると、勝てるつもりかい、ほんとうに?」
「そうさ、日本人は勝つといったら勝つよ」
「フウム、やはり、ボクシングでやるかい? 試合となったら」
「なあに、ボクシングなんか、いらないだろう。ブルが相手なら。そうだね、まず、小指一本さ」
「エエッ? 小、小指、一本? きみ、それ、ほんとうかい? 小指一本?」
と、うっかり「小指一本」とぼくがいったのを、倶楽部長のフランクは、びっくりしてしまって、自分の小指を出して見せながら、
「こ、これで、きみ、ブルに勝つというのかい?」と、目をみはって、真剣にたずねる。
さあぼくは弱った。フランクの真剣な顔を見ると、「いまいったのはちがうよ、うそだよ、冗談だよ」ともいえなくなってしまった。しかたがないから思いきって、
「ウン、まず小指一本、……で、いいだろう」と、いうと、
「ありがたいッ! 実にありがたい!」と、フランクが、いきなり立ち上がった。と思うと、
「きみはラサハ倶楽部の救い主だ!」と、大声でさけびだしながら、部屋を出ていってしまった。 | 内村がフランクに「ブルが相手なら小指一本さ」と言ったらどうなりましたか。 | フランクが、いきなり立ち上がった。と思うと、「きみはラサハ倶楽部の救い主だ!」と、大声でさけびだしながら、部屋を出ていってしまった。 |
JCRRAG_010488 | 国語 | これからがたいへんだ。フランクが倶楽部中の者に、「内村は小指一本でポールに勝つといってる」と話したらしい。すぐにポールのブルがききつけて、カンカンにおこったのだ。いきなり、ボクシングの試合をぼくに申し込んできた。どうもしかたがない。「よろしい。やろう!」とぼくもすぐに返事した。すると、この試合の評判が、大学中にひろがってしまった。大学でもポールの別の名はブルだ。そこで、
「ブルを小指一本で、日本人の内村が、投げとばすそうだ」という大評判なのだ。小指のことを、英語で「赤ん坊の指」という。大きな牛のようなブルを、赤ん坊の指一本でなげとばすというんだから、この大評判が、とうとう、新聞にまで出てしまった。いよいよ、大さわぎになって、ミス・ネールという金持ちのお嬢さんは、この試合に二十万円の懸賞金を出すと、これまた新聞に書かせてしまった。なにしろブルは、ボクシングのトップ選手だ。今では名前が知られている。そのブルと赤ん坊の指一本の試合だ。そこへ二十万円の懸賞金! さあもう、たいへんな人気だ。
ところが、ぼくはひと時に有名になってしまって、また困った。和歌山中学で関口流の柔道を、初段くらいまでおそわったのだ。だから、ブルを別にこわがりもしないし、試合したって、三回やって三回とも負けるとは思わない。が、しかし、なにしろ「小指一本」には、どうしたらいいか、自分でもわからないんだ。倶楽部長のフランクに、ふと冗談にいったのを、とても後悔したが、もう今のような大評判になっては、手が回らない。食堂へいくたびに、ブルはブルで、ぼくの小指ばかり、にらんでる。みんなはまた、ブルのいないところで、
「内村君、きみの赤ん坊の指を大事にしたまえよ!」と、本気になって言ってくる。
新聞記者がまいにち、写真機を持ってきて、
「内村君の赤ん坊の指を撮影させてくれ」と、たのみにくる。日本の柔道には、小指一本で勝つ術があるのだと、みんなが信じてるのだ。だから注目が集まったのだろう。
写真はもちろん、うつさせなかった。が、ぼくは気が気でない。しかし、困った顔は見せられない。心の中うちで困りに困ってると、いよいよ試合の日になった。倶楽部のテニスコートが、この日の試合場だ。審判官は一人と決めてフランクに決まった。ところが、朝、夜の明けないうちから見物人がくるわくるわ、巡査が交通のとりしまりに十六人もかけつけてきたというさわぎだ。どうもしかたがない。 | ブルがボクシングの試合をぼくに申し込んできたら、ぼくはどうしましたか。 | 「よろしい。やろう!」とぼくもすぐに返事した。 |
JCRRAG_010489 | 国語 | これからがたいへんだ。フランクが倶楽部中の者に、「内村は小指一本でポールに勝つといってる」と話したらしい。すぐにポールのブルがききつけて、カンカンにおこったのだ。いきなり、ボクシングの試合をぼくに申し込んできた。どうもしかたがない。「よろしい。やろう!」とぼくもすぐに返事した。すると、この試合の評判が、大学中にひろがってしまった。大学でもポールの別の名はブルだ。そこで、
「ブルを小指一本で、日本人の内村が、投げとばすそうだ」という大評判なのだ。小指のことを、英語で「赤ん坊の指」という。大きな牛のようなブルを、赤ん坊の指一本でなげとばすというんだから、この大評判が、とうとう、新聞にまで出てしまった。いよいよ、大さわぎになって、ミス・ネールという金持ちのお嬢さんは、この試合に二十万円の懸賞金を出すと、これまた新聞に書かせてしまった。なにしろブルは、ボクシングのトップ選手だ。今では名前が知られている。そのブルと赤ん坊の指一本の試合だ。そこへ二十万円の懸賞金! さあもう、たいへんな人気だ。
ところが、ぼくはひと時に有名になってしまって、また困った。和歌山中学で関口流の柔道を、初段くらいまでおそわったのだ。だから、ブルを別にこわがりもしないし、試合したって、三回やって三回とも負けるとは思わない。が、しかし、なにしろ「小指一本」には、どうしたらいいか、自分でもわからないんだ。倶楽部長のフランクに、ふと冗談にいったのを、とても後悔したが、もう今のような大評判になっては、手が回らない。食堂へいくたびに、ブルはブルで、ぼくの小指ばかり、にらんでる。みんなはまた、ブルのいないところで、
「内村君、きみの赤ん坊の指を大事にしたまえよ!」と、本気になって言ってくる。
新聞記者がまいにち、写真機を持ってきて、
「内村君の赤ん坊の指を撮影させてくれ」と、たのみにくる。日本の柔道には、小指一本で勝つ術があるのだと、みんなが信じてるのだ。だから注目が集まったのだろう。
写真はもちろん、うつさせなかった。が、ぼくは気が気でない。しかし、困った顔は見せられない。心の中うちで困りに困ってると、いよいよ試合の日になった。倶楽部のテニスコートが、この日の試合場だ。審判官は一人と決めてフランクに決まった。ところが、朝、夜の明けないうちから見物人がくるわくるわ、巡査が交通のとりしまりに十六人もかけつけてきたというさわぎだ。どうもしかたがない。 | ブルと内村の試合が人気になってミス・ネールという金持ちのお嬢さんはどうしましたか。 | ミス・ネールという金持ちのお嬢さんは、この試合に二十万円の懸賞金を出すと、これまた新聞に書かせてしまった。 |
JCRRAG_010490 | 国語 | これからがたいへんだ。フランクが倶楽部中の者に、「内村は小指一本でポールに勝つといってる」と話したらしい。すぐにポールのブルがききつけて、カンカンにおこったのだ。いきなり、ボクシングの試合をぼくに申し込んできた。どうもしかたがない。「よろしい。やろう!」とぼくもすぐに返事した。すると、この試合の評判が、大学中にひろがってしまった。大学でもポールの別の名はブルだ。そこで、
「ブルを小指一本で、日本人の内村が、投げとばすそうだ」という大評判なのだ。小指のことを、英語で「赤ん坊の指」という。大きな牛のようなブルを、赤ん坊の指一本でなげとばすというんだから、この大評判が、とうとう、新聞にまで出てしまった。いよいよ、大さわぎになって、ミス・ネールという金持ちのお嬢さんは、この試合に二十万円の懸賞金を出すと、これまた新聞に書かせてしまった。なにしろブルは、ボクシングのトップ選手だ。今では名前が知られている。そのブルと赤ん坊の指一本の試合だ。そこへ二十万円の懸賞金! さあもう、たいへんな人気だ。
ところが、ぼくはひと時に有名になってしまって、また困った。和歌山中学で関口流の柔道を、初段くらいまでおそわったのだ。だから、ブルを別にこわがりもしないし、試合したって、三回やって三回とも負けるとは思わない。が、しかし、なにしろ「小指一本」には、どうしたらいいか、自分でもわからないんだ。倶楽部長のフランクに、ふと冗談にいったのを、とても後悔したが、もう今のような大評判になっては、手が回らない。食堂へいくたびに、ブルはブルで、ぼくの小指ばかり、にらんでる。みんなはまた、ブルのいないところで、
「内村君、きみの赤ん坊の指を大事にしたまえよ!」と、本気になって言ってくる。
新聞記者がまいにち、写真機を持ってきて、
「内村君の赤ん坊の指を撮影させてくれ」と、たのみにくる。日本の柔道には、小指一本で勝つ術があるのだと、みんなが信じてるのだ。だから注目が集まったのだろう。
写真はもちろん、うつさせなかった。が、ぼくは気が気でない。しかし、困った顔は見せられない。心の中うちで困りに困ってると、いよいよ試合の日になった。倶楽部のテニスコートが、この日の試合場だ。審判官は一人と決めてフランクに決まった。ところが、朝、夜の明けないうちから見物人がくるわくるわ、巡査が交通のとりしまりに十六人もかけつけてきたというさわぎだ。どうもしかたがない。 | 内村はブルと試合することになって困ったのはなぜですか。 | 和歌山中学で関口流の柔道を、初段くらいまでおそわったのだ。だから、ブルを別にこわがりもしないし、試合したって、三回やって三回とも負けるとは思わない。が、しかし、なにしろ「小指一本」には、どうしたらいいか、自分でもわからないんだ。 |
JCRRAG_010491 | 国語 | これからがたいへんだ。フランクが倶楽部中の者に、「内村は小指一本でポールに勝つといってる」と話したらしい。すぐにポールのブルがききつけて、カンカンにおこったのだ。いきなり、ボクシングの試合をぼくに申し込んできた。どうもしかたがない。「よろしい。やろう!」とぼくもすぐに返事した。すると、この試合の評判が、大学中にひろがってしまった。大学でもポールの別の名はブルだ。そこで、
「ブルを小指一本で、日本人の内村が、投げとばすそうだ」という大評判なのだ。小指のことを、英語で「赤ん坊の指」という。大きな牛のようなブルを、赤ん坊の指一本でなげとばすというんだから、この大評判が、とうとう、新聞にまで出てしまった。いよいよ、大さわぎになって、ミス・ネールという金持ちのお嬢さんは、この試合に二十万円の懸賞金を出すと、これまた新聞に書かせてしまった。なにしろブルは、ボクシングのトップ選手だ。今では名前が知られている。そのブルと赤ん坊の指一本の試合だ。そこへ二十万円の懸賞金! さあもう、たいへんな人気だ。
ところが、ぼくはひと時に有名になってしまって、また困った。和歌山中学で関口流の柔道を、初段くらいまでおそわったのだ。だから、ブルを別にこわがりもしないし、試合したって、三回やって三回とも負けるとは思わない。が、しかし、なにしろ「小指一本」には、どうしたらいいか、自分でもわからないんだ。倶楽部長のフランクに、ふと冗談にいったのを、とても後悔したが、もう今のような大評判になっては、手が回らない。食堂へいくたびに、ブルはブルで、ぼくの小指ばかり、にらんでる。みんなはまた、ブルのいないところで、
「内村君、きみの赤ん坊の指を大事にしたまえよ!」と、本気になって言ってくる。
新聞記者がまいにち、写真機を持ってきて、
「内村君の赤ん坊の指を撮影させてくれ」と、たのみにくる。日本の柔道には、小指一本で勝つ術があるのだと、みんなが信じてるのだ。だから注目が集まったのだろう。
写真はもちろん、うつさせなかった。が、ぼくは気が気でない。しかし、困った顔は見せられない。心の中うちで困りに困ってると、いよいよ試合の日になった。倶楽部のテニスコートが、この日の試合場だ。審判官は一人と決めてフランクに決まった。ところが、朝、夜の明けないうちから見物人がくるわくるわ、巡査が交通のとりしまりに十六人もかけつけてきたというさわぎだ。どうもしかたがない。 | ぼくの小指に注目が集まったのはなぜですか。 | 日本の柔道には、小指一本で勝つ術があるのだと、みんなが信じてるのだ。だから注目が集まったのだろう。 |
JCRRAG_010492 | 国語 | ブルとぼくの小指一本の試合だ!
ブルは牛みたいなからだで、ボクシングの準備をして、堂々とあらわれた。ぼくは背広服の上着を脱いだだけだ。柔道の稽古着も持ってないし、わざと平気な顔をして出ていくと、
「ワーッ」と、四方の見物席はたいへんなさわぎだ。そこでブルとぼくは両方にはなれて立った。
審判官のフランクが、時計を見ながら、
「はじめ!」と、ふるえ声でいった。第一回の勝負は三分できめるんだ。
見ると、ブル、今日はまた一段とすごい顔をしかめて、両手を前につき出しながら、ジリジリ、ジリジリとよってくる。きたナ! と、ぼくも身構えながら、ヒョイと顔の前に左の小指を出してふった。すると、
「ワアーッ! ワアーッ!」と、何千人という見物人が声をあげて、パチパチと手をたたくひびきが雷のようだ。
ブルがまっかになった。ぼくの小指を、にらみながら、目が血走っている。ぼくはヒクヒクとまた小指をふって見せた。ブルがまっさおになってきた。小指一本が、どんな術があるのかと、気味がわるいらしい。一メートルほど前から近寄ってこない。両腕を上下につき出して、顔を低くして、一生懸命に、ぼくの小指を、にらんでる。そのまま身動きもしない。こうなると、ぼくは急に愉快になってきた。ふいに、
「こいカムオン!」と、小指をヒクヒクふると、
「…………」ブルが顔をしかめて、ビクッとする。
「ワアーッ」と、見物人はますます声をあげる。
「こいカムオン!」
「…………」ブル、まっさおだ。汗をながしてる。
「ワアーッ」バチバチバチバチ。「ワアーッ」
「こいカムオン!」ヒクヒク。
「…………」ブル、まったく汗だらけだ。
「あと二十秒!」フランクがいう。
「…………」ブル、また赤くなってきた。
「こいカムオン!」ヒクヒクヒク。
「…………」ブル、目がすわってきた。
「あと十秒! ……五秒! ……」
フランクのことばとともに、そのとき、サッとブルが小指へとびかかってきた、眼にもとまらぬ電光石火、ハッと身をしずめたぼく、頭の上にブルの腕と胸がのびてるやつを、そのままの背負いなげ! 敵の力で敵をなげる柔道の、これこそ術だ、みごとにきまって、
「エエイッ!」
ブルのでかいからだがかるくて紙一枚のようだ、とびかかってきた自分の力でさかおとしに、ドスーンとむこうへ宙返りを打った。と、ぼくはヒラリと左の小指を上げた。
見物人が総立ちになった、さあたいへんだ! 耳が聞こえなくなるような「ワアーッ、ワワワワワー!」という声が、ぼくの小指一本にあつまってる。フランクもボンヤリしてる。ところが、見ると、ブルが倒れたままだった。テニスコートのかたいコンクリートの上へ、背負いなげでたたきつけられて、のびている。いってみると、目をまわしてるんだ。そこでぼくがうつむいて、手をのばすと、見物人がシーンとしずまった。よし! と、ぼくは考えて、ブルの腹の上で、うつむいた。柔道には「腹活」という手がある。腹へ活を入れて、目をまわしてる相手の息をふきかえさせる、これまた術だ。ぼくは、ブルの腹へ、右手で、
「エイッ!」と、活を入れて、左の小指をスッと上げた、そしてヒクヒク動かしてるうちに、
「ウウーン」ブルが、うなると、ムクムク起きあがったが、ぼくの顔と小指を見ると、おそろしそうに顔色をかえた。
「どうだ? ポール!」と、いうと、
「…………」ブルのポールが、ふるえながら、ぼくの右手をにぎりしめて頭を下げた。
見物人がみんな四方からワアーッとおりて走ってきた。
あとはいわなくてもいいだろう。ポールはおとなしくなって、ラサハ倶楽部は「友だちの愛」でさかんになるし、倶楽部長フランクは大よろこびだったさ。なに? 懸賞の二十万円なんか、だれがもらうものか、ミス・ネールにソックリ返してやったよ。 | ぼくが小指を出して振ったらブルはどうなりましたか。 | ブルがまっかになった。ぼくの小指を、にらみながら、目が血走っている。ぼくはヒクヒクとまた小指をふって見せた。ブルがまっさおになってきた。小指一本が、どんな術があるのかと、気味がわるいらしい。一メートルほど前から近寄ってこない。両腕を上下につき出して、顔を低くして、一生懸命に、ぼくの小指を、にらんでる。そのまま身動きもしない。 |
JCRRAG_010493 | 国語 | ブルとぼくの小指一本の試合だ!
ブルは牛みたいなからだで、ボクシングの準備をして、堂々とあらわれた。ぼくは背広服の上着を脱いだだけだ。柔道の稽古着も持ってないし、わざと平気な顔をして出ていくと、
「ワーッ」と、四方の見物席はたいへんなさわぎだ。そこでブルとぼくは両方にはなれて立った。
審判官のフランクが、時計を見ながら、
「はじめ!」と、ふるえ声でいった。第一回の勝負は三分できめるんだ。
見ると、ブル、今日はまた一段とすごい顔をしかめて、両手を前につき出しながら、ジリジリ、ジリジリとよってくる。きたナ! と、ぼくも身構えながら、ヒョイと顔の前に左の小指を出してふった。すると、
「ワアーッ! ワアーッ!」と、何千人という見物人が声をあげて、パチパチと手をたたくひびきが雷のようだ。
ブルがまっかになった。ぼくの小指を、にらみながら、目が血走っている。ぼくはヒクヒクとまた小指をふって見せた。ブルがまっさおになってきた。小指一本が、どんな術があるのかと、気味がわるいらしい。一メートルほど前から近寄ってこない。両腕を上下につき出して、顔を低くして、一生懸命に、ぼくの小指を、にらんでる。そのまま身動きもしない。こうなると、ぼくは急に愉快になってきた。ふいに、
「こいカムオン!」と、小指をヒクヒクふると、
「…………」ブルが顔をしかめて、ビクッとする。
「ワアーッ」と、見物人はますます声をあげる。
「こいカムオン!」
「…………」ブル、まっさおだ。汗をながしてる。
「ワアーッ」バチバチバチバチ。「ワアーッ」
「こいカムオン!」ヒクヒク。
「…………」ブル、まったく汗だらけだ。
「あと二十秒!」フランクがいう。
「…………」ブル、また赤くなってきた。
「こいカムオン!」ヒクヒクヒク。
「…………」ブル、目がすわってきた。
「あと十秒! ……五秒! ……」
フランクのことばとともに、そのとき、サッとブルが小指へとびかかってきた、眼にもとまらぬ電光石火、ハッと身をしずめたぼく、頭の上にブルの腕と胸がのびてるやつを、そのままの背負いなげ! 敵の力で敵をなげる柔道の、これこそ術だ、みごとにきまって、
「エエイッ!」
ブルのでかいからだがかるくて紙一枚のようだ、とびかかってきた自分の力でさかおとしに、ドスーンとむこうへ宙返りを打った。と、ぼくはヒラリと左の小指を上げた。
見物人が総立ちになった、さあたいへんだ! 耳が聞こえなくなるような「ワアーッ、ワワワワワー!」という声が、ぼくの小指一本にあつまってる。フランクもボンヤリしてる。ところが、見ると、ブルが倒れたままだった。テニスコートのかたいコンクリートの上へ、背負いなげでたたきつけられて、のびている。いってみると、目をまわしてるんだ。そこでぼくがうつむいて、手をのばすと、見物人がシーンとしずまった。よし! と、ぼくは考えて、ブルの腹の上で、うつむいた。柔道には「腹活」という手がある。腹へ活を入れて、目をまわしてる相手の息をふきかえさせる、これまた術だ。ぼくは、ブルの腹へ、右手で、
「エイッ!」と、活を入れて、左の小指をスッと上げた、そしてヒクヒク動かしてるうちに、
「ウウーン」ブルが、うなると、ムクムク起きあがったが、ぼくの顔と小指を見ると、おそろしそうに顔色をかえた。
「どうだ? ポール!」と、いうと、
「…………」ブルのポールが、ふるえながら、ぼくの右手をにぎりしめて頭を下げた。
見物人がみんな四方からワアーッとおりて走ってきた。
あとはいわなくてもいいだろう。ポールはおとなしくなって、ラサハ倶楽部は「友だちの愛」でさかんになるし、倶楽部長フランクは大よろこびだったさ。なに? 懸賞の二十万円なんか、だれがもらうものか、ミス・ネールにソックリ返してやったよ。 | ぼくに背負いなげされたブルはどうなりましたか。 | テニスコートのかたいコンクリートの上へ、背負いなげでたたきつけられて、のびている。 |
JCRRAG_010494 | 国語 | ブルとぼくの小指一本の試合だ!
ブルは牛みたいなからだで、ボクシングの準備をして、堂々とあらわれた。ぼくは背広服の上着を脱いだだけだ。柔道の稽古着も持ってないし、わざと平気な顔をして出ていくと、
「ワーッ」と、四方の見物席はたいへんなさわぎだ。そこでブルとぼくは両方にはなれて立った。
審判官のフランクが、時計を見ながら、
「はじめ!」と、ふるえ声でいった。第一回の勝負は三分できめるんだ。
見ると、ブル、今日はまた一段とすごい顔をしかめて、両手を前につき出しながら、ジリジリ、ジリジリとよってくる。きたナ! と、ぼくも身構えながら、ヒョイと顔の前に左の小指を出してふった。すると、
「ワアーッ! ワアーッ!」と、何千人という見物人が声をあげて、パチパチと手をたたくひびきが雷のようだ。
ブルがまっかになった。ぼくの小指を、にらみながら、目が血走っている。ぼくはヒクヒクとまた小指をふって見せた。ブルがまっさおになってきた。小指一本が、どんな術があるのかと、気味がわるいらしい。一メートルほど前から近寄ってこない。両腕を上下につき出して、顔を低くして、一生懸命に、ぼくの小指を、にらんでる。そのまま身動きもしない。こうなると、ぼくは急に愉快になってきた。ふいに、
「こいカムオン!」と、小指をヒクヒクふると、
「…………」ブルが顔をしかめて、ビクッとする。
「ワアーッ」と、見物人はますます声をあげる。
「こいカムオン!」
「…………」ブル、まっさおだ。汗をながしてる。
「ワアーッ」バチバチバチバチ。「ワアーッ」
「こいカムオン!」ヒクヒク。
「…………」ブル、まったく汗だらけだ。
「あと二十秒!」フランクがいう。
「…………」ブル、また赤くなってきた。
「こいカムオン!」ヒクヒクヒク。
「…………」ブル、目がすわってきた。
「あと十秒! ……五秒! ……」
フランクのことばとともに、そのとき、サッとブルが小指へとびかかってきた、眼にもとまらぬ電光石火、ハッと身をしずめたぼく、頭の上にブルの腕と胸がのびてるやつを、そのままの背負いなげ! 敵の力で敵をなげる柔道の、これこそ術だ、みごとにきまって、
「エエイッ!」
ブルのでかいからだがかるくて紙一枚のようだ、とびかかってきた自分の力でさかおとしに、ドスーンとむこうへ宙返りを打った。と、ぼくはヒラリと左の小指を上げた。
見物人が総立ちになった、さあたいへんだ! 耳が聞こえなくなるような「ワアーッ、ワワワワワー!」という声が、ぼくの小指一本にあつまってる。フランクもボンヤリしてる。ところが、見ると、ブルが倒れたままだった。テニスコートのかたいコンクリートの上へ、背負いなげでたたきつけられて、のびている。いってみると、目をまわしてるんだ。そこでぼくがうつむいて、手をのばすと、見物人がシーンとしずまった。よし! と、ぼくは考えて、ブルの腹の上で、うつむいた。柔道には「腹活」という手がある。腹へ活を入れて、目をまわしてる相手の息をふきかえさせる、これまた術だ。ぼくは、ブルの腹へ、右手で、
「エイッ!」と、活を入れて、左の小指をスッと上げた、そしてヒクヒク動かしてるうちに、
「ウウーン」ブルが、うなると、ムクムク起きあがったが、ぼくの顔と小指を見ると、おそろしそうに顔色をかえた。
「どうだ? ポール!」と、いうと、
「…………」ブルのポールが、ふるえながら、ぼくの右手をにぎりしめて頭を下げた。
見物人がみんな四方からワアーッとおりて走ってきた。
あとはいわなくてもいいだろう。ポールはおとなしくなって、ラサハ倶楽部は「友だちの愛」でさかんになるし、倶楽部長フランクは大よろこびだったさ。なに? 懸賞の二十万円なんか、だれがもらうものか、ミス・ネールにソックリ返してやったよ。 | 内村は目をまわしてるブルに「腹活」をしたらどうなりましたか。 | ブルが、うなると、ムクムク起きあがったが、ぼくの顔と小指を見ると、おそろしそうに顔色をかえた。 |
JCRRAG_010495 | 国語 | 伊藤豊治青年が洗面を済まして着替えをしているところへ、制服を着たボーイが朝のコーヒーを運んで来た。
「お早うございます」
「ああお早う」
「よくおやすみになれましたか」
伊藤青年はネクタイを結びながら、ボーイの支度するコーヒーのテーブルに向かって掛けた。あまり機嫌のよい顔つきではない。
「よく眠れなかったよ」
伊藤青年はボーイの質問に首を振った。
「君、一体この向こうの部屋にはどんな客が泊まっているんだい? ひと晩中へんな音をたてたり妙な声をしたり、本当に困ったよ」
「向こうの部屋と申しますと?」
ボーイは不思議そうに伊藤を見た。
「廊下の向こうさ、この翼屋で、向こうといえばここと廊下の向こうと二部屋しか無いじゃないか」
伊藤がドアに向かって顎をしゃくると、ボーイはなにか思い当たる事があるらしく、サッと顔色を変えながら眼をそらした。
伊藤豊治は九州大学の工科研究室に籍をおいている研究生で、恩師の鹿谷弘吉博士が、ある研究報告をするため上京した後を追って、その助手を勤めるために昨夜東京へ着いたのである。ところがこのホテルへ来てみると、博士は研究上やらなきゃいけない仕事ができて仙台へ出張したということで、伊藤青年はゆうべ一人でホテルへ泊まったのであった。
彼の泊まった部屋はホテルの翼屋で、そこには廊下を隔てて二つの部屋が向かい合っている。その向こう側の部屋から、ゆうべひと晩中、女のうめくような悲しげな声や、長い紙を静かに引き裂くような物音が、絶えては聞こえ絶えては聞こえして来るので、妙にいらいらと寝苦しい思いをしながら一夜を明かしたのであった。
「やはりお聞きになりましたか」
ボーイはやがて声をひそめていった。
「やはりって? 何かあるのかい」
「あの部屋にはどなたも泊まってはいらっしゃいません。もうずっと以前からお客様をお入れしない事になっていますので、と申しますのは、実は極内々のお話なのですが、あの部屋は『亡霊の部屋』といって、私共仲間内でも怖がって近寄らないくらいです」
「ふふふふ、今時亡霊とは古風だな」
「お笑いになりますが、現に昨夜、貴方様がそれをお聞きになったではございませんか」
伊藤青年はふっと笑いを止めた。ゆうべ深夜に聞いた、悲しげな女の呻き声を思い出したのである。ボーイはさらに声をひそめて話をしてくれた。
なんでも、二年まえの冬のある夜、あの部屋へ泊まった老人と若い美しい婦人の夫婦のうち、老人が夫人を刺し殺して、自らも命を絶ったというのだ。
「くわしい事情は存じませんですが……お部屋は血でいっぱい、寝台から這いだした夫人が、ドアのノブを掴んだまま血みどろになって、さんばら髪で死んでいたその凄さ、今思い出してもぞっと……」
ボーイはぶるっと身を震わした。
「それ以来、あの部屋へお客様をお泊め致しますと、きまって変な事がございますので、今では使わない事になっているのです。しかしどうか……この話は決して他の人には誰にも話さないで頂きたいのです、なにしろこんな事が広まっては客商売のことですから」
「その点は安心したまえ、僕なら決して誰にもしゃべりはしないから」
「ありがとうございます。もしお望みでしたら早速お部屋を変えましょうか」
「いや、ここでいいよ」
「しかしもし貴方様になにかありましては」
「まあそれ程の事もないだろう」
ボーイは会釈して出て行った。
いやな話である。ゆうべたしかに聞いた女の呻き声や、あの長い紙を静かに静かに引き裂くような物音が、まざまざと耳によみがえって来る。ドアのノブを掴んだまま血みどろになって死んでいたという、若い夫人の姿も、どうも眼にちらつくような気がする。
「ちぇ! いやな話を聞いた」
舌打ちをしながらがぶりとコーヒーを飲んで、煙草に火を点けようとした時、卓上電話がジリジリと鳴りだした。受話器を取ると、いきなりいきいきした少女の声で、
「あら、お兄さまね?」
と叫ぶようにいう。牛込若松町に母と二人で住んでいる妹のみどりだった。伊藤青年とは七つ違いの今年十八歳で、伊藤青年からはみどりの下の二字だけ取って「ドーリイ」と呼ばれているおてんばな女学生だ。
「なんだ、ドーリイじゃないか」
「ひどいわ、東京へいらっしゃったのにどうして家へ知らせて下さらないの?」
「君はまたどうして僕の来たことを知ったんだ」
「ゆうべホテルのロビーでお友達がお兄さまを見かけたんですって、たしかにお兄さまらしいからって知らせて来たのよ、どうして家へいらっしゃらないの?」
| 伊藤はボーイのよくおやすみになれましたかという質問になんと答えましたか。 | 「よく眠れなかったよ」伊藤青年はボーイの質問に首を振った。 |
JCRRAG_010496 | 国語 | 伊藤豊治青年が洗面を済まして着替えをしているところへ、制服を着たボーイが朝のコーヒーを運んで来た。
「お早うございます」
「ああお早う」
「よくおやすみになれましたか」
伊藤青年はネクタイを結びながら、ボーイの支度するコーヒーのテーブルに向かって掛けた。あまり機嫌のよい顔つきではない。
「よく眠れなかったよ」
伊藤青年はボーイの質問に首を振った。
「君、一体この向こうの部屋にはどんな客が泊まっているんだい? ひと晩中へんな音をたてたり妙な声をしたり、本当に困ったよ」
「向こうの部屋と申しますと?」
ボーイは不思議そうに伊藤を見た。
「廊下の向こうさ、この翼屋で、向こうといえばここと廊下の向こうと二部屋しか無いじゃないか」
伊藤がドアに向かって顎をしゃくると、ボーイはなにか思い当たる事があるらしく、サッと顔色を変えながら眼をそらした。
伊藤豊治は九州大学の工科研究室に籍をおいている研究生で、恩師の鹿谷弘吉博士が、ある研究報告をするため上京した後を追って、その助手を勤めるために昨夜東京へ着いたのである。ところがこのホテルへ来てみると、博士は研究上やらなきゃいけない仕事ができて仙台へ出張したということで、伊藤青年はゆうべ一人でホテルへ泊まったのであった。
彼の泊まった部屋はホテルの翼屋で、そこには廊下を隔てて二つの部屋が向かい合っている。その向こう側の部屋から、ゆうべひと晩中、女のうめくような悲しげな声や、長い紙を静かに引き裂くような物音が、絶えては聞こえ絶えては聞こえして来るので、妙にいらいらと寝苦しい思いをしながら一夜を明かしたのであった。
「やはりお聞きになりましたか」
ボーイはやがて声をひそめていった。
「やはりって? 何かあるのかい」
「あの部屋にはどなたも泊まってはいらっしゃいません。もうずっと以前からお客様をお入れしない事になっていますので、と申しますのは、実は極内々のお話なのですが、あの部屋は『亡霊の部屋』といって、私共仲間内でも怖がって近寄らないくらいです」
「ふふふふ、今時亡霊とは古風だな」
「お笑いになりますが、現に昨夜、貴方様がそれをお聞きになったではございませんか」
伊藤青年はふっと笑いを止めた。ゆうべ深夜に聞いた、悲しげな女の呻き声を思い出したのである。ボーイはさらに声をひそめて話をしてくれた。
なんでも、二年まえの冬のある夜、あの部屋へ泊まった老人と若い美しい婦人の夫婦のうち、老人が夫人を刺し殺して、自らも命を絶ったというのだ。
「くわしい事情は存じませんですが……お部屋は血でいっぱい、寝台から這いだした夫人が、ドアのノブを掴んだまま血みどろになって、さんばら髪で死んでいたその凄さ、今思い出してもぞっと……」
ボーイはぶるっと身を震わした。
「それ以来、あの部屋へお客様をお泊め致しますと、きまって変な事がございますので、今では使わない事になっているのです。しかしどうか……この話は決して他の人には誰にも話さないで頂きたいのです、なにしろこんな事が広まっては客商売のことですから」
「その点は安心したまえ、僕なら決して誰にもしゃべりはしないから」
「ありがとうございます。もしお望みでしたら早速お部屋を変えましょうか」
「いや、ここでいいよ」
「しかしもし貴方様になにかありましては」
「まあそれ程の事もないだろう」
ボーイは会釈して出て行った。
いやな話である。ゆうべたしかに聞いた女の呻き声や、あの長い紙を静かに静かに引き裂くような物音が、まざまざと耳によみがえって来る。ドアのノブを掴んだまま血みどろになって死んでいたという、若い夫人の姿も、どうも眼にちらつくような気がする。
「ちぇ! いやな話を聞いた」
舌打ちをしながらがぶりとコーヒーを飲んで、煙草に火を点けようとした時、卓上電話がジリジリと鳴りだした。受話器を取ると、いきなりいきいきした少女の声で、
「あら、お兄さまね?」
と叫ぶようにいう。牛込若松町に母と二人で住んでいる妹のみどりだった。伊藤青年とは七つ違いの今年十八歳で、伊藤青年からはみどりの下の二字だけ取って「ドーリイ」と呼ばれているおてんばな女学生だ。
「なんだ、ドーリイじゃないか」
「ひどいわ、東京へいらっしゃったのにどうして家へ知らせて下さらないの?」
「君はまたどうして僕の来たことを知ったんだ」
「ゆうべホテルのロビーでお友達がお兄さまを見かけたんですって、たしかにお兄さまらしいからって知らせて来たのよ、どうして家へいらっしゃらないの?」
| 伊藤がゆうべこのホテルに一人で泊まることになったのはなぜか。 | 恩師の鹿谷弘吉博士が、ある研究報告をするため上京した後を追って、その助手を勤めるために昨夜東京へ着いたのである。ところがこのホテルへ来てみると、博士は研究上やらなきゃいけない仕事ができて仙台へ出張したということで、伊藤青年はゆうべ一人でホテルへ泊まったのであった。 |
JCRRAG_010497 | 国語 | 伊藤豊治青年が洗面を済まして着替えをしているところへ、制服を着たボーイが朝のコーヒーを運んで来た。
「お早うございます」
「ああお早う」
「よくおやすみになれましたか」
伊藤青年はネクタイを結びながら、ボーイの支度するコーヒーのテーブルに向かって掛けた。あまり機嫌のよい顔つきではない。
「よく眠れなかったよ」
伊藤青年はボーイの質問に首を振った。
「君、一体この向こうの部屋にはどんな客が泊まっているんだい? ひと晩中へんな音をたてたり妙な声をしたり、本当に困ったよ」
「向こうの部屋と申しますと?」
ボーイは不思議そうに伊藤を見た。
「廊下の向こうさ、この翼屋で、向こうといえばここと廊下の向こうと二部屋しか無いじゃないか」
伊藤がドアに向かって顎をしゃくると、ボーイはなにか思い当たる事があるらしく、サッと顔色を変えながら眼をそらした。
伊藤豊治は九州大学の工科研究室に籍をおいている研究生で、恩師の鹿谷弘吉博士が、ある研究報告をするため上京した後を追って、その助手を勤めるために昨夜東京へ着いたのである。ところがこのホテルへ来てみると、博士は研究上やらなきゃいけない仕事ができて仙台へ出張したということで、伊藤青年はゆうべ一人でホテルへ泊まったのであった。
彼の泊まった部屋はホテルの翼屋で、そこには廊下を隔てて二つの部屋が向かい合っている。その向こう側の部屋から、ゆうべひと晩中、女のうめくような悲しげな声や、長い紙を静かに引き裂くような物音が、絶えては聞こえ絶えては聞こえして来るので、妙にいらいらと寝苦しい思いをしながら一夜を明かしたのであった。
「やはりお聞きになりましたか」
ボーイはやがて声をひそめていった。
「やはりって? 何かあるのかい」
「あの部屋にはどなたも泊まってはいらっしゃいません。もうずっと以前からお客様をお入れしない事になっていますので、と申しますのは、実は極内々のお話なのですが、あの部屋は『亡霊の部屋』といって、私共仲間内でも怖がって近寄らないくらいです」
「ふふふふ、今時亡霊とは古風だな」
「お笑いになりますが、現に昨夜、貴方様がそれをお聞きになったではございませんか」
伊藤青年はふっと笑いを止めた。ゆうべ深夜に聞いた、悲しげな女の呻き声を思い出したのである。ボーイはさらに声をひそめて話をしてくれた。
なんでも、二年まえの冬のある夜、あの部屋へ泊まった老人と若い美しい婦人の夫婦のうち、老人が夫人を刺し殺して、自らも命を絶ったというのだ。
「くわしい事情は存じませんですが……お部屋は血でいっぱい、寝台から這いだした夫人が、ドアのノブを掴んだまま血みどろになって、さんばら髪で死んでいたその凄さ、今思い出してもぞっと……」
ボーイはぶるっと身を震わした。
「それ以来、あの部屋へお客様をお泊め致しますと、きまって変な事がございますので、今では使わない事になっているのです。しかしどうか……この話は決して他の人には誰にも話さないで頂きたいのです、なにしろこんな事が広まっては客商売のことですから」
「その点は安心したまえ、僕なら決して誰にもしゃべりはしないから」
「ありがとうございます。もしお望みでしたら早速お部屋を変えましょうか」
「いや、ここでいいよ」
「しかしもし貴方様になにかありましては」
「まあそれ程の事もないだろう」
ボーイは会釈して出て行った。
いやな話である。ゆうべたしかに聞いた女の呻き声や、あの長い紙を静かに静かに引き裂くような物音が、まざまざと耳によみがえって来る。ドアのノブを掴んだまま血みどろになって死んでいたという、若い夫人の姿も、どうも眼にちらつくような気がする。
「ちぇ! いやな話を聞いた」
舌打ちをしながらがぶりとコーヒーを飲んで、煙草に火を点けようとした時、卓上電話がジリジリと鳴りだした。受話器を取ると、いきなりいきいきした少女の声で、
「あら、お兄さまね?」
と叫ぶようにいう。牛込若松町に母と二人で住んでいる妹のみどりだった。伊藤青年とは七つ違いの今年十八歳で、伊藤青年からはみどりの下の二字だけ取って「ドーリイ」と呼ばれているおてんばな女学生だ。
「なんだ、ドーリイじゃないか」
「ひどいわ、東京へいらっしゃったのにどうして家へ知らせて下さらないの?」
「君はまたどうして僕の来たことを知ったんだ」
「ゆうべホテルのロビーでお友達がお兄さまを見かけたんですって、たしかにお兄さまらしいからって知らせて来たのよ、どうして家へいらっしゃらないの?」
| 伊藤がドアに向かって顎をしゃくるとボーイはどうしましたか。 | ボーイはなにか思い当たる事があるらしく、サッと顔色を変えながら眼をそらした。 |
JCRRAG_010498 | 国語 | 伊藤豊治青年が洗面を済まして着替えをしているところへ、制服を着たボーイが朝のコーヒーを運んで来た。
「お早うございます」
「ああお早う」
「よくおやすみになれましたか」
伊藤青年はネクタイを結びながら、ボーイの支度するコーヒーのテーブルに向かって掛けた。あまり機嫌のよい顔つきではない。
「よく眠れなかったよ」
伊藤青年はボーイの質問に首を振った。
「君、一体この向こうの部屋にはどんな客が泊まっているんだい? ひと晩中へんな音をたてたり妙な声をしたり、本当に困ったよ」
「向こうの部屋と申しますと?」
ボーイは不思議そうに伊藤を見た。
「廊下の向こうさ、この翼屋で、向こうといえばここと廊下の向こうと二部屋しか無いじゃないか」
伊藤がドアに向かって顎をしゃくると、ボーイはなにか思い当たる事があるらしく、サッと顔色を変えながら眼をそらした。
伊藤豊治は九州大学の工科研究室に籍をおいている研究生で、恩師の鹿谷弘吉博士が、ある研究報告をするため上京した後を追って、その助手を勤めるために昨夜東京へ着いたのである。ところがこのホテルへ来てみると、博士は研究上やらなきゃいけない仕事ができて仙台へ出張したということで、伊藤青年はゆうべ一人でホテルへ泊まったのであった。
彼の泊まった部屋はホテルの翼屋で、そこには廊下を隔てて二つの部屋が向かい合っている。その向こう側の部屋から、ゆうべひと晩中、女のうめくような悲しげな声や、長い紙を静かに引き裂くような物音が、絶えては聞こえ絶えては聞こえして来るので、妙にいらいらと寝苦しい思いをしながら一夜を明かしたのであった。
「やはりお聞きになりましたか」
ボーイはやがて声をひそめていった。
「やはりって? 何かあるのかい」
「あの部屋にはどなたも泊まってはいらっしゃいません。もうずっと以前からお客様をお入れしない事になっていますので、と申しますのは、実は極内々のお話なのですが、あの部屋は『亡霊の部屋』といって、私共仲間内でも怖がって近寄らないくらいです」
「ふふふふ、今時亡霊とは古風だな」
「お笑いになりますが、現に昨夜、貴方様がそれをお聞きになったではございませんか」
伊藤青年はふっと笑いを止めた。ゆうべ深夜に聞いた、悲しげな女の呻き声を思い出したのである。ボーイはさらに声をひそめて話をしてくれた。
なんでも、二年まえの冬のある夜、あの部屋へ泊まった老人と若い美しい婦人の夫婦のうち、老人が夫人を刺し殺して、自らも命を絶ったというのだ。
「くわしい事情は存じませんですが……お部屋は血でいっぱい、寝台から這いだした夫人が、ドアのノブを掴んだまま血みどろになって、さんばら髪で死んでいたその凄さ、今思い出してもぞっと……」
ボーイはぶるっと身を震わした。
「それ以来、あの部屋へお客様をお泊め致しますと、きまって変な事がございますので、今では使わない事になっているのです。しかしどうか……この話は決して他の人には誰にも話さないで頂きたいのです、なにしろこんな事が広まっては客商売のことですから」
「その点は安心したまえ、僕なら決して誰にもしゃべりはしないから」
「ありがとうございます。もしお望みでしたら早速お部屋を変えましょうか」
「いや、ここでいいよ」
「しかしもし貴方様になにかありましては」
「まあそれ程の事もないだろう」
ボーイは会釈して出て行った。
いやな話である。ゆうべたしかに聞いた女の呻き声や、あの長い紙を静かに静かに引き裂くような物音が、まざまざと耳によみがえって来る。ドアのノブを掴んだまま血みどろになって死んでいたという、若い夫人の姿も、どうも眼にちらつくような気がする。
「ちぇ! いやな話を聞いた」
舌打ちをしながらがぶりとコーヒーを飲んで、煙草に火を点けようとした時、卓上電話がジリジリと鳴りだした。受話器を取ると、いきなりいきいきした少女の声で、
「あら、お兄さまね?」
と叫ぶようにいう。牛込若松町に母と二人で住んでいる妹のみどりだった。伊藤青年とは七つ違いの今年十八歳で、伊藤青年からはみどりの下の二字だけ取って「ドーリイ」と呼ばれているおてんばな女学生だ。
「なんだ、ドーリイじゃないか」
「ひどいわ、東京へいらっしゃったのにどうして家へ知らせて下さらないの?」
「君はまたどうして僕の来たことを知ったんだ」
「ゆうべホテルのロビーでお友達がお兄さまを見かけたんですって、たしかにお兄さまらしいからって知らせて来たのよ、どうして家へいらっしゃらないの?」
| みどりは伊藤青年からなんと呼ばれていますか。 | 電話をかけてきたのは妹のみどりだった。伊藤青年とは七つ違いの今年十八歳で、伊藤青年からはみどりの下の二字だけ取って「ドーリイ」と呼ばれているおてんばな女学生だ。 |
JCRRAG_010499 | 国語 | 「やっぱりそうよ」
みどりは電話を切って母の方へ振り返った。
「で、一体どうしたんだって?」
「なんだか秘密を要する研究報告のために、鹿谷博士と御一緒に上京したんですって、だからそれが済むまでは家へ来られないって」
「そう、じゃあおまえ、福岡の方へ送るつもりで用意しといたズボン下やシャツを持って行ってあげなさい」
「そうね、どうせ学校の帰りに麻布の村上さんを訪ねるお約束だから行くわ、そして汚れ物があったら持って来るわね」
一年ぶりに兄に会えると思うと、みどりはもう心もうきうきとして来るのだった。
みどりの学校が終わったのが午後四時だった。
それから片町の友達を訪ねたが、無理に引き留められて、六本木の近くにある山手ホテルへ着いたのは午後七時を過ぎた頃だった。受付で部屋の番号をきくと、若いボーイがいて三階の六号だと教えてくれた。
「御案内を致しましょう」
というのを断って(不意に行って驚かせてあげようと思ったのである)とんとんと階段を登り、右の翼屋の方へ曲がって右側の扉ドア、六号と書いてあるのを見て、そっとノブを回してみた、鍵はかけてなかった。
いるわ。
と思って、首をすくめながらそっと開け、あしおとを忍ばせて入った。そこは寝室と前部屋とカーテン一枚で仕切られていて、前の部屋には仕事テーブルと椅子が数脚置いてある。そのテーブルの側に立って、こっちへ背を向けて一人の男が何かをしていた。
お兄さまだわ。
疑ってみるまでもなくそう信じたみどりは、いきなり後ろへ駈け寄って、
「お兄さまこんばんは!」
と叫んだ。不意を打たれて相手は、
「あっ!」
といいながら振り返った。意外にもそれは兄ではなかった。全く見知らぬ人である。みどりはびっくりして二・三歩退がり、「まあ、すみませんでした、あたくし」
と詫びようとした時、相手の男は凄まじく歯を剥き出したと思うと、いきなり扉口へ飛鳥のようにとびついた。そしてスイッチの音がしたとみる刹那、部屋中の電灯がぱっと消えてあたりは真暗闇になった。これはすべてあっという間の出来事だった。
「あ、あれ!」
闇の中からみどりの悲鳴が聞こえ、荒々しい争いの気配がした。しかしそれはすぐに鎮まって、間もなく、どこか部屋の隅の方から、コトンと金具を合わせるような物音が聞こえ……それっきりしんとして人がいる様子もなくなってしまった。
伊藤豊治青年が鹿谷博士と共に帰って来たのは、それからおよそ一時間ほど経った後のことだった。伊藤青年は夕食前に、仙台から帰るという博士の電報を受け取ったので上野駅まで迎えに行って来たのである。したがって留守中にそんな事件があった事などは知る由もない。
「君の部屋は何号だね」
「翼屋の六号です」
「ははあ、ではゆうべ何かあったろう」
博士は眼をしかめながら訊いた。
「御存じなんですか、先生」
「うん、僕も最初にあの部屋へ入ったよ、どうやら一番静かそうだから望んだのだがね、前の部屋に亡霊が出て少し怖いから引き移った訳さ」
「先生まで幽霊を怖がるんですか」
「君だって怖くない事はあるまい、が、とにかくそれについて少し考えている事があるんだ、まあ……後で僕の部屋へ来たまえ」
二階の階段で二人は別れた。
伊藤豊治は三階へ上って、扉の鍵を(それはいつかもうちゃんと閉まっていた)開け、中へ入って電灯を点けた。そして、部屋を温めるためにヒーターの栓をひねった時、卓上電話がけたたましく鳴りだした。受話器を取ってみると、牛込の母からだった。
「ああお母さんですか」
「豊治かい、東京へおいでだってね、御用が済んだら牛込へも寄っておくれよ」
「ええ一週間ほどしたら伺います」
「待ってますよ。それからみどりはまだそっちにいるかい、余りに帰りが遅いからどうしたかと思って」
「ドーリイが来たんですか」
「行っていないのかい」
「いいえ、もっとも今までここを留守にしていましたので、ちょっとフロントへ聞いてみましょう」
そういって伊藤青年は呼鈴を押した。" | みどりの学校が終わったのは何時ですか。 | みどりの学校が終わったのが午後四時だった。 |
JCRRAG_010500 | 国語 | 「やっぱりそうよ」
みどりは電話を切って母の方へ振り返った。
「で、一体どうしたんだって?」
「なんだか秘密を要する研究報告のために、鹿谷博士と御一緒に上京したんですって、だからそれが済むまでは家へ来られないって」
「そう、じゃあおまえ、福岡の方へ送るつもりで用意しといたズボン下やシャツを持って行ってあげなさい」
「そうね、どうせ学校の帰りに麻布の村上さんを訪ねるお約束だから行くわ、そして汚れ物があったら持って来るわね」
一年ぶりに兄に会えると思うと、みどりはもう心もうきうきとして来るのだった。
みどりの学校が終わったのが午後四時だった。
それから片町の友達を訪ねたが、無理に引き留められて、六本木の近くにある山手ホテルへ着いたのは午後七時を過ぎた頃だった。受付で部屋の番号をきくと、若いボーイがいて三階の六号だと教えてくれた。
「御案内を致しましょう」
というのを断って(不意に行って驚かせてあげようと思ったのである)とんとんと階段を登り、右の翼屋の方へ曲がって右側の扉ドア、六号と書いてあるのを見て、そっとノブを回してみた、鍵はかけてなかった。
いるわ。
と思って、首をすくめながらそっと開け、あしおとを忍ばせて入った。そこは寝室と前部屋とカーテン一枚で仕切られていて、前の部屋には仕事テーブルと椅子が数脚置いてある。そのテーブルの側に立って、こっちへ背を向けて一人の男が何かをしていた。
お兄さまだわ。
疑ってみるまでもなくそう信じたみどりは、いきなり後ろへ駈け寄って、
「お兄さまこんばんは!」
と叫んだ。不意を打たれて相手は、
「あっ!」
といいながら振り返った。意外にもそれは兄ではなかった。全く見知らぬ人である。みどりはびっくりして二・三歩退がり、「まあ、すみませんでした、あたくし」
と詫びようとした時、相手の男は凄まじく歯を剥き出したと思うと、いきなり扉口へ飛鳥のようにとびついた。そしてスイッチの音がしたとみる刹那、部屋中の電灯がぱっと消えてあたりは真暗闇になった。これはすべてあっという間の出来事だった。
「あ、あれ!」
闇の中からみどりの悲鳴が聞こえ、荒々しい争いの気配がした。しかしそれはすぐに鎮まって、間もなく、どこか部屋の隅の方から、コトンと金具を合わせるような物音が聞こえ……それっきりしんとして人がいる様子もなくなってしまった。
伊藤豊治青年が鹿谷博士と共に帰って来たのは、それからおよそ一時間ほど経った後のことだった。伊藤青年は夕食前に、仙台から帰るという博士の電報を受け取ったので上野駅まで迎えに行って来たのである。したがって留守中にそんな事件があった事などは知る由もない。
「君の部屋は何号だね」
「翼屋の六号です」
「ははあ、ではゆうべ何かあったろう」
博士は眼をしかめながら訊いた。
「御存じなんですか、先生」
「うん、僕も最初にあの部屋へ入ったよ、どうやら一番静かそうだから望んだのだがね、前の部屋に亡霊が出て少し怖いから引き移った訳さ」
「先生まで幽霊を怖がるんですか」
「君だって怖くない事はあるまい、が、とにかくそれについて少し考えている事があるんだ、まあ……後で僕の部屋へ来たまえ」
二階の階段で二人は別れた。
伊藤豊治は三階へ上って、扉の鍵を(それはいつかもうちゃんと閉まっていた)開け、中へ入って電灯を点けた。そして、部屋を温めるためにヒーターの栓をひねった時、卓上電話がけたたましく鳴りだした。受話器を取ってみると、牛込の母からだった。
「ああお母さんですか」
「豊治かい、東京へおいでだってね、御用が済んだら牛込へも寄っておくれよ」
「ええ一週間ほどしたら伺います」
「待ってますよ。それからみどりはまだそっちにいるかい、余りに帰りが遅いからどうしたかと思って」
「ドーリイが来たんですか」
「行っていないのかい」
「いいえ、もっとも今までここを留守にしていましたので、ちょっとフロントへ聞いてみましょう」
そういって伊藤青年は呼鈴を押した。" | みどりがホテルに着いた頃には何時でしたか。 | 片町の友達を訪ねたが、無理に引き留められて、六本木の近くにある山手ホテルへ着いたのは午後七時を過ぎた頃だった。 |
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