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JCRRAG_010501
国語
「やっぱりそうよ」  みどりは電話を切って母の方へ振り返った。 「で、一体どうしたんだって?」 「なんだか秘密を要する研究報告のために、鹿谷博士と御一緒に上京したんですって、だからそれが済むまでは家へ来られないって」 「そう、じゃあおまえ、福岡の方へ送るつもりで用意しといたズボン下やシャツを持って行ってあげなさい」 「そうね、どうせ学校の帰りに麻布の村上さんを訪ねるお約束だから行くわ、そして汚れ物があったら持って来るわね」  一年ぶりに兄に会えると思うと、みどりはもう心もうきうきとして来るのだった。  みどりの学校が終わったのが午後四時だった。 それから片町の友達を訪ねたが、無理に引き留められて、六本木の近くにある山手ホテルへ着いたのは午後七時を過ぎた頃だった。受付で部屋の番号をきくと、若いボーイがいて三階の六号だと教えてくれた。 「御案内を致しましょう」  というのを断って(不意に行って驚かせてあげようと思ったのである)とんとんと階段を登り、右の翼屋の方へ曲がって右側の扉ドア、六号と書いてあるのを見て、そっとノブを回してみた、鍵はかけてなかった。  いるわ。  と思って、首をすくめながらそっと開け、あしおとを忍ばせて入った。そこは寝室と前部屋とカーテン一枚で仕切られていて、前の部屋には仕事テーブルと椅子が数脚置いてある。そのテーブルの側に立って、こっちへ背を向けて一人の男が何かをしていた。  お兄さまだわ。  疑ってみるまでもなくそう信じたみどりは、いきなり後ろへ駈け寄って、 「お兄さまこんばんは!」  と叫んだ。不意を打たれて相手は、 「あっ!」  といいながら振り返った。意外にもそれは兄ではなかった。全く見知らぬ人である。みどりはびっくりして二・三歩退がり、「まあ、すみませんでした、あたくし」  と詫びようとした時、相手の男は凄まじく歯を剥き出したと思うと、いきなり扉口へ飛鳥のようにとびついた。そしてスイッチの音がしたとみる刹那、部屋中の電灯がぱっと消えてあたりは真暗闇になった。これはすべてあっという間の出来事だった。 「あ、あれ!」  闇の中からみどりの悲鳴が聞こえ、荒々しい争いの気配がした。しかしそれはすぐに鎮まって、間もなく、どこか部屋の隅の方から、コトンと金具を合わせるような物音が聞こえ……それっきりしんとして人がいる様子もなくなってしまった。  伊藤豊治青年が鹿谷博士と共に帰って来たのは、それからおよそ一時間ほど経った後のことだった。伊藤青年は夕食前に、仙台から帰るという博士の電報を受け取ったので上野駅まで迎えに行って来たのである。したがって留守中にそんな事件があった事などは知る由もない。 「君の部屋は何号だね」 「翼屋の六号です」 「ははあ、ではゆうべ何かあったろう」  博士は眼をしかめながら訊いた。 「御存じなんですか、先生」 「うん、僕も最初にあの部屋へ入ったよ、どうやら一番静かそうだから望んだのだがね、前の部屋に亡霊が出て少し怖いから引き移った訳さ」 「先生まで幽霊を怖がるんですか」 「君だって怖くない事はあるまい、が、とにかくそれについて少し考えている事があるんだ、まあ……後で僕の部屋へ来たまえ」  二階の階段で二人は別れた。  伊藤豊治は三階へ上って、扉の鍵を(それはいつかもうちゃんと閉まっていた)開け、中へ入って電灯を点けた。そして、部屋を温めるためにヒーターの栓をひねった時、卓上電話がけたたましく鳴りだした。受話器を取ってみると、牛込の母からだった。 「ああお母さんですか」 「豊治かい、東京へおいでだってね、御用が済んだら牛込へも寄っておくれよ」 「ええ一週間ほどしたら伺います」 「待ってますよ。それからみどりはまだそっちにいるかい、余りに帰りが遅いからどうしたかと思って」 「ドーリイが来たんですか」 「行っていないのかい」 「いいえ、もっとも今までここを留守にしていましたので、ちょっとフロントへ聞いてみましょう」  そういって伊藤青年は呼鈴を押した。"
みどりが「お兄さまこんばんは!」と叫んだ相手は誰でしたか。
お兄さまだわ。疑ってみるまでもなくそう信じたみどりは、いきなり後ろへ駈け寄って、「お兄さまこんばんは!」と叫んだ。不意を打たれて相手は、「あっ!」といいながら振り返った。意外にもそれは兄ではなかった。全く見知らぬ人である。
JCRRAG_010502
国語
 二時を打った時計の余韻が、寝静まったホテルの廊下にたゆたいながら消えて行った、そのとたんであった、静かな闇のどこからともなく、 「あああああ、ううううう」  という女の呻き声が聞こえて来た。それは悲しげな、息詰まるような、聞く者をぞっとさせる、瀕死の状態の者の呻きであった。 「先生」 「黙って、黙って!」  博士は強く制した。伊藤青年は脇の下に冷汗の流れるのを感じながらひしとピストルをにぎりしめていた。女の呻き声は低くなり、やがてまた高くなりつつ断続した、と……間もなく、東側の壁のあたりでカチリ、という低い音がしたと思うと、丁度床から七フィートあまり上の壁に、ピカリ! ほんのかすかな火花のようなものが閃いた。そして同時に、  ビリリリ、ビリリリリ。  という、まるで長い紙をそっと引き裂いているような、静かな低い物音がし始めた。  すべてがゆうべの通りである。瀕死の女の悲しげな呻き、紙を引き裂くような奇妙な音、伊藤青年は総身に水を浴びたように、ゾッとして息をのんだ。 「そうか」  不意に博士が低く囁いた。 「そうか、そうだったのか、さすがにそこまではこの鹿谷も気付かなかったぞ、ふふふふ」 「どうしたのですか、先生」 「しッ……誰か来る」  慌てて博士が抑えた、と、いつどこから現われたか、右手の闇の中に白い被衣を頭から被った亡霊のようなものが、ぼーっと幻のように現われて来た。伊藤豊治は恐怖のあまり、我を忘れてピストルの引き金に指をかけた。と博士はその手首をぐいと強く掴み、動くな!というように押しつけた。奇怪な亡霊の姿が闇の中に現われてから、およそ二十分も経ったと思う頃……例の紙を引き裂くような物音がぴたりと止んだ。しかしまだ、怪しい女の呻き声は、断末魔の苦痛を訴えるように続いている。  亡霊は闇の中をすべるように、東側の壁の方へゆらめいて行った。そこで何かしているらしい、カチリという音がして、しばらくすると今度は、再びすべるように右手へ去って行く。博士はテーブルの陰から半身を出して見送ったが……亡霊の姿は煖炉のところで、急に掻き消すように見えなくなってしまった。 「待ちたまえ、まだ早い」  出ようとする伊藤青年を抑えながら、そのまま約三十分ほど息を殺していた博士は、もう誰の来る様子もなしと見極めがついたか、静かにテーブルの陰から出て、 「さあいよいよ虎穴を探るんだ」  と囁いた。「今度は事によってはピストルを使わなければならなくなるかも知れんぞ。だが撃つにしても足を狙いたまえよ、決して足以外は撃っちゃいかんぜ、来たまえ」  博士は煖炉の前へ進んだ。亡霊が消えたのはそこである、博士はしゃがみこんで、根気よく二十分あまりも煖炉の周囲を撫でまわしていたが、やがて指先が、煖炉棚の一角に触ったと思うと、火床が音もなく滑って、人一人が抜けられるほどの穴が、そこにぽっかりと口を明けた。 「あ! こんな所に抜け穴が」 「左様、こんな抜け穴を使うなんて、亡霊にしては不便極まる話さ。だが、この建物は数年前からヒーター式になっているので、絶対にこの煖炉は使わないのだから、秘密の通路には持って来いの場所だね、さあ入るんだ」 「大丈夫でしょうか」 「虎穴に入らずんば虎児を獲ずさ」  身をかがめるようにして、博士から先にその抜け穴へと入った。入口は狭いが、入った所は梯子口になっていて、楽に立ったまま下りられる。二人はピストルを握ったまま静かに、一段一段足音を忍ばせながら下りて行った。  梯子を下りきったところにドアがあった。博士はドアへ耳を当てて暫く様子を窺った後、そっと押し開けて中へ入った、とたんに、 「あ、ドーリイ」  低く叫びながら、伊藤青年が博士を押し除のけて中へ跳び込んだ。正にみどり、妹のみどりが、狭い物置部屋の中の椅子へ堅く縛りつけられたうえ、無残に猿つまみを噛まされていたのである。 「待ちたまえ!」  駈け寄ろうとする伊藤を、なぜか博士は急に押し止めた。 「まだ手を触れてはいかん」 「だって先生こんなに縛られて……」 「いいから待ちなさい、妹さんにはお気の毒だが、もう数時間この苦痛を堪え忍んで貰わなければならない、この事件は生やさしい問題ではない。国家の重大な機密に関係しているのだ、こういえば恐らくみどりさんもしばしの苦痛を耐え忍んで下さるだろう」  椅子に縛られたまま博士の言葉を聞いたみどりは、雄々しくも眼を輝かせながら、力強く頷いてみせるのだった。 「みどりさんは承知してくれたよ。さあこれからもうひと働きだ」  博士はそういうと、まだ渋っている伊藤青年を促しながら元の部屋へと戻って行った。
二時になったら何が聞こえましたか。
二時を打った時計の余韻が、寝静まったホテルの廊下にたゆたいながら消えて行った、そのとたんであった、静かな闇のどこからともなく、「あああああ、ううううう」という女の呻き声が聞こえて来た。
JCRRAG_010503
国語
 二時を打った時計の余韻が、寝静まったホテルの廊下にたゆたいながら消えて行った、そのとたんであった、静かな闇のどこからともなく、 「あああああ、ううううう」  という女の呻き声が聞こえて来た。それは悲しげな、息詰まるような、聞く者をぞっとさせる、瀕死の状態の者の呻きであった。 「先生」 「黙って、黙って!」  博士は強く制した。伊藤青年は脇の下に冷汗の流れるのを感じながらひしとピストルをにぎりしめていた。女の呻き声は低くなり、やがてまた高くなりつつ断続した、と……間もなく、東側の壁のあたりでカチリ、という低い音がしたと思うと、丁度床から七フィートあまり上の壁に、ピカリ! ほんのかすかな火花のようなものが閃いた。そして同時に、  ビリリリ、ビリリリリ。  という、まるで長い紙をそっと引き裂いているような、静かな低い物音がし始めた。  すべてがゆうべの通りである。瀕死の女の悲しげな呻き、紙を引き裂くような奇妙な音、伊藤青年は総身に水を浴びたように、ゾッとして息をのんだ。 「そうか」  不意に博士が低く囁いた。 「そうか、そうだったのか、さすがにそこまではこの鹿谷も気付かなかったぞ、ふふふふ」 「どうしたのですか、先生」 「しッ……誰か来る」  慌てて博士が抑えた、と、いつどこから現われたか、右手の闇の中に白い被衣を頭から被った亡霊のようなものが、ぼーっと幻のように現われて来た。伊藤豊治は恐怖のあまり、我を忘れてピストルの引き金に指をかけた。と博士はその手首をぐいと強く掴み、動くな!というように押しつけた。奇怪な亡霊の姿が闇の中に現われてから、およそ二十分も経ったと思う頃……例の紙を引き裂くような物音がぴたりと止んだ。しかしまだ、怪しい女の呻き声は、断末魔の苦痛を訴えるように続いている。  亡霊は闇の中をすべるように、東側の壁の方へゆらめいて行った。そこで何かしているらしい、カチリという音がして、しばらくすると今度は、再びすべるように右手へ去って行く。博士はテーブルの陰から半身を出して見送ったが……亡霊の姿は煖炉のところで、急に掻き消すように見えなくなってしまった。 「待ちたまえ、まだ早い」  出ようとする伊藤青年を抑えながら、そのまま約三十分ほど息を殺していた博士は、もう誰の来る様子もなしと見極めがついたか、静かにテーブルの陰から出て、 「さあいよいよ虎穴を探るんだ」  と囁いた。「今度は事によってはピストルを使わなければならなくなるかも知れんぞ。だが撃つにしても足を狙いたまえよ、決して足以外は撃っちゃいかんぜ、来たまえ」  博士は煖炉の前へ進んだ。亡霊が消えたのはそこである、博士はしゃがみこんで、根気よく二十分あまりも煖炉の周囲を撫でまわしていたが、やがて指先が、煖炉棚の一角に触ったと思うと、火床が音もなく滑って、人一人が抜けられるほどの穴が、そこにぽっかりと口を明けた。 「あ! こんな所に抜け穴が」 「左様、こんな抜け穴を使うなんて、亡霊にしては不便極まる話さ。だが、この建物は数年前からヒーター式になっているので、絶対にこの煖炉は使わないのだから、秘密の通路には持って来いの場所だね、さあ入るんだ」 「大丈夫でしょうか」 「虎穴に入らずんば虎児を獲ずさ」  身をかがめるようにして、博士から先にその抜け穴へと入った。入口は狭いが、入った所は梯子口になっていて、楽に立ったまま下りられる。二人はピストルを握ったまま静かに、一段一段足音を忍ばせながら下りて行った。  梯子を下りきったところにドアがあった。博士はドアへ耳を当てて暫く様子を窺った後、そっと押し開けて中へ入った、とたんに、 「あ、ドーリイ」  低く叫びながら、伊藤青年が博士を押し除のけて中へ跳び込んだ。正にみどり、妹のみどりが、狭い物置部屋の中の椅子へ堅く縛りつけられたうえ、無残に猿つまみを噛まされていたのである。 「待ちたまえ!」  駈け寄ろうとする伊藤を、なぜか博士は急に押し止めた。 「まだ手を触れてはいかん」 「だって先生こんなに縛られて……」 「いいから待ちなさい、妹さんにはお気の毒だが、もう数時間この苦痛を堪え忍んで貰わなければならない、この事件は生やさしい問題ではない。国家の重大な機密に関係しているのだ、こういえば恐らくみどりさんもしばしの苦痛を耐え忍んで下さるだろう」  椅子に縛られたまま博士の言葉を聞いたみどりは、雄々しくも眼を輝かせながら、力強く頷いてみせるのだった。 「みどりさんは承知してくれたよ。さあこれからもうひと働きだ」  博士はそういうと、まだ渋っている伊藤青年を促しながら元の部屋へと戻って行った。
伊藤豊治がピストルの引き金に指をかけたら博士はどうしましたか。
博士はその手首をぐいと強く掴み、動くな!というように押しつけた。
JCRRAG_010504
国語
 二時を打った時計の余韻が、寝静まったホテルの廊下にたゆたいながら消えて行った、そのとたんであった、静かな闇のどこからともなく、 「あああああ、ううううう」  という女の呻き声が聞こえて来た。それは悲しげな、息詰まるような、聞く者をぞっとさせる、瀕死の状態の者の呻きであった。 「先生」 「黙って、黙って!」  博士は強く制した。伊藤青年は脇の下に冷汗の流れるのを感じながらひしとピストルをにぎりしめていた。女の呻き声は低くなり、やがてまた高くなりつつ断続した、と……間もなく、東側の壁のあたりでカチリ、という低い音がしたと思うと、丁度床から七フィートあまり上の壁に、ピカリ! ほんのかすかな火花のようなものが閃いた。そして同時に、  ビリリリ、ビリリリリ。  という、まるで長い紙をそっと引き裂いているような、静かな低い物音がし始めた。  すべてがゆうべの通りである。瀕死の女の悲しげな呻き、紙を引き裂くような奇妙な音、伊藤青年は総身に水を浴びたように、ゾッとして息をのんだ。 「そうか」  不意に博士が低く囁いた。 「そうか、そうだったのか、さすがにそこまではこの鹿谷も気付かなかったぞ、ふふふふ」 「どうしたのですか、先生」 「しッ……誰か来る」  慌てて博士が抑えた、と、いつどこから現われたか、右手の闇の中に白い被衣を頭から被った亡霊のようなものが、ぼーっと幻のように現われて来た。伊藤豊治は恐怖のあまり、我を忘れてピストルの引き金に指をかけた。と博士はその手首をぐいと強く掴み、動くな!というように押しつけた。奇怪な亡霊の姿が闇の中に現われてから、およそ二十分も経ったと思う頃……例の紙を引き裂くような物音がぴたりと止んだ。しかしまだ、怪しい女の呻き声は、断末魔の苦痛を訴えるように続いている。  亡霊は闇の中をすべるように、東側の壁の方へゆらめいて行った。そこで何かしているらしい、カチリという音がして、しばらくすると今度は、再びすべるように右手へ去って行く。博士はテーブルの陰から半身を出して見送ったが……亡霊の姿は煖炉のところで、急に掻き消すように見えなくなってしまった。 「待ちたまえ、まだ早い」  出ようとする伊藤青年を抑えながら、そのまま約三十分ほど息を殺していた博士は、もう誰の来る様子もなしと見極めがついたか、静かにテーブルの陰から出て、 「さあいよいよ虎穴を探るんだ」  と囁いた。「今度は事によってはピストルを使わなければならなくなるかも知れんぞ。だが撃つにしても足を狙いたまえよ、決して足以外は撃っちゃいかんぜ、来たまえ」  博士は煖炉の前へ進んだ。亡霊が消えたのはそこである、博士はしゃがみこんで、根気よく二十分あまりも煖炉の周囲を撫でまわしていたが、やがて指先が、煖炉棚の一角に触ったと思うと、火床が音もなく滑って、人一人が抜けられるほどの穴が、そこにぽっかりと口を明けた。 「あ! こんな所に抜け穴が」 「左様、こんな抜け穴を使うなんて、亡霊にしては不便極まる話さ。だが、この建物は数年前からヒーター式になっているので、絶対にこの煖炉は使わないのだから、秘密の通路には持って来いの場所だね、さあ入るんだ」 「大丈夫でしょうか」 「虎穴に入らずんば虎児を獲ずさ」  身をかがめるようにして、博士から先にその抜け穴へと入った。入口は狭いが、入った所は梯子口になっていて、楽に立ったまま下りられる。二人はピストルを握ったまま静かに、一段一段足音を忍ばせながら下りて行った。  梯子を下りきったところにドアがあった。博士はドアへ耳を当てて暫く様子を窺った後、そっと押し開けて中へ入った、とたんに、 「あ、ドーリイ」  低く叫びながら、伊藤青年が博士を押し除のけて中へ跳び込んだ。正にみどり、妹のみどりが、狭い物置部屋の中の椅子へ堅く縛りつけられたうえ、無残に猿つまみを噛まされていたのである。 「待ちたまえ!」  駈け寄ろうとする伊藤を、なぜか博士は急に押し止めた。 「まだ手を触れてはいかん」 「だって先生こんなに縛られて……」 「いいから待ちなさい、妹さんにはお気の毒だが、もう数時間この苦痛を堪え忍んで貰わなければならない、この事件は生やさしい問題ではない。国家の重大な機密に関係しているのだ、こういえば恐らくみどりさんもしばしの苦痛を耐え忍んで下さるだろう」  椅子に縛られたまま博士の言葉を聞いたみどりは、雄々しくも眼を輝かせながら、力強く頷いてみせるのだった。 「みどりさんは承知してくれたよ。さあこれからもうひと働きだ」  博士はそういうと、まだ渋っている伊藤青年を促しながら元の部屋へと戻って行った。
博士が暖炉の周囲を撫でまわしていたらどうなりましたか。
博士はしゃがみこんで、根気よく二十分あまりも煖炉の周囲を撫でまわしていたが、やがて指先が、煖炉棚の一角に触ったと思うと、火床が音もなく滑って、人一人が抜けられるほどの穴が、そこにぽっかりと口を明けた。
JCRRAG_010505
国語
 二時を打った時計の余韻が、寝静まったホテルの廊下にたゆたいながら消えて行った、そのとたんであった、静かな闇のどこからともなく、 「あああああ、ううううう」  という女の呻き声が聞こえて来た。それは悲しげな、息詰まるような、聞く者をぞっとさせる、瀕死の状態の者の呻きであった。 「先生」 「黙って、黙って!」  博士は強く制した。伊藤青年は脇の下に冷汗の流れるのを感じながらひしとピストルをにぎりしめていた。女の呻き声は低くなり、やがてまた高くなりつつ断続した、と……間もなく、東側の壁のあたりでカチリ、という低い音がしたと思うと、丁度床から七フィートあまり上の壁に、ピカリ! ほんのかすかな火花のようなものが閃いた。そして同時に、  ビリリリ、ビリリリリ。  という、まるで長い紙をそっと引き裂いているような、静かな低い物音がし始めた。  すべてがゆうべの通りである。瀕死の女の悲しげな呻き、紙を引き裂くような奇妙な音、伊藤青年は総身に水を浴びたように、ゾッとして息をのんだ。 「そうか」  不意に博士が低く囁いた。 「そうか、そうだったのか、さすがにそこまではこの鹿谷も気付かなかったぞ、ふふふふ」 「どうしたのですか、先生」 「しッ……誰か来る」  慌てて博士が抑えた、と、いつどこから現われたか、右手の闇の中に白い被衣を頭から被った亡霊のようなものが、ぼーっと幻のように現われて来た。伊藤豊治は恐怖のあまり、我を忘れてピストルの引き金に指をかけた。と博士はその手首をぐいと強く掴み、動くな!というように押しつけた。奇怪な亡霊の姿が闇の中に現われてから、およそ二十分も経ったと思う頃……例の紙を引き裂くような物音がぴたりと止んだ。しかしまだ、怪しい女の呻き声は、断末魔の苦痛を訴えるように続いている。  亡霊は闇の中をすべるように、東側の壁の方へゆらめいて行った。そこで何かしているらしい、カチリという音がして、しばらくすると今度は、再びすべるように右手へ去って行く。博士はテーブルの陰から半身を出して見送ったが……亡霊の姿は煖炉のところで、急に掻き消すように見えなくなってしまった。 「待ちたまえ、まだ早い」  出ようとする伊藤青年を抑えながら、そのまま約三十分ほど息を殺していた博士は、もう誰の来る様子もなしと見極めがついたか、静かにテーブルの陰から出て、 「さあいよいよ虎穴を探るんだ」  と囁いた。「今度は事によってはピストルを使わなければならなくなるかも知れんぞ。だが撃つにしても足を狙いたまえよ、決して足以外は撃っちゃいかんぜ、来たまえ」  博士は煖炉の前へ進んだ。亡霊が消えたのはそこである、博士はしゃがみこんで、根気よく二十分あまりも煖炉の周囲を撫でまわしていたが、やがて指先が、煖炉棚の一角に触ったと思うと、火床が音もなく滑って、人一人が抜けられるほどの穴が、そこにぽっかりと口を明けた。 「あ! こんな所に抜け穴が」 「左様、こんな抜け穴を使うなんて、亡霊にしては不便極まる話さ。だが、この建物は数年前からヒーター式になっているので、絶対にこの煖炉は使わないのだから、秘密の通路には持って来いの場所だね、さあ入るんだ」 「大丈夫でしょうか」 「虎穴に入らずんば虎児を獲ずさ」  身をかがめるようにして、博士から先にその抜け穴へと入った。入口は狭いが、入った所は梯子口になっていて、楽に立ったまま下りられる。二人はピストルを握ったまま静かに、一段一段足音を忍ばせながら下りて行った。  梯子を下りきったところにドアがあった。博士はドアへ耳を当てて暫く様子を窺った後、そっと押し開けて中へ入った、とたんに、 「あ、ドーリイ」  低く叫びながら、伊藤青年が博士を押し除のけて中へ跳び込んだ。正にみどり、妹のみどりが、狭い物置部屋の中の椅子へ堅く縛りつけられたうえ、無残に猿つまみを噛まされていたのである。 「待ちたまえ!」  駈け寄ろうとする伊藤を、なぜか博士は急に押し止めた。 「まだ手を触れてはいかん」 「だって先生こんなに縛られて……」 「いいから待ちなさい、妹さんにはお気の毒だが、もう数時間この苦痛を堪え忍んで貰わなければならない、この事件は生やさしい問題ではない。国家の重大な機密に関係しているのだ、こういえば恐らくみどりさんもしばしの苦痛を耐え忍んで下さるだろう」  椅子に縛られたまま博士の言葉を聞いたみどりは、雄々しくも眼を輝かせながら、力強く頷いてみせるのだった。 「みどりさんは承知してくれたよ。さあこれからもうひと働きだ」  博士はそういうと、まだ渋っている伊藤青年を促しながら元の部屋へと戻って行った。
妹さんにはお気の毒だが、もう数時間この苦痛を堪え忍んで貰わなければならない、と博士に言われたみどりはどうしましたか。
椅子に縛られたまま博士の言葉を聞いたみどりは、雄々しくも眼を輝かせながら、力強く頷いてみせるのだった。
JCRRAG_010506
国語
博士と伊藤青年がどんな活躍をしたかは分からない、翌日の朝十時、ロビーでお茶の時間が開かれた時、博士と伊藤豊治の二人は、さっぱりと身なりを改めて、片隅のテーブルで熱いコーヒーを啜っていた。  その日はばかに客が多く、朝食だけ食べに来たらしい紳士や、面会人と見える人々が、それぞれコーヒーを啜ったり、トーストとハムエッグをつついたりしていた。十時が十五分過ぎた頃だった。ホテルの表に一台の高級車が着いて、三人のヨーロッパ人がロビーへ入って来た。この三人は毎朝ここへ朝食だけを食べに来るので、いつも奥の方にきまってテーブルが用意されてあるくらいなじみの客だった。  入って来た三人は、訛りのあるフランス語で口やかましく話しながら、自分たちのテーブルに就いて煙草を取り出した、もう毎日のことで注文は分かっているらしく、やがてボーイが銀盆の上へ、コーヒーやトーストやサラダを載せて運んで来た。 「お早うございます」 「ヤアオ早ウ、イイ天気デスネ」 「左様でございます、今日は特にベーコン・エッグを致しましたからどうかお試し下さいまし」  そういってボーイが、テーブルの上へ銀盆を置いた時である。突然うしろから訛りのない流暢なフランス語で、 「失礼ですが、そのベーコン・エッグは私の方へ頂きたいですね」  と声をかけた者がある、三人の外人がびくりとして振り返ると、そこには鹿谷博士がにやにやしながら立っていた。否、博士だけではない、意外にも今まで客のように見せていたロビーの人たち、およそ十七八名の紳士が、ぐるりと周囲を取り巻いているのだ、しかも手に手にピストルを持って。博士は冷やかに続けた、 「×××国の特務機関員諸君、もうじたばたしても駄目だよ、この通り網の口は締められたんだ。亡霊のからくりは暴露したぜ」 「あ! うぬ」 「手を挙げろ! 動くと射殺するぞ!!」  がんと喚きながら進み出たのは、老紳士と見せかけていた警視庁の高野刑事課長だった。三人の外国人は一瞬、紙のように血の気を失って、両手を挙げながら椅子から立った。  その隙である、例のボーイは影のように身をずらすとまるで弦を放れた矢のような勢いで地下室の方へ逃げだした。と見た博士が、 「伊藤、みどりさんを檻禁したのは彼奴だ、逃がすな!」  叫ぶよりはやく、伊藤青年は、 「くそっ」  と一声、弾丸のように走って、いま正に石の階段を半分まで駈け下りたボーイの背中へ、だっとばかり跳躍した。思い切った奇襲である。もんどり打って二人は、重なり合ったまま地下室へ転げ落ちる。 「衆生!」(支那語で「畜生」という意味)  ボーイは獣のように喚くと、いきなり右手に短剣を抜いてはね起きた。伊藤青年は下から、だっと蹴り上げて置いて、素早く寄身になると、力任せに右手の拳で相手の顎を突き上げた。 「あ!」  とよろめくところをもう一撃。 「この豚野郎ッ」  とばかり、鼻柱をへし折れよと叩きつけた。妹を苦しめた仇と思う憤怒の拳だ。ボーイは鼻から血を迸らせながらのけぞって倒れた。 「みごとみごと、もう堪忍してやりたまえ」  博士が階段口から愉快そうに叫んだ。 「それ以上やると死んでしまうだろう。あとは警視庁の諸君に任せるが宜い、それより早くみどりさんを助けるんだ」  伊藤青年は倒れているボーイ(それは実は支那人であった)の脇腹をひとつ、がんと蹴っておいて、物置部屋の方へ駈けだした。  それから一時間の後。  伊藤兄妹は博士の部屋で、熱いコーヒーを啜りながら、事件の謎を解く博士の言葉を聞いていた。 「彼らは×××国のスパイだった。あのボーイは中国の人で、勿論彼らの手先なのだ。亡霊の話は、あの部屋へ人を近寄らせないためだったが、その理由はあの部屋が秘密の連絡に使われていたからだ。どういう方法で連絡を取ったかというと、あの紙を裂くような音、あれがその機械だ。別のスパイが第×連隊の横に張り込んでいて、連隊の移動状態を探り、それを光線通信であの部屋へ送っていたのだ」 「ですが先生、もし夜間に光線で通信すればすぐ発見されるではありませんか、現にゆうべ僕たちが見張っていたのに、別になんの光も見えなかったですよ」 「だからさ、見えない光線を使ったのだ」  博士は微笑しながら続けた。 「つまり赤外線だ。兵営の付近から特殊な機械で、この部屋へ向かって赤外線を放射する。君も知っている通り赤外線は人間の眼には見えないものだ。しかし同じ受感装置には感じるから、光線を受けると同時に自動的に動きだし、眼に見えぬ通信を完全に記録するんだ。ゆうべ壁のところでカチリと音がして、小さな火花が閃めいたろう。あのとき記録装置が活動を始めたのだ。それから白い亡霊。あれは例の中国人ボーイが化けたのだが、あれがその記録を取り外し、朝になってあの三人の外人に給仕をする時、そっと手から手へ渡すという仕組みなのさ。実に敵ながらあっぱれ、赤外線を使ったのはスパイ戦はじまって以来これが最初だろうよ」 「ところで、どうして先生はこれをスパイ事件だとお気付きになりましたか?」 「初めはそこまで気がつかなかったね。ただあのボーイが、得意そうに亡霊の話をしたので、こいつは怪しいと思ったのだ。なぜって、客商売してる者が、聞かれもしないのに客のいやがる亡霊の話などをする筈がないからなあ。これは何かある!と睨んだよ、その次にみどりさんの行方不明を聞いたので、たしかにこの家に何かあると感付いた。そして何の気もなく外の空気を吸おうとして窓を明けたところが、向こうに第×連隊の営舎があるのをみつけたので、そう、一種の霊感だな、本能的にこれはスパイ事件に違いない!と思ったんだ。すると毎朝あの三人の外人が、きまってロビーへ朝飯に来る事、その給仕はあの男に限っている事などがはっきり思い出された。こうなればあとは簡単さ、みどりさんを縛ったままにして置けば、彼奴はまだ自分の罪がバレたした事に気付かず、堂々とロビーで連絡を取るに違いない、そう思った事が図星に当たった。頼んで置いた警視庁の諸君も、なかなか立派に芝居をしてくれたよ」  そして博士は次の様に言葉を結んだ。 「つまり奴等はやり過ぎたのさ。不必要な場合に亡霊を宣伝し、また僕の研究の秘密を盗もうとして、運悪く来てしまったみどりさんを檻禁した。この二つが自ら事件を暴く糸口を作ったようなもんだからなあ、ことわざで言うだろう、それ、過ぎたるは及ばざるに如しかず、とね、あははははは」
三人のヨーロッパ人がビクリとして振り返ると誰がいましたか。
そこには鹿谷博士がにやにやしながら立っていた。
JCRRAG_010507
国語
博士と伊藤青年がどんな活躍をしたかは分からない、翌日の朝十時、ロビーでお茶の時間が開かれた時、博士と伊藤豊治の二人は、さっぱりと身なりを改めて、片隅のテーブルで熱いコーヒーを啜っていた。  その日はばかに客が多く、朝食だけ食べに来たらしい紳士や、面会人と見える人々が、それぞれコーヒーを啜ったり、トーストとハムエッグをつついたりしていた。十時が十五分過ぎた頃だった。ホテルの表に一台の高級車が着いて、三人のヨーロッパ人がロビーへ入って来た。この三人は毎朝ここへ朝食だけを食べに来るので、いつも奥の方にきまってテーブルが用意されてあるくらいなじみの客だった。  入って来た三人は、訛りのあるフランス語で口やかましく話しながら、自分たちのテーブルに就いて煙草を取り出した、もう毎日のことで注文は分かっているらしく、やがてボーイが銀盆の上へ、コーヒーやトーストやサラダを載せて運んで来た。 「お早うございます」 「ヤアオ早ウ、イイ天気デスネ」 「左様でございます、今日は特にベーコン・エッグを致しましたからどうかお試し下さいまし」  そういってボーイが、テーブルの上へ銀盆を置いた時である。突然うしろから訛りのない流暢なフランス語で、 「失礼ですが、そのベーコン・エッグは私の方へ頂きたいですね」  と声をかけた者がある、三人の外人がびくりとして振り返ると、そこには鹿谷博士がにやにやしながら立っていた。否、博士だけではない、意外にも今まで客のように見せていたロビーの人たち、およそ十七八名の紳士が、ぐるりと周囲を取り巻いているのだ、しかも手に手にピストルを持って。博士は冷やかに続けた、 「×××国の特務機関員諸君、もうじたばたしても駄目だよ、この通り網の口は締められたんだ。亡霊のからくりは暴露したぜ」 「あ! うぬ」 「手を挙げろ! 動くと射殺するぞ!!」  がんと喚きながら進み出たのは、老紳士と見せかけていた警視庁の高野刑事課長だった。三人の外国人は一瞬、紙のように血の気を失って、両手を挙げながら椅子から立った。  その隙である、例のボーイは影のように身をずらすとまるで弦を放れた矢のような勢いで地下室の方へ逃げだした。と見た博士が、 「伊藤、みどりさんを檻禁したのは彼奴だ、逃がすな!」  叫ぶよりはやく、伊藤青年は、 「くそっ」  と一声、弾丸のように走って、いま正に石の階段を半分まで駈け下りたボーイの背中へ、だっとばかり跳躍した。思い切った奇襲である。もんどり打って二人は、重なり合ったまま地下室へ転げ落ちる。 「衆生!」(支那語で「畜生」という意味)  ボーイは獣のように喚くと、いきなり右手に短剣を抜いてはね起きた。伊藤青年は下から、だっと蹴り上げて置いて、素早く寄身になると、力任せに右手の拳で相手の顎を突き上げた。 「あ!」  とよろめくところをもう一撃。 「この豚野郎ッ」  とばかり、鼻柱をへし折れよと叩きつけた。妹を苦しめた仇と思う憤怒の拳だ。ボーイは鼻から血を迸らせながらのけぞって倒れた。 「みごとみごと、もう堪忍してやりたまえ」  博士が階段口から愉快そうに叫んだ。 「それ以上やると死んでしまうだろう。あとは警視庁の諸君に任せるが宜い、それより早くみどりさんを助けるんだ」  伊藤青年は倒れているボーイ(それは実は支那人であった)の脇腹をひとつ、がんと蹴っておいて、物置部屋の方へ駈けだした。  それから一時間の後。  伊藤兄妹は博士の部屋で、熱いコーヒーを啜りながら、事件の謎を解く博士の言葉を聞いていた。 「彼らは×××国のスパイだった。あのボーイは中国の人で、勿論彼らの手先なのだ。亡霊の話は、あの部屋へ人を近寄らせないためだったが、その理由はあの部屋が秘密の連絡に使われていたからだ。どういう方法で連絡を取ったかというと、あの紙を裂くような音、あれがその機械だ。別のスパイが第×連隊の横に張り込んでいて、連隊の移動状態を探り、それを光線通信であの部屋へ送っていたのだ」 「ですが先生、もし夜間に光線で通信すればすぐ発見されるではありませんか、現にゆうべ僕たちが見張っていたのに、別になんの光も見えなかったですよ」 「だからさ、見えない光線を使ったのだ」  博士は微笑しながら続けた。 「つまり赤外線だ。兵営の付近から特殊な機械で、この部屋へ向かって赤外線を放射する。君も知っている通り赤外線は人間の眼には見えないものだ。しかし同じ受感装置には感じるから、光線を受けると同時に自動的に動きだし、眼に見えぬ通信を完全に記録するんだ。ゆうべ壁のところでカチリと音がして、小さな火花が閃めいたろう。あのとき記録装置が活動を始めたのだ。それから白い亡霊。あれは例の中国人ボーイが化けたのだが、あれがその記録を取り外し、朝になってあの三人の外人に給仕をする時、そっと手から手へ渡すという仕組みなのさ。実に敵ながらあっぱれ、赤外線を使ったのはスパイ戦はじまって以来これが最初だろうよ」 「ところで、どうして先生はこれをスパイ事件だとお気付きになりましたか?」 「初めはそこまで気がつかなかったね。ただあのボーイが、得意そうに亡霊の話をしたので、こいつは怪しいと思ったのだ。なぜって、客商売してる者が、聞かれもしないのに客のいやがる亡霊の話などをする筈がないからなあ。これは何かある!と睨んだよ、その次にみどりさんの行方不明を聞いたので、たしかにこの家に何かあると感付いた。そして何の気もなく外の空気を吸おうとして窓を明けたところが、向こうに第×連隊の営舎があるのをみつけたので、そう、一種の霊感だな、本能的にこれはスパイ事件に違いない!と思ったんだ。すると毎朝あの三人の外人が、きまってロビーへ朝飯に来る事、その給仕はあの男に限っている事などがはっきり思い出された。こうなればあとは簡単さ、みどりさんを縛ったままにして置けば、彼奴はまだ自分の罪がバレたした事に気付かず、堂々とロビーで連絡を取るに違いない、そう思った事が図星に当たった。頼んで置いた警視庁の諸君も、なかなか立派に芝居をしてくれたよ」  そして博士は次の様に言葉を結んだ。 「つまり奴等はやり過ぎたのさ。不必要な場合に亡霊を宣伝し、また僕の研究の秘密を盗もうとして、運悪く来てしまったみどりさんを檻禁した。この二つが自ら事件を暴く糸口を作ったようなもんだからなあ、ことわざで言うだろう、それ、過ぎたるは及ばざるに如しかず、とね、あははははは」
ボーイは伊藤に殴られてどうなりましたか。
ボーイは鼻から血を迸らせながらのけぞって倒れた。
JCRRAG_010508
国語
博士と伊藤青年がどんな活躍をしたかは分からない、翌日の朝十時、ロビーでお茶の時間が開かれた時、博士と伊藤豊治の二人は、さっぱりと身なりを改めて、片隅のテーブルで熱いコーヒーを啜っていた。  その日はばかに客が多く、朝食だけ食べに来たらしい紳士や、面会人と見える人々が、それぞれコーヒーを啜ったり、トーストとハムエッグをつついたりしていた。十時が十五分過ぎた頃だった。ホテルの表に一台の高級車が着いて、三人のヨーロッパ人がロビーへ入って来た。この三人は毎朝ここへ朝食だけを食べに来るので、いつも奥の方にきまってテーブルが用意されてあるくらいなじみの客だった。  入って来た三人は、訛りのあるフランス語で口やかましく話しながら、自分たちのテーブルに就いて煙草を取り出した、もう毎日のことで注文は分かっているらしく、やがてボーイが銀盆の上へ、コーヒーやトーストやサラダを載せて運んで来た。 「お早うございます」 「ヤアオ早ウ、イイ天気デスネ」 「左様でございます、今日は特にベーコン・エッグを致しましたからどうかお試し下さいまし」  そういってボーイが、テーブルの上へ銀盆を置いた時である。突然うしろから訛りのない流暢なフランス語で、 「失礼ですが、そのベーコン・エッグは私の方へ頂きたいですね」  と声をかけた者がある、三人の外人がびくりとして振り返ると、そこには鹿谷博士がにやにやしながら立っていた。否、博士だけではない、意外にも今まで客のように見せていたロビーの人たち、およそ十七八名の紳士が、ぐるりと周囲を取り巻いているのだ、しかも手に手にピストルを持って。博士は冷やかに続けた、 「×××国の特務機関員諸君、もうじたばたしても駄目だよ、この通り網の口は締められたんだ。亡霊のからくりは暴露したぜ」 「あ! うぬ」 「手を挙げろ! 動くと射殺するぞ!!」  がんと喚きながら進み出たのは、老紳士と見せかけていた警視庁の高野刑事課長だった。三人の外国人は一瞬、紙のように血の気を失って、両手を挙げながら椅子から立った。  その隙である、例のボーイは影のように身をずらすとまるで弦を放れた矢のような勢いで地下室の方へ逃げだした。と見た博士が、 「伊藤、みどりさんを檻禁したのは彼奴だ、逃がすな!」  叫ぶよりはやく、伊藤青年は、 「くそっ」  と一声、弾丸のように走って、いま正に石の階段を半分まで駈け下りたボーイの背中へ、だっとばかり跳躍した。思い切った奇襲である。もんどり打って二人は、重なり合ったまま地下室へ転げ落ちる。 「衆生!」(支那語で「畜生」という意味)  ボーイは獣のように喚くと、いきなり右手に短剣を抜いてはね起きた。伊藤青年は下から、だっと蹴り上げて置いて、素早く寄身になると、力任せに右手の拳で相手の顎を突き上げた。 「あ!」  とよろめくところをもう一撃。 「この豚野郎ッ」  とばかり、鼻柱をへし折れよと叩きつけた。妹を苦しめた仇と思う憤怒の拳だ。ボーイは鼻から血を迸らせながらのけぞって倒れた。 「みごとみごと、もう堪忍してやりたまえ」  博士が階段口から愉快そうに叫んだ。 「それ以上やると死んでしまうだろう。あとは警視庁の諸君に任せるが宜い、それより早くみどりさんを助けるんだ」  伊藤青年は倒れているボーイ(それは実は支那人であった)の脇腹をひとつ、がんと蹴っておいて、物置部屋の方へ駈けだした。  それから一時間の後。  伊藤兄妹は博士の部屋で、熱いコーヒーを啜りながら、事件の謎を解く博士の言葉を聞いていた。 「彼らは×××国のスパイだった。あのボーイは中国の人で、勿論彼らの手先なのだ。亡霊の話は、あの部屋へ人を近寄らせないためだったが、その理由はあの部屋が秘密の連絡に使われていたからだ。どういう方法で連絡を取ったかというと、あの紙を裂くような音、あれがその機械だ。別のスパイが第×連隊の横に張り込んでいて、連隊の移動状態を探り、それを光線通信であの部屋へ送っていたのだ」 「ですが先生、もし夜間に光線で通信すればすぐ発見されるではありませんか、現にゆうべ僕たちが見張っていたのに、別になんの光も見えなかったですよ」 「だからさ、見えない光線を使ったのだ」  博士は微笑しながら続けた。 「つまり赤外線だ。兵営の付近から特殊な機械で、この部屋へ向かって赤外線を放射する。君も知っている通り赤外線は人間の眼には見えないものだ。しかし同じ受感装置には感じるから、光線を受けると同時に自動的に動きだし、眼に見えぬ通信を完全に記録するんだ。ゆうべ壁のところでカチリと音がして、小さな火花が閃めいたろう。あのとき記録装置が活動を始めたのだ。それから白い亡霊。あれは例の中国人ボーイが化けたのだが、あれがその記録を取り外し、朝になってあの三人の外人に給仕をする時、そっと手から手へ渡すという仕組みなのさ。実に敵ながらあっぱれ、赤外線を使ったのはスパイ戦はじまって以来これが最初だろうよ」 「ところで、どうして先生はこれをスパイ事件だとお気付きになりましたか?」 「初めはそこまで気がつかなかったね。ただあのボーイが、得意そうに亡霊の話をしたので、こいつは怪しいと思ったのだ。なぜって、客商売してる者が、聞かれもしないのに客のいやがる亡霊の話などをする筈がないからなあ。これは何かある!と睨んだよ、その次にみどりさんの行方不明を聞いたので、たしかにこの家に何かあると感付いた。そして何の気もなく外の空気を吸おうとして窓を明けたところが、向こうに第×連隊の営舎があるのをみつけたので、そう、一種の霊感だな、本能的にこれはスパイ事件に違いない!と思ったんだ。すると毎朝あの三人の外人が、きまってロビーへ朝飯に来る事、その給仕はあの男に限っている事などがはっきり思い出された。こうなればあとは簡単さ、みどりさんを縛ったままにして置けば、彼奴はまだ自分の罪がバレたした事に気付かず、堂々とロビーで連絡を取るに違いない、そう思った事が図星に当たった。頼んで置いた警視庁の諸君も、なかなか立派に芝居をしてくれたよ」  そして博士は次の様に言葉を結んだ。 「つまり奴等はやり過ぎたのさ。不必要な場合に亡霊を宣伝し、また僕の研究の秘密を盗もうとして、運悪く来てしまったみどりさんを檻禁した。この二つが自ら事件を暴く糸口を作ったようなもんだからなあ、ことわざで言うだろう、それ、過ぎたるは及ばざるに如しかず、とね、あははははは」
ボーイが銀盆に載せていたのは何ですか。
ボーイが銀盆の上へ、コーヒーやトーストやサラダを載せて運んで来た。
JCRRAG_010509
国語
夜になると、見物人も帰るので、ようやく私は家の中にもぐりこみ、地べたで寝るのでした。二週間ばかりは、毎晩地べたで寝たものです。が、そのうちに皇帝が、私のためにベッドをこしらえてやれ、と言われました。普通の大きさのベッドが六百、車に積んで運ばれ、私の家の中で、それを組み立てました。 2 人間山  私の噂は国中にひろまってしまいました。お金持で、暇のある、物好きな連中が、毎日、雲のように押しかけて来ます。 ある日は百人、またある日は三百人、ひどい時には五百人と来るようになりました。  そのために、村々はほとんど空っぽになり、畑の仕事も家の仕事も、すっかりお留守になりそうでした。それで、皇帝から命令が出ました。見物がすんだ人はさっさと帰れ、無断で私の家の三十ヤード以内に近よってはいけない、と、こんなことが決められました。 それでも近寄ろうとするので五十ヤード以内に近よってはいけないことになりました。  ところで、皇帝は何度も会議を開いて、一体、これはどうしたらいいのかと、相談されたそうです。聞くところによると、朝廷でも、私の取り扱いには、だいぶ困っていたようです。あんな男を自由の身にしてやるのも心配でしたが、なにしろ、私の食事がとても大へんなものでしたから、これでは国中が飢饉になるかもしれない、というのです。  いっそのこと、何も食べさせないで、餓死させるか、それとも、毒矢で殺してしまう方がよかろう、と言うものがいました。  ちょうど、この会議の最中に、私があのやじ馬を許してやったことが伝えられました。すると、皇帝も大臣も、私の行いに、すっかり感心してしまいました。
地べたに寝ていた私に皇帝は何をしてくれましたか。
夜になると、見物人も帰るので、ようやく私は家の中にもぐりこみ、地べたで寝るのでした。二週間ばかりは、毎晩地べたで寝たものです。が、そのうちに皇帝が、私のためにベッドをこしらえてやれ、と言われました。普通の大きさのベッドが六百、車に積んで運ばれ、私の家の中で、それを組み立てました。
JCRRAG_010510
国語
夜になると、見物人も帰るので、ようやく私は家の中にもぐりこみ、地べたで寝るのでした。二週間ばかりは、毎晩地べたで寝たものです。が、そのうちに皇帝が、私のためにベッドをこしらえてやれ、と言われました。普通の大きさのベッドが六百、車に積んで運ばれ、私の家の中で、それを組み立てました。 2 人間山  私の噂は国中にひろまってしまいました。お金持で、暇のある、物好きな連中が、毎日、雲のように押しかけて来ます。 ある日は百人、またある日は三百人、ひどい時には五百人と来るようになりました。  そのために、村々はほとんど空っぽになり、畑の仕事も家の仕事も、すっかりお留守になりそうでした。それで、皇帝から命令が出ました。見物がすんだ人はさっさと帰れ、無断で私の家の三十ヤード以内に近よってはいけない、と、こんなことが決められました。 それでも近寄ろうとするので五十ヤード以内に近よってはいけないことになりました。  ところで、皇帝は何度も会議を開いて、一体、これはどうしたらいいのかと、相談されたそうです。聞くところによると、朝廷でも、私の取り扱いには、だいぶ困っていたようです。あんな男を自由の身にしてやるのも心配でしたが、なにしろ、私の食事がとても大へんなものでしたから、これでは国中が飢饉になるかもしれない、というのです。  いっそのこと、何も食べさせないで、餓死させるか、それとも、毒矢で殺してしまう方がよかろう、と言うものがいました。  ちょうど、この会議の最中に、私があのやじ馬を許してやったことが伝えられました。すると、皇帝も大臣も、私の行いに、すっかり感心してしまいました。
私の取り扱いに困って会議で出た提案はなんでしたか。
私の取り扱いには、だいぶ困っていたようです。あんな男を自由の身にしてやるのも心配でしたが、なにしろ、私の食事がとても大へんなものでしたから、これでは国中が飢饉になるかもしれない、というのです。いっそのこと、何も食べさせないで、餓死させるか、それとも、毒矢で殺してしまう方がよかろう、と言うものがいました。
JCRRAG_010511
国語
ブルは、みんながだまって、相手にしなくなったから、二、三日前から一人でおこってる。おこっても、相手がいないから、けんかができない。そこで、洗濯代をはらわないのだ。すると、洗濯屋のジョージが、さいそくにきた。このジョージも強い。牧場で牛があばれだしたとき、走っていってとりおさえたのは、ジョージの力だ。 「ポールさん、洗濯代をはらってください」と、ジョージがきていうと、 「なに?」ブルが下あごをつき出して、ニヤリとわらった。  さあブルのらんぼうがはじまるぞ! と、みんなが青くなった。ちょうど食堂にいたときだ。中には焼き肉を半分、食いかけたままで、コソコソと逃げだしたものもいる。ぼくは、このとき、すみの方で、ジャガイモを食いかけていた。 「なにって、前の月の洗濯代を、まだ払ってもらってないんです。ぼくが主人にさいそくされて、こまってるんですから、どうかおはらいください、ポールさん」と、ジョージがブルに、ていねいにいってる。 「ハッハッハッ」と、ブルが、わらったかと思うと、いきなりどなりだした。 「ヤイ、ジョージ! きさまはおれに、恥をかかせたな、みんなの前で、さいそくなんかしやがって、こい! もうすこし前へこい!」 「いや、恥をかかせるなんて、そんなことが、あるもんですか。みんなの前でとおっしゃっても、ここの倶楽部の方ばかりで、みなさんは仲のいい兄弟のような方じゃありませんか」と、ジョージが、やさしくいうと、 「だまれッ! なにが兄弟だ。きさままでおれに反対するかッ」  と、いきなりブルが立ち上がった、と思うと、ジョージにとびかかっていった。ジョージもおこった。ものもいわずにブルへ打ってかかる。打たれてブルはすごく顔色をかえた。と思った瞬間組みついた。大げんか、大格闘になった。みんながバラバラと逃げだした。ケンカを止めたりしたら、あとで、「ヤイ、なぜとめた。おれの勝つけんかを、なぜとめた」と、ブルがくってかかる。しかし、だまって見てたら、 「きさま、なんで見てた。なぜ加勢しなかったんだ」と、やはりおこってくる。もしも加勢したら、「オイ、おれが弱いと思ったのか。さあこい、きさまが相手だ」と、どうしてもつっかかってくる。それを知ってるから、みんなが逃げだしてしまって、ぼくばかりのこった。ジャガイモを食いながら、目の前の大格闘を見てると、 「エイッ!」すごい気合いとともに、ブルが、ジョージのからだを、つり上げた、と思うと、 「ウッ!」ジョージが、ブルに、しがみついた。 「な、なにをッ!」  と、すごい力をからだ中にこめたブル、いきなり、ジョージを肩の上までグッとさしあげると、そのまま下へ力いっぱい投げつけた。 「ウーン」と、いったきり、さすがのジョージも、床の上にひらたくなったまま、肩で息をしてる。起きられないのだ。  ブルは、息もつかずに、ぼくの方を、ジロリと見て、 「どうだ? おれに歯向かうやつは、ヘッ、こんなものだぞ!」  と、いうと、廊下の方へ、ノソリノソリと出ていった。どうしたのか、ぼくにくってかからない。ハハア、ブルのやつ、ぼくが日本人だから、すこしはこわがってるんかな? と、そう思いながら、ぼくはジョージの倒れてるところへいって、だきおこしてやった。
ブルに叩きつけられたジョージはどうなりましたか。
「ウーン」と、いったきり、さすがのジョージも、床の上にひらたくなったまま、肩で息をしてる。起きられないのだ。
JCRRAG_010512
国語
ある大都会の大通りの下の下水道に、悪魔が一匹住んでいました。まっ暗な中でねずみやこうもりなんかと一緒に、下水の中の汚物等をあさって暮らしていました。ところがある時、下水道の中に上の方から明るい光がさしていましたので、何だろうと思って寄ってゆくと、下水道の掃除口が半分ばかり開いているのです。悪魔は何の気もなくその掃除口につかまって、そっと外をのぞいてみて、びっくりしました。街中に明るく灯りがともっていて、大勢の人がぞろぞろ通っていて、おもしろい蓄音機の音までも聞こえています。 「ほほう、まっ暗な汚いこの下水道の上に、こんな立派な賑やかな通りがあろうとは、今まで夢にも知らなかった。何ときらきら光ってる灯りなんだ。何と大勢の美しい人間共が通ってることか。何という賑やかさ華やかさだ。下水の掃除人がこの掃除口を閉め忘れてるのを幸いに、俺も少しこの賑やかな通りを散歩してみるかな」  そしてこののん気な悪魔は、下水道からひょいと飛び出して、小さな犬に化けて、街路樹の影をのそのそと歩き出しました。昼のように明るい街路、美しく賑やかな人通り、宮殿のようにきらびやかな店先、うまそうな食物の匂い、楽しい音楽の響き、そんなものに悪魔は気がぼーっとして、いつまでもうろついていました。  そのうちに夜はだんだんふけてきて、人通りも少なくなり、商店の窓もしめられ、賑やかだった街路が淋しくなり始めました。悪魔はふと気がついて、自分が飛び出したあの下水の掃除口のところへ、大急ぎで戻って行きました。ところが、いつのまにか掃除人が戻ってきたとみえて、大きな鉄の蓋がかっちり閉め切られています。 「ほい、これはとんでもないことになった」  そして悪魔は、方々の掃除口を探して歩きましたが、どこもここもみな、頑丈な鉄の蓋が閉め切ってあって、下水道へはいり込む隙間もありません。 「弱ったな。どうしたら下水道へ戻ってゆけるかしら」  思い迷ってふらふら歩いていると、酔っぱらいの男や商店の子僧などから、野良犬だといっておどかされたり追っぱらわれたりしますし、巡査ががちゃがちゃ剣を鳴らしてやって来たりするものですから、悪魔はすっかり心が折れました。そしてどこかもぐり込む隅でもないかと、きょろきょろ探し回ってるうちに、ある立派な帽子屋の店が閉め残されてるのを見つけました。店の中には誰もいなくて、奥の方で番頭が一人居眠りをしています。 「しめたぞ。今夜はこの店の中に隠れるとしよう」  そーっとはいり込んで、陳列棚の上に飛び上がって、ひょいと帽子に化けて素知らぬ顔をしていました。間もなく、奥の部屋から二・三人の子僧が出て来て、表の戸締りをして、電気を消して、また引っ込んでいきました。  悪魔はほっと息をついて、やれやれ助かったと思うと、急に疲れが出て、帽子に化けたまま、ぐっすり眠ってしまいました。
悪魔が外をのぞいてみたら何がありましたか。
街中に明るく灯りがともっていて、大勢の人がぞろぞろ通っていて、おもしろい蓄音機の音までも聞こえています。
JCRRAG_010513
国語
ある大都会の大通りの下の下水道に、悪魔が一匹住んでいました。まっ暗な中でねずみやこうもりなんかと一緒に、下水の中の汚物等をあさって暮らしていました。ところがある時、下水道の中に上の方から明るい光がさしていましたので、何だろうと思って寄ってゆくと、下水道の掃除口が半分ばかり開いているのです。悪魔は何の気もなくその掃除口につかまって、そっと外をのぞいてみて、びっくりしました。街中に明るく灯りがともっていて、大勢の人がぞろぞろ通っていて、おもしろい蓄音機の音までも聞こえています。 「ほほう、まっ暗な汚いこの下水道の上に、こんな立派な賑やかな通りがあろうとは、今まで夢にも知らなかった。何ときらきら光ってる灯りなんだ。何と大勢の美しい人間共が通ってることか。何という賑やかさ華やかさだ。下水の掃除人がこの掃除口を閉め忘れてるのを幸いに、俺も少しこの賑やかな通りを散歩してみるかな」  そしてこののん気な悪魔は、下水道からひょいと飛び出して、小さな犬に化けて、街路樹の影をのそのそと歩き出しました。昼のように明るい街路、美しく賑やかな人通り、宮殿のようにきらびやかな店先、うまそうな食物の匂い、楽しい音楽の響き、そんなものに悪魔は気がぼーっとして、いつまでもうろついていました。  そのうちに夜はだんだんふけてきて、人通りも少なくなり、商店の窓もしめられ、賑やかだった街路が淋しくなり始めました。悪魔はふと気がついて、自分が飛び出したあの下水の掃除口のところへ、大急ぎで戻って行きました。ところが、いつのまにか掃除人が戻ってきたとみえて、大きな鉄の蓋がかっちり閉め切られています。 「ほい、これはとんでもないことになった」  そして悪魔は、方々の掃除口を探して歩きましたが、どこもここもみな、頑丈な鉄の蓋が閉め切ってあって、下水道へはいり込む隙間もありません。 「弱ったな。どうしたら下水道へ戻ってゆけるかしら」  思い迷ってふらふら歩いていると、酔っぱらいの男や商店の子僧などから、野良犬だといっておどかされたり追っぱらわれたりしますし、巡査ががちゃがちゃ剣を鳴らしてやって来たりするものですから、悪魔はすっかり心が折れました。そしてどこかもぐり込む隅でもないかと、きょろきょろ探し回ってるうちに、ある立派な帽子屋の店が閉め残されてるのを見つけました。店の中には誰もいなくて、奥の方で番頭が一人居眠りをしています。 「しめたぞ。今夜はこの店の中に隠れるとしよう」  そーっとはいり込んで、陳列棚の上に飛び上がって、ひょいと帽子に化けて素知らぬ顔をしていました。間もなく、奥の部屋から二・三人の子僧が出て来て、表の戸締りをして、電気を消して、また引っ込んでいきました。  悪魔はほっと息をついて、やれやれ助かったと思うと、急に疲れが出て、帽子に化けたまま、ぐっすり眠ってしまいました。
悪魔が自分が飛び出したあの下水の掃除口のところへ戻ったらどうなりましたか。
夜はだんだんふけてきて、人通りも少なくなり、商店の窓もしめられ、賑やかだった街路が淋しくなり始めました。悪魔はふと気がついて、自分が飛び出したあの下水の掃除口のところへ、大急ぎで戻って行きました。ところが、いつのまにか掃除人が戻ってきたとみえて、大きな鉄の蓋がかっちり閉め切られています。
JCRRAG_010514
国語
ある大都会の大通りの下の下水道に、悪魔が一匹住んでいました。まっ暗な中でねずみやこうもりなんかと一緒に、下水の中の汚物等をあさって暮らしていました。ところがある時、下水道の中に上の方から明るい光がさしていましたので、何だろうと思って寄ってゆくと、下水道の掃除口が半分ばかり開いているのです。悪魔は何の気もなくその掃除口につかまって、そっと外をのぞいてみて、びっくりしました。街中に明るく灯りがともっていて、大勢の人がぞろぞろ通っていて、おもしろい蓄音機の音までも聞こえています。 「ほほう、まっ暗な汚いこの下水道の上に、こんな立派な賑やかな通りがあろうとは、今まで夢にも知らなかった。何ときらきら光ってる灯りなんだ。何と大勢の美しい人間共が通ってることか。何という賑やかさ華やかさだ。下水の掃除人がこの掃除口を閉め忘れてるのを幸いに、俺も少しこの賑やかな通りを散歩してみるかな」  そしてこののん気な悪魔は、下水道からひょいと飛び出して、小さな犬に化けて、街路樹の影をのそのそと歩き出しました。昼のように明るい街路、美しく賑やかな人通り、宮殿のようにきらびやかな店先、うまそうな食物の匂い、楽しい音楽の響き、そんなものに悪魔は気がぼーっとして、いつまでもうろついていました。  そのうちに夜はだんだんふけてきて、人通りも少なくなり、商店の窓もしめられ、賑やかだった街路が淋しくなり始めました。悪魔はふと気がついて、自分が飛び出したあの下水の掃除口のところへ、大急ぎで戻って行きました。ところが、いつのまにか掃除人が戻ってきたとみえて、大きな鉄の蓋がかっちり閉め切られています。 「ほい、これはとんでもないことになった」  そして悪魔は、方々の掃除口を探して歩きましたが、どこもここもみな、頑丈な鉄の蓋が閉め切ってあって、下水道へはいり込む隙間もありません。 「弱ったな。どうしたら下水道へ戻ってゆけるかしら」  思い迷ってふらふら歩いていると、酔っぱらいの男や商店の子僧などから、野良犬だといっておどかされたり追っぱらわれたりしますし、巡査ががちゃがちゃ剣を鳴らしてやって来たりするものですから、悪魔はすっかり心が折れました。そしてどこかもぐり込む隅でもないかと、きょろきょろ探し回ってるうちに、ある立派な帽子屋の店が閉め残されてるのを見つけました。店の中には誰もいなくて、奥の方で番頭が一人居眠りをしています。 「しめたぞ。今夜はこの店の中に隠れるとしよう」  そーっとはいり込んで、陳列棚の上に飛び上がって、ひょいと帽子に化けて素知らぬ顔をしていました。間もなく、奥の部屋から二・三人の子僧が出て来て、表の戸締りをして、電気を消して、また引っ込んでいきました。  悪魔はほっと息をついて、やれやれ助かったと思うと、急に疲れが出て、帽子に化けたまま、ぐっすり眠ってしまいました。
悪魔が帽子屋に潜り込んでどうしましたか。
そーっとはいり込んで、陳列棚の上に飛び上がって、ひょいと帽子に化けて素知らぬ顔をしていました。間もなく、奥の部屋から二・三人の子僧が出て来て、表の戸締りをして、電気を消して、また引っ込んでいきました。悪魔はほっと息をついて、やれやれ助かったと思うと、急に疲れが出て、帽子に化けたまま、ぐっすり眠ってしまいました。
JCRRAG_010515
国語
 その翌朝、悪魔が眼を覚ますと、もう明るく日がさしていて、店の中には大勢の番頭や子僧達が、掃除をしたり帽子を並べ直したりしていました。 「おや、寝過ごしたのかな。汚い下水道の中とちがって、あまり寝心地がよかったものだから、早く眼を覚ますのを忘れていた。今逃げ出せば見つかるし、まあいいや、も少しここにじっとしていたら、そのうちに逃げ出す隙があるだろう」  ところが、その隙がなかなかありませんでした。店の中には何人もの店員が控えていますし、表には大勢の人が通っています。とうとう昼頃になりました。  その時、すてきにハイカラな洋服を着て、胸にネックレスをからめている紳士が、帽子を買いに入って来ました。そして番頭に案内されて、陳列棚の帽子を見て回りました。 「しめたぞ」と悪魔は考えました。「一番上等な帽子に化けて、あの男に買われて、ともかくも外に出てみるとしよう。ここにこうしていたんでは、窮屈でしょうがない」  その考えがうまく当たって、金鎖の紳士は、悪魔が化けてる帽子に眼をとめました。 「この帽子はすてきだな、格好といい色つやといい、どうも……珍しい良い帽子だ。これにしよう。いくらだね」  番頭はその帽子を手に取って、小首を傾げて眺めました。自分の店にあるのだが、どうも見馴れないすてきな帽子なんです。でも、高く買ってさえもらえば損はないわけですから、とんでもない高い値段で売りつけてしまいました。紳士はその帽子がよほど気に入ったとみえて、たくさんのお金を払い、古い帽子は打ち捨ててしまって、新しい帽子を頭にかぶって外に出ました。  悪魔はおかしさをこらえてすましていましたが、今こうして、ハイカラな洋服の紳士の頭にのっかって、賑やかな大通りを通ってるうちに、非常に愉快な得意な気持ちになって、ぐっと反り返りながら、逃げ出すのも忘れてしまいました。  やがて紳士は、ある立派な洋食屋へ入って昼の食事を始めました。悪魔の帽子がよほど気に入ったようで、 入口の釘にもかけずに、ちゃんと食卓の上にのせておきました。  次に見事な料理の皿が運ばれました。食卓の上に帽子となってひかえてる悪魔の鼻にも、うまそうな匂いがぷーんと伝わってきました。すると悪魔は急に空腹を覚えました。考えてみると、昨日の晩から何にも食べていなかったのです。 「うまそうな料理だな。下水の中に流れてくるものなんかとは、比べものにならない。ああいい匂いがしてる。それに俺の腹はぺこぺこだ……かまうもんか、少し盗み食いをしてやれ」  そして悪魔は、紳士がビールのコップを手にとって、ぐーっと飲んでる隙に、皿の中の料理をぺろりと頬張ってしまいました。それに味をしめて、次の皿のもその次の皿のも、大きい口でぺろりと頬張ってしまいました。  紳士はビールを一口飲んで、さて料理を食べようとすると、皿の中にはもう何にもありません。 「おかしいな。どうも……」  次の皿もそうなものですから、しまいに紳士は両腕を組んで考えこみました。 「今日は変な日だな。夢でもみてるのかしら」  こつんと額を一つ叩いて、それから急いで勘定をして外に飛び出しました。大事な帽子を頭にのせることは忘れませんでした。  空はやはりからりと晴れて、日が照っていました。けれど、いつしか風が出て、大通りをさっさっと吹き過ぎていました。それでも悪魔は、うまい料理に腹がいっぱいになって、紳士の頭にのっかったまま、ついうつらうつらと眠り始めました。
翌朝、悪魔が目を覚ますと帽子屋はどうなっていましたか。
翌朝、悪魔が眼を覚ますと、もう明るく日がさしていて、店の中には大勢の番頭や子僧達が、掃除をしたり帽子を並べ直したりしていました。
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 その翌朝、悪魔が眼を覚ますと、もう明るく日がさしていて、店の中には大勢の番頭や子僧達が、掃除をしたり帽子を並べ直したりしていました。 「おや、寝過ごしたのかな。汚い下水道の中とちがって、あまり寝心地がよかったものだから、早く眼を覚ますのを忘れていた。今逃げ出せば見つかるし、まあいいや、も少しここにじっとしていたら、そのうちに逃げ出す隙があるだろう」  ところが、その隙がなかなかありませんでした。店の中には何人もの店員が控えていますし、表には大勢の人が通っています。とうとう昼頃になりました。  その時、すてきにハイカラな洋服を着て、胸にネックレスをからめている紳士が、帽子を買いに入って来ました。そして番頭に案内されて、陳列棚の帽子を見て回りました。 「しめたぞ」と悪魔は考えました。「一番上等な帽子に化けて、あの男に買われて、ともかくも外に出てみるとしよう。ここにこうしていたんでは、窮屈でしょうがない」  その考えがうまく当たって、金鎖の紳士は、悪魔が化けてる帽子に眼をとめました。 「この帽子はすてきだな、格好といい色つやといい、どうも……珍しい良い帽子だ。これにしよう。いくらだね」  番頭はその帽子を手に取って、小首を傾げて眺めました。自分の店にあるのだが、どうも見馴れないすてきな帽子なんです。でも、高く買ってさえもらえば損はないわけですから、とんでもない高い値段で売りつけてしまいました。紳士はその帽子がよほど気に入ったとみえて、たくさんのお金を払い、古い帽子は打ち捨ててしまって、新しい帽子を頭にかぶって外に出ました。  悪魔はおかしさをこらえてすましていましたが、今こうして、ハイカラな洋服の紳士の頭にのっかって、賑やかな大通りを通ってるうちに、非常に愉快な得意な気持ちになって、ぐっと反り返りながら、逃げ出すのも忘れてしまいました。  やがて紳士は、ある立派な洋食屋へ入って昼の食事を始めました。悪魔の帽子がよほど気に入ったようで、 入口の釘にもかけずに、ちゃんと食卓の上にのせておきました。  次に見事な料理の皿が運ばれました。食卓の上に帽子となってひかえてる悪魔の鼻にも、うまそうな匂いがぷーんと伝わってきました。すると悪魔は急に空腹を覚えました。考えてみると、昨日の晩から何にも食べていなかったのです。 「うまそうな料理だな。下水の中に流れてくるものなんかとは、比べものにならない。ああいい匂いがしてる。それに俺の腹はぺこぺこだ……かまうもんか、少し盗み食いをしてやれ」  そして悪魔は、紳士がビールのコップを手にとって、ぐーっと飲んでる隙に、皿の中の料理をぺろりと頬張ってしまいました。それに味をしめて、次の皿のもその次の皿のも、大きい口でぺろりと頬張ってしまいました。  紳士はビールを一口飲んで、さて料理を食べようとすると、皿の中にはもう何にもありません。 「おかしいな。どうも……」  次の皿もそうなものですから、しまいに紳士は両腕を組んで考えこみました。 「今日は変な日だな。夢でもみてるのかしら」  こつんと額を一つ叩いて、それから急いで勘定をして外に飛び出しました。大事な帽子を頭にのせることは忘れませんでした。  空はやはりからりと晴れて、日が照っていました。けれど、いつしか風が出て、大通りをさっさっと吹き過ぎていました。それでも悪魔は、うまい料理に腹がいっぱいになって、紳士の頭にのっかったまま、ついうつらうつらと眠り始めました。
紳士はとんでもない値段がついた帽子をどうしましたか。
紳士はその帽子がよほど気に入ったとみえて、たくさんのお金を払い、古い帽子は打ち捨ててしまって、新しい帽子を頭にかぶって外に出ました。
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 その翌朝、悪魔が眼を覚ますと、もう明るく日がさしていて、店の中には大勢の番頭や子僧達が、掃除をしたり帽子を並べ直したりしていました。 「おや、寝過ごしたのかな。汚い下水道の中とちがって、あまり寝心地がよかったものだから、早く眼を覚ますのを忘れていた。今逃げ出せば見つかるし、まあいいや、も少しここにじっとしていたら、そのうちに逃げ出す隙があるだろう」  ところが、その隙がなかなかありませんでした。店の中には何人もの店員が控えていますし、表には大勢の人が通っています。とうとう昼頃になりました。  その時、すてきにハイカラな洋服を着て、胸にネックレスをからめている紳士が、帽子を買いに入って来ました。そして番頭に案内されて、陳列棚の帽子を見て回りました。 「しめたぞ」と悪魔は考えました。「一番上等な帽子に化けて、あの男に買われて、ともかくも外に出てみるとしよう。ここにこうしていたんでは、窮屈でしょうがない」  その考えがうまく当たって、金鎖の紳士は、悪魔が化けてる帽子に眼をとめました。 「この帽子はすてきだな、格好といい色つやといい、どうも……珍しい良い帽子だ。これにしよう。いくらだね」  番頭はその帽子を手に取って、小首を傾げて眺めました。自分の店にあるのだが、どうも見馴れないすてきな帽子なんです。でも、高く買ってさえもらえば損はないわけですから、とんでもない高い値段で売りつけてしまいました。紳士はその帽子がよほど気に入ったとみえて、たくさんのお金を払い、古い帽子は打ち捨ててしまって、新しい帽子を頭にかぶって外に出ました。  悪魔はおかしさをこらえてすましていましたが、今こうして、ハイカラな洋服の紳士の頭にのっかって、賑やかな大通りを通ってるうちに、非常に愉快な得意な気持ちになって、ぐっと反り返りながら、逃げ出すのも忘れてしまいました。  やがて紳士は、ある立派な洋食屋へ入って昼の食事を始めました。悪魔の帽子がよほど気に入ったようで、 入口の釘にもかけずに、ちゃんと食卓の上にのせておきました。  次に見事な料理の皿が運ばれました。食卓の上に帽子となってひかえてる悪魔の鼻にも、うまそうな匂いがぷーんと伝わってきました。すると悪魔は急に空腹を覚えました。考えてみると、昨日の晩から何にも食べていなかったのです。 「うまそうな料理だな。下水の中に流れてくるものなんかとは、比べものにならない。ああいい匂いがしてる。それに俺の腹はぺこぺこだ……かまうもんか、少し盗み食いをしてやれ」  そして悪魔は、紳士がビールのコップを手にとって、ぐーっと飲んでる隙に、皿の中の料理をぺろりと頬張ってしまいました。それに味をしめて、次の皿のもその次の皿のも、大きい口でぺろりと頬張ってしまいました。  紳士はビールを一口飲んで、さて料理を食べようとすると、皿の中にはもう何にもありません。 「おかしいな。どうも……」  次の皿もそうなものですから、しまいに紳士は両腕を組んで考えこみました。 「今日は変な日だな。夢でもみてるのかしら」  こつんと額を一つ叩いて、それから急いで勘定をして外に飛び出しました。大事な帽子を頭にのせることは忘れませんでした。  空はやはりからりと晴れて、日が照っていました。けれど、いつしか風が出て、大通りをさっさっと吹き過ぎていました。それでも悪魔は、うまい料理に腹がいっぱいになって、紳士の頭にのっかったまま、ついうつらうつらと眠り始めました。
紳士が昼の食事を悪魔に全て食べられた後はどうしましたか。
紳士は両腕を組んで考えこみました。「今日は変な日だな。夢でもみてるのかしら」こつんと額を一つ叩いて、それから急いで勘定をして外に飛び出しました。
JCRRAG_010518
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 しばらくたって眼を開くと、そこもやはり賑やかな大通りで、ハイカラな洋服の紳士はステッキを打ち振りながら変なしかめ顔をして歩いていました。それを見ながら、きっと腹が空いてるんだな、と思うと悪魔は、急におかしくなって、ははははと笑い出しました。がその声に自分でもびっくりして、首を縮こめた瞬間に、何だか寒くなって、うつらうつらしてる間に風邪をひいたとみえ、大きなくしゃみが出てきました。  紳士は驚いて立ち止まりました。頭の上で笑い声がして、次にくしゃみの音がしたのです。まさか、悪魔の化けてる帽子をかぶってるとは思わないものですから、あたりを見回したり空を仰いだりして、きょとんとした顔つきで考えました。 「変だな」  その時またさっと風が吹いてきました。悪魔はそれに真正面から吹きつけられて、くしゃんと、もう一くしゃみをしました。 「おや」  こんどは紳士も頭の帽子に気がついたとみえて、手をあげて帽子を取ろうとしました。もう悪魔は絶対絶命です。手に取って正体を見抜かれたら大変です。どうしようと思ったとたんに、ふといいことを考えついて、紳士の頭が横に傾いた拍子に、風に吹き飛ばされたふうをして、ふーっと往来に飛び降りて、ころころと転がって逃げ始めました。  紳士は大事な帽子が風に吹き飛ばされたのを見て、後を追っかけてきました。悪魔にとっては、つかまえられたら一大事です。一生懸命に転がって逃げました。紳士はどんどん追っかけてきます。そのうちに、立派な紳士と帽子とが駆けっこをしてるのを見て、大勢の人がおもしろがってついて来ました。 「よく転がる帽子だな」 「まるで生きてるようだな」 「おかしな帽子だな」 「つかまえてやれ、つかまえてやれ」  大勢の人が紳士と一緒になって追っかけてきます。つかまったら最後だ、と悪魔は思って、くるくるくるくるまわりながら、一生懸命に逃げ出しました。あまりに転がったので眼がまわって、闇雲に逃げてるうち、ある橋のところへやってきて、行く方向を間違ったものですから、あっというまに川の中へ落ち込みました。 「川に落っこった、川に落っこった」 「ぽかんとして浮いてやがる」 「竿を持って来い、竿を」  大勢の人ががやがや騒ぎ立てました。  悪魔は川に落ちて、眼を白黒させていましたが、やがて気が静まると、きらきら光ってる太陽が見えます。岸に立って騒いでる大勢の人が見えます。うらめしそうな顔をしてるハイカラ紳士も見えます。 「はてどこへ逃げたらいいかしら」  そう思って見回すと、川の岸の石垣に、大きな円い穴が口を開いて、汚い水が中から流れ出ています。嗅ぎなれたくさい匂いがしています。 「これだ」と悪魔は心の中で叫びました。「俺の住まいだ。下水道の出口だ」  そして、帽子が水に流されるようなふうをして、つーっと泳ぎだして、下水道の口の中に飛びこみました。  それを見て、岸の上では大変な騒ぎになりました。 「帽子が泳いだ」 「下水道の中に飛び込んだ」 「お化けの帽子だ、お化けだ」 「不思議な帽子だ」  わいわい騒ぎ立てて下水道の口をのぞいています。しかしいつまでたっても、もう帽子は二度と出て来ませんでした。  帽子はもうちゃんともとの悪魔の姿になって、下水道の口からちょっとのぞいて大勢の人を見ると、こそこそと中の方へはいってゆきました。 「あぶないところだった。だがここまでくればもう大丈夫だ。どうも変に寒い。珍しいごちそうを食べて、あの男の頭の上で居眠りをしたので、風邪でも引いたのかな」  そしてそこの下水道の奥のまっ暗な中で、悪魔は、また大きなくしゃみをしました。
紳士がしかめ顔をして歩いているのを見て、悪魔はどうしましたか。
ハイカラな洋服の紳士はステッキを打ち振りながら変なしかめ顔をして歩いていました。きっと腹が空いてるんだな、と思うと悪魔は、急におかしくなって、ははははと笑い出しました。
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 しばらくたって眼を開くと、そこもやはり賑やかな大通りで、ハイカラな洋服の紳士はステッキを打ち振りながら変なしかめ顔をして歩いていました。それを見ながら、きっと腹が空いてるんだな、と思うと悪魔は、急におかしくなって、ははははと笑い出しました。がその声に自分でもびっくりして、首を縮こめた瞬間に、何だか寒くなって、うつらうつらしてる間に風邪をひいたとみえ、大きなくしゃみが出てきました。  紳士は驚いて立ち止まりました。頭の上で笑い声がして、次にくしゃみの音がしたのです。まさか、悪魔の化けてる帽子をかぶってるとは思わないものですから、あたりを見回したり空を仰いだりして、きょとんとした顔つきで考えました。 「変だな」  その時またさっと風が吹いてきました。悪魔はそれに真正面から吹きつけられて、くしゃんと、もう一くしゃみをしました。 「おや」  こんどは紳士も頭の帽子に気がついたとみえて、手をあげて帽子を取ろうとしました。もう悪魔は絶対絶命です。手に取って正体を見抜かれたら大変です。どうしようと思ったとたんに、ふといいことを考えついて、紳士の頭が横に傾いた拍子に、風に吹き飛ばされたふうをして、ふーっと往来に飛び降りて、ころころと転がって逃げ始めました。  紳士は大事な帽子が風に吹き飛ばされたのを見て、後を追っかけてきました。悪魔にとっては、つかまえられたら一大事です。一生懸命に転がって逃げました。紳士はどんどん追っかけてきます。そのうちに、立派な紳士と帽子とが駆けっこをしてるのを見て、大勢の人がおもしろがってついて来ました。 「よく転がる帽子だな」 「まるで生きてるようだな」 「おかしな帽子だな」 「つかまえてやれ、つかまえてやれ」  大勢の人が紳士と一緒になって追っかけてきます。つかまったら最後だ、と悪魔は思って、くるくるくるくるまわりながら、一生懸命に逃げ出しました。あまりに転がったので眼がまわって、闇雲に逃げてるうち、ある橋のところへやってきて、行く方向を間違ったものですから、あっというまに川の中へ落ち込みました。 「川に落っこった、川に落っこった」 「ぽかんとして浮いてやがる」 「竿を持って来い、竿を」  大勢の人ががやがや騒ぎ立てました。  悪魔は川に落ちて、眼を白黒させていましたが、やがて気が静まると、きらきら光ってる太陽が見えます。岸に立って騒いでる大勢の人が見えます。うらめしそうな顔をしてるハイカラ紳士も見えます。 「はてどこへ逃げたらいいかしら」  そう思って見回すと、川の岸の石垣に、大きな円い穴が口を開いて、汚い水が中から流れ出ています。嗅ぎなれたくさい匂いがしています。 「これだ」と悪魔は心の中で叫びました。「俺の住まいだ。下水道の出口だ」  そして、帽子が水に流されるようなふうをして、つーっと泳ぎだして、下水道の口の中に飛びこみました。  それを見て、岸の上では大変な騒ぎになりました。 「帽子が泳いだ」 「下水道の中に飛び込んだ」 「お化けの帽子だ、お化けだ」 「不思議な帽子だ」  わいわい騒ぎ立てて下水道の口をのぞいています。しかしいつまでたっても、もう帽子は二度と出て来ませんでした。  帽子はもうちゃんともとの悪魔の姿になって、下水道の口からちょっとのぞいて大勢の人を見ると、こそこそと中の方へはいってゆきました。 「あぶないところだった。だがここまでくればもう大丈夫だ。どうも変に寒い。珍しいごちそうを食べて、あの男の頭の上で居眠りをしたので、風邪でも引いたのかな」  そしてそこの下水道の奥のまっ暗な中で、悪魔は、また大きなくしゃみをしました。
悪魔の化けてる帽子は転がってどうしましたか。
大勢の人が紳士と一緒になって追っかけてきます。つかまったら最後だ、と悪魔は思って、くるくるくるくるまわりながら、一生懸命に逃げ出しました。あまりに転がったので眼がまわって、闇雲に逃げてるうち、ある橋のところへやってきて、行く方向を間違ったものですから、あっというまに川の中へ落ち込みました。
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 しばらくたって眼を開くと、そこもやはり賑やかな大通りで、ハイカラな洋服の紳士はステッキを打ち振りながら変なしかめ顔をして歩いていました。それを見ながら、きっと腹が空いてるんだな、と思うと悪魔は、急におかしくなって、ははははと笑い出しました。がその声に自分でもびっくりして、首を縮こめた瞬間に、何だか寒くなって、うつらうつらしてる間に風邪をひいたとみえ、大きなくしゃみが出てきました。  紳士は驚いて立ち止まりました。頭の上で笑い声がして、次にくしゃみの音がしたのです。まさか、悪魔の化けてる帽子をかぶってるとは思わないものですから、あたりを見回したり空を仰いだりして、きょとんとした顔つきで考えました。 「変だな」  その時またさっと風が吹いてきました。悪魔はそれに真正面から吹きつけられて、くしゃんと、もう一くしゃみをしました。 「おや」  こんどは紳士も頭の帽子に気がついたとみえて、手をあげて帽子を取ろうとしました。もう悪魔は絶対絶命です。手に取って正体を見抜かれたら大変です。どうしようと思ったとたんに、ふといいことを考えついて、紳士の頭が横に傾いた拍子に、風に吹き飛ばされたふうをして、ふーっと往来に飛び降りて、ころころと転がって逃げ始めました。  紳士は大事な帽子が風に吹き飛ばされたのを見て、後を追っかけてきました。悪魔にとっては、つかまえられたら一大事です。一生懸命に転がって逃げました。紳士はどんどん追っかけてきます。そのうちに、立派な紳士と帽子とが駆けっこをしてるのを見て、大勢の人がおもしろがってついて来ました。 「よく転がる帽子だな」 「まるで生きてるようだな」 「おかしな帽子だな」 「つかまえてやれ、つかまえてやれ」  大勢の人が紳士と一緒になって追っかけてきます。つかまったら最後だ、と悪魔は思って、くるくるくるくるまわりながら、一生懸命に逃げ出しました。あまりに転がったので眼がまわって、闇雲に逃げてるうち、ある橋のところへやってきて、行く方向を間違ったものですから、あっというまに川の中へ落ち込みました。 「川に落っこった、川に落っこった」 「ぽかんとして浮いてやがる」 「竿を持って来い、竿を」  大勢の人ががやがや騒ぎ立てました。  悪魔は川に落ちて、眼を白黒させていましたが、やがて気が静まると、きらきら光ってる太陽が見えます。岸に立って騒いでる大勢の人が見えます。うらめしそうな顔をしてるハイカラ紳士も見えます。 「はてどこへ逃げたらいいかしら」  そう思って見回すと、川の岸の石垣に、大きな円い穴が口を開いて、汚い水が中から流れ出ています。嗅ぎなれたくさい匂いがしています。 「これだ」と悪魔は心の中で叫びました。「俺の住まいだ。下水道の出口だ」  そして、帽子が水に流されるようなふうをして、つーっと泳ぎだして、下水道の口の中に飛びこみました。  それを見て、岸の上では大変な騒ぎになりました。 「帽子が泳いだ」 「下水道の中に飛び込んだ」 「お化けの帽子だ、お化けだ」 「不思議な帽子だ」  わいわい騒ぎ立てて下水道の口をのぞいています。しかしいつまでたっても、もう帽子は二度と出て来ませんでした。  帽子はもうちゃんともとの悪魔の姿になって、下水道の口からちょっとのぞいて大勢の人を見ると、こそこそと中の方へはいってゆきました。 「あぶないところだった。だがここまでくればもう大丈夫だ。どうも変に寒い。珍しいごちそうを食べて、あの男の頭の上で居眠りをしたので、風邪でも引いたのかな」  そしてそこの下水道の奥のまっ暗な中で、悪魔は、また大きなくしゃみをしました。
悪魔が化けてる帽子が下水道の口の中に飛びこんだらどうなりましたか。
帽子が水に流されるようなふうをして、つーっと泳ぎだして、下水道の口の中に飛びこみました。それを見て、岸の上では大変な騒ぎになりました。「帽子が泳いだ」「下水道の中に飛び込んだ」「お化けの帽子だ、お化けだ」「不思議な帽子だ」わいわい騒ぎ立てて下水道の口をのぞいています。
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その頃の風穂の野原は、ほんとうに立派でした。  青い萱や光る茨やけむりのような穂を出す草で一杯、それにあちこちには栗の木やハンノキの小さな林もありました。  野原は今は練兵場や粟の畑や苗畑などになってそれでも騎兵の馬が光ったり、白いシャツの人が働いたり、汽車で通ってもなかなか奇麗ですけれども、前はまだまだ立派でした。  九月になると私どもは毎日野原に出掛けました。そして私は藤原慶次郎といっしょに出て行きました。町の方の子供らが出て来るのは日曜日に限っていましたから私どもはどんな日でも初蕈や栗をたくさんとりました。ずいぶん遠くまでも行ったのですが日曜には一層遠くまで出掛けました。  ところが、九月の末のある日曜でしたが、朝早く私が慶次郎をさそっていつものように野原の入口にかけたら、一本の白い立札がみちばたの栗の木の前に出ていました。私どもはもう尋常五年生でしたからすらすら読みました。 「本日は東北長官一行の出遊につきこれより中には入るべからず。東北庁」 と書かれていました。  私はがっかりしてしまいました。慶次郎も顔を赤くして何回も読み直していました。 「困ったねえ、えらい人が来るんだよ。叱られるといけないからもう帰ろうか。」私がいいましたら慶次郎は少し怒って答えました。 「かまうもんか、入ろう、入ろう。ここは天皇の場所でそんな警部や何かの場所じゃないんだい。ずっと奥へ行こうよ。」  私も突然面白くなりました。 「おい、東北長官というものを見たいな。どんな顔だろう。」 「ひげもめがねもあるのさ。この間来た大臣だってそうだ。」 「どこかにかくれて見てようか。」 「見てよう。寺林のとこはどうだい。」  寺林というのは今は練兵場の北のはじになっていますが野原の中でいちばん奇麗な所でした。ハンノキの林がぐるっと輪になっていて中にはみじかいやわらかな草がいちめん生えてまるで一つの公園地のようでした。  私どもはそのハンノキの中にかくれていようと思ったのです。 「そうしよう。早く行かないと見つかるぜ。」 「さあ走ってこう。」  私どもはそこでまるで一目散にその野原の一本道を走りました。あんまり苦しくて息がつけなくなるととまって空を向いてあるきまたうしろを見てはかけ出し、走って走ってとうとう寺林についたのです。そこで道からはなれてハンノキの中にかくれました。けれども虫がしんしん鳴き時々鳥が百匹も一かたまりになってざあと通るばかり、一向に人も来ないようでしたからだんだん私たちは恐くなくなってハンノキの下の萱をがさがさわけて初茸をさがしはじめました。いつものようにたくさん見つかりましたから私はいつしか長官のことも忘れてしきりにとっておりました。  すると突然慶次郎が私のところにやって来てしがみつきました。まるで私の耳のそばでそっといったのです。 「来たよ、来たよ。とうとう来たよ。そらね。」  私は萱の間からすかすようにして私どもの来た方を見ました。むこうから二人の役人が大急ぎで道をやって来るのです。どういうわけか道から外れて私どもの林へやって来るらしいのです。さあ、私どもはもう息もつまるように思いました。ずんずん近づいて来たのです。 「この林だろう。たしかにこれだな。」  一人の顔の赤い体格のいい紺の詰えりを着た方の役人がいいました。 「うん、そうだ。間違いないよ。」もう一人の黒い服の役人が答えました。さあ、もう私たちはきっと殺されるにちがいないと思いました。まさかこんな林には気も付かずに通り過ぎるだろうと思っていたら二人の役人がどこかで番をして見ていたのです。万が一殺されないにしてももう縛られると私どもは覚悟しました。慶次郎の顔を見たらやっぱりまっ青で唇まで乾いて白くなっていました。私は役人に縛られたとき取ったきのこを持たせられて町を歩きたくないと考えました。そこでそっと慶次郎にいいました。 「縛られるよ。きっと縛られる。きのこをすてよう。きのこをさ。」  慶次郎はなんにもいわないでだまってきのこをすてました。私も籠のひもからそっと手をはなしました。ところが二人の役人はべつに私どもをつかまえに来たのでもないようでした。 "
白い立札にはなんて書いてありましたか。
一本の白い立札がみちばたの栗の木の前に出ていました。私どもはもう尋常五年生でしたからすらすら読みました。「本日は東北長官一行の出遊につきこれより中には入るべからず。東北庁」と書かれていました。
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その頃の風穂の野原は、ほんとうに立派でした。  青い萱や光る茨やけむりのような穂を出す草で一杯、それにあちこちには栗の木やハンノキの小さな林もありました。  野原は今は練兵場や粟の畑や苗畑などになってそれでも騎兵の馬が光ったり、白いシャツの人が働いたり、汽車で通ってもなかなか奇麗ですけれども、前はまだまだ立派でした。  九月になると私どもは毎日野原に出掛けました。そして私は藤原慶次郎といっしょに出て行きました。町の方の子供らが出て来るのは日曜日に限っていましたから私どもはどんな日でも初蕈や栗をたくさんとりました。ずいぶん遠くまでも行ったのですが日曜には一層遠くまで出掛けました。  ところが、九月の末のある日曜でしたが、朝早く私が慶次郎をさそっていつものように野原の入口にかけたら、一本の白い立札がみちばたの栗の木の前に出ていました。私どもはもう尋常五年生でしたからすらすら読みました。 「本日は東北長官一行の出遊につきこれより中には入るべからず。東北庁」 と書かれていました。  私はがっかりしてしまいました。慶次郎も顔を赤くして何回も読み直していました。 「困ったねえ、えらい人が来るんだよ。叱られるといけないからもう帰ろうか。」私がいいましたら慶次郎は少し怒って答えました。 「かまうもんか、入ろう、入ろう。ここは天皇の場所でそんな警部や何かの場所じゃないんだい。ずっと奥へ行こうよ。」  私も突然面白くなりました。 「おい、東北長官というものを見たいな。どんな顔だろう。」 「ひげもめがねもあるのさ。この間来た大臣だってそうだ。」 「どこかにかくれて見てようか。」 「見てよう。寺林のとこはどうだい。」  寺林というのは今は練兵場の北のはじになっていますが野原の中でいちばん奇麗な所でした。ハンノキの林がぐるっと輪になっていて中にはみじかいやわらかな草がいちめん生えてまるで一つの公園地のようでした。  私どもはそのハンノキの中にかくれていようと思ったのです。 「そうしよう。早く行かないと見つかるぜ。」 「さあ走ってこう。」  私どもはそこでまるで一目散にその野原の一本道を走りました。あんまり苦しくて息がつけなくなるととまって空を向いてあるきまたうしろを見てはかけ出し、走って走ってとうとう寺林についたのです。そこで道からはなれてハンノキの中にかくれました。けれども虫がしんしん鳴き時々鳥が百匹も一かたまりになってざあと通るばかり、一向に人も来ないようでしたからだんだん私たちは恐くなくなってハンノキの下の萱をがさがさわけて初茸をさがしはじめました。いつものようにたくさん見つかりましたから私はいつしか長官のことも忘れてしきりにとっておりました。  すると突然慶次郎が私のところにやって来てしがみつきました。まるで私の耳のそばでそっといったのです。 「来たよ、来たよ。とうとう来たよ。そらね。」  私は萱の間からすかすようにして私どもの来た方を見ました。むこうから二人の役人が大急ぎで道をやって来るのです。どういうわけか道から外れて私どもの林へやって来るらしいのです。さあ、私どもはもう息もつまるように思いました。ずんずん近づいて来たのです。 「この林だろう。たしかにこれだな。」  一人の顔の赤い体格のいい紺の詰えりを着た方の役人がいいました。 「うん、そうだ。間違いないよ。」もう一人の黒い服の役人が答えました。さあ、もう私たちはきっと殺されるにちがいないと思いました。まさかこんな林には気も付かずに通り過ぎるだろうと思っていたら二人の役人がどこかで番をして見ていたのです。万が一殺されないにしてももう縛られると私どもは覚悟しました。慶次郎の顔を見たらやっぱりまっ青で唇まで乾いて白くなっていました。私は役人に縛られたとき取ったきのこを持たせられて町を歩きたくないと考えました。そこでそっと慶次郎にいいました。 「縛られるよ。きっと縛られる。きのこをすてよう。きのこをさ。」  慶次郎はなんにもいわないでだまってきのこをすてました。私も籠のひもからそっと手をはなしました。ところが二人の役人はべつに私どもをつかまえに来たのでもないようでした。 "
私はなぜきのこをすてようと慶次郎に提案しましたか。
私は役人に縛られたとき取ったきのこを持たせられて町を歩きたくないと考えました。
JCRRAG_010523
国語
「そんなわけにも行くまいぜ。困ったな、どこか栗の木の下に撒こう。あ、うまい、こいつはうまい。栗の木だ。こいつから落ちたということにすりゃいいな。ああ助かった。おい、ここへ沢山まいておこう。」 「もちろんだよ。」  それからパラッパラッと栗の実が栗の木の幹にぶつかったりはね落ちたりする音がしばらくしました。 役人は栗の実を袋からたくさん撒いていたのでした。 私どもは思わず顔を見合わせました。もう大丈夫、役人どもは私たちを殺しに来たのでもなく、私どものいることさえも知らないことがわかったのです。まるで世界が明るくなったように思いました。  にげるならいまのうちだと私たちは二人一緒に思ったのです。その証拠に私たちはちょっと眼を見合わせたらもう立ちあがっていました。それからそおっと萱をわけて林のうしろの方へ出ようとしました。すると早くも役人の一人が叫んだのです。 「誰かいるぞ。入るなっていったのに。」 「誰だ。」もう一人が叫びました。私たちはしくじってしまったのです。ほんとにばかなことをしたと私たちは思いました。  役人はもうがさがさとむこうの萱の中から出て来ました。そのとき林の中は黄金の日光で点々になっていました。 「おい、誰だ、お前たちはどこから入って来た。」紺服の方の人が私たちにいいました。  私たちは最初はまるで死んだようになっていましたが、だんだん近くなって見ますとその役人の顔はまっ赤かでまるで湯気が出るみたいになっておりさらに鼻からはぷつぷつ油汗が出ていましたので何だか急にこわくなくなりました。 「あっちからです。」私は路の方を指さしました。するとその役人はまじめな風でいいました。 「ああ、あっちにもみちがあるのか。そっちへも制札をしておかなかったのは失敗だった。ねえ、君。」といいながらあとからしなびたメリケン粉の袋をかついで来た黒服にいいました。 「うん、やっぱり子供らは入ってるねえ、しかしかまわんさ。この林からさえ追い出しとけばいいんだ。おい。お前たち、今日はここへとてもえらいお方がいらっしゃるんだからここにいてはいけないよ。野原にいたかったらいてもいいからずうっと向こうの方へ行ってしまってここから見えないようにするんだぞ。声をたててもいけないぞ。」  私たちは顔を見合わせました。そしてだまって籠を提げて向こうへ行こうとしました。  慶次郎がぽいっとおじぎをしたから私もしました。紺服の役人はメリケン粉の空袋を手に団子のようにまきつけていましたが少しかがむようにしました。  私たちは行こうとしました。すると黒服の役人がうしろからいきなりいいました。 「おいおい。おまえたちはここでそのきのこをとったのか。」  またかと私はぎくっとしました。けれどもこの時もどうしても「いいえ。」といえませんでした。慶次郎がかすれたような声で「はぁ。」と答えたのです。すると役人は二人とも近くへ来て籠の中をのぞきました。 「まだきのこはあるだろうな。どこかここらで、きのこがたくさんある所をさがしてくれないか。ごほうびをあげるから。」  私たちはすっかり面白くなりました。 「まだたくさんありますよ。さがしてあげましょう。」私がいいましたら紺服の役人があわてて手をふって叫びました。 「いやいや、とってはいけない、ただある場所をさがして教えてさえくれればいいんだ。さがしてごらん。」  私と慶次郎とはまるで電気にかかったようにかやをわけてあるきました。そして私はすぐ初蕈の三つならんでるところをみつけました。 「ありました。」叫んだのです。 「そうか。」役人たちは来てのぞきました。 「何だ、たった三つじゃないか。長官は六人もご家族をつれていらっしゃるんだ。三つじゃしかたない、お一人十ずつとしても六十なくちゃだめだ。」 「六十ぐらい大丈夫、あります。」慶次郎がむこうで袖で汗を拭きながらいいました。 「いや、あちこちちらばったんじゃさがし出せない。二か所ぐらいに集まってなくちゃ。」 「初蕈はそんなに集まってないんです。」私も勢いがついて言いました。 「ふうん。そんならかまわないからおまえたちのとった蕈をそこらへ立てておこうかな。」 「それでいいさ。」黒服の方がうすいひげをひねりながら答えました。 「おい、お前たちのかごのきのこをみんなよこせ。あとでごほうびはやるからな。」紺服は笑っていいました。私たちはだまって籠を出したのです。二人はしゃがんで籠を逆さにして数を数えてから小さいのはみんなまた籠に戻しました。 「ちょうどいいよ、七十ある。こいつをここらへ立ててこう。」  紺服の人はきのこを草の間に立てようとしましたがすぐかたむいてしまいました。 「ああ、萱で串にしておけばいいよ。そら、こんなぐあいに。」黒服はいいながら萱の穂を一寸ほどにちぎって地面に刺してその上にきのこの脚をまっすぐに刺して立てました。 「うまい、うまい、ちょうどいい、おい、おまえたち、萱の穂をこれぐらいの長さにちぎってくれ。」  私たちはとうとう笑いました。役人も笑っていました。間もなく役人たちは私たちのやった萱の穂をすっかりその辺に植えて、その上にみんなきのこを刺しました。実に見事にはなりましたがまたおかしかったのです。第一萱が倒れていましたし、きのこのちぎれた脚も見えていました。私どもが笑って見ていると黒服の役人がむずかしい顔をしていいました。 「さあ、お前たちもう行ってくれ、この袋はやるよ。」 「うん、そうだ、そら、ごほうびだよ。」二人はメリケン粉の袋を私たちに投げました。  そんなものいらないと私たちは思いましたが役人がまたまじめになって恐くなりましたからだまって受け取りました。そして林を出ました。林を出るときちょっとふりかえって見ましたら二人がまっすぐに立ってしきりにそのこしらえた蕈の公園をながめているようでしたが間もなく、 「だめだよ、きのこのほうはやっぱりだめだ。もし知られたら大変だだ。」 「うん、どうもあぶないと僕も思った。こっちはやめよう。とってしまおう。その辺へ隠しておいてあとで我々がとったということにしてお嬢さんにでも上げればいいじゃないか。そのほうが安全だよ。」というのがはっきり聞こえました。私たちはまた顔を見合わせました。  そして思わずふき出してしまいました。  それから一目散に逃げました。  けれどももう役人は追って来ませんでした。その日の晩方おそく私たちはひどくまわりみちをしてうちへ帰りましたが東北長官はひるころ野原へ着いて夕方まで家族と一緒にとても面白く遊んで帰ったということを聞きました。 その次の年、私たちは町の中学校に入りましたが、あの二人の役人にも時々会いました。二人はステッキを振ったり包みをかかえたりまた競馬などで酔って顔を赤くして叫んだりしていました。私たちはちゃんとおぼえていたのです。けれどもあの二人の役人はいつも、どうも見たことのある子供だが思い出せないというような顔をするのでした。
役人が立ち去ろうとした私たちを呼び止めたのはなぜですか。
私たちは行こうとしました。すると黒服の役人がうしろからいきなりいいました。「おいおい。おまえたちはここでそのきのこをとったのか。」またかと私はぎくっとしました。けれどもこの時もどうしても「いいえ。」といえませんでした。慶次郎がかすれたような声で「はぁ。」と答えたのです。すると役人は二人とも近くへ来て籠の中をのぞきました。「まだきのこはあるだろうな。どこかここらで、きのこがたくさんある所をさがしてくれないか。ごほうびをあげるから。」私たちはすっかり面白くなりました。
JCRRAG_010524
国語
「そんなわけにも行くまいぜ。困ったな、どこか栗の木の下に撒こう。あ、うまい、こいつはうまい。栗の木だ。こいつから落ちたということにすりゃいいな。ああ助かった。おい、ここへ沢山まいておこう。」 「もちろんだよ。」  それからパラッパラッと栗の実が栗の木の幹にぶつかったりはね落ちたりする音がしばらくしました。 役人は栗の実を袋からたくさん撒いていたのでした。 私どもは思わず顔を見合わせました。もう大丈夫、役人どもは私たちを殺しに来たのでもなく、私どものいることさえも知らないことがわかったのです。まるで世界が明るくなったように思いました。  にげるならいまのうちだと私たちは二人一緒に思ったのです。その証拠に私たちはちょっと眼を見合わせたらもう立ちあがっていました。それからそおっと萱をわけて林のうしろの方へ出ようとしました。すると早くも役人の一人が叫んだのです。 「誰かいるぞ。入るなっていったのに。」 「誰だ。」もう一人が叫びました。私たちはしくじってしまったのです。ほんとにばかなことをしたと私たちは思いました。  役人はもうがさがさとむこうの萱の中から出て来ました。そのとき林の中は黄金の日光で点々になっていました。 「おい、誰だ、お前たちはどこから入って来た。」紺服の方の人が私たちにいいました。  私たちは最初はまるで死んだようになっていましたが、だんだん近くなって見ますとその役人の顔はまっ赤かでまるで湯気が出るみたいになっておりさらに鼻からはぷつぷつ油汗が出ていましたので何だか急にこわくなくなりました。 「あっちからです。」私は路の方を指さしました。するとその役人はまじめな風でいいました。 「ああ、あっちにもみちがあるのか。そっちへも制札をしておかなかったのは失敗だった。ねえ、君。」といいながらあとからしなびたメリケン粉の袋をかついで来た黒服にいいました。 「うん、やっぱり子供らは入ってるねえ、しかしかまわんさ。この林からさえ追い出しとけばいいんだ。おい。お前たち、今日はここへとてもえらいお方がいらっしゃるんだからここにいてはいけないよ。野原にいたかったらいてもいいからずうっと向こうの方へ行ってしまってここから見えないようにするんだぞ。声をたててもいけないぞ。」  私たちは顔を見合わせました。そしてだまって籠を提げて向こうへ行こうとしました。  慶次郎がぽいっとおじぎをしたから私もしました。紺服の役人はメリケン粉の空袋を手に団子のようにまきつけていましたが少しかがむようにしました。  私たちは行こうとしました。すると黒服の役人がうしろからいきなりいいました。 「おいおい。おまえたちはここでそのきのこをとったのか。」  またかと私はぎくっとしました。けれどもこの時もどうしても「いいえ。」といえませんでした。慶次郎がかすれたような声で「はぁ。」と答えたのです。すると役人は二人とも近くへ来て籠の中をのぞきました。 「まだきのこはあるだろうな。どこかここらで、きのこがたくさんある所をさがしてくれないか。ごほうびをあげるから。」  私たちはすっかり面白くなりました。 「まだたくさんありますよ。さがしてあげましょう。」私がいいましたら紺服の役人があわてて手をふって叫びました。 「いやいや、とってはいけない、ただある場所をさがして教えてさえくれればいいんだ。さがしてごらん。」  私と慶次郎とはまるで電気にかかったようにかやをわけてあるきました。そして私はすぐ初蕈の三つならんでるところをみつけました。 「ありました。」叫んだのです。 「そうか。」役人たちは来てのぞきました。 「何だ、たった三つじゃないか。長官は六人もご家族をつれていらっしゃるんだ。三つじゃしかたない、お一人十ずつとしても六十なくちゃだめだ。」 「六十ぐらい大丈夫、あります。」慶次郎がむこうで袖で汗を拭きながらいいました。 「いや、あちこちちらばったんじゃさがし出せない。二か所ぐらいに集まってなくちゃ。」 「初蕈はそんなに集まってないんです。」私も勢いがついて言いました。 「ふうん。そんならかまわないからおまえたちのとった蕈をそこらへ立てておこうかな。」 「それでいいさ。」黒服の方がうすいひげをひねりながら答えました。 「おい、お前たちのかごのきのこをみんなよこせ。あとでごほうびはやるからな。」紺服は笑っていいました。私たちはだまって籠を出したのです。二人はしゃがんで籠を逆さにして数を数えてから小さいのはみんなまた籠に戻しました。 「ちょうどいいよ、七十ある。こいつをここらへ立ててこう。」  紺服の人はきのこを草の間に立てようとしましたがすぐかたむいてしまいました。 「ああ、萱で串にしておけばいいよ。そら、こんなぐあいに。」黒服はいいながら萱の穂を一寸ほどにちぎって地面に刺してその上にきのこの脚をまっすぐに刺して立てました。 「うまい、うまい、ちょうどいい、おい、おまえたち、萱の穂をこれぐらいの長さにちぎってくれ。」  私たちはとうとう笑いました。役人も笑っていました。間もなく役人たちは私たちのやった萱の穂をすっかりその辺に植えて、その上にみんなきのこを刺しました。実に見事にはなりましたがまたおかしかったのです。第一萱が倒れていましたし、きのこのちぎれた脚も見えていました。私どもが笑って見ていると黒服の役人がむずかしい顔をしていいました。 「さあ、お前たちもう行ってくれ、この袋はやるよ。」 「うん、そうだ、そら、ごほうびだよ。」二人はメリケン粉の袋を私たちに投げました。  そんなものいらないと私たちは思いましたが役人がまたまじめになって恐くなりましたからだまって受け取りました。そして林を出ました。林を出るときちょっとふりかえって見ましたら二人がまっすぐに立ってしきりにそのこしらえた蕈の公園をながめているようでしたが間もなく、 「だめだよ、きのこのほうはやっぱりだめだ。もし知られたら大変だだ。」 「うん、どうもあぶないと僕も思った。こっちはやめよう。とってしまおう。その辺へ隠しておいてあとで我々がとったということにしてお嬢さんにでも上げればいいじゃないか。そのほうが安全だよ。」というのがはっきり聞こえました。私たちはまた顔を見合わせました。  そして思わずふき出してしまいました。  それから一目散に逃げました。  けれどももう役人は追って来ませんでした。その日の晩方おそく私たちはひどくまわりみちをしてうちへ帰りましたが東北長官はひるころ野原へ着いて夕方まで家族と一緒にとても面白く遊んで帰ったということを聞きました。 その次の年、私たちは町の中学校に入りましたが、あの二人の役人にも時々会いました。二人はステッキを振ったり包みをかかえたりまた競馬などで酔って顔を赤くして叫んだりしていました。私たちはちゃんとおぼえていたのです。けれどもあの二人の役人はいつも、どうも見たことのある子供だが思い出せないというような顔をするのでした。
役人のごほうびを私は受け取りましたか。
「うん、そうだ、そら、ごほうびだよ。」二人はメリケン粉の袋を私たちに投げました。そんなものいらないと私たちは思いましたが役人がまたまじめになって恐くなりましたからだまって受け取りました。
JCRRAG_010525
国語
「そんなわけにも行くまいぜ。困ったな、どこか栗の木の下に撒こう。あ、うまい、こいつはうまい。栗の木だ。こいつから落ちたということにすりゃいいな。ああ助かった。おい、ここへ沢山まいておこう。」 「もちろんだよ。」  それからパラッパラッと栗の実が栗の木の幹にぶつかったりはね落ちたりする音がしばらくしました。 役人は栗の実を袋からたくさん撒いていたのでした。 私どもは思わず顔を見合わせました。もう大丈夫、役人どもは私たちを殺しに来たのでもなく、私どものいることさえも知らないことがわかったのです。まるで世界が明るくなったように思いました。  にげるならいまのうちだと私たちは二人一緒に思ったのです。その証拠に私たちはちょっと眼を見合わせたらもう立ちあがっていました。それからそおっと萱をわけて林のうしろの方へ出ようとしました。すると早くも役人の一人が叫んだのです。 「誰かいるぞ。入るなっていったのに。」 「誰だ。」もう一人が叫びました。私たちはしくじってしまったのです。ほんとにばかなことをしたと私たちは思いました。  役人はもうがさがさとむこうの萱の中から出て来ました。そのとき林の中は黄金の日光で点々になっていました。 「おい、誰だ、お前たちはどこから入って来た。」紺服の方の人が私たちにいいました。  私たちは最初はまるで死んだようになっていましたが、だんだん近くなって見ますとその役人の顔はまっ赤かでまるで湯気が出るみたいになっておりさらに鼻からはぷつぷつ油汗が出ていましたので何だか急にこわくなくなりました。 「あっちからです。」私は路の方を指さしました。するとその役人はまじめな風でいいました。 「ああ、あっちにもみちがあるのか。そっちへも制札をしておかなかったのは失敗だった。ねえ、君。」といいながらあとからしなびたメリケン粉の袋をかついで来た黒服にいいました。 「うん、やっぱり子供らは入ってるねえ、しかしかまわんさ。この林からさえ追い出しとけばいいんだ。おい。お前たち、今日はここへとてもえらいお方がいらっしゃるんだからここにいてはいけないよ。野原にいたかったらいてもいいからずうっと向こうの方へ行ってしまってここから見えないようにするんだぞ。声をたててもいけないぞ。」  私たちは顔を見合わせました。そしてだまって籠を提げて向こうへ行こうとしました。  慶次郎がぽいっとおじぎをしたから私もしました。紺服の役人はメリケン粉の空袋を手に団子のようにまきつけていましたが少しかがむようにしました。  私たちは行こうとしました。すると黒服の役人がうしろからいきなりいいました。 「おいおい。おまえたちはここでそのきのこをとったのか。」  またかと私はぎくっとしました。けれどもこの時もどうしても「いいえ。」といえませんでした。慶次郎がかすれたような声で「はぁ。」と答えたのです。すると役人は二人とも近くへ来て籠の中をのぞきました。 「まだきのこはあるだろうな。どこかここらで、きのこがたくさんある所をさがしてくれないか。ごほうびをあげるから。」  私たちはすっかり面白くなりました。 「まだたくさんありますよ。さがしてあげましょう。」私がいいましたら紺服の役人があわてて手をふって叫びました。 「いやいや、とってはいけない、ただある場所をさがして教えてさえくれればいいんだ。さがしてごらん。」  私と慶次郎とはまるで電気にかかったようにかやをわけてあるきました。そして私はすぐ初蕈の三つならんでるところをみつけました。 「ありました。」叫んだのです。 「そうか。」役人たちは来てのぞきました。 「何だ、たった三つじゃないか。長官は六人もご家族をつれていらっしゃるんだ。三つじゃしかたない、お一人十ずつとしても六十なくちゃだめだ。」 「六十ぐらい大丈夫、あります。」慶次郎がむこうで袖で汗を拭きながらいいました。 「いや、あちこちちらばったんじゃさがし出せない。二か所ぐらいに集まってなくちゃ。」 「初蕈はそんなに集まってないんです。」私も勢いがついて言いました。 「ふうん。そんならかまわないからおまえたちのとった蕈をそこらへ立てておこうかな。」 「それでいいさ。」黒服の方がうすいひげをひねりながら答えました。 「おい、お前たちのかごのきのこをみんなよこせ。あとでごほうびはやるからな。」紺服は笑っていいました。私たちはだまって籠を出したのです。二人はしゃがんで籠を逆さにして数を数えてから小さいのはみんなまた籠に戻しました。 「ちょうどいいよ、七十ある。こいつをここらへ立ててこう。」  紺服の人はきのこを草の間に立てようとしましたがすぐかたむいてしまいました。 「ああ、萱で串にしておけばいいよ。そら、こんなぐあいに。」黒服はいいながら萱の穂を一寸ほどにちぎって地面に刺してその上にきのこの脚をまっすぐに刺して立てました。 「うまい、うまい、ちょうどいい、おい、おまえたち、萱の穂をこれぐらいの長さにちぎってくれ。」  私たちはとうとう笑いました。役人も笑っていました。間もなく役人たちは私たちのやった萱の穂をすっかりその辺に植えて、その上にみんなきのこを刺しました。実に見事にはなりましたがまたおかしかったのです。第一萱が倒れていましたし、きのこのちぎれた脚も見えていました。私どもが笑って見ていると黒服の役人がむずかしい顔をしていいました。 「さあ、お前たちもう行ってくれ、この袋はやるよ。」 「うん、そうだ、そら、ごほうびだよ。」二人はメリケン粉の袋を私たちに投げました。  そんなものいらないと私たちは思いましたが役人がまたまじめになって恐くなりましたからだまって受け取りました。そして林を出ました。林を出るときちょっとふりかえって見ましたら二人がまっすぐに立ってしきりにそのこしらえた蕈の公園をながめているようでしたが間もなく、 「だめだよ、きのこのほうはやっぱりだめだ。もし知られたら大変だだ。」 「うん、どうもあぶないと僕も思った。こっちはやめよう。とってしまおう。その辺へ隠しておいてあとで我々がとったということにしてお嬢さんにでも上げればいいじゃないか。そのほうが安全だよ。」というのがはっきり聞こえました。私たちはまた顔を見合わせました。  そして思わずふき出してしまいました。  それから一目散に逃げました。  けれどももう役人は追って来ませんでした。その日の晩方おそく私たちはひどくまわりみちをしてうちへ帰りましたが東北長官はひるころ野原へ着いて夕方まで家族と一緒にとても面白く遊んで帰ったということを聞きました。 その次の年、私たちは町の中学校に入りましたが、あの二人の役人にも時々会いました。二人はステッキを振ったり包みをかかえたりまた競馬などで酔って顔を赤くして叫んだりしていました。私たちはちゃんとおぼえていたのです。けれどもあの二人の役人はいつも、どうも見たことのある子供だが思い出せないというような顔をするのでした。
次の年になっても、役人は私たちのことをおぼえていましたか。
次の年、私たちは町の中学校に入りましたが、あの二人の役人にも時々会いました。二人はステッキを振ったり包みをかかえたりまた競馬などで酔って顔を赤くして叫んだりしていました。私たちはちゃんとおぼえていたのです。けれどもあの二人の役人はいつも、どうも見たことのある子供だが思い出せないというような顔をするのでした。
JCRRAG_010526
国語
むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。おじいさんがいつも畑に出て働いていますと、裏の山から一匹の古だぬきが出てきて、おじいさんがせっかく丹精をしてこしらえた畑のものを荒らした上に、どんどん石ころや土くれをおじいさんのうしろから投げつけました。おじいさんがおこって追っかけてくると、すばやく逃げて行ってしまいます。しばらくするとまたやって来て、あいかわらずいたずらをしました。おじいさんも困りきって、わなをかけておきますと、ある日、たぬきはとうとうそのわなにかかりました。  おじいさんはおどり上がってよろこびました。 「ああいい気分だ。とうとうつかまえてやった。」  こう言って、たぬきの四つあしをしばって、うちへかついで帰りました。そして天井のはりにぶら下げて、おばあさんに、 「にがさないように番をして、晩にわたしが帰るまでにたぬき汁をこしらえておいておくれ。」  と言いのこして、また畑へ出ていきました。  たぬきがしばられてぶら下げられている下で、おばあさんはうすを出して、とんとん麦をついていました。そのうち、 「ああくたびれた。」  とおばあさんは言って、汗をふきました。するとそのときまで、おとなしくぶら下がっていたたぬきが、上から声をかけました。 「もしもし、おばあさん、くたびれたら少しお手伝いをいたしましょう。その代わりこの縄をといて下さい。」 「どうしてどうして、お前なんかに手伝ってもらえるものか。縄をといてやったら、手伝うどころか、すぐ逃げて行ってしまうだろう。」 「いいえ、もうこうしてつかまったのですもの、今さら逃げるものですか。まあ、ためしに下ろしてごらんなさい。」  たぬきがあんまりしつこく、殊勝らしくたのむものですから、おばあさんもうっかり、たぬきの言うことをほんとうにして、縄をといておろしてやりました。 するとたぬきは、「やれやれ。」  としばられた手足をさすりました。そして、 「どれ、わたしがついてあげましょう。」  と言いながら、おばあさんのきねを取り上げて、麦をつくふりをして、いきなりおばあさんの脳天からきねを打ち下おろしました。 おばあさんは叫ぶ間もなく倒れて死んでしまいました。  たぬきはさっそくおばあさんを料理して、たぬき汁の代わりにばばあ汁をこしらえて、自分はおばあさんに化けて、すました顔をして炉の前に座って、おじいさんの帰りを待ちうけていました。  夕方になって、なんにも知らないおじいさんは、 「晩はたぬき汁が食べられるな。」  と思って、ひとりにこにこしながら、急いでうちへ帰って来きました。するとたぬきのおばあさんはさも待ちかねたというように、 「おや、おじいさん、おかえりなさい。さっきからたぬき汁をこしらえて待っていましたよ。」  と言いました。 「おやおや、そうか。それはありがたいな。」  と言いながら、すぐにお膳の前に座りました。そして、たぬきのおばあさんのお給仕で、 「これはおいしい、おいしい。」  と言って、舌つづみをうって、ばばあ汁のおかわりをして、夢中になって食べていました。それを見てたぬきのおばあさんは、思わず、「ふふん。」と笑うひょうしにたぬきの正体を現わしました。 「ばばあくったじじい、流しの下の骨を見ろ。」  とたぬきは言いながら、大きなしっぽを出して、裏口からついて逃げていきました。  おじいさんはびっくりして、がっかり腰をぬかしてしまいました。そして流しの下のおばあさんの骨をかかえて、おいおい泣いていました。  すると、 「おじいさん、おじいさん、どうしたのです。」  と言って、これも裏の山にいる白うさぎが入って来ました。 「ああ、うさぎさんか。よく来てくれた。まあ聞いておくれ。ひどい目にあったよ。」  とおじいさんは言って、これこれこういうわけだとすっかり話をしました。うさぎはたいそう気の毒がって、 「まあ、それはとんだことでしたね。けれどかたきはわたしがきっととってあげますから、安心していらっしゃい。」  とたのもしそうに言いました。おじいさんはうれし涙をこぼしながら、 「ああ、どうか頼みますよ。ほんとうにわたしはくやしくってたまらない。」  と言いました。 「大丈夫。あしたはさっそくたぬきを誘い出して、ひどい目に合わせてやります。しばらく待っていらっしゃい。」  とうさぎは言って、帰っていきました。
おじいさんがわなをかけたら、たぬきはどうなりましたか。
ある日、たぬきはとうとうそのわなにかかりました。
JCRRAG_010527
国語
むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。おじいさんがいつも畑に出て働いていますと、裏の山から一匹の古だぬきが出てきて、おじいさんがせっかく丹精をしてこしらえた畑のものを荒らした上に、どんどん石ころや土くれをおじいさんのうしろから投げつけました。おじいさんがおこって追っかけてくると、すばやく逃げて行ってしまいます。しばらくするとまたやって来て、あいかわらずいたずらをしました。おじいさんも困りきって、わなをかけておきますと、ある日、たぬきはとうとうそのわなにかかりました。  おじいさんはおどり上がってよろこびました。 「ああいい気分だ。とうとうつかまえてやった。」  こう言って、たぬきの四つあしをしばって、うちへかついで帰りました。そして天井のはりにぶら下げて、おばあさんに、 「にがさないように番をして、晩にわたしが帰るまでにたぬき汁をこしらえておいておくれ。」  と言いのこして、また畑へ出ていきました。  たぬきがしばられてぶら下げられている下で、おばあさんはうすを出して、とんとん麦をついていました。そのうち、 「ああくたびれた。」  とおばあさんは言って、汗をふきました。するとそのときまで、おとなしくぶら下がっていたたぬきが、上から声をかけました。 「もしもし、おばあさん、くたびれたら少しお手伝いをいたしましょう。その代わりこの縄をといて下さい。」 「どうしてどうして、お前なんかに手伝ってもらえるものか。縄をといてやったら、手伝うどころか、すぐ逃げて行ってしまうだろう。」 「いいえ、もうこうしてつかまったのですもの、今さら逃げるものですか。まあ、ためしに下ろしてごらんなさい。」  たぬきがあんまりしつこく、殊勝らしくたのむものですから、おばあさんもうっかり、たぬきの言うことをほんとうにして、縄をといておろしてやりました。 するとたぬきは、「やれやれ。」  としばられた手足をさすりました。そして、 「どれ、わたしがついてあげましょう。」  と言いながら、おばあさんのきねを取り上げて、麦をつくふりをして、いきなりおばあさんの脳天からきねを打ち下おろしました。 おばあさんは叫ぶ間もなく倒れて死んでしまいました。  たぬきはさっそくおばあさんを料理して、たぬき汁の代わりにばばあ汁をこしらえて、自分はおばあさんに化けて、すました顔をして炉の前に座って、おじいさんの帰りを待ちうけていました。  夕方になって、なんにも知らないおじいさんは、 「晩はたぬき汁が食べられるな。」  と思って、ひとりにこにこしながら、急いでうちへ帰って来きました。するとたぬきのおばあさんはさも待ちかねたというように、 「おや、おじいさん、おかえりなさい。さっきからたぬき汁をこしらえて待っていましたよ。」  と言いました。 「おやおや、そうか。それはありがたいな。」  と言いながら、すぐにお膳の前に座りました。そして、たぬきのおばあさんのお給仕で、 「これはおいしい、おいしい。」  と言って、舌つづみをうって、ばばあ汁のおかわりをして、夢中になって食べていました。それを見てたぬきのおばあさんは、思わず、「ふふん。」と笑うひょうしにたぬきの正体を現わしました。 「ばばあくったじじい、流しの下の骨を見ろ。」  とたぬきは言いながら、大きなしっぽを出して、裏口からついて逃げていきました。  おじいさんはびっくりして、がっかり腰をぬかしてしまいました。そして流しの下のおばあさんの骨をかかえて、おいおい泣いていました。  すると、 「おじいさん、おじいさん、どうしたのです。」  と言って、これも裏の山にいる白うさぎが入って来ました。 「ああ、うさぎさんか。よく来てくれた。まあ聞いておくれ。ひどい目にあったよ。」  とおじいさんは言って、これこれこういうわけだとすっかり話をしました。うさぎはたいそう気の毒がって、 「まあ、それはとんだことでしたね。けれどかたきはわたしがきっととってあげますから、安心していらっしゃい。」  とたのもしそうに言いました。おじいさんはうれし涙をこぼしながら、 「ああ、どうか頼みますよ。ほんとうにわたしはくやしくってたまらない。」  と言いました。 「大丈夫。あしたはさっそくたぬきを誘い出して、ひどい目に合わせてやります。しばらく待っていらっしゃい。」  とうさぎは言って、帰っていきました。
おばあさんがたぬきの縄を解いたら、たぬきはどうしたか。
たぬきがあんまりしつこく、殊勝らしくたのむものですから、おばあさんもうっかり、たぬきの言うことをほんとうにして、縄をといておろしてやりました。 するとたぬきは、「やれやれ。」としばられた手足をさすりました。そして、「どれ、わたしがついてあげましょう。」と言いながら、おばあさんのきねを取り上げて、麦をつくふりをして、いきなりおばあさんの脳天からきねを打ち下おろしました。
JCRRAG_010528
国語
むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。おじいさんがいつも畑に出て働いていますと、裏の山から一匹の古だぬきが出てきて、おじいさんがせっかく丹精をしてこしらえた畑のものを荒らした上に、どんどん石ころや土くれをおじいさんのうしろから投げつけました。おじいさんがおこって追っかけてくると、すばやく逃げて行ってしまいます。しばらくするとまたやって来て、あいかわらずいたずらをしました。おじいさんも困りきって、わなをかけておきますと、ある日、たぬきはとうとうそのわなにかかりました。  おじいさんはおどり上がってよろこびました。 「ああいい気分だ。とうとうつかまえてやった。」  こう言って、たぬきの四つあしをしばって、うちへかついで帰りました。そして天井のはりにぶら下げて、おばあさんに、 「にがさないように番をして、晩にわたしが帰るまでにたぬき汁をこしらえておいておくれ。」  と言いのこして、また畑へ出ていきました。  たぬきがしばられてぶら下げられている下で、おばあさんはうすを出して、とんとん麦をついていました。そのうち、 「ああくたびれた。」  とおばあさんは言って、汗をふきました。するとそのときまで、おとなしくぶら下がっていたたぬきが、上から声をかけました。 「もしもし、おばあさん、くたびれたら少しお手伝いをいたしましょう。その代わりこの縄をといて下さい。」 「どうしてどうして、お前なんかに手伝ってもらえるものか。縄をといてやったら、手伝うどころか、すぐ逃げて行ってしまうだろう。」 「いいえ、もうこうしてつかまったのですもの、今さら逃げるものですか。まあ、ためしに下ろしてごらんなさい。」  たぬきがあんまりしつこく、殊勝らしくたのむものですから、おばあさんもうっかり、たぬきの言うことをほんとうにして、縄をといておろしてやりました。 するとたぬきは、「やれやれ。」  としばられた手足をさすりました。そして、 「どれ、わたしがついてあげましょう。」  と言いながら、おばあさんのきねを取り上げて、麦をつくふりをして、いきなりおばあさんの脳天からきねを打ち下おろしました。 おばあさんは叫ぶ間もなく倒れて死んでしまいました。  たぬきはさっそくおばあさんを料理して、たぬき汁の代わりにばばあ汁をこしらえて、自分はおばあさんに化けて、すました顔をして炉の前に座って、おじいさんの帰りを待ちうけていました。  夕方になって、なんにも知らないおじいさんは、 「晩はたぬき汁が食べられるな。」  と思って、ひとりにこにこしながら、急いでうちへ帰って来きました。するとたぬきのおばあさんはさも待ちかねたというように、 「おや、おじいさん、おかえりなさい。さっきからたぬき汁をこしらえて待っていましたよ。」  と言いました。 「おやおや、そうか。それはありがたいな。」  と言いながら、すぐにお膳の前に座りました。そして、たぬきのおばあさんのお給仕で、 「これはおいしい、おいしい。」  と言って、舌つづみをうって、ばばあ汁のおかわりをして、夢中になって食べていました。それを見てたぬきのおばあさんは、思わず、「ふふん。」と笑うひょうしにたぬきの正体を現わしました。 「ばばあくったじじい、流しの下の骨を見ろ。」  とたぬきは言いながら、大きなしっぽを出して、裏口からついて逃げていきました。  おじいさんはびっくりして、がっかり腰をぬかしてしまいました。そして流しの下のおばあさんの骨をかかえて、おいおい泣いていました。  すると、 「おじいさん、おじいさん、どうしたのです。」  と言って、これも裏の山にいる白うさぎが入って来ました。 「ああ、うさぎさんか。よく来てくれた。まあ聞いておくれ。ひどい目にあったよ。」  とおじいさんは言って、これこれこういうわけだとすっかり話をしました。うさぎはたいそう気の毒がって、 「まあ、それはとんだことでしたね。けれどかたきはわたしがきっととってあげますから、安心していらっしゃい。」  とたのもしそうに言いました。おじいさんはうれし涙をこぼしながら、 「ああ、どうか頼みますよ。ほんとうにわたしはくやしくってたまらない。」  と言いました。 「大丈夫。あしたはさっそくたぬきを誘い出して、ひどい目に合わせてやります。しばらく待っていらっしゃい。」  とうさぎは言って、帰っていきました。
流しの下のおばあさんの骨を見ておじいさんはどうしましたか。
流しの下から出てきたおばあさんの骨をかかえておじいさんはおいおい泣いた。
JCRRAG_010529
国語
むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。おじいさんがいつも畑に出て働いていますと、裏の山から一匹の古だぬきが出てきて、おじいさんがせっかく丹精をしてこしらえた畑のものを荒らした上に、どんどん石ころや土くれをおじいさんのうしろから投げつけました。おじいさんがおこって追っかけてくると、すばやく逃げて行ってしまいます。しばらくするとまたやって来て、あいかわらずいたずらをしました。おじいさんも困りきって、わなをかけておきますと、ある日、たぬきはとうとうそのわなにかかりました。  おじいさんはおどり上がってよろこびました。 「ああいい気分だ。とうとうつかまえてやった。」  こう言って、たぬきの四つあしをしばって、うちへかついで帰りました。そして天井のはりにぶら下げて、おばあさんに、 「にがさないように番をして、晩にわたしが帰るまでにたぬき汁をこしらえておいておくれ。」  と言いのこして、また畑へ出ていきました。  たぬきがしばられてぶら下げられている下で、おばあさんはうすを出して、とんとん麦をついていました。そのうち、 「ああくたびれた。」  とおばあさんは言って、汗をふきました。するとそのときまで、おとなしくぶら下がっていたたぬきが、上から声をかけました。 「もしもし、おばあさん、くたびれたら少しお手伝いをいたしましょう。その代わりこの縄をといて下さい。」 「どうしてどうして、お前なんかに手伝ってもらえるものか。縄をといてやったら、手伝うどころか、すぐ逃げて行ってしまうだろう。」 「いいえ、もうこうしてつかまったのですもの、今さら逃げるものですか。まあ、ためしに下ろしてごらんなさい。」  たぬきがあんまりしつこく、殊勝らしくたのむものですから、おばあさんもうっかり、たぬきの言うことをほんとうにして、縄をといておろしてやりました。 するとたぬきは、「やれやれ。」  としばられた手足をさすりました。そして、 「どれ、わたしがついてあげましょう。」  と言いながら、おばあさんのきねを取り上げて、麦をつくふりをして、いきなりおばあさんの脳天からきねを打ち下おろしました。 おばあさんは叫ぶ間もなく倒れて死んでしまいました。  たぬきはさっそくおばあさんを料理して、たぬき汁の代わりにばばあ汁をこしらえて、自分はおばあさんに化けて、すました顔をして炉の前に座って、おじいさんの帰りを待ちうけていました。  夕方になって、なんにも知らないおじいさんは、 「晩はたぬき汁が食べられるな。」  と思って、ひとりにこにこしながら、急いでうちへ帰って来きました。するとたぬきのおばあさんはさも待ちかねたというように、 「おや、おじいさん、おかえりなさい。さっきからたぬき汁をこしらえて待っていましたよ。」  と言いました。 「おやおや、そうか。それはありがたいな。」  と言いながら、すぐにお膳の前に座りました。そして、たぬきのおばあさんのお給仕で、 「これはおいしい、おいしい。」  と言って、舌つづみをうって、ばばあ汁のおかわりをして、夢中になって食べていました。それを見てたぬきのおばあさんは、思わず、「ふふん。」と笑うひょうしにたぬきの正体を現わしました。 「ばばあくったじじい、流しの下の骨を見ろ。」  とたぬきは言いながら、大きなしっぽを出して、裏口からついて逃げていきました。  おじいさんはびっくりして、がっかり腰をぬかしてしまいました。そして流しの下のおばあさんの骨をかかえて、おいおい泣いていました。  すると、 「おじいさん、おじいさん、どうしたのです。」  と言って、これも裏の山にいる白うさぎが入って来ました。 「ああ、うさぎさんか。よく来てくれた。まあ聞いておくれ。ひどい目にあったよ。」  とおじいさんは言って、これこれこういうわけだとすっかり話をしました。うさぎはたいそう気の毒がって、 「まあ、それはとんだことでしたね。けれどかたきはわたしがきっととってあげますから、安心していらっしゃい。」  とたのもしそうに言いました。おじいさんはうれし涙をこぼしながら、 「ああ、どうか頼みますよ。ほんとうにわたしはくやしくってたまらない。」  と言いました。 「大丈夫。あしたはさっそくたぬきを誘い出して、ひどい目に合わせてやります。しばらく待っていらっしゃい。」  とうさぎは言って、帰っていきました。
白うさぎがおばあさんのかたきはわたしがきっととってあげますといったら、おじいさんはどうしましたか。
おじいさんはうれし涙をこぼしながら、「ああ、どうか頼みますよ。ほんとうにわたしはくやしくってたまらない。」と言いました。
JCRRAG_010530
国語
僕はもちろん僕の妻も、再三明日にした方がよくはないかといって見た。しかし千枝子は剛情に、どうしても今日行きたいという。そうしてしまいには腹を立てながら、さっさと支度して出て行ってしまった。  事によると今日は泊まって来るから、帰りは明日の朝になるかも知れない。そういってあいつは出て行ったのだが、しばらくすると、どうしたのだかぐっしょり雨に濡れたまま、まっ蒼な顔をして帰って来た。聞けば中央停車場からほりばたの電車の停留場まで、傘もささずに歩いたのだそうだ。ではなぜまたそんな事をしたのだというと、それが妙な話なのだ。  千枝子が中央停車場へ入ると、いや、その前にまだこういう事があった。あいつが電車へ乗った所が、あいにく客席が皆ふさがっている。そこで吊り革にぶら下っていると、すぐ眼の前のガラス窓に、ぼんやり海の景色が映るのだそうだ。電車はその時神保町の通りを走っていたのだから、無論海の景色なぞが映る道理はない。が、外の往来の透いて見える上に、波が動くのが浮き上っている。さらに窓へ雨がしぶくと、水平線さえかすかに煙って見える。という所から察すると、千枝子はもうその時に、神経がどうかしていたのだろう。  それから、中央停車場へはいると、入口にいた赤帽の一人が、突然千枝子に挨拶をした。そうして「旦那様はお変わりもございませんか。」といった。これも妙だったには違いない。が、さらに妙だった事は、千枝子がそういう赤帽の質問を、別に妙とも思わなかった事だ。「ありがとう。ただこの頃はどうなすったのだか、さっぱり御便りが来ないのでね。」そう千枝子は赤帽に、返事さえもしたというのだ。すると赤帽はもう一度「では私が旦那様にお目にかかって参りましょう。」といった。御目にかかって来るといっても、夫は遠い地中海にいる。と思った時、始めて千枝子は、この見慣れない赤帽の言葉が、狂っていることに気がついたのだそうだ。が、問い返そうと思う内に、赤帽はちょいと会釈をすると、こそこそ人ごみの中に隠れてしまった。それきり千枝子はいくら探して見ても、二度とその赤帽の姿が見当らない。いや、見当らないというよりも、今まで向い合っていた赤帽の顔が、不思議なほど思い出せないのだそうだ。だから、あの赤帽の姿が見当たらないと同時に、どの赤帽も皆その男に見える。そうして千枝子にはわからなくても、あの怪しい赤帽が、絶えずこちらの身のまわりを監視していそうな気持ちがする。こうなるともう鎌倉どころか、そこにいるのさえ何だか気味が悪い。千枝子はとうとう傘もささずに、大降りの雨を浴びながら、夢のように停車場を逃げ出して来た。
千枝子は出て行ったが、しばらくするとどんな格好で帰ってきたか。
今日は泊まって来るから、帰りは明日の朝になるかも知れない。そういってあいつは出て行ったのだが、しばらくすると、どうしたのだかぐっしょり雨に濡れたまま、まっ蒼な顔をして帰って来た。
JCRRAG_010531
国語
 ある大きな森のはずれに、ひとりの貧乏な木こりが、おかみさんと、ふたりの子どもといっしょに住んでいました。ふたりの子どもは、男の子がヘンゼル、女の子はグレーテルといいました。この木こりは、普段はろくに食べるものがありませんでしたが、ある年、国じゅうに大飢饉がおこったため、こんどは、毎日のパンさえ食べることができなくなりました。木こりは、晩に寝床へはいってからも、あれやこれやと考えると、心配で心配でねむることもできず、ねがえりばかりうっていました。そしてそのあげくに、ため息をつき、おかみさんにいいました。 「これからさき、おれたちはどうなるんだ。かわいそうな、あの子らを、どうやってくわせていったもんだろう。おれたちだけでも、くうものがないんだからなあ。」 「じゃ、おまえさん、こうしたらどう。」 と、おかみさんがこたえました。 「あしたの朝、うんとはやく、子どもたちを森のなかへつれだして、いちばん木のたてこんでいるとこまでつれていくんだよ。そしたら、そこで、たき火をおこして、ふたりにパンをひときれずつやっておいてさ、わたしたちゃしごとにでかけて、ふたりはそのままおいてきぼりにしちまうんだよ。そうすりゃ、かえり道なんかわかりっこないんだから、それでやっかいばらいというわけさ。」 「そいつは、いけねえよ、おめえ。」 と、木こりはいいました。 「そんなこたあ、おれにゃあできねえ。子どもらを森のなかにすててくるなんて、とてもそんな気にゃあなれねえ。そんなことをしようもんなら、すぐに森のけだものがとびだしてきて、あのふたりをずたずたにひきさいちまわあな。」 「おまえさんは、なんてばかなんだい。」 と、おかみさんはいいました。 「そんなことをいってりゃ、わたしたちゃ四人とも、ひぼしになって、死んじまうじゃないか。まあ、棺の板でもけずっとくがいいさ。」  おかみさんはこういって、それからも、なんのかんのとうるさく言い立てますので、とうとう、木こりも承知してしまいました。 「だが、やっぱり子どもらがかわいそうだなあ。」 と、木こりはいいました。  ふたりの子どもたちは、おなかがすいてねむれませんので、いま、継母がおとうさんに話していたことを、のこらずきいてしまいました。グレーテルはしくしく泣きだして、 「あたしたち、もうダメね。」 と、ヘンゼルにむかっていいました。 「しっ、だまって、グレーテル。」 と、ヘンゼルはいいました。 「だいじょうぶだよ。ぼくがきっとうまくやってみせるから。」  やがて、おとうさんとおかあさんがねてしまうと、ヘンゼルはそっとおきあがり、じぶんの上着をきました。それから、くぐり戸をあけて、こっそりとおもてにでていきました。ちょうど、お月さまが明るく照っていて、うちの前に敷いてある白い小石が、まるで銀貨のように、きらきらひかっていました。ヘンゼルはそこにかがみこんで、その小石を上着のポケットにいっぱいつめられるだけつめこみました。それから、うちにもどって、グレーテルに、 「もうだいじょうぶだよ。ゆっくりおやすみ。ぼくたちには、神さまがついていてくださるよ。」 と、いいました。そして、じぶんも、また寝床のなかにはいりました。  夜があけると、まだお日さまがのぼらないうちに、もうおかみさんがやってきて、ふたりの子どもをたたきおこしました。 「さあ、おきるんだよ。なんてなまけものなんだい、おまえたちは。みんなで森へいって、たきぎをひろうんだよ。」  こういって、おかみさんはふたりにパンをひときれずつやりながら、 「これはお昼のおべんとうだよ。だから、お昼にならないうちに、食べるんじゃないよ。あとは、もうなんにもないんだからね。」 と、いいきかせました。  パンは、ふたつともグレーテルがまえかけの下にしまいました。だって、ヘンゼルはポケットにいっぱい小石をつめこんでいましたから。それから、みんなで森にでかけました。すこしいくと、ヘンゼルは立ちどまって、うちのほうをふりかえってみました。それからも、何回も何回も立ち止まっては、ふりかえってみました。それを見て、おとうさんがいいました。 「ヘンゼル、なにをそんなに立ちどまって、ながめているんだ。ぼんやりしないで、足もとに気をつけろよ。」 「ああ、おとうさん。」 と、ヘンゼルはいいました。 「ぼくの白ネコを見てるんですよ。あいつ、屋根の上にのぼって、ぼくにさようならって、いおうとしてるんですよ。」  すると、おかみさんが、 「ばかだね、あれはおまえのネコなんかじゃないよ。えんとつに朝日があたってるんじゃないか。」 と、いいました。  けれども、ヘンゼルは小ネコなんかを見ていたのではありません。立ちどまるたびに、あのぴかぴかひかる小石を、ポケットからとりだしては、道に落としていたのでした。  みんなが、森のまんなかまできたとき、おとうさんは、 「おい、ヘンゼルにグレーテル、おまえたちはたきぎをあつめておいで。寒くないように、おとうさんが火をたいてやるからな。」 と、いいました。  そこで、ヘンゼルとグレーテルは、小枝を山ほどもたくさんあつめてきました。小枝の山に火がついて、ぱあっともえあがると、おかみさんがいいました。 「じゃ、おまえたちはこのたき火のそばにすわって、やすんでおいで。わたしたちはもっとおくへはいっていって、木を切ってくるからね。しごとがおわったら、もどってきて、いっしょにつれてかえってやるよ。」  ヘンゼルとグレーテルはたき火のそばにすわって、あたたまっていました。お昼になると、めいめい、もらった小さなパンを食べました。そのあいだじゅう、ずうっと、木を切る斧の音がきこえていましたので、おとうさんはすぐ近くにいるものとばかり思っていました。ところがそれは、斧で木を切る音ではなくて、おとうさんが枯れ木をしばっておいた枝が、風にゆられて、あっちにぶつかり、こっちにぶつかる音だったのです。  こうしてふたりは、いつまでもおとなしくすわっているうちに、だんだんくたびれてきて、いまにもまぶたがくっつきそうになりました。そして、とうとう、ぐっすりとねむりこんでしまいました。やっと目がさめたときには、もう、まっくらな夜になっていました。グレーテルはしくしく泣きだしました。そして、にいさんに、 「どうしたら、あたしたち、森からでられる?」 と、いいました。  けれども、ヘンゼルは小さい妹をなぐさめて、 「もうちょっとお待ちよ。お月さまがでてくれば、きっと道がわかるから。」 と、いいました。  そのうちに、まんまるいお月さまがのぼりました。それで、ヘンゼルは妹の手をとって、おとしておいた小石をたよりに、歩いていきました。小石は、あたらしい銀貨みたいにぴかぴかひかって、ふたりに道をおしえてくれました。ふたりは、ひと晩じゅう歩きつづけて、夜のあけるころに、やっとおとうさんの家にかえってきました。
ふたりの子どもの名前を教えてください。
男の子がヘンゼル、女の子はグレーテルといいました。
JCRRAG_010532
国語
 ある大きな森のはずれに、ひとりの貧乏な木こりが、おかみさんと、ふたりの子どもといっしょに住んでいました。ふたりの子どもは、男の子がヘンゼル、女の子はグレーテルといいました。この木こりは、普段はろくに食べるものがありませんでしたが、ある年、国じゅうに大飢饉がおこったため、こんどは、毎日のパンさえ食べることができなくなりました。木こりは、晩に寝床へはいってからも、あれやこれやと考えると、心配で心配でねむることもできず、ねがえりばかりうっていました。そしてそのあげくに、ため息をつき、おかみさんにいいました。 「これからさき、おれたちはどうなるんだ。かわいそうな、あの子らを、どうやってくわせていったもんだろう。おれたちだけでも、くうものがないんだからなあ。」 「じゃ、おまえさん、こうしたらどう。」 と、おかみさんがこたえました。 「あしたの朝、うんとはやく、子どもたちを森のなかへつれだして、いちばん木のたてこんでいるとこまでつれていくんだよ。そしたら、そこで、たき火をおこして、ふたりにパンをひときれずつやっておいてさ、わたしたちゃしごとにでかけて、ふたりはそのままおいてきぼりにしちまうんだよ。そうすりゃ、かえり道なんかわかりっこないんだから、それでやっかいばらいというわけさ。」 「そいつは、いけねえよ、おめえ。」 と、木こりはいいました。 「そんなこたあ、おれにゃあできねえ。子どもらを森のなかにすててくるなんて、とてもそんな気にゃあなれねえ。そんなことをしようもんなら、すぐに森のけだものがとびだしてきて、あのふたりをずたずたにひきさいちまわあな。」 「おまえさんは、なんてばかなんだい。」 と、おかみさんはいいました。 「そんなことをいってりゃ、わたしたちゃ四人とも、ひぼしになって、死んじまうじゃないか。まあ、棺の板でもけずっとくがいいさ。」  おかみさんはこういって、それからも、なんのかんのとうるさく言い立てますので、とうとう、木こりも承知してしまいました。 「だが、やっぱり子どもらがかわいそうだなあ。」 と、木こりはいいました。  ふたりの子どもたちは、おなかがすいてねむれませんので、いま、継母がおとうさんに話していたことを、のこらずきいてしまいました。グレーテルはしくしく泣きだして、 「あたしたち、もうダメね。」 と、ヘンゼルにむかっていいました。 「しっ、だまって、グレーテル。」 と、ヘンゼルはいいました。 「だいじょうぶだよ。ぼくがきっとうまくやってみせるから。」  やがて、おとうさんとおかあさんがねてしまうと、ヘンゼルはそっとおきあがり、じぶんの上着をきました。それから、くぐり戸をあけて、こっそりとおもてにでていきました。ちょうど、お月さまが明るく照っていて、うちの前に敷いてある白い小石が、まるで銀貨のように、きらきらひかっていました。ヘンゼルはそこにかがみこんで、その小石を上着のポケットにいっぱいつめられるだけつめこみました。それから、うちにもどって、グレーテルに、 「もうだいじょうぶだよ。ゆっくりおやすみ。ぼくたちには、神さまがついていてくださるよ。」 と、いいました。そして、じぶんも、また寝床のなかにはいりました。  夜があけると、まだお日さまがのぼらないうちに、もうおかみさんがやってきて、ふたりの子どもをたたきおこしました。 「さあ、おきるんだよ。なんてなまけものなんだい、おまえたちは。みんなで森へいって、たきぎをひろうんだよ。」  こういって、おかみさんはふたりにパンをひときれずつやりながら、 「これはお昼のおべんとうだよ。だから、お昼にならないうちに、食べるんじゃないよ。あとは、もうなんにもないんだからね。」 と、いいきかせました。  パンは、ふたつともグレーテルがまえかけの下にしまいました。だって、ヘンゼルはポケットにいっぱい小石をつめこんでいましたから。それから、みんなで森にでかけました。すこしいくと、ヘンゼルは立ちどまって、うちのほうをふりかえってみました。それからも、何回も何回も立ち止まっては、ふりかえってみました。それを見て、おとうさんがいいました。 「ヘンゼル、なにをそんなに立ちどまって、ながめているんだ。ぼんやりしないで、足もとに気をつけろよ。」 「ああ、おとうさん。」 と、ヘンゼルはいいました。 「ぼくの白ネコを見てるんですよ。あいつ、屋根の上にのぼって、ぼくにさようならって、いおうとしてるんですよ。」  すると、おかみさんが、 「ばかだね、あれはおまえのネコなんかじゃないよ。えんとつに朝日があたってるんじゃないか。」 と、いいました。  けれども、ヘンゼルは小ネコなんかを見ていたのではありません。立ちどまるたびに、あのぴかぴかひかる小石を、ポケットからとりだしては、道に落としていたのでした。  みんなが、森のまんなかまできたとき、おとうさんは、 「おい、ヘンゼルにグレーテル、おまえたちはたきぎをあつめておいで。寒くないように、おとうさんが火をたいてやるからな。」 と、いいました。  そこで、ヘンゼルとグレーテルは、小枝を山ほどもたくさんあつめてきました。小枝の山に火がついて、ぱあっともえあがると、おかみさんがいいました。 「じゃ、おまえたちはこのたき火のそばにすわって、やすんでおいで。わたしたちはもっとおくへはいっていって、木を切ってくるからね。しごとがおわったら、もどってきて、いっしょにつれてかえってやるよ。」  ヘンゼルとグレーテルはたき火のそばにすわって、あたたまっていました。お昼になると、めいめい、もらった小さなパンを食べました。そのあいだじゅう、ずうっと、木を切る斧の音がきこえていましたので、おとうさんはすぐ近くにいるものとばかり思っていました。ところがそれは、斧で木を切る音ではなくて、おとうさんが枯れ木をしばっておいた枝が、風にゆられて、あっちにぶつかり、こっちにぶつかる音だったのです。  こうしてふたりは、いつまでもおとなしくすわっているうちに、だんだんくたびれてきて、いまにもまぶたがくっつきそうになりました。そして、とうとう、ぐっすりとねむりこんでしまいました。やっと目がさめたときには、もう、まっくらな夜になっていました。グレーテルはしくしく泣きだしました。そして、にいさんに、 「どうしたら、あたしたち、森からでられる?」 と、いいました。  けれども、ヘンゼルは小さい妹をなぐさめて、 「もうちょっとお待ちよ。お月さまがでてくれば、きっと道がわかるから。」 と、いいました。  そのうちに、まんまるいお月さまがのぼりました。それで、ヘンゼルは妹の手をとって、おとしておいた小石をたよりに、歩いていきました。小石は、あたらしい銀貨みたいにぴかぴかひかって、ふたりに道をおしえてくれました。ふたりは、ひと晩じゅう歩きつづけて、夜のあけるころに、やっとおとうさんの家にかえってきました。
ヘンゼルはなぜ何回も立ち止まっては、ふりかえっていましたか。
立ちどまるたびに、あのぴかぴかひかる小石を、ポケットからとりだしては、道に落としていたのでした。
JCRRAG_010533
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 ある大きな森のはずれに、ひとりの貧乏な木こりが、おかみさんと、ふたりの子どもといっしょに住んでいました。ふたりの子どもは、男の子がヘンゼル、女の子はグレーテルといいました。この木こりは、普段はろくに食べるものがありませんでしたが、ある年、国じゅうに大飢饉がおこったため、こんどは、毎日のパンさえ食べることができなくなりました。木こりは、晩に寝床へはいってからも、あれやこれやと考えると、心配で心配でねむることもできず、ねがえりばかりうっていました。そしてそのあげくに、ため息をつき、おかみさんにいいました。 「これからさき、おれたちはどうなるんだ。かわいそうな、あの子らを、どうやってくわせていったもんだろう。おれたちだけでも、くうものがないんだからなあ。」 「じゃ、おまえさん、こうしたらどう。」 と、おかみさんがこたえました。 「あしたの朝、うんとはやく、子どもたちを森のなかへつれだして、いちばん木のたてこんでいるとこまでつれていくんだよ。そしたら、そこで、たき火をおこして、ふたりにパンをひときれずつやっておいてさ、わたしたちゃしごとにでかけて、ふたりはそのままおいてきぼりにしちまうんだよ。そうすりゃ、かえり道なんかわかりっこないんだから、それでやっかいばらいというわけさ。」 「そいつは、いけねえよ、おめえ。」 と、木こりはいいました。 「そんなこたあ、おれにゃあできねえ。子どもらを森のなかにすててくるなんて、とてもそんな気にゃあなれねえ。そんなことをしようもんなら、すぐに森のけだものがとびだしてきて、あのふたりをずたずたにひきさいちまわあな。」 「おまえさんは、なんてばかなんだい。」 と、おかみさんはいいました。 「そんなことをいってりゃ、わたしたちゃ四人とも、ひぼしになって、死んじまうじゃないか。まあ、棺の板でもけずっとくがいいさ。」  おかみさんはこういって、それからも、なんのかんのとうるさく言い立てますので、とうとう、木こりも承知してしまいました。 「だが、やっぱり子どもらがかわいそうだなあ。」 と、木こりはいいました。  ふたりの子どもたちは、おなかがすいてねむれませんので、いま、継母がおとうさんに話していたことを、のこらずきいてしまいました。グレーテルはしくしく泣きだして、 「あたしたち、もうダメね。」 と、ヘンゼルにむかっていいました。 「しっ、だまって、グレーテル。」 と、ヘンゼルはいいました。 「だいじょうぶだよ。ぼくがきっとうまくやってみせるから。」  やがて、おとうさんとおかあさんがねてしまうと、ヘンゼルはそっとおきあがり、じぶんの上着をきました。それから、くぐり戸をあけて、こっそりとおもてにでていきました。ちょうど、お月さまが明るく照っていて、うちの前に敷いてある白い小石が、まるで銀貨のように、きらきらひかっていました。ヘンゼルはそこにかがみこんで、その小石を上着のポケットにいっぱいつめられるだけつめこみました。それから、うちにもどって、グレーテルに、 「もうだいじょうぶだよ。ゆっくりおやすみ。ぼくたちには、神さまがついていてくださるよ。」 と、いいました。そして、じぶんも、また寝床のなかにはいりました。  夜があけると、まだお日さまがのぼらないうちに、もうおかみさんがやってきて、ふたりの子どもをたたきおこしました。 「さあ、おきるんだよ。なんてなまけものなんだい、おまえたちは。みんなで森へいって、たきぎをひろうんだよ。」  こういって、おかみさんはふたりにパンをひときれずつやりながら、 「これはお昼のおべんとうだよ。だから、お昼にならないうちに、食べるんじゃないよ。あとは、もうなんにもないんだからね。」 と、いいきかせました。  パンは、ふたつともグレーテルがまえかけの下にしまいました。だって、ヘンゼルはポケットにいっぱい小石をつめこんでいましたから。それから、みんなで森にでかけました。すこしいくと、ヘンゼルは立ちどまって、うちのほうをふりかえってみました。それからも、何回も何回も立ち止まっては、ふりかえってみました。それを見て、おとうさんがいいました。 「ヘンゼル、なにをそんなに立ちどまって、ながめているんだ。ぼんやりしないで、足もとに気をつけろよ。」 「ああ、おとうさん。」 と、ヘンゼルはいいました。 「ぼくの白ネコを見てるんですよ。あいつ、屋根の上にのぼって、ぼくにさようならって、いおうとしてるんですよ。」  すると、おかみさんが、 「ばかだね、あれはおまえのネコなんかじゃないよ。えんとつに朝日があたってるんじゃないか。」 と、いいました。  けれども、ヘンゼルは小ネコなんかを見ていたのではありません。立ちどまるたびに、あのぴかぴかひかる小石を、ポケットからとりだしては、道に落としていたのでした。  みんなが、森のまんなかまできたとき、おとうさんは、 「おい、ヘンゼルにグレーテル、おまえたちはたきぎをあつめておいで。寒くないように、おとうさんが火をたいてやるからな。」 と、いいました。  そこで、ヘンゼルとグレーテルは、小枝を山ほどもたくさんあつめてきました。小枝の山に火がついて、ぱあっともえあがると、おかみさんがいいました。 「じゃ、おまえたちはこのたき火のそばにすわって、やすんでおいで。わたしたちはもっとおくへはいっていって、木を切ってくるからね。しごとがおわったら、もどってきて、いっしょにつれてかえってやるよ。」  ヘンゼルとグレーテルはたき火のそばにすわって、あたたまっていました。お昼になると、めいめい、もらった小さなパンを食べました。そのあいだじゅう、ずうっと、木を切る斧の音がきこえていましたので、おとうさんはすぐ近くにいるものとばかり思っていました。ところがそれは、斧で木を切る音ではなくて、おとうさんが枯れ木をしばっておいた枝が、風にゆられて、あっちにぶつかり、こっちにぶつかる音だったのです。  こうしてふたりは、いつまでもおとなしくすわっているうちに、だんだんくたびれてきて、いまにもまぶたがくっつきそうになりました。そして、とうとう、ぐっすりとねむりこんでしまいました。やっと目がさめたときには、もう、まっくらな夜になっていました。グレーテルはしくしく泣きだしました。そして、にいさんに、 「どうしたら、あたしたち、森からでられる?」 と、いいました。  けれども、ヘンゼルは小さい妹をなぐさめて、 「もうちょっとお待ちよ。お月さまがでてくれば、きっと道がわかるから。」 と、いいました。  そのうちに、まんまるいお月さまがのぼりました。それで、ヘンゼルは妹の手をとって、おとしておいた小石をたよりに、歩いていきました。小石は、あたらしい銀貨みたいにぴかぴかひかって、ふたりに道をおしえてくれました。ふたりは、ひと晩じゅう歩きつづけて、夜のあけるころに、やっとおとうさんの家にかえってきました。
木を切る斧の音はおとうさんが木を切っている音でしたか。
木を切る斧の音がきこえていましたので、おとうさんはすぐ近くにいるものとばかり思っていました。ところがそれは、斧で木を切る音ではなくて、おとうさんが枯れ木をしばっておいた枝が、風にゆられて、あっちにぶつかり、こっちにぶつかる音だったのです。
JCRRAG_010534
国語
 ある大きな森のはずれに、ひとりの貧乏な木こりが、おかみさんと、ふたりの子どもといっしょに住んでいました。ふたりの子どもは、男の子がヘンゼル、女の子はグレーテルといいました。この木こりは、普段はろくに食べるものがありませんでしたが、ある年、国じゅうに大飢饉がおこったため、こんどは、毎日のパンさえ食べることができなくなりました。木こりは、晩に寝床へはいってからも、あれやこれやと考えると、心配で心配でねむることもできず、ねがえりばかりうっていました。そしてそのあげくに、ため息をつき、おかみさんにいいました。 「これからさき、おれたちはどうなるんだ。かわいそうな、あの子らを、どうやってくわせていったもんだろう。おれたちだけでも、くうものがないんだからなあ。」 「じゃ、おまえさん、こうしたらどう。」 と、おかみさんがこたえました。 「あしたの朝、うんとはやく、子どもたちを森のなかへつれだして、いちばん木のたてこんでいるとこまでつれていくんだよ。そしたら、そこで、たき火をおこして、ふたりにパンをひときれずつやっておいてさ、わたしたちゃしごとにでかけて、ふたりはそのままおいてきぼりにしちまうんだよ。そうすりゃ、かえり道なんかわかりっこないんだから、それでやっかいばらいというわけさ。」 「そいつは、いけねえよ、おめえ。」 と、木こりはいいました。 「そんなこたあ、おれにゃあできねえ。子どもらを森のなかにすててくるなんて、とてもそんな気にゃあなれねえ。そんなことをしようもんなら、すぐに森のけだものがとびだしてきて、あのふたりをずたずたにひきさいちまわあな。」 「おまえさんは、なんてばかなんだい。」 と、おかみさんはいいました。 「そんなことをいってりゃ、わたしたちゃ四人とも、ひぼしになって、死んじまうじゃないか。まあ、棺の板でもけずっとくがいいさ。」  おかみさんはこういって、それからも、なんのかんのとうるさく言い立てますので、とうとう、木こりも承知してしまいました。 「だが、やっぱり子どもらがかわいそうだなあ。」 と、木こりはいいました。  ふたりの子どもたちは、おなかがすいてねむれませんので、いま、継母がおとうさんに話していたことを、のこらずきいてしまいました。グレーテルはしくしく泣きだして、 「あたしたち、もうダメね。」 と、ヘンゼルにむかっていいました。 「しっ、だまって、グレーテル。」 と、ヘンゼルはいいました。 「だいじょうぶだよ。ぼくがきっとうまくやってみせるから。」  やがて、おとうさんとおかあさんがねてしまうと、ヘンゼルはそっとおきあがり、じぶんの上着をきました。それから、くぐり戸をあけて、こっそりとおもてにでていきました。ちょうど、お月さまが明るく照っていて、うちの前に敷いてある白い小石が、まるで銀貨のように、きらきらひかっていました。ヘンゼルはそこにかがみこんで、その小石を上着のポケットにいっぱいつめられるだけつめこみました。それから、うちにもどって、グレーテルに、 「もうだいじょうぶだよ。ゆっくりおやすみ。ぼくたちには、神さまがついていてくださるよ。」 と、いいました。そして、じぶんも、また寝床のなかにはいりました。  夜があけると、まだお日さまがのぼらないうちに、もうおかみさんがやってきて、ふたりの子どもをたたきおこしました。 「さあ、おきるんだよ。なんてなまけものなんだい、おまえたちは。みんなで森へいって、たきぎをひろうんだよ。」  こういって、おかみさんはふたりにパンをひときれずつやりながら、 「これはお昼のおべんとうだよ。だから、お昼にならないうちに、食べるんじゃないよ。あとは、もうなんにもないんだからね。」 と、いいきかせました。  パンは、ふたつともグレーテルがまえかけの下にしまいました。だって、ヘンゼルはポケットにいっぱい小石をつめこんでいましたから。それから、みんなで森にでかけました。すこしいくと、ヘンゼルは立ちどまって、うちのほうをふりかえってみました。それからも、何回も何回も立ち止まっては、ふりかえってみました。それを見て、おとうさんがいいました。 「ヘンゼル、なにをそんなに立ちどまって、ながめているんだ。ぼんやりしないで、足もとに気をつけろよ。」 「ああ、おとうさん。」 と、ヘンゼルはいいました。 「ぼくの白ネコを見てるんですよ。あいつ、屋根の上にのぼって、ぼくにさようならって、いおうとしてるんですよ。」  すると、おかみさんが、 「ばかだね、あれはおまえのネコなんかじゃないよ。えんとつに朝日があたってるんじゃないか。」 と、いいました。  けれども、ヘンゼルは小ネコなんかを見ていたのではありません。立ちどまるたびに、あのぴかぴかひかる小石を、ポケットからとりだしては、道に落としていたのでした。  みんなが、森のまんなかまできたとき、おとうさんは、 「おい、ヘンゼルにグレーテル、おまえたちはたきぎをあつめておいで。寒くないように、おとうさんが火をたいてやるからな。」 と、いいました。  そこで、ヘンゼルとグレーテルは、小枝を山ほどもたくさんあつめてきました。小枝の山に火がついて、ぱあっともえあがると、おかみさんがいいました。 「じゃ、おまえたちはこのたき火のそばにすわって、やすんでおいで。わたしたちはもっとおくへはいっていって、木を切ってくるからね。しごとがおわったら、もどってきて、いっしょにつれてかえってやるよ。」  ヘンゼルとグレーテルはたき火のそばにすわって、あたたまっていました。お昼になると、めいめい、もらった小さなパンを食べました。そのあいだじゅう、ずうっと、木を切る斧の音がきこえていましたので、おとうさんはすぐ近くにいるものとばかり思っていました。ところがそれは、斧で木を切る音ではなくて、おとうさんが枯れ木をしばっておいた枝が、風にゆられて、あっちにぶつかり、こっちにぶつかる音だったのです。  こうしてふたりは、いつまでもおとなしくすわっているうちに、だんだんくたびれてきて、いまにもまぶたがくっつきそうになりました。そして、とうとう、ぐっすりとねむりこんでしまいました。やっと目がさめたときには、もう、まっくらな夜になっていました。グレーテルはしくしく泣きだしました。そして、にいさんに、 「どうしたら、あたしたち、森からでられる?」 と、いいました。  けれども、ヘンゼルは小さい妹をなぐさめて、 「もうちょっとお待ちよ。お月さまがでてくれば、きっと道がわかるから。」 と、いいました。  そのうちに、まんまるいお月さまがのぼりました。それで、ヘンゼルは妹の手をとって、おとしておいた小石をたよりに、歩いていきました。小石は、あたらしい銀貨みたいにぴかぴかひかって、ふたりに道をおしえてくれました。ふたりは、ひと晩じゅう歩きつづけて、夜のあけるころに、やっとおとうさんの家にかえってきました。
ふたりは、おとしておいた小石をたよりに、歩いていったらどうなりましたか。
ふたりは、ひと晩じゅう歩きつづけて、夜のあけるころに、やっとおとうさんの家にかえってきました。
JCRRAG_010535
国語
 まもなく、またくらしがこまって、どうにもならなくなりました。子どもたちは、ある晩、おかあさんが寝床のなかでおとうさんにむかって、こういっているのをききました。 「また、なにもかも食べつくしちまって、あとはパンが半切れ残ってるだけだよ。それを食べちまえば、もうおしまいさ。どうしたって、子どもたちを追っぱらうよりほかないよ。こんどは、どうしてもかえり道がわからないように、もっと森のおくまでつれていこうよ。そうでもしなくっちゃ、わたしたちはたすかりようがないもの。」  おとうさんのほうはひどく心配して、 (それなら、おれのさいごのぶんは、子どもたちとわけて食べるほうがましだ。) と、思いました。  ところが、おかあさんはおとうさんのいうことなどは、まるで耳にもいれません。ただ、がみがみどなったり、ののしったりするばかりでした。いったんやりだしたことは、どうしてもあとをつづけなければならないものです。おとうさんも、さいしょにおかあさんのいうことをきいてしまったものですから、こんども、おかあさんのいうなりにしなければならなくなりました。  ところで、子どもたちはまだ目がさめていて、この話をぜんぶきいていました。おとうさんとおかあさんがねてしまうと、ヘンゼルはそっとおきあがりました。また、このまえのときのように、おもてへいって、小石を拾おうと思ったのです。ところが、こんどは、おかあさんが戸にかぎをかけてしまったものですから、ヘンゼルはおもてへでることができませんでした。それでも、ヘンゼルは小さい妹をなぐさめて、いいました。 「泣くんじゃないよ、グレーテル。いいから、ぐっすりおやすみ。神さまは、きっとぼくたちをたすけてくださるよ。」  あくる朝はやく、おかあさんがやってきて、子どもたちを寝床からつれだしました。ふたりはパンをひときれずつもらいましたが、それはこのまえのときのよりももっと小さいものでした。ヘンゼルは、森へいく道、それをポケットの中で小さくちぎりました。そして、ときどき立ちどまっては、パンくずを地べたにおとしていきました。 「ヘンゼル、おまえは、なんだってそう立ちどまっちゃ、うしろをふりむいてばかりいるんだ。」 と、おとうさんがいいました。 「さっさと歩きな。」 「ぼくのハトを見ているんですよ。ほら、あいつ、屋根の上にとまって、ぼくにさよならっていおうとしているんですもの。」 と、ヘンゼルはこたえました。 「ばかだね。」 と、おかあさんがいいました。 「あれはハトなんかじゃないよ。朝日がえんとつにあたって、ひかってるんじゃないか。」  それでも、ヘンゼルは、すこしずつパンくずをおとしていって、とうとうすっかりおとしきってしまいました。  おかあさんは子どもたちを、もっともっと森のおくへ、生まれてからまだきたこともないほど森のおくまで、つれていきました。そこで、こんども、どんどん火をおこしました。そして、おかあさんは、 「おまえたちはここにおいで。くたびれたら、すこしねてもいいよ。わたしたちはおくへいって、木を切ってるからね。夕がた、しごとがおわったら、ここへもどってきて、いっしょにつれてかえってやるよ。」 と、いいました。  お昼になると、グレーテルはじぶんのパンをヘンゼルにもわけてやって、ふたりで食べました。だって、ヘンゼルはじぶんのパンを道にまいてきてしまいましたからね。食べおわると、ふたりはねむりました。  やがて、晩になりましたが、このかわいそうな子供たちのところへは、だれもきませんでした。ふたりは、まっくらな夜になってから、やっと目がさめました。ヘンゼルは小さい妹をなぐさめて、 「グレーテル、お月さまがでるまで待っておいで。お月さまがでりゃ、ぼくがおとしておいたパンくずが見えるからね。それについていけば、だいじょうぶ、うちにかえれるさ。」 と、いいました。  お月さまがのぼると、ふたりはでかけました。けれど、いくらさがしても、パンくずはどこにも見あたりません。それもそのはずです。ヘンゼルがまいたパンくずは、森や野原をとびまわっている、何千ともしれない鳥たちが、きれいにひろってたべてしまったのです。 ヘンゼルはグレーテルに、 「道はきっと見つかるよ。」 と、いいましたが、どうしても見つかりませんでした。
おかあさんが子どもたちを、かえり道がわからないように、もっと森のおくまでつれていこうとしている話を、こどもたちは聞いていましたか。
子どもたちはまだ目がさめていて、この話をぜんぶきいていました。
JCRRAG_010536
国語
 まもなく、またくらしがこまって、どうにもならなくなりました。子どもたちは、ある晩、おかあさんが寝床のなかでおとうさんにむかって、こういっているのをききました。 「また、なにもかも食べつくしちまって、あとはパンが半切れ残ってるだけだよ。それを食べちまえば、もうおしまいさ。どうしたって、子どもたちを追っぱらうよりほかないよ。こんどは、どうしてもかえり道がわからないように、もっと森のおくまでつれていこうよ。そうでもしなくっちゃ、わたしたちはたすかりようがないもの。」  おとうさんのほうはひどく心配して、 (それなら、おれのさいごのぶんは、子どもたちとわけて食べるほうがましだ。) と、思いました。  ところが、おかあさんはおとうさんのいうことなどは、まるで耳にもいれません。ただ、がみがみどなったり、ののしったりするばかりでした。いったんやりだしたことは、どうしてもあとをつづけなければならないものです。おとうさんも、さいしょにおかあさんのいうことをきいてしまったものですから、こんども、おかあさんのいうなりにしなければならなくなりました。  ところで、子どもたちはまだ目がさめていて、この話をぜんぶきいていました。おとうさんとおかあさんがねてしまうと、ヘンゼルはそっとおきあがりました。また、このまえのときのように、おもてへいって、小石を拾おうと思ったのです。ところが、こんどは、おかあさんが戸にかぎをかけてしまったものですから、ヘンゼルはおもてへでることができませんでした。それでも、ヘンゼルは小さい妹をなぐさめて、いいました。 「泣くんじゃないよ、グレーテル。いいから、ぐっすりおやすみ。神さまは、きっとぼくたちをたすけてくださるよ。」  あくる朝はやく、おかあさんがやってきて、子どもたちを寝床からつれだしました。ふたりはパンをひときれずつもらいましたが、それはこのまえのときのよりももっと小さいものでした。ヘンゼルは、森へいく道、それをポケットの中で小さくちぎりました。そして、ときどき立ちどまっては、パンくずを地べたにおとしていきました。 「ヘンゼル、おまえは、なんだってそう立ちどまっちゃ、うしろをふりむいてばかりいるんだ。」 と、おとうさんがいいました。 「さっさと歩きな。」 「ぼくのハトを見ているんですよ。ほら、あいつ、屋根の上にとまって、ぼくにさよならっていおうとしているんですもの。」 と、ヘンゼルはこたえました。 「ばかだね。」 と、おかあさんがいいました。 「あれはハトなんかじゃないよ。朝日がえんとつにあたって、ひかってるんじゃないか。」  それでも、ヘンゼルは、すこしずつパンくずをおとしていって、とうとうすっかりおとしきってしまいました。  おかあさんは子どもたちを、もっともっと森のおくへ、生まれてからまだきたこともないほど森のおくまで、つれていきました。そこで、こんども、どんどん火をおこしました。そして、おかあさんは、 「おまえたちはここにおいで。くたびれたら、すこしねてもいいよ。わたしたちはおくへいって、木を切ってるからね。夕がた、しごとがおわったら、ここへもどってきて、いっしょにつれてかえってやるよ。」 と、いいました。  お昼になると、グレーテルはじぶんのパンをヘンゼルにもわけてやって、ふたりで食べました。だって、ヘンゼルはじぶんのパンを道にまいてきてしまいましたからね。食べおわると、ふたりはねむりました。  やがて、晩になりましたが、このかわいそうな子供たちのところへは、だれもきませんでした。ふたりは、まっくらな夜になってから、やっと目がさめました。ヘンゼルは小さい妹をなぐさめて、 「グレーテル、お月さまがでるまで待っておいで。お月さまがでりゃ、ぼくがおとしておいたパンくずが見えるからね。それについていけば、だいじょうぶ、うちにかえれるさ。」 と、いいました。  お月さまがのぼると、ふたりはでかけました。けれど、いくらさがしても、パンくずはどこにも見あたりません。それもそのはずです。ヘンゼルがまいたパンくずは、森や野原をとびまわっている、何千ともしれない鳥たちが、きれいにひろってたべてしまったのです。 ヘンゼルはグレーテルに、 「道はきっと見つかるよ。」 と、いいましたが、どうしても見つかりませんでした。
ヘンゼルは、森へいく道でパンをどうしましたか。
ヘンゼルは、すこしずつパンくずをおとしていって、とうとうすっかりおとしきってしまいました。
JCRRAG_010537
国語
 まもなく、またくらしがこまって、どうにもならなくなりました。子どもたちは、ある晩、おかあさんが寝床のなかでおとうさんにむかって、こういっているのをききました。 「また、なにもかも食べつくしちまって、あとはパンが半切れ残ってるだけだよ。それを食べちまえば、もうおしまいさ。どうしたって、子どもたちを追っぱらうよりほかないよ。こんどは、どうしてもかえり道がわからないように、もっと森のおくまでつれていこうよ。そうでもしなくっちゃ、わたしたちはたすかりようがないもの。」  おとうさんのほうはひどく心配して、 (それなら、おれのさいごのぶんは、子どもたちとわけて食べるほうがましだ。) と、思いました。  ところが、おかあさんはおとうさんのいうことなどは、まるで耳にもいれません。ただ、がみがみどなったり、ののしったりするばかりでした。いったんやりだしたことは、どうしてもあとをつづけなければならないものです。おとうさんも、さいしょにおかあさんのいうことをきいてしまったものですから、こんども、おかあさんのいうなりにしなければならなくなりました。  ところで、子どもたちはまだ目がさめていて、この話をぜんぶきいていました。おとうさんとおかあさんがねてしまうと、ヘンゼルはそっとおきあがりました。また、このまえのときのように、おもてへいって、小石を拾おうと思ったのです。ところが、こんどは、おかあさんが戸にかぎをかけてしまったものですから、ヘンゼルはおもてへでることができませんでした。それでも、ヘンゼルは小さい妹をなぐさめて、いいました。 「泣くんじゃないよ、グレーテル。いいから、ぐっすりおやすみ。神さまは、きっとぼくたちをたすけてくださるよ。」  あくる朝はやく、おかあさんがやってきて、子どもたちを寝床からつれだしました。ふたりはパンをひときれずつもらいましたが、それはこのまえのときのよりももっと小さいものでした。ヘンゼルは、森へいく道、それをポケットの中で小さくちぎりました。そして、ときどき立ちどまっては、パンくずを地べたにおとしていきました。 「ヘンゼル、おまえは、なんだってそう立ちどまっちゃ、うしろをふりむいてばかりいるんだ。」 と、おとうさんがいいました。 「さっさと歩きな。」 「ぼくのハトを見ているんですよ。ほら、あいつ、屋根の上にとまって、ぼくにさよならっていおうとしているんですもの。」 と、ヘンゼルはこたえました。 「ばかだね。」 と、おかあさんがいいました。 「あれはハトなんかじゃないよ。朝日がえんとつにあたって、ひかってるんじゃないか。」  それでも、ヘンゼルは、すこしずつパンくずをおとしていって、とうとうすっかりおとしきってしまいました。  おかあさんは子どもたちを、もっともっと森のおくへ、生まれてからまだきたこともないほど森のおくまで、つれていきました。そこで、こんども、どんどん火をおこしました。そして、おかあさんは、 「おまえたちはここにおいで。くたびれたら、すこしねてもいいよ。わたしたちはおくへいって、木を切ってるからね。夕がた、しごとがおわったら、ここへもどってきて、いっしょにつれてかえってやるよ。」 と、いいました。  お昼になると、グレーテルはじぶんのパンをヘンゼルにもわけてやって、ふたりで食べました。だって、ヘンゼルはじぶんのパンを道にまいてきてしまいましたからね。食べおわると、ふたりはねむりました。  やがて、晩になりましたが、このかわいそうな子供たちのところへは、だれもきませんでした。ふたりは、まっくらな夜になってから、やっと目がさめました。ヘンゼルは小さい妹をなぐさめて、 「グレーテル、お月さまがでるまで待っておいで。お月さまがでりゃ、ぼくがおとしておいたパンくずが見えるからね。それについていけば、だいじょうぶ、うちにかえれるさ。」 と、いいました。  お月さまがのぼると、ふたりはでかけました。けれど、いくらさがしても、パンくずはどこにも見あたりません。それもそのはずです。ヘンゼルがまいたパンくずは、森や野原をとびまわっている、何千ともしれない鳥たちが、きれいにひろってたべてしまったのです。 ヘンゼルはグレーテルに、 「道はきっと見つかるよ。」 と、いいましたが、どうしても見つかりませんでした。
なぜヘンゼルがおとしておいたパンくずはどこにも見あたりませんでしたか。
ヘンゼルがまいたパンくずは、森や野原をとびまわっている、何千ともしれない鳥たちが、きれいにひろってたべてしまったのです。
JCRRAG_010538
国語
 ヘンゼルとグレーテルはひと晩じゅう歩いて、そのつぎの日も朝から晩まで歩きつづけましたが、それでも、森のそとにでることはできませんでした。それに、おなかがすいてたまりません。なにしろ、地べたにはえている野イチゴを、二つ三つ口にしただけなのです。 それで、ふたりはくたびれきって、もうどうにも歩くことができなくなりました。そこで、一本の木の下に横になって、そのまま、ぐっすりねむってしまいました。  こうして、ふたりがおとうさんの家を出てから、もう三日めの朝になりました。ふたりはまた歩きだしましたが、ますます森の奥へまよいこむばかりでした。このようすでは、もしだれかが、たすけにきてくれなければ、ふたりはつかれはてて、死ぬよりほかはありません。  ちょうどお昼ごろのことでした。雪のようにまっ白な、美しい一羽の小鳥が、木の枝にとまって、それはそれは美しい声で歌をうたっていました。ふたりは思わず立ち止まって、うっとりときいていました。小鳥はうたいおわると、はばたきをして、ふたりのさきにたって、とんでいきました。ふたりがその小鳥のあとについていくと、やがて、かわいい家の前にでました。小鳥はそのうちの屋根にとまりました。 ふたりがそのすぐそばまで近づいてみますと、おどろいたことには、そのかわいい家はパンでつくってあって、屋根はおかしでできているではありませんか。おまけに、窓はすきとおるようなお砂糖です。 「さあ、食べようよ。」 と、ヘンゼルはいいました。 「ごちそうになるんだ。ぼくは屋根をすこし食べるぜ。グレーテル、おまえは窓を食べるといいよ。あれはあまいから。」  ヘンゼルは手をぐっと高くのばして、屋根をすこしかきとり、どんな味がするか、食べてみました。グレーテルは窓ガラスにからだをくっつけて、ポリポリかじりだしました。すると、へやのなかからかすかな声がしました。 ポリポリ モリモリ かじるぞかじる わたしのうちをかじるな だれだ  子どもたちは、 風だよ 風だよ 天の子だよ と、こたえておいて、おかまいなしに、どんどん食べました。ヘンゼルは、屋根がとってもおいしかったので、大きいのをひとつそっくりかきとりました。グレーテルも、まるい窓ガラスを一枚そっくりはずして、すわりこんで、食べはじめました。  そのとき、ふいに戸があいて、中からよぼよぼに年をとったばあさんが、つえにすがって、よちよちでてきました。ヘンゼルとグレーテルは、びっくりして、両手にかかえていたごちそうを、思わずとりおとしてしまいました。ばあさんは頭をゆすりながら、 「おお、かわいい子どもたちだ。ここまでだれにつれてきてもらったんだね。さあ、さあ、なかへおはいり。いつまでもここにおいで。そうすりゃ、心配なことはなんにもないからね。」 と、いいました。  ばあさんはふたりの手をとって、小さい家のなかへつれていきました。へやのなかへはいると、ばあさんは、ミルクだの、さとうのついたおかしだの、リンゴだの、クルミだの、おいしそうなごちそうを、テーブルの上にいっぱいならべました。 ごちそうを食べおわると、かわいい、きれいなふたつのベッドに白い敷布をかけてもらって、ふたりはそのなかに横になりました。ふたりは、まるで天国にでもいるような気持ちでした。  このばあさんは、見たところは、いかにもしんせつそうでしたが、ほんとうはわるい魔法使いで、子どもたちがくるのを待ちかまえていたのでした。それで、ふたりをおびきよせるために、パンの家もこしらえたというわけです。ばあさんは、子どもならだれでもつかまえたがさいご、その子を殺して、煮て、食べてしまうのです。ですから、そういう日は、ばあさんにとってはおまつりのようにたのしい日になるのでした。  魔法使いというものは、赤い目をしていて、遠くのほうは見えません。そのかわり、けもののように鼻がよくきくので、人間がそばへくると、すぐにそれをかぎつけます。ヘンゼルとグレーテルが近くへきたときも、いじわるそうにわらって、 「あのふたりはつかまえたぞ。にげようったって、にがすもんか。」 と、あざけるようにいったのでした。
ヘンゼルとグレーテルはなぜおなかがすいてたまりませんでしたか。
ヘンゼルとグレーテルはひと晩じゅう歩いて、そのつぎの日も朝から晩まで歩きつづけましたが、それでも、森のそとにでることはできませんでした。それに、おなかがすいてたまりません。なにしろ、地べたにはえている野イチゴを、二つ三つ口にしただけなのです。
JCRRAG_010539
国語
 ヘンゼルとグレーテルはひと晩じゅう歩いて、そのつぎの日も朝から晩まで歩きつづけましたが、それでも、森のそとにでることはできませんでした。それに、おなかがすいてたまりません。なにしろ、地べたにはえている野イチゴを、二つ三つ口にしただけなのです。 それで、ふたりはくたびれきって、もうどうにも歩くことができなくなりました。そこで、一本の木の下に横になって、そのまま、ぐっすりねむってしまいました。  こうして、ふたりがおとうさんの家を出てから、もう三日めの朝になりました。ふたりはまた歩きだしましたが、ますます森の奥へまよいこむばかりでした。このようすでは、もしだれかが、たすけにきてくれなければ、ふたりはつかれはてて、死ぬよりほかはありません。  ちょうどお昼ごろのことでした。雪のようにまっ白な、美しい一羽の小鳥が、木の枝にとまって、それはそれは美しい声で歌をうたっていました。ふたりは思わず立ち止まって、うっとりときいていました。小鳥はうたいおわると、はばたきをして、ふたりのさきにたって、とんでいきました。ふたりがその小鳥のあとについていくと、やがて、かわいい家の前にでました。小鳥はそのうちの屋根にとまりました。 ふたりがそのすぐそばまで近づいてみますと、おどろいたことには、そのかわいい家はパンでつくってあって、屋根はおかしでできているではありませんか。おまけに、窓はすきとおるようなお砂糖です。 「さあ、食べようよ。」 と、ヘンゼルはいいました。 「ごちそうになるんだ。ぼくは屋根をすこし食べるぜ。グレーテル、おまえは窓を食べるといいよ。あれはあまいから。」  ヘンゼルは手をぐっと高くのばして、屋根をすこしかきとり、どんな味がするか、食べてみました。グレーテルは窓ガラスにからだをくっつけて、ポリポリかじりだしました。すると、へやのなかからかすかな声がしました。 ポリポリ モリモリ かじるぞかじる わたしのうちをかじるな だれだ  子どもたちは、 風だよ 風だよ 天の子だよ と、こたえておいて、おかまいなしに、どんどん食べました。ヘンゼルは、屋根がとってもおいしかったので、大きいのをひとつそっくりかきとりました。グレーテルも、まるい窓ガラスを一枚そっくりはずして、すわりこんで、食べはじめました。  そのとき、ふいに戸があいて、中からよぼよぼに年をとったばあさんが、つえにすがって、よちよちでてきました。ヘンゼルとグレーテルは、びっくりして、両手にかかえていたごちそうを、思わずとりおとしてしまいました。ばあさんは頭をゆすりながら、 「おお、かわいい子どもたちだ。ここまでだれにつれてきてもらったんだね。さあ、さあ、なかへおはいり。いつまでもここにおいで。そうすりゃ、心配なことはなんにもないからね。」 と、いいました。  ばあさんはふたりの手をとって、小さい家のなかへつれていきました。へやのなかへはいると、ばあさんは、ミルクだの、さとうのついたおかしだの、リンゴだの、クルミだの、おいしそうなごちそうを、テーブルの上にいっぱいならべました。 ごちそうを食べおわると、かわいい、きれいなふたつのベッドに白い敷布をかけてもらって、ふたりはそのなかに横になりました。ふたりは、まるで天国にでもいるような気持ちでした。  このばあさんは、見たところは、いかにもしんせつそうでしたが、ほんとうはわるい魔法使いで、子どもたちがくるのを待ちかまえていたのでした。それで、ふたりをおびきよせるために、パンの家もこしらえたというわけです。ばあさんは、子どもならだれでもつかまえたがさいご、その子を殺して、煮て、食べてしまうのです。ですから、そういう日は、ばあさんにとってはおまつりのようにたのしい日になるのでした。  魔法使いというものは、赤い目をしていて、遠くのほうは見えません。そのかわり、けもののように鼻がよくきくので、人間がそばへくると、すぐにそれをかぎつけます。ヘンゼルとグレーテルが近くへきたときも、いじわるそうにわらって、 「あのふたりはつかまえたぞ。にげようったって、にがすもんか。」 と、あざけるようにいったのでした。
ふたりが小鳥のあとについていくと、出てきたかわいい家はどんな家でしたか。
そのかわいい家はパンでつくってあって、屋根はおかしでできているではありませんか。おまけに、窓はすきとおるようなお砂糖です。
JCRRAG_010540
国語
 ヘンゼルとグレーテルはひと晩じゅう歩いて、そのつぎの日も朝から晩まで歩きつづけましたが、それでも、森のそとにでることはできませんでした。それに、おなかがすいてたまりません。なにしろ、地べたにはえている野イチゴを、二つ三つ口にしただけなのです。 それで、ふたりはくたびれきって、もうどうにも歩くことができなくなりました。そこで、一本の木の下に横になって、そのまま、ぐっすりねむってしまいました。  こうして、ふたりがおとうさんの家を出てから、もう三日めの朝になりました。ふたりはまた歩きだしましたが、ますます森の奥へまよいこむばかりでした。このようすでは、もしだれかが、たすけにきてくれなければ、ふたりはつかれはてて、死ぬよりほかはありません。  ちょうどお昼ごろのことでした。雪のようにまっ白な、美しい一羽の小鳥が、木の枝にとまって、それはそれは美しい声で歌をうたっていました。ふたりは思わず立ち止まって、うっとりときいていました。小鳥はうたいおわると、はばたきをして、ふたりのさきにたって、とんでいきました。ふたりがその小鳥のあとについていくと、やがて、かわいい家の前にでました。小鳥はそのうちの屋根にとまりました。 ふたりがそのすぐそばまで近づいてみますと、おどろいたことには、そのかわいい家はパンでつくってあって、屋根はおかしでできているではありませんか。おまけに、窓はすきとおるようなお砂糖です。 「さあ、食べようよ。」 と、ヘンゼルはいいました。 「ごちそうになるんだ。ぼくは屋根をすこし食べるぜ。グレーテル、おまえは窓を食べるといいよ。あれはあまいから。」  ヘンゼルは手をぐっと高くのばして、屋根をすこしかきとり、どんな味がするか、食べてみました。グレーテルは窓ガラスにからだをくっつけて、ポリポリかじりだしました。すると、へやのなかからかすかな声がしました。 ポリポリ モリモリ かじるぞかじる わたしのうちをかじるな だれだ  子どもたちは、 風だよ 風だよ 天の子だよ と、こたえておいて、おかまいなしに、どんどん食べました。ヘンゼルは、屋根がとってもおいしかったので、大きいのをひとつそっくりかきとりました。グレーテルも、まるい窓ガラスを一枚そっくりはずして、すわりこんで、食べはじめました。  そのとき、ふいに戸があいて、中からよぼよぼに年をとったばあさんが、つえにすがって、よちよちでてきました。ヘンゼルとグレーテルは、びっくりして、両手にかかえていたごちそうを、思わずとりおとしてしまいました。ばあさんは頭をゆすりながら、 「おお、かわいい子どもたちだ。ここまでだれにつれてきてもらったんだね。さあ、さあ、なかへおはいり。いつまでもここにおいで。そうすりゃ、心配なことはなんにもないからね。」 と、いいました。  ばあさんはふたりの手をとって、小さい家のなかへつれていきました。へやのなかへはいると、ばあさんは、ミルクだの、さとうのついたおかしだの、リンゴだの、クルミだの、おいしそうなごちそうを、テーブルの上にいっぱいならべました。 ごちそうを食べおわると、かわいい、きれいなふたつのベッドに白い敷布をかけてもらって、ふたりはそのなかに横になりました。ふたりは、まるで天国にでもいるような気持ちでした。  このばあさんは、見たところは、いかにもしんせつそうでしたが、ほんとうはわるい魔法使いで、子どもたちがくるのを待ちかまえていたのでした。それで、ふたりをおびきよせるために、パンの家もこしらえたというわけです。ばあさんは、子どもならだれでもつかまえたがさいご、その子を殺して、煮て、食べてしまうのです。ですから、そういう日は、ばあさんにとってはおまつりのようにたのしい日になるのでした。  魔法使いというものは、赤い目をしていて、遠くのほうは見えません。そのかわり、けもののように鼻がよくきくので、人間がそばへくると、すぐにそれをかぎつけます。ヘンゼルとグレーテルが近くへきたときも、いじわるそうにわらって、 「あのふたりはつかまえたぞ。にげようったって、にがすもんか。」 と、あざけるようにいったのでした。
ばあさんがふたりを家にいれたのはなぜですか。
ばあさんは、子どもならだれでもつかまえたがさいご、その子を殺して、煮て、食べてしまうからです。
JCRRAG_010541
国語
 ヘンゼルとグレーテルはひと晩じゅう歩いて、そのつぎの日も朝から晩まで歩きつづけましたが、それでも、森のそとにでることはできませんでした。それに、おなかがすいてたまりません。なにしろ、地べたにはえている野イチゴを、二つ三つ口にしただけなのです。 それで、ふたりはくたびれきって、もうどうにも歩くことができなくなりました。そこで、一本の木の下に横になって、そのまま、ぐっすりねむってしまいました。  こうして、ふたりがおとうさんの家を出てから、もう三日めの朝になりました。ふたりはまた歩きだしましたが、ますます森の奥へまよいこむばかりでした。このようすでは、もしだれかが、たすけにきてくれなければ、ふたりはつかれはてて、死ぬよりほかはありません。  ちょうどお昼ごろのことでした。雪のようにまっ白な、美しい一羽の小鳥が、木の枝にとまって、それはそれは美しい声で歌をうたっていました。ふたりは思わず立ち止まって、うっとりときいていました。小鳥はうたいおわると、はばたきをして、ふたりのさきにたって、とんでいきました。ふたりがその小鳥のあとについていくと、やがて、かわいい家の前にでました。小鳥はそのうちの屋根にとまりました。 ふたりがそのすぐそばまで近づいてみますと、おどろいたことには、そのかわいい家はパンでつくってあって、屋根はおかしでできているではありませんか。おまけに、窓はすきとおるようなお砂糖です。 「さあ、食べようよ。」 と、ヘンゼルはいいました。 「ごちそうになるんだ。ぼくは屋根をすこし食べるぜ。グレーテル、おまえは窓を食べるといいよ。あれはあまいから。」  ヘンゼルは手をぐっと高くのばして、屋根をすこしかきとり、どんな味がするか、食べてみました。グレーテルは窓ガラスにからだをくっつけて、ポリポリかじりだしました。すると、へやのなかからかすかな声がしました。 ポリポリ モリモリ かじるぞかじる わたしのうちをかじるな だれだ  子どもたちは、 風だよ 風だよ 天の子だよ と、こたえておいて、おかまいなしに、どんどん食べました。ヘンゼルは、屋根がとってもおいしかったので、大きいのをひとつそっくりかきとりました。グレーテルも、まるい窓ガラスを一枚そっくりはずして、すわりこんで、食べはじめました。  そのとき、ふいに戸があいて、中からよぼよぼに年をとったばあさんが、つえにすがって、よちよちでてきました。ヘンゼルとグレーテルは、びっくりして、両手にかかえていたごちそうを、思わずとりおとしてしまいました。ばあさんは頭をゆすりながら、 「おお、かわいい子どもたちだ。ここまでだれにつれてきてもらったんだね。さあ、さあ、なかへおはいり。いつまでもここにおいで。そうすりゃ、心配なことはなんにもないからね。」 と、いいました。  ばあさんはふたりの手をとって、小さい家のなかへつれていきました。へやのなかへはいると、ばあさんは、ミルクだの、さとうのついたおかしだの、リンゴだの、クルミだの、おいしそうなごちそうを、テーブルの上にいっぱいならべました。 ごちそうを食べおわると、かわいい、きれいなふたつのベッドに白い敷布をかけてもらって、ふたりはそのなかに横になりました。ふたりは、まるで天国にでもいるような気持ちでした。  このばあさんは、見たところは、いかにもしんせつそうでしたが、ほんとうはわるい魔法使いで、子どもたちがくるのを待ちかまえていたのでした。それで、ふたりをおびきよせるために、パンの家もこしらえたというわけです。ばあさんは、子どもならだれでもつかまえたがさいご、その子を殺して、煮て、食べてしまうのです。ですから、そういう日は、ばあさんにとってはおまつりのようにたのしい日になるのでした。  魔法使いというものは、赤い目をしていて、遠くのほうは見えません。そのかわり、けもののように鼻がよくきくので、人間がそばへくると、すぐにそれをかぎつけます。ヘンゼルとグレーテルが近くへきたときも、いじわるそうにわらって、 「あのふたりはつかまえたぞ。にげようったって、にがすもんか。」 と、あざけるようにいったのでした。
ふいに戸があいて、中からつえにすがって、よちよちでてきたのは誰ですか。
ふいに戸があいて、中からつえにすがって、よちよちでてきたのはよぼよぼに年をとったばあさんです。
JCRRAG_010542
国語
つぎの朝はやく、まだ子どもたちが目をさまさないうちに、ばあさんはもう起きだしました。そして、ふたりが、まんまるの、赤いほっぺたをして、かわいらしく、すやすやとねむっているすがたを見ますと、 「こいつは、いいごちそうにならあね。」 と、つぶやきました。  それから、ばあさんはやせこけた手でヘンゼルをつかまえると、小さい小屋のなかにつれていって、格子戸をピシャンとしめてしまいました。ですから、ヘンゼルがいくらわめいても、なんにもなりませんでした。それから、ばあさんはグレーテルのところへいって、ゆりおこしました。そして、 「さっさとおきるんだ、なまけものめ。水をくんできて、おまえのにいさんに、なんかうまいものでもこしらえてやんな。あいつは、そとの小屋にいるがな、せいぜいふとらせてやるんだ。ふとったところで、このあたしがごちそうになるのさ。」 と、どなりつけました。  グレーテルは、わあっとはげしく泣きだしました。でも、いまとなっては、どうしようもありません。グレーテルは、わるい魔法使いのいうとおりのことをしなければなりませんでした。  こうして、かわいそうなヘンゼルは、一番上等のごちそうをもらいましたが、それにひきかえ、グレーテルのほうは、ザリガニのこうらをもらったきりでした。毎朝毎朝、ばあさんは小屋のところへいって、 「ヘンゼル、指をだしなさい。ぼちぼち、ふとってきたかどうか、さわってみるんじゃ。」 と、わめきました。  いわれて、ヘンゼルは、食べ残した骨を一本、ばあさんのほうへつきだしました。ところが、ばあさんは目がかすんでいましたので、骨とは気がつかずに、それをヘンゼルの指だとばかり思いこみました。そして、ヘンゼルはどうしてふとらないのかと、ふしぎでふしぎでなりませんでした。  それから、四週間たちましたが、ヘンゼルはあいかわらずちっともふとりません。それで、ばあさんもかんしゃくをおこして、もうこれ以上、がまんができなくなりました。 「やい、グレーテル。」 と、ばあさんは小さい妹にむかってどなりつけました。 「とんでって、水をくんできな。ヘンゼルのやつめ、やせていようと、ふとっていようと、あしたは、あいつをぶち殺して、煮てしまうんだ。」  ああ、かわいそうに、小さい妹は、水をくみにやらされたとき、どんなになげきかなしんだことでしょう。そして、ほおの上を、どんなにたくさんの涙がながれおちたことでしょう。 「ああ、神さま、どうかあたしたちをおたすけください。」 と、グレーテルは大声でさけびました。 「こんなことなら、いっそのこと、森のなかでけものに食べられるほうがよかったわ。だって、そんなら、おにいさんといっしょに死ねたんですもの。」 「うるさい。さわぐんじゃない。いくらわめいたって、なんにもなりゃしないんだぞ。」 と、ばあさんはいいました。  つぎの朝はやく、グレーテルはおもてへでて、水をいっぱいいれたおかまをつるし、火をたきつけさせられました。 「さきにパンを焼くんだ。」 と、ばあさんはいいました。 「かまどには、もう火がはいっているし、それに、パン粉もねってあるんだから。」  ばあさんは、かわいそうなグレーテルを、パン焼きかまどのほうへつきとばしました。かまどからは、もう、ほのおがめらめらともえでています。 「なかにはいりこんで、火がよくまわっているかどうか、見るんだ。よかったら、パンをいれるからな。」 と、魔法使いはいいました。  もしグレーテルがなかにはいったら、ばあさんはかまどのふたをしめてしまうつもりでした。そうすれば、グレーテルはなかで焼き殺されてしまいます。そこで、ばあさんはグレーテルをも、ぺろりと食べてしまう腹だったのです。 「どうやってなかにはいるんですか。」 と、グレーテルはいいました。 「ばかやろう。かまどの口は、こんなに大きいじゃないか。ほれみろ、このわしだってはいれるくらいだ。」  ばあさんは、こういいながら、よちよち歩いていって、かまどのなかに頭をつっこみました。このときとばかり、グレーテルは、どんとばあさんをつきとばしましたから、ばあさんはかまどのずっとおくのほうへとびこんでしまいました。グレーテルはすばやく、鉄の戸をバタンと閉めて、掛け金をかけました。ううっ、と、ばあさんはほえだしました。それはそれはものすごいうなり声でした。けれども、グレーテルはどんどんかけていきました。こうして、ばちあたりの魔法使いのばあさんは、むごたらしく焼け死んでしまったのです。  グレーテルはすぐにヘンゼルのところへとんでいって、小屋の戸をあけるなり、 「にいちゃん、あたしたち、たすかったわ。魔法使いのおばあさんは、死んじゃったのよ。」 と、さけびました。  戸があいたとたんに、ヘンゼルは、鳥がかごからとびだすように、ぱっととびだしてきました。その時、ふたりは、どんなにうれしかったことでしょう。お互いに首にだきついて、そこらじゅうをかけまわっては、キッスをしあいました。  いまはもう、こわいものはなんにもありません。ふたりは、魔法使いのうちのなかにずんずんはいっていきました。うちのなかには、真珠や宝石のいっぱいつまった箱が、あっちのすみにも、こっちのすみにも、ごろごろしていました。 「これは、小石なんかよりずっといいや。」 と、ヘンゼルはいいながら、ポケットというポケットに、つまるだけつめこみました。すると、グレーテルも、 「あたしもすこし、おみやげにもっていこうっと。」 と、いって、まえかけにいっぱいいれました。 「だけど、もういこうよ。」 と、ヘンゼルはいいました。 「ぼくたち、はやく魔法使いの森からでるんだ。」
ばあさんはヘンゼルをつかまえるとどうしましたか。
ばあさんはやせこけた手でヘンゼルをつかまえると、小さい小屋のなかにつれていって、格子戸をピシャンとしめてしまいました。
JCRRAG_010543
国語
つぎの朝はやく、まだ子どもたちが目をさまさないうちに、ばあさんはもう起きだしました。そして、ふたりが、まんまるの、赤いほっぺたをして、かわいらしく、すやすやとねむっているすがたを見ますと、 「こいつは、いいごちそうにならあね。」 と、つぶやきました。  それから、ばあさんはやせこけた手でヘンゼルをつかまえると、小さい小屋のなかにつれていって、格子戸をピシャンとしめてしまいました。ですから、ヘンゼルがいくらわめいても、なんにもなりませんでした。それから、ばあさんはグレーテルのところへいって、ゆりおこしました。そして、 「さっさとおきるんだ、なまけものめ。水をくんできて、おまえのにいさんに、なんかうまいものでもこしらえてやんな。あいつは、そとの小屋にいるがな、せいぜいふとらせてやるんだ。ふとったところで、このあたしがごちそうになるのさ。」 と、どなりつけました。  グレーテルは、わあっとはげしく泣きだしました。でも、いまとなっては、どうしようもありません。グレーテルは、わるい魔法使いのいうとおりのことをしなければなりませんでした。  こうして、かわいそうなヘンゼルは、一番上等のごちそうをもらいましたが、それにひきかえ、グレーテルのほうは、ザリガニのこうらをもらったきりでした。毎朝毎朝、ばあさんは小屋のところへいって、 「ヘンゼル、指をだしなさい。ぼちぼち、ふとってきたかどうか、さわってみるんじゃ。」 と、わめきました。  いわれて、ヘンゼルは、食べ残した骨を一本、ばあさんのほうへつきだしました。ところが、ばあさんは目がかすんでいましたので、骨とは気がつかずに、それをヘンゼルの指だとばかり思いこみました。そして、ヘンゼルはどうしてふとらないのかと、ふしぎでふしぎでなりませんでした。  それから、四週間たちましたが、ヘンゼルはあいかわらずちっともふとりません。それで、ばあさんもかんしゃくをおこして、もうこれ以上、がまんができなくなりました。 「やい、グレーテル。」 と、ばあさんは小さい妹にむかってどなりつけました。 「とんでって、水をくんできな。ヘンゼルのやつめ、やせていようと、ふとっていようと、あしたは、あいつをぶち殺して、煮てしまうんだ。」  ああ、かわいそうに、小さい妹は、水をくみにやらされたとき、どんなになげきかなしんだことでしょう。そして、ほおの上を、どんなにたくさんの涙がながれおちたことでしょう。 「ああ、神さま、どうかあたしたちをおたすけください。」 と、グレーテルは大声でさけびました。 「こんなことなら、いっそのこと、森のなかでけものに食べられるほうがよかったわ。だって、そんなら、おにいさんといっしょに死ねたんですもの。」 「うるさい。さわぐんじゃない。いくらわめいたって、なんにもなりゃしないんだぞ。」 と、ばあさんはいいました。  つぎの朝はやく、グレーテルはおもてへでて、水をいっぱいいれたおかまをつるし、火をたきつけさせられました。 「さきにパンを焼くんだ。」 と、ばあさんはいいました。 「かまどには、もう火がはいっているし、それに、パン粉もねってあるんだから。」  ばあさんは、かわいそうなグレーテルを、パン焼きかまどのほうへつきとばしました。かまどからは、もう、ほのおがめらめらともえでています。 「なかにはいりこんで、火がよくまわっているかどうか、見るんだ。よかったら、パンをいれるからな。」 と、魔法使いはいいました。  もしグレーテルがなかにはいったら、ばあさんはかまどのふたをしめてしまうつもりでした。そうすれば、グレーテルはなかで焼き殺されてしまいます。そこで、ばあさんはグレーテルをも、ぺろりと食べてしまう腹だったのです。 「どうやってなかにはいるんですか。」 と、グレーテルはいいました。 「ばかやろう。かまどの口は、こんなに大きいじゃないか。ほれみろ、このわしだってはいれるくらいだ。」  ばあさんは、こういいながら、よちよち歩いていって、かまどのなかに頭をつっこみました。このときとばかり、グレーテルは、どんとばあさんをつきとばしましたから、ばあさんはかまどのずっとおくのほうへとびこんでしまいました。グレーテルはすばやく、鉄の戸をバタンと閉めて、掛け金をかけました。ううっ、と、ばあさんはほえだしました。それはそれはものすごいうなり声でした。けれども、グレーテルはどんどんかけていきました。こうして、ばちあたりの魔法使いのばあさんは、むごたらしく焼け死んでしまったのです。  グレーテルはすぐにヘンゼルのところへとんでいって、小屋の戸をあけるなり、 「にいちゃん、あたしたち、たすかったわ。魔法使いのおばあさんは、死んじゃったのよ。」 と、さけびました。  戸があいたとたんに、ヘンゼルは、鳥がかごからとびだすように、ぱっととびだしてきました。その時、ふたりは、どんなにうれしかったことでしょう。お互いに首にだきついて、そこらじゅうをかけまわっては、キッスをしあいました。  いまはもう、こわいものはなんにもありません。ふたりは、魔法使いのうちのなかにずんずんはいっていきました。うちのなかには、真珠や宝石のいっぱいつまった箱が、あっちのすみにも、こっちのすみにも、ごろごろしていました。 「これは、小石なんかよりずっといいや。」 と、ヘンゼルはいいながら、ポケットというポケットに、つまるだけつめこみました。すると、グレーテルも、 「あたしもすこし、おみやげにもっていこうっと。」 と、いって、まえかけにいっぱいいれました。 「だけど、もういこうよ。」 と、ヘンゼルはいいました。 「ぼくたち、はやく魔法使いの森からでるんだ。」
グレーテルはかまどのなかにばあさんをつきとばしたらどうなりましたか。
グレーテルは、どんとばあさんをつきとばしましたから、ばあさんはかまどのずっとおくのほうへとびこんでしまいました。グレーテルはすばやく、鉄の戸をバタンと閉めて、掛け金をかけました。ううっ、と、ばあさんはほえだしました。それはそれはものすごいうなり声でした。けれども、グレーテルはどんどんかけていきました。こうして、ばちあたりの魔法使いは、むごたらしく焼け死んでしまったのです。
JCRRAG_010544
国語
つぎの朝はやく、まだ子どもたちが目をさまさないうちに、ばあさんはもう起きだしました。そして、ふたりが、まんまるの、赤いほっぺたをして、かわいらしく、すやすやとねむっているすがたを見ますと、 「こいつは、いいごちそうにならあね。」 と、つぶやきました。  それから、ばあさんはやせこけた手でヘンゼルをつかまえると、小さい小屋のなかにつれていって、格子戸をピシャンとしめてしまいました。ですから、ヘンゼルがいくらわめいても、なんにもなりませんでした。それから、ばあさんはグレーテルのところへいって、ゆりおこしました。そして、 「さっさとおきるんだ、なまけものめ。水をくんできて、おまえのにいさんに、なんかうまいものでもこしらえてやんな。あいつは、そとの小屋にいるがな、せいぜいふとらせてやるんだ。ふとったところで、このあたしがごちそうになるのさ。」 と、どなりつけました。  グレーテルは、わあっとはげしく泣きだしました。でも、いまとなっては、どうしようもありません。グレーテルは、わるい魔法使いのいうとおりのことをしなければなりませんでした。  こうして、かわいそうなヘンゼルは、一番上等のごちそうをもらいましたが、それにひきかえ、グレーテルのほうは、ザリガニのこうらをもらったきりでした。毎朝毎朝、ばあさんは小屋のところへいって、 「ヘンゼル、指をだしなさい。ぼちぼち、ふとってきたかどうか、さわってみるんじゃ。」 と、わめきました。  いわれて、ヘンゼルは、食べ残した骨を一本、ばあさんのほうへつきだしました。ところが、ばあさんは目がかすんでいましたので、骨とは気がつかずに、それをヘンゼルの指だとばかり思いこみました。そして、ヘンゼルはどうしてふとらないのかと、ふしぎでふしぎでなりませんでした。  それから、四週間たちましたが、ヘンゼルはあいかわらずちっともふとりません。それで、ばあさんもかんしゃくをおこして、もうこれ以上、がまんができなくなりました。 「やい、グレーテル。」 と、ばあさんは小さい妹にむかってどなりつけました。 「とんでって、水をくんできな。ヘンゼルのやつめ、やせていようと、ふとっていようと、あしたは、あいつをぶち殺して、煮てしまうんだ。」  ああ、かわいそうに、小さい妹は、水をくみにやらされたとき、どんなになげきかなしんだことでしょう。そして、ほおの上を、どんなにたくさんの涙がながれおちたことでしょう。 「ああ、神さま、どうかあたしたちをおたすけください。」 と、グレーテルは大声でさけびました。 「こんなことなら、いっそのこと、森のなかでけものに食べられるほうがよかったわ。だって、そんなら、おにいさんといっしょに死ねたんですもの。」 「うるさい。さわぐんじゃない。いくらわめいたって、なんにもなりゃしないんだぞ。」 と、ばあさんはいいました。  つぎの朝はやく、グレーテルはおもてへでて、水をいっぱいいれたおかまをつるし、火をたきつけさせられました。 「さきにパンを焼くんだ。」 と、ばあさんはいいました。 「かまどには、もう火がはいっているし、それに、パン粉もねってあるんだから。」  ばあさんは、かわいそうなグレーテルを、パン焼きかまどのほうへつきとばしました。かまどからは、もう、ほのおがめらめらともえでています。 「なかにはいりこんで、火がよくまわっているかどうか、見るんだ。よかったら、パンをいれるからな。」 と、魔法使いはいいました。  もしグレーテルがなかにはいったら、ばあさんはかまどのふたをしめてしまうつもりでした。そうすれば、グレーテルはなかで焼き殺されてしまいます。そこで、ばあさんはグレーテルをも、ぺろりと食べてしまう腹だったのです。 「どうやってなかにはいるんですか。」 と、グレーテルはいいました。 「ばかやろう。かまどの口は、こんなに大きいじゃないか。ほれみろ、このわしだってはいれるくらいだ。」  ばあさんは、こういいながら、よちよち歩いていって、かまどのなかに頭をつっこみました。このときとばかり、グレーテルは、どんとばあさんをつきとばしましたから、ばあさんはかまどのずっとおくのほうへとびこんでしまいました。グレーテルはすばやく、鉄の戸をバタンと閉めて、掛け金をかけました。ううっ、と、ばあさんはほえだしました。それはそれはものすごいうなり声でした。けれども、グレーテルはどんどんかけていきました。こうして、ばちあたりの魔法使いのばあさんは、むごたらしく焼け死んでしまったのです。  グレーテルはすぐにヘンゼルのところへとんでいって、小屋の戸をあけるなり、 「にいちゃん、あたしたち、たすかったわ。魔法使いのおばあさんは、死んじゃったのよ。」 と、さけびました。  戸があいたとたんに、ヘンゼルは、鳥がかごからとびだすように、ぱっととびだしてきました。その時、ふたりは、どんなにうれしかったことでしょう。お互いに首にだきついて、そこらじゅうをかけまわっては、キッスをしあいました。  いまはもう、こわいものはなんにもありません。ふたりは、魔法使いのうちのなかにずんずんはいっていきました。うちのなかには、真珠や宝石のいっぱいつまった箱が、あっちのすみにも、こっちのすみにも、ごろごろしていました。 「これは、小石なんかよりずっといいや。」 と、ヘンゼルはいいながら、ポケットというポケットに、つまるだけつめこみました。すると、グレーテルも、 「あたしもすこし、おみやげにもっていこうっと。」 と、いって、まえかけにいっぱいいれました。 「だけど、もういこうよ。」 と、ヘンゼルはいいました。 「ぼくたち、はやく魔法使いの森からでるんだ。」
魔法使いのうちのなかにある真珠や宝石のいっぱいつまった箱をヘンゼルとグレーテルはどうしましたか。
魔法使いのうちのなかにずんずんはいっていきました。うちのなかには、真珠や宝石のいっぱいつまった箱が、あっちのすみにも、こっちのすみにも、ごろごろしていました。 「これは、小石なんかよりずっといいや。」と、ヘンゼルはいいながら、ポケットというポケットに、つまるだけつめこみました。すると、グレーテルも、「あたしもすこし、おみやげにもっていこうっと。」と、いって、まえかけにいっぱいいれました。
JCRRAG_010545
国語
 ふたりが二、三時間歩いていくと、大きな川のほとりにでました。 「これじゃ、むこうへいけやしない。」 と、ヘンゼルがいいました。 「橋らしいものがなんにもないもの。」 「このへんは、小舟もとおらないのね。」 と、グレーテルはこたえました。 「でも、あそこに、白いカモが一羽およいでいるわ。たのんだら、きっとわたしてくれるわよ。」  そこで、グレーテルはカモにむかってよびかけました。 かわいい かわいい小ガモさん ここにきたのは ヘンゼルにグレーテル だけどわたれる橋がありません あなたの白いお背中に のせてわたしてちょうだいな  小ガモはすぐにきてくれました。そこで、ヘンゼルがまずその背中にのって、それから、小さい妹にもいっしょにのるようにいいました。けれども、グレーテルは、 「いいえ、そんなにのっちゃ、この小ガモさんにはおもすぎるわ。ひとりずつ、つれてってもらいましょうよ。」 と、いいました。  しんせつな小ガモは、そのとおり、ひとりずつはこんでくれました。 こうして、ふたりがぶじにむこう岸にわたって、それから、すこし歩いていくと、だんだん、見おぼえのある森にきたような気がしてきました。そして、とうとう遠くのほうに、おとうさんのうちが見えはじめました。そのとたんに、ふたりはいっさんにかけだしました。へやのなかへとびこんで、いきなりおとうさんの首にかじりつきました。  おとうさんは、子どもたちを森のなかにすててきてからというものは、ただのいっときも、たのしい気持ちになったことはありませんでした。おかみさんのほうは、すでに死んでいました。  グレーテルがまえかけを振ると、真珠や宝石がへやじゅうにころがりでました。つづいて、ヘンゼルもポケットに手をつっこんで、つぎからつぎへと、真珠や宝石をつかみだしては、そこらじゅうにばらまきました。  こうして、心配なことは、すっかりなくなってしまいました。それからは、みんなで、ほんとうにたのしく、なかよくくらしました。  これで、わたしのお話はおしまいです。ほら、ほら、そこをハツカネズミが一ぴき走っていきますよ。あのハツカネズミをつかまえた人は、あれで大きな、大きな毛皮のずきんをこしらえてもかまいませんよ。
ヘンゼルとグレーテルのふたりはぶじにおとうさんのうちに帰ってどうなりましたか。
心配なことは、すっかりなくなってしまいました。それからは、みんなで、ほんとうにたのしく、なかよくくらしました。
JCRRAG_010546
国語
 むかし、あるところに、夫婦が住んでおりました。ふたりは、長い年月のあいだ、子どもをひとりほしいと思っていましたが、どうしてもさずかりませんでした。けれども、ようやく神さまがその願いをかなえてくださりそうなようすが、おかみさんにみえてきました。  この夫婦のうちのうしろがわには、小さな窓がありました。その窓からは、世にも美しい花や野菜がいっぱい植えられている、きれいな庭が見えました。けれども、その庭は高いへいにとりかこまれていました。しかも、その庭は、たいへんな勢力をもっていて、世間の人たちからおそれられている、ある魔法使いのばあさんのものでしたから、だれひとりそのなかへ入っていこうとするものはありませんでした。  ある日のこと、おかみさんがこの窓ぎわに立って、庭を見おろしていますと、それはそれはきれいなラプンツェル(チシャ)の植えてある野菜畑が目につきました。みるからに、みずみずしく、青々としたラプンツェルです。おかみさんはそれがほしくてたまらなくなって、なんとかして食べたいものだと思いました。  しかもその思いは、日ましにはげしくなるばかりでした。けれども、それがとても手にいれられないことはわかりきっていましたので、おかみさんはすっかりやせほそって、顔色もあおざめ、見るかげもないようになってきました。  これを見て、亭主はびっくりして、たずねました。 「おまえ、どうしたんだい。」 「ああ、ああ、うちの裏の庭のラプンツェルが食べられなかったら、あたしゃ死んでしまうよ。」 と、おかみさんはこたえました。  亭主は、おかみさんがかわいくてなりませんので、 「女房を死なせるくらいなら、あのラプンツェルをとってきてやれ。どうなったって、かまうものか。」 と、思いました。  そこで亭主は、夕やみにまぎれて、へいをのりこえました。魔法使いの庭にはいるがはやいか、大急ぎでラプンツェルをひとつかみとって、おかみさんのところへもってきてやりました。  おかみさんは、それでさっそくサラダをこしらえて、がつがつ食べました。ところが、そのおいしいことといったら、これ以上のものはなかった。そのためおかみさんは、そのつぎの日になると、こんどは、まえの日の三倍もそれがほしくてたまらなくなってしまいました。  おかみさんをおちつかせるためには、亭主はもういっぺんとなりの庭におりていかなければなりませんでした。そこで、またもや夕やみをねらってでかけていきました。ところが、へいをのりこえたとたん、亭主はびっくりぎょうてんしてしまいました。むりもありません。すぐ目のまえに、魔法使いのおばあさんが立っていたのですから。 「おまえはなんてずうずうしい男なんだい。」 と、魔法使いは亭主をぐいとにらみつけて、いいました。 「わしの庭へはいりこんで、どろぼうみたいに、わしのラプンツェルをぬすんでいくとは。さあ、ひどいめにあわせてくれるぞ。」 「ああ、どうかおゆるしくださいまし。」 と、亭主はこたえていいました。 「どうにもいたしかたなく、こんなことをしでかしたんでございます。じつは、女房が、窓からこちらさまのラプンツェルを見ました。すると、どうしてもこれがほしくなって、ひと口でも食べないことには、死んじまうなどともうすものでございますから。」  これをきくと、魔法使いはいかりをやわらげて、亭主にいいました。 「ほんとうにおまえのいう通りなら、ほしいだけラプンツェルをとらせてやろう。そのかわり、ひとつだけ条件がある。おかみさんが子どもを生んだら、その子をわしにくれなければいけない。その子をしあわせにしてやろう。わしが母親のようにめんどうをみてやるよ。」  亭主はこわくてたまらないものですから、なにもかも承知してしまいました。  やがて、おかみさんが子どもを生んだら、魔法使いのおばあさんはさっそくやってきて、その子にラプンツェルという名まえをつけて、いっしょにつれていってしまいました。
おかみさんはラプンツェルが手にいれられなくてどうなりましたか。
おかみさんはすっかりやせほそって、顔色もあおざめ、見るかげもないようになってきました。
JCRRAG_010547
国語
 むかし、あるところに、夫婦が住んでおりました。ふたりは、長い年月のあいだ、子どもをひとりほしいと思っていましたが、どうしてもさずかりませんでした。けれども、ようやく神さまがその願いをかなえてくださりそうなようすが、おかみさんにみえてきました。  この夫婦のうちのうしろがわには、小さな窓がありました。その窓からは、世にも美しい花や野菜がいっぱい植えられている、きれいな庭が見えました。けれども、その庭は高いへいにとりかこまれていました。しかも、その庭は、たいへんな勢力をもっていて、世間の人たちからおそれられている、ある魔法使いのばあさんのものでしたから、だれひとりそのなかへ入っていこうとするものはありませんでした。  ある日のこと、おかみさんがこの窓ぎわに立って、庭を見おろしていますと、それはそれはきれいなラプンツェル(チシャ)の植えてある野菜畑が目につきました。みるからに、みずみずしく、青々としたラプンツェルです。おかみさんはそれがほしくてたまらなくなって、なんとかして食べたいものだと思いました。  しかもその思いは、日ましにはげしくなるばかりでした。けれども、それがとても手にいれられないことはわかりきっていましたので、おかみさんはすっかりやせほそって、顔色もあおざめ、見るかげもないようになってきました。  これを見て、亭主はびっくりして、たずねました。 「おまえ、どうしたんだい。」 「ああ、ああ、うちの裏の庭のラプンツェルが食べられなかったら、あたしゃ死んでしまうよ。」 と、おかみさんはこたえました。  亭主は、おかみさんがかわいくてなりませんので、 「女房を死なせるくらいなら、あのラプンツェルをとってきてやれ。どうなったって、かまうものか。」 と、思いました。  そこで亭主は、夕やみにまぎれて、へいをのりこえました。魔法使いの庭にはいるがはやいか、大急ぎでラプンツェルをひとつかみとって、おかみさんのところへもってきてやりました。  おかみさんは、それでさっそくサラダをこしらえて、がつがつ食べました。ところが、そのおいしいことといったら、これ以上のものはなかった。そのためおかみさんは、そのつぎの日になると、こんどは、まえの日の三倍もそれがほしくてたまらなくなってしまいました。  おかみさんをおちつかせるためには、亭主はもういっぺんとなりの庭におりていかなければなりませんでした。そこで、またもや夕やみをねらってでかけていきました。ところが、へいをのりこえたとたん、亭主はびっくりぎょうてんしてしまいました。むりもありません。すぐ目のまえに、魔法使いのおばあさんが立っていたのですから。 「おまえはなんてずうずうしい男なんだい。」 と、魔法使いは亭主をぐいとにらみつけて、いいました。 「わしの庭へはいりこんで、どろぼうみたいに、わしのラプンツェルをぬすんでいくとは。さあ、ひどいめにあわせてくれるぞ。」 「ああ、どうかおゆるしくださいまし。」 と、亭主はこたえていいました。 「どうにもいたしかたなく、こんなことをしでかしたんでございます。じつは、女房が、窓からこちらさまのラプンツェルを見ました。すると、どうしてもこれがほしくなって、ひと口でも食べないことには、死んじまうなどともうすものでございますから。」  これをきくと、魔法使いはいかりをやわらげて、亭主にいいました。 「ほんとうにおまえのいう通りなら、ほしいだけラプンツェルをとらせてやろう。そのかわり、ひとつだけ条件がある。おかみさんが子どもを生んだら、その子をわしにくれなければいけない。その子をしあわせにしてやろう。わしが母親のようにめんどうをみてやるよ。」  亭主はこわくてたまらないものですから、なにもかも承知してしまいました。  やがて、おかみさんが子どもを生んだら、魔法使いのおばあさんはさっそくやってきて、その子にラプンツェルという名まえをつけて、いっしょにつれていってしまいました。
おかみさんはうちの裏の庭のラプンツェルを食べたらどうなりましたか。
おかみさんは、それでさっそくサラダをこしらえて、がつがつ食べました。ところが、そのおいしいことといったら、これ以上のものはなかった。そのためおかみさんは、そのつぎの日になると、こんどは、まえの日の三倍もそれがほしくてたまらなくなってしまいました。
JCRRAG_010548
国語
私が小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。  むかしは、私たちの村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまが、おられたそうです。  その中山から、少しはなれた山の中に、「ごん狐」という狐がいました。ごんは、ひとりぼっちの小狐で、しだの一ぱいしげった森の中に穴をほって住んでいました。そして、夜でも昼でも、あたりの村へ出てきて、いたずらばかりしました。はたけへ入って芋をほりちらしたり、菜種の、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家の裏手につるしてあるとんがらしをむしりとって、いったり、いろんなことをしました。  ある秋のことでした。二、三日雨がふりつづいたその間、ごんは、外へも出られなくて穴の中にしゃがんでいました。  雨があがると、ごんは、ほっとして穴からはい出ました。空はからっと晴れていて、百舌鳥の声がきんきん、ひびいていました。  ごんは、村の小川の堤まで出て来ました。あたりの、すすきの穂には、まだ雨のしずくが光っていました。川は、いつもは水が少すくないのですが、三日もの雨で、水が、どっとましていました。ただのときは水につかることのない、川べりのすすきや、萩の株が、黄いろくにごった水に横だおしになって、もまれています。ごんは川下の方へと、ぬかるみみちを歩いていきました。  ふと見ると、川の中に人がいて、何かやっています。ごんは、見つからないように、そうっと草の深いところへ歩きよって、そこからじっとのぞいてみました。 「兵十だな」と、ごんは思いました。兵十はぼろぼろの黒いきものをまくし上げて、腰のところまで水にひたりながら、魚をとる、はりきりという、網をゆすぶっていました。はちまきをした顔の横っちょうに、まるい萩の葉が一まい、大きな黒子みたいにへばりついていました。  しばらくすると、兵十は、はりきり網の一ばんうしろの、袋のようになったところを、水の中からもちあげました。その中には、芝の根や、草の葉や、くさった木ぎれなどが、ごちゃごちゃはいっていましたが、ところどころ、白いものがきらきら光っています。それは、ふというなぎの腹や、大きなきすの腹でした。兵十は、びくの中へ、そのうなぎやきすを、ごみと一緒にぶちこみました。そして、また、袋の口をしばって、水の中へ入れました。  兵十はそれから、びくをもって川から上がりびくを土手においといて、何をさがしにか、川上の方へかけていきました。  兵十がいなくなると、ごんは、ぴょいと草の中からとび出して、びくのそばへかけつけました。ちょっと、いたずらがしたくなったのです。ごんはびくの中の魚をつかみ出しては、はりきり網のかかっているところより下手の川の中を目がけて、ぽんぽんなげこみました。どの魚も、「とぼん」と音を立てながら、にごった水の中へもぐりこみました。  最後に、太いうなぎをつかみにかかりましたが、何しろぬるぬるとすべりぬけるので、手ではつかめません。ごんはじれったくなって、頭をびくの中につっこんで、うなぎの頭を口にくわえました。うなぎは、キュッと言ってごんの首へまきつきました。そのとたんに兵十が、向こうから、 「うわぁ!どろぼう狐め」と、どなりました。ごんは、びっくりしてとびあがりました。うなぎをふりすててにげようとしましたが、うなぎは、ごんの首にまきついたままはなれません。ごんはそのまま横にとび出して一しょうけんめいに、にげていきました。  ほら穴の近くの、はんの木の下でふりかえって見ましたが、兵十は追っかけては来ませんでした。  ごんは、ほっとして、うなぎの頭をかみくだき、やっとはずして穴のそとの、草の葉の上にのせておきました。
兵十がいなくなると、ごんは、何をしましたか。
兵十がいなくなると、ごんは、ぴょいと草の中からとび出して、びくのそばへかけつけました。ちょっと、いたずらがしたくなったのです。ごんはびくの中の魚をつかみ出しては、はりきり網のかかっているところより下手の川の中を目がけて、ぽんぽんなげこみました。
JCRRAG_010549
国語
私が小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。  むかしは、私たちの村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまが、おられたそうです。  その中山から、少しはなれた山の中に、「ごん狐」という狐がいました。ごんは、ひとりぼっちの小狐で、しだの一ぱいしげった森の中に穴をほって住んでいました。そして、夜でも昼でも、あたりの村へ出てきて、いたずらばかりしました。はたけへ入って芋をほりちらしたり、菜種の、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家の裏手につるしてあるとんがらしをむしりとって、いったり、いろんなことをしました。  ある秋のことでした。二、三日雨がふりつづいたその間、ごんは、外へも出られなくて穴の中にしゃがんでいました。  雨があがると、ごんは、ほっとして穴からはい出ました。空はからっと晴れていて、百舌鳥の声がきんきん、ひびいていました。  ごんは、村の小川の堤まで出て来ました。あたりの、すすきの穂には、まだ雨のしずくが光っていました。川は、いつもは水が少すくないのですが、三日もの雨で、水が、どっとましていました。ただのときは水につかることのない、川べりのすすきや、萩の株が、黄いろくにごった水に横だおしになって、もまれています。ごんは川下の方へと、ぬかるみみちを歩いていきました。  ふと見ると、川の中に人がいて、何かやっています。ごんは、見つからないように、そうっと草の深いところへ歩きよって、そこからじっとのぞいてみました。 「兵十だな」と、ごんは思いました。兵十はぼろぼろの黒いきものをまくし上げて、腰のところまで水にひたりながら、魚をとる、はりきりという、網をゆすぶっていました。はちまきをした顔の横っちょうに、まるい萩の葉が一まい、大きな黒子みたいにへばりついていました。  しばらくすると、兵十は、はりきり網の一ばんうしろの、袋のようになったところを、水の中からもちあげました。その中には、芝の根や、草の葉や、くさった木ぎれなどが、ごちゃごちゃはいっていましたが、ところどころ、白いものがきらきら光っています。それは、ふというなぎの腹や、大きなきすの腹でした。兵十は、びくの中へ、そのうなぎやきすを、ごみと一緒にぶちこみました。そして、また、袋の口をしばって、水の中へ入れました。  兵十はそれから、びくをもって川から上がりびくを土手においといて、何をさがしにか、川上の方へかけていきました。  兵十がいなくなると、ごんは、ぴょいと草の中からとび出して、びくのそばへかけつけました。ちょっと、いたずらがしたくなったのです。ごんはびくの中の魚をつかみ出しては、はりきり網のかかっているところより下手の川の中を目がけて、ぽんぽんなげこみました。どの魚も、「とぼん」と音を立てながら、にごった水の中へもぐりこみました。  最後に、太いうなぎをつかみにかかりましたが、何しろぬるぬるとすべりぬけるので、手ではつかめません。ごんはじれったくなって、頭をびくの中につっこんで、うなぎの頭を口にくわえました。うなぎは、キュッと言ってごんの首へまきつきました。そのとたんに兵十が、向こうから、 「うわぁ!どろぼう狐め」と、どなりました。ごんは、びっくりしてとびあがりました。うなぎをふりすててにげようとしましたが、うなぎは、ごんの首にまきついたままはなれません。ごんはそのまま横にとび出して一しょうけんめいに、にげていきました。  ほら穴の近くの、はんの木の下でふりかえって見ましたが、兵十は追っかけては来ませんでした。  ごんは、ほっとして、うなぎの頭をかみくだき、やっとはずして穴のそとの、草の葉の上にのせておきました。
ごんはどんないたずらをしていましたか。
はたけへ入って芋をほりちらしたり、菜種の、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家の裏手につるしてあるとんがらしをむしりとって、いったり、いろんなことをしました。
JCRRAG_010550
国語
私が小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。  むかしは、私たちの村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまが、おられたそうです。  その中山から、少しはなれた山の中に、「ごん狐」という狐がいました。ごんは、ひとりぼっちの小狐で、しだの一ぱいしげった森の中に穴をほって住んでいました。そして、夜でも昼でも、あたりの村へ出てきて、いたずらばかりしました。はたけへ入って芋をほりちらしたり、菜種の、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家の裏手につるしてあるとんがらしをむしりとって、いったり、いろんなことをしました。  ある秋のことでした。二、三日雨がふりつづいたその間、ごんは、外へも出られなくて穴の中にしゃがんでいました。  雨があがると、ごんは、ほっとして穴からはい出ました。空はからっと晴れていて、百舌鳥の声がきんきん、ひびいていました。  ごんは、村の小川の堤まで出て来ました。あたりの、すすきの穂には、まだ雨のしずくが光っていました。川は、いつもは水が少すくないのですが、三日もの雨で、水が、どっとましていました。ただのときは水につかることのない、川べりのすすきや、萩の株が、黄いろくにごった水に横だおしになって、もまれています。ごんは川下の方へと、ぬかるみみちを歩いていきました。  ふと見ると、川の中に人がいて、何かやっています。ごんは、見つからないように、そうっと草の深いところへ歩きよって、そこからじっとのぞいてみました。 「兵十だな」と、ごんは思いました。兵十はぼろぼろの黒いきものをまくし上げて、腰のところまで水にひたりながら、魚をとる、はりきりという、網をゆすぶっていました。はちまきをした顔の横っちょうに、まるい萩の葉が一まい、大きな黒子みたいにへばりついていました。  しばらくすると、兵十は、はりきり網の一ばんうしろの、袋のようになったところを、水の中からもちあげました。その中には、芝の根や、草の葉や、くさった木ぎれなどが、ごちゃごちゃはいっていましたが、ところどころ、白いものがきらきら光っています。それは、ふというなぎの腹や、大きなきすの腹でした。兵十は、びくの中へ、そのうなぎやきすを、ごみと一緒にぶちこみました。そして、また、袋の口をしばって、水の中へ入れました。  兵十はそれから、びくをもって川から上がりびくを土手においといて、何をさがしにか、川上の方へかけていきました。  兵十がいなくなると、ごんは、ぴょいと草の中からとび出して、びくのそばへかけつけました。ちょっと、いたずらがしたくなったのです。ごんはびくの中の魚をつかみ出しては、はりきり網のかかっているところより下手の川の中を目がけて、ぽんぽんなげこみました。どの魚も、「とぼん」と音を立てながら、にごった水の中へもぐりこみました。  最後に、太いうなぎをつかみにかかりましたが、何しろぬるぬるとすべりぬけるので、手ではつかめません。ごんはじれったくなって、頭をびくの中につっこんで、うなぎの頭を口にくわえました。うなぎは、キュッと言ってごんの首へまきつきました。そのとたんに兵十が、向こうから、 「うわぁ!どろぼう狐め」と、どなりました。ごんは、びっくりしてとびあがりました。うなぎをふりすててにげようとしましたが、うなぎは、ごんの首にまきついたままはなれません。ごんはそのまま横にとび出して一しょうけんめいに、にげていきました。  ほら穴の近くの、はんの木の下でふりかえって見ましたが、兵十は追っかけては来ませんでした。  ごんは、ほっとして、うなぎの頭をかみくだき、やっとはずして穴のそとの、草の葉の上にのせておきました。
ごんはうなぎをつかめなくてどうしましたか。
ごんはじれったくなって、頭をびくの中につっこんで、うなぎの頭を口にくわえました。
JCRRAG_010551
国語
十日ほどたって、ごんが、弥助というお百姓の家の裏を通りかかりますと、そこの、いちじくの木のかげで、弥助の家内が、おはぐろをつけているのが見えました。 鍛冶屋の新兵衛の家のうらを通ると、新兵衛の家内が髪をすいていました。 ごんは、「ふふん、村に何かあるんだな」と、思いました。 「何なんだろう、秋祭かな。祭なら、太鼓や笛の音がしそうなものだ。それに第一、お宮にのぼりが立つはずだが」  こんなことを考えながらやって来ると、いつの間にか、表に赤い井戸のある、兵十の家の前へ来ました。その小さな、こわれかけた家の中には、大勢の人があつまっていました。よそいきの着物を着て、腰に手拭いをさげたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きな鍋の中では、何かぐずぐず煮えていました。 「ああ、葬式だ」と、ごんは思いました。 「兵十の家のだれが死んだんだろう」  おひるがすぎると、ごんは、村の墓地へ行って、六地蔵さんのかげにかくれていました。いいお天気で、遠く向こうには、お城の屋根瓦が光っています。墓地には、ひがん花が、赤い布きれのようにさきつづけていました。と、村の方から、カーン、カーン、と、鐘が鳴って来ました。葬式の出る合図です。  やがて、白い着物を着た葬列のものたちがやって来るのがちらちら見えはじめました。声も近くなりました。葬列は墓地へはいって来ました。人々が通ったあとには、ひがん花が、ふみおられていました。  ごんはのびあがって見ました。兵十が、白いかみしもをつけて、位牌をささげています。いつもは、赤いさつま芋みたいな元気のいい顔が、きょうは何だかしおれていました。 「ははん、死んだのは兵十のおっ母だ」  ごんはそう思いながら、頭をひっこめました。  その晩、ごんは、穴の中で考えました。 「兵十のおっ母は、床についていて、うなぎが食べたいと言ったにちがいない。それで兵十がはりきり網をもち出したんだ。ところが、わしがいたずらをして、うなぎをとって来てしまった。だから兵十は、おっ母にうなぎを食べさせることができなかった。そのままおっ母は、死んじゃったにちがいない。ああ、うなぎが食べたい、うなぎが食べたいとおもいながら、死んだんだろう。ちょッ、あんないたずらをしなけりゃよかった。」
ごんが、弥助というお百姓の家の裏を通りかかりますと、なにが見えましたか。
ごんが、弥助というお百姓の家の裏を通りかかりますと、そこの、いちじくの木のかげで、弥助の家内が、おはぐろをつけているのが見えました。
JCRRAG_010552
国語
十日ほどたって、ごんが、弥助というお百姓の家の裏を通りかかりますと、そこの、いちじくの木のかげで、弥助の家内が、おはぐろをつけているのが見えました。 鍛冶屋の新兵衛の家のうらを通ると、新兵衛の家内が髪をすいていました。 ごんは、「ふふん、村に何かあるんだな」と、思いました。 「何なんだろう、秋祭かな。祭なら、太鼓や笛の音がしそうなものだ。それに第一、お宮にのぼりが立つはずだが」  こんなことを考えながらやって来ると、いつの間にか、表に赤い井戸のある、兵十の家の前へ来ました。その小さな、こわれかけた家の中には、大勢の人があつまっていました。よそいきの着物を着て、腰に手拭いをさげたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きな鍋の中では、何かぐずぐず煮えていました。 「ああ、葬式だ」と、ごんは思いました。 「兵十の家のだれが死んだんだろう」  おひるがすぎると、ごんは、村の墓地へ行って、六地蔵さんのかげにかくれていました。いいお天気で、遠く向こうには、お城の屋根瓦が光っています。墓地には、ひがん花が、赤い布きれのようにさきつづけていました。と、村の方から、カーン、カーン、と、鐘が鳴って来ました。葬式の出る合図です。  やがて、白い着物を着た葬列のものたちがやって来るのがちらちら見えはじめました。声も近くなりました。葬列は墓地へはいって来ました。人々が通ったあとには、ひがん花が、ふみおられていました。  ごんはのびあがって見ました。兵十が、白いかみしもをつけて、位牌をささげています。いつもは、赤いさつま芋みたいな元気のいい顔が、きょうは何だかしおれていました。 「ははん、死んだのは兵十のおっ母だ」  ごんはそう思いながら、頭をひっこめました。  その晩、ごんは、穴の中で考えました。 「兵十のおっ母は、床についていて、うなぎが食べたいと言ったにちがいない。それで兵十がはりきり網をもち出したんだ。ところが、わしがいたずらをして、うなぎをとって来てしまった。だから兵十は、おっ母にうなぎを食べさせることができなかった。そのままおっ母は、死んじゃったにちがいない。ああ、うなぎが食べたい、うなぎが食べたいとおもいながら、死んだんだろう。ちょッ、あんないたずらをしなけりゃよかった。」
ごんが兵十の家へやってきたら、何が起こっていましたか。
兵十の家の前へごんはやって来ました。その小さな、こわれかけた家の中には、大勢の人があつまっていました。よそいきの着物を着て、腰に手拭いをさげたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きな鍋の中では、何かぐずぐず煮えていました。
JCRRAG_010553
国語
怪塔王という不思議な顔をした人が、いつごろから居たのか、それは誰も知りません。 一彦とミチ子の兄妹が、その怪塔王をはじめてみたのは、ついこの夏のはじめでありました。 そこは千葉県の九十九里浜というたいへん長い海べりでありました。一彦は中学の一年生であり、ミチ子は尋常の四年生でした。二人は夏休がはじまると、まもなくこの九十九里浜へまいりました。 二人はたいへんふしあわせな兄妹で、小さいときに両親をうしないました。そののちは、帆村荘六という年のわかいおじさんにひきとられ、そこから東京の学校にも通わせてもらっていました。 帆村荘六というと、ご存じのかたもあるでしょうが、有名な青年探偵です。帆村探偵という名は、きっとどこかでお聞きになったでしょう。荘六おじさんは機械のことになかなかくわしい人です。理学士だそうですからね。 荘六おじさんは、夏休をむかえた兄妹を、この九十九里浜にある別荘へ遊びにやってくれました。 九十九里浜は、なかなか景色のいいところです。そして実にひろびろとしたところで、さびしいくらいのものです。 怪塔王に出会ったのは、一彦とミチ子がここへきてから、二三日のちのことでありました。兄妹が、波うち際で、貝がらをひろって遊んでいますと、うしろでざくりざくりと砂を踏む音がするではありませんか。 「だれかしらん」 と、うしろをふりかえってみると、背のひょろたかい一人の老人が、腰を曲げてよぼよぼと歩いていきます。肩には何がはいっているのか、大きな袋をしょっていました。 一彦は、そのとき下から老人の顔をちらと見上げましたが、おやと思いました。なぜといえば、その老人の顔がいかにも奇妙な顔だったからです。
帆村荘六はどのような人ですか。
帆村荘六は有名な青年探偵です。
JCRRAG_010554
国語
砂の上をざくざくと歩いてゆく老人の顔が、たいへん奇妙だったといいましても、決してこわい顔だの、おそろしい顔ではありません。 いや、むしろおそろしいの反対で、ずいぶん滑稽な顔なのです。それは、よくお祭のときなどに、つくり舞台のまんなかへ出てきて滑稽なことをやってひとを笑わせるひょっとこだの、汐ふきだのというおかしい面をかぶった者がありますが、そのうちであの口のとんがった汐ふきそっくりの顔をしていたのです。 (あははは、おかしいな) と笑おうとした一彦でしたけれど、老人を笑うなんてよくないと思って、あわてて笑をかみころしました。 汐ふき顔の老人は、なんにも気がつかないという風に、兄妹のうしろをとおりすぎました。そしてどこまで行くのか、袋を肩にかついだままとぼとぼと浜づたいに向こうへいってしまいました。 「ミチ子、いまのお爺さんの顔を見た」 「ええ見たわ。口が狐のようにとんがって、ずいぶんおかしかったわ。兄さんも見たの」 「うん、僕も見たとも。笑いたくてね、それをこらえるのにとても困っちゃったよ。あはは」 「おほほほ」 「ミチ子、ちょっと兄さんが真似をしてみせようか。ほら、こんな具合に――」 と、一彦が口をとがらせ、腰を曲げてよぼよぼと老人の通った砂の上を歩いてみせますと、ミチ子はおなかを抱えて、ほほほほと笑い転げました。 ミチ子はあまり笑いすぎて、息ができないくらいでしたが、そのうちに兄の一彦があまり静かにしているので、はっと思いました。 「兄さん、どうしたの」 一彦は返事もしないで、腰をかがめてじっと砂の上を見つめています。 「ミチ子、来てごらん。変なものが――」
老人は、何にそっくりの顔をしていたのですか。
老人は、口のとんがった汐ふきそっくりの顔をしていたのです。
JCRRAG_010555
国語
砂の上をざくざくと歩いてゆく老人の顔が、たいへん奇妙だったといいましても、決してこわい顔だの、おそろしい顔ではありません。 いや、むしろおそろしいの反対で、ずいぶん滑稽な顔なのです。それは、よくお祭のときなどに、つくり舞台のまんなかへ出てきて滑稽なことをやってひとを笑わせるひょっとこだの、汐ふきだのというおかしい面をかぶった者がありますが、そのうちであの口のとんがった汐ふきそっくりの顔をしていたのです。 (あははは、おかしいな) と笑おうとした一彦でしたけれど、老人を笑うなんてよくないと思って、あわてて笑をかみころしました。 汐ふき顔の老人は、なんにも気がつかないという風に、兄妹のうしろをとおりすぎました。そしてどこまで行くのか、袋を肩にかついだままとぼとぼと浜づたいに向こうへいってしまいました。 「ミチ子、いまのお爺さんの顔を見た」 「ええ見たわ。口が狐のようにとんがって、ずいぶんおかしかったわ。兄さんも見たの」 「うん、僕も見たとも。笑いたくてね、それをこらえるのにとても困っちゃったよ。あはは」 「おほほほ」 「ミチ子、ちょっと兄さんが真似をしてみせようか。ほら、こんな具合に――」 と、一彦が口をとがらせ、腰を曲げてよぼよぼと老人の通った砂の上を歩いてみせますと、ミチ子はおなかを抱えて、ほほほほと笑い転げました。 ミチ子はあまり笑いすぎて、息ができないくらいでしたが、そのうちに兄の一彦があまり静かにしているので、はっと思いました。 「兄さん、どうしたの」 一彦は返事もしないで、腰をかがめてじっと砂の上を見つめています。 「ミチ子、来てごらん。変なものが――」
一彦は返事もしないでなにをしていますか。
一彦は、腰をかがめてじっと砂の上を見つめています。
JCRRAG_010556
国語
夏休みになる日を、指折りかぞえて待っている山木健と河合二郎だった。 夏休みが来ると二人はコロラド大峡谷一周の自動車旅行に出る計画だった。もちろん自動車は二人がかわるがわる運転するのだ。往復に五週間の日数があててあった。これだけ日数があれば、憧れの大峡谷で十分にキャンプ生活が楽しめるはずだった。 二人は、この大旅行に出ることが非常にうれしかったので、前々から近所の友だちにもふれまわっておいた。友だちはそれを聞いてうらやましがらない者はなかった。そしてぜひいっしょに連れて行ってくれと頼まれるのだった。しかし二人はそれを断りつづけた。というのは、二人が使うことになっている自動車にいささかわけがあったのである。何しろ二人とも親許をはなれている少年だったので、おこづかいは十分というわけには行かなかった。そこで学業のひまに新聞を売ったり薪を割ったりして働いて得た金を積立てて自動車を買うわけであるから、あまり立派なものは手に入らなかった。今二人が頼んであるのは、牧場で不用になった牛乳配達車であり、しかもエンジンが動かなくなって一年も放りだしてあったというたいへんな代物で、二人にはキャンプ材料に食糧を積むのがせいいっぱいであると思われた。 しかし友だちには、その大旅行の自動車がそんなひどい車である事を知らせず、非常に大きな車で、中で寝泊りから炊事から何から何まで出来るりっぱなものだと吹いておいたものだから、さてこそわれもわれもと、連れて行くことをねだられるのだった。 そういう友だちの中で、とりわけ熱心にねだる者が二人あった。ひとりは中国人少年の張であり、もう一人は黒人のネッドであった。山木も河合も、張とネッドなら連れていってやりたかったけれど、何をいうにも自動車のがたがたなことを考えると、やっぱり心を鬼にして断るしかなかった。それでも張とネッドはあきらめようとはせず、毎日のように校庭で山木と河合とにねだるのだった。 或る日ネッドは、山木と河合とが修理のため牧場の自動車小屋へ行くと後からついて来て、ぜひ連れて行けとねだるのだった。二人はおんぼろ自動車を見られてはたいへんだと思い、道の途中でネッドをおいかえすのに骨を折らねばならなかった。 「山木に河合よ」 ネッドはいつになくかたちを改めて二人を見つめた。 「なんだ、ネッド」 二人は道のまん中に立ちふさがって、ネッドのかたい顔をにらみつけた。 「あのね、張がほんとうに心配していることがあるんだよ。二人が自動車旅行に出て行くと二日とたたないうちに、君たちはたいへんな苦労を背負いこむことになるんだってよ」 「へん、おどかすない」 「おどしじゃないよ。張がね、君たちの旅行の安全のために、ご先祖さまから伝えられている水晶の珠を拝んで占ってみたんだとさ、すると今いったとおり、二日以内によくないことが起ると分ったんだ。そればかりではない。この旅行は先へ行くほどたいへんな苦労が重なって君たち二人はいつこの村へ帰れるか分らないといっているぜ」 かねて、張が水晶の珠で占いをすることは山木も河合も知っていたので、そういわれると何だか前途が不安になって二人の顔色は曇った。それを見ていたネッドは、ここぞとばかりつっこんでいった。 「ねえ。いやな話だからさ、用心のために張と僕をいっしょに連れていけばいいだろう。そうすれば張は道々で水晶の珠で占いをして、この先にどんな危険があるかをいいあてるよ。それが分れば、難をのがれることができるじゃないか」 「だめだよ、そんなうまいこといったって……それに、第一その話は、張を連れて行くのはいいと分っても、君まで連れていかねばならないわけにはならんじゃないか」 「僕は絶対に入用だよ。だって張が占いをするときには、僕が手つだってやらないと、仏さまが彼にのりうつらないんだもの」 「だめ、だめ、何といってもどっちも連れて行きやしないよ、これからいうだけ損だよ」 「……」 「この次のときまで、待つんだね」 「どうしても今度はだめなんだね」 「そうさ。張にもよくいっておくんだよ」 「……じゃあ、もう頼まないや」 ネッドは気の毒なほど悄気て、田舎道を村の方へ引きかえしていった。それを見送る山木と河合とは、あまりいい気持ではなかった。だがこれまで吹きまくった手前、今更がたがたのおんぼろ自動車のことをぶちまけるわけにもいかなかった。
山木健と河合二郎は夏休みになにを計画していましたか。
二人はコロラド大峡谷一周の自動車旅行に出る計画をしていました。
JCRRAG_010557
国語
夏休みになる日を、指折りかぞえて待っている山木健と河合二郎だった。 夏休みが来ると二人はコロラド大峡谷一周の自動車旅行に出る計画だった。もちろん自動車は二人がかわるがわる運転するのだ。往復に五週間の日数があててあった。これだけ日数があれば、憧れの大峡谷で十分にキャンプ生活が楽しめるはずだった。 二人は、この大旅行に出ることが非常にうれしかったので、前々から近所の友だちにもふれまわっておいた。友だちはそれを聞いてうらやましがらない者はなかった。そしてぜひいっしょに連れて行ってくれと頼まれるのだった。しかし二人はそれを断りつづけた。というのは、二人が使うことになっている自動車にいささかわけがあったのである。何しろ二人とも親許をはなれている少年だったので、おこづかいは十分というわけには行かなかった。そこで学業のひまに新聞を売ったり薪を割ったりして働いて得た金を積立てて自動車を買うわけであるから、あまり立派なものは手に入らなかった。今二人が頼んであるのは、牧場で不用になった牛乳配達車であり、しかもエンジンが動かなくなって一年も放りだしてあったというたいへんな代物で、二人にはキャンプ材料に食糧を積むのがせいいっぱいであると思われた。 しかし友だちには、その大旅行の自動車がそんなひどい車である事を知らせず、非常に大きな車で、中で寝泊りから炊事から何から何まで出来るりっぱなものだと吹いておいたものだから、さてこそわれもわれもと、連れて行くことをねだられるのだった。 そういう友だちの中で、とりわけ熱心にねだる者が二人あった。ひとりは中国人少年の張であり、もう一人は黒人のネッドであった。山木も河合も、張とネッドなら連れていってやりたかったけれど、何をいうにも自動車のがたがたなことを考えると、やっぱり心を鬼にして断るしかなかった。それでも張とネッドはあきらめようとはせず、毎日のように校庭で山木と河合とにねだるのだった。 或る日ネッドは、山木と河合とが修理のため牧場の自動車小屋へ行くと後からついて来て、ぜひ連れて行けとねだるのだった。二人はおんぼろ自動車を見られてはたいへんだと思い、道の途中でネッドをおいかえすのに骨を折らねばならなかった。 「山木に河合よ」 ネッドはいつになくかたちを改めて二人を見つめた。 「なんだ、ネッド」 二人は道のまん中に立ちふさがって、ネッドのかたい顔をにらみつけた。 「あのね、張がほんとうに心配していることがあるんだよ。二人が自動車旅行に出て行くと二日とたたないうちに、君たちはたいへんな苦労を背負いこむことになるんだってよ」 「へん、おどかすない」 「おどしじゃないよ。張がね、君たちの旅行の安全のために、ご先祖さまから伝えられている水晶の珠を拝んで占ってみたんだとさ、すると今いったとおり、二日以内によくないことが起ると分ったんだ。そればかりではない。この旅行は先へ行くほどたいへんな苦労が重なって君たち二人はいつこの村へ帰れるか分らないといっているぜ」 かねて、張が水晶の珠で占いをすることは山木も河合も知っていたので、そういわれると何だか前途が不安になって二人の顔色は曇った。それを見ていたネッドは、ここぞとばかりつっこんでいった。 「ねえ。いやな話だからさ、用心のために張と僕をいっしょに連れていけばいいだろう。そうすれば張は道々で水晶の珠で占いをして、この先にどんな危険があるかをいいあてるよ。それが分れば、難をのがれることができるじゃないか」 「だめだよ、そんなうまいこといったって……それに、第一その話は、張を連れて行くのはいいと分っても、君まで連れていかねばならないわけにはならんじゃないか」 「僕は絶対に入用だよ。だって張が占いをするときには、僕が手つだってやらないと、仏さまが彼にのりうつらないんだもの」 「だめ、だめ、何といってもどっちも連れて行きやしないよ、これからいうだけ損だよ」 「……」 「この次のときまで、待つんだね」 「どうしても今度はだめなんだね」 「そうさ。張にもよくいっておくんだよ」 「……じゃあ、もう頼まないや」 ネッドは気の毒なほど悄気て、田舎道を村の方へ引きかえしていった。それを見送る山木と河合とは、あまりいい気持ではなかった。だがこれまで吹きまくった手前、今更がたがたのおんぼろ自動車のことをぶちまけるわけにもいかなかった。
牧場の自動車小屋へ行くときに後からついて来たネッドは、どのように山木と河合を見つめていましたか。
ネッドはいつになくかたちを改めて二人を見つめていました。
JCRRAG_010558
国語
その夜は天幕を河原へ張って泊った。翌朝になると、まだ燃えている油に砂をかけてやっと消し、それから競技用自動車に綱をつけて崖の上へ引張りあげ、道路の上に置いた。だがこの自動車はエンジンがかからなかった。仕方がないから綱で箱自動車のうしろへつなぎ、箱自動車でそのまま曳いて出発した。大きな牛をかいてある箱車のあとに、ぺちゃんこに押しつぶされた競技用自動車が綱に曳かれてふらふら走っていくところは、実にへんな光景で、街道の至るところに大笑いの種をまいた。 いくら笑われても、車上の四少年は笑うことをしなかった。いろいろ気にかかることがあって、笑う元気がなかったのである。 聴けば、張とネッドの乗ってきた自動車は洗濯倶楽部で借りたものであるが、ブレーキがどうかしているらしく、出発当時からあぶないことばかりであったそうな。その洗濯倶楽部には、ネッドの義兄が会員として入っているので、その手づるで借りることができたという。しかしこのようなぺちゃんこの車になっては、どう詫びて返したらいいだろうかと、日頃は楽天家のネッドも箱車の後から顔をのぞかせて青息吐息であった。 それでも旅程は一日一日とはかどって、だんだんアリゾナ州へ近づいていった。とはいうものの、まだやっと半道を過ぎたばかりである。 その頃、貯蔵の食糧が、がっかりするほど減ってしまった。この調子でいくと、四人はコロラド大峡谷の中で餓死するおそれがあることが分った。食糧係の河合は、目を皿のように丸くして、この一件をどうするかについて一同に相談をかけた。
張とネッドはなぜ洗濯倶楽部から自動車を借りられたのですか。
張とネッドが洗濯俱楽部から自動車を借りられたのは、洗濯倶楽部にネッドの義兄が会員として入っているためです。
JCRRAG_010559
国語
その夜は天幕を河原へ張って泊った。翌朝になると、まだ燃えている油に砂をかけてやっと消し、それから競技用自動車に綱をつけて崖の上へ引張りあげ、道路の上に置いた。だがこの自動車はエンジンがかからなかった。仕方がないから綱で箱自動車のうしろへつなぎ、箱自動車でそのまま曳いて出発した。大きな牛をかいてある箱車のあとに、ぺちゃんこに押しつぶされた競技用自動車が綱に曳かれてふらふら走っていくところは、実にへんな光景で、街道の至るところに大笑いの種をまいた。 いくら笑われても、車上の四少年は笑うことをしなかった。いろいろ気にかかることがあって、笑う元気がなかったのである。 聴けば、張とネッドの乗ってきた自動車は洗濯倶楽部で借りたものであるが、ブレーキがどうかしているらしく、出発当時からあぶないことばかりであったそうな。その洗濯倶楽部には、ネッドの義兄が会員として入っているので、その手づるで借りることができたという。しかしこのようなぺちゃんこの車になっては、どう詫びて返したらいいだろうかと、日頃は楽天家のネッドも箱車の後から顔をのぞかせて青息吐息であった。 それでも旅程は一日一日とはかどって、だんだんアリゾナ州へ近づいていった。とはいうものの、まだやっと半道を過ぎたばかりである。 その頃、貯蔵の食糧が、がっかりするほど減ってしまった。この調子でいくと、四人はコロラド大峡谷の中で餓死するおそれがあることが分った。食糧係の河合は、目を皿のように丸くして、この一件をどうするかについて一同に相談をかけた。
自動車がぺしゃんこになり、ネッドはどのような様子でしたか。
どう詫びて返したらいいだろうかと、日頃は楽天家のネッドも箱車の後から顔をのぞかせて青息吐息でした。
JCRRAG_010560
国語
その夜は天幕を河原へ張って泊った。翌朝になると、まだ燃えている油に砂をかけてやっと消し、それから競技用自動車に綱をつけて崖の上へ引張りあげ、道路の上に置いた。だがこの自動車はエンジンがかからなかった。仕方がないから綱で箱自動車のうしろへつなぎ、箱自動車でそのまま曳いて出発した。大きな牛をかいてある箱車のあとに、ぺちゃんこに押しつぶされた競技用自動車が綱に曳かれてふらふら走っていくところは、実にへんな光景で、街道の至るところに大笑いの種をまいた。 いくら笑われても、車上の四少年は笑うことをしなかった。いろいろ気にかかることがあって、笑う元気がなかったのである。 聴けば、張とネッドの乗ってきた自動車は洗濯倶楽部で借りたものであるが、ブレーキがどうかしているらしく、出発当時からあぶないことばかりであったそうな。その洗濯倶楽部には、ネッドの義兄が会員として入っているので、その手づるで借りることができたという。しかしこのようなぺちゃんこの車になっては、どう詫びて返したらいいだろうかと、日頃は楽天家のネッドも箱車の後から顔をのぞかせて青息吐息であった。 それでも旅程は一日一日とはかどって、だんだんアリゾナ州へ近づいていった。とはいうものの、まだやっと半道を過ぎたばかりである。 その頃、貯蔵の食糧が、がっかりするほど減ってしまった。この調子でいくと、四人はコロラド大峡谷の中で餓死するおそれがあることが分った。食糧係の河合は、目を皿のように丸くして、この一件をどうするかについて一同に相談をかけた。
なぜ車上の四少年は笑う元気がなかったのですか。
車上の四少年は、いろいろ気にかかることがあって、笑う元気がなかったためです。
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四少年の自動車にはラジオ受信機が働いていないことが、この椿事の原因だった。ラジオを聞いて注意していれば、こんな間違いはなかったのだ。受信機は一台積みこんであったが、牛頭大仙人の占い用として転用したので、今はラジオが聞けない状態となっていたのだ。 しかも四少年の自動車は、昨日の夕方ちょうどこのあたりで大峡谷が遠望出来るようになったので大喜び、道もないこの原野へ自動車を乗入れたのだ。そして岡の中腹に大きな洞窟があるのを見つけ、その中に車を乗入れ昨夜はそこで泊ったのである。それから今日の朝を迎えたが、すぐ出発は出来なかった。それはエンジンの調子が悪くなったからだ。何しろ古いおんぼろ自動車のことだから、エンジンを直すといっても簡単にはいかない。たいへん手間がとれて出発は午後三時となったのだ。 この間、研究団員も、この洞窟の中まで点検には入って来なかった。いくら物好きでも、まさかこんな奥深い中に人間が隠れていようとは思わなかったからである。 少年たちの自動車は、ゆうゆうと黄いろ味がかったR瓦斯の雲の中を徐行して行く。なにしろ石ころが多いために、車が走らないのであった。 研究団員が、この牛乳配達車を見つけるまでに約十五分ばかり時間がたった。それを見つけた団員ビル・マートンはおどろいた。彼は早速このことを本部へ知らせると共に、そこに居合わせた同僚五名に直ちに仕事を中止させ、そして全員を自動車に乗せ、あの牛乳配達車のいる方向へ向って飛ばしたのだった。 この車が現場に到着したときは、牛乳配達車の方は、岩の上には車輪をのしあげ、ぐらりと左に傾いたまま停車していた。車はこうして、じっとしていたが、じっとしていないのは人間の方だった。四少年は、山木も河合も張もそしてネッドも、岩石散らばる荒蕪地の上を転々として転げまわり、そしてはははは、ひひひひと笑い転げていた。いったい何がおかしいというのであろうか。 そこへ自動車を乗りつけ、車から降りたビル・マートンを始め六名の団員は、雑草と岩石の上を転げまわって笑う四人の少年の姿をうちながめ、一せいに表情をかたくして、その場に立ちすくんだ。
椿事の原因はなんですか。
四少年の自動車にはラジオ受信機が働いていないことが、この椿事の原因でした。
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国語
あぶないところで、四少年は生命をとりとめた。あのまま濃厚なR瓦斯の中に二三時間放っておかれたら、死んでしまったことであろう。 サムナー博士は、この瓦斯をよく知っているのでこの四人の少年をうまく治療している。それでも、四少年がここへ収容されてから、笑いがとまるまでには六時間もかかった。 笑いはとまったけれど、四少年の健康は元のとおりになったわけでない。まだしきりに痙攣がおこる。もう声をたてて笑うようなことはないが、痙攣がおこると、顔がひきつったり、手足がぴくぴく動いたりするので、歩くことも出来ず、ベッドの上に寝ているより外なかった。 二週間たった或る日サムナー博士は午前の診察で、四少年をいつもよりは非常に詳しく診察した。その上で次のようなことをいった。 「君たちは、今日診たところでは、まず中毒から直ったものと思う。今日から君たちは、自由にどこでも歩いていっていい。しかしどこを歩いてもいいといっても、本館から外に出ることはまだ許されない。というのはあの瓦斯の影響はまだよく分っていないために、いつまたこの前のような症状になったり、重態に陥ったりするか分らないのだ。それでこの本館にさえいてくれれば、いざというときには私が直ぐかけつけて手当をしてあげられるわけだから、ぜひこの本館に停まっていてもらいたいのだ。幸い、君たちの目的であったコロラド大峡谷は、本館の屋上へ登れば、手にとるように見えるわけだから、当分そんなことで辛抱してこの本館に停っていてもらいたい」 博士は、かんでふくめるように、少年たちに説明したので、皆はよく分った。そして博士が、もう帰っていいというまでは、この建物の中で暮すことを承知した。 その日から、四人の少年たちは、始めはおずおずと、病室から外に出た。そして長い廊下や、曲ってついている階段を歩いたり、娯楽室や食堂へ入ったり、それからまた、盛んに仕事をしている実験室をのぞいたり、ずっと下の方にあるエンジン室では目をぱちくりしたり、いろいろと愕いたりうれしがったりすることが多かった。 中でも四人の少年たちを喜ばせたものは、塔の上から風景絶佳のコロラド大峡谷を眺めることだった。絵にかいたようだというが、それ以上にうるわしい風景だった。そして一日のうちに、大谿谷はいくたびも違った顔をしてみせた。すがすがしい朝の風景、真昼になってじりじりと岩が燃えるような男性的な風景、巨岩にくっきりと斜陽の影がついて紫色に暮れて行く夕景などと、見るたびに美しさが違うのであった。四人の少年は、声もなく大谿谷の美にうたれて、時間の過ぎ行くもしらず塔上に立ちつくすのであった。 一週間は夢のように過ぎた。さすがに四人の少年は、この本館内での生活に退屈を感ずるようになった。博士に、それとなく聞いてはみたが、当分ここから出してくれそうもない。困ったことである。夏休みはもう何日も残っていないから帰りたいといったところ、博士は学校の方には通知を出しておいたからすっかり直るまでここにいていいのだと答えた。それではもう仕様がない。
四少年が収容されてから笑いがとまるまで何時間かかりましたか。
四少年がここへ収容されてから、笑いがとまるまでには六時間もかかりました。
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国語
あぶないところで、四少年は生命をとりとめた。あのまま濃厚なR瓦斯の中に二三時間放っておかれたら、死んでしまったことであろう。 サムナー博士は、この瓦斯をよく知っているのでこの四人の少年をうまく治療している。それでも、四少年がここへ収容されてから、笑いがとまるまでには六時間もかかった。 笑いはとまったけれど、四少年の健康は元のとおりになったわけでない。まだしきりに痙攣がおこる。もう声をたてて笑うようなことはないが、痙攣がおこると、顔がひきつったり、手足がぴくぴく動いたりするので、歩くことも出来ず、ベッドの上に寝ているより外なかった。 二週間たった或る日サムナー博士は午前の診察で、四少年をいつもよりは非常に詳しく診察した。その上で次のようなことをいった。 「君たちは、今日診たところでは、まず中毒から直ったものと思う。今日から君たちは、自由にどこでも歩いていっていい。しかしどこを歩いてもいいといっても、本館から外に出ることはまだ許されない。というのはあの瓦斯の影響はまだよく分っていないために、いつまたこの前のような症状になったり、重態に陥ったりするか分らないのだ。それでこの本館にさえいてくれれば、いざというときには私が直ぐかけつけて手当をしてあげられるわけだから、ぜひこの本館に停まっていてもらいたいのだ。幸い、君たちの目的であったコロラド大峡谷は、本館の屋上へ登れば、手にとるように見えるわけだから、当分そんなことで辛抱してこの本館に停っていてもらいたい」 博士は、かんでふくめるように、少年たちに説明したので、皆はよく分った。そして博士が、もう帰っていいというまでは、この建物の中で暮すことを承知した。 その日から、四人の少年たちは、始めはおずおずと、病室から外に出た。そして長い廊下や、曲ってついている階段を歩いたり、娯楽室や食堂へ入ったり、それからまた、盛んに仕事をしている実験室をのぞいたり、ずっと下の方にあるエンジン室では目をぱちくりしたり、いろいろと愕いたりうれしがったりすることが多かった。 中でも四人の少年たちを喜ばせたものは、塔の上から風景絶佳のコロラド大峡谷を眺めることだった。絵にかいたようだというが、それ以上にうるわしい風景だった。そして一日のうちに、大谿谷はいくたびも違った顔をしてみせた。すがすがしい朝の風景、真昼になってじりじりと岩が燃えるような男性的な風景、巨岩にくっきりと斜陽の影がついて紫色に暮れて行く夕景などと、見るたびに美しさが違うのであった。四人の少年は、声もなく大谿谷の美にうたれて、時間の過ぎ行くもしらず塔上に立ちつくすのであった。 一週間は夢のように過ぎた。さすがに四人の少年は、この本館内での生活に退屈を感ずるようになった。博士に、それとなく聞いてはみたが、当分ここから出してくれそうもない。困ったことである。夏休みはもう何日も残っていないから帰りたいといったところ、博士は学校の方には通知を出しておいたからすっかり直るまでここにいていいのだと答えた。それではもう仕様がない。
笑いが止まったあと、四少年はどのような状態でしたか。
四少年は、痙攣がおこると、顔がひきつったり、手足がぴくぴく動いたりするので、歩くことも出来ず、ベッドの上に寝ているより外ありませんでした。
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国語
あぶないところで、四少年は生命をとりとめた。あのまま濃厚なR瓦斯の中に二三時間放っておかれたら、死んでしまったことであろう。 サムナー博士は、この瓦斯をよく知っているのでこの四人の少年をうまく治療している。それでも、四少年がここへ収容されてから、笑いがとまるまでには六時間もかかった。 笑いはとまったけれど、四少年の健康は元のとおりになったわけでない。まだしきりに痙攣がおこる。もう声をたてて笑うようなことはないが、痙攣がおこると、顔がひきつったり、手足がぴくぴく動いたりするので、歩くことも出来ず、ベッドの上に寝ているより外なかった。 二週間たった或る日サムナー博士は午前の診察で、四少年をいつもよりは非常に詳しく診察した。その上で次のようなことをいった。 「君たちは、今日診たところでは、まず中毒から直ったものと思う。今日から君たちは、自由にどこでも歩いていっていい。しかしどこを歩いてもいいといっても、本館から外に出ることはまだ許されない。というのはあの瓦斯の影響はまだよく分っていないために、いつまたこの前のような症状になったり、重態に陥ったりするか分らないのだ。それでこの本館にさえいてくれれば、いざというときには私が直ぐかけつけて手当をしてあげられるわけだから、ぜひこの本館に停まっていてもらいたいのだ。幸い、君たちの目的であったコロラド大峡谷は、本館の屋上へ登れば、手にとるように見えるわけだから、当分そんなことで辛抱してこの本館に停っていてもらいたい」 博士は、かんでふくめるように、少年たちに説明したので、皆はよく分った。そして博士が、もう帰っていいというまでは、この建物の中で暮すことを承知した。 その日から、四人の少年たちは、始めはおずおずと、病室から外に出た。そして長い廊下や、曲ってついている階段を歩いたり、娯楽室や食堂へ入ったり、それからまた、盛んに仕事をしている実験室をのぞいたり、ずっと下の方にあるエンジン室では目をぱちくりしたり、いろいろと愕いたりうれしがったりすることが多かった。 中でも四人の少年たちを喜ばせたものは、塔の上から風景絶佳のコロラド大峡谷を眺めることだった。絵にかいたようだというが、それ以上にうるわしい風景だった。そして一日のうちに、大谿谷はいくたびも違った顔をしてみせた。すがすがしい朝の風景、真昼になってじりじりと岩が燃えるような男性的な風景、巨岩にくっきりと斜陽の影がついて紫色に暮れて行く夕景などと、見るたびに美しさが違うのであった。四人の少年は、声もなく大谿谷の美にうたれて、時間の過ぎ行くもしらず塔上に立ちつくすのであった。 一週間は夢のように過ぎた。さすがに四人の少年は、この本館内での生活に退屈を感ずるようになった。博士に、それとなく聞いてはみたが、当分ここから出してくれそうもない。困ったことである。夏休みはもう何日も残っていないから帰りたいといったところ、博士は学校の方には通知を出しておいたからすっかり直るまでここにいていいのだと答えた。それではもう仕様がない。
博士は少年たちにどのように説明しましたか。
博士は、かんでふくめるように、少年たちに説明しました。
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あぶないところで、四少年は生命をとりとめた。あのまま濃厚なR瓦斯の中に二三時間放っておかれたら、死んでしまったことであろう。 サムナー博士は、この瓦斯をよく知っているのでこの四人の少年をうまく治療している。それでも、四少年がここへ収容されてから、笑いがとまるまでには六時間もかかった。 笑いはとまったけれど、四少年の健康は元のとおりになったわけでない。まだしきりに痙攣がおこる。もう声をたてて笑うようなことはないが、痙攣がおこると、顔がひきつったり、手足がぴくぴく動いたりするので、歩くことも出来ず、ベッドの上に寝ているより外なかった。 二週間たった或る日サムナー博士は午前の診察で、四少年をいつもよりは非常に詳しく診察した。その上で次のようなことをいった。 「君たちは、今日診たところでは、まず中毒から直ったものと思う。今日から君たちは、自由にどこでも歩いていっていい。しかしどこを歩いてもいいといっても、本館から外に出ることはまだ許されない。というのはあの瓦斯の影響はまだよく分っていないために、いつまたこの前のような症状になったり、重態に陥ったりするか分らないのだ。それでこの本館にさえいてくれれば、いざというときには私が直ぐかけつけて手当をしてあげられるわけだから、ぜひこの本館に停まっていてもらいたいのだ。幸い、君たちの目的であったコロラド大峡谷は、本館の屋上へ登れば、手にとるように見えるわけだから、当分そんなことで辛抱してこの本館に停っていてもらいたい」 博士は、かんでふくめるように、少年たちに説明したので、皆はよく分った。そして博士が、もう帰っていいというまでは、この建物の中で暮すことを承知した。 その日から、四人の少年たちは、始めはおずおずと、病室から外に出た。そして長い廊下や、曲ってついている階段を歩いたり、娯楽室や食堂へ入ったり、それからまた、盛んに仕事をしている実験室をのぞいたり、ずっと下の方にあるエンジン室では目をぱちくりしたり、いろいろと愕いたりうれしがったりすることが多かった。 中でも四人の少年たちを喜ばせたものは、塔の上から風景絶佳のコロラド大峡谷を眺めることだった。絵にかいたようだというが、それ以上にうるわしい風景だった。そして一日のうちに、大谿谷はいくたびも違った顔をしてみせた。すがすがしい朝の風景、真昼になってじりじりと岩が燃えるような男性的な風景、巨岩にくっきりと斜陽の影がついて紫色に暮れて行く夕景などと、見るたびに美しさが違うのであった。四人の少年は、声もなく大谿谷の美にうたれて、時間の過ぎ行くもしらず塔上に立ちつくすのであった。 一週間は夢のように過ぎた。さすがに四人の少年は、この本館内での生活に退屈を感ずるようになった。博士に、それとなく聞いてはみたが、当分ここから出してくれそうもない。困ったことである。夏休みはもう何日も残っていないから帰りたいといったところ、博士は学校の方には通知を出しておいたからすっかり直るまでここにいていいのだと答えた。それではもう仕様がない。
少年たちはなにを承知しましたか。
少年たちは、博士が、もう帰っていいというまでは、この建物の中で暮すことを承知しました。
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国語
一週間は夢のように過ぎた。さすがに四人の少年は、この本館内での生活に退屈を感ずるようになった。博士に、それとなく聞いてはみたが、当分ここから出してくれそうもない。困ったことである。夏休みはもう何日も残っていないから帰りたいといったところ、博士は学校の方には通知を出しておいたからすっかり直るまでここにいていいのだと答えた。それではもう仕様がない。 或る日、ネッドが顔を輝かして、仲間のところへ戻ってきた。四人の少年の乗って来た牛乳配達車が、この本館の或る部屋にちゃんとしまってあるのを見付けたというのである。 「そうか。それはいいものを見つけたね。すぐ行ってみよう」 「すっかりそのことは忘れていたね」 四人の少年は、にわかに元気づいて、ネッドを案内に先立たせ、その部屋へ行ってみた。そこは地階七階にある倉庫の一つであった。彼等の自動車の外にも、乗用車やトラックが入れてあった。少年たちはその方にはちょっと目をやっただけで、あとは懐しい箱車の上によじのぼり、まだ罎詰などがたくさん残っている箱車の中に入ったりした。 こうして自分たちのぼろ車のところで遊んでいると、ふしぎに退屈しなかった。それで一日のうち何時間はここで遊ぶことに相談がまとまった。但しそれを看護婦なんかにいうと叱られるかもしれないので、ここで遊ぶことは内証にして置くことに決めた。 そういうことが、また次の大事件に関係する原因になるとは露知らぬ四少年だった。
四人の少年は本館内の生活をどう感じるようになりましたか。
四人の少年は、この本館内での生活に退屈を感ずるようになりました。
JCRRAG_010567
国語
一週間は夢のように過ぎた。さすがに四人の少年は、この本館内での生活に退屈を感ずるようになった。博士に、それとなく聞いてはみたが、当分ここから出してくれそうもない。困ったことである。夏休みはもう何日も残っていないから帰りたいといったところ、博士は学校の方には通知を出しておいたからすっかり直るまでここにいていいのだと答えた。それではもう仕様がない。 或る日、ネッドが顔を輝かして、仲間のところへ戻ってきた。四人の少年の乗って来た牛乳配達車が、この本館の或る部屋にちゃんとしまってあるのを見付けたというのである。 「そうか。それはいいものを見つけたね。すぐ行ってみよう」 「すっかりそのことは忘れていたね」 四人の少年は、にわかに元気づいて、ネッドを案内に先立たせ、その部屋へ行ってみた。そこは地階七階にある倉庫の一つであった。彼等の自動車の外にも、乗用車やトラックが入れてあった。少年たちはその方にはちょっと目をやっただけで、あとは懐しい箱車の上によじのぼり、まだ罎詰などがたくさん残っている箱車の中に入ったりした。 こうして自分たちのぼろ車のところで遊んでいると、ふしぎに退屈しなかった。それで一日のうち何時間はここで遊ぶことに相談がまとまった。但しそれを看護婦なんかにいうと叱られるかもしれないので、ここで遊ぶことは内証にして置くことに決めた。 そういうことが、また次の大事件に関係する原因になるとは露知らぬ四少年だった。
本館内での生活に退屈を感ずるようになった少年たちは、博士になんと言いましたか。
本館内での生活に退屈を感ずるようになった少年たちは、博士に、夏休みはもう何日も残っていないから帰りたいといいました。
JCRRAG_010568
国語
窓硝子に四人の少年が、めいめいの顔をおしつけて、顔色も蒼白に言葉もなく、ぶるぶる慄えている。八つの目は、遙かに下方に向けられている。下には美しいコロラド大峡谷の全景があった。 ふしぎだ。夢を見ているのではなかろうか。地階の窓から、コロラド大峡谷の全景が見下ろせるはずがない。 が、事実ちゃんとそれが見えているのだ。絵ではない。映画でもない。テレビジョンでもない。実景が見えているのだ。その証拠に村が見える。白い煙を吐いて走っている列車が見える。おお、四発の旅客機さえ見えるではないか、その飛行機は、窓のすぐ向うを飛んでいる――いや、今すれちがって見えなくなった。 ふしぎだ。空中を飛んでいるぞ。それにちがいない。窓から外を見ていると……。だが、いつわれわれは飛行機に乗りかえたろうか。そんなことはない、ああ、そうだ。現にわれわれは、ちゃんと廊下に立っているではないか、本館の廊下の上に……。 しかし、窓から外を見れば、どうしてもわれわれは今飛行機の中にいるとしか思われない。大峡谷の景色は、さっきから思えば、ずっと小さくなった。その代り、ずっと遠方までの広い風景が一望の中に入っている。ふしぎでならないが、さっきにくらべて、もうかなり高度が増したようだ。
四少年の下にはなにがありましたか。
四少年の下には美しいコロラド大峡谷の全景がありました。
JCRRAG_010569
国語
窓硝子に四人の少年が、めいめいの顔をおしつけて、顔色も蒼白に言葉もなく、ぶるぶる慄えている。八つの目は、遙かに下方に向けられている。下には美しいコロラド大峡谷の全景があった。 ふしぎだ。夢を見ているのではなかろうか。地階の窓から、コロラド大峡谷の全景が見下ろせるはずがない。 が、事実ちゃんとそれが見えているのだ。絵ではない。映画でもない。テレビジョンでもない。実景が見えているのだ。その証拠に村が見える。白い煙を吐いて走っている列車が見える。おお、四発の旅客機さえ見えるではないか、その飛行機は、窓のすぐ向うを飛んでいる――いや、今すれちがって見えなくなった。 ふしぎだ。空中を飛んでいるぞ。それにちがいない。窓から外を見ていると……。だが、いつわれわれは飛行機に乗りかえたろうか。そんなことはない、ああ、そうだ。現にわれわれは、ちゃんと廊下に立っているではないか、本館の廊下の上に……。 しかし、窓から外を見れば、どうしてもわれわれは今飛行機の中にいるとしか思われない。大峡谷の景色は、さっきから思えば、ずっと小さくなった。その代り、ずっと遠方までの広い風景が一望の中に入っている。ふしぎでならないが、さっきにくらべて、もうかなり高度が増したようだ。
四発の旅客機は、どこを飛んでいますか。
四発の旅客機は、窓のすぐ向うを飛んでいます。
JCRRAG_010570
国語
窓硝子に四人の少年が、めいめいの顔をおしつけて、顔色も蒼白に言葉もなく、ぶるぶる慄えている。八つの目は、遙かに下方に向けられている。下には美しいコロラド大峡谷の全景があった。 ふしぎだ。夢を見ているのではなかろうか。地階の窓から、コロラド大峡谷の全景が見下ろせるはずがない。 が、事実ちゃんとそれが見えているのだ。絵ではない。映画でもない。テレビジョンでもない。実景が見えているのだ。その証拠に村が見える。白い煙を吐いて走っている列車が見える。おお、四発の旅客機さえ見えるではないか、その飛行機は、窓のすぐ向うを飛んでいる――いや、今すれちがって見えなくなった。 ふしぎだ。空中を飛んでいるぞ。それにちがいない。窓から外を見ていると……。だが、いつわれわれは飛行機に乗りかえたろうか。そんなことはない、ああ、そうだ。現にわれわれは、ちゃんと廊下に立っているではないか、本館の廊下の上に……。 しかし、窓から外を見れば、どうしてもわれわれは今飛行機の中にいるとしか思われない。大峡谷の景色は、さっきから思えば、ずっと小さくなった。その代り、ずっと遠方までの広い風景が一望の中に入っている。ふしぎでならないが、さっきにくらべて、もうかなり高度が増したようだ。
大峡谷の景色は、さっきに比べてどうなりましたか。
大峡谷の景色は、さっきから思えば、ずっと小さくなりました。
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河合の大胆な解釈は、大体において的中していた。それは、あれから一時間ほど後、四少年は廊下でビル・マートン青年にめぐりあい、意外な真相をきくことができた。そのマートン青年――いやマートン技師が、油だらけになった身体を二階廊下のベンチの上に横たえているそばを、四少年は通りかかったのである。少年たちに声をかけられ、マートンは大儀そうに上半身を起した。彼はたいへん疲れ切っていた。 「どうしたんですか、マートンさん」 と、少年たちは彼をとりまいていった。 「ああ、君たちも逃げおくれた組だな」 マートンは気の毒そうにいった。 「えっ、逃げおくれたとは……」 「おや、知らないのかね、君たちは……。この宇宙艇はね、まだ出発するはずではなかったんだ。機関室で、或るまちがいの事件が起ったため、こうしてまちがって離陸したんだ」 「へえっ、機関室でまちがったのですか」 「うん。君たちは、さっき警報ベルの鳴ったのをきかなかったかね。“総員退去せよ”と、ベルがじゃんじゃん鳴ったよ。それをきくと、多くの者は外へとび出し、そして助かったんだ」 そういえば、たしかにベルがけたたましく鳴っていた。それにつづいてさわがしい人声や駆足の音を耳にしたが、あれが総員退去せよとの警報だったんだ。今になって気がついては、もうおそい。 「……で、マートンさんと僕たちだけ、逃げおくれたんですか」 と、河合少年はたずねた。 「いや、まだ十数名残っている。僕は逃げれば逃げられたんだが、せっかくこしらえた宇宙艇から去るにしのびなかったのでね。たとえこの宇宙艇がどこの空中で、ばらばらに空中分解してしまうにしてもさ」 「宇宙艇ですって」 「空中分解! ほんとうに空中分解しますか」 少年たちの矢つぎ早の質問に対し、マートン技師は次のように語った。 この巨塔は宇宙艇であった。宇宙艇とは大宇宙を飛ぶ舟という意味である。そしてこの宇宙艇は河合がいったようにロケットで飛ぶ仕掛になっていた。但し、普通のロケットとはちがい、時速十万キロメートルぐらいは楽に出せるすばらしい原子エネルギー・エンジンによるロケットだそうである。 しかもその塔は、ロケット塔であって、現に今こうして天空を飛びつつある。たいへんな場所へもぐりこんだものだ。これから僕たちはどうなるのかと、四少年の胸の中に不安な塊が出来る。 「君たちはずっと前から僕たちが火星探険協会の者だと感づいていたんだろう」 「いいえ。そんなことないです」 「そうかね。それにしては、皆なかなか落着いているじゃないか」とマートン技師は四人の少年の顔を見わたし「ほらこの前君たちがR瓦斯を吸って人事不省になったね。あの出来事によって、君たちは感づいたろうと思ったがね」 「ああ、R瓦斯。あの実験は、やっぱり火星探険に関係があるのですか」 「そうとも、大いに関係があるんだ。あのときいろいろな動物を、原っぱにつくった檻の中に収容しておいて、R瓦斯にさらしたのだ。その結果、ほとんどすべての動物が、あの瓦斯を吸って死んでしまったよ」 「僕たち人間でも昏倒するぐらいですものねえ」 「そうだ。しかしその中で、割合平気でいたものがある。それは鰐と蜥蜴と蛙だ」 「爬蟲類と両棲類ですね」 「うん、もう一つ、牛が割合に耐えたよ。その次の実験には、マスクを牛に被せた。すると更によく耐えることが分った」 「R瓦斯というのは、どんな瓦斯ですか」 「R瓦斯は、火星の表面に澱んでいる瓦斯の一つで、これまで地球では知られなかった瓦斯だ」 「毒瓦斯なんですね」 「地球の生物にとってはかなり有毒だ。しかし火星の生物にとっては、R瓦斯は無害なんだ。いや彼等にとっては棲息するために必要な瓦斯なんだ、ちょうどわれわれが酸素を必要とするように……」 マートン技師が、そういって話をしているとき、別の部屋の扉が開いて、別の青年がとび出して来た。そしてマートンを見るなり、絶望的な声を出して叫んだ。 「遂に失敗だ。この宇宙艇は地球へ引返すことを断念しなければならなくなった」 地球へ引返すことを断念しなければならない! すると、これから一同はどうなるのか。天空を、あてもなく彷徨うのか、それとも火星か月世界かへ突進むことになるのか。それにしても宇宙旅行は、たいへんな年月を要する。乗組員の生命は、それを完成するまでもつであろうか。食糧は、燃料は?
一時間ほど後、四少年はだれに会いましたか。
あれから一時間ほど後、四少年は廊下でビル・マートン青年にめぐりあいました。
JCRRAG_010572
国語
人工重力装置が働きだしたので、宇宙艇の中でのパイナップルの一片が空中を泳いだり、コーヒーが人を追駆けたりするさわぎはなくなった。 人工重力装置というのは、この宇宙艇の中に特別に重力の場を人間の力で作る器械であった。この器械が働きだすと、すべてのものは地上におけると同じようにどっしり落着いた。これから先、宇宙を進めばいよいよ地球に遠くなるから重力は更に減ってくるわけだ。だからどうしても、この器械が入用である。 もしこの器械がなかったとしたら、艇内ではあらゆるものが机の上や床の上から放れ、空中で入り乱れて大変な混乱を起したことであろう。 人工重力装置が動きだしてから五日目になって、本艇においては非常によろこばしい事件が起った。それは、地上を出発以来、さっぱりいうことを聞かなかったエンジンが、やっと乗組員のいうことを聞くようになったことである。 速度は、ほとんど危険速度まであがっていたが、この日デニー博士以下の技師たちが総がかりで速度を低下させることに成功した。 方向舵も、うまくきくようになった。艇内は生きかえったように明るくなった。誰の顔にも喜びと安心の色が見えた。 四人の少年たちも、これを聞いて、まあよかったと胸をなで下ろした。故障のままで宇宙をとんでいるなんてことは決していい気持のものではなかった。 その日は、地上出発以来の乗組員たちの苦労をねぎらうためとあって、食堂はクリスマスのように飾りたてられ、たいへんな御馳走が出た。そしてそのあとで、デニー博士をはじめ皆が、余興に隠し芸を出して、大笑いに笑った。 楽しい時間が過ぎていった。
人工重力装置が働きだしたことで宇宙艇の中はどうなりましたか。
人工重力装置が働きだしたので、宇宙艇の中でのパイナップルの一片が空中を泳いだり、コーヒーが人を追駆けたりするさわぎはなくなりました。
JCRRAG_010573
国語
人工重力装置が働きだしたので、宇宙艇の中でのパイナップルの一片が空中を泳いだり、コーヒーが人を追駆けたりするさわぎはなくなった。 人工重力装置というのは、この宇宙艇の中に特別に重力の場を人間の力で作る器械であった。この器械が働きだすと、すべてのものは地上におけると同じようにどっしり落着いた。これから先、宇宙を進めばいよいよ地球に遠くなるから重力は更に減ってくるわけだ。だからどうしても、この器械が入用である。 もしこの器械がなかったとしたら、艇内ではあらゆるものが机の上や床の上から放れ、空中で入り乱れて大変な混乱を起したことであろう。 人工重力装置が動きだしてから五日目になって、本艇においては非常によろこばしい事件が起った。それは、地上を出発以来、さっぱりいうことを聞かなかったエンジンが、やっと乗組員のいうことを聞くようになったことである。 速度は、ほとんど危険速度まであがっていたが、この日デニー博士以下の技師たちが総がかりで速度を低下させることに成功した。 方向舵も、うまくきくようになった。艇内は生きかえったように明るくなった。誰の顔にも喜びと安心の色が見えた。 四人の少年たちも、これを聞いて、まあよかったと胸をなで下ろした。故障のままで宇宙をとんでいるなんてことは決していい気持のものではなかった。 その日は、地上出発以来の乗組員たちの苦労をねぎらうためとあって、食堂はクリスマスのように飾りたてられ、たいへんな御馳走が出た。そしてそのあとで、デニー博士をはじめ皆が、余興に隠し芸を出して、大笑いに笑った。 楽しい時間が過ぎていった。
器械が働きだすとすべてのものはどうなりましたか。
この器械が働きだすと、すべてのものは地上におけると同じようにどっしり落着きました。
JCRRAG_010574
国語
人工重力装置が働きだしたので、宇宙艇の中でのパイナップルの一片が空中を泳いだり、コーヒーが人を追駆けたりするさわぎはなくなった。 人工重力装置というのは、この宇宙艇の中に特別に重力の場を人間の力で作る器械であった。この器械が働きだすと、すべてのものは地上におけると同じようにどっしり落着いた。これから先、宇宙を進めばいよいよ地球に遠くなるから重力は更に減ってくるわけだ。だからどうしても、この器械が入用である。 もしこの器械がなかったとしたら、艇内ではあらゆるものが机の上や床の上から放れ、空中で入り乱れて大変な混乱を起したことであろう。 人工重力装置が動きだしてから五日目になって、本艇においては非常によろこばしい事件が起った。それは、地上を出発以来、さっぱりいうことを聞かなかったエンジンが、やっと乗組員のいうことを聞くようになったことである。 速度は、ほとんど危険速度まであがっていたが、この日デニー博士以下の技師たちが総がかりで速度を低下させることに成功した。 方向舵も、うまくきくようになった。艇内は生きかえったように明るくなった。誰の顔にも喜びと安心の色が見えた。 四人の少年たちも、これを聞いて、まあよかったと胸をなで下ろした。故障のままで宇宙をとんでいるなんてことは決していい気持のものではなかった。 その日は、地上出発以来の乗組員たちの苦労をねぎらうためとあって、食堂はクリスマスのように飾りたてられ、たいへんな御馳走が出た。そしてそのあとで、デニー博士をはじめ皆が、余興に隠し芸を出して、大笑いに笑った。 楽しい時間が過ぎていった。
デニー博士以下の技師たちはなにに成功しましたか。
デニー博士以下の技師たちは総がかりで速度を低下させることに成功しました。
JCRRAG_010575
国語
操縦室の一同が、不安の底に放り込まれたとき、天井の高声器から、ひどくあわてた声が響き渡った。 「艇長。ピットです。第三舵が飛ばされてしまいました。宇宙塵塊のでかいのが、あっという間にその舵をもぎとってしまったのです。総員で応急修理中ですが、当分第三舵はききませんよ」 「ああ、わかった。元気をだして、できるだけ早くやってみてくれ」 第三舵の損傷が報告された。こうなると本艇の操縦はむずかしくなる。が、今の気味のわるい震動が第三舵の損傷だけで終ったのだろうか。それならばまだ運の強い方だ。 「艇長。地階八階に大きな穴があきました。二十トンもある塵塊がとびこんできたのです。幸いに乗組員には異状はありませんが、燃料をかなりたくさん持っていかれました」 深刻な報告が、高声器からとびだした。燃料を持って行かれたという。地階八階に大穴があいたともいう。これはどっちも本艇の安危に直接の関係がある。 「おい、グリーンだな」と老博士はマイクへ叫んだ。 「で、本艇は空中分解の危険があるだろうか」 「今のところ大丈夫でしょう。その二十トンの塵塊は反対の艇壁をつきやぶって外へとびだしてしまいましたから、まあよかったです」 「燃料の方は、どうか。本艇の航続力はどの程度に減ったか。このまま火星へ飛べるだろうか」 老博士は心配をかくしもせず叫んだ。 「火星までは大丈夫行けましょう。しかし……」 そこでグリーンの声が切れる。 「しかし……どうしたんだ、グリーン。はっきりいえ」 「はい」グリーンは絞めつけられるような声をふりあげ、 「しかしもはや地球へ戻るだけの燃料はなくなりました。まことに遺憾です」 と、悲しむべきしらせをよこした。 「なに、もう地球へは戻ることはできないのか」 さすがのデニー老博士も愕然とした。 これを聞いたとき操縦室の一同は誰も皆、目がくらくらとした。遂に最悪の事態となったのだ。地球へ戻れないとは、ああ何という情けないことだ。 だが、一同はこの悲しむべきでき事のため、さらに悲しんで涙にむせんでいる暇はなかったのである。そのわけは、冷酷なる宇宙塵の数群が、すぐそのあとに引続いて本艇を強襲したからであった。 艇内は混乱の極に達した。はげしい震動が相ついで起った。艇はいまにもばらばらに分解して四散しそうであった。艇内を、ひゅうんと呻ってすごい速力で飛び交う塵塊があった。それは艇内の大切なる器物を片端からうちこわしていった。 乗組員たちは唯も自分の仕事の場所を守ることができなかった。マートン技師でさえ、もう何をすることもできない。応急灯は消えそのうちに彼を護っていてくれた鉄管の籠が塵塊のためひん曲げられ、もはやその能力を発揮することができなくなった。そのために彼は、他の乗組員と同じように乱舞する宇宙艇といっしょに振り廻されていた。 河合少年は、部屋の隅へはねとばされ、器械の枠の間に狭まれてしまった。そのうちに頭が下になり、足が上になったので、その枠から外れそうになった。彼はおどろいて枠にすがりついた。それから智恵をしぼって、手に挾まったロープで自分の身体を枠にしばりつけた。 ほっと一息ついて、皆の様子をうかがうと、あっちでもこっちでもものすごい怒号と叫喚ばかり。それでいて人影は一向はっきりせず、その代りに、しゅっと青い火花が閃いたり、塵塊らしいものが真赤になって室内を南京花火のように走り廻ったりするのが見え、彼の胆をそのたびに奪った。 彼は、仲間の三少年がどうしているだろうかと心配した。誰も声をかけて彼を尋ねてきてくれないところを見ると、皆死んでしまったのではなかろうか。いや、彼さえこの器械の枠の間から動くことができないんだから、彼の友だちもそれぞれどこかへつかまって、ふるえているのではなかろうか。とにかく何とかしてデニー博士以下われらの生命を助けたまえと、ふだんは我慢づよい河合も遂に神の御名を唱えたのだった。 河合少年の祈りが神様のお耳に届いたせいでもあったろうか、さしもの大椿事も、ようやくにおさまった。あの耳をうつ震動音の響もいまはどこへやら。また怪物のようにひゅうひゅう飛びまわった火の玉の塵塊も、今は姿を見せなくなった。そして艇は、以前のように安全状態に戻ったのであった。 「おーい。生きている者は、こっちへ集ってこい」 「おう、今行くぞ」 乗組員の呼び声が、ぼつぼつ聞え始めた。それはたいへんお互いを元気づけた。 河合少年は、もう大丈夫だと思ったので、自分の身体を巻いていたロープを解き、自由になった。久し振りに床を踏んだが、足はふらふらで、その場に尻餅をついてしまった。 「おうい、河合少年、しっかりしろ」 誰かが彼に呼びかけた。 誰だろうと、声のする方を見上げると、それはマートン技師だった。彼は横に傾いたまま、舵輪を握って、艇の針路を定めていた。 「ああ、マートンさん。怪我はなかったんですかねえ」 「ああ、何ともないよ。どうだ恐ろしかったか」 「ええ、びっくりしましたよ。で、本艇はだいぶやられたようですか、無事に飛んでいるのですか」 「さあ何といっていいか……」とマートンは首をかしげたが「とにかく今のところはこうして火星へ飛び続けているよ、本艇の損害は案外軽いのかもしれない。デニー博士がいま調べていられるのだ」 おおデニー博士。博士は無事なんだ、そしてもう元気に、重大な仕事に当っておられるのか。自分もぼやぼやしてはいけないと、河合少年はわが身を励ました。
操縦室の一同が、不安の底に放り込まれたとき、なにが響き渡りましたか。
操縦室の一同が、不安の底に放り込まれたとき、天井の高声器から、ひどくあわてた声が響き渡りました。
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国語
操縦室の一同が、不安の底に放り込まれたとき、天井の高声器から、ひどくあわてた声が響き渡った。 「艇長。ピットです。第三舵が飛ばされてしまいました。宇宙塵塊のでかいのが、あっという間にその舵をもぎとってしまったのです。総員で応急修理中ですが、当分第三舵はききませんよ」 「ああ、わかった。元気をだして、できるだけ早くやってみてくれ」 第三舵の損傷が報告された。こうなると本艇の操縦はむずかしくなる。が、今の気味のわるい震動が第三舵の損傷だけで終ったのだろうか。それならばまだ運の強い方だ。 「艇長。地階八階に大きな穴があきました。二十トンもある塵塊がとびこんできたのです。幸いに乗組員には異状はありませんが、燃料をかなりたくさん持っていかれました」 深刻な報告が、高声器からとびだした。燃料を持って行かれたという。地階八階に大穴があいたともいう。これはどっちも本艇の安危に直接の関係がある。 「おい、グリーンだな」と老博士はマイクへ叫んだ。 「で、本艇は空中分解の危険があるだろうか」 「今のところ大丈夫でしょう。その二十トンの塵塊は反対の艇壁をつきやぶって外へとびだしてしまいましたから、まあよかったです」 「燃料の方は、どうか。本艇の航続力はどの程度に減ったか。このまま火星へ飛べるだろうか」 老博士は心配をかくしもせず叫んだ。 「火星までは大丈夫行けましょう。しかし……」 そこでグリーンの声が切れる。 「しかし……どうしたんだ、グリーン。はっきりいえ」 「はい」グリーンは絞めつけられるような声をふりあげ、 「しかしもはや地球へ戻るだけの燃料はなくなりました。まことに遺憾です」 と、悲しむべきしらせをよこした。 「なに、もう地球へは戻ることはできないのか」 さすがのデニー老博士も愕然とした。 これを聞いたとき操縦室の一同は誰も皆、目がくらくらとした。遂に最悪の事態となったのだ。地球へ戻れないとは、ああ何という情けないことだ。 だが、一同はこの悲しむべきでき事のため、さらに悲しんで涙にむせんでいる暇はなかったのである。そのわけは、冷酷なる宇宙塵の数群が、すぐそのあとに引続いて本艇を強襲したからであった。 艇内は混乱の極に達した。はげしい震動が相ついで起った。艇はいまにもばらばらに分解して四散しそうであった。艇内を、ひゅうんと呻ってすごい速力で飛び交う塵塊があった。それは艇内の大切なる器物を片端からうちこわしていった。 乗組員たちは唯も自分の仕事の場所を守ることができなかった。マートン技師でさえ、もう何をすることもできない。応急灯は消えそのうちに彼を護っていてくれた鉄管の籠が塵塊のためひん曲げられ、もはやその能力を発揮することができなくなった。そのために彼は、他の乗組員と同じように乱舞する宇宙艇といっしょに振り廻されていた。 河合少年は、部屋の隅へはねとばされ、器械の枠の間に狭まれてしまった。そのうちに頭が下になり、足が上になったので、その枠から外れそうになった。彼はおどろいて枠にすがりついた。それから智恵をしぼって、手に挾まったロープで自分の身体を枠にしばりつけた。 ほっと一息ついて、皆の様子をうかがうと、あっちでもこっちでもものすごい怒号と叫喚ばかり。それでいて人影は一向はっきりせず、その代りに、しゅっと青い火花が閃いたり、塵塊らしいものが真赤になって室内を南京花火のように走り廻ったりするのが見え、彼の胆をそのたびに奪った。 彼は、仲間の三少年がどうしているだろうかと心配した。誰も声をかけて彼を尋ねてきてくれないところを見ると、皆死んでしまったのではなかろうか。いや、彼さえこの器械の枠の間から動くことができないんだから、彼の友だちもそれぞれどこかへつかまって、ふるえているのではなかろうか。とにかく何とかしてデニー博士以下われらの生命を助けたまえと、ふだんは我慢づよい河合も遂に神の御名を唱えたのだった。 河合少年の祈りが神様のお耳に届いたせいでもあったろうか、さしもの大椿事も、ようやくにおさまった。あの耳をうつ震動音の響もいまはどこへやら。また怪物のようにひゅうひゅう飛びまわった火の玉の塵塊も、今は姿を見せなくなった。そして艇は、以前のように安全状態に戻ったのであった。 「おーい。生きている者は、こっちへ集ってこい」 「おう、今行くぞ」 乗組員の呼び声が、ぼつぼつ聞え始めた。それはたいへんお互いを元気づけた。 河合少年は、もう大丈夫だと思ったので、自分の身体を巻いていたロープを解き、自由になった。久し振りに床を踏んだが、足はふらふらで、その場に尻餅をついてしまった。 「おうい、河合少年、しっかりしろ」 誰かが彼に呼びかけた。 誰だろうと、声のする方を見上げると、それはマートン技師だった。彼は横に傾いたまま、舵輪を握って、艇の針路を定めていた。 「ああ、マートンさん。怪我はなかったんですかねえ」 「ああ、何ともないよ。どうだ恐ろしかったか」 「ええ、びっくりしましたよ。で、本艇はだいぶやられたようですか、無事に飛んでいるのですか」 「さあ何といっていいか……」とマートンは首をかしげたが「とにかく今のところはこうして火星へ飛び続けているよ、本艇の損害は案外軽いのかもしれない。デニー博士がいま調べていられるのだ」 おおデニー博士。博士は無事なんだ、そしてもう元気に、重大な仕事に当っておられるのか。自分もぼやぼやしてはいけないと、河合少年はわが身を励ました。
もう地球へは戻ることはできないかもしれないという話を聞いたとき操縦室の一同はどうなりましたか。
もう地球へは戻ることはできないかもしれないという話を聞いたとき操縦室の一同は誰も皆、目がくらくらとしました。
JCRRAG_010577
国語
操縦室の一同が、不安の底に放り込まれたとき、天井の高声器から、ひどくあわてた声が響き渡った。 「艇長。ピットです。第三舵が飛ばされてしまいました。宇宙塵塊のでかいのが、あっという間にその舵をもぎとってしまったのです。総員で応急修理中ですが、当分第三舵はききませんよ」 「ああ、わかった。元気をだして、できるだけ早くやってみてくれ」 第三舵の損傷が報告された。こうなると本艇の操縦はむずかしくなる。が、今の気味のわるい震動が第三舵の損傷だけで終ったのだろうか。それならばまだ運の強い方だ。 「艇長。地階八階に大きな穴があきました。二十トンもある塵塊がとびこんできたのです。幸いに乗組員には異状はありませんが、燃料をかなりたくさん持っていかれました」 深刻な報告が、高声器からとびだした。燃料を持って行かれたという。地階八階に大穴があいたともいう。これはどっちも本艇の安危に直接の関係がある。 「おい、グリーンだな」と老博士はマイクへ叫んだ。 「で、本艇は空中分解の危険があるだろうか」 「今のところ大丈夫でしょう。その二十トンの塵塊は反対の艇壁をつきやぶって外へとびだしてしまいましたから、まあよかったです」 「燃料の方は、どうか。本艇の航続力はどの程度に減ったか。このまま火星へ飛べるだろうか」 老博士は心配をかくしもせず叫んだ。 「火星までは大丈夫行けましょう。しかし……」 そこでグリーンの声が切れる。 「しかし……どうしたんだ、グリーン。はっきりいえ」 「はい」グリーンは絞めつけられるような声をふりあげ、 「しかしもはや地球へ戻るだけの燃料はなくなりました。まことに遺憾です」 と、悲しむべきしらせをよこした。 「なに、もう地球へは戻ることはできないのか」 さすがのデニー老博士も愕然とした。 これを聞いたとき操縦室の一同は誰も皆、目がくらくらとした。遂に最悪の事態となったのだ。地球へ戻れないとは、ああ何という情けないことだ。 だが、一同はこの悲しむべきでき事のため、さらに悲しんで涙にむせんでいる暇はなかったのである。そのわけは、冷酷なる宇宙塵の数群が、すぐそのあとに引続いて本艇を強襲したからであった。 艇内は混乱の極に達した。はげしい震動が相ついで起った。艇はいまにもばらばらに分解して四散しそうであった。艇内を、ひゅうんと呻ってすごい速力で飛び交う塵塊があった。それは艇内の大切なる器物を片端からうちこわしていった。 乗組員たちは唯も自分の仕事の場所を守ることができなかった。マートン技師でさえ、もう何をすることもできない。応急灯は消えそのうちに彼を護っていてくれた鉄管の籠が塵塊のためひん曲げられ、もはやその能力を発揮することができなくなった。そのために彼は、他の乗組員と同じように乱舞する宇宙艇といっしょに振り廻されていた。 河合少年は、部屋の隅へはねとばされ、器械の枠の間に狭まれてしまった。そのうちに頭が下になり、足が上になったので、その枠から外れそうになった。彼はおどろいて枠にすがりついた。それから智恵をしぼって、手に挾まったロープで自分の身体を枠にしばりつけた。 ほっと一息ついて、皆の様子をうかがうと、あっちでもこっちでもものすごい怒号と叫喚ばかり。それでいて人影は一向はっきりせず、その代りに、しゅっと青い火花が閃いたり、塵塊らしいものが真赤になって室内を南京花火のように走り廻ったりするのが見え、彼の胆をそのたびに奪った。 彼は、仲間の三少年がどうしているだろうかと心配した。誰も声をかけて彼を尋ねてきてくれないところを見ると、皆死んでしまったのではなかろうか。いや、彼さえこの器械の枠の間から動くことができないんだから、彼の友だちもそれぞれどこかへつかまって、ふるえているのではなかろうか。とにかく何とかしてデニー博士以下われらの生命を助けたまえと、ふだんは我慢づよい河合も遂に神の御名を唱えたのだった。 河合少年の祈りが神様のお耳に届いたせいでもあったろうか、さしもの大椿事も、ようやくにおさまった。あの耳をうつ震動音の響もいまはどこへやら。また怪物のようにひゅうひゅう飛びまわった火の玉の塵塊も、今は姿を見せなくなった。そして艇は、以前のように安全状態に戻ったのであった。 「おーい。生きている者は、こっちへ集ってこい」 「おう、今行くぞ」 乗組員の呼び声が、ぼつぼつ聞え始めた。それはたいへんお互いを元気づけた。 河合少年は、もう大丈夫だと思ったので、自分の身体を巻いていたロープを解き、自由になった。久し振りに床を踏んだが、足はふらふらで、その場に尻餅をついてしまった。 「おうい、河合少年、しっかりしろ」 誰かが彼に呼びかけた。 誰だろうと、声のする方を見上げると、それはマートン技師だった。彼は横に傾いたまま、舵輪を握って、艇の針路を定めていた。 「ああ、マートンさん。怪我はなかったんですかねえ」 「ああ、何ともないよ。どうだ恐ろしかったか」 「ええ、びっくりしましたよ。で、本艇はだいぶやられたようですか、無事に飛んでいるのですか」 「さあ何といっていいか……」とマートンは首をかしげたが「とにかく今のところはこうして火星へ飛び続けているよ、本艇の損害は案外軽いのかもしれない。デニー博士がいま調べていられるのだ」 おおデニー博士。博士は無事なんだ、そしてもう元気に、重大な仕事に当っておられるのか。自分もぼやぼやしてはいけないと、河合少年はわが身を励ました。
一同がさらに悲しんで涙にむせんでいる暇がなかったのはなぜですか。
一同がさらに悲しんで涙にむせんでいる暇がなかったわけは、冷酷なる宇宙塵の数群が、すぐそのあとに引続いて本艇を強襲したからです。
JCRRAG_010578
国語
操縦室の一同が、不安の底に放り込まれたとき、天井の高声器から、ひどくあわてた声が響き渡った。 「艇長。ピットです。第三舵が飛ばされてしまいました。宇宙塵塊のでかいのが、あっという間にその舵をもぎとってしまったのです。総員で応急修理中ですが、当分第三舵はききませんよ」 「ああ、わかった。元気をだして、できるだけ早くやってみてくれ」 第三舵の損傷が報告された。こうなると本艇の操縦はむずかしくなる。が、今の気味のわるい震動が第三舵の損傷だけで終ったのだろうか。それならばまだ運の強い方だ。 「艇長。地階八階に大きな穴があきました。二十トンもある塵塊がとびこんできたのです。幸いに乗組員には異状はありませんが、燃料をかなりたくさん持っていかれました」 深刻な報告が、高声器からとびだした。燃料を持って行かれたという。地階八階に大穴があいたともいう。これはどっちも本艇の安危に直接の関係がある。 「おい、グリーンだな」と老博士はマイクへ叫んだ。 「で、本艇は空中分解の危険があるだろうか」 「今のところ大丈夫でしょう。その二十トンの塵塊は反対の艇壁をつきやぶって外へとびだしてしまいましたから、まあよかったです」 「燃料の方は、どうか。本艇の航続力はどの程度に減ったか。このまま火星へ飛べるだろうか」 老博士は心配をかくしもせず叫んだ。 「火星までは大丈夫行けましょう。しかし……」 そこでグリーンの声が切れる。 「しかし……どうしたんだ、グリーン。はっきりいえ」 「はい」グリーンは絞めつけられるような声をふりあげ、 「しかしもはや地球へ戻るだけの燃料はなくなりました。まことに遺憾です」 と、悲しむべきしらせをよこした。 「なに、もう地球へは戻ることはできないのか」 さすがのデニー老博士も愕然とした。 これを聞いたとき操縦室の一同は誰も皆、目がくらくらとした。遂に最悪の事態となったのだ。地球へ戻れないとは、ああ何という情けないことだ。 だが、一同はこの悲しむべきでき事のため、さらに悲しんで涙にむせんでいる暇はなかったのである。そのわけは、冷酷なる宇宙塵の数群が、すぐそのあとに引続いて本艇を強襲したからであった。 艇内は混乱の極に達した。はげしい震動が相ついで起った。艇はいまにもばらばらに分解して四散しそうであった。艇内を、ひゅうんと呻ってすごい速力で飛び交う塵塊があった。それは艇内の大切なる器物を片端からうちこわしていった。 乗組員たちは唯も自分の仕事の場所を守ることができなかった。マートン技師でさえ、もう何をすることもできない。応急灯は消えそのうちに彼を護っていてくれた鉄管の籠が塵塊のためひん曲げられ、もはやその能力を発揮することができなくなった。そのために彼は、他の乗組員と同じように乱舞する宇宙艇といっしょに振り廻されていた。 河合少年は、部屋の隅へはねとばされ、器械の枠の間に狭まれてしまった。そのうちに頭が下になり、足が上になったので、その枠から外れそうになった。彼はおどろいて枠にすがりついた。それから智恵をしぼって、手に挾まったロープで自分の身体を枠にしばりつけた。 ほっと一息ついて、皆の様子をうかがうと、あっちでもこっちでもものすごい怒号と叫喚ばかり。それでいて人影は一向はっきりせず、その代りに、しゅっと青い火花が閃いたり、塵塊らしいものが真赤になって室内を南京花火のように走り廻ったりするのが見え、彼の胆をそのたびに奪った。 彼は、仲間の三少年がどうしているだろうかと心配した。誰も声をかけて彼を尋ねてきてくれないところを見ると、皆死んでしまったのではなかろうか。いや、彼さえこの器械の枠の間から動くことができないんだから、彼の友だちもそれぞれどこかへつかまって、ふるえているのではなかろうか。とにかく何とかしてデニー博士以下われらの生命を助けたまえと、ふだんは我慢づよい河合も遂に神の御名を唱えたのだった。 河合少年の祈りが神様のお耳に届いたせいでもあったろうか、さしもの大椿事も、ようやくにおさまった。あの耳をうつ震動音の響もいまはどこへやら。また怪物のようにひゅうひゅう飛びまわった火の玉の塵塊も、今は姿を見せなくなった。そして艇は、以前のように安全状態に戻ったのであった。 「おーい。生きている者は、こっちへ集ってこい」 「おう、今行くぞ」 乗組員の呼び声が、ぼつぼつ聞え始めた。それはたいへんお互いを元気づけた。 河合少年は、もう大丈夫だと思ったので、自分の身体を巻いていたロープを解き、自由になった。久し振りに床を踏んだが、足はふらふらで、その場に尻餅をついてしまった。 「おうい、河合少年、しっかりしろ」 誰かが彼に呼びかけた。 誰だろうと、声のする方を見上げると、それはマートン技師だった。彼は横に傾いたまま、舵輪を握って、艇の針路を定めていた。 「ああ、マートンさん。怪我はなかったんですかねえ」 「ああ、何ともないよ。どうだ恐ろしかったか」 「ええ、びっくりしましたよ。で、本艇はだいぶやられたようですか、無事に飛んでいるのですか」 「さあ何といっていいか……」とマートンは首をかしげたが「とにかく今のところはこうして火星へ飛び続けているよ、本艇の損害は案外軽いのかもしれない。デニー博士がいま調べていられるのだ」 おおデニー博士。博士は無事なんだ、そしてもう元気に、重大な仕事に当っておられるのか。自分もぼやぼやしてはいけないと、河合少年はわが身を励ました。
河合少年は、もう大丈夫だと思ったとき、なにをおこないましたか。
河合少年は、もう大丈夫だと思ったので、自分の身体を巻いていたロープを解きました。
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国語
河合少年は、仲間の安否を確めるために操縦室を出た。 どこもここも、たいへん壊れていた。艇の外壁などは、大きくもぎとられて廊下がむきだしになっていることがあった。 「あああぶない。そっちへ出てはいかん」 河合少年が廊下をのぞいていると、うしろから彼の腕をとって引戻した者がある。少年はおどろいて振返った。立っていたのはデニー博士だった。 「そこへ身体を出すと、吹飛ばされて墜落するからね。出ちゃいかん」 老博士は重ねて河合に注意をした。彼はうれしく思って、あつく礼をいった。博士は、軽く肯いた。それから、 「そうだ。君たち少年は四人だったな」 「ええ、そうです」 「そうか。君たち少年が本艇に乗ってくれたので、今わしはたいへん気が強い。これはわしからお礼をいうよ」 「はあ、どうしてですか」 河合は腑に落ちないので、問い返した。 「わしはこの年齢であるから、もう先はないが、君たち少年はこれから五十年も六十年も生きられるのだ。わしたちが成功させることができなかった事業は、ぜひ君たち四人の少年が継いで、成功させてほしいものだ」 老博士はしんみりとした調子でいって、河合少年の肩を叩いた。 「はい。皆にそういって、しっかりやります。しかし博士。今度の火星探険はもう失敗ときまったのですか」 河合は尋ねた。老博士のことばがそのように響いたからである。 博士はしばらく黙っていた。白い髭がこまかく慄えていた。やがて博士は口を開いた。 「まだ、はっきりしたことは分らぬ、だがね、河合少年。うまく火星に着陸できたとしても次に火星から地球へ戻るときには新しい宇宙艇を建造しなければならないだろう。これはたいへんな大事業だ。それに君たち少年の力が絶対に必要なのだ。そのことは今に分るだろう。万一のときには、わしの部屋にある緑色のトランク――それには第一号から第十号までの番号がうってあるがそれを君たちに贈るから、大事にしてくれたまえ。それはきっと君たちを助けるだろう」 「はあ。そのトランクの中には、何が入っているのですか」 「それはね、わしが永年苦心して作った設計図などが入っているのだ。そのときになれば分るよ」 「博士。それでは、この宇宙艇では、もう地球へ戻れないのですか」 「多分、戻れないだろう。帰還用の燃料は殆んどなくなったし、艇もこのとおり大損傷を蒙っているしね、それにまだいろいろ心配していることがあるんだ。おお、そうだ。こうしてはいられない、またゆっくり話をしてあげようね」 老博士は、大事な用事を思い出したと見え、すたすたとむこうへ行ってしまった。 それから河合は食堂へ行った。 そこには仲間が集っていた。山木もいた。張もいた。ネッドの顔も。皆無事であった。運がよかったのだ。ただ張だけが右脚に打撲傷を負っていて、足をひいていた。 河合少年は、老博士からいわれた話を、ここで皆にして聞かせた。 この宇宙艇では地球へ戻れない、という話は一同を失望させた。河合は一同を励まさねばならなかった。デニー博士の信頼と期待とを破らないように、これから一層勉強をしなければならない。これは地球人類の光栄と幸福のために、ぜひそうしなければならないのだと力説して、ようやく一同の気を引立てることができた。折からマートン技師が入ってきた。彼もまた無事だったが、衣服は油ですっかり汚れ切っていた。またエンジンと組打をやって大奮闘をしたのであろう。 「おお、皆無事だったな。見たかね、火星の表面を。宇宙塵圏を通り抜けたので、今はすっかり晴れて、火星の表面がよく見えるよ。火星の運河というのを知っているね。あれもちゃんと見えるよ。さあ早く、展望室へ行ってごらん」 そういわれて、四少年は飛出していった。そして展望台へ駆けのぼった。 おお、見える見える。火星の表面が明るく見える。火星の昼なんだ。それはもう地球を上空から見下ろすのと大差はなかった。 緑色の長い条が、蜘蛛の巣のように走っている。あれが火星の運河にちがいない。 が、それは運河ではなさそうだ。まだはっきりはしないが、何だか森林が直線状に続いているように見える。 火星の陸地は、褐色であった。やはり土があると見える。 海らしいものも見える。しかし地球の大洋を見なれた目には、あまりに小さい海だ。まるで湖のように見える。 一体本艇は、どのへんに着陸するのであろうか。火星の生物は、本艇をもう見つけているだろうか。どこかに火星の生物の飛んでいる姿は見えないであろうか。 少年たちは思い思いに想像を逞しくしている。神経衰弱だったネッドまでが、奇異の目を光らせて、下界に眺め入っている。 が、突然椿事が起った。 「総員、エンジン室へ集れ」 けたたましい警鈴と、悲痛な叫び声。それが終らないうちに艇は嵐の中に巻込まれたような妙な音をたて始め、そしてぐんぐん下へ落ちて行くのが感じられた。 「墜落だ。あっ、火事だ。尾部から煙の尾を曳いているぞ」 さっきまで無事進空を続けていた宇宙艇であったが、火星の高度二万メートルのところから急に錐揉状態に陥って煙の尾を曳きながら墜落を始めたのだ。 老博士以下の運命は、どうなるか。
河合少年は、なぜ操縦室を出たのですか。
河合少年は、仲間の安否を確めるために操縦室を出ました。
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河合少年は、仲間の安否を確めるために操縦室を出た。 どこもここも、たいへん壊れていた。艇の外壁などは、大きくもぎとられて廊下がむきだしになっていることがあった。 「あああぶない。そっちへ出てはいかん」 河合少年が廊下をのぞいていると、うしろから彼の腕をとって引戻した者がある。少年はおどろいて振返った。立っていたのはデニー博士だった。 「そこへ身体を出すと、吹飛ばされて墜落するからね。出ちゃいかん」 老博士は重ねて河合に注意をした。彼はうれしく思って、あつく礼をいった。博士は、軽く肯いた。それから、 「そうだ。君たち少年は四人だったな」 「ええ、そうです」 「そうか。君たち少年が本艇に乗ってくれたので、今わしはたいへん気が強い。これはわしからお礼をいうよ」 「はあ、どうしてですか」 河合は腑に落ちないので、問い返した。 「わしはこの年齢であるから、もう先はないが、君たち少年はこれから五十年も六十年も生きられるのだ。わしたちが成功させることができなかった事業は、ぜひ君たち四人の少年が継いで、成功させてほしいものだ」 老博士はしんみりとした調子でいって、河合少年の肩を叩いた。 「はい。皆にそういって、しっかりやります。しかし博士。今度の火星探険はもう失敗ときまったのですか」 河合は尋ねた。老博士のことばがそのように響いたからである。 博士はしばらく黙っていた。白い髭がこまかく慄えていた。やがて博士は口を開いた。 「まだ、はっきりしたことは分らぬ、だがね、河合少年。うまく火星に着陸できたとしても次に火星から地球へ戻るときには新しい宇宙艇を建造しなければならないだろう。これはたいへんな大事業だ。それに君たち少年の力が絶対に必要なのだ。そのことは今に分るだろう。万一のときには、わしの部屋にある緑色のトランク――それには第一号から第十号までの番号がうってあるがそれを君たちに贈るから、大事にしてくれたまえ。それはきっと君たちを助けるだろう」 「はあ。そのトランクの中には、何が入っているのですか」 「それはね、わしが永年苦心して作った設計図などが入っているのだ。そのときになれば分るよ」 「博士。それでは、この宇宙艇では、もう地球へ戻れないのですか」 「多分、戻れないだろう。帰還用の燃料は殆んどなくなったし、艇もこのとおり大損傷を蒙っているしね、それにまだいろいろ心配していることがあるんだ。おお、そうだ。こうしてはいられない、またゆっくり話をしてあげようね」 老博士は、大事な用事を思い出したと見え、すたすたとむこうへ行ってしまった。 それから河合は食堂へ行った。 そこには仲間が集っていた。山木もいた。張もいた。ネッドの顔も。皆無事であった。運がよかったのだ。ただ張だけが右脚に打撲傷を負っていて、足をひいていた。 河合少年は、老博士からいわれた話を、ここで皆にして聞かせた。 この宇宙艇では地球へ戻れない、という話は一同を失望させた。河合は一同を励まさねばならなかった。デニー博士の信頼と期待とを破らないように、これから一層勉強をしなければならない。これは地球人類の光栄と幸福のために、ぜひそうしなければならないのだと力説して、ようやく一同の気を引立てることができた。折からマートン技師が入ってきた。彼もまた無事だったが、衣服は油ですっかり汚れ切っていた。またエンジンと組打をやって大奮闘をしたのであろう。 「おお、皆無事だったな。見たかね、火星の表面を。宇宙塵圏を通り抜けたので、今はすっかり晴れて、火星の表面がよく見えるよ。火星の運河というのを知っているね。あれもちゃんと見えるよ。さあ早く、展望室へ行ってごらん」 そういわれて、四少年は飛出していった。そして展望台へ駆けのぼった。 おお、見える見える。火星の表面が明るく見える。火星の昼なんだ。それはもう地球を上空から見下ろすのと大差はなかった。 緑色の長い条が、蜘蛛の巣のように走っている。あれが火星の運河にちがいない。 が、それは運河ではなさそうだ。まだはっきりはしないが、何だか森林が直線状に続いているように見える。 火星の陸地は、褐色であった。やはり土があると見える。 海らしいものも見える。しかし地球の大洋を見なれた目には、あまりに小さい海だ。まるで湖のように見える。 一体本艇は、どのへんに着陸するのであろうか。火星の生物は、本艇をもう見つけているだろうか。どこかに火星の生物の飛んでいる姿は見えないであろうか。 少年たちは思い思いに想像を逞しくしている。神経衰弱だったネッドまでが、奇異の目を光らせて、下界に眺め入っている。 が、突然椿事が起った。 「総員、エンジン室へ集れ」 けたたましい警鈴と、悲痛な叫び声。それが終らないうちに艇は嵐の中に巻込まれたような妙な音をたて始め、そしてぐんぐん下へ落ちて行くのが感じられた。 「墜落だ。あっ、火事だ。尾部から煙の尾を曳いているぞ」 さっきまで無事進空を続けていた宇宙艇であったが、火星の高度二万メートルのところから急に錐揉状態に陥って煙の尾を曳きながら墜落を始めたのだ。 老博士以下の運命は、どうなるか。
河合は腑に落ちず、どうしましたか。
河合は腑に落ちないので、問い返しました。
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河合少年は、仲間の安否を確めるために操縦室を出た。 どこもここも、たいへん壊れていた。艇の外壁などは、大きくもぎとられて廊下がむきだしになっていることがあった。 「あああぶない。そっちへ出てはいかん」 河合少年が廊下をのぞいていると、うしろから彼の腕をとって引戻した者がある。少年はおどろいて振返った。立っていたのはデニー博士だった。 「そこへ身体を出すと、吹飛ばされて墜落するからね。出ちゃいかん」 老博士は重ねて河合に注意をした。彼はうれしく思って、あつく礼をいった。博士は、軽く肯いた。それから、 「そうだ。君たち少年は四人だったな」 「ええ、そうです」 「そうか。君たち少年が本艇に乗ってくれたので、今わしはたいへん気が強い。これはわしからお礼をいうよ」 「はあ、どうしてですか」 河合は腑に落ちないので、問い返した。 「わしはこの年齢であるから、もう先はないが、君たち少年はこれから五十年も六十年も生きられるのだ。わしたちが成功させることができなかった事業は、ぜひ君たち四人の少年が継いで、成功させてほしいものだ」 老博士はしんみりとした調子でいって、河合少年の肩を叩いた。 「はい。皆にそういって、しっかりやります。しかし博士。今度の火星探険はもう失敗ときまったのですか」 河合は尋ねた。老博士のことばがそのように響いたからである。 博士はしばらく黙っていた。白い髭がこまかく慄えていた。やがて博士は口を開いた。 「まだ、はっきりしたことは分らぬ、だがね、河合少年。うまく火星に着陸できたとしても次に火星から地球へ戻るときには新しい宇宙艇を建造しなければならないだろう。これはたいへんな大事業だ。それに君たち少年の力が絶対に必要なのだ。そのことは今に分るだろう。万一のときには、わしの部屋にある緑色のトランク――それには第一号から第十号までの番号がうってあるがそれを君たちに贈るから、大事にしてくれたまえ。それはきっと君たちを助けるだろう」 「はあ。そのトランクの中には、何が入っているのですか」 「それはね、わしが永年苦心して作った設計図などが入っているのだ。そのときになれば分るよ」 「博士。それでは、この宇宙艇では、もう地球へ戻れないのですか」 「多分、戻れないだろう。帰還用の燃料は殆んどなくなったし、艇もこのとおり大損傷を蒙っているしね、それにまだいろいろ心配していることがあるんだ。おお、そうだ。こうしてはいられない、またゆっくり話をしてあげようね」 老博士は、大事な用事を思い出したと見え、すたすたとむこうへ行ってしまった。 それから河合は食堂へ行った。 そこには仲間が集っていた。山木もいた。張もいた。ネッドの顔も。皆無事であった。運がよかったのだ。ただ張だけが右脚に打撲傷を負っていて、足をひいていた。 河合少年は、老博士からいわれた話を、ここで皆にして聞かせた。 この宇宙艇では地球へ戻れない、という話は一同を失望させた。河合は一同を励まさねばならなかった。デニー博士の信頼と期待とを破らないように、これから一層勉強をしなければならない。これは地球人類の光栄と幸福のために、ぜひそうしなければならないのだと力説して、ようやく一同の気を引立てることができた。折からマートン技師が入ってきた。彼もまた無事だったが、衣服は油ですっかり汚れ切っていた。またエンジンと組打をやって大奮闘をしたのであろう。 「おお、皆無事だったな。見たかね、火星の表面を。宇宙塵圏を通り抜けたので、今はすっかり晴れて、火星の表面がよく見えるよ。火星の運河というのを知っているね。あれもちゃんと見えるよ。さあ早く、展望室へ行ってごらん」 そういわれて、四少年は飛出していった。そして展望台へ駆けのぼった。 おお、見える見える。火星の表面が明るく見える。火星の昼なんだ。それはもう地球を上空から見下ろすのと大差はなかった。 緑色の長い条が、蜘蛛の巣のように走っている。あれが火星の運河にちがいない。 が、それは運河ではなさそうだ。まだはっきりはしないが、何だか森林が直線状に続いているように見える。 火星の陸地は、褐色であった。やはり土があると見える。 海らしいものも見える。しかし地球の大洋を見なれた目には、あまりに小さい海だ。まるで湖のように見える。 一体本艇は、どのへんに着陸するのであろうか。火星の生物は、本艇をもう見つけているだろうか。どこかに火星の生物の飛んでいる姿は見えないであろうか。 少年たちは思い思いに想像を逞しくしている。神経衰弱だったネッドまでが、奇異の目を光らせて、下界に眺め入っている。 が、突然椿事が起った。 「総員、エンジン室へ集れ」 けたたましい警鈴と、悲痛な叫び声。それが終らないうちに艇は嵐の中に巻込まれたような妙な音をたて始め、そしてぐんぐん下へ落ちて行くのが感じられた。 「墜落だ。あっ、火事だ。尾部から煙の尾を曳いているぞ」 さっきまで無事進空を続けていた宇宙艇であったが、火星の高度二万メートルのところから急に錐揉状態に陥って煙の尾を曳きながら墜落を始めたのだ。 老博士以下の運命は、どうなるか。
さっきまで無事進空を続けていた宇宙艇はどうなりましたか。
さっきまで無事進空を続けていた宇宙艇は、火星の高度二万メートルのところから急に錐揉状態に陥って煙の尾を曳きながら墜落を始めました。
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エンジン室の様子は、戦場のようにものすごかった。  艇長デニー博士は、一段と高い指揮台の上に立ちあがり、声をからして次から次へと伝令を出した。博士の顔は、血がたれそうにまっ赤で、灰色の頭髪は風に吹かれる枯れすすきの原のように逆立ち、博士の両眼は皿のように大きく見開かれたままだった。 「界磁電圧を六百ボルトまであげろ。……発電機がこわれたっていい。あと五分間もてばいいんだ。……第三電動機、回転をあげろ。三千八百回転まで、油圧を上げろ……」  老博士の声は、まるで若者のように響いた。  四少年も、あっちへ走り、こっちへ走りして力を添える。  マートン技師と河合少年が、まるで二人三脚をやっているように、身体をくっつけ合って配電盤の方へ走る。  張は、界磁用抵抗器のハンドルにぶら下って、両足をばたばたやっている。  ネッドは――ああ可哀そうに頭から黒い油をあびてしまった。  山木は、鋼鉄の梁の上によじのぼり、そこに据えつけてあった大きな双眼鏡にかじりついて、外を見ている。 「……あと一万三千メートル。艇はすこし西へ流れた。……沙漠だ。広い沙漠だ。湖が見える。大きな輪がいくつも見える。何だかわからない……」  山木は、双眼鏡の中に入ってくるものをとらえて、片っ端から言葉に直す。 「まだか、まだか、マートン技師」  デニー博士の声が、爆風のように響く。その答はない。 「マートン技師。どうした……」  すると漸くマートンの右手があがった。と博士の肩がぶるぶると慄えた。 「重力中和機の全部。スイッチ入れろ」 「よいしょッ」  と、ぐぐぐぐッと地鳴りのような響がして、けたたましく警鈴が鳴りだした。 「ああッ」 「うーむ……」  エンジン室の全員が、電気に引懸ったように呻った。そして誰もが、死の苦悶のような表情で、目を閉じ、歯を喰いしばった。  ネッドは、油の海へいやというほど顔をおしつけられた。張は配電盤へおしつけられ、服のお尻のところへ火花がぱちぱち飛んだ。河合はマートン技師の股ぐらへ首をつっこんでしまった。山木は、後へ急に引かれて、鋼鉄の梁に宙ぶらりんとなった。  時間にして四十秒の短い間だったが、人々はそれを百年のように永く感じた。その間人々の息は停り、心臓さえ、はたと停ってしまったように思った。 「うまく行ったぞ。重力は減った。墜落の速度は落ちた。た、た、助かるぞ、これなら……」  最初に声を出したのは、艇長デニー博士であった。博士の最後的努力が遂に効を奏したのだった。  嵐が急にやんだように、狂瀾怒濤が一時に鳴りを鎮めたように、乗組員たちの気分は俄かにさわやかとなった。立っていた者は、へたへたとその場に崩れるように尻餅をついた。  油の海の中に気を失っているネッドが、河合によって助け起された。そこへマートン技師が駆けつけて、活を入れてくれたので、ネッドは息をふきかえした。助けられた者も、助けた者も、共に顔はまっ黒で、全身から油がしたたり、まるで油坊主のようであった。 「……高度五百メートル、六百メートル。少し上昇していきます」  いつ、元の双眼鏡へ戻ったか、山木が元気な声で叫んだ。  と、デニー博士がよろよろとよろめきながら、指揮台の手すりを力に立上った。 「マートン技師。重力中和機を調整するのだ。着陸用意。舵を下げろ。五度へ下げろ。それから零度へ戻せ……」  マートンが、油をはねとばしながら駈け出した。 「……大きな密林だ。密林だ。あっ、密林が切れて、今度は海だ。海、海……」  山木が叫ぶ。 「右旋回……」デニー博士の声。 「なに、やっぱり駄目か。……噴流器の右側の列を使うんだ。早く早くしろ」  博士のこの言葉がなかったら、宇宙艇はむざんにも火星の海に頭を突込んで沈んでしまったろう。そうなれば折角ここまで宇宙艇を護りつづけてきたデニー博士以下の乗組員たちも、哀れ、火星着陸の声を聞くと共に異境の海に全員溺死してしまったであろう。博士の沈着にして果断な処置が、危機一髪のところで全員を救ったのだ。 「沙漠! 沙漠!」  右側の噴流器から、その全部ではないが、二三本の猛烈なる黒色瓦斯を吹きだしたので、宇宙艇はお尻を右に曲げたとたんに、海が無くなって、白い沙漠が現れた。それから四五秒後に、轟然たる音響と共に、宇宙艇の腹部が砂原に接触した。これこそ、記録すべき火星着陸の瞬間だった。 「開放……」  エンジンは外された。弾力はまだ残っていた。宇宙艇は沙漠のまん中を、濛々と砂煙をあげてなおも滑走した。  が、何が幸いになるか分らないもので、この沙漠着陸のおかげで、宇宙艇の尾部における火災が俄かに下火となった。 この宇宙艇では地球へ戻れない、という話は一同を失望させた。河合は一同を励まさねばならなかった。デニー博士の信頼と期待とを破らないように、これから一層勉強をしなければならない。これは地球人類の光栄と幸福のために、ぜひそうしなければならないのだと力説して、ようやく一同の気を引立てることができた。折からマートン技師が入ってきた。彼もまた無事だったが、衣服は油ですっかり汚れ切っていた。またエンジンと組打をやって大奮闘をしたのであろう。 「おお、皆無事だったな。見たかね、火星の表面を。宇宙塵圏を通り抜けたので、今はすっかり晴れて、火星の表面がよく見えるよ。火星の運河というのを知っているね。あれもちゃんと見えるよ。さあ早く、展望室へ行ってごらん」 そういわれて、四少年は飛出していった。そして展望台へ駆けのぼった。 おお、見える見える。火星の表面が明るく見える。火星の昼なんだ。それはもう地球を上空から見下ろすのと大差はなかった。 緑色の長い条が、蜘蛛の巣のように走っている。あれが火星の運河にちがいない。 が、それは運河ではなさそうだ。まだはっきりはしないが、何だか森林が直線状に続いているように見える。 火星の陸地は、褐色であった。やはり土があると見える。 海らしいものも見える。しかし地球の大洋を見なれた目には、あまりに小さい海だ。まるで湖のように見える。 一体本艇は、どのへんに着陸するのであろうか。火星の生物は、本艇をもう見つけているだろうか。どこかに火星の生物の飛んでいる姿は見えないであろうか。 少年たちは思い思いに想像を逞しくしている。神経衰弱だったネッドまでが、奇異の目を光らせて、下界に眺め入っている。 が、突然椿事が起った。 「総員、エンジン室へ集れ」 けたたましい警鈴と、悲痛な叫び声。それが終らないうちに艇は嵐の中に巻込まれたような妙な音をたて始め、そしてぐんぐん下へ落ちて行くのが感じられた。 「墜落だ。あっ、火事だ。尾部から煙の尾を曳いているぞ」 さっきまで無事進空を続けていた宇宙艇であったが、火星の高度二万メートルのところから急に錐揉状態に陥って煙の尾を曳きながら墜落を始めたのだ。 老博士以下の運命は、どうなるか。
博士の顔は、どのような様子でしたか。
博士の顔は、血がたれそうにまっ赤で、灰色の頭髪は風に吹かれる枯れすすきの原のように逆立ち、博士の両眼は皿のように大きく見開かれたままでした。
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エンジン室の様子は、戦場のようにものすごかった。  艇長デニー博士は、一段と高い指揮台の上に立ちあがり、声をからして次から次へと伝令を出した。博士の顔は、血がたれそうにまっ赤で、灰色の頭髪は風に吹かれる枯れすすきの原のように逆立ち、博士の両眼は皿のように大きく見開かれたままだった。 「界磁電圧を六百ボルトまであげろ。……発電機がこわれたっていい。あと五分間もてばいいんだ。……第三電動機、回転をあげろ。三千八百回転まで、油圧を上げろ……」  老博士の声は、まるで若者のように響いた。  四少年も、あっちへ走り、こっちへ走りして力を添える。  マートン技師と河合少年が、まるで二人三脚をやっているように、身体をくっつけ合って配電盤の方へ走る。  張は、界磁用抵抗器のハンドルにぶら下って、両足をばたばたやっている。  ネッドは――ああ可哀そうに頭から黒い油をあびてしまった。  山木は、鋼鉄の梁の上によじのぼり、そこに据えつけてあった大きな双眼鏡にかじりついて、外を見ている。 「……あと一万三千メートル。艇はすこし西へ流れた。……沙漠だ。広い沙漠だ。湖が見える。大きな輪がいくつも見える。何だかわからない……」  山木は、双眼鏡の中に入ってくるものをとらえて、片っ端から言葉に直す。 「まだか、まだか、マートン技師」  デニー博士の声が、爆風のように響く。その答はない。 「マートン技師。どうした……」  すると漸くマートンの右手があがった。と博士の肩がぶるぶると慄えた。 「重力中和機の全部。スイッチ入れろ」 「よいしょッ」  と、ぐぐぐぐッと地鳴りのような響がして、けたたましく警鈴が鳴りだした。 「ああッ」 「うーむ……」  エンジン室の全員が、電気に引懸ったように呻った。そして誰もが、死の苦悶のような表情で、目を閉じ、歯を喰いしばった。  ネッドは、油の海へいやというほど顔をおしつけられた。張は配電盤へおしつけられ、服のお尻のところへ火花がぱちぱち飛んだ。河合はマートン技師の股ぐらへ首をつっこんでしまった。山木は、後へ急に引かれて、鋼鉄の梁に宙ぶらりんとなった。  時間にして四十秒の短い間だったが、人々はそれを百年のように永く感じた。その間人々の息は停り、心臓さえ、はたと停ってしまったように思った。 「うまく行ったぞ。重力は減った。墜落の速度は落ちた。た、た、助かるぞ、これなら……」  最初に声を出したのは、艇長デニー博士であった。博士の最後的努力が遂に効を奏したのだった。  嵐が急にやんだように、狂瀾怒濤が一時に鳴りを鎮めたように、乗組員たちの気分は俄かにさわやかとなった。立っていた者は、へたへたとその場に崩れるように尻餅をついた。  油の海の中に気を失っているネッドが、河合によって助け起された。そこへマートン技師が駆けつけて、活を入れてくれたので、ネッドは息をふきかえした。助けられた者も、助けた者も、共に顔はまっ黒で、全身から油がしたたり、まるで油坊主のようであった。 「……高度五百メートル、六百メートル。少し上昇していきます」  いつ、元の双眼鏡へ戻ったか、山木が元気な声で叫んだ。  と、デニー博士がよろよろとよろめきながら、指揮台の手すりを力に立上った。 「マートン技師。重力中和機を調整するのだ。着陸用意。舵を下げろ。五度へ下げろ。それから零度へ戻せ……」  マートンが、油をはねとばしながら駈け出した。 「……大きな密林だ。密林だ。あっ、密林が切れて、今度は海だ。海、海……」  山木が叫ぶ。 「右旋回……」デニー博士の声。 「なに、やっぱり駄目か。……噴流器の右側の列を使うんだ。早く早くしろ」  博士のこの言葉がなかったら、宇宙艇はむざんにも火星の海に頭を突込んで沈んでしまったろう。そうなれば折角ここまで宇宙艇を護りつづけてきたデニー博士以下の乗組員たちも、哀れ、火星着陸の声を聞くと共に異境の海に全員溺死してしまったであろう。博士の沈着にして果断な処置が、危機一髪のところで全員を救ったのだ。 「沙漠! 沙漠!」  右側の噴流器から、その全部ではないが、二三本の猛烈なる黒色瓦斯を吹きだしたので、宇宙艇はお尻を右に曲げたとたんに、海が無くなって、白い沙漠が現れた。それから四五秒後に、轟然たる音響と共に、宇宙艇の腹部が砂原に接触した。これこそ、記録すべき火星着陸の瞬間だった。 「開放……」  エンジンは外された。弾力はまだ残っていた。宇宙艇は沙漠のまん中を、濛々と砂煙をあげてなおも滑走した。  が、何が幸いになるか分らないもので、この沙漠着陸のおかげで、宇宙艇の尾部における火災が俄かに下火となった。 この宇宙艇では地球へ戻れない、という話は一同を失望させた。河合は一同を励まさねばならなかった。デニー博士の信頼と期待とを破らないように、これから一層勉強をしなければならない。これは地球人類の光栄と幸福のために、ぜひそうしなければならないのだと力説して、ようやく一同の気を引立てることができた。折からマートン技師が入ってきた。彼もまた無事だったが、衣服は油ですっかり汚れ切っていた。またエンジンと組打をやって大奮闘をしたのであろう。 「おお、皆無事だったな。見たかね、火星の表面を。宇宙塵圏を通り抜けたので、今はすっかり晴れて、火星の表面がよく見えるよ。火星の運河というのを知っているね。あれもちゃんと見えるよ。さあ早く、展望室へ行ってごらん」 そういわれて、四少年は飛出していった。そして展望台へ駆けのぼった。 おお、見える見える。火星の表面が明るく見える。火星の昼なんだ。それはもう地球を上空から見下ろすのと大差はなかった。 緑色の長い条が、蜘蛛の巣のように走っている。あれが火星の運河にちがいない。 が、それは運河ではなさそうだ。まだはっきりはしないが、何だか森林が直線状に続いているように見える。 火星の陸地は、褐色であった。やはり土があると見える。 海らしいものも見える。しかし地球の大洋を見なれた目には、あまりに小さい海だ。まるで湖のように見える。 一体本艇は、どのへんに着陸するのであろうか。火星の生物は、本艇をもう見つけているだろうか。どこかに火星の生物の飛んでいる姿は見えないであろうか。 少年たちは思い思いに想像を逞しくしている。神経衰弱だったネッドまでが、奇異の目を光らせて、下界に眺め入っている。 が、突然椿事が起った。 「総員、エンジン室へ集れ」 けたたましい警鈴と、悲痛な叫び声。それが終らないうちに艇は嵐の中に巻込まれたような妙な音をたて始め、そしてぐんぐん下へ落ちて行くのが感じられた。 「墜落だ。あっ、火事だ。尾部から煙の尾を曳いているぞ」 さっきまで無事進空を続けていた宇宙艇であったが、火星の高度二万メートルのところから急に錐揉状態に陥って煙の尾を曳きながら墜落を始めたのだ。 老博士以下の運命は、どうなるか。
艇長デニー博士は、どのように伝令を出しましたか。
艇長デニー博士は、一段と高い指揮台の上に立ちあがり、声をからして次から次へと伝令を出しました。
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エンジン室の様子は、戦場のようにものすごかった。  艇長デニー博士は、一段と高い指揮台の上に立ちあがり、声をからして次から次へと伝令を出した。博士の顔は、血がたれそうにまっ赤で、灰色の頭髪は風に吹かれる枯れすすきの原のように逆立ち、博士の両眼は皿のように大きく見開かれたままだった。 「界磁電圧を六百ボルトまであげろ。……発電機がこわれたっていい。あと五分間もてばいいんだ。……第三電動機、回転をあげろ。三千八百回転まで、油圧を上げろ……」  老博士の声は、まるで若者のように響いた。  四少年も、あっちへ走り、こっちへ走りして力を添える。  マートン技師と河合少年が、まるで二人三脚をやっているように、身体をくっつけ合って配電盤の方へ走る。  張は、界磁用抵抗器のハンドルにぶら下って、両足をばたばたやっている。  ネッドは――ああ可哀そうに頭から黒い油をあびてしまった。  山木は、鋼鉄の梁の上によじのぼり、そこに据えつけてあった大きな双眼鏡にかじりついて、外を見ている。 「……あと一万三千メートル。艇はすこし西へ流れた。……沙漠だ。広い沙漠だ。湖が見える。大きな輪がいくつも見える。何だかわからない……」  山木は、双眼鏡の中に入ってくるものをとらえて、片っ端から言葉に直す。 「まだか、まだか、マートン技師」  デニー博士の声が、爆風のように響く。その答はない。 「マートン技師。どうした……」  すると漸くマートンの右手があがった。と博士の肩がぶるぶると慄えた。 「重力中和機の全部。スイッチ入れろ」 「よいしょッ」  と、ぐぐぐぐッと地鳴りのような響がして、けたたましく警鈴が鳴りだした。 「ああッ」 「うーむ……」  エンジン室の全員が、電気に引懸ったように呻った。そして誰もが、死の苦悶のような表情で、目を閉じ、歯を喰いしばった。  ネッドは、油の海へいやというほど顔をおしつけられた。張は配電盤へおしつけられ、服のお尻のところへ火花がぱちぱち飛んだ。河合はマートン技師の股ぐらへ首をつっこんでしまった。山木は、後へ急に引かれて、鋼鉄の梁に宙ぶらりんとなった。  時間にして四十秒の短い間だったが、人々はそれを百年のように永く感じた。その間人々の息は停り、心臓さえ、はたと停ってしまったように思った。 「うまく行ったぞ。重力は減った。墜落の速度は落ちた。た、た、助かるぞ、これなら……」  最初に声を出したのは、艇長デニー博士であった。博士の最後的努力が遂に効を奏したのだった。  嵐が急にやんだように、狂瀾怒濤が一時に鳴りを鎮めたように、乗組員たちの気分は俄かにさわやかとなった。立っていた者は、へたへたとその場に崩れるように尻餅をついた。  油の海の中に気を失っているネッドが、河合によって助け起された。そこへマートン技師が駆けつけて、活を入れてくれたので、ネッドは息をふきかえした。助けられた者も、助けた者も、共に顔はまっ黒で、全身から油がしたたり、まるで油坊主のようであった。 「……高度五百メートル、六百メートル。少し上昇していきます」  いつ、元の双眼鏡へ戻ったか、山木が元気な声で叫んだ。  と、デニー博士がよろよろとよろめきながら、指揮台の手すりを力に立上った。 「マートン技師。重力中和機を調整するのだ。着陸用意。舵を下げろ。五度へ下げろ。それから零度へ戻せ……」  マートンが、油をはねとばしながら駈け出した。 「……大きな密林だ。密林だ。あっ、密林が切れて、今度は海だ。海、海……」  山木が叫ぶ。 「右旋回……」デニー博士の声。 「なに、やっぱり駄目か。……噴流器の右側の列を使うんだ。早く早くしろ」  博士のこの言葉がなかったら、宇宙艇はむざんにも火星の海に頭を突込んで沈んでしまったろう。そうなれば折角ここまで宇宙艇を護りつづけてきたデニー博士以下の乗組員たちも、哀れ、火星着陸の声を聞くと共に異境の海に全員溺死してしまったであろう。博士の沈着にして果断な処置が、危機一髪のところで全員を救ったのだ。 「沙漠! 沙漠!」  右側の噴流器から、その全部ではないが、二三本の猛烈なる黒色瓦斯を吹きだしたので、宇宙艇はお尻を右に曲げたとたんに、海が無くなって、白い沙漠が現れた。それから四五秒後に、轟然たる音響と共に、宇宙艇の腹部が砂原に接触した。これこそ、記録すべき火星着陸の瞬間だった。 「開放……」  エンジンは外された。弾力はまだ残っていた。宇宙艇は沙漠のまん中を、濛々と砂煙をあげてなおも滑走した。  が、何が幸いになるか分らないもので、この沙漠着陸のおかげで、宇宙艇の尾部における火災が俄かに下火となった。 この宇宙艇では地球へ戻れない、という話は一同を失望させた。河合は一同を励まさねばならなかった。デニー博士の信頼と期待とを破らないように、これから一層勉強をしなければならない。これは地球人類の光栄と幸福のために、ぜひそうしなければならないのだと力説して、ようやく一同の気を引立てることができた。折からマートン技師が入ってきた。彼もまた無事だったが、衣服は油ですっかり汚れ切っていた。またエンジンと組打をやって大奮闘をしたのであろう。 「おお、皆無事だったな。見たかね、火星の表面を。宇宙塵圏を通り抜けたので、今はすっかり晴れて、火星の表面がよく見えるよ。火星の運河というのを知っているね。あれもちゃんと見えるよ。さあ早く、展望室へ行ってごらん」 そういわれて、四少年は飛出していった。そして展望台へ駆けのぼった。 おお、見える見える。火星の表面が明るく見える。火星の昼なんだ。それはもう地球を上空から見下ろすのと大差はなかった。 緑色の長い条が、蜘蛛の巣のように走っている。あれが火星の運河にちがいない。 が、それは運河ではなさそうだ。まだはっきりはしないが、何だか森林が直線状に続いているように見える。 火星の陸地は、褐色であった。やはり土があると見える。 海らしいものも見える。しかし地球の大洋を見なれた目には、あまりに小さい海だ。まるで湖のように見える。 一体本艇は、どのへんに着陸するのであろうか。火星の生物は、本艇をもう見つけているだろうか。どこかに火星の生物の飛んでいる姿は見えないであろうか。 少年たちは思い思いに想像を逞しくしている。神経衰弱だったネッドまでが、奇異の目を光らせて、下界に眺め入っている。 が、突然椿事が起った。 「総員、エンジン室へ集れ」 けたたましい警鈴と、悲痛な叫び声。それが終らないうちに艇は嵐の中に巻込まれたような妙な音をたて始め、そしてぐんぐん下へ落ちて行くのが感じられた。 「墜落だ。あっ、火事だ。尾部から煙の尾を曳いているぞ」 さっきまで無事進空を続けていた宇宙艇であったが、火星の高度二万メートルのところから急に錐揉状態に陥って煙の尾を曳きながら墜落を始めたのだ。 老博士以下の運命は、どうなるか。
エンジン室の全員はどのように呻りましたか。
エンジン室の全員は、電気に引懸ったように呻りました。
JCRRAG_010585
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滑走すること約三千メートルで宇宙艇はやっと停止したのだった。 全員は、おどりあがって歓呼の声をあげた。誰の目からも、よろこびの涙があふれて頬をぬらしていた。そうでもあろう。火星への大航空が遂に自分たちの手によって完成したのである。乗組員はわずか十名たらずの少人数で、この困難な大事業を見事にやりとげたのであった。生命の危険にさらされること幾度か。それを切抜けることができたのは全くふしぎでならぬ。いや、これこそ全員が、互に助けあい、自分の勝手を行わず、指揮者デニー博士の命令に従い、すこしも乱れることなく組織の最高能率を発揮した結果に外ならないのだ。 そして友を救おうとして、自分を救うことにもなったのだ。美しい友情だ。愛の勝利であった。 艇長デニー博士のよろこびは、誰よりも大きかった。火星探険協会を起こしてからここに二十五年、遂にその大事業は成功したのだ。その間、博士は、或る時は山師とあざけられ、また或る時は資金は尽きて、ナイフやフォークまで売り払わねばならなかったこともあった。 だが今やそんなことはすっかり忘れていいのである。 だが博士はこの大歓喜に酔ってばかりいるわけにはいかなかった。というわけは、博士が設計し建造したこの宇宙艇は、今漸く火星に着陸したばかりである。仕事はそれで終ったのではない。いやむしろ仕事は今後にあるのだ。 着陸したところは、地球の上ではない。勝手のわからない火星の上だ。気候、風土の違った火星の上である。空気も稀薄だ。重力もたいへん違っている。温度も激しく変る住みにくい土地だ。更に、火星においては、どんな生物にぶつかるかしれない。彼等の心とわれら地球人類の心とが、果してうまく通うであろうか。自分たち一行は、火星生物の恐るべき迫害にさらされるのではなかろうか。ちょうどわれら人類の祖先が、かの有史前において、昼といわず夜といわず、猛獣毒蛇の襲撃にあい、毎日の如く大きい犠牲を払いながら苦闘と忍耐とをつづけたように。――デニー博士は、大歓喜に酔うことは一時預けとして、直ちに適切な命令を次々に発しなければならないのだ。人類最高の名誉をになう彼の部下を率い、そしてこれらの部下を保護し、更に進んで火星生物との間にむずかしい交渉を開始し、それを平和的に解決しなければならないのだ。思えば思えば、デニー博士の上にかかっている責任は、測りしられぬほど重且つ大である。 「各室の空気洩れを点検!」 博士が第一番に出した命令は、これであった。空気洩れの箇所がないか、調べるのであった。火星には空気が少い。これまでに研究せられたところでは、火星の空気の濃さは地球で一番高いといわれる標高八千八百八十二メートルのエベレスト峯頂上の空気よりももっと稀薄であろうといわれていた。それは地上の気圧の約三分の一に相当するが、これによって火星の大気は、地球のそれの四分の一かそれ以下であろうと想像された。 だからもし宇宙艇が、各室の空気洩れの穴をそのままに放っておけば、艇内の空気はどんどん外へ出ていってしまい、艇内の人々は呼吸困難に陥らなければならない。だから空気洩れの箇所を調べ、もしもそれがあるときはその部屋を犠牲にして、次の部屋との境にある密閉戸を下ろさねば危険となるのだ。しかもこのことは大急ぎでやらなければならなかった。 生憎と宇宙艇はこれまでの難航によって、方々が壊れた。その都度応急処置をとったのであるが、何分にも航行の仕事に手がかかって、空気洩れ防止の方は十分に行われていなかった。デニー博士が、まずこの始末について第一の命令を発したのは正しかった。 全員は各室を駆けまわり、すこし惜しかったけれど、漏洩のある部屋はどんどん捨てて、それより手前の密閉戸を下ろしていった。 その作業は、各員の努力によって、早くも五分後には大体終了した。 「全員、上陸用空気服を点検!」 第二の命令が、デニー博士の口をついて出た。こんどは、各自の上陸用空気服の点検であった。上陸用というのは、火星へ上陸することを意味しているのであって、この艇内から出るには普通のままの服装では出られない。まず酸素不足などを補うために、特別製の圧搾空気をつめた槽から空気を送って呼吸しなければならぬ。それがためには、潜水服に似たものを着、そして潜水兜に似たものを頭に被り、空気槽を背負わなければならなかった。それだけではない。火星の上には、温度の激変が起ると思われているので、それにはこの空気服がスイッチ一つで温められるようになっていなければならない。いわゆる電熱服である。 普通の電熱服は服についている紐線の端のプラグを、艇内の配電線のコンセントへさしこめば、それで電流が通って服が暖くなるわけであったが、上陸用空気服では、そうはいかない。艇から長い紐線を引張って歩くわけにはいかないからだ。そこで特別の電熱が用意されてあった。それは極く小さな原子力エンジンに直結された発電装置であった。この原子力発電機は、その他いろいろな仕事をも、つとめる源であった。 上陸用空気服の点検は終った。各自はいつでもこれを着用できる準備をととのえた。 デニー博士は、第三の命令を発した。それは各自が、それぞれの新部署につくことであった。新部署というのは、火星の上で生活をするための仕事の分担だった。 河合は、マートン技師の下でエンジン係をやることになったし、ネッドは食堂の給仕係を、張は料理人を勤めることになり、前と同じ役目に戻ったわけだ。山木は見張員として活躍することとなり、正式に六方向テレビジョン――通称テレビ見張器の前に席が出来た。山木はよく気がつき、むしろ過敏すぎる神経の持主だから、この役はうってつけだ。 その山木は、博士の第三命令の直後、テレビ見張器の映写幕に向い、全神経を目に集めて、四方を見張っていたが、その彼は何を見つけたか、突然、 「おやッ」 と呻いて、テレビ見張器の拡大ハンドルを掴むと、それを急いで廻しはじめた。
滑走してからどのくらいの距離で宇宙艇は停止しましたか。
滑走すること約三千メートルで宇宙艇はやっと停止しました。
JCRRAG_010586
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滑走すること約三千メートルで宇宙艇はやっと停止したのだった。 全員は、おどりあがって歓呼の声をあげた。誰の目からも、よろこびの涙があふれて頬をぬらしていた。そうでもあろう。火星への大航空が遂に自分たちの手によって完成したのである。乗組員はわずか十名たらずの少人数で、この困難な大事業を見事にやりとげたのであった。生命の危険にさらされること幾度か。それを切抜けることができたのは全くふしぎでならぬ。いや、これこそ全員が、互に助けあい、自分の勝手を行わず、指揮者デニー博士の命令に従い、すこしも乱れることなく組織の最高能率を発揮した結果に外ならないのだ。 そして友を救おうとして、自分を救うことにもなったのだ。美しい友情だ。愛の勝利であった。 艇長デニー博士のよろこびは、誰よりも大きかった。火星探険協会を起こしてからここに二十五年、遂にその大事業は成功したのだ。その間、博士は、或る時は山師とあざけられ、また或る時は資金は尽きて、ナイフやフォークまで売り払わねばならなかったこともあった。 だが今やそんなことはすっかり忘れていいのである。 だが博士はこの大歓喜に酔ってばかりいるわけにはいかなかった。というわけは、博士が設計し建造したこの宇宙艇は、今漸く火星に着陸したばかりである。仕事はそれで終ったのではない。いやむしろ仕事は今後にあるのだ。 着陸したところは、地球の上ではない。勝手のわからない火星の上だ。気候、風土の違った火星の上である。空気も稀薄だ。重力もたいへん違っている。温度も激しく変る住みにくい土地だ。更に、火星においては、どんな生物にぶつかるかしれない。彼等の心とわれら地球人類の心とが、果してうまく通うであろうか。自分たち一行は、火星生物の恐るべき迫害にさらされるのではなかろうか。ちょうどわれら人類の祖先が、かの有史前において、昼といわず夜といわず、猛獣毒蛇の襲撃にあい、毎日の如く大きい犠牲を払いながら苦闘と忍耐とをつづけたように。――デニー博士は、大歓喜に酔うことは一時預けとして、直ちに適切な命令を次々に発しなければならないのだ。人類最高の名誉をになう彼の部下を率い、そしてこれらの部下を保護し、更に進んで火星生物との間にむずかしい交渉を開始し、それを平和的に解決しなければならないのだ。思えば思えば、デニー博士の上にかかっている責任は、測りしられぬほど重且つ大である。 「各室の空気洩れを点検!」 博士が第一番に出した命令は、これであった。空気洩れの箇所がないか、調べるのであった。火星には空気が少い。これまでに研究せられたところでは、火星の空気の濃さは地球で一番高いといわれる標高八千八百八十二メートルのエベレスト峯頂上の空気よりももっと稀薄であろうといわれていた。それは地上の気圧の約三分の一に相当するが、これによって火星の大気は、地球のそれの四分の一かそれ以下であろうと想像された。 だからもし宇宙艇が、各室の空気洩れの穴をそのままに放っておけば、艇内の空気はどんどん外へ出ていってしまい、艇内の人々は呼吸困難に陥らなければならない。だから空気洩れの箇所を調べ、もしもそれがあるときはその部屋を犠牲にして、次の部屋との境にある密閉戸を下ろさねば危険となるのだ。しかもこのことは大急ぎでやらなければならなかった。 生憎と宇宙艇はこれまでの難航によって、方々が壊れた。その都度応急処置をとったのであるが、何分にも航行の仕事に手がかかって、空気洩れ防止の方は十分に行われていなかった。デニー博士が、まずこの始末について第一の命令を発したのは正しかった。 全員は各室を駆けまわり、すこし惜しかったけれど、漏洩のある部屋はどんどん捨てて、それより手前の密閉戸を下ろしていった。 その作業は、各員の努力によって、早くも五分後には大体終了した。 「全員、上陸用空気服を点検!」 第二の命令が、デニー博士の口をついて出た。こんどは、各自の上陸用空気服の点検であった。上陸用というのは、火星へ上陸することを意味しているのであって、この艇内から出るには普通のままの服装では出られない。まず酸素不足などを補うために、特別製の圧搾空気をつめた槽から空気を送って呼吸しなければならぬ。それがためには、潜水服に似たものを着、そして潜水兜に似たものを頭に被り、空気槽を背負わなければならなかった。それだけではない。火星の上には、温度の激変が起ると思われているので、それにはこの空気服がスイッチ一つで温められるようになっていなければならない。いわゆる電熱服である。 普通の電熱服は服についている紐線の端のプラグを、艇内の配電線のコンセントへさしこめば、それで電流が通って服が暖くなるわけであったが、上陸用空気服では、そうはいかない。艇から長い紐線を引張って歩くわけにはいかないからだ。そこで特別の電熱が用意されてあった。それは極く小さな原子力エンジンに直結された発電装置であった。この原子力発電機は、その他いろいろな仕事をも、つとめる源であった。 上陸用空気服の点検は終った。各自はいつでもこれを着用できる準備をととのえた。 デニー博士は、第三の命令を発した。それは各自が、それぞれの新部署につくことであった。新部署というのは、火星の上で生活をするための仕事の分担だった。 河合は、マートン技師の下でエンジン係をやることになったし、ネッドは食堂の給仕係を、張は料理人を勤めることになり、前と同じ役目に戻ったわけだ。山木は見張員として活躍することとなり、正式に六方向テレビジョン――通称テレビ見張器の前に席が出来た。山木はよく気がつき、むしろ過敏すぎる神経の持主だから、この役はうってつけだ。 その山木は、博士の第三命令の直後、テレビ見張器の映写幕に向い、全神経を目に集めて、四方を見張っていたが、その彼は何を見つけたか、突然、 「おやッ」 と呻いて、テレビ見張器の拡大ハンドルを掴むと、それを急いで廻しはじめた。
宇宙艇が停止したとき、全員はどのような行動をとりましたか。
全員は、おどりあがって歓呼の声をあげました。
JCRRAG_010587
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滑走すること約三千メートルで宇宙艇はやっと停止したのだった。 全員は、おどりあがって歓呼の声をあげた。誰の目からも、よろこびの涙があふれて頬をぬらしていた。そうでもあろう。火星への大航空が遂に自分たちの手によって完成したのである。乗組員はわずか十名たらずの少人数で、この困難な大事業を見事にやりとげたのであった。生命の危険にさらされること幾度か。それを切抜けることができたのは全くふしぎでならぬ。いや、これこそ全員が、互に助けあい、自分の勝手を行わず、指揮者デニー博士の命令に従い、すこしも乱れることなく組織の最高能率を発揮した結果に外ならないのだ。 そして友を救おうとして、自分を救うことにもなったのだ。美しい友情だ。愛の勝利であった。 艇長デニー博士のよろこびは、誰よりも大きかった。火星探険協会を起こしてからここに二十五年、遂にその大事業は成功したのだ。その間、博士は、或る時は山師とあざけられ、また或る時は資金は尽きて、ナイフやフォークまで売り払わねばならなかったこともあった。 だが今やそんなことはすっかり忘れていいのである。 だが博士はこの大歓喜に酔ってばかりいるわけにはいかなかった。というわけは、博士が設計し建造したこの宇宙艇は、今漸く火星に着陸したばかりである。仕事はそれで終ったのではない。いやむしろ仕事は今後にあるのだ。 着陸したところは、地球の上ではない。勝手のわからない火星の上だ。気候、風土の違った火星の上である。空気も稀薄だ。重力もたいへん違っている。温度も激しく変る住みにくい土地だ。更に、火星においては、どんな生物にぶつかるかしれない。彼等の心とわれら地球人類の心とが、果してうまく通うであろうか。自分たち一行は、火星生物の恐るべき迫害にさらされるのではなかろうか。ちょうどわれら人類の祖先が、かの有史前において、昼といわず夜といわず、猛獣毒蛇の襲撃にあい、毎日の如く大きい犠牲を払いながら苦闘と忍耐とをつづけたように。――デニー博士は、大歓喜に酔うことは一時預けとして、直ちに適切な命令を次々に発しなければならないのだ。人類最高の名誉をになう彼の部下を率い、そしてこれらの部下を保護し、更に進んで火星生物との間にむずかしい交渉を開始し、それを平和的に解決しなければならないのだ。思えば思えば、デニー博士の上にかかっている責任は、測りしられぬほど重且つ大である。 「各室の空気洩れを点検!」 博士が第一番に出した命令は、これであった。空気洩れの箇所がないか、調べるのであった。火星には空気が少い。これまでに研究せられたところでは、火星の空気の濃さは地球で一番高いといわれる標高八千八百八十二メートルのエベレスト峯頂上の空気よりももっと稀薄であろうといわれていた。それは地上の気圧の約三分の一に相当するが、これによって火星の大気は、地球のそれの四分の一かそれ以下であろうと想像された。 だからもし宇宙艇が、各室の空気洩れの穴をそのままに放っておけば、艇内の空気はどんどん外へ出ていってしまい、艇内の人々は呼吸困難に陥らなければならない。だから空気洩れの箇所を調べ、もしもそれがあるときはその部屋を犠牲にして、次の部屋との境にある密閉戸を下ろさねば危険となるのだ。しかもこのことは大急ぎでやらなければならなかった。 生憎と宇宙艇はこれまでの難航によって、方々が壊れた。その都度応急処置をとったのであるが、何分にも航行の仕事に手がかかって、空気洩れ防止の方は十分に行われていなかった。デニー博士が、まずこの始末について第一の命令を発したのは正しかった。 全員は各室を駆けまわり、すこし惜しかったけれど、漏洩のある部屋はどんどん捨てて、それより手前の密閉戸を下ろしていった。 その作業は、各員の努力によって、早くも五分後には大体終了した。 「全員、上陸用空気服を点検!」 第二の命令が、デニー博士の口をついて出た。こんどは、各自の上陸用空気服の点検であった。上陸用というのは、火星へ上陸することを意味しているのであって、この艇内から出るには普通のままの服装では出られない。まず酸素不足などを補うために、特別製の圧搾空気をつめた槽から空気を送って呼吸しなければならぬ。それがためには、潜水服に似たものを着、そして潜水兜に似たものを頭に被り、空気槽を背負わなければならなかった。それだけではない。火星の上には、温度の激変が起ると思われているので、それにはこの空気服がスイッチ一つで温められるようになっていなければならない。いわゆる電熱服である。 普通の電熱服は服についている紐線の端のプラグを、艇内の配電線のコンセントへさしこめば、それで電流が通って服が暖くなるわけであったが、上陸用空気服では、そうはいかない。艇から長い紐線を引張って歩くわけにはいかないからだ。そこで特別の電熱が用意されてあった。それは極く小さな原子力エンジンに直結された発電装置であった。この原子力発電機は、その他いろいろな仕事をも、つとめる源であった。 上陸用空気服の点検は終った。各自はいつでもこれを着用できる準備をととのえた。 デニー博士は、第三の命令を発した。それは各自が、それぞれの新部署につくことであった。新部署というのは、火星の上で生活をするための仕事の分担だった。 河合は、マートン技師の下でエンジン係をやることになったし、ネッドは食堂の給仕係を、張は料理人を勤めることになり、前と同じ役目に戻ったわけだ。山木は見張員として活躍することとなり、正式に六方向テレビジョン――通称テレビ見張器の前に席が出来た。山木はよく気がつき、むしろ過敏すぎる神経の持主だから、この役はうってつけだ。 その山木は、博士の第三命令の直後、テレビ見張器の映写幕に向い、全神経を目に集めて、四方を見張っていたが、その彼は何を見つけたか、突然、 「おやッ」 と呻いて、テレビ見張器の拡大ハンドルを掴むと、それを急いで廻しはじめた。
宇宙艇はなぜ方々が壊れたか。
生憎と宇宙艇はこれまでの難航によって、方々が壊れた。
JCRRAG_010588
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滑走すること約三千メートルで宇宙艇はやっと停止したのだった。 全員は、おどりあがって歓呼の声をあげた。誰の目からも、よろこびの涙があふれて頬をぬらしていた。そうでもあろう。火星への大航空が遂に自分たちの手によって完成したのである。乗組員はわずか十名たらずの少人数で、この困難な大事業を見事にやりとげたのであった。生命の危険にさらされること幾度か。それを切抜けることができたのは全くふしぎでならぬ。いや、これこそ全員が、互に助けあい、自分の勝手を行わず、指揮者デニー博士の命令に従い、すこしも乱れることなく組織の最高能率を発揮した結果に外ならないのだ。 そして友を救おうとして、自分を救うことにもなったのだ。美しい友情だ。愛の勝利であった。 艇長デニー博士のよろこびは、誰よりも大きかった。火星探険協会を起こしてからここに二十五年、遂にその大事業は成功したのだ。その間、博士は、或る時は山師とあざけられ、また或る時は資金は尽きて、ナイフやフォークまで売り払わねばならなかったこともあった。 だが今やそんなことはすっかり忘れていいのである。 だが博士はこの大歓喜に酔ってばかりいるわけにはいかなかった。というわけは、博士が設計し建造したこの宇宙艇は、今漸く火星に着陸したばかりである。仕事はそれで終ったのではない。いやむしろ仕事は今後にあるのだ。 着陸したところは、地球の上ではない。勝手のわからない火星の上だ。気候、風土の違った火星の上である。空気も稀薄だ。重力もたいへん違っている。温度も激しく変る住みにくい土地だ。更に、火星においては、どんな生物にぶつかるかしれない。彼等の心とわれら地球人類の心とが、果してうまく通うであろうか。自分たち一行は、火星生物の恐るべき迫害にさらされるのではなかろうか。ちょうどわれら人類の祖先が、かの有史前において、昼といわず夜といわず、猛獣毒蛇の襲撃にあい、毎日の如く大きい犠牲を払いながら苦闘と忍耐とをつづけたように。――デニー博士は、大歓喜に酔うことは一時預けとして、直ちに適切な命令を次々に発しなければならないのだ。人類最高の名誉をになう彼の部下を率い、そしてこれらの部下を保護し、更に進んで火星生物との間にむずかしい交渉を開始し、それを平和的に解決しなければならないのだ。思えば思えば、デニー博士の上にかかっている責任は、測りしられぬほど重且つ大である。 「各室の空気洩れを点検!」 博士が第一番に出した命令は、これであった。空気洩れの箇所がないか、調べるのであった。火星には空気が少い。これまでに研究せられたところでは、火星の空気の濃さは地球で一番高いといわれる標高八千八百八十二メートルのエベレスト峯頂上の空気よりももっと稀薄であろうといわれていた。それは地上の気圧の約三分の一に相当するが、これによって火星の大気は、地球のそれの四分の一かそれ以下であろうと想像された。 だからもし宇宙艇が、各室の空気洩れの穴をそのままに放っておけば、艇内の空気はどんどん外へ出ていってしまい、艇内の人々は呼吸困難に陥らなければならない。だから空気洩れの箇所を調べ、もしもそれがあるときはその部屋を犠牲にして、次の部屋との境にある密閉戸を下ろさねば危険となるのだ。しかもこのことは大急ぎでやらなければならなかった。 生憎と宇宙艇はこれまでの難航によって、方々が壊れた。その都度応急処置をとったのであるが、何分にも航行の仕事に手がかかって、空気洩れ防止の方は十分に行われていなかった。デニー博士が、まずこの始末について第一の命令を発したのは正しかった。 全員は各室を駆けまわり、すこし惜しかったけれど、漏洩のある部屋はどんどん捨てて、それより手前の密閉戸を下ろしていった。 その作業は、各員の努力によって、早くも五分後には大体終了した。 「全員、上陸用空気服を点検!」 第二の命令が、デニー博士の口をついて出た。こんどは、各自の上陸用空気服の点検であった。上陸用というのは、火星へ上陸することを意味しているのであって、この艇内から出るには普通のままの服装では出られない。まず酸素不足などを補うために、特別製の圧搾空気をつめた槽から空気を送って呼吸しなければならぬ。それがためには、潜水服に似たものを着、そして潜水兜に似たものを頭に被り、空気槽を背負わなければならなかった。それだけではない。火星の上には、温度の激変が起ると思われているので、それにはこの空気服がスイッチ一つで温められるようになっていなければならない。いわゆる電熱服である。 普通の電熱服は服についている紐線の端のプラグを、艇内の配電線のコンセントへさしこめば、それで電流が通って服が暖くなるわけであったが、上陸用空気服では、そうはいかない。艇から長い紐線を引張って歩くわけにはいかないからだ。そこで特別の電熱が用意されてあった。それは極く小さな原子力エンジンに直結された発電装置であった。この原子力発電機は、その他いろいろな仕事をも、つとめる源であった。 上陸用空気服の点検は終った。各自はいつでもこれを着用できる準備をととのえた。 デニー博士は、第三の命令を発した。それは各自が、それぞれの新部署につくことであった。新部署というのは、火星の上で生活をするための仕事の分担だった。 河合は、マートン技師の下でエンジン係をやることになったし、ネッドは食堂の給仕係を、張は料理人を勤めることになり、前と同じ役目に戻ったわけだ。山木は見張員として活躍することとなり、正式に六方向テレビジョン――通称テレビ見張器の前に席が出来た。山木はよく気がつき、むしろ過敏すぎる神経の持主だから、この役はうってつけだ。 その山木は、博士の第三命令の直後、テレビ見張器の映写幕に向い、全神経を目に集めて、四方を見張っていたが、その彼は何を見つけたか、突然、 「おやッ」 と呻いて、テレビ見張器の拡大ハンドルを掴むと、それを急いで廻しはじめた。
博士が第一番に出した命令は、なんですか。
博士が第一番に出した命令は空気洩れの箇所がないか、調べることです。
JCRRAG_010589
国語
テレビ映写幕には広々とした沙漠と、その向うにある密林とがうつっていた。 山木が拡大ハンドルを廻すと、その密林は幕面の上を急速にこちらへ近づき、映像は大きくなって来た。 密林を作っている木は、どこか松に似た逞しい灌木であった。それが密生しているのだった。木の高さは十メートルぐらいはあるように思われた。かなり背の高い木であった。 山木のおどろいたのは、その木の背の高いことでもなく、また密林の壮観でもなかった。その密林の或る箇所において、何か動いているもののあるのを見つけたからだ。それは密林の木間に見えたり隠れたりしている。 (火星の動物らしい) 山木は、その姿をもっとはっきり見定めようとして、テレビ見張器の拡大をあげていったわけだが、その木の間にうごめくものはだんだん大きくはっきりと映写幕にうかびあがってきた。 果して、それは動物だった。 だが何という妙な形をもった動物であろうか。早くいえば、それは蛸と昆蟲の中間の様なものであった。すなわち大きな頭部を持ち、それを細い体が重そうに持ちあげているのだ。頭部には、大きな目が二つついていた。鼻は見あたらず、その代りに絵にかいてある蛸の口吻そっくりの尖ったものが顎の上につき出ているのだった。その上に顔の両側に驢馬の耳によく似た耳がついていた。それからたいへん奇妙なことに、頭のてっぺんに根きり蟲が持っているような長い触角らしいものが二本だか三本だか生えていて、それは非常に柔軟に見え、そしてさかんに頭の上で活動して居り、まるで触角で踊っているようにも見えた。 その動物の首から下を見ると気の毒なくらい痩せていた。小さな瘤のような胴中、それから三本のぐにゃぐにゃした腕、それから三本の同じような脚――この脚は、たしかに蛸の足を思わせるものであった。 一体何だろうか、このえたいのしれない動物は……。山木はその動物のあたりに奇妙な姿にかぎりない興味をおぼえ、それを発見したことを報告するのを忘れていたくらいだった。 その奇妙な動物は、木の間を縫って、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、忙がしそうにしていた。そして彼らの或るものは、幹にぴたりと寄り添って、大きな目をぐるぐる廻し、触角を盛んにふり立てて、宇宙艇の方を注視している様子であった。 「……へ、へんな動物が見えます。沙漠の向うの、正面の密林の中です」 山木はこのとき漸く吾れに帰って、火星の動物を発見したことにつき、第一報を叫んだのである。 「なに、へんな動物だって……」 デニー博士が、山木のうしろに近よった。山木は、テレビ見張器の映写幕の上を指した。 「あ、これか。いたな。やっぱりそうだったか。これはなかなか油断が出来ないぞ。相手はわれわれよりも相当に高級な身体を持っている……」 デニー博士は、一大感心の有様で、木の間にうごめく生物を見つめた。 「先生、あれは何んという動物ですか。蛸みたいですが、蛸なら林の中にいるのはおかしいですね」 山木は、そういいながら博士の方をふりかえった。 「あれは蛸ではない。あれは多分、火星人だろうと思う」 「ええっ、火星人。あれが火星の人間なんですか」 「うん。まずそれに違いないであろうね。こうして見たところ、身体の工合が、わしがこれまでに研究し、想像していたところとよく一致しているからねえ」 「へえーっ。あれが火星人だとすると、火星人て気持が悪いものですね。僕はやっぱり地球の上と同じような人間が住んでいることと思っていましたが……」 「いや、そうはいかない。何しろ気候も違うし、火星の成因や歴史も違うんだし、そのうえに何万年も火星独得の進化と生長とをとげたんだから、地球人類と同じ形をしたものが、この火星の上に住んでいることは考えられなかったのだ」 博士と山木が話しをしているうちに、他の乗組員も、テレビ見張器の前へぞろぞろと集って来た。誰も皆、火星人が見えるというので、興味をわかして集って来たわけである。 「いやらしい恰好をしているね」 「これじゃちょっとつきあい憎いね」 「どれが男で、どれが女かな」 「さあ……どれがどうなんだか、全く見当がつかない。とにかく“火星には美人が多い”なんていう話を聞いたことがあったが、あれは全然うそだと分ったわけだ」 「やれ、気の毒に……」 どっと笑声が起った。 「先生、林の中に、火星人がずいぶんたくさん集結しています。なんだか気味が悪いですね。こっちへ向って来るのじゃないでしょうか」 山木が、密林の奥にひしめき合って目を尖らせている火星人の大集団を見つけ出したので、デニー博士へ報告した。 博士は、それにはもう気がついているようであった。 「……何とか平和的に、火星人と交渉したいものだ。が、油断は出来ない。こっちも十分に武装をして行かねばならぬ」 博士は、進んで火星人に近づく心であったらしい。そして平和裡に、事をきめたい考えであることが分った。が、このとき火星人たちは、何思ったものか、急に密林から姿を現わした。そして広い沙漠を、まるで飛ぶようにしてこっちへ向って来るではないか。何百人、いや何千人、いやいやもっと多いのだ。まるで赤蟻の大群が引越しをするような有様で、隊伍をととのえて沙漠を横断し、この宇宙艇へ向けて殺到する勢いを示したのである。 ああ、危機来る! こっちは僅か十人足らずの地球人類だ。相手は何万何十万と数知れぬ火星人の大集団だ。しかもこっちの者にとっては、勝手のちがう異境火星の上だ。デニー博士の一行は非常に不利な立場にある。
奇妙な形をもった動物の腕は何本ありましたか。
奇妙な形をもった動物の腕はぐにゃぐにゃしたのが3本ありました。
JCRRAG_010590
国語
テレビ映写幕には広々とした沙漠と、その向うにある密林とがうつっていた。 山木が拡大ハンドルを廻すと、その密林は幕面の上を急速にこちらへ近づき、映像は大きくなって来た。 密林を作っている木は、どこか松に似た逞しい灌木であった。それが密生しているのだった。木の高さは十メートルぐらいはあるように思われた。かなり背の高い木であった。 山木のおどろいたのは、その木の背の高いことでもなく、また密林の壮観でもなかった。その密林の或る箇所において、何か動いているもののあるのを見つけたからだ。それは密林の木間に見えたり隠れたりしている。 (火星の動物らしい) 山木は、その姿をもっとはっきり見定めようとして、テレビ見張器の拡大をあげていったわけだが、その木の間にうごめくものはだんだん大きくはっきりと映写幕にうかびあがってきた。 果して、それは動物だった。 だが何という妙な形をもった動物であろうか。早くいえば、それは蛸と昆蟲の中間の様なものであった。すなわち大きな頭部を持ち、それを細い体が重そうに持ちあげているのだ。頭部には、大きな目が二つついていた。鼻は見あたらず、その代りに絵にかいてある蛸の口吻そっくりの尖ったものが顎の上につき出ているのだった。その上に顔の両側に驢馬の耳によく似た耳がついていた。それからたいへん奇妙なことに、頭のてっぺんに根きり蟲が持っているような長い触角らしいものが二本だか三本だか生えていて、それは非常に柔軟に見え、そしてさかんに頭の上で活動して居り、まるで触角で踊っているようにも見えた。 その動物の首から下を見ると気の毒なくらい痩せていた。小さな瘤のような胴中、それから三本のぐにゃぐにゃした腕、それから三本の同じような脚――この脚は、たしかに蛸の足を思わせるものであった。 一体何だろうか、このえたいのしれない動物は……。山木はその動物のあたりに奇妙な姿にかぎりない興味をおぼえ、それを発見したことを報告するのを忘れていたくらいだった。 その奇妙な動物は、木の間を縫って、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、忙がしそうにしていた。そして彼らの或るものは、幹にぴたりと寄り添って、大きな目をぐるぐる廻し、触角を盛んにふり立てて、宇宙艇の方を注視している様子であった。 「……へ、へんな動物が見えます。沙漠の向うの、正面の密林の中です」 山木はこのとき漸く吾れに帰って、火星の動物を発見したことにつき、第一報を叫んだのである。 「なに、へんな動物だって……」 デニー博士が、山木のうしろに近よった。山木は、テレビ見張器の映写幕の上を指した。 「あ、これか。いたな。やっぱりそうだったか。これはなかなか油断が出来ないぞ。相手はわれわれよりも相当に高級な身体を持っている……」 デニー博士は、一大感心の有様で、木の間にうごめく生物を見つめた。 「先生、あれは何んという動物ですか。蛸みたいですが、蛸なら林の中にいるのはおかしいですね」 山木は、そういいながら博士の方をふりかえった。 「あれは蛸ではない。あれは多分、火星人だろうと思う」 「ええっ、火星人。あれが火星の人間なんですか」 「うん。まずそれに違いないであろうね。こうして見たところ、身体の工合が、わしがこれまでに研究し、想像していたところとよく一致しているからねえ」 「へえーっ。あれが火星人だとすると、火星人て気持が悪いものですね。僕はやっぱり地球の上と同じような人間が住んでいることと思っていましたが……」 「いや、そうはいかない。何しろ気候も違うし、火星の成因や歴史も違うんだし、そのうえに何万年も火星独得の進化と生長とをとげたんだから、地球人類と同じ形をしたものが、この火星の上に住んでいることは考えられなかったのだ」 博士と山木が話しをしているうちに、他の乗組員も、テレビ見張器の前へぞろぞろと集って来た。誰も皆、火星人が見えるというので、興味をわかして集って来たわけである。 「いやらしい恰好をしているね」 「これじゃちょっとつきあい憎いね」 「どれが男で、どれが女かな」 「さあ……どれがどうなんだか、全く見当がつかない。とにかく“火星には美人が多い”なんていう話を聞いたことがあったが、あれは全然うそだと分ったわけだ」 「やれ、気の毒に……」 どっと笑声が起った。 「先生、林の中に、火星人がずいぶんたくさん集結しています。なんだか気味が悪いですね。こっちへ向って来るのじゃないでしょうか」 山木が、密林の奥にひしめき合って目を尖らせている火星人の大集団を見つけ出したので、デニー博士へ報告した。 博士は、それにはもう気がついているようであった。 「……何とか平和的に、火星人と交渉したいものだ。が、油断は出来ない。こっちも十分に武装をして行かねばならぬ」 博士は、進んで火星人に近づく心であったらしい。そして平和裡に、事をきめたい考えであることが分った。が、このとき火星人たちは、何思ったものか、急に密林から姿を現わした。そして広い沙漠を、まるで飛ぶようにしてこっちへ向って来るではないか。何百人、いや何千人、いやいやもっと多いのだ。まるで赤蟻の大群が引越しをするような有様で、隊伍をととのえて沙漠を横断し、この宇宙艇へ向けて殺到する勢いを示したのである。 ああ、危機来る! こっちは僅か十人足らずの地球人類だ。相手は何万何十万と数知れぬ火星人の大集団だ。しかもこっちの者にとっては、勝手のちがう異境火星の上だ。デニー博士の一行は非常に不利な立場にある。
山木が拡大ハンドルを廻した際、映像はどうなったか。
山木が拡大ハンドルを廻すと、その密林は幕面の上を急速にこちらへ近づき、映像は大きくなって来た。
JCRRAG_010591
国語
テレビ映写幕には広々とした沙漠と、その向うにある密林とがうつっていた。 山木が拡大ハンドルを廻すと、その密林は幕面の上を急速にこちらへ近づき、映像は大きくなって来た。 密林を作っている木は、どこか松に似た逞しい灌木であった。それが密生しているのだった。木の高さは十メートルぐらいはあるように思われた。かなり背の高い木であった。 山木のおどろいたのは、その木の背の高いことでもなく、また密林の壮観でもなかった。その密林の或る箇所において、何か動いているもののあるのを見つけたからだ。それは密林の木間に見えたり隠れたりしている。 (火星の動物らしい) 山木は、その姿をもっとはっきり見定めようとして、テレビ見張器の拡大をあげていったわけだが、その木の間にうごめくものはだんだん大きくはっきりと映写幕にうかびあがってきた。 果して、それは動物だった。 だが何という妙な形をもった動物であろうか。早くいえば、それは蛸と昆蟲の中間の様なものであった。すなわち大きな頭部を持ち、それを細い体が重そうに持ちあげているのだ。頭部には、大きな目が二つついていた。鼻は見あたらず、その代りに絵にかいてある蛸の口吻そっくりの尖ったものが顎の上につき出ているのだった。その上に顔の両側に驢馬の耳によく似た耳がついていた。それからたいへん奇妙なことに、頭のてっぺんに根きり蟲が持っているような長い触角らしいものが二本だか三本だか生えていて、それは非常に柔軟に見え、そしてさかんに頭の上で活動して居り、まるで触角で踊っているようにも見えた。 その動物の首から下を見ると気の毒なくらい痩せていた。小さな瘤のような胴中、それから三本のぐにゃぐにゃした腕、それから三本の同じような脚――この脚は、たしかに蛸の足を思わせるものであった。 一体何だろうか、このえたいのしれない動物は……。山木はその動物のあたりに奇妙な姿にかぎりない興味をおぼえ、それを発見したことを報告するのを忘れていたくらいだった。 その奇妙な動物は、木の間を縫って、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、忙がしそうにしていた。そして彼らの或るものは、幹にぴたりと寄り添って、大きな目をぐるぐる廻し、触角を盛んにふり立てて、宇宙艇の方を注視している様子であった。 「……へ、へんな動物が見えます。沙漠の向うの、正面の密林の中です」 山木はこのとき漸く吾れに帰って、火星の動物を発見したことにつき、第一報を叫んだのである。 「なに、へんな動物だって……」 デニー博士が、山木のうしろに近よった。山木は、テレビ見張器の映写幕の上を指した。 「あ、これか。いたな。やっぱりそうだったか。これはなかなか油断が出来ないぞ。相手はわれわれよりも相当に高級な身体を持っている……」 デニー博士は、一大感心の有様で、木の間にうごめく生物を見つめた。 「先生、あれは何んという動物ですか。蛸みたいですが、蛸なら林の中にいるのはおかしいですね」 山木は、そういいながら博士の方をふりかえった。 「あれは蛸ではない。あれは多分、火星人だろうと思う」 「ええっ、火星人。あれが火星の人間なんですか」 「うん。まずそれに違いないであろうね。こうして見たところ、身体の工合が、わしがこれまでに研究し、想像していたところとよく一致しているからねえ」 「へえーっ。あれが火星人だとすると、火星人て気持が悪いものですね。僕はやっぱり地球の上と同じような人間が住んでいることと思っていましたが……」 「いや、そうはいかない。何しろ気候も違うし、火星の成因や歴史も違うんだし、そのうえに何万年も火星独得の進化と生長とをとげたんだから、地球人類と同じ形をしたものが、この火星の上に住んでいることは考えられなかったのだ」 博士と山木が話しをしているうちに、他の乗組員も、テレビ見張器の前へぞろぞろと集って来た。誰も皆、火星人が見えるというので、興味をわかして集って来たわけである。 「いやらしい恰好をしているね」 「これじゃちょっとつきあい憎いね」 「どれが男で、どれが女かな」 「さあ……どれがどうなんだか、全く見当がつかない。とにかく“火星には美人が多い”なんていう話を聞いたことがあったが、あれは全然うそだと分ったわけだ」 「やれ、気の毒に……」 どっと笑声が起った。 「先生、林の中に、火星人がずいぶんたくさん集結しています。なんだか気味が悪いですね。こっちへ向って来るのじゃないでしょうか」 山木が、密林の奥にひしめき合って目を尖らせている火星人の大集団を見つけ出したので、デニー博士へ報告した。 博士は、それにはもう気がついているようであった。 「……何とか平和的に、火星人と交渉したいものだ。が、油断は出来ない。こっちも十分に武装をして行かねばならぬ」 博士は、進んで火星人に近づく心であったらしい。そして平和裡に、事をきめたい考えであることが分った。が、このとき火星人たちは、何思ったものか、急に密林から姿を現わした。そして広い沙漠を、まるで飛ぶようにしてこっちへ向って来るではないか。何百人、いや何千人、いやいやもっと多いのだ。まるで赤蟻の大群が引越しをするような有様で、隊伍をととのえて沙漠を横断し、この宇宙艇へ向けて殺到する勢いを示したのである。 ああ、危機来る! こっちは僅か十人足らずの地球人類だ。相手は何万何十万と数知れぬ火星人の大集団だ。しかもこっちの者にとっては、勝手のちがう異境火星の上だ。デニー博士の一行は非常に不利な立場にある。
妙な形をした動物はどのようなものだったか。
妙な形をした動物は、蛸と昆蟲の中間の様なものであった。
JCRRAG_010592
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テレビ映写幕には広々とした沙漠と、その向うにある密林とがうつっていた。 山木が拡大ハンドルを廻すと、その密林は幕面の上を急速にこちらへ近づき、映像は大きくなって来た。 密林を作っている木は、どこか松に似た逞しい灌木であった。それが密生しているのだった。木の高さは十メートルぐらいはあるように思われた。かなり背の高い木であった。 山木のおどろいたのは、その木の背の高いことでもなく、また密林の壮観でもなかった。その密林の或る箇所において、何か動いているもののあるのを見つけたからだ。それは密林の木間に見えたり隠れたりしている。 (火星の動物らしい) 山木は、その姿をもっとはっきり見定めようとして、テレビ見張器の拡大をあげていったわけだが、その木の間にうごめくものはだんだん大きくはっきりと映写幕にうかびあがってきた。 果して、それは動物だった。 だが何という妙な形をもった動物であろうか。早くいえば、それは蛸と昆蟲の中間の様なものであった。すなわち大きな頭部を持ち、それを細い体が重そうに持ちあげているのだ。頭部には、大きな目が二つついていた。鼻は見あたらず、その代りに絵にかいてある蛸の口吻そっくりの尖ったものが顎の上につき出ているのだった。その上に顔の両側に驢馬の耳によく似た耳がついていた。それからたいへん奇妙なことに、頭のてっぺんに根きり蟲が持っているような長い触角らしいものが二本だか三本だか生えていて、それは非常に柔軟に見え、そしてさかんに頭の上で活動して居り、まるで触角で踊っているようにも見えた。 その動物の首から下を見ると気の毒なくらい痩せていた。小さな瘤のような胴中、それから三本のぐにゃぐにゃした腕、それから三本の同じような脚――この脚は、たしかに蛸の足を思わせるものであった。 一体何だろうか、このえたいのしれない動物は……。山木はその動物のあたりに奇妙な姿にかぎりない興味をおぼえ、それを発見したことを報告するのを忘れていたくらいだった。 その奇妙な動物は、木の間を縫って、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、忙がしそうにしていた。そして彼らの或るものは、幹にぴたりと寄り添って、大きな目をぐるぐる廻し、触角を盛んにふり立てて、宇宙艇の方を注視している様子であった。 「……へ、へんな動物が見えます。沙漠の向うの、正面の密林の中です」 山木はこのとき漸く吾れに帰って、火星の動物を発見したことにつき、第一報を叫んだのである。 「なに、へんな動物だって……」 デニー博士が、山木のうしろに近よった。山木は、テレビ見張器の映写幕の上を指した。 「あ、これか。いたな。やっぱりそうだったか。これはなかなか油断が出来ないぞ。相手はわれわれよりも相当に高級な身体を持っている……」 デニー博士は、一大感心の有様で、木の間にうごめく生物を見つめた。 「先生、あれは何んという動物ですか。蛸みたいですが、蛸なら林の中にいるのはおかしいですね」 山木は、そういいながら博士の方をふりかえった。 「あれは蛸ではない。あれは多分、火星人だろうと思う」 「ええっ、火星人。あれが火星の人間なんですか」 「うん。まずそれに違いないであろうね。こうして見たところ、身体の工合が、わしがこれまでに研究し、想像していたところとよく一致しているからねえ」 「へえーっ。あれが火星人だとすると、火星人て気持が悪いものですね。僕はやっぱり地球の上と同じような人間が住んでいることと思っていましたが……」 「いや、そうはいかない。何しろ気候も違うし、火星の成因や歴史も違うんだし、そのうえに何万年も火星独得の進化と生長とをとげたんだから、地球人類と同じ形をしたものが、この火星の上に住んでいることは考えられなかったのだ」 博士と山木が話しをしているうちに、他の乗組員も、テレビ見張器の前へぞろぞろと集って来た。誰も皆、火星人が見えるというので、興味をわかして集って来たわけである。 「いやらしい恰好をしているね」 「これじゃちょっとつきあい憎いね」 「どれが男で、どれが女かな」 「さあ……どれがどうなんだか、全く見当がつかない。とにかく“火星には美人が多い”なんていう話を聞いたことがあったが、あれは全然うそだと分ったわけだ」 「やれ、気の毒に……」 どっと笑声が起った。 「先生、林の中に、火星人がずいぶんたくさん集結しています。なんだか気味が悪いですね。こっちへ向って来るのじゃないでしょうか」 山木が、密林の奥にひしめき合って目を尖らせている火星人の大集団を見つけ出したので、デニー博士へ報告した。 博士は、それにはもう気がついているようであった。 「……何とか平和的に、火星人と交渉したいものだ。が、油断は出来ない。こっちも十分に武装をして行かねばならぬ」 博士は、進んで火星人に近づく心であったらしい。そして平和裡に、事をきめたい考えであることが分った。が、このとき火星人たちは、何思ったものか、急に密林から姿を現わした。そして広い沙漠を、まるで飛ぶようにしてこっちへ向って来るではないか。何百人、いや何千人、いやいやもっと多いのだ。まるで赤蟻の大群が引越しをするような有様で、隊伍をととのえて沙漠を横断し、この宇宙艇へ向けて殺到する勢いを示したのである。 ああ、危機来る! こっちは僅か十人足らずの地球人類だ。相手は何万何十万と数知れぬ火星人の大集団だ。しかもこっちの者にとっては、勝手のちがう異境火星の上だ。デニー博士の一行は非常に不利な立場にある。
山木が、密林の奥にひしめき合って目を尖らせている火星人の大集団を見つけ出した際に何を行ったか。
山木が、密林の奥にひしめき合って目を尖らせている火星人の大集団を見つけ出したので、デニー博士へ報告した。
JCRRAG_010593
国語
事態はすこぶる険悪だった。 頭のでっかい赤蟻が立ったような恰好の火星人の大群は、見事な隊伍をつくって、刻一刻、沙漠に腹這いになった宇宙艇へ近づいて来る。 わが火星探険団の指揮をとるデニー老博士は、指揮台の上に突立ち、テレビ見張器の六つの映写幕をじっと見つめて、身動きさえしない。 ああ、このままで行けば、一行九名は、火星人の大群の襲撃をうけて、たちまち踏みにじられてしまいそうである。 河合は、このときマートン技師のそばについていたが、技師が食料品をすこし食堂へ行って貰ってくるようにといったので、河合はいそいでそちらへ走った。 食堂へ入ってみると、張とネッドが、有機硝子の丸窓へ顔を押しつけて、外を一生けんめいに見ていて、河合の入って行ったのにも気がつかないようだった。 「おい、マートン技師からだ。ソーセージとアスパラガスとコーヒーを頼むぜ」 河合の声に、張とネッドはびっくりして後を振返った。 「へえっ。食べるどころのさわぎじゃないじゃないか」 と、ネッドが目を丸くした。 張の方は「よろしい」と答えて、厨房へ駆けこんだ。 「いや、腹がへっては駄目だ。今のうち食べられるだけ詰めこんでおけと、マートンさんはいうのだ」 「羨しいなあ。僕みたいな食いしん坊でも、今はビスケット一つ食べようとは思わない」 張が厨房から駆け戻ってきた。ソーセージとアスパラガスの缶詰と、コーヒーの入った魔法壜とを河合に渡した。 「ありがとう、ねえ、張君。これから先、いったいどうなるんだい」 河合は張に訊ねた。 「そんなこと、僕が知るもんか」 「牛頭仙人の力で、水晶の珠にうかがってみたらいいじゃないか」 「それはさっき、張君にやらせたんだよ」 とネッドがわきから口を出した。 「おい張君。あの話を河合君にしておやりよ」 「あんな予言は駄目だよ」と張がいった。 「僕は自信がないんだ。でもネッド君がぜひやれというもんだから……」 「牛頭仙人が、自分の力を知らないじゃ困るね。とにかく河合君に話しておやりよ」 ネッドが熱心にいうものだから、張ははずかしそうに語りだした。 「……つまりね、水晶の珠を見つめていると、こんな光景が見えたような気がしたんだ。僕たち四人がね。あの乳牛の箱自動車の上で、面白そうに狸踊りをおどっているのさ」 「へえ、狸踊り?」 「ほら、いつか山木君が教えてくれたじゃないか。何とか寺の狸ばやしの踊りだ。太い尻尾をぶらさげて、へんな恰好で踊るやつさ」 「ああ、あれか。證城寺の狸ばやしだよ」 「うん、それだ。で、僕たちが自動車の上で踊っていると、そこへ、ばらばらと赤いものが雨のように降って来るんだ。それで幻は消えた。おしまいだ」 「何だい、その赤いものが、ばらばらというのは……」 「それが分らない。火の子よりは大きいんだ。綿をちぎったほどの赤いものだ」 「すると焼夷弾が上から降ってくるのかな」 「焼夷弾が落ちてくる下で踊るわけもないじゃないか」 とネッドが異議を申立てた。 「だから僕は、そのうらないは、やがていいことのあるしらせだと思う」 「君は楽天家で、羨しいよ。とにかく今にそれが本当か嘘か分るだろう。あばよ」 そういって河合は、食料品を抱え直すと、マートン技師の許へ走り戻った。 河合が、ちょっと留守をしている間に、艇外の形勢はいよいよ険悪の度を加えていた。テレビ見張器で見ると、艇の四方はもはや完全に火星人の大群で包囲されていた。 そして不気味な生物たちは、ひしめきあいながら、次第にじりじりと艇の方へ向って包囲の輪を縮めつつあった。 と、とつぜん彼等の頭上に、青い花火のようなものが、ぱんぱんと炸裂した。するとそれが合図と見え、火星人の大群は、まるで海岸にうちよせる怒濤のようになっておどりあがり、そして非常な速さで四方八方からわっと艇へ殺到したのであった。遂に運命のきわまるときが来た。今やこの少人数の宇宙艇は、彼らのために踏みにじられるその寸前にある! 「エフ瓦斯を放出せよ」 デニー博士の号令がひびきわたった。と、その号令は次々へ伝えられた。 器械がうなり出す。睡っていたような艇が震動をはじめる。と、もうもうたる褐色の瓦斯が、艇の腹の数ヶ所からふきだした。その瓦斯は、その重さが火星の大気と同じくらいか稍重いかの瓦斯と見え、艇よりはすこしあがるが、あまり上にはのぼらず、そして見る見るうちに艇をすっかり包んでしまった。 見張器の映写幕にも、この瓦斯がひろがって行く有様が手に取るように眺められた。そして今や幕面は完全にこの褐色瓦斯に蔽われてしまったが、しかし、夜の闇さえ透して物の見えるテレビ見張器の特長として、エフ瓦斯をとおして四方の情景はあいかわらずはっきりと見えていた。 そうなのだ。火星人の大群が先程までのあのすさまじい勢いはどこへやら、この瓦斯にぶつかってたちまち大混乱の状態となり、列を乱し、ころげまわって、吾れ勝ちに向こうへ逃げてゆく有様が、おかしいほどはっきりとうつっていた。 「火星人は余程おどろいたらしいぞ。総退却だ。これで彼らも、そう無茶なことを仕掛けて来はすまい」 デニー博士は、ほっとした顔だった。 「今のエフ瓦斯というのは、どんな毒瓦斯なんですか」 と、河合はマートン技師に訊ねた。 「あれかね。エフ瓦斯は毒瓦斯というほどのものでなく、軟い皮膚をすこしぴりぴりさせるくらいのものだ。しかし彼らをびっくりさせるには十分だったようだね」 マートン技師は、そういって微笑した。
火星人の大群はどのように宇宙艇に近づいて来るか。
頭のでっかい赤蟻が立ったような恰好の火星人の大群は、見事な隊伍をつくって、刻一刻、沙漠に腹這いになった宇宙艇へ近づいて来る。
JCRRAG_010594
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事態はすこぶる険悪だった。 頭のでっかい赤蟻が立ったような恰好の火星人の大群は、見事な隊伍をつくって、刻一刻、沙漠に腹這いになった宇宙艇へ近づいて来る。 わが火星探険団の指揮をとるデニー老博士は、指揮台の上に突立ち、テレビ見張器の六つの映写幕をじっと見つめて、身動きさえしない。 ああ、このままで行けば、一行九名は、火星人の大群の襲撃をうけて、たちまち踏みにじられてしまいそうである。 河合は、このときマートン技師のそばについていたが、技師が食料品をすこし食堂へ行って貰ってくるようにといったので、河合はいそいでそちらへ走った。 食堂へ入ってみると、張とネッドが、有機硝子の丸窓へ顔を押しつけて、外を一生けんめいに見ていて、河合の入って行ったのにも気がつかないようだった。 「おい、マートン技師からだ。ソーセージとアスパラガスとコーヒーを頼むぜ」 河合の声に、張とネッドはびっくりして後を振返った。 「へえっ。食べるどころのさわぎじゃないじゃないか」 と、ネッドが目を丸くした。 張の方は「よろしい」と答えて、厨房へ駆けこんだ。 「いや、腹がへっては駄目だ。今のうち食べられるだけ詰めこんでおけと、マートンさんはいうのだ」 「羨しいなあ。僕みたいな食いしん坊でも、今はビスケット一つ食べようとは思わない」 張が厨房から駆け戻ってきた。ソーセージとアスパラガスの缶詰と、コーヒーの入った魔法壜とを河合に渡した。 「ありがとう、ねえ、張君。これから先、いったいどうなるんだい」 河合は張に訊ねた。 「そんなこと、僕が知るもんか」 「牛頭仙人の力で、水晶の珠にうかがってみたらいいじゃないか」 「それはさっき、張君にやらせたんだよ」 とネッドがわきから口を出した。 「おい張君。あの話を河合君にしておやりよ」 「あんな予言は駄目だよ」と張がいった。 「僕は自信がないんだ。でもネッド君がぜひやれというもんだから……」 「牛頭仙人が、自分の力を知らないじゃ困るね。とにかく河合君に話しておやりよ」 ネッドが熱心にいうものだから、張ははずかしそうに語りだした。 「……つまりね、水晶の珠を見つめていると、こんな光景が見えたような気がしたんだ。僕たち四人がね。あの乳牛の箱自動車の上で、面白そうに狸踊りをおどっているのさ」 「へえ、狸踊り?」 「ほら、いつか山木君が教えてくれたじゃないか。何とか寺の狸ばやしの踊りだ。太い尻尾をぶらさげて、へんな恰好で踊るやつさ」 「ああ、あれか。證城寺の狸ばやしだよ」 「うん、それだ。で、僕たちが自動車の上で踊っていると、そこへ、ばらばらと赤いものが雨のように降って来るんだ。それで幻は消えた。おしまいだ」 「何だい、その赤いものが、ばらばらというのは……」 「それが分らない。火の子よりは大きいんだ。綿をちぎったほどの赤いものだ」 「すると焼夷弾が上から降ってくるのかな」 「焼夷弾が落ちてくる下で踊るわけもないじゃないか」 とネッドが異議を申立てた。 「だから僕は、そのうらないは、やがていいことのあるしらせだと思う」 「君は楽天家で、羨しいよ。とにかく今にそれが本当か嘘か分るだろう。あばよ」 そういって河合は、食料品を抱え直すと、マートン技師の許へ走り戻った。 河合が、ちょっと留守をしている間に、艇外の形勢はいよいよ険悪の度を加えていた。テレビ見張器で見ると、艇の四方はもはや完全に火星人の大群で包囲されていた。 そして不気味な生物たちは、ひしめきあいながら、次第にじりじりと艇の方へ向って包囲の輪を縮めつつあった。 と、とつぜん彼等の頭上に、青い花火のようなものが、ぱんぱんと炸裂した。するとそれが合図と見え、火星人の大群は、まるで海岸にうちよせる怒濤のようになっておどりあがり、そして非常な速さで四方八方からわっと艇へ殺到したのであった。遂に運命のきわまるときが来た。今やこの少人数の宇宙艇は、彼らのために踏みにじられるその寸前にある! 「エフ瓦斯を放出せよ」 デニー博士の号令がひびきわたった。と、その号令は次々へ伝えられた。 器械がうなり出す。睡っていたような艇が震動をはじめる。と、もうもうたる褐色の瓦斯が、艇の腹の数ヶ所からふきだした。その瓦斯は、その重さが火星の大気と同じくらいか稍重いかの瓦斯と見え、艇よりはすこしあがるが、あまり上にはのぼらず、そして見る見るうちに艇をすっかり包んでしまった。 見張器の映写幕にも、この瓦斯がひろがって行く有様が手に取るように眺められた。そして今や幕面は完全にこの褐色瓦斯に蔽われてしまったが、しかし、夜の闇さえ透して物の見えるテレビ見張器の特長として、エフ瓦斯をとおして四方の情景はあいかわらずはっきりと見えていた。 そうなのだ。火星人の大群が先程までのあのすさまじい勢いはどこへやら、この瓦斯にぶつかってたちまち大混乱の状態となり、列を乱し、ころげまわって、吾れ勝ちに向こうへ逃げてゆく有様が、おかしいほどはっきりとうつっていた。 「火星人は余程おどろいたらしいぞ。総退却だ。これで彼らも、そう無茶なことを仕掛けて来はすまい」 デニー博士は、ほっとした顔だった。 「今のエフ瓦斯というのは、どんな毒瓦斯なんですか」 と、河合はマートン技師に訊ねた。 「あれかね。エフ瓦斯は毒瓦斯というほどのものでなく、軟い皮膚をすこしぴりぴりさせるくらいのものだ。しかし彼らをびっくりさせるには十分だったようだね」 マートン技師は、そういって微笑した。
見張器の映写幕からは、瓦斯の様子がどのように見えたか。
見張器の映写幕にも、この瓦斯がひろがって行く有様が手に取るように眺められた。
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エフ瓦斯の放出は、やすみなく続けられた。瓦斯の厚い壁は、壊れた宇宙艇をすっかり包んでいて火星人の襲撃から安全に保護していた。  一応危機が去ったので、デニー博士は、乗組員に交代で睡ることを命じた。  しかし博士は休養をとらず、これから火星人とどのようにして交渉に入ったものかについて、幹部の人々と会議を始めた。  それから一時間ほど経った後、艇内に歓呼の声が起った。 「無電が通じるようになったぞ。地球との無電連絡がとれるようになったぞ」  えっ、無電が地球へ届くようになったか。それと聞いた乗組員は、いそいで無電室へ集った。寝たばかりの連中も、寝台からはね起きて無電室へ駆付けた。 「もしもし、KGO局ですね。……そうですよ、危機一髪のところで墜落を免れて着陸しました。……皆おどろいていますって。局へ電話がどんどんかかってきますって。自動車で乗りつける人もある。それは愉快だな。……こっちの乗組員の氏名ですか。まず艇長のデニー博士、それから……」  地球の上では早くもこれが全世界に電波の力で報道され、大興奮の渦巻となった様子であった。会議中だったデニー博士も遂にマイクの前に引張り出された。 「余は、わが火星探険協会長に永年よせられたるアメリカ全国民の後援に対し、衷心感謝の意を表するものであります。今やわが地球人類は、火星にまで足跡を印したのでありますが、われわれはその光栄のために、今日までのあらゆる苦闘を一瞬にして忘れてしまいました。さりながらわれわれの任務は重且つ大でありまして、火星人との交渉はこれから始まらんとして居ります。われわれは地球人類の光栄と名誉を保持し、それを汚すことなく、この新しい使命について万全の努力を払おうとする次第であります。ただ心にかかることは、宇宙艇の大破損と、燃料の大部分を失ったことでありますが、只今もその善後策について、最善の途を考慮中であります。最後に余は、アメリカ国民諸君、いな全地球人諸君に深く期待し、この火星探険をしてわれらの生きとし生けるものの幸福と栄光へ導かんことを願うものであります。ありがとう」  このデニー博士のあいさつは、非常な感激を地球上の人々に与えたようである。  それから後は、無電室は猛烈に忙しくなった。公式の通信の隙間に、各通信社からの特別通信申込が殺到して、それにいちいちどう答えてよいのか分りかねた。なにしろこっちは只一つの無電装置が回復したばかりであって、とても地球からのおびただしい通信の申込みを満足させることができなかった。  デニー博士が再びマイクの前に立って、われわれは今火星に着陸したものの、非常な危険に曝されて居り、火星探険記などについて今詳しい報告を送っている余裕のないことを正直に告げなかったとしたら、せっかく回復した宇宙艇の無電装置は使いすぎのため間もなく壊れてしまったことであろう。ようやく事態が地球上にも分かり、政府は、命令を以て、今後当分のうち、宇宙艇との通信は公報にかぎられることとし、一方デニー博士の要求に応じてあらゆる後援を惜しまず、その申出に待機することとなった。  こうして地球と宇宙艇との通信さわぎは、一先ず治まり、無電員も楽になった。  デニー博士は会議の席へ戻った。そしてそれから二時間、割合としずかな時刻が過ぎていった。 「いったい、今、時刻は何時なんだろうね」  と、乗組員のひとりが、同僚に訊ねた。 「お昼頃だろうね。ほら、太陽は頭の上に輝いているよ」  彼は丸窓を通して、上を指した。 「でもへんだぜ、この火星へ着陸してからもう四時間は過ぎたのに、太陽は初めからほとんど同じように、頭の上に輝いているんだからね」 「そんなばかなことがあってたまるか」 「だって、それは本当だから仕方がない」 「それはこういうわけさ」と、通りかかったマートン技師が笑いながらいった。 「火星の上では、一日が四十八時間なんだもの。つまり火星は地球の約半分の遅い速さで廻っているので、二倍の時間をかけないと一日分を廻り切らないのだ」 「へへえ、そいつはやり切れないな。三度の食事に、二倍ずつ食べないと、腹が減って目がまわっちまうぜ」 「なあに、一日に六度食べればいいのさ」 「いや、そうはいかないぜ。夜が二十四時間もつづくんだろう。二十四時間を何にも食べないで生きていられるだろうか」 「さあ、それはちょっとつらいね。途中で一ぺん起きて食事をし、それからまた続きを睡るってえことになるかな」 「なんだか訳が分らなくなった。どうも厄介な土地へ来たもんだ。はっはっはっ」  一同は顔を見合せて大笑いをした。
危機が去った際、デニー博士はなにを命じたか。
危機が去ったので、デニー博士は、乗組員に交代で睡ることを命じた。
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エフ瓦斯の放出は、やすみなく続けられた。瓦斯の厚い壁は、壊れた宇宙艇をすっかり包んでいて火星人の襲撃から安全に保護していた。  一応危機が去ったので、デニー博士は、乗組員に交代で睡ることを命じた。  しかし博士は休養をとらず、これから火星人とどのようにして交渉に入ったものかについて、幹部の人々と会議を始めた。  それから一時間ほど経った後、艇内に歓呼の声が起った。 「無電が通じるようになったぞ。地球との無電連絡がとれるようになったぞ」  えっ、無電が地球へ届くようになったか。それと聞いた乗組員は、いそいで無電室へ集った。寝たばかりの連中も、寝台からはね起きて無電室へ駆付けた。 「もしもし、KGO局ですね。……そうですよ、危機一髪のところで墜落を免れて着陸しました。……皆おどろいていますって。局へ電話がどんどんかかってきますって。自動車で乗りつける人もある。それは愉快だな。……こっちの乗組員の氏名ですか。まず艇長のデニー博士、それから……」  地球の上では早くもこれが全世界に電波の力で報道され、大興奮の渦巻となった様子であった。会議中だったデニー博士も遂にマイクの前に引張り出された。 「余は、わが火星探険協会長に永年よせられたるアメリカ全国民の後援に対し、衷心感謝の意を表するものであります。今やわが地球人類は、火星にまで足跡を印したのでありますが、われわれはその光栄のために、今日までのあらゆる苦闘を一瞬にして忘れてしまいました。さりながらわれわれの任務は重且つ大でありまして、火星人との交渉はこれから始まらんとして居ります。われわれは地球人類の光栄と名誉を保持し、それを汚すことなく、この新しい使命について万全の努力を払おうとする次第であります。ただ心にかかることは、宇宙艇の大破損と、燃料の大部分を失ったことでありますが、只今もその善後策について、最善の途を考慮中であります。最後に余は、アメリカ国民諸君、いな全地球人諸君に深く期待し、この火星探険をしてわれらの生きとし生けるものの幸福と栄光へ導かんことを願うものであります。ありがとう」  このデニー博士のあいさつは、非常な感激を地球上の人々に与えたようである。  それから後は、無電室は猛烈に忙しくなった。公式の通信の隙間に、各通信社からの特別通信申込が殺到して、それにいちいちどう答えてよいのか分りかねた。なにしろこっちは只一つの無電装置が回復したばかりであって、とても地球からのおびただしい通信の申込みを満足させることができなかった。  デニー博士が再びマイクの前に立って、われわれは今火星に着陸したものの、非常な危険に曝されて居り、火星探険記などについて今詳しい報告を送っている余裕のないことを正直に告げなかったとしたら、せっかく回復した宇宙艇の無電装置は使いすぎのため間もなく壊れてしまったことであろう。ようやく事態が地球上にも分かり、政府は、命令を以て、今後当分のうち、宇宙艇との通信は公報にかぎられることとし、一方デニー博士の要求に応じてあらゆる後援を惜しまず、その申出に待機することとなった。  こうして地球と宇宙艇との通信さわぎは、一先ず治まり、無電員も楽になった。  デニー博士は会議の席へ戻った。そしてそれから二時間、割合としずかな時刻が過ぎていった。 「いったい、今、時刻は何時なんだろうね」  と、乗組員のひとりが、同僚に訊ねた。 「お昼頃だろうね。ほら、太陽は頭の上に輝いているよ」  彼は丸窓を通して、上を指した。 「でもへんだぜ、この火星へ着陸してからもう四時間は過ぎたのに、太陽は初めからほとんど同じように、頭の上に輝いているんだからね」 「そんなばかなことがあってたまるか」 「だって、それは本当だから仕方がない」 「それはこういうわけさ」と、通りかかったマートン技師が笑いながらいった。 「火星の上では、一日が四十八時間なんだもの。つまり火星は地球の約半分の遅い速さで廻っているので、二倍の時間をかけないと一日分を廻り切らないのだ」 「へへえ、そいつはやり切れないな。三度の食事に、二倍ずつ食べないと、腹が減って目がまわっちまうぜ」 「なあに、一日に六度食べればいいのさ」 「いや、そうはいかないぜ。夜が二十四時間もつづくんだろう。二十四時間を何にも食べないで生きていられるだろうか」 「さあ、それはちょっとつらいね。途中で一ぺん起きて食事をし、それからまた続きを睡るってえことになるかな」 「なんだか訳が分らなくなった。どうも厄介な土地へ来たもんだ。はっはっはっ」  一同は顔を見合せて大笑いをした。
博士は休養をとらず何を始めたか。
博士は休養をとらず、これから火星人とどのようにして交渉に入ったものかについて、幹部の人々と会議を始めた。
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エフ瓦斯の放出は、やすみなく続けられた。瓦斯の厚い壁は、壊れた宇宙艇をすっかり包んでいて火星人の襲撃から安全に保護していた。  一応危機が去ったので、デニー博士は、乗組員に交代で睡ることを命じた。  しかし博士は休養をとらず、これから火星人とどのようにして交渉に入ったものかについて、幹部の人々と会議を始めた。  それから一時間ほど経った後、艇内に歓呼の声が起った。 「無電が通じるようになったぞ。地球との無電連絡がとれるようになったぞ」  えっ、無電が地球へ届くようになったか。それと聞いた乗組員は、いそいで無電室へ集った。寝たばかりの連中も、寝台からはね起きて無電室へ駆付けた。 「もしもし、KGO局ですね。……そうですよ、危機一髪のところで墜落を免れて着陸しました。……皆おどろいていますって。局へ電話がどんどんかかってきますって。自動車で乗りつける人もある。それは愉快だな。……こっちの乗組員の氏名ですか。まず艇長のデニー博士、それから……」  地球の上では早くもこれが全世界に電波の力で報道され、大興奮の渦巻となった様子であった。会議中だったデニー博士も遂にマイクの前に引張り出された。 「余は、わが火星探険協会長に永年よせられたるアメリカ全国民の後援に対し、衷心感謝の意を表するものであります。今やわが地球人類は、火星にまで足跡を印したのでありますが、われわれはその光栄のために、今日までのあらゆる苦闘を一瞬にして忘れてしまいました。さりながらわれわれの任務は重且つ大でありまして、火星人との交渉はこれから始まらんとして居ります。われわれは地球人類の光栄と名誉を保持し、それを汚すことなく、この新しい使命について万全の努力を払おうとする次第であります。ただ心にかかることは、宇宙艇の大破損と、燃料の大部分を失ったことでありますが、只今もその善後策について、最善の途を考慮中であります。最後に余は、アメリカ国民諸君、いな全地球人諸君に深く期待し、この火星探険をしてわれらの生きとし生けるものの幸福と栄光へ導かんことを願うものであります。ありがとう」  このデニー博士のあいさつは、非常な感激を地球上の人々に与えたようである。  それから後は、無電室は猛烈に忙しくなった。公式の通信の隙間に、各通信社からの特別通信申込が殺到して、それにいちいちどう答えてよいのか分りかねた。なにしろこっちは只一つの無電装置が回復したばかりであって、とても地球からのおびただしい通信の申込みを満足させることができなかった。  デニー博士が再びマイクの前に立って、われわれは今火星に着陸したものの、非常な危険に曝されて居り、火星探険記などについて今詳しい報告を送っている余裕のないことを正直に告げなかったとしたら、せっかく回復した宇宙艇の無電装置は使いすぎのため間もなく壊れてしまったことであろう。ようやく事態が地球上にも分かり、政府は、命令を以て、今後当分のうち、宇宙艇との通信は公報にかぎられることとし、一方デニー博士の要求に応じてあらゆる後援を惜しまず、その申出に待機することとなった。  こうして地球と宇宙艇との通信さわぎは、一先ず治まり、無電員も楽になった。  デニー博士は会議の席へ戻った。そしてそれから二時間、割合としずかな時刻が過ぎていった。 「いったい、今、時刻は何時なんだろうね」  と、乗組員のひとりが、同僚に訊ねた。 「お昼頃だろうね。ほら、太陽は頭の上に輝いているよ」  彼は丸窓を通して、上を指した。 「でもへんだぜ、この火星へ着陸してからもう四時間は過ぎたのに、太陽は初めからほとんど同じように、頭の上に輝いているんだからね」 「そんなばかなことがあってたまるか」 「だって、それは本当だから仕方がない」 「それはこういうわけさ」と、通りかかったマートン技師が笑いながらいった。 「火星の上では、一日が四十八時間なんだもの。つまり火星は地球の約半分の遅い速さで廻っているので、二倍の時間をかけないと一日分を廻り切らないのだ」 「へへえ、そいつはやり切れないな。三度の食事に、二倍ずつ食べないと、腹が減って目がまわっちまうぜ」 「なあに、一日に六度食べればいいのさ」 「いや、そうはいかないぜ。夜が二十四時間もつづくんだろう。二十四時間を何にも食べないで生きていられるだろうか」 「さあ、それはちょっとつらいね。途中で一ぺん起きて食事をし、それからまた続きを睡るってえことになるかな」 「なんだか訳が分らなくなった。どうも厄介な土地へ来たもんだ。はっはっはっ」  一同は顔を見合せて大笑いをした。
デニー博士のあいさつの後、無電室はどうなったか。
デニー博士のあいさつの後は、無電室は猛烈に忙しくなった。
JCRRAG_010598
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火星人の大群が、宇宙艇の前方において、再び大々的の集結を始めたという山木の報告は、又もや乗組員たちの顔を、不安に曇らせた。  いったん潮の引くように退いた火星人たちは、こんどは前よりも一層勢いをつよめて宇宙艇へ追って来つつあるのだ。  火星人たちの人数がふえたばかりか、こんどは手に手に異様な棒を持っている。  先が丸く膨らんだ棍棒みたいなものである。そればかりではない。彼らは高い櫓のようなものを後に引張っていた。それは四五階になっていて、どの階にも気味のわるい火星人の顔が、まるでトマトを店頭に並べたように鈴なりになっていた。そういうものが、密林の中から次第次第に現われ、数を増してくるのであった。 (いったい彼らは、どうしようという気だろうか)  櫓と棍棒とおびただしい火星人の群!  さっきはエフ瓦斯をくらって総退却した彼らだったが、こんどはそれに対抗する手段を考えて向ってきたものに違いない。  艇内には、非常配置につけの号令が出、デニー博士はまたもや指揮台の上に立って、テレビ見張器に食い入るような視線を投げつけている。  と、火星人たちが、手にしていた棍棒みたいなものを一せいに高くさしあげた。  するとふしぎにも、風がぴゅうぴゅう吹きだした。沙漠の砂塵が、舞いあがった。と、宇宙艇を包んでいたエフ瓦斯の幕が吹きとばされて見る見るうちに淡くなっていった。  火星人たちは、どっと笑ったようである。櫓の上に乗っている火星人たちは、さかんに棒をぐるぐる頭の上でふりまわした。風は烈しさを増し、宇宙艇は荒天の中の小星のようにゆさゆさ揺れはじめた。 「これはえらいことになったぞ」  乗組員たちは、転がるまいとして、一所けんめい傍にあるものに取付いた。 「重力装置を働かせよ」  デニー博士が号令をかけた。  ぷうんと呻って、重力装置は働きだした。宇宙艇はぴったりと大地に吸いついた。だからもう微動もしなくなった。  火星人たちの送って来る風が一段と烈しさを加えた。  だが、宇宙艇はびくともしなかった。しかしエフ瓦斯は噴出孔を出るなり吹きとばされて役に立たない。  と、風がぴたりと停った。火星人たちは一せいに棍棒を下ろしたのだ。  やれ助かったかと思う折しも、こんどは大きい青い岩のようなものが、彼らの中からとび出して、宇宙艇の方へどんどん投げつけられ始めた。 「やっ、手榴弾か、爆弾か」  こっちの乗組員は、顔色をかえたが、それはそういう爆発物ではないらしく、炸裂音は聞えず、ただどすんどすんというにぶい小震動が感じられたばかりであった。しかしそれは次第に数を増し、何百何千と艇の上に落ちて来た。 「瓦斯の噴気孔がふさがれました」  困った報告が来た。 「なに、すると瓦斯は出なくなったのか」 「そうです。孔をふさがれちゃ、もうどうもなりません」  その頃、火星人たちは、また上機嫌になって笑っているように見受けられた。 「仕方がない。あとは出来るだけ永く、彼らを艇内に入れないようにするしかない。全員、空気服をつけろ。いつ艇が破れて、空気が稀薄になるか分らないからね」  遂に最悪の事態を迎えて、デニー博士の顔は深刻さを増した。  乗組員たちは、大急ぎで空気服を着はじめた。大きな靴、ぶかぶかの鎧の様な脚や胴や腕、蛸の頭の様な丸い兜、空気タンク、原子エンジン発電機。みんなの姿が変ってしまった。 「割合に軽いね。へんじゃないか」 「火星の上では、重力が地球のそれの約半分なんだから、地球で着たときよりはずっと軽く感じるのさ」 「そうかね。これでどうやらすこし火星人に似て来たぞ。彼奴らも空気服を着ているのかしらん」 「まさかね」  そのとき乗組員たちは、デニー博士の前に四人の少年が並んだのを見た。どうしたわけだろうか。四人の少年は、揃いも揃って、お尻に大きな尻尾を垂らしていた。  四人の少年は、デニー博士にしきりに何かいう。博士は、分った分ったと、手をあげて合図をする。やがて博士は、四人の少年の手を一人一人握って振った。すると彼らは、博士の前から動きだして、部屋を出ていった。いったいどうしたことであろうか。 「諸君におしらせすることがある」  デニー博士は、空気兜についている高声器を通じて乗組員たちに呼びかけた。 「ただ今、ごらんになったろうが、河合、山木、張、ネッドの四少年が来ていうには、彼ら四名は、われわれの使者として、火星人たちのところへ出掛けたいと申し出た」 「それは危険だ。停めなければいけない」  と、誰かが叫んだ。 「もちろん余も再三停めたのだ。しかし少年たちの決心は岩のように硬かった。少年たちは平和手段によって、火星人との間になごやかな交渉を開いてみるから許してくれというのだ。余は遂に四少年の冒険――四少年の好意を受諾するしかないことを悟った。実際、われわれはこの調子で進めば、火星人と一騎打を演ずるしかないのだから……」  博士は言葉を停めた。こんどは誰も口出しする者がなかった。 「われわれはこの艇内に停り、四少年の成功を神に祈りたいと思う。もしこのことが不成功に終ったとすると、われわれは次の運命を覚悟しなければならぬ。……さあテレビ見張器の前に集るがよい。そこの窓から外を見るがよい。……ああ、あの音は、マートン技師が四少年のために、艇の腹門を開いているのだ。今に彼らは艇を出て、姿を見せるだろう」  博士の言葉が終ると間もなく、乗組員一同は、わっと歓声をあげた。 「おお、行くぞ。われらの少年団が!」 「ふうん、考えたよ。あんなものに乗って行くとは」  艇から転がるように姿を現したのはあのぐらぐらする大きな牛乳配達車だった。横腹に、大きな牝牛を描いてあるあのおんぼろ箱自動車であった。その上には、空気服を着て太い尻尾を生やした三少年が立っていた。もう一人は運転台にいるに違いない。これを見た乗組員たちが、一せいに歓呼の声をあげたのも無理ではない。が、彼らは次にぽろぽろ涙を流し始めた。大きい感激の涙を! 四少年は、これから何をするのだろう。彼らの運命はどうなるのだろうか。
火星人の大群が、宇宙艇の前方において、再び大々的の集結を始めたという山木の報告で乗組員はどのような表情をしたか。
火星人の大群が、宇宙艇の前方において、再び大々的の集結を始めたという山木の報告は、又もや乗組員たちの顔を、不安に曇らせた。
JCRRAG_010599
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火星人の大群が、宇宙艇の前方において、再び大々的の集結を始めたという山木の報告は、又もや乗組員たちの顔を、不安に曇らせた。  いったん潮の引くように退いた火星人たちは、こんどは前よりも一層勢いをつよめて宇宙艇へ追って来つつあるのだ。  火星人たちの人数がふえたばかりか、こんどは手に手に異様な棒を持っている。  先が丸く膨らんだ棍棒みたいなものである。そればかりではない。彼らは高い櫓のようなものを後に引張っていた。それは四五階になっていて、どの階にも気味のわるい火星人の顔が、まるでトマトを店頭に並べたように鈴なりになっていた。そういうものが、密林の中から次第次第に現われ、数を増してくるのであった。 (いったい彼らは、どうしようという気だろうか)  櫓と棍棒とおびただしい火星人の群!  さっきはエフ瓦斯をくらって総退却した彼らだったが、こんどはそれに対抗する手段を考えて向ってきたものに違いない。  艇内には、非常配置につけの号令が出、デニー博士はまたもや指揮台の上に立って、テレビ見張器に食い入るような視線を投げつけている。  と、火星人たちが、手にしていた棍棒みたいなものを一せいに高くさしあげた。  するとふしぎにも、風がぴゅうぴゅう吹きだした。沙漠の砂塵が、舞いあがった。と、宇宙艇を包んでいたエフ瓦斯の幕が吹きとばされて見る見るうちに淡くなっていった。  火星人たちは、どっと笑ったようである。櫓の上に乗っている火星人たちは、さかんに棒をぐるぐる頭の上でふりまわした。風は烈しさを増し、宇宙艇は荒天の中の小星のようにゆさゆさ揺れはじめた。 「これはえらいことになったぞ」  乗組員たちは、転がるまいとして、一所けんめい傍にあるものに取付いた。 「重力装置を働かせよ」  デニー博士が号令をかけた。  ぷうんと呻って、重力装置は働きだした。宇宙艇はぴったりと大地に吸いついた。だからもう微動もしなくなった。  火星人たちの送って来る風が一段と烈しさを加えた。  だが、宇宙艇はびくともしなかった。しかしエフ瓦斯は噴出孔を出るなり吹きとばされて役に立たない。  と、風がぴたりと停った。火星人たちは一せいに棍棒を下ろしたのだ。  やれ助かったかと思う折しも、こんどは大きい青い岩のようなものが、彼らの中からとび出して、宇宙艇の方へどんどん投げつけられ始めた。 「やっ、手榴弾か、爆弾か」  こっちの乗組員は、顔色をかえたが、それはそういう爆発物ではないらしく、炸裂音は聞えず、ただどすんどすんというにぶい小震動が感じられたばかりであった。しかしそれは次第に数を増し、何百何千と艇の上に落ちて来た。 「瓦斯の噴気孔がふさがれました」  困った報告が来た。 「なに、すると瓦斯は出なくなったのか」 「そうです。孔をふさがれちゃ、もうどうもなりません」  その頃、火星人たちは、また上機嫌になって笑っているように見受けられた。 「仕方がない。あとは出来るだけ永く、彼らを艇内に入れないようにするしかない。全員、空気服をつけろ。いつ艇が破れて、空気が稀薄になるか分らないからね」  遂に最悪の事態を迎えて、デニー博士の顔は深刻さを増した。  乗組員たちは、大急ぎで空気服を着はじめた。大きな靴、ぶかぶかの鎧の様な脚や胴や腕、蛸の頭の様な丸い兜、空気タンク、原子エンジン発電機。みんなの姿が変ってしまった。 「割合に軽いね。へんじゃないか」 「火星の上では、重力が地球のそれの約半分なんだから、地球で着たときよりはずっと軽く感じるのさ」 「そうかね。これでどうやらすこし火星人に似て来たぞ。彼奴らも空気服を着ているのかしらん」 「まさかね」  そのとき乗組員たちは、デニー博士の前に四人の少年が並んだのを見た。どうしたわけだろうか。四人の少年は、揃いも揃って、お尻に大きな尻尾を垂らしていた。  四人の少年は、デニー博士にしきりに何かいう。博士は、分った分ったと、手をあげて合図をする。やがて博士は、四人の少年の手を一人一人握って振った。すると彼らは、博士の前から動きだして、部屋を出ていった。いったいどうしたことであろうか。 「諸君におしらせすることがある」  デニー博士は、空気兜についている高声器を通じて乗組員たちに呼びかけた。 「ただ今、ごらんになったろうが、河合、山木、張、ネッドの四少年が来ていうには、彼ら四名は、われわれの使者として、火星人たちのところへ出掛けたいと申し出た」 「それは危険だ。停めなければいけない」  と、誰かが叫んだ。 「もちろん余も再三停めたのだ。しかし少年たちの決心は岩のように硬かった。少年たちは平和手段によって、火星人との間になごやかな交渉を開いてみるから許してくれというのだ。余は遂に四少年の冒険――四少年の好意を受諾するしかないことを悟った。実際、われわれはこの調子で進めば、火星人と一騎打を演ずるしかないのだから……」  博士は言葉を停めた。こんどは誰も口出しする者がなかった。 「われわれはこの艇内に停り、四少年の成功を神に祈りたいと思う。もしこのことが不成功に終ったとすると、われわれは次の運命を覚悟しなければならぬ。……さあテレビ見張器の前に集るがよい。そこの窓から外を見るがよい。……ああ、あの音は、マートン技師が四少年のために、艇の腹門を開いているのだ。今に彼らは艇を出て、姿を見せるだろう」  博士の言葉が終ると間もなく、乗組員一同は、わっと歓声をあげた。 「おお、行くぞ。われらの少年団が!」 「ふうん、考えたよ。あんなものに乗って行くとは」  艇から転がるように姿を現したのはあのぐらぐらする大きな牛乳配達車だった。横腹に、大きな牝牛を描いてあるあのおんぼろ箱自動車であった。その上には、空気服を着て太い尻尾を生やした三少年が立っていた。もう一人は運転台にいるに違いない。これを見た乗組員たちが、一せいに歓呼の声をあげたのも無理ではない。が、彼らは次にぽろぽろ涙を流し始めた。大きい感激の涙を! 四少年は、これから何をするのだろう。彼らの運命はどうなるのだろうか。
火星人たちが持っていた棒はどのような形状をしていたか。
火星人たちが持っていた棒の形状は、先が丸く膨らんだ棍棒みたいなものである。
JCRRAG_010600
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火星人の大群が、宇宙艇の前方において、再び大々的の集結を始めたという山木の報告は、又もや乗組員たちの顔を、不安に曇らせた。  いったん潮の引くように退いた火星人たちは、こんどは前よりも一層勢いをつよめて宇宙艇へ追って来つつあるのだ。  火星人たちの人数がふえたばかりか、こんどは手に手に異様な棒を持っている。  先が丸く膨らんだ棍棒みたいなものである。そればかりではない。彼らは高い櫓のようなものを後に引張っていた。それは四五階になっていて、どの階にも気味のわるい火星人の顔が、まるでトマトを店頭に並べたように鈴なりになっていた。そういうものが、密林の中から次第次第に現われ、数を増してくるのであった。 (いったい彼らは、どうしようという気だろうか)  櫓と棍棒とおびただしい火星人の群!  さっきはエフ瓦斯をくらって総退却した彼らだったが、こんどはそれに対抗する手段を考えて向ってきたものに違いない。  艇内には、非常配置につけの号令が出、デニー博士はまたもや指揮台の上に立って、テレビ見張器に食い入るような視線を投げつけている。  と、火星人たちが、手にしていた棍棒みたいなものを一せいに高くさしあげた。  するとふしぎにも、風がぴゅうぴゅう吹きだした。沙漠の砂塵が、舞いあがった。と、宇宙艇を包んでいたエフ瓦斯の幕が吹きとばされて見る見るうちに淡くなっていった。  火星人たちは、どっと笑ったようである。櫓の上に乗っている火星人たちは、さかんに棒をぐるぐる頭の上でふりまわした。風は烈しさを増し、宇宙艇は荒天の中の小星のようにゆさゆさ揺れはじめた。 「これはえらいことになったぞ」  乗組員たちは、転がるまいとして、一所けんめい傍にあるものに取付いた。 「重力装置を働かせよ」  デニー博士が号令をかけた。  ぷうんと呻って、重力装置は働きだした。宇宙艇はぴったりと大地に吸いついた。だからもう微動もしなくなった。  火星人たちの送って来る風が一段と烈しさを加えた。  だが、宇宙艇はびくともしなかった。しかしエフ瓦斯は噴出孔を出るなり吹きとばされて役に立たない。  と、風がぴたりと停った。火星人たちは一せいに棍棒を下ろしたのだ。  やれ助かったかと思う折しも、こんどは大きい青い岩のようなものが、彼らの中からとび出して、宇宙艇の方へどんどん投げつけられ始めた。 「やっ、手榴弾か、爆弾か」  こっちの乗組員は、顔色をかえたが、それはそういう爆発物ではないらしく、炸裂音は聞えず、ただどすんどすんというにぶい小震動が感じられたばかりであった。しかしそれは次第に数を増し、何百何千と艇の上に落ちて来た。 「瓦斯の噴気孔がふさがれました」  困った報告が来た。 「なに、すると瓦斯は出なくなったのか」 「そうです。孔をふさがれちゃ、もうどうもなりません」  その頃、火星人たちは、また上機嫌になって笑っているように見受けられた。 「仕方がない。あとは出来るだけ永く、彼らを艇内に入れないようにするしかない。全員、空気服をつけろ。いつ艇が破れて、空気が稀薄になるか分らないからね」  遂に最悪の事態を迎えて、デニー博士の顔は深刻さを増した。  乗組員たちは、大急ぎで空気服を着はじめた。大きな靴、ぶかぶかの鎧の様な脚や胴や腕、蛸の頭の様な丸い兜、空気タンク、原子エンジン発電機。みんなの姿が変ってしまった。 「割合に軽いね。へんじゃないか」 「火星の上では、重力が地球のそれの約半分なんだから、地球で着たときよりはずっと軽く感じるのさ」 「そうかね。これでどうやらすこし火星人に似て来たぞ。彼奴らも空気服を着ているのかしらん」 「まさかね」  そのとき乗組員たちは、デニー博士の前に四人の少年が並んだのを見た。どうしたわけだろうか。四人の少年は、揃いも揃って、お尻に大きな尻尾を垂らしていた。  四人の少年は、デニー博士にしきりに何かいう。博士は、分った分ったと、手をあげて合図をする。やがて博士は、四人の少年の手を一人一人握って振った。すると彼らは、博士の前から動きだして、部屋を出ていった。いったいどうしたことであろうか。 「諸君におしらせすることがある」  デニー博士は、空気兜についている高声器を通じて乗組員たちに呼びかけた。 「ただ今、ごらんになったろうが、河合、山木、張、ネッドの四少年が来ていうには、彼ら四名は、われわれの使者として、火星人たちのところへ出掛けたいと申し出た」 「それは危険だ。停めなければいけない」  と、誰かが叫んだ。 「もちろん余も再三停めたのだ。しかし少年たちの決心は岩のように硬かった。少年たちは平和手段によって、火星人との間になごやかな交渉を開いてみるから許してくれというのだ。余は遂に四少年の冒険――四少年の好意を受諾するしかないことを悟った。実際、われわれはこの調子で進めば、火星人と一騎打を演ずるしかないのだから……」  博士は言葉を停めた。こんどは誰も口出しする者がなかった。 「われわれはこの艇内に停り、四少年の成功を神に祈りたいと思う。もしこのことが不成功に終ったとすると、われわれは次の運命を覚悟しなければならぬ。……さあテレビ見張器の前に集るがよい。そこの窓から外を見るがよい。……ああ、あの音は、マートン技師が四少年のために、艇の腹門を開いているのだ。今に彼らは艇を出て、姿を見せるだろう」  博士の言葉が終ると間もなく、乗組員一同は、わっと歓声をあげた。 「おお、行くぞ。われらの少年団が!」 「ふうん、考えたよ。あんなものに乗って行くとは」  艇から転がるように姿を現したのはあのぐらぐらする大きな牛乳配達車だった。横腹に、大きな牝牛を描いてあるあのおんぼろ箱自動車であった。その上には、空気服を着て太い尻尾を生やした三少年が立っていた。もう一人は運転台にいるに違いない。これを見た乗組員たちが、一せいに歓呼の声をあげたのも無理ではない。が、彼らは次にぽろぽろ涙を流し始めた。大きい感激の涙を! 四少年は、これから何をするのだろう。彼らの運命はどうなるのだろうか。
艇から転がるように姿を現したのはなにか。
艇から転がるように姿を現したのはあのぐらぐらする大きな牛乳配達車だった。