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Question
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JCRRAG_010901
国語
その遊びにどんな名がついているのか知らない。まだそんな遊びをいまの子どもたちがはたしてするのか、町を歩くとき私は注意してみるがこれまでみたためしがない。あのころつまり私たちがその遊びをしていた当時でさえ、他の子どもたちはそういう遊びを知っていたかどうかもあやしい。いちおう私と同年輩の人にたずねてみたいと思う。  なんだか私たちのあいだにだけあり、後にも先にもないもののような気がする。そう思うことは楽しい。してみると私たちのなかまのたれかが創案したのだが、いったいたれだろう、あんなあわれ深い遊戯をつくり出したのは。  その遊びというのは、ふたりいればできる。ひとりがかくれんぼのおにのように眼をつむって待っている。そのあいだに他のひとりが道ばたや畑にさいているさまざまな花をむしってくる。そして地べたに茶飲茶碗ほどの――いやもっと小さい、さかずきほどの穴をほりその中にとってきた花をいい按配に入れる。それから穴に硝子の破片でふたをし、上に砂をかむせ地面の他の部分とすこしもかわらないようにみせかける。 「ようしか」とおにが催促する、「もうようし」と合図する。するとおにが眼をあけてきてそのあたりをきょろきょろとさがしまわり、ここぞと思うところを指先でなでて、花のかくされた穴をみつけるのである。それだけのことである。  だがその遊びに私たちが持った興味は他の遊びとはちがう。おににかくしおおせて、おにを負かしてしまうということや、おにの方では、早くみつけて早くおにをやめるということなどにはたいして興味はなかった。もっぱら興味の中心はかくされた土中の一握の花の美しさにつながっていた。  砂の上にそっとはわせてゆく指先にこつんとかたいものがあたるとそこに硝子がある。硝子の上の砂をのける。だがほんのすこし。ちょうど人さし指の頭のあたる部分だけ。穴からのぞく。そこには私たちのこのみなれた世界とは全然別の、どこかはるかなくにの、おとぎばなしか夢のような情趣を持った小さな別天地があった。小さな小さな別天地。ところがみているとただ小さいだけではなかった。無辺際に大きな世界がそこに凝縮されている小ささであった。そのゆえにその指さきの世界は私たちをひきつけてやまなかったのである。  いつもその遊びをしたわけではない。それをするのは夕暮が多かった。木にのぼったり、草の上をとびまわったり、はげしい肉体的な遊戯につかれてきて、夕まぐれの青やかな空気のなごやかさに私たちの心も何がなしとけこんでゆくころにそれをした。それをする相手も、たれであってもかまわぬというのではなかった。第一そんな遊びを頭からこのまないなかまもあった。女の子はたいていすきだった。  ふたりいればできると私はいったが、ひとりでもできないことはなかった。私はひとりでよくした。ただひとりのときは自分がふたりになってするだけのことである。つまり花をとってかくしておき、そこからすこしはなれたところへできうべくんば家の角を一つまわったところまで、いっておにになり、眼をとじて百か二百かぞえ、それからさがしに出かけるのである。  だがそれをひとりでするときは心に流れるうらわびしさが、硝子の指先にふれる冷たさや、土のしめっぽい香や、美しい花の色にまでしみて余計さびしくなるのだった。  ふたりか三人でその遊びをしたあと、家へ帰る前に美しい作品を一つ土中にうめておきそのまま帰ることもあった。その夜はときどきうめてきた花のことを思い出し床の中でも思い出してねむるのである。  そんなとき土中のその小さな花のかたまりは私の心の中のたのしい秘密であって、母にもたれにも話さない。つぎの朝いってさがしあててみると、花は土のしめりですこしもしおれずしかし明るい朝の光の中ではやや色あせてみえ私はそれと知らず幻滅を覚えたのであった。また前の晩にうめておいた花のことをつぎの朝、子ども心の気まぐれにわすれてしまうこともあった。そういう花が私たちにわすられたままたくさん土にくちてまじったことだろう。  私たちは家に帰る前に、また、そのとき使った花や葉を全部あつめほんとうに土の中に土をもってうめ、上を足でふんでおくこともあった。遊びのはてにするこの精算は私の心に美しいもの純潔なものをもたらした。子どもでありながらなんといじらしいことをしたものだろう。
つぎの朝いってさがしあててみると、花はどのようにみえ私はそれと知らず幻滅を覚えたのでしたか。
つぎの朝いってさがしあててみると、花は土のしめりですこしもしおれずしかし明るい朝の光の中ではやや色あせてみえ私はそれと知らず幻滅を覚えたのでした。
JCRRAG_010902
国語
ある日の日暮どき私たちはこの遊びをしていた。私に豆腐屋の林太郎に織布工場のツル――の三人だった。私たちは三人同い年だった。秋葉さんの常夜燈の下でしていた。  ツルは女だからさすがに花をうまくあしらい美しいパノラマをつくる、また彼女はそれをつくり私たちにみせるのがすきだった。ではじめのうち林太郎と私のふたりがおにでツルのかくした花をさがしてばかりいた。  私はツルのつくった花の世界のすばらしさにおどろかされた。彼女は花びらを一つずつ用い草の葉や、草の実をたくみに点景した。ときには帯のあいだにはさんでいる小さい巾着から、砂粒ほどの南京玉を出しそれを花びらのあいだに配した。まるで花園に星のふったように。そしてまた私はツルがすきだった。  遊びにはおのずから遊びの終わるときがくるものだが、最後にツルと林太郎とふたりで花をかくし私がひとりおにになった。「よし」といわれて私はさがしにいったが、いくらさがしてもみあたらない。「もっと向こうよ、もっと向こうよ」とツルがいうままにそのあたりをなでまわるがどうしてもみあたらない。林太郎はにやにや笑って常夜燈にもたれてみている。林太郎はただツルの花をうずめるのをみていただけに相違ない。「お茶わかしたよ」ととうとう私はかぶとをぬいだ。すれば、ツルの方で意外のところから花のありかを指摘してみせるのが当然なのだがツルはそうしなかった。「そいじゃ明日さがしな」といった。  私は残念でたまらなかったのでまた地びたをはいまわったがついにみつからなかった。でその日は家に帰った。たびたび常夜燈の下の広くもない地びたを眼にうかべた。そのどこかに、ツルがつくったところのこの世のものならぬ美しさをひめた花のパノラマがあることを思った。その花や南京玉の有様が手にとるように閉じた眼にみえた。  朝起きるとすぐ私は常夜燈の下へいってみた。そしてひとりでツルのかくした花をさがした。息をはずませながら。まるで金でもさがすように。だがついにみつからなかった。  それから以後たびたび思い出してはそこへいってさがした。花はもうしおれはてているだろうということはすこしも考えなかった。いつでも眼を閉じさえすれば、ツルのかくした花や南京玉が、水のしたたる美しさでうす明かりの中にうかぶのであった。たれか他の者にみつけ出されると困るので、私はひとりのときにかぎってそこへさがしにいった。  遊び相手がなくてひとりさびしくいるとき、常夜燈の下にツルのかくしたその花があるという思いは私を元気づけた。そこへかけつけ、さがしまわるあいだの希望は何にもかえがたかった。いくらさがしてもみつからない焦燥もさることながら。  ところがある日、私は林太郎にみられてしまった。私が例のように常夜燈の下をすみからすみまでさがしまわっていると、いつのまにきたのか林太郎が常夜燈の石段にもたれてとうもろこしをたべていた。私は林太郎にみられたと気づいた瞬間ぬすみの現行をおさえられたようにびくっとした。私はとっさのあいだにごまかそうとした。  だが、林太郎は私の心の底までつまり私がツルをすいているということまでみとおしたようににやにやと笑って「まださがいとるのけ、ばかだな」といった。「あれ嘘だっただよ、ツルあ何も埋けやせんだっただ」  私は、ああそうだったのかと思った。心についていたものがのぞかれたように感じて、ほっとした。  それからのち、常夜燈の下は私にはなんの魅力もないものになってしまった。ときどきそこで遊んでいて、ここには何もかくされてはないのだと思うとしらじらしい気持ちになり、美しい花がかくされているのだと思いこんでいた以前のことをなつかしく思うのであった。  林太郎が私に真実を語らなかったら、私にはいつまでも常夜燈の下のかくされた花の思いは楽しいものであったかどうか、それはわからない。  ツルとはその後、同じ村にいながら長いあいだ交渉をたっていたが、私が中学を出たときおりがあって手紙のやりとりをし、あいびきもした。しかし彼女はそれまで私が心の中で育てていたツルとはたいそうちがっていて、普通のおろかな虚栄心の強い女であることがわかり、ひどい幻滅を味わったのは、ツルがかくしたようにみせかけたあの花についての事情と何か似ていてあわれである。
私はツルのつくった何のすばらしさにおどろかされましたか。
私はツルのつくった花の世界のすばらしさにおどろかされました。
JCRRAG_010903
国語
ある日の日暮どき私たちはこの遊びをしていた。私に豆腐屋の林太郎に織布工場のツル――の三人だった。私たちは三人同い年だった。秋葉さんの常夜燈の下でしていた。  ツルは女だからさすがに花をうまくあしらい美しいパノラマをつくる、また彼女はそれをつくり私たちにみせるのがすきだった。ではじめのうち林太郎と私のふたりがおにでツルのかくした花をさがしてばかりいた。  私はツルのつくった花の世界のすばらしさにおどろかされた。彼女は花びらを一つずつ用い草の葉や、草の実をたくみに点景した。ときには帯のあいだにはさんでいる小さい巾着から、砂粒ほどの南京玉を出しそれを花びらのあいだに配した。まるで花園に星のふったように。そしてまた私はツルがすきだった。  遊びにはおのずから遊びの終わるときがくるものだが、最後にツルと林太郎とふたりで花をかくし私がひとりおにになった。「よし」といわれて私はさがしにいったが、いくらさがしてもみあたらない。「もっと向こうよ、もっと向こうよ」とツルがいうままにそのあたりをなでまわるがどうしてもみあたらない。林太郎はにやにや笑って常夜燈にもたれてみている。林太郎はただツルの花をうずめるのをみていただけに相違ない。「お茶わかしたよ」ととうとう私はかぶとをぬいだ。すれば、ツルの方で意外のところから花のありかを指摘してみせるのが当然なのだがツルはそうしなかった。「そいじゃ明日さがしな」といった。  私は残念でたまらなかったのでまた地びたをはいまわったがついにみつからなかった。でその日は家に帰った。たびたび常夜燈の下の広くもない地びたを眼にうかべた。そのどこかに、ツルがつくったところのこの世のものならぬ美しさをひめた花のパノラマがあることを思った。その花や南京玉の有様が手にとるように閉じた眼にみえた。  朝起きるとすぐ私は常夜燈の下へいってみた。そしてひとりでツルのかくした花をさがした。息をはずませながら。まるで金でもさがすように。だがついにみつからなかった。  それから以後たびたび思い出してはそこへいってさがした。花はもうしおれはてているだろうということはすこしも考えなかった。いつでも眼を閉じさえすれば、ツルのかくした花や南京玉が、水のしたたる美しさでうす明かりの中にうかぶのであった。たれか他の者にみつけ出されると困るので、私はひとりのときにかぎってそこへさがしにいった。  遊び相手がなくてひとりさびしくいるとき、常夜燈の下にツルのかくしたその花があるという思いは私を元気づけた。そこへかけつけ、さがしまわるあいだの希望は何にもかえがたかった。いくらさがしてもみつからない焦燥もさることながら。  ところがある日、私は林太郎にみられてしまった。私が例のように常夜燈の下をすみからすみまでさがしまわっていると、いつのまにきたのか林太郎が常夜燈の石段にもたれてとうもろこしをたべていた。私は林太郎にみられたと気づいた瞬間ぬすみの現行をおさえられたようにびくっとした。私はとっさのあいだにごまかそうとした。  だが、林太郎は私の心の底までつまり私がツルをすいているということまでみとおしたようににやにやと笑って「まださがいとるのけ、ばかだな」といった。「あれ嘘だっただよ、ツルあ何も埋けやせんだっただ」  私は、ああそうだったのかと思った。心についていたものがのぞかれたように感じて、ほっとした。  それからのち、常夜燈の下は私にはなんの魅力もないものになってしまった。ときどきそこで遊んでいて、ここには何もかくされてはないのだと思うとしらじらしい気持ちになり、美しい花がかくされているのだと思いこんでいた以前のことをなつかしく思うのであった。  林太郎が私に真実を語らなかったら、私にはいつまでも常夜燈の下のかくされた花の思いは楽しいものであったかどうか、それはわからない。  ツルとはその後、同じ村にいながら長いあいだ交渉をたっていたが、私が中学を出たときおりがあって手紙のやりとりをし、あいびきもした。しかし彼女はそれまで私が心の中で育てていたツルとはたいそうちがっていて、普通のおろかな虚栄心の強い女であることがわかり、ひどい幻滅を味わったのは、ツルがかくしたようにみせかけたあの花についての事情と何か似ていてあわれである。
私は残念でたまらなかったので何をしましたか。
私は残念でたまらなかったのでまた地びたをはいまわりました。
JCRRAG_010904
国語
ある日の日暮どき私たちはこの遊びをしていた。私に豆腐屋の林太郎に織布工場のツル――の三人だった。私たちは三人同い年だった。秋葉さんの常夜燈の下でしていた。  ツルは女だからさすがに花をうまくあしらい美しいパノラマをつくる、また彼女はそれをつくり私たちにみせるのがすきだった。ではじめのうち林太郎と私のふたりがおにでツルのかくした花をさがしてばかりいた。  私はツルのつくった花の世界のすばらしさにおどろかされた。彼女は花びらを一つずつ用い草の葉や、草の実をたくみに点景した。ときには帯のあいだにはさんでいる小さい巾着から、砂粒ほどの南京玉を出しそれを花びらのあいだに配した。まるで花園に星のふったように。そしてまた私はツルがすきだった。  遊びにはおのずから遊びの終わるときがくるものだが、最後にツルと林太郎とふたりで花をかくし私がひとりおにになった。「よし」といわれて私はさがしにいったが、いくらさがしてもみあたらない。「もっと向こうよ、もっと向こうよ」とツルがいうままにそのあたりをなでまわるがどうしてもみあたらない。林太郎はにやにや笑って常夜燈にもたれてみている。林太郎はただツルの花をうずめるのをみていただけに相違ない。「お茶わかしたよ」ととうとう私はかぶとをぬいだ。すれば、ツルの方で意外のところから花のありかを指摘してみせるのが当然なのだがツルはそうしなかった。「そいじゃ明日さがしな」といった。  私は残念でたまらなかったのでまた地びたをはいまわったがついにみつからなかった。でその日は家に帰った。たびたび常夜燈の下の広くもない地びたを眼にうかべた。そのどこかに、ツルがつくったところのこの世のものならぬ美しさをひめた花のパノラマがあることを思った。その花や南京玉の有様が手にとるように閉じた眼にみえた。  朝起きるとすぐ私は常夜燈の下へいってみた。そしてひとりでツルのかくした花をさがした。息をはずませながら。まるで金でもさがすように。だがついにみつからなかった。  それから以後たびたび思い出してはそこへいってさがした。花はもうしおれはてているだろうということはすこしも考えなかった。いつでも眼を閉じさえすれば、ツルのかくした花や南京玉が、水のしたたる美しさでうす明かりの中にうかぶのであった。たれか他の者にみつけ出されると困るので、私はひとりのときにかぎってそこへさがしにいった。  遊び相手がなくてひとりさびしくいるとき、常夜燈の下にツルのかくしたその花があるという思いは私を元気づけた。そこへかけつけ、さがしまわるあいだの希望は何にもかえがたかった。いくらさがしてもみつからない焦燥もさることながら。  ところがある日、私は林太郎にみられてしまった。私が例のように常夜燈の下をすみからすみまでさがしまわっていると、いつのまにきたのか林太郎が常夜燈の石段にもたれてとうもろこしをたべていた。私は林太郎にみられたと気づいた瞬間ぬすみの現行をおさえられたようにびくっとした。私はとっさのあいだにごまかそうとした。  だが、林太郎は私の心の底までつまり私がツルをすいているということまでみとおしたようににやにやと笑って「まださがいとるのけ、ばかだな」といった。「あれ嘘だっただよ、ツルあ何も埋けやせんだっただ」  私は、ああそうだったのかと思った。心についていたものがのぞかれたように感じて、ほっとした。  それからのち、常夜燈の下は私にはなんの魅力もないものになってしまった。ときどきそこで遊んでいて、ここには何もかくされてはないのだと思うとしらじらしい気持ちになり、美しい花がかくされているのだと思いこんでいた以前のことをなつかしく思うのであった。  林太郎が私に真実を語らなかったら、私にはいつまでも常夜燈の下のかくされた花の思いは楽しいものであったかどうか、それはわからない。  ツルとはその後、同じ村にいながら長いあいだ交渉をたっていたが、私が中学を出たときおりがあって手紙のやりとりをし、あいびきもした。しかし彼女はそれまで私が心の中で育てていたツルとはたいそうちがっていて、普通のおろかな虚栄心の強い女であることがわかり、ひどい幻滅を味わったのは、ツルがかくしたようにみせかけたあの花についての事情と何か似ていてあわれである。
私はひとりで何をさがしましたか。
私はひとりでツルのかくした花をさがしました。
JCRRAG_010905
国語
ある日の日暮どき私たちはこの遊びをしていた。私に豆腐屋の林太郎に織布工場のツル――の三人だった。私たちは三人同い年だった。秋葉さんの常夜燈の下でしていた。  ツルは女だからさすがに花をうまくあしらい美しいパノラマをつくる、また彼女はそれをつくり私たちにみせるのがすきだった。ではじめのうち林太郎と私のふたりがおにでツルのかくした花をさがしてばかりいた。  私はツルのつくった花の世界のすばらしさにおどろかされた。彼女は花びらを一つずつ用い草の葉や、草の実をたくみに点景した。ときには帯のあいだにはさんでいる小さい巾着から、砂粒ほどの南京玉を出しそれを花びらのあいだに配した。まるで花園に星のふったように。そしてまた私はツルがすきだった。  遊びにはおのずから遊びの終わるときがくるものだが、最後にツルと林太郎とふたりで花をかくし私がひとりおにになった。「よし」といわれて私はさがしにいったが、いくらさがしてもみあたらない。「もっと向こうよ、もっと向こうよ」とツルがいうままにそのあたりをなでまわるがどうしてもみあたらない。林太郎はにやにや笑って常夜燈にもたれてみている。林太郎はただツルの花をうずめるのをみていただけに相違ない。「お茶わかしたよ」ととうとう私はかぶとをぬいだ。すれば、ツルの方で意外のところから花のありかを指摘してみせるのが当然なのだがツルはそうしなかった。「そいじゃ明日さがしな」といった。  私は残念でたまらなかったのでまた地びたをはいまわったがついにみつからなかった。でその日は家に帰った。たびたび常夜燈の下の広くもない地びたを眼にうかべた。そのどこかに、ツルがつくったところのこの世のものならぬ美しさをひめた花のパノラマがあることを思った。その花や南京玉の有様が手にとるように閉じた眼にみえた。  朝起きるとすぐ私は常夜燈の下へいってみた。そしてひとりでツルのかくした花をさがした。息をはずませながら。まるで金でもさがすように。だがついにみつからなかった。  それから以後たびたび思い出してはそこへいってさがした。花はもうしおれはてているだろうということはすこしも考えなかった。いつでも眼を閉じさえすれば、ツルのかくした花や南京玉が、水のしたたる美しさでうす明かりの中にうかぶのであった。たれか他の者にみつけ出されると困るので、私はひとりのときにかぎってそこへさがしにいった。  遊び相手がなくてひとりさびしくいるとき、常夜燈の下にツルのかくしたその花があるという思いは私を元気づけた。そこへかけつけ、さがしまわるあいだの希望は何にもかえがたかった。いくらさがしてもみつからない焦燥もさることながら。  ところがある日、私は林太郎にみられてしまった。私が例のように常夜燈の下をすみからすみまでさがしまわっていると、いつのまにきたのか林太郎が常夜燈の石段にもたれてとうもろこしをたべていた。私は林太郎にみられたと気づいた瞬間ぬすみの現行をおさえられたようにびくっとした。私はとっさのあいだにごまかそうとした。  だが、林太郎は私の心の底までつまり私がツルをすいているということまでみとおしたようににやにやと笑って「まださがいとるのけ、ばかだな」といった。「あれ嘘だっただよ、ツルあ何も埋けやせんだっただ」  私は、ああそうだったのかと思った。心についていたものがのぞかれたように感じて、ほっとした。  それからのち、常夜燈の下は私にはなんの魅力もないものになってしまった。ときどきそこで遊んでいて、ここには何もかくされてはないのだと思うとしらじらしい気持ちになり、美しい花がかくされているのだと思いこんでいた以前のことをなつかしく思うのであった。  林太郎が私に真実を語らなかったら、私にはいつまでも常夜燈の下のかくされた花の思いは楽しいものであったかどうか、それはわからない。  ツルとはその後、同じ村にいながら長いあいだ交渉をたっていたが、私が中学を出たときおりがあって手紙のやりとりをし、あいびきもした。しかし彼女はそれまで私が心の中で育てていたツルとはたいそうちがっていて、普通のおろかな虚栄心の強い女であることがわかり、ひどい幻滅を味わったのは、ツルがかくしたようにみせかけたあの花についての事情と何か似ていてあわれである。
私は林太郎にみられたと気づいた瞬間どのようにびくっとしましたか。
私は林太郎にみられたと気づいた瞬間ぬすみの現行をおさえられたようにびくっとしました。
JCRRAG_010906
国語
わたしが子どもだったじぶん、わたしの家は、山のふもとの小さな村にありました。  わたしの家では、ちょうちんやろうそくを売っておりました。  ある晩のこと、ひとりのうしかいが、わたしの家でちょうちんとろうそくを買いました。 「ぼうや、すまないが、ろうそくに火をともしてくれ。」 と、うしかいがわたしにいいました。  わたしはまだマッチをすったことがありませんでした。  そこで、おっかなびっくり、マッチの棒のはしの方をもってすりました。すると、棒のさきに青い火がともりました。  わたしはその火をろうそくにうつしてやりました。 「や、ありがとう。」 といって、うしかいは、火のともったちょうちんを牛のよこはらのところにつるして、いってしまいました。  わたしはひとりになってから考えました。  ――わたしのともしてやった火はどこまでゆくだろう。  あのうしかいは山の向こうの人だから、あの火も山をこえてゆくだろう。  山の中で、あのうしかいは、べつの村にゆくもうひとりの旅人にゆきあうかもしれない。  するとその旅人は、 「すみませんが、その火をちょっとかしてください。」 といって、うしかいの火をかりて、じぶんのちょうちんにうつすだろう。  そしてこの旅人は、よっぴて山道をあるいてゆくだろう。  すると、この旅人は、たいこやかねをもったおおぜいのひとびとにあうかもしれない。  その人たちは、 「わたしたちの村のひとりの子どもが、狐にばかされて村にかえってきません。それでわたしたちはさがしているのです。すみませんが、ちょっとちょうちんの火をかしてください。」 といって、旅人から火をかり、みんなのちょうちんにつけるだろう。長いちょうちんやまるいちょうちんにつけるだろう。  そしてこの人たちは、かねやたいこをならして、やまや谷をさがしてゆくだろう。  わたしはいまでも、あのときわたしがうしかいのちょうちんにともしてやった火が、つぎからつぎへうつされて、どこかにともっているのではないか、とおもいます。
わたしが子どもだったじぶん、わたしの家はどこにありましたか。
わたしが子どもだったじぶん、わたしの家は、山のふもとの小さな村にありました。
JCRRAG_010907
国語
わたしが子どもだったじぶん、わたしの家は、山のふもとの小さな村にありました。  わたしの家では、ちょうちんやろうそくを売っておりました。  ある晩のこと、ひとりのうしかいが、わたしの家でちょうちんとろうそくを買いました。 「ぼうや、すまないが、ろうそくに火をともしてくれ。」 と、うしかいがわたしにいいました。  わたしはまだマッチをすったことがありませんでした。  そこで、おっかなびっくり、マッチの棒のはしの方をもってすりました。すると、棒のさきに青い火がともりました。  わたしはその火をろうそくにうつしてやりました。 「や、ありがとう。」 といって、うしかいは、火のともったちょうちんを牛のよこはらのところにつるして、いってしまいました。  わたしはひとりになってから考えました。  ――わたしのともしてやった火はどこまでゆくだろう。  あのうしかいは山の向こうの人だから、あの火も山をこえてゆくだろう。  山の中で、あのうしかいは、べつの村にゆくもうひとりの旅人にゆきあうかもしれない。  するとその旅人は、 「すみませんが、その火をちょっとかしてください。」 といって、うしかいの火をかりて、じぶんのちょうちんにうつすだろう。  そしてこの旅人は、よっぴて山道をあるいてゆくだろう。  すると、この旅人は、たいこやかねをもったおおぜいのひとびとにあうかもしれない。  その人たちは、 「わたしたちの村のひとりの子どもが、狐にばかされて村にかえってきません。それでわたしたちはさがしているのです。すみませんが、ちょっとちょうちんの火をかしてください。」 といって、旅人から火をかり、みんなのちょうちんにつけるだろう。長いちょうちんやまるいちょうちんにつけるだろう。  そしてこの人たちは、かねやたいこをならして、やまや谷をさがしてゆくだろう。  わたしはいまでも、あのときわたしがうしかいのちょうちんにともしてやった火が、つぎからつぎへうつされて、どこかにともっているのではないか、とおもいます。
わたしの家では、何を売っておりましたか。
わたしの家では、ちょうちんやろうそくを売っておりました。
JCRRAG_010908
国語
わたしが子どもだったじぶん、わたしの家は、山のふもとの小さな村にありました。  わたしの家では、ちょうちんやろうそくを売っておりました。  ある晩のこと、ひとりのうしかいが、わたしの家でちょうちんとろうそくを買いました。 「ぼうや、すまないが、ろうそくに火をともしてくれ。」 と、うしかいがわたしにいいました。  わたしはまだマッチをすったことがありませんでした。  そこで、おっかなびっくり、マッチの棒のはしの方をもってすりました。すると、棒のさきに青い火がともりました。  わたしはその火をろうそくにうつしてやりました。 「や、ありがとう。」 といって、うしかいは、火のともったちょうちんを牛のよこはらのところにつるして、いってしまいました。  わたしはひとりになってから考えました。  ――わたしのともしてやった火はどこまでゆくだろう。  あのうしかいは山の向こうの人だから、あの火も山をこえてゆくだろう。  山の中で、あのうしかいは、べつの村にゆくもうひとりの旅人にゆきあうかもしれない。  するとその旅人は、 「すみませんが、その火をちょっとかしてください。」 といって、うしかいの火をかりて、じぶんのちょうちんにうつすだろう。  そしてこの旅人は、よっぴて山道をあるいてゆくだろう。  すると、この旅人は、たいこやかねをもったおおぜいのひとびとにあうかもしれない。  その人たちは、 「わたしたちの村のひとりの子どもが、狐にばかされて村にかえってきません。それでわたしたちはさがしているのです。すみませんが、ちょっとちょうちんの火をかしてください。」 といって、旅人から火をかり、みんなのちょうちんにつけるだろう。長いちょうちんやまるいちょうちんにつけるだろう。  そしてこの人たちは、かねやたいこをならして、やまや谷をさがしてゆくだろう。  わたしはいまでも、あのときわたしがうしかいのちょうちんにともしてやった火が、つぎからつぎへうつされて、どこかにともっているのではないか、とおもいます。
わたしはまだ何をしたことがありませんでしたか。
わたしはまだマッチをすったことがありませんでした。
JCRRAG_010909
国語
わたしが子どもだったじぶん、わたしの家は、山のふもとの小さな村にありました。  わたしの家では、ちょうちんやろうそくを売っておりました。  ある晩のこと、ひとりのうしかいが、わたしの家でちょうちんとろうそくを買いました。 「ぼうや、すまないが、ろうそくに火をともしてくれ。」 と、うしかいがわたしにいいました。  わたしはまだマッチをすったことがありませんでした。  そこで、おっかなびっくり、マッチの棒のはしの方をもってすりました。すると、棒のさきに青い火がともりました。  わたしはその火をろうそくにうつしてやりました。 「や、ありがとう。」 といって、うしかいは、火のともったちょうちんを牛のよこはらのところにつるして、いってしまいました。  わたしはひとりになってから考えました。  ――わたしのともしてやった火はどこまでゆくだろう。  あのうしかいは山の向こうの人だから、あの火も山をこえてゆくだろう。  山の中で、あのうしかいは、べつの村にゆくもうひとりの旅人にゆきあうかもしれない。  するとその旅人は、 「すみませんが、その火をちょっとかしてください。」 といって、うしかいの火をかりて、じぶんのちょうちんにうつすだろう。  そしてこの旅人は、よっぴて山道をあるいてゆくだろう。  すると、この旅人は、たいこやかねをもったおおぜいのひとびとにあうかもしれない。  その人たちは、 「わたしたちの村のひとりの子どもが、狐にばかされて村にかえってきません。それでわたしたちはさがしているのです。すみませんが、ちょっとちょうちんの火をかしてください。」 といって、旅人から火をかり、みんなのちょうちんにつけるだろう。長いちょうちんやまるいちょうちんにつけるだろう。  そしてこの人たちは、かねやたいこをならして、やまや谷をさがしてゆくだろう。  わたしはいまでも、あのときわたしがうしかいのちょうちんにともしてやった火が、つぎからつぎへうつされて、どこかにともっているのではないか、とおもいます。
わたしはその火を何にうつしてやりましたか。
わたしはその火をろうそくにうつしてやりました。
JCRRAG_010910
国語
大頭の吉太郎君にわかれてから、大作君はもう四つ五つの道かどをまがってきた。こんなふうに景色をかえているうちに、たいていの不愉快なおもいは消えてしまうものである。ところが、今日はそうでなかった。家は貧乏だ、というおもいは、しゅうねんぶかく大作君のあとをつけてきた。まるで、追っても追ってもついてくるすて犬のように。  大作君は、何もいままで自分の家の貧乏なことを知らなかったわけではないのだ。しかしこんなぐあいに、まざまざとみせつけられたのは今日がはじめてであった。  四年生の三学期に大作君は体操をなまけてばかりいたことがあった。それで、体操の点が乙か丙になるだろうということは、前からうすうす思っていた。しかし通知票をもらって、じっさいそこに、体操丙と書かれてあるのをみたときには、いやこれであたりまえだ、と思いながらも、がっかりしてしまったものだ。  大作君が、いぜんからうすうす知っていた自分の家の貧しいことを、今日のできごとでまざまざとみせつけられたのは、体操丙の通知票をみたときと同じようなことであった。  そこで大作君は、おとなのことばでいえば、自分の家の貧乏をはっきり認識した。さらに、貧乏であることをしみじみはずかしく感じたのである。  人は、つまずいてすてんころりとぶざまにころんだりすると、ころんだ自分に腹を立てて、もういっぺんわざと、こんどはもっとひどく、ころんで自分をいじめることがあるものだが、大作君も、自分の家の貧乏なことがよくわかり、そしてそれがうたがいもなくはずかしいことであるとわかってみると、こんどはわざと、自分の家がどんなに貧しいはずかしい暮らし方をしているかをおもい出して、ますますはずかしさを味わってみたくなった。  ――第一、大作君の家では子どもが多すぎるのだ。大作君をかしらにして八人いる。そしてお母さんはまだこれから赤ん坊をうむかも知れないのである。何しろこんなに生まれるということはお父さんも意外だったそうだ。それが証拠に、お父さんははじめ三人だけは、大作、速男、幸助と、ていねいな名前をつけた。そして四人目が生まれたときにはじめて、これは今後何人生まれるかわからない。それならば、いちいち考えて名をつけているわけにはいかないというので、四人目の弟からは、四郎、五郎、ムツ子、七郎と、番号式につけたのだそうである。この話をよく大作君はお父さんから笑い話としてきかされ、そのつど、おかしくて大笑いした。しかし考えてみれば、こんなことのどこがおもしろいものか。ぜんぜん貧乏くさい話じゃないか。  子どもが多いので大作君の家では、服をひとりひとりに買ってあてがうということはないのだ。たとえば大作君が使った洋服を、つぎの速男が使ってわるくし、それをつぎの幸助が使ってぞうきんみたいなものにしてしまい、それをつぎの四郎と五郎が使っていっそうちぎれちぎれにしてしまうと、最後は赤ん坊たちのむつきになるというあんばいだった。  帽子や鞄や教科書、その他なんでもそういうふうに、年上から年下へ手わたされていくのであった。おかしいことに眼の上のこぶまでがそうだった。つまり最初に、大作君の左の眼の上が赤くつやつやとふくれあがってまぶたが重くなる。一週間もして大作君のそれがなおると、つぎの速男がちゃんとそれをうけついで、左の眼の上をはらしている。速男がなおれば幸助、つぎは四郎、五郎という順にいく。たんこぶまでが、リレーの棒のように、眼から眼へうけわたされていくというのは、まったくばかげた、一銭の得にもならない話ではないか。  いや、その弟どもが、またひとりひとり考えてみると、いかにも貧乏たらしいのである。  速男はやせっぽちで、大作君からゆずりうける服がいつもだぶだぶのくせに大ぐいである。そして家では速男を西瓜ぐいの名人といっている。それは、はやくたべることと、皮を紙のようにうすくのこしてあとはすっかりたべてしまう芸当のためにもらった名前である。  つぎの幸助は、なんでもひろってきて、人のみないところにかくしておき、ひとりでとてつもないことを大まじめに考えているという変なやつだ。たとえば、茶色の小石をマッチ箱に入れて持っていて、めったにみせてはくれないが、それは土の中にうめておくとだんだん大きくなり、さらにそれを清水のわくところにつけておくと、すきとおってきて宝石になるのだそうだ。  つぎの四郎はまだ国民学校にあがったばかりだ。声がいいというので学芸会に出て唱歌をうたったが、家にいるときは、つぎのようなくだらん歌をいつでもくりかえしうたっている。 たかじゃっぽォ ぽんひゃァりィ りくぐんのォ 乃木さんがァ がいせんすゥ すずゥめェ めじろォ ろしやァ やばんこォくゥ クロバトキン ……  このばかげたしりとりうたはいつまでうたってもきりがない。きいてるとうんざりしてしまうのだ。  つぎの五郎は、耳の先をぴくぴく動かすことができる。みんながめずらしがって、動かしてみせろというと、まだちいさいので、いい気になって、眼を細め、口をさるのようにつぼめ、耳をぴくつかせてみせるのである。  まだ大作君の家の貧乏な話はいくらでもあるが、そう一度に全部おもい出せるものではない。ここまでおもい出したとき、大作君はもう家のそばまできてしまった。  いつもなら物置小屋の横を通って、さっさと庭にはいるのだが、今日は物置小屋の横で足がとまってしまった。ことのついでに、自分の家がどんなに貧乏くさいかみてやれ、と大作君は思ったのだ。  大作君は、物置小屋の横から自分の生まれた家を観察するため、顔をすこしさしだしたとき、泥棒でもしようとしているかのように、うしろめたく感じた。  井戸ばたで小さい女の人が、油っ気のない髪をいいかげんにぐるぐるとまきつけて、洗濯をしていた。それが大作君のお母さんだった。そのうしろにはビール箱がおいてあって、中に赤ん坊がはいっていた。ビール箱はお父さんが買ってきて、ちょっと細工してつくった「乳母車」であった。  赤ん坊を、八つぐらいの男の子どもがあやしていた。あやす玩具は何かといえば、すりきれて、もう使えなくなったほうきであった。その男の子どもが大作君の弟の四郎であった。  これはもう、申し分のない貧乏な景色であるように大作君には思えた。やれやれ、自分の家はこんなんだったのか。  大作君はげんなりと力もぬけて、物置小屋の壁にもたれていた。
大作君は、物置小屋の横から自分の生まれた家を観察するため、顔をすこしさしだしたとき、どのように感じましたか。
大作君は、物置小屋の横から自分の生まれた家を観察するため、顔をすこしさしだしたとき、泥棒でもしようとしているかのように、うしろめたく感じました。
JCRRAG_010911
国語
大頭の吉太郎君にわかれてから、大作君はもう四つ五つの道かどをまがってきた。こんなふうに景色をかえているうちに、たいていの不愉快なおもいは消えてしまうものである。ところが、今日はそうでなかった。家は貧乏だ、というおもいは、しゅうねんぶかく大作君のあとをつけてきた。まるで、追っても追ってもついてくるすて犬のように。  大作君は、何もいままで自分の家の貧乏なことを知らなかったわけではないのだ。しかしこんなぐあいに、まざまざとみせつけられたのは今日がはじめてであった。  四年生の三学期に大作君は体操をなまけてばかりいたことがあった。それで、体操の点が乙か丙になるだろうということは、前からうすうす思っていた。しかし通知票をもらって、じっさいそこに、体操丙と書かれてあるのをみたときには、いやこれであたりまえだ、と思いながらも、がっかりしてしまったものだ。  大作君が、いぜんからうすうす知っていた自分の家の貧しいことを、今日のできごとでまざまざとみせつけられたのは、体操丙の通知票をみたときと同じようなことであった。  そこで大作君は、おとなのことばでいえば、自分の家の貧乏をはっきり認識した。さらに、貧乏であることをしみじみはずかしく感じたのである。  人は、つまずいてすてんころりとぶざまにころんだりすると、ころんだ自分に腹を立てて、もういっぺんわざと、こんどはもっとひどく、ころんで自分をいじめることがあるものだが、大作君も、自分の家の貧乏なことがよくわかり、そしてそれがうたがいもなくはずかしいことであるとわかってみると、こんどはわざと、自分の家がどんなに貧しいはずかしい暮らし方をしているかをおもい出して、ますますはずかしさを味わってみたくなった。  ――第一、大作君の家では子どもが多すぎるのだ。大作君をかしらにして八人いる。そしてお母さんはまだこれから赤ん坊をうむかも知れないのである。何しろこんなに生まれるということはお父さんも意外だったそうだ。それが証拠に、お父さんははじめ三人だけは、大作、速男、幸助と、ていねいな名前をつけた。そして四人目が生まれたときにはじめて、これは今後何人生まれるかわからない。それならば、いちいち考えて名をつけているわけにはいかないというので、四人目の弟からは、四郎、五郎、ムツ子、七郎と、番号式につけたのだそうである。この話をよく大作君はお父さんから笑い話としてきかされ、そのつど、おかしくて大笑いした。しかし考えてみれば、こんなことのどこがおもしろいものか。ぜんぜん貧乏くさい話じゃないか。  子どもが多いので大作君の家では、服をひとりひとりに買ってあてがうということはないのだ。たとえば大作君が使った洋服を、つぎの速男が使ってわるくし、それをつぎの幸助が使ってぞうきんみたいなものにしてしまい、それをつぎの四郎と五郎が使っていっそうちぎれちぎれにしてしまうと、最後は赤ん坊たちのむつきになるというあんばいだった。  帽子や鞄や教科書、その他なんでもそういうふうに、年上から年下へ手わたされていくのであった。おかしいことに眼の上のこぶまでがそうだった。つまり最初に、大作君の左の眼の上が赤くつやつやとふくれあがってまぶたが重くなる。一週間もして大作君のそれがなおると、つぎの速男がちゃんとそれをうけついで、左の眼の上をはらしている。速男がなおれば幸助、つぎは四郎、五郎という順にいく。たんこぶまでが、リレーの棒のように、眼から眼へうけわたされていくというのは、まったくばかげた、一銭の得にもならない話ではないか。  いや、その弟どもが、またひとりひとり考えてみると、いかにも貧乏たらしいのである。  速男はやせっぽちで、大作君からゆずりうける服がいつもだぶだぶのくせに大ぐいである。そして家では速男を西瓜ぐいの名人といっている。それは、はやくたべることと、皮を紙のようにうすくのこしてあとはすっかりたべてしまう芸当のためにもらった名前である。  つぎの幸助は、なんでもひろってきて、人のみないところにかくしておき、ひとりでとてつもないことを大まじめに考えているという変なやつだ。たとえば、茶色の小石をマッチ箱に入れて持っていて、めったにみせてはくれないが、それは土の中にうめておくとだんだん大きくなり、さらにそれを清水のわくところにつけておくと、すきとおってきて宝石になるのだそうだ。  つぎの四郎はまだ国民学校にあがったばかりだ。声がいいというので学芸会に出て唱歌をうたったが、家にいるときは、つぎのようなくだらん歌をいつでもくりかえしうたっている。 たかじゃっぽォ ぽんひゃァりィ りくぐんのォ 乃木さんがァ がいせんすゥ すずゥめェ めじろォ ろしやァ やばんこォくゥ クロバトキン ……  このばかげたしりとりうたはいつまでうたってもきりがない。きいてるとうんざりしてしまうのだ。  つぎの五郎は、耳の先をぴくぴく動かすことができる。みんながめずらしがって、動かしてみせろというと、まだちいさいので、いい気になって、眼を細め、口をさるのようにつぼめ、耳をぴくつかせてみせるのである。  まだ大作君の家の貧乏な話はいくらでもあるが、そう一度に全部おもい出せるものではない。ここまでおもい出したとき、大作君はもう家のそばまできてしまった。  いつもなら物置小屋の横を通って、さっさと庭にはいるのだが、今日は物置小屋の横で足がとまってしまった。ことのついでに、自分の家がどんなに貧乏くさいかみてやれ、と大作君は思ったのだ。  大作君は、物置小屋の横から自分の生まれた家を観察するため、顔をすこしさしだしたとき、泥棒でもしようとしているかのように、うしろめたく感じた。  井戸ばたで小さい女の人が、油っ気のない髪をいいかげんにぐるぐるとまきつけて、洗濯をしていた。それが大作君のお母さんだった。そのうしろにはビール箱がおいてあって、中に赤ん坊がはいっていた。ビール箱はお父さんが買ってきて、ちょっと細工してつくった「乳母車」であった。  赤ん坊を、八つぐらいの男の子どもがあやしていた。あやす玩具は何かといえば、すりきれて、もう使えなくなったほうきであった。その男の子どもが大作君の弟の四郎であった。  これはもう、申し分のない貧乏な景色であるように大作君には思えた。やれやれ、自分の家はこんなんだったのか。  大作君はげんなりと力もぬけて、物置小屋の壁にもたれていた。
どのようなおもいが、しゅうねんぶかく大作君のあとをつけてきましたか。
家は貧乏だ、というおもいが、しゅうねんぶかく大作君のあとをつけてきました。
JCRRAG_010912
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大頭の吉太郎君にわかれてから、大作君はもう四つ五つの道かどをまがってきた。こんなふうに景色をかえているうちに、たいていの不愉快なおもいは消えてしまうものである。ところが、今日はそうでなかった。家は貧乏だ、というおもいは、しゅうねんぶかく大作君のあとをつけてきた。まるで、追っても追ってもついてくるすて犬のように。  大作君は、何もいままで自分の家の貧乏なことを知らなかったわけではないのだ。しかしこんなぐあいに、まざまざとみせつけられたのは今日がはじめてであった。  四年生の三学期に大作君は体操をなまけてばかりいたことがあった。それで、体操の点が乙か丙になるだろうということは、前からうすうす思っていた。しかし通知票をもらって、じっさいそこに、体操丙と書かれてあるのをみたときには、いやこれであたりまえだ、と思いながらも、がっかりしてしまったものだ。  大作君が、いぜんからうすうす知っていた自分の家の貧しいことを、今日のできごとでまざまざとみせつけられたのは、体操丙の通知票をみたときと同じようなことであった。  そこで大作君は、おとなのことばでいえば、自分の家の貧乏をはっきり認識した。さらに、貧乏であることをしみじみはずかしく感じたのである。  人は、つまずいてすてんころりとぶざまにころんだりすると、ころんだ自分に腹を立てて、もういっぺんわざと、こんどはもっとひどく、ころんで自分をいじめることがあるものだが、大作君も、自分の家の貧乏なことがよくわかり、そしてそれがうたがいもなくはずかしいことであるとわかってみると、こんどはわざと、自分の家がどんなに貧しいはずかしい暮らし方をしているかをおもい出して、ますますはずかしさを味わってみたくなった。  ――第一、大作君の家では子どもが多すぎるのだ。大作君をかしらにして八人いる。そしてお母さんはまだこれから赤ん坊をうむかも知れないのである。何しろこんなに生まれるということはお父さんも意外だったそうだ。それが証拠に、お父さんははじめ三人だけは、大作、速男、幸助と、ていねいな名前をつけた。そして四人目が生まれたときにはじめて、これは今後何人生まれるかわからない。それならば、いちいち考えて名をつけているわけにはいかないというので、四人目の弟からは、四郎、五郎、ムツ子、七郎と、番号式につけたのだそうである。この話をよく大作君はお父さんから笑い話としてきかされ、そのつど、おかしくて大笑いした。しかし考えてみれば、こんなことのどこがおもしろいものか。ぜんぜん貧乏くさい話じゃないか。  子どもが多いので大作君の家では、服をひとりひとりに買ってあてがうということはないのだ。たとえば大作君が使った洋服を、つぎの速男が使ってわるくし、それをつぎの幸助が使ってぞうきんみたいなものにしてしまい、それをつぎの四郎と五郎が使っていっそうちぎれちぎれにしてしまうと、最後は赤ん坊たちのむつきになるというあんばいだった。  帽子や鞄や教科書、その他なんでもそういうふうに、年上から年下へ手わたされていくのであった。おかしいことに眼の上のこぶまでがそうだった。つまり最初に、大作君の左の眼の上が赤くつやつやとふくれあがってまぶたが重くなる。一週間もして大作君のそれがなおると、つぎの速男がちゃんとそれをうけついで、左の眼の上をはらしている。速男がなおれば幸助、つぎは四郎、五郎という順にいく。たんこぶまでが、リレーの棒のように、眼から眼へうけわたされていくというのは、まったくばかげた、一銭の得にもならない話ではないか。  いや、その弟どもが、またひとりひとり考えてみると、いかにも貧乏たらしいのである。  速男はやせっぽちで、大作君からゆずりうける服がいつもだぶだぶのくせに大ぐいである。そして家では速男を西瓜ぐいの名人といっている。それは、はやくたべることと、皮を紙のようにうすくのこしてあとはすっかりたべてしまう芸当のためにもらった名前である。  つぎの幸助は、なんでもひろってきて、人のみないところにかくしておき、ひとりでとてつもないことを大まじめに考えているという変なやつだ。たとえば、茶色の小石をマッチ箱に入れて持っていて、めったにみせてはくれないが、それは土の中にうめておくとだんだん大きくなり、さらにそれを清水のわくところにつけておくと、すきとおってきて宝石になるのだそうだ。  つぎの四郎はまだ国民学校にあがったばかりだ。声がいいというので学芸会に出て唱歌をうたったが、家にいるときは、つぎのようなくだらん歌をいつでもくりかえしうたっている。 たかじゃっぽォ ぽんひゃァりィ りくぐんのォ 乃木さんがァ がいせんすゥ すずゥめェ めじろォ ろしやァ やばんこォくゥ クロバトキン ……  このばかげたしりとりうたはいつまでうたってもきりがない。きいてるとうんざりしてしまうのだ。  つぎの五郎は、耳の先をぴくぴく動かすことができる。みんながめずらしがって、動かしてみせろというと、まだちいさいので、いい気になって、眼を細め、口をさるのようにつぼめ、耳をぴくつかせてみせるのである。  まだ大作君の家の貧乏な話はいくらでもあるが、そう一度に全部おもい出せるものではない。ここまでおもい出したとき、大作君はもう家のそばまできてしまった。  いつもなら物置小屋の横を通って、さっさと庭にはいるのだが、今日は物置小屋の横で足がとまってしまった。ことのついでに、自分の家がどんなに貧乏くさいかみてやれ、と大作君は思ったのだ。  大作君は、物置小屋の横から自分の生まれた家を観察するため、顔をすこしさしだしたとき、泥棒でもしようとしているかのように、うしろめたく感じた。  井戸ばたで小さい女の人が、油っ気のない髪をいいかげんにぐるぐるとまきつけて、洗濯をしていた。それが大作君のお母さんだった。そのうしろにはビール箱がおいてあって、中に赤ん坊がはいっていた。ビール箱はお父さんが買ってきて、ちょっと細工してつくった「乳母車」であった。  赤ん坊を、八つぐらいの男の子どもがあやしていた。あやす玩具は何かといえば、すりきれて、もう使えなくなったほうきであった。その男の子どもが大作君の弟の四郎であった。  これはもう、申し分のない貧乏な景色であるように大作君には思えた。やれやれ、自分の家はこんなんだったのか。  大作君はげんなりと力もぬけて、物置小屋の壁にもたれていた。
幸助は、どのようなやつですか。
幸助は、なんでもひろってきて、人のみないところにかくしておき、ひとりでとてつもないことを大まじめに考えているという変なやつです。
JCRRAG_010913
国語
宝蔵倉の前で、少年たちが模型グライダーを飛ばしていた。みんな大なり小なりグライダーを持っていたが、なかに大作君の弟の幸助だけが持っていなかった。幸助はそこで、みんなの飛ばすグライダーをひろう役目をさせてもらっていた。みんなの手から飛んでいったグライダーが宝蔵倉の戸か壁にあたって地べたに落ちる。すると幸助が走っていって、それをひろってくる。幸助は、ひろって持ち主のところまでいくあいだ、グライダーを持つことができる、それによってわずかに自分のグライダー欲をみたしていたのである。だから幸助は、その役をうばわれないようにみんなのご機嫌をとっていた。ちょうど上衣のポケットのすみに穴があいていたので、ポケットにつっこんだ手の人指指をその穴から出して、「ピストルだぞ、ピストルだぞ。」といっては、二つ三つおどけてとびあがってみせるのであった。そんなことが何かの愛嬌になるつもりでいるのであった。大作君は、みていてまったくなさけなかった。なんという恥さらしだ! 大作君は幸助をものかげによんだ。そして、兄さんのいかりをちっとも知らないで天使のように無邪気な顔をしてやってきた幸助の横びんたを、「ばかッ」とさけびざま、びしゃんとぶたずにはいられなかった。  こうして、貧乏ったらしいまねをしていた弟は、大作君ににくまれてなぐりとばされた。しかし貧乏くさいからとて、お父さんやお母さんをにくむことが大作君にできたろうか。  それは大麦のうれるころのある日だった。そのじぶんお父さんは、瓦屋の方の仕事がひまなので、いそがしい百姓家へ一日か半日ずつやとわれて、百姓仕事を手つだいにいっていた。正午近く大作君は、お父さんのところへ弁当を持ってゆくよう、お母さんからいいつかった。大作君は弁当を持って、和五郎さんの麦畠の方へいった。そこの畠でお父さんは手つだっているはずだった。  菓子屋の勝助さんと床屋の家のあいだを通りぬけると、西の方に和五郎さんの麦畠がみえた。もう麦はみなかられて、たばねられてあった。畠のこちらのすみでは、和五郎さんとおかみさんが脱穀していた。向こうからだれかが麦を肩にかついで運んできた。その人は少年のようにすとすとと畠中を走って運んでいた。はじめ大作君は、それがどこかの少年かと思った。なぜならおとなはめったに走ったりしないものなので。しかし、大作君がもっと近くへいって、和五郎さんとおかみさんが笑いながら「加重さん、そう走らんでもええがン、もっとぼつぼつやっとくれや。」といっているのを聞くと、それがほかならぬお父さんの加重さんであることがわかった。  お百姓の和五郎さんとおかみさんは、加重さんの走り方がおかしいといって笑いころげた。ふたりは、加重さんがおどけてそんなことをしていると思ったのだ。大作君もはじめそう思って、和五郎さんたちといっしょにお父さんの方をみながら、笑って立っていた。なんというひょうきん者のお父さんだろう。  だが、そのうちに大作君は顔がこわばってきて、笑えなくなってしまった。そして笑えなくなった顔の、ぎゅッとひきゆがむのが感じられた。深い悲しみが大作君をおそったのだ。  大作君にはいまわかった、お父さんがひょうきんでそんなまねをしているのではないことが。お父さんは真剣だったのだ。早くその仕事をしてしまいたかったのだ。つぎの仕事で一銭でも多くもうけるために。いわば貧乏が、おとなの加重さんをこんなに子どものように畠の上を走りまわらせているのであった。なんという悲しいながめであろう。  大作君はもうみていられなかった。恥と悲しみで、体がふるえるのをとめられなかった。
何の前で、少年たちが模型グライダーを飛ばしていましたか。
宝蔵倉の前で、少年たちが模型グライダーを飛ばしていました。
JCRRAG_010914
国語
宝蔵倉の前で、少年たちが模型グライダーを飛ばしていた。みんな大なり小なりグライダーを持っていたが、なかに大作君の弟の幸助だけが持っていなかった。幸助はそこで、みんなの飛ばすグライダーをひろう役目をさせてもらっていた。みんなの手から飛んでいったグライダーが宝蔵倉の戸か壁にあたって地べたに落ちる。すると幸助が走っていって、それをひろってくる。幸助は、ひろって持ち主のところまでいくあいだ、グライダーを持つことができる、それによってわずかに自分のグライダー欲をみたしていたのである。だから幸助は、その役をうばわれないようにみんなのご機嫌をとっていた。ちょうど上衣のポケットのすみに穴があいていたので、ポケットにつっこんだ手の人指指をその穴から出して、「ピストルだぞ、ピストルだぞ。」といっては、二つ三つおどけてとびあがってみせるのであった。そんなことが何かの愛嬌になるつもりでいるのであった。大作君は、みていてまったくなさけなかった。なんという恥さらしだ! 大作君は幸助をものかげによんだ。そして、兄さんのいかりをちっとも知らないで天使のように無邪気な顔をしてやってきた幸助の横びんたを、「ばかッ」とさけびざま、びしゃんとぶたずにはいられなかった。  こうして、貧乏ったらしいまねをしていた弟は、大作君ににくまれてなぐりとばされた。しかし貧乏くさいからとて、お父さんやお母さんをにくむことが大作君にできたろうか。  それは大麦のうれるころのある日だった。そのじぶんお父さんは、瓦屋の方の仕事がひまなので、いそがしい百姓家へ一日か半日ずつやとわれて、百姓仕事を手つだいにいっていた。正午近く大作君は、お父さんのところへ弁当を持ってゆくよう、お母さんからいいつかった。大作君は弁当を持って、和五郎さんの麦畠の方へいった。そこの畠でお父さんは手つだっているはずだった。  菓子屋の勝助さんと床屋の家のあいだを通りぬけると、西の方に和五郎さんの麦畠がみえた。もう麦はみなかられて、たばねられてあった。畠のこちらのすみでは、和五郎さんとおかみさんが脱穀していた。向こうからだれかが麦を肩にかついで運んできた。その人は少年のようにすとすとと畠中を走って運んでいた。はじめ大作君は、それがどこかの少年かと思った。なぜならおとなはめったに走ったりしないものなので。しかし、大作君がもっと近くへいって、和五郎さんとおかみさんが笑いながら「加重さん、そう走らんでもええがン、もっとぼつぼつやっとくれや。」といっているのを聞くと、それがほかならぬお父さんの加重さんであることがわかった。  お百姓の和五郎さんとおかみさんは、加重さんの走り方がおかしいといって笑いころげた。ふたりは、加重さんがおどけてそんなことをしていると思ったのだ。大作君もはじめそう思って、和五郎さんたちといっしょにお父さんの方をみながら、笑って立っていた。なんというひょうきん者のお父さんだろう。  だが、そのうちに大作君は顔がこわばってきて、笑えなくなってしまった。そして笑えなくなった顔の、ぎゅッとひきゆがむのが感じられた。深い悲しみが大作君をおそったのだ。  大作君にはいまわかった、お父さんがひょうきんでそんなまねをしているのではないことが。お父さんは真剣だったのだ。早くその仕事をしてしまいたかったのだ。つぎの仕事で一銭でも多くもうけるために。いわば貧乏が、おとなの加重さんをこんなに子どものように畠の上を走りまわらせているのであった。なんという悲しいながめであろう。  大作君はもうみていられなかった。恥と悲しみで、体がふるえるのをとめられなかった。
大作君は誰をものかげによびましたか。
大作君は幸助をものかげによびました。
JCRRAG_010915
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宝蔵倉の前で、少年たちが模型グライダーを飛ばしていた。みんな大なり小なりグライダーを持っていたが、なかに大作君の弟の幸助だけが持っていなかった。幸助はそこで、みんなの飛ばすグライダーをひろう役目をさせてもらっていた。みんなの手から飛んでいったグライダーが宝蔵倉の戸か壁にあたって地べたに落ちる。すると幸助が走っていって、それをひろってくる。幸助は、ひろって持ち主のところまでいくあいだ、グライダーを持つことができる、それによってわずかに自分のグライダー欲をみたしていたのである。だから幸助は、その役をうばわれないようにみんなのご機嫌をとっていた。ちょうど上衣のポケットのすみに穴があいていたので、ポケットにつっこんだ手の人指指をその穴から出して、「ピストルだぞ、ピストルだぞ。」といっては、二つ三つおどけてとびあがってみせるのであった。そんなことが何かの愛嬌になるつもりでいるのであった。大作君は、みていてまったくなさけなかった。なんという恥さらしだ! 大作君は幸助をものかげによんだ。そして、兄さんのいかりをちっとも知らないで天使のように無邪気な顔をしてやってきた幸助の横びんたを、「ばかッ」とさけびざま、びしゃんとぶたずにはいられなかった。  こうして、貧乏ったらしいまねをしていた弟は、大作君ににくまれてなぐりとばされた。しかし貧乏くさいからとて、お父さんやお母さんをにくむことが大作君にできたろうか。  それは大麦のうれるころのある日だった。そのじぶんお父さんは、瓦屋の方の仕事がひまなので、いそがしい百姓家へ一日か半日ずつやとわれて、百姓仕事を手つだいにいっていた。正午近く大作君は、お父さんのところへ弁当を持ってゆくよう、お母さんからいいつかった。大作君は弁当を持って、和五郎さんの麦畠の方へいった。そこの畠でお父さんは手つだっているはずだった。  菓子屋の勝助さんと床屋の家のあいだを通りぬけると、西の方に和五郎さんの麦畠がみえた。もう麦はみなかられて、たばねられてあった。畠のこちらのすみでは、和五郎さんとおかみさんが脱穀していた。向こうからだれかが麦を肩にかついで運んできた。その人は少年のようにすとすとと畠中を走って運んでいた。はじめ大作君は、それがどこかの少年かと思った。なぜならおとなはめったに走ったりしないものなので。しかし、大作君がもっと近くへいって、和五郎さんとおかみさんが笑いながら「加重さん、そう走らんでもええがン、もっとぼつぼつやっとくれや。」といっているのを聞くと、それがほかならぬお父さんの加重さんであることがわかった。  お百姓の和五郎さんとおかみさんは、加重さんの走り方がおかしいといって笑いころげた。ふたりは、加重さんがおどけてそんなことをしていると思ったのだ。大作君もはじめそう思って、和五郎さんたちといっしょにお父さんの方をみながら、笑って立っていた。なんというひょうきん者のお父さんだろう。  だが、そのうちに大作君は顔がこわばってきて、笑えなくなってしまった。そして笑えなくなった顔の、ぎゅッとひきゆがむのが感じられた。深い悲しみが大作君をおそったのだ。  大作君にはいまわかった、お父さんがひょうきんでそんなまねをしているのではないことが。お父さんは真剣だったのだ。早くその仕事をしてしまいたかったのだ。つぎの仕事で一銭でも多くもうけるために。いわば貧乏が、おとなの加重さんをこんなに子どものように畠の上を走りまわらせているのであった。なんという悲しいながめであろう。  大作君はもうみていられなかった。恥と悲しみで、体がふるえるのをとめられなかった。
大作君は弁当を持って、どこへいきましたか。
大作君は弁当を持って、和五郎さんの麦畠の方へいきました。
JCRRAG_010916
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宝蔵倉の前で、少年たちが模型グライダーを飛ばしていた。みんな大なり小なりグライダーを持っていたが、なかに大作君の弟の幸助だけが持っていなかった。幸助はそこで、みんなの飛ばすグライダーをひろう役目をさせてもらっていた。みんなの手から飛んでいったグライダーが宝蔵倉の戸か壁にあたって地べたに落ちる。すると幸助が走っていって、それをひろってくる。幸助は、ひろって持ち主のところまでいくあいだ、グライダーを持つことができる、それによってわずかに自分のグライダー欲をみたしていたのである。だから幸助は、その役をうばわれないようにみんなのご機嫌をとっていた。ちょうど上衣のポケットのすみに穴があいていたので、ポケットにつっこんだ手の人指指をその穴から出して、「ピストルだぞ、ピストルだぞ。」といっては、二つ三つおどけてとびあがってみせるのであった。そんなことが何かの愛嬌になるつもりでいるのであった。大作君は、みていてまったくなさけなかった。なんという恥さらしだ! 大作君は幸助をものかげによんだ。そして、兄さんのいかりをちっとも知らないで天使のように無邪気な顔をしてやってきた幸助の横びんたを、「ばかッ」とさけびざま、びしゃんとぶたずにはいられなかった。  こうして、貧乏ったらしいまねをしていた弟は、大作君ににくまれてなぐりとばされた。しかし貧乏くさいからとて、お父さんやお母さんをにくむことが大作君にできたろうか。  それは大麦のうれるころのある日だった。そのじぶんお父さんは、瓦屋の方の仕事がひまなので、いそがしい百姓家へ一日か半日ずつやとわれて、百姓仕事を手つだいにいっていた。正午近く大作君は、お父さんのところへ弁当を持ってゆくよう、お母さんからいいつかった。大作君は弁当を持って、和五郎さんの麦畠の方へいった。そこの畠でお父さんは手つだっているはずだった。  菓子屋の勝助さんと床屋の家のあいだを通りぬけると、西の方に和五郎さんの麦畠がみえた。もう麦はみなかられて、たばねられてあった。畠のこちらのすみでは、和五郎さんとおかみさんが脱穀していた。向こうからだれかが麦を肩にかついで運んできた。その人は少年のようにすとすとと畠中を走って運んでいた。はじめ大作君は、それがどこかの少年かと思った。なぜならおとなはめったに走ったりしないものなので。しかし、大作君がもっと近くへいって、和五郎さんとおかみさんが笑いながら「加重さん、そう走らんでもええがン、もっとぼつぼつやっとくれや。」といっているのを聞くと、それがほかならぬお父さんの加重さんであることがわかった。  お百姓の和五郎さんとおかみさんは、加重さんの走り方がおかしいといって笑いころげた。ふたりは、加重さんがおどけてそんなことをしていると思ったのだ。大作君もはじめそう思って、和五郎さんたちといっしょにお父さんの方をみながら、笑って立っていた。なんというひょうきん者のお父さんだろう。  だが、そのうちに大作君は顔がこわばってきて、笑えなくなってしまった。そして笑えなくなった顔の、ぎゅッとひきゆがむのが感じられた。深い悲しみが大作君をおそったのだ。  大作君にはいまわかった、お父さんがひょうきんでそんなまねをしているのではないことが。お父さんは真剣だったのだ。早くその仕事をしてしまいたかったのだ。つぎの仕事で一銭でも多くもうけるために。いわば貧乏が、おとなの加重さんをこんなに子どものように畠の上を走りまわらせているのであった。なんという悲しいながめであろう。  大作君はもうみていられなかった。恥と悲しみで、体がふるえるのをとめられなかった。
お百姓の和五郎さんとおかみさんは、何といって笑いころげましたか。
お百姓の和五郎さんとおかみさんは、加重さんの走り方がおかしいといって笑いころげました。
JCRRAG_010917
国語
六月の終わりの暑い日に、近くの町の公園グランドで連合競技会が行なわれた。  その最後の種目は、六年男子の綱持競走であった。長さ五メートルぐらいの一本の綱を一組二十人の者が持って、距離四キロを走破するのである。そしてこの競走のだいじなところは、二十人のうちひとりでも落伍してはだめだということだ。  なんだか知らないが、戦線における皇軍のある仕事をしのばせるから、大作君たちはこの競走には勝とうという悲壮な決意が、はじめからみんなのはらの中にできていた。  いざ出場となると、大作君たちはおたがいの緊張した顔を、いやに黒くげんこつみたいに小さいなアと思いながら、もくもくとはだしになり、運動帽のふちのひもを頭がいたくなるほどしめなおした。  たくさん出てきた。およそ三十組くらいの縦列が、長くひかれた白線の前にならんだ。大きい学校からは数組出ているのだろう。大作君の学校は小さいので、二十人出ると六年男子はほとんどみんなである。  それから競走がはじまった。先頭の徳一君が「ヨイショッ」と声をかけると、それをみんなが「ヨイショッ」とうける。はじめはあたりいっぱい「ヨイショ」や「コラショ」や「オ一二」の声があったので、大作君たちの声はそれにのまれてしまって、自分たちの「ヨイショ」なのか、ひとの「ヨイショ」なのか区別もつかなかった。  グランドを縦につっきって、両側をヒマラヤシーダの並木ではさまれた細い道から往還へ出た。そのじぶんにはもう、平行していく組も走っているということはなかった。ただ大作君たちにしつこく追いすがってくるのは、線色のそろいの帽子をかぶった知らない学校の一組だけであった。がそれも、飴屋の前の最初の曲がり角をまわったころには、もう数メートル大作君たちよりおくれていた。大作君たちはトップではなかったが、そうとう前の方に走っているつもりであった。  かけ声の「ヨイショ」と足とがよくそろって、調子は上々であった。練習のときなら、ひょうきんな兵太郎君がこのあたりで「コラショイ」と突拍子な声をあげたり「アリャリャン」「スチャラカ、ポンポン」などとでたらめをいったりしてにぎわすのだが、今日はやはりほんとうの競走だからまじめになっているのか、それとも、ゆうべアイスキャンデーを七本たべて今朝はちょっと腹工合がわるいといっていたから、そのせいなのか、どちらか知らないが、ともかく変な声は立てなかった。  稲荷さんの門前に立っている赤旗をまわってひきかえすのであったが、そこにいき着くまでに大作君たちは三つの組を追いぬき、赤旗のところでもみあって、また二組ぬいた。しかしそのじぶんには、みんなの呼吸がだいぶん苦しそうになっていた。かけ声の「ヨイショ」もはじめのような元気な響きを失って、うめき声のようになった。中にはもうそれに声を合わせないで、だまって走っている者もあった。だまっている者は、きっと横腹のいたむのや胸の苦しいのをじっとこらえているのだ、と大作君は思った。
最後の種目は何でしたか。
最後の種目は、六年男子の綱持競走でした。
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国語
六月の終わりの暑い日に、近くの町の公園グランドで連合競技会が行なわれた。  その最後の種目は、六年男子の綱持競走であった。長さ五メートルぐらいの一本の綱を一組二十人の者が持って、距離四キロを走破するのである。そしてこの競走のだいじなところは、二十人のうちひとりでも落伍してはだめだということだ。  なんだか知らないが、戦線における皇軍のある仕事をしのばせるから、大作君たちはこの競走には勝とうという悲壮な決意が、はじめからみんなのはらの中にできていた。  いざ出場となると、大作君たちはおたがいの緊張した顔を、いやに黒くげんこつみたいに小さいなアと思いながら、もくもくとはだしになり、運動帽のふちのひもを頭がいたくなるほどしめなおした。  たくさん出てきた。およそ三十組くらいの縦列が、長くひかれた白線の前にならんだ。大きい学校からは数組出ているのだろう。大作君の学校は小さいので、二十人出ると六年男子はほとんどみんなである。  それから競走がはじまった。先頭の徳一君が「ヨイショッ」と声をかけると、それをみんなが「ヨイショッ」とうける。はじめはあたりいっぱい「ヨイショ」や「コラショ」や「オ一二」の声があったので、大作君たちの声はそれにのまれてしまって、自分たちの「ヨイショ」なのか、ひとの「ヨイショ」なのか区別もつかなかった。  グランドを縦につっきって、両側をヒマラヤシーダの並木ではさまれた細い道から往還へ出た。そのじぶんにはもう、平行していく組も走っているということはなかった。ただ大作君たちにしつこく追いすがってくるのは、線色のそろいの帽子をかぶった知らない学校の一組だけであった。がそれも、飴屋の前の最初の曲がり角をまわったころには、もう数メートル大作君たちよりおくれていた。大作君たちはトップではなかったが、そうとう前の方に走っているつもりであった。  かけ声の「ヨイショ」と足とがよくそろって、調子は上々であった。練習のときなら、ひょうきんな兵太郎君がこのあたりで「コラショイ」と突拍子な声をあげたり「アリャリャン」「スチャラカ、ポンポン」などとでたらめをいったりしてにぎわすのだが、今日はやはりほんとうの競走だからまじめになっているのか、それとも、ゆうべアイスキャンデーを七本たべて今朝はちょっと腹工合がわるいといっていたから、そのせいなのか、どちらか知らないが、ともかく変な声は立てなかった。  稲荷さんの門前に立っている赤旗をまわってひきかえすのであったが、そこにいき着くまでに大作君たちは三つの組を追いぬき、赤旗のところでもみあって、また二組ぬいた。しかしそのじぶんには、みんなの呼吸がだいぶん苦しそうになっていた。かけ声の「ヨイショ」もはじめのような元気な響きを失って、うめき声のようになった。中にはもうそれに声を合わせないで、だまって走っている者もあった。だまっている者は、きっと横腹のいたむのや胸の苦しいのをじっとこらえているのだ、と大作君は思った。
大作君たちはおたがいの緊張した顔を、いやに黒くげんこつみたいに小さいなアと思いながら、何をしましたか。
大作君たちはおたがいの緊張した顔を、いやに黒くげんこつみたいに小さいなアと思いながら、もくもくとはだしになり、運動帽のふちのひもを頭がいたくなるほどしめなおしました。
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六月の終わりの暑い日に、近くの町の公園グランドで連合競技会が行なわれた。  その最後の種目は、六年男子の綱持競走であった。長さ五メートルぐらいの一本の綱を一組二十人の者が持って、距離四キロを走破するのである。そしてこの競走のだいじなところは、二十人のうちひとりでも落伍してはだめだということだ。  なんだか知らないが、戦線における皇軍のある仕事をしのばせるから、大作君たちはこの競走には勝とうという悲壮な決意が、はじめからみんなのはらの中にできていた。  いざ出場となると、大作君たちはおたがいの緊張した顔を、いやに黒くげんこつみたいに小さいなアと思いながら、もくもくとはだしになり、運動帽のふちのひもを頭がいたくなるほどしめなおした。  たくさん出てきた。およそ三十組くらいの縦列が、長くひかれた白線の前にならんだ。大きい学校からは数組出ているのだろう。大作君の学校は小さいので、二十人出ると六年男子はほとんどみんなである。  それから競走がはじまった。先頭の徳一君が「ヨイショッ」と声をかけると、それをみんなが「ヨイショッ」とうける。はじめはあたりいっぱい「ヨイショ」や「コラショ」や「オ一二」の声があったので、大作君たちの声はそれにのまれてしまって、自分たちの「ヨイショ」なのか、ひとの「ヨイショ」なのか区別もつかなかった。  グランドを縦につっきって、両側をヒマラヤシーダの並木ではさまれた細い道から往還へ出た。そのじぶんにはもう、平行していく組も走っているということはなかった。ただ大作君たちにしつこく追いすがってくるのは、線色のそろいの帽子をかぶった知らない学校の一組だけであった。がそれも、飴屋の前の最初の曲がり角をまわったころには、もう数メートル大作君たちよりおくれていた。大作君たちはトップではなかったが、そうとう前の方に走っているつもりであった。  かけ声の「ヨイショ」と足とがよくそろって、調子は上々であった。練習のときなら、ひょうきんな兵太郎君がこのあたりで「コラショイ」と突拍子な声をあげたり「アリャリャン」「スチャラカ、ポンポン」などとでたらめをいったりしてにぎわすのだが、今日はやはりほんとうの競走だからまじめになっているのか、それとも、ゆうべアイスキャンデーを七本たべて今朝はちょっと腹工合がわるいといっていたから、そのせいなのか、どちらか知らないが、ともかく変な声は立てなかった。  稲荷さんの門前に立っている赤旗をまわってひきかえすのであったが、そこにいき着くまでに大作君たちは三つの組を追いぬき、赤旗のところでもみあって、また二組ぬいた。しかしそのじぶんには、みんなの呼吸がだいぶん苦しそうになっていた。かけ声の「ヨイショ」もはじめのような元気な響きを失って、うめき声のようになった。中にはもうそれに声を合わせないで、だまって走っている者もあった。だまっている者は、きっと横腹のいたむのや胸の苦しいのをじっとこらえているのだ、と大作君は思った。
大作君の学校は小さいので、何人出ると六年男子はほとんどみんなですか。
大作君の学校は小さいので、二十人出ると六年男子はほとんどみんなです。
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国語
六月の終わりの暑い日に、近くの町の公園グランドで連合競技会が行なわれた。  その最後の種目は、六年男子の綱持競走であった。長さ五メートルぐらいの一本の綱を一組二十人の者が持って、距離四キロを走破するのである。そしてこの競走のだいじなところは、二十人のうちひとりでも落伍してはだめだということだ。  なんだか知らないが、戦線における皇軍のある仕事をしのばせるから、大作君たちはこの競走には勝とうという悲壮な決意が、はじめからみんなのはらの中にできていた。  いざ出場となると、大作君たちはおたがいの緊張した顔を、いやに黒くげんこつみたいに小さいなアと思いながら、もくもくとはだしになり、運動帽のふちのひもを頭がいたくなるほどしめなおした。  たくさん出てきた。およそ三十組くらいの縦列が、長くひかれた白線の前にならんだ。大きい学校からは数組出ているのだろう。大作君の学校は小さいので、二十人出ると六年男子はほとんどみんなである。  それから競走がはじまった。先頭の徳一君が「ヨイショッ」と声をかけると、それをみんなが「ヨイショッ」とうける。はじめはあたりいっぱい「ヨイショ」や「コラショ」や「オ一二」の声があったので、大作君たちの声はそれにのまれてしまって、自分たちの「ヨイショ」なのか、ひとの「ヨイショ」なのか区別もつかなかった。  グランドを縦につっきって、両側をヒマラヤシーダの並木ではさまれた細い道から往還へ出た。そのじぶんにはもう、平行していく組も走っているということはなかった。ただ大作君たちにしつこく追いすがってくるのは、線色のそろいの帽子をかぶった知らない学校の一組だけであった。がそれも、飴屋の前の最初の曲がり角をまわったころには、もう数メートル大作君たちよりおくれていた。大作君たちはトップではなかったが、そうとう前の方に走っているつもりであった。  かけ声の「ヨイショ」と足とがよくそろって、調子は上々であった。練習のときなら、ひょうきんな兵太郎君がこのあたりで「コラショイ」と突拍子な声をあげたり「アリャリャン」「スチャラカ、ポンポン」などとでたらめをいったりしてにぎわすのだが、今日はやはりほんとうの競走だからまじめになっているのか、それとも、ゆうべアイスキャンデーを七本たべて今朝はちょっと腹工合がわるいといっていたから、そのせいなのか、どちらか知らないが、ともかく変な声は立てなかった。  稲荷さんの門前に立っている赤旗をまわってひきかえすのであったが、そこにいき着くまでに大作君たちは三つの組を追いぬき、赤旗のところでもみあって、また二組ぬいた。しかしそのじぶんには、みんなの呼吸がだいぶん苦しそうになっていた。かけ声の「ヨイショ」もはじめのような元気な響きを失って、うめき声のようになった。中にはもうそれに声を合わせないで、だまって走っている者もあった。だまっている者は、きっと横腹のいたむのや胸の苦しいのをじっとこらえているのだ、と大作君は思った。
大作君たちはトップではありませんでしたが、どのようなつもりでしたか。
大作君たちはトップではありませんでしたが、そうとう前の方に走っているでした。
JCRRAG_010921
国語
六月の終わりの暑い日に、近くの町の公園グランドで連合競技会が行なわれた。  その最後の種目は、六年男子の綱持競走であった。長さ五メートルぐらいの一本の綱を一組二十人の者が持って、距離四キロを走破するのである。そしてこの競走のだいじなところは、二十人のうちひとりでも落伍してはだめだということだ。  なんだか知らないが、戦線における皇軍のある仕事をしのばせるから、大作君たちはこの競走には勝とうという悲壮な決意が、はじめからみんなのはらの中にできていた。  いざ出場となると、大作君たちはおたがいの緊張した顔を、いやに黒くげんこつみたいに小さいなアと思いながら、もくもくとはだしになり、運動帽のふちのひもを頭がいたくなるほどしめなおした。  たくさん出てきた。およそ三十組くらいの縦列が、長くひかれた白線の前にならんだ。大きい学校からは数組出ているのだろう。大作君の学校は小さいので、二十人出ると六年男子はほとんどみんなである。  それから競走がはじまった。先頭の徳一君が「ヨイショッ」と声をかけると、それをみんなが「ヨイショッ」とうける。はじめはあたりいっぱい「ヨイショ」や「コラショ」や「オ一二」の声があったので、大作君たちの声はそれにのまれてしまって、自分たちの「ヨイショ」なのか、ひとの「ヨイショ」なのか区別もつかなかった。  グランドを縦につっきって、両側をヒマラヤシーダの並木ではさまれた細い道から往還へ出た。そのじぶんにはもう、平行していく組も走っているということはなかった。ただ大作君たちにしつこく追いすがってくるのは、線色のそろいの帽子をかぶった知らない学校の一組だけであった。がそれも、飴屋の前の最初の曲がり角をまわったころには、もう数メートル大作君たちよりおくれていた。大作君たちはトップではなかったが、そうとう前の方に走っているつもりであった。  かけ声の「ヨイショ」と足とがよくそろって、調子は上々であった。練習のときなら、ひょうきんな兵太郎君がこのあたりで「コラショイ」と突拍子な声をあげたり「アリャリャン」「スチャラカ、ポンポン」などとでたらめをいったりしてにぎわすのだが、今日はやはりほんとうの競走だからまじめになっているのか、それとも、ゆうべアイスキャンデーを七本たべて今朝はちょっと腹工合がわるいといっていたから、そのせいなのか、どちらか知らないが、ともかく変な声は立てなかった。  稲荷さんの門前に立っている赤旗をまわってひきかえすのであったが、そこにいき着くまでに大作君たちは三つの組を追いぬき、赤旗のところでもみあって、また二組ぬいた。しかしそのじぶんには、みんなの呼吸がだいぶん苦しそうになっていた。かけ声の「ヨイショ」もはじめのような元気な響きを失って、うめき声のようになった。中にはもうそれに声を合わせないで、だまって走っている者もあった。だまっている者は、きっと横腹のいたむのや胸の苦しいのをじっとこらえているのだ、と大作君は思った。
だまっている者は、何をじっとこらえているのだ、と大作君は思いましたか。
だまっている者は、きっと横腹のいたむのや胸の苦しいのをじっとこらえているのだ、と大作君は思いました。
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国語
大作君は、腹もいたまねば胸も苦しくなかった。この調子ならまだ十キロぐらい走れる、と思った。しかし眼がちらちらして、風景がはっきりうつらなかった。ときどき、道の角の花をつけた夾竹桃や、太陽の直射に背中の毛を繻子のように光らせて道ばたに休んでいる牛の姿が、眼にとびこんでくるだけであった。  公園の入口のみえる長い直線道路に出たとき、大作君たちは急にかけ声をやめてしまった。すぐまえを、紫色のはちまきした一組が足なみそろえて走っていた。大作君たちの組がだまってしまったのは、あの強敵をぬこうという、みんなの決意のあらわれだ、と大作君は思った。  ひっそりして大作君たちは紫のはちまきにせまっていった。敵も大作君たちをみとめるや、声を消してしまった。ひっそりとして二つの組は必死になった。そして大作君たちは、ひっそりとして追いぬいていった。  ついに公園グランドにはいった。周囲に歓呼の声がわあッとあがった。自分たちは優勝だ! 自然に「ヨイショッ」が口をついて出た。  審判の先生がきて、すぐ頭数をかぞえた。そして「おやひとりたらんぞ。」といった。それからまた数えなおしてみた。「ひとりたらん。」そう気の毒そうにいった。 「だれだ、だれだッ。」 と先頭の徳一君が、汗で、川からあがったばかりのようにぬれた顔を殺気立ててどなった。  だがみんなは、決勝点についたという思いでもう気力がぬけ、ぽうとしていた。もう何も考えられなかった。はやく腰をおろしたいばかりであった。  大作君たちは楡の大木のかげにいって休み、やがてだんだん元気がかえってきた。そしてそれまでに、落伍したのは大頭の吉太郎君であることがわかった。稲荷社の前で赤旗をまわるとき三組ばかりいっしょになってもみあったが、あのときのどさくさで、吉太郎君が落ちたことをだれも気づかなかったのだろう。受持ちの鈴木先生は自転車を借りて吉太郎君をむかえにいった。道ばたにへたばっているかも知れないからだ。  大作君たちの隣りの控席に帰ってきたよその学校の組の中で、ひとりのふとった少年があおくなってのびた。ふたりのつきそいの先生は、それ水を持ってこい、それ扇であおれ、と大さわぎをしていた。本部のテントの中から、急をきいて、白い服の看護婦や女の先生が飛んできた。えらいことになった、と大作君たちは思った。そして、吉太郎君がああいうふうになってもどってこないようにと、心の中にみんなは願った。もう、競走の勝敗のことなどすっかりわすれていた。  吉太郎君は帰ってきた。みんなが願っていた通り、元気で帰ってきた。先生のうしろから自転車の荷かけにまたがって、血色のいい顔をにこにこさせながら帰ってきた。すこし元気すぎるほどだ。でもまあよかった。みんなは、ほっとして帰りじたくにかかった。  公園を出て、川の堤を電車の停留場の方へ歩いていった。みんなは疲れでぼんやりしていたので、だれひとりものをいおうとしなかった。  電車を待つために、大作君たちは停留場の外の葉桜の日かげに腰をおろして、向こう側のかりとられた小麦畠の方をぼんやりみていた。先生は事務所の中へはいってゆかれた。
大作君は、この調子ならまだどのくらい走れる、と思いましたか。
大作君は、この調子ならまだ十キロぐらい走れる、と思いました。
JCRRAG_010923
国語
大作君は、腹もいたまねば胸も苦しくなかった。この調子ならまだ十キロぐらい走れる、と思った。しかし眼がちらちらして、風景がはっきりうつらなかった。ときどき、道の角の花をつけた夾竹桃や、太陽の直射に背中の毛を繻子のように光らせて道ばたに休んでいる牛の姿が、眼にとびこんでくるだけであった。  公園の入口のみえる長い直線道路に出たとき、大作君たちは急にかけ声をやめてしまった。すぐまえを、紫色のはちまきした一組が足なみそろえて走っていた。大作君たちの組がだまってしまったのは、あの強敵をぬこうという、みんなの決意のあらわれだ、と大作君は思った。  ひっそりして大作君たちは紫のはちまきにせまっていった。敵も大作君たちをみとめるや、声を消してしまった。ひっそりとして二つの組は必死になった。そして大作君たちは、ひっそりとして追いぬいていった。  ついに公園グランドにはいった。周囲に歓呼の声がわあッとあがった。自分たちは優勝だ! 自然に「ヨイショッ」が口をついて出た。  審判の先生がきて、すぐ頭数をかぞえた。そして「おやひとりたらんぞ。」といった。それからまた数えなおしてみた。「ひとりたらん。」そう気の毒そうにいった。 「だれだ、だれだッ。」 と先頭の徳一君が、汗で、川からあがったばかりのようにぬれた顔を殺気立ててどなった。  だがみんなは、決勝点についたという思いでもう気力がぬけ、ぽうとしていた。もう何も考えられなかった。はやく腰をおろしたいばかりであった。  大作君たちは楡の大木のかげにいって休み、やがてだんだん元気がかえってきた。そしてそれまでに、落伍したのは大頭の吉太郎君であることがわかった。稲荷社の前で赤旗をまわるとき三組ばかりいっしょになってもみあったが、あのときのどさくさで、吉太郎君が落ちたことをだれも気づかなかったのだろう。受持ちの鈴木先生は自転車を借りて吉太郎君をむかえにいった。道ばたにへたばっているかも知れないからだ。  大作君たちの隣りの控席に帰ってきたよその学校の組の中で、ひとりのふとった少年があおくなってのびた。ふたりのつきそいの先生は、それ水を持ってこい、それ扇であおれ、と大さわぎをしていた。本部のテントの中から、急をきいて、白い服の看護婦や女の先生が飛んできた。えらいことになった、と大作君たちは思った。そして、吉太郎君がああいうふうになってもどってこないようにと、心の中にみんなは願った。もう、競走の勝敗のことなどすっかりわすれていた。  吉太郎君は帰ってきた。みんなが願っていた通り、元気で帰ってきた。先生のうしろから自転車の荷かけにまたがって、血色のいい顔をにこにこさせながら帰ってきた。すこし元気すぎるほどだ。でもまあよかった。みんなは、ほっとして帰りじたくにかかった。  公園を出て、川の堤を電車の停留場の方へ歩いていった。みんなは疲れでぼんやりしていたので、だれひとりものをいおうとしなかった。  電車を待つために、大作君たちは停留場の外の葉桜の日かげに腰をおろして、向こう側のかりとられた小麦畠の方をぼんやりみていた。先生は事務所の中へはいってゆかれた。
大作君たちの組がだまってしまったのは、どのような決意のあらわれだ、と大作君は思いましたか。
大作君たちの組がだまってしまったのは、あの強敵をぬこうという、みんなの決意のあらわれだ、と大作君は思いました。
JCRRAG_010924
国語
大作君は、腹もいたまねば胸も苦しくなかった。この調子ならまだ十キロぐらい走れる、と思った。しかし眼がちらちらして、風景がはっきりうつらなかった。ときどき、道の角の花をつけた夾竹桃や、太陽の直射に背中の毛を繻子のように光らせて道ばたに休んでいる牛の姿が、眼にとびこんでくるだけであった。  公園の入口のみえる長い直線道路に出たとき、大作君たちは急にかけ声をやめてしまった。すぐまえを、紫色のはちまきした一組が足なみそろえて走っていた。大作君たちの組がだまってしまったのは、あの強敵をぬこうという、みんなの決意のあらわれだ、と大作君は思った。  ひっそりして大作君たちは紫のはちまきにせまっていった。敵も大作君たちをみとめるや、声を消してしまった。ひっそりとして二つの組は必死になった。そして大作君たちは、ひっそりとして追いぬいていった。  ついに公園グランドにはいった。周囲に歓呼の声がわあッとあがった。自分たちは優勝だ! 自然に「ヨイショッ」が口をついて出た。  審判の先生がきて、すぐ頭数をかぞえた。そして「おやひとりたらんぞ。」といった。それからまた数えなおしてみた。「ひとりたらん。」そう気の毒そうにいった。 「だれだ、だれだッ。」 と先頭の徳一君が、汗で、川からあがったばかりのようにぬれた顔を殺気立ててどなった。  だがみんなは、決勝点についたという思いでもう気力がぬけ、ぽうとしていた。もう何も考えられなかった。はやく腰をおろしたいばかりであった。  大作君たちは楡の大木のかげにいって休み、やがてだんだん元気がかえってきた。そしてそれまでに、落伍したのは大頭の吉太郎君であることがわかった。稲荷社の前で赤旗をまわるとき三組ばかりいっしょになってもみあったが、あのときのどさくさで、吉太郎君が落ちたことをだれも気づかなかったのだろう。受持ちの鈴木先生は自転車を借りて吉太郎君をむかえにいった。道ばたにへたばっているかも知れないからだ。  大作君たちの隣りの控席に帰ってきたよその学校の組の中で、ひとりのふとった少年があおくなってのびた。ふたりのつきそいの先生は、それ水を持ってこい、それ扇であおれ、と大さわぎをしていた。本部のテントの中から、急をきいて、白い服の看護婦や女の先生が飛んできた。えらいことになった、と大作君たちは思った。そして、吉太郎君がああいうふうになってもどってこないようにと、心の中にみんなは願った。もう、競走の勝敗のことなどすっかりわすれていた。  吉太郎君は帰ってきた。みんなが願っていた通り、元気で帰ってきた。先生のうしろから自転車の荷かけにまたがって、血色のいい顔をにこにこさせながら帰ってきた。すこし元気すぎるほどだ。でもまあよかった。みんなは、ほっとして帰りじたくにかかった。  公園を出て、川の堤を電車の停留場の方へ歩いていった。みんなは疲れでぼんやりしていたので、だれひとりものをいおうとしなかった。  電車を待つために、大作君たちは停留場の外の葉桜の日かげに腰をおろして、向こう側のかりとられた小麦畠の方をぼんやりみていた。先生は事務所の中へはいってゆかれた。
大作君たちは、どのようにして追いぬいていきましたか。
大作君たちは、ひっそりとして追いぬいていきました。
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国語
大作君は、腹もいたまねば胸も苦しくなかった。この調子ならまだ十キロぐらい走れる、と思った。しかし眼がちらちらして、風景がはっきりうつらなかった。ときどき、道の角の花をつけた夾竹桃や、太陽の直射に背中の毛を繻子のように光らせて道ばたに休んでいる牛の姿が、眼にとびこんでくるだけであった。  公園の入口のみえる長い直線道路に出たとき、大作君たちは急にかけ声をやめてしまった。すぐまえを、紫色のはちまきした一組が足なみそろえて走っていた。大作君たちの組がだまってしまったのは、あの強敵をぬこうという、みんなの決意のあらわれだ、と大作君は思った。  ひっそりして大作君たちは紫のはちまきにせまっていった。敵も大作君たちをみとめるや、声を消してしまった。ひっそりとして二つの組は必死になった。そして大作君たちは、ひっそりとして追いぬいていった。  ついに公園グランドにはいった。周囲に歓呼の声がわあッとあがった。自分たちは優勝だ! 自然に「ヨイショッ」が口をついて出た。  審判の先生がきて、すぐ頭数をかぞえた。そして「おやひとりたらんぞ。」といった。それからまた数えなおしてみた。「ひとりたらん。」そう気の毒そうにいった。 「だれだ、だれだッ。」 と先頭の徳一君が、汗で、川からあがったばかりのようにぬれた顔を殺気立ててどなった。  だがみんなは、決勝点についたという思いでもう気力がぬけ、ぽうとしていた。もう何も考えられなかった。はやく腰をおろしたいばかりであった。  大作君たちは楡の大木のかげにいって休み、やがてだんだん元気がかえってきた。そしてそれまでに、落伍したのは大頭の吉太郎君であることがわかった。稲荷社の前で赤旗をまわるとき三組ばかりいっしょになってもみあったが、あのときのどさくさで、吉太郎君が落ちたことをだれも気づかなかったのだろう。受持ちの鈴木先生は自転車を借りて吉太郎君をむかえにいった。道ばたにへたばっているかも知れないからだ。  大作君たちの隣りの控席に帰ってきたよその学校の組の中で、ひとりのふとった少年があおくなってのびた。ふたりのつきそいの先生は、それ水を持ってこい、それ扇であおれ、と大さわぎをしていた。本部のテントの中から、急をきいて、白い服の看護婦や女の先生が飛んできた。えらいことになった、と大作君たちは思った。そして、吉太郎君がああいうふうになってもどってこないようにと、心の中にみんなは願った。もう、競走の勝敗のことなどすっかりわすれていた。  吉太郎君は帰ってきた。みんなが願っていた通り、元気で帰ってきた。先生のうしろから自転車の荷かけにまたがって、血色のいい顔をにこにこさせながら帰ってきた。すこし元気すぎるほどだ。でもまあよかった。みんなは、ほっとして帰りじたくにかかった。  公園を出て、川の堤を電車の停留場の方へ歩いていった。みんなは疲れでぼんやりしていたので、だれひとりものをいおうとしなかった。  電車を待つために、大作君たちは停留場の外の葉桜の日かげに腰をおろして、向こう側のかりとられた小麦畠の方をぼんやりみていた。先生は事務所の中へはいってゆかれた。
大作君たちはどこにいって休み、やがてだんだん元気がかえってきましたか。
大作君たちは楡の大木のかげにいって休み、やがてだんだん元気がかえってきました。
JCRRAG_010926
国語
大作君は、腹もいたまねば胸も苦しくなかった。この調子ならまだ十キロぐらい走れる、と思った。しかし眼がちらちらして、風景がはっきりうつらなかった。ときどき、道の角の花をつけた夾竹桃や、太陽の直射に背中の毛を繻子のように光らせて道ばたに休んでいる牛の姿が、眼にとびこんでくるだけであった。  公園の入口のみえる長い直線道路に出たとき、大作君たちは急にかけ声をやめてしまった。すぐまえを、紫色のはちまきした一組が足なみそろえて走っていた。大作君たちの組がだまってしまったのは、あの強敵をぬこうという、みんなの決意のあらわれだ、と大作君は思った。  ひっそりして大作君たちは紫のはちまきにせまっていった。敵も大作君たちをみとめるや、声を消してしまった。ひっそりとして二つの組は必死になった。そして大作君たちは、ひっそりとして追いぬいていった。  ついに公園グランドにはいった。周囲に歓呼の声がわあッとあがった。自分たちは優勝だ! 自然に「ヨイショッ」が口をついて出た。  審判の先生がきて、すぐ頭数をかぞえた。そして「おやひとりたらんぞ。」といった。それからまた数えなおしてみた。「ひとりたらん。」そう気の毒そうにいった。 「だれだ、だれだッ。」 と先頭の徳一君が、汗で、川からあがったばかりのようにぬれた顔を殺気立ててどなった。  だがみんなは、決勝点についたという思いでもう気力がぬけ、ぽうとしていた。もう何も考えられなかった。はやく腰をおろしたいばかりであった。  大作君たちは楡の大木のかげにいって休み、やがてだんだん元気がかえってきた。そしてそれまでに、落伍したのは大頭の吉太郎君であることがわかった。稲荷社の前で赤旗をまわるとき三組ばかりいっしょになってもみあったが、あのときのどさくさで、吉太郎君が落ちたことをだれも気づかなかったのだろう。受持ちの鈴木先生は自転車を借りて吉太郎君をむかえにいった。道ばたにへたばっているかも知れないからだ。  大作君たちの隣りの控席に帰ってきたよその学校の組の中で、ひとりのふとった少年があおくなってのびた。ふたりのつきそいの先生は、それ水を持ってこい、それ扇であおれ、と大さわぎをしていた。本部のテントの中から、急をきいて、白い服の看護婦や女の先生が飛んできた。えらいことになった、と大作君たちは思った。そして、吉太郎君がああいうふうになってもどってこないようにと、心の中にみんなは願った。もう、競走の勝敗のことなどすっかりわすれていた。  吉太郎君は帰ってきた。みんなが願っていた通り、元気で帰ってきた。先生のうしろから自転車の荷かけにまたがって、血色のいい顔をにこにこさせながら帰ってきた。すこし元気すぎるほどだ。でもまあよかった。みんなは、ほっとして帰りじたくにかかった。  公園を出て、川の堤を電車の停留場の方へ歩いていった。みんなは疲れでぼんやりしていたので、だれひとりものをいおうとしなかった。  電車を待つために、大作君たちは停留場の外の葉桜の日かげに腰をおろして、向こう側のかりとられた小麦畠の方をぼんやりみていた。先生は事務所の中へはいってゆかれた。
大作君たちは停留場の外の葉桜の日かげに腰をおろして、どちらの方をぼんやりみていましたか。
大作君たちは停留場の外の葉桜の日かげに腰をおろして、向こう側のかりとられた小麦畠の方をぼんやりみていました。
JCRRAG_010927
国語
小麦のかりとられたあとに一輪の矢車草の花がさいていて、なんということなく、みんなの眼をひいた。 「あんなとこに、矢車草があるげや。」  そう兵太郎君がいった。 「うん。」 と大作君が答えた。  するとみんなのうしろにすわって、すこしきまりわるそうにしていた大頭の吉太郎君が、 「とってこうか。」 といって、小走りに走っていき、二メートルほどの赭土の傾斜をいせいよくかけのぼった。  みんなは顔を見合わせた。吉太郎君がすこし元気すぎるのだ。あんなに元気なら、なぜ最後までがんばらなかったのか。みんなの心にはいまになって、優勝をとりにがしたいまいましさがよみがえってきた。  吉太郎君は矢車草をとって、みんなのそばにもどってきた。 「やろか。」 といって隣りの周造君の方にさし出した。  みんなにはそのときはっきりと、吉太郎君がみんなのご機嫌をとろうとしていることがわかった。良心にやましい点があるのだ。つまり、まだ走れるところを綱をはなしてしまったのだ。 「周造、そんなものをうけとるな。」  そう徳一君が親分みたいにげんとして命令した。おとなしい周造君はちょっとまごついたが、ついにがき大将の徳一君の命にしたがった。吉太郎君はべそをかいていた。  いまはみんなは、吉太郎君がひごろいやらしい奴であったことを憶い出した。親しげに人の耳のそばに口をよせてきて、つまらぬつげ口をしたかと思うと、もうつぎの日には、ほかの者の耳に口をよせて、ちらちら横眼でこちらをみながら、何かこちらのことをつげ口しているというふうの奴であった。また、つきとばされたりすると、面と向かってくるのではなくて、げらげらと下品に笑いながら、よいどれのまねなどしながら、べたべたとはりついてきて、たわむれのようにみせかけながら、相手の服に鼻汁をなすりつけたりして復讐するというふうの卑劣な奴であった。  しかしいまさらおこったって、どうにもならない。みんなはあきらめてまたぼんやり小麦畠の方をみていた。  向こうの道角を、自転車のうしろに氷のかたまりをのせた人がまがって、坂道にかかった。そのとき氷がすべり落ちた。すぐそれをひろって、その人は坂をのぼっていってしまった。そのあとにちょっとした破片が一つ光って落ちていた。  徳一君がそれをひろって、水道であらってきた。 「ええかァ」と徳一君はいった。「いまからこいつをまわすから、順番につぎのもんにわたせよ。」  徳一君の手から兼男君の手にわたった。それからつぎの者へ。こうして一片の氷は少年たちの手をわたっていった。みんなは声を立ててその冷たさを喜んだ。中には頭の上にしばらくのせているものもあった。兵太郎君は、石鹸のように両掌の中でもんだので、急に小さくなってしまったようにみんなは思った。  大作君はうけとった。大作君のつぎには、べそをかいて草の葉をむしっている大頭の吉太郎君がのこっているばかりだった。大作君はこの氷の破片をどうしようかとまよった。みんなはあきらかに吉太郎君をにくんでいた。吉太郎君なんかにわたすな、と眼でしらせていた。  大作君はためらっていた。手の中の小さい氷の破片が妙に重く感じられた。大勢の注意がそれに集まっているからだ。  大作君もみんなのように、吉太郎君のふがいなさに腹を立てていた。すこしお腹のかげんのわるい兵太郎君でさえ、最後までがんばり通したのに、どこもわるくない吉太郎君がすこしぐらい苦しいからといって、途中ですっこけてしまって、その上あろうことかあるまいことか、先生の自転車にのっけてもらって、にやにや笑いながらもどってくるなんて、じつに失敬じゃないか、と思った。  しかし大作君のその心の、も一つ奥にある何ものかが、大作君をおすのであった。大作君は、そっと、氷をうつむいている吉太郎君の手ににぎらせたのである。
吉太郎君は何をとって、みんなのそばにもどってきましたか。
吉太郎君は矢車草をとって、みんなのそばにもどってきました。
JCRRAG_010928
国語
小麦のかりとられたあとに一輪の矢車草の花がさいていて、なんということなく、みんなの眼をひいた。 「あんなとこに、矢車草があるげや。」  そう兵太郎君がいった。 「うん。」 と大作君が答えた。  するとみんなのうしろにすわって、すこしきまりわるそうにしていた大頭の吉太郎君が、 「とってこうか。」 といって、小走りに走っていき、二メートルほどの赭土の傾斜をいせいよくかけのぼった。  みんなは顔を見合わせた。吉太郎君がすこし元気すぎるのだ。あんなに元気なら、なぜ最後までがんばらなかったのか。みんなの心にはいまになって、優勝をとりにがしたいまいましさがよみがえってきた。  吉太郎君は矢車草をとって、みんなのそばにもどってきた。 「やろか。」 といって隣りの周造君の方にさし出した。  みんなにはそのときはっきりと、吉太郎君がみんなのご機嫌をとろうとしていることがわかった。良心にやましい点があるのだ。つまり、まだ走れるところを綱をはなしてしまったのだ。 「周造、そんなものをうけとるな。」  そう徳一君が親分みたいにげんとして命令した。おとなしい周造君はちょっとまごついたが、ついにがき大将の徳一君の命にしたがった。吉太郎君はべそをかいていた。  いまはみんなは、吉太郎君がひごろいやらしい奴であったことを憶い出した。親しげに人の耳のそばに口をよせてきて、つまらぬつげ口をしたかと思うと、もうつぎの日には、ほかの者の耳に口をよせて、ちらちら横眼でこちらをみながら、何かこちらのことをつげ口しているというふうの奴であった。また、つきとばされたりすると、面と向かってくるのではなくて、げらげらと下品に笑いながら、よいどれのまねなどしながら、べたべたとはりついてきて、たわむれのようにみせかけながら、相手の服に鼻汁をなすりつけたりして復讐するというふうの卑劣な奴であった。  しかしいまさらおこったって、どうにもならない。みんなはあきらめてまたぼんやり小麦畠の方をみていた。  向こうの道角を、自転車のうしろに氷のかたまりをのせた人がまがって、坂道にかかった。そのとき氷がすべり落ちた。すぐそれをひろって、その人は坂をのぼっていってしまった。そのあとにちょっとした破片が一つ光って落ちていた。  徳一君がそれをひろって、水道であらってきた。 「ええかァ」と徳一君はいった。「いまからこいつをまわすから、順番につぎのもんにわたせよ。」  徳一君の手から兼男君の手にわたった。それからつぎの者へ。こうして一片の氷は少年たちの手をわたっていった。みんなは声を立ててその冷たさを喜んだ。中には頭の上にしばらくのせているものもあった。兵太郎君は、石鹸のように両掌の中でもんだので、急に小さくなってしまったようにみんなは思った。  大作君はうけとった。大作君のつぎには、べそをかいて草の葉をむしっている大頭の吉太郎君がのこっているばかりだった。大作君はこの氷の破片をどうしようかとまよった。みんなはあきらかに吉太郎君をにくんでいた。吉太郎君なんかにわたすな、と眼でしらせていた。  大作君はためらっていた。手の中の小さい氷の破片が妙に重く感じられた。大勢の注意がそれに集まっているからだ。  大作君もみんなのように、吉太郎君のふがいなさに腹を立てていた。すこしお腹のかげんのわるい兵太郎君でさえ、最後までがんばり通したのに、どこもわるくない吉太郎君がすこしぐらい苦しいからといって、途中ですっこけてしまって、その上あろうことかあるまいことか、先生の自転車にのっけてもらって、にやにや笑いながらもどってくるなんて、じつに失敬じゃないか、と思った。  しかし大作君のその心の、も一つ奥にある何ものかが、大作君をおすのであった。大作君は、そっと、氷をうつむいている吉太郎君の手ににぎらせたのである。
みんなはあきらかに誰をにくんでいましたか。
みんなはあきらかに吉太郎君をにくんでいました。
JCRRAG_010929
国語
小麦のかりとられたあとに一輪の矢車草の花がさいていて、なんということなく、みんなの眼をひいた。 「あんなとこに、矢車草があるげや。」  そう兵太郎君がいった。 「うん。」 と大作君が答えた。  するとみんなのうしろにすわって、すこしきまりわるそうにしていた大頭の吉太郎君が、 「とってこうか。」 といって、小走りに走っていき、二メートルほどの赭土の傾斜をいせいよくかけのぼった。  みんなは顔を見合わせた。吉太郎君がすこし元気すぎるのだ。あんなに元気なら、なぜ最後までがんばらなかったのか。みんなの心にはいまになって、優勝をとりにがしたいまいましさがよみがえってきた。  吉太郎君は矢車草をとって、みんなのそばにもどってきた。 「やろか。」 といって隣りの周造君の方にさし出した。  みんなにはそのときはっきりと、吉太郎君がみんなのご機嫌をとろうとしていることがわかった。良心にやましい点があるのだ。つまり、まだ走れるところを綱をはなしてしまったのだ。 「周造、そんなものをうけとるな。」  そう徳一君が親分みたいにげんとして命令した。おとなしい周造君はちょっとまごついたが、ついにがき大将の徳一君の命にしたがった。吉太郎君はべそをかいていた。  いまはみんなは、吉太郎君がひごろいやらしい奴であったことを憶い出した。親しげに人の耳のそばに口をよせてきて、つまらぬつげ口をしたかと思うと、もうつぎの日には、ほかの者の耳に口をよせて、ちらちら横眼でこちらをみながら、何かこちらのことをつげ口しているというふうの奴であった。また、つきとばされたりすると、面と向かってくるのではなくて、げらげらと下品に笑いながら、よいどれのまねなどしながら、べたべたとはりついてきて、たわむれのようにみせかけながら、相手の服に鼻汁をなすりつけたりして復讐するというふうの卑劣な奴であった。  しかしいまさらおこったって、どうにもならない。みんなはあきらめてまたぼんやり小麦畠の方をみていた。  向こうの道角を、自転車のうしろに氷のかたまりをのせた人がまがって、坂道にかかった。そのとき氷がすべり落ちた。すぐそれをひろって、その人は坂をのぼっていってしまった。そのあとにちょっとした破片が一つ光って落ちていた。  徳一君がそれをひろって、水道であらってきた。 「ええかァ」と徳一君はいった。「いまからこいつをまわすから、順番につぎのもんにわたせよ。」  徳一君の手から兼男君の手にわたった。それからつぎの者へ。こうして一片の氷は少年たちの手をわたっていった。みんなは声を立ててその冷たさを喜んだ。中には頭の上にしばらくのせているものもあった。兵太郎君は、石鹸のように両掌の中でもんだので、急に小さくなってしまったようにみんなは思った。  大作君はうけとった。大作君のつぎには、べそをかいて草の葉をむしっている大頭の吉太郎君がのこっているばかりだった。大作君はこの氷の破片をどうしようかとまよった。みんなはあきらかに吉太郎君をにくんでいた。吉太郎君なんかにわたすな、と眼でしらせていた。  大作君はためらっていた。手の中の小さい氷の破片が妙に重く感じられた。大勢の注意がそれに集まっているからだ。  大作君もみんなのように、吉太郎君のふがいなさに腹を立てていた。すこしお腹のかげんのわるい兵太郎君でさえ、最後までがんばり通したのに、どこもわるくない吉太郎君がすこしぐらい苦しいからといって、途中ですっこけてしまって、その上あろうことかあるまいことか、先生の自転車にのっけてもらって、にやにや笑いながらもどってくるなんて、じつに失敬じゃないか、と思った。  しかし大作君のその心の、も一つ奥にある何ものかが、大作君をおすのであった。大作君は、そっと、氷をうつむいている吉太郎君の手ににぎらせたのである。
大作君は何についてまよいましたか。
大作君はこの氷の破片をどうしようかとまよいました。
JCRRAG_010930
国語
小麦のかりとられたあとに一輪の矢車草の花がさいていて、なんということなく、みんなの眼をひいた。 「あんなとこに、矢車草があるげや。」  そう兵太郎君がいった。 「うん。」 と大作君が答えた。  するとみんなのうしろにすわって、すこしきまりわるそうにしていた大頭の吉太郎君が、 「とってこうか。」 といって、小走りに走っていき、二メートルほどの赭土の傾斜をいせいよくかけのぼった。  みんなは顔を見合わせた。吉太郎君がすこし元気すぎるのだ。あんなに元気なら、なぜ最後までがんばらなかったのか。みんなの心にはいまになって、優勝をとりにがしたいまいましさがよみがえってきた。  吉太郎君は矢車草をとって、みんなのそばにもどってきた。 「やろか。」 といって隣りの周造君の方にさし出した。  みんなにはそのときはっきりと、吉太郎君がみんなのご機嫌をとろうとしていることがわかった。良心にやましい点があるのだ。つまり、まだ走れるところを綱をはなしてしまったのだ。 「周造、そんなものをうけとるな。」  そう徳一君が親分みたいにげんとして命令した。おとなしい周造君はちょっとまごついたが、ついにがき大将の徳一君の命にしたがった。吉太郎君はべそをかいていた。  いまはみんなは、吉太郎君がひごろいやらしい奴であったことを憶い出した。親しげに人の耳のそばに口をよせてきて、つまらぬつげ口をしたかと思うと、もうつぎの日には、ほかの者の耳に口をよせて、ちらちら横眼でこちらをみながら、何かこちらのことをつげ口しているというふうの奴であった。また、つきとばされたりすると、面と向かってくるのではなくて、げらげらと下品に笑いながら、よいどれのまねなどしながら、べたべたとはりついてきて、たわむれのようにみせかけながら、相手の服に鼻汁をなすりつけたりして復讐するというふうの卑劣な奴であった。  しかしいまさらおこったって、どうにもならない。みんなはあきらめてまたぼんやり小麦畠の方をみていた。  向こうの道角を、自転車のうしろに氷のかたまりをのせた人がまがって、坂道にかかった。そのとき氷がすべり落ちた。すぐそれをひろって、その人は坂をのぼっていってしまった。そのあとにちょっとした破片が一つ光って落ちていた。  徳一君がそれをひろって、水道であらってきた。 「ええかァ」と徳一君はいった。「いまからこいつをまわすから、順番につぎのもんにわたせよ。」  徳一君の手から兼男君の手にわたった。それからつぎの者へ。こうして一片の氷は少年たちの手をわたっていった。みんなは声を立ててその冷たさを喜んだ。中には頭の上にしばらくのせているものもあった。兵太郎君は、石鹸のように両掌の中でもんだので、急に小さくなってしまったようにみんなは思った。  大作君はうけとった。大作君のつぎには、べそをかいて草の葉をむしっている大頭の吉太郎君がのこっているばかりだった。大作君はこの氷の破片をどうしようかとまよった。みんなはあきらかに吉太郎君をにくんでいた。吉太郎君なんかにわたすな、と眼でしらせていた。  大作君はためらっていた。手の中の小さい氷の破片が妙に重く感じられた。大勢の注意がそれに集まっているからだ。  大作君もみんなのように、吉太郎君のふがいなさに腹を立てていた。すこしお腹のかげんのわるい兵太郎君でさえ、最後までがんばり通したのに、どこもわるくない吉太郎君がすこしぐらい苦しいからといって、途中ですっこけてしまって、その上あろうことかあるまいことか、先生の自転車にのっけてもらって、にやにや笑いながらもどってくるなんて、じつに失敬じゃないか、と思った。  しかし大作君のその心の、も一つ奥にある何ものかが、大作君をおすのであった。大作君は、そっと、氷をうつむいている吉太郎君の手ににぎらせたのである。
大作君もみんなのように、誰のふがいなさに腹を立てていましたか。
大作君もみんなのように、吉太郎君のふがいなさに腹を立てていました。
JCRRAG_010931
国語
小麦のかりとられたあとに一輪の矢車草の花がさいていて、なんということなく、みんなの眼をひいた。 「あんなとこに、矢車草があるげや。」  そう兵太郎君がいった。 「うん。」 と大作君が答えた。  するとみんなのうしろにすわって、すこしきまりわるそうにしていた大頭の吉太郎君が、 「とってこうか。」 といって、小走りに走っていき、二メートルほどの赭土の傾斜をいせいよくかけのぼった。  みんなは顔を見合わせた。吉太郎君がすこし元気すぎるのだ。あんなに元気なら、なぜ最後までがんばらなかったのか。みんなの心にはいまになって、優勝をとりにがしたいまいましさがよみがえってきた。  吉太郎君は矢車草をとって、みんなのそばにもどってきた。 「やろか。」 といって隣りの周造君の方にさし出した。  みんなにはそのときはっきりと、吉太郎君がみんなのご機嫌をとろうとしていることがわかった。良心にやましい点があるのだ。つまり、まだ走れるところを綱をはなしてしまったのだ。 「周造、そんなものをうけとるな。」  そう徳一君が親分みたいにげんとして命令した。おとなしい周造君はちょっとまごついたが、ついにがき大将の徳一君の命にしたがった。吉太郎君はべそをかいていた。  いまはみんなは、吉太郎君がひごろいやらしい奴であったことを憶い出した。親しげに人の耳のそばに口をよせてきて、つまらぬつげ口をしたかと思うと、もうつぎの日には、ほかの者の耳に口をよせて、ちらちら横眼でこちらをみながら、何かこちらのことをつげ口しているというふうの奴であった。また、つきとばされたりすると、面と向かってくるのではなくて、げらげらと下品に笑いながら、よいどれのまねなどしながら、べたべたとはりついてきて、たわむれのようにみせかけながら、相手の服に鼻汁をなすりつけたりして復讐するというふうの卑劣な奴であった。  しかしいまさらおこったって、どうにもならない。みんなはあきらめてまたぼんやり小麦畠の方をみていた。  向こうの道角を、自転車のうしろに氷のかたまりをのせた人がまがって、坂道にかかった。そのとき氷がすべり落ちた。すぐそれをひろって、その人は坂をのぼっていってしまった。そのあとにちょっとした破片が一つ光って落ちていた。  徳一君がそれをひろって、水道であらってきた。 「ええかァ」と徳一君はいった。「いまからこいつをまわすから、順番につぎのもんにわたせよ。」  徳一君の手から兼男君の手にわたった。それからつぎの者へ。こうして一片の氷は少年たちの手をわたっていった。みんなは声を立ててその冷たさを喜んだ。中には頭の上にしばらくのせているものもあった。兵太郎君は、石鹸のように両掌の中でもんだので、急に小さくなってしまったようにみんなは思った。  大作君はうけとった。大作君のつぎには、べそをかいて草の葉をむしっている大頭の吉太郎君がのこっているばかりだった。大作君はこの氷の破片をどうしようかとまよった。みんなはあきらかに吉太郎君をにくんでいた。吉太郎君なんかにわたすな、と眼でしらせていた。  大作君はためらっていた。手の中の小さい氷の破片が妙に重く感じられた。大勢の注意がそれに集まっているからだ。  大作君もみんなのように、吉太郎君のふがいなさに腹を立てていた。すこしお腹のかげんのわるい兵太郎君でさえ、最後までがんばり通したのに、どこもわるくない吉太郎君がすこしぐらい苦しいからといって、途中ですっこけてしまって、その上あろうことかあるまいことか、先生の自転車にのっけてもらって、にやにや笑いながらもどってくるなんて、じつに失敬じゃないか、と思った。  しかし大作君のその心の、も一つ奥にある何ものかが、大作君をおすのであった。大作君は、そっと、氷をうつむいている吉太郎君の手ににぎらせたのである。
大作君は、そっと、氷をうつむいている誰の手ににぎらせましたか。
大作君は、そっと、氷をうつむいている吉太郎君の手ににぎらせました。
JCRRAG_010932
国語
その夜、大作君はくたびれたので、柱をふまえてねそべっていた。下からみたって、いつもみなれたすかんぴんの貧しい家であった。しかし大作君の心は、いまは安らかにここに落ち着いていた。貧乏なことになんの不平もなかった。  そこへ風呂からあがったはだかん坊の弟たちが、湯気につつまれながら出てきた。そして大作君の頭のかたわらで相撲をとりはじめた。どんどんと大作君の頭にひびいた。  いつもなら大作君は、「やめんかッ」と、優等生の兄さんらしくどなるところだ。しかし今夜はしからなかった。弟たちの健康なはだかん坊をたのもしいもののようにみていた。足音が大きくひびいてくればくるほど気持ちがよかった。――おお! 力を出せ! 力のありったけを出せ! 家がつぶれるくらいあばれろ! 大作君はそう声援したいほどだった。  いまは、大作君の心から、ながいあいだかかっていた灰色のとばりがはらいのけられていた。――貧乏だとてはずかしがることはないのだ。ぼくたちは健康だ。そしてぼくたちにはがんばる力があるんだ。ぼくたちにはこれからどんなことだってできるのだ。――  はじめは、ちびの四郎と五郎だけが相撲をしていたが、やがて速男も幸助も加わって、しまいには相撲というよりはめちゃめちゃの乱闘になってしまった。 「よし、こいッ。」  そうさけんで、大作君ははね起きた。「ぼくひとりにみんなかかってこいッ。」  みんなかかってきた。うしろからしがみつくもの、足にからまるもの、腕をひっぱるもの、大作君はたじたじとなったが、うんとふんばった。ちびの五郎を両腕でだきあげた。じたばたするのを顔の高さにまで持ちあげた。そして「神だなに上げるぞオ。」といって、そちらへ歩いていった。  すると大作君は、神棚の下にたらしてはってある四角な紙に眼がとまった。何か免状みたいなものだ。 「これなんだア。」 と大作君は五郎をおろしてたずねた。  そして速男から、それは幸助がたばこ、キャラメルなどの空箱や、おれ釘、針金などをひろいためて、今日役場の軍事課へ献納して、もらってきた感謝状だということをきいた。  ――それなら幸助は、あのキャラメルの箱も献納するつもりでひろったんだ。そうだったのか。国民六年加藤大作君は、きいていて、喜びのために胸があつくなるのを覚えたのである。
大作君は、弟たちの健康なはだかん坊をどのようにみていましたか。
大作君は、弟たちの健康なはだかん坊をたのもしいもののようにみていました。
JCRRAG_010933
国語
その夜、大作君はくたびれたので、柱をふまえてねそべっていた。下からみたって、いつもみなれたすかんぴんの貧しい家であった。しかし大作君の心は、いまは安らかにここに落ち着いていた。貧乏なことになんの不平もなかった。  そこへ風呂からあがったはだかん坊の弟たちが、湯気につつまれながら出てきた。そして大作君の頭のかたわらで相撲をとりはじめた。どんどんと大作君の頭にひびいた。  いつもなら大作君は、「やめんかッ」と、優等生の兄さんらしくどなるところだ。しかし今夜はしからなかった。弟たちの健康なはだかん坊をたのもしいもののようにみていた。足音が大きくひびいてくればくるほど気持ちがよかった。――おお! 力を出せ! 力のありったけを出せ! 家がつぶれるくらいあばれろ! 大作君はそう声援したいほどだった。  いまは、大作君の心から、ながいあいだかかっていた灰色のとばりがはらいのけられていた。――貧乏だとてはずかしがることはないのだ。ぼくたちは健康だ。そしてぼくたちにはがんばる力があるんだ。ぼくたちにはこれからどんなことだってできるのだ。――  はじめは、ちびの四郎と五郎だけが相撲をしていたが、やがて速男も幸助も加わって、しまいには相撲というよりはめちゃめちゃの乱闘になってしまった。 「よし、こいッ。」  そうさけんで、大作君ははね起きた。「ぼくひとりにみんなかかってこいッ。」  みんなかかってきた。うしろからしがみつくもの、足にからまるもの、腕をひっぱるもの、大作君はたじたじとなったが、うんとふんばった。ちびの五郎を両腕でだきあげた。じたばたするのを顔の高さにまで持ちあげた。そして「神だなに上げるぞオ。」といって、そちらへ歩いていった。  すると大作君は、神棚の下にたらしてはってある四角な紙に眼がとまった。何か免状みたいなものだ。 「これなんだア。」 と大作君は五郎をおろしてたずねた。  そして速男から、それは幸助がたばこ、キャラメルなどの空箱や、おれ釘、針金などをひろいためて、今日役場の軍事課へ献納して、もらってきた感謝状だということをきいた。  ――それなら幸助は、あのキャラメルの箱も献納するつもりでひろったんだ。そうだったのか。国民六年加藤大作君は、きいていて、喜びのために胸があつくなるのを覚えたのである。
大作君はくたびれたので、どのようにねそべっていましたか。
大作君はくたびれたので、柱をふまえてねそべっていました。
JCRRAG_010934
国語
その夜、大作君はくたびれたので、柱をふまえてねそべっていた。下からみたって、いつもみなれたすかんぴんの貧しい家であった。しかし大作君の心は、いまは安らかにここに落ち着いていた。貧乏なことになんの不平もなかった。  そこへ風呂からあがったはだかん坊の弟たちが、湯気につつまれながら出てきた。そして大作君の頭のかたわらで相撲をとりはじめた。どんどんと大作君の頭にひびいた。  いつもなら大作君は、「やめんかッ」と、優等生の兄さんらしくどなるところだ。しかし今夜はしからなかった。弟たちの健康なはだかん坊をたのもしいもののようにみていた。足音が大きくひびいてくればくるほど気持ちがよかった。――おお! 力を出せ! 力のありったけを出せ! 家がつぶれるくらいあばれろ! 大作君はそう声援したいほどだった。  いまは、大作君の心から、ながいあいだかかっていた灰色のとばりがはらいのけられていた。――貧乏だとてはずかしがることはないのだ。ぼくたちは健康だ。そしてぼくたちにはがんばる力があるんだ。ぼくたちにはこれからどんなことだってできるのだ。――  はじめは、ちびの四郎と五郎だけが相撲をしていたが、やがて速男も幸助も加わって、しまいには相撲というよりはめちゃめちゃの乱闘になってしまった。 「よし、こいッ。」  そうさけんで、大作君ははね起きた。「ぼくひとりにみんなかかってこいッ。」  みんなかかってきた。うしろからしがみつくもの、足にからまるもの、腕をひっぱるもの、大作君はたじたじとなったが、うんとふんばった。ちびの五郎を両腕でだきあげた。じたばたするのを顔の高さにまで持ちあげた。そして「神だなに上げるぞオ。」といって、そちらへ歩いていった。  すると大作君は、神棚の下にたらしてはってある四角な紙に眼がとまった。何か免状みたいなものだ。 「これなんだア。」 と大作君は五郎をおろしてたずねた。  そして速男から、それは幸助がたばこ、キャラメルなどの空箱や、おれ釘、針金などをひろいためて、今日役場の軍事課へ献納して、もらってきた感謝状だということをきいた。  ――それなら幸助は、あのキャラメルの箱も献納するつもりでひろったんだ。そうだったのか。国民六年加藤大作君は、きいていて、喜びのために胸があつくなるのを覚えたのである。
大作君は、誰を両腕でだきあげましたか。
大作君は、ちびの五郎を両腕でだきあげました。
JCRRAG_010935
国語
その夜、大作君はくたびれたので、柱をふまえてねそべっていた。下からみたって、いつもみなれたすかんぴんの貧しい家であった。しかし大作君の心は、いまは安らかにここに落ち着いていた。貧乏なことになんの不平もなかった。  そこへ風呂からあがったはだかん坊の弟たちが、湯気につつまれながら出てきた。そして大作君の頭のかたわらで相撲をとりはじめた。どんどんと大作君の頭にひびいた。  いつもなら大作君は、「やめんかッ」と、優等生の兄さんらしくどなるところだ。しかし今夜はしからなかった。弟たちの健康なはだかん坊をたのもしいもののようにみていた。足音が大きくひびいてくればくるほど気持ちがよかった。――おお! 力を出せ! 力のありったけを出せ! 家がつぶれるくらいあばれろ! 大作君はそう声援したいほどだった。  いまは、大作君の心から、ながいあいだかかっていた灰色のとばりがはらいのけられていた。――貧乏だとてはずかしがることはないのだ。ぼくたちは健康だ。そしてぼくたちにはがんばる力があるんだ。ぼくたちにはこれからどんなことだってできるのだ。――  はじめは、ちびの四郎と五郎だけが相撲をしていたが、やがて速男も幸助も加わって、しまいには相撲というよりはめちゃめちゃの乱闘になってしまった。 「よし、こいッ。」  そうさけんで、大作君ははね起きた。「ぼくひとりにみんなかかってこいッ。」  みんなかかってきた。うしろからしがみつくもの、足にからまるもの、腕をひっぱるもの、大作君はたじたじとなったが、うんとふんばった。ちびの五郎を両腕でだきあげた。じたばたするのを顔の高さにまで持ちあげた。そして「神だなに上げるぞオ。」といって、そちらへ歩いていった。  すると大作君は、神棚の下にたらしてはってある四角な紙に眼がとまった。何か免状みたいなものだ。 「これなんだア。」 と大作君は五郎をおろしてたずねた。  そして速男から、それは幸助がたばこ、キャラメルなどの空箱や、おれ釘、針金などをひろいためて、今日役場の軍事課へ献納して、もらってきた感謝状だということをきいた。  ――それなら幸助は、あのキャラメルの箱も献納するつもりでひろったんだ。そうだったのか。国民六年加藤大作君は、きいていて、喜びのために胸があつくなるのを覚えたのである。
大作君は、何に眼がとまりましたか。
大作君は、神棚の下にたらしてはってある四角な紙に眼がとまりました。
JCRRAG_010936
国語
その夜、大作君はくたびれたので、柱をふまえてねそべっていた。下からみたって、いつもみなれたすかんぴんの貧しい家であった。しかし大作君の心は、いまは安らかにここに落ち着いていた。貧乏なことになんの不平もなかった。  そこへ風呂からあがったはだかん坊の弟たちが、湯気につつまれながら出てきた。そして大作君の頭のかたわらで相撲をとりはじめた。どんどんと大作君の頭にひびいた。  いつもなら大作君は、「やめんかッ」と、優等生の兄さんらしくどなるところだ。しかし今夜はしからなかった。弟たちの健康なはだかん坊をたのもしいもののようにみていた。足音が大きくひびいてくればくるほど気持ちがよかった。――おお! 力を出せ! 力のありったけを出せ! 家がつぶれるくらいあばれろ! 大作君はそう声援したいほどだった。  いまは、大作君の心から、ながいあいだかかっていた灰色のとばりがはらいのけられていた。――貧乏だとてはずかしがることはないのだ。ぼくたちは健康だ。そしてぼくたちにはがんばる力があるんだ。ぼくたちにはこれからどんなことだってできるのだ。――  はじめは、ちびの四郎と五郎だけが相撲をしていたが、やがて速男も幸助も加わって、しまいには相撲というよりはめちゃめちゃの乱闘になってしまった。 「よし、こいッ。」  そうさけんで、大作君ははね起きた。「ぼくひとりにみんなかかってこいッ。」  みんなかかってきた。うしろからしがみつくもの、足にからまるもの、腕をひっぱるもの、大作君はたじたじとなったが、うんとふんばった。ちびの五郎を両腕でだきあげた。じたばたするのを顔の高さにまで持ちあげた。そして「神だなに上げるぞオ。」といって、そちらへ歩いていった。  すると大作君は、神棚の下にたらしてはってある四角な紙に眼がとまった。何か免状みたいなものだ。 「これなんだア。」 と大作君は五郎をおろしてたずねた。  そして速男から、それは幸助がたばこ、キャラメルなどの空箱や、おれ釘、針金などをひろいためて、今日役場の軍事課へ献納して、もらってきた感謝状だということをきいた。  ――それなら幸助は、あのキャラメルの箱も献納するつもりでひろったんだ。そうだったのか。国民六年加藤大作君は、きいていて、喜びのために胸があつくなるのを覚えたのである。
国民六年加藤大作君は、きいていて、どのような感覚を覚えましたか。
国民六年加藤大作君は、きいていて、喜びのために胸があつくなるのを覚えました。
JCRRAG_010937
国語
ある日、王さまはこじきのようなようすをして、ひとりで町へやってゆきました。  町には小さな靴屋がいっけんあって、おじいさんがせっせと靴をつくっておりました。  王さまは靴屋の店にはいって、 「これこれ、じいや、そのほうはなんという名まえか。」 とたずねました。  靴屋のじいさんは、そのかたが王さまであるとは知りませんでしたので、 「ひとにものをきくなら、もっとていねいにいうものだよ。」 と、つっけんどんにいって、とんとんと仕事をしていました。 「これ、名まえはなんと申すぞ。」 とまた王さまはたずねました。 「ひとにくちをきくには、もっとていねいにいうものだというのに。」 とじいさんはまた、ぶっきらぼうにいって、仕事をしつづけました。  王さまは、なるほどじぶんがまちがっていた、と思って、こんどはやさしく、 「おまえの名まえを教えておくれ。」 とたのみました。 「わしの名まえは、マギステルだ。」 とじいさんは、やっと名まえを教えました。  そこで王さまは、 「マギステルのじいさん、ないしょのはなしだが、おまえはこの国の王さまはばかやろうだとおもわないか。」 とたずねました。 「おもわないよ。」 とマギステルじいさんはこたえました。 「それでは、こゆびのさきほどばかだとはおもわないか。」 と王さまはまたたずねました。 「おもわないよ。」 とマギステルじいさんはこたえて、靴のかかとをうちつけました。 「もしおまえが、王さまはこゆびのさきほどばかだといったら、わしはこれをやるよ。だれもほかにきいてやしないから、だいじょうぶだよ。」 と王さまは、金の時計をポケットから出して、じいさんのひざにのせました。 「この国の王さまがばかだといえばこれをくれるのかい。」 とじいさんは、金づちをもった手をわきにたれて、ひざの上の時計をみました。 「うん、小さい声で、ほんのひとくちいえばあげるよ。」 と王さまは手をもみあわせながらいいました。  するとじいさんは、やにわにその時計をひっつかんで床のうえにたたきつけました。 「さっさと出てうせろ。ぐずぐずしてるとぶちころしてしまうぞ。不忠者めが。この国の王さまほどごりっぱなおかたが、世界中にまたとあるかッ。」  そして、もっていた金づちをふりあげました。  王さまは靴屋の店からとびだしました。とびだすとき、ひおいの棒にごつんと頭をぶつけて、大きなこぶをつくりました。  けれど王さまは、こころを花のようにあかるくして、 「わしの人民はよい人民だ。わしの人民はよい人民だ。」 とくりかえしながら、宮殿のほうへかえってゆきました。
王さまは靴屋の店にはいって、何とたずねましたか。
王さまは靴屋の店にはいって、「これこれ、じいや、そのほうはなんという名まえか。」とたずねました。
JCRRAG_010938
国語
ある日、王さまはこじきのようなようすをして、ひとりで町へやってゆきました。  町には小さな靴屋がいっけんあって、おじいさんがせっせと靴をつくっておりました。  王さまは靴屋の店にはいって、 「これこれ、じいや、そのほうはなんという名まえか。」 とたずねました。  靴屋のじいさんは、そのかたが王さまであるとは知りませんでしたので、 「ひとにものをきくなら、もっとていねいにいうものだよ。」 と、つっけんどんにいって、とんとんと仕事をしていました。 「これ、名まえはなんと申すぞ。」 とまた王さまはたずねました。 「ひとにくちをきくには、もっとていねいにいうものだというのに。」 とじいさんはまた、ぶっきらぼうにいって、仕事をしつづけました。  王さまは、なるほどじぶんがまちがっていた、と思って、こんどはやさしく、 「おまえの名まえを教えておくれ。」 とたのみました。 「わしの名まえは、マギステルだ。」 とじいさんは、やっと名まえを教えました。  そこで王さまは、 「マギステルのじいさん、ないしょのはなしだが、おまえはこの国の王さまはばかやろうだとおもわないか。」 とたずねました。 「おもわないよ。」 とマギステルじいさんはこたえました。 「それでは、こゆびのさきほどばかだとはおもわないか。」 と王さまはまたたずねました。 「おもわないよ。」 とマギステルじいさんはこたえて、靴のかかとをうちつけました。 「もしおまえが、王さまはこゆびのさきほどばかだといったら、わしはこれをやるよ。だれもほかにきいてやしないから、だいじょうぶだよ。」 と王さまは、金の時計をポケットから出して、じいさんのひざにのせました。 「この国の王さまがばかだといえばこれをくれるのかい。」 とじいさんは、金づちをもった手をわきにたれて、ひざの上の時計をみました。 「うん、小さい声で、ほんのひとくちいえばあげるよ。」 と王さまは手をもみあわせながらいいました。  するとじいさんは、やにわにその時計をひっつかんで床のうえにたたきつけました。 「さっさと出てうせろ。ぐずぐずしてるとぶちころしてしまうぞ。不忠者めが。この国の王さまほどごりっぱなおかたが、世界中にまたとあるかッ。」  そして、もっていた金づちをふりあげました。  王さまは靴屋の店からとびだしました。とびだすとき、ひおいの棒にごつんと頭をぶつけて、大きなこぶをつくりました。  けれど王さまは、こころを花のようにあかるくして、 「わしの人民はよい人民だ。わしの人民はよい人民だ。」 とくりかえしながら、宮殿のほうへかえってゆきました。
王さまは、どのように思って、こんどはやさしく、「おまえの名まえを教えておくれ。」とたのみましたか。
王さまは、なるほどじぶんがまちがっていた、と思って、こんどはやさしく、「おまえの名まえを教えておくれ。」とたのみました。
JCRRAG_010939
国語
ある日、王さまはこじきのようなようすをして、ひとりで町へやってゆきました。  町には小さな靴屋がいっけんあって、おじいさんがせっせと靴をつくっておりました。  王さまは靴屋の店にはいって、 「これこれ、じいや、そのほうはなんという名まえか。」 とたずねました。  靴屋のじいさんは、そのかたが王さまであるとは知りませんでしたので、 「ひとにものをきくなら、もっとていねいにいうものだよ。」 と、つっけんどんにいって、とんとんと仕事をしていました。 「これ、名まえはなんと申すぞ。」 とまた王さまはたずねました。 「ひとにくちをきくには、もっとていねいにいうものだというのに。」 とじいさんはまた、ぶっきらぼうにいって、仕事をしつづけました。  王さまは、なるほどじぶんがまちがっていた、と思って、こんどはやさしく、 「おまえの名まえを教えておくれ。」 とたのみました。 「わしの名まえは、マギステルだ。」 とじいさんは、やっと名まえを教えました。  そこで王さまは、 「マギステルのじいさん、ないしょのはなしだが、おまえはこの国の王さまはばかやろうだとおもわないか。」 とたずねました。 「おもわないよ。」 とマギステルじいさんはこたえました。 「それでは、こゆびのさきほどばかだとはおもわないか。」 と王さまはまたたずねました。 「おもわないよ。」 とマギステルじいさんはこたえて、靴のかかとをうちつけました。 「もしおまえが、王さまはこゆびのさきほどばかだといったら、わしはこれをやるよ。だれもほかにきいてやしないから、だいじょうぶだよ。」 と王さまは、金の時計をポケットから出して、じいさんのひざにのせました。 「この国の王さまがばかだといえばこれをくれるのかい。」 とじいさんは、金づちをもった手をわきにたれて、ひざの上の時計をみました。 「うん、小さい声で、ほんのひとくちいえばあげるよ。」 と王さまは手をもみあわせながらいいました。  するとじいさんは、やにわにその時計をひっつかんで床のうえにたたきつけました。 「さっさと出てうせろ。ぐずぐずしてるとぶちころしてしまうぞ。不忠者めが。この国の王さまほどごりっぱなおかたが、世界中にまたとあるかッ。」  そして、もっていた金づちをふりあげました。  王さまは靴屋の店からとびだしました。とびだすとき、ひおいの棒にごつんと頭をぶつけて、大きなこぶをつくりました。  けれど王さまは、こころを花のようにあかるくして、 「わしの人民はよい人民だ。わしの人民はよい人民だ。」 とくりかえしながら、宮殿のほうへかえってゆきました。
王さまは、金の時計をポケットから出して、誰のひざにのせましたか。
王さまは、金の時計をポケットから出して、じいさんのひざにのせました。
JCRRAG_010940
国語
ある日、王さまはこじきのようなようすをして、ひとりで町へやってゆきました。  町には小さな靴屋がいっけんあって、おじいさんがせっせと靴をつくっておりました。  王さまは靴屋の店にはいって、 「これこれ、じいや、そのほうはなんという名まえか。」 とたずねました。  靴屋のじいさんは、そのかたが王さまであるとは知りませんでしたので、 「ひとにものをきくなら、もっとていねいにいうものだよ。」 と、つっけんどんにいって、とんとんと仕事をしていました。 「これ、名まえはなんと申すぞ。」 とまた王さまはたずねました。 「ひとにくちをきくには、もっとていねいにいうものだというのに。」 とじいさんはまた、ぶっきらぼうにいって、仕事をしつづけました。  王さまは、なるほどじぶんがまちがっていた、と思って、こんどはやさしく、 「おまえの名まえを教えておくれ。」 とたのみました。 「わしの名まえは、マギステルだ。」 とじいさんは、やっと名まえを教えました。  そこで王さまは、 「マギステルのじいさん、ないしょのはなしだが、おまえはこの国の王さまはばかやろうだとおもわないか。」 とたずねました。 「おもわないよ。」 とマギステルじいさんはこたえました。 「それでは、こゆびのさきほどばかだとはおもわないか。」 と王さまはまたたずねました。 「おもわないよ。」 とマギステルじいさんはこたえて、靴のかかとをうちつけました。 「もしおまえが、王さまはこゆびのさきほどばかだといったら、わしはこれをやるよ。だれもほかにきいてやしないから、だいじょうぶだよ。」 と王さまは、金の時計をポケットから出して、じいさんのひざにのせました。 「この国の王さまがばかだといえばこれをくれるのかい。」 とじいさんは、金づちをもった手をわきにたれて、ひざの上の時計をみました。 「うん、小さい声で、ほんのひとくちいえばあげるよ。」 と王さまは手をもみあわせながらいいました。  するとじいさんは、やにわにその時計をひっつかんで床のうえにたたきつけました。 「さっさと出てうせろ。ぐずぐずしてるとぶちころしてしまうぞ。不忠者めが。この国の王さまほどごりっぱなおかたが、世界中にまたとあるかッ。」  そして、もっていた金づちをふりあげました。  王さまは靴屋の店からとびだしました。とびだすとき、ひおいの棒にごつんと頭をぶつけて、大きなこぶをつくりました。  けれど王さまは、こころを花のようにあかるくして、 「わしの人民はよい人民だ。わしの人民はよい人民だ。」 とくりかえしながら、宮殿のほうへかえってゆきました。
王さまはどのようなようすをして、ひとりで町へやってゆきましたか。
王さまはこじきのようなようすをして、ひとりで町へやってゆきました。
JCRRAG_010941
国語
ある日、王さまはこじきのようなようすをして、ひとりで町へやってゆきました。  町には小さな靴屋がいっけんあって、おじいさんがせっせと靴をつくっておりました。  王さまは靴屋の店にはいって、 「これこれ、じいや、そのほうはなんという名まえか。」 とたずねました。  靴屋のじいさんは、そのかたが王さまであるとは知りませんでしたので、 「ひとにものをきくなら、もっとていねいにいうものだよ。」 と、つっけんどんにいって、とんとんと仕事をしていました。 「これ、名まえはなんと申すぞ。」 とまた王さまはたずねました。 「ひとにくちをきくには、もっとていねいにいうものだというのに。」 とじいさんはまた、ぶっきらぼうにいって、仕事をしつづけました。  王さまは、なるほどじぶんがまちがっていた、と思って、こんどはやさしく、 「おまえの名まえを教えておくれ。」 とたのみました。 「わしの名まえは、マギステルだ。」 とじいさんは、やっと名まえを教えました。  そこで王さまは、 「マギステルのじいさん、ないしょのはなしだが、おまえはこの国の王さまはばかやろうだとおもわないか。」 とたずねました。 「おもわないよ。」 とマギステルじいさんはこたえました。 「それでは、こゆびのさきほどばかだとはおもわないか。」 と王さまはまたたずねました。 「おもわないよ。」 とマギステルじいさんはこたえて、靴のかかとをうちつけました。 「もしおまえが、王さまはこゆびのさきほどばかだといったら、わしはこれをやるよ。だれもほかにきいてやしないから、だいじょうぶだよ。」 と王さまは、金の時計をポケットから出して、じいさんのひざにのせました。 「この国の王さまがばかだといえばこれをくれるのかい。」 とじいさんは、金づちをもった手をわきにたれて、ひざの上の時計をみました。 「うん、小さい声で、ほんのひとくちいえばあげるよ。」 と王さまは手をもみあわせながらいいました。  するとじいさんは、やにわにその時計をひっつかんで床のうえにたたきつけました。 「さっさと出てうせろ。ぐずぐずしてるとぶちころしてしまうぞ。不忠者めが。この国の王さまほどごりっぱなおかたが、世界中にまたとあるかッ。」  そして、もっていた金づちをふりあげました。  王さまは靴屋の店からとびだしました。とびだすとき、ひおいの棒にごつんと頭をぶつけて、大きなこぶをつくりました。  けれど王さまは、こころを花のようにあかるくして、 「わしの人民はよい人民だ。わしの人民はよい人民だ。」 とくりかえしながら、宮殿のほうへかえってゆきました。
王さまは、こころを花のようにあかるくして、何とくりかえしながら、宮殿のほうへかえってゆきましたか。
王さまは、こころを花のようにあかるくして、「わしの人民はよい人民だ。わしの人民はよい人民だ。」とくりかえしながら、宮殿のほうへかえってゆきました。
JCRRAG_010942
国語
「犬」という字が一字きり大きく黒板に書かれてあります。先生はその前を右へいったり左へいったり、ときにはそこから生徒たちの方へおりてきて、生徒たちがせっせと作文を書いているのをのぞいたりします。みんなは頭を動かし動かし犬のことを作文に書いています。家でかっている犬のこと。かわいそうなのら犬のこと。どこかの犬にほえつかれたこと。それぞれかわったことを書いています。  いちばんうしろの、えんぴつけずりの前では酒屋の次郎君がこつこつと書いています。先生が書く前になんども字を美しくきれいに書かねばなりませんと注意なさったにもかかわらず、ごてごてと汚く書きこんでいます。けしゴムがそこにあるのに書きちがえると指の先につばをつけてこすってしまいます。とてもめんどうくさくてけしゴムなんか使っていられません。というのは次郎くんは世界中で一ばんすきな「西郷隆盛」のことを書いているからです。 「西郷隆盛」ってあの大英雄のことでしょうか? そうではありません。それは次郎くんの作文を読めばわかります。 「ぼくんちの犬は西ごうたかもりという名です。もうせんお父さんがあさがやの西川さんちからもらってきました。西川さんちには六ぴきも生まれてみんなごうけつの名をつけました。秀吉、ナポレオン、ばんずいん長べえ、とうごう大将、猿飛佐助、西ごうたかもりであります。それでお父さんは西ごうたかもりをもらってきました。西ごうたかもりはぼくが大すきです。ぼくが西ごうたかもりとよぶと走ってきます。ぼくがボールを投げてやるとひろってきます。そっとくわえてくるのでボールははれつしません。ミットでもひろってきます。靴でも帽子でもなんでもぼくが投げてやるとひろってきます。それでそっとくわえてくるのでやぶれません。また西ごうたかもりはじっさいつよい。ほかの犬がきても西ごうたかもりがううとうなるとこそこそとにげていってしまいます。めったにわんとなきません。わんわんとよくなく犬はよわんぼであります。それで西ごうたかもりが番しているのでぼくんちはごうとうがはいっても大丈夫です。」  これでおわかりでしょう。「西郷隆盛」というのは次郎君ちの犬のことです。  そんなことを次郎君がこつこつ書いているすぐ隣りの机では森川君がこんなことを書いています。 「前からほしいほしいと思っていた犬をお父さんが買ってきてくれた。シェパードである。毛がふさふさしていてかるく走るとき、それがゆらゆらゆれてみるからに美しい。  シェパードは純すいな犬である。シェパードはだから頭がよい。雑種の犬は頭がよくない。北君(次郎君のこと)ちの西ごうたかもりなんかは雑種だから猟犬にはなれないと犬屋の人が語ってくれた。――」 「筆をおいて」と先生がおっしゃいました。みんなが筆をおくとさらにこうおっしゃいます。「ではいちばんうしろの北次郎君から読んでください。」  次郎くんはあわてて、筆入れをひっくりかえしたり、机のふたをひっかけたり、がたがたとそうぞうしく立ちあがります。次郎君が立ちあがるときはいつもそうなのですが、今日は自分の作文に夢中になっているので、よけいそういうことになります。  声がふるえて、どもって、ちっともうまく読めません。まるでしかられているようにどぎまぎしてやっと読みおわります。どうです西郷隆盛のすばらしいことはわかってくれましたか。次郎君は腰をおろして先生の顔をみつめました。 「乙の上」と先生は冷然とおっしゃいます。やれやれ。こんなにすばらしく書いたのにやっぱり乙の上か。  こんどは森川君が立ちあがって読みはじめました。 「――雑種の犬は頭がよくない。北くんちの西ごうたかもりなんかは雑種だから猟犬にはなれない――」  それを聞いて次郎くんはぴくりと耳を動かしました。そしてかんかんにおこってしまいました。こんな侮辱があるもんか。次郎くんは自分が侮辱されたように腹を立てました。先生がみていなきゃ、いますぐおどりかかって、得意の手でノックアウトするところです。次郎くんは下唇をかみしめてこらえました。 「甲の上」と先生は次郎くんの気持ちも知らぬげに森川くんの作文によい点をおつけになりました。
どのような字が黒板に書かれていますか。
「犬」という字が一字きり大きく黒板に書かれています。
JCRRAG_010943
国語
「犬」という字が一字きり大きく黒板に書かれてあります。先生はその前を右へいったり左へいったり、ときにはそこから生徒たちの方へおりてきて、生徒たちがせっせと作文を書いているのをのぞいたりします。みんなは頭を動かし動かし犬のことを作文に書いています。家でかっている犬のこと。かわいそうなのら犬のこと。どこかの犬にほえつかれたこと。それぞれかわったことを書いています。  いちばんうしろの、えんぴつけずりの前では酒屋の次郎君がこつこつと書いています。先生が書く前になんども字を美しくきれいに書かねばなりませんと注意なさったにもかかわらず、ごてごてと汚く書きこんでいます。けしゴムがそこにあるのに書きちがえると指の先につばをつけてこすってしまいます。とてもめんどうくさくてけしゴムなんか使っていられません。というのは次郎くんは世界中で一ばんすきな「西郷隆盛」のことを書いているからです。 「西郷隆盛」ってあの大英雄のことでしょうか? そうではありません。それは次郎くんの作文を読めばわかります。 「ぼくんちの犬は西ごうたかもりという名です。もうせんお父さんがあさがやの西川さんちからもらってきました。西川さんちには六ぴきも生まれてみんなごうけつの名をつけました。秀吉、ナポレオン、ばんずいん長べえ、とうごう大将、猿飛佐助、西ごうたかもりであります。それでお父さんは西ごうたかもりをもらってきました。西ごうたかもりはぼくが大すきです。ぼくが西ごうたかもりとよぶと走ってきます。ぼくがボールを投げてやるとひろってきます。そっとくわえてくるのでボールははれつしません。ミットでもひろってきます。靴でも帽子でもなんでもぼくが投げてやるとひろってきます。それでそっとくわえてくるのでやぶれません。また西ごうたかもりはじっさいつよい。ほかの犬がきても西ごうたかもりがううとうなるとこそこそとにげていってしまいます。めったにわんとなきません。わんわんとよくなく犬はよわんぼであります。それで西ごうたかもりが番しているのでぼくんちはごうとうがはいっても大丈夫です。」  これでおわかりでしょう。「西郷隆盛」というのは次郎君ちの犬のことです。  そんなことを次郎君がこつこつ書いているすぐ隣りの机では森川君がこんなことを書いています。 「前からほしいほしいと思っていた犬をお父さんが買ってきてくれた。シェパードである。毛がふさふさしていてかるく走るとき、それがゆらゆらゆれてみるからに美しい。  シェパードは純すいな犬である。シェパードはだから頭がよい。雑種の犬は頭がよくない。北君(次郎君のこと)ちの西ごうたかもりなんかは雑種だから猟犬にはなれないと犬屋の人が語ってくれた。――」 「筆をおいて」と先生がおっしゃいました。みんなが筆をおくとさらにこうおっしゃいます。「ではいちばんうしろの北次郎君から読んでください。」  次郎くんはあわてて、筆入れをひっくりかえしたり、机のふたをひっかけたり、がたがたとそうぞうしく立ちあがります。次郎君が立ちあがるときはいつもそうなのですが、今日は自分の作文に夢中になっているので、よけいそういうことになります。  声がふるえて、どもって、ちっともうまく読めません。まるでしかられているようにどぎまぎしてやっと読みおわります。どうです西郷隆盛のすばらしいことはわかってくれましたか。次郎君は腰をおろして先生の顔をみつめました。 「乙の上」と先生は冷然とおっしゃいます。やれやれ。こんなにすばらしく書いたのにやっぱり乙の上か。  こんどは森川君が立ちあがって読みはじめました。 「――雑種の犬は頭がよくない。北くんちの西ごうたかもりなんかは雑種だから猟犬にはなれない――」  それを聞いて次郎くんはぴくりと耳を動かしました。そしてかんかんにおこってしまいました。こんな侮辱があるもんか。次郎くんは自分が侮辱されたように腹を立てました。先生がみていなきゃ、いますぐおどりかかって、得意の手でノックアウトするところです。次郎くんは下唇をかみしめてこらえました。 「甲の上」と先生は次郎くんの気持ちも知らぬげに森川くんの作文によい点をおつけになりました。
みんなは頭を動かし動かし何のことを作文を書いていますか。
みんなは頭を動かし動かし犬のことを作文に書いています。
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国語
「犬」という字が一字きり大きく黒板に書かれてあります。先生はその前を右へいったり左へいったり、ときにはそこから生徒たちの方へおりてきて、生徒たちがせっせと作文を書いているのをのぞいたりします。みんなは頭を動かし動かし犬のことを作文に書いています。家でかっている犬のこと。かわいそうなのら犬のこと。どこかの犬にほえつかれたこと。それぞれかわったことを書いています。  いちばんうしろの、えんぴつけずりの前では酒屋の次郎君がこつこつと書いています。先生が書く前になんども字を美しくきれいに書かねばなりませんと注意なさったにもかかわらず、ごてごてと汚く書きこんでいます。けしゴムがそこにあるのに書きちがえると指の先につばをつけてこすってしまいます。とてもめんどうくさくてけしゴムなんか使っていられません。というのは次郎くんは世界中で一ばんすきな「西郷隆盛」のことを書いているからです。 「西郷隆盛」ってあの大英雄のことでしょうか? そうではありません。それは次郎くんの作文を読めばわかります。 「ぼくんちの犬は西ごうたかもりという名です。もうせんお父さんがあさがやの西川さんちからもらってきました。西川さんちには六ぴきも生まれてみんなごうけつの名をつけました。秀吉、ナポレオン、ばんずいん長べえ、とうごう大将、猿飛佐助、西ごうたかもりであります。それでお父さんは西ごうたかもりをもらってきました。西ごうたかもりはぼくが大すきです。ぼくが西ごうたかもりとよぶと走ってきます。ぼくがボールを投げてやるとひろってきます。そっとくわえてくるのでボールははれつしません。ミットでもひろってきます。靴でも帽子でもなんでもぼくが投げてやるとひろってきます。それでそっとくわえてくるのでやぶれません。また西ごうたかもりはじっさいつよい。ほかの犬がきても西ごうたかもりがううとうなるとこそこそとにげていってしまいます。めったにわんとなきません。わんわんとよくなく犬はよわんぼであります。それで西ごうたかもりが番しているのでぼくんちはごうとうがはいっても大丈夫です。」  これでおわかりでしょう。「西郷隆盛」というのは次郎君ちの犬のことです。  そんなことを次郎君がこつこつ書いているすぐ隣りの机では森川君がこんなことを書いています。 「前からほしいほしいと思っていた犬をお父さんが買ってきてくれた。シェパードである。毛がふさふさしていてかるく走るとき、それがゆらゆらゆれてみるからに美しい。  シェパードは純すいな犬である。シェパードはだから頭がよい。雑種の犬は頭がよくない。北君(次郎君のこと)ちの西ごうたかもりなんかは雑種だから猟犬にはなれないと犬屋の人が語ってくれた。――」 「筆をおいて」と先生がおっしゃいました。みんなが筆をおくとさらにこうおっしゃいます。「ではいちばんうしろの北次郎君から読んでください。」  次郎くんはあわてて、筆入れをひっくりかえしたり、机のふたをひっかけたり、がたがたとそうぞうしく立ちあがります。次郎君が立ちあがるときはいつもそうなのですが、今日は自分の作文に夢中になっているので、よけいそういうことになります。  声がふるえて、どもって、ちっともうまく読めません。まるでしかられているようにどぎまぎしてやっと読みおわります。どうです西郷隆盛のすばらしいことはわかってくれましたか。次郎君は腰をおろして先生の顔をみつめました。 「乙の上」と先生は冷然とおっしゃいます。やれやれ。こんなにすばらしく書いたのにやっぱり乙の上か。  こんどは森川君が立ちあがって読みはじめました。 「――雑種の犬は頭がよくない。北くんちの西ごうたかもりなんかは雑種だから猟犬にはなれない――」  それを聞いて次郎くんはぴくりと耳を動かしました。そしてかんかんにおこってしまいました。こんな侮辱があるもんか。次郎くんは自分が侮辱されたように腹を立てました。先生がみていなきゃ、いますぐおどりかかって、得意の手でノックアウトするところです。次郎くんは下唇をかみしめてこらえました。 「甲の上」と先生は次郎くんの気持ちも知らぬげに森川くんの作文によい点をおつけになりました。
いちばんうしろの、えんぴつけずりの前では誰がこつこつと書いていますか。
いちばんうしろの、えんぴつけずりの前では酒屋の次郎君がこつこつと書いています。
JCRRAG_010945
国語
「犬」という字が一字きり大きく黒板に書かれてあります。先生はその前を右へいったり左へいったり、ときにはそこから生徒たちの方へおりてきて、生徒たちがせっせと作文を書いているのをのぞいたりします。みんなは頭を動かし動かし犬のことを作文に書いています。家でかっている犬のこと。かわいそうなのら犬のこと。どこかの犬にほえつかれたこと。それぞれかわったことを書いています。  いちばんうしろの、えんぴつけずりの前では酒屋の次郎君がこつこつと書いています。先生が書く前になんども字を美しくきれいに書かねばなりませんと注意なさったにもかかわらず、ごてごてと汚く書きこんでいます。けしゴムがそこにあるのに書きちがえると指の先につばをつけてこすってしまいます。とてもめんどうくさくてけしゴムなんか使っていられません。というのは次郎くんは世界中で一ばんすきな「西郷隆盛」のことを書いているからです。 「西郷隆盛」ってあの大英雄のことでしょうか? そうではありません。それは次郎くんの作文を読めばわかります。 「ぼくんちの犬は西ごうたかもりという名です。もうせんお父さんがあさがやの西川さんちからもらってきました。西川さんちには六ぴきも生まれてみんなごうけつの名をつけました。秀吉、ナポレオン、ばんずいん長べえ、とうごう大将、猿飛佐助、西ごうたかもりであります。それでお父さんは西ごうたかもりをもらってきました。西ごうたかもりはぼくが大すきです。ぼくが西ごうたかもりとよぶと走ってきます。ぼくがボールを投げてやるとひろってきます。そっとくわえてくるのでボールははれつしません。ミットでもひろってきます。靴でも帽子でもなんでもぼくが投げてやるとひろってきます。それでそっとくわえてくるのでやぶれません。また西ごうたかもりはじっさいつよい。ほかの犬がきても西ごうたかもりがううとうなるとこそこそとにげていってしまいます。めったにわんとなきません。わんわんとよくなく犬はよわんぼであります。それで西ごうたかもりが番しているのでぼくんちはごうとうがはいっても大丈夫です。」  これでおわかりでしょう。「西郷隆盛」というのは次郎君ちの犬のことです。  そんなことを次郎君がこつこつ書いているすぐ隣りの机では森川君がこんなことを書いています。 「前からほしいほしいと思っていた犬をお父さんが買ってきてくれた。シェパードである。毛がふさふさしていてかるく走るとき、それがゆらゆらゆれてみるからに美しい。  シェパードは純すいな犬である。シェパードはだから頭がよい。雑種の犬は頭がよくない。北君(次郎君のこと)ちの西ごうたかもりなんかは雑種だから猟犬にはなれないと犬屋の人が語ってくれた。――」 「筆をおいて」と先生がおっしゃいました。みんなが筆をおくとさらにこうおっしゃいます。「ではいちばんうしろの北次郎君から読んでください。」  次郎くんはあわてて、筆入れをひっくりかえしたり、机のふたをひっかけたり、がたがたとそうぞうしく立ちあがります。次郎君が立ちあがるときはいつもそうなのですが、今日は自分の作文に夢中になっているので、よけいそういうことになります。  声がふるえて、どもって、ちっともうまく読めません。まるでしかられているようにどぎまぎしてやっと読みおわります。どうです西郷隆盛のすばらしいことはわかってくれましたか。次郎君は腰をおろして先生の顔をみつめました。 「乙の上」と先生は冷然とおっしゃいます。やれやれ。こんなにすばらしく書いたのにやっぱり乙の上か。  こんどは森川君が立ちあがって読みはじめました。 「――雑種の犬は頭がよくない。北くんちの西ごうたかもりなんかは雑種だから猟犬にはなれない――」  それを聞いて次郎くんはぴくりと耳を動かしました。そしてかんかんにおこってしまいました。こんな侮辱があるもんか。次郎くんは自分が侮辱されたように腹を立てました。先生がみていなきゃ、いますぐおどりかかって、得意の手でノックアウトするところです。次郎くんは下唇をかみしめてこらえました。 「甲の上」と先生は次郎くんの気持ちも知らぬげに森川くんの作文によい点をおつけになりました。
「西郷隆盛」というのは何のことですか。
「西郷隆盛」というのは次郎君ちの犬のことです。
JCRRAG_010946
国語
「犬」という字が一字きり大きく黒板に書かれてあります。先生はその前を右へいったり左へいったり、ときにはそこから生徒たちの方へおりてきて、生徒たちがせっせと作文を書いているのをのぞいたりします。みんなは頭を動かし動かし犬のことを作文に書いています。家でかっている犬のこと。かわいそうなのら犬のこと。どこかの犬にほえつかれたこと。それぞれかわったことを書いています。  いちばんうしろの、えんぴつけずりの前では酒屋の次郎君がこつこつと書いています。先生が書く前になんども字を美しくきれいに書かねばなりませんと注意なさったにもかかわらず、ごてごてと汚く書きこんでいます。けしゴムがそこにあるのに書きちがえると指の先につばをつけてこすってしまいます。とてもめんどうくさくてけしゴムなんか使っていられません。というのは次郎くんは世界中で一ばんすきな「西郷隆盛」のことを書いているからです。 「西郷隆盛」ってあの大英雄のことでしょうか? そうではありません。それは次郎くんの作文を読めばわかります。 「ぼくんちの犬は西ごうたかもりという名です。もうせんお父さんがあさがやの西川さんちからもらってきました。西川さんちには六ぴきも生まれてみんなごうけつの名をつけました。秀吉、ナポレオン、ばんずいん長べえ、とうごう大将、猿飛佐助、西ごうたかもりであります。それでお父さんは西ごうたかもりをもらってきました。西ごうたかもりはぼくが大すきです。ぼくが西ごうたかもりとよぶと走ってきます。ぼくがボールを投げてやるとひろってきます。そっとくわえてくるのでボールははれつしません。ミットでもひろってきます。靴でも帽子でもなんでもぼくが投げてやるとひろってきます。それでそっとくわえてくるのでやぶれません。また西ごうたかもりはじっさいつよい。ほかの犬がきても西ごうたかもりがううとうなるとこそこそとにげていってしまいます。めったにわんとなきません。わんわんとよくなく犬はよわんぼであります。それで西ごうたかもりが番しているのでぼくんちはごうとうがはいっても大丈夫です。」  これでおわかりでしょう。「西郷隆盛」というのは次郎君ちの犬のことです。  そんなことを次郎君がこつこつ書いているすぐ隣りの机では森川君がこんなことを書いています。 「前からほしいほしいと思っていた犬をお父さんが買ってきてくれた。シェパードである。毛がふさふさしていてかるく走るとき、それがゆらゆらゆれてみるからに美しい。  シェパードは純すいな犬である。シェパードはだから頭がよい。雑種の犬は頭がよくない。北君(次郎君のこと)ちの西ごうたかもりなんかは雑種だから猟犬にはなれないと犬屋の人が語ってくれた。――」 「筆をおいて」と先生がおっしゃいました。みんなが筆をおくとさらにこうおっしゃいます。「ではいちばんうしろの北次郎君から読んでください。」  次郎くんはあわてて、筆入れをひっくりかえしたり、机のふたをひっかけたり、がたがたとそうぞうしく立ちあがります。次郎君が立ちあがるときはいつもそうなのですが、今日は自分の作文に夢中になっているので、よけいそういうことになります。  声がふるえて、どもって、ちっともうまく読めません。まるでしかられているようにどぎまぎしてやっと読みおわります。どうです西郷隆盛のすばらしいことはわかってくれましたか。次郎君は腰をおろして先生の顔をみつめました。 「乙の上」と先生は冷然とおっしゃいます。やれやれ。こんなにすばらしく書いたのにやっぱり乙の上か。  こんどは森川君が立ちあがって読みはじめました。 「――雑種の犬は頭がよくない。北くんちの西ごうたかもりなんかは雑種だから猟犬にはなれない――」  それを聞いて次郎くんはぴくりと耳を動かしました。そしてかんかんにおこってしまいました。こんな侮辱があるもんか。次郎くんは自分が侮辱されたように腹を立てました。先生がみていなきゃ、いますぐおどりかかって、得意の手でノックアウトするところです。次郎くんは下唇をかみしめてこらえました。 「甲の上」と先生は次郎くんの気持ちも知らぬげに森川くんの作文によい点をおつけになりました。
次郎くんはどのように腹を立てましたか。
次郎くんは自分が侮辱されたように腹を立てました。
JCRRAG_010947
国語
つぎは体操の時間です。  紅白の帽子の列が東と西に向きあってならんでいます。先生がまん中で笛をふきました。わあっとかん声があがります。紅白の波は向きあって進んできてぶつかります。それからはいりみだれて帽子のとりっくらです。勝負なかばでふたたび笛が鳴ります。すると帽子をとられた者も、まだとられない者もさあっと東西にひきあげていきます。  ところが真中にふたりの少年がお互いに相手の腕をつかんだままにらみあって立っています。足を四方にふんばっていっかな動こうとしません。そのくせふたりとも帽子はとっくにとられて頭は陽にさらされているのです。ふたりは次郎くんと森川くんです。  先生がゆっくり近よってこられました。 「お前らは何をやっているのか。」と笑っておっしゃいます。  ふたりはだまっています。 「角力か。」  両側でどっと笑い声が起こります。 「北君がはなさないんです。」と森川君がやっと口をききました。 「うそです。森川くんがはなさないんです。」と次郎くんもだまってはいません。 「そんな猛獣みたいな顔をしていないで、さあわかれろわかれろ。」  そこでふたりは相手をはなして自分自分の列に帰っていきました。  帽子とりがすむと、やれやれ、こんどは長距離競走です。コースは学校の外側をぐるぐると二周するのです。先生は4キロとおっしゃいましたがなんて長いコースでしょう。4キロってこんなに長いのでしょうか。  スタートはきられました。赤も白もクラス全部の者が走るのです。門を出るときにはもう横の列が縦の列にかわっていました。しんがりはふたりです。次郎君と森川君です。  次郎君はなまけているのではありません。せいいっぱい走っているのです。それでもしんがりです。いつもこうです。だから長距離は嫌です。もっとも短距離でも次郎君はいつもしんがりでした。けれど短距離ならばあまり差が大きくならないうちに決勝点についてしまいます。ところが長距離では、そういうわけにはいきません。どんどんとりのこされて、あたりをみまわしてもだれもいなくなってしまうのです。いえ、たったひとり道づれがいつもありました。それが森川君です。森川君もやはり次郎君のようにせいいっぱい走るんですが、スピードが出ないのです。いつもそうなのです。
紅白の帽子の列がどのように向きあってならんでいますか。
紅白の帽子の列が東と西に向きあってならんでいます。
JCRRAG_010948
国語
つぎは体操の時間です。  紅白の帽子の列が東と西に向きあってならんでいます。先生がまん中で笛をふきました。わあっとかん声があがります。紅白の波は向きあって進んできてぶつかります。それからはいりみだれて帽子のとりっくらです。勝負なかばでふたたび笛が鳴ります。すると帽子をとられた者も、まだとられない者もさあっと東西にひきあげていきます。  ところが真中にふたりの少年がお互いに相手の腕をつかんだままにらみあって立っています。足を四方にふんばっていっかな動こうとしません。そのくせふたりとも帽子はとっくにとられて頭は陽にさらされているのです。ふたりは次郎くんと森川くんです。  先生がゆっくり近よってこられました。 「お前らは何をやっているのか。」と笑っておっしゃいます。  ふたりはだまっています。 「角力か。」  両側でどっと笑い声が起こります。 「北君がはなさないんです。」と森川君がやっと口をききました。 「うそです。森川くんがはなさないんです。」と次郎くんもだまってはいません。 「そんな猛獣みたいな顔をしていないで、さあわかれろわかれろ。」  そこでふたりは相手をはなして自分自分の列に帰っていきました。  帽子とりがすむと、やれやれ、こんどは長距離競走です。コースは学校の外側をぐるぐると二周するのです。先生は4キロとおっしゃいましたがなんて長いコースでしょう。4キロってこんなに長いのでしょうか。  スタートはきられました。赤も白もクラス全部の者が走るのです。門を出るときにはもう横の列が縦の列にかわっていました。しんがりはふたりです。次郎君と森川君です。  次郎君はなまけているのではありません。せいいっぱい走っているのです。それでもしんがりです。いつもこうです。だから長距離は嫌です。もっとも短距離でも次郎君はいつもしんがりでした。けれど短距離ならばあまり差が大きくならないうちに決勝点についてしまいます。ところが長距離では、そういうわけにはいきません。どんどんとりのこされて、あたりをみまわしてもだれもいなくなってしまうのです。いえ、たったひとり道づれがいつもありました。それが森川君です。森川君もやはり次郎君のようにせいいっぱい走るんですが、スピードが出ないのです。いつもそうなのです。
紅白の波はどのように進んできてぶつかりますか。
紅白の波は向きあって進んできてぶつかります。
JCRRAG_010949
国語
つぎは体操の時間です。  紅白の帽子の列が東と西に向きあってならんでいます。先生がまん中で笛をふきました。わあっとかん声があがります。紅白の波は向きあって進んできてぶつかります。それからはいりみだれて帽子のとりっくらです。勝負なかばでふたたび笛が鳴ります。すると帽子をとられた者も、まだとられない者もさあっと東西にひきあげていきます。  ところが真中にふたりの少年がお互いに相手の腕をつかんだままにらみあって立っています。足を四方にふんばっていっかな動こうとしません。そのくせふたりとも帽子はとっくにとられて頭は陽にさらされているのです。ふたりは次郎くんと森川くんです。  先生がゆっくり近よってこられました。 「お前らは何をやっているのか。」と笑っておっしゃいます。  ふたりはだまっています。 「角力か。」  両側でどっと笑い声が起こります。 「北君がはなさないんです。」と森川君がやっと口をききました。 「うそです。森川くんがはなさないんです。」と次郎くんもだまってはいません。 「そんな猛獣みたいな顔をしていないで、さあわかれろわかれろ。」  そこでふたりは相手をはなして自分自分の列に帰っていきました。  帽子とりがすむと、やれやれ、こんどは長距離競走です。コースは学校の外側をぐるぐると二周するのです。先生は4キロとおっしゃいましたがなんて長いコースでしょう。4キロってこんなに長いのでしょうか。  スタートはきられました。赤も白もクラス全部の者が走るのです。門を出るときにはもう横の列が縦の列にかわっていました。しんがりはふたりです。次郎君と森川君です。  次郎君はなまけているのではありません。せいいっぱい走っているのです。それでもしんがりです。いつもこうです。だから長距離は嫌です。もっとも短距離でも次郎君はいつもしんがりでした。けれど短距離ならばあまり差が大きくならないうちに決勝点についてしまいます。ところが長距離では、そういうわけにはいきません。どんどんとりのこされて、あたりをみまわしてもだれもいなくなってしまうのです。いえ、たったひとり道づれがいつもありました。それが森川君です。森川君もやはり次郎君のようにせいいっぱい走るんですが、スピードが出ないのです。いつもそうなのです。
ふたりの少年はどのように動こうとしませんか。
ふたりの少年は足を四方にふんばっていっかな動こうとしません。
JCRRAG_010950
国語
つぎは体操の時間です。  紅白の帽子の列が東と西に向きあってならんでいます。先生がまん中で笛をふきました。わあっとかん声があがります。紅白の波は向きあって進んできてぶつかります。それからはいりみだれて帽子のとりっくらです。勝負なかばでふたたび笛が鳴ります。すると帽子をとられた者も、まだとられない者もさあっと東西にひきあげていきます。  ところが真中にふたりの少年がお互いに相手の腕をつかんだままにらみあって立っています。足を四方にふんばっていっかな動こうとしません。そのくせふたりとも帽子はとっくにとられて頭は陽にさらされているのです。ふたりは次郎くんと森川くんです。  先生がゆっくり近よってこられました。 「お前らは何をやっているのか。」と笑っておっしゃいます。  ふたりはだまっています。 「角力か。」  両側でどっと笑い声が起こります。 「北君がはなさないんです。」と森川君がやっと口をききました。 「うそです。森川くんがはなさないんです。」と次郎くんもだまってはいません。 「そんな猛獣みたいな顔をしていないで、さあわかれろわかれろ。」  そこでふたりは相手をはなして自分自分の列に帰っていきました。  帽子とりがすむと、やれやれ、こんどは長距離競走です。コースは学校の外側をぐるぐると二周するのです。先生は4キロとおっしゃいましたがなんて長いコースでしょう。4キロってこんなに長いのでしょうか。  スタートはきられました。赤も白もクラス全部の者が走るのです。門を出るときにはもう横の列が縦の列にかわっていました。しんがりはふたりです。次郎君と森川君です。  次郎君はなまけているのではありません。せいいっぱい走っているのです。それでもしんがりです。いつもこうです。だから長距離は嫌です。もっとも短距離でも次郎君はいつもしんがりでした。けれど短距離ならばあまり差が大きくならないうちに決勝点についてしまいます。ところが長距離では、そういうわけにはいきません。どんどんとりのこされて、あたりをみまわしてもだれもいなくなってしまうのです。いえ、たったひとり道づれがいつもありました。それが森川君です。森川君もやはり次郎君のようにせいいっぱい走るんですが、スピードが出ないのです。いつもそうなのです。
コースは学校の外側をどのように二周しますか。
コースは学校の外側をぐるぐると二周します。
JCRRAG_010951
国語
つぎは体操の時間です。  紅白の帽子の列が東と西に向きあってならんでいます。先生がまん中で笛をふきました。わあっとかん声があがります。紅白の波は向きあって進んできてぶつかります。それからはいりみだれて帽子のとりっくらです。勝負なかばでふたたび笛が鳴ります。すると帽子をとられた者も、まだとられない者もさあっと東西にひきあげていきます。  ところが真中にふたりの少年がお互いに相手の腕をつかんだままにらみあって立っています。足を四方にふんばっていっかな動こうとしません。そのくせふたりとも帽子はとっくにとられて頭は陽にさらされているのです。ふたりは次郎くんと森川くんです。  先生がゆっくり近よってこられました。 「お前らは何をやっているのか。」と笑っておっしゃいます。  ふたりはだまっています。 「角力か。」  両側でどっと笑い声が起こります。 「北君がはなさないんです。」と森川君がやっと口をききました。 「うそです。森川くんがはなさないんです。」と次郎くんもだまってはいません。 「そんな猛獣みたいな顔をしていないで、さあわかれろわかれろ。」  そこでふたりは相手をはなして自分自分の列に帰っていきました。  帽子とりがすむと、やれやれ、こんどは長距離競走です。コースは学校の外側をぐるぐると二周するのです。先生は4キロとおっしゃいましたがなんて長いコースでしょう。4キロってこんなに長いのでしょうか。  スタートはきられました。赤も白もクラス全部の者が走るのです。門を出るときにはもう横の列が縦の列にかわっていました。しんがりはふたりです。次郎君と森川君です。  次郎君はなまけているのではありません。せいいっぱい走っているのです。それでもしんがりです。いつもこうです。だから長距離は嫌です。もっとも短距離でも次郎君はいつもしんがりでした。けれど短距離ならばあまり差が大きくならないうちに決勝点についてしまいます。ところが長距離では、そういうわけにはいきません。どんどんとりのこされて、あたりをみまわしてもだれもいなくなってしまうのです。いえ、たったひとり道づれがいつもありました。それが森川君です。森川君もやはり次郎君のようにせいいっぱい走るんですが、スピードが出ないのです。いつもそうなのです。
ふたりは相手をはなしてどこに帰っていきましたか。
ふたりは相手をはなして自分自分の列に帰っていきました。
JCRRAG_010952
国語
第二の角を次郎選手と森川選手がほとんど同時にまわりました。するとふたりはもうすっかりとりのこされてしまっていることを知りました。前をいく者はみなもう第三の角をまわってしまっていて、檜葉垣ぞいの静かな道にはとんぼがとんでいるばかりです。  いつもならこのあたりで次郎君が、 「森川君、ゆっくりいけよ。」 と声をかけるのです。すると森川君が、 「よしきた、と」 と応じて、ふたりは妥協するのです。そして歩調をゆるめることになっていました。しんがりになるにはひとりよりふたりいっしょの方が心づよいからでしょう。  ところが、今日の次郎君はかたく口をむすんでがんばりつづけます。息がきれて、血をはいてたおれようと、森川君なんかには口をきかないぞといった決心のようです。そこで森川君も何くそとがんばります。次郎君が一歩先にリードしたかと思うと森川君のがんばりがきいてふたりの順位が逆になってしまいます。まるで火の出るような接戦です。次郎くんは横腹がいたくなってきました。 「横腹の奴、がまんしろ、がまんしろ。」 と口の中でいいながら次郎君はかけつづけます。  しかし突然次郎君は走るのをやめてしまいました。まけたってかまやしない、どうともなれという不敵な気持ちになってしまいました。そしてのそのそと歩きはじめました。森川君のことなんか眼中にないのだと自分に向かっていいました。それでいながら、森川君がどういう態度をとるかが気にかかっています。  森川君も次郎君が歩みはじめるとすぐはりあいがなくなったように走るのをやめてしまいました。ふたりはならんでのそのそ歩いていきます。しかしふたりはお互いに見も知らぬ旅人のようにだまりこくっていきます。  あまり森川君がすました顔をしているので次郎君はますますしゃくにさわってきます。 「こいつ、みんなの前でぼくんちの西郷隆盛にはじをかかせて、それでてすましてやがる、ふてぶてしいやつだ。」 と次郎君は腹の中でつぶやきながら、ながし目に森川君をにらんでやります。向こうはそれに気がついてわざと知らんふりをします。もうがまんがなりません。 「なんだい」と次郎君はいってしまいました。「シェパードなんかが。あんな犬あよわむしじゃないか。」 「君んちの犬こそなんだい。あんなのら犬に西ごうたかもりなんてつけて、まったく西ごうたかもりがなくよ。」 「ひとの犬のわる口なんかいわなくてもいいじゃないか。」 「わる口なんかいやしねえや。」 「じゃさっきの作文はどうだ。」 「ほんとうのことを書いただけさ。犬屋がほんとうにああいったんだからしようがないや。」 「……」  次郎君は議論していた日には自分が負けだと思って口をつぐんでしまいました。  そして突然、 「じゃどっちの犬がつよいか決闘させよう。」 といいました。 「よしきた。」 「今日学校がひけてから、原っぱで。」 「オーケー。」  そのときクラスでいちばんよく走る工藤君が、 「やあ、失敬」 と声をかけて、ふたりを追いぬいていきました。次郎君と森川君は工藤君に一周おくれたわけです。
第二の角を誰がほとんど同時にまわりましたか。
第二の角を次郎選手と森川選手がほとんど同時にまわりました。
JCRRAG_010953
国語
第二の角を次郎選手と森川選手がほとんど同時にまわりました。するとふたりはもうすっかりとりのこされてしまっていることを知りました。前をいく者はみなもう第三の角をまわってしまっていて、檜葉垣ぞいの静かな道にはとんぼがとんでいるばかりです。  いつもならこのあたりで次郎君が、 「森川君、ゆっくりいけよ。」 と声をかけるのです。すると森川君が、 「よしきた、と」 と応じて、ふたりは妥協するのです。そして歩調をゆるめることになっていました。しんがりになるにはひとりよりふたりいっしょの方が心づよいからでしょう。  ところが、今日の次郎君はかたく口をむすんでがんばりつづけます。息がきれて、血をはいてたおれようと、森川君なんかには口をきかないぞといった決心のようです。そこで森川君も何くそとがんばります。次郎君が一歩先にリードしたかと思うと森川君のがんばりがきいてふたりの順位が逆になってしまいます。まるで火の出るような接戦です。次郎くんは横腹がいたくなってきました。 「横腹の奴、がまんしろ、がまんしろ。」 と口の中でいいながら次郎君はかけつづけます。  しかし突然次郎君は走るのをやめてしまいました。まけたってかまやしない、どうともなれという不敵な気持ちになってしまいました。そしてのそのそと歩きはじめました。森川君のことなんか眼中にないのだと自分に向かっていいました。それでいながら、森川君がどういう態度をとるかが気にかかっています。  森川君も次郎君が歩みはじめるとすぐはりあいがなくなったように走るのをやめてしまいました。ふたりはならんでのそのそ歩いていきます。しかしふたりはお互いに見も知らぬ旅人のようにだまりこくっていきます。  あまり森川君がすました顔をしているので次郎君はますますしゃくにさわってきます。 「こいつ、みんなの前でぼくんちの西郷隆盛にはじをかかせて、それでてすましてやがる、ふてぶてしいやつだ。」 と次郎君は腹の中でつぶやきながら、ながし目に森川君をにらんでやります。向こうはそれに気がついてわざと知らんふりをします。もうがまんがなりません。 「なんだい」と次郎君はいってしまいました。「シェパードなんかが。あんな犬あよわむしじゃないか。」 「君んちの犬こそなんだい。あんなのら犬に西ごうたかもりなんてつけて、まったく西ごうたかもりがなくよ。」 「ひとの犬のわる口なんかいわなくてもいいじゃないか。」 「わる口なんかいやしねえや。」 「じゃさっきの作文はどうだ。」 「ほんとうのことを書いただけさ。犬屋がほんとうにああいったんだからしようがないや。」 「……」  次郎君は議論していた日には自分が負けだと思って口をつぐんでしまいました。  そして突然、 「じゃどっちの犬がつよいか決闘させよう。」 といいました。 「よしきた。」 「今日学校がひけてから、原っぱで。」 「オーケー。」  そのときクラスでいちばんよく走る工藤君が、 「やあ、失敬」 と声をかけて、ふたりを追いぬいていきました。次郎君と森川君は工藤君に一周おくれたわけです。
前をいく者はみなもうどこをまわってしまっていましたか。
前をいく者はみなもう第三の角をまわってしまっていました。
JCRRAG_010954
国語
第二の角を次郎選手と森川選手がほとんど同時にまわりました。するとふたりはもうすっかりとりのこされてしまっていることを知りました。前をいく者はみなもう第三の角をまわってしまっていて、檜葉垣ぞいの静かな道にはとんぼがとんでいるばかりです。  いつもならこのあたりで次郎君が、 「森川君、ゆっくりいけよ。」 と声をかけるのです。すると森川君が、 「よしきた、と」 と応じて、ふたりは妥協するのです。そして歩調をゆるめることになっていました。しんがりになるにはひとりよりふたりいっしょの方が心づよいからでしょう。  ところが、今日の次郎君はかたく口をむすんでがんばりつづけます。息がきれて、血をはいてたおれようと、森川君なんかには口をきかないぞといった決心のようです。そこで森川君も何くそとがんばります。次郎君が一歩先にリードしたかと思うと森川君のがんばりがきいてふたりの順位が逆になってしまいます。まるで火の出るような接戦です。次郎くんは横腹がいたくなってきました。 「横腹の奴、がまんしろ、がまんしろ。」 と口の中でいいながら次郎君はかけつづけます。  しかし突然次郎君は走るのをやめてしまいました。まけたってかまやしない、どうともなれという不敵な気持ちになってしまいました。そしてのそのそと歩きはじめました。森川君のことなんか眼中にないのだと自分に向かっていいました。それでいながら、森川君がどういう態度をとるかが気にかかっています。  森川君も次郎君が歩みはじめるとすぐはりあいがなくなったように走るのをやめてしまいました。ふたりはならんでのそのそ歩いていきます。しかしふたりはお互いに見も知らぬ旅人のようにだまりこくっていきます。  あまり森川君がすました顔をしているので次郎君はますますしゃくにさわってきます。 「こいつ、みんなの前でぼくんちの西郷隆盛にはじをかかせて、それでてすましてやがる、ふてぶてしいやつだ。」 と次郎君は腹の中でつぶやきながら、ながし目に森川君をにらんでやります。向こうはそれに気がついてわざと知らんふりをします。もうがまんがなりません。 「なんだい」と次郎君はいってしまいました。「シェパードなんかが。あんな犬あよわむしじゃないか。」 「君んちの犬こそなんだい。あんなのら犬に西ごうたかもりなんてつけて、まったく西ごうたかもりがなくよ。」 「ひとの犬のわる口なんかいわなくてもいいじゃないか。」 「わる口なんかいやしねえや。」 「じゃさっきの作文はどうだ。」 「ほんとうのことを書いただけさ。犬屋がほんとうにああいったんだからしようがないや。」 「……」  次郎君は議論していた日には自分が負けだと思って口をつぐんでしまいました。  そして突然、 「じゃどっちの犬がつよいか決闘させよう。」 といいました。 「よしきた。」 「今日学校がひけてから、原っぱで。」 「オーケー。」  そのときクラスでいちばんよく走る工藤君が、 「やあ、失敬」 と声をかけて、ふたりを追いぬいていきました。次郎君と森川君は工藤君に一周おくれたわけです。
次郎君はどのような決心のようですか。
次郎君は息がきれて、血をはいてたおれようと、森川君なんかには口をきかないぞといった決心のようです。
JCRRAG_010955
国語
第二の角を次郎選手と森川選手がほとんど同時にまわりました。するとふたりはもうすっかりとりのこされてしまっていることを知りました。前をいく者はみなもう第三の角をまわってしまっていて、檜葉垣ぞいの静かな道にはとんぼがとんでいるばかりです。  いつもならこのあたりで次郎君が、 「森川君、ゆっくりいけよ。」 と声をかけるのです。すると森川君が、 「よしきた、と」 と応じて、ふたりは妥協するのです。そして歩調をゆるめることになっていました。しんがりになるにはひとりよりふたりいっしょの方が心づよいからでしょう。  ところが、今日の次郎君はかたく口をむすんでがんばりつづけます。息がきれて、血をはいてたおれようと、森川君なんかには口をきかないぞといった決心のようです。そこで森川君も何くそとがんばります。次郎君が一歩先にリードしたかと思うと森川君のがんばりがきいてふたりの順位が逆になってしまいます。まるで火の出るような接戦です。次郎くんは横腹がいたくなってきました。 「横腹の奴、がまんしろ、がまんしろ。」 と口の中でいいながら次郎君はかけつづけます。  しかし突然次郎君は走るのをやめてしまいました。まけたってかまやしない、どうともなれという不敵な気持ちになってしまいました。そしてのそのそと歩きはじめました。森川君のことなんか眼中にないのだと自分に向かっていいました。それでいながら、森川君がどういう態度をとるかが気にかかっています。  森川君も次郎君が歩みはじめるとすぐはりあいがなくなったように走るのをやめてしまいました。ふたりはならんでのそのそ歩いていきます。しかしふたりはお互いに見も知らぬ旅人のようにだまりこくっていきます。  あまり森川君がすました顔をしているので次郎君はますますしゃくにさわってきます。 「こいつ、みんなの前でぼくんちの西郷隆盛にはじをかかせて、それでてすましてやがる、ふてぶてしいやつだ。」 と次郎君は腹の中でつぶやきながら、ながし目に森川君をにらんでやります。向こうはそれに気がついてわざと知らんふりをします。もうがまんがなりません。 「なんだい」と次郎君はいってしまいました。「シェパードなんかが。あんな犬あよわむしじゃないか。」 「君んちの犬こそなんだい。あんなのら犬に西ごうたかもりなんてつけて、まったく西ごうたかもりがなくよ。」 「ひとの犬のわる口なんかいわなくてもいいじゃないか。」 「わる口なんかいやしねえや。」 「じゃさっきの作文はどうだ。」 「ほんとうのことを書いただけさ。犬屋がほんとうにああいったんだからしようがないや。」 「……」  次郎君は議論していた日には自分が負けだと思って口をつぐんでしまいました。  そして突然、 「じゃどっちの犬がつよいか決闘させよう。」 といいました。 「よしきた。」 「今日学校がひけてから、原っぱで。」 「オーケー。」  そのときクラスでいちばんよく走る工藤君が、 「やあ、失敬」 と声をかけて、ふたりを追いぬいていきました。次郎君と森川君は工藤君に一周おくれたわけです。
森川君は次郎君が歩みはじめるとどのようにしましたか。
森川君は次郎君が歩みはじめるとすぐはりあいがなくなったように走るのをやめてしまいました。
JCRRAG_010956
国語
第二の角を次郎選手と森川選手がほとんど同時にまわりました。するとふたりはもうすっかりとりのこされてしまっていることを知りました。前をいく者はみなもう第三の角をまわってしまっていて、檜葉垣ぞいの静かな道にはとんぼがとんでいるばかりです。  いつもならこのあたりで次郎君が、 「森川君、ゆっくりいけよ。」 と声をかけるのです。すると森川君が、 「よしきた、と」 と応じて、ふたりは妥協するのです。そして歩調をゆるめることになっていました。しんがりになるにはひとりよりふたりいっしょの方が心づよいからでしょう。  ところが、今日の次郎君はかたく口をむすんでがんばりつづけます。息がきれて、血をはいてたおれようと、森川君なんかには口をきかないぞといった決心のようです。そこで森川君も何くそとがんばります。次郎君が一歩先にリードしたかと思うと森川君のがんばりがきいてふたりの順位が逆になってしまいます。まるで火の出るような接戦です。次郎くんは横腹がいたくなってきました。 「横腹の奴、がまんしろ、がまんしろ。」 と口の中でいいながら次郎君はかけつづけます。  しかし突然次郎君は走るのをやめてしまいました。まけたってかまやしない、どうともなれという不敵な気持ちになってしまいました。そしてのそのそと歩きはじめました。森川君のことなんか眼中にないのだと自分に向かっていいました。それでいながら、森川君がどういう態度をとるかが気にかかっています。  森川君も次郎君が歩みはじめるとすぐはりあいがなくなったように走るのをやめてしまいました。ふたりはならんでのそのそ歩いていきます。しかしふたりはお互いに見も知らぬ旅人のようにだまりこくっていきます。  あまり森川君がすました顔をしているので次郎君はますますしゃくにさわってきます。 「こいつ、みんなの前でぼくんちの西郷隆盛にはじをかかせて、それでてすましてやがる、ふてぶてしいやつだ。」 と次郎君は腹の中でつぶやきながら、ながし目に森川君をにらんでやります。向こうはそれに気がついてわざと知らんふりをします。もうがまんがなりません。 「なんだい」と次郎君はいってしまいました。「シェパードなんかが。あんな犬あよわむしじゃないか。」 「君んちの犬こそなんだい。あんなのら犬に西ごうたかもりなんてつけて、まったく西ごうたかもりがなくよ。」 「ひとの犬のわる口なんかいわなくてもいいじゃないか。」 「わる口なんかいやしねえや。」 「じゃさっきの作文はどうだ。」 「ほんとうのことを書いただけさ。犬屋がほんとうにああいったんだからしようがないや。」 「……」  次郎君は議論していた日には自分が負けだと思って口をつぐんでしまいました。  そして突然、 「じゃどっちの犬がつよいか決闘させよう。」 といいました。 「よしきた。」 「今日学校がひけてから、原っぱで。」 「オーケー。」  そのときクラスでいちばんよく走る工藤君が、 「やあ、失敬」 と声をかけて、ふたりを追いぬいていきました。次郎君と森川君は工藤君に一周おくれたわけです。
次郎君は議論していた日にはどのように思って口をつぐみましたか。
次郎君は議論していた日には自分が負けだと思って口をつぐんでしまいました。
JCRRAG_010957
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次郎君は家へはいるやいなや、 「西ごうたかもりは?」 とさけびました。  帳場でそろばんをはじいていたお母さんが顔をあげて、 「まあなんだい、この子は、ただいまもいわないで。」 「西ごうたかもりはどこにいるかってきいてるんだよう。」  次郎君は血相をかえています。 「何いってんだよう、お母さんは犬の番じゃないよ。」  次郎君はかばんをお母さんの横へどしんと投げ出しておいて帽子もとらないでうら口へいき、 「西ごうたかもり、西ごうたかもり!」 と癇高い声でさけびました。  西ごうたかもりはその声に応じて板塀の下をくぐり、紫苑をかきわけて姿をあらわしました。 「こい!」 とよぶと、ころがるようにかけよってきて次郎君の周囲を眼がまわるほどせわしくくるいまわります。  やっとこさでそいつをだきとめて、次郎君は呼吸のはげしい西郷隆盛の顔と自分の顔をすりあわせました。 「いいかい、シェパードなんかこわがることはないよ。しっかりやるんだぜ。ビスケットをうんとおごるからね。」  西ごうたかもりははしゃいでばかりいて、次郎君のいうことなどちっともききません。しかしこのくらい元気なら大丈夫だと次郎君は安神しました。  それから三十分ほどすると次郎君は西郷隆盛をつれて約束の原っぱにきていました。まだ森川君はきていないので、原の真中あたりの尾花のくさむらのそばへいって犬といっしょに腰をおろしました。犬は広いところにきたので走りたくてむずむずするのですが、次郎君は戦いの前に適当の休息をあたえることが必要だと考えていますので、しっかり頸のところをつかんでいてはなしません。  次郎君はすこし不安になってきました。まだ森川君ちのシェパードをみたことがありません。ひょっとするとときどきみかけるような小牛ほどもある大犬かもしれません。そんなのにかかっては西郷隆盛だってかなわないでしょう。しかしそんな大犬はそうざらにあるもんじゃないから……  とそのとき向こうの坂道に森川君の姿があらわれました。そのあとからはじめてみるシェパードがひょいひょいとかるい足どりでしかもゆったりと走ってきます。次郎君が心配していたほど大きくはありません。しかし毛がふさふさしてりっぱな犬であります。次郎君はちょいとうらやましくなりました。でもつよさの点では、と次郎君は西郷隆盛にまだのぞみを失いません。
西ごうたかもりはどのように姿をあらわしましたか。
西ごうたかもりは声に応じて板塀の下をくぐり、紫苑をかきわけて姿をあらわしました。
JCRRAG_010958
国語
次郎君は家へはいるやいなや、 「西ごうたかもりは?」 とさけびました。  帳場でそろばんをはじいていたお母さんが顔をあげて、 「まあなんだい、この子は、ただいまもいわないで。」 「西ごうたかもりはどこにいるかってきいてるんだよう。」  次郎君は血相をかえています。 「何いってんだよう、お母さんは犬の番じゃないよ。」  次郎君はかばんをお母さんの横へどしんと投げ出しておいて帽子もとらないでうら口へいき、 「西ごうたかもり、西ごうたかもり!」 と癇高い声でさけびました。  西ごうたかもりはその声に応じて板塀の下をくぐり、紫苑をかきわけて姿をあらわしました。 「こい!」 とよぶと、ころがるようにかけよってきて次郎君の周囲を眼がまわるほどせわしくくるいまわります。  やっとこさでそいつをだきとめて、次郎君は呼吸のはげしい西郷隆盛の顔と自分の顔をすりあわせました。 「いいかい、シェパードなんかこわがることはないよ。しっかりやるんだぜ。ビスケットをうんとおごるからね。」  西ごうたかもりははしゃいでばかりいて、次郎君のいうことなどちっともききません。しかしこのくらい元気なら大丈夫だと次郎君は安神しました。  それから三十分ほどすると次郎君は西郷隆盛をつれて約束の原っぱにきていました。まだ森川君はきていないので、原の真中あたりの尾花のくさむらのそばへいって犬といっしょに腰をおろしました。犬は広いところにきたので走りたくてむずむずするのですが、次郎君は戦いの前に適当の休息をあたえることが必要だと考えていますので、しっかり頸のところをつかんでいてはなしません。  次郎君はすこし不安になってきました。まだ森川君ちのシェパードをみたことがありません。ひょっとするとときどきみかけるような小牛ほどもある大犬かもしれません。そんなのにかかっては西郷隆盛だってかなわないでしょう。しかしそんな大犬はそうざらにあるもんじゃないから……  とそのとき向こうの坂道に森川君の姿があらわれました。そのあとからはじめてみるシェパードがひょいひょいとかるい足どりでしかもゆったりと走ってきます。次郎君が心配していたほど大きくはありません。しかし毛がふさふさしてりっぱな犬であります。次郎君はちょいとうらやましくなりました。でもつよさの点では、と次郎君は西郷隆盛にまだのぞみを失いません。
次郎君は呼吸のはげしい西郷隆盛の顔と何をすりあわせましたか。
次郎君は呼吸のはげしい西郷隆盛の顔と自分の顔をすりあわせました。
JCRRAG_010959
国語
次郎君は家へはいるやいなや、 「西ごうたかもりは?」 とさけびました。  帳場でそろばんをはじいていたお母さんが顔をあげて、 「まあなんだい、この子は、ただいまもいわないで。」 「西ごうたかもりはどこにいるかってきいてるんだよう。」  次郎君は血相をかえています。 「何いってんだよう、お母さんは犬の番じゃないよ。」  次郎君はかばんをお母さんの横へどしんと投げ出しておいて帽子もとらないでうら口へいき、 「西ごうたかもり、西ごうたかもり!」 と癇高い声でさけびました。  西ごうたかもりはその声に応じて板塀の下をくぐり、紫苑をかきわけて姿をあらわしました。 「こい!」 とよぶと、ころがるようにかけよってきて次郎君の周囲を眼がまわるほどせわしくくるいまわります。  やっとこさでそいつをだきとめて、次郎君は呼吸のはげしい西郷隆盛の顔と自分の顔をすりあわせました。 「いいかい、シェパードなんかこわがることはないよ。しっかりやるんだぜ。ビスケットをうんとおごるからね。」  西ごうたかもりははしゃいでばかりいて、次郎君のいうことなどちっともききません。しかしこのくらい元気なら大丈夫だと次郎君は安神しました。  それから三十分ほどすると次郎君は西郷隆盛をつれて約束の原っぱにきていました。まだ森川君はきていないので、原の真中あたりの尾花のくさむらのそばへいって犬といっしょに腰をおろしました。犬は広いところにきたので走りたくてむずむずするのですが、次郎君は戦いの前に適当の休息をあたえることが必要だと考えていますので、しっかり頸のところをつかんでいてはなしません。  次郎君はすこし不安になってきました。まだ森川君ちのシェパードをみたことがありません。ひょっとするとときどきみかけるような小牛ほどもある大犬かもしれません。そんなのにかかっては西郷隆盛だってかなわないでしょう。しかしそんな大犬はそうざらにあるもんじゃないから……  とそのとき向こうの坂道に森川君の姿があらわれました。そのあとからはじめてみるシェパードがひょいひょいとかるい足どりでしかもゆったりと走ってきます。次郎君が心配していたほど大きくはありません。しかし毛がふさふさしてりっぱな犬であります。次郎君はちょいとうらやましくなりました。でもつよさの点では、と次郎君は西郷隆盛にまだのぞみを失いません。
次郎君は戦いの前に何をあたえることが必要だと考えていますか。
次郎君は戦いの前に適当の休息をあたえることが必要だと考えています。
JCRRAG_010960
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次郎君は家へはいるやいなや、 「西ごうたかもりは?」 とさけびました。  帳場でそろばんをはじいていたお母さんが顔をあげて、 「まあなんだい、この子は、ただいまもいわないで。」 「西ごうたかもりはどこにいるかってきいてるんだよう。」  次郎君は血相をかえています。 「何いってんだよう、お母さんは犬の番じゃないよ。」  次郎君はかばんをお母さんの横へどしんと投げ出しておいて帽子もとらないでうら口へいき、 「西ごうたかもり、西ごうたかもり!」 と癇高い声でさけびました。  西ごうたかもりはその声に応じて板塀の下をくぐり、紫苑をかきわけて姿をあらわしました。 「こい!」 とよぶと、ころがるようにかけよってきて次郎君の周囲を眼がまわるほどせわしくくるいまわります。  やっとこさでそいつをだきとめて、次郎君は呼吸のはげしい西郷隆盛の顔と自分の顔をすりあわせました。 「いいかい、シェパードなんかこわがることはないよ。しっかりやるんだぜ。ビスケットをうんとおごるからね。」  西ごうたかもりははしゃいでばかりいて、次郎君のいうことなどちっともききません。しかしこのくらい元気なら大丈夫だと次郎君は安神しました。  それから三十分ほどすると次郎君は西郷隆盛をつれて約束の原っぱにきていました。まだ森川君はきていないので、原の真中あたりの尾花のくさむらのそばへいって犬といっしょに腰をおろしました。犬は広いところにきたので走りたくてむずむずするのですが、次郎君は戦いの前に適当の休息をあたえることが必要だと考えていますので、しっかり頸のところをつかんでいてはなしません。  次郎君はすこし不安になってきました。まだ森川君ちのシェパードをみたことがありません。ひょっとするとときどきみかけるような小牛ほどもある大犬かもしれません。そんなのにかかっては西郷隆盛だってかなわないでしょう。しかしそんな大犬はそうざらにあるもんじゃないから……  とそのとき向こうの坂道に森川君の姿があらわれました。そのあとからはじめてみるシェパードがひょいひょいとかるい足どりでしかもゆったりと走ってきます。次郎君が心配していたほど大きくはありません。しかし毛がふさふさしてりっぱな犬であります。次郎君はちょいとうらやましくなりました。でもつよさの点では、と次郎君は西郷隆盛にまだのぞみを失いません。
西ごうたかもりはどのように次郎君の周囲をまわりますか。
西ごうたかもりは、ころがるようにかけよってきて次郎君の周囲を眼がまわるほどせわしくくるいまわります。
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国語
森川君が十メートルほど先まできたとき、西郷隆盛はシェパードをみつけてむっくり体を起こしました。次郎君は手をはなしました。西郷隆盛は猛然と向かってゆきました。  森川君もそのとき体をわきによけてシェパードに道をあけてやりました。いよいよ犬同士の決闘です。森川君も次郎君も、口に出してはなんともいいません。しかし心の中ではお互いに自分の犬に向かって「おし、おし」と勢いをつけています。次郎君はいつのまにかすすきの穂をひきぬいて人さし指にかたくまきつけていました。  西郷隆盛はシェパードと二メートルほどへだたったところまでいくとぴたっととまって、シェパードとにらみあっていました。――と次郎君と森川君は思えたのですが、じつはにらみあったのではありません。これが犬の仲間ではあいさつであります。  心をはりつめていたふたりはがっかりしました。犬はいっこう決闘をしようとはいたしません。決闘どころか、鼻をすりあわせたり、お互いの体をかぎあったり、そしておしまいにはずっと以前からなかよしだったもののように、森川君と次郎君をおきざりにしてあっちへならんでいってしまいました。 「だめだなあ。」 と次郎君は口に出していいましたが、ややほっとした気持ちです。  ふたりにはそのとき、つまらないことでおこりあった自分たちより、犬同士の方がはるかに利口なように思えました。そしてふたりはつねづね自分たちがなかよしで、長距離競走のときにはいつもそろってしんがりをすることなどを憶い出しました。なぜ敵対したのかわからなくなってしまいました。  次郎君はつかつかと歩いていって、 「ぼく、あやまるよ。」 といいました。 「君ばかりがわるいんじゃないよ」と森川君もやや顔をあからめていいました。それからにこにこしながら、 「もうこんなこといいじゃないか。」 「うん。」 「あのね、ぼくんちこれから君んちで醤油を買うってお母さんいってたよ。」 「そうかい。」  それから次郎君はお父さんのまねをして、 「毎度ありがとうございます」 といってぴょこんと頭をさげました。そしてふたりは、あは、は、はと声いっぱいに笑い出しました。
西郷隆盛はどのように向かってゆきましたか。
西郷隆盛は猛然と向かってゆきました。
JCRRAG_010962
国語
森川君が十メートルほど先まできたとき、西郷隆盛はシェパードをみつけてむっくり体を起こしました。次郎君は手をはなしました。西郷隆盛は猛然と向かってゆきました。  森川君もそのとき体をわきによけてシェパードに道をあけてやりました。いよいよ犬同士の決闘です。森川君も次郎君も、口に出してはなんともいいません。しかし心の中ではお互いに自分の犬に向かって「おし、おし」と勢いをつけています。次郎君はいつのまにかすすきの穂をひきぬいて人さし指にかたくまきつけていました。  西郷隆盛はシェパードと二メートルほどへだたったところまでいくとぴたっととまって、シェパードとにらみあっていました。――と次郎君と森川君は思えたのですが、じつはにらみあったのではありません。これが犬の仲間ではあいさつであります。  心をはりつめていたふたりはがっかりしました。犬はいっこう決闘をしようとはいたしません。決闘どころか、鼻をすりあわせたり、お互いの体をかぎあったり、そしておしまいにはずっと以前からなかよしだったもののように、森川君と次郎君をおきざりにしてあっちへならんでいってしまいました。 「だめだなあ。」 と次郎君は口に出していいましたが、ややほっとした気持ちです。  ふたりにはそのとき、つまらないことでおこりあった自分たちより、犬同士の方がはるかに利口なように思えました。そしてふたりはつねづね自分たちがなかよしで、長距離競走のときにはいつもそろってしんがりをすることなどを憶い出しました。なぜ敵対したのかわからなくなってしまいました。  次郎君はつかつかと歩いていって、 「ぼく、あやまるよ。」 といいました。 「君ばかりがわるいんじゃないよ」と森川君もやや顔をあからめていいました。それからにこにこしながら、 「もうこんなこといいじゃないか。」 「うん。」 「あのね、ぼくんちこれから君んちで醤油を買うってお母さんいってたよ。」 「そうかい。」  それから次郎君はお父さんのまねをして、 「毎度ありがとうございます」 といってぴょこんと頭をさげました。そしてふたりは、あは、は、はと声いっぱいに笑い出しました。
森川君はどのようにしてシェパードに道をあけてやりましたか。
森川君は体をわきによけてシェパードに道をあけてやりました。
JCRRAG_010963
国語
森川君が十メートルほど先まできたとき、西郷隆盛はシェパードをみつけてむっくり体を起こしました。次郎君は手をはなしました。西郷隆盛は猛然と向かってゆきました。  森川君もそのとき体をわきによけてシェパードに道をあけてやりました。いよいよ犬同士の決闘です。森川君も次郎君も、口に出してはなんともいいません。しかし心の中ではお互いに自分の犬に向かって「おし、おし」と勢いをつけています。次郎君はいつのまにかすすきの穂をひきぬいて人さし指にかたくまきつけていました。  西郷隆盛はシェパードと二メートルほどへだたったところまでいくとぴたっととまって、シェパードとにらみあっていました。――と次郎君と森川君は思えたのですが、じつはにらみあったのではありません。これが犬の仲間ではあいさつであります。  心をはりつめていたふたりはがっかりしました。犬はいっこう決闘をしようとはいたしません。決闘どころか、鼻をすりあわせたり、お互いの体をかぎあったり、そしておしまいにはずっと以前からなかよしだったもののように、森川君と次郎君をおきざりにしてあっちへならんでいってしまいました。 「だめだなあ。」 と次郎君は口に出していいましたが、ややほっとした気持ちです。  ふたりにはそのとき、つまらないことでおこりあった自分たちより、犬同士の方がはるかに利口なように思えました。そしてふたりはつねづね自分たちがなかよしで、長距離競走のときにはいつもそろってしんがりをすることなどを憶い出しました。なぜ敵対したのかわからなくなってしまいました。  次郎君はつかつかと歩いていって、 「ぼく、あやまるよ。」 といいました。 「君ばかりがわるいんじゃないよ」と森川君もやや顔をあからめていいました。それからにこにこしながら、 「もうこんなこといいじゃないか。」 「うん。」 「あのね、ぼくんちこれから君んちで醤油を買うってお母さんいってたよ。」 「そうかい。」  それから次郎君はお父さんのまねをして、 「毎度ありがとうございます」 といってぴょこんと頭をさげました。そしてふたりは、あは、は、はと声いっぱいに笑い出しました。
次郎君は人さし指に何をまきつけていましたか。
次郎君はいつのまにかすすきの穂をひきぬいて人さし指にかたくまきつけていました。
JCRRAG_010964
国語
森川君が十メートルほど先まできたとき、西郷隆盛はシェパードをみつけてむっくり体を起こしました。次郎君は手をはなしました。西郷隆盛は猛然と向かってゆきました。  森川君もそのとき体をわきによけてシェパードに道をあけてやりました。いよいよ犬同士の決闘です。森川君も次郎君も、口に出してはなんともいいません。しかし心の中ではお互いに自分の犬に向かって「おし、おし」と勢いをつけています。次郎君はいつのまにかすすきの穂をひきぬいて人さし指にかたくまきつけていました。  西郷隆盛はシェパードと二メートルほどへだたったところまでいくとぴたっととまって、シェパードとにらみあっていました。――と次郎君と森川君は思えたのですが、じつはにらみあったのではありません。これが犬の仲間ではあいさつであります。  心をはりつめていたふたりはがっかりしました。犬はいっこう決闘をしようとはいたしません。決闘どころか、鼻をすりあわせたり、お互いの体をかぎあったり、そしておしまいにはずっと以前からなかよしだったもののように、森川君と次郎君をおきざりにしてあっちへならんでいってしまいました。 「だめだなあ。」 と次郎君は口に出していいましたが、ややほっとした気持ちです。  ふたりにはそのとき、つまらないことでおこりあった自分たちより、犬同士の方がはるかに利口なように思えました。そしてふたりはつねづね自分たちがなかよしで、長距離競走のときにはいつもそろってしんがりをすることなどを憶い出しました。なぜ敵対したのかわからなくなってしまいました。  次郎君はつかつかと歩いていって、 「ぼく、あやまるよ。」 といいました。 「君ばかりがわるいんじゃないよ」と森川君もやや顔をあからめていいました。それからにこにこしながら、 「もうこんなこといいじゃないか。」 「うん。」 「あのね、ぼくんちこれから君んちで醤油を買うってお母さんいってたよ。」 「そうかい。」  それから次郎君はお父さんのまねをして、 「毎度ありがとうございます」 といってぴょこんと頭をさげました。そしてふたりは、あは、は、はと声いっぱいに笑い出しました。
森川君が十メートルほど先まできたとき、西郷隆盛は何をみつけてむっくり体を起こしましたか。
森川君が十メートルほど先まできたとき、西郷隆盛はシェパードをみつけてむっくり体を起こしました。
JCRRAG_010965
国語
森川君が十メートルほど先まできたとき、西郷隆盛はシェパードをみつけてむっくり体を起こしました。次郎君は手をはなしました。西郷隆盛は猛然と向かってゆきました。  森川君もそのとき体をわきによけてシェパードに道をあけてやりました。いよいよ犬同士の決闘です。森川君も次郎君も、口に出してはなんともいいません。しかし心の中ではお互いに自分の犬に向かって「おし、おし」と勢いをつけています。次郎君はいつのまにかすすきの穂をひきぬいて人さし指にかたくまきつけていました。  西郷隆盛はシェパードと二メートルほどへだたったところまでいくとぴたっととまって、シェパードとにらみあっていました。――と次郎君と森川君は思えたのですが、じつはにらみあったのではありません。これが犬の仲間ではあいさつであります。  心をはりつめていたふたりはがっかりしました。犬はいっこう決闘をしようとはいたしません。決闘どころか、鼻をすりあわせたり、お互いの体をかぎあったり、そしておしまいにはずっと以前からなかよしだったもののように、森川君と次郎君をおきざりにしてあっちへならんでいってしまいました。 「だめだなあ。」 と次郎君は口に出していいましたが、ややほっとした気持ちです。  ふたりにはそのとき、つまらないことでおこりあった自分たちより、犬同士の方がはるかに利口なように思えました。そしてふたりはつねづね自分たちがなかよしで、長距離競走のときにはいつもそろってしんがりをすることなどを憶い出しました。なぜ敵対したのかわからなくなってしまいました。  次郎君はつかつかと歩いていって、 「ぼく、あやまるよ。」 といいました。 「君ばかりがわるいんじゃないよ」と森川君もやや顔をあからめていいました。それからにこにこしながら、 「もうこんなこといいじゃないか。」 「うん。」 「あのね、ぼくんちこれから君んちで醤油を買うってお母さんいってたよ。」 「そうかい。」  それから次郎君はお父さんのまねをして、 「毎度ありがとうございます」 といってぴょこんと頭をさげました。そしてふたりは、あは、は、はと声いっぱいに笑い出しました。
ふたりは何を憶い出しましたか。
ふたりはつねづね自分たちがなかよしで、長距離競走のときにはいつもそろってしんがりをすることなどを憶い出しました。
JCRRAG_010966
国語
むかし、花のき村に、五人組の盗人がやって来ました。  それは、若竹が、あちこちの空に、かぼそく、ういういしい緑色の芽をのばしている初夏のひるで、松林では松蝉が、ジイジイジイイと鳴いていました。  盗人たちは、北から川に沿ってやって来ました。花のき村の入り口のあたりは、すかんぽやうまごやしの生えた緑の野原で、子供や牛が遊んでおりました。これだけを見ても、この村が平和な村であることが、盗人たちにはわかりました。そして、こんな村には、お金やいい着物を持った家があるに違いないと、もう喜んだのでありました。  川は藪の下を流れ、そこにかかっている一つの水車をゴトンゴトンとまわして、村の奥深くはいっていきました。  藪のところまで来ると、盗人のうちのかしらが、いいました。 「それでは、わしはこの藪のかげで待っているから、おまえらは、村のなかへはいっていって様子を見て来い。なにぶん、おまえらは盗人になったばかりだから、へまをしないように気をつけるんだぞ。金のありそうな家を見たら、そこの家のどの窓がやぶれそうか、そこの家に犬がいるかどうか、よっくしらべるのだぞ。いいか釜右ヱ門。」 「へえ。」 と釜右ヱ門が答えました。これは昨日まで旅あるきの釜師で、釜や茶釜をつくっていたのでありました。 「いいか、海老之丞。」 「へえ。」 と海老之丞が答えました。これは昨日まで錠前屋で、家々の倉や長持などの錠をつくっていたのでありました。 「いいか角兵ヱ。」 「へえ。」 とまだ少年の角兵ヱが答えました。これは越後から来た角兵ヱ獅子で、昨日までは、家々の閾の外で、逆立ちしたり、とんぼがえりをうったりして、一文二文の銭を貰っていたのでありました。 「いいか鉋太郎。」 「へえ。」 と鉋太郎が答えました。これは、江戸から来た大工の息子で、昨日までは諸国のお寺や神社の門などのつくりを見て廻り、大工の修業していたのでありました。 「さあ、みんな、いけ。わしは親方だから、ここで一服すいながらまっている。」  そこで盗人の弟子たちが、釜右ヱ門は釜師のふりをし、海老之丞は錠前屋のふりをし、角兵ヱは獅子まいのように笛をヒャラヒャラ鳴らし、鉋太郎は大工のふりをして、花のき村にはいりこんでいきました。  かしらは弟子どもがいってしまうと、どっかと川ばたの草の上に腰をおろし、弟子どもに話したとおり、たばこをスッパ、スッパとすいながら、盗人のような顔つきをしていました。これは、ずっとまえから火つけや盗人をして来たほんとうの盗人でありました。 「わしも昨日までは、ひとりぼっちの盗人であったが、今日は、はじめて盗人の親方というものになってしまった。だが、親方になって見ると、これはなかなかいいもんだわい。仕事は弟子どもがして来てくれるから、こうして寝ころんで待っておればいいわけである。」 とかしらは、することがないので、そんなつまらないひとりごとをいってみたりしていました。  やがて弟子の釜右ヱ門が戻って来ました。 「おかしら、おかしら。」  かしらは、ぴょこんとあざみの花のそばから体を起こしました。 「えいくそッ、びっくりした。おかしらなどと呼ぶんじゃねえ、魚の頭のように聞こえるじゃねえか。ただかしらといえ。」  盗人になりたての弟子は、 「まことに相すみません。」 とあやまりました。
盗人たちはどこから川に沿ってやって来ましたか。
盗人たちは、北から川に沿ってやって来ました。
JCRRAG_010967
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むかし、花のき村に、五人組の盗人がやって来ました。  それは、若竹が、あちこちの空に、かぼそく、ういういしい緑色の芽をのばしている初夏のひるで、松林では松蝉が、ジイジイジイイと鳴いていました。  盗人たちは、北から川に沿ってやって来ました。花のき村の入り口のあたりは、すかんぽやうまごやしの生えた緑の野原で、子供や牛が遊んでおりました。これだけを見ても、この村が平和な村であることが、盗人たちにはわかりました。そして、こんな村には、お金やいい着物を持った家があるに違いないと、もう喜んだのでありました。  川は藪の下を流れ、そこにかかっている一つの水車をゴトンゴトンとまわして、村の奥深くはいっていきました。  藪のところまで来ると、盗人のうちのかしらが、いいました。 「それでは、わしはこの藪のかげで待っているから、おまえらは、村のなかへはいっていって様子を見て来い。なにぶん、おまえらは盗人になったばかりだから、へまをしないように気をつけるんだぞ。金のありそうな家を見たら、そこの家のどの窓がやぶれそうか、そこの家に犬がいるかどうか、よっくしらべるのだぞ。いいか釜右ヱ門。」 「へえ。」 と釜右ヱ門が答えました。これは昨日まで旅あるきの釜師で、釜や茶釜をつくっていたのでありました。 「いいか、海老之丞。」 「へえ。」 と海老之丞が答えました。これは昨日まで錠前屋で、家々の倉や長持などの錠をつくっていたのでありました。 「いいか角兵ヱ。」 「へえ。」 とまだ少年の角兵ヱが答えました。これは越後から来た角兵ヱ獅子で、昨日までは、家々の閾の外で、逆立ちしたり、とんぼがえりをうったりして、一文二文の銭を貰っていたのでありました。 「いいか鉋太郎。」 「へえ。」 と鉋太郎が答えました。これは、江戸から来た大工の息子で、昨日までは諸国のお寺や神社の門などのつくりを見て廻り、大工の修業していたのでありました。 「さあ、みんな、いけ。わしは親方だから、ここで一服すいながらまっている。」  そこで盗人の弟子たちが、釜右ヱ門は釜師のふりをし、海老之丞は錠前屋のふりをし、角兵ヱは獅子まいのように笛をヒャラヒャラ鳴らし、鉋太郎は大工のふりをして、花のき村にはいりこんでいきました。  かしらは弟子どもがいってしまうと、どっかと川ばたの草の上に腰をおろし、弟子どもに話したとおり、たばこをスッパ、スッパとすいながら、盗人のような顔つきをしていました。これは、ずっとまえから火つけや盗人をして来たほんとうの盗人でありました。 「わしも昨日までは、ひとりぼっちの盗人であったが、今日は、はじめて盗人の親方というものになってしまった。だが、親方になって見ると、これはなかなかいいもんだわい。仕事は弟子どもがして来てくれるから、こうして寝ころんで待っておればいいわけである。」 とかしらは、することがないので、そんなつまらないひとりごとをいってみたりしていました。  やがて弟子の釜右ヱ門が戻って来ました。 「おかしら、おかしら。」  かしらは、ぴょこんとあざみの花のそばから体を起こしました。 「えいくそッ、びっくりした。おかしらなどと呼ぶんじゃねえ、魚の頭のように聞こえるじゃねえか。ただかしらといえ。」  盗人になりたての弟子は、 「まことに相すみません。」 とあやまりました。
花のき村の入り口のあたりはどのような場所でしたか。
花のき村の入り口のあたりは、すかんぽやうまごやしの生えた緑の野原で、子供や牛が遊んでおりました。
JCRRAG_010968
国語
むかし、花のき村に、五人組の盗人がやって来ました。  それは、若竹が、あちこちの空に、かぼそく、ういういしい緑色の芽をのばしている初夏のひるで、松林では松蝉が、ジイジイジイイと鳴いていました。  盗人たちは、北から川に沿ってやって来ました。花のき村の入り口のあたりは、すかんぽやうまごやしの生えた緑の野原で、子供や牛が遊んでおりました。これだけを見ても、この村が平和な村であることが、盗人たちにはわかりました。そして、こんな村には、お金やいい着物を持った家があるに違いないと、もう喜んだのでありました。  川は藪の下を流れ、そこにかかっている一つの水車をゴトンゴトンとまわして、村の奥深くはいっていきました。  藪のところまで来ると、盗人のうちのかしらが、いいました。 「それでは、わしはこの藪のかげで待っているから、おまえらは、村のなかへはいっていって様子を見て来い。なにぶん、おまえらは盗人になったばかりだから、へまをしないように気をつけるんだぞ。金のありそうな家を見たら、そこの家のどの窓がやぶれそうか、そこの家に犬がいるかどうか、よっくしらべるのだぞ。いいか釜右ヱ門。」 「へえ。」 と釜右ヱ門が答えました。これは昨日まで旅あるきの釜師で、釜や茶釜をつくっていたのでありました。 「いいか、海老之丞。」 「へえ。」 と海老之丞が答えました。これは昨日まで錠前屋で、家々の倉や長持などの錠をつくっていたのでありました。 「いいか角兵ヱ。」 「へえ。」 とまだ少年の角兵ヱが答えました。これは越後から来た角兵ヱ獅子で、昨日までは、家々の閾の外で、逆立ちしたり、とんぼがえりをうったりして、一文二文の銭を貰っていたのでありました。 「いいか鉋太郎。」 「へえ。」 と鉋太郎が答えました。これは、江戸から来た大工の息子で、昨日までは諸国のお寺や神社の門などのつくりを見て廻り、大工の修業していたのでありました。 「さあ、みんな、いけ。わしは親方だから、ここで一服すいながらまっている。」  そこで盗人の弟子たちが、釜右ヱ門は釜師のふりをし、海老之丞は錠前屋のふりをし、角兵ヱは獅子まいのように笛をヒャラヒャラ鳴らし、鉋太郎は大工のふりをして、花のき村にはいりこんでいきました。  かしらは弟子どもがいってしまうと、どっかと川ばたの草の上に腰をおろし、弟子どもに話したとおり、たばこをスッパ、スッパとすいながら、盗人のような顔つきをしていました。これは、ずっとまえから火つけや盗人をして来たほんとうの盗人でありました。 「わしも昨日までは、ひとりぼっちの盗人であったが、今日は、はじめて盗人の親方というものになってしまった。だが、親方になって見ると、これはなかなかいいもんだわい。仕事は弟子どもがして来てくれるから、こうして寝ころんで待っておればいいわけである。」 とかしらは、することがないので、そんなつまらないひとりごとをいってみたりしていました。  やがて弟子の釜右ヱ門が戻って来ました。 「おかしら、おかしら。」  かしらは、ぴょこんとあざみの花のそばから体を起こしました。 「えいくそッ、びっくりした。おかしらなどと呼ぶんじゃねえ、魚の頭のように聞こえるじゃねえか。ただかしらといえ。」  盗人になりたての弟子は、 「まことに相すみません。」 とあやまりました。
かしらは弟子どもがいってしまうと何をしていましたか。
かしらは弟子どもがいってしまうと、どっかと川ばたの草の上に腰をおろし、弟子どもに話したとおり、たばこをスッパ、スッパとすいながら、盗人のような顔つきをしていました。
JCRRAG_010969
国語
むかし、花のき村に、五人組の盗人がやって来ました。  それは、若竹が、あちこちの空に、かぼそく、ういういしい緑色の芽をのばしている初夏のひるで、松林では松蝉が、ジイジイジイイと鳴いていました。  盗人たちは、北から川に沿ってやって来ました。花のき村の入り口のあたりは、すかんぽやうまごやしの生えた緑の野原で、子供や牛が遊んでおりました。これだけを見ても、この村が平和な村であることが、盗人たちにはわかりました。そして、こんな村には、お金やいい着物を持った家があるに違いないと、もう喜んだのでありました。  川は藪の下を流れ、そこにかかっている一つの水車をゴトンゴトンとまわして、村の奥深くはいっていきました。  藪のところまで来ると、盗人のうちのかしらが、いいました。 「それでは、わしはこの藪のかげで待っているから、おまえらは、村のなかへはいっていって様子を見て来い。なにぶん、おまえらは盗人になったばかりだから、へまをしないように気をつけるんだぞ。金のありそうな家を見たら、そこの家のどの窓がやぶれそうか、そこの家に犬がいるかどうか、よっくしらべるのだぞ。いいか釜右ヱ門。」 「へえ。」 と釜右ヱ門が答えました。これは昨日まで旅あるきの釜師で、釜や茶釜をつくっていたのでありました。 「いいか、海老之丞。」 「へえ。」 と海老之丞が答えました。これは昨日まで錠前屋で、家々の倉や長持などの錠をつくっていたのでありました。 「いいか角兵ヱ。」 「へえ。」 とまだ少年の角兵ヱが答えました。これは越後から来た角兵ヱ獅子で、昨日までは、家々の閾の外で、逆立ちしたり、とんぼがえりをうったりして、一文二文の銭を貰っていたのでありました。 「いいか鉋太郎。」 「へえ。」 と鉋太郎が答えました。これは、江戸から来た大工の息子で、昨日までは諸国のお寺や神社の門などのつくりを見て廻り、大工の修業していたのでありました。 「さあ、みんな、いけ。わしは親方だから、ここで一服すいながらまっている。」  そこで盗人の弟子たちが、釜右ヱ門は釜師のふりをし、海老之丞は錠前屋のふりをし、角兵ヱは獅子まいのように笛をヒャラヒャラ鳴らし、鉋太郎は大工のふりをして、花のき村にはいりこんでいきました。  かしらは弟子どもがいってしまうと、どっかと川ばたの草の上に腰をおろし、弟子どもに話したとおり、たばこをスッパ、スッパとすいながら、盗人のような顔つきをしていました。これは、ずっとまえから火つけや盗人をして来たほんとうの盗人でありました。 「わしも昨日までは、ひとりぼっちの盗人であったが、今日は、はじめて盗人の親方というものになってしまった。だが、親方になって見ると、これはなかなかいいもんだわい。仕事は弟子どもがして来てくれるから、こうして寝ころんで待っておればいいわけである。」 とかしらは、することがないので、そんなつまらないひとりごとをいってみたりしていました。  やがて弟子の釜右ヱ門が戻って来ました。 「おかしら、おかしら。」  かしらは、ぴょこんとあざみの花のそばから体を起こしました。 「えいくそッ、びっくりした。おかしらなどと呼ぶんじゃねえ、魚の頭のように聞こえるじゃねえか。ただかしらといえ。」  盗人になりたての弟子は、 「まことに相すみません。」 とあやまりました。
川はどこを流れて村の奥深くへはいっていきましたか。
川は藪の下を流れ、そこにかかっている一つの水車をゴトンゴトンとまわして、村の奥深くはいっていきました。
JCRRAG_010970
国語
むかし、花のき村に、五人組の盗人がやって来ました。  それは、若竹が、あちこちの空に、かぼそく、ういういしい緑色の芽をのばしている初夏のひるで、松林では松蝉が、ジイジイジイイと鳴いていました。  盗人たちは、北から川に沿ってやって来ました。花のき村の入り口のあたりは、すかんぽやうまごやしの生えた緑の野原で、子供や牛が遊んでおりました。これだけを見ても、この村が平和な村であることが、盗人たちにはわかりました。そして、こんな村には、お金やいい着物を持った家があるに違いないと、もう喜んだのでありました。  川は藪の下を流れ、そこにかかっている一つの水車をゴトンゴトンとまわして、村の奥深くはいっていきました。  藪のところまで来ると、盗人のうちのかしらが、いいました。 「それでは、わしはこの藪のかげで待っているから、おまえらは、村のなかへはいっていって様子を見て来い。なにぶん、おまえらは盗人になったばかりだから、へまをしないように気をつけるんだぞ。金のありそうな家を見たら、そこの家のどの窓がやぶれそうか、そこの家に犬がいるかどうか、よっくしらべるのだぞ。いいか釜右ヱ門。」 「へえ。」 と釜右ヱ門が答えました。これは昨日まで旅あるきの釜師で、釜や茶釜をつくっていたのでありました。 「いいか、海老之丞。」 「へえ。」 と海老之丞が答えました。これは昨日まで錠前屋で、家々の倉や長持などの錠をつくっていたのでありました。 「いいか角兵ヱ。」 「へえ。」 とまだ少年の角兵ヱが答えました。これは越後から来た角兵ヱ獅子で、昨日までは、家々の閾の外で、逆立ちしたり、とんぼがえりをうったりして、一文二文の銭を貰っていたのでありました。 「いいか鉋太郎。」 「へえ。」 と鉋太郎が答えました。これは、江戸から来た大工の息子で、昨日までは諸国のお寺や神社の門などのつくりを見て廻り、大工の修業していたのでありました。 「さあ、みんな、いけ。わしは親方だから、ここで一服すいながらまっている。」  そこで盗人の弟子たちが、釜右ヱ門は釜師のふりをし、海老之丞は錠前屋のふりをし、角兵ヱは獅子まいのように笛をヒャラヒャラ鳴らし、鉋太郎は大工のふりをして、花のき村にはいりこんでいきました。  かしらは弟子どもがいってしまうと、どっかと川ばたの草の上に腰をおろし、弟子どもに話したとおり、たばこをスッパ、スッパとすいながら、盗人のような顔つきをしていました。これは、ずっとまえから火つけや盗人をして来たほんとうの盗人でありました。 「わしも昨日までは、ひとりぼっちの盗人であったが、今日は、はじめて盗人の親方というものになってしまった。だが、親方になって見ると、これはなかなかいいもんだわい。仕事は弟子どもがして来てくれるから、こうして寝ころんで待っておればいいわけである。」 とかしらは、することがないので、そんなつまらないひとりごとをいってみたりしていました。  やがて弟子の釜右ヱ門が戻って来ました。 「おかしら、おかしら。」  かしらは、ぴょこんとあざみの花のそばから体を起こしました。 「えいくそッ、びっくりした。おかしらなどと呼ぶんじゃねえ、魚の頭のように聞こえるじゃねえか。ただかしらといえ。」  盗人になりたての弟子は、 「まことに相すみません。」 とあやまりました。
盗人の弟子たちはどのようにして花のき村にはいりこんでいきましたか。
盗人の弟子たちは、釜右ヱ門は釜師のふりをし、海老之丞は錠前屋のふりをし、角兵ヱは獅子まいのように笛をヒャラヒャラ鳴らし、鉋太郎は大工のふりをして、花のき村にはいりこんでいきました。
JCRRAG_010971
国語
「どうだ、村の中の様子は。」 とかしらがききました。 「へえ、すばらしいですよ、かしら。ありました、ありました。」 「何が。」 「大きい家がありましてね、そこの飯炊き釜は、まず三斗ぐらいは炊ける大釜でした。あれはえらい銭になります。それから、お寺に吊ってあった鐘も、なかなか大きなもので、あれをつぶせば、まず茶釜が五十はできます。なあに、あっしの眼に狂いはありません。嘘だと思うなら、あっしが造って見せましょう。」 「馬鹿馬鹿しいことに威張るのはやめろ。」 とかしらは弟子を叱りつけました。 「きさまは、まだ釜師根性がぬけんからだめだ。そんな飯炊き釜や吊り鐘などばかり見てくるやつがあるか。それに何だ、その手に持っている、穴のあいた鍋は。」 「へえ、これは、その、或る家の前を通りますと、槙の木の生け垣にこれがかけて干してありました。見るとこの、尻に穴があいていたのです。それを見たら、じぶんが盗人であることをつい忘れてしまって、この鍋、二十文でなおしましょう、とそこのおかみさんにいってしまったのです。」 「何というまぬけだ。じぶんのしょうばいは盗人だということをしっかり肚にいれておらんから、そんなことだ。」 と、かしらはかしららしく、弟子に教えました。そして、 「もういっぺん、村にもぐりこんで、しっかり見なおして来い。」 と命じました。釜右ヱ門は、穴のあいた鍋をぶらんぶらんとふりながら、また村にはいっていきました。  こんどは海老之丞がもどって来ました。 「かしら、ここの村はこりゃだめですね。」 と海老之丞は力なくいいました。 「どうして。」 「どの倉にも、錠らしい錠は、ついておりません。子供でもねじきれそうな錠が、ついておるだけです。あれじゃ、こっちのしょうばいにゃなりません。」 「こっちのしょうばいというのは何だ。」 「へえ、……錠前……屋。」 「きさまもまだ根性がかわっておらんッ。」 とかしらはどなりつけました。 「へえ、相すみません。」 「そういう村こそ、こっちのしょうばいになるじゃないかッ。倉があって、子供でもねじきれそうな錠しかついておらんというほど、こっちのしょうばいに都合のよいことがあるか。まぬけめが。もういっぺん、見なおして来い。」 「なるほどね。こういう村こそしょうばいになるのですね。」 と海老之丞は、感心しながら、また村にはいっていきました。  次にかえって来たのは、少年の角兵ヱでありました。角兵ヱは、笛を吹きながら来たので、まだ藪の向こうで姿の見えないうちから、わかりました。 「いつまで、ヒャラヒャラと鳴らしておるのか。盗人はなるべく音をたてぬようにしておるものだ。」 とかしらは叱りました。角兵ヱは吹くのをやめました。
釜右ヱ門はどのようにしてまた村にはいっていきましたか。
釜右ヱ門は、穴のあいた鍋をぶらんぶらんとふりながら、また村にはいっていきました。
JCRRAG_010972
国語
「どうだ、村の中の様子は。」 とかしらがききました。 「へえ、すばらしいですよ、かしら。ありました、ありました。」 「何が。」 「大きい家がありましてね、そこの飯炊き釜は、まず三斗ぐらいは炊ける大釜でした。あれはえらい銭になります。それから、お寺に吊ってあった鐘も、なかなか大きなもので、あれをつぶせば、まず茶釜が五十はできます。なあに、あっしの眼に狂いはありません。嘘だと思うなら、あっしが造って見せましょう。」 「馬鹿馬鹿しいことに威張るのはやめろ。」 とかしらは弟子を叱りつけました。 「きさまは、まだ釜師根性がぬけんからだめだ。そんな飯炊き釜や吊り鐘などばかり見てくるやつがあるか。それに何だ、その手に持っている、穴のあいた鍋は。」 「へえ、これは、その、或る家の前を通りますと、槙の木の生け垣にこれがかけて干してありました。見るとこの、尻に穴があいていたのです。それを見たら、じぶんが盗人であることをつい忘れてしまって、この鍋、二十文でなおしましょう、とそこのおかみさんにいってしまったのです。」 「何というまぬけだ。じぶんのしょうばいは盗人だということをしっかり肚にいれておらんから、そんなことだ。」 と、かしらはかしららしく、弟子に教えました。そして、 「もういっぺん、村にもぐりこんで、しっかり見なおして来い。」 と命じました。釜右ヱ門は、穴のあいた鍋をぶらんぶらんとふりながら、また村にはいっていきました。  こんどは海老之丞がもどって来ました。 「かしら、ここの村はこりゃだめですね。」 と海老之丞は力なくいいました。 「どうして。」 「どの倉にも、錠らしい錠は、ついておりません。子供でもねじきれそうな錠が、ついておるだけです。あれじゃ、こっちのしょうばいにゃなりません。」 「こっちのしょうばいというのは何だ。」 「へえ、……錠前……屋。」 「きさまもまだ根性がかわっておらんッ。」 とかしらはどなりつけました。 「へえ、相すみません。」 「そういう村こそ、こっちのしょうばいになるじゃないかッ。倉があって、子供でもねじきれそうな錠しかついておらんというほど、こっちのしょうばいに都合のよいことがあるか。まぬけめが。もういっぺん、見なおして来い。」 「なるほどね。こういう村こそしょうばいになるのですね。」 と海老之丞は、感心しながら、また村にはいっていきました。  次にかえって来たのは、少年の角兵ヱでありました。角兵ヱは、笛を吹きながら来たので、まだ藪の向こうで姿の見えないうちから、わかりました。 「いつまで、ヒャラヒャラと鳴らしておるのか。盗人はなるべく音をたてぬようにしておるものだ。」 とかしらは叱りました。角兵ヱは吹くのをやめました。
海老之丞は、何をしながらまた村に入っていきましたか。
海老之丞は、感心しながら、また村にはいっていきました
JCRRAG_010973
国語
「どうだ、村の中の様子は。」 とかしらがききました。 「へえ、すばらしいですよ、かしら。ありました、ありました。」 「何が。」 「大きい家がありましてね、そこの飯炊き釜は、まず三斗ぐらいは炊ける大釜でした。あれはえらい銭になります。それから、お寺に吊ってあった鐘も、なかなか大きなもので、あれをつぶせば、まず茶釜が五十はできます。なあに、あっしの眼に狂いはありません。嘘だと思うなら、あっしが造って見せましょう。」 「馬鹿馬鹿しいことに威張るのはやめろ。」 とかしらは弟子を叱りつけました。 「きさまは、まだ釜師根性がぬけんからだめだ。そんな飯炊き釜や吊り鐘などばかり見てくるやつがあるか。それに何だ、その手に持っている、穴のあいた鍋は。」 「へえ、これは、その、或る家の前を通りますと、槙の木の生け垣にこれがかけて干してありました。見るとこの、尻に穴があいていたのです。それを見たら、じぶんが盗人であることをつい忘れてしまって、この鍋、二十文でなおしましょう、とそこのおかみさんにいってしまったのです。」 「何というまぬけだ。じぶんのしょうばいは盗人だということをしっかり肚にいれておらんから、そんなことだ。」 と、かしらはかしららしく、弟子に教えました。そして、 「もういっぺん、村にもぐりこんで、しっかり見なおして来い。」 と命じました。釜右ヱ門は、穴のあいた鍋をぶらんぶらんとふりながら、また村にはいっていきました。  こんどは海老之丞がもどって来ました。 「かしら、ここの村はこりゃだめですね。」 と海老之丞は力なくいいました。 「どうして。」 「どの倉にも、錠らしい錠は、ついておりません。子供でもねじきれそうな錠が、ついておるだけです。あれじゃ、こっちのしょうばいにゃなりません。」 「こっちのしょうばいというのは何だ。」 「へえ、……錠前……屋。」 「きさまもまだ根性がかわっておらんッ。」 とかしらはどなりつけました。 「へえ、相すみません。」 「そういう村こそ、こっちのしょうばいになるじゃないかッ。倉があって、子供でもねじきれそうな錠しかついておらんというほど、こっちのしょうばいに都合のよいことがあるか。まぬけめが。もういっぺん、見なおして来い。」 「なるほどね。こういう村こそしょうばいになるのですね。」 と海老之丞は、感心しながら、また村にはいっていきました。  次にかえって来たのは、少年の角兵ヱでありました。角兵ヱは、笛を吹きながら来たので、まだ藪の向こうで姿の見えないうちから、わかりました。 「いつまで、ヒャラヒャラと鳴らしておるのか。盗人はなるべく音をたてぬようにしておるものだ。」 とかしらは叱りました。角兵ヱは吹くのをやめました。
飯炊き釜は、どのくらいの大きさの釜でしたか。
飯炊き釜は、まず三斗ぐらいは炊ける大釜でした。
JCRRAG_010974
国語
「どうだ、村の中の様子は。」 とかしらがききました。 「へえ、すばらしいですよ、かしら。ありました、ありました。」 「何が。」 「大きい家がありましてね、そこの飯炊き釜は、まず三斗ぐらいは炊ける大釜でした。あれはえらい銭になります。それから、お寺に吊ってあった鐘も、なかなか大きなもので、あれをつぶせば、まず茶釜が五十はできます。なあに、あっしの眼に狂いはありません。嘘だと思うなら、あっしが造って見せましょう。」 「馬鹿馬鹿しいことに威張るのはやめろ。」 とかしらは弟子を叱りつけました。 「きさまは、まだ釜師根性がぬけんからだめだ。そんな飯炊き釜や吊り鐘などばかり見てくるやつがあるか。それに何だ、その手に持っている、穴のあいた鍋は。」 「へえ、これは、その、或る家の前を通りますと、槙の木の生け垣にこれがかけて干してありました。見るとこの、尻に穴があいていたのです。それを見たら、じぶんが盗人であることをつい忘れてしまって、この鍋、二十文でなおしましょう、とそこのおかみさんにいってしまったのです。」 「何というまぬけだ。じぶんのしょうばいは盗人だということをしっかり肚にいれておらんから、そんなことだ。」 と、かしらはかしららしく、弟子に教えました。そして、 「もういっぺん、村にもぐりこんで、しっかり見なおして来い。」 と命じました。釜右ヱ門は、穴のあいた鍋をぶらんぶらんとふりながら、また村にはいっていきました。  こんどは海老之丞がもどって来ました。 「かしら、ここの村はこりゃだめですね。」 と海老之丞は力なくいいました。 「どうして。」 「どの倉にも、錠らしい錠は、ついておりません。子供でもねじきれそうな錠が、ついておるだけです。あれじゃ、こっちのしょうばいにゃなりません。」 「こっちのしょうばいというのは何だ。」 「へえ、……錠前……屋。」 「きさまもまだ根性がかわっておらんッ。」 とかしらはどなりつけました。 「へえ、相すみません。」 「そういう村こそ、こっちのしょうばいになるじゃないかッ。倉があって、子供でもねじきれそうな錠しかついておらんというほど、こっちのしょうばいに都合のよいことがあるか。まぬけめが。もういっぺん、見なおして来い。」 「なるほどね。こういう村こそしょうばいになるのですね。」 と海老之丞は、感心しながら、また村にはいっていきました。  次にかえって来たのは、少年の角兵ヱでありました。角兵ヱは、笛を吹きながら来たので、まだ藪の向こうで姿の見えないうちから、わかりました。 「いつまで、ヒャラヒャラと鳴らしておるのか。盗人はなるべく音をたてぬようにしておるものだ。」 とかしらは叱りました。角兵ヱは吹くのをやめました。
お寺に吊ってあった鐘は、どのようなものでしたか。
お寺に吊ってあった鐘は、なかなか大きなものでした。
JCRRAG_010975
国語
「どうだ、村の中の様子は。」 とかしらがききました。 「へえ、すばらしいですよ、かしら。ありました、ありました。」 「何が。」 「大きい家がありましてね、そこの飯炊き釜は、まず三斗ぐらいは炊ける大釜でした。あれはえらい銭になります。それから、お寺に吊ってあった鐘も、なかなか大きなもので、あれをつぶせば、まず茶釜が五十はできます。なあに、あっしの眼に狂いはありません。嘘だと思うなら、あっしが造って見せましょう。」 「馬鹿馬鹿しいことに威張るのはやめろ。」 とかしらは弟子を叱りつけました。 「きさまは、まだ釜師根性がぬけんからだめだ。そんな飯炊き釜や吊り鐘などばかり見てくるやつがあるか。それに何だ、その手に持っている、穴のあいた鍋は。」 「へえ、これは、その、或る家の前を通りますと、槙の木の生け垣にこれがかけて干してありました。見るとこの、尻に穴があいていたのです。それを見たら、じぶんが盗人であることをつい忘れてしまって、この鍋、二十文でなおしましょう、とそこのおかみさんにいってしまったのです。」 「何というまぬけだ。じぶんのしょうばいは盗人だということをしっかり肚にいれておらんから、そんなことだ。」 と、かしらはかしららしく、弟子に教えました。そして、 「もういっぺん、村にもぐりこんで、しっかり見なおして来い。」 と命じました。釜右ヱ門は、穴のあいた鍋をぶらんぶらんとふりながら、また村にはいっていきました。  こんどは海老之丞がもどって来ました。 「かしら、ここの村はこりゃだめですね。」 と海老之丞は力なくいいました。 「どうして。」 「どの倉にも、錠らしい錠は、ついておりません。子供でもねじきれそうな錠が、ついておるだけです。あれじゃ、こっちのしょうばいにゃなりません。」 「こっちのしょうばいというのは何だ。」 「へえ、……錠前……屋。」 「きさまもまだ根性がかわっておらんッ。」 とかしらはどなりつけました。 「へえ、相すみません。」 「そういう村こそ、こっちのしょうばいになるじゃないかッ。倉があって、子供でもねじきれそうな錠しかついておらんというほど、こっちのしょうばいに都合のよいことがあるか。まぬけめが。もういっぺん、見なおして来い。」 「なるほどね。こういう村こそしょうばいになるのですね。」 と海老之丞は、感心しながら、また村にはいっていきました。  次にかえって来たのは、少年の角兵ヱでありました。角兵ヱは、笛を吹きながら来たので、まだ藪の向こうで姿の見えないうちから、わかりました。 「いつまで、ヒャラヒャラと鳴らしておるのか。盗人はなるべく音をたてぬようにしておるものだ。」 とかしらは叱りました。角兵ヱは吹くのをやめました。
角兵ヱは、何をしながら来ましたか。
角兵ヱは、笛を吹きながら来ました。
JCRRAG_010976
国語
次にかえって来たのは、少年の角兵ヱでありました。角兵ヱは、笛を吹きながら来たので、まだ藪の向こうで姿の見えないうちから、わかりました。 「いつまで、ヒャラヒャラと鳴らしておるのか。盗人はなるべく音をたてぬようにしておるものだ。」 とかしらは叱りました。角兵ヱは吹くのをやめました。 「それで、きさまは何を見て来たのか。」 「川についてどんどん行きましたら、花菖蒲を庭いちめんに咲かせた小さい家がありました。」 「うん、それから?」 「その家の軒下に、頭の毛も眉毛もあごひげもまっしろな爺さんがいました。」 「うん、その爺さんが、小判のはいった壺でも縁の下に隠していそうな様子だったか。」 「そのお爺さんが竹笛を吹いておりました。ちょっとした、つまらない竹笛だが、とてもええ音がしておりました。あんな、不思議に美しい音ははじめてききました。おれがききとれていたら、爺さんはにこにこしながら、三つ長い曲をきかしてくれました。おれは、お礼に、とんぼがえりを七へん、つづけざまにやって見せました。」 「やれやれだ。それから?」 「おれが、その笛はいい笛だといったら、笛竹の生えている竹藪を教えてくれました。そこの竹で作った笛だそうです。それで、お爺さんの教えてくれた竹藪へいって見ました。ほんとうにええ笛竹が、何百すじも、すいすいと生えておりました。」 「昔、竹の中から、金の光がさしたという話があるが、どうだ、小判でも落ちていたか。」 「それから、また川をどんどんくだっていくと小さい尼寺がありました。そこで花の撓がありました。お庭にいっぱい人がいて、おれの笛くらいの大きさのお釈迦さまに、あま茶の湯をかけておりました。おれもいっぱいかけて、それからいっぱい飲ましてもらって来ました。茶わんがあるならかしらにも持って来てあげましたのに。」 「やれやれ、何という罪のねえ盗人だ。そういう人ごみの中では、人のふところや袂に気をつけるものだ。とんまめが、もういっぺんきさまもやりなおして来い。その笛はここへ置いていけ。」  角兵ヱは叱られて、笛を草の中へおき、また村にはいっていきました。  おしまいに帰って来たのは鉋太郎でした。 「きさまも、ろくなものは見て来なかったろう。」 と、きかないさきから、かしらがいいました。 「いや、金持ちがありました、金持ちが。」 と鉋太郎は声をはずませていいました。金持ちときいて、かしらはにこにことしました。 「おお、金持ちか。」 「金持ちです、金持ちです。すばらしいりっぱな家でした。」 「うむ。」 「その座敷の天井と来たら、さつま杉の一枚板なんで、こんなのを見たら、うちの親父はどんなに喜ぶかも知れない、と思って、あっしは見とれていました。」 「へっ、面白くもねえ。それで、その天井をはずしてでも来る気かい。」  鉋太郎は、じぶんが盗人の弟子であったことを思い出しました。盗人の弟子としては、あまり気が利かなかったことがわかり、鉋太郎はバツのわるい顔をしてうつむいてしまいました。  そこで鉋太郎も、もういちどやりなおしに村にはいっていきました。 「やれやれだ。」 と、ひとりになったかしらは、草の中へ仰向けにひっくりかえっていいました。 「盗人のかしらというのもあんがい楽なしょうばいではないて。」
次にかえって来たのは、誰でしたか。
次にかえって来たのは、少年の角兵ヱでした。
JCRRAG_010977
国語
次にかえって来たのは、少年の角兵ヱでありました。角兵ヱは、笛を吹きながら来たので、まだ藪の向こうで姿の見えないうちから、わかりました。 「いつまで、ヒャラヒャラと鳴らしておるのか。盗人はなるべく音をたてぬようにしておるものだ。」 とかしらは叱りました。角兵ヱは吹くのをやめました。 「それで、きさまは何を見て来たのか。」 「川についてどんどん行きましたら、花菖蒲を庭いちめんに咲かせた小さい家がありました。」 「うん、それから?」 「その家の軒下に、頭の毛も眉毛もあごひげもまっしろな爺さんがいました。」 「うん、その爺さんが、小判のはいった壺でも縁の下に隠していそうな様子だったか。」 「そのお爺さんが竹笛を吹いておりました。ちょっとした、つまらない竹笛だが、とてもええ音がしておりました。あんな、不思議に美しい音ははじめてききました。おれがききとれていたら、爺さんはにこにこしながら、三つ長い曲をきかしてくれました。おれは、お礼に、とんぼがえりを七へん、つづけざまにやって見せました。」 「やれやれだ。それから?」 「おれが、その笛はいい笛だといったら、笛竹の生えている竹藪を教えてくれました。そこの竹で作った笛だそうです。それで、お爺さんの教えてくれた竹藪へいって見ました。ほんとうにええ笛竹が、何百すじも、すいすいと生えておりました。」 「昔、竹の中から、金の光がさしたという話があるが、どうだ、小判でも落ちていたか。」 「それから、また川をどんどんくだっていくと小さい尼寺がありました。そこで花の撓がありました。お庭にいっぱい人がいて、おれの笛くらいの大きさのお釈迦さまに、あま茶の湯をかけておりました。おれもいっぱいかけて、それからいっぱい飲ましてもらって来ました。茶わんがあるならかしらにも持って来てあげましたのに。」 「やれやれ、何という罪のねえ盗人だ。そういう人ごみの中では、人のふところや袂に気をつけるものだ。とんまめが、もういっぺんきさまもやりなおして来い。その笛はここへ置いていけ。」  角兵ヱは叱られて、笛を草の中へおき、また村にはいっていきました。  おしまいに帰って来たのは鉋太郎でした。 「きさまも、ろくなものは見て来なかったろう。」 と、きかないさきから、かしらがいいました。 「いや、金持ちがありました、金持ちが。」 と鉋太郎は声をはずませていいました。金持ちときいて、かしらはにこにことしました。 「おお、金持ちか。」 「金持ちです、金持ちです。すばらしいりっぱな家でした。」 「うむ。」 「その座敷の天井と来たら、さつま杉の一枚板なんで、こんなのを見たら、うちの親父はどんなに喜ぶかも知れない、と思って、あっしは見とれていました。」 「へっ、面白くもねえ。それで、その天井をはずしてでも来る気かい。」  鉋太郎は、じぶんが盗人の弟子であったことを思い出しました。盗人の弟子としては、あまり気が利かなかったことがわかり、鉋太郎はバツのわるい顔をしてうつむいてしまいました。  そこで鉋太郎も、もういちどやりなおしに村にはいっていきました。 「やれやれだ。」 と、ひとりになったかしらは、草の中へ仰向けにひっくりかえっていいました。 「盗人のかしらというのもあんがい楽なしょうばいではないて。」
なぜ角兵ヱが来ることが、まだ藪の向こうで姿の見えないうちから、わかったのですか。
角兵ヱは、笛を吹きながら来たので、まだ藪の向こうで姿の見えないうちから、わかりました。
JCRRAG_010978
国語
次にかえって来たのは、少年の角兵ヱでありました。角兵ヱは、笛を吹きながら来たので、まだ藪の向こうで姿の見えないうちから、わかりました。 「いつまで、ヒャラヒャラと鳴らしておるのか。盗人はなるべく音をたてぬようにしておるものだ。」 とかしらは叱りました。角兵ヱは吹くのをやめました。 「それで、きさまは何を見て来たのか。」 「川についてどんどん行きましたら、花菖蒲を庭いちめんに咲かせた小さい家がありました。」 「うん、それから?」 「その家の軒下に、頭の毛も眉毛もあごひげもまっしろな爺さんがいました。」 「うん、その爺さんが、小判のはいった壺でも縁の下に隠していそうな様子だったか。」 「そのお爺さんが竹笛を吹いておりました。ちょっとした、つまらない竹笛だが、とてもええ音がしておりました。あんな、不思議に美しい音ははじめてききました。おれがききとれていたら、爺さんはにこにこしながら、三つ長い曲をきかしてくれました。おれは、お礼に、とんぼがえりを七へん、つづけざまにやって見せました。」 「やれやれだ。それから?」 「おれが、その笛はいい笛だといったら、笛竹の生えている竹藪を教えてくれました。そこの竹で作った笛だそうです。それで、お爺さんの教えてくれた竹藪へいって見ました。ほんとうにええ笛竹が、何百すじも、すいすいと生えておりました。」 「昔、竹の中から、金の光がさしたという話があるが、どうだ、小判でも落ちていたか。」 「それから、また川をどんどんくだっていくと小さい尼寺がありました。そこで花の撓がありました。お庭にいっぱい人がいて、おれの笛くらいの大きさのお釈迦さまに、あま茶の湯をかけておりました。おれもいっぱいかけて、それからいっぱい飲ましてもらって来ました。茶わんがあるならかしらにも持って来てあげましたのに。」 「やれやれ、何という罪のねえ盗人だ。そういう人ごみの中では、人のふところや袂に気をつけるものだ。とんまめが、もういっぺんきさまもやりなおして来い。その笛はここへ置いていけ。」  角兵ヱは叱られて、笛を草の中へおき、また村にはいっていきました。  おしまいに帰って来たのは鉋太郎でした。 「きさまも、ろくなものは見て来なかったろう。」 と、きかないさきから、かしらがいいました。 「いや、金持ちがありました、金持ちが。」 と鉋太郎は声をはずませていいました。金持ちときいて、かしらはにこにことしました。 「おお、金持ちか。」 「金持ちです、金持ちです。すばらしいりっぱな家でした。」 「うむ。」 「その座敷の天井と来たら、さつま杉の一枚板なんで、こんなのを見たら、うちの親父はどんなに喜ぶかも知れない、と思って、あっしは見とれていました。」 「へっ、面白くもねえ。それで、その天井をはずしてでも来る気かい。」  鉋太郎は、じぶんが盗人の弟子であったことを思い出しました。盗人の弟子としては、あまり気が利かなかったことがわかり、鉋太郎はバツのわるい顔をしてうつむいてしまいました。  そこで鉋太郎も、もういちどやりなおしに村にはいっていきました。 「やれやれだ。」 と、ひとりになったかしらは、草の中へ仰向けにひっくりかえっていいました。 「盗人のかしらというのもあんがい楽なしょうばいではないて。」
角兵ヱは叱られて、笛をどこにおき、また村にはいっていきましたか。
角兵ヱは叱られて、笛を草の中へおき、また村にはいっていきました。
JCRRAG_010979
国語
次にかえって来たのは、少年の角兵ヱでありました。角兵ヱは、笛を吹きながら来たので、まだ藪の向こうで姿の見えないうちから、わかりました。 「いつまで、ヒャラヒャラと鳴らしておるのか。盗人はなるべく音をたてぬようにしておるものだ。」 とかしらは叱りました。角兵ヱは吹くのをやめました。 「それで、きさまは何を見て来たのか。」 「川についてどんどん行きましたら、花菖蒲を庭いちめんに咲かせた小さい家がありました。」 「うん、それから?」 「その家の軒下に、頭の毛も眉毛もあごひげもまっしろな爺さんがいました。」 「うん、その爺さんが、小判のはいった壺でも縁の下に隠していそうな様子だったか。」 「そのお爺さんが竹笛を吹いておりました。ちょっとした、つまらない竹笛だが、とてもええ音がしておりました。あんな、不思議に美しい音ははじめてききました。おれがききとれていたら、爺さんはにこにこしながら、三つ長い曲をきかしてくれました。おれは、お礼に、とんぼがえりを七へん、つづけざまにやって見せました。」 「やれやれだ。それから?」 「おれが、その笛はいい笛だといったら、笛竹の生えている竹藪を教えてくれました。そこの竹で作った笛だそうです。それで、お爺さんの教えてくれた竹藪へいって見ました。ほんとうにええ笛竹が、何百すじも、すいすいと生えておりました。」 「昔、竹の中から、金の光がさしたという話があるが、どうだ、小判でも落ちていたか。」 「それから、また川をどんどんくだっていくと小さい尼寺がありました。そこで花の撓がありました。お庭にいっぱい人がいて、おれの笛くらいの大きさのお釈迦さまに、あま茶の湯をかけておりました。おれもいっぱいかけて、それからいっぱい飲ましてもらって来ました。茶わんがあるならかしらにも持って来てあげましたのに。」 「やれやれ、何という罪のねえ盗人だ。そういう人ごみの中では、人のふところや袂に気をつけるものだ。とんまめが、もういっぺんきさまもやりなおして来い。その笛はここへ置いていけ。」  角兵ヱは叱られて、笛を草の中へおき、また村にはいっていきました。  おしまいに帰って来たのは鉋太郎でした。 「きさまも、ろくなものは見て来なかったろう。」 と、きかないさきから、かしらがいいました。 「いや、金持ちがありました、金持ちが。」 と鉋太郎は声をはずませていいました。金持ちときいて、かしらはにこにことしました。 「おお、金持ちか。」 「金持ちです、金持ちです。すばらしいりっぱな家でした。」 「うむ。」 「その座敷の天井と来たら、さつま杉の一枚板なんで、こんなのを見たら、うちの親父はどんなに喜ぶかも知れない、と思って、あっしは見とれていました。」 「へっ、面白くもねえ。それで、その天井をはずしてでも来る気かい。」  鉋太郎は、じぶんが盗人の弟子であったことを思い出しました。盗人の弟子としては、あまり気が利かなかったことがわかり、鉋太郎はバツのわるい顔をしてうつむいてしまいました。  そこで鉋太郎も、もういちどやりなおしに村にはいっていきました。 「やれやれだ。」 と、ひとりになったかしらは、草の中へ仰向けにひっくりかえっていいました。 「盗人のかしらというのもあんがい楽なしょうばいではないて。」
おしまいに帰って来たのは誰でしたか。
おしまいに帰って来たのは鉋太郎でした。
JCRRAG_010980
国語
次にかえって来たのは、少年の角兵ヱでありました。角兵ヱは、笛を吹きながら来たので、まだ藪の向こうで姿の見えないうちから、わかりました。 「いつまで、ヒャラヒャラと鳴らしておるのか。盗人はなるべく音をたてぬようにしておるものだ。」 とかしらは叱りました。角兵ヱは吹くのをやめました。 「それで、きさまは何を見て来たのか。」 「川についてどんどん行きましたら、花菖蒲を庭いちめんに咲かせた小さい家がありました。」 「うん、それから?」 「その家の軒下に、頭の毛も眉毛もあごひげもまっしろな爺さんがいました。」 「うん、その爺さんが、小判のはいった壺でも縁の下に隠していそうな様子だったか。」 「そのお爺さんが竹笛を吹いておりました。ちょっとした、つまらない竹笛だが、とてもええ音がしておりました。あんな、不思議に美しい音ははじめてききました。おれがききとれていたら、爺さんはにこにこしながら、三つ長い曲をきかしてくれました。おれは、お礼に、とんぼがえりを七へん、つづけざまにやって見せました。」 「やれやれだ。それから?」 「おれが、その笛はいい笛だといったら、笛竹の生えている竹藪を教えてくれました。そこの竹で作った笛だそうです。それで、お爺さんの教えてくれた竹藪へいって見ました。ほんとうにええ笛竹が、何百すじも、すいすいと生えておりました。」 「昔、竹の中から、金の光がさしたという話があるが、どうだ、小判でも落ちていたか。」 「それから、また川をどんどんくだっていくと小さい尼寺がありました。そこで花の撓がありました。お庭にいっぱい人がいて、おれの笛くらいの大きさのお釈迦さまに、あま茶の湯をかけておりました。おれもいっぱいかけて、それからいっぱい飲ましてもらって来ました。茶わんがあるならかしらにも持って来てあげましたのに。」 「やれやれ、何という罪のねえ盗人だ。そういう人ごみの中では、人のふところや袂に気をつけるものだ。とんまめが、もういっぺんきさまもやりなおして来い。その笛はここへ置いていけ。」  角兵ヱは叱られて、笛を草の中へおき、また村にはいっていきました。  おしまいに帰って来たのは鉋太郎でした。 「きさまも、ろくなものは見て来なかったろう。」 と、きかないさきから、かしらがいいました。 「いや、金持ちがありました、金持ちが。」 と鉋太郎は声をはずませていいました。金持ちときいて、かしらはにこにことしました。 「おお、金持ちか。」 「金持ちです、金持ちです。すばらしいりっぱな家でした。」 「うむ。」 「その座敷の天井と来たら、さつま杉の一枚板なんで、こんなのを見たら、うちの親父はどんなに喜ぶかも知れない、と思って、あっしは見とれていました。」 「へっ、面白くもねえ。それで、その天井をはずしてでも来る気かい。」  鉋太郎は、じぶんが盗人の弟子であったことを思い出しました。盗人の弟子としては、あまり気が利かなかったことがわかり、鉋太郎はバツのわるい顔をしてうつむいてしまいました。  そこで鉋太郎も、もういちどやりなおしに村にはいっていきました。 「やれやれだ。」 と、ひとりになったかしらは、草の中へ仰向けにひっくりかえっていいました。 「盗人のかしらというのもあんがい楽なしょうばいではないて。」
鉋太郎はどのような顔をしてうつむいてしまいましたか。
鉋太郎はバツのわるい顔をしてうつむいてしまいました。
JCRRAG_010981
国語
とつぜん、 「ぬすとだッ。」 「ぬすとだッ。」 「そら、やっちまえッ。」 という、おおぜいの子供の声がしました。子供の声でも、こういうことを聞いては、盗人としてびっくりしないわけにはいかないので、かしらはひょこんと跳びあがりました。そして、川にとびこんで向こう岸へ逃げようか、藪の中にもぐりこんで、姿をくらまそうか、と、とっさのあいだに考えたのであります。  しかし子供達は、縄切れや、おもちゃの十手をふりまわしながら、あちらへ走っていきました。子供達は盗人ごっこをしていたのでした。 「なんだ、子供達の遊びごとか。」 とかしらは張り合いがぬけていいました。 「遊びごとにしても、盗人ごっことはよくない遊びだ。いまどきの子供はろくなことをしなくなった。あれじゃ、さきが思いやられる。」  じぶんが盗人のくせに、かしらはそんなひとりごとをいいながら、また草の中にねころがろうとしたのでありました。そのときうしろから、 「おじさん。」 と声をかけられました。ふりかえって見ると、七歳くらいの、かわいらしい男の子が牛の仔をつれて立っていました。顔だちの品のいいところや、手足の白いところを見ると、百姓の子供とは思われません。旦那衆の坊っちゃんが、下男について野あそびに来て、下男にせがんで仔牛を持たせてもらったのかも知れません。だがおかしいのは、遠くへでもいく人のように、白い小さい足に、小さい草鞋をはいていることでした。 「この牛、持っていてね。」  かしらが何もいわないさきに、子供はそういって、ついとそばに来て、赤い手綱をかしらの手にあずけました。  かしらはそこで、何かいおうとして口をもぐもぐやりましたが、まだいい出さないうちに子供は、あちらの子供たちのあとを追って走っていってしまいました。あの子供たちの仲間になるために、この草鞋をはいた子供はあとをも見ずにいってしまいました。  ぼけんとしているあいだに牛の仔を持たされてしまったかしらは、くッくッと笑いながら牛の仔を見ました。  たいてい牛の仔というものは、そこらをぴょんぴょんはねまわって、持っているのがやっかいなものですが、この牛の仔はまたたいそうおとなしく、ぬれたうるんだ大きな眼をしばたたきながら、かしらのそばに無心に立っているのでした。 「くッくッくッ。」 とかしらは、笑いが腹の中からこみあげてくるのが、とまりませんでした。
かしらは、とっさのあいだにどのように考えましたか。
かしらは、川にとびこんで向こう岸へ逃げようか、藪の中にもぐりこんで、姿をくらまそうか、と、とっさのあいだに考えました。
JCRRAG_010982
国語
とつぜん、 「ぬすとだッ。」 「ぬすとだッ。」 「そら、やっちまえッ。」 という、おおぜいの子供の声がしました。子供の声でも、こういうことを聞いては、盗人としてびっくりしないわけにはいかないので、かしらはひょこんと跳びあがりました。そして、川にとびこんで向こう岸へ逃げようか、藪の中にもぐりこんで、姿をくらまそうか、と、とっさのあいだに考えたのであります。  しかし子供達は、縄切れや、おもちゃの十手をふりまわしながら、あちらへ走っていきました。子供達は盗人ごっこをしていたのでした。 「なんだ、子供達の遊びごとか。」 とかしらは張り合いがぬけていいました。 「遊びごとにしても、盗人ごっことはよくない遊びだ。いまどきの子供はろくなことをしなくなった。あれじゃ、さきが思いやられる。」  じぶんが盗人のくせに、かしらはそんなひとりごとをいいながら、また草の中にねころがろうとしたのでありました。そのときうしろから、 「おじさん。」 と声をかけられました。ふりかえって見ると、七歳くらいの、かわいらしい男の子が牛の仔をつれて立っていました。顔だちの品のいいところや、手足の白いところを見ると、百姓の子供とは思われません。旦那衆の坊っちゃんが、下男について野あそびに来て、下男にせがんで仔牛を持たせてもらったのかも知れません。だがおかしいのは、遠くへでもいく人のように、白い小さい足に、小さい草鞋をはいていることでした。 「この牛、持っていてね。」  かしらが何もいわないさきに、子供はそういって、ついとそばに来て、赤い手綱をかしらの手にあずけました。  かしらはそこで、何かいおうとして口をもぐもぐやりましたが、まだいい出さないうちに子供は、あちらの子供たちのあとを追って走っていってしまいました。あの子供たちの仲間になるために、この草鞋をはいた子供はあとをも見ずにいってしまいました。  ぼけんとしているあいだに牛の仔を持たされてしまったかしらは、くッくッと笑いながら牛の仔を見ました。  たいてい牛の仔というものは、そこらをぴょんぴょんはねまわって、持っているのがやっかいなものですが、この牛の仔はまたたいそうおとなしく、ぬれたうるんだ大きな眼をしばたたきながら、かしらのそばに無心に立っているのでした。 「くッくッくッ。」 とかしらは、笑いが腹の中からこみあげてくるのが、とまりませんでした。
子供たちは何をふりまわしながら盗人ごっこをしていたのでしたか。
子供達は、縄切れや、おもちゃの十手をふりまわしながら、あちらへ走っていきました。
JCRRAG_010983
国語
とつぜん、 「ぬすとだッ。」 「ぬすとだッ。」 「そら、やっちまえッ。」 という、おおぜいの子供の声がしました。子供の声でも、こういうことを聞いては、盗人としてびっくりしないわけにはいかないので、かしらはひょこんと跳びあがりました。そして、川にとびこんで向こう岸へ逃げようか、藪の中にもぐりこんで、姿をくらまそうか、と、とっさのあいだに考えたのであります。  しかし子供達は、縄切れや、おもちゃの十手をふりまわしながら、あちらへ走っていきました。子供達は盗人ごっこをしていたのでした。 「なんだ、子供達の遊びごとか。」 とかしらは張り合いがぬけていいました。 「遊びごとにしても、盗人ごっことはよくない遊びだ。いまどきの子供はろくなことをしなくなった。あれじゃ、さきが思いやられる。」  じぶんが盗人のくせに、かしらはそんなひとりごとをいいながら、また草の中にねころがろうとしたのでありました。そのときうしろから、 「おじさん。」 と声をかけられました。ふりかえって見ると、七歳くらいの、かわいらしい男の子が牛の仔をつれて立っていました。顔だちの品のいいところや、手足の白いところを見ると、百姓の子供とは思われません。旦那衆の坊っちゃんが、下男について野あそびに来て、下男にせがんで仔牛を持たせてもらったのかも知れません。だがおかしいのは、遠くへでもいく人のように、白い小さい足に、小さい草鞋をはいていることでした。 「この牛、持っていてね。」  かしらが何もいわないさきに、子供はそういって、ついとそばに来て、赤い手綱をかしらの手にあずけました。  かしらはそこで、何かいおうとして口をもぐもぐやりましたが、まだいい出さないうちに子供は、あちらの子供たちのあとを追って走っていってしまいました。あの子供たちの仲間になるために、この草鞋をはいた子供はあとをも見ずにいってしまいました。  ぼけんとしているあいだに牛の仔を持たされてしまったかしらは、くッくッと笑いながら牛の仔を見ました。  たいてい牛の仔というものは、そこらをぴょんぴょんはねまわって、持っているのがやっかいなものですが、この牛の仔はまたたいそうおとなしく、ぬれたうるんだ大きな眼をしばたたきながら、かしらのそばに無心に立っているのでした。 「くッくッくッ。」 とかしらは、笑いが腹の中からこみあげてくるのが、とまりませんでした。
ふりかえって見ると、誰が牛の仔をつれて立っていました。
ふりかえって見ると、七歳くらいの、かわいらしい男の子が牛の仔をつれて立っていました。
JCRRAG_010984
国語
とつぜん、 「ぬすとだッ。」 「ぬすとだッ。」 「そら、やっちまえッ。」 という、おおぜいの子供の声がしました。子供の声でも、こういうことを聞いては、盗人としてびっくりしないわけにはいかないので、かしらはひょこんと跳びあがりました。そして、川にとびこんで向こう岸へ逃げようか、藪の中にもぐりこんで、姿をくらまそうか、と、とっさのあいだに考えたのであります。  しかし子供達は、縄切れや、おもちゃの十手をふりまわしながら、あちらへ走っていきました。子供達は盗人ごっこをしていたのでした。 「なんだ、子供達の遊びごとか。」 とかしらは張り合いがぬけていいました。 「遊びごとにしても、盗人ごっことはよくない遊びだ。いまどきの子供はろくなことをしなくなった。あれじゃ、さきが思いやられる。」  じぶんが盗人のくせに、かしらはそんなひとりごとをいいながら、また草の中にねころがろうとしたのでありました。そのときうしろから、 「おじさん。」 と声をかけられました。ふりかえって見ると、七歳くらいの、かわいらしい男の子が牛の仔をつれて立っていました。顔だちの品のいいところや、手足の白いところを見ると、百姓の子供とは思われません。旦那衆の坊っちゃんが、下男について野あそびに来て、下男にせがんで仔牛を持たせてもらったのかも知れません。だがおかしいのは、遠くへでもいく人のように、白い小さい足に、小さい草鞋をはいていることでした。 「この牛、持っていてね。」  かしらが何もいわないさきに、子供はそういって、ついとそばに来て、赤い手綱をかしらの手にあずけました。  かしらはそこで、何かいおうとして口をもぐもぐやりましたが、まだいい出さないうちに子供は、あちらの子供たちのあとを追って走っていってしまいました。あの子供たちの仲間になるために、この草鞋をはいた子供はあとをも見ずにいってしまいました。  ぼけんとしているあいだに牛の仔を持たされてしまったかしらは、くッくッと笑いながら牛の仔を見ました。  たいてい牛の仔というものは、そこらをぴょんぴょんはねまわって、持っているのがやっかいなものですが、この牛の仔はまたたいそうおとなしく、ぬれたうるんだ大きな眼をしばたたきながら、かしらのそばに無心に立っているのでした。 「くッくッくッ。」 とかしらは、笑いが腹の中からこみあげてくるのが、とまりませんでした。
子供は何をかしらにあずけましたか。
子供は赤い手綱をかしらの手にあずけました。
JCRRAG_010985
国語
とつぜん、 「ぬすとだッ。」 「ぬすとだッ。」 「そら、やっちまえッ。」 という、おおぜいの子供の声がしました。子供の声でも、こういうことを聞いては、盗人としてびっくりしないわけにはいかないので、かしらはひょこんと跳びあがりました。そして、川にとびこんで向こう岸へ逃げようか、藪の中にもぐりこんで、姿をくらまそうか、と、とっさのあいだに考えたのであります。  しかし子供達は、縄切れや、おもちゃの十手をふりまわしながら、あちらへ走っていきました。子供達は盗人ごっこをしていたのでした。 「なんだ、子供達の遊びごとか。」 とかしらは張り合いがぬけていいました。 「遊びごとにしても、盗人ごっことはよくない遊びだ。いまどきの子供はろくなことをしなくなった。あれじゃ、さきが思いやられる。」  じぶんが盗人のくせに、かしらはそんなひとりごとをいいながら、また草の中にねころがろうとしたのでありました。そのときうしろから、 「おじさん。」 と声をかけられました。ふりかえって見ると、七歳くらいの、かわいらしい男の子が牛の仔をつれて立っていました。顔だちの品のいいところや、手足の白いところを見ると、百姓の子供とは思われません。旦那衆の坊っちゃんが、下男について野あそびに来て、下男にせがんで仔牛を持たせてもらったのかも知れません。だがおかしいのは、遠くへでもいく人のように、白い小さい足に、小さい草鞋をはいていることでした。 「この牛、持っていてね。」  かしらが何もいわないさきに、子供はそういって、ついとそばに来て、赤い手綱をかしらの手にあずけました。  かしらはそこで、何かいおうとして口をもぐもぐやりましたが、まだいい出さないうちに子供は、あちらの子供たちのあとを追って走っていってしまいました。あの子供たちの仲間になるために、この草鞋をはいた子供はあとをも見ずにいってしまいました。  ぼけんとしているあいだに牛の仔を持たされてしまったかしらは、くッくッと笑いながら牛の仔を見ました。  たいてい牛の仔というものは、そこらをぴょんぴょんはねまわって、持っているのがやっかいなものですが、この牛の仔はまたたいそうおとなしく、ぬれたうるんだ大きな眼をしばたたきながら、かしらのそばに無心に立っているのでした。 「くッくッくッ。」 とかしらは、笑いが腹の中からこみあげてくるのが、とまりませんでした。
かしらは、くッくッと笑いながら何を見ましたか。
かしらは、くッくッと笑いながら牛の仔を見ました。
JCRRAG_010986
国語
「これで弟子たちに自慢ができるて。きさまたちが馬鹿づらさげて、村の中をあるいているあいだに、わしはもう牛の仔をいっぴき盗んだ、といって。」  そしてまた、くッくッくッと笑いました。あんまり笑ったので、こんどは涙が出て来ました。 「ああ、おかしい。あんまり笑ったんで涙が出て来やがった。」  ところが、その涙が、流れて流れてとまらないのでありました。 「いや、はや、これはどうしたことだい、わしが涙を流すなんて、これじゃ、まるで泣いてるのと同じじゃないか。」  そうです。ほんとうに、盗人のかしらは泣いていたのであります。――かしらは嬉しかったのです。じぶんは今まで、人から冷たい眼でばかり見られて来ました。じぶんが通ると、人々はそら変なやつが来たといわんばかりに、窓をしめたり、すだれをおろしたりしました。じぶんが声をかけると、笑いながら話しあっていた人たちも、きゅうに仕事のことを思い出したように向こうをむいてしまうのでありました。池の面にうかんでいる鯉でさえも、じぶんが岸に立つと、がばッと体をひるがえしてしずんでいくのでありました。あるとき猿廻しの背中に負われている猿に、柿の実をくれてやったら、一口もたべずに地べたにすててしまいました。みんながじぶんを嫌っていたのです。みんながじぶんを信用してはくれなかったのです。ところが、この草鞋をはいた子供は、盗人であるじぶんに牛の仔をあずけてくれました。じぶんをいい人間であると思ってくれたのでした。またこの仔牛も、じぶんをちっともいやがらず、おとなしくしております。じぶんが母牛ででもあるかのように、そばにすりよっています。子供も仔牛も、じぶんを信用しているのです。こんなことは、盗人のじぶんには、はじめてのことであります。人に信用されるというのは、何といううれしいことでありましょう。……  そこで、かしらはいま、美しい心になっているのでありました。子供のころにはそういう心になったことがありましたが、あれから長い間、わるい汚い心でずっといたのです。久しぶりでかしらは美しい心になりました。これはちょうど、垢まみれの汚い着物を、きゅうに晴れ着にきせかえられたように、奇妙なぐあいでありました。  ――かしらの眼から涙が流れてとまらないのはそういうわけなのでした。  やがて夕方になりました。松蝉は鳴きやみました。村からは白い夕もやがひっそりと流れだして、野の上にひろがっていきました。子供たちは遠くへいき、「もういいかい。」「まあだだよ。」という声が、ほかのもの音とまじりあって、ききわけにくくなりました。  かしらは、もうあの子供が帰って来るじぶんだと思って待っていました。あの子供が来たら、「おいしょ。」と、盗人と思われぬよう、こころよく仔牛をかえしてやろう、と考えていました。  だが、子供たちの声は、村の中へ消えていってしまいました。草鞋の子供は帰って来ませんでした。村の上にかかっていた月が、かがみ職人の磨いたばかりの鏡のように、ひかりはじめました。あちらの森でふくろうが、二声ずつくぎって鳴きはじめました。  仔牛はお腹がすいて来たのか、からだをかしらにすりよせました。 「だって、しようがねえよ。わしからは乳は出ねえよ。」  そういってかしらは、仔牛のぶちの背中をなでていました。まだ眼から涙が出ていました。  そこへ四人の弟子がいっしょに帰って来ました。
かしらは、仔牛の何をなでていましたか。
かしらは、仔牛のぶちの背中をなでていました。
JCRRAG_010987
国語
「これで弟子たちに自慢ができるて。きさまたちが馬鹿づらさげて、村の中をあるいているあいだに、わしはもう牛の仔をいっぴき盗んだ、といって。」  そしてまた、くッくッくッと笑いました。あんまり笑ったので、こんどは涙が出て来ました。 「ああ、おかしい。あんまり笑ったんで涙が出て来やがった。」  ところが、その涙が、流れて流れてとまらないのでありました。 「いや、はや、これはどうしたことだい、わしが涙を流すなんて、これじゃ、まるで泣いてるのと同じじゃないか。」  そうです。ほんとうに、盗人のかしらは泣いていたのであります。――かしらは嬉しかったのです。じぶんは今まで、人から冷たい眼でばかり見られて来ました。じぶんが通ると、人々はそら変なやつが来たといわんばかりに、窓をしめたり、すだれをおろしたりしました。じぶんが声をかけると、笑いながら話しあっていた人たちも、きゅうに仕事のことを思い出したように向こうをむいてしまうのでありました。池の面にうかんでいる鯉でさえも、じぶんが岸に立つと、がばッと体をひるがえしてしずんでいくのでありました。あるとき猿廻しの背中に負われている猿に、柿の実をくれてやったら、一口もたべずに地べたにすててしまいました。みんながじぶんを嫌っていたのです。みんながじぶんを信用してはくれなかったのです。ところが、この草鞋をはいた子供は、盗人であるじぶんに牛の仔をあずけてくれました。じぶんをいい人間であると思ってくれたのでした。またこの仔牛も、じぶんをちっともいやがらず、おとなしくしております。じぶんが母牛ででもあるかのように、そばにすりよっています。子供も仔牛も、じぶんを信用しているのです。こんなことは、盗人のじぶんには、はじめてのことであります。人に信用されるというのは、何といううれしいことでありましょう。……  そこで、かしらはいま、美しい心になっているのでありました。子供のころにはそういう心になったことがありましたが、あれから長い間、わるい汚い心でずっといたのです。久しぶりでかしらは美しい心になりました。これはちょうど、垢まみれの汚い着物を、きゅうに晴れ着にきせかえられたように、奇妙なぐあいでありました。  ――かしらの眼から涙が流れてとまらないのはそういうわけなのでした。  やがて夕方になりました。松蝉は鳴きやみました。村からは白い夕もやがひっそりと流れだして、野の上にひろがっていきました。子供たちは遠くへいき、「もういいかい。」「まあだだよ。」という声が、ほかのもの音とまじりあって、ききわけにくくなりました。  かしらは、もうあの子供が帰って来るじぶんだと思って待っていました。あの子供が来たら、「おいしょ。」と、盗人と思われぬよう、こころよく仔牛をかえしてやろう、と考えていました。  だが、子供たちの声は、村の中へ消えていってしまいました。草鞋の子供は帰って来ませんでした。村の上にかかっていた月が、かがみ職人の磨いたばかりの鏡のように、ひかりはじめました。あちらの森でふくろうが、二声ずつくぎって鳴きはじめました。  仔牛はお腹がすいて来たのか、からだをかしらにすりよせました。 「だって、しようがねえよ。わしからは乳は出ねえよ。」  そういってかしらは、仔牛のぶちの背中をなでていました。まだ眼から涙が出ていました。  そこへ四人の弟子がいっしょに帰って来ました。
村から何が流れ出して野の上にひろがっていきましたか。
村からは白い夕もやがひっそりと流れだして、野の上にひろがっていきました。
JCRRAG_010988
国語
「これで弟子たちに自慢ができるて。きさまたちが馬鹿づらさげて、村の中をあるいているあいだに、わしはもう牛の仔をいっぴき盗んだ、といって。」  そしてまた、くッくッくッと笑いました。あんまり笑ったので、こんどは涙が出て来ました。 「ああ、おかしい。あんまり笑ったんで涙が出て来やがった。」  ところが、その涙が、流れて流れてとまらないのでありました。 「いや、はや、これはどうしたことだい、わしが涙を流すなんて、これじゃ、まるで泣いてるのと同じじゃないか。」  そうです。ほんとうに、盗人のかしらは泣いていたのであります。――かしらは嬉しかったのです。じぶんは今まで、人から冷たい眼でばかり見られて来ました。じぶんが通ると、人々はそら変なやつが来たといわんばかりに、窓をしめたり、すだれをおろしたりしました。じぶんが声をかけると、笑いながら話しあっていた人たちも、きゅうに仕事のことを思い出したように向こうをむいてしまうのでありました。池の面にうかんでいる鯉でさえも、じぶんが岸に立つと、がばッと体をひるがえしてしずんでいくのでありました。あるとき猿廻しの背中に負われている猿に、柿の実をくれてやったら、一口もたべずに地べたにすててしまいました。みんながじぶんを嫌っていたのです。みんながじぶんを信用してはくれなかったのです。ところが、この草鞋をはいた子供は、盗人であるじぶんに牛の仔をあずけてくれました。じぶんをいい人間であると思ってくれたのでした。またこの仔牛も、じぶんをちっともいやがらず、おとなしくしております。じぶんが母牛ででもあるかのように、そばにすりよっています。子供も仔牛も、じぶんを信用しているのです。こんなことは、盗人のじぶんには、はじめてのことであります。人に信用されるというのは、何といううれしいことでありましょう。……  そこで、かしらはいま、美しい心になっているのでありました。子供のころにはそういう心になったことがありましたが、あれから長い間、わるい汚い心でずっといたのです。久しぶりでかしらは美しい心になりました。これはちょうど、垢まみれの汚い着物を、きゅうに晴れ着にきせかえられたように、奇妙なぐあいでありました。  ――かしらの眼から涙が流れてとまらないのはそういうわけなのでした。  やがて夕方になりました。松蝉は鳴きやみました。村からは白い夕もやがひっそりと流れだして、野の上にひろがっていきました。子供たちは遠くへいき、「もういいかい。」「まあだだよ。」という声が、ほかのもの音とまじりあって、ききわけにくくなりました。  かしらは、もうあの子供が帰って来るじぶんだと思って待っていました。あの子供が来たら、「おいしょ。」と、盗人と思われぬよう、こころよく仔牛をかえしてやろう、と考えていました。  だが、子供たちの声は、村の中へ消えていってしまいました。草鞋の子供は帰って来ませんでした。村の上にかかっていた月が、かがみ職人の磨いたばかりの鏡のように、ひかりはじめました。あちらの森でふくろうが、二声ずつくぎって鳴きはじめました。  仔牛はお腹がすいて来たのか、からだをかしらにすりよせました。 「だって、しようがねえよ。わしからは乳は出ねえよ。」  そういってかしらは、仔牛のぶちの背中をなでていました。まだ眼から涙が出ていました。  そこへ四人の弟子がいっしょに帰って来ました。
かしらは子供が来たらどのようにしようと考えていましたか。
かしらは子供が来たら、「おいしょ。」と、盗人と思われぬよう、こころよく仔牛をかえしてやろう、と考えていました。
JCRRAG_010989
国語
「これで弟子たちに自慢ができるて。きさまたちが馬鹿づらさげて、村の中をあるいているあいだに、わしはもう牛の仔をいっぴき盗んだ、といって。」  そしてまた、くッくッくッと笑いました。あんまり笑ったので、こんどは涙が出て来ました。 「ああ、おかしい。あんまり笑ったんで涙が出て来やがった。」  ところが、その涙が、流れて流れてとまらないのでありました。 「いや、はや、これはどうしたことだい、わしが涙を流すなんて、これじゃ、まるで泣いてるのと同じじゃないか。」  そうです。ほんとうに、盗人のかしらは泣いていたのであります。――かしらは嬉しかったのです。じぶんは今まで、人から冷たい眼でばかり見られて来ました。じぶんが通ると、人々はそら変なやつが来たといわんばかりに、窓をしめたり、すだれをおろしたりしました。じぶんが声をかけると、笑いながら話しあっていた人たちも、きゅうに仕事のことを思い出したように向こうをむいてしまうのでありました。池の面にうかんでいる鯉でさえも、じぶんが岸に立つと、がばッと体をひるがえしてしずんでいくのでありました。あるとき猿廻しの背中に負われている猿に、柿の実をくれてやったら、一口もたべずに地べたにすててしまいました。みんながじぶんを嫌っていたのです。みんながじぶんを信用してはくれなかったのです。ところが、この草鞋をはいた子供は、盗人であるじぶんに牛の仔をあずけてくれました。じぶんをいい人間であると思ってくれたのでした。またこの仔牛も、じぶんをちっともいやがらず、おとなしくしております。じぶんが母牛ででもあるかのように、そばにすりよっています。子供も仔牛も、じぶんを信用しているのです。こんなことは、盗人のじぶんには、はじめてのことであります。人に信用されるというのは、何といううれしいことでありましょう。……  そこで、かしらはいま、美しい心になっているのでありました。子供のころにはそういう心になったことがありましたが、あれから長い間、わるい汚い心でずっといたのです。久しぶりでかしらは美しい心になりました。これはちょうど、垢まみれの汚い着物を、きゅうに晴れ着にきせかえられたように、奇妙なぐあいでありました。  ――かしらの眼から涙が流れてとまらないのはそういうわけなのでした。  やがて夕方になりました。松蝉は鳴きやみました。村からは白い夕もやがひっそりと流れだして、野の上にひろがっていきました。子供たちは遠くへいき、「もういいかい。」「まあだだよ。」という声が、ほかのもの音とまじりあって、ききわけにくくなりました。  かしらは、もうあの子供が帰って来るじぶんだと思って待っていました。あの子供が来たら、「おいしょ。」と、盗人と思われぬよう、こころよく仔牛をかえしてやろう、と考えていました。  だが、子供たちの声は、村の中へ消えていってしまいました。草鞋の子供は帰って来ませんでした。村の上にかかっていた月が、かがみ職人の磨いたばかりの鏡のように、ひかりはじめました。あちらの森でふくろうが、二声ずつくぎって鳴きはじめました。  仔牛はお腹がすいて来たのか、からだをかしらにすりよせました。 「だって、しようがねえよ。わしからは乳は出ねえよ。」  そういってかしらは、仔牛のぶちの背中をなでていました。まだ眼から涙が出ていました。  そこへ四人の弟子がいっしょに帰って来ました。
子供たちの声はどこへ消えていってしまいましたか。
子供たちの声は、村の中へ消えていってしまいました。
JCRRAG_010990
国語
「これで弟子たちに自慢ができるて。きさまたちが馬鹿づらさげて、村の中をあるいているあいだに、わしはもう牛の仔をいっぴき盗んだ、といって。」  そしてまた、くッくッくッと笑いました。あんまり笑ったので、こんどは涙が出て来ました。 「ああ、おかしい。あんまり笑ったんで涙が出て来やがった。」  ところが、その涙が、流れて流れてとまらないのでありました。 「いや、はや、これはどうしたことだい、わしが涙を流すなんて、これじゃ、まるで泣いてるのと同じじゃないか。」  そうです。ほんとうに、盗人のかしらは泣いていたのであります。――かしらは嬉しかったのです。じぶんは今まで、人から冷たい眼でばかり見られて来ました。じぶんが通ると、人々はそら変なやつが来たといわんばかりに、窓をしめたり、すだれをおろしたりしました。じぶんが声をかけると、笑いながら話しあっていた人たちも、きゅうに仕事のことを思い出したように向こうをむいてしまうのでありました。池の面にうかんでいる鯉でさえも、じぶんが岸に立つと、がばッと体をひるがえしてしずんでいくのでありました。あるとき猿廻しの背中に負われている猿に、柿の実をくれてやったら、一口もたべずに地べたにすててしまいました。みんながじぶんを嫌っていたのです。みんながじぶんを信用してはくれなかったのです。ところが、この草鞋をはいた子供は、盗人であるじぶんに牛の仔をあずけてくれました。じぶんをいい人間であると思ってくれたのでした。またこの仔牛も、じぶんをちっともいやがらず、おとなしくしております。じぶんが母牛ででもあるかのように、そばにすりよっています。子供も仔牛も、じぶんを信用しているのです。こんなことは、盗人のじぶんには、はじめてのことであります。人に信用されるというのは、何といううれしいことでありましょう。……  そこで、かしらはいま、美しい心になっているのでありました。子供のころにはそういう心になったことがありましたが、あれから長い間、わるい汚い心でずっといたのです。久しぶりでかしらは美しい心になりました。これはちょうど、垢まみれの汚い着物を、きゅうに晴れ着にきせかえられたように、奇妙なぐあいでありました。  ――かしらの眼から涙が流れてとまらないのはそういうわけなのでした。  やがて夕方になりました。松蝉は鳴きやみました。村からは白い夕もやがひっそりと流れだして、野の上にひろがっていきました。子供たちは遠くへいき、「もういいかい。」「まあだだよ。」という声が、ほかのもの音とまじりあって、ききわけにくくなりました。  かしらは、もうあの子供が帰って来るじぶんだと思って待っていました。あの子供が来たら、「おいしょ。」と、盗人と思われぬよう、こころよく仔牛をかえしてやろう、と考えていました。  だが、子供たちの声は、村の中へ消えていってしまいました。草鞋の子供は帰って来ませんでした。村の上にかかっていた月が、かがみ職人の磨いたばかりの鏡のように、ひかりはじめました。あちらの森でふくろうが、二声ずつくぎって鳴きはじめました。  仔牛はお腹がすいて来たのか、からだをかしらにすりよせました。 「だって、しようがねえよ。わしからは乳は出ねえよ。」  そういってかしらは、仔牛のぶちの背中をなでていました。まだ眼から涙が出ていました。  そこへ四人の弟子がいっしょに帰って来ました。
村の上にかかっていた月は、どのようにひかりはじめましたか。
村の上にかかっていた月は、かがみ職人の磨いたばかりの鏡のように、ひかりはじめました。
JCRRAG_010991
国語
「かしら、ただいま戻りました。おや、この仔牛はどうしたのですか。ははア、やっぱりかしらはただの盗人じゃない。おれたちが村を探りにいっていたあいだに、もうひと仕事しちゃったのだね。」  釜右ヱ門が仔牛を見ていいました。かしらは涙にぬれた顔を見られまいとして横をむいたまま、 「うむ、そういってきさまたちに自慢しようと思っていたんだが、じつはそうじゃねえのだ。これにはわけがあるのだ。」 といいました。 「おや、かしら、涙……じゃございませんか。」 と海老之丞が声を落としてききました。 「この、涙てものは、出はじめると出るもんだな。」 といって、かしらは袖で眼をこすりました。 「かしら、喜んで下せえ、こんどこそは、おれたち四人、しっかり盗人根性になって探って参りました。釜右ヱ門は金の茶釜のある家を五軒見とどけますし、海老之丞は、五つの土蔵の錠をよくしらべて、曲がった釘一本であけられることをたしかめますし、大工のあッしは、この鋸で難なく切れる家尻を五つ見て来ましたし、角兵ヱは角兵ヱでまた、足駄ばきで跳び越えられる塀を五つ見て来ました。かしら、おれたちはほめて頂きとうございます。」 と鉋太郎が意気ごんでいいました。しかしかしらは、それに答えないで、 「わしはこの仔牛をあずけられたのだ。ところが、いまだに、取りに来ないので弱っているところだ。すまねえが、おまえら、手わけして、預けていった子供を探してくれねえか。」 「かしら、あずかった仔牛をかえすのですか。」 と釜右ヱ門が、のみこめないような顔でいいました。 「そうだ。」 「盗人でもそんなことをするのでごぜえますか。」 「それにはわけがあるのだ。これだけはかえすのだ。」 「かしら、もっとしっかり盗人根性になって下せえよ。」 と鉋太郎がいいました。  かしらは苦笑いしながら、弟子たちにわけをこまかく話してきかせました。わけをきいて見れば、みんなにはかしらの心持ちがよくわかりました。  そこで弟子たちは、こんどは子供をさがしにいくことになりました。 「草鞋をはいた、かわいらしい、七つぐれえの男坊主なんですね。」 とねんをおして、四人の弟子は散っていきました。かしらも、もうじっとしておれなくて、仔牛をひきながら、さがしにいきました。  月のあかりに、野茨とうつぎの白い花がほのかに見えている村の夜を、五人の大人の盗人が、一匹の仔牛をひきながら、子供をさがして歩いていくのでありました。  かくれんぼのつづきで、まだあの子供がどこかにかくれているかも知れないというので、盗人たちは、みみずの鳴いている辻堂の縁の下や柿の木の上や、物置の中や、いい匂いのする蜜柑の木のかげを探してみたのでした。人にきいてもみたのでした。  しかし、ついにあの子供は見あたりませんでした。百姓達は提燈に火を入れて来て、仔牛をてらして見たのですが、こんな仔牛はこの辺りでは見たことがないというのでした。 「かしら、こりゃ夜っぴて探してもむだらしい、もう止しましょう。」 と海老之丞がくたびれたように、道ばたの石に腰をおろしていいました。 「いや、どうしても探し出して、あの子供にかえしたいのだ。」 とかしらはききませんでした。 「もう、てだてがありませんよ。ただひとつ残っているてだては、村役人のところへ訴えることだが、かしらもまさかあそこへは行きたくないでしょう。」 と釜右ヱ門がいいました。村役人というのは、いまでいえば駐在巡査のようなものであります。 「うむ、そうか。」 とかしらは考えこみました。そしてしばらく仔牛の頭をなでていましたが、やがて、 「じゃ、そこへ行こう。」 といいました。そしてもう歩きだしました。弟子たちはびっくりしましたが、ついていくよりしかたがありませんでした。
かしらは涙にぬれた顔を見られまいとして横をむいたまま、何といいましたか。
かしらは涙にぬれた顔を見られまいとして横をむいたまま、 「うむ、そういってきさまたちに自慢しようと思っていたんだが、じつはそうじゃねえのだ。これにはわけがあるのだ。」といいました。
JCRRAG_010992
国語
「かしら、ただいま戻りました。おや、この仔牛はどうしたのですか。ははア、やっぱりかしらはただの盗人じゃない。おれたちが村を探りにいっていたあいだに、もうひと仕事しちゃったのだね。」  釜右ヱ門が仔牛を見ていいました。かしらは涙にぬれた顔を見られまいとして横をむいたまま、 「うむ、そういってきさまたちに自慢しようと思っていたんだが、じつはそうじゃねえのだ。これにはわけがあるのだ。」 といいました。 「おや、かしら、涙……じゃございませんか。」 と海老之丞が声を落としてききました。 「この、涙てものは、出はじめると出るもんだな。」 といって、かしらは袖で眼をこすりました。 「かしら、喜んで下せえ、こんどこそは、おれたち四人、しっかり盗人根性になって探って参りました。釜右ヱ門は金の茶釜のある家を五軒見とどけますし、海老之丞は、五つの土蔵の錠をよくしらべて、曲がった釘一本であけられることをたしかめますし、大工のあッしは、この鋸で難なく切れる家尻を五つ見て来ましたし、角兵ヱは角兵ヱでまた、足駄ばきで跳び越えられる塀を五つ見て来ました。かしら、おれたちはほめて頂きとうございます。」 と鉋太郎が意気ごんでいいました。しかしかしらは、それに答えないで、 「わしはこの仔牛をあずけられたのだ。ところが、いまだに、取りに来ないので弱っているところだ。すまねえが、おまえら、手わけして、預けていった子供を探してくれねえか。」 「かしら、あずかった仔牛をかえすのですか。」 と釜右ヱ門が、のみこめないような顔でいいました。 「そうだ。」 「盗人でもそんなことをするのでごぜえますか。」 「それにはわけがあるのだ。これだけはかえすのだ。」 「かしら、もっとしっかり盗人根性になって下せえよ。」 と鉋太郎がいいました。  かしらは苦笑いしながら、弟子たちにわけをこまかく話してきかせました。わけをきいて見れば、みんなにはかしらの心持ちがよくわかりました。  そこで弟子たちは、こんどは子供をさがしにいくことになりました。 「草鞋をはいた、かわいらしい、七つぐれえの男坊主なんですね。」 とねんをおして、四人の弟子は散っていきました。かしらも、もうじっとしておれなくて、仔牛をひきながら、さがしにいきました。  月のあかりに、野茨とうつぎの白い花がほのかに見えている村の夜を、五人の大人の盗人が、一匹の仔牛をひきながら、子供をさがして歩いていくのでありました。  かくれんぼのつづきで、まだあの子供がどこかにかくれているかも知れないというので、盗人たちは、みみずの鳴いている辻堂の縁の下や柿の木の上や、物置の中や、いい匂いのする蜜柑の木のかげを探してみたのでした。人にきいてもみたのでした。  しかし、ついにあの子供は見あたりませんでした。百姓達は提燈に火を入れて来て、仔牛をてらして見たのですが、こんな仔牛はこの辺りでは見たことがないというのでした。 「かしら、こりゃ夜っぴて探してもむだらしい、もう止しましょう。」 と海老之丞がくたびれたように、道ばたの石に腰をおろしていいました。 「いや、どうしても探し出して、あの子供にかえしたいのだ。」 とかしらはききませんでした。 「もう、てだてがありませんよ。ただひとつ残っているてだては、村役人のところへ訴えることだが、かしらもまさかあそこへは行きたくないでしょう。」 と釜右ヱ門がいいました。村役人というのは、いまでいえば駐在巡査のようなものであります。 「うむ、そうか。」 とかしらは考えこみました。そしてしばらく仔牛の頭をなでていましたが、やがて、 「じゃ、そこへ行こう。」 といいました。そしてもう歩きだしました。弟子たちはびっくりしましたが、ついていくよりしかたがありませんでした。
かしらは苦笑いしながら、弟子たちに何をこまかく話してきかせましたか。
かしらは苦笑いしながら、弟子たちにわけをこまかく話してきかせました。
JCRRAG_010993
国語
「かしら、ただいま戻りました。おや、この仔牛はどうしたのですか。ははア、やっぱりかしらはただの盗人じゃない。おれたちが村を探りにいっていたあいだに、もうひと仕事しちゃったのだね。」  釜右ヱ門が仔牛を見ていいました。かしらは涙にぬれた顔を見られまいとして横をむいたまま、 「うむ、そういってきさまたちに自慢しようと思っていたんだが、じつはそうじゃねえのだ。これにはわけがあるのだ。」 といいました。 「おや、かしら、涙……じゃございませんか。」 と海老之丞が声を落としてききました。 「この、涙てものは、出はじめると出るもんだな。」 といって、かしらは袖で眼をこすりました。 「かしら、喜んで下せえ、こんどこそは、おれたち四人、しっかり盗人根性になって探って参りました。釜右ヱ門は金の茶釜のある家を五軒見とどけますし、海老之丞は、五つの土蔵の錠をよくしらべて、曲がった釘一本であけられることをたしかめますし、大工のあッしは、この鋸で難なく切れる家尻を五つ見て来ましたし、角兵ヱは角兵ヱでまた、足駄ばきで跳び越えられる塀を五つ見て来ました。かしら、おれたちはほめて頂きとうございます。」 と鉋太郎が意気ごんでいいました。しかしかしらは、それに答えないで、 「わしはこの仔牛をあずけられたのだ。ところが、いまだに、取りに来ないので弱っているところだ。すまねえが、おまえら、手わけして、預けていった子供を探してくれねえか。」 「かしら、あずかった仔牛をかえすのですか。」 と釜右ヱ門が、のみこめないような顔でいいました。 「そうだ。」 「盗人でもそんなことをするのでごぜえますか。」 「それにはわけがあるのだ。これだけはかえすのだ。」 「かしら、もっとしっかり盗人根性になって下せえよ。」 と鉋太郎がいいました。  かしらは苦笑いしながら、弟子たちにわけをこまかく話してきかせました。わけをきいて見れば、みんなにはかしらの心持ちがよくわかりました。  そこで弟子たちは、こんどは子供をさがしにいくことになりました。 「草鞋をはいた、かわいらしい、七つぐれえの男坊主なんですね。」 とねんをおして、四人の弟子は散っていきました。かしらも、もうじっとしておれなくて、仔牛をひきながら、さがしにいきました。  月のあかりに、野茨とうつぎの白い花がほのかに見えている村の夜を、五人の大人の盗人が、一匹の仔牛をひきながら、子供をさがして歩いていくのでありました。  かくれんぼのつづきで、まだあの子供がどこかにかくれているかも知れないというので、盗人たちは、みみずの鳴いている辻堂の縁の下や柿の木の上や、物置の中や、いい匂いのする蜜柑の木のかげを探してみたのでした。人にきいてもみたのでした。  しかし、ついにあの子供は見あたりませんでした。百姓達は提燈に火を入れて来て、仔牛をてらして見たのですが、こんな仔牛はこの辺りでは見たことがないというのでした。 「かしら、こりゃ夜っぴて探してもむだらしい、もう止しましょう。」 と海老之丞がくたびれたように、道ばたの石に腰をおろしていいました。 「いや、どうしても探し出して、あの子供にかえしたいのだ。」 とかしらはききませんでした。 「もう、てだてがありませんよ。ただひとつ残っているてだては、村役人のところへ訴えることだが、かしらもまさかあそこへは行きたくないでしょう。」 と釜右ヱ門がいいました。村役人というのは、いまでいえば駐在巡査のようなものであります。 「うむ、そうか。」 とかしらは考えこみました。そしてしばらく仔牛の頭をなでていましたが、やがて、 「じゃ、そこへ行こう。」 といいました。そしてもう歩きだしました。弟子たちはびっくりしましたが、ついていくよりしかたがありませんでした。
かしらは、仔牛をひきながら何をしましたか。
かしらは、仔牛をひきながら、さがしにいきました。
JCRRAG_010994
国語
「かしら、ただいま戻りました。おや、この仔牛はどうしたのですか。ははア、やっぱりかしらはただの盗人じゃない。おれたちが村を探りにいっていたあいだに、もうひと仕事しちゃったのだね。」  釜右ヱ門が仔牛を見ていいました。かしらは涙にぬれた顔を見られまいとして横をむいたまま、 「うむ、そういってきさまたちに自慢しようと思っていたんだが、じつはそうじゃねえのだ。これにはわけがあるのだ。」 といいました。 「おや、かしら、涙……じゃございませんか。」 と海老之丞が声を落としてききました。 「この、涙てものは、出はじめると出るもんだな。」 といって、かしらは袖で眼をこすりました。 「かしら、喜んで下せえ、こんどこそは、おれたち四人、しっかり盗人根性になって探って参りました。釜右ヱ門は金の茶釜のある家を五軒見とどけますし、海老之丞は、五つの土蔵の錠をよくしらべて、曲がった釘一本であけられることをたしかめますし、大工のあッしは、この鋸で難なく切れる家尻を五つ見て来ましたし、角兵ヱは角兵ヱでまた、足駄ばきで跳び越えられる塀を五つ見て来ました。かしら、おれたちはほめて頂きとうございます。」 と鉋太郎が意気ごんでいいました。しかしかしらは、それに答えないで、 「わしはこの仔牛をあずけられたのだ。ところが、いまだに、取りに来ないので弱っているところだ。すまねえが、おまえら、手わけして、預けていった子供を探してくれねえか。」 「かしら、あずかった仔牛をかえすのですか。」 と釜右ヱ門が、のみこめないような顔でいいました。 「そうだ。」 「盗人でもそんなことをするのでごぜえますか。」 「それにはわけがあるのだ。これだけはかえすのだ。」 「かしら、もっとしっかり盗人根性になって下せえよ。」 と鉋太郎がいいました。  かしらは苦笑いしながら、弟子たちにわけをこまかく話してきかせました。わけをきいて見れば、みんなにはかしらの心持ちがよくわかりました。  そこで弟子たちは、こんどは子供をさがしにいくことになりました。 「草鞋をはいた、かわいらしい、七つぐれえの男坊主なんですね。」 とねんをおして、四人の弟子は散っていきました。かしらも、もうじっとしておれなくて、仔牛をひきながら、さがしにいきました。  月のあかりに、野茨とうつぎの白い花がほのかに見えている村の夜を、五人の大人の盗人が、一匹の仔牛をひきながら、子供をさがして歩いていくのでありました。  かくれんぼのつづきで、まだあの子供がどこかにかくれているかも知れないというので、盗人たちは、みみずの鳴いている辻堂の縁の下や柿の木の上や、物置の中や、いい匂いのする蜜柑の木のかげを探してみたのでした。人にきいてもみたのでした。  しかし、ついにあの子供は見あたりませんでした。百姓達は提燈に火を入れて来て、仔牛をてらして見たのですが、こんな仔牛はこの辺りでは見たことがないというのでした。 「かしら、こりゃ夜っぴて探してもむだらしい、もう止しましょう。」 と海老之丞がくたびれたように、道ばたの石に腰をおろしていいました。 「いや、どうしても探し出して、あの子供にかえしたいのだ。」 とかしらはききませんでした。 「もう、てだてがありませんよ。ただひとつ残っているてだては、村役人のところへ訴えることだが、かしらもまさかあそこへは行きたくないでしょう。」 と釜右ヱ門がいいました。村役人というのは、いまでいえば駐在巡査のようなものであります。 「うむ、そうか。」 とかしらは考えこみました。そしてしばらく仔牛の頭をなでていましたが、やがて、 「じゃ、そこへ行こう。」 といいました。そしてもう歩きだしました。弟子たちはびっくりしましたが、ついていくよりしかたがありませんでした。
盗人たちはどのような場所に探してみたのでしたか。
盗人たちは、みみずの鳴いている辻堂の縁の下や柿の木の上や、物置の中や、いい匂いのする蜜柑の木のかげを探してみたのでした。
JCRRAG_010995
国語
「かしら、ただいま戻りました。おや、この仔牛はどうしたのですか。ははア、やっぱりかしらはただの盗人じゃない。おれたちが村を探りにいっていたあいだに、もうひと仕事しちゃったのだね。」  釜右ヱ門が仔牛を見ていいました。かしらは涙にぬれた顔を見られまいとして横をむいたまま、 「うむ、そういってきさまたちに自慢しようと思っていたんだが、じつはそうじゃねえのだ。これにはわけがあるのだ。」 といいました。 「おや、かしら、涙……じゃございませんか。」 と海老之丞が声を落としてききました。 「この、涙てものは、出はじめると出るもんだな。」 といって、かしらは袖で眼をこすりました。 「かしら、喜んで下せえ、こんどこそは、おれたち四人、しっかり盗人根性になって探って参りました。釜右ヱ門は金の茶釜のある家を五軒見とどけますし、海老之丞は、五つの土蔵の錠をよくしらべて、曲がった釘一本であけられることをたしかめますし、大工のあッしは、この鋸で難なく切れる家尻を五つ見て来ましたし、角兵ヱは角兵ヱでまた、足駄ばきで跳び越えられる塀を五つ見て来ました。かしら、おれたちはほめて頂きとうございます。」 と鉋太郎が意気ごんでいいました。しかしかしらは、それに答えないで、 「わしはこの仔牛をあずけられたのだ。ところが、いまだに、取りに来ないので弱っているところだ。すまねえが、おまえら、手わけして、預けていった子供を探してくれねえか。」 「かしら、あずかった仔牛をかえすのですか。」 と釜右ヱ門が、のみこめないような顔でいいました。 「そうだ。」 「盗人でもそんなことをするのでごぜえますか。」 「それにはわけがあるのだ。これだけはかえすのだ。」 「かしら、もっとしっかり盗人根性になって下せえよ。」 と鉋太郎がいいました。  かしらは苦笑いしながら、弟子たちにわけをこまかく話してきかせました。わけをきいて見れば、みんなにはかしらの心持ちがよくわかりました。  そこで弟子たちは、こんどは子供をさがしにいくことになりました。 「草鞋をはいた、かわいらしい、七つぐれえの男坊主なんですね。」 とねんをおして、四人の弟子は散っていきました。かしらも、もうじっとしておれなくて、仔牛をひきながら、さがしにいきました。  月のあかりに、野茨とうつぎの白い花がほのかに見えている村の夜を、五人の大人の盗人が、一匹の仔牛をひきながら、子供をさがして歩いていくのでありました。  かくれんぼのつづきで、まだあの子供がどこかにかくれているかも知れないというので、盗人たちは、みみずの鳴いている辻堂の縁の下や柿の木の上や、物置の中や、いい匂いのする蜜柑の木のかげを探してみたのでした。人にきいてもみたのでした。  しかし、ついにあの子供は見あたりませんでした。百姓達は提燈に火を入れて来て、仔牛をてらして見たのですが、こんな仔牛はこの辺りでは見たことがないというのでした。 「かしら、こりゃ夜っぴて探してもむだらしい、もう止しましょう。」 と海老之丞がくたびれたように、道ばたの石に腰をおろしていいました。 「いや、どうしても探し出して、あの子供にかえしたいのだ。」 とかしらはききませんでした。 「もう、てだてがありませんよ。ただひとつ残っているてだては、村役人のところへ訴えることだが、かしらもまさかあそこへは行きたくないでしょう。」 と釜右ヱ門がいいました。村役人というのは、いまでいえば駐在巡査のようなものであります。 「うむ、そうか。」 とかしらは考えこみました。そしてしばらく仔牛の頭をなでていましたが、やがて、 「じゃ、そこへ行こう。」 といいました。そしてもう歩きだしました。弟子たちはびっくりしましたが、ついていくよりしかたがありませんでした。
角兵ヱは角兵ヱでまた、何を五つ見て来ましたか。
角兵ヱは角兵ヱでまた、足駄ばきで跳び越えられる塀を五つ見て来ました。
JCRRAG_010996
国語
たずねて村役人の家へいくと、あらわれたのは、鼻の先に落ちかかるように眼鏡をかけた老人でしたので、盗人たちはまず安心しました。これなら、いざというときに、つきとばして逃げてしまえばいいと思ったからであります。  かしらが、子供のことを話して、 「わしら、その子供を見失って困っております。」 といいました。  老人は五人の顔を見まわして、 「いっこう、このあたりで見受けぬ人ばかりだが、どちらから参った。」 とききました。 「わしら、江戸から西の方へいくものです。」 「まさか盗人ではあるまいの。」 「いや、とんでもない。わしらはみな旅の職人です。釜師や大工や錠前屋などです。」 とかしらはあわてていいました。 「うむ、いや、変なことをいってすまなかった。お前達は盗人ではない。盗人が物をかえすわけがないでの。盗人なら、物をあずかれば、これさいわいとくすねていってしまうはずだ。いや、せっかくよい心で、そうして届けに来たのを、変なことを申してすまなかった。いや、わしは役目がら、人を疑うくせになっているのじゃ。人を見さえすれば、こいつ、かたりじゃないか、すりじゃないかと思うようなわけさ。ま、わるく思わないでくれ。」 と老人はいいわけをしてあやまりました。そして、仔牛はあずかっておくことにして、下男に物置の方へつれていかせました。 「旅で、みなさんお疲れじゃろ、わしはいまいい酒をひとびん西の館の太郎どんからもらったので、月を見ながら縁側でやろうとしていたのじゃ。いいとこへみなさんこられた。ひとつつきあいなされ。」  ひとの善い老人はそういって、五人の盗人を縁側につれていきました。  そこで酒をのみはじめましたが、五人の盗人と一人の村役人はすっかり、くつろいで、十年もまえからの知り合いのように、ゆかいに笑ったり話したりしたのでありました。  するとまた、盗人のかしらはじぶんの眼が涙をこぼしていることに気がつきました。それを見た老人の役人は、 「おまえさんは泣き上戸と見える。わしは笑い上戸で、泣いている人を見るとよけい笑えて来る。どうか悪く思わんでくだされや、笑うから。」 といって、口をあけて笑うのでした。 「いや、この、涙というやつは、まことにとめどなく出るものだね。」 とかしらは、眼をしばたきながらいいました。  それから五人の盗人は、お礼をいって村役人の家を出ました。  門を出て、柿の木のそばまで来ると、何か思い出したように、かしらが立ちどまりました。 「かしら、何か忘れものでもしましたか。」 と鉋太郎がききました。 「うむ、忘れもんがある。おまえらも、いっしょにもういっぺん来い。」 といって、かしらは弟子をつれて、また役人の家にはいっていきました。 「御老人。」 とかしらは縁側に手をついていいました。 「何だね、しんみりと。泣き上戸のおくの手が出るかな。ははは。」 と老人は笑いました。 「わしらはじつは盗人です。わしがかしらでこれらは弟子です。」  それをきくと老人は眼をまるくしました。 「いや、びっくりなさるのはごもっともです。わしはこんなことを白状するつもりじゃありませんでした。しかし御老人が心のよいお方で、わしらをまっとうな人間のように信じていて下さるのを見ては、わしはもう御老人をあざむいていることができなくなりました。」  そういって盗人のかしらは今までして来たわるいことをみな白状してしまいました。そしておしまいに、 「だが、これらは、昨日わしの弟子になったばかりで、まだ何も悪いことはしておりません。お慈悲で、どうぞ、これらだけは許してやって下さい。」 といいました。  次の朝、花のき村から、釜師と錠前屋と大工と角兵ヱ獅子とが、それぞれべつの方へ出ていきました。四人はうつむきがちに、歩いていきました。かれらはかしらのことを考えていました。よいかしらであったと思っておりました。よいかしらだから、最後にかしらが「盗人にはもうけっしてなるな。」といったことばを、守らなければならないと思っておりました。  角兵ヱは川のふちの草の中から笛を拾ってヒャラヒャラと鳴らしていきました。
老人は仔牛をあずかっておくことにして、下男にどこへつれていかせましたか。
老人は仔牛をあずかっておくことにして、下男に物置の方へつれていかせました。
JCRRAG_010997
国語
たずねて村役人の家へいくと、あらわれたのは、鼻の先に落ちかかるように眼鏡をかけた老人でしたので、盗人たちはまず安心しました。これなら、いざというときに、つきとばして逃げてしまえばいいと思ったからであります。  かしらが、子供のことを話して、 「わしら、その子供を見失って困っております。」 といいました。  老人は五人の顔を見まわして、 「いっこう、このあたりで見受けぬ人ばかりだが、どちらから参った。」 とききました。 「わしら、江戸から西の方へいくものです。」 「まさか盗人ではあるまいの。」 「いや、とんでもない。わしらはみな旅の職人です。釜師や大工や錠前屋などです。」 とかしらはあわてていいました。 「うむ、いや、変なことをいってすまなかった。お前達は盗人ではない。盗人が物をかえすわけがないでの。盗人なら、物をあずかれば、これさいわいとくすねていってしまうはずだ。いや、せっかくよい心で、そうして届けに来たのを、変なことを申してすまなかった。いや、わしは役目がら、人を疑うくせになっているのじゃ。人を見さえすれば、こいつ、かたりじゃないか、すりじゃないかと思うようなわけさ。ま、わるく思わないでくれ。」 と老人はいいわけをしてあやまりました。そして、仔牛はあずかっておくことにして、下男に物置の方へつれていかせました。 「旅で、みなさんお疲れじゃろ、わしはいまいい酒をひとびん西の館の太郎どんからもらったので、月を見ながら縁側でやろうとしていたのじゃ。いいとこへみなさんこられた。ひとつつきあいなされ。」  ひとの善い老人はそういって、五人の盗人を縁側につれていきました。  そこで酒をのみはじめましたが、五人の盗人と一人の村役人はすっかり、くつろいで、十年もまえからの知り合いのように、ゆかいに笑ったり話したりしたのでありました。  するとまた、盗人のかしらはじぶんの眼が涙をこぼしていることに気がつきました。それを見た老人の役人は、 「おまえさんは泣き上戸と見える。わしは笑い上戸で、泣いている人を見るとよけい笑えて来る。どうか悪く思わんでくだされや、笑うから。」 といって、口をあけて笑うのでした。 「いや、この、涙というやつは、まことにとめどなく出るものだね。」 とかしらは、眼をしばたきながらいいました。  それから五人の盗人は、お礼をいって村役人の家を出ました。  門を出て、柿の木のそばまで来ると、何か思い出したように、かしらが立ちどまりました。 「かしら、何か忘れものでもしましたか。」 と鉋太郎がききました。 「うむ、忘れもんがある。おまえらも、いっしょにもういっぺん来い。」 といって、かしらは弟子をつれて、また役人の家にはいっていきました。 「御老人。」 とかしらは縁側に手をついていいました。 「何だね、しんみりと。泣き上戸のおくの手が出るかな。ははは。」 と老人は笑いました。 「わしらはじつは盗人です。わしがかしらでこれらは弟子です。」  それをきくと老人は眼をまるくしました。 「いや、びっくりなさるのはごもっともです。わしはこんなことを白状するつもりじゃありませんでした。しかし御老人が心のよいお方で、わしらをまっとうな人間のように信じていて下さるのを見ては、わしはもう御老人をあざむいていることができなくなりました。」  そういって盗人のかしらは今までして来たわるいことをみな白状してしまいました。そしておしまいに、 「だが、これらは、昨日わしの弟子になったばかりで、まだ何も悪いことはしておりません。お慈悲で、どうぞ、これらだけは許してやって下さい。」 といいました。  次の朝、花のき村から、釜師と錠前屋と大工と角兵ヱ獅子とが、それぞれべつの方へ出ていきました。四人はうつむきがちに、歩いていきました。かれらはかしらのことを考えていました。よいかしらであったと思っておりました。よいかしらだから、最後にかしらが「盗人にはもうけっしてなるな。」といったことばを、守らなければならないと思っておりました。  角兵ヱは川のふちの草の中から笛を拾ってヒャラヒャラと鳴らしていきました。
ひとの善い老人は五人の盗人をどこへつれていきましたか。
ひとの善い老人は、五人の盗人を縁側につれていきました。
JCRRAG_010998
国語
たずねて村役人の家へいくと、あらわれたのは、鼻の先に落ちかかるように眼鏡をかけた老人でしたので、盗人たちはまず安心しました。これなら、いざというときに、つきとばして逃げてしまえばいいと思ったからであります。  かしらが、子供のことを話して、 「わしら、その子供を見失って困っております。」 といいました。  老人は五人の顔を見まわして、 「いっこう、このあたりで見受けぬ人ばかりだが、どちらから参った。」 とききました。 「わしら、江戸から西の方へいくものです。」 「まさか盗人ではあるまいの。」 「いや、とんでもない。わしらはみな旅の職人です。釜師や大工や錠前屋などです。」 とかしらはあわてていいました。 「うむ、いや、変なことをいってすまなかった。お前達は盗人ではない。盗人が物をかえすわけがないでの。盗人なら、物をあずかれば、これさいわいとくすねていってしまうはずだ。いや、せっかくよい心で、そうして届けに来たのを、変なことを申してすまなかった。いや、わしは役目がら、人を疑うくせになっているのじゃ。人を見さえすれば、こいつ、かたりじゃないか、すりじゃないかと思うようなわけさ。ま、わるく思わないでくれ。」 と老人はいいわけをしてあやまりました。そして、仔牛はあずかっておくことにして、下男に物置の方へつれていかせました。 「旅で、みなさんお疲れじゃろ、わしはいまいい酒をひとびん西の館の太郎どんからもらったので、月を見ながら縁側でやろうとしていたのじゃ。いいとこへみなさんこられた。ひとつつきあいなされ。」  ひとの善い老人はそういって、五人の盗人を縁側につれていきました。  そこで酒をのみはじめましたが、五人の盗人と一人の村役人はすっかり、くつろいで、十年もまえからの知り合いのように、ゆかいに笑ったり話したりしたのでありました。  するとまた、盗人のかしらはじぶんの眼が涙をこぼしていることに気がつきました。それを見た老人の役人は、 「おまえさんは泣き上戸と見える。わしは笑い上戸で、泣いている人を見るとよけい笑えて来る。どうか悪く思わんでくだされや、笑うから。」 といって、口をあけて笑うのでした。 「いや、この、涙というやつは、まことにとめどなく出るものだね。」 とかしらは、眼をしばたきながらいいました。  それから五人の盗人は、お礼をいって村役人の家を出ました。  門を出て、柿の木のそばまで来ると、何か思い出したように、かしらが立ちどまりました。 「かしら、何か忘れものでもしましたか。」 と鉋太郎がききました。 「うむ、忘れもんがある。おまえらも、いっしょにもういっぺん来い。」 といって、かしらは弟子をつれて、また役人の家にはいっていきました。 「御老人。」 とかしらは縁側に手をついていいました。 「何だね、しんみりと。泣き上戸のおくの手が出るかな。ははは。」 と老人は笑いました。 「わしらはじつは盗人です。わしがかしらでこれらは弟子です。」  それをきくと老人は眼をまるくしました。 「いや、びっくりなさるのはごもっともです。わしはこんなことを白状するつもりじゃありませんでした。しかし御老人が心のよいお方で、わしらをまっとうな人間のように信じていて下さるのを見ては、わしはもう御老人をあざむいていることができなくなりました。」  そういって盗人のかしらは今までして来たわるいことをみな白状してしまいました。そしておしまいに、 「だが、これらは、昨日わしの弟子になったばかりで、まだ何も悪いことはしておりません。お慈悲で、どうぞ、これらだけは許してやって下さい。」 といいました。  次の朝、花のき村から、釜師と錠前屋と大工と角兵ヱ獅子とが、それぞれべつの方へ出ていきました。四人はうつむきがちに、歩いていきました。かれらはかしらのことを考えていました。よいかしらであったと思っておりました。よいかしらだから、最後にかしらが「盗人にはもうけっしてなるな。」といったことばを、守らなければならないと思っておりました。  角兵ヱは川のふちの草の中から笛を拾ってヒャラヒャラと鳴らしていきました。
五人の盗人と一人の村役人はどのように話したのでありましたか。
五人の盗人と一人の村役人はすっかり、くつろいで、十年もまえからの知り合いのように、ゆかいに笑ったり話したりしたのでありました。
JCRRAG_010999
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たずねて村役人の家へいくと、あらわれたのは、鼻の先に落ちかかるように眼鏡をかけた老人でしたので、盗人たちはまず安心しました。これなら、いざというときに、つきとばして逃げてしまえばいいと思ったからであります。  かしらが、子供のことを話して、 「わしら、その子供を見失って困っております。」 といいました。  老人は五人の顔を見まわして、 「いっこう、このあたりで見受けぬ人ばかりだが、どちらから参った。」 とききました。 「わしら、江戸から西の方へいくものです。」 「まさか盗人ではあるまいの。」 「いや、とんでもない。わしらはみな旅の職人です。釜師や大工や錠前屋などです。」 とかしらはあわてていいました。 「うむ、いや、変なことをいってすまなかった。お前達は盗人ではない。盗人が物をかえすわけがないでの。盗人なら、物をあずかれば、これさいわいとくすねていってしまうはずだ。いや、せっかくよい心で、そうして届けに来たのを、変なことを申してすまなかった。いや、わしは役目がら、人を疑うくせになっているのじゃ。人を見さえすれば、こいつ、かたりじゃないか、すりじゃないかと思うようなわけさ。ま、わるく思わないでくれ。」 と老人はいいわけをしてあやまりました。そして、仔牛はあずかっておくことにして、下男に物置の方へつれていかせました。 「旅で、みなさんお疲れじゃろ、わしはいまいい酒をひとびん西の館の太郎どんからもらったので、月を見ながら縁側でやろうとしていたのじゃ。いいとこへみなさんこられた。ひとつつきあいなされ。」  ひとの善い老人はそういって、五人の盗人を縁側につれていきました。  そこで酒をのみはじめましたが、五人の盗人と一人の村役人はすっかり、くつろいで、十年もまえからの知り合いのように、ゆかいに笑ったり話したりしたのでありました。  するとまた、盗人のかしらはじぶんの眼が涙をこぼしていることに気がつきました。それを見た老人の役人は、 「おまえさんは泣き上戸と見える。わしは笑い上戸で、泣いている人を見るとよけい笑えて来る。どうか悪く思わんでくだされや、笑うから。」 といって、口をあけて笑うのでした。 「いや、この、涙というやつは、まことにとめどなく出るものだね。」 とかしらは、眼をしばたきながらいいました。  それから五人の盗人は、お礼をいって村役人の家を出ました。  門を出て、柿の木のそばまで来ると、何か思い出したように、かしらが立ちどまりました。 「かしら、何か忘れものでもしましたか。」 と鉋太郎がききました。 「うむ、忘れもんがある。おまえらも、いっしょにもういっぺん来い。」 といって、かしらは弟子をつれて、また役人の家にはいっていきました。 「御老人。」 とかしらは縁側に手をついていいました。 「何だね、しんみりと。泣き上戸のおくの手が出るかな。ははは。」 と老人は笑いました。 「わしらはじつは盗人です。わしがかしらでこれらは弟子です。」  それをきくと老人は眼をまるくしました。 「いや、びっくりなさるのはごもっともです。わしはこんなことを白状するつもりじゃありませんでした。しかし御老人が心のよいお方で、わしらをまっとうな人間のように信じていて下さるのを見ては、わしはもう御老人をあざむいていることができなくなりました。」  そういって盗人のかしらは今までして来たわるいことをみな白状してしまいました。そしておしまいに、 「だが、これらは、昨日わしの弟子になったばかりで、まだ何も悪いことはしておりません。お慈悲で、どうぞ、これらだけは許してやって下さい。」 といいました。  次の朝、花のき村から、釜師と錠前屋と大工と角兵ヱ獅子とが、それぞれべつの方へ出ていきました。四人はうつむきがちに、歩いていきました。かれらはかしらのことを考えていました。よいかしらであったと思っておりました。よいかしらだから、最後にかしらが「盗人にはもうけっしてなるな。」といったことばを、守らなければならないと思っておりました。  角兵ヱは川のふちの草の中から笛を拾ってヒャラヒャラと鳴らしていきました。
かしらは門を出て、どこまで来ると、何か思い出したように立ちどまりましたか。
かしらは、門を出て、柿の木のそばまで来ると、何か思い出したように、立ちどまりました。
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小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。良平は毎日村外れへ、その工事を見物に行った。工事をといったところが、唯トロッコで土を運搬するそれが面白さに見に行ったのである。  トロッコの上には土工が二人、土を積んだ後に佇んでいる。トロッコは山を下るのだから、人手を借りずに走って来る。煽るように車台が動いたり、土工の袢天の裾がひらついたり、細い線路がしなったり良平はそんなけしきを眺めながら、土工になりたいと思う事がある。せめては一度でも土工と一しょに、トロッコへ乗りたいと思う事もある。トロッコは村外れの平地へ来ると、自然と其処に止まってしまう。と同時に土工たちは、身軽にトロッコを飛び降りるが早いか、その線路の終点へ車の土をぶちまける。それから今度はトロッコを押し押し、もと来た山の方へ登り始める。良平はその時乗れないまでも、押す事さえ出来たらと思うのである。  或夕方、それは二月の初旬だった。良平は二つ下の弟や、弟と同じ年の隣の子供と、トロッコの置いてある村外れへ行った。トロッコは泥だらけになったまま、薄明るい中に並んでいる。が、その外は何処を見ても、土工たちの姿は見えなかった。三人の子供は恐る恐る、一番端にあるトロッコを押した。トロッコは三人の力が揃うと、突然ごろりと車輪をまわした。良平はこの音にひやりとした。しかし二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかった。ごろり、ごろり、トロッコはそう云う音と共に、三人の手に押されながら、そろそろ線路を登って行った。  その内にかれこれ十間程来ると、線路の勾配が急になり出した。トロッコも三人の力では、いくら押しても動かなくなった。どうかすれば車と一しょに、押し戻されそうにもなる事がある。良平はもう好いと思ったから、年下の二人に合図をした。 「さあ、乗ろう!」  彼等は一度に手をはなすと、トロッコの上へ飛び乗った。トロッコは最初徐ろに、それから見る見る勢よく、一息に線路を下り出した。その途端につき当りの風景は、忽ち両側へ分かれるように、ずんずん目の前へ展開して来る。顔に当る薄暮の風、足の下に躍るトロッコの動揺、良平は殆ど有頂天になった。  しかしトロッコは二三分の後、もうもとの終点に止まっていた。
小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平が何歳の年でしたか。
小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年でした。