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Question
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JCRRAG_011001
国語
小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。良平は毎日村外れへ、その工事を見物に行った。工事をといったところが、唯トロッコで土を運搬するそれが面白さに見に行ったのである。  トロッコの上には土工が二人、土を積んだ後に佇んでいる。トロッコは山を下るのだから、人手を借りずに走って来る。煽るように車台が動いたり、土工の袢天の裾がひらついたり、細い線路がしなったり良平はそんなけしきを眺めながら、土工になりたいと思う事がある。せめては一度でも土工と一しょに、トロッコへ乗りたいと思う事もある。トロッコは村外れの平地へ来ると、自然と其処に止まってしまう。と同時に土工たちは、身軽にトロッコを飛び降りるが早いか、その線路の終点へ車の土をぶちまける。それから今度はトロッコを押し押し、もと来た山の方へ登り始める。良平はその時乗れないまでも、押す事さえ出来たらと思うのである。  或夕方、それは二月の初旬だった。良平は二つ下の弟や、弟と同じ年の隣の子供と、トロッコの置いてある村外れへ行った。トロッコは泥だらけになったまま、薄明るい中に並んでいる。が、その外は何処を見ても、土工たちの姿は見えなかった。三人の子供は恐る恐る、一番端にあるトロッコを押した。トロッコは三人の力が揃うと、突然ごろりと車輪をまわした。良平はこの音にひやりとした。しかし二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかった。ごろり、ごろり、トロッコはそう云う音と共に、三人の手に押されながら、そろそろ線路を登って行った。  その内にかれこれ十間程来ると、線路の勾配が急になり出した。トロッコも三人の力では、いくら押しても動かなくなった。どうかすれば車と一しょに、押し戻されそうにもなる事がある。良平はもう好いと思ったから、年下の二人に合図をした。 「さあ、乗ろう!」  彼等は一度に手をはなすと、トロッコの上へ飛び乗った。トロッコは最初徐ろに、それから見る見る勢よく、一息に線路を下り出した。その途端につき当りの風景は、忽ち両側へ分かれるように、ずんずん目の前へ展開して来る。顔に当る薄暮の風、足の下に躍るトロッコの動揺、良平は殆ど有頂天になった。  しかしトロッコは二三分の後、もうもとの終点に止まっていた。
良平は毎日どこへ、工事を見物に行きましたか。
良平は毎日村外れへ、工事を見物に行きました。
JCRRAG_011002
国語
小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。良平は毎日村外れへ、その工事を見物に行った。工事をといったところが、唯トロッコで土を運搬するそれが面白さに見に行ったのである。  トロッコの上には土工が二人、土を積んだ後に佇んでいる。トロッコは山を下るのだから、人手を借りずに走って来る。煽るように車台が動いたり、土工の袢天の裾がひらついたり、細い線路がしなったり良平はそんなけしきを眺めながら、土工になりたいと思う事がある。せめては一度でも土工と一しょに、トロッコへ乗りたいと思う事もある。トロッコは村外れの平地へ来ると、自然と其処に止まってしまう。と同時に土工たちは、身軽にトロッコを飛び降りるが早いか、その線路の終点へ車の土をぶちまける。それから今度はトロッコを押し押し、もと来た山の方へ登り始める。良平はその時乗れないまでも、押す事さえ出来たらと思うのである。  或夕方、それは二月の初旬だった。良平は二つ下の弟や、弟と同じ年の隣の子供と、トロッコの置いてある村外れへ行った。トロッコは泥だらけになったまま、薄明るい中に並んでいる。が、その外は何処を見ても、土工たちの姿は見えなかった。三人の子供は恐る恐る、一番端にあるトロッコを押した。トロッコは三人の力が揃うと、突然ごろりと車輪をまわした。良平はこの音にひやりとした。しかし二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかった。ごろり、ごろり、トロッコはそう云う音と共に、三人の手に押されながら、そろそろ線路を登って行った。  その内にかれこれ十間程来ると、線路の勾配が急になり出した。トロッコも三人の力では、いくら押しても動かなくなった。どうかすれば車と一しょに、押し戻されそうにもなる事がある。良平はもう好いと思ったから、年下の二人に合図をした。 「さあ、乗ろう!」  彼等は一度に手をはなすと、トロッコの上へ飛び乗った。トロッコは最初徐ろに、それから見る見る勢よく、一息に線路を下り出した。その途端につき当りの風景は、忽ち両側へ分かれるように、ずんずん目の前へ展開して来る。顔に当る薄暮の風、足の下に躍るトロッコの動揺、良平は殆ど有頂天になった。  しかしトロッコは二三分の後、もうもとの終点に止まっていた。
トロッコの上にはどのような人が、土を積んだ後に佇んでいますか。
トロッコの上には土工が二人、土を積んだ後に佇んでいます。
JCRRAG_011003
国語
小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。良平は毎日村外れへ、その工事を見物に行った。工事をといったところが、唯トロッコで土を運搬するそれが面白さに見に行ったのである。  トロッコの上には土工が二人、土を積んだ後に佇んでいる。トロッコは山を下るのだから、人手を借りずに走って来る。煽るように車台が動いたり、土工の袢天の裾がひらついたり、細い線路がしなったり良平はそんなけしきを眺めながら、土工になりたいと思う事がある。せめては一度でも土工と一しょに、トロッコへ乗りたいと思う事もある。トロッコは村外れの平地へ来ると、自然と其処に止まってしまう。と同時に土工たちは、身軽にトロッコを飛び降りるが早いか、その線路の終点へ車の土をぶちまける。それから今度はトロッコを押し押し、もと来た山の方へ登り始める。良平はその時乗れないまでも、押す事さえ出来たらと思うのである。  或夕方、それは二月の初旬だった。良平は二つ下の弟や、弟と同じ年の隣の子供と、トロッコの置いてある村外れへ行った。トロッコは泥だらけになったまま、薄明るい中に並んでいる。が、その外は何処を見ても、土工たちの姿は見えなかった。三人の子供は恐る恐る、一番端にあるトロッコを押した。トロッコは三人の力が揃うと、突然ごろりと車輪をまわした。良平はこの音にひやりとした。しかし二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかった。ごろり、ごろり、トロッコはそう云う音と共に、三人の手に押されながら、そろそろ線路を登って行った。  その内にかれこれ十間程来ると、線路の勾配が急になり出した。トロッコも三人の力では、いくら押しても動かなくなった。どうかすれば車と一しょに、押し戻されそうにもなる事がある。良平はもう好いと思ったから、年下の二人に合図をした。 「さあ、乗ろう!」  彼等は一度に手をはなすと、トロッコの上へ飛び乗った。トロッコは最初徐ろに、それから見る見る勢よく、一息に線路を下り出した。その途端につき当りの風景は、忽ち両側へ分かれるように、ずんずん目の前へ展開して来る。顔に当る薄暮の風、足の下に躍るトロッコの動揺、良平は殆ど有頂天になった。  しかしトロッコは二三分の後、もうもとの終点に止まっていた。
トロッコは村外れの平地へ来ると、自然にどうなりますか。
トロッコは村外れの平地へ来ると、自然と其処に止まってしまいます。
JCRRAG_011004
国語
小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。良平は毎日村外れへ、その工事を見物に行った。工事をといったところが、唯トロッコで土を運搬するそれが面白さに見に行ったのである。  トロッコの上には土工が二人、土を積んだ後に佇んでいる。トロッコは山を下るのだから、人手を借りずに走って来る。煽るように車台が動いたり、土工の袢天の裾がひらついたり、細い線路がしなったり良平はそんなけしきを眺めながら、土工になりたいと思う事がある。せめては一度でも土工と一しょに、トロッコへ乗りたいと思う事もある。トロッコは村外れの平地へ来ると、自然と其処に止まってしまう。と同時に土工たちは、身軽にトロッコを飛び降りるが早いか、その線路の終点へ車の土をぶちまける。それから今度はトロッコを押し押し、もと来た山の方へ登り始める。良平はその時乗れないまでも、押す事さえ出来たらと思うのである。  或夕方、それは二月の初旬だった。良平は二つ下の弟や、弟と同じ年の隣の子供と、トロッコの置いてある村外れへ行った。トロッコは泥だらけになったまま、薄明るい中に並んでいる。が、その外は何処を見ても、土工たちの姿は見えなかった。三人の子供は恐る恐る、一番端にあるトロッコを押した。トロッコは三人の力が揃うと、突然ごろりと車輪をまわした。良平はこの音にひやりとした。しかし二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかった。ごろり、ごろり、トロッコはそう云う音と共に、三人の手に押されながら、そろそろ線路を登って行った。  その内にかれこれ十間程来ると、線路の勾配が急になり出した。トロッコも三人の力では、いくら押しても動かなくなった。どうかすれば車と一しょに、押し戻されそうにもなる事がある。良平はもう好いと思ったから、年下の二人に合図をした。 「さあ、乗ろう!」  彼等は一度に手をはなすと、トロッコの上へ飛び乗った。トロッコは最初徐ろに、それから見る見る勢よく、一息に線路を下り出した。その途端につき当りの風景は、忽ち両側へ分かれるように、ずんずん目の前へ展開して来る。顔に当る薄暮の風、足の下に躍るトロッコの動揺、良平は殆ど有頂天になった。  しかしトロッコは二三分の後、もうもとの終点に止まっていた。
つき当りの風景は、どのように展開して来ますか。
つき当りの風景は、忽ち両側へ分かれるように、ずんずん目の前へ展開して来ます。
JCRRAG_011005
国語
三人はトロッコを押しながら緩い傾斜を登って行った。良平は車に手をかけていても、心は外の事を考えていた。  その坂を向うへ下り切ると、又同じような茶店があった。土工たちがその中へはいった後、良平はトロッコに腰をかけながら、帰る事ばかり気にしていた。茶店の前には花のさいた梅に、西日の光が消えかかっている。「もう日が暮れる」彼はそう考えると、ぼんやり腰かけてもいられなかった。トロッコの車輪を蹴って見たり、一人では動かないのを承知しながらうんうんそれを押して見たり、そんな事に気もちを紛らせていた。  ところが土工たちは出て来ると、車の上の枕木に手をかけながら、無造作に彼にこう云った。 「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」 「あんまり帰りが遅くなるとわれの家でも心配するずら」  良平は一瞬間呆気にとられた。もうかれこれ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の途はその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、そう云う事が一時にわかったのである。良平は殆ど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。泣いている場合ではないとも思った。彼は若い二人の土工に、取って附けたような御時宜をすると、どんどん線路伝いに走り出した。  良平は少時無我夢中に線路の側を走り続けた。その内に懐の菓子包みが、邪魔になる事に気がついたから、それを路側へ抛り出す次手に、板草履も其処へ脱ぎ捨ててしまった。すると薄い足袋の裏へじかに小石が食いこんだが、足だけは遙かに軽くなった。彼は左に海を感じながら、急な坂路を駈け登った。時時涙がこみ上げて来ると、自然に顔が歪んで来る。それは無理に我慢しても、鼻だけは絶えずくうくう鳴った。  竹藪の側を駈け抜けると、夕焼けのした日金山の空も、もう火照りが消えかかっていた。良平は、愈気が気でなかった。往きと返りと変るせいか、景色の違うのも不安だった。すると今度は着物までも、汗の濡れ通ったのが気になったから、やはり必死に駈け続けたなり、羽織を路側へ脱いで捨てた。  蜜柑畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれば」良平はそう思いながら、辷ってもつまずいても走って行った。  やっと遠い夕闇の中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駈け続けた。  彼の村へはいって見ると、もう両側の家家には、電燈の光がさし合っていた。良平はその電燈の光に、頭から汗の湯気の立つのが、彼自身にもはっきりわかった。井戸端に水を汲んでいる女衆や、畑から帰って来る男衆は、良平が喘ぎ喘ぎ走るのを見ては、「おいどうしたね?」などと声をかけた。が、彼は無言のまま、雑貨屋だの床屋だの、明るい家の前を走り過ぎた。  彼の家の門口へ駈けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周囲へ、一時に父や母を集まらせた。殊に母は何とか云いながら、良平の体を抱えるようにした。が、良平は手足をもがきながら、啜り上げ啜り上げ泣き続けた。その声が余り激しかったせいか、近所の女衆も三四人、薄暗い門口へ集って来た。父母は勿論その人たちは、口口に彼の泣く訣を尋ねた。しかし彼は何と云われても泣き立てるより外に仕方がなかった。あの遠い路を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、  良平は二十六の年、妻子と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。
良平はトロッコに腰をかけながら、何ばかり気にしていましたか。
良平はトロッコに腰をかけながら、帰る事ばかり気にしていました。
JCRRAG_011006
国語
三人はトロッコを押しながら緩い傾斜を登って行った。良平は車に手をかけていても、心は外の事を考えていた。  その坂を向うへ下り切ると、又同じような茶店があった。土工たちがその中へはいった後、良平はトロッコに腰をかけながら、帰る事ばかり気にしていた。茶店の前には花のさいた梅に、西日の光が消えかかっている。「もう日が暮れる」彼はそう考えると、ぼんやり腰かけてもいられなかった。トロッコの車輪を蹴って見たり、一人では動かないのを承知しながらうんうんそれを押して見たり、そんな事に気もちを紛らせていた。  ところが土工たちは出て来ると、車の上の枕木に手をかけながら、無造作に彼にこう云った。 「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」 「あんまり帰りが遅くなるとわれの家でも心配するずら」  良平は一瞬間呆気にとられた。もうかれこれ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の途はその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、そう云う事が一時にわかったのである。良平は殆ど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。泣いている場合ではないとも思った。彼は若い二人の土工に、取って附けたような御時宜をすると、どんどん線路伝いに走り出した。  良平は少時無我夢中に線路の側を走り続けた。その内に懐の菓子包みが、邪魔になる事に気がついたから、それを路側へ抛り出す次手に、板草履も其処へ脱ぎ捨ててしまった。すると薄い足袋の裏へじかに小石が食いこんだが、足だけは遙かに軽くなった。彼は左に海を感じながら、急な坂路を駈け登った。時時涙がこみ上げて来ると、自然に顔が歪んで来る。それは無理に我慢しても、鼻だけは絶えずくうくう鳴った。  竹藪の側を駈け抜けると、夕焼けのした日金山の空も、もう火照りが消えかかっていた。良平は、愈気が気でなかった。往きと返りと変るせいか、景色の違うのも不安だった。すると今度は着物までも、汗の濡れ通ったのが気になったから、やはり必死に駈け続けたなり、羽織を路側へ脱いで捨てた。  蜜柑畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれば」良平はそう思いながら、辷ってもつまずいても走って行った。  やっと遠い夕闇の中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駈け続けた。  彼の村へはいって見ると、もう両側の家家には、電燈の光がさし合っていた。良平はその電燈の光に、頭から汗の湯気の立つのが、彼自身にもはっきりわかった。井戸端に水を汲んでいる女衆や、畑から帰って来る男衆は、良平が喘ぎ喘ぎ走るのを見ては、「おいどうしたね?」などと声をかけた。が、彼は無言のまま、雑貨屋だの床屋だの、明るい家の前を走り過ぎた。  彼の家の門口へ駈けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周囲へ、一時に父や母を集まらせた。殊に母は何とか云いながら、良平の体を抱えるようにした。が、良平は手足をもがきながら、啜り上げ啜り上げ泣き続けた。その声が余り激しかったせいか、近所の女衆も三四人、薄暗い門口へ集って来た。父母は勿論その人たちは、口口に彼の泣く訣を尋ねた。しかし彼は何と云われても泣き立てるより外に仕方がなかった。あの遠い路を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、  良平は二十六の年、妻子と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。
三人はどのように緩い傾斜を登って行きましたか。
三人はトロッコを押しながら緩い傾斜を登って行きました。
JCRRAG_011007
国語
三人はトロッコを押しながら緩い傾斜を登って行った。良平は車に手をかけていても、心は外の事を考えていた。  その坂を向うへ下り切ると、又同じような茶店があった。土工たちがその中へはいった後、良平はトロッコに腰をかけながら、帰る事ばかり気にしていた。茶店の前には花のさいた梅に、西日の光が消えかかっている。「もう日が暮れる」彼はそう考えると、ぼんやり腰かけてもいられなかった。トロッコの車輪を蹴って見たり、一人では動かないのを承知しながらうんうんそれを押して見たり、そんな事に気もちを紛らせていた。  ところが土工たちは出て来ると、車の上の枕木に手をかけながら、無造作に彼にこう云った。 「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」 「あんまり帰りが遅くなるとわれの家でも心配するずら」  良平は一瞬間呆気にとられた。もうかれこれ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の途はその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、そう云う事が一時にわかったのである。良平は殆ど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。泣いている場合ではないとも思った。彼は若い二人の土工に、取って附けたような御時宜をすると、どんどん線路伝いに走り出した。  良平は少時無我夢中に線路の側を走り続けた。その内に懐の菓子包みが、邪魔になる事に気がついたから、それを路側へ抛り出す次手に、板草履も其処へ脱ぎ捨ててしまった。すると薄い足袋の裏へじかに小石が食いこんだが、足だけは遙かに軽くなった。彼は左に海を感じながら、急な坂路を駈け登った。時時涙がこみ上げて来ると、自然に顔が歪んで来る。それは無理に我慢しても、鼻だけは絶えずくうくう鳴った。  竹藪の側を駈け抜けると、夕焼けのした日金山の空も、もう火照りが消えかかっていた。良平は、愈気が気でなかった。往きと返りと変るせいか、景色の違うのも不安だった。すると今度は着物までも、汗の濡れ通ったのが気になったから、やはり必死に駈け続けたなり、羽織を路側へ脱いで捨てた。  蜜柑畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれば」良平はそう思いながら、辷ってもつまずいても走って行った。  やっと遠い夕闇の中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駈け続けた。  彼の村へはいって見ると、もう両側の家家には、電燈の光がさし合っていた。良平はその電燈の光に、頭から汗の湯気の立つのが、彼自身にもはっきりわかった。井戸端に水を汲んでいる女衆や、畑から帰って来る男衆は、良平が喘ぎ喘ぎ走るのを見ては、「おいどうしたね?」などと声をかけた。が、彼は無言のまま、雑貨屋だの床屋だの、明るい家の前を走り過ぎた。  彼の家の門口へ駈けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周囲へ、一時に父や母を集まらせた。殊に母は何とか云いながら、良平の体を抱えるようにした。が、良平は手足をもがきながら、啜り上げ啜り上げ泣き続けた。その声が余り激しかったせいか、近所の女衆も三四人、薄暗い門口へ集って来た。父母は勿論その人たちは、口口に彼の泣く訣を尋ねた。しかし彼は何と云われても泣き立てるより外に仕方がなかった。あの遠い路を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、  良平は二十六の年、妻子と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。
良平はトロッコに腰をかけながら、何を気にしていましたか。
良平はトロッコに腰をかけながら、帰る事ばかり気にしていました。
JCRRAG_011008
国語
三人はトロッコを押しながら緩い傾斜を登って行った。良平は車に手をかけていても、心は外の事を考えていた。  その坂を向うへ下り切ると、又同じような茶店があった。土工たちがその中へはいった後、良平はトロッコに腰をかけながら、帰る事ばかり気にしていた。茶店の前には花のさいた梅に、西日の光が消えかかっている。「もう日が暮れる」彼はそう考えると、ぼんやり腰かけてもいられなかった。トロッコの車輪を蹴って見たり、一人では動かないのを承知しながらうんうんそれを押して見たり、そんな事に気もちを紛らせていた。  ところが土工たちは出て来ると、車の上の枕木に手をかけながら、無造作に彼にこう云った。 「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」 「あんまり帰りが遅くなるとわれの家でも心配するずら」  良平は一瞬間呆気にとられた。もうかれこれ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の途はその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、そう云う事が一時にわかったのである。良平は殆ど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。泣いている場合ではないとも思った。彼は若い二人の土工に、取って附けたような御時宜をすると、どんどん線路伝いに走り出した。  良平は少時無我夢中に線路の側を走り続けた。その内に懐の菓子包みが、邪魔になる事に気がついたから、それを路側へ抛り出す次手に、板草履も其処へ脱ぎ捨ててしまった。すると薄い足袋の裏へじかに小石が食いこんだが、足だけは遙かに軽くなった。彼は左に海を感じながら、急な坂路を駈け登った。時時涙がこみ上げて来ると、自然に顔が歪んで来る。それは無理に我慢しても、鼻だけは絶えずくうくう鳴った。  竹藪の側を駈け抜けると、夕焼けのした日金山の空も、もう火照りが消えかかっていた。良平は、愈気が気でなかった。往きと返りと変るせいか、景色の違うのも不安だった。すると今度は着物までも、汗の濡れ通ったのが気になったから、やはり必死に駈け続けたなり、羽織を路側へ脱いで捨てた。  蜜柑畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれば」良平はそう思いながら、辷ってもつまずいても走って行った。  やっと遠い夕闇の中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駈け続けた。  彼の村へはいって見ると、もう両側の家家には、電燈の光がさし合っていた。良平はその電燈の光に、頭から汗の湯気の立つのが、彼自身にもはっきりわかった。井戸端に水を汲んでいる女衆や、畑から帰って来る男衆は、良平が喘ぎ喘ぎ走るのを見ては、「おいどうしたね?」などと声をかけた。が、彼は無言のまま、雑貨屋だの床屋だの、明るい家の前を走り過ぎた。  彼の家の門口へ駈けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周囲へ、一時に父や母を集まらせた。殊に母は何とか云いながら、良平の体を抱えるようにした。が、良平は手足をもがきながら、啜り上げ啜り上げ泣き続けた。その声が余り激しかったせいか、近所の女衆も三四人、薄暗い門口へ集って来た。父母は勿論その人たちは、口口に彼の泣く訣を尋ねた。しかし彼は何と云われても泣き立てるより外に仕方がなかった。あの遠い路を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、  良平は二十六の年、妻子と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。
良平はどのようにして気もちを紛らせていましたか。
良平はトロッコの車輪を蹴って見たり、一人では動かないのを承知しながらうんうんそれを押して見たり、そんな事に気もちを紛らせていました。
JCRRAG_011009
国語
「さあ、もう一度押すじゃあ」  良平は年下の二人と一しょに、又トロッコを押し上げにかかった。が、まだ車輪も動かない内に、突然彼等の後には、誰かの足音が聞え出した。のみならずそれは聞え出したと思うと、急にこう云う怒鳴り声に変った。 「この野郎! 誰に断ってトロに触った?」  其処には古い印袢天に、季節外れの麦藁帽をかぶった、背の高い土工が佇んでいる。そう云う姿が目にはいった時、良平は年下の二人と一しょに、もう五六間逃げ出していた。それぎり良平は使の帰りに、人気のない工事場のトロッコを見ても、二度と乗って見ようと思った事はない。唯その時の土工の姿は、今でも良平の頭の何処かに、はっきりした記憶を残している。薄明りの中に仄めいた、小さい黄色の麦藁帽、しかしその記憶さえも、年毎に色彩は薄れるらしい。  その後十日余りたってから、良平は又たった一人、午過ぎの工事場に佇みながら、トロッコの来るのを眺めていた。すると土を積んだトロッコの外に、枕木を積んだトロッコが一輛、これは本線になる筈の、太い線路を登って来た。このトロッコを押しているのは、二人とも若い男だった。良平は彼等を見た時から、何だか親しみ易いような気がした。「この人たちならば叱られない」彼はそう思いながら、トロッコの側へ駈けて行った。 「おじさん。押してやろうか?」  その中の一人、縞のシャツを着ている男は、俯向きにトロッコを押したまま、思った通り快い返事をした。 「おお、押してくよう」  良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めた。 「われは中中力があるな」  他の一人、耳に巻煙草を挟んだ男も、こう良平を褒めてくれた。  その内に線路の勾配は、だんだん楽になり始めた。「もう押さなくとも好い」良平は今にも云われるかと内心気がかりでならなかった。が、若い二人の土工は、前よりも腰を起したぎり、黙黙と車を押し続けていた。良平はとうとうこらえ切れずに、怯ず怯ずこんな事を尋ねて見た。 「何時までも押していて好い?」 「好いとも」  二人は同時に返事をした。良平は「優しい人たちだ」と思った。  五六町余り押し続けたら、線路はもう一度急勾配になった。其処には両側の蜜柑畑に、黄色い実がいくつも日を受けている。 「登り路の方が好い、何時までも押させてくれるから」良平はそんな事を考えながら、全身でトロッコを押すようにした。  蜜柑畑の間を登りつめると、急に線路は下りになった。縞のシャツを着ている男は、良平に「やい、乗れ」と云った。良平は直に飛び乗った。トロッコは三人が乗り移ると同時に、蜜柑畑の匀を煽りながら、ひた辷りに線路を走り出した。「押すよりも乗る方がずっと好い」良平は羽織に風を孕ませながら、当り前の事を考えた。「行きに押す所が多ければ、帰りに又乗る所が多い」そうもまた考えたりした。  竹藪のある所へ来ると、トロッコは静かに走るのを止めた。三人は又前のように、重いトロッコを押し始めた。竹藪は何時か雑木林になった。爪先上りの所所には、赤錆の線路も見えない程、落葉のたまっている場所もあった。その路をやっと登り切ったら、今度は高い崖の向うに、広広と薄ら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、余り遠く来過ぎた事が、急にはっきりと感じられた。  三人は又トロッコへ乗った。車は海を右にしながら、雑木の枝の下を走って行った。しかし良平はさっきのように、面白い気もちにはなれなかった。「もう帰ってくれれば好い」彼はそうも念じて見た。が、行く所まで行きつかなければ、トロッコも彼等も帰れない事は、勿論彼にもわかり切っていた。  その次に車の止まったのは、切崩した山を背負っている、藁屋根の茶店の前だった。二人の土工はその店へはいると、乳呑児をおぶった上さんを相手に、悠悠と茶などを飲み始めた。良平は独りいらいらしながら、トロッコのまわりをまわって見た。トロッコには頑丈な車台の板に、跳ねかえった泥が乾いていた。  少時の後茶店を出て来しなに、巻煙草を耳に挟んだ男は、(その時はもう挟んでいなかったが)トロッコの側にいる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。良平は冷淡に「難有う」と云った。が、直に冷淡にしては、相手にすまないと思い直した。彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つを口へ入れた。菓子には新聞紙にあったらしい、石油の匀がしみついていた。
良平は年下の二人と一しょに、もう何間逃げ出していましたか。
良平は年下の二人と一しょに、もう五六間逃げ出していました。
JCRRAG_011010
国語
「さあ、もう一度押すじゃあ」  良平は年下の二人と一しょに、又トロッコを押し上げにかかった。が、まだ車輪も動かない内に、突然彼等の後には、誰かの足音が聞え出した。のみならずそれは聞え出したと思うと、急にこう云う怒鳴り声に変った。 「この野郎! 誰に断ってトロに触った?」  其処には古い印袢天に、季節外れの麦藁帽をかぶった、背の高い土工が佇んでいる。そう云う姿が目にはいった時、良平は年下の二人と一しょに、もう五六間逃げ出していた。それぎり良平は使の帰りに、人気のない工事場のトロッコを見ても、二度と乗って見ようと思った事はない。唯その時の土工の姿は、今でも良平の頭の何処かに、はっきりした記憶を残している。薄明りの中に仄めいた、小さい黄色の麦藁帽、しかしその記憶さえも、年毎に色彩は薄れるらしい。  その後十日余りたってから、良平は又たった一人、午過ぎの工事場に佇みながら、トロッコの来るのを眺めていた。すると土を積んだトロッコの外に、枕木を積んだトロッコが一輛、これは本線になる筈の、太い線路を登って来た。このトロッコを押しているのは、二人とも若い男だった。良平は彼等を見た時から、何だか親しみ易いような気がした。「この人たちならば叱られない」彼はそう思いながら、トロッコの側へ駈けて行った。 「おじさん。押してやろうか?」  その中の一人、縞のシャツを着ている男は、俯向きにトロッコを押したまま、思った通り快い返事をした。 「おお、押してくよう」  良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めた。 「われは中中力があるな」  他の一人、耳に巻煙草を挟んだ男も、こう良平を褒めてくれた。  その内に線路の勾配は、だんだん楽になり始めた。「もう押さなくとも好い」良平は今にも云われるかと内心気がかりでならなかった。が、若い二人の土工は、前よりも腰を起したぎり、黙黙と車を押し続けていた。良平はとうとうこらえ切れずに、怯ず怯ずこんな事を尋ねて見た。 「何時までも押していて好い?」 「好いとも」  二人は同時に返事をした。良平は「優しい人たちだ」と思った。  五六町余り押し続けたら、線路はもう一度急勾配になった。其処には両側の蜜柑畑に、黄色い実がいくつも日を受けている。 「登り路の方が好い、何時までも押させてくれるから」良平はそんな事を考えながら、全身でトロッコを押すようにした。  蜜柑畑の間を登りつめると、急に線路は下りになった。縞のシャツを着ている男は、良平に「やい、乗れ」と云った。良平は直に飛び乗った。トロッコは三人が乗り移ると同時に、蜜柑畑の匀を煽りながら、ひた辷りに線路を走り出した。「押すよりも乗る方がずっと好い」良平は羽織に風を孕ませながら、当り前の事を考えた。「行きに押す所が多ければ、帰りに又乗る所が多い」そうもまた考えたりした。  竹藪のある所へ来ると、トロッコは静かに走るのを止めた。三人は又前のように、重いトロッコを押し始めた。竹藪は何時か雑木林になった。爪先上りの所所には、赤錆の線路も見えない程、落葉のたまっている場所もあった。その路をやっと登り切ったら、今度は高い崖の向うに、広広と薄ら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、余り遠く来過ぎた事が、急にはっきりと感じられた。  三人は又トロッコへ乗った。車は海を右にしながら、雑木の枝の下を走って行った。しかし良平はさっきのように、面白い気もちにはなれなかった。「もう帰ってくれれば好い」彼はそうも念じて見た。が、行く所まで行きつかなければ、トロッコも彼等も帰れない事は、勿論彼にもわかり切っていた。  その次に車の止まったのは、切崩した山を背負っている、藁屋根の茶店の前だった。二人の土工はその店へはいると、乳呑児をおぶった上さんを相手に、悠悠と茶などを飲み始めた。良平は独りいらいらしながら、トロッコのまわりをまわって見た。トロッコには頑丈な車台の板に、跳ねかえった泥が乾いていた。  少時の後茶店を出て来しなに、巻煙草を耳に挟んだ男は、(その時はもう挟んでいなかったが)トロッコの側にいる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。良平は冷淡に「難有う」と云った。が、直に冷淡にしては、相手にすまないと思い直した。彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つを口へ入れた。菓子には新聞紙にあったらしい、石油の匀がしみついていた。
良平はたった一人、何をしながら、トロッコの来るのを眺めていましたか。
良平はたった一人、午過ぎの工事場に佇みながら、トロッコの来るのを眺めていました。
JCRRAG_011011
国語
「さあ、もう一度押すじゃあ」  良平は年下の二人と一しょに、又トロッコを押し上げにかかった。が、まだ車輪も動かない内に、突然彼等の後には、誰かの足音が聞え出した。のみならずそれは聞え出したと思うと、急にこう云う怒鳴り声に変った。 「この野郎! 誰に断ってトロに触った?」  其処には古い印袢天に、季節外れの麦藁帽をかぶった、背の高い土工が佇んでいる。そう云う姿が目にはいった時、良平は年下の二人と一しょに、もう五六間逃げ出していた。それぎり良平は使の帰りに、人気のない工事場のトロッコを見ても、二度と乗って見ようと思った事はない。唯その時の土工の姿は、今でも良平の頭の何処かに、はっきりした記憶を残している。薄明りの中に仄めいた、小さい黄色の麦藁帽、しかしその記憶さえも、年毎に色彩は薄れるらしい。  その後十日余りたってから、良平は又たった一人、午過ぎの工事場に佇みながら、トロッコの来るのを眺めていた。すると土を積んだトロッコの外に、枕木を積んだトロッコが一輛、これは本線になる筈の、太い線路を登って来た。このトロッコを押しているのは、二人とも若い男だった。良平は彼等を見た時から、何だか親しみ易いような気がした。「この人たちならば叱られない」彼はそう思いながら、トロッコの側へ駈けて行った。 「おじさん。押してやろうか?」  その中の一人、縞のシャツを着ている男は、俯向きにトロッコを押したまま、思った通り快い返事をした。 「おお、押してくよう」  良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めた。 「われは中中力があるな」  他の一人、耳に巻煙草を挟んだ男も、こう良平を褒めてくれた。  その内に線路の勾配は、だんだん楽になり始めた。「もう押さなくとも好い」良平は今にも云われるかと内心気がかりでならなかった。が、若い二人の土工は、前よりも腰を起したぎり、黙黙と車を押し続けていた。良平はとうとうこらえ切れずに、怯ず怯ずこんな事を尋ねて見た。 「何時までも押していて好い?」 「好いとも」  二人は同時に返事をした。良平は「優しい人たちだ」と思った。  五六町余り押し続けたら、線路はもう一度急勾配になった。其処には両側の蜜柑畑に、黄色い実がいくつも日を受けている。 「登り路の方が好い、何時までも押させてくれるから」良平はそんな事を考えながら、全身でトロッコを押すようにした。  蜜柑畑の間を登りつめると、急に線路は下りになった。縞のシャツを着ている男は、良平に「やい、乗れ」と云った。良平は直に飛び乗った。トロッコは三人が乗り移ると同時に、蜜柑畑の匀を煽りながら、ひた辷りに線路を走り出した。「押すよりも乗る方がずっと好い」良平は羽織に風を孕ませながら、当り前の事を考えた。「行きに押す所が多ければ、帰りに又乗る所が多い」そうもまた考えたりした。  竹藪のある所へ来ると、トロッコは静かに走るのを止めた。三人は又前のように、重いトロッコを押し始めた。竹藪は何時か雑木林になった。爪先上りの所所には、赤錆の線路も見えない程、落葉のたまっている場所もあった。その路をやっと登り切ったら、今度は高い崖の向うに、広広と薄ら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、余り遠く来過ぎた事が、急にはっきりと感じられた。  三人は又トロッコへ乗った。車は海を右にしながら、雑木の枝の下を走って行った。しかし良平はさっきのように、面白い気もちにはなれなかった。「もう帰ってくれれば好い」彼はそうも念じて見た。が、行く所まで行きつかなければ、トロッコも彼等も帰れない事は、勿論彼にもわかり切っていた。  その次に車の止まったのは、切崩した山を背負っている、藁屋根の茶店の前だった。二人の土工はその店へはいると、乳呑児をおぶった上さんを相手に、悠悠と茶などを飲み始めた。良平は独りいらいらしながら、トロッコのまわりをまわって見た。トロッコには頑丈な車台の板に、跳ねかえった泥が乾いていた。  少時の後茶店を出て来しなに、巻煙草を耳に挟んだ男は、(その時はもう挟んでいなかったが)トロッコの側にいる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。良平は冷淡に「難有う」と云った。が、直に冷淡にしては、相手にすまないと思い直した。彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つを口へ入れた。菓子には新聞紙にあったらしい、石油の匀がしみついていた。
良平は二人の間にはいると、何をしましたか。
良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めました。
JCRRAG_011012
国語
「さあ、もう一度押すじゃあ」  良平は年下の二人と一しょに、又トロッコを押し上げにかかった。が、まだ車輪も動かない内に、突然彼等の後には、誰かの足音が聞え出した。のみならずそれは聞え出したと思うと、急にこう云う怒鳴り声に変った。 「この野郎! 誰に断ってトロに触った?」  其処には古い印袢天に、季節外れの麦藁帽をかぶった、背の高い土工が佇んでいる。そう云う姿が目にはいった時、良平は年下の二人と一しょに、もう五六間逃げ出していた。それぎり良平は使の帰りに、人気のない工事場のトロッコを見ても、二度と乗って見ようと思った事はない。唯その時の土工の姿は、今でも良平の頭の何処かに、はっきりした記憶を残している。薄明りの中に仄めいた、小さい黄色の麦藁帽、しかしその記憶さえも、年毎に色彩は薄れるらしい。  その後十日余りたってから、良平は又たった一人、午過ぎの工事場に佇みながら、トロッコの来るのを眺めていた。すると土を積んだトロッコの外に、枕木を積んだトロッコが一輛、これは本線になる筈の、太い線路を登って来た。このトロッコを押しているのは、二人とも若い男だった。良平は彼等を見た時から、何だか親しみ易いような気がした。「この人たちならば叱られない」彼はそう思いながら、トロッコの側へ駈けて行った。 「おじさん。押してやろうか?」  その中の一人、縞のシャツを着ている男は、俯向きにトロッコを押したまま、思った通り快い返事をした。 「おお、押してくよう」  良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めた。 「われは中中力があるな」  他の一人、耳に巻煙草を挟んだ男も、こう良平を褒めてくれた。  その内に線路の勾配は、だんだん楽になり始めた。「もう押さなくとも好い」良平は今にも云われるかと内心気がかりでならなかった。が、若い二人の土工は、前よりも腰を起したぎり、黙黙と車を押し続けていた。良平はとうとうこらえ切れずに、怯ず怯ずこんな事を尋ねて見た。 「何時までも押していて好い?」 「好いとも」  二人は同時に返事をした。良平は「優しい人たちだ」と思った。  五六町余り押し続けたら、線路はもう一度急勾配になった。其処には両側の蜜柑畑に、黄色い実がいくつも日を受けている。 「登り路の方が好い、何時までも押させてくれるから」良平はそんな事を考えながら、全身でトロッコを押すようにした。  蜜柑畑の間を登りつめると、急に線路は下りになった。縞のシャツを着ている男は、良平に「やい、乗れ」と云った。良平は直に飛び乗った。トロッコは三人が乗り移ると同時に、蜜柑畑の匀を煽りながら、ひた辷りに線路を走り出した。「押すよりも乗る方がずっと好い」良平は羽織に風を孕ませながら、当り前の事を考えた。「行きに押す所が多ければ、帰りに又乗る所が多い」そうもまた考えたりした。  竹藪のある所へ来ると、トロッコは静かに走るのを止めた。三人は又前のように、重いトロッコを押し始めた。竹藪は何時か雑木林になった。爪先上りの所所には、赤錆の線路も見えない程、落葉のたまっている場所もあった。その路をやっと登り切ったら、今度は高い崖の向うに、広広と薄ら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、余り遠く来過ぎた事が、急にはっきりと感じられた。  三人は又トロッコへ乗った。車は海を右にしながら、雑木の枝の下を走って行った。しかし良平はさっきのように、面白い気もちにはなれなかった。「もう帰ってくれれば好い」彼はそうも念じて見た。が、行く所まで行きつかなければ、トロッコも彼等も帰れない事は、勿論彼にもわかり切っていた。  その次に車の止まったのは、切崩した山を背負っている、藁屋根の茶店の前だった。二人の土工はその店へはいると、乳呑児をおぶった上さんを相手に、悠悠と茶などを飲み始めた。良平は独りいらいらしながら、トロッコのまわりをまわって見た。トロッコには頑丈な車台の板に、跳ねかえった泥が乾いていた。  少時の後茶店を出て来しなに、巻煙草を耳に挟んだ男は、(その時はもう挟んでいなかったが)トロッコの側にいる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。良平は冷淡に「難有う」と云った。が、直に冷淡にしては、相手にすまないと思い直した。彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つを口へ入れた。菓子には新聞紙にあったらしい、石油の匀がしみついていた。
良平は全身で何を押すようにしましたか。
良平は全身でトロッコを押すようにしました。
JCRRAG_011013
国語
「さあ、もう一度押すじゃあ」  良平は年下の二人と一しょに、又トロッコを押し上げにかかった。が、まだ車輪も動かない内に、突然彼等の後には、誰かの足音が聞え出した。のみならずそれは聞え出したと思うと、急にこう云う怒鳴り声に変った。 「この野郎! 誰に断ってトロに触った?」  其処には古い印袢天に、季節外れの麦藁帽をかぶった、背の高い土工が佇んでいる。そう云う姿が目にはいった時、良平は年下の二人と一しょに、もう五六間逃げ出していた。それぎり良平は使の帰りに、人気のない工事場のトロッコを見ても、二度と乗って見ようと思った事はない。唯その時の土工の姿は、今でも良平の頭の何処かに、はっきりした記憶を残している。薄明りの中に仄めいた、小さい黄色の麦藁帽、しかしその記憶さえも、年毎に色彩は薄れるらしい。  その後十日余りたってから、良平は又たった一人、午過ぎの工事場に佇みながら、トロッコの来るのを眺めていた。すると土を積んだトロッコの外に、枕木を積んだトロッコが一輛、これは本線になる筈の、太い線路を登って来た。このトロッコを押しているのは、二人とも若い男だった。良平は彼等を見た時から、何だか親しみ易いような気がした。「この人たちならば叱られない」彼はそう思いながら、トロッコの側へ駈けて行った。 「おじさん。押してやろうか?」  その中の一人、縞のシャツを着ている男は、俯向きにトロッコを押したまま、思った通り快い返事をした。 「おお、押してくよう」  良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めた。 「われは中中力があるな」  他の一人、耳に巻煙草を挟んだ男も、こう良平を褒めてくれた。  その内に線路の勾配は、だんだん楽になり始めた。「もう押さなくとも好い」良平は今にも云われるかと内心気がかりでならなかった。が、若い二人の土工は、前よりも腰を起したぎり、黙黙と車を押し続けていた。良平はとうとうこらえ切れずに、怯ず怯ずこんな事を尋ねて見た。 「何時までも押していて好い?」 「好いとも」  二人は同時に返事をした。良平は「優しい人たちだ」と思った。  五六町余り押し続けたら、線路はもう一度急勾配になった。其処には両側の蜜柑畑に、黄色い実がいくつも日を受けている。 「登り路の方が好い、何時までも押させてくれるから」良平はそんな事を考えながら、全身でトロッコを押すようにした。  蜜柑畑の間を登りつめると、急に線路は下りになった。縞のシャツを着ている男は、良平に「やい、乗れ」と云った。良平は直に飛び乗った。トロッコは三人が乗り移ると同時に、蜜柑畑の匀を煽りながら、ひた辷りに線路を走り出した。「押すよりも乗る方がずっと好い」良平は羽織に風を孕ませながら、当り前の事を考えた。「行きに押す所が多ければ、帰りに又乗る所が多い」そうもまた考えたりした。  竹藪のある所へ来ると、トロッコは静かに走るのを止めた。三人は又前のように、重いトロッコを押し始めた。竹藪は何時か雑木林になった。爪先上りの所所には、赤錆の線路も見えない程、落葉のたまっている場所もあった。その路をやっと登り切ったら、今度は高い崖の向うに、広広と薄ら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、余り遠く来過ぎた事が、急にはっきりと感じられた。  三人は又トロッコへ乗った。車は海を右にしながら、雑木の枝の下を走って行った。しかし良平はさっきのように、面白い気もちにはなれなかった。「もう帰ってくれれば好い」彼はそうも念じて見た。が、行く所まで行きつかなければ、トロッコも彼等も帰れない事は、勿論彼にもわかり切っていた。  その次に車の止まったのは、切崩した山を背負っている、藁屋根の茶店の前だった。二人の土工はその店へはいると、乳呑児をおぶった上さんを相手に、悠悠と茶などを飲み始めた。良平は独りいらいらしながら、トロッコのまわりをまわって見た。トロッコには頑丈な車台の板に、跳ねかえった泥が乾いていた。  少時の後茶店を出て来しなに、巻煙草を耳に挟んだ男は、(その時はもう挟んでいなかったが)トロッコの側にいる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。良平は冷淡に「難有う」と云った。が、直に冷淡にしては、相手にすまないと思い直した。彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つを口へ入れた。菓子には新聞紙にあったらしい、石油の匀がしみついていた。
良平は冷淡に何と云いましたか。
良平は冷淡に「難有う」と云いました。
JCRRAG_011014
国語
これは、私が小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。  むかしは、私たちの村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまが、おられたそうです。  その中山から、少しはなれた山の中に、「ごん狐」という狐がいました。ごんは、一人ぼっちの小狐で、しだの一ぱいしげった森の中に穴をほって住んでいました。そして、夜でも昼でも、あたりの村へ出てきて、いたずらばかりしました。はたけへ入って芋をほりちらしたり、菜種がらの、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家の裏手につるしてあるとんがらしをむしりとって、いったり、いろんなことをしました。  或秋のことでした。二、三日雨がふりつづいたその間、ごんは、外へも出られなくて穴の中にしゃがんでいました。  雨があがると、ごんは、ほっとして穴からはい出ました。空はからっと晴れていて、百舌鳥の声がきんきん、ひびいていました。  ごんは、村の小川の堤まで出て来ました。あたりの、すすきの穂には、まだ雨のしずくが光っていました。川は、いつもは水が少いのですが、三日もの雨で、水が、どっとましていました。ただのときは水につかることのない、川べりのすすきや、萩の株が、黄いろくにごった水に横だおしになって、もまれています。ごんは川下の方へと、ぬかるみみちを歩いていきました。  ふと見ると、川の中に人がいて、何かやっています。ごんは、見つからないように、そうっと草の深いところへ歩きよって、そこからじっとのぞいてみました。 「兵十だな」と、ごんは思いました。兵十はぼろぼろの黒いきものをまくし上げて、腰のところまで水にひたりながら、魚をとる、はりきりという、網をゆすぶっていました。はちまきをした顔の横っちょうに、まるい萩の葉が一まい、大きな黒子みたいにへばりついていました。  しばらくすると、兵十は、はりきり網の一ばんうしろの、袋のようになったところを、水の中からもちあげました。その中には、芝の根や、草の葉や、くさった木ぎれなどが、ごちゃごちゃはいっていましたが、でもところどころ、白いものがきらきら光っています。それは、ふというなぎの腹や、大きなきすの腹でした。兵十は、びくの中へ、そのうなぎやきすを、ごみと一しょにぶちこみました。そして、また、袋の口をしばって、水の中へ入れました。  兵十はそれから、びくをもって川から上りびくを土手においといて、何をさがしにか、川上の方へかけていきました。  兵十がいなくなると、ごんは、ぴょいと草の中からとび出して、びくのそばへかけつけました。ちょいと、いたずらがしたくなったのです。ごんはびくの中の魚をつかみ出しては、はりきり網のかかっているところより下手の川の中を目がけて、ぽんぽんなげこみました。どの魚も、「とぼん」と音を立てながら、にごった水の中へもぐりこみました。  一ばんしまいに、太いうなぎをつかみにかかりましたが、何しろぬるぬるとすべりぬけるので、手ではつかめません。ごんはじれったくなって、頭をびくの中につッこんで、うなぎの頭を口にくわえました。うなぎは、キュッと言ってごんの首へまきつきました。そのとたんに兵十が、向うから、 「うわアぬすと狐め」と、どなりたてました。ごんは、びっくりしてとびあがりました。うなぎをふりすててにげようとしましたが、うなぎは、ごんの首にまきついたままはなれません。ごんはそのまま横っとびにとび出して一しょうけんめいに、にげていきました。  ほら穴の近くの、はんの木の下でふりかえって見ましたが、兵十は追っかけては来ませんでした。  ごんは、ほっとして、うなぎの頭をかみくだき、やっとはずして穴のそとの、草の葉の上にのせておきました。
ごんは、一人ぼっちの小狐で、どこに穴をほって住んでいましたか。
ごんは、一人ぼっちの小狐で、しだの一ぱいしげった森の中に穴をほって住んでいました。
JCRRAG_011015
国語
これは、私が小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。  むかしは、私たちの村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまが、おられたそうです。  その中山から、少しはなれた山の中に、「ごん狐」という狐がいました。ごんは、一人ぼっちの小狐で、しだの一ぱいしげった森の中に穴をほって住んでいました。そして、夜でも昼でも、あたりの村へ出てきて、いたずらばかりしました。はたけへ入って芋をほりちらしたり、菜種がらの、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家の裏手につるしてあるとんがらしをむしりとって、いったり、いろんなことをしました。  或秋のことでした。二、三日雨がふりつづいたその間、ごんは、外へも出られなくて穴の中にしゃがんでいました。  雨があがると、ごんは、ほっとして穴からはい出ました。空はからっと晴れていて、百舌鳥の声がきんきん、ひびいていました。  ごんは、村の小川の堤まで出て来ました。あたりの、すすきの穂には、まだ雨のしずくが光っていました。川は、いつもは水が少いのですが、三日もの雨で、水が、どっとましていました。ただのときは水につかることのない、川べりのすすきや、萩の株が、黄いろくにごった水に横だおしになって、もまれています。ごんは川下の方へと、ぬかるみみちを歩いていきました。  ふと見ると、川の中に人がいて、何かやっています。ごんは、見つからないように、そうっと草の深いところへ歩きよって、そこからじっとのぞいてみました。 「兵十だな」と、ごんは思いました。兵十はぼろぼろの黒いきものをまくし上げて、腰のところまで水にひたりながら、魚をとる、はりきりという、網をゆすぶっていました。はちまきをした顔の横っちょうに、まるい萩の葉が一まい、大きな黒子みたいにへばりついていました。  しばらくすると、兵十は、はりきり網の一ばんうしろの、袋のようになったところを、水の中からもちあげました。その中には、芝の根や、草の葉や、くさった木ぎれなどが、ごちゃごちゃはいっていましたが、でもところどころ、白いものがきらきら光っています。それは、ふというなぎの腹や、大きなきすの腹でした。兵十は、びくの中へ、そのうなぎやきすを、ごみと一しょにぶちこみました。そして、また、袋の口をしばって、水の中へ入れました。  兵十はそれから、びくをもって川から上りびくを土手においといて、何をさがしにか、川上の方へかけていきました。  兵十がいなくなると、ごんは、ぴょいと草の中からとび出して、びくのそばへかけつけました。ちょいと、いたずらがしたくなったのです。ごんはびくの中の魚をつかみ出しては、はりきり網のかかっているところより下手の川の中を目がけて、ぽんぽんなげこみました。どの魚も、「とぼん」と音を立てながら、にごった水の中へもぐりこみました。  一ばんしまいに、太いうなぎをつかみにかかりましたが、何しろぬるぬるとすべりぬけるので、手ではつかめません。ごんはじれったくなって、頭をびくの中につッこんで、うなぎの頭を口にくわえました。うなぎは、キュッと言ってごんの首へまきつきました。そのとたんに兵十が、向うから、 「うわアぬすと狐め」と、どなりたてました。ごんは、びっくりしてとびあがりました。うなぎをふりすててにげようとしましたが、うなぎは、ごんの首にまきついたままはなれません。ごんはそのまま横っとびにとび出して一しょうけんめいに、にげていきました。  ほら穴の近くの、はんの木の下でふりかえって見ましたが、兵十は追っかけては来ませんでした。  ごんは、ほっとして、うなぎの頭をかみくだき、やっとはずして穴のそとの、草の葉の上にのせておきました。
ごんは、どこまで出て来ましたか。
ごんは、村の小川の堤まで出て来ました。
JCRRAG_011016
国語
これは、私が小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。  むかしは、私たちの村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまが、おられたそうです。  その中山から、少しはなれた山の中に、「ごん狐」という狐がいました。ごんは、一人ぼっちの小狐で、しだの一ぱいしげった森の中に穴をほって住んでいました。そして、夜でも昼でも、あたりの村へ出てきて、いたずらばかりしました。はたけへ入って芋をほりちらしたり、菜種がらの、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家の裏手につるしてあるとんがらしをむしりとって、いったり、いろんなことをしました。  或秋のことでした。二、三日雨がふりつづいたその間、ごんは、外へも出られなくて穴の中にしゃがんでいました。  雨があがると、ごんは、ほっとして穴からはい出ました。空はからっと晴れていて、百舌鳥の声がきんきん、ひびいていました。  ごんは、村の小川の堤まで出て来ました。あたりの、すすきの穂には、まだ雨のしずくが光っていました。川は、いつもは水が少いのですが、三日もの雨で、水が、どっとましていました。ただのときは水につかることのない、川べりのすすきや、萩の株が、黄いろくにごった水に横だおしになって、もまれています。ごんは川下の方へと、ぬかるみみちを歩いていきました。  ふと見ると、川の中に人がいて、何かやっています。ごんは、見つからないように、そうっと草の深いところへ歩きよって、そこからじっとのぞいてみました。 「兵十だな」と、ごんは思いました。兵十はぼろぼろの黒いきものをまくし上げて、腰のところまで水にひたりながら、魚をとる、はりきりという、網をゆすぶっていました。はちまきをした顔の横っちょうに、まるい萩の葉が一まい、大きな黒子みたいにへばりついていました。  しばらくすると、兵十は、はりきり網の一ばんうしろの、袋のようになったところを、水の中からもちあげました。その中には、芝の根や、草の葉や、くさった木ぎれなどが、ごちゃごちゃはいっていましたが、でもところどころ、白いものがきらきら光っています。それは、ふというなぎの腹や、大きなきすの腹でした。兵十は、びくの中へ、そのうなぎやきすを、ごみと一しょにぶちこみました。そして、また、袋の口をしばって、水の中へ入れました。  兵十はそれから、びくをもって川から上りびくを土手においといて、何をさがしにか、川上の方へかけていきました。  兵十がいなくなると、ごんは、ぴょいと草の中からとび出して、びくのそばへかけつけました。ちょいと、いたずらがしたくなったのです。ごんはびくの中の魚をつかみ出しては、はりきり網のかかっているところより下手の川の中を目がけて、ぽんぽんなげこみました。どの魚も、「とぼん」と音を立てながら、にごった水の中へもぐりこみました。  一ばんしまいに、太いうなぎをつかみにかかりましたが、何しろぬるぬるとすべりぬけるので、手ではつかめません。ごんはじれったくなって、頭をびくの中につッこんで、うなぎの頭を口にくわえました。うなぎは、キュッと言ってごんの首へまきつきました。そのとたんに兵十が、向うから、 「うわアぬすと狐め」と、どなりたてました。ごんは、びっくりしてとびあがりました。うなぎをふりすててにげようとしましたが、うなぎは、ごんの首にまきついたままはなれません。ごんはそのまま横っとびにとび出して一しょうけんめいに、にげていきました。  ほら穴の近くの、はんの木の下でふりかえって見ましたが、兵十は追っかけては来ませんでした。  ごんは、ほっとして、うなぎの頭をかみくだき、やっとはずして穴のそとの、草の葉の上にのせておきました。
ごんは、見つからないように、どこからじっとのぞいてみましたか。
ごんは、見つからないように、そうっと草の深いところへ歩きよって、そこからじっとのぞいてみました。
JCRRAG_011017
国語
これは、私が小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。  むかしは、私たちの村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまが、おられたそうです。  その中山から、少しはなれた山の中に、「ごん狐」という狐がいました。ごんは、一人ぼっちの小狐で、しだの一ぱいしげった森の中に穴をほって住んでいました。そして、夜でも昼でも、あたりの村へ出てきて、いたずらばかりしました。はたけへ入って芋をほりちらしたり、菜種がらの、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家の裏手につるしてあるとんがらしをむしりとって、いったり、いろんなことをしました。  或秋のことでした。二、三日雨がふりつづいたその間、ごんは、外へも出られなくて穴の中にしゃがんでいました。  雨があがると、ごんは、ほっとして穴からはい出ました。空はからっと晴れていて、百舌鳥の声がきんきん、ひびいていました。  ごんは、村の小川の堤まで出て来ました。あたりの、すすきの穂には、まだ雨のしずくが光っていました。川は、いつもは水が少いのですが、三日もの雨で、水が、どっとましていました。ただのときは水につかることのない、川べりのすすきや、萩の株が、黄いろくにごった水に横だおしになって、もまれています。ごんは川下の方へと、ぬかるみみちを歩いていきました。  ふと見ると、川の中に人がいて、何かやっています。ごんは、見つからないように、そうっと草の深いところへ歩きよって、そこからじっとのぞいてみました。 「兵十だな」と、ごんは思いました。兵十はぼろぼろの黒いきものをまくし上げて、腰のところまで水にひたりながら、魚をとる、はりきりという、網をゆすぶっていました。はちまきをした顔の横っちょうに、まるい萩の葉が一まい、大きな黒子みたいにへばりついていました。  しばらくすると、兵十は、はりきり網の一ばんうしろの、袋のようになったところを、水の中からもちあげました。その中には、芝の根や、草の葉や、くさった木ぎれなどが、ごちゃごちゃはいっていましたが、でもところどころ、白いものがきらきら光っています。それは、ふというなぎの腹や、大きなきすの腹でした。兵十は、びくの中へ、そのうなぎやきすを、ごみと一しょにぶちこみました。そして、また、袋の口をしばって、水の中へ入れました。  兵十はそれから、びくをもって川から上りびくを土手においといて、何をさがしにか、川上の方へかけていきました。  兵十がいなくなると、ごんは、ぴょいと草の中からとび出して、びくのそばへかけつけました。ちょいと、いたずらがしたくなったのです。ごんはびくの中の魚をつかみ出しては、はりきり網のかかっているところより下手の川の中を目がけて、ぽんぽんなげこみました。どの魚も、「とぼん」と音を立てながら、にごった水の中へもぐりこみました。  一ばんしまいに、太いうなぎをつかみにかかりましたが、何しろぬるぬるとすべりぬけるので、手ではつかめません。ごんはじれったくなって、頭をびくの中につッこんで、うなぎの頭を口にくわえました。うなぎは、キュッと言ってごんの首へまきつきました。そのとたんに兵十が、向うから、 「うわアぬすと狐め」と、どなりたてました。ごんは、びっくりしてとびあがりました。うなぎをふりすててにげようとしましたが、うなぎは、ごんの首にまきついたままはなれません。ごんはそのまま横っとびにとび出して一しょうけんめいに、にげていきました。  ほら穴の近くの、はんの木の下でふりかえって見ましたが、兵十は追っかけては来ませんでした。  ごんは、ほっとして、うなぎの頭をかみくだき、やっとはずして穴のそとの、草の葉の上にのせておきました。
兵十はぼろぼろの黒いきものをまくし上げて、腰のところまで水にひたりながら、何をゆすぶっていましたか。
兵十はぼろぼろの黒いきものをまくし上げて、腰のところまで水にひたりながら、魚をとる、はりきりという、網をゆすぶっていました。
JCRRAG_011018
国語
これは、私が小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。  むかしは、私たちの村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまが、おられたそうです。  その中山から、少しはなれた山の中に、「ごん狐」という狐がいました。ごんは、一人ぼっちの小狐で、しだの一ぱいしげった森の中に穴をほって住んでいました。そして、夜でも昼でも、あたりの村へ出てきて、いたずらばかりしました。はたけへ入って芋をほりちらしたり、菜種がらの、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家の裏手につるしてあるとんがらしをむしりとって、いったり、いろんなことをしました。  或秋のことでした。二、三日雨がふりつづいたその間、ごんは、外へも出られなくて穴の中にしゃがんでいました。  雨があがると、ごんは、ほっとして穴からはい出ました。空はからっと晴れていて、百舌鳥の声がきんきん、ひびいていました。  ごんは、村の小川の堤まで出て来ました。あたりの、すすきの穂には、まだ雨のしずくが光っていました。川は、いつもは水が少いのですが、三日もの雨で、水が、どっとましていました。ただのときは水につかることのない、川べりのすすきや、萩の株が、黄いろくにごった水に横だおしになって、もまれています。ごんは川下の方へと、ぬかるみみちを歩いていきました。  ふと見ると、川の中に人がいて、何かやっています。ごんは、見つからないように、そうっと草の深いところへ歩きよって、そこからじっとのぞいてみました。 「兵十だな」と、ごんは思いました。兵十はぼろぼろの黒いきものをまくし上げて、腰のところまで水にひたりながら、魚をとる、はりきりという、網をゆすぶっていました。はちまきをした顔の横っちょうに、まるい萩の葉が一まい、大きな黒子みたいにへばりついていました。  しばらくすると、兵十は、はりきり網の一ばんうしろの、袋のようになったところを、水の中からもちあげました。その中には、芝の根や、草の葉や、くさった木ぎれなどが、ごちゃごちゃはいっていましたが、でもところどころ、白いものがきらきら光っています。それは、ふというなぎの腹や、大きなきすの腹でした。兵十は、びくの中へ、そのうなぎやきすを、ごみと一しょにぶちこみました。そして、また、袋の口をしばって、水の中へ入れました。  兵十はそれから、びくをもって川から上りびくを土手においといて、何をさがしにか、川上の方へかけていきました。  兵十がいなくなると、ごんは、ぴょいと草の中からとび出して、びくのそばへかけつけました。ちょいと、いたずらがしたくなったのです。ごんはびくの中の魚をつかみ出しては、はりきり網のかかっているところより下手の川の中を目がけて、ぽんぽんなげこみました。どの魚も、「とぼん」と音を立てながら、にごった水の中へもぐりこみました。  一ばんしまいに、太いうなぎをつかみにかかりましたが、何しろぬるぬるとすべりぬけるので、手ではつかめません。ごんはじれったくなって、頭をびくの中につッこんで、うなぎの頭を口にくわえました。うなぎは、キュッと言ってごんの首へまきつきました。そのとたんに兵十が、向うから、 「うわアぬすと狐め」と、どなりたてました。ごんは、びっくりしてとびあがりました。うなぎをふりすててにげようとしましたが、うなぎは、ごんの首にまきついたままはなれません。ごんはそのまま横っとびにとび出して一しょうけんめいに、にげていきました。  ほら穴の近くの、はんの木の下でふりかえって見ましたが、兵十は追っかけては来ませんでした。  ごんは、ほっとして、うなぎの頭をかみくだき、やっとはずして穴のそとの、草の葉の上にのせておきました。
ごんはじれったくなって、頭をびくの中につッこんで、何を口にくわえましたか。
ごんはじれったくなって、頭をびくの中につッこんで、うなぎの頭を口にくわえました。
JCRRAG_011019
国語
十日ほどたって、ごんが、弥助というお百姓の家の裏を通りかかりますと、そこの、いちじくの木のかげで、弥助の家内が、おはぐろをつけていました。鍛冶屋の新兵衛の家のうらを通ると、新兵衛の家内が髪をすいていました。ごんは、 「ふふん、村に何かあるんだな」と、思いました。 「何だろう、秋祭かな。祭なら、太鼓や笛の音がしそうなものだ。それに第一、お宮にのぼりが立つはずだが」  こんなことを考えながらやって来ますと、いつの間にか、表に赤い井戸のある、兵十の家の前へ来ました。その小さな、こわれかけた家の中には、大勢の人があつまっていました。よそいきの着物を着て、腰に手拭をさげたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きな鍋の中では、何かぐずぐず煮えていました。 「ああ、葬式だ」と、ごんは思いました。 「兵十の家のだれが死んだんだろう」  お午がすぎると、ごんは、村の墓地へ行って、六地蔵さんのかげにかくれていました。いいお天気で、遠く向うには、お城の屋根瓦が光っています。墓地には、ひがん花が、赤い布のようにさきつづいていました。と、村の方から、カーン、カーン、と、鐘が鳴って来ました。葬式の出る合図です。  やがて、白い着物を着た葬列のものたちがやって来るのがちらちら見えはじめました。話声も近くなりました。葬列は墓地へはいって来ました。人々が通ったあとには、ひがん花が、ふみおられていました。  ごんはのびあがって見ました。兵十が、白いかみしもをつけて、位牌をささげています。いつもは、赤いさつま芋みたいな元気のいい顔が、きょうは何だかしおれていました。 「ははん、死んだのは兵十のおっ母だ」  ごんはそう思いながら、頭をひっこめました。  その晩、ごんは、穴の中で考えました。 「兵十のおっ母は、床についていて、うなぎが食べたいと言ったにちがいない。それで兵十がはりきり網をもち出したんだ。ところが、わしがいたずらをして、うなぎをとって来てしまった。だから兵十は、おっ母にうなぎを食べさせることができなかった。そのままおっ母は、死んじゃったにちがいない。ああ、うなぎが食べたい、うなぎが食べたいとおもいながら、死んだんだろう。ちょッ、あんないたずらをしなけりゃよかった。」
ごんが、弥助というお百姓の家の裏を通りかかりますと、そこの、いちじくの木のかげで、誰が、おはぐろをつけていましたか。
ごんが、弥助というお百姓の家の裏を通りかかりますと、そこの、いちじくの木のかげで、弥助の家内が、おはぐろをつけていました。
JCRRAG_011020
国語
十日ほどたって、ごんが、弥助というお百姓の家の裏を通りかかりますと、そこの、いちじくの木のかげで、弥助の家内が、おはぐろをつけていました。鍛冶屋の新兵衛の家のうらを通ると、新兵衛の家内が髪をすいていました。ごんは、 「ふふん、村に何かあるんだな」と、思いました。 「何だろう、秋祭かな。祭なら、太鼓や笛の音がしそうなものだ。それに第一、お宮にのぼりが立つはずだが」  こんなことを考えながらやって来ますと、いつの間にか、表に赤い井戸のある、兵十の家の前へ来ました。その小さな、こわれかけた家の中には、大勢の人があつまっていました。よそいきの着物を着て、腰に手拭をさげたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きな鍋の中では、何かぐずぐず煮えていました。 「ああ、葬式だ」と、ごんは思いました。 「兵十の家のだれが死んだんだろう」  お午がすぎると、ごんは、村の墓地へ行って、六地蔵さんのかげにかくれていました。いいお天気で、遠く向うには、お城の屋根瓦が光っています。墓地には、ひがん花が、赤い布のようにさきつづいていました。と、村の方から、カーン、カーン、と、鐘が鳴って来ました。葬式の出る合図です。  やがて、白い着物を着た葬列のものたちがやって来るのがちらちら見えはじめました。話声も近くなりました。葬列は墓地へはいって来ました。人々が通ったあとには、ひがん花が、ふみおられていました。  ごんはのびあがって見ました。兵十が、白いかみしもをつけて、位牌をささげています。いつもは、赤いさつま芋みたいな元気のいい顔が、きょうは何だかしおれていました。 「ははん、死んだのは兵十のおっ母だ」  ごんはそう思いながら、頭をひっこめました。  その晩、ごんは、穴の中で考えました。 「兵十のおっ母は、床についていて、うなぎが食べたいと言ったにちがいない。それで兵十がはりきり網をもち出したんだ。ところが、わしがいたずらをして、うなぎをとって来てしまった。だから兵十は、おっ母にうなぎを食べさせることができなかった。そのままおっ母は、死んじゃったにちがいない。ああ、うなぎが食べたい、うなぎが食べたいとおもいながら、死んだんだろう。ちょッ、あんないたずらをしなけりゃよかった。」
小さな、こわれかけた家の中には、何があつまっていましたか。
小さな、こわれかけた家の中には、大勢の人があつまっていました。
JCRRAG_011021
国語
十日ほどたって、ごんが、弥助というお百姓の家の裏を通りかかりますと、そこの、いちじくの木のかげで、弥助の家内が、おはぐろをつけていました。鍛冶屋の新兵衛の家のうらを通ると、新兵衛の家内が髪をすいていました。ごんは、 「ふふん、村に何かあるんだな」と、思いました。 「何だろう、秋祭かな。祭なら、太鼓や笛の音がしそうなものだ。それに第一、お宮にのぼりが立つはずだが」  こんなことを考えながらやって来ますと、いつの間にか、表に赤い井戸のある、兵十の家の前へ来ました。その小さな、こわれかけた家の中には、大勢の人があつまっていました。よそいきの着物を着て、腰に手拭をさげたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きな鍋の中では、何かぐずぐず煮えていました。 「ああ、葬式だ」と、ごんは思いました。 「兵十の家のだれが死んだんだろう」  お午がすぎると、ごんは、村の墓地へ行って、六地蔵さんのかげにかくれていました。いいお天気で、遠く向うには、お城の屋根瓦が光っています。墓地には、ひがん花が、赤い布のようにさきつづいていました。と、村の方から、カーン、カーン、と、鐘が鳴って来ました。葬式の出る合図です。  やがて、白い着物を着た葬列のものたちがやって来るのがちらちら見えはじめました。話声も近くなりました。葬列は墓地へはいって来ました。人々が通ったあとには、ひがん花が、ふみおられていました。  ごんはのびあがって見ました。兵十が、白いかみしもをつけて、位牌をささげています。いつもは、赤いさつま芋みたいな元気のいい顔が、きょうは何だかしおれていました。 「ははん、死んだのは兵十のおっ母だ」  ごんはそう思いながら、頭をひっこめました。  その晩、ごんは、穴の中で考えました。 「兵十のおっ母は、床についていて、うなぎが食べたいと言ったにちがいない。それで兵十がはりきり網をもち出したんだ。ところが、わしがいたずらをして、うなぎをとって来てしまった。だから兵十は、おっ母にうなぎを食べさせることができなかった。そのままおっ母は、死んじゃったにちがいない。ああ、うなぎが食べたい、うなぎが食べたいとおもいながら、死んだんだろう。ちょッ、あんないたずらをしなけりゃよかった。」
ごんは、村の墓地へ行って、何のかげにかくれていましたか。
ごんは、村の墓地へ行って、六地蔵さんのかげにかくれていました。
JCRRAG_011022
国語
十日ほどたって、ごんが、弥助というお百姓の家の裏を通りかかりますと、そこの、いちじくの木のかげで、弥助の家内が、おはぐろをつけていました。鍛冶屋の新兵衛の家のうらを通ると、新兵衛の家内が髪をすいていました。ごんは、 「ふふん、村に何かあるんだな」と、思いました。 「何だろう、秋祭かな。祭なら、太鼓や笛の音がしそうなものだ。それに第一、お宮にのぼりが立つはずだが」  こんなことを考えながらやって来ますと、いつの間にか、表に赤い井戸のある、兵十の家の前へ来ました。その小さな、こわれかけた家の中には、大勢の人があつまっていました。よそいきの着物を着て、腰に手拭をさげたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きな鍋の中では、何かぐずぐず煮えていました。 「ああ、葬式だ」と、ごんは思いました。 「兵十の家のだれが死んだんだろう」  お午がすぎると、ごんは、村の墓地へ行って、六地蔵さんのかげにかくれていました。いいお天気で、遠く向うには、お城の屋根瓦が光っています。墓地には、ひがん花が、赤い布のようにさきつづいていました。と、村の方から、カーン、カーン、と、鐘が鳴って来ました。葬式の出る合図です。  やがて、白い着物を着た葬列のものたちがやって来るのがちらちら見えはじめました。話声も近くなりました。葬列は墓地へはいって来ました。人々が通ったあとには、ひがん花が、ふみおられていました。  ごんはのびあがって見ました。兵十が、白いかみしもをつけて、位牌をささげています。いつもは、赤いさつま芋みたいな元気のいい顔が、きょうは何だかしおれていました。 「ははん、死んだのは兵十のおっ母だ」  ごんはそう思いながら、頭をひっこめました。  その晩、ごんは、穴の中で考えました。 「兵十のおっ母は、床についていて、うなぎが食べたいと言ったにちがいない。それで兵十がはりきり網をもち出したんだ。ところが、わしがいたずらをして、うなぎをとって来てしまった。だから兵十は、おっ母にうなぎを食べさせることができなかった。そのままおっ母は、死んじゃったにちがいない。ああ、うなぎが食べたい、うなぎが食べたいとおもいながら、死んだんだろう。ちょッ、あんないたずらをしなけりゃよかった。」
ごんは、いつの間にか、どこの前へ来ましたか。
ごんは、いつの間にか、表に赤い井戸のある、兵十の家の前へ来ました。
JCRRAG_011023
国語
十日ほどたって、ごんが、弥助というお百姓の家の裏を通りかかりますと、そこの、いちじくの木のかげで、弥助の家内が、おはぐろをつけていました。鍛冶屋の新兵衛の家のうらを通ると、新兵衛の家内が髪をすいていました。ごんは、 「ふふん、村に何かあるんだな」と、思いました。 「何だろう、秋祭かな。祭なら、太鼓や笛の音がしそうなものだ。それに第一、お宮にのぼりが立つはずだが」  こんなことを考えながらやって来ますと、いつの間にか、表に赤い井戸のある、兵十の家の前へ来ました。その小さな、こわれかけた家の中には、大勢の人があつまっていました。よそいきの着物を着て、腰に手拭をさげたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きな鍋の中では、何かぐずぐず煮えていました。 「ああ、葬式だ」と、ごんは思いました。 「兵十の家のだれが死んだんだろう」  お午がすぎると、ごんは、村の墓地へ行って、六地蔵さんのかげにかくれていました。いいお天気で、遠く向うには、お城の屋根瓦が光っています。墓地には、ひがん花が、赤い布のようにさきつづいていました。と、村の方から、カーン、カーン、と、鐘が鳴って来ました。葬式の出る合図です。  やがて、白い着物を着た葬列のものたちがやって来るのがちらちら見えはじめました。話声も近くなりました。葬列は墓地へはいって来ました。人々が通ったあとには、ひがん花が、ふみおられていました。  ごんはのびあがって見ました。兵十が、白いかみしもをつけて、位牌をささげています。いつもは、赤いさつま芋みたいな元気のいい顔が、きょうは何だかしおれていました。 「ははん、死んだのは兵十のおっ母だ」  ごんはそう思いながら、頭をひっこめました。  その晩、ごんは、穴の中で考えました。 「兵十のおっ母は、床についていて、うなぎが食べたいと言ったにちがいない。それで兵十がはりきり網をもち出したんだ。ところが、わしがいたずらをして、うなぎをとって来てしまった。だから兵十は、おっ母にうなぎを食べさせることができなかった。そのままおっ母は、死んじゃったにちがいない。ああ、うなぎが食べたい、うなぎが食べたいとおもいながら、死んだんだろう。ちょッ、あんないたずらをしなけりゃよかった。」
兵十は、白いかみしもをつけて、何をささげていますか。
兵十は、白いかみしもをつけて、位牌をささげています。
JCRRAG_011024
国語
兵十が、赤い井戸のところで、麦をといでいました。  兵十は今まで、おっ母と二人きりで、貧しいくらしをしていたもので、おっ母が死んでしまっては、もう一人ぼっちでした。 「おれと同じ一人ぼっちの兵十か」  こちらの物置の後から見ていたごんは、そう思いました。  ごんは物置のそばをはなれて、向うへいきかけますと、どこかで、いわしを売る声がします。 「いわしのやすうりだアい。いきのいいいわしだアい」  ごんは、その、いせいのいい声のする方へ走っていきました。と、弥助のおかみさんが、裏戸口から、 「いわしをおくれ。」と言いました。いわし売は、いわしのかごをつんだ車を、道ばたにおいて、ぴかぴか光るいわしを両手でつかんで、弥助の家の中へもってはいりました。ごんはそのすきまに、かごの中から、五、六ぴきのいわしをつかみ出して、もと来た方へかけだしました。そして、兵十の家の裏口から、家の中へいわしを投げこんで、穴へ向ってかけもどりました。途中の坂の上でふりかえって見ますと、兵十がまだ、井戸のところで麦をといでいるのが小さく見えました。  ごんは、うなぎのつぐないに、まず一つ、いいことをしたと思いました。  つぎの日には、ごんは山で栗をどっさりひろって、それをかかえて、兵十の家へいきました。裏口からのぞいて見ますと、兵十は、午飯をたべかけて、茶椀をもったまま、ぼんやりと考えこんでいました。へんなことには兵十の頬ぺたに、かすり傷がついています。どうしたんだろうと、ごんが思っていますと、兵十がひとりごとをいいました。 「一たいだれが、いわしなんかをおれの家へほうりこんでいったんだろう。おかげでおれは、盗人と思われて、いわし屋のやつに、ひどい目にあわされた」と、ぶつぶつ言っています。  ごんは、これはしまったと思いました。かわいそうに兵十は、いわし屋にぶんなぐられて、あんな傷までつけられたのか。  ごんはこうおもいながら、そっと物置の方へまわってその入口に、栗をおいてかえりました。  つぎの日も、そのつぎの日もごんは、栗をひろっては、兵十の家へもって来てやりました。そのつぎの日には、栗ばかりでなく、まつたけも二、三ぼんもっていきました。
ごんは、何の方へ走っていきましたか。
ごんは、その、いせいのいい声のする方へ走っていきました。
JCRRAG_011025
国語
兵十が、赤い井戸のところで、麦をといでいました。  兵十は今まで、おっ母と二人きりで、貧しいくらしをしていたもので、おっ母が死んでしまっては、もう一人ぼっちでした。 「おれと同じ一人ぼっちの兵十か」  こちらの物置の後から見ていたごんは、そう思いました。  ごんは物置のそばをはなれて、向うへいきかけますと、どこかで、いわしを売る声がします。 「いわしのやすうりだアい。いきのいいいわしだアい」  ごんは、その、いせいのいい声のする方へ走っていきました。と、弥助のおかみさんが、裏戸口から、 「いわしをおくれ。」と言いました。いわし売は、いわしのかごをつんだ車を、道ばたにおいて、ぴかぴか光るいわしを両手でつかんで、弥助の家の中へもってはいりました。ごんはそのすきまに、かごの中から、五、六ぴきのいわしをつかみ出して、もと来た方へかけだしました。そして、兵十の家の裏口から、家の中へいわしを投げこんで、穴へ向ってかけもどりました。途中の坂の上でふりかえって見ますと、兵十がまだ、井戸のところで麦をといでいるのが小さく見えました。  ごんは、うなぎのつぐないに、まず一つ、いいことをしたと思いました。  つぎの日には、ごんは山で栗をどっさりひろって、それをかかえて、兵十の家へいきました。裏口からのぞいて見ますと、兵十は、午飯をたべかけて、茶椀をもったまま、ぼんやりと考えこんでいました。へんなことには兵十の頬ぺたに、かすり傷がついています。どうしたんだろうと、ごんが思っていますと、兵十がひとりごとをいいました。 「一たいだれが、いわしなんかをおれの家へほうりこんでいったんだろう。おかげでおれは、盗人と思われて、いわし屋のやつに、ひどい目にあわされた」と、ぶつぶつ言っています。  ごんは、これはしまったと思いました。かわいそうに兵十は、いわし屋にぶんなぐられて、あんな傷までつけられたのか。  ごんはこうおもいながら、そっと物置の方へまわってその入口に、栗をおいてかえりました。  つぎの日も、そのつぎの日もごんは、栗をひろっては、兵十の家へもって来てやりました。そのつぎの日には、栗ばかりでなく、まつたけも二、三ぼんもっていきました。
ごんは、かごの中から、何をつかみ出して、もと来た方へかけだしましたか。
ごんは、かごの中から、五、六ぴきのいわしをつかみ出して、もと来た方へかけだしました。
JCRRAG_011026
国語
兵十が、赤い井戸のところで、麦をといでいました。  兵十は今まで、おっ母と二人きりで、貧しいくらしをしていたもので、おっ母が死んでしまっては、もう一人ぼっちでした。 「おれと同じ一人ぼっちの兵十か」  こちらの物置の後から見ていたごんは、そう思いました。  ごんは物置のそばをはなれて、向うへいきかけますと、どこかで、いわしを売る声がします。 「いわしのやすうりだアい。いきのいいいわしだアい」  ごんは、その、いせいのいい声のする方へ走っていきました。と、弥助のおかみさんが、裏戸口から、 「いわしをおくれ。」と言いました。いわし売は、いわしのかごをつんだ車を、道ばたにおいて、ぴかぴか光るいわしを両手でつかんで、弥助の家の中へもってはいりました。ごんはそのすきまに、かごの中から、五、六ぴきのいわしをつかみ出して、もと来た方へかけだしました。そして、兵十の家の裏口から、家の中へいわしを投げこんで、穴へ向ってかけもどりました。途中の坂の上でふりかえって見ますと、兵十がまだ、井戸のところで麦をといでいるのが小さく見えました。  ごんは、うなぎのつぐないに、まず一つ、いいことをしたと思いました。  つぎの日には、ごんは山で栗をどっさりひろって、それをかかえて、兵十の家へいきました。裏口からのぞいて見ますと、兵十は、午飯をたべかけて、茶椀をもったまま、ぼんやりと考えこんでいました。へんなことには兵十の頬ぺたに、かすり傷がついています。どうしたんだろうと、ごんが思っていますと、兵十がひとりごとをいいました。 「一たいだれが、いわしなんかをおれの家へほうりこんでいったんだろう。おかげでおれは、盗人と思われて、いわし屋のやつに、ひどい目にあわされた」と、ぶつぶつ言っています。  ごんは、これはしまったと思いました。かわいそうに兵十は、いわし屋にぶんなぐられて、あんな傷までつけられたのか。  ごんはこうおもいながら、そっと物置の方へまわってその入口に、栗をおいてかえりました。  つぎの日も、そのつぎの日もごんは、栗をひろっては、兵十の家へもって来てやりました。そのつぎの日には、栗ばかりでなく、まつたけも二、三ぼんもっていきました。
ごんは、何のつぐないに、まず一つ、いいことをしたと思いましたか。
ごんは、うなぎのつぐないに、まず一つ、いいことをしたと思いました。
JCRRAG_011027
国語
兵十が、赤い井戸のところで、麦をといでいました。  兵十は今まで、おっ母と二人きりで、貧しいくらしをしていたもので、おっ母が死んでしまっては、もう一人ぼっちでした。 「おれと同じ一人ぼっちの兵十か」  こちらの物置の後から見ていたごんは、そう思いました。  ごんは物置のそばをはなれて、向うへいきかけますと、どこかで、いわしを売る声がします。 「いわしのやすうりだアい。いきのいいいわしだアい」  ごんは、その、いせいのいい声のする方へ走っていきました。と、弥助のおかみさんが、裏戸口から、 「いわしをおくれ。」と言いました。いわし売は、いわしのかごをつんだ車を、道ばたにおいて、ぴかぴか光るいわしを両手でつかんで、弥助の家の中へもってはいりました。ごんはそのすきまに、かごの中から、五、六ぴきのいわしをつかみ出して、もと来た方へかけだしました。そして、兵十の家の裏口から、家の中へいわしを投げこんで、穴へ向ってかけもどりました。途中の坂の上でふりかえって見ますと、兵十がまだ、井戸のところで麦をといでいるのが小さく見えました。  ごんは、うなぎのつぐないに、まず一つ、いいことをしたと思いました。  つぎの日には、ごんは山で栗をどっさりひろって、それをかかえて、兵十の家へいきました。裏口からのぞいて見ますと、兵十は、午飯をたべかけて、茶椀をもったまま、ぼんやりと考えこんでいました。へんなことには兵十の頬ぺたに、かすり傷がついています。どうしたんだろうと、ごんが思っていますと、兵十がひとりごとをいいました。 「一たいだれが、いわしなんかをおれの家へほうりこんでいったんだろう。おかげでおれは、盗人と思われて、いわし屋のやつに、ひどい目にあわされた」と、ぶつぶつ言っています。  ごんは、これはしまったと思いました。かわいそうに兵十は、いわし屋にぶんなぐられて、あんな傷までつけられたのか。  ごんはこうおもいながら、そっと物置の方へまわってその入口に、栗をおいてかえりました。  つぎの日も、そのつぎの日もごんは、栗をひろっては、兵十の家へもって来てやりました。そのつぎの日には、栗ばかりでなく、まつたけも二、三ぼんもっていきました。
兵十は今まで、どのようなくらしをしていましたか。
兵十は今まで、おっ母と二人きりで、貧しいくらしをしていました。
JCRRAG_011028
国語
兵十が、赤い井戸のところで、麦をといでいました。  兵十は今まで、おっ母と二人きりで、貧しいくらしをしていたもので、おっ母が死んでしまっては、もう一人ぼっちでした。 「おれと同じ一人ぼっちの兵十か」  こちらの物置の後から見ていたごんは、そう思いました。  ごんは物置のそばをはなれて、向うへいきかけますと、どこかで、いわしを売る声がします。 「いわしのやすうりだアい。いきのいいいわしだアい」  ごんは、その、いせいのいい声のする方へ走っていきました。と、弥助のおかみさんが、裏戸口から、 「いわしをおくれ。」と言いました。いわし売は、いわしのかごをつんだ車を、道ばたにおいて、ぴかぴか光るいわしを両手でつかんで、弥助の家の中へもってはいりました。ごんはそのすきまに、かごの中から、五、六ぴきのいわしをつかみ出して、もと来た方へかけだしました。そして、兵十の家の裏口から、家の中へいわしを投げこんで、穴へ向ってかけもどりました。途中の坂の上でふりかえって見ますと、兵十がまだ、井戸のところで麦をといでいるのが小さく見えました。  ごんは、うなぎのつぐないに、まず一つ、いいことをしたと思いました。  つぎの日には、ごんは山で栗をどっさりひろって、それをかかえて、兵十の家へいきました。裏口からのぞいて見ますと、兵十は、午飯をたべかけて、茶椀をもったまま、ぼんやりと考えこんでいました。へんなことには兵十の頬ぺたに、かすり傷がついています。どうしたんだろうと、ごんが思っていますと、兵十がひとりごとをいいました。 「一たいだれが、いわしなんかをおれの家へほうりこんでいったんだろう。おかげでおれは、盗人と思われて、いわし屋のやつに、ひどい目にあわされた」と、ぶつぶつ言っています。  ごんは、これはしまったと思いました。かわいそうに兵十は、いわし屋にぶんなぐられて、あんな傷までつけられたのか。  ごんはこうおもいながら、そっと物置の方へまわってその入口に、栗をおいてかえりました。  つぎの日も、そのつぎの日もごんは、栗をひろっては、兵十の家へもって来てやりました。そのつぎの日には、栗ばかりでなく、まつたけも二、三ぼんもっていきました。
裏口からのぞいて見ますと、兵十は、何をしていましたか。
裏口からのぞいて見ますと、兵十は、午飯をたべかけて、茶椀をもったまま、ぼんやりと考えこんでいました。
JCRRAG_011029
国語
月のいい晩でした。ごんは、ぶらぶらあそびに出かけました。中山さまのお城の下を通ってすこしいくと、細い道の向うから、だれか来るようです。話声が聞えます。チンチロリン、チンチロリンと松虫が鳴いています。  ごんは、道の片がわにかくれて、じっとしていました。話声はだんだん近くなりました。それは、兵十と加助というお百姓でした。 「そうそう、なあ加助」と、兵十がいいました。 「ああん?」 「おれあ、このごろ、とてもふしぎなことがあるんだ」 「何が?」 「おっ母が死んでからは、だれだか知らんが、おれに栗やまつたけなんかを、まいにちまいにちくれるんだよ」 「ふうん、だれが?」 「それがわからんのだよ。おれの知らんうちに、おいていくんだ」  ごんは、ふたりのあとをつけていきました。 「ほんとかい?」 「ほんとだとも。うそと思うなら、あした見に来いよ。その栗を見せてやるよ」 「へえ、へんなこともあるもんだなア」  それなり、二人はだまって歩いていきました。  加助がひょいと、後を見ました。ごんはびくっとして、小さくなってたちどまりました。加助は、ごんには気がつかないで、そのままさっさとあるきました。吉兵衛というお百姓の家まで来ると、二人はそこへはいっていきました。ポンポンポンポンと木魚の音がしています。窓の障子にあかりがさしていて、大きな坊主頭がうつって動いていました。ごんは、 「おねんぶつがあるんだな」と思いながら井戸のそばにしゃがんでいました。しばらくすると、また三人ほど、人がつれだって吉兵衛の家へはいっていきました。お経を読む声がきこえて来ました。
ごんは、どこにかくれて、じっとしていましたか。
ごんは、道の片がわにかくれて、じっとしていました。
JCRRAG_011030
国語
月のいい晩でした。ごんは、ぶらぶらあそびに出かけました。中山さまのお城の下を通ってすこしいくと、細い道の向うから、だれか来るようです。話声が聞えます。チンチロリン、チンチロリンと松虫が鳴いています。  ごんは、道の片がわにかくれて、じっとしていました。話声はだんだん近くなりました。それは、兵十と加助というお百姓でした。 「そうそう、なあ加助」と、兵十がいいました。 「ああん?」 「おれあ、このごろ、とてもふしぎなことがあるんだ」 「何が?」 「おっ母が死んでからは、だれだか知らんが、おれに栗やまつたけなんかを、まいにちまいにちくれるんだよ」 「ふうん、だれが?」 「それがわからんのだよ。おれの知らんうちに、おいていくんだ」  ごんは、ふたりのあとをつけていきました。 「ほんとかい?」 「ほんとだとも。うそと思うなら、あした見に来いよ。その栗を見せてやるよ」 「へえ、へんなこともあるもんだなア」  それなり、二人はだまって歩いていきました。  加助がひょいと、後を見ました。ごんはびくっとして、小さくなってたちどまりました。加助は、ごんには気がつかないで、そのままさっさとあるきました。吉兵衛というお百姓の家まで来ると、二人はそこへはいっていきました。ポンポンポンポンと木魚の音がしています。窓の障子にあかりがさしていて、大きな坊主頭がうつって動いていました。ごんは、 「おねんぶつがあるんだな」と思いながら井戸のそばにしゃがんでいました。しばらくすると、また三人ほど、人がつれだって吉兵衛の家へはいっていきました。お経を読む声がきこえて来ました。
ごんは、何と思いながら井戸のそばにしゃがんでいましたか。
ごんは、「おねんぶつがあるんだな」と思いながら井戸のそばにしゃがんでいました。
JCRRAG_011031
国語
月のいい晩でした。ごんは、ぶらぶらあそびに出かけました。中山さまのお城の下を通ってすこしいくと、細い道の向うから、だれか来るようです。話声が聞えます。チンチロリン、チンチロリンと松虫が鳴いています。  ごんは、道の片がわにかくれて、じっとしていました。話声はだんだん近くなりました。それは、兵十と加助というお百姓でした。 「そうそう、なあ加助」と、兵十がいいました。 「ああん?」 「おれあ、このごろ、とてもふしぎなことがあるんだ」 「何が?」 「おっ母が死んでからは、だれだか知らんが、おれに栗やまつたけなんかを、まいにちまいにちくれるんだよ」 「ふうん、だれが?」 「それがわからんのだよ。おれの知らんうちに、おいていくんだ」  ごんは、ふたりのあとをつけていきました。 「ほんとかい?」 「ほんとだとも。うそと思うなら、あした見に来いよ。その栗を見せてやるよ」 「へえ、へんなこともあるもんだなア」  それなり、二人はだまって歩いていきました。  加助がひょいと、後を見ました。ごんはびくっとして、小さくなってたちどまりました。加助は、ごんには気がつかないで、そのままさっさとあるきました。吉兵衛というお百姓の家まで来ると、二人はそこへはいっていきました。ポンポンポンポンと木魚の音がしています。窓の障子にあかりがさしていて、大きな坊主頭がうつって動いていました。ごんは、 「おねんぶつがあるんだな」と思いながら井戸のそばにしゃがんでいました。しばらくすると、また三人ほど、人がつれだって吉兵衛の家へはいっていきました。お経を読む声がきこえて来ました。
ごんはびくっとして、どうしましたか。
ごんはびくっとして、小さくなってたちどまりました。
JCRRAG_011032
国語
月のいい晩でした。ごんは、ぶらぶらあそびに出かけました。中山さまのお城の下を通ってすこしいくと、細い道の向うから、だれか来るようです。話声が聞えます。チンチロリン、チンチロリンと松虫が鳴いています。  ごんは、道の片がわにかくれて、じっとしていました。話声はだんだん近くなりました。それは、兵十と加助というお百姓でした。 「そうそう、なあ加助」と、兵十がいいました。 「ああん?」 「おれあ、このごろ、とてもふしぎなことがあるんだ」 「何が?」 「おっ母が死んでからは、だれだか知らんが、おれに栗やまつたけなんかを、まいにちまいにちくれるんだよ」 「ふうん、だれが?」 「それがわからんのだよ。おれの知らんうちに、おいていくんだ」  ごんは、ふたりのあとをつけていきました。 「ほんとかい?」 「ほんとだとも。うそと思うなら、あした見に来いよ。その栗を見せてやるよ」 「へえ、へんなこともあるもんだなア」  それなり、二人はだまって歩いていきました。  加助がひょいと、後を見ました。ごんはびくっとして、小さくなってたちどまりました。加助は、ごんには気がつかないで、そのままさっさとあるきました。吉兵衛というお百姓の家まで来ると、二人はそこへはいっていきました。ポンポンポンポンと木魚の音がしています。窓の障子にあかりがさしていて、大きな坊主頭がうつって動いていました。ごんは、 「おねんぶつがあるんだな」と思いながら井戸のそばにしゃがんでいました。しばらくすると、また三人ほど、人がつれだって吉兵衛の家へはいっていきました。お経を読む声がきこえて来ました。
三人ほど、人がつれだってどこへはいっていきましたか。
三人ほど、人がつれだって吉兵衛の家へはいっていきました。
JCRRAG_011033
国語
ごんは、おねんぶつがすむまで、井戸のそばにしゃがんでいました。兵十と加助は、また一しょにかえっていきます。ごんは、二人の話をきこうと思って、ついていきました。兵十の影法師をふみふみいきました。  お城の前まで来たとき、加助が言い出しました。 「さっきの話は、きっと、そりゃあ、神さまのしわざだぞ」 「えっ?」と、兵十はびっくりして、加助の顔を見ました。 「おれは、あれからずっと考えていたが、どうも、そりゃ、人間じゃない、神さまだ、神さまが、お前がたった一人になったのをあわれに思わっしゃって、いろんなものをめぐんで下さるんだよ」 「そうかなあ」 「そうだとも。だから、まいにち神さまにお礼を言うがいいよ」 「うん」  ごんは、へえ、こいつはつまらないなと思いました。おれが、栗や松たけを持っていってやるのに、そのおれにはお礼をいわないで、神さまにお礼をいうんじゃア、おれは、引き合わないなあ。  そのあくる日もごんは、栗をもって、兵十の家へ出かけました。兵十は物置で縄をなっていました。それでごんは家の裏口から、こっそり中へはいりました。  そのとき兵十は、ふと顔をあげました。と狐が家の中へはいったではありませんか。こないだうなぎをぬすみやがったあのごん狐めが、またいたずらをしに来たな。 「ようし。」  兵十は立ちあがって、納屋にかけてある火縄銃をとって、火薬をつめました。  そして足音をしのばせてちかよって、今戸口を出ようとするごんを、ドンと、うちました。ごんは、ばたりとたおれました。兵十はかけよって来ました。家の中を見ると、土間に栗が、かためておいてあるのが目につきました。 「おや」と兵十は、びっくりしてごんに目を落しました。 「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは」  ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。  兵十は火縄銃をばたりと、とり落しました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。
ごんは、何がすむまで、井戸のそばにしゃがんでいましたか。
ごんは、おねんぶつがすむまで、井戸のそばにしゃがんでいました。
JCRRAG_011034
国語
ごんは、おねんぶつがすむまで、井戸のそばにしゃがんでいました。兵十と加助は、また一しょにかえっていきます。ごんは、二人の話をきこうと思って、ついていきました。兵十の影法師をふみふみいきました。  お城の前まで来たとき、加助が言い出しました。 「さっきの話は、きっと、そりゃあ、神さまのしわざだぞ」 「えっ?」と、兵十はびっくりして、加助の顔を見ました。 「おれは、あれからずっと考えていたが、どうも、そりゃ、人間じゃない、神さまだ、神さまが、お前がたった一人になったのをあわれに思わっしゃって、いろんなものをめぐんで下さるんだよ」 「そうかなあ」 「そうだとも。だから、まいにち神さまにお礼を言うがいいよ」 「うん」  ごんは、へえ、こいつはつまらないなと思いました。おれが、栗や松たけを持っていってやるのに、そのおれにはお礼をいわないで、神さまにお礼をいうんじゃア、おれは、引き合わないなあ。  そのあくる日もごんは、栗をもって、兵十の家へ出かけました。兵十は物置で縄をなっていました。それでごんは家の裏口から、こっそり中へはいりました。  そのとき兵十は、ふと顔をあげました。と狐が家の中へはいったではありませんか。こないだうなぎをぬすみやがったあのごん狐めが、またいたずらをしに来たな。 「ようし。」  兵十は立ちあがって、納屋にかけてある火縄銃をとって、火薬をつめました。  そして足音をしのばせてちかよって、今戸口を出ようとするごんを、ドンと、うちました。ごんは、ばたりとたおれました。兵十はかけよって来ました。家の中を見ると、土間に栗が、かためておいてあるのが目につきました。 「おや」と兵十は、びっくりしてごんに目を落しました。 「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは」  ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。  兵十は火縄銃をばたりと、とり落しました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。
ごんは、どのように思って、ついていきましたか。
ごんは、二人の話をきこうと思って、ついていきました。
JCRRAG_011035
国語
ごんは、おねんぶつがすむまで、井戸のそばにしゃがんでいました。兵十と加助は、また一しょにかえっていきます。ごんは、二人の話をきこうと思って、ついていきました。兵十の影法師をふみふみいきました。  お城の前まで来たとき、加助が言い出しました。 「さっきの話は、きっと、そりゃあ、神さまのしわざだぞ」 「えっ?」と、兵十はびっくりして、加助の顔を見ました。 「おれは、あれからずっと考えていたが、どうも、そりゃ、人間じゃない、神さまだ、神さまが、お前がたった一人になったのをあわれに思わっしゃって、いろんなものをめぐんで下さるんだよ」 「そうかなあ」 「そうだとも。だから、まいにち神さまにお礼を言うがいいよ」 「うん」  ごんは、へえ、こいつはつまらないなと思いました。おれが、栗や松たけを持っていってやるのに、そのおれにはお礼をいわないで、神さまにお礼をいうんじゃア、おれは、引き合わないなあ。  そのあくる日もごんは、栗をもって、兵十の家へ出かけました。兵十は物置で縄をなっていました。それでごんは家の裏口から、こっそり中へはいりました。  そのとき兵十は、ふと顔をあげました。と狐が家の中へはいったではありませんか。こないだうなぎをぬすみやがったあのごん狐めが、またいたずらをしに来たな。 「ようし。」  兵十は立ちあがって、納屋にかけてある火縄銃をとって、火薬をつめました。  そして足音をしのばせてちかよって、今戸口を出ようとするごんを、ドンと、うちました。ごんは、ばたりとたおれました。兵十はかけよって来ました。家の中を見ると、土間に栗が、かためておいてあるのが目につきました。 「おや」と兵十は、びっくりしてごんに目を落しました。 「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは」  ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。  兵十は火縄銃をばたりと、とり落しました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。
兵十はびっくりして何を見ましたか。
兵十はびっくりして、加助の顔を見ました。
JCRRAG_011036
国語
ごんは、おねんぶつがすむまで、井戸のそばにしゃがんでいました。兵十と加助は、また一しょにかえっていきます。ごんは、二人の話をきこうと思って、ついていきました。兵十の影法師をふみふみいきました。  お城の前まで来たとき、加助が言い出しました。 「さっきの話は、きっと、そりゃあ、神さまのしわざだぞ」 「えっ?」と、兵十はびっくりして、加助の顔を見ました。 「おれは、あれからずっと考えていたが、どうも、そりゃ、人間じゃない、神さまだ、神さまが、お前がたった一人になったのをあわれに思わっしゃって、いろんなものをめぐんで下さるんだよ」 「そうかなあ」 「そうだとも。だから、まいにち神さまにお礼を言うがいいよ」 「うん」  ごんは、へえ、こいつはつまらないなと思いました。おれが、栗や松たけを持っていってやるのに、そのおれにはお礼をいわないで、神さまにお礼をいうんじゃア、おれは、引き合わないなあ。  そのあくる日もごんは、栗をもって、兵十の家へ出かけました。兵十は物置で縄をなっていました。それでごんは家の裏口から、こっそり中へはいりました。  そのとき兵十は、ふと顔をあげました。と狐が家の中へはいったではありませんか。こないだうなぎをぬすみやがったあのごん狐めが、またいたずらをしに来たな。 「ようし。」  兵十は立ちあがって、納屋にかけてある火縄銃をとって、火薬をつめました。  そして足音をしのばせてちかよって、今戸口を出ようとするごんを、ドンと、うちました。ごんは、ばたりとたおれました。兵十はかけよって来ました。家の中を見ると、土間に栗が、かためておいてあるのが目につきました。 「おや」と兵十は、びっくりしてごんに目を落しました。 「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは」  ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。  兵十は火縄銃をばたりと、とり落しました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。
ごんは、何をもって、兵十の家へ出かけましたか。
ごんは、栗をもって、兵十の家へ出かけました。
JCRRAG_011037
国語
ごんは、おねんぶつがすむまで、井戸のそばにしゃがんでいました。兵十と加助は、また一しょにかえっていきます。ごんは、二人の話をきこうと思って、ついていきました。兵十の影法師をふみふみいきました。  お城の前まで来たとき、加助が言い出しました。 「さっきの話は、きっと、そりゃあ、神さまのしわざだぞ」 「えっ?」と、兵十はびっくりして、加助の顔を見ました。 「おれは、あれからずっと考えていたが、どうも、そりゃ、人間じゃない、神さまだ、神さまが、お前がたった一人になったのをあわれに思わっしゃって、いろんなものをめぐんで下さるんだよ」 「そうかなあ」 「そうだとも。だから、まいにち神さまにお礼を言うがいいよ」 「うん」  ごんは、へえ、こいつはつまらないなと思いました。おれが、栗や松たけを持っていってやるのに、そのおれにはお礼をいわないで、神さまにお礼をいうんじゃア、おれは、引き合わないなあ。  そのあくる日もごんは、栗をもって、兵十の家へ出かけました。兵十は物置で縄をなっていました。それでごんは家の裏口から、こっそり中へはいりました。  そのとき兵十は、ふと顔をあげました。と狐が家の中へはいったではありませんか。こないだうなぎをぬすみやがったあのごん狐めが、またいたずらをしに来たな。 「ようし。」  兵十は立ちあがって、納屋にかけてある火縄銃をとって、火薬をつめました。  そして足音をしのばせてちかよって、今戸口を出ようとするごんを、ドンと、うちました。ごんは、ばたりとたおれました。兵十はかけよって来ました。家の中を見ると、土間に栗が、かためておいてあるのが目につきました。 「おや」と兵十は、びっくりしてごんに目を落しました。 「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは」  ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。  兵十は火縄銃をばたりと、とり落しました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。
兵十は立ちあがって、納屋にかけてある火縄銃をとって、何をつめましたか。
兵十は立ちあがって、納屋にかけてある火縄銃をとって、火薬をつめました。
JCRRAG_011038
国語
村にはみるものがいくらでもあった。鍛冶屋、仕立屋、水車小屋、せんべや、樽屋。それから自転車屋など。それらはなんというすばらしい見物だったことだろう。それらの一つ一つが、半日立ちつくして見物していても、けっしてあかせないだけの魅力を持っていたのである。そしてまたなんどみてもそこで行なわれている細かい仕事はじゅうぶんわれわれを楽しませてくれたのである。  でだれでも子どもならば、鍛冶屋がどうして火をおこし、どうして鍬をうつか、仕立屋がどんなふうにミシンをまわし、どんな工合にエプロンのポケットをぬいつけるか、またせんべやのじいさんが、せんべをさしはさんだ、うちわようのものをどんな順序で火の上でひっくりかえすか細かいところまでよく知っていた。おそらくそれらの職人たち以上に。もし職人のかわりにその仕事をさせてもらえるなら、どんなに子どもたちは手ぎわよく、一つとしてまちがいを起こさないで仕事をやってのけたことだろう。  だがおとなたちはちっともそれを信じてくれない。子どもをまるではえかなんぞのように思っている。なかなか手つだわしてさえくれないのである。遊んでいる金槌をこっそりにぎったりすると、鍛冶屋のおやじは油汗で黒く光っている額にけわしいしわをつくっていうのだった。 「あぶねえ。子どもはあっちいいって遊ぶんだ!」  ときにはどうした風のふきまわしでか職人が手つだわせてくれることがある。たとえばふいごをおさせたり、つながったせんべを細かくくだかせたり。そんなときの喜びはまたかくべつである。何しろおとなの仕事にたずさわっていることになるのだから。しかしこの喜びも、ちょっとしたおとなの気持ちの変化でたちまちおじゃんになってしまう。おとなはちっとも子どもの気持ちを理解してくれないのである。
おとなたちは、子どもをまるで何のように思っていますか。
おとなたちは、子どもをまるではえかなんぞのように思っています。
JCRRAG_011039
国語
村にはみるものがいくらでもあった。鍛冶屋、仕立屋、水車小屋、せんべや、樽屋。それから自転車屋など。それらはなんというすばらしい見物だったことだろう。それらの一つ一つが、半日立ちつくして見物していても、けっしてあかせないだけの魅力を持っていたのである。そしてまたなんどみてもそこで行なわれている細かい仕事はじゅうぶんわれわれを楽しませてくれたのである。  でだれでも子どもならば、鍛冶屋がどうして火をおこし、どうして鍬をうつか、仕立屋がどんなふうにミシンをまわし、どんな工合にエプロンのポケットをぬいつけるか、またせんべやのじいさんが、せんべをさしはさんだ、うちわようのものをどんな順序で火の上でひっくりかえすか細かいところまでよく知っていた。おそらくそれらの職人たち以上に。もし職人のかわりにその仕事をさせてもらえるなら、どんなに子どもたちは手ぎわよく、一つとしてまちがいを起こさないで仕事をやってのけたことだろう。  だがおとなたちはちっともそれを信じてくれない。子どもをまるではえかなんぞのように思っている。なかなか手つだわしてさえくれないのである。遊んでいる金槌をこっそりにぎったりすると、鍛冶屋のおやじは油汗で黒く光っている額にけわしいしわをつくっていうのだった。 「あぶねえ。子どもはあっちいいって遊ぶんだ!」  ときにはどうした風のふきまわしでか職人が手つだわせてくれることがある。たとえばふいごをおさせたり、つながったせんべを細かくくだかせたり。そんなときの喜びはまたかくべつである。何しろおとなの仕事にたずさわっていることになるのだから。しかしこの喜びも、ちょっとしたおとなの気持ちの変化でたちまちおじゃんになってしまう。おとなはちっとも子どもの気持ちを理解してくれないのである。
子どもたちは手ぎわよく、どのように仕事をやってのけるだろうと思われますか。
子どもたちは手ぎわよく、一つとしてまちがいを起こさないで仕事をやってのけたことだろうと思われます。
JCRRAG_011040
国語
村にはみるものがいくらでもあった。鍛冶屋、仕立屋、水車小屋、せんべや、樽屋。それから自転車屋など。それらはなんというすばらしい見物だったことだろう。それらの一つ一つが、半日立ちつくして見物していても、けっしてあかせないだけの魅力を持っていたのである。そしてまたなんどみてもそこで行なわれている細かい仕事はじゅうぶんわれわれを楽しませてくれたのである。  でだれでも子どもならば、鍛冶屋がどうして火をおこし、どうして鍬をうつか、仕立屋がどんなふうにミシンをまわし、どんな工合にエプロンのポケットをぬいつけるか、またせんべやのじいさんが、せんべをさしはさんだ、うちわようのものをどんな順序で火の上でひっくりかえすか細かいところまでよく知っていた。おそらくそれらの職人たち以上に。もし職人のかわりにその仕事をさせてもらえるなら、どんなに子どもたちは手ぎわよく、一つとしてまちがいを起こさないで仕事をやってのけたことだろう。  だがおとなたちはちっともそれを信じてくれない。子どもをまるではえかなんぞのように思っている。なかなか手つだわしてさえくれないのである。遊んでいる金槌をこっそりにぎったりすると、鍛冶屋のおやじは油汗で黒く光っている額にけわしいしわをつくっていうのだった。 「あぶねえ。子どもはあっちいいって遊ぶんだ!」  ときにはどうした風のふきまわしでか職人が手つだわせてくれることがある。たとえばふいごをおさせたり、つながったせんべを細かくくだかせたり。そんなときの喜びはまたかくべつである。何しろおとなの仕事にたずさわっていることになるのだから。しかしこの喜びも、ちょっとしたおとなの気持ちの変化でたちまちおじゃんになってしまう。おとなはちっとも子どもの気持ちを理解してくれないのである。
村には何がいくらでもありましたか。
村にはみるものがいくらでもありました。
JCRRAG_011041
国語
村にはみるものがいくらでもあった。鍛冶屋、仕立屋、水車小屋、せんべや、樽屋。それから自転車屋など。それらはなんというすばらしい見物だったことだろう。それらの一つ一つが、半日立ちつくして見物していても、けっしてあかせないだけの魅力を持っていたのである。そしてまたなんどみてもそこで行なわれている細かい仕事はじゅうぶんわれわれを楽しませてくれたのである。  でだれでも子どもならば、鍛冶屋がどうして火をおこし、どうして鍬をうつか、仕立屋がどんなふうにミシンをまわし、どんな工合にエプロンのポケットをぬいつけるか、またせんべやのじいさんが、せんべをさしはさんだ、うちわようのものをどんな順序で火の上でひっくりかえすか細かいところまでよく知っていた。おそらくそれらの職人たち以上に。もし職人のかわりにその仕事をさせてもらえるなら、どんなに子どもたちは手ぎわよく、一つとしてまちがいを起こさないで仕事をやってのけたことだろう。  だがおとなたちはちっともそれを信じてくれない。子どもをまるではえかなんぞのように思っている。なかなか手つだわしてさえくれないのである。遊んでいる金槌をこっそりにぎったりすると、鍛冶屋のおやじは油汗で黒く光っている額にけわしいしわをつくっていうのだった。 「あぶねえ。子どもはあっちいいって遊ぶんだ!」  ときにはどうした風のふきまわしでか職人が手つだわせてくれることがある。たとえばふいごをおさせたり、つながったせんべを細かくくだかせたり。そんなときの喜びはまたかくべつである。何しろおとなの仕事にたずさわっていることになるのだから。しかしこの喜びも、ちょっとしたおとなの気持ちの変化でたちまちおじゃんになってしまう。おとなはちっとも子どもの気持ちを理解してくれないのである。
子どもたちが遊んでいる金槌をこっそりにぎったりすると、鍛冶屋のおやじは何にけわしいしわをつくっていうのでしたか。
子どもたちが遊んでいる金槌をこっそりにぎったりすると、鍛冶屋のおやじは油汗で黒く光っている額にけわしいしわをつくっていうのでした。
JCRRAG_011042
国語
村にはみるものがいくらでもあった。鍛冶屋、仕立屋、水車小屋、せんべや、樽屋。それから自転車屋など。それらはなんというすばらしい見物だったことだろう。それらの一つ一つが、半日立ちつくして見物していても、けっしてあかせないだけの魅力を持っていたのである。そしてまたなんどみてもそこで行なわれている細かい仕事はじゅうぶんわれわれを楽しませてくれたのである。  でだれでも子どもならば、鍛冶屋がどうして火をおこし、どうして鍬をうつか、仕立屋がどんなふうにミシンをまわし、どんな工合にエプロンのポケットをぬいつけるか、またせんべやのじいさんが、せんべをさしはさんだ、うちわようのものをどんな順序で火の上でひっくりかえすか細かいところまでよく知っていた。おそらくそれらの職人たち以上に。もし職人のかわりにその仕事をさせてもらえるなら、どんなに子どもたちは手ぎわよく、一つとしてまちがいを起こさないで仕事をやってのけたことだろう。  だがおとなたちはちっともそれを信じてくれない。子どもをまるではえかなんぞのように思っている。なかなか手つだわしてさえくれないのである。遊んでいる金槌をこっそりにぎったりすると、鍛冶屋のおやじは油汗で黒く光っている額にけわしいしわをつくっていうのだった。 「あぶねえ。子どもはあっちいいって遊ぶんだ!」  ときにはどうした風のふきまわしでか職人が手つだわせてくれることがある。たとえばふいごをおさせたり、つながったせんべを細かくくだかせたり。そんなときの喜びはまたかくべつである。何しろおとなの仕事にたずさわっていることになるのだから。しかしこの喜びも、ちょっとしたおとなの気持ちの変化でたちまちおじゃんになってしまう。おとなはちっとも子どもの気持ちを理解してくれないのである。
子どもたちは、どのようなことをよく知っていましたか。
子どもたちは、鍛冶屋がどうして火をおこし、どうして鍬をうつか、仕立屋がどんなふうにミシンをまわし、どんな工合にエプロンのポケットをぬいつけるか、またせんべやのじいさんが、せんべをさしはさんだ、うちわようのものをどんな順序で火の上でひっくりかえすか細かいところまでよく知っていました。
JCRRAG_011043
国語
正九郎はつくづく思うのだった。――自転車のパンクなおしをはじめからしまいまでやってみたいなあと。自転車屋の戸口にしゃがんで、自転車のパンクしたところがつくろわれている工作をみていると、正九郎ののどはこくりと鳴るのだった。まるでうまいものを山ほどみせつけられたように。しかしそこの主人がどんなに気むずかしいおじさんであるか、正九郎はよく知っていた。彼は頭がはげていた。首が太くて、あまった肉が大きいしわをつくっていた。眉毛が針金のようにあらくて、いつもおこったような顔をしていた。そしてあまり口をきかなかったが、たまに口を開くと、かみつくように短いことばをうちつける。村の人たちは、あれで金さんはいい人だといっていた。が正九郎は獣のようにおそれていた。一度戸口のしきいの溝にはまった小さい微塵玉をほじっていて、頭上から彼にどなられたとき、眼の前に雷が落ちてきたように正九郎はおじけてしまったのである。こんなおじさんだからどんなにのぞんでいても、パンクなおしを手つだわしてくれとはいえないのだった。  だがものごとは万事うまくゆく。ある日ついに正九郎の宿願は達せられることになった。  正九郎はその日学校から帰ってくるとあらいたての白ズボンにとりかえさせられた。ごわごわして、あらいたての布だけが持っている快いにおいがぷーんとする。そればかりか、戸外に出ると六月のつよい陽光にまばゆいほど光るのである。近所の板塀やいけ垣には、麦わらが立てかけてほしてある。めんどりが鶏小舎でひくく鳴いている。村ははしからはしまで静かだ。そこで正九郎は何もすることがない。でもこんなとき、何かがきっとやってくるものだ。正九郎はちゃんと知っている。  まったくである。それはこんなふうに正九郎の耳にささやきながらやってきた。 「おい正九ン、ええことがあるぞ。」  正九郎は加平の顔をしげしげとみてききかえした。 「なんだい。」  加平のいうところによると、自転車屋の金さんとおばさんは、今日、金光教の何かで朝からよそにいき、小僧のやあ公がひとりでるすばんをしているということだった。こいつはすばらしい!  正九郎と加平はふたりの泥棒のようにひそひそと話した。すべての計画がさっさと運んでいった。まるでとんとんびょうしであった。なあに、やあ公をさそい出すくらいわけのないことはない。やあ公はくいしんぼうだ。そこで、いっぱいみのったびわの木が、加平ン家の畑のくろでやあ公を待っているといえばとんでいかぬわけがない。あいつほんとにくいしんぼうだから。だがあの金色によくみのったびわを腹いっぱいたべられると思うと正九郎はやあ公をちっとばかりうらやまずにはいられなかった。  ふたりはもう自転車屋に達しない前に、計画は実現されてしまったように感じていた。つまりふたりはもう、自転車のパンクをなおすやり方ばかりを考えていた。しかし戸口まできてみると、なかなか、これからがたいへんだということを感じさせられた。正九郎はなんだかいつものそこと様子がちがうような気がした。ふたりは戸口に面してたったとき、道のまん中でしばらく躊躇した。  加平の方がすこしばかり勇敢だった。うさぎなんか平気でしめころすお父つあんの子だから、そう思いながら、正九郎は加平がどんどん店の中へはいっていくのをみおくっていた。何かたいへんなことがはじまったような気がした。正九郎はもうあらゆる欲望をすてて、このまま帰ってもいいと思った。  だが按じたほどのことはなかった。はいっていった加平は、そこにねそべって忍術本を読んでいたやあ公と話し出したのである。みればやあ公はいつもの、あの心安いやあ公である。うたがいも何もいだいていない友だちのやあ公である。正九郎も安神してはいっていった。  やあ公は二つ返事で店をふたりにあずけた。何しろやあ公ときたらくいしんぼうなんだから。 「そいじゃたのむぜ。お客さんがあったらすぐよびにきてなあ。」  正九郎はうんとうなずいただけだが加平はこんなふうにつけくわえた。「火の見の横んとこで帽子をふるから、それみたらこいよ。」
主人はいつもどのような顔をしていましたか。
主人はいつもおこったような顔をしていました。
JCRRAG_011044
国語
正九郎はつくづく思うのだった。――自転車のパンクなおしをはじめからしまいまでやってみたいなあと。自転車屋の戸口にしゃがんで、自転車のパンクしたところがつくろわれている工作をみていると、正九郎ののどはこくりと鳴るのだった。まるでうまいものを山ほどみせつけられたように。しかしそこの主人がどんなに気むずかしいおじさんであるか、正九郎はよく知っていた。彼は頭がはげていた。首が太くて、あまった肉が大きいしわをつくっていた。眉毛が針金のようにあらくて、いつもおこったような顔をしていた。そしてあまり口をきかなかったが、たまに口を開くと、かみつくように短いことばをうちつける。村の人たちは、あれで金さんはいい人だといっていた。が正九郎は獣のようにおそれていた。一度戸口のしきいの溝にはまった小さい微塵玉をほじっていて、頭上から彼にどなられたとき、眼の前に雷が落ちてきたように正九郎はおじけてしまったのである。こんなおじさんだからどんなにのぞんでいても、パンクなおしを手つだわしてくれとはいえないのだった。  だがものごとは万事うまくゆく。ある日ついに正九郎の宿願は達せられることになった。  正九郎はその日学校から帰ってくるとあらいたての白ズボンにとりかえさせられた。ごわごわして、あらいたての布だけが持っている快いにおいがぷーんとする。そればかりか、戸外に出ると六月のつよい陽光にまばゆいほど光るのである。近所の板塀やいけ垣には、麦わらが立てかけてほしてある。めんどりが鶏小舎でひくく鳴いている。村ははしからはしまで静かだ。そこで正九郎は何もすることがない。でもこんなとき、何かがきっとやってくるものだ。正九郎はちゃんと知っている。  まったくである。それはこんなふうに正九郎の耳にささやきながらやってきた。 「おい正九ン、ええことがあるぞ。」  正九郎は加平の顔をしげしげとみてききかえした。 「なんだい。」  加平のいうところによると、自転車屋の金さんとおばさんは、今日、金光教の何かで朝からよそにいき、小僧のやあ公がひとりでるすばんをしているということだった。こいつはすばらしい!  正九郎と加平はふたりの泥棒のようにひそひそと話した。すべての計画がさっさと運んでいった。まるでとんとんびょうしであった。なあに、やあ公をさそい出すくらいわけのないことはない。やあ公はくいしんぼうだ。そこで、いっぱいみのったびわの木が、加平ン家の畑のくろでやあ公を待っているといえばとんでいかぬわけがない。あいつほんとにくいしんぼうだから。だがあの金色によくみのったびわを腹いっぱいたべられると思うと正九郎はやあ公をちっとばかりうらやまずにはいられなかった。  ふたりはもう自転車屋に達しない前に、計画は実現されてしまったように感じていた。つまりふたりはもう、自転車のパンクをなおすやり方ばかりを考えていた。しかし戸口まできてみると、なかなか、これからがたいへんだということを感じさせられた。正九郎はなんだかいつものそこと様子がちがうような気がした。ふたりは戸口に面してたったとき、道のまん中でしばらく躊躇した。  加平の方がすこしばかり勇敢だった。うさぎなんか平気でしめころすお父つあんの子だから、そう思いながら、正九郎は加平がどんどん店の中へはいっていくのをみおくっていた。何かたいへんなことがはじまったような気がした。正九郎はもうあらゆる欲望をすてて、このまま帰ってもいいと思った。  だが按じたほどのことはなかった。はいっていった加平は、そこにねそべって忍術本を読んでいたやあ公と話し出したのである。みればやあ公はいつもの、あの心安いやあ公である。うたがいも何もいだいていない友だちのやあ公である。正九郎も安神してはいっていった。  やあ公は二つ返事で店をふたりにあずけた。何しろやあ公ときたらくいしんぼうなんだから。 「そいじゃたのむぜ。お客さんがあったらすぐよびにきてなあ。」  正九郎はうんとうなずいただけだが加平はこんなふうにつけくわえた。「火の見の横んとこで帽子をふるから、それみたらこいよ。」
頭上から主人にどなられたとき、どのように正九郎はおじけてしまいましたか。
頭上から主人にどなられたとき、眼の前に雷が落ちてきたように正九郎はおじけてしまいました。
JCRRAG_011045
国語
正九郎はつくづく思うのだった。――自転車のパンクなおしをはじめからしまいまでやってみたいなあと。自転車屋の戸口にしゃがんで、自転車のパンクしたところがつくろわれている工作をみていると、正九郎ののどはこくりと鳴るのだった。まるでうまいものを山ほどみせつけられたように。しかしそこの主人がどんなに気むずかしいおじさんであるか、正九郎はよく知っていた。彼は頭がはげていた。首が太くて、あまった肉が大きいしわをつくっていた。眉毛が針金のようにあらくて、いつもおこったような顔をしていた。そしてあまり口をきかなかったが、たまに口を開くと、かみつくように短いことばをうちつける。村の人たちは、あれで金さんはいい人だといっていた。が正九郎は獣のようにおそれていた。一度戸口のしきいの溝にはまった小さい微塵玉をほじっていて、頭上から彼にどなられたとき、眼の前に雷が落ちてきたように正九郎はおじけてしまったのである。こんなおじさんだからどんなにのぞんでいても、パンクなおしを手つだわしてくれとはいえないのだった。  だがものごとは万事うまくゆく。ある日ついに正九郎の宿願は達せられることになった。  正九郎はその日学校から帰ってくるとあらいたての白ズボンにとりかえさせられた。ごわごわして、あらいたての布だけが持っている快いにおいがぷーんとする。そればかりか、戸外に出ると六月のつよい陽光にまばゆいほど光るのである。近所の板塀やいけ垣には、麦わらが立てかけてほしてある。めんどりが鶏小舎でひくく鳴いている。村ははしからはしまで静かだ。そこで正九郎は何もすることがない。でもこんなとき、何かがきっとやってくるものだ。正九郎はちゃんと知っている。  まったくである。それはこんなふうに正九郎の耳にささやきながらやってきた。 「おい正九ン、ええことがあるぞ。」  正九郎は加平の顔をしげしげとみてききかえした。 「なんだい。」  加平のいうところによると、自転車屋の金さんとおばさんは、今日、金光教の何かで朝からよそにいき、小僧のやあ公がひとりでるすばんをしているということだった。こいつはすばらしい!  正九郎と加平はふたりの泥棒のようにひそひそと話した。すべての計画がさっさと運んでいった。まるでとんとんびょうしであった。なあに、やあ公をさそい出すくらいわけのないことはない。やあ公はくいしんぼうだ。そこで、いっぱいみのったびわの木が、加平ン家の畑のくろでやあ公を待っているといえばとんでいかぬわけがない。あいつほんとにくいしんぼうだから。だがあの金色によくみのったびわを腹いっぱいたべられると思うと正九郎はやあ公をちっとばかりうらやまずにはいられなかった。  ふたりはもう自転車屋に達しない前に、計画は実現されてしまったように感じていた。つまりふたりはもう、自転車のパンクをなおすやり方ばかりを考えていた。しかし戸口まできてみると、なかなか、これからがたいへんだということを感じさせられた。正九郎はなんだかいつものそこと様子がちがうような気がした。ふたりは戸口に面してたったとき、道のまん中でしばらく躊躇した。  加平の方がすこしばかり勇敢だった。うさぎなんか平気でしめころすお父つあんの子だから、そう思いながら、正九郎は加平がどんどん店の中へはいっていくのをみおくっていた。何かたいへんなことがはじまったような気がした。正九郎はもうあらゆる欲望をすてて、このまま帰ってもいいと思った。  だが按じたほどのことはなかった。はいっていった加平は、そこにねそべって忍術本を読んでいたやあ公と話し出したのである。みればやあ公はいつもの、あの心安いやあ公である。うたがいも何もいだいていない友だちのやあ公である。正九郎も安神してはいっていった。  やあ公は二つ返事で店をふたりにあずけた。何しろやあ公ときたらくいしんぼうなんだから。 「そいじゃたのむぜ。お客さんがあったらすぐよびにきてなあ。」  正九郎はうんとうなずいただけだが加平はこんなふうにつけくわえた。「火の見の横んとこで帽子をふるから、それみたらこいよ。」
正九郎は学校から帰ってくると何にとりかえさせられましたか。
正九郎は学校から帰ってくるとあらいたての白ズボンにとりかえさせられました。
JCRRAG_011046
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正九郎はつくづく思うのだった。――自転車のパンクなおしをはじめからしまいまでやってみたいなあと。自転車屋の戸口にしゃがんで、自転車のパンクしたところがつくろわれている工作をみていると、正九郎ののどはこくりと鳴るのだった。まるでうまいものを山ほどみせつけられたように。しかしそこの主人がどんなに気むずかしいおじさんであるか、正九郎はよく知っていた。彼は頭がはげていた。首が太くて、あまった肉が大きいしわをつくっていた。眉毛が針金のようにあらくて、いつもおこったような顔をしていた。そしてあまり口をきかなかったが、たまに口を開くと、かみつくように短いことばをうちつける。村の人たちは、あれで金さんはいい人だといっていた。が正九郎は獣のようにおそれていた。一度戸口のしきいの溝にはまった小さい微塵玉をほじっていて、頭上から彼にどなられたとき、眼の前に雷が落ちてきたように正九郎はおじけてしまったのである。こんなおじさんだからどんなにのぞんでいても、パンクなおしを手つだわしてくれとはいえないのだった。  だがものごとは万事うまくゆく。ある日ついに正九郎の宿願は達せられることになった。  正九郎はその日学校から帰ってくるとあらいたての白ズボンにとりかえさせられた。ごわごわして、あらいたての布だけが持っている快いにおいがぷーんとする。そればかりか、戸外に出ると六月のつよい陽光にまばゆいほど光るのである。近所の板塀やいけ垣には、麦わらが立てかけてほしてある。めんどりが鶏小舎でひくく鳴いている。村ははしからはしまで静かだ。そこで正九郎は何もすることがない。でもこんなとき、何かがきっとやってくるものだ。正九郎はちゃんと知っている。  まったくである。それはこんなふうに正九郎の耳にささやきながらやってきた。 「おい正九ン、ええことがあるぞ。」  正九郎は加平の顔をしげしげとみてききかえした。 「なんだい。」  加平のいうところによると、自転車屋の金さんとおばさんは、今日、金光教の何かで朝からよそにいき、小僧のやあ公がひとりでるすばんをしているということだった。こいつはすばらしい!  正九郎と加平はふたりの泥棒のようにひそひそと話した。すべての計画がさっさと運んでいった。まるでとんとんびょうしであった。なあに、やあ公をさそい出すくらいわけのないことはない。やあ公はくいしんぼうだ。そこで、いっぱいみのったびわの木が、加平ン家の畑のくろでやあ公を待っているといえばとんでいかぬわけがない。あいつほんとにくいしんぼうだから。だがあの金色によくみのったびわを腹いっぱいたべられると思うと正九郎はやあ公をちっとばかりうらやまずにはいられなかった。  ふたりはもう自転車屋に達しない前に、計画は実現されてしまったように感じていた。つまりふたりはもう、自転車のパンクをなおすやり方ばかりを考えていた。しかし戸口まできてみると、なかなか、これからがたいへんだということを感じさせられた。正九郎はなんだかいつものそこと様子がちがうような気がした。ふたりは戸口に面してたったとき、道のまん中でしばらく躊躇した。  加平の方がすこしばかり勇敢だった。うさぎなんか平気でしめころすお父つあんの子だから、そう思いながら、正九郎は加平がどんどん店の中へはいっていくのをみおくっていた。何かたいへんなことがはじまったような気がした。正九郎はもうあらゆる欲望をすてて、このまま帰ってもいいと思った。  だが按じたほどのことはなかった。はいっていった加平は、そこにねそべって忍術本を読んでいたやあ公と話し出したのである。みればやあ公はいつもの、あの心安いやあ公である。うたがいも何もいだいていない友だちのやあ公である。正九郎も安神してはいっていった。  やあ公は二つ返事で店をふたりにあずけた。何しろやあ公ときたらくいしんぼうなんだから。 「そいじゃたのむぜ。お客さんがあったらすぐよびにきてなあ。」  正九郎はうんとうなずいただけだが加平はこんなふうにつけくわえた。「火の見の横んとこで帽子をふるから、それみたらこいよ。」
正九郎と加平は何のようにひそひそと話しましたか。
正九郎と加平はふたりの泥棒のようにひそひそと話しました。
JCRRAG_011047
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正九郎はつくづく思うのだった。――自転車のパンクなおしをはじめからしまいまでやってみたいなあと。自転車屋の戸口にしゃがんで、自転車のパンクしたところがつくろわれている工作をみていると、正九郎ののどはこくりと鳴るのだった。まるでうまいものを山ほどみせつけられたように。しかしそこの主人がどんなに気むずかしいおじさんであるか、正九郎はよく知っていた。彼は頭がはげていた。首が太くて、あまった肉が大きいしわをつくっていた。眉毛が針金のようにあらくて、いつもおこったような顔をしていた。そしてあまり口をきかなかったが、たまに口を開くと、かみつくように短いことばをうちつける。村の人たちは、あれで金さんはいい人だといっていた。が正九郎は獣のようにおそれていた。一度戸口のしきいの溝にはまった小さい微塵玉をほじっていて、頭上から彼にどなられたとき、眼の前に雷が落ちてきたように正九郎はおじけてしまったのである。こんなおじさんだからどんなにのぞんでいても、パンクなおしを手つだわしてくれとはいえないのだった。  だがものごとは万事うまくゆく。ある日ついに正九郎の宿願は達せられることになった。  正九郎はその日学校から帰ってくるとあらいたての白ズボンにとりかえさせられた。ごわごわして、あらいたての布だけが持っている快いにおいがぷーんとする。そればかりか、戸外に出ると六月のつよい陽光にまばゆいほど光るのである。近所の板塀やいけ垣には、麦わらが立てかけてほしてある。めんどりが鶏小舎でひくく鳴いている。村ははしからはしまで静かだ。そこで正九郎は何もすることがない。でもこんなとき、何かがきっとやってくるものだ。正九郎はちゃんと知っている。  まったくである。それはこんなふうに正九郎の耳にささやきながらやってきた。 「おい正九ン、ええことがあるぞ。」  正九郎は加平の顔をしげしげとみてききかえした。 「なんだい。」  加平のいうところによると、自転車屋の金さんとおばさんは、今日、金光教の何かで朝からよそにいき、小僧のやあ公がひとりでるすばんをしているということだった。こいつはすばらしい!  正九郎と加平はふたりの泥棒のようにひそひそと話した。すべての計画がさっさと運んでいった。まるでとんとんびょうしであった。なあに、やあ公をさそい出すくらいわけのないことはない。やあ公はくいしんぼうだ。そこで、いっぱいみのったびわの木が、加平ン家の畑のくろでやあ公を待っているといえばとんでいかぬわけがない。あいつほんとにくいしんぼうだから。だがあの金色によくみのったびわを腹いっぱいたべられると思うと正九郎はやあ公をちっとばかりうらやまずにはいられなかった。  ふたりはもう自転車屋に達しない前に、計画は実現されてしまったように感じていた。つまりふたりはもう、自転車のパンクをなおすやり方ばかりを考えていた。しかし戸口まできてみると、なかなか、これからがたいへんだということを感じさせられた。正九郎はなんだかいつものそこと様子がちがうような気がした。ふたりは戸口に面してたったとき、道のまん中でしばらく躊躇した。  加平の方がすこしばかり勇敢だった。うさぎなんか平気でしめころすお父つあんの子だから、そう思いながら、正九郎は加平がどんどん店の中へはいっていくのをみおくっていた。何かたいへんなことがはじまったような気がした。正九郎はもうあらゆる欲望をすてて、このまま帰ってもいいと思った。  だが按じたほどのことはなかった。はいっていった加平は、そこにねそべって忍術本を読んでいたやあ公と話し出したのである。みればやあ公はいつもの、あの心安いやあ公である。うたがいも何もいだいていない友だちのやあ公である。正九郎も安神してはいっていった。  やあ公は二つ返事で店をふたりにあずけた。何しろやあ公ときたらくいしんぼうなんだから。 「そいじゃたのむぜ。お客さんがあったらすぐよびにきてなあ。」  正九郎はうんとうなずいただけだが加平はこんなふうにつけくわえた。「火の見の横んとこで帽子をふるから、それみたらこいよ。」
正九郎と加平は戸口に面してたったとき、どこでしばらく躊躇しましたか。
正九郎と加平は戸口に面してたったとき、道のまん中でしばらく躊躇しました。
JCRRAG_011048
国語
さて子どもがふたりで自転車屋をあずかるというのはうれしいような、だが変てこなものだ。いったい何をしていたらいいのだろう。ふたりはだまって店にならんだものをみまわしてみる。ピカピカ光る新しい自転車。天井につるしてある古自転車の車体や車輪。棚にならんだ、美しい自転車油とゴムのりのかん。柱につるされたチェーンのたば。油と鉄さびでよごれた修繕台、道具箱等々。こんなものをみんなふたりがあずかったのだと思うと、胸がわくわくするのである。  ふたりはひっそりしていた。子どもを失った二羽のはとのように。こんなこと、はじめなければよかった。でもいまさらやめてしまうわけにもいかない。なあに、パンクくらいなおせるのだ。  それからどれだけ時間がすぎたろう。ふたりはとうとう退屈になってしまった。パンクってこんなに少ないものかしらとふたりは思った。パンクどころか、ただの自転車さえ通らないのである。そこでふたりは道具箱から、日ごろ顔なじみの、だが手をにぎったのはこれが最初の、道具をつかみ出してはいじくった。加平は道に出ていって、南をみたり北をみたりして「パンクのくる」のを待つのだった。  と、とうとう目的物はやってきた。それは洋服を着て皮のかばんを持ったどこかのおじさんであった。彼はパンクした自転車を日おおいの下に立てておいて、汗をふきながら店にはいってきた。 「おい、坊! 家のもんいないか。」  おじさんは、ふたりを自転車屋の子とまちがえたのである。こいつはふたりにとって好都合である。 「ンにゃ。ンでもおれたちだってなおせる。」と加平がいった。  なお都合のよいことに、おじさんはくたびれていたとみえ、ふたりに自転車をまかせたきり、上がりがまちにあおむけにねころんで眼をとじてしまったのである。だれにもみていられない方が仕事はしいいしまたそれだけたのしめる。ひとりでたべる方がご馳走がうまいのと同じことである。  ふたりはわくわくして修繕にとりかかった。まったく夢のような気持ちだ。自転車をなおしたことのない人にはとてもわかるまい。タイヤを脱して、チューブに空気を入れて、赤ん坊の腕のように柔らかくふくれたチューブを水にくぐらせて穴の場所をさがす。ぷくぷくぷくと小さい泡の出るところがみつかる。これだ! よく切れる長いはさみで、つぎにあてるゴムをじょきじょきと切る。はじめはカードのように四角にきって、つぎに角をまるくする。それから人さし指をゴムのりのかんの中につっこんで、どろりとしたよいにおいのするやつをつぎのゴムとチューブの穴のある個所にぬらぬらとぬる。ああ、こんな快いことがまたとあるものではない!
ふたりはだまって何をみまわしてみましたか。
ふたりはだまって店にならんだものをみまわしてみました。
JCRRAG_011049
国語
さて子どもがふたりで自転車屋をあずかるというのはうれしいような、だが変てこなものだ。いったい何をしていたらいいのだろう。ふたりはだまって店にならんだものをみまわしてみる。ピカピカ光る新しい自転車。天井につるしてある古自転車の車体や車輪。棚にならんだ、美しい自転車油とゴムのりのかん。柱につるされたチェーンのたば。油と鉄さびでよごれた修繕台、道具箱等々。こんなものをみんなふたりがあずかったのだと思うと、胸がわくわくするのである。  ふたりはひっそりしていた。子どもを失った二羽のはとのように。こんなこと、はじめなければよかった。でもいまさらやめてしまうわけにもいかない。なあに、パンクくらいなおせるのだ。  それからどれだけ時間がすぎたろう。ふたりはとうとう退屈になってしまった。パンクってこんなに少ないものかしらとふたりは思った。パンクどころか、ただの自転車さえ通らないのである。そこでふたりは道具箱から、日ごろ顔なじみの、だが手をにぎったのはこれが最初の、道具をつかみ出してはいじくった。加平は道に出ていって、南をみたり北をみたりして「パンクのくる」のを待つのだった。  と、とうとう目的物はやってきた。それは洋服を着て皮のかばんを持ったどこかのおじさんであった。彼はパンクした自転車を日おおいの下に立てておいて、汗をふきながら店にはいってきた。 「おい、坊! 家のもんいないか。」  おじさんは、ふたりを自転車屋の子とまちがえたのである。こいつはふたりにとって好都合である。 「ンにゃ。ンでもおれたちだってなおせる。」と加平がいった。  なお都合のよいことに、おじさんはくたびれていたとみえ、ふたりに自転車をまかせたきり、上がりがまちにあおむけにねころんで眼をとじてしまったのである。だれにもみていられない方が仕事はしいいしまたそれだけたのしめる。ひとりでたべる方がご馳走がうまいのと同じことである。  ふたりはわくわくして修繕にとりかかった。まったく夢のような気持ちだ。自転車をなおしたことのない人にはとてもわかるまい。タイヤを脱して、チューブに空気を入れて、赤ん坊の腕のように柔らかくふくれたチューブを水にくぐらせて穴の場所をさがす。ぷくぷくぷくと小さい泡の出るところがみつかる。これだ! よく切れる長いはさみで、つぎにあてるゴムをじょきじょきと切る。はじめはカードのように四角にきって、つぎに角をまるくする。それから人さし指をゴムのりのかんの中につっこんで、どろりとしたよいにおいのするやつをつぎのゴムとチューブの穴のある個所にぬらぬらとぬる。ああ、こんな快いことがまたとあるものではない!
加平は道に出ていって、南をみたり北をみたりして何を待つのでしたか。
加平は道に出ていって、南をみたり北をみたりして「パンクのくる」のを待つのでした。
JCRRAG_011050
国語
さて子どもがふたりで自転車屋をあずかるというのはうれしいような、だが変てこなものだ。いったい何をしていたらいいのだろう。ふたりはだまって店にならんだものをみまわしてみる。ピカピカ光る新しい自転車。天井につるしてある古自転車の車体や車輪。棚にならんだ、美しい自転車油とゴムのりのかん。柱につるされたチェーンのたば。油と鉄さびでよごれた修繕台、道具箱等々。こんなものをみんなふたりがあずかったのだと思うと、胸がわくわくするのである。  ふたりはひっそりしていた。子どもを失った二羽のはとのように。こんなこと、はじめなければよかった。でもいまさらやめてしまうわけにもいかない。なあに、パンクくらいなおせるのだ。  それからどれだけ時間がすぎたろう。ふたりはとうとう退屈になってしまった。パンクってこんなに少ないものかしらとふたりは思った。パンクどころか、ただの自転車さえ通らないのである。そこでふたりは道具箱から、日ごろ顔なじみの、だが手をにぎったのはこれが最初の、道具をつかみ出してはいじくった。加平は道に出ていって、南をみたり北をみたりして「パンクのくる」のを待つのだった。  と、とうとう目的物はやってきた。それは洋服を着て皮のかばんを持ったどこかのおじさんであった。彼はパンクした自転車を日おおいの下に立てておいて、汗をふきながら店にはいってきた。 「おい、坊! 家のもんいないか。」  おじさんは、ふたりを自転車屋の子とまちがえたのである。こいつはふたりにとって好都合である。 「ンにゃ。ンでもおれたちだってなおせる。」と加平がいった。  なお都合のよいことに、おじさんはくたびれていたとみえ、ふたりに自転車をまかせたきり、上がりがまちにあおむけにねころんで眼をとじてしまったのである。だれにもみていられない方が仕事はしいいしまたそれだけたのしめる。ひとりでたべる方がご馳走がうまいのと同じことである。  ふたりはわくわくして修繕にとりかかった。まったく夢のような気持ちだ。自転車をなおしたことのない人にはとてもわかるまい。タイヤを脱して、チューブに空気を入れて、赤ん坊の腕のように柔らかくふくれたチューブを水にくぐらせて穴の場所をさがす。ぷくぷくぷくと小さい泡の出るところがみつかる。これだ! よく切れる長いはさみで、つぎにあてるゴムをじょきじょきと切る。はじめはカードのように四角にきって、つぎに角をまるくする。それから人さし指をゴムのりのかんの中につっこんで、どろりとしたよいにおいのするやつをつぎのゴムとチューブの穴のある個所にぬらぬらとぬる。ああ、こんな快いことがまたとあるものではない!
おじさんは、ふたりを何とまちがえましたか。
おじさんは、ふたりを自転車屋の子とまちがえました。
JCRRAG_011051
国語
さて子どもがふたりで自転車屋をあずかるというのはうれしいような、だが変てこなものだ。いったい何をしていたらいいのだろう。ふたりはだまって店にならんだものをみまわしてみる。ピカピカ光る新しい自転車。天井につるしてある古自転車の車体や車輪。棚にならんだ、美しい自転車油とゴムのりのかん。柱につるされたチェーンのたば。油と鉄さびでよごれた修繕台、道具箱等々。こんなものをみんなふたりがあずかったのだと思うと、胸がわくわくするのである。  ふたりはひっそりしていた。子どもを失った二羽のはとのように。こんなこと、はじめなければよかった。でもいまさらやめてしまうわけにもいかない。なあに、パンクくらいなおせるのだ。  それからどれだけ時間がすぎたろう。ふたりはとうとう退屈になってしまった。パンクってこんなに少ないものかしらとふたりは思った。パンクどころか、ただの自転車さえ通らないのである。そこでふたりは道具箱から、日ごろ顔なじみの、だが手をにぎったのはこれが最初の、道具をつかみ出してはいじくった。加平は道に出ていって、南をみたり北をみたりして「パンクのくる」のを待つのだった。  と、とうとう目的物はやってきた。それは洋服を着て皮のかばんを持ったどこかのおじさんであった。彼はパンクした自転車を日おおいの下に立てておいて、汗をふきながら店にはいってきた。 「おい、坊! 家のもんいないか。」  おじさんは、ふたりを自転車屋の子とまちがえたのである。こいつはふたりにとって好都合である。 「ンにゃ。ンでもおれたちだってなおせる。」と加平がいった。  なお都合のよいことに、おじさんはくたびれていたとみえ、ふたりに自転車をまかせたきり、上がりがまちにあおむけにねころんで眼をとじてしまったのである。だれにもみていられない方が仕事はしいいしまたそれだけたのしめる。ひとりでたべる方がご馳走がうまいのと同じことである。  ふたりはわくわくして修繕にとりかかった。まったく夢のような気持ちだ。自転車をなおしたことのない人にはとてもわかるまい。タイヤを脱して、チューブに空気を入れて、赤ん坊の腕のように柔らかくふくれたチューブを水にくぐらせて穴の場所をさがす。ぷくぷくぷくと小さい泡の出るところがみつかる。これだ! よく切れる長いはさみで、つぎにあてるゴムをじょきじょきと切る。はじめはカードのように四角にきって、つぎに角をまるくする。それから人さし指をゴムのりのかんの中につっこんで、どろりとしたよいにおいのするやつをつぎのゴムとチューブの穴のある個所にぬらぬらとぬる。ああ、こんな快いことがまたとあるものではない!
ふたりはわくわくして何にとりかかりましたか。
ふたりはわくわくして修繕にとりかかりました。
JCRRAG_011052
国語
はじめのうちふたりはあまりわくわくしていたので、四つの手がぶっつきあってしかたがなかったが、そのうち本物の自転車屋の子どものようにすらすらとうまくやっていくことができた。だがむろん、正九郎のあらい立ての白ズボンがみるみる汚くなってゆくことはまぬがれなかった。よいことがあればすこしくらいはわるいこともがまんしなければならない。  だがこんなことになろうとは思っていなかった。修繕が終わって正九郎が空気ポンプでタイヤの中に空気を送っていたとき、急に空気の抵抗がなくなって、ポンプがきかなくなってしまったのだ。五六度おしたりひきあげたりしてみたが、水の中へ棒をさしこむようなものである。正九郎は加平と顔をみあわせた。たいへんなことをしてしまったという気持ちがお互いの顔にあらわれていた。正九郎は眼の前が暗くなってきた。そして耳の中に波がおしよせたように、ざあざあと鳴りだしたのである。  やれやれ! 何も知らないお客さんが、十銭玉を加平の手ににぎらせて、自転車にのっていってしまうと、ふたりはポンプの破損という大きな壁のような罪に面と向かわねばならなかった。不幸というものはこんな工合にやってくるものだということをふたりはいまさらのように感じた。 「おれ知らんじゃ」と加平がいった。  加平はやっぱり他人である。正九郎はなき出したくなってしまった。でもないたとてどうにもならないと彼が考えたほど、その罪は大きなものに思えた。それは石のようにのしかかってきて彼の心をおさえつけた。騎馬戦の馬になっていて、大勢の下じきになったときみたいな苦しい圧迫感がみぞおちのあたりに感ぜられた。  むろん加平がこのおそろしい過失をやあ公につげるものと正九郎は観念していた。ところが予想はまちがっていたのである。やあ公が腹いっぱいたべた証拠にげっぷをしながら帰ってくると、加平はお客さんがおいていった十銭玉をわたして簡単にわけを話したきり、何もいわないのであった。  しかし正九郎はむしろつげてもらった方がよかった。そうすればそこでわあとなき出してしまうこともできたのである。  罪を隠匿することはなんと苦労のいることだろう。ふたりは空気入れの方をあまりみてはいけないのである。さもないとやあ公がそれをあやしみはじめるかもしれないからだ。また、話をやあ公のすきなものの方にのみ局限しなければならない。そうでないと、いつ話が空気入れの上に落ちぬともかぎらぬからである。にもかかわらず正九郎はしばしば空気入れの方を盗みみないではおれなかった。気になってしかたがない。いまにも空気入れがひとりでに歩いてきて、正九ンがぼくをこわしたとしゃべり出しやしまいかとさえ思うのだった。  いちばんいい方法は早く空気入れのいないところへいってしまうことである。私たちの良心が苦しくてたまらないときは、その良心を苦しめるもののみえないところへいってしまうのが、最上の策だということを私たちはよく知っている。だからだれでもみるもあわれな乞食の前は急いで通りぬけてしまうのである。  ふたりは、やあ公が十銭玉をいつもの手さげ金庫にちゃりんとほうりこんだのをしおに、にげ出すような気持ちで店を出た。もうここへはこんりんざいこないと正九郎は思った。自転車屋の店がみえなくなった道角でふたりはややほっとした。  だがここでも不幸はふたりを待っていた。ほっとしたとたんに、正九郎はあらい立てのズボンをすっかり汚してしまったことに気がついたのである。その上加平までが、やあ公がびわの木をあらしすぎやしなかったかということを心配しだしたのである。気がついてみれば、加平のお父つあんはうさぎでもにわとりでも平気でしめころすおそろしいおじさんだった!  ふたりは水からあがったばかりの仔猫のようにしょんぼりつっ立って、もの悲しげに夕暮をみた。もう彼らにはいくところがない。すべては終わってしまった!
正九郎の耳は、どのように、ざあざあと鳴りだしたのですか。
正九郎の耳は、中に波がおしよせたように、ざあざあと鳴りだしました。
JCRRAG_011053
国語
はじめのうちふたりはあまりわくわくしていたので、四つの手がぶっつきあってしかたがなかったが、そのうち本物の自転車屋の子どものようにすらすらとうまくやっていくことができた。だがむろん、正九郎のあらい立ての白ズボンがみるみる汚くなってゆくことはまぬがれなかった。よいことがあればすこしくらいはわるいこともがまんしなければならない。  だがこんなことになろうとは思っていなかった。修繕が終わって正九郎が空気ポンプでタイヤの中に空気を送っていたとき、急に空気の抵抗がなくなって、ポンプがきかなくなってしまったのだ。五六度おしたりひきあげたりしてみたが、水の中へ棒をさしこむようなものである。正九郎は加平と顔をみあわせた。たいへんなことをしてしまったという気持ちがお互いの顔にあらわれていた。正九郎は眼の前が暗くなってきた。そして耳の中に波がおしよせたように、ざあざあと鳴りだしたのである。  やれやれ! 何も知らないお客さんが、十銭玉を加平の手ににぎらせて、自転車にのっていってしまうと、ふたりはポンプの破損という大きな壁のような罪に面と向かわねばならなかった。不幸というものはこんな工合にやってくるものだということをふたりはいまさらのように感じた。 「おれ知らんじゃ」と加平がいった。  加平はやっぱり他人である。正九郎はなき出したくなってしまった。でもないたとてどうにもならないと彼が考えたほど、その罪は大きなものに思えた。それは石のようにのしかかってきて彼の心をおさえつけた。騎馬戦の馬になっていて、大勢の下じきになったときみたいな苦しい圧迫感がみぞおちのあたりに感ぜられた。  むろん加平がこのおそろしい過失をやあ公につげるものと正九郎は観念していた。ところが予想はまちがっていたのである。やあ公が腹いっぱいたべた証拠にげっぷをしながら帰ってくると、加平はお客さんがおいていった十銭玉をわたして簡単にわけを話したきり、何もいわないのであった。  しかし正九郎はむしろつげてもらった方がよかった。そうすればそこでわあとなき出してしまうこともできたのである。  罪を隠匿することはなんと苦労のいることだろう。ふたりは空気入れの方をあまりみてはいけないのである。さもないとやあ公がそれをあやしみはじめるかもしれないからだ。また、話をやあ公のすきなものの方にのみ局限しなければならない。そうでないと、いつ話が空気入れの上に落ちぬともかぎらぬからである。にもかかわらず正九郎はしばしば空気入れの方を盗みみないではおれなかった。気になってしかたがない。いまにも空気入れがひとりでに歩いてきて、正九ンがぼくをこわしたとしゃべり出しやしまいかとさえ思うのだった。  いちばんいい方法は早く空気入れのいないところへいってしまうことである。私たちの良心が苦しくてたまらないときは、その良心を苦しめるもののみえないところへいってしまうのが、最上の策だということを私たちはよく知っている。だからだれでもみるもあわれな乞食の前は急いで通りぬけてしまうのである。  ふたりは、やあ公が十銭玉をいつもの手さげ金庫にちゃりんとほうりこんだのをしおに、にげ出すような気持ちで店を出た。もうここへはこんりんざいこないと正九郎は思った。自転車屋の店がみえなくなった道角でふたりはややほっとした。  だがここでも不幸はふたりを待っていた。ほっとしたとたんに、正九郎はあらい立てのズボンをすっかり汚してしまったことに気がついたのである。その上加平までが、やあ公がびわの木をあらしすぎやしなかったかということを心配しだしたのである。気がついてみれば、加平のお父つあんはうさぎでもにわとりでも平気でしめころすおそろしいおじさんだった!  ふたりは水からあがったばかりの仔猫のようにしょんぼりつっ立って、もの悲しげに夕暮をみた。もう彼らにはいくところがない。すべては終わってしまった!
ふたりは何に面と向かわねばならなりませんでしたか。
ふたりはポンプの破損という大きな壁のような罪に面と向かわねばなりませんでした。
JCRRAG_011054
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はじめのうちふたりはあまりわくわくしていたので、四つの手がぶっつきあってしかたがなかったが、そのうち本物の自転車屋の子どものようにすらすらとうまくやっていくことができた。だがむろん、正九郎のあらい立ての白ズボンがみるみる汚くなってゆくことはまぬがれなかった。よいことがあればすこしくらいはわるいこともがまんしなければならない。  だがこんなことになろうとは思っていなかった。修繕が終わって正九郎が空気ポンプでタイヤの中に空気を送っていたとき、急に空気の抵抗がなくなって、ポンプがきかなくなってしまったのだ。五六度おしたりひきあげたりしてみたが、水の中へ棒をさしこむようなものである。正九郎は加平と顔をみあわせた。たいへんなことをしてしまったという気持ちがお互いの顔にあらわれていた。正九郎は眼の前が暗くなってきた。そして耳の中に波がおしよせたように、ざあざあと鳴りだしたのである。  やれやれ! 何も知らないお客さんが、十銭玉を加平の手ににぎらせて、自転車にのっていってしまうと、ふたりはポンプの破損という大きな壁のような罪に面と向かわねばならなかった。不幸というものはこんな工合にやってくるものだということをふたりはいまさらのように感じた。 「おれ知らんじゃ」と加平がいった。  加平はやっぱり他人である。正九郎はなき出したくなってしまった。でもないたとてどうにもならないと彼が考えたほど、その罪は大きなものに思えた。それは石のようにのしかかってきて彼の心をおさえつけた。騎馬戦の馬になっていて、大勢の下じきになったときみたいな苦しい圧迫感がみぞおちのあたりに感ぜられた。  むろん加平がこのおそろしい過失をやあ公につげるものと正九郎は観念していた。ところが予想はまちがっていたのである。やあ公が腹いっぱいたべた証拠にげっぷをしながら帰ってくると、加平はお客さんがおいていった十銭玉をわたして簡単にわけを話したきり、何もいわないのであった。  しかし正九郎はむしろつげてもらった方がよかった。そうすればそこでわあとなき出してしまうこともできたのである。  罪を隠匿することはなんと苦労のいることだろう。ふたりは空気入れの方をあまりみてはいけないのである。さもないとやあ公がそれをあやしみはじめるかもしれないからだ。また、話をやあ公のすきなものの方にのみ局限しなければならない。そうでないと、いつ話が空気入れの上に落ちぬともかぎらぬからである。にもかかわらず正九郎はしばしば空気入れの方を盗みみないではおれなかった。気になってしかたがない。いまにも空気入れがひとりでに歩いてきて、正九ンがぼくをこわしたとしゃべり出しやしまいかとさえ思うのだった。  いちばんいい方法は早く空気入れのいないところへいってしまうことである。私たちの良心が苦しくてたまらないときは、その良心を苦しめるもののみえないところへいってしまうのが、最上の策だということを私たちはよく知っている。だからだれでもみるもあわれな乞食の前は急いで通りぬけてしまうのである。  ふたりは、やあ公が十銭玉をいつもの手さげ金庫にちゃりんとほうりこんだのをしおに、にげ出すような気持ちで店を出た。もうここへはこんりんざいこないと正九郎は思った。自転車屋の店がみえなくなった道角でふたりはややほっとした。  だがここでも不幸はふたりを待っていた。ほっとしたとたんに、正九郎はあらい立てのズボンをすっかり汚してしまったことに気がついたのである。その上加平までが、やあ公がびわの木をあらしすぎやしなかったかということを心配しだしたのである。気がついてみれば、加平のお父つあんはうさぎでもにわとりでも平気でしめころすおそろしいおじさんだった!  ふたりは水からあがったばかりの仔猫のようにしょんぼりつっ立って、もの悲しげに夕暮をみた。もう彼らにはいくところがない。すべては終わってしまった!
正九郎はいまにも空気入れがひとりでに歩いてきて、何としゃべり出しやしまいかと思いましたか。
正九郎はいまにも空気入れがひとりでに歩いてきて、正九ンがぼくをこわしたとしゃべり出しやしまいかと思いました。
JCRRAG_011055
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はじめのうちふたりはあまりわくわくしていたので、四つの手がぶっつきあってしかたがなかったが、そのうち本物の自転車屋の子どものようにすらすらとうまくやっていくことができた。だがむろん、正九郎のあらい立ての白ズボンがみるみる汚くなってゆくことはまぬがれなかった。よいことがあればすこしくらいはわるいこともがまんしなければならない。  だがこんなことになろうとは思っていなかった。修繕が終わって正九郎が空気ポンプでタイヤの中に空気を送っていたとき、急に空気の抵抗がなくなって、ポンプがきかなくなってしまったのだ。五六度おしたりひきあげたりしてみたが、水の中へ棒をさしこむようなものである。正九郎は加平と顔をみあわせた。たいへんなことをしてしまったという気持ちがお互いの顔にあらわれていた。正九郎は眼の前が暗くなってきた。そして耳の中に波がおしよせたように、ざあざあと鳴りだしたのである。  やれやれ! 何も知らないお客さんが、十銭玉を加平の手ににぎらせて、自転車にのっていってしまうと、ふたりはポンプの破損という大きな壁のような罪に面と向かわねばならなかった。不幸というものはこんな工合にやってくるものだということをふたりはいまさらのように感じた。 「おれ知らんじゃ」と加平がいった。  加平はやっぱり他人である。正九郎はなき出したくなってしまった。でもないたとてどうにもならないと彼が考えたほど、その罪は大きなものに思えた。それは石のようにのしかかってきて彼の心をおさえつけた。騎馬戦の馬になっていて、大勢の下じきになったときみたいな苦しい圧迫感がみぞおちのあたりに感ぜられた。  むろん加平がこのおそろしい過失をやあ公につげるものと正九郎は観念していた。ところが予想はまちがっていたのである。やあ公が腹いっぱいたべた証拠にげっぷをしながら帰ってくると、加平はお客さんがおいていった十銭玉をわたして簡単にわけを話したきり、何もいわないのであった。  しかし正九郎はむしろつげてもらった方がよかった。そうすればそこでわあとなき出してしまうこともできたのである。  罪を隠匿することはなんと苦労のいることだろう。ふたりは空気入れの方をあまりみてはいけないのである。さもないとやあ公がそれをあやしみはじめるかもしれないからだ。また、話をやあ公のすきなものの方にのみ局限しなければならない。そうでないと、いつ話が空気入れの上に落ちぬともかぎらぬからである。にもかかわらず正九郎はしばしば空気入れの方を盗みみないではおれなかった。気になってしかたがない。いまにも空気入れがひとりでに歩いてきて、正九ンがぼくをこわしたとしゃべり出しやしまいかとさえ思うのだった。  いちばんいい方法は早く空気入れのいないところへいってしまうことである。私たちの良心が苦しくてたまらないときは、その良心を苦しめるもののみえないところへいってしまうのが、最上の策だということを私たちはよく知っている。だからだれでもみるもあわれな乞食の前は急いで通りぬけてしまうのである。  ふたりは、やあ公が十銭玉をいつもの手さげ金庫にちゃりんとほうりこんだのをしおに、にげ出すような気持ちで店を出た。もうここへはこんりんざいこないと正九郎は思った。自転車屋の店がみえなくなった道角でふたりはややほっとした。  だがここでも不幸はふたりを待っていた。ほっとしたとたんに、正九郎はあらい立てのズボンをすっかり汚してしまったことに気がついたのである。その上加平までが、やあ公がびわの木をあらしすぎやしなかったかということを心配しだしたのである。気がついてみれば、加平のお父つあんはうさぎでもにわとりでも平気でしめころすおそろしいおじさんだった!  ふたりは水からあがったばかりの仔猫のようにしょんぼりつっ立って、もの悲しげに夕暮をみた。もう彼らにはいくところがない。すべては終わってしまった!
ふたりは、やあ公が十銭玉をいつもの手さげ金庫にちゃりんとほうりこんだのをしおに、どのような気持ちで店を出ましたか。
ふたりは、やあ公が十銭玉をいつもの手さげ金庫にちゃりんとほうりこんだのをしおに、にげ出すような気持ちで店を出ました。
JCRRAG_011056
国語
はじめのうちふたりはあまりわくわくしていたので、四つの手がぶっつきあってしかたがなかったが、そのうち本物の自転車屋の子どものようにすらすらとうまくやっていくことができた。だがむろん、正九郎のあらい立ての白ズボンがみるみる汚くなってゆくことはまぬがれなかった。よいことがあればすこしくらいはわるいこともがまんしなければならない。  だがこんなことになろうとは思っていなかった。修繕が終わって正九郎が空気ポンプでタイヤの中に空気を送っていたとき、急に空気の抵抗がなくなって、ポンプがきかなくなってしまったのだ。五六度おしたりひきあげたりしてみたが、水の中へ棒をさしこむようなものである。正九郎は加平と顔をみあわせた。たいへんなことをしてしまったという気持ちがお互いの顔にあらわれていた。正九郎は眼の前が暗くなってきた。そして耳の中に波がおしよせたように、ざあざあと鳴りだしたのである。  やれやれ! 何も知らないお客さんが、十銭玉を加平の手ににぎらせて、自転車にのっていってしまうと、ふたりはポンプの破損という大きな壁のような罪に面と向かわねばならなかった。不幸というものはこんな工合にやってくるものだということをふたりはいまさらのように感じた。 「おれ知らんじゃ」と加平がいった。  加平はやっぱり他人である。正九郎はなき出したくなってしまった。でもないたとてどうにもならないと彼が考えたほど、その罪は大きなものに思えた。それは石のようにのしかかってきて彼の心をおさえつけた。騎馬戦の馬になっていて、大勢の下じきになったときみたいな苦しい圧迫感がみぞおちのあたりに感ぜられた。  むろん加平がこのおそろしい過失をやあ公につげるものと正九郎は観念していた。ところが予想はまちがっていたのである。やあ公が腹いっぱいたべた証拠にげっぷをしながら帰ってくると、加平はお客さんがおいていった十銭玉をわたして簡単にわけを話したきり、何もいわないのであった。  しかし正九郎はむしろつげてもらった方がよかった。そうすればそこでわあとなき出してしまうこともできたのである。  罪を隠匿することはなんと苦労のいることだろう。ふたりは空気入れの方をあまりみてはいけないのである。さもないとやあ公がそれをあやしみはじめるかもしれないからだ。また、話をやあ公のすきなものの方にのみ局限しなければならない。そうでないと、いつ話が空気入れの上に落ちぬともかぎらぬからである。にもかかわらず正九郎はしばしば空気入れの方を盗みみないではおれなかった。気になってしかたがない。いまにも空気入れがひとりでに歩いてきて、正九ンがぼくをこわしたとしゃべり出しやしまいかとさえ思うのだった。  いちばんいい方法は早く空気入れのいないところへいってしまうことである。私たちの良心が苦しくてたまらないときは、その良心を苦しめるもののみえないところへいってしまうのが、最上の策だということを私たちはよく知っている。だからだれでもみるもあわれな乞食の前は急いで通りぬけてしまうのである。  ふたりは、やあ公が十銭玉をいつもの手さげ金庫にちゃりんとほうりこんだのをしおに、にげ出すような気持ちで店を出た。もうここへはこんりんざいこないと正九郎は思った。自転車屋の店がみえなくなった道角でふたりはややほっとした。  だがここでも不幸はふたりを待っていた。ほっとしたとたんに、正九郎はあらい立てのズボンをすっかり汚してしまったことに気がついたのである。その上加平までが、やあ公がびわの木をあらしすぎやしなかったかということを心配しだしたのである。気がついてみれば、加平のお父つあんはうさぎでもにわとりでも平気でしめころすおそろしいおじさんだった!  ふたりは水からあがったばかりの仔猫のようにしょんぼりつっ立って、もの悲しげに夕暮をみた。もう彼らにはいくところがない。すべては終わってしまった!
ふたりは水からあがったばかりの仔猫のようにしょんぼりつっ立って、何をみましたか。
ふたりは水からあがったばかりの仔猫のようにしょんぼりつっ立って、もの悲しげに夕暮をみました。
JCRRAG_011057
国語
でもまだ終わってしまったのではない。どうすることもできない空気ポンプのことがある。空気ポンプはそのよく日もまたそのよく日も正九郎をおびやかした。村中の人がそのことを知っているような気がして、正九郎は人の顔を正視することができなかった。先生が朝礼台にのぼるたび、そのことをいい出しやしないかと、きもを冷やすのだった。自転車屋の方へなど足も向けなかった。空気入れからのがれるためなら、正九郎はいっそう煙のように消えてしまいたいほどだったのである。  しかしとうとうおそろしいことになってしまった。あのことがあってから一週間ばかりのちのある夕方、お母さんが正九郎にふろしきをわたしていったのだった。 「自転車屋へいってナ、卵を二十銭、買っといで。」  ついにきたと正九郎は思った。顔からさあっと血がひいていくのを感じた。 「清太ンとこじゃいかんの、おっ母さん?」  お母さんはわざと正九郎を苦しめるようにいうのだった。 「あそこの卵は粒が小さいで損だよ。」  これがお母さんのいつものいい草だ。  正九郎は観念して外に出た。曲角を三つ曲がれば自転車屋であると正九郎は思った。もうあと二つだ。もうあと一つだ。清太ンとこで買ってきてお母さんをごまかしたらどんなもんだろうと思った。でも思ったきりだった。加平なら、そんなことをやれるかも知れない……。あ、とうとう最後の角を曲がってしまった。何か眼にみえないものが正九郎をひっぱっていく。もうのがれっこはない……  自首しに交番にはいってゆくすりのように、正九郎は自転車屋にはいっていった。どんなに深く彼はあきらめていたことだろう。自転車屋のこわい金さんが、丸太をふりあげて待っていたとしても、正九郎はその前におとなしく首をさしのべていったにちがいない。だがそれにもかかわらず、金さんがいないことがわかったとき彼は喜ばずにはいられなかった。  もうすべてのことは発覚していると思っていたのに、ボロ自転車の掃除をしていたやあ公は正九郎の顔をみても、別になんともいわなかった。そして卵のことをきくと、背戸へいっておばさんに話してきてくれた。正九郎は勝手がちがって変な気持ちだった。なんとかいわれたら、こんなふうにわびようと、道々口の中でくりかえしてきた哀願のことばが口の中でとまどいするのが感ぜられた。だがむろんわるい心地ではなかった。
正九郎は勝手がちがってどのような気持ちでしたか。
正九郎は勝手がちがって変な気持ちでした。
JCRRAG_011058
国語
でもまだ終わってしまったのではない。どうすることもできない空気ポンプのことがある。空気ポンプはそのよく日もまたそのよく日も正九郎をおびやかした。村中の人がそのことを知っているような気がして、正九郎は人の顔を正視することができなかった。先生が朝礼台にのぼるたび、そのことをいい出しやしないかと、きもを冷やすのだった。自転車屋の方へなど足も向けなかった。空気入れからのがれるためなら、正九郎はいっそう煙のように消えてしまいたいほどだったのである。  しかしとうとうおそろしいことになってしまった。あのことがあってから一週間ばかりのちのある夕方、お母さんが正九郎にふろしきをわたしていったのだった。 「自転車屋へいってナ、卵を二十銭、買っといで。」  ついにきたと正九郎は思った。顔からさあっと血がひいていくのを感じた。 「清太ンとこじゃいかんの、おっ母さん?」  お母さんはわざと正九郎を苦しめるようにいうのだった。 「あそこの卵は粒が小さいで損だよ。」  これがお母さんのいつものいい草だ。  正九郎は観念して外に出た。曲角を三つ曲がれば自転車屋であると正九郎は思った。もうあと二つだ。もうあと一つだ。清太ンとこで買ってきてお母さんをごまかしたらどんなもんだろうと思った。でも思ったきりだった。加平なら、そんなことをやれるかも知れない……。あ、とうとう最後の角を曲がってしまった。何か眼にみえないものが正九郎をひっぱっていく。もうのがれっこはない……  自首しに交番にはいってゆくすりのように、正九郎は自転車屋にはいっていった。どんなに深く彼はあきらめていたことだろう。自転車屋のこわい金さんが、丸太をふりあげて待っていたとしても、正九郎はその前におとなしく首をさしのべていったにちがいない。だがそれにもかかわらず、金さんがいないことがわかったとき彼は喜ばずにはいられなかった。  もうすべてのことは発覚していると思っていたのに、ボロ自転車の掃除をしていたやあ公は正九郎の顔をみても、別になんともいわなかった。そして卵のことをきくと、背戸へいっておばさんに話してきてくれた。正九郎は勝手がちがって変な気持ちだった。なんとかいわれたら、こんなふうにわびようと、道々口の中でくりかえしてきた哀願のことばが口の中でとまどいするのが感ぜられた。だがむろんわるい心地ではなかった。
正九郎は顔からさあっと何がひいていくのを感じましたか。
正九郎は顔からさあっと血がひいていくのを感じました。
JCRRAG_011059
国語
でもまだ終わってしまったのではない。どうすることもできない空気ポンプのことがある。空気ポンプはそのよく日もまたそのよく日も正九郎をおびやかした。村中の人がそのことを知っているような気がして、正九郎は人の顔を正視することができなかった。先生が朝礼台にのぼるたび、そのことをいい出しやしないかと、きもを冷やすのだった。自転車屋の方へなど足も向けなかった。空気入れからのがれるためなら、正九郎はいっそう煙のように消えてしまいたいほどだったのである。  しかしとうとうおそろしいことになってしまった。あのことがあってから一週間ばかりのちのある夕方、お母さんが正九郎にふろしきをわたしていったのだった。 「自転車屋へいってナ、卵を二十銭、買っといで。」  ついにきたと正九郎は思った。顔からさあっと血がひいていくのを感じた。 「清太ンとこじゃいかんの、おっ母さん?」  お母さんはわざと正九郎を苦しめるようにいうのだった。 「あそこの卵は粒が小さいで損だよ。」  これがお母さんのいつものいい草だ。  正九郎は観念して外に出た。曲角を三つ曲がれば自転車屋であると正九郎は思った。もうあと二つだ。もうあと一つだ。清太ンとこで買ってきてお母さんをごまかしたらどんなもんだろうと思った。でも思ったきりだった。加平なら、そんなことをやれるかも知れない……。あ、とうとう最後の角を曲がってしまった。何か眼にみえないものが正九郎をひっぱっていく。もうのがれっこはない……  自首しに交番にはいってゆくすりのように、正九郎は自転車屋にはいっていった。どんなに深く彼はあきらめていたことだろう。自転車屋のこわい金さんが、丸太をふりあげて待っていたとしても、正九郎はその前におとなしく首をさしのべていったにちがいない。だがそれにもかかわらず、金さんがいないことがわかったとき彼は喜ばずにはいられなかった。  もうすべてのことは発覚していると思っていたのに、ボロ自転車の掃除をしていたやあ公は正九郎の顔をみても、別になんともいわなかった。そして卵のことをきくと、背戸へいっておばさんに話してきてくれた。正九郎は勝手がちがって変な気持ちだった。なんとかいわれたら、こんなふうにわびようと、道々口の中でくりかえしてきた哀願のことばが口の中でとまどいするのが感ぜられた。だがむろんわるい心地ではなかった。
正九郎はどのようなことを思いましたが、思ったきりでしたか。
正九郎は清太ンとこで買ってきてお母さんをごまかしたらどうだろうと思いましたが、思ったきりでした。
JCRRAG_011060
国語
でもまだ終わってしまったのではない。どうすることもできない空気ポンプのことがある。空気ポンプはそのよく日もまたそのよく日も正九郎をおびやかした。村中の人がそのことを知っているような気がして、正九郎は人の顔を正視することができなかった。先生が朝礼台にのぼるたび、そのことをいい出しやしないかと、きもを冷やすのだった。自転車屋の方へなど足も向けなかった。空気入れからのがれるためなら、正九郎はいっそう煙のように消えてしまいたいほどだったのである。  しかしとうとうおそろしいことになってしまった。あのことがあってから一週間ばかりのちのある夕方、お母さんが正九郎にふろしきをわたしていったのだった。 「自転車屋へいってナ、卵を二十銭、買っといで。」  ついにきたと正九郎は思った。顔からさあっと血がひいていくのを感じた。 「清太ンとこじゃいかんの、おっ母さん?」  お母さんはわざと正九郎を苦しめるようにいうのだった。 「あそこの卵は粒が小さいで損だよ。」  これがお母さんのいつものいい草だ。  正九郎は観念して外に出た。曲角を三つ曲がれば自転車屋であると正九郎は思った。もうあと二つだ。もうあと一つだ。清太ンとこで買ってきてお母さんをごまかしたらどんなもんだろうと思った。でも思ったきりだった。加平なら、そんなことをやれるかも知れない……。あ、とうとう最後の角を曲がってしまった。何か眼にみえないものが正九郎をひっぱっていく。もうのがれっこはない……  自首しに交番にはいってゆくすりのように、正九郎は自転車屋にはいっていった。どんなに深く彼はあきらめていたことだろう。自転車屋のこわい金さんが、丸太をふりあげて待っていたとしても、正九郎はその前におとなしく首をさしのべていったにちがいない。だがそれにもかかわらず、金さんがいないことがわかったとき彼は喜ばずにはいられなかった。  もうすべてのことは発覚していると思っていたのに、ボロ自転車の掃除をしていたやあ公は正九郎の顔をみても、別になんともいわなかった。そして卵のことをきくと、背戸へいっておばさんに話してきてくれた。正九郎は勝手がちがって変な気持ちだった。なんとかいわれたら、こんなふうにわびようと、道々口の中でくりかえしてきた哀願のことばが口の中でとまどいするのが感ぜられた。だがむろんわるい心地ではなかった。
正九郎は自首しに交番にはいってゆくすりのように、どこにはいっていきましたか。
正九郎は自首しに交番にはいってゆくすりのように、自転車屋にはいっていきました。
JCRRAG_011061
国語
おばさんが、前だれに卵を入れて持ってきた。そして正九郎のふろしきを畳の上にひろげて、そこへ前だれから移した。いつものおばさんとすこしもかわりはない。おばさんも知らないのだ。するとあの空気ポンプはどうなったのだろう。  正九郎は別段みたわけではない。だがはじめから空気ポンプがどこにあるか知っていた。さわってみなくてもはれもののあるところがわかるのと同じことである。ところが正九郎のそのはれものに、突如現われた闖入者が手をふれたのである。  正九郎はあっというひまもなかった。樽屋の次郎さんがつかつかとはいってきて、 「空気入れ、すまんがかしてや」 といったかと思うと、もう、空気ポンプをつかんで出ていったのである。正九郎ははれものの中に指をつっこまれたようにぎょっとした。何がなんだかわからなくなってしまった。胸がしきりにいたんだ。耳のあたりで百も千もの鐘が一時にわめき出したような音がした。  それはほんの一瞬間のできごとであったが正九郎には長い苦しみであったように思えた。もし、シューッ、シューッという空気ポンプの健全な音をきくことができなかったら正九郎はどうなっていただろう。正九郎ははじめほんとうとは思えなかった。自分の耳を信ずることができなかった。しかし軒下で空気ポンプは力にあふれた声をあげるのだった。「シューッ、シューッ」それは頑丈な男が、歯をくいしばってその歯のあいだから、ゆっくり息をおし出すような音だった。  おばさんは卵をみんなふろしきにうつすと、最後に小さい卵を正九郎の手ににぎらせていうのだった。「これは駄賃だよ。いまうんだばかりだからまだぬくといだら。」  片手にふろしきづつみ、片手にうみたてのほろぬくい卵を持って通りに出ると、正九郎は身も心もかるくなったのを感じた。長いあいだいたんだむしばがポロリとぬけたような気持ちだ。ほんとうに長い苦しみだった。ところで心がかりがないということはなんという心持ちのよいことだろう。世界は美しくみえる。空気はよいにおいがする。ほんとうに! このとき指先でちょっと正九郎をつつく者があったら、彼は腰を前に折ってげらげらと笑ったであろう。際限もなく笑って、しまいには垣根の下にぶったおれたことであろう。  彼はせんべやの前で突如かけ出し、家まで一息に走って帰った。
正九郎はどのようにぎょっとしましたか。
正九郎ははれものの中に指をつっこまれたようにぎょっとしました。
JCRRAG_011062
国語
おばさんが、前だれに卵を入れて持ってきた。そして正九郎のふろしきを畳の上にひろげて、そこへ前だれから移した。いつものおばさんとすこしもかわりはない。おばさんも知らないのだ。するとあの空気ポンプはどうなったのだろう。  正九郎は別段みたわけではない。だがはじめから空気ポンプがどこにあるか知っていた。さわってみなくてもはれもののあるところがわかるのと同じことである。ところが正九郎のそのはれものに、突如現われた闖入者が手をふれたのである。  正九郎はあっというひまもなかった。樽屋の次郎さんがつかつかとはいってきて、 「空気入れ、すまんがかしてや」 といったかと思うと、もう、空気ポンプをつかんで出ていったのである。正九郎ははれものの中に指をつっこまれたようにぎょっとした。何がなんだかわからなくなってしまった。胸がしきりにいたんだ。耳のあたりで百も千もの鐘が一時にわめき出したような音がした。  それはほんの一瞬間のできごとであったが正九郎には長い苦しみであったように思えた。もし、シューッ、シューッという空気ポンプの健全な音をきくことができなかったら正九郎はどうなっていただろう。正九郎ははじめほんとうとは思えなかった。自分の耳を信ずることができなかった。しかし軒下で空気ポンプは力にあふれた声をあげるのだった。「シューッ、シューッ」それは頑丈な男が、歯をくいしばってその歯のあいだから、ゆっくり息をおし出すような音だった。  おばさんは卵をみんなふろしきにうつすと、最後に小さい卵を正九郎の手ににぎらせていうのだった。「これは駄賃だよ。いまうんだばかりだからまだぬくといだら。」  片手にふろしきづつみ、片手にうみたてのほろぬくい卵を持って通りに出ると、正九郎は身も心もかるくなったのを感じた。長いあいだいたんだむしばがポロリとぬけたような気持ちだ。ほんとうに長い苦しみだった。ところで心がかりがないということはなんという心持ちのよいことだろう。世界は美しくみえる。空気はよいにおいがする。ほんとうに! このとき指先でちょっと正九郎をつつく者があったら、彼は腰を前に折ってげらげらと笑ったであろう。際限もなく笑って、しまいには垣根の下にぶったおれたことであろう。  彼はせんべやの前で突如かけ出し、家まで一息に走って帰った。
おばさんは、前だれに何を入れて持ってきました。
おばさんは、前だれに卵を入れて持ってきました。
JCRRAG_011063
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おばさんが、前だれに卵を入れて持ってきた。そして正九郎のふろしきを畳の上にひろげて、そこへ前だれから移した。いつものおばさんとすこしもかわりはない。おばさんも知らないのだ。するとあの空気ポンプはどうなったのだろう。  正九郎は別段みたわけではない。だがはじめから空気ポンプがどこにあるか知っていた。さわってみなくてもはれもののあるところがわかるのと同じことである。ところが正九郎のそのはれものに、突如現われた闖入者が手をふれたのである。  正九郎はあっというひまもなかった。樽屋の次郎さんがつかつかとはいってきて、 「空気入れ、すまんがかしてや」 といったかと思うと、もう、空気ポンプをつかんで出ていったのである。正九郎ははれものの中に指をつっこまれたようにぎょっとした。何がなんだかわからなくなってしまった。胸がしきりにいたんだ。耳のあたりで百も千もの鐘が一時にわめき出したような音がした。  それはほんの一瞬間のできごとであったが正九郎には長い苦しみであったように思えた。もし、シューッ、シューッという空気ポンプの健全な音をきくことができなかったら正九郎はどうなっていただろう。正九郎ははじめほんとうとは思えなかった。自分の耳を信ずることができなかった。しかし軒下で空気ポンプは力にあふれた声をあげるのだった。「シューッ、シューッ」それは頑丈な男が、歯をくいしばってその歯のあいだから、ゆっくり息をおし出すような音だった。  おばさんは卵をみんなふろしきにうつすと、最後に小さい卵を正九郎の手ににぎらせていうのだった。「これは駄賃だよ。いまうんだばかりだからまだぬくといだら。」  片手にふろしきづつみ、片手にうみたてのほろぬくい卵を持って通りに出ると、正九郎は身も心もかるくなったのを感じた。長いあいだいたんだむしばがポロリとぬけたような気持ちだ。ほんとうに長い苦しみだった。ところで心がかりがないということはなんという心持ちのよいことだろう。世界は美しくみえる。空気はよいにおいがする。ほんとうに! このとき指先でちょっと正九郎をつつく者があったら、彼は腰を前に折ってげらげらと笑ったであろう。際限もなく笑って、しまいには垣根の下にぶったおれたことであろう。  彼はせんべやの前で突如かけ出し、家まで一息に走って帰った。
正九郎は片手にふろしきづつみ、片手にうみたてのほろぬくい卵を持って通りに出ると、何を感じましたか。
正九郎は片手にふろしきづつみ、片手にうみたてのほろぬくい卵を持って通りに出ると、身も心もかるくなったのを感じました。
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おばさんが、前だれに卵を入れて持ってきた。そして正九郎のふろしきを畳の上にひろげて、そこへ前だれから移した。いつものおばさんとすこしもかわりはない。おばさんも知らないのだ。するとあの空気ポンプはどうなったのだろう。  正九郎は別段みたわけではない。だがはじめから空気ポンプがどこにあるか知っていた。さわってみなくてもはれもののあるところがわかるのと同じことである。ところが正九郎のそのはれものに、突如現われた闖入者が手をふれたのである。  正九郎はあっというひまもなかった。樽屋の次郎さんがつかつかとはいってきて、 「空気入れ、すまんがかしてや」 といったかと思うと、もう、空気ポンプをつかんで出ていったのである。正九郎ははれものの中に指をつっこまれたようにぎょっとした。何がなんだかわからなくなってしまった。胸がしきりにいたんだ。耳のあたりで百も千もの鐘が一時にわめき出したような音がした。  それはほんの一瞬間のできごとであったが正九郎には長い苦しみであったように思えた。もし、シューッ、シューッという空気ポンプの健全な音をきくことができなかったら正九郎はどうなっていただろう。正九郎ははじめほんとうとは思えなかった。自分の耳を信ずることができなかった。しかし軒下で空気ポンプは力にあふれた声をあげるのだった。「シューッ、シューッ」それは頑丈な男が、歯をくいしばってその歯のあいだから、ゆっくり息をおし出すような音だった。  おばさんは卵をみんなふろしきにうつすと、最後に小さい卵を正九郎の手ににぎらせていうのだった。「これは駄賃だよ。いまうんだばかりだからまだぬくといだら。」  片手にふろしきづつみ、片手にうみたてのほろぬくい卵を持って通りに出ると、正九郎は身も心もかるくなったのを感じた。長いあいだいたんだむしばがポロリとぬけたような気持ちだ。ほんとうに長い苦しみだった。ところで心がかりがないということはなんという心持ちのよいことだろう。世界は美しくみえる。空気はよいにおいがする。ほんとうに! このとき指先でちょっと正九郎をつつく者があったら、彼は腰を前に折ってげらげらと笑ったであろう。際限もなく笑って、しまいには垣根の下にぶったおれたことであろう。  彼はせんべやの前で突如かけ出し、家まで一息に走って帰った。
空気ポンプの音は、どのような音でしたか。
空気ポンプの音は、頑丈な男が、歯をくいしばってその歯のあいだから、ゆっくり息をおし出すような音でした。
JCRRAG_011065
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おばさんが、前だれに卵を入れて持ってきた。そして正九郎のふろしきを畳の上にひろげて、そこへ前だれから移した。いつものおばさんとすこしもかわりはない。おばさんも知らないのだ。するとあの空気ポンプはどうなったのだろう。  正九郎は別段みたわけではない。だがはじめから空気ポンプがどこにあるか知っていた。さわってみなくてもはれもののあるところがわかるのと同じことである。ところが正九郎のそのはれものに、突如現われた闖入者が手をふれたのである。  正九郎はあっというひまもなかった。樽屋の次郎さんがつかつかとはいってきて、 「空気入れ、すまんがかしてや」 といったかと思うと、もう、空気ポンプをつかんで出ていったのである。正九郎ははれものの中に指をつっこまれたようにぎょっとした。何がなんだかわからなくなってしまった。胸がしきりにいたんだ。耳のあたりで百も千もの鐘が一時にわめき出したような音がした。  それはほんの一瞬間のできごとであったが正九郎には長い苦しみであったように思えた。もし、シューッ、シューッという空気ポンプの健全な音をきくことができなかったら正九郎はどうなっていただろう。正九郎ははじめほんとうとは思えなかった。自分の耳を信ずることができなかった。しかし軒下で空気ポンプは力にあふれた声をあげるのだった。「シューッ、シューッ」それは頑丈な男が、歯をくいしばってその歯のあいだから、ゆっくり息をおし出すような音だった。  おばさんは卵をみんなふろしきにうつすと、最後に小さい卵を正九郎の手ににぎらせていうのだった。「これは駄賃だよ。いまうんだばかりだからまだぬくといだら。」  片手にふろしきづつみ、片手にうみたてのほろぬくい卵を持って通りに出ると、正九郎は身も心もかるくなったのを感じた。長いあいだいたんだむしばがポロリとぬけたような気持ちだ。ほんとうに長い苦しみだった。ところで心がかりがないということはなんという心持ちのよいことだろう。世界は美しくみえる。空気はよいにおいがする。ほんとうに! このとき指先でちょっと正九郎をつつく者があったら、彼は腰を前に折ってげらげらと笑ったであろう。際限もなく笑って、しまいには垣根の下にぶったおれたことであろう。  彼はせんべやの前で突如かけ出し、家まで一息に走って帰った。
正九郎はせんべやの前で突如かけ出し、どこまで一息に走って帰りましたか。
正九郎はせんべやの前で突如かけ出し、家まで一息に走って帰りました。
JCRRAG_011066
国語
「おい地獄さ行ぐんだで!」  二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛が背のびをしたように延びて、海を抱え込んでいる函館の街を見ていた。漁夫は指元まで吸いつくした煙草を唾と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹をすれずれに落ちて行った。彼は身体一杯酒臭かった。  赤い太鼓腹を巾広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から片袖をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴のようなヴイ、南京虫のように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々とざわめいている油煙やパン屑や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。風の工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音が、時々波を伝って直接響いてきた。  この蟹工船博光丸のすぐ手前に、ペンキの剥げた帆船が、へさきの牛の鼻穴のようなところから、錨の鎖を下していた、甲板を、マドロス・パイプをくわえた外人が二人同じところを何度も機械人形のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たしかに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。 「俺らもう一文も無え。糞。こら」  そう言って、身体をずらして寄こした。そしてもう一人の漁夫の手を握って、自分の腰のところへ持って行った。袢天の下のコールテンのズボンのポケットに押しあてた。何か小さい箱らしかった。  一人は黙って、その漁夫の顔をみた。 「ヒヒヒ……」と笑って、「花札よ」と言った。  ボート・デッキで、「将軍」のような恰好をした船長が、ブラブラしながら煙草をのんでいる。はき出す煙が鼻先からすぐ急角度に折れて、ちぎれ飛んだ。底に木を打った草履をひきずって、食物バケツをさげた船員が急がしく「おもて」の船室に出入りした。用意はすっかり出来ていて、もう出る準備ができていた。  雑夫のいるハッチを上から覗きこむと、薄暗い船底の棚に、巣から顔だけピョコピョコ出す鳥のように、騒ぎ廻っているのが見えた。皆十四、五歳の少年ばかりだった。
二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛が背のびをしたように延びて、何をしていたか。
二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛が背のびをしたように延びて、海を抱え込んでいる函館の街を見ていた。
JCRRAG_011067
国語
「おい地獄さ行ぐんだで!」  二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛が背のびをしたように延びて、海を抱え込んでいる函館の街を見ていた。漁夫は指元まで吸いつくした煙草を唾と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹をすれずれに落ちて行った。彼は身体一杯酒臭かった。  赤い太鼓腹を巾広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から片袖をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴のようなヴイ、南京虫のように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々とざわめいている油煙やパン屑や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。風の工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音が、時々波を伝って直接響いてきた。  この蟹工船博光丸のすぐ手前に、ペンキの剥げた帆船が、へさきの牛の鼻穴のようなところから、錨の鎖を下していた、甲板を、マドロス・パイプをくわえた外人が二人同じところを何度も機械人形のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たしかに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。 「俺らもう一文も無え。糞。こら」  そう言って、身体をずらして寄こした。そしてもう一人の漁夫の手を握って、自分の腰のところへ持って行った。袢天の下のコールテンのズボンのポケットに押しあてた。何か小さい箱らしかった。  一人は黙って、その漁夫の顔をみた。 「ヒヒヒ……」と笑って、「花札よ」と言った。  ボート・デッキで、「将軍」のような恰好をした船長が、ブラブラしながら煙草をのんでいる。はき出す煙が鼻先からすぐ急角度に折れて、ちぎれ飛んだ。底に木を打った草履をひきずって、食物バケツをさげた船員が急がしく「おもて」の船室に出入りした。用意はすっかり出来ていて、もう出る準備ができていた。  雑夫のいるハッチを上から覗きこむと、薄暗い船底の棚に、巣から顔だけピョコピョコ出す鳥のように、騒ぎ廻っているのが見えた。皆十四、五歳の少年ばかりだった。
漁夫は指元まで吸いつくした煙草をどうしたか。
漁夫は指元まで吸いつくした煙草を唾と一緒に捨てた。
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国語
「おい地獄さ行ぐんだで!」  二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛が背のびをしたように延びて、海を抱え込んでいる函館の街を見ていた。漁夫は指元まで吸いつくした煙草を唾と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹をすれずれに落ちて行った。彼は身体一杯酒臭かった。  赤い太鼓腹を巾広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から片袖をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴のようなヴイ、南京虫のように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々とざわめいている油煙やパン屑や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。風の工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音が、時々波を伝って直接響いてきた。  この蟹工船博光丸のすぐ手前に、ペンキの剥げた帆船が、へさきの牛の鼻穴のようなところから、錨の鎖を下していた、甲板を、マドロス・パイプをくわえた外人が二人同じところを何度も機械人形のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たしかに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。 「俺らもう一文も無え。糞。こら」  そう言って、身体をずらして寄こした。そしてもう一人の漁夫の手を握って、自分の腰のところへ持って行った。袢天の下のコールテンのズボンのポケットに押しあてた。何か小さい箱らしかった。  一人は黙って、その漁夫の顔をみた。 「ヒヒヒ……」と笑って、「花札よ」と言った。  ボート・デッキで、「将軍」のような恰好をした船長が、ブラブラしながら煙草をのんでいる。はき出す煙が鼻先からすぐ急角度に折れて、ちぎれ飛んだ。底に木を打った草履をひきずって、食物バケツをさげた船員が急がしく「おもて」の船室に出入りした。用意はすっかり出来ていて、もう出る準備ができていた。  雑夫のいるハッチを上から覗きこむと、薄暗い船底の棚に、巣から顔だけピョコピョコ出す鳥のように、騒ぎ廻っているのが見えた。皆十四、五歳の少年ばかりだった。
巻煙草はどうなったか。
巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹をすれずれに落ちて行った。
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国語
「おい地獄さ行ぐんだで!」  二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛が背のびをしたように延びて、海を抱え込んでいる函館の街を見ていた。漁夫は指元まで吸いつくした煙草を唾と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹をすれずれに落ちて行った。彼は身体一杯酒臭かった。  赤い太鼓腹を巾広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から片袖をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴のようなヴイ、南京虫のように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々とざわめいている油煙やパン屑や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。風の工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音が、時々波を伝って直接響いてきた。  この蟹工船博光丸のすぐ手前に、ペンキの剥げた帆船が、へさきの牛の鼻穴のようなところから、錨の鎖を下していた、甲板を、マドロス・パイプをくわえた外人が二人同じところを何度も機械人形のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たしかに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。 「俺らもう一文も無え。糞。こら」  そう言って、身体をずらして寄こした。そしてもう一人の漁夫の手を握って、自分の腰のところへ持って行った。袢天の下のコールテンのズボンのポケットに押しあてた。何か小さい箱らしかった。  一人は黙って、その漁夫の顔をみた。 「ヒヒヒ……」と笑って、「花札よ」と言った。  ボート・デッキで、「将軍」のような恰好をした船長が、ブラブラしながら煙草をのんでいる。はき出す煙が鼻先からすぐ急角度に折れて、ちぎれ飛んだ。底に木を打った草履をひきずって、食物バケツをさげた船員が急がしく「おもて」の船室に出入りした。用意はすっかり出来ていて、もう出る準備ができていた。  雑夫のいるハッチを上から覗きこむと、薄暗い船底の棚に、巣から顔だけピョコピョコ出す鳥のように、騒ぎ廻っているのが見えた。皆十四、五歳の少年ばかりだった。
彼は身体一杯どんな臭いがしたか。
彼は身体一杯酒臭かった。
JCRRAG_011070
国語
薄暗い隅の方で、袢天を着、股引をはいた、風呂敷を三角にかぶった女出面らしい母親が、林檎の皮をむいて、棚に腹ん這いになっている子供に食わしてやっていた。子供の食うのを見ながら、自分では剥いたぐるぐるの輪になった皮を食っている。何かしゃべったり、子供のそばの小さい風呂敷包みを何度も解いたり、直してやっていた。そういうのが七、八人もいた。誰も送って来てくれるもののいない内地から来た子供達は、時々そっちの方をぬすみ見るように、見ていた。  髪や身体がセメントの粉まみれになっている女が、キャラメルの箱から二粒位ずつ、その附近の子供達に分けてやりながら、 「うちの健吉と仲良く働いてやってけれよ、な」と言っていた。木の根のように不恰好に大きいザラザラした手だった。  子供に鼻をかんでやっているのや、手拭で顔をふいてやっているのや、ボソボソ何か言っているのや、あった。 「お前さんどこの子供は、身体はええべものな」  母親同志だった。 「ん、まあ」 「俺どこのア、とても弱いんだ。どうすべかッて思うんだども、何んしろ……」 「それア何処でも、ね」  二人の漁夫がハッチから甲板へ顔を出すと、ホッとした。不機嫌に、急にだまり合ったまま雑夫の穴より、もっと船首の、梯形の自分達の「巣」に帰った。錨を上げたり、下したりする度に、コンクリート・ミキサの中に投げ込まれたように、皆は跳ね上り、ぶつかり合わなければならなかった。
薄暗い隅の方で、袢天を着、股引をはいた、風呂敷を三角にかぶった女出面らしい母親が、何をしていたか。
薄暗い隅の方で、袢天を着、股引をはいた、風呂敷を三角にかぶった女出面らしい母親が、林檎の皮をむいて、棚に腹ん這いになっている子供に食わしてやっていた。
JCRRAG_011071
国語
薄暗い隅の方で、袢天を着、股引をはいた、風呂敷を三角にかぶった女出面らしい母親が、林檎の皮をむいて、棚に腹ん這いになっている子供に食わしてやっていた。子供の食うのを見ながら、自分では剥いたぐるぐるの輪になった皮を食っている。何かしゃべったり、子供のそばの小さい風呂敷包みを何度も解いたり、直してやっていた。そういうのが七、八人もいた。誰も送って来てくれるもののいない内地から来た子供達は、時々そっちの方をぬすみ見るように、見ていた。  髪や身体がセメントの粉まみれになっている女が、キャラメルの箱から二粒位ずつ、その附近の子供達に分けてやりながら、 「うちの健吉と仲良く働いてやってけれよ、な」と言っていた。木の根のように不恰好に大きいザラザラした手だった。  子供に鼻をかんでやっているのや、手拭で顔をふいてやっているのや、ボソボソ何か言っているのや、あった。 「お前さんどこの子供は、身体はええべものな」  母親同志だった。 「ん、まあ」 「俺どこのア、とても弱いんだ。どうすべかッて思うんだども、何んしろ……」 「それア何処でも、ね」  二人の漁夫がハッチから甲板へ顔を出すと、ホッとした。不機嫌に、急にだまり合ったまま雑夫の穴より、もっと船首の、梯形の自分達の「巣」に帰った。錨を上げたり、下したりする度に、コンクリート・ミキサの中に投げ込まれたように、皆は跳ね上り、ぶつかり合わなければならなかった。
キャラメルの箱から二粒位ずつ、子供達に分けてやっていたのはどのような女ですか。
キャラメルの箱から二粒位ずつ、子供達に分けてやっていたのは髪や身体がセメントの粉まみれになっている女です。
JCRRAG_011072
国語
薄暗い中で、漁夫は豚のようにゴロゴロしていた。それに豚小屋そっくりの、胸がすぐゲエと来そうな臭いがしていた。 「臭せぇ、臭せぇ」 「そよ、俺だちだもの。ええ加減、こったら腐りかけた臭いでもすべよ」  赤い臼のような頭をした漁夫が、一升瓶そのままで、酒を端のかけた茶碗に注いで、鯣をムシャムシャやりながら飲んでいた。その横に仰向けにひっくり返って、林檎を食いながら、表紙のボロボロした講談雑誌を見ているのがいた。  四人輪になって飲んでいたのに、まだ飲み足りなかった一人が割り込んで行った。 「……んだべよ。四ヶ月も海の上だ。もう、これんかやれねべと思って……」  頑丈な身体をしていたが、そう言って、厚い下唇を時々癖のように嘗めながら眼を細めた。 「んで、財布これさ」  干柿のようなべったりとした薄い蟇口を眼の高さに振ってみせた。 「あの白首、身体こったらに小せえくせに、とても上手えがったどオ!」 「おい、止せ、止せ!」 「ええ、ええ、やれやれ」  相手はへへへへへと笑った。 「見れ、ほら、感心するもんだ。ん?」酔った眼を丁度向い側の棚の下にすえて、顎で、「ん!」と一人が言った。  漁夫がその女房に金を渡しているところだった。 「見れ、見れ、なア!」  小さい箱の上に、皺くちゃになった札や銀貨を並べて、二人でそれを数えていた。男は小さい手帳に鉛筆で何か書いていた。 「見れ。ん!」 「俺にだって嬶や子供はいるんだで」白首のことを話した漁夫が急に怒ったように言った。
赤い臼のような頭をした漁夫が何をしていたか。
赤い臼のような頭をした漁夫が、一升瓶そのままで、酒を端のかけた茶碗に注いで、鯣をムシャムシャやりながら飲んでいた。
JCRRAG_011073
国語
薄暗い中で、漁夫は豚のようにゴロゴロしていた。それに豚小屋そっくりの、胸がすぐゲエと来そうな臭いがしていた。 「臭せぇ、臭せぇ」 「そよ、俺だちだもの。ええ加減、こったら腐りかけた臭いでもすべよ」  赤い臼のような頭をした漁夫が、一升瓶そのままで、酒を端のかけた茶碗に注いで、鯣をムシャムシャやりながら飲んでいた。その横に仰向けにひっくり返って、林檎を食いながら、表紙のボロボロした講談雑誌を見ているのがいた。  四人輪になって飲んでいたのに、まだ飲み足りなかった一人が割り込んで行った。 「……んだべよ。四ヶ月も海の上だ。もう、これんかやれねべと思って……」  頑丈な身体をしていたが、そう言って、厚い下唇を時々癖のように嘗めながら眼を細めた。 「んで、財布これさ」  干柿のようなべったりとした薄い蟇口を眼の高さに振ってみせた。 「あの白首、身体こったらに小せえくせに、とても上手えがったどオ!」 「おい、止せ、止せ!」 「ええ、ええ、やれやれ」  相手はへへへへへと笑った。 「見れ、ほら、感心するもんだ。ん?」酔った眼を丁度向い側の棚の下にすえて、顎で、「ん!」と一人が言った。  漁夫がその女房に金を渡しているところだった。 「見れ、見れ、なア!」  小さい箱の上に、皺くちゃになった札や銀貨を並べて、二人でそれを数えていた。男は小さい手帳に鉛筆で何か書いていた。 「見れ。ん!」 「俺にだって嬶や子供はいるんだで」白首のことを話した漁夫が急に怒ったように言った。
四人輪になって飲んでいたのに、まだ飲み足りなかった一人が何をしたか。
四人輪になって飲んでいたのに、まだ飲み足りなかった一人が割り込んで行った。
JCRRAG_011074
国語
薄暗い中で、漁夫は豚のようにゴロゴロしていた。それに豚小屋そっくりの、胸がすぐゲエと来そうな臭いがしていた。 「臭せぇ、臭せぇ」 「そよ、俺だちだもの。ええ加減、こったら腐りかけた臭いでもすべよ」  赤い臼のような頭をした漁夫が、一升瓶そのままで、酒を端のかけた茶碗に注いで、鯣をムシャムシャやりながら飲んでいた。その横に仰向けにひっくり返って、林檎を食いながら、表紙のボロボロした講談雑誌を見ているのがいた。  四人輪になって飲んでいたのに、まだ飲み足りなかった一人が割り込んで行った。 「……んだべよ。四ヶ月も海の上だ。もう、これんかやれねべと思って……」  頑丈な身体をしていたが、そう言って、厚い下唇を時々癖のように嘗めながら眼を細めた。 「んで、財布これさ」  干柿のようなべったりとした薄い蟇口を眼の高さに振ってみせた。 「あの白首、身体こったらに小せえくせに、とても上手えがったどオ!」 「おい、止せ、止せ!」 「ええ、ええ、やれやれ」  相手はへへへへへと笑った。 「見れ、ほら、感心するもんだ。ん?」酔った眼を丁度向い側の棚の下にすえて、顎で、「ん!」と一人が言った。  漁夫がその女房に金を渡しているところだった。 「見れ、見れ、なア!」  小さい箱の上に、皺くちゃになった札や銀貨を並べて、二人でそれを数えていた。男は小さい手帳に鉛筆で何か書いていた。 「見れ。ん!」 「俺にだって嬶や子供はいるんだで」白首のことを話した漁夫が急に怒ったように言った。
白首のことを話した漁夫が何をしたか。
白首のことを話した漁夫が急に怒ったように言った。
JCRRAG_011075
国語
薄暗い中で、漁夫は豚のようにゴロゴロしていた。それに豚小屋そっくりの、胸がすぐゲエと来そうな臭いがしていた。 「臭せぇ、臭せぇ」 「そよ、俺だちだもの。ええ加減、こったら腐りかけた臭いでもすべよ」  赤い臼のような頭をした漁夫が、一升瓶そのままで、酒を端のかけた茶碗に注いで、鯣をムシャムシャやりながら飲んでいた。その横に仰向けにひっくり返って、林檎を食いながら、表紙のボロボロした講談雑誌を見ているのがいた。  四人輪になって飲んでいたのに、まだ飲み足りなかった一人が割り込んで行った。 「……んだべよ。四ヶ月も海の上だ。もう、これんかやれねべと思って……」  頑丈な身体をしていたが、そう言って、厚い下唇を時々癖のように嘗めながら眼を細めた。 「んで、財布これさ」  干柿のようなべったりとした薄い蟇口を眼の高さに振ってみせた。 「あの白首、身体こったらに小せえくせに、とても上手えがったどオ!」 「おい、止せ、止せ!」 「ええ、ええ、やれやれ」  相手はへへへへへと笑った。 「見れ、ほら、感心するもんだ。ん?」酔った眼を丁度向い側の棚の下にすえて、顎で、「ん!」と一人が言った。  漁夫がその女房に金を渡しているところだった。 「見れ、見れ、なア!」  小さい箱の上に、皺くちゃになった札や銀貨を並べて、二人でそれを数えていた。男は小さい手帳に鉛筆で何か書いていた。 「見れ。ん!」 「俺にだって嬶や子供はいるんだで」白首のことを話した漁夫が急に怒ったように言った。
相手は何をしたか。
相手はへへへへへと笑った。
JCRRAG_011076
国語
そこから少し離れた棚に、宿酔の青ぶくれにムクンだ顔をした、頭の前だけを長くした若い漁夫が、 「俺もう今度こそ船さ来ねえッて思ってたんだけれどもな」と大声で言っていた。「周旋屋に引っ張り廻されて、文無しになってよ。又、長げえことくたばるめに合わされるんだ」  こっちに背を見せている同じ処から来ているらしい男が、それに何かヒソヒソ言っていた。  ハッチの降口に始め鎌足を見せて、ゴロゴロする大きな昔風の信玄袋を担になった男が、梯子を下りてきた。床に立ってキョロキョロ見廻わしていたが、あいているのを見付けると、棚に上って来た。 「今日は」と言って、横の男に頭を下げた。顔が何かで染ったように、油じみて、黒かった。「仲間さ入れて貰えます」  後で分ったことだが、この男は、船へ来るすぐ前まで夕張炭坑に七年も坑夫をしていた。それがこの前のガス爆発で、危うく死に損そこねてから、前に何度かあった事だがフイと坑夫が恐ろしくなり、鉱山やまを下りてしまった。爆発のとき、彼は同じ坑内にトロッコを押して働いていた。トロッコに一杯石炭を積んで、他の人の受持場まで押して行った時だった。彼は百のマグネシウムを瞬間目の前でたかれたと思った。それと、そして1/500[#「1/500」は分数]秒もちがわず、自分の身体が紙ッ片きれのように何処かへ飛び上ったと思った。何台というトロッコがガスの圧力で、眼の前を空のマッチ箱よりも軽くフッ飛んで行った。それッ切り分らなかった。どの位経たったか、自分のうなった声で眼が開いた。監督や工夫が爆発が他へ及ばないように、坑道に壁を作っていた。彼はその時壁の後から、助ければ助けることの出来る炭坑夫の、一度聞いたら心に縫い込まれでもするように、決して忘れることの出来ない、救いを求める声を「ハッキリ」聞いた。彼は急に立ち上ると、気が狂ったように、 「駄目だ、駄目だ!」と皆の中に飛びこんで、叫びだした。(彼は前の時は、自分でその壁を作ったことがあった。そのときは何んでもなかったのだったが) 「馬鹿野郎! ここさ火でも移ってみろ、大損だ」  だが、だんだん声が低くなって行くのが分るではないか! 彼は何を思ったのか、手を振ったり、わめいたりして、無茶苦茶に坑道を走り出した。何度ものめったり、坑木に額を打ちつけた。全身ドロと血まみれになった。途中、トロッコの枕木につまずいて、巴投ともえなげにでもされたように、レールの上にたたきつけられて、又気を失ってしまった。  その事を聞いていた若い漁夫は、 「さあ、ここだってそう大して変らないが……」と言った。  彼は坑夫独特な、まばゆいような、黄色っぽく艶つやのない眼差まなざしを漁夫の上にじっと置いて、黙っていた。
そこから少し離れた棚に、宿酔の青ぶくれにムクンだ顔をした、頭の前だけを長くした若い漁夫が何と言ったか。
そこから少し離れた棚に、宿酔の青ぶくれにムクンだ顔をした、頭の前だけを長くした若い漁夫が、「俺もう今度こそ船さ来ねえッて思ってたんだけれどもな」と大声で言っていた。
JCRRAG_011077
国語
そこから少し離れた棚に、宿酔の青ぶくれにムクンだ顔をした、頭の前だけを長くした若い漁夫が、 「俺もう今度こそ船さ来ねえッて思ってたんだけれどもな」と大声で言っていた。「周旋屋に引っ張り廻されて、文無しになってよ。又、長げえことくたばるめに合わされるんだ」  こっちに背を見せている同じ処から来ているらしい男が、それに何かヒソヒソ言っていた。  ハッチの降口に始め鎌足を見せて、ゴロゴロする大きな昔風の信玄袋を担になった男が、梯子を下りてきた。床に立ってキョロキョロ見廻わしていたが、あいているのを見付けると、棚に上って来た。 「今日は」と言って、横の男に頭を下げた。顔が何かで染ったように、油じみて、黒かった。「仲間さ入れて貰えます」  後で分ったことだが、この男は、船へ来るすぐ前まで夕張炭坑に七年も坑夫をしていた。それがこの前のガス爆発で、危うく死に損そこねてから、前に何度かあった事だがフイと坑夫が恐ろしくなり、鉱山やまを下りてしまった。爆発のとき、彼は同じ坑内にトロッコを押して働いていた。トロッコに一杯石炭を積んで、他の人の受持場まで押して行った時だった。彼は百のマグネシウムを瞬間目の前でたかれたと思った。それと、そして1/500[#「1/500」は分数]秒もちがわず、自分の身体が紙ッ片きれのように何処かへ飛び上ったと思った。何台というトロッコがガスの圧力で、眼の前を空のマッチ箱よりも軽くフッ飛んで行った。それッ切り分らなかった。どの位経たったか、自分のうなった声で眼が開いた。監督や工夫が爆発が他へ及ばないように、坑道に壁を作っていた。彼はその時壁の後から、助ければ助けることの出来る炭坑夫の、一度聞いたら心に縫い込まれでもするように、決して忘れることの出来ない、救いを求める声を「ハッキリ」聞いた。彼は急に立ち上ると、気が狂ったように、 「駄目だ、駄目だ!」と皆の中に飛びこんで、叫びだした。(彼は前の時は、自分でその壁を作ったことがあった。そのときは何んでもなかったのだったが) 「馬鹿野郎! ここさ火でも移ってみろ、大損だ」  だが、だんだん声が低くなって行くのが分るではないか! 彼は何を思ったのか、手を振ったり、わめいたりして、無茶苦茶に坑道を走り出した。何度ものめったり、坑木に額を打ちつけた。全身ドロと血まみれになった。途中、トロッコの枕木につまずいて、巴投ともえなげにでもされたように、レールの上にたたきつけられて、又気を失ってしまった。  その事を聞いていた若い漁夫は、 「さあ、ここだってそう大して変らないが……」と言った。  彼は坑夫独特な、まばゆいような、黄色っぽく艶つやのない眼差まなざしを漁夫の上にじっと置いて、黙っていた。
監督や工夫が爆発が他へ及ばないように、坑道に何を作っていましたか。
監督や工夫が爆発が他へ及ばないように、坑道に壁を作っていました。
JCRRAG_011078
国語
そこから少し離れた棚に、宿酔の青ぶくれにムクンだ顔をした、頭の前だけを長くした若い漁夫が、 「俺もう今度こそ船さ来ねえッて思ってたんだけれどもな」と大声で言っていた。「周旋屋に引っ張り廻されて、文無しになってよ。又、長げえことくたばるめに合わされるんだ」  こっちに背を見せている同じ処から来ているらしい男が、それに何かヒソヒソ言っていた。  ハッチの降口に始め鎌足を見せて、ゴロゴロする大きな昔風の信玄袋を担になった男が、梯子を下りてきた。床に立ってキョロキョロ見廻わしていたが、あいているのを見付けると、棚に上って来た。 「今日は」と言って、横の男に頭を下げた。顔が何かで染ったように、油じみて、黒かった。「仲間さ入れて貰えます」  後で分ったことだが、この男は、船へ来るすぐ前まで夕張炭坑に七年も坑夫をしていた。それがこの前のガス爆発で、危うく死に損そこねてから、前に何度かあった事だがフイと坑夫が恐ろしくなり、鉱山やまを下りてしまった。爆発のとき、彼は同じ坑内にトロッコを押して働いていた。トロッコに一杯石炭を積んで、他の人の受持場まで押して行った時だった。彼は百のマグネシウムを瞬間目の前でたかれたと思った。それと、そして1/500[#「1/500」は分数]秒もちがわず、自分の身体が紙ッ片きれのように何処かへ飛び上ったと思った。何台というトロッコがガスの圧力で、眼の前を空のマッチ箱よりも軽くフッ飛んで行った。それッ切り分らなかった。どの位経たったか、自分のうなった声で眼が開いた。監督や工夫が爆発が他へ及ばないように、坑道に壁を作っていた。彼はその時壁の後から、助ければ助けることの出来る炭坑夫の、一度聞いたら心に縫い込まれでもするように、決して忘れることの出来ない、救いを求める声を「ハッキリ」聞いた。彼は急に立ち上ると、気が狂ったように、 「駄目だ、駄目だ!」と皆の中に飛びこんで、叫びだした。(彼は前の時は、自分でその壁を作ったことがあった。そのときは何んでもなかったのだったが) 「馬鹿野郎! ここさ火でも移ってみろ、大損だ」  だが、だんだん声が低くなって行くのが分るではないか! 彼は何を思ったのか、手を振ったり、わめいたりして、無茶苦茶に坑道を走り出した。何度ものめったり、坑木に額を打ちつけた。全身ドロと血まみれになった。途中、トロッコの枕木につまずいて、巴投ともえなげにでもされたように、レールの上にたたきつけられて、又気を失ってしまった。  その事を聞いていた若い漁夫は、 「さあ、ここだってそう大して変らないが……」と言った。  彼は坑夫独特な、まばゆいような、黄色っぽく艶つやのない眼差まなざしを漁夫の上にじっと置いて、黙っていた。
ハッチの降口に始め鎌足を見せて、ゴロゴロする大きな昔風の信玄袋を担になった男が、何をしたか。
ハッチの降口に始め鎌足を見せて、ゴロゴロする大きな昔風の信玄袋を担になった男が、梯子を下りてきた。
JCRRAG_011079
国語
そこから少し離れた棚に、宿酔の青ぶくれにムクンだ顔をした、頭の前だけを長くした若い漁夫が、 「俺もう今度こそ船さ来ねえッて思ってたんだけれどもな」と大声で言っていた。「周旋屋に引っ張り廻されて、文無しになってよ。又、長げえことくたばるめに合わされるんだ」  こっちに背を見せている同じ処から来ているらしい男が、それに何かヒソヒソ言っていた。  ハッチの降口に始め鎌足を見せて、ゴロゴロする大きな昔風の信玄袋を担になった男が、梯子を下りてきた。床に立ってキョロキョロ見廻わしていたが、あいているのを見付けると、棚に上って来た。 「今日は」と言って、横の男に頭を下げた。顔が何かで染ったように、油じみて、黒かった。「仲間さ入れて貰えます」  後で分ったことだが、この男は、船へ来るすぐ前まで夕張炭坑に七年も坑夫をしていた。それがこの前のガス爆発で、危うく死に損そこねてから、前に何度かあった事だがフイと坑夫が恐ろしくなり、鉱山やまを下りてしまった。爆発のとき、彼は同じ坑内にトロッコを押して働いていた。トロッコに一杯石炭を積んで、他の人の受持場まで押して行った時だった。彼は百のマグネシウムを瞬間目の前でたかれたと思った。それと、そして1/500[#「1/500」は分数]秒もちがわず、自分の身体が紙ッ片きれのように何処かへ飛び上ったと思った。何台というトロッコがガスの圧力で、眼の前を空のマッチ箱よりも軽くフッ飛んで行った。それッ切り分らなかった。どの位経たったか、自分のうなった声で眼が開いた。監督や工夫が爆発が他へ及ばないように、坑道に壁を作っていた。彼はその時壁の後から、助ければ助けることの出来る炭坑夫の、一度聞いたら心に縫い込まれでもするように、決して忘れることの出来ない、救いを求める声を「ハッキリ」聞いた。彼は急に立ち上ると、気が狂ったように、 「駄目だ、駄目だ!」と皆の中に飛びこんで、叫びだした。(彼は前の時は、自分でその壁を作ったことがあった。そのときは何んでもなかったのだったが) 「馬鹿野郎! ここさ火でも移ってみろ、大損だ」  だが、だんだん声が低くなって行くのが分るではないか! 彼は何を思ったのか、手を振ったり、わめいたりして、無茶苦茶に坑道を走り出した。何度ものめったり、坑木に額を打ちつけた。全身ドロと血まみれになった。途中、トロッコの枕木につまずいて、巴投ともえなげにでもされたように、レールの上にたたきつけられて、又気を失ってしまった。  その事を聞いていた若い漁夫は、 「さあ、ここだってそう大して変らないが……」と言った。  彼は坑夫独特な、まばゆいような、黄色っぽく艶つやのない眼差まなざしを漁夫の上にじっと置いて、黙っていた。
この男は、船へ来るすぐ前まで何をしていたか。
この男は、船へ来るすぐ前まで夕張炭坑に七年も坑夫をしていた。
JCRRAG_011080
国語
秋田、青森、岩手から来た「百姓の漁夫」のうちでは、大きく安坐をかいて、両手をはすがいに股に差しこんでムシッとしているのや、膝を抱えこんで柱によりかかりながら、無心に皆が酒を飲んでいるのや、勝手にしゃべり合っているのに聞き入っているのがある。朝暗いうちから畑に出て、それで食えないで、追い払われてくる者達だった。長男一人を残してそれでもまだ食えなかった女は工場の女工に、次男も三男も何処かへ出て働かなければならない。鍋で豆をえるために、余った人間はドシドシ土地からハネ飛ばされて、市に流れて出てきた。彼らはみんな「金を残して」内地に帰ることを考えている。然し働いてきて、一度陸を踏む、するとモチを踏みつけた小鳥のように、函館や小樽でバタバタやる。そうすれば、まるっきり簡単に「生れた時」とちっとも変らない赤裸になって、おっぽり出された。内地へ帰れなくなる。彼らは、身寄りのない雪の北海道で「越年」するために、自分の身体を手鼻位の値で「売らなければならない」彼らそれを何度繰りかえしても、出来の悪い子供のように、次の年には又平気で(?)同じことをやってのけた。  菓子折を背負った沖売の女や、薬屋、それに日用品を持った商人が入ってきた。真中の離島のように区切られている所に、それぞれの品物を広げた。皆は四方の棚の上下の寝床から身体を乗り出して、ひやかしたり、冗談を言った。
彼らは何を考えていたか。
彼らはみんな「金を残して」内地に帰ることを考えている。
JCRRAG_011081
国語
秋田、青森、岩手から来た「百姓の漁夫」のうちでは、大きく安坐をかいて、両手をはすがいに股に差しこんでムシッとしているのや、膝を抱えこんで柱によりかかりながら、無心に皆が酒を飲んでいるのや、勝手にしゃべり合っているのに聞き入っているのがある。朝暗いうちから畑に出て、それで食えないで、追い払われてくる者達だった。長男一人を残してそれでもまだ食えなかった女は工場の女工に、次男も三男も何処かへ出て働かなければならない。鍋で豆をえるために、余った人間はドシドシ土地からハネ飛ばされて、市に流れて出てきた。彼らはみんな「金を残して」内地に帰ることを考えている。然し働いてきて、一度陸を踏む、するとモチを踏みつけた小鳥のように、函館や小樽でバタバタやる。そうすれば、まるっきり簡単に「生れた時」とちっとも変らない赤裸になって、おっぽり出された。内地へ帰れなくなる。彼らは、身寄りのない雪の北海道で「越年」するために、自分の身体を手鼻位の値で「売らなければならない」彼らそれを何度繰りかえしても、出来の悪い子供のように、次の年には又平気で(?)同じことをやってのけた。  菓子折を背負った沖売の女や、薬屋、それに日用品を持った商人が入ってきた。真中の離島のように区切られている所に、それぞれの品物を広げた。皆は四方の棚の上下の寝床から身体を乗り出して、ひやかしたり、冗談を言った。
彼らは、身寄りのない雪の北海道で「越年」するために、自分の身体を手鼻位の値で「売らなければならない」彼らそれを何度繰りかえしても、次の年にはどうしていたか。
彼らは、身寄りのない雪の北海道で「越年」するために、自分の身体を手鼻位の値で「売らなければならない」彼らそれを何度繰りかえしても、出来の悪い子供のように、次の年には又平気で(?)同じことをやってのけた。
JCRRAG_011082
国語
秋田、青森、岩手から来た「百姓の漁夫」のうちでは、大きく安坐をかいて、両手をはすがいに股に差しこんでムシッとしているのや、膝を抱えこんで柱によりかかりながら、無心に皆が酒を飲んでいるのや、勝手にしゃべり合っているのに聞き入っているのがある。朝暗いうちから畑に出て、それで食えないで、追い払われてくる者達だった。長男一人を残してそれでもまだ食えなかった女は工場の女工に、次男も三男も何処かへ出て働かなければならない。鍋で豆をえるために、余った人間はドシドシ土地からハネ飛ばされて、市に流れて出てきた。彼らはみんな「金を残して」内地に帰ることを考えている。然し働いてきて、一度陸を踏む、するとモチを踏みつけた小鳥のように、函館や小樽でバタバタやる。そうすれば、まるっきり簡単に「生れた時」とちっとも変らない赤裸になって、おっぽり出された。内地へ帰れなくなる。彼らは、身寄りのない雪の北海道で「越年」するために、自分の身体を手鼻位の値で「売らなければならない」彼らそれを何度繰りかえしても、出来の悪い子供のように、次の年には又平気で(?)同じことをやってのけた。  菓子折を背負った沖売の女や、薬屋、それに日用品を持った商人が入ってきた。真中の離島のように区切られている所に、それぞれの品物を広げた。皆は四方の棚の上下の寝床から身体を乗り出して、ひやかしたり、冗談を言った。
皆は四方の棚の上下の寝床から身体を乗り出して、何をしたか。
皆は四方の棚の上下の寝床から身体を乗り出して、ひやかしたり、冗談を言った。
JCRRAG_011083
国語
秋田、青森、岩手から来た「百姓の漁夫」のうちでは、大きく安坐をかいて、両手をはすがいに股に差しこんでムシッとしているのや、膝を抱えこんで柱によりかかりながら、無心に皆が酒を飲んでいるのや、勝手にしゃべり合っているのに聞き入っているのがある。朝暗いうちから畑に出て、それで食えないで、追い払われてくる者達だった。長男一人を残してそれでもまだ食えなかった女は工場の女工に、次男も三男も何処かへ出て働かなければならない。鍋で豆をえるために、余った人間はドシドシ土地からハネ飛ばされて、市に流れて出てきた。彼らはみんな「金を残して」内地に帰ることを考えている。然し働いてきて、一度陸を踏む、するとモチを踏みつけた小鳥のように、函館や小樽でバタバタやる。そうすれば、まるっきり簡単に「生れた時」とちっとも変らない赤裸になって、おっぽり出された。内地へ帰れなくなる。彼らは、身寄りのない雪の北海道で「越年」するために、自分の身体を手鼻位の値で「売らなければならない」彼らそれを何度繰りかえしても、出来の悪い子供のように、次の年には又平気で(?)同じことをやってのけた。  菓子折を背負った沖売の女や、薬屋、それに日用品を持った商人が入ってきた。真中の離島のように区切られている所に、それぞれの品物を広げた。皆は四方の棚の上下の寝床から身体を乗り出して、ひやかしたり、冗談を言った。
秋田、青森、岩手から来た「百姓の漁夫」のうちでは、どのようなことがあるか。
秋田、青森、岩手から来た「百姓の漁夫」のうちでは、大きく安坐をかいて、両手をはすがいに股に差しこんでムシッとしているのや、膝を抱えこんで柱によりかかりながら、無心に皆が酒を飲んでいるのや、勝手にしゃべり合っているのに聞き入っているのがある。
JCRRAG_011084
国語
「お菓子めえか、ええ、ねっちゃよ?」 「あッ、もッちょこい!」沖売の女が頓狂な声を出して、ハネ上った。「人の尻さ手ばやったりして、いけすかない、この男!」  菓子で口をモグモグさせていた男が、皆の視線が自分に集まったことにテレて、ゲラゲラ笑った。 「この女子、可愛いな」  トイレから、片側の壁に片手をつきながら、危い足取りで帰ってきた酔払いが、通りすがりに、赤黒くプクンとしている女の頬ぺたをつッついた。 「何んだね」 「怒んなよ。――この女子ば抱いて寝てやるべよ」  そう言って、女におどけた恰好をした。皆が笑った。 「おい饅頭、饅頭!」  ずっと隅の方から誰かが大声で叫んでいた。 「ハアイ……」こんな処ではめずらしい女のよく通る澄んだ声で返事をした。「幾ぼですか?」 「幾ぼ? 二つもあったら不具だべよ。お饅頭、お饅頭!」急にワッと笑い声が起った。 「この前、竹田って男が、あの沖売の女ば無理矢理に誰もいねえどこさ引っ張り込んで行ったんだとよ。んだけど、面白いんじゃないか。何んぼ、どうやっても駄目だって言うんだ……」酔った若い男だった。「……猿又はいてるんだとよ。竹田がいきなりそれを力一杯にさき取ってしまったんだども、まだ下にはいてるって言うんでねか。三枚もはいてたとよ……」男が頸を縮めて笑い出した。  その男は冬の間はゴム靴会社の職工だった。春になり仕事が無くなると、カムサツカへ出稼ぎに出た。どっちの仕事も「季節労働」なので、(北海道の仕事は殆んどそれだった)イザ夜業となると、ブッ続けに続けられた。「もう三年も生きられたら有難い」と言っていた。粗製ゴムのような、死んだ色の膚をしていた。  漁夫の仲間には、北海道の奥地の開墾地や、鉄道敷設の土工部屋へ「蛸」に売られたことのあるものや、各地を食いつめた「渡り者」や、酒だけ飲めば何もかもなく、ただそれでいいものなどがいた。青森周辺の善良な村長さんに選ばれてきた「何も知らない」「木の根ッこのように」正直な百姓もその中に交っている。そして、こういうてんでんばらばらのもの等を集めることが、雇うものにとって、この上なく都合のいいことだった。(函館の労働組合は蟹工船、カムサツカ行の漁夫のなかに組織者を入れることに死物狂いになっていた。青森、秋田の組合などとも連絡をとって。それを何より恐れていた)
沖売の女が頓狂な声を出して、どうなったか。
沖売の女が頓狂な声を出して、ハネ上った。
JCRRAG_011085
国語
「お菓子めえか、ええ、ねっちゃよ?」 「あッ、もッちょこい!」沖売の女が頓狂な声を出して、ハネ上った。「人の尻さ手ばやったりして、いけすかない、この男!」  菓子で口をモグモグさせていた男が、皆の視線が自分に集まったことにテレて、ゲラゲラ笑った。 「この女子、可愛いな」  トイレから、片側の壁に片手をつきながら、危い足取りで帰ってきた酔払いが、通りすがりに、赤黒くプクンとしている女の頬ぺたをつッついた。 「何んだね」 「怒んなよ。――この女子ば抱いて寝てやるべよ」  そう言って、女におどけた恰好をした。皆が笑った。 「おい饅頭、饅頭!」  ずっと隅の方から誰かが大声で叫んでいた。 「ハアイ……」こんな処ではめずらしい女のよく通る澄んだ声で返事をした。「幾ぼですか?」 「幾ぼ? 二つもあったら不具だべよ。お饅頭、お饅頭!」急にワッと笑い声が起った。 「この前、竹田って男が、あの沖売の女ば無理矢理に誰もいねえどこさ引っ張り込んで行ったんだとよ。んだけど、面白いんじゃないか。何んぼ、どうやっても駄目だって言うんだ……」酔った若い男だった。「……猿又はいてるんだとよ。竹田がいきなりそれを力一杯にさき取ってしまったんだども、まだ下にはいてるって言うんでねか。三枚もはいてたとよ……」男が頸を縮めて笑い出した。  その男は冬の間はゴム靴会社の職工だった。春になり仕事が無くなると、カムサツカへ出稼ぎに出た。どっちの仕事も「季節労働」なので、(北海道の仕事は殆んどそれだった)イザ夜業となると、ブッ続けに続けられた。「もう三年も生きられたら有難い」と言っていた。粗製ゴムのような、死んだ色の膚をしていた。  漁夫の仲間には、北海道の奥地の開墾地や、鉄道敷設の土工部屋へ「蛸」に売られたことのあるものや、各地を食いつめた「渡り者」や、酒だけ飲めば何もかもなく、ただそれでいいものなどがいた。青森周辺の善良な村長さんに選ばれてきた「何も知らない」「木の根ッこのように」正直な百姓もその中に交っている。そして、こういうてんでんばらばらのもの等を集めることが、雇うものにとって、この上なく都合のいいことだった。(函館の労働組合は蟹工船、カムサツカ行の漁夫のなかに組織者を入れることに死物狂いになっていた。青森、秋田の組合などとも連絡をとって。それを何より恐れていた)
菓子で口をモグモグさせていた男が、皆の視線が自分に集まったことにテレて、どのような行動をとったか。
菓子で口をモグモグさせていた男が、皆の視線が自分に集まったことにテレて、ゲラゲラ笑った。
JCRRAG_011086
国語
「お菓子めえか、ええ、ねっちゃよ?」 「あッ、もッちょこい!」沖売の女が頓狂な声を出して、ハネ上った。「人の尻さ手ばやったりして、いけすかない、この男!」  菓子で口をモグモグさせていた男が、皆の視線が自分に集まったことにテレて、ゲラゲラ笑った。 「この女子、可愛いな」  トイレから、片側の壁に片手をつきながら、危い足取りで帰ってきた酔払いが、通りすがりに、赤黒くプクンとしている女の頬ぺたをつッついた。 「何んだね」 「怒んなよ。――この女子ば抱いて寝てやるべよ」  そう言って、女におどけた恰好をした。皆が笑った。 「おい饅頭、饅頭!」  ずっと隅の方から誰かが大声で叫んでいた。 「ハアイ……」こんな処ではめずらしい女のよく通る澄んだ声で返事をした。「幾ぼですか?」 「幾ぼ? 二つもあったら不具だべよ。お饅頭、お饅頭!」急にワッと笑い声が起った。 「この前、竹田って男が、あの沖売の女ば無理矢理に誰もいねえどこさ引っ張り込んで行ったんだとよ。んだけど、面白いんじゃないか。何んぼ、どうやっても駄目だって言うんだ……」酔った若い男だった。「……猿又はいてるんだとよ。竹田がいきなりそれを力一杯にさき取ってしまったんだども、まだ下にはいてるって言うんでねか。三枚もはいてたとよ……」男が頸を縮めて笑い出した。  その男は冬の間はゴム靴会社の職工だった。春になり仕事が無くなると、カムサツカへ出稼ぎに出た。どっちの仕事も「季節労働」なので、(北海道の仕事は殆んどそれだった)イザ夜業となると、ブッ続けに続けられた。「もう三年も生きられたら有難い」と言っていた。粗製ゴムのような、死んだ色の膚をしていた。  漁夫の仲間には、北海道の奥地の開墾地や、鉄道敷設の土工部屋へ「蛸」に売られたことのあるものや、各地を食いつめた「渡り者」や、酒だけ飲めば何もかもなく、ただそれでいいものなどがいた。青森周辺の善良な村長さんに選ばれてきた「何も知らない」「木の根ッこのように」正直な百姓もその中に交っている。そして、こういうてんでんばらばらのもの等を集めることが、雇うものにとって、この上なく都合のいいことだった。(函館の労働組合は蟹工船、カムサツカ行の漁夫のなかに組織者を入れることに死物狂いになっていた。青森、秋田の組合などとも連絡をとって。それを何より恐れていた)
トイレから、片側の壁に片手をつきながら、危い足取りで帰ってきた酔払いが、何をしたか。
トイレから、片側の壁に片手をつきながら、危い足取りで帰ってきた酔払いが、通りすがりに、赤黒くプクンとしている女の頬ぺたをつッついた。
JCRRAG_011087
国語
「お菓子めえか、ええ、ねっちゃよ?」 「あッ、もッちょこい!」沖売の女が頓狂な声を出して、ハネ上った。「人の尻さ手ばやったりして、いけすかない、この男!」  菓子で口をモグモグさせていた男が、皆の視線が自分に集まったことにテレて、ゲラゲラ笑った。 「この女子、可愛いな」  トイレから、片側の壁に片手をつきながら、危い足取りで帰ってきた酔払いが、通りすがりに、赤黒くプクンとしている女の頬ぺたをつッついた。 「何んだね」 「怒んなよ。――この女子ば抱いて寝てやるべよ」  そう言って、女におどけた恰好をした。皆が笑った。 「おい饅頭、饅頭!」  ずっと隅の方から誰かが大声で叫んでいた。 「ハアイ……」こんな処ではめずらしい女のよく通る澄んだ声で返事をした。「幾ぼですか?」 「幾ぼ? 二つもあったら不具だべよ。お饅頭、お饅頭!」急にワッと笑い声が起った。 「この前、竹田って男が、あの沖売の女ば無理矢理に誰もいねえどこさ引っ張り込んで行ったんだとよ。んだけど、面白いんじゃないか。何んぼ、どうやっても駄目だって言うんだ……」酔った若い男だった。「……猿又はいてるんだとよ。竹田がいきなりそれを力一杯にさき取ってしまったんだども、まだ下にはいてるって言うんでねか。三枚もはいてたとよ……」男が頸を縮めて笑い出した。  その男は冬の間はゴム靴会社の職工だった。春になり仕事が無くなると、カムサツカへ出稼ぎに出た。どっちの仕事も「季節労働」なので、(北海道の仕事は殆んどそれだった)イザ夜業となると、ブッ続けに続けられた。「もう三年も生きられたら有難い」と言っていた。粗製ゴムのような、死んだ色の膚をしていた。  漁夫の仲間には、北海道の奥地の開墾地や、鉄道敷設の土工部屋へ「蛸」に売られたことのあるものや、各地を食いつめた「渡り者」や、酒だけ飲めば何もかもなく、ただそれでいいものなどがいた。青森周辺の善良な村長さんに選ばれてきた「何も知らない」「木の根ッこのように」正直な百姓もその中に交っている。そして、こういうてんでんばらばらのもの等を集めることが、雇うものにとって、この上なく都合のいいことだった。(函館の労働組合は蟹工船、カムサツカ行の漁夫のなかに組織者を入れることに死物狂いになっていた。青森、秋田の組合などとも連絡をとって。それを何より恐れていた)
その男は冬の間は何の会社の職工だったか。
その男は冬の間はゴム靴会社の職工だった。
JCRRAG_011088
国語
糊のついた真白い、上衣の丈の短い服を着た給仕が、「とも」のサロンに、ビール、果物、洋酒のコップを持って、忙しく往き来していた。サロンには、「会社のオッかない人、船長、監督、それにカムサツカで警備の任に当る駆逐艦の御大、水上警察の署長さん、海員組合の折鞄」がいた。 「畜生、ガブガブ飲むったら、ありゃしない」給仕はふくれかえっていた。  漁夫の「穴」に、浜なすのような電気がついた。煙草の煙や人いきれで、空気が濁って、臭く、穴全体がそのまま「糞壺」だった。区切られた寝床でゴロゴロしている人間が、蛆虫のようにうごめいて見えた。漁業監督を先頭に、船長、工場代表、雑夫長がハッチを下りて入って来た。船長は先のハネ上っている髭を気にして、始終ハンカチで上唇を撫でつけた。通路には、林檎やバナナの皮、グジョグジョした高丈、鞋、飯粒のこびりついている薄皮などが捨ててあった。流れの止まった泥溝だった。監督はじろりとそれを見ながら、無遠慮に唾をはいた。どれも飲んで来たらしく、顔を赤くしていた。 「一寸言って置く」監督が土方の棒頭のように頑丈な身体で、片足を寝床の仕切りの上にかけて、楊子で口をモグモグさせながら、時々歯にはさまったものを、トットッと飛ばして、口を切った。 「分ってるものもあるだろうが、言うまでもなくこの蟹工船の事業は、ただ単に、一会社の儲仕事と見るべきではなくて、国際上の一大問題なのだ。我々日本帝国人民が偉いか、露助が偉いか。一騎打ちの戦いなんだ。それに若し、若しもだ。そんな事は絶対にあるべき筈がないが、負けるようなことがあったら、睾丸をブラ下げた日本男児は腹でも切って、カムサツカの海の中にブチ落ちることだ。身体が小さくたって、野呂間な露助に負けてたまるもんじゃない。 「それに、我カムサツカの漁業は蟹罐詰ばかりでなく、鮭、鱒と共に、国際的に言ってだ、他の国とは比らべもならない優秀な地位を保っており、又日本国内の行き詰った人口問題、食糧問題に対して、重大な使命を持っているのだ。こんな事をしゃべったって、お前等には分りもしないだろうが、ともかくだ、日本帝国の大きな使命のために、俺達は命を的に、北海の荒波をつッ切って行くのだということを知ってて貰わにゃならない。だからこそ、あっちへ行っても始終我帝国の軍艦が我々を守っていてくれることになっているのだ。……それを今流行りの露助の真似をして、飛んでもないことをケシかけるものがあるとしたら、それこそ、取りも直さず日本帝国を売るものだ。こんな事は無い筈だが、よッく覚えておいて貰うことにする……」  監督は酔いざめのくさめを何度もした。
糊のついた真白い、上衣の丈の短い服を着た給仕が、何をしていたか。
糊のついた真白い、上衣の丈の短い服を着た給仕が、「とも」のサロンに、ビール、果物、洋酒のコップを持って、忙しく往き来していた。
JCRRAG_011089
国語
糊のついた真白い、上衣の丈の短い服を着た給仕が、「とも」のサロンに、ビール、果物、洋酒のコップを持って、忙しく往き来していた。サロンには、「会社のオッかない人、船長、監督、それにカムサツカで警備の任に当る駆逐艦の御大、水上警察の署長さん、海員組合の折鞄」がいた。 「畜生、ガブガブ飲むったら、ありゃしない」給仕はふくれかえっていた。  漁夫の「穴」に、浜なすのような電気がついた。煙草の煙や人いきれで、空気が濁って、臭く、穴全体がそのまま「糞壺」だった。区切られた寝床でゴロゴロしている人間が、蛆虫のようにうごめいて見えた。漁業監督を先頭に、船長、工場代表、雑夫長がハッチを下りて入って来た。船長は先のハネ上っている髭を気にして、始終ハンカチで上唇を撫でつけた。通路には、林檎やバナナの皮、グジョグジョした高丈、鞋、飯粒のこびりついている薄皮などが捨ててあった。流れの止まった泥溝だった。監督はじろりとそれを見ながら、無遠慮に唾をはいた。どれも飲んで来たらしく、顔を赤くしていた。 「一寸言って置く」監督が土方の棒頭のように頑丈な身体で、片足を寝床の仕切りの上にかけて、楊子で口をモグモグさせながら、時々歯にはさまったものを、トットッと飛ばして、口を切った。 「分ってるものもあるだろうが、言うまでもなくこの蟹工船の事業は、ただ単に、一会社の儲仕事と見るべきではなくて、国際上の一大問題なのだ。我々日本帝国人民が偉いか、露助が偉いか。一騎打ちの戦いなんだ。それに若し、若しもだ。そんな事は絶対にあるべき筈がないが、負けるようなことがあったら、睾丸をブラ下げた日本男児は腹でも切って、カムサツカの海の中にブチ落ちることだ。身体が小さくたって、野呂間な露助に負けてたまるもんじゃない。 「それに、我カムサツカの漁業は蟹罐詰ばかりでなく、鮭、鱒と共に、国際的に言ってだ、他の国とは比らべもならない優秀な地位を保っており、又日本国内の行き詰った人口問題、食糧問題に対して、重大な使命を持っているのだ。こんな事をしゃべったって、お前等には分りもしないだろうが、ともかくだ、日本帝国の大きな使命のために、俺達は命を的に、北海の荒波をつッ切って行くのだということを知ってて貰わにゃならない。だからこそ、あっちへ行っても始終我帝国の軍艦が我々を守っていてくれることになっているのだ。……それを今流行りの露助の真似をして、飛んでもないことをケシかけるものがあるとしたら、それこそ、取りも直さず日本帝国を売るものだ。こんな事は無い筈だが、よッく覚えておいて貰うことにする……」  監督は酔いざめのくさめを何度もした。
煙草の煙や人いきれで、空気が濁って、臭く、穴全体がどのような状態だったか。
煙草の煙や人いきれで、空気が濁って、臭く、穴全体がそのまま「糞壺」だった。
JCRRAG_011090
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糊のついた真白い、上衣の丈の短い服を着た給仕が、「とも」のサロンに、ビール、果物、洋酒のコップを持って、忙しく往き来していた。サロンには、「会社のオッかない人、船長、監督、それにカムサツカで警備の任に当る駆逐艦の御大、水上警察の署長さん、海員組合の折鞄」がいた。 「畜生、ガブガブ飲むったら、ありゃしない」給仕はふくれかえっていた。  漁夫の「穴」に、浜なすのような電気がついた。煙草の煙や人いきれで、空気が濁って、臭く、穴全体がそのまま「糞壺」だった。区切られた寝床でゴロゴロしている人間が、蛆虫のようにうごめいて見えた。漁業監督を先頭に、船長、工場代表、雑夫長がハッチを下りて入って来た。船長は先のハネ上っている髭を気にして、始終ハンカチで上唇を撫でつけた。通路には、林檎やバナナの皮、グジョグジョした高丈、鞋、飯粒のこびりついている薄皮などが捨ててあった。流れの止まった泥溝だった。監督はじろりとそれを見ながら、無遠慮に唾をはいた。どれも飲んで来たらしく、顔を赤くしていた。 「一寸言って置く」監督が土方の棒頭のように頑丈な身体で、片足を寝床の仕切りの上にかけて、楊子で口をモグモグさせながら、時々歯にはさまったものを、トットッと飛ばして、口を切った。 「分ってるものもあるだろうが、言うまでもなくこの蟹工船の事業は、ただ単に、一会社の儲仕事と見るべきではなくて、国際上の一大問題なのだ。我々日本帝国人民が偉いか、露助が偉いか。一騎打ちの戦いなんだ。それに若し、若しもだ。そんな事は絶対にあるべき筈がないが、負けるようなことがあったら、睾丸をブラ下げた日本男児は腹でも切って、カムサツカの海の中にブチ落ちることだ。身体が小さくたって、野呂間な露助に負けてたまるもんじゃない。 「それに、我カムサツカの漁業は蟹罐詰ばかりでなく、鮭、鱒と共に、国際的に言ってだ、他の国とは比らべもならない優秀な地位を保っており、又日本国内の行き詰った人口問題、食糧問題に対して、重大な使命を持っているのだ。こんな事をしゃべったって、お前等には分りもしないだろうが、ともかくだ、日本帝国の大きな使命のために、俺達は命を的に、北海の荒波をつッ切って行くのだということを知ってて貰わにゃならない。だからこそ、あっちへ行っても始終我帝国の軍艦が我々を守っていてくれることになっているのだ。……それを今流行りの露助の真似をして、飛んでもないことをケシかけるものがあるとしたら、それこそ、取りも直さず日本帝国を売るものだ。こんな事は無い筈だが、よッく覚えておいて貰うことにする……」  監督は酔いざめのくさめを何度もした。
区切られた寝床でゴロゴロしている人間が、どのように見えたか。
区切られた寝床でゴロゴロしている人間が、蛆虫のようにうごめいて見えた。
JCRRAG_011091
国語
糊のついた真白い、上衣の丈の短い服を着た給仕が、「とも」のサロンに、ビール、果物、洋酒のコップを持って、忙しく往き来していた。サロンには、「会社のオッかない人、船長、監督、それにカムサツカで警備の任に当る駆逐艦の御大、水上警察の署長さん、海員組合の折鞄」がいた。 「畜生、ガブガブ飲むったら、ありゃしない」給仕はふくれかえっていた。  漁夫の「穴」に、浜なすのような電気がついた。煙草の煙や人いきれで、空気が濁って、臭く、穴全体がそのまま「糞壺」だった。区切られた寝床でゴロゴロしている人間が、蛆虫のようにうごめいて見えた。漁業監督を先頭に、船長、工場代表、雑夫長がハッチを下りて入って来た。船長は先のハネ上っている髭を気にして、始終ハンカチで上唇を撫でつけた。通路には、林檎やバナナの皮、グジョグジョした高丈、鞋、飯粒のこびりついている薄皮などが捨ててあった。流れの止まった泥溝だった。監督はじろりとそれを見ながら、無遠慮に唾をはいた。どれも飲んで来たらしく、顔を赤くしていた。 「一寸言って置く」監督が土方の棒頭のように頑丈な身体で、片足を寝床の仕切りの上にかけて、楊子で口をモグモグさせながら、時々歯にはさまったものを、トットッと飛ばして、口を切った。 「分ってるものもあるだろうが、言うまでもなくこの蟹工船の事業は、ただ単に、一会社の儲仕事と見るべきではなくて、国際上の一大問題なのだ。我々日本帝国人民が偉いか、露助が偉いか。一騎打ちの戦いなんだ。それに若し、若しもだ。そんな事は絶対にあるべき筈がないが、負けるようなことがあったら、睾丸をブラ下げた日本男児は腹でも切って、カムサツカの海の中にブチ落ちることだ。身体が小さくたって、野呂間な露助に負けてたまるもんじゃない。 「それに、我カムサツカの漁業は蟹罐詰ばかりでなく、鮭、鱒と共に、国際的に言ってだ、他の国とは比らべもならない優秀な地位を保っており、又日本国内の行き詰った人口問題、食糧問題に対して、重大な使命を持っているのだ。こんな事をしゃべったって、お前等には分りもしないだろうが、ともかくだ、日本帝国の大きな使命のために、俺達は命を的に、北海の荒波をつッ切って行くのだということを知ってて貰わにゃならない。だからこそ、あっちへ行っても始終我帝国の軍艦が我々を守っていてくれることになっているのだ。……それを今流行りの露助の真似をして、飛んでもないことをケシかけるものがあるとしたら、それこそ、取りも直さず日本帝国を売るものだ。こんな事は無い筈だが、よッく覚えておいて貰うことにする……」  監督は酔いざめのくさめを何度もした。
監督はじろりとそれを見ながら、何をしたか。
監督はじろりとそれを見ながら、無遠慮に唾をはいた。
JCRRAG_011092
国語
祝津の燈台が、廻転する度にキラッキラッと光るのが、ずっと遠い右手に、一面灰色の海のような海霧の中から見えた。それが他方へ廻転してゆくとき、何か神秘的に、長く、遠く白銀色の光茫を何海浬もサッと引いた。 留萌の沖あたりから、細い、ジュクジュクした雨が降り出してきた。漁夫や雑夫は蟹の鋏のようにかじかんだ手を時々はすがいに懐の中につッこんだり、口のあたりを両手で円るく囲んで、ハアーと息をかけたりして働かなければならなかった。納豆の糸のような雨がしきりなしに、それと同じ色の不透明な海に降った。が、稚内に近くなるに従って、雨が粒々になって来、広い海の面が旗でもなびくように、うねりが出て来て、そして又それが細かく、せわしなくなった。風がマストに当たると不吉に鳴った。鋲がゆるみでもするように、ギイギイと船の何処かが、しきりなしにきしんだ。宗谷海峡に入った時は、三千噸に近いこの船が、しゃっくりにでも取りつかれたように、ギク、シャクし出した。何か素晴しい力でグイと持ち上げられる。船が一瞬宙に浮かぶ。が、ぐうと元の位置に沈む。エレベーターで下りる瞬間の、小便がもれそうになる、くすぐったい不快さをその度に感じた。雑夫は黄色になえて、船酔らしく眼だけとんがらせて、ゲエ、ゲエしていた。 波のしぶきで曇った円るい舷窓から、ひょいひょいと樺太の、雪のある山並の堅い線が見えた。然しすぐそれはガラスの外へ、アルプスの氷山のようにモリモリとむくれ上ってくる波に隠されてしまう。寒々とした深い谷が出来る。それが見る見る近付いてくると、窓のところへドッと当たり、砕けて、ザアー……と泡立つ。そして、そのまま後へ、後へ、窓をすべって、パノラマのように流れてゆく。船は時々子供がするように、身体を揺らした。棚からものが落ちる音や、ギ―イと何かたわむ音や、波に横ッ腹がドブ―ンと打ち当る音がした。その間、機関室からは機関の音が色々な器具を伝って、直接に少しの震動を伴ってドッ、ドッ、ドッ……と響いていた。時々波の背に乗ると、スクリュが空廻りをして、翼で水の表面をたたきつけた。
漁夫や雑夫はどのように働かなければならなかったか。
漁夫や雑夫は蟹の鋏のようにかじかんだ手を時々はすがいに懐の中につッこんだり、口のあたりを両手で円るく囲んで、ハアーと息をかけたりして働かなければならなかった。
JCRRAG_011093
国語
祝津の燈台が、廻転する度にキラッキラッと光るのが、ずっと遠い右手に、一面灰色の海のような海霧の中から見えた。それが他方へ廻転してゆくとき、何か神秘的に、長く、遠く白銀色の光茫を何海浬もサッと引いた。 留萌の沖あたりから、細い、ジュクジュクした雨が降り出してきた。漁夫や雑夫は蟹の鋏のようにかじかんだ手を時々はすがいに懐の中につッこんだり、口のあたりを両手で円るく囲んで、ハアーと息をかけたりして働かなければならなかった。納豆の糸のような雨がしきりなしに、それと同じ色の不透明な海に降った。が、稚内に近くなるに従って、雨が粒々になって来、広い海の面が旗でもなびくように、うねりが出て来て、そして又それが細かく、せわしなくなった。風がマストに当たると不吉に鳴った。鋲がゆるみでもするように、ギイギイと船の何処かが、しきりなしにきしんだ。宗谷海峡に入った時は、三千噸に近いこの船が、しゃっくりにでも取りつかれたように、ギク、シャクし出した。何か素晴しい力でグイと持ち上げられる。船が一瞬宙に浮かぶ。が、ぐうと元の位置に沈む。エレベーターで下りる瞬間の、小便がもれそうになる、くすぐったい不快さをその度に感じた。雑夫は黄色になえて、船酔らしく眼だけとんがらせて、ゲエ、ゲエしていた。 波のしぶきで曇った円るい舷窓から、ひょいひょいと樺太の、雪のある山並の堅い線が見えた。然しすぐそれはガラスの外へ、アルプスの氷山のようにモリモリとむくれ上ってくる波に隠されてしまう。寒々とした深い谷が出来る。それが見る見る近付いてくると、窓のところへドッと当たり、砕けて、ザアー……と泡立つ。そして、そのまま後へ、後へ、窓をすべって、パノラマのように流れてゆく。船は時々子供がするように、身体を揺らした。棚からものが落ちる音や、ギ―イと何かたわむ音や、波に横ッ腹がドブ―ンと打ち当る音がした。その間、機関室からは機関の音が色々な器具を伝って、直接に少しの震動を伴ってドッ、ドッ、ドッ……と響いていた。時々波の背に乗ると、スクリュが空廻りをして、翼で水の表面をたたきつけた。
風がマストに当たると何が起きたか。
風がマストに当たると不吉に鳴った。
JCRRAG_011094
国語
祝津の燈台が、廻転する度にキラッキラッと光るのが、ずっと遠い右手に、一面灰色の海のような海霧の中から見えた。それが他方へ廻転してゆくとき、何か神秘的に、長く、遠く白銀色の光茫を何海浬もサッと引いた。 留萌の沖あたりから、細い、ジュクジュクした雨が降り出してきた。漁夫や雑夫は蟹の鋏のようにかじかんだ手を時々はすがいに懐の中につッこんだり、口のあたりを両手で円るく囲んで、ハアーと息をかけたりして働かなければならなかった。納豆の糸のような雨がしきりなしに、それと同じ色の不透明な海に降った。が、稚内に近くなるに従って、雨が粒々になって来、広い海の面が旗でもなびくように、うねりが出て来て、そして又それが細かく、せわしなくなった。風がマストに当たると不吉に鳴った。鋲がゆるみでもするように、ギイギイと船の何処かが、しきりなしにきしんだ。宗谷海峡に入った時は、三千噸に近いこの船が、しゃっくりにでも取りつかれたように、ギク、シャクし出した。何か素晴しい力でグイと持ち上げられる。船が一瞬宙に浮かぶ。が、ぐうと元の位置に沈む。エレベーターで下りる瞬間の、小便がもれそうになる、くすぐったい不快さをその度に感じた。雑夫は黄色になえて、船酔らしく眼だけとんがらせて、ゲエ、ゲエしていた。 波のしぶきで曇った円るい舷窓から、ひょいひょいと樺太の、雪のある山並の堅い線が見えた。然しすぐそれはガラスの外へ、アルプスの氷山のようにモリモリとむくれ上ってくる波に隠されてしまう。寒々とした深い谷が出来る。それが見る見る近付いてくると、窓のところへドッと当たり、砕けて、ザアー……と泡立つ。そして、そのまま後へ、後へ、窓をすべって、パノラマのように流れてゆく。船は時々子供がするように、身体を揺らした。棚からものが落ちる音や、ギ―イと何かたわむ音や、波に横ッ腹がドブ―ンと打ち当る音がした。その間、機関室からは機関の音が色々な器具を伝って、直接に少しの震動を伴ってドッ、ドッ、ドッ……と響いていた。時々波の背に乗ると、スクリュが空廻りをして、翼で水の表面をたたきつけた。
雑夫は黄色になえて、船酔らしく眼だけとんがらせて、何をしていたか。
雑夫は黄色になえて、船酔らしく眼だけとんがらせて、ゲエ、ゲエしていた。
JCRRAG_011095
国語
祝津の燈台が、廻転する度にキラッキラッと光るのが、ずっと遠い右手に、一面灰色の海のような海霧の中から見えた。それが他方へ廻転してゆくとき、何か神秘的に、長く、遠く白銀色の光茫を何海浬もサッと引いた。 留萌の沖あたりから、細い、ジュクジュクした雨が降り出してきた。漁夫や雑夫は蟹の鋏のようにかじかんだ手を時々はすがいに懐の中につッこんだり、口のあたりを両手で円るく囲んで、ハアーと息をかけたりして働かなければならなかった。納豆の糸のような雨がしきりなしに、それと同じ色の不透明な海に降った。が、稚内に近くなるに従って、雨が粒々になって来、広い海の面が旗でもなびくように、うねりが出て来て、そして又それが細かく、せわしなくなった。風がマストに当たると不吉に鳴った。鋲がゆるみでもするように、ギイギイと船の何処かが、しきりなしにきしんだ。宗谷海峡に入った時は、三千噸に近いこの船が、しゃっくりにでも取りつかれたように、ギク、シャクし出した。何か素晴しい力でグイと持ち上げられる。船が一瞬宙に浮かぶ。が、ぐうと元の位置に沈む。エレベーターで下りる瞬間の、小便がもれそうになる、くすぐったい不快さをその度に感じた。雑夫は黄色になえて、船酔らしく眼だけとんがらせて、ゲエ、ゲエしていた。 波のしぶきで曇った円るい舷窓から、ひょいひょいと樺太の、雪のある山並の堅い線が見えた。然しすぐそれはガラスの外へ、アルプスの氷山のようにモリモリとむくれ上ってくる波に隠されてしまう。寒々とした深い谷が出来る。それが見る見る近付いてくると、窓のところへドッと当たり、砕けて、ザアー……と泡立つ。そして、そのまま後へ、後へ、窓をすべって、パノラマのように流れてゆく。船は時々子供がするように、身体を揺らした。棚からものが落ちる音や、ギ―イと何かたわむ音や、波に横ッ腹がドブ―ンと打ち当る音がした。その間、機関室からは機関の音が色々な器具を伝って、直接に少しの震動を伴ってドッ、ドッ、ドッ……と響いていた。時々波の背に乗ると、スクリュが空廻りをして、翼で水の表面をたたきつけた。
船は時々どのように身体を揺らしたか。
船は時々子供がするように、身体を揺らした。
JCRRAG_011096
国語
風は益々強くなってくるばかりだった。二本のマストは釣竿のようにたわんで、ビュウビュウ泣き出した。波は丸太棒の上でも一またぎする位の無雑作で、船の片側から他の側へ暴力団のようにあばれ込んできて、流れ出て行った。その瞬間、出口がザァーと滝になった。 見る見るもり上った山の、恐ろしく大きな斜面に玩具の船程に、ちょこんと横にのることがあった。と、船はのめったように、ドッ、ドッと、その谷底へ落ち込んでゆく。今にも、沈む!が、谷底にはすぐ別の波がむくむくと起ち上ってきて、ドシンと船の横腹と体当たりをする。 オホーツク海へ出ると、海の色がハッキリもっと灰色がかって来た。着物の上からゾクゾクと寒さが刺し込んできて、雑夫は皆唇をブシ色にして仕事をした。寒くなればなる程、塩のように乾いた、細かい雪がビュウ、ビュウと吹きつけてきた。それは硝子の細かいカケラのように甲板に這いつくばって働いている雑夫や漁夫の顔や手に突きささった。波が一波甲板を洗って行った後は、すぐ凍って、デラデラに滑った。皆はデッキからデッキへロープを張り、それに各自がおしめのようにブラ下がり、作業をしなければならなかった。監督は鮭殺しの棍棒をもって、大声で怒鳴り散らした。 同時に函館を出帆した他の蟹工船は、何時の間にか離れ離れになってしまっていた。それでも思いっ切りアルプスの絶頂に乗り上ったとき、溺死者が両手を振っているように、揺られに揺られている二本のマストだけが遠くに見えることがあった。煙草の煙ほどの煙が、波とすれずれに吹きちぎられて、飛んでいた。……波浪と叫喚のなかから、確かにその船が鳴らしているらしい汽笛が、間を置いてヒュウ、ヒュウと聞こえた。が、次の瞬間、こっちがアプ、アプでもするように、谷底に転落して行った。
二本のマストは釣竿のようにたわんで、どのように泣き出したか。
二本のマストは釣竿のようにたわんで、ビュウビュウ泣き出した。
JCRRAG_011097
国語
風は益々強くなってくるばかりだった。二本のマストは釣竿のようにたわんで、ビュウビュウ泣き出した。波は丸太棒の上でも一またぎする位の無雑作で、船の片側から他の側へ暴力団のようにあばれ込んできて、流れ出て行った。その瞬間、出口がザァーと滝になった。 見る見るもり上った山の、恐ろしく大きな斜面に玩具の船程に、ちょこんと横にのることがあった。と、船はのめったように、ドッ、ドッと、その谷底へ落ち込んでゆく。今にも、沈む!が、谷底にはすぐ別の波がむくむくと起ち上ってきて、ドシンと船の横腹と体当たりをする。 オホーツク海へ出ると、海の色がハッキリもっと灰色がかって来た。着物の上からゾクゾクと寒さが刺し込んできて、雑夫は皆唇をブシ色にして仕事をした。寒くなればなる程、塩のように乾いた、細かい雪がビュウ、ビュウと吹きつけてきた。それは硝子の細かいカケラのように甲板に這いつくばって働いている雑夫や漁夫の顔や手に突きささった。波が一波甲板を洗って行った後は、すぐ凍って、デラデラに滑った。皆はデッキからデッキへロープを張り、それに各自がおしめのようにブラ下がり、作業をしなければならなかった。監督は鮭殺しの棍棒をもって、大声で怒鳴り散らした。 同時に函館を出帆した他の蟹工船は、何時の間にか離れ離れになってしまっていた。それでも思いっ切りアルプスの絶頂に乗り上ったとき、溺死者が両手を振っているように、揺られに揺られている二本のマストだけが遠くに見えることがあった。煙草の煙ほどの煙が、波とすれずれに吹きちぎられて、飛んでいた。……波浪と叫喚のなかから、確かにその船が鳴らしているらしい汽笛が、間を置いてヒュウ、ヒュウと聞こえた。が、次の瞬間、こっちがアプ、アプでもするように、谷底に転落して行った。
オホーツク海へ出ると、海の色がどのようになったか。
オホーツク海へ出ると、海の色がハッキリもっと灰色がかって来た。
JCRRAG_011098
国語
風は益々強くなってくるばかりだった。二本のマストは釣竿のようにたわんで、ビュウビュウ泣き出した。波は丸太棒の上でも一またぎする位の無雑作で、船の片側から他の側へ暴力団のようにあばれ込んできて、流れ出て行った。その瞬間、出口がザァーと滝になった。 見る見るもり上った山の、恐ろしく大きな斜面に玩具の船程に、ちょこんと横にのることがあった。と、船はのめったように、ドッ、ドッと、その谷底へ落ち込んでゆく。今にも、沈む!が、谷底にはすぐ別の波がむくむくと起ち上ってきて、ドシンと船の横腹と体当たりをする。 オホーツク海へ出ると、海の色がハッキリもっと灰色がかって来た。着物の上からゾクゾクと寒さが刺し込んできて、雑夫は皆唇をブシ色にして仕事をした。寒くなればなる程、塩のように乾いた、細かい雪がビュウ、ビュウと吹きつけてきた。それは硝子の細かいカケラのように甲板に這いつくばって働いている雑夫や漁夫の顔や手に突きささった。波が一波甲板を洗って行った後は、すぐ凍って、デラデラに滑った。皆はデッキからデッキへロープを張り、それに各自がおしめのようにブラ下がり、作業をしなければならなかった。監督は鮭殺しの棍棒をもって、大声で怒鳴り散らした。 同時に函館を出帆した他の蟹工船は、何時の間にか離れ離れになってしまっていた。それでも思いっ切りアルプスの絶頂に乗り上ったとき、溺死者が両手を振っているように、揺られに揺られている二本のマストだけが遠くに見えることがあった。煙草の煙ほどの煙が、波とすれずれに吹きちぎられて、飛んでいた。……波浪と叫喚のなかから、確かにその船が鳴らしているらしい汽笛が、間を置いてヒュウ、ヒュウと聞こえた。が、次の瞬間、こっちがアプ、アプでもするように、谷底に転落して行った。
皆はデッキからデッキへロープを張りどのようにして作業をしなければならなかったか。
皆はデッキからデッキへロープを張り、それに各自がおしめのようにブラ下がり、作業をしなければならなかった。
JCRRAG_011099
国語
風は益々強くなってくるばかりだった。二本のマストは釣竿のようにたわんで、ビュウビュウ泣き出した。波は丸太棒の上でも一またぎする位の無雑作で、船の片側から他の側へ暴力団のようにあばれ込んできて、流れ出て行った。その瞬間、出口がザァーと滝になった。 見る見るもり上った山の、恐ろしく大きな斜面に玩具の船程に、ちょこんと横にのることがあった。と、船はのめったように、ドッ、ドッと、その谷底へ落ち込んでゆく。今にも、沈む!が、谷底にはすぐ別の波がむくむくと起ち上ってきて、ドシンと船の横腹と体当たりをする。 オホーツク海へ出ると、海の色がハッキリもっと灰色がかって来た。着物の上からゾクゾクと寒さが刺し込んできて、雑夫は皆唇をブシ色にして仕事をした。寒くなればなる程、塩のように乾いた、細かい雪がビュウ、ビュウと吹きつけてきた。それは硝子の細かいカケラのように甲板に這いつくばって働いている雑夫や漁夫の顔や手に突きささった。波が一波甲板を洗って行った後は、すぐ凍って、デラデラに滑った。皆はデッキからデッキへロープを張り、それに各自がおしめのようにブラ下がり、作業をしなければならなかった。監督は鮭殺しの棍棒をもって、大声で怒鳴り散らした。 同時に函館を出帆した他の蟹工船は、何時の間にか離れ離れになってしまっていた。それでも思いっ切りアルプスの絶頂に乗り上ったとき、溺死者が両手を振っているように、揺られに揺られている二本のマストだけが遠くに見えることがあった。煙草の煙ほどの煙が、波とすれずれに吹きちぎられて、飛んでいた。……波浪と叫喚のなかから、確かにその船が鳴らしているらしい汽笛が、間を置いてヒュウ、ヒュウと聞こえた。が、次の瞬間、こっちがアプ、アプでもするように、谷底に転落して行った。
監督は鮭殺しの棍棒をもって、どのような行動をとったか。
監督は鮭殺しの棍棒をもって、大声で怒鳴り散らした。
JCRRAG_011100
国語
蟹工船には川崎船を八隻のせていた。船員も漁夫もそれを何千匹の鱶のように、白い歯をむいてくる波にもぎ取られないように、縛りつけるために、自分等の命を「安々」と賭けなければならなかった。「貴様等の一人、二人が何なんだ。川崎一艘取られてみろ、たまったもんでないんだ」監督は日本語でハッキリそういった。 カムサツカの海は、よくも来やがった、と待ちかまえていたように見えた。ガツ、ガツに飢えている獅子のように、えどなみかかってきた。船はまるで兎より、もっと弱々しかった。空一面の吹雪は、風の工合で、白い大きな旗がなびくように見えた。夜が近くなってきた。しかし時化は止みそうもなかった。 仕事が終ると、皆は「糞壺」の中へ順々に入り込んできた。手や足は大根のように冷えて、感覚なく身体についていた。皆が蚕のように、棚の中に入ってしまうと、誰も一口も口をきくものがいなかった。ゴロリ横になって、鉄の支柱につかまった。船は、背に食いついている虻を追い払う馬のように、身体をヤケに振っている。漁夫はあてのない視線を白ペンキが黄色に煤けた天井にやったり、殆んど海の中に入りッ切りになっている青黒い円窓にやったり……中には、呆けたようにキョトンと口を半開きにしているものもいた。誰も、何も考えていなかった。漠然とした不安な自覚が、皆を不機嫌にだまらせていた。 顔を仰向けにして、グイとウイスキーをラッパ飲みにしている。赤黄く濁った、にぶい電燈のなかでチラッと瓶の角が光ってみえた。ガラ、ガラッと、ウイスキーの空瓶が二、三カ所に稲妻形に当たって、棚から通路に力一杯に投げ出された。皆は頭だけをその方に向けて、眼で瓶を追った。隅の方で誰かが怒った声を出した。時化にとぎれて、それが片言のように聞こえた。
蟹工船には川崎船を何隻のせていたか。
蟹工船には川崎船を八隻のせていた。