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歴史
古墳というと、前方後円墳のイメージが強いと思いますが、実はすべての古墳がこのような形状ではないのです。古墳はその数だけでも16万基以上!形状や規模、構造によっていくつかの種類に分類されます。 今回は古墳の種類を世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、意外にも奥深い古墳の形状について具体的に理解できること間違いなし! 1.前方後円墳 まずは古墳というとコレ!前方部(四角形)と後円部(円形)から構成鍵穴型の形状が特徴です。どれも比較的規模が大きく、王や豪族など権力者の墓として使用されています。 建造された時期としては長く、3世紀末~7世紀頃であり、大阪府の仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の面積は国内で1位であり、世界にも誇る墳墓でもあります。 2. 前方後方墳 前方後円墳とは異なり、前方部と後方部が共に四角形という形状の古墳。全国各地に点在していて、合計で約500基ほど発見されています。時代の分布としてはさまざまで、これらは前方後円墳と同様に権力者の墓として利用されていました。 しかし、なぜ日本では前方後円墳のほうが多いのかは今でも不明。東国で前方後円墳と前方後方墳が共存していることからランク付けという説もあったり、邪馬台国が支配する前のエリアは前方後方墳が多くあるという説もあります。
前方後円墳と前方後方墳の違いを説明してください。
前方後円墳は前方部(四角形)と後円部(円形)から構成鍵穴型の形状が特徴で、どれも比較的規模が大きく、王や豪族など権力者の墓として使用されている。 前方後方墳は前方部と後方部が共に四角形という形状の古墳であり、全国各地に点在していて、合計で約500基ほど発見されている。
JCRRAG_018402
歴史
歴史上で名高い軍師といえば諸葛亮を思い浮かべる人が多いでしょう。三国志において、この諸葛亮のライバルといわれている人物は、司馬懿である。 曹爽との対立が深まり… 曹叡の死後、司馬懿は曹真の長男・曹爽とともに次の皇帝である曹芳の補佐を託されます。権力を独占しようとする曹爽により名誉職の太傅に転任させられた司馬懿でしたが、当初は大きな問題は起こりませんでした。しかし正始5年(244)の蜀漢出兵で曹爽が多大な犠牲を出すと、もともと失敗を予見していた司馬懿は曹爽と対立するようになります。そしてその後は、ことあるごとに曹爽一派と衝突するようになったのです。 演技でだましクーデターを起こす 曹爽との対立が表面化すると、司馬懿は70歳近い高齢と病気を理由にして、引退したかのような演技を始めます。曹爽は司馬懿を警戒しましたが、わざと言葉を聞き間違えたり薬をこぼしたりして、騙し通すことに成功。正始10年(249)曹爽が洛陽を留守にすると、司馬懿はここぞとばかりにクーデターを起こしたのです。司馬懿は曹爽を降伏させ、本人とその一族を監視下において軟禁。最後には謀反を企んだとして一族郎党皆殺しにしました。 孫の司馬炎が西晋を建国 こうして司馬懿は魏の全権を握りましたが、その2年後に死去してしまいます。その後、孫の司馬炎が魏から禅譲を受けて皇帝となり、司馬懿は高祖宣帝の諡号(死後に送られる名前)を得ました。司馬懿は息子達に、自分が死んだら慎重に行動してうまく国を治めるよう告げています。これは、常に謀反を疑われながら生きてきた司馬懿ならではの言葉でした。 恐るべき司馬懿の人物像とは? 諸葛亮のライバルといわれる司馬懿は、どのような人物だったのでしょうか。人物像がわかるエピソードを2つご紹介します。 権謀術数に長けていた 司馬懿は猜疑心が強く、嫌悪する相手にも表向きは寛大に振舞うなど、臨機応変に切り抜ける才能がありました。曹操は司馬懿の性格を見抜いており、曹丕にも「司馬懿は臣下の身分にとどまる人物ではないから、お前にとって代わるだろう」と忠告しています。この言葉通り、権謀術数に長けた司馬懿によって魏は滅ぼされました。 トランプではジョーカーに! 中国で販売されている三国演義トランプでは、司馬懿は諸葛亮とともにジョーカーとして描かれています。中国では、小説『三国志演義』の諸葛亮のライバルとして、曹操に次ぐ知名度をもつようです。実際には軍師ではなかった司馬懿ですが、諸葛亮と同じくらい策略に長けていたのでしょう。 「狼顧の相」をもつ男 曹操は司馬懿の能力を認めながらもその野心に感づき警戒していました。しかし曹丕は司馬懿と親しく、さらには重用したため、最終的には国を滅ぼされることになったのです。 相手の裏をかいて一世一代のクーデターを成功させた司馬懿には厳しい意見もありますが、その巧みな人生を振り返ると、まさに諸葛亮と並ぶジョーカーのような人物だったといえるでしょう。
諸葛亮のライバルといわれる人物は、誰を斬殺したか。
諸葛亮のライバルといわれる人物は、公孫淵とその子・公孫脩を斬殺した。
JCRRAG_018403
歴史
官軍の第一次の正攻が敗れたように、二俣に向かった軍もまた敗れた。本軍の奮戦と共に、吉次越攻撃の別軍二個大隊半は、野津大佐(道貫という、野津鎮雄少将の弟)に率いられて、立岩の丘を攻めた。薩軍は、砲を山頂に設け、銃隊を山腹の深林中に隠して、射撃する。絶頂で篠原と共に指揮して居た薩将村田は、「両翼を張って挾み撃ちしてやろう」といって軍を二分し、一は半高山の絶頂から、一は三ノ嶽の中腹から、左右の翼を張ったた。 官軍は見事に術中に陥入して算を乱して倒れる。時機はよしと、午後一時頃薩軍は突出して殺到した。掩護物の作業をして居た官軍の工兵は、その不意に驚いた為、周章は全軍に及んだので、ついに退却せざるを得なくなった。原倉、伊倉に一大隊を置き、あとは悉く高瀬まで退いたのが午後六時である。この日猛烈な戦闘で昼食をとる暇がなかった。指揮官の野津大佐は、敵の銃弾を、一発は革帯に、二発は軍刀に受けた程である。薩軍の勝利ではあったが、篠原がこの戦で死んだ事は、薩軍の士気に関するもので大打撃であった。この日、篠原国幹は、外套の上に銀かざりの太刀を帯び、自ら刀を揮って指揮したのだが、官軍の江田少佐がその顔を知っていて、狙撃させて倒したのであった。 その江田少佐も顔に三発、体に四発、頭に一発、銃弾を浴びて戦死している。 越えて六日には、早朝から、田原坂、二俣を攻撃したが、一進一退、容易にこれを抜く事が出来ない。高瀬にいる野津大佐は、四十数名の選抜隊をして夜六時、二俣口の船底山の丘を、間道から襲撃させた。これは成功して隊長本多中尉は、敵塁に火を放って占領を報じて、更に背後の丘を突かんとしたが、薩軍の抜刀して襲来すること三回に及んで、果たすことが出来なかった。薩軍では抜刀隊を組織している事がわかったので、官軍もこれに応じて、別働狙撃隊を新たに編成した。
江田少佐が銃弾を受けて戦死した際、銃弾を浴びた体の場所を教えてください。
江田少佐が銃弾を受けて戦死した際、銃弾を浴びた体の場所は体で四発です。
JCRRAG_018404
歴史
3. 円墳 円形のシンプルな古墳。全国でも古墳といえばこれが非常に多く、小規模~中規模の古墳で見られ、各地に多数存在しています。 時期としては、古墳時代を通じて建造。 高松塚古墳やキトラ古墳など、飛鳥時代の古墳もこのカテゴリーに入っていて、内部の装飾が優れている古墳も存在します。 4. 方墳 四角形の墳丘を持つ古墳。 円墳よりも数は少ないものの、これも小規模~中規模の古墳に多く、各地に多数存在しています。とはいえ、比較的大型の方墳もあり、天皇陵とされているものも。権力者だけでなく、地方豪族の墓にも利用されていました。 そして、有名な石舞台古墳は、崩壊してしまっていますが、もともと方墳であったと考えられています。 5. 帆立貝形古墳 円丘に小さな方形の張り出しが加わった古墳。大型のものはなく、前方後円墳と比較すると小型であり、方形は祭祀の場として利用されたとされます。 これはもともと円形に方形が加えられたものと、前方後円墳の前方部分が何かしらの理由で削られて縮小したものもあります。とはいえ、なぜ大型の古墳がないのか、不明であるものの、古墳時代の中期から後期に渡って見られる古墳。特に仁徳天皇陵周辺の陪冢には、このタイプが多いですね。 6、八角墳 八角形の墳丘を持つ珍しい形式。古墳時代の末期に現れるようになったもので、特に天皇陵で多く見られるもの。他の古墳に比べて小規模なものが多いものの、石室を持つことが多く、丁寧に築造されているのが特徴。 代表的なものは、奈良県の明日香村にある、斉明天皇の陵墓とされている「牛子塚古墳(けんごしづかこふん)」、「野口王墓(現天武・持統陵)」、一般に文武天皇陵と考えられてい「中尾山古墳」などが有名。
円墳と方墳の違いについて説明してください。
円墳は古墳時代に建造された円形のシンプルな古墳で全国に多く見られる。飛鳥時代の古墳も含まれ内部の装飾が優れているものもある。 方墳は四角形の墳丘を持つ古墳。 比較的大型の方墳もあり、天皇陵とされているものもあり、権力者だけでなく、地方豪族の墓にも利用されていた。
JCRRAG_018405
歴史
漢という国の最後の皇帝となる人物は、献帝である。 うまれから皇帝になるまで 献帝はどのように皇帝の座についたのでしょうか。皇帝になるまでの経緯を振り返ります。 霊帝の次男・劉協として誕生 漢王朝第14代皇帝である献帝は、12代皇帝・霊帝の次男として誕生しました。名前は劉協といい、のちに孝献皇帝、孝愍皇帝という諡号(死後に送られる名前)を得ています。 母・王栄は霊帝の寵愛を受けていましたが、劉協を産んだのち、何皇后の嫉妬により毒殺されました。そのため献帝は暴室(宮女の独房)で養育され、その後は霊帝の生母・董太后によって引き取られます。 中平5年(189)霊帝が死去すると異母弟・劉弁が即位し、献帝は勃海王に封じられ、同年秋には陳留王に移封されました。 董卓により皇帝に擁立される この当時の朝廷は、外戚にあたる何進の派閥と十常侍ら宦官の勢力が対立していました。そのような中、何進が十常侍に暗殺されると、袁紹らが挙兵して押し寄せ朝廷は混乱に陥ります。しかし宦官勢力は数日ほどで敗れ、献帝は洛陽から連れ去られたものの間もなく帰還。その後の朝廷は、混乱に乗じて都に入った董卓によって実権をにぎられました。そして献帝は、この董卓によって皇帝に擁立されたのです。 王朝の混乱と皇帝の傀儡化 不遇な幼少期を経た献帝は、董卓によって皇帝の地位につきました。しかし、その後の彼の人生にはさらなる困難が待ち受けていたのです。 董卓の暗殺と政治実権の遷移 初平元年(190)袁紹ら各地の刺史や太守は、董卓の横暴なふるまいに反発して挙兵しました。これにより朝廷は遷都を決め、献帝は長安へと移動します。その後、董卓が腹心の呂布に暗殺されたため王允が政治を仕切るようになりますが、董卓の残党による攻撃で長安は約1ヶ月で陥落。さらには政治の実権を李傕や郭汜に奪われてしまいます。また各地では反董卓の兵を挙げた諸侯らが割拠したため、王朝は内乱状態に陥りました。 洛陽に帰還し曹操の庇護下に 建安元年(196)7月、献帝は洛陽に帰還し、翌月には曹操の庇護のもと許に遷都しました。これを発端に、曹操は漢室の庇護者として諸侯に号令をかける立場になります。 表向きは庇護者としてふるまう曹操でしたが、裏では献帝の周囲から馴染みの者を排除し、自分の息のかかった人間を送り込んでいました。その状況を憂いた献帝は「自分を大事に思うなら補佐し、そうでないなら退位させよ」と、忠誠か譲位の二者択一を迫ったといいます。これに冷や汗をかいた曹操は、宮中への参内を控えるようになりました。 王権が安定するも曹操に実権を握られる それまで混乱が続いていた朝廷ですが、曹操の庇護を受けてからはようやく献帝の王権が安定しました。しかし実権は曹操に掌握され、曹操の身分も丞相・魏公・魏王と徐々に上がったため、漢王朝はすでに曹操王朝ともいうべき状況になっていたのです。さらに建安19年(214)には皇后伏氏が殺され、献帝は曹操の娘・曹節を皇后に迎えざるを得なくなりました。
漢という国の最後の皇帝となる人物は、誰によって皇帝に擁立されたか。
漢という国の最後の皇帝となる人物は、董卓によって皇帝に擁立された。
JCRRAG_018406
歴史
官軍の第一次の正攻が敗れたように、二俣に向かった軍もまた敗れた。本軍の奮戦と共に、吉次越攻撃の別軍二個大隊半は、野津大佐(道貫という、野津鎮雄少将の弟)に率いられて、立岩の丘を攻めた。薩軍は、砲を山頂に設け、銃隊を山腹の深林中に隠して、射撃する。絶頂で篠原と共に指揮して居た薩将村田は、「両翼を張って挾み撃ちしてやろう」といって軍を二分し、一は半高山の絶頂から、一は三ノ嶽の中腹から、左右の翼を張ったた。 官軍は見事に術中に陥入して算を乱して倒れる。時機はよしと、午後一時頃薩軍は突出して殺到した。掩護物の作業をして居た官軍の工兵は、その不意に驚いた為、周章は全軍に及んだので、ついに退却せざるを得なくなった。原倉、伊倉に一大隊を置き、あとは悉く高瀬まで退いたのが午後六時である。この日猛烈な戦闘で昼食をとる暇がなかった。指揮官の野津大佐は、敵の銃弾を、一発は革帯に、二発は軍刀に受けた程である。薩軍の勝利ではあったが、篠原がこの戦で死んだ事は、薩軍の士気に関するもので大打撃であった。この日、篠原国幹は、外套の上に銀かざりの太刀を帯び、自ら刀を揮って指揮したのだが、官軍の江田少佐がその顔を知っていて、狙撃させて倒したのであった。 その江田少佐も顔に三発、体に四発、頭に一発、銃弾を浴びて戦死している。 越えて六日には、早朝から、田原坂、二俣を攻撃したが、一進一退、容易にこれを抜く事が出来ない。高瀬にいる野津大佐は、四十数名の選抜隊をして夜六時、二俣口の船底山の丘を、間道から襲撃させた。これは成功して隊長本多中尉は、敵塁に火を放って占領を報じて、更に背後の丘を突かんとしたが、薩軍の抜刀して襲来すること三回に及んで、果たすことが出来なかった。薩軍では抜刀隊を組織している事がわかったので、官軍もこれに応じて、別働狙撃隊を新たに編成した。
江田少佐が銃弾を受けて戦死した際、少なく銃弾を浴びた体の場所を教えてください。
江田少佐が銃弾を受けて戦死した際、少なく銃弾を浴びた体の場所は頭で一発です。
JCRRAG_018407
歴史
3. 円墳 円形のシンプルな古墳。全国でも古墳といえばこれが非常に多く、小規模~中規模の古墳で見られ、各地に多数存在しています。 時期としては、古墳時代を通じて建造。 高松塚古墳やキトラ古墳など、飛鳥時代の古墳もこのカテゴリーに入っていて、内部の装飾が優れている古墳も存在します。 4. 方墳 四角形の墳丘を持つ古墳。 円墳よりも数は少ないものの、これも小規模~中規模の古墳に多く、各地に多数存在しています。とはいえ、比較的大型の方墳もあり、天皇陵とされているものも。権力者だけでなく、地方豪族の墓にも利用されていました。 そして、有名な石舞台古墳は、崩壊してしまっていますが、もともと方墳であったと考えられています。 5. 帆立貝形古墳 円丘に小さな方形の張り出しが加わった古墳。大型のものはなく、前方後円墳と比較すると小型であり、方形は祭祀の場として利用されたとされます。 これはもともと円形に方形が加えられたものと、前方後円墳の前方部分が何かしらの理由で削られて縮小したものもあります。とはいえ、なぜ大型の古墳がないのか、不明であるものの、古墳時代の中期から後期に渡って見られる古墳。特に仁徳天皇陵周辺の陪冢には、このタイプが多いですね。 6、八角墳 八角形の墳丘を持つ珍しい形式。古墳時代の末期に現れるようになったもので、特に天皇陵で多く見られるもの。他の古墳に比べて小規模なものが多いものの、石室を持つことが多く、丁寧に築造されているのが特徴。 代表的なものは、奈良県の明日香村にある、斉明天皇の陵墓とされている「牛子塚古墳(けんごしづかこふん)」、「野口王墓(現天武・持統陵)」、一般に文武天皇陵と考えられてい「中尾山古墳」などが有名。
帆立貝形古墳と八角墳の違いについて説明してください。
帆立貝形古墳は円丘に小さな方形の張り出しが加わった古墳であり、大型のものはなく方形は祭祀の場として利用されたとされている。もともと円形に方形が加えられたものと、前方後円墳の前方部分が何かしらの理由で削られて縮小したものがある。 八角墳は古墳時代の末期に建造された八角形の墳丘を持つ珍しい形式で特に天皇陵で多く見られる。他の古墳に比べて小規模なものが多いものの、石室を持つことが多く、丁寧に築造されているのが特徴である。
JCRRAG_018408
歴史
漢という国の最後の皇帝となる人物は、献帝である。 うまれから皇帝になるまで 献帝はどのように皇帝の座についたのでしょうか。皇帝になるまでの経緯を振り返ります。 霊帝の次男・劉協として誕生 漢王朝第14代皇帝である献帝は、12代皇帝・霊帝の次男として誕生しました。名前は劉協といい、のちに孝献皇帝、孝愍皇帝という諡号(死後に送られる名前)を得ています。 母・王栄は霊帝の寵愛を受けていましたが、劉協を産んだのち、何皇后の嫉妬により毒殺されました。そのため献帝は暴室(宮女の独房)で養育され、その後は霊帝の生母・董太后によって引き取られます。 中平5年(189)霊帝が死去すると異母弟・劉弁が即位し、献帝は勃海王に封じられ、同年秋には陳留王に移封されました。 董卓により皇帝に擁立される この当時の朝廷は、外戚にあたる何進の派閥と十常侍ら宦官の勢力が対立していました。そのような中、何進が十常侍に暗殺されると、袁紹らが挙兵して押し寄せ朝廷は混乱に陥ります。しかし宦官勢力は数日ほどで敗れ、献帝は洛陽から連れ去られたものの間もなく帰還。その後の朝廷は、混乱に乗じて都に入った董卓によって実権をにぎられました。そして献帝は、この董卓によって皇帝に擁立されたのです。 王朝の混乱と皇帝の傀儡化 不遇な幼少期を経た献帝は、董卓によって皇帝の地位につきました。しかし、その後の彼の人生にはさらなる困難が待ち受けていたのです。 董卓の暗殺と政治実権の遷移 初平元年(190)袁紹ら各地の刺史や太守は、董卓の横暴なふるまいに反発して挙兵しました。これにより朝廷は遷都を決め、献帝は長安へと移動します。その後、董卓が腹心の呂布に暗殺されたため王允が政治を仕切るようになりますが、董卓の残党による攻撃で長安は約1ヶ月で陥落。さらには政治の実権を李傕や郭汜に奪われてしまいます。また各地では反董卓の兵を挙げた諸侯らが割拠したため、王朝は内乱状態に陥りました。 洛陽に帰還し曹操の庇護下に 建安元年(196)7月、献帝は洛陽に帰還し、翌月には曹操の庇護のもと許に遷都しました。これを発端に、曹操は漢室の庇護者として諸侯に号令をかける立場になります。 表向きは庇護者としてふるまう曹操でしたが、裏では献帝の周囲から馴染みの者を排除し、自分の息のかかった人間を送り込んでいました。その状況を憂いた献帝は「自分を大事に思うなら補佐し、そうでないなら退位させよ」と、忠誠か譲位の二者択一を迫ったといいます。これに冷や汗をかいた曹操は、宮中への参内を控えるようになりました。 王権が安定するも曹操に実権を握られる それまで混乱が続いていた朝廷ですが、曹操の庇護を受けてからはようやく献帝の王権が安定しました。しかし実権は曹操に掌握され、曹操の身分も丞相・魏公・魏王と徐々に上がったため、漢王朝はすでに曹操王朝ともいうべき状況になっていたのです。さらに建安19年(214)には皇后伏氏が殺され、献帝は曹操の娘・曹節を皇后に迎えざるを得なくなりました。
漢という国の最後の皇帝となる人物は、誰の庇護のもと許に遷都したか。
漢という国の最後の皇帝となる人物は、曹操の庇護のもと許に遷都した。
JCRRAG_018409
歴史
七日、官軍の援兵が大勢来て、歩兵は三十二個中隊に及んだので、新手をもってつぎつぎと攻めたてた。しかし一塁を抜いたと思うとすぐ奪い返される始末なので、こちらにも、塹壕、胸壁が必要であると、工兵が弾雨の間を作業した。薩軍の塁があるが、近いのはわずかに二十六メートル、遠くても百メートルという距離で、作業が非常に困難だった。射撃の手を少し休めると、たちまち抜刀の一隊が押し寄せた。この夜、折角得た船底の塁がまた奪い去られた。終日の発砲で、銃身が皆熱くなったので、中には小便をかけて冷やしたりして用いたが、それでも破裂するものがあった。 八日から十一日まで、戦闘は相変わらず激しいが、戦況は依然たるままであった。いつまでも、このままでは熊本城は危ない。官軍は連日の戦闘で、部署が錯雑して陣形が乱れているので、改めて陣容を建て直した。三浦少将の第三旅団は山鹿口を、大山巖少将の第二旅団と別働隊、野津少将の第一旅団は田原口をそれぞれ攻撃することになり、参軍山県中将も本営を高瀬に進めた。十四日の午前六時、号砲三発が山にこだますると共に、官軍の先鋒は二俣口を望んで、喊声を挙げる。歩兵に左右を守られた中央部隊は、暁暗に白く大刀をひらめかしている。これが、警視庁から派遣されて居た巡査をもって編成した抜刀隊で、この抜刀隊の肉弾戦が、田原坂攻略に大きな役割を果したのであった。不意の吶喊に薩軍の周章あわてるのを、白刃と銃剣で迫り、百人の抜刀隊は諸隊を越えて敵塁に躍り入り、たちまちにして三塁を陥し入れた。薩軍は支えずして、逃れたが、しかし彼らは百メートルから百五十メートルで止まり、樹木や岩石に身を寄せて猛射するので、倒れる官軍の死人が二百余に及んだ。塁や塹壕に躍り入る際に、木材を鋭く削っているのに落ちて傷つく者も多かった。が、敵塁を占領したのもしばらくで、たちまち薩の抜刀隊五十名余りが、わめき叫んで逆襲して来た為に、官軍は敗れ退いて、かの三塁も奪還された。
薩軍の塁のうち、距離が近いのは何メートルか教えてください。
薩軍の塁のうち、距離が近いのは二十六メートルです。
JCRRAG_018410
歴史
飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)とは? そもそも「飛鳥京跡」とはどこを示す? 奈良県明日香村岡にある「飛鳥京跡」。実は飛鳥京の調査は1959年から始まったということもあり、本格的に研究されたのは最近でもあります。よって、発掘調査が進んで初めて分かることがあり、もともとは現在の飛鳥京跡にあった遺跡は古来から「伝飛鳥板蓋宮跡」と呼ばれ、645年に乙巳の変(大化の改新)が起こった板蓋宮(いたぶきのみや)があった場所とされていたのですが、実際に掘り進めると、いくつもの異なる遺構が重なっていることが判明。 時期としては、 I期:飛鳥岡本宮(630〜636年) II期:飛鳥板蓋宮(643〜645、655年) III期:後飛鳥岡本宮(656〜660年)、飛鳥浄御原宮(672〜694年) この3つの遺構が見られることから、板葺宮だけがあった場所ではなかったため、2016年に名称を「飛鳥京跡」に変更したという経緯があります。しかし、飛鳥時代の宮殿は奈良県以外にも点在していて、ここだけを「飛鳥宮」と呼ぶには難しいところはありますが、奈良県や明日香村としては、この3つの宮殿があった遺跡を「飛鳥京跡」として名付けています。 飛鳥岡本宮と飛鳥板蓋宮 まず、古代の天皇は即位すると、居住地(宮殿)を移動するという風習がありました。 欽明天皇(593?年〜641年)が即位した際に、630年にこの地で初めて宮殿が築かれ、当時は岡本宮と呼ばれました。しかし、636年に火災で消失。642年には女性天皇である皇極天皇(594〜661年)が大臣であった蘇我蝦夷に新宮殿の飛鳥板蓋宮の建設を依頼。その後、すぐにクーデターである乙巳の変が発生すると、皇極天皇が退位して、孝徳天皇(596〜654年)が難波(大阪)に都をおいたため、ここは宮殿としての機能は失われました。 しかし、孝徳天皇が崩御すると、皇極天皇は斉明天皇として655年に再度即位したものの、火災によって消滅しました。そして、656年にこの地で再建されたのが後飛鳥岡本宮。これは660年に火災に遭ってしまい、失われるも遺跡からは一部残って入ります。
飛鳥岡本宮と飛鳥板蓋宮はそれぞれ誰が即位した時の都か説明してください。
飛鳥岡本宮は欽明天皇が即位した630年に築かれた。 飛鳥板蓋宮は女性天皇である皇極天皇が即位した642年に建設を依頼した。
JCRRAG_018411
歴史
漢という国の最後の皇帝となる人物は、献帝である。 うまれから皇帝になるまで 献帝はどのように皇帝の座についたのでしょうか。皇帝になるまでの経緯を振り返ります。 霊帝の次男・劉協として誕生 漢王朝第14代皇帝である献帝は、12代皇帝・霊帝の次男として誕生しました。名前は劉協といい、のちに孝献皇帝、孝愍皇帝という諡号(死後に送られる名前)を得ています。 母・王栄は霊帝の寵愛を受けていましたが、劉協を産んだのち、何皇后の嫉妬により毒殺されました。そのため献帝は暴室(宮女の独房)で養育され、その後は霊帝の生母・董太后によって引き取られます。 中平5年(189)霊帝が死去すると異母弟・劉弁が即位し、献帝は勃海王に封じられ、同年秋には陳留王に移封されました。 董卓により皇帝に擁立される この当時の朝廷は、外戚にあたる何進の派閥と十常侍ら宦官の勢力が対立していました。そのような中、何進が十常侍に暗殺されると、袁紹らが挙兵して押し寄せ朝廷は混乱に陥ります。しかし宦官勢力は数日ほどで敗れ、献帝は洛陽から連れ去られたものの間もなく帰還。その後の朝廷は、混乱に乗じて都に入った董卓によって実権をにぎられました。そして献帝は、この董卓によって皇帝に擁立されたのです。 王朝の混乱と皇帝の傀儡化 不遇な幼少期を経た献帝は、董卓によって皇帝の地位につきました。しかし、その後の彼の人生にはさらなる困難が待ち受けていたのです。 董卓の暗殺と政治実権の遷移 初平元年(190)袁紹ら各地の刺史や太守は、董卓の横暴なふるまいに反発して挙兵しました。これにより朝廷は遷都を決め、献帝は長安へと移動します。その後、董卓が腹心の呂布に暗殺されたため王允が政治を仕切るようになりますが、董卓の残党による攻撃で長安は約1ヶ月で陥落。さらには政治の実権を李傕や郭汜に奪われてしまいます。また各地では反董卓の兵を挙げた諸侯らが割拠したため、王朝は内乱状態に陥りました。 洛陽に帰還し曹操の庇護下に 建安元年(196)7月、献帝は洛陽に帰還し、翌月には曹操の庇護のもと許に遷都しました。これを発端に、曹操は漢室の庇護者として諸侯に号令をかける立場になります。 表向きは庇護者としてふるまう曹操でしたが、裏では献帝の周囲から馴染みの者を排除し、自分の息のかかった人間を送り込んでいました。その状況を憂いた献帝は「自分を大事に思うなら補佐し、そうでないなら退位させよ」と、忠誠か譲位の二者択一を迫ったといいます。これに冷や汗をかいた曹操は、宮中への参内を控えるようになりました。 王権が安定するも曹操に実権を握られる それまで混乱が続いていた朝廷ですが、曹操の庇護を受けてからはようやく献帝の王権が安定しました。しかし実権は曹操に掌握され、曹操の身分も丞相・魏公・魏王と徐々に上がったため、漢王朝はすでに曹操王朝ともいうべき状況になっていたのです。さらに建安19年(214)には皇后伏氏が殺され、献帝は曹操の娘・曹節を皇后に迎えざるを得なくなりました。
漢という国の最後の皇帝となる人物は、誰を皇后に迎えたか。
漢という国の最後の皇帝となる人物は、曹操の娘・曹節を皇后に迎えた。
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歴史
七日、官軍の援兵が大勢来て、歩兵は三十二個中隊に及んだので、新手をもってつぎつぎと攻めたてた。しかし一塁を抜いたと思うとすぐ奪い返される始末なので、こちらにも、塹壕、胸壁が必要であると、工兵が弾雨の間を作業した。薩軍の塁があるが、近いのはわずかに二十六メートル、遠くても百メートルという距離で、作業が非常に困難だった。射撃の手を少し休めると、たちまち抜刀の一隊が押し寄せた。この夜、折角得た船底の塁がまた奪い去られた。終日の発砲で、銃身が皆熱くなったので、中には小便をかけて冷やしたりして用いたが、それでも破裂するものがあった。 八日から十一日まで、戦闘は相変わらず激しいが、戦況は依然たるままであった。いつまでも、このままでは熊本城は危ない。官軍は連日の戦闘で、部署が錯雑して陣形が乱れているので、改めて陣容を建て直した。三浦少将の第三旅団は山鹿口を、大山巖少将の第二旅団と別働隊、野津少将の第一旅団は田原口をそれぞれ攻撃することになり、参軍山県中将も本営を高瀬に進めた。十四日の午前六時、号砲三発が山にこだますると共に、官軍の先鋒は二俣口を望んで、喊声を挙げる。歩兵に左右を守られた中央部隊は、暁暗に白く大刀をひらめかしている。これが、警視庁から派遣されて居た巡査をもって編成した抜刀隊で、この抜刀隊の肉弾戦が、田原坂攻略に大きな役割を果したのであった。不意の吶喊に薩軍の周章あわてるのを、白刃と銃剣で迫り、百人の抜刀隊は諸隊を越えて敵塁に躍り入り、たちまちにして三塁を陥し入れた。薩軍は支えずして、逃れたが、しかし彼らは百メートルから百五十メートルで止まり、樹木や岩石に身を寄せて猛射するので、倒れる官軍の死人が二百余に及んだ。塁や塹壕に躍り入る際に、木材を鋭く削っているのに落ちて傷つく者も多かった。が、敵塁を占領したのもしばらくで、たちまち薩の抜刀隊五十名余りが、わめき叫んで逆襲して来た為に、官軍は敗れ退いて、かの三塁も奪還された。
薩軍の塁のうち、距離が遠いのは何メートルか教えてください。
薩軍の塁のうち、距離が遠いのは百メートルです。
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歴史
飛鳥寺とは?その歴史を解説 飛鳥寺は誰が建造した? 飛鳥寺は奈良県明日香村にあり、かつての飛鳥京の北部に位置する仏教寺院。『日本書紀』によると、588年に天皇に仕えた蘇我馬子(551年?〜626年)が発願し、建立されたもの。蘇我氏は当時の有力な貴族であり、仏教に対しては寛容派で、ここは日本に仏教を広めるための施設でもありました。やがて中国や朝鮮半島から僧を呼び、日本初の本格的寺院となります。 ここは当初から大規模な伽藍を持つ寺院として設計されました。中心には巨大な五重塔がある、一塔三金堂式伽藍配置となっていて、今でも当時の遺構が一部残っています。飛鳥寺は、仏教の中心として多くの僧侶や学問を志す者たちが集う場所となり、仏教の普及に大きく貢献しました。 実は奈良市の元興寺のルーツ 8世紀に平城京へと遷都すると、飛鳥寺は現在の奈良市に移転し元興寺となりました。この地の寺院は「本元興寺」と称して存続し、特に平安時代には大きな被害を受けましたが、その後はあまり歴史書には残されることが少なかったものの、何度も再建されてきたとされています。特に建設当時から残る飛鳥大仏は、この地でずっと残り続けたとされるもの。 現在の飛鳥寺の本堂は19世紀に再建されたもので、観光名所としても多くの人々が訪れています。蘇我氏の菩提寺ということもあり、近くには蘇我入鹿の首塚も置かれました。
飛鳥寺と元興寺の違いについて説明してください。
飛鳥寺は奈良県明日香村にあり、588年に天皇に仕えた蘇我馬子が発願し、建立されたかつての飛鳥京の北部に位置する仏教寺院である。 元興寺は8世紀に平城京へと遷都すると、飛鳥寺は現在の奈良市に移転し元興寺となった。建設当時から残る飛鳥大仏は、この地でずっと残り続けたとされるものである。
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歴史
漢という国の最後の皇帝となる人物は、献帝である。 うまれから皇帝になるまで 献帝はどのように皇帝の座についたのでしょうか。皇帝になるまでの経緯を振り返ります。 霊帝の次男・劉協として誕生 漢王朝第14代皇帝である献帝は、12代皇帝・霊帝の次男として誕生しました。名前は劉協といい、のちに孝献皇帝、孝愍皇帝という諡号(死後に送られる名前)を得ています。 母・王栄は霊帝の寵愛を受けていましたが、劉協を産んだのち、何皇后の嫉妬により毒殺されました。そのため献帝は暴室(宮女の独房)で養育され、その後は霊帝の生母・董太后によって引き取られます。 中平5年(189)霊帝が死去すると異母弟・劉弁が即位し、献帝は勃海王に封じられ、同年秋には陳留王に移封されました。 董卓により皇帝に擁立される この当時の朝廷は、外戚にあたる何進の派閥と十常侍ら宦官の勢力が対立していました。そのような中、何進が十常侍に暗殺されると、袁紹らが挙兵して押し寄せ朝廷は混乱に陥ります。しかし宦官勢力は数日ほどで敗れ、献帝は洛陽から連れ去られたものの間もなく帰還。その後の朝廷は、混乱に乗じて都に入った董卓によって実権をにぎられました。そして献帝は、この董卓によって皇帝に擁立されたのです。 王朝の混乱と皇帝の傀儡化 不遇な幼少期を経た献帝は、董卓によって皇帝の地位につきました。しかし、その後の彼の人生にはさらなる困難が待ち受けていたのです。 董卓の暗殺と政治実権の遷移 初平元年(190)袁紹ら各地の刺史や太守は、董卓の横暴なふるまいに反発して挙兵しました。これにより朝廷は遷都を決め、献帝は長安へと移動します。その後、董卓が腹心の呂布に暗殺されたため王允が政治を仕切るようになりますが、董卓の残党による攻撃で長安は約1ヶ月で陥落。さらには政治の実権を李傕や郭汜に奪われてしまいます。また各地では反董卓の兵を挙げた諸侯らが割拠したため、王朝は内乱状態に陥りました。 洛陽に帰還し曹操の庇護下に 建安元年(196)7月、献帝は洛陽に帰還し、翌月には曹操の庇護のもと許に遷都しました。これを発端に、曹操は漢室の庇護者として諸侯に号令をかける立場になります。 表向きは庇護者としてふるまう曹操でしたが、裏では献帝の周囲から馴染みの者を排除し、自分の息のかかった人間を送り込んでいました。その状況を憂いた献帝は「自分を大事に思うなら補佐し、そうでないなら退位させよ」と、忠誠か譲位の二者択一を迫ったといいます。これに冷や汗をかいた曹操は、宮中への参内を控えるようになりました。 王権が安定するも曹操に実権を握られる それまで混乱が続いていた朝廷ですが、曹操の庇護を受けてからはようやく献帝の王権が安定しました。しかし実権は曹操に掌握され、曹操の身分も丞相・魏公・魏王と徐々に上がったため、漢王朝はすでに曹操王朝ともいうべき状況になっていたのです。さらに建安19年(214)には皇后伏氏が殺され、献帝は曹操の娘・曹節を皇后に迎えざるを得なくなりました。
漢という国の最後の皇帝となる人物は、誰の実権掌握のもとで王権を安定させたか。
漢という国の最後の皇帝となる人物は、曹操の実権掌握のもとで王権を安定させた。
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歴史
午後四時であるから丁度十二時間の戦闘である。抜刀隊が十二時間の戦闘で発生した死傷者のうち、死する者十二人、傷者三十六人というから、ほとんど全滅したわけである。 三月二十日、官軍いよいよ最後の総攻撃を決したが、連日の激戦にも拘らず、おしまいは案外容易に占領する事が出来た。天険田原坂もこの日をもって完全に陥ったのである。 この日、昨夜からの豪雨が、暁になっても止まない。朝の五時に食事を終わった官軍は、二俣口から渓谷を渉り、田原坂の横に潜行して、各自部署に就いた。待つ事少時、三発の号砲を聞くや、躍進して迫り、右翼第一線の塁を抜いた。二俣口から放つ砲弾も、盛んに後塁に落下している。 夜は既に明け放れて山霧は全くはれ、雨足もまばらになった。官軍は死屍を踏んで田原坂に進み、更に一隊は、敵塁の背後に出ようとした。薩の哨兵が、本塁にこれを報ずると、防守の望み、既になしと覚ったか、塁を棄てて退却した。 始め、官軍は、一部隊を編成して、田原坂正面に駐屯して正攻に出るように見せて、薩軍を欺いたのが成功したのである。既に本塁を手に入れたのだが、田原口の部隊は、まだこれを知らずに、盛んに坂上を射撃する。ラッパで報じてもわからない。一少尉が塁上に上り、旗を振って叫んだので、ようやく知ったという。 丁度十時頃になっていたが、全軍直ちに追撃して、植木の営を衝いた。 薩軍は、田原の険をたのんで、植木の営の警備を怠って居たので、輜重を収める暇もない。町に入り込んだ官軍は、民家に放火した。 薩軍は総退却して向坂に入って、尾撃して来た官軍と対峙した。 山鹿方面の薩軍は、田原敗ると聞いて、即日、鳥栖地方に退き、官軍の本営は、七本に移り進んだ。 向坂対陣中、薩将、貴島清、中島健彦等が熊本隊を率いて官軍を急襲した事もあるが、大勢は既に決したのである。 百戦無レ効半歳間 首邱幸得レ返二家山一 笑儂向レ死如二仙客一 尽日洞中棋響閑 岩崎谷の洞壁に書き終わって、筆を投じた隆盛が腹を切るまで、人吉、豊後口、宮崎、延岡、可愛嶽と激烈な転戦はあったが、田原坂の激戦は、西南戦争の最初にして、しかも最後の勝敗を決したものといってよいのである。 この戦においていわゆる百姓兵の為すある事があり、徴兵制度の根本が確立したのである。 自分は、昭和五年に鹿児島へ行ったが、西郷隆盛以下薩軍の諸将の墓地が、壮大であるのに引きかえ、西南戦争当時の官軍の戦死者を埋葬した官軍墓地というのが、荒寥としていたのは、西南戦争当時の薩摩の人心の情勢が今もなおほのかに残っている気がして、興味を感じた。
抜刀隊が十二時間の戦闘で発生した死傷者のうち、数が多いほうを教えてください。
抜刀隊が十二時間の戦闘で発生した死傷者のうち、数が多いほうは傷者で三十六人です。
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歴史
湯の峰温泉・つぼ湯は「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成遺産の一つ。ここは和歌山県を横断する参詣道・中辺路にある温泉地として、2004年に「温泉」としては初の世界遺産となりました。ところで、湯の峰温泉・つぼ湯はなぜ世界遺産なのでしょうか? 湯の峰温泉・つぼ湯とは? 奈良県南部との県境近くにある、和歌山県田辺市本宮町にある湯の峰温泉。ここは4世紀にはすでに発見されていたという、日本でも最古級の温泉地として知られ、古くから熊野詣の旅人たちが立ち寄る場所でもありました。特に和歌山県内を横断する古道である熊野古道・中辺路沿いにあり、熊野三山の一つ、熊野本宮大社からは約3.5kmほどの距離のため、平安時代は京都から皇族も訪れていたほど。 温泉の中心地には天台院の寺院・東光寺があり、伝承によれば、源泉の周囲に湯の花があり、それが薬師如来の形となった後、その胸から温泉が湧き出たことから「湯の胸」となり、それが「湯の峰温泉」という名のルーツとなったとされています。 つぼ湯は公衆浴場となっていて、天然岩で作られた小さな浴槽で、一度に2〜3人が入るといっぱいになるほど。湯は日によって湯の色が7回も変わるとも言われており、その不思議な変化が訪れる人々を魅了しています。ちなみに、30分交代制なので混み合う際は順番待ちなので注意。
湯の峰温泉とつぼ湯の違いについて説明してください。
湯の峰温泉は和歌山県田辺市本宮町にある温泉で、伝承によると、源泉の周囲に湯の花があり、それが薬師如来の形となった後、その胸から温泉が湧き出たことから「湯の胸」となり、それが「湯の峰温泉」という名のルーツとなったとされている。 つぼ湯は公衆浴場となっていて、天然岩で作られた小さな浴槽で、一度に2〜3人が入るといっぱいになる。湯は日によって湯の色が7回も変わるとも言われている。
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歴史
漢という国の最後の皇帝となる人物は、献帝である。 うまれから皇帝になるまで 献帝はどのように皇帝の座についたのでしょうか。皇帝になるまでの経緯を振り返ります。 霊帝の次男・劉協として誕生 漢王朝第14代皇帝である献帝は、12代皇帝・霊帝の次男として誕生しました。名前は劉協といい、のちに孝献皇帝、孝愍皇帝という諡号(死後に送られる名前)を得ています。 母・王栄は霊帝の寵愛を受けていましたが、劉協を産んだのち、何皇后の嫉妬により毒殺されました。そのため献帝は暴室(宮女の独房)で養育され、その後は霊帝の生母・董太后によって引き取られます。 中平5年(189)霊帝が死去すると異母弟・劉弁が即位し、献帝は勃海王に封じられ、同年秋には陳留王に移封されました。 董卓により皇帝に擁立される この当時の朝廷は、外戚にあたる何進の派閥と十常侍ら宦官の勢力が対立していました。そのような中、何進が十常侍に暗殺されると、袁紹らが挙兵して押し寄せ朝廷は混乱に陥ります。しかし宦官勢力は数日ほどで敗れ、献帝は洛陽から連れ去られたものの間もなく帰還。その後の朝廷は、混乱に乗じて都に入った董卓によって実権をにぎられました。そして献帝は、この董卓によって皇帝に擁立されたのです。 王朝の混乱と皇帝の傀儡化 不遇な幼少期を経た献帝は、董卓によって皇帝の地位につきました。しかし、その後の彼の人生にはさらなる困難が待ち受けていたのです。 董卓の暗殺と政治実権の遷移 初平元年(190)袁紹ら各地の刺史や太守は、董卓の横暴なふるまいに反発して挙兵しました。これにより朝廷は遷都を決め、献帝は長安へと移動します。その後、董卓が腹心の呂布に暗殺されたため王允が政治を仕切るようになりますが、董卓の残党による攻撃で長安は約1ヶ月で陥落。さらには政治の実権を李傕や郭汜に奪われてしまいます。また各地では反董卓の兵を挙げた諸侯らが割拠したため、王朝は内乱状態に陥りました。 洛陽に帰還し曹操の庇護下に 建安元年(196)7月、献帝は洛陽に帰還し、翌月には曹操の庇護のもと許に遷都しました。これを発端に、曹操は漢室の庇護者として諸侯に号令をかける立場になります。 表向きは庇護者としてふるまう曹操でしたが、裏では献帝の周囲から馴染みの者を排除し、自分の息のかかった人間を送り込んでいました。その状況を憂いた献帝は「自分を大事に思うなら補佐し、そうでないなら退位させよ」と、忠誠か譲位の二者択一を迫ったといいます。これに冷や汗をかいた曹操は、宮中への参内を控えるようになりました。 王権が安定するも曹操に実権を握られる それまで混乱が続いていた朝廷ですが、曹操の庇護を受けてからはようやく献帝の王権が安定しました。しかし実権は曹操に掌握され、曹操の身分も丞相・魏公・魏王と徐々に上がったため、漢王朝はすでに曹操王朝ともいうべき状況になっていたのです。さらに建安19年(214)には皇后伏氏が殺され、献帝は曹操の娘・曹節を皇后に迎えざるを得なくなりました。
漢という国の最後の皇帝となる人物は、誰の娘・曹節を皇后に迎えざるを得なくなったか。
漢という国の最後の皇帝となる人物は、曹操の娘・曹節を皇后に迎えざるを得なくなった。
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歴史
午後四時であるから丁度十二時間の戦闘である。抜刀隊が十二時間の戦闘で発生した死傷者のうち、死する者十二人、傷者三十六人というから、ほとんど全滅したわけである。 三月二十日、官軍いよいよ最後の総攻撃を決したが、連日の激戦にも拘らず、おしまいは案外容易に占領する事が出来た。天険田原坂もこの日をもって完全に陥ったのである。 この日、昨夜からの豪雨が、暁になっても止まない。朝の五時に食事を終わった官軍は、二俣口から渓谷を渉り、田原坂の横に潜行して、各自部署に就いた。待つ事少時、三発の号砲を聞くや、躍進して迫り、右翼第一線の塁を抜いた。二俣口から放つ砲弾も、盛んに後塁に落下している。 夜は既に明け放れて山霧は全くはれ、雨足もまばらになった。官軍は死屍を踏んで田原坂に進み、更に一隊は、敵塁の背後に出ようとした。薩の哨兵が、本塁にこれを報ずると、防守の望み、既になしと覚ったか、塁を棄てて退却した。 始め、官軍は、一部隊を編成して、田原坂正面に駐屯して正攻に出るように見せて、薩軍を欺いたのが成功したのである。既に本塁を手に入れたのだが、田原口の部隊は、まだこれを知らずに、盛んに坂上を射撃する。ラッパで報じてもわからない。一少尉が塁上に上り、旗を振って叫んだので、ようやく知ったという。 丁度十時頃になっていたが、全軍直ちに追撃して、植木の営を衝いた。 薩軍は、田原の険をたのんで、植木の営の警備を怠って居たので、輜重を収める暇もない。町に入り込んだ官軍は、民家に放火した。 薩軍は総退却して向坂に入って、尾撃して来た官軍と対峙した。 山鹿方面の薩軍は、田原敗ると聞いて、即日、鳥栖地方に退き、官軍の本営は、七本に移り進んだ。 向坂対陣中、薩将、貴島清、中島健彦等が熊本隊を率いて官軍を急襲した事もあるが、大勢は既に決したのである。 百戦無レ効半歳間 首邱幸得レ返二家山一 笑儂向レ死如二仙客一 尽日洞中棋響閑 岩崎谷の洞壁に書き終わって、筆を投じた隆盛が腹を切るまで、人吉、豊後口、宮崎、延岡、可愛嶽と激烈な転戦はあったが、田原坂の激戦は、西南戦争の最初にして、しかも最後の勝敗を決したものといってよいのである。 この戦においていわゆる百姓兵の為すある事があり、徴兵制度の根本が確立したのである。 自分は、昭和五年に鹿児島へ行ったが、西郷隆盛以下薩軍の諸将の墓地が、壮大であるのに引きかえ、西南戦争当時の官軍の戦死者を埋葬した官軍墓地というのが、荒寥としていたのは、西南戦争当時の薩摩の人心の情勢が今もなおほのかに残っている気がして、興味を感じた。
抜刀隊が十二時間の戦闘で発生した死傷者のうち、数が少ないほうを教えてください。
抜刀隊が十二時間の戦闘で発生した死傷者のうち、数が少ないほうは死者で十二人です。
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漢という国の最後の皇帝となる人物は、献帝である。 後漢の滅亡と献帝の最期 曹操に実権を握られた献帝は、やがて漢王朝の歴史に幕をおろします。その後の献帝はどうなったのでしょうか。 魏王・曹丕に皇帝を禅譲する 建安25年(220)曹操が死去し、子の曹丕が魏王を継承します。すると、曹丕とその一派による圧力で、献帝は皇帝の座を譲ることを余儀なくされました。献帝は禅譲(位を世襲せず、有徳者に譲ること)の形式で地位を譲り、ついに漢王朝が滅亡。皇后の曹節は夫である献帝を想い、玉璽(ぎょくじ/代々受け継がれる皇帝用の印章)を手放しませんでしたが、拒み続ければ兄は容赦しないだろうと言い、嘆き悲しみながら玉璽を投げつけたといいます。 山陽公として最期を迎える 皇帝の身分を失った献帝は、曹丕から山陽公に封じられました。彼はさまざまな面で厚遇されましたが、劉氏の皇子らは王から列侯に降格されるなどの処分をうけています。その後、献帝は曹節とともに暮らし、青龍2年(234)3月に、54歳で亡くなりました。 献帝の残した2つの影響 献帝の肖像です。 長い傀儡人生を歩んだ献帝ですが、彼が残した影響が2つあります。それは、その後の歴史に大きく関わるものでした。 劉備に大義を与えた 献帝が皇帝の座から降りたあと、益州にいた劉備のもとに一つの知らせが届きました。それは「献帝が曹丕に殺された」という誤報で、これを信じた劉備は「自分が漢王朝の命脈を継ぎ、魏を倒して皇帝の仇を討つ」と決意します。そして自ら皇帝を名乗り、蜀漢を建国したのです。献帝は劉備に大きな意義を与えたといえるでしょう。 禅譲はその後も繰り返されるように 献帝が行った禅譲は、それ以降、王朝が入れ替わるたびに繰り返されました。曹丕は献帝に禅譲を迫りましたが、二度辞退したあとに受け入れたといわれています。これは帝位を奪ったと思われないようにするための戦略で、最終的には献帝が重ねて禅譲を申し入れる事態になったのです。献帝の禅譲は、のちの中国史に多大な影響を与えました。 漢王朝が終焉し、三国時代へ 朝廷の混乱の中で擁立された献帝は、さまざまな武将に実権を握られ、お飾りの存在にされてしまいました。不遇な青年期を過ごした彼にとって、晩年の静かな暮らしこそ最も幸せな時間だったかもしれません。日本史にも傀儡化された人物がたくさんいますが、献帝ほど大きなドラマをもった人は少ないでしょう。 献帝の禅譲により後漢は滅亡し、その後は正式に魏が成立します。そして、やがて大陸は魏・呉・蜀に三分され、三国時代へと突入していくのです。
漢という国の最後の皇帝となる人物は、誰に皇位を譲ったか。
漢という国の最後の皇帝となる人物は、曹丕に皇位を譲った。
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歴史
日の本という語 「日出処」はすなわち「日の本」である。日の本は東方を意味する語で、本来はそれよりも以西にある地方の住民が、東方日出処を指して呼んだ語でなければならぬ。何となれば、自身がその地に住するものにとっては、それが世界の最東にあり、他から見ていわゆる日の本に相当するものであるとしても、その地に在ってはさらにその東方に日出処の存在を認めるべきで、したがって自分の住処をもって、自ら日の本なりと称したとは思えない。だから中世の語では、当時の地理上の知識において、我が国の最東に在りと認めた奥州をもって、日の本と呼ぶ例であった。あの最明寺時頼の著作と俗称する人国記に、「陸奥は日の本故に、色白うして眼め青みあり」とあるのはこれである。古く既に平安朝初期の新撰姓氏録上表の文にも、奥州のことを「日出之崖」とある。鎌倉時代から室町時代にかけて、奥州津軽地方を占領し、北方を雄視した安東氏が日の本将軍と呼ばれたのも、また奥州すなわち日の本の義から取った名称であるに他ならない。また豊臣秀吉が小田原城攻囲の際、天正十八年五月一日付けで、その妻、すなわち大政所へ遣わした消息には、「小たはらの事はくわんとう(関東)ひのもと(日の本)までのおきめにて候まゝ、ほしころしに申付くべく候」 (小田原のことは、関東や日本全体の決定によるので、殺すことを命じるべきだと思います。) とある。これは徹底的に小田原北条氏を討滅することが、直ちに関東奥羽全体の処分を定めた所以であることを述べたのである。我が古いことわざに、「ミイラ採りがミイラになる」という言葉がある。奥州日の本は日出処であるが故に、非常に暑く、その海岸にはこれがために黒焦げになったミイラが累々と横たわっている。それは高価なる薬材であるが故に、冒険者がしばしばこれを取らんとして、自身がまたミイラとなるという説話なのである。だから地理上の知識が進んで、奥州の東にさらに蝦夷が千島の存在が知られることになって、所謂日本の名がそこに移り、ミイラ採りの話もこれに伴って東に移った。蝦夷一揆興廃記という書に、「日の出島は方角蝦夷より東北に当たり、道のりはおよそ三百余里という。山谷、海上、共に難所があって、言葉に尽くし難い。さて日の出島に行くものは、十人や二十人が申し合わて、ミイラを探しに行く事なり」と書かれているくらいである。 あるいは「日の出浜」「日の本」などの名も、これらの地方について呼ばれた。寛文頃に出来た一種の蝦夷地図(函館図書館)には、今の北海道胆振地方と見らるべき地域に、「これより東方日の本という」と記入してある。万治三年の松坂七兵衛北蝦夷漂流記にも、風が西に変りて日下に流されたとある。「日下」はすなわち日の本である。 南北朝頃の諏訪大明の神絵詞に、当時の北海道における蝦夷に三種あることを記していて、その一種に「日の本」というのがあるとある。彼らは「形体は夜叉のように無限に変化する。人間、鳥獣、魚肉を食べていて、五穀の農耕を知らない、そこまで遠い国じゃないのに言語や話が通じにくい」とあって、全く未開の地にいたアイヌを呼んだ名であった。北海道は西より開けて、前記地図に見える東方の日の本の地方には、少しも和風に染まらないアイヌが住んでいて、それを直ちに「日の本」と呼んだのであった。しかしそのいわゆる日の本の地も、内地文化の進展とともに、次第に東方に退却して、近世では北海道アイヌは得撫以往の北千島をチュプカと呼び、その住民なる千島アイヌをチュプカグルという。チュプカは太陽の義で、すなわち日出処を意味し、チュプカグルはその日出処の人、すなわち日の本蝦夷の意味している。南北朝頃には北海道の東部地方に確認されていたところのものが、後には北千島においてのみ確認されることになったのである。
日の出島にミイラを探しに行く者のうち、少ない人数を教えてください。
日の出島にミイラを探しに行く者のうち、少ない人数は十人です。
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歴史
漢という国の最後の皇帝となる人物は、献帝である。 後漢の滅亡と献帝の最期 曹操に実権を握られた献帝は、やがて漢王朝の歴史に幕をおろします。その後の献帝はどうなったのでしょうか。 魏王・曹丕に皇帝を禅譲する 建安25年(220)曹操が死去し、子の曹丕が魏王を継承します。すると、曹丕とその一派による圧力で、献帝は皇帝の座を譲ることを余儀なくされました。献帝は禅譲(位を世襲せず、有徳者に譲ること)の形式で地位を譲り、ついに漢王朝が滅亡。皇后の曹節は夫である献帝を想い、玉璽(ぎょくじ/代々受け継がれる皇帝用の印章)を手放しませんでしたが、拒み続ければ兄は容赦しないだろうと言い、嘆き悲しみながら玉璽を投げつけたといいます。 山陽公として最期を迎える 皇帝の身分を失った献帝は、曹丕から山陽公に封じられました。彼はさまざまな面で厚遇されましたが、劉氏の皇子らは王から列侯に降格されるなどの処分をうけています。その後、献帝は曹節とともに暮らし、青龍2年(234)3月に、54歳で亡くなりました。 献帝の残した2つの影響 献帝の肖像です。 長い傀儡人生を歩んだ献帝ですが、彼が残した影響が2つあります。それは、その後の歴史に大きく関わるものでした。 劉備に大義を与えた 献帝が皇帝の座から降りたあと、益州にいた劉備のもとに一つの知らせが届きました。それは「献帝が曹丕に殺された」という誤報で、これを信じた劉備は「自分が漢王朝の命脈を継ぎ、魏を倒して皇帝の仇を討つ」と決意します。そして自ら皇帝を名乗り、蜀漢を建国したのです。献帝は劉備に大きな意義を与えたといえるでしょう。 禅譲はその後も繰り返されるように 献帝が行った禅譲は、それ以降、王朝が入れ替わるたびに繰り返されました。曹丕は献帝に禅譲を迫りましたが、二度辞退したあとに受け入れたといわれています。これは帝位を奪ったと思われないようにするための戦略で、最終的には献帝が重ねて禅譲を申し入れる事態になったのです。献帝の禅譲は、のちの中国史に多大な影響を与えました。 漢王朝が終焉し、三国時代へ 朝廷の混乱の中で擁立された献帝は、さまざまな武将に実権を握られ、お飾りの存在にされてしまいました。不遇な青年期を過ごした彼にとって、晩年の静かな暮らしこそ最も幸せな時間だったかもしれません。日本史にも傀儡化された人物がたくさんいますが、献帝ほど大きなドラマをもった人は少ないでしょう。 献帝の禅譲により後漢は滅亡し、その後は正式に魏が成立します。そして、やがて大陸は魏・呉・蜀に三分され、三国時代へと突入していくのです。
漢という国の最後の皇帝となる人物は、退位後に何という称号で余生を送ったか。
漢という国の最後の皇帝となる人物は、山陽公として最期を迎えた。
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歴史
日の本という語 「日出処」はすなわち「日の本」である。日の本は東方を意味する語で、本来はそれよりも以西にある地方の住民が、東方日出処を指して呼んだ語でなければならぬ。何となれば、自身がその地に住するものにとっては、それが世界の最東にあり、他から見ていわゆる日の本に相当するものであるとしても、その地に在ってはさらにその東方に日出処の存在を認めるべきで、したがって自分の住処をもって、自ら日の本なりと称したとは思えない。だから中世の語では、当時の地理上の知識において、我が国の最東に在りと認めた奥州をもって、日の本と呼ぶ例であった。あの最明寺時頼の著作と俗称する人国記に、「陸奥は日の本故に、色白うして眼め青みあり」とあるのはこれである。古く既に平安朝初期の新撰姓氏録上表の文にも、奥州のことを「日出之崖」とある。鎌倉時代から室町時代にかけて、奥州津軽地方を占領し、北方を雄視した安東氏が日の本将軍と呼ばれたのも、また奥州すなわち日の本の義から取った名称であるに他ならない。また豊臣秀吉が小田原城攻囲の際、天正十八年五月一日付けで、その妻、すなわち大政所へ遣わした消息には、「小たはらの事はくわんとう(関東)ひのもと(日の本)までのおきめにて候まゝ、ほしころしに申付くべく候」 (小田原のことは、関東や日本全体の決定によるので、殺すことを命じるべきだと思います。) とある。これは徹底的に小田原北条氏を討滅することが、直ちに関東奥羽全体の処分を定めた所以であることを述べたのである。我が古いことわざに、「ミイラ採りがミイラになる」という言葉がある。奥州日の本は日出処であるが故に、非常に暑く、その海岸にはこれがために黒焦げになったミイラが累々と横たわっている。それは高価なる薬材であるが故に、冒険者がしばしばこれを取らんとして、自身がまたミイラとなるという説話なのである。だから地理上の知識が進んで、奥州の東にさらに蝦夷が千島の存在が知られることになって、所謂日本の名がそこに移り、ミイラ採りの話もこれに伴って東に移った。蝦夷一揆興廃記という書に、「日の出島は方角蝦夷より東北に当たり、道のりはおよそ三百余里という。山谷、海上、共に難所があって、言葉に尽くし難い。さて日の出島に行くものは、十人や二十人が申し合わて、ミイラを探しに行く事なり」と書かれているくらいである。 あるいは「日の出浜」「日の本」などの名も、これらの地方について呼ばれた。寛文頃に出来た一種の蝦夷地図(函館図書館)には、今の北海道胆振地方と見らるべき地域に、「これより東方日の本という」と記入してある。万治三年の松坂七兵衛北蝦夷漂流記にも、風が西に変りて日下に流されたとある。「日下」はすなわち日の本である。 南北朝頃の諏訪大明の神絵詞に、当時の北海道における蝦夷に三種あることを記していて、その一種に「日の本」というのがあるとある。彼らは「形体は夜叉のように無限に変化する。人間、鳥獣、魚肉を食べていて、五穀の農耕を知らない、そこまで遠い国じゃないのに言語や話が通じにくい」とあって、全く未開の地にいたアイヌを呼んだ名であった。北海道は西より開けて、前記地図に見える東方の日の本の地方には、少しも和風に染まらないアイヌが住んでいて、それを直ちに「日の本」と呼んだのであった。しかしそのいわゆる日の本の地も、内地文化の進展とともに、次第に東方に退却して、近世では北海道アイヌは得撫以往の北千島をチュプカと呼び、その住民なる千島アイヌをチュプカグルという。チュプカは太陽の義で、すなわち日出処を意味し、チュプカグルはその日出処の人、すなわち日の本蝦夷の意味している。南北朝頃には北海道の東部地方に確認されていたところのものが、後には北千島においてのみ確認されることになったのである。
日の出島にミイラを探しに行く者のうち、多い人数を教えてください。
日の出島にミイラを探しに行く者のうち、多い人数は二十人です。
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歴史
漢という国の最後の皇帝となる人物は、献帝である。 後漢の滅亡と献帝の最期 曹操に実権を握られた献帝は、やがて漢王朝の歴史に幕をおろします。その後の献帝はどうなったのでしょうか。 魏王・曹丕に皇帝を禅譲する 建安25年(220)曹操が死去し、子の曹丕が魏王を継承します。すると、曹丕とその一派による圧力で、献帝は皇帝の座を譲ることを余儀なくされました。献帝は禅譲(位を世襲せず、有徳者に譲ること)の形式で地位を譲り、ついに漢王朝が滅亡。皇后の曹節は夫である献帝を想い、玉璽(ぎょくじ/代々受け継がれる皇帝用の印章)を手放しませんでしたが、拒み続ければ兄は容赦しないだろうと言い、嘆き悲しみながら玉璽を投げつけたといいます。 山陽公として最期を迎える 皇帝の身分を失った献帝は、曹丕から山陽公に封じられました。彼はさまざまな面で厚遇されましたが、劉氏の皇子らは王から列侯に降格されるなどの処分をうけています。その後、献帝は曹節とともに暮らし、青龍2年(234)3月に、54歳で亡くなりました。 献帝の残した2つの影響 献帝の肖像です。 長い傀儡人生を歩んだ献帝ですが、彼が残した影響が2つあります。それは、その後の歴史に大きく関わるものでした。 劉備に大義を与えた 献帝が皇帝の座から降りたあと、益州にいた劉備のもとに一つの知らせが届きました。それは「献帝が曹丕に殺された」という誤報で、これを信じた劉備は「自分が漢王朝の命脈を継ぎ、魏を倒して皇帝の仇を討つ」と決意します。そして自ら皇帝を名乗り、蜀漢を建国したのです。献帝は劉備に大きな意義を与えたといえるでしょう。 禅譲はその後も繰り返されるように 献帝が行った禅譲は、それ以降、王朝が入れ替わるたびに繰り返されました。曹丕は献帝に禅譲を迫りましたが、二度辞退したあとに受け入れたといわれています。これは帝位を奪ったと思われないようにするための戦略で、最終的には献帝が重ねて禅譲を申し入れる事態になったのです。献帝の禅譲は、のちの中国史に多大な影響を与えました。 漢王朝が終焉し、三国時代へ 朝廷の混乱の中で擁立された献帝は、さまざまな武将に実権を握られ、お飾りの存在にされてしまいました。不遇な青年期を過ごした彼にとって、晩年の静かな暮らしこそ最も幸せな時間だったかもしれません。日本史にも傀儡化された人物がたくさんいますが、献帝ほど大きなドラマをもった人は少ないでしょう。 献帝の禅譲により後漢は滅亡し、その後は正式に魏が成立します。そして、やがて大陸は魏・呉・蜀に三分され、三国時代へと突入していくのです。
漢という国の最後の皇帝となる人物は、どのような形式で皇位を譲ったか。
漢という国の最後の皇帝となる人物は、禅譲という形式で皇位を譲った。
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歴史
大正十二年に発生したかくもおそろしい関東大地震の震源地は、相模の大島の北上の海底で、そこのところが横幅が最長5556メートル、縦幅2万7780メートルの間、深さ36メートルから1.8キロメートルまで、どかりと落ちこんだのがもとでした。 そのために東京、横浜、横須賀以下、東京湾の入口に近い千葉県の海岸、京浜間、相模の海岸、それから、伊豆の相模に対面した海岸全たいから箱根地方へかけて、少なくて12センチ以上のゆれはば、大きくては18センチの波動の大震動が来たのです。それが手引きとなって、東京、横浜、横須賀なぞでは、たちまち一面に火災がおこり、相模、伊豆の海岸が地震とともにつなみをかぶりなぞして、全部で、くずれたおれた家が5万6000件、焼けたり流れたりしたのが37万8000件。 死者11万4000人、内訳は男が6万4000人、女が5万人。 負傷者11万5000人、内訳は男が5万5000人、女が6万人。 損害総額101億円と計上されています。 東京の市街だけでも、8キロメートル四方の面積にわたって41万の家々が灰になり、 死者7万4000、内訳は男が3万2000人、女が4万2000人。 行方不明21万、 焼け出された人口が140万、損害8億1500万円に上っています。横浜、小田原なぞはほとんど全部があとかたもなく焼けほろびてしまいました。
関東大地震の死者のうち、人数が多いほうの性別を教えてください。
関東大地震の死者のうち、人数が多いほうの性別は男で6万4000人です。
JCRRAG_018425
歴史
漢という国の最後の皇帝となる人物は、献帝である。 後漢の滅亡と献帝の最期 曹操に実権を握られた献帝は、やがて漢王朝の歴史に幕をおろします。その後の献帝はどうなったのでしょうか。 魏王・曹丕に皇帝を禅譲する 建安25年(220)曹操が死去し、子の曹丕が魏王を継承します。すると、曹丕とその一派による圧力で、献帝は皇帝の座を譲ることを余儀なくされました。献帝は禅譲(位を世襲せず、有徳者に譲ること)の形式で地位を譲り、ついに漢王朝が滅亡。皇后の曹節は夫である献帝を想い、玉璽(ぎょくじ/代々受け継がれる皇帝用の印章)を手放しませんでしたが、拒み続ければ兄は容赦しないだろうと言い、嘆き悲しみながら玉璽を投げつけたといいます。 山陽公として最期を迎える 皇帝の身分を失った献帝は、曹丕から山陽公に封じられました。彼はさまざまな面で厚遇されましたが、劉氏の皇子らは王から列侯に降格されるなどの処分をうけています。その後、献帝は曹節とともに暮らし、青龍2年(234)3月に、54歳で亡くなりました。 献帝の残した2つの影響 献帝の肖像です。 長い傀儡人生を歩んだ献帝ですが、彼が残した影響が2つあります。それは、その後の歴史に大きく関わるものでした。 劉備に大義を与えた 献帝が皇帝の座から降りたあと、益州にいた劉備のもとに一つの知らせが届きました。それは「献帝が曹丕に殺された」という誤報で、これを信じた劉備は「自分が漢王朝の命脈を継ぎ、魏を倒して皇帝の仇を討つ」と決意します。そして自ら皇帝を名乗り、蜀漢を建国したのです。献帝は劉備に大きな意義を与えたといえるでしょう。 禅譲はその後も繰り返されるように 献帝が行った禅譲は、それ以降、王朝が入れ替わるたびに繰り返されました。曹丕は献帝に禅譲を迫りましたが、二度辞退したあとに受け入れたといわれています。これは帝位を奪ったと思われないようにするための戦略で、最終的には献帝が重ねて禅譲を申し入れる事態になったのです。献帝の禅譲は、のちの中国史に多大な影響を与えました。 漢王朝が終焉し、三国時代へ 朝廷の混乱の中で擁立された献帝は、さまざまな武将に実権を握られ、お飾りの存在にされてしまいました。不遇な青年期を過ごした彼にとって、晩年の静かな暮らしこそ最も幸せな時間だったかもしれません。日本史にも傀儡化された人物がたくさんいますが、献帝ほど大きなドラマをもった人は少ないでしょう。 献帝の禅譲により後漢は滅亡し、その後は正式に魏が成立します。そして、やがて大陸は魏・呉・蜀に三分され、三国時代へと突入していくのです。
漢という国の最後の皇帝となる人物は、劉備に何を与えたか。
漢という国の最後の皇帝となる人物は、劉備に大義を与えた。
JCRRAG_018426
歴史
大正十二年に発生したかくもおそろしい関東大地震の震源地は、相模の大島の北上の海底で、そこのところが横幅が最長5556メートル、縦幅2万7780メートルの間、深さ36メートルから1.8キロメートルまで、どかりと落ちこんだのがもとでした。 そのために東京、横浜、横須賀以下、東京湾の入口に近い千葉県の海岸、京浜間、相模の海岸、それから、伊豆の相模に対面した海岸全たいから箱根地方へかけて、少なくて12センチ以上のゆれはば、大きくては18センチの波動の大震動が来たのです。それが手引きとなって、東京、横浜、横須賀なぞでは、たちまち一面に火災がおこり、相模、伊豆の海岸が地震とともにつなみをかぶりなぞして、全部で、くずれたおれた家が5万6000件、焼けたり流れたりしたのが37万8000件。 死者11万4000人、内訳は男が6万4000人、女が5万人。 負傷者11万5000人、内訳は男が5万5000人、女が6万人。 損害総額101億円と計上されています。 東京の市街だけでも、8キロメートル四方の面積にわたって41万の家々が灰になり、 死者7万4000、内訳は男が3万2000人、女が4万2000人。 行方不明21万、 焼け出された人口が140万、損害8億1500万円に上っています。横浜、小田原なぞはほとんど全部があとかたもなく焼けほろびてしまいました。
関東大地震の死者のうち、人数が少ないほうの性別を教えてください。
関東大地震の死者のうち、人数が少ないほうの性別は女で5万人です。
JCRRAG_018427
歴史
漢という国の最後の皇帝となる人物は、献帝である。 後漢の滅亡と献帝の最期 曹操に実権を握られた献帝は、やがて漢王朝の歴史に幕をおろします。その後の献帝はどうなったのでしょうか。 魏王・曹丕に皇帝を禅譲する 建安25年(220)曹操が死去し、子の曹丕が魏王を継承します。すると、曹丕とその一派による圧力で、献帝は皇帝の座を譲ることを余儀なくされました。献帝は禅譲(位を世襲せず、有徳者に譲ること)の形式で地位を譲り、ついに漢王朝が滅亡。皇后の曹節は夫である献帝を想い、玉璽(ぎょくじ/代々受け継がれる皇帝用の印章)を手放しませんでしたが、拒み続ければ兄は容赦しないだろうと言い、嘆き悲しみながら玉璽を投げつけたといいます。 山陽公として最期を迎える 皇帝の身分を失った献帝は、曹丕から山陽公に封じられました。彼はさまざまな面で厚遇されましたが、劉氏の皇子らは王から列侯に降格されるなどの処分をうけています。その後、献帝は曹節とともに暮らし、青龍2年(234)3月に、54歳で亡くなりました。 献帝の残した2つの影響 献帝の肖像です。 長い傀儡人生を歩んだ献帝ですが、彼が残した影響が2つあります。それは、その後の歴史に大きく関わるものでした。 劉備に大義を与えた 献帝が皇帝の座から降りたあと、益州にいた劉備のもとに一つの知らせが届きました。それは「献帝が曹丕に殺された」という誤報で、これを信じた劉備は「自分が漢王朝の命脈を継ぎ、魏を倒して皇帝の仇を討つ」と決意します。そして自ら皇帝を名乗り、蜀漢を建国したのです。献帝は劉備に大きな意義を与えたといえるでしょう。 禅譲はその後も繰り返されるように 献帝が行った禅譲は、それ以降、王朝が入れ替わるたびに繰り返されました。曹丕は献帝に禅譲を迫りましたが、二度辞退したあとに受け入れたといわれています。これは帝位を奪ったと思われないようにするための戦略で、最終的には献帝が重ねて禅譲を申し入れる事態になったのです。献帝の禅譲は、のちの中国史に多大な影響を与えました。 漢王朝が終焉し、三国時代へ 朝廷の混乱の中で擁立された献帝は、さまざまな武将に実権を握られ、お飾りの存在にされてしまいました。不遇な青年期を過ごした彼にとって、晩年の静かな暮らしこそ最も幸せな時間だったかもしれません。日本史にも傀儡化された人物がたくさんいますが、献帝ほど大きなドラマをもった人は少ないでしょう。 献帝の禅譲により後漢は滅亡し、その後は正式に魏が成立します。そして、やがて大陸は魏・呉・蜀に三分され、三国時代へと突入していくのです。
漢という国の最後の皇帝となる人物は、どのような時代をもたらしたか。
漢という国の最後の皇帝となる人物は、三国時代の到来をもたらした。
JCRRAG_018428
歴史
大正十二年に発生したかくもおそろしい関東大地震の震源地は、相模の大島の北上の海底で、そこのところが横幅が最長5556メートル、縦幅2万7780メートルの間、深さ36メートルから1.8キロメートルまで、どかりと落ちこんだのがもとでした。 そのために東京、横浜、横須賀以下、東京湾の入口に近い千葉県の海岸、京浜間、相模の海岸、それから、伊豆の相模に対面した海岸全たいから箱根地方へかけて、少なくて12センチ以上のゆれはば、大きくては18センチの波動の大震動が来たのです。それが手引きとなって、東京、横浜、横須賀なぞでは、たちまち一面に火災がおこり、相模、伊豆の海岸が地震とともにつなみをかぶりなぞして、全部で、くずれたおれた家が5万6000件、焼けたり流れたりしたのが37万8000件。 死者11万4000人、内訳は男が6万4000人、女が5万人。 負傷者11万5000人、内訳は男が5万5000人、女が6万人。 損害総額101億円と計上されています。 東京の市街だけでも、8キロメートル四方の面積にわたって41万の家々が灰になり、 死者7万4000、内訳は男が3万2000人、女が4万2000人。 行方不明21万、 焼け出された人口が140万、損害8億1500万円に上っています。横浜、小田原なぞはほとんど全部があとかたもなく焼けほろびてしまいました。
関東大地震の負傷者のうち、人数が多いほうの性別を教えてください。
関東大地震の負傷者のうち、人数が多いほうの性別は女で6万人です。
JCRRAG_018429
歴史
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、諸葛亮である。 諸葛亮の生まれと結婚まで 劉備のもとで活躍する姿が印象的な諸葛亮ですが、それ以前はどのような生活を送っていたのでしょうか。その生まれや生い立ちを振り返ります。 諸葛亮の生まれは定かではない 諸葛亮の素性ははっきり分かっていません。本籍は徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省)ですが、出生地は不明とされています。 祖先は前漢元帝時代に司隷校尉(しれいこうい)という官位についていた諸葛豊。父親の諸葛珪も泰山郡の副長官でしたが幼いころに死去しています。兄弟には、のちに呉へ仕えるようになる兄・諸葛瑾、ともに蜀漢に仕えた弟・諸葛均がおり、その他にも妹がいたようです。 晴耕雨読の生活をしていた 諸葛亮は幼いころに弟とともに徐州から南方へと移住したのち、荊州で自給自足しながら勉強するという晴耕雨読の生活を始めました。この頃には、自分は斉国の政治家・管仲や燕国の武将・楽毅に匹敵する人間だと豪語していたようです。 また諸葛亮はこの時期に地元の名士・黄承彦の娘と結婚しています。この娘は美人ではなかったため、器量の悪い娘を進んで娶ることを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになりました。しかしこの結婚により、諸葛亮はさまざまな人脈を手に入れたのです。 三顧の礼によって劉備に迎え入れられる 静かな生活を送っていた諸葛亮ですが、あるキッカケにより状況が変わります。諸葛亮の人生を変えた「三顧の礼」とはどのようなものだったのでしょうか。 三顧の礼とは? 諸葛亮が晴耕雨読の日々を送っていたころ、友人・徐庶は劉備玄徳のもとに出入りしていました。この徐庶が諸葛亮のことを話したところ、劉備は興味を示し「諸葛亮を連れてきてほしい」と頼みます。しかし徐庶が「自分が呼んだ程度では来てくれない」と答えたため、劉備は諸葛亮の元に直接足を運びました。1度目も2度目も留守で会えず、3度目でようやく会うことができた劉備は、漢王朝復興のために力を貸してほしいと伝えます。こうして劉備の熱意にうたれた諸葛亮は、臣下になることを決めたのでした。 この頃の劉備は40代で、既に天下に名を挙げていました。一方の諸葛亮は一部の人間にしか知られていない20代の若者。目上の者が格下の者のもとへ3度出向いてお願いしたことから、この出来事は「三顧の礼」と呼ばれるようになりました。 「天下三分の計」を披露した 劉備に仕えることとなった諸葛亮は、中国全土の統一を目指していた劉備に漢王朝再興の方策を訪ねられ「天下三分の計」を披露します。 この当時もっとも勢いを持っていた曹操は、あと少しで中国統一を果たせる状態でした。そこで諸葛亮は、まず劉備が身を置いている荊州を足掛かりに隣の益州の覇権を奪い、劉備・曹操・孫権の3名で天下を分けることを提案します。その後、孫権と組んで曹操を倒し、機会を狙って孫権も滅ぼせば、漢王朝を復興できるというのが諸葛亮の考えでした。これを聞いた劉備はその知見の深さに驚き、諸葛亮に惚れ込んだのです。 劉備のもとでの諸葛亮の功績 鋭い戦略を披露した諸葛亮は、その後も劉備のもとでさまざまな功績を残していきます。彼を取り巻く戦いにはどのようなものがあったのでしょうか。
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、まず荊州を足掛かりに益州の覇権を奪い、誰と天下三分を提案したか。
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、まず荊州を足掛かりに益州の覇権を奪い、劉備・曹操・孫権の3名で天下を分けることを提案した。
JCRRAG_018430
歴史
大正十二年に発生したかくもおそろしい関東大地震の震源地は、相模の大島の北上の海底で、そこのところが横幅が最長5556メートル、縦幅2万7780メートルの間、深さ36メートルから1.8キロメートルまで、どかりと落ちこんだのがもとでした。 そのために東京、横浜、横須賀以下、東京湾の入口に近い千葉県の海岸、京浜間、相模の海岸、それから、伊豆の相模に対面した海岸全たいから箱根地方へかけて、少なくて12センチ以上のゆれはば、大きくては18センチの波動の大震動が来たのです。それが手引きとなって、東京、横浜、横須賀なぞでは、たちまち一面に火災がおこり、相模、伊豆の海岸が地震とともにつなみをかぶりなぞして、全部で、くずれたおれた家が5万6000件、焼けたり流れたりしたのが37万8000件。 死者11万4000人、内訳は男が6万4000人、女が5万人。 負傷者11万5000人、内訳は男が5万5000人、女が6万人。 損害総額101億円と計上されています。 東京の市街だけでも、8キロメートル四方の面積にわたって41万の家々が灰になり、 死者7万4000、内訳は男が3万2000人、女が4万2000人。 行方不明21万、 焼け出された人口が140万、損害8億1500万円に上っています。横浜、小田原なぞはほとんど全部があとかたもなく焼けほろびてしまいました。
関東大地震の負傷者のうち、人数が少ないほうの性別を教えてください。
関東大地震の負傷者のうち、人数が少ないほうの性別は男で5万5000人です。
JCRRAG_018431
歴史
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、諸葛亮である。 諸葛亮の生まれと結婚まで 劉備のもとで活躍する姿が印象的な諸葛亮ですが、それ以前はどのような生活を送っていたのでしょうか。その生まれや生い立ちを振り返ります。 諸葛亮の生まれは定かではない 諸葛亮の素性ははっきり分かっていません。本籍は徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省)ですが、出生地は不明とされています。 祖先は前漢元帝時代に司隷校尉(しれいこうい)という官位についていた諸葛豊。父親の諸葛珪も泰山郡の副長官でしたが幼いころに死去しています。兄弟には、のちに呉へ仕えるようになる兄・諸葛瑾、ともに蜀漢に仕えた弟・諸葛均がおり、その他にも妹がいたようです。 晴耕雨読の生活をしていた 諸葛亮は幼いころに弟とともに徐州から南方へと移住したのち、荊州で自給自足しながら勉強するという晴耕雨読の生活を始めました。この頃には、自分は斉国の政治家・管仲や燕国の武将・楽毅に匹敵する人間だと豪語していたようです。 また諸葛亮はこの時期に地元の名士・黄承彦の娘と結婚しています。この娘は美人ではなかったため、器量の悪い娘を進んで娶ることを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになりました。しかしこの結婚により、諸葛亮はさまざまな人脈を手に入れたのです。 三顧の礼によって劉備に迎え入れられる 静かな生活を送っていた諸葛亮ですが、あるキッカケにより状況が変わります。諸葛亮の人生を変えた「三顧の礼」とはどのようなものだったのでしょうか。 三顧の礼とは? 諸葛亮が晴耕雨読の日々を送っていたころ、友人・徐庶は劉備玄徳のもとに出入りしていました。この徐庶が諸葛亮のことを話したところ、劉備は興味を示し「諸葛亮を連れてきてほしい」と頼みます。しかし徐庶が「自分が呼んだ程度では来てくれない」と答えたため、劉備は諸葛亮の元に直接足を運びました。1度目も2度目も留守で会えず、3度目でようやく会うことができた劉備は、漢王朝復興のために力を貸してほしいと伝えます。こうして劉備の熱意にうたれた諸葛亮は、臣下になることを決めたのでした。 この頃の劉備は40代で、既に天下に名を挙げていました。一方の諸葛亮は一部の人間にしか知られていない20代の若者。目上の者が格下の者のもとへ3度出向いてお願いしたことから、この出来事は「三顧の礼」と呼ばれるようになりました。 「天下三分の計」を披露した 劉備に仕えることとなった諸葛亮は、中国全土の統一を目指していた劉備に漢王朝再興の方策を訪ねられ「天下三分の計」を披露します。 この当時もっとも勢いを持っていた曹操は、あと少しで中国統一を果たせる状態でした。そこで諸葛亮は、まず劉備が身を置いている荊州を足掛かりに隣の益州の覇権を奪い、劉備・曹操・孫権の3名で天下を分けることを提案します。その後、孫権と組んで曹操を倒し、機会を狙って孫権も滅ぼせば、漢王朝を復興できるというのが諸葛亮の考えでした。これを聞いた劉備はその知見の深さに驚き、諸葛亮に惚れ込んだのです。 劉備のもとでの諸葛亮の功績 鋭い戦略を披露した諸葛亮は、その後も劉備のもとでさまざまな功績を残していきます。彼を取り巻く戦いにはどのようなものがあったのでしょうか。
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、どのような生活を送っていたか。
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、晴耕雨読の生活を送っていた。
JCRRAG_018432
歴史
大正十二年に発生したかくもおそろしい関東大地震の震源地は、相模の大島の北上の海底で、そこのところが横幅が最長5556メートル、縦幅2万7780メートルの間、深さ36メートルから1.8キロメートルまで、どかりと落ちこんだのがもとでした。 そのために東京、横浜、横須賀以下、東京湾の入口に近い千葉県の海岸、京浜間、相模の海岸、それから、伊豆の相模に対面した海岸全たいから箱根地方へかけて、少なくて12センチ以上のゆれはば、大きくては18センチの波動の大震動が来たのです。それが手引きとなって、東京、横浜、横須賀なぞでは、たちまち一面に火災がおこり、相模、伊豆の海岸が地震とともにつなみをかぶりなぞして、全部で、くずれたおれた家が5万6000件、焼けたり流れたりしたのが37万8000件。 死者11万4000人、内訳は男が6万4000人、女が5万人。 負傷者11万5000人、内訳は男が5万5000人、女が6万人。 損害総額101億円と計上されています。 東京の市街だけでも、8キロメートル四方の面積にわたって41万の家々が灰になり、 死者7万4000、内訳は男が3万2000人、女が4万2000人。 行方不明21万、 焼け出された人口が140万、損害8億1500万円に上っています。横浜、小田原なぞはほとんど全部があとかたもなく焼けほろびてしまいました。
関東大地震において、東京の市街だけで発生した死者のうち、人数が少ないほうの性別を教えてください。
関東大地震において、東京の市街だけで発生した死者のうち、人数が少ないほうの性別は男で5万5000人です。
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歴史
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、諸葛亮である。 諸葛亮の生まれと結婚まで 劉備のもとで活躍する姿が印象的な諸葛亮ですが、それ以前はどのような生活を送っていたのでしょうか。その生まれや生い立ちを振り返ります。 諸葛亮の生まれは定かではない 諸葛亮の素性ははっきり分かっていません。本籍は徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省)ですが、出生地は不明とされています。 祖先は前漢元帝時代に司隷校尉(しれいこうい)という官位についていた諸葛豊。父親の諸葛珪も泰山郡の副長官でしたが幼いころに死去しています。兄弟には、のちに呉へ仕えるようになる兄・諸葛瑾、ともに蜀漢に仕えた弟・諸葛均がおり、その他にも妹がいたようです。 晴耕雨読の生活をしていた 諸葛亮は幼いころに弟とともに徐州から南方へと移住したのち、荊州で自給自足しながら勉強するという晴耕雨読の生活を始めました。この頃には、自分は斉国の政治家・管仲や燕国の武将・楽毅に匹敵する人間だと豪語していたようです。 また諸葛亮はこの時期に地元の名士・黄承彦の娘と結婚しています。この娘は美人ではなかったため、器量の悪い娘を進んで娶ることを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになりました。しかしこの結婚により、諸葛亮はさまざまな人脈を手に入れたのです。 三顧の礼によって劉備に迎え入れられる 静かな生活を送っていた諸葛亮ですが、あるキッカケにより状況が変わります。諸葛亮の人生を変えた「三顧の礼」とはどのようなものだったのでしょうか。 三顧の礼とは? 諸葛亮が晴耕雨読の日々を送っていたころ、友人・徐庶は劉備玄徳のもとに出入りしていました。この徐庶が諸葛亮のことを話したところ、劉備は興味を示し「諸葛亮を連れてきてほしい」と頼みます。しかし徐庶が「自分が呼んだ程度では来てくれない」と答えたため、劉備は諸葛亮の元に直接足を運びました。1度目も2度目も留守で会えず、3度目でようやく会うことができた劉備は、漢王朝復興のために力を貸してほしいと伝えます。こうして劉備の熱意にうたれた諸葛亮は、臣下になることを決めたのでした。 この頃の劉備は40代で、既に天下に名を挙げていました。一方の諸葛亮は一部の人間にしか知られていない20代の若者。目上の者が格下の者のもとへ3度出向いてお願いしたことから、この出来事は「三顧の礼」と呼ばれるようになりました。 「天下三分の計」を披露した 劉備に仕えることとなった諸葛亮は、中国全土の統一を目指していた劉備に漢王朝再興の方策を訪ねられ「天下三分の計」を披露します。 この当時もっとも勢いを持っていた曹操は、あと少しで中国統一を果たせる状態でした。そこで諸葛亮は、まず劉備が身を置いている荊州を足掛かりに隣の益州の覇権を奪い、劉備・曹操・孫権の3名で天下を分けることを提案します。その後、孫権と組んで曹操を倒し、機会を狙って孫権も滅ぼせば、漢王朝を復興できるというのが諸葛亮の考えでした。これを聞いた劉備はその知見の深さに驚き、諸葛亮に惚れ込んだのです。 劉備のもとでの諸葛亮の功績 鋭い戦略を披露した諸葛亮は、その後も劉備のもとでさまざまな功績を残していきます。彼を取り巻く戦いにはどのようなものがあったのでしょうか。
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、何をきっかけに劉備と出会ったか。
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、徐庶の紹介をきっかけに劉備と出会った。
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歴史
これまで世界中で一番激しかった地震火災は1908年に、イタリヤのメッシーナという重要な港とその付近とで14万人の死者を出した大地震と、1906年、サンフランシスコの地震で2800メートル四方を焼いて3000人の死者を出したのと、この二つですが、こんどの地震は、ゆれ方だけは以上2つの場合にくらべると、ずっとかるかったのですが、人命以外の損害のひどかった点では、まるでくらべもつかないほどの大災害だったのです。 関東大地震の被害も、つまり大部分が火災から来たわけで、ただ地震だけですんだのならば、東京での死人も少なくて2000人、多くて3000人、家屋その他の損害も8、90分の1ぐらいにとどまったろうということです。 関東大地震の、東京での発震は、9月1日の午前11時58分45秒でした。それから引きつづいて、余震が、火災のはびこる中で、われわれのからだに感じたのが12時間に140回、そのつぎの12時間に88回、そのつぎの12時間が60回、そのつぎの12時間が70回と来ました。どんな小さな地震をも感じる地震計という機械に表われた数は、合計1700回以上にのぼっています。 災害の来た一日はちょうど210日の前日で、東京では早朝からはげしい風雨を見ましたが、十時ごろになると空も青々とはれて、平和な初秋びよりになったとおもうと、ひるどきになって、とつぜんぐらぐらとゆれ出したのです。同じ市内でも地盤のつよいところとよわいところでは震動のはげしさもちがいますが、本所のような一ばんひどかった部分では、あっと言って立ちあがると、ぐらぐらゆれる窓をとおして、目のまえの鉄筋コンクリートだての大工場の屋根瓦がうねうねと大蛇が歩くように波をうつと見るまに、その瓦の大部分が、どしんとずりおちる、あわてて外へとび出すはずみに、今の大工場がどどんとすさまじい音をたてて、まるつぶれにたおれて、ぐるり一ぱいにもうもうとつちけむりが立ち上る、附近の空地へにげようとしてかけ出したものの、地面がぐらぐらうごくので足がはこばれない、そこへ、あたり一面からびゅうびゅう木材や瓦がとびちって来るので、どうすることも出来ずに立ちすくんでいると、れいのたおれた工場からは、もう、えんえんと火が上あがって来たと話した人があります。
関東大地震の被害が地震だけですんだ場合、東京で発生したであろう死人のうち、少ないほうの数を教えてください。
関東大地震の被害が地震だけですんだ場合、東京で発生したであろう死人のうち、少ないほうの数は2000人です。
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歴史
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、諸葛亮である。 諸葛亮の生まれと結婚まで 劉備のもとで活躍する姿が印象的な諸葛亮ですが、それ以前はどのような生活を送っていたのでしょうか。その生まれや生い立ちを振り返ります。 諸葛亮の生まれは定かではない 諸葛亮の素性ははっきり分かっていません。本籍は徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省)ですが、出生地は不明とされています。 祖先は前漢元帝時代に司隷校尉(しれいこうい)という官位についていた諸葛豊。父親の諸葛珪も泰山郡の副長官でしたが幼いころに死去しています。兄弟には、のちに呉へ仕えるようになる兄・諸葛瑾、ともに蜀漢に仕えた弟・諸葛均がおり、その他にも妹がいたようです。 晴耕雨読の生活をしていた 諸葛亮は幼いころに弟とともに徐州から南方へと移住したのち、荊州で自給自足しながら勉強するという晴耕雨読の生活を始めました。この頃には、自分は斉国の政治家・管仲や燕国の武将・楽毅に匹敵する人間だと豪語していたようです。 また諸葛亮はこの時期に地元の名士・黄承彦の娘と結婚しています。この娘は美人ではなかったため、器量の悪い娘を進んで娶ることを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになりました。しかしこの結婚により、諸葛亮はさまざまな人脈を手に入れたのです。 三顧の礼によって劉備に迎え入れられる 静かな生活を送っていた諸葛亮ですが、あるキッカケにより状況が変わります。諸葛亮の人生を変えた「三顧の礼」とはどのようなものだったのでしょうか。 三顧の礼とは? 諸葛亮が晴耕雨読の日々を送っていたころ、友人・徐庶は劉備玄徳のもとに出入りしていました。この徐庶が諸葛亮のことを話したところ、劉備は興味を示し「諸葛亮を連れてきてほしい」と頼みます。しかし徐庶が「自分が呼んだ程度では来てくれない」と答えたため、劉備は諸葛亮の元に直接足を運びました。1度目も2度目も留守で会えず、3度目でようやく会うことができた劉備は、漢王朝復興のために力を貸してほしいと伝えます。こうして劉備の熱意にうたれた諸葛亮は、臣下になることを決めたのでした。 この頃の劉備は40代で、既に天下に名を挙げていました。一方の諸葛亮は一部の人間にしか知られていない20代の若者。目上の者が格下の者のもとへ3度出向いてお願いしたことから、この出来事は「三顧の礼」と呼ばれるようになりました。 「天下三分の計」を披露した 劉備に仕えることとなった諸葛亮は、中国全土の統一を目指していた劉備に漢王朝再興の方策を訪ねられ「天下三分の計」を披露します。 この当時もっとも勢いを持っていた曹操は、あと少しで中国統一を果たせる状態でした。そこで諸葛亮は、まず劉備が身を置いている荊州を足掛かりに隣の益州の覇権を奪い、劉備・曹操・孫権の3名で天下を分けることを提案します。その後、孫権と組んで曹操を倒し、機会を狙って孫権も滅ぼせば、漢王朝を復興できるというのが諸葛亮の考えでした。これを聞いた劉備はその知見の深さに驚き、諸葛亮に惚れ込んだのです。 劉備のもとでの諸葛亮の功績 鋭い戦略を披露した諸葛亮は、その後も劉備のもとでさまざまな功績を残していきます。彼を取り巻く戦いにはどのようなものがあったのでしょうか。
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、自らを何と豪語していたか。
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、自らを管仲や楽毅に匹敵する人物と豪語していた。
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歴史
これまで世界中で一番激しかった地震火災は1908年に、イタリヤのメッシーナという重要な港とその付近とで14万人の死者を出した大地震と、1906年、サンフランシスコの地震で2800メートル四方を焼いて3000人の死者を出したのと、この二つですが、こんどの地震は、ゆれ方だけは以上2つの場合にくらべると、ずっとかるかったのですが、人命以外の損害のひどかった点では、まるでくらべもつかないほどの大災害だったのです。 関東大地震の被害も、つまり大部分が火災から来たわけで、ただ地震だけですんだのならば、東京での死人も少なくて2000人、多くて3000人、家屋その他の損害も8、90分の1ぐらいにとどまったろうということです。 関東大地震の、東京での発震は、9月1日の午前11時58分45秒でした。それから引きつづいて、余震が、火災のはびこる中で、われわれのからだに感じたのが12時間に140回、そのつぎの12時間に88回、そのつぎの12時間が60回、そのつぎの12時間が70回と来ました。どんな小さな地震をも感じる地震計という機械に表われた数は、合計1700回以上にのぼっています。 災害の来た一日はちょうど210日の前日で、東京では早朝からはげしい風雨を見ましたが、十時ごろになると空も青々とはれて、平和な初秋びよりになったとおもうと、ひるどきになって、とつぜんぐらぐらとゆれ出したのです。同じ市内でも地盤のつよいところとよわいところでは震動のはげしさもちがいますが、本所のような一ばんひどかった部分では、あっと言って立ちあがると、ぐらぐらゆれる窓をとおして、目のまえの鉄筋コンクリートだての大工場の屋根瓦がうねうねと大蛇が歩くように波をうつと見るまに、その瓦の大部分が、どしんとずりおちる、あわてて外へとび出すはずみに、今の大工場がどどんとすさまじい音をたてて、まるつぶれにたおれて、ぐるり一ぱいにもうもうとつちけむりが立ち上る、附近の空地へにげようとしてかけ出したものの、地面がぐらぐらうごくので足がはこばれない、そこへ、あたり一面からびゅうびゅう木材や瓦がとびちって来るので、どうすることも出来ずに立ちすくんでいると、れいのたおれた工場からは、もう、えんえんと火が上あがって来たと話した人があります。
関東大地震の被害が地震だけですんだ場合、東京で発生したであろう死人のうち、多いほうの数を教えてください。
関東大地震の被害が地震だけですんだ場合、東京で発生したであろう死人のうち、多いほうの数は3000人です。
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歴史
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、諸葛亮である。 諸葛亮の生まれと結婚まで 劉備のもとで活躍する姿が印象的な諸葛亮ですが、それ以前はどのような生活を送っていたのでしょうか。その生まれや生い立ちを振り返ります。 諸葛亮の生まれは定かではない 諸葛亮の素性ははっきり分かっていません。本籍は徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省)ですが、出生地は不明とされています。 祖先は前漢元帝時代に司隷校尉(しれいこうい)という官位についていた諸葛豊。父親の諸葛珪も泰山郡の副長官でしたが幼いころに死去しています。兄弟には、のちに呉へ仕えるようになる兄・諸葛瑾、ともに蜀漢に仕えた弟・諸葛均がおり、その他にも妹がいたようです。 晴耕雨読の生活をしていた 諸葛亮は幼いころに弟とともに徐州から南方へと移住したのち、荊州で自給自足しながら勉強するという晴耕雨読の生活を始めました。この頃には、自分は斉国の政治家・管仲や燕国の武将・楽毅に匹敵する人間だと豪語していたようです。 また諸葛亮はこの時期に地元の名士・黄承彦の娘と結婚しています。この娘は美人ではなかったため、器量の悪い娘を進んで娶ることを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになりました。しかしこの結婚により、諸葛亮はさまざまな人脈を手に入れたのです。 三顧の礼によって劉備に迎え入れられる 静かな生活を送っていた諸葛亮ですが、あるキッカケにより状況が変わります。諸葛亮の人生を変えた「三顧の礼」とはどのようなものだったのでしょうか。 三顧の礼とは? 諸葛亮が晴耕雨読の日々を送っていたころ、友人・徐庶は劉備玄徳のもとに出入りしていました。この徐庶が諸葛亮のことを話したところ、劉備は興味を示し「諸葛亮を連れてきてほしい」と頼みます。しかし徐庶が「自分が呼んだ程度では来てくれない」と答えたため、劉備は諸葛亮の元に直接足を運びました。1度目も2度目も留守で会えず、3度目でようやく会うことができた劉備は、漢王朝復興のために力を貸してほしいと伝えます。こうして劉備の熱意にうたれた諸葛亮は、臣下になることを決めたのでした。 この頃の劉備は40代で、既に天下に名を挙げていました。一方の諸葛亮は一部の人間にしか知られていない20代の若者。目上の者が格下の者のもとへ3度出向いてお願いしたことから、この出来事は「三顧の礼」と呼ばれるようになりました。 「天下三分の計」を披露した 劉備に仕えることとなった諸葛亮は、中国全土の統一を目指していた劉備に漢王朝再興の方策を訪ねられ「天下三分の計」を披露します。 この当時もっとも勢いを持っていた曹操は、あと少しで中国統一を果たせる状態でした。そこで諸葛亮は、まず劉備が身を置いている荊州を足掛かりに隣の益州の覇権を奪い、劉備・曹操・孫権の3名で天下を分けることを提案します。その後、孫権と組んで曹操を倒し、機会を狙って孫権も滅ぼせば、漢王朝を復興できるというのが諸葛亮の考えでした。これを聞いた劉備はその知見の深さに驚き、諸葛亮に惚れ込んだのです。 劉備のもとでの諸葛亮の功績 鋭い戦略を披露した諸葛亮は、その後も劉備のもとでさまざまな功績を残していきます。彼を取り巻く戦いにはどのようなものがあったのでしょうか。
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、誰と結婚して人脈を広げたか。
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、名士・黄承彦の娘と結婚して人脈を広げた。
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歴史
これまで世界中で一番激しかった地震火災は1908年に、イタリヤのメッシーナという重要な港とその付近とで14万人の死者を出した大地震と、1906年、サンフランシスコの地震で2800メートル四方を焼いて3000人の死者を出したのと、この二つですが、こんどの地震は、ゆれ方だけは以上2つの場合にくらべると、ずっとかるかったのですが、人命以外の損害のひどかった点では、まるでくらべもつかないほどの大災害だったのです。 関東大地震の被害も、つまり大部分が火災から来たわけで、ただ地震だけですんだのならば、東京での死人も少なくて2000人、多くて3000人、家屋その他の損害も8、90分の1ぐらいにとどまったろうということです。 関東大地震の、東京での発震は、9月1日の午前11時58分45秒でした。それから引きつづいて、余震が、火災のはびこる中で、われわれのからだに感じたのが12時間に140回、そのつぎの12時間に88回、そのつぎの12時間が60回、そのつぎの12時間が70回と来ました。どんな小さな地震をも感じる地震計という機械に表われた数は、合計1700回以上にのぼっています。 災害の来た一日はちょうど210日の前日で、東京では早朝からはげしい風雨を見ましたが、十時ごろになると空も青々とはれて、平和な初秋びよりになったとおもうと、ひるどきになって、とつぜんぐらぐらとゆれ出したのです。同じ市内でも地盤のつよいところとよわいところでは震動のはげしさもちがいますが、本所のような一ばんひどかった部分では、あっと言って立ちあがると、ぐらぐらゆれる窓をとおして、目のまえの鉄筋コンクリートだての大工場の屋根瓦がうねうねと大蛇が歩くように波をうつと見るまに、その瓦の大部分が、どしんとずりおちる、あわてて外へとび出すはずみに、今の大工場がどどんとすさまじい音をたてて、まるつぶれにたおれて、ぐるり一ぱいにもうもうとつちけむりが立ち上る、附近の空地へにげようとしてかけ出したものの、地面がぐらぐらうごくので足がはこばれない、そこへ、あたり一面からびゅうびゅう木材や瓦がとびちって来るので、どうすることも出来ずに立ちすくんでいると、れいのたおれた工場からは、もう、えんえんと火が上あがって来たと話した人があります。
関東大地震の12時間ごとに計測した余震の回数のうち、多かった回数を教えてください。
関東大地震の12時間ごとに計測した余震の回数のうち、多かった回数は140回です。
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歴史
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、諸葛亮である。 曹操軍に勝利した赤壁の戦い 建安13年(208)曹操軍と孫権・劉備連合軍による「赤壁の戦い」が起こりました。この戦いは「天下三分の計」の序章だったといえます。 華北平定に成功し丞相となった曹操は、劉表の治めていた荊州を攻め始めました。諸葛亮は孫権のもとへ向かうと、劉備陣営と結託して曹操と戦うよう説得し、見事同盟を成立させます。 曹操軍80万に対し、孫権・劉備連合軍約5万という圧倒的な戦力差がありましたが、孫権陣営の火攻めや疫病の流行などにより、曹操軍は敗走。孫権・劉備連合軍の大勝利に終わりました。 夷陵の戦いとは? その後、劉備は漢中を手に入れますが、留守中に義兄弟の関羽を殺され荊州が奪われてしまいます。そんな中、魏では曹操が死去し、その子・曹丕が魏王朝を建国。劉備はこれに対抗して蜀漢を建国し、諸葛亮は丞相・録尚書事となりました。 2年後、関羽を殺された復讐に燃える劉備は、呉軍に奪われた荊州へと進軍(「夷陵の戦い」)。快進撃を続ける蜀漢軍でしたが、呉の陸遜による作戦で大敗を喫し、白帝城へと敗走します。そして失意のあまり病になった劉備は、白帝城で亡くなってしまいました。 『三国志演義』に描かれる諸葛亮は荊州へ進軍しようとする劉備を止めようとしていますが、史実では諸葛亮はこの戦いを止めなかったのだそうです。義に厚い劉備の性格をよく知っていたからこそ、この戦いを止めることはできないと感じていたのかもしれませんね。 北伐を決行する 劉備は死ぬ間際、諸葛亮の才能を称えるとともに、自分の子・劉禅にその器があれば補佐し、もし才能がなければ諸葛亮が国を治めるよう言い残しました。 これに感涙した諸葛亮は蜀のために働こうと誓い、漢王朝再興という劉備の遺志を継いで北伐を決行します。しかし国力の差は歴然。地形を活かして有利に戦いを進めることもあったものの、食糧不足などに悩まされ目的の長安には辿りつけませんでした。 第五次北伐は持久戦にもつれこみ長期に渡って魏軍の司馬懿と対陣しましたが、諸葛亮はその陣中でついに病死してしまいます。北伐はその後も繰り返されましたが、成功せず蜀の国力は低下していきました。 諸葛亮の人物像について 劉備によって見いだされた諸葛亮は、最期は劉備の悲願達成に人生を捧げることとなりました。そんな諸葛亮の人物像とは、どのようなものだったのでしょうか。 身長がとても高かった さまざまな軍略で活躍した諸葛亮ですが、プライベートの詳しい情報は少なく、不明確な部分も多いようです。ただし、180cm以上の高長身だったことだけはわかっています。 昔の中国の単位はよく変わっていたため、時代によって多少の誤差があります。諸葛亮の身長は8尺とされており、後漢の尺度だと184cm、魏・西晋の尺度だと192.8cmとなっています。 『三国志演義』に描かれる諸葛亮 『三国志演義』は正史をもとに書かれた歴史小説で、登場人物の活躍や逸話については誇張されている部分があります。 この小説の中の諸葛亮は、無理難題も簡単に成し遂げてしまう完璧な人物です。祈祷で風を吹かせたり予言を的中させたりと神通力や占術にも長けており、人知を越えた超人として描かれているのです。『三国志演義』は劉備が主役となっているため、その側で活躍した諸葛亮もダイナミックな描かれ方をしたといえるでしょう。 天才軍師として知られる 諸葛亮は天才軍師として知られ絶大な知名度を誇っていますが、不明瞭な部分も多くその人物像についてはあまり知られていないかもしれません。漢王朝再興は果たせなかった諸葛亮ですが、劉備から国を託されるほど信頼の厚い人物でした。 三国志は現代でも人気が高く、ビジネスパーソンからも支持されています。諸葛亮なら現代をどう生き抜くのか、そんなことに思いを馳せながら、類い稀なる才能を発揮した彼の功績を振り返ってみてはいかがでしょうか。
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、孫権のもとへ向かい、どのように同盟を成立させたか。
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、孫権のもとへ向かうと、劉備陣営と結託して曹操と戦うよう説得し、見事同盟を成立させた。
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歴史
これまで世界中で一番激しかった地震火災は1908年に、イタリヤのメッシーナという重要な港とその付近とで14万人の死者を出した大地震と、1906年、サンフランシスコの地震で2800メートル四方を焼いて3000人の死者を出したのと、この二つですが、こんどの地震は、ゆれ方だけは以上2つの場合にくらべると、ずっとかるかったのですが、人命以外の損害のひどかった点では、まるでくらべもつかないほどの大災害だったのです。 関東大地震の被害も、つまり大部分が火災から来たわけで、ただ地震だけですんだのならば、東京での死人も少なくて2000人、多くて3000人、家屋その他の損害も8、90分の1ぐらいにとどまったろうということです。 関東大地震の、東京での発震は、9月1日の午前11時58分45秒でした。それから引きつづいて、余震が、火災のはびこる中で、われわれのからだに感じたのが12時間に140回、そのつぎの12時間に88回、そのつぎの12時間が60回、そのつぎの12時間が70回と来ました。どんな小さな地震をも感じる地震計という機械に表われた数は、合計1700回以上にのぼっています。 災害の来た一日はちょうど210日の前日で、東京では早朝からはげしい風雨を見ましたが、十時ごろになると空も青々とはれて、平和な初秋びよりになったとおもうと、ひるどきになって、とつぜんぐらぐらとゆれ出したのです。同じ市内でも地盤のつよいところとよわいところでは震動のはげしさもちがいますが、本所のような一ばんひどかった部分では、あっと言って立ちあがると、ぐらぐらゆれる窓をとおして、目のまえの鉄筋コンクリートだての大工場の屋根瓦がうねうねと大蛇が歩くように波をうつと見るまに、その瓦の大部分が、どしんとずりおちる、あわてて外へとび出すはずみに、今の大工場がどどんとすさまじい音をたてて、まるつぶれにたおれて、ぐるり一ぱいにもうもうとつちけむりが立ち上る、附近の空地へにげようとしてかけ出したものの、地面がぐらぐらうごくので足がはこばれない、そこへ、あたり一面からびゅうびゅう木材や瓦がとびちって来るので、どうすることも出来ずに立ちすくんでいると、れいのたおれた工場からは、もう、えんえんと火が上あがって来たと話した人があります。
関東大地震の12時間ごとに計測した余震の回数のうち、少なかった回数を教えてください。
関東大地震の12時間ごとに計測した余震の回数のうち、少なかった回数は60回です。
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歴史
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、諸葛亮である。 曹操軍に勝利した赤壁の戦い 建安13年(208)曹操軍と孫権・劉備連合軍による「赤壁の戦い」が起こりました。この戦いは「天下三分の計」の序章だったといえます。 華北平定に成功し丞相となった曹操は、劉表の治めていた荊州を攻め始めました。諸葛亮は孫権のもとへ向かうと、劉備陣営と結託して曹操と戦うよう説得し、見事同盟を成立させます。 曹操軍80万に対し、孫権・劉備連合軍約5万という圧倒的な戦力差がありましたが、孫権陣営の火攻めや疫病の流行などにより、曹操軍は敗走。孫権・劉備連合軍の大勝利に終わりました。 夷陵の戦いとは? その後、劉備は漢中を手に入れますが、留守中に義兄弟の関羽を殺され荊州が奪われてしまいます。そんな中、魏では曹操が死去し、その子・曹丕が魏王朝を建国。劉備はこれに対抗して蜀漢を建国し、諸葛亮は丞相・録尚書事となりました。 2年後、関羽を殺された復讐に燃える劉備は、呉軍に奪われた荊州へと進軍(「夷陵の戦い」)。快進撃を続ける蜀漢軍でしたが、呉の陸遜による作戦で大敗を喫し、白帝城へと敗走します。そして失意のあまり病になった劉備は、白帝城で亡くなってしまいました。 『三国志演義』に描かれる諸葛亮は荊州へ進軍しようとする劉備を止めようとしていますが、史実では諸葛亮はこの戦いを止めなかったのだそうです。義に厚い劉備の性格をよく知っていたからこそ、この戦いを止めることはできないと感じていたのかもしれませんね。 北伐を決行する 劉備は死ぬ間際、諸葛亮の才能を称えるとともに、自分の子・劉禅にその器があれば補佐し、もし才能がなければ諸葛亮が国を治めるよう言い残しました。 これに感涙した諸葛亮は蜀のために働こうと誓い、漢王朝再興という劉備の遺志を継いで北伐を決行します。しかし国力の差は歴然。地形を活かして有利に戦いを進めることもあったものの、食糧不足などに悩まされ目的の長安には辿りつけませんでした。 第五次北伐は持久戦にもつれこみ長期に渡って魏軍の司馬懿と対陣しましたが、諸葛亮はその陣中でついに病死してしまいます。北伐はその後も繰り返されましたが、成功せず蜀の国力は低下していきました。 諸葛亮の人物像について 劉備によって見いだされた諸葛亮は、最期は劉備の悲願達成に人生を捧げることとなりました。そんな諸葛亮の人物像とは、どのようなものだったのでしょうか。 身長がとても高かった さまざまな軍略で活躍した諸葛亮ですが、プライベートの詳しい情報は少なく、不明確な部分も多いようです。ただし、180cm以上の高長身だったことだけはわかっています。 昔の中国の単位はよく変わっていたため、時代によって多少の誤差があります。諸葛亮の身長は8尺とされており、後漢の尺度だと184cm、魏・西晋の尺度だと192.8cmとなっています。 『三国志演義』に描かれる諸葛亮 『三国志演義』は正史をもとに書かれた歴史小説で、登場人物の活躍や逸話については誇張されている部分があります。 この小説の中の諸葛亮は、無理難題も簡単に成し遂げてしまう完璧な人物です。祈祷で風を吹かせたり予言を的中させたりと神通力や占術にも長けており、人知を越えた超人として描かれているのです。『三国志演義』は劉備が主役となっているため、その側で活躍した諸葛亮もダイナミックな描かれ方をしたといえるでしょう。 天才軍師として知られる 諸葛亮は天才軍師として知られ絶大な知名度を誇っていますが、不明瞭な部分も多くその人物像についてはあまり知られていないかもしれません。漢王朝再興は果たせなかった諸葛亮ですが、劉備から国を託されるほど信頼の厚い人物でした。 三国志は現代でも人気が高く、ビジネスパーソンからも支持されています。諸葛亮なら現代をどう生き抜くのか、そんなことに思いを馳せながら、類い稀なる才能を発揮した彼の功績を振り返ってみてはいかがでしょうか。
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、どのような役職となったか。
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、丞相・録尚書事となった。
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歴史
これまで世界中で一番激しかった地震火災は1908年に、イタリヤのメッシーナという重要な港とその付近とで14万人の死者を出した大地震と、1906年、サンフランシスコの地震で2800メートル四方を焼いて3000人の死者を出したのと、この二つですが、こんどの地震は、ゆれ方だけは以上2つの場合にくらべると、ずっとかるかったのですが、人命以外の損害のひどかった点では、まるでくらべもつかないほどの大災害だったのです。 関東大地震の被害も、つまり大部分が火災から来たわけで、ただ地震だけですんだのならば、東京での死人も少なくて2000人、多くて3000人、家屋その他の損害も8、90分の1ぐらいにとどまったろうということです。 関東大地震の、東京での発震は、9月1日の午前11時58分45秒でした。それから引きつづいて、余震が、火災のはびこる中で、われわれのからだに感じたのが12時間に140回、そのつぎの12時間に88回、そのつぎの12時間が60回、そのつぎの12時間が70回と来ました。どんな小さな地震をも感じる地震計という機械に表われた数は、合計1700回以上にのぼっています。 災害の来た一日はちょうど210日の前日で、東京では早朝からはげしい風雨を見ましたが、十時ごろになると空も青々とはれて、平和な初秋びよりになったとおもうと、ひるどきになって、とつぜんぐらぐらとゆれ出したのです。同じ市内でも地盤のつよいところとよわいところでは震動のはげしさもちがいますが、本所のような一ばんひどかった部分では、あっと言って立ちあがると、ぐらぐらゆれる窓をとおして、目のまえの鉄筋コンクリートだての大工場の屋根瓦がうねうねと大蛇が歩くように波をうつと見るまに、その瓦の大部分が、どしんとずりおちる、あわてて外へとび出すはずみに、今の大工場がどどんとすさまじい音をたてて、まるつぶれにたおれて、ぐるり一ぱいにもうもうとつちけむりが立ち上る、附近の空地へにげようとしてかけ出したものの、地面がぐらぐらうごくので足がはこばれない、そこへ、あたり一面からびゅうびゅう木材や瓦がとびちって来るので、どうすることも出来ずに立ちすくんでいると、れいのたおれた工場からは、もう、えんえんと火が上あがって来たと話した人があります。
世界中で一番激しかった二つの地震火災のうち、死者の数が少ないほうを教えてください。
世界中で一番激しかった二つの地震火災のうち、死者の数が少ないのは1906年のサンフランシスコの地震で死者は3000人です。
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劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、諸葛亮である。 曹操軍に勝利した赤壁の戦い 建安13年(208)曹操軍と孫権・劉備連合軍による「赤壁の戦い」が起こりました。この戦いは「天下三分の計」の序章だったといえます。 華北平定に成功し丞相となった曹操は、劉表の治めていた荊州を攻め始めました。諸葛亮は孫権のもとへ向かうと、劉備陣営と結託して曹操と戦うよう説得し、見事同盟を成立させます。 曹操軍80万に対し、孫権・劉備連合軍約5万という圧倒的な戦力差がありましたが、孫権陣営の火攻めや疫病の流行などにより、曹操軍は敗走。孫権・劉備連合軍の大勝利に終わりました。 夷陵の戦いとは? その後、劉備は漢中を手に入れますが、留守中に義兄弟の関羽を殺され荊州が奪われてしまいます。そんな中、魏では曹操が死去し、その子・曹丕が魏王朝を建国。劉備はこれに対抗して蜀漢を建国し、諸葛亮は丞相・録尚書事となりました。 2年後、関羽を殺された復讐に燃える劉備は、呉軍に奪われた荊州へと進軍(「夷陵の戦い」)。快進撃を続ける蜀漢軍でしたが、呉の陸遜による作戦で大敗を喫し、白帝城へと敗走します。そして失意のあまり病になった劉備は、白帝城で亡くなってしまいました。 『三国志演義』に描かれる諸葛亮は荊州へ進軍しようとする劉備を止めようとしていますが、史実では諸葛亮はこの戦いを止めなかったのだそうです。義に厚い劉備の性格をよく知っていたからこそ、この戦いを止めることはできないと感じていたのかもしれませんね。 北伐を決行する 劉備は死ぬ間際、諸葛亮の才能を称えるとともに、自分の子・劉禅にその器があれば補佐し、もし才能がなければ諸葛亮が国を治めるよう言い残しました。 これに感涙した諸葛亮は蜀のために働こうと誓い、漢王朝再興という劉備の遺志を継いで北伐を決行します。しかし国力の差は歴然。地形を活かして有利に戦いを進めることもあったものの、食糧不足などに悩まされ目的の長安には辿りつけませんでした。 第五次北伐は持久戦にもつれこみ長期に渡って魏軍の司馬懿と対陣しましたが、諸葛亮はその陣中でついに病死してしまいます。北伐はその後も繰り返されましたが、成功せず蜀の国力は低下していきました。 諸葛亮の人物像について 劉備によって見いだされた諸葛亮は、最期は劉備の悲願達成に人生を捧げることとなりました。そんな諸葛亮の人物像とは、どのようなものだったのでしょうか。 身長がとても高かった さまざまな軍略で活躍した諸葛亮ですが、プライベートの詳しい情報は少なく、不明確な部分も多いようです。ただし、180cm以上の高長身だったことだけはわかっています。 昔の中国の単位はよく変わっていたため、時代によって多少の誤差があります。諸葛亮の身長は8尺とされており、後漢の尺度だと184cm、魏・西晋の尺度だと192.8cmとなっています。 『三国志演義』に描かれる諸葛亮 『三国志演義』は正史をもとに書かれた歴史小説で、登場人物の活躍や逸話については誇張されている部分があります。 この小説の中の諸葛亮は、無理難題も簡単に成し遂げてしまう完璧な人物です。祈祷で風を吹かせたり予言を的中させたりと神通力や占術にも長けており、人知を越えた超人として描かれているのです。『三国志演義』は劉備が主役となっているため、その側で活躍した諸葛亮もダイナミックな描かれ方をしたといえるでしょう。 天才軍師として知られる 諸葛亮は天才軍師として知られ絶大な知名度を誇っていますが、不明瞭な部分も多くその人物像についてはあまり知られていないかもしれません。漢王朝再興は果たせなかった諸葛亮ですが、劉備から国を託されるほど信頼の厚い人物でした。 三国志は現代でも人気が高く、ビジネスパーソンからも支持されています。諸葛亮なら現代をどう生き抜くのか、そんなことに思いを馳せながら、類い稀なる才能を発揮した彼の功績を振り返ってみてはいかがでしょうか。
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、何の時に病死したか。
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、第五次北伐で病死した。
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災害の来た一日はちょうど二百十日の前日で、東京では早朝からはげしい風雨を見ましたが、十時ごろになると空も青々とはれて、平和な初秋びよりになったとおもうと、ひるどきになって、とつぜんぐらぐらとゆれ出したのです。同じ市内でも地盤のつよいところとよわいところでは震動のはげしさもちがいますが、本所のような一ばんひどかった部分では、あっと言って立ちあがると、ぐらぐらゆれる窓をとおして、目のまえの鉄筋コンクリートだての大工場の屋根瓦がうねうねと大蛇が歩くように波をうつと見るまに、その瓦の大部分が、どしんとずりおちる、あわてて外へとび出すはずみに、今の大工場がどどんとすさまじい音をたてて、まるつぶれにたおれて、ぐるり一ぱいにもうもうとつちけむりが立ち上る、附近の空地へにげようとしてかけ出したものの、地面がぐらぐらうごくので足がはこばれない、そこへ、あたり一面からびゅうびゅう木材や瓦がとびちって来るので、どうすることも出来ずに立ちすくんでいると、たおれた工場からは、もう、えんえんと火が上あがって来たと話した人があります。 ある人は、電車で神田神保町のとおりを走っているところへ、がたがたと来て、電車はどかんととまる、びっくりしてとびおりると同時に、片がわの雑貨店の洋館がずしんと目のまえにたおれる、そちこちで、はりさけるような女のさけび声がする、それから先はまるでむちゅうで須田町の近くまで走って来たと思うと、いく手にはすでにもうもうと火事の黒けむりが上っていたと言っています。 関東大地震が起きた数分後、十二時に、本所では十か所、浅草で十二か所から発火したそうです。 それから一分おき二分おきに、なおどんどん方々から火が上り、夕方六時近くには全市で六十か所の火が、おのおの何千という家々をなめて、のびひろがり、夜の十二時までの間にはすべてで八十八か所の火の手が、一つになって、とうとう本所、深川、浅草、日本橋、京橋の全部と、麹町、神田、下谷のほとんど全部、本郷、小石川、赤坂、芝の一部分(つまり東京の商工業区域のほとんどすっかり)が、まるで影も形もなく、きれいに焼きつくされてしまったのです。 その発火のもとは、病院の薬局や、学校の理化学室や、工場なぞの、薬品から火が出たのや、諸工場の工作ろや、家々のこんろなぞから来たものもありますが、そのほかにとび火も少なくなかったようです。なにぶん地震で屋根がこわれ落ちているところへ、どんどん火の子をかぶるのですからたまったものではありません。当夜火の中をくぐってにげて来た人の話によりますと、36メートル幅ぐらいの往来でも、片がわが焼けて来て、ほのおが風のようにびゅうと、ひくく地上をはったと見ると、向こうがわはもうまっ赤にもえ上るというすさまじさだったそうです。かけ出した各消防署のポンプも、地震で水道の鉄管がこわれて水がまるで出ないので、どうしようにも手のつけようがなく、ところにより、わずかに堀割やどぶ川の水を利用して、ようやく二十二、三か所ぐらいは消しとめたそうですが、それ以上にはもう力がおよばなかったのです。大きな工場や、工事中のビルで、地震でがらがらとつぶされて、大きな工場では三百人という人が下じきになり、工事中のビルでは百人が下じきになり、うめきさけんでいるところへ、たちまち火がまわって来て、一人ものこらず焼け死んだのがいくつもあります。"
関東大地震が起きた数分後、十二時に多く発火した場所を教えてください。
関東大地震が起きた数分後、十二時に多く発火した場所は浅草で十二か所です。
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劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、諸葛亮である。 曹操軍に勝利した赤壁の戦い 建安13年(208)曹操軍と孫権・劉備連合軍による「赤壁の戦い」が起こりました。この戦いは「天下三分の計」の序章だったといえます。 華北平定に成功し丞相となった曹操は、劉表の治めていた荊州を攻め始めました。諸葛亮は孫権のもとへ向かうと、劉備陣営と結託して曹操と戦うよう説得し、見事同盟を成立させます。 曹操軍80万に対し、孫権・劉備連合軍約5万という圧倒的な戦力差がありましたが、孫権陣営の火攻めや疫病の流行などにより、曹操軍は敗走。孫権・劉備連合軍の大勝利に終わりました。 夷陵の戦いとは? その後、劉備は漢中を手に入れますが、留守中に義兄弟の関羽を殺され荊州が奪われてしまいます。そんな中、魏では曹操が死去し、その子・曹丕が魏王朝を建国。劉備はこれに対抗して蜀漢を建国し、諸葛亮は丞相・録尚書事となりました。 2年後、関羽を殺された復讐に燃える劉備は、呉軍に奪われた荊州へと進軍(「夷陵の戦い」)。快進撃を続ける蜀漢軍でしたが、呉の陸遜による作戦で大敗を喫し、白帝城へと敗走します。そして失意のあまり病になった劉備は、白帝城で亡くなってしまいました。 『三国志演義』に描かれる諸葛亮は荊州へ進軍しようとする劉備を止めようとしていますが、史実では諸葛亮はこの戦いを止めなかったのだそうです。義に厚い劉備の性格をよく知っていたからこそ、この戦いを止めることはできないと感じていたのかもしれませんね。 北伐を決行する 劉備は死ぬ間際、諸葛亮の才能を称えるとともに、自分の子・劉禅にその器があれば補佐し、もし才能がなければ諸葛亮が国を治めるよう言い残しました。 これに感涙した諸葛亮は蜀のために働こうと誓い、漢王朝再興という劉備の遺志を継いで北伐を決行します。しかし国力の差は歴然。地形を活かして有利に戦いを進めることもあったものの、食糧不足などに悩まされ目的の長安には辿りつけませんでした。 第五次北伐は持久戦にもつれこみ長期に渡って魏軍の司馬懿と対陣しましたが、諸葛亮はその陣中でついに病死してしまいます。北伐はその後も繰り返されましたが、成功せず蜀の国力は低下していきました。 諸葛亮の人物像について 劉備によって見いだされた諸葛亮は、最期は劉備の悲願達成に人生を捧げることとなりました。そんな諸葛亮の人物像とは、どのようなものだったのでしょうか。 身長がとても高かった さまざまな軍略で活躍した諸葛亮ですが、プライベートの詳しい情報は少なく、不明確な部分も多いようです。ただし、180cm以上の高長身だったことだけはわかっています。 昔の中国の単位はよく変わっていたため、時代によって多少の誤差があります。諸葛亮の身長は8尺とされており、後漢の尺度だと184cm、魏・西晋の尺度だと192.8cmとなっています。 『三国志演義』に描かれる諸葛亮 『三国志演義』は正史をもとに書かれた歴史小説で、登場人物の活躍や逸話については誇張されている部分があります。 この小説の中の諸葛亮は、無理難題も簡単に成し遂げてしまう完璧な人物です。祈祷で風を吹かせたり予言を的中させたりと神通力や占術にも長けており、人知を越えた超人として描かれているのです。『三国志演義』は劉備が主役となっているため、その側で活躍した諸葛亮もダイナミックな描かれ方をしたといえるでしょう。 天才軍師として知られる 諸葛亮は天才軍師として知られ絶大な知名度を誇っていますが、不明瞭な部分も多くその人物像についてはあまり知られていないかもしれません。漢王朝再興は果たせなかった諸葛亮ですが、劉備から国を託されるほど信頼の厚い人物でした。 三国志は現代でも人気が高く、ビジネスパーソンからも支持されています。諸葛亮なら現代をどう生き抜くのか、そんなことに思いを馳せながら、類い稀なる才能を発揮した彼の功績を振り返ってみてはいかがでしょうか。
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、身長はいくつだったか。
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、180cm以上の高長身だった。
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災害の来た一日はちょうど二百十日の前日で、東京では早朝からはげしい風雨を見ましたが、十時ごろになると空も青々とはれて、平和な初秋びよりになったとおもうと、ひるどきになって、とつぜんぐらぐらとゆれ出したのです。同じ市内でも地盤のつよいところとよわいところでは震動のはげしさもちがいますが、本所のような一ばんひどかった部分では、あっと言って立ちあがると、ぐらぐらゆれる窓をとおして、目のまえの鉄筋コンクリートだての大工場の屋根瓦がうねうねと大蛇が歩くように波をうつと見るまに、その瓦の大部分が、どしんとずりおちる、あわてて外へとび出すはずみに、今の大工場がどどんとすさまじい音をたてて、まるつぶれにたおれて、ぐるり一ぱいにもうもうとつちけむりが立ち上る、附近の空地へにげようとしてかけ出したものの、地面がぐらぐらうごくので足がはこばれない、そこへ、あたり一面からびゅうびゅう木材や瓦がとびちって来るので、どうすることも出来ずに立ちすくんでいると、たおれた工場からは、もう、えんえんと火が上あがって来たと話した人があります。 ある人は、電車で神田神保町のとおりを走っているところへ、がたがたと来て、電車はどかんととまる、びっくりしてとびおりると同時に、片がわの雑貨店の洋館がずしんと目のまえにたおれる、そちこちで、はりさけるような女のさけび声がする、それから先はまるでむちゅうで須田町の近くまで走って来たと思うと、いく手にはすでにもうもうと火事の黒けむりが上っていたと言っています。 関東大地震が起きた数分後、十二時に、本所では十か所、浅草で十二か所から発火したそうです。 それから一分おき二分おきに、なおどんどん方々から火が上り、夕方六時近くには全市で六十か所の火が、おのおの何千という家々をなめて、のびひろがり、夜の十二時までの間にはすべてで八十八か所の火の手が、一つになって、とうとう本所、深川、浅草、日本橋、京橋の全部と、麹町、神田、下谷のほとんど全部、本郷、小石川、赤坂、芝の一部分(つまり東京の商工業区域のほとんどすっかり)が、まるで影も形もなく、きれいに焼きつくされてしまったのです。 その発火のもとは、病院の薬局や、学校の理化学室や、工場なぞの、薬品から火が出たのや、諸工場の工作ろや、家々のこんろなぞから来たものもありますが、そのほかにとび火も少なくなかったようです。なにぶん地震で屋根がこわれ落ちているところへ、どんどん火の子をかぶるのですからたまったものではありません。当夜火の中をくぐってにげて来た人の話によりますと、36メートル幅ぐらいの往来でも、片がわが焼けて来て、ほのおが風のようにびゅうと、ひくく地上をはったと見ると、向こうがわはもうまっ赤にもえ上るというすさまじさだったそうです。かけ出した各消防署のポンプも、地震で水道の鉄管がこわれて水がまるで出ないので、どうしようにも手のつけようがなく、ところにより、わずかに堀割やどぶ川の水を利用して、ようやく二十二、三か所ぐらいは消しとめたそうですが、それ以上にはもう力がおよばなかったのです。大きな工場や、工事中のビルで、地震でがらがらとつぶされて、大きな工場では三百人という人が下じきになり、工事中のビルでは百人が下じきになり、うめきさけんでいるところへ、たちまち火がまわって来て、一人ものこらず焼け死んだのがいくつもあります。"
関東大地震が起きた数分後、十二時に少なく発火した場所を教えてください。
関東大地震が起きた数分後、十二時に少なく発火した場所は本所で十か所です。
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劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、諸葛亮である。 曹操軍に勝利した赤壁の戦い 建安13年(208)曹操軍と孫権・劉備連合軍による「赤壁の戦い」が起こりました。この戦いは「天下三分の計」の序章だったといえます。 華北平定に成功し丞相となった曹操は、劉表の治めていた荊州を攻め始めました。諸葛亮は孫権のもとへ向かうと、劉備陣営と結託して曹操と戦うよう説得し、見事同盟を成立させます。 曹操軍80万に対し、孫権・劉備連合軍約5万という圧倒的な戦力差がありましたが、孫権陣営の火攻めや疫病の流行などにより、曹操軍は敗走。孫権・劉備連合軍の大勝利に終わりました。 夷陵の戦いとは? その後、劉備は漢中を手に入れますが、留守中に義兄弟の関羽を殺され荊州が奪われてしまいます。そんな中、魏では曹操が死去し、その子・曹丕が魏王朝を建国。劉備はこれに対抗して蜀漢を建国し、諸葛亮は丞相・録尚書事となりました。 2年後、関羽を殺された復讐に燃える劉備は、呉軍に奪われた荊州へと進軍(「夷陵の戦い」)。快進撃を続ける蜀漢軍でしたが、呉の陸遜による作戦で大敗を喫し、白帝城へと敗走します。そして失意のあまり病になった劉備は、白帝城で亡くなってしまいました。 『三国志演義』に描かれる諸葛亮は荊州へ進軍しようとする劉備を止めようとしていますが、史実では諸葛亮はこの戦いを止めなかったのだそうです。義に厚い劉備の性格をよく知っていたからこそ、この戦いを止めることはできないと感じていたのかもしれませんね。 北伐を決行する 劉備は死ぬ間際、諸葛亮の才能を称えるとともに、自分の子・劉禅にその器があれば補佐し、もし才能がなければ諸葛亮が国を治めるよう言い残しました。 これに感涙した諸葛亮は蜀のために働こうと誓い、漢王朝再興という劉備の遺志を継いで北伐を決行します。しかし国力の差は歴然。地形を活かして有利に戦いを進めることもあったものの、食糧不足などに悩まされ目的の長安には辿りつけませんでした。 第五次北伐は持久戦にもつれこみ長期に渡って魏軍の司馬懿と対陣しましたが、諸葛亮はその陣中でついに病死してしまいます。北伐はその後も繰り返されましたが、成功せず蜀の国力は低下していきました。 諸葛亮の人物像について 劉備によって見いだされた諸葛亮は、最期は劉備の悲願達成に人生を捧げることとなりました。そんな諸葛亮の人物像とは、どのようなものだったのでしょうか。 身長がとても高かった さまざまな軍略で活躍した諸葛亮ですが、プライベートの詳しい情報は少なく、不明確な部分も多いようです。ただし、180cm以上の高長身だったことだけはわかっています。 昔の中国の単位はよく変わっていたため、時代によって多少の誤差があります。諸葛亮の身長は8尺とされており、後漢の尺度だと184cm、魏・西晋の尺度だと192.8cmとなっています。 『三国志演義』に描かれる諸葛亮 『三国志演義』は正史をもとに書かれた歴史小説で、登場人物の活躍や逸話については誇張されている部分があります。 この小説の中の諸葛亮は、無理難題も簡単に成し遂げてしまう完璧な人物です。祈祷で風を吹かせたり予言を的中させたりと神通力や占術にも長けており、人知を越えた超人として描かれているのです。『三国志演義』は劉備が主役となっているため、その側で活躍した諸葛亮もダイナミックな描かれ方をしたといえるでしょう。 天才軍師として知られる 諸葛亮は天才軍師として知られ絶大な知名度を誇っていますが、不明瞭な部分も多くその人物像についてはあまり知られていないかもしれません。漢王朝再興は果たせなかった諸葛亮ですが、劉備から国を託されるほど信頼の厚い人物でした。 三国志は現代でも人気が高く、ビジネスパーソンからも支持されています。諸葛亮なら現代をどう生き抜くのか、そんなことに思いを馳せながら、類い稀なる才能を発揮した彼の功績を振り返ってみてはいかがでしょうか。
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、どのように描かれているか。
劉備の「三顧の礼」に応じて歴史の表舞台に登場し、戦略家としてその名前を轟かせた人物は、人知を越えた超人として描かれている。
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災害の来た一日はちょうど二百十日の前日で、東京では早朝からはげしい風雨を見ましたが、十時ごろになると空も青々とはれて、平和な初秋びよりになったとおもうと、ひるどきになって、とつぜんぐらぐらとゆれ出したのです。同じ市内でも地盤のつよいところとよわいところでは震動のはげしさもちがいますが、本所のような一ばんひどかった部分では、あっと言って立ちあがると、ぐらぐらゆれる窓をとおして、目のまえの鉄筋コンクリートだての大工場の屋根瓦がうねうねと大蛇が歩くように波をうつと見るまに、その瓦の大部分が、どしんとずりおちる、あわてて外へとび出すはずみに、今の大工場がどどんとすさまじい音をたてて、まるつぶれにたおれて、ぐるり一ぱいにもうもうとつちけむりが立ち上る、附近の空地へにげようとしてかけ出したものの、地面がぐらぐらうごくので足がはこばれない、そこへ、あたり一面からびゅうびゅう木材や瓦がとびちって来るので、どうすることも出来ずに立ちすくんでいると、たおれた工場からは、もう、えんえんと火が上あがって来たと話した人があります。 ある人は、電車で神田神保町のとおりを走っているところへ、がたがたと来て、電車はどかんととまる、びっくりしてとびおりると同時に、片がわの雑貨店の洋館がずしんと目のまえにたおれる、そちこちで、はりさけるような女のさけび声がする、それから先はまるでむちゅうで須田町の近くまで走って来たと思うと、いく手にはすでにもうもうと火事の黒けむりが上っていたと言っています。 関東大地震が起きた数分後、十二時に、本所では十か所、浅草で十二か所から発火したそうです。 それから一分おき二分おきに、なおどんどん方々から火が上り、夕方六時近くには全市で六十か所の火が、おのおの何千という家々をなめて、のびひろがり、夜の十二時までの間にはすべてで八十八か所の火の手が、一つになって、とうとう本所、深川、浅草、日本橋、京橋の全部と、麹町、神田、下谷のほとんど全部、本郷、小石川、赤坂、芝の一部分(つまり東京の商工業区域のほとんどすっかり)が、まるで影も形もなく、きれいに焼きつくされてしまったのです。 その発火のもとは、病院の薬局や、学校の理化学室や、工場なぞの、薬品から火が出たのや、諸工場の工作ろや、家々のこんろなぞから来たものもありますが、そのほかにとび火も少なくなかったようです。なにぶん地震で屋根がこわれ落ちているところへ、どんどん火の子をかぶるのですからたまったものではありません。当夜火の中をくぐってにげて来た人の話によりますと、36メートル幅ぐらいの往来でも、片がわが焼けて来て、ほのおが風のようにびゅうと、ひくく地上をはったと見ると、向こうがわはもうまっ赤にもえ上るというすさまじさだったそうです。かけ出した各消防署のポンプも、地震で水道の鉄管がこわれて水がまるで出ないので、どうしようにも手のつけようがなく、ところにより、わずかに堀割やどぶ川の水を利用して、ようやく二十二、三か所ぐらいは消しとめたそうですが、それ以上にはもう力がおよばなかったのです。大きな工場や、工事中のビルで、地震でがらがらとつぶされて、大きな工場では三百人という人が下じきになり、工事中のビルでは百人が下じきになり、うめきさけんでいるところへ、たちまち火がまわって来て、一人ものこらず焼け死んだのがいくつもあります。"
地震でがらがらとつぶされて下じきになった人数のうち、多い人数を教えて下さい。
地震でがらがらとつぶされて下じきになった人数のうち、多い人数は大きな工場で三百人です。
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魏の初代皇帝となる人物は、曹丕である。 曹操の息子・曹丕の生い立ちと経歴 魏国といえば曹操を思い浮かべる方も多いでしょう。曹操はこの時代に活躍したものの、皇帝の座には就きませんでした。彼の勢力を引き継いで初代皇帝になったのが、曹操の息子である曹丕です。 曹操の三男として生まれる 曹丕は、中平4年(187)に曹操と卞氏(べんし/武宣皇后)の長子として生まれました。異母兄が2人いたため三男にあたり、母は側室という庶子でした。この時点で後継者になる望みは薄かったといえるでしょう。 ところが、正室・丁氏が育てていた異母長兄・曹昂(そうこう)が戦死したことで、丁氏と曹操が離別します。さらには次兄・曹鑠(そうしゃく)も病死してしまいました。そのため卞氏が正室として迎えられ、それ以降は曹丕が嫡子として扱われるようになったのです。 魏の初代皇帝:文帝となった 曹丕は父のもとで五官中郎将として副丞相(ふくじょうしょう)になり、曹操の不在時に代わりを任されるようになりました。 建安21~22年(216~217)、弟・曹植(そうしょく)との後継者争いに勝利し、建安25年(220)に曹操が逝去すると、魏王に即位して丞相職を引き継ぎます。その後、霊帝の次子で後漢最後の皇帝でもある献帝(劉協)に地位を譲るよう迫り、ついに皇帝の座に就いたのです。 これにより後漢は滅亡し、それ以降「三国時代」に突入することになります。文帝となった曹丕は、諸制度を整え、父から受け継いだ国を安定させていきました。 曹丕の最期について 黄初3年(222)、魏は呉に攻勢することを決定します。曹仁・曹休・曹真・夏侯尚(かこうしょう)は3路から呉を攻めましたが、包囲が半年に及んだり疫病が発生したりしたため、結果は大敗でした。 黄初5年(224)の出兵では曹丕が十数万の大軍を率いて出撃したものの、偽の城壁の存在に驚き、まだ孫権を攻めるのは難しいと判断して戦わずに退却しています。その翌年も魏軍を率いて進撃しましたが、厳しい寒さで長江が凍っていたため舟を動かせず、撤退を余儀なくされました。 そして黄初7年(226)曹丕は風邪を悪化させて肺炎になり、この世を去ったのです。 悪評が多い?その人物像と逸話とは 魏の初代皇帝という輝かしい地位に就いた曹丕でしたが、その評判はあまり良くなかったようです。ここでは曹丕の逸話からその人物像に迫ります。 幼い頃から文武両道に優れていた 曹丕は8歳の時点で巧みな文章を書く能力を持っていました。また騎射や剣術の才能にも秀でており、わずか11歳で父・曹操の軍に従軍しています。その中でも得意だったのは弓だそうです。これらのことから、彼は文武両道の武将といわれています。 日本史ではおおよそ15歳前後に元服して大人になりますが、曹丕はそれ以前にすでに命を賭して戦っていたのですね。この経験は曹丕の性格形成にも関わっていたかもしれません。
魏の初代皇帝となる人物は、どのような方法で皇帝に即位したか?
魏の初代皇帝となる人物は、霊帝の次子で後漢最後の皇帝でもある献帝に地位を譲るよう迫り、ついに皇帝の座に就いた。
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歴史
災害の来た一日はちょうど二百十日の前日で、東京では早朝からはげしい風雨を見ましたが、十時ごろになると空も青々とはれて、平和な初秋びよりになったとおもうと、ひるどきになって、とつぜんぐらぐらとゆれ出したのです。同じ市内でも地盤のつよいところとよわいところでは震動のはげしさもちがいますが、本所のような一ばんひどかった部分では、あっと言って立ちあがると、ぐらぐらゆれる窓をとおして、目のまえの鉄筋コンクリートだての大工場の屋根瓦がうねうねと大蛇が歩くように波をうつと見るまに、その瓦の大部分が、どしんとずりおちる、あわてて外へとび出すはずみに、今の大工場がどどんとすさまじい音をたてて、まるつぶれにたおれて、ぐるり一ぱいにもうもうとつちけむりが立ち上る、附近の空地へにげようとしてかけ出したものの、地面がぐらぐらうごくので足がはこばれない、そこへ、あたり一面からびゅうびゅう木材や瓦がとびちって来るので、どうすることも出来ずに立ちすくんでいると、たおれた工場からは、もう、えんえんと火が上あがって来たと話した人があります。 ある人は、電車で神田神保町のとおりを走っているところへ、がたがたと来て、電車はどかんととまる、びっくりしてとびおりると同時に、片がわの雑貨店の洋館がずしんと目のまえにたおれる、そちこちで、はりさけるような女のさけび声がする、それから先はまるでむちゅうで須田町の近くまで走って来たと思うと、いく手にはすでにもうもうと火事の黒けむりが上っていたと言っています。 関東大地震が起きた数分後、十二時に、本所では十か所、浅草で十二か所から発火したそうです。 それから一分おき二分おきに、なおどんどん方々から火が上り、夕方六時近くには全市で六十か所の火が、おのおの何千という家々をなめて、のびひろがり、夜の十二時までの間にはすべてで八十八か所の火の手が、一つになって、とうとう本所、深川、浅草、日本橋、京橋の全部と、麹町、神田、下谷のほとんど全部、本郷、小石川、赤坂、芝の一部分(つまり東京の商工業区域のほとんどすっかり)が、まるで影も形もなく、きれいに焼きつくされてしまったのです。 その発火のもとは、病院の薬局や、学校の理化学室や、工場なぞの、薬品から火が出たのや、諸工場の工作ろや、家々のこんろなぞから来たものもありますが、そのほかにとび火も少なくなかったようです。なにぶん地震で屋根がこわれ落ちているところへ、どんどん火の子をかぶるのですからたまったものではありません。当夜火の中をくぐってにげて来た人の話によりますと、36メートル幅ぐらいの往来でも、片がわが焼けて来て、ほのおが風のようにびゅうと、ひくく地上をはったと見ると、向こうがわはもうまっ赤にもえ上るというすさまじさだったそうです。かけ出した各消防署のポンプも、地震で水道の鉄管がこわれて水がまるで出ないので、どうしようにも手のつけようがなく、ところにより、わずかに堀割やどぶ川の水を利用して、ようやく二十二、三か所ぐらいは消しとめたそうですが、それ以上にはもう力がおよばなかったのです。大きな工場や、工事中のビルで、地震でがらがらとつぶされて、大きな工場では三百人という人が下じきになり、工事中のビルでは百人が下じきになり、うめきさけんでいるところへ、たちまち火がまわって来て、一人ものこらず焼け死んだのがいくつもあります。"
地震でがらがらとつぶされて下じきになった人数のうち、少ない人数を教えて下さい。
地震でがらがらとつぶされて下じきになった人数のうち、少ない人数は工事中のビルで百人です。
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歴史
魏の初代皇帝となる人物は、曹丕である。 曹操の息子・曹丕の生い立ちと経歴 魏国といえば曹操を思い浮かべる方も多いでしょう。曹操はこの時代に活躍したものの、皇帝の座には就きませんでした。彼の勢力を引き継いで初代皇帝になったのが、曹操の息子である曹丕です。 曹操の三男として生まれる 曹丕は、中平4年(187)に曹操と卞氏(べんし/武宣皇后)の長子として生まれました。異母兄が2人いたため三男にあたり、母は側室という庶子でした。この時点で後継者になる望みは薄かったといえるでしょう。 ところが、正室・丁氏が育てていた異母長兄・曹昂(そうこう)が戦死したことで、丁氏と曹操が離別します。さらには次兄・曹鑠(そうしゃく)も病死してしまいました。そのため卞氏が正室として迎えられ、それ以降は曹丕が嫡子として扱われるようになったのです。 魏の初代皇帝:文帝となった 曹丕は父のもとで五官中郎将として副丞相(ふくじょうしょう)になり、曹操の不在時に代わりを任されるようになりました。 建安21~22年(216~217)、弟・曹植(そうしょく)との後継者争いに勝利し、建安25年(220)に曹操が逝去すると、魏王に即位して丞相職を引き継ぎます。その後、霊帝の次子で後漢最後の皇帝でもある献帝(劉協)に地位を譲るよう迫り、ついに皇帝の座に就いたのです。 これにより後漢は滅亡し、それ以降「三国時代」に突入することになります。文帝となった曹丕は、諸制度を整え、父から受け継いだ国を安定させていきました。 曹丕の最期について 黄初3年(222)、魏は呉に攻勢することを決定します。曹仁・曹休・曹真・夏侯尚(かこうしょう)は3路から呉を攻めましたが、包囲が半年に及んだり疫病が発生したりしたため、結果は大敗でした。 黄初5年(224)の出兵では曹丕が十数万の大軍を率いて出撃したものの、偽の城壁の存在に驚き、まだ孫権を攻めるのは難しいと判断して戦わずに退却しています。その翌年も魏軍を率いて進撃しましたが、厳しい寒さで長江が凍っていたため舟を動かせず、撤退を余儀なくされました。 そして黄初7年(226)曹丕は風邪を悪化させて肺炎になり、この世を去ったのです。 悪評が多い?その人物像と逸話とは 魏の初代皇帝という輝かしい地位に就いた曹丕でしたが、その評判はあまり良くなかったようです。ここでは曹丕の逸話からその人物像に迫ります。 幼い頃から文武両道に優れていた 曹丕は8歳の時点で巧みな文章を書く能力を持っていました。また騎射や剣術の才能にも秀でており、わずか11歳で父・曹操の軍に従軍しています。その中でも得意だったのは弓だそうです。これらのことから、彼は文武両道の武将といわれています。 日本史ではおおよそ15歳前後に元服して大人になりますが、曹丕はそれ以前にすでに命を賭して戦っていたのですね。この経験は曹丕の性格形成にも関わっていたかもしれません。
魏の初代皇帝となる人物は、どのような経緯で嫡子として扱われるようになったか?
魏の初代皇帝となる人物は、卞氏が正室として迎えられ、それ以降は曹丕が嫡子として扱われるようになった。
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歴史
なまじっかなところではとてもあぶないので、大部分の人は、とおい山の手の知り合いの家々や、宮城前の広地や、芝、日比谷、上野の大公園なぞを目がけてひなんしたのです。平生はふつうの人のはいれない、離宮や御苑や、宮内省の一部なども開放されたので、人々はそれらの中へもおしおしになってにげこみました。 逃げる場合で一番邪魔になったのは、いろんなものをはこびかけている、車や馬車や自動車です。多くのところではそれが往来にぎゅうぎゅう詰めになっていました。 歩こうにも出ようにも身動きがとれなかったと言います。ただぎゅうぎゅうおされて、やっと動いたと思ったら三センチ位動いて、多くても十センチくらい動くだけでした。 ここまで人が多くて動きにくい目ざす広場へつくのに、普段なら二十分でいけるところを、二時間かかた、三十分でいけるところが三時間もかかったと言っていた人があります。ぐずぐずしているうちにはうしろの方の人は見る見るむし焼きになり、横の方からはどんどん火の子が来て、着物や髪にもえつくというようなありさまで、女や子どもの中には、ふみたおされて死んだものもどれだけあるか分からないと言われています。 中でも一番悲惨だったのは、本所の被服しょうあとへにげこんだ人たちです。そこは、ともかく何万坪という広い構内ですから、本所かいわいの人たちは、だれもそこなら安全だと思って、どんどん荷物をはこびこみました。夜になってからは、いよいよ多くの人が、むりやりにわりこんで来て、ぎっしり一ぱいにつまってしまいました。ところが、そこも、やがて、ぐるりと火の手につつまれ、多くの荷物へどんどんもえ移って来て、とうとう、三万二千人という多数の人が、すっかり黒こげになってしまいました。男が一万八千人、女が一万四千人だといわれています。 その群がりかさなってたおれた人の一ばん下になっていたために、からくもたすかって息をふきかえし、上部の人がすっかり黒やけになったのち、やっともぐり出たという人が三十人くらいだそうです。そんな人たちの話をきくと、まるで身の毛もよだつようです。ある一人は、当夜、火の手がせまって息ぐるしくてたまらないので、人のからだの下へぐんぐん顔をつッこんでうつ伏せになっていたが、しまいには、のどがかわいて目がくらみそうになる、そのうちに、たまたま、水見たいなものが手にさわったので、それへ口をつけて、むちゅうでぐいぐい飲んだまではおぼえているが、あとで考えると、その水気というのは、人の小便しょうべんか、焼け死んだ死体のあぶらが流れたまっていたのだろうと話しました。
すっかり黒こげになってしまった三万二千人のうち、人数が多いほうの性別を教えてください。
すっかり黒こげになってしまった三万二千人のうち、人数が多いほうの性別は男で一万八千人です。
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歴史
魏の初代皇帝となる人物は、曹丕である。 曹操の息子・曹丕の生い立ちと経歴 魏国といえば曹操を思い浮かべる方も多いでしょう。曹操はこの時代に活躍したものの、皇帝の座には就きませんでした。彼の勢力を引き継いで初代皇帝になったのが、曹操の息子である曹丕です。 曹操の三男として生まれる 曹丕は、中平4年(187)に曹操と卞氏(べんし/武宣皇后)の長子として生まれました。異母兄が2人いたため三男にあたり、母は側室という庶子でした。この時点で後継者になる望みは薄かったといえるでしょう。 ところが、正室・丁氏が育てていた異母長兄・曹昂(そうこう)が戦死したことで、丁氏と曹操が離別します。さらには次兄・曹鑠(そうしゃく)も病死してしまいました。そのため卞氏が正室として迎えられ、それ以降は曹丕が嫡子として扱われるようになったのです。 魏の初代皇帝:文帝となった 曹丕は父のもとで五官中郎将として副丞相(ふくじょうしょう)になり、曹操の不在時に代わりを任されるようになりました。 建安21~22年(216~217)、弟・曹植(そうしょく)との後継者争いに勝利し、建安25年(220)に曹操が逝去すると、魏王に即位して丞相職を引き継ぎます。その後、霊帝の次子で後漢最後の皇帝でもある献帝(劉協)に地位を譲るよう迫り、ついに皇帝の座に就いたのです。 これにより後漢は滅亡し、それ以降「三国時代」に突入することになります。文帝となった曹丕は、諸制度を整え、父から受け継いだ国を安定させていきました。 曹丕の最期について 黄初3年(222)、魏は呉に攻勢することを決定します。曹仁・曹休・曹真・夏侯尚(かこうしょう)は3路から呉を攻めましたが、包囲が半年に及んだり疫病が発生したりしたため、結果は大敗でした。 黄初5年(224)の出兵では曹丕が十数万の大軍を率いて出撃したものの、偽の城壁の存在に驚き、まだ孫権を攻めるのは難しいと判断して戦わずに退却しています。その翌年も魏軍を率いて進撃しましたが、厳しい寒さで長江が凍っていたため舟を動かせず、撤退を余儀なくされました。 そして黄初7年(226)曹丕は風邪を悪化させて肺炎になり、この世を去ったのです。 悪評が多い?その人物像と逸話とは 魏の初代皇帝という輝かしい地位に就いた曹丕でしたが、その評判はあまり良くなかったようです。ここでは曹丕の逸話からその人物像に迫ります。 幼い頃から文武両道に優れていた 曹丕は8歳の時点で巧みな文章を書く能力を持っていました。また騎射や剣術の才能にも秀でており、わずか11歳で父・曹操の軍に従軍しています。その中でも得意だったのは弓だそうです。これらのことから、彼は文武両道の武将といわれています。 日本史ではおおよそ15歳前後に元服して大人になりますが、曹丕はそれ以前にすでに命を賭して戦っていたのですね。この経験は曹丕の性格形成にも関わっていたかもしれません。
魏の初代皇帝となる人物は、魏王即位前にどのような官職を引き継いだか?
魏の初代皇帝となる人物は、魏王に即位して丞相職を引き継いだ。
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歴史
なまじっかなところではとてもあぶないので、大部分の人は、とおい山の手の知り合いの家々や、宮城前の広地や、芝、日比谷、上野の大公園なぞを目がけてひなんしたのです。平生はふつうの人のはいれない、離宮や御苑や、宮内省の一部なども開放されたので、人々はそれらの中へもおしおしになってにげこみました。 逃げる場合で一番邪魔になったのは、いろんなものをはこびかけている、車や馬車や自動車です。多くのところではそれが往来にぎゅうぎゅう詰めになっていました。 歩こうにも出ようにも身動きがとれなかったと言います。ただぎゅうぎゅうおされて、やっと動いたと思ったら三センチ位動いて、多くても十センチくらい動くだけでした。 ここまで人が多くて動きにくい目ざす広場へつくのに、普段なら二十分でいけるところを、二時間かかた、三十分でいけるところが三時間もかかったと言っていた人があります。ぐずぐずしているうちにはうしろの方の人は見る見るむし焼きになり、横の方からはどんどん火の子が来て、着物や髪にもえつくというようなありさまで、女や子どもの中には、ふみたおされて死んだものもどれだけあるか分からないと言われています。 中でも一番悲惨だったのは、本所の被服しょうあとへにげこんだ人たちです。そこは、ともかく何万坪という広い構内ですから、本所かいわいの人たちは、だれもそこなら安全だと思って、どんどん荷物をはこびこみました。夜になってからは、いよいよ多くの人が、むりやりにわりこんで来て、ぎっしり一ぱいにつまってしまいました。ところが、そこも、やがて、ぐるりと火の手につつまれ、多くの荷物へどんどんもえ移って来て、とうとう、三万二千人という多数の人が、すっかり黒こげになってしまいました。男が一万八千人、女が一万四千人だといわれています。 その群がりかさなってたおれた人の一ばん下になっていたために、からくもたすかって息をふきかえし、上部の人がすっかり黒やけになったのち、やっともぐり出たという人が三十人くらいだそうです。そんな人たちの話をきくと、まるで身の毛もよだつようです。ある一人は、当夜、火の手がせまって息ぐるしくてたまらないので、人のからだの下へぐんぐん顔をつッこんでうつ伏せになっていたが、しまいには、のどがかわいて目がくらみそうになる、そのうちに、たまたま、水見たいなものが手にさわったので、それへ口をつけて、むちゅうでぐいぐい飲んだまではおぼえているが、あとで考えると、その水気というのは、人の小便しょうべんか、焼け死んだ死体のあぶらが流れたまっていたのだろうと話しました。
すっかり黒こげになってしまった三万二千人のうち、人数が少ないほうの性別を教えてください。
すっかり黒こげになってしまった三万二千人のうち、人数が少ないほうの性別は女で一万四千人です。
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歴史
魏の初代皇帝となる人物は、曹丕である。 曹操の息子・曹丕の生い立ちと経歴 魏国といえば曹操を思い浮かべる方も多いでしょう。曹操はこの時代に活躍したものの、皇帝の座には就きませんでした。彼の勢力を引き継いで初代皇帝になったのが、曹操の息子である曹丕です。 曹操の三男として生まれる 曹丕は、中平4年(187)に曹操と卞氏(べんし/武宣皇后)の長子として生まれました。異母兄が2人いたため三男にあたり、母は側室という庶子でした。この時点で後継者になる望みは薄かったといえるでしょう。 ところが、正室・丁氏が育てていた異母長兄・曹昂(そうこう)が戦死したことで、丁氏と曹操が離別します。さらには次兄・曹鑠(そうしゃく)も病死してしまいました。そのため卞氏が正室として迎えられ、それ以降は曹丕が嫡子として扱われるようになったのです。 魏の初代皇帝:文帝となった 曹丕は父のもとで五官中郎将として副丞相(ふくじょうしょう)になり、曹操の不在時に代わりを任されるようになりました。 建安21~22年(216~217)、弟・曹植(そうしょく)との後継者争いに勝利し、建安25年(220)に曹操が逝去すると、魏王に即位して丞相職を引き継ぎます。その後、霊帝の次子で後漢最後の皇帝でもある献帝(劉協)に地位を譲るよう迫り、ついに皇帝の座に就いたのです。 これにより後漢は滅亡し、それ以降「三国時代」に突入することになります。文帝となった曹丕は、諸制度を整え、父から受け継いだ国を安定させていきました。 曹丕の最期について 黄初3年(222)、魏は呉に攻勢することを決定します。曹仁・曹休・曹真・夏侯尚(かこうしょう)は3路から呉を攻めましたが、包囲が半年に及んだり疫病が発生したりしたため、結果は大敗でした。 黄初5年(224)の出兵では曹丕が十数万の大軍を率いて出撃したものの、偽の城壁の存在に驚き、まだ孫権を攻めるのは難しいと判断して戦わずに退却しています。その翌年も魏軍を率いて進撃しましたが、厳しい寒さで長江が凍っていたため舟を動かせず、撤退を余儀なくされました。 そして黄初7年(226)曹丕は風邪を悪化させて肺炎になり、この世を去ったのです。 悪評が多い?その人物像と逸話とは 魏の初代皇帝という輝かしい地位に就いた曹丕でしたが、その評判はあまり良くなかったようです。ここでは曹丕の逸話からその人物像に迫ります。 幼い頃から文武両道に優れていた 曹丕は8歳の時点で巧みな文章を書く能力を持っていました。また騎射や剣術の才能にも秀でており、わずか11歳で父・曹操の軍に従軍しています。その中でも得意だったのは弓だそうです。これらのことから、彼は文武両道の武将といわれています。 日本史ではおおよそ15歳前後に元服して大人になりますが、曹丕はそれ以前にすでに命を賭して戦っていたのですね。この経験は曹丕の性格形成にも関わっていたかもしれません。
魏の初代皇帝となる人物は、少年時代にどのような能力を発揮していたか?
魏の初代皇帝となる人物は、8歳の時点で巧みな文章を書く能力を持っていた。
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歴史
魏の初代皇帝となる人物は、曹丕である。 曹操の息子・曹丕の生い立ちと経歴 魏国といえば曹操を思い浮かべる方も多いでしょう。曹操はこの時代に活躍したものの、皇帝の座には就きませんでした。彼の勢力を引き継いで初代皇帝になったのが、曹操の息子である曹丕です。 曹操の三男として生まれる 曹丕は、中平4年(187)に曹操と卞氏(べんし/武宣皇后)の長子として生まれました。異母兄が2人いたため三男にあたり、母は側室という庶子でした。この時点で後継者になる望みは薄かったといえるでしょう。 ところが、正室・丁氏が育てていた異母長兄・曹昂(そうこう)が戦死したことで、丁氏と曹操が離別します。さらには次兄・曹鑠(そうしゃく)も病死してしまいました。そのため卞氏が正室として迎えられ、それ以降は曹丕が嫡子として扱われるようになったのです。 魏の初代皇帝:文帝となった 曹丕は父のもとで五官中郎将として副丞相(ふくじょうしょう)になり、曹操の不在時に代わりを任されるようになりました。 建安21~22年(216~217)、弟・曹植(そうしょく)との後継者争いに勝利し、建安25年(220)に曹操が逝去すると、魏王に即位して丞相職を引き継ぎます。その後、霊帝の次子で後漢最後の皇帝でもある献帝(劉協)に地位を譲るよう迫り、ついに皇帝の座に就いたのです。 これにより後漢は滅亡し、それ以降「三国時代」に突入することになります。文帝となった曹丕は、諸制度を整え、父から受け継いだ国を安定させていきました。 曹丕の最期について 黄初3年(222)、魏は呉に攻勢することを決定します。曹仁・曹休・曹真・夏侯尚(かこうしょう)は3路から呉を攻めましたが、包囲が半年に及んだり疫病が発生したりしたため、結果は大敗でした。 黄初5年(224)の出兵では曹丕が十数万の大軍を率いて出撃したものの、偽の城壁の存在に驚き、まだ孫権を攻めるのは難しいと判断して戦わずに退却しています。その翌年も魏軍を率いて進撃しましたが、厳しい寒さで長江が凍っていたため舟を動かせず、撤退を余儀なくされました。 そして黄初7年(226)曹丕は風邪を悪化させて肺炎になり、この世を去ったのです。 悪評が多い?その人物像と逸話とは 魏の初代皇帝という輝かしい地位に就いた曹丕でしたが、その評判はあまり良くなかったようです。ここでは曹丕の逸話からその人物像に迫ります。 幼い頃から文武両道に優れていた 曹丕は8歳の時点で巧みな文章を書く能力を持っていました。また騎射や剣術の才能にも秀でており、わずか11歳で父・曹操の軍に従軍しています。その中でも得意だったのは弓だそうです。これらのことから、彼は文武両道の武将といわれています。 日本史ではおおよそ15歳前後に元服して大人になりますが、曹丕はそれ以前にすでに命を賭して戦っていたのですね。この経験は曹丕の性格形成にも関わっていたかもしれません。
魏の初代皇帝となる人物は、どのような理由で孫権への攻撃を取りやめたか?
魏の初代皇帝となる人物は、偽の城壁の存在に驚き、まだ孫権を攻めるのは難しいと判断して戦わずに退却した。
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歴史
魏の初代皇帝となる人物は、曹丕である。 曹植を陥れたことで知られる 2人の兄が死んで、嫡男の扱いを受けるようになった曹丕ですが、もともと曹操が目をかけていたのは異母弟の曹沖と曹植でした。彼らは幼い頃から頭がよく優しい性格だったようです。 ところが曹沖が13歳で亡くなると、曹丕と曹植の間で後継者争いが勃発します。ただし曹植自身は争うつもりはなく、取り巻きが彼を担ぎ上げたようです。 最終的に曹操が跡継ぎにしたのは曹丕でしたが、これは冷酷な一面を持つ曹丕なら厳しい決断もできるだろうと考えたからだといわれています。 曹丕は父の死後、復讐のように曹植の側近たちを処刑しました。そして曹植らを辺地に追いやり、力をそぐために転封を繰り返させたのです。このような処遇と司馬氏の重用が、のちに中国統一を果たす西晋の武帝・司馬炎の存在につながっていくのです。 甄夫人に死を!残虐な一面 曹丕には甄夫人(しんふじん)という側室がいました。高官の家柄で幼い頃から聡明だった彼女は、小説『三国志演義』で美女として描かれています。 彼女は袁紹(えんしょう)の次男・袁煕(えんき)の妻でしたが、建安9年(204)に曹操が鄴(ぎょう)を攻め落とした後、曹丕の側室になりました。寵愛を受けて曹叡(後の明帝)らを産んだ彼女でしたが、曹丕の愛情はやがて他の女性に移ってしまいます。これに対し恨み言をいうと、怒った曹丕は彼女を死に追いやりました。 『三国志』魏書周宣伝によると、のちに曹丕はこれを後悔したそうです。 「四友」を寵愛し要職を任せる 曹丕は、司馬懿(しばい)・陳羣(ちんぐん)・呉質(ごしつ)・朱鑠(しゅしゃく)の4人を寵愛(ちょうあい)していました。彼らは「四友」と呼ばれ、重要な職を歴任しています。 陳羣は「九品官人法」を制定し、これはその後360年以上にわたって使われました。司馬懿は曹操に仕えていましたが、太子中庶子になり曹丕の厚い信頼を得ています。 呉質は豊かな文才の持ち主で、曹丕から心労を打ち明けられるなど親しくしていたことがわかる人物です。また朱鑠も曹丕から友人としての待遇を受けています。 彼ら4人は曹丕のよき相談相手であり、友人でもあったのでしょう。 『典論』を記した文帝 曹丕は『典論』を著したことでも有名です。これは中国で初めて本格的に文学・文体などを論じた書物で、現在は自叙文と文選に引用された論文だけが残されています。 『典論』にはこんな逸話があります。 崑崙山(こんろんざん)には火ねずみの毛で作ったといわれる「火浣布(かかんぷ)」という耐火性の織物がありました。火の中に入れると布は燃えずに汚れだけが落ちるという珍しいものでしたが、長らく見かけなかったため人々はその存在を疑い始めました。曹丕は、火は容赦なく焼き尽くすからそんな布はありえないと『典論』の中で論じて否定します。明帝はこれを不朽の格言だとして石碑に刻みました。しかし、西域の使者が「火浣布」で作った袈裟を献上したため、石碑の該当箇所は削り取られ、天下の笑いのタネになったそうです。 後世の評価が低い曹丕 『三国志』の英雄の一人・曹操は帝位に就かず、その息子である曹丕が魏の初代皇帝になりました。多くの兄弟の中でようやくつかんだその座は、彼にとって誇らしいものだったに違いありません。 しかし数々の逸話からもわかるように、後世での評価は低いのが実情です。呉への進撃がうまくいけば結果は違ったかもしれませんが、どちらにせよ曹操の跡継ぎとして比較される運命からは逃れられないでしょう。偉大過ぎる父を持ったため、これも致し方ないのかもしれませんね。
魏の初代皇帝となる人物は、2人の兄が死んで、どのような扱いを受けたか。
魏の初代皇帝となる人物は、2人の兄が死んで、嫡男の扱いを受けるようになった。
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歴史
魏の初代皇帝となる人物は、曹丕である。 曹植を陥れたことで知られる 2人の兄が死んで、嫡男の扱いを受けるようになった曹丕ですが、もともと曹操が目をかけていたのは異母弟の曹沖と曹植でした。彼らは幼い頃から頭がよく優しい性格だったようです。 ところが曹沖が13歳で亡くなると、曹丕と曹植の間で後継者争いが勃発します。ただし曹植自身は争うつもりはなく、取り巻きが彼を担ぎ上げたようです。 最終的に曹操が跡継ぎにしたのは曹丕でしたが、これは冷酷な一面を持つ曹丕なら厳しい決断もできるだろうと考えたからだといわれています。 曹丕は父の死後、復讐のように曹植の側近たちを処刑しました。そして曹植らを辺地に追いやり、力をそぐために転封を繰り返させたのです。このような処遇と司馬氏の重用が、のちに中国統一を果たす西晋の武帝・司馬炎の存在につながっていくのです。 甄夫人に死を!残虐な一面 曹丕には甄夫人(しんふじん)という側室がいました。高官の家柄で幼い頃から聡明だった彼女は、小説『三国志演義』で美女として描かれています。 彼女は袁紹(えんしょう)の次男・袁煕(えんき)の妻でしたが、建安9年(204)に曹操が鄴(ぎょう)を攻め落とした後、曹丕の側室になりました。寵愛を受けて曹叡(後の明帝)らを産んだ彼女でしたが、曹丕の愛情はやがて他の女性に移ってしまいます。これに対し恨み言をいうと、怒った曹丕は彼女を死に追いやりました。 『三国志』魏書周宣伝によると、のちに曹丕はこれを後悔したそうです。 「四友」を寵愛し要職を任せる 曹丕は、司馬懿(しばい)・陳羣(ちんぐん)・呉質(ごしつ)・朱鑠(しゅしゃく)の4人を寵愛(ちょうあい)していました。彼らは「四友」と呼ばれ、重要な職を歴任しています。 陳羣は「九品官人法」を制定し、これはその後360年以上にわたって使われました。司馬懿は曹操に仕えていましたが、太子中庶子になり曹丕の厚い信頼を得ています。 呉質は豊かな文才の持ち主で、曹丕から心労を打ち明けられるなど親しくしていたことがわかる人物です。また朱鑠も曹丕から友人としての待遇を受けています。 彼ら4人は曹丕のよき相談相手であり、友人でもあったのでしょう。 『典論』を記した文帝 曹丕は『典論』を著したことでも有名です。これは中国で初めて本格的に文学・文体などを論じた書物で、現在は自叙文と文選に引用された論文だけが残されています。 『典論』にはこんな逸話があります。 崑崙山(こんろんざん)には火ねずみの毛で作ったといわれる「火浣布(かかんぷ)」という耐火性の織物がありました。火の中に入れると布は燃えずに汚れだけが落ちるという珍しいものでしたが、長らく見かけなかったため人々はその存在を疑い始めました。曹丕は、火は容赦なく焼き尽くすからそんな布はありえないと『典論』の中で論じて否定します。明帝はこれを不朽の格言だとして石碑に刻みました。しかし、西域の使者が「火浣布」で作った袈裟を献上したため、石碑の該当箇所は削り取られ、天下の笑いのタネになったそうです。 後世の評価が低い曹丕 『三国志』の英雄の一人・曹操は帝位に就かず、その息子である曹丕が魏の初代皇帝になりました。多くの兄弟の中でようやくつかんだその座は、彼にとって誇らしいものだったに違いありません。 しかし数々の逸話からもわかるように、後世での評価は低いのが実情です。呉への進撃がうまくいけば結果は違ったかもしれませんが、どちらにせよ曹操の跡継ぎとして比較される運命からは逃れられないでしょう。偉大過ぎる父を持ったため、これも致し方ないのかもしれませんね。
魏の初代皇帝となる人物は、父の死後、何を行ったか。
魏の初代皇帝となる人物は、父の死後、復讐のように曹植の側近たちを処刑しました。
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歴史
魏の初代皇帝となる人物は、曹丕である。 曹植を陥れたことで知られる 2人の兄が死んで、嫡男の扱いを受けるようになった曹丕ですが、もともと曹操が目をかけていたのは異母弟の曹沖と曹植でした。彼らは幼い頃から頭がよく優しい性格だったようです。 ところが曹沖が13歳で亡くなると、曹丕と曹植の間で後継者争いが勃発します。ただし曹植自身は争うつもりはなく、取り巻きが彼を担ぎ上げたようです。 最終的に曹操が跡継ぎにしたのは曹丕でしたが、これは冷酷な一面を持つ曹丕なら厳しい決断もできるだろうと考えたからだといわれています。 曹丕は父の死後、復讐のように曹植の側近たちを処刑しました。そして曹植らを辺地に追いやり、力をそぐために転封を繰り返させたのです。このような処遇と司馬氏の重用が、のちに中国統一を果たす西晋の武帝・司馬炎の存在につながっていくのです。 甄夫人に死を!残虐な一面 曹丕には甄夫人(しんふじん)という側室がいました。高官の家柄で幼い頃から聡明だった彼女は、小説『三国志演義』で美女として描かれています。 彼女は袁紹(えんしょう)の次男・袁煕(えんき)の妻でしたが、建安9年(204)に曹操が鄴(ぎょう)を攻め落とした後、曹丕の側室になりました。寵愛を受けて曹叡(後の明帝)らを産んだ彼女でしたが、曹丕の愛情はやがて他の女性に移ってしまいます。これに対し恨み言をいうと、怒った曹丕は彼女を死に追いやりました。 『三国志』魏書周宣伝によると、のちに曹丕はこれを後悔したそうです。 「四友」を寵愛し要職を任せる 曹丕は、司馬懿(しばい)・陳羣(ちんぐん)・呉質(ごしつ)・朱鑠(しゅしゃく)の4人を寵愛(ちょうあい)していました。彼らは「四友」と呼ばれ、重要な職を歴任しています。 陳羣は「九品官人法」を制定し、これはその後360年以上にわたって使われました。司馬懿は曹操に仕えていましたが、太子中庶子になり曹丕の厚い信頼を得ています。 呉質は豊かな文才の持ち主で、曹丕から心労を打ち明けられるなど親しくしていたことがわかる人物です。また朱鑠も曹丕から友人としての待遇を受けています。 彼ら4人は曹丕のよき相談相手であり、友人でもあったのでしょう。 『典論』を記した文帝 曹丕は『典論』を著したことでも有名です。これは中国で初めて本格的に文学・文体などを論じた書物で、現在は自叙文と文選に引用された論文だけが残されています。 『典論』にはこんな逸話があります。 崑崙山(こんろんざん)には火ねずみの毛で作ったといわれる「火浣布(かかんぷ)」という耐火性の織物がありました。火の中に入れると布は燃えずに汚れだけが落ちるという珍しいものでしたが、長らく見かけなかったため人々はその存在を疑い始めました。曹丕は、火は容赦なく焼き尽くすからそんな布はありえないと『典論』の中で論じて否定します。明帝はこれを不朽の格言だとして石碑に刻みました。しかし、西域の使者が「火浣布」で作った袈裟を献上したため、石碑の該当箇所は削り取られ、天下の笑いのタネになったそうです。 後世の評価が低い曹丕 『三国志』の英雄の一人・曹操は帝位に就かず、その息子である曹丕が魏の初代皇帝になりました。多くの兄弟の中でようやくつかんだその座は、彼にとって誇らしいものだったに違いありません。 しかし数々の逸話からもわかるように、後世での評価は低いのが実情です。呉への進撃がうまくいけば結果は違ったかもしれませんが、どちらにせよ曹操の跡継ぎとして比較される運命からは逃れられないでしょう。偉大過ぎる父を持ったため、これも致し方ないのかもしれませんね。
魏の初代皇帝となる人物は、どのような人物たちを寵愛していたか。
魏の初代皇帝となる人物は、司馬懿・陳羣・呉質・朱鑠の4人を寵愛していました。
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歴史
魏の初代皇帝となる人物は、曹丕である。 曹植を陥れたことで知られる 2人の兄が死んで、嫡男の扱いを受けるようになった曹丕ですが、もともと曹操が目をかけていたのは異母弟の曹沖と曹植でした。彼らは幼い頃から頭がよく優しい性格だったようです。 ところが曹沖が13歳で亡くなると、曹丕と曹植の間で後継者争いが勃発します。ただし曹植自身は争うつもりはなく、取り巻きが彼を担ぎ上げたようです。 最終的に曹操が跡継ぎにしたのは曹丕でしたが、これは冷酷な一面を持つ曹丕なら厳しい決断もできるだろうと考えたからだといわれています。 曹丕は父の死後、復讐のように曹植の側近たちを処刑しました。そして曹植らを辺地に追いやり、力をそぐために転封を繰り返させたのです。このような処遇と司馬氏の重用が、のちに中国統一を果たす西晋の武帝・司馬炎の存在につながっていくのです。 甄夫人に死を!残虐な一面 曹丕には甄夫人(しんふじん)という側室がいました。高官の家柄で幼い頃から聡明だった彼女は、小説『三国志演義』で美女として描かれています。 彼女は袁紹(えんしょう)の次男・袁煕(えんき)の妻でしたが、建安9年(204)に曹操が鄴(ぎょう)を攻め落とした後、曹丕の側室になりました。寵愛を受けて曹叡(後の明帝)らを産んだ彼女でしたが、曹丕の愛情はやがて他の女性に移ってしまいます。これに対し恨み言をいうと、怒った曹丕は彼女を死に追いやりました。 『三国志』魏書周宣伝によると、のちに曹丕はこれを後悔したそうです。 「四友」を寵愛し要職を任せる 曹丕は、司馬懿(しばい)・陳羣(ちんぐん)・呉質(ごしつ)・朱鑠(しゅしゃく)の4人を寵愛(ちょうあい)していました。彼らは「四友」と呼ばれ、重要な職を歴任しています。 陳羣は「九品官人法」を制定し、これはその後360年以上にわたって使われました。司馬懿は曹操に仕えていましたが、太子中庶子になり曹丕の厚い信頼を得ています。 呉質は豊かな文才の持ち主で、曹丕から心労を打ち明けられるなど親しくしていたことがわかる人物です。また朱鑠も曹丕から友人としての待遇を受けています。 彼ら4人は曹丕のよき相談相手であり、友人でもあったのでしょう。 『典論』を記した文帝 曹丕は『典論』を著したことでも有名です。これは中国で初めて本格的に文学・文体などを論じた書物で、現在は自叙文と文選に引用された論文だけが残されています。 『典論』にはこんな逸話があります。 崑崙山(こんろんざん)には火ねずみの毛で作ったといわれる「火浣布(かかんぷ)」という耐火性の織物がありました。火の中に入れると布は燃えずに汚れだけが落ちるという珍しいものでしたが、長らく見かけなかったため人々はその存在を疑い始めました。曹丕は、火は容赦なく焼き尽くすからそんな布はありえないと『典論』の中で論じて否定します。明帝はこれを不朽の格言だとして石碑に刻みました。しかし、西域の使者が「火浣布」で作った袈裟を献上したため、石碑の該当箇所は削り取られ、天下の笑いのタネになったそうです。 後世の評価が低い曹丕 『三国志』の英雄の一人・曹操は帝位に就かず、その息子である曹丕が魏の初代皇帝になりました。多くの兄弟の中でようやくつかんだその座は、彼にとって誇らしいものだったに違いありません。 しかし数々の逸話からもわかるように、後世での評価は低いのが実情です。呉への進撃がうまくいけば結果は違ったかもしれませんが、どちらにせよ曹操の跡継ぎとして比較される運命からは逃れられないでしょう。偉大過ぎる父を持ったため、これも致し方ないのかもしれませんね。
魏の初代皇帝となる人物は、どのような内容を『典論』で論じたか。
魏の初代皇帝となる人物は、火は容赦なく焼き尽くすからそんな布はありえないと『典論』の中で論じて否定した。
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魏の初代皇帝となる人物は、曹丕である。 曹植を陥れたことで知られる 2人の兄が死んで、嫡男の扱いを受けるようになった曹丕ですが、もともと曹操が目をかけていたのは異母弟の曹沖と曹植でした。彼らは幼い頃から頭がよく優しい性格だったようです。 ところが曹沖が13歳で亡くなると、曹丕と曹植の間で後継者争いが勃発します。ただし曹植自身は争うつもりはなく、取り巻きが彼を担ぎ上げたようです。 最終的に曹操が跡継ぎにしたのは曹丕でしたが、これは冷酷な一面を持つ曹丕なら厳しい決断もできるだろうと考えたからだといわれています。 曹丕は父の死後、復讐のように曹植の側近たちを処刑しました。そして曹植らを辺地に追いやり、力をそぐために転封を繰り返させたのです。このような処遇と司馬氏の重用が、のちに中国統一を果たす西晋の武帝・司馬炎の存在につながっていくのです。 甄夫人に死を!残虐な一面 曹丕には甄夫人(しんふじん)という側室がいました。高官の家柄で幼い頃から聡明だった彼女は、小説『三国志演義』で美女として描かれています。 彼女は袁紹(えんしょう)の次男・袁煕(えんき)の妻でしたが、建安9年(204)に曹操が鄴(ぎょう)を攻め落とした後、曹丕の側室になりました。寵愛を受けて曹叡(後の明帝)らを産んだ彼女でしたが、曹丕の愛情はやがて他の女性に移ってしまいます。これに対し恨み言をいうと、怒った曹丕は彼女を死に追いやりました。 『三国志』魏書周宣伝によると、のちに曹丕はこれを後悔したそうです。 「四友」を寵愛し要職を任せる 曹丕は、司馬懿(しばい)・陳羣(ちんぐん)・呉質(ごしつ)・朱鑠(しゅしゃく)の4人を寵愛(ちょうあい)していました。彼らは「四友」と呼ばれ、重要な職を歴任しています。 陳羣は「九品官人法」を制定し、これはその後360年以上にわたって使われました。司馬懿は曹操に仕えていましたが、太子中庶子になり曹丕の厚い信頼を得ています。 呉質は豊かな文才の持ち主で、曹丕から心労を打ち明けられるなど親しくしていたことがわかる人物です。また朱鑠も曹丕から友人としての待遇を受けています。 彼ら4人は曹丕のよき相談相手であり、友人でもあったのでしょう。 『典論』を記した文帝 曹丕は『典論』を著したことでも有名です。これは中国で初めて本格的に文学・文体などを論じた書物で、現在は自叙文と文選に引用された論文だけが残されています。 『典論』にはこんな逸話があります。 崑崙山(こんろんざん)には火ねずみの毛で作ったといわれる「火浣布(かかんぷ)」という耐火性の織物がありました。火の中に入れると布は燃えずに汚れだけが落ちるという珍しいものでしたが、長らく見かけなかったため人々はその存在を疑い始めました。曹丕は、火は容赦なく焼き尽くすからそんな布はありえないと『典論』の中で論じて否定します。明帝はこれを不朽の格言だとして石碑に刻みました。しかし、西域の使者が「火浣布」で作った袈裟を献上したため、石碑の該当箇所は削り取られ、天下の笑いのタネになったそうです。 後世の評価が低い曹丕 『三国志』の英雄の一人・曹操は帝位に就かず、その息子である曹丕が魏の初代皇帝になりました。多くの兄弟の中でようやくつかんだその座は、彼にとって誇らしいものだったに違いありません。 しかし数々の逸話からもわかるように、後世での評価は低いのが実情です。呉への進撃がうまくいけば結果は違ったかもしれませんが、どちらにせよ曹操の跡継ぎとして比較される運命からは逃れられないでしょう。偉大過ぎる父を持ったため、これも致し方ないのかもしれませんね。
魏の初代皇帝となる人物は、どのような人物像によって後世に評価されたか。
魏の初代皇帝となる人物は、後世での評価は低いのが実情です。
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歴史
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、呂布である。 呂布とはどんな人物なのか? いわゆる三国志の有名な場面の大半は、三国時代直後に書かれた史書としての『三国志』ではなく、後の明代にこの『三国志』を面白くかつ、分かりやすく編集することで成立した時代小説『三国志演義』に由来します。これからご紹介する呂布の人物像も、一般的に三国志演義に基づくものです。まずはそこから、呂布の人物像について見ていきましょう。一体どの程度の強さを誇り、どのような性格の持ち主だったのでしょうか。 三国志で史上最強とされる武将 呂布は三国志の中でも最強といわれている武将で、数々の戦いで武勇を示しました。気性が荒い最高の名馬「赤兎馬(せきとば)」を乗りこなしたことでも有名で、『呂布伝』では「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と記載されるなど、人馬共に最強とたたえられています。圧倒的な存在感と戦場での強さが、彼の魅力といえるでしょう。 多くの裏切り……その人物像は? 優れた弓術や馬術を身に付けていた呂布は、部下の指揮にも秀でていました。兵の動かし方は巧みで、部下にも慕われていたことから、戦場での指揮官としての資質はかなり高かったといえるでしょう。しかし思慮が浅く、目的のためには手段を選ばなかったため、その人生で多くの裏切りを繰り返しました。一言で表せば、したたかな人物だったといえそうです。 三国志での呂布の足跡を辿る 一筋縄ではいかない性格の呂布ですが、三国志でどのような足跡を辿っていったのか詳しく見ていきましょう。 丁原を裏切り董卓に仕える 呂布は并州の刺史だった丁原(ていげん)から武芸の腕前や勇猛さを買われ、彼の会計係を務めていました。そんな折、首都洛陽で中央権力を得ようと画策していた董卓(とうたく)から、障害となる丁原の殺害を持ち掛けられます。呂布は丁原から寵愛されていたので、普通であればそのような話には乗らないはずです。ところが呂布はその話に乗り丁原を殺害、その後は董卓に仕えるようになるのです。董卓は呂布と養子の縁まで結び、彼を重用しました。また、優秀な猛将である呂布がそばにいることで悪政の限りを尽くしたのです。 董卓暗殺!その理由とは 董卓の政治はひどいもので、大臣を辞めさせるなど勝手な人事をしたり、富豪から金品を奪取したり、罪のない人々を殺したりしました。その上、臣下の身でありながら、まだ幼かった皇帝を辞めさせ殺害までしています。このような振る舞いに対し反董卓連合軍が立ち上がりますが、董卓は町を焼き払って洛陽から長安に遷都するという強引なやり口で反撃します。そんな彼を止めたのは、なんと義理の息子となった呂布でした。董卓暗殺を企てていた朝廷の有力者・王允(おういん)の誘いに乗り、自らの手で董卓を殺したのです。 養子縁組までした董卓をなぜ裏切ったのか疑問になりますが、立腹状態の董卓から刃物を投げ付けられたことがあったからという説や、呂布が董卓の侍女と関係を持ち、バレるのを恐れたからという説など、その理由はさまざまあると考えられています。
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、どのような馬を乗りこなしたか。
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、気性が荒い最高の名馬「赤兎馬(せきとば)」を乗りこなした。
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歴史
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、呂布である。 呂布とはどんな人物なのか? いわゆる三国志の有名な場面の大半は、三国時代直後に書かれた史書としての『三国志』ではなく、後の明代にこの『三国志』を面白くかつ、分かりやすく編集することで成立した時代小説『三国志演義』に由来します。これからご紹介する呂布の人物像も、一般的に三国志演義に基づくものです。まずはそこから、呂布の人物像について見ていきましょう。一体どの程度の強さを誇り、どのような性格の持ち主だったのでしょうか。 三国志で史上最強とされる武将 呂布は三国志の中でも最強といわれている武将で、数々の戦いで武勇を示しました。気性が荒い最高の名馬「赤兎馬(せきとば)」を乗りこなしたことでも有名で、『呂布伝』では「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と記載されるなど、人馬共に最強とたたえられています。圧倒的な存在感と戦場での強さが、彼の魅力といえるでしょう。 多くの裏切り……その人物像は? 優れた弓術や馬術を身に付けていた呂布は、部下の指揮にも秀でていました。兵の動かし方は巧みで、部下にも慕われていたことから、戦場での指揮官としての資質はかなり高かったといえるでしょう。しかし思慮が浅く、目的のためには手段を選ばなかったため、その人生で多くの裏切りを繰り返しました。一言で表せば、したたかな人物だったといえそうです。 三国志での呂布の足跡を辿る 一筋縄ではいかない性格の呂布ですが、三国志でどのような足跡を辿っていったのか詳しく見ていきましょう。 丁原を裏切り董卓に仕える 呂布は并州の刺史だった丁原(ていげん)から武芸の腕前や勇猛さを買われ、彼の会計係を務めていました。そんな折、首都洛陽で中央権力を得ようと画策していた董卓(とうたく)から、障害となる丁原の殺害を持ち掛けられます。呂布は丁原から寵愛されていたので、普通であればそのような話には乗らないはずです。ところが呂布はその話に乗り丁原を殺害、その後は董卓に仕えるようになるのです。董卓は呂布と養子の縁まで結び、彼を重用しました。また、優秀な猛将である呂布がそばにいることで悪政の限りを尽くしたのです。 董卓暗殺!その理由とは 董卓の政治はひどいもので、大臣を辞めさせるなど勝手な人事をしたり、富豪から金品を奪取したり、罪のない人々を殺したりしました。その上、臣下の身でありながら、まだ幼かった皇帝を辞めさせ殺害までしています。このような振る舞いに対し反董卓連合軍が立ち上がりますが、董卓は町を焼き払って洛陽から長安に遷都するという強引なやり口で反撃します。そんな彼を止めたのは、なんと義理の息子となった呂布でした。董卓暗殺を企てていた朝廷の有力者・王允(おういん)の誘いに乗り、自らの手で董卓を殺したのです。 養子縁組までした董卓をなぜ裏切ったのか疑問になりますが、立腹状態の董卓から刃物を投げ付けられたことがあったからという説や、呂布が董卓の侍女と関係を持ち、バレるのを恐れたからという説など、その理由はさまざまあると考えられています。
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、誰を殺害して董卓に仕えたか。
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、呂布はその話に乗り丁原を殺害、その後は董卓に仕えるようになった。
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歴史
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、呂布である。 呂布とはどんな人物なのか? いわゆる三国志の有名な場面の大半は、三国時代直後に書かれた史書としての『三国志』ではなく、後の明代にこの『三国志』を面白くかつ、分かりやすく編集することで成立した時代小説『三国志演義』に由来します。これからご紹介する呂布の人物像も、一般的に三国志演義に基づくものです。まずはそこから、呂布の人物像について見ていきましょう。一体どの程度の強さを誇り、どのような性格の持ち主だったのでしょうか。 三国志で史上最強とされる武将 呂布は三国志の中でも最強といわれている武将で、数々の戦いで武勇を示しました。気性が荒い最高の名馬「赤兎馬(せきとば)」を乗りこなしたことでも有名で、『呂布伝』では「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と記載されるなど、人馬共に最強とたたえられています。圧倒的な存在感と戦場での強さが、彼の魅力といえるでしょう。 多くの裏切り……その人物像は? 優れた弓術や馬術を身に付けていた呂布は、部下の指揮にも秀でていました。兵の動かし方は巧みで、部下にも慕われていたことから、戦場での指揮官としての資質はかなり高かったといえるでしょう。しかし思慮が浅く、目的のためには手段を選ばなかったため、その人生で多くの裏切りを繰り返しました。一言で表せば、したたかな人物だったといえそうです。 三国志での呂布の足跡を辿る 一筋縄ではいかない性格の呂布ですが、三国志でどのような足跡を辿っていったのか詳しく見ていきましょう。 丁原を裏切り董卓に仕える 呂布は并州の刺史だった丁原(ていげん)から武芸の腕前や勇猛さを買われ、彼の会計係を務めていました。そんな折、首都洛陽で中央権力を得ようと画策していた董卓(とうたく)から、障害となる丁原の殺害を持ち掛けられます。呂布は丁原から寵愛されていたので、普通であればそのような話には乗らないはずです。ところが呂布はその話に乗り丁原を殺害、その後は董卓に仕えるようになるのです。董卓は呂布と養子の縁まで結び、彼を重用しました。また、優秀な猛将である呂布がそばにいることで悪政の限りを尽くしたのです。 董卓暗殺!その理由とは 董卓の政治はひどいもので、大臣を辞めさせるなど勝手な人事をしたり、富豪から金品を奪取したり、罪のない人々を殺したりしました。その上、臣下の身でありながら、まだ幼かった皇帝を辞めさせ殺害までしています。このような振る舞いに対し反董卓連合軍が立ち上がりますが、董卓は町を焼き払って洛陽から長安に遷都するという強引なやり口で反撃します。そんな彼を止めたのは、なんと義理の息子となった呂布でした。董卓暗殺を企てていた朝廷の有力者・王允(おういん)の誘いに乗り、自らの手で董卓を殺したのです。 養子縁組までした董卓をなぜ裏切ったのか疑問になりますが、立腹状態の董卓から刃物を投げ付けられたことがあったからという説や、呂布が董卓の侍女と関係を持ち、バレるのを恐れたからという説など、その理由はさまざまあると考えられています。
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、誰を暗殺したか。
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、自らの手で董卓を殺した。
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歴史
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、呂布である。 呂布とはどんな人物なのか? いわゆる三国志の有名な場面の大半は、三国時代直後に書かれた史書としての『三国志』ではなく、後の明代にこの『三国志』を面白くかつ、分かりやすく編集することで成立した時代小説『三国志演義』に由来します。これからご紹介する呂布の人物像も、一般的に三国志演義に基づくものです。まずはそこから、呂布の人物像について見ていきましょう。一体どの程度の強さを誇り、どのような性格の持ち主だったのでしょうか。 三国志で史上最強とされる武将 呂布は三国志の中でも最強といわれている武将で、数々の戦いで武勇を示しました。気性が荒い最高の名馬「赤兎馬(せきとば)」を乗りこなしたことでも有名で、『呂布伝』では「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と記載されるなど、人馬共に最強とたたえられています。圧倒的な存在感と戦場での強さが、彼の魅力といえるでしょう。 多くの裏切り……その人物像は? 優れた弓術や馬術を身に付けていた呂布は、部下の指揮にも秀でていました。兵の動かし方は巧みで、部下にも慕われていたことから、戦場での指揮官としての資質はかなり高かったといえるでしょう。しかし思慮が浅く、目的のためには手段を選ばなかったため、その人生で多くの裏切りを繰り返しました。一言で表せば、したたかな人物だったといえそうです。 三国志での呂布の足跡を辿る 一筋縄ではいかない性格の呂布ですが、三国志でどのような足跡を辿っていったのか詳しく見ていきましょう。 丁原を裏切り董卓に仕える 呂布は并州の刺史だった丁原(ていげん)から武芸の腕前や勇猛さを買われ、彼の会計係を務めていました。そんな折、首都洛陽で中央権力を得ようと画策していた董卓(とうたく)から、障害となる丁原の殺害を持ち掛けられます。呂布は丁原から寵愛されていたので、普通であればそのような話には乗らないはずです。ところが呂布はその話に乗り丁原を殺害、その後は董卓に仕えるようになるのです。董卓は呂布と養子の縁まで結び、彼を重用しました。また、優秀な猛将である呂布がそばにいることで悪政の限りを尽くしたのです。 董卓暗殺!その理由とは 董卓の政治はひどいもので、大臣を辞めさせるなど勝手な人事をしたり、富豪から金品を奪取したり、罪のない人々を殺したりしました。その上、臣下の身でありながら、まだ幼かった皇帝を辞めさせ殺害までしています。このような振る舞いに対し反董卓連合軍が立ち上がりますが、董卓は町を焼き払って洛陽から長安に遷都するという強引なやり口で反撃します。そんな彼を止めたのは、なんと義理の息子となった呂布でした。董卓暗殺を企てていた朝廷の有力者・王允(おういん)の誘いに乗り、自らの手で董卓を殺したのです。 養子縁組までした董卓をなぜ裏切ったのか疑問になりますが、立腹状態の董卓から刃物を投げ付けられたことがあったからという説や、呂布が董卓の侍女と関係を持ち、バレるのを恐れたからという説など、その理由はさまざまあると考えられています。
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、誰に侍女との関係を恐れて裏切りを決意したか。
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、呂布が董卓の侍女と関係を持ち、バレるのを恐れたからという説など、その理由はさまざまあると考えられている。
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歴史
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、呂布である。 呂布とはどんな人物なのか? いわゆる三国志の有名な場面の大半は、三国時代直後に書かれた史書としての『三国志』ではなく、後の明代にこの『三国志』を面白くかつ、分かりやすく編集することで成立した時代小説『三国志演義』に由来します。これからご紹介する呂布の人物像も、一般的に三国志演義に基づくものです。まずはそこから、呂布の人物像について見ていきましょう。一体どの程度の強さを誇り、どのような性格の持ち主だったのでしょうか。 三国志で史上最強とされる武将 呂布は三国志の中でも最強といわれている武将で、数々の戦いで武勇を示しました。気性が荒い最高の名馬「赤兎馬(せきとば)」を乗りこなしたことでも有名で、『呂布伝』では「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と記載されるなど、人馬共に最強とたたえられています。圧倒的な存在感と戦場での強さが、彼の魅力といえるでしょう。 多くの裏切り……その人物像は? 優れた弓術や馬術を身に付けていた呂布は、部下の指揮にも秀でていました。兵の動かし方は巧みで、部下にも慕われていたことから、戦場での指揮官としての資質はかなり高かったといえるでしょう。しかし思慮が浅く、目的のためには手段を選ばなかったため、その人生で多くの裏切りを繰り返しました。一言で表せば、したたかな人物だったといえそうです。 三国志での呂布の足跡を辿る 一筋縄ではいかない性格の呂布ですが、三国志でどのような足跡を辿っていったのか詳しく見ていきましょう。 丁原を裏切り董卓に仕える 呂布は并州の刺史だった丁原(ていげん)から武芸の腕前や勇猛さを買われ、彼の会計係を務めていました。そんな折、首都洛陽で中央権力を得ようと画策していた董卓(とうたく)から、障害となる丁原の殺害を持ち掛けられます。呂布は丁原から寵愛されていたので、普通であればそのような話には乗らないはずです。ところが呂布はその話に乗り丁原を殺害、その後は董卓に仕えるようになるのです。董卓は呂布と養子の縁まで結び、彼を重用しました。また、優秀な猛将である呂布がそばにいることで悪政の限りを尽くしたのです。 董卓暗殺!その理由とは 董卓の政治はひどいもので、大臣を辞めさせるなど勝手な人事をしたり、富豪から金品を奪取したり、罪のない人々を殺したりしました。その上、臣下の身でありながら、まだ幼かった皇帝を辞めさせ殺害までしています。このような振る舞いに対し反董卓連合軍が立ち上がりますが、董卓は町を焼き払って洛陽から長安に遷都するという強引なやり口で反撃します。そんな彼を止めたのは、なんと義理の息子となった呂布でした。董卓暗殺を企てていた朝廷の有力者・王允(おういん)の誘いに乗り、自らの手で董卓を殺したのです。 養子縁組までした董卓をなぜ裏切ったのか疑問になりますが、立腹状態の董卓から刃物を投げ付けられたことがあったからという説や、呂布が董卓の侍女と関係を持ち、バレるのを恐れたからという説など、その理由はさまざまあると考えられています。
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、戦場でどのような指揮官だったか。
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、戦場での指揮官としての資質はかなり高かったといえる。
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歴史
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、呂布である。 袁術や袁紹を頼ったが…… 董卓を殺害後、呂布は王允と共に政権を握りましたが、董卓の軍事力の基盤だった郭汜(かくし)、李傕(りかく)らに長安を襲撃され、数百騎を率いて逃亡することになります。流浪の旅を始めた呂布でしたが、自分の領土がないため、どこかで兵士たちの腹を満たす必要がありました。そこで呂布は自分を売り込み、受け入れてくれるよう各地に頼みに行くことになるのです。 荊州(けいしゅう)の袁術(えんじゅつ)には受け入れてもらえませんでしたが、次に頼った袁紹(えんしょう)は黒山賊の張燕(ちょうえん)と対立していたため呂布を受け入れました。しかし張燕軍との戦いに勝利した呂布が兵力補充を要求した際、呂布の将兵が略奪などを行ったことで袁紹との関係が悪化してしまいます。恐れをなして刺客を送った袁紹は、呂布が奇策でこれを回避したことを知り、固く城門を閉ざしたのです。 曹操の領地を乗っ取ろうとした その後、数々の群雄たちを頼った呂布でしたが、ついには他者の領地を乗っ取ることになります。 曹操が徐州の陶謙(とうけん)との戦いのために兗州(えんしゅう)を留守にすると、曹操に対し反逆の意思を持っていた張超(ちょうちょう)と陳宮(ちんきゅう)が、曹操の親友である張邈(ちょうばく)に「呂布と兗州を共有すること」を提案します。張邈は反乱の意を固め、これにより受け入れられた呂布はさまざまな城を奇襲などで落としていきました。 曹操が徐州から戻ると、呂布は濮陽(ぼくよう)に籠城して曹操からの攻撃を連破します。この戦いは1年以上続きましたが、最終的には呂布の敗北に終わりました。 放浪生活から劉備のもとへ 曹操との戦いから逃げ延びた呂布は、最後に徐州を支配していた劉備を頼りました。呂布は妻に挨拶をさせたり劉備と酒を酌み交わしたりしましたが、劉備は呂布の一貫性のなさを見抜いていたようです。 やがて劉備と袁術が徐州を巡り争い始めると、呂布はその隙に劉備の本拠である下邳(かひ)を奪取してしまいます。これにより劉備が降伏すると、呂布は劉備を豫州(よしゅう)の刺史にし、自らは徐州の刺史を名乗りました。その後、劉備は1万の兵を集めたものの呂布から攻撃され、曹操を頼ることとなります。 裏切り者の烙印を押された男の最期 裏切りに次ぐ裏切りで徐州を支配するまでにいたった呂布ですが、そんな彼にも最期が訪れます。呂布は曹操に捕まってもなお保身のため、自分を家臣にするよう進言するといった驚きの言動に打って出ました。ここでは、呂布の最期について見ていきます。 曹操の軍門に下った呂布の狙い 呂布は再び袁術と通じるようになりましたが、劉備が逃走して頼った曹操が、大軍を率いて徐州に攻め込んできます。下邳に到着した曹操との戦いに大敗するなど、戦況は曹操軍が優位でした。呂布らは下邳に籠城しましたが、周りを曹操軍に囲まれ水攻めが実行されると、呂布の騎将だった侯成らは呂布を裏切って投降します。今まで裏切りを繰り返してきた呂布でしたが、最後は自分が裏切られることになってしまいました。 曹操によって処刑される 捕縛され曹操の前に差し出された呂布は、縛り方がきつすぎるので緩めるよう願い出たといいます。曹操が「虎を縛るのにきつくしないわけにはいかない」と返答すると、呂布は「自分が降伏したら心配事はもうない。殿が歩兵を、私が騎兵を率いれば天下太平だろう」と進言します。しかし劉備が呂布の裏切りの数々を挙げたことで曹操も納得し、呂布は縛り首となりました。彼の首はさらされたのちに埋葬されたそうです。 三国志の中でも人気の武将 三国志の中でも人気を誇る猛将・呂布ですが、華々しい戦歴が注目されるとともに、裏切り者の烙印も押されています。その人生を振り返ると、確かに裏切りの連続でしたが、群雄割拠の時代背景を考えると、より強い者を目指し、裏切ってでものし上がるというのは、この時代を生き抜くための重要なスキルだったのかもしれません。呂布が今なお人気なのは、猛然と乱世を渡り抜く最強の武将として魅力があるからなのでしょう。
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、誰の本拠地を奪取したか。
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、劉備の本拠である下邳を奪取してしまう。
JCRRAG_018468
歴史
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、呂布である。 袁術や袁紹を頼ったが…… 董卓を殺害後、呂布は王允と共に政権を握りましたが、董卓の軍事力の基盤だった郭汜(かくし)、李傕(りかく)らに長安を襲撃され、数百騎を率いて逃亡することになります。流浪の旅を始めた呂布でしたが、自分の領土がないため、どこかで兵士たちの腹を満たす必要がありました。そこで呂布は自分を売り込み、受け入れてくれるよう各地に頼みに行くことになるのです。 荊州(けいしゅう)の袁術(えんじゅつ)には受け入れてもらえませんでしたが、次に頼った袁紹(えんしょう)は黒山賊の張燕(ちょうえん)と対立していたため呂布を受け入れました。しかし張燕軍との戦いに勝利した呂布が兵力補充を要求した際、呂布の将兵が略奪などを行ったことで袁紹との関係が悪化してしまいます。恐れをなして刺客を送った袁紹は、呂布が奇策でこれを回避したことを知り、固く城門を閉ざしたのです。 曹操の領地を乗っ取ろうとした その後、数々の群雄たちを頼った呂布でしたが、ついには他者の領地を乗っ取ることになります。 曹操が徐州の陶謙(とうけん)との戦いのために兗州(えんしゅう)を留守にすると、曹操に対し反逆の意思を持っていた張超(ちょうちょう)と陳宮(ちんきゅう)が、曹操の親友である張邈(ちょうばく)に「呂布と兗州を共有すること」を提案します。張邈は反乱の意を固め、これにより受け入れられた呂布はさまざまな城を奇襲などで落としていきました。 曹操が徐州から戻ると、呂布は濮陽(ぼくよう)に籠城して曹操からの攻撃を連破します。この戦いは1年以上続きましたが、最終的には呂布の敗北に終わりました。 放浪生活から劉備のもとへ 曹操との戦いから逃げ延びた呂布は、最後に徐州を支配していた劉備を頼りました。呂布は妻に挨拶をさせたり劉備と酒を酌み交わしたりしましたが、劉備は呂布の一貫性のなさを見抜いていたようです。 やがて劉備と袁術が徐州を巡り争い始めると、呂布はその隙に劉備の本拠である下邳(かひ)を奪取してしまいます。これにより劉備が降伏すると、呂布は劉備を豫州(よしゅう)の刺史にし、自らは徐州の刺史を名乗りました。その後、劉備は1万の兵を集めたものの呂布から攻撃され、曹操を頼ることとなります。 裏切り者の烙印を押された男の最期 裏切りに次ぐ裏切りで徐州を支配するまでにいたった呂布ですが、そんな彼にも最期が訪れます。呂布は曹操に捕まってもなお保身のため、自分を家臣にするよう進言するといった驚きの言動に打って出ました。ここでは、呂布の最期について見ていきます。 曹操の軍門に下った呂布の狙い 呂布は再び袁術と通じるようになりましたが、劉備が逃走して頼った曹操が、大軍を率いて徐州に攻め込んできます。下邳に到着した曹操との戦いに大敗するなど、戦況は曹操軍が優位でした。呂布らは下邳に籠城しましたが、周りを曹操軍に囲まれ水攻めが実行されると、呂布の騎将だった侯成らは呂布を裏切って投降します。今まで裏切りを繰り返してきた呂布でしたが、最後は自分が裏切られることになってしまいました。 曹操によって処刑される 捕縛され曹操の前に差し出された呂布は、縛り方がきつすぎるので緩めるよう願い出たといいます。曹操が「虎を縛るのにきつくしないわけにはいかない」と返答すると、呂布は「自分が降伏したら心配事はもうない。殿が歩兵を、私が騎兵を率いれば天下太平だろう」と進言します。しかし劉備が呂布の裏切りの数々を挙げたことで曹操も納得し、呂布は縛り首となりました。彼の首はさらされたのちに埋葬されたそうです。 三国志の中でも人気の武将 三国志の中でも人気を誇る猛将・呂布ですが、華々しい戦歴が注目されるとともに、裏切り者の烙印も押されています。その人生を振り返ると、確かに裏切りの連続でしたが、群雄割拠の時代背景を考えると、より強い者を目指し、裏切ってでものし上がるというのは、この時代を生き抜くための重要なスキルだったのかもしれません。呂布が今なお人気なのは、猛然と乱世を渡り抜く最強の武将として魅力があるからなのでしょう。
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、どのようにして董卓を討ったか。
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、自らの手で董卓を殺した。
JCRRAG_018469
歴史
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、呂布である。 袁術や袁紹を頼ったが…… 董卓を殺害後、呂布は王允と共に政権を握りましたが、董卓の軍事力の基盤だった郭汜(かくし)、李傕(りかく)らに長安を襲撃され、数百騎を率いて逃亡することになります。流浪の旅を始めた呂布でしたが、自分の領土がないため、どこかで兵士たちの腹を満たす必要がありました。そこで呂布は自分を売り込み、受け入れてくれるよう各地に頼みに行くことになるのです。 荊州(けいしゅう)の袁術(えんじゅつ)には受け入れてもらえませんでしたが、次に頼った袁紹(えんしょう)は黒山賊の張燕(ちょうえん)と対立していたため呂布を受け入れました。しかし張燕軍との戦いに勝利した呂布が兵力補充を要求した際、呂布の将兵が略奪などを行ったことで袁紹との関係が悪化してしまいます。恐れをなして刺客を送った袁紹は、呂布が奇策でこれを回避したことを知り、固く城門を閉ざしたのです。 曹操の領地を乗っ取ろうとした その後、数々の群雄たちを頼った呂布でしたが、ついには他者の領地を乗っ取ることになります。 曹操が徐州の陶謙(とうけん)との戦いのために兗州(えんしゅう)を留守にすると、曹操に対し反逆の意思を持っていた張超(ちょうちょう)と陳宮(ちんきゅう)が、曹操の親友である張邈(ちょうばく)に「呂布と兗州を共有すること」を提案します。張邈は反乱の意を固め、これにより受け入れられた呂布はさまざまな城を奇襲などで落としていきました。 曹操が徐州から戻ると、呂布は濮陽(ぼくよう)に籠城して曹操からの攻撃を連破します。この戦いは1年以上続きましたが、最終的には呂布の敗北に終わりました。 放浪生活から劉備のもとへ 曹操との戦いから逃げ延びた呂布は、最後に徐州を支配していた劉備を頼りました。呂布は妻に挨拶をさせたり劉備と酒を酌み交わしたりしましたが、劉備は呂布の一貫性のなさを見抜いていたようです。 やがて劉備と袁術が徐州を巡り争い始めると、呂布はその隙に劉備の本拠である下邳(かひ)を奪取してしまいます。これにより劉備が降伏すると、呂布は劉備を豫州(よしゅう)の刺史にし、自らは徐州の刺史を名乗りました。その後、劉備は1万の兵を集めたものの呂布から攻撃され、曹操を頼ることとなります。 裏切り者の烙印を押された男の最期 裏切りに次ぐ裏切りで徐州を支配するまでにいたった呂布ですが、そんな彼にも最期が訪れます。呂布は曹操に捕まってもなお保身のため、自分を家臣にするよう進言するといった驚きの言動に打って出ました。ここでは、呂布の最期について見ていきます。 曹操の軍門に下った呂布の狙い 呂布は再び袁術と通じるようになりましたが、劉備が逃走して頼った曹操が、大軍を率いて徐州に攻め込んできます。下邳に到着した曹操との戦いに大敗するなど、戦況は曹操軍が優位でした。呂布らは下邳に籠城しましたが、周りを曹操軍に囲まれ水攻めが実行されると、呂布の騎将だった侯成らは呂布を裏切って投降します。今まで裏切りを繰り返してきた呂布でしたが、最後は自分が裏切られることになってしまいました。 曹操によって処刑される 捕縛され曹操の前に差し出された呂布は、縛り方がきつすぎるので緩めるよう願い出たといいます。曹操が「虎を縛るのにきつくしないわけにはいかない」と返答すると、呂布は「自分が降伏したら心配事はもうない。殿が歩兵を、私が騎兵を率いれば天下太平だろう」と進言します。しかし劉備が呂布の裏切りの数々を挙げたことで曹操も納得し、呂布は縛り首となりました。彼の首はさらされたのちに埋葬されたそうです。 三国志の中でも人気の武将 三国志の中でも人気を誇る猛将・呂布ですが、華々しい戦歴が注目されるとともに、裏切り者の烙印も押されています。その人生を振り返ると、確かに裏切りの連続でしたが、群雄割拠の時代背景を考えると、より強い者を目指し、裏切ってでものし上がるというのは、この時代を生き抜くための重要なスキルだったのかもしれません。呂布が今なお人気なのは、猛然と乱世を渡り抜く最強の武将として魅力があるからなのでしょう。
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、どのような結果を迎えたか。
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、最終的には敗北に終わりました。
JCRRAG_018470
歴史
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、呂布である。 袁術や袁紹を頼ったが…… 董卓を殺害後、呂布は王允と共に政権を握りましたが、董卓の軍事力の基盤だった郭汜、李傕らに長安を襲撃され、数百騎を率いて逃亡することになります。流浪の旅を始めた呂布でしたが、自分の領土がないため、どこかで兵士たちの腹を満たす必要がありました。そこで呂布は自分を売り込み、受け入れてくれるよう各地に頼みに行くことになるのです。 荊州の袁術には受け入れてもらえませんでしたが、次に頼った袁紹は黒山賊の張燕と対立していたため呂布を受け入れました。しかし張燕軍との戦いに勝利した呂布が兵力補充を要求した際、呂布の将兵が略奪などを行ったことで袁紹との関係が悪化してしまいます。恐れをなして刺客を送った袁紹は、呂布が奇策でこれを回避したことを知り、固く城門を閉ざしたのです。 曹操の領地を乗っ取ろうとした その後、数々の群雄たちを頼った呂布でしたが、ついには他者の領地を乗っ取ることになります。 曹操が徐州の陶謙との戦いのために兗州を留守にすると、曹操に対し反逆の意思を持っていた張超と陳宮が、曹操の親友である張邈に「呂布と兗州を共有すること」を提案します。張邈は反乱の意を固め、これにより受け入れられた呂布はさまざまな城を奇襲などで落としていきました。 曹操が徐州から戻ると、呂布は濮陽に籠城して曹操からの攻撃を連破します。この戦いは1年以上続きましたが、最終的には呂布の敗北に終わりました。 放浪生活から劉備のもとへ 曹操との戦いから逃げ延びた呂布は、最後に徐州を支配していた劉備を頼りました。呂布は妻に挨拶をさせたり劉備と酒を酌み交わしたりしましたが、劉備は呂布の一貫性のなさを見抜いていたようです。 やがて劉備と袁術が徐州を巡り争い始めると、呂布はその隙に劉備の本拠である下邳を奪取してしまいます。これにより劉備が降伏すると、呂布は劉備を豫州の刺史にし、自らは徐州の刺史を名乗りました。その後、劉備は1万の兵を集めたものの呂布から攻撃され、曹操を頼ることとなります。 裏切り者の烙印を押された男の最期 裏切りに次ぐ裏切りで徐州を支配するまでにいたった呂布ですが、そんな彼にも最期が訪れます。呂布は曹操に捕まってもなお保身のため、自分を家臣にするよう進言するといった驚きの言動に打って出ました。ここでは、呂布の最期について見ていきます。 曹操の軍門に下った呂布の狙い 呂布は再び袁術と通じるようになりましたが、劉備が逃走して頼った曹操が、大軍を率いて徐州に攻め込んできます。下邳に到着した曹操との戦いに大敗するなど、戦況は曹操軍が優位でした。呂布らは下邳に籠城しましたが、周りを曹操軍に囲まれ水攻めが実行されると、呂布の騎将だった侯成らは呂布を裏切って投降します。今まで裏切りを繰り返してきた呂布でしたが、最後は自分が裏切られることになってしまいました。 曹操によって処刑される 捕縛され曹操の前に差し出された呂布は、縛り方がきつすぎるので緩めるよう願い出たといいます。曹操が「虎を縛るのにきつくしないわけにはいかない」と返答すると、呂布は「自分が降伏したら心配事はもうない。殿が歩兵を、私が騎兵を率いれば天下太平だろう」と進言します。しかし劉備が呂布の裏切りの数々を挙げたことで曹操も納得し、呂布は縛り首となりました。彼の首はさらされたのちに埋葬されたそうです。 三国志の中でも人気の武将 三国志の中でも人気を誇る猛将・呂布ですが、華々しい戦歴が注目されるとともに、裏切り者の烙印も押されています。その人生を振り返ると、確かに裏切りの連続でしたが、群雄割拠の時代背景を考えると、より強い者を目指し、裏切ってでものし上がるというのは、この時代を生き抜くための重要なスキルだったのかもしれません。呂布が今なお人気なのは、猛然と乱世を渡り抜く最強の武将として魅力があるからなのでしょう。
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物が兵士たちの腹を満たすために自分を売り込んだ際、誰に受け入れてもらったか。
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物が兵士たちの腹を満たすために自分を売り込んだ際、袁紹に受け入れてもらいました。
JCRRAG_018471
歴史
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、呂布である。 袁術や袁紹を頼ったが…… 董卓を殺害後、呂布は王允と共に政権を握りましたが、董卓の軍事力の基盤だった郭汜(かくし)、李傕(りかく)らに長安を襲撃され、数百騎を率いて逃亡することになります。流浪の旅を始めた呂布でしたが、自分の領土がないため、どこかで兵士たちの腹を満たす必要がありました。そこで呂布は自分を売り込み、受け入れてくれるよう各地に頼みに行くことになるのです。 荊州(けいしゅう)の袁術(えんじゅつ)には受け入れてもらえませんでしたが、次に頼った袁紹(えんしょう)は黒山賊の張燕(ちょうえん)と対立していたため呂布を受け入れました。しかし張燕軍との戦いに勝利した呂布が兵力補充を要求した際、呂布の将兵が略奪などを行ったことで袁紹との関係が悪化してしまいます。恐れをなして刺客を送った袁紹は、呂布が奇策でこれを回避したことを知り、固く城門を閉ざしたのです。 曹操の領地を乗っ取ろうとした その後、数々の群雄たちを頼った呂布でしたが、ついには他者の領地を乗っ取ることになります。 曹操が徐州の陶謙(とうけん)との戦いのために兗州(えんしゅう)を留守にすると、曹操に対し反逆の意思を持っていた張超(ちょうちょう)と陳宮(ちんきゅう)が、曹操の親友である張邈(ちょうばく)に「呂布と兗州を共有すること」を提案します。張邈は反乱の意を固め、これにより受け入れられた呂布はさまざまな城を奇襲などで落としていきました。 曹操が徐州から戻ると、呂布は濮陽(ぼくよう)に籠城して曹操からの攻撃を連破します。この戦いは1年以上続きましたが、最終的には呂布の敗北に終わりました。 放浪生活から劉備のもとへ 曹操との戦いから逃げ延びた呂布は、最後に徐州を支配していた劉備を頼りました。呂布は妻に挨拶をさせたり劉備と酒を酌み交わしたりしましたが、劉備は呂布の一貫性のなさを見抜いていたようです。 やがて劉備と袁術が徐州を巡り争い始めると、呂布はその隙に劉備の本拠である下邳(かひ)を奪取してしまいます。これにより劉備が降伏すると、呂布は劉備を豫州(よしゅう)の刺史にし、自らは徐州の刺史を名乗りました。その後、劉備は1万の兵を集めたものの呂布から攻撃され、曹操を頼ることとなります。 裏切り者の烙印を押された男の最期 裏切りに次ぐ裏切りで徐州を支配するまでにいたった呂布ですが、そんな彼にも最期が訪れます。呂布は曹操に捕まってもなお保身のため、自分を家臣にするよう進言するといった驚きの言動に打って出ました。ここでは、呂布の最期について見ていきます。 曹操の軍門に下った呂布の狙い 呂布は再び袁術と通じるようになりましたが、劉備が逃走して頼った曹操が、大軍を率いて徐州に攻め込んできます。下邳に到着した曹操との戦いに大敗するなど、戦況は曹操軍が優位でした。呂布らは下邳に籠城しましたが、周りを曹操軍に囲まれ水攻めが実行されると、呂布の騎将だった侯成らは呂布を裏切って投降します。今まで裏切りを繰り返してきた呂布でしたが、最後は自分が裏切られることになってしまいました。 曹操によって処刑される 捕縛され曹操の前に差し出された呂布は、縛り方がきつすぎるので緩めるよう願い出たといいます。曹操が「虎を縛るのにきつくしないわけにはいかない」と返答すると、呂布は「自分が降伏したら心配事はもうない。殿が歩兵を、私が騎兵を率いれば天下太平だろう」と進言します。しかし劉備が呂布の裏切りの数々を挙げたことで曹操も納得し、呂布は縛り首となりました。彼の首はさらされたのちに埋葬されたそうです。 三国志の中でも人気の武将 三国志の中でも人気を誇る猛将・呂布ですが、華々しい戦歴が注目されるとともに、裏切り者の烙印も押されています。その人生を振り返ると、確かに裏切りの連続でしたが、群雄割拠の時代背景を考えると、より強い者を目指し、裏切ってでものし上がるというのは、この時代を生き抜くための重要なスキルだったのかもしれません。呂布が今なお人気なのは、猛然と乱世を渡り抜く最強の武将として魅力があるからなのでしょう。
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、最終的にどのように処刑されたか。
三国志史上最強の武将と呼び声の高い人物は、縛り首となりました。
JCRRAG_018472
歴史
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、楊貴妃である。 幼くして両親を亡くす 楊貴妃は、開元7年(719)蜀州司戸の楊玄琰の4女としてうまれました。姓は楊、名は玉環(ぎょくかん)です。父・楊玄琰が蜀州の司戸参軍在任中にうまれ、幼いころに両親を失ったため叔父・楊玄璬に養育されたと伝えられています。楊玄璬は唐の役人だったことから、楊貴妃は教育を受けて育ったと考えられるでしょう。 『定命録』によれば、山野に住む隠士が「この娘は将来、皇后と同等の尊貴になるだろう」と予言したという説話が残されています。また、うまれながら玉環を持っていたためその名がつけられたといった俗説もあるようです。 寿王の妃から女冠へ 開元23年(735)、唐の第6代皇帝・玄宗と武恵妃(ぶけいひ)のあいだにうまれた第18子、寿王・李瑁(りぼう)の后として楊貴妃が選ばれます。寿王は謙虚で素直な好青年で、楊貴妃とは美男美女のカップルだったようです。若くして寿王の妻となった楊貴妃でしたが、その後、長安の宮殿である騒動が起こります。当時玄宗から寵愛を受けていた武恵妃が、自分の息子を皇太子にしようと画策したのです。玄宗は寿王を皇太子にはせず、皇太子を含め3人の息子も殺してしまいました。望みが叶わなくなった武恵妃は、殺された皇太子たちの祟りを恐れながら病没。武恵妃を愛していた玄宗は、もぬけの殻のようになりました。 しかし、華清池という温泉地への旅行に楊貴妃と同行したことがきっかけで、玄帝は楊貴妃に心を奪われてしまいます。開元28年(740)、玄宗に見初められた楊貴妃は一時的に女冠(女道士)となり、その後は玄宗の後宮に入り皇后と同じ扱いを受けました。二人はすでに内縁関係だったといわれていますが、玄宗が息子から妻を奪う形になるのを避けるために女冠を経たようです。 貴妃となり玄宗に寵愛される 天宝4年(745)、「貴妃」の地位を得た楊貴妃は、玄宗が外出する際には必ずつき従うようになりました。楊貴妃には絹織りや装飾品の工人がそれぞれ数百人もついており、門前には出世のためにさまざまな献上物を贈ろうとする地方官の使者の列ができたといいます。また楊一族は高い地位を与えられ、従兄の楊錡は玄宗の愛娘・太華公主と結婚。従兄や3人の姉たちは権勢を振るうようになり、楊一族への対応はまるで天子に対するもののようになりました。 天宝7載(748)には3人の姉も国夫人となって毎月多額の化粧代を与えられ、従兄の楊国忠(ようこくちゅう)は御史中丞に昇進するなど外戚としての地位を固めていきます。 安史の乱が勃発! 玄宗は善政を敷いたことから「開元の治」と称えられ、唐王朝は絶頂期を迎えていました。しかし、武恵妃を失ったころから玄宗の情熱は薄れ、楊貴妃を溺愛してからは政治が緩み始めていたのです。そんな玄宗に代わって政治を執ったのは宰相・李林甫で、彼の死後は安禄山(あんろくざん)と楊国忠が権力を握りました。ところが、楊一族の横暴が激化し、専横を行った楊国忠は外征に失敗して大勢の死者を出します。やがて安禄山と楊国忠は対立するようになり、楊国忠は安禄山の排除を画策。これにより天宝14年(755)安禄山は反乱を起こし、楊一族の排除を掲げて挙兵しました。
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、誰が外出する際には必ずつき従うようになったか。
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、玄宗が外出する際には必ずつき従うようになった。
JCRRAG_018473
歴史
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、楊貴妃である。 幼くして両親を亡くす 楊貴妃は、開元7年(719)蜀州司戸の楊玄琰の4女としてうまれました。姓は楊、名は玉環(ぎょくかん)です。父・楊玄琰が蜀州の司戸参軍在任中にうまれ、幼いころに両親を失ったため叔父・楊玄璬に養育されたと伝えられています。楊玄璬は唐の役人だったことから、楊貴妃は教育を受けて育ったと考えられるでしょう。 『定命録』によれば、山野に住む隠士が「この娘は将来、皇后と同等の尊貴になるだろう」と予言したという説話が残されています。また、うまれながら玉環を持っていたためその名がつけられたといった俗説もあるようです。 寿王の妃から女冠へ 開元23年(735)、唐の第6代皇帝・玄宗と武恵妃(ぶけいひ)のあいだにうまれた第18子、寿王・李瑁(りぼう)の后として楊貴妃が選ばれます。寿王は謙虚で素直な好青年で、楊貴妃とは美男美女のカップルだったようです。若くして寿王の妻となった楊貴妃でしたが、その後、長安の宮殿である騒動が起こります。当時玄宗から寵愛を受けていた武恵妃が、自分の息子を皇太子にしようと画策したのです。玄宗は寿王を皇太子にはせず、皇太子を含め3人の息子も殺してしまいました。望みが叶わなくなった武恵妃は、殺された皇太子たちの祟りを恐れながら病没。武恵妃を愛していた玄宗は、もぬけの殻のようになりました。 しかし、華清池という温泉地への旅行に楊貴妃と同行したことがきっかけで、玄帝は楊貴妃に心を奪われてしまいます。開元28年(740)、玄宗に見初められた楊貴妃は一時的に女冠(女道士)となり、その後は玄宗の後宮に入り皇后と同じ扱いを受けました。二人はすでに内縁関係だったといわれていますが、玄宗が息子から妻を奪う形になるのを避けるために女冠を経たようです。 貴妃となり玄宗に寵愛される 天宝4年(745)、「貴妃」の地位を得た楊貴妃は、玄宗が外出する際には必ずつき従うようになりました。楊貴妃には絹織りや装飾品の工人がそれぞれ数百人もついており、門前には出世のためにさまざまな献上物を贈ろうとする地方官の使者の列ができたといいます。また楊一族は高い地位を与えられ、従兄の楊錡は玄宗の愛娘・太華公主と結婚。従兄や3人の姉たちは権勢を振るうようになり、楊一族への対応はまるで天子に対するもののようになりました。 天宝7載(748)には3人の姉も国夫人となって毎月多額の化粧代を与えられ、従兄の楊国忠(ようこくちゅう)は御史中丞に昇進するなど外戚としての地位を固めていきます。 安史の乱が勃発! 玄宗は善政を敷いたことから「開元の治」と称えられ、唐王朝は絶頂期を迎えていました。しかし、武恵妃を失ったころから玄宗の情熱は薄れ、楊貴妃を溺愛してからは政治が緩み始めていたのです。そんな玄宗に代わって政治を執ったのは宰相・李林甫で、彼の死後は安禄山(あんろくざん)と楊国忠が権力を握りました。ところが、楊一族の横暴が激化し、専横を行った楊国忠は外征に失敗して大勢の死者を出します。やがて安禄山と楊国忠は対立するようになり、楊国忠は安禄山の排除を画策。これにより天宝14年(755)安禄山は反乱を起こし、楊一族の排除を掲げて挙兵しました。
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、誰に見初められ後宮に入ったか。
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、玄宗に見初められ後宮に入った。
JCRRAG_018474
歴史
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、楊貴妃である。 幼くして両親を亡くす 楊貴妃は、開元7年(719)蜀州司戸の楊玄琰の4女としてうまれました。姓は楊、名は玉環(ぎょくかん)です。父・楊玄琰が蜀州の司戸参軍在任中にうまれ、幼いころに両親を失ったため叔父・楊玄璬に養育されたと伝えられています。楊玄璬は唐の役人だったことから、楊貴妃は教育を受けて育ったと考えられるでしょう。 『定命録』によれば、山野に住む隠士が「この娘は将来、皇后と同等の尊貴になるだろう」と予言したという説話が残されています。また、うまれながら玉環を持っていたためその名がつけられたといった俗説もあるようです。 寿王の妃から女冠へ 開元23年(735)、唐の第6代皇帝・玄宗と武恵妃(ぶけいひ)のあいだにうまれた第18子、寿王・李瑁(りぼう)の后として楊貴妃が選ばれます。寿王は謙虚で素直な好青年で、楊貴妃とは美男美女のカップルだったようです。若くして寿王の妻となった楊貴妃でしたが、その後、長安の宮殿である騒動が起こります。当時玄宗から寵愛を受けていた武恵妃が、自分の息子を皇太子にしようと画策したのです。玄宗は寿王を皇太子にはせず、皇太子を含め3人の息子も殺してしまいました。望みが叶わなくなった武恵妃は、殺された皇太子たちの祟りを恐れながら病没。武恵妃を愛していた玄宗は、もぬけの殻のようになりました。 しかし、華清池という温泉地への旅行に楊貴妃と同行したことがきっかけで、玄帝は楊貴妃に心を奪われてしまいます。開元28年(740)、玄宗に見初められた楊貴妃は一時的に女冠(女道士)となり、その後は玄宗の後宮に入り皇后と同じ扱いを受けました。二人はすでに内縁関係だったといわれていますが、玄宗が息子から妻を奪う形になるのを避けるために女冠を経たようです。 貴妃となり玄宗に寵愛される 天宝4年(745)、「貴妃」の地位を得た楊貴妃は、玄宗が外出する際には必ずつき従うようになりました。楊貴妃には絹織りや装飾品の工人がそれぞれ数百人もついており、門前には出世のためにさまざまな献上物を贈ろうとする地方官の使者の列ができたといいます。また楊一族は高い地位を与えられ、従兄の楊錡は玄宗の愛娘・太華公主と結婚。従兄や3人の姉たちは権勢を振るうようになり、楊一族への対応はまるで天子に対するもののようになりました。 天宝7載(748)には3人の姉も国夫人となって毎月多額の化粧代を与えられ、従兄の楊国忠(ようこくちゅう)は御史中丞に昇進するなど外戚としての地位を固めていきます。 安史の乱が勃発! 玄宗は善政を敷いたことから「開元の治」と称えられ、唐王朝は絶頂期を迎えていました。しかし、武恵妃を失ったころから玄宗の情熱は薄れ、楊貴妃を溺愛してからは政治が緩み始めていたのです。そんな玄宗に代わって政治を執ったのは宰相・李林甫で、彼の死後は安禄山(あんろくざん)と楊国忠が権力を握りました。ところが、楊一族の横暴が激化し、専横を行った楊国忠は外征に失敗して大勢の死者を出します。やがて安禄山と楊国忠は対立するようになり、楊国忠は安禄山の排除を画策。これにより天宝14年(755)安禄山は反乱を起こし、楊一族の排除を掲げて挙兵しました。
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、いつ両親を失ったか。
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、幼いころに両親を失った。
JCRRAG_018475
歴史
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、楊貴妃である。 幼くして両親を亡くす 楊貴妃は、開元7年(719)蜀州司戸の楊玄琰の4女としてうまれました。姓は楊、名は玉環(ぎょくかん)です。父・楊玄琰が蜀州の司戸参軍在任中にうまれ、幼いころに両親を失ったため叔父・楊玄璬に養育されたと伝えられています。楊玄璬は唐の役人だったことから、楊貴妃は教育を受けて育ったと考えられるでしょう。 『定命録』によれば、山野に住む隠士が「この娘は将来、皇后と同等の尊貴になるだろう」と予言したという説話が残されています。また、うまれながら玉環を持っていたためその名がつけられたといった俗説もあるようです。 寿王の妃から女冠へ 開元23年(735)、唐の第6代皇帝・玄宗と武恵妃(ぶけいひ)のあいだにうまれた第18子、寿王・李瑁(りぼう)の后として楊貴妃が選ばれます。寿王は謙虚で素直な好青年で、楊貴妃とは美男美女のカップルだったようです。若くして寿王の妻となった楊貴妃でしたが、その後、長安の宮殿である騒動が起こります。当時玄宗から寵愛を受けていた武恵妃が、自分の息子を皇太子にしようと画策したのです。玄宗は寿王を皇太子にはせず、皇太子を含め3人の息子も殺してしまいました。望みが叶わなくなった武恵妃は、殺された皇太子たちの祟りを恐れながら病没。武恵妃を愛していた玄宗は、もぬけの殻のようになりました。 しかし、華清池という温泉地への旅行に楊貴妃と同行したことがきっかけで、玄帝は楊貴妃に心を奪われてしまいます。開元28年(740)、玄宗に見初められた楊貴妃は一時的に女冠(女道士)となり、その後は玄宗の後宮に入り皇后と同じ扱いを受けました。二人はすでに内縁関係だったといわれていますが、玄宗が息子から妻を奪う形になるのを避けるために女冠を経たようです。 貴妃となり玄宗に寵愛される 天宝4年(745)、「貴妃」の地位を得た楊貴妃は、玄宗が外出する際には必ずつき従うようになりました。楊貴妃には絹織りや装飾品の工人がそれぞれ数百人もついており、門前には出世のためにさまざまな献上物を贈ろうとする地方官の使者の列ができたといいます。また楊一族は高い地位を与えられ、従兄の楊錡は玄宗の愛娘・太華公主と結婚。従兄や3人の姉たちは権勢を振るうようになり、楊一族への対応はまるで天子に対するもののようになりました。 天宝7載(748)には3人の姉も国夫人となって毎月多額の化粧代を与えられ、従兄の楊国忠(ようこくちゅう)は御史中丞に昇進するなど外戚としての地位を固めていきます。 安史の乱が勃発! 玄宗は善政を敷いたことから「開元の治」と称えられ、唐王朝は絶頂期を迎えていました。しかし、武恵妃を失ったころから玄宗の情熱は薄れ、楊貴妃を溺愛してからは政治が緩み始めていたのです。そんな玄宗に代わって政治を執ったのは宰相・李林甫で、彼の死後は安禄山(あんろくざん)と楊国忠が権力を握りました。ところが、楊一族の横暴が激化し、専横を行った楊国忠は外征に失敗して大勢の死者を出します。やがて安禄山と楊国忠は対立するようになり、楊国忠は安禄山の排除を画策。これにより天宝14年(755)安禄山は反乱を起こし、楊一族の排除を掲げて挙兵しました。
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、何という地位を得たか。
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、「貴妃」の地位を得た。
JCRRAG_018476
歴史
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、楊貴妃である。 幼くして両親を亡くす 楊貴妃は、開元7年(719)蜀州司戸の楊玄琰の4女としてうまれました。姓は楊、名は玉環(ぎょくかん)です。父・楊玄琰が蜀州の司戸参軍在任中にうまれ、幼いころに両親を失ったため叔父・楊玄璬に養育されたと伝えられています。楊玄璬は唐の役人だったことから、楊貴妃は教育を受けて育ったと考えられるでしょう。 『定命録』によれば、山野に住む隠士が「この娘は将来、皇后と同等の尊貴になるだろう」と予言したという説話が残されています。また、うまれながら玉環を持っていたためその名がつけられたといった俗説もあるようです。 寿王の妃から女冠へ 開元23年(735)、唐の第6代皇帝・玄宗と武恵妃(ぶけいひ)のあいだにうまれた第18子、寿王・李瑁(りぼう)の后として楊貴妃が選ばれます。寿王は謙虚で素直な好青年で、楊貴妃とは美男美女のカップルだったようです。若くして寿王の妻となった楊貴妃でしたが、その後、長安の宮殿である騒動が起こります。当時玄宗から寵愛を受けていた武恵妃が、自分の息子を皇太子にしようと画策したのです。玄宗は寿王を皇太子にはせず、皇太子を含め3人の息子も殺してしまいました。望みが叶わなくなった武恵妃は、殺された皇太子たちの祟りを恐れながら病没。武恵妃を愛していた玄宗は、もぬけの殻のようになりました。 しかし、華清池という温泉地への旅行に楊貴妃と同行したことがきっかけで、玄帝は楊貴妃に心を奪われてしまいます。開元28年(740)、玄宗に見初められた楊貴妃は一時的に女冠(女道士)となり、その後は玄宗の後宮に入り皇后と同じ扱いを受けました。二人はすでに内縁関係だったといわれていますが、玄宗が息子から妻を奪う形になるのを避けるために女冠を経たようです。 貴妃となり玄宗に寵愛される 天宝4年(745)、「貴妃」の地位を得た楊貴妃は、玄宗が外出する際には必ずつき従うようになりました。楊貴妃には絹織りや装飾品の工人がそれぞれ数百人もついており、門前には出世のためにさまざまな献上物を贈ろうとする地方官の使者の列ができたといいます。また楊一族は高い地位を与えられ、従兄の楊錡は玄宗の愛娘・太華公主と結婚。従兄や3人の姉たちは権勢を振るうようになり、楊一族への対応はまるで天子に対するもののようになりました。 天宝7載(748)には3人の姉も国夫人となって毎月多額の化粧代を与えられ、従兄の楊国忠(ようこくちゅう)は御史中丞に昇進するなど外戚としての地位を固めていきます。 安史の乱が勃発! 玄宗は善政を敷いたことから「開元の治」と称えられ、唐王朝は絶頂期を迎えていました。しかし、武恵妃を失ったころから玄宗の情熱は薄れ、楊貴妃を溺愛してからは政治が緩み始めていたのです。そんな玄宗に代わって政治を執ったのは宰相・李林甫で、彼の死後は安禄山(あんろくざん)と楊国忠が権力を握りました。ところが、楊一族の横暴が激化し、専横を行った楊国忠は外征に失敗して大勢の死者を出します。やがて安禄山と楊国忠は対立するようになり、楊国忠は安禄山の排除を画策。これにより天宝14年(755)安禄山は反乱を起こし、楊一族の排除を掲げて挙兵しました。
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、誰に育てられたか。
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、叔父に育てられた。
JCRRAG_018477
歴史
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、楊貴妃である。 夫・玄宗に殺されこの世を去る 乱の鎮圧に派遣した軍勢が敗れ、安禄山軍が首都・長安に迫ると、玄宗は楊貴妃・楊国忠・高力士らとともに蜀へと逃亡します。しかしその途上、反乱の原因となった楊一族に恨みを向けた兵士たちが暴徒化して楊国忠が殺害されました。さらに兵士たちは、玄宗に対して楊貴妃の殺害を要求します。玄宗は楊貴妃をかばいましたが、高力士の進言により仕方なく彼女を殺すよう命令しました。その後、玄宗は長安に帰還したもののすでに権力はなく軟禁に近い状態となります。玄宗は秘密裏に楊貴妃の改葬(供養)をし、画家に彼女の絵を描かせて朝夕眺めたそうです。この玄宗と楊貴妃の逃避行は長編漢詩作品『長恨歌』によって広まり、平安時代の日本の貴族たちも愛読したといわれています。 実は日本に渡っていた!? 逃避行の末に亡くなった楊貴妃ですが、彼女には生存説も残されています。その説によれば、蘇生した楊貴妃は遣唐使の船に乗り密かに日本に渡ったというのです。山口県長門市の二尊院には、楊貴妃が小舟に乗って流れてきたという伝説が残されており、楊貴妃の墓という五重塔も建てられています。 楊貴妃にまつわるエピソード 楊貴妃にはさまざまな伝承が残されています。ここでは彼女にまつわるエピソードをご紹介します。 楊貴妃の容貌とは? 世界三大美女とされる楊貴妃はずば抜けた容姿の持ち主だったようで、「髪は艶やかで、肌はきめ細か、体型はほどよく、物腰が柔らか」と伝えられています。玄宗は彼女を手に入れてからというもの、他の女性に見向きもしなかったそうです。また、楊貴妃は西施(せいし)、王昭君(おうしょうくん)、貂蝉(ちょうせん)と並んで中国四大美女とされており、彼女たちを表す「沈魚落雁 閉月羞花(ちんぎょらくがん へいげつしゅうか)」という言葉のなかで、「後宮の庭の花に触れると、その美貌と香気に花も恥じらい頭を垂れた」と表現されています。 実は太めの美女だった? 当時の中国では満足に食べられない人も多かったことから、ふっくらしていたほうが美人とされました。すぐれた容姿をもつ美人を指す「環肥燕痩(かんぴえんそう)」という言葉は、「太った楊貴妃、痩せた趙飛燕(漢の成帝の妃)」という意味で、「環肥」は楊貴妃を指しています。彼女は自分の体型を気にしていたのか、玄宗から豊満さをからかわれた際はすっかり機嫌を損ね、玄宗は慌てて贈り物をしたそうです。 音楽の才能に溢れていた 楊貴妃は聡明で音楽の才能にも恵まれており、玄宗が彼女のために作曲した「霓裳羽衣の曲(げいしょうういのきょく)」に合わせて美しく舞ったといわれています。また、打楽器の一種・磬(けい)の名手でもあり、演奏家ですらかなう者がいなかったそうです。 好物は果物のライチ 玄宗から寵愛を受けていたころ、楊貴妃は南方から特急でライチを取り寄せて食べていたという逸話が残されています。容姿にも才能にも恵まれた彼女の大好物がライチとは、少し意外かもしれません。貴妃のワガママとしては、ささやかなものだったといえるでしょう。現在ではライチを使った「楊貴妃」というカクテルも存在しています。 美しき悲劇の女性 楊貴妃はその美貌から皇帝を虜にし、世界三大美女としても歴史に名を刻みました。あまりの美しさに「傾国の美女」といわれる彼女ですが、政治に口を出したり玄宗を操ったりということはなかったようです。しかし、楊一族が分不相応で尊大な態度をとったことから、楊貴妃がその責任を一手に負わされたといえるでしょう。実際の楊貴妃は「悲劇の美女」というほうがしっくりくるかもしれませんね。
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、どのような人物だったか。
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、肌はきめ細か、体型はほどよく、物腰が柔らかだった。
JCRRAG_018478
歴史
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、楊貴妃である。 夫・玄宗に殺されこの世を去る 乱の鎮圧に派遣した軍勢が敗れ、安禄山軍が首都・長安に迫ると、玄宗は楊貴妃・楊国忠・高力士らとともに蜀へと逃亡します。しかしその途上、反乱の原因となった楊一族に恨みを向けた兵士たちが暴徒化して楊国忠が殺害されました。さらに兵士たちは、玄宗に対して楊貴妃の殺害を要求します。玄宗は楊貴妃をかばいましたが、高力士の進言により仕方なく彼女を殺すよう命令しました。その後、玄宗は長安に帰還したもののすでに権力はなく軟禁に近い状態となります。玄宗は秘密裏に楊貴妃の改葬(供養)をし、画家に彼女の絵を描かせて朝夕眺めたそうです。この玄宗と楊貴妃の逃避行は長編漢詩作品『長恨歌』によって広まり、平安時代の日本の貴族たちも愛読したといわれています。 実は日本に渡っていた!? 逃避行の末に亡くなった楊貴妃ですが、彼女には生存説も残されています。その説によれば、蘇生した楊貴妃は遣唐使の船に乗り密かに日本に渡ったというのです。山口県長門市の二尊院には、楊貴妃が小舟に乗って流れてきたという伝説が残されており、楊貴妃の墓という五重塔も建てられています。 楊貴妃にまつわるエピソード 楊貴妃にはさまざまな伝承が残されています。ここでは彼女にまつわるエピソードをご紹介します。 楊貴妃の容貌とは? 世界三大美女とされる楊貴妃はずば抜けた容姿の持ち主だったようで、「髪は艶やかで、肌はきめ細か、体型はほどよく、物腰が柔らか」と伝えられています。玄宗は彼女を手に入れてからというもの、他の女性に見向きもしなかったそうです。また、楊貴妃は西施(せいし)、王昭君(おうしょうくん)、貂蝉(ちょうせん)と並んで中国四大美女とされており、彼女たちを表す「沈魚落雁 閉月羞花(ちんぎょらくがん へいげつしゅうか)」という言葉のなかで、「後宮の庭の花に触れると、その美貌と香気に花も恥じらい頭を垂れた」と表現されています。 実は太めの美女だった? 当時の中国では満足に食べられない人も多かったことから、ふっくらしていたほうが美人とされました。すぐれた容姿をもつ美人を指す「環肥燕痩(かんぴえんそう)」という言葉は、「太った楊貴妃、痩せた趙飛燕(漢の成帝の妃)」という意味で、「環肥」は楊貴妃を指しています。彼女は自分の体型を気にしていたのか、玄宗から豊満さをからかわれた際はすっかり機嫌を損ね、玄宗は慌てて贈り物をしたそうです。 音楽の才能に溢れていた 楊貴妃は聡明で音楽の才能にも恵まれており、玄宗が彼女のために作曲した「霓裳羽衣の曲(げいしょうういのきょく)」に合わせて美しく舞ったといわれています。また、打楽器の一種・磬(けい)の名手でもあり、演奏家ですらかなう者がいなかったそうです。 好物は果物のライチ 玄宗から寵愛を受けていたころ、楊貴妃は南方から特急でライチを取り寄せて食べていたという逸話が残されています。容姿にも才能にも恵まれた彼女の大好物がライチとは、少し意外かもしれません。貴妃のワガママとしては、ささやかなものだったといえるでしょう。現在ではライチを使った「楊貴妃」というカクテルも存在しています。 美しき悲劇の女性 楊貴妃はその美貌から皇帝を虜にし、世界三大美女としても歴史に名を刻みました。あまりの美しさに「傾国の美女」といわれる彼女ですが、政治に口を出したり玄宗を操ったりということはなかったようです。しかし、楊一族が分不相応で尊大な態度をとったことから、楊貴妃がその責任を一手に負わされたといえるでしょう。実際の楊貴妃は「悲劇の美女」というほうがしっくりくるかもしれませんね。
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、何の楽器の名手であったか。
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、打楽器の一種・磬の名手でもあった。
JCRRAG_018479
歴史
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、楊貴妃である。 夫・玄宗に殺されこの世を去る 乱の鎮圧に派遣した軍勢が敗れ、安禄山軍が首都・長安に迫ると、玄宗は楊貴妃・楊国忠・高力士らとともに蜀へと逃亡します。しかしその途上、反乱の原因となった楊一族に恨みを向けた兵士たちが暴徒化して楊国忠が殺害されました。さらに兵士たちは、玄宗に対して楊貴妃の殺害を要求します。玄宗は楊貴妃をかばいましたが、高力士の進言により仕方なく彼女を殺すよう命令しました。その後、玄宗は長安に帰還したもののすでに権力はなく軟禁に近い状態となります。玄宗は秘密裏に楊貴妃の改葬(供養)をし、画家に彼女の絵を描かせて朝夕眺めたそうです。この玄宗と楊貴妃の逃避行は長編漢詩作品『長恨歌』によって広まり、平安時代の日本の貴族たちも愛読したといわれています。 実は日本に渡っていた!? 逃避行の末に亡くなった楊貴妃ですが、彼女には生存説も残されています。その説によれば、蘇生した楊貴妃は遣唐使の船に乗り密かに日本に渡ったというのです。山口県長門市の二尊院には、楊貴妃が小舟に乗って流れてきたという伝説が残されており、楊貴妃の墓という五重塔も建てられています。 楊貴妃にまつわるエピソード 楊貴妃にはさまざまな伝承が残されています。ここでは彼女にまつわるエピソードをご紹介します。 楊貴妃の容貌とは? 世界三大美女とされる楊貴妃はずば抜けた容姿の持ち主だったようで、「髪は艶やかで、肌はきめ細か、体型はほどよく、物腰が柔らか」と伝えられています。玄宗は彼女を手に入れてからというもの、他の女性に見向きもしなかったそうです。また、楊貴妃は西施(せいし)、王昭君(おうしょうくん)、貂蝉(ちょうせん)と並んで中国四大美女とされており、彼女たちを表す「沈魚落雁 閉月羞花(ちんぎょらくがん へいげつしゅうか)」という言葉のなかで、「後宮の庭の花に触れると、その美貌と香気に花も恥じらい頭を垂れた」と表現されています。 実は太めの美女だった? 当時の中国では満足に食べられない人も多かったことから、ふっくらしていたほうが美人とされました。すぐれた容姿をもつ美人を指す「環肥燕痩(かんぴえんそう)」という言葉は、「太った楊貴妃、痩せた趙飛燕(漢の成帝の妃)」という意味で、「環肥」は楊貴妃を指しています。彼女は自分の体型を気にしていたのか、玄宗から豊満さをからかわれた際はすっかり機嫌を損ね、玄宗は慌てて贈り物をしたそうです。 音楽の才能に溢れていた 楊貴妃は聡明で音楽の才能にも恵まれており、玄宗が彼女のために作曲した「霓裳羽衣の曲(げいしょうういのきょく)」に合わせて美しく舞ったといわれています。また、打楽器の一種・磬(けい)の名手でもあり、演奏家ですらかなう者がいなかったそうです。 好物は果物のライチ 玄宗から寵愛を受けていたころ、楊貴妃は南方から特急でライチを取り寄せて食べていたという逸話が残されています。容姿にも才能にも恵まれた彼女の大好物がライチとは、少し意外かもしれません。貴妃のワガママとしては、ささやかなものだったといえるでしょう。現在ではライチを使った「楊貴妃」というカクテルも存在しています。 美しき悲劇の女性 楊貴妃はその美貌から皇帝を虜にし、世界三大美女としても歴史に名を刻みました。あまりの美しさに「傾国の美女」といわれる彼女ですが、政治に口を出したり玄宗を操ったりということはなかったようです。しかし、楊一族が分不相応で尊大な態度をとったことから、楊貴妃がその責任を一手に負わされたといえるでしょう。実際の楊貴妃は「悲劇の美女」というほうがしっくりくるかもしれませんね。
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、どのような時代の象徴だったか。
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、ふっくらしていたほうが美人とされた時代の象徴だった。
JCRRAG_018480
歴史
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、楊貴妃である。 夫・玄宗に殺されこの世を去る 乱の鎮圧に派遣した軍勢が敗れ、安禄山軍が首都・長安に迫ると、玄宗は楊貴妃・楊国忠・高力士らとともに蜀へと逃亡します。しかしその途上、反乱の原因となった楊一族に恨みを向けた兵士たちが暴徒化して楊国忠が殺害されました。さらに兵士たちは、玄宗に対して楊貴妃の殺害を要求します。玄宗は楊貴妃をかばいましたが、高力士の進言により仕方なく彼女を殺すよう命令しました。その後、玄宗は長安に帰還したもののすでに権力はなく軟禁に近い状態となります。玄宗は秘密裏に楊貴妃の改葬(供養)をし、画家に彼女の絵を描かせて朝夕眺めたそうです。この玄宗と楊貴妃の逃避行は長編漢詩作品『長恨歌』によって広まり、平安時代の日本の貴族たちも愛読したといわれています。 実は日本に渡っていた!? 逃避行の末に亡くなった楊貴妃ですが、彼女には生存説も残されています。その説によれば、蘇生した楊貴妃は遣唐使の船に乗り密かに日本に渡ったというのです。山口県長門市の二尊院には、楊貴妃が小舟に乗って流れてきたという伝説が残されており、楊貴妃の墓という五重塔も建てられています。 楊貴妃にまつわるエピソード 楊貴妃にはさまざまな伝承が残されています。ここでは彼女にまつわるエピソードをご紹介します。 楊貴妃の容貌とは? 世界三大美女とされる楊貴妃はずば抜けた容姿の持ち主だったようで、「髪は艶やかで、肌はきめ細か、体型はほどよく、物腰が柔らか」と伝えられています。玄宗は彼女を手に入れてからというもの、他の女性に見向きもしなかったそうです。また、楊貴妃は西施(せいし)、王昭君(おうしょうくん)、貂蝉(ちょうせん)と並んで中国四大美女とされており、彼女たちを表す「沈魚落雁 閉月羞花(ちんぎょらくがん へいげつしゅうか)」という言葉のなかで、「後宮の庭の花に触れると、その美貌と香気に花も恥じらい頭を垂れた」と表現されています。 実は太めの美女だった? 当時の中国では満足に食べられない人も多かったことから、ふっくらしていたほうが美人とされました。すぐれた容姿をもつ美人を指す「環肥燕痩(かんぴえんそう)」という言葉は、「太った楊貴妃、痩せた趙飛燕(漢の成帝の妃)」という意味で、「環肥」は楊貴妃を指しています。彼女は自分の体型を気にしていたのか、玄宗から豊満さをからかわれた際はすっかり機嫌を損ね、玄宗は慌てて贈り物をしたそうです。 音楽の才能に溢れていた 楊貴妃は聡明で音楽の才能にも恵まれており、玄宗が彼女のために作曲した「霓裳羽衣の曲(げいしょうういのきょく)」に合わせて美しく舞ったといわれています。また、打楽器の一種・磬(けい)の名手でもあり、演奏家ですらかなう者がいなかったそうです。 好物は果物のライチ 玄宗から寵愛を受けていたころ、楊貴妃は南方から特急でライチを取り寄せて食べていたという逸話が残されています。容姿にも才能にも恵まれた彼女の大好物がライチとは、少し意外かもしれません。貴妃のワガママとしては、ささやかなものだったといえるでしょう。現在ではライチを使った「楊貴妃」というカクテルも存在しています。 美しき悲劇の女性 楊貴妃はその美貌から皇帝を虜にし、世界三大美女としても歴史に名を刻みました。あまりの美しさに「傾国の美女」といわれる彼女ですが、政治に口を出したり玄宗を操ったりということはなかったようです。しかし、楊一族が分不相応で尊大な態度をとったことから、楊貴妃がその責任を一手に負わされたといえるでしょう。実際の楊貴妃は「悲劇の美女」というほうがしっくりくるかもしれませんね。
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、南方から何を取り寄せて食べていたか。
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、南方から特急でライチを取り寄せて食べていた。
JCRRAG_018481
歴史
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、楊貴妃である。 夫・玄宗に殺されこの世を去る 乱の鎮圧に派遣した軍勢が敗れ、安禄山軍が首都・長安に迫ると、玄宗は楊貴妃・楊国忠・高力士らとともに蜀へと逃亡します。しかしその途上、反乱の原因となった楊一族に恨みを向けた兵士たちが暴徒化して楊国忠が殺害されました。さらに兵士たちは、玄宗に対して楊貴妃の殺害を要求します。玄宗は楊貴妃をかばいましたが、高力士の進言により仕方なく彼女を殺すよう命令しました。その後、玄宗は長安に帰還したもののすでに権力はなく軟禁に近い状態となります。玄宗は秘密裏に楊貴妃の改葬(供養)をし、画家に彼女の絵を描かせて朝夕眺めたそうです。この玄宗と楊貴妃の逃避行は長編漢詩作品『長恨歌』によって広まり、平安時代の日本の貴族たちも愛読したといわれています。 実は日本に渡っていた!? 逃避行の末に亡くなった楊貴妃ですが、彼女には生存説も残されています。その説によれば、蘇生した楊貴妃は遣唐使の船に乗り密かに日本に渡ったというのです。山口県長門市の二尊院には、楊貴妃が小舟に乗って流れてきたという伝説が残されており、楊貴妃の墓という五重塔も建てられています。 楊貴妃にまつわるエピソード 楊貴妃にはさまざまな伝承が残されています。ここでは彼女にまつわるエピソードをご紹介します。 楊貴妃の容貌とは? 世界三大美女とされる楊貴妃はずば抜けた容姿の持ち主だったようで、「髪は艶やかで、肌はきめ細か、体型はほどよく、物腰が柔らか」と伝えられています。玄宗は彼女を手に入れてからというもの、他の女性に見向きもしなかったそうです。また、楊貴妃は西施(せいし)、王昭君(おうしょうくん)、貂蝉(ちょうせん)と並んで中国四大美女とされており、彼女たちを表す「沈魚落雁 閉月羞花(ちんぎょらくがん へいげつしゅうか)」という言葉のなかで、「後宮の庭の花に触れると、その美貌と香気に花も恥じらい頭を垂れた」と表現されています。 実は太めの美女だった? 当時の中国では満足に食べられない人も多かったことから、ふっくらしていたほうが美人とされました。すぐれた容姿をもつ美人を指す「環肥燕痩(かんぴえんそう)」という言葉は、「太った楊貴妃、痩せた趙飛燕(漢の成帝の妃)」という意味で、「環肥」は楊貴妃を指しています。彼女は自分の体型を気にしていたのか、玄宗から豊満さをからかわれた際はすっかり機嫌を損ね、玄宗は慌てて贈り物をしたそうです。 音楽の才能に溢れていた 楊貴妃は聡明で音楽の才能にも恵まれており、玄宗が彼女のために作曲した「霓裳羽衣の曲(げいしょうういのきょく)」に合わせて美しく舞ったといわれています。また、打楽器の一種・磬(けい)の名手でもあり、演奏家ですらかなう者がいなかったそうです。 好物は果物のライチ 玄宗から寵愛を受けていたころ、楊貴妃は南方から特急でライチを取り寄せて食べていたという逸話が残されています。容姿にも才能にも恵まれた彼女の大好物がライチとは、少し意外かもしれません。貴妃のワガママとしては、ささやかなものだったといえるでしょう。現在ではライチを使った「楊貴妃」というカクテルも存在しています。 美しき悲劇の女性 楊貴妃はその美貌から皇帝を虜にし、世界三大美女としても歴史に名を刻みました。あまりの美しさに「傾国の美女」といわれる彼女ですが、政治に口を出したり玄宗を操ったりということはなかったようです。しかし、楊一族が分不相応で尊大な態度をとったことから、楊貴妃がその責任を一手に負わされたといえるでしょう。実際の楊貴妃は「悲劇の美女」というほうがしっくりくるかもしれませんね。
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、何に合わせて美しく舞ったか。
クレオパトラ、小野小町にならび「世界三大美女」の一人とされる人物は、玄宗が彼女のために作曲した「霓裳羽衣の曲」に合わせて美しく舞った。
JCRRAG_018482
歴史
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、カルロスである。 カルロス、スペインに入る 西暦1500年、フランドル地方のブルゴーニュ公国で、フェリペ(フィリップ)美公とフアナの間にカルロスは生まれました。もう一代遡ると祖父母はさらに豪華で、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、ブルゴーニュ公女マリ、カスティーリャ女王イサベル、アラゴン王フェルナンドと、錚錚たるメンバーに囲まれていたのです。 フェリペ美公の妹である叔母マルガレーテのもと、フランドルの宮廷で伸び伸びと育っていたカルロスも17歳となり、祖父フェルナンド王の死去によって、スペイン国王カルロス1世としてスペインに入ってきました。とはいえ、スペイン語はひと言も話せず、ハプスブルク家の特徴である下顎が出ており、大勢のフランドルからの臣下を引き連れ、フランドルの楽士隊が大音響を響かせる中での入城でした。「この方が新しい王様か」と人々は驚きました。軍隊を率いて来るのはわかりますが、楽士隊まで率いてきたからです。 4年後、祖父マクシミリアン1世が死去したことで行われた神聖ローマ皇帝選挙では、マルガレーテの金銭的工面もあって勝利しました。カスティーリャ、アラゴン、ブルゴーニュ公国、ハプスブルク家のオーストリアに加えて、神聖ローマ帝国まで、ヨーロッパのかなりの部分はカルロスの支配となったのです。 音楽・絵画を好む 祖父マクシミリアン1世はウィーン少年合唱団の創設者であり、フランドルでは多声音楽も盛んに行われていました。カルロス自身もスピネッタやオルガンを弾き、一緒にスペインに来た姉レオノールはリュートの名手でもあったのです。叔母マルガレーテの教育が、芸術に親しむ姉弟にしたのでしょう。 絵にもぞっこん目が無く、祖父マクシミリアン1世は画家デューラーを庇護しましたが、カルロスのお気に入りはティツィアーノでした。代表作に「犬を連れたカール5世」という絵がありますが、これは、イタリアを訪れマントヴァに立ち寄った際に、ティツィアーノの描いた「犬を連れたマントヴァ公」の絵を見て、「私も犬を連れた肖像画が欲しい」とねだったものでした。 美しい妃「イサベル皇妃」を描いたのも、プロテスタントとの戦いに勝利した祈念碑的な「ミュールベルクの戦いのカール5世」を描いたのも、お気に入りのティツィアーノだったのです。しかし何度招いてもスペインを訪れようとはせず、仕方なく「宮廷伯」と「黄金拍車の騎士」の称号を与え、宮廷画家としたのでした。こうしてカルロスも、同時代のフランス王フランソワ1世やイングランド王ヘンリー8世とともに、様々な芸術を愛し、そして残したのです。
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、何を弾いたか。
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、スピネッタやオルガンを弾いた。
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歴史
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、カルロスである。 カルロス、スペインに入る 西暦1500年、フランドル地方のブルゴーニュ公国で、フェリペ(フィリップ)美公とフアナの間にカルロスは生まれました。もう一代遡ると祖父母はさらに豪華で、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、ブルゴーニュ公女マリ、カスティーリャ女王イサベル、アラゴン王フェルナンドと、錚錚たるメンバーに囲まれていたのです。 フェリペ美公の妹である叔母マルガレーテのもと、フランドルの宮廷で伸び伸びと育っていたカルロスも17歳となり、祖父フェルナンド王の死去によって、スペイン国王カルロス1世としてスペインに入ってきました。とはいえ、スペイン語はひと言も話せず、ハプスブルク家の特徴である下顎が出ており、大勢のフランドルからの臣下を引き連れ、フランドルの楽士隊が大音響を響かせる中での入城でした。「この方が新しい王様か」と人々は驚きました。軍隊を率いて来るのはわかりますが、楽士隊まで率いてきたからです。 4年後、祖父マクシミリアン1世が死去したことで行われた神聖ローマ皇帝選挙では、マルガレーテの金銭的工面もあって勝利しました。カスティーリャ、アラゴン、ブルゴーニュ公国、ハプスブルク家のオーストリアに加えて、神聖ローマ帝国まで、ヨーロッパのかなりの部分はカルロスの支配となったのです。 音楽・絵画を好む 祖父マクシミリアン1世はウィーン少年合唱団の創設者であり、フランドルでは多声音楽も盛んに行われていました。カルロス自身もスピネッタやオルガンを弾き、一緒にスペインに来た姉レオノールはリュートの名手でもあったのです。叔母マルガレーテの教育が、芸術に親しむ姉弟にしたのでしょう。 絵にもぞっこん目が無く、祖父マクシミリアン1世は画家デューラーを庇護しましたが、カルロスのお気に入りはティツィアーノでした。代表作に「犬を連れたカール5世」という絵がありますが、これは、イタリアを訪れマントヴァに立ち寄った際に、ティツィアーノの描いた「犬を連れたマントヴァ公」の絵を見て、「私も犬を連れた肖像画が欲しい」とねだったものでした。 美しい妃「イサベル皇妃」を描いたのも、プロテスタントとの戦いに勝利した祈念碑的な「ミュールベルクの戦いのカール5世」を描いたのも、お気に入りのティツィアーノだったのです。しかし何度招いてもスペインを訪れようとはせず、仕方なく「宮廷伯」と「黄金拍車の騎士」の称号を与え、宮廷画家としたのでした。こうしてカルロスも、同時代のフランス王フランソワ1世やイングランド王ヘンリー8世とともに、様々な芸術を愛し、そして残したのです。
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、誰とともにスペインに来たか。
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、姉とともにスペインに来た。
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歴史
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、カルロスである。 カルロス、スペインに入る 西暦1500年、フランドル地方のブルゴーニュ公国で、フェリペ(フィリップ)美公とフアナの間にカルロスは生まれました。もう一代遡ると祖父母はさらに豪華で、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、ブルゴーニュ公女マリ、カスティーリャ女王イサベル、アラゴン王フェルナンドと、錚錚たるメンバーに囲まれていたのです。 フェリペ美公の妹である叔母マルガレーテのもと、フランドルの宮廷で伸び伸びと育っていたカルロスも17歳となり、祖父フェルナンド王の死去によって、スペイン国王カルロス1世としてスペインに入ってきました。とはいえ、スペイン語はひと言も話せず、ハプスブルク家の特徴である下顎が出ており、大勢のフランドルからの臣下を引き連れ、フランドルの楽士隊が大音響を響かせる中での入城でした。「この方が新しい王様か」と人々は驚きました。軍隊を率いて来るのはわかりますが、楽士隊まで率いてきたからです。 4年後、祖父マクシミリアン1世が死去したことで行われた神聖ローマ皇帝選挙では、マルガレーテの金銭的工面もあって勝利しました。カスティーリャ、アラゴン、ブルゴーニュ公国、ハプスブルク家のオーストリアに加えて、神聖ローマ帝国まで、ヨーロッパのかなりの部分はカルロスの支配となったのです。 音楽・絵画を好む 祖父マクシミリアン1世はウィーン少年合唱団の創設者であり、フランドルでは多声音楽も盛んに行われていました。カルロス自身もスピネッタやオルガンを弾き、一緒にスペインに来た姉レオノールはリュートの名手でもあったのです。叔母マルガレーテの教育が、芸術に親しむ姉弟にしたのでしょう。 絵にもぞっこん目が無く、祖父マクシミリアン1世は画家デューラーを庇護しましたが、カルロスのお気に入りはティツィアーノでした。代表作に「犬を連れたカール5世」という絵がありますが、これは、イタリアを訪れマントヴァに立ち寄った際に、ティツィアーノの描いた「犬を連れたマントヴァ公」の絵を見て、「私も犬を連れた肖像画が欲しい」とねだったものでした。 美しい妃「イサベル皇妃」を描いたのも、プロテスタントとの戦いに勝利した祈念碑的な「ミュールベルクの戦いのカール5世」を描いたのも、お気に入りのティツィアーノだったのです。しかし何度招いてもスペインを訪れようとはせず、仕方なく「宮廷伯」と「黄金拍車の騎士」の称号を与え、宮廷画家としたのでした。こうしてカルロスも、同時代のフランス王フランソワ1世やイングランド王ヘンリー8世とともに、様々な芸術を愛し、そして残したのです。
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、何をねだったか。
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、絵をねだった。
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歴史
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、カルロスである。 カルロス、スペインに入る 西暦1500年、フランドル地方のブルゴーニュ公国で、フェリペ(フィリップ)美公とフアナの間にカルロスは生まれました。もう一代遡ると祖父母はさらに豪華で、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、ブルゴーニュ公女マリ、カスティーリャ女王イサベル、アラゴン王フェルナンドと、錚錚たるメンバーに囲まれていたのです。 フェリペ美公の妹である叔母マルガレーテのもと、フランドルの宮廷で伸び伸びと育っていたカルロスも17歳となり、祖父フェルナンド王の死去によって、スペイン国王カルロス1世としてスペインに入ってきました。とはいえ、スペイン語はひと言も話せず、ハプスブルク家の特徴である下顎が出ており、大勢のフランドルからの臣下を引き連れ、フランドルの楽士隊が大音響を響かせる中での入城でした。「この方が新しい王様か」と人々は驚きました。軍隊を率いて来るのはわかりますが、楽士隊まで率いてきたからです。 4年後、祖父マクシミリアン1世が死去したことで行われた神聖ローマ皇帝選挙では、マルガレーテの金銭的工面もあって勝利しました。カスティーリャ、アラゴン、ブルゴーニュ公国、ハプスブルク家のオーストリアに加えて、神聖ローマ帝国まで、ヨーロッパのかなりの部分はカルロスの支配となったのです。 音楽・絵画を好む 祖父マクシミリアン1世はウィーン少年合唱団の創設者であり、フランドルでは多声音楽も盛んに行われていました。カルロス自身もスピネッタやオルガンを弾き、一緒にスペインに来た姉レオノールはリュートの名手でもあったのです。叔母マルガレーテの教育が、芸術に親しむ姉弟にしたのでしょう。 絵にもぞっこん目が無く、祖父マクシミリアン1世は画家デューラーを庇護しましたが、カルロスのお気に入りはティツィアーノでした。代表作に「犬を連れたカール5世」という絵がありますが、これは、イタリアを訪れマントヴァに立ち寄った際に、ティツィアーノの描いた「犬を連れたマントヴァ公」の絵を見て、「私も犬を連れた肖像画が欲しい」とねだったものでした。 美しい妃「イサベル皇妃」を描いたのも、プロテスタントとの戦いに勝利した祈念碑的な「ミュールベルクの戦いのカール5世」を描いたのも、お気に入りのティツィアーノだったのです。しかし何度招いてもスペインを訪れようとはせず、仕方なく「宮廷伯」と「黄金拍車の騎士」の称号を与え、宮廷画家としたのでした。こうしてカルロスも、同時代のフランス王フランソワ1世やイングランド王ヘンリー8世とともに、様々な芸術を愛し、そして残したのです。
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、誰に称号を与えたか。
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、ティツィアーノに称号を与えた。
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歴史
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、カルロスである。 カルロス、スペインに入る 西暦1500年、フランドル地方のブルゴーニュ公国で、フェリペ(フィリップ)美公とフアナの間にカルロスは生まれました。もう一代遡ると祖父母はさらに豪華で、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、ブルゴーニュ公女マリ、カスティーリャ女王イサベル、アラゴン王フェルナンドと、錚錚たるメンバーに囲まれていたのです。 フェリペ美公の妹である叔母マルガレーテのもと、フランドルの宮廷で伸び伸びと育っていたカルロスも17歳となり、祖父フェルナンド王の死去によって、スペイン国王カルロス1世としてスペインに入ってきました。とはいえ、スペイン語はひと言も話せず、ハプスブルク家の特徴である下顎が出ており、大勢のフランドルからの臣下を引き連れ、フランドルの楽士隊が大音響を響かせる中での入城でした。「この方が新しい王様か」と人々は驚きました。軍隊を率いて来るのはわかりますが、楽士隊まで率いてきたからです。 4年後、祖父マクシミリアン1世が死去したことで行われた神聖ローマ皇帝選挙では、マルガレーテの金銭的工面もあって勝利しました。カスティーリャ、アラゴン、ブルゴーニュ公国、ハプスブルク家のオーストリアに加えて、神聖ローマ帝国まで、ヨーロッパのかなりの部分はカルロスの支配となったのです。 音楽・絵画を好む 祖父マクシミリアン1世はウィーン少年合唱団の創設者であり、フランドルでは多声音楽も盛んに行われていました。カルロス自身もスピネッタやオルガンを弾き、一緒にスペインに来た姉レオノールはリュートの名手でもあったのです。叔母マルガレーテの教育が、芸術に親しむ姉弟にしたのでしょう。 絵にもぞっこん目が無く、祖父マクシミリアン1世は画家デューラーを庇護しましたが、カルロスのお気に入りはティツィアーノでした。代表作に「犬を連れたカール5世」という絵がありますが、これは、イタリアを訪れマントヴァに立ち寄った際に、ティツィアーノの描いた「犬を連れたマントヴァ公」の絵を見て、「私も犬を連れた肖像画が欲しい」とねだったものでした。 美しい妃「イサベル皇妃」を描いたのも、プロテスタントとの戦いに勝利した祈念碑的な「ミュールベルクの戦いのカール5世」を描いたのも、お気に入りのティツィアーノだったのです。しかし何度招いてもスペインを訪れようとはせず、仕方なく「宮廷伯」と「黄金拍車の騎士」の称号を与え、宮廷画家としたのでした。こうしてカルロスも、同時代のフランス王フランソワ1世やイングランド王ヘンリー8世とともに、様々な芸術を愛し、そして残したのです。
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、何を愛し残したか。
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、芸術を愛し残した。
JCRRAG_018487
歴史
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、カルロスである。 敵は三方向から カルロスは、三方向からやってくる敵たちと戦うことになります。それは、フェルナンド王の時代から敵だったフランス、異教の国オスマン・トルコ、そしてキリスト教の異端であるプロテスタントでした。 フランス王フランソワ1世とは、実は神聖ローマ皇帝位を競った相手でもありましたが、20年以上に渡りイタリア領土を巡っての戦いが続きました。パヴィアの戦いでカルロス軍はフランソワ1世を捕虜にしましたが、その後、カルロスの姉レオノールとの結婚が成立し、和解となります。 カルロスは、気候、風土はもちろん、法律、社会制度、通貨、税も異なる様々な地域をまとめるために、カトリックでの統一を常に念頭に置いていましたが、スレイマン大帝率いるオスマン・トルコの西方進出により、大切なウィーンが一時的に包囲される事件が起きました。逆に、アフリカのチュニスを攻撃し、ここでイスラム軍の捕虜になっていたキリスト教徒たちを助け出すという輝かしい勝利も収めています。 プロテスタントとの戦いでは勝利もしましたが、アウグスブルクの和議により、プロテスタントの一部はカルロスの意に反して容認されました。 あちこちの敵と戦い続けましたが、勝ったり負けたりで、決定的に勝利したとも言えなかったのです。 落とし子、フアン・デ・アウストリア 広い領土を統治するためにカルロスはヨーロッパ中を旅していましたが、不在中スペインを守っていたのが、イサベル皇妃と息子のフェリペでした。しかしイサベル皇妃が死去するとカルロスはスペインを離れることが多くなり、そんなときドイツで出会ったのが、歌姫バルバラでした。 彼女はカルロスの身の周りの世話をしながら、求めに応じて美しい歌声を響かせてくれたのです。戦いに明け暮れるカルロスが、ほっと一息つけるひとときだったのでしょう。ほどなく男子が生まれ、家臣の手で秘密裏に育てられました。このヘロニモと名付けられた子こそが、やがてオスマン・トルコとのレパントの海戦で、神聖同盟軍総司令官としてキリスト教国を奇跡の勝利に導いた、英雄フアン・デ・アウストリアだったのです。 最期は一介の修道士 1555年、トルデシーリャスでひっそりと暮らしていた母フアナが亡くなります。母の死で何かがぷっつりと切れたかのように、カルロスは退位を決断します。ブリュッセルで行われた退位式では、「カトリックを守るために、あらゆることをした。ドイツに9回、スペインに6回、イタリアに7回、ネーデルラントに10回、フランスに4回、イングランドに2回、アフリカに2回、その間、40回の遠征をし、地中海を通ったのが8回、大西洋に出たのが4回、旅から旅の人生だった。今からは墓を捜しにスペインに戻る」と述べています。 退位の後、スペインとネーデルラントは息子フェリペが、神聖ローマ帝国は弟フェルディナンドが継ぎ、フェルディナンドはオーストリア・ハプスブルクの祖となっていきます。 カルロスには若い頃から隠遁傾向があったのですが、最期の住まいは、スペインの寒村ユステの修道院でした。部屋数も少なく、臣下たちは近くの村に住み、毎日小さな修道院へ通勤しました。カルロスは「修道士」だというのに、腕のよい料理人、ケーキ職人、音楽家たちを抱え、また、大好きな時計の分解修理のための技術者も連れ、痛風の持病に苦しみながらもビールを大量に飲み続けたといいます。そして、その豪放な性格で常に人から愛されながら、旅から旅の58年の生涯を静かに閉じたのです。
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、何のために、あらゆることをしたか。
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、カトリックを守るために、あらゆることをした。
JCRRAG_018488
歴史
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、カルロスである。 敵は三方向から カルロスは、三方向からやってくる敵たちと戦うことになります。それは、フェルナンド王の時代から敵だったフランス、異教の国オスマン・トルコ、そしてキリスト教の異端であるプロテスタントでした。 フランス王フランソワ1世とは、実は神聖ローマ皇帝位を競った相手でもありましたが、20年以上に渡りイタリア領土を巡っての戦いが続きました。パヴィアの戦いでカルロス軍はフランソワ1世を捕虜にしましたが、その後、カルロスの姉レオノールとの結婚が成立し、和解となります。 カルロスは、気候、風土はもちろん、法律、社会制度、通貨、税も異なる様々な地域をまとめるために、カトリックでの統一を常に念頭に置いていましたが、スレイマン大帝率いるオスマン・トルコの西方進出により、大切なウィーンが一時的に包囲される事件が起きました。逆に、アフリカのチュニスを攻撃し、ここでイスラム軍の捕虜になっていたキリスト教徒たちを助け出すという輝かしい勝利も収めています。 プロテスタントとの戦いでは勝利もしましたが、アウグスブルクの和議により、プロテスタントの一部はカルロスの意に反して容認されました。 あちこちの敵と戦い続けましたが、勝ったり負けたりで、決定的に勝利したとも言えなかったのです。 落とし子、フアン・デ・アウストリア 広い領土を統治するためにカルロスはヨーロッパ中を旅していましたが、不在中スペインを守っていたのが、イサベル皇妃と息子のフェリペでした。しかしイサベル皇妃が死去するとカルロスはスペインを離れることが多くなり、そんなときドイツで出会ったのが、歌姫バルバラでした。 彼女はカルロスの身の周りの世話をしながら、求めに応じて美しい歌声を響かせてくれたのです。戦いに明け暮れるカルロスが、ほっと一息つけるひとときだったのでしょう。ほどなく男子が生まれ、家臣の手で秘密裏に育てられました。このヘロニモと名付けられた子こそが、やがてオスマン・トルコとのレパントの海戦で、神聖同盟軍総司令官としてキリスト教国を奇跡の勝利に導いた、英雄フアン・デ・アウストリアだったのです。 最期は一介の修道士 1555年、トルデシーリャスでひっそりと暮らしていた母フアナが亡くなります。母の死で何かがぷっつりと切れたかのように、カルロスは退位を決断します。ブリュッセルで行われた退位式では、「カトリックを守るために、あらゆることをした。ドイツに9回、スペインに6回、イタリアに7回、ネーデルラントに10回、フランスに4回、イングランドに2回、アフリカに2回、その間、40回の遠征をし、地中海を通ったのが8回、大西洋に出たのが4回、旅から旅の人生だった。今からは墓を捜しにスペインに戻る」と述べています。 退位の後、スペインとネーデルラントは息子フェリペが、神聖ローマ帝国は弟フェルディナンドが継ぎ、フェルディナンドはオーストリア・ハプスブルクの祖となっていきます。 カルロスには若い頃から隠遁傾向があったのですが、最期の住まいは、スペインの寒村ユステの修道院でした。部屋数も少なく、臣下たちは近くの村に住み、毎日小さな修道院へ通勤しました。カルロスは「修道士」だというのに、腕のよい料理人、ケーキ職人、音楽家たちを抱え、また、大好きな時計の分解修理のための技術者も連れ、痛風の持病に苦しみながらもビールを大量に飲み続けたといいます。そして、その豪放な性格で常に人から愛されながら、旅から旅の58年の生涯を静かに閉じたのです。
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、何としてキリスト教国を奇跡の勝利に導いた英雄の父と言われているか。
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、神聖同盟軍総司令官としてキリスト教国を奇跡の勝利に導いた英雄の父である。
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歴史
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、カルロスである。 敵は三方向から カルロスは、三方向からやってくる敵たちと戦うことになります。それは、フェルナンド王の時代から敵だったフランス、異教の国オスマン・トルコ、そしてキリスト教の異端であるプロテスタントでした。 フランス王フランソワ1世とは、実は神聖ローマ皇帝位を競った相手でもありましたが、20年以上に渡りイタリア領土を巡っての戦いが続きました。パヴィアの戦いでカルロス軍はフランソワ1世を捕虜にしましたが、その後、カルロスの姉レオノールとの結婚が成立し、和解となります。 カルロスは、気候、風土はもちろん、法律、社会制度、通貨、税も異なる様々な地域をまとめるために、カトリックでの統一を常に念頭に置いていましたが、スレイマン大帝率いるオスマン・トルコの西方進出により、大切なウィーンが一時的に包囲される事件が起きました。逆に、アフリカのチュニスを攻撃し、ここでイスラム軍の捕虜になっていたキリスト教徒たちを助け出すという輝かしい勝利も収めています。 プロテスタントとの戦いでは勝利もしましたが、アウグスブルクの和議により、プロテスタントの一部はカルロスの意に反して容認されました。 あちこちの敵と戦い続けましたが、勝ったり負けたりで、決定的に勝利したとも言えなかったのです。 落とし子、フアン・デ・アウストリア 広い領土を統治するためにカルロスはヨーロッパ中を旅していましたが、不在中スペインを守っていたのが、イサベル皇妃と息子のフェリペでした。しかしイサベル皇妃が死去するとカルロスはスペインを離れることが多くなり、そんなときドイツで出会ったのが、歌姫バルバラでした。 彼女はカルロスの身の周りの世話をしながら、求めに応じて美しい歌声を響かせてくれたのです。戦いに明け暮れるカルロスが、ほっと一息つけるひとときだったのでしょう。ほどなく男子が生まれ、家臣の手で秘密裏に育てられました。このヘロニモと名付けられた子こそが、やがてオスマン・トルコとのレパントの海戦で、神聖同盟軍総司令官としてキリスト教国を奇跡の勝利に導いた、英雄フアン・デ・アウストリアだったのです。 最期は一介の修道士 1555年、トルデシーリャスでひっそりと暮らしていた母フアナが亡くなります。母の死で何かがぷっつりと切れたかのように、カルロスは退位を決断します。ブリュッセルで行われた退位式では、「カトリックを守るために、あらゆることをした。ドイツに9回、スペインに6回、イタリアに7回、ネーデルラントに10回、フランスに4回、イングランドに2回、アフリカに2回、その間、40回の遠征をし、地中海を通ったのが8回、大西洋に出たのが4回、旅から旅の人生だった。今からは墓を捜しにスペインに戻る」と述べています。 退位の後、スペインとネーデルラントは息子フェリペが、神聖ローマ帝国は弟フェルディナンドが継ぎ、フェルディナンドはオーストリア・ハプスブルクの祖となっていきます。 カルロスには若い頃から隠遁傾向があったのですが、最期の住まいは、スペインの寒村ユステの修道院でした。部屋数も少なく、臣下たちは近くの村に住み、毎日小さな修道院へ通勤しました。カルロスは「修道士」だというのに、腕のよい料理人、ケーキ職人、音楽家たちを抱え、また、大好きな時計の分解修理のための技術者も連れ、痛風の持病に苦しみながらもビールを大量に飲み続けたといいます。そして、その豪放な性格で常に人から愛されながら、旅から旅の58年の生涯を静かに閉じたのです。
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、何の一部を容認する結果になったか。
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、プロテスタントの一部を容認する結果になった。
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歴史
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、カルロスである。 敵は三方向から カルロスは、三方向からやってくる敵たちと戦うことになります。それは、フェルナンド王の時代から敵だったフランス、異教の国オスマン・トルコ、そしてキリスト教の異端であるプロテスタントでした。 フランス王フランソワ1世とは、実は神聖ローマ皇帝位を競った相手でもありましたが、20年以上に渡りイタリア領土を巡っての戦いが続きました。パヴィアの戦いでカルロス軍はフランソワ1世を捕虜にしましたが、その後、カルロスの姉レオノールとの結婚が成立し、和解となります。 カルロスは、気候、風土はもちろん、法律、社会制度、通貨、税も異なる様々な地域をまとめるために、カトリックでの統一を常に念頭に置いていましたが、スレイマン大帝率いるオスマン・トルコの西方進出により、大切なウィーンが一時的に包囲される事件が起きました。逆に、アフリカのチュニスを攻撃し、ここでイスラム軍の捕虜になっていたキリスト教徒たちを助け出すという輝かしい勝利も収めています。 プロテスタントとの戦いでは勝利もしましたが、アウグスブルクの和議により、プロテスタントの一部はカルロスの意に反して容認されました。 あちこちの敵と戦い続けましたが、勝ったり負けたりで、決定的に勝利したとも言えなかったのです。 落とし子、フアン・デ・アウストリア 広い領土を統治するためにカルロスはヨーロッパ中を旅していましたが、不在中スペインを守っていたのが、イサベル皇妃と息子のフェリペでした。しかしイサベル皇妃が死去するとカルロスはスペインを離れることが多くなり、そんなときドイツで出会ったのが、歌姫バルバラでした。 彼女はカルロスの身の周りの世話をしながら、求めに応じて美しい歌声を響かせてくれたのです。戦いに明け暮れるカルロスが、ほっと一息つけるひとときだったのでしょう。ほどなく男子が生まれ、家臣の手で秘密裏に育てられました。このヘロニモと名付けられた子こそが、やがてオスマン・トルコとのレパントの海戦で、神聖同盟軍総司令官としてキリスト教国を奇跡の勝利に導いた、英雄フアン・デ・アウストリアだったのです。 最期は一介の修道士 1555年、トルデシーリャスでひっそりと暮らしていた母フアナが亡くなります。母の死で何かがぷっつりと切れたかのように、カルロスは退位を決断します。ブリュッセルで行われた退位式では、「カトリックを守るために、あらゆることをした。ドイツに9回、スペインに6回、イタリアに7回、ネーデルラントに10回、フランスに4回、イングランドに2回、アフリカに2回、その間、40回の遠征をし、地中海を通ったのが8回、大西洋に出たのが4回、旅から旅の人生だった。今からは墓を捜しにスペインに戻る」と述べています。 退位の後、スペインとネーデルラントは息子フェリペが、神聖ローマ帝国は弟フェルディナンドが継ぎ、フェルディナンドはオーストリア・ハプスブルクの祖となっていきます。 カルロスには若い頃から隠遁傾向があったのですが、最期の住まいは、スペインの寒村ユステの修道院でした。部屋数も少なく、臣下たちは近くの村に住み、毎日小さな修道院へ通勤しました。カルロスは「修道士」だというのに、腕のよい料理人、ケーキ職人、音楽家たちを抱え、また、大好きな時計の分解修理のための技術者も連れ、痛風の持病に苦しみながらもビールを大量に飲み続けたといいます。そして、その豪放な性格で常に人から愛されながら、旅から旅の58年の生涯を静かに閉じたのです。
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、痛風の持病に苦しみながらも何を大量に飲み続けたか。
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、痛風の持病に苦しみながらもビールを大量に飲み続けた。
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歴史
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、カルロスである。 敵は三方向から カルロスは、三方向からやってくる敵たちと戦うことになります。それは、フェルナンド王の時代から敵だったフランス、異教の国オスマン・トルコ、そしてキリスト教の異端であるプロテスタントでした。 フランス王フランソワ1世とは、実は神聖ローマ皇帝位を競った相手でもありましたが、20年以上に渡りイタリア領土を巡っての戦いが続きました。パヴィアの戦いでカルロス軍はフランソワ1世を捕虜にしましたが、その後、カルロスの姉レオノールとの結婚が成立し、和解となります。 カルロスは、気候、風土はもちろん、法律、社会制度、通貨、税も異なる様々な地域をまとめるために、カトリックでの統一を常に念頭に置いていましたが、スレイマン大帝率いるオスマン・トルコの西方進出により、大切なウィーンが一時的に包囲される事件が起きました。逆に、アフリカのチュニスを攻撃し、ここでイスラム軍の捕虜になっていたキリスト教徒たちを助け出すという輝かしい勝利も収めています。 プロテスタントとの戦いでは勝利もしましたが、アウグスブルクの和議により、プロテスタントの一部はカルロスの意に反して容認されました。 あちこちの敵と戦い続けましたが、勝ったり負けたりで、決定的に勝利したとも言えなかったのです。 落とし子、フアン・デ・アウストリア 広い領土を統治するためにカルロスはヨーロッパ中を旅していましたが、不在中スペインを守っていたのが、イサベル皇妃と息子のフェリペでした。しかしイサベル皇妃が死去するとカルロスはスペインを離れることが多くなり、そんなときドイツで出会ったのが、歌姫バルバラでした。 彼女はカルロスの身の周りの世話をしながら、求めに応じて美しい歌声を響かせてくれたのです。戦いに明け暮れるカルロスが、ほっと一息つけるひとときだったのでしょう。ほどなく男子が生まれ、家臣の手で秘密裏に育てられました。このヘロニモと名付けられた子こそが、やがてオスマン・トルコとのレパントの海戦で、神聖同盟軍総司令官としてキリスト教国を奇跡の勝利に導いた、英雄フアン・デ・アウストリアだったのです。 最期は一介の修道士 1555年、トルデシーリャスでひっそりと暮らしていた母フアナが亡くなります。母の死で何かがぷっつりと切れたかのように、カルロスは退位を決断します。ブリュッセルで行われた退位式では、「カトリックを守るために、あらゆることをした。ドイツに9回、スペインに6回、イタリアに7回、ネーデルラントに10回、フランスに4回、イングランドに2回、アフリカに2回、その間、40回の遠征をし、地中海を通ったのが8回、大西洋に出たのが4回、旅から旅の人生だった。今からは墓を捜しにスペインに戻る」と述べています。 退位の後、スペインとネーデルラントは息子フェリペが、神聖ローマ帝国は弟フェルディナンドが継ぎ、フェルディナンドはオーストリア・ハプスブルクの祖となっていきます。 カルロスには若い頃から隠遁傾向があったのですが、最期の住まいは、スペインの寒村ユステの修道院でした。部屋数も少なく、臣下たちは近くの村に住み、毎日小さな修道院へ通勤しました。カルロスは「修道士」だというのに、腕のよい料理人、ケーキ職人、音楽家たちを抱え、また、大好きな時計の分解修理のための技術者も連れ、痛風の持病に苦しみながらもビールを大量に飲み続けたといいます。そして、その豪放な性格で常に人から愛されながら、旅から旅の58年の生涯を静かに閉じたのです。
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、どこを旅していたか。
スペイン王だけでなく、ヨーロッパ最大の勢力を有した神聖ローマ帝国皇帝としても君臨した人物は、ヨーロッパ中を旅していた。
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歴史
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、フランス国王・ルイ14世である。 彼は積極的な対外戦争で領土を拡大し、「王権は神から付与されたものである」という王権神授説を掲げて絶対君主制を確立しました。また、ヴェルサイユ宮殿を建設したことでも有名です。しかし、目覚ましい功績の裏では、多くの国民が苦しんでいたようです。 フランス王として即位 ルイ14世はどのようにしてフランス国王になったのでしょうか?うまれから王位継承までについて振り返ります。 待望の王位継承者として誕生 ルイ14世は、1638年にルイ13世と王妃アンヌ・ドートリッシュのあいだに生まれました。両親は不仲だったため23年も子供ができず、ルイ14世は待望の王位継承者だったようです。一方、本当の父親はルイ13世ではないという噂も広まりました。1640年、二人のあいだには男子・フィリップも誕生しますが、ルイ13世はアンヌを疑い、自分の死後に妻が影響力を持たないよう摂政諮問会議の設置を遺言したといいます。 母后アンヌの摂政とマザラン枢機卿の執政 1643年5月、父の死によりルイ14世は4歳でフランス国王に即位します。母后アンヌは夫の遺言を破棄して摂政になると、枢機卿マザランを実質的な宰相として起用。マザランは今までの政策を引き継ぎ、中央集権化の推進と三十年戦争への介入を続けました。しかし、戦費のために重税を課された民衆・貴族らの不満が募りフロンドの乱が勃発。この乱のあいだ、ルイ14世は数度パリ脱出を余儀なくされます。その後、フランスはスペインとの戦争に勝利し、ルイ14世はスペイン王フェリペ4世の王女マリー・テレーズ(スペイン名:マリア・テレサ)と婚約しました。 ルイ14世の親政 1661年3月、宰相マザランが死去し、ルイ14世による親政が始まります。彼はどのような政策をとったのでしょうか? 王族・大貴族を排除、王権を強化 ルイ14世は宰相を置かないことを宣言し、行政機構の整備に着手しました。王族・大貴族を国の最高機関である国務会議から排除し、新興貴族層やブルジョワ階層(市民階層)を登用。こうして大貴族らの権威を弱めることでルイ14世は王権を強化していきます。また、地方には地方監察官を派遣し、司法・財政・治安維持などの権限を与えました。これにより地方総督の大貴族らの権限は低下しましたが、一方で地方の名士を監察官補佐にするなど、うまく支配の安定を図りました。 財務総監・コルベールの政策 ルイ14世は財務総監にジャン=バティスト・コルベールを採用します。コルベールは破産しかけていた国家財政の再建策として、金銀保有量を増やすために輸入の制限と輸出の拡大を行いました。関税を高く設定し、国内の産業を保護。国による工場設立や資金の貸し付けも行っています。また、税制を効果的に運用し、国家の債務を削減しました。1669年には海軍卿にも就任し、海軍力を強化しイギリスやオランダの海外市場に割り込むべくフランス東インド会社を再建。植民地経営に積極に乗り出し、北アメリカのミシシッピ川周辺に広大な領土を得ました。 影響力の拡大と絶頂期 ルイ14世の影響力は強まり、やがて絶頂期を迎えます。この頃のルイ14世はどのような行動を起こしたのでしょうか? 戦争による領土拡大 ルイ14世はフランスを中心とするヨーロッパ体制を計画していました。彼にとって障壁は海外貿易で富を築いていたオランダでしたが、まずは弱体化していたスペインが標的となります。1665年に義父・スペイン王フェリペ4世が亡くなりカルロス2世が即位すると、異母姉である王妃マリー・テレーズのスペイン領土の遺産帰属権を主張しフランドル戦争(帰属戦争)を起こしました。これに危機感を覚えたオランダ・イギリス・スウェーデンは三国同盟を締結し、ルイ14世は和平締結を余儀なくされます。しかし、1672年にはイギリスとフランスが手を組みオランダに侵攻。これに勝利したフランスは、ヨーロッパでの影響力を拡大させました。
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、誰を実質的な宰相として起用したか。
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、枢機卿マザランを実質的な宰相として起用した。
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歴史
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、フランス国王・ルイ14世である。 彼は積極的な対外戦争で領土を拡大し、「王権は神から付与されたものである」という王権神授説を掲げて絶対君主制を確立しました。また、ヴェルサイユ宮殿を建設したことでも有名です。しかし、目覚ましい功績の裏では、多くの国民が苦しんでいたようです。 フランス王として即位 ルイ14世はどのようにしてフランス国王になったのでしょうか?うまれから王位継承までについて振り返ります。 待望の王位継承者として誕生 ルイ14世は、1638年にルイ13世と王妃アンヌ・ドートリッシュのあいだに生まれました。両親は不仲だったため23年も子供ができず、ルイ14世は待望の王位継承者だったようです。一方、本当の父親はルイ13世ではないという噂も広まりました。1640年、二人のあいだには男子・フィリップも誕生しますが、ルイ13世はアンヌを疑い、自分の死後に妻が影響力を持たないよう摂政諮問会議の設置を遺言したといいます。 母后アンヌの摂政とマザラン枢機卿の執政 1643年5月、父の死によりルイ14世は4歳でフランス国王に即位します。母后アンヌは夫の遺言を破棄して摂政になると、枢機卿マザランを実質的な宰相として起用。マザランは今までの政策を引き継ぎ、中央集権化の推進と三十年戦争への介入を続けました。しかし、戦費のために重税を課された民衆・貴族らの不満が募りフロンドの乱が勃発。この乱のあいだ、ルイ14世は数度パリ脱出を余儀なくされます。その後、フランスはスペインとの戦争に勝利し、ルイ14世はスペイン王フェリペ4世の王女マリー・テレーズ(スペイン名:マリア・テレサ)と婚約しました。 ルイ14世の親政 1661年3月、宰相マザランが死去し、ルイ14世による親政が始まります。彼はどのような政策をとったのでしょうか? 王族・大貴族を排除、王権を強化 ルイ14世は宰相を置かないことを宣言し、行政機構の整備に着手しました。王族・大貴族を国の最高機関である国務会議から排除し、新興貴族層やブルジョワ階層(市民階層)を登用。こうして大貴族らの権威を弱めることでルイ14世は王権を強化していきます。また、地方には地方監察官を派遣し、司法・財政・治安維持などの権限を与えました。これにより地方総督の大貴族らの権限は低下しましたが、一方で地方の名士を監察官補佐にするなど、うまく支配の安定を図りました。 財務総監・コルベールの政策 ルイ14世は財務総監にジャン=バティスト・コルベールを採用します。コルベールは破産しかけていた国家財政の再建策として、金銀保有量を増やすために輸入の制限と輸出の拡大を行いました。関税を高く設定し、国内の産業を保護。国による工場設立や資金の貸し付けも行っています。また、税制を効果的に運用し、国家の債務を削減しました。1669年には海軍卿にも就任し、海軍力を強化しイギリスやオランダの海外市場に割り込むべくフランス東インド会社を再建。植民地経営に積極に乗り出し、北アメリカのミシシッピ川周辺に広大な領土を得ました。 影響力の拡大と絶頂期 ルイ14世の影響力は強まり、やがて絶頂期を迎えます。この頃のルイ14世はどのような行動を起こしたのでしょうか? 戦争による領土拡大 ルイ14世はフランスを中心とするヨーロッパ体制を計画していました。彼にとって障壁は海外貿易で富を築いていたオランダでしたが、まずは弱体化していたスペインが標的となります。1665年に義父・スペイン王フェリペ4世が亡くなりカルロス2世が即位すると、異母姉である王妃マリー・テレーズのスペイン領土の遺産帰属権を主張しフランドル戦争(帰属戦争)を起こしました。これに危機感を覚えたオランダ・イギリス・スウェーデンは三国同盟を締結し、ルイ14世は和平締結を余儀なくされます。しかし、1672年にはイギリスとフランスが手を組みオランダに侵攻。これに勝利したフランスは、ヨーロッパでの影響力を拡大させました。
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、誰を国の最高機関である国務会議から排除したか。
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、王族・大貴族を国の最高機関である国務会議から排除した。
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ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、フランス国王・ルイ14世である。 彼は積極的な対外戦争で領土を拡大し、「王権は神から付与されたものである」という王権神授説を掲げて絶対君主制を確立しました。また、ヴェルサイユ宮殿を建設したことでも有名です。しかし、目覚ましい功績の裏では、多くの国民が苦しんでいたようです。 フランス王として即位 ルイ14世はどのようにしてフランス国王になったのでしょうか?うまれから王位継承までについて振り返ります。 待望の王位継承者として誕生 ルイ14世は、1638年にルイ13世と王妃アンヌ・ドートリッシュのあいだに生まれました。両親は不仲だったため23年も子供ができず、ルイ14世は待望の王位継承者だったようです。一方、本当の父親はルイ13世ではないという噂も広まりました。1640年、二人のあいだには男子・フィリップも誕生しますが、ルイ13世はアンヌを疑い、自分の死後に妻が影響力を持たないよう摂政諮問会議の設置を遺言したといいます。 母后アンヌの摂政とマザラン枢機卿の執政 1643年5月、父の死によりルイ14世は4歳でフランス国王に即位します。母后アンヌは夫の遺言を破棄して摂政になると、枢機卿マザランを実質的な宰相として起用。マザランは今までの政策を引き継ぎ、中央集権化の推進と三十年戦争への介入を続けました。しかし、戦費のために重税を課された民衆・貴族らの不満が募りフロンドの乱が勃発。この乱のあいだ、ルイ14世は数度パリ脱出を余儀なくされます。その後、フランスはスペインとの戦争に勝利し、ルイ14世はスペイン王フェリペ4世の王女マリー・テレーズ(スペイン名:マリア・テレサ)と婚約しました。 ルイ14世の親政 1661年3月、宰相マザランが死去し、ルイ14世による親政が始まります。彼はどのような政策をとったのでしょうか? 王族・大貴族を排除、王権を強化 ルイ14世は宰相を置かないことを宣言し、行政機構の整備に着手しました。王族・大貴族を国の最高機関である国務会議から排除し、新興貴族層やブルジョワ階層(市民階層)を登用。こうして大貴族らの権威を弱めることでルイ14世は王権を強化していきます。また、地方には地方監察官を派遣し、司法・財政・治安維持などの権限を与えました。これにより地方総督の大貴族らの権限は低下しましたが、一方で地方の名士を監察官補佐にするなど、うまく支配の安定を図りました。 財務総監・コルベールの政策 ルイ14世は財務総監にジャン=バティスト・コルベールを採用します。コルベールは破産しかけていた国家財政の再建策として、金銀保有量を増やすために輸入の制限と輸出の拡大を行いました。関税を高く設定し、国内の産業を保護。国による工場設立や資金の貸し付けも行っています。また、税制を効果的に運用し、国家の債務を削減しました。1669年には海軍卿にも就任し、海軍力を強化しイギリスやオランダの海外市場に割り込むべくフランス東インド会社を再建。植民地経営に積極に乗り出し、北アメリカのミシシッピ川周辺に広大な領土を得ました。 影響力の拡大と絶頂期 ルイ14世の影響力は強まり、やがて絶頂期を迎えます。この頃のルイ14世はどのような行動を起こしたのでしょうか? 戦争による領土拡大 ルイ14世はフランスを中心とするヨーロッパ体制を計画していました。彼にとって障壁は海外貿易で富を築いていたオランダでしたが、まずは弱体化していたスペインが標的となります。1665年に義父・スペイン王フェリペ4世が亡くなりカルロス2世が即位すると、異母姉である王妃マリー・テレーズのスペイン領土の遺産帰属権を主張しフランドル戦争(帰属戦争)を起こしました。これに危機感を覚えたオランダ・イギリス・スウェーデンは三国同盟を締結し、ルイ14世は和平締結を余儀なくされます。しかし、1672年にはイギリスとフランスが手を組みオランダに侵攻。これに勝利したフランスは、ヨーロッパでの影響力を拡大させました。
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、何のためにフランス東インド会社を再建したか。
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、イギリスやオランダの海外市場に割り込むべくフランス東インド会社を再建した。
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歴史
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、フランス国王・ルイ14世である。 彼は積極的な対外戦争で領土を拡大し、「王権は神から付与されたものである」という王権神授説を掲げて絶対君主制を確立しました。また、ヴェルサイユ宮殿を建設したことでも有名です。しかし、目覚ましい功績の裏では、多くの国民が苦しんでいたようです。 フランス王として即位 ルイ14世はどのようにしてフランス国王になったのでしょうか?うまれから王位継承までについて振り返ります。 待望の王位継承者として誕生 ルイ14世は、1638年にルイ13世と王妃アンヌ・ドートリッシュのあいだに生まれました。両親は不仲だったため23年も子供ができず、ルイ14世は待望の王位継承者だったようです。一方、本当の父親はルイ13世ではないという噂も広まりました。1640年、二人のあいだには男子・フィリップも誕生しますが、ルイ13世はアンヌを疑い、自分の死後に妻が影響力を持たないよう摂政諮問会議の設置を遺言したといいます。 母后アンヌの摂政とマザラン枢機卿の執政 1643年5月、父の死によりルイ14世は4歳でフランス国王に即位します。母后アンヌは夫の遺言を破棄して摂政になると、枢機卿マザランを実質的な宰相として起用。マザランは今までの政策を引き継ぎ、中央集権化の推進と三十年戦争への介入を続けました。しかし、戦費のために重税を課された民衆・貴族らの不満が募りフロンドの乱が勃発。この乱のあいだ、ルイ14世は数度パリ脱出を余儀なくされます。その後、フランスはスペインとの戦争に勝利し、ルイ14世はスペイン王フェリペ4世の王女マリー・テレーズ(スペイン名:マリア・テレサ)と婚約しました。 ルイ14世の親政 1661年3月、宰相マザランが死去し、ルイ14世による親政が始まります。彼はどのような政策をとったのでしょうか? 王族・大貴族を排除、王権を強化 ルイ14世は宰相を置かないことを宣言し、行政機構の整備に着手しました。王族・大貴族を国の最高機関である国務会議から排除し、新興貴族層やブルジョワ階層(市民階層)を登用。こうして大貴族らの権威を弱めることでルイ14世は王権を強化していきます。また、地方には地方監察官を派遣し、司法・財政・治安維持などの権限を与えました。これにより地方総督の大貴族らの権限は低下しましたが、一方で地方の名士を監察官補佐にするなど、うまく支配の安定を図りました。 財務総監・コルベールの政策 ルイ14世は財務総監にジャン=バティスト・コルベールを採用します。コルベールは破産しかけていた国家財政の再建策として、金銀保有量を増やすために輸入の制限と輸出の拡大を行いました。関税を高く設定し、国内の産業を保護。国による工場設立や資金の貸し付けも行っています。また、税制を効果的に運用し、国家の債務を削減しました。1669年には海軍卿にも就任し、海軍力を強化しイギリスやオランダの海外市場に割り込むべくフランス東インド会社を再建。植民地経営に積極に乗り出し、北アメリカのミシシッピ川周辺に広大な領土を得ました。 影響力の拡大と絶頂期 ルイ14世の影響力は強まり、やがて絶頂期を迎えます。この頃のルイ14世はどのような行動を起こしたのでしょうか? 戦争による領土拡大 ルイ14世はフランスを中心とするヨーロッパ体制を計画していました。彼にとって障壁は海外貿易で富を築いていたオランダでしたが、まずは弱体化していたスペインが標的となります。1665年に義父・スペイン王フェリペ4世が亡くなりカルロス2世が即位すると、異母姉である王妃マリー・テレーズのスペイン領土の遺産帰属権を主張しフランドル戦争(帰属戦争)を起こしました。これに危機感を覚えたオランダ・イギリス・スウェーデンは三国同盟を締結し、ルイ14世は和平締結を余儀なくされます。しかし、1672年にはイギリスとフランスが手を組みオランダに侵攻。これに勝利したフランスは、ヨーロッパでの影響力を拡大させました。
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、誰を財務総監に採用したか。
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、財務総監にジャン=バティスト・コルベールを採用した。
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歴史
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、フランス国王・ルイ14世である。 彼は積極的な対外戦争で領土を拡大し、「王権は神から付与されたものである」という王権神授説を掲げて絶対君主制を確立しました。また、ヴェルサイユ宮殿を建設したことでも有名です。しかし、目覚ましい功績の裏では、多くの国民が苦しんでいたようです。 フランス王として即位 ルイ14世はどのようにしてフランス国王になったのでしょうか?うまれから王位継承までについて振り返ります。 待望の王位継承者として誕生 ルイ14世は、1638年にルイ13世と王妃アンヌ・ドートリッシュのあいだに生まれました。両親は不仲だったため23年も子供ができず、ルイ14世は待望の王位継承者だったようです。一方、本当の父親はルイ13世ではないという噂も広まりました。1640年、二人のあいだには男子・フィリップも誕生しますが、ルイ13世はアンヌを疑い、自分の死後に妻が影響力を持たないよう摂政諮問会議の設置を遺言したといいます。 母后アンヌの摂政とマザラン枢機卿の執政 1643年5月、父の死によりルイ14世は4歳でフランス国王に即位します。母后アンヌは夫の遺言を破棄して摂政になると、枢機卿マザランを実質的な宰相として起用。マザランは今までの政策を引き継ぎ、中央集権化の推進と三十年戦争への介入を続けました。しかし、戦費のために重税を課された民衆・貴族らの不満が募りフロンドの乱が勃発。この乱のあいだ、ルイ14世は数度パリ脱出を余儀なくされます。その後、フランスはスペインとの戦争に勝利し、ルイ14世はスペイン王フェリペ4世の王女マリー・テレーズ(スペイン名:マリア・テレサ)と婚約しました。 ルイ14世の親政 1661年3月、宰相マザランが死去し、ルイ14世による親政が始まります。彼はどのような政策をとったのでしょうか? 王族・大貴族を排除、王権を強化 ルイ14世は宰相を置かないことを宣言し、行政機構の整備に着手しました。王族・大貴族を国の最高機関である国務会議から排除し、新興貴族層やブルジョワ階層(市民階層)を登用。こうして大貴族らの権威を弱めることでルイ14世は王権を強化していきます。また、地方には地方監察官を派遣し、司法・財政・治安維持などの権限を与えました。これにより地方総督の大貴族らの権限は低下しましたが、一方で地方の名士を監察官補佐にするなど、うまく支配の安定を図りました。 財務総監・コルベールの政策 ルイ14世は財務総監にジャン=バティスト・コルベールを採用します。コルベールは破産しかけていた国家財政の再建策として、金銀保有量を増やすために輸入の制限と輸出の拡大を行いました。関税を高く設定し、国内の産業を保護。国による工場設立や資金の貸し付けも行っています。また、税制を効果的に運用し、国家の債務を削減しました。1669年には海軍卿にも就任し、海軍力を強化しイギリスやオランダの海外市場に割り込むべくフランス東インド会社を再建。植民地経営に積極に乗り出し、北アメリカのミシシッピ川周辺に広大な領土を得ました。 影響力の拡大と絶頂期 ルイ14世の影響力は強まり、やがて絶頂期を迎えます。この頃のルイ14世はどのような行動を起こしたのでしょうか? 戦争による領土拡大 ルイ14世はフランスを中心とするヨーロッパ体制を計画していました。彼にとって障壁は海外貿易で富を築いていたオランダでしたが、まずは弱体化していたスペインが標的となります。1665年に義父・スペイン王フェリペ4世が亡くなりカルロス2世が即位すると、異母姉である王妃マリー・テレーズのスペイン領土の遺産帰属権を主張しフランドル戦争(帰属戦争)を起こしました。これに危機感を覚えたオランダ・イギリス・スウェーデンは三国同盟を締結し、ルイ14世は和平締結を余儀なくされます。しかし、1672年にはイギリスとフランスが手を組みオランダに侵攻。これに勝利したフランスは、ヨーロッパでの影響力を拡大させました。
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、地方に誰を派遣したか。
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、地方には地方監察官を派遣した。
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歴史
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、フランス国王・ルイ14世である。 ヴェルサイユ宮殿の造営 1660年代ごろから、ルイ14世はヴェルサイユ宮殿の建設を開始しました。これはルイ13世が狩猟の館として使っていた城館を改修・拡張したもので、ルイ14世の晩年まで工事が続けられたといいます。建設事業にあたったのは、当時一番の建築家と言われたル・ヴォーや、造園の名師ル・ノートルなどです。最高の職人を招いて完成した宮殿はバロック建築の代表作とされており、ルイ14世の治世を象徴するものとなりました。 フランス王家は代々パリ市内の王宮を転々としていましたが、1682年5月以降はヴェルサイユ宮殿に固定されます。こうして政治の中心はパリからヴェルサイユへと移り、王を頂点としたフランス絶対王政が確立しました。 カトリック信仰の強化とナント勅令の破棄 1683年、王妃マリー・テレーズが亡くなり、ルイ14世は寵姫マントノン侯爵夫人と秘密裏に結婚します。彼女は王妃ではなかったものの、国王の決定に影響を与えたとも考えられているようです。その1つが宗教問題で、ルイ14世はローマ教皇と交流を深め、カトリックの強化を目指してジャンセニスト(厳格主義信仰運動)やユグノー(フランス・プロテスタント)を弾圧しました。1685年には自由信仰を認めたナント勅令を破棄し、国内で反乱が起こります。ルイ14世はこの混乱を武力で鎮圧すると、国外への亡命者を追跡して虐殺しました。 長く続いた侵略戦争 その後も侵略戦争は続き、1688年にはアウクスブルク同盟戦争(ファルツ戦争、大同盟戦争)が起こります。神聖ローマ帝国の公領ファルツで男子相続者が絶えた際、ルイ14世は弟の妃が同家出身だとして領土を要求し侵攻しました。これに対しヨーロッパ諸国は対仏のアウクスブルク同盟を結成。この戦いは1697年のレイスウェイク条約で終結します。 次に狙ったのは広大な植民地から莫大な利益を得られるスペイン王位継承権で、ルイ14世は縁戚関係から孫のアンジュー公フィリップの継承権を主張。これに対しヨーロッパ諸国はハーグ同盟を結成し、スペイン継承戦争が勃発します。この戦いの結果、フィリップはスペイン王になりましたが、フランスは領土や植民地を多く失いました。 晩年とその後のフランス 幼くして即位し積極的に政治を推し進めてきたルイ14世ですが、やがて最期が訪れます。彼の死はフランスにどのような影響を与えたのでしょうか? 民衆に歓喜された死 晩年、長年にわたる戦費で国家財政は破綻しかけており、フランス国民は重税で困窮しきっていました。そんな中、1715年9月1日、ルイ14世は77歳の誕生日を前にしてこの世を去ります。民衆は王の崩御を歓喜し、葬列に罵声を浴びせたそうです。ルイ14世は72年もの在位期間を誇りましたが、これはフランス史上最長であり、「中世以後の国家元首として最長の在位期間を持つ人物」としてギネス世界記録にも認定されています。 そしてフランス革命へ ルイ14世の死後、ひ孫にあたる5歳の王太子がルイ15世として即位しました。ルイ14世は死の床で「自分のようになってはならない」と王太子を戒めましたが、その言葉も空しく、ルイ15世は多くの戦争を繰り広げます。彼の治世は60年近く続いたものの、崩御時にはフランスの財政は破綻寸前でした。次代のルイ16世はこの苦境を乗り切れず、やがてフランス革命へと突入していきます。 ヨーロッパ最大の国力を築いた 侵略戦争で領土を拡大し続け、ヨーロッパ最大の国力と陸軍力を築いたフランス国王ルイ14世。しかし、戦費によって財政は悪化し、民衆は重税に苦しみました。国力を示す事業の1つとして造営されたヴェルサイユ宮殿は、後に起こるフランス革命の舞台としても有名です。ルイ14世を代表するこの宮殿は、現在、フランス随一の豪華絢爛さを誇る観光地となっています。
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、王権をどのように強化したか。
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、王族・大貴族を国の最高機関である国務会議から排除し、新興貴族層やブルジョワ階層(市民階層)を登用した。
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歴史
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、フランス国王・ルイ14世である。 ヴェルサイユ宮殿の造営 1660年代ごろから、ルイ14世はヴェルサイユ宮殿の建設を開始しました。これはルイ13世が狩猟の館として使っていた城館を改修・拡張したもので、ルイ14世の晩年まで工事が続けられたといいます。建設事業にあたったのは、当時一番の建築家と言われたル・ヴォーや、造園の名師ル・ノートルなどです。最高の職人を招いて完成した宮殿はバロック建築の代表作とされており、ルイ14世の治世を象徴するものとなりました。 フランス王家は代々パリ市内の王宮を転々としていましたが、1682年5月以降はヴェルサイユ宮殿に固定されます。こうして政治の中心はパリからヴェルサイユへと移り、王を頂点としたフランス絶対王政が確立しました。 カトリック信仰の強化とナント勅令の破棄 1683年、王妃マリー・テレーズが亡くなり、ルイ14世は寵姫マントノン侯爵夫人と秘密裏に結婚します。彼女は王妃ではなかったものの、国王の決定に影響を与えたとも考えられているようです。その1つが宗教問題で、ルイ14世はローマ教皇と交流を深め、カトリックの強化を目指してジャンセニスト(厳格主義信仰運動)やユグノー(フランス・プロテスタント)を弾圧しました。1685年には自由信仰を認めたナント勅令を破棄し、国内で反乱が起こります。ルイ14世はこの混乱を武力で鎮圧すると、国外への亡命者を追跡して虐殺しました。 長く続いた侵略戦争 その後も侵略戦争は続き、1688年にはアウクスブルク同盟戦争(ファルツ戦争、大同盟戦争)が起こります。神聖ローマ帝国の公領ファルツで男子相続者が絶えた際、ルイ14世は弟の妃が同家出身だとして領土を要求し侵攻しました。これに対しヨーロッパ諸国は対仏のアウクスブルク同盟を結成。この戦いは1697年のレイスウェイク条約で終結します。 次に狙ったのは広大な植民地から莫大な利益を得られるスペイン王位継承権で、ルイ14世は縁戚関係から孫のアンジュー公フィリップの継承権を主張。これに対しヨーロッパ諸国はハーグ同盟を結成し、スペイン継承戦争が勃発します。この戦いの結果、フィリップはスペイン王になりましたが、フランスは領土や植民地を多く失いました。 晩年とその後のフランス 幼くして即位し積極的に政治を推し進めてきたルイ14世ですが、やがて最期が訪れます。彼の死はフランスにどのような影響を与えたのでしょうか? 民衆に歓喜された死 晩年、長年にわたる戦費で国家財政は破綻しかけており、フランス国民は重税で困窮しきっていました。そんな中、1715年9月1日、ルイ14世は77歳の誕生日を前にしてこの世を去ります。民衆は王の崩御を歓喜し、葬列に罵声を浴びせたそうです。ルイ14世は72年もの在位期間を誇りましたが、これはフランス史上最長であり、「中世以後の国家元首として最長の在位期間を持つ人物」としてギネス世界記録にも認定されています。 そしてフランス革命へ ルイ14世の死後、ひ孫にあたる5歳の王太子がルイ15世として即位しました。ルイ14世は死の床で「自分のようになってはならない」と王太子を戒めましたが、その言葉も空しく、ルイ15世は多くの戦争を繰り広げます。彼の治世は60年近く続いたものの、崩御時にはフランスの財政は破綻寸前でした。次代のルイ16世はこの苦境を乗り切れず、やがてフランス革命へと突入していきます。 ヨーロッパ最大の国力を築いた 侵略戦争で領土を拡大し続け、ヨーロッパ最大の国力と陸軍力を築いたフランス国王ルイ14世。しかし、戦費によって財政は悪化し、民衆は重税に苦しみました。国力を示す事業の1つとして造営されたヴェルサイユ宮殿は、後に起こるフランス革命の舞台としても有名です。ルイ14世を代表するこの宮殿は、現在、フランス随一の豪華絢爛さを誇る観光地となっています。
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、どのような宮殿を建設したか。
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、最高の職人を招いて完成した宮殿はバロック建築の代表作とされており、ルイ14世の治世を象徴するものとなった。
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歴史
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、フランス国王・ルイ14世である。 ヴェルサイユ宮殿の造営 1660年代ごろから、ルイ14世はヴェルサイユ宮殿の建設を開始しました。これはルイ13世が狩猟の館として使っていた城館を改修・拡張したもので、ルイ14世の晩年まで工事が続けられたといいます。建設事業にあたったのは、当時一番の建築家と言われたル・ヴォーや、造園の名師ル・ノートルなどです。最高の職人を招いて完成した宮殿はバロック建築の代表作とされており、ルイ14世の治世を象徴するものとなりました。 フランス王家は代々パリ市内の王宮を転々としていましたが、1682年5月以降はヴェルサイユ宮殿に固定されます。こうして政治の中心はパリからヴェルサイユへと移り、王を頂点としたフランス絶対王政が確立しました。 カトリック信仰の強化とナント勅令の破棄 1683年、王妃マリー・テレーズが亡くなり、ルイ14世は寵姫マントノン侯爵夫人と秘密裏に結婚します。彼女は王妃ではなかったものの、国王の決定に影響を与えたとも考えられているようです。その1つが宗教問題で、ルイ14世はローマ教皇と交流を深め、カトリックの強化を目指してジャンセニスト(厳格主義信仰運動)やユグノー(フランス・プロテスタント)を弾圧しました。1685年には自由信仰を認めたナント勅令を破棄し、国内で反乱が起こります。ルイ14世はこの混乱を武力で鎮圧すると、国外への亡命者を追跡して虐殺しました。 長く続いた侵略戦争 その後も侵略戦争は続き、1688年にはアウクスブルク同盟戦争(ファルツ戦争、大同盟戦争)が起こります。神聖ローマ帝国の公領ファルツで男子相続者が絶えた際、ルイ14世は弟の妃が同家出身だとして領土を要求し侵攻しました。これに対しヨーロッパ諸国は対仏のアウクスブルク同盟を結成。この戦いは1697年のレイスウェイク条約で終結します。 次に狙ったのは広大な植民地から莫大な利益を得られるスペイン王位継承権で、ルイ14世は縁戚関係から孫のアンジュー公フィリップの継承権を主張。これに対しヨーロッパ諸国はハーグ同盟を結成し、スペイン継承戦争が勃発します。この戦いの結果、フィリップはスペイン王になりましたが、フランスは領土や植民地を多く失いました。 晩年とその後のフランス 幼くして即位し積極的に政治を推し進めてきたルイ14世ですが、やがて最期が訪れます。彼の死はフランスにどのような影響を与えたのでしょうか? 民衆に歓喜された死 晩年、長年にわたる戦費で国家財政は破綻しかけており、フランス国民は重税で困窮しきっていました。そんな中、1715年9月1日、ルイ14世は77歳の誕生日を前にしてこの世を去ります。民衆は王の崩御を歓喜し、葬列に罵声を浴びせたそうです。ルイ14世は72年もの在位期間を誇りましたが、これはフランス史上最長であり、「中世以後の国家元首として最長の在位期間を持つ人物」としてギネス世界記録にも認定されています。 そしてフランス革命へ ルイ14世の死後、ひ孫にあたる5歳の王太子がルイ15世として即位しました。ルイ14世は死の床で「自分のようになってはならない」と王太子を戒めましたが、その言葉も空しく、ルイ15世は多くの戦争を繰り広げます。彼の治世は60年近く続いたものの、崩御時にはフランスの財政は破綻寸前でした。次代のルイ16世はこの苦境を乗り切れず、やがてフランス革命へと突入していきます。 ヨーロッパ最大の国力を築いた 侵略戦争で領土を拡大し続け、ヨーロッパ最大の国力と陸軍力を築いたフランス国王ルイ14世。しかし、戦費によって財政は悪化し、民衆は重税に苦しみました。国力を示す事業の1つとして造営されたヴェルサイユ宮殿は、後に起こるフランス革命の舞台としても有名です。ルイ14世を代表するこの宮殿は、現在、フランス随一の豪華絢爛さを誇る観光地となっています。
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、どのようにしてカトリック信仰を強化したか。
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、自由信仰を認めたナント勅令を破棄し、国内で反乱が起こると武力で鎮圧し、国外への亡命者を追跡して虐殺した。
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歴史
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、フランス国王・ルイ14世である。 ヴェルサイユ宮殿の造営 1660年代ごろから、ルイ14世はヴェルサイユ宮殿の建設を開始しました。これはルイ13世が狩猟の館として使っていた城館を改修・拡張したもので、ルイ14世の晩年まで工事が続けられたといいます。建設事業にあたったのは、当時一番の建築家と言われたル・ヴォーや、造園の名師ル・ノートルなどです。最高の職人を招いて完成した宮殿はバロック建築の代表作とされており、ルイ14世の治世を象徴するものとなりました。 フランス王家は代々パリ市内の王宮を転々としていましたが、1682年5月以降はヴェルサイユ宮殿に固定されます。こうして政治の中心はパリからヴェルサイユへと移り、王を頂点としたフランス絶対王政が確立しました。 カトリック信仰の強化とナント勅令の破棄 1683年、王妃マリー・テレーズが亡くなり、ルイ14世は寵姫マントノン侯爵夫人と秘密裏に結婚します。彼女は王妃ではなかったものの、国王の決定に影響を与えたとも考えられているようです。その1つが宗教問題で、ルイ14世はローマ教皇と交流を深め、カトリックの強化を目指してジャンセニスト(厳格主義信仰運動)やユグノー(フランス・プロテスタント)を弾圧しました。1685年には自由信仰を認めたナント勅令を破棄し、国内で反乱が起こります。ルイ14世はこの混乱を武力で鎮圧すると、国外への亡命者を追跡して虐殺しました。 長く続いた侵略戦争 その後も侵略戦争は続き、1688年にはアウクスブルク同盟戦争(ファルツ戦争、大同盟戦争)が起こります。神聖ローマ帝国の公領ファルツで男子相続者が絶えた際、ルイ14世は弟の妃が同家出身だとして領土を要求し侵攻しました。これに対しヨーロッパ諸国は対仏のアウクスブルク同盟を結成。この戦いは1697年のレイスウェイク条約で終結します。 次に狙ったのは広大な植民地から莫大な利益を得られるスペイン王位継承権で、ルイ14世は縁戚関係から孫のアンジュー公フィリップの継承権を主張。これに対しヨーロッパ諸国はハーグ同盟を結成し、スペイン継承戦争が勃発します。この戦いの結果、フィリップはスペイン王になりましたが、フランスは領土や植民地を多く失いました。 晩年とその後のフランス 幼くして即位し積極的に政治を推し進めてきたルイ14世ですが、やがて最期が訪れます。彼の死はフランスにどのような影響を与えたのでしょうか? 民衆に歓喜された死 晩年、長年にわたる戦費で国家財政は破綻しかけており、フランス国民は重税で困窮しきっていました。そんな中、1715年9月1日、ルイ14世は77歳の誕生日を前にしてこの世を去ります。民衆は王の崩御を歓喜し、葬列に罵声を浴びせたそうです。ルイ14世は72年もの在位期間を誇りましたが、これはフランス史上最長であり、「中世以後の国家元首として最長の在位期間を持つ人物」としてギネス世界記録にも認定されています。 そしてフランス革命へ ルイ14世の死後、ひ孫にあたる5歳の王太子がルイ15世として即位しました。ルイ14世は死の床で「自分のようになってはならない」と王太子を戒めましたが、その言葉も空しく、ルイ15世は多くの戦争を繰り広げます。彼の治世は60年近く続いたものの、崩御時にはフランスの財政は破綻寸前でした。次代のルイ16世はこの苦境を乗り切れず、やがてフランス革命へと突入していきます。 ヨーロッパ最大の国力を築いた 侵略戦争で領土を拡大し続け、ヨーロッパ最大の国力と陸軍力を築いたフランス国王ルイ14世。しかし、戦費によって財政は悪化し、民衆は重税に苦しみました。国力を示す事業の1つとして造営されたヴェルサイユ宮殿は、後に起こるフランス革命の舞台としても有名です。ルイ14世を代表するこの宮殿は、現在、フランス随一の豪華絢爛さを誇る観光地となっています。
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、スペイン継承戦争において誰の継承権を主張したか。
ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれた人物は、孫のアンジュー公フィリップの継承権を主張した。