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JCRRAG_008401 | 法律 | 平成30年6月13日、民法の成年年齢を20歳から18歳に引き下げること等を内容とする民法の一部を改正する法律が成立し、令和4年4月1日から施行されました。
民法の定める成年年齢は、単独で契約を締結することができる年齢という意味と、親権に服することがなくなる年齢という意味を持つものですが、この年齢は、明治29年(1896年)に民法が制定されて以来、20歳と定められてきました。これは、明治9年の太政官布告を引き継いだものといわれています。
成年年齢の見直しは、明治9年の太政官布告以来、約140年ぶりであり、18歳、19歳の若者が自らの判断によって人生を選択することができる環境を整備するとともに、その積極的な社会参加を促し、社会を活力あるものにする意義を有するものと考えられます。
また、女性の婚姻開始年齢は16歳と定められており、18歳とされる男性の婚姻開始年齢と異なっていましたが、今回の改正では、女性の婚姻年齢を18歳に引き上げ、男女の婚姻開始年齢を統一することとしています。
民法が定める成年年齢を18歳に引き下げるに当たり、若年者の自立を促す施策や消費者被害の拡大を防止する施策などの環境整備が必要であるとの指摘がされてきました。
政府では、このような指摘を踏まえ、成年年齢の引下げに向けた環境整備のための様々な取組を行ってきたところですが、こうした環境整備に関し、関係行政機関相互の密接な連携・協力を確保し、総合的かつ効果的な取組を推進するため、成年年齢引下げを見据えた環境整備に関する関係府省庁連絡会議において、これらの課題に取り組んできました。 | 民法の改正により、女性の婚姻開始年齢はどのように変わったか。 | 女性の婚姻開始年齢は、16歳から18歳になりました。今回の改正で、女性の婚姻年齢を18歳に引き上げ、男女の婚姻開始年齢を統一しました。 |
JCRRAG_008402 | 法律 | 知的財産権制度とは、知的創造活動によって生み出されたものを、創作した人の財産として保護するための制度です。「知的財産」及び「知的財産権」は、知的財産基本法において次のとおり定義されています。
第2条 この法律で「知的財産」とは、発明、考案、植物の新品種、意匠、著作物その他の人間の創造的活動により生み出されるもの(発見又は解明がされた自然の法則又は現象であって、産業上の利用可能性があるものを含む。)、商標、商号その他事業活動に用いられる商品又は役務を表示するもの及び営業秘密その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報をいう。
2 この法律で「知的財産権」とは、特許権、実用新案権、育成者権、意匠権、著作権、商標権その他の知的財産に関して法令により定められた権利又は法律上保護される利益に係る権利をいう。
知的財産の特徴の一つとして、「もの」とは異なり「財産的価値を有する情報」であることが挙げられます。情報は、容易に模倣されるという特質をもっており、しかも利用されることにより消費されるということがないため、多くの者が同時に利用することができます。こうしたことから知的財産権制度は、創作者の権利を保護するため、元来自由利用できる情報を、社会が必要とする限度で自由を制限する制度ということができます。
近年、政府では「知的財産立国」の実現を目指し、様々な施策が進められています。また、産業界や大学等の動向についてみると、産学官連携の推進、企業における知的財産戦略意識の変化、地方公共団体における知的財産戦略の策定等、知的財産を取り巻く環境は大きく変化しています。今後、知的財産権制度の活用については、我が国経済の活性化だけではなく、企業や大学・研究機関においても重要な位置を占めることになっています。 | 知的財産制度で保護されるものは何か。 | 知的財産制度で保護されるものは、知的創造活動によって生み出されたものです。 |
JCRRAG_008403 | 法律 | 知的財産権制度とは、知的創造活動によって生み出されたものを、創作した人の財産として保護するための制度です。「知的財産」及び「知的財産権」は、知的財産基本法において次のとおり定義されています。
第2条 この法律で「知的財産」とは、発明、考案、植物の新品種、意匠、著作物その他の人間の創造的活動により生み出されるもの(発見又は解明がされた自然の法則又は現象であって、産業上の利用可能性があるものを含む。)、商標、商号その他事業活動に用いられる商品又は役務を表示するもの及び営業秘密その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報をいう。
2 この法律で「知的財産権」とは、特許権、実用新案権、育成者権、意匠権、著作権、商標権その他の知的財産に関して法令により定められた権利又は法律上保護される利益に係る権利をいう。
知的財産の特徴の一つとして、「もの」とは異なり「財産的価値を有する情報」であることが挙げられます。情報は、容易に模倣されるという特質をもっており、しかも利用されることにより消費されるということがないため、多くの者が同時に利用することができます。こうしたことから知的財産権制度は、創作者の権利を保護するため、元来自由利用できる情報を、社会が必要とする限度で自由を制限する制度ということができます。
近年、政府では「知的財産立国」の実現を目指し、様々な施策が進められています。また、産業界や大学等の動向についてみると、産学官連携の推進、企業における知的財産戦略意識の変化、地方公共団体における知的財産戦略の策定等、知的財産を取り巻く環境は大きく変化しています。今後、知的財産権制度の活用については、我が国経済の活性化だけではなく、企業や大学・研究機関においても重要な位置を占めることになっています。 | 「知的財産」が定義されている法律は何か。 | 「知的財産」は、知的財産基本法で定義されています。 この法律で「知的財産」とは、発明、考案、植物の新品種、意匠、著作物その他の人間の創造的活動により生み出されるもの(発見又は解明がされた自然の法則又は現象であって、産業上の利用可能性があるものを含む。)、商標、商号その他事業活動に用いられる商品又は役務を表示するもの及び営業秘密その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報であると定義されています。 |
JCRRAG_008404 | 法律 | 知的財産権制度とは、知的創造活動によって生み出されたものを、創作した人の財産として保護するための制度です。「知的財産」及び「知的財産権」は、知的財産基本法において次のとおり定義されています。
第2条 この法律で「知的財産」とは、発明、考案、植物の新品種、意匠、著作物その他の人間の創造的活動により生み出されるもの(発見又は解明がされた自然の法則又は現象であって、産業上の利用可能性があるものを含む。)、商標、商号その他事業活動に用いられる商品又は役務を表示するもの及び営業秘密その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報をいう。
2 この法律で「知的財産権」とは、特許権、実用新案権、育成者権、意匠権、著作権、商標権その他の知的財産に関して法令により定められた権利又は法律上保護される利益に係る権利をいう。
知的財産の特徴の一つとして、「もの」とは異なり「財産的価値を有する情報」であることが挙げられます。情報は、容易に模倣されるという特質をもっており、しかも利用されることにより消費されるということがないため、多くの者が同時に利用することができます。こうしたことから知的財産権制度は、創作者の権利を保護するため、元来自由利用できる情報を、社会が必要とする限度で自由を制限する制度ということができます。
近年、政府では「知的財産立国」の実現を目指し、様々な施策が進められています。また、産業界や大学等の動向についてみると、産学官連携の推進、企業における知的財産戦略意識の変化、地方公共団体における知的財産戦略の策定等、知的財産を取り巻く環境は大きく変化しています。今後、知的財産権制度の活用については、我が国経済の活性化だけではなく、企業や大学・研究機関においても重要な位置を占めることになっています。 | 「知的財産権」は、どのような権利ですか。 | 「知的財産権」は、特許権、実用新案権、育成者権、意匠権、著作権、商標権その他の知的財産に関して法令により定められた権利又は法律上保護される利益に係る権利です。 |
JCRRAG_008405 | 法律 | 知的財産権制度とは、知的創造活動によって生み出されたものを、創作した人の財産として保護するための制度です。「知的財産」及び「知的財産権」は、知的財産基本法において次のとおり定義されています。
第2条 この法律で「知的財産」とは、発明、考案、植物の新品種、意匠、著作物その他の人間の創造的活動により生み出されるもの(発見又は解明がされた自然の法則又は現象であって、産業上の利用可能性があるものを含む。)、商標、商号その他事業活動に用いられる商品又は役務を表示するもの及び営業秘密その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報をいう。
2 この法律で「知的財産権」とは、特許権、実用新案権、育成者権、意匠権、著作権、商標権その他の知的財産に関して法令により定められた権利又は法律上保護される利益に係る権利をいう。
知的財産の特徴の一つとして、「もの」とは異なり「財産的価値を有する情報」であることが挙げられます。情報は、容易に模倣されるという特質をもっており、しかも利用されることにより消費されるということがないため、多くの者が同時に利用することができます。こうしたことから知的財産権制度は、創作者の権利を保護するため、元来自由利用できる情報を、社会が必要とする限度で自由を制限する制度ということができます。
近年、政府では「知的財産立国」の実現を目指し、様々な施策が進められています。また、産業界や大学等の動向についてみると、産学官連携の推進、企業における知的財産戦略意識の変化、地方公共団体における知的財産戦略の策定等、知的財産を取り巻く環境は大きく変化しています。今後、知的財産権制度の活用については、我が国経済の活性化だけではなく、企業や大学・研究機関においても重要な位置を占めることになっています。 | 多くの人が情報を同時利用できるのはなぜですか。 | 情報が容易に模倣されるという特質をもっており、しかも利用されることにより消費されるということがないためです。 |
JCRRAG_008406 | 法律 | 知的財産権制度とは、知的創造活動によって生み出されたものを、創作した人の財産として保護するための制度です。「知的財産」及び「知的財産権」は、知的財産基本法において次のとおり定義されています。
第2条 この法律で「知的財産」とは、発明、考案、植物の新品種、意匠、著作物その他の人間の創造的活動により生み出されるもの(発見又は解明がされた自然の法則又は現象であって、産業上の利用可能性があるものを含む。)、商標、商号その他事業活動に用いられる商品又は役務を表示するもの及び営業秘密その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報をいう。
2 この法律で「知的財産権」とは、特許権、実用新案権、育成者権、意匠権、著作権、商標権その他の知的財産に関して法令により定められた権利又は法律上保護される利益に係る権利をいう。
知的財産の特徴の一つとして、「もの」とは異なり「財産的価値を有する情報」であることが挙げられます。情報は、容易に模倣されるという特質をもっており、しかも利用されることにより消費されるということがないため、多くの者が同時に利用することができます。こうしたことから知的財産権制度は、創作者の権利を保護するため、元来自由利用できる情報を、社会が必要とする限度で自由を制限する制度ということができます。
近年、政府では「知的財産立国」の実現を目指し、様々な施策が進められています。また、産業界や大学等の動向についてみると、産学官連携の推進、企業における知的財産戦略意識の変化、地方公共団体における知的財産戦略の策定等、知的財産を取り巻く環境は大きく変化しています。今後、知的財産権制度の活用については、我が国経済の活性化だけではなく、企業や大学・研究機関においても重要な位置を占めることになっています。 | 知的財産権制度はどのような制度ですか。 | 知的財産権制度は、知的創造活動によって生み出されたものを、創作した人の財産として保護するための制度です。また、創作者の権利を保護するため、元来自由利用できる情報を、社会が必要とする限度で自由を制限する制度でもあります。 |
JCRRAG_008407 | 法律 | 景品表示法は、正式には、不当景品類及び不当表示防止法(昭和37年法律第134号)といいます。
消費者なら、誰もがより良い商品やサービスを求めます。ところが、実際より良く見せかける表示が行われたり、過大な景品付き販売が行われると、それらにつられて消費者が実際には質の良くない商品やサービスを買ってしまい不利益を被るおそれがあります。
景品表示法は、商品やサービスの品質、内容、価格等を偽って表示を行うことを厳しく規制するとともに、過大な景品類の提供を防ぐために景品類の最高額を制限することなどにより、消費者のみなさんがより良い商品やサービスを自主的かつ合理的に選べる環境を守ります。
一般に、景品とは、粗品、おまけ、賞品等を指すと考えられますが、景品表示法上の「景品類」とは、
(1)顧客を誘引するための手段として、
(2)事業者が自己の供給する商品・サービスの取引に付随して提供する
(3)物品、金銭その他の経済上の利益
であり、景品類に該当する場合は、景品表示法に基づく景品規制が適用されます。
景品表示法に基づく景品規制は、(1)一般懸賞に関するもの、(2)共同懸賞に関するもの、(3)総付景品に関するものがあり、それぞれ、提供できる景品類の限度額等が定められています。限度額を超える過大な景品類の提供を行った場合などは、消費者庁長官は、当該提供を行った事業者に対し、景品類の提供に関する事項を制限し、又は景品類の提供を禁止することができます。
景品表示法上、商品・サービスの利用者や、来店者を対象として金品等を提供する場合は、「取引に付随」して提供するものとみなされ、景品規制の適用対象となります。
他方、新聞、テレビ、雑誌、ウェブサイト等で企画内容を広く告知し、商品・サービスの購入や来店を条件とせず、郵便はがき、ファクシミリ、ウェブサイト、電子メール等で申し込むことができ、抽選で金品等が提供される企画には、景品規制は適用されません。このような企画は、一般に「オープン懸賞」と呼ばれています。
オープン懸賞で提供できる金品等の最高額は、従来、1000万円とされていましたが、平成18年4月に規制が撤廃され、現在では、提供できる金品等に具体的な上限額の定めはありません。 | 景品表示法の正式名称は何ですか。 | 景品表示法の正式名称は、不当景品類及び不当表示防止法(昭和37年法律第134号)です。 |
JCRRAG_008408 | 法律 | 景品表示法は、正式には、不当景品類及び不当表示防止法(昭和37年法律第134号)といいます。
消費者なら、誰もがより良い商品やサービスを求めます。ところが、実際より良く見せかける表示が行われたり、過大な景品付き販売が行われると、それらにつられて消費者が実際には質の良くない商品やサービスを買ってしまい不利益を被るおそれがあります。
景品表示法は、商品やサービスの品質、内容、価格等を偽って表示を行うことを厳しく規制するとともに、過大な景品類の提供を防ぐために景品類の最高額を制限することなどにより、消費者のみなさんがより良い商品やサービスを自主的かつ合理的に選べる環境を守ります。
一般に、景品とは、粗品、おまけ、賞品等を指すと考えられますが、景品表示法上の「景品類」とは、
(1)顧客を誘引するための手段として、
(2)事業者が自己の供給する商品・サービスの取引に付随して提供する
(3)物品、金銭その他の経済上の利益
であり、景品類に該当する場合は、景品表示法に基づく景品規制が適用されます。
景品表示法に基づく景品規制は、(1)一般懸賞に関するもの、(2)共同懸賞に関するもの、(3)総付景品に関するものがあり、それぞれ、提供できる景品類の限度額等が定められています。限度額を超える過大な景品類の提供を行った場合などは、消費者庁長官は、当該提供を行った事業者に対し、景品類の提供に関する事項を制限し、又は景品類の提供を禁止することができます。
景品表示法上、商品・サービスの利用者や、来店者を対象として金品等を提供する場合は、「取引に付随」して提供するものとみなされ、景品規制の適用対象となります。
他方、新聞、テレビ、雑誌、ウェブサイト等で企画内容を広く告知し、商品・サービスの購入や来店を条件とせず、郵便はがき、ファクシミリ、ウェブサイト、電子メール等で申し込むことができ、抽選で金品等が提供される企画には、景品規制は適用されません。このような企画は、一般に「オープン懸賞」と呼ばれています。
オープン懸賞で提供できる金品等の最高額は、従来、1000万円とされていましたが、平成18年4月に規制が撤廃され、現在では、提供できる金品等に具体的な上限額の定めはありません。 | 景品表示法は、消費者がより良い商品やサービスを自主的かつ合理的に選べるように、どのようなことを定めていますか。 | 景品表示法は、商品やサービスの品質、内容、価格等を偽って表示を行うことを厳しく規制するとともに、過大な景品類の提供を防ぐために景品類の最高額を制限することなどを定めています。 |
JCRRAG_008409 | 法律 | 景品表示法は、正式には、不当景品類及び不当表示防止法(昭和37年法律第134号)といいます。
消費者なら、誰もがより良い商品やサービスを求めます。ところが、実際より良く見せかける表示が行われたり、過大な景品付き販売が行われると、それらにつられて消費者が実際には質の良くない商品やサービスを買ってしまい不利益を被るおそれがあります。
景品表示法は、商品やサービスの品質、内容、価格等を偽って表示を行うことを厳しく規制するとともに、過大な景品類の提供を防ぐために景品類の最高額を制限することなどにより、消費者のみなさんがより良い商品やサービスを自主的かつ合理的に選べる環境を守ります。
一般に、景品とは、粗品、おまけ、賞品等を指すと考えられますが、景品表示法上の「景品類」とは、
(1)顧客を誘引するための手段として、
(2)事業者が自己の供給する商品・サービスの取引に付随して提供する
(3)物品、金銭その他の経済上の利益
であり、景品類に該当する場合は、景品表示法に基づく景品規制が適用されます。
景品表示法に基づく景品規制は、(1)一般懸賞に関するもの、(2)共同懸賞に関するもの、(3)総付景品に関するものがあり、それぞれ、提供できる景品類の限度額等が定められています。限度額を超える過大な景品類の提供を行った場合などは、消費者庁長官は、当該提供を行った事業者に対し、景品類の提供に関する事項を制限し、又は景品類の提供を禁止することができます。
景品表示法上、商品・サービスの利用者や、来店者を対象として金品等を提供する場合は、「取引に付随」して提供するものとみなされ、景品規制の適用対象となります。
他方、新聞、テレビ、雑誌、ウェブサイト等で企画内容を広く告知し、商品・サービスの購入や来店を条件とせず、郵便はがき、ファクシミリ、ウェブサイト、電子メール等で申し込むことができ、抽選で金品等が提供される企画には、景品規制は適用されません。このような企画は、一般に「オープン懸賞」と呼ばれています。
オープン懸賞で提供できる金品等の最高額は、従来、1000万円とされていましたが、平成18年4月に規制が撤廃され、現在では、提供できる金品等に具体的な上限額の定めはありません。 | 景品表示法に基づく景品規制で定められていることは何ですか。 | 景品表示法に基づく景品規制では、提供できる景品類の限度額等が定められています。 |
JCRRAG_008410 | 法律 | 景品表示法は、正式には、不当景品類及び不当表示防止法(昭和37年法律第134号)といいます。
消費者なら、誰もがより良い商品やサービスを求めます。ところが、実際より良く見せかける表示が行われたり、過大な景品付き販売が行われると、それらにつられて消費者が実際には質の良くない商品やサービスを買ってしまい不利益を被るおそれがあります。
景品表示法は、商品やサービスの品質、内容、価格等を偽って表示を行うことを厳しく規制するとともに、過大な景品類の提供を防ぐために景品類の最高額を制限することなどにより、消費者のみなさんがより良い商品やサービスを自主的かつ合理的に選べる環境を守ります。
一般に、景品とは、粗品、おまけ、賞品等を指すと考えられますが、景品表示法上の「景品類」とは、
(1)顧客を誘引するための手段として、
(2)事業者が自己の供給する商品・サービスの取引に付随して提供する
(3)物品、金銭その他の経済上の利益
であり、景品類に該当する場合は、景品表示法に基づく景品規制が適用されます。
景品表示法に基づく景品規制は、(1)一般懸賞に関するもの、(2)共同懸賞に関するもの、(3)総付景品に関するものがあり、それぞれ、提供できる景品類の限度額等が定められています。限度額を超える過大な景品類の提供を行った場合などは、消費者庁長官は、当該提供を行った事業者に対し、景品類の提供に関する事項を制限し、又は景品類の提供を禁止することができます。
景品表示法上、商品・サービスの利用者や、来店者を対象として金品等を提供する場合は、「取引に付随」して提供するものとみなされ、景品規制の適用対象となります。
他方、新聞、テレビ、雑誌、ウェブサイト等で企画内容を広く告知し、商品・サービスの購入や来店を条件とせず、郵便はがき、ファクシミリ、ウェブサイト、電子メール等で申し込むことができ、抽選で金品等が提供される企画には、景品規制は適用されません。このような企画は、一般に「オープン懸賞」と呼ばれています。
オープン懸賞で提供できる金品等の最高額は、従来、1000万円とされていましたが、平成18年4月に規制が撤廃され、現在では、提供できる金品等に具体的な上限額の定めはありません。 | 景品表示法上、消費者庁長官に与えられている権限は何ですか。 | 消費者庁長官は、限度額を超える過大な景品類の提供を行ったを行った事業者に対し、景品類の提供に関する事項を制限し、又は景品類の提供を禁止することができます。 |
JCRRAG_008411 | 法律 | 景品表示法は、正式には、不当景品類及び不当表示防止法(昭和37年法律第134号)といいます。
消費者なら、誰もがより良い商品やサービスを求めます。ところが、実際より良く見せかける表示が行われたり、過大な景品付き販売が行われると、それらにつられて消費者が実際には質の良くない商品やサービスを買ってしまい不利益を被るおそれがあります。
景品表示法は、商品やサービスの品質、内容、価格等を偽って表示を行うことを厳しく規制するとともに、過大な景品類の提供を防ぐために景品類の最高額を制限することなどにより、消費者のみなさんがより良い商品やサービスを自主的かつ合理的に選べる環境を守ります。
一般に、景品とは、粗品、おまけ、賞品等を指すと考えられますが、景品表示法上の「景品類」とは、
(1)顧客を誘引するための手段として、
(2)事業者が自己の供給する商品・サービスの取引に付随して提供する
(3)物品、金銭その他の経済上の利益
であり、景品類に該当する場合は、景品表示法に基づく景品規制が適用されます。
景品表示法に基づく景品規制は、(1)一般懸賞に関するもの、(2)共同懸賞に関するもの、(3)総付景品に関するものがあり、それぞれ、提供できる景品類の限度額等が定められています。限度額を超える過大な景品類の提供を行った場合などは、消費者庁長官は、当該提供を行った事業者に対し、景品類の提供に関する事項を制限し、又は景品類の提供を禁止することができます。
景品表示法上、商品・サービスの利用者や、来店者を対象として金品等を提供する場合は、「取引に付随」して提供するものとみなされ、景品規制の適用対象となります。
他方、新聞、テレビ、雑誌、ウェブサイト等で企画内容を広く告知し、商品・サービスの購入や来店を条件とせず、郵便はがき、ファクシミリ、ウェブサイト、電子メール等で申し込むことができ、抽選で金品等が提供される企画には、景品規制は適用されません。このような企画は、一般に「オープン懸賞」と呼ばれています。
オープン懸賞で提供できる金品等の最高額は、従来、1000万円とされていましたが、平成18年4月に規制が撤廃され、現在では、提供できる金品等に具体的な上限額の定めはありません。 | 「オープン懸賞」とはどのような企画がありますか。 | 「オープン懸賞」とは、、新聞、テレビ、雑誌、ウェブサイト等で企画内容を広く告知し、商品・サービスの購入や来店を条件とせず、郵便はがき、ファクシミリ、ウェブサイト、電子メール等で申し込むことができ、抽選で金品等が提供される企画です。オープン懸賞で提供できる金品等の最高額は、従来、1000万円とされていましたが、平成18年4月に規制が撤廃され、現在では、提供できる金品等に具体的な上限額の定めはありません。 |
JCRRAG_008412 | 法律 | 児童虐待防止法制度
「児童虐待の防止等に関する法律」(通称 児童虐待防止法)は2000年11月に施行されました。
もともと日本には、子どもの福祉を守る法律として「児童福祉法」があります。18歳までの児童を対象としており、この中には、子ども虐待に関して、通告の義務(児福法第二十五条 虐待を発見した者は児童相談所などに通告する義務がある)、立ち入り調査(児福法二十九条 虐待が疑われた家庭や子どもの職場などに立ち入ることができる)、一時保護(児福法第三十三条 保護者の同意を得ずに子どもの身柄を保護することができる)、家庭裁判所への申し立て(児福法二十八条 家庭裁判所の承認を得て被虐待児を施設入所などさせるための申し立て)が盛り込まれています。
しかし、「児童虐待の防止等に関する法律」ができる以前は、これらはあまり有効に行使されていませんでした。大多数の国民が、虐待を発見したときには児童相談所等への通告の義務があることを知りませんでしたし、児童相談所は立ち入り調査には積極的でなく、家庭裁判所への申し立ては、申し立ての手続きのやり方がわからない、承認が出るまで数ヶ月を要し時間がかかりすぎるから意味がない、などの理由から、皆無に近い状態が続いていました。
こうした状況下、1990年代に入り、日本では次第に子ども虐待の存在が社会問題化してきます。メディアによる報道や民間団体による防止活動が活発化したことや、94年に「子どもの権利条約」を批准したことなどが、社会問題化させる原動力となりました。
こうした動きに歩調を合わせるように、「児童相談所における虐待に関する相談処理件数」は、統計を取り始めた当初の1990年度に1,101件であったものが、96年度には4,102件、99年度は11,631件となり、子ども虐待に関係する人たちや研究者たちからの「子ども虐待に対応するための法律が必要だ」という声が高まりました。
「児童虐待の防止等に関する法律」が成立したのは2000年5月、施行は同年11月でした。この防止法の特徴は、超党派による議員立法であるという点で、議員の熱意や民間の声を吸い上げる形での立法でした。
この立法により、第二条に「児童虐待の定義」が初めて定められ、身体的虐待、性的虐待、ネグレクト、心理的虐待の四種類とされました。また、父母や児童養護施設の施設長など『保護者』による虐待を定義することで、施設内暴力の抑止力ともしました。
子どもに対する四種類の虐待とは、以下のような行為だと書かれています。
児童の身体に外傷を生じ、又は生じる恐れのある暴行を加えること
児童にわいせつな行為をすること又は児童をしてわいせつな行為をすること
児童の心身の正常な発達を妨げるような著しい減食又は長時間の放置その他の保護者としての監護を著しく怠ること
児童に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと
第三条では、児童に対する虐待の禁止が、第四条には、国や地方公共団体の責務として、関係機関、民間団体との連携強化が盛り込まれ、第五条の「児童虐待の早期発見」と第六条「児童虐待に係る通告」は、それまで児童福祉法で形骸化していた発見と通告を、学校教職員、児童福祉施設職員、保健婦、弁護士、医療関係者などに強くアピールしました。
第九条「立ち入り調査等」、第十条「警察官の援助」では、児童虐待を受けているおそれがあると認められたときには立ち入りでき、警察官の援助を求めることができるとしました。
第十一条「指導を受ける義務」、第十三条「児童福祉司等の意見の聴取」では、児童福祉法二十七条一項二号で定められている児童福祉司等による指導を保護者が受けるよう義務付けました。施設入所措置を解除する際には児童福祉司の意見を聞き、指導や勧告に従わないと措置解除しないとしています。
第十四条「親権の行使に関する配慮等」は、しつけと虐待の議論に対応する条項で、児童の親権を行う者は、児童のしつけに際して適切な行使に配慮しなければならないとされ、養育者がしつけだと反論する事例に苦慮してきた児童相談所が、虐待として対応できるようになりました。
また、附則第二条に「この法律の施行後三年を目途として、この法律の施行状況等を勘案し、検討が加えられ、その結果に基づいて必要な措置が講ぜられるものとする」とし、施行3年後に法改正を行うことが明記されました。
この「児童虐待の防止等に関する法律」の立法にともない、「児童福祉法」の一部が改正されました。
おもだった点は、児童相談所で虐待事例に直接関わる児童福祉司の任用基準でした。それ以前、大学で心理学科等を卒業した者、医師など、とされていましたが、それらに準ずる者を採用できる、いわゆる「準ずる規定」があり、実際には「準ずる者」がたくさん採用され、専門性が問われていたのですが、改正では「社会福祉士」を任用基準に加え、「準ずる規定」は「前項に掲げる者と同等以上の者」とされました。また、一時保護の期間がはっきりしていなかった点について、2ヶ月を超えてはならないとしました。 | 児童虐待の防止等に関する法律は、いつ施行されましたか。 | 児童虐待の防止等に関する法律は、2000年11月に施行されました。 |
JCRRAG_008413 | 法律 | 児童虐待防止法制度
「児童虐待の防止等に関する法律」(通称 児童虐待防止法)は2000年11月に施行されました。
もともと日本には、子どもの福祉を守る法律として「児童福祉法」があります。18歳までの児童を対象としており、この中には、子ども虐待に関して、通告の義務(児福法第二十五条 虐待を発見した者は児童相談所などに通告する義務がある)、立ち入り調査(児福法二十九条 虐待が疑われた家庭や子どもの職場などに立ち入ることができる)、一時保護(児福法第三十三条 保護者の同意を得ずに子どもの身柄を保護することができる)、家庭裁判所への申し立て(児福法二十八条 家庭裁判所の承認を得て被虐待児を施設入所などさせるための申し立て)が盛り込まれています。
しかし、「児童虐待の防止等に関する法律」ができる以前は、これらはあまり有効に行使されていませんでした。大多数の国民が、虐待を発見したときには児童相談所等への通告の義務があることを知りませんでしたし、児童相談所は立ち入り調査には積極的でなく、家庭裁判所への申し立ては、申し立ての手続きのやり方がわからない、承認が出るまで数ヶ月を要し時間がかかりすぎるから意味がない、などの理由から、皆無に近い状態が続いていました。
こうした状況下、1990年代に入り、日本では次第に子ども虐待の存在が社会問題化してきます。メディアによる報道や民間団体による防止活動が活発化したことや、94年に「子どもの権利条約」を批准したことなどが、社会問題化させる原動力となりました。
こうした動きに歩調を合わせるように、「児童相談所における虐待に関する相談処理件数」は、統計を取り始めた当初の1990年度に1,101件であったものが、96年度には4,102件、99年度は11,631件となり、子ども虐待に関係する人たちや研究者たちからの「子ども虐待に対応するための法律が必要だ」という声が高まりました。
「児童虐待の防止等に関する法律」が成立したのは2000年5月、施行は同年11月でした。この防止法の特徴は、超党派による議員立法であるという点で、議員の熱意や民間の声を吸い上げる形での立法でした。
この立法により、第二条に「児童虐待の定義」が初めて定められ、身体的虐待、性的虐待、ネグレクト、心理的虐待の四種類とされました。また、父母や児童養護施設の施設長など『保護者』による虐待を定義することで、施設内暴力の抑止力ともしました。
子どもに対する四種類の虐待とは、以下のような行為だと書かれています。
児童の身体に外傷を生じ、又は生じる恐れのある暴行を加えること
児童にわいせつな行為をすること又は児童をしてわいせつな行為をすること
児童の心身の正常な発達を妨げるような著しい減食又は長時間の放置その他の保護者としての監護を著しく怠ること
児童に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと
第三条では、児童に対する虐待の禁止が、第四条には、国や地方公共団体の責務として、関係機関、民間団体との連携強化が盛り込まれ、第五条の「児童虐待の早期発見」と第六条「児童虐待に係る通告」は、それまで児童福祉法で形骸化していた発見と通告を、学校教職員、児童福祉施設職員、保健婦、弁護士、医療関係者などに強くアピールしました。
第九条「立ち入り調査等」、第十条「警察官の援助」では、児童虐待を受けているおそれがあると認められたときには立ち入りでき、警察官の援助を求めることができるとしました。
第十一条「指導を受ける義務」、第十三条「児童福祉司等の意見の聴取」では、児童福祉法二十七条一項二号で定められている児童福祉司等による指導を保護者が受けるよう義務付けました。施設入所措置を解除する際には児童福祉司の意見を聞き、指導や勧告に従わないと措置解除しないとしています。
第十四条「親権の行使に関する配慮等」は、しつけと虐待の議論に対応する条項で、児童の親権を行う者は、児童のしつけに際して適切な行使に配慮しなければならないとされ、養育者がしつけだと反論する事例に苦慮してきた児童相談所が、虐待として対応できるようになりました。
また、附則第二条に「この法律の施行後三年を目途として、この法律の施行状況等を勘案し、検討が加えられ、その結果に基づいて必要な措置が講ぜられるものとする」とし、施行3年後に法改正を行うことが明記されました。
この「児童虐待の防止等に関する法律」の立法にともない、「児童福祉法」の一部が改正されました。
おもだった点は、児童相談所で虐待事例に直接関わる児童福祉司の任用基準でした。それ以前、大学で心理学科等を卒業した者、医師など、とされていましたが、それらに準ずる者を採用できる、いわゆる「準ずる規定」があり、実際には「準ずる者」がたくさん採用され、専門性が問われていたのですが、改正では「社会福祉士」を任用基準に加え、「準ずる規定」は「前項に掲げる者と同等以上の者」とされました。また、一時保護の期間がはっきりしていなかった点について、2ヶ月を超えてはならないとしました。 | 児童福祉法は、何歳までの児童が対象で、児童福祉法で子どもの虐待に関して盛り込まれている内容は何ですか。 | 児童福祉法は、18歳までの児童が対象です。
児童福祉法では、通告の義務、立ち入り調査、一時保護、家庭裁判所への申し立てが盛り込まれています。 |
JCRRAG_008414 | 法律 | 児童虐待防止法制度
「児童虐待の防止等に関する法律」(通称 児童虐待防止法)は2000年11月に施行されました。
もともと日本には、子どもの福祉を守る法律として「児童福祉法」があります。18歳までの児童を対象としており、この中には、子ども虐待に関して、通告の義務(児福法第二十五条 虐待を発見した者は児童相談所などに通告する義務がある)、立ち入り調査(児福法二十九条 虐待が疑われた家庭や子どもの職場などに立ち入ることができる)、一時保護(児福法第三十三条 保護者の同意を得ずに子どもの身柄を保護することができる)、家庭裁判所への申し立て(児福法二十八条 家庭裁判所の承認を得て被虐待児を施設入所などさせるための申し立て)が盛り込まれています。
しかし、「児童虐待の防止等に関する法律」ができる以前は、これらはあまり有効に行使されていませんでした。大多数の国民が、虐待を発見したときには児童相談所等への通告の義務があることを知りませんでしたし、児童相談所は立ち入り調査には積極的でなく、家庭裁判所への申し立ては、申し立ての手続きのやり方がわからない、承認が出るまで数ヶ月を要し時間がかかりすぎるから意味がない、などの理由から、皆無に近い状態が続いていました。
こうした状況下、1990年代に入り、日本では次第に子ども虐待の存在が社会問題化してきます。メディアによる報道や民間団体による防止活動が活発化したことや、94年に「子どもの権利条約」を批准したことなどが、社会問題化させる原動力となりました。
こうした動きに歩調を合わせるように、「児童相談所における虐待に関する相談処理件数」は、統計を取り始めた当初の1990年度に1,101件であったものが、96年度には4,102件、99年度は11,631件となり、子ども虐待に関係する人たちや研究者たちからの「子ども虐待に対応するための法律が必要だ」という声が高まりました。
「児童虐待の防止等に関する法律」が成立したのは2000年5月、施行は同年11月でした。この防止法の特徴は、超党派による議員立法であるという点で、議員の熱意や民間の声を吸い上げる形での立法でした。
この立法により、第二条に「児童虐待の定義」が初めて定められ、身体的虐待、性的虐待、ネグレクト、心理的虐待の四種類とされました。また、父母や児童養護施設の施設長など『保護者』による虐待を定義することで、施設内暴力の抑止力ともしました。
子どもに対する四種類の虐待とは、以下のような行為だと書かれています。
児童の身体に外傷を生じ、又は生じる恐れのある暴行を加えること
児童にわいせつな行為をすること又は児童をしてわいせつな行為をすること
児童の心身の正常な発達を妨げるような著しい減食又は長時間の放置その他の保護者としての監護を著しく怠ること
児童に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと
第三条では、児童に対する虐待の禁止が、第四条には、国や地方公共団体の責務として、関係機関、民間団体との連携強化が盛り込まれ、第五条の「児童虐待の早期発見」と第六条「児童虐待に係る通告」は、それまで児童福祉法で形骸化していた発見と通告を、学校教職員、児童福祉施設職員、保健婦、弁護士、医療関係者などに強くアピールしました。
第九条「立ち入り調査等」、第十条「警察官の援助」では、児童虐待を受けているおそれがあると認められたときには立ち入りでき、警察官の援助を求めることができるとしました。
第十一条「指導を受ける義務」、第十三条「児童福祉司等の意見の聴取」では、児童福祉法二十七条一項二号で定められている児童福祉司等による指導を保護者が受けるよう義務付けました。施設入所措置を解除する際には児童福祉司の意見を聞き、指導や勧告に従わないと措置解除しないとしています。
第十四条「親権の行使に関する配慮等」は、しつけと虐待の議論に対応する条項で、児童の親権を行う者は、児童のしつけに際して適切な行使に配慮しなければならないとされ、養育者がしつけだと反論する事例に苦慮してきた児童相談所が、虐待として対応できるようになりました。
また、附則第二条に「この法律の施行後三年を目途として、この法律の施行状況等を勘案し、検討が加えられ、その結果に基づいて必要な措置が講ぜられるものとする」とし、施行3年後に法改正を行うことが明記されました。
この「児童虐待の防止等に関する法律」の立法にともない、「児童福祉法」の一部が改正されました。
おもだった点は、児童相談所で虐待事例に直接関わる児童福祉司の任用基準でした。それ以前、大学で心理学科等を卒業した者、医師など、とされていましたが、それらに準ずる者を採用できる、いわゆる「準ずる規定」があり、実際には「準ずる者」がたくさん採用され、専門性が問われていたのですが、改正では「社会福祉士」を任用基準に加え、「準ずる規定」は「前項に掲げる者と同等以上の者」とされました。また、一時保護の期間がはっきりしていなかった点について、2ヶ月を超えてはならないとしました。 | 児童虐待の防止等に関する法律第二条に記載されている四種類の虐待とは何ですか。 | 記載されている虐待とは、身体的虐待、性的虐待、ネグレクト、心理的虐待の四種類です。 |
JCRRAG_008415 | 法律 | 児童虐待防止法制度
「児童虐待の防止等に関する法律」(通称 児童虐待防止法)は2000年11月に施行されました。
もともと日本には、子どもの福祉を守る法律として「児童福祉法」があります。18歳までの児童を対象としており、この中には、子ども虐待に関して、通告の義務(児福法第二十五条 虐待を発見した者は児童相談所などに通告する義務がある)、立ち入り調査(児福法二十九条 虐待が疑われた家庭や子どもの職場などに立ち入ることができる)、一時保護(児福法第三十三条 保護者の同意を得ずに子どもの身柄を保護することができる)、家庭裁判所への申し立て(児福法二十八条 家庭裁判所の承認を得て被虐待児を施設入所などさせるための申し立て)が盛り込まれています。
しかし、「児童虐待の防止等に関する法律」ができる以前は、これらはあまり有効に行使されていませんでした。大多数の国民が、虐待を発見したときには児童相談所等への通告の義務があることを知りませんでしたし、児童相談所は立ち入り調査には積極的でなく、家庭裁判所への申し立ては、申し立ての手続きのやり方がわからない、承認が出るまで数ヶ月を要し時間がかかりすぎるから意味がない、などの理由から、皆無に近い状態が続いていました。
こうした状況下、1990年代に入り、日本では次第に子ども虐待の存在が社会問題化してきます。メディアによる報道や民間団体による防止活動が活発化したことや、94年に「子どもの権利条約」を批准したことなどが、社会問題化させる原動力となりました。
こうした動きに歩調を合わせるように、「児童相談所における虐待に関する相談処理件数」は、統計を取り始めた当初の1990年度に1,101件であったものが、96年度には4,102件、99年度は11,631件となり、子ども虐待に関係する人たちや研究者たちからの「子ども虐待に対応するための法律が必要だ」という声が高まりました。
「児童虐待の防止等に関する法律」が成立したのは2000年5月、施行は同年11月でした。この防止法の特徴は、超党派による議員立法であるという点で、議員の熱意や民間の声を吸い上げる形での立法でした。
この立法により、第二条に「児童虐待の定義」が初めて定められ、身体的虐待、性的虐待、ネグレクト、心理的虐待の四種類とされました。また、父母や児童養護施設の施設長など『保護者』による虐待を定義することで、施設内暴力の抑止力ともしました。
子どもに対する四種類の虐待とは、以下のような行為だと書かれています。
児童の身体に外傷を生じ、又は生じる恐れのある暴行を加えること
児童にわいせつな行為をすること又は児童をしてわいせつな行為をすること
児童の心身の正常な発達を妨げるような著しい減食又は長時間の放置その他の保護者としての監護を著しく怠ること
児童に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと
第三条では、児童に対する虐待の禁止が、第四条には、国や地方公共団体の責務として、関係機関、民間団体との連携強化が盛り込まれ、第五条の「児童虐待の早期発見」と第六条「児童虐待に係る通告」は、それまで児童福祉法で形骸化していた発見と通告を、学校教職員、児童福祉施設職員、保健婦、弁護士、医療関係者などに強くアピールしました。
第九条「立ち入り調査等」、第十条「警察官の援助」では、児童虐待を受けているおそれがあると認められたときには立ち入りでき、警察官の援助を求めることができるとしました。
第十一条「指導を受ける義務」、第十三条「児童福祉司等の意見の聴取」では、児童福祉法二十七条一項二号で定められている児童福祉司等による指導を保護者が受けるよう義務付けました。施設入所措置を解除する際には児童福祉司の意見を聞き、指導や勧告に従わないと措置解除しないとしています。
第十四条「親権の行使に関する配慮等」は、しつけと虐待の議論に対応する条項で、児童の親権を行う者は、児童のしつけに際して適切な行使に配慮しなければならないとされ、養育者がしつけだと反論する事例に苦慮してきた児童相談所が、虐待として対応できるようになりました。
また、附則第二条に「この法律の施行後三年を目途として、この法律の施行状況等を勘案し、検討が加えられ、その結果に基づいて必要な措置が講ぜられるものとする」とし、施行3年後に法改正を行うことが明記されました。
この「児童虐待の防止等に関する法律」の立法にともない、「児童福祉法」の一部が改正されました。
おもだった点は、児童相談所で虐待事例に直接関わる児童福祉司の任用基準でした。それ以前、大学で心理学科等を卒業した者、医師など、とされていましたが、それらに準ずる者を採用できる、いわゆる「準ずる規定」があり、実際には「準ずる者」がたくさん採用され、専門性が問われていたのですが、改正では「社会福祉士」を任用基準に加え、「準ずる規定」は「前項に掲げる者と同等以上の者」とされました。また、一時保護の期間がはっきりしていなかった点について、2ヶ月を超えてはならないとしました。 | 児童虐待の防止等に関する法律において、しつけと虐待の議論に対応する条項は第何条ですか。 | しつけと虐待の議論に対応する条項は、第十四条です。 |
JCRRAG_008416 | 法律 | 児童虐待防止法制度
「児童虐待の防止等に関する法律」(通称 児童虐待防止法)は2000年11月に施行されました。
もともと日本には、子どもの福祉を守る法律として「児童福祉法」があります。18歳までの児童を対象としており、この中には、子ども虐待に関して、通告の義務(児福法第二十五条 虐待を発見した者は児童相談所などに通告する義務がある)、立ち入り調査(児福法二十九条 虐待が疑われた家庭や子どもの職場などに立ち入ることができる)、一時保護(児福法第三十三条 保護者の同意を得ずに子どもの身柄を保護することができる)、家庭裁判所への申し立て(児福法二十八条 家庭裁判所の承認を得て被虐待児を施設入所などさせるための申し立て)が盛り込まれています。
しかし、「児童虐待の防止等に関する法律」ができる以前は、これらはあまり有効に行使されていませんでした。大多数の国民が、虐待を発見したときには児童相談所等への通告の義務があることを知りませんでしたし、児童相談所は立ち入り調査には積極的でなく、家庭裁判所への申し立ては、申し立ての手続きのやり方がわからない、承認が出るまで数ヶ月を要し時間がかかりすぎるから意味がない、などの理由から、皆無に近い状態が続いていました。
こうした状況下、1990年代に入り、日本では次第に子ども虐待の存在が社会問題化してきます。メディアによる報道や民間団体による防止活動が活発化したことや、94年に「子どもの権利条約」を批准したことなどが、社会問題化させる原動力となりました。
こうした動きに歩調を合わせるように、「児童相談所における虐待に関する相談処理件数」は、統計を取り始めた当初の1990年度に1,101件であったものが、96年度には4,102件、99年度は11,631件となり、子ども虐待に関係する人たちや研究者たちからの「子ども虐待に対応するための法律が必要だ」という声が高まりました。
「児童虐待の防止等に関する法律」が成立したのは2000年5月、施行は同年11月でした。この防止法の特徴は、超党派による議員立法であるという点で、議員の熱意や民間の声を吸い上げる形での立法でした。
この立法により、第二条に「児童虐待の定義」が初めて定められ、身体的虐待、性的虐待、ネグレクト、心理的虐待の四種類とされました。また、父母や児童養護施設の施設長など『保護者』による虐待を定義することで、施設内暴力の抑止力ともしました。
子どもに対する四種類の虐待とは、以下のような行為だと書かれています。
児童の身体に外傷を生じ、又は生じる恐れのある暴行を加えること
児童にわいせつな行為をすること又は児童をしてわいせつな行為をすること
児童の心身の正常な発達を妨げるような著しい減食又は長時間の放置その他の保護者としての監護を著しく怠ること
児童に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと
第三条では、児童に対する虐待の禁止が、第四条には、国や地方公共団体の責務として、関係機関、民間団体との連携強化が盛り込まれ、第五条の「児童虐待の早期発見」と第六条「児童虐待に係る通告」は、それまで児童福祉法で形骸化していた発見と通告を、学校教職員、児童福祉施設職員、保健婦、弁護士、医療関係者などに強くアピールしました。
第九条「立ち入り調査等」、第十条「警察官の援助」では、児童虐待を受けているおそれがあると認められたときには立ち入りでき、警察官の援助を求めることができるとしました。
第十一条「指導を受ける義務」、第十三条「児童福祉司等の意見の聴取」では、児童福祉法二十七条一項二号で定められている児童福祉司等による指導を保護者が受けるよう義務付けました。施設入所措置を解除する際には児童福祉司の意見を聞き、指導や勧告に従わないと措置解除しないとしています。
第十四条「親権の行使に関する配慮等」は、しつけと虐待の議論に対応する条項で、児童の親権を行う者は、児童のしつけに際して適切な行使に配慮しなければならないとされ、養育者がしつけだと反論する事例に苦慮してきた児童相談所が、虐待として対応できるようになりました。
また、附則第二条に「この法律の施行後三年を目途として、この法律の施行状況等を勘案し、検討が加えられ、その結果に基づいて必要な措置が講ぜられるものとする」とし、施行3年後に法改正を行うことが明記されました。
この「児童虐待の防止等に関する法律」の立法にともない、「児童福祉法」の一部が改正されました。
おもだった点は、児童相談所で虐待事例に直接関わる児童福祉司の任用基準でした。それ以前、大学で心理学科等を卒業した者、医師など、とされていましたが、それらに準ずる者を採用できる、いわゆる「準ずる規定」があり、実際には「準ずる者」がたくさん採用され、専門性が問われていたのですが、改正では「社会福祉士」を任用基準に加え、「準ずる規定」は「前項に掲げる者と同等以上の者」とされました。また、一時保護の期間がはっきりしていなかった点について、2ヶ月を超えてはならないとしました。 | 児童虐待の防止等に関する法律の立法にともない、児童福祉法のどのような点が改正されましたか。 | 改正された点は、児童相談所で虐待事例に直接関わる児童福祉司の任用基準です。
社会福祉士を任用基準に加えました。 |
JCRRAG_008417 | 法律 | 食品表示法とは
食品表示法の施行経緯
食品の表示に関して、かつて、食品衛生法、JAS法、健康増進法に分かれて規定がありました。
しかし、食の安全に対する問題意識の高まりを受け、この3つの法に規定されていた表示すべき事項に関する規定をまとめて制定されたのが食品表示法です。
食品表示法は、平成25年6月に成立し、平成27年4月1日から施行されました。
食品表示法により、原則として、一般用加工食品及び一般用の添加物には栄養成分表示が義務付けられました。
栄養成分表示により、消費者自身が、健康で栄養バランスがとれた食生活を営むことの重要性を意識し、商品選択に役立てることで適切な食生活を送るきっかけとなることが期待されています。
食品の表示に関する法律
食品の表示に関する法律には、健康増進法、薬機法、景表法等のように、表示してはいけない内容を定める法律もありますが、
食品表示法は、表示してはいけない内容とともに、表示しなければいけない内容を定めている法律です。
食品表示基準
食品表示法は、内閣総理大臣に対して、食品の表示について具体的なルールを定めることを義務づけており(食品表示法4条)、これにより定められたのが「食品表示基準」です。
「食品表示基準」では、表示すべき内容を定めるとともに、禁止する表示についても規定しています(食品表示基準9条)。
規制の対象となる食品は、加工食品(酒類を含む。)、生鮮食品又は添加物です。これらを販売する場合及び不特定又は多数の者に対して無償で譲渡する場合に規制の適用を受けます。
規制の対象となる者は、商品の製造者や加工者、輸入者、販売者など(食品関連事業者等といいます)です。
食品関連事業者等は、食品表示基準に従い、食品の表示をする義務があります(食品表示法5条)。なお、バザー等で販売する者のように、販売を業としていない者であっても、食品を販売したり、不特定又は多数の人に無償で譲渡したりする場合には規制対象となります。
食品表示基準では、表示すべき内容として、食品及び食品関連事業者等の区分毎に次のような事項が定められています。
【表示すべき内容】
品質事項:原材料名や原産地などの食品の品質に関する事項
衛生事項:添加物や賞味・消費期限、アレルゲンなどの健康の保護に必要な事項
保健事項:健康増進を図るために必要な事項(栄養成分表示、機能性表示食品など)
また、禁止される表示については、次のような定めがあります(食品表示基準9条)。
【禁止される表示】
実際のものより著しく優良又は有利であると誤認させる用語
産地名を示す表示であって、産地名の意味を誤認させるような用語
機能性表示食品、栄養機能食品注等の食品に関する特定の用語
これらの表示について、消費者庁のウェブサイトにQ&Aやガイドラインが掲載されていますので、規制対象となる食品を取り扱う場合には、確認するようにしましょう。 | 食品表示法はいつ成立しましたか。 | 食品表示法は、平成25年6月に成立しました。 |
JCRRAG_008418 | 法律 | 食品表示法とは
食品表示法の施行経緯
食品の表示に関して、かつて、食品衛生法、JAS法、健康増進法に分かれて規定がありました。
しかし、食の安全に対する問題意識の高まりを受け、この3つの法に規定されていた表示すべき事項に関する規定をまとめて制定されたのが食品表示法です。
食品表示法は、平成25年6月に成立し、平成27年4月1日から施行されました。
食品表示法により、原則として、一般用加工食品及び一般用の添加物には栄養成分表示が義務付けられました。
栄養成分表示により、消費者自身が、健康で栄養バランスがとれた食生活を営むことの重要性を意識し、商品選択に役立てることで適切な食生活を送るきっかけとなることが期待されています。
食品の表示に関する法律
食品の表示に関する法律には、健康増進法、薬機法、景表法等のように、表示してはいけない内容を定める法律もありますが、
食品表示法は、表示してはいけない内容とともに、表示しなければいけない内容を定めている法律です。
食品表示基準
食品表示法は、内閣総理大臣に対して、食品の表示について具体的なルールを定めることを義務づけており(食品表示法4条)、これにより定められたのが「食品表示基準」です。
「食品表示基準」では、表示すべき内容を定めるとともに、禁止する表示についても規定しています(食品表示基準9条)。
規制の対象となる食品は、加工食品(酒類を含む。)、生鮮食品又は添加物です。これらを販売する場合及び不特定又は多数の者に対して無償で譲渡する場合に規制の適用を受けます。
規制の対象となる者は、商品の製造者や加工者、輸入者、販売者など(食品関連事業者等といいます)です。
食品関連事業者等は、食品表示基準に従い、食品の表示をする義務があります(食品表示法5条)。なお、バザー等で販売する者のように、販売を業としていない者であっても、食品を販売したり、不特定又は多数の人に無償で譲渡したりする場合には規制対象となります。
食品表示基準では、表示すべき内容として、食品及び食品関連事業者等の区分毎に次のような事項が定められています。
【表示すべき内容】
品質事項:原材料名や原産地などの食品の品質に関する事項
衛生事項:添加物や賞味・消費期限、アレルゲンなどの健康の保護に必要な事項
保健事項:健康増進を図るために必要な事項(栄養成分表示、機能性表示食品など)
また、禁止される表示については、次のような定めがあります(食品表示基準9条)。
【禁止される表示】
実際のものより著しく優良又は有利であると誤認させる用語
産地名を示す表示であって、産地名の意味を誤認させるような用語
機能性表示食品、栄養機能食品注等の食品に関する特定の用語
これらの表示について、消費者庁のウェブサイトにQ&Aやガイドラインが掲載されていますので、規制対象となる食品を取り扱う場合には、確認するようにしましょう。 | 食品の表示に関する法律のうち、表示してはいけない内容を定める法律は何ですか。 | 食品の表示に関する法律のうち、表示してはいけない内容を定める法律は、健康増進法、薬機法、景表法です。 |
JCRRAG_008419 | 法律 | 食品表示法とは
食品表示法の施行経緯
食品の表示に関して、かつて、食品衛生法、JAS法、健康増進法に分かれて規定がありました。
しかし、食の安全に対する問題意識の高まりを受け、この3つの法に規定されていた表示すべき事項に関する規定をまとめて制定されたのが食品表示法です。
食品表示法は、平成25年6月に成立し、平成27年4月1日から施行されました。
食品表示法により、原則として、一般用加工食品及び一般用の添加物には栄養成分表示が義務付けられました。
栄養成分表示により、消費者自身が、健康で栄養バランスがとれた食生活を営むことの重要性を意識し、商品選択に役立てることで適切な食生活を送るきっかけとなることが期待されています。
食品の表示に関する法律
食品の表示に関する法律には、健康増進法、薬機法、景表法等のように、表示してはいけない内容を定める法律もありますが、
食品表示法は、表示してはいけない内容とともに、表示しなければいけない内容を定めている法律です。
食品表示基準
食品表示法は、内閣総理大臣に対して、食品の表示について具体的なルールを定めることを義務づけており(食品表示法4条)、これにより定められたのが「食品表示基準」です。
「食品表示基準」では、表示すべき内容を定めるとともに、禁止する表示についても規定しています(食品表示基準9条)。
規制の対象となる食品は、加工食品(酒類を含む。)、生鮮食品又は添加物です。これらを販売する場合及び不特定又は多数の者に対して無償で譲渡する場合に規制の適用を受けます。
規制の対象となる者は、商品の製造者や加工者、輸入者、販売者など(食品関連事業者等といいます)です。
食品関連事業者等は、食品表示基準に従い、食品の表示をする義務があります(食品表示法5条)。なお、バザー等で販売する者のように、販売を業としていない者であっても、食品を販売したり、不特定又は多数の人に無償で譲渡したりする場合には規制対象となります。
食品表示基準では、表示すべき内容として、食品及び食品関連事業者等の区分毎に次のような事項が定められています。
【表示すべき内容】
品質事項:原材料名や原産地などの食品の品質に関する事項
衛生事項:添加物や賞味・消費期限、アレルゲンなどの健康の保護に必要な事項
保健事項:健康増進を図るために必要な事項(栄養成分表示、機能性表示食品など)
また、禁止される表示については、次のような定めがあります(食品表示基準9条)。
【禁止される表示】
実際のものより著しく優良又は有利であると誤認させる用語
産地名を示す表示であって、産地名の意味を誤認させるような用語
機能性表示食品、栄養機能食品注等の食品に関する特定の用語
これらの表示について、消費者庁のウェブサイトにQ&Aやガイドラインが掲載されていますので、規制対象となる食品を取り扱う場合には、確認するようにしましょう。 | 食品表示法において、規制の対象となる者は誰ですか。 | 対象となる者は、商品の製造者や加工者、輸入者、販売者などの食品関連事業者等です。 |
JCRRAG_008420 | 法律 | 特定商取引法は、事業者による違法・悪質な勧誘行為等を防止し、消費者の利益を守ることを目的とする法律です。
具体的には、訪問販売や通信販売等の消費者トラブルを生じやすい取引類型を対象に、事業者が守るべきルールとクーリング・オフ等の消費者を守るルール等を定めています。
特定商取引法の対象となる取引類型は、以下の7つです。
1訪問販売
事業者が消費者の自宅に訪問して、商品や権利の販売又は役務の提供を行う契約をする取引の事。 キャッチセールス、アポイントメントセールスを含みます。
2通信販売
事業者が新聞、雑誌、インターネット等で広告し、郵便、電話等の通信手段により申込みを受ける取引のこと。 「電話勧誘販売」に該当するものを除きます。
3電話勧誘販売
事業者が電話で勧誘を行い、申込みを受ける取引のこと。 電話をいったん切った後、消費者が郵便や電話等によって申込みを行う場合にも該当します。
4連鎖販売取引(マルチ商法など)
個人を販売員として勧誘し、更にその個人に次の販売員の勧誘をさせるかたちで、販売組織を連鎖的に拡大して行う商品・役務の取引のこと。
5特定継続的役務提供(英会話教室など)
長期・継続的な役務の提供と、これに対する高額の対価を約する取引のこと。 現在、エステティックサロン、語学教室など7つの役務が対象とされています。
6業務提供誘引販売取引(内職商法など)
「仕事を提供するので収入が得られる」という口実で消費者を誘引し、仕事に必要であるとして、商品等を売って金銭負担を負わせる取引のこと。
7訪問購入
事業者が消費者の自宅等を訪問して、物品の購入を行う取引のこと(消費者庁・特定消費取引法ガイドHPより)。
それぞれの取引類型の特徴に応じて、氏名等の明示の義務づけ、不当な勧誘行為の禁止、広告規制、書面交付義務などの行政規制が行われており、違反行為は、改善指示、業務停止の行政処分または罰則の対象となります。
また、消費者によるクーリング・オフ、意思表示の取消し、中途解約やその際の損害賠償等の額の制限も規定されています。 | 特定商取引法とは、何ですか。 | 特定商取引法とは、事業者による違法・悪質な勧誘行為等を防止し、消費者の利益を守ることを目的とする法律で、事業者が守るべきルールと消費者を守るルール等が定められています。 |
JCRRAG_008421 | 法律 | 特定商取引法は、事業者による違法・悪質な勧誘行為等を防止し、消費者の利益を守ることを目的とする法律です。
具体的には、訪問販売や通信販売等の消費者トラブルを生じやすい取引類型を対象に、事業者が守るべきルールとクーリング・オフ等の消費者を守るルール等を定めています。
特定商取引法の対象となる取引類型は、以下の7つです。
1訪問販売
事業者が消費者の自宅に訪問して、商品や権利の販売又は役務の提供を行う契約をする取引の事。 キャッチセールス、アポイントメントセールスを含みます。
2通信販売
事業者が新聞、雑誌、インターネット等で広告し、郵便、電話等の通信手段により申込みを受ける取引のこと。 「電話勧誘販売」に該当するものを除きます。
3電話勧誘販売
事業者が電話で勧誘を行い、申込みを受ける取引のこと。 電話をいったん切った後、消費者が郵便や電話等によって申込みを行う場合にも該当します。
4連鎖販売取引(マルチ商法など)
個人を販売員として勧誘し、更にその個人に次の販売員の勧誘をさせるかたちで、販売組織を連鎖的に拡大して行う商品・役務の取引のこと。
5特定継続的役務提供(英会話教室など)
長期・継続的な役務の提供と、これに対する高額の対価を約する取引のこと。 現在、エステティックサロン、語学教室など7つの役務が対象とされています。
6業務提供誘引販売取引(内職商法など)
「仕事を提供するので収入が得られる」という口実で消費者を誘引し、仕事に必要であるとして、商品等を売って金銭負担を負わせる取引のこと。
7訪問購入
事業者が消費者の自宅等を訪問して、物品の購入を行う取引のこと(消費者庁・特定消費取引法ガイドHPより)。
それぞれの取引類型の特徴に応じて、氏名等の明示の義務づけ、不当な勧誘行為の禁止、広告規制、書面交付義務などの行政規制が行われており、違反行為は、改善指示、業務停止の行政処分または罰則の対象となります。
また、消費者によるクーリング・オフ、意思表示の取消し、中途解約やその際の損害賠償等の額の制限も規定されています。 | 連鎖販売取引とは、どのような取引ですか。 | 連鎖販売取引とは、個人を販売員として勧誘し、更にその個人に次の販売員の勧誘をさせるかたちで、販売組織を連鎖的に拡大して行う商品・役務の取引のことです。 |
JCRRAG_008422 | 歴史 | 忠敬の前半生
伊能忠敬は、幼名を三治郎、後に佐忠太と云いいましたが、成人して通称三郎右衞門と称し、字は子齊、東河と号し、晩年には勘解由かげゆとも称しました。上総国かずさのくに山武郡小関村こぜきむらで延享二年一月十一日に神保利左衞門貞恒の第三男として生まれたのでした。もっともこの時に父は小関村の小關家を継いでいたのでしたが、忠敬が七歳のときに妻の死歿に遭い神保家に戻りましたので、それでも、忠敬は幼かったのでその儘まま小關家に留まり、十一歳になってようやく父の許に帰ったと云いうことです。ですから、忠敬の幼時は言わば不遇の境地に置かれていたのでしたが、その頃から学問を好んでいたということは、後に自分で記している処によっても確かであったのでした。しかしそれでもなかなかその方に向うことなどは思いもよらない処であったので、十八歳になった際には、下総しもうさ佐原町さわらまちの伊能家に婿養子に遣られ、その時忠敬と名のることとなったのでした。ところで伊能家は元来は佐原町さわらまちの豪家であったのでしたが、この頃家運が甚だ衰えていましたので、忠敬はそこへ赴くと共に、まず家運を恢復かいふくすることに全力を尽さなくてはならなかったのです。それでこの時から実に三十年の長い間、この事に熱心に従い、産業の発展に努めたのでした。この産業という中には、米穀を豊作の土池から買って来て、それを他に売りさばくことや、また醸造じょうぞうや薪問屋の営業などもあったと云いうことです。ともかくそのようにして忠敬の一生懸命の努力のおかげで家運も再び盛んになることができたので、それに伴れて忠敬は救民の事業などをも興したので、終ついには尊敬されて名主ともなり、また幕府からも大いに賞ほめられて、苗字みょうじ、佩刀はいとうをも許されました。この事は忠敬が自分の仕事に対していつも忠実にはたらく人物であることを既に十分に示しているのであります。
ところが、この間に忠敬は妻の死歿に二度も遭っていたと云いうので、彼の前半生は決して幸福とは云いわれなかったのでしたが、それでも自分の仕事に屈することなく励んで来たので、ようやく家運も盛んになったのでした。そこで彼の年齢も五十歳に達して隠居が許されるようになると、さっそくに家督を長子景敬に譲り、自分は江戸に出て、かねてから望んでいた学問の道を修めようと決心したのでした。これはその頃としてもまことに特別な心がけで、忠敬のような人物でなければとても出来なかったところであると思われるのです。
底本:「偉い科學者」實業之日本社
1942(昭和17)年10月10日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
「於て」は「おいて」に、「漸く」は「ようやく」に、「之」は「これ」に、「之等」は「これら」に、「併し」は「しかし」に、「先づ」は「まず」に、「早速に」は「さっそくに」に、「並びに」は「ならびに」に、置き換えました。
※読みにくい言葉、読み誤りやすい言葉に振り仮名を付しました。底本には振り仮名が付されていません。
※「殆ほとんど」と「殆ほとんど」、「器械」と「機械」の混在は、底本通りです。
※国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
※表題は底本では、「伊能忠敬いのうただたか」となっています。
入力:高瀬竜一
校正:sogo | 伊能忠敬の幼名はなんですか。 | 伊能忠敬の幼名は三治郎で、後に佐忠太になりました。 |
JCRRAG_008423 | 歴史 | 忠敬の前半生
伊能忠敬は、幼名を三治郎、後に佐忠太と云いいましたが、成人して通称三郎右衞門と称し、字は子齊、東河と号し、晩年には勘解由かげゆとも称しました。上総国かずさのくに山武郡小関村こぜきむらで延享二年一月十一日に神保利左衞門貞恒の第三男として生まれたのでした。もっともこの時に父は小関村の小關家を継いでいたのでしたが、忠敬が七歳のときに妻の死歿に遭い神保家に戻りましたので、それでも、忠敬は幼かったのでその儘まま小關家に留まり、十一歳になってようやく父の許に帰ったと云いうことです。ですから、忠敬の幼時は言わば不遇の境地に置かれていたのでしたが、その頃から学問を好んでいたということは、後に自分で記している処によっても確かであったのでした。しかしそれでもなかなかその方に向うことなどは思いもよらない処であったので、十八歳になった際には、下総しもうさ佐原町さわらまちの伊能家に婿養子に遣られ、その時忠敬と名のることとなったのでした。ところで伊能家は元来は佐原町さわらまちの豪家であったのでしたが、この頃家運が甚だ衰えていましたので、忠敬はそこへ赴くと共に、まず家運を恢復かいふくすることに全力を尽さなくてはならなかったのです。それでこの時から実に三十年の長い間、この事に熱心に従い、産業の発展に努めたのでした。この産業という中には、米穀を豊作の土池から買って来て、それを他に売りさばくことや、また醸造じょうぞうや薪問屋の営業などもあったと云いうことです。ともかくそのようにして忠敬の一生懸命の努力のおかげで家運も再び盛んになることができたので、それに伴れて忠敬は救民の事業などをも興したので、終ついには尊敬されて名主ともなり、また幕府からも大いに賞ほめられて、苗字みょうじ、佩刀はいとうをも許されました。この事は忠敬が自分の仕事に対していつも忠実にはたらく人物であることを既に十分に示しているのであります。
ところが、この間に忠敬は妻の死歿に二度も遭っていたと云いうので、彼の前半生は決して幸福とは云いわれなかったのでしたが、それでも自分の仕事に屈することなく励んで来たので、ようやく家運も盛んになったのでした。そこで彼の年齢も五十歳に達して隠居が許されるようになると、さっそくに家督を長子景敬に譲り、自分は江戸に出て、かねてから望んでいた学問の道を修めようと決心したのでした。これはその頃としてもまことに特別な心がけで、忠敬のような人物でなければとても出来なかったところであると思われるのです。
底本:「偉い科學者」實業之日本社
1942(昭和17)年10月10日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
「於て」は「おいて」に、「漸く」は「ようやく」に、「之」は「これ」に、「之等」は「これら」に、「併し」は「しかし」に、「先づ」は「まず」に、「早速に」は「さっそくに」に、「並びに」は「ならびに」に、置き換えました。
※読みにくい言葉、読み誤りやすい言葉に振り仮名を付しました。底本には振り仮名が付されていません。
※「殆ほとんど」と「殆ほとんど」、「器械」と「機械」の混在は、底本通りです。
※国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
※表題は底本では、「伊能忠敬いのうただたか」となっています。
入力:高瀬竜一
校正:sogo | 伊能忠敬は、いつ生まれましたか。 | 延享二年一月十一日に生まれました。 |
JCRRAG_008424 | 歴史 | 国学、蘭学の始まり
学問・教育の分野では、朱子学以外にも、国学、蘭学などの幅広い学問が発達しました。国学は、荷田春満によって創始されましたが、「万葉集」を研究したことで知られる賀茂真淵、「古事記」を研究して「古事記伝」などを書いた本居宣長、和漢のとても多い量の書物を分類・編集して「群書類従」を残した塙保己一、神道を集大成した平田篤胤たちによって受け継がれました。
徳川吉宗が、漢訳洋書の輸入の制限をゆるめ、オランダ語を青木昆陽たちに学ばせたことから、西洋の学問も日本に入ってきて、研究されるようになりました。初期蘭学の代表的学者には、解剖に関係するオランダ語の本を訳して「解体新書」を書いた前野良沢、杉田玄白がいます。
色々な学問を広める場となった教育機関も発達しており、藩学、郷学は武士の学校、寺子屋は庶民のためのものです。武士や学者、町人などによって民間の私塾なども各地で開かれました。
国学、蘭学の始まり
緒方洪庵が大阪に創設した適々斎塾(適塾)には、大村益次郎、福沢諭吉らが学びました。吉田松陰が幕末に長州の萩で開いた松下村塾からは、のちに討幕・維新を推し進めた人たちがたくさん出ていて、その中には高杉晋作、伊藤博文、山形有朋らがいます。 | 当時、「万葉集」を研究したのは誰ですか。 | 賀茂真淵です。 |
JCRRAG_008425 | 歴史 | 国学、蘭学の始まり
学問・教育の分野では、朱子学以外にも、国学、蘭学などの幅広い学問が発達しました。国学は、荷田春満によって創始されましたが、「万葉集」を研究したことで知られる賀茂真淵、「古事記」を研究して「古事記伝」などを書いた本居宣長、和漢のとても多い量の書物を分類・編集して「群書類従」を残した塙保己一、神道を集大成した平田篤胤たちによって受け継がれました。
徳川吉宗が、漢訳洋書の輸入の制限をゆるめ、オランダ語を青木昆陽たちに学ばせたことから、西洋の学問も日本に入ってきて、研究されるようになりました。初期蘭学の代表的学者には、解剖に関係するオランダ語の本を訳して「解体新書」を書いた前野良沢、杉田玄白がいます。
色々な学問を広める場となった教育機関も発達しており、藩学、郷学は武士の学校、寺子屋は庶民のためのものです。武士や学者、町人などによって民間の私塾なども各地で開かれました。
国学、蘭学の始まり
緒方洪庵が大阪に創設した適々斎塾(適塾)には、大村益次郎、福沢諭吉らが学びました。吉田松陰が幕末に長州の萩で開いた松下村塾からは、のちに討幕・維新を推し進めた人たちがたくさん出ていて、その中には高杉晋作、伊藤博文、山形有朋らがいます。 | 武士の学校は何ですか | 藩学、郷学です。 |
JCRRAG_008426 | 歴史 | ミイラとは、生前に近い形で残された遺体のことです。人は亡くなると、自然に還るべく腐敗していきます。
ミイラとは、この腐敗の作用が止まった遺体のことです。遺体がミイラになる理由は乾燥や冷凍などさまざまです。自然環境によって遺体がミイラ化してしまうケースもあれば、人為的に遺体をミイラ化させた事例もあります。
日本のミイラの語源は、ポルトガル語の「mirra(ミルラ)」にあると言われます。「ミルラ」とは、ミイラを作るときに使われた没薬(もつやく)のことです。
ミイラは漢字では「木乃伊」と表記し「モミー」と呼んでいたそうです。これは、中国の陶宗儀(とうそうぎ)が書いた14世紀の書物、輟耕録(てっこうろく)に登場します。輟耕録は江戸時代に日本へ伝わり、「木乃伊」の最も古い記述のある書物となりました。
ポルトガル語の「ミルラ」と、漢字表記の「木乃伊」が結びつき、日本では「ミイラ」と呼ぶようになったと考えられます。
ちなみに英語では「mummy(マミー)」と言います。
ミイラと言えばエジプトのツタンカーメン王を連想する人が多いでしょう。古代エジプトでも中期(紀元前1350年頃)の王様です。エジプトでは、紀元前3700~3500年頃から、亡くなった人を布に包み、砂に埋める風習があったとされています。また、ミイラを人工的に製造していたと考えられています。
世界各地でミイラの存在が確認されていますが、その理由は、地域によって違いがあります。
古代エジプトで人工的なミイラが作られるようになったのは、古王国時代(紀元前2500年ごろ)とするのが一般的です。来世で復活するには肉体が必要と考えられたため、亡くなった人を人工的にミイラにして肉体を残そうとしたのです。
ミイラ加工を施していた当初は、ファラオ(王様)や王族のみでした。しかし時を経て、ミイラ加工で肉体を残す習わしは、広く庶民にも浸透しました。
古代エジプトと同様に、南米・ペルーのミイラも有名です。例えばアンデス山脈東側にあるチャチャポヤス地方では、遺体を折り曲げて包んでミイラ化させ、崖の上に安置する風習がありました。また、ミイラとなった人を生前と同様に扱い、衣服を着せたり、ともに食事を摂ったりする地域もあったそうです。
アンデス高地も非常に乾燥した気候のため、遺体は腐敗が進みにくく、自然にミイラ化することが珍しくありません。ミイラとなった遺体は祖先崇拝の対象とされ、子孫を見守る存在と考えられました。
遺体を人工的にミイラ化させるには、特殊な加工が必要でした。
ミイラ化を希望したのは、一部の裕福な人たちです。遺族は亡くなった家族の体をミイラ職人の元へ運び、ミイラの作り方や料金について説明を受けます。その後、遺族が加工方法を決めました。
ミイラの加工処理方法は、上中下の3コースがあったと言われます。
上級:最も手が込んでおり、高価
遺体を洗浄後に内臓・脳を取り出して没薬などを詰め込む(心臓は除く)
乾燥・防腐作用のあるナトロンに約70日間浸す
水分が抜けたら洗浄する
化粧・整髪をして装飾品を付ける
樹脂や香料を塗りながら細長い麻布を巻き付ける
中級:内臓を摘出せずに油を流し込んでナトロンに約70日浸す
低級:下剤で腸内を洗浄してナトロンに約70日浸す
古代エジプトでは、亡くなった人が行く死後の楽園があると考えられていました。これがイアルの野です。
イアルの野では、生きていた頃とほぼ同じような環境が再現されており、亡くなった人たちはこの楽園で、神様に供物(くもつ)を捧げながら暮らします。
亡くなった人が楽園に行くには、長い旅に出ねばなりません。途中にはさまざまな困難があり、最後には冥界の神・オシリスの審判が待っています。亡くなった人は、ここで生前のおこないを告白し、心臓を天秤にかけられます。天秤が心臓の方に傾いたら、その人は嘘をついていたという証です。楽園への道は閉ざされます。遺族たちは故人が試練を乗り越えられるよう、棺に護符などを添えました。
死んだ人は肉体と魂に分かれ、魂は最後の審判を受けます。そしてそれが終わったら、魂は再び肉体に戻ってくるのです。しかしこのとき肉体が残っていなければ、再生はできません。
再生を強く願う古代エジプトの人々は、魂の入れ物である肉体をミイラにして保存しようとしました。
この死生観は、身近にある死への恐怖を和らげるための考え方であったとも言われています。
ミイラの棺は、死者を物理的な汚れや傷みから遠ざけるとともに、呪術的に保護する役割があります。棺には「死者の書」の呪文や神々の絵などが描かれていますが、これは死後の世界を信じた古代エジプトの人々が、死者の安らかな来世を祈って描いたものです。
中王国時代のミイラからは、金や銀を多量に使った美しい宝飾品が見られます。当時の女性の墓からは、ミイラとともに頭飾りや髪飾り、首飾り、襟飾り、腰飾り、腕輪や足輪などが見つかりました。
副葬品のなかでも、大量のビーズをつなげた「襟飾り」や四角形や祠堂(しどう)の形をした「ペクトラル(大型のペンダント)」などは、特に重要なものと考えられています。
幸運の象徴「スカラベ(コガネムシ)」のアクセサリーは現代人にも人気があります。
古代エジプトの墓からは、ネコやコブラ、犬、ハトなどのミイラも発見されています。神の化身とされている動物は、亡くなった人が来世で復活できるようにとの祈りを込めて、遺体とともに入れられていたとされています。その他にも、死後の食料として入れられたという説もあります。
日本でミイラが常設されているのは、東京国立博物館です。
「パシェリエンプタハのミイラ」と呼ばれる男性のミイラです。これは第22王朝時代のもの(前945-前730年頃)で、1904年にエジプト考古庁長官より寄贈されました。
日本には、全身ミイラは2体しかありません。パシェリエンプタハのミイラは、そのうちの1体です。
パシェリエンプタハのミイラで注目したいのが、棺です。表面全体に黒い塗料がかけられているため、棺に描かれている神々の像や呪文がはっきりしません。このような処理が施されているミイラは、世界的にも珍しいそうです。
| ミイラの語源のポルトガル語は何か、それはミイラを作る時に使われた何のことですか。 | ミイラの語源のポルトガル語は、mirra(ミルラ)、ミイラを作る時に使われた没薬(もつやく)のことです。 |
JCRRAG_008427 | 歴史 | ミイラとは、生前に近い形で残された遺体のことです。人は亡くなると、自然に還るべく腐敗していきます。
ミイラとは、この腐敗の作用が止まった遺体のことです。遺体がミイラになる理由は乾燥や冷凍などさまざまです。自然環境によって遺体がミイラ化してしまうケースもあれば、人為的に遺体をミイラ化させた事例もあります。
日本のミイラの語源は、ポルトガル語の「mirra(ミルラ)」にあると言われます。「ミルラ」とは、ミイラを作るときに使われた没薬(もつやく)のことです。
ミイラは漢字では「木乃伊」と表記し「モミー」と呼んでいたそうです。これは、中国の陶宗儀(とうそうぎ)が書いた14世紀の書物、輟耕録(てっこうろく)に登場します。輟耕録は江戸時代に日本へ伝わり、「木乃伊」の最も古い記述のある書物となりました。
ポルトガル語の「ミルラ」と、漢字表記の「木乃伊」が結びつき、日本では「ミイラ」と呼ぶようになったと考えられます。
ちなみに英語では「mummy(マミー)」と言います。
ミイラと言えばエジプトのツタンカーメン王を連想する人が多いでしょう。古代エジプトでも中期(紀元前1350年頃)の王様です。エジプトでは、紀元前3700~3500年頃から、亡くなった人を布に包み、砂に埋める風習があったとされています。また、ミイラを人工的に製造していたと考えられています。
世界各地でミイラの存在が確認されていますが、その理由は、地域によって違いがあります。
古代エジプトで人工的なミイラが作られるようになったのは、古王国時代(紀元前2500年ごろ)とするのが一般的です。来世で復活するには肉体が必要と考えられたため、亡くなった人を人工的にミイラにして肉体を残そうとしたのです。
ミイラ加工を施していた当初は、ファラオ(王様)や王族のみでした。しかし時を経て、ミイラ加工で肉体を残す習わしは、広く庶民にも浸透しました。
古代エジプトと同様に、南米・ペルーのミイラも有名です。例えばアンデス山脈東側にあるチャチャポヤス地方では、遺体を折り曲げて包んでミイラ化させ、崖の上に安置する風習がありました。また、ミイラとなった人を生前と同様に扱い、衣服を着せたり、ともに食事を摂ったりする地域もあったそうです。
アンデス高地も非常に乾燥した気候のため、遺体は腐敗が進みにくく、自然にミイラ化することが珍しくありません。ミイラとなった遺体は祖先崇拝の対象とされ、子孫を見守る存在と考えられました。
遺体を人工的にミイラ化させるには、特殊な加工が必要でした。
ミイラ化を希望したのは、一部の裕福な人たちです。遺族は亡くなった家族の体をミイラ職人の元へ運び、ミイラの作り方や料金について説明を受けます。その後、遺族が加工方法を決めました。
ミイラの加工処理方法は、上中下の3コースがあったと言われます。
上級:最も手が込んでおり、高価
遺体を洗浄後に内臓・脳を取り出して没薬などを詰め込む(心臓は除く)
乾燥・防腐作用のあるナトロンに約70日間浸す
水分が抜けたら洗浄する
化粧・整髪をして装飾品を付ける
樹脂や香料を塗りながら細長い麻布を巻き付ける
中級:内臓を摘出せずに油を流し込んでナトロンに約70日浸す
低級:下剤で腸内を洗浄してナトロンに約70日浸す
古代エジプトでは、亡くなった人が行く死後の楽園があると考えられていました。これがイアルの野です。
イアルの野では、生きていた頃とほぼ同じような環境が再現されており、亡くなった人たちはこの楽園で、神様に供物(くもつ)を捧げながら暮らします。
亡くなった人が楽園に行くには、長い旅に出ねばなりません。途中にはさまざまな困難があり、最後には冥界の神・オシリスの審判が待っています。亡くなった人は、ここで生前のおこないを告白し、心臓を天秤にかけられます。天秤が心臓の方に傾いたら、その人は嘘をついていたという証です。楽園への道は閉ざされます。遺族たちは故人が試練を乗り越えられるよう、棺に護符などを添えました。
死んだ人は肉体と魂に分かれ、魂は最後の審判を受けます。そしてそれが終わったら、魂は再び肉体に戻ってくるのです。しかしこのとき肉体が残っていなければ、再生はできません。
再生を強く願う古代エジプトの人々は、魂の入れ物である肉体をミイラにして保存しようとしました。
この死生観は、身近にある死への恐怖を和らげるための考え方であったとも言われています。
ミイラの棺は、死者を物理的な汚れや傷みから遠ざけるとともに、呪術的に保護する役割があります。棺には「死者の書」の呪文や神々の絵などが描かれていますが、これは死後の世界を信じた古代エジプトの人々が、死者の安らかな来世を祈って描いたものです。
中王国時代のミイラからは、金や銀を多量に使った美しい宝飾品が見られます。当時の女性の墓からは、ミイラとともに頭飾りや髪飾り、首飾り、襟飾り、腰飾り、腕輪や足輪などが見つかりました。
副葬品のなかでも、大量のビーズをつなげた「襟飾り」や四角形や祠堂(しどう)の形をした「ペクトラル(大型のペンダント)」などは、特に重要なものと考えられています。
幸運の象徴「スカラベ(コガネムシ)」のアクセサリーは現代人にも人気があります。
古代エジプトの墓からは、ネコやコブラ、犬、ハトなどのミイラも発見されています。神の化身とされている動物は、亡くなった人が来世で復活できるようにとの祈りを込めて、遺体とともに入れられていたとされています。その他にも、死後の食料として入れられたという説もあります。
日本でミイラが常設されているのは、東京国立博物館です。
「パシェリエンプタハのミイラ」と呼ばれる男性のミイラです。これは第22王朝時代のもの(前945-前730年頃)で、1904年にエジプト考古庁長官より寄贈されました。
日本には、全身ミイラは2体しかありません。パシェリエンプタハのミイラは、そのうちの1体です。
パシェリエンプタハのミイラで注目したいのが、棺です。表面全体に黒い塗料がかけられているため、棺に描かれている神々の像や呪文がはっきりしません。このような処理が施されているミイラは、世界的にも珍しいそうです。
| 古代エジプトで人工的なミイラが作られるようになった理由は何ですか。 | 古代エジプトで人工的なミイラが作られるようになったのは、来世で復活するには肉体が必要と考えられたため、亡くなった人を人工的にミイラにして肉体を残そうとしました。 |
JCRRAG_008428 | 歴史 | ミイラとは、生前に近い形で残された遺体のことです。人は亡くなると、自然に還るべく腐敗していきます。
ミイラとは、この腐敗の作用が止まった遺体のことです。遺体がミイラになる理由は乾燥や冷凍などさまざまです。自然環境によって遺体がミイラ化してしまうケースもあれば、人為的に遺体をミイラ化させた事例もあります。
日本のミイラの語源は、ポルトガル語の「mirra(ミルラ)」にあると言われます。「ミルラ」とは、ミイラを作るときに使われた没薬(もつやく)のことです。
ミイラは漢字では「木乃伊」と表記し「モミー」と呼んでいたそうです。これは、中国の陶宗儀(とうそうぎ)が書いた14世紀の書物、輟耕録(てっこうろく)に登場します。輟耕録は江戸時代に日本へ伝わり、「木乃伊」の最も古い記述のある書物となりました。
ポルトガル語の「ミルラ」と、漢字表記の「木乃伊」が結びつき、日本では「ミイラ」と呼ぶようになったと考えられます。
ちなみに英語では「mummy(マミー)」と言います。
ミイラと言えばエジプトのツタンカーメン王を連想する人が多いでしょう。古代エジプトでも中期(紀元前1350年頃)の王様です。エジプトでは、紀元前3700~3500年頃から、亡くなった人を布に包み、砂に埋める風習があったとされています。また、ミイラを人工的に製造していたと考えられています。
世界各地でミイラの存在が確認されていますが、その理由は、地域によって違いがあります。
古代エジプトで人工的なミイラが作られるようになったのは、古王国時代(紀元前2500年ごろ)とするのが一般的です。来世で復活するには肉体が必要と考えられたため、亡くなった人を人工的にミイラにして肉体を残そうとしたのです。
ミイラ加工を施していた当初は、ファラオ(王様)や王族のみでした。しかし時を経て、ミイラ加工で肉体を残す習わしは、広く庶民にも浸透しました。
古代エジプトと同様に、南米・ペルーのミイラも有名です。例えばアンデス山脈東側にあるチャチャポヤス地方では、遺体を折り曲げて包んでミイラ化させ、崖の上に安置する風習がありました。また、ミイラとなった人を生前と同様に扱い、衣服を着せたり、ともに食事を摂ったりする地域もあったそうです。
アンデス高地も非常に乾燥した気候のため、遺体は腐敗が進みにくく、自然にミイラ化することが珍しくありません。ミイラとなった遺体は祖先崇拝の対象とされ、子孫を見守る存在と考えられました。
遺体を人工的にミイラ化させるには、特殊な加工が必要でした。
ミイラ化を希望したのは、一部の裕福な人たちです。遺族は亡くなった家族の体をミイラ職人の元へ運び、ミイラの作り方や料金について説明を受けます。その後、遺族が加工方法を決めました。
ミイラの加工処理方法は、上中下の3コースがあったと言われます。
上級:最も手が込んでおり、高価
遺体を洗浄後に内臓・脳を取り出して没薬などを詰め込む(心臓は除く)
乾燥・防腐作用のあるナトロンに約70日間浸す
水分が抜けたら洗浄する
化粧・整髪をして装飾品を付ける
樹脂や香料を塗りながら細長い麻布を巻き付ける
中級:内臓を摘出せずに油を流し込んでナトロンに約70日浸す
低級:下剤で腸内を洗浄してナトロンに約70日浸す
古代エジプトでは、亡くなった人が行く死後の楽園があると考えられていました。これがイアルの野です。
イアルの野では、生きていた頃とほぼ同じような環境が再現されており、亡くなった人たちはこの楽園で、神様に供物(くもつ)を捧げながら暮らします。
亡くなった人が楽園に行くには、長い旅に出ねばなりません。途中にはさまざまな困難があり、最後には冥界の神・オシリスの審判が待っています。亡くなった人は、ここで生前のおこないを告白し、心臓を天秤にかけられます。天秤が心臓の方に傾いたら、その人は嘘をついていたという証です。楽園への道は閉ざされます。遺族たちは故人が試練を乗り越えられるよう、棺に護符などを添えました。
死んだ人は肉体と魂に分かれ、魂は最後の審判を受けます。そしてそれが終わったら、魂は再び肉体に戻ってくるのです。しかしこのとき肉体が残っていなければ、再生はできません。
再生を強く願う古代エジプトの人々は、魂の入れ物である肉体をミイラにして保存しようとしました。
この死生観は、身近にある死への恐怖を和らげるための考え方であったとも言われています。
ミイラの棺は、死者を物理的な汚れや傷みから遠ざけるとともに、呪術的に保護する役割があります。棺には「死者の書」の呪文や神々の絵などが描かれていますが、これは死後の世界を信じた古代エジプトの人々が、死者の安らかな来世を祈って描いたものです。
中王国時代のミイラからは、金や銀を多量に使った美しい宝飾品が見られます。当時の女性の墓からは、ミイラとともに頭飾りや髪飾り、首飾り、襟飾り、腰飾り、腕輪や足輪などが見つかりました。
副葬品のなかでも、大量のビーズをつなげた「襟飾り」や四角形や祠堂(しどう)の形をした「ペクトラル(大型のペンダント)」などは、特に重要なものと考えられています。
幸運の象徴「スカラベ(コガネムシ)」のアクセサリーは現代人にも人気があります。
古代エジプトの墓からは、ネコやコブラ、犬、ハトなどのミイラも発見されています。神の化身とされている動物は、亡くなった人が来世で復活できるようにとの祈りを込めて、遺体とともに入れられていたとされています。その他にも、死後の食料として入れられたという説もあります。
日本でミイラが常設されているのは、東京国立博物館です。
「パシェリエンプタハのミイラ」と呼ばれる男性のミイラです。これは第22王朝時代のもの(前945-前730年頃)で、1904年にエジプト考古庁長官より寄贈されました。
日本には、全身ミイラは2体しかありません。パシェリエンプタハのミイラは、そのうちの1体です。
パシェリエンプタハのミイラで注目したいのが、棺です。表面全体に黒い塗料がかけられているため、棺に描かれている神々の像や呪文がはっきりしません。このような処理が施されているミイラは、世界的にも珍しいそうです。
| 日本には全身ミイラが何体あり、そのうちの1体はどこの博物館にありますか。 | 日本には全身ミイラが、2体あり、そのうの1体は、東京国立博物館に常設されています。 |
JCRRAG_008429 | 歴史 | 奈良県明日香(あすか)地方を中心に、政治が動き始めます。
6世紀、大王を中心とする連合政権の大和王権は、朝鮮半島での影響力を強めたいと半島南部の「伽耶(かや)諸国」に兵士を送ります。
しかし、伽耶諸国が「百済(くだら)」「新羅(しらぎ)」の支配下に入ったことで、大和王権の勢力は大きく後退していきます。
さらに中国では「隋(ずい)」が全土を統一、大帝国を築き、朝鮮半島の北部の「高句麗(こうくり)」に攻撃を開始していました。
徐々に、大陸の見えない圧力が大和王権に近づいていました。
外交では厳しい立場となった大和王権でしたが、国内では地方の支配や中央の政治の場「朝廷(ちょうてい)」の機構を整備していきます。
592年、女帝「推古(すいこ)天皇」が即位し、その補佐として、おいの「厩戸王(うまやどおう)」が政権に参画、国政に乗り出します。
まず、隋からの侵略に対する危機感を募らせた厩戸王らの朝廷は、この難局の活路を外交に見いだします。
倭(わ)の五王以来、途絶えていた中国との正式な国交再開を求め、600年に厩戸王は最初の「遣隋使(けんずいし)」を派遣します。
しかし、隋の皇帝・文帝(ぶんてい)から国の政治などのあり方について非難を受け、国交を結ぶ事はできませんでした。
厩戸王は、この大帝国とわたりあうためには、権力を集中させる必要があると考え、国政の改革を始めます。
603年、「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」を制定。
徳・仁など大小12の位に分けて、それぞれ色分けされた冠を授けました。
豪族の中から、氏(うじ)や姓(かばね)といった地位や血族に関係なく、才能や功績に応じて個人が昇進・昇級できるようにしようと考えたのです。
翌604年には「憲法十七条(けんぽうじゅうしちじょう)」を定めます。
「一に曰(いわ)く、和を以(も)って貴(たっと)しとなし」という書き出しから始まり、天皇を君主とする国家秩序の確立、豪族たちの官僚としての心構えなどを説いています。
こうして官僚制的な中央集権国家としての制度を整備したところで、厩戸王は607年に「小野妹子(おののいもこ)」らを第2回遣隋使として派遣することにしたのです。 | 大和王権の勢力後退のきっかけは何でしたか。 | 伽耶諸国が百済、および新羅の支配下に入ったことで、大和王権は大きく勢力を弱めることになります。 |
JCRRAG_008430 | 歴史 | 奈良県明日香(あすか)地方を中心に、政治が動き始めます。
6世紀、大王を中心とする連合政権の大和王権は、朝鮮半島での影響力を強めたいと半島南部の「伽耶(かや)諸国」に兵士を送ります。
しかし、伽耶諸国が「百済(くだら)」「新羅(しらぎ)」の支配下に入ったことで、大和王権の勢力は大きく後退していきます。
さらに中国では「隋(ずい)」が全土を統一、大帝国を築き、朝鮮半島の北部の「高句麗(こうくり)」に攻撃を開始していました。
徐々に、大陸の見えない圧力が大和王権に近づいていました。
外交では厳しい立場となった大和王権でしたが、国内では地方の支配や中央の政治の場「朝廷(ちょうてい)」の機構を整備していきます。
592年、女帝「推古(すいこ)天皇」が即位し、その補佐として、おいの「厩戸王(うまやどおう)」が政権に参画、国政に乗り出します。
まず、隋からの侵略に対する危機感を募らせた厩戸王らの朝廷は、この難局の活路を外交に見いだします。
倭(わ)の五王以来、途絶えていた中国との正式な国交再開を求め、600年に厩戸王は最初の「遣隋使(けんずいし)」を派遣します。
しかし、隋の皇帝・文帝(ぶんてい)から国の政治などのあり方について非難を受け、国交を結ぶ事はできませんでした。
厩戸王は、この大帝国とわたりあうためには、権力を集中させる必要があると考え、国政の改革を始めます。
603年、「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」を制定。
徳・仁など大小12の位に分けて、それぞれ色分けされた冠を授けました。
豪族の中から、氏(うじ)や姓(かばね)といった地位や血族に関係なく、才能や功績に応じて個人が昇進・昇級できるようにしようと考えたのです。
翌604年には「憲法十七条(けんぽうじゅうしちじょう)」を定めます。
「一に曰(いわ)く、和を以(も)って貴(たっと)しとなし」という書き出しから始まり、天皇を君主とする国家秩序の確立、豪族たちの官僚としての心構えなどを説いています。
こうして官僚制的な中央集権国家としての制度を整備したところで、厩戸王は607年に「小野妹子(おののいもこ)」らを第2回遣隋使として派遣することにしたのです。 | 592年に即位したのは誰ですか。 | 592年に即位したのは、推古天皇という女帝です。 |
JCRRAG_008431 | 歴史 | 奈良県明日香(あすか)地方を中心に、政治が動き始めます。
6世紀、大王を中心とする連合政権の大和王権は、朝鮮半島での影響力を強めたいと半島南部の「伽耶(かや)諸国」に兵士を送ります。
しかし、伽耶諸国が「百済(くだら)」「新羅(しらぎ)」の支配下に入ったことで、大和王権の勢力は大きく後退していきます。
さらに中国では「隋(ずい)」が全土を統一、大帝国を築き、朝鮮半島の北部の「高句麗(こうくり)」に攻撃を開始していました。
徐々に、大陸の見えない圧力が大和王権に近づいていました。
外交では厳しい立場となった大和王権でしたが、国内では地方の支配や中央の政治の場「朝廷(ちょうてい)」の機構を整備していきます。
592年、女帝「推古(すいこ)天皇」が即位し、その補佐として、おいの「厩戸王(うまやどおう)」が政権に参画、国政に乗り出します。
まず、隋からの侵略に対する危機感を募らせた厩戸王らの朝廷は、この難局の活路を外交に見いだします。
倭(わ)の五王以来、途絶えていた中国との正式な国交再開を求め、600年に厩戸王は最初の「遣隋使(けんずいし)」を派遣します。
しかし、隋の皇帝・文帝(ぶんてい)から国の政治などのあり方について非難を受け、国交を結ぶ事はできませんでした。
厩戸王は、この大帝国とわたりあうためには、権力を集中させる必要があると考え、国政の改革を始めます。
603年、「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」を制定。
徳・仁など大小12の位に分けて、それぞれ色分けされた冠を授けました。
豪族の中から、氏(うじ)や姓(かばね)といった地位や血族に関係なく、才能や功績に応じて個人が昇進・昇級できるようにしようと考えたのです。
翌604年には「憲法十七条(けんぽうじゅうしちじょう)」を定めます。
「一に曰(いわ)く、和を以(も)って貴(たっと)しとなし」という書き出しから始まり、天皇を君主とする国家秩序の確立、豪族たちの官僚としての心構えなどを説いています。
こうして官僚制的な中央集権国家としての制度を整備したところで、厩戸王は607年に「小野妹子(おののいもこ)」らを第2回遣隋使として派遣することにしたのです。 | 推古天皇の補佐は誰でしたか。 | おいの厩戸王が、推古天皇の補佐を務めました。 |
JCRRAG_008432 | 歴史 | 奈良県明日香(あすか)地方を中心に、政治が動き始めます。
6世紀、大王を中心とする連合政権の大和王権は、朝鮮半島での影響力を強めたいと半島南部の「伽耶(かや)諸国」に兵士を送ります。
しかし、伽耶諸国が「百済(くだら)」「新羅(しらぎ)」の支配下に入ったことで、大和王権の勢力は大きく後退していきます。
さらに中国では「隋(ずい)」が全土を統一、大帝国を築き、朝鮮半島の北部の「高句麗(こうくり)」に攻撃を開始していました。
徐々に、大陸の見えない圧力が大和王権に近づいていました。
外交では厳しい立場となった大和王権でしたが、国内では地方の支配や中央の政治の場「朝廷(ちょうてい)」の機構を整備していきます。
592年、女帝「推古(すいこ)天皇」が即位し、その補佐として、おいの「厩戸王(うまやどおう)」が政権に参画、国政に乗り出します。
まず、隋からの侵略に対する危機感を募らせた厩戸王らの朝廷は、この難局の活路を外交に見いだします。
倭(わ)の五王以来、途絶えていた中国との正式な国交再開を求め、600年に厩戸王は最初の「遣隋使(けんずいし)」を派遣します。
しかし、隋の皇帝・文帝(ぶんてい)から国の政治などのあり方について非難を受け、国交を結ぶ事はできませんでした。
厩戸王は、この大帝国とわたりあうためには、権力を集中させる必要があると考え、国政の改革を始めます。
603年、「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」を制定。
徳・仁など大小12の位に分けて、それぞれ色分けされた冠を授けました。
豪族の中から、氏(うじ)や姓(かばね)といった地位や血族に関係なく、才能や功績に応じて個人が昇進・昇級できるようにしようと考えたのです。
翌604年には「憲法十七条(けんぽうじゅうしちじょう)」を定めます。
「一に曰(いわ)く、和を以(も)って貴(たっと)しとなし」という書き出しから始まり、天皇を君主とする国家秩序の確立、豪族たちの官僚としての心構えなどを説いています。
こうして官僚制的な中央集権国家としての制度を整備したところで、厩戸王は607年に「小野妹子(おののいもこ)」らを第2回遣隋使として派遣することにしたのです。 | 厩戸王は、中国との国交再開のために何をしましたか。 | 厩戸王は中国との国交再開のため、600年に最初の「遣隋使」を派遣しましたが、この時は国交再開に至りませんでした。 |
JCRRAG_008433 | 歴史 | 奈良県明日香(あすか)地方を中心に、政治が動き始めます。
6世紀、大王を中心とする連合政権の大和王権は、朝鮮半島での影響力を強めたいと半島南部の「伽耶(かや)諸国」に兵士を送ります。
しかし、伽耶諸国が「百済(くだら)」「新羅(しらぎ)」の支配下に入ったことで、大和王権の勢力は大きく後退していきます。
さらに中国では「隋(ずい)」が全土を統一、大帝国を築き、朝鮮半島の北部の「高句麗(こうくり)」に攻撃を開始していました。
徐々に、大陸の見えない圧力が大和王権に近づいていました。
外交では厳しい立場となった大和王権でしたが、国内では地方の支配や中央の政治の場「朝廷(ちょうてい)」の機構を整備していきます。
592年、女帝「推古(すいこ)天皇」が即位し、その補佐として、おいの「厩戸王(うまやどおう)」が政権に参画、国政に乗り出します。
まず、隋からの侵略に対する危機感を募らせた厩戸王らの朝廷は、この難局の活路を外交に見いだします。
倭(わ)の五王以来、途絶えていた中国との正式な国交再開を求め、600年に厩戸王は最初の「遣隋使(けんずいし)」を派遣します。
しかし、隋の皇帝・文帝(ぶんてい)から国の政治などのあり方について非難を受け、国交を結ぶ事はできませんでした。
厩戸王は、この大帝国とわたりあうためには、権力を集中させる必要があると考え、国政の改革を始めます。
603年、「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」を制定。
徳・仁など大小12の位に分けて、それぞれ色分けされた冠を授けました。
豪族の中から、氏(うじ)や姓(かばね)といった地位や血族に関係なく、才能や功績に応じて個人が昇進・昇級できるようにしようと考えたのです。
翌604年には「憲法十七条(けんぽうじゅうしちじょう)」を定めます。
「一に曰(いわ)く、和を以(も)って貴(たっと)しとなし」という書き出しから始まり、天皇を君主とする国家秩序の確立、豪族たちの官僚としての心構えなどを説いています。
こうして官僚制的な中央集権国家としての制度を整備したところで、厩戸王は607年に「小野妹子(おののいもこ)」らを第2回遣隋使として派遣することにしたのです。 | 2回目の遣隋使はいつ、誰が派遣されましたか。 | 607年に小野妹子が、2回目の遣隋使として派遣されました。 |
JCRRAG_008434 | 歴史 | 618年、隋が滅び「唐(とう)」が建国されます。
唐では、「律令(りつりょう)」を基本とする中央集権的国家体制が発展します。
「律」とは刑罰についての規定、「令」は政治・経済など一般行政に関する規定のことです。
大和王権では、唐から帰国した遣唐使の留学生が唐の国家体制のしくみを伝えたことで、それまでの氏姓(しせい)制度をあらため、天皇を中心とした、より強力な中央集権国家をつくろうとする動きが高まります。
当時、人民と土地を支配していたのは豪族たちです。
中でも、厩戸王がこの世を去ったあと、最も権勢をふるったのが「蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)」親子でした。
天皇中心の中央集権的国家体制を目指す「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」と「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」は、そんな蘇我氏を倒して政権を握ります。
「乙巳(いっし)の変」、645年のことです。
その後、孝徳(こうとく)天皇が即位、中大兄皇子は皇太子となり、日本初の元号を「大化(たいか)」と定めました。
翌年、新政府は「改新の詔(かいしんのみことのり)」を発表します。
「第一条、全国の土地、人民は、すべて国のものとする」
こうして律令にもとづく新しい国づくりへの改革が始まります。
これらの一連の政治改革を「大化の改新」といいます。
大化の改新により日本は、より中央集権的な「律令国家」へとすすんでいきます。 | 律令とは何のことですか。 | 律令の「律」は刑罰についての規定、「令」は政治・経済など一般行政に関する規定を指します。 |
JCRRAG_008435 | 歴史 | 618年、隋が滅び「唐(とう)」が建国されます。
唐では、「律令(りつりょう)」を基本とする中央集権的国家体制が発展します。
「律」とは刑罰についての規定、「令」は政治・経済など一般行政に関する規定のことです。
大和王権では、唐から帰国した遣唐使の留学生が唐の国家体制のしくみを伝えたことで、それまでの氏姓(しせい)制度をあらため、天皇を中心とした、より強力な中央集権国家をつくろうとする動きが高まります。
当時、人民と土地を支配していたのは豪族たちです。
中でも、厩戸王がこの世を去ったあと、最も権勢をふるったのが「蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)」親子でした。
天皇中心の中央集権的国家体制を目指す「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」と「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」は、そんな蘇我氏を倒して政権を握ります。
「乙巳(いっし)の変」、645年のことです。
その後、孝徳(こうとく)天皇が即位、中大兄皇子は皇太子となり、日本初の元号を「大化(たいか)」と定めました。
翌年、新政府は「改新の詔(かいしんのみことのり)」を発表します。
「第一条、全国の土地、人民は、すべて国のものとする」
こうして律令にもとづく新しい国づくりへの改革が始まります。
これらの一連の政治改革を「大化の改新」といいます。
大化の改新により日本は、より中央集権的な「律令国家」へとすすんでいきます。 | 厩戸王の死後に権力を振るったのは誰ですか。 | 厩戸王の死後には豪族による支配が行われましたが、中でも最も権力を振るったのは、蘇我蝦夷と入鹿の親子でした。 |
JCRRAG_008436 | 歴史 | 618年、隋が滅び「唐(とう)」が建国されます。
唐では、「律令(りつりょう)」を基本とする中央集権的国家体制が発展します。
「律」とは刑罰についての規定、「令」は政治・経済など一般行政に関する規定のことです。
大和王権では、唐から帰国した遣唐使の留学生が唐の国家体制のしくみを伝えたことで、それまでの氏姓(しせい)制度をあらため、天皇を中心とした、より強力な中央集権国家をつくろうとする動きが高まります。
当時、人民と土地を支配していたのは豪族たちです。
中でも、厩戸王がこの世を去ったあと、最も権勢をふるったのが「蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)」親子でした。
天皇中心の中央集権的国家体制を目指す「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」と「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」は、そんな蘇我氏を倒して政権を握ります。
「乙巳(いっし)の変」、645年のことです。
その後、孝徳(こうとく)天皇が即位、中大兄皇子は皇太子となり、日本初の元号を「大化(たいか)」と定めました。
翌年、新政府は「改新の詔(かいしんのみことのり)」を発表します。
「第一条、全国の土地、人民は、すべて国のものとする」
こうして律令にもとづく新しい国づくりへの改革が始まります。
これらの一連の政治改革を「大化の改新」といいます。
大化の改新により日本は、より中央集権的な「律令国家」へとすすんでいきます。 | 乙巳の変では、何が起きましたか。 | 乙巳の変では、天皇中心の国家体制を目指す中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我蝦夷と入鹿を倒して政権を握りました。 |
JCRRAG_008437 | 歴史 | 618年、隋が滅び「唐(とう)」が建国されます。
唐では、「律令(りつりょう)」を基本とする中央集権的国家体制が発展します。
「律」とは刑罰についての規定、「令」は政治・経済など一般行政に関する規定のことです。
大和王権では、唐から帰国した遣唐使の留学生が唐の国家体制のしくみを伝えたことで、それまでの氏姓(しせい)制度をあらため、天皇を中心とした、より強力な中央集権国家をつくろうとする動きが高まります。
当時、人民と土地を支配していたのは豪族たちです。
中でも、厩戸王がこの世を去ったあと、最も権勢をふるったのが「蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)」親子でした。
天皇中心の中央集権的国家体制を目指す「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」と「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」は、そんな蘇我氏を倒して政権を握ります。
「乙巳(いっし)の変」、645年のことです。
その後、孝徳(こうとく)天皇が即位、中大兄皇子は皇太子となり、日本初の元号を「大化(たいか)」と定めました。
翌年、新政府は「改新の詔(かいしんのみことのり)」を発表します。
「第一条、全国の土地、人民は、すべて国のものとする」
こうして律令にもとづく新しい国づくりへの改革が始まります。
これらの一連の政治改革を「大化の改新」といいます。
大化の改新により日本は、より中央集権的な「律令国家」へとすすんでいきます。 | 日本初の元号は | 日本初の元号は、大化です。 |
JCRRAG_008438 | 歴史 | 618年、隋が滅び「唐(とう)」が建国されます。
唐では、「律令(りつりょう)」を基本とする中央集権的国家体制が発展します。
「律」とは刑罰についての規定、「令」は政治・経済など一般行政に関する規定のことです。
大和王権では、唐から帰国した遣唐使の留学生が唐の国家体制のしくみを伝えたことで、それまでの氏姓(しせい)制度をあらため、天皇を中心とした、より強力な中央集権国家をつくろうとする動きが高まります。
当時、人民と土地を支配していたのは豪族たちです。
中でも、厩戸王がこの世を去ったあと、最も権勢をふるったのが「蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)」親子でした。
天皇中心の中央集権的国家体制を目指す「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」と「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」は、そんな蘇我氏を倒して政権を握ります。
「乙巳(いっし)の変」、645年のことです。
その後、孝徳(こうとく)天皇が即位、中大兄皇子は皇太子となり、日本初の元号を「大化(たいか)」と定めました。
翌年、新政府は「改新の詔(かいしんのみことのり)」を発表します。
「第一条、全国の土地、人民は、すべて国のものとする」
こうして律令にもとづく新しい国づくりへの改革が始まります。
これらの一連の政治改革を「大化の改新」といいます。
大化の改新により日本は、より中央集権的な「律令国家」へとすすんでいきます。 | 大化の改新により、日本の国家体制はどうなりましたか。 | 大化の改新は、日本の国家体制をより中央集権的なものとし、唐のような律令国家を築くための足掛かりとなりました。 |
JCRRAG_008439 | 歴史 | 660年、朝鮮半島の百済は唐と新羅の連合軍によって、滅ぼされます。
その滅亡した百済と同盟関係にあったことなどもあり、中大兄皇子は百済を復興させ朝鮮半島における倭国の優位性を復活させようと、朝鮮半島に大軍を送りました。
しかし、663年、「白村江(はくすきのえ)の戦い」で唐・新羅の連合軍に敗れてしまい、朝鮮半島から撤退します。
さらに、危機感を覚えた中大兄皇子は、都を近江(おうみ)にうつすとともに、唐・新羅からの攻撃に備え、西日本各地に山城(やまじろ)を築いていきます。
一方、百済が滅んだことで、多くの人が倭国に渡来してきました。
彼らは、木の板に文字を書いて記録を残す木簡(もっかん)を用いた行政運営など、百済のすすんだ文化を伝えました。
7世紀後半の木簡があります。このころには「天皇」という称号が使われていたことを示しています。
白村江の戦いから5年後の668年、中大兄皇子は「天智(てんじ)天皇」として即位。
その2年後、670年には初めて全国的な「戸籍(こせき)」、「庚午年籍(こうごねんじゃく)」をつくり、国力の強化につとめました。
天智天皇がなくなると、皇位をめぐる争いから「壬申(じんしん)の乱」が起き、673年、天智天皇の弟「天武(てんむ)天皇」が即位、あとをついだその皇后「持統(じとう)天皇」は、「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」を施行するなど、国政改革を進めます。
| 百済は誰に滅ぼされたのですか。 | 唐と新羅の連合軍が、百済を滅ぼしました。 |
JCRRAG_008440 | 歴史 | 660年、朝鮮半島の百済は唐と新羅の連合軍によって、滅ぼされます。
その滅亡した百済と同盟関係にあったことなどもあり、中大兄皇子は百済を復興させ朝鮮半島における倭国の優位性を復活させようと、朝鮮半島に大軍を送りました。
しかし、663年、「白村江(はくすきのえ)の戦い」で唐・新羅の連合軍に敗れてしまい、朝鮮半島から撤退します。
さらに、危機感を覚えた中大兄皇子は、都を近江(おうみ)にうつすとともに、唐・新羅からの攻撃に備え、西日本各地に山城(やまじろ)を築いていきます。
一方、百済が滅んだことで、多くの人が倭国に渡来してきました。
彼らは、木の板に文字を書いて記録を残す木簡(もっかん)を用いた行政運営など、百済のすすんだ文化を伝えました。
7世紀後半の木簡があります。このころには「天皇」という称号が使われていたことを示しています。
白村江の戦いから5年後の668年、中大兄皇子は「天智(てんじ)天皇」として即位。
その2年後、670年には初めて全国的な「戸籍(こせき)」、「庚午年籍(こうごねんじゃく)」をつくり、国力の強化につとめました。
天智天皇がなくなると、皇位をめぐる争いから「壬申(じんしん)の乱」が起き、673年、天智天皇の弟「天武(てんむ)天皇」が即位、あとをついだその皇后「持統(じとう)天皇」は、「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」を施行するなど、国政改革を進めます。
| 百済を復興させるべく、朝鮮半島に大軍を送ったのは誰ですか。 | 百済のために大軍を送ったのは、中大兄皇子です。 |
JCRRAG_008441 | 歴史 | 660年、朝鮮半島の百済は唐と新羅の連合軍によって、滅ぼされます。
その滅亡した百済と同盟関係にあったことなどもあり、中大兄皇子は百済を復興させ朝鮮半島における倭国の優位性を復活させようと、朝鮮半島に大軍を送りました。
しかし、663年、「白村江(はくすきのえ)の戦い」で唐・新羅の連合軍に敗れてしまい、朝鮮半島から撤退します。
さらに、危機感を覚えた中大兄皇子は、都を近江(おうみ)にうつすとともに、唐・新羅からの攻撃に備え、西日本各地に山城(やまじろ)を築いていきます。
一方、百済が滅んだことで、多くの人が倭国に渡来してきました。
彼らは、木の板に文字を書いて記録を残す木簡(もっかん)を用いた行政運営など、百済のすすんだ文化を伝えました。
7世紀後半の木簡があります。このころには「天皇」という称号が使われていたことを示しています。
白村江の戦いから5年後の668年、中大兄皇子は「天智(てんじ)天皇」として即位。
その2年後、670年には初めて全国的な「戸籍(こせき)」、「庚午年籍(こうごねんじゃく)」をつくり、国力の強化につとめました。
天智天皇がなくなると、皇位をめぐる争いから「壬申(じんしん)の乱」が起き、673年、天智天皇の弟「天武(てんむ)天皇」が即位、あとをついだその皇后「持統(じとう)天皇」は、「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」を施行するなど、国政改革を進めます。
| 「白村江の戦い」で勝利したのは誰ですか。 | 「白村江の戦い」では、唐・新羅の連合軍が勝利しました。 |
JCRRAG_008442 | 歴史 | 660年、朝鮮半島の百済は唐と新羅の連合軍によって、滅ぼされます。
その滅亡した百済と同盟関係にあったことなどもあり、中大兄皇子は百済を復興させ朝鮮半島における倭国の優位性を復活させようと、朝鮮半島に大軍を送りました。
しかし、663年、「白村江(はくすきのえ)の戦い」で唐・新羅の連合軍に敗れてしまい、朝鮮半島から撤退します。
さらに、危機感を覚えた中大兄皇子は、都を近江(おうみ)にうつすとともに、唐・新羅からの攻撃に備え、西日本各地に山城(やまじろ)を築いていきます。
一方、百済が滅んだことで、多くの人が倭国に渡来してきました。
彼らは、木の板に文字を書いて記録を残す木簡(もっかん)を用いた行政運営など、百済のすすんだ文化を伝えました。
7世紀後半の木簡があります。このころには「天皇」という称号が使われていたことを示しています。
白村江の戦いから5年後の668年、中大兄皇子は「天智(てんじ)天皇」として即位。
その2年後、670年には初めて全国的な「戸籍(こせき)」、「庚午年籍(こうごねんじゃく)」をつくり、国力の強化につとめました。
天智天皇がなくなると、皇位をめぐる争いから「壬申(じんしん)の乱」が起き、673年、天智天皇の弟「天武(てんむ)天皇」が即位、あとをついだその皇后「持統(じとう)天皇」は、「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」を施行するなど、国政改革を進めます。
| 668年に即位した天皇は | 668年、中大兄皇子が「天智天皇」として即位しました。 |
JCRRAG_008443 | 歴史 | 660年、朝鮮半島の百済は唐と新羅の連合軍によって、滅ぼされます。
その滅亡した百済と同盟関係にあったことなどもあり、中大兄皇子は百済を復興させ朝鮮半島における倭国の優位性を復活させようと、朝鮮半島に大軍を送りました。
しかし、663年、「白村江(はくすきのえ)の戦い」で唐・新羅の連合軍に敗れてしまい、朝鮮半島から撤退します。
さらに、危機感を覚えた中大兄皇子は、都を近江(おうみ)にうつすとともに、唐・新羅からの攻撃に備え、西日本各地に山城(やまじろ)を築いていきます。
一方、百済が滅んだことで、多くの人が倭国に渡来してきました。
彼らは、木の板に文字を書いて記録を残す木簡(もっかん)を用いた行政運営など、百済のすすんだ文化を伝えました。
7世紀後半の木簡があります。このころには「天皇」という称号が使われていたことを示しています。
白村江の戦いから5年後の668年、中大兄皇子は「天智(てんじ)天皇」として即位。
その2年後、670年には初めて全国的な「戸籍(こせき)」、「庚午年籍(こうごねんじゃく)」をつくり、国力の強化につとめました。
天智天皇がなくなると、皇位をめぐる争いから「壬申(じんしん)の乱」が起き、673年、天智天皇の弟「天武(てんむ)天皇」が即位、あとをついだその皇后「持統(じとう)天皇」は、「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」を施行するなど、国政改革を進めます。
| 670年に、国力強化のために行われたこととは | 670年には国力強化のため、初めて全国的な規模で「戸籍」および「庚午年籍」が作られました。 |
JCRRAG_008444 | 歴史 | そして694年、持統天皇は「藤原京(ふじわらきょう)」に都をうつします。
藤原京は、天皇の住まいや役所のある宮城(きゅうじょう)を中心におき、周囲に碁盤の目のように区画された都市が広がる初めての本格的な都でした。
701年、「大宝律令(たいほうりつりょう)」が完成。
中央集権が強化され、天皇が君主となって、中央・地方の豪族・人民を掌握、全国を統治・支配するしくみができあがります。
大宝2年の戸籍があります。
6年ごとに戸籍をつくり、6歳以上のすべての人に一定の土地「口分田(くぶんでん)」を与えました。
大分県の沖代(おきだい)平野には、公平に土地を与えるために区画整理された跡が今も残っています。
土地を1辺およそ109mの正方形にくぎり、口分田として終身使用させ、収穫した稲を税として徴収(ちょうしゅう)しました。
農民の生活を保障して徴税(ちょうぜい)する、これを「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」といいます。
これまで、農民など人民は豪族の私有民という立場でしたが、律令国家では、戸籍に登録され公民(こうみん)となりました。
また、豪族の私有地だった農地は口分田として公民が終身使用できる公地となりました。
そして、この公地公民を天皇が支配する、という制度が確立したのです。
こうして土地と人民を天皇が支配する中央集権国家となっていったのです。 | 持統天皇はどこに都を移しましたか。 | 持統天皇は、「藤原京」に都を移しました。 |
JCRRAG_008445 | 歴史 | そして694年、持統天皇は「藤原京(ふじわらきょう)」に都をうつします。
藤原京は、天皇の住まいや役所のある宮城(きゅうじょう)を中心におき、周囲に碁盤の目のように区画された都市が広がる初めての本格的な都でした。
701年、「大宝律令(たいほうりつりょう)」が完成。
中央集権が強化され、天皇が君主となって、中央・地方の豪族・人民を掌握、全国を統治・支配するしくみができあがります。
大宝2年の戸籍があります。
6年ごとに戸籍をつくり、6歳以上のすべての人に一定の土地「口分田(くぶんでん)」を与えました。
大分県の沖代(おきだい)平野には、公平に土地を与えるために区画整理された跡が今も残っています。
土地を1辺およそ109mの正方形にくぎり、口分田として終身使用させ、収穫した稲を税として徴収(ちょうしゅう)しました。
農民の生活を保障して徴税(ちょうぜい)する、これを「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」といいます。
これまで、農民など人民は豪族の私有民という立場でしたが、律令国家では、戸籍に登録され公民(こうみん)となりました。
また、豪族の私有地だった農地は口分田として公民が終身使用できる公地となりました。
そして、この公地公民を天皇が支配する、という制度が確立したのです。
こうして土地と人民を天皇が支配する中央集権国家となっていったのです。 | 中央集権強化のため、701年に完成されたものは | 701年に完成したのは、大宝律令です。 |
JCRRAG_008446 | 歴史 | そして694年、持統天皇は「藤原京(ふじわらきょう)」に都をうつします。
藤原京は、天皇の住まいや役所のある宮城(きゅうじょう)を中心におき、周囲に碁盤の目のように区画された都市が広がる初めての本格的な都でした。
701年、「大宝律令(たいほうりつりょう)」が完成。
中央集権が強化され、天皇が君主となって、中央・地方の豪族・人民を掌握、全国を統治・支配するしくみができあがります。
大宝2年の戸籍があります。
6年ごとに戸籍をつくり、6歳以上のすべての人に一定の土地「口分田(くぶんでん)」を与えました。
大分県の沖代(おきだい)平野には、公平に土地を与えるために区画整理された跡が今も残っています。
土地を1辺およそ109mの正方形にくぎり、口分田として終身使用させ、収穫した稲を税として徴収(ちょうしゅう)しました。
農民の生活を保障して徴税(ちょうぜい)する、これを「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」といいます。
これまで、農民など人民は豪族の私有民という立場でしたが、律令国家では、戸籍に登録され公民(こうみん)となりました。
また、豪族の私有地だった農地は口分田として公民が終身使用できる公地となりました。
そして、この公地公民を天皇が支配する、という制度が確立したのです。
こうして土地と人民を天皇が支配する中央集権国家となっていったのです。 | 口分田とは何ですか。 | 口分田とは、6年ごとに戸籍をつくり、6歳以上のすべての人に一定の土地を与えるという制度です。 |
JCRRAG_008447 | 歴史 | そして694年、持統天皇は「藤原京(ふじわらきょう)」に都をうつします。
藤原京は、天皇の住まいや役所のある宮城(きゅうじょう)を中心におき、周囲に碁盤の目のように区画された都市が広がる初めての本格的な都でした。
701年、「大宝律令(たいほうりつりょう)」が完成。
中央集権が強化され、天皇が君主となって、中央・地方の豪族・人民を掌握、全国を統治・支配するしくみができあがります。
大宝2年の戸籍があります。
6年ごとに戸籍をつくり、6歳以上のすべての人に一定の土地「口分田(くぶんでん)」を与えました。
大分県の沖代(おきだい)平野には、公平に土地を与えるために区画整理された跡が今も残っています。
土地を1辺およそ109mの正方形にくぎり、口分田として終身使用させ、収穫した稲を税として徴収(ちょうしゅう)しました。
農民の生活を保障して徴税(ちょうぜい)する、これを「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」といいます。
これまで、農民など人民は豪族の私有民という立場でしたが、律令国家では、戸籍に登録され公民(こうみん)となりました。
また、豪族の私有地だった農地は口分田として公民が終身使用できる公地となりました。
そして、この公地公民を天皇が支配する、という制度が確立したのです。
こうして土地と人民を天皇が支配する中央集権国家となっていったのです。 | 班田収授法とは何ですか。 | 班田収授法とは、口分田から収穫した稲の一部を税として徴収するというものです。班田収授法により、農民の生活を保障しつつ徴税も行えることになりました。 |
JCRRAG_008448 | 歴史 | そして694年、持統天皇は「藤原京(ふじわらきょう)」に都をうつします。
藤原京は、天皇の住まいや役所のある宮城(きゅうじょう)を中心におき、周囲に碁盤の目のように区画された都市が広がる初めての本格的な都でした。
701年、「大宝律令(たいほうりつりょう)」が完成。
中央集権が強化され、天皇が君主となって、中央・地方の豪族・人民を掌握、全国を統治・支配するしくみができあがります。
大宝2年の戸籍があります。
6年ごとに戸籍をつくり、6歳以上のすべての人に一定の土地「口分田(くぶんでん)」を与えました。
大分県の沖代(おきだい)平野には、公平に土地を与えるために区画整理された跡が今も残っています。
土地を1辺およそ109mの正方形にくぎり、口分田として終身使用させ、収穫した稲を税として徴収(ちょうしゅう)しました。
農民の生活を保障して徴税(ちょうぜい)する、これを「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」といいます。
これまで、農民など人民は豪族の私有民という立場でしたが、律令国家では、戸籍に登録され公民(こうみん)となりました。
また、豪族の私有地だった農地は口分田として公民が終身使用できる公地となりました。
そして、この公地公民を天皇が支配する、という制度が確立したのです。
こうして土地と人民を天皇が支配する中央集権国家となっていったのです。 | 律令国家のもとで、国民や土地の扱いはどのように変わりましたか。 | これまで、農民などの人民は豪族の私有民という立場でしたが、律令国家のもとでは戸籍に登録され、公民扱いに変わりました。
また、豪族の私有地だった農地は、口分田として公民が終身使用できる公地に変わりました。 |
JCRRAG_008449 | 歴史 | 杉田玄白の生涯
杉田玄白は享保十八年、若狭酒井侯に仕えた父甫仙の江戸の邸内で生まれました。父も同じく医者でオランダの外科を学んで、かなりに名の聞こえた人でありました。玄白というのは通称ですが、名は翼、字は士鳳、※(「懿のへん+鳥」、第3水準1-94-71)齋又は九幸翁と号しました。
若年のうちに既に幕府の医官西玄哲の門に入って外科を修め、また宮瀬龍門という人から経史を学び、すぐれた才能を示したのでした。その頃、京都で上に記しました山脇東洋や、そのほか吉益東洞などと云う医家が名だかくなって全国に聞こえるようになったのでしたが、同藩の小杉玄適が東洋のもとで学んでから、江戸に来て盛んに古医方ということを称えたので、それに刺戟せられて玄白も大いに医学を究めようとし、しかしそのためにはオランダの医学を知る必要があると感じて、そこで自分の親友前野良沢と共にオランダの医者バブルに就いて大いにその薀奥を[#「薀奥を」はママ]究めようとしたのでした。
そしてそれには訳官西幸作などにも近づいてオランダ語にも通じ、その上で十分にオランダ医学を修得して、その極めて精緻なのに感服したと云うことです。前野良沢と云うのは、やはり代々医者を業とした家がらの人で、中津侯に仕えていましたが、良沢は幼時に孤児となったので、山城淀藩の医者の宮田氏に養われて育ったのでした。
玄白はともかくこのようにして良沢と共にオランダの医学に精通するようになってから、ドイツのクルムスの解剖図譜のオランダ訳書を藩侯から賜わったので、それを詳しくしらべてゆくと、古くからの言い伝えとは大いに違っているので、これを実際についてよく調べてみたいと思っていたのでしたが、偶々明和八年三月になってこれを確かめる機会が与えられたのでした。
ちょうどその三月四日の未明に江戸千住の小塚原で一人の婦人の刑屍体の解剖が行われることになったので、玄白は前野良沢と共にそこに赴き、クルムスの解剖図譜と照らし合わせて見たところが、この図譜がいかにも正確に実際と一致しているのに、今さらに驚いたのでした。これはその後小塚原の腑分けと言い伝えられた名だかい事実になっているのです。
ところで玄白と良沢とは、ここで西洋医学の正しいのに感服して、この書物を大いに世に広めることが大切であると考え、その翌日から良沢の邸に同志を会合し、良沢を盟主となし玄白のほかになお中川淳庵、桂川甫周、石川玄常、およびその他の人々が相寄ってこの書の翻訳に従事することとなり、その後四箇年を費し稿を改めること十一回に及んで、遂に安永三年八月に至ってその仕事を一先ず完成しました。これが名だかい「解体新書」という書物で、四巻から成っているので、我が国のその頃の医学に貢献したことは、実に多大であったのでした。
玄白はその後も多くの書物を著しましたが、そのなかには、「瘍家大成」、「蘭学事始」、「形影夜話」、「狂医之弁」、「医叟独語」、「外科備考」、「天津楼漫筆」、「養生七不可」などがあります。そして文化十四年四月十七日に八十五歳の高齢で病歿しました。玄白の功績を追賞せられて、明治四十年に正四位を追贈せられたことは、彼の一代の光栄と云うべきでありましょう。玄白は晩年に一子を挙げ、立卿と名づけましたが、この立卿も、またその子の成卿も、同じく医家として世に聞こえていた人々であります。かくて杉田一家の我が国の医学に貢献した事蹟は決して尠くはなかったと言わなければなりますまい。 | 杉田玄白は何年に生まれましたか。 | 杉田玄白は享保十八年に生まれました。 |
JCRRAG_008450 | 歴史 | 杉田玄白の生涯
杉田玄白は享保十八年、若狭酒井侯に仕えた父甫仙の江戸の邸内で生まれました。父も同じく医者でオランダの外科を学んで、かなりに名の聞こえた人でありました。玄白というのは通称ですが、名は翼、字は士鳳、※(「懿のへん+鳥」、第3水準1-94-71)齋又は九幸翁と号しました。
若年のうちに既に幕府の医官西玄哲の門に入って外科を修め、また宮瀬龍門という人から経史を学び、すぐれた才能を示したのでした。その頃、京都で上に記しました山脇東洋や、そのほか吉益東洞などと云う医家が名だかくなって全国に聞こえるようになったのでしたが、同藩の小杉玄適が東洋のもとで学んでから、江戸に来て盛んに古医方ということを称えたので、それに刺戟せられて玄白も大いに医学を究めようとし、しかしそのためにはオランダの医学を知る必要があると感じて、そこで自分の親友前野良沢と共にオランダの医者バブルに就いて大いにその薀奥を[#「薀奥を」はママ]究めようとしたのでした。
そしてそれには訳官西幸作などにも近づいてオランダ語にも通じ、その上で十分にオランダ医学を修得して、その極めて精緻なのに感服したと云うことです。前野良沢と云うのは、やはり代々医者を業とした家がらの人で、中津侯に仕えていましたが、良沢は幼時に孤児となったので、山城淀藩の医者の宮田氏に養われて育ったのでした。
玄白はともかくこのようにして良沢と共にオランダの医学に精通するようになってから、ドイツのクルムスの解剖図譜のオランダ訳書を藩侯から賜わったので、それを詳しくしらべてゆくと、古くからの言い伝えとは大いに違っているので、これを実際についてよく調べてみたいと思っていたのでしたが、偶々明和八年三月になってこれを確かめる機会が与えられたのでした。
ちょうどその三月四日の未明に江戸千住の小塚原で一人の婦人の刑屍体の解剖が行われることになったので、玄白は前野良沢と共にそこに赴き、クルムスの解剖図譜と照らし合わせて見たところが、この図譜がいかにも正確に実際と一致しているのに、今さらに驚いたのでした。これはその後小塚原の腑分けと言い伝えられた名だかい事実になっているのです。
ところで玄白と良沢とは、ここで西洋医学の正しいのに感服して、この書物を大いに世に広めることが大切であると考え、その翌日から良沢の邸に同志を会合し、良沢を盟主となし玄白のほかになお中川淳庵、桂川甫周、石川玄常、およびその他の人々が相寄ってこの書の翻訳に従事することとなり、その後四箇年を費し稿を改めること十一回に及んで、遂に安永三年八月に至ってその仕事を一先ず完成しました。これが名だかい「解体新書」という書物で、四巻から成っているので、我が国のその頃の医学に貢献したことは、実に多大であったのでした。
玄白はその後も多くの書物を著しましたが、そのなかには、「瘍家大成」、「蘭学事始」、「形影夜話」、「狂医之弁」、「医叟独語」、「外科備考」、「天津楼漫筆」、「養生七不可」などがあります。そして文化十四年四月十七日に八十五歳の高齢で病歿しました。玄白の功績を追賞せられて、明治四十年に正四位を追贈せられたことは、彼の一代の光栄と云うべきでありましょう。玄白は晩年に一子を挙げ、立卿と名づけましたが、この立卿も、またその子の成卿も、同じく医家として世に聞こえていた人々であります。かくて杉田一家の我が国の医学に貢献した事蹟は決して尠くはなかったと言わなければなりますまい。 | 「解体新書」を翻訳したのは誰でしたか。 | 「解体新書」を翻訳したのは前野良沢、杉田玄白のほかには中川淳庵、桂川甫周、石川玄常、およびその他の人々でした。 |
JCRRAG_008451 | 歴史 | 杉田玄白の生涯
杉田玄白は享保十八年、若狭酒井侯に仕えた父甫仙の江戸の邸内で生まれました。父も同じく医者でオランダの外科を学んで、かなりに名の聞こえた人でありました。玄白というのは通称ですが、名は翼、字は士鳳、※(「懿のへん+鳥」、第3水準1-94-71)齋又は九幸翁と号しました。
若年のうちに既に幕府の医官西玄哲の門に入って外科を修め、また宮瀬龍門という人から経史を学び、すぐれた才能を示したのでした。その頃、京都で上に記しました山脇東洋や、そのほか吉益東洞などと云う医家が名だかくなって全国に聞こえるようになったのでしたが、同藩の小杉玄適が東洋のもとで学んでから、江戸に来て盛んに古医方ということを称えたので、それに刺戟せられて玄白も大いに医学を究めようとし、しかしそのためにはオランダの医学を知る必要があると感じて、そこで自分の親友前野良沢と共にオランダの医者バブルに就いて大いにその薀奥を[#「薀奥を」はママ]究めようとしたのでした。
そしてそれには訳官西幸作などにも近づいてオランダ語にも通じ、その上で十分にオランダ医学を修得して、その極めて精緻なのに感服したと云うことです。前野良沢と云うのは、やはり代々医者を業とした家がらの人で、中津侯に仕えていましたが、良沢は幼時に孤児となったので、山城淀藩の医者の宮田氏に養われて育ったのでした。
玄白はともかくこのようにして良沢と共にオランダの医学に精通するようになってから、ドイツのクルムスの解剖図譜のオランダ訳書を藩侯から賜わったので、それを詳しくしらべてゆくと、古くからの言い伝えとは大いに違っているので、これを実際についてよく調べてみたいと思っていたのでしたが、偶々明和八年三月になってこれを確かめる機会が与えられたのでした。
ちょうどその三月四日の未明に江戸千住の小塚原で一人の婦人の刑屍体の解剖が行われることになったので、玄白は前野良沢と共にそこに赴き、クルムスの解剖図譜と照らし合わせて見たところが、この図譜がいかにも正確に実際と一致しているのに、今さらに驚いたのでした。これはその後小塚原の腑分けと言い伝えられた名だかい事実になっているのです。
ところで玄白と良沢とは、ここで西洋医学の正しいのに感服して、この書物を大いに世に広めることが大切であると考え、その翌日から良沢の邸に同志を会合し、良沢を盟主となし玄白のほかになお中川淳庵、桂川甫周、石川玄常、およびその他の人々が相寄ってこの書の翻訳に従事することとなり、その後四箇年を費し稿を改めること十一回に及んで、遂に安永三年八月に至ってその仕事を一先ず完成しました。これが名だかい「解体新書」という書物で、四巻から成っているので、我が国のその頃の医学に貢献したことは、実に多大であったのでした。
玄白はその後も多くの書物を著しましたが、そのなかには、「瘍家大成」、「蘭学事始」、「形影夜話」、「狂医之弁」、「医叟独語」、「外科備考」、「天津楼漫筆」、「養生七不可」などがあります。そして文化十四年四月十七日に八十五歳の高齢で病歿しました。玄白の功績を追賞せられて、明治四十年に正四位を追贈せられたことは、彼の一代の光栄と云うべきでありましょう。玄白は晩年に一子を挙げ、立卿と名づけましたが、この立卿も、またその子の成卿も、同じく医家として世に聞こえていた人々であります。かくて杉田一家の我が国の医学に貢献した事蹟は決して尠くはなかったと言わなければなりますまい。 | 前野良沢が山城淀藩の医者の宮田氏に養われて育ったのはなぜでしたか。 | 前野良沢が山城淀藩の医者の宮田氏に養われて育ったのは良沢が幼いころに孤児となったからです。 |
JCRRAG_008452 | 歴史 | 杉田玄白の生涯
杉田玄白は享保十八年、若狭酒井侯に仕えた父甫仙の江戸の邸内で生まれました。父も同じく医者でオランダの外科を学んで、かなりに名の聞こえた人でありました。玄白というのは通称ですが、名は翼、字は士鳳、※(「懿のへん+鳥」、第3水準1-94-71)齋又は九幸翁と号しました。
若年のうちに既に幕府の医官西玄哲の門に入って外科を修め、また宮瀬龍門という人から経史を学び、すぐれた才能を示したのでした。その頃、京都で上に記しました山脇東洋や、そのほか吉益東洞などと云う医家が名だかくなって全国に聞こえるようになったのでしたが、同藩の小杉玄適が東洋のもとで学んでから、江戸に来て盛んに古医方ということを称えたので、それに刺戟せられて玄白も大いに医学を究めようとし、しかしそのためにはオランダの医学を知る必要があると感じて、そこで自分の親友前野良沢と共にオランダの医者バブルに就いて大いにその薀奥を[#「薀奥を」はママ]究めようとしたのでした。
そしてそれには訳官西幸作などにも近づいてオランダ語にも通じ、その上で十分にオランダ医学を修得して、その極めて精緻なのに感服したと云うことです。前野良沢と云うのは、やはり代々医者を業とした家がらの人で、中津侯に仕えていましたが、良沢は幼時に孤児となったので、山城淀藩の医者の宮田氏に養われて育ったのでした。
玄白はともかくこのようにして良沢と共にオランダの医学に精通するようになってから、ドイツのクルムスの解剖図譜のオランダ訳書を藩侯から賜わったので、それを詳しくしらべてゆくと、古くからの言い伝えとは大いに違っているので、これを実際についてよく調べてみたいと思っていたのでしたが、偶々明和八年三月になってこれを確かめる機会が与えられたのでした。
ちょうどその三月四日の未明に江戸千住の小塚原で一人の婦人の刑屍体の解剖が行われることになったので、玄白は前野良沢と共にそこに赴き、クルムスの解剖図譜と照らし合わせて見たところが、この図譜がいかにも正確に実際と一致しているのに、今さらに驚いたのでした。これはその後小塚原の腑分けと言い伝えられた名だかい事実になっているのです。
ところで玄白と良沢とは、ここで西洋医学の正しいのに感服して、この書物を大いに世に広めることが大切であると考え、その翌日から良沢の邸に同志を会合し、良沢を盟主となし玄白のほかになお中川淳庵、桂川甫周、石川玄常、およびその他の人々が相寄ってこの書の翻訳に従事することとなり、その後四箇年を費し稿を改めること十一回に及んで、遂に安永三年八月に至ってその仕事を一先ず完成しました。これが名だかい「解体新書」という書物で、四巻から成っているので、我が国のその頃の医学に貢献したことは、実に多大であったのでした。
玄白はその後も多くの書物を著しましたが、そのなかには、「瘍家大成」、「蘭学事始」、「形影夜話」、「狂医之弁」、「医叟独語」、「外科備考」、「天津楼漫筆」、「養生七不可」などがあります。そして文化十四年四月十七日に八十五歳の高齢で病歿しました。玄白の功績を追賞せられて、明治四十年に正四位を追贈せられたことは、彼の一代の光栄と云うべきでありましょう。玄白は晩年に一子を挙げ、立卿と名づけましたが、この立卿も、またその子の成卿も、同じく医家として世に聞こえていた人々であります。かくて杉田一家の我が国の医学に貢献した事蹟は決して尠くはなかったと言わなければなりますまい。 | 杉田玄白が解体新書を翻訳した後に執筆した本のタイトルは何でしたか。 | 杉田玄白が解体新書を翻訳した後に執筆した本のタイトルは、「瘍家大成」、「蘭学事始」、「形影夜話」、「狂医之弁」、「医叟独語」、「外科備考」、「天津楼漫筆」、「養生七不可」などがありました。 |
JCRRAG_008453 | 歴史 | 古代から人々にとって植物の香り(アロマ)や精油は身近な存在でした。
紀元前3000年頃の古代エジプト文明では、薫香(お香)や浸剤(ハーブティーやハーブオイル)として使われたり、ミイラづくりには乳香(フランキンセンス)や没薬(ミルラ)などの精油が使用されたりしていました。
アロマテラピーという言葉は、1930年頃にフランスの調香師・香料研究者のルネ=モーリス・ガットフォセがアロマ(芳香)とテラピー(療法)を組み合わせて作った造語で、日本には江戸時代に西洋医学が伝わった際に精油を用いた医療が伝わり、精油が薬として利用されました。
アロマテラピーは100%植物から抽出された「精油」を利用するのが特徴でリラックス効果、体調不良の改善、心身の強壮など、精油の種類によって様々な効果が得られると言われています。
アロマテラピーという言葉が誕生する前からヒトは芳香植物を生活の中で活用してきました。精油の中には高い殺菌効果を持つものもあります。
エピソード
17世紀にペストが大流行した南フランスでペスト患者の死体から金品を盗んでいた4人組の泥棒がつかまりました。
泥棒に死刑を免除するのと引き換えにペストにかからなかった秘密を明かさせたところ、ローズマリー、タイム、セージ、ラベンダー、ミントなどのハーブを酢に漬け込んで作った殺菌効果の高いハーブビネガーを全身に塗っていたからとのことでした。
また、香料を扱う商人たちは伝染病にかからなかったということもよく知られています。
このエピソードのように、フランスではアロマテラピーを治療・医療目的として活用するよう研究がすすんでいます。アロマの効果や医学的根拠はまだ不確かな部分もありますが、その可能性は無限大であり、今後ますます発展が望める分野であります。 | 古代エジプトのミイラ作りに使われた精油は何ですか。 | 古代エジプトのミイラ作りに使われた精油は、乳香(フランキンセンス)や没薬(ミルラ)です。 |
JCRRAG_008454 | 歴史 | 古代から人々にとって植物の香り(アロマ)や精油は身近な存在でした。
紀元前3000年頃の古代エジプト文明では、薫香(お香)や浸剤(ハーブティーやハーブオイル)として使われたり、ミイラづくりには乳香(フランキンセンス)や没薬(ミルラ)などの精油が使用されたりしていました。
アロマテラピーという言葉は、1930年頃にフランスの調香師・香料研究者のルネ=モーリス・ガットフォセがアロマ(芳香)とテラピー(療法)を組み合わせて作った造語で、日本には江戸時代に西洋医学が伝わった際に精油を用いた医療が伝わり、精油が薬として利用されました。
アロマテラピーは100%植物から抽出された「精油」を利用するのが特徴でリラックス効果、体調不良の改善、心身の強壮など、精油の種類によって様々な効果が得られると言われています。
アロマテラピーという言葉が誕生する前からヒトは芳香植物を生活の中で活用してきました。精油の中には高い殺菌効果を持つものもあります。
エピソード
17世紀にペストが大流行した南フランスでペスト患者の死体から金品を盗んでいた4人組の泥棒がつかまりました。
泥棒に死刑を免除するのと引き換えにペストにかからなかった秘密を明かさせたところ、ローズマリー、タイム、セージ、ラベンダー、ミントなどのハーブを酢に漬け込んで作った殺菌効果の高いハーブビネガーを全身に塗っていたからとのことでした。
また、香料を扱う商人たちは伝染病にかからなかったということもよく知られています。
このエピソードのように、フランスではアロマテラピーを治療・医療目的として活用するよう研究がすすんでいます。アロマの効果や医学的根拠はまだ不確かな部分もありますが、その可能性は無限大であり、今後ますます発展が望める分野であります。 | アロマテラピーという言葉は、何年頃に誰が作った造語ですか。 | アロマテラピーという言葉は、1930年頃にフランスの調香師・香料研究者のルネ=モーリス・ガットフォセが作った造語です。 |
JCRRAG_008455 | 歴史 | 古代から人々にとって植物の香り(アロマ)や精油は身近な存在でした。
紀元前3000年頃の古代エジプト文明では、薫香(お香)や浸剤(ハーブティーやハーブオイル)として使われたり、ミイラづくりには乳香(フランキンセンス)や没薬(ミルラ)などの精油が使用されたりしていました。
アロマテラピーという言葉は、1930年頃にフランスの調香師・香料研究者のルネ=モーリス・ガットフォセがアロマ(芳香)とテラピー(療法)を組み合わせて作った造語で、日本には江戸時代に西洋医学が伝わった際に精油を用いた医療が伝わり、精油が薬として利用されました。
アロマテラピーは100%植物から抽出された「精油」を利用するのが特徴でリラックス効果、体調不良の改善、心身の強壮など、精油の種類によって様々な効果が得られると言われています。
アロマテラピーという言葉が誕生する前からヒトは芳香植物を生活の中で活用してきました。精油の中には高い殺菌効果を持つものもあります。
エピソード
17世紀にペストが大流行した南フランスでペスト患者の死体から金品を盗んでいた4人組の泥棒がつかまりました。
泥棒に死刑を免除するのと引き換えにペストにかからなかった秘密を明かさせたところ、ローズマリー、タイム、セージ、ラベンダー、ミントなどのハーブを酢に漬け込んで作った殺菌効果の高いハーブビネガーを全身に塗っていたからとのことでした。
また、香料を扱う商人たちは伝染病にかからなかったということもよく知られています。
このエピソードのように、フランスではアロマテラピーを治療・医療目的として活用するよう研究がすすんでいます。アロマの効果や医学的根拠はまだ不確かな部分もありますが、その可能性は無限大であり、今後ますます発展が望める分野であります。 | アロマテラピーという言葉は、何と何をを組み合わせて作った造語ですか。 | アロマテラピーという言葉は、アロマ(芳香)とテラピー(療法)をを組み合わせて作った造語です。 |
JCRRAG_008456 | 歴史 | 古代から人々にとって植物の香り(アロマ)や精油は身近な存在でした。
紀元前3000年頃の古代エジプト文明では、薫香(お香)や浸剤(ハーブティーやハーブオイル)として使われたり、ミイラづくりには乳香(フランキンセンス)や没薬(ミルラ)などの精油が使用されたりしていました。
アロマテラピーという言葉は、1930年頃にフランスの調香師・香料研究者のルネ=モーリス・ガットフォセがアロマ(芳香)とテラピー(療法)を組み合わせて作った造語で、日本には江戸時代に西洋医学が伝わった際に精油を用いた医療が伝わり、精油が薬として利用されました。
アロマテラピーは100%植物から抽出された「精油」を利用するのが特徴でリラックス効果、体調不良の改善、心身の強壮など、精油の種類によって様々な効果が得られると言われています。
アロマテラピーという言葉が誕生する前からヒトは芳香植物を生活の中で活用してきました。精油の中には高い殺菌効果を持つものもあります。
エピソード
17世紀にペストが大流行した南フランスでペスト患者の死体から金品を盗んでいた4人組の泥棒がつかまりました。
泥棒に死刑を免除するのと引き換えにペストにかからなかった秘密を明かさせたところ、ローズマリー、タイム、セージ、ラベンダー、ミントなどのハーブを酢に漬け込んで作った殺菌効果の高いハーブビネガーを全身に塗っていたからとのことでした。
また、香料を扱う商人たちは伝染病にかからなかったということもよく知られています。
このエピソードのように、フランスではアロマテラピーを治療・医療目的として活用するよう研究がすすんでいます。アロマの効果や医学的根拠はまだ不確かな部分もありますが、その可能性は無限大であり、今後ますます発展が望める分野であります。 | 江戸時代に西洋医学が伝わった際に精油を用いた医療が伝わり、何として利用されましたか。 | 江戸時代に西洋医学が伝わった際に精油は、薬として利用されました。 |
JCRRAG_008457 | 歴史 | 古代から人々にとって植物の香り(アロマ)や精油は身近な存在でした。
紀元前3000年頃の古代エジプト文明では、薫香(お香)や浸剤(ハーブティーやハーブオイル)として使われたり、ミイラづくりには乳香(フランキンセンス)や没薬(ミルラ)などの精油が使用されたりしていました。
アロマテラピーという言葉は、1930年頃にフランスの調香師・香料研究者のルネ=モーリス・ガットフォセがアロマ(芳香)とテラピー(療法)を組み合わせて作った造語で、日本には江戸時代に西洋医学が伝わった際に精油を用いた医療が伝わり、精油が薬として利用されました。
アロマテラピーは100%植物から抽出された「精油」を利用するのが特徴でリラックス効果、体調不良の改善、心身の強壮など、精油の種類によって様々な効果が得られると言われています。
アロマテラピーという言葉が誕生する前からヒトは芳香植物を生活の中で活用してきました。精油の中には高い殺菌効果を持つものもあります。
エピソード
17世紀にペストが大流行した南フランスでペスト患者の死体から金品を盗んでいた4人組の泥棒がつかまりました。
泥棒に死刑を免除するのと引き換えにペストにかからなかった秘密を明かさせたところ、ローズマリー、タイム、セージ、ラベンダー、ミントなどのハーブを酢に漬け込んで作った殺菌効果の高いハーブビネガーを全身に塗っていたからとのことでした。
また、香料を扱う商人たちは伝染病にかからなかったということもよく知られています。
このエピソードのように、フランスではアロマテラピーを治療・医療目的として活用するよう研究がすすんでいます。アロマの効果や医学的根拠はまだ不確かな部分もありますが、その可能性は無限大であり、今後ますます発展が望める分野であります。 | 泥棒が死刑を免除するのと引き換えに明かしたペストにかからなかった秘密は何ですか。 | 泥棒が死刑を免除するのと引き換えに明かしたペストにかからなかった秘密は、ローズマリー、タイム、セージ、ラベンダー、ミントなどのハーブを酢に漬け込んで作った殺菌効果の高いハーブビネガーを全身に塗っていたこと。 |
JCRRAG_008458 | 歴史 | ミイラとは、生前に近い形で残された遺体のことです。人は亡くなると、自然に還るべく腐敗していきます。
ミイラとは、この腐敗の作用が止まった遺体のことです。遺体がミイラになる理由は乾燥や冷凍などさまざまです。自然環境によって遺体がミイラ化してしまうケースもあれば、人為的に遺体をミイラ化させた事例もあります。
日本のミイラの語源は、ポルトガル語の「mirra(ミルラ)」にあると言われます。「ミルラ」とは、ミイラを作るときに使われた没薬(もつやく)のことです。
ミイラは漢字では「木乃伊」と表記し「モミー」と呼んでいたそうです。これは、中国の陶宗儀(とうそうぎ)が書いた14世紀の書物、輟耕録(てっこうろく)に登場します。輟耕録は江戸時代に日本へ伝わり、「木乃伊」の最も古い記述のある書物となりました。
ポルトガル語の「ミルラ」と、漢字表記の「木乃伊」が結びつき、日本では「ミイラ」と呼ぶようになったと考えられます。
ちなみに英語では「mummy(マミー)」と言います。
ミイラと言えばエジプトのツタンカーメン王を連想する人が多いでしょう。古代エジプトでも中期(紀元前1350年頃)の王様です。エジプトでは、紀元前3700~3500年頃から、亡くなった人を布に包み、砂に埋める風習があったとされています。また、ミイラを人工的に製造していたと考えられています。
世界各地でミイラの存在が確認されていますが、その理由は、地域によって違いがあります。
古代エジプトで人工的なミイラが作られるようになったのは、古王国時代(紀元前2500年ごろ)とするのが一般的です。来世で復活するには肉体が必要と考えられたため、亡くなった人を人工的にミイラにして肉体を残そうとしたのです。
ミイラ加工を施していた当初は、ファラオ(王様)や王族のみでした。しかし時を経て、ミイラ加工で肉体を残す習わしは、広く庶民にも浸透しました。
古代エジプトと同様に、南米・ペルーのミイラも有名です。例えばアンデス山脈東側にあるチャチャポヤス地方では、遺体を折り曲げて包んでミイラ化させ、崖の上に安置する風習がありました。また、ミイラとなった人を生前と同様に扱い、衣服を着せたり、ともに食事を摂ったりする地域もあったそうです。
アンデス高地も非常に乾燥した気候のため、遺体は腐敗が進みにくく、自然にミイラ化することが珍しくありません。ミイラとなった遺体は祖先崇拝の対象とされ、子孫を見守る存在と考えられました。
遺体を人工的にミイラ化させるには、特殊な加工が必要でした。
ミイラ化を希望したのは、一部の裕福な人たちです。遺族は亡くなった家族の体をミイラ職人の元へ運び、ミイラの作り方や料金について説明を受けます。その後、遺族が加工方法を決めました。
ミイラの加工処理方法は、上中下の3コースがあったと言われます。
上級:最も手が込んでおり、高価
遺体を洗浄後に内臓・脳を取り出して没薬などを詰め込む(心臓は除く)
乾燥・防腐作用のあるナトロンに約70日間浸す
水分が抜けたら洗浄する
化粧・整髪をして装飾品を付ける
樹脂や香料を塗りながら細長い麻布を巻き付ける
中級:内臓を摘出せずに油を流し込んでナトロンに約70日浸す
低級:下剤で腸内を洗浄してナトロンに約70日浸す
古代エジプトでは、亡くなった人が行く死後の楽園があると考えられていました。これがイアルの野です。
イアルの野では、生きていた頃とほぼ同じような環境が再現されており、亡くなった人たちはこの楽園で、神様に供物(くもつ)を捧げながら暮らします。
亡くなった人が楽園に行くには、長い旅に出ねばなりません。途中にはさまざまな困難があり、最後には冥界の神・オシリスの審判が待っています。亡くなった人は、ここで生前のおこないを告白し、心臓を天秤にかけられます。天秤が心臓の方に傾いたら、その人は嘘をついていたという証です。楽園への道は閉ざされます。遺族たちは故人が試練を乗り越えられるよう、棺に護符などを添えました。
死んだ人は肉体と魂に分かれ、魂は最後の審判を受けます。そしてそれが終わったら、魂は再び肉体に戻ってくるのです。しかしこのとき肉体が残っていなければ、再生はできません。
再生を強く願う古代エジプトの人々は、魂の入れ物である肉体をミイラにして保存しようとしました。
この死生観は、身近にある死への恐怖を和らげるための考え方であったとも言われています。
ミイラの棺は、死者を物理的な汚れや傷みから遠ざけるとともに、呪術的に保護する役割があります。棺には「死者の書」の呪文や神々の絵などが描かれていますが、これは死後の世界を信じた古代エジプトの人々が、死者の安らかな来世を祈って描いたものです。
中王国時代のミイラからは、金や銀を多量に使った美しい宝飾品が見られます。当時の女性の墓からは、ミイラとともに頭飾りや髪飾り、首飾り、襟飾り、腰飾り、腕輪や足輪などが見つかりました。
副葬品のなかでも、大量のビーズをつなげた「襟飾り」や四角形や祠堂(しどう)の形をした「ペクトラル(大型のペンダント)」などは、特に重要なものと考えられています。
幸運の象徴「スカラベ(コガネムシ)」のアクセサリーは現代人にも人気があります。
古代エジプトの墓からは、ネコやコブラ、犬、ハトなどのミイラも発見されています。神の化身とされている動物は、亡くなった人が来世で復活できるようにとの祈りを込めて、遺体とともに入れられていたとされています。その他にも、死後の食料として入れられたという説もあります。
日本でミイラが常設されているのは、東京国立博物館です。
「パシェリエンプタハのミイラ」と呼ばれる男性のミイラです。これは第22王朝時代のもの(前945-前730年頃)で、1904年にエジプト考古庁長官より寄贈されました。
日本には、全身ミイラは2体しかありません。パシェリエンプタハのミイラは、そのうちの1体です。
パシェリエンプタハのミイラで注目したいのが、棺です。表面全体に黒い塗料がかけられているため、棺に描かれている神々の像や呪文がはっきりしません。このような処理が施されているミイラは、世界的にも珍しいそうです。 | ミイラとは何の作用が止まった遺体のことですか。 | ミイラとは、腐敗の作用が止まった遺体のことです。 |
JCRRAG_008459 | 歴史 | ミイラとは、生前に近い形で残された遺体のことです。人は亡くなると、自然に還るべく腐敗していきます。
ミイラとは、この腐敗の作用が止まった遺体のことです。遺体がミイラになる理由は乾燥や冷凍などさまざまです。自然環境によって遺体がミイラ化してしまうケースもあれば、人為的に遺体をミイラ化させた事例もあります。
日本のミイラの語源は、ポルトガル語の「mirra(ミルラ)」にあると言われます。「ミルラ」とは、ミイラを作るときに使われた没薬(もつやく)のことです。
ミイラは漢字では「木乃伊」と表記し「モミー」と呼んでいたそうです。これは、中国の陶宗儀(とうそうぎ)が書いた14世紀の書物、輟耕録(てっこうろく)に登場します。輟耕録は江戸時代に日本へ伝わり、「木乃伊」の最も古い記述のある書物となりました。
ポルトガル語の「ミルラ」と、漢字表記の「木乃伊」が結びつき、日本では「ミイラ」と呼ぶようになったと考えられます。
ちなみに英語では「mummy(マミー)」と言います。
ミイラと言えばエジプトのツタンカーメン王を連想する人が多いでしょう。古代エジプトでも中期(紀元前1350年頃)の王様です。エジプトでは、紀元前3700~3500年頃から、亡くなった人を布に包み、砂に埋める風習があったとされています。また、ミイラを人工的に製造していたと考えられています。
世界各地でミイラの存在が確認されていますが、その理由は、地域によって違いがあります。
古代エジプトで人工的なミイラが作られるようになったのは、古王国時代(紀元前2500年ごろ)とするのが一般的です。来世で復活するには肉体が必要と考えられたため、亡くなった人を人工的にミイラにして肉体を残そうとしたのです。
ミイラ加工を施していた当初は、ファラオ(王様)や王族のみでした。しかし時を経て、ミイラ加工で肉体を残す習わしは、広く庶民にも浸透しました。
古代エジプトと同様に、南米・ペルーのミイラも有名です。例えばアンデス山脈東側にあるチャチャポヤス地方では、遺体を折り曲げて包んでミイラ化させ、崖の上に安置する風習がありました。また、ミイラとなった人を生前と同様に扱い、衣服を着せたり、ともに食事を摂ったりする地域もあったそうです。
アンデス高地も非常に乾燥した気候のため、遺体は腐敗が進みにくく、自然にミイラ化することが珍しくありません。ミイラとなった遺体は祖先崇拝の対象とされ、子孫を見守る存在と考えられました。
遺体を人工的にミイラ化させるには、特殊な加工が必要でした。
ミイラ化を希望したのは、一部の裕福な人たちです。遺族は亡くなった家族の体をミイラ職人の元へ運び、ミイラの作り方や料金について説明を受けます。その後、遺族が加工方法を決めました。
ミイラの加工処理方法は、上中下の3コースがあったと言われます。
上級:最も手が込んでおり、高価
遺体を洗浄後に内臓・脳を取り出して没薬などを詰め込む(心臓は除く)
乾燥・防腐作用のあるナトロンに約70日間浸す
水分が抜けたら洗浄する
化粧・整髪をして装飾品を付ける
樹脂や香料を塗りながら細長い麻布を巻き付ける
中級:内臓を摘出せずに油を流し込んでナトロンに約70日浸す
低級:下剤で腸内を洗浄してナトロンに約70日浸す
古代エジプトでは、亡くなった人が行く死後の楽園があると考えられていました。これがイアルの野です。
イアルの野では、生きていた頃とほぼ同じような環境が再現されており、亡くなった人たちはこの楽園で、神様に供物(くもつ)を捧げながら暮らします。
亡くなった人が楽園に行くには、長い旅に出ねばなりません。途中にはさまざまな困難があり、最後には冥界の神・オシリスの審判が待っています。亡くなった人は、ここで生前のおこないを告白し、心臓を天秤にかけられます。天秤が心臓の方に傾いたら、その人は嘘をついていたという証です。楽園への道は閉ざされます。遺族たちは故人が試練を乗り越えられるよう、棺に護符などを添えました。
死んだ人は肉体と魂に分かれ、魂は最後の審判を受けます。そしてそれが終わったら、魂は再び肉体に戻ってくるのです。しかしこのとき肉体が残っていなければ、再生はできません。
再生を強く願う古代エジプトの人々は、魂の入れ物である肉体をミイラにして保存しようとしました。
この死生観は、身近にある死への恐怖を和らげるための考え方であったとも言われています。
ミイラの棺は、死者を物理的な汚れや傷みから遠ざけるとともに、呪術的に保護する役割があります。棺には「死者の書」の呪文や神々の絵などが描かれていますが、これは死後の世界を信じた古代エジプトの人々が、死者の安らかな来世を祈って描いたものです。
中王国時代のミイラからは、金や銀を多量に使った美しい宝飾品が見られます。当時の女性の墓からは、ミイラとともに頭飾りや髪飾り、首飾り、襟飾り、腰飾り、腕輪や足輪などが見つかりました。
副葬品のなかでも、大量のビーズをつなげた「襟飾り」や四角形や祠堂(しどう)の形をした「ペクトラル(大型のペンダント)」などは、特に重要なものと考えられています。
幸運の象徴「スカラベ(コガネムシ)」のアクセサリーは現代人にも人気があります。
古代エジプトの墓からは、ネコやコブラ、犬、ハトなどのミイラも発見されています。神の化身とされている動物は、亡くなった人が来世で復活できるようにとの祈りを込めて、遺体とともに入れられていたとされています。その他にも、死後の食料として入れられたという説もあります。
日本でミイラが常設されているのは、東京国立博物館です。
「パシェリエンプタハのミイラ」と呼ばれる男性のミイラです。これは第22王朝時代のもの(前945-前730年頃)で、1904年にエジプト考古庁長官より寄贈されました。
日本には、全身ミイラは2体しかありません。パシェリエンプタハのミイラは、そのうちの1体です。
パシェリエンプタハのミイラで注目したいのが、棺です。表面全体に黒い塗料がかけられているため、棺に描かれている神々の像や呪文がはっきりしません。このような処理が施されているミイラは、世界的にも珍しいそうです。
| ミイラの加工処理方法は何コースあったと言われていますか。 | ミイラの加工処理方法は、上中下の3コースあったと言われています。 |
JCRRAG_008460 | 歴史 | 帝国政府は今回ローマの法王庁へ原田健氏を初代公使として派遣することになったが時局がら洵に機宜を得た外交手段だと思う。
この機会に歴代羅馬法王のうち特にすぐれた外交家について検討を加えてみよう。
一体に歴代の羅馬法王は傑物揃いであるが、わけてもヨハネ十二世などは法王の位置をドイツ皇帝の上に置いたことと神聖羅馬帝国というものを一種の外交手段によって作りあげた点とで記憶さるべき人物だと思う。
東フランク王国(即ちドイツ)の国王は、前王ヘンリ一世の子のオットーであったが、その即位の際法王ヨハネ十二世は部下のマインツ大僧正を遣わしてその式に列せしめ斯う云わしめた。
「今オットー一世先王の遺旨により上帝の命に従い、全国の貴族に選ばれて、汝等の王となった。汝等異議なくば右手をあげてその意を示せよ」と。
群衆は歓呼して是を迎えた。そこで大僧正は王剣を王に授け、
「この剣を取り全国の兵を率いて異教徒を退けよ」と云い、次に外套を取って王の肩へかけ、つづいて杖と笏とを与え、最後に王冠を王の頭上に置いて聖油を注ぎ、即位の大典をリードした。
こうして先ずオットー一世に恩を売ったのである。
オットー一世は英邁で、ドイツ王になるやスラブ、デーン、マジャル等の敵性諸民族を撃滅し、又西フランク(フランス)を征し、進んで羅馬法王の居ますイタリヤへ入り、法王を助けてその敵を降したりした。
そこで早速法王ヨハネ十二世は外交手段を揮い、盛儀を執行い、
「汝を神聖ローマ皇帝となす」
と宣言し、その冠を頭上に置き、
「イタリイ王をも兼ねよ」と追加して云った。
これで地球及び歴史の上に忽然と神聖ローマ帝国なるものが出来上がったのであった。しかもその物々しい名称の神聖ローマ帝国なるものの内容はといえば、ドイツとイタリヤとを合わせたものに過ぎないのであり、そうしてそのドイツとイタリヤとは既にオットー一世が平定乃至は攻略したものであったので、何も羅馬法王から今更ら頂戴する必要はないのであるが、それを呉れてやるような形式にして、法王の位置を皇帝よりも上のように認識させたところに、この法王の偉さがあるのである。
こういう出来事のあったのは西暦九六二年で、わが朝の村上天皇の御宇に当っている。
次に西暦一〇七三年から八五年に在位した法王グレゴリオ七世の大外交的手腕について検討してみよう。歴代法王のうち、その人物の雄大という点ではこのグレゴリオ七世が最上であるように思われる。法王は大工の子であるとも農夫の子であるともいわれ、微賎の産れであることは疑いなさそうである。約二十五年間に五代の法王に仕え、やがて一〇七三年に法王の位に即いたが、一旦法王となるや法権伸張と教界粛清とに全力を尽し、その英雄の資を発揮して、諸事に大改革を加えた。その結果、俗界の王たるドイツ皇帝ヘンリー四世と衝突せざるを得ないことになった。正面衝突を惹起した原因は、僧官任命権を皇帝の手から羅馬法王庁へ取戻す問題からであった。グレゴリオ七世は断乎としてこの旨を宣言した。即ち、
「羅馬教会は神によってのみ建てられた。すべての僧正は法王によってのみ任命せらるべきである」
というのである。
ヘンリー四世の納まる筈はない。皇帝は怒ってウォルムスに宗教会議を開催し、グレゴリー七世法王を廃することに議決した。
すると今度はグレゴリー七世が納まらず、ヘンリー四世をローマ教会から破門することとし、この旨を宣言した。そうしてその上ドイツ臣民に向い今後皇帝に対し忠誠を致すの要なきことを命令した。この教会からの破門ということは、この時代に於ては一方ならない力を持っていて、破門されたものはキリスト教の儀式を永久に差止められ、従来の朋友とも交際を絶たれ、知己との会食さえ禁ぜられるという有様で、一度破門を受けた者は終世孤独、寂莫の中に生活しなければならないのであった。皇帝の場合といえども然うであった。その上ヘンリー四世の場合に於てはドイツ国内の大小諸公伯の不平組がこの破門事件を好機としてヘンリー四世の廃立を企てた。
こうなっては如何なヘンリー四世といえども狼狽せざるを得ず、皇帝の尊厳を抛て法王に破門免除を懇願するより他には手はなかった。 | 「この剣を取り全国の兵を率いて異教徒を退けよ」と言ったのは誰ですか。 | 「この剣を取り全国の兵を率いて異教徒を退けよ」と言ったのは、法王ヨハネ十二世の部下であるマインツ大僧正です。彼はオットー一世が即位する際にこの言葉を言い、それから外套を王の肩へかけ、杖と笏を与え、最後に王冠を王の頭上に置いて聖油を注ぎ、即位の大典をリードしました。 |
JCRRAG_008461 | 歴史 | 帝国政府は今回ローマの法王庁へ原田健氏を初代公使として派遣することになったが時局がら洵に機宜を得た外交手段だと思う。
この機会に歴代羅馬法王のうち特にすぐれた外交家について検討を加えてみよう。
一体に歴代の羅馬法王は傑物揃いであるが、わけてもヨハネ十二世などは法王の位置をドイツ皇帝の上に置いたことと神聖羅馬帝国というものを一種の外交手段によって作りあげた点とで記憶さるべき人物だと思う。
東フランク王国(即ちドイツ)の国王は、前王ヘンリ一世の子のオットーであったが、その即位の際法王ヨハネ十二世は部下のマインツ大僧正を遣わしてその式に列せしめ斯う云わしめた。
「今オットー一世先王の遺旨により上帝の命に従い、全国の貴族に選ばれて、汝等の王となった。汝等異議なくば右手をあげてその意を示せよ」と。
群衆は歓呼して是を迎えた。そこで大僧正は王剣を王に授け、
「この剣を取り全国の兵を率いて異教徒を退けよ」と云い、次に外套を取って王の肩へかけ、つづいて杖と笏とを与え、最後に王冠を王の頭上に置いて聖油を注ぎ、即位の大典をリードした。
こうして先ずオットー一世に恩を売ったのである。
オットー一世は英邁で、ドイツ王になるやスラブ、デーン、マジャル等の敵性諸民族を撃滅し、又西フランク(フランス)を征し、進んで羅馬法王の居ますイタリヤへ入り、法王を助けてその敵を降したりした。
そこで早速法王ヨハネ十二世は外交手段を揮い、盛儀を執行い、
「汝を神聖ローマ皇帝となす」
と宣言し、その冠を頭上に置き、
「イタリイ王をも兼ねよ」と追加して云った。
これで地球及び歴史の上に忽然と神聖ローマ帝国なるものが出来上がったのであった。しかもその物々しい名称の神聖ローマ帝国なるものの内容はといえば、ドイツとイタリヤとを合わせたものに過ぎないのであり、そうしてそのドイツとイタリヤとは既にオットー一世が平定乃至は攻略したものであったので、何も羅馬法王から今更ら頂戴する必要はないのであるが、それを呉れてやるような形式にして、法王の位置を皇帝よりも上のように認識させたところに、この法王の偉さがあるのである。
こういう出来事のあったのは西暦九六二年で、わが朝の村上天皇の御宇に当っている。
次に西暦一〇七三年から八五年に在位した法王グレゴリオ七世の大外交的手腕について検討してみよう。歴代法王のうち、その人物の雄大という点ではこのグレゴリオ七世が最上であるように思われる。法王は大工の子であるとも農夫の子であるともいわれ、微賎の産れであることは疑いなさそうである。約二十五年間に五代の法王に仕え、やがて一〇七三年に法王の位に即いたが、一旦法王となるや法権伸張と教界粛清とに全力を尽し、その英雄の資を発揮して、諸事に大改革を加えた。その結果、俗界の王たるドイツ皇帝ヘンリー四世と衝突せざるを得ないことになった。正面衝突を惹起した原因は、僧官任命権を皇帝の手から羅馬法王庁へ取戻す問題からであった。グレゴリオ七世は断乎としてこの旨を宣言した。即ち、
「羅馬教会は神によってのみ建てられた。すべての僧正は法王によってのみ任命せらるべきである」
というのである。
ヘンリー四世の納まる筈はない。皇帝は怒ってウォルムスに宗教会議を開催し、グレゴリー七世法王を廃することに議決した。
すると今度はグレゴリー七世が納まらず、ヘンリー四世をローマ教会から破門することとし、この旨を宣言した。そうしてその上ドイツ臣民に向い今後皇帝に対し忠誠を致すの要なきことを命令した。この教会からの破門ということは、この時代に於ては一方ならない力を持っていて、破門されたものはキリスト教の儀式を永久に差止められ、従来の朋友とも交際を絶たれ、知己との会食さえ禁ぜられるという有様で、一度破門を受けた者は終世孤独、寂莫の中に生活しなければならないのであった。皇帝の場合といえども然うであった。その上ヘンリー四世の場合に於てはドイツ国内の大小諸公伯の不平組がこの破門事件を好機としてヘンリー四世の廃立を企てた。
こうなっては如何なヘンリー四世といえども狼狽せざるを得ず、皇帝の尊厳を抛て法王に破門免除を懇願するより他には手はなかった。 | 神聖ローマ帝国が出来た経緯は何ですか。 | 神聖ローマ帝国が出来た経緯は、まずオットー一世がスラブ、デーン、マジャル等を撃滅し、フランスを征し、イタリヤの法王を助けました。そして法王ヨハネ十二世はオットー一世に対して「汝を神聖ローマ皇帝となす」と宣言し、神聖ローマ帝国が出来あがりました。 |
JCRRAG_008462 | 歴史 | 帝国政府は今回ローマの法王庁へ原田健氏を初代公使として派遣することになったが時局がら洵に機宜を得た外交手段だと思う。
この機会に歴代羅馬法王のうち特にすぐれた外交家について検討を加えてみよう。
一体に歴代の羅馬法王は傑物揃いであるが、わけてもヨハネ十二世などは法王の位置をドイツ皇帝の上に置いたことと神聖羅馬帝国というものを一種の外交手段によって作りあげた点とで記憶さるべき人物だと思う。
東フランク王国(即ちドイツ)の国王は、前王ヘンリ一世の子のオットーであったが、その即位の際法王ヨハネ十二世は部下のマインツ大僧正を遣わしてその式に列せしめ斯う云わしめた。
「今オットー一世先王の遺旨により上帝の命に従い、全国の貴族に選ばれて、汝等の王となった。汝等異議なくば右手をあげてその意を示せよ」と。
群衆は歓呼して是を迎えた。そこで大僧正は王剣を王に授け、
「この剣を取り全国の兵を率いて異教徒を退けよ」と云い、次に外套を取って王の肩へかけ、つづいて杖と笏とを与え、最後に王冠を王の頭上に置いて聖油を注ぎ、即位の大典をリードした。
こうして先ずオットー一世に恩を売ったのである。
オットー一世は英邁で、ドイツ王になるやスラブ、デーン、マジャル等の敵性諸民族を撃滅し、又西フランク(フランス)を征し、進んで羅馬法王の居ますイタリヤへ入り、法王を助けてその敵を降したりした。
そこで早速法王ヨハネ十二世は外交手段を揮い、盛儀を執行い、
「汝を神聖ローマ皇帝となす」
と宣言し、その冠を頭上に置き、
「イタリイ王をも兼ねよ」と追加して云った。
これで地球及び歴史の上に忽然と神聖ローマ帝国なるものが出来上がったのであった。しかもその物々しい名称の神聖ローマ帝国なるものの内容はといえば、ドイツとイタリヤとを合わせたものに過ぎないのであり、そうしてそのドイツとイタリヤとは既にオットー一世が平定乃至は攻略したものであったので、何も羅馬法王から今更ら頂戴する必要はないのであるが、それを呉れてやるような形式にして、法王の位置を皇帝よりも上のように認識させたところに、この法王の偉さがあるのである。
こういう出来事のあったのは西暦九六二年で、わが朝の村上天皇の御宇に当っている。
次に西暦一〇七三年から八五年に在位した法王グレゴリオ七世の大外交的手腕について検討してみよう。歴代法王のうち、その人物の雄大という点ではこのグレゴリオ七世が最上であるように思われる。法王は大工の子であるとも農夫の子であるともいわれ、微賎の産れであることは疑いなさそうである。約二十五年間に五代の法王に仕え、やがて一〇七三年に法王の位に即いたが、一旦法王となるや法権伸張と教界粛清とに全力を尽し、その英雄の資を発揮して、諸事に大改革を加えた。その結果、俗界の王たるドイツ皇帝ヘンリー四世と衝突せざるを得ないことになった。正面衝突を惹起した原因は、僧官任命権を皇帝の手から羅馬法王庁へ取戻す問題からであった。グレゴリオ七世は断乎としてこの旨を宣言した。即ち、
「羅馬教会は神によってのみ建てられた。すべての僧正は法王によってのみ任命せらるべきである」
というのである。
ヘンリー四世の納まる筈はない。皇帝は怒ってウォルムスに宗教会議を開催し、グレゴリー七世法王を廃することに議決した。
すると今度はグレゴリー七世が納まらず、ヘンリー四世をローマ教会から破門することとし、この旨を宣言した。そうしてその上ドイツ臣民に向い今後皇帝に対し忠誠を致すの要なきことを命令した。この教会からの破門ということは、この時代に於ては一方ならない力を持っていて、破門されたものはキリスト教の儀式を永久に差止められ、従来の朋友とも交際を絶たれ、知己との会食さえ禁ぜられるという有様で、一度破門を受けた者は終世孤独、寂莫の中に生活しなければならないのであった。皇帝の場合といえども然うであった。その上ヘンリー四世の場合に於てはドイツ国内の大小諸公伯の不平組がこの破門事件を好機としてヘンリー四世の廃立を企てた。
こうなっては如何なヘンリー四世といえども狼狽せざるを得ず、皇帝の尊厳を抛て法王に破門免除を懇願するより他には手はなかった。 | 法王グレゴリオ七世の在位は何年から何年ですか。 | 法王グレゴリオ七世の在位は西暦一〇七三年から八五年です。 |
JCRRAG_008463 | 歴史 | 帝国政府は今回ローマの法王庁へ原田健氏を初代公使として派遣することになったが時局がら洵に機宜を得た外交手段だと思う。
この機会に歴代羅馬法王のうち特にすぐれた外交家について検討を加えてみよう。
一体に歴代の羅馬法王は傑物揃いであるが、わけてもヨハネ十二世などは法王の位置をドイツ皇帝の上に置いたことと神聖羅馬帝国というものを一種の外交手段によって作りあげた点とで記憶さるべき人物だと思う。
東フランク王国(即ちドイツ)の国王は、前王ヘンリ一世の子のオットーであったが、その即位の際法王ヨハネ十二世は部下のマインツ大僧正を遣わしてその式に列せしめ斯う云わしめた。
「今オットー一世先王の遺旨により上帝の命に従い、全国の貴族に選ばれて、汝等の王となった。汝等異議なくば右手をあげてその意を示せよ」と。
群衆は歓呼して是を迎えた。そこで大僧正は王剣を王に授け、
「この剣を取り全国の兵を率いて異教徒を退けよ」と云い、次に外套を取って王の肩へかけ、つづいて杖と笏とを与え、最後に王冠を王の頭上に置いて聖油を注ぎ、即位の大典をリードした。
こうして先ずオットー一世に恩を売ったのである。
オットー一世は英邁で、ドイツ王になるやスラブ、デーン、マジャル等の敵性諸民族を撃滅し、又西フランク(フランス)を征し、進んで羅馬法王の居ますイタリヤへ入り、法王を助けてその敵を降したりした。
そこで早速法王ヨハネ十二世は外交手段を揮い、盛儀を執行い、
「汝を神聖ローマ皇帝となす」
と宣言し、その冠を頭上に置き、
「イタリイ王をも兼ねよ」と追加して云った。
これで地球及び歴史の上に忽然と神聖ローマ帝国なるものが出来上がったのであった。しかもその物々しい名称の神聖ローマ帝国なるものの内容はといえば、ドイツとイタリヤとを合わせたものに過ぎないのであり、そうしてそのドイツとイタリヤとは既にオットー一世が平定乃至は攻略したものであったので、何も羅馬法王から今更ら頂戴する必要はないのであるが、それを呉れてやるような形式にして、法王の位置を皇帝よりも上のように認識させたところに、この法王の偉さがあるのである。
こういう出来事のあったのは西暦九六二年で、わが朝の村上天皇の御宇に当っている。
次に西暦一〇七三年から八五年に在位した法王グレゴリオ七世の大外交的手腕について検討してみよう。歴代法王のうち、その人物の雄大という点ではこのグレゴリオ七世が最上であるように思われる。法王は大工の子であるとも農夫の子であるともいわれ、微賎の産れであることは疑いなさそうである。約二十五年間に五代の法王に仕え、やがて一〇七三年に法王の位に即いたが、一旦法王となるや法権伸張と教界粛清とに全力を尽し、その英雄の資を発揮して、諸事に大改革を加えた。その結果、俗界の王たるドイツ皇帝ヘンリー四世と衝突せざるを得ないことになった。正面衝突を惹起した原因は、僧官任命権を皇帝の手から羅馬法王庁へ取戻す問題からであった。グレゴリオ七世は断乎としてこの旨を宣言した。即ち、
「羅馬教会は神によってのみ建てられた。すべての僧正は法王によってのみ任命せらるべきである」
というのである。
ヘンリー四世の納まる筈はない。皇帝は怒ってウォルムスに宗教会議を開催し、グレゴリー七世法王を廃することに議決した。
すると今度はグレゴリー七世が納まらず、ヘンリー四世をローマ教会から破門することとし、この旨を宣言した。そうしてその上ドイツ臣民に向い今後皇帝に対し忠誠を致すの要なきことを命令した。この教会からの破門ということは、この時代に於ては一方ならない力を持っていて、破門されたものはキリスト教の儀式を永久に差止められ、従来の朋友とも交際を絶たれ、知己との会食さえ禁ぜられるという有様で、一度破門を受けた者は終世孤独、寂莫の中に生活しなければならないのであった。皇帝の場合といえども然うであった。その上ヘンリー四世の場合に於てはドイツ国内の大小諸公伯の不平組がこの破門事件を好機としてヘンリー四世の廃立を企てた。
こうなっては如何なヘンリー四世といえども狼狽せざるを得ず、皇帝の尊厳を抛て法王に破門免除を懇願するより他には手はなかった。 | ヘンリー四世が宗教会議を開催した場所はどこでしたか。 | ヘンリー四世が宗教会議を開催した場所はウォルムスでした。 |
JCRRAG_008464 | 歴史 | 帝国政府は今回ローマの法王庁へ原田健氏を初代公使として派遣することになったが時局がら洵に機宜を得た外交手段だと思う。
この機会に歴代羅馬法王のうち特にすぐれた外交家について検討を加えてみよう。
一体に歴代の羅馬法王は傑物揃いであるが、わけてもヨハネ十二世などは法王の位置をドイツ皇帝の上に置いたことと神聖羅馬帝国というものを一種の外交手段によって作りあげた点とで記憶さるべき人物だと思う。
東フランク王国(即ちドイツ)の国王は、前王ヘンリ一世の子のオットーであったが、その即位の際法王ヨハネ十二世は部下のマインツ大僧正を遣わしてその式に列せしめ斯う云わしめた。
「今オットー一世先王の遺旨により上帝の命に従い、全国の貴族に選ばれて、汝等の王となった。汝等異議なくば右手をあげてその意を示せよ」と。
群衆は歓呼して是を迎えた。そこで大僧正は王剣を王に授け、
「この剣を取り全国の兵を率いて異教徒を退けよ」と云い、次に外套を取って王の肩へかけ、つづいて杖と笏とを与え、最後に王冠を王の頭上に置いて聖油を注ぎ、即位の大典をリードした。
こうして先ずオットー一世に恩を売ったのである。
オットー一世は英邁で、ドイツ王になるやスラブ、デーン、マジャル等の敵性諸民族を撃滅し、又西フランク(フランス)を征し、進んで羅馬法王の居ますイタリヤへ入り、法王を助けてその敵を降したりした。
そこで早速法王ヨハネ十二世は外交手段を揮い、盛儀を執行い、
「汝を神聖ローマ皇帝となす」
と宣言し、その冠を頭上に置き、
「イタリイ王をも兼ねよ」と追加して云った。
これで地球及び歴史の上に忽然と神聖ローマ帝国なるものが出来上がったのであった。しかもその物々しい名称の神聖ローマ帝国なるものの内容はといえば、ドイツとイタリヤとを合わせたものに過ぎないのであり、そうしてそのドイツとイタリヤとは既にオットー一世が平定乃至は攻略したものであったので、何も羅馬法王から今更ら頂戴する必要はないのであるが、それを呉れてやるような形式にして、法王の位置を皇帝よりも上のように認識させたところに、この法王の偉さがあるのである。
こういう出来事のあったのは西暦九六二年で、わが朝の村上天皇の御宇に当っている。
次に西暦一〇七三年から八五年に在位した法王グレゴリオ七世の大外交的手腕について検討してみよう。歴代法王のうち、その人物の雄大という点ではこのグレゴリオ七世が最上であるように思われる。法王は大工の子であるとも農夫の子であるともいわれ、微賎の産れであることは疑いなさそうである。約二十五年間に五代の法王に仕え、やがて一〇七三年に法王の位に即いたが、一旦法王となるや法権伸張と教界粛清とに全力を尽し、その英雄の資を発揮して、諸事に大改革を加えた。その結果、俗界の王たるドイツ皇帝ヘンリー四世と衝突せざるを得ないことになった。正面衝突を惹起した原因は、僧官任命権を皇帝の手から羅馬法王庁へ取戻す問題からであった。グレゴリオ七世は断乎としてこの旨を宣言した。即ち、
「羅馬教会は神によってのみ建てられた。すべての僧正は法王によってのみ任命せらるべきである」
というのである。
ヘンリー四世の納まる筈はない。皇帝は怒ってウォルムスに宗教会議を開催し、グレゴリー七世法王を廃することに議決した。
すると今度はグレゴリー七世が納まらず、ヘンリー四世をローマ教会から破門することとし、この旨を宣言した。そうしてその上ドイツ臣民に向い今後皇帝に対し忠誠を致すの要なきことを命令した。この教会からの破門ということは、この時代に於ては一方ならない力を持っていて、破門されたものはキリスト教の儀式を永久に差止められ、従来の朋友とも交際を絶たれ、知己との会食さえ禁ぜられるという有様で、一度破門を受けた者は終世孤独、寂莫の中に生活しなければならないのであった。皇帝の場合といえども然うであった。その上ヘンリー四世の場合に於てはドイツ国内の大小諸公伯の不平組がこの破門事件を好機としてヘンリー四世の廃立を企てた。
こうなっては如何なヘンリー四世といえども狼狽せざるを得ず、皇帝の尊厳を抛て法王に破門免除を懇願するより他には手はなかった。 | ヘンリー四世が、法王に破門免除を懇願したのはなぜですか。 | ヘンリー四世が、法王に破門免除を懇願したのは、当時はローマ教会からの破門は一方ならない力を持っており教会を破門されると終世孤独となり、寂莫の中に生活しなければならなかったからです。また、ドイツ国内の大小諸公伯の不平組がこの破門事件を好機としてヘンリー四世の廃立を企てたためです。 |
JCRRAG_008465 | 歴史 | 縄文時代。概要:約1万年前に地球は完新世になりました。更新世から完新世に至る過渡期には、気候が次第に温暖になり、人類は新石器時代を迎えました。また、日本列島では縄文時代が始まり、人々は縄目文様の土器を使用しました。
縄文時代の展開。
約1万年前に地球は完新世になりました。更新世から完新世に至る過渡期には、気候が次第に温暖になり、人類は新石器時代を迎えました。また、日本列島では縄文時代が始まり、人々は縄目文様の土器を使用しました。縄文時代の食料獲得の手段には狩猟、採取、漁労の3つがあり、これによってれによって生活が安定し、定住生活が始まりました。住居は、竪穴住居で飲料水確保のために水辺近くの台地に立地、また住居以外に、食料を保存する貯蔵穴群や墓地、ゴミ捨て場の貝塚がありました。
道具の変化
狩猟では、早い中・小型動物を捕らえるために、弓矢・落とし穴を利用し、石器としては、矢の先に取り付ける石鏃や、 動物の皮を剥ぐための石匙などが利用されました。
採取では、採取した木の実を石皿・すり石ですり潰したり、土器で煮て灰汁 抜きをし、土器は縄文土器を使用しました。縄目文様をもつことから縄文土器と呼ばれ、低温(600℃程度)で焼成されたために、厚手で黒褐色です。
漁労は、骨・角を材料とした骨角器(釣り針・銛もり など)や、丸木舟と呼ばれる舟を利用しました。
風習を示す遺物として、女性を象る土偶、男性生殖器を表現した石棒がありました。
これらにより縄文文化は成立していきました。 | 縄文時代に使用していた土器は何で、その土器の由来は何でしょうか。 | 縄文時代に使用していた土器は、縄文土器です。縄目文様をもつことから縄文土器と呼ばれていました。 |
JCRRAG_008466 | 歴史 | 縄文時代。概要:約1万年前に地球は完新世になりました。更新世から完新世に至る過渡期には、気候が次第に温暖になり、人類は新石器時代を迎えました。また、日本列島では縄文時代が始まり、人々は縄目文様の土器を使用しました。
縄文時代の展開。
約1万年前に地球は完新世になりました。更新世から完新世に至る過渡期には、気候が次第に温暖になり、人類は新石器時代を迎えました。また、日本列島では縄文時代が始まり、人々は縄目文様の土器を使用しました。縄文時代の食料獲得の手段には狩猟、採取、漁労の3つがあり、これによって生活が安定し、定住生活が始まりました。住居は、竪穴住居で飲料水確保のために水辺近くの台地に立地、また住居以外に、食料を保存する貯蔵穴群や墓地、ゴミ捨て場の貝塚がありました。
道具の変化
狩猟では、早い中・小型動物を捕らえるために、弓矢・落とし穴を利用し、石器としては、矢の先に取り付ける石鏃や、 動物の皮を剥ぐための石匙などが利用されました。
採取では、採取した木の実を石皿・すり石ですり潰したり、土器で煮て灰汁 抜きをし、土器は縄文土器を使用しました。縄目文様をもつことから縄文土器と呼ばれ、低温(600℃程度)で焼成されたために、厚手で黒褐色です。
漁労は、骨・角を材料とした骨角器(釣り針・銛もり など)や、丸木舟と呼ばれる舟を利用しました。
風習を示す遺物として、女性を象る土偶、男性生殖器を表現した石棒がありました。
これらにより縄文文化は成立していきました。 | 縄文時代の食糧確保の手段を教えてください。 | 縄文時代の食糧確保の手段は狩猟、採取、漁労の3つです。 |
JCRRAG_008467 | 歴史 | 縄文時代。概要:約1万年前に地球は完新世になりました。更新世から完新世に至る過渡期には、気候が次第に温暖になり、人類は新石器時代を迎えました。また、日本列島では縄文時代が始まり、人々は縄目文様の土器を使用しました。
縄文時代の展開。
約1万年前に地球は完新世になりました。更新世から完新世に至る過渡期には、気候が次第に温暖になり、人類は新石器時代を迎えました。また、日本列島では縄文時代が始まり、人々は縄目文様の土器を使用しました。縄文時代の食料獲得の手段には狩猟、採取、漁労の3つがあり、これによって生活が安定し、定住生活が始まりました。住居は、竪穴住居で飲料水確保のために水辺近くの台地に立地、また住居以外に、食料を保存する貯蔵穴群や墓地、ゴミ捨て場の貝塚がありました。
道具の変化
狩猟では、早い中・小型動物を捕らえるために、弓矢・落とし穴を利用し、石器としては、矢の先に取り付ける石鏃や、 動物の皮を剥ぐための石匙などが利用されました。
採取では、採取した木の実を石皿・すり石ですり潰したり、土器で煮て灰汁 抜きをし、土器は縄文土器を使用しました。縄目文様をもつことから縄文土器と呼ばれ、低温(600℃程度)で焼成されたために、厚手で黒褐色です。
漁労は、骨・角を材料とした骨角器(釣り針・銛もり など)や、丸木舟と呼ばれる舟を利用しました。
風習を示す遺物として、女性を象る土偶、男性生殖器を表現した石棒がありました。
これらにより縄文文化は成立していきました。 | 縄文時代の住居はどのような住居で、またどのようなところに立地されましたか。 | 縄文時代の住居は、竪穴住居で飲料水確保のために水辺近くの台地に立地されました。 |
JCRRAG_008468 | 歴史 | 縄文時代。概要:約1万年前に地球は完新世になりました。更新世から完新世に至る過渡期には、気候が次第に温暖になり、人類は新石器時代を迎えました。また、日本列島では縄文時代が始まり、人々は縄目文様の土器を使用しました。
縄文時代の展開。
約1万年前に地球は完新世になりました。更新世から完新世に至る過渡期には、気候が次第に温暖になり、人類は新石器時代を迎えました。また、日本列島では縄文時代が始まり、人々は縄目文様の土器を使用しました。縄文時代の食料獲得の手段には狩猟、採取、漁労の3つがあり、これによって生活が安定し、定住生活が始まりました。住居は、竪穴住居で飲料水確保のために水辺近くの台地に立地、また住居以外に、食料を保存する貯蔵穴群や墓地、ゴミ捨て場の貝塚がありました。
道具の変化
狩猟では、早い中・小型動物を捕らえるために、弓矢・落とし穴を利用し、石器としては、矢の先に取り付ける石鏃や、 動物の皮を剥ぐための石匙などが利用されました。
採取では、採取した木の実を石皿・すり石ですり潰したり、土器で煮て灰汁 抜きをし、土器は縄文土器を使用しました。縄目文様をもつことから縄文土器と呼ばれ、低温(600℃程度)で焼成されたために、厚手で黒褐色です。
漁労は、骨・角を材料とした骨角器(釣り針・銛もり など)や、丸木舟と呼ばれる舟を利用しました。
風習を示す遺物として、女性を象る土偶、男性生殖器を表現した石棒がありました。
これらにより縄文文化は成立していきました。 | 縄文時代は居住以外にどのようなものがありましたか。 | 縄文時代は住居以外に、食料を保存する貯蔵穴群や墓地、ゴミ捨て場の貝塚がありました。 |
JCRRAG_008469 | 歴史 | 縄文時代。概要:約1万年前に地球は完新世になりました。更新世から完新世に至る過渡期には、気候が次第に温暖になり、人類は新石器時代を迎えました。また、日本列島では縄文時代が始まり、人々は縄目文様の土器を使用しました。
縄文時代の展開。
約1万年前に地球は完新世になりました。更新世から完新世に至る過渡期には、気候が次第に温暖になり、人類は新石器時代を迎えました。また、日本列島では縄文時代が始まり、人々は縄目文様の土器を使用しました。縄文時代の食料獲得の手段には狩猟、採取、漁労の3つがあり、これによって生活が安定し、定住生活が始まりました。住居は、竪穴住居で飲料水確保のために水辺近くの台地に立地、また住居以外に、食料を保存する貯蔵穴群や墓地、ゴミ捨て場の貝塚がありました。
道具の変化
狩猟では、早い中・小型動物を捕らえるために、弓矢・落とし穴を利用し、石器としては、矢の先に取り付ける石鏃や、 動物の皮を剥ぐための石匙などが利用されました。
採取では、採取した木の実を石皿・すり石ですり潰したり、土器で煮て灰汁 抜きをし、土器は縄文土器を使用しました。縄目文様をもつことから縄文土器と呼ばれ、低温(600℃程度)で焼成されたために、厚手で黒褐色です。
漁労は、骨・角を材料とした骨角器(釣り針・銛もり など)や、丸木舟と呼ばれる舟を利用しました。
風習を示す遺物として、女性を象る土偶、男性生殖器を表現した石棒がありました。
これらにより縄文文化は成立していきました。 | 風習を示す遺物として何がありますか。 | 風習を示す遺物として女性を象る土偶、男性生殖器を表現した石棒があります。
これらにより縄文文化は成立していきました。 |
JCRRAG_008470 | 歴史 | 弥生時代は、日本列島において農耕文化がはじめて開花した時代です。中国大陸や朝鮮南部で既に一定の形に秩序立てられた「稲と鉄」の文化が、足早に日本に広まり、数千年も続いた石器時代はいきなり鉄器時代に移行します。この「稲と鉄」の普及によって、原始社会は急速に変革されていくのです。
弥生文化の特徴。
紀元前6500~5500年頃、中国の長江下流域で稲作が始まりました。約2500年前、九州北部で水稲耕作が開始されました。水稲耕作は、前期には湿地を水田に転用した湿田で、中・後期には灌漑施設を利用した乾田でも営まれました。田植え作業などには、足が水田に沈みこむのを防ぐ田下駄を着用しました。
穂は石包丁による穂首刈りで収穫し、木臼きうす・竪杵たてぎね で脱穀しました。
保存用は脱穀せずに高床倉庫に収蔵しました。
紀元前4世紀、西日本に水稲耕作を基礎とする弥生文化が成立、やがて東日本にも広まりました(北海道・南西諸島除く)。
紀元前4世紀~紀元後3世紀を弥生時代と呼びます。
北海道では続縄文文化という食料採取文化が継続、南西諸島では貝塚文化という食料採取文化が継続。
弥生時代は3つの時期「前期・中期・後期」に分かれます。
道具の変化と追加。
金属器の利用が始まり、銅と錫(すず)の合金である青銅器(祭器に利用)と、鉄器(工具・農具に利用)が大陸から伝来しました。
弥生時代の土器の特徴は、弥生土器は、縄文土器よりも高温で焼かれるため、薄手で赤褐色が特徴です。
用途別には、煮炊き用の甕かめ、貯蔵用の壺つぼ、食物を盛る鉢や高杯たかつきがありました。稲の穂摘み用具には石包丁が利用されました。水稲耕作の開始に伴い、収穫を祈る農耕儀礼も開始されました。
儀礼には青銅製祭器と総称される青銅器が用いられました。
この祭器には銅戈・銅矛、銅剣、銅鐸などがあり、普段は地中に埋めておき、祭事の時のみ掘り出して使用していたと思われます。 | 弥生時代の土器の特徴を教えてください。 | 弥生時代の土器の特徴は縄文土器よりも高温で焼かれるため、薄手で赤褐色が特徴です。 |
JCRRAG_008471 | 歴史 | 弥生時代は、日本列島において農耕文化がはじめて開花した時代です。中国大陸や朝鮮南部で既に一定の形に秩序立てられた「稲と鉄」の文化が、足早に日本に広まり、数千年も続いた石器時代はいきなり鉄器時代に移行します。この「稲と鉄」の普及によって、原始社会は急速に変革されていくのです。
弥生文化の特徴。
紀元前6500~5500年頃、中国の長江下流域で稲作が始まりました。約2500年前、九州北部で水稲耕作が開始されました。水稲耕作は、前期には湿地を水田に転用した湿田で、中・後期には灌漑施設を利用した乾田でも営まれました。田植え作業などには、足が水田に沈みこむのを防ぐ田下駄を着用しました。
穂は石包丁による穂首刈りで収穫し、木臼きうす・竪杵たてぎね で脱穀しました。
保存用は脱穀せずに高床倉庫に収蔵しました。
紀元前4世紀、西日本に水稲耕作を基礎とする弥生文化が成立、やがて東日本にも広まりました(北海道・南西諸島除く)。
紀元前4世紀~紀元後3世紀を弥生時代と呼びます。
北海道では続縄文文化という食料採取文化が継続、南西諸島では貝塚文化という食料採取文化が継続。
弥生時代は3つの時期「前期・中期・後期」に分かれます。
道具の変化と追加。
金属器の利用が始まり、銅と錫(すず)の合金である青銅器(祭器に利用)と、鉄器(工具・農具に利用)が大陸から伝来しました。
弥生時代の土器の特徴は、弥生土器は、縄文土器よりも高温で焼かれるため、薄手で赤褐色が特徴です。
用途別には、煮炊き用の甕かめ、貯蔵用の壺つぼ、食物を盛る鉢や高杯たかつきがありました。稲の穂摘み用具には石包丁が利用されました。水稲耕作の開始に伴い、収穫を祈る農耕儀礼も開始されました。
儀礼には青銅製祭器と総称される青銅器が用いられました。
この祭器には銅戈・銅矛、銅剣、銅鐸などがあり、普段は地中に埋めておき、祭事の時のみ掘り出して使用していたと思われます。 | 収穫を祈る農耕儀礼には何が用いられ、普段はどのように保管されていましたか。 | 収穫を祈る農耕儀礼には、青銅製祭器と総称される青銅器が用いられ、普段は普地中に埋めておき、祭事の時のみ掘り出して使用していました。 |
JCRRAG_008472 | 歴史 | 弥生時代は、日本列島において農耕文化がはじめて開花した時代です。中国大陸や朝鮮南部で既に一定の形に秩序立てられた「稲と鉄」の文化が、足早に日本に広まり、数千年も続いた石器時代はいきなり鉄器時代に移行します。この「稲と鉄」の普及によって、原始社会は急速に変革されていくのです。
弥生文化の特徴。
紀元前6500~5500年頃、中国の長江下流域で稲作が始まりました。約2500年前、九州北部で水稲耕作が開始されました。水稲耕作は、前期には湿地を水田に転用した湿田で、中・後期には灌漑施設を利用した乾田でも営まれました。田植え作業などには、足が水田に沈みこむのを防ぐ田下駄を着用しました。
穂は石包丁による穂首刈りで収穫し、木臼きうす・竪杵たてぎね で脱穀しました。
保存用は脱穀せずに高床倉庫に収蔵しました。
紀元前4世紀、西日本に水稲耕作を基礎とする弥生文化が成立、やがて東日本にも広まりました(北海道・南西諸島除く)。
紀元前4世紀~紀元後3世紀を弥生時代と呼びます。
北海道では続縄文文化という食料採取文化が継続、南西諸島では貝塚文化という食料採取文化が継続。
弥生時代は3つの時期「前期・中期・後期」に分かれます。
道具の変化と追加。
金属器の利用が始まり、銅と錫(すず)の合金である青銅器(祭器に利用)と、鉄器(工具・農具に利用)が大陸から伝来しました。
弥生時代の土器の特徴は、弥生土器は、縄文土器よりも高温で焼かれるため、薄手で赤褐色が特徴です。
用途別には、煮炊き用の甕かめ、貯蔵用の壺つぼ、食物を盛る鉢や高杯たかつきがありました。稲の穂摘み用具には石包丁が利用されました。水稲耕作の開始に伴い、収穫を祈る農耕儀礼も開始されました。
儀礼には青銅製祭器と総称される青銅器が用いられました。
この祭器には銅戈・銅矛、銅剣、銅鐸などがあり、普段は地中に埋めておき、祭事の時のみ掘り出して使用していたと思われます。 | 水稲耕作の開始によって何が開始となりましたか。 | 水稲耕作の開始によって収穫を祈る農耕儀礼が開始になりました。 |
JCRRAG_008473 | 歴史 | 弥生時代は、日本列島において農耕文化がはじめて開花した時代です。中国大陸や朝鮮南部で既に一定の形に秩序立てられた「稲と鉄」の文化が、足早に日本に広まり、数千年も続いた石器時代はいきなり鉄器時代に移行します。この「稲と鉄」の普及によって、原始社会は急速に変革されていくのです。
弥生文化の特徴。
紀元前6500~5500年頃、中国の長江下流域で稲作が始まりました。約2500年前、九州北部で水稲耕作が開始されました。水稲耕作は、前期には湿地を水田に転用した湿田で、中・後期には灌漑施設を利用した乾田でも営まれました。田植え作業などには、足が水田に沈みこむのを防ぐ田下駄を着用しました。
穂は石包丁による穂首刈りで収穫し、木臼きうす・竪杵たてぎね で脱穀しました。
保存用は脱穀せずに高床倉庫に収蔵しました。
紀元前4世紀、西日本に水稲耕作を基礎とする弥生文化が成立、やがて東日本にも広まりました(北海道・南西諸島除く)。
紀元前4世紀~紀元後3世紀を弥生時代と呼びます。
北海道では続縄文文化という食料採取文化が継続、南西諸島では貝塚文化という食料採取文化が継続。
弥生時代は3つの時期「前期・中期・後期」に分かれます。
道具の変化と追加。
金属器の利用が始まり、銅と錫(すず)の合金である青銅器(祭器に利用)と、鉄器(工具・農具に利用)が大陸から伝来しました。
弥生時代の土器の特徴は、弥生土器は、縄文土器よりも高温で焼かれるため、薄手で赤褐色が特徴です。
用途別には、煮炊き用の甕かめ、貯蔵用の壺つぼ、食物を盛る鉢や高杯たかつきがありました。稲の穂摘み用具には石包丁が利用されました。水稲耕作の開始に伴い、収穫を祈る農耕儀礼も開始されました。
儀礼には青銅製祭器と総称される青銅器が用いられました。
この祭器には銅戈・銅矛、銅剣、銅鐸などがあり、普段は地中に埋めておき、祭事の時のみ掘り出して使用していたと思われます。 | 日本では何年前に水稲耕作が開始されましたか。 | 日本では約2500年前、九州北部で水稲耕作が開始しました。 |
JCRRAG_008474 | 歴史 | 弥生時代は、日本列島において農耕文化がはじめて開花した時代です。中国大陸や朝鮮南部で既に一定の形に秩序立てられた「稲と鉄」の文化が、足早に日本に広まり、数千年も続いた石器時代はいきなり鉄器時代に移行します。この「稲と鉄」の普及によって、原始社会は急速に変革されていくのです。
弥生文化の特徴。
紀元前6500~5500年頃、中国の長江下流域で稲作が始まりました。約2500年前、九州北部で水稲耕作が開始されました。水稲耕作は、前期には湿地を水田に転用した湿田で、中・後期には灌漑施設を利用した乾田でも営まれました。田植え作業などには、足が水田に沈みこむのを防ぐ田下駄を着用しました。
穂は石包丁による穂首刈りで収穫し、木臼きうす・竪杵たてぎね で脱穀しました。
保存用は脱穀せずに高床倉庫に収蔵しました。
紀元前4世紀、西日本に水稲耕作を基礎とする弥生文化が成立、やがて東日本にも広まりました(北海道・南西諸島除く)。
紀元前4世紀~紀元後3世紀を弥生時代と呼びます。
北海道では続縄文文化という食料採取文化が継続、南西諸島では貝塚文化という食料採取文化が継続。
弥生時代は3つの時期「前期・中期・後期」に分かれます。
道具の変化と追加。
金属器の利用が始まり、銅と錫(すず)の合金である青銅器(祭器に利用)と、鉄器(工具・農具に利用)が大陸から伝来しました。
弥生時代の土器の特徴は、弥生土器は、縄文土器よりも高温で焼かれるため、薄手で赤褐色が特徴です。
用途別には、煮炊き用の甕かめ、貯蔵用の壺つぼ、食物を盛る鉢や高杯たかつきがありました。稲の穂摘み用具には石包丁が利用されました。水稲耕作の開始に伴い、収穫を祈る農耕儀礼も開始されました。
儀礼には青銅製祭器と総称される青銅器が用いられました。
この祭器には銅戈・銅矛、銅剣、銅鐸などがあり、普段は地中に埋めておき、祭事の時のみ掘り出して使用していたと思われます。 | 大陸から伝来してきたものは何でしょうか。 | 銅と錫の合金である青銅器と、鉄器が大陸から伝来しました。 |
JCRRAG_008475 | 歴史 | 個人投資家向け説明会を実施するためのステップ
・明確な目的とアジェンダの設定
説明会を効果的に開催するためには、明確な目的とアジェンダの設定が不可欠です。目的を明確にすることで、参加者が何を期待すべきか、企業が何を伝えたいのかがはっきりとします。
アジェンダを事前に公開することで、参加者は説明会の流れを把握し、質問や意見を準備することができます。また、時間の管理や内容の整理にも役立ち、スムーズな進行をサポートします。
・適切な情報の選定と整理
情報の過不足は、説明会の質を低下させる要因となります。参加者が最も関心を持つであろう情報を選定し、わかりやすく整理することが求められます。特に、財務データや業績予想などの重要な情報は、グラフやチャートを用いて視覚的に伝えることで、理解を深めることができます。
・質疑応答のセッションの充実
説明会の中でも、質疑応答のセッションは非常に重要です。参加者の疑問や懸念に直接応えることで、信頼関係を築くことができます。事前に予想される質問に対する回答を準備するとともに、適切な情報開示の範囲を明確にしておくことが必要です。
・適切なコミュニケーションツールの活用
現代の技術を活用して、説明会の質を向上させることができます。例えば、ウェビナーやオンライン配信を活用することで、遠隔地からの参加者も増え、情報のアクセス性を高めることができます。また、アンケートやフィードバックツールを用いて、参加者の意見や感想をリアルタイムで収集することも効果的です。
・フォローアップの徹底
説明会後のフォローアップは、参加者との関係を継続的に築くために重要です。説明会の資料の配布や、参加者からの質問への追加回答、次回の説明会の案内など、継続的なコミュニケーションを図ることで、企業と投資家との信頼関係をさらに深めることができます。
近年、DX(デジタルトランスフォーメーション)の進展に伴い、IR活動も大きな変革を迎えています。特に、個人投資家向け説明会においては、以下のようなトレンドが見られると予想されます。
・オンライン開催の普及
新型コロナウイルスの影響を受けて、多くの企業がオンラインでの説明会を開催するようになりました。これにより、地理的な制約なく多くの投資家が参加できるようになり、情報のアクセス性が向上しています。今後もこのトレンドは継続し、さらに高度なウェビナーやVR技術を活用したインタラクティブな説明会が増えると予想されます。
・リアルタイムデータの活用
DXの進展により、リアルタイムでのデータ分析や可視化が可能となっています。これにより、説明会中に最新の業績データや市場の動向をリアルタイムで共有することができ、投資家との対話の質を向上させることができます。
・AIとの連携
AI技術の進化により、説明会の内容や質疑応答のセッションをより効果的に進行させることが可能となります。例えば、AIを活用して過去の質問や反応を分析し、最も関心を持たれるであろうトピックを予測することができます。
・ESG投資の重視
近年、環境、社会、ガバナンス(ESG)に関する取り組みが投資判断の重要な要因となっています。個人投資家もこのトレンドに影響を受け、企業のESGに関する取り組みや情報開示を重視する傾向が強まっています。今後の説明会では、ESGに関する情報提供や取り組みの詳細な説明が求められるでしょう。
・教育的要素の強化
投資初心者や若い世代の投資家が増えている中、説明会での教育的要素の提供が重要となってきます。基本的な投資知識や企業のビジネスモデル、業界の動向など、幅広い情報をわかりやすく伝えることで、投資家の理解を深めることができます。 | 弥生時代は何が本格化した時代でしょうか。 | 弥生時代は、世界的に見て農耕の開始と同時に、人・集落同士の争いは本格化本格化した時代でもあります。 |
JCRRAG_008476 | 歴史 | 弥生時代は人と人の争いが本格化した時代でもあります。勝利した側は敗北した側を吸収していき、この過程で「クニ(小国)」が登場しました。中国の歴史書には、クニの長が支配力強化のために中国へ朝貢を試みたことが載っています。やがて「クニ」同士の政治的な連合が組まれ、邪馬台国のような連合の中心となる強い「クニ」が登場しました。
世界的に見て、農耕の開始と同時に、人・集落同士の争いは本格化しました。
弥生時代には、対人武器や防御目的の環濠集落・高地性集落が出現しました。
本格化の理由は、収穫という行為が天候に左右され、他の集落の余剰生産物が必要になるためです。
勝利した集落は、敗北した側を統合し、やがて大規模化していきました。
首長(王)の統治する政治的集団「クニ(小国)」が日本列島の各地に生まれていきました。
中国から見た日本列島の「クニ」、紀元前1世紀の様子
『漢書』地理志
1 百余の「クニ」が「倭国」に分立
2 「倭国」の「倭人」が使者を楽浪郡に派遣(朝貢目的)
当時、中国では日本列島を「倭国(倭)」、住む人々を「倭人」と呼称
朝貢…中国の皇帝に貢物をして、中国との上下関係を築くこと
楽浪郡…中国「漢」の武帝が朝鮮半島に置いた郡(行政単位)
1世紀中頃〜2世紀の様子は『後漢書』東夷伝(著者:范曄)。
1 57年、倭の奴な国王が光武帝から印綬(金印と紐)を授受
金印は江戸時代に福岡県志賀島で発見され、印面に「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻字
奴国王の使者は、後漢の都洛陽らくようまで訪問
2 107年、倭国王帥升すいしょうら(小連合を組む「クニ」の王たち)が安帝に生口160人を献上
生口…奴隷のこと
3 2世紀後半、小連合を組んでいた「クニ」同士で内乱継続
「魏志」倭人伝(著者:陳寿)2世紀後半の内乱の果てに、邪馬台国という「クニ」の女王卑弥呼を「クニ」同士が共立すると、争いが鎮まりました。
邪馬台国を中心とする29の「クニ」の大連合が登場しました。 | クニ(小国)はどのように登場していきましたか。 | 勝利した側は敗北した側を吸収していくことで小国が登場していきました。 |
JCRRAG_008477 | 歴史 | 弥生時代は人と人の争いが本格化した時代でもあります。勝利した側は敗北した側を吸収していき、この過程で「クニ(小国)」が登場しました。中国の歴史書には、クニの長が支配力強化のために中国へ朝貢を試みたことが載っています。やがて「クニ」同士の政治的な連合が組まれ、邪馬台国のような連合の中心となる強い「クニ」が登場しました。
世界的に見て、農耕の開始と同時に、人・集落同士の争いは本格化しました。
弥生時代には、対人武器や防御目的の環濠集落・高地性集落が出現しました。
本格化の理由は、収穫という行為が天候に左右され、他の集落の余剰生産物が必要になるためです。
勝利した集落は、敗北した側を統合し、やがて大規模化していきました。
首長(王)の統治する政治的集団「クニ(小国)」が日本列島の各地に生まれていきました。
中国から見た日本列島の「クニ」、紀元前1世紀の様子
『漢書』地理志
1 百余の「クニ」が「倭国」に分立
2 「倭国」の「倭人」が使者を楽浪郡に派遣(朝貢目的)
当時、中国では日本列島を「倭国(倭)」、住む人々を「倭人」と呼称
朝貢…中国の皇帝に貢物をして、中国との上下関係を築くこと
楽浪郡…中国「漢」の武帝が朝鮮半島に置いた郡(行政単位)
1世紀中頃〜2世紀の様子は『後漢書』東夷伝(著者:范曄)。
1 57年、倭の奴な国王が光武帝から印綬(金印と紐)を授受
金印は江戸時代に福岡県志賀島で発見され、印面に「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻字
奴国王の使者は、後漢の都洛陽らくようまで訪問
2 107年、倭国王帥升すいしょうら(小連合を組む「クニ」の王たち)が安帝に生口160人を献上
生口…奴隷のこと
3 2世紀後半、小連合を組んでいた「クニ」同士で内乱継続
「魏志」倭人伝(著者:陳寿)2世紀後半の内乱の果てに、邪馬台国という「クニ」の女王卑弥呼を「クニ」同士が共立すると、争いが鎮まりました。
邪馬台国を中心とする29の「クニ」の大連合が登場しました。 | 弥生時代には、対人武器や防御目的の何という集落ができましたか。 | 対人武器や防御目的の環濠集落・高地性集落が出現しました。 |
JCRRAG_008478 | 歴史 | 弥生時代は人と人の争いが本格化した時代でもあります。勝利した側は敗北した側を吸収していき、この過程で「クニ(小国)」が登場しました。中国の歴史書には、クニの長が支配力強化のために中国へ朝貢を試みたことが載っています。やがて「クニ」同士の政治的な連合が組まれ、邪馬台国のような連合の中心となる強い「クニ」が登場しました。
世界的に見て、農耕の開始と同時に、人・集落同士の争いは本格化しました。
弥生時代には、対人武器や防御目的の環濠集落・高地性集落が出現しました。
本格化の理由は、収穫という行為が天候に左右され、他の集落の余剰生産物が必要になるためです。
勝利した集落は、敗北した側を統合し、やがて大規模化していきました。
首長(王)の統治する政治的集団「クニ(小国)」が日本列島の各地に生まれていきました。
中国から見た日本列島の「クニ」、紀元前1世紀の様子
『漢書』地理志
1 百余の「クニ」が「倭国」に分立
2 「倭国」の「倭人」が使者を楽浪郡に派遣(朝貢目的)
当時、中国では日本列島を「倭国(倭)」、住む人々を「倭人」と呼称
朝貢…中国の皇帝に貢物をして、中国との上下関係を築くこと
楽浪郡…中国「漢」の武帝が朝鮮半島に置いた郡(行政単位)
1世紀中頃〜2世紀の様子は『後漢書』東夷伝(著者:范曄)。
1 57年、倭の奴な国王が光武帝から印綬(金印と紐)を授受
金印は江戸時代に福岡県志賀島で発見され、印面に「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻字
奴国王の使者は、後漢の都洛陽らくようまで訪問
2 107年、倭国王帥升すいしょうら(小連合を組む「クニ」の王たち)が安帝に生口160人を献上
生口…奴隷のこと
3 2世紀後半、小連合を組んでいた「クニ」同士で内乱継続
「魏志」倭人伝(著者:陳寿)2世紀後半の内乱の果てに、邪馬台国という「クニ」の女王卑弥呼を「クニ」同士が共立すると、争いが鎮まりました。
邪馬台国を中心とする29の「クニ」の大連合が登場しました。 | 当時中国では日本列島を何と呼び、そこに住む人も何と呼ばれてましたか。 | 中国では日本列島を「倭国(倭)」、住む人々を「倭人」と呼んでいました。 |
JCRRAG_008479 | 歴史 | 弥生時代は人と人の争いが本格化した時代でもあります。勝利した側は敗北した側を吸収していき、この過程で「クニ(小国)」が登場しました。中国の歴史書には、クニの長が支配力強化のために中国へ朝貢を試みたことが載っています。やがて「クニ」同士の政治的な連合が組まれ、邪馬台国のような連合の中心となる強い「クニ」が登場しました。
世界的に見て、農耕の開始と同時に、人・集落同士の争いは本格化しました。
弥生時代には、対人武器や防御目的の環濠集落・高地性集落が出現しました。
本格化の理由は、収穫という行為が天候に左右され、他の集落の余剰生産物が必要になるためです。
勝利した集落は、敗北した側を統合し、やがて大規模化していきました。
首長(王)の統治する政治的集団「クニ(小国)」が日本列島の各地に生まれていきました。
中国から見た日本列島の「クニ」、紀元前1世紀の様子
『漢書』地理志
1 百余の「クニ」が「倭国」に分立
2 「倭国」の「倭人」が使者を楽浪郡に派遣(朝貢目的)
当時、中国では日本列島を「倭国(倭)」、住む人々を「倭人」と呼称
朝貢…中国の皇帝に貢物をして、中国との上下関係を築くこと
楽浪郡…中国「漢」の武帝が朝鮮半島に置いた郡(行政単位)
1世紀中頃〜2世紀の様子は『後漢書』東夷伝(著者:范曄)。
1 57年、倭の奴な国王が光武帝から印綬(金印と紐)を授受
金印は江戸時代に福岡県志賀島で発見され、印面に「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻字
奴国王の使者は、後漢の都洛陽らくようまで訪問
2 107年、倭国王帥升すいしょうら(小連合を組む「クニ」の王たち)が安帝に生口160人を献上
生口…奴隷のこと
3 2世紀後半、小連合を組んでいた「クニ」同士で内乱継続
「魏志」倭人伝(著者:陳寿)2世紀後半の内乱の果てに、邪馬台国という「クニ」の女王卑弥呼を「クニ」同士が共立すると、争いが鎮まりました。
邪馬台国を中心とする29の「クニ」の大連合が登場しました。 | 邪馬台国の女王は誰ですか。 | 邪馬台国の女王は卑弥呼です。 |
JCRRAG_008480 | 歴史 | 3世紀中頃から大和(奈良)を中心に、古墳という巨大な墳丘をもつ墓が出現しました。以降、7世紀までを古墳時代と呼びます。広域にわたる画一的な古墳の特徴から、古墳時代にはヤマト政権という政治的連合が存在したと分かります。古墳の特徴は、このヤマト政権と朝鮮半島の関係から、時代を通して変化していきました。
弥生時代には、墳丘墓など様々な墓が出現しました。
中国の歴史書から倭国の記述が消えた頃(3世紀中頃)から、大和(奈良)を中心に古墳が営まれはじめました。
古墳が営まれる3世紀中頃~7世紀を古墳時代と呼びます。
墳丘墓と古墳の特徴の違いは、圧倒的な大きさ(ほとんどが全長100m超え)、棺ひつぎの外側に圧倒的な数の副葬品、斜面に葺石ふきいし、丘の部分に土製の焼き物埴輪、古墳時代前期の箸墓はしはか古墳(奈良)は全長280m、様々な形(円墳・方墳など)の中で、前方後円墳が最大規模となっています。
政治的連合の中心が大和にあり、大和を中心に存在したこの連合をヤマト政権と呼びます。
古墳時代は、前期・中期・後期に分かれ時期ごとに形や内部の構造、副葬品、埴輪などに変化がありました。
埴輪は、前期では円筒埴輪が中心で、中・後期では形象埴輪が中心でした。
後期から出現したものとして、石人・石馬が出現し、九州に多く分布します。石室に幾何学的模様などを施した装飾古墳も出現しました。代表的な古墳として、前期は箸墓古墳、中期は大仙陵古墳・誉田御廟山古墳、後期は高松塚古墳・吉見百穴がありました。 | 古墳が営まれる3世紀~7世紀を何時代といいますか。 | 3世紀~7世紀を古墳時代といいます。 |
JCRRAG_008481 | 歴史 | 3世紀中頃から大和(奈良)を中心に、古墳という巨大な墳丘をもつ墓が出現しました。以降、7世紀までを古墳時代と呼びます。広域にわたる画一的な古墳の特徴から、古墳時代にはヤマト政権という政治的連合が存在したと分かります。古墳の特徴は、このヤマト政権と朝鮮半島の関係から、時代を通して変化していきました。
弥生時代には、墳丘墓など様々な墓が出現しました。
中国の歴史書から倭国の記述が消えた頃(3世紀中頃)から、大和(奈良)を中心に古墳が営まれはじめました。
古墳が営まれる3世紀中頃~7世紀を古墳時代と呼びます。
墳丘墓と古墳の特徴の違いは、圧倒的な大きさ(ほとんどが全長100m超え)、棺ひつぎの外側に圧倒的な数の副葬品、斜面に葺石ふきいし、丘の部分に土製の焼き物埴輪、古墳時代前期の箸墓はしはか古墳(奈良)は全長280m、様々な形(円墳・方墳など)の中で、前方後円墳が最大規模となっています。
政治的連合の中心が大和にあり、大和を中心に存在したこの連合をヤマト政権と呼びます。
古墳時代は、前期・中期・後期に分かれ時期ごとに形や内部の構造、副葬品、埴輪などに変化がありました。
埴輪は、前期では円筒埴輪が中心で、中・後期では形象埴輪が中心でした。
後期から出現したものとして、石人・石馬が出現し、九州に多く分布します。石室に幾何学的模様などを施した装飾古墳も出現しました。代表的な古墳として、前期は箸墓古墳、中期は大仙陵古墳・誉田御廟山古墳、後期は高松塚古墳・吉見百穴がありました。 | 古墳の中で最大規模の古墳は何でしょうか。 | 様々な形(円墳・方墳など)の中で、前方後円墳が最大規模となっています。 |
JCRRAG_008482 | 歴史 | 3世紀中頃から大和(奈良)を中心に、古墳という巨大な墳丘をもつ墓が出現しました。以降、7世紀までを古墳時代と呼びます。広域にわたる画一的な古墳の特徴から、古墳時代にはヤマト政権という政治的連合が存在したと分かります。古墳の特徴は、このヤマト政権と朝鮮半島の関係から、時代を通して変化していきました。
弥生時代には、墳丘墓など様々な墓が出現しました。
中国の歴史書から倭国の記述が消えた頃(3世紀中頃)から、大和(奈良)を中心に古墳が営まれはじめました。
古墳が営まれる3世紀中頃~7世紀を古墳時代と呼びます。
墳丘墓と古墳の特徴の違いは、圧倒的な大きさ(ほとんどが全長100m超え)、棺ひつぎの外側に圧倒的な数の副葬品、斜面に葺石ふきいし、丘の部分に土製の焼き物埴輪、古墳時代前期の箸墓はしはか古墳(奈良)は全長280m、様々な形(円墳・方墳など)の中で、前方後円墳が最大規模となっています。
政治的連合の中心が大和にあり、大和を中心に存在したこの連合をヤマト政権と呼びます。
古墳時代は、前期・中期・後期に分かれ時期ごとに形や内部の構造、副葬品、埴輪などに変化がありました。
埴輪は、前期では円筒埴輪が中心で、中・後期では形象埴輪が中心でした。
後期から出現したものとして、石人・石馬が出現し、九州に多く分布します。石室に幾何学的模様などを施した装飾古墳も出現しました。代表的な古墳として、前期は箸墓古墳、中期は大仙陵古墳・誉田御廟山古墳、後期は高松塚古墳・吉見百穴がありました。 | 大和を中心に存在した連合を何といいますか。 | 大和を中心に存在した連合を、ヤマト政権と呼びます。 |
JCRRAG_008483 | 歴史 | 3世紀中頃から大和(奈良)を中心に、古墳という巨大な墳丘をもつ墓が出現しました。以降、7世紀までを古墳時代と呼びます。広域にわたる画一的な古墳の特徴から、古墳時代にはヤマト政権という政治的連合が存在したと分かります。古墳の特徴は、このヤマト政権と朝鮮半島の関係から、時代を通して変化していきました。
弥生時代には、墳丘墓など様々な墓が出現しました。
中国の歴史書から倭国の記述が消えた頃(3世紀中頃)から、大和(奈良)を中心に古墳が営まれはじめました。
古墳が営まれる3世紀中頃~7世紀を古墳時代と呼びます。
墳丘墓と古墳の特徴の違いは、圧倒的な大きさ(ほとんどが全長100m超え)、棺ひつぎの外側に圧倒的な数の副葬品、斜面に葺石ふきいし、丘の部分に土製の焼き物埴輪、古墳時代前期の箸墓はしはか古墳(奈良)は全長280m、様々な形(円墳・方墳など)の中で、前方後円墳が最大規模となっています。
政治的連合の中心が大和にあり、大和を中心に存在したこの連合をヤマト政権と呼びます。
古墳時代は、前期・中期・後期に分かれ時期ごとに形や内部の構造、副葬品、埴輪などに変化がありました。
埴輪は、前期では円筒埴輪が中心で、中・後期では形象埴輪が中心でした。
後期から出現したものとして、石人・石馬が出現し、九州に多く分布します。石室に幾何学的模様などを施した装飾古墳も出現しました。代表的な古墳として、前期は箸墓古墳、中期は大仙陵古墳・誉田御廟山古墳、後期は高松塚古墳・吉見百穴がありました。 | 埴輪は、前期と後期でどのような物を使用していましたか。 | 前期は円筒埴輪が中心、中・後期では形象埴輪を中心に使用していました。 |
JCRRAG_008484 | 歴史 | 3世紀中頃から大和(奈良)を中心に、古墳という巨大な墳丘をもつ墓が出現しました。以降、7世紀までを古墳時代と呼びます。広域にわたる画一的な古墳の特徴から、古墳時代にはヤマト政権という政治的連合が存在したと分かります。古墳の特徴は、このヤマト政権と朝鮮半島の関係から、時代を通して変化していきました。
弥生時代には、墳丘墓など様々な墓が出現しました。
中国の歴史書から倭国の記述が消えた頃(3世紀中頃)から、大和(奈良)を中心に古墳が営まれはじめました。
古墳が営まれる3世紀中頃~7世紀を古墳時代と呼びます。
墳丘墓と古墳の特徴の違いは、圧倒的な大きさ(ほとんどが全長100m超え)、棺ひつぎの外側に圧倒的な数の副葬品、斜面に葺石ふきいし、丘の部分に土製の焼き物埴輪、古墳時代前期の箸墓はしはか古墳(奈良)は全長280m、様々な形(円墳・方墳など)の中で、前方後円墳が最大規模となっています。
政治的連合の中心が大和にあり、大和を中心に存在したこの連合をヤマト政権と呼びます。
古墳時代は、前期・中期・後期に分かれ時期ごとに形や内部の構造、副葬品、埴輪などに変化がありました。
埴輪は、前期では円筒埴輪が中心で、中・後期では形象埴輪が中心でした。
後期から出現したものとして、石人・石馬が出現し、九州に多く分布します。石室に幾何学的模様などを施した装飾古墳も出現しました。代表的な古墳として、前期は箸墓古墳、中期は大仙陵古墳・誉田御廟山古墳、後期は高松塚古墳・吉見百穴がありました。 | 古墳時代の中期の代表的な古墳は何でしょうか。 | 古墳時代中期の代表的な古墳は、大仙陵古墳・誉田御廟山古墳です。 |
JCRRAG_008485 | 歴史 | 朝鮮の開国
鎖国政策を採っていた朝鮮王朝は、1876年の日朝修好条規で日本との間で開国したが、清を宗主国とする関係は残っていた。欧米との交渉は遅れ、ようやく1882年のアメリカを初めとして86年までに英仏など主要国に対しても開国した。
朝鮮王朝(李朝)は1637年以来清朝より朝鮮国王として封ぜられ、清を宗主国として臣下の例をとっていた。日本(江戸幕府)とは1607年に国交を回復し、将軍の代替わりごとに朝鮮通信使を江戸に送ることを続けていた。ただし幕府の使節が都の漢城にはいることは許さなかった。それも1811年以後は両国の財政難から行われなくなっていた。その他の国に対しては小中華思想の影響もあって鎖国政策をとっていた。
大院君の攘夷成功
1830年代から強まった欧米列強の開国要求に対しては、朝鮮王朝は清朝を宗主国としているので独自には交渉できないという立場を取り、拒絶していた。1863年に国王高宗の父として実権を握った大院君は、衛正斥邪の思想に基づく保守的な拝外主義をもっており、鎖国政策を維持した。
丙寅洋擾 1866年には大院君政権の下で大規模なキリスト教弾圧が行われ、フランス人宣教師2名が殺害されると、フランスはその謝罪と同時に開国を要求して艦隊を江華島に派遣したが、大院君政権はそれを実力で撃退した。同年には大同江に侵入したアメリカの商船を焼き払ったシャーマン号事件も起こっており、このフランスとアメリカの外圧を撃退したことを丙寅洋擾といっている。1868年にはドイツ人オッペルトとフランス人宣教師フェロンらが大院君の父の南延君の墓をあばこうとして失敗するという事件も起こった。
辛未洋擾 1871年にはアメリカ艦隊がシャーマン号事件の謝罪と開国を要求して艦隊を派遣したが、それに対しても砲撃で応えた。アメリカ兵は江華島に上陸して砲台を占領しようとしたが反撃された。この戦闘ではアメリカ軍は死者3人であったが朝鮮側は53名だった。アメリカ側の記録では戦死者、溺死者400名を数えるとしている。大変な激戦であったことは間違いなく、アメリカの指揮官ロジャース少将らはペリー提督の日本遠征のときのように戦闘にはならないと考えていたので、朝鮮側の反撃が想定以上に激しいことに驚き、占領をあきらめ、7月3日に撤退した。この戦闘は辛未洋擾といわれている。<趙景達『近代朝鮮と日本』2012 岩波新書 p.36-37>
大院君は丙寅洋擾、辛未洋擾と立て続けに外国勢力の侵攻を撃退したことを記念し、各地に斥和碑を建て、夷狄と和することは売国であると戒めた。しかし朝鮮をとりまく国際情勢は大きく変化しつつあった。
鎖国朝鮮をとりまく状況
フランス、アメリカの開国要求を拒否した朝鮮であったが、1860年に清との間の北京条約で沿海州を獲得したロシアは、豆満江をはさんで朝鮮と国境を接することとなり、その半島への進出も始まった。イギリスはアフガニスタンなどで厳しくロシアと対立していたので、ロシアの東アジアへの進出に神経を尖らせていた。周辺諸国ではすでに宗主国の清は1842年の南京条約で開国しており、1854年には日本が開国していた。特に日本は1868年に明治維新を迎え近代国家への転身を開始していた。なお日本と清は1871年に日清修好条規を締結し国交関係を開始していた。こうして鎖国を続ける朝鮮の国際環境は徐々に厳しくなっていた。
明治政府の征韓論
そのような中でまず朝鮮に開国を迫ったのは日本だった。1868年12月、明治政府は津島藩を通して王政復古と新政府成立を通告する外交文書を朝鮮に送った。大院君政権は従来どおり応接機関である東萊府で応対したが、文書の中に天皇の「皇」や「勅」の文字があったので、これらの文字は清の皇帝が用いるもので書契の格式に違反するとして受け取りを拒否した。朝鮮が清を宗主国としているためであった。
日本ではこの書契問題によって朝鮮が国書を受けとらないのは無礼である、という論調が強まった。中には木戸孝允のように武力に訴えてでも朝鮮に開国を迫るべきである、という意見も現れた。西郷隆盛は次第に士族の不満の捌け口として征韓もやむなし、と考えるようになり、いわゆる征韓論が台頭した。それに対して岩倉使節団として外国視察で世界情勢を観てきた大久保利通らは征韓は時期尚早と考え、征韓論に反対、両派の対立はやがて1877年の西南戦争へと向かうが、大久保らは征韓論そのものに反対したわけではなかった。
新国家の国際的権威を確立するためには、中国や朝鮮に対して優位な状況を作るべきであり、中国と朝鮮を弱体な国家であると一段低く見る思想は、すでに吉田松陰の思想にも見ることができ、伊藤博文や山県有朋など長州出身の明治政府の指導者の中にも色濃く流れていた。領土拡張におる国威発揚の姿勢は、早くも1874年5月の台湾出兵に現れている。 | 丙寅洋擾とは何ですか。 | 丙寅洋擾とは、朝鮮がフランスとアメリカの外圧をそれぞれ撃退したことです。1866年、大同江に侵入してきたアメリカの商船を焼き払ったシャーマン号事件と、朝鮮がフランス人宣教師2名を殺害したことに対してフランスは謝罪と開国を迫りましたが撃退された事件がありました。このふたつの事件をあわせて丙寅洋擾といいます。 |
JCRRAG_008486 | 歴史 | 朝鮮の開国
鎖国政策を採っていた朝鮮王朝は、1876年の日朝修好条規で日本との間で開国したが、清を宗主国とする関係は残っていた。欧米との交渉は遅れ、ようやく1882年のアメリカを初めとして86年までに英仏など主要国に対しても開国した。
朝鮮王朝(李朝)は1637年以来清朝より朝鮮国王として封ぜられ、清を宗主国として臣下の例をとっていた。日本(江戸幕府)とは1607年に国交を回復し、将軍の代替わりごとに朝鮮通信使を江戸に送ることを続けていた。ただし幕府の使節が都の漢城にはいることは許さなかった。それも1811年以後は両国の財政難から行われなくなっていた。その他の国に対しては小中華思想の影響もあって鎖国政策をとっていた。
大院君の攘夷成功
1830年代から強まった欧米列強の開国要求に対しては、朝鮮王朝は清朝を宗主国としているので独自には交渉できないという立場を取り、拒絶していた。1863年に国王高宗の父として実権を握った大院君は、衛正斥邪の思想に基づく保守的な拝外主義をもっており、鎖国政策を維持した。
丙寅洋擾 1866年には大院君政権の下で大規模なキリスト教弾圧が行われ、フランス人宣教師2名が殺害されると、フランスはその謝罪と同時に開国を要求して艦隊を江華島に派遣したが、大院君政権はそれを実力で撃退した。同年には大同江に侵入したアメリカの商船を焼き払ったシャーマン号事件も起こっており、このフランスとアメリカの外圧を撃退したことを丙寅洋擾といっている。1868年にはドイツ人オッペルトとフランス人宣教師フェロンらが大院君の父の南延君の墓をあばこうとして失敗するという事件も起こった。
辛未洋擾 1871年にはアメリカ艦隊がシャーマン号事件の謝罪と開国を要求して艦隊を派遣したが、それに対しても砲撃で応えた。アメリカ兵は江華島に上陸して砲台を占領しようとしたが反撃された。この戦闘ではアメリカ軍は死者3人であったが朝鮮側は53名だった。アメリカ側の記録では戦死者、溺死者400名を数えるとしている。大変な激戦であったことは間違いなく、アメリカの指揮官ロジャース少将らはペリー提督の日本遠征のときのように戦闘にはならないと考えていたので、朝鮮側の反撃が想定以上に激しいことに驚き、占領をあきらめ、7月3日に撤退した。この戦闘は辛未洋擾といわれている。<趙景達『近代朝鮮と日本』2012 岩波新書 p.36-37>
大院君は丙寅洋擾、辛未洋擾と立て続けに外国勢力の侵攻を撃退したことを記念し、各地に斥和碑を建て、夷狄と和することは売国であると戒めた。しかし朝鮮をとりまく国際情勢は大きく変化しつつあった。
鎖国朝鮮をとりまく状況
フランス、アメリカの開国要求を拒否した朝鮮であったが、1860年に清との間の北京条約で沿海州を獲得したロシアは、豆満江をはさんで朝鮮と国境を接することとなり、その半島への進出も始まった。イギリスはアフガニスタンなどで厳しくロシアと対立していたので、ロシアの東アジアへの進出に神経を尖らせていた。周辺諸国ではすでに宗主国の清は1842年の南京条約で開国しており、1854年には日本が開国していた。特に日本は1868年に明治維新を迎え近代国家への転身を開始していた。なお日本と清は1871年に日清修好条規を締結し国交関係を開始していた。こうして鎖国を続ける朝鮮の国際環境は徐々に厳しくなっていた。
明治政府の征韓論
そのような中でまず朝鮮に開国を迫ったのは日本だった。1868年12月、明治政府は津島藩を通して王政復古と新政府成立を通告する外交文書を朝鮮に送った。大院君政権は従来どおり応接機関である東萊府で応対したが、文書の中に天皇の「皇」や「勅」の文字があったので、これらの文字は清の皇帝が用いるもので書契の格式に違反するとして受け取りを拒否した。朝鮮が清を宗主国としているためであった。
日本ではこの書契問題によって朝鮮が国書を受けとらないのは無礼である、という論調が強まった。中には木戸孝允のように武力に訴えてでも朝鮮に開国を迫るべきである、という意見も現れた。西郷隆盛は次第に士族の不満の捌け口として征韓もやむなし、と考えるようになり、いわゆる征韓論が台頭した。それに対して岩倉使節団として外国視察で世界情勢を観てきた大久保利通らは征韓は時期尚早と考え、征韓論に反対、両派の対立はやがて1877年の西南戦争へと向かうが、大久保らは征韓論そのものに反対したわけではなかった。
新国家の国際的権威を確立するためには、中国や朝鮮に対して優位な状況を作るべきであり、中国と朝鮮を弱体な国家であると一段低く見る思想は、すでに吉田松陰の思想にも見ることができ、伊藤博文や山県有朋など長州出身の明治政府の指導者の中にも色濃く流れていた。領土拡張におる国威発揚の姿勢は、早くも1874年5月の台湾出兵に現れている。 | 台湾出兵が行われたのはいつですか。 | 台湾出兵が行われたのは1874年5月です。 |
JCRRAG_008487 | 歴史 | 朝鮮の開国
鎖国政策を採っていた朝鮮王朝は、1876年の日朝修好条規で日本との間で開国したが、清を宗主国とする関係は残っていた。欧米との交渉は遅れ、ようやく1882年のアメリカを初めとして86年までに英仏など主要国に対しても開国した。
朝鮮王朝(李朝)は1637年以来清朝より朝鮮国王として封ぜられ、清を宗主国として臣下の例をとっていた。日本(江戸幕府)とは1607年に国交を回復し、将軍の代替わりごとに朝鮮通信使を江戸に送ることを続けていた。ただし幕府の使節が都の漢城にはいることは許さなかった。それも1811年以後は両国の財政難から行われなくなっていた。その他の国に対しては小中華思想の影響もあって鎖国政策をとっていた。
大院君の攘夷成功
1830年代から強まった欧米列強の開国要求に対しては、朝鮮王朝は清朝を宗主国としているので独自には交渉できないという立場を取り、拒絶していた。1863年に国王高宗の父として実権を握った大院君は、衛正斥邪の思想に基づく保守的な拝外主義をもっており、鎖国政策を維持した。
丙寅洋擾 1866年には大院君政権の下で大規模なキリスト教弾圧が行われ、フランス人宣教師2名が殺害されると、フランスはその謝罪と同時に開国を要求して艦隊を江華島に派遣したが、大院君政権はそれを実力で撃退した。同年には大同江に侵入したアメリカの商船を焼き払ったシャーマン号事件も起こっており、このフランスとアメリカの外圧を撃退したことを丙寅洋擾といっている。1868年にはドイツ人オッペルトとフランス人宣教師フェロンらが大院君の父の南延君の墓をあばこうとして失敗するという事件も起こった。
辛未洋擾 1871年にはアメリカ艦隊がシャーマン号事件の謝罪と開国を要求して艦隊を派遣したが、それに対しても砲撃で応えた。アメリカ兵は江華島に上陸して砲台を占領しようとしたが反撃された。この戦闘ではアメリカ軍は死者3人であったが朝鮮側は53名だった。アメリカ側の記録では戦死者、溺死者400名を数えるとしている。大変な激戦であったことは間違いなく、アメリカの指揮官ロジャース少将らはペリー提督の日本遠征のときのように戦闘にはならないと考えていたので、朝鮮側の反撃が想定以上に激しいことに驚き、占領をあきらめ、7月3日に撤退した。この戦闘は辛未洋擾といわれている。<趙景達『近代朝鮮と日本』2012 岩波新書 p.36-37>
大院君は丙寅洋擾、辛未洋擾と立て続けに外国勢力の侵攻を撃退したことを記念し、各地に斥和碑を建て、夷狄と和することは売国であると戒めた。しかし朝鮮をとりまく国際情勢は大きく変化しつつあった。
鎖国朝鮮をとりまく状況
フランス、アメリカの開国要求を拒否した朝鮮であったが、1860年に清との間の北京条約で沿海州を獲得したロシアは、豆満江をはさんで朝鮮と国境を接することとなり、その半島への進出も始まった。イギリスはアフガニスタンなどで厳しくロシアと対立していたので、ロシアの東アジアへの進出に神経を尖らせていた。周辺諸国ではすでに宗主国の清は1842年の南京条約で開国しており、1854年には日本が開国していた。特に日本は1868年に明治維新を迎え近代国家への転身を開始していた。なお日本と清は1871年に日清修好条規を締結し国交関係を開始していた。こうして鎖国を続ける朝鮮の国際環境は徐々に厳しくなっていた。
明治政府の征韓論
そのような中でまず朝鮮に開国を迫ったのは日本だった。1868年12月、明治政府は津島藩を通して王政復古と新政府成立を通告する外交文書を朝鮮に送った。大院君政権は従来どおり応接機関である東萊府で応対したが、文書の中に天皇の「皇」や「勅」の文字があったので、これらの文字は清の皇帝が用いるもので書契の格式に違反するとして受け取りを拒否した。朝鮮が清を宗主国としているためであった。
日本ではこの書契問題によって朝鮮が国書を受けとらないのは無礼である、という論調が強まった。中には木戸孝允のように武力に訴えてでも朝鮮に開国を迫るべきである、という意見も現れた。西郷隆盛は次第に士族の不満の捌け口として征韓もやむなし、と考えるようになり、いわゆる征韓論が台頭した。それに対して岩倉使節団として外国視察で世界情勢を観てきた大久保利通らは征韓は時期尚早と考え、征韓論に反対、両派の対立はやがて1877年の西南戦争へと向かうが、大久保らは征韓論そのものに反対したわけではなかった。
新国家の国際的権威を確立するためには、中国や朝鮮に対して優位な状況を作るべきであり、中国と朝鮮を弱体な国家であると一段低く見る思想は、すでに吉田松陰の思想にも見ることができ、伊藤博文や山県有朋など長州出身の明治政府の指導者の中にも色濃く流れていた。領土拡張におる国威発揚の姿勢は、早くも1874年5月の台湾出兵に現れている。 | 1871年7月3日にアメリカの艦隊が朝鮮から撤退したのはなぜですか。 | 1871年7月3日にアメリカの艦隊が朝鮮から撤退したのは、朝鮮側の反撃が想定以上に激しく占領をあきらめたからです。アメリカは、シャーマン号事件の謝罪と開国を求めて朝鮮に艦隊を派遣しました。戦闘にはならないだろうとアメリカ側は考えていましたが、朝鮮の反撃が想定以上に激しく大変な激戦となったため、朝鮮の占領をあきらめて撤退しました。 |
JCRRAG_008488 | 歴史 | 朝鮮の開国
鎖国政策を採っていた朝鮮王朝は、1876年の日朝修好条規で日本との間で開国したが、清を宗主国とする関係は残っていた。欧米との交渉は遅れ、ようやく1882年のアメリカを初めとして86年までに英仏など主要国に対しても開国した。
朝鮮王朝(李朝)は1637年以来清朝より朝鮮国王として封ぜられ、清を宗主国として臣下の例をとっていた。日本(江戸幕府)とは1607年に国交を回復し、将軍の代替わりごとに朝鮮通信使を江戸に送ることを続けていた。ただし幕府の使節が都の漢城にはいることは許さなかった。それも1811年以後は両国の財政難から行われなくなっていた。その他の国に対しては小中華思想の影響もあって鎖国政策をとっていた。
大院君の攘夷成功
1830年代から強まった欧米列強の開国要求に対しては、朝鮮王朝は清朝を宗主国としているので独自には交渉できないという立場を取り、拒絶していた。1863年に国王高宗の父として実権を握った大院君は、衛正斥邪の思想に基づく保守的な拝外主義をもっており、鎖国政策を維持した。
丙寅洋擾 1866年には大院君政権の下で大規模なキリスト教弾圧が行われ、フランス人宣教師2名が殺害されると、フランスはその謝罪と同時に開国を要求して艦隊を江華島に派遣したが、大院君政権はそれを実力で撃退した。同年には大同江に侵入したアメリカの商船を焼き払ったシャーマン号事件も起こっており、このフランスとアメリカの外圧を撃退したことを丙寅洋擾といっている。1868年にはドイツ人オッペルトとフランス人宣教師フェロンらが大院君の父の南延君の墓をあばこうとして失敗するという事件も起こった。
辛未洋擾 1871年にはアメリカ艦隊がシャーマン号事件の謝罪と開国を要求して艦隊を派遣したが、それに対しても砲撃で応えた。アメリカ兵は江華島に上陸して砲台を占領しようとしたが反撃された。この戦闘ではアメリカ軍は死者3人であったが朝鮮側は53名だった。アメリカ側の記録では戦死者、溺死者400名を数えるとしている。大変な激戦であったことは間違いなく、アメリカの指揮官ロジャース少将らはペリー提督の日本遠征のときのように戦闘にはならないと考えていたので、朝鮮側の反撃が想定以上に激しいことに驚き、占領をあきらめ、7月3日に撤退した。この戦闘は辛未洋擾といわれている。<趙景達『近代朝鮮と日本』2012 岩波新書 p.36-37>
大院君は丙寅洋擾、辛未洋擾と立て続けに外国勢力の侵攻を撃退したことを記念し、各地に斥和碑を建て、夷狄と和することは売国であると戒めた。しかし朝鮮をとりまく国際情勢は大きく変化しつつあった。
鎖国朝鮮をとりまく状況
フランス、アメリカの開国要求を拒否した朝鮮であったが、1860年に清との間の北京条約で沿海州を獲得したロシアは、豆満江をはさんで朝鮮と国境を接することとなり、その半島への進出も始まった。イギリスはアフガニスタンなどで厳しくロシアと対立していたので、ロシアの東アジアへの進出に神経を尖らせていた。周辺諸国ではすでに宗主国の清は1842年の南京条約で開国しており、1854年には日本が開国していた。特に日本は1868年に明治維新を迎え近代国家への転身を開始していた。なお日本と清は1871年に日清修好条規を締結し国交関係を開始していた。こうして鎖国を続ける朝鮮の国際環境は徐々に厳しくなっていた。
明治政府の征韓論
そのような中でまず朝鮮に開国を迫ったのは日本だった。1868年12月、明治政府は津島藩を通して王政復古と新政府成立を通告する外交文書を朝鮮に送った。大院君政権は従来どおり応接機関である東萊府で応対したが、文書の中に天皇の「皇」や「勅」の文字があったので、これらの文字は清の皇帝が用いるもので書契の格式に違反するとして受け取りを拒否した。朝鮮が清を宗主国としているためであった。
日本ではこの書契問題によって朝鮮が国書を受けとらないのは無礼である、という論調が強まった。中には木戸孝允のように武力に訴えてでも朝鮮に開国を迫るべきである、という意見も現れた。西郷隆盛は次第に士族の不満の捌け口として征韓もやむなし、と考えるようになり、いわゆる征韓論が台頭した。それに対して岩倉使節団として外国視察で世界情勢を観てきた大久保利通らは征韓は時期尚早と考え、征韓論に反対、両派の対立はやがて1877年の西南戦争へと向かうが、大久保らは征韓論そのものに反対したわけではなかった。
新国家の国際的権威を確立するためには、中国や朝鮮に対して優位な状況を作るべきであり、中国と朝鮮を弱体な国家であると一段低く見る思想は、すでに吉田松陰の思想にも見ることができ、伊藤博文や山県有朋など長州出身の明治政府の指導者の中にも色濃く流れていた。領土拡張におる国威発揚の姿勢は、早くも1874年5月の台湾出兵に現れている。 | 明治政府が王政復古と新政府成立を通告する外交文書を朝鮮に送ったのはいつで、朝鮮がその文書を受け取らなかったのはなぜですか。 | 明治政府が王政復古と新政府成立を通告する外交文書を朝鮮に送ったのは1868年12月で、朝鮮がその文書を受け取らなかったのは、宗主国である清の皇帝が用いる「皇」や「勅」の文字が文書にあり書契の格式に違反するとしたからです。 |
JCRRAG_008489 | 歴史 | 朝鮮の開国
鎖国政策を採っていた朝鮮王朝は、1876年の日朝修好条規で日本との間で開国したが、清を宗主国とする関係は残っていた。欧米との交渉は遅れ、ようやく1882年のアメリカを初めとして86年までに英仏など主要国に対しても開国した。
朝鮮王朝(李朝)は1637年以来清朝より朝鮮国王として封ぜられ、清を宗主国として臣下の例をとっていた。日本(江戸幕府)とは1607年に国交を回復し、将軍の代替わりごとに朝鮮通信使を江戸に送ることを続けていた。ただし幕府の使節が都の漢城にはいることは許さなかった。それも1811年以後は両国の財政難から行われなくなっていた。その他の国に対しては小中華思想の影響もあって鎖国政策をとっていた。
大院君の攘夷成功
1830年代から強まった欧米列強の開国要求に対しては、朝鮮王朝は清朝を宗主国としているので独自には交渉できないという立場を取り、拒絶していた。1863年に国王高宗の父として実権を握った大院君は、衛正斥邪の思想に基づく保守的な拝外主義をもっており、鎖国政策を維持した。
丙寅洋擾 1866年には大院君政権の下で大規模なキリスト教弾圧が行われ、フランス人宣教師2名が殺害されると、フランスはその謝罪と同時に開国を要求して艦隊を江華島に派遣したが、大院君政権はそれを実力で撃退した。同年には大同江に侵入したアメリカの商船を焼き払ったシャーマン号事件も起こっており、このフランスとアメリカの外圧を撃退したことを丙寅洋擾といっている。1868年にはドイツ人オッペルトとフランス人宣教師フェロンらが大院君の父の南延君の墓をあばこうとして失敗するという事件も起こった。
辛未洋擾 1871年にはアメリカ艦隊がシャーマン号事件の謝罪と開国を要求して艦隊を派遣したが、それに対しても砲撃で応えた。アメリカ兵は江華島に上陸して砲台を占領しようとしたが反撃された。この戦闘ではアメリカ軍は死者3人であったが朝鮮側は53名だった。アメリカ側の記録では戦死者、溺死者400名を数えるとしている。大変な激戦であったことは間違いなく、アメリカの指揮官ロジャース少将らはペリー提督の日本遠征のときのように戦闘にはならないと考えていたので、朝鮮側の反撃が想定以上に激しいことに驚き、占領をあきらめ、7月3日に撤退した。この戦闘は辛未洋擾といわれている。<趙景達『近代朝鮮と日本』2012 岩波新書 p.36-37>
大院君は丙寅洋擾、辛未洋擾と立て続けに外国勢力の侵攻を撃退したことを記念し、各地に斥和碑を建て、夷狄と和することは売国であると戒めた。しかし朝鮮をとりまく国際情勢は大きく変化しつつあった。
鎖国朝鮮をとりまく状況
フランス、アメリカの開国要求を拒否した朝鮮であったが、1860年に清との間の北京条約で沿海州を獲得したロシアは、豆満江をはさんで朝鮮と国境を接することとなり、その半島への進出も始まった。イギリスはアフガニスタンなどで厳しくロシアと対立していたので、ロシアの東アジアへの進出に神経を尖らせていた。周辺諸国ではすでに宗主国の清は1842年の南京条約で開国しており、1854年には日本が開国していた。特に日本は1868年に明治維新を迎え近代国家への転身を開始していた。なお日本と清は1871年に日清修好条規を締結し国交関係を開始していた。こうして鎖国を続ける朝鮮の国際環境は徐々に厳しくなっていた。
明治政府の征韓論
そのような中でまず朝鮮に開国を迫ったのは日本だった。1868年12月、明治政府は津島藩を通して王政復古と新政府成立を通告する外交文書を朝鮮に送った。大院君政権は従来どおり応接機関である東萊府で応対したが、文書の中に天皇の「皇」や「勅」の文字があったので、これらの文字は清の皇帝が用いるもので書契の格式に違反するとして受け取りを拒否した。朝鮮が清を宗主国としているためであった。
日本ではこの書契問題によって朝鮮が国書を受けとらないのは無礼である、という論調が強まった。中には木戸孝允のように武力に訴えてでも朝鮮に開国を迫るべきである、という意見も現れた。西郷隆盛は次第に士族の不満の捌け口として征韓もやむなし、と考えるようになり、いわゆる征韓論が台頭した。それに対して岩倉使節団として外国視察で世界情勢を観てきた大久保利通らは征韓は時期尚早と考え、征韓論に反対、両派の対立はやがて1877年の西南戦争へと向かうが、大久保らは征韓論そのものに反対したわけではなかった。
新国家の国際的権威を確立するためには、中国や朝鮮に対して優位な状況を作るべきであり、中国と朝鮮を弱体な国家であると一段低く見る思想は、すでに吉田松陰の思想にも見ることができ、伊藤博文や山県有朋など長州出身の明治政府の指導者の中にも色濃く流れていた。領土拡張におる国威発揚の姿勢は、早くも1874年5月の台湾出兵に現れている。 | 大院君政権の下で大規模なキリスト教弾圧が行われたのは何年ですか。 | 大院君政権の下で大規模なキリスト教弾圧が行われたのは、1866年です。 |
JCRRAG_008490 | 歴史 | 富山十万石の二代目藩主・前田正甫は、質実剛健を尊び自らも、くすりの調合を行うという名君でした。元禄3年(1690年)正甫公が参勤で江戸城に登城したおり、福島の岩代三春城主・秋田河内守が腹痛を起こし、苦しむのを見て、印籠から「反魂丹」を取り出して飲ませたところ、たちまち平癒しました。
この光景を目の当たりにした諸国の藩主たちは、その薬効に驚き、各自の領内で「反魂丹」を売り広めてくれるよう正甫公に頼みました。
この事件が「おきぐすり」(配置販売業)の発祥とされています。
正甫公は、領地から出て全国どこででも商売ができる「他領商売勝手」を発布。同時に富山城下の薬種商・松井屋源右衛門にくすりを調製させ、八重崎屋源六に依頼して諸国を行商させました。
源六は、「用を先に利を後にせよ」という正甫公の精神に従い、良家の子弟の中から身体強健、品行方正な者を選び、各地の大庄屋を巡ってくすりを配置させました。そして、毎年周期的に巡回して未使用の残品を引き取り、新品と置き換え、服用した薬に対してのみ謝礼金を受け取ることにしました。
こうして、現在のクレジットとリース制を一緒にしたような「先用後利」の画期的な販売システムが登場したのです。
ちなみに、「反魂丹」は備前の医師・万代常閑の先祖が、堺浦に漂着した唐人からその秘法を授かって作ったもので、正甫公自身が腹痛を起こした時に服用して平癒したという妙薬。正甫公は「人の病患を救う妙薬を秘しておくことは惜しい」と、天和3年(1683年) に常閑を招いてその処方の伝授を受けたとされています。
正甫公の「用を先に利を後にせよ」という精神から生まれた「おきぐすりの先用後利」販売システムは、当時としてはかなり画期的な商法でした。
山河を越えて行く道中には山賊や盗賊の危険もあるでしょう。宿泊費や交通費も馬鹿になりません。しかも、たどり着いた旅先で必ずくすりを買ってくれるという保証もありません。言葉や習慣の違いも当然あります。利益を得るために長い年月がかかり、資金の回転も困難です。
こうした悪条件だらけの中、不安や迷いを断ち切ってスタートしたのですから、しっかりとした「商いの理念」がバックボーンとしてあったに違いありません。江戸時代から第二次世界大戦の頃まで、薬売りたちは、そのほとんどが真宗信者で、懐や行李の底に小さな仏像を納めて、全国を歩き回っていました。
「仏が照らしてくださる。見ていてくださる。聞いてくださる。決してひとりぼっちじゃない」
と、心に念じることで、苦が苦にならず、死をも恐れない強い精神を作っていました。同時に、背中に仏を意識することで「仏の願いにしたがって顧客にくすりのご利益を与える。顧客は病気が治るというご利益に対して感謝の気持ちとして代金を支払う。それがくすりを与えた者に利益となって返ってくる」と考えていました。
こうした商法は、顧客との間に「互いに利を分かち合う真心と感謝の結びつき」をより強固なものにし、人間関係が永続するという効果 をもたらしました。
「一代限りと思うな。孫の代まで続けるという心がけで、真心をこめて対応し、誠を尽くそう」
くすり売りの間で、親から子へ、子から孫へ、代々語り継がれてきた言葉ですが、これを実践するために打ち出されたのが「信用三本柱」です。
三本柱とは「商いの信用」、「くすりの信用」、そしてもうひとつが「人の信用」です。
「商いの信用」の基本は、顧客との間にトラブルを起こさず、不正な商いをしないということです。一円の勘定も誤りなく正確に取引することで信頼関係が生まれます。
「くすりの信用」は、有効で安全な品質の高いくすりを提供することです。そのために、絶えず顧客の求めるくすりをリサーチし、品質開発に努めなければなりません。
「人の信用」はもっとも重視されました。顧客の悩み相談に乗って、適切なアドバイスを行ったり、励ましたりすることで信頼関係が作られています。
「くすりを売るのではなく、人間を売れ。顧客は人間を見てくすりの信用、イメージをつくる」という考え方が、人材開発を促し、くすりの量産化につながり、販売の拡大をもたらしたのです。
江戸時代に始まり、多くの販売員の努力によって、全国に確かな地位 を築いていった「おきぐすり」ですが、その歴史は苦難の連続でした。
最初の大きな苦難は明治維新と同時に訪れました。中央集権体制をめざす明治政府の医薬行政は、西洋医学に基づく製薬の発展を期待し、漢方医学を根拠とし長い間、信用をかち取ってきた「おきぐすり」を滅亡の危機に立たせました。
医療医薬の近代化を進める政府は、なかなか改革の成果のあがらない「おきぐすり」に対して、次第に懲罰的な厳しい政策をとるようになりました。
明治3年(1870年)12月には「売薬取締規則」が発布され、旧幕府の医学所であった大学東校での検査を受けて免状をもらわなければ営業できないことになりました。 また、開発された有効なくすりは7年間の専売を認めるという項目を設け、商品の改善を迫ってきました。
明治10年(1877年)には、「売薬規則」によって売薬営業税や鑑札料などの税を定めて、売薬業界への圧力を強めました。さらに、明治政府は、西南戦争により財政の困難を補うことと「無害無能で日用の必要品でない売薬が莫大な利益をあげている」との理由で、明治16年1月から売薬印紙税を課してきました。これは、すべてのくすりに定価を付記し、その1割の額面 の収入印紙を貼らせることにしたもので売薬税とあわせ、業者には致命的な打撃となりました。
この売薬印紙税は、40数年後の大正15年になってようやく廃止されましたが、その後も、昭和初年の経済恐慌、太平洋戦争の敗戦など苦難の歴史は続きました。
昭和22年、戦時中の売薬統制が解かれ、自由にくすりを製造し、配置できるようになり、「おきぐすり」の製造や販売の組織づくりが行われましたが、戦後のインフレの影響で経営は苦境にたたされました。
昭和30年代に入ると、薬業界全体の生産が活発になり、著しい伸びを示しましたが、昭和36年から始まった国民皆保険制の実施で、国民はちょっとした病気でも医者にかかるようになり、このため国民医療費の増大という新たな財政上の問題も浮上して参りました。
こうした状況の中、軽い病気は自分で治すというセルフメディケーション(自己治療)の考えが徐々に浸透。くすりや医学の情報、知識が豊富な現代人の健康管理に「おきぐすり」が一役買っています。
おきぐすり」の配置員を売薬さんと呼んでいた時代、かれらは柳行李の中に、くすりや紙風船などを詰め、全国津々浦々を回って商いをしていました。各家庭を訪問するときに必要な顧客名簿を持っていましたが、これを懸場帳(得意帳)といって代々大切に受け継がれていました。懸場帳(得意帳)には、得意先の住所、氏名、配置したくすりの銘柄、数量、前回までの使用料、訪問日などが詳しく書かれています。これは各家庭の健康管理を行う総合データベースの役割を果たしていました。現在では、柳行李がバックに変わり、懸場帳(得意帳)が携帯端末などに代わってきています。 | 富山藩主・前田正甫は、福島の岩代三春城主・秋田河内守が腹痛を起こし、苦しむのを見て、印籠から取り出して飲ませたものは何ですか。 | 前田正甫が取り出して飲ませたものは、「反魂丹」です。 |
JCRRAG_008491 | 歴史 | 富山十万石の二代目藩主・前田正甫は、質実剛健を尊び自らも、くすりの調合を行うという名君でした。元禄3年(1690年)正甫公が参勤で江戸城に登城したおり、福島の岩代三春城主・秋田河内守が腹痛を起こし、苦しむのを見て、印籠から「反魂丹」を取り出して飲ませたところ、たちまち平癒しました。
この光景を目の当たりにした諸国の藩主たちは、その薬効に驚き、各自の領内で「反魂丹」を売り広めてくれるよう正甫公に頼みました。
この事件が「おきぐすり」(配置販売業)の発祥とされています。
正甫公は、領地から出て全国どこででも商売ができる「他領商売勝手」を発布。同時に富山城下の薬種商・松井屋源右衛門にくすりを調製させ、八重崎屋源六に依頼して諸国を行商させました。
源六は、「用を先に利を後にせよ」という正甫公の精神に従い、良家の子弟の中から身体強健、品行方正な者を選び、各地の大庄屋を巡ってくすりを配置させました。そして、毎年周期的に巡回して未使用の残品を引き取り、新品と置き換え、服用した薬に対してのみ謝礼金を受け取ることにしました。
こうして、現在のクレジットとリース制を一緒にしたような「先用後利」の画期的な販売システムが登場したのです。
ちなみに、「反魂丹」は備前の医師・万代常閑の先祖が、堺浦に漂着した唐人からその秘法を授かって作ったもので、正甫公自身が腹痛を起こした時に服用して平癒したという妙薬。正甫公は「人の病患を救う妙薬を秘しておくことは惜しい」と、天和3年(1683年) に常閑を招いてその処方の伝授を受けたとされています。
富山十万石の二代目藩主・前田正甫の「用を先に利を後にせよ」という精神から生まれた「おきぐすりの先用後利」販売システムは、当時としてはかなり画期的な商法でした。
山河を越えて行く道中には山賊や盗賊の危険もあるでしょう。宿泊費や交通費も馬鹿になりません。しかも、たどり着いた旅先で必ずくすりを買ってくれるという保証もありません。言葉や習慣の違いも当然あります。利益を得るために長い年月がかかり、資金の回転も困難です。
こうした悪条件だらけの中、不安や迷いを断ち切ってスタートしたのですから、しっかりとした「商いの理念」がバックボーンとしてあったに違いありません。江戸時代から第二次世界大戦の頃まで、薬売りたちは、そのほとんどが真宗信者で、懐や行李の底に小さな仏像を納めて、全国を歩き回っていました。
「仏が照らしてくださる。見ていてくださる。聞いてくださる。決してひとりぼっちじゃない」
と、心に念じることで、苦が苦にならず、死をも恐れない強い精神を作っていました。同時に、背中に仏を意識することで「仏の願いにしたがって顧客にくすりのご利益を与える。顧客は病気が治るというご利益に対して感謝の気持ちとして代金を支払う。それがくすりを与えた者に利益となって返ってくる」と考えていました。
こうした商法は、顧客との間に「互いに利を分かち合う真心と感謝の結びつき」をより強固なものにし、人間関係が永続するという効果 をもたらしました。
「一代限りと思うな。孫の代まで続けるという心がけで、真心をこめて対応し、誠を尽くそう」
くすり売りの間で、親から子へ、子から孫へ、代々語り継がれてきた言葉ですが、これを実践するために打ち出されたのが「信用三本柱」です。
三本柱とは「商いの信用」、「くすりの信用」、そしてもうひとつが「人の信用」です。
「商いの信用」の基本は、顧客との間にトラブルを起こさず、不正な商いをしないということです。一円の勘定も誤りなく正確に取引することで信頼関係が生まれます。
「くすりの信用」は、有効で安全な品質の高いくすりを提供することです。そのために、絶えず顧客の求めるくすりをリサーチし、品質開発に努めなければなりません。
「人の信用」はもっとも重視されました。顧客の悩み相談に乗って、適切なアドバイスを行ったり、励ましたりすることで信頼関係が作られています。
「くすりを売るのではなく、人間を売れ。顧客は人間を見てくすりの信用、イメージをつくる」という考え方が、人材開発を促し、くすりの量産化につながり、販売の拡大をもたらしたのです。
江戸時代に始まり、多くの販売員の努力によって、全国に確かな地位 を築いていった「おきぐすり」ですが、その歴史は苦難の連続でした。
最初の大きな苦難は明治維新と同時に訪れました。中央集権体制をめざす明治政府の医薬行政は、西洋医学に基づく製薬の発展を期待し、漢方医学を根拠とし長い間、信用をかち取ってきた「おきぐすり」を滅亡の危機に立たせました。
医療医薬の近代化を進める政府は、なかなか改革の成果のあがらない「おきぐすり」に対して、次第に懲罰的な厳しい政策をとるようになりました。
明治3年(1870年)12月には「売薬取締規則」が発布され、旧幕府の医学所であった大学東校での検査を受けて免状をもらわなければ営業できないことになりました。 また、開発された有効なくすりは7年間の専売を認めるという項目を設け、商品の改善を迫ってきました。
明治10年(1877年)には、「売薬規則」によって売薬営業税や鑑札料などの税を定めて、売薬業界への圧力を強めました。さらに、明治政府は、西南戦争により財政の困難を補うことと「無害無能で日用の必要品でない売薬が莫大な利益をあげている」との理由で、明治16年1月から売薬印紙税を課してきました。これは、すべてのくすりに定価を付記し、その1割の額面 の収入印紙を貼らせることにしたもので売薬税とあわせ、業者には致命的な打撃となりました。
この売薬印紙税は、40数年後の大正15年になってようやく廃止されましたが、その後も、昭和初年の経済恐慌、太平洋戦争の敗戦など苦難の歴史は続きました。
昭和22年、戦時中の売薬統制が解かれ、自由にくすりを製造し、配置できるようになり、「おきぐすり」の製造や販売の組織づくりが行われましたが、戦後のインフレの影響で経営は苦境にたたされました。
昭和30年代に入ると、薬業界全体の生産が活発になり、著しい伸びを示しましたが、昭和36年から始まった国民皆保険制の実施で、国民はちょっとした病気でも医者にかかるようになり、このため国民医療費の増大という新たな財政上の問題も浮上して参りました。
こうした状況の中、軽い病気は自分で治すというセルフメディケーション(自己治療)の考えが徐々に浸透。くすりや医学の情報、知識が豊富な現代人の健康管理に「おきぐすり」が一役買っています。
おきぐすり」の配置員を売薬さんと呼んでいた時代、かれらは柳行李の中に、くすりや紙風船などを詰め、全国津々浦々を回って商いをしていました。各家庭を訪問するときに必要な顧客名簿を持っていましたが、これを懸場帳(得意帳)といって代々大切に受け継がれていました。懸場帳(得意帳)には、得意先の住所、氏名、配置したくすりの銘柄、数量、前回までの使用料、訪問日などが詳しく書かれています。これは各家庭の健康管理を行う総合データベースの役割を果たしていました。現在では、柳行李がバックに変わり、懸場帳(得意帳)が携帯端末などに代わってきています。 | 江戸時代から第二次世界大戦の頃まで、薬売りたちのほとんどが何宗の信者で、懐や行李の底に何を納めていましたか。 | 薬売りたちのほとんどは、真宗の信者で、懐や行李の底に小さな仏像を納めていました。 |
JCRRAG_008492 | 歴史 | 富山十万石の二代目藩主・前田正甫は、質実剛健を尊び自らも、くすりの調合を行うという名君でした。元禄3年(1690年)正甫公が参勤で江戸城に登城したおり、福島の岩代三春城主・秋田河内守が腹痛を起こし、苦しむのを見て、印籠から「反魂丹」を取り出して飲ませたところ、たちまち平癒しました。
この光景を目の当たりにした諸国の藩主たちは、その薬効に驚き、各自の領内で「反魂丹」を売り広めてくれるよう正甫公に頼みました。
この事件が「おきぐすり」(配置販売業)の発祥とされています。
正甫公は、領地から出て全国どこででも商売ができる「他領商売勝手」を発布。同時に富山城下の薬種商・松井屋源右衛門にくすりを調製させ、八重崎屋源六に依頼して諸国を行商させました。
源六は、「用を先に利を後にせよ」という正甫公の精神に従い、良家の子弟の中から身体強健、品行方正な者を選び、各地の大庄屋を巡ってくすりを配置させました。そして、毎年周期的に巡回して未使用の残品を引き取り、新品と置き換え、服用した薬に対してのみ謝礼金を受け取ることにしました。
こうして、現在のクレジットとリース制を一緒にしたような「先用後利」の画期的な販売システムが登場したのです。
ちなみに、「反魂丹」は備前の医師・万代常閑の先祖が、堺浦に漂着した唐人からその秘法を授かって作ったもので、正甫公自身が腹痛を起こした時に服用して平癒したという妙薬。正甫公は「人の病患を救う妙薬を秘しておくことは惜しい」と、天和3年(1683年) に常閑を招いてその処方の伝授を受けたとされています。
富山十万石の二代目藩主・前田正甫の「用を先に利を後にせよ」という精神から生まれた「おきぐすりの先用後利」販売システムは、当時としてはかなり画期的な商法でした。
山河を越えて行く道中には山賊や盗賊の危険もあるでしょう。宿泊費や交通費も馬鹿になりません。しかも、たどり着いた旅先で必ずくすりを買ってくれるという保証もありません。言葉や習慣の違いも当然あります。利益を得るために長い年月がかかり、資金の回転も困難です。
こうした悪条件だらけの中、不安や迷いを断ち切ってスタートしたのですから、しっかりとした「商いの理念」がバックボーンとしてあったに違いありません。江戸時代から第二次世界大戦の頃まで、薬売りたちは、そのほとんどが真宗信者で、懐や行李の底に小さな仏像を納めて、全国を歩き回っていました。
「仏が照らしてくださる。見ていてくださる。聞いてくださる。決してひとりぼっちじゃない」
と、心に念じることで、苦が苦にならず、死をも恐れない強い精神を作っていました。同時に、背中に仏を意識することで「仏の願いにしたがって顧客にくすりのご利益を与える。顧客は病気が治るというご利益に対して感謝の気持ちとして代金を支払う。それがくすりを与えた者に利益となって返ってくる」と考えていました。
こうした商法は、顧客との間に「互いに利を分かち合う真心と感謝の結びつき」をより強固なものにし、人間関係が永続するという効果 をもたらしました。
「一代限りと思うな。孫の代まで続けるという心がけで、真心をこめて対応し、誠を尽くそう」
くすり売りの間で、親から子へ、子から孫へ、代々語り継がれてきた言葉ですが、これを実践するために打ち出されたのが「信用三本柱」です。
三本柱とは「商いの信用」、「くすりの信用」、そしてもうひとつが「人の信用」です。
「商いの信用」の基本は、顧客との間にトラブルを起こさず、不正な商いをしないということです。一円の勘定も誤りなく正確に取引することで信頼関係が生まれます。
「くすりの信用」は、有効で安全な品質の高いくすりを提供することです。そのために、絶えず顧客の求めるくすりをリサーチし、品質開発に努めなければなりません。
「人の信用」はもっとも重視されました。顧客の悩み相談に乗って、適切なアドバイスを行ったり、励ましたりすることで信頼関係が作られています。
「くすりを売るのではなく、人間を売れ。顧客は人間を見てくすりの信用、イメージをつくる」という考え方が、人材開発を促し、くすりの量産化につながり、販売の拡大をもたらしたのです。
江戸時代に始まり、多くの販売員の努力によって、全国に確かな地位 を築いていった「おきぐすり」ですが、その歴史は苦難の連続でした。
最初の大きな苦難は明治維新と同時に訪れました。中央集権体制をめざす明治政府の医薬行政は、西洋医学に基づく製薬の発展を期待し、漢方医学を根拠とし長い間、信用をかち取ってきた「おきぐすり」を滅亡の危機に立たせました。
医療医薬の近代化を進める政府は、なかなか改革の成果のあがらない「おきぐすり」に対して、次第に懲罰的な厳しい政策をとるようになりました。
明治3年(1870年)12月には「売薬取締規則」が発布され、旧幕府の医学所であった大学東校での検査を受けて免状をもらわなければ営業できないことになりました。 また、開発された有効なくすりは7年間の専売を認めるという項目を設け、商品の改善を迫ってきました。
明治10年(1877年)には、「売薬規則」によって売薬営業税や鑑札料などの税を定めて、売薬業界への圧力を強めました。さらに、明治政府は、西南戦争により財政の困難を補うことと「無害無能で日用の必要品でない売薬が莫大な利益をあげている」との理由で、明治16年1月から売薬印紙税を課してきました。これは、すべてのくすりに定価を付記し、その1割の額面 の収入印紙を貼らせることにしたもので売薬税とあわせ、業者には致命的な打撃となりました。
この売薬印紙税は、40数年後の大正15年になってようやく廃止されましたが、その後も、昭和初年の経済恐慌、太平洋戦争の敗戦など苦難の歴史は続きました。
昭和22年、戦時中の売薬統制が解かれ、自由にくすりを製造し、配置できるようになり、「おきぐすり」の製造や販売の組織づくりが行われましたが、戦後のインフレの影響で経営は苦境にたたされました。
昭和30年代に入ると、薬業界全体の生産が活発になり、著しい伸びを示しましたが、昭和36年から始まった国民皆保険制の実施で、国民はちょっとした病気でも医者にかかるようになり、このため国民医療費の増大という新たな財政上の問題も浮上して参りました。
こうした状況の中、軽い病気は自分で治すというセルフメディケーション(自己治療)の考えが徐々に浸透。くすりや医学の情報、知識が豊富な現代人の健康管理に「おきぐすり」が一役買っています。
おきぐすり」の配置員を売薬さんと呼んでいた時代、かれらは柳行李の中に、くすりや紙風船などを詰め、全国津々浦々を回って商いをしていました。各家庭を訪問するときに必要な顧客名簿を持っていましたが、これを懸場帳(得意帳)といって代々大切に受け継がれていました。懸場帳(得意帳)には、得意先の住所、氏名、配置したくすりの銘柄、数量、前回までの使用料、訪問日などが詳しく書かれています。これは各家庭の健康管理を行う総合データベースの役割を果たしていました。現在では、柳行李がバックに変わり、懸場帳(得意帳)が携帯端末などに代わってきています。 | 「信用三本柱」とは何で、もっとも重視されたのは何ですか。 | 「信用三本柱」とは、「商いの信用」、「くすりの信用」、「人の信用」で、もっとも重視されたのは、「人の信用」です。 |
JCRRAG_008493 | 歴史 | 富山十万石の二代目藩主・前田正甫は、質実剛健を尊び自らも、くすりの調合を行うという名君でした。元禄3年(1690年)正甫公が参勤で江戸城に登城したおり、福島の岩代三春城主・秋田河内守が腹痛を起こし、苦しむのを見て、印籠から「反魂丹」を取り出して飲ませたところ、たちまち平癒しました。
この光景を目の当たりにした諸国の藩主たちは、その薬効に驚き、各自の領内で「反魂丹」を売り広めてくれるよう正甫公に頼みました。
この事件が「おきぐすり」(配置販売業)の発祥とされています。
正甫公は、領地から出て全国どこででも商売ができる「他領商売勝手」を発布。同時に富山城下の薬種商・松井屋源右衛門にくすりを調製させ、八重崎屋源六に依頼して諸国を行商させました。
源六は、「用を先に利を後にせよ」という正甫公の精神に従い、良家の子弟の中から身体強健、品行方正な者を選び、各地の大庄屋を巡ってくすりを配置させました。そして、毎年周期的に巡回して未使用の残品を引き取り、新品と置き換え、服用した薬に対してのみ謝礼金を受け取ることにしました。
こうして、現在のクレジットとリース制を一緒にしたような「先用後利」の画期的な販売システムが登場したのです。
ちなみに、「反魂丹」は備前の医師・万代常閑の先祖が、堺浦に漂着した唐人からその秘法を授かって作ったもので、正甫公自身が腹痛を起こした時に服用して平癒したという妙薬。正甫公は「人の病患を救う妙薬を秘しておくことは惜しい」と、天和3年(1683年) に常閑を招いてその処方の伝授を受けたとされています。
富山十万石の二代目藩主・前田正甫の「用を先に利を後にせよ」という精神から生まれた「おきぐすりの先用後利」販売システムは、当時としてはかなり画期的な商法でした。
山河を越えて行く道中には山賊や盗賊の危険もあるでしょう。宿泊費や交通費も馬鹿になりません。しかも、たどり着いた旅先で必ずくすりを買ってくれるという保証もありません。言葉や習慣の違いも当然あります。利益を得るために長い年月がかかり、資金の回転も困難です。
こうした悪条件だらけの中、不安や迷いを断ち切ってスタートしたのですから、しっかりとした「商いの理念」がバックボーンとしてあったに違いありません。江戸時代から第二次世界大戦の頃まで、薬売りたちは、そのほとんどが真宗信者で、懐や行李の底に小さな仏像を納めて、全国を歩き回っていました。
「仏が照らしてくださる。見ていてくださる。聞いてくださる。決してひとりぼっちじゃない」
と、心に念じることで、苦が苦にならず、死をも恐れない強い精神を作っていました。同時に、背中に仏を意識することで「仏の願いにしたがって顧客にくすりのご利益を与える。顧客は病気が治るというご利益に対して感謝の気持ちとして代金を支払う。それがくすりを与えた者に利益となって返ってくる」と考えていました。
こうした商法は、顧客との間に「互いに利を分かち合う真心と感謝の結びつき」をより強固なものにし、人間関係が永続するという効果 をもたらしました。
「一代限りと思うな。孫の代まで続けるという心がけで、真心をこめて対応し、誠を尽くそう」
くすり売りの間で、親から子へ、子から孫へ、代々語り継がれてきた言葉ですが、これを実践するために打ち出されたのが「信用三本柱」です。
三本柱とは「商いの信用」、「くすりの信用」、そしてもうひとつが「人の信用」です。
「商いの信用」の基本は、顧客との間にトラブルを起こさず、不正な商いをしないということです。一円の勘定も誤りなく正確に取引することで信頼関係が生まれます。
「くすりの信用」は、有効で安全な品質の高いくすりを提供することです。そのために、絶えず顧客の求めるくすりをリサーチし、品質開発に努めなければなりません。
「人の信用」はもっとも重視されました。顧客の悩み相談に乗って、適切なアドバイスを行ったり、励ましたりすることで信頼関係が作られています。
「くすりを売るのではなく、人間を売れ。顧客は人間を見てくすりの信用、イメージをつくる」という考え方が、人材開発を促し、くすりの量産化につながり、販売の拡大をもたらしたのです。
江戸時代に始まり、多くの販売員の努力によって、全国に確かな地位 を築いていった「おきぐすり」ですが、その歴史は苦難の連続でした。
最初の大きな苦難は明治維新と同時に訪れました。中央集権体制をめざす明治政府の医薬行政は、西洋医学に基づく製薬の発展を期待し、漢方医学を根拠とし長い間、信用をかち取ってきた「おきぐすり」を滅亡の危機に立たせました。
医療医薬の近代化を進める政府は、なかなか改革の成果のあがらない「おきぐすり」に対して、次第に懲罰的な厳しい政策をとるようになりました。
明治3年(1870年)12月には「売薬取締規則」が発布され、旧幕府の医学所であった大学東校での検査を受けて免状をもらわなければ営業できないことになりました。 また、開発された有効なくすりは7年間の専売を認めるという項目を設け、商品の改善を迫ってきました。
明治10年(1877年)には、「売薬規則」によって売薬営業税や鑑札料などの税を定めて、売薬業界への圧力を強めました。さらに、明治政府は、西南戦争により財政の困難を補うことと「無害無能で日用の必要品でない売薬が莫大な利益をあげている」との理由で、明治16年1月から売薬印紙税を課してきました。これは、すべてのくすりに定価を付記し、その1割の額面 の収入印紙を貼らせることにしたもので売薬税とあわせ、業者には致命的な打撃となりました。
この売薬印紙税は、40数年後の大正15年になってようやく廃止されましたが、その後も、昭和初年の経済恐慌、太平洋戦争の敗戦など苦難の歴史は続きました。
昭和22年、戦時中の売薬統制が解かれ、自由にくすりを製造し、配置できるようになり、「おきぐすり」の製造や販売の組織づくりが行われましたが、戦後のインフレの影響で経営は苦境にたたされました。
昭和30年代に入ると、薬業界全体の生産が活発になり、著しい伸びを示しましたが、昭和36年から始まった国民皆保険制の実施で、国民はちょっとした病気でも医者にかかるようになり、このため国民医療費の増大という新たな財政上の問題も浮上して参りました。
こうした状況の中、軽い病気は自分で治すというセルフメディケーション(自己治療)の考えが徐々に浸透。くすりや医学の情報、知識が豊富な現代人の健康管理に「おきぐすり」が一役買っています。
おきぐすり」の配置員を売薬さんと呼んでいた時代、かれらは柳行李の中に、くすりや紙風船などを詰め、全国津々浦々を回って商いをしていました。各家庭を訪問するときに必要な顧客名簿を持っていましたが、これを懸場帳(得意帳)といって代々大切に受け継がれていました。懸場帳(得意帳)には、得意先の住所、氏名、配置したくすりの銘柄、数量、前回までの使用料、訪問日などが詳しく書かれています。これは各家庭の健康管理を行う総合データベースの役割を果たしていました。現在では、柳行李がバックに変わり、懸場帳(得意帳)が携帯端末などに代わってきています。 | 売薬税とあわせ、業者には致命的な打撃となった、明治16年1月から課された税は何ですか。 | 課された税は、売薬印紙税です。 |
JCRRAG_008494 | 歴史 | 富山十万石の二代目藩主・前田正甫は、質実剛健を尊び自らも、くすりの調合を行うという名君でした。元禄3年(1690年)正甫公が参勤で江戸城に登城したおり、福島の岩代三春城主・秋田河内守が腹痛を起こし、苦しむのを見て、印籠から「反魂丹」を取り出して飲ませたところ、たちまち平癒しました。
この光景を目の当たりにした諸国の藩主たちは、その薬効に驚き、各自の領内で「反魂丹」を売り広めてくれるよう正甫公に頼みました。
この事件が「おきぐすり」(配置販売業)の発祥とされています。
正甫公は、領地から出て全国どこででも商売ができる「他領商売勝手」を発布。同時に富山城下の薬種商・松井屋源右衛門にくすりを調製させ、八重崎屋源六に依頼して諸国を行商させました。
源六は、「用を先に利を後にせよ」という正甫公の精神に従い、良家の子弟の中から身体強健、品行方正な者を選び、各地の大庄屋を巡ってくすりを配置させました。そして、毎年周期的に巡回して未使用の残品を引き取り、新品と置き換え、服用した薬に対してのみ謝礼金を受け取ることにしました。
こうして、現在のクレジットとリース制を一緒にしたような「先用後利」の画期的な販売システムが登場したのです。
ちなみに、「反魂丹」は備前の医師・万代常閑の先祖が、堺浦に漂着した唐人からその秘法を授かって作ったもので、正甫公自身が腹痛を起こした時に服用して平癒したという妙薬。正甫公は「人の病患を救う妙薬を秘しておくことは惜しい」と、天和3年(1683年) に常閑を招いてその処方の伝授を受けたとされています。
富山十万石の二代目藩主・前田正甫の「用を先に利を後にせよ」という精神から生まれた「おきぐすりの先用後利」販売システムは、当時としてはかなり画期的な商法でした。
山河を越えて行く道中には山賊や盗賊の危険もあるでしょう。宿泊費や交通費も馬鹿になりません。しかも、たどり着いた旅先で必ずくすりを買ってくれるという保証もありません。言葉や習慣の違いも当然あります。利益を得るために長い年月がかかり、資金の回転も困難です。
こうした悪条件だらけの中、不安や迷いを断ち切ってスタートしたのですから、しっかりとした「商いの理念」がバックボーンとしてあったに違いありません。江戸時代から第二次世界大戦の頃まで、薬売りたちは、そのほとんどが真宗信者で、懐や行李の底に小さな仏像を納めて、全国を歩き回っていました。
「仏が照らしてくださる。見ていてくださる。聞いてくださる。決してひとりぼっちじゃない」
と、心に念じることで、苦が苦にならず、死をも恐れない強い精神を作っていました。同時に、背中に仏を意識することで「仏の願いにしたがって顧客にくすりのご利益を与える。顧客は病気が治るというご利益に対して感謝の気持ちとして代金を支払う。それがくすりを与えた者に利益となって返ってくる」と考えていました。
こうした商法は、顧客との間に「互いに利を分かち合う真心と感謝の結びつき」をより強固なものにし、人間関係が永続するという効果 をもたらしました。
「一代限りと思うな。孫の代まで続けるという心がけで、真心をこめて対応し、誠を尽くそう」
くすり売りの間で、親から子へ、子から孫へ、代々語り継がれてきた言葉ですが、これを実践するために打ち出されたのが「信用三本柱」です。
三本柱とは「商いの信用」、「くすりの信用」、そしてもうひとつが「人の信用」です。
「商いの信用」の基本は、顧客との間にトラブルを起こさず、不正な商いをしないということです。一円の勘定も誤りなく正確に取引することで信頼関係が生まれます。
「くすりの信用」は、有効で安全な品質の高いくすりを提供することです。そのために、絶えず顧客の求めるくすりをリサーチし、品質開発に努めなければなりません。
「人の信用」はもっとも重視されました。顧客の悩み相談に乗って、適切なアドバイスを行ったり、励ましたりすることで信頼関係が作られています。
「くすりを売るのではなく、人間を売れ。顧客は人間を見てくすりの信用、イメージをつくる」という考え方が、人材開発を促し、くすりの量産化につながり、販売の拡大をもたらしたのです。
江戸時代に始まり、多くの販売員の努力によって、全国に確かな地位 を築いていった「おきぐすり」ですが、その歴史は苦難の連続でした。
最初の大きな苦難は明治維新と同時に訪れました。中央集権体制をめざす明治政府の医薬行政は、西洋医学に基づく製薬の発展を期待し、漢方医学を根拠とし長い間、信用をかち取ってきた「おきぐすり」を滅亡の危機に立たせました。
医療医薬の近代化を進める政府は、なかなか改革の成果のあがらない「おきぐすり」に対して、次第に懲罰的な厳しい政策をとるようになりました。
明治3年(1870年)12月には「売薬取締規則」が発布され、旧幕府の医学所であった大学東校での検査を受けて免状をもらわなければ営業できないことになりました。 また、開発された有効なくすりは7年間の専売を認めるという項目を設け、商品の改善を迫ってきました。
明治10年(1877年)には、「売薬規則」によって売薬営業税や鑑札料などの税を定めて、売薬業界への圧力を強めました。さらに、明治政府は、西南戦争により財政の困難を補うことと「無害無能で日用の必要品でない売薬が莫大な利益をあげている」との理由で、明治16年1月から売薬印紙税を課してきました。これは、すべてのくすりに定価を付記し、その1割の額面 の収入印紙を貼らせることにしたもので売薬税とあわせ、業者には致命的な打撃となりました。
この売薬印紙税は、40数年後の大正15年になってようやく廃止されましたが、その後も、昭和初年の経済恐慌、太平洋戦争の敗戦など苦難の歴史は続きました。
昭和22年、戦時中の売薬統制が解かれ、自由にくすりを製造し、配置できるようになり、「おきぐすり」の製造や販売の組織づくりが行われましたが、戦後のインフレの影響で経営は苦境にたたされました。
昭和30年代に入ると、薬業界全体の生産が活発になり、著しい伸びを示しましたが、昭和36年から始まった国民皆保険制の実施で、国民はちょっとした病気でも医者にかかるようになり、このため国民医療費の増大という新たな財政上の問題も浮上して参りました。
こうした状況の中、軽い病気は自分で治すというセルフメディケーション(自己治療)の考えが徐々に浸透。くすりや医学の情報、知識が豊富な現代人の健康管理に「おきぐすり」が一役買っています。
おきぐすり」の配置員を売薬さんと呼んでいた時代、かれらは柳行李の中に、くすりや紙風船などを詰め、全国津々浦々を回って商いをしていました。各家庭を訪問するときに必要な顧客名簿を持っていましたが、これを懸場帳(得意帳)といって代々大切に受け継がれていました。懸場帳(得意帳)には、得意先の住所、氏名、配置したくすりの銘柄、数量、前回までの使用料、訪問日などが詳しく書かれています。これは各家庭の健康管理を行う総合データベースの役割を果たしていました。現在では、柳行李がバックに変わり、懸場帳(得意帳)が携帯端末などに代わってきています。 | 懸場帳(得意帳)には、得意先のどのようなことが詳しく書かれていますか。 | 懸場帳(得意帳)には、得意先の住所、氏名、配置したくすりの銘柄、数量、前回までの使用料、訪問日などが詳しく書かれています。 |
JCRRAG_008495 | 歴史 | ヤマト政権の体制は、5世紀後半から大きく変化しました。横並びのクニの連合は、大和地方(奈良)のクニの首長(大王)を頂点に支配・被支配の関係をもつ組織になり、また、その政務は有力な豪族(地方のクニの首長)が執るようになりました。政務を担う物部氏・蘇我氏の二強が勢力を争う中、仏教が公伝し、その対立は激化しました。
5世紀頃よりヤマト政権の首長(=大和地方のクニの首長)は、大王と呼ばれました。
ヤマト政権は連合であり、大王と各地のクニの首長(豪族)の間に、支配・被支配の関係はそれほどありませんでした。
5世紀後半~6世紀、大王は氏姓制度をつくり上げ、大王が頂点となった支配体制を確立していきました。
豪族を血縁関係ごとに氏ウジと呼ばれる集団に編成しました。
例えば、蘇我氏・大伴氏・物部もののべ氏・筑紫つくし氏・東漢やまとのあや 氏などです。
氏を与えてやった大王は、与えてもらえた豪族より地位が高くなります。
氏の命名は職・地名に由来し氏の代表者を氏上うじのかみと呼んでいました。
氏ごとの性格・勢力に応じて姓カバネ を与え、氏を序列化し姓には、例えば臣・連・君・直などがありました。
ヤマト政権の政治体制(6世紀初め~)より、臣・連の姓をもつ氏から大臣・大連が選ばれて、ヤマト政権の中央の政務を担当しました。
大臣・大連の下に伴造 を置き、伴や部(総称:品部)を統率させて 、軍事・財政・祭祀などを分担させました。大王の一族に直属して奉仕する人々を名代・子代と呼称。
地方では現地の 豪族を国造くにのみやつこ に任じ、クニの支配権を保障する代わりにヤマト政権への奉仕を求めました。
豪族は私有民部曲かきべ を、支配拠点の田地田荘たどころの耕作に使役。
氏の家々で奴隷として奉仕する人々を奴婢ぬひと呼称。
国造の下には県主あがたぬしが置かれ、小範囲を支配し
ヤマト政権の体制は大きく変化していきました。 | 5世紀頃よりヤマト政権の首長は何と呼ばれるようになりましたか。 | 5世紀頃よりヤマト政権の首長は、大王と呼ばれるようになりました。 |
JCRRAG_008496 | 歴史 | ヤマト政権の体制は、5世紀後半から大きく変化しました。横並びのクニの連合は、大和地方(奈良)のクニの首長(大王)を頂点に支配・被支配の関係をもつ組織になり、また、その政務は有力な豪族(地方のクニの首長)が執るようになりました。政務を担う物部氏・蘇我氏の二強が勢力を争う中、仏教が公伝し、その対立は激化しました。
5世紀頃よりヤマト政権の首長(=大和地方のクニの首長)は、大王と呼ばれました。
ヤマト政権は連合であり、大王と各地のクニの首長(豪族)の間に、支配・被支配の関係はそれほどありませんでした。
5世紀後半~6世紀、大王は氏姓制度をつくり上げ、大王が頂点となった支配体制を確立していきました。
豪族を血縁関係ごとに氏ウジと呼ばれる集団に編成しました。
例えば、蘇我氏・大伴氏・物部もののべ氏・筑紫つくし氏・東漢やまとのあや 氏などです。
氏を与えてやった大王は、与えてもらえた豪族より地位が高くなります。
氏の命名は職・地名に由来し氏の代表者を氏上うじのかみと呼んでいました。
氏ごとの性格・勢力に応じて姓カバネ を与え、氏を序列化し姓には、例えば臣・連・君・直などがありました。
ヤマト政権の政治体制(6世紀初め~)より、臣・連の姓をもつ氏から大臣・大連が選ばれて、ヤマト政権の中央の政務を担当しました。
大臣・大連の下に伴造 を置き、伴や部(総称:品部)を統率させて 、軍事・財政・祭祀などを分担させました。大王の一族に直属して奉仕する人々を名代・子代と呼称。
地方では現地の 豪族を国造くにのみやつこ に任じ、クニの支配権を保障する代わりにヤマト政権への奉仕を求めました。
豪族は私有民部曲かきべ を、支配拠点の田地田荘たどころの耕作に使役。
氏の家々で奴隷として奉仕する人々を奴婢ぬひと呼称。
国造の下には県主あがたぬしが置かれ、小範囲を支配し
ヤマト政権の体制は大きく変化していきました。 | 5世紀後半~6世紀、大王はどのような制度をつくりましたか。 | 5世紀後半~6世紀にかけ、大王は氏姓制度をつくりあげました。 |
JCRRAG_008497 | 歴史 | ヤマト政権の体制は、5世紀後半から大きく変化しました。横並びのクニの連合は、大和地方(奈良)のクニの首長(大王)を頂点に支配・被支配の関係をもつ組織になり、また、その政務は有力な豪族(地方のクニの首長)が執るようになりました。政務を担う物部氏・蘇我氏の二強が勢力を争う中、仏教が公伝し、その対立は激化しました。
5世紀頃よりヤマト政権の首長(=大和地方のクニの首長)は、大王と呼ばれました。
ヤマト政権は連合であり、大王と各地のクニの首長(豪族)の間に、支配・被支配の関係はそれほどありませんでした。
5世紀後半~6世紀、大王は氏姓制度をつくり上げ、大王が頂点となった支配体制を確立していきました。
豪族を血縁関係ごとに氏ウジと呼ばれる集団に編成しました。
例えば、蘇我氏・大伴氏・物部もののべ氏・筑紫つくし氏・東漢やまとのあや 氏などです。
氏を与えてやった大王は、与えてもらえた豪族より地位が高くなります。
氏の命名は職・地名に由来し氏の代表者を氏上うじのかみと呼んでいました。
氏ごとの性格・勢力に応じて姓カバネ を与え、氏を序列化し姓には、例えば臣・連・君・直などがありました。
ヤマト政権の政治体制(6世紀初め~)より、臣・連の姓をもつ氏から大臣・大連が選ばれて、ヤマト政権の中央の政務を担当しました。
大臣・大連の下に伴造 を置き、伴や部(総称:品部)を統率させて 、軍事・財政・祭祀などを分担させました。大王の一族に直属して奉仕する人々を名代・子代と呼称。
地方では現地の 豪族を国造くにのみやつこ に任じ、クニの支配権を保障する代わりにヤマト政権への奉仕を求めました。
豪族は私有民部曲かきべ を、支配拠点の田地田荘たどころの耕作に使役。
氏の家々で奴隷として奉仕する人々を奴婢ぬひと呼称。
国造の下には県主あがたぬしが置かれ、小範囲を支配し
ヤマト政権の体制は大きく変化していきました。 | 氏を与えてやった大王は、与えてもらえた豪族より地位はどうなりますか。 | 地位は高くなります。 |
JCRRAG_008498 | 歴史 | ヤマト政権の体制は、5世紀後半から大きく変化しました。横並びのクニの連合は、大和地方(奈良)のクニの首長(大王)を頂点に支配・被支配の関係をもつ組織になり、また、その政務は有力な豪族(地方のクニの首長)が執るようになりました。政務を担う物部氏・蘇我氏の二強が勢力を争う中、仏教が公伝し、その対立は激化しました。
5世紀頃よりヤマト政権の首長(=大和地方のクニの首長)は、大王と呼ばれました。
ヤマト政権は連合であり、大王と各地のクニの首長(豪族)の間に、支配・被支配の関係はそれほどありませんでした。
5世紀後半~6世紀、大王は氏姓制度をつくり上げ、大王が頂点となった支配体制を確立していきました。
豪族を血縁関係ごとに氏ウジと呼ばれる集団に編成しました。
例えば、蘇我氏・大伴氏・物部もののべ氏・筑紫つくし氏・東漢やまとのあや 氏などです。
氏を与えてやった大王は、与えてもらえた豪族より地位が高くなります。
氏の命名は職・地名に由来し氏の代表者を氏上うじのかみと呼んでいました。
氏ごとの性格・勢力に応じて姓カバネ を与え、氏を序列化し姓には、例えば臣・連・君・直などがありました。
ヤマト政権の政治体制(6世紀初め~)より、臣・連の姓をもつ氏から大臣・大連が選ばれて、ヤマト政権の中央の政務を担当しました。
大臣・大連の下に伴造 を置き、伴や部(総称:品部)を統率させて 、軍事・財政・祭祀などを分担させました。大王の一族に直属して奉仕する人々を名代・子代と呼称。
地方では現地の 豪族を国造くにのみやつこ に任じ、クニの支配権を保障する代わりにヤマト政権への奉仕を求めました。
豪族は私有民部曲かきべ を、支配拠点の田地田荘たどころの耕作に使役。
氏の家々で奴隷として奉仕する人々を奴婢ぬひと呼称。
国造の下には県主あがたぬしが置かれ、小範囲を支配し
ヤマト政権の体制は大きく変化していきました。 | 氏の命名は何に由来していましたか。 | 氏の命名は職・地名に由来していました。 |
JCRRAG_008499 | 歴史 | ヤマト政権の体制は、5世紀後半から大きく変化しました。横並びのクニの連合は、大和地方(奈良)のクニの首長(大王)を頂点に支配・被支配の関係をもつ組織になり、また、その政務は有力な豪族(地方のクニの首長)が執るようになりました。政務を担う物部氏・蘇我氏の二強が勢力を争う中、仏教が公伝し、その対立は激化しました。
5世紀頃よりヤマト政権の首長(=大和地方のクニの首長)は、大王と呼ばれました。
ヤマト政権は連合であり、大王と各地のクニの首長(豪族)の間に、支配・被支配の関係はそれほどありませんでした。
5世紀後半~6世紀、大王は氏姓制度をつくり上げ、大王が頂点となった支配体制を確立していきました。
豪族を血縁関係ごとに氏ウジと呼ばれる集団に編成しました。
例えば、蘇我氏・大伴氏・物部もののべ氏・筑紫つくし氏・東漢やまとのあや 氏などです。
氏を与えてやった大王は、与えてもらえた豪族より地位が高くなります。
氏の命名は職・地名に由来し氏の代表者を氏上うじのかみと呼んでいました。
氏ごとの性格・勢力に応じて姓カバネ を与え、氏を序列化し姓には、例えば臣・連・君・直などがありました。
ヤマト政権の政治体制(6世紀初め~)より、臣・連の姓をもつ氏から大臣・大連が選ばれて、ヤマト政権の中央の政務を担当しました。
大臣・大連の下に伴造 を置き、伴や部(総称:品部)を統率させて 、軍事・財政・祭祀などを分担させました。大王の一族に直属して奉仕する人々を名代・子代と呼称。
地方では現地の 豪族を国造くにのみやつこ に任じ、クニの支配権を保障する代わりにヤマト政権への奉仕を求めました。
豪族は私有民部曲かきべ を、支配拠点の田地田荘たどころの耕作に使役。
氏の家々で奴隷として奉仕する人々を奴婢ぬひと呼称。
国造の下には県主あがたぬしが置かれ、小範囲を支配し
ヤマト政権の体制は大きく変化していきました。 | 大王の一族に直属して奉仕する人々を何と呼びますか。 | 大王の一族に直属して奉仕する人々を、名代・子代と呼んでいました。 |
JCRRAG_008500 | 歴史 | ヤマト政権の国際関係では、6世紀初め百済が加耶諸国に進出して、ヤマト政権の影響力が後退しました。(507年、大伴金村おおとものかなむららが継体天皇を擁立)
百済が加耶諸国の一部を獲得しました。
大連大伴金村は百済との友好関係を考え、軍を派遣せずに黙認しました。
新羅も加耶諸国に進出し、ヤマト政権の影響力はさらに後退しました。
新羅に対しては、ヤマト政権は軍の派遣を決意しました。
黙認の見返りか、百済が五経博士を遣わし、儒教が伝来。
527年、磐井の乱がおきました。
この反乱は筑紫国造磐井が朝鮮半島の新羅と結び、軍の派遣の途上、海路を断った反乱です。
国造任命は一方的なクニの境界画定を伴うため、磐井はこれに反発、大連物部麁鹿火もののべのあらかひに鎮圧されました。
磐井など反乱者の支配地は接収され、ヤマト政権の直轄地屯倉みやけ にされていきました。
6世紀中頃、百済・新羅による加耶諸国の分割が著しく進み、大伴金村は一連の責任を糾弾されて失脚しました。
中央の政務担当は、大連の物部尾輿と、渡来人と結んで台頭した大臣の蘇我稲目そがのいなめの2強になりました。
加耶諸国は562年に滅亡
蘇我氏はヤマト政権の財政面を担い、財を収める三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)も管理
538(552)年、仏教が百済の聖王(聖明王)によって公伝しました。
大王(欽明天皇)は、大臣・大連たちに仏教を受容するかどうかを意見させました。
蘇我稲目は個人的な信仰を大王から許されたが、物部尾輿・蘇我稲目の対立は激化しました。
対立は物部尾輿の子物部守屋と蘇我稲目の子蘇我馬子の間でも継続しました。 | ヤマト政権の影響力が後退したのはいつでしょうか。 | 6世紀初めごろからヤマト政権の影響力が後退していきました。 |
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