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|---|---|---|---|---|
JCRRAG_008601 | 歴史 | 朝鮮半島の諸国
中国が3世紀の三国時代(魏・呉・蜀)から5世紀の南北時代(北魏・宋)に移行しました。
この過程で、朝鮮半島の諸国にも変動が生じました。
3世紀
北部
Ⓐ高句麗
南部
Ⓑ馬韓
Ⓒ弁韓
Ⓓ辰韓
4~5世紀
北部
Ⓐ高句麗
南部
Ⓑ百済
Ⓒ加耶(加羅)諸国
Ⓓ新羅
加耶諸国
「任那みまな」とも総称
ヤマト政権と朝鮮半島の諸国
加耶諸国
ヤマト政権は加耶諸国に鉄素材を求め、両者は早くから密接な関係にありました。
百済
地理上、百済は高句麗に対して背後を固める必要がありました。
372年、百済王は倭王に七支刀しちしとう を贈り、国交を結ぼうとしました。
七支刀
奈良県の石上いそのかみ神宮所蔵の神宝
4世紀、高句麗との争い
4世紀後半、高句麗が南下策を進めました。
上述のように、百済・加耶諸国と関係をもったヤマト政権は、これらとともに高句麗と争うことになりました。
391年のヤマト政権と高句麗の交戦の様子が、好太王碑の碑文に記されています。
好太王碑
「高句麗の立場(百済・新羅は高句麗の従属国)」で書かれた史料ということに留意
好太王(広開土王)碑
「倭は391年よりこのかた、海を渡り、百済を破り、新羅を□□して臣民とした」とある。読解では、碑文内容と当時の情勢の食い違いに留意したい。
結局軍事力で高句麗に抵抗できず、ヤマト政権は撤退しました。
5世紀、倭の五王と中国南朝
ヤマト政権は、朝鮮半島での外交・軍事の有利な立場を確保したいと考えました。
中国南朝(宋)に対して、朝鮮半島の支配者を示す称号を求めました。
『宋書』倭国伝
ヤマト政権の5人の王讃・珍・済・興・武(倭の五王)が、5世紀初めから約1世紀間、相次いで中国南朝に朝貢
倭の五王の武が過去の征服事実(日本列島東の毛人もうじん・西の衆夷 しゅうい の平定、朝鮮半島南部の諸国の平定)を中国南朝に報告
478年、武が安東大将軍の称号を中国南朝から獲得
毛人
蝦夷えみしのことか
衆夷
熊襲くまそのことか
済・興・武
『日本書紀』の允恭いんぎょう・安康あんこう・雄略天皇に該当
大陸文化の受容
技術を運ぶ渡来人
4~5世紀、ヤマト政権は朝鮮半島から技術を学びました。
渡来人と呼ばれる、大陸から日本列島に渡った人々もいて、彼らによっても様々な技術が伝えられました。
ヤマト政権は、渡来人を技術ごとの集団に編入しました。
史部ふひとべ
記録・文書を担当した集団
鞍作部くらつくりべ
馬具(鞍など)を製作する集団
韓鍛冶部からかぬちべ
鍛冶・銅工などをおこなう集団
陶作部すえつくりべ
陶器(須恵器すえき)を製作する集団
錦織部にしごりべ
錦を織る集団
上記の集団は品部と総称、伴造とものみやつこに統率されました。
代表的な渡来人
王仁わに
西文氏かわちのふみうじの祖、『論語』を伝える
阿知使主
東漢氏やまとのあやうじの祖、財務に携わる
弓月君
秦氏はたうじの祖、養蚕・機織を伝える
漢字文化
日本列島で製作された江田船山古墳(熊本)の鉄刀、稲荷山古墳(埼玉)の鉄剣の銘文に漢字が見られます。
日本列島で漢字の使用が始まったと分かります。
鉄刀・鉄剣の銘文には、武(雄略天皇)と思われる「ワカタケルオオキミ」の名があります。
東西に及ぶ武の支配、漢字の音を借りた表記(万葉仮名)が分かります。
思想
儒教
6世紀初め、百済から渡来した五経博士によって伝来
仏教
百済の聖王(聖明王)によって公伝
仏教公伝は、538年(『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』)と552年(『日本書紀』)の2説あり
公伝の前から、522年に百済から渡来した司馬達等しばたっとの仏像崇拝あり
歴史書
6世紀、大王おおきみの系譜「帝紀」と朝廷の伝承「旧辞」を編纂!? | 西文氏かわちのふみうじの祖、『論語』を伝えた代表的な渡来人は誰ですか。 | 西文氏かわちのふみうじの祖、『論語』を伝えた代表的な渡来人は王仁わにです。 |
JCRRAG_008602 | 歴史 | 朝鮮半島の諸国
中国が3世紀の三国時代(魏・呉・蜀)から5世紀の南北時代(北魏・宋)に移行しました。
この過程で、朝鮮半島の諸国にも変動が生じました。
3世紀
北部
Ⓐ高句麗
南部
Ⓑ馬韓
Ⓒ弁韓
Ⓓ辰韓
4~5世紀
北部
Ⓐ高句麗
南部
Ⓑ百済
Ⓒ加耶(加羅)諸国
Ⓓ新羅
加耶諸国
「任那みまな」とも総称
ヤマト政権と朝鮮半島の諸国
加耶諸国
ヤマト政権は加耶諸国に鉄素材を求め、両者は早くから密接な関係にありました。
百済
地理上、百済は高句麗に対して背後を固める必要がありました。
372年、百済王は倭王に七支刀しちしとう を贈り、国交を結ぼうとしました。
七支刀
奈良県の石上いそのかみ神宮所蔵の神宝
4世紀、高句麗との争い
4世紀後半、高句麗が南下策を進めました。
上述のように、百済・加耶諸国と関係をもったヤマト政権は、これらとともに高句麗と争うことになりました。
391年のヤマト政権と高句麗の交戦の様子が、好太王碑の碑文に記されています。
好太王碑
「高句麗の立場(百済・新羅は高句麗の従属国)」で書かれた史料ということに留意
好太王(広開土王)碑
「倭は391年よりこのかた、海を渡り、百済を破り、新羅を□□して臣民とした」とある。読解では、碑文内容と当時の情勢の食い違いに留意したい。
結局軍事力で高句麗に抵抗できず、ヤマト政権は撤退しました。
5世紀、倭の五王と中国南朝
ヤマト政権は、朝鮮半島での外交・軍事の有利な立場を確保したいと考えました。
中国南朝(宋)に対して、朝鮮半島の支配者を示す称号を求めました。
『宋書』倭国伝
ヤマト政権の5人の王讃・珍・済・興・武(倭の五王)が、5世紀初めから約1世紀間、相次いで中国南朝に朝貢
倭の五王の武が過去の征服事実(日本列島東の毛人もうじん・西の衆夷 しゅうい の平定、朝鮮半島南部の諸国の平定)を中国南朝に報告
478年、武が安東大将軍の称号を中国南朝から獲得
毛人
蝦夷えみしのことか
衆夷
熊襲くまそのことか
済・興・武
『日本書紀』の允恭いんぎょう・安康あんこう・雄略天皇に該当
大陸文化の受容
技術を運ぶ渡来人
4~5世紀、ヤマト政権は朝鮮半島から技術を学びました。
渡来人と呼ばれる、大陸から日本列島に渡った人々もいて、彼らによっても様々な技術が伝えられました。
ヤマト政権は、渡来人を技術ごとの集団に編入しました。
史部ふひとべ
記録・文書を担当した集団
鞍作部くらつくりべ
馬具(鞍など)を製作する集団
韓鍛冶部からかぬちべ
鍛冶・銅工などをおこなう集団
陶作部すえつくりべ
陶器(須恵器すえき)を製作する集団
錦織部にしごりべ
錦を織る集団
上記の集団は品部と総称、伴造とものみやつこに統率されました。
代表的な渡来人
王仁わに
西文氏かわちのふみうじの祖、『論語』を伝える
阿知使主
東漢氏やまとのあやうじの祖、財務に携わる
弓月君
秦氏はたうじの祖、養蚕・機織を伝える
漢字文化
日本列島で製作された江田船山古墳(熊本)の鉄刀、稲荷山古墳(埼玉)の鉄剣の銘文に漢字が見られます。
日本列島で漢字の使用が始まったと分かります。
鉄刀・鉄剣の銘文には、武(雄略天皇)と思われる「ワカタケルオオキミ」の名があります。
東西に及ぶ武の支配、漢字の音を借りた表記(万葉仮名)が分かります。
思想
儒教
6世紀初め、百済から渡来した五経博士によって伝来
仏教
百済の聖王(聖明王)によって公伝
仏教公伝は、538年(『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』)と552年(『日本書紀』)の2説あり
公伝の前から、522年に百済から渡来した司馬達等しばたっとの仏像崇拝あり
歴史書
6世紀、大王おおきみの系譜「帝紀」と朝廷の伝承「旧辞」を編纂!? | 東漢氏やまとのあやうじの祖、財務に携わる代表的な渡来人は誰ですか。 | 東漢氏やまとのあやうじの祖、財務に携わる代表的な渡来人は阿知使主です。 |
JCRRAG_008603 | 歴史 | 朝鮮半島の諸国
中国が3世紀の三国時代(魏・呉・蜀)から5世紀の南北時代(北魏・宋)に移行しました。
この過程で、朝鮮半島の諸国にも変動が生じました。
3世紀
北部
Ⓐ高句麗
南部
Ⓑ馬韓
Ⓒ弁韓
Ⓓ辰韓
4~5世紀
北部
Ⓐ高句麗
南部
Ⓑ百済
Ⓒ加耶(加羅)諸国
Ⓓ新羅
加耶諸国
「任那みまな」とも総称
ヤマト政権と朝鮮半島の諸国
加耶諸国
ヤマト政権は加耶諸国に鉄素材を求め、両者は早くから密接な関係にありました。
百済
地理上、百済は高句麗に対して背後を固める必要がありました。
372年、百済王は倭王に七支刀しちしとう を贈り、国交を結ぼうとしました。
七支刀
奈良県の石上いそのかみ神宮所蔵の神宝
4世紀、高句麗との争い
4世紀後半、高句麗が南下策を進めました。
上述のように、百済・加耶諸国と関係をもったヤマト政権は、これらとともに高句麗と争うことになりました。
391年のヤマト政権と高句麗の交戦の様子が、好太王碑の碑文に記されています。
好太王碑
「高句麗の立場(百済・新羅は高句麗の従属国)」で書かれた史料ということに留意
好太王(広開土王)碑
「倭は391年よりこのかた、海を渡り、百済を破り、新羅を□□して臣民とした」とある。読解では、碑文内容と当時の情勢の食い違いに留意したい。
結局軍事力で高句麗に抵抗できず、ヤマト政権は撤退しました。
5世紀、倭の五王と中国南朝
ヤマト政権は、朝鮮半島での外交・軍事の有利な立場を確保したいと考えました。
中国南朝(宋)に対して、朝鮮半島の支配者を示す称号を求めました。
『宋書』倭国伝
ヤマト政権の5人の王讃・珍・済・興・武(倭の五王)が、5世紀初めから約1世紀間、相次いで中国南朝に朝貢
倭の五王の武が過去の征服事実(日本列島東の毛人もうじん・西の衆夷 しゅうい の平定、朝鮮半島南部の諸国の平定)を中国南朝に報告
478年、武が安東大将軍の称号を中国南朝から獲得
毛人
蝦夷えみしのことか
衆夷
熊襲くまそのことか
済・興・武
『日本書紀』の允恭いんぎょう・安康あんこう・雄略天皇に該当
大陸文化の受容
技術を運ぶ渡来人
4~5世紀、ヤマト政権は朝鮮半島から技術を学びました。
渡来人と呼ばれる、大陸から日本列島に渡った人々もいて、彼らによっても様々な技術が伝えられました。
ヤマト政権は、渡来人を技術ごとの集団に編入しました。
史部ふひとべ
記録・文書を担当した集団
鞍作部くらつくりべ
馬具(鞍など)を製作する集団
韓鍛冶部からかぬちべ
鍛冶・銅工などをおこなう集団
陶作部すえつくりべ
陶器(須恵器すえき)を製作する集団
錦織部にしごりべ
錦を織る集団
上記の集団は品部と総称、伴造とものみやつこに統率されました。
代表的な渡来人
王仁わに
西文氏かわちのふみうじの祖、『論語』を伝える
阿知使主
東漢氏やまとのあやうじの祖、財務に携わる
弓月君
秦氏はたうじの祖、養蚕・機織を伝える
漢字文化
日本列島で製作された江田船山古墳(熊本)の鉄刀、稲荷山古墳(埼玉)の鉄剣の銘文に漢字が見られます。
日本列島で漢字の使用が始まったと分かります。
鉄刀・鉄剣の銘文には、武(雄略天皇)と思われる「ワカタケルオオキミ」の名があります。
東西に及ぶ武の支配、漢字の音を借りた表記(万葉仮名)が分かります。
思想
儒教
6世紀初め、百済から渡来した五経博士によって伝来
仏教
百済の聖王(聖明王)によって公伝
仏教公伝は、538年(『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』)と552年(『日本書紀』)の2説あり
公伝の前から、522年に百済から渡来した司馬達等しばたっとの仏像崇拝あり
歴史書
6世紀、大王おおきみの系譜「帝紀」と朝廷の伝承「旧辞」を編纂!? | 秦氏はたうじの祖、養蚕・機織を伝えた代表的な渡来人は誰ですか。 | 秦氏はたうじの祖、養蚕・機織を伝えた代表的な渡来人は弓月君です。 |
JCRRAG_008604 | 歴史 | 朝鮮半島の諸国
中国が3世紀の三国時代(魏・呉・蜀)から5世紀の南北時代(北魏・宋)に移行しました。
この過程で、朝鮮半島の諸国にも変動が生じました。
3世紀
北部
Ⓐ高句麗
南部
Ⓑ馬韓
Ⓒ弁韓
Ⓓ辰韓
4~5世紀
北部
Ⓐ高句麗
南部
Ⓑ百済
Ⓒ加耶(加羅)諸国
Ⓓ新羅
加耶諸国
「任那みまな」とも総称
ヤマト政権と朝鮮半島の諸国
加耶諸国
ヤマト政権は加耶諸国に鉄素材を求め、両者は早くから密接な関係にありました。
百済
地理上、百済は高句麗に対して背後を固める必要がありました。
372年、百済王は倭王に七支刀しちしとう を贈り、国交を結ぼうとしました。
七支刀
奈良県の石上いそのかみ神宮所蔵の神宝
4世紀、高句麗との争い
4世紀後半、高句麗が南下策を進めました。
上述のように、百済・加耶諸国と関係をもったヤマト政権は、これらとともに高句麗と争うことになりました。
391年のヤマト政権と高句麗の交戦の様子が、好太王碑の碑文に記されています。
好太王碑
「高句麗の立場(百済・新羅は高句麗の従属国)」で書かれた史料ということに留意
好太王(広開土王)碑
「倭は391年よりこのかた、海を渡り、百済を破り、新羅を□□して臣民とした」とある。読解では、碑文内容と当時の情勢の食い違いに留意したい。
結局軍事力で高句麗に抵抗できず、ヤマト政権は撤退しました。
5世紀、倭の五王と中国南朝
ヤマト政権は、朝鮮半島での外交・軍事の有利な立場を確保したいと考えました。
中国南朝(宋)に対して、朝鮮半島の支配者を示す称号を求めました。
『宋書』倭国伝
ヤマト政権の5人の王讃・珍・済・興・武(倭の五王)が、5世紀初めから約1世紀間、相次いで中国南朝に朝貢
倭の五王の武が過去の征服事実(日本列島東の毛人もうじん・西の衆夷 しゅうい の平定、朝鮮半島南部の諸国の平定)を中国南朝に報告
478年、武が安東大将軍の称号を中国南朝から獲得
毛人
蝦夷えみしのことか
衆夷
熊襲くまそのことか
済・興・武
『日本書紀』の允恭いんぎょう・安康あんこう・雄略天皇に該当
大陸文化の受容
技術を運ぶ渡来人
4~5世紀、ヤマト政権は朝鮮半島から技術を学びました。
渡来人と呼ばれる、大陸から日本列島に渡った人々もいて、彼らによっても様々な技術が伝えられました。
ヤマト政権は、渡来人を技術ごとの集団に編入しました。
史部ふひとべ
記録・文書を担当した集団
鞍作部くらつくりべ
馬具(鞍など)を製作する集団
韓鍛冶部からかぬちべ
鍛冶・銅工などをおこなう集団
陶作部すえつくりべ
陶器(須恵器すえき)を製作する集団
錦織部にしごりべ
錦を織る集団
上記の集団は品部と総称、伴造とものみやつこに統率されました。
代表的な渡来人
王仁わに
西文氏かわちのふみうじの祖、『論語』を伝える
阿知使主
東漢氏やまとのあやうじの祖、財務に携わる
弓月君
秦氏はたうじの祖、養蚕・機織を伝える
漢字文化
日本列島で製作された江田船山古墳(熊本)の鉄刀、稲荷山古墳(埼玉)の鉄剣の銘文に漢字が見られます。
日本列島で漢字の使用が始まったと分かります。
鉄刀・鉄剣の銘文には、武(雄略天皇)と思われる「ワカタケルオオキミ」の名があります。
東西に及ぶ武の支配、漢字の音を借りた表記(万葉仮名)が分かります。
思想
儒教
6世紀初め、百済から渡来した五経博士によって伝来
仏教
百済の聖王(聖明王)によって公伝
仏教公伝は、538年(『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』)と552年(『日本書紀』)の2説あり
公伝の前から、522年に百済から渡来した司馬達等しばたっとの仏像崇拝あり
歴史書
6世紀、大王おおきみの系譜「帝紀」と朝廷の伝承「旧辞」を編纂!? | 日本列島で製作された江田船山古墳の鉄刀、稲荷山古墳の鉄剣の銘文に刻まれているように、日本列島で使用されたのは何ですか。 | 日本列島で製作された江田船山古墳の鉄刀、稲荷山古墳の鉄剣の銘文に刻まれているように、日本列島で使用された字は漢字です。 |
JCRRAG_008605 | 歴史 | 古墳時代の生活
クニと集落の変化
弥生時代(3世紀)
古墳時代
古墳時代になると、集落内に次の2つの変化が生じました。
集落から離れた場所に、首長(豪族)が居館を造営
竪穴住居の壁ぎわにかまどを設置
土器
弥生土器と同じ技術による土師器はじきと、朝鮮半島の技術による須恵器すえき を併用しました。
須恵器
ろくろ・窯かまを使用するため、左右対称で頑丈
男女の服装
衣服が上下に分かれ、男性は衣と袴はかま、女性は衣とスカート風の裳も を着用しました。
呪術
鹿などの骨を焼き、割れ方で吉凶を占う太占ふとまに の法や、潔白を誓った後に熱湯に手を入れ、火傷の有無で真偽を判断する盟神探湯くかたち がありました。
農耕に関する祭祀
弥生時代同様、古墳時代でも農耕に関する祭祀が大切でした。
なかでも、春の初めに豊作を祈る祈年祭としごいのまつり と、秋に収穫を祝い感謝する新嘗祭にいなめのまつり が重要でした。
これらの祭祀は、「神」と呼ばれる存在に向けておこなわれました。
神という存在
人々はアニミズムという考えをもち、あらゆるものに霊威(魂)が存在すると信じていました。
なかでも、次の2つは信仰の対象となりました。
凄さを感じさせるもの(整った形の山・巨木・絶海の孤島など)
恐怖させるもの(日照り・氾濫する川・落雷・深い森など)
信仰の対象となった霊威が「神」です。
信仰の対象となった、氏族の重要な祖先(死者)が氏神
目に見えない霊威が「神」になるので、当然「神」の姿はなし
祭祀は基本的に、怒った神(例:稲を枯らす日照り)に祈りを捧げ、普段の神(例:耕作に適した日差し)に戻す儀式です。
神は本来怒り、人々を苦しめる存在です。
風習
死や血に関わる、また単に日常を過ごすことで、目には見えない「ケガレ(汚れ)」を帯びると考えられました。
ケガレを川などの水で落とす禊みそぎ 、御幣を振って落とす祓はらいがおこなわれました。 | 弥生時代同様、古墳時代でも農耕に関する祭祀が大切とされ、なかでも春の初めに豊作を祈る重要な祭を何と呼びますか。 | 弥生時代同様、古墳時代でも農耕に関する祭祀が大切とされ、なかでも春の初めに豊作を祈る重要な祭は祈年祭と呼ばれています。 |
JCRRAG_008606 | 歴史 | 古墳時代の生活
クニと集落の変化
弥生時代(3世紀)
古墳時代
古墳時代になると、集落内に次の2つの変化が生じました。
集落から離れた場所に、首長(豪族)が居館を造営
竪穴住居の壁ぎわにかまどを設置
土器
弥生土器と同じ技術による土師器はじきと、朝鮮半島の技術による須恵器すえき を併用しました。
須恵器
ろくろ・窯かまを使用するため、左右対称で頑丈
男女の服装
衣服が上下に分かれ、男性は衣と袴はかま、女性は衣とスカート風の裳も を着用しました。
呪術
鹿などの骨を焼き、割れ方で吉凶を占う太占ふとまに の法や、潔白を誓った後に熱湯に手を入れ、火傷の有無で真偽を判断する盟神探湯くかたち がありました。
農耕に関する祭祀
弥生時代同様、古墳時代でも農耕に関する祭祀が大切でした。
なかでも、春の初めに豊作を祈る祈年祭としごいのまつり と、秋に収穫を祝い感謝する新嘗祭にいなめのまつり が重要でした。
これらの祭祀は、「神」と呼ばれる存在に向けておこなわれました。
神という存在
人々はアニミズムという考えをもち、あらゆるものに霊威(魂)が存在すると信じていました。
なかでも、次の2つは信仰の対象となりました。
凄さを感じさせるもの(整った形の山・巨木・絶海の孤島など)
恐怖させるもの(日照り・氾濫する川・落雷・深い森など)
信仰の対象となった霊威が「神」です。
信仰の対象となった、氏族の重要な祖先(死者)が氏神
目に見えない霊威が「神」になるので、当然「神」の姿はなし
祭祀は基本的に、怒った神(例:稲を枯らす日照り)に祈りを捧げ、普段の神(例:耕作に適した日差し)に戻す儀式です。
神は本来怒り、人々を苦しめる存在です。
風習
死や血に関わる、また単に日常を過ごすことで、目には見えない「ケガレ(汚れ)」を帯びると考えられました。
ケガレを川などの水で落とす禊みそぎ 、御幣を振って落とす祓はらいがおこなわれました。 | 弥生時代同様、古墳時代でも農耕に関する祭祀が大切とされ、なかでも秋に収穫を祝い感謝する重要な祭は何と呼ばれていますか。 | 弥生時代同様、古墳時代でも農耕に関する祭祀が大切とされ、なかでも秋に収穫を祝い感謝する重要な祭は新嘗祭と呼ばれています。 |
JCRRAG_008607 | 歴史 | 古墳時代の生活
クニと集落の変化
弥生時代(3世紀)
古墳時代
古墳時代になると、集落内に次の2つの変化が生じました。
集落から離れた場所に、首長(豪族)が居館を造営
竪穴住居の壁ぎわにかまどを設置
土器
弥生土器と同じ技術による土師器はじきと、朝鮮半島の技術による須恵器すえき を併用しました。
須恵器
ろくろ・窯かまを使用するため、左右対称で頑丈
男女の服装
衣服が上下に分かれ、男性は衣と袴はかま、女性は衣とスカート風の裳も を着用しました。
呪術
鹿などの骨を焼き、割れ方で吉凶を占う太占ふとまに の法や、潔白を誓った後に熱湯に手を入れ、火傷の有無で真偽を判断する盟神探湯くかたち がありました。
農耕に関する祭祀
弥生時代同様、古墳時代でも農耕に関する祭祀が大切でした。
なかでも、春の初めに豊作を祈る祈年祭としごいのまつり と、秋に収穫を祝い感謝する新嘗祭にいなめのまつり が重要でした。
これらの祭祀は、「神」と呼ばれる存在に向けておこなわれました。
神という存在
人々はアニミズムという考えをもち、あらゆるものに霊威(魂)が存在すると信じていました。
なかでも、次の2つは信仰の対象となりました。
凄さを感じさせるもの(整った形の山・巨木・絶海の孤島など)
恐怖させるもの(日照り・氾濫する川・落雷・深い森など)
信仰の対象となった霊威が「神」です。
信仰の対象となった、氏族の重要な祖先(死者)が氏神
目に見えない霊威が「神」になるので、当然「神」の姿はなし
祭祀は基本的に、怒った神(例:稲を枯らす日照り)に祈りを捧げ、普段の神(例:耕作に適した日差し)に戻す儀式です。
神は本来怒り、人々を苦しめる存在です。
風習
死や血に関わる、また単に日常を過ごすことで、目には見えない「ケガレ(汚れ)」を帯びると考えられました。
ケガレを川などの水で落とす禊みそぎ 、御幣を振って落とす祓はらいがおこなわれました。 | 人々はあらゆるものに霊威(魂)が存在すると信じている考えは何と呼びますか。 | 人々はあらゆるものに霊威(魂)が存在すると信じている考えはアニミズムと呼びます。 |
JCRRAG_008608 | 歴史 | 古墳時代の生活
クニと集落の変化
弥生時代(3世紀)
古墳時代
古墳時代になると、集落内に次の2つの変化が生じました。
集落から離れた場所に、首長(豪族)が居館を造営
竪穴住居の壁ぎわにかまどを設置
土器
弥生土器と同じ技術による土師器はじきと、朝鮮半島の技術による須恵器すえき を併用しました。
須恵器
ろくろ・窯かまを使用するため、左右対称で頑丈
男女の服装
衣服が上下に分かれ、男性は衣と袴はかま、女性は衣とスカート風の裳も を着用しました。
呪術
鹿などの骨を焼き、割れ方で吉凶を占う太占ふとまに の法や、潔白を誓った後に熱湯に手を入れ、火傷の有無で真偽を判断する盟神探湯くかたち がありました。
農耕に関する祭祀
弥生時代同様、古墳時代でも農耕に関する祭祀が大切でした。
なかでも、春の初めに豊作を祈る祈年祭としごいのまつり と、秋に収穫を祝い感謝する新嘗祭にいなめのまつり が重要でした。
これらの祭祀は、「神」と呼ばれる存在に向けておこなわれました。
神という存在
人々はアニミズムという考えをもち、あらゆるものに霊威(魂)が存在すると信じていました。
なかでも、次の2つは信仰の対象となりました。
凄さを感じさせるもの(整った形の山・巨木・絶海の孤島など)
恐怖させるもの(日照り・氾濫する川・落雷・深い森など)
信仰の対象となった霊威が「神」です。
信仰の対象となった、氏族の重要な祖先(死者)が氏神
目に見えない霊威が「神」になるので、当然「神」の姿はなし
祭祀は基本的に、怒った神(例:稲を枯らす日照り)に祈りを捧げ、普段の神(例:耕作に適した日差し)に戻す儀式です。
神は本来怒り、人々を苦しめる存在です。
風習
死や血に関わる、また単に日常を過ごすことで、目には見えない「ケガレ(汚れ)」を帯びると考えられました。
ケガレを川などの水で落とす禊みそぎ 、御幣を振って落とす祓はらいがおこなわれました。 | 信仰の対象となった霊威は何と呼ばれていますか。 | 信仰の対象となった霊威は神と呼ばれています。 |
JCRRAG_008609 | 歴史 | 古墳時代の生活
クニと集落の変化
弥生時代(3世紀)
古墳時代
古墳時代になると、集落内に次の2つの変化が生じました。
集落から離れた場所に、首長(豪族)が居館を造営
竪穴住居の壁ぎわにかまどを設置
土器
弥生土器と同じ技術による土師器はじきと、朝鮮半島の技術による須恵器すえき を併用しました。
須恵器
ろくろ・窯かまを使用するため、左右対称で頑丈
男女の服装
衣服が上下に分かれ、男性は衣と袴はかま、女性は衣とスカート風の裳も を着用しました。
呪術
鹿などの骨を焼き、割れ方で吉凶を占う太占ふとまに の法や、潔白を誓った後に熱湯に手を入れ、火傷の有無で真偽を判断する盟神探湯くかたち がありました。
農耕に関する祭祀
弥生時代同様、古墳時代でも農耕に関する祭祀が大切でした。
なかでも、春の初めに豊作を祈る祈年祭としごいのまつり と、秋に収穫を祝い感謝する新嘗祭にいなめのまつり が重要でした。
これらの祭祀は、「神」と呼ばれる存在に向けておこなわれました。
神という存在
人々はアニミズムという考えをもち、あらゆるものに霊威(魂)が存在すると信じていました。
なかでも、次の2つは信仰の対象となりました。
凄さを感じさせるもの(整った形の山・巨木・絶海の孤島など)
恐怖させるもの(日照り・氾濫する川・落雷・深い森など)
信仰の対象となった霊威が「神」です。
信仰の対象となった、氏族の重要な祖先(死者)が氏神
目に見えない霊威が「神」になるので、当然「神」の姿はなし
祭祀は基本的に、怒った神(例:稲を枯らす日照り)に祈りを捧げ、普段の神(例:耕作に適した日差し)に戻す儀式です。
神は本来怒り、人々を苦しめる存在です。
風習
死や血に関わる、また単に日常を過ごすことで、目には見えない「ケガレ(汚れ)」を帯びると考えられました。
ケガレを川などの水で落とす禊みそぎ 、御幣を振って落とす祓はらいがおこなわれました。 | ケガレを川などの水で落とす儀式は何と呼ばれましたか。 | ケガレを川などの水で落とす儀式は禊と呼ばれました。 |
JCRRAG_008610 | 歴史 | ヤマト政権の体制
大王の支配体制(5世紀後半、雄略天皇の代~)
5世紀頃よりヤマト政権の首長(=大和地方のクニの首長)は、大王と呼ばれました。
ヤマト政権は連合であり、大王と各地のクニの首長(豪族)の間に、支配・被支配の関係はそれほどありませんでした。
5世紀後半~6世紀、大王は氏姓制度をつくり上げ、大王が頂点となった支配体制を確立していきました。
氏(ウジ)
豪族を血縁関係ごとに氏ウジと呼ばれる集団に編成しました。
例えば、蘇我氏・大伴氏・物部もののべ氏・筑紫つくし氏・東漢やまとのあや 氏などです。
氏を与えてやった大王は、与えてもらえた豪族より地位が高くなります。
氏の命名は職・地名に由来
氏の代表者を氏上うじのかみと呼称
姓(カバネ)
氏ごとの性格・勢力に応じて姓カバネ を与え、氏を序列化しました。
姓には、例えば臣・連・君・直などがありました。
氏姓の組合せは、例えば蘇我臣、大伴連・物部連、筑紫君などです。
ヤマト政権の政治体制(6世紀初め~)
中央
臣・連の姓をもつ氏から大臣・大連が選ばれて、ヤマト政権の中央の政務を担当しました。
大臣・大連の下に伴造 を置き、伴や部(総称:品部)を統率させて 、軍事・財政・祭祀などを分担させました。
伴
一般役人のような職
大王の一族に直属して奉仕する人々を名代・子代と呼称
地方
現地の 豪族を国造くにのみやつこ に任じ、クニの支配権を保障する代わりにヤマト政権への奉仕を求めました。
豪族は私有民部曲かきべ を、支配拠点の田地田荘たどころの耕作に使役
氏の家々で奴隷として奉仕する人々を奴婢ぬひと呼称
国造の下には県主あがたぬしが置かれ、小範囲を支配した。 | 5世紀頃よりヤマト政権の首長は何と呼ばれましたか。 | 5世紀頃よりヤマト政権の首長は大王と呼ばれました。 |
JCRRAG_008611 | 歴史 | ヤマト政権の体制
大王の支配体制(5世紀後半、雄略天皇の代~)
5世紀頃よりヤマト政権の首長(=大和地方のクニの首長)は、大王と呼ばれました。
ヤマト政権は連合であり、大王と各地のクニの首長(豪族)の間に、支配・被支配の関係はそれほどありませんでした。
5世紀後半~6世紀、大王は氏姓制度をつくり上げ、大王が頂点となった支配体制を確立していきました。
氏(ウジ)
豪族を血縁関係ごとに氏ウジと呼ばれる集団に編成しました。
例えば、蘇我氏・大伴氏・物部もののべ氏・筑紫つくし氏・東漢やまとのあや 氏などです。
氏を与えてやった大王は、与えてもらえた豪族より地位が高くなります。
氏の命名は職・地名に由来
氏の代表者を氏上うじのかみと呼称
姓(カバネ)
氏ごとの性格・勢力に応じて姓カバネ を与え、氏を序列化しました。
姓には、例えば臣・連・君・直などがありました。
氏姓の組合せは、例えば蘇我臣、大伴連・物部連、筑紫君などです。
ヤマト政権の政治体制(6世紀初め~)
中央
臣・連の姓をもつ氏から大臣・大連が選ばれて、ヤマト政権の中央の政務を担当しました。
大臣・大連の下に伴造 を置き、伴や部(総称:品部)を統率させて 、軍事・財政・祭祀などを分担させました。
伴
一般役人のような職
大王の一族に直属して奉仕する人々を名代・子代と呼称
地方
現地の 豪族を国造くにのみやつこ に任じ、クニの支配権を保障する代わりにヤマト政権への奉仕を求めました。
豪族は私有民部曲かきべ を、支配拠点の田地田荘たどころの耕作に使役
氏の家々で奴隷として奉仕する人々を奴婢ぬひと呼称
国造の下には県主あがたぬしが置かれ、小範囲を支配した。 | 豪族を血縁関係ごとに氏と呼ばれる集団に編成し、氏の代表者は何と呼ばれましたか。 | 豪族を血縁関係ごとに氏と呼ばれる集団に編成し、氏の代表者は氏上と呼ばれました。 |
JCRRAG_008612 | 歴史 | ヤマト政権の体制
大王の支配体制(5世紀後半、雄略天皇の代~)
5世紀頃よりヤマト政権の首長(=大和地方のクニの首長)は、大王と呼ばれました。
ヤマト政権は連合であり、大王と各地のクニの首長(豪族)の間に、支配・被支配の関係はそれほどありませんでした。
5世紀後半~6世紀、大王は氏姓制度をつくり上げ、大王が頂点となった支配体制を確立していきました。
氏(ウジ)
豪族を血縁関係ごとに氏ウジと呼ばれる集団に編成しました。
例えば、蘇我氏・大伴氏・物部もののべ氏・筑紫つくし氏・東漢やまとのあや 氏などです。
氏を与えてやった大王は、与えてもらえた豪族より地位が高くなります。
氏の命名は職・地名に由来
氏の代表者を氏上うじのかみと呼称
姓(カバネ)
氏ごとの性格・勢力に応じて姓カバネ を与え、氏を序列化しました。
姓には、例えば臣・連・君・直などがありました。
氏姓の組合せは、例えば蘇我臣、大伴連・物部連、筑紫君などです。
ヤマト政権の政治体制(6世紀初め~)
中央
臣・連の姓をもつ氏から大臣・大連が選ばれて、ヤマト政権の中央の政務を担当しました。
大臣・大連の下に伴造 を置き、伴や部(総称:品部)を統率させて 、軍事・財政・祭祀などを分担させました。
伴
一般役人のような職
大王の一族に直属して奉仕する人々を名代・子代と呼称
地方
現地の 豪族を国造くにのみやつこ に任じ、クニの支配権を保障する代わりにヤマト政権への奉仕を求めました。
豪族は私有民部曲かきべ を、支配拠点の田地田荘たどころの耕作に使役
氏の家々で奴隷として奉仕する人々を奴婢ぬひと呼称
国造の下には県主あがたぬしが置かれ、小範囲を支配した。 | ヤマト政権の中央の政務を担当し大臣・大連の下伴や部を統率させて、軍事・財政・祭祀などを分担していた人は何と呼ばれましたか。 | ヤマト政権の中央の政務を担当し大臣・大連の下伴や部を統率させて、軍事・財政・祭祀などを分担していた人は伴造と呼ばれました。 |
JCRRAG_008613 | 歴史 | ヤマト政権の体制
大王の支配体制(5世紀後半、雄略天皇の代~)
5世紀頃よりヤマト政権の首長(=大和地方のクニの首長)は、大王と呼ばれました。
ヤマト政権は連合であり、大王と各地のクニの首長(豪族)の間に、支配・被支配の関係はそれほどありませんでした。
5世紀後半~6世紀、大王は氏姓制度をつくり上げ、大王が頂点となった支配体制を確立していきました。
氏(ウジ)
豪族を血縁関係ごとに氏ウジと呼ばれる集団に編成しました。
例えば、蘇我氏・大伴氏・物部もののべ氏・筑紫つくし氏・東漢やまとのあや 氏などです。
氏を与えてやった大王は、与えてもらえた豪族より地位が高くなります。
氏の命名は職・地名に由来
氏の代表者を氏上うじのかみと呼称
姓(カバネ)
氏ごとの性格・勢力に応じて姓カバネ を与え、氏を序列化しました。
姓には、例えば臣・連・君・直などがありました。
氏姓の組合せは、例えば蘇我臣、大伴連・物部連、筑紫君などです。
ヤマト政権の政治体制(6世紀初め~)
中央
臣・連の姓をもつ氏から大臣・大連が選ばれて、ヤマト政権の中央の政務を担当しました。
大臣・大連の下に伴造 を置き、伴や部(総称:品部)を統率させて 、軍事・財政・祭祀などを分担させました。
伴
一般役人のような職
大王の一族に直属して奉仕する人々を名代・子代と呼称
地方
現地の 豪族を国造くにのみやつこ に任じ、クニの支配権を保障する代わりにヤマト政権への奉仕を求めました。
豪族は私有民部曲かきべ を、支配拠点の田地田荘たどころの耕作に使役
氏の家々で奴隷として奉仕する人々を奴婢ぬひと呼称
国造の下には県主あがたぬしが置かれ、小範囲を支配した。 | 現地の豪族をクニの支配権を保障する代わりにヤマト政権への奉仕を求めるために任じたのは何でしたか。 | 現地の豪族をクニの支配権を保障する代わりにヤマト政権への奉仕を求めるために任じたのは国造でした。 |
JCRRAG_008614 | 歴史 | ヤマト政権の体制
大王の支配体制(5世紀後半、雄略天皇の代~)
5世紀頃よりヤマト政権の首長(=大和地方のクニの首長)は、大王と呼ばれました。
ヤマト政権は連合であり、大王と各地のクニの首長(豪族)の間に、支配・被支配の関係はそれほどありませんでした。
5世紀後半~6世紀、大王は氏姓制度をつくり上げ、大王が頂点となった支配体制を確立していきました。
氏(ウジ)
豪族を血縁関係ごとに氏ウジと呼ばれる集団に編成しました。
例えば、蘇我氏・大伴氏・物部もののべ氏・筑紫つくし氏・東漢やまとのあや 氏などです。
氏を与えてやった大王は、与えてもらえた豪族より地位が高くなります。
氏の命名は職・地名に由来
氏の代表者を氏上うじのかみと呼称
姓(カバネ)
氏ごとの性格・勢力に応じて姓カバネ を与え、氏を序列化しました。
姓には、例えば臣・連・君・直などがありました。
氏姓の組合せは、例えば蘇我臣、大伴連・物部連、筑紫君などです。
ヤマト政権の政治体制(6世紀初め~)
中央
臣・連の姓をもつ氏から大臣・大連が選ばれて、ヤマト政権の中央の政務を担当しました。
大臣・大連の下に伴造 を置き、伴や部(総称:品部)を統率させて 、軍事・財政・祭祀などを分担させました。
伴
一般役人のような職
大王の一族に直属して奉仕する人々を名代・子代と呼称
地方
現地の 豪族を国造くにのみやつこ に任じ、クニの支配権を保障する代わりにヤマト政権への奉仕を求めました。
豪族は私有民部曲かきべ を、支配拠点の田地田荘たどころの耕作に使役
氏の家々で奴隷として奉仕する人々を奴婢ぬひと呼称
国造の下には県主あがたぬしが置かれ、小範囲を支配した。 | 527年、筑紫つくしの国造、磐井が朝鮮半島の新羅と結び軍の派遣の途上、海路を断った反乱は何と呼ばれていますか。 | 527年、筑紫つくしの国造、磐井が朝鮮半島の新羅と結び軍の派遣の途上、海路を断った反乱は磐井の乱と呼ばれています。 |
JCRRAG_008615 | 歴史 | 蘇我馬子と厩戸王の協力(崇峻天皇~推古天皇の代)
587年、大臣おおおみ蘇我馬子と厩戸王 うまやとおうが大連おおむらじ物部守屋を滅ぼしました。
物部守屋の死後に大連は廃絶
厩戸王は、物部守屋との戦いに際して戦勝を祈願し、達成後に四天王寺を創建
四天王寺大王の崇峻天皇は、やがて蘇我馬子と対立し、暗殺されました。
次の大王推古天皇は、即位後に厩戸王を摂政に任命しました。
大臣蘇我馬子と摂政厩戸王が共同で政務を執りました。
国際情勢の変化―隋の中国統一
589年、隋が中国を統一しました。
高句麗・百済、そして遅れて新羅が隋に朝貢しました(冊封体制に入りました)。
高句麗は無礼なことが多く、隋は軍をしばしば派遣
5世紀の倭の五王以降、ヤマト政権の朝貢は途絶えていました。
朝鮮半島の諸国に対して、ヤマト政権が優位に立つためには、隋と対等な関係を結ばなくてはなりません。
600年、ヤマト政権は隋と交渉を試みたが失敗しました。
対等な関係を結べるだけの、地固めをする必要があると浮き彫りになりました。
外交に向けた地固め
役人の序列化
603年、冠位十二階制定
役人である豪族を、能力に応じて12段階で序列化
色別の冠を授けて、序列の判別や厳粛な雰囲気の演出
冠位は個人単位の賜与で一代のみ(⇔姓カバネは氏ウジ単位で世襲可)
意義:姓では限界のあった役人の序列化
役人の道徳
604年、憲法十七条制定
第1条:和(豪族同士の融和)を心掛けること
第2条:三宝(仏・法・僧)を敬うこと
第3条:詔みことのり(大王の命令)に従うこと
意義:ヤマト政権の方針と役人の心得の明確化 | 587年、大臣蘇我馬子と厩戸王が滅ぼした人は誰ですか。 | 587年、大臣蘇我馬子と厩戸王が滅ぼした人は物部守屋です。 |
JCRRAG_008616 | 歴史 | 蘇我馬子と厩戸王の協力(崇峻天皇~推古天皇の代)
587年、大臣おおおみ蘇我馬子と厩戸王 うまやとおうが大連おおむらじ物部守屋を滅ぼしました。
物部守屋の死後に大連は廃絶
厩戸王は、物部守屋との戦いに際して戦勝を祈願し、達成後に四天王寺を創建
四天王寺大王の崇峻天皇は、やがて蘇我馬子と対立し、暗殺されました。
次の大王推古天皇は、即位後に厩戸王を摂政に任命しました。
大臣蘇我馬子と摂政厩戸王が共同で政務を執りました。
国際情勢の変化―隋の中国統一
589年、隋が中国を統一しました。
高句麗・百済、そして遅れて新羅が隋に朝貢しました(冊封体制に入りました)。
高句麗は無礼なことが多く、隋は軍をしばしば派遣
5世紀の倭の五王以降、ヤマト政権の朝貢は途絶えていました。
朝鮮半島の諸国に対して、ヤマト政権が優位に立つためには、隋と対等な関係を結ばなくてはなりません。
600年、ヤマト政権は隋と交渉を試みたが失敗しました。
対等な関係を結べるだけの、地固めをする必要があると浮き彫りになりました。
外交に向けた地固め
役人の序列化
603年、冠位十二階制定
役人である豪族を、能力に応じて12段階で序列化
色別の冠を授けて、序列の判別や厳粛な雰囲気の演出
冠位は個人単位の賜与で一代のみ(⇔姓カバネは氏ウジ単位で世襲可)
意義:姓では限界のあった役人の序列化
役人の道徳
604年、憲法十七条制定
第1条:和(豪族同士の融和)を心掛けること
第2条:三宝(仏・法・僧)を敬うこと
第3条:詔みことのり(大王の命令)に従うこと
意義:ヤマト政権の方針と役人の心得の明確化 | 推古天皇が、即位後に摂政に任命したの誰ですか。 | 推古天皇が、即位後に摂政に任命したのは厩戸王です。 |
JCRRAG_008617 | 歴史 | 蘇我馬子と厩戸王の協力(崇峻天皇~推古天皇の代)
587年、大臣おおおみ蘇我馬子と厩戸王 うまやとおうが大連おおむらじ物部守屋を滅ぼしました。
物部守屋の死後に大連は廃絶
厩戸王は、物部守屋との戦いに際して戦勝を祈願し、達成後に四天王寺を創建
四天王寺大王の崇峻天皇は、やがて蘇我馬子と対立し、暗殺されました。
次の大王推古天皇は、即位後に厩戸王を摂政に任命しました。
大臣蘇我馬子と摂政厩戸王が共同で政務を執りました。
国際情勢の変化―隋の中国統一
589年、隋が中国を統一しました。
高句麗・百済、そして遅れて新羅が隋に朝貢しました(冊封体制に入りました)。
高句麗は無礼なことが多く、隋は軍をしばしば派遣
5世紀の倭の五王以降、ヤマト政権の朝貢は途絶えていました。
朝鮮半島の諸国に対して、ヤマト政権が優位に立つためには、隋と対等な関係を結ばなくてはなりません。
600年、ヤマト政権は隋と交渉を試みたが失敗しました。
対等な関係を結べるだけの、地固めをする必要があると浮き彫りになりました。
外交に向けた地固め
役人の序列化
603年、冠位十二階制定
役人である豪族を、能力に応じて12段階で序列化
色別の冠を授けて、序列の判別や厳粛な雰囲気の演出
冠位は個人単位の賜与で一代のみ(⇔姓カバネは氏ウジ単位で世襲可)
意義:姓では限界のあった役人の序列化
役人の道徳
604年、憲法十七条制定
第1条:和(豪族同士の融和)を心掛けること
第2条:三宝(仏・法・僧)を敬うこと
第3条:詔みことのり(大王の命令)に従うこと
意義:ヤマト政権の方針と役人の心得の明確化 | 589年、中国を統一したのはどこですか。 | 589年、中国を統一したのは隋です。 |
JCRRAG_008618 | 歴史 | 蘇我馬子と厩戸王の協力(崇峻天皇~推古天皇の代)
587年、大臣おおおみ蘇我馬子と厩戸王 うまやとおうが大連おおむらじ物部守屋を滅ぼしました。
物部守屋の死後に大連は廃絶
厩戸王は、物部守屋との戦いに際して戦勝を祈願し、達成後に四天王寺を創建
四天王寺大王の崇峻天皇は、やがて蘇我馬子と対立し、暗殺されました。
次の大王推古天皇は、即位後に厩戸王を摂政に任命しました。
大臣蘇我馬子と摂政厩戸王が共同で政務を執りました。
国際情勢の変化―隋の中国統一
589年、隋が中国を統一しました。
高句麗・百済、そして遅れて新羅が隋に朝貢しました(冊封体制に入りました)。
高句麗は無礼なことが多く、隋は軍をしばしば派遣
5世紀の倭の五王以降、ヤマト政権の朝貢は途絶えていました。
朝鮮半島の諸国に対して、ヤマト政権が優位に立つためには、隋と対等な関係を結ばなくてはなりません。
600年、ヤマト政権は隋と交渉を試みたが失敗しました。
対等な関係を結べるだけの、地固めをする必要があると浮き彫りになりました。
外交に向けた地固め
役人の序列化
603年、冠位十二階制定
役人である豪族を、能力に応じて12段階で序列化
色別の冠を授けて、序列の判別や厳粛な雰囲気の演出
冠位は個人単位の賜与で一代のみ(⇔姓カバネは氏ウジ単位で世襲可)
意義:姓では限界のあった役人の序列化
役人の道徳
604年、憲法十七条制定
第1条:和(豪族同士の融和)を心掛けること
第2条:三宝(仏・法・僧)を敬うこと
第3条:詔みことのり(大王の命令)に従うこと
意義:ヤマト政権の方針と役人の心得の明確化 | 603年、役人である豪族を能力に応じて12段階で序列化した制定は何ですか。 | 603年、役人である豪族を能力に応じて12段階で序列化した制定は冠位十二階制定です。 |
JCRRAG_008619 | 歴史 | 蘇我馬子と厩戸王の協力(崇峻天皇~推古天皇の代)
587年、大臣おおおみ蘇我馬子と厩戸王 うまやとおうが大連おおむらじ物部守屋を滅ぼしました。
物部守屋の死後に大連は廃絶
厩戸王は、物部守屋との戦いに際して戦勝を祈願し、達成後に四天王寺を創建
四天王寺大王の崇峻天皇は、やがて蘇我馬子と対立し、暗殺されました。
次の大王推古天皇は、即位後に厩戸王を摂政に任命しました。
大臣蘇我馬子と摂政厩戸王が共同で政務を執りました。
国際情勢の変化―隋の中国統一
589年、隋が中国を統一しました。
高句麗・百済、そして遅れて新羅が隋に朝貢しました(冊封体制に入りました)。
高句麗は無礼なことが多く、隋は軍をしばしば派遣
5世紀の倭の五王以降、ヤマト政権の朝貢は途絶えていました。
朝鮮半島の諸国に対して、ヤマト政権が優位に立つためには、隋と対等な関係を結ばなくてはなりません。
600年、ヤマト政権は隋と交渉を試みたが失敗しました。
対等な関係を結べるだけの、地固めをする必要があると浮き彫りになりました。
外交に向けた地固め
役人の序列化
603年、冠位十二階制定
役人である豪族を、能力に応じて12段階で序列化
色別の冠を授けて、序列の判別や厳粛な雰囲気の演出
冠位は個人単位の賜与で一代のみ(⇔姓カバネは氏ウジ単位で世襲可)
意義:姓では限界のあった役人の序列化
役人の道徳
604年、憲法十七条制定
第1条:和(豪族同士の融和)を心掛けること
第2条:三宝(仏・法・僧)を敬うこと
第3条:詔みことのり(大王の命令)に従うこと
意義:ヤマト政権の方針と役人の心得の明確化 | 604年、ヤマト政権の方針と役人の心得の明確化を意義とし制定されたのは何ですか。 | 604年、ヤマト政権の方針と役人の心得の明確化を意義とし制定されたのは憲法十七条制定です。 |
JCRRAG_008620 | 歴史 | 隋・唐との外交
隋への派遣
607年、小野妹子が遣隋使として派遣され、隋の皇帝煬帝に国書を渡しました。
『 隋書』倭国伝
大王「日出ひいづる処ところの天子、書を日没する処の天子に致す」
大王も「天子」という称号を名乗り、隋と対等な立場を主張
煬帝「蛮夷ばんいの書、無礼なる者有らば、復また以て聞ぶんする勿れ」
倭王(中国からの大王の称号)も「天子」と名乗ったことに憤慨
煬帝は裴世清はいせいせいらを倭国に派遣
憤慨の一方で、高句麗との対立上倭国は無視できない存在
中国と対等な立場とは、冊封体制に入らないこと
隋への再派遣
608年、小野妹子が再度派遣され、隋に国書を届けました。
『 日本書紀』(720年に編纂)
大王の称号に「天皇」を使用(『日本書紀』の編者による文飾!?)
…中国から与えられた称号「倭王」を忌避!?
留学生高向玄理たかむこのげんり、学問僧旻みん・南淵請安みなみぶちしょうあんも隋に派遣
天皇号
7世紀後半からの使用開始が有力説
高向玄理・旻
大化改新で活躍
隋の滅亡、唐の建国
隋が高句麗の征討に幾度も臨むと、国内で反乱が起きました。
618年、隋が滅亡して、唐が建国されました。
630年、犬上御田鍬いぬかみのみたすきが遣唐使として派遣されました。
以降も、菅原道真が894年に廃止を建議するまでしばしば派遣されました。
犬上御田鍬
最後の遣隋使、最初の遣唐使
◇ヤマト政権(8世紀初頭以降、日本)は、唐の冊封体制には不参入 | 607年、遣隋使として派遣され隋の皇帝煬帝に国書を渡したのは誰ですか。 | 607年、遣隋使として派遣され隋の皇帝煬帝に国書を渡した人は小野妹子です。 |
JCRRAG_008621 | 歴史 | 隋・唐との外交
隋への派遣
607年、小野妹子が遣隋使として派遣され、隋の皇帝煬帝に国書を渡しました。
『 隋書』倭国伝
大王「日出ひいづる処ところの天子、書を日没する処の天子に致す」
大王も「天子」という称号を名乗り、隋と対等な立場を主張
煬帝「蛮夷ばんいの書、無礼なる者有らば、復また以て聞ぶんする勿れ」
倭王(中国からの大王の称号)も「天子」と名乗ったことに憤慨
煬帝は裴世清はいせいせいらを倭国に派遣
憤慨の一方で、高句麗との対立上倭国は無視できない存在
中国と対等な立場とは、冊封体制に入らないこと
隋への再派遣
608年、小野妹子が再度派遣され、隋に国書を届けました。
『 日本書紀』(720年に編纂)
大王の称号に「天皇」を使用(『日本書紀』の編者による文飾!?)
…中国から与えられた称号「倭王」を忌避!?
留学生高向玄理たかむこのげんり、学問僧旻みん・南淵請安みなみぶちしょうあんも隋に派遣
天皇号
7世紀後半からの使用開始が有力説
高向玄理・旻
大化改新で活躍
隋の滅亡、唐の建国
隋が高句麗の征討に幾度も臨むと、国内で反乱が起きました。
618年、隋が滅亡して、唐が建国されました。
630年、犬上御田鍬いぬかみのみたすきが遣唐使として派遣されました。
以降も、菅原道真が894年に廃止を建議するまでしばしば派遣されました。
犬上御田鍬
最後の遣隋使、最初の遣唐使
◇ヤマト政権(8世紀初頭以降、日本)は、唐の冊封体制には不参入 | 608年、小野妹子が再度派遣され隋に届けた国書は何ですか。 | 608年、小野妹子が再度派遣され隋に届けた国書は日本書紀です。 |
JCRRAG_008622 | 歴史 | 隋・唐との外交
隋への派遣
607年、小野妹子が遣隋使として派遣され、隋の皇帝煬帝に国書を渡しました。
『 隋書』倭国伝
大王「日出ひいづる処ところの天子、書を日没する処の天子に致す」
大王も「天子」という称号を名乗り、隋と対等な立場を主張
煬帝「蛮夷ばんいの書、無礼なる者有らば、復また以て聞ぶんする勿れ」
倭王(中国からの大王の称号)も「天子」と名乗ったことに憤慨
煬帝は裴世清はいせいせいらを倭国に派遣
憤慨の一方で、高句麗との対立上倭国は無視できない存在
中国と対等な立場とは、冊封体制に入らないこと
隋への再派遣
608年、小野妹子が再度派遣され、隋に国書を届けました。
『 日本書紀』(720年に編纂)
大王の称号に「天皇」を使用(『日本書紀』の編者による文飾!?)
…中国から与えられた称号「倭王」を忌避!?
留学生高向玄理たかむこのげんり、学問僧旻みん・南淵請安みなみぶちしょうあんも隋に派遣
天皇号
7世紀後半からの使用開始が有力説
高向玄理・旻
大化改新で活躍
隋の滅亡、唐の建国
隋が高句麗の征討に幾度も臨むと、国内で反乱が起きました。
618年、隋が滅亡して、唐が建国されました。
630年、犬上御田鍬いぬかみのみたすきが遣唐使として派遣されました。
以降も、菅原道真が894年に廃止を建議するまでしばしば派遣されました。
犬上御田鍬
最後の遣隋使、最初の遣唐使
◇ヤマト政権(8世紀初頭以降、日本)は、唐の冊封体制には不参入 | 618年、隋が滅亡して建国されたのは何ですか。 | 618年、隋が滅亡して建国された国は唐です。 |
JCRRAG_008623 | 歴史 | 隋・唐との外交
隋への派遣
607年、小野妹子が遣隋使として派遣され、隋の皇帝煬帝に国書を渡しました。
『 隋書』倭国伝
大王「日出ひいづる処ところの天子、書を日没する処の天子に致す」
大王も「天子」という称号を名乗り、隋と対等な立場を主張
煬帝「蛮夷ばんいの書、無礼なる者有らば、復また以て聞ぶんする勿れ」
倭王(中国からの大王の称号)も「天子」と名乗ったことに憤慨
煬帝は裴世清はいせいせいらを倭国に派遣
憤慨の一方で、高句麗との対立上倭国は無視できない存在
中国と対等な立場とは、冊封体制に入らないこと
隋への再派遣
608年、小野妹子が再度派遣され、隋に国書を届けました。
『 日本書紀』(720年に編纂)
大王の称号に「天皇」を使用(『日本書紀』の編者による文飾!?)
…中国から与えられた称号「倭王」を忌避!?
留学生高向玄理たかむこのげんり、学問僧旻みん・南淵請安みなみぶちしょうあんも隋に派遣
天皇号
7世紀後半からの使用開始が有力説
高向玄理・旻
大化改新で活躍
隋の滅亡、唐の建国
隋が高句麗の征討に幾度も臨むと、国内で反乱が起きました。
618年、隋が滅亡して、唐が建国されました。
630年、犬上御田鍬いぬかみのみたすきが遣唐使として派遣されました。
以降も、菅原道真が894年に廃止を建議するまでしばしば派遣されました。
犬上御田鍬
最後の遣隋使、最初の遣唐使
◇ヤマト政権(8世紀初頭以降、日本)は、唐の冊封体制には不参入 | 630年、遣唐使として派遣されたのは誰ですか。 | 630年、遣唐使として派遣された人は犬上御田鍬です。 |
JCRRAG_008624 | 歴史 | 隋・唐との外交
隋への派遣
607年、小野妹子が遣隋使として派遣され、隋の皇帝煬帝に国書を渡しました。
『 隋書』倭国伝
大王「日出ひいづる処ところの天子、書を日没する処の天子に致す」
大王も「天子」という称号を名乗り、隋と対等な立場を主張
煬帝「蛮夷ばんいの書、無礼なる者有らば、復また以て聞ぶんする勿れ」
倭王(中国からの大王の称号)も「天子」と名乗ったことに憤慨
煬帝は裴世清はいせいせいらを倭国に派遣
憤慨の一方で、高句麗との対立上倭国は無視できない存在
中国と対等な立場とは、冊封体制に入らないこと
隋への再派遣
608年、小野妹子が再度派遣され、隋に国書を届けました。
『 日本書紀』(720年に編纂)
大王の称号に「天皇」を使用(『日本書紀』の編者による文飾!?)
…中国から与えられた称号「倭王」を忌避!?
留学生高向玄理たかむこのげんり、学問僧旻みん・南淵請安みなみぶちしょうあんも隋に派遣
天皇号
7世紀後半からの使用開始が有力説
高向玄理・旻
大化改新で活躍
隋の滅亡、唐の建国
隋が高句麗の征討に幾度も臨むと、国内で反乱が起きました。
618年、隋が滅亡して、唐が建国されました。
630年、犬上御田鍬いぬかみのみたすきが遣唐使として派遣されました。
以降も、菅原道真が894年に廃止を建議するまでしばしば派遣されました。
犬上御田鍬
最後の遣隋使、最初の遣唐使
◇ヤマト政権(8世紀初頭以降、日本)は、唐の冊封体制には不参入 | 最後の遣隋使であり最初の遣唐使は誰ですか。 | 最後の遣隋使であり最初の遣唐使は犬上御田鍬です。 |
JCRRAG_008625 | 歴史 | 加速する仏教受容
仏教の成立と公伝
古代インド人は、死後に別の生をうける過程が繰り返されると信じました。
釈迦しゃかは、この過程の繰り返し輪廻転生(りんねてんせい )を抜けなければ、生きる上での人の苦しみが永遠に続くと考えました。
修行の果てに悟りに至り、輪廻転生から抜けだしました(解脱げだつ)。
悟りに至った者は、如来(仏)と呼称
悟りに至った者(如来)の、修行中の姿は菩薩ぼさつと呼称
釈迦の教えはいくつかの経典にまとめられ、仏教が成立しました。
各地に伝播する中で、釈迦以外の如来・菩薩が増加し、また、宗教の目的も追加されていきました(例:現世利益の追求)。
538(552)年、ヤマト政権に仏教が公伝しました。
仏と古来からの神は、あまり区別されず、仏は他国の神(蕃神ばんしん)として扱われました。
ただし、仏は恵み(現世利益)を与える存在と区別しました。
神は本来人々を苦しめる存在
寺院―古墳にかわる権威の象徴
豪族は祖先供養のための寺院(氏寺うじでら)を建立した。
飛鳥寺( 法興寺)
蘇我馬子創建の最古の寺院(奈良)
四天王寺
厩戸王創建の寺院(大阪)
法隆寺(斑鳩いかるが寺)
最古の木造建築で、 厩戸王創建の寺院(奈良)
創建時の伽藍がらん配置(寺院の堂塔の配置)は若草伽藍と呼ばれ、再建された現在の寺院と異なる伽藍配置
中宮寺
厩戸王創建の寺院(奈良)
半跏思惟はんかしゆい像・天寿国繡帳てんじゅこくしゅうちょう所蔵
広隆寺
秦河勝はたのかわかつ創建の寺院(京都)
半跏思惟像所蔵 | 死後に別の生をうける過程が繰り返され、この過程の繰り返し輪廻転生を抜けなければ、生きる上での人の苦しみが永遠に続くと説いたのは誰ですか。 | 死後に別の生をうける過程が繰り返され、この過程の繰り返し輪廻転生を抜けなければ、生きる上での人の苦しみが永遠に続くと説いた人は釈迦です。 |
JCRRAG_008626 | 歴史 | 加速する仏教受容
仏教の成立と公伝
古代インド人は、死後に別の生をうける過程が繰り返されると信じました。
釈迦しゃかは、この過程の繰り返し輪廻転生(りんねてんせい )を抜けなければ、生きる上での人の苦しみが永遠に続くと考えました。
修行の果てに悟りに至り、輪廻転生から抜けだしました(解脱げだつ)。
悟りに至った者は、如来(仏)と呼称
悟りに至った者(如来)の、修行中の姿は菩薩ぼさつと呼称
釈迦の教えはいくつかの経典にまとめられ、仏教が成立しました。
各地に伝播する中で、釈迦以外の如来・菩薩が増加し、また、宗教の目的も追加されていきました(例:現世利益の追求)。
538(552)年、ヤマト政権に仏教が公伝しました。
仏と古来からの神は、あまり区別されず、仏は他国の神(蕃神ばんしん)として扱われました。
ただし、仏は恵み(現世利益)を与える存在と区別しました。
神は本来人々を苦しめる存在
寺院―古墳にかわる権威の象徴
豪族は祖先供養のための寺院(氏寺うじでら)を建立した。
飛鳥寺( 法興寺)
蘇我馬子創建の最古の寺院(奈良)
四天王寺
厩戸王創建の寺院(大阪)
法隆寺(斑鳩いかるが寺)
最古の木造建築で、 厩戸王創建の寺院(奈良)
創建時の伽藍がらん配置(寺院の堂塔の配置)は若草伽藍と呼ばれ、再建された現在の寺院と異なる伽藍配置
中宮寺
厩戸王創建の寺院(奈良)
半跏思惟はんかしゆい像・天寿国繡帳てんじゅこくしゅうちょう所蔵
広隆寺
秦河勝はたのかわかつ創建の寺院(京都)
半跏思惟像所蔵 | 悟りに至った者は、何と呼ばれますか。 | 悟りに至った者は、如来(仏)と呼ばれてます。 |
JCRRAG_008627 | 歴史 | 加速する仏教受容
仏教の成立と公伝
古代インド人は、死後に別の生をうける過程が繰り返されると信じました。
釈迦しゃかは、この過程の繰り返し輪廻転生(りんねてんせい )を抜けなければ、生きる上での人の苦しみが永遠に続くと考えました。
修行の果てに悟りに至り、輪廻転生から抜けだしました(解脱げだつ)。
悟りに至った者は、如来(仏)と呼称
悟りに至った者(如来)の、修行中の姿は菩薩ぼさつと呼称
釈迦の教えはいくつかの経典にまとめられ、仏教が成立しました。
各地に伝播する中で、釈迦以外の如来・菩薩が増加し、また、宗教の目的も追加されていきました(例:現世利益の追求)。
538(552)年、ヤマト政権に仏教が公伝しました。
仏と古来からの神は、あまり区別されず、仏は他国の神(蕃神ばんしん)として扱われました。
ただし、仏は恵み(現世利益)を与える存在と区別しました。
神は本来人々を苦しめる存在
寺院―古墳にかわる権威の象徴
豪族は祖先供養のための寺院(氏寺うじでら)を建立した。
飛鳥寺( 法興寺)
蘇我馬子創建の最古の寺院(奈良)
四天王寺
厩戸王創建の寺院(大阪)
法隆寺(斑鳩いかるが寺)
最古の木造建築で、 厩戸王創建の寺院(奈良)
創建時の伽藍がらん配置(寺院の堂塔の配置)は若草伽藍と呼ばれ、再建された現在の寺院と異なる伽藍配置
中宮寺
厩戸王創建の寺院(奈良)
半跏思惟はんかしゆい像・天寿国繡帳てんじゅこくしゅうちょう所蔵
広隆寺
秦河勝はたのかわかつ創建の寺院(京都)
半跏思惟像所蔵 | 悟りに至った者(如来)の、修行中の姿は何と呼ばれますか。 | 悟りに至った者(如来)の、修行中の姿は菩薩と呼ばれてます。 |
JCRRAG_008628 | 歴史 | 加速する仏教受容
仏教の成立と公伝
古代インド人は、死後に別の生をうける過程が繰り返されると信じました。
釈迦しゃかは、この過程の繰り返し輪廻転生(りんねてんせい )を抜けなければ、生きる上での人の苦しみが永遠に続くと考えました。
修行の果てに悟りに至り、輪廻転生から抜けだしました(解脱げだつ)。
悟りに至った者は、如来(仏)と呼称
悟りに至った者(如来)の、修行中の姿は菩薩ぼさつと呼称
釈迦の教えはいくつかの経典にまとめられ、仏教が成立しました。
各地に伝播する中で、釈迦以外の如来・菩薩が増加し、また、宗教の目的も追加されていきました(例:現世利益の追求)。
538(552)年、ヤマト政権に仏教が公伝しました。
仏と古来からの神は、あまり区別されず、仏は他国の神(蕃神ばんしん)として扱われました。
ただし、仏は恵み(現世利益)を与える存在と区別しました。
神は本来人々を苦しめる存在
寺院―古墳にかわる権威の象徴
豪族は祖先供養のための寺院(氏寺うじでら)を建立した。
飛鳥寺( 法興寺)
蘇我馬子創建の最古の寺院(奈良)
四天王寺
厩戸王創建の寺院(大阪)
法隆寺(斑鳩いかるが寺)
最古の木造建築で、 厩戸王創建の寺院(奈良)
創建時の伽藍がらん配置(寺院の堂塔の配置)は若草伽藍と呼ばれ、再建された現在の寺院と異なる伽藍配置
中宮寺
厩戸王創建の寺院(奈良)
半跏思惟はんかしゆい像・天寿国繡帳てんじゅこくしゅうちょう所蔵
広隆寺
秦河勝はたのかわかつ創建の寺院(京都)
半跏思惟像所蔵 | 538(552)年、ヤマト政権に公伝したのは何ですか。 | 538(552)年、ヤマト政権に公伝した宗教は仏教です。 |
JCRRAG_008629 | 歴史 | 加速する仏教受容
仏教の成立と公伝
古代インド人は、死後に別の生をうける過程が繰り返されると信じました。
釈迦しゃかは、この過程の繰り返し輪廻転生(りんねてんせい )を抜けなければ、生きる上での人の苦しみが永遠に続くと考えました。
修行の果てに悟りに至り、輪廻転生から抜けだしました(解脱げだつ)。
悟りに至った者は、如来(仏)と呼称
悟りに至った者(如来)の、修行中の姿は菩薩ぼさつと呼称
釈迦の教えはいくつかの経典にまとめられ、仏教が成立しました。
各地に伝播する中で、釈迦以外の如来・菩薩が増加し、また、宗教の目的も追加されていきました(例:現世利益の追求)。
538(552)年、ヤマト政権に仏教が公伝しました。
仏と古来からの神は、あまり区別されず、仏は他国の神(蕃神ばんしん)として扱われました。
ただし、仏は恵み(現世利益)を与える存在と区別しました。
神は本来人々を苦しめる存在
寺院―古墳にかわる権威の象徴
豪族は祖先供養のための寺院(氏寺うじでら)を建立した。
飛鳥寺( 法興寺)
蘇我馬子創建の最古の寺院(奈良)
四天王寺
厩戸王創建の寺院(大阪)
法隆寺(斑鳩いかるが寺)
最古の木造建築で、 厩戸王創建の寺院(奈良)
創建時の伽藍がらん配置(寺院の堂塔の配置)は若草伽藍と呼ばれ、再建された現在の寺院と異なる伽藍配置
中宮寺
厩戸王創建の寺院(奈良)
半跏思惟はんかしゆい像・天寿国繡帳てんじゅこくしゅうちょう所蔵
広隆寺
秦河勝はたのかわかつ創建の寺院(京都)
半跏思惟像所蔵 | 蘇我馬子創建の最古の寺院は 何ですか。 | 蘇我馬子創建の最古の寺院は飛鳥寺( 法興寺)です。 |
JCRRAG_008630 | 歴史 | 仏具と仏教絵画
法隆寺玉虫厨子たまむしのずし 仏像を安置する箱
中宮寺天寿国繡帳しゅうちょう
仏の世界(極楽浄土)と厩戸王の往生の様子を描く刺繡ししゅう
往生おうじょう…独力での解脱は常人には難しいため、仏の直接指導を希求して、死後に仏の世界へ往いくこと
仏像の2つの様式と共通点
北魏様式
鞍作止利くらつくりのとり(止利とり仏師)一派の作品
特徴は左右対称の幾何学的な衣文
代表的仏像
飛鳥寺釈迦如来像
法隆寺金堂釈迦三尊像
法隆寺夢殿救世観音像
百済・南朝様式
鞍作鳥一派以外の作品
特徴は変化する衣文で、自然な姿を表現
代表的仏像
法隆寺百済観音像
中宮寺半跏思惟像
広隆寺半跏思惟像
半跏思惟
瞑想する
共通点
ギリシア彫刻の表現「アルカイック・スマイル(古拙の微笑)」が飛鳥文化の仏像のどちらの様式にも散見されます。
経典研究
三経義疏ぎしょ
3つの経典(法華経・維摩ゆいま経・勝鬘しょうまん経)に対する厩戸王(?)の注釈書の総称
仏教以外の様相
散見するギリシア文化
シルク=ロード経由で、西の文化が伝来しました。
柱の中央に膨らみをもたせるエンタシスや、壁に描く茎くき・蔓つるの文様の忍冬唐草文様です。
様々な技術の伝来
観勒かんろく
暦法を伝えた百済の僧
曇徴
彩色・紙・墨の製法を伝えた高句麗の僧 | 独力での解脱は常人には難しいため、仏の直接指導を希求して、死後に仏の世界へ往いくことを何と呼ばれていますか。 | 死後に仏の世界へ往いくことは往生と呼ばれています。 |
JCRRAG_008631 | 歴史 | 仏具と仏教絵画
法隆寺玉虫厨子たまむしのずし 仏像を安置する箱
中宮寺天寿国繡帳しゅうちょう
仏の世界(極楽浄土)と厩戸王の往生の様子を描く刺繡ししゅう
往生おうじょう…独力での解脱は常人には難しいため、仏の直接指導を希求して、死後に仏の世界へ往いくこと
仏像の2つの様式と共通点
北魏様式
鞍作止利くらつくりのとり(止利とり仏師)一派の作品
特徴は左右対称の幾何学的な衣文
代表的仏像
飛鳥寺釈迦如来像
法隆寺金堂釈迦三尊像
法隆寺夢殿救世観音像
百済・南朝様式
鞍作鳥一派以外の作品
特徴は変化する衣文で、自然な姿を表現
代表的仏像
法隆寺百済観音像
中宮寺半跏思惟像
広隆寺半跏思惟像
半跏思惟
瞑想する
共通点
ギリシア彫刻の表現「アルカイック・スマイル(古拙の微笑)」が飛鳥文化の仏像のどちらの様式にも散見されます。
経典研究
三経義疏ぎしょ
3つの経典(法華経・維摩ゆいま経・勝鬘しょうまん経)に対する厩戸王(?)の注釈書の総称
仏教以外の様相
散見するギリシア文化
シルク=ロード経由で、西の文化が伝来しました。
柱の中央に膨らみをもたせるエンタシスや、壁に描く茎くき・蔓つるの文様の忍冬唐草文様です。
様々な技術の伝来
観勒かんろく
暦法を伝えた百済の僧
曇徴
彩色・紙・墨の製法を伝えた高句麗の僧 | 左右対称の幾何学的な衣文が特徴の様式を何様式と呼ばれていますか。 | 左右対称の幾何学的な衣文が特徴の様式は北魏様式と呼ばれています。 |
JCRRAG_008632 | 歴史 | 仏具と仏教絵画
法隆寺玉虫厨子たまむしのずし 仏像を安置する箱
中宮寺天寿国繡帳しゅうちょう
仏の世界(極楽浄土)と厩戸王の往生の様子を描く刺繡ししゅう
往生おうじょう…独力での解脱は常人には難しいため、仏の直接指導を希求して、死後に仏の世界へ往いくこと
仏像の2つの様式と共通点
北魏様式
鞍作止利くらつくりのとり(止利とり仏師)一派の作品
特徴は左右対称の幾何学的な衣文
代表的仏像
飛鳥寺釈迦如来像
法隆寺金堂釈迦三尊像
法隆寺夢殿救世観音像
百済・南朝様式
鞍作鳥一派以外の作品
特徴は変化する衣文で、自然な姿を表現
代表的仏像
法隆寺百済観音像
中宮寺半跏思惟像
広隆寺半跏思惟像
半跏思惟
瞑想する
共通点
ギリシア彫刻の表現「アルカイック・スマイル(古拙の微笑)」が飛鳥文化の仏像のどちらの様式にも散見されます。
経典研究
三経義疏ぎしょ
3つの経典(法華経・維摩ゆいま経・勝鬘しょうまん経)に対する厩戸王(?)の注釈書の総称
仏教以外の様相
散見するギリシア文化
シルク=ロード経由で、西の文化が伝来しました。
柱の中央に膨らみをもたせるエンタシスや、壁に描く茎くき・蔓つるの文様の忍冬唐草文様です。
様々な技術の伝来
観勒かんろく
暦法を伝えた百済の僧
曇徴
彩色・紙・墨の製法を伝えた高句麗の僧 | 変化する衣文で、自然な姿を表現が特徴の様式は何と言いますか。 | 変化する衣文で、自然な姿を表現が特徴の様式は百済・南朝様式と言います。 |
JCRRAG_008633 | 歴史 | 仏具と仏教絵画
法隆寺玉虫厨子たまむしのずし 仏像を安置する箱
中宮寺天寿国繡帳しゅうちょう
仏の世界(極楽浄土)と厩戸王の往生の様子を描く刺繡ししゅう
往生おうじょう…独力での解脱は常人には難しいため、仏の直接指導を希求して、死後に仏の世界へ往いくこと
仏像の2つの様式と共通点
北魏様式
鞍作止利くらつくりのとり(止利とり仏師)一派の作品
特徴は左右対称の幾何学的な衣文
代表的仏像
飛鳥寺釈迦如来像
法隆寺金堂釈迦三尊像
法隆寺夢殿救世観音像
百済・南朝様式
鞍作鳥一派以外の作品
特徴は変化する衣文で、自然な姿を表現
代表的仏像
法隆寺百済観音像
中宮寺半跏思惟像
広隆寺半跏思惟像
半跏思惟
瞑想する
共通点
ギリシア彫刻の表現「アルカイック・スマイル(古拙の微笑)」が飛鳥文化の仏像のどちらの様式にも散見されます。
経典研究
三経義疏ぎしょ
3つの経典(法華経・維摩ゆいま経・勝鬘しょうまん経)に対する厩戸王(?)の注釈書の総称
仏教以外の様相
散見するギリシア文化
シルク=ロード経由で、西の文化が伝来しました。
柱の中央に膨らみをもたせるエンタシスや、壁に描く茎くき・蔓つるの文様の忍冬唐草文様です。
様々な技術の伝来
観勒かんろく
暦法を伝えた百済の僧
曇徴
彩色・紙・墨の製法を伝えた高句麗の僧 | 暦法を伝えた百済の僧は誰ですか。 | 暦法を伝えた百済の僧は観勒です。 |
JCRRAG_008634 | 歴史 | 仏具と仏教絵画
法隆寺玉虫厨子たまむしのずし 仏像を安置する箱
中宮寺天寿国繡帳しゅうちょう
仏の世界(極楽浄土)と厩戸王の往生の様子を描く刺繡ししゅう
往生おうじょう…独力での解脱は常人には難しいため、仏の直接指導を希求して、死後に仏の世界へ往いくこと
仏像の2つの様式と共通点
北魏様式
鞍作止利くらつくりのとり(止利とり仏師)一派の作品
特徴は左右対称の幾何学的な衣文
代表的仏像
飛鳥寺釈迦如来像
法隆寺金堂釈迦三尊像
法隆寺夢殿救世観音像
百済・南朝様式
鞍作鳥一派以外の作品
特徴は変化する衣文で、自然な姿を表現
代表的仏像
法隆寺百済観音像
中宮寺半跏思惟像
広隆寺半跏思惟像
半跏思惟
瞑想する
共通点
ギリシア彫刻の表現「アルカイック・スマイル(古拙の微笑)」が飛鳥文化の仏像のどちらの様式にも散見されます。
経典研究
三経義疏ぎしょ
3つの経典(法華経・維摩ゆいま経・勝鬘しょうまん経)に対する厩戸王(?)の注釈書の総称
仏教以外の様相
散見するギリシア文化
シルク=ロード経由で、西の文化が伝来しました。
柱の中央に膨らみをもたせるエンタシスや、壁に描く茎くき・蔓つるの文様の忍冬唐草文様です。
様々な技術の伝来
観勒かんろく
暦法を伝えた百済の僧
曇徴
彩色・紙・墨の製法を伝えた高句麗の僧 | 彩色・紙・墨の製法を伝えた高句麗の僧は誰ですか。 | 彩色・紙・墨の製法を伝えた高句麗の僧は曇徴です。 |
JCRRAG_008635 | 歴史 | 蘇我氏の政権の最盛と終結
620年代、厩戸王うまやとおう・蘇我馬子が死去しました。
大臣おおおみ蘇我蝦夷と蝦夷の子蘇我入鹿いるかの横暴が目立ちはじめ、大王おおきみ 皇極こうぎょく天皇の代になると、大王の権限までも無視しました。
大王の権限侵害
蝦夷が子の入鹿に、大臣の位を表す紫冠を勝手に授与
蝦夷の家を上の宮門みかど、入鹿の家を谷はさまの宮門みかど、子女を王子と呼称
反蘇我氏の結集と暗殺
蘇我入鹿が次期大王の候補山背大兄王を滅ぼしました。
これをきっかけに、蘇我氏の横暴に対する不満が一挙に広がり、中臣鎌足なかとみのかまたり は蘇我氏打倒の計画を進めました。
中臣鎌足は当時の大王皇極こうぎょく天皇の子中大兄皇子に近づき、また、蘇我倉山田石川麻呂くらやまだいしかわまろの協力も得ました。
645年、乙巳の変
蘇我蝦夷・入鹿父子が滅ぼされた事件
大化改新
新政権の組織―大臣の廃止
新政権では大臣おおおみ・大連おおむらじを廃止し、唐に倣って組織を再編成しました。
大連は物部守屋もりやの死後に廃絶
宮都の移動
645年、難波宮に宮都きゅうとを移動させました。
宮
内裏だいり(大王の居住空間)・役人の政務の場などで構成
「改新の詔」
646年、「改新の詔」で、唐に倣った4つの改革方針を示しました。
「改新の詔」
現存せず、720年成立の『日本書紀』が収録するが、後世の潤色多数
例えば、当時の行政区画「評こおり」を「郡」と間違えるなど
公地公民制と徴税
豪族は私有民部曲かきべに私有地(支配拠点の田地)田荘たどころを耕作させ、田荘の収穫を財力にしていました。
大王は、民衆・土地があくまで大王(ヤマト政権)のものという理念を追求しようとしました。
豪族の部曲・田荘を廃止し、公地・公民からの徴税を可能にしました。
豪族の収入として、上級官人の者には食封じきふ を与えることにしました。
行政区画と地方官
「国」という行政区画で各地を分け、国の下に「評 」を置きました。
評
『日本書紀』収録の「改新の詔」では「郡」と記載
藤原京出土の木簡もっかんから、当時の区画は評と判明
各「国」の地方官国司には、中央の役人を任命・派遣しました。
評の地方官評造こおりのみやつこには、従来から在地(現地)で支配力をもっていた国造層を任命しました。
東北経営の前線基地
蝦夷平定のため、647年に渟足柵ぬたりのさく を、648年に磐舟柵いわふねのさくを設置しました。
古墳時代の終末
古墳時代終末期|6世紀末~7世紀
ヤマト政権がクニの連合状態から脱却し、古墳の造営を規制したのでしょうか!?
6世紀末に大型の前方後円墳の造営が停止され、大王・豪族は大型の方墳・円墳を営むようになりました。
7世紀中頃から大王のみ八角墳を営み、差別化が図られました。
終末期の古墳を終末期古墳と総称
646年、薄葬令を出して、古墳造営の人員・必要日数を規制
大王以外の古墳の造営停止を促進 | 次期大王の候補山背大兄王を滅ぼしましたのは誰ですか。 | 次期大王の候補山背大兄王を滅ぼしましたのは蘇我入鹿です。 |
JCRRAG_008636 | 歴史 | 蘇我氏の政権の最盛と終結
620年代、厩戸王うまやとおう・蘇我馬子が死去しました。
大臣おおおみ蘇我蝦夷と蝦夷の子蘇我入鹿いるかの横暴が目立ちはじめ、大王おおきみ 皇極こうぎょく天皇の代になると、大王の権限までも無視しました。
大王の権限侵害
蝦夷が子の入鹿に、大臣の位を表す紫冠を勝手に授与
蝦夷の家を上の宮門みかど、入鹿の家を谷はさまの宮門みかど、子女を王子と呼称
反蘇我氏の結集と暗殺
蘇我入鹿が次期大王の候補山背大兄王を滅ぼしました。
これをきっかけに、蘇我氏の横暴に対する不満が一挙に広がり、中臣鎌足なかとみのかまたり は蘇我氏打倒の計画を進めました。
中臣鎌足は当時の大王皇極こうぎょく天皇の子中大兄皇子に近づき、また、蘇我倉山田石川麻呂くらやまだいしかわまろの協力も得ました。
645年、乙巳の変
蘇我蝦夷・入鹿父子が滅ぼされた事件
大化改新
新政権の組織―大臣の廃止
新政権では大臣おおおみ・大連おおむらじを廃止し、唐に倣って組織を再編成しました。
大連は物部守屋もりやの死後に廃絶
宮都の移動
645年、難波宮に宮都きゅうとを移動させました。
宮
内裏だいり(大王の居住空間)・役人の政務の場などで構成
「改新の詔」
646年、「改新の詔」で、唐に倣った4つの改革方針を示しました。
「改新の詔」
現存せず、720年成立の『日本書紀』が収録するが、後世の潤色多数
例えば、当時の行政区画「評こおり」を「郡」と間違えるなど
公地公民制と徴税
豪族は私有民部曲かきべに私有地(支配拠点の田地)田荘たどころを耕作させ、田荘の収穫を財力にしていました。
大王は、民衆・土地があくまで大王(ヤマト政権)のものという理念を追求しようとしました。
豪族の部曲・田荘を廃止し、公地・公民からの徴税を可能にしました。
豪族の収入として、上級官人の者には食封じきふ を与えることにしました。
行政区画と地方官
「国」という行政区画で各地を分け、国の下に「評 」を置きました。
評
『日本書紀』収録の「改新の詔」では「郡」と記載
藤原京出土の木簡もっかんから、当時の区画は評と判明
各「国」の地方官国司には、中央の役人を任命・派遣しました。
評の地方官評造こおりのみやつこには、従来から在地(現地)で支配力をもっていた国造層を任命しました。
東北経営の前線基地
蝦夷平定のため、647年に渟足柵ぬたりのさく を、648年に磐舟柵いわふねのさくを設置しました。
古墳時代の終末
古墳時代終末期|6世紀末~7世紀
ヤマト政権がクニの連合状態から脱却し、古墳の造営を規制したのでしょうか!?
6世紀末に大型の前方後円墳の造営が停止され、大王・豪族は大型の方墳・円墳を営むようになりました。
7世紀中頃から大王のみ八角墳を営み、差別化が図られました。
終末期の古墳を終末期古墳と総称
646年、薄葬令を出して、古墳造営の人員・必要日数を規制
大王以外の古墳の造営停止を促進 | 645年、蘇我蝦夷・入鹿父子が滅ぼされた事件を何と呼ばれていますか。 | 645年、蘇我蝦夷・入鹿父子が滅ぼされた事件は乙巳の変と呼ばれています。 |
JCRRAG_008637 | 歴史 | "蘇我氏の政権の最盛と終結
620年代、厩戸王うまやとおう・蘇我馬子が死去しました。
大臣おおおみ蘇我蝦夷と蝦夷の子蘇我入鹿いるかの横暴が目立ちはじめ、大王おおきみ 皇極こうぎょく天皇の代になると、大王の権限までも無視しました。
大王の権限侵害
蝦夷が子の入鹿に、大臣の位を表す紫冠を勝手に授与
蝦夷の家を上の宮門みかど、入鹿の家を谷はさまの宮門みかど、子女を王子と呼称
反蘇我氏の結集と暗殺
蘇我入鹿が次期大王の候補山背大兄王を滅ぼしました。
これをきっかけに、蘇我氏の横暴に対する不満が一挙に広がり、中臣鎌足なかとみのかまたり は蘇我氏打倒の計画を進めました。
中臣鎌足は当時の大王皇極こうぎょく天皇の子中大兄皇子に近づき、また、蘇我倉山田石川麻呂くらやまだいしかわまろの協力も得ました。
645年、乙巳の変
蘇我蝦夷・入鹿父子が滅ぼされた事件
大化改新
新政権の組織―大臣の廃止
新政権では大臣おおおみ・大連おおむらじを廃止し、唐に倣って組織を再編成しました。
大連は物部守屋もりやの死後に廃絶
宮都の移動
645年、難波宮に宮都きゅうとを移動させました。
宮
内裏だいり(大王の居住空間)・役人の政務の場などで構成
「改新の詔」
646年、「改新の詔」で、唐に倣った4つの改革方針を示しました。
「改新の詔」
現存せず、720年成立の『日本書紀』が収録するが、後世の潤色多数
例えば、当時の行政区画「評こおり」を「郡」と間違えるなど
公地公民制と徴税
豪族は私有民部曲かきべに私有地(支配拠点の田地)田荘たどころを耕作させ、田荘の収穫を財力にしていました。
大王は、民衆・土地があくまで大王(ヤマト政権)のものという理念を追求しようとしました。
豪族の部曲・田荘を廃止し、公地・公民からの徴税を可能にしました。
豪族の収入として、上級官人の者には食封じきふ を与えることにしました。
行政区画と地方官
「国」という行政区画で各地を分け、国の下に「評 」を置きました。
評
『日本書紀』収録の「改新の詔」では「郡」と記載
藤原京出土の木簡もっかんから、当時の区画は評と判明
各「国」の地方官国司には、中央の役人を任命・派遣しました。
評の地方官評造こおりのみやつこには、従来から在地(現地)で支配力をもっていた国造層を任命しました。
東北経営の前線基地
蝦夷平定のため、647年に渟足柵ぬたりのさく を、648年に磐舟柵いわふねのさくを設置しました。
古墳時代の終末
古墳時代終末期|6世紀末~7世紀
ヤマト政権がクニの連合状態から脱却し、古墳の造営を規制したのでしょうか!?
6世紀末に大型の前方後円墳の造営が停止され、大王・豪族は大型の方墳・円墳を営むようになりました。
7世紀中頃から大王のみ八角墳を営み、差別化が図られました。
終末期の古墳を終末期古墳と総称
646年、薄葬令を出して、古墳造営の人員・必要日数を規制
大王以外の古墳の造営停止を促進 | 646年、唐に倣った4つの改革方針を示したものは何ですか。 | 646年、唐に倣った4つの改革方針を示したものは改新の詔です。 |
JCRRAG_008638 | 歴史 | "蘇我氏の政権の最盛と終結
620年代、厩戸王うまやとおう・蘇我馬子が死去しました。
大臣おおおみ蘇我蝦夷と蝦夷の子蘇我入鹿いるかの横暴が目立ちはじめ、大王おおきみ 皇極こうぎょく天皇の代になると、大王の権限までも無視しました。
大王の権限侵害
蝦夷が子の入鹿に、大臣の位を表す紫冠を勝手に授与
蝦夷の家を上の宮門みかど、入鹿の家を谷はさまの宮門みかど、子女を王子と呼称
反蘇我氏の結集と暗殺
蘇我入鹿が次期大王の候補山背大兄王を滅ぼしました。
これをきっかけに、蘇我氏の横暴に対する不満が一挙に広がり、中臣鎌足なかとみのかまたり は蘇我氏打倒の計画を進めました。
中臣鎌足は当時の大王皇極こうぎょく天皇の子中大兄皇子に近づき、また、蘇我倉山田石川麻呂くらやまだいしかわまろの協力も得ました。
645年、乙巳の変
蘇我蝦夷・入鹿父子が滅ぼされた事件
大化改新
新政権の組織―大臣の廃止
新政権では大臣おおおみ・大連おおむらじを廃止し、唐に倣って組織を再編成しました。
大連は物部守屋もりやの死後に廃絶
宮都の移動
645年、難波宮に宮都きゅうとを移動させました。
宮
内裏だいり(大王の居住空間)・役人の政務の場などで構成
「改新の詔」
646年、「改新の詔」で、唐に倣った4つの改革方針を示しました。
「改新の詔」
現存せず、720年成立の『日本書紀』が収録するが、後世の潤色多数
例えば、当時の行政区画「評こおり」を「郡」と間違えるなど
公地公民制と徴税
豪族は私有民部曲かきべに私有地(支配拠点の田地)田荘たどころを耕作させ、田荘の収穫を財力にしていました。
大王は、民衆・土地があくまで大王(ヤマト政権)のものという理念を追求しようとしました。
豪族の部曲・田荘を廃止し、公地・公民からの徴税を可能にしました。
豪族の収入として、上級官人の者には食封じきふ を与えることにしました。
行政区画と地方官
「国」という行政区画で各地を分け、国の下に「評 」を置きました。
評
『日本書紀』収録の「改新の詔」では「郡」と記載
藤原京出土の木簡もっかんから、当時の区画は評と判明
各「国」の地方官国司には、中央の役人を任命・派遣しました。
評の地方官評造こおりのみやつこには、従来から在地(現地)で支配力をもっていた国造層を任命しました。
東北経営の前線基地
蝦夷平定のため、647年に渟足柵ぬたりのさく を、648年に磐舟柵いわふねのさくを設置しました。
古墳時代の終末
古墳時代終末期|6世紀末~7世紀
ヤマト政権がクニの連合状態から脱却し、古墳の造営を規制したのでしょうか!?
6世紀末に大型の前方後円墳の造営が停止され、大王・豪族は大型の方墳・円墳を営むようになりました。
7世紀中頃から大王のみ八角墳を営み、差別化が図られました。
終末期の古墳を終末期古墳と総称
646年、薄葬令を出して、古墳造営の人員・必要日数を規制
大王以外の古墳の造営停止を促進" | 蝦夷平定のため、647年に設置したのは何ですか。 | 蝦夷平定のため、647年に設置したのは渟足柵です。 |
JCRRAG_008639 | 歴史 | "蘇我氏の政権の最盛と終結
620年代、厩戸王うまやとおう・蘇我馬子が死去しました。
大臣おおおみ蘇我蝦夷と蝦夷の子蘇我入鹿いるかの横暴が目立ちはじめ、大王おおきみ 皇極こうぎょく天皇の代になると、大王の権限までも無視しました。
大王の権限侵害
蝦夷が子の入鹿に、大臣の位を表す紫冠を勝手に授与
蝦夷の家を上の宮門みかど、入鹿の家を谷はさまの宮門みかど、子女を王子と呼称
反蘇我氏の結集と暗殺
蘇我入鹿が次期大王の候補山背大兄王を滅ぼしました。
これをきっかけに、蘇我氏の横暴に対する不満が一挙に広がり、中臣鎌足なかとみのかまたり は蘇我氏打倒の計画を進めました。
中臣鎌足は当時の大王皇極こうぎょく天皇の子中大兄皇子に近づき、また、蘇我倉山田石川麻呂くらやまだいしかわまろの協力も得ました。
645年、乙巳の変
蘇我蝦夷・入鹿父子が滅ぼされた事件
大化改新
新政権の組織―大臣の廃止
新政権では大臣おおおみ・大連おおむらじを廃止し、唐に倣って組織を再編成しました。
大連は物部守屋もりやの死後に廃絶
宮都の移動
645年、難波宮に宮都きゅうとを移動させました。
宮
内裏だいり(大王の居住空間)・役人の政務の場などで構成
「改新の詔」
646年、「改新の詔」で、唐に倣った4つの改革方針を示しました。
「改新の詔」
現存せず、720年成立の『日本書紀』が収録するが、後世の潤色多数
例えば、当時の行政区画「評こおり」を「郡」と間違えるなど
公地公民制と徴税
豪族は私有民部曲かきべに私有地(支配拠点の田地)田荘たどころを耕作させ、田荘の収穫を財力にしていました。
大王は、民衆・土地があくまで大王(ヤマト政権)のものという理念を追求しようとしました。
豪族の部曲・田荘を廃止し、公地・公民からの徴税を可能にしました。
豪族の収入として、上級官人の者には食封じきふ を与えることにしました。
行政区画と地方官
「国」という行政区画で各地を分け、国の下に「評 」を置きました。
評
『日本書紀』収録の「改新の詔」では「郡」と記載
藤原京出土の木簡もっかんから、当時の区画は評と判明
各「国」の地方官国司には、中央の役人を任命・派遣しました。
評の地方官評造こおりのみやつこには、従来から在地(現地)で支配力をもっていた国造層を任命しました。
東北経営の前線基地
蝦夷平定のため、647年に渟足柵ぬたりのさく を、648年に磐舟柵いわふねのさくを設置しました。
古墳時代の終末
古墳時代終末期|6世紀末~7世紀
ヤマト政権がクニの連合状態から脱却し、古墳の造営を規制したのでしょうか!?
6世紀末に大型の前方後円墳の造営が停止され、大王・豪族は大型の方墳・円墳を営むようになりました。
7世紀中頃から大王のみ八角墳を営み、差別化が図られました。
終末期の古墳を終末期古墳と総称
646年、薄葬令を出して、古墳造営の人員・必要日数を規制
大王以外の古墳の造営停止を促進" | 蝦夷平定のため、648年に設置したのは何ですか。 | 蝦夷平定のため、648年に設置したのは磐舟柵です。 |
JCRRAG_008640 | 歴史 | 敗戦と体制の見直し(斉明天皇~天智天皇の代)
史上初の重祚
孝徳天皇の死後、退位した皇極天皇が再び即位(重祚ちょうそ)して、斉明天皇となりました。
蝦夷の帰順
658年、日本海側の蝦夷を従わせるために、阿倍比羅夫が秋田・津軽方面に派遣されました。
比羅夫は北方の蝦夷を従えることに成功しました。
蝦夷
ヤマト政権の進出に抵抗する東北地方の人々の呼称、『宋書』倭国伝に載る「毛人もうじん」のことか!?
半島の情勢変化と百済の再興支援
660年、唐・新羅の連合軍が百済を滅ぼしました。
ヤマト政権は、百済の再興支援をすることで、朝鮮半島への影響力を回復できるかもしれないと考えました。
斉明天皇は軍を率いて出兵しました。
斉明天皇が九州で没したため、中大兄皇子が即位せずに天皇の代わりを務めて(称制)、軍の指揮を引き継ぎました。
称制
役割は摂政に近いが、践祚の場合は天皇が不在
663年、白村江の戦い
ヤマト政権が唐・新羅の連合軍に敗れた戦い
唐・新羅の追撃の恐れから、ヤマト政権は体制の再編強化を急ぎました。
668年、唐・新羅の連合軍が高句麗を討滅
ヤマト政権の対外防衛
白村江の戦い後、次の①~④の対外防衛が整えられました。
九州に兵士防人と狼煙用の施設烽とぶひ を設置
現福岡県太宰府市に、長さ約1㎞の土塁水城みずきを築造
九州に朝鮮式山城である大野城・基肄城・金田城を築城
667年、宮都を飛鳥から近江大津宮に移動
③
百済の亡命貴族が技術指導して築城
②③
九州にあった朝廷の出先機関「大宰府だざいふ」の防衛が目的
中大兄皇子の正式な即位
668年、中大兄皇子が正式に即位して、天智天皇となりました。
支配体制の再編と強化
白村江の戦い後、対外防衛とともに支配体制の再編強化が目指されました。
668年、中国の「律令」に倣い、近江令という令(行政法など)を編纂
670年、民衆と土地の管理のために、最初の戸籍庚午年籍を作成 | 658年、日本海側の蝦夷を従わせるために、秋田・津軽方面に派遣されたのは誰ですか。 | 658年、日本海側の蝦夷を従わせるために、秋田・津軽方面に派遣された人は阿倍比羅夫です。 |
JCRRAG_008641 | 歴史 | 敗戦と体制の見直し(斉明天皇~天智天皇の代)
史上初の重祚
孝徳天皇の死後、退位した皇極天皇が再び即位(重祚ちょうそ)して、斉明天皇となりました。
蝦夷の帰順
658年、日本海側の蝦夷を従わせるために、阿倍比羅夫が秋田・津軽方面に派遣されました。
比羅夫は北方の蝦夷を従えることに成功しました。
蝦夷
ヤマト政権の進出に抵抗する東北地方の人々の呼称、『宋書』倭国伝に載る「毛人もうじん」のことか!?
半島の情勢変化と百済の再興支援
660年、唐・新羅の連合軍が百済を滅ぼしました。
ヤマト政権は、百済の再興支援をすることで、朝鮮半島への影響力を回復できるかもしれないと考えました。
斉明天皇は軍を率いて出兵しました。
斉明天皇が九州で没したため、中大兄皇子が即位せずに天皇の代わりを務めて(称制)、軍の指揮を引き継ぎました。
称制
役割は摂政に近いが、践祚の場合は天皇が不在
663年、白村江の戦い
ヤマト政権が唐・新羅の連合軍に敗れた戦い
唐・新羅の追撃の恐れから、ヤマト政権は体制の再編強化を急ぎました。
668年、唐・新羅の連合軍が高句麗を討滅
ヤマト政権の対外防衛
白村江の戦い後、次の①~④の対外防衛が整えられました。
九州に兵士防人と狼煙用の施設烽とぶひ を設置
現福岡県太宰府市に、長さ約1㎞の土塁水城みずきを築造
九州に朝鮮式山城である大野城・基肄城・金田城を築城
667年、宮都を飛鳥から近江大津宮に移動
③
百済の亡命貴族が技術指導して築城
②③
九州にあった朝廷の出先機関「大宰府だざいふ」の防衛が目的
中大兄皇子の正式な即位
668年、中大兄皇子が正式に即位して、天智天皇となりました。
支配体制の再編と強化
白村江の戦い後、対外防衛とともに支配体制の再編強化が目指されました。
668年、中国の「律令」に倣い、近江令という令(行政法など)を編纂
670年、民衆と土地の管理のために、最初の戸籍庚午年籍を作成 | 660年、唐・新羅の連合軍が滅ぼしたのは何ですか。 | 660年、唐・新羅の連合軍が滅ぼしたの国は百済です。 |
JCRRAG_008642 | 歴史 | 敗戦と体制の見直し(斉明天皇~天智天皇の代)
史上初の重祚
孝徳天皇の死後、退位した皇極天皇が再び即位(重祚ちょうそ)して、斉明天皇となりました。
蝦夷の帰順
658年、日本海側の蝦夷を従わせるために、阿倍比羅夫が秋田・津軽方面に派遣されました。
比羅夫は北方の蝦夷を従えることに成功しました。
蝦夷
ヤマト政権の進出に抵抗する東北地方の人々の呼称、『宋書』倭国伝に載る「毛人もうじん」のことか!?
半島の情勢変化と百済の再興支援
660年、唐・新羅の連合軍が百済を滅ぼしました。
ヤマト政権は、百済の再興支援をすることで、朝鮮半島への影響力を回復できるかもしれないと考えました。
斉明天皇は軍を率いて出兵しました。
斉明天皇が九州で没したため、中大兄皇子が即位せずに天皇の代わりを務めて(称制)、軍の指揮を引き継ぎました。
称制
役割は摂政に近いが、践祚の場合は天皇が不在
663年、白村江の戦い
ヤマト政権が唐・新羅の連合軍に敗れた戦い
唐・新羅の追撃の恐れから、ヤマト政権は体制の再編強化を急ぎました。
668年、唐・新羅の連合軍が高句麗を討滅
ヤマト政権の対外防衛
白村江の戦い後、次の①~④の対外防衛が整えられました。
九州に兵士防人と狼煙用の施設烽とぶひ を設置
現福岡県太宰府市に、長さ約1㎞の土塁水城みずきを築造
九州に朝鮮式山城である大野城・基肄城・金田城を築城
667年、宮都を飛鳥から近江大津宮に移動
③
百済の亡命貴族が技術指導して築城
②③
九州にあった朝廷の出先機関「大宰府だざいふ」の防衛が目的
中大兄皇子の正式な即位
668年、中大兄皇子が正式に即位して、天智天皇となりました。
支配体制の再編と強化
白村江の戦い後、対外防衛とともに支配体制の再編強化が目指されました。
668年、中国の「律令」に倣い、近江令という令(行政法など)を編纂
670年、民衆と土地の管理のために、最初の戸籍庚午年籍を作成 | 663年、ヤマト政権が唐・新羅の連合軍に敗れた戦いを何と呼ばれていますか。 | 663年、ヤマト政権が唐・新羅の連合軍に敗れた戦いは白村江の戦いと呼ばれています。 |
JCRRAG_008643 | 歴史 | 敗戦と体制の見直し(斉明天皇~天智天皇の代)
史上初の重祚
孝徳天皇の死後、退位した皇極天皇が再び即位(重祚ちょうそ)して、斉明天皇となりました。
蝦夷の帰順
658年、日本海側の蝦夷を従わせるために、阿倍比羅夫が秋田・津軽方面に派遣されました。
比羅夫は北方の蝦夷を従えることに成功しました。
蝦夷
ヤマト政権の進出に抵抗する東北地方の人々の呼称、『宋書』倭国伝に載る「毛人もうじん」のことか!?
半島の情勢変化と百済の再興支援
660年、唐・新羅の連合軍が百済を滅ぼしました。
ヤマト政権は、百済の再興支援をすることで、朝鮮半島への影響力を回復できるかもしれないと考えました。
斉明天皇は軍を率いて出兵しました。
斉明天皇が九州で没したため、中大兄皇子が即位せずに天皇の代わりを務めて(称制)、軍の指揮を引き継ぎました。
称制
役割は摂政に近いが、践祚の場合は天皇が不在
663年、白村江の戦い
ヤマト政権が唐・新羅の連合軍に敗れた戦い
唐・新羅の追撃の恐れから、ヤマト政権は体制の再編強化を急ぎました。
668年、唐・新羅の連合軍が高句麗を討滅
ヤマト政権の対外防衛
白村江の戦い後、次の①~④の対外防衛が整えられました。
九州に兵士防人と狼煙用の施設烽とぶひ を設置
現福岡県太宰府市に、長さ約1㎞の土塁水城みずきを築造
九州に朝鮮式山城である大野城・基肄城・金田城を築城
667年、宮都を飛鳥から近江大津宮に移動
③
百済の亡命貴族が技術指導して築城
②③
九州にあった朝廷の出先機関「大宰府だざいふ」の防衛が目的
中大兄皇子の正式な即位
668年、中大兄皇子が正式に即位して、天智天皇となりました。
支配体制の再編と強化
白村江の戦い後、対外防衛とともに支配体制の再編強化が目指されました。
668年、中国の「律令」に倣い、近江令という令(行政法など)を編纂
670年、民衆と土地の管理のために、最初の戸籍庚午年籍を作成 | 668年、正式に即位した中大兄皇子は何となりましたか。 | 668年、正式に即位した中大兄皇子は天智天皇となりました。 |
JCRRAG_008644 | 歴史 | 敗戦と体制の見直し(斉明天皇~天智天皇の代)
史上初の重祚
孝徳天皇の死後、退位した皇極天皇が再び即位(重祚ちょうそ)して、斉明天皇となりました。
蝦夷の帰順
658年、日本海側の蝦夷を従わせるために、阿倍比羅夫が秋田・津軽方面に派遣されました。
比羅夫は北方の蝦夷を従えることに成功しました。
蝦夷
ヤマト政権の進出に抵抗する東北地方の人々の呼称、『宋書』倭国伝に載る「毛人もうじん」のことか!?
半島の情勢変化と百済の再興支援
660年、唐・新羅の連合軍が百済を滅ぼしました。
ヤマト政権は、百済の再興支援をすることで、朝鮮半島への影響力を回復できるかもしれないと考えました。
斉明天皇は軍を率いて出兵しました。
斉明天皇が九州で没したため、中大兄皇子が即位せずに天皇の代わりを務めて(称制)、軍の指揮を引き継ぎました。
称制
役割は摂政に近いが、践祚の場合は天皇が不在
663年、白村江の戦い
ヤマト政権が唐・新羅の連合軍に敗れた戦い
唐・新羅の追撃の恐れから、ヤマト政権は体制の再編強化を急ぎました。
668年、唐・新羅の連合軍が高句麗を討滅
ヤマト政権の対外防衛
白村江の戦い後、次の①~④の対外防衛が整えられました。
九州に兵士防人と狼煙用の施設烽とぶひ を設置
現福岡県太宰府市に、長さ約1㎞の土塁水城みずきを築造
九州に朝鮮式山城である大野城・基肄城・金田城を築城
667年、宮都を飛鳥から近江大津宮に移動
③
百済の亡命貴族が技術指導して築城
②③
九州にあった朝廷の出先機関「大宰府だざいふ」の防衛が目的
中大兄皇子の正式な即位
668年、中大兄皇子が正式に即位して、天智天皇となりました。
支配体制の再編と強化
白村江の戦い後、対外防衛とともに支配体制の再編強化が目指されました。
668年、中国の「律令」に倣い、近江令という令(行政法など)を編纂
670年、民衆と土地の管理のために、最初の戸籍庚午年籍を作成 | 670年、民衆と土地の管理のために最初に作成したのは何と呼ばれていますか。 | 670年、民衆と土地の管理のために最初に作成したのは戸籍庚午年籍と呼ばれています。 |
JCRRAG_008645 | 歴史 | 天皇の権威強化(天武天皇~持統天皇の代)
皇位継承問題と中央集権化
672年、壬申の乱
天智の弟大海人皇子と子大友皇子が皇位をめぐって争った内乱、大海人皇子の勝利で終結
大海人皇子が宮都飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみや で即位して天武天皇となりました。
大友皇子側の豪族が没落、また、武力による大王の地位獲得で、大王の権威が高まった、つまり中央集権化が進行しました。
内乱の際の要所に、三関さんげん(鈴鹿関・不破関ふわのせき・愛発関あらちのせき )を設置
天皇と日本の成立!?
天武は国史を編纂して、支配の正当性を強化しようとしました。
その際、自身の称号を「天皇」、ヤマト政権の国号を「日本」としたのでしょうか!?
伊勢神宮での皇祖神「天照大神」の祭祀はこの頃に開始!?
銭貨の鋳造
天武は、日本最初の鋳造銭貨である 富本銭をつくらせました。
流通は極めて限定的で、実際は厭勝銭えんしょうせん(まじないの銭)に使用されました。
身分秩序の再編
大化改新:氏ごとの勢力浮沈(蘇我氏衰退、中臣氏隆盛など)
壬申の乱:大友皇子側の中央の豪族没落
姓カバネと実情の乖離かいり(かつて氏ごとに賜与された姓≠現実の氏ごとの優劣)
684年、八色の姓 制定
姓と実情の乖離に合わせて姓を再編した制度
姓を上から順に、真人・朝臣・宿禰すくね・忌寸いみき・道師みちのし ・臣・連・稲置いなぎに再編
天武の諸政策の引継ぎ
天武の死後、皇后が即位して持統天皇となり、政策を引き継ぎました。
689年、飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょう施行(編纂開始は天武天皇の在位中)
690年、庚寅年籍こういんねんじゃく作成
694年、藤原京へ遷都(中国に倣った条坊制と呼ばれる区画をもつ都)
京
大王(天皇)などが住む「宮」の区域と、条と坊による区画で構成される都
| 672年、天智の弟大海人皇子と子大友皇子が皇位をめぐって争った内乱を何と呼ばれていますか。 | 672年、天智の弟大海人皇子と子大友皇子が皇位をめぐって争った内乱は壬申の乱と呼ばれています。 |
JCRRAG_008646 | 歴史 | 天皇の権威強化(天武天皇~持統天皇の代)
皇位継承問題と中央集権化
672年、壬申の乱
天智の弟大海人皇子と子大友皇子が皇位をめぐって争った内乱、大海人皇子の勝利で終結
大海人皇子が宮都飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみや で即位して天武天皇となりました。
大友皇子側の豪族が没落、また、武力による大王の地位獲得で、大王の権威が高まった、つまり中央集権化が進行しました。
内乱の際の要所に、三関さんげん(鈴鹿関・不破関ふわのせき・愛発関あらちのせき )を設置
天皇と日本の成立!?
天武は国史を編纂して、支配の正当性を強化しようとしました。
その際、自身の称号を「天皇」、ヤマト政権の国号を「日本」としたのでしょうか!?
伊勢神宮での皇祖神「天照大神」の祭祀はこの頃に開始!?
銭貨の鋳造
天武は、日本最初の鋳造銭貨である 富本銭をつくらせました。
流通は極めて限定的で、実際は厭勝銭えんしょうせん(まじないの銭)に使用されました。
身分秩序の再編
大化改新:氏ごとの勢力浮沈(蘇我氏衰退、中臣氏隆盛など)
壬申の乱:大友皇子側の中央の豪族没落
姓カバネと実情の乖離かいり(かつて氏ごとに賜与された姓≠現実の氏ごとの優劣)
684年、八色の姓 制定
姓と実情の乖離に合わせて姓を再編した制度
姓を上から順に、真人・朝臣・宿禰すくね・忌寸いみき・道師みちのし ・臣・連・稲置いなぎに再編
天武の諸政策の引継ぎ
天武の死後、皇后が即位して持統天皇となり、政策を引き継ぎました。
689年、飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょう施行(編纂開始は天武天皇の在位中)
690年、庚寅年籍こういんねんじゃく作成
694年、藤原京へ遷都(中国に倣った条坊制と呼ばれる区画をもつ都)
京
大王(天皇)などが住む「宮」の区域と、条と坊による区画で構成される都
| 宮都飛鳥浄御原宮で即位した大海人皇子は何となりましたか。 | 宮都飛鳥浄御原宮で即位した大海人皇子は天武天皇となりました。 |
JCRRAG_008647 | 歴史 | 天皇の権威強化(天武天皇~持統天皇の代)
皇位継承問題と中央集権化
672年、壬申の乱
天智の弟大海人皇子と子大友皇子が皇位をめぐって争った内乱、大海人皇子の勝利で終結
大海人皇子が宮都飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみや で即位して天武天皇となりました。
大友皇子側の豪族が没落、また、武力による大王の地位獲得で、大王の権威が高まった、つまり中央集権化が進行しました。
内乱の際の要所に、三関さんげん(鈴鹿関・不破関ふわのせき・愛発関あらちのせき )を設置
天皇と日本の成立!?
天武は国史を編纂して、支配の正当性を強化しようとしました。
その際、自身の称号を「天皇」、ヤマト政権の国号を「日本」としたのでしょうか!?
伊勢神宮での皇祖神「天照大神」の祭祀はこの頃に開始!?
銭貨の鋳造
天武は、日本最初の鋳造銭貨である 富本銭をつくらせました。
流通は極めて限定的で、実際は厭勝銭えんしょうせん(まじないの銭)に使用されました。
身分秩序の再編
大化改新:氏ごとの勢力浮沈(蘇我氏衰退、中臣氏隆盛など)
壬申の乱:大友皇子側の中央の豪族没落
姓カバネと実情の乖離かいり(かつて氏ごとに賜与された姓≠現実の氏ごとの優劣)
684年、八色の姓 制定
姓と実情の乖離に合わせて姓を再編した制度
姓を上から順に、真人・朝臣・宿禰すくね・忌寸いみき・道師みちのし ・臣・連・稲置いなぎに再編
天武の諸政策の引継ぎ
天武の死後、皇后が即位して持統天皇となり、政策を引き継ぎました。
689年、飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょう施行(編纂開始は天武天皇の在位中)
690年、庚寅年籍こういんねんじゃく作成
694年、藤原京へ遷都(中国に倣った条坊制と呼ばれる区画をもつ都)
京
大王(天皇)などが住む「宮」の区域と、条と坊による区画で構成される都
| 天武が作った、日本最初の鋳造銭貨は何と呼ばれていますか。 | 天武が作った、日本最初の鋳造銭貨は富本銭と呼ばれています。 |
JCRRAG_008648 | 歴史 | 天皇の権威強化(天武天皇~持統天皇の代)
皇位継承問題と中央集権化
672年、壬申の乱
天智の弟大海人皇子と子大友皇子が皇位をめぐって争った内乱、大海人皇子の勝利で終結
大海人皇子が宮都飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみや で即位して天武天皇となりました。
大友皇子側の豪族が没落、また、武力による大王の地位獲得で、大王の権威が高まった、つまり中央集権化が進行しました。
内乱の際の要所に、三関さんげん(鈴鹿関・不破関ふわのせき・愛発関あらちのせき )を設置
天皇と日本の成立!?
天武は国史を編纂して、支配の正当性を強化しようとしました。
その際、自身の称号を「天皇」、ヤマト政権の国号を「日本」としたのでしょうか!?
伊勢神宮での皇祖神「天照大神」の祭祀はこの頃に開始!?
銭貨の鋳造
天武は、日本最初の鋳造銭貨である 富本銭をつくらせました。
流通は極めて限定的で、実際は厭勝銭えんしょうせん(まじないの銭)に使用されました。
身分秩序の再編
大化改新:氏ごとの勢力浮沈(蘇我氏衰退、中臣氏隆盛など)
壬申の乱:大友皇子側の中央の豪族没落
姓カバネと実情の乖離かいり(かつて氏ごとに賜与された姓≠現実の氏ごとの優劣)
684年、八色の姓 制定
姓と実情の乖離に合わせて姓を再編した制度
姓を上から順に、真人・朝臣・宿禰すくね・忌寸いみき・道師みちのし ・臣・連・稲置いなぎに再編
天武の諸政策の引継ぎ
天武の死後、皇后が即位して持統天皇となり、政策を引き継ぎました。
689年、飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょう施行(編纂開始は天武天皇の在位中)
690年、庚寅年籍こういんねんじゃく作成
694年、藤原京へ遷都(中国に倣った条坊制と呼ばれる区画をもつ都)
京
大王(天皇)などが住む「宮」の区域と、条と坊による区画で構成される都
| 684年、姓と実情の乖離に合わせて姓を再編した制度を何と呼ばれていますか。 | 姓と実情の乖離に合わせて姓を再編した制度は八色の姓と呼ばれています。 |
JCRRAG_008649 | 歴史 | 天皇の権威強化(天武天皇~持統天皇の代)
皇位継承問題と中央集権化
672年、壬申の乱
天智の弟大海人皇子と子大友皇子が皇位をめぐって争った内乱、大海人皇子の勝利で終結
大海人皇子が宮都飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみや で即位して天武天皇となりました。
大友皇子側の豪族が没落、また、武力による大王の地位獲得で、大王の権威が高まった、つまり中央集権化が進行しました。
内乱の際の要所に、三関さんげん(鈴鹿関・不破関ふわのせき・愛発関あらちのせき )を設置
天皇と日本の成立!?
天武は国史を編纂して、支配の正当性を強化しようとしました。
その際、自身の称号を「天皇」、ヤマト政権の国号を「日本」としたのでしょうか!?
伊勢神宮での皇祖神「天照大神」の祭祀はこの頃に開始!?
銭貨の鋳造
天武は、日本最初の鋳造銭貨である 富本銭をつくらせました。
流通は極めて限定的で、実際は厭勝銭えんしょうせん(まじないの銭)に使用されました。
身分秩序の再編
大化改新:氏ごとの勢力浮沈(蘇我氏衰退、中臣氏隆盛など)
壬申の乱:大友皇子側の中央の豪族没落
姓カバネと実情の乖離かいり(かつて氏ごとに賜与された姓≠現実の氏ごとの優劣)
684年、八色の姓 制定
姓と実情の乖離に合わせて姓を再編した制度
姓を上から順に、真人・朝臣・宿禰すくね・忌寸いみき・道師みちのし ・臣・連・稲置いなぎに再編
天武の諸政策の引継ぎ
天武の死後、皇后が即位して持統天皇となり、政策を引き継ぎました。
689年、飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょう施行(編纂開始は天武天皇の在位中)
690年、庚寅年籍こういんねんじゃく作成
694年、藤原京へ遷都(中国に倣った条坊制と呼ばれる区画をもつ都)
京
大王(天皇)などが住む「宮」の区域と、条と坊による区画で構成される都
| 天武の死後、政策を引き継ぎ即位した皇后は何となりましたか。 | 天武の死後、政策を引き継ぎ即位した皇后は持統天皇となりました。 |
JCRRAG_008650 | 歴史 | 美術作品
寺院の創建と移建
大官大寺
藤原京に造られた寺院で、後に平城京へ移築、大安寺と改称
「官立の大寺院」の意
薬師寺
藤原京に造られた官立の寺院で、後に平城京へ移築
仏像
法隆寺阿弥陀三尊像
法隆寺夢違観音像ゆめたがいかんのんぞう
薬師寺金堂薬師三尊像
薬師寺東院堂聖観音像しょうかんのんぞう
興福寺仏頭
仏頭
蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかわまろ創建の 山田寺の本尊の頭部で 、天武天皇が彼の冥福を祈るために造像
絵画
法隆寺金堂壁画
インドの壁画に類似
1949年の焼失を契機に、文化財保護法を制定
高松塚古墳壁画
高句麗の壁画に類似
和歌と天皇
万葉仮名
漢字が普及に伴って、日本列島独自の言葉を、漢字のもつ意味に関係なく、その音おとで表記するようになりました。
表記した文字を万葉仮名と言います。
万葉仮名で文章・和歌なども記録されるようになりました。
万葉仮名の成立時期は不明(文章には7世紀中頃から!?)
5世紀の鉄剣(稲荷山古墳出土)にも万葉仮名による人名表記が見られるが、文章での万葉仮名の使用は未成立
和歌
7世紀中頃には、万葉仮名で和歌が表記されはじめました。
和歌自体の起源を求めることは困難
額田王…熱田津 にきたつ に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(『万葉集』)
7世紀後半の歌人で、天武天皇の后。百済再興支援の途上、伊予国の熱田津で船出を待つ歌が有名です。出自・交友関係ともに不詳なことが多くあります。
天皇の神格化
武力での即位や中央集権化の取り組みで、天武天皇の地位の絶対化や神格化が生じました。
天武の神格化は、当時の和歌にも見えます。
柿本人麻呂
大君おおきみは神にしませば天雲の雷の上にいほらせるかも(『万葉集』)
大伴御行おおとものみゆき
大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ(『万葉集』)
作者未詳
大君は神にしませば 水鳥のすだく水沼を都と成しつ(『万葉集』)
7世紀後半の歌人で、持統天皇・文武天皇に仕えました。地位は低かったのですが、宮廷歌人として活躍。後世、「歌聖」と仰がれました。
加えて、天武は皇祖神(天照大神)が神の頂点であることや、天皇との繋がりを国史で物語ろうと国史編纂へんさん事業を始めたとも思われます。
奈良時代に『 古事記』『日本書紀』として完成しました。
天武が伊勢神宮での皇祖神の祭祀を開始!? | 藤原京に造られた寺院で、後に平城京へ移築、大安寺と改称した寺院は何ですか。 | 藤原京に造られた寺院で、後に平城京へ移築、大安寺と改称した寺院は大官大寺です。 |
JCRRAG_008651 | 歴史 | 美術作品
寺院の創建と移建
大官大寺
藤原京に造られた寺院で、後に平城京へ移築、大安寺と改称
「官立の大寺院」の意
薬師寺
藤原京に造られた官立の寺院で、後に平城京へ移築
仏像
法隆寺阿弥陀三尊像
法隆寺夢違観音像ゆめたがいかんのんぞう
薬師寺金堂薬師三尊像
薬師寺東院堂聖観音像しょうかんのんぞう
興福寺仏頭
仏頭
蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかわまろ創建の 山田寺の本尊の頭部で 、天武天皇が彼の冥福を祈るために造像
絵画
法隆寺金堂壁画
インドの壁画に類似
1949年の焼失を契機に、文化財保護法を制定
高松塚古墳壁画
高句麗の壁画に類似
和歌と天皇
万葉仮名
漢字が普及に伴って、日本列島独自の言葉を、漢字のもつ意味に関係なく、その音おとで表記するようになりました。
表記した文字を万葉仮名と言います。
万葉仮名で文章・和歌なども記録されるようになりました。
万葉仮名の成立時期は不明(文章には7世紀中頃から!?)
5世紀の鉄剣(稲荷山古墳出土)にも万葉仮名による人名表記が見られるが、文章での万葉仮名の使用は未成立
和歌
7世紀中頃には、万葉仮名で和歌が表記されはじめました。
和歌自体の起源を求めることは困難
額田王…熱田津 にきたつ に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(『万葉集』)
7世紀後半の歌人で、天武天皇の后。百済再興支援の途上、伊予国の熱田津で船出を待つ歌が有名です。出自・交友関係ともに不詳なことが多くあります。
天皇の神格化
武力での即位や中央集権化の取り組みで、天武天皇の地位の絶対化や神格化が生じました。
天武の神格化は、当時の和歌にも見えます。
柿本人麻呂
大君おおきみは神にしませば天雲の雷の上にいほらせるかも(『万葉集』)
大伴御行おおとものみゆき
大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ(『万葉集』)
作者未詳
大君は神にしませば 水鳥のすだく水沼を都と成しつ(『万葉集』)
7世紀後半の歌人で、持統天皇・文武天皇に仕えました。地位は低かったのですが、宮廷歌人として活躍。後世、「歌聖」と仰がれました。
加えて、天武は皇祖神(天照大神)が神の頂点であることや、天皇との繋がりを国史で物語ろうと国史編纂へんさん事業を始めたとも思われます。
奈良時代に『 古事記』『日本書紀』として完成しました。
天武が伊勢神宮での皇祖神の祭祀を開始!? | 藤原京に造られた官立の寺院で、後に平城京へ移築した寺院は何ですか。 | 後に平城京へ移築した寺院は薬師寺です。 |
JCRRAG_008652 | 歴史 | 美術作品
寺院の創建と移建
大官大寺
藤原京に造られた寺院で、後に平城京へ移築、大安寺と改称
「官立の大寺院」の意
薬師寺
藤原京に造られた官立の寺院で、後に平城京へ移築
仏像
法隆寺阿弥陀三尊像
法隆寺夢違観音像ゆめたがいかんのんぞう
薬師寺金堂薬師三尊像
薬師寺東院堂聖観音像しょうかんのんぞう
興福寺仏頭
仏頭
蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかわまろ創建の 山田寺の本尊の頭部で 、天武天皇が彼の冥福を祈るために造像
絵画
法隆寺金堂壁画
インドの壁画に類似
1949年の焼失を契機に、文化財保護法を制定
高松塚古墳壁画
高句麗の壁画に類似
和歌と天皇
万葉仮名
漢字が普及に伴って、日本列島独自の言葉を、漢字のもつ意味に関係なく、その音おとで表記するようになりました。
表記した文字を万葉仮名と言います。
万葉仮名で文章・和歌なども記録されるようになりました。
万葉仮名の成立時期は不明(文章には7世紀中頃から!?)
5世紀の鉄剣(稲荷山古墳出土)にも万葉仮名による人名表記が見られるが、文章での万葉仮名の使用は未成立
和歌
7世紀中頃には、万葉仮名で和歌が表記されはじめました。
和歌自体の起源を求めることは困難
額田王…熱田津 にきたつ に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(『万葉集』)
7世紀後半の歌人で、天武天皇の后。百済再興支援の途上、伊予国の熱田津で船出を待つ歌が有名です。出自・交友関係ともに不詳なことが多くあります。
天皇の神格化
武力での即位や中央集権化の取り組みで、天武天皇の地位の絶対化や神格化が生じました。
天武の神格化は、当時の和歌にも見えます。
柿本人麻呂
大君おおきみは神にしませば天雲の雷の上にいほらせるかも(『万葉集』)
大伴御行おおとものみゆき
大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ(『万葉集』)
作者未詳
大君は神にしませば 水鳥のすだく水沼を都と成しつ(『万葉集』)
7世紀後半の歌人で、持統天皇・文武天皇に仕えました。地位は低かったのですが、宮廷歌人として活躍。後世、「歌聖」と仰がれました。
加えて、天武は皇祖神(天照大神)が神の頂点であることや、天皇との繋がりを国史で物語ろうと国史編纂へんさん事業を始めたとも思われます。
奈良時代に『 古事記』『日本書紀』として完成しました。
天武が伊勢神宮での皇祖神の祭祀を開始!? | 漢字が普及に伴って日本列島独自の言葉を、漢字のもつ意味に関係なくその音で表記するようになり、表記した文字を何と呼ばれていますか。 | 表記した文字は万葉仮名と呼ばれています。 |
JCRRAG_008653 | 歴史 | 美術作品
寺院の創建と移建
大官大寺
藤原京に造られた寺院で、後に平城京へ移築、大安寺と改称
「官立の大寺院」の意
薬師寺
藤原京に造られた官立の寺院で、後に平城京へ移築
仏像
法隆寺阿弥陀三尊像
法隆寺夢違観音像ゆめたがいかんのんぞう
薬師寺金堂薬師三尊像
薬師寺東院堂聖観音像しょうかんのんぞう
興福寺仏頭
仏頭
蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかわまろ創建の 山田寺の本尊の頭部で 、天武天皇が彼の冥福を祈るために造像
絵画
法隆寺金堂壁画
インドの壁画に類似
1949年の焼失を契機に、文化財保護法を制定
高松塚古墳壁画
高句麗の壁画に類似
和歌と天皇
万葉仮名
漢字が普及に伴って、日本列島独自の言葉を、漢字のもつ意味に関係なく、その音おとで表記するようになりました。
表記した文字を万葉仮名と言います。
万葉仮名で文章・和歌なども記録されるようになりました。
万葉仮名の成立時期は不明(文章には7世紀中頃から!?)
5世紀の鉄剣(稲荷山古墳出土)にも万葉仮名による人名表記が見られるが、文章での万葉仮名の使用は未成立
和歌
7世紀中頃には、万葉仮名で和歌が表記されはじめました。
和歌自体の起源を求めることは困難
額田王…熱田津 にきたつ に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(『万葉集』)
7世紀後半の歌人で、天武天皇の后。百済再興支援の途上、伊予国の熱田津で船出を待つ歌が有名です。出自・交友関係ともに不詳なことが多くあります。
天皇の神格化
武力での即位や中央集権化の取り組みで、天武天皇の地位の絶対化や神格化が生じました。
天武の神格化は、当時の和歌にも見えます。
柿本人麻呂
大君おおきみは神にしませば天雲の雷の上にいほらせるかも(『万葉集』)
大伴御行おおとものみゆき
大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ(『万葉集』)
作者未詳
大君は神にしませば 水鳥のすだく水沼を都と成しつ(『万葉集』)
7世紀後半の歌人で、持統天皇・文武天皇に仕えました。地位は低かったのですが、宮廷歌人として活躍。後世、「歌聖」と仰がれました。
加えて、天武は皇祖神(天照大神)が神の頂点であることや、天皇との繋がりを国史で物語ろうと国史編纂へんさん事業を始めたとも思われます。
奈良時代に『 古事記』『日本書紀』として完成しました。
天武が伊勢神宮での皇祖神の祭祀を開始!? | 7世紀後半の歌人で、天武天皇の后は誰ですか。 | 天武天皇の后は額田王です。 |
JCRRAG_008654 | 歴史 | 美術作品
寺院の創建と移建
大官大寺
藤原京に造られた寺院で、後に平城京へ移築、大安寺と改称
「官立の大寺院」の意
薬師寺
藤原京に造られた官立の寺院で、後に平城京へ移築
仏像
法隆寺阿弥陀三尊像
法隆寺夢違観音像ゆめたがいかんのんぞう
薬師寺金堂薬師三尊像
薬師寺東院堂聖観音像しょうかんのんぞう
興福寺仏頭
仏頭
蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかわまろ創建の 山田寺の本尊の頭部で 、天武天皇が彼の冥福を祈るために造像
絵画
法隆寺金堂壁画
インドの壁画に類似
1949年の焼失を契機に、文化財保護法を制定
高松塚古墳壁画
高句麗の壁画に類似
和歌と天皇
万葉仮名
漢字が普及に伴って、日本列島独自の言葉を、漢字のもつ意味に関係なく、その音おとで表記するようになりました。
表記した文字を万葉仮名と言います。
万葉仮名で文章・和歌なども記録されるようになりました。
万葉仮名の成立時期は不明(文章には7世紀中頃から!?)
5世紀の鉄剣(稲荷山古墳出土)にも万葉仮名による人名表記が見られるが、文章での万葉仮名の使用は未成立
和歌
7世紀中頃には、万葉仮名で和歌が表記されはじめました。
和歌自体の起源を求めることは困難
額田王…熱田津 にきたつ に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(『万葉集』)
7世紀後半の歌人で、天武天皇の后。百済再興支援の途上、伊予国の熱田津で船出を待つ歌が有名です。出自・交友関係ともに不詳なことが多くあります。
天皇の神格化
武力での即位や中央集権化の取り組みで、天武天皇の地位の絶対化や神格化が生じました。
天武の神格化は、当時の和歌にも見えます。
柿本人麻呂
大君おおきみは神にしませば天雲の雷の上にいほらせるかも(『万葉集』)
大伴御行おおとものみゆき
大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ(『万葉集』)
作者未詳
大君は神にしませば 水鳥のすだく水沼を都と成しつ(『万葉集』)
7世紀後半の歌人で、持統天皇・文武天皇に仕えました。地位は低かったのですが、宮廷歌人として活躍。後世、「歌聖」と仰がれました。
加えて、天武は皇祖神(天照大神)が神の頂点であることや、天皇との繋がりを国史で物語ろうと国史編纂へんさん事業を始めたとも思われます。
奈良時代に『 古事記』『日本書紀』として完成しました。
天武が伊勢神宮での皇祖神の祭祀を開始!? | 7世紀後半の歌人で、持統天皇・文武天皇に仕えたのは誰ですか。 | 持統天皇・文武天皇に仕えたのは柿本人麻呂です。 |
JCRRAG_008655 | 歴史 | 律令国家の成立
663年、ヤマト政権は白村江の戦いで大敗しました。
これを受け、対外防衛とともに、支配体制の再編強化を急ぎました。
唐の律令に倣い、法体系を整えていきました。
律
刑法のこと
令
行政法・民法などのこと
天智天皇の御代668年、近江令編纂
持統天皇の御代689年、飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょう 施行
律よりも組織・税制に関する令を優先
701年、総裁刑部親王おさかべしんのう ・中臣鎌足の子藤原不比等ふひとらが、大宝律令を編纂しました。
律と令がそろい、国家の骨組みができあがりました。
中臣鎌足が「藤原」の氏を賜与されると、子の不比等も藤原氏を使用しました。律令編纂で頭角を現し、後に養老律令の編纂も手がけました。『竹取物語』に不比等をモデルとする「車持くらもち 皇子」が登場します。
行政区画(国郡里)
中央から国司が国ごとに派遣され、国府を拠点に国を管理しました。
各国の下には郡が置かれ、在地の元国造の層が郡司に任じられ、郡家を拠点に郡を管理しました。
郡の下には里(後に郷ごうと改称)が置かれ、里長りちょう が管理した。
国司
定員6人で任期あり(6年)の役職
郡司
任期なしで世襲される役職
広域の行政区画(畿内七道)
京の周辺5カ国は畿内、それ以外の国は七道にまとめられました。
七道
行政区画の名称であるとともに、中央と地方を結ぶ幹線道路の名称
位階と官職
大宝律令により、一位からはじまる計30の位階が設けられた。
位階の設定は603年の冠位十二階制定から
貴族(五位以上の者)には、俸禄の支給や税の免除の他に、その位階に応じて子孫に一定の位階が与えられる特権蔭位の制がありました。
五位以上なら子に、三位以上なら孫にまで一定の位階が与えられました。
これら位階で任命する官職を定めた官位相当制も設けられました。
四等官制
同じ官職(国司など)でも4段階の上下階級を設定
例えば国司なら、上から「守かみ・介すけ・掾じょう ・目さかん」の4階級
司法制度
五刑(笞ち・杖じょう・徒ず・流る ・死し)という刑罰と、八虐(謀反・悪逆など)という8つの重罪が定められました。
貴族には、軽い罪であれば免職・代償で済む特権がありましたが、国家や天皇に対する犯罪の八虐は貴族といえども減刑を許されませんでした。 | 663年、ヤマト政権は大敗した戦いは何呼ばれていますか。 | ヤマト政権は大敗した戦いは白村江の戦いと呼ばれています。 |
JCRRAG_008656 | 歴史 | 律令国家の成立
663年、ヤマト政権は白村江の戦いで大敗しました。
これを受け、対外防衛とともに、支配体制の再編強化を急ぎました。
唐の律令に倣い、法体系を整えていきました。
律
刑法のこと
令
行政法・民法などのこと
天智天皇の御代668年、近江令編纂
持統天皇の御代689年、飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょう 施行
律よりも組織・税制に関する令を優先
701年、総裁刑部親王おさかべしんのう ・中臣鎌足の子藤原不比等ふひとらが、大宝律令を編纂しました。
律と令がそろい、国家の骨組みができあがりました。
中臣鎌足が「藤原」の氏を賜与されると、子の不比等も藤原氏を使用しました。律令編纂で頭角を現し、後に養老律令の編纂も手がけました。『竹取物語』に不比等をモデルとする「車持くらもち 皇子」が登場します。
行政区画(国郡里)
中央から国司が国ごとに派遣され、国府を拠点に国を管理しました。
各国の下には郡が置かれ、在地の元国造の層が郡司に任じられ、郡家を拠点に郡を管理しました。
郡の下には里(後に郷ごうと改称)が置かれ、里長りちょう が管理した。
国司
定員6人で任期あり(6年)の役職
郡司
任期なしで世襲される役職
広域の行政区画(畿内七道)
京の周辺5カ国は畿内、それ以外の国は七道にまとめられました。
七道
行政区画の名称であるとともに、中央と地方を結ぶ幹線道路の名称
位階と官職
大宝律令により、一位からはじまる計30の位階が設けられた。
位階の設定は603年の冠位十二階制定から
貴族(五位以上の者)には、俸禄の支給や税の免除の他に、その位階に応じて子孫に一定の位階が与えられる特権蔭位の制がありました。
五位以上なら子に、三位以上なら孫にまで一定の位階が与えられました。
これら位階で任命する官職を定めた官位相当制も設けられました。
四等官制
同じ官職(国司など)でも4段階の上下階級を設定
例えば国司なら、上から「守かみ・介すけ・掾じょう ・目さかん」の4階級
司法制度
五刑(笞ち・杖じょう・徒ず・流る ・死し)という刑罰と、八虐(謀反・悪逆など)という8つの重罪が定められました。
貴族には、軽い罪であれば免職・代償で済む特権がありましたが、国家や天皇に対する犯罪の八虐は貴族といえども減刑を許されませんでした。 | 701年、藤原不比等が編纂した令は何ですか。 | 藤原不比等が編纂した令は大宝律令です。 |
JCRRAG_008657 | 歴史 | 律令国家の成立
663年、ヤマト政権は白村江の戦いで大敗しました。
これを受け、対外防衛とともに、支配体制の再編強化を急ぎました。
唐の律令に倣い、法体系を整えていきました。
律
刑法のこと
令
行政法・民法などのこと
天智天皇の御代668年、近江令編纂
持統天皇の御代689年、飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょう 施行
律よりも組織・税制に関する令を優先
701年、総裁刑部親王おさかべしんのう ・中臣鎌足の子藤原不比等ふひとらが、大宝律令を編纂しました。
律と令がそろい、国家の骨組みができあがりました。
中臣鎌足が「藤原」の氏を賜与されると、子の不比等も藤原氏を使用しました。律令編纂で頭角を現し、後に養老律令の編纂も手がけました。『竹取物語』に不比等をモデルとする「車持くらもち 皇子」が登場します。
行政区画(国郡里)
中央から国司が国ごとに派遣され、国府を拠点に国を管理しました。
各国の下には郡が置かれ、在地の元国造の層が郡司に任じられ、郡家を拠点に郡を管理しました。
郡の下には里(後に郷ごうと改称)が置かれ、里長りちょう が管理した。
国司
定員6人で任期あり(6年)の役職
郡司
任期なしで世襲される役職
広域の行政区画(畿内七道)
京の周辺5カ国は畿内、それ以外の国は七道にまとめられました。
七道
行政区画の名称であるとともに、中央と地方を結ぶ幹線道路の名称
位階と官職
大宝律令により、一位からはじまる計30の位階が設けられた。
位階の設定は603年の冠位十二階制定から
貴族(五位以上の者)には、俸禄の支給や税の免除の他に、その位階に応じて子孫に一定の位階が与えられる特権蔭位の制がありました。
五位以上なら子に、三位以上なら孫にまで一定の位階が与えられました。
これら位階で任命する官職を定めた官位相当制も設けられました。
四等官制
同じ官職(国司など)でも4段階の上下階級を設定
例えば国司なら、上から「守かみ・介すけ・掾じょう ・目さかん」の4階級
司法制度
五刑(笞ち・杖じょう・徒ず・流る ・死し)という刑罰と、八虐(謀反・悪逆など)という8つの重罪が定められました。
貴族には、軽い罪であれば免職・代償で済む特権がありましたが、国家や天皇に対する犯罪の八虐は貴族といえども減刑を許されませんでした。 | 京の周辺5カ国の行政区画は何にまとめられましたか。 | 京の周辺5カ国の行政区画は畿内にまとめられました。 |
JCRRAG_008658 | 歴史 | 律令国家の成立
663年、ヤマト政権は白村江の戦いで大敗しました。
これを受け、対外防衛とともに、支配体制の再編強化を急ぎました。
唐の律令に倣い、法体系を整えていきました。
律
刑法のこと
令
行政法・民法などのこと
天智天皇の御代668年、近江令編纂
持統天皇の御代689年、飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょう 施行
律よりも組織・税制に関する令を優先
701年、総裁刑部親王おさかべしんのう ・中臣鎌足の子藤原不比等ふひとらが、大宝律令を編纂しました。
律と令がそろい、国家の骨組みができあがりました。
中臣鎌足が「藤原」の氏を賜与されると、子の不比等も藤原氏を使用しました。律令編纂で頭角を現し、後に養老律令の編纂も手がけました。『竹取物語』に不比等をモデルとする「車持くらもち 皇子」が登場します。
行政区画(国郡里)
中央から国司が国ごとに派遣され、国府を拠点に国を管理しました。
各国の下には郡が置かれ、在地の元国造の層が郡司に任じられ、郡家を拠点に郡を管理しました。
郡の下には里(後に郷ごうと改称)が置かれ、里長りちょう が管理した。
国司
定員6人で任期あり(6年)の役職
郡司
任期なしで世襲される役職
広域の行政区画(畿内七道)
京の周辺5カ国は畿内、それ以外の国は七道にまとめられました。
七道
行政区画の名称であるとともに、中央と地方を結ぶ幹線道路の名称
位階と官職
大宝律令により、一位からはじまる計30の位階が設けられた。
位階の設定は603年の冠位十二階制定から
貴族(五位以上の者)には、俸禄の支給や税の免除の他に、その位階に応じて子孫に一定の位階が与えられる特権蔭位の制がありました。
五位以上なら子に、三位以上なら孫にまで一定の位階が与えられました。
これら位階で任命する官職を定めた官位相当制も設けられました。
四等官制
同じ官職(国司など)でも4段階の上下階級を設定
例えば国司なら、上から「守かみ・介すけ・掾じょう ・目さかん」の4階級
司法制度
五刑(笞ち・杖じょう・徒ず・流る ・死し)という刑罰と、八虐(謀反・悪逆など)という8つの重罪が定められました。
貴族には、軽い罪であれば免職・代償で済む特権がありましたが、国家や天皇に対する犯罪の八虐は貴族といえども減刑を許されませんでした。 | それ以外の国は何にまとめられましたか。 | それ以外の国は七道にまとめられました。 |
JCRRAG_008659 | 歴史 | 律令国家の成立
663年、ヤマト政権は白村江の戦いで大敗しました。
これを受け、対外防衛とともに、支配体制の再編強化を急ぎました。
唐の律令に倣い、法体系を整えていきました。
律
刑法のこと
令
行政法・民法などのこと
天智天皇の御代668年、近江令編纂
持統天皇の御代689年、飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょう 施行
律よりも組織・税制に関する令を優先
701年、総裁刑部親王おさかべしんのう ・中臣鎌足の子藤原不比等ふひとらが、大宝律令を編纂しました。
律と令がそろい、国家の骨組みができあがりました。
中臣鎌足が「藤原」の氏を賜与されると、子の不比等も藤原氏を使用しました。律令編纂で頭角を現し、後に養老律令の編纂も手がけました。『竹取物語』に不比等をモデルとする「車持くらもち 皇子」が登場します。
行政区画(国郡里)
中央から国司が国ごとに派遣され、国府を拠点に国を管理しました。
各国の下には郡が置かれ、在地の元国造の層が郡司に任じられ、郡家を拠点に郡を管理しました。
郡の下には里(後に郷ごうと改称)が置かれ、里長りちょう が管理した。
国司
定員6人で任期あり(6年)の役職
郡司
任期なしで世襲される役職
広域の行政区画(畿内七道)
京の周辺5カ国は畿内、それ以外の国は七道にまとめられました。
七道
行政区画の名称であるとともに、中央と地方を結ぶ幹線道路の名称
位階と官職
大宝律令により、一位からはじまる計30の位階が設けられた。
位階の設定は603年の冠位十二階制定から
貴族(五位以上の者)には、俸禄の支給や税の免除の他に、その位階に応じて子孫に一定の位階が与えられる特権蔭位の制がありました。
五位以上なら子に、三位以上なら孫にまで一定の位階が与えられました。
これら位階で任命する官職を定めた官位相当制も設けられました。
四等官制
同じ官職(国司など)でも4段階の上下階級を設定
例えば国司なら、上から「守かみ・介すけ・掾じょう ・目さかん」の4階級
司法制度
五刑(笞ち・杖じょう・徒ず・流る ・死し)という刑罰と、八虐(謀反・悪逆など)という8つの重罪が定められました。
貴族には、軽い罪であれば免職・代償で済む特権がありましたが、国家や天皇に対する犯罪の八虐は貴族といえども減刑を許されませんでした。 | 同じ官職(国司など)でも4段階の上下階級を設定した制度は何ですか。 | 同じ官職(国司など)でも4段階の上下階級を設定した制度は四等官制です。 |
JCRRAG_008660 | 歴史 | 律令のなかの民衆
民衆の管理
複数の家族を成員25人程度にまとめて、戸という単位を編成しました。
民衆はいずれかの戸に所属する形で国家に管理されました。
戸
50戸で里長が管轄する行政区分「里り(後に郷ごう と改称)」を編成
戸の詳細な情報は、2種類の文書にまとめられました。
戸籍
6年に1度作成され、戸の構成員の名・年齢・性別を記載
6年ごとの班田収授の対象者を一目で把握可能
計帳
毎年作成され、戸籍の情報に加えてホクロなど身体的特徴も記載
年齢(20歳以上か未満かなど)で負担量が変わる税を把握可能
民衆の尊卑
民衆の身分は良民と賤民に二分されました。
賤民は官有の「陵戸りょうこ・官戸・公奴婢くぬひ 」と私有の「家人けにん・私奴婢」に分かれ、まとめて五色の賤とも総称されました。
良民
貴族を含む官人も該当しますが、彼らは一般民衆と異なり税負担なし
田地に関する決まりごと
長さと面積の単位
長さ
1町ちょう=60歩ぶ(=現在の約109m)
面積
1段たん=10畝せ =360歩(=現在の約11.3a)
1町=10段、1里り=36町
条里制
碁盤状の田地で、東西の列を「1条、2条、3条…」、南北の列を「1里、2里、3里…」と数えます。
すると、特定の田地の位置を「○条×里」と示せます。
このような田地の位置管理を条里制と呼びます。
条坊制
条坊制は、碁盤状の京(藤原京など)で使用
南北の列を「1坊、2坊、3坊…」と数え、特定の区画の位置を「○条×坊」と表示
税制度の様相
田地の配給
班田収授法に従い、一定の田地口分田 が班給・収公されました。
班給:6年ごとの戸籍作成時、6以上の男女を対象
収公:6年ごとの戸籍作成時、班給された者で既に死去している者を対象
男性→2段(720歩)
女性→男性の2/3(480歩=1段120歩)
家人・私奴婢の男性→良民男性の1/3(240歩)
家人・私奴婢の女性→良民女性の1/3(160歩)
口分田を班給した残りの田地を乗田と呼び、期限・利子付きで貸し出し(賃租ちんそ)
田地の種類には、大臣などに支給される職田しきでん (不輸租田の一種)や、 五位以上の位階者に与えられる位田(輸租田の一種)などが存在 | 複数の家族を成員25人程度にまとめた編成は何という単位ですか。 | 複数の家族を成員25人程度にまとめた編成は戸という単位です。 |
JCRRAG_008661 | 歴史 | 律令のなかの民衆
民衆の管理
複数の家族を成員25人程度にまとめて、戸という単位を編成しました。
民衆はいずれかの戸に所属する形で国家に管理されました。
戸
50戸で里長が管轄する行政区分「里り(後に郷ごう と改称)」を編成
戸の詳細な情報は、2種類の文書にまとめられました。
戸籍
6年に1度作成され、戸の構成員の名・年齢・性別を記載
6年ごとの班田収授の対象者を一目で把握可能
計帳
毎年作成され、戸籍の情報に加えてホクロなど身体的特徴も記載
年齢(20歳以上か未満かなど)で負担量が変わる税を把握可能
民衆の尊卑
民衆の身分は良民と賤民に二分されました。
賤民は官有の「陵戸りょうこ・官戸・公奴婢くぬひ 」と私有の「家人けにん・私奴婢」に分かれ、まとめて五色の賤とも総称されました。
良民
貴族を含む官人も該当しますが、彼らは一般民衆と異なり税負担なし
田地に関する決まりごと
長さと面積の単位
長さ
1町ちょう=60歩ぶ(=現在の約109m)
面積
1段たん=10畝せ =360歩(=現在の約11.3a)
1町=10段、1里り=36町
条里制
碁盤状の田地で、東西の列を「1条、2条、3条…」、南北の列を「1里、2里、3里…」と数えます。
すると、特定の田地の位置を「○条×里」と示せます。
このような田地の位置管理を条里制と呼びます。
条坊制
条坊制は、碁盤状の京(藤原京など)で使用
南北の列を「1坊、2坊、3坊…」と数え、特定の区画の位置を「○条×坊」と表示
税制度の様相
田地の配給
班田収授法に従い、一定の田地口分田 が班給・収公されました。
班給:6年ごとの戸籍作成時、6以上の男女を対象
収公:6年ごとの戸籍作成時、班給された者で既に死去している者を対象
男性→2段(720歩)
女性→男性の2/3(480歩=1段120歩)
家人・私奴婢の男性→良民男性の1/3(240歩)
家人・私奴婢の女性→良民女性の1/3(160歩)
口分田を班給した残りの田地を乗田と呼び、期限・利子付きで貸し出し(賃租ちんそ)
田地の種類には、大臣などに支給される職田しきでん (不輸租田の一種)や、 五位以上の位階者に与えられる位田(輸租田の一種)などが存在しています。 | 6年に1度作成され、戸の構成員の名・年齢・性別を記載したものを何と呼ばれていますか。 | 戸の構成員の名・年齢・性別を記載したものは戸籍と呼ばれています。 |
JCRRAG_008662 | 歴史 | 律令のなかの民衆
民衆の管理
複数の家族を成員25人程度にまとめて、戸という単位を編成しました。
民衆はいずれかの戸に所属する形で国家に管理されました。
戸
50戸で里長が管轄する行政区分「里り(後に郷ごう と改称)」を編成
戸の詳細な情報は、2種類の文書にまとめられました。
戸籍
6年に1度作成され、戸の構成員の名・年齢・性別を記載
6年ごとの班田収授の対象者を一目で把握可能
計帳
毎年作成され、戸籍の情報に加えてホクロなど身体的特徴も記載
年齢(20歳以上か未満かなど)で負担量が変わる税を把握可能
民衆の尊卑
民衆の身分は良民と賤民に二分されました。
賤民は官有の「陵戸りょうこ・官戸・公奴婢くぬひ 」と私有の「家人けにん・私奴婢」に分かれ、まとめて五色の賤とも総称されました。
良民
貴族を含む官人も該当しますが、彼らは一般民衆と異なり税負担なし
田地に関する決まりごと
長さと面積の単位
長さ
1町ちょう=60歩ぶ(=現在の約109m)
面積
1段たん=10畝せ =360歩(=現在の約11.3a)
1町=10段、1里り=36町
条里制
碁盤状の田地で、東西の列を「1条、2条、3条…」、南北の列を「1里、2里、3里…」と数えます。
すると、特定の田地の位置を「○条×里」と示せます。
このような田地の位置管理を条里制と呼びます。
条坊制
条坊制は、碁盤状の京(藤原京など)で使用
南北の列を「1坊、2坊、3坊…」と数え、特定の区画の位置を「○条×坊」と表示
税制度の様相
田地の配給
班田収授法に従い、一定の田地口分田 が班給・収公されました。
班給:6年ごとの戸籍作成時、6以上の男女を対象
収公:6年ごとの戸籍作成時、班給された者で既に死去している者を対象
男性→2段(720歩)
女性→男性の2/3(480歩=1段120歩)
家人・私奴婢の男性→良民男性の1/3(240歩)
家人・私奴婢の女性→良民女性の1/3(160歩)
口分田を班給した残りの田地を乗田と呼び、期限・利子付きで貸し出し(賃租ちんそ)
田地の種類には、大臣などに支給される職田しきでん (不輸租田の一種)や、 五位以上の位階者に与えられる位田(輸租田の一種)などが存在しています。 | 毎年作成され、戸籍の情報に加えてホクロなど身体的特徴も記載したものは何と呼ばれていますか。 | 毎年作成され、戸籍の情報に加えてホクロなど身体的特徴も記載したものは計帳と呼ばれています。 |
JCRRAG_008663 | 歴史 | 律令のなかの民衆
民衆の管理
複数の家族を成員25人程度にまとめて、戸という単位を編成しました。
民衆はいずれかの戸に所属する形で国家に管理されました。
戸
50戸で里長が管轄する行政区分「里り(後に郷ごう と改称)」を編成
戸の詳細な情報は、2種類の文書にまとめられました。
戸籍
6年に1度作成され、戸の構成員の名・年齢・性別を記載
6年ごとの班田収授の対象者を一目で把握可能
計帳
毎年作成され、戸籍の情報に加えてホクロなど身体的特徴も記載
年齢(20歳以上か未満かなど)で負担量が変わる税を把握可能
民衆の尊卑
民衆の身分は良民と賤民に二分されました。
賤民は官有の「陵戸りょうこ・官戸・公奴婢くぬひ 」と私有の「家人けにん・私奴婢」に分かれ、まとめて五色の賤とも総称されました。
良民
貴族を含む官人も該当しますが、彼らは一般民衆と異なり税負担なし
田地に関する決まりごと
長さと面積の単位
長さ
1町ちょう=60歩ぶ(=現在の約109m)
面積
1段たん=10畝せ =360歩(=現在の約11.3a)
1町=10段、1里り=36町
条里制
碁盤状の田地で、東西の列を「1条、2条、3条…」、南北の列を「1里、2里、3里…」と数えます。
すると、特定の田地の位置を「○条×里」と示せます。
このような田地の位置管理を条里制と呼びます。
条坊制
条坊制は、碁盤状の京(藤原京など)で使用
南北の列を「1坊、2坊、3坊…」と数え、特定の区画の位置を「○条×坊」と表示
税制度の様相
田地の配給
班田収授法に従い、一定の田地口分田 が班給・収公されました。
班給:6年ごとの戸籍作成時、6以上の男女を対象
収公:6年ごとの戸籍作成時、班給された者で既に死去している者を対象
男性→2段(720歩)
女性→男性の2/3(480歩=1段120歩)
家人・私奴婢の男性→良民男性の1/3(240歩)
家人・私奴婢の女性→良民女性の1/3(160歩)
口分田を班給した残りの田地を乗田と呼び、期限・利子付きで貸し出し(賃租ちんそ)
田地の種類には、大臣などに支給される職田しきでん (不輸租田の一種)や、 五位以上の位階者に与えられる位田(輸租田の一種)などが存在しています。 | 官有の陵戸・官戸・公奴婢と、私有の家人・私奴婢に分かれ、賤民はまとめて何と総称しましたか。 | 官有の陵戸・官戸・公奴婢と、私有の家人・私奴婢に分かれ、賤民はまとめて五色の賤と総称しました。 |
JCRRAG_008664 | 歴史 | 律令のなかの民衆
民衆の管理
複数の家族を成員25人程度にまとめて、戸という単位を編成しました。
民衆はいずれかの戸に所属する形で国家に管理されました。
戸
50戸で里長が管轄する行政区分「里り(後に郷ごう と改称)」を編成
戸の詳細な情報は、2種類の文書にまとめられました。
戸籍
6年に1度作成され、戸の構成員の名・年齢・性別を記載
6年ごとの班田収授の対象者を一目で把握可能
計帳
毎年作成され、戸籍の情報に加えてホクロなど身体的特徴も記載
年齢(20歳以上か未満かなど)で負担量が変わる税を把握可能
民衆の尊卑
民衆の身分は良民と賤民に二分されました。
賤民は官有の「陵戸りょうこ・官戸・公奴婢くぬひ 」と私有の「家人けにん・私奴婢」に分かれ、まとめて五色の賤とも総称されました。
良民
貴族を含む官人も該当しますが、彼らは一般民衆と異なり税負担なし
田地に関する決まりごと
長さと面積の単位
長さ
1町ちょう=60歩ぶ(=現在の約109m)
面積
1段たん=10畝せ =360歩(=現在の約11.3a)
1町=10段、1里り=36町
条里制
碁盤状の田地で、東西の列を「1条、2条、3条…」、南北の列を「1里、2里、3里…」と数えます。
すると、特定の田地の位置を「○条×里」と示せます。
このような田地の位置管理を条里制と呼びます。
条坊制
条坊制は、碁盤状の京(藤原京など)で使用
南北の列を「1坊、2坊、3坊…」と数え、特定の区画の位置を「○条×坊」と表示
税制度の様相
田地の配給
班田収授法に従い、一定の田地口分田 が班給・収公されました。
班給:6年ごとの戸籍作成時、6以上の男女を対象
収公:6年ごとの戸籍作成時、班給された者で既に死去している者を対象
男性→2段(720歩)
女性→男性の2/3(480歩=1段120歩)
家人・私奴婢の男性→良民男性の1/3(240歩)
家人・私奴婢の女性→良民女性の1/3(160歩)
口分田を班給した残りの田地を乗田と呼び、期限・利子付きで貸し出し(賃租ちんそ)
田地の種類には、大臣などに支給される職田しきでん (不輸租田の一種)や、 五位以上の位階者に与えられる位田(輸租田の一種)などが存在しています。 | 田地の位置管理は何と呼ばれていますか。 | 田地の位置管理は条里制と呼ばれています。 |
JCRRAG_008665 | 歴史 | 奈良時代の都―元明天皇の代
遷都
710年、 藤原京から 平城京に遷都しました。
平城京が都であった期間を奈良時代と呼びます。
平城京
唐の都長安をまねて造営した京
条坊制
平城京は、大路に囲まれる区画が碁盤ごばん状に並びました。
東西の区画の列を「1条、2条、3条…」と数え、南北の区画の列を「1坊、2坊、3坊…」と数えます。
平城京は、特定の区画を「○条×坊」と示す条坊制の都でした。
条里制との違いに留意すること
市と銭貨
民衆や貴族・官吏が物を取引できる市を、右京と左京にそれぞれ置き、市司が監督するようにしました。
ただし、多種多様な物を取引する都で、物々交換は大変困難です。
「何か」に法的価値を与え、どんな物でもそれで交換すればよいと考えました。
708年、武蔵国むさしのくにから銅が献上され、年号を和銅に改めるとともに、富本銭に続く和同開珎を鋳造しました。
しかし、売り手が和同開珎の価値を疑い、取引は成立しませんでした。
711年、蓄銭叙位令が発令され、一定の銭貨を納入すれば、位階を与えるようにしました。
和同開珎は価値を認められましたが、取引・流通は京や畿内に限られました。
12種の銭貨
銭貨偽造を防ぐため、10世紀までに計12種類の銭貨が次々と鋳造されました。
これら、和同開珎から乾元大宝 までの銭貨を本朝十二銭(皇朝十二銭)と総称します。
乾元大宝
この鋳造を最後に、日本での銭貨鋳造は中断しました。 | 大路に囲まれる区画が碁盤ごばん状に並特定の区画を「○条×坊」と示し、平城京は何の都でしたか。 | 大路に囲まれる区画が碁盤ごばん状に並特定の区画を「○条×坊」と示し、平城京は条坊制の都でした。 |
JCRRAG_008666 | 歴史 | 奈良時代の都―元明天皇の代
遷都
710年、 藤原京から 平城京に遷都しました。
平城京が都であった期間を奈良時代と呼びます。
平城京
唐の都長安をまねて造営した京
条坊制
平城京は、大路に囲まれる区画が碁盤ごばん状に並びました。
東西の区画の列を「1条、2条、3条…」と数え、南北の区画の列を「1坊、2坊、3坊…」と数えます。
平城京は、特定の区画を「○条×坊」と示す条坊制の都でした。
条里制との違いに留意すること
市と銭貨
民衆や貴族・官吏が物を取引できる市を、右京と左京にそれぞれ置き、市司が監督するようにしました。
ただし、多種多様な物を取引する都で、物々交換は大変困難です。
「何か」に法的価値を与え、どんな物でもそれで交換すればよいと考えました。
708年、武蔵国むさしのくにから銅が献上され、年号を和銅に改めるとともに、富本銭に続く和同開珎を鋳造しました。
しかし、売り手が和同開珎の価値を疑い、取引は成立しませんでした。
711年、蓄銭叙位令が発令され、一定の銭貨を納入すれば、位階を与えるようにしました。
和同開珎は価値を認められましたが、取引・流通は京や畿内に限られました。
12種の銭貨
銭貨偽造を防ぐため、10世紀までに計12種類の銭貨が次々と鋳造されました。
これら、和同開珎から乾元大宝 までの銭貨を本朝十二銭(皇朝十二銭)と総称します。
乾元大宝
この鋳造を最後に、日本での銭貨鋳造は中断しました。 | 民衆や貴族・官吏が物を取引できる市を、右京と左京にそれぞれ置き、誰が監督しましたか。 | 民衆や貴族・官吏が物を取引できる市を、右京と左京にそれぞれ置き、市司が監督しました。 |
JCRRAG_008667 | 歴史 | 奈良時代の都―元明天皇の代
遷都
710年、 藤原京から 平城京に遷都しました。
平城京が都であった期間を奈良時代と呼びます。
平城京
唐の都長安をまねて造営した京
条坊制
平城京は、大路に囲まれる区画が碁盤ごばん状に並びました。
東西の区画の列を「1条、2条、3条…」と数え、南北の区画の列を「1坊、2坊、3坊…」と数えます。
平城京は、特定の区画を「○条×坊」と示す条坊制の都でした。
条里制との違いに留意すること
市と銭貨
民衆や貴族・官吏が物を取引できる市を、右京と左京にそれぞれ置き、市司が監督するようにしました。
ただし、多種多様な物を取引する都で、物々交換は大変困難です。
「何か」に法的価値を与え、どんな物でもそれで交換すればよいと考えました。
708年、武蔵国むさしのくにから銅が献上され、年号を和銅に改めるとともに、富本銭に続く和同開珎を鋳造しました。
しかし、売り手が和同開珎の価値を疑い、取引は成立しませんでした。
711年、蓄銭叙位令が発令され、一定の銭貨を納入すれば、位階を与えるようにしました。
和同開珎は価値を認められましたが、取引・流通は京や畿内に限られました。
12種の銭貨
銭貨偽造を防ぐため、10世紀までに計12種類の銭貨が次々と鋳造されました。
これら、和同開珎から乾元大宝 までの銭貨を本朝十二銭(皇朝十二銭)と総称します。
乾元大宝
この鋳造を最後に、日本での銭貨鋳造は中断しました。 | 708年、武蔵国から銅が献上され、年号を和銅に改めるとともに、富本銭に続き鋳造したのは何と呼ばれていますか。 | 708年、武蔵国から銅が献上され、年号を和銅に改めるとともに、富本銭に続き鋳造したのは和同開珎と呼ばれています。 |
JCRRAG_008668 | 歴史 | 奈良時代の都―元明天皇の代
遷都
710年、 藤原京から 平城京に遷都しました。
平城京が都であった期間を奈良時代と呼びます。
平城京
唐の都長安をまねて造営した京
条坊制
平城京は、大路に囲まれる区画が碁盤ごばん状に並びました。
東西の区画の列を「1条、2条、3条…」と数え、南北の区画の列を「1坊、2坊、3坊…」と数えます。
平城京は、特定の区画を「○条×坊」と示す条坊制の都でした。
条里制との違いに留意すること
市と銭貨
民衆や貴族・官吏が物を取引できる市を、右京と左京にそれぞれ置き、市司が監督するようにしました。
ただし、多種多様な物を取引する都で、物々交換は大変困難です。
「何か」に法的価値を与え、どんな物でもそれで交換すればよいと考えました。
708年、武蔵国むさしのくにから銅が献上され、年号を和銅に改めるとともに、富本銭に続く和同開珎を鋳造しました。
しかし、売り手が和同開珎の価値を疑い、取引は成立しませんでした。
711年、蓄銭叙位令が発令され、一定の銭貨を納入すれば、位階を与えるようにしました。
和同開珎は価値を認められましたが、取引・流通は京や畿内に限られました。
12種の銭貨
銭貨偽造を防ぐため、10世紀までに計12種類の銭貨が次々と鋳造されました。
これら、和同開珎から乾元大宝 までの銭貨を本朝十二銭(皇朝十二銭)と総称します。
乾元大宝
この鋳造を最後に、日本での銭貨鋳造は中断しました。 | 711年、一定の銭貨を納入すれば、位階を与えるように発令したのは何ですか。 | 711年、一定の銭貨を納入すれば、位階を与えるように発令したのは蓄銭叙位令です。 |
JCRRAG_008669 | 歴史 | 奈良時代の都―元明天皇の代
遷都
710年、 藤原京から 平城京に遷都しました。
平城京が都であった期間を奈良時代と呼びます。
平城京
唐の都長安をまねて造営した京
条坊制
平城京は、大路に囲まれる区画が碁盤ごばん状に並びました。
東西の区画の列を「1条、2条、3条…」と数え、南北の区画の列を「1坊、2坊、3坊…」と数えます。
平城京は、特定の区画を「○条×坊」と示す条坊制の都でした。
条里制との違いに留意すること
市と銭貨
民衆や貴族・官吏が物を取引できる市を、右京と左京にそれぞれ置き、市司が監督するようにしました。
ただし、多種多様な物を取引する都で、物々交換は大変困難です。
「何か」に法的価値を与え、どんな物でもそれで交換すればよいと考えました。
708年、武蔵国むさしのくにから銅が献上され、年号を和銅に改めるとともに、富本銭に続く和同開珎を鋳造しました。
しかし、売り手が和同開珎の価値を疑い、取引は成立しませんでした。
711年、蓄銭叙位令が発令され、一定の銭貨を納入すれば、位階を与えるようにしました。
和同開珎は価値を認められましたが、取引・流通は京や畿内に限られました。
12種の銭貨
銭貨偽造を防ぐため、10世紀までに計12種類の銭貨が次々と鋳造されました。
これら、和同開珎から乾元大宝 までの銭貨を本朝十二銭(皇朝十二銭)と総称します。
乾元大宝
この鋳造を最後に、日本での銭貨鋳造は中断しました。 | 和同開珎から乾元大宝 までの銭貨は何と呼ばれています。 | 和同開珎から乾元大宝 までの銭貨は本朝十二銭(皇朝十二銭)と呼ばれています。 |
JCRRAG_008670 | 歴史 | 東アジアの交流
遣唐使の再開
663年の白村江の戦い後、日本は唐・新羅と関係を回復しました。
ただし、国内改革に追われ、日本から唐への遣唐使派遣はしばらくありませんでした。
702年、遣唐使が再開され、以降ほぼ20年に1度の割合で派遣されていきました。
717年、後に橘諸兄 たちばなのもろえ に重用された玄昉げんぼう と吉備真備きびのまきび や、玄宗(唐の皇帝)に仕えて一生を終えた 阿倍仲麻呂が派遣されました。
遣唐使
894年、菅原道真の建議で派遣中止
遣唐使の航路変更
遣唐使の航路は、当初朝鮮半島西岸を進む北路をとりました。
7世紀末以降、日本と新羅の関係が悪化しました。
そのため、東シナ海を横断する南路をとるようになりました。
渤海の朝貢
698年、靺鞨族と旧高句麗の民が渤海を建国しました。
渤海は新羅と対立したので、軍事上日本と友好関係を結びました。
渤海の使者は日本海を横断して日本海側に来着し、能登国のとのくにの能登客院や越前国の松原客院に滞在しました。
この使者によって、朝鮮人参などがもたらされました。
地方の国
国府の施設
国府(国衙こくが)
国内の役所、あるいはその所在地のこと
国庁(政庁)
国府内の、国司が政務・儀礼をおこなう場
国分寺
741年、聖武天皇が国分寺建立の詔を発して、諸国に建立した寺
国分尼寺
国分寺と同時に建立した尼寺にじ
国分寺
正式名称は「金光明こんこうみょう四天王してんのう護国之寺 ごこくのてら 」
国分尼寺
正式名称は「法華ほっけ滅罪之寺めつざいのてら」
交通制度
国家が管理する2種類の道がありました。
官道
都と国府を結ぶ公用の道
伝路
国府と郡家ぐうけ、郡家と郡家を結ぶ道
都の命令は官道・伝路を通って伝えられました。
伝達者が休憩・交代、馬の交換をする場が必要でした。
官道では30里(約16㎞)ごとに駅家を設置して駅馬えきうま を常備し、伝路では郡家に伝馬つたわりうまを常備しました。
| 663年、日本は唐・新羅と関係を回復した戦は何と呼ばれていますか。 | 663年、日本は唐・新羅と関係を回復した戦は白村江の戦いと呼ばれています。 |
JCRRAG_008671 | 歴史 | 東アジアの交流
遣唐使の再開
663年の白村江の戦い後、日本は唐・新羅と関係を回復しました。
ただし、国内改革に追われ、日本から唐への遣唐使派遣はしばらくありませんでした。
702年、遣唐使が再開され、以降ほぼ20年に1度の割合で派遣されていきました。
717年、後に橘諸兄 たちばなのもろえ に重用された玄昉げんぼう と吉備真備きびのまきび や、玄宗(唐の皇帝)に仕えて一生を終えた 阿倍仲麻呂が派遣されました。
遣唐使
894年、菅原道真の建議で派遣中止
遣唐使の航路変更
遣唐使の航路は、当初朝鮮半島西岸を進む北路をとりました。
7世紀末以降、日本と新羅の関係が悪化しました。
そのため、東シナ海を横断する南路をとるようになりました。
渤海の朝貢
698年、靺鞨族と旧高句麗の民が渤海を建国しました。
渤海は新羅と対立したので、軍事上日本と友好関係を結びました。
渤海の使者は日本海を横断して日本海側に来着し、能登国のとのくにの能登客院や越前国の松原客院に滞在しました。
この使者によって、朝鮮人参などがもたらされました。
地方の国
国府の施設
国府(国衙こくが)
国内の役所、あるいはその所在地のこと
国庁(政庁)
国府内の、国司が政務・儀礼をおこなう場
国分寺
741年、聖武天皇が国分寺建立の詔を発して、諸国に建立した寺
国分尼寺
国分寺と同時に建立した尼寺にじ
国分寺
正式名称は「金光明こんこうみょう四天王してんのう護国之寺 ごこくのてら 」
国分尼寺
正式名称は「法華ほっけ滅罪之寺めつざいのてら」
交通制度
国家が管理する2種類の道がありました。
官道
都と国府を結ぶ公用の道
伝路
国府と郡家ぐうけ、郡家と郡家を結ぶ道
都の命令は官道・伝路を通って伝えられました。
伝達者が休憩・交代、馬の交換をする場が必要でした。
官道では30里(約16㎞)ごとに駅家を設置して駅馬えきうま を常備し、伝路では郡家に伝馬つたわりうまを常備しました。
| 717年、玄昉と吉備真備と遣唐使として派遣されたのは誰ですか。 | 717年、玄昉と吉備真備と遣唐使として派遣されたのは阿倍仲麻呂です。 |
JCRRAG_008672 | 歴史 | 東アジアの交流
遣唐使の再開
663年の白村江の戦い後、日本は唐・新羅と関係を回復しました。
ただし、国内改革に追われ、日本から唐への遣唐使派遣はしばらくありませんでした。
702年、遣唐使が再開され、以降ほぼ20年に1度の割合で派遣されていきました。
717年、後に橘諸兄 たちばなのもろえ に重用された玄昉げんぼう と吉備真備きびのまきび や、玄宗(唐の皇帝)に仕えて一生を終えた 阿倍仲麻呂が派遣されました。
遣唐使
894年、菅原道真の建議で派遣中止
遣唐使の航路変更
遣唐使の航路は、当初朝鮮半島西岸を進む北路をとりました。
7世紀末以降、日本と新羅の関係が悪化しました。
そのため、東シナ海を横断する南路をとるようになりました。
渤海の朝貢
698年、靺鞨族と旧高句麗の民が渤海を建国しました。
渤海は新羅と対立したので、軍事上日本と友好関係を結びました。
渤海の使者は日本海を横断して日本海側に来着し、能登国のとのくにの能登客院や越前国の松原客院に滞在しました。
この使者によって、朝鮮人参などがもたらされました。
地方の国
国府の施設
国府(国衙こくが)
国内の役所、あるいはその所在地のこと
国庁(政庁)
国府内の、国司が政務・儀礼をおこなう場
国分寺
741年、聖武天皇が国分寺建立の詔を発して、諸国に建立した寺
国分尼寺
国分寺と同時に建立した尼寺にじ
国分寺
正式名称は「金光明こんこうみょう四天王してんのう護国之寺 ごこくのてら 」
国分尼寺
正式名称は「法華ほっけ滅罪之寺めつざいのてら」
交通制度
国家が管理する2種類の道がありました。
官道
都と国府を結ぶ公用の道
伝路
国府と郡家ぐうけ、郡家と郡家を結ぶ道
都の命令は官道・伝路を通って伝えられました。
伝達者が休憩・交代、馬の交換をする場が必要でした。
官道では30里(約16㎞)ごとに駅家を設置して駅馬えきうま を常備し、伝路では郡家に伝馬つたわりうまを常備しました。
| 698年、靺鞨族と旧高句麗の民は何を建国しましたか。 | 698年、靺鞨族と旧高句麗の民は渤海を建国しました。 |
JCRRAG_008673 | 歴史 | 東アジアの交流
遣唐使の再開
663年の白村江の戦い後、日本は唐・新羅と関係を回復しました。
ただし、国内改革に追われ、日本から唐への遣唐使派遣はしばらくありませんでした。
702年、遣唐使が再開され、以降ほぼ20年に1度の割合で派遣されていきました。
717年、後に橘諸兄 たちばなのもろえ に重用された玄昉げんぼう と吉備真備きびのまきび や、玄宗(唐の皇帝)に仕えて一生を終えた 阿倍仲麻呂が派遣されました。
遣唐使
894年、菅原道真の建議で派遣中止
遣唐使の航路変更
遣唐使の航路は、当初朝鮮半島西岸を進む北路をとりました。
7世紀末以降、日本と新羅の関係が悪化しました。
そのため、東シナ海を横断する南路をとるようになりました。
渤海の朝貢
698年、靺鞨族と旧高句麗の民が渤海を建国しました。
渤海は新羅と対立したので、軍事上日本と友好関係を結びました。
渤海の使者は日本海を横断して日本海側に来着し、能登国のとのくにの能登客院や越前国の松原客院に滞在しました。
この使者によって、朝鮮人参などがもたらされました。
地方の国
国府の施設
国府(国衙こくが)
国内の役所、あるいはその所在地のこと
国庁(政庁)
国府内の、国司が政務・儀礼をおこなう場
国分寺
741年、聖武天皇が国分寺建立の詔を発して、諸国に建立した寺
国分尼寺
国分寺と同時に建立した尼寺にじ
国分寺
正式名称は「金光明こんこうみょう四天王してんのう護国之寺 ごこくのてら 」
国分尼寺
正式名称は「法華ほっけ滅罪之寺めつざいのてら」
交通制度
国家が管理する2種類の道がありました。
官道
都と国府を結ぶ公用の道
伝路
国府と郡家ぐうけ、郡家と郡家を結ぶ道
都の命令は官道・伝路を通って伝えられました。
伝達者が休憩・交代、馬の交換をする場が必要でした。
官道では30里(約16㎞)ごとに駅家を設置して駅馬えきうま を常備し、伝路では郡家に伝馬つたわりうまを常備しました。
| 741年、聖武天皇が国分寺建立の詔を発して、諸国に建立した寺は何と呼ばれていますか。 | 741年、聖武天皇が国分寺建立の詔を発して、諸国に建立した寺は国分寺と呼ばれています。 |
JCRRAG_008674 | 歴史 | 東アジアの交流
遣唐使の再開
663年の白村江の戦い後、日本は唐・新羅と関係を回復しました。
ただし、国内改革に追われ、日本から唐への遣唐使派遣はしばらくありませんでした。
702年、遣唐使が再開され、以降ほぼ20年に1度の割合で派遣されていきました。
717年、後に橘諸兄 たちばなのもろえ に重用された玄昉げんぼう と吉備真備きびのまきび や、玄宗(唐の皇帝)に仕えて一生を終えた 阿倍仲麻呂が派遣されました。
遣唐使
894年、菅原道真の建議で派遣中止
遣唐使の航路変更
遣唐使の航路は、当初朝鮮半島西岸を進む北路をとりました。
7世紀末以降、日本と新羅の関係が悪化しました。
そのため、東シナ海を横断する南路をとるようになりました。
渤海の朝貢
698年、靺鞨族と旧高句麗の民が渤海を建国しました。
渤海は新羅と対立したので、軍事上日本と友好関係を結びました。
渤海の使者は日本海を横断して日本海側に来着し、能登国のとのくにの能登客院や越前国の松原客院に滞在しました。
この使者によって、朝鮮人参などがもたらされました。
地方の国
国府の施設
国府(国衙こくが)
国内の役所、あるいはその所在地のこと
国庁(政庁)
国府内の、国司が政務・儀礼をおこなう場
国分寺
741年、聖武天皇が国分寺建立の詔を発して、諸国に建立した寺
国分尼寺
国分寺と同時に建立した尼寺にじ
国分寺
正式名称は「金光明こんこうみょう四天王してんのう護国之寺 ごこくのてら 」
国分尼寺
正式名称は「法華ほっけ滅罪之寺めつざいのてら」
交通制度
国家が管理する2種類の道がありました。
官道
都と国府を結ぶ公用の道
伝路
国府と郡家ぐうけ、郡家と郡家を結ぶ道
都の命令は官道・伝路を通って伝えられました。
伝達者が休憩・交代、馬の交換をする場が必要でした。
官道では30里(約16㎞)ごとに駅家を設置して駅馬えきうま を常備し、伝路では郡家に伝馬つたわりうまを常備しました。
| 国内の役所、あるいはその所在地のことを何と呼ばれていますか。 | 国内の役所、あるいはその所在地のことは国府(国衙)と呼ばれています。 |
JCRRAG_008675 | 歴史 | 東と西への進出
5世紀のヤマト政権の範囲
熊本県江田船山古墳の鉄刀・埼玉県稲荷山古墳の鉄剣には、倭王武(雄略天皇)の名があります。
このことから、5世紀のヤマト政権の勢力範囲は、おおよそ下図(色塗り部分)のように示せます。
また、『 宋書』倭国伝には次の文が載ります。
「東は毛人もうじんを征すること五十五国、西は衆夷しゅういを服すること六十六国、…」
ヤマト政権は毛人・衆夷のような勢力範囲の外の者と争い、服属させて次第に勢力範囲の境界を東へ西へと広げていきました。
東北への進出
ヤマト政権に属さない東国の人々「毛人」は、後に蝦夷と呼称されました。
ヤマト政権は6世紀以降も進出を続け、蝦夷を服属させていきました。
孝徳天皇の御代647年に渟足柵ぬたりのさく 、648年に磐舟柵いわふねのさくを設置しました。
斉明天皇の御代658年、阿倍比羅夫を派遣して、日本海側の蝦夷を服属させました。
712年、日本海側に出羽国を設置しました。
724年、陸奥むつの国に国府および鎮守府を兼ねる多賀城を設置した。
鎮守府
蝦夷征討のための役所・拠点
上記のような蝦夷征討には「夷いを以もって夷を制す」の政策がとられました。
そのような中で、780年、俘囚の 伊治呰麻呂 に多賀城を焼かれました。
「夷を以て夷を制す」
帰順した蝦夷で蝦夷を討つ政策
俘囚
8世紀以降に使用された、帰順した蝦夷の呼称
九州南部の支配
熊襲くまそ(衆夷)は早くに服属し、ヤマト政権の勢力範囲は九州南部まで及びました。
服属した熊襲は隼人はやとと呼称されました。
九州南部での律令の導入に対して、しばしば隼人が反乱を起こしました。
隼人への支配強化のため、8世紀初めに薩摩国や大隅おおすみ国が設置されました。 | ヤマト政権に属さない東国の人々「毛人」が後に呼称されたのは何ですか。 | ヤマト政権に属さない東国の人々「毛人」が後に呼称されたのは蝦夷です。 |
JCRRAG_008676 | 歴史 | 東と西への進出
5世紀のヤマト政権の範囲
熊本県江田船山古墳の鉄刀・埼玉県稲荷山古墳の鉄剣には、倭王武(雄略天皇)の名があります。
このことから、5世紀のヤマト政権の勢力範囲は、おおよそ下図(色塗り部分)のように示せます。
また、『 宋書』倭国伝には次の文が載ります。
「東は毛人もうじんを征すること五十五国、西は衆夷しゅういを服すること六十六国、…」
ヤマト政権は毛人・衆夷のような勢力範囲の外の者と争い、服属させて次第に勢力範囲の境界を東へ西へと広げていきました。
東北への進出
ヤマト政権に属さない東国の人々「毛人」は、後に蝦夷と呼称されました。
ヤマト政権は6世紀以降も進出を続け、蝦夷を服属させていきました。
孝徳天皇の御代647年に渟足柵ぬたりのさく 、648年に磐舟柵いわふねのさくを設置しました。
斉明天皇の御代658年、阿倍比羅夫を派遣して、日本海側の蝦夷を服属させました。
712年、日本海側に出羽国を設置しました。
724年、陸奥むつの国に国府および鎮守府を兼ねる多賀城を設置した。
鎮守府
蝦夷征討のための役所・拠点
上記のような蝦夷征討には「夷いを以もって夷を制す」の政策がとられました。
そのような中で、780年、俘囚の 伊治呰麻呂 に多賀城を焼かれました。
「夷を以て夷を制す」
帰順した蝦夷で蝦夷を討つ政策
俘囚
8世紀以降に使用された、帰順した蝦夷の呼称
九州南部の支配
熊襲くまそ(衆夷)は早くに服属し、ヤマト政権の勢力範囲は九州南部まで及びました。
服属した熊襲は隼人はやとと呼称されました。
九州南部での律令の導入に対して、しばしば隼人が反乱を起こしました。
隼人への支配強化のため、8世紀初めに薩摩国や大隅おおすみ国が設置されました。 | 斉明天皇の御代658年、日本海側の蝦夷を服属させるために派遣されたのは誰ですか。 | 斉明天皇の御代658年、日本海側の蝦夷を服属させるために派遣されたのは阿倍比羅夫です。 |
JCRRAG_008677 | 歴史 | 東と西への進出
5世紀のヤマト政権の範囲
熊本県江田船山古墳の鉄刀・埼玉県稲荷山古墳の鉄剣には、倭王武(雄略天皇)の名があります。
このことから、5世紀のヤマト政権の勢力範囲は、おおよそ下図(色塗り部分)のように示せます。
また、『 宋書』倭国伝には次の文が載ります。
「東は毛人もうじんを征すること五十五国、西は衆夷しゅういを服すること六十六国、…」
ヤマト政権は毛人・衆夷のような勢力範囲の外の者と争い、服属させて次第に勢力範囲の境界を東へ西へと広げていきました。
東北への進出
ヤマト政権に属さない東国の人々「毛人」は、後に蝦夷と呼称されました。
ヤマト政権は6世紀以降も進出を続け、蝦夷を服属させていきました。
孝徳天皇の御代647年に渟足柵ぬたりのさく 、648年に磐舟柵いわふねのさくを設置しました。
斉明天皇の御代658年、阿倍比羅夫を派遣して、日本海側の蝦夷を服属させました。
712年、日本海側に出羽国を設置しました。
724年、陸奥むつの国に国府および鎮守府を兼ねる多賀城を設置した。
鎮守府
蝦夷征討のための役所・拠点
上記のような蝦夷征討には「夷いを以もって夷を制す」の政策がとられました。
そのような中で、780年、俘囚の 伊治呰麻呂 に多賀城を焼かれました。
「夷を以て夷を制す」
帰順した蝦夷で蝦夷を討つ政策
俘囚
8世紀以降に使用された、帰順した蝦夷の呼称
九州南部の支配
熊襲くまそ(衆夷)は早くに服属し、ヤマト政権の勢力範囲は九州南部まで及びました。
服属した熊襲は隼人はやとと呼称されました。
九州南部での律令の導入に対して、しばしば隼人が反乱を起こしました。
隼人への支配強化のため、8世紀初めに薩摩国や大隅おおすみ国が設置されました。 | 724年、陸奥の国に国府および鎮守府を兼ねるために設置されたのは何と呼ばれています。 | 724年、陸奥の国に国府および鎮守府を兼ねるために設置されたのは多賀城と呼ばれています。 |
JCRRAG_008678 | 歴史 | 東と西への進出
5世紀のヤマト政権の範囲
熊本県江田船山古墳の鉄刀・埼玉県稲荷山古墳の鉄剣には、倭王武(雄略天皇)の名があります。
このことから、5世紀のヤマト政権の勢力範囲は、おおよそ下図(色塗り部分)のように示せます。
また、『 宋書』倭国伝には次の文が載ります。
「東は毛人もうじんを征すること五十五国、西は衆夷しゅういを服すること六十六国、…」
ヤマト政権は毛人・衆夷のような勢力範囲の外の者と争い、服属させて次第に勢力範囲の境界を東へ西へと広げていきました。
東北への進出
ヤマト政権に属さない東国の人々「毛人」は、後に蝦夷と呼称されました。
ヤマト政権は6世紀以降も進出を続け、蝦夷を服属させていきました。
孝徳天皇の御代647年に渟足柵ぬたりのさく 、648年に磐舟柵いわふねのさくを設置しました。
斉明天皇の御代658年、阿倍比羅夫を派遣して、日本海側の蝦夷を服属させました。
712年、日本海側に出羽国を設置しました。
724年、陸奥むつの国に国府および鎮守府を兼ねる多賀城を設置した。
鎮守府
蝦夷征討のための役所・拠点
上記のような蝦夷征討には「夷いを以もって夷を制す」の政策がとられました。
そのような中で、780年、俘囚の 伊治呰麻呂 に多賀城を焼かれました。
「夷を以て夷を制す」
帰順した蝦夷で蝦夷を討つ政策
俘囚
8世紀以降に使用された、帰順した蝦夷の呼称
九州南部の支配
熊襲くまそ(衆夷)は早くに服属し、ヤマト政権の勢力範囲は九州南部まで及びました。
服属した熊襲は隼人はやとと呼称されました。
九州南部での律令の導入に対して、しばしば隼人が反乱を起こしました。
隼人への支配強化のため、8世紀初めに薩摩国や大隅おおすみ国が設置されました。 | 780年、俘囚の伊治呰麻呂に焼かれた城は何ですか。 | 780年、俘囚の 伊治呰麻呂 に焼かれた城は多賀城です。 |
JCRRAG_008679 | 歴史 | 東と西への進出
5世紀のヤマト政権の範囲
熊本県江田船山古墳の鉄刀・埼玉県稲荷山古墳の鉄剣には、倭王武(雄略天皇)の名があります。
このことから、5世紀のヤマト政権の勢力範囲は、おおよそ下図(色塗り部分)のように示せます。
また、『 宋書』倭国伝には次の文が載ります。
「東は毛人もうじんを征すること五十五国、西は衆夷しゅういを服すること六十六国、…」
ヤマト政権は毛人・衆夷のような勢力範囲の外の者と争い、服属させて次第に勢力範囲の境界を東へ西へと広げていきました。
東北への進出
ヤマト政権に属さない東国の人々「毛人」は、後に蝦夷と呼称されました。
ヤマト政権は6世紀以降も進出を続け、蝦夷を服属させていきました。
孝徳天皇の御代647年に渟足柵ぬたりのさく 、648年に磐舟柵いわふねのさくを設置しました。
斉明天皇の御代658年、阿倍比羅夫を派遣して、日本海側の蝦夷を服属させました。
712年、日本海側に出羽国を設置しました。
724年、陸奥むつの国に国府および鎮守府を兼ねる多賀城を設置した。
鎮守府
蝦夷征討のための役所・拠点
上記のような蝦夷征討には「夷いを以もって夷を制す」の政策がとられました。
そのような中で、780年、俘囚の 伊治呰麻呂 に多賀城を焼かれました。
「夷を以て夷を制す」
帰順した蝦夷で蝦夷を討つ政策
俘囚
8世紀以降に使用された、帰順した蝦夷の呼称
九州南部の支配
熊襲くまそ(衆夷)は早くに服属し、ヤマト政権の勢力範囲は九州南部まで及びました。
服属した熊襲は隼人はやとと呼称されました。
九州南部での律令の導入に対して、しばしば隼人が反乱を起こしました。
隼人への支配強化のため、8世紀初めに薩摩国や大隅おおすみ国が設置されました。 | 熊襲(衆夷)は早くに服属し、ヤマト政権の勢力範囲は九州南部まで及び、服属した熊襲は何と呼ばれましたか。 | 熊襲(衆夷)は早くに服属し、ヤマト政権の勢力範囲は九州南部まで及び、服属した熊襲は隼人と呼ばれました。 |
JCRRAG_008680 | 歴史 | 藤原氏の野心と懸念―元正天皇の代
新たな律令の準備
718年、藤原不比等が中心となって養老律令を編纂しました。
養老律令は大宝律令をほぼ継承し、また、この時点では編纂のみで施行されませんでした。
不比等の子女
4人の息子
不比等の息子には、藤原武智麻呂(南家 の祖)・藤原房前ふささき(北家ほっけの祖)・藤原宇合うまかい (式家の祖)・藤原麻呂( 京家の祖)、以上4兄弟がいました。
4兄弟の子孫はそれぞれ「~家」と区別
2人の娘
不比等の娘には、宮子みやこ・光明子がいました。
文武天皇と宮子の子(後の聖武天皇)に、叔母の光明子が嫁ぎました。
藤原氏は皇族と血縁関係を結び、藤原氏の血を引く子孫の即位を望みました。
警戒される人物登場
不比等の死後、長屋王ながやおう が政治の中心(太政官のトップ)に躍り出ました。
長屋王は天武天皇の孫で、皇太子(聖武)を血縁的に上回り、皇位継承もあり得ました。
長屋王は、皇太子(聖武)の即位を望む藤原氏から非常に警戒されました。
口分田の開墾計画
人口増加のため、口分田が足りなくなりました。
722年、「百万町歩開墾計画」を発表しました。
Q.百万町歩の広さはどのくらい?
A.1万㎞2(*現在の日本の農耕地は4万5600㎢)
723年、三世一身法(別称:養老七年の格 きゃく)施行
灌漑設備(溝・池)を設けて田地を開墾した場合は、3世(本人・子・孫)の間の私有を許可
既にある灌漑設備を利用して田地を開墾した場合は、1身(本人)だけの私有を許可
期限を過ぎれば、開墾した田地は国家が収公して口分田に充てます。 | 718年、藤原不比等が中心となって編纂した律令は何ですか。 | 718年、藤原不比等が中心となって編纂した律令は養老律令です。 |
JCRRAG_008681 | 歴史 | 藤原氏の野心と懸念―元正天皇の代
新たな律令の準備
718年、藤原不比等が中心となって養老律令を編纂しました。
養老律令は大宝律令をほぼ継承し、また、この時点では編纂のみで施行されませんでした。
不比等の子女
4人の息子
不比等の息子には、藤原武智麻呂(南家 の祖)・藤原房前ふささき(北家ほっけの祖)・藤原宇合うまかい (式家の祖)・藤原麻呂( 京家の祖)、以上4兄弟がいました。
4兄弟の子孫はそれぞれ「~家」と区別
2人の娘
不比等の娘には、宮子みやこ・光明子がいました。
文武天皇と宮子の子(後の聖武天皇)に、叔母の光明子が嫁ぎました。
藤原氏は皇族と血縁関係を結び、藤原氏の血を引く子孫の即位を望みました。
警戒される人物登場
不比等の死後、長屋王ながやおう が政治の中心(太政官のトップ)に躍り出ました。
長屋王は天武天皇の孫で、皇太子(聖武)を血縁的に上回り、皇位継承もあり得ました。
長屋王は、皇太子(聖武)の即位を望む藤原氏から非常に警戒されました。
口分田の開墾計画
人口増加のため、口分田が足りなくなりました。
722年、「百万町歩開墾計画」を発表しました。
Q.百万町歩の広さはどのくらい?
A.1万㎞2(*現在の日本の農耕地は4万5600㎢)
723年、三世一身法(別称:養老七年の格 きゃく)施行
灌漑設備(溝・池)を設けて田地を開墾した場合は、3世(本人・子・孫)の間の私有を許可
既にある灌漑設備を利用して田地を開墾した場合は、1身(本人)だけの私有を許可
期限を過ぎれば、開墾した田地は国家が収公して口分田に充てます。 | 不比等の死後、政治の中心(太政官のトップ)に躍り出たのは誰でしたか。 | 不比等の死後、政治の中心(太政官のトップ)に躍り出たのは長屋王でした。 |
JCRRAG_008682 | 歴史 | 藤原氏の野心と懸念―元正天皇の代
新たな律令の準備
718年、藤原不比等が中心となって養老律令を編纂しました。
養老律令は大宝律令をほぼ継承し、また、この時点では編纂のみで施行されませんでした。
不比等の子女
4人の息子
不比等の息子には、藤原武智麻呂(南家 の祖)・藤原房前ふささき(北家ほっけの祖)・藤原宇合うまかい (式家の祖)・藤原麻呂( 京家の祖)、以上4兄弟がいました。
4兄弟の子孫はそれぞれ「~家」と区別
2人の娘
不比等の娘には、宮子みやこ・光明子がいました。
文武天皇と宮子の子(後の聖武天皇)に、叔母の光明子が嫁ぎました。
藤原氏は皇族と血縁関係を結び、藤原氏の血を引く子孫の即位を望みました。
警戒される人物登場
不比等の死後、長屋王ながやおう が政治の中心(太政官のトップ)に躍り出ました。
長屋王は天武天皇の孫で、皇太子(聖武)を血縁的に上回り、皇位継承もあり得ました。
長屋王は、皇太子(聖武)の即位を望む藤原氏から非常に警戒されました。
口分田の開墾計画
人口増加のため、口分田が足りなくなりました。
722年、「百万町歩開墾計画」を発表しました。
Q.百万町歩の広さはどのくらい?
A.1万㎞2(*現在の日本の農耕地は4万5600㎢)
723年、三世一身法(別称:養老七年の格 きゃく)施行
灌漑設備(溝・池)を設けて田地を開墾した場合は、3世(本人・子・孫)の間の私有を許可
既にある灌漑設備を利用して田地を開墾した場合は、1身(本人)だけの私有を許可
期限を過ぎれば、開墾した田地は国家が収公して口分田に充てます。 | 人口増加のため口分田が足りなくなり、722年に発表されたのは何ですか。 | 人口増加のため口分田が足りなくなり、722年に発表されたのは百万町歩開墾計画です。 |
JCRRAG_008683 | 歴史 | 藤原氏の野心と懸念―元正天皇の代
新たな律令の準備
718年、藤原不比等が中心となって養老律令を編纂しました。
養老律令は大宝律令をほぼ継承し、また、この時点では編纂のみで施行されませんでした。
不比等の子女
4人の息子
不比等の息子には、藤原武智麻呂(南家 の祖)・藤原房前ふささき(北家ほっけの祖)・藤原宇合うまかい (式家の祖)・藤原麻呂( 京家の祖)、以上4兄弟がいました。
4兄弟の子孫はそれぞれ「~家」と区別
2人の娘
不比等の娘には、宮子みやこ・光明子がいました。
文武天皇と宮子の子(後の聖武天皇)に、叔母の光明子が嫁ぎました。
藤原氏は皇族と血縁関係を結び、藤原氏の血を引く子孫の即位を望みました。
警戒される人物登場
不比等の死後、長屋王ながやおう が政治の中心(太政官のトップ)に躍り出ました。
長屋王は天武天皇の孫で、皇太子(聖武)を血縁的に上回り、皇位継承もあり得ました。
長屋王は、皇太子(聖武)の即位を望む藤原氏から非常に警戒されました。
口分田の開墾計画
人口増加のため、口分田が足りなくなりました。
722年、「百万町歩開墾計画」を発表しました。
Q.百万町歩の広さはどのくらい?
A.1万㎞2(*現在の日本の農耕地は4万5600㎢)
723年、三世一身法(別称:養老七年の格 きゃく)施行
灌漑設備(溝・池)を設けて田地を開墾した場合は、3世(本人・子・孫)の間の私有を許可
既にある灌漑設備を利用して田地を開墾した場合は、1身(本人)だけの私有を許可
期限を過ぎれば、開墾した田地は国家が収公して口分田に充てます。 | 不比等の娘の名前は何ですか。 | 不比等の娘の名前は宮子と光明子です。 |
JCRRAG_008684 | 歴史 | 藤原氏の野心と懸念―元正天皇の代
新たな律令の準備
718年、藤原不比等が中心となって養老律令を編纂しました。
養老律令は大宝律令をほぼ継承し、また、この時点では編纂のみで施行されませんでした。
不比等の子女
4人の息子
不比等の息子には、藤原武智麻呂(南家 の祖)・藤原房前ふささき(北家ほっけの祖)・藤原宇合うまかい (式家の祖)・藤原麻呂( 京家の祖)、以上4兄弟がいました。
4兄弟の子孫はそれぞれ「~家」と区別
2人の娘
不比等の娘には、宮子みやこ・光明子がいました。
文武天皇と宮子の子(後の聖武天皇)に、叔母の光明子が嫁ぎました。
藤原氏は皇族と血縁関係を結び、藤原氏の血を引く子孫の即位を望みました。
警戒される人物登場
不比等の死後、長屋王ながやおう が政治の中心(太政官のトップ)に躍り出ました。
長屋王は天武天皇の孫で、皇太子(聖武)を血縁的に上回り、皇位継承もあり得ました。
長屋王は、皇太子(聖武)の即位を望む藤原氏から非常に警戒されました。
口分田の開墾計画
人口増加のため、口分田が足りなくなりました。
722年、「百万町歩開墾計画」を発表しました。
Q.百万町歩の広さはどのくらい?
A.1万㎞2(*現在の日本の農耕地は4万5600㎢)
723年、三世一身法(別称:養老七年の格 きゃく)施行
灌漑設備(溝・池)を設けて田地を開墾した場合は、3世(本人・子・孫)の間の私有を許可
既にある灌漑設備を利用して田地を開墾した場合は、1身(本人)だけの私有を許可
期限を過ぎれば、開墾した田地は国家が収公して口分田に充てます。 | 百万町歩の広さはいくつですか。 | 百万町歩の広さは1万㎞2です。 |
JCRRAG_008685 | 歴史 | 動揺する国家―聖武天皇の代
4兄弟の警戒
聖武天皇の即位後、藤原氏は聖武と妻光明子を皇后にすることを望みました。
皇后
夫の死後に天皇に即位できる立場なので、従来は皇族出身者のみ許可
729年、長屋王の変
藤原氏が長屋王に反乱の疑いをかけ、自殺に追い込んだ事件
長屋王に代わり、藤原4兄弟が政権を握り、光明子を皇后にしました。
流行病―社会的不安①
天然痘が流行し、藤原4兄弟が相次いで病死しました。
藤原氏を抑え、橘諸兄たちばなのもろえが政権を握りました。
橘諸兄(684~757年)
橘諸兄は、もと皇族で葛城王と称しました。母の氏姓を継ぐことを許され、皇族から臣下に転じました。
反乱―社会的不安②
橘諸兄は遣唐使であった僧玄昉げんぼうと吉備真備きびのまきびを重用しました。
玄昉は聖武に近づき、権威を利用したので人々から反感を買いました。
740年、藤原広嗣ひろつぐの乱
藤原広嗣(宇合の子、式家)が玄昉・吉備真備の排除を求めて挙兵した反乱
聖武天皇の動揺
社会的不安①②から、聖武は仏の力で国家を安定させる鎮護国家に努めました。
寺院の建立
741年、聖武は国分寺建立の詔を発して、諸国に国分寺・国分尼寺にじ を建立させました。
遷都計画と仏像の建立
藤原広嗣の乱を機に、橘諸兄は聖武に恭仁京くにきょう 遷都を勧めました。
しかし、遷都決定後に聖武の関心は別の地紫香楽宮しがらきのみや に移りました。
聖武は紫香楽宮に仏の国を再現しようと、743年、大仏造立の詔を発しました。
相次ぐ放火で造立は中止され、平城京で造立を再開
その後も聖武は難波宮なにわのみや、そして紫香楽宮と移り歩り、やがて平城京に都を戻しました。
遷都の流れ
①平城京
↓
② 恭仁京
↓
③紫香楽宮―743年、大仏造立の詔発令
↓
④難波宮
↓
⑤紫香楽宮―造立を中止し場所変更
↓
⑥平城京
三世一身法の見直し
灌漑設備を新たに作ることは大変で、大半の開墾地が一代限りの所有でした。
開墾した本人の死が近づくと、人々は収公される開墾地を手入れしなくなりました。
荒れた田地を国家が収公しても意味がありません。
743年、墾田永年私財法
田地を開墾すれば、永久的な私有を認めました。
豪族・寺院は開墾に力を入れ、大規模な田地初期荘園を形成しました。 | 729年、藤原氏が長屋王に反乱の疑いをかけ、自殺に追い込んだ事件を何と呼ばれていますか。 | 729年、藤原氏が長屋王に反乱の疑いをかけ、自殺に追い込んだ事件は長屋王の変と呼ばれています。 |
JCRRAG_008686 | 歴史 | 動揺する国家―聖武天皇の代
4兄弟の警戒
聖武天皇の即位後、藤原氏は聖武と妻光明子を皇后にすることを望みました。
皇后
夫の死後に天皇に即位できる立場なので、従来は皇族出身者のみ許可
729年、長屋王の変
藤原氏が長屋王に反乱の疑いをかけ、自殺に追い込んだ事件
長屋王に代わり、藤原4兄弟が政権を握り、光明子を皇后にしました。
流行病―社会的不安①
天然痘が流行し、藤原4兄弟が相次いで病死しました。
藤原氏を抑え、橘諸兄たちばなのもろえが政権を握りました。
橘諸兄(684~757年)
橘諸兄は、もと皇族で葛城王と称しました。母の氏姓を継ぐことを許され、皇族から臣下に転じました。
反乱―社会的不安②
橘諸兄は遣唐使であった僧玄昉げんぼうと吉備真備きびのまきびを重用しました。
玄昉は聖武に近づき、権威を利用したので人々から反感を買いました。
740年、藤原広嗣ひろつぐの乱
藤原広嗣(宇合の子、式家)が玄昉・吉備真備の排除を求めて挙兵した反乱
聖武天皇の動揺
社会的不安①②から、聖武は仏の力で国家を安定させる鎮護国家に努めました。
寺院の建立
741年、聖武は国分寺建立の詔を発して、諸国に国分寺・国分尼寺にじ を建立させました。
遷都計画と仏像の建立
藤原広嗣の乱を機に、橘諸兄は聖武に恭仁京くにきょう 遷都を勧めました。
しかし、遷都決定後に聖武の関心は別の地紫香楽宮しがらきのみや に移りました。
聖武は紫香楽宮に仏の国を再現しようと、743年、大仏造立の詔を発しました。
相次ぐ放火で造立は中止され、平城京で造立を再開
その後も聖武は難波宮なにわのみや、そして紫香楽宮と移り歩り、やがて平城京に都を戻しました。
遷都の流れ
①平城京
↓
② 恭仁京
↓
③紫香楽宮―743年、大仏造立の詔発令
↓
④難波宮
↓
⑤紫香楽宮―造立を中止し場所変更
↓
⑥平城京
三世一身法の見直し
灌漑設備を新たに作ることは大変で、大半の開墾地が一代限りの所有でした。
開墾した本人の死が近づくと、人々は収公される開墾地を手入れしなくなりました。
荒れた田地を国家が収公しても意味がありません。
743年、墾田永年私財法
田地を開墾すれば、永久的な私有を認めました。
豪族・寺院は開墾に力を入れ、大規模な田地初期荘園を形成しました。 | 740年、藤原広嗣(宇合の子、式家)が玄昉・吉備真備の排除を求めて挙兵した反乱を何と呼ばれていますか。 | 740年、藤原広嗣(宇合の子、式家)が玄昉・吉備真備の排除を求めて挙兵した反乱は藤原広嗣の乱と呼ばれています。 |
JCRRAG_008687 | 歴史 | 動揺する国家―聖武天皇の代
4兄弟の警戒
聖武天皇の即位後、藤原氏は聖武と妻光明子を皇后にすることを望みました。
皇后
夫の死後に天皇に即位できる立場なので、従来は皇族出身者のみ許可
729年、長屋王の変
藤原氏が長屋王に反乱の疑いをかけ、自殺に追い込んだ事件
長屋王に代わり、藤原4兄弟が政権を握り、光明子を皇后にしました。
流行病―社会的不安①
天然痘が流行し、藤原4兄弟が相次いで病死しました。
藤原氏を抑え、橘諸兄たちばなのもろえが政権を握りました。
橘諸兄(684~757年)
橘諸兄は、もと皇族で葛城王と称しました。母の氏姓を継ぐことを許され、皇族から臣下に転じました。
反乱―社会的不安②
橘諸兄は遣唐使であった僧玄昉げんぼうと吉備真備きびのまきびを重用しました。
玄昉は聖武に近づき、権威を利用したので人々から反感を買いました。
740年、藤原広嗣ひろつぐの乱
藤原広嗣(宇合の子、式家)が玄昉・吉備真備の排除を求めて挙兵した反乱
聖武天皇の動揺
社会的不安①②から、聖武は仏の力で国家を安定させる鎮護国家に努めました。
寺院の建立
741年、聖武は国分寺建立の詔を発して、諸国に国分寺・国分尼寺にじ を建立させました。
遷都計画と仏像の建立
藤原広嗣の乱を機に、橘諸兄は聖武に恭仁京くにきょう 遷都を勧めました。
しかし、遷都決定後に聖武の関心は別の地紫香楽宮しがらきのみや に移りました。
聖武は紫香楽宮に仏の国を再現しようと、743年、大仏造立の詔を発しました。
相次ぐ放火で造立は中止され、平城京で造立を再開
その後も聖武は難波宮なにわのみや、そして紫香楽宮と移り歩り、やがて平城京に都を戻しました。
遷都の流れ
①平城京
↓
② 恭仁京
↓
③紫香楽宮―743年、大仏造立の詔発令
↓
④難波宮
↓
⑤紫香楽宮―造立を中止し場所変更
↓
⑥平城京
三世一身法の見直し
灌漑設備を新たに作ることは大変で、大半の開墾地が一代限りの所有でした。
開墾した本人の死が近づくと、人々は収公される開墾地を手入れしなくなりました。
荒れた田地を国家が収公しても意味がありません。
743年、墾田永年私財法
田地を開墾すれば、永久的な私有を認めました。
豪族・寺院は開墾に力を入れ、大規模な田地初期荘園を形成しました。 | 741年、聖武は国分寺建立の詔を発して諸国に建立したのは何ですか。 | 741年、聖武は国分寺建立の詔を発して諸国に建立したのは国分寺と国分尼寺です。 |
JCRRAG_008688 | 歴史 | 動揺する国家―聖武天皇の代
4兄弟の警戒
聖武天皇の即位後、藤原氏は聖武と妻光明子を皇后にすることを望みました。
皇后
夫の死後に天皇に即位できる立場なので、従来は皇族出身者のみ許可
729年、長屋王の変
藤原氏が長屋王に反乱の疑いをかけ、自殺に追い込んだ事件
長屋王に代わり、藤原4兄弟が政権を握り、光明子を皇后にしました。
流行病―社会的不安①
天然痘が流行し、藤原4兄弟が相次いで病死しました。
藤原氏を抑え、橘諸兄たちばなのもろえが政権を握りました。
橘諸兄(684~757年)
橘諸兄は、もと皇族で葛城王と称しました。母の氏姓を継ぐことを許され、皇族から臣下に転じました。
反乱―社会的不安②
橘諸兄は遣唐使であった僧玄昉げんぼうと吉備真備きびのまきびを重用しました。
玄昉は聖武に近づき、権威を利用したので人々から反感を買いました。
740年、藤原広嗣ひろつぐの乱
藤原広嗣(宇合の子、式家)が玄昉・吉備真備の排除を求めて挙兵した反乱
聖武天皇の動揺
社会的不安①②から、聖武は仏の力で国家を安定させる鎮護国家に努めました。
寺院の建立
741年、聖武は国分寺建立の詔を発して、諸国に国分寺・国分尼寺にじ を建立させました。
遷都計画と仏像の建立
藤原広嗣の乱を機に、橘諸兄は聖武に恭仁京くにきょう 遷都を勧めました。
しかし、遷都決定後に聖武の関心は別の地紫香楽宮しがらきのみや に移りました。
聖武は紫香楽宮に仏の国を再現しようと、743年、大仏造立の詔を発しました。
相次ぐ放火で造立は中止され、平城京で造立を再開
その後も聖武は難波宮なにわのみや、そして紫香楽宮と移り歩り、やがて平城京に都を戻しました。
遷都の流れ
①平城京
↓
② 恭仁京
↓
③紫香楽宮―743年、大仏造立の詔発令
↓
④難波宮
↓
⑤紫香楽宮―造立を中止し場所変更
↓
⑥平城京
三世一身法の見直し
灌漑設備を新たに作ることは大変で、大半の開墾地が一代限りの所有でした。
開墾した本人の死が近づくと、人々は収公される開墾地を手入れしなくなりました。
荒れた田地を国家が収公しても意味がありません。
743年、墾田永年私財法
田地を開墾すれば、永久的な私有を認めました。
豪族・寺院は開墾に力を入れ、大規模な田地初期荘園を形成しました。 | 741年、聖武は国分寺建立の詔を発して、諸国に建立させたのは何ですか。 | 741年、聖武は国分寺建立の詔を発して、諸国に建立させたのは国分尼寺です。 |
JCRRAG_008689 | 歴史 | 動揺する国家―聖武天皇の代
4兄弟の警戒
聖武天皇の即位後、藤原氏は聖武と妻光明子を皇后にすることを望みました。
皇后
夫の死後に天皇に即位できる立場なので、従来は皇族出身者のみ許可
729年、長屋王の変
藤原氏が長屋王に反乱の疑いをかけ、自殺に追い込んだ事件
長屋王に代わり、藤原4兄弟が政権を握り、光明子を皇后にしました。
流行病―社会的不安①
天然痘が流行し、藤原4兄弟が相次いで病死しました。
藤原氏を抑え、橘諸兄たちばなのもろえが政権を握りました。
橘諸兄(684~757年)
橘諸兄は、もと皇族で葛城王と称しました。母の氏姓を継ぐことを許され、皇族から臣下に転じました。
反乱―社会的不安②
橘諸兄は遣唐使であった僧玄昉げんぼうと吉備真備きびのまきびを重用しました。
玄昉は聖武に近づき、権威を利用したので人々から反感を買いました。
740年、藤原広嗣ひろつぐの乱
藤原広嗣(宇合の子、式家)が玄昉・吉備真備の排除を求めて挙兵した反乱
聖武天皇の動揺
社会的不安①②から、聖武は仏の力で国家を安定させる鎮護国家に努めました。
寺院の建立
741年、聖武は国分寺建立の詔を発して、諸国に国分寺・国分尼寺にじ を建立させました。
遷都計画と仏像の建立
藤原広嗣の乱を機に、橘諸兄は聖武に恭仁京くにきょう 遷都を勧めました。
しかし、遷都決定後に聖武の関心は別の地紫香楽宮しがらきのみや に移りました。
聖武は紫香楽宮に仏の国を再現しようと、743年、大仏造立の詔を発しました。
相次ぐ放火で造立は中止され、平城京で造立を再開
その後も聖武は難波宮なにわのみや、そして紫香楽宮と移り歩り、やがて平城京に都を戻しました。
遷都の流れ
①平城京
↓
② 恭仁京
↓
③紫香楽宮―743年、大仏造立の詔発令
↓
④難波宮
↓
⑤紫香楽宮―造立を中止し場所変更
↓
⑥平城京
三世一身法の見直し
灌漑設備を新たに作ることは大変で、大半の開墾地が一代限りの所有でした。
開墾した本人の死が近づくと、人々は収公される開墾地を手入れしなくなりました。
荒れた田地を国家が収公しても意味がありません。
743年、墾田永年私財法
田地を開墾すれば、永久的な私有を認めました。
豪族・寺院は開墾に力を入れ、大規模な田地初期荘園を形成しました。 | 743年に聖武が紫香楽宮に仏の国を再現しようと発したのは何ですか。 | 743年に聖武が紫香楽宮に仏の国を再現しようと発したのは大仏造立の詔です。 |
JCRRAG_008690 | 歴史 | 即位と不安―孝謙天皇の代
先行き暗い即位
聖武天皇の息子はついに育たず、聖武はやむを得ずに娘の孝謙天皇を即位させました。
女帝は独身か未亡人を条件とするため、子をもたない孝謙が即位しても、藤原氏の血を引く者への皇位継承は不可能でした。
大仏の開眼供養
752年、インド僧菩提僊那ぼだいせんなが、完成した東大寺盧舎那仏るしゃなぶつ に目を点じました。
藤原仲麻呂の台頭
橘諸兄は従者に失言を密告され、罪は不問となりましたが辞職しました。
藤原仲麻呂(南家、武智麻呂の子)が、光明子(光明皇太后、藤原不比等の娘)の後ろ盾で政治の実権を握りました。
757年、仲麻呂は祖父藤原不比等が編纂した養老律令を施行しました。
施行で祖父を顕彰し、あわせて自分の地位の強化を意図したのです。
施行は橘奈良麻呂(橘諸兄の子)らから強く批難されました。
757年、橘奈良麻呂の変
仲麻呂が奈良麻呂を含めた反仲麻呂派に反乱の疑いをかけ、一斉逮捕した事件
反発者たちが消え、仲麻呂は独裁政権を打ち立てました。
太上天皇と天皇―淳仁天皇の代
あくなき権勢追求
藤原仲麻呂は光明子の協力で孝謙天皇を譲位させ、義理の息子である淳仁じゅんにん 天皇を即位させました。
即位の日、仲麻呂は淳仁から恵美押勝の名を与えられました。
この他にも経済的特権を与えられ、果てには太政大臣だいじょうだいじんに就任しました。
淳仁は義父仲麻呂の言いなり
譲位後の天皇は「太上天皇だいじょうてんのう(上皇)」と表記
協力者の死
孝謙と淳仁の仲を取り持っていた光明子が死去しました。
ゆらぐ権勢と没落
孝謙太上天皇だいじょうてんのうが自身を看病した僧道鏡を寵愛ちょうあいしました。
淳仁がこれを注意すると、孝謙と淳仁の仲はより悪化しました。
孝謙が淳仁の権力を制限したので、仲麻呂の権勢はゆらぎ始めました。
権力の優劣は「太上天皇≧天皇」
仲麻呂は仲間を次々と左遷され、苦境に立たされました。
764年、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)
仲麻呂による挙兵事件
仲麻呂は敗死し、廃された淳仁は淡路に流されました。
乱後、孝謙は戦死した兵の弔いと鎮護国家の祈念のために、年代の明確な最古の印刷物である百万塔ひゃくまんとう陀羅尼だらに を印刷しました。 | 聖武天皇の息子は育たず、やむを得ずに即位したのは誰ですか。 | 聖武天皇の息子は育たず、やむを得ずに即位したのは娘の孝謙天皇です。 |
JCRRAG_008691 | 歴史 | 即位と不安―孝謙天皇の代
先行き暗い即位
聖武天皇の息子はついに育たず、聖武はやむを得ずに娘の孝謙天皇を即位させました。
女帝は独身か未亡人を条件とするため、子をもたない孝謙が即位しても、藤原氏の血を引く者への皇位継承は不可能でした。
大仏の開眼供養
752年、インド僧菩提僊那ぼだいせんなが、完成した東大寺盧舎那仏るしゃなぶつ に目を点じました。
藤原仲麻呂の台頭
橘諸兄は従者に失言を密告され、罪は不問となりましたが辞職しました。
藤原仲麻呂(南家、武智麻呂の子)が、光明子(光明皇太后、藤原不比等の娘)の後ろ盾で政治の実権を握りました。
757年、仲麻呂は祖父藤原不比等が編纂した養老律令を施行しました。
施行で祖父を顕彰し、あわせて自分の地位の強化を意図したのです。
施行は橘奈良麻呂(橘諸兄の子)らから強く批難されました。
757年、橘奈良麻呂の変
仲麻呂が奈良麻呂を含めた反仲麻呂派に反乱の疑いをかけ、一斉逮捕した事件
反発者たちが消え、仲麻呂は独裁政権を打ち立てました。
太上天皇と天皇―淳仁天皇の代
あくなき権勢追求
藤原仲麻呂は光明子の協力で孝謙天皇を譲位させ、義理の息子である淳仁じゅんにん 天皇を即位させました。
即位の日、仲麻呂は淳仁から恵美押勝の名を与えられました。
この他にも経済的特権を与えられ、果てには太政大臣だいじょうだいじんに就任しました。
淳仁は義父仲麻呂の言いなり
譲位後の天皇は「太上天皇だいじょうてんのう(上皇)」と表記
協力者の死
孝謙と淳仁の仲を取り持っていた光明子が死去しました。
ゆらぐ権勢と没落
孝謙太上天皇だいじょうてんのうが自身を看病した僧道鏡を寵愛ちょうあいしました。
淳仁がこれを注意すると、孝謙と淳仁の仲はより悪化しました。
孝謙が淳仁の権力を制限したので、仲麻呂の権勢はゆらぎ始めました。
権力の優劣は「太上天皇≧天皇」
仲麻呂は仲間を次々と左遷され、苦境に立たされました。
764年、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)
仲麻呂による挙兵事件
仲麻呂は敗死し、廃された淳仁は淡路に流されました。
乱後、孝謙は戦死した兵の弔いと鎮護国家の祈念のために、年代の明確な最古の印刷物である百万塔ひゃくまんとう陀羅尼だらに を印刷しました。 | 752年、完成した東大寺盧舎那仏に目を点じたのは、インド僧の誰ですか。 | 752年、完成した東大寺盧舎那仏に目を点じたのは、インド僧の菩提僊那です。 |
JCRRAG_008692 | 歴史 | 即位と不安―孝謙天皇の代
先行き暗い即位
聖武天皇の息子はついに育たず、聖武はやむを得ずに娘の孝謙天皇を即位させました。
女帝は独身か未亡人を条件とするため、子をもたない孝謙が即位しても、藤原氏の血を引く者への皇位継承は不可能でした。
大仏の開眼供養
752年、インド僧菩提僊那ぼだいせんなが、完成した東大寺盧舎那仏るしゃなぶつ に目を点じました。
藤原仲麻呂の台頭
橘諸兄は従者に失言を密告され、罪は不問となりましたが辞職しました。
藤原仲麻呂(南家、武智麻呂の子)が、光明子(光明皇太后、藤原不比等の娘)の後ろ盾で政治の実権を握りました。
757年、仲麻呂は祖父藤原不比等が編纂した養老律令を施行しました。
施行で祖父を顕彰し、あわせて自分の地位の強化を意図したのです。
施行は橘奈良麻呂(橘諸兄の子)らから強く批難されました。
757年、橘奈良麻呂の変
仲麻呂が奈良麻呂を含めた反仲麻呂派に反乱の疑いをかけ、一斉逮捕した事件
反発者たちが消え、仲麻呂は独裁政権を打ち立てました。
太上天皇と天皇―淳仁天皇の代
あくなき権勢追求
藤原仲麻呂は光明子の協力で孝謙天皇を譲位させ、義理の息子である淳仁じゅんにん 天皇を即位させました。
即位の日、仲麻呂は淳仁から恵美押勝の名を与えられました。
この他にも経済的特権を与えられ、果てには太政大臣だいじょうだいじんに就任しました。
淳仁は義父仲麻呂の言いなり
譲位後の天皇は「太上天皇だいじょうてんのう(上皇)」と表記
協力者の死
孝謙と淳仁の仲を取り持っていた光明子が死去しました。
ゆらぐ権勢と没落
孝謙太上天皇だいじょうてんのうが自身を看病した僧道鏡を寵愛ちょうあいしました。
淳仁がこれを注意すると、孝謙と淳仁の仲はより悪化しました。
孝謙が淳仁の権力を制限したので、仲麻呂の権勢はゆらぎ始めました。
権力の優劣は「太上天皇≧天皇」
仲麻呂は仲間を次々と左遷され、苦境に立たされました。
764年、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)
仲麻呂による挙兵事件
仲麻呂は敗死し、廃された淳仁は淡路に流されました。
乱後、孝謙は戦死した兵の弔いと鎮護国家の祈念のために、年代の明確な最古の印刷物である百万塔ひゃくまんとう陀羅尼だらに を印刷しました。 | 757年、祖父藤原不比等が編纂した養老律令を施行したのは誰ですか。 | 757年、祖父藤原不比等が編纂した養老律令を施行したのは仲麻呂です。 |
JCRRAG_008693 | 歴史 | 即位と不安―孝謙天皇の代
先行き暗い即位
聖武天皇の息子はついに育たず、聖武はやむを得ずに娘の孝謙天皇を即位させました。
女帝は独身か未亡人を条件とするため、子をもたない孝謙が即位しても、藤原氏の血を引く者への皇位継承は不可能でした。
大仏の開眼供養
752年、インド僧菩提僊那ぼだいせんなが、完成した東大寺盧舎那仏るしゃなぶつ に目を点じました。
藤原仲麻呂の台頭
橘諸兄は従者に失言を密告され、罪は不問となりましたが辞職しました。
藤原仲麻呂(南家、武智麻呂の子)が、光明子(光明皇太后、藤原不比等の娘)の後ろ盾で政治の実権を握りました。
757年、仲麻呂は祖父藤原不比等が編纂した養老律令を施行しました。
施行で祖父を顕彰し、あわせて自分の地位の強化を意図したのです。
施行は橘奈良麻呂(橘諸兄の子)らから強く批難されました。
757年、橘奈良麻呂の変
仲麻呂が奈良麻呂を含めた反仲麻呂派に反乱の疑いをかけ、一斉逮捕した事件
反発者たちが消え、仲麻呂は独裁政権を打ち立てました。
太上天皇と天皇―淳仁天皇の代
あくなき権勢追求
藤原仲麻呂は光明子の協力で孝謙天皇を譲位させ、義理の息子である淳仁じゅんにん 天皇を即位させました。
即位の日、仲麻呂は淳仁から恵美押勝の名を与えられました。
この他にも経済的特権を与えられ、果てには太政大臣だいじょうだいじんに就任しました。
淳仁は義父仲麻呂の言いなり
譲位後の天皇は「太上天皇だいじょうてんのう(上皇)」と表記
協力者の死
孝謙と淳仁の仲を取り持っていた光明子が死去しました。
ゆらぐ権勢と没落
孝謙太上天皇だいじょうてんのうが自身を看病した僧道鏡を寵愛ちょうあいしました。
淳仁がこれを注意すると、孝謙と淳仁の仲はより悪化しました。
孝謙が淳仁の権力を制限したので、仲麻呂の権勢はゆらぎ始めました。
権力の優劣は「太上天皇≧天皇」
仲麻呂は仲間を次々と左遷され、苦境に立たされました。
764年、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)
仲麻呂による挙兵事件
仲麻呂は敗死し、廃された淳仁は淡路に流されました。
乱後、孝謙は戦死した兵の弔いと鎮護国家の祈念のために、年代の明確な最古の印刷物である百万塔ひゃくまんとう陀羅尼だらに を印刷 | 757年、仲麻呂が奈良麻呂を含めた反仲麻呂派に反乱の疑いをかけ、一斉逮捕した事件は何ですか。 | 757年、仲麻呂が奈良麻呂を含めた反仲麻呂派に反乱の疑いをかけ、一斉逮捕した事件は橘奈良麻呂の変です。 |
JCRRAG_008694 | 歴史 | 即位と不安―孝謙天皇の代
先行き暗い即位
聖武天皇の息子はついに育たず、聖武はやむを得ずに娘の孝謙天皇を即位させました。
女帝は独身か未亡人を条件とするため、子をもたない孝謙が即位しても、藤原氏の血を引く者への皇位継承は不可能でした。
大仏の開眼供養
752年、インド僧菩提僊那ぼだいせんなが、完成した東大寺盧舎那仏るしゃなぶつ に目を点じました。
藤原仲麻呂の台頭
橘諸兄は従者に失言を密告され、罪は不問となりましたが辞職しました。
藤原仲麻呂(南家、武智麻呂の子)が、光明子(光明皇太后、藤原不比等の娘)の後ろ盾で政治の実権を握りました。
757年、仲麻呂は祖父藤原不比等が編纂した養老律令を施行しました。
施行で祖父を顕彰し、あわせて自分の地位の強化を意図したのです。
施行は橘奈良麻呂(橘諸兄の子)らから強く批難されました。
757年、橘奈良麻呂の変
仲麻呂が奈良麻呂を含めた反仲麻呂派に反乱の疑いをかけ、一斉逮捕した事件
反発者たちが消え、仲麻呂は独裁政権を打ち立てました。
太上天皇と天皇―淳仁天皇の代
あくなき権勢追求
藤原仲麻呂は光明子の協力で孝謙天皇を譲位させ、義理の息子である淳仁じゅんにん 天皇を即位させました。
即位の日、仲麻呂は淳仁から恵美押勝の名を与えられました。
この他にも経済的特権を与えられ、果てには太政大臣だいじょうだいじんに就任しました。
淳仁は義父仲麻呂の言いなり
譲位後の天皇は「太上天皇だいじょうてんのう(上皇)」と表記
協力者の死
孝謙と淳仁の仲を取り持っていた光明子が死去しました。
ゆらぐ権勢と没落
孝謙太上天皇だいじょうてんのうが自身を看病した僧道鏡を寵愛ちょうあいしました。
淳仁がこれを注意すると、孝謙と淳仁の仲はより悪化しました。
孝謙が淳仁の権力を制限したので、仲麻呂の権勢はゆらぎ始めました。
権力の優劣は「太上天皇≧天皇」
仲麻呂は仲間を次々と左遷され、苦境に立たされました。
764年、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)
仲麻呂による挙兵事件
仲麻呂は敗死し、廃された淳仁は淡路に流されました。
乱後、孝謙は戦死した兵の弔いと鎮護国家の祈念のために、年代の明確な最古の印刷物である百万塔ひゃくまんとう陀羅尼だらに を印刷しました。 | 764年、仲麻呂により起きた挙兵事件は何ですか。 | 764年、仲麻呂により起きた挙兵事件は藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)です。 |
JCRRAG_008695 | 歴史 | 皇位継承問題―称徳天皇の代
道鏡の台頭と宇佐八幡神託事件
孝謙太上天皇は再び即位して(重祚)、称徳天皇となりました。
道鏡は称徳の寵愛を受け、異例の早さで出世しました。
765年、太政大臣に準じる太政大臣禅師に任じられました。
766年、皇太子に準じる法王にまで上り詰めました。
称徳は道鏡への譲位を望みましたが、周囲を納得させられる理由がありませんでした。
769年、宇佐八幡宮の神官が称徳と結託し、神から「道鏡を天皇にすべき」とのお告げがあったと報告しました。
称徳は神の意志の再確認するために、和気清麻呂を派遣しました。
和気清麻呂が、反道鏡派の藤原百川ももかわ (式家、宇合の子)らと示し合わせ、神の意志は「跡継ぎは必ず皇族にすべき」であった報告しました。
神託を利用した称徳の譲位計画は失敗に終わってしまいました。
清麻呂は称徳の怒りを買い、姉和気広虫とともに流刑処分
天武系の断絶と天智系の即位
称徳の死によって、次の2点が生じました。
道鏡が没落し、下野しもつけ国の薬師寺に左遷
天武天皇の血統が断絶
天智天皇の血統である光仁天皇が、藤原百川に擁立された即位しました。
天皇の系統が、天武系から天智系に移行しました。
光仁天皇
妻は百済系渡来人の高野新笠にいがさ
擁立された光仁天皇は式家を重用しました。 | 再び即位した孝謙太上天皇は何となりましたか。 | 再び即位した孝謙太上天皇は称徳天皇となりました。 |
JCRRAG_008696 | 歴史 | 皇位継承問題―称徳天皇の代
道鏡の台頭と宇佐八幡神託事件
孝謙太上天皇は再び即位して(重祚)、称徳天皇となりました。
道鏡は称徳の寵愛を受け、異例の早さで出世しました。
765年、太政大臣に準じる太政大臣禅師に任じられました。
766年、皇太子に準じる法王にまで上り詰めました。
称徳は道鏡への譲位を望みましたが、周囲を納得させられる理由がありませんでした。
769年、宇佐八幡宮の神官が称徳と結託し、神から「道鏡を天皇にすべき」とのお告げがあったと報告しました。
称徳は神の意志の再確認するために、和気清麻呂を派遣しました。
和気清麻呂が、反道鏡派の藤原百川ももかわ (式家、宇合の子)らと示し合わせ、神の意志は「跡継ぎは必ず皇族にすべき」であった報告しました。
神託を利用した称徳の譲位計画は失敗に終わってしまいました。
清麻呂は称徳の怒りを買い、姉和気広虫とともに流刑処分
天武系の断絶と天智系の即位
称徳の死によって、次の2点が生じました。
道鏡が没落し、下野しもつけ国の薬師寺に左遷
天武天皇の血統が断絶
天智天皇の血統である光仁天皇が、藤原百川に擁立された即位しました。
天皇の系統が、天武系から天智系に移行しました。
光仁天皇
妻は百済系渡来人の高野新笠にいがさ
擁立された光仁天皇は式家を重用しました。 | 766年、道鏡が上り詰めたのは皇太子に準じる何ですか。 | 766年、道鏡が上り詰めたのは皇太子に準じる法王です。 |
JCRRAG_008697 | 歴史 | 皇位継承問題―称徳天皇の代
道鏡の台頭と宇佐八幡神託事件
孝謙太上天皇は再び即位して(重祚)、称徳天皇となりました。
道鏡は称徳の寵愛を受け、異例の早さで出世しました。
765年、太政大臣に準じる太政大臣禅師に任じられました。
766年、皇太子に準じる法王にまで上り詰めました。
称徳は道鏡への譲位を望みましたが、周囲を納得させられる理由がありませんでした。
769年、宇佐八幡宮の神官が称徳と結託し、神から「道鏡を天皇にすべき」とのお告げがあったと報告しました。
称徳は神の意志の再確認するために、和気清麻呂を派遣しました。
和気清麻呂が、反道鏡派の藤原百川ももかわ (式家、宇合の子)らと示し合わせ、神の意志は「跡継ぎは必ず皇族にすべき」であった報告しました。
神託を利用した称徳の譲位計画は失敗に終わってしまいました。
清麻呂は称徳の怒りを買い、姉和気広虫とともに流刑処分
天武系の断絶と天智系の即位
称徳の死によって、次の2点が生じました。
道鏡が没落し、下野しもつけ国の薬師寺に左遷
天武天皇の血統が断絶
天智天皇の血統である光仁天皇が、藤原百川に擁立された即位しました。
天皇の系統が、天武系から天智系に移行しました。
光仁天皇
妻は百済系渡来人の高野新笠にいがさ
擁立された光仁天皇は式家を重用しました。 | 称徳が神の意志の再確認するために派遣したのは誰ですか。 | 称徳が神の意志の再確認するために派遣したのは和気清麻呂です。 |
JCRRAG_008698 | 歴史 | 皇位継承問題―称徳天皇の代
道鏡の台頭と宇佐八幡神託事件
孝謙太上天皇は再び即位して(重祚)、称徳天皇となりました。
道鏡は称徳の寵愛を受け、異例の早さで出世しました。
765年、太政大臣に準じる太政大臣禅師に任じられました。
766年、皇太子に準じる法王にまで上り詰めました。
称徳は道鏡への譲位を望みましたが、周囲を納得させられる理由がありませんでした。
769年、宇佐八幡宮の神官が称徳と結託し、神から「道鏡を天皇にすべき」とのお告げがあったと報告しました。
称徳は神の意志の再確認するために、和気清麻呂を派遣しました。
和気清麻呂が、反道鏡派の藤原百川ももかわ (式家、宇合の子)らと示し合わせ、神の意志は「跡継ぎは必ず皇族にすべき」であった報告しました。
神託を利用した称徳の譲位計画は失敗に終わってしまいました。
清麻呂は称徳の怒りを買い、姉和気広虫とともに流刑処分
天武系の断絶と天智系の即位
称徳の死によって、次の2点が生じました。
道鏡が没落し、下野しもつけ国の薬師寺に左遷
天武天皇の血統が断絶
天智天皇の血統である光仁天皇が、藤原百川に擁立された即位しました。
天皇の系統が、天武系から天智系に移行しました。
光仁天皇
妻は百済系渡来人の高野新笠にいがさ
擁立された光仁天皇は式家を重用しました。 | 称徳の死によって道鏡が没落し左遷された薬師寺はどこですか。 | 称徳の死によって道鏡が没落し左遷された薬師寺は下野国です。 |
JCRRAG_008699 | 歴史 | 皇位継承問題―称徳天皇の代
道鏡の台頭と宇佐八幡神託事件
孝謙太上天皇は再び即位して(重祚)、称徳天皇となりました。
道鏡は称徳の寵愛を受け、異例の早さで出世しました。
765年、太政大臣に準じる太政大臣禅師に任じられました。
766年、皇太子に準じる法王にまで上り詰めました。
称徳は道鏡への譲位を望みましたが、周囲を納得させられる理由がありませんでした。
769年、宇佐八幡宮の神官が称徳と結託し、神から「道鏡を天皇にすべき」とのお告げがあったと報告しました。
称徳は神の意志の再確認するために、和気清麻呂を派遣しました。
和気清麻呂が、反道鏡派の藤原百川ももかわ (式家、宇合の子)らと示し合わせ、神の意志は「跡継ぎは必ず皇族にすべき」であった報告しました。
神託を利用した称徳の譲位計画は失敗に終わってしまいました。
清麻呂は称徳の怒りを買い、姉和気広虫とともに流刑処分
天武系の断絶と天智系の即位
称徳の死によって、次の2点が生じました。
道鏡が没落し、下野しもつけ国の薬師寺に左遷
天武天皇の血統が断絶
天智天皇の血統である光仁天皇が、藤原百川に擁立された即位しました。
天皇の系統が、天武系から天智系に移行しました。
光仁天皇
妻は百済系渡来人の高野新笠にいがさ
擁立された光仁天皇は式家を重用しました。 | 天智天皇の血統で藤原百川に擁立された即位したのは誰ですか。 | 天智天皇の血統で藤原百川に擁立された即位したのは光仁天皇です。 |
JCRRAG_008700 | 歴史 | 住居と税負担
憶良の和歌①
山上憶良による「貧窮問答歌」(『万葉集』収録)は、役人が貧しい農民に生活を問い、農民が答える場面を詠みます。
脚色もありますが、奈良時代の農民の生活を知ることができます。
貧窮問答歌
原文
天地あめつちは広しといへど吾あが為は狭さ くやなりぬる[中略]Ⓐ伏廬ふせいほの曲廬まげいほの内うち に直土ひたつちに藁わら解き敷きて[中略]竈かまど には火気ほけ吹き立てず甑こしきには蜘蛛くもの巣かきて飯 いひ 炊かしくことも忘れて[中略]Ⓑ楚しもと取る里長さとをさ が声は寝やどまで来立ち呼ばひぬかくばかり術無きものか世間よのなか の道Ⓒ世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
現代語訳
天地は広いと言うが、私にとっては狭くなってしまったのか。[中略]Ⓐ低くつぶれ、曲がって傾いた家の中に、地べたにじかに藁を敷いて[中略]カマドには火の気がなく、飯炊き用の土器には蜘蛛の巣がはって、飯を炊くことも忘れたふうで[中略]Ⓑ鞭をもった里長の呼ぶ声が、家の中にまで聞こえてくる。世の中を生きていくことはなぜこれほど難しいのか。Ⓒ世の中を辛く痩 やせ せるように耐えがたく思うが、鳥ではないから飛んでいくこともできない。
貧窮問答歌が描写する生活
住居の変化
貧窮問答歌の下線部Ⓐのように、貧しい農民の住居、竪穴住居でした。
ただし、掘立柱住居という住居が、西日本から次第に普及していました。
寺院などは、礎石を用いた瓦葺かわらぶき建築
税負担からの逃避
貧窮問答歌の下線部Ⓑは里長によるの税の取り立てです。
税負担は重く、下線部Ⓒのように農民は「飛んで逃げたい」と思うほどでした。
実際に負担から逃げた農民もいました。
逃げた先の場所では、「浮浪」者と呼称
逃げられた場所では、「逃亡」者と呼称
浮浪・逃亡の違いは、呼ぶ側の視点
田地の借用と利息
農民は、口分田班給後の余剰地乗田を借りること(賃租)ができました。
ただし、利息として収穫の20%を納入しなくてはなりませんでした。
生活が貧しくても、容易には借りられませんでした。
口分田は租(広さ1段当たり稲2束2把で、収穫の3%に相当)を納入
「浮浪」「逃亡」者の行方
浮浪・逃亡している農民は、寺院・豪族のもとに仕えました。
寺院・豪族は、農民を養って田地開墾のために使役しました。
743年に施行された墾田永年私財法に従い、寺院・豪族は大規模な田地初期荘園を形成していきました。
初期荘園
租が掛かる輸租田という扱い
税負担を避ける別の方法
当初、日本では「受戒(僧になるための儀礼)」なしで僧になれました。
そして、僧になると税を免除されました。
読経もできず、勝手に出家を宣言して僧となった私度僧が続出しました。
「受戒」を義務化しようとしたのですが、それを執り行える僧が日本にいませんでした。
唐から僧を招いたところ、鑑真が渡来して戒律を伝えました。 | 山上憶良が役人が貧しい農民に生活を問い、農民が答える場面を詠んだ和歌は何ですか。 | 農民が答える場面を詠んだ和歌は貧窮問答歌です。 |
Subsets and Splits
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