ID stringlengths 13 13 | Category stringclasses 12 values | Context stringlengths 1 4.96k | Question stringlengths 7 248 | GroundtruthAnswer stringlengths 2 663 |
|---|---|---|---|---|
JCRRAG_008701 | 歴史 | 住居と税負担
憶良の和歌①
山上憶良による「貧窮問答歌」(『万葉集』収録)は、役人が貧しい農民に生活を問い、農民が答える場面を詠みます。
脚色もありますが、奈良時代の農民の生活を知ることができます。
貧窮問答歌
原文
天地あめつちは広しといへど吾あが為は狭さ くやなりぬる[中略]Ⓐ伏廬ふせいほの曲廬まげいほの内うち に直土ひたつちに藁わら解き敷きて[中略]竈かまど には火気ほけ吹き立てず甑こしきには蜘蛛くもの巣かきて飯 いひ 炊かしくことも忘れて[中略]Ⓑ楚しもと取る里長さとをさ が声は寝やどまで来立ち呼ばひぬかくばかり術無きものか世間よのなか の道Ⓒ世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
現代語訳
天地は広いと言うが、私にとっては狭くなってしまったのか。[中略]Ⓐ低くつぶれ、曲がって傾いた家の中に、地べたにじかに藁を敷いて[中略]カマドには火の気がなく、飯炊き用の土器には蜘蛛の巣がはって、飯を炊くことも忘れたふうで[中略]Ⓑ鞭をもった里長の呼ぶ声が、家の中にまで聞こえてくる。世の中を生きていくことはなぜこれほど難しいのか。Ⓒ世の中を辛く痩 やせ せるように耐えがたく思うが、鳥ではないから飛んでいくこともできない。
貧窮問答歌が描写する生活
住居の変化
貧窮問答歌の下線部Ⓐのように、貧しい農民の住居、竪穴住居でした。
ただし、掘立柱住居という住居が、西日本から次第に普及していました。
寺院などは、礎石を用いた瓦葺かわらぶき建築
税負担からの逃避
貧窮問答歌の下線部Ⓑは里長によるの税の取り立てです。
税負担は重く、下線部Ⓒのように農民は「飛んで逃げたい」と思うほどでした。
実際に負担から逃げた農民もいました。
逃げた先の場所では、「浮浪」者と呼称
逃げられた場所では、「逃亡」者と呼称
浮浪・逃亡の違いは、呼ぶ側の視点
田地の借用と利息
農民は、口分田班給後の余剰地乗田を借りること(賃租)ができました。
ただし、利息として収穫の20%を納入しなくてはなりませんでした。
生活が貧しくても、容易には借りられませんでした。
口分田は租(広さ1段当たり稲2束2把で、収穫の3%に相当)を納入
「浮浪」「逃亡」者の行方
浮浪・逃亡している農民は、寺院・豪族のもとに仕えました。
寺院・豪族は、農民を養って田地開墾のために使役しました。
743年に施行された墾田永年私財法に従い、寺院・豪族は大規模な田地初期荘園を形成していきました。
初期荘園
租が掛かる輸租田という扱い
税負担を避ける別の方法
当初、日本では「受戒(僧になるための儀礼)」なしで僧になれました。
そして、僧になると税を免除されました。
読経もできず、勝手に出家を宣言して僧となった私度僧が続出しました。
「受戒」を義務化しようとしたのですが、それを執り行える僧が日本にいませんでした。
唐から僧を招いたところ、鑑真が渡来して戒律を伝えました。 | 貧しい農民の住居は、竪穴住居でしたが、西日本から次第に普及してきた住居は何ですか。 | 西日本から次第に普及してきた住居は掘立柱住居です。 |
JCRRAG_008702 | 歴史 | 住居と税負担
憶良の和歌①
山上憶良による「貧窮問答歌」(『万葉集』収録)は、役人が貧しい農民に生活を問い、農民が答える場面を詠みます。
脚色もありますが、奈良時代の農民の生活を知ることができます。
貧窮問答歌
原文
天地あめつちは広しといへど吾あが為は狭さ くやなりぬる[中略]Ⓐ伏廬ふせいほの曲廬まげいほの内うち に直土ひたつちに藁わら解き敷きて[中略]竈かまど には火気ほけ吹き立てず甑こしきには蜘蛛くもの巣かきて飯 いひ 炊かしくことも忘れて[中略]Ⓑ楚しもと取る里長さとをさ が声は寝やどまで来立ち呼ばひぬかくばかり術無きものか世間よのなか の道Ⓒ世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
現代語訳
天地は広いと言うが、私にとっては狭くなってしまったのか。[中略]Ⓐ低くつぶれ、曲がって傾いた家の中に、地べたにじかに藁を敷いて[中略]カマドには火の気がなく、飯炊き用の土器には蜘蛛の巣がはって、飯を炊くことも忘れたふうで[中略]Ⓑ鞭をもった里長の呼ぶ声が、家の中にまで聞こえてくる。世の中を生きていくことはなぜこれほど難しいのか。Ⓒ世の中を辛く痩 やせ せるように耐えがたく思うが、鳥ではないから飛んでいくこともできない。
貧窮問答歌が描写する生活
住居の変化
貧窮問答歌の下線部Ⓐのように、貧しい農民の住居、竪穴住居でした。
ただし、掘立柱住居という住居が、西日本から次第に普及していました。
寺院などは、礎石を用いた瓦葺かわらぶき建築
税負担からの逃避
貧窮問答歌の下線部Ⓑは里長によるの税の取り立てです。
税負担は重く、下線部Ⓒのように農民は「飛んで逃げたい」と思うほどでした。
実際に負担から逃げた農民もいました。
逃げた先の場所では、「浮浪」者と呼称
逃げられた場所では、「逃亡」者と呼称
浮浪・逃亡の違いは、呼ぶ側の視点
田地の借用と利息
農民は、口分田班給後の余剰地乗田を借りること(賃租)ができました。
ただし、利息として収穫の20%を納入しなくてはなりませんでした。
生活が貧しくても、容易には借りられませんでした。
口分田は租(広さ1段当たり稲2束2把で、収穫の3%に相当)を納入
「浮浪」「逃亡」者の行方
浮浪・逃亡している農民は、寺院・豪族のもとに仕えました。
寺院・豪族は、農民を養って田地開墾のために使役しました。
743年に施行された墾田永年私財法に従い、寺院・豪族は大規模な田地初期荘園を形成していきました。
初期荘園
租が掛かる輸租田という扱い
税負担を避ける別の方法
当初、日本では「受戒(僧になるための儀礼)」なしで僧になれました。
そして、僧になると税を免除されました。
読経もできず、勝手に出家を宣言して僧となった私度僧が続出しました。
「受戒」を義務化しようとしたのですが、それを執り行える僧が日本にいませんでした。
唐から僧を招いたところ、鑑真が渡来して戒律を伝えました。 | 743年に施行された墾田永年私財法に従い、寺院・豪族が大規模に形成した田地は何ですか。 | 743年に施行された墾田永年私財法に従い、寺院・豪族が大規模に形成した田地は初期荘園です。 |
JCRRAG_008703 | 歴史 | 住居と税負担
憶良の和歌①
山上憶良による「貧窮問答歌」(『万葉集』収録)は、役人が貧しい農民に生活を問い、農民が答える場面を詠みます。
脚色もありますが、奈良時代の農民の生活を知ることができます。
貧窮問答歌
原文
天地あめつちは広しといへど吾あが為は狭さ くやなりぬる[中略]Ⓐ伏廬ふせいほの曲廬まげいほの内うち に直土ひたつちに藁わら解き敷きて[中略]竈かまど には火気ほけ吹き立てず甑こしきには蜘蛛くもの巣かきて飯 いひ 炊かしくことも忘れて[中略]Ⓑ楚しもと取る里長さとをさ が声は寝やどまで来立ち呼ばひぬかくばかり術無きものか世間よのなか の道Ⓒ世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
現代語訳
天地は広いと言うが、私にとっては狭くなってしまったのか。[中略]Ⓐ低くつぶれ、曲がって傾いた家の中に、地べたにじかに藁を敷いて[中略]カマドには火の気がなく、飯炊き用の土器には蜘蛛の巣がはって、飯を炊くことも忘れたふうで[中略]Ⓑ鞭をもった里長の呼ぶ声が、家の中にまで聞こえてくる。世の中を生きていくことはなぜこれほど難しいのか。Ⓒ世の中を辛く痩 やせ せるように耐えがたく思うが、鳥ではないから飛んでいくこともできない。
貧窮問答歌が描写する生活
住居の変化
貧窮問答歌の下線部Ⓐのように、貧しい農民の住居、竪穴住居でした。
ただし、掘立柱住居という住居が、西日本から次第に普及していました。
寺院などは、礎石を用いた瓦葺かわらぶき建築
税負担からの逃避
貧窮問答歌の下線部Ⓑは里長によるの税の取り立てです。
税負担は重く、下線部Ⓒのように農民は「飛んで逃げたい」と思うほどでした。
実際に負担から逃げた農民もいました。
逃げた先の場所では、「浮浪」者と呼称
逃げられた場所では、「逃亡」者と呼称
浮浪・逃亡の違いは、呼ぶ側の視点
田地の借用と利息
農民は、口分田班給後の余剰地乗田を借りること(賃租)ができました。
ただし、利息として収穫の20%を納入しなくてはなりませんでした。
生活が貧しくても、容易には借りられませんでした。
口分田は租(広さ1段当たり稲2束2把で、収穫の3%に相当)を納入
「浮浪」「逃亡」者の行方
浮浪・逃亡している農民は、寺院・豪族のもとに仕えました。
寺院・豪族は、農民を養って田地開墾のために使役しました。
743年に施行された墾田永年私財法に従い、寺院・豪族は大規模な田地初期荘園を形成していきました。
初期荘園
租が掛かる輸租田という扱い
税負担を避ける別の方法
当初、日本では「受戒(僧になるための儀礼)」なしで僧になれました。
そして、僧になると税を免除されました。
読経もできず、勝手に出家を宣言して僧となった私度僧が続出しました。
「受戒」を義務化しようとしたのですが、それを執り行える僧が日本にいませんでした。
唐から僧を招いたところ、鑑真が渡来して戒律を伝えました。 | 日本では「受戒」なしで僧になれ、僧になると税を免除されたため、読経もできず勝手に出家を宣言して続出した僧は何ですか。 | 読経もできず勝手に出家を宣言して続出した僧は私度僧です。 |
JCRRAG_008704 | 歴史 | 住居と税負担
憶良の和歌①
山上憶良による「貧窮問答歌」(『万葉集』収録)は、役人が貧しい農民に生活を問い、農民が答える場面を詠みます。
脚色もありますが、奈良時代の農民の生活を知ることができます。
貧窮問答歌
原文
天地あめつちは広しといへど吾あが為は狭さ くやなりぬる[中略]Ⓐ伏廬ふせいほの曲廬まげいほの内うち に直土ひたつちに藁わら解き敷きて[中略]竈かまど には火気ほけ吹き立てず甑こしきには蜘蛛くもの巣かきて飯 いひ 炊かしくことも忘れて[中略]Ⓑ楚しもと取る里長さとをさ が声は寝やどまで来立ち呼ばひぬかくばかり術無きものか世間よのなか の道Ⓒ世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
現代語訳
天地は広いと言うが、私にとっては狭くなってしまったのか。[中略]Ⓐ低くつぶれ、曲がって傾いた家の中に、地べたにじかに藁を敷いて[中略]カマドには火の気がなく、飯炊き用の土器には蜘蛛の巣がはって、飯を炊くことも忘れたふうで[中略]Ⓑ鞭をもった里長の呼ぶ声が、家の中にまで聞こえてくる。世の中を生きていくことはなぜこれほど難しいのか。Ⓒ世の中を辛く痩 やせ せるように耐えがたく思うが、鳥ではないから飛んでいくこともできない。
貧窮問答歌が描写する生活
住居の変化
貧窮問答歌の下線部Ⓐのように、貧しい農民の住居、竪穴住居でした。
ただし、掘立柱住居という住居が、西日本から次第に普及していました。
寺院などは、礎石を用いた瓦葺かわらぶき建築
税負担からの逃避
貧窮問答歌の下線部Ⓑは里長によるの税の取り立てです。
税負担は重く、下線部Ⓒのように農民は「飛んで逃げたい」と思うほどでした。
実際に負担から逃げた農民もいました。
逃げた先の場所では、「浮浪」者と呼称
逃げられた場所では、「逃亡」者と呼称
浮浪・逃亡の違いは、呼ぶ側の視点
田地の借用と利息
農民は、口分田班給後の余剰地乗田を借りること(賃租)ができました。
ただし、利息として収穫の20%を納入しなくてはなりませんでした。
生活が貧しくても、容易には借りられませんでした。
口分田は租(広さ1段当たり稲2束2把で、収穫の3%に相当)を納入
「浮浪」「逃亡」者の行方
浮浪・逃亡している農民は、寺院・豪族のもとに仕えました。
寺院・豪族は、農民を養って田地開墾のために使役しました。
743年に施行された墾田永年私財法に従い、寺院・豪族は大規模な田地初期荘園を形成していきました。
初期荘園
租が掛かる輸租田という扱い
税負担を避ける別の方法
当初、日本では「受戒(僧になるための儀礼)」なしで僧になれました。
そして、僧になると税を免除されました。
読経もできず、勝手に出家を宣言して僧となった私度僧が続出しました。
「受戒」を義務化しようとしたのですが、それを執り行える僧が日本にいませんでした。
唐から僧を招いたところ、鑑真が渡来して戒律を伝えました。 | 唐から僧を招き渡来して戒律を伝えたのは誰ですか。 | 唐から僧を招き渡来して戒律を伝えたのは鑑真です。 |
JCRRAG_008705 | 歴史 | 歴史書と地誌
2つの歴史書
歴史書①
6世紀、「帝紀」(大王の系譜)・「旧辞」(朝廷の伝承)が編纂されたと考えられます。
天武天皇は、豪族のもつ「帝紀」「旧辞」の写本に誤りが多く、また、不必要な部分を削って一書にまとめるべきとし、訂正・集成に臨みました。
写本の過程での誤りに加え、「帝紀」「旧辞」は難解で誤読も多発
712年、『古事記』
元明天皇の命令で、稗田阿礼 が「帝紀」「旧辞」の内容を正しく誦習し、それを太安万侶が整理しながら漢字で筆録
物語的要素が強く、神話・伝承も含んだ、天皇家による国土統治の歴史書
誦習
難解な史料を読み解くこと
歴史書②
天武は中国に倣ならい、勅撰による国史を古事記とは別に編纂して、支配の正当性や権威を示そうとしました。
勅撰
天皇の命令で選び、編纂すること
720年、『日本書紀』
舎人とねり親王が中心となり、神代から持統天皇までの歴史を漢文編年体で記述
勅撰による国史は、10世紀の『日本三代実録』まで計6つ編まれ、六国史と総称されました。
編年体
出来事を年代順に記述する、中国の国史の記述法
日本三代実録
醍醐だいご天皇の御代である901年に完成
六国史
『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀 こうき 』『続日本後紀』『日本文徳もんとく天皇実録』『日本三代実録』
地誌
713年、諸国の国司に、国の地誌『風土記 』の編纂が命じられました。
国司は、国内の地名とその由来・動植物・伝承をまとめました。
まとめる際に、国・郡・里の名称は、縁起の良い2字に改名(例:泉→和泉いずみ)
現在、5カ国(常陸ひたち・出雲・播磨・豊後 ・肥前の『風土記』の写本が残っています。
この中で、欠損部分がない(完本である)のは、『出雲国風土記』です。 | 712年、元明天皇の命令で、稗田阿礼 が「帝紀」「旧辞」の内容を正しく誦習し、それを太安万侶が整理しながら漢字で筆録した歴史書は何ですか。 | 漢字で筆録した歴史書は古事記です。 |
JCRRAG_008706 | 歴史 | 歴史書と地誌
2つの歴史書
歴史書①
6世紀、「帝紀」(大王の系譜)・「旧辞」(朝廷の伝承)が編纂されたと考えられます。
天武天皇は、豪族のもつ「帝紀」「旧辞」の写本に誤りが多く、また、不必要な部分を削って一書にまとめるべきとし、訂正・集成に臨みました。
写本の過程での誤りに加え、「帝紀」「旧辞」は難解で誤読も多発
712年、『古事記』
元明天皇の命令で、稗田阿礼 が「帝紀」「旧辞」の内容を正しく誦習し、それを太安万侶が整理しながら漢字で筆録
物語的要素が強く、神話・伝承も含んだ、天皇家による国土統治の歴史書
誦習
難解な史料を読み解くこと
歴史書②
天武は中国に倣ならい、勅撰による国史を古事記とは別に編纂して、支配の正当性や権威を示そうとしました。
勅撰
天皇の命令で選び、編纂すること
720年、『日本書紀』
舎人とねり親王が中心となり、神代から持統天皇までの歴史を漢文編年体で記述
勅撰による国史は、10世紀の『日本三代実録』まで計6つ編まれ、六国史と総称されました。
編年体
出来事を年代順に記述する、中国の国史の記述法
日本三代実録
醍醐だいご天皇の御代である901年に完成
六国史
『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀 こうき 』『続日本後紀』『日本文徳もんとく天皇実録』『日本三代実録』
地誌
713年、諸国の国司に、国の地誌『風土記 』の編纂が命じられました。
国司は、国内の地名とその由来・動植物・伝承をまとめました。
まとめる際に、国・郡・里の名称は、縁起の良い2字に改名(例:泉→和泉いずみ)
現在、5カ国(常陸ひたち・出雲・播磨・豊後 ・肥前の『風土記』の写本が残っています。
この中で、欠損部分がない(完本である)のは、『出雲国風土記』です。 | 難解な史料を読み解くことは誦習と呼ばれています。 | 難解な史料を読み解くことは誦習と呼ばれています。 |
JCRRAG_008707 | 歴史 | 歴史書と地誌
2つの歴史書
歴史書①
6世紀、「帝紀」(大王の系譜)・「旧辞」(朝廷の伝承)が編纂されたと考えられます。
天武天皇は、豪族のもつ「帝紀」「旧辞」の写本に誤りが多く、また、不必要な部分を削って一書にまとめるべきとし、訂正・集成に臨みました。
写本の過程での誤りに加え、「帝紀」「旧辞」は難解で誤読も多発
712年、『古事記』
元明天皇の命令で、稗田阿礼 が「帝紀」「旧辞」の内容を正しく誦習し、それを太安万侶が整理しながら漢字で筆録
物語的要素が強く、神話・伝承も含んだ、天皇家による国土統治の歴史書
誦習
難解な史料を読み解くこと
歴史書②
天武は中国に倣ならい、勅撰による国史を古事記とは別に編纂して、支配の正当性や権威を示そうとしました。
勅撰
天皇の命令で選び、編纂すること
720年、『日本書紀』
舎人とねり親王が中心となり、神代から持統天皇までの歴史を漢文編年体で記述
勅撰による国史は、10世紀の『日本三代実録』まで計6つ編まれ、六国史と総称されました。
編年体
出来事を年代順に記述する、中国の国史の記述法
日本三代実録
醍醐だいご天皇の御代である901年に完成
六国史
『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀 こうき 』『続日本後紀』『日本文徳もんとく天皇実録』『日本三代実録』
地誌
713年、諸国の国司に、国の地誌『風土記 』の編纂が命じられました。
国司は、国内の地名とその由来・動植物・伝承をまとめました。
まとめる際に、国・郡・里の名称は、縁起の良い2字に改名(例:泉→和泉いずみ)
現在、5カ国(常陸ひたち・出雲・播磨・豊後 ・肥前の『風土記』の写本が残っています。
この中で、欠損部分がない(完本である)のは、『出雲国風土記』です。 | 720年、舎人親王が中心となり、神代から持統天皇までの歴史を漢文編年体で記述されている歴史書は何ですか。 | 720年、舎人親王が中心となり、神代から持統天皇までの歴史を漢文編年体で記述されている歴史書は日本書紀です。 |
JCRRAG_008708 | 歴史 | 歴史書と地誌
2つの歴史書
歴史書①
6世紀、「帝紀」(大王の系譜)・「旧辞」(朝廷の伝承)が編纂されたと考えられます。
天武天皇は、豪族のもつ「帝紀」「旧辞」の写本に誤りが多く、また、不必要な部分を削って一書にまとめるべきとし、訂正・集成に臨みました。
写本の過程での誤りに加え、「帝紀」「旧辞」は難解で誤読も多発
712年、『古事記』
元明天皇の命令で、稗田阿礼 が「帝紀」「旧辞」の内容を正しく誦習し、それを太安万侶が整理しながら漢字で筆録
物語的要素が強く、神話・伝承も含んだ、天皇家による国土統治の歴史書
誦習
難解な史料を読み解くこと
歴史書②
天武は中国に倣ならい、勅撰による国史を古事記とは別に編纂して、支配の正当性や権威を示そうとしました。
勅撰
天皇の命令で選び、編纂すること
720年、『日本書紀』
舎人とねり親王が中心となり、神代から持統天皇までの歴史を漢文編年体で記述
勅撰による国史は、10世紀の『日本三代実録』まで計6つ編まれ、六国史と総称されました。
編年体
出来事を年代順に記述する、中国の国史の記述法
日本三代実録
醍醐だいご天皇の御代である901年に完成
六国史
『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀 こうき 』『続日本後紀』『日本文徳もんとく天皇実録』『日本三代実録』
地誌
713年、諸国の国司に、国の地誌『風土記 』の編纂が命じられました。
国司は、国内の地名とその由来・動植物・伝承をまとめました。
まとめる際に、国・郡・里の名称は、縁起の良い2字に改名(例:泉→和泉いずみ)
現在、5カ国(常陸ひたち・出雲・播磨・豊後 ・肥前の『風土記』の写本が残っています。
この中で、欠損部分がない(完本である)のは、『出雲国風土記』です。 | 713年、諸国の国司に、編纂が命じらた国の地誌は何ですか。 | 713年、諸国の国司に、編纂が命じらた国の地誌は風土記です。 |
JCRRAG_008709 | 歴史 | 歴史書と地誌
2つの歴史書
歴史書①
6世紀、「帝紀」(大王の系譜)・「旧辞」(朝廷の伝承)が編纂されたと考えられます。
天武天皇は、豪族のもつ「帝紀」「旧辞」の写本に誤りが多く、また、不必要な部分を削って一書にまとめるべきとし、訂正・集成に臨みました。
写本の過程での誤りに加え、「帝紀」「旧辞」は難解で誤読も多発
712年、『古事記』
元明天皇の命令で、稗田阿礼 が「帝紀」「旧辞」の内容を正しく誦習し、それを太安万侶が整理しながら漢字で筆録
物語的要素が強く、神話・伝承も含んだ、天皇家による国土統治の歴史書
誦習
難解な史料を読み解くこと
歴史書②
天武は中国に倣ならい、勅撰による国史を古事記とは別に編纂して、支配の正当性や権威を示そうとしました。
勅撰
天皇の命令で選び、編纂すること
720年、『日本書紀』
舎人とねり親王が中心となり、神代から持統天皇までの歴史を漢文編年体で記述
勅撰による国史は、10世紀の『日本三代実録』まで計6つ編まれ、六国史と総称されました。
編年体
出来事を年代順に記述する、中国の国史の記述法
日本三代実録
醍醐だいご天皇の御代である901年に完成
六国史
『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀 こうき 』『続日本後紀』『日本文徳もんとく天皇実録』『日本三代実録』
地誌
713年、諸国の国司に、国の地誌『風土記 』の編纂が命じられました。
国司は、国内の地名とその由来・動植物・伝承をまとめました。
まとめる際に、国・郡・里の名称は、縁起の良い2字に改名(例:泉→和泉いずみ)
現在、5カ国(常陸ひたち・出雲・播磨・豊後 ・肥前の『風土記』の写本が残っています。
この中で、欠損部分がない(完本である)のは、『出雲国風土記』です。 | 風土記の中で、欠損部分がない(完本である)地誌は何ですか。 | 風土記の中で、欠損部分がない(完本である)地誌は出雲国風土記です。 |
JCRRAG_008710 | 歴史 | 文学と学問
漢詩
漢文でやりとりされる律令体制では、貴族・官吏に漢文の学習が求められました。
そのため、漢詩をたしなむことが貴族・官吏の間で流行しました。
漢詩文集
751年、『懐風藻』
7世紀後半の漢詩を収めた、勅撰ではない最古の漢詩文集
代表的な文人・編者候補
石上宅嗣
自宅に公開図書館芸亭を設置した人物
淡海三船
神武~光仁天皇までの漢風諡号を定めた人物か
天皇の名付け親!?―淡海三船
原則として、「推古」天皇や「天武」天皇など「」部分は、その天皇の死後に名付けられます。これを諡号(諡 )と言います。諡号は誰が考えたのでしょうか。諸天皇や武(雄略天皇)など大王の諡号を考えたのは、淡海三船とされています。 さて、諡号はその天皇の業績に関連します。例えば、「推古」は「古を推しはかる」の意味です。「冠位十二階」「憲法十七条」は後世の貴族に重視されたため、2つに関わった天皇ならではと言えます。このように、諡号から当時を知ることもできます。
和歌
漢詩に比べると、和歌は天皇から庶民にいたるまで広く詠まれました。
『万葉集』
8世紀半ばまでの和歌を収めた、勅撰ではない最古の和歌集
東国(三河以東)から集められた東歌あずまうた 、兵役で九州に向かう防人さきもりが詠んだ防人歌など、作者不明とされる下級官人・庶民の和歌も多く収録
教育制度
教育機関は律令に従って整えられ、次の2種類に大別できます。
大学
式部省の管轄下で、中央(都)に置かれた教育機関
一定以上の位階の者の子弟が優先して入学
国学
国司の管轄下で、地方(国)に置かれた教育機関
郡司の子弟が優先して入学
教科には、例えば次の3種類がありました。
明経道
五経や『論語』などの儒教の経典を学ぶ教科
明法道
律令などの法律を学ぶ教科
紀伝道
漢詩・歴史を学ぶ教科(9世紀に重視)
これらの教科の修了後には位階がもらえました。 | 751年、7世紀後半の漢詩を収めた勅撰ではない最古の漢詩文集は何ですか。 | 751年、7世紀後半の漢詩を収めた勅撰ではない最古の漢詩文集は懐風藻です。 |
JCRRAG_008711 | 歴史 | 文学と学問
漢詩
漢文でやりとりされる律令体制では、貴族・官吏に漢文の学習が求められました。
そのため、漢詩をたしなむことが貴族・官吏の間で流行しました。
漢詩文集
751年、『懐風藻』
7世紀後半の漢詩を収めた、勅撰ではない最古の漢詩文集
代表的な文人・編者候補
石上宅嗣
自宅に公開図書館芸亭を設置した人物
淡海三船
神武~光仁天皇までの漢風諡号を定めた人物か
天皇の名付け親!?―淡海三船
原則として、「推古」天皇や「天武」天皇など「」部分は、その天皇の死後に名付けられます。これを諡号(諡 )と言います。諡号は誰が考えたのでしょうか。諸天皇や武(雄略天皇)など大王の諡号を考えたのは、淡海三船とされています。 さて、諡号はその天皇の業績に関連します。例えば、「推古」は「古を推しはかる」の意味です。「冠位十二階」「憲法十七条」は後世の貴族に重視されたため、2つに関わった天皇ならではと言えます。このように、諡号から当時を知ることもできます。
和歌
漢詩に比べると、和歌は天皇から庶民にいたるまで広く詠まれました。
『万葉集』
8世紀半ばまでの和歌を収めた、勅撰ではない最古の和歌集
東国(三河以東)から集められた東歌あずまうた 、兵役で九州に向かう防人さきもりが詠んだ防人歌など、作者不明とされる下級官人・庶民の和歌も多く収録
教育制度
教育機関は律令に従って整えられ、次の2種類に大別できます。
大学
式部省の管轄下で、中央(都)に置かれた教育機関
一定以上の位階の者の子弟が優先して入学
国学
国司の管轄下で、地方(国)に置かれた教育機関
郡司の子弟が優先して入学
教科には、例えば次の3種類がありました。
明経道
五経や『論語』などの儒教の経典を学ぶ教科
明法道
律令などの法律を学ぶ教科
紀伝道
漢詩・歴史を学ぶ教科(9世紀に重視)
これらの教科の修了後には位階がもらえました。 | 自宅に公開図書館芸亭を設置した人物は誰ですか。 | 自宅に公開図書館芸亭を設置した人物は石上宅嗣です。 |
JCRRAG_008712 | 歴史 | 文学と学問
漢詩
漢文でやりとりされる律令体制では、貴族・官吏に漢文の学習が求められました。
そのため、漢詩をたしなむことが貴族・官吏の間で流行しました。
漢詩文集
751年、『懐風藻』
7世紀後半の漢詩を収めた、勅撰ではない最古の漢詩文集
代表的な文人・編者候補
石上宅嗣
自宅に公開図書館芸亭を設置した人物
淡海三船
神武~光仁天皇までの漢風諡号を定めた人物か
天皇の名付け親!?―淡海三船
原則として、「推古」天皇や「天武」天皇など「」部分は、その天皇の死後に名付けられます。これを諡号(諡 )と言います。諡号は誰が考えたのでしょうか。諸天皇や武(雄略天皇)など大王の諡号を考えたのは、淡海三船とされています。 さて、諡号はその天皇の業績に関連します。例えば、「推古」は「古を推しはかる」の意味です。「冠位十二階」「憲法十七条」は後世の貴族に重視されたため、2つに関わった天皇ならではと言えます。このように、諡号から当時を知ることもできます。
和歌
漢詩に比べると、和歌は天皇から庶民にいたるまで広く詠まれました。
『万葉集』
8世紀半ばまでの和歌を収めた、勅撰ではない最古の和歌集
東国(三河以東)から集められた東歌あずまうた 、兵役で九州に向かう防人さきもりが詠んだ防人歌など、作者不明とされる下級官人・庶民の和歌も多く収録
教育制度
教育機関は律令に従って整えられ、次の2種類に大別できます。
大学
式部省の管轄下で、中央(都)に置かれた教育機関
一定以上の位階の者の子弟が優先して入学
国学
国司の管轄下で、地方(国)に置かれた教育機関
郡司の子弟が優先して入学
教科には、例えば次の3種類がありました。
明経道
五経や『論語』などの儒教の経典を学ぶ教科
明法道
律令などの法律を学ぶ教科
紀伝道
漢詩・歴史を学ぶ教科(9世紀に重視)
これらの教科の修了後には位階がもらえました。 | 諸天皇や武(雄略天皇)など大王の諡号を考えたとされているのは、誰ですか。 | 大王の諡号を考えたとされているのは、淡海三船です。 |
JCRRAG_008713 | 歴史 | 文学と学問
漢詩
漢文でやりとりされる律令体制では、貴族・官吏に漢文の学習が求められました。
そのため、漢詩をたしなむことが貴族・官吏の間で流行しました。
漢詩文集
751年、『懐風藻』
7世紀後半の漢詩を収めた、勅撰ではない最古の漢詩文集
代表的な文人・編者候補
石上宅嗣
自宅に公開図書館芸亭を設置した人物
淡海三船
神武~光仁天皇までの漢風諡号を定めた人物か
天皇の名付け親!?―淡海三船
原則として、「推古」天皇や「天武」天皇など「」部分は、その天皇の死後に名付けられます。これを諡号(諡 )と言います。諡号は誰が考えたのでしょうか。諸天皇や武(雄略天皇)など大王の諡号を考えたのは、淡海三船とされています。 さて、諡号はその天皇の業績に関連します。例えば、「推古」は「古を推しはかる」の意味です。「冠位十二階」「憲法十七条」は後世の貴族に重視されたため、2つに関わった天皇ならではと言えます。このように、諡号から当時を知ることもできます。
和歌
漢詩に比べると、和歌は天皇から庶民にいたるまで広く詠まれました。
『万葉集』
8世紀半ばまでの和歌を収めた、勅撰ではない最古の和歌集
東国(三河以東)から集められた東歌あずまうた 、兵役で九州に向かう防人さきもりが詠んだ防人歌など、作者不明とされる下級官人・庶民の和歌も多く収録
教育制度
教育機関は律令に従って整えられ、次の2種類に大別できます。
大学
式部省の管轄下で、中央(都)に置かれた教育機関
一定以上の位階の者の子弟が優先して入学
国学
国司の管轄下で、地方(国)に置かれた教育機関
郡司の子弟が優先して入学
教科には、例えば次の3種類がありました。
明経道
五経や『論語』などの儒教の経典を学ぶ教科
明法道
律令などの法律を学ぶ教科
紀伝道
漢詩・歴史を学ぶ教科(9世紀に重視)
これらの教科の修了後には位階がもらえました。 | 8世紀半ばまでの和歌を収めた勅撰ではない最古の和歌集は何ですか。 | 8世紀半ばまでの和歌を収めた勅撰ではない最古の和歌集は万葉集です。 |
JCRRAG_008714 | 歴史 | 文学と学問
漢詩
漢文でやりとりされる律令体制では、貴族・官吏に漢文の学習が求められました。
そのため、漢詩をたしなむことが貴族・官吏の間で流行しました。
漢詩文集
751年、『懐風藻』
7世紀後半の漢詩を収めた、勅撰ではない最古の漢詩文集
代表的な文人・編者候補
石上宅嗣
自宅に公開図書館芸亭を設置した人物
淡海三船
神武~光仁天皇までの漢風諡号を定めた人物か
天皇の名付け親!?―淡海三船
原則として、「推古」天皇や「天武」天皇など「」部分は、その天皇の死後に名付けられます。これを諡号(諡 )と言います。諡号は誰が考えたのでしょうか。諸天皇や武(雄略天皇)など大王の諡号を考えたのは、淡海三船とされています。 さて、諡号はその天皇の業績に関連します。例えば、「推古」は「古を推しはかる」の意味です。「冠位十二階」「憲法十七条」は後世の貴族に重視されたため、2つに関わった天皇ならではと言えます。このように、諡号から当時を知ることもできます。
和歌
漢詩に比べると、和歌は天皇から庶民にいたるまで広く詠まれました。
『万葉集』
8世紀半ばまでの和歌を収めた、勅撰ではない最古の和歌集
東国(三河以東)から集められた東歌あずまうた 、兵役で九州に向かう防人さきもりが詠んだ防人歌など、作者不明とされる下級官人・庶民の和歌も多く収録
教育制度
教育機関は律令に従って整えられ、次の2種類に大別できます。
大学
式部省の管轄下で、中央(都)に置かれた教育機関
一定以上の位階の者の子弟が優先して入学
国学
国司の管轄下で、地方(国)に置かれた教育機関
郡司の子弟が優先して入学
教科には、例えば次の3種類がありました。
明経道
五経や『論語』などの儒教の経典を学ぶ教科
明法道
律令などの法律を学ぶ教科
紀伝道
漢詩・歴史を学ぶ教科(9世紀に重視)
これらの教科の修了後には位階がもらえました。 | 式部省の管轄下で、中央(都)に置かれた教育機関は何と呼ばれていますか。 | 式部省の管轄下で、中央(都)に置かれた教育機関は大学と呼ばれています。 |
JCRRAG_008715 | 歴史 | 奈良時代の仏教
人と神仏の関わり
人々は神仏の違いをはっきり理解しませんでしたが、とりあえず仏の方が優れていると考えました。特に奈良時代の「仏の力で国家を安定させること」を鎮護国家と呼びます。国家管理下で仏教(寺院建立・仏像造立)に力が注がれ、行基のような民間布教は弾圧されました。
人と仏
仏が個人に与える恵みは現世利益
仏が国家に与える恵みは鎮護国家
神仏習合―意図的な働きかけ
8世紀初頭から、仏教者は仏教を浸透させるために、神祇信仰の要素を仏教信仰に加えながら布教しました。
神祇信仰と仏教信仰の融合を神仏習合といいます。
当初この考えは、漠然として理屈も何もなく、平安時代に本地垂迹説として理論化
神社の近辺や境内に神宮寺が建てられるようになった。
仏教の6学派
仏教は釈迦の教えに従う宗教であるが、釈迦自身は教えを文字にしていません。
年月が経ち、弟子たちが釈迦の言葉を「経典」にまとめていきました。
まとめた内容に差異があり、経典は何百、何千種類にも分かれました。
僧は「この内容が釈迦の正しい教えだ」と思う経典を派閥ごとに研究しました。
奈良時代、南都六宗と総称される6つの学派が研究に力を注いだ。
南都六宗
三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗
律宗
戒律(僧の守る規範)を日本に伝えた鑑真が、後に開いた学派
国家管理下の仏教
仏教は国家の管理下に置かれ、僧の勝手な布教活動などは規制されていました。
行基は民衆のために社会事業(橋・道路・灌漑施設の整備)に努めました。
行基は民衆への仏教布教にも努め、民衆の支持を受けたので弾圧されました。
その後、聖武天皇は大仏造立に行基の力を利用しようと弾圧を止めました。
天平の美術
2つの技法
当時の仏像の作り方は、金銅像の他に次の2種類が主流でした。
乾漆像
原型の上に麻布を幾重にも漆で塗り固め、後で原型を抜き取る像
材料の漆が貴重で高価
高価な像で、本尊(寺の主要な像)はこの技法で作成
塑像
木を芯として粘土を塗り固めた像
材料が粘土のため、乾漆像と比べて安価
本尊の周囲に配置される仏像はこの技法で作成" | 奈良時代の「仏の力で国家を安定させること」は何と呼ばれていますか。 | 奈良時代の「仏の力で国家を安定させること」は鎮護国家と呼ばれています。 |
JCRRAG_008716 | 歴史 | 奈良時代の仏教
人と神仏の関わり
人々は神仏の違いをはっきり理解しませんでしたが、とりあえず仏の方が優れていると考えました。特に奈良時代の「仏の力で国家を安定させること」を鎮護国家と呼びます。国家管理下で仏教(寺院建立・仏像造立)に力が注がれ、行基のような民間布教は弾圧されました。
人と仏
仏が個人に与える恵みは現世利益
仏が国家に与える恵みは鎮護国家
神仏習合―意図的な働きかけ
8世紀初頭から、仏教者は仏教を浸透させるために、神祇信仰の要素を仏教信仰に加えながら布教しました。
神祇信仰と仏教信仰の融合を神仏習合といいます。
当初この考えは、漠然として理屈も何もなく、平安時代に本地垂迹説として理論化
神社の近辺や境内に神宮寺が建てられるようになった。
仏教の6学派
仏教は釈迦の教えに従う宗教であるが、釈迦自身は教えを文字にしていません。
年月が経ち、弟子たちが釈迦の言葉を「経典」にまとめていきました。
まとめた内容に差異があり、経典は何百、何千種類にも分かれました。
僧は「この内容が釈迦の正しい教えだ」と思う経典を派閥ごとに研究しました。
奈良時代、南都六宗と総称される6つの学派が研究に力を注いだ。
南都六宗
三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗
律宗
戒律(僧の守る規範)を日本に伝えた鑑真が、後に開いた学派
国家管理下の仏教
仏教は国家の管理下に置かれ、僧の勝手な布教活動などは規制されていました。
行基は民衆のために社会事業(橋・道路・灌漑施設の整備)に努めました。
行基は民衆への仏教布教にも努め、民衆の支持を受けたので弾圧されました。
その後、聖武天皇は大仏造立に行基の力を利用しようと弾圧を止めました。
天平の美術
2つの技法
当時の仏像の作り方は、金銅像の他に次の2種類が主流でした。
乾漆像
原型の上に麻布を幾重にも漆で塗り固め、後で原型を抜き取る像
材料の漆が貴重で高価
高価な像で、本尊(寺の主要な像)はこの技法で作成
塑像
木を芯として粘土を塗り固めた像
材料が粘土のため、乾漆像と比べて安価
本尊の周囲に配置される仏像はこの技法で作成" | 神祇信仰と仏教信仰の融合は何と呼ばれていますか。 | 神祇信仰と仏教信仰の融合は神仏習合と呼ばれています。 |
JCRRAG_008717 | 歴史 | 奈良時代の仏教
人と神仏の関わり
人々は神仏の違いをはっきり理解しませんでしたが、とりあえず仏の方が優れていると考えました。特に奈良時代の「仏の力で国家を安定させること」を鎮護国家と呼びます。国家管理下で仏教(寺院建立・仏像造立)に力が注がれ、行基のような民間布教は弾圧されました。
人と仏
仏が個人に与える恵みは現世利益
仏が国家に与える恵みは鎮護国家
神仏習合―意図的な働きかけ
8世紀初頭から、仏教者は仏教を浸透させるために、神祇信仰の要素を仏教信仰に加えながら布教しました。
神祇信仰と仏教信仰の融合を神仏習合といいます。
当初この考えは、漠然として理屈も何もなく、平安時代に本地垂迹説として理論化
神社の近辺や境内に神宮寺が建てられるようになった。
仏教の6学派
仏教は釈迦の教えに従う宗教であるが、釈迦自身は教えを文字にしていません。
年月が経ち、弟子たちが釈迦の言葉を「経典」にまとめていきました。
まとめた内容に差異があり、経典は何百、何千種類にも分かれました。
僧は「この内容が釈迦の正しい教えだ」と思う経典を派閥ごとに研究しました。
奈良時代、南都六宗と総称される6つの学派が研究に力を注いだ。
南都六宗
三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗
律宗
戒律(僧の守る規範)を日本に伝えた鑑真が、後に開いた学派
国家管理下の仏教
仏教は国家の管理下に置かれ、僧の勝手な布教活動などは規制されていました。
行基は民衆のために社会事業(橋・道路・灌漑施設の整備)に努めました。
行基は民衆への仏教布教にも努め、民衆の支持を受けたので弾圧されました。
その後、聖武天皇は大仏造立に行基の力を利用しようと弾圧を止めました。
天平の美術
2つの技法
当時の仏像の作り方は、金銅像の他に次の2種類が主流でした。
乾漆像
原型の上に麻布を幾重にも漆で塗り固め、後で原型を抜き取る像
材料の漆が貴重で高価
高価な像で、本尊(寺の主要な像)はこの技法で作成
塑像
木を芯として粘土を塗り固めた像
材料が粘土のため、乾漆像と比べて安価
本尊の周囲に配置される仏像はこの技法で作成" | 奈良時代に6つの学派が研究に力を注いだことは何と総称されています。 | 奈良時代に6つの学派が研究に力を注いだことは南都六宗と総称されています。 |
JCRRAG_008718 | 歴史 | 奈良時代の仏教
人と神仏の関わり
人々は神仏の違いをはっきり理解しませんでしたが、とりあえず仏の方が優れていると考えました。特に奈良時代の「仏の力で国家を安定させること」を鎮護国家と呼びます。国家管理下で仏教(寺院建立・仏像造立)に力が注がれ、行基のような民間布教は弾圧されました。
人と仏
仏が個人に与える恵みは現世利益
仏が国家に与える恵みは鎮護国家
神仏習合―意図的な働きかけ
8世紀初頭から、仏教者は仏教を浸透させるために、神祇信仰の要素を仏教信仰に加えながら布教しました。
神祇信仰と仏教信仰の融合を神仏習合といいます。
当初この考えは、漠然として理屈も何もなく、平安時代に本地垂迹説として理論化
神社の近辺や境内に神宮寺が建てられるようになった。
仏教の6学派
仏教は釈迦の教えに従う宗教であるが、釈迦自身は教えを文字にしていません。
年月が経ち、弟子たちが釈迦の言葉を「経典」にまとめていきました。
まとめた内容に差異があり、経典は何百、何千種類にも分かれました。
僧は「この内容が釈迦の正しい教えだ」と思う経典を派閥ごとに研究しました。
奈良時代、南都六宗と総称される6つの学派が研究に力を注いだ。
南都六宗
三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗
律宗
戒律(僧の守る規範)を日本に伝えた鑑真が、後に開いた学派
国家管理下の仏教
仏教は国家の管理下に置かれ、僧の勝手な布教活動などは規制されていました。
行基は民衆のために社会事業(橋・道路・灌漑施設の整備)に努めました。
行基は民衆への仏教布教にも努め、民衆の支持を受けたので弾圧されました。
その後、聖武天皇は大仏造立に行基の力を利用しようと弾圧を止めました。
天平の美術
2つの技法
当時の仏像の作り方は、金銅像の他に次の2種類が主流でした。
乾漆像
原型の上に麻布を幾重にも漆で塗り固め、後で原型を抜き取る像
材料の漆が貴重で高価
高価な像で、本尊(寺の主要な像)はこの技法で作成
塑像
木を芯として粘土を塗り固めた像
材料が粘土のため、乾漆像と比べて安価
本尊の周囲に配置される仏像はこの技法で作成" | 戒律(僧の守る規範)を日本に伝えた鑑真が後に開いた学派は、何と呼ばれていますか。 | 戒律(僧の守る規範)を日本に伝えた鑑真が後に開いた学派は、律宗と呼ばれています。 |
JCRRAG_008719 | 歴史 | 奈良時代の仏教
人と神仏の関わり
人々は神仏の違いをはっきり理解しませんでしたが、とりあえず仏の方が優れていると考えました。特に奈良時代の「仏の力で国家を安定させること」を鎮護国家と呼びます。国家管理下で仏教(寺院建立・仏像造立)に力が注がれ、行基のような民間布教は弾圧されました。
人と仏
仏が個人に与える恵みは現世利益
仏が国家に与える恵みは鎮護国家
神仏習合―意図的な働きかけ
8世紀初頭から、仏教者は仏教を浸透させるために、神祇信仰の要素を仏教信仰に加えながら布教しました。
神祇信仰と仏教信仰の融合を神仏習合といいます。
当初この考えは、漠然として理屈も何もなく、平安時代に本地垂迹説として理論化
神社の近辺や境内に神宮寺が建てられるようになった。
仏教の6学派
仏教は釈迦の教えに従う宗教であるが、釈迦自身は教えを文字にしていません。
年月が経ち、弟子たちが釈迦の言葉を「経典」にまとめていきました。
まとめた内容に差異があり、経典は何百、何千種類にも分かれました。
僧は「この内容が釈迦の正しい教えだ」と思う経典を派閥ごとに研究しました。
奈良時代、南都六宗と総称される6つの学派が研究に力を注いだ。
南都六宗
三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗
律宗
戒律(僧の守る規範)を日本に伝えた鑑真が、後に開いた学派
国家管理下の仏教
仏教は国家の管理下に置かれ、僧の勝手な布教活動などは規制されていました。
行基は民衆のために社会事業(橋・道路・灌漑施設の整備)に努めました。
行基は民衆への仏教布教にも努め、民衆の支持を受けたので弾圧されました。
その後、聖武天皇は大仏造立に行基の力を利用しようと弾圧を止めました。
天平の美術
2つの技法
当時の仏像の作り方は、金銅像の他に次の2種類が主流でした。
乾漆像
原型の上に麻布を幾重にも漆で塗り固め、後で原型を抜き取る像
材料の漆が貴重で高価
高価な像で、本尊(寺の主要な像)はこの技法で作成
塑像
木を芯として粘土を塗り固めた像
材料が粘土のため、乾漆像と比べて安価
本尊の周囲に配置される仏像はこの技法で作成" | 原型の上に麻布を幾重にも漆で塗り固め、後で原型を抜き取る像は何ですか。 | 原型の上に麻布を幾重にも漆で塗り固め、後で原型を抜き取る像は乾漆像です。 |
JCRRAG_008720 | 歴史 | 天平の美術
建築物
東大寺正倉院宝庫
校倉造
断面が三角形の木材を井桁に組合せ、壁面を構築した建築様式
8世紀の倉庫ではごく普通の建築様式
一棟残った正倉―正倉院宝庫
「正倉院=正倉院宝庫」と扱う記述が散見されます。しかしながら、正倉院とは本来正倉(古代の倉)の建つ一画を指し、今日残った東大寺の正倉一棟を厳密には「正倉院宝庫」と呼びます。8世紀の日本には、全国いたるところに正倉が建ち、また、正倉院がありました。それらはやがて滅び、今日では東大寺のそれだけになったというわけです。「正倉院」はあくまでも普通名詞であり、固有名詞「正倉院宝庫」とは異なります。
唐招提寺金堂
唐招提寺
鑑真が創建した寺院
工芸(正倉院宝庫所蔵)
正倉院宝庫には、聖武天皇の愛用品や庶民の日用品、シルクロードで伝わったササン朝ペルシア・インドなど西方の品々が収められています。
西方文化の香りに満ちることから、正倉院宝庫は「シルクロードの終着駅」とも表現できます。
その他工芸
百万塔
藤原仲麻呂の乱後、称徳天皇が戦死した兵の弔いと鎮護国家の祈念に、小塔100万個とそれらの中に収める陀羅尼(サンスクリット語の文書)を作成
陀羅尼は木版か銅版か不定だが、現存最古の印刷物
絵画
薬師寺
吉祥天像
正倉院宝庫
鳥毛立女屛風
樹下美人図
鳥毛立女屛風と相似する絵画です。樹下に美人を配する構図の源流はインドに求められます。トルファン(中国)で出土した下図も鳥毛立女屛風と同様の構図です。
その他
社会事業
仏教には、善行を積むと悟りを得るという思想がありました。
この思想に基づき、社会事業に取り組む人々がいました。
行基の他に、次の2人の人物と事業が有名です。
光明子が孤児・貧民を収容する施設悲田院や、怪我・病気を治療する施設施薬院を設置
和気広虫(和気清麻呂の姉)が孤児の養育に尽力しました。 | 断面が三角形の木材を井桁に組合せ、壁面を構築した建築様式は何と言いますか。 | 壁面を構築した建築様式は校倉造と言います。 |
JCRRAG_008721 | 歴史 | 天平の美術
建築物
東大寺正倉院宝庫
校倉造
断面が三角形の木材を井桁に組合せ、壁面を構築した建築様式
8世紀の倉庫ではごく普通の建築様式
一棟残った正倉―正倉院宝庫
「正倉院=正倉院宝庫」と扱う記述が散見されます。しかしながら、正倉院とは本来正倉(古代の倉)の建つ一画を指し、今日残った東大寺の正倉一棟を厳密には「正倉院宝庫」と呼びます。8世紀の日本には、全国いたるところに正倉が建ち、また、正倉院がありました。それらはやがて滅び、今日では東大寺のそれだけになったというわけです。「正倉院」はあくまでも普通名詞であり、固有名詞「正倉院宝庫」とは異なります。
唐招提寺金堂
唐招提寺
鑑真が創建した寺院
工芸(正倉院宝庫所蔵)
正倉院宝庫には、聖武天皇の愛用品や庶民の日用品、シルクロードで伝わったササン朝ペルシア・インドなど西方の品々が収められています。
西方文化の香りに満ちることから、正倉院宝庫は「シルクロードの終着駅」とも表現できます。
その他工芸
百万塔
藤原仲麻呂の乱後、称徳天皇が戦死した兵の弔いと鎮護国家の祈念に、小塔100万個とそれらの中に収める陀羅尼(サンスクリット語の文書)を作成
陀羅尼は木版か銅版か不定だが、現存最古の印刷物
絵画
薬師寺
吉祥天像
正倉院宝庫
鳥毛立女屛風
樹下美人図
鳥毛立女屛風と相似する絵画です。樹下に美人を配する構図の源流はインドに求められます。トルファン(中国)で出土した下図も鳥毛立女屛風と同様の構図です。
その他
社会事業
仏教には、善行を積むと悟りを得るという思想がありました。
この思想に基づき、社会事業に取り組む人々がいました。
行基の他に、次の2人の人物と事業が有名です。
光明子が孤児・貧民を収容する施設悲田院や、怪我・病気を治療する施設施薬院を設置
和気広虫(和気清麻呂の姉)が孤児の養育に尽力しました。 | 鑑真が創建した寺院は何ですか。 | 鑑真が創建した寺院は唐招提寺です。 |
JCRRAG_008722 | 歴史 | 天平の美術
建築物
東大寺正倉院宝庫
校倉造
断面が三角形の木材を井桁に組合せ、壁面を構築した建築様式
8世紀の倉庫ではごく普通の建築様式
一棟残った正倉―正倉院宝庫
「正倉院=正倉院宝庫」と扱う記述が散見されます。しかしながら、正倉院とは本来正倉(古代の倉)の建つ一画を指し、今日残った東大寺の正倉一棟を厳密には「正倉院宝庫」と呼びます。8世紀の日本には、全国いたるところに正倉が建ち、また、正倉院がありました。それらはやがて滅び、今日では東大寺のそれだけになったというわけです。「正倉院」はあくまでも普通名詞であり、固有名詞「正倉院宝庫」とは異なります。
唐招提寺金堂
唐招提寺
鑑真が創建した寺院
工芸(正倉院宝庫所蔵)
正倉院宝庫には、聖武天皇の愛用品や庶民の日用品、シルクロードで伝わったササン朝ペルシア・インドなど西方の品々が収められています。
西方文化の香りに満ちることから、正倉院宝庫は「シルクロードの終着駅」とも表現できます。
その他工芸
百万塔
藤原仲麻呂の乱後、称徳天皇が戦死した兵の弔いと鎮護国家の祈念に、小塔100万個とそれらの中に収める陀羅尼(サンスクリット語の文書)を作成
陀羅尼は木版か銅版か不定だが、現存最古の印刷物
絵画
薬師寺
吉祥天像
正倉院宝庫
鳥毛立女屛風
樹下美人図
鳥毛立女屛風と相似する絵画です。樹下に美人を配する構図の源流はインドに求められます。トルファン(中国)で出土した下図も鳥毛立女屛風と同様の構図です。
その他
社会事業
仏教には、善行を積むと悟りを得るという思想がありました。
この思想に基づき、社会事業に取り組む人々がいました。
行基の他に、次の2人の人物と事業が有名です。
光明子が孤児・貧民を収容する施設悲田院や、怪我・病気を治療する施設施薬院を設置
和気広虫(和気清麻呂の姉)が孤児の養育に尽力しました。 | 称徳天皇が戦死した兵の弔いと鎮護国家の祈念に、小塔100万個とそれらの中に収める陀羅尼は何と言いますか。 | 小塔100万個とそれらの中に収める陀羅尼は百万塔と言います。 |
JCRRAG_008723 | 歴史 | 天平の美術
建築物
東大寺正倉院宝庫
校倉造
断面が三角形の木材を井桁に組合せ、壁面を構築した建築様式
8世紀の倉庫ではごく普通の建築様式
一棟残った正倉―正倉院宝庫
「正倉院=正倉院宝庫」と扱う記述が散見されます。しかしながら、正倉院とは本来正倉(古代の倉)の建つ一画を指し、今日残った東大寺の正倉一棟を厳密には「正倉院宝庫」と呼びます。8世紀の日本には、全国いたるところに正倉が建ち、また、正倉院がありました。それらはやがて滅び、今日では東大寺のそれだけになったというわけです。「正倉院」はあくまでも普通名詞であり、固有名詞「正倉院宝庫」とは異なります。
唐招提寺金堂
唐招提寺
鑑真が創建した寺院
工芸(正倉院宝庫所蔵)
正倉院宝庫には、聖武天皇の愛用品や庶民の日用品、シルクロードで伝わったササン朝ペルシア・インドなど西方の品々が収められています。
西方文化の香りに満ちることから、正倉院宝庫は「シルクロードの終着駅」とも表現できます。
その他工芸
百万塔
藤原仲麻呂の乱後、称徳天皇が戦死した兵の弔いと鎮護国家の祈念に、小塔100万個とそれらの中に収める陀羅尼(サンスクリット語の文書)を作成
陀羅尼は木版か銅版か不定だが、現存最古の印刷物
絵画
薬師寺
吉祥天像
正倉院宝庫
鳥毛立女屛風
樹下美人図
鳥毛立女屛風と相似する絵画です。樹下に美人を配する構図の源流はインドに求められます。トルファン(中国)で出土した下図も鳥毛立女屛風と同様の構図です。
その他
社会事業
仏教には、善行を積むと悟りを得るという思想がありました。
この思想に基づき、社会事業に取り組む人々がいました。
行基の他に、次の2人の人物と事業が有名です。
光明子が孤児・貧民を収容する施設悲田院や、怪我・病気を治療する施設施薬院を設置
和気広虫(和気清麻呂の姉)が孤児の養育に尽力しました。 | 光明子が設置した孤児・貧民を収容するは何ですか。 | 光明子が設置した孤児・貧民を収容する施設は悲田院です。 |
JCRRAG_008724 | 歴史 | 天平の美術
建築物
東大寺正倉院宝庫
校倉造
断面が三角形の木材を井桁に組合せ、壁面を構築した建築様式
8世紀の倉庫ではごく普通の建築様式
一棟残った正倉―正倉院宝庫
「正倉院=正倉院宝庫」と扱う記述が散見されます。しかしながら、正倉院とは本来正倉(古代の倉)の建つ一画を指し、今日残った東大寺の正倉一棟を厳密には「正倉院宝庫」と呼びます。8世紀の日本には、全国いたるところに正倉が建ち、また、正倉院がありました。それらはやがて滅び、今日では東大寺のそれだけになったというわけです。「正倉院」はあくまでも普通名詞であり、固有名詞「正倉院宝庫」とは異なります。
唐招提寺金堂
唐招提寺
鑑真が創建した寺院
工芸(正倉院宝庫所蔵)
正倉院宝庫には、聖武天皇の愛用品や庶民の日用品、シルクロードで伝わったササン朝ペルシア・インドなど西方の品々が収められています。
西方文化の香りに満ちることから、正倉院宝庫は「シルクロードの終着駅」とも表現できます。
その他工芸
百万塔
藤原仲麻呂の乱後、称徳天皇が戦死した兵の弔いと鎮護国家の祈念に、小塔100万個とそれらの中に収める陀羅尼(サンスクリット語の文書)を作成
陀羅尼は木版か銅版か不定だが、現存最古の印刷物
絵画
薬師寺
吉祥天像
正倉院宝庫
鳥毛立女屛風
樹下美人図
鳥毛立女屛風と相似する絵画です。樹下に美人を配する構図の源流はインドに求められます。トルファン(中国)で出土した下図も鳥毛立女屛風と同様の構図です。
その他
社会事業
仏教には、善行を積むと悟りを得るという思想がありました。
この思想に基づき、社会事業に取り組む人々がいました。
行基の他に、次の2人の人物と事業が有名です。
光明子が孤児・貧民を収容する施設悲田院や、怪我・病気を治療する施設施薬院を設置
和気広虫(和気清麻呂の姉)が孤児の養育に尽力しました。 | 光明子が設置した怪我・病気を治療する施設は何ですか。 | 光明子が設置した怪我・病気を治療する施設は施薬院です。 |
JCRRAG_008725 | 歴史 | 軍事と造作
遷都の決意
天智系の光仁天皇に次いで、子の桓武天皇が即位しました。
桓武は次の3点が平城京の問題であると考えました。
平城京は天武系の都
平城京の仏教勢力の台頭と弊害(道鏡の政治介入など)
水上交通に不便な立地(大きな河川がない)
大和国を離れて、山背国へ遷都することを決めました。
2度の遷都
784年、長岡京へ遷都
造営を主導した式家の藤原種継が暗殺されました。
早良親王が罪を疑われ、非業の死を遂げました。
親王の祟たたりか、疫病や飢饉が相次いだので、長岡京は放棄されました。
794年、平安京へ遷都
以降、鎌倉幕府が開かれるまでを平安時代と呼びます。
和気清麻呂の意見で遷都し、遷都後に山背国を山城国に改名
遷都後も京は未完成で、残りの造営が段階的に進行
軍団の廃止―労働力確保
東北・九州を除き、諸国の軍団は次の3つの問題から廃止されました。
国司が自分たちの田地開墾のために私的に使役
重い負担のため、兵の質の低下が顕著
2大事業で農民の労働力が必要
軍団に代わり、郡司の子弟や有力農民を健児に選出しました。
健児
諸国に設置された少数精鋭の軍事組織
桓武の2大事業
桓武天皇は、諸国の農民を動員して次の2大事業に取り組みました。
軍事
蝦夷の平定事業
造作
平安京の造営事業
特に、東北地方の蝦夷平定は早急な課題でした。
780年(光仁天皇の御代)、伊治呰麻呂が多賀城を焼討ちしました。 | 天智系の光仁天皇に次いで即位したのは誰ですか。 | 天智系の光仁天皇に次いで、即位したのは桓武天皇です。 |
JCRRAG_008726 | 歴史 | 軍事と造作
遷都の決意
天智系の光仁天皇に次いで、子の桓武天皇が即位しました。
桓武は次の3点が平城京の問題であると考えました。
平城京は天武系の都
平城京の仏教勢力の台頭と弊害(道鏡の政治介入など)
水上交通に不便な立地(大きな河川がない)
大和国を離れて、山背国へ遷都することを決めました。
2度の遷都
784年、長岡京へ遷都
造営を主導した式家の藤原種継が暗殺されました。
早良親王が罪を疑われ、非業の死を遂げました。
親王の祟たたりか、疫病や飢饉が相次いだので、長岡京は放棄されました。
794年、平安京へ遷都
以降、鎌倉幕府が開かれるまでを平安時代と呼びます。
和気清麻呂の意見で遷都し、遷都後に山背国を山城国に改名
遷都後も京は未完成で、残りの造営が段階的に進行
軍団の廃止―労働力確保
東北・九州を除き、諸国の軍団は次の3つの問題から廃止されました。
国司が自分たちの田地開墾のために私的に使役
重い負担のため、兵の質の低下が顕著
2大事業で農民の労働力が必要
軍団に代わり、郡司の子弟や有力農民を健児に選出しました。
健児
諸国に設置された少数精鋭の軍事組織
桓武の2大事業
桓武天皇は、諸国の農民を動員して次の2大事業に取り組みました。
軍事
蝦夷の平定事業
造作
平安京の造営事業
特に、東北地方の蝦夷平定は早急な課題でした。
780年(光仁天皇の御代)、伊治呰麻呂が多賀城を焼討ちしました。 | 784年、遷都したのはどこですか。 | 784年、遷都したのは長岡京です。 |
JCRRAG_008727 | 歴史 | 軍事と造作
遷都の決意
天智系の光仁天皇に次いで、子の桓武天皇が即位しました。
桓武は次の3点が平城京の問題であると考えました。
平城京は天武系の都
平城京の仏教勢力の台頭と弊害(道鏡の政治介入など)
水上交通に不便な立地(大きな河川がない)
大和国を離れて、山背国へ遷都することを決めました。
2度の遷都
784年、長岡京へ遷都
造営を主導した式家の藤原種継が暗殺されました。
早良親王が罪を疑われ、非業の死を遂げました。
親王の祟たたりか、疫病や飢饉が相次いだので、長岡京は放棄されました。
794年、平安京へ遷都
以降、鎌倉幕府が開かれるまでを平安時代と呼びます。
和気清麻呂の意見で遷都し、遷都後に山背国を山城国に改名
遷都後も京は未完成で、残りの造営が段階的に進行
軍団の廃止―労働力確保
東北・九州を除き、諸国の軍団は次の3つの問題から廃止されました。
国司が自分たちの田地開墾のために私的に使役
重い負担のため、兵の質の低下が顕著
2大事業で農民の労働力が必要
軍団に代わり、郡司の子弟や有力農民を健児に選出しました。
健児
諸国に設置された少数精鋭の軍事組織
桓武の2大事業
桓武天皇は、諸国の農民を動員して次の2大事業に取り組みました。
軍事
蝦夷の平定事業
造作
平安京の造営事業
特に、東北地方の蝦夷平定は早急な課題でした。
780年(光仁天皇の御代)、伊治呰麻呂が多賀城を焼討ちしました。 | 造営を主導した式家で暗殺されたのは誰ですか。 | 造営を主導した式家で暗殺されたのは藤原種継です。 |
JCRRAG_008728 | 歴史 | 軍事と造作
遷都の決意
天智系の光仁天皇に次いで、子の桓武天皇が即位しました。
桓武は次の3点が平城京の問題であると考えました。
平城京は天武系の都
平城京の仏教勢力の台頭と弊害(道鏡の政治介入など)
水上交通に不便な立地(大きな河川がない)
大和国を離れて、山背国へ遷都することを決めました。
2度の遷都
784年、長岡京へ遷都
造営を主導した式家の藤原種継が暗殺されました。
早良親王が罪を疑われ、非業の死を遂げました。
親王の祟たたりか、疫病や飢饉が相次いだので、長岡京は放棄されました。
794年、平安京へ遷都
以降、鎌倉幕府が開かれるまでを平安時代と呼びます。
和気清麻呂の意見で遷都し、遷都後に山背国を山城国に改名
遷都後も京は未完成で、残りの造営が段階的に進行
軍団の廃止―労働力確保
東北・九州を除き、諸国の軍団は次の3つの問題から廃止されました。
国司が自分たちの田地開墾のために私的に使役
重い負担のため、兵の質の低下が顕著
2大事業で農民の労働力が必要
軍団に代わり、郡司の子弟や有力農民を健児に選出しました。
健児
諸国に設置された少数精鋭の軍事組織
桓武の2大事業
桓武天皇は、諸国の農民を動員して次の2大事業に取り組みました。
軍事
蝦夷の平定事業
造作
平安京の造営事業
特に、東北地方の蝦夷平定は早急な課題でした。
780年(光仁天皇の御代)、伊治呰麻呂が多賀城を焼討ちしました。 | 794年、遷都したのはどこですか。 | 794年、遷都したのは平安京です。 |
JCRRAG_008729 | 歴史 | 軍事と造作
遷都の決意
天智系の光仁天皇に次いで、子の桓武天皇が即位しました。
桓武は次の3点が平城京の問題であると考えました。
平城京は天武系の都
平城京の仏教勢力の台頭と弊害(道鏡の政治介入など)
水上交通に不便な立地(大きな河川がない)
大和国を離れて、山背国へ遷都することを決めました。
2度の遷都
784年、長岡京へ遷都
造営を主導した式家の藤原種継が暗殺されました。
早良親王が罪を疑われ、非業の死を遂げました。
親王の祟たたりか、疫病や飢饉が相次いだので、長岡京は放棄されました。
794年、平安京へ遷都
以降、鎌倉幕府が開かれるまでを平安時代と呼びます。
和気清麻呂の意見で遷都し、遷都後に山背国を山城国に改名
遷都後も京は未完成で、残りの造営が段階的に進行
軍団の廃止―労働力確保
東北・九州を除き、諸国の軍団は次の3つの問題から廃止されました。
国司が自分たちの田地開墾のために私的に使役
重い負担のため、兵の質の低下が顕著
2大事業で農民の労働力が必要
軍団に代わり、郡司の子弟や有力農民を健児に選出しました。
健児
諸国に設置された少数精鋭の軍事組織
桓武の2大事業
桓武天皇は、諸国の農民を動員して次の2大事業に取り組みました。
軍事
蝦夷の平定事業
造作
平安京の造営事業
特に、東北地方の蝦夷平定は早急な課題でした。
780年(光仁天皇の御代)、伊治呰麻呂が多賀城を焼討ちしました。 | 平安京へ遷都し鎌倉幕府が開かれるまでの時代は何時代ですか。 | 平安京へ遷都し鎌倉幕府が開かれるまでの時代は平安時代と呼ばれています。 |
JCRRAG_008730 | 歴史 | イスラーム世界の成立
アラビア半島と中継貿易
6世紀後半、東西を結ぶオアシスの道は、ササン朝とビザンツ帝国の争いで途絶えました。
また、紅海を通る貿易も同じ理由で途絶えました。
そのため、東西を行き来する各種商品は、アラビア半島を経由するようになりました。
都市メッカの商人が中継貿易を担って利益をあげました。
イスラームの成立
610年頃、商人出身の ムハンマドは、唯一神アッラーの言葉を預かり、預言者であると自覚しました。
以前から信仰されている多神教にかわり、一神教のイスラームを唱えました。
イスラームは富の独占を批判したため、メッカの商人から迫害を受けました。
622年、ムハンマドは信者を率いて都市メディナに移住するヒジュラ(聖遷)をおこないました。
メディナには、イスラーム教徒(ムスリム)の共同体ウンマが形作られました。
なお、イスラーム暦では、ヒジュラがおこなわれた年をイスラーム暦元年としています。
630年、ムハンマドはメッカを征服し、多神教の神殿であったカーバ神殿をイスラームの聖殿に定めました。
以降、アラビア半島のアラブ人にイスラームが広がっていき、諸部族の統一が実現されました。
カーバ神殿
メッカ にあるイスラームの聖殿
イスラームでは偶像崇拝を禁止するため、聖殿に定める際に神殿の像を全て破壊
アラブ人
ここでは「アラビア半島を原住地とする人々」の意 | 610年頃、唯一神アッラーの言葉を預かり預言者であると自覚したのは誰ですか。 | 610年頃、唯一神アッラーの言葉を預かり預言者であると自覚したのはムハンマドです。 |
JCRRAG_008731 | 歴史 | イスラーム世界の成立
アラビア半島と中継貿易
6世紀後半、東西を結ぶオアシスの道は、ササン朝とビザンツ帝国の争いで途絶えました。
また、紅海を通る貿易も同じ理由で途絶えました。
そのため、東西を行き来する各種商品は、アラビア半島を経由するようになりました。
都市メッカの商人が中継貿易を担って利益をあげました。
イスラームの成立
610年頃、商人出身の ムハンマドは、唯一神アッラーの言葉を預かり、預言者であると自覚しました。
以前から信仰されている多神教にかわり、一神教のイスラームを唱えました。
イスラームは富の独占を批判したため、メッカの商人から迫害を受けました。
622年、ムハンマドは信者を率いて都市メディナに移住するヒジュラ(聖遷)をおこないました。
メディナには、イスラーム教徒(ムスリム)の共同体ウンマが形作られました。
なお、イスラーム暦では、ヒジュラがおこなわれた年をイスラーム暦元年としています。
630年、ムハンマドはメッカを征服し、多神教の神殿であったカーバ神殿をイスラームの聖殿に定めました。
以降、アラビア半島のアラブ人にイスラームが広がっていき、諸部族の統一が実現されました。
カーバ神殿
メッカ にあるイスラームの聖殿
イスラームでは偶像崇拝を禁止するため、聖殿に定める際に神殿の像を全て破壊
アラブ人
ここでは「アラビア半島を原住地とする人々」の意 | 以前から信仰されている多神教にかわり、唱えたのは一神教の何ですか。 | 唱えたのは一神教のイスラームです。 |
JCRRAG_008732 | 歴史 | イスラーム世界の成立
アラビア半島と中継貿易
6世紀後半、東西を結ぶオアシスの道は、ササン朝とビザンツ帝国の争いで途絶えました。
また、紅海を通る貿易も同じ理由で途絶えました。
そのため、東西を行き来する各種商品は、アラビア半島を経由するようになりました。
都市メッカの商人が中継貿易を担って利益をあげました。
イスラームの成立
610年頃、商人出身の ムハンマドは、唯一神アッラーの言葉を預かり、預言者であると自覚しました。
以前から信仰されている多神教にかわり、一神教のイスラームを唱えました。
イスラームは富の独占を批判したため、メッカの商人から迫害を受けました。
622年、ムハンマドは信者を率いて都市メディナに移住するヒジュラ(聖遷)をおこないました。
メディナには、イスラーム教徒(ムスリム)の共同体ウンマが形作られました。
なお、イスラーム暦では、ヒジュラがおこなわれた年をイスラーム暦元年としています。
630年、ムハンマドはメッカを征服し、多神教の神殿であったカーバ神殿をイスラームの聖殿に定めました。
以降、アラビア半島のアラブ人にイスラームが広がっていき、諸部族の統一が実現されました。
カーバ神殿
メッカ にあるイスラームの聖殿
イスラームでは偶像崇拝を禁止するため、聖殿に定める際に神殿の像を全て破壊
アラブ人
ここでは「アラビア半島を原住地とする人々」の意 | 622年、ムハンマドは信者を率いて都市メディナに移住する何をおこないましたか。 | 622年、ムハンマドは信者を率いて都市メディナに移住するヒジュラ(聖遷)をおこないました。 |
JCRRAG_008733 | 歴史 | イスラーム世界の成立
アラビア半島と中継貿易
6世紀後半、東西を結ぶオアシスの道は、ササン朝とビザンツ帝国の争いで途絶えました。
また、紅海を通る貿易も同じ理由で途絶えました。
そのため、東西を行き来する各種商品は、アラビア半島を経由するようになりました。
都市メッカの商人が中継貿易を担って利益をあげました。
イスラームの成立
610年頃、商人出身の ムハンマドは、唯一神アッラーの言葉を預かり、預言者であると自覚しました。
以前から信仰されている多神教にかわり、一神教のイスラームを唱えました。
イスラームは富の独占を批判したため、メッカの商人から迫害を受けました。
622年、ムハンマドは信者を率いて都市メディナに移住するヒジュラ(聖遷)をおこないました。
メディナには、イスラーム教徒(ムスリム)の共同体ウンマが形作られました。
なお、イスラーム暦では、ヒジュラがおこなわれた年をイスラーム暦元年としています。
630年、ムハンマドはメッカを征服し、多神教の神殿であったカーバ神殿をイスラームの聖殿に定めました。
以降、アラビア半島のアラブ人にイスラームが広がっていき、諸部族の統一が実現されました。
カーバ神殿
メッカ にあるイスラームの聖殿
イスラームでは偶像崇拝を禁止するため、聖殿に定める際に神殿の像を全て破壊
アラブ人
ここでは「アラビア半島を原住地とする人々」の意 | メディナでイスラーム教徒(ムスリム)の共同体として形作られたのは何ですか。 | 共同体として形作られたのはウンマです。 |
JCRRAG_008734 | 歴史 | イスラーム世界の成立
アラビア半島と中継貿易
6世紀後半、東西を結ぶオアシスの道は、ササン朝とビザンツ帝国の争いで途絶えました。
また、紅海を通る貿易も同じ理由で途絶えました。
そのため、東西を行き来する各種商品は、アラビア半島を経由するようになりました。
都市メッカの商人が中継貿易を担って利益をあげました。
イスラームの成立
610年頃、商人出身の ムハンマドは、唯一神アッラーの言葉を預かり、預言者であると自覚しました。
以前から信仰されている多神教にかわり、一神教のイスラームを唱えました。
イスラームは富の独占を批判したため、メッカの商人から迫害を受けました。
622年、ムハンマドは信者を率いて都市メディナに移住するヒジュラ(聖遷)をおこないました。
メディナには、イスラーム教徒(ムスリム)の共同体ウンマが形作られました。
なお、イスラーム暦では、ヒジュラがおこなわれた年をイスラーム暦元年としています。
630年、ムハンマドはメッカを征服し、多神教の神殿であったカーバ神殿をイスラームの聖殿に定めました。
以降、アラビア半島のアラブ人にイスラームが広がっていき、諸部族の統一が実現されました。
カーバ神殿
メッカ にあるイスラームの聖殿
イスラームでは偶像崇拝を禁止するため、聖殿に定める際に神殿の像を全て破壊
アラブ人
ここでは「アラビア半島を原住地とする人々」の意 | 630年、ムハンマドがメッカを征服し、多神教の神殿であったイスラームの聖殿に定めたのは何ですか。 | イスラームの聖殿に定めたのはカーバ神殿です。 |
JCRRAG_008735 | 歴史 | イスラーム世界の拡大
ムハンマドの死後(正統カリフ時代)
ムハンマドの死後、彼の義父アブー=バクルがイスラームの指導者カリフに選ばれました。
初代カリフのアブー=バクルから4代目のカリフのアリーまで、信徒の間から選ばれた指導者を 正統カリフと呼びます。
4人の正統カリフの指導のもとで、征服活動ジハード(聖戦)が活発におこなわれ、非アラブ人との争いが続きました。
カリフ
ムハンマドの後継者の意
642年、ニハーヴァンドの戦い
イスラームの勢力がササン朝ペルシアを破った戦い
この戦いの後、ササン朝ペルシアは滅亡
正統カリフの時代には、ビザンツ帝国からシリア やエジプトを奪いました。
また、イェルサレム がイスラームの支配下に入りました。
イスラーム教徒はこれら征服地に移住し、軍営都市ミスルを建設しました。
イスラーム世界の分裂
正統カリフ時代の征服活動は、イスラームに内部対立を招きました。
4代目カリフのアリーが暗殺され、カリフの地位は自称する形でシリア総督のムアーウィアに継がれました。
661年、ムアーウィアがウマイヤ朝を首都ダマスクスに開き、カリフの地位はウマイヤ朝のもとで世襲制となりました。
シーア派
4代目カリフのアリーの子孫(アリーと預言者ムハンマドの娘の子孫で、預言者の血を引くため)だけに指導者カリフの資格があるとする、イスラーム教徒の少数派
スンナ派
ウマイヤ朝をはじめとするイスラーム教徒の多数派
ウマイヤ朝の領土拡大
8世紀初め、東方では中央アジアのソグディアナやインド西部を征服しました。
また西方では、711年、イベリア半島の西ゴート王国 を滅ぼしました。
イベリア 半島を制圧した後、さらにピレネー山脈を越えてフランク王国 に侵入しました。
ソグディアナ
サマルカンドを含むアム川・シル川に挟まれた地域の古代の呼称
732年、トゥール・ポワティエ間の戦い
ウマイヤ朝がフランク王国の宮宰カール=マルテル に敗れ、ウマイヤ朝の勢力がピレネー山脈の南まで後退
イスラーム教徒と西ヨーロッパのキリスト教徒との戦いという側面あり | 711年、ウマイヤ朝が滅ぼしたのはイベリア半島のどこですか。 | 711年、ウマイヤ朝が滅ぼしたのはイベリア半島の西ゴート王国です。 |
JCRRAG_008736 | 歴史 | イスラーム世界の拡大
ムハンマドの死後(正統カリフ時代)
ムハンマドの死後、彼の義父アブー=バクルがイスラームの指導者カリフに選ばれました。
初代カリフのアブー=バクルから4代目のカリフのアリーまで、信徒の間から選ばれた指導者を 正統カリフと呼びます。
4人の正統カリフの指導のもとで、征服活動ジハード(聖戦)が活発におこなわれ、非アラブ人との争いが続きました。
カリフ
ムハンマドの後継者の意
642年、ニハーヴァンドの戦い
イスラームの勢力がササン朝ペルシアを破った戦い
この戦いの後、ササン朝ペルシアは滅亡
正統カリフの時代には、ビザンツ帝国からシリア やエジプトを奪いました。
また、イェルサレム がイスラームの支配下に入りました。
イスラーム教徒はこれら征服地に移住し、軍営都市ミスルを建設しました。
イスラーム世界の分裂
正統カリフ時代の征服活動は、イスラームに内部対立を招きました。
4代目カリフのアリーが暗殺され、カリフの地位は自称する形でシリア総督のムアーウィアに継がれました。
661年、ムアーウィアがウマイヤ朝を首都ダマスクスに開き、カリフの地位はウマイヤ朝のもとで世襲制となりました。
シーア派
4代目カリフのアリーの子孫(アリーと預言者ムハンマドの娘の子孫で、預言者の血を引くため)だけに指導者カリフの資格があるとする、イスラーム教徒の少数派
スンナ派
ウマイヤ朝をはじめとするイスラーム教徒の多数派
ウマイヤ朝の領土拡大
8世紀初め、東方では中央アジアのソグディアナやインド西部を征服しました。
また西方では、711年、イベリア半島の西ゴート王国 を滅ぼしました。
イベリア 半島を制圧した後、さらにピレネー山脈を越えてフランク王国 に侵入しました。
ソグディアナ
サマルカンドを含むアム川・シル川に挟まれた地域の古代の呼称
732年、トゥール・ポワティエ間の戦い
ウマイヤ朝がフランク王国の宮宰カール=マルテル に敗れ、ウマイヤ朝の勢力がピレネー山脈の南まで後退
イスラーム教徒と西ヨーロッパのキリスト教徒との戦いという側面あり | 642年、イスラームの勢力がササン朝ペルシアを破った戦いは何ですか。 | ササン朝ペルシアを破った戦いはニハーヴァンドの戦いです。 |
JCRRAG_008737 | 歴史 | イスラーム世界の拡大
ムハンマドの死後(正統カリフ時代)
ムハンマドの死後、彼の義父アブー=バクルがイスラームの指導者カリフに選ばれました。
初代カリフのアブー=バクルから4代目のカリフのアリーまで、信徒の間から選ばれた指導者を 正統カリフと呼びます。
4人の正統カリフの指導のもとで、征服活動ジハード(聖戦)が活発におこなわれ、非アラブ人との争いが続きました。
カリフ
ムハンマドの後継者の意
642年、ニハーヴァンドの戦い
イスラームの勢力がササン朝ペルシアを破った戦い
この戦いの後、ササン朝ペルシアは滅亡
正統カリフの時代には、ビザンツ帝国からシリア やエジプトを奪いました。
また、イェルサレム がイスラームの支配下に入りました。
イスラーム教徒はこれら征服地に移住し、軍営都市ミスルを建設しました。
イスラーム世界の分裂
正統カリフ時代の征服活動は、イスラームに内部対立を招きました。
4代目カリフのアリーが暗殺され、カリフの地位は自称する形でシリア総督のムアーウィアに継がれました。
661年、ムアーウィアがウマイヤ朝を首都ダマスクスに開き、カリフの地位はウマイヤ朝のもとで世襲制となりました。
シーア派
4代目カリフのアリーの子孫(アリーと預言者ムハンマドの娘の子孫で、預言者の血を引くため)だけに指導者カリフの資格があるとする、イスラーム教徒の少数派
スンナ派
ウマイヤ朝をはじめとするイスラーム教徒の多数派
ウマイヤ朝の領土拡大
8世紀初め、東方では中央アジアのソグディアナやインド西部を征服しました。
また西方では、711年、イベリア半島の西ゴート王国 を滅ぼしました。
イベリア 半島を制圧した後、さらにピレネー山脈を越えてフランク王国 に侵入しました。
ソグディアナ
サマルカンドを含むアム川・シル川に挟まれた地域の古代の呼称
732年、トゥール・ポワティエ間の戦い
ウマイヤ朝がフランク王国の宮宰カール=マルテル に敗れ、ウマイヤ朝の勢力がピレネー山脈の南まで後退
イスラーム教徒と西ヨーロッパのキリスト教徒との戦いという側面あり | 4代目カリフのアリーの子孫だけに指導者カリフの資格があるとする、イスラーム教徒の少数派は何派と呼ばれていましたか。 | イスラーム教徒の少数派はシーア派と呼ばれていました。 |
JCRRAG_008738 | 歴史 | イスラーム世界の拡大
ムハンマドの死後(正統カリフ時代)
ムハンマドの死後、彼の義父アブー=バクルがイスラームの指導者カリフに選ばれました。
初代カリフのアブー=バクルから4代目のカリフのアリーまで、信徒の間から選ばれた指導者を 正統カリフと呼びます。
4人の正統カリフの指導のもとで、征服活動ジハード(聖戦)が活発におこなわれ、非アラブ人との争いが続きました。
カリフ
ムハンマドの後継者の意
642年、ニハーヴァンドの戦い
イスラームの勢力がササン朝ペルシアを破った戦い
この戦いの後、ササン朝ペルシアは滅亡
正統カリフの時代には、ビザンツ帝国からシリア やエジプトを奪いました。
また、イェルサレム がイスラームの支配下に入りました。
イスラーム教徒はこれら征服地に移住し、軍営都市ミスルを建設しました。
イスラーム世界の分裂
正統カリフ時代の征服活動は、イスラームに内部対立を招きました。
4代目カリフのアリーが暗殺され、カリフの地位は自称する形でシリア総督のムアーウィアに継がれました。
661年、ムアーウィアがウマイヤ朝を首都ダマスクスに開き、カリフの地位はウマイヤ朝のもとで世襲制となりました。
シーア派
4代目カリフのアリーの子孫(アリーと預言者ムハンマドの娘の子孫で、預言者の血を引くため)だけに指導者カリフの資格があるとする、イスラーム教徒の少数派
スンナ派
ウマイヤ朝をはじめとするイスラーム教徒の多数派
ウマイヤ朝の領土拡大
8世紀初め、東方では中央アジアのソグディアナやインド西部を征服しました。
また西方では、711年、イベリア半島の西ゴート王国 を滅ぼしました。
イベリア 半島を制圧した後、さらにピレネー山脈を越えてフランク王国 に侵入しました。
ソグディアナ
サマルカンドを含むアム川・シル川に挟まれた地域の古代の呼称
732年、トゥール・ポワティエ間の戦い
ウマイヤ朝がフランク王国の宮宰カール=マルテル に敗れ、ウマイヤ朝の勢力がピレネー山脈の南まで後退
イスラーム教徒と西ヨーロッパのキリスト教徒との戦いという側面あり | ウマイヤ朝をはじめとするイスラーム教徒の多数派は何派と呼ばれていましたか。 | ウマイヤ朝をはじめとするイスラーム教徒の多数派はスンナ派と呼ばれていました。 |
JCRRAG_008739 | 歴史 | イスラーム世界の拡大
ムハンマドの死後(正統カリフ時代)
ムハンマドの死後、彼の義父アブー=バクルがイスラームの指導者カリフに選ばれました。
初代カリフのアブー=バクルから4代目のカリフのアリーまで、信徒の間から選ばれた指導者を 正統カリフと呼びます。
4人の正統カリフの指導のもとで、征服活動ジハード(聖戦)が活発におこなわれ、非アラブ人との争いが続きました。
カリフ
ムハンマドの後継者の意
642年、ニハーヴァンドの戦い
イスラームの勢力がササン朝ペルシアを破った戦い
この戦いの後、ササン朝ペルシアは滅亡
正統カリフの時代には、ビザンツ帝国からシリア やエジプトを奪いました。
また、イェルサレム がイスラームの支配下に入りました。
イスラーム教徒はこれら征服地に移住し、軍営都市ミスルを建設しました。
イスラーム世界の分裂
正統カリフ時代の征服活動は、イスラームに内部対立を招きました。
4代目カリフのアリーが暗殺され、カリフの地位は自称する形でシリア総督のムアーウィアに継がれました。
661年、ムアーウィアがウマイヤ朝を首都ダマスクスに開き、カリフの地位はウマイヤ朝のもとで世襲制となりました。
シーア派
4代目カリフのアリーの子孫(アリーと預言者ムハンマドの娘の子孫で、預言者の血を引くため)だけに指導者カリフの資格があるとする、イスラーム教徒の少数派
スンナ派
ウマイヤ朝をはじめとするイスラーム教徒の多数派
ウマイヤ朝の領土拡大
8世紀初め、東方では中央アジアのソグディアナやインド西部を征服しました。
また西方では、711年、イベリア半島の西ゴート王国 を滅ぼしました。
イベリア 半島を制圧した後、さらにピレネー山脈を越えてフランク王国 に侵入しました。
ソグディアナ
サマルカンドを含むアム川・シル川に挟まれた地域の古代の呼称
732年、トゥール・ポワティエ間の戦い
ウマイヤ朝がフランク王国の宮宰カール=マルテル に敗れ、ウマイヤ朝の勢力がピレネー山脈の南まで後退
イスラーム教徒と西ヨーロッパのキリスト教徒との戦いという側面あり | 732年、ウマイヤ朝がフランク王国の宮宰カール=マルテル に敗れ、ウマイヤ朝の勢力がピレネー山脈の南まで後退した戦いは何ですか。 | ピレネー山脈の南まで後退した戦いはトゥール・ポワティエ間の戦いです。 |
JCRRAG_008740 | 歴史 | ウマイヤ朝の財政基盤
ウマイヤ朝の財政は次の2つを基盤としました。
ハラージュ
土地を所有する人に課せられる税(地租 )
ジズヤ
納税関係なく、人に課せられる税(人頭税 )
これらの税は、イスラーム教徒のアラブ人に課せられず、被征服民(非アラブ人)のみ課せられました 。
被征服民はユダヤ教・キリスト教の信仰を認められましたが 、イスラームに改宗しても税を免除されませんでした 。
当初のイスラームはアラブ人主体であり、非アラブ人が差別されたため
イスラームの基礎知識
イスラームの教え
聖典
コーラン
ムハンマドが神から預かった言葉を、ムハンマドの死後に集成したもの
ユダヤ教・キリスト教との関係
ユダヤ教・キリスト教は、イスラームと同じ神を信じる宗教という位置づけ
その他イスラームの重要事項
一神教
他の神の存在はなく、ただ一つの神アッラーを信仰すること
偶像崇拝の禁止
アッラーの像を絶対に作ってはならず、また、他宗教の神像も破壊
このため、カーバ神殿には以前の多神教の像もアッラーの像も存在しない
預言者
モーセもイエスも神の言葉を預かった預言者だが、最も優れた最後の 預言者はムハンマドであること
六信
イスラーム教徒(ムスリム)が信じるべき6つのこと
五行
イスラーム教徒(ムスリム)に求められる5つの行動規範
六信
神
天使
各種の啓典
預言者
来世
神の予定
五行
信仰告白
アッラーを唯一神と信じることを告白
礼拝
1日に5回礼拝すること
喜捨
貧民に自分の財を与えること
断食
ヒジュラ暦第9月(ラマダーン月)に飲食を断つこと
巡礼
生涯に最低一度メッカを訪れること | 土地を所有する人に課せられる税(地租 )は何と言いますか。 | 土地を所有する人に課せられる税(地租 )はハラージュと言います。 |
JCRRAG_008741 | 歴史 | ウマイヤ朝の財政基盤
ウマイヤ朝の財政は次の2つを基盤としました。
ハラージュ
土地を所有する人に課せられる税(地租 )
ジズヤ
納税関係なく、人に課せられる税(人頭税 )
これらの税は、イスラーム教徒のアラブ人に課せられず、被征服民(非アラブ人)のみ課せられました 。
被征服民はユダヤ教・キリスト教の信仰を認められましたが 、イスラームに改宗しても税を免除されませんでした 。
当初のイスラームはアラブ人主体であり、非アラブ人が差別されたため
イスラームの基礎知識
イスラームの教え
聖典
コーラン
ムハンマドが神から預かった言葉を、ムハンマドの死後に集成したもの
ユダヤ教・キリスト教との関係
ユダヤ教・キリスト教は、イスラームと同じ神を信じる宗教という位置づけ
その他イスラームの重要事項
一神教
他の神の存在はなく、ただ一つの神アッラーを信仰すること
偶像崇拝の禁止
アッラーの像を絶対に作ってはならず、また、他宗教の神像も破壊
このため、カーバ神殿には以前の多神教の像もアッラーの像も存在しない
預言者
モーセもイエスも神の言葉を預かった預言者だが、最も優れた最後の 預言者はムハンマドであること
六信
イスラーム教徒(ムスリム)が信じるべき6つのこと
五行
イスラーム教徒(ムスリム)に求められる5つの行動規範
六信
神
天使
各種の啓典
預言者
来世
神の予定
五行
信仰告白
アッラーを唯一神と信じることを告白
礼拝
1日に5回礼拝すること
喜捨
貧民に自分の財を与えること
断食
ヒジュラ暦第9月(ラマダーン月)に飲食を断つこと
巡礼
生涯に最低一度メッカを訪れること | 納税関係なく、人に課せられる税(人頭税 )は何と言いますか。 | 納税関係なく、人に課せられる税(人頭税 )はジズヤと言います。 |
JCRRAG_008742 | 歴史 | ウマイヤ朝の財政基盤
ウマイヤ朝の財政は次の2つを基盤としました。
ハラージュ
土地を所有する人に課せられる税(地租 )
ジズヤ
納税関係なく、人に課せられる税(人頭税 )
これらの税は、イスラーム教徒のアラブ人に課せられず、被征服民(非アラブ人)のみ課せられました 。
被征服民はユダヤ教・キリスト教の信仰を認められましたが 、イスラームに改宗しても税を免除されませんでした 。
当初のイスラームはアラブ人主体であり、非アラブ人が差別されたため
イスラームの基礎知識
イスラームの教え
聖典
コーラン
ムハンマドが神から預かった言葉を、ムハンマドの死後に集成したもの
ユダヤ教・キリスト教との関係
ユダヤ教・キリスト教は、イスラームと同じ神を信じる宗教という位置づけ
その他イスラームの重要事項
一神教
他の神の存在はなく、ただ一つの神アッラーを信仰すること
偶像崇拝の禁止
アッラーの像を絶対に作ってはならず、また、他宗教の神像も破壊
このため、カーバ神殿には以前の多神教の像もアッラーの像も存在しない
預言者
モーセもイエスも神の言葉を預かった預言者だが、最も優れた最後の 預言者はムハンマドであること
六信
イスラーム教徒(ムスリム)が信じるべき6つのこと
五行
イスラーム教徒(ムスリム)に求められる5つの行動規範
六信
神
天使
各種の啓典
預言者
来世
神の予定
五行
信仰告白
アッラーを唯一神と信じることを告白
礼拝
1日に5回礼拝すること
喜捨
貧民に自分の財を与えること
断食
ヒジュラ暦第9月(ラマダーン月)に飲食を断つこと
巡礼
生涯に最低一度メッカを訪れること | ムハンマドが神から預かった言葉を、ムハンマドの死後に集成したものは何と呼ばれています。 | ムハンマドの死後に集成したものはコーランと呼ばれています。 |
JCRRAG_008743 | 歴史 | ウマイヤ朝の財政基盤
ウマイヤ朝の財政は次の2つを基盤としました。
ハラージュ
土地を所有する人に課せられる税(地租 )
ジズヤ
納税関係なく、人に課せられる税(人頭税 )
これらの税は、イスラーム教徒のアラブ人に課せられず、被征服民(非アラブ人)のみ課せられました 。
被征服民はユダヤ教・キリスト教の信仰を認められましたが 、イスラームに改宗しても税を免除されませんでした 。
当初のイスラームはアラブ人主体であり、非アラブ人が差別されたため
イスラームの基礎知識
イスラームの教え
聖典
コーラン
ムハンマドが神から預かった言葉を、ムハンマドの死後に集成したもの
ユダヤ教・キリスト教との関係
ユダヤ教・キリスト教は、イスラームと同じ神を信じる宗教という位置づけ
その他イスラームの重要事項
一神教
他の神の存在はなく、ただ一つの神アッラーを信仰すること
偶像崇拝の禁止
アッラーの像を絶対に作ってはならず、また、他宗教の神像も破壊
このため、カーバ神殿には以前の多神教の像もアッラーの像も存在しない
預言者
モーセもイエスも神の言葉を預かった預言者だが、最も優れた最後の 預言者はムハンマドであること
六信
イスラーム教徒(ムスリム)が信じるべき6つのこと
五行
イスラーム教徒(ムスリム)に求められる5つの行動規範
六信
神
天使
各種の啓典
預言者
来世
神の予定
五行
信仰告白
アッラーを唯一神と信じることを告白
礼拝
1日に5回礼拝すること
喜捨
貧民に自分の財を与えること
断食
ヒジュラ暦第9月(ラマダーン月)に飲食を断つこと
巡礼
生涯に最低一度メッカを訪れること | 他の神の存在はなく、ただ一つの神アッラーを信仰することは何と呼ばれていますか。 | ただ一つの神アッラーを信仰することは一神教と呼ばれています。 |
JCRRAG_008744 | 歴史 | ウマイヤ朝の財政基盤
ウマイヤ朝の財政は次の2つを基盤としました。
ハラージュ
土地を所有する人に課せられる税(地租 )
ジズヤ
納税関係なく、人に課せられる税(人頭税 )
これらの税は、イスラーム教徒のアラブ人に課せられず、被征服民(非アラブ人)のみ課せられました 。
被征服民はユダヤ教・キリスト教の信仰を認められましたが 、イスラームに改宗しても税を免除されませんでした 。
当初のイスラームはアラブ人主体であり、非アラブ人が差別されたため
イスラームの基礎知識
イスラームの教え
聖典
コーラン
ムハンマドが神から預かった言葉を、ムハンマドの死後に集成したもの
ユダヤ教・キリスト教との関係
ユダヤ教・キリスト教は、イスラームと同じ神を信じる宗教という位置づけ
その他イスラームの重要事項
一神教
他の神の存在はなく、ただ一つの神アッラーを信仰すること
偶像崇拝の禁止
アッラーの像を絶対に作ってはならず、また、他宗教の神像も破壊
このため、カーバ神殿には以前の多神教の像もアッラーの像も存在しない
預言者
モーセもイエスも神の言葉を預かった預言者だが、最も優れた最後の 預言者はムハンマドであること
六信
イスラーム教徒(ムスリム)が信じるべき6つのこと
五行
イスラーム教徒(ムスリム)に求められる5つの行動規範
六信
神
天使
各種の啓典
預言者
来世
神の予定
五行
信仰告白
アッラーを唯一神と信じることを告白
礼拝
1日に5回礼拝すること
喜捨
貧民に自分の財を与えること
断食
ヒジュラ暦第9月(ラマダーン月)に飲食を断つこと
巡礼
生涯に最低一度メッカを訪れること | イスラーム教徒(ムスリム)が信じるべき6つのことは何と呼ばれていますか。 | 信じるべき6つのことは六信と呼ばれています。 |
JCRRAG_008745 | 歴史 | 新たな王朝の形成
ウマイヤ朝とコーランの教え
『コーラン』は、全ての信者が平等だと説きます。
しかし、ウマイヤ朝の征服地では、非アラブ人はイスラームに改宗しても差別されました。
ウマイヤ朝の在り方は『コーラン』に背そむくという批判が出てきました。
新たな王朝
ウマイヤ朝を批判する人々は、ムハンマドの叔父おじの子孫アッバース家の挙兵に参加しました。
750年、ウマイヤ朝は滅び、新たにアッバース朝が開かれました。
アッバース朝は、ティグリス川の河畔に、 円状の首都バクダードを造営しました。
アッバース朝の政策
アラブ人と非アラブ人
イスラーム教徒であれば、非アラブ人であっても人頭税(ジズヤ)は課せられませんでした。
また、征服地に土地をもつ場合には、アラブ人にも 地租(ハラージュ)が課せられました。
つまりアッバース朝では、アラブ人と非アラブ人との差別は、イスラーム教徒である限り廃止されました 。
政治
アッバース朝のカリフの政治は、イスラーム法(シャリーア)に基づき、実施されました。
イスラーム法
『コーラン』や預言者の伝承をもとに9世紀頃までに整えられた、生活の規範や政治の基本を示す法
知恵の館
アッバース朝の時代、「知恵の館」において多くのギリシア語文献がアラビア語に翻訳されました 。
奴隷身分出身の兵士
中央アジアの遊牧民トルコ人は、幼い頃から乗馬に親しみ、騎射に優れていました。
アッバース朝が中央アジアに進出すると、トルコ人は奴隷としてイスラーム世界に流入しました。
アッバース朝のカリフは、トルコ人の力を認め、奴隷身分出身の兵士マムルーク として用いました。
アッバース朝の最盛期とその後の衰退
アッバース朝は、5代目カリフハールーン=アッラシードの時代に最盛期を迎えました 。
ハールーン=アッラシードの死後、アッバース朝の領域から独立する王朝が現れました。
868~905年、トゥールーン朝
北アフリカのエジプトに樹立した王朝
短命に終わり、アッバース朝に再吸収
サーマーン朝
9世紀に建国した、中央アジア最初のイラン系の イスラーム王朝
さらに、アッバース朝以外にもカリフの称号を用いる王朝が現れました。
具体的には、後述するファーティマ朝・後ウマイヤ朝の君主が使用し、同時代に3人のカリフが分立する状態となりました。 | 750年、ウマイヤ朝は滅び、新たに開かれた王朝は何ですか。 | 新たに開かれた王朝はアッバース朝です。 |
JCRRAG_008746 | 歴史 | 新たな王朝の形成
ウマイヤ朝とコーランの教え
『コーラン』は、全ての信者が平等だと説きます。
しかし、ウマイヤ朝の征服地では、非アラブ人はイスラームに改宗しても差別されました。
ウマイヤ朝の在り方は『コーラン』に背そむくという批判が出てきました。
新たな王朝
ウマイヤ朝を批判する人々は、ムハンマドの叔父おじの子孫アッバース家の挙兵に参加しました。
750年、ウマイヤ朝は滅び、新たにアッバース朝が開かれました。
アッバース朝は、ティグリス川の河畔に、 円状の首都バクダードを造営しました。
アッバース朝の政策
アラブ人と非アラブ人
イスラーム教徒であれば、非アラブ人であっても人頭税(ジズヤ)は課せられませんでした。
また、征服地に土地をもつ場合には、アラブ人にも 地租(ハラージュ)が課せられました。
つまりアッバース朝では、アラブ人と非アラブ人との差別は、イスラーム教徒である限り廃止されました 。
政治
アッバース朝のカリフの政治は、イスラーム法(シャリーア)に基づき、実施されました。
イスラーム法
『コーラン』や預言者の伝承をもとに9世紀頃までに整えられた、生活の規範や政治の基本を示す法
知恵の館
アッバース朝の時代、「知恵の館」において多くのギリシア語文献がアラビア語に翻訳されました 。
奴隷身分出身の兵士
中央アジアの遊牧民トルコ人は、幼い頃から乗馬に親しみ、騎射に優れていました。
アッバース朝が中央アジアに進出すると、トルコ人は奴隷としてイスラーム世界に流入しました。
アッバース朝のカリフは、トルコ人の力を認め、奴隷身分出身の兵士マムルーク として用いました。
アッバース朝の最盛期とその後の衰退
アッバース朝は、5代目カリフハールーン=アッラシードの時代に最盛期を迎えました 。
ハールーン=アッラシードの死後、アッバース朝の領域から独立する王朝が現れました。
868~905年、トゥールーン朝
北アフリカのエジプトに樹立した王朝
短命に終わり、アッバース朝に再吸収
サーマーン朝
9世紀に建国した、中央アジア最初のイラン系の イスラーム王朝
さらに、アッバース朝以外にもカリフの称号を用いる王朝が現れました。
具体的には、後述するファーティマ朝・後ウマイヤ朝の君主が使用し、同時代に3人のカリフが分立する状態となりました。 | 『コーラン』や預言者の伝承をもとに9世紀頃までに整えられた、生活の規範や政治の基本を示す法はイスラーム法です。 | 生活の規範や政治の基本を示す法はイスラーム法です。 |
JCRRAG_008747 | 歴史 | 新たな王朝の形成
ウマイヤ朝とコーランの教え
『コーラン』は、全ての信者が平等だと説きます。
しかし、ウマイヤ朝の征服地では、非アラブ人はイスラームに改宗しても差別されました。
ウマイヤ朝の在り方は『コーラン』に背そむくという批判が出てきました。
新たな王朝
ウマイヤ朝を批判する人々は、ムハンマドの叔父おじの子孫アッバース家の挙兵に参加しました。
750年、ウマイヤ朝は滅び、新たにアッバース朝が開かれました。
アッバース朝は、ティグリス川の河畔に、 円状の首都バクダードを造営しました。
アッバース朝の政策
アラブ人と非アラブ人
イスラーム教徒であれば、非アラブ人であっても人頭税(ジズヤ)は課せられませんでした。
また、征服地に土地をもつ場合には、アラブ人にも 地租(ハラージュ)が課せられました。
つまりアッバース朝では、アラブ人と非アラブ人との差別は、イスラーム教徒である限り廃止されました 。
政治
アッバース朝のカリフの政治は、イスラーム法(シャリーア)に基づき、実施されました。
イスラーム法
『コーラン』や預言者の伝承をもとに9世紀頃までに整えられた、生活の規範や政治の基本を示す法
知恵の館
アッバース朝の時代、「知恵の館」において多くのギリシア語文献がアラビア語に翻訳されました 。
奴隷身分出身の兵士
中央アジアの遊牧民トルコ人は、幼い頃から乗馬に親しみ、騎射に優れていました。
アッバース朝が中央アジアに進出すると、トルコ人は奴隷としてイスラーム世界に流入しました。
アッバース朝のカリフは、トルコ人の力を認め、奴隷身分出身の兵士マムルーク として用いました。
アッバース朝の最盛期とその後の衰退
アッバース朝は、5代目カリフハールーン=アッラシードの時代に最盛期を迎えました 。
ハールーン=アッラシードの死後、アッバース朝の領域から独立する王朝が現れました。
868~905年、トゥールーン朝
北アフリカのエジプトに樹立した王朝
短命に終わり、アッバース朝に再吸収
サーマーン朝
9世紀に建国した、中央アジア最初のイラン系の イスラーム王朝
さらに、アッバース朝以外にもカリフの称号を用いる王朝が現れました。
具体的には、後述するファーティマ朝・後ウマイヤ朝の君主が使用し、同時代に3人のカリフが分立する状態となりました。 | アッバース朝が最盛期を迎えたのは誰の時代ですか。 | アッバース朝が最盛期を迎えたのは5代目カリフハールーン=アッラシードの時代です。 |
JCRRAG_008748 | 歴史 | 新たな王朝の形成
ウマイヤ朝とコーランの教え
『コーラン』は、全ての信者が平等だと説きます。
しかし、ウマイヤ朝の征服地では、非アラブ人はイスラームに改宗しても差別されました。
ウマイヤ朝の在り方は『コーラン』に背そむくという批判が出てきました。
新たな王朝
ウマイヤ朝を批判する人々は、ムハンマドの叔父おじの子孫アッバース家の挙兵に参加しました。
750年、ウマイヤ朝は滅び、新たにアッバース朝が開かれました。
アッバース朝は、ティグリス川の河畔に、 円状の首都バクダードを造営しました。
アッバース朝の政策
アラブ人と非アラブ人
イスラーム教徒であれば、非アラブ人であっても人頭税(ジズヤ)は課せられませんでした。
また、征服地に土地をもつ場合には、アラブ人にも 地租(ハラージュ)が課せられました。
つまりアッバース朝では、アラブ人と非アラブ人との差別は、イスラーム教徒である限り廃止されました 。
政治
アッバース朝のカリフの政治は、イスラーム法(シャリーア)に基づき、実施されました。
イスラーム法
『コーラン』や預言者の伝承をもとに9世紀頃までに整えられた、生活の規範や政治の基本を示す法
知恵の館
アッバース朝の時代、「知恵の館」において多くのギリシア語文献がアラビア語に翻訳されました 。
奴隷身分出身の兵士
中央アジアの遊牧民トルコ人は、幼い頃から乗馬に親しみ、騎射に優れていました。
アッバース朝が中央アジアに進出すると、トルコ人は奴隷としてイスラーム世界に流入しました。
アッバース朝のカリフは、トルコ人の力を認め、奴隷身分出身の兵士マムルーク として用いました。
アッバース朝の最盛期とその後の衰退
アッバース朝は、5代目カリフハールーン=アッラシードの時代に最盛期を迎えました 。
ハールーン=アッラシードの死後、アッバース朝の領域から独立する王朝が現れました。
868~905年、トゥールーン朝
北アフリカのエジプトに樹立した王朝
短命に終わり、アッバース朝に再吸収
サーマーン朝
9世紀に建国した、中央アジア最初のイラン系の イスラーム王朝
さらに、アッバース朝以外にもカリフの称号を用いる王朝が現れました。
具体的には、後述するファーティマ朝・後ウマイヤ朝の君主が使用し、同時代に3人のカリフが分立する状態となりました。 | 868~905年、北アフリカのエジプトに樹立した王朝は何ですか。 | 北アフリカのエジプトに樹立した王朝はトゥールーン朝です。 |
JCRRAG_008749 | 歴史 | 新たな王朝の形成
ウマイヤ朝とコーランの教え
『コーラン』は、全ての信者が平等だと説きます。
しかし、ウマイヤ朝の征服地では、非アラブ人はイスラームに改宗しても差別されました。
ウマイヤ朝の在り方は『コーラン』に背そむくという批判が出てきました。
新たな王朝
ウマイヤ朝を批判する人々は、ムハンマドの叔父おじの子孫アッバース家の挙兵に参加しました。
750年、ウマイヤ朝は滅び、新たにアッバース朝が開かれました。
アッバース朝は、ティグリス川の河畔に、 円状の首都バクダードを造営しました。
アッバース朝の政策
アラブ人と非アラブ人
イスラーム教徒であれば、非アラブ人であっても人頭税(ジズヤ)は課せられませんでした。
また、征服地に土地をもつ場合には、アラブ人にも 地租(ハラージュ)が課せられました。
つまりアッバース朝では、アラブ人と非アラブ人との差別は、イスラーム教徒である限り廃止されました 。
政治
アッバース朝のカリフの政治は、イスラーム法(シャリーア)に基づき、実施されました。
イスラーム法
『コーラン』や預言者の伝承をもとに9世紀頃までに整えられた、生活の規範や政治の基本を示す法
知恵の館
アッバース朝の時代、「知恵の館」において多くのギリシア語文献がアラビア語に翻訳されました 。
奴隷身分出身の兵士
中央アジアの遊牧民トルコ人は、幼い頃から乗馬に親しみ、騎射に優れていました。
アッバース朝が中央アジアに進出すると、トルコ人は奴隷としてイスラーム世界に流入しました。
アッバース朝のカリフは、トルコ人の力を認め、奴隷身分出身の兵士マムルーク として用いました。
アッバース朝の最盛期とその後の衰退
アッバース朝は、5代目カリフハールーン=アッラシードの時代に最盛期を迎えました 。
ハールーン=アッラシードの死後、アッバース朝の領域から独立する王朝が現れました。
868~905年、トゥールーン朝
北アフリカのエジプトに樹立した王朝
短命に終わり、アッバース朝に再吸収
サーマーン朝
9世紀に建国した、中央アジア最初のイラン系の イスラーム王朝
さらに、アッバース朝以外にもカリフの称号を用いる王朝が現れました。
具体的には、後述するファーティマ朝・後ウマイヤ朝の君主が使用し、同時代に3人のカリフが分立する状態となりました。 | 9世紀に建国した中央アジア最初のイラン系のイスラーム王朝は何ですか。 | イラン系のイスラーム王朝はサーマーン朝です。 |
JCRRAG_008750 | 歴史 | オリエントの風土
ヨーロッパから見た「太陽の昇るところ(東方)」、今日の中東にあたるエジプト・西アジアはオリエントと呼ばれます。
オリエントは気温が高く、砂漠・岩山の地域が多く広がります。
そのため、河川やオアシスで麦やナツメヤシを栽培します。
大河では早くから灌漑かんがい農業・定住化が進みました。
次の①②の地域の大河流域には、前3000年頃から高い文明が発達しました。
①メソポタミア(河川:ティグリス川・ユーフラテス川)
②エジプト(河川:ナイル川)
メソポタミア
「川の間の地域」の意
灌漑農業
乾燥地域で河川や地下水から畑へ人工的に給水しておこなう農業
古代オリエントの人々と社会
①メソポタミア
セム語系の人々が複雑な歴史を展開
②エジプト
エジプト語系の人々が安定した歴史を展開
③シリア・パレスチナ
①②を結ぶように「肥沃ひよくな三日月地帯」が広がり、 セム語系の人々が地中海の交易で活躍
①~③の地域の社会では治水の重要性が高く、神の権威で統治する神権政治政治が多く見られました。
シュメール人の登場
前3500年頃、メソポタミア南部で人口が増加し、大集落が成立しました。
文字が発明され、銅器・青銅器などの金属が普及しました。
前3000年頃、シュメール人の都市国家が多く形成されました。
代表的な都市国家は、ウル・ウルク・ラガシュでした。
各都市は互いに覇権を争いました。
シュメール人
系統不明の民族
各都市は城壁で囲まれ、中心部に祭壇の聖塔ジッグラトを設置シュメール人の文化
宗教
多神教(自然神・各都市の守護神)
文字
楔形文字
主に粘土板に記されたが、碑文に用いられた例もあり
19世紀、イギリス人ローリンソンが ベヒストゥーン碑文をもとに解読
法律
シュメール法
バビロン第1王朝が継承し、『 ハンムラビ法典』に集成
学問
60進法に基づく時間や方位の観念、太陰暦や閏年うるうどし、占星術の発達
文学
英雄叙事詩じょじしの『ギルガメシュ叙事詩』
アッカド王国―最初の統一国家
前3000年頃、アラビア方面からセム語系のアッカド人がメソポタミア中部に移動・定着しました。
前24世紀、王サルゴン1世がメソポタミアを統一しました。
他地域に遠征を繰り返しましたが、まもなく王国は滅びました。
前22世紀、シュメール人の国ウル第3王朝がメソポタミアを支配しました。
バビロン第1王朝の建国と滅亡
シリア方面から侵入したセム語系のアムル人が、前19世紀、古バビロニア王国(バビロン第1王朝)を建国しました。
前18世紀、ハンムラビ王の治世下でメソポタミアが統一されました。
ハンムラビ王は治水・灌漑を進め、また、かつてのシュメール法を集成して『ハンムラビ法典』を制定しました。
『ハンムラビ法典』は、「目には目を、歯には歯を」という復讐ふくしゅう法の原則や、身分による刑罰差の原則を特徴とします。
ハンムラビ法典
楔形文字で記録された石碑が、ペルシアの古都スサで発見
上部に王が正義の神シャマシュから 法典を授かる場面の浮き彫りがあり
17世紀、インド=ヨーロッパ語族のヒッタイト人は、アナトリア半島(小アジア)に王国を建国しました。 | ヨーロッパから見た「太陽の昇るところ(東方)」、今日の中東にあたるエジプト・西アジアは何と呼ばれますか。 | ヨーロッパから見た「太陽の昇るところ(東方)」、今日の中東にあたるエジプト・西アジアはオリエントと呼ばれます。 |
JCRRAG_008751 | 歴史 | オリエントの風土
ヨーロッパから見た「太陽の昇るところ(東方)」、今日の中東にあたるエジプト・西アジアはオリエントと呼ばれます。
オリエントは気温が高く、砂漠・岩山の地域が多く広がります。
そのため、河川やオアシスで麦やナツメヤシを栽培します。
大河では早くから灌漑かんがい農業・定住化が進みました。
次の①②の地域の大河流域には、前3000年頃から高い文明が発達しました。
①メソポタミア(河川:ティグリス川・ユーフラテス川)
②エジプト(河川:ナイル川)
メソポタミア
「川の間の地域」の意
灌漑農業
乾燥地域で河川や地下水から畑へ人工的に給水しておこなう農業
古代オリエントの人々と社会
①メソポタミア
セム語系の人々が複雑な歴史を展開
②エジプト
エジプト語系の人々が安定した歴史を展開
③シリア・パレスチナ
①②を結ぶように「肥沃ひよくな三日月地帯」が広がり、 セム語系の人々が地中海の交易で活躍
①~③の地域の社会では治水の重要性が高く、神の権威で統治する神権政治政治が多く見られました。
シュメール人の登場
前3500年頃、メソポタミア南部で人口が増加し、大集落が成立しました。
文字が発明され、銅器・青銅器などの金属が普及しました。
前3000年頃、シュメール人の都市国家が多く形成されました。
代表的な都市国家は、ウル・ウルク・ラガシュでした。
各都市は互いに覇権を争いました。
シュメール人
系統不明の民族
各都市は城壁で囲まれ、中心部に祭壇の聖塔ジッグラトを設置
シュメール人の文化
宗教
多神教(自然神・各都市の守護神)
文字
楔形文字
主に粘土板に記されたが、碑文に用いられた例もあり
19世紀、イギリス人ローリンソンが ベヒストゥーン碑文をもとに解読
法律
シュメール法
バビロン第1王朝が継承し、『 ハンムラビ法典』に集成
学問
60進法に基づく時間や方位の観念、太陰暦や閏年うるうどし、占星術の発達
文学
英雄叙事詩じょじしの『ギルガメシュ叙事詩』
アッカド王国―最初の統一国家
前3000年頃、アラビア方面からセム語系のアッカド人がメソポタミア中部に移動・定着しました。
前24世紀、王サルゴン1世がメソポタミアを統一しました。
他地域に遠征を繰り返しましたが、まもなく王国は滅びました。
前22世紀、シュメール人の国ウル第3王朝がメソポタミアを支配しました。
バビロン第1王朝の建国と滅亡
シリア方面から侵入したセム語系のアムル人が、前19世紀、古バビロニア王国(バビロン第1王朝)を建国しました。
前18世紀、ハンムラビ王の治世下でメソポタミアが統一されました。
ハンムラビ王は治水・灌漑を進め、また、かつてのシュメール法を集成して『ハンムラビ法典』を制定しました。
『ハンムラビ法典』は、「目には目を、歯には歯を」という復讐ふくしゅう法の原則や、身分による刑罰差の原則を特徴とします。
ハンムラビ法典
楔形文字で記録された石碑が、ペルシアの古都スサで発見
上部に王が正義の神シャマシュから 法典を授かる場面の浮き彫りがあり
17世紀、インド=ヨーロッパ語族のヒッタイト人は、アナトリア半島(小アジア)に王国を建国しました。 | 乾燥地域で河川や地下水から畑へ人工的に給水しておこなう農業は何と言いますか。 | 乾燥地域で河川や地下水から畑へ人工的に給水しておこなう農業は灌漑農業と言います。 |
JCRRAG_008752 | 歴史 | オリエントの風土
ヨーロッパから見た「太陽の昇るところ(東方)」、今日の中東にあたるエジプト・西アジアはオリエントと呼ばれます。
オリエントは気温が高く、砂漠・岩山の地域が多く広がります。
そのため、河川やオアシスで麦やナツメヤシを栽培します。
大河では早くから灌漑かんがい農業・定住化が進みました。
次の①②の地域の大河流域には、前3000年頃から高い文明が発達しました。
①メソポタミア(河川:ティグリス川・ユーフラテス川)
②エジプト(河川:ナイル川)
メソポタミア
「川の間の地域」の意
灌漑農業
乾燥地域で河川や地下水から畑へ人工的に給水しておこなう農業
古代オリエントの人々と社会
①メソポタミア
セム語系の人々が複雑な歴史を展開
②エジプト
エジプト語系の人々が安定した歴史を展開
③シリア・パレスチナ
①②を結ぶように「肥沃ひよくな三日月地帯」が広がり、 セム語系の人々が地中海の交易で活躍
①~③の地域の社会では治水の重要性が高く、神の権威で統治する神権政治政治が多く見られました。
シュメール人の登場
前3500年頃、メソポタミア南部で人口が増加し、大集落が成立しました。
文字が発明され、銅器・青銅器などの金属が普及しました。
前3000年頃、シュメール人の都市国家が多く形成されました。
代表的な都市国家は、ウル・ウルク・ラガシュでした。
各都市は互いに覇権を争いました。
シュメール人
系統不明の民族
各都市は城壁で囲まれ、中心部に祭壇の聖塔ジッグラトを設置
シュメール人の文化
宗教
多神教(自然神・各都市の守護神)
文字
楔形文字
主に粘土板に記されたが、碑文に用いられた例もあり
19世紀、イギリス人ローリンソンが ベヒストゥーン碑文をもとに解読
法律
シュメール法
バビロン第1王朝が継承し、『 ハンムラビ法典』に集成
学問
60進法に基づく時間や方位の観念、太陰暦や閏年うるうどし、占星術の発達
文学
英雄叙事詩じょじしの『ギルガメシュ叙事詩』
アッカド王国―最初の統一国家
前3000年頃、アラビア方面からセム語系のアッカド人がメソポタミア中部に移動・定着しました。
前24世紀、王サルゴン1世がメソポタミアを統一しました。
他地域に遠征を繰り返しましたが、まもなく王国は滅びました。
前22世紀、シュメール人の国ウル第3王朝がメソポタミアを支配しました。
バビロン第1王朝の建国と滅亡
シリア方面から侵入したセム語系のアムル人が、前19世紀、古バビロニア王国(バビロン第1王朝)を建国しました。
前18世紀、ハンムラビ王の治世下でメソポタミアが統一されました。
ハンムラビ王は治水・灌漑を進め、また、かつてのシュメール法を集成して『ハンムラビ法典』を制定しました。
『ハンムラビ法典』は、「目には目を、歯には歯を」という復讐ふくしゅう法の原則や、身分による刑罰差の原則を特徴とします。
ハンムラビ法典
楔形文字で記録された石碑が、ペルシアの古都スサで発見
上部に王が正義の神シャマシュから 法典を授かる場面の浮き彫りがあり
17世紀、インド=ヨーロッパ語族のヒッタイト人は、アナトリア半島(小アジア)に王国を建国しました。 | 前24世紀、メソポタミアを統一した王は、誰ですか。 | 前24世紀、メソポタミアを統一した王は、サルゴン1世です。 |
JCRRAG_008753 | 歴史 | オリエントの風土
ヨーロッパから見た「太陽の昇るところ(東方)」、今日の中東にあたるエジプト・西アジアはオリエントと呼ばれます。
オリエントは気温が高く、砂漠・岩山の地域が多く広がります。
そのため、河川やオアシスで麦やナツメヤシを栽培します。
大河では早くから灌漑かんがい農業・定住化が進みました。
次の①②の地域の大河流域には、前3000年頃から高い文明が発達しました。
①メソポタミア(河川:ティグリス川・ユーフラテス川)
②エジプト(河川:ナイル川)
メソポタミア
「川の間の地域」の意
灌漑農業
乾燥地域で河川や地下水から畑へ人工的に給水しておこなう農業
古代オリエントの人々と社会
①メソポタミア
セム語系の人々が複雑な歴史を展開
②エジプト
エジプト語系の人々が安定した歴史を展開
③シリア・パレスチナ
①②を結ぶように「肥沃ひよくな三日月地帯」が広がり、 セム語系の人々が地中海の交易で活躍
①~③の地域の社会では治水の重要性が高く、神の権威で統治する神権政治政治が多く見られました。
シュメール人の登場
前3500年頃、メソポタミア南部で人口が増加し、大集落が成立しました。
文字が発明され、銅器・青銅器などの金属が普及しました。
前3000年頃、シュメール人の都市国家が多く形成されました。
代表的な都市国家は、ウル・ウルク・ラガシュでした。
各都市は互いに覇権を争いました。
シュメール人
系統不明の民族
各都市は城壁で囲まれ、中心部に祭壇の聖塔ジッグラトを設置
シュメール人の文化
宗教
多神教(自然神・各都市の守護神)
文字
楔形文字
主に粘土板に記されたが、碑文に用いられた例もあり
19世紀、イギリス人ローリンソンが ベヒストゥーン碑文をもとに解読
法律
シュメール法
バビロン第1王朝が継承し、『 ハンムラビ法典』に集成
学問
60進法に基づく時間や方位の観念、太陰暦や閏年うるうどし、占星術の発達
文学
英雄叙事詩じょじしの『ギルガメシュ叙事詩』
アッカド王国―最初の統一国家
前3000年頃、アラビア方面からセム語系のアッカド人がメソポタミア中部に移動・定着しました。
前24世紀、王サルゴン1世がメソポタミアを統一しました。
他地域に遠征を繰り返しましたが、まもなく王国は滅びました。
前22世紀、シュメール人の国ウル第3王朝がメソポタミアを支配しました。
バビロン第1王朝の建国と滅亡
シリア方面から侵入したセム語系のアムル人が、前19世紀、古バビロニア王国(バビロン第1王朝)を建国しました。
前18世紀、ハンムラビ王の治世下でメソポタミアが統一されました。
ハンムラビ王は治水・灌漑を進め、また、かつてのシュメール法を集成して『ハンムラビ法典』を制定しました。
『ハンムラビ法典』は、「目には目を、歯には歯を」という復讐ふくしゅう法の原則や、身分による刑罰差の原則を特徴とします。
ハンムラビ法典
楔形文字で記録された石碑が、ペルシアの古都スサで発見
上部に王が正義の神シャマシュから 法典を授かる場面の浮き彫りがあり
17世紀、インド=ヨーロッパ語族のヒッタイト人は、アナトリア半島(小アジア)に王国を建国しました。 | 前18世紀、メソポタミアを統一した王は、誰ですか。 | 前18世紀、メソポタミアを統一した王は、ハンムラビ王です。 |
JCRRAG_008754 | 歴史 | オリエントの風土
ヨーロッパから見た「太陽の昇るところ(東方)」、今日の中東にあたるエジプト・西アジアはオリエントと呼ばれます。
オリエントは気温が高く、砂漠・岩山の地域が多く広がります。
そのため、河川やオアシスで麦やナツメヤシを栽培します。
大河では早くから灌漑かんがい農業・定住化が進みました。
次の①②の地域の大河流域には、前3000年頃から高い文明が発達しました。
①メソポタミア(河川:ティグリス川・ユーフラテス川)
②エジプト(河川:ナイル川)
メソポタミア
「川の間の地域」の意
灌漑農業
乾燥地域で河川や地下水から畑へ人工的に給水しておこなう農業
古代オリエントの人々と社会
①メソポタミア
セム語系の人々が複雑な歴史を展開
②エジプト
エジプト語系の人々が安定した歴史を展開
③シリア・パレスチナ
①②を結ぶように「肥沃ひよくな三日月地帯」が広がり、 セム語系の人々が地中海の交易で活躍
①~③の地域の社会では治水の重要性が高く、神の権威で統治する神権政治政治が多く見られました。
シュメール人の登場
前3500年頃、メソポタミア南部で人口が増加し、大集落が成立しました。
文字が発明され、銅器・青銅器などの金属が普及しました。
前3000年頃、シュメール人の都市国家が多く形成されました。
代表的な都市国家は、ウル・ウルク・ラガシュでした。
各都市は互いに覇権を争いました。
シュメール人
系統不明の民族
各都市は城壁で囲まれ、中心部に祭壇の聖塔ジッグラトを設置
シュメール人の文化
宗教
多神教(自然神・各都市の守護神)
文字
楔形文字
主に粘土板に記されたが、碑文に用いられた例もあり
19世紀、イギリス人ローリンソンが ベヒストゥーン碑文をもとに解読
法律
シュメール法
バビロン第1王朝が継承し、『 ハンムラビ法典』に集成
学問
60進法に基づく時間や方位の観念、太陰暦や閏年うるうどし、占星術の発達
文学
英雄叙事詩じょじしの『ギルガメシュ叙事詩』
アッカド王国―最初の統一国家
前3000年頃、アラビア方面からセム語系のアッカド人がメソポタミア中部に移動・定着しました。
前24世紀、王サルゴン1世がメソポタミアを統一しました。
他地域に遠征を繰り返しましたが、まもなく王国は滅びました。
前22世紀、シュメール人の国ウル第3王朝がメソポタミアを支配しました。
バビロン第1王朝の建国と滅亡
シリア方面から侵入したセム語系のアムル人が、前19世紀、古バビロニア王国(バビロン第1王朝)を建国しました。
前18世紀、ハンムラビ王の治世下でメソポタミアが統一されました。
ハンムラビ王は治水・灌漑を進め、また、かつてのシュメール法を集成して『ハンムラビ法典』を制定しました。
『ハンムラビ法典』は、「目には目を、歯には歯を」という復讐ふくしゅう法の原則や、身分による刑罰差の原則を特徴とします。
ハンムラビ法典
楔形文字で記録された石碑が、ペルシアの古都スサで発見
上部に王が正義の神シャマシュから 法典を授かる場面の浮き彫りがあり
17世紀、インド=ヨーロッパ語族のヒッタイト人は、アナトリア半島(小アジア)に王国を建国しました。 | ハンムラビ王は治水・灌漑を進め、また、かつてのシュメール法を集成して何を制定しましたか。 | ハンムラビ王は治水・灌漑を進め、また、かつてのシュメール法を集成してを制定したのはハンムラビ法典です。 |
JCRRAG_008755 | 歴史 | 統一国家の登場
エジプトは、ナイル川の水量の増減で1年が3つの季節に分けられます。
ナイル川の氾濫がもたらす肥沃土を農業に利用して、エジプト文明は発達しました。
ギリシアのヘロドトスは、「エジプトはナイルのたまもの」と評しました。
ヘロドトス
前5世紀の歴史家で、ペルシア戦争を描いた『歴史』を著述
古くからエジプト人は、ナイル川流域にノモスという集落を形成しました。
ノモスは治水・灌漑の指導者を必要とし、他のノモスとの統合を繰り返しました。
前3000年頃、王(称号:ファラオ)による統一国家がつくられました。
前3世紀まで約30の王朝が交替しましたが、特に繁栄した時期は次の3区分です。
古王国
前27~前22世紀の第3~6王朝
中王国
前21~前18世紀の第11~12王朝
新王国
前1567~前1085年の第18~20王朝
エジプトの文化
ファラオ
神の子と考えられ、専制的な神権政治を実施
宗教
次の神々が存在する多神教
古王国時代からの神で、太陽神ラー
新王国時代、ラーと首都テーベの守護神アモンの信仰が重なり、アモン=ラーの信仰が隆盛
新王国時代の途中、アメンホテプ4世はアトンが唯一神の一神教を強制
古王国時代からの神で、死者の審判をおこなう冥界の神オシリス
文字
碑文・墓室・石棺に刻む神聖文字(ヒエログリフ)
宗教書・行政文書に用いる神聖文字の簡易文字神官文字(ヒエラティック)
民衆文字(デモティック)
神聖文字・民衆文字・ギリシア文字を刻んだ碑文ロゼッタ=ストーンが、ナポレオン軍に発見され、フランス人シャンポリオンが神聖文字を解読
学問
10進法や、ナイルの氾濫に対応するために太陽暦・測地術の発達
死生観
霊魂の不滅と死後の世界を信じてミイラを作り、パピルスに神聖文字で書いた「死者の書」とともに埋葬
ピラミッド
エジプトの王墓の一種で、古王国時代が最盛期
太陽暦
のちにローマで採用されてユリウス暦として利用
パピルス
植物の茎の繊維でつくった紙
各王国の出来事
古王国|前27~前22世紀
首都:ナイル下流域のメンフィス
王クフの墓であるギザのピラミッドが築造されました。
中王国|前21~前18世紀
首都:ナイル中流域のテーベ
前18世紀末期、シリアから遊牧民ヒクソスが侵入しました。
ヒクソス
民族名ではなく、「異邦人の支配者」という意味
新王国|前16~前11世紀
首都:テーベ、前14世紀からアケトアトン(テル=エル=アマルナ)
前16世紀、ヒクソスを追放してシリアへ進出しました。
前14世紀、王アメンホテプ4世が都をテル=エル=アマルナに移動し、多神教を禁じて1つの神アトンだけの信仰を強制しました。
アメンホテプ4世は自身をアトンに有益なる者「イクナートン」と改称しました。
アトン信仰はアメンホテプ4世の死で終わりましたが、写実的なアマルナ美術を生んだ。
前13世紀の王ラムセス2世の時、エジプトの領土は最大になりました。
またラムセス2世は、ヒッタイトとシリアのカデシュで戦いました。
その後
前7世紀、アッシリア王国に征服され、次いで前525年、アケメネス朝ペルシアに征服されました。 | ギリシアのヘロドトスは、「エジプトは何のたまもの」と評しましたか。 | ギリシアのヘロドトスは、「エジプトはナイルのたまもの」と評しました。 |
JCRRAG_008756 | 歴史 | 統一国家の登場
エジプトは、ナイル川の水量の増減で1年が3つの季節に分けられます。
ナイル川の氾濫がもたらす肥沃土を農業に利用して、エジプト文明は発達しました。
ギリシアのヘロドトスは、「エジプトはナイルのたまもの」と評しました。
ヘロドトス
前5世紀の歴史家で、ペルシア戦争を描いた『歴史』を著述
古くからエジプト人は、ナイル川流域にノモスという集落を形成しました。
ノモスは治水・灌漑の指導者を必要とし、他のノモスとの統合を繰り返しました。
前3000年頃、王(称号:ファラオ)による統一国家がつくられました。
前3世紀まで約30の王朝が交替しましたが、特に繁栄した時期は次の3区分です。
古王国
前27~前22世紀の第3~6王朝
中王国
前21~前18世紀の第11~12王朝
新王国
前1567~前1085年の第18~20王朝
エジプトの文化
ファラオ
神の子と考えられ、専制的な神権政治を実施
宗教
次の神々が存在する多神教
古王国時代からの神で、太陽神ラー
新王国時代、ラーと首都テーベの守護神アモンの信仰が重なり、アモン=ラーの信仰が隆盛
新王国時代の途中、アメンホテプ4世はアトンが唯一神の一神教を強制
古王国時代からの神で、死者の審判をおこなう冥界の神オシリス
文字
碑文・墓室・石棺に刻む神聖文字(ヒエログリフ)
宗教書・行政文書に用いる神聖文字の簡易文字神官文字(ヒエラティック)
民衆文字(デモティック)
神聖文字・民衆文字・ギリシア文字を刻んだ碑文ロゼッタ=ストーンが、ナポレオン軍に発見され、フランス人シャンポリオンが神聖文字を解読
学問
10進法や、ナイルの氾濫に対応するために太陽暦・測地術の発達
死生観
霊魂の不滅と死後の世界を信じてミイラを作り、パピルスに神聖文字で書いた「死者の書」とともに埋葬
ピラミッド
エジプトの王墓の一種で、古王国時代が最盛期
太陽暦
のちにローマで採用されてユリウス暦として利用
パピルス
植物の茎の繊維でつくった紙
各王国の出来事
古王国|前27~前22世紀
首都:ナイル下流域のメンフィス
王クフの墓であるギザのピラミッドが築造されました。
中王国|前21~前18世紀
首都:ナイル中流域のテーベ
前18世紀末期、シリアから遊牧民ヒクソスが侵入しました。
ヒクソス
民族名ではなく、「異邦人の支配者」という意味
新王国|前16~前11世紀
首都:テーベ、前14世紀からアケトアトン(テル=エル=アマルナ)
前16世紀、ヒクソスを追放してシリアへ進出しました。
前14世紀、王アメンホテプ4世が都をテル=エル=アマルナに移動し、多神教を禁じて1つの神アトンだけの信仰を強制しました。
アメンホテプ4世は自身をアトンに有益なる者「イクナートン」と改称しました。
アトン信仰はアメンホテプ4世の死で終わりましたが、写実的なアマルナ美術を生んだ。
前13世紀の王ラムセス2世の時、エジプトの領土は最大になりました。
またラムセス2世は、ヒッタイトとシリアのカデシュで戦いました。
その後
前7世紀、アッシリア王国に征服され、次いで前525年、アケメネス朝ペルシアに征服されました。 | 前3000年頃、統一国家を作った王の称号は何ですか。 | 前3000年頃、統一国家を作った王はファラオです。 |
JCRRAG_008757 | 歴史 | 統一国家の登場
エジプトは、ナイル川の水量の増減で1年が3つの季節に分けられます。
ナイル川の氾濫がもたらす肥沃土を農業に利用して、エジプト文明は発達しました。
ギリシアのヘロドトスは、「エジプトはナイルのたまもの」と評しました。
ヘロドトス
前5世紀の歴史家で、ペルシア戦争を描いた『歴史』を著述
古くからエジプト人は、ナイル川流域にノモスという集落を形成しました。
ノモスは治水・灌漑の指導者を必要とし、他のノモスとの統合を繰り返しました。
前3000年頃、王(称号:ファラオ)による統一国家がつくられました。
前3世紀まで約30の王朝が交替しましたが、特に繁栄した時期は次の3区分です。
古王国
前27~前22世紀の第3~6王朝
中王国
前21~前18世紀の第11~12王朝
新王国
前1567~前1085年の第18~20王朝
エジプトの文化
ファラオ
神の子と考えられ、専制的な神権政治を実施
宗教
次の神々が存在する多神教
古王国時代からの神で、太陽神ラー
新王国時代、ラーと首都テーベの守護神アモンの信仰が重なり、アモン=ラーの信仰が隆盛
新王国時代の途中、アメンホテプ4世はアトンが唯一神の一神教を強制
古王国時代からの神で、死者の審判をおこなう冥界の神オシリス
文字
碑文・墓室・石棺に刻む神聖文字(ヒエログリフ)
宗教書・行政文書に用いる神聖文字の簡易文字神官文字(ヒエラティック)
民衆文字(デモティック)
神聖文字・民衆文字・ギリシア文字を刻んだ碑文ロゼッタ=ストーンが、ナポレオン軍に発見され、フランス人シャンポリオンが神聖文字を解読
学問
10進法や、ナイルの氾濫に対応するために太陽暦・測地術の発達
死生観
霊魂の不滅と死後の世界を信じてミイラを作り、パピルスに神聖文字で書いた「死者の書」とともに埋葬
ピラミッド
エジプトの王墓の一種で、古王国時代が最盛期
太陽暦
のちにローマで採用されてユリウス暦として利用
パピルス
植物の茎の繊維でつくった紙
各王国の出来事
古王国|前27~前22世紀
首都:ナイル下流域のメンフィス
王クフの墓であるギザのピラミッドが築造されました。
中王国|前21~前18世紀
首都:ナイル中流域のテーベ
前18世紀末期、シリアから遊牧民ヒクソスが侵入しました。
ヒクソス
民族名ではなく、「異邦人の支配者」という意味
新王国|前16~前11世紀
首都:テーベ、前14世紀からアケトアトン(テル=エル=アマルナ)
前16世紀、ヒクソスを追放してシリアへ進出しました。
前14世紀、王アメンホテプ4世が都をテル=エル=アマルナに移動し、多神教を禁じて1つの神アトンだけの信仰を強制しました。
アメンホテプ4世は自身をアトンに有益なる者「イクナートン」と改称しました。
アトン信仰はアメンホテプ4世の死で終わりましたが、写実的なアマルナ美術を生んだ。
前13世紀の王ラムセス2世の時、エジプトの領土は最大になりました。
またラムセス2世は、ヒッタイトとシリアのカデシュで戦いました。
その後
前7世紀、アッシリア王国に征服され、次いで前525年、アケメネス朝ペルシアに征服されました。 | ナポレオン軍に発見され、フランス人シャンポリオンが神聖文字を解読した碑文は何ですか。 | ナポレオン軍に発見され、フランス人シャンポリオンが神聖文字を解読した碑文はロゼッタ=ストーンです。 |
JCRRAG_008758 | 歴史 | 統一国家の登場
エジプトは、ナイル川の水量の増減で1年が3つの季節に分けられます。
ナイル川の氾濫がもたらす肥沃土を農業に利用して、エジプト文明は発達しました。
ギリシアのヘロドトスは、「エジプトはナイルのたまもの」と評しました。
ヘロドトス
前5世紀の歴史家で、ペルシア戦争を描いた『歴史』を著述
古くからエジプト人は、ナイル川流域にノモスという集落を形成しました。
ノモスは治水・灌漑の指導者を必要とし、他のノモスとの統合を繰り返しました。
前3000年頃、王(称号:ファラオ)による統一国家がつくられました。
前3世紀まで約30の王朝が交替しましたが、特に繁栄した時期は次の3区分です。
古王国
前27~前22世紀の第3~6王朝
中王国
前21~前18世紀の第11~12王朝
新王国
前1567~前1085年の第18~20王朝
エジプトの文化
ファラオ
神の子と考えられ、専制的な神権政治を実施
宗教
次の神々が存在する多神教
古王国時代からの神で、太陽神ラー
新王国時代、ラーと首都テーベの守護神アモンの信仰が重なり、アモン=ラーの信仰が隆盛
新王国時代の途中、アメンホテプ4世はアトンが唯一神の一神教を強制
古王国時代からの神で、死者の審判をおこなう冥界の神オシリス
文字
碑文・墓室・石棺に刻む神聖文字(ヒエログリフ)
宗教書・行政文書に用いる神聖文字の簡易文字神官文字(ヒエラティック)
民衆文字(デモティック)
神聖文字・民衆文字・ギリシア文字を刻んだ碑文ロゼッタ=ストーンが、ナポレオン軍に発見され、フランス人シャンポリオンが神聖文字を解読
学問
10進法や、ナイルの氾濫に対応するために太陽暦・測地術の発達
死生観
霊魂の不滅と死後の世界を信じてミイラを作り、パピルスに神聖文字で書いた「死者の書」とともに埋葬
ピラミッド
エジプトの王墓の一種で、古王国時代が最盛期
太陽暦
のちにローマで採用されてユリウス暦として利用
パピルス
植物の茎の繊維でつくった紙
各王国の出来事
古王国|前27~前22世紀
首都:ナイル下流域のメンフィス
王クフの墓であるギザのピラミッドが築造されました。
中王国|前21~前18世紀
首都:ナイル中流域のテーベ
前18世紀末期、シリアから遊牧民ヒクソスが侵入しました。
ヒクソス
民族名ではなく、「異邦人の支配者」という意味
新王国|前16~前11世紀
首都:テーベ、前14世紀からアケトアトン(テル=エル=アマルナ)
前16世紀、ヒクソスを追放してシリアへ進出しました。
前14世紀、王アメンホテプ4世が都をテル=エル=アマルナに移動し、多神教を禁じて1つの神アトンだけの信仰を強制しました。
アメンホテプ4世は自身をアトンに有益なる者「イクナートン」と改称しました。
アトン信仰はアメンホテプ4世の死で終わりましたが、写実的なアマルナ美術を生んだ。
前13世紀の王ラムセス2世の時、エジプトの領土は最大になりました。
またラムセス2世は、ヒッタイトとシリアのカデシュで戦いました。
その後
前7世紀、アッシリア王国に征服され、次いで前525年、アケメネス朝ペルシアに征服されました。 | 霊魂の不滅と死後の世界を信じて作ったものは何ですか。 | 霊魂の不滅と死後の世界を信じて作ったものはミイラです。 |
JCRRAG_008759 | 歴史 | 統一国家の登場
エジプトは、ナイル川の水量の増減で1年が3つの季節に分けられます。
ナイル川の氾濫がもたらす肥沃土を農業に利用して、エジプト文明は発達しました。
ギリシアのヘロドトスは、「エジプトはナイルのたまもの」と評しました。
ヘロドトス
前5世紀の歴史家で、ペルシア戦争を描いた『歴史』を著述
古くからエジプト人は、ナイル川流域にノモスという集落を形成しました。
ノモスは治水・灌漑の指導者を必要とし、他のノモスとの統合を繰り返しました。
前3000年頃、王(称号:ファラオ)による統一国家がつくられました。
前3世紀まで約30の王朝が交替しましたが、特に繁栄した時期は次の3区分です。
古王国
前27~前22世紀の第3~6王朝
中王国
前21~前18世紀の第11~12王朝
新王国
前1567~前1085年の第18~20王朝
エジプトの文化
ファラオ
神の子と考えられ、専制的な神権政治を実施
宗教
次の神々が存在する多神教
古王国時代からの神で、太陽神ラー
新王国時代、ラーと首都テーベの守護神アモンの信仰が重なり、アモン=ラーの信仰が隆盛
新王国時代の途中、アメンホテプ4世はアトンが唯一神の一神教を強制
古王国時代からの神で、死者の審判をおこなう冥界の神オシリス
文字
碑文・墓室・石棺に刻む神聖文字(ヒエログリフ)
宗教書・行政文書に用いる神聖文字の簡易文字神官文字(ヒエラティック)
民衆文字(デモティック)
神聖文字・民衆文字・ギリシア文字を刻んだ碑文ロゼッタ=ストーンが、ナポレオン軍に発見され、フランス人シャンポリオンが神聖文字を解読
学問
10進法や、ナイルの氾濫に対応するために太陽暦・測地術の発達
死生観
霊魂の不滅と死後の世界を信じてミイラを作り、パピルスに神聖文字で書いた「死者の書」とともに埋葬
ピラミッド
エジプトの王墓の一種で、古王国時代が最盛期
太陽暦
のちにローマで採用されてユリウス暦として利用
パピルス
植物の茎の繊維でつくった紙
各王国の出来事
古王国|前27~前22世紀
首都:ナイル下流域のメンフィス
王クフの墓であるギザのピラミッドが築造されました。
中王国|前21~前18世紀
首都:ナイル中流域のテーベ
前18世紀末期、シリアから遊牧民ヒクソスが侵入しました。
ヒクソス
民族名ではなく、「異邦人の支配者」という意味
新王国|前16~前11世紀
首都:テーベ、前14世紀からアケトアトン(テル=エル=アマルナ)
前16世紀、ヒクソスを追放してシリアへ進出しました。
前14世紀、王アメンホテプ4世が都をテル=エル=アマルナに移動し、多神教を禁じて1つの神アトンだけの信仰を強制しました。
アメンホテプ4世は自身をアトンに有益なる者「イクナートン」と改称しました。
アトン信仰はアメンホテプ4世の死で終わりましたが、写実的なアマルナ美術を生んだ。
前13世紀の王ラムセス2世の時、エジプトの領土は最大になりました。
またラムセス2世は、ヒッタイトとシリアのカデシュで戦いました。
その後
前7世紀、アッシリア王国に征服され、次いで前525年、アケメネス朝ペルシアに征服されました。 | ピラミッドが作られたのは、何時代が最盛期ですか。 | ピラミッドが作られたのは、古王国時代が最盛期です。 |
JCRRAG_008760 | 歴史 | 東地中海世界
「海の民」
地中海東岸のシリア・パレスチナ地方は、海陸交通の要衝でした。
前1500年頃から、セム語系のカナーン人が交易で活躍しました。
前1200年頃、系統不明の諸民族集団「海の民」が、ギリシア・エーゲ海方面から進出してきました。
「海の民」は、鉄製武器や戦車を用いたヒッタイトやエジプトを後退させました。
上記の混乱に乗じ、地中海東岸ではセム語系の3民族が活動を始めました。
アラム人
フェニキア人
ヘブライ(イスラエル)人
アラム人
アラム人は、前1200年頃からダマスクスを中心に、内陸都市を結ぶ中継貿易(内陸貿易)で活躍しました。
結果、アラム語は国際商業の言語として広く使われ、アラム文字はヘブライ文字・アラビア文字などの文字の起源になった。
フェニキア人
フェニキア人は、シリア沿岸にシドン・ティルスなど都市国家や、北アフリカのカルタゴなど植民都市を建設し、地中海貿易で活躍しました。
フェニキア人がつくった線上の表音文字フェニキア文字は、のちにギリシア文字になり、今日のアルファベットの起源になりました。
ヘブライ人
遊牧民のへブライ人は、前1500年頃パレスチナに定住し、一部はエジプトの移住しました。
しかし、その者らはエジプト新王国のファラオによる圧政に苦しみました。
前13世紀、出エジプト
ヘブライ人が指導者モーセに率いられてエジプトを脱出したこと
前1000年頃、ヘブライ人はパレスチナに王国(首都イェルサレム)を建て、国王ダヴィデ王とその子ソロモン王のもとで栄えました。
ソロモン王の死後、国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。
イスラエル王国
前722年、イスラエル王国はアッシリア王国に滅ぼされました。
ユダ王国
前586年、ユダ王国は新バビロニアに滅ぼされました。
バビロン捕囚
ユダ王国のヘブライ人が、新バビロニアの都バビロンに連行された事件
連行された人々は、彼らだけが唯一神ヤハウェの救済対象で(選民思想)、やがて救世主(メシア)が出現するという考えをもち始めました。
このような考えを抱く彼らは、やがてユダヤ人と呼ばれるようになりました。
前538年、捕囚から解放された彼らは、イェルサレムにヤハウェの神殿を再建し、『旧約聖書』を教典とするユダヤ教が確立されました。
預言者
神から言葉を預かり、それを人々に伝える者
ディアスポラ
「分散」の意で、パレスチナ以外にユダヤ人が離散したこと
オリエント世界
アッシリア王国
前2000年頃に北メソポタミアにおこったアッシリア王国は、まず古バビロニア王国に、そして前15世紀からミタンニ王国に服属しました。
前14世紀、アッシリア王国は独立を回復し、鉄製武器と戦車・騎兵隊を用いて、前7世紀前半、全オリエントを征服し、最初の「世界帝国」になりました。
ニネヴェ
前8世紀末からアッシリア王国の首都となった都市
アッシュル=バニパル
アッシリア王国の最大版図を達成し、大図書館を造った国王
アッシリアの国王は、強大な専制君主で政治・軍事・宗教を自ら管理しました。
国内を州に分けて駅伝制を敷き、各地に総督を置いて統治しました。
しかし、アッシリア王国は重税と圧政によって反抗を招き、前612年に崩壊しました。
オーパーツ?―アッシリアの水晶レンズ
アッシリアのニムルドから、直径4.2㎝、幅3.45㎝の水晶レンズが見つかりました。本の上に置くと文字を拡大して見ることができるそうで、当時の技術水準を超えたオーパーツの1つに数えられています。しかし、象嵌に使用されたもので、太陽の光を集めるようなものではなかったという説が有力です。レンズとしての機能は偶然の産物とされています。
4王国
アッシリア王国崩壊後のオリエントには、次の4つの王国が分立しました。
エジプト
メディア
リディア
新バビロニア
リディア
世界最古の金属貨幣を鋳造した王国
新バビロニア
最盛期の王ネブカドネザル2世の時、バビロン捕囚を実行した | 国際商業の言語として広く使われ、ヘブライ文字・アラビア文字などの文字の起源になった言語は何ですか。 | 国際商業の言語として広く使われ、ヘブライ文字・アラビア文字などの文字の起源になった言語はアラム語です。 |
JCRRAG_008761 | 歴史 | 東地中海世界
「海の民」
地中海東岸のシリア・パレスチナ地方は、海陸交通の要衝でした。
前1500年頃から、セム語系のカナーン人が交易で活躍しました。
前1200年頃、系統不明の諸民族集団「海の民」が、ギリシア・エーゲ海方面から進出してきました。
「海の民」は、鉄製武器や戦車を用いたヒッタイトやエジプトを後退させました。
上記の混乱に乗じ、地中海東岸ではセム語系の3民族が活動を始めました。
アラム人
フェニキア人
ヘブライ(イスラエル)人
アラム人
アラム人は、前1200年頃からダマスクスを中心に、内陸都市を結ぶ中継貿易(内陸貿易)で活躍しました。
結果、アラム語は国際商業の言語として広く使われ、アラム文字はヘブライ文字・アラビア文字などの文字の起源になった。
フェニキア人
フェニキア人は、シリア沿岸にシドン・ティルスなど都市国家や、北アフリカのカルタゴなど植民都市を建設し、地中海貿易で活躍しました。
フェニキア人がつくった線上の表音文字フェニキア文字は、のちにギリシア文字になり、今日のアルファベットの起源になりました。
ヘブライ人
遊牧民のへブライ人は、前1500年頃パレスチナに定住し、一部はエジプトの移住しました。
しかし、その者らはエジプト新王国のファラオによる圧政に苦しみました。
前13世紀、出エジプト
ヘブライ人が指導者モーセに率いられてエジプトを脱出したこと
前1000年頃、ヘブライ人はパレスチナに王国(首都イェルサレム)を建て、国王ダヴィデ王とその子ソロモン王のもとで栄えました。
ソロモン王の死後、国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。
イスラエル王国
前722年、イスラエル王国はアッシリア王国に滅ぼされました。
ユダ王国
前586年、ユダ王国は新バビロニアに滅ぼされました。
バビロン捕囚
ユダ王国のヘブライ人が、新バビロニアの都バビロンに連行された事件
連行された人々は、彼らだけが唯一神ヤハウェの救済対象で(選民思想)、やがて救世主(メシア)が出現するという考えをもち始めました。
このような考えを抱く彼らは、やがてユダヤ人と呼ばれるようになりました。
前538年、捕囚から解放された彼らは、イェルサレムにヤハウェの神殿を再建し、『旧約聖書』を教典とするユダヤ教が確立されました。
預言者
神から言葉を預かり、それを人々に伝える者
ディアスポラ
「分散」の意で、パレスチナ以外にユダヤ人が離散したこと
オリエント世界
アッシリア王国
前2000年頃に北メソポタミアにおこったアッシリア王国は、まず古バビロニア王国に、そして前15世紀からミタンニ王国に服属しました。
前14世紀、アッシリア王国は独立を回復し、鉄製武器と戦車・騎兵隊を用いて、前7世紀前半、全オリエントを征服し、最初の「世界帝国」になりました。
ニネヴェ
前8世紀末からアッシリア王国の首都となった都市
アッシュル=バニパル
アッシリア王国の最大版図を達成し、大図書館を造った国王
アッシリアの国王は、強大な専制君主で政治・軍事・宗教を自ら管理しました。
国内を州に分けて駅伝制を敷き、各地に総督を置いて統治しました。
しかし、アッシリア王国は重税と圧政によって反抗を招き、前612年に崩壊しました。
オーパーツ?―アッシリアの水晶レンズ
アッシリアのニムルドから、直径4.2㎝、幅3.45㎝の水晶レンズが見つかりました。本の上に置くと文字を拡大して見ることができるそうで、当時の技術水準を超えたオーパーツの1つに数えられています。しかし、象嵌に使用されたもので、太陽の光を集めるようなものではなかったという説が有力です。レンズとしての機能は偶然の産物とされています。
4王国
アッシリア王国崩壊後のオリエントには、次の4つの王国が分立しました。
エジプト
メディア
リディア
新バビロニア
リディア
世界最古の金属貨幣を鋳造した王国
新バビロニア
最盛期の王ネブカドネザル2世の時、バビロン捕囚を実行した | のちにギリシア文字になり、今日のアルファベットの起源になった、フェニキア人がつくった線上の表音文字は何ですか。 | のちにギリシア文字になり、今日のアルファベットの起源になった、フェニキア人がつくった線上の表音文字はフェニキア文字です。 |
JCRRAG_008762 | 歴史 | 東地中海世界
「海の民」
地中海東岸のシリア・パレスチナ地方は、海陸交通の要衝でした。
前1500年頃から、セム語系のカナーン人が交易で活躍しました。
前1200年頃、系統不明の諸民族集団「海の民」が、ギリシア・エーゲ海方面から進出してきました。
「海の民」は、鉄製武器や戦車を用いたヒッタイトやエジプトを後退させました。
上記の混乱に乗じ、地中海東岸ではセム語系の3民族が活動を始めました。
アラム人
フェニキア人
ヘブライ(イスラエル)人
アラム人
アラム人は、前1200年頃からダマスクスを中心に、内陸都市を結ぶ中継貿易(内陸貿易)で活躍しました。
結果、アラム語は国際商業の言語として広く使われ、アラム文字はヘブライ文字・アラビア文字などの文字の起源になった。
フェニキア人
フェニキア人は、シリア沿岸にシドン・ティルスなど都市国家や、北アフリカのカルタゴなど植民都市を建設し、地中海貿易で活躍しました。
フェニキア人がつくった線上の表音文字フェニキア文字は、のちにギリシア文字になり、今日のアルファベットの起源になりました。
ヘブライ人
遊牧民のへブライ人は、前1500年頃パレスチナに定住し、一部はエジプトの移住しました。
しかし、その者らはエジプト新王国のファラオによる圧政に苦しみました。
前13世紀、出エジプト
ヘブライ人が指導者モーセに率いられてエジプトを脱出したこと
前1000年頃、ヘブライ人はパレスチナに王国(首都イェルサレム)を建て、国王ダヴィデ王とその子ソロモン王のもとで栄えました。
ソロモン王の死後、国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。
イスラエル王国
前722年、イスラエル王国はアッシリア王国に滅ぼされました。
ユダ王国
前586年、ユダ王国は新バビロニアに滅ぼされました。
バビロン捕囚
ユダ王国のヘブライ人が、新バビロニアの都バビロンに連行された事件
連行された人々は、彼らだけが唯一神ヤハウェの救済対象で(選民思想)、やがて救世主(メシア)が出現するという考えをもち始めました。
このような考えを抱く彼らは、やがてユダヤ人と呼ばれるようになりました。
前538年、捕囚から解放された彼らは、イェルサレムにヤハウェの神殿を再建し、『旧約聖書』を教典とするユダヤ教が確立されました。
預言者
神から言葉を預かり、それを人々に伝える者
ディアスポラ
「分散」の意で、パレスチナ以外にユダヤ人が離散したこと
オリエント世界
アッシリア王国
前2000年頃に北メソポタミアにおこったアッシリア王国は、まず古バビロニア王国に、そして前15世紀からミタンニ王国に服属しました。
前14世紀、アッシリア王国は独立を回復し、鉄製武器と戦車・騎兵隊を用いて、前7世紀前半、全オリエントを征服し、最初の「世界帝国」になりました。
ニネヴェ
前8世紀末からアッシリア王国の首都となった都市
アッシュル=バニパル
アッシリア王国の最大版図を達成し、大図書館を造った国王
アッシリアの国王は、強大な専制君主で政治・軍事・宗教を自ら管理しました。
国内を州に分けて駅伝制を敷き、各地に総督を置いて統治しました。
しかし、アッシリア王国は重税と圧政によって反抗を招き、前612年に崩壊しました。
オーパーツ?―アッシリアの水晶レンズ
アッシリアのニムルドから、直径4.2㎝、幅3.45㎝の水晶レンズが見つかりました。本の上に置くと文字を拡大して見ることができるそうで、当時の技術水準を超えたオーパーツの1つに数えられています。しかし、象嵌に使用されたもので、太陽の光を集めるようなものではなかったという説が有力です。レンズとしての機能は偶然の産物とされています。
4王国
アッシリア王国崩壊後のオリエントには、次の4つの王国が分立しました。
エジプト
メディア
リディア
新バビロニア
リディア
世界最古の金属貨幣を鋳造した王国
新バビロニア
最盛期の王ネブカドネザル2世の時、バビロン捕囚を実行した | ユダ王国のヘブライ人が、新バビロニアの都バビロンに連行された事件は何ですか。 | ユダ王国のヘブライ人が、新バビロニアの都バビロンに連行された事件はバビロン捕囚です。 |
JCRRAG_008763 | 歴史 | 東地中海世界
「海の民」
地中海東岸のシリア・パレスチナ地方は、海陸交通の要衝でした。
前1500年頃から、セム語系のカナーン人が交易で活躍しました。
前1200年頃、系統不明の諸民族集団「海の民」が、ギリシア・エーゲ海方面から進出してきました。
「海の民」は、鉄製武器や戦車を用いたヒッタイトやエジプトを後退させました。
上記の混乱に乗じ、地中海東岸ではセム語系の3民族が活動を始めました。
アラム人
フェニキア人
ヘブライ(イスラエル)人
アラム人
アラム人は、前1200年頃からダマスクスを中心に、内陸都市を結ぶ中継貿易(内陸貿易)で活躍しました。
結果、アラム語は国際商業の言語として広く使われ、アラム文字はヘブライ文字・アラビア文字などの文字の起源になった。
フェニキア人
フェニキア人は、シリア沿岸にシドン・ティルスなど都市国家や、北アフリカのカルタゴなど植民都市を建設し、地中海貿易で活躍しました。
フェニキア人がつくった線上の表音文字フェニキア文字は、のちにギリシア文字になり、今日のアルファベットの起源になりました。
ヘブライ人
遊牧民のへブライ人は、前1500年頃パレスチナに定住し、一部はエジプトの移住しました。
しかし、その者らはエジプト新王国のファラオによる圧政に苦しみました。
前13世紀、出エジプト
ヘブライ人が指導者モーセに率いられてエジプトを脱出したこと
前1000年頃、ヘブライ人はパレスチナに王国(首都イェルサレム)を建て、国王ダヴィデ王とその子ソロモン王のもとで栄えました。
ソロモン王の死後、国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。
イスラエル王国
前722年、イスラエル王国はアッシリア王国に滅ぼされました。
ユダ王国
前586年、ユダ王国は新バビロニアに滅ぼされました。
バビロン捕囚
ユダ王国のヘブライ人が、新バビロニアの都バビロンに連行された事件
連行された人々は、彼らだけが唯一神ヤハウェの救済対象で(選民思想)、やがて救世主(メシア)が出現するという考えをもち始めました。
このような考えを抱く彼らは、やがてユダヤ人と呼ばれるようになりました。
前538年、捕囚から解放された彼らは、イェルサレムにヤハウェの神殿を再建し、『旧約聖書』を教典とするユダヤ教が確立されました。
預言者
神から言葉を預かり、それを人々に伝える者
ディアスポラ
「分散」の意で、パレスチナ以外にユダヤ人が離散したこと
オリエント世界
アッシリア王国
前2000年頃に北メソポタミアにおこったアッシリア王国は、まず古バビロニア王国に、そして前15世紀からミタンニ王国に服属しました。
前14世紀、アッシリア王国は独立を回復し、鉄製武器と戦車・騎兵隊を用いて、前7世紀前半、全オリエントを征服し、最初の「世界帝国」になりました。
ニネヴェ
前8世紀末からアッシリア王国の首都となった都市
アッシュル=バニパル
アッシリア王国の最大版図を達成し、大図書館を造った国王
アッシリアの国王は、強大な専制君主で政治・軍事・宗教を自ら管理しました。
国内を州に分けて駅伝制を敷き、各地に総督を置いて統治しました。
しかし、アッシリア王国は重税と圧政によって反抗を招き、前612年に崩壊しました。
オーパーツ?―アッシリアの水晶レンズ
アッシリアのニムルドから、直径4.2㎝、幅3.45㎝の水晶レンズが見つかりました。本の上に置くと文字を拡大して見ることができるそうで、当時の技術水準を超えたオーパーツの1つに数えられています。しかし、象嵌に使用されたもので、太陽の光を集めるようなものではなかったという説が有力です。レンズとしての機能は偶然の産物とされています。
4王国
アッシリア王国崩壊後のオリエントには、次の4つの王国が分立しました。
エジプト
メディア
リディア
新バビロニア
リディア
世界最古の金属貨幣を鋳造した王国
新バビロニア
最盛期の王ネブカドネザル2世の時、バビロン捕囚を実行した | 前538年確立された、『旧約聖書』を教典とした宗教は何ですか。 | 前538年確立された、『旧約聖書』を教典とした宗教はユダヤ教です。 |
JCRRAG_008764 | 歴史 | 東地中海世界
「海の民」
地中海東岸のシリア・パレスチナ地方は、海陸交通の要衝でした。
前1500年頃から、セム語系のカナーン人が交易で活躍しました。
前1200年頃、系統不明の諸民族集団「海の民」が、ギリシア・エーゲ海方面から進出してきました。
「海の民」は、鉄製武器や戦車を用いたヒッタイトやエジプトを後退させました。
上記の混乱に乗じ、地中海東岸ではセム語系の3民族が活動を始めました。
アラム人
フェニキア人
ヘブライ(イスラエル)人
アラム人
アラム人は、前1200年頃からダマスクスを中心に、内陸都市を結ぶ中継貿易(内陸貿易)で活躍しました。
結果、アラム語は国際商業の言語として広く使われ、アラム文字はヘブライ文字・アラビア文字などの文字の起源になった。
フェニキア人
フェニキア人は、シリア沿岸にシドン・ティルスなど都市国家や、北アフリカのカルタゴなど植民都市を建設し、地中海貿易で活躍しました。
フェニキア人がつくった線上の表音文字フェニキア文字は、のちにギリシア文字になり、今日のアルファベットの起源になりました。
ヘブライ人
遊牧民のへブライ人は、前1500年頃パレスチナに定住し、一部はエジプトの移住しました。
しかし、その者らはエジプト新王国のファラオによる圧政に苦しみました。
前13世紀、出エジプト
ヘブライ人が指導者モーセに率いられてエジプトを脱出したこと
前1000年頃、ヘブライ人はパレスチナに王国(首都イェルサレム)を建て、国王ダヴィデ王とその子ソロモン王のもとで栄えました。
ソロモン王の死後、国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。
イスラエル王国
前722年、イスラエル王国はアッシリア王国に滅ぼされました。
ユダ王国
前586年、ユダ王国は新バビロニアに滅ぼされました。
バビロン捕囚
ユダ王国のヘブライ人が、新バビロニアの都バビロンに連行された事件
連行された人々は、彼らだけが唯一神ヤハウェの救済対象で(選民思想)、やがて救世主(メシア)が出現するという考えをもち始めました。
このような考えを抱く彼らは、やがてユダヤ人と呼ばれるようになりました。
前538年、捕囚から解放された彼らは、イェルサレムにヤハウェの神殿を再建し、『旧約聖書』を教典とするユダヤ教が確立されました。
預言者
神から言葉を預かり、それを人々に伝える者
ディアスポラ
「分散」の意で、パレスチナ以外にユダヤ人が離散したこと
オリエント世界
アッシリア王国
前2000年頃に北メソポタミアにおこったアッシリア王国は、まず古バビロニア王国に、そして前15世紀からミタンニ王国に服属しました。
前14世紀、アッシリア王国は独立を回復し、鉄製武器と戦車・騎兵隊を用いて、前7世紀前半、全オリエントを征服し、最初の「世界帝国」になりました。
ニネヴェ
前8世紀末からアッシリア王国の首都となった都市
アッシュル=バニパル
アッシリア王国の最大版図を達成し、大図書館を造った国王
アッシリアの国王は、強大な専制君主で政治・軍事・宗教を自ら管理しました。
国内を州に分けて駅伝制を敷き、各地に総督を置いて統治しました。
しかし、アッシリア王国は重税と圧政によって反抗を招き、前612年に崩壊しました。
オーパーツ?―アッシリアの水晶レンズ
アッシリアのニムルドから、直径4.2㎝、幅3.45㎝の水晶レンズが見つかりました。本の上に置くと文字を拡大して見ることができるそうで、当時の技術水準を超えたオーパーツの1つに数えられています。しかし、象嵌に使用されたもので、太陽の光を集めるようなものではなかったという説が有力です。レンズとしての機能は偶然の産物とされています。
4王国
アッシリア王国崩壊後のオリエントには、次の4つの王国が分立しました。
エジプト
メディア
リディア
新バビロニア
リディア
世界最古の金属貨幣を鋳造した王国
新バビロニア
最盛期の王ネブカドネザル2世の時、バビロン捕囚を実行した | アッシリア王国の最大版図を達成し、大図書館を造った国王は誰ですか。 | アッシリア王国の最大版図を達成し、大図書館を造った国王は、アッシュル=バニパルです。 |
JCRRAG_008765 | 歴史 | 大帝国の登場
オリエントの再統一
前6世紀半ば、イラン(ペルシア)人のキュロス2世が、アケメネス朝を興し、メディア・リディアを滅ぼしました。
前539年、キュロス2世は新バビロニアを滅ぼし、ユダヤ人を捕囚から解放しました。
3代国王ダレイオス1世は、西はエーゲ海北岸に、東はインダス川に至る大帝国を建設し、オリエントを再統一しました。
ダレイオス1世の施策
中央集権化
各州にサトラップと呼ばれる知事を配置して全国を統治
サトラップの監察に、「王の目」「王の耳」と呼ばれる役人が巡回
財政の基礎固め
金貨・銀貨の発行、税制の整理、フェニキア人の海上交易の保護
国道と駅伝制
都市スサを起点とした国道「王の道」を敷設
ペルセポリス
ダレイオス1世が建設を始めた祭祀用の首都
アケメネス朝のその後
前5世紀前半、ペルシア戦争
アケメネス朝が、ギリシアの諸ポリスに敗れた戦い
前333年、イッソスの戦い
アケメネス朝の王ダレイオス3世が、マケドニアのアレクサンドロス大王に敗れた戦い
前330年、アレクサンドロス大王に征服されました。
アケメネス朝の文化
文字:楔形文字を表音化したペルシア文字
宗教:ゾロアスター教(拝火教)
ゾロアスター教
世界は善神と悪神の闘争の場とし、最終的に善神が勝つと信仰
火を清浄なるものとして神聖視
東西交易の要衝
パルティア王国
アレクサンドロス大王の死後、大王が征服したアジアの領土には、ギリシア系王朝セレウコス朝が開かれました。
前3世紀、セレウコス朝から自立したギリシア人がバクトリアを建てました。
同時期に、イラン人の族長アルサケスがカスピ海東南部にパルティア(中国名:安息)を建てました。
前2世紀半ば、パルティアは領域をイランからメソポタミアまで広げ、クテシフォンを首都とし、東西交易を独占しました。
ササン朝ペルシア
紀元3世紀、イラン人アルダシール1世が、パルティアを倒してササン朝を建国しました。
ササン朝は、クテシフォンを首都とし、また、ゾロアスター教を国教に定めました。
2代国王シャープール1世は、シリアにてローマ軍を破り、ローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜としました。
6世紀、国王ホスロー1世はトルコ系遊牧民突厥と結び、中央アジアの遊牧民エフタルを滅ぼしました。
さらにビザンツ帝国との戦いも優勢に進めました。
642年、ニハーヴァンドの戦い
アラブ人のイスラーム軍に大破し、ササン朝の滅亡に繋がった戦い
イラン文明
ササン朝の2つの宗教
ゾロアスター教(国教)
ホスロー1世の時代に、教典『アヴェスター』が集大成
マニ教
ゾロアスター教・仏教・キリスト教を融合したマニ教が成立
国内では異端視されたが、北アフリカや中央アジア、唐代の中国に伝播
アルビジョワ派と呼ばれるキリスト教異端派にも影響
ササン朝美術
技術・様式が東西に伝播し、東方では中国を経て次の作品が日本に伝わりました。
漆胡瓶
正倉院所蔵の、典型的なササン朝様式の工芸品(水差し)
獅子狩文錦
法隆寺所蔵の、ササン朝美術の影響を受けた唐代の織物作品
| 前6世紀半ば、アケメネス朝を興し、メディア・リディアを滅ぼしたのは誰ですか。 | 前6世紀半ば、アケメネス朝を興し、メディア・リディアを滅ぼしたのは、キュロス2世です。 |
JCRRAG_008766 | 歴史 | 大帝国の登場
オリエントの再統一
前6世紀半ば、イラン(ペルシア)人のキュロス2世が、アケメネス朝を興し、メディア・リディアを滅ぼしました。
前539年、キュロス2世は新バビロニアを滅ぼし、ユダヤ人を捕囚から解放しました。
3代国王ダレイオス1世は、西はエーゲ海北岸に、東はインダス川に至る大帝国を建設し、オリエントを再統一しました。
ダレイオス1世の施策
中央集権化
各州にサトラップと呼ばれる知事を配置して全国を統治
サトラップの監察に、「王の目」「王の耳」と呼ばれる役人が巡回
財政の基礎固め
金貨・銀貨の発行、税制の整理、フェニキア人の海上交易の保護
国道と駅伝制
都市スサを起点とした国道「王の道」を敷設
ペルセポリス
ダレイオス1世が建設を始めた祭祀用の首都
アケメネス朝のその後
前5世紀前半、ペルシア戦争
アケメネス朝が、ギリシアの諸ポリスに敗れた戦い
前333年、イッソスの戦い
アケメネス朝の王ダレイオス3世が、マケドニアのアレクサンドロス大王に敗れた戦い
前330年、アレクサンドロス大王に征服されました。
アケメネス朝の文化
文字:楔形文字を表音化したペルシア文字
宗教:ゾロアスター教(拝火教)
ゾロアスター教
世界は善神と悪神の闘争の場とし、最終的に善神が勝つと信仰
火を清浄なるものとして神聖視
東西交易の要衝
パルティア王国
アレクサンドロス大王の死後、大王が征服したアジアの領土には、ギリシア系王朝セレウコス朝が開かれました。
前3世紀、セレウコス朝から自立したギリシア人がバクトリアを建てました。
同時期に、イラン人の族長アルサケスがカスピ海東南部にパルティア(中国名:安息)を建てました。
前2世紀半ば、パルティアは領域をイランからメソポタミアまで広げ、クテシフォンを首都とし、東西交易を独占しました。
ササン朝ペルシア
紀元3世紀、イラン人アルダシール1世が、パルティアを倒してササン朝を建国しました。
ササン朝は、クテシフォンを首都とし、また、ゾロアスター教を国教に定めました。
2代国王シャープール1世は、シリアにてローマ軍を破り、ローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜としました。
6世紀、国王ホスロー1世はトルコ系遊牧民突厥と結び、中央アジアの遊牧民エフタルを滅ぼしました。
さらにビザンツ帝国との戦いも優勢に進めました。
642年、ニハーヴァンドの戦い
アラブ人のイスラーム軍に大破し、ササン朝の滅亡に繋がった戦い
イラン文明
ササン朝の2つの宗教
ゾロアスター教(国教)
ホスロー1世の時代に、教典『アヴェスター』が集大成
マニ教
ゾロアスター教・仏教・キリスト教を融合したマニ教が成立
国内では異端視されたが、北アフリカや中央アジア、唐代の中国に伝播
アルビジョワ派と呼ばれるキリスト教異端派にも影響
ササン朝美術
技術・様式が東西に伝播し、東方では中国を経て次の作品が日本に伝わりました。
漆胡瓶
正倉院所蔵の、典型的なササン朝様式の工芸品(水差し)
獅子狩文錦
法隆寺所蔵の、ササン朝美術の影響を受けた唐代の織物作品
| 西はエーゲ海北岸に、東はインダス川に至る大帝国を建設し、オリエントを再統一した国王は誰ですか。 | 西はエーゲ海北岸に、東はインダス川に至る大帝国を建設し、オリエントを再統一した国王はダレイオス1世です。 |
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オリエントの再統一
前6世紀半ば、イラン(ペルシア)人のキュロス2世が、アケメネス朝を興し、メディア・リディアを滅ぼしました。
前539年、キュロス2世は新バビロニアを滅ぼし、ユダヤ人を捕囚から解放しました。
3代国王ダレイオス1世は、西はエーゲ海北岸に、東はインダス川に至る大帝国を建設し、オリエントを再統一しました。
ダレイオス1世の施策
中央集権化
各州にサトラップと呼ばれる知事を配置して全国を統治
サトラップの監察に、「王の目」「王の耳」と呼ばれる役人が巡回
財政の基礎固め
金貨・銀貨の発行、税制の整理、フェニキア人の海上交易の保護
国道と駅伝制
都市スサを起点とした国道「王の道」を敷設
ペルセポリス
ダレイオス1世が建設を始めた祭祀用の首都
アケメネス朝のその後
前5世紀前半、ペルシア戦争
アケメネス朝が、ギリシアの諸ポリスに敗れた戦い
前333年、イッソスの戦い
アケメネス朝の王ダレイオス3世が、マケドニアのアレクサンドロス大王に敗れた戦い
前330年、アレクサンドロス大王に征服されました。
アケメネス朝の文化
文字:楔形文字を表音化したペルシア文字
宗教:ゾロアスター教(拝火教)
ゾロアスター教
世界は善神と悪神の闘争の場とし、最終的に善神が勝つと信仰
火を清浄なるものとして神聖視
東西交易の要衝
パルティア王国
アレクサンドロス大王の死後、大王が征服したアジアの領土には、ギリシア系王朝セレウコス朝が開かれました。
前3世紀、セレウコス朝から自立したギリシア人がバクトリアを建てました。
同時期に、イラン人の族長アルサケスがカスピ海東南部にパルティア(中国名:安息)を建てました。
前2世紀半ば、パルティアは領域をイランからメソポタミアまで広げ、クテシフォンを首都とし、東西交易を独占しました。
ササン朝ペルシア
紀元3世紀、イラン人アルダシール1世が、パルティアを倒してササン朝を建国しました。
ササン朝は、クテシフォンを首都とし、また、ゾロアスター教を国教に定めました。
2代国王シャープール1世は、シリアにてローマ軍を破り、ローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜としました。
6世紀、国王ホスロー1世はトルコ系遊牧民突厥と結び、中央アジアの遊牧民エフタルを滅ぼしました。
さらにビザンツ帝国との戦いも優勢に進めました。
642年、ニハーヴァンドの戦い
アラブ人のイスラーム軍に大破し、ササン朝の滅亡に繋がった戦い
イラン文明
ササン朝の2つの宗教
ゾロアスター教(国教)
ホスロー1世の時代に、教典『アヴェスター』が集大成
マニ教
ゾロアスター教・仏教・キリスト教を融合したマニ教が成立
国内では異端視されたが、北アフリカや中央アジア、唐代の中国に伝播
アルビジョワ派と呼ばれるキリスト教異端派にも影響
ササン朝美術
技術・様式が東西に伝播し、東方では中国を経て次の作品が日本に伝わりました。
漆胡瓶
正倉院所蔵の、典型的なササン朝様式の工芸品(水差し)
獅子狩文錦
法隆寺所蔵の、ササン朝美術の影響を受けた唐代の織物作品
| ダレイオス1世が建設を始めた祭祀用の首都はどこですか。 | ダレイオス1世が建設を始めた祭祀用の首都はペルセポリスです。 |
JCRRAG_008768 | 歴史 | 大帝国の登場
オリエントの再統一
前6世紀半ば、イラン(ペルシア)人のキュロス2世が、アケメネス朝を興し、メディア・リディアを滅ぼしました。
前539年、キュロス2世は新バビロニアを滅ぼし、ユダヤ人を捕囚から解放しました。
3代国王ダレイオス1世は、西はエーゲ海北岸に、東はインダス川に至る大帝国を建設し、オリエントを再統一しました。
ダレイオス1世の施策
中央集権化
各州にサトラップと呼ばれる知事を配置して全国を統治
サトラップの監察に、「王の目」「王の耳」と呼ばれる役人が巡回
財政の基礎固め
金貨・銀貨の発行、税制の整理、フェニキア人の海上交易の保護
国道と駅伝制
都市スサを起点とした国道「王の道」を敷設
ペルセポリス
ダレイオス1世が建設を始めた祭祀用の首都
アケメネス朝のその後
前5世紀前半、ペルシア戦争
アケメネス朝が、ギリシアの諸ポリスに敗れた戦い
前333年、イッソスの戦い
アケメネス朝の王ダレイオス3世が、マケドニアのアレクサンドロス大王に敗れた戦い
前330年、アレクサンドロス大王に征服されました。
アケメネス朝の文化
文字:楔形文字を表音化したペルシア文字
宗教:ゾロアスター教(拝火教)
ゾロアスター教
世界は善神と悪神の闘争の場とし、最終的に善神が勝つと信仰
火を清浄なるものとして神聖視
東西交易の要衝
パルティア王国
アレクサンドロス大王の死後、大王が征服したアジアの領土には、ギリシア系王朝セレウコス朝が開かれました。
前3世紀、セレウコス朝から自立したギリシア人がバクトリアを建てました。
同時期に、イラン人の族長アルサケスがカスピ海東南部にパルティア(中国名:安息)を建てました。
前2世紀半ば、パルティアは領域をイランからメソポタミアまで広げ、クテシフォンを首都とし、東西交易を独占しました。
ササン朝ペルシア
紀元3世紀、イラン人アルダシール1世が、パルティアを倒してササン朝を建国しました。
ササン朝は、クテシフォンを首都とし、また、ゾロアスター教を国教に定めました。
2代国王シャープール1世は、シリアにてローマ軍を破り、ローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜としました。
6世紀、国王ホスロー1世はトルコ系遊牧民突厥と結び、中央アジアの遊牧民エフタルを滅ぼしました。
さらにビザンツ帝国との戦いも優勢に進めました。
642年、ニハーヴァンドの戦い
アラブ人のイスラーム軍に大破し、ササン朝の滅亡に繋がった戦い
イラン文明
ササン朝の2つの宗教
ゾロアスター教(国教)
ホスロー1世の時代に、教典『アヴェスター』が集大成
マニ教
ゾロアスター教・仏教・キリスト教を融合したマニ教が成立
国内では異端視されたが、北アフリカや中央アジア、唐代の中国に伝播
アルビジョワ派と呼ばれるキリスト教異端派にも影響
ササン朝美術
技術・様式が東西に伝播し、東方では中国を経て次の作品が日本に伝わりました。
漆胡瓶
正倉院所蔵の、典型的なササン朝様式の工芸品(水差し)
獅子狩文錦
法隆寺所蔵の、ササン朝美術の影響を受けた唐代の織物作品
| 前5世紀前半、アケメネス朝が、ギリシアの諸ポリスに敗れた戦いは何ですか。 | 前5世紀前半、アケメネス朝が、ギリシアの諸ポリスに敗れた戦いはペルシア戦争です。 |
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オリエントの再統一
前6世紀半ば、イラン(ペルシア)人のキュロス2世が、アケメネス朝を興し、メディア・リディアを滅ぼしました。
前539年、キュロス2世は新バビロニアを滅ぼし、ユダヤ人を捕囚から解放しました。
3代国王ダレイオス1世は、西はエーゲ海北岸に、東はインダス川に至る大帝国を建設し、オリエントを再統一しました。
ダレイオス1世の施策
中央集権化
各州にサトラップと呼ばれる知事を配置して全国を統治
サトラップの監察に、「王の目」「王の耳」と呼ばれる役人が巡回
財政の基礎固め
金貨・銀貨の発行、税制の整理、フェニキア人の海上交易の保護
国道と駅伝制
都市スサを起点とした国道「王の道」を敷設
ペルセポリス
ダレイオス1世が建設を始めた祭祀用の首都
アケメネス朝のその後
前5世紀前半、ペルシア戦争
アケメネス朝が、ギリシアの諸ポリスに敗れた戦い
前333年、イッソスの戦い
アケメネス朝の王ダレイオス3世が、マケドニアのアレクサンドロス大王に敗れた戦い
前330年、アレクサンドロス大王に征服されました。
アケメネス朝の文化
文字:楔形文字を表音化したペルシア文字
宗教:ゾロアスター教(拝火教)
ゾロアスター教
世界は善神と悪神の闘争の場とし、最終的に善神が勝つと信仰
火を清浄なるものとして神聖視
東西交易の要衝
パルティア王国
アレクサンドロス大王の死後、大王が征服したアジアの領土には、ギリシア系王朝セレウコス朝が開かれました。
前3世紀、セレウコス朝から自立したギリシア人がバクトリアを建てました。
同時期に、イラン人の族長アルサケスがカスピ海東南部にパルティア(中国名:安息)を建てました。
前2世紀半ば、パルティアは領域をイランからメソポタミアまで広げ、クテシフォンを首都とし、東西交易を独占しました。
ササン朝ペルシア
紀元3世紀、イラン人アルダシール1世が、パルティアを倒してササン朝を建国しました。
ササン朝は、クテシフォンを首都とし、また、ゾロアスター教を国教に定めました。
2代国王シャープール1世は、シリアにてローマ軍を破り、ローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜としました。
6世紀、国王ホスロー1世はトルコ系遊牧民突厥と結び、中央アジアの遊牧民エフタルを滅ぼしました。
さらにビザンツ帝国との戦いも優勢に進めました。
642年、ニハーヴァンドの戦い
アラブ人のイスラーム軍に大破し、ササン朝の滅亡に繋がった戦い
イラン文明
ササン朝の2つの宗教
ゾロアスター教(国教)
ホスロー1世の時代に、教典『アヴェスター』が集大成
マニ教
ゾロアスター教・仏教・キリスト教を融合したマニ教が成立
国内では異端視されたが、北アフリカや中央アジア、唐代の中国に伝播
アルビジョワ派と呼ばれるキリスト教異端派にも影響
ササン朝美術
技術・様式が東西に伝播し、東方では中国を経て次の作品が日本に伝わりました。
漆胡瓶
正倉院所蔵の、典型的なササン朝様式の工芸品(水差し)
獅子狩文錦
法隆寺所蔵の、ササン朝美術の影響を受けた唐代の織物作品
| 2代国王シャープール1世が、シリアにてローマ軍を破った際、捕虜にしたのは誰ですか。 | 2代国王シャープール1世が、シリアにてローマ軍を破った際、捕虜にしたのはローマ皇帝ウァレリアヌスです。 |
JCRRAG_008770 | 歴史 | エーゲ世界
エーゲ文明
前3000年以降、青銅器を利器とする文明が、エーゲ海にいくつか成立しました。
エーゲ文明と総称されるこれらの文明は、次の3つが代表とされます。
クレタ文明
前2000~前1400年頃、クレタ島で栄えた文明
ミケーネ文明
前1600~前1200年頃、ペロポネソス半島で栄えた文明
トロイア(トロヤ)文明
前2600~前1200年頃、小アジアで栄えた文明
各文明の特徴
クレタ文明
発見者:
イギリス人エヴァンズ
中心地:
クレタ島のクノッソス
民族系統:
不明
特徴:
外部勢力への警戒心希薄(外壁なしの宮殿)、海洋民族らしさ(開放的)
文字:
線文字A(未解読)
ミケーネ文明
発見者:
ドイツ人シュリーマン
中心地:
ミケーネ・ ティリンス・ピュロス
民族系統:
南下したギリシア人
特徴:
戦闘的で高い軍事的関心(巨大な城壁)、小王国の分立、貢納王政(支配者が農民や商人を支配し、徴税を強制する政治形態)
文字:
線文字B(イギリス人ヴェントリスが解読)
シュリーマン
ホメロスの叙事詩の歴史性を信じて発掘に成功
線文字B
線文字Aを改良した文字
ミケーネ文明のギリシア人は、クレタ島に侵入し、トロイアとも抗争しました。
しかし前1200年頃、「海の民」の侵入なども要因として突然滅亡しました。
以降400年間、ギリシア史は「暗黒時代」という混乱時代が続き、鉄器を利器とする時代へと移行しました。
この間、ギリシア人は定住地を求めて移動し、方言の違いで次の3種に分かれました。
イオニア人
バルカン半島南東部や小アジア西岸に定住したギリシア人一派
アイオリス人
小アジア西北部に定住したギリシア人一派
ドーリア人
バルカン半島南部やエーゲ諸島に定住したギリシア人一派
ポリスの成立
ポリスの成立と暗黒時代の終焉
前8世紀、各地の有力者の指導の下、ギリシア人の定住が促されました。
城山アクロポリスを中心に集住(シノイキスモス)する都市が現れました。
これらポリスと呼ばれる都市が現れたことで社会が安定し、暗黒時代は終わりました。
社会の安定は人口増加・土地不足を招きました。
前8世紀半ば、ギリシア人は従属させた地域の開発を始め、地中海と黒海の沿岸各地に植民市を建設し、交易を活発化させました。
商業活動では、フェニキア文字を基につくったアルファベットを用いました。
代表的な植民市
ビザンティオン
ボスフォラス海峡に面して建設された植民市
マッサリア
南フランスに建設された植民市で、マルセイユの前身
ネアポリス
南イタリアに建設された植民市で、ナポリの前身
独立と同胞意識
各ポリスは独立していて、古代のギリシア人は統一国家をもちませんでした。
しかし、彼らは中部ギリシアの聖地デルフォイでのアポロン神の神託、4年に1度開かれるオリンピアの祭典を通じて同一民族の意識をもち続けました。
彼らは自分たちをヘレネス(ギリシア人)と呼び、また異民族をバルバロイ(訳の分からない言葉を話すもの)と呼んで区別しました。
ポリスの住民
ポリスの住民は、自由な市民とこれに隷属する奴隷からなりました。
市民には、さらに貴族と平民の区別がありました。
貴族は、高価な武器を身につけ、騎馬で移動する戦士で、国防の主力を担いました。
前7世紀までに、少数の貴族が政治を独占する貴族政が一般的になりました。
ポリスの構造と役割
ポリスは、城壁で囲まれた「市域」と周辺の「田園」から成り立ちました。
市域
アクロポリス
市域の中心にあり、城山であると同時に神聖な場
アゴラ
アクロポリスのふもとにあり、市場や集会が開かれる公共広場
田園
クレーロス
くじで分配された市民の私有地(割り当て地)
ポリスの役割
アリストテレスは、ポリスにおいて仕事を分業して生きる動物が人間であり、その幸福や徳もポリスの生活でのみ実現されると考えました。
そのため、「人間はポリス的動物である」と定義しました。 | 前2000~前1400年頃、クレタ島で栄えた文明は何ですか。 | 前2000~前1400年頃、クレタ島で栄えた文明はクレタ文明です。 |
JCRRAG_008771 | 歴史 | エーゲ世界
エーゲ文明
前3000年以降、青銅器を利器とする文明が、エーゲ海にいくつか成立しました。
エーゲ文明と総称されるこれらの文明は、次の3つが代表とされます。
クレタ文明
前2000~前1400年頃、クレタ島で栄えた文明
ミケーネ文明
前1600~前1200年頃、ペロポネソス半島で栄えた文明
トロイア(トロヤ)文明
前2600~前1200年頃、小アジアで栄えた文明
各文明の特徴
クレタ文明
発見者:
イギリス人エヴァンズ
中心地:
クレタ島のクノッソス
民族系統:
不明
特徴:
外部勢力への警戒心希薄(外壁なしの宮殿)、海洋民族らしさ(開放的)
文字:
線文字A(未解読)
ミケーネ文明
発見者:
ドイツ人シュリーマン
中心地:
ミケーネ・ ティリンス・ピュロス
民族系統:
南下したギリシア人
特徴:
戦闘的で高い軍事的関心(巨大な城壁)、小王国の分立、貢納王政(支配者が農民や商人を支配し、徴税を強制する政治形態)
文字:
線文字B(イギリス人ヴェントリスが解読)
シュリーマン
ホメロスの叙事詩の歴史性を信じて発掘に成功
線文字B
線文字Aを改良した文字
ミケーネ文明のギリシア人は、クレタ島に侵入し、トロイアとも抗争しました。
しかし前1200年頃、「海の民」の侵入なども要因として突然滅亡しました。
以降400年間、ギリシア史は「暗黒時代」という混乱時代が続き、鉄器を利器とする時代へと移行しました。
この間、ギリシア人は定住地を求めて移動し、方言の違いで次の3種に分かれました。
イオニア人
バルカン半島南東部や小アジア西岸に定住したギリシア人一派
アイオリス人
小アジア西北部に定住したギリシア人一派
ドーリア人
バルカン半島南部やエーゲ諸島に定住したギリシア人一派
ポリスの成立
ポリスの成立と暗黒時代の終焉
前8世紀、各地の有力者の指導の下、ギリシア人の定住が促されました。
城山アクロポリスを中心に集住(シノイキスモス)する都市が現れました。
これらポリスと呼ばれる都市が現れたことで社会が安定し、暗黒時代は終わりました。
社会の安定は人口増加・土地不足を招きました。
前8世紀半ば、ギリシア人は従属させた地域の開発を始め、地中海と黒海の沿岸各地に植民市を建設し、交易を活発化させました。
商業活動では、フェニキア文字を基につくったアルファベットを用いました。
代表的な植民市
ビザンティオン
ボスフォラス海峡に面して建設された植民市
マッサリア
南フランスに建設された植民市で、マルセイユの前身
ネアポリス
南イタリアに建設された植民市で、ナポリの前身
独立と同胞意識
各ポリスは独立していて、古代のギリシア人は統一国家をもちませんでした。
しかし、彼らは中部ギリシアの聖地デルフォイでのアポロン神の神託、4年に1度開かれるオリンピアの祭典を通じて同一民族の意識をもち続けました。
彼らは自分たちをヘレネス(ギリシア人)と呼び、また異民族をバルバロイ(訳の分からない言葉を話すもの)と呼んで区別しました。
ポリスの住民
ポリスの住民は、自由な市民とこれに隷属する奴隷からなりました。
市民には、さらに貴族と平民の区別がありました。
貴族は、高価な武器を身につけ、騎馬で移動する戦士で、国防の主力を担いました。
前7世紀までに、少数の貴族が政治を独占する貴族政が一般的になりました。
ポリスの構造と役割
ポリスは、城壁で囲まれた「市域」と周辺の「田園」から成り立ちました。
市域
アクロポリス
市域の中心にあり、城山であると同時に神聖な場
アゴラ
アクロポリスのふもとにあり、市場や集会が開かれる公共広場
田園
クレーロス
くじで分配された市民の私有地(割り当て地)
ポリスの役割
アリストテレスは、ポリスにおいて仕事を分業して生きる動物が人間であり、その幸福や徳もポリスの生活でのみ実現されると考えました。
そのため、「人間はポリス的動物である」と定義しました。 | 前1600~前1200年頃、ペロポネソス半島で栄えた文明は何ですか。 | 前1600~前1200年頃、ペロポネソス半島で栄えた文明はミケーネ文明です。 |
JCRRAG_008772 | 歴史 | エーゲ世界
エーゲ文明
前3000年以降、青銅器を利器とする文明が、エーゲ海にいくつか成立しました。
エーゲ文明と総称されるこれらの文明は、次の3つが代表とされます。
クレタ文明
前2000~前1400年頃、クレタ島で栄えた文明
ミケーネ文明
前1600~前1200年頃、ペロポネソス半島で栄えた文明
トロイア(トロヤ)文明
前2600~前1200年頃、小アジアで栄えた文明
各文明の特徴
クレタ文明
発見者:
イギリス人エヴァンズ
中心地:
クレタ島のクノッソス
民族系統:
不明
特徴:
外部勢力への警戒心希薄(外壁なしの宮殿)、海洋民族らしさ(開放的)
文字:
線文字A(未解読)
ミケーネ文明
発見者:
ドイツ人シュリーマン
中心地:
ミケーネ・ ティリンス・ピュロス
民族系統:
南下したギリシア人
特徴:
戦闘的で高い軍事的関心(巨大な城壁)、小王国の分立、貢納王政(支配者が農民や商人を支配し、徴税を強制する政治形態)
文字:
線文字B(イギリス人ヴェントリスが解読)
シュリーマン
ホメロスの叙事詩の歴史性を信じて発掘に成功
線文字B
線文字Aを改良した文字
ミケーネ文明のギリシア人は、クレタ島に侵入し、トロイアとも抗争しました。
しかし前1200年頃、「海の民」の侵入なども要因として突然滅亡しました。
以降400年間、ギリシア史は「暗黒時代」という混乱時代が続き、鉄器を利器とする時代へと移行しました。
この間、ギリシア人は定住地を求めて移動し、方言の違いで次の3種に分かれました。
イオニア人
バルカン半島南東部や小アジア西岸に定住したギリシア人一派
アイオリス人
小アジア西北部に定住したギリシア人一派
ドーリア人
バルカン半島南部やエーゲ諸島に定住したギリシア人一派
ポリスの成立
ポリスの成立と暗黒時代の終焉
前8世紀、各地の有力者の指導の下、ギリシア人の定住が促されました。
城山アクロポリスを中心に集住(シノイキスモス)する都市が現れました。
これらポリスと呼ばれる都市が現れたことで社会が安定し、暗黒時代は終わりました。
社会の安定は人口増加・土地不足を招きました。
前8世紀半ば、ギリシア人は従属させた地域の開発を始め、地中海と黒海の沿岸各地に植民市を建設し、交易を活発化させました。
商業活動では、フェニキア文字を基につくったアルファベットを用いました。
代表的な植民市
ビザンティオン
ボスフォラス海峡に面して建設された植民市
マッサリア
南フランスに建設された植民市で、マルセイユの前身
ネアポリス
南イタリアに建設された植民市で、ナポリの前身
独立と同胞意識
各ポリスは独立していて、古代のギリシア人は統一国家をもちませんでした。
しかし、彼らは中部ギリシアの聖地デルフォイでのアポロン神の神託、4年に1度開かれるオリンピアの祭典を通じて同一民族の意識をもち続けました。
彼らは自分たちをヘレネス(ギリシア人)と呼び、また異民族をバルバロイ(訳の分からない言葉を話すもの)と呼んで区別しました。
ポリスの住民
ポリスの住民は、自由な市民とこれに隷属する奴隷からなりました。
市民には、さらに貴族と平民の区別がありました。
貴族は、高価な武器を身につけ、騎馬で移動する戦士で、国防の主力を担いました。
前7世紀までに、少数の貴族が政治を独占する貴族政が一般的になりました。
ポリスの構造と役割
ポリスは、城壁で囲まれた「市域」と周辺の「田園」から成り立ちました。
市域
アクロポリス
市域の中心にあり、城山であると同時に神聖な場
アゴラ
アクロポリスのふもとにあり、市場や集会が開かれる公共広場
田園
クレーロス
くじで分配された市民の私有地(割り当て地)
ポリスの役割
アリストテレスは、ポリスにおいて仕事を分業して生きる動物が人間であり、その幸福や徳もポリスの生活でのみ実現されると考えました。
そのため、「人間はポリス的動物である」と定義しました。 | 前2600~前1200年頃、小アジアで栄えた文明は何ですか。 | 前2600~前1200年頃、小アジアで栄えた文明はトロイア(トロヤ)文明です。 |
JCRRAG_008773 | 歴史 | エーゲ世界
エーゲ文明
前3000年以降、青銅器を利器とする文明が、エーゲ海にいくつか成立しました。
エーゲ文明と総称されるこれらの文明は、次の3つが代表とされます。
クレタ文明
前2000~前1400年頃、クレタ島で栄えた文明
ミケーネ文明
前1600~前1200年頃、ペロポネソス半島で栄えた文明
トロイア(トロヤ)文明
前2600~前1200年頃、小アジアで栄えた文明
各文明の特徴
クレタ文明
発見者:
イギリス人エヴァンズ
中心地:
クレタ島のクノッソス
民族系統:
不明
特徴:
外部勢力への警戒心希薄(外壁なしの宮殿)、海洋民族らしさ(開放的)
文字:
線文字A(未解読)
ミケーネ文明
発見者:
ドイツ人シュリーマン
中心地:
ミケーネ・ ティリンス・ピュロス
民族系統:
南下したギリシア人
特徴:
戦闘的で高い軍事的関心(巨大な城壁)、小王国の分立、貢納王政(支配者が農民や商人を支配し、徴税を強制する政治形態)
文字:
線文字B(イギリス人ヴェントリスが解読)
シュリーマン
ホメロスの叙事詩の歴史性を信じて発掘に成功
線文字B
線文字Aを改良した文字
ミケーネ文明のギリシア人は、クレタ島に侵入し、トロイアとも抗争しました。
しかし前1200年頃、「海の民」の侵入なども要因として突然滅亡しました。
以降400年間、ギリシア史は「暗黒時代」という混乱時代が続き、鉄器を利器とする時代へと移行しました。
この間、ギリシア人は定住地を求めて移動し、方言の違いで次の3種に分かれました。
イオニア人
バルカン半島南東部や小アジア西岸に定住したギリシア人一派
アイオリス人
小アジア西北部に定住したギリシア人一派
ドーリア人
バルカン半島南部やエーゲ諸島に定住したギリシア人一派
ポリスの成立
ポリスの成立と暗黒時代の終焉
前8世紀、各地の有力者の指導の下、ギリシア人の定住が促されました。
城山アクロポリスを中心に集住(シノイキスモス)する都市が現れました。
これらポリスと呼ばれる都市が現れたことで社会が安定し、暗黒時代は終わりました。
社会の安定は人口増加・土地不足を招きました。
前8世紀半ば、ギリシア人は従属させた地域の開発を始め、地中海と黒海の沿岸各地に植民市を建設し、交易を活発化させました。
商業活動では、フェニキア文字を基につくったアルファベットを用いました。
代表的な植民市
ビザンティオン
ボスフォラス海峡に面して建設された植民市
マッサリア
南フランスに建設された植民市で、マルセイユの前身
ネアポリス
南イタリアに建設された植民市で、ナポリの前身
独立と同胞意識
各ポリスは独立していて、古代のギリシア人は統一国家をもちませんでした。
しかし、彼らは中部ギリシアの聖地デルフォイでのアポロン神の神託、4年に1度開かれるオリンピアの祭典を通じて同一民族の意識をもち続けました。
彼らは自分たちをヘレネス(ギリシア人)と呼び、また異民族をバルバロイ(訳の分からない言葉を話すもの)と呼んで区別しました。
ポリスの住民
ポリスの住民は、自由な市民とこれに隷属する奴隷からなりました。
市民には、さらに貴族と平民の区別がありました。
貴族は、高価な武器を身につけ、騎馬で移動する戦士で、国防の主力を担いました。
前7世紀までに、少数の貴族が政治を独占する貴族政が一般的になりました。
ポリスの構造と役割
ポリスは、城壁で囲まれた「市域」と周辺の「田園」から成り立ちました。
市域
アクロポリス
市域の中心にあり、城山であると同時に神聖な場
アゴラ
アクロポリスのふもとにあり、市場や集会が開かれる公共広場
田園
クレーロス
くじで分配された市民の私有地(割り当て地)
ポリスの役割
アリストテレスは、ポリスにおいて仕事を分業して生きる動物が人間であり、その幸福や徳もポリスの生活でのみ実現されると考えました。
そのため、「人間はポリス的動物である」と定義しました。 | クレタ文明を発見した人は誰ですか。 | クレタ文明を発見した人はエヴァンズです。 |
JCRRAG_008774 | 歴史 | エーゲ世界
エーゲ文明
前3000年以降、青銅器を利器とする文明が、エーゲ海にいくつか成立しました。
エーゲ文明と総称されるこれらの文明は、次の3つが代表とされます。
クレタ文明
前2000~前1400年頃、クレタ島で栄えた文明
ミケーネ文明
前1600~前1200年頃、ペロポネソス半島で栄えた文明
トロイア(トロヤ)文明
前2600~前1200年頃、小アジアで栄えた文明
各文明の特徴
クレタ文明
発見者:
イギリス人エヴァンズ
中心地:
クレタ島のクノッソス
民族系統:
不明
特徴:
外部勢力への警戒心希薄(外壁なしの宮殿)、海洋民族らしさ(開放的)
文字:
線文字A(未解読)
ミケーネ文明
発見者:
ドイツ人シュリーマン
中心地:
ミケーネ・ ティリンス・ピュロス
民族系統:
南下したギリシア人
特徴:
戦闘的で高い軍事的関心(巨大な城壁)、小王国の分立、貢納王政(支配者が農民や商人を支配し、徴税を強制する政治形態)
文字:
線文字B(イギリス人ヴェントリスが解読)
シュリーマン
ホメロスの叙事詩の歴史性を信じて発掘に成功
線文字B
線文字Aを改良した文字
ミケーネ文明のギリシア人は、クレタ島に侵入し、トロイアとも抗争しました。
しかし前1200年頃、「海の民」の侵入なども要因として突然滅亡しました。
以降400年間、ギリシア史は「暗黒時代」という混乱時代が続き、鉄器を利器とする時代へと移行しました。
この間、ギリシア人は定住地を求めて移動し、方言の違いで次の3種に分かれました。
イオニア人
バルカン半島南東部や小アジア西岸に定住したギリシア人一派
アイオリス人
小アジア西北部に定住したギリシア人一派
ドーリア人
バルカン半島南部やエーゲ諸島に定住したギリシア人一派
ポリスの成立
ポリスの成立と暗黒時代の終焉
前8世紀、各地の有力者の指導の下、ギリシア人の定住が促されました。
城山アクロポリスを中心に集住(シノイキスモス)する都市が現れました。
これらポリスと呼ばれる都市が現れたことで社会が安定し、暗黒時代は終わりました。
社会の安定は人口増加・土地不足を招きました。
前8世紀半ば、ギリシア人は従属させた地域の開発を始め、地中海と黒海の沿岸各地に植民市を建設し、交易を活発化させました。
商業活動では、フェニキア文字を基につくったアルファベットを用いました。
代表的な植民市
ビザンティオン
ボスフォラス海峡に面して建設された植民市
マッサリア
南フランスに建設された植民市で、マルセイユの前身
ネアポリス
南イタリアに建設された植民市で、ナポリの前身
独立と同胞意識
各ポリスは独立していて、古代のギリシア人は統一国家をもちませんでした。
しかし、彼らは中部ギリシアの聖地デルフォイでのアポロン神の神託、4年に1度開かれるオリンピアの祭典を通じて同一民族の意識をもち続けました。
彼らは自分たちをヘレネス(ギリシア人)と呼び、また異民族をバルバロイ(訳の分からない言葉を話すもの)と呼んで区別しました。
ポリスの住民
ポリスの住民は、自由な市民とこれに隷属する奴隷からなりました。
市民には、さらに貴族と平民の区別がありました。
貴族は、高価な武器を身につけ、騎馬で移動する戦士で、国防の主力を担いました。
前7世紀までに、少数の貴族が政治を独占する貴族政が一般的になりました。
ポリスの構造と役割
ポリスは、城壁で囲まれた「市域」と周辺の「田園」から成り立ちました。
市域
アクロポリス
市域の中心にあり、城山であると同時に神聖な場
アゴラ
アクロポリスのふもとにあり、市場や集会が開かれる公共広場
田園
クレーロス
くじで分配された市民の私有地(割り当て地)
ポリスの役割
アリストテレスは、ポリスにおいて仕事を分業して生きる動物が人間であり、その幸福や徳もポリスの生活でのみ実現されると考えました。
そのため、「人間はポリス的動物である」と定義しました。 | ミケーネ文明を発見した人は誰ですか。 | ミケーネ文明を発見した人はシュリーマンです。 |
JCRRAG_008775 | 歴史 | 代表的なポリス
アテネ
アテネの概要
系統:
イオニア人
政治:
貴族政→財産政治→僭主政治→民主政
奴隷:
個人所有、総人口の3分の1、市民が借金を理由に奴隷なる場合あり
アテネの政治の変遷
貴族政→財産政治
交易活動が盛んになると、平民のなかにも富裕な者が現れました。
富裕な平民は、金属武器を買い、貴族が担っていた国防に参加しました。
富裕な平民は、密集隊形ファランクスを組む重装歩兵として、騎馬を利用する貴族に代わって軍隊の主力となり、権力を強化しました。
平民は役割を大きくし、参政権を主張して貴族と対立し始めました。
前7世紀、ドラコンが慣習法を成文化し、貴族に有利な法解釈を防ぎました。
前6世紀、ソロンが財産額の大小による市民の参政権を認め(財産政治)、また、市民の負債を帳消しにして奴隷に転落することを防ぎました。
財産政治→僭主政治
僭主と呼ばれる独裁者が、平民の支持で非合法に政権を奪いました。
前6世紀、ペイシストラトスが、 アテネで僭主政治を確立し、中小農民を保護するなど平民層の力を充実させました。
僭主政治→民主政への過渡期
前508年、クレイステネスが、血縁に基づく旧来の4部族制を、行政区デーモスを基礎として10部族制に改めました。
さらにクレイステネスは、僭主の出現を防止する制度陶片とうへん追放(オストラキスモス)を開始しました。
陶片追放
僭主になる心配のある人物の名を市民に陶器の破片オストラコンに書かせ、投票させて6000票以上集まれば、その者を10年間追放する制度
スパルタ
スパルタの概要
系統:
ドーリア人
政治:
貴族政(市民に貴族・平民の区別がないので厳密には「市民政」)
奴隷:
市民共有、市民人口の10倍、被征服民(非ドーリア人)がほとんど
奴隷
スパルタの奴隷はヘイロータイと呼ばれ、農業に従事させられました。
他には、ペリオイコイと呼ばれる奴隷と市民の中間的な存在がいて、奴隷ではないが、参政権をもたず、農業・商工業に従事させられました。
ヘイロータイは、数で市民を圧倒的に上回り、しばしば反乱を起こしました。
立法者リュクルゴスの指針で、市民は貨幣使用や商工業活動を禁止され、ヘイロータイの反乱を防ぐために軍事訓練に専念しました。
ポリスの同盟と対立
オリエントとの激突
前500年、全オリエントを統一したアケメネス朝の圧迫に、ミレトスを中心としたイオニア地方のギリシア人植民市が反乱を起こしました。
前500~前449年、ペルシア戦争
上記の反乱に、アケメネス朝のダレイオス1世が遠征軍を派遣し、アケメネス朝とギリシアの諸ポリスとの間で開戦
①前490年、マラトンの戦いでギリシア側が勝利
②前480年、テミストクレスがサラミスの海戦でアケメネス朝を打破
③前479年、プラタイアの戦いでギリシア側の勝利がほぼ決定
同盟と民主政の確立
アケメネス朝の再侵攻に備えて、諸ポリスは軍事同盟デロス同盟を結び、 アテネを盟主にしました。
アテネは、強大な海軍力を背景に他の同盟国に対する支配力を強めました。
アテネでは、軍艦の漕ぎ手を務めるような財産の少ない市民が参政権を得て、前5世紀半ば、将軍ペリクレスの指導の下、民主政が確立しました。
デロス同盟
同盟の金庫が、当初デロス島に置かれたことに由来
ペリクレスの提案に従い、両親ともにアテネの生まれの18歳以上の男性は、その貧富に関わらず、平等に参政権を得ました。
青年男性市民が参加する集会民会がアテネの政治の最高機関であり、将軍などを除く役人は一般市民からの抽選で選ばれました。
役人の責任は、弾劾裁判などで厳しく追及されました。
アテネの民主政は、デロス同盟の諸ポリスに広まりました。
ギリシア民主政の特徴
制限選挙
奴隷・在留外人・女性には参政権なし
直接民主政
代議制ではなく、参政権をもつ市民全員が参加
デモクラシー
語源は、「民衆の支配」を意味するギリシア語デモクラティア | 前7世紀、慣習法を成文化し、貴族に有利な法解釈を防いだのは誰ですか。 | 前7世紀、慣習法を成文化し、貴族に有利な法解釈を防いだのはドラコンです。 |
JCRRAG_008776 | 歴史 | 代表的なポリス
アテネ
アテネの概要
系統:
イオニア人
政治:
貴族政→財産政治→僭主政治→民主政
奴隷:
個人所有、総人口の3分の1、市民が借金を理由に奴隷なる場合あり
アテネの政治の変遷
貴族政→財産政治
交易活動が盛んになると、平民のなかにも富裕な者が現れました。
富裕な平民は、金属武器を買い、貴族が担っていた国防に参加しました。
富裕な平民は、密集隊形ファランクスを組む重装歩兵として、騎馬を利用する貴族に代わって軍隊の主力となり、権力を強化しました。
平民は役割を大きくし、参政権を主張して貴族と対立し始めました。
前7世紀、ドラコンが慣習法を成文化し、貴族に有利な法解釈を防ぎました。
前6世紀、ソロンが財産額の大小による市民の参政権を認め(財産政治)、また、市民の負債を帳消しにして奴隷に転落することを防ぎました。
財産政治→僭主政治
僭主と呼ばれる独裁者が、平民の支持で非合法に政権を奪いました。
前6世紀、ペイシストラトスが、 アテネで僭主政治を確立し、中小農民を保護するなど平民層の力を充実させました。
僭主政治→民主政への過渡期
前508年、クレイステネスが、血縁に基づく旧来の4部族制を、行政区デーモスを基礎として10部族制に改めました。
さらにクレイステネスは、僭主の出現を防止する制度陶片とうへん追放(オストラキスモス)を開始しました。
陶片追放
僭主になる心配のある人物の名を市民に陶器の破片オストラコンに書かせ、投票させて6000票以上集まれば、その者を10年間追放する制度
スパルタ
スパルタの概要
系統:
ドーリア人
政治:
貴族政(市民に貴族・平民の区別がないので厳密には「市民政」)
奴隷:
市民共有、市民人口の10倍、被征服民(非ドーリア人)がほとんど
奴隷
スパルタの奴隷はヘイロータイと呼ばれ、農業に従事させられました。
他には、ペリオイコイと呼ばれる奴隷と市民の中間的な存在がいて、奴隷ではないが、参政権をもたず、農業・商工業に従事させられました。
ヘイロータイは、数で市民を圧倒的に上回り、しばしば反乱を起こしました。
立法者リュクルゴスの指針で、市民は貨幣使用や商工業活動を禁止され、ヘイロータイの反乱を防ぐために軍事訓練に専念しました。
ポリスの同盟と対立
オリエントとの激突
前500年、全オリエントを統一したアケメネス朝の圧迫に、ミレトスを中心としたイオニア地方のギリシア人植民市が反乱を起こしました。
前500~前449年、ペルシア戦争
上記の反乱に、アケメネス朝のダレイオス1世が遠征軍を派遣し、アケメネス朝とギリシアの諸ポリスとの間で開戦
①前490年、マラトンの戦いでギリシア側が勝利
②前480年、テミストクレスがサラミスの海戦でアケメネス朝を打破
③前479年、プラタイアの戦いでギリシア側の勝利がほぼ決定
同盟と民主政の確立
アケメネス朝の再侵攻に備えて、諸ポリスは軍事同盟デロス同盟を結び、 アテネを盟主にしました。
アテネは、強大な海軍力を背景に他の同盟国に対する支配力を強めました。
アテネでは、軍艦の漕ぎ手を務めるような財産の少ない市民が参政権を得て、前5世紀半ば、将軍ペリクレスの指導の下、民主政が確立しました。
デロス同盟
同盟の金庫が、当初デロス島に置かれたことに由来
ペリクレスの提案に従い、両親ともにアテネの生まれの18歳以上の男性は、その貧富に関わらず、平等に参政権を得ました。
青年男性市民が参加する集会民会がアテネの政治の最高機関であり、将軍などを除く役人は一般市民からの抽選で選ばれました。
役人の責任は、弾劾裁判などで厳しく追及されました。
アテネの民主政は、デロス同盟の諸ポリスに広まりました。
ギリシア民主政の特徴
制限選挙
奴隷・在留外人・女性には参政権なし
直接民主政
代議制ではなく、参政権をもつ市民全員が参加
デモクラシー
語源は、「民衆の支配」を意味するギリシア語デモクラティア | 前6世紀、財産額の大小による市民の参政権を認め(財産政治)、また、市民の負債を帳消しにして奴隷に転落することを防いだのは誰ですか。 | 前6世紀、財産額の大小による市民の参政権を認め(財産政治)、また、市民の負債を帳消しにして奴隷に転落することを防いだのはソロンです。 |
JCRRAG_008777 | 歴史 | 代表的なポリス
アテネ
アテネの概要
系統:
イオニア人
政治:
貴族政→財産政治→僭主政治→民主政
奴隷:
個人所有、総人口の3分の1、市民が借金を理由に奴隷なる場合あり
アテネの政治の変遷
貴族政→財産政治
交易活動が盛んになると、平民のなかにも富裕な者が現れました。
富裕な平民は、金属武器を買い、貴族が担っていた国防に参加しました。
富裕な平民は、密集隊形ファランクスを組む重装歩兵として、騎馬を利用する貴族に代わって軍隊の主力となり、権力を強化しました。
平民は役割を大きくし、参政権を主張して貴族と対立し始めました。
前7世紀、ドラコンが慣習法を成文化し、貴族に有利な法解釈を防ぎました。
前6世紀、ソロンが財産額の大小による市民の参政権を認め(財産政治)、また、市民の負債を帳消しにして奴隷に転落することを防ぎました。
財産政治→僭主政治
僭主と呼ばれる独裁者が、平民の支持で非合法に政権を奪いました。
前6世紀、ペイシストラトスが、 アテネで僭主政治を確立し、中小農民を保護するなど平民層の力を充実させました。
僭主政治→民主政への過渡期
前508年、クレイステネスが、血縁に基づく旧来の4部族制を、行政区デーモスを基礎として10部族制に改めました。
さらにクレイステネスは、僭主の出現を防止する制度陶片とうへん追放(オストラキスモス)を開始しました。
陶片追放
僭主になる心配のある人物の名を市民に陶器の破片オストラコンに書かせ、投票させて6000票以上集まれば、その者を10年間追放する制度
スパルタ
スパルタの概要
系統:
ドーリア人
政治:
貴族政(市民に貴族・平民の区別がないので厳密には「市民政」)
奴隷:
市民共有、市民人口の10倍、被征服民(非ドーリア人)がほとんど
奴隷
スパルタの奴隷はヘイロータイと呼ばれ、農業に従事させられました。
他には、ペリオイコイと呼ばれる奴隷と市民の中間的な存在がいて、奴隷ではないが、参政権をもたず、農業・商工業に従事させられました。
ヘイロータイは、数で市民を圧倒的に上回り、しばしば反乱を起こしました。
立法者リュクルゴスの指針で、市民は貨幣使用や商工業活動を禁止され、ヘイロータイの反乱を防ぐために軍事訓練に専念しました。
ポリスの同盟と対立
オリエントとの激突
前500年、全オリエントを統一したアケメネス朝の圧迫に、ミレトスを中心としたイオニア地方のギリシア人植民市が反乱を起こしました。
前500~前449年、ペルシア戦争
上記の反乱に、アケメネス朝のダレイオス1世が遠征軍を派遣し、アケメネス朝とギリシアの諸ポリスとの間で開戦
①前490年、マラトンの戦いでギリシア側が勝利
②前480年、テミストクレスがサラミスの海戦でアケメネス朝を打破
③前479年、プラタイアの戦いでギリシア側の勝利がほぼ決定
同盟と民主政の確立
アケメネス朝の再侵攻に備えて、諸ポリスは軍事同盟デロス同盟を結び、 アテネを盟主にしました。
アテネは、強大な海軍力を背景に他の同盟国に対する支配力を強めました。
アテネでは、軍艦の漕ぎ手を務めるような財産の少ない市民が参政権を得て、前5世紀半ば、将軍ペリクレスの指導の下、民主政が確立しました。
デロス同盟
同盟の金庫が、当初デロス島に置かれたことに由来
ペリクレスの提案に従い、両親ともにアテネの生まれの18歳以上の男性は、その貧富に関わらず、平等に参政権を得ました。
青年男性市民が参加する集会民会がアテネの政治の最高機関であり、将軍などを除く役人は一般市民からの抽選で選ばれました。
役人の責任は、弾劾裁判などで厳しく追及されました。
アテネの民主政は、デロス同盟の諸ポリスに広まりました。
ギリシア民主政の特徴
制限選挙
奴隷・在留外人・女性には参政権なし
直接民主政
代議制ではなく、参政権をもつ市民全員が参加
デモクラシー
語源は、「民衆の支配」を意味するギリシア語デモクラティア | 前6世紀、アテネで僭主政治を確立し、中小農民を保護するなど平民層の力を充実させたのは誰ですか。 | 前6世紀、アテネで僭主政治を確立し、中小農民を保護するなど平民層の力を充実させたのはペイシストラトスです。 |
JCRRAG_008778 | 歴史 | 代表的なポリス
アテネ
アテネの概要
系統:
イオニア人
政治:
貴族政→財産政治→僭主政治→民主政
奴隷:
個人所有、総人口の3分の1、市民が借金を理由に奴隷なる場合あり
アテネの政治の変遷
貴族政→財産政治
交易活動が盛んになると、平民のなかにも富裕な者が現れました。
富裕な平民は、金属武器を買い、貴族が担っていた国防に参加しました。
富裕な平民は、密集隊形ファランクスを組む重装歩兵として、騎馬を利用する貴族に代わって軍隊の主力となり、権力を強化しました。
平民は役割を大きくし、参政権を主張して貴族と対立し始めました。
前7世紀、ドラコンが慣習法を成文化し、貴族に有利な法解釈を防ぎました。
前6世紀、ソロンが財産額の大小による市民の参政権を認め(財産政治)、また、市民の負債を帳消しにして奴隷に転落することを防ぎました。
財産政治→僭主政治
僭主と呼ばれる独裁者が、平民の支持で非合法に政権を奪いました。
前6世紀、ペイシストラトスが、 アテネで僭主政治を確立し、中小農民を保護するなど平民層の力を充実させました。
僭主政治→民主政への過渡期
前508年、クレイステネスが、血縁に基づく旧来の4部族制を、行政区デーモスを基礎として10部族制に改めました。
さらにクレイステネスは、僭主の出現を防止する制度陶片とうへん追放(オストラキスモス)を開始しました。
陶片追放
僭主になる心配のある人物の名を市民に陶器の破片オストラコンに書かせ、投票させて6000票以上集まれば、その者を10年間追放する制度
スパルタ
スパルタの概要
系統:
ドーリア人
政治:
貴族政(市民に貴族・平民の区別がないので厳密には「市民政」)
奴隷:
市民共有、市民人口の10倍、被征服民(非ドーリア人)がほとんど
奴隷
スパルタの奴隷はヘイロータイと呼ばれ、農業に従事させられました。
他には、ペリオイコイと呼ばれる奴隷と市民の中間的な存在がいて、奴隷ではないが、参政権をもたず、農業・商工業に従事させられました。
ヘイロータイは、数で市民を圧倒的に上回り、しばしば反乱を起こしました。
立法者リュクルゴスの指針で、市民は貨幣使用や商工業活動を禁止され、ヘイロータイの反乱を防ぐために軍事訓練に専念しました。
ポリスの同盟と対立
オリエントとの激突
前500年、全オリエントを統一したアケメネス朝の圧迫に、ミレトスを中心としたイオニア地方のギリシア人植民市が反乱を起こしました。
前500~前449年、ペルシア戦争
上記の反乱に、アケメネス朝のダレイオス1世が遠征軍を派遣し、アケメネス朝とギリシアの諸ポリスとの間で開戦
①前490年、マラトンの戦いでギリシア側が勝利
②前480年、テミストクレスがサラミスの海戦でアケメネス朝を打破
③前479年、プラタイアの戦いでギリシア側の勝利がほぼ決定
同盟と民主政の確立
アケメネス朝の再侵攻に備えて、諸ポリスは軍事同盟デロス同盟を結び、 アテネを盟主にしました。
アテネは、強大な海軍力を背景に他の同盟国に対する支配力を強めました。
アテネでは、軍艦の漕ぎ手を務めるような財産の少ない市民が参政権を得て、前5世紀半ば、将軍ペリクレスの指導の下、民主政が確立しました。
デロス同盟
同盟の金庫が、当初デロス島に置かれたことに由来
ペリクレスの提案に従い、両親ともにアテネの生まれの18歳以上の男性は、その貧富に関わらず、平等に参政権を得ました。
青年男性市民が参加する集会民会がアテネの政治の最高機関であり、将軍などを除く役人は一般市民からの抽選で選ばれました。
役人の責任は、弾劾裁判などで厳しく追及されました。
アテネの民主政は、デロス同盟の諸ポリスに広まりました。
ギリシア民主政の特徴
制限選挙
奴隷・在留外人・女性には参政権なし
直接民主政
代議制ではなく、参政権をもつ市民全員が参加
デモクラシー
語源は、「民衆の支配」を意味するギリシア語デモクラティア | 前508年、血縁に基づく旧来の4部族制を、行政区デーモスを基礎として10部族制に改めたのは誰ですか。 | 前508年、血縁に基づく旧来の4部族制を、行政区デーモスを基礎として10部族制に改めたのはクレイステネスです。 |
JCRRAG_008779 | 歴史 | 代表的なポリス
アテネ
アテネの概要
系統:
イオニア人
政治:
貴族政→財産政治→僭主政治→民主政
奴隷:
個人所有、総人口の3分の1、市民が借金を理由に奴隷なる場合あり
アテネの政治の変遷
貴族政→財産政治
交易活動が盛んになると、平民のなかにも富裕な者が現れました。
富裕な平民は、金属武器を買い、貴族が担っていた国防に参加しました。
富裕な平民は、密集隊形ファランクスを組む重装歩兵として、騎馬を利用する貴族に代わって軍隊の主力となり、権力を強化しました。
平民は役割を大きくし、参政権を主張して貴族と対立し始めました。
前7世紀、ドラコンが慣習法を成文化し、貴族に有利な法解釈を防ぎました。
前6世紀、ソロンが財産額の大小による市民の参政権を認め(財産政治)、また、市民の負債を帳消しにして奴隷に転落することを防ぎました。
財産政治→僭主政治
僭主と呼ばれる独裁者が、平民の支持で非合法に政権を奪いました。
前6世紀、ペイシストラトスが、 アテネで僭主政治を確立し、中小農民を保護するなど平民層の力を充実させました。
僭主政治→民主政への過渡期
前508年、クレイステネスが、血縁に基づく旧来の4部族制を、行政区デーモスを基礎として10部族制に改めました。
さらにクレイステネスは、僭主の出現を防止する制度陶片とうへん追放(オストラキスモス)を開始しました。
陶片追放
僭主になる心配のある人物の名を市民に陶器の破片オストラコンに書かせ、投票させて6000票以上集まれば、その者を10年間追放する制度
スパルタ
スパルタの概要
系統:
ドーリア人
政治:
貴族政(市民に貴族・平民の区別がないので厳密には「市民政」)
奴隷:
市民共有、市民人口の10倍、被征服民(非ドーリア人)がほとんど
奴隷
スパルタの奴隷はヘイロータイと呼ばれ、農業に従事させられました。
他には、ペリオイコイと呼ばれる奴隷と市民の中間的な存在がいて、奴隷ではないが、参政権をもたず、農業・商工業に従事させられました。
ヘイロータイは、数で市民を圧倒的に上回り、しばしば反乱を起こしました。
立法者リュクルゴスの指針で、市民は貨幣使用や商工業活動を禁止され、ヘイロータイの反乱を防ぐために軍事訓練に専念しました。
ポリスの同盟と対立
オリエントとの激突
前500年、全オリエントを統一したアケメネス朝の圧迫に、ミレトスを中心としたイオニア地方のギリシア人植民市が反乱を起こしました。
前500~前449年、ペルシア戦争
上記の反乱に、アケメネス朝のダレイオス1世が遠征軍を派遣し、アケメネス朝とギリシアの諸ポリスとの間で開戦
①前490年、マラトンの戦いでギリシア側が勝利
②前480年、テミストクレスがサラミスの海戦でアケメネス朝を打破
③前479年、プラタイアの戦いでギリシア側の勝利がほぼ決定
同盟と民主政の確立
アケメネス朝の再侵攻に備えて、諸ポリスは軍事同盟デロス同盟を結び、 アテネを盟主にしました。
アテネは、強大な海軍力を背景に他の同盟国に対する支配力を強めました。
アテネでは、軍艦の漕ぎ手を務めるような財産の少ない市民が参政権を得て、前5世紀半ば、将軍ペリクレスの指導の下、民主政が確立しました。
デロス同盟
同盟の金庫が、当初デロス島に置かれたことに由来
ペリクレスの提案に従い、両親ともにアテネの生まれの18歳以上の男性は、その貧富に関わらず、平等に参政権を得ました。
青年男性市民が参加する集会民会がアテネの政治の最高機関であり、将軍などを除く役人は一般市民からの抽選で選ばれました。
役人の責任は、弾劾裁判などで厳しく追及されました。
アテネの民主政は、デロス同盟の諸ポリスに広まりました。
ギリシア民主政の特徴
制限選挙
奴隷・在留外人・女性には参政権なし
直接民主政
代議制ではなく、参政権をもつ市民全員が参加
デモクラシー
語源は、「民衆の支配」を意味するギリシア語デモクラティア | 僭主になる心配のある人物の名を市民に陶器の破片オストラコンに書かせ、投票させて6000票以上集まれば、その者を10年間追放する制度は何ですか。 | 僭主になる心配のある人物の名を市民に陶器の破片オストラコンに書かせ、投票させて6000票以上集まれば、その者を10年間追放する制度は陶片追放です。 |
JCRRAG_008780 | 歴史 | マケドニアの侵入
有力ポリス間の争い
デロス同盟の盟主アテネに対して、ペロポネソス同盟の盟主スパルタは脅威を感じました。
前431~404年、ペロポネソス戦争
全ギリシアをまきこんだ、アテネとスパルタの戦争
アテネはペリクレスの病死で政治的に混乱し、アケメネス朝ペルシアの支援を受けたスパルタに敗北
前4世紀半ば、テーベというポリスがスパルタにかわり覇権を一時握りました。
アテネも勢力を回復し、ポリス間の争いは続きました。
やがて傭兵の登場で市民の団結が失われ、ポリスの在り方は変容しました。
諸ポリスの屈服
前4世紀後半、ギリシア人の一派がギリシア北方に建てたマケドニアが、王フィリッポス2世の下で勢力を拡大しました。
前338年、カイロネイアの戦い
マケドニアのフィリッポス2世がアテネ・テーベ連合軍を撃破した戦い
戦後、フィリッポス2世は諸ポリスをコリントス(ヘラス)同盟に集め、それらを支配
東方遠征
フィリッポス2世の子アレクサンドロス大王は、ペルシアを滅ぼすため、前334年、マケドニアとギリシア連合軍を率いて、東方遠征に出発しました。
①前333年、イッソスの戦い
アレクサンドロス大王がペルシア王ダレイオス3世の大軍を撃破した戦い
この戦いを契機に、エジプトを征服
②前331年、アルベラの戦い
アレクサンドロス大王が勝利し、ペルシアが滅亡
アレクサンドロス大王は、さらに軍をインド北西部に進め、東西にまたがる大帝国を築きました。
アレクサンドロス大王の急死後、領土はディアドコイ(後継者)と呼ばれる将軍らに争われ、やがて次の3つの国に分裂しました。
アンティゴノス朝マケドニア
小アジアを本拠とした王朝
セレウコス朝シリア
シリアに開かれたギリシア系王朝
プトレマイオス朝エジプト
エジプトに開かれたギリシア王朝
ヘレニズム時代
東方遠征からプトレマイオス朝エジプトの滅亡(前30年)までの約300年間を、ヘレニズム時代と呼びます。
この時代には、ギリシア風の都市がオリエントやその周辺に建設され、特にエジプトのアレクサンドリアは経済・文化の中心として栄えました。
アレクサンドリア
アレクサンドロス大王の各地に建設した植民市で、特にエジプトのものは、 ムセイオン(王立研究所)を整備しました。 | 前431~404年、全ギリシアをまきこんだ、アテネとスパルタの戦争は何ですか。 | 前431~404年、全ギリシアをまきこんだ、アテネとスパルタの戦争はペロポネソス戦争です。 |
JCRRAG_008781 | 歴史 | マケドニアの侵入
有力ポリス間の争い
デロス同盟の盟主アテネに対して、ペロポネソス同盟の盟主スパルタは脅威を感じました。
前431~404年、ペロポネソス戦争
全ギリシアをまきこんだ、アテネとスパルタの戦争
アテネはペリクレスの病死で政治的に混乱し、アケメネス朝ペルシアの支援を受けたスパルタに敗北
前4世紀半ば、テーベというポリスがスパルタにかわり覇権を一時握りました。
アテネも勢力を回復し、ポリス間の争いは続きました。
やがて傭兵の登場で市民の団結が失われ、ポリスの在り方は変容しました。
諸ポリスの屈服
前4世紀後半、ギリシア人の一派がギリシア北方に建てたマケドニアが、王フィリッポス2世の下で勢力を拡大しました。
前338年、カイロネイアの戦い
マケドニアのフィリッポス2世がアテネ・テーベ連合軍を撃破した戦い
戦後、フィリッポス2世は諸ポリスをコリントス(ヘラス)同盟に集め、それらを支配
東方遠征
フィリッポス2世の子アレクサンドロス大王は、ペルシアを滅ぼすため、前334年、マケドニアとギリシア連合軍を率いて、東方遠征に出発しました。
①前333年、イッソスの戦い
アレクサンドロス大王がペルシア王ダレイオス3世の大軍を撃破した戦い
この戦いを契機に、エジプトを征服
②前331年、アルベラの戦い
アレクサンドロス大王が勝利し、ペルシアが滅亡
アレクサンドロス大王は、さらに軍をインド北西部に進め、東西にまたがる大帝国を築きました。
アレクサンドロス大王の急死後、領土はディアドコイ(後継者)と呼ばれる将軍らに争われ、やがて次の3つの国に分裂しました。
アンティゴノス朝マケドニア
小アジアを本拠とした王朝
セレウコス朝シリア
シリアに開かれたギリシア系王朝
プトレマイオス朝エジプト
エジプトに開かれたギリシア王朝
ヘレニズム時代
東方遠征からプトレマイオス朝エジプトの滅亡(前30年)までの約300年間を、ヘレニズム時代と呼びます。
この時代には、ギリシア風の都市がオリエントやその周辺に建設され、特にエジプトのアレクサンドリアは経済・文化の中心として栄えました。
アレクサンドリア
アレクサンドロス大王の各地に建設した植民市で、特にエジプトのものは、 ムセイオン(王立研究所)を整備しました。 | 前338年、マケドニアのフィリッポス2世がアテネ・テーベ連合軍を撃破した戦いは、何ですか。 | 前338年、マケドニアのフィリッポス2世がアテネ・テーベ連合軍を撃破した戦いは、カイロネイアの戦いです。 |
JCRRAG_008782 | 歴史 | マケドニアの侵入
有力ポリス間の争い
デロス同盟の盟主アテネに対して、ペロポネソス同盟の盟主スパルタは脅威を感じました。
前431~404年、ペロポネソス戦争
全ギリシアをまきこんだ、アテネとスパルタの戦争
アテネはペリクレスの病死で政治的に混乱し、アケメネス朝ペルシアの支援を受けたスパルタに敗北
前4世紀半ば、テーベというポリスがスパルタにかわり覇権を一時握りました。
アテネも勢力を回復し、ポリス間の争いは続きました。
やがて傭兵の登場で市民の団結が失われ、ポリスの在り方は変容しました。
諸ポリスの屈服
前4世紀後半、ギリシア人の一派がギリシア北方に建てたマケドニアが、王フィリッポス2世の下で勢力を拡大しました。
前338年、カイロネイアの戦い
マケドニアのフィリッポス2世がアテネ・テーベ連合軍を撃破した戦い
戦後、フィリッポス2世は諸ポリスをコリントス(ヘラス)同盟に集め、それらを支配
東方遠征
フィリッポス2世の子アレクサンドロス大王は、ペルシアを滅ぼすため、前334年、マケドニアとギリシア連合軍を率いて、東方遠征に出発しました。
①前333年、イッソスの戦い
アレクサンドロス大王がペルシア王ダレイオス3世の大軍を撃破した戦い
この戦いを契機に、エジプトを征服
②前331年、アルベラの戦い
アレクサンドロス大王が勝利し、ペルシアが滅亡
アレクサンドロス大王は、さらに軍をインド北西部に進め、東西にまたがる大帝国を築きました。
アレクサンドロス大王の急死後、領土はディアドコイ(後継者)と呼ばれる将軍らに争われ、やがて次の3つの国に分裂しました。
アンティゴノス朝マケドニア
小アジアを本拠とした王朝
セレウコス朝シリア
シリアに開かれたギリシア系王朝
プトレマイオス朝エジプト
エジプトに開かれたギリシア王朝
ヘレニズム時代
東方遠征からプトレマイオス朝エジプトの滅亡(前30年)までの約300年間を、ヘレニズム時代と呼びます。
この時代には、ギリシア風の都市がオリエントやその周辺に建設され、特にエジプトのアレクサンドリアは経済・文化の中心として栄えました。
アレクサンドリア
アレクサンドロス大王の各地に建設した植民市で、特にエジプトのものは、 ムセイオン(王立研究所)を整備 | 前333年、アレクサンドロス大王がペルシア王ダレイオス3世の大軍を撃破した戦いは、何ですか。 | 前333年、アレクサンドロス大王がペルシア王ダレイオス3世の大軍を撃破した戦いは、イッソスの戦いです。 |
JCRRAG_008783 | 歴史 | マケドニアの侵入
有力ポリス間の争い
デロス同盟の盟主アテネに対して、ペロポネソス同盟の盟主スパルタは脅威を感じました。
前431~404年、ペロポネソス戦争
全ギリシアをまきこんだ、アテネとスパルタの戦争
アテネはペリクレスの病死で政治的に混乱し、アケメネス朝ペルシアの支援を受けたスパルタに敗北
前4世紀半ば、テーベというポリスがスパルタにかわり覇権を一時握りました。
アテネも勢力を回復し、ポリス間の争いは続きました。
やがて傭兵の登場で市民の団結が失われ、ポリスの在り方は変容しました。
諸ポリスの屈服
前4世紀後半、ギリシア人の一派がギリシア北方に建てたマケドニアが、王フィリッポス2世の下で勢力を拡大しました。
前338年、カイロネイアの戦い
マケドニアのフィリッポス2世がアテネ・テーベ連合軍を撃破した戦い
戦後、フィリッポス2世は諸ポリスをコリントス(ヘラス)同盟に集め、それらを支配
東方遠征
フィリッポス2世の子アレクサンドロス大王は、ペルシアを滅ぼすため、前334年、マケドニアとギリシア連合軍を率いて、東方遠征に出発しました。
①前333年、イッソスの戦い
アレクサンドロス大王がペルシア王ダレイオス3世の大軍を撃破した戦い
この戦いを契機に、エジプトを征服
②前331年、アルベラの戦い
アレクサンドロス大王が勝利し、ペルシアが滅亡
アレクサンドロス大王は、さらに軍をインド北西部に進め、東西にまたがる大帝国を築きました。
アレクサンドロス大王の急死後、領土はディアドコイ(後継者)と呼ばれる将軍らに争われ、やがて次の3つの国に分裂しました。
アンティゴノス朝マケドニア
小アジアを本拠とした王朝
セレウコス朝シリア
シリアに開かれたギリシア系王朝
プトレマイオス朝エジプト
エジプトに開かれたギリシア王朝
ヘレニズム時代
東方遠征からプトレマイオス朝エジプトの滅亡(前30年)までの約300年間を、ヘレニズム時代と呼びます。
この時代には、ギリシア風の都市がオリエントやその周辺に建設され、特にエジプトのアレクサンドリアは経済・文化の中心として栄えました。
アレクサンドリア
アレクサンドロス大王の各地に建設した植民市で、特にエジプトのものは、 ムセイオン(王立研究所)を整備しました。 | 前331年、アレクサンドロス大王が勝利し、ペルシアが滅亡した戦いは、何ですか。 | 前331年、アレクサンドロス大王が勝利し、ペルシアが滅亡した戦いは、アルベラの戦いです。 |
JCRRAG_008784 | 歴史 | マケドニアの侵入
有力ポリス間の争い
デロス同盟の盟主アテネに対して、ペロポネソス同盟の盟主スパルタは脅威を感じました。
前431~404年、ペロポネソス戦争
全ギリシアをまきこんだ、アテネとスパルタの戦争
アテネはペリクレスの病死で政治的に混乱し、アケメネス朝ペルシアの支援を受けたスパルタに敗北
前4世紀半ば、テーベというポリスがスパルタにかわり覇権を一時握りました。
アテネも勢力を回復し、ポリス間の争いは続きました。
やがて傭兵の登場で市民の団結が失われ、ポリスの在り方は変容しました。
諸ポリスの屈服
前4世紀後半、ギリシア人の一派がギリシア北方に建てたマケドニアが、王フィリッポス2世の下で勢力を拡大しました。
前338年、カイロネイアの戦い
マケドニアのフィリッポス2世がアテネ・テーベ連合軍を撃破した戦い
戦後、フィリッポス2世は諸ポリスをコリントス(ヘラス)同盟に集め、それらを支配
東方遠征
フィリッポス2世の子アレクサンドロス大王は、ペルシアを滅ぼすため、前334年、マケドニアとギリシア連合軍を率いて、東方遠征に出発しました。
①前333年、イッソスの戦い
アレクサンドロス大王がペルシア王ダレイオス3世の大軍を撃破した戦い
この戦いを契機に、エジプトを征服
②前331年、アルベラの戦い
アレクサンドロス大王が勝利し、ペルシアが滅亡
アレクサンドロス大王は、さらに軍をインド北西部に進め、東西にまたがる大帝国を築きました。
アレクサンドロス大王の急死後、領土はディアドコイ(後継者)と呼ばれる将軍らに争われ、やがて次の3つの国に分裂しました。
アンティゴノス朝マケドニア
小アジアを本拠とした王朝
セレウコス朝シリア
シリアに開かれたギリシア系王朝
プトレマイオス朝エジプト
エジプトに開かれたギリシア王朝
ヘレニズム時代
東方遠征からプトレマイオス朝エジプトの滅亡(前30年)までの約300年間を、ヘレニズム時代と呼びます。
この時代には、ギリシア風の都市がオリエントやその周辺に建設され、特にエジプトのアレクサンドリアは経済・文化の中心として栄えました。
アレクサンドリア
アレクサンドロス大王の各地に建設した植民市で、特にエジプトのものは、 ムセイオン(王立研究所)を整備しました。 | 東方遠征からプトレマイオス朝エジプトの滅亡(前30年)までの約300年間を、何時代と呼びますか。 | 東方遠征からプトレマイオス朝エジプトの滅亡(前30年)までの約300年間を、ヘレニズム時代と呼びます。 |
JCRRAG_008785 | 歴史 | 文学・哲学・劇・言論
文学
ギリシア神話では、ゼウスを主神とするオリンポス12神が崇拝されました。
この神話は多神教で、神は人間と同じ姿や感情を持つとされました。
ギリシア文学は、この神々と人間との関わりをうたった次の叙事詩じょじしから始まりました。
ホメロス著の、トロイア戦争での英雄の活躍を描く『イリアス』『オデュッセイア』
ヘシオドス著の、神々の系譜を語る『神統記』、勤労の尊たっとさを説く『労働と日々』
イリアス
トロイアの別名であるイリオンの歌の意味
自然哲学
ギリシア人は、論理と議論を重視し、自然現象を神話でなく合理的根拠で説明しようとした。
前6世紀、イオニア地方のミレトスを中心にイオニア自然哲学が発達した。
代表的哲学者
タレス
万物の根源を水と考えた人物
ピタゴラス
「ピタゴラスの定理(三平方の定理)」を発見した人物
劇
アテネの祭典では悲劇や喜劇のコンテストが催され、鑑賞することはアテネ市民の義務でもありました。
代表的作家
悲劇
「三大悲劇詩人」
アイスキュロス
ソフォクレス
エウリピデス
喜劇
アリストファネス
『女の平和』『女の議会』などの喜劇作家
言論
ペリクレスの指導の下でアテネの民主政は完成されました。
民会や民衆裁判所での弁論が市民生活にとって重要になりました。
弁論に勝つことを重視し、時に事実に反する詭弁きべんを教える職業教師ソフィストが現れました。
代表的なソフィストには、「人間は万物の尺度」と主張したプロタゴラスがいました。
「人間は万物の尺度」
それぞれの人間に判断の基準があるから、普遍的・絶対的な判断の基準(真理)は存在しないとする考え
ソフィストの考えに対する批判者としてソクラテスが現れ、真理の存在を主張しました。
ソクラテスの哲学を受け継いだプラトン は、事象の背後にあるイデアこそ永遠不変の実在であるとするイデア論や、少数の有徳者のみが政治を担当すべきとする国家論を説きました。
学問
万学の祖
プラトンの弟子アリストテレスは、自然・人文・社会のあらゆる方面に思索を及ぼし、「万学の祖」と呼ばれる学問体系を築きました。
アリストテレスの学問は、後のイスラームの学問やヨーロッパ中世のスコラ学に影響を与えました。
歴史記述の祖
ヘロドトス
『歴史』でペルシア戦争を叙述した人物
「エジプトはナイルのたまもの」と、ナイル川に支えられた古代エジプト文明の繁栄を表現
トゥキディデス
『歴史』でペロポネソス戦争を叙述した人物
建築・美術
柱と建築
建築は、主に柱の様式によって分類されます。
ドーリア式
イオニア式
コリント式
アテネの女神神殿パルテノン神殿は、ドーリア式の神殿です。
彫刻
フェイディアス
パルテノン神殿のアテナ女神像などをつくった人物
ヘレニズム時代以降
ヘレニズム文化
ヘレニズム時代に入ると、ギリシア文化は東方にも波及し、各地域の文化からも影響をうけて独自の文化を生み出しました。
これをヘレニズム文化といいます。
哲学
ポリス中心の考え方が変化し、ポリス市民という枠を越えた生き方を理想とする世界市民主義(コスモポリタニズム)の思想が生まれた。
哲学もポリス政治からの逃避と個人の内面的幸福の追求を説くようになり、次の人物が登場しました。
エピクロス
持続する精神的な快楽を重視するエピクロス派の祖
ゼノン
理性に従って情念に乱されない禁欲を理想とするストア派の祖
科学
エウクレイデス(ユークリッド)
「ユークリッド幾何学」と呼ばれる平面幾何学を集大成した人物
アルキメデス
「アルキメデスの原理(浮体の原理)」など数学・物理学の諸原理を発見した人物
エラトステネス
地球の周囲の長さを測定した人物
ムセイオン
エジプトのアレクサンドリアにつくられた王立研究所です。 | トロイア戦争での英雄の活躍を描く『イリアス』『オデュッセイア』を書いたのは誰ですか。 | トロイア戦争での英雄の活躍を描く『イリアス』『オデュッセイア』を書いたのはホメロスです。 |
JCRRAG_008786 | 歴史 | 文学・哲学・劇・言論
文学
ギリシア神話では、ゼウスを主神とするオリンポス12神が崇拝されました。
この神話は多神教で、神は人間と同じ姿や感情を持つとされました。
ギリシア文学は、この神々と人間との関わりをうたった次の叙事詩じょじしから始まりました。
ホメロス著の、トロイア戦争での英雄の活躍を描く『イリアス』『オデュッセイア』
ヘシオドス著の、神々の系譜を語る『神統記』、勤労の尊たっとさを説く『労働と日々』
イリアス
トロイアの別名であるイリオンの歌の意味
自然哲学
ギリシア人は、論理と議論を重視し、自然現象を神話でなく合理的根拠で説明しようとした。
前6世紀、イオニア地方のミレトスを中心にイオニア自然哲学が発達した。
代表的哲学者
タレス
万物の根源を水と考えた人物
ピタゴラス
「ピタゴラスの定理(三平方の定理)」を発見した人物
劇
アテネの祭典では悲劇や喜劇のコンテストが催され、鑑賞することはアテネ市民の義務でもありました。
代表的作家
悲劇
「三大悲劇詩人」
アイスキュロス
ソフォクレス
エウリピデス
喜劇
アリストファネス
『女の平和』『女の議会』などの喜劇作家
言論
ペリクレスの指導の下でアテネの民主政は完成されました。
民会や民衆裁判所での弁論が市民生活にとって重要になりました。
弁論に勝つことを重視し、時に事実に反する詭弁きべんを教える職業教師ソフィストが現れました。
代表的なソフィストには、「人間は万物の尺度」と主張したプロタゴラスがいました。
「人間は万物の尺度」
それぞれの人間に判断の基準があるから、普遍的・絶対的な判断の基準(真理)は存在しないとする考え
ソフィストの考えに対する批判者としてソクラテスが現れ、真理の存在を主張しました。
ソクラテスの哲学を受け継いだプラトン は、事象の背後にあるイデアこそ永遠不変の実在であるとするイデア論や、少数の有徳者のみが政治を担当すべきとする国家論を説きました。
学問
万学の祖
プラトンの弟子アリストテレスは、自然・人文・社会のあらゆる方面に思索を及ぼし、「万学の祖」と呼ばれる学問体系を築きました。
アリストテレスの学問は、後のイスラームの学問やヨーロッパ中世のスコラ学に影響を与えました。
歴史記述の祖
ヘロドトス
『歴史』でペルシア戦争を叙述した人物
「エジプトはナイルのたまもの」と、ナイル川に支えられた古代エジプト文明の繁栄を表現
トゥキディデス
『歴史』でペロポネソス戦争を叙述した人物
建築・美術
柱と建築
建築は、主に柱の様式によって分類されます。
ドーリア式
イオニア式
コリント式
アテネの女神神殿パルテノン神殿は、ドーリア式の神殿です。
彫刻
フェイディアス
パルテノン神殿のアテナ女神像などをつくった人物
ヘレニズム時代以降
ヘレニズム文化
ヘレニズム時代に入ると、ギリシア文化は東方にも波及し、各地域の文化からも影響をうけて独自の文化を生み出しました。
これをヘレニズム文化といいます。
哲学
ポリス中心の考え方が変化し、ポリス市民という枠を越えた生き方を理想とする世界市民主義(コスモポリタニズム)の思想が生まれた。
哲学もポリス政治からの逃避と個人の内面的幸福の追求を説くようになり、次の人物が登場しました。
エピクロス
持続する精神的な快楽を重視するエピクロス派の祖
ゼノン
理性に従って情念に乱されない禁欲を理想とするストア派の祖
科学
エウクレイデス(ユークリッド)
「ユークリッド幾何学」と呼ばれる平面幾何学を集大成した人物
アルキメデス
「アルキメデスの原理(浮体の原理)」など数学・物理学の諸原理を発見した人物
エラトステネス
地球の周囲の長さを測定した人物
ムセイオン
エジプトのアレクサンドリアにつくられた王立研究所です。 | 神々の系譜を語る『神統記』、勤労の尊さを説く『労働と日々』を書いたのは誰ですか。 | 神々の系譜を語る『神統記』、勤労の尊さを説く『労働と日々』を書いたのはヘシオドスです。 |
JCRRAG_008787 | 歴史 | 文学・哲学・劇・言論
文学
ギリシア神話では、ゼウスを主神とするオリンポス12神が崇拝されました。
この神話は多神教で、神は人間と同じ姿や感情を持つとされました。
ギリシア文学は、この神々と人間との関わりをうたった次の叙事詩じょじしから始まりました。
ホメロス著の、トロイア戦争での英雄の活躍を描く『イリアス』『オデュッセイア』
ヘシオドス著の、神々の系譜を語る『神統記』、勤労の尊たっとさを説く『労働と日々』
イリアス
トロイアの別名であるイリオンの歌の意味
自然哲学
ギリシア人は、論理と議論を重視し、自然現象を神話でなく合理的根拠で説明しようとした。
前6世紀、イオニア地方のミレトスを中心にイオニア自然哲学が発達した。
代表的哲学者
タレス
万物の根源を水と考えた人物
ピタゴラス
「ピタゴラスの定理(三平方の定理)」を発見した人物
劇
アテネの祭典では悲劇や喜劇のコンテストが催され、鑑賞することはアテネ市民の義務でもありました。
代表的作家
悲劇
「三大悲劇詩人」
アイスキュロス
ソフォクレス
エウリピデス
喜劇
アリストファネス
『女の平和』『女の議会』などの喜劇作家
言論
ペリクレスの指導の下でアテネの民主政は完成されました。
民会や民衆裁判所での弁論が市民生活にとって重要になりました。
弁論に勝つことを重視し、時に事実に反する詭弁きべんを教える職業教師ソフィストが現れました。
代表的なソフィストには、「人間は万物の尺度」と主張したプロタゴラスがいました。
「人間は万物の尺度」
それぞれの人間に判断の基準があるから、普遍的・絶対的な判断の基準(真理)は存在しないとする考え
ソフィストの考えに対する批判者としてソクラテスが現れ、真理の存在を主張しました。
ソクラテスの哲学を受け継いだプラトン は、事象の背後にあるイデアこそ永遠不変の実在であるとするイデア論や、少数の有徳者のみが政治を担当すべきとする国家論を説きました。
学問
万学の祖
プラトンの弟子アリストテレスは、自然・人文・社会のあらゆる方面に思索を及ぼし、「万学の祖」と呼ばれる学問体系を築きました。
アリストテレスの学問は、後のイスラームの学問やヨーロッパ中世のスコラ学に影響を与えました。
歴史記述の祖
ヘロドトス
『歴史』でペルシア戦争を叙述した人物
「エジプトはナイルのたまもの」と、ナイル川に支えられた古代エジプト文明の繁栄を表現
トゥキディデス
『歴史』でペロポネソス戦争を叙述した人物
建築・美術
柱と建築
建築は、主に柱の様式によって分類されます。
ドーリア式
イオニア式
コリント式
アテネの女神神殿パルテノン神殿は、ドーリア式の神殿です。
彫刻
フェイディアス
パルテノン神殿のアテナ女神像などをつくった人物
ヘレニズム時代以降
ヘレニズム文化
ヘレニズム時代に入ると、ギリシア文化は東方にも波及し、各地域の文化からも影響をうけて独自の文化を生み出しました。
これをヘレニズム文化といいます。
哲学
ポリス中心の考え方が変化し、ポリス市民という枠を越えた生き方を理想とする世界市民主義(コスモポリタニズム)の思想が生まれた。
哲学もポリス政治からの逃避と個人の内面的幸福の追求を説くようになり、次の人物が登場しました。
エピクロス
持続する精神的な快楽を重視するエピクロス派の祖
ゼノン
理性に従って情念に乱されない禁欲を理想とするストア派の祖
科学
エウクレイデス(ユークリッド)
「ユークリッド幾何学」と呼ばれる平面幾何学を集大成した人物
アルキメデス
「アルキメデスの原理(浮体の原理)」など数学・物理学の諸原理を発見した人物
エラトステネス
地球の周囲の長さを測定した人物
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エジプトのアレクサンドリアにつくられた王立研究所です。 | 前6世紀、イオニア地方のミレトスを中心に発達した哲学は、何ですか。 | 前6世紀、イオニア地方のミレトスを中心に発達した哲学は、イオニア自然哲学です。 |
JCRRAG_008788 | 歴史 | 文学・哲学・劇・言論
文学
ギリシア神話では、ゼウスを主神とするオリンポス12神が崇拝されました。
この神話は多神教で、神は人間と同じ姿や感情を持つとされました。
ギリシア文学は、この神々と人間との関わりをうたった次の叙事詩じょじしから始まりました。
ホメロス著の、トロイア戦争での英雄の活躍を描く『イリアス』『オデュッセイア』
ヘシオドス著の、神々の系譜を語る『神統記』、勤労の尊たっとさを説く『労働と日々』
イリアス
トロイアの別名であるイリオンの歌の意味
自然哲学
ギリシア人は、論理と議論を重視し、自然現象を神話でなく合理的根拠で説明しようとした。
前6世紀、イオニア地方のミレトスを中心にイオニア自然哲学が発達した。
代表的哲学者
タレス
万物の根源を水と考えた人物
ピタゴラス
「ピタゴラスの定理(三平方の定理)」を発見した人物
劇
アテネの祭典では悲劇や喜劇のコンテストが催され、鑑賞することはアテネ市民の義務でもありました。
代表的作家
悲劇
「三大悲劇詩人」
アイスキュロス
ソフォクレス
エウリピデス
喜劇
アリストファネス
『女の平和』『女の議会』などの喜劇作家
言論
ペリクレスの指導の下でアテネの民主政は完成されました。
民会や民衆裁判所での弁論が市民生活にとって重要になりました。
弁論に勝つことを重視し、時に事実に反する詭弁きべんを教える職業教師ソフィストが現れました。
代表的なソフィストには、「人間は万物の尺度」と主張したプロタゴラスがいました。
「人間は万物の尺度」
それぞれの人間に判断の基準があるから、普遍的・絶対的な判断の基準(真理)は存在しないとする考え
ソフィストの考えに対する批判者としてソクラテスが現れ、真理の存在を主張しました。
ソクラテスの哲学を受け継いだプラトン は、事象の背後にあるイデアこそ永遠不変の実在であるとするイデア論や、少数の有徳者のみが政治を担当すべきとする国家論を説きました。
学問
万学の祖
プラトンの弟子アリストテレスは、自然・人文・社会のあらゆる方面に思索を及ぼし、「万学の祖」と呼ばれる学問体系を築きました。
アリストテレスの学問は、後のイスラームの学問やヨーロッパ中世のスコラ学に影響を与えました。
歴史記述の祖
ヘロドトス
『歴史』でペルシア戦争を叙述した人物
「エジプトはナイルのたまもの」と、ナイル川に支えられた古代エジプト文明の繁栄を表現
トゥキディデス
『歴史』でペロポネソス戦争を叙述した人物
建築・美術
柱と建築
建築は、主に柱の様式によって分類されます。
ドーリア式
イオニア式
コリント式
アテネの女神神殿パルテノン神殿は、ドーリア式の神殿です。
彫刻
フェイディアス
パルテノン神殿のアテナ女神像などをつくった人物
ヘレニズム時代以降
ヘレニズム文化
ヘレニズム時代に入ると、ギリシア文化は東方にも波及し、各地域の文化からも影響をうけて独自の文化を生み出しました。
これをヘレニズム文化といいます。
哲学
ポリス中心の考え方が変化し、ポリス市民という枠を越えた生き方を理想とする世界市民主義(コスモポリタニズム)の思想が生まれた。
哲学もポリス政治からの逃避と個人の内面的幸福の追求を説くようになり、次の人物が登場しました。
エピクロス
持続する精神的な快楽を重視するエピクロス派の祖
ゼノン
理性に従って情念に乱されない禁欲を理想とするストア派の祖
科学
エウクレイデス(ユークリッド)
「ユークリッド幾何学」と呼ばれる平面幾何学を集大成した人物
アルキメデス
「アルキメデスの原理(浮体の原理)」など数学・物理学の諸原理を発見した人物
エラトステネス
地球の周囲の長さを測定した人物
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エジプトのアレクサンドリアにつくられた王立研究所です。 | 万物の根源を水と考えた人物は誰ですか。 | 万物の根源を水と考えた人物はタレスです。 |
JCRRAG_008789 | 歴史 | 文学・哲学・劇・言論
文学
ギリシア神話では、ゼウスを主神とするオリンポス12神が崇拝されました。
この神話は多神教で、神は人間と同じ姿や感情を持つとされました。
ギリシア文学は、この神々と人間との関わりをうたった次の叙事詩じょじしから始まりました。
ホメロス著の、トロイア戦争での英雄の活躍を描く『イリアス』『オデュッセイア』
ヘシオドス著の、神々の系譜を語る『神統記』、勤労の尊たっとさを説く『労働と日々』
イリアス
トロイアの別名であるイリオンの歌の意味
自然哲学
ギリシア人は、論理と議論を重視し、自然現象を神話でなく合理的根拠で説明しようとした。
前6世紀、イオニア地方のミレトスを中心にイオニア自然哲学が発達した。
代表的哲学者
タレス
万物の根源を水と考えた人物
ピタゴラス
「ピタゴラスの定理(三平方の定理)」を発見した人物
劇
アテネの祭典では悲劇や喜劇のコンテストが催され、鑑賞することはアテネ市民の義務でもありました。
代表的作家
悲劇
「三大悲劇詩人」
アイスキュロス
ソフォクレス
エウリピデス
喜劇
アリストファネス
『女の平和』『女の議会』などの喜劇作家
言論
ペリクレスの指導の下でアテネの民主政は完成されました。
民会や民衆裁判所での弁論が市民生活にとって重要になりました。
弁論に勝つことを重視し、時に事実に反する詭弁きべんを教える職業教師ソフィストが現れました。
代表的なソフィストには、「人間は万物の尺度」と主張したプロタゴラスがいました。
「人間は万物の尺度」
それぞれの人間に判断の基準があるから、普遍的・絶対的な判断の基準(真理)は存在しないとする考え
ソフィストの考えに対する批判者としてソクラテスが現れ、真理の存在を主張しました。
ソクラテスの哲学を受け継いだプラトン は、事象の背後にあるイデアこそ永遠不変の実在であるとするイデア論や、少数の有徳者のみが政治を担当すべきとする国家論を説きました。
学問
万学の祖
プラトンの弟子アリストテレスは、自然・人文・社会のあらゆる方面に思索を及ぼし、「万学の祖」と呼ばれる学問体系を築きました。
アリストテレスの学問は、後のイスラームの学問やヨーロッパ中世のスコラ学に影響を与えました。
歴史記述の祖
ヘロドトス
『歴史』でペルシア戦争を叙述した人物
「エジプトはナイルのたまもの」と、ナイル川に支えられた古代エジプト文明の繁栄を表現
トゥキディデス
『歴史』でペロポネソス戦争を叙述した人物
建築・美術
柱と建築
建築は、主に柱の様式によって分類されます。
ドーリア式
イオニア式
コリント式
アテネの女神神殿パルテノン神殿は、ドーリア式の神殿です。
彫刻
フェイディアス
パルテノン神殿のアテナ女神像などをつくった人物
ヘレニズム時代以降
ヘレニズム文化
ヘレニズム時代に入ると、ギリシア文化は東方にも波及し、各地域の文化からも影響をうけて独自の文化を生み出しました。
これをヘレニズム文化といいます。
哲学
ポリス中心の考え方が変化し、ポリス市民という枠を越えた生き方を理想とする世界市民主義(コスモポリタニズム)の思想が生まれた。
哲学もポリス政治からの逃避と個人の内面的幸福の追求を説くようになり、次の人物が登場しました。
エピクロス
持続する精神的な快楽を重視するエピクロス派の祖
ゼノン
理性に従って情念に乱されない禁欲を理想とするストア派の祖
科学
エウクレイデス(ユークリッド)
「ユークリッド幾何学」と呼ばれる平面幾何学を集大成した人物
アルキメデス
「アルキメデスの原理(浮体の原理)」など数学・物理学の諸原理を発見した人物
エラトステネス
地球の周囲の長さを測定した人物
ムセイオン
エジプトのアレクサンドリアにつくられた王立研究所です。 | 「ピタゴラスの定理(三平方の定理)」を発見した人物は誰ですか。 | 「ピタゴラスの定理(三平方の定理)」を発見した人物はピタゴラスです。 |
JCRRAG_008790 | 歴史 | ローマ共和政
成立と変遷
前1000年頃、古代イタリア人がイタリア半島に定住しました。
ティベル川のほとりに都市国家ローマが建設されました。
ローマは、はじめ先住民エトルリア人の王に支配されていました。
前6世紀末にエトルリア人の王が追放され、ローマは共和政となりました。
ローマの身分
貴族(パトリキ)
土地と奴隷などの資産をもつ上位階層
平民(プレブス)
パトリキ以外のローマ一般市民
国政の変遷
民会
全男性市民によって開催される議決機関
執政官(コンスル)
最高の役人で、民会によって貴族から任期1年で2名選出
元老院
終身議員で構成される、コンスルなど役人に助言を与える諮問機関
国政全般に影響力をもち、民会での決定も元老院の承認が必要
平民は、重装歩兵として国防に重要な役割を果たすようになりました。
平民は貴族の政権独占に不満を抱き、身分闘争を起こしました。
前5世紀、平民を保護するために次の役職・機関・法が登場しました。
護民官
平民出身から選ばれる役職で、元老院やコンスルの決定に拒否権を行使可能
平民会
民会の1つとして新設され、平民だけで構成
十二表法
貴族による法知識の独占を破り、旧来の慣習法を成文化したもの
前367年、リキニウス・セクスティウス法
貴族の独占を破り、コンスルのうち1人を平民から選出することを決めた法
前287年、ホルテンシウス法
平民会の決定が元老院の承認なしにローマの国法となることを認めた法
貴族と平民が法的に平等となり、身分闘争は終了しました。
ローマ共和政とギリシア民主政
次の3点で、ローマ共和政は、貧富関係なく市民が政治参加できたギリシア民主政と大きく異なりました。
ホルテンシウス法の制定後、一部の富裕な平民が貴族に加わり、新しい支配階層が成立して政権を独占
元老院が実質的に指導権を維持
非常時に独裁官(ディクタトル)が独裁権を行使
ローマの征服事業
地中海征服
前3世紀前半、ローマは全イタリア半島を支配しました。
次の2つの方法で、ローマは広い領域の支配に成功しました。
分割統治
征服した都市と個別に同盟を結び、それぞれに異なる権利と義務を付与し、被支配者の団結と反抗を阻止
服属した住民の一部にローマ市民権を付与(ポリスとの違い)
前264~前146年、ポエニ戦争
フェニキア人の植民市カルタゴとの3度にわたる衝突
イタリア半島以外のローマの征服地属州を獲得(最初はシチリア)
カルタゴの将軍ハンニバルに一時追い込まれたが、後に戦局を挽回してローマが勝利
前2世紀半ば、マケドニアとギリシア諸ポリスを支配して地中海全体をほぼ制覇
ローマの変質
征服事業が続くうちに、次の人々に変化が生じ、経済的格差が広がりました。
中小農民
出征するうちに農地が荒廃して没落
属州からの安い穀物が生活を支えたので、いっそうの征服事業を渇望
元老院議員・騎士階層
属州統治を任されたり、徴税を請け負ったりして、莫大な富を獲得
公有地や農民が手放した土地を買い集め、戦争捕虜である奴隷を使って大規模に農業経営(ラティフンディア)
前2世紀後半、市民の平等を原則としたローマの性格は変質し、共和政の土台が揺らぎました。
政治家は、次の2つの勢力にわかれて争いました。
閥族派
元老院の伝統的支配をまもろうとする勢力
平民派
無産市民や騎士が支持する勢力
内乱の1世紀
グラックス兄弟は、農民の没落による軍事力低下を心配しました。
兄弟は、あいついで護民官になり、大土地所有者の土地没収と無産市民への分配を考えました。
しかし、この改革は反対にあって失敗しました。
紀元前1世紀、有力政治家は配下を多く抱え、彼らを使って互いに暴力で争い始めました。
この時期を「内乱の1世紀」と呼んでいます。 | 前1000年頃、古代イタリア人がイタリア半島に定住し、ティベル川のほとりに建設した都市国家は何ですか。 | 前1000年頃、古代イタリア人がイタリア半島に定住し、ティベル川のほとりに建設した都市国家はローマです。 |
JCRRAG_008791 | 歴史 | ローマ共和政
成立と変遷
前1000年頃、古代イタリア人がイタリア半島に定住しました。
ティベル川のほとりに都市国家ローマが建設されました。
ローマは、はじめ先住民エトルリア人の王に支配されていました。
前6世紀末にエトルリア人の王が追放され、ローマは共和政となりました。
ローマの身分
貴族(パトリキ)
土地と奴隷などの資産をもつ上位階層
平民(プレブス)
パトリキ以外のローマ一般市民
国政の変遷
民会
全男性市民によって開催される議決機関
執政官(コンスル)
最高の役人で、民会によって貴族から任期1年で2名選出
元老院
終身議員で構成される、コンスルなど役人に助言を与える諮問機関
国政全般に影響力をもち、民会での決定も元老院の承認が必要
平民は、重装歩兵として国防に重要な役割を果たすようになりました。
平民は貴族の政権独占に不満を抱き、身分闘争を起こしました。
前5世紀、平民を保護するために次の役職・機関・法が登場しました。
護民官
平民出身から選ばれる役職で、元老院やコンスルの決定に拒否権を行使可能
平民会
民会の1つとして新設され、平民だけで構成
十二表法
貴族による法知識の独占を破り、旧来の慣習法を成文化したもの
前367年、リキニウス・セクスティウス法
貴族の独占を破り、コンスルのうち1人を平民から選出することを決めた法
前287年、ホルテンシウス法
平民会の決定が元老院の承認なしにローマの国法となることを認めた法
貴族と平民が法的に平等となり、身分闘争は終了しました。
ローマ共和政とギリシア民主政
次の3点で、ローマ共和政は、貧富関係なく市民が政治参加できたギリシア民主政と大きく異なりました。
ホルテンシウス法の制定後、一部の富裕な平民が貴族に加わり、新しい支配階層が成立して政権を独占
元老院が実質的に指導権を維持
非常時に独裁官(ディクタトル)が独裁権を行使
ローマの征服事業
地中海征服
前3世紀前半、ローマは全イタリア半島を支配しました。
次の2つの方法で、ローマは広い領域の支配に成功しました。
分割統治
征服した都市と個別に同盟を結び、それぞれに異なる権利と義務を付与し、被支配者の団結と反抗を阻止
服属した住民の一部にローマ市民権を付与(ポリスとの違い)
前264~前146年、ポエニ戦争
フェニキア人の植民市カルタゴとの3度にわたる衝突
イタリア半島以外のローマの征服地属州を獲得(最初はシチリア)
カルタゴの将軍ハンニバルに一時追い込まれたが、後に戦局を挽回してローマが勝利
前2世紀半ば、マケドニアとギリシア諸ポリスを支配して地中海全体をほぼ制覇
ローマの変質
征服事業が続くうちに、次の人々に変化が生じ、経済的格差が広がりました。
中小農民
出征するうちに農地が荒廃して没落
属州からの安い穀物が生活を支えたので、いっそうの征服事業を渇望
元老院議員・騎士階層
属州統治を任されたり、徴税を請け負ったりして、莫大な富を獲得
公有地や農民が手放した土地を買い集め、戦争捕虜である奴隷を使って大規模に農業経営(ラティフンディア)
前2世紀後半、市民の平等を原則としたローマの性格は変質し、共和政の土台が揺らぎました。
政治家は、次の2つの勢力にわかれて争いました。
閥族派
元老院の伝統的支配をまもろうとする勢力
平民派
無産市民や騎士が支持する勢力
内乱の1世紀
グラックス兄弟は、農民の没落による軍事力低下を心配しました。
兄弟は、あいついで護民官になり、大土地所有者の土地没収と無産市民への分配を考えました。
しかし、この改革は反対にあって失敗しました。
紀元前1世紀、有力政治家は配下を多く抱え、彼らを使って互いに暴力で争い始めました。
この時期を「内乱の1世紀」と呼んでいます。 | 全男性市民によって開催される議決機関は何ですか。 | 全男性市民によって開催される議決機関は民会です。 |
JCRRAG_008792 | 歴史 | ローマ共和政
成立と変遷
前1000年頃、古代イタリア人がイタリア半島に定住しました。
ティベル川のほとりに都市国家ローマが建設されました。
ローマは、はじめ先住民エトルリア人の王に支配されていました。
前6世紀末にエトルリア人の王が追放され、ローマは共和政となりました。
ローマの身分
貴族(パトリキ)
土地と奴隷などの資産をもつ上位階層
平民(プレブス)
パトリキ以外のローマ一般市民
国政の変遷
民会
全男性市民によって開催される議決機関
執政官(コンスル)
最高の役人で、民会によって貴族から任期1年で2名選出
元老院
終身議員で構成される、コンスルなど役人に助言を与える諮問機関
国政全般に影響力をもち、民会での決定も元老院の承認が必要
平民は、重装歩兵として国防に重要な役割を果たすようになりました。
平民は貴族の政権独占に不満を抱き、身分闘争を起こしました。
前5世紀、平民を保護するために次の役職・機関・法が登場しました。
護民官
平民出身から選ばれる役職で、元老院やコンスルの決定に拒否権を行使可能
平民会
民会の1つとして新設され、平民だけで構成
十二表法
貴族による法知識の独占を破り、旧来の慣習法を成文化したもの
前367年、リキニウス・セクスティウス法
貴族の独占を破り、コンスルのうち1人を平民から選出することを決めた法
前287年、ホルテンシウス法
平民会の決定が元老院の承認なしにローマの国法となることを認めた法
貴族と平民が法的に平等となり、身分闘争は終了しました。
ローマ共和政とギリシア民主政
次の3点で、ローマ共和政は、貧富関係なく市民が政治参加できたギリシア民主政と大きく異なりました。
ホルテンシウス法の制定後、一部の富裕な平民が貴族に加わり、新しい支配階層が成立して政権を独占
元老院が実質的に指導権を維持
非常時に独裁官(ディクタトル)が独裁権を行使
ローマの征服事業
地中海征服
前3世紀前半、ローマは全イタリア半島を支配しました。
次の2つの方法で、ローマは広い領域の支配に成功しました。
分割統治
征服した都市と個別に同盟を結び、それぞれに異なる権利と義務を付与し、被支配者の団結と反抗を阻止
服属した住民の一部にローマ市民権を付与(ポリスとの違い)
前264~前146年、ポエニ戦争
フェニキア人の植民市カルタゴとの3度にわたる衝突
イタリア半島以外のローマの征服地属州を獲得(最初はシチリア)
カルタゴの将軍ハンニバルに一時追い込まれたが、後に戦局を挽回してローマが勝利
前2世紀半ば、マケドニアとギリシア諸ポリスを支配して地中海全体をほぼ制覇
ローマの変質
征服事業が続くうちに、次の人々に変化が生じ、経済的格差が広がりました。
中小農民
出征するうちに農地が荒廃して没落
属州からの安い穀物が生活を支えたので、いっそうの征服事業を渇望
元老院議員・騎士階層
属州統治を任されたり、徴税を請け負ったりして、莫大な富を獲得
公有地や農民が手放した土地を買い集め、戦争捕虜である奴隷を使って大規模に農業経営(ラティフンディア)
前2世紀後半、市民の平等を原則としたローマの性格は変質し、共和政の土台が揺らぎました。
政治家は、次の2つの勢力にわかれて争いました。
閥族派
元老院の伝統的支配をまもろうとする勢力
平民派
無産市民や騎士が支持する勢力
内乱の1世紀
グラックス兄弟は、農民の没落による軍事力低下を心配しました。
兄弟は、あいついで護民官になり、大土地所有者の土地没収と無産市民への分配を考えました。
しかし、この改革は反対にあって失敗しました。
紀元前1世紀、有力政治家は配下を多く抱え、彼らを使って互いに暴力で争い始めました。
この時期を「内乱の1世紀」と呼んでいます。 | 終身議員で構成される、コンスルなど役人に助言を与える諮問機関は何ですか。 | 終身議員で構成される、コンスルなど役人に助言を与える諮問機関は元老院です。 |
JCRRAG_008793 | 歴史 | ローマ共和政
成立と変遷
前1000年頃、古代イタリア人がイタリア半島に定住しました。
ティベル川のほとりに都市国家ローマが建設されました。
ローマは、はじめ先住民エトルリア人の王に支配されていました。
前6世紀末にエトルリア人の王が追放され、ローマは共和政となりました。
ローマの身分
貴族(パトリキ)
土地と奴隷などの資産をもつ上位階層
平民(プレブス)
パトリキ以外のローマ一般市民
国政の変遷
民会
全男性市民によって開催される議決機関
執政官(コンスル)
最高の役人で、民会によって貴族から任期1年で2名選出
元老院
終身議員で構成される、コンスルなど役人に助言を与える諮問機関
国政全般に影響力をもち、民会での決定も元老院の承認が必要
平民は、重装歩兵として国防に重要な役割を果たすようになりました。
平民は貴族の政権独占に不満を抱き、身分闘争を起こしました。
前5世紀、平民を保護するために次の役職・機関・法が登場しました。
護民官
平民出身から選ばれる役職で、元老院やコンスルの決定に拒否権を行使可能
平民会
民会の1つとして新設され、平民だけで構成
十二表法
貴族による法知識の独占を破り、旧来の慣習法を成文化したもの
前367年、リキニウス・セクスティウス法
貴族の独占を破り、コンスルのうち1人を平民から選出することを決めた法
前287年、ホルテンシウス法
平民会の決定が元老院の承認なしにローマの国法となることを認めた法
貴族と平民が法的に平等となり、身分闘争は終了しました。
ローマ共和政とギリシア民主政
次の3点で、ローマ共和政は、貧富関係なく市民が政治参加できたギリシア民主政と大きく異なりました。
ホルテンシウス法の制定後、一部の富裕な平民が貴族に加わり、新しい支配階層が成立して政権を独占
元老院が実質的に指導権を維持
非常時に独裁官(ディクタトル)が独裁権を行使
ローマの征服事業
地中海征服
前3世紀前半、ローマは全イタリア半島を支配しました。
次の2つの方法で、ローマは広い領域の支配に成功しました。
分割統治
征服した都市と個別に同盟を結び、それぞれに異なる権利と義務を付与し、被支配者の団結と反抗を阻止
服属した住民の一部にローマ市民権を付与(ポリスとの違い)
前264~前146年、ポエニ戦争
フェニキア人の植民市カルタゴとの3度にわたる衝突
イタリア半島以外のローマの征服地属州を獲得(最初はシチリア)
カルタゴの将軍ハンニバルに一時追い込まれたが、後に戦局を挽回してローマが勝利
前2世紀半ば、マケドニアとギリシア諸ポリスを支配して地中海全体をほぼ制覇
ローマの変質
征服事業が続くうちに、次の人々に変化が生じ、経済的格差が広がりました。
中小農民
出征するうちに農地が荒廃して没落
属州からの安い穀物が生活を支えたので、いっそうの征服事業を渇望
元老院議員・騎士階層
属州統治を任されたり、徴税を請け負ったりして、莫大な富を獲得
公有地や農民が手放した土地を買い集め、戦争捕虜である奴隷を使って大規模に農業経営(ラティフンディア)
前2世紀後半、市民の平等を原則としたローマの性格は変質し、共和政の土台が揺らぎました。
政治家は、次の2つの勢力にわかれて争いました。
閥族派
元老院の伝統的支配をまもろうとする勢力
平民派
無産市民や騎士が支持する勢力
内乱の1世紀
グラックス兄弟は、農民の没落による軍事力低下を心配しました。
兄弟は、あいついで護民官になり、大土地所有者の土地没収と無産市民への分配を考えました。
しかし、この改革は反対にあって失敗しました。
紀元前1世紀、有力政治家は配下を多く抱え、彼らを使って互いに暴力で争い始めました。
この時期を「内乱の1世紀」と呼んでいます。 | 前367年、貴族の独占を破り、コンスルのうち1人を平民から選出することを決めた法律は、何ですか。 | 前367年、貴族の独占を破り、コンスルのうち1人を平民から選出することを決めた法律は、リキニウス・セクスティウス法です。 |
JCRRAG_008794 | 歴史 | ローマ共和政
成立と変遷
前1000年頃、古代イタリア人がイタリア半島に定住しました。
ティベル川のほとりに都市国家ローマが建設されました。
ローマは、はじめ先住民エトルリア人の王に支配されていました。
前6世紀末にエトルリア人の王が追放され、ローマは共和政となりました。
ローマの身分
貴族(パトリキ)
土地と奴隷などの資産をもつ上位階層
平民(プレブス)
パトリキ以外のローマ一般市民
国政の変遷
民会
全男性市民によって開催される議決機関
執政官(コンスル)
最高の役人で、民会によって貴族から任期1年で2名選出
元老院
終身議員で構成される、コンスルなど役人に助言を与える諮問機関
国政全般に影響力をもち、民会での決定も元老院の承認が必要
平民は、重装歩兵として国防に重要な役割を果たすようになりました。
平民は貴族の政権独占に不満を抱き、身分闘争を起こしました。
前5世紀、平民を保護するために次の役職・機関・法が登場しました。
護民官
平民出身から選ばれる役職で、元老院やコンスルの決定に拒否権を行使可能
平民会
民会の1つとして新設され、平民だけで構成
十二表法
貴族による法知識の独占を破り、旧来の慣習法を成文化したもの
前367年、リキニウス・セクスティウス法
貴族の独占を破り、コンスルのうち1人を平民から選出することを決めた法
前287年、ホルテンシウス法
平民会の決定が元老院の承認なしにローマの国法となることを認めた法
貴族と平民が法的に平等となり、身分闘争は終了しました。
ローマ共和政とギリシア民主政
次の3点で、ローマ共和政は、貧富関係なく市民が政治参加できたギリシア民主政と大きく異なりました。
ホルテンシウス法の制定後、一部の富裕な平民が貴族に加わり、新しい支配階層が成立して政権を独占
元老院が実質的に指導権を維持
非常時に独裁官(ディクタトル)が独裁権を行使
ローマの征服事業
地中海征服
前3世紀前半、ローマは全イタリア半島を支配しました。
次の2つの方法で、ローマは広い領域の支配に成功しました。
分割統治
征服した都市と個別に同盟を結び、それぞれに異なる権利と義務を付与し、被支配者の団結と反抗を阻止
服属した住民の一部にローマ市民権を付与(ポリスとの違い)
前264~前146年、ポエニ戦争
フェニキア人の植民市カルタゴとの3度にわたる衝突
イタリア半島以外のローマの征服地属州を獲得(最初はシチリア)
カルタゴの将軍ハンニバルに一時追い込まれたが、後に戦局を挽回してローマが勝利
前2世紀半ば、マケドニアとギリシア諸ポリスを支配して地中海全体をほぼ制覇
ローマの変質
征服事業が続くうちに、次の人々に変化が生じ、経済的格差が広がりました。
中小農民
出征するうちに農地が荒廃して没落
属州からの安い穀物が生活を支えたので、いっそうの征服事業を渇望
元老院議員・騎士階層
属州統治を任されたり、徴税を請け負ったりして、莫大な富を獲得
公有地や農民が手放した土地を買い集め、戦争捕虜である奴隷を使って大規模に農業経営(ラティフンディア)
前2世紀後半、市民の平等を原則としたローマの性格は変質し、共和政の土台が揺らぎました。
政治家は、次の2つの勢力にわかれて争いました。
閥族派
元老院の伝統的支配をまもろうとする勢力
平民派
無産市民や騎士が支持する勢力
内乱の1世紀
グラックス兄弟は、農民の没落による軍事力低下を心配しました。
兄弟は、あいついで護民官になり、大土地所有者の土地没収と無産市民への分配を考えました。
しかし、この改革は反対にあって失敗しました。
紀元前1世紀、有力政治家は配下を多く抱え、彼らを使って互いに暴力で争い始めました。
この時期を「内乱の1世紀」と呼んでいます。 | 前287年、平民会の決定が元老院の承認なしにローマの国法となることを認めた法律は何ですか。 | 前287年、平民会の決定が元老院の承認なしにローマの国法となることを認めた法律はホルテンシウス法です。 |
JCRRAG_008795 | 歴史 | 地中海の平定
第1回三頭政治
前1世紀、次の争いが続発し、ローマの混乱は頂点に達しました。
前1世紀初め、平民派のマリウスと閥族派のスラが互いに私兵を率いて争いを開始
前91~前88年、イタリア半島の同盟都市は、ローマ市民権を求めて反乱
前73~前71年、剣闘士(剣奴)スパルタクスによる反乱
前60年、内乱を通して台頭した次の3人が政治同盟を結び、政治を分担する第1回三頭政治を始めました。
ポンペイウス
カエサル
クラッスス
カエサルの台頭と暗殺
カエサルは、ガリア遠征に成功して権力の基盤を固めた後、 政敵となったポンペイウスを倒して、前46年、全土を平定しました。
カエサルは独裁官ディクタトルに続けて就任し、独債券を握りました。
カエサルは元老院を無視して王になる勢いをみせたため(共和政の伝統の否定)、前44年、カエサルは元老院共和派のブルートゥスらに暗殺されました。
ガリア
現在のフランスにほぼ相当
『ガリア戦記』
カエサルが、自らのガリア遠征の記録を書いたもの
第2回三頭政治
前43年、次の3人が政治同盟を結び、閥族派を抑えました。
カエサルの部下アントニウス
カエサルの部下レピドゥス
カエサルの養子オクタウィアヌス
彼ら3人による政治の分担は、第2回三頭政治と呼ばれます。
前31年、アクティウムの海戦
オクタウィアヌスが、プトレマイオス朝の女王クレオパトラと結んだアントニウスを破った海戦
プトレマイオス朝が滅亡し、ローマの属州化
地中海が平定され、内乱の1世紀が終わりました。
ローマ帝国
事実上の皇帝独裁
前27年、オクタウィアヌスは、元老院からアウグストゥスの称号を与えられ、事実上のローマ皇帝となりました。
アウグストゥス
「尊厳者」の意
アウグストゥスは、共和政の伝統を尊重しつつも、政治・軍事の実権を握りました。
このように、名目的には元老院などの共和政の伝統を尊重する帝政を元首政と呼びます。
以降約200年間の時代はローマの平和(パクス=ロマーナ)と呼び、繁栄と平和が続きました。
ローマの平和(パクス=ロマーナ)
最盛期の98~180年には、次の5人の名君が現れ、五賢帝時代と呼ばれています。
ネルウァ(在位96~98)
トラヤヌス(在位98~117)
ハドリアヌス(在位117~138)
アントニヌス=ビウス(在位138~161)
マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161~180)
五賢帝の1人トラヤヌス帝のときにローマの領土は最大となりました。
ローマ風の都市が国境付近まで建設され、後にロンドン・パリなど近代都市になったものも多くありました。
ローマ帝国の支配と活動
ローマは都市を通して属州を支配しました。
都市の上層市民は、ローマ市民権を与えられるかわりに帝国支配に貢献しました。
他方、ローマ支配のもとで重税に苦しむ属州下層民もいました。
全自由人の市民化
212年、カラカラ帝のときには、帝国の全自由人にローマ市民権が与えられました。
帝国の瓦解
五賢帝最後の治世末期、ローマ帝国のいきづまりが露わになりました。
3世紀末、軍人出身の皇帝の擁立・退位が頻発し、軍人皇帝の時代と呼ばれます。
また、異民族が国境に侵入し、戦乱が止みませんでした。
農奴制の先駆
軍人皇帝の時代には、奴隷の供給が途絶え、その労働力に頼ったラティフンディアが行き詰まりました。
大土地所有者は、没落した自由農民やかつての奴隷などで構成された 小作人(コロヌス)を用いるようになりました。
この生産体制をコロナトゥスと呼び、従来のラティフンディアにとってかわりました。
コロヌスには、移動の自由が認められませんでした 。
上述のように、奴隷供給が困難となったことが、コロヌス制発展の一因となりました 。
コロヌス制は、西ヨーロッパ中世世界の農奴制の先駆形態となりました 。 | ガリア遠征に成功して権力の基盤を固めた後、 政敵となったポンペイウスを倒して、前46年、全土を平定したのは誰ですか。 | ガリア遠征に成功して権力の基盤を固めた後、 政敵となったポンペイウスを倒して、前46年、全土を平定したのはカエサルです。 |
JCRRAG_008796 | 歴史 | 地中海の平定
第1回三頭政治
前1世紀、次の争いが続発し、ローマの混乱は頂点に達しました。
前1世紀初め、平民派のマリウスと閥族派のスラが互いに私兵を率いて争いを開始
前91~前88年、イタリア半島の同盟都市は、ローマ市民権を求めて反乱
前73~前71年、剣闘士(剣奴)スパルタクスによる反乱
前60年、内乱を通して台頭した次の3人が政治同盟を結び、政治を分担する第1回三頭政治を始めました。
ポンペイウス
カエサル
クラッスス
カエサルの台頭と暗殺
カエサルは、ガリア遠征に成功して権力の基盤を固めた後、 政敵となったポンペイウスを倒して、前46年、全土を平定しました。
カエサルは独裁官ディクタトルに続けて就任し、独債券を握りました。
カエサルは元老院を無視して王になる勢いをみせたため(共和政の伝統の否定)、前44年、カエサルは元老院共和派のブルートゥスらに暗殺されました。
ガリア
現在のフランスにほぼ相当
『ガリア戦記』
カエサルが、自らのガリア遠征の記録を書いたもの
第2回三頭政治
前43年、次の3人が政治同盟を結び、閥族派を抑えました。
カエサルの部下アントニウス
カエサルの部下レピドゥス
カエサルの養子オクタウィアヌス
彼ら3人による政治の分担は、第2回三頭政治と呼ばれます。
前31年、アクティウムの海戦
オクタウィアヌスが、プトレマイオス朝の女王クレオパトラと結んだアントニウスを破った海戦
プトレマイオス朝が滅亡し、ローマの属州化
地中海が平定され、内乱の1世紀が終わりました。
ローマ帝国
事実上の皇帝独裁
前27年、オクタウィアヌスは、元老院からアウグストゥスの称号を与えられ、事実上のローマ皇帝となりました。
アウグストゥス
「尊厳者」の意
アウグストゥスは、共和政の伝統を尊重しつつも、政治・軍事の実権を握りました。
このように、名目的には元老院などの共和政の伝統を尊重する帝政を元首政と呼びます。
以降約200年間の時代はローマの平和(パクス=ロマーナ)と呼び、繁栄と平和が続きました。
ローマの平和(パクス=ロマーナ)
最盛期の98~180年には、次の5人の名君が現れ、五賢帝時代と呼ばれています。
ネルウァ(在位96~98)
トラヤヌス(在位98~117)
ハドリアヌス(在位117~138)
アントニヌス=ビウス(在位138~161)
マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161~180)
五賢帝の1人トラヤヌス帝のときにローマの領土は最大となりました。
ローマ風の都市が国境付近まで建設され、後にロンドン・パリなど近代都市になったものも多くありました。
ローマ帝国の支配と活動
ローマは都市を通して属州を支配しました。
都市の上層市民は、ローマ市民権を与えられるかわりに帝国支配に貢献しました。
他方、ローマ支配のもとで重税に苦しむ属州下層民もいました。
全自由人の市民化
212年、カラカラ帝のときには、帝国の全自由人にローマ市民権が与えられました。
帝国の瓦解
五賢帝最後の治世末期、ローマ帝国のいきづまりが露わになりました。
3世紀末、軍人出身の皇帝の擁立・退位が頻発し、軍人皇帝の時代と呼ばれます。
また、異民族が国境に侵入し、戦乱が止みませんでした。
農奴制の先駆
軍人皇帝の時代には、奴隷の供給が途絶え、その労働力に頼ったラティフンディアが行き詰まりました。
大土地所有者は、没落した自由農民やかつての奴隷などで構成された 小作人(コロヌス)を用いるようになりました。
この生産体制をコロナトゥスと呼び、従来のラティフンディアにとってかわりました。
コロヌスには、移動の自由が認められませんでした 。
上述のように、奴隷供給が困難となったことが、コロヌス制発展の一因となりました 。
コロヌス制は、西ヨーロッパ中世世界の農奴制の先駆形態となりました 。 | カエサルが、自らのガリア遠征の記録を書いたものは、何ですか。 | カエサルが、自らのガリア遠征の記録を書いたものは、ガリア戦記です。 |
JCRRAG_008797 | 歴史 | 地中海の平定
第1回三頭政治
前1世紀、次の争いが続発し、ローマの混乱は頂点に達しました。
前1世紀初め、平民派のマリウスと閥族派のスラが互いに私兵を率いて争いを開始
前91~前88年、イタリア半島の同盟都市は、ローマ市民権を求めて反乱
前73~前71年、剣闘士(剣奴)スパルタクスによる反乱
前60年、内乱を通して台頭した次の3人が政治同盟を結び、政治を分担する第1回三頭政治を始めました。
ポンペイウス
カエサル
クラッスス
カエサルの台頭と暗殺
カエサルは、ガリア遠征に成功して権力の基盤を固めた後、 政敵となったポンペイウスを倒して、前46年、全土を平定しました。
カエサルは独裁官ディクタトルに続けて就任し、独債券を握りました。
カエサルは元老院を無視して王になる勢いをみせたため(共和政の伝統の否定)、前44年、カエサルは元老院共和派のブルートゥスらに暗殺されました。
ガリア
現在のフランスにほぼ相当
『ガリア戦記』
カエサルが、自らのガリア遠征の記録を書いたもの
第2回三頭政治
前43年、次の3人が政治同盟を結び、閥族派を抑えました。
カエサルの部下アントニウス
カエサルの部下レピドゥス
カエサルの養子オクタウィアヌス
彼ら3人による政治の分担は、第2回三頭政治と呼ばれます。
前31年、アクティウムの海戦
オクタウィアヌスが、プトレマイオス朝の女王クレオパトラと結んだアントニウスを破った海戦
プトレマイオス朝が滅亡し、ローマの属州化
地中海が平定され、内乱の1世紀が終わりました。
ローマ帝国
事実上の皇帝独裁
前27年、オクタウィアヌスは、元老院からアウグストゥスの称号を与えられ、事実上のローマ皇帝となりました。
アウグストゥス
「尊厳者」の意
アウグストゥスは、共和政の伝統を尊重しつつも、政治・軍事の実権を握りました。
このように、名目的には元老院などの共和政の伝統を尊重する帝政を元首政と呼びます。
以降約200年間の時代はローマの平和(パクス=ロマーナ)と呼び、繁栄と平和が続きました。
ローマの平和(パクス=ロマーナ)
最盛期の98~180年には、次の5人の名君が現れ、五賢帝時代と呼ばれています。
ネルウァ(在位96~98)
トラヤヌス(在位98~117)
ハドリアヌス(在位117~138)
アントニヌス=ビウス(在位138~161)
マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161~180)
五賢帝の1人トラヤヌス帝のときにローマの領土は最大となりました。
ローマ風の都市が国境付近まで建設され、後にロンドン・パリなど近代都市になったものも多くありました。
ローマ帝国の支配と活動
ローマは都市を通して属州を支配しました。
都市の上層市民は、ローマ市民権を与えられるかわりに帝国支配に貢献しました。
他方、ローマ支配のもとで重税に苦しむ属州下層民もいました。
全自由人の市民化
212年、カラカラ帝のときには、帝国の全自由人にローマ市民権が与えられました。
帝国の瓦解
五賢帝最後の治世末期、ローマ帝国のいきづまりが露わになりました。
3世紀末、軍人出身の皇帝の擁立・退位が頻発し、軍人皇帝の時代と呼ばれます。
また、異民族が国境に侵入し、戦乱が止みませんでした。
農奴制の先駆
軍人皇帝の時代には、奴隷の供給が途絶え、その労働力に頼ったラティフンディアが行き詰まりました。
大土地所有者は、没落した自由農民やかつての奴隷などで構成された 小作人(コロヌス)を用いるようになりました。
この生産体制をコロナトゥスと呼び、従来のラティフンディアにとってかわりました。
コロヌスには、移動の自由が認められませんでした 。
上述のように、奴隷供給が困難となったことが、コロヌス制発展の一因となりました 。
コロヌス制は、西ヨーロッパ中世世界の農奴制の先駆形態となりました 。 | 前31年、オクタウィアヌスが、プトレマイオス朝の女王クレオパトラと結んでアントニウスを破った海戦は、何ですか。 | 前31年、オクタウィアヌスが、プトレマイオス朝の女王クレオパトラと結んでアントニウスを破った海戦は、アクティウムの海戦です。 |
JCRRAG_008798 | 歴史 | 地中海の平定
第1回三頭政治
前1世紀、次の争いが続発し、ローマの混乱は頂点に達しました。
前1世紀初め、平民派のマリウスと閥族派のスラが互いに私兵を率いて争いを開始
前91~前88年、イタリア半島の同盟都市は、ローマ市民権を求めて反乱
前73~前71年、剣闘士(剣奴)スパルタクスによる反乱
前60年、内乱を通して台頭した次の3人が政治同盟を結び、政治を分担する第1回三頭政治を始めました。
ポンペイウス
カエサル
クラッスス
カエサルの台頭と暗殺
カエサルは、ガリア遠征に成功して権力の基盤を固めた後、 政敵となったポンペイウスを倒して、前46年、全土を平定しました。
カエサルは独裁官ディクタトルに続けて就任し、独債券を握りました。
カエサルは元老院を無視して王になる勢いをみせたため(共和政の伝統の否定)、前44年、カエサルは元老院共和派のブルートゥスらに暗殺されました。
ガリア
現在のフランスにほぼ相当
『ガリア戦記』
カエサルが、自らのガリア遠征の記録を書いたもの
第2回三頭政治
前43年、次の3人が政治同盟を結び、閥族派を抑えました。
カエサルの部下アントニウス
カエサルの部下レピドゥス
カエサルの養子オクタウィアヌス
彼ら3人による政治の分担は、第2回三頭政治と呼ばれます。
前31年、アクティウムの海戦
オクタウィアヌスが、プトレマイオス朝の女王クレオパトラと結んだアントニウスを破った海戦
プトレマイオス朝が滅亡し、ローマの属州化
地中海が平定され、内乱の1世紀が終わりました。
ローマ帝国
事実上の皇帝独裁
前27年、オクタウィアヌスは、元老院からアウグストゥスの称号を与えられ、事実上のローマ皇帝となりました。
アウグストゥス
「尊厳者」の意
アウグストゥスは、共和政の伝統を尊重しつつも、政治・軍事の実権を握りました。
このように、名目的には元老院などの共和政の伝統を尊重する帝政を元首政と呼びます。
以降約200年間の時代はローマの平和(パクス=ロマーナ)と呼び、繁栄と平和が続きました。
ローマの平和(パクス=ロマーナ)
最盛期の98~180年には、次の5人の名君が現れ、五賢帝時代と呼ばれています。
ネルウァ(在位96~98)
トラヤヌス(在位98~117)
ハドリアヌス(在位117~138)
アントニヌス=ビウス(在位138~161)
マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161~180)
五賢帝の1人トラヤヌス帝のときにローマの領土は最大となりました。
ローマ風の都市が国境付近まで建設され、後にロンドン・パリなど近代都市になったものも多くありました。
ローマ帝国の支配と活動
ローマは都市を通して属州を支配しました。
都市の上層市民は、ローマ市民権を与えられるかわりに帝国支配に貢献しました。
他方、ローマ支配のもとで重税に苦しむ属州下層民もいました。
全自由人の市民化
212年、カラカラ帝のときには、帝国の全自由人にローマ市民権が与えられました。
帝国の瓦解
五賢帝最後の治世末期、ローマ帝国のいきづまりが露わになりました。
3世紀末、軍人出身の皇帝の擁立・退位が頻発し、軍人皇帝の時代と呼ばれます。
また、異民族が国境に侵入し、戦乱が止みませんでした。
農奴制の先駆
軍人皇帝の時代には、奴隷の供給が途絶え、その労働力に頼ったラティフンディアが行き詰まりました。
大土地所有者は、没落した自由農民やかつての奴隷などで構成された 小作人(コロヌス)を用いるようになりました。
この生産体制をコロナトゥスと呼び、従来のラティフンディアにとってかわりました。
コロヌスには、移動の自由が認められませんでした 。
上述のように、奴隷供給が困難となったことが、コロヌス制発展の一因となりました 。
コロヌス制は、西ヨーロッパ中世世界の農奴制の先駆形態となりました 。 | 元老院などの共和政の伝統を尊重する帝政は何と呼ばれていますか。 | 元老院などの共和政の伝統を尊重する帝政は元首政と呼ばれています。 |
JCRRAG_008799 | 歴史 | 地中海の平定
第1回三頭政治
前1世紀、次の争いが続発し、ローマの混乱は頂点に達しました。
前1世紀初め、平民派のマリウスと閥族派のスラが互いに私兵を率いて争いを開始
前91~前88年、イタリア半島の同盟都市は、ローマ市民権を求めて反乱
前73~前71年、剣闘士(剣奴)スパルタクスによる反乱
前60年、内乱を通して台頭した次の3人が政治同盟を結び、政治を分担する第1回三頭政治を始めました。
ポンペイウス
カエサル
クラッスス
カエサルの台頭と暗殺
カエサルは、ガリア遠征に成功して権力の基盤を固めた後、 政敵となったポンペイウスを倒して、前46年、全土を平定しました。
カエサルは独裁官ディクタトルに続けて就任し、独債券を握りました。
カエサルは元老院を無視して王になる勢いをみせたため(共和政の伝統の否定)、前44年、カエサルは元老院共和派のブルートゥスらに暗殺されました。
ガリア
現在のフランスにほぼ相当
『ガリア戦記』
カエサルが、自らのガリア遠征の記録を書いたもの
第2回三頭政治
前43年、次の3人が政治同盟を結び、閥族派を抑えました。
カエサルの部下アントニウス
カエサルの部下レピドゥス
カエサルの養子オクタウィアヌス
彼ら3人による政治の分担は、第2回三頭政治と呼ばれます。
前31年、アクティウムの海戦
オクタウィアヌスが、プトレマイオス朝の女王クレオパトラと結んだアントニウスを破った海戦
プトレマイオス朝が滅亡し、ローマの属州化
地中海が平定され、内乱の1世紀が終わりました。
ローマ帝国
事実上の皇帝独裁
前27年、オクタウィアヌスは、元老院からアウグストゥスの称号を与えられ、事実上のローマ皇帝となりました。
アウグストゥス
「尊厳者」の意
アウグストゥスは、共和政の伝統を尊重しつつも、政治・軍事の実権を握りました。
このように、名目的には元老院などの共和政の伝統を尊重する帝政を元首政と呼びます。
以降約200年間の時代はローマの平和(パクス=ロマーナ)と呼び、繁栄と平和が続きました。
ローマの平和(パクス=ロマーナ)
最盛期の98~180年には、次の5人の名君が現れ、五賢帝時代と呼ばれています。
ネルウァ(在位96~98)
トラヤヌス(在位98~117)
ハドリアヌス(在位117~138)
アントニヌス=ビウス(在位138~161)
マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161~180)
五賢帝の1人トラヤヌス帝のときにローマの領土は最大となりました。
ローマ風の都市が国境付近まで建設され、後にロンドン・パリなど近代都市になったものも多くありました。
ローマ帝国の支配と活動
ローマは都市を通して属州を支配しました。
都市の上層市民は、ローマ市民権を与えられるかわりに帝国支配に貢献しました。
他方、ローマ支配のもとで重税に苦しむ属州下層民もいました。
全自由人の市民化
212年、カラカラ帝のときには、帝国の全自由人にローマ市民権が与えられました。
帝国の瓦解
五賢帝最後の治世末期、ローマ帝国のいきづまりが露わになりました。
3世紀末、軍人出身の皇帝の擁立・退位が頻発し、軍人皇帝の時代と呼ばれます。
また、異民族が国境に侵入し、戦乱が止みませんでした。
農奴制の先駆
軍人皇帝の時代には、奴隷の供給が途絶え、その労働力に頼ったラティフンディアが行き詰まりました。
大土地所有者は、没落した自由農民やかつての奴隷などで構成された 小作人(コロヌス)を用いるようになりました。
この生産体制をコロナトゥスと呼び、従来のラティフンディアにとってかわりました。
コロヌスには、移動の自由が認められませんでした 。
上述のように、奴隷供給が困難となったことが、コロヌス制発展の一因となりました 。
コロヌス制は、西ヨーロッパ中世世界の農奴制の先駆形態となりました 。 | 212年、帝国の全自由人にローマ市民権を与えたのは、誰ですか。 | 212年、帝国の全自由人にローマ市民権を与えたのは、カラカラ帝です。 |
JCRRAG_008800 | 歴史 | 軍事政権への移行
946年、ブワイフ家がバグダードに入城し、アッバース朝のカリフから、軍司令官(アミール)のなかの第一人者を意味する大アミールに任じられました。
さらに、アッバース朝のカリフにかわってイスラーム法を施行する権限を与えられました。
アッバース朝のカリフは名目上存在するものの、実際の政権を担うブワイフ朝が成立しました。
ブワイフ朝は、俸給の代わりに部下の軍人に土地を分与し、土地の管理と徴税の権利を与えました。
ブワイフ朝が創始したこの制度をイクター制 と呼びます。
他の王朝の成立と3人のカリフ
シーア派の王朝
10世紀初め、シーア派の 一派が、ファーティマ朝を北アフリカに 開きました。
969年、エジプトを征服し、ナイル川東岸に首都カイロ を造営しました。
ファーティマ朝の君主は、アッバース朝に対抗してカリフの称号を用いました 。
ファーティマ朝の時代、首都カイロにアズハル学院 が設けられ、イスラームの学問の中心となりました。
アズハル学院
イスラームの学者ウラマーを養成する教育機関マドラサの代表例
ウマイヤ朝の後継
750年、ウマイヤ朝が滅亡すると、ウマイヤ家の一族がイベリア半島に逃れました。
756年、イベリア半島に後ウマイヤ朝を開き、同半島のコルドバを首都としました。
後ウマイヤ朝の君主も、ファーティマ朝に対抗してカリフの称号を用いました。
この時点で同時代に3人のカリフが並び立つ状態
その他王朝
時代が前後しますが、次の2つの王朝なども存在しました。
868~905年、トゥールーン朝
北アフリカのエジプトに樹立した王朝
短命に終わり、アッバース朝に再吸収され、その後にファーティマ朝が獲得
サーマーン朝
9世紀に建国した、中央アジア最初のイラン系の イスラーム王朝 | ブワイフ朝は俸給の代わりに部下の軍人に土地を分与し、土地の管理と徴税の権利を与えるこの制度は何と呼ばれましたか。 | ブワイフ朝は俸給の代わりに部下の軍人に土地を分与し、土地の管理と徴税の権利を与えるこの制度はイクター制と呼ばれました。 |
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