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歴史
19世紀末からアジアやアフリカの植民地化をめぐって,アメリカやイギリス,フランス,ロシア,ドイツといった列強と呼ばれる国々が対立していました。 そしてヨーロッパのバルカン半島では列強の対立に加え,宗教や民族の争いも重なり,「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるほど,いつ戦争に発展してもおかしくない状態になっていました。 下の画像の通り,バルカン半島の位置はちょうどアジアとの境目あたりにありますよね。 そのため人種としてはヨーロッパの白人とアジアの黄色人種の対立,宗教ではヨーロッパのキリスト教とアラビア半島のイスラム教,またヨーロッパ内でも西のカトリックと東の正教会の対立がありました。そして1914年,サラエボ(現ボスニアヘルツェゴビナ)をオーストリアの皇太子夫妻が視察していたときに,セルビア人の青年に暗殺されるという事件が起こりました。これがサラエボ事件です。 これを受けてオーストリアはセルビアに宣戦布告をします。ここにヨーロッパの列強も次々と参戦して,ヨーロッパ全体を戦場とする第一次世界大戦が始まりました。ドイツ,イタリア,オーストリアは三国同盟を結び,オスマン帝国(トルコ)などを含めて同盟国と呼ばれました。 それに対してフランス,イギリス,ロシアは三国協商を結び,連合国と呼ばれました。ちなみにイタリアは後にオーストリアと仲たがいして,連合国側で参戦します。 同盟とはお互いに協力し合うことを書面で約束しもので,協商とは条約や書面に基づかない緩い協力関係という感じです。同盟の方がカッチリしているわけです。
1914年,サラエボをオーストリアの皇太子夫妻が視察していたときに,セルビア人の青年に暗殺されるという事件が起こりましたが、この事件を何といいますか。
1914年,サラエボをオーストリアの皇太子夫妻が視察していたときに,セルビア人の青年に暗殺されるという事件を、サラエボ事件といいます。
JCRRAG_008902
歴史
19世紀末からアジアやアフリカの植民地化をめぐって,アメリカやイギリス,フランス,ロシア,ドイツといった列強と呼ばれる国々が対立していました。 そしてヨーロッパのバルカン半島では列強の対立に加え,宗教や民族の争いも重なり,「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるほど,いつ戦争に発展してもおかしくない状態になっていました。 下の画像の通り,バルカン半島の位置はちょうどアジアとの境目あたりにありますよね。 そのため人種としてはヨーロッパの白人とアジアの黄色人種の対立,宗教ではヨーロッパのキリスト教とアラビア半島のイスラム教,またヨーロッパ内でも西のカトリックと東の正教会の対立がありました。そして1914年,サラエボ(現ボスニアヘルツェゴビナ)をオーストリアの皇太子夫妻が視察していたときに,セルビア人の青年に暗殺されるという事件が起こりました。これがサラエボ事件です。 これを受けてオーストリアはセルビアに宣戦布告をします。ここにヨーロッパの列強も次々と参戦して,ヨーロッパ全体を戦場とする第一次世界大戦が始まりました。ドイツ,イタリア,オーストリアは三国同盟を結び,オスマン帝国(トルコ)などを含めて同盟国と呼ばれました。 それに対してフランス,イギリス,ロシアは三国協商を結び,連合国と呼ばれました。ちなみにイタリアは後にオーストリアと仲たがいして,連合国側で参戦します。 同盟とはお互いに協力し合うことを書面で約束しもので,協商とは条約や書面に基づかない緩い協力関係という感じです。同盟の方がカッチリしているわけです。
サラエボ事件を受けて、オーストラリアがセルビアに宣戦布告をしましたが、これにより何が始まりましたか。
サラエボ事件を受けて、オーストラリアがセルビアに宣戦布告をし、第一次世界大戦が始まりました。
JCRRAG_008903
歴史
19世紀末からアジアやアフリカの植民地化をめぐって,アメリカやイギリス,フランス,ロシア,ドイツといった列強と呼ばれる国々が対立していました。 そしてヨーロッパのバルカン半島では列強の対立に加え,宗教や民族の争いも重なり,「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるほど,いつ戦争に発展してもおかしくない状態になっていました。 下の画像の通り,バルカン半島の位置はちょうどアジアとの境目あたりにありますよね。 そのため人種としてはヨーロッパの白人とアジアの黄色人種の対立,宗教ではヨーロッパのキリスト教とアラビア半島のイスラム教,またヨーロッパ内でも西のカトリックと東の正教会の対立がありました。そして1914年,サラエボ(現ボスニアヘルツェゴビナ)をオーストリアの皇太子夫妻が視察していたときに,セルビア人の青年に暗殺されるという事件が起こりました。これがサラエボ事件です。 これを受けてオーストリアはセルビアに宣戦布告をします。ここにヨーロッパの列強も次々と参戦して,ヨーロッパ全体を戦場とする第一次世界大戦が始まりました。ドイツ,イタリア,オーストリアは三国同盟を結び,オスマン帝国(トルコ)などを含めて同盟国と呼ばれました。 それに対してフランス,イギリス,ロシアは三国協商を結び,連合国と呼ばれました。ちなみにイタリアは後にオーストリアと仲たがいして,連合国側で参戦します。 同盟とはお互いに協力し合うことを書面で約束しもので,協商とは条約や書面に基づかない緩い協力関係という感じです。同盟の方がカッチリしているわけです。
ドイツ,イタリア,オーストリアは同盟を結びましたが、その同盟を何同盟といいますか。
ドイツ,イタリア,オーストリアが結んだ同盟を、三国同盟といいます。
JCRRAG_008904
歴史
19世紀末からアジアやアフリカの植民地化をめぐって,アメリカやイギリス,フランス,ロシア,ドイツといった列強と呼ばれる国々が対立していました。 そしてヨーロッパのバルカン半島では列強の対立に加え,宗教や民族の争いも重なり,「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるほど,いつ戦争に発展してもおかしくない状態になっていました。 下の画像の通り,バルカン半島の位置はちょうどアジアとの境目あたりにありますよね。 そのため人種としてはヨーロッパの白人とアジアの黄色人種の対立,宗教ではヨーロッパのキリスト教とアラビア半島のイスラム教,またヨーロッパ内でも西のカトリックと東の正教会の対立がありました。そして1914年,サラエボ(現ボスニアヘルツェゴビナ)をオーストリアの皇太子夫妻が視察していたときに,セルビア人の青年に暗殺されるという事件が起こりました。これがサラエボ事件です。 これを受けてオーストリアはセルビアに宣戦布告をします。ここにヨーロッパの列強も次々と参戦して,ヨーロッパ全体を戦場とする第一次世界大戦が始まりました。ドイツ,イタリア,オーストリアは三国同盟を結び,オスマン帝国(トルコ)などを含めて同盟国と呼ばれました。 それに対してフランス,イギリス,ロシアは三国協商を結び,連合国と呼ばれました。ちなみにイタリアは後にオーストリアと仲たがいして,連合国側で参戦します。 同盟とはお互いに協力し合うことを書面で約束しもので,協商とは条約や書面に基づかない緩い協力関係という感じです。同盟の方がカッチリしているわけです。
フランス,イギリス,ロシアは協商を結びましたが、その協商を何協商といいますか。
フランス,イギリス,ロシアが結んだ協商を、三国協商といいます。
JCRRAG_008905
歴史
ヨーロッパが戦場となった第一次世界大戦ですが,日本は1902年に結んだ日英同盟を理由に連合国側で参戦します。 では日本はどこに向かったかというと,中国に出兵します。名目としては中国の山東半島(画像の緑色のところ)にあるドイツ軍基地を攻撃する,ということでしたが,別にここを攻撃しても戦争には影響ありません。 日本がわざわざ出兵した理由は,ヨーロッパの列強が戦争している間に中国への利権を拡大してしまおうという狙いがあったからです。中国に出兵した日本は,1915年に中国に対して二十一か条の要求を出します。内容は以下の通りです。 1.ドイツが山東半島に持っている権利を日本に譲ること 2.日本が持つ旅順・大連,南満州鉄道の権利を99年延長すること 当然中国としては認められる内容ではなかったので、第一次世界大戦が終わった後の1919年に、二十一か条の要求の取り消しを求める五・四運動が起こります。なかなか決着がつかず長引いていた戦争ですが、中立の立場を守っていたアメリカが1917年に連合国側で参戦したことがきっかけで流れが変わります。 元々アメリカは第5代大統領のモンローが唱えたモンロー主義といって、アメリカとヨーロッパはお互いに干渉し合わないようにしようという考えを持っていました。 それでもアメリカが参戦した理由は、ドイツ軍の攻撃でアメリカ人にも被害が及んだからです。そして1918年についにドイツが降伏して、第一次世界大戦は終結します。
日本が1902年にに結んだ同盟で、連合国側に参戦する理由になった同盟を何といいますか。
日本が1902年にに結んだ同盟で、連合国側に参戦する理由になった同盟を、日英同盟といいます。
JCRRAG_008906
歴史
ヨーロッパが戦場となった第一次世界大戦ですが、日本は1902年に結んだ日英同盟を理由に連合国側で参戦します。 では日本はどこに向かったかというと、中国に出兵します。名目としては中国の山東半島(画像の緑色のところ)にあるドイツ軍基地を攻撃する、ということでしたが、別にここを攻撃しても戦争には影響ありません。 日本がわざわざ出兵した理由は、ヨーロッパの列強が戦争している間に中国への利権を拡大してしまおうという狙いがあったからです。中国に出兵した日本は、1915年に中国に対して二十一か条の要求を出します。内容は以下の通りです。 1.ドイツが山東半島に持っている権利を日本に譲ること 2.日本が持つ旅順・大連、南満州鉄道の権利を99年延長すること 当然中国としては認められる内容ではなかったので、第一次世界大戦が終わった後の1919年に、二十一か条の要求の取り消しを求める五・四運動が起こります。なかなか決着がつかず長引いていた戦争ですが、中立の立場を守っていたアメリカが1917年に連合国側で参戦したことがきっかけで流れが変わります。 元々アメリカは第5代大統領のモンローが唱えたモンロー主義といって、アメリカとヨーロッパはお互いに干渉し合わないようにしようという考えを持っていました。 それでもアメリカが参戦した理由は、ドイツ軍の攻撃でアメリカ人にも被害が及んだからです。そして1918年についにドイツが降伏して、第一次世界大戦は終結します。
1915年日本が中国に対してドイツが山東半島に持っている権利を日本に譲ることや日本が持つ旅順・大連,南満州鉄道の権利を99年延長することなどの内容が記されたものを要求しましたが、これらを何といいますか。
1915年日本が中国に対して要求したものを、二十一か条の要求といいます。
JCRRAG_008907
歴史
ヨーロッパが戦場となった第一次世界大戦ですが,日本は1902年に結んだ日英同盟を理由に連合国側で参戦します。 では日本はどこに向かったかというと,中国に出兵します。名目としては中国の山東半島(画像の緑色のところ)にあるドイツ軍基地を攻撃する,ということでしたが,別にここを攻撃しても戦争には影響ありません。 日本がわざわざ出兵した理由は,ヨーロッパの列強が戦争している間に中国への利権を拡大してしまおうという狙いがあったからです。中国に出兵した日本は,1915年に中国に対して二十一か条の要求を出します。内容は以下の通りです。 1.ドイツが山東半島に持っている権利を日本に譲ること 2.日本が持つ旅順・大連,南満州鉄道の権利を99年延長すること 当然中国としては認められる内容ではなかったので,第一次世界大戦が終わった後の1919年に,二十一か条の要求の取り消しを求める五・四運動が起こります。なかなか決着がつかず長引いていた戦争ですが,中立の立場を守っていたアメリカが1917年に連合国側で参戦したことがきっかけで流れが変わります。 元々アメリカは第5代大統領のモンローが唱えたモンロー主義といって,アメリカとヨーロッパはお互いに干渉し合わないようにしようという考えを持っていました。 それでもアメリカが参戦した理由は,ドイツ軍の攻撃でアメリカ人にも被害が及んだからです。そして1918年についにドイツが降伏して,第一次世界大戦は終結します。
第一次世界大戦が終わった後の1919年に,二十一か条の要求の取り消しを求める運動が行われたが、この運動を何といいますか。
第一次世界大戦が終わった後の1919年に,二十一か条の要求の取り消しを求める運動を、五・四運動といいます。
JCRRAG_008908
歴史
ヨーロッパが戦場となった第一次世界大戦ですが,日本は1902年に結んだ日英同盟を理由に連合国側で参戦します。 では日本はどこに向かったかというと,中国に出兵します。名目としては中国の山東半島(画像の緑色のところ)にあるドイツ軍基地を攻撃する,ということでしたが,別にここを攻撃しても戦争には影響ありません。 日本がわざわざ出兵した理由は,ヨーロッパの列強が戦争している間に中国への利権を拡大してしまおうという狙いがあったからです。中国に出兵した日本は,1915年に中国に対して二十一か条の要求を出します。内容は以下の通りです。 1.ドイツが山東半島に持っている権利を日本に譲ること 2.日本が持つ旅順・大連,南満州鉄道の権利を99年延長すること 当然中国としては認められる内容ではなかったので,第一次世界大戦が終わった後の1919年に,二十一か条の要求の取り消しを求める五・四運動が起こります。なかなか決着がつかず長引いていた戦争ですが,中立の立場を守っていたアメリカが1917年に連合国側で参戦したことがきっかけで流れが変わります。 元々アメリカは第5代大統領のモンローが唱えたモンロー主義といって,アメリカとヨーロッパはお互いに干渉し合わないようにしようという考えを持っていました。 それでもアメリカが参戦した理由は,ドイツ軍の攻撃でアメリカ人にも被害が及んだからです。そして1918年についにドイツが降伏して,第一次世界大戦は終結します。
アメリカの第5代大統領のモンローが唱えたアメリカとヨーロッパはお互いに干渉し合わないようにしようという考えを何といいますか。
アメリカの第5代大統領のモンローが唱えたアメリカとヨーロッパはお互いに干渉し合わないようにしようという考えを、モンロー主義といいます。
JCRRAG_008909
歴史
ヨーロッパが戦場となった第一次世界大戦ですが,日本は1902年に結んだ日英同盟を理由に連合国側で参戦します。 では日本はどこに向かったかというと,中国に出兵します。名目としては中国の山東半島(画像の緑色のところ)にあるドイツ軍基地を攻撃する,ということでしたが,別にここを攻撃しても戦争には影響ありません。 日本がわざわざ出兵した理由は,ヨーロッパの列強が戦争している間に中国への利権を拡大してしまおうという狙いがあったからです。中国に出兵した日本は,1915年に中国に対して二十一か条の要求を出します。内容は以下の通りです。 1.ドイツが山東半島に持っている権利を日本に譲ること 2.日本が持つ旅順・大連,南満州鉄道の権利を99年延長すること 当然中国としては認められる内容ではなかったので,第一次世界大戦が終わった後の1919年に,二十一か条の要求の取り消しを求める五・四運動が起こります。なかなか決着がつかず長引いていた戦争ですが,中立の立場を守っていたアメリカが1917年に連合国側で参戦したことがきっかけで流れが変わります。 元々アメリカは第5代大統領のモンローが唱えたモンロー主義といって,アメリカとヨーロッパはお互いに干渉し合わないようにしようという考えを持っていました。 それでもアメリカが参戦した理由は,ドイツ軍の攻撃でアメリカ人にも被害が及んだからです。そして1918年についにドイツが降伏して,第一次世界大戦は終結します。
第一次世界大戦は何年に終結しましたか。
第一次世界大戦は1918年に終結しました。
JCRRAG_008910
歴史
豊臣秀吉が亡くなると、関東を支配していた徳川家康(とくがわいえやす)が勢力をのばしました。1600年に豊臣氏の政権を守ろうとする豊臣秀頼(とよとみひでより)と石田三成(いしだみつなり)を関ヶ原の戦いで破り、全国を支配する実権をにぎりました。家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きました。 1614年の大坂冬の陣と1615年の大坂夏の陣で豊臣氏をほろぼし、幕府の力を確固(かっこ)たるものにしました。江戸幕府は約260年あまり続き、徳川家が実権をにぎっていたこの時代を江戸時代と言います。 幕府から1万石以上を与えられた武士を大名として、大名の領地と支配のしくみを「藩(はん)」と言いました。幕府は藩の存続や領地代えを行ない、大名の配置も決めました。政治は将軍の任命した老中(ろうじゅう)が主に行ない、三奉行をはじめ多くの役職を置いて政治のしくみをつくりました。大名は親藩(しんぱん)、譜代大名、外様大名に分かれ、外様大名は幕府の役職につくことはほとんどありませんでした。 1615年には家康が、大名の活動を規制した武家諸法度(ぶけしょはっと)を定めました。さらに将軍への忠誠を確認するため、3代将軍家光は参勤交代(さんきんこうたい)として大名の江戸への参勤を制度化しました。また朝廷を監視する京都所司代を置き、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)で、天皇や公家の行動を制限しました。
家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、何を開きましたか。
家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きました。
JCRRAG_008911
歴史
豊臣秀吉が亡くなると、関東を支配していた徳川家康(とくがわいえやす)が勢力をのばしました。1600年に豊臣氏の政権を守ろうとする豊臣秀頼(とよとみひでより)と石田三成(いしだみつなり)を関ヶ原の戦いで破り、全国を支配する実権をにぎりました。家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きました。 1614年の大坂冬の陣と1615年の大坂夏の陣で豊臣氏をほろぼし、幕府の力を確固(かっこ)たるものにしました。江戸幕府は約260年あまり続き、徳川家が実権をにぎっていたこの時代を江戸時代と言います。 幕府から1万石以上を与えられた武士を大名として、大名の領地と支配のしくみを「藩(はん)」と言いました。幕府は藩の存続や領地代えを行ない、大名の配置も決めました。政治は将軍の任命した老中(ろうじゅう)が主に行ない、三奉行をはじめ多くの役職を置いて政治のしくみをつくりました。大名は親藩(しんぱん)、譜代大名、外様大名に分かれ、外様大名は幕府の役職につくことはほとんどありませんでした。 1615年には家康が、大名の活動を規制した武家諸法度(ぶけしょはっと)を定めました。さらに将軍への忠誠を確認するため、3代将軍家光は参勤交代(さんきんこうたい)として大名の江戸への参勤を制度化しました。また朝廷を監視する京都所司代を置き、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)で、天皇や公家の行動を制限しました。
徳川家が実権をにぎっていたこの時代を何といいますか。
徳川家が実権をにぎっていたこの時代は江戸時代と言います。
JCRRAG_008912
歴史
豊臣秀吉が亡くなると、関東を支配していた徳川家康(とくがわいえやす)が勢力をのばしました。1600年に豊臣氏の政権を守ろうとする豊臣秀頼(とよとみひでより)と石田三成(いしだみつなり)を関ヶ原の戦いで破り、全国を支配する実権をにぎりました。家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きました。 1614年の大坂冬の陣と1615年の大坂夏の陣で豊臣氏をほろぼし、幕府の力を確固(かっこ)たるものにしました。江戸幕府は約260年あまり続き、徳川家が実権をにぎっていたこの時代を江戸時代と言います。 幕府から1万石以上を与えられた武士を大名として、大名の領地と支配のしくみを「藩(はん)」と言いました。幕府は藩の存続や領地代えを行ない、大名の配置も決めました。政治は将軍の任命した老中(ろうじゅう)が主に行ない、三奉行をはじめ多くの役職を置いて政治のしくみをつくりました。大名は親藩(しんぱん)、譜代大名、外様大名に分かれ、外様大名は幕府の役職につくことはほとんどありませんでした。 1615年には家康が、大名の活動を規制した武家諸法度(ぶけしょはっと)を定めました。さらに将軍への忠誠を確認するため、3代将軍家光は参勤交代(さんきんこうたい)として大名の江戸への参勤を制度化しました。また朝廷を監視する京都所司代を置き、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)で、天皇や公家の行動を制限しました。
幕府から1万石以上を与えられた武士を大名として、大名の領地と支配のしくみを何といいますか。
大名の領地と支配のしくみは「藩(はん)」と言います。
JCRRAG_008913
歴史
豊臣秀吉が亡くなると、関東を支配していた徳川家康(とくがわいえやす)が勢力をのばしました。1600年に豊臣氏の政権を守ろうとする豊臣秀頼(とよとみひでより)と石田三成(いしだみつなり)を関ヶ原の戦いで破り、全国を支配する実権をにぎりました。家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きました。 1614年の大坂冬の陣と1615年の大坂夏の陣で豊臣氏をほろぼし、幕府の力を確固(かっこ)たるものにしました。江戸幕府は約260年あまり続き、徳川家が実権をにぎっていたこの時代を江戸時代と言います。 幕府から1万石以上を与えられた武士を大名として、大名の領地と支配のしくみを「藩(はん)」と言いました。幕府は藩の存続や領地代えを行ない、大名の配置も決めました。政治は将軍の任命した老中(ろうじゅう)が主に行ない、三奉行をはじめ多くの役職を置いて政治のしくみをつくりました。大名は親藩(しんぱん)、譜代大名、外様大名に分かれ、外様大名は幕府の役職につくことはほとんどありませんでした。 1615年には家康が、大名の活動を規制した武家諸法度(ぶけしょはっと)を定めました。さらに将軍への忠誠を確認するため、3代将軍家光は参勤交代(さんきんこうたい)として大名の江戸への参勤を制度化しました。また朝廷を監視する京都所司代を置き、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)で、天皇や公家の行動を制限しました。
1615年には家康が、大名の活動を規制した何を定めましたか。
家康が、大名の活動を規制した武家諸法度(ぶけしょはっと)を定めました。
JCRRAG_008914
歴史
家康は、海外貿易を発展させるために、朱印状を発行し、これを持った日本船(朱印船)を保護するようにルソン、シャム(タイ)、安南(ベトナム)などに依頼しました。さらにオランダやイギリスとの貿易も始まりました。1609年には朝鮮との国交が回復し、朝鮮通信使が日本に派遣されました。通信使は各地で日本と交流し、貿易も行ないました。また、独立王国だった琉球を薩摩藩が攻め、役人を琉球に送って監督しました。 キリスト教の信仰が全国に広まる中、1612年、幕府は幕領(ばくりょう)に対してキリスト教禁止令を出し、信仰を捨てないキリスト教信者を処刑しました。また、家光は1635年に日本人の渡航を禁止し、朱印船貿易も停止しました。長崎に住んでいたポルトガル人を出島(でじま)に移し、日本人と交流させないようにしました。 こうしたキリスト教徒への迫害(はくがい)や厳しい年貢の取り立てに対して、島原や天草の民衆は天草四郎(あまくさしろう=益田時貞〈ますだときさだ〉)を大将に一揆を起こしました。これを島原・天草の一揆と言います。幕府は、この一揆をおさえた後、ポルトガル人を追放し、貿易も中国船とオランダ船だけに制限しました。こうした外国との交流を制限した体制を「鎖国(さこく)」と言います。
家康は、海外貿易を発展させるために何を発行しましたか。
発行したのは、朱印状です。
JCRRAG_008915
歴史
家康は、海外貿易を発展させるために、朱印状を発行し、これを持った日本船(朱印船)を保護するようにルソン、シャム(タイ)、安南(ベトナム)などに依頼しました。さらにオランダやイギリスとの貿易も始まりました。1609年には朝鮮との国交が回復し、朝鮮通信使が日本に派遣されました。通信使は各地で日本と交流し、貿易も行ないました。また、独立王国だった琉球を薩摩藩が攻め、役人を琉球に送って監督しました。 キリスト教の信仰が全国に広まる中、1612年、幕府は幕領(ばくりょう)に対してキリスト教禁止令を出し、信仰を捨てないキリスト教信者を処刑しました。また、家光は1635年に日本人の渡航を禁止し、朱印船貿易も停止しました。長崎に住んでいたポルトガル人を出島(でじま)に移し、日本人と交流させないようにしました。 こうしたキリスト教徒への迫害(はくがい)や厳しい年貢の取り立てに対して、島原や天草の民衆は天草四郎(あまくさしろう=益田時貞〈ますだときさだ〉)を大将に一揆を起こしました。これを島原・天草の一揆と言います。幕府は、この一揆をおさえた後、ポルトガル人を追放し、貿易も中国船とオランダ船だけに制限しました。こうした外国との交流を制限した体制を「鎖国(さこく)」と言います。
ポルトガル人を追放し、貿易も中国船とオランダ船だけに制限しました。こうした外国との交流を制限した体制を何といいますか。
外国との交流を制限した体制は「鎖国(さこく)」と言います。
JCRRAG_008916
歴史
万里の長城は、1987年に世界遺産にも登録されましたため、その名前を聞いたことがある方も多いと思います。 紀元前220年頃に秦の始皇帝が、北方からの侵略を防いだり、シルクロード貿易を保護する目的のために、中国の北部に整備しました。秦の始皇帝が全てを作ったのではなく、各国で作られていた壁を連結させていったと伝えられています。その長さは、2012年時点でおよそ2万1196kmとされています。とても大きいため、空を飛んでいる人工衛星からもその存在を確認することができます。 とても長い防御施設ですが、建設に使われた材料は、主に、土、砂、石、レンガと私たちにもなじみがあるものです。また、砂漠や草原も山も超えて作られていったため、建設には多くの人がかかわっています。現在の建築と共通する点もありますね。 万里の長城の中にも特に人気が有名な観光スポットがあります。今回はその中から3つに絞ってご紹介します。以下には読み方が難しい漢字も出てきますが、中国での読み方を正確に日本語で表記することは困難であるため、あえて、ふりがなをふっておりません。ご了承下さい。 1つ目は、八達嶺長城です。こちらは、明の時代に修築されたとされており、保存状態もとてもよい場所です。万里の長城に観光に訪れた方の多くが訪れています。 入口に入るルートは大きく分けて2つあります。比較的傾斜が緩やかな方と、傾斜がきつい階段もある道の2種類です。それぞれ、「女坂」、「男坂」と呼ばれています。最高点まで歩くとおよそ1時間30分かかるようですが、観光用のロープウェイも整備されており、それを使用することもできます。 2つ目は、万里の長城の中でも比較的険しいとされている場所を紹介します。その名は、箭扣長城です。中国の首都の北京からおよそ車で2時間の地にあります。険しい崖の一角に作られているため、世界中の登山家の憧れの場所にもなっているそうです。また、その両側は崖となっているため、万里の長城の中で一番危険な場所とも言われているようです。 この場所は、万里の長城の中でも未修繕の部分でもあり、ケーブルも階段も整備されていません。高齢者や子供では登ることは難しく、登山の経験者しか向かうことはできません。経験や知識を身に着けてから訪問しましょう。 行く場合は、地元の方に20元払う必要があるようです。行きたい場合は、登山に向けた準備だけではなく、お金も用意しておきましょう。 3つ目は、慕田峪長城です。こちらも中国の首都である北京から、車でおよそ1時間30分~2時間で向かうことができます。こちらの特徴は、滑り台があることです。 万里の長城自体がとても巨大であることから想像がつくように、滑り台ももちろんとても大きいです。その長さはおよそ1580mです。ソリのようなものに乗って滑ることもできます。
万里の長城は、何年に世界遺産に登録されましたか。
万里の長城は、1987年に世界遺産にも登録されました。
JCRRAG_008917
歴史
万里の長城は、1987年に世界遺産にも登録されましたため、その名前を聞いたことがある方も多いと思います。 紀元前220年頃に秦の始皇帝が、北方からの侵略を防いだり、シルクロード貿易を保護する目的のために、中国の北部に整備しました。秦の始皇帝が全てを作ったのではなく、各国で作られていた壁を連結させていったと伝えられています。その長さは、2012年時点でおよそ2万1196kmとされています。とても大きいため、空を飛んでいる人工衛星からもその存在を確認することができます。 とても長い防御施設ですが、建設に使われた材料は、主に、土、砂、石、レンガと私たちにもなじみがあるものです。また、砂漠や草原も山も超えて作られていったため、建設には多くの人がかかわっています。現在の建築と共通する点もありますね。 万里の長城の中にも特に人気が有名な観光スポットがあります。今回はその中から3つに絞ってご紹介します。以下には読み方が難しい漢字も出てきますが、中国での読み方を正確に日本語で表記することは困難であるため、あえて、ふりがなをふっておりません。ご了承下さい。 1つ目は、八達嶺長城です。こちらは、明の時代に修築されたとされており、保存状態もとてもよい場所です。万里の長城に観光に訪れた方の多くが訪れています。 入口に入るルートは大きく分けて2つあります。比較的傾斜が緩やかな方と、傾斜がきつい階段もある道の2種類です。それぞれ、「女坂」、「男坂」と呼ばれています。最高点まで歩くとおよそ1時間30分かかるようですが、観光用のロープウェイも整備されており、それを使用することもできます。 2つ目は、万里の長城の中でも比較的険しいとされている場所を紹介します。その名は、箭扣長城です。中国の首都の北京からおよそ車で2時間の地にあります。険しい崖の一角に作られているため、世界中の登山家の憧れの場所にもなっているそうです。また、その両側は崖となっているため、万里の長城の中で一番危険な場所とも言われているようです。 この場所は、万里の長城の中でも未修繕の部分でもあり、ケーブルも階段も整備されていません。高齢者や子供では登ることは難しく、登山の経験者しか向かうことはできません。経験や知識を身に着けてから訪問しましょう。 行く場合は、地元の方に20元払う必要があるようです。行きたい場合は、登山に向けた準備だけではなく、お金も用意しておきましょう。 3つ目は、慕田峪長城です。こちらも中国の首都である北京から、車でおよそ1時間30分~2時間で向かうことができます。こちらの特徴は、滑り台があることです。 万里の長城自体がとても巨大であることから想像がつくように、滑り台ももちろんとても大きいです。その長さはおよそ1580mです。ソリのようなものに乗って滑ることもできます。
紀元前220年頃に北方からの侵略を防いだり、シルクロード貿易を保護する目的のために、中国の北部に整備したのは誰ですか。
紀元前220年頃に北方からの侵略を防いだり、シルクロード貿易を保護する目的のために、中国の北部に整備したのは秦の始皇帝です。
JCRRAG_008918
歴史
万里の長城は、1987年に世界遺産にも登録されましたため、その名前を聞いたことがある方も多いと思います。 紀元前220年頃に秦の始皇帝が、北方からの侵略を防いだり、シルクロード貿易を保護する目的のために、中国の北部に整備しました。秦の始皇帝が全てを作ったのではなく、各国で作られていた壁を連結させていったと伝えられています。その長さは、2012年時点でおよそ2万1196kmとされています。とても大きいため、空を飛んでいる人工衛星からもその存在を確認することができます。 とても長い防御施設ですが、建設に使われた材料は、主に、土、砂、石、レンガと私たちにもなじみがあるものです。また、砂漠や草原も山も超えて作られていったため、建設には多くの人がかかわっています。現在の建築と共通する点もありますね。 万里の長城の中にも特に人気が有名な観光スポットがあります。今回はその中から3つに絞ってご紹介します。以下には読み方が難しい漢字も出てきますが、中国での読み方を正確に日本語で表記することは困難であるため、あえて、ふりがなをふっておりません。ご了承下さい。 1つ目は、八達嶺長城です。こちらは、明の時代に修築されたとされており、保存状態もとてもよい場所です。万里の長城に観光に訪れた方の多くが訪れています。 入口に入るルートは大きく分けて2つあります。比較的傾斜が緩やかな方と、傾斜がきつい階段もある道の2種類です。それぞれ、「女坂」、「男坂」と呼ばれています。最高点まで歩くとおよそ1時間30分かかるようですが、観光用のロープウェイも整備されており、それを使用することもできます。 2つ目は、万里の長城の中でも比較的険しいとされている場所を紹介します。その名は、箭扣長城です。中国の首都の北京からおよそ車で2時間の地にあります。険しい崖の一角に作られているため、世界中の登山家の憧れの場所にもなっているそうです。また、その両側は崖となっているため、万里の長城の中で一番危険な場所とも言われているようです。 この場所は、万里の長城の中でも未修繕の部分でもあり、ケーブルも階段も整備されていません。高齢者や子供では登ることは難しく、登山の経験者しか向かうことはできません。経験や知識を身に着けてから訪問しましょう。 行く場合は、地元の方に20元払う必要があるようです。行きたい場合は、登山に向けた準備だけではなく、お金も用意しておきましょう。 3つ目は、慕田峪長城です。こちらも中国の首都である北京から、車でおよそ1時間30分~2時間で向かうことができます。こちらの特徴は、滑り台があることです。 万里の長城自体がとても巨大であることから想像がつくように、滑り台ももちろんとても大きいです。その長さはおよそ1580mです。ソリのようなものに乗って滑ることもできます。
とても長い防御施設ですが、建設に使われた材料は何ですか。
とても長い防御施設ですが、建設に使われた材料は主に、土、砂、石、レンガです。
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歴史
アンコールワットは、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって、12世紀前半頃にカンボジアの北西部に建設された、ヒンドゥー教の寺院です。こちらも1992年に世界遺産に登録されています。同国の国旗にも、民族統合の象徴としてその姿が描かれているため、建物のイメージがつく方もいらっしゃると思います。 この建物は、当時の国王が信仰していたヒンドゥー教の神であるヴィシュヌ神にささげるためだけではなく、国王自身が地上の神であると、広く民衆にアピールするためにも建築されたとされています。 寺院は、神殿を中心として三重の回廊(重要な部分を囲んでいる細長い構造物)で囲まれており、外側から内側に向かって、第一回廊、第二回廊、第三回廊と呼ばれています。 第一回廊の壁面には、たくさんの緻密な造りのレリーフがあります。レリーフとは、「浮彫」とも呼ばれている、平面に文字やイラストなどを浮き上がるように工夫して彫っている彫刻の技法のひとつです。 題材には、「ラーマーヤナ(インドの古代叙事詩の1つ)」の一場面も選ばれています。他には、国王の偉業をテーマにしている部分もあります。このような部分からも、アンコールワットが建築された背景が推測できますね。 第一回廊をさらに奥へと進んで行くと階段があり、その階段を上ると第二回廊にたどり着きます。第二回廊には、仏像が置いてあります。全体的にがらんとしているようです。 第二回廊からさらに高さ約13mもの急な階段を登ると、「神の領域」とされている第三回廊に向かうことができます。昔は、神の降臨の儀式などが行なわれていた神聖な場所となっています。また、入れる人数にも制限があり、混雑している場合は、待ち時間が発生することもあるようです。 第一回廊から第二回廊、第三回廊と、神殿に近づくにつれて、どんどん地表からの高さが上がっていくように造られています。訪れた方を崇高な世界に連れて行くように計算されているのでしょうか。
アンコールワットは、何年に世界遺産に登録されましたか。
アンコールワットは、1992年に世界遺産に登録されました。
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歴史
アンコールワットは、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって、12世紀前半頃にカンボジアの北西部に建設された、ヒンドゥー教の寺院です。こちらも1992年に世界遺産に登録されています。同国の国旗にも、民族統合の象徴としてその姿が描かれているため、建物のイメージがつく方もいらっしゃると思います。 この建物は、当時の国王が信仰していたヒンドゥー教の神であるヴィシュヌ神にささげるためだけではなく、国王自身が地上の神であると、広く民衆にアピールするためにも建築されたとされています。 寺院は、神殿を中心として三重の回廊(重要な部分を囲んでいる細長い構造物)で囲まれており、外側から内側に向かって、第一回廊、第二回廊、第三回廊と呼ばれています。 第一回廊の壁面には、たくさんの緻密な造りのレリーフがあります。レリーフとは、「浮彫」とも呼ばれている、平面に文字やイラストなどを浮き上がるように工夫して彫っている彫刻の技法のひとつです。 題材には、「ラーマーヤナ(インドの古代叙事詩の1つ)」の一場面も選ばれています。他には、国王の偉業をテーマにしている部分もあります。このような部分からも、アンコールワットが建築された背景が推測できますね。 第一回廊をさらに奥へと進んで行くと階段があり、その階段を上ると第二回廊にたどり着きます。第二回廊には、仏像が置いてあります。全体的にがらんとしているようです。 第二回廊からさらに高さ約13mもの急な階段を登ると、「神の領域」とされている第三回廊に向かうことができます。昔は、神の降臨の儀式などが行なわれていた神聖な場所となっています。また、入れる人数にも制限があり、混雑している場合は、待ち時間が発生することもあるようです。 第一回廊から第二回廊、第三回廊と、神殿に近づくにつれて、どんどん地表からの高さが上がっていくように造られています。訪れた方を崇高な世界に連れて行くように計算されているのでしょうか。
アンコールワットは、誰によって建設されましたか。
アンコールワットは、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって、12世紀前半頃にカンボジアの北西部に建設された、ヒンドゥー教の寺院です。
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歴史
明治時代のお札について はじめてお札に肖像画が載ったのが前章で述べた明治通宝であり、神功皇后という人物が選ばれました。神功皇后は古事記という日本最古の歴史書に登場する人物であり、ヤマトタケルの子孫つまり神の子孫と言われている人物がうけたご神託をもとに朝鮮を攻め、朝鮮半島を制圧して帰ってきたのです。 この時点ではお札ごとに人物を変える余裕もなかったようで、神功皇后は1円、5円、10円すべての紙幣に採用されました。その後、日本銀行券があらわれ、技術の進歩によりお札の種類ごとに人を変えられるようになりました。最初にる作られたのは5円札であり、太宰府天満宮に祭られている菅原道真がその肖像画となりました。 次に1円札として武内宿禰が載ったお札が発行されました。武内宿禰は神功皇后と共に挑戦を攻めた人物です。ところがこの人物には様々な説があり、その原因として書物に記されている記述から考えると、武内宿禰は300歳以上まで生きているということになってしまうことが挙げられます。このことから武内宿禰は実在するのではなく、話の中で作られた英雄なのではないかと考えられています。 また10円札に選ばれたのは和気清麻呂という人物です。この人物は奈良時代に活躍した人で、この時代には仏教が大変広まっており、道鏡が次の天皇になるというご神託が嘘だと公表して島流しをされたそうです。その後、和気清麻呂は島流しされていたところから桓武天皇により連れ戻してもらい、平安京造営の責任者となりました。 100円札としては藤原鎌足が選ばれました。大化の改新を行った人物です。大化の改新とは大化という時代に中大兄皇子と共に唐の律令制を見習って行った政治改革のことです。蘇我氏を打倒し、中央集権国家を作ることを目的としていたようです。 その後100円札は聖徳太子に代わりました。ここまでの選出者は、皆皇族または皇族を補佐した人なのです。このことから明治政府は、天皇中心の国家づくりを目指していたことが読み取れますね。このようにお札に載った人物について知っていくことで当時の政府や人々の考えがみえてくることは興味深いことです。
はじめてお札に肖像画が載ったのは誰ですか。
はじめてお札に肖像画が載ったのは神功皇后という人物です。
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歴史
明治時代のお札について はじめてお札に肖像画が載ったのが前章で述べた明治通宝であり、神功皇后という人物が選ばれました。神功皇后は古事記という日本最古の歴史書に登場する人物であり、ヤマトタケルの子孫つまり神の子孫と言われている人物がうけたご神託をもとに朝鮮を攻め、朝鮮半島を制圧して帰ってきたのです。 この時点ではお札ごとに人物を変える余裕もなかったようで、神功皇后は1円、5円、10円すべての紙幣に採用されました。その後、日本銀行券があらわれ、技術の進歩によりお札の種類ごとに人を変えられるようになりました。最初にる作られたのは5円札であり、太宰府天満宮に祭られている菅原道真がその肖像画となりました。 次に1円札として武内宿禰が載ったお札が発行されました。武内宿禰は神功皇后と共に挑戦を攻めた人物です。ところがこの人物には様々な説があり、その原因として書物に記されている記述から考えると、武内宿禰は300歳以上まで生きているということになってしまうことが挙げられます。このことから武内宿禰は実在するのではなく、話の中で作られた英雄なのではないかと考えられています。 また10円札に選ばれたのは和気清麻呂という人物です。この人物は奈良時代に活躍した人で、この時代には仏教が大変広まっており、道鏡が次の天皇になるというご神託が嘘だと公表して島流しをされたそうです。その後、和気清麻呂は島流しされていたところから桓武天皇により連れ戻してもらい、平安京造営の責任者となりました。 100円札としては藤原鎌足が選ばれました。大化の改新を行った人物です。大化の改新とは大化という時代に中大兄皇子と共に唐の律令制を見習って行った政治改革のことです。蘇我氏を打倒し、中央集権国家を作ることを目的としていたようです。 その後100円札は聖徳太子に代わりました。ここまでの選出者は、皆皇族または皇族を補佐した人なのです。このことから明治政府は、天皇中心の国家づくりを目指していたことが読み取れますね。このようにお札に載った人物について知っていくことで当時の政府や人々の考えがみえてくることは興味深いことです。
その後、日本銀行券があらわれ、技術の進歩によりお札の種類ごとに人を変えられるようになりました。最初に作られた5円札の肖像画は誰ですか。
その後、日本銀行券があらわれ、技術の進歩によりお札の種類ごとに人を変えられるようになりました。最初に作られた5円札の肖像画は太宰府天満宮に祭られている菅原道真です。
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歴史
明治時代のお札について はじめてお札に肖像画が載ったのが前章で述べた明治通宝であり、神功皇后という人物が選ばれました。神功皇后は古事記という日本最古の歴史書に登場する人物であり、ヤマトタケルの子孫つまり神の子孫と言われている人物がうけたご神託をもとに朝鮮を攻め、朝鮮半島を制圧して帰ってきたのです。 この時点ではお札ごとに人物を変える余裕もなかったようで、神功皇后は1円、5円、10円すべての紙幣に採用されました。その後、日本銀行券があらわれ、技術の進歩によりお札の種類ごとに人を変えられるようになりました。最初にる作られたのは5円札であり、太宰府天満宮に祭られている菅原道真がその肖像画となりました。 次に1円札として武内宿禰が載ったお札が発行されました。武内宿禰は神功皇后と共に挑戦を攻めた人物です。ところがこの人物には様々な説があり、その原因として書物に記されている記述から考えると、武内宿禰は300歳以上まで生きているということになってしまうことが挙げられます。このことから武内宿禰は実在するのではなく、話の中で作られた英雄なのではないかと考えられています。 また10円札に選ばれたのは和気清麻呂という人物です。この人物は奈良時代に活躍した人で、この時代には仏教が大変広まっており、道鏡が次の天皇になるというご神託が嘘だと公表して島流しをされたそうです。その後、和気清麻呂は島流しされていたところから桓武天皇により連れ戻してもらい、平安京造営の責任者となりました。 100円札としては藤原鎌足が選ばれました。大化の改新を行った人物です。大化の改新とは大化という時代に中大兄皇子と共に唐の律令制を見習って行った政治改革のことです。蘇我氏を打倒し、中央集権国家を作ることを目的としていたようです。 その後100円札は聖徳太子に代わりました。ここまでの選出者は、皆皇族または皇族を補佐した人なのです。このことから明治政府は、天皇中心の国家づくりを目指していたことが読み取れますね。このようにお札に載った人物について知っていくことで当時の政府や人々の考えがみえてくることは興味深いことです。
1円札として誰が載ったお札が発行されましたか。
武内宿禰が載ったお札が発行されました。
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歴史
明治時代のお札について はじめてお札に肖像画が載ったのが前章で述べた明治通宝であり、神功皇后という人物が選ばれました。神功皇后は古事記という日本最古の歴史書に登場する人物であり、ヤマトタケルの子孫つまり神の子孫と言われている人物がうけたご神託をもとに朝鮮を攻め、朝鮮半島を制圧して帰ってきたのです。 この時点ではお札ごとに人物を変える余裕もなかったようで、神功皇后は1円、5円、10円すべての紙幣に採用されました。その後、日本銀行券があらわれ、技術の進歩によりお札の種類ごとに人を変えられるようになりました。最初にる作られたのは5円札であり、太宰府天満宮に祭られている菅原道真がその肖像画となりました。 次に1円札として武内宿禰が載ったお札が発行されました。武内宿禰は神功皇后と共に挑戦を攻めた人物です。ところがこの人物には様々な説があり、その原因として書物に記されている記述から考えると、武内宿禰は300歳以上まで生きているということになってしまうことが挙げられます。このことから武内宿禰は実在するのではなく、話の中で作られた英雄なのではないかと考えられています。 また10円札に選ばれたのは和気清麻呂という人物です。この人物は奈良時代に活躍した人で、この時代には仏教が大変広まっており、道鏡が次の天皇になるというご神託が嘘だと公表して島流しをされたそうです。その後、和気清麻呂は島流しされていたところから桓武天皇により連れ戻してもらい、平安京造営の責任者となりました。 100円札としては藤原鎌足が選ばれました。大化の改新を行った人物です。大化の改新とは大化という時代に中大兄皇子と共に唐の律令制を見習って行った政治改革のことです。蘇我氏を打倒し、中央集権国家を作ることを目的としていたようです。 その後100円札は聖徳太子に代わりました。ここまでの選出者は、皆皇族または皇族を補佐した人なのです。このことから明治政府は、天皇中心の国家づくりを目指していたことが読み取れますね。このようにお札に載った人物について知っていくことで当時の政府や人々の考えがみえてくることは興味深いことです。
10円札に選ばれた人物は誰ですか。
10円札に選ばれたのは和気清麻呂という人物です。
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歴史
明治時代のお札について はじめてお札に肖像画が載ったのが前章で述べた明治通宝であり、神功皇后という人物が選ばれました。神功皇后は古事記という日本最古の歴史書に登場する人物であり、ヤマトタケルの子孫つまり神の子孫と言われている人物がうけたご神託をもとに朝鮮を攻め、朝鮮半島を制圧して帰ってきたのです。 この時点ではお札ごとに人物を変える余裕もなかったようで、神功皇后は1円、5円、10円すべての紙幣に採用されました。その後、日本銀行券があらわれ、技術の進歩によりお札の種類ごとに人を変えられるようになりました。最初にる作られたのは5円札であり、太宰府天満宮に祭られている菅原道真がその肖像画となりました。 次に1円札として武内宿禰が載ったお札が発行されました。武内宿禰は神功皇后と共に挑戦を攻めた人物です。ところがこの人物には様々な説があり、その原因として書物に記されている記述から考えると、武内宿禰は300歳以上まで生きているということになってしまうことが挙げられます。このことから武内宿禰は実在するのではなく、話の中で作られた英雄なのではないかと考えられています。 また10円札に選ばれたのは和気清麻呂という人物です。この人物は奈良時代に活躍した人で、この時代には仏教が大変広まっており、道鏡が次の天皇になるというご神託が嘘だと公表して島流しをされたそうです。その後、和気清麻呂は島流しされていたところから桓武天皇により連れ戻してもらい、平安京造営の責任者となりました。 100円札としては藤原鎌足が選ばれました。大化の改新を行った人物です。大化の改新とは大化という時代に中大兄皇子と共に唐の律令制を見習って行った政治改革のことです。蘇我氏を打倒し、中央集権国家を作ることを目的としていたようです。 その後100円札は聖徳太子に代わりました。ここまでの選出者は、皆皇族または皇族を補佐した人なのです。このことから明治政府は、天皇中心の国家づくりを目指していたことが読み取れますね。このようにお札に載った人物について知っていくことで当時の政府や人々の考えがみえてくることは興味深いことです。
100円札に選ばれた人物は誰ですか。
100円札は藤原鎌足が選ばれました。
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歴史
ペリー来航 1846年(弘化3年)、東インド艦隊司令官「ジェームズ・ビッドル」が2隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れ、アメリカとの通商を求めましたが、日本には「異国船打払令」があり、幕府は「祖法(先祖代々の決まり)は変えられない」としてその要望を拒否しました。 次に1851年(嘉永4年)、同じく東インド艦隊司令官の「ジョン・オーリック」が日本との交渉を担当しますが、乗組員と問題を起こしたために解任。その翌年に日本開国の任務を受け継いだのがマシュー・ペリーでした。 交渉を前に彼が練った作戦は、アメリカの桁違いの軍事力を見せ付け、恫喝的に交渉を進めるというものでした。そこで前回の倍の4隻の軍艦を仕立て、日本をめざします。そして1853年(嘉永6年)、浦賀沖に現れた真っ黒な船団は人々を大いに驚かせました。これが、いわゆる「黒船来航」です。 実はその1年前、アメリカの黒船が来航するという情報はオランダ商館長が提出した「風説書」(ふうせつがき:海外事情の報告書)として幕府に伝えられていましたが、老中首座の阿部正弘(あべまさひろ)はこれを黙殺したため、まったく無防備のまま黒船の来航に対処せざるを得ませんでした。 幕府は浦賀奉行所与力の「中島三郎助」(なかじまさぶろうすけ)を遣わしますが、マシュー・ペリーは「国書を手渡すにふさわしい高官が出て来なければ、兵を率いて上陸し、国書を将軍に直接渡す」と威嚇。阿部正弘はやむを得ずこれまでの慣例を破り、国交のない国の国書を長崎以外の場所で受け取り、1年後に回答することを確約します。 マシュー・ペリーはこの提案を了承しましたが、艦隊を北上させて江戸の港が見える場所まで行き、数十発の空砲でさらに威嚇した上で日本を離れました。
東インド艦隊司令官「ジェームズ・ビッドル」が2隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れたのは何年ですか。
東インド艦隊司令官「ジェームズ・ビッドル」が2隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れたのは1846年(弘化3年)です。
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歴史
ペリー来航 1846年(弘化3年)、東インド艦隊司令官「ジェームズ・ビッドル」が2隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れ、アメリカとの通商を求めましたが、日本には「異国船打払令」があり、幕府は「祖法(先祖代々の決まり)は変えられない」としてその要望を拒否しました。 次に1851年(嘉永4年)、同じく東インド艦隊司令官の「ジョン・オーリック」が日本との交渉を担当しますが、乗組員と問題を起こしたために解任。その翌年に日本開国の任務を受け継いだのがマシュー・ペリーでした。 交渉を前に彼が練った作戦は、アメリカの桁違いの軍事力を見せ付け、恫喝的に交渉を進めるというものでした。そこで前回の倍の4隻の軍艦を仕立て、日本をめざします。そして1853年(嘉永6年)、浦賀沖に現れた真っ黒な船団は人々を大いに驚かせました。これが、いわゆる「黒船来航」です。 実はその1年前、アメリカの黒船が来航するという情報はオランダ商館長が提出した「風説書」(ふうせつがき:海外事情の報告書)として幕府に伝えられていましたが、老中首座の阿部正弘(あべまさひろ)はこれを黙殺したため、まったく無防備のまま黒船の来航に対処せざるを得ませんでした。 幕府は浦賀奉行所与力の「中島三郎助」(なかじまさぶろうすけ)を遣わしますが、マシュー・ペリーは「国書を手渡すにふさわしい高官が出て来なければ、兵を率いて上陸し、国書を将軍に直接渡す」と威嚇。阿部正弘はやむを得ずこれまでの慣例を破り、国交のない国の国書を長崎以外の場所で受け取り、1年後に回答することを確約します。 マシュー・ペリーはこの提案を了承しましたが、艦隊を北上させて江戸の港が見える場所まで行き、数十発の空砲でさらに威嚇した上で日本を離れました。
1851年(嘉永4年)、同じく東インド艦隊司令官の「ジョン・オーリック」が日本との交渉を担当しますが、乗組員と問題を起こしたために解任。その翌年に日本開国の任務を受け継いだのは誰ですか。
1851年(嘉永4年)、同じく東インド艦隊司令官の「ジョン・オーリック」が日本との交渉を担当しますが、乗組員と問題を起こしたために解任。その翌年に日本開国の任務を受け継いだのはマシュー・ペリーです。
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ペリー来航 1846年(弘化3年)、東インド艦隊司令官「ジェームズ・ビッドル」が2隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れ、アメリカとの通商を求めましたが、日本には「異国船打払令」があり、幕府は「祖法(先祖代々の決まり)は変えられない」としてその要望を拒否しました。 次に1851年(嘉永4年)、同じく東インド艦隊司令官の「ジョン・オーリック」が日本との交渉を担当しますが、乗組員と問題を起こしたために解任。その翌年に日本開国の任務を受け継いだのがマシュー・ペリーでした。 交渉を前に彼が練った作戦は、アメリカの桁違いの軍事力を見せ付け、恫喝的に交渉を進めるというものでした。そこで前回の倍の4隻の軍艦を仕立て、日本をめざします。そして1853年(嘉永6年)、浦賀沖に現れた真っ黒な船団は人々を大いに驚かせました。これが、いわゆる「黒船来航」です。 実はその1年前、アメリカの黒船が来航するという情報はオランダ商館長が提出した「風説書」(ふうせつがき:海外事情の報告書)として幕府に伝えられていましたが、老中首座の阿部正弘(あべまさひろ)はこれを黙殺したため、まったく無防備のまま黒船の来航に対処せざるを得ませんでした。 幕府は浦賀奉行所与力の「中島三郎助」(なかじまさぶろうすけ)を遣わしますが、マシュー・ペリーは「国書を手渡すにふさわしい高官が出て来なければ、兵を率いて上陸し、国書を将軍に直接渡す」と威嚇。阿部正弘はやむを得ずこれまでの慣例を破り、国交のない国の国書を長崎以外の場所で受け取り、1年後に回答することを確約します。 マシュー・ペリーはこの提案を了承しましたが、艦隊を北上させて江戸の港が見える場所まで行き、数十発の空砲でさらに威嚇した上で日本を離れました。
4隻の軍艦を仕立て、日本をめざし、そして1853年(嘉永6年)、浦賀沖に現れた真っ黒な船団。人々を大いに驚かせた出来事は何ですか。
4隻の軍艦を仕立て、日本をめざし、そして1853年(嘉永6年)、浦賀沖に現れた真っ黒な船団。人々を大いに驚かせた出来事は黒船来航です。
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2度目のペリー来航 当初は1年後の再来航を予定していたマシュー・ペリーでしたが、ロシアも日本と交渉を開始したことを知り、予定を早めてわずか半年後の1854年(嘉永7年)1月に日本に来航します。しかも、今回はさらに軍艦数を増やして計7隻の大艦隊です。これに遂に幕府が折れ、横浜村(現在の横浜市)で「日米和親条約」(にちべいわしんじょうやく:神奈川条約とも呼ぶ)を締結し、長い鎖国状態にピリオドが打たれます。 条約の内容 この条約では、下田と箱館(現在の函館)の開港や、アメリカ船に燃料や水・食料を供給すること、下田にアメリカ領事を置くことなどが定められました。なかでも最も問題だったのは、アメリカと日本の間に「片務的最恵国待遇」(へんむてきさいけいこくたいぐう)が決められたことでした。 これは、日本がアメリカに与えたよりも有利な条件を他国に認めた場合、自動的にアメリカにも同条件が発生するという条項で、しかもその義務を負うのは日本だけでしたから、きわめて不平等な条約でした。 その後、日本は1855年(安政2年)までにイギリス、オランダ、ロシアとも日米和親条約と同様の条約を締結。こうして、いよいよ日本は列強の争いの渦中に巻き込まれることになります。
1854年(嘉永7年)横浜村(現在の横浜市)で結ばれた条約は何ですか。
1854年(嘉永7年)横浜村(現在の横浜市)で結ばれた条約は日米和親条約です。
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歴史
不平等条約 この条約では、下田条約から一歩進み、神奈川・長崎・箱館・新潟・兵庫の5港の開港と外国人居留地の開設、江戸・大阪の開市、外国人の貿易と国内旅行の自由化が定められました。 一方、居留地内の「領事裁判権」(りょうじさいばんけん)と関税の自主決定権が日本にないなど、締結内容は明らかに不平等と言わざるを得ませんでした。その後、幕府はオランダやロシア、イギリス、フランスとも条約を締結。これらを「安政の五カ国条約」と言います。 攘夷思想の芽生え ともあれ、これによって西洋諸国との本格的な貿易が始まります。 日本からの輸出品は主に生糸、茶、海産物などで、海外からの輸入品は毛織物、綿織物、鉄砲、艦船などでした。 しかし日本と欧米の金銀交換比率が大きく異なっており、当時は世界最大の金産出国であった日本ですが、大量の金が海外に流出してしまいます。 幕府は慌てて改鋳(かいちゅう:金貨に含まれる金の量を減らす政策)を実施して対抗しますが、貨幣価値の下落を招き、物価が上昇してかえって経済は大混乱。下級武士や庶民の暮らしは苦しくなるばかりであったため、次第に「外国との貿易が生活を圧迫している」という考えが生まれ、のちの「攘夷」(じょうい:外国を退ける運動)の過激化へとつながっていきます。
幕府はオランダやロシア、イギリス、フランスとも条約を締結。これらを何といいますか。
幕府はオランダやロシア、イギリス、フランスとも条約を締結。これらを安政の五カ国条約と言います。
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日米修好通商条約とは 日米修好通商条約は、1858年(安政5年)に締結された通商条約。批准書がワシントンで交換されたのは1860年(安政7年)で、アメリカにおいては調印にあたった「タウンゼント・ハリス」の名前を採って、「ハリス条約」と呼ばれています。 この条約によって箱館・新潟・横浜・神戸・長崎の5港が開かれ、日本は文化的にも経済的にも大きな変化を遂げていくことになったのです。 日米修好通商条約に先立つ日米和親条約 日米修好通商条約に先立ち、1854年(嘉永7年)には「マシュー・ペリー」の来航をきっかけに「日米和親条約」(神奈川条約)が締結され、下田(現在の静岡県下田市/横浜開港の半年後に閉鎖)と箱館(現在の北海道函館市)が開港されました。 1857年(安政4年)日米和親条約を修補する「下田協約」を締結するため、来日したタウンゼント・ハリスの積極的な日本開国への働きかけによって実現したのが、日米修好通商条約です。条約の内容には日本に不利な内容も含まれており、反対派も少なくありませんでした。 日本には不利な点があった。 日米修好通商条約で日本にとって不平等であった点は「治外法権を認める」、「関税自主権がない」の2点。治外法権を認めるということは、「領事裁判権」を認めるということを指します。 つまり、アメリカ人が日本で罪を犯しても日本の法律では裁けないということ。 そのためアメリカ人が日本で罪を犯しても自国に帰ってから裁かれることとなり、判決が不十分、あるいは被害を受けた日本人が十分な補償を受けられないといったこともありました。 また、関税自主権がないという点については、アメリカから輸入した品物の関税をアメリカが自由に決め、自国の品物を安く売ることができるということを意味。 ただし、このとき結ばれた条約の付則に定められた関税は食料や建材が5%、それ以外の物品は20%、酒類に関しては35%であり、日米修好通商条約が日本経済に直接深刻なダメージを与えるほどではありませんでした。 日本修好通商条約の締結を進めた、江戸幕府の大老「井伊直弼」(いいなおすけ)には、条約を結ぶことによってアメリカとの戦争を避けたいという目的がありました。一方で、日米修好通商条約には日本に不利な点がいくつもあったため、井伊直弼に対する批判や反感は増大。 また、日米修好通商条約締結時に井伊直弼が天皇を無視して独断で行ったと思われていることが多いですが、実際にはときの「孝明天皇」(こうめいてんのう)の勅許(ちょっきょ:天皇の許可)を得ることを最後まで主張していたのは、井伊直弼本人。しかし、そのような実情がかき消されるほど、日米修好通商条約の締結は反発を強く買ったのです。
1858年(安政5年)に締結された通商条約は何ですか。
1858年(安政5年)に締結された通商条約は日米修好通商条約です。
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歴史
日米修好通商条約とは 日米修好通商条約は、1858年(安政5年)に締結された通商条約。批准書がワシントンで交換されたのは1860年(安政7年)で、アメリカにおいては調印にあたった「タウンゼント・ハリス」の名前を採って、「ハリス条約」と呼ばれています。 この条約によって箱館・新潟・横浜・神戸・長崎の5港が開かれ、日本は文化的にも経済的にも大きな変化を遂げていくことになったのです。 日米修好通商条約に先立つ日米和親条約 日米修好通商条約に先立ち、1854年(嘉永7年)には「マシュー・ペリー」の来航をきっかけに「日米和親条約」(神奈川条約)が締結され、下田(現在の静岡県下田市/横浜開港の半年後に閉鎖)と箱館(現在の北海道函館市)が開港されました。 1857年(安政4年)日米和親条約を修補する「下田協約」を締結するため、来日したタウンゼント・ハリスの積極的な日本開国への働きかけによって実現したのが、日米修好通商条約です。条約の内容には日本に不利な内容も含まれており、反対派も少なくありませんでした。 日本には不利な点があった。 日米修好通商条約で日本にとって不平等であった点は「治外法権を認める」、「関税自主権がない」の2点。治外法権を認めるということは、「領事裁判権」を認めるということを指します。 つまり、アメリカ人が日本で罪を犯しても日本の法律では裁けないということ。 そのためアメリカ人が日本で罪を犯しても自国に帰ってから裁かれることとなり、判決が不十分、あるいは被害を受けた日本人が十分な補償を受けられないといったこともありました。 また、関税自主権がないという点については、アメリカから輸入した品物の関税をアメリカが自由に決め、自国の品物を安く売ることができるということを意味。 ただし、このとき結ばれた条約の付則に定められた関税は食料や建材が5%、それ以外の物品は20%、酒類に関しては35%であり、日米修好通商条約が日本経済に直接深刻なダメージを与えるほどではありませんでした。 日本修好通商条約の締結を進めた、江戸幕府の大老「井伊直弼」(いいなおすけ)には、条約を結ぶことによってアメリカとの戦争を避けたいという目的がありました。一方で、日米修好通商条約には日本に不利な点がいくつもあったため、井伊直弼に対する批判や反感は増大。 また、日米修好通商条約締結時に井伊直弼が天皇を無視して独断で行ったと思われていることが多いですが、実際にはときの「孝明天皇」(こうめいてんのう)の勅許(ちょっきょ:天皇の許可)を得ることを最後まで主張していたのは、井伊直弼本人。しかし、そのような実情がかき消されるほど、日米修好通商条約の締結は反発を強く買ったのです。
日米修好通商条約で日本にとって不平等であった点は何ですか。
日米修好通商条約で日本にとって不平等であった点は「治外法権を認める」、「関税自主権がない」です。
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歴史
安政の大獄は、1858~1859年(安政5~6年)にかけて江戸幕府が行った大規模な弾圧事件。 当時、幕府の大老であった井伊直弼や老中の「間部詮勝」(まなべあきかつ)は、天皇の勅許を得ずに日本にとって不平等な内容の日米修好通商条約に調印したばかりではなく、将軍の跡継ぎを独断で「徳川家茂」(とくがわいえもち)に決めてしまいます。 そして幕府はこのような処策に反対する勢力に対して徹底的な弾圧を開始。 これが安政の大獄であり、当時は「戊午の大獄」(つちのえうまのたいごく、ぼごのたいごく)または「飯泉喜内初筆一件」(いいずみきないしょひついっけん)とも呼ばれました。 弾圧された人達 安政の大獄により、幕府反対勢力の尊王攘夷一派、一橋派の大名や公卿達が弾圧されました。一橋派は次期将軍として「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ:のちの江戸幕府第15代将軍徳川慶喜)を推しており、徳川家茂を次期将軍として据えた井伊直弼ら南紀派と真っ向から対立。 幕府側は間部詮勝らが上洛(京都に入ること)し、反幕府派と目された志士や公卿の家臣まで捕縛するという弾圧を行いました。弾圧は「吉田松陰」(よしだしょういん)を含む志士を投獄や流刑、あるいは死罪にするという厳しい内容へと発展します。 吉田松陰は長州藩(現在の山口県)の武士でありながら、教育者・思想家として著名な人物。 投獄中に老中暗殺計画を企んでいたことを告白し、死罪を宣告されることとなったのです。 弾圧された側の連座者は100人を超え、水戸藩(現在の茨城県)藩主である「徳川斉昭」(とくがわなりあき)父子や、越前藩(現在の福井県)藩主の「松平慶永」(まつだいらよしなが)らも処罰。これによって井伊直弼に対する反感がさらに強まり、徐々に井伊直弼は孤立していきます。
1858~1859年(安政5~6年)にかけて江戸幕府が行った大規模な弾圧事件は何ですか。
1858~1859年(安政5~6年)にかけて江戸幕府が行った大規模な弾圧事件は安政の大獄です。
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安政の大獄は、1858~1859年(安政5~6年)にかけて江戸幕府が行った大規模な弾圧事件。 当時、幕府の大老であった井伊直弼や老中の「間部詮勝」(まなべあきかつ)は、天皇の勅許を得ずに日本にとって不平等な内容の日米修好通商条約に調印したばかりではなく、将軍の跡継ぎを独断で「徳川家茂」(とくがわいえもち)に決めてしまいます。 そして幕府はこのような処策に反対する勢力に対して徹底的な弾圧を開始。 これが安政の大獄であり、当時は「戊午の大獄」(つちのえうまのたいごく、ぼごのたいごく)または「飯泉喜内初筆一件」(いいずみきないしょひついっけん)とも呼ばれました。 弾圧された人達 安政の大獄により、幕府反対勢力の尊王攘夷一派、一橋派の大名や公卿達が弾圧されました。一橋派は次期将軍として「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ:のちの江戸幕府第15代将軍徳川慶喜)を推しており、徳川家茂を次期将軍として据えた井伊直弼ら南紀派と真っ向から対立。 幕府側は間部詮勝らが上洛(京都に入ること)し、反幕府派と目された志士や公卿の家臣まで捕縛するという弾圧を行いました。弾圧は「吉田松陰」(よしだしょういん)を含む志士を投獄や流刑、あるいは死罪にするという厳しい内容へと発展します。 吉田松陰は長州藩(現在の山口県)の武士でありながら、教育者・思想家として著名な人物。 投獄中に老中暗殺計画を企んでいたことを告白し、死罪を宣告されることとなったのです。 弾圧された側の連座者は100人を超え、水戸藩(現在の茨城県)藩主である「徳川斉昭」(とくがわなりあき)父子や、越前藩(現在の福井県)藩主の「松平慶永」(まつだいらよしなが)らも処罰。これによって井伊直弼に対する反感がさらに強まり、徐々に井伊直弼は孤立していきます。
長州藩(現在の山口県)の武士であり、教育者・思想家として著名な人物は誰ですか。
長州藩(現在の山口県)の武士であり、教育者・思想家として著名な人物は吉田松陰です。
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歴史
安政の大獄によって多数の人が処罰・処刑を受け、その恨みは井伊直弼へと集中。 元来、日米修好通商条約締結時、井伊直弼は勅許なしの条約締結には反対の立場でしたが、アメリカの圧力に逆らえず、結果として天皇を無視した形で調印しなければならなかったという経緯があります。 しかし、このような判断がすべて大老という幕府の最高責任者であった井伊直弼の責任とされたため、井伊直弼は運命に翻弄されていくこととなったのです。 ついに1860年(安政7年)の3月の大雪の日「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)が起こります。江戸城の桜田門外で水戸藩を抜けた脱藩浪士17人と薩摩藩士ひとりが彦根藩の行列を急襲。彼らの狙いは井伊直弼であり、駕籠(かご)に乗っていた井伊直弼は引きずり出され、日本刀で暗殺されたのです。 この間、わずか30分も経っていなかったほどあっという間の出来事だったと言われています。水戸藩の徳川斉昭は、水戸藩存続の危機を察知し、幕府に従う姿勢を見せていました。 井伊直弼の首と体は脱藩浪士によって水戸藩に運び込まれましたが、水戸藩は井伊直弼を病気による死亡であったと幕府に報告。幕府も水戸藩との争いを避けるため、井伊直弼の暗殺を隠して闘病の末に亡くなったことにして、事件は表向き一件落着とされました。
1860年(安政7年)の3月、江戸城の桜田門外で水戸藩を抜けた脱藩浪士17人と薩摩藩士ひとりが彦根藩の行列を急襲。彼らの狙いは井伊直弼であり、駕籠(かご)に乗っていた井伊直弼は引きずり出され、日本刀で暗殺されたこの事件は何ですか。
1860年(安政7年)の3月、江戸城の桜田門外で水戸藩を抜けた脱藩浪士17人と薩摩藩士ひとりが彦根藩の行列を急襲。彼らの狙いは井伊直弼であり、駕籠(かご)に乗っていた井伊直弼は引きずり出され、日本刀で暗殺されたこの事件は桜田門外の変です。
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この当時の中国国内では、中国共産党と中国国民党という2つの政党が対立して争っていましたが、日本が中国に持つ権益を取り戻そうとする動きも徐々に強まりつつありました。 その動きに危機感を覚えた満州駐在の陸軍である関東軍は、1931年に柳条湖りゅうじょうこという地にある南満州鉄道を自分たちの手で爆破し、それを中国軍の仕業だとして軍事行動を開始しました。 この出来事を柳条湖事件と言います。 そのまま満州を占領して、1932年には中国が清王朝だったときの最後の皇帝である溥儀ふぎを元首とする満州国を建国しました。 これがいわゆる満州事変です。満州事変の後、日本国内ではさらに大きな事件が起こります。それが1932年5月15日に起きた五・一五事件です。 これは満州国の承認をためらっていた当時の首相の犬養毅いぬかいつよしが、海軍の軍人に暗殺されるというものです。これによって政党政治は終わり,今後は軍人が首相になることが増えていきます。 犬養毅が殺害される際に言った『話せばわかる』と、それに対する軍人が言った『問答無用、撃て』というやり取りは非常に有名ですね。 この事件のあと国内では満州国が承認され、国民も日露戦争で勝ち取った満州の地を中国から守ったとして、関東軍の行為を支持しました。
満州駐在の陸軍である関東軍が、1931年に柳条湖という地にある南満州鉄道を自分たちの手で爆破し,それを中国軍の仕業だとして軍事行動を開始した出来事があったが、それを何といいますか。
軍事行動を開始した出来事は、柳条湖事件といいます。
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この当時の中国国内では、中国共産党と中国国民党という2つの政党が対立して争っていましたが、日本が中国に持つ権益を取り戻そうとする動きも徐々に強まりつつありました。 その動きに危機感を覚えた満州駐在の陸軍である関東軍は、1931年に柳条湖りゅうじょうこという地にある南満州鉄道を自分たちの手で爆破し、それを中国軍の仕業だとして軍事行動を開始しました。 この出来事を柳条湖事件と言います。 そのまま満州を占領して、1932年には中国が清王朝だったときの最後の皇帝である溥儀ふぎを元首とする満州国を建国しました。 これがいわゆる満州事変です。満州事変の後、日本国内ではさらに大きな事件が起こります。それが1932年5月15日に起きた五・一五事件です。 これは満州国の承認をためらっていた当時の首相の犬養毅いぬかいつよしが、海軍の軍人に暗殺されるというものです。これによって政党政治は終わり、今後は軍人が首相になることが増えていきます。 犬養毅が殺害される際に言った『話せばわかる』と,それに対する軍人が言った『問答無用、撃て』というやり取りは非常に有名ですね。 この事件のあと国内では満州国が承認され、国民も日露戦争で勝ち取った満州の地を中国から守ったとして、関東軍の行為を支持しました。
1932年に中国が清王朝だったときの最後の皇帝である溥儀を元首とする国を建国しましたが、その国を何と言いますか。
1932年に中国が清王朝だったときの最後の皇帝である溥儀を元首とする国は、満州国といいます。
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この当時の中国国内では、中国共産党と中国国民党という2つの政党が対立して争っていましたが、日本が中国に持つ権益を取り戻そうとする動きも徐々に強まりつつありました。 その動きに危機感を覚えた満州駐在の陸軍である関東軍は、1931年に柳条湖りゅうじょうこという地にある南満州鉄道を自分たちの手で爆破し、それを中国軍の仕業だとして軍事行動を開始しました。 この出来事を柳条湖事件と言います。 そのまま満州を占領して、1932年には中国が清王朝だったときの最後の皇帝である溥儀ふぎを元首とする満州国を建国しました。 これがいわゆる満州事変です。満州事変の後、日本国内ではさらに大きな事件が起こります。それが1932年5月15日に起きた五・一五事件です。 これは満州国の承認をためらっていた当時の首相の犬養毅いぬかいつよしが、海軍の軍人に暗殺されるというものです。これによって政党政治は終わり、今後は軍人が首相になることが増えていきます。 犬養毅が殺害される際に言った『話せばわかる』と,それに対する軍人が言った『問答無用、撃て』というやり取りは非常に有名ですね。 この事件のあと国内では満州国が承認され、国民も日露戦争で勝ち取った満州の地を中国から守ったとして、関東軍の行為を支持しました。
柳条湖事件が起こり、1932年には中国が清王朝だったときの最後の皇帝である溥儀ふぎを元首とする満州国を建国したこの一連の流れを何と言いますか。
満州国を建国したこの一連の流れは、満州事変といいます。
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この当時の中国国内では、中国共産党と中国国民党という2つの政党が対立して争っていましたが、日本が中国に持つ権益を取り戻そうとする動きも徐々に強まりつつありました。 その動きに危機感を覚えた満州駐在の陸軍である関東軍は、1931年に柳条湖りゅうじょうこという地にある南満州鉄道を自分たちの手で爆破し、それを中国軍の仕業だとして軍事行動を開始しました。 この出来事を柳条湖事件と言います。 そのまま満州を占領して、1932年には中国が清王朝だったときの最後の皇帝である溥儀ふぎを元首とする満州国を建国しました。 これがいわゆる満州事変です。満州事変の後、日本国内ではさらに大きな事件が起こります。それが1932年5月15日に起きた五・一五事件です。 これは満州国の承認をためらっていた当時の首相の犬養毅いぬかいつよしが、海軍の軍人に暗殺されるというものです。これによって政党政治は終わり、今後は軍人が首相になることが増えていきます。 犬養毅が殺害される際に言った『話せばわかる』と,それに対する軍人が言った『問答無用、撃て』というやり取りは非常に有名ですね。 この事件のあと国内では満州国が承認され、国民も日露戦争で勝ち取った満州の地を中国から守ったとして、関東軍の行為を支持しました。
満州事変の後、日本国内で起こった、1932年5月15日の出来事を何と言いますか。
1932年5月15日の出来事は、五・一五事件といいます。
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この当時の中国国内では、中国共産党と中国国民党という2つの政党が対立して争っていましたが、日本が中国に持つ権益を取り戻そうとする動きも徐々に強まりつつありました。 その動きに危機感を覚えた満州駐在の陸軍である関東軍は、1931年に柳条湖りゅうじょうこという地にある南満州鉄道を自分たちの手で爆破し、それを中国軍の仕業だとして軍事行動を開始しました。 この出来事を柳条湖事件と言います。 そのまま満州を占領して、1932年には中国が清王朝だったときの最後の皇帝である溥儀ふぎを元首とする満州国を建国しました。 これがいわゆる満州事変です。満州事変の後、日本国内ではさらに大きな事件が起こります。それが1932年5月15日に起きた五・一五事件です。 これは満州国の承認をためらっていた当時の首相の犬養毅いぬかいつよしが、海軍の軍人に暗殺されるというものです。これによって政党政治は終わり、今後は軍人が首相になることが増えていきます。 犬養毅が殺害される際に言った『話せばわかる』と、それに対する軍人が言った『問答無用、撃て』というやり取りは非常に有名ですね。 この事件のあと国内では満州国が承認され、国民も日露戦争で勝ち取った満州の地を中国から守ったとして、関東軍の行為を支持しました。
五・一五事件の内容は、日本の当時の首相が海軍の軍人に暗殺されるというものでしたが、暗殺された日本の当時の首相は誰ですか。
暗殺された日本の当時の首相は、犬養毅です。
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まだまだ国内の混乱は続きます。1936年2月26日に、陸軍将校たちが二・二六事件を起こします。 これは陸軍将校ら約1,500名が起こした大規模なクーデターで、天皇を利用している今の政治家を排除して,天皇中心の新政府を樹立しようという考えのもと行われました。 この考えを持つ派閥を「皇道派こうどうは」と言い、首相や大臣などの要職に就いている人物を襲いました。 二・二六事件は鎮圧されましたが、これ以降はさらに軍部の勢いが増し、政治の実権を握るようになっていきます。満州事変によって満州国を建国した日本ですが、それだけにとどまらずさらに領土を広げようと考えます。 そのため中国とは一触即発の緊張状態が続いていました。そして1937年7月11日、北京郊外の盧溝橋ろこうきょうという橋の近くで武力衝突が起こります。これが盧溝橋事件です。 盧溝橋事件をきっかけに、日本と中国は宣戦布告をしないまま戦争に突入しました。これが日中戦争ですね。日本はすぐに戦争が終わると考えていましたが、1937年9月に中国国内で争っていた中国共産党の毛沢東もうたくとうと中国国民党の蒋介石しょうかいせきが日本に対抗するために手を結び、抗日民族統一戦線を結成しました。 1937年12月に日本は中国の首都である南京なんきんを占領しました。これを南京事件と呼びます。 このときに一般市民を殺害するといった残虐な行為も行われ、国際的に大きく非難されます。
1936年2月26日に、陸軍将校たちが天皇を利用している今の政治家を排除して,天皇中心の新政府を樹立しようという内容の出来事が起こりましたが、これを何と言いますか。
天皇中心の新政府を樹立しようという内容の出来事は、二・二六事件といいます。
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まだまだ国内の混乱は続きます。1936年2月26日に、陸軍将校たちが二・二六事件を起こします。 これは陸軍将校ら約1,500名が起こした大規模なクーデターで、天皇を利用している今の政治家を排除して、天皇中心の新政府を樹立しようという考えのもと行われました。 この考えを持つ派閥を「皇道派こうどうは」と言い、首相や大臣などの要職に就いている人物を襲いました。 二・二六事件は鎮圧されましたが、これ以降はさらに軍部の勢いが増し、政治の実権を握るようになっていきます。満州事変によって満州国を建国した日本ですが、それだけにとどまらずさらに領土を広げようと考えます。 そのため中国とは一触即発の緊張状態が続いていました。そして1937年7月11日、北京郊外の盧溝橋ろこうきょうという橋の近くで武力衝突が起こります。これが盧溝橋事件です。 盧溝橋事件をきっかけに,日本と中国は宣戦布告をしないまま戦争に突入しました。これが日中戦争ですね。日本はすぐに戦争が終わると考えていましたが、1937年9月に中国国内で争っていた中国共産党の毛沢東もうたくとうと中国国民党の蒋介石しょうかいせきが日本に対抗するために手を結び、抗日民族統一戦線を結成しました。 1937年12月に日本は中国の首都である南京なんきんを占領しました。これを南京事件と呼びます。 このときに一般市民を殺害するといった残虐な行為も行われ、国際的に大きく非難されます。
1937年7月11日、北京郊外の盧溝橋という橋の近くで武力衝突が起こりましたが、これを何と言いますか。
1937年7月11日、北京郊外の盧溝橋という橋の近くで武力衝突が起こった出来事は、盧溝橋事件といいます。
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まだまだ国内の混乱は続きます。1936年2月26日に、陸軍将校たちが二・二六事件を起こします。 これは陸軍将校ら約1,500名が起こした大規模なクーデターで、天皇を利用している今の政治家を排除して,天皇中心の新政府を樹立しようという考えのもと行われました。 この考えを持つ派閥を「皇道派こうどうは」と言い、首相や大臣などの要職に就いている人物を襲いました。 二・二六事件は鎮圧されましたが、これ以降はさらに軍部の勢いが増し、政治の実権を握るようになっていきます。満州事変によって満州国を建国した日本ですが,それだけにとどまらずさらに領土を広げようと考えます。 そのため中国とは一触即発の緊張状態が続いていました。そして1937年7月11日、北京郊外の盧溝橋ろこうきょうという橋の近くで武力衝突が起こります。これが盧溝橋事件です。 盧溝橋事件をきっかけに、日本と中国は宣戦布告をしないまま戦争に突入しました。これが日中戦争ですね。日本はすぐに戦争が終わると考えていましたが、1937年9月に中国国内で争っていた中国共産党の毛沢東もうたくとうと中国国民党の蒋介石しょうかいせきが日本に対抗するために手を結び、抗日民族統一戦線を結成しました。 1937年12月に日本は中国の首都である南京なんきんを占領しました。これを南京事件と呼びます。 このときに一般市民を殺害するといった残虐な行為も行われ、国際的に大きく非難されます。
盧溝橋事件をきっかけに、日本と中国は宣戦布告をしないまま戦争に突入しましたが、この戦争を何と言いますか。
盧溝橋事件をきっかけに、日本と中国は宣戦布告をしないまま戦争に突入したこの戦争、日は中戦争といいます。
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まだまだ国内の混乱は続きます。1936年2月26日に、陸軍将校たちが二・二六事件を起こします。 これは陸軍将校ら約1,500名が起こした大規模なクーデターで、天皇を利用している今の政治家を排除して、天皇中心の新政府を樹立しようという考えのもと行われました。 この考えを持つ派閥を「皇道派こうどうは」と言い、首相や大臣などの要職に就いている人物を襲いました。 二・二六事件は鎮圧されましたが、これ以降はさらに軍部の勢いが増し、政治の実権を握るようになっていきます。満州事変によって満州国を建国した日本ですが,それだけにとどまらずさらに領土を広げようと考えます。 そのため中国とは一触即発の緊張状態が続いていました。そして1937年7月11日、北京郊外の盧溝橋ろこうきょうという橋の近くで武力衝突が起こります。これが盧溝橋事件です。 盧溝橋事件をきっかけに、日本と中国は宣戦布告をしないまま戦争に突入しました。これが日中戦争ですね。日本はすぐに戦争が終わると考えていましたが、1937年9月に中国国内で争っていた中国共産党の毛沢東もうたくとうと中国国民党の蒋介石しょうかいせきが日本に対抗するために手を結び、抗日民族統一戦線を結成しました。 1937年12月に日本は中国の首都である南京なんきんを占領しました。これを南京事件と呼びます。 このときに一般市民を殺害するといった残虐な行為も行われ、国際的に大きく非難されます。
1937年9月に中国国内で争っていた中国共産党の毛沢東と中国国民党の蒋介石が日本に対抗するために手を結び、何かを結成しましたが、これを何と言いますか。
1937年9月に中国国内で争っていた中国共産党の毛沢東と中国国民党の蒋介石が日本に対抗するために手を結び結成したものは、抗日民族統一戦線といいます。
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まだまだ国内の混乱は続きます。1936年2月26日に、陸軍将校たちが二・二六事件を起こします。 これは陸軍将校ら約1,500名が起こした大規模なクーデターで、天皇を利用している今の政治家を排除して,天皇中心の新政府を樹立しようという考えのもと行われました。 この考えを持つ派閥を「皇道派こうどうは」と言い、首相や大臣などの要職に就いている人物を襲いました。 二・二六事件は鎮圧されましたが,これ以降はさらに軍部の勢いが増し,政治の実権を握るようになっていきます。満州事変によって満州国を建国した日本ですが,それだけにとどまらずさらに領土を広げようと考えます。 そのため中国とは一触即発の緊張状態が続いていました。そして1937年7月11日、北京郊外の盧溝橋ろこうきょうという橋の近くで武力衝突が起こります。これが盧溝橋事件です。 盧溝橋事件をきっかけに、日本と中国は宣戦布告をしないまま戦争に突入しました。これが日中戦争ですね。日本はすぐに戦争が終わると考えていましたが,1937年9月に中国国内で争っていた中国共産党の毛沢東もうたくとうと中国国民党の蒋介石しょうかいせきが日本に対抗するために手を結び、抗日民族統一戦線を結成しました。 1937年12月に日本は中国の首都である南京なんきんを占領しました。これを南京事件と呼びます。 このときに一般市民を殺害するといった残虐な行為も行われ、国際的に大きく非難されます。
1937年12月に日本は中国の首都である南京を占領しましたが、この出来事を何と言いますか。
1937年12月に日本は中国の首都である南京を占領したこの出来事は、南京事件といいます。
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歴史
9世紀末~10世紀、軍事貴族は賊の鎮圧に国司として地方へ派遣されました。国司は行政官のため、軍事的な統率・指揮権を帯びる押領使 や追捕使を別に兼任する形で賊の鎮圧にあたりました。押領使が鎮圧できない場合、別に追捕使を派遣 任期後に土着し、在庁官人として働きながら田地経営する軍事貴族もいました。 彼らは受領と対立すると、田地を守るために武力を活かして抵抗しました。受領に悩む有力農民は、軍事貴族の武力を頼って従者となりました。地方に土着した軍事貴族として、次の2人が有名です。 上総国国司として盗賊鎮圧にあたった桓武平氏の祖高望王(平高望) 伊予国国司として海賊鎮圧にあたった藤原純友 高望王の子孫、そして藤原純友はやがて大きな反乱を起こしました。 東と西の大乱 935~940年、平将門の乱 一族内で争った平将門 (高望王の孫)は、やがて東国一帯を舞台に争乱を引き起こしました。果てには将門は新皇と称するに至りました。平貞盛と押領使の藤原秀郷が将門を討ち、争いは鎮圧されました。 同じころ939-941年、もと伊予の国司であった藤原純友も、伊予国で海賊鎮圧をした恩賞に対する不満から、やがて海賊の首領として略奪をおこないました。純友は伊予の国府や大宰府を襲撃しました。追捕使の小野好古・源経基が純友を討ち、争いは鎮圧されました。同時期に発生した2つの乱(平将門の乱、藤原純友の乱)は、併せて承平・天慶の乱と呼ばれます。承平・天慶の乱の平定に貢献した源経基・平貞盛などの有力な軍事貴族は、多くの開発領主(有力農民や軍事貴族)と主従関係を結んでいきました。 10世紀後半、彼らを頂点とするピラミッド型の組織武士団が形成されました。 やがて清和源氏・桓武平氏は、複数の武士団をまとめて武家を組織し、また、武家の統率者は棟梁と呼ばれました。
同時期に発生した2つの乱(平将門の乱、藤原純友の乱)はあわせてなんという乱ですか。
2つの乱は、あわせて承平・天慶の乱です。
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歴史
9世紀末~10世紀、軍事貴族は賊の鎮圧に国司として地方へ派遣されました。国司は行政官のため、軍事的な統率・指揮権を帯びる押領使 や追捕使を別に兼任する形で賊の鎮圧にあたりました。押領使が鎮圧できない場合、別に追捕使を派遣 任期後に土着し、在庁官人として働きながら田地経営する軍事貴族もいました。 彼らは受領と対立すると、田地を守るために武力を活かして抵抗しました。受領に悩む有力農民は、軍事貴族の武力を頼って従者となりました。地方に土着した軍事貴族として、次の2人が有名です。 上総国国司として盗賊鎮圧にあたった桓武平氏の祖高望王(平高望) 伊予国国司として海賊鎮圧にあたった藤原純友 高望王の子孫、そして藤原純友はやがて大きな反乱を起こしました。 東と西の大乱 935~940年、平将門の乱 一族内で争った平将門 (高望王の孫)は、やがて東国一帯を舞台に争乱を引き起こしました。果てには将門は新皇と称するに至りました。平貞盛と押領使の藤原秀郷が将門を討ち、争いは鎮圧されました。 同じころ939-941年、もと伊予の国司であった藤原純友も、伊予国で海賊鎮圧をした恩賞に対する不満から、やがて海賊の首領として略奪をおこないました。純友は伊予の国府や大宰府を襲撃しました。追捕使の小野好古・源経基が純友を討ち、争いは鎮圧されました。同時期に発生した2つの乱(平将門の乱、藤原純友の乱)は、併せて承平・天慶の乱と呼ばれます。承平・天慶の乱の平定に貢献した源経基・平貞盛などの有力な軍事貴族は、多くの開発領主(有力農民や軍事貴族)と主従関係を結んでいきました。 10世紀後半、彼らを頂点とするピラミッド型の組織武士団が形成されました。 やがて清和源氏・桓武平氏は、複数の武士団をまとめて武家を組織し、また、武家の統率者は棟梁と呼ばれました。
平将門の乱を鎮圧した武士は藤原秀郷ともう一人をあげよ。
平将門の乱を鎮圧した武士は,平貞盛と押領使の藤原秀郷です。
JCRRAG_008948
歴史
9世紀末~10世紀、軍事貴族は賊の鎮圧に国司として地方へ派遣されました。国司は行政官のため、軍事的な統率・指揮権を帯びる押領使 や追捕使を別に兼任する形で賊の鎮圧にあたりました。押領使が鎮圧できない場合、別に追捕使を派遣 任期後に土着し、在庁官人として働きながら田地経営する軍事貴族もいました。 彼らは受領と対立すると、田地を守るために武力を活かして抵抗しました。受領に悩む有力農民は、軍事貴族の武力を頼って従者となりました。地方に土着した軍事貴族として、次の2人が有名です。 上総国国司として盗賊鎮圧にあたった桓武平氏の祖高望王(平高望) 伊予国国司として海賊鎮圧にあたった藤原純友 高望王の子孫、そして藤原純友はやがて大きな反乱を起こしました。 東と西の大乱 935~940年、平将門の乱 一族内で争った平将門 (高望王の孫)は、やがて東国一帯を舞台に争乱を引き起こしました。果てには将門は新皇と称するに至りました。平貞盛と押領使の藤原秀郷が将門を討ち、争いは鎮圧されました。 同じころ939-941年、もと伊予の国司であった藤原純友も、伊予国で海賊鎮圧をした恩賞に対する不満から、やがて海賊の首領として略奪をおこないました。純友は伊予の国府や大宰府を襲撃しました。追捕使の小野好古・源経基が純友を討ち、争いは鎮圧されました。同時期に発生した2つの乱(平将門の乱、藤原純友の乱)は、併せて承平・天慶の乱と呼ばれます。承平・天慶の乱の平定に貢献した源経基・平貞盛などの有力な軍事貴族は、多くの開発領主(有力農民や軍事貴族)と主従関係を結んでいきました。 10世紀後半、彼らを頂点とするピラミッド型の組織武士団が形成されました。 やがて清和源氏・桓武平氏は、複数の武士団をまとめて武家を組織し、また、武家の統率者は棟梁と呼ばれました。
もと伊予の国司で、海賊の首領として略奪をおこない、伊予の国府や大宰府を襲撃した人物はだれか。
襲撃した人物は、藤原純友 です。
JCRRAG_008949
歴史
9世紀末~10世紀、軍事貴族は賊の鎮圧に国司として地方へ派遣されました。国司は行政官のため、軍事的な統率・指揮権を帯びる押領使 や追捕使を別に兼任する形で賊の鎮圧にあたりました。押領使が鎮圧できない場合、別に追捕使を派遣 任期後に土着し、在庁官人として働きながら田地経営する軍事貴族もいました。 彼らは受領と対立すると、田地を守るために武力を活かして抵抗しました。受領に悩む有力農民は、軍事貴族の武力を頼って従者となりました。地方に土着した軍事貴族として、次の2人が有名です。 上総国国司として盗賊鎮圧にあたった桓武平氏の祖高望王(平高望) 伊予国国司として海賊鎮圧にあたった藤原純友 高望王の子孫、そして藤原純友はやがて大きな反乱を起こしました。 東と西の大乱 935~940年、平将門の乱 一族内で争った平将門 (高望王の孫)は、やがて東国一帯を舞台に争乱を引き起こしました。果てには将門は新皇と称するに至りました。平貞盛と押領使の藤原秀郷が将門を討ち、争いは鎮圧されました。 同じころ939-941年、もと伊予の国司であった藤原純友も、伊予国で海賊鎮圧をした恩賞に対する不満から、やがて海賊の首領として略奪をおこないました。純友は伊予の国府や大宰府を襲撃しました。追捕使の小野好古・源経基が純友を討ち、争いは鎮圧されました。同時期に発生した2つの乱(平将門の乱、藤原純友の乱)は、併せて承平・天慶の乱と呼ばれます。承平・天慶の乱の平定に貢献した源経基・平貞盛などの有力な軍事貴族は、多くの開発領主(有力農民や軍事貴族)と主従関係を結んでいきました。 10世紀後半、彼らを頂点とするピラミッド型の組織武士団が形成されました。 やがて清和源氏・桓武平氏は、複数の武士団をまとめて武家を組織し、また、武家の統率者は棟梁と呼ばれました。
複数の武士団をまとめて武家というが、武家の統率者を何というか。
武家の統率者は、棟梁と呼ばれます。
JCRRAG_008950
歴史
9世紀末~10世紀、軍事貴族は賊の鎮圧に国司として地方へ派遣されました。国司は行政官のため、軍事的な統率・指揮権を帯びる押領使 や追捕使を別に兼任する形で賊の鎮圧にあたりました。押領使が鎮圧できない場合、別に追捕使を派遣 任期後に土着し、在庁官人として働きながら田地経営する軍事貴族もいました。 彼らは受領と対立すると、田地を守るために武力を活かして抵抗しました。受領に悩む有力農民は、軍事貴族の武力を頼って従者となりました。地方に土着した軍事貴族として、次の2人が有名です。 上総国国司として盗賊鎮圧にあたった桓武平氏の祖高望王(平高望) 伊予国国司として海賊鎮圧にあたった藤原純友 高望王の子孫、そして藤原純友はやがて大きな反乱を起こしました。 東と西の大乱 935~940年、平将門の乱 一族内で争った平将門 (高望王の孫)は、やがて東国一帯を舞台に争乱を引き起こしました。果てには将門は新皇と称するに至りました。平貞盛と押領使の藤原秀郷が将門を討ち、争いは鎮圧されました。 同じころ939-941年、もと伊予の国司であった藤原純友も、伊予国で海賊鎮圧をした恩賞に対する不満から、やがて海賊の首領として略奪をおこないました。純友は伊予の国府や大宰府を襲撃しました。追捕使の小野好古・源経基が純友を討ち、争いは鎮圧されました。同時期に発生した2つの乱(平将門の乱、藤原純友の乱)は、併せて承平・天慶の乱と呼ばれます。承平・天慶の乱の平定に貢献した源経基・平貞盛などの有力な軍事貴族は、多くの開発領主(有力農民や軍事貴族)と主従関係を結んでいきました。 10世紀後半、彼らを頂点とするピラミッド型の組織武士団が形成されました。 やがて清和源氏・桓武平氏は、複数の武士団をまとめて武家を組織し、また、武家の統率者は棟梁と呼ばれました。
東国一帯を舞台に争乱を引き起こした平将門が、のちに名乗った称号は何か。
平将門が名乗った称号は、新皇です。
JCRRAG_008951
歴史
院政の成立 後三条天皇の死後、子の白河天皇が即位しました。白河は、自分の弟ではなく、自分の子孫で皇位継承を続けたいと考えました。1086年、白河は自ら譲位し、幼少の子堀河天皇を即位させました。白河上皇は、天皇の実父(あるいは実祖父)として、天皇の政務を代行する院政を開始し、子孫の皇位継承を守り続けていきました。上皇の住居を院と呼び、やがて上皇自身のことも院と呼称しました。 藤原氏は堀河の摂政に就いたが、既に摂関政治をする意志も力も喪失していました。薬子の変後、発言力の優劣は「上皇<天皇」と決まったが、実の親子同士の話になれば「実父(上皇)>実子(天皇)」に逆転 大江匡房は日記に「今の世のことは、まず上皇の御気色を仰ぐべきか」と記載 堀河の死後、白河は鳥羽天皇を即位させました。白河は鳥羽の実祖父として院政を続けました。以降、院政は朝廷の基本的政治形態となりました。 院政の実態 上皇が天皇の政務を代行する以外は、従来の政治の運営方式と変わりません。上皇は天皇の陰で指示・命令(院宣)を与え、最終的な裁断→上皇による天皇の政務の代行、特に人事権(除目・叙位)の掌握は絶大な効果をもちました。 院に集う人々 上皇の周辺には受領の経験者や天皇・上皇の乳母(めのと)の血縁者が集まり、院近臣と総称される側近として成功を目的に仕えました。院近臣は上皇の政策決定の補佐を担う機関院庁を組織しました。
後三条天皇の死後、天皇に即位したのは誰か。
後三条天皇の死後、天皇に即位したのは、子の白河天皇です。
JCRRAG_008952
歴史
院政の成立 後三条天皇の死後、子の白河天皇が即位しました。白河は、自分の弟ではなく、自分の子孫で皇位継承を続けたいと考えました。1086年、白河は自ら譲位し、幼少の子堀河天皇を即位させました。白河上皇は、天皇の実父(あるいは実祖父)として、天皇の政務を代行する院政を開始し、子孫の皇位継承を守り続けていきました。上皇の住居を院と呼び、やがて上皇自身のことも院と呼称しました。 藤原氏は堀河の摂政に就いたが、既に摂関政治をする意志も力も喪失していました。薬子の変後、発言力の優劣は「上皇<天皇」と決まったが、実の親子同士の話になれば「実父(上皇)>実子(天皇)」に逆転 大江匡房は日記に「今の世のことは、まず上皇の御気色を仰ぐべきか」と記載 堀河の死後、白河は鳥羽天皇を即位させました。白河は鳥羽の実祖父として院政を続けました。以降、院政は朝廷の基本的政治形態となりました。 院政の実態 上皇が天皇の政務を代行する以外は、従来の政治の運営方式と変わりません。上皇は天皇の陰で指示・命令(院宣)を与え、最終的な裁断→上皇による天皇の政務の代行、特に人事権(除目・叙位)の掌握は絶大な効果をもちました。 院に集う人々 上皇の周辺には受領の経験者や天皇・上皇の乳母(めのと)の血縁者が集まり、院近臣と総称される側近として成功を目的に仕えました。院近臣は上皇の政策決定の補佐を担う機関院庁を組織しました。
上皇が天皇の政務を代行することを何と呼ぶか、また上皇の住居を何と呼ぶか。
上皇が天皇の政務を代行することは、院政と呼び、上皇の住居は、院と呼びます。
JCRRAG_008953
歴史
院政の成立 後三条天皇の死後、子の白河天皇が即位しました。白河は、自分の弟ではなく、自分の子孫で皇位継承を続けたいと考えました。1086年、白河は自ら譲位し、幼少の子堀河天皇を即位させました。白河上皇は、天皇の実父(あるいは実祖父)として、天皇の政務を代行する院政を開始し、子孫の皇位継承を守り続けていきました。上皇の住居を院と呼び、やがて上皇自身のことも院と呼称しました。 藤原氏は堀河の摂政に就いたが、既に摂関政治をする意志も力も喪失していました。薬子の変後、発言力の優劣は「上皇<天皇」と決まったが、実の親子同士の話になれば「実父(上皇)>実子(天皇)」に逆転 大江匡房は日記に「今の世のことは、まず上皇の御気色を仰ぐべきか」と記載 堀河の死後、白河は鳥羽天皇を即位させました。白河は鳥羽の実祖父として院政を続けました。以降、院政は朝廷の基本的政治形態となりました。 院政の実態 上皇が天皇の政務を代行する以外は、従来の政治の運営方式と変わりません。上皇は天皇の陰で指示・命令(院宣)を与え、最終的な裁断→上皇による天皇の政務の代行、特に人事権(除目・叙位)の掌握は絶大な効果をもちました。 院に集う人々 上皇の周辺には受領の経験者や天皇・上皇の乳母(めのと)の血縁者が集まり、院近臣と総称される側近として成功を目的に仕えました。院近臣は上皇の政策決定の補佐を担う機関院庁を組織しました。
1086年、白河天皇は自ら譲位し、誰を天皇に即位させたか。
白河天皇の後に天皇に即位したのは、堀河天皇です。
JCRRAG_008954
歴史
院政の成立 後三条天皇の死後、子の白河天皇が即位しました。白河は、自分の弟ではなく、自分の子孫で皇位継承を続けたいと考えました。1086年、白河は自ら譲位し、幼少の子堀河天皇を即位させました。白河上皇は、天皇の実父(あるいは実祖父)として、天皇の政務を代行する院政を開始し、子孫の皇位継承を守り続けていきました。上皇の住居を院と呼び、やがて上皇自身のことも院と呼称しました。 藤原氏は堀河の摂政に就いたが、既に摂関政治をする意志も力も喪失していました。薬子の変後、発言力の優劣は「上皇<天皇」と決まったが、実の親子同士の話になれば「実父(上皇)>実子(天皇)」に逆転 大江匡房は日記に「今の世のことは、まず上皇の御気色を仰ぐべきか」と記載 堀河の死後、白河は鳥羽天皇を即位させました。白河は鳥羽の実祖父として院政を続けました。以降、院政は朝廷の基本的政治形態となりました。 院政の実態 上皇が天皇の政務を代行する以外は、従来の政治の運営方式と変わりません。上皇は天皇の陰で指示・命令(院宣)を与え、最終的な裁断→上皇による天皇の政務の代行、特に人事権(除目・叙位)の掌握は絶大な効果をもちました。 院に集う人々 上皇の周辺には受領の経験者や天皇・上皇の乳母(めのと)の血縁者が集まり、院近臣と総称される側近として成功を目的に仕えました。院近臣は上皇の政策決定の補佐を担う機関院庁を組織しました。
堀河天皇の死後、天皇に即位したのは誰か。
堀河天皇の死後天皇に即位したのは、鳥羽天皇です。
JCRRAG_008955
歴史
院政の成立 後三条天皇の死後、子の白河天皇が即位しました。白河は、自分の弟ではなく、自分の子孫で皇位継承を続けたいと考えました。1086年、白河は自ら譲位し、幼少の子堀河天皇を即位させました。白河上皇は、天皇の実父(あるいは実祖父)として、天皇の政務を代行する院政を開始し、子孫の皇位継承を守り続けていきました。上皇の住居を院と呼び、やがて上皇自身のことも院と呼称しました。 藤原氏は堀河の摂政に就いたが、既に摂関政治をする意志も力も喪失していました。薬子の変後、発言力の優劣は「上皇<天皇」と決まったが、実の親子同士の話になれば「実父(上皇)>実子(天皇)」に逆転 大江匡房は日記に「今の世のことは、まず上皇の御気色を仰ぐべきか」と記載 堀河の死後、白河は鳥羽天皇を即位させました。白河は鳥羽の実祖父として院政を続けました。以降、院政は朝廷の基本的政治形態となりました。 院政の実態 上皇が天皇の政務を代行する以外は、従来の政治の運営方式と変わりません。上皇は天皇の陰で指示・命令(院宣)を与え、最終的な裁断→上皇による天皇の政務の代行、特に人事権(除目・叙位)の掌握は絶大な効果をもちました。 院に集う人々 上皇の周辺には受領の経験者や天皇・上皇の乳母(めのと)の血縁者が集まり、院近臣と総称される側近として成功を目的に仕えました。院近臣は上皇の政策決定の補佐を担う機関院庁を組織しました。
上皇の周辺に集まった受領の経験者や天皇・上皇の乳母(めのと)の血縁者は何と総称されるか
上皇の周辺に集まった受領の経験者や天皇・上皇の乳母(めのと)の血縁者は、院近臣と総称されます。
JCRRAG_008956
歴史
保元の乱と平治の乱について 1156年に、保元の乱が起こります。鳥羽上皇が死去したのをきっかけに、崇徳上皇と後白河天皇のふたりのどちらが院政をおこなうかについて揉めたのです。この後白河天皇と崇徳上皇は兄弟で、鳥羽天皇の息子です。ちなみに、上皇のほうがお兄さんです。どちらの味方をするかで、源氏は義朝と為義・為朝、平氏は清盛と忠正がそれぞれ敵対することになります。 結局、平清盛と源義朝たちが武士を引き連れ、上皇方に打ち勝ち、保元の乱は天皇方が勝ちました。平清盛・信西(藤原通憲)と源義朝・頼朝・藤原信頼の争いともいえる平治の乱は、保元の乱から3年後の1159年に起こりました。ここではじめて後々鎌倉幕府を開くことになる頼朝が登場しますね。 藤原氏の中で藤原信頼と信西が敵対関係にあったのですが、そこでまず信西を殺すために、藤原信頼は源義朝とタッグを組みます。平清盛は自分たちの派閥の人間を殺されたことに腹を立て、藤原信頼、源義朝を立て続けに倒しますが、頼朝はまだまだ元服前の子どもで、弱冠十四歳でしたので、殺さず伊豆に島流しにします。 そんなことがあって、皮肉なことに、東国武士と源氏が繋がりをもつことになるのですが、それについてはまたのちのちみていきましょう。なぜ頼朝が伊豆に流されたというと、清盛は瀬戸内海の貿易権をもっていたので、九州の大宰府は大事な拠点でした。普通は島流しというと、遣唐使廃止以前は伊豆で、その後は大宰府と相場が決まっていたのですが、清盛にとって大事な大宰府に反逆者を流すわけにはいかなかったので、伊豆になったのです。 この乱が起こってからというものの、その頃の院にいた有力者や権力者、中でも特に力を持っていた信西までもがばたばた消えてしまい、平清盛のみが生き残るということになりました。清盛のもとに権力が一気に集まるのは自然なことです。 その結果、平清盛は朝廷の最高位である太政大臣という地位に就くことになりました。1167年のことで、武士では初めてのケースでした。さらに、彼の一族が朝廷の重要な地位にどんどん就いていき、強大な権力を背景に、各地の有力な武士を家来にし、荘園・公領の地頭(土地管理のために置かれた現地の役職)につけていきました。
鳥羽上皇が死去したのをきっかけに、崇徳上皇と後白河天皇のふたりのどちらが院政をおこなうかについて揉めた争いをなんといいますか。
争いは、保元の乱です。
JCRRAG_008957
歴史
保元の乱と平治の乱について 1156年に、保元の乱が起こります。鳥羽上皇が死去したのをきっかけに、崇徳上皇と後白河天皇のふたりのどちらが院政をおこなうかについて揉めたのです。この後白河天皇と崇徳上皇は兄弟で、鳥羽天皇の息子です。ちなみに、上皇のほうがお兄さんです。どちらの味方をするかで、源氏は義朝と為義・為朝、平氏は清盛と忠正がそれぞれ敵対することになります。 結局、平清盛と源義朝たちが武士を引き連れ、上皇方に打ち勝ち、保元の乱は天皇方が勝ちました。平清盛・信西(藤原通憲)と源義朝・頼朝・藤原信頼の争いともいえる平治の乱は、保元の乱から3年後の1159年に起こりました。ここではじめて後々鎌倉幕府を開くことになる頼朝が登場しますね。 藤原氏の中で藤原信頼と信西が敵対関係にあったのですが、そこでまず信西を殺すために、藤原信頼は源義朝とタッグを組みます。平清盛は自分たちの派閥の人間を殺されたことに腹を立て、藤原信頼、源義朝を立て続けに倒しますが、頼朝はまだまだ元服前の子どもで、弱冠十四歳でしたので、殺さず伊豆に島流しにします。 そんなことがあって、皮肉なことに、東国武士と源氏が繋がりをもつことになるのですが、それについてはまたのちのちみていきましょう。なぜ頼朝が伊豆に流されたというと、清盛は瀬戸内海の貿易権をもっていたので、九州の大宰府は大事な拠点でした。普通は島流しというと、遣唐使廃止以前は伊豆で、その後は大宰府と相場が決まっていたのですが、清盛にとって大事な大宰府に反逆者を流すわけにはいかなかったので、伊豆になったのです。 この乱が起こってからというものの、その頃の院にいた有力者や権力者、中でも特に力を持っていた信西までもがばたばた消えてしまい、平清盛のみが生き残るということになりました。清盛のもとに権力が一気に集まるのは自然なことです。 その結果、平清盛は朝廷の最高位である太政大臣という地位に就くことになりました。1167年のことで、武士では初めてのケースでした。さらに、彼の一族が朝廷の重要な地位にどんどん就いていき、強大な権力を背景に、各地の有力な武士を家来にし、荘園・公領の地頭(土地管理のために置かれた現地の役職)につけていきました。
平清盛が就いた朝廷の最高位は何ですか。
平清盛が就いた朝廷の最高位は、太政大臣です。
JCRRAG_008958
歴史
保元の乱と平治の乱について 1156年に、保元の乱が起こります。鳥羽上皇が死去したのをきっかけに、崇徳上皇と後白河天皇のふたりのどちらが院政をおこなうかについて揉めたのです。この後白河天皇と崇徳上皇は兄弟で、鳥羽天皇の息子です。ちなみに、上皇のほうがお兄さんです。どちらの味方をするかで、源氏は義朝と為義・為朝、平氏は清盛と忠正がそれぞれ敵対することになります。 結局、平清盛と源義朝たちが武士を引き連れ、上皇方に打ち勝ち、保元の乱は天皇方が勝ちました。平清盛・信西(藤原通憲)と源義朝・頼朝・藤原信頼の争いともいえる平治の乱は、保元の乱から3年後の1159年に起こりました。ここではじめて後々鎌倉幕府を開くことになる頼朝が登場しますね。 藤原氏の中で藤原信頼と信西が敵対関係にあったのですが、そこでまず信西を殺すために、藤原信頼は源義朝とタッグを組みます。平清盛は自分たちの派閥の人間を殺されたことに腹を立て、藤原信頼、源義朝を立て続けに倒しますが、頼朝はまだまだ元服前の子どもで、弱冠十四歳でしたので、殺さず伊豆に島流しにします。 そんなことがあって、皮肉なことに、東国武士と源氏が繋がりをもつことになるのですが、それについてはまたのちのちみていきましょう。なぜ頼朝が伊豆に流されたというと、清盛は瀬戸内海の貿易権をもっていたので、九州の大宰府は大事な拠点でした。普通は島流しというと、遣唐使廃止以前は伊豆で、その後は大宰府と相場が決まっていたのですが、清盛にとって大事な大宰府に反逆者を流すわけにはいかなかったので、伊豆になったのです。 この乱が起こってからというものの、その頃の院にいた有力者や権力者、中でも特に力を持っていた信西までもがばたばた消えてしまい、平清盛のみが生き残るということになりました。清盛のもとに権力が一気に集まるのは自然なことです。 その結果、平清盛は朝廷の最高位である太政大臣という地位に就くことになりました。1167年のことで、武士では初めてのケースでした。さらに、彼の一族が朝廷の重要な地位にどんどん就いていき、強大な権力を背景に、各地の有力な武士を家来にし、荘園・公領の地頭(土地管理のために置かれた現地の役職)につけていきました。
平清盛が太政大臣になったのはいつですか。
平清盛が太政大臣になったのは1167年です。
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歴史
保元の乱と平治の乱について 1156年に、保元の乱が起こります。鳥羽上皇が死去したのをきっかけに、崇徳上皇と後白河天皇のふたりのどちらが院政をおこなうかについて揉めたのです。この後白河天皇と崇徳上皇は兄弟で、鳥羽天皇の息子です。ちなみに、上皇のほうがお兄さんです。どちらの味方をするかで、源氏は義朝と為義・為朝、平氏は清盛と忠正がそれぞれ敵対することになります。 結局、平清盛と源義朝たちが武士を引き連れ、上皇方に打ち勝ち、保元の乱は天皇方が勝ちました。平清盛・信西(藤原通憲)と源義朝・頼朝・藤原信頼の争いともいえる平治の乱は、保元の乱から3年後の1159年に起こりました。ここではじめて後々鎌倉幕府を開くことになる頼朝が登場しますね。 藤原氏の中で藤原信頼と信西が敵対関係にあったのですが、そこでまず信西を殺すために、藤原信頼は源義朝とタッグを組みます。平清盛は自分たちの派閥の人間を殺されたことに腹を立て、藤原信頼、源義朝を立て続けに倒しますが、頼朝はまだまだ元服前の子どもで、弱冠十四歳でしたので、殺さず伊豆に島流しにします。 そんなことがあって、皮肉なことに、東国武士と源氏が繋がりをもつことになるのですが、それについてはまたのちのちみていきましょう。なぜ頼朝が伊豆に流されたというと、清盛は瀬戸内海の貿易権をもっていたので、九州の大宰府は大事な拠点でした。普通は島流しというと、遣唐使廃止以前は伊豆で、その後は大宰府と相場が決まっていたのですが、清盛にとって大事な大宰府に反逆者を流すわけにはいかなかったので、伊豆になったのです。 この乱が起こってからというものの、その頃の院にいた有力者や権力者、中でも特に力を持っていた信西までもがばたばた消えてしまい、平清盛のみが生き残るということになりました。清盛のもとに権力が一気に集まるのは自然なことです。 その結果、平清盛は朝廷の最高位である太政大臣という地位に就くことになりました。1167年のことで、武士では初めてのケースでした。さらに、彼の一族が朝廷の重要な地位にどんどん就いていき、強大な権力を背景に、各地の有力な武士を家来にし、荘園・公領の地頭(土地管理のために置かれた現地の役職)につけていきました。
平清盛は武士で初めて朝廷の最高位につきましたが、この位は何で、またいつですか
平清盛が武士で初めてついた朝廷の最高位は太政大臣で、1167年です。
JCRRAG_008960
歴史
保元の乱と平治の乱について 1156年に、保元の乱が起こります。鳥羽上皇が死去したのをきっかけに、崇徳上皇と後白河天皇のふたりのどちらが院政をおこなうかについて揉めたのです。この後白河天皇と崇徳上皇は兄弟で、鳥羽天皇の息子です。ちなみに、上皇のほうがお兄さんです。どちらの味方をするかで、源氏は義朝と為義・為朝、平氏は清盛と忠正がそれぞれ敵対することになります。 結局、平清盛と源義朝たちが武士を引き連れ、上皇方に打ち勝ち、保元の乱は天皇方が勝ちました。平清盛・信西(藤原通憲)と源義朝・頼朝・藤原信頼の争いともいえる平治の乱は、保元の乱から3年後の1159年に起こりました。ここではじめて後々鎌倉幕府を開くことになる頼朝が登場しますね。 藤原氏の中で藤原信頼と信西が敵対関係にあったのですが、そこでまず信西を殺すために、藤原信頼は源義朝とタッグを組みます。平清盛は自分たちの派閥の人間を殺されたことに腹を立て、藤原信頼、源義朝を立て続けに倒しますが、頼朝はまだまだ元服前の子どもで、弱冠十四歳でしたので、殺さず伊豆に島流しにします。 そんなことがあって、皮肉なことに、東国武士と源氏が繋がりをもつことになるのですが、それについてはまたのちのちみていきましょう。なぜ頼朝が伊豆に流されたというと、清盛は瀬戸内海の貿易権をもっていたので、九州の大宰府は大事な拠点でした。普通は島流しというと、遣唐使廃止以前は伊豆で、その後は大宰府と相場が決まっていたのですが、清盛にとって大事な大宰府に反逆者を流すわけにはいかなかったので、伊豆になったのです。 この乱が起こってからというものの、その頃の院にいた有力者や権力者、中でも特に力を持っていた信西までもがばたばた消えてしまい、平清盛のみが生き残るということになりました。清盛のもとに権力が一気に集まるのは自然なことです。 その結果、平清盛は朝廷の最高位である太政大臣という地位に就くことになりました。1167年のことで、武士では初めてのケースでした。さらに、彼の一族が朝廷の重要な地位にどんどん就いていき、強大な権力を背景に、各地の有力な武士を家来にし、荘園・公領の地頭(土地管理のために置かれた現地の役職)につけていきました。
保元の乱は上皇方、天皇方どちらが勝ちましたか。
天皇方が勝ちました。
JCRRAG_008961
歴史
645年の乙巳の変の後,孝徳天皇が第36代の天皇に即位しました。そして日本で最初の元号である「大化」が定められました。自分たち独自の元号を定めることは,この時代だと非常に大きな意味を持っていました。というのも,当時のアジアの中心は中国でしたよね。そして日本も中国に朝貢を行っており,中国の属国という立ち位置でした。そのため元号も中国が制定したものを使っていたんですね。 しかし日本は自分たちで独自の元号を定めていくことに決めました。これはつまり,「日本は中国の属国ではなく,独立国として進んでいく」ということを示しているわけです。今の元号は「令和」ですが,645年から今に至るまで248個の元号が使われています。 改新の詔 646年に孝徳天皇は改新の詔を発表します。もちろん中大兄皇子も内容に関与していますよ。 中大兄皇子らが目指した政治の在り方は「中央集権化」です。つまり日本のトップに立つ天皇が中心となる政治体制を確立しようと考え,そのために政治改革を行っていくわけですね。では具体的にどういった内容なのか確認していきましょう。 公地・公民 公地・公民とは,土地と国民はすべて国(天皇)のものとする,という仕組みです。今までは各地の豪族がそれぞれ自分の土地を持っていて,その土地の人々を支配していました。それをすべて天皇が支配するという形に変えました。こうすることで天皇が日本の支配者であることが明確になりますね。 班田収授法 班田収授法とは,戸籍を作って6歳以上のすべての人に口分田を与え,米を納めさせるという制度です。口分田を売買するのは禁止で,所有者が亡くなると口分田は国に返されました。この制度は唐の制度を参考に作られたもので,本格的に行われたのは701年からになります。
日本最初の元号は何ですか。
日本最初の年号は、大化です。
JCRRAG_008962
歴史
645年の乙巳の変の後,孝徳天皇が第36代の天皇に即位しました。そして日本で最初の元号である「大化」が定められました。自分たち独自の元号を定めることは,この時代だと非常に大きな意味を持っていました。というのも,当時のアジアの中心は中国でしたよね。そして日本も中国に朝貢を行っており,中国の属国という立ち位置でした。そのため元号も中国が制定したものを使っていたんですね。 しかし日本は自分たちで独自の元号を定めていくことに決めました。これはつまり,「日本は中国の属国ではなく,独立国として進んでいく」ということを示しているわけです。今の元号は「令和」ですが,645年から今に至るまで248個の元号が使われています。 改新の詔 646年に孝徳天皇は改新の詔を発表します。もちろん中大兄皇子も内容に関与していますよ。 中大兄皇子らが目指した政治の在り方は「中央集権化」です。つまり日本のトップに立つ天皇が中心となる政治体制を確立しようと考え,そのために政治改革を行っていくわけですね。では具体的にどういった内容なのか確認していきましょう。 公地・公民 公地・公民とは,土地と国民はすべて国(天皇)のものとする,という仕組みです。今までは各地の豪族がそれぞれ自分の土地を持っていて,その土地の人々を支配していました。それをすべて天皇が支配するという形に変えました。こうすることで天皇が日本の支配者であることが明確になりますね。 班田収授法 班田収授法とは,戸籍を作って6歳以上のすべての人に口分田を与え,米を納めさせるという制度です。口分田を売買するのは禁止で,所有者が亡くなると口分田は国に返されました。この制度は唐の制度を参考に作られたもので,本格的に行われたのは701年からになります。
646年に孝徳天皇が発表したのは何ですか。
孝徳天皇は646年に改新の詔を発表しました。
JCRRAG_008963
歴史
645年の乙巳の変の後,孝徳天皇が第36代の天皇に即位しました。そして日本で最初の元号である「大化」が定められました。自分たち独自の元号を定めることは,この時代だと非常に大きな意味を持っていました。というのも,当時のアジアの中心は中国でしたよね。そして日本も中国に朝貢を行っており,中国の属国という立ち位置でした。そのため元号も中国が制定したものを使っていたんですね。 しかし日本は自分たちで独自の元号を定めていくことに決めました。これはつまり,「日本は中国の属国ではなく,独立国として進んでいく」ということを示しているわけです。今の元号は「令和」ですが,645年から今に至るまで248個の元号が使われています。 改新の詔 646年に孝徳天皇は改新の詔を発表します。もちろん中大兄皇子も内容に関与していますよ。 中大兄皇子らが目指した政治の在り方は「中央集権化」です。つまり日本のトップに立つ天皇が中心となる政治体制を確立しようと考え,そのために政治改革を行っていくわけですね。では具体的にどういった内容なのか確認していきましょう。 公地・公民 公地・公民とは,土地と国民はすべて国(天皇)のものとする,という仕組みです。今までは各地の豪族がそれぞれ自分の土地を持っていて,その土地の人々を支配していました。それをすべて天皇が支配するという形に変えました。こうすることで天皇が日本の支配者であることが明確になりますね。 班田収授法 班田収授法とは,戸籍を作って6歳以上のすべての人に口分田を与え,米を納めさせるという制度です。口分田を売買するのは禁止で,所有者が亡くなると口分田は国に返されました。この制度は唐の制度を参考に作られたもので,本格的に行われたのは701年からになります。
土地と国民はすべて国(天皇)のものとする,という仕組みは何ですか。
仕組みは、公地・公民です。
JCRRAG_008964
歴史
645年の乙巳の変の後,孝徳天皇が第36代の天皇に即位しました。そして日本で最初の元号である「大化」が定められました。自分たち独自の元号を定めることは,この時代だと非常に大きな意味を持っていました。というのも,当時のアジアの中心は中国でしたよね。そして日本も中国に朝貢を行っており,中国の属国という立ち位置でした。そのため元号も中国が制定したものを使っていたんですね。 しかし日本は自分たちで独自の元号を定めていくことに決めました。これはつまり,「日本は中国の属国ではなく,独立国として進んでいく」ということを示しているわけです。今の元号は「令和」ですが,645年から今に至るまで248個の元号が使われています。 改新の詔 646年に孝徳天皇は改新の詔を発表します。もちろん中大兄皇子も内容に関与していますよ。 中大兄皇子らが目指した政治の在り方は「中央集権化」です。つまり日本のトップに立つ天皇が中心となる政治体制を確立しようと考え,そのために政治改革を行っていくわけですね。では具体的にどういった内容なのか確認していきましょう。 公地・公民 公地・公民とは,土地と国民はすべて国(天皇)のものとする,という仕組みです。今までは各地の豪族がそれぞれ自分の土地を持っていて,その土地の人々を支配していました。それをすべて天皇が支配するという形に変えました。こうすることで天皇が日本の支配者であることが明確になりますね。 班田収授法 班田収授法とは,戸籍を作って6歳以上のすべての人に口分田を与え,米を納めさせるという制度です。口分田を売買するのは禁止で,所有者が亡くなると口分田は国に返されました。この制度は唐の制度を参考に作られたもので,本格的に行われたのは701年からになります。
戸籍を作って6歳以上のすべての人に口分田を与え,米を納めさせるという制度は何ですか
制度は、班田収授法です。
JCRRAG_008965
歴史
645年の乙巳の変の後,孝徳天皇が第36代の天皇に即位しました。そして日本で最初の元号である「大化」が定められました。自分たち独自の元号を定めることは,この時代だと非常に大きな意味を持っていました。というのも,当時のアジアの中心は中国でしたよね。そして日本も中国に朝貢を行っており,中国の属国という立ち位置でした。そのため元号も中国が制定したものを使っていたんですね。 しかし日本は自分たちで独自の元号を定めていくことに決めました。これはつまり,「日本は中国の属国ではなく,独立国として進んでいく」ということを示しているわけです。今の元号は「令和」ですが,645年から今に至るまで248個の元号が使われています。 改新の詔 646年に孝徳天皇は改新の詔を発表します。もちろん中大兄皇子も内容に関与していますよ。 中大兄皇子らが目指した政治の在り方は「中央集権化」です。つまり日本のトップに立つ天皇が中心となる政治体制を確立しようと考え,そのために政治改革を行っていくわけですね。では具体的にどういった内容なのか確認していきましょう。 公地・公民 公地・公民とは,土地と国民はすべて国(天皇)のものとする,という仕組みです。今までは各地の豪族がそれぞれ自分の土地を持っていて,その土地の人々を支配していました。それをすべて天皇が支配するという形に変えました。こうすることで天皇が日本の支配者であることが明確になりますね。 班田収授法 班田収授法とは,戸籍を作って6歳以上のすべての人に口分田を与え,米を納めさせるという制度です。口分田を売買するのは禁止で,所有者が亡くなると口分田は国に返されました。この制度は唐の制度を参考に作られたもので,本格的に行われたのは701年からになります。
班田収授法が本格的に行われたのはいつからですか。
班田収授法が本格的に行われたのは701年からになります。
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歴史
白村江の戦い 日本が改革を行う中で,中国や朝鮮の情勢も変化してきていました。まず唐が朝鮮半島にも勢力を広げていこうと考えていました。 一方で朝鮮半島も,高句麗・新羅・百済の三国が朝鮮半島を統一しようと争っている状況でした。そこに唐が加わり,唐と新羅が同盟を結びます。こうして,660年に唐・新羅の連合軍が百済を滅ぼします。百済は国を何とか再興するために,仲の良かった日本に助けを求めました。 そして663年に日本は朝鮮半島に向けて大軍を送り,朝鮮半島の南西部にある白村江という場所で,唐・新羅の連合軍と戦いました(白村江の戦い)。 しかし日本・百済軍は敗れてしまい,そのまま勢いに乗った唐・新羅は668年に高句麗も滅ぼします。 その後は同盟を結んでいた唐と新羅が対立します。どちらも朝鮮半島の支配を狙っていたので当然と言えば当然ですね。ではどうなったかというと,新羅が唐を追い返すことに成功します。そして676年に新羅が朝鮮半島を統一しました。 天智天皇の即位 唐・新羅に敗れた日本は,九州の守りを固めます。次いつ日本に攻めてくるかが分からないからですね。 大宰府(北九州)に城をつくり,さらにそこを守る兵士を全国から集めました。この兵士のことを防人といいます。 667年には奈良の飛鳥にあった都を滋賀の大津宮に遷都し,そして668年に中大兄皇子は第38代天皇,天智天皇として即位しました。 壬申の乱 671年に天智天皇が亡くなると,その後継ぎをめぐって弟の大海人皇子と息子の大友皇子が対立し,争いが起きました。これが672年の壬申の乱です。 壬申の乱の結果,勝利したのは弟の大海人皇子でした。大海人皇子はそのまま天武天皇として即位し,飛鳥浄御原宮という都で政治改革を実施します。 律令国家の成立 天武天皇は引き続き天皇を中心とする中央集権化を進めていきます。また,富本銭という日本で最初の貨幣もつくりました。 さらに唐の都である長安を参考にして,藤原京という都の造営にも取りかかりました。 天武天皇の後を継いだのは持統天皇という女性の天皇です。持統天皇は天武天皇の皇后です。 そして696年に天武天皇が取りかかっていた藤原京が完成し,そこに遷都しました。 持統天皇の後を継いだのは孫の文武天皇です。 文武天皇は,701年に唐の律令にならって大宝律令を制定しました。律とは刑罰の決まりのことで,令とは政治の仕組みなどの決まりのことです。 そして律令に基づいて政治を行う国家のことを律令国家といいます。
663年に日本が朝鮮半島において唐・新羅の連合軍との戦いの名称はなんですか
戦いは、白村江の戦いです。
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歴史
白村江の戦い 日本が改革を行う中で,中国や朝鮮の情勢も変化してきていました。まず唐が朝鮮半島にも勢力を広げていこうと考えていました。 一方で朝鮮半島も,高句麗・新羅・百済の三国が朝鮮半島を統一しようと争っている状況でした。そこに唐が加わり,唐と新羅が同盟を結びます。こうして,660年に唐・新羅の連合軍が百済を滅ぼします。百済は国を何とか再興するために,仲の良かった日本に助けを求めました。 そして663年に日本は朝鮮半島に向けて大軍を送り,朝鮮半島の南西部にある白村江という場所で,唐・新羅の連合軍と戦いました(白村江の戦い)。 しかし日本・百済軍は敗れてしまい,そのまま勢いに乗った唐・新羅は668年に高句麗も滅ぼします。 その後は同盟を結んでいた唐と新羅が対立します。どちらも朝鮮半島の支配を狙っていたので当然と言えば当然ですね。ではどうなったかというと,新羅が唐を追い返すことに成功します。そして676年に新羅が朝鮮半島を統一しました。 天智天皇の即位 唐・新羅に敗れた日本は,九州の守りを固めます。次いつ日本に攻めてくるかが分からないからですね。 大宰府(北九州)に城をつくり,さらにそこを守る兵士を全国から集めました。この兵士のことを防人といいます。 667年には奈良の飛鳥にあった都を滋賀の大津宮に遷都し,そして668年に中大兄皇子は第38代天皇,天智天皇として即位しました。 壬申の乱 671年に天智天皇が亡くなると,その後継ぎをめぐって弟の大海人皇子と息子の大友皇子が対立し,争いが起きました。これが672年の壬申の乱です。 壬申の乱の結果,勝利したのは弟の大海人皇子でした。大海人皇子はそのまま天武天皇として即位し,飛鳥浄御原宮という都で政治改革を実施します。 律令国家の成立 天武天皇は引き続き天皇を中心とする中央集権化を進めていきます。また,富本銭という日本で最初の貨幣もつくりました。 さらに唐の都である長安を参考にして,藤原京という都の造営にも取りかかりました。 天武天皇の後を継いだのは持統天皇という女性の天皇です。持統天皇は天武天皇の皇后です。 そして696年に天武天皇が取りかかっていた藤原京が完成し,そこに遷都しました。 持統天皇の後を継いだのは孫の文武天皇です。 文武天皇は,701年に唐の律令にならって大宝律令を制定しました。律とは刑罰の決まりのことで,令とは政治の仕組みなどの決まりのことです。 そして律令に基づいて政治を行う国家のことを律令国家といいます。
唐・新羅に敗れた日本は,どこの守りを固め、そこを守った兵士のことをなんと呼びますか。
唐・新羅に敗れた日本は、九州の守りを固めました。兵士たちは防人と呼ばれました。
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白村江の戦い 日本が改革を行う中で,中国や朝鮮の情勢も変化してきていました。まず唐が朝鮮半島にも勢力を広げていこうと考えていました。 一方で朝鮮半島も,高句麗・新羅・百済の三国が朝鮮半島を統一しようと争っている状況でした。そこに唐が加わり,唐と新羅が同盟を結びます。こうして,660年に唐・新羅の連合軍が百済を滅ぼします。百済は国を何とか再興するために,仲の良かった日本に助けを求めました。 そして663年に日本は朝鮮半島に向けて大軍を送り,朝鮮半島の南西部にある白村江という場所で,唐・新羅の連合軍と戦いました(白村江の戦い)。 しかし日本・百済軍は敗れてしまい,そのまま勢いに乗った唐・新羅は668年に高句麗も滅ぼします。 その後は同盟を結んでいた唐と新羅が対立します。どちらも朝鮮半島の支配を狙っていたので当然と言えば当然ですね。ではどうなったかというと,新羅が唐を追い返すことに成功します。そして676年に新羅が朝鮮半島を統一しました。 天智天皇の即位 唐・新羅に敗れた日本は,九州の守りを固めます。次いつ日本に攻めてくるかが分からないからですね。 大宰府(北九州)に城をつくり,さらにそこを守る兵士を全国から集めました。この兵士のことを防人といいます。 667年には奈良の飛鳥にあった都を滋賀の大津宮に遷都し,そして668年に中大兄皇子は第38代天皇,天智天皇として即位しました。 壬申の乱 671年に天智天皇が亡くなると,その後継ぎをめぐって弟の大海人皇子と息子の大友皇子が対立し,争いが起きました。これが672年の壬申の乱です。 壬申の乱の結果,勝利したのは弟の大海人皇子でした。大海人皇子はそのまま天武天皇として即位し,飛鳥浄御原宮という都で政治改革を実施します。 律令国家の成立 天武天皇は引き続き天皇を中心とする中央集権化を進めていきます。また,富本銭という日本で最初の貨幣もつくりました。 さらに唐の都である長安を参考にして,藤原京という都の造営にも取りかかりました。 天武天皇の後を継いだのは持統天皇という女性の天皇です。持統天皇は天武天皇の皇后です。 そして696年に天武天皇が取りかかっていた藤原京が完成し,そこに遷都しました。 持統天皇の後を継いだのは孫の文武天皇です。 文武天皇は,701年に唐の律令にならって大宝律令を制定しました。律とは刑罰の決まりのことで,令とは政治の仕組みなどの決まりのことです。 そして律令に基づいて政治を行う国家のことを律令国家といいます。
天智天皇が亡くなり、その後継ぎをめぐっておきた争いは何ですか。
後継ぎをめぐっておきた争いは壬申の乱です。
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歴史
白村江の戦い 日本が改革を行う中で,中国や朝鮮の情勢も変化してきていました。まず唐が朝鮮半島にも勢力を広げていこうと考えていました。 一方で朝鮮半島も,高句麗・新羅・百済の三国が朝鮮半島を統一しようと争っている状況でした。そこに唐が加わり,唐と新羅が同盟を結びます。こうして,660年に唐・新羅の連合軍が百済を滅ぼします。百済は国を何とか再興するために,仲の良かった日本に助けを求めました。 そして663年に日本は朝鮮半島に向けて大軍を送り,朝鮮半島の南西部にある白村江という場所で,唐・新羅の連合軍と戦いました(白村江の戦い)。 しかし日本・百済軍は敗れてしまい,そのまま勢いに乗った唐・新羅は668年に高句麗も滅ぼします。 その後は同盟を結んでいた唐と新羅が対立します。どちらも朝鮮半島の支配を狙っていたので当然と言えば当然ですね。ではどうなったかというと,新羅が唐を追い返すことに成功します。そして676年に新羅が朝鮮半島を統一しました。 天智天皇の即位 唐・新羅に敗れた日本は,九州の守りを固めます。次いつ日本に攻めてくるかが分からないからですね。 大宰府(北九州)に城をつくり,さらにそこを守る兵士を全国から集めました。この兵士のことを防人といいます。 667年には奈良の飛鳥にあった都を滋賀の大津宮に遷都し,そして668年に中大兄皇子は第38代天皇,天智天皇として即位しました。 壬申の乱 671年に天智天皇が亡くなると,その後継ぎをめぐって弟の大海人皇子と息子の大友皇子が対立し,争いが起きました。これが672年の壬申の乱です。 壬申の乱の結果,勝利したのは弟の大海人皇子でした。大海人皇子はそのまま天武天皇として即位し,飛鳥浄御原宮という都で政治改革を実施します。 律令国家の成立 天武天皇は引き続き天皇を中心とする中央集権化を進めていきます。また,富本銭という日本で最初の貨幣もつくりました。 さらに唐の都である長安を参考にして,藤原京という都の造営にも取りかかりました。 天武天皇の後を継いだのは持統天皇という女性の天皇です。持統天皇は天武天皇の皇后です。 そして696年に天武天皇が取りかかっていた藤原京が完成し,そこに遷都しました。 持統天皇の後を継いだのは孫の文武天皇です。 文武天皇は,701年に唐の律令にならって大宝律令を制定しました。律とは刑罰の決まりのことで,令とは政治の仕組みなどの決まりのことです。 そして律令に基づいて政治を行う国家のことを律令国家といいます。
天武天皇の後を継いだ女性天皇の名前は何といいますか。
天武天皇の後を継いだのは持統天皇です。
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歴史
白村江の戦い 日本が改革を行う中で,中国や朝鮮の情勢も変化してきていました。まず唐が朝鮮半島にも勢力を広げていこうと考えていました。 一方で朝鮮半島も,高句麗・新羅・百済の三国が朝鮮半島を統一しようと争っている状況でした。そこに唐が加わり,唐と新羅が同盟を結びます。こうして,660年に唐・新羅の連合軍が百済を滅ぼします。百済は国を何とか再興するために,仲の良かった日本に助けを求めました。 そして663年に日本は朝鮮半島に向けて大軍を送り,朝鮮半島の南西部にある白村江という場所で,唐・新羅の連合軍と戦いました(白村江の戦い)。 しかし日本・百済軍は敗れてしまい,そのまま勢いに乗った唐・新羅は668年に高句麗も滅ぼします。 その後は同盟を結んでいた唐と新羅が対立します。どちらも朝鮮半島の支配を狙っていたので当然と言えば当然ですね。ではどうなったかというと,新羅が唐を追い返すことに成功します。そして676年に新羅が朝鮮半島を統一しました。 天智天皇の即位 唐・新羅に敗れた日本は,九州の守りを固めます。次いつ日本に攻めてくるかが分からないからですね。 大宰府(北九州)に城をつくり,さらにそこを守る兵士を全国から集めました。この兵士のことを防人といいます。 667年には奈良の飛鳥にあった都を滋賀の大津宮に遷都し,そして668年に中大兄皇子は第38代天皇,天智天皇として即位しました。 壬申の乱 671年に天智天皇が亡くなると,その後継ぎをめぐって弟の大海人皇子と息子の大友皇子が対立し,争いが起きました。これが672年の壬申の乱です。 壬申の乱の結果,勝利したのは弟の大海人皇子でした。大海人皇子はそのまま天武天皇として即位し,飛鳥浄御原宮という都で政治改革を実施します。 律令国家の成立 天武天皇は引き続き天皇を中心とする中央集権化を進めていきます。また,富本銭という日本で最初の貨幣もつくりました。 さらに唐の都である長安を参考にして,藤原京という都の造営にも取りかかりました。 天武天皇の後を継いだのは持統天皇という女性の天皇です。持統天皇は天武天皇の皇后です。 そして696年に天武天皇が取りかかっていた藤原京が完成し,そこに遷都しました。 持統天皇の後を継いだのは孫の文武天皇です。 文武天皇は,701年に唐の律令にならって大宝律令を制定しました。律とは刑罰の決まりのことで,令とは政治の仕組みなどの決まりのことです。 そして律令に基づいて政治を行う国家のことを律令国家といいます。
文武天皇が,701年に唐の律令にならって制定した法律の名前はなんですか。
法律の名前は、大宝律令です。
JCRRAG_008971
歴史
租庸調制 大宝律令では,税制度(租庸調制)の仕組みもつくられました。1つずつ詳しく見ていきます。 租 租は口分田を与えられた人全員が,収穫量の3%の稲を国に納めるという税です。 庸 庸は成年男子に課された税で,都で年に10日間の労働を行うか,その代わりに都に布を納めるというものです。 調 調は成年男子に課された税で,都に地方の特産物を納めるというものになります。 雑徭 雑徭は成年男子に課された税で,国司のもとで1年に60日ほどの労働を行うものです。 防人 防人は成年男子に課された税で,3年間九州の警備を行うというものです。 この他にもいくつか税はありますが,見ての通り国民からすると非常に厳しいものでした。しかも都や九州に行くときの費用もすべて自腹になります。 さらに成年男子に課される税が多いですよね。そのため戸籍に女性と偽って登録する者が増えたり,口分田を投げ出して逃げる人が増加しました。 他には,土地を返したくないから戸籍上では亡くなっていないことにする,といった偽りも増えました。口分田の所有者の死後は国に返却しないといけませんでしたね。 このように,唐を参考にして律令国家としての歩みを進めてきた日本ですが,その内容に不満を覚える人も増え,公地・公民の原則も徐々に崩れ始めていきます。
大宝律令で、成年男子に課された九州の警備を行うことを何といいますか。
成年男子に課された九州の警備は、防人です。
JCRRAG_008972
歴史
租庸調制 大宝律令では,税制度(租庸調制)の仕組みもつくられました。1つずつ詳しく見ていきます。 租 租は口分田を与えられた人全員が,収穫量の3%の稲を国に納めるという税です。 庸 庸は成年男子に課された税で,都で年に10日間の労働を行うか,その代わりに都に布を納めるというものです。 調 調は成年男子に課された税で,都に地方の特産物を納めるというものになります。 雑徭 雑徭は成年男子に課された税で,国司のもとで1年に60日ほどの労働を行うものです。 防人 防人は成年男子に課された税で,3年間九州の警備を行うというものです。 この他にもいくつか税はありますが,見ての通り国民からすると非常に厳しいものでした。しかも都や九州に行くときの費用もすべて自腹になります。 さらに成年男子に課される税が多いですよね。そのため戸籍に女性と偽って登録する者が増えたり,口分田を投げ出して逃げる人が増加しました。 他には,土地を返したくないから戸籍上では亡くなっていないことにする,といった偽りも増えました。口分田の所有者の死後は国に返却しないといけませんでしたね。 このように,唐を参考にして律令国家としての歩みを進めてきた日本ですが,その内容に不満を覚える人も増え,公地・公民の原則も徐々に崩れ始めていきます。
大宝律令で課された「調」は、何を国に納める税ですか
調は成年男子に課された税で、都に地方の特産物を納める税です。
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歴史
租庸調制 大宝律令では,税制度(租庸調制)の仕組みもつくられました。1つずつ詳しく見ていきます。 租 租は口分田を与えられた人全員が,収穫量の3%の稲を国に納めるという税です。 庸 庸は成年男子に課された税で,都で年に10日間の労働を行うか,その代わりに都に布を納めるというものです。 調 調は成年男子に課された税で,都に地方の特産物を納めるというものになります。 雑徭 雑徭は成年男子に課された税で,国司のもとで1年に60日ほどの労働を行うものです。 防人 防人は成年男子に課された税で,3年間九州の警備を行うというものです。 この他にもいくつか税はありますが,見ての通り国民からすると非常に厳しいものでした。しかも都や九州に行くときの費用もすべて自腹になります。 さらに成年男子に課される税が多いですよね。そのため戸籍に女性と偽って登録する者が増えたり,口分田を投げ出して逃げる人が増加しました。 他には,土地を返したくないから戸籍上では亡くなっていないことにする,といった偽りも増えました。口分田の所有者の死後は国に返却しないといけませんでしたね。 このように,唐を参考にして律令国家としての歩みを進めてきた日本ですが,その内容に不満を覚える人も増え,公地・公民の原則も徐々に崩れ始めていきます。
大宝律令で課された「祖」は、何を国に納める税ですか
租は口分田を与えられた人全員が、収穫量の3%の稲を国に納めるという税です。
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歴史
租庸調制 大宝律令では,税制度(租庸調制)の仕組みもつくられました。1つずつ詳しく見ていきます。 租 租は口分田を与えられた人全員が,収穫量の3%の稲を国に納めるという税です。 庸 庸は成年男子に課された税で,都で年に10日間の労働を行うか,その代わりに都に布を納めるというものです。 調 調は成年男子に課された税で,都に地方の特産物を納めるというものになります。 雑徭 雑徭は成年男子に課された税で,国司のもとで1年に60日ほどの労働を行うものです。 防人 防人は成年男子に課された税で,3年間九州の警備を行うというものです。 この他にもいくつか税はありますが,見ての通り国民からすると非常に厳しいものでした。しかも都や九州に行くときの費用もすべて自腹になります。 さらに成年男子に課される税が多いですよね。そのため戸籍に女性と偽って登録する者が増えたり,口分田を投げ出して逃げる人が増加しました。 他には,土地を返したくないから戸籍上では亡くなっていないことにする,といった偽りも増えました。口分田の所有者の死後は国に返却しないといけませんでしたね。 このように,唐を参考にして律令国家としての歩みを進めてきた日本ですが,その内容に不満を覚える人も増え,公地・公民の原則も徐々に崩れ始めていきます。
大宝律令で課された「雑徭」は、どんな税ですか
雑徭は成年男子に課された税で、国司のもとで1年に60日ほどの労働を行うものです。
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歴史
租庸調制 大宝律令では,税制度(租庸調制)の仕組みもつくられました。1つずつ詳しく見ていきます。 租 租は口分田を与えられた人全員が,収穫量の3%の稲を国に納めるという税です。 庸 庸は成年男子に課された税で,都で年に10日間の労働を行うか,その代わりに都に布を納めるというものです。 調 調は成年男子に課された税で,都に地方の特産物を納めるというものになります。 雑徭 雑徭は成年男子に課された税で,国司のもとで1年に60日ほどの労働を行うものです。 防人 防人は成年男子に課された税で,3年間九州の警備を行うというものです。 この他にもいくつか税はありますが,見ての通り国民からすると非常に厳しいものでした。しかも都や九州に行くときの費用もすべて自腹になります。 さらに成年男子に課される税が多いですよね。そのため戸籍に女性と偽って登録する者が増えたり,口分田を投げ出して逃げる人が増加しました。 他には,土地を返したくないから戸籍上では亡くなっていないことにする,といった偽りも増えました。口分田の所有者の死後は国に返却しないといけませんでしたね。 このように,唐を参考にして律令国家としての歩みを進めてきた日本ですが,その内容に不満を覚える人も増え,公地・公民の原則も徐々に崩れ始めていきます。
大宝律令では成年男子に課される税が多いため、どんな人が増えましたか
大宝律令は成年男子に課される税が多いため、戸籍に女性と偽って登録する者が増えたり、口分田を投げ出して逃げる人が増加しました。
JCRRAG_008976
歴史
桶狭間の戦い この戦いでは,2万5千の兵を率いる今川義元に対して,織田信長は10分の1の2千ほどの兵で奇襲を仕掛けて,見事に今川義元の首を討ち取りました。 織田信長は、戦いの前に有名な「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり」という『敦盛』の舞を舞ったと言われています。 意味は「人間の一生はたかが50年ほどで,天界と比べたら,この世界は夢や幻のように儚いものだ」っといったものです。『敦盛』とは,「幸若舞」という曲舞の作品の1つです。曲舞とは,扇を持って鼓に合わせて舞うという,室町時代ごろに流行った芸能です。そして『敦盛』の中で「人間五十年~」という一節が出てきます。 比叡山延暦寺 焼き討ち 復習ですが,比叡山延暦寺は誰が建てたか覚えていますか?平安時代に天台宗の開祖である最澄によって建てられました。では比叡山延暦寺の焼き討ちがなぜ行われたのか。それは個人年表にも書いた通り,信長と対立していた浅井長政と朝倉義景を比叡山延暦寺がかくまったからです。そもそもの対立のきっかけは,信長が15代将軍足利義昭を自分の好きなように利用したからです。それに怒った義昭が比叡山延暦寺や朝倉義景を味方につけ,信長と対立します。それに対し信長は,妹の市が嫁いだ浅井長政を味方に,朝倉義景を攻撃しますが,そこで浅井長政に裏切られてしまいます。ちなみにこのとき殿(逃げる部隊の中で最後尾で戦い,味方が逃げる余裕をつくる)を務めたのが,徳川家康と豊臣秀吉でした。何とか逃げ切った信長は,すぐに浅井・朝倉連合軍に攻撃を仕掛け破ります。これを姉川の戦いといいます。そしてその翌年の1571年に,比叡山延暦寺を焼き討ちにします。この時代の寺社は武装していて軍隊を持っていました。そのため,一方的な単なる宗教弾圧とは違いますよ。最終的に,1573年に足利義昭を京都から追放して室町幕府は終わりを迎えます。
桶狭間の戦いで、織田信長は誰を討ち取りましたか
織田信長は、今川義元の首を討ち取りました。
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歴史
桶狭間の戦い この戦いでは,2万5千の兵を率いる今川義元に対して,織田信長は10分の1の2千ほどの兵で奇襲を仕掛けて,見事に今川義元の首を討ち取りました。 織田信長は、戦いの前に有名な「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり」という『敦盛』の舞を舞ったと言われています。 意味は「人間の一生はたかが50年ほどで,天界と比べたら,この世界は夢や幻のように儚いものだ」っといったものです。『敦盛』とは,「幸若舞」という曲舞の作品の1つです。曲舞とは,扇を持って鼓に合わせて舞うという,室町時代ごろに流行った芸能です。そして『敦盛』の中で「人間五十年~」という一節が出てきます。 比叡山延暦寺 焼き討ち 復習ですが,比叡山延暦寺は誰が建てたか覚えていますか?平安時代に天台宗の開祖である最澄によって建てられました。では比叡山延暦寺の焼き討ちがなぜ行われたのか。それは個人年表にも書いた通り,信長と対立していた浅井長政と朝倉義景を比叡山延暦寺がかくまったからです。そもそもの対立のきっかけは,信長が15代将軍足利義昭を自分の好きなように利用したからです。それに怒った義昭が比叡山延暦寺や朝倉義景を味方につけ,信長と対立します。それに対し信長は,妹の市が嫁いだ浅井長政を味方に,朝倉義景を攻撃しますが,そこで浅井長政に裏切られてしまいます。ちなみにこのとき殿(逃げる部隊の中で最後尾で戦い,味方が逃げる余裕をつくる)を務めたのが,徳川家康と豊臣秀吉でした。何とか逃げ切った信長は,すぐに浅井・朝倉連合軍に攻撃を仕掛け破ります。これを姉川の戦いといいます。そしてその翌年の1571年に,比叡山延暦寺を焼き討ちにします。この時代の寺社は武装していて軍隊を持っていました。そのため,一方的な単なる宗教弾圧とは違いますよ。最終的に,1573年に足利義昭を京都から追放して室町幕府は終わりを迎えます。
天台宗の開祖である僧侶の名前なんですか。
天台宗の開祖は、最澄です。
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桶狭間の戦い この戦いでは,2万5千の兵を率いる今川義元に対して,織田信長は10分の1の2千ほどの兵で奇襲を仕掛けて,見事に今川義元の首を討ち取りました。 織田信長は、戦いの前に有名な「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり」という『敦盛』の舞を舞ったと言われています。 意味は「人間の一生はたかが50年ほどで,天界と比べたら,この世界は夢や幻のように儚いものだ」っといったものです。『敦盛』とは,「幸若舞」という曲舞の作品の1つです。曲舞とは,扇を持って鼓に合わせて舞うという,室町時代ごろに流行った芸能です。そして『敦盛』の中で「人間五十年~」という一節が出てきます。 比叡山延暦寺 焼き討ち 復習ですが,比叡山延暦寺は誰が建てたか覚えていますか?平安時代に天台宗の開祖である最澄によって建てられました。では比叡山延暦寺の焼き討ちがなぜ行われたのか。それは個人年表にも書いた通り,信長と対立していた浅井長政と朝倉義景を比叡山延暦寺がかくまったからです。そもそもの対立のきっかけは,信長が15代将軍足利義昭を自分の好きなように利用したからです。それに怒った義昭が比叡山延暦寺や朝倉義景を味方につけ,信長と対立します。それに対し信長は,妹の市が嫁いだ浅井長政を味方に,朝倉義景を攻撃しますが,そこで浅井長政に裏切られてしまいます。ちなみにこのとき殿(逃げる部隊の中で最後尾で戦い,味方が逃げる余裕をつくる)を務めたのが,徳川家康と豊臣秀吉でした。何とか逃げ切った信長は,すぐに浅井・朝倉連合軍に攻撃を仕掛け破ります。これを姉川の戦いといいます。そしてその翌年の1571年に,比叡山延暦寺を焼き討ちにします。この時代の寺社は武装していて軍隊を持っていました。そのため,一方的な単なる宗教弾圧とは違いますよ。最終的に,1573年に足利義昭を京都から追放して室町幕府は終わりを迎えます。
1571年に織田信長によって焼き討ちにされた寺の名前を答えなさい。
1571年に織田信長によって焼き討ちにされた寺は,比叡山延暦寺です。
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桶狭間の戦い この戦いでは,2万5千の兵を率いる今川義元に対して,織田信長は10分の1の2千ほどの兵で奇襲を仕掛けて,見事に今川義元の首を討ち取りました。 織田信長は、戦いの前に有名な「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり」という『敦盛』の舞を舞ったと言われています。 意味は「人間の一生はたかが50年ほどで,天界と比べたら,この世界は夢や幻のように儚いものだ」っといったものです。『敦盛』とは,「幸若舞」という曲舞の作品の1つです。曲舞とは,扇を持って鼓に合わせて舞うという,室町時代ごろに流行った芸能です。そして『敦盛』の中で「人間五十年~」という一節が出てきます。 比叡山延暦寺 焼き討ち 復習ですが,比叡山延暦寺は誰が建てたか覚えていますか?平安時代に天台宗の開祖である最澄によって建てられました。では比叡山延暦寺の焼き討ちがなぜ行われたのか。それは個人年表にも書いた通り,信長と対立していた浅井長政と朝倉義景を比叡山延暦寺がかくまったからです。そもそもの対立のきっかけは,信長が15代将軍足利義昭を自分の好きなように利用したからです。それに怒った義昭が比叡山延暦寺や朝倉義景を味方につけ,信長と対立します。それに対し信長は,妹の市が嫁いだ浅井長政を味方に,朝倉義景を攻撃しますが,そこで浅井長政に裏切られてしまいます。ちなみにこのとき殿(逃げる部隊の中で最後尾で戦い,味方が逃げる余裕をつくる)を務めたのが,徳川家康と豊臣秀吉でした。何とか逃げ切った信長は,すぐに浅井・朝倉連合軍に攻撃を仕掛け破ります。これを姉川の戦いといいます。そしてその翌年の1571年に,比叡山延暦寺を焼き討ちにします。この時代の寺社は武装していて軍隊を持っていました。そのため,一方的な単なる宗教弾圧とは違いますよ。最終的に,1573年に足利義昭を京都から追放して室町幕府は終わりを迎えます。
1573年に足利義昭を京都から追放して終わった幕府の名称は何ですか。
幕府の名称は室町幕府です。
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桶狭間の戦い この戦いでは,2万5千の兵を率いる今川義元に対して,織田信長は10分の1の2千ほどの兵で奇襲を仕掛けて,見事に今川義元の首を討ち取りました。 織田信長は、戦いの前に有名な「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり」という『敦盛』の舞を舞ったと言われています。 意味は「人間の一生はたかが50年ほどで,天界と比べたら,この世界は夢や幻のように儚いものだ」っといったものです。『敦盛』とは,「幸若舞」という曲舞の作品の1つです。曲舞とは,扇を持って鼓に合わせて舞うという,室町時代ごろに流行った芸能です。そして『敦盛』の中で「人間五十年~」という一節が出てきます。 比叡山延暦寺 焼き討ち 復習ですが,比叡山延暦寺は誰が建てたか覚えていますか?平安時代に天台宗の開祖である最澄によって建てられました。では比叡山延暦寺の焼き討ちがなぜ行われたのか。それは個人年表にも書いた通り,信長と対立していた浅井長政と朝倉義景を比叡山延暦寺がかくまったからです。そもそもの対立のきっかけは,信長が15代将軍足利義昭を自分の好きなように利用したからです。それに怒った義昭が比叡山延暦寺や朝倉義景を味方につけ,信長と対立します。それに対し信長は,妹の市が嫁いだ浅井長政を味方に,朝倉義景を攻撃しますが,そこで浅井長政に裏切られてしまいます。ちなみにこのとき殿(逃げる部隊の中で最後尾で戦い,味方が逃げる余裕をつくる)を務めたのが,徳川家康と豊臣秀吉でした。何とか逃げ切った信長は,すぐに浅井・朝倉連合軍に攻撃を仕掛け破ります。これを姉川の戦いといいます。そしてその翌年の1571年に,比叡山延暦寺を焼き討ちにします。この時代の寺社は武装していて軍隊を持っていました。そのため,一方的な単なる宗教弾圧とは違いますよ。最終的に,1573年に足利義昭を京都から追放して室町幕府は終わりを迎えます。
「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり」という『敦盛』の舞を舞った人物は誰ですか。
『敦盛』の舞を舞ったのは、織田信長です。
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長篠の戦い 長篠の戦いは,当時最強と言われていた武田の騎馬隊を信長が倒した戦いです。 武田と言えば武田信玄が有名ですが,信玄はこの戦いの前に急死してしまいます。そこで後を継いだのが息子の武田勝頼でしたが,織田・徳川の連合軍に敗れました。 この戦いでは信長が鉄砲を有効活用したことでも有名です。 柵を用意して騎馬隊が攻めにくくした上で,鉄砲隊による集団戦法で見事に勝利しました。 安土城 信長は1576年,琵琶湖の近くに天守閣をもつ安土城を築きます。 しかし次に説明する本能寺の変の後に焼失してしまい,実際はどんな姿だったのかは判明していません。 ちなみに安土桃山時代の文化のことは桃山文化といいます。 安土城や姫路城,秀吉が建てた大阪城に代表されるように,豪華で壮大なことが特徴です。 本能寺の変 安土城をつくり,天下統一に向けて着々と進んでいた信長でしたが,1582年に家臣の明智光秀に裏切られてしまいます。 そのとき信長は京都の本能寺に滞在していましたが,抵抗しても無理だと思い,寺に火を放って自害しました。 本能寺の変は未だによくわかっていないことが多いです。 信長の遺体が見つからなかったり,そもそも明智光秀が裏切った理由は何なのかなど,様々な説が唱えられています。気になる方はぜひ調べてみてください! ちなみに本能寺の変の覚え方は「イチゴパンツ(1582)」です。 楽市・楽座 安土城のもとに広がった城下町で,信長は楽座・楽座という政策を行いました。それぞれの内容は以下の通りです。 ・楽市=出店料や寺社などに納める税を免除 ・楽座=営業を独占していた座という組織を廃止 商人がお店を営業するうえでかかる税金をなくすことで,誰もが自由に商売を行えるようになりました。その結果,信長の城下町には多くの商工業者が集まります。 座というのは,貴族や寺社などに税を納めることで,営業の独占権を認めてもらっていた組織です。これも廃止することで,自由な商売を勧めていきました。 関所の廃止も同じですね。誰でも自由に通行できるようすれば,多くの人が来て繁盛します。
長篠の戦いで、信長が有効活用したものは何ですか。
信長は長篠の戦いで鉄砲を有効活用しました。
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長篠の戦い 長篠の戦いは,当時最強と言われていた武田の騎馬隊を信長が倒した戦いです。 武田と言えば武田信玄が有名ですが,信玄はこの戦いの前に急死してしまいます。そこで後を継いだのが息子の武田勝頼でしたが,織田・徳川の連合軍に敗れました。 この戦いでは信長が鉄砲を有効活用したことでも有名です。 柵を用意して騎馬隊が攻めにくくした上で,鉄砲隊による集団戦法で見事に勝利しました。 安土城 信長は1576年,琵琶湖の近くに天守閣をもつ安土城を築きます。 しかし次に説明する本能寺の変の後に焼失してしまい,実際はどんな姿だったのかは判明していません。 ちなみに安土桃山時代の文化のことは桃山文化といいます。 安土城や姫路城,秀吉が建てた大阪城に代表されるように,豪華で壮大なことが特徴です。 本能寺の変 安土城をつくり,天下統一に向けて着々と進んでいた信長でしたが,1582年に家臣の明智光秀に裏切られてしまいます。 そのとき信長は京都の本能寺に滞在していましたが,抵抗しても無理だと思い,寺に火を放って自害しました。 本能寺の変は未だによくわかっていないことが多いです。 信長の遺体が見つからなかったり,そもそも明智光秀が裏切った理由は何なのかなど,様々な説が唱えられています。気になる方はぜひ調べてみてください! ちなみに本能寺の変の覚え方は「イチゴパンツ(1582)」です。 楽市・楽座 安土城のもとに広がった城下町で,信長は楽座・楽座という政策を行いました。それぞれの内容は以下の通りです。 ・楽市=出店料や寺社などに納める税を免除 ・楽座=営業を独占していた座という組織を廃止 商人がお店を営業するうえでかかる税金をなくすことで,誰もが自由に商売を行えるようになりました。その結果,信長の城下町には多くの商工業者が集まります。 座というのは,貴族や寺社などに税を納めることで,営業の独占権を認めてもらっていた組織です。これも廃止することで,自由な商売を勧めていきました。 関所の廃止も同じですね。誰でも自由に通行できるようすれば,多くの人が来て繁盛します。
1576年,織田信長により、琵琶湖の近くに建てられた城の名前は何ですか。
織田信長は琵琶湖の近くに天守閣をもつ安土城を築きました。
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長篠の戦い 長篠の戦いは,当時最強と言われていた武田の騎馬隊を信長が倒した戦いです。 武田と言えば武田信玄が有名ですが,信玄はこの戦いの前に急死してしまいます。そこで後を継いだのが息子の武田勝頼でしたが,織田・徳川の連合軍に敗れました。 この戦いでは信長が鉄砲を有効活用したことでも有名です。 柵を用意して騎馬隊が攻めにくくした上で,鉄砲隊による集団戦法で見事に勝利しました。 安土城 信長は1576年,琵琶湖の近くに天守閣をもつ安土城を築きます。 しかし次に説明する本能寺の変の後に焼失してしまい,実際はどんな姿だったのかは判明していません。 ちなみに安土桃山時代の文化のことは桃山文化といいます。 安土城や姫路城,秀吉が建てた大阪城に代表されるように,豪華で壮大なことが特徴です。 本能寺の変 安土城をつくり,天下統一に向けて着々と進んでいた信長でしたが,1582年に家臣の明智光秀に裏切られてしまいます。 そのとき信長は京都の本能寺に滞在していましたが,抵抗しても無理だと思い,寺に火を放って自害しました。 本能寺の変は未だによくわかっていないことが多いです。 信長の遺体が見つからなかったり,そもそも明智光秀が裏切った理由は何なのかなど,様々な説が唱えられています。気になる方はぜひ調べてみてください! ちなみに本能寺の変の覚え方は「イチゴパンツ(1582)」です。 楽市・楽座 安土城のもとに広がった城下町で,信長は楽座・楽座という政策を行いました。それぞれの内容は以下の通りです。 ・楽市=出店料や寺社などに納める税を免除 ・楽座=営業を独占していた座という組織を廃止 商人がお店を営業するうえでかかる税金をなくすことで,誰もが自由に商売を行えるようになりました。その結果,信長の城下町には多くの商工業者が集まります。 座というのは,貴族や寺社などに税を納めることで,営業の独占権を認めてもらっていた組織です。これも廃止することで,自由な商売を勧めていきました。 関所の廃止も同じですね。誰でも自由に通行できるようすれば,多くの人が来て繁盛します。
安土城のもとに広がった城下町で信長が行った、出店料や寺社などに納める税を免除する政策を何といいますか
政策は、楽市です。 商人がお店を営業するうえでかかる税金をなくすことで,誰もが自由に商売を行えるようになりました。
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長篠の戦い 長篠の戦いは,当時最強と言われていた武田の騎馬隊を信長が倒した戦いです。 武田と言えば武田信玄が有名ですが,信玄はこの戦いの前に急死してしまいます。そこで後を継いだのが息子の武田勝頼でしたが,織田・徳川の連合軍に敗れました。 この戦いでは信長が鉄砲を有効活用したことでも有名です。 柵を用意して騎馬隊が攻めにくくした上で,鉄砲隊による集団戦法で見事に勝利しました。 安土城 信長は1576年,琵琶湖の近くに天守閣をもつ安土城を築きます。 しかし次に説明する本能寺の変の後に焼失してしまい,実際はどんな姿だったのかは判明していません。 ちなみに安土桃山時代の文化のことは桃山文化といいます。 安土城や姫路城,秀吉が建てた大阪城に代表されるように,豪華で壮大なことが特徴です。 本能寺の変 安土城をつくり,天下統一に向けて着々と進んでいた信長でしたが,1582年に家臣の明智光秀に裏切られてしまいます。 そのとき信長は京都の本能寺に滞在していましたが,抵抗しても無理だと思い,寺に火を放って自害しました。 本能寺の変は未だによくわかっていないことが多いです。 信長の遺体が見つからなかったり,そもそも明智光秀が裏切った理由は何なのかなど,様々な説が唱えられています。気になる方はぜひ調べてみてください! ちなみに本能寺の変の覚え方は「イチゴパンツ(1582)」です。 楽市・楽座 安土城のもとに広がった城下町で,信長は楽座・楽座という政策を行いました。それぞれの内容は以下の通りです。 ・楽市=出店料や寺社などに納める税を免除 ・楽座=営業を独占していた座という組織を廃止 商人がお店を営業するうえでかかる税金をなくすことで,誰もが自由に商売を行えるようになりました。その結果,信長の城下町には多くの商工業者が集まります。 座というのは,貴族や寺社などに税を納めることで,営業の独占権を認めてもらっていた組織です。これも廃止することで,自由な商売を勧めていきました。 関所の廃止も同じですね。誰でも自由に通行できるようすれば,多くの人が来て繁盛します。
安土城のもとに広がった城下町で信長が行った、営業を独占していた座という組織を廃止する政策を何といいますか。
営業を独占していた座という組織を廃止する政策は、楽座です。座というのは,貴族や寺社などに税を納めることで,営業の独占権を認めてもらっていた組織です。これも廃止することで,自由な商売を勧めていきました。
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長篠の戦い 長篠の戦いは,当時最強と言われていた武田の騎馬隊を信長が倒した戦いです。 武田と言えば武田信玄が有名ですが,信玄はこの戦いの前に急死してしまいます。そこで後を継いだのが息子の武田勝頼でしたが,織田・徳川の連合軍に敗れました。 この戦いでは信長が鉄砲を有効活用したことでも有名です。 柵を用意して騎馬隊が攻めにくくした上で,鉄砲隊による集団戦法で見事に勝利しました。 安土城 信長は1576年,琵琶湖の近くに天守閣をもつ安土城を築きます。 しかし次に説明する本能寺の変の後に焼失してしまい,実際はどんな姿だったのかは判明していません。 ちなみに安土桃山時代の文化のことは桃山文化といいます。 安土城や姫路城,秀吉が建てた大阪城に代表されるように,豪華で壮大なことが特徴です。 本能寺の変 安土城をつくり,天下統一に向けて着々と進んでいた信長でしたが,1582年に家臣の明智光秀に裏切られてしまいます。 そのとき信長は京都の本能寺に滞在していましたが,抵抗しても無理だと思い,寺に火を放って自害しました。 本能寺の変は未だによくわかっていないことが多いです。 信長の遺体が見つからなかったり,そもそも明智光秀が裏切った理由は何なのかなど,様々な説が唱えられています。気になる方はぜひ調べてみてください! ちなみに本能寺の変の覚え方は「イチゴパンツ(1582)」です。 楽市・楽座 安土城のもとに広がった城下町で,信長は楽座・楽座という政策を行いました。それぞれの内容は以下の通りです。 ・楽市=出店料や寺社などに納める税を免除 ・楽座=営業を独占していた座という組織を廃止 商人がお店を営業するうえでかかる税金をなくすことで,誰もが自由に商売を行えるようになりました。その結果,信長の城下町には多くの商工業者が集まります。 座というのは,貴族や寺社などに税を納めることで,営業の独占権を認めてもらっていた組織です。これも廃止することで,自由な商売を勧めていきました。 関所の廃止も同じですね。誰でも自由に通行できるようすれば,多くの人が来て繁盛します。
武田の騎馬隊を信長が倒した戦いは何ですか。
その戦いは長篠の戦いです。
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歴史
モンゴル帝国の勢力拡大と日本への襲来 1268年(文永5年)、モンゴル帝国の第5代皇帝であるフビライ・ハン(クビライ・カアン)は、高麗(こうらい:朝鮮の王朝)を通じて日本の朝廷に国交を結び、貿易を行いたい旨を記した国書を送りました。国交を求める内容ではあったものの、その最後には「国交を結ぶためには武力を用いることも辞さない」という意味にも取れる一文が添えられており、朝廷は返書を躊躇します。 同じ頃、鎌倉幕府では北条時宗(ほうじょうときむね)が8代執権に就任し、モンゴル帝国の要求を拒否する姿勢を強めました。その後もモンゴル帝国から数度にわたって使者が派遣され、そのたびに朝廷は返書を送ろうとしたものの、幕府がそれを抑え込み、国としてモンゴルとの通好関係を拒否する姿勢を変えませんでした。幕府は並行して、水面下で西国(さいごく:現在の関西・九州地方)の御家人を総動員し、モンゴル帝国の襲来に備えるため、九州地方を中心に防御体制を整え始めます。 モンゴル帝国を元王朝として再編したフビライ・ハンは、1274年(文永11年)にいよいよ日本侵攻を始めました。元と高麗の連合による30,000の軍が900隻の船に分乗し、現在の博多付近に上陸したのです。幕府は昔ながらの一騎打ちを主体とした戦法で挑み、元・高麗連合軍の火器や毒矢を駆使した集団戦法を前に苦戦しながらも、領地を奪われることなく連合軍を退散させることに成功します。「文永の役」(ぶんえいのえき)と呼ばれるこの襲来により幕府は警戒を強め、さらなる国防の強化を進めました。 北条氏への権力集中、得宗による支配の強化 1275年(建治元年)、北条時宗は元より派遣された使節を処刑し、国交を結ばないという意思を改めて表明。1279年(弘安2年)にも使節を処刑したことから、フビライ・ハンは武力による日本征服に踏み切ります。 1281年(弘安4年)、元と高麗、そして元によって滅ぼされたばかりの南宋(なんそう:1127年から1279年まで存在した中国の王朝)による総勢140,000の大軍が4,400隻の船で九州地方に押し寄せます。しかし、本格的な戦いが始まる直前、未曾有の大風雨が吹き荒れたことで元率いる連合軍の船はことごとく大損害を受け、撤退を余儀なくされました。 この「弘安の役」(こうあんのえき)と呼ばれる2度目の襲来において辛くも勝利を収めた幕府は、その後も国防強化を推進すべく、九州地方への支配体制を強めていきます。
モンゴル帝国の第5代皇帝の名は何ですか。
モンゴル帝国の第5代皇帝はフビライ・ハン(クビライ・カアン)です。
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歴史
モンゴル帝国の勢力拡大と日本への襲来 1268年(文永5年)、モンゴル帝国の第5代皇帝であるフビライ・ハン(クビライ・カアン)は、高麗(こうらい:朝鮮の王朝)を通じて日本の朝廷に国交を結び、貿易を行いたい旨を記した国書を送りました。国交を求める内容ではあったものの、その最後には「国交を結ぶためには武力を用いることも辞さない」という意味にも取れる一文が添えられており、朝廷は返書を躊躇します。 同じ頃、鎌倉幕府では北条時宗(ほうじょうときむね)が8代執権に就任し、モンゴル帝国の要求を拒否する姿勢を強めました。その後もモンゴル帝国から数度にわたって使者が派遣され、そのたびに朝廷は返書を送ろうとしたものの、幕府がそれを抑え込み、国としてモンゴルとの通好関係を拒否する姿勢を変えませんでした。幕府は並行して、水面下で西国(さいごく:現在の関西・九州地方)の御家人を総動員し、モンゴル帝国の襲来に備えるため、九州地方を中心に防御体制を整え始めます。 モンゴル帝国を元王朝として再編したフビライ・ハンは、1274年(文永11年)にいよいよ日本侵攻を始めました。元と高麗の連合による30,000の軍が900隻の船に分乗し、現在の博多付近に上陸したのです。幕府は昔ながらの一騎打ちを主体とした戦法で挑み、元・高麗連合軍の火器や毒矢を駆使した集団戦法を前に苦戦しながらも、領地を奪われることなく連合軍を退散させることに成功します。「文永の役」(ぶんえいのえき)と呼ばれるこの襲来により幕府は警戒を強め、さらなる国防の強化を進めました。 北条氏への権力集中、得宗による支配の強化 1275年(建治元年)、北条時宗は元より派遣された使節を処刑し、国交を結ばないという意思を改めて表明。1279年(弘安2年)にも使節を処刑したことから、フビライ・ハンは武力による日本征服に踏み切ります。 1281年(弘安4年)、元と高麗、そして元によって滅ぼされたばかりの南宋(なんそう:1127年から1279年まで存在した中国の王朝)による総勢140,000の大軍が4,400隻の船で九州地方に押し寄せます。しかし、本格的な戦いが始まる直前、未曾有の大風雨が吹き荒れたことで元率いる連合軍の船はことごとく大損害を受け、撤退を余儀なくされました。 この「弘安の役」(こうあんのえき)と呼ばれる2度目の襲来において辛くも勝利を収めた幕府は、その後も国防強化を推進すべく、九州地方への支配体制を強めていきます。
1274年(文永11年)に日本を攻めてきたのは、モンゴル帝国の誰で、何という戦いですか。
1274年(文永11年)に日本を攻めてきたのは、フビライ・ハンです。その戦いは「文永の役」(ぶんえいのえき)です。
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モンゴル帝国の勢力拡大と日本への襲来 1268年(文永5年)、モンゴル帝国の第5代皇帝であるフビライ・ハン(クビライ・カアン)は、高麗(こうらい:朝鮮の王朝)を通じて日本の朝廷に国交を結び、貿易を行いたい旨を記した国書を送りました。国交を求める内容ではあったものの、その最後には「国交を結ぶためには武力を用いることも辞さない」という意味にも取れる一文が添えられており、朝廷は返書を躊躇します。 同じ頃、鎌倉幕府では北条時宗(ほうじょうときむね)が8代執権に就任し、モンゴル帝国の要求を拒否する姿勢を強めました。その後もモンゴル帝国から数度にわたって使者が派遣され、そのたびに朝廷は返書を送ろうとしたものの、幕府がそれを抑え込み、国としてモンゴルとの通好関係を拒否する姿勢を変えませんでした。幕府は並行して、水面下で西国(さいごく:現在の関西・九州地方)の御家人を総動員し、モンゴル帝国の襲来に備えるため、九州地方を中心に防御体制を整え始めます。 モンゴル帝国を元王朝として再編したフビライ・ハンは、1274年(文永11年)にいよいよ日本侵攻を始めました。元と高麗の連合による30,000の軍が900隻の船に分乗し、現在の博多付近に上陸したのです。幕府は昔ながらの一騎打ちを主体とした戦法で挑み、元・高麗連合軍の火器や毒矢を駆使した集団戦法を前に苦戦しながらも、領地を奪われることなく連合軍を退散させることに成功します。「文永の役」(ぶんえいのえき)と呼ばれるこの襲来により幕府は警戒を強め、さらなる国防の強化を進めました。 北条氏への権力集中、得宗による支配の強化 1275年(建治元年)、北条時宗は元より派遣された使節を処刑し、国交を結ばないという意思を改めて表明。1279年(弘安2年)にも使節を処刑したことから、フビライ・ハンは武力による日本征服に踏み切ります。 1281年(弘安4年)、元と高麗、そして元によって滅ぼされたばかりの南宋(なんそう:1127年から1279年まで存在した中国の王朝)による総勢140,000の大軍が4,400隻の船で九州地方に押し寄せます。しかし、本格的な戦いが始まる直前、未曾有の大風雨が吹き荒れたことで元率いる連合軍の船はことごとく大損害を受け、撤退を余儀なくされました。 この「弘安の役」(こうあんのえき)と呼ばれる2度目の襲来において辛くも勝利を収めた幕府は、その後も国防強化を推進すべく、九州地方への支配体制を強めていきます。
文永の役はいつ起こりましたか。
文永の役は1274年に起こりました。
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歴史
モンゴル帝国の勢力拡大と日本への襲来 1268年(文永5年)、モンゴル帝国の第5代皇帝であるフビライ・ハン(クビライ・カアン)は、高麗(こうらい:朝鮮の王朝)を通じて日本の朝廷に国交を結び、貿易を行いたい旨を記した国書を送りました。国交を求める内容ではあったものの、その最後には「国交を結ぶためには武力を用いることも辞さない」という意味にも取れる一文が添えられており、朝廷は返書を躊躇します。 同じ頃、鎌倉幕府では北条時宗(ほうじょうときむね)が8代執権に就任し、モンゴル帝国の要求を拒否する姿勢を強めました。その後もモンゴル帝国から数度にわたって使者が派遣され、そのたびに朝廷は返書を送ろうとしたものの、幕府がそれを抑え込み、国としてモンゴルとの通好関係を拒否する姿勢を変えませんでした。幕府は並行して、水面下で西国(さいごく:現在の関西・九州地方)の御家人を総動員し、モンゴル帝国の襲来に備えるため、九州地方を中心に防御体制を整え始めます。 モンゴル帝国を元王朝として再編したフビライ・ハンは、1274年(文永11年)にいよいよ日本侵攻を始めました。元と高麗の連合による30,000の軍が900隻の船に分乗し、現在の博多付近に上陸したのです。幕府は昔ながらの一騎打ちを主体とした戦法で挑み、元・高麗連合軍の火器や毒矢を駆使した集団戦法を前に苦戦しながらも、領地を奪われることなく連合軍を退散させることに成功します。「文永の役」(ぶんえいのえき)と呼ばれるこの襲来により幕府は警戒を強め、さらなる国防の強化を進めました。 北条氏への権力集中、得宗による支配の強化 1275年(建治元年)、北条時宗は元より派遣された使節を処刑し、国交を結ばないという意思を改めて表明。1279年(弘安2年)にも使節を処刑したことから、フビライ・ハンは武力による日本征服に踏み切ります。 1281年(弘安4年)、元と高麗、そして元によって滅ぼされたばかりの南宋(なんそう:1127年から1279年まで存在した中国の王朝)による総勢140,000の大軍が4,400隻の船で九州地方に押し寄せます。しかし、本格的な戦いが始まる直前、未曾有の大風雨が吹き荒れたことで元率いる連合軍の船はことごとく大損害を受け、撤退を余儀なくされました。 この「弘安の役」(こうあんのえき)と呼ばれる2度目の襲来において辛くも勝利を収めた幕府は、その後も国防強化を推進すべく、九州地方への支配体制を強めていきます。
1281年(弘安4年)に、元と高麗、南宋が九州地方に押し寄せた戦いを何といいますか。
その戦いは、「弘安の役」(こうあんのえき)と呼ばれます。
JCRRAG_008990
歴史
モンゴル帝国の勢力拡大と日本への襲来 1268年(文永5年)、モンゴル帝国の第5代皇帝であるフビライ・ハン(クビライ・カアン)は、高麗(こうらい:朝鮮の王朝)を通じて日本の朝廷に国交を結び、貿易を行いたい旨を記した国書を送りました。国交を求める内容ではあったものの、その最後には「国交を結ぶためには武力を用いることも辞さない」という意味にも取れる一文が添えられており、朝廷は返書を躊躇します。 同じ頃、鎌倉幕府では北条時宗(ほうじょうときむね)が8代執権に就任し、モンゴル帝国の要求を拒否する姿勢を強めました。その後もモンゴル帝国から数度にわたって使者が派遣され、そのたびに朝廷は返書を送ろうとしたものの、幕府がそれを抑え込み、国としてモンゴルとの通好関係を拒否する姿勢を変えませんでした。幕府は並行して、水面下で西国(さいごく:現在の関西・九州地方)の御家人を総動員し、モンゴル帝国の襲来に備えるため、九州地方を中心に防御体制を整え始めます。 モンゴル帝国を元王朝として再編したフビライ・ハンは、1274年(文永11年)にいよいよ日本侵攻を始めました。元と高麗の連合による30,000の軍が900隻の船に分乗し、現在の博多付近に上陸したのです。幕府は昔ながらの一騎打ちを主体とした戦法で挑み、元・高麗連合軍の火器や毒矢を駆使した集団戦法を前に苦戦しながらも、領地を奪われることなく連合軍を退散させることに成功します。「文永の役」(ぶんえいのえき)と呼ばれるこの襲来により幕府は警戒を強め、さらなる国防の強化を進めました。 北条氏への権力集中、得宗による支配の強化 1275年(建治元年)、北条時宗は元より派遣された使節を処刑し、国交を結ばないという意思を改めて表明。1279年(弘安2年)にも使節を処刑したことから、フビライ・ハンは武力による日本征服に踏み切ります。 1281年(弘安4年)、元と高麗、そして元によって滅ぼされたばかりの南宋(なんそう:1127年から1279年まで存在した中国の王朝)による総勢140,000の大軍が4,400隻の船で九州地方に押し寄せます。しかし、本格的な戦いが始まる直前、未曾有の大風雨が吹き荒れたことで元率いる連合軍の船はことごとく大損害を受け、撤退を余儀なくされました。 この「弘安の役」(こうあんのえき)と呼ばれる2度目の襲来において辛くも勝利を収めた幕府は、その後も国防強化を推進すべく、九州地方への支配体制を強めていきます。
鎌倉幕府で、北条時宗(ほうじょうときむね)は何代執権ですか。
北条時宗(ほうじょうときむね)は鎌倉幕府で8代執権です。
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歴史
豊臣秀吉、天下統一までの概要 1582年(天正10年)6月、天下統一を目前にした「織田信長」が志半ばで自刃します。この「本能寺の変」のあと、いち早く動いたのが「豊臣秀吉」でした。豊臣秀吉は謀反を起こした「明智光秀」を討伐し、翌年の1583年(天正11年)には 織田氏家臣団の中で対立していた「柴田勝家」(しばたかついえ)を「賤ヶ岳の戦い」にて撃破。 1584年(天正12年)には、「小牧・長久手の戦い」で敵対した「徳川家康」と和睦すると、1587年(天正15年)までに紀伊国(現在の和歌山県、三重県南部)と四国、九州を平定します。 ほぼ天下を手中に収めた豊臣秀吉は「大坂城」(現在の大阪城)の築城にも着手。そして関白(天皇を補佐して政務を担う公家の最高官職)となって豊臣政権を樹立したのち、大名同士の争いを禁止する「惣無事令」(そうぶじれい)を発します。豊臣秀吉の天下統一までには、関東と東北地方を残すのみとなったのです。 時、関東一円を支配していたのは「北条早雲」(ほうじょうそううん)を家祖とする北条氏(後北条氏とも)でした。豊臣秀吉は、北条氏家臣の「猪俣邦憲」(いのまたくにのり)が真田氏の領土である「名胡桃城」(なぐるみじょう:現在の群馬県利根郡)を襲撃した「名胡桃城事件」が惣無事令に違反するとして、1590年(天正18年)に「小田原征伐」へ乗り出し、北条氏を滅亡させます この小田原征伐に参陣するよう命じられていたものの遅参した東北の「伊達政宗」は、減封(げんぽう:領地の削減)されますが、豊臣秀吉に恭順の意を示しました。織田信長の跡を継ぐかたちで躍進した豊臣秀吉は、主君の死からおよそ8年で天下統一を果たしたのです。
本能寺の変のあと、謀反を起こした明智光秀を討伐したのは誰ですか。
明智光秀を討伐したのは、豊臣秀吉です。
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歴史
豊臣秀吉、天下統一までの概要 1582年(天正10年)6月、天下統一を目前にした「織田信長」が志半ばで自刃します。この「本能寺の変」のあと、いち早く動いたのが「豊臣秀吉」でした。豊臣秀吉は謀反を起こした「明智光秀」を討伐し、翌年の1583年(天正11年)には 織田氏家臣団の中で対立していた「柴田勝家」(しばたかついえ)を「賤ヶ岳の戦い」にて撃破。 1584年(天正12年)には、「小牧・長久手の戦い」で敵対した「徳川家康」と和睦すると、1587年(天正15年)までに紀伊国(現在の和歌山県、三重県南部)と四国、九州を平定します。 ほぼ天下を手中に収めた豊臣秀吉は「大坂城」(現在の大阪城)の築城にも着手。そして関白(天皇を補佐して政務を担う公家の最高官職)となって豊臣政権を樹立したのち、大名同士の争いを禁止する「惣無事令」(そうぶじれい)を発します。豊臣秀吉の天下統一までには、関東と東北地方を残すのみとなったのです。 時、関東一円を支配していたのは「北条早雲」(ほうじょうそううん)を家祖とする北条氏(後北条氏とも)でした。豊臣秀吉は、北条氏家臣の「猪俣邦憲」(いのまたくにのり)が真田氏の領土である「名胡桃城」(なぐるみじょう:現在の群馬県利根郡)を襲撃した「名胡桃城事件」が惣無事令に違反するとして、1590年(天正18年)に「小田原征伐」へ乗り出し、北条氏を滅亡させます この小田原征伐に参陣するよう命じられていたものの遅参した東北の「伊達政宗」は、減封(げんぽう:領地の削減)されますが、豊臣秀吉に恭順の意を示しました。織田信長の跡を継ぐかたちで躍進した豊臣秀吉は、主君の死からおよそ8年で天下統一を果たしたのです。
豊臣秀吉が1583年に柴田勝家を撃破した戦いは何ですか。
柴田勝家を撃破した戦いは、賤ヶ岳の戦いです。
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歴史
豊臣秀吉、天下統一までの概要 1582年(天正10年)6月、天下統一を目前にした「織田信長」が志半ばで自刃します。この「本能寺の変」のあと、いち早く動いたのが「豊臣秀吉」でした。豊臣秀吉は謀反を起こした「明智光秀」を討伐し、翌年の1583年(天正11年)には 織田氏家臣団の中で対立していた「柴田勝家」(しばたかついえ)を「賤ヶ岳の戦い」にて撃破。 1584年(天正12年)には、「小牧・長久手の戦い」で敵対した「徳川家康」と和睦すると、1587年(天正15年)までに紀伊国(現在の和歌山県、三重県南部)と四国、九州を平定します。 ほぼ天下を手中に収めた豊臣秀吉は「大坂城」(現在の大阪城)の築城にも着手。そして関白(天皇を補佐して政務を担う公家の最高官職)となって豊臣政権を樹立したのち、大名同士の争いを禁止する「惣無事令」(そうぶじれい)を発します。豊臣秀吉の天下統一までには、関東と東北地方を残すのみとなったのです。 時、関東一円を支配していたのは「北条早雲」(ほうじょうそううん)を家祖とする北条氏(後北条氏とも)でした。豊臣秀吉は、北条氏家臣の「猪俣邦憲」(いのまたくにのり)が真田氏の領土である「名胡桃城」(なぐるみじょう:現在の群馬県利根郡)を襲撃した「名胡桃城事件」が惣無事令に違反するとして、1590年(天正18年)に「小田原征伐」へ乗り出し、北条氏を滅亡させます この小田原征伐に参陣するよう命じられていたものの遅参した東北の「伊達政宗」は、減封(げんぽう:領地の削減)されますが、豊臣秀吉に恭順の意を示しました。織田信長の跡を継ぐかたちで躍進した豊臣秀吉は、主君の死からおよそ8年で天下統一を果たしたのです。
豊臣秀吉が発した、大名同士の争いを禁止する法令は何ですか。
大名同士の争いを禁止する法令は、惣無事令です。
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豊臣秀吉、天下統一までの概要 1582年(天正10年)6月、天下統一を目前にした「織田信長」が志半ばで自刃します。この「本能寺の変」のあと、いち早く動いたのが「豊臣秀吉」でした。豊臣秀吉は謀反を起こした「明智光秀」を討伐し、翌年の1583年(天正11年)には 織田氏家臣団の中で対立していた「柴田勝家」(しばたかついえ)を「賤ヶ岳の戦い」にて撃破。 1584年(天正12年)には、「小牧・長久手の戦い」で敵対した「徳川家康」と和睦すると、1587年(天正15年)までに紀伊国(現在の和歌山県、三重県南部)と四国、九州を平定します。 ほぼ天下を手中に収めた豊臣秀吉は「大坂城」(現在の大阪城)の築城にも着手。そして関白(天皇を補佐して政務を担う公家の最高官職)となって豊臣政権を樹立したのち、大名同士の争いを禁止する「惣無事令」(そうぶじれい)を発します。豊臣秀吉の天下統一までには、関東と東北地方を残すのみとなったのです。 時、関東一円を支配していたのは「北条早雲」(ほうじょうそううん)を家祖とする北条氏(後北条氏とも)でした。豊臣秀吉は、北条氏家臣の「猪俣邦憲」(いのまたくにのり)が真田氏の領土である「名胡桃城」(なぐるみじょう:現在の群馬県利根郡)を襲撃した「名胡桃城事件」が惣無事令に違反するとして、1590年(天正18年)に「小田原征伐」へ乗り出し、北条氏を滅亡させます この小田原征伐に参陣するよう命じられていたものの遅参した東北の「伊達政宗」は、減封(げんぽう:領地の削減)されますが、豊臣秀吉に恭順の意を示しました。織田信長の跡を継ぐかたちで躍進した豊臣秀吉は、主君の死からおよそ8年で天下統一を果たしたのです。
豊臣秀吉が1590年に小田原征伐へ乗り出し滅亡させたのは何氏ですか。
滅亡させたのは、北条氏です。
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歴史
豊臣秀吉、天下統一までの概要 1582年(天正10年)6月、天下統一を目前にした「織田信長」が志半ばで自刃します。この「本能寺の変」のあと、いち早く動いたのが「豊臣秀吉」でした。豊臣秀吉は謀反を起こした「明智光秀」を討伐し、翌年の1583年(天正11年)には 織田氏家臣団の中で対立していた「柴田勝家」(しばたかついえ)を「賤ヶ岳の戦い」にて撃破。 1584年(天正12年)には、「小牧・長久手の戦い」で敵対した「徳川家康」と和睦すると、1587年(天正15年)までに紀伊国(現在の和歌山県、三重県南部)と四国、九州を平定します。 ほぼ天下を手中に収めた豊臣秀吉は「大坂城」(現在の大阪城)の築城にも着手。そして関白(天皇を補佐して政務を担う公家の最高官職)となって豊臣政権を樹立したのち、大名同士の争いを禁止する「惣無事令」(そうぶじれい)を発します。豊臣秀吉の天下統一までには、関東と東北地方を残すのみとなったのです。 時、関東一円を支配していたのは「北条早雲」(ほうじょうそううん)を家祖とする北条氏(後北条氏とも)でした。豊臣秀吉は、北条氏家臣の「猪俣邦憲」(いのまたくにのり)が真田氏の領土である「名胡桃城」(なぐるみじょう:現在の群馬県利根郡)を襲撃した「名胡桃城事件」が惣無事令に違反するとして、1590年(天正18年)に「小田原征伐」へ乗り出し、北条氏を滅亡させます この小田原征伐に参陣するよう命じられていたものの遅参した東北の「伊達政宗」は、減封(げんぽう:領地の削減)されますが、豊臣秀吉に恭順の意を示しました。織田信長の跡を継ぐかたちで躍進した豊臣秀吉は、主君の死からおよそ8年で天下統一を果たしたのです。
小田原征伐に参陣するよう命じられていたものの遅参したため、豊臣秀吉に減封された東北の武将は。
豊臣秀吉に減封された東北の武将は、伊達政宗です。
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歴史
豊臣政権内に火種を生んだ朝鮮出兵 天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、次の目標を中国の「明」(みん)に定めました。その手始めとして、朝鮮を支配下へ置くため1592年(天正20年/文禄元年)と1597年(慶長2年)の2度にわたって出兵。それぞれ「文禄の役」、「慶長の役」と呼ばれる朝鮮出兵は、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が病没したことにより頓挫(とんざ)します。 朝鮮出兵は、参戦した「福島正則」(ふくしままさのり)や「加藤清正」(かとうきよまさ)といった西国の大名に重い負担を強いただけでなく、「石田三成」ら豊臣秀吉の側近との間に亀裂を生じさせる結果となりました。石田三成はもともと豊臣秀吉からの命令を伝えたり、戦場からの報告を行ったりする連絡役を担っていたため、石田三成に不本意な報告をされて処罰を受ける者も多くいたからです。 実際に戦場へ出て戦う軍務担当の「武断派」と、石田三成を中心とする官僚の「文治派」との対立は、関ヶ原の戦いへと至る火種となっていきます。 徳川家康の台頭 豊臣秀吉亡きあと存在感を増す徳川家康 豊臣秀吉は病に倒れたとき、自身の後継者となる幼い「豊臣秀頼」のために、政務を担う「五大老」と、実務担当の「五奉行」という制度を定めていました。五大老には、筆頭の徳川家康や大老「前田利家」(まえだとしいえ)らが名を連ね、五奉行には石田三成らの名が挙がっています。 徳川家康 また、豊臣秀吉は大名家同士の婚姻や、知行(ちぎょう:所領の支配権)のやり取りにかかわることを禁じていました。しかし、徳川家康はこれらの取り決めには従わず、有力大名家との婚姻を進めたり、知行への関与を独断で行ったりしたのです。 こうした政権運営により徳川家康は勢力を伸ばすことになりますが、大老の前田利家には諫められ、石田三成ら五奉行からは反発されることになってしまいます。 石田三成の失脚を受け、徳川家康は豊臣政権の中枢である大坂城へ入り、政務を主導することになります。 しかし、権力を握りつつあった徳川家康の命に従わない大名がいました。それが会津(現在の福島県西部)の領主で五大老のひとりでもある「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)です。上杉景勝に謀反の意志ありと断じた徳川家康は、会津征伐を決意。1600年(慶長5年)6月には遠征のため大坂城を出立しました。 その機会を狙って挙兵したのが石田三成です。石田三成は中国地方の大大名である毛利輝元を総大将として、諸大名に呼びかけて兵を集めると、徳川家康の家臣が守っていた「伏見城」(京都府京都市伏見区)を攻撃しました。 遠征途中で石田三成挙兵の一報を受けた徳川家康は、軍議を開き、会津征伐を中止して石田三成の軍と戦うことを決定。自軍の大半を西へ戻す中、徳川家康自身は一旦領地の江戸へ寄り、西国の大名や家臣へ向けて多くの手紙を書き、根回ししていたとされています。
豊臣秀吉が朝鮮出兵した1592年(天正20年/文禄元年)の戦いは何で、また、1597年(慶長2年)の戦いは何か。
1592年の戦いは、文禄の役、1597年(慶長2年)の戦いは慶長の役です。
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歴史
豊臣政権内に火種を生んだ朝鮮出兵 天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、次の目標を中国の「明」(みん)に定めました。その手始めとして、朝鮮を支配下へ置くため1592年(天正20年/文禄元年)と1597年(慶長2年)の2度にわたって出兵。それぞれ「文禄の役」、「慶長の役」と呼ばれる朝鮮出兵は、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が病没したことにより頓挫(とんざ)します。 朝鮮出兵は、参戦した「福島正則」(ふくしままさのり)や「加藤清正」(かとうきよまさ)といった西国の大名に重い負担を強いただけでなく、「石田三成」ら豊臣秀吉の側近との間に亀裂を生じさせる結果となりました。石田三成はもともと豊臣秀吉からの命令を伝えたり、戦場からの報告を行ったりする連絡役を担っていたため、石田三成に不本意な報告をされて処罰を受ける者も多くいたからです。 実際に戦場へ出て戦う軍務担当の「武断派」と、石田三成を中心とする官僚の「文治派」との対立は、関ヶ原の戦いへと至る火種となっていきます。 徳川家康の台頭 豊臣秀吉亡きあと存在感を増す徳川家康 豊臣秀吉は病に倒れたとき、自身の後継者となる幼い「豊臣秀頼」のために、政務を担う「五大老」と、実務担当の「五奉行」という制度を定めていました。五大老には、筆頭の徳川家康や大老「前田利家」(まえだとしいえ)らが名を連ね、五奉行には石田三成らの名が挙がっています。 徳川家康 また、豊臣秀吉は大名家同士の婚姻や、知行(ちぎょう:所領の支配権)のやり取りにかかわることを禁じていました。しかし、徳川家康はこれらの取り決めには従わず、有力大名家との婚姻を進めたり、知行への関与を独断で行ったりしたのです。 こうした政権運営により徳川家康は勢力を伸ばすことになりますが、大老の前田利家には諫められ、石田三成ら五奉行からは反発されることになってしまいます。 石田三成の失脚を受け、徳川家康は豊臣政権の中枢である大坂城へ入り、政務を主導することになります。 しかし、権力を握りつつあった徳川家康の命に従わない大名がいました。それが会津(現在の福島県西部)の領主で五大老のひとりでもある「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)です。上杉景勝に謀反の意志ありと断じた徳川家康は、会津征伐を決意。1600年(慶長5年)6月には遠征のため大坂城を出立しました。 その機会を狙って挙兵したのが石田三成です。石田三成は中国地方の大大名である毛利輝元を総大将として、諸大名に呼びかけて兵を集めると、徳川家康の家臣が守っていた「伏見城」(京都府京都市伏見区)を攻撃しました。 遠征途中で石田三成挙兵の一報を受けた徳川家康は、軍議を開き、会津征伐を中止して石田三成の軍と戦うことを決定。自軍の大半を西へ戻す中、徳川家康自身は一旦領地の江戸へ寄り、西国の大名や家臣へ向けて多くの手紙を書き、根回ししていたとされています。
豊臣秀吉が定めた政務を担う役職は何か。
政務を担う役職は、五大老です。
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豊臣政権内に火種を生んだ朝鮮出兵 天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、次の目標を中国の「明」(みん)に定めました。その手始めとして、朝鮮を支配下へ置くため1592年(天正20年/文禄元年)と1597年(慶長2年)の2度にわたって出兵。それぞれ「文禄の役」、「慶長の役」と呼ばれる朝鮮出兵は、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が病没したことにより頓挫(とんざ)します。 朝鮮出兵は、参戦した「福島正則」(ふくしままさのり)や「加藤清正」(かとうきよまさ)といった西国の大名に重い負担を強いただけでなく、「石田三成」ら豊臣秀吉の側近との間に亀裂を生じさせる結果となりました。石田三成はもともと豊臣秀吉からの命令を伝えたり、戦場からの報告を行ったりする連絡役を担っていたため、石田三成に不本意な報告をされて処罰を受ける者も多くいたからです。 実際に戦場へ出て戦う軍務担当の「武断派」と、石田三成を中心とする官僚の「文治派」との対立は、関ヶ原の戦いへと至る火種となっていきます。 徳川家康の台頭 豊臣秀吉亡きあと存在感を増す徳川家康 豊臣秀吉は病に倒れたとき、自身の後継者となる幼い「豊臣秀頼」のために、政務を担う「五大老」と、実務担当の「五奉行」という制度を定めていました。五大老には、筆頭の徳川家康や大老「前田利家」(まえだとしいえ)らが名を連ね、五奉行には石田三成らの名が挙がっています。 徳川家康 また、豊臣秀吉は大名家同士の婚姻や、知行(ちぎょう:所領の支配権)のやり取りにかかわることを禁じていました。しかし、徳川家康はこれらの取り決めには従わず、有力大名家との婚姻を進めたり、知行への関与を独断で行ったりしたのです。 こうした政権運営により徳川家康は勢力を伸ばすことになりますが、大老の前田利家には諫められ、石田三成ら五奉行からは反発されることになってしまいます。 石田三成の失脚を受け、徳川家康は豊臣政権の中枢である大坂城へ入り、政務を主導することになります。 しかし、権力を握りつつあった徳川家康の命に従わない大名がいました。それが会津(現在の福島県西部)の領主で五大老のひとりでもある「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)です。上杉景勝に謀反の意志ありと断じた徳川家康は、会津征伐を決意。1600年(慶長5年)6月には遠征のため大坂城を出立しました。 その機会を狙って挙兵したのが石田三成です。石田三成は中国地方の大大名である毛利輝元を総大将として、諸大名に呼びかけて兵を集めると、徳川家康の家臣が守っていた「伏見城」(京都府京都市伏見区)を攻撃しました。 遠征途中で石田三成挙兵の一報を受けた徳川家康は、軍議を開き、会津征伐を中止して石田三成の軍と戦うことを決定。自軍の大半を西へ戻す中、徳川家康自身は一旦領地の江戸へ寄り、西国の大名や家臣へ向けて多くの手紙を書き、根回ししていたとされています。
豊臣秀吉が定めた実務を担う役職は何か。
実務を担う役職は、五奉行です。
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歴史
豊臣政権内に火種を生んだ朝鮮出兵 天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、次の目標を中国の「明」(みん)に定めました。その手始めとして、朝鮮を支配下へ置くため1592年(天正20年/文禄元年)と1597年(慶長2年)の2度にわたって出兵。それぞれ「文禄の役」、「慶長の役」と呼ばれる朝鮮出兵は、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が病没したことにより頓挫(とんざ)します。 朝鮮出兵は、参戦した「福島正則」(ふくしままさのり)や「加藤清正」(かとうきよまさ)といった西国の大名に重い負担を強いただけでなく、「石田三成」ら豊臣秀吉の側近との間に亀裂を生じさせる結果となりました。石田三成はもともと豊臣秀吉からの命令を伝えたり、戦場からの報告を行ったりする連絡役を担っていたため、石田三成に不本意な報告をされて処罰を受ける者も多くいたからです。 実際に戦場へ出て戦う軍務担当の「武断派」と、石田三成を中心とする官僚の「文治派」との対立は、関ヶ原の戦いへと至る火種となっていきます。 徳川家康の台頭 豊臣秀吉亡きあと存在感を増す徳川家康 豊臣秀吉は病に倒れたとき、自身の後継者となる幼い「豊臣秀頼」のために、政務を担う「五大老」と、実務担当の「五奉行」という制度を定めていました。五大老には、筆頭の徳川家康や大老「前田利家」(まえだとしいえ)らが名を連ね、五奉行には石田三成らの名が挙がっています。 徳川家康 また、豊臣秀吉は大名家同士の婚姻や、知行(ちぎょう:所領の支配権)のやり取りにかかわることを禁じていました。しかし、徳川家康はこれらの取り決めには従わず、有力大名家との婚姻を進めたり、知行への関与を独断で行ったりしたのです。 こうした政権運営により徳川家康は勢力を伸ばすことになりますが、大老の前田利家には諫められ、石田三成ら五奉行からは反発されることになってしまいます。 石田三成の失脚を受け、徳川家康は豊臣政権の中枢である大坂城へ入り、政務を主導することになります。 しかし、権力を握りつつあった徳川家康の命に従わない大名がいました。それが会津(現在の福島県西部)の領主で五大老のひとりでもある「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)です。上杉景勝に謀反の意志ありと断じた徳川家康は、会津征伐を決意。1600年(慶長5年)6月には遠征のため大坂城を出立しました。 その機会を狙って挙兵したのが石田三成です。石田三成は中国地方の大大名である毛利輝元を総大将として、諸大名に呼びかけて兵を集めると、徳川家康の家臣が守っていた「伏見城」(京都府京都市伏見区)を攻撃しました。 遠征途中で石田三成挙兵の一報を受けた徳川家康は、軍議を開き、会津征伐を中止して石田三成の軍と戦うことを決定。自軍の大半を西へ戻す中、徳川家康自身は一旦領地の江戸へ寄り、西国の大名や家臣へ向けて多くの手紙を書き、根回ししていたとされています。
石田三成の失脚を受け、豊臣政権の中枢である大坂城へ入り、政務を主導したのは誰ですか。
政務を主導したのは、徳川家康です。
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歴史
豊臣政権内に火種を生んだ朝鮮出兵 天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、次の目標を中国の「明」(みん)に定めました。その手始めとして、朝鮮を支配下へ置くため1592年(天正20年/文禄元年)と1597年(慶長2年)の2度にわたって出兵。それぞれ「文禄の役」、「慶長の役」と呼ばれる朝鮮出兵は、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が病没したことにより頓挫(とんざ)します。 朝鮮出兵は、参戦した「福島正則」(ふくしままさのり)や「加藤清正」(かとうきよまさ)といった西国の大名に重い負担を強いただけでなく、「石田三成」ら豊臣秀吉の側近との間に亀裂を生じさせる結果となりました。石田三成はもともと豊臣秀吉からの命令を伝えたり、戦場からの報告を行ったりする連絡役を担っていたため、石田三成に不本意な報告をされて処罰を受ける者も多くいたからです。 実際に戦場へ出て戦う軍務担当の「武断派」と、石田三成を中心とする官僚の「文治派」との対立は、関ヶ原の戦いへと至る火種となっていきます。 徳川家康の台頭 豊臣秀吉亡きあと存在感を増す徳川家康 豊臣秀吉は病に倒れたとき、自身の後継者となる幼い「豊臣秀頼」のために、政務を担う「五大老」と、実務担当の「五奉行」という制度を定めていました。五大老には、筆頭の徳川家康や大老「前田利家」(まえだとしいえ)らが名を連ね、五奉行には石田三成らの名が挙がっています。 徳川家康 また、豊臣秀吉は大名家同士の婚姻や、知行(ちぎょう:所領の支配権)のやり取りにかかわることを禁じていました。しかし、徳川家康はこれらの取り決めには従わず、有力大名家との婚姻を進めたり、知行への関与を独断で行ったりしたのです。 こうした政権運営により徳川家康は勢力を伸ばすことになりますが、大老の前田利家には諫められ、石田三成ら五奉行からは反発されることになってしまいます。 石田三成の失脚を受け、徳川家康は豊臣政権の中枢である大坂城へ入り、政務を主導することになります。 しかし、権力を握りつつあった徳川家康の命に従わない大名がいました。それが会津(現在の福島県西部)の領主で五大老のひとりでもある「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)です。上杉景勝に謀反の意志ありと断じた徳川家康は、会津征伐を決意。1600年(慶長5年)6月には遠征のため大坂城を出立しました。 その機会を狙って挙兵したのが石田三成です。石田三成は中国地方の大大名である毛利輝元を総大将として、諸大名に呼びかけて兵を集めると、徳川家康の家臣が守っていた「伏見城」(京都府京都市伏見区)を攻撃しました。 遠征途中で石田三成挙兵の一報を受けた徳川家康は、軍議を開き、会津征伐を中止して石田三成の軍と戦うことを決定。自軍の大半を西へ戻す中、徳川家康自身は一旦領地の江戸へ寄り、西国の大名や家臣へ向けて多くの手紙を書き、根回ししていたとされています。
毛利輝元を総大将として、諸大名に呼びかけて兵を集め、徳川家康の家臣が守っていた伏見城を攻撃したのは誰ですか。
伏見城を攻撃したのは、石田三成です。