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Question
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JCRRAG_000901
金融
Q. 住宅ローン減税と繰上返済、どちらを優先させた方がいいですか? 〈私、悩んでいます〉 2021年に3,000万円を借り入れ、新築マンションを購入しました。しかし、返済期間が35年と長いため、繰上返済で返済期間を縮めたいと考えています。ただ、住宅ローン減税の期間中に行うと控除額も減ってしまいます。やはり、繰上返済を行う時期は、控除期間の終了以降がいいのでしょうか? (男性/36歳) ファイナンシャル・プランナーからのアドバイス 住宅ローン減税期間中に繰上返済を実施した方が有利か否かは、ほぼ金利で決まる 実際にどちらを優先させるかは金融機関等に相談することがおすすめ 無理な繰上返済は避け、原資はあくまで余裕資金から 住宅ローン減税の仕組み 住宅ローン減税(住宅借入金等特別控除)は、一定の要件を満たしていれば、ローンの支払い開始から10年間、年末の住宅ローン残高の1%(一般住宅で上限40万円、100円未満は切り捨て)が所得税から控除されるというもの。
住宅ローン減税期間中に繰上返済を実施したほうが有利か否かは、何で決まりますか?
住宅ローン減税期間中に繰上返済を実施したほうが有利か否かは、ほぼ金利で決まります。
JCRRAG_000902
金融
Q. 住宅ローン減税と繰上返済、どちらを優先させた方がいいですか? 〈私、悩んでいます〉 2021年に3,000万円を借り入れ、新築マンションを購入しました。しかし、返済期間が35年と長いため、繰上返済で返済期間を縮めたいと考えています。ただ、住宅ローン減税の期間中に行うと控除額も減ってしまいます。やはり、繰上返済を行う時期は、控除期間の終了以降がいいのでしょうか? (男性/36歳) ファイナンシャル・プランナーからのアドバイス 住宅ローン減税期間中に繰上返済を実施した方が有利か否かは、ほぼ金利で決まる 実際にどちらを優先させるかは金融機関等に相談することがおすすめ 無理な繰上返済は避け、原資はあくまで余裕資金から 住宅ローン減税の仕組み 住宅ローン減税(住宅借入金等特別控除)は、一定の要件を満たしていれば、ローンの支払い開始から10年間、年末の住宅ローン残高の1%(一般住宅で上限40万円、100円未満は切り捨て)が所得税から控除されるというもの。
住宅ローン減税(住宅借入金等特別控除)は、何税金から控除されるものですか?
住宅ローン減税(住宅借入金等特別控除)は、所得税から控除されるものです。
JCRRAG_000903
国語
学問上の閲歴のようなものを書けという『思想』の編輯部からの話があった。これまでもあちこちから同じことをしばしば勧められたが、いつも書く気になれなかった。人に語るほどの閲歴もないし、久しい前のことは記憶もはっきりせず、その上に、じぶんのことを書くのは書きにくくもあるので、筆をとりかねたのである。それに、ぼくがいくらか学問上のしごとをしたとするにしても、その大部分は一般の学界とは殆どかかりあいのないものであったから、ぼくの閲歴はぼくだけの閲歴であって、それによって学界の動向などが知られるわけでもなく、従ってそれを書くことに大した意味はない、という理由もあった。しかし書かないことを固執するにも及ぶまいから、思い出されることを思い出すままに少しばかり書いてみることにする。  学問上の論文らしいものを書いたのは明治時代の末からであるが、書物の形でそれを公にしたのは、『朝鮮歴史地理』と『神代史の新しい研究』とがはじめであって、何れも大正二(一九一三)年の出版である。しかし、かなり前から長い間かかってしたしごとをまとめたものは、大正五(一九一六)年から十(一九二一)年までに四巻を出した『文学に現はれたる我が国民思想の研究』である。それから後にも、『古事記』や『書紀』についての考や日本の上代史上のいくつかの問題を取扱ったものを書いたことはあるが、大正時代の末ころから後のおもな著作は、シナ思想に関するものであって、初から単行本で出したものもあるが、その多くは、『東洋学報』とか『東洋文庫論叢』とか、または東大文学部出版の名義になっている『満鮮地理歴史研究報告』とか、または早大のぼくの研究室から出した『東洋思想研究』とか、そういうもので発表した。それで、どうしてこういうようなしごとをするようになったかということであるが、それには『国民思想の研究』のことから始めるのが便宜であろう。 『国民思想の研究』という書名は、出版まぎわにつけたものであるし、ああいう形でああいうものを書こうという構想のほぼまとまったのも、大正のはじめのころであったろうと思うが、手をつけはじめたのは、それよりも十二、三年前のことである。たしか明治三十三(一九〇〇)年であったように記憶するが、その前の二、三年ほどの間、地方の中学の教師をしていたのを、この年に東京に帰って獨逸学協会学校につとめることになった。同じようなしごとではあるが、いくらか新しい気分にもなったので、この機会に明治維新のことを、主として思想の方面について、少し考えてみようと思いついた。どうしてそういうことを思いついたかは忘れたが、フクチ オウチの『幕府衰亡論』、キムラ カイシュウの『三十年史』、タナベ レンシュウの『幕末外交談』、その他、旧幕臣たちの著書を読んでいたので、それに誘われたところがあったのであろうか。トガワという人の『幕末小史』や『旧幕府』という月刊雑誌の出たのも、このころであったかと思うが、もしそうならば、それらもいくらかの刺戟になったかも知れぬ。あるいはまたいわゆる勤王論のような立ちばからのみ維新を考えることに物足らぬ感じを、前からもっていたようにも思われるので、そういうことから導かれたところがあったかとも考えられる。何れにしても、じぶんのことながらはっきりは思い出されぬ。それはともかくも、そのころには幕末期における幕府のしごと、特にヨウロッパの文物を学び取ろうとして努力したことに、最も多く興味がひかれ、その方面に関係のある書物で手に入り易いものをいろいろ読んでみた。ところが、何につけても疑問が起って、わからないことばかり出て来た。そうして、もっと広くその時代の、また溯ってエド時代の初期からの、文化上社会上の情勢を知らなくては、小さい疑問も解けないことに、だんだん気がついて来た。それで、そういうことを知るために役にたちそうな書物を何によらず読んでみることにしたが、そのころには、版本でも現代式の活字本の覆刻が少ししかできていず、また写本のままで伝わっているものが多かったので、読みたいものを手がるに手に入れることができなかった。勿論、珍本とか人の知らないようなものとかも読もうとしたのではなく、だれでも一応は読むべきはずの、ごくありふれた本を見ようとしたのであるが、貧乏生活をしていたので、そういう書物を買う余裕すらもなかったのである。それで、ウエノの図書館を利用する外に方法がないと思い、学校から帰ると、夜にかけて、殆ど毎日のようにそこに通った。三十三年から三十六年ころまでそれが続いたように思う。図書館が音楽学校の前にあって、小さな木造の閲覧室をもっていたころのことである。ただいわゆるエド文学に関するものは、活字の覆刻本がかなり出ていたので、そういうものだけはどうかこうかじぶんの書物でまにあわせることができた。  ここでしばらくこの時から十年あまり前のことをふりかえってみる。ぼくは明治二十三(一八九〇)年に東京に出て来て、今の早大の前身である東京専門学校の政治科に入り、一年半ばかりいて、翌二十四年にそこを卒業したことになっている。数え年で十八、九の時であったし、そのころの学校も学校であったから、学問というようなことは何もわからなかった。ところが、そのころ博文館から『日本文学全書』というものが出、版元は忘れたが近松や西鶴芭蕉などの廉価な覆刻本もいくらかずつ現われて来たので、そういうものをぼつぼつ読んでいるうちに、学校の講義などよりはその方がずっとおもしろくなった。それからひきつづいて『日本歌学全書』というものも出版せられるようになり、『源氏』の『湖月抄』もオオサカあたりの書林からか出たので、それらをつぎつぎに読んでいった。これは二十五、六年ころのことであったろうか。独りでかってに読んだのだから、わからぬところもあり、誤解していることも多かったであろうが、とにかくこういうようにして、いろいろの古典やエド時代の文学を少しばかりのぞいて見ることができた。宣長の『古訓古事記』や『書紀』の本文を始めて読んだのも同じころであったが、今から思うと、これらは何のことかわからずに読むことだけをしたものらしい。ぼくは日本の古典などの講義をだれからもきいたことがない。シナのも、小学校時代の外は、同様である。人に交わることが殆どなかったので、こういうことについて話しあう友人というようなものも有もたなかった。ただかねてから『国民之友』とか『日本人』とかいうような雑誌は見ていたし、文学雑誌では鴎外の『しがらみ草紙』を特に愛読していたので、そういうものが、古典などを読むにも、おのずから何ほどかの助けとなったであろう。
大正時代の末ころから後のおもな著作は何ですか。
おもな著作はシナ思想に関するものです。
JCRRAG_000904
国語
 学問上の閲歴のようなものを書けという『思想』の編輯部からの話があった。これまでもあちこちから同じことをしばしば勧められたが、いつも書く気になれなかった。人に語るほどの閲歴もないし、久しい前のことは記憶もはっきりせず、その上に、じぶんのことを書くのは書きにくくもあるので、筆をとりかねたのである。それに、ぼくがいくらか学問上のしごとをしたとするにしても、その大部分は一般の学界とは殆どかかりあいのないものであったから、ぼくの閲歴はぼくだけの閲歴であって、それによって学界の動向などが知られるわけでもなく、従ってそれを書くことに大した意味はない、という理由もあった。しかし書かないことを固執するにも及ぶまいから、思い出されることを思い出すままに少しばかり書いてみることにする。  学問上の論文らしいものを書いたのは明治時代の末からであるが、書物の形でそれを公にしたのは、『朝鮮歴史地理』と『神代史の新しい研究』とがはじめであって、何れも大正二(一九一三)年の出版である。しかし、かなり前から長い間かかってしたしごとをまとめたものは、大正五(一九一六)年から十(一九二一)年までに四巻を出した『文学に現はれたる我が国民思想の研究』である。それから後にも、『古事記』や『書紀』についての考や日本の上代史上のいくつかの問題を取扱ったものを書いたことはあるが、大正時代の末ころから後のおもな著作は、シナ思想に関するものであって、初から単行本で出したものもあるが、その多くは、『東洋学報』とか『東洋文庫論叢』とか、または東大文学部出版の名義になっている『満鮮地理歴史研究報告』とか、または早大のぼくの研究室から出した『東洋思想研究』とか、そういうもので発表した。それで、どうしてこういうようなしごとをするようになったかということであるが、それには『国民思想の研究』のことから始めるのが便宜であろう。 『国民思想の研究』という書名は、出版まぎわにつけたものであるし、ああいう形でああいうものを書こうという構想のほぼまとまったのも、大正のはじめのころであったろうと思うが、手をつけはじめたのは、それよりも十二、三年前のことである。たしか明治三十三(一九〇〇)年であったように記憶するが、その前の二、三年ほどの間、地方の中学の教師をしていたのを、この年に東京に帰って獨逸学協会学校につとめることになった。同じようなしごとではあるが、いくらか新しい気分にもなったので、この機会に明治維新のことを、主として思想の方面について、少し考えてみようと思いついた。どうしてそういうことを思いついたかは忘れたが、フクチ オウチの『幕府衰亡論』、キムラ カイシュウの『三十年史』、タナベ レンシュウの『幕末外交談』、その他、旧幕臣たちの著書を読んでいたので、それに誘われたところがあったのであろうか。トガワという人の『幕末小史』や『旧幕府』という月刊雑誌の出たのも、このころであったかと思うが、もしそうならば、それらもいくらかの刺戟になったかも知れぬ。あるいはまたいわゆる勤王論のような立ちばからのみ維新を考えることに物足らぬ感じを、前からもっていたようにも思われるので、そういうことから導かれたところがあったかとも考えられる。何れにしても、じぶんのことながらはっきりは思い出されぬ。それはともかくも、そのころには幕末期における幕府のしごと、特にヨウロッパの文物を学び取ろうとして努力したことに、最も多く興味がひかれ、その方面に関係のある書物で手に入り易いものをいろいろ読んでみた。ところが、何につけても疑問が起って、わからないことばかり出て来た。そうして、もっと広くその時代の、また溯ってエド時代の初期からの、文化上社会上の情勢を知らなくては、小さい疑問も解けないことに、だんだん気がついて来た。それで、そういうことを知るために役にたちそうな書物を何によらず読んでみることにしたが、そのころには、版本でも現代式の活字本の覆刻が少ししかできていず、また写本のままで伝わっているものが多かったので、読みたいものを手がるに手に入れることができなかった。勿論、珍本とか人の知らないようなものとかも読もうとしたのではなく、だれでも一応は読むべきはずの、ごくありふれた本を見ようとしたのであるが、貧乏生活をしていたので、そういう書物を買う余裕すらもなかったのである。それで、ウエノの図書館を利用する外に方法がないと思い、学校から帰ると、夜にかけて、殆ど毎日のようにそこに通った。三十三年から三十六年ころまでそれが続いたように思う。図書館が音楽学校の前にあって、小さな木造の閲覧室をもっていたころのことである。ただいわゆるエド文学に関するものは、活字の覆刻本がかなり出ていたので、そういうものだけはどうかこうかじぶんの書物でまにあわせることができた。  ここでしばらくこの時から十年あまり前のことをふりかえってみる。ぼくは明治二十三(一八九〇)年に東京に出て来て、今の早大の前身である東京専門学校の政治科に入り、一年半ばかりいて、翌二十四年にそこを卒業したことになっている。数え年で十八、九の時であったし、そのころの学校も学校であったから、学問というようなことは何もわからなかった。ところが、そのころ博文館から『日本文学全書』というものが出、版元は忘れたが近松や西鶴芭蕉などの廉価な覆刻本もいくらかずつ現われて来たので、そういうものをぼつぼつ読んでいるうちに、学校の講義などよりはその方がずっとおもしろくなった。それからひきつづいて『日本歌学全書』というものも出版せられるようになり、『源氏』の『湖月抄』もオオサカあたりの書林からか出たので、それらをつぎつぎに読んでいった。これは二十五、六年ころのことであったろうか。独りでかってに読んだのだから、わからぬところもあり、誤解していることも多かったであろうが、とにかくこういうようにして、いろいろの古典やエド時代の文学を少しばかりのぞいて見ることができた。宣長の『古訓古事記』や『書紀』の本文を始めて読んだのも同じころであったが、今から思うと、これらは何のことかわからずに読むことだけをしたものらしい。ぼくは日本の古典などの講義をだれからもきいたことがない。シナのも、小学校時代の外は、同様である。人に交わることが殆どなかったので、こういうことについて話しあう友人というようなものも有もたなかった。ただかねてから『国民之友』とか『日本人』とかいうような雑誌は見ていたし、文学雑誌では鴎外の『しがらみ草紙』を特に愛読していたので、そういうものが、古典などを読むにも、おのずから何ほどかの助けとなったであろう。
学問上の論文らしいものを書いたのはいつ頃からですか。
明治時代の末からです。
JCRRAG_000905
国語
 学問上の閲歴のようなものを書けという『思想』の編輯部からの話があった。これまでもあちこちから同じことをしばしば勧められたが、いつも書く気になれなかった。人に語るほどの閲歴もないし、久しい前のことは記憶もはっきりせず、その上に、じぶんのことを書くのは書きにくくもあるので、筆をとりかねたのである。それに、ぼくがいくらか学問上のしごとをしたとするにしても、その大部分は一般の学界とは殆どかかりあいのないものであったから、ぼくの閲歴はぼくだけの閲歴であって、それによって学界の動向などが知られるわけでもなく、従ってそれを書くことに大した意味はない、という理由もあった。しかし書かないことを固執するにも及ぶまいから、思い出されることを思い出すままに少しばかり書いてみることにする。  学問上の論文らしいものを書いたのは明治時代の末からであるが、書物の形でそれを公にしたのは、『朝鮮歴史地理』と『神代史の新しい研究』とがはじめであって、何れも大正二(一九一三)年の出版である。しかし、かなり前から長い間かかってしたしごとをまとめたものは、大正五(一九一六)年から十(一九二一)年までに四巻を出した『文学に現はれたる我が国民思想の研究』である。それから後にも、『古事記』や『書紀』についての考や日本の上代史上のいくつかの問題を取扱ったものを書いたことはあるが、大正時代の末ころから後のおもな著作は、シナ思想に関するものであって、初から単行本で出したものもあるが、その多くは、『東洋学報』とか『東洋文庫論叢』とか、または東大文学部出版の名義になっている『満鮮地理歴史研究報告』とか、または早大のぼくの研究室から出した『東洋思想研究』とか、そういうもので発表した。それで、どうしてこういうようなしごとをするようになったかということであるが、それには『国民思想の研究』のことから始めるのが便宜であろう。 『国民思想の研究』という書名は、出版まぎわにつけたものであるし、ああいう形でああいうものを書こうという構想のほぼまとまったのも、大正のはじめのころであったろうと思うが、手をつけはじめたのは、それよりも十二、三年前のことである。たしか明治三十三(一九〇〇)年であったように記憶するが、その前の二、三年ほどの間、地方の中学の教師をしていたのを、この年に東京に帰って獨逸学協会学校につとめることになった。同じようなしごとではあるが、いくらか新しい気分にもなったので、この機会に明治維新のことを、主として思想の方面について、少し考えてみようと思いついた。どうしてそういうことを思いついたかは忘れたが、フクチ オウチの『幕府衰亡論』、キムラ カイシュウの『三十年史』、タナベ レンシュウの『幕末外交談』、その他、旧幕臣たちの著書を読んでいたので、それに誘われたところがあったのであろうか。トガワという人の『幕末小史』や『旧幕府』という月刊雑誌の出たのも、このころであったかと思うが、もしそうならば、それらもいくらかの刺戟になったかも知れぬ。あるいはまたいわゆる勤王論のような立ちばからのみ維新を考えることに物足らぬ感じを、前からもっていたようにも思われるので、そういうことから導かれたところがあったかとも考えられる。何れにしても、じぶんのことながらはっきりは思い出されぬ。それはともかくも、そのころには幕末期における幕府のしごと、特にヨウロッパの文物を学び取ろうとして努力したことに、最も多く興味がひかれ、その方面に関係のある書物で手に入り易いものをいろいろ読んでみた。ところが、何につけても疑問が起って、わからないことばかり出て来た。そうして、もっと広くその時代の、また溯ってエド時代の初期からの、文化上社会上の情勢を知らなくては、小さい疑問も解けないことに、だんだん気がついて来た。それで、そういうことを知るために役にたちそうな書物を何によらず読んでみることにしたが、そのころには、版本でも現代式の活字本の覆刻が少ししかできていず、また写本のままで伝わっているものが多かったので、読みたいものを手がるに手に入れることができなかった。勿論、珍本とか人の知らないようなものとかも読もうとしたのではなく、だれでも一応は読むべきはずの、ごくありふれた本を見ようとしたのであるが、貧乏生活をしていたので、そういう書物を買う余裕すらもなかったのである。それで、ウエノの図書館を利用する外に方法がないと思い、学校から帰ると、夜にかけて、殆ど毎日のようにそこに通った。三十三年から三十六年ころまでそれが続いたように思う。図書館が音楽学校の前にあって、小さな木造の閲覧室をもっていたころのことである。ただいわゆるエド文学に関するものは、活字の覆刻本がかなり出ていたので、そういうものだけはどうかこうかじぶんの書物でまにあわせることができた。  ここでしばらくこの時から十年あまり前のことをふりかえってみる。ぼくは明治二十三(一八九〇)年に東京に出て来て、今の早大の前身である東京専門学校の政治科に入り、一年半ばかりいて、翌二十四年にそこを卒業したことになっている。数え年で十八、九の時であったし、そのころの学校も学校であったから、学問というようなことは何もわからなかった。ところが、そのころ博文館から『日本文学全書』というものが出、版元は忘れたが近松や西鶴芭蕉などの廉価な覆刻本もいくらかずつ現われて来たので、そういうものをぼつぼつ読んでいるうちに、学校の講義などよりはその方がずっとおもしろくなった。それからひきつづいて『日本歌学全書』というものも出版せられるようになり、『源氏』の『湖月抄』もオオサカあたりの書林からか出たので、それらをつぎつぎに読んでいった。これは二十五、六年ころのことであったろうか。独りでかってに読んだのだから、わからぬところもあり、誤解していることも多かったであろうが、とにかくこういうようにして、いろいろの古典やエド時代の文学を少しばかりのぞいて見ることができた。宣長の『古訓古事記』や『書紀』の本文を始めて読んだのも同じころであったが、今から思うと、これらは何のことかわからずに読むことだけをしたものらしい。ぼくは日本の古典などの講義をだれからもきいたことがない。シナのも、小学校時代の外は、同様である。人に交わることが殆どなかったので、こういうことについて話しあう友人というようなものも有もたなかった。ただかねてから『国民之友』とか『日本人』とかいうような雑誌は見ていたし、文学雑誌では鴎外の『しがらみ草紙』を特に愛読していたので、そういうものが、古典などを読むにも、おのずから何ほどかの助けとなったであろう。
『国民思想の研究』に手をつけはじめたのはいつ頃ですか。
『国民思想の研究』に手をつけはじめたのは明治三十三(一九〇〇)年であったようです。
JCRRAG_000906
国語
 弥勒まではそこからまだ十町ほどある。  三田ヶ谷村といっても、一ところに人家がかたまっているわけではなかった。そこに一軒、かしこに一軒、杉の森の陰に三四軒、野の畠はたの向こうに一軒というふうで、町から来てみると、なんだかこれでも村という共同の生活をしているのかと疑われた。けれど少し行くと、人家が両側に並び出して、汚ない理髪店、だるまでもいそうな料理店、子供の集まった駄菓子屋などが眼にとまった。ふと見ると平家ひらや造りの小学校がその右にあって、門に三田ヶ谷村弥勒高等尋常小学校と書いた古びた札がかかっている。授業中で、学童の誦読の声に交って、おりおり教師の甲走った高い声が聞こえる。埃に汚よごれた硝子窓には日が当たって、ところどころ生徒の並んでいるさまや、黒板やテーブルや洋服姿などがかすかにすかして見える。出ではいりの時に生徒でいっぱいになる下駄箱のあたりも今はしんとして、広場には白斑の犬がのそのそと餌をあさっていた。  オルガンの音がかすかに講堂とおぼしきあたりから聞こえて来る。  学校の門前を車は通り抜けた。そこに傘屋があった。家中を油紙やしぶ皿や糸や道具などで散らかして、そのまんなかに五十ぐらいの中爺がせっせと傘を張っていた。家のまわりには油を布しいた傘のまだ乾かわかないのが幾本となく干ほしつらねてある。清三は車をとどめて、役場のあるところをこの中爺にたずねた。  弥勒には小川屋という料理屋があって、学校の教員が宴会をしたり飲み食いに行ったりするということをかねて聞いていた。当分はその料理屋で賄まかないもしてくれるし、夜具も貸してくれるとも聞いた。そこにはお種たねというきれいな評判な娘もいるという。清三はあたりに人がいなかったのをさいわい、通りがかりの足をとどめて、低い垣から庭をのぞいてみた。庭には松が二三本、桜の葉になったのが一二本、障子の黒いのがことにきわだって眼についた。  垣の隅には椿と珊瑚樹との厚い緑の葉が日を受けていた。椿には花がまだ二つ三つ葉がくれに残って見える。  このへんの名物だという赤城おろしも、四月にはいるとまったくやんで、今は野も緑と黄と赤とで美しくいろどられた。麦の畑を貫つらぬいた細い道は、向こうに見えるひょろ長い榛の並木に通じて、その間から役場らしい藁葺屋根が水彩画のように見渡される。  応接室は井泉村役場の応接室よりもきれいであった。そこからは吏員の事務をとっている室が硝子窓をとおしてはっきりと見えた。卓テーブルの上には戸籍台帳やら、収税帳やら、願届を一まとめにした書類やらが秩序よく置かれて、頭を分けたやせぎすの二十四五の男と五十ぐらいの頭のはげた爺とが何かせっせと書いていた。助役らしい鬚の生はえた中年者と土地の勢力家らしい肥った百姓とがしきりに何か笑いながら話していたが、おりおり煙管をトントンとたたく。  村長は四十五ぐらいで、痘痕面で、頭はなかば白かった。ここあたりによく見るタイプで、言葉には時々武州訛が交る。井泉村の助役の手紙を読んで、巻き返して、「私は視学からも助役からもそういう話は聞かなかったが……」と頭を傾かたむけた時は、清三は不思議な思いにうたれた。なんだか狐につままれたような気がした。視学も岸野もあまり無責任に[#「無責任に」は底本では「無責在に」]過ぎるとも思った。  村長はしばらく考えていたが、やがて、「それじゃもう内々転任の話もきまったのかもしれない。今いる平田という教員が評判が悪いので、変えるっていう話はちょっと聞いたことがあるから」と言って、 「一つ学校に行って、校長に会って聞いてみるほうがいい!」  横柄な口のききかたがまずわかいかれの矜持を傷つけた。  何もできもしない百姓の分際で、金があるからといって、生意気な奴だと思った。初めての教員、初めての世間への首途、それがこうした冷淡な幕で開かれようとはかれは思いもかけなかった。  一時間後、かれは学校に行って、校長に会った。授業中なので、三十分ほど教員室で待った。教員室には掛図や大きな算盤や書籍や植物標本やいろいろなものが散らばって乱れていた。女教員が一人隅のほうで何かせっせと調べ物をしていたが、はじめちょっと挨拶したぎりで、言葉もかけてくれなかった。やがてベルが鳴る、長い廊下を生徒はぞろぞろと整列してきて、「別れ」をやるとそのまま、蜘蛛の子を散らしたように広場に散った。今までの静謐とは打って変わって、足音、号令の音、散らばった生徒の騒ぐ音が校内に満ち渡った。  校長の背広には白いチョークがついていた。顔の長い、背の高い、どっちかといえばやせたほうの体格で、師範校出の特色の一種の「気取」がその態度にありありと見えた。知らぬふりをしたのか、それともほんとうに知らぬのか、清三にはその時の校長の心がわからなかった。  校長はこんなことを言った。 「ちっとも知りません……しかし加藤さんがそう言って、岸野さんもご存じなら、いずれなんとか命令があるでしょう。少し待っていていただきたいものですが……」  時宜によればすぐにも使者をやって、よく聞きただしてみてもいいから、今夜一晩は不自由でもあろうが役場に宿ってくれとのことであった。教員室には、教員が出たりはいったりしていた。五十ぐらいの平田という老朽と若い背広の関という准教員とが廊下の柱の所に立って、久しく何事をか語っていた。二人は時々こっちを見た。  ベルがまた鳴った。校長も教員もみな出て行った。生徒はぞろぞろと潮のように集まってはいって来た。女教員は教員室を出ようとして、じろりと清三を見て行った。  唱歌の時間であるとみえて、講堂に生徒が集まって、やがてゆるやかなオルガンの音が静かな校内に聞こえ出した。
垣の隅には何が日を受けていましたか。
垣の隅には椿と珊瑚樹との厚い緑の葉が日を受けていました。
JCRRAG_000907
国語
 弥勒まではそこからまだ十町ほどある。  三田ヶ谷村といっても、一ところに人家がかたまっているわけではなかった。そこに一軒、かしこに一軒、杉の森の陰に三四軒、野の畠はたの向こうに一軒というふうで、町から来てみると、なんだかこれでも村という共同の生活をしているのかと疑われた。けれど少し行くと、人家が両側に並び出して、汚ない理髪店、だるまでもいそうな料理店、子供の集まった駄菓子屋などが眼にとまった。ふと見ると平家ひらや造りの小学校がその右にあって、門に三田ヶ谷村弥勒高等尋常小学校と書いた古びた札がかかっている。授業中で、学童の誦読の声に交って、おりおり教師の甲走った高い声が聞こえる。埃に汚よごれた硝子窓には日が当たって、ところどころ生徒の並んでいるさまや、黒板やテーブルや洋服姿などがかすかにすかして見える。出ではいりの時に生徒でいっぱいになる下駄箱のあたりも今はしんとして、広場には白斑の犬がのそのそと餌をあさっていた。  オルガンの音がかすかに講堂とおぼしきあたりから聞こえて来る。  学校の門前を車は通り抜けた。そこに傘屋があった。家中を油紙やしぶ皿や糸や道具などで散らかして、そのまんなかに五十ぐらいの中爺がせっせと傘を張っていた。家のまわりには油を布しいた傘のまだ乾かわかないのが幾本となく干ほしつらねてある。清三は車をとどめて、役場のあるところをこの中爺にたずねた。  弥勒には小川屋という料理屋があって、学校の教員が宴会をしたり飲み食いに行ったりするということをかねて聞いていた。当分はその料理屋で賄まかないもしてくれるし、夜具も貸してくれるとも聞いた。そこにはお種たねというきれいな評判な娘もいるという。清三はあたりに人がいなかったのをさいわい、通りがかりの足をとどめて、低い垣から庭をのぞいてみた。庭には松が二三本、桜の葉になったのが一二本、障子の黒いのがことにきわだって眼についた。  垣の隅には椿と珊瑚樹との厚い緑の葉が日を受けていた。椿には花がまだ二つ三つ葉がくれに残って見える。  このへんの名物だという赤城おろしも、四月にはいるとまったくやんで、今は野も緑と黄と赤とで美しくいろどられた。麦の畑を貫つらぬいた細い道は、向こうに見えるひょろ長い榛の並木に通じて、その間から役場らしい藁葺屋根が水彩画のように見渡される。  応接室は井泉村役場の応接室よりもきれいであった。そこからは吏員の事務をとっている室が硝子窓をとおしてはっきりと見えた。卓テーブルの上には戸籍台帳やら、収税帳やら、願届を一まとめにした書類やらが秩序よく置かれて、頭を分けたやせぎすの二十四五の男と五十ぐらいの頭のはげた爺とが何かせっせと書いていた。助役らしい鬚の生はえた中年者と土地の勢力家らしい肥った百姓とがしきりに何か笑いながら話していたが、おりおり煙管をトントンとたたく。  村長は四十五ぐらいで、痘痕面で、頭はなかば白かった。ここあたりによく見るタイプで、言葉には時々武州訛が交る。井泉村の助役の手紙を読んで、巻き返して、「私は視学からも助役からもそういう話は聞かなかったが……」と頭を傾かたむけた時は、清三は不思議な思いにうたれた。なんだか狐につままれたような気がした。視学も岸野もあまり無責任に[#「無責任に」は底本では「無責在に」]過ぎるとも思った。  村長はしばらく考えていたが、やがて、「それじゃもう内々転任の話もきまったのかもしれない。今いる平田という教員が評判が悪いので、変えるっていう話はちょっと聞いたことがあるから」と言って、 「一つ学校に行って、校長に会って聞いてみるほうがいい!」  横柄な口のききかたがまずわかいかれの矜持を傷つけた。  何もできもしない百姓の分際で、金があるからといって、生意気な奴だと思った。初めての教員、初めての世間への首途、それがこうした冷淡な幕で開かれようとはかれは思いもかけなかった。  一時間後、かれは学校に行って、校長に会った。授業中なので、三十分ほど教員室で待った。教員室には掛図や大きな算盤や書籍や植物標本やいろいろなものが散らばって乱れていた。女教員が一人隅のほうで何かせっせと調べ物をしていたが、はじめちょっと挨拶したぎりで、言葉もかけてくれなかった。やがてベルが鳴る、長い廊下を生徒はぞろぞろと整列してきて、「別れ」をやるとそのまま、蜘蛛の子を散らしたように広場に散った。今までの静謐とは打って変わって、足音、号令の音、散らばった生徒の騒ぐ音が校内に満ち渡った。  校長の背広には白いチョークがついていた。顔の長い、背の高い、どっちかといえばやせたほうの体格で、師範校出の特色の一種の「気取」がその態度にありありと見えた。知らぬふりをしたのか、それともほんとうに知らぬのか、清三にはその時の校長の心がわからなかった。  校長はこんなことを言った。 「ちっとも知りません……しかし加藤さんがそう言って、岸野さんもご存じなら、いずれなんとか命令があるでしょう。少し待っていていただきたいものですが……」  時宜によればすぐにも使者をやって、よく聞きただしてみてもいいから、今夜一晩は不自由でもあろうが役場に宿ってくれとのことであった。教員室には、教員が出たりはいったりしていた。五十ぐらいの平田という老朽と若い背広の関という准教員とが廊下の柱の所に立って、久しく何事をか語っていた。二人は時々こっちを見た。  ベルがまた鳴った。校長も教員もみな出て行った。生徒はぞろぞろと潮のように集まってはいって来た。女教員は教員室を出ようとして、じろりと清三を見て行った。  唱歌の時間であるとみえて、講堂に生徒が集まって、やがてゆるやかなオルガンの音が静かな校内に聞こえ出した。
三田ヶ谷村に入っていくと、どのような建物が目に止まりましたか。
汚ない理髪店、だるまでもいそうな料理店、子供の集まった駄菓子屋などが目に止まりました。
JCRRAG_000908
国語
今朝の夢・大きな象が 田井田かわず  散らかった部屋の床に布団を敷いて寝ていると、夢見心地に何かの音が聞こえた気がした。意識を持ちあげて耳をすましてみると、どうやら気のせいというわけでも、夢の中というわけでも無いようだ。  興味をそそられて、私にしては珍しく果敢に布団から起き出し、ダイニングに居た父に声をかけた。 「父さん、これ何の音?」  トランペットとか、ああいったたぐいの楽器をとりあえず思いっきり吹いてみたような音、と言えば伝わるかどうかは分からないが、とりあえずそういう音が遠くから何かの信号のように響いている。父はただ、窓の外を眺めながら呟いた。 「さぁ、なんだろな」  音の出所はハッキリしているようで、家からは長い坂を下って登って、歩いて四十分ほどの所にある公園から聞こえていると言う事を、家族が口々に言った。その公園は県内でもちょっと有名なくらい規模が大きいのでそこで何かイベントでもしてるんだろうかと私は思ったが、緊迫した様子を見るとそういうわけでもないらしい。 「何だろう……。なんか象の鳴き声にも似てるよね」  自分でそう口にしてみて、一つのニュースを思い出した。  つい最近、海の向こうから商業目的で三頭の巨大な像が連れてこられたと言うのだ。しかしあまりの大きさのため管理が行き届かず、街ひとつ、その巨大な像に踏み荒らされたと言う、日本国内でも結構大きな事件だった。一度は捕まえたものの、どうしてもその象の管理に手こずり、鬼ごっこを繰り返していると聞いた。  父も同じことを考えたらしく、私の言葉に反応して拳を手のひらに打った。 「象だっ!」  同じように状況を察した兄と母と、一緒になって急いで避難する準備を始める。 「帰ってきたとき大変じゃないように、ある程度部屋は片付けときなさい」母が言った。  象が踏み荒らせば、どうしたって散らかるんじゃないだろうかとも考えたが、なるほど自分でまず片付けておけば、だいたいどこら辺にあるかもわかるし、最初から散らかしておくよりはましかもしれないと思った。  となりの部屋の兄が私に、急げよと言って、早々と片づけを済ましてダイニングに向かう。私は慌てつつも片づけをしながら財布と、いつも持ち歩いているメモ帳と筆記用具をかばんにまとめた。  最近片づけに慣れてきたと自負していたのに、慌てたためか若干手間を取ったが、なんとか終わらせると家族のそろうダイニングに入った。なぜか母は、キッチンで弁当を作っている。 「音が近づいてきた」  私は呟いた。  家の正面に付いた窓から、静かな道路を眺める。車が一台も走っていないのは、この前の災害で渋滞のため逃げ遅れ踏みつぶされた人が居る、と言うニュースを皆が知っているためかと何となく考える。それにしたって人が逃げる影すらもない。みんな家で息を飲んでいるのだろうか。 「来た」  誰かが言った。  足音もなく、窓の向こうに象の太い足がぬっと覗く。足だけで窓を覆い尽くさんばかりの大きさだった。  足元しか見えないが、マンションの四階くらいの高さはあるだろうか。象はそこで立ち止まっていた。こんな大きな像が三匹も、どうやって海を渡ったのだろう。  私たちは、象が何もしないまま過ぎ去る事を祈りながら、心持ち身をかがめそっと様子をうかがう。母はまだ弁当を詰めていた。  そのとき家が持ち上がり、大きく揺れ始めた。象が鼻で持ち上げ左右に揺らしてるのであろう。私たちは床に這いつくばった。  悪あがきで、象がそっと家を下ろしてくれる事を祈ったが、家はポイと手放された。(いや、<鼻>放されると言うべきなのだろうか)私たちの家はその勢いのまま、家の裏手にある小さいアパートの上に落ちた。 「あちゃー……」 「……しょうがないわよ。こうなっちゃぁ」  私と母は家の横の窓から足元の様子を見ていう。家はどこも崩れなかったためか、あんがい楽天的だ。  アパートの方は天井が崩れて、中が見えていた。家の人と目が合うと、大丈夫だよと、手を振ってくれた。  私は言葉も無く、何度も謝った。  巨大な象はそれからも鼻をぶんぶん振りながら何かしら壊しつつ道路を進んで行った。外を見れば、象の通り道は一目でわかる事だろう。  とりあえず一難去ったと息をついていると、突然に玄関の扉が開いた。 「大丈夫!?」  アパートに乗り上げて、しかも斜め上を向いている家の玄関に、どうやってたどり着いたのかは分からないが、そこには向こう隣りの市に住んでいる友人の姿があった。高速道路を使えば車で十五分ほどとはいえ、わざわざこんな所まで来てくれたのだろうか。 「おばちゃんなんでお弁当作ってるの?」  流石しっかりしている友人は、母の行動に対してきっちりツッコンだ。  「ちょうどこっちに来たってニュースで言うから、心配で…!とりあえず、このままここに居たら危ないから、一緒に避難所に行こう!」  母の弁明も、私たちの疑問も聞かずに自分の事を説明すると、友人は素晴らしい手際の良さで、さっと避難所の場所を確認し、私達を連れ出した。  私たちは促されるまま彼女のお父さんが運転する車に乗せてもらった。「いまなら車も少ないし、象の第一波も終わった。つぎが来る前に」と、そう言って、瓦礫の合間を縫い、夕陽の差すなか、私たちを乗せた車は避難所に向かった。  ところで、出る前に一度部屋をのぞいてみたら、片づけた甲斐あってか、それとも物が少ないためか、そう酷い事にはなっておらず私はほっとした。
公園は歩いて何分ぐらいのところにあるのですか。
公園は歩いて四十分ほどの所にあります。
JCRRAG_000909
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岡の家 鈴木三重吉  岡の上に百姓のお家がありました。家がびんぼうで手つだいの人をやとうことも出来ないので、小さな男の子が、お父さんと一しょにはたらいていました。男の子は、まいにち野へ出たり、こくもつ小屋の中で仕事をしたりして、いちんちじゅう休みなくはたらきました。そして、夕方になるとやっと一時間だけ、かってにあそぶ時間をもらいました。  そのときには、男の子は、いつもきまって、もう一つうしろの岡の上へ出かけました。そこへ上ると、何十町か向うの岡の上に、金の窓のついたお家が見えました。男の子は、まいにち、そのきれいな窓を見にいきました。窓はいつも、しばらくの間きらきらと、まぶしいほど光っています。そのうちに家の人が戸をしめると見えて、きゅうに、ひょいと光がきえます。そして、もう、ただのお家とちっともかわらなくなってしまいます。男の子は、日ぐれだから金の窓もしめるのだなと思って、じぶんもお家へかえって、牛乳とパンを食べて寝るのでした。  或日お父さんは、男の子をよんで、 「おまいはほんとによくはたらいておくれだ。そのごほうびに、きょうは一日おひまを上げるから、どこへでもいってお出で。ただ、このおやすみは、神さまが下さったのだということをわすれてはいけないよ。うかうかくらしてしまわないで、何かいいことをおぼえて来なければ。」と言いました。  男の子はたいそうよろこびました。では、今日こそは、あの金の窓の家へいって見ようと思って、お母さまから、パンを一きれもらって、それをポケットにおしこんで出ていきました。  男の子にはたのしい遠足でした。はだしのまま歩いていくと、往来の白いほこりの上に足のあとがつきました。うしろをふりかえって見ると、じぶんのその足あとがながくつづいています。足あとは、どこまでもじぶんに、ついて来てくれるように見えました。それから、じぶんの影法師も、じぶんのするとおりに、一しょにおどり上ったり、走ったりしてついて来ました。男の子にはそれがゆかいでたまりませんでした。  そのうちに、だんだんにおなかがすいて来ました。男の子は道ばたのいけがきのまえを流れている、小さな川のふちにすわって、パンを食べました。そして、すきとおった、きれいな水をすくって飲みました。それから、食べあましたかたいパンの皮は、小さくくだいて、あたりへふりまいておきました。そうしておけば、小鳥が来て食べます。これはお母さんからおそわったことでした。  男の子はふたたびどんどん歩きました。そして、ようやくのことで、たかい、まっ青な、いつも見る岡の下へつきました。男の子はその岡を上っていきますと、れいのお家がありました。しかしそばへ来て見ると、そのお家の窓はただのガラス窓で、金なぞはどこにもはまってはいませんでした。男の子はすっかりあてがはずれたので、それこそ泣き出したいくらいにがっかりしました。  と、お家からおばさんが出て来ました。そして何かご用ですかと、やさしく聞いてくれました。男の子は、 「私は、うちの後の岡の上から見える、このお家の金の窓を見に来たのです。でも、そんな窓はなくて、ただガラスがはまっているだけですね。」と言いました。おばさんは、くびをふって、 「私の家はびんぼうな百姓ですもの。金などが窓についているはずはありません。金よりもガラスの方があかるくていいんですよ。」  こう言って笑いながら、男の子を戸口の石だんにこしをかけさせて、お牛乳を一ぱいと、パンを一きれもって来てくれました。おばさんは、それから、男の子とちょうどおない年ぐらいの女の子をよび出しました。そして、二人でおあそびなさいというように、うなずいて見せて、ふたたびお家へはいって仕事をしました。  その小さな女の子も、じぶんとおなじように、はだしのままで、黒っ茶けた木綿の上着を着ていました。しかし、その髪の毛は、ちょうど、男の子がいつも見ている光った窓のように、きれいな金色をしていました。それから目は、ま昼の空のようにまっ青にすんでいました。  女の子は、にこにこしながら、男の子をさそって、お家の牛を見せてくれました。それは、ひたいに白い星のある、黒い小牛でした。男の子はじぶんのお家の、四つ足の白い、栗の皮のような赤い色の牛のことを話しました。女の子は、そこいらになっているりんごを一つもいで、二人で食べました。二人はすっかりなかよしになりました。  男の子は、金の窓のことを女の子に話しました。女の子は、 「ええ、私もまいにち見ていますわ。でも、それは、あっちの方にあるんですよ。あなたはあべこべの方へ来たんですわ。」といいました。 「いらっしゃい。こっちへ来ると見えるのよ。」と、女の子はお家のそばの、すこしたかいところへ男の子をつれていきました。そして、金の窓は見えるときがきまっているのだといいました。男の子は、ああきまっている、お日さまがはいるときに見えるのだと答えました。  二人は小だかいところへ上りました。女の子は、 「ああ、今ちょうど見えます。ほら、ごらんなさい。」といいながら、向うの岡の方をゆびさしました。 「ああ、あんなところにもある。」と男の子はびっくりして見入りました。しかし、よく見ると、それは岡の上のじぶんの家でした。男の子はびっくりして、私はもうお家へかえるといい出しました。そして、もう一年もだいじにポケットにしまっていた、赤いすじが一すじはいった、白い、きれいな小さな石を、女の子にやりました。それから、とちの実を三つ、びろうどのようなつやのある、赤いのと、ぽちぽちのついたのと、牛乳のような白い色をしたのと、その三つをやりました。そして、またこんどくるからといって、おおいそぎで走ってかえりました。女の子は、男の子があわててかけてかえるのを、びっくりして見おくっていました。きらきらした夕日の中に、いつまでも立って見ていました。  男の子は、息をもやすめないで、どんどん走ってかえりました。しかし道がずいぶんとおいのでお家へついたときには、もうすっかり暗くなっていました。  じぶんのお家の窓からは、ランプのあかりと、ろのたき火とが、黄色く赤く見えていました。ちょうど、さっき岡の上から見たときとおなじように、きれいにかがやいていました。男の子は、戸をあけてはいりました。お母さんは立って来て、頬ずりをしてむかえました。小さな妹も、よちよちかけて来ました。お父さんはろのそばにすわったまま、にこにこしていました。お母さんは、 「どこへいって来たの? おもしろかった?」と聞きました。 「ええ、ずいぶんゆかいでしたよ。」と男の子は、うれしそうにいいました。 「何かいいことをおぼえて来たかい?」とお父さんが聞きました。 「私は、じぶんたちのこのお家にも、金の窓がついているということをおそわって来ました。」と、男の子はこたえました。
女の子の髪の毛は何色でしたか。
女の子の髪の毛は、きれいな金色でした。
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国語
紙幣鶴 斎藤茂吉  ある晩カフェに行くと、一隅の卓に倚ったひとりの娘が、墺太利の千円紙幣でしきりに鶴を折っている。ひとりの娘というても、僕は二度三度その娘と話したことがあった。僕の友と一しょに夕餐をしたこともあった。世の人々は、この娘の素性などをいろいろ穿鑿せぬ方が賢いとおもう。娘の前を通りしなに、僕はちょっと娘と会話をした。 「こんばんは。何している」 「こんばんは。どうです、旨いでしょう」 「なんだ千円札じゃないか。勿体ないことをするね」 「いいえ、ちっとも勿体なかないわ。ごらんなさい、墺太利のお金は、こうやってどんどん飛ぶわ」  そうして娘は口を細め、頬をふくらめて、紙幣で折った鶴をぷうと吹いた。鶴は虚空に舞い上ったが、忽ち牀上に落ちた。  娘は、微笑しながら紙幣で折った鶴を僕に示して、"fliegende oesterreichische Kronen!"こういったのであった。この原語の方が、象徴的で、簡潔で、小癪で、よほどうまいところがある。けれども、これをそのまま日本語に直訳してしまってはやはりいけまい。  この小話は、墺太利のカアル皇帝が、西班牙領の離れ小島で崩じた時と、同じような感銘を僕に与えたとおもうから、ここに書きしるしておこう。
娘は口を細めて何を吹きましたか。
娘は口を細めて紙幣で折った鶴を吹きました。
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岡の家 鈴木三重吉  岡の上に百姓のお家がありました。家がびんぼうで手つだいの人をやとうことも出来ないので、小さな男の子が、お父さんと一しょにはたらいていました。男の子は、まいにち野へ出たり、こくもつ小屋の中で仕事をしたりして、いちんちじゅう休みなくはたらきました。そして、夕方になるとやっと一時間だけ、かってにあそぶ時間をもらいました。  そのときには、男の子は、いつもきまって、もう一つうしろの岡の上へ出かけました。そこへ上ると、何十町か向うの岡の上に、金の窓のついたお家が見えました。男の子は、まいにち、そのきれいな窓を見にいきました。窓はいつも、しばらくの間きらきらと、まぶしいほど光っています。そのうちに家の人が戸をしめると見えて、きゅうに、ひょいと光がきえます。そして、もう、ただのお家とちっともかわらなくなってしまいます。男の子は、日ぐれだから金の窓もしめるのだなと思って、じぶんもお家へかえって、牛乳とパンを食べて寝るのでした。  或日お父さんは、男の子をよんで、 「おまいはほんとによくはたらいておくれだ。そのごほうびに、きょうは一日おひまを上げるから、どこへでもいってお出で。ただ、このおやすみは、神さまが下さったのだということをわすれてはいけないよ。うかうかくらしてしまわないで、何かいいことをおぼえて来なければ。」と言いました。  男の子はたいそうよろこびました。では、今日こそは、あの金の窓の家へいって見ようと思って、お母さまから、パンを一きれもらって、それをポケットにおしこんで出ていきました。  男の子にはたのしい遠足でした。はだしのまま歩いていくと、往来の白いほこりの上に足のあとがつきました。うしろをふりかえって見ると、じぶんのその足あとがながくつづいています。足あとは、どこまでもじぶんに、ついて来てくれるように見えました。それから、じぶんの影法師も、じぶんのするとおりに、一しょにおどり上ったり、走ったりしてついて来ました。男の子にはそれがゆかいでたまりませんでした。  そのうちに、だんだんにおなかがすいて来ました。男の子は道ばたのいけがきのまえを流れている、小さな川のふちにすわって、パンを食べました。そして、すきとおった、きれいな水をすくって飲みました。それから、食べあましたかたいパンの皮は、小さくくだいて、あたりへふりまいておきました。そうしておけば、小鳥が来て食べます。これはお母さんからおそわったことでした。  男の子はふたたびどんどん歩きました。そして、ようやくのことで、たかい、まっ青な、いつも見る岡の下へつきました。男の子はその岡を上っていきますと、れいのお家がありました。しかしそばへ来て見ると、そのお家の窓はただのガラス窓で、金なぞはどこにもはまってはいませんでした。男の子はすっかりあてがはずれたので、それこそ泣き出したいくらいにがっかりしました。  と、お家からおばさんが出て来ました。そして何かご用ですかと、やさしく聞いてくれました。男の子は、 「私は、うちの後の岡の上から見える、このお家の金の窓を見に来たのです。でも、そんな窓はなくて、ただガラスがはまっているだけですね。」と言いました。おばさんは、くびをふって、 「私の家はびんぼうな百姓ですもの。金などが窓についているはずはありません。金よりもガラスの方があかるくていいんですよ。」  こう言って笑いながら、男の子を戸口の石だんにこしをかけさせて、お牛乳を一ぱいと、パンを一きれもって来てくれました。おばさんは、それから、男の子とちょうどおない年ぐらいの女の子をよび出しました。そして、二人でおあそびなさいというように、うなずいて見せて、ふたたびお家へはいって仕事をしました。  その小さな女の子も、じぶんとおなじように、はだしのままで、黒っ茶けた木綿の上着を着ていました。しかし、その髪の毛は、ちょうど、男の子がいつも見ている光った窓のように、きれいな金色をしていました。それから目は、ま昼の空のようにまっ青にすんでいました。  女の子は、にこにこしながら、男の子をさそって、お家の牛を見せてくれました。それは、ひたいに白い星のある、黒い小牛でした。男の子はじぶんのお家の、四つ足の白い、栗の皮のような赤い色の牛のことを話しました。女の子は、そこいらになっているりんごを一つもいで、二人で食べました。二人はすっかりなかよしになりました。  男の子は、金の窓のことを女の子に話しました。女の子は、 「ええ、私もまいにち見ていますわ。でも、それは、あっちの方にあるんですよ。あなたはあべこべの方へ来たんですわ。」といいました。 「いらっしゃい。こっちへ来ると見えるのよ。」と、女の子はお家のそばの、すこしたかいところへ男の子をつれていきました。そして、金の窓は見えるときがきまっているのだといいました。男の子は、ああきまっている、お日さまがはいるときに見えるのだと答えました。  二人は小だかいところへ上りました。女の子は、 「ああ、今ちょうど見えます。ほら、ごらんなさい。」といいながら、向うの岡の方をゆびさしました。 「ああ、あんなところにもある。」と男の子はびっくりして見入りました。しかし、よく見ると、それは岡の上のじぶんの家でした。男の子はびっくりして、私はもうお家へかえるといい出しました。そして、もう一年もだいじにポケットにしまっていた、赤いすじが一すじはいった、白い、きれいな小さな石を、女の子にやりました。それから、とちの実を三つ、びろうどのようなつやのある、赤いのと、ぽちぽちのついたのと、牛乳のような白い色をしたのと、その三つをやりました。そして、またこんどくるからといって、おおいそぎで走ってかえりました。女の子は、男の子があわててかけてかえるのを、びっくりして見おくっていました。きらきらした夕日の中に、いつまでも立って見ていました。  男の子は、息をもやすめないで、どんどん走ってかえりました。しかし道がずいぶんとおいのでお家へついたときには、もうすっかり暗くなっていました。  じぶんのお家の窓からは、ランプのあかりと、ろのたき火とが、黄色く赤く見えていました。ちょうど、さっき岡の上から見たときとおなじように、きれいにかがやいていました。男の子は、戸をあけてはいりました。お母さんは立って来て、頬ずりをしてむかえました。小さな妹も、よちよちかけて来ました。お父さんはろのそばにすわったまま、にこにこしていました。お母さんは、 「どこへいって来たの? おもしろかった?」と聞きました。 「ええ、ずいぶんゆかいでしたよ。」と男の子は、うれしそうにいいました。 「何かいいことをおぼえて来たかい?」とお父さんが聞きました。 「私は、じぶんたちのこのお家にも、金の窓がついているということをおそわって来ました。」と、男の子はこたえました。
何十町か向うの岡の上に見えたものは何ですか。
金の窓のついたお家が、何十町か向うの岡の上に見えました。
JCRRAG_000912
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 ある日私は大通りからそっちの方へと入って行って見た。  私はそこにガラス窓や、ドアや、不恰好なヴェランダや、低い物干台などを発見した。二条三条ある横の通りを縦に小さな巷路の貫ぬいているのを発見した。新開地でもあるかのように新しくぞんざいに建てられた二階屋の軒から軒へと続いてつらなっているのを発見した。しかもところどころに空地があってそこに夕日がさし込んで来ているのを、二階の小さな窓のところに柘榴か何かの盆栽が置いてあって、それにその余照が明るくさし添っているのを発見した。これが魚河岸だろうか。かつてはこの大都会の胃であり腸であった魚河岸の内部だろうか。それは私とて今までに一度だってその内部に入って見たことがあるのではなかった。それはその内部に知っている人でもあって、それが案内でもしてくれたなら、入って見ることも出来たであろうが、あの雑踏では外から来たものが内部まで入って見ることはとても不可能であったのであった。私は書生時代にいつも橋のこっちの袂から四日市の方へと近路をして抜けて行ったが、その時分の雑踏はとてもお話にならないものだった。まごまごしていれば、(何だ! この小僧、邪魔なところにいるな!)といわぬばかりに突き飛ばされた。従って魚河岸は東京でも一番活発なところ、また一番わかりにくいところとして常にその頃の私の頭に印象されて残っていた。それだけに廃址という感じが一層はっきりと私の頭に来た。  私は川に近い通り――大きな魚問屋があって、鮭だの鱈だの一杯に昔並べられてあったところ今はさびしく荒凉とした通りになっているところを通って、四日市の通り近くまで行って、そしてまた細い巷路に右に入って行って見た。昔のままの大きな蒲鉾屋がただ一軒そこに残っていたりなどした。バラックであるせいもあろうが、あたりが何となくがらんとして、昔は厚く塗りかためた土蔵づくりの家並ばかりだったので、さし入りたくも容易にさし入れなかった午後四時過ぎの日影が、そこにもここにも、格子の窓にも、家と家との間にある細い路地にも、シタミの横のところにも、共同の水道の口からほとばしり出している水にも、そこに立っている女の横顔にもまた通りを昔と違った幅で歩いている赤ぶちの大きな犬の尾にも、昔の伊達気分などはもはや少しも持っていないだろうと思われるような小料理屋の招牌にも、自由自在にさし入って来て、至るところにその静けさとさびしさとを展げているのだった。私は古都でもさまよっている詩人のようにして静かに歩いた。  かん茂の半ぺん、弁松のあなご、そういうものにも長く長く親しんで来たが、今ではもはやそれを本当に味わうことは出来ないなどと思いながら、また、そういうものがあたりの変遷と共にみんな亡びて無くなって行くことなどを悲しみながら、私は長い間その界わいを彷徨した。  私は震災の時のことなどをくり返した。このあたりでも逃げおくれて屍になって水に浮んだものの多かったこと、舟に一ぱい乗るには乗っても、両岸の火で熱くってとてもたまらなかったということなどをくり返した。巷路からこっちへと出て来るところには、山くじらを売っている店のあるのなどを眼にした。
私はどのような様子で静かに歩きましたか。
私は古都でもさまよっている詩人のようにして静かに歩きました。
JCRRAG_000913
国語
 学問上の閲歴のようなものを書けという『思想』の編輯部からの話があった。これまでもあちこちから同じことをしばしば勧められたが、いつも書く気になれなかった。人に語るほどの閲歴もないし、久しい前のことは記憶もはっきりせず、その上に、じぶんのことを書くのは書きにくくもあるので、筆をとりかねたのである。それに、ぼくがいくらか学問上のしごとをしたとするにしても、その大部分は一般の学界とは殆どかかりあいのないものであったから、ぼくの閲歴はぼくだけの閲歴であって、それによって学界の動向などが知られるわけでもなく、従ってそれを書くことに大した意味はない、という理由もあった。しかし書かないことを固執するにも及ぶまいから、思い出されることを思い出すままに少しばかり書いてみることにする。  学問上の論文らしいものを書いたのは明治時代の末からであるが、書物の形でそれを公にしたのは、『朝鮮歴史地理』と『神代史の新しい研究』とがはじめであって、何れも大正二(一九一三)年の出版である。しかし、かなり前から長い間かかってしたしごとをまとめたものは、大正五(一九一六)年から十(一九二一)年までに四巻を出した『文学に現はれたる我が国民思想の研究』である。それから後にも、『古事記』や『書紀』についての考や日本の上代史上のいくつかの問題を取扱ったものを書いたことはあるが、大正時代の末ころから後のおもな著作は、シナ思想に関するものであって、初から単行本で出したものもあるが、その多くは、『東洋学報』とか『東洋文庫論叢』とか、または東大文学部出版の名義になっている『満鮮地理歴史研究報告』とか、または早大のぼくの研究室から出した『東洋思想研究』とか、そういうもので発表した。それで、どうしてこういうようなしごとをするようになったかということであるが、それには『国民思想の研究』のことから始めるのが便宜であろう。 『国民思想の研究』という書名は、出版まぎわにつけたものであるし、ああいう形でああいうものを書こうという構想のほぼまとまったのも、大正のはじめのころであったろうと思うが、手をつけはじめたのは、それよりも十二、三年前のことである。たしか明治三十三(一九〇〇)年であったように記憶するが、その前の二、三年ほどの間、地方の中学の教師をしていたのを、この年に東京に帰って獨逸学協会学校につとめることになった。同じようなしごとではあるが、いくらか新しい気分にもなったので、この機会に明治維新のことを、主として思想の方面について、少し考えてみようと思いついた。どうしてそういうことを思いついたかは忘れたが、フクチ オウチの『幕府衰亡論』、キムラ カイシュウの『三十年史』、タナベ レンシュウの『幕末外交談』、その他、旧幕臣たちの著書を読んでいたので、それに誘われたところがあったのであろうか。トガワという人の『幕末小史』や『旧幕府』という月刊雑誌の出たのも、このころであったかと思うが、もしそうならば、それらもいくらかの刺戟になったかも知れぬ。あるいはまたいわゆる勤王論のような立ちばからのみ維新を考えることに物足らぬ感じを、前からもっていたようにも思われるので、そういうことから導かれたところがあったかとも考えられる。何れにしても、じぶんのことながらはっきりは思い出されぬ。それはともかくも、そのころには幕末期における幕府のしごと、特にヨウロッパの文物を学び取ろうとして努力したことに、最も多く興味がひかれ、その方面に関係のある書物で手に入り易いものをいろいろ読んでみた。ところが、何につけても疑問が起って、わからないことばかり出て来た。そうして、もっと広くその時代の、また溯ってエド時代の初期からの、文化上社会上の情勢を知らなくては、小さい疑問も解けないことに、だんだん気がついて来た。それで、そういうことを知るために役にたちそうな書物を何によらず読んでみることにしたが、そのころには、版本でも現代式の活字本の覆刻が少ししかできていず、また写本のままで伝わっているものが多かったので、読みたいものを手がるに手に入れることができなかった。勿論、珍本とか人の知らないようなものとかも読もうとしたのではなく、だれでも一応は読むべきはずの、ごくありふれた本を見ようとしたのであるが、貧乏生活をしていたので、そういう書物を買う余裕すらもなかったのである。それで、ウエノの図書館を利用する外に方法がないと思い、学校から帰ると、夜にかけて、殆ど毎日のようにそこに通った。三十三年から三十六年ころまでそれが続いたように思う。図書館が音楽学校の前にあって、小さな木造の閲覧室をもっていたころのことである。ただいわゆるエド文学に関するものは、活字の覆刻本がかなり出ていたので、そういうものだけはどうかこうかじぶんの書物でまにあわせることができた。  ここでしばらくこの時から十年あまり前のことをふりかえってみる。ぼくは明治二十三(一八九〇)年に東京に出て来て、今の早大の前身である東京専門学校の政治科に入り、一年半ばかりいて、翌二十四年にそこを卒業したことになっている。数え年で十八、九の時であったし、そのころの学校も学校であったから、学問というようなことは何もわからなかった。ところが、そのころ博文館から『日本文学全書』というものが出、版元は忘れたが近松や西鶴芭蕉などの廉価な覆刻本もいくらかずつ現われて来たので、そういうものをぼつぼつ読んでいるうちに、学校の講義などよりはその方がずっとおもしろくなった。それからひきつづいて『日本歌学全書』というものも出版せられるようになり、『源氏』の『湖月抄』もオオサカあたりの書林からか出たので、それらをつぎつぎに読んでいった。これは二十五、六年ころのことであったろうか。独りでかってに読んだのだから、わからぬところもあり、誤解していることも多かったであろうが、とにかくこういうようにして、いろいろの古典やエド時代の文学を少しばかりのぞいて見ることができた。宣長の『古訓古事記』や『書紀』の本文を始めて読んだのも同じころであったが、今から思うと、これらは何のことかわからずに読むことだけをしたものらしい。ぼくは日本の古典などの講義をだれからもきいたことがない。シナのも、小学校時代の外は、同様である。人に交わることが殆どなかったので、こういうことについて話しあう友人というようなものも有もたなかった。ただかねてから『国民之友』とか『日本人』とかいうような雑誌は見ていたし、文学雑誌では鴎外の『しがらみ草紙』を特に愛読していたので、そういうものが、古典などを読むにも、おのずから何ほどかの助けとなったであろう。
書物を買う余裕すらもなかったので、どこの図書館が利用されましたか。
ウエノの図書館が利用されました。
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女靴下の話 西東三鬼  人間五十年以上も生きていると、誰でも私の経験したような、奇々怪不可思議な出来事に一度や二度はあうものであろうか。恥を語らねば筋が通らない。話は私の朝帰りから始まる。  およそ朝帰りなるもの、こんないやな気持のものはない。良心の苛責といってしまえばそれまでだが、もっと肉体的な、たとえばズボンのうしろに自分だけが尻尾をぶらさげて歩いているような、みじめな気持である。さてその朝帰りの玄関に出迎えたのが、思いきや、十年以上も会わない東京の悪友で、のっけのセリフが「おかえんなさいまし、エヘヘ」であった。どさくさまぎれの朝酒が夕酒になる頃、初老の悪童のろけていうには、輓近二十二歳の愛人を得て昼夜兼行、多々ますます弁じているが、艶運はともかく、このホルモンは羨ましかろう等々。  さてその晩の汽車で帰る彼を大阪駅に送り、別杯さめやらぬままにウトウトしながら郊外電車で帰宅した。そしてその翌朝、外套のポケットの煙草がほしいと家人にいうと、煙草の代りに指先にぶらさげて来たのが、何と二、三度用いたナイロンの女靴下。それが膝までの短いやつで、ごていねいに両足そろっている――。  私は不覚にも狼狽した。そして電光の速さで前々夜のおぼろの記憶をたどったが、彼女には膝までの靴下を用いる趣味はないはずだ。しかし、万一ということもあるから、おそるおそる電話でおうかがいを立てると「ご冗談でしょ」と受話器の音ガチャン。まさにやぶ蛇である。家人に何と弁解したか、これを読まれる方々のご参考に供したいが、実のところ、ぜんぜん身におぼえのないことだから知らぬ存ぜぬの一点張りであった。  その真相は今もって判らない。多分エロスの神の使者が女に化けて、すでに女体に触れた靴下をひそかに私のポケットにすべり込ませ、少しばかり老人を燃え立たせたのであろう。
話は何から始まりますか。
話は、「私の朝帰り」から始まります。
JCRRAG_000915
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 つぎの日も、そのつぎの日も、葉子は森先生を橋の上で待合して学校へ行った。けれどノートの事については何にも仰有らなかった。葉子もそれをきこうとはしなかった。  光子は葉子が先生と一緒に学校へ来るのが妬しくてならなかった。その週間も過ぎて、つぎの地理の時間が来た。  葉子が忘れようとしていた記憶はまた新しくなった。葉子は、おずおずと先生の方を見た。先週習ったところは幾度となく復習して来たから、どこをきかれても答えられたけれど、先生は葉子の方を決して見なかった。そして光子に向って、 「巴里はどこの都ですか」とお訊ねになった。すると「佛蘭西の都であります」と光子が嬉しそうに答えた。  地理の時間が終ると、運動場のアカシヤの木の下へいって、葉子はぼんやり足もとを見つめていた。何ということなしに悲しかった。 「葉子さん」そう言って後から葉子の肩を軽く叩いた。それは葉子と仲好の朝子であった。朝子は葉子の顔を覗きこんで「どうしたの」ときいた。 「どうもしないの」そういって葉子は笑って見せた。 「そんなら好いけど。何だか考えこんでいらっしゃるんですもの、言って好いことなら私に話して頂戴な」 「いいえ、そんな事じゃないの、私すこし頭痛がするの」 「さう、そりゃいけないわね」  葉子はじっと思入って朝子を見つめて「朝子さん」 「え」 「あなた森先生お好き?」 「ええ、好きよ、大好きだわ」 「あたしも好きなの、でも先生は私のことを怒っていらっしゃる様なの」 「そんなことはないでしょう」  葉子は、朝子に心配の種を残らず打明けた。それから二人は森先生のやさしいことや、先生は何処の生れの方だろうという事や、先生にもお母様があるだろうかという事や、もし先生が病気なさったら、毎日側そばについて看病してあげましょうねという事や、もしや死んでしまっても、先生のお墓の傍に、小さい家をたてて、先生のお好きな花をどっさり植えましょうという事などを語り合った。
光子は何が妬しくてならなかったですか。
光子は葉子が先生と一緒に学校へ来るのが妬しくてならなかったです。
JCRRAG_000916
国語
 言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。 「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、 「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。 「セリヌンティウス。」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」  セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、 「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」  メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。 「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。  群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。 「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」  どっと群衆の間に、歓声が起った。 「万歳、王様万歳。」  ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。 「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」  勇者は、ひどく赤面した。
メロスは刑場に着くと、何に齧りつきましたか。
メロスは、磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に齧りつきました。
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 つぎの日も、そのつぎの日も、葉子は森先生を橋の上で待合して学校へ行った。けれどノートの事については何にも仰有らなかった。葉子もそれをきこうとはしなかった。  光子は葉子が先生と一緒に学校へ来るのが妬しくてならなかった。その週間も過ぎて、つぎの地理の時間が来た。  葉子が忘れようとしていた記憶はまた新しくなった。葉子は、おずおずと先生の方を見た。先週習ったところは幾度となく復習して来たから、どこをきかれても答えられたけれど、先生は葉子の方を決して見なかった。そして光子に向って、 「巴里はどこの都ですか」とお訊ねになった。すると「佛蘭西の都であります」と光子が嬉しそうに答えた。  地理の時間が終ると、運動場のアカシヤの木の下へいって、葉子はぼんやり足もとを見つめていた。何ということなしに悲しかった。 「葉子さん」そう言って後から葉子の肩を軽く叩いた。それは葉子と仲好の朝子であった。朝子は葉子の顔を覗きこんで「どうしたの」ときいた。 「どうもしないの」そういって葉子は笑って見せた。 「そんなら好いけど。何だか考えこんでいらっしゃるんですもの、言って好いことなら私に話して頂戴な」 「いいえ、そんな事じゃないの、私すこし頭痛がするの」 「さう、そりゃいけないわね」  葉子はじっと思入って朝子を見つめて「朝子さん」 「え」 「あなた森先生お好き?」 「ええ、好きよ、大好きだわ」 「あたしも好きなの、でも先生は私のことを怒っていらっしゃる様なの」 「そんなことはないでしょう」  葉子は、朝子に心配の種を残らず打明けた。それから二人は森先生のやさしいことや、先生は何処の生れの方だろうという事や、先生にもお母様があるだろうかという事や、もし先生が病気なさったら、毎日側そばについて看病してあげましょうねという事や、もしや死んでしまっても、先生のお墓の傍に、小さい家をたてて、先生のお好きな花をどっさり植えましょうという事などを語り合った。
先生が、巴里はどこの都かと尋ねると光子は何と答えましたか。
光子は、「佛蘭西の都であります」と嬉しそうに答えました。
JCRRAG_000918
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女靴下の話 西東三鬼  人間五十年以上も生きていると、誰でも私の経験したような、奇々怪不可思議な出来事に一度や二度はあうものであろうか。恥を語らねば筋が通らない。話は私の朝帰りから始まる。  およそ朝帰りなるもの、こんないやな気持のものはない。良心の苛責といってしまえばそれまでだが、もっと肉体的な、たとえばズボンのうしろに自分だけが尻尾をぶらさげて歩いているような、みじめな気持である。さてその朝帰りの玄関に出迎えたのが、思いきや、十年以上も会わない東京の悪友で、のっけのセリフが「おかえんなさいまし、エヘヘ」であった。どさくさまぎれの朝酒が夕酒になる頃、初老の悪童のろけていうには、輓近二十二歳の愛人を得て昼夜兼行、多々ますます弁じているが、艶運はともかく、このホルモンは羨ましかろう等々。  さてその晩の汽車で帰る彼を大阪駅に送り、別杯さめやらぬままにウトウトしながら郊外電車で帰宅した。そしてその翌朝、外套のポケットの煙草がほしいと家人にいうと、煙草の代りに指先にぶらさげて来たのが、何と二、三度用いたナイロンの女靴下。それが膝までの短いやつで、ごていねいに両足そろっている――。  私は不覚にも狼狽した。そして電光の速さで前々夜のおぼろの記憶をたどったが、彼女には膝までの靴下を用いる趣味はないはずだ。しかし、万一ということもあるから、おそるおそる電話でおうかがいを立てると「ご冗談でしょ」と受話器の音ガチャン。まさにやぶ蛇である。家人に何と弁解したか、これを読まれる方々のご参考に供したいが、実のところ、ぜんぜん身におぼえのないことだから知らぬ存ぜぬの一点張りであった。  その真相は今もって判らない。多分エロスの神の使者が女に化けて、すでに女体に触れた靴下をひそかに私のポケットにすべり込ませ、少しばかり老人を燃え立たせたのであろう。
家人が煙草の代りに指先にぶらさげて来たのは何でしたか。
家人が煙草の代りに指先にぶらさげて来たのは、ナイロンの女靴下でした。
JCRRAG_000919
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女靴下の話 西東三鬼  人間五十年以上も生きていると、誰でも私の経験したような、奇々怪不可思議な出来事に一度や二度はあうものであろうか。恥を語らねば筋が通らない。話は私の朝帰りから始まる。  およそ朝帰りなるもの、こんないやな気持のものはない。良心の苛責といってしまえばそれまでだが、もっと肉体的な、たとえばズボンのうしろに自分だけが尻尾をぶらさげて歩いているような、みじめな気持である。さてその朝帰りの玄関に出迎えたのが、思いきや、十年以上も会わない東京の悪友で、のっけのセリフが「おかえんなさいまし、エヘヘ」であった。どさくさまぎれの朝酒が夕酒になる頃、初老の悪童のろけていうには、輓近二十二歳の愛人を得て昼夜兼行、多々ますます弁じているが、艶運はともかく、このホルモンは羨ましかろう等々。  さてその晩の汽車で帰る彼を大阪駅に送り、別杯さめやらぬままにウトウトしながら郊外電車で帰宅した。そしてその翌朝、外套のポケットの煙草がほしいと家人にいうと、煙草の代りに指先にぶらさげて来たのが、何と二、三度用いたナイロンの女靴下。それが膝までの短いやつで、ごていねいに両足そろっている――。  私は不覚にも狼狽した。そして電光の速さで前々夜のおぼろの記憶をたどったが、彼女には膝までの靴下を用いる趣味はないはずだ。しかし、万一ということもあるから、おそるおそる電話でおうかがいを立てると「ご冗談でしょ」と受話器の音ガチャン。まさにやぶ蛇である。家人に何と弁解したか、これを読まれる方々のご参考に供したいが、実のところ、ぜんぜん身におぼえのないことだから知らぬ存ぜぬの一点張りであった。  その真相は今もって判らない。多分エロスの神の使者が女に化けて、すでに女体に触れた靴下をひそかに私のポケットにすべり込ませ、少しばかり老人を燃え立たせたのであろう。
朝帰りの玄関に出迎えたのは誰でしたか。
朝帰りの玄関に出迎えたのは、十年以上も会わない東京の悪友でした。
JCRRAG_000920
国語
 言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。 「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、 「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。 「セリヌンティウス。」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」  セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、 「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」  メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。 「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。  群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。 「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」  どっと群衆の間に、歓声が起った。 「万歳、王様万歳。」  ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。 「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」  勇者は、ひどく赤面した。
ひとりの少女がメロスに捧げた物は何ですか。
ひとりの少女がメロスに捧げた物は緋のマントです。
JCRRAG_000921
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 言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。 「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、 「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。 「セリヌンティウス。」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」  セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、 「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」  メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。 「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。  群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。 「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」  どっと群衆の間に、歓声が起った。 「万歳、王様万歳。」  ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。 「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」  勇者は、ひどく赤面した。
メロスはどのように殴りましたか。
メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴りました。
JCRRAG_000922
国語
 つぎの日も、そのつぎの日も、葉子は森先生を橋の上で待合して学校へ行った。けれどノートの事については何にも仰有らなかった。葉子もそれをきこうとはしなかった。  光子は葉子が先生と一緒に学校へ来るのが妬しくてならなかった。その週間も過ぎて、つぎの地理の時間が来た。  葉子が忘れようとしていた記憶はまた新しくなった。葉子は、おずおずと先生の方を見た。先週習ったところは幾度となく復習して来たから、どこをきかれても答えられたけれど、先生は葉子の方を決して見なかった。そして光子に向って、 「巴里はどこの都ですか」とお訊ねになった。すると「佛蘭西の都であります」と光子が嬉しそうに答えた。  地理の時間が終ると、運動場のアカシヤの木の下へいって、葉子はぼんやり足もとを見つめていた。何ということなしに悲しかった。 「葉子さん」そう言って後から葉子の肩を軽く叩いた。それは葉子と仲好の朝子であった。朝子は葉子の顔を覗きこんで「どうしたの」ときいた。 「どうもしないの」そういって葉子は笑って見せた。 「そんなら好いけど。何だか考えこんでいらっしゃるんですもの、言って好いことなら私に話して頂戴な」 「いいえ、そんな事じゃないの、私すこし頭痛がするの」 「さう、そりゃいけないわね」  葉子はじっと思入って朝子を見つめて「朝子さん」 「え」 「あなた森先生お好き?」 「ええ、好きよ、大好きだわ」 「あたしも好きなの、でも先生は私のことを怒っていらっしゃる様なの」 「そんなことはないでしょう」  葉子は、朝子に心配の種を残らず打明けた。それから二人は森先生のやさしいことや、先生は何処の生れの方だろうという事や、先生にもお母様があるだろうかという事や、もし先生が病気なさったら、毎日側そばについて看病してあげましょうねという事や、もしや死んでしまっても、先生のお墓の傍に、小さい家をたてて、先生のお好きな花をどっさり植えましょうという事などを語り合った。
葉子は、朝子に何を打明けましたか。
葉子は朝子に、森先生が好きであること、しかし先生が自分に怒っているように感じることを打ち明けました。
JCRRAG_000923
国語
 まず、いろいろの話をする前に、前提として私の父祖のこと、つまり、私の家のことを概略話します。  私の父は中島兼松といいました。その三代前は因州侯の藩中で中島重左エ門と名乗った男。悴に同苗長兵衛というものがあって、これが先代からの遺伝と申すか、大層美事な髯をもっておった人物であったから、世間から「髯の長兵衛」と綽名されていたという。その長兵衛の子の中島富五郎になって私の家は全くの町人となりました。  富五郎の子が兼松、これが私の父であります。父の家は随分と貧乏でありました。これは父が道楽をしたためとか、心掛けが悪かったとかいうことからではありません。全く心柄ではないので、父の兼松は九歳の時から身体の悪い父親の一家を背負せおって立って、扶養の義務を尽くさねばならない羽目になったので、そのためとうとうこれという極まった職業を得ることも出来ずじまいになったのであります。父としては種々の希望もあったことでありましょうが、つまり幼年の時から一家の犠牲となって生活に追われたために、習い覚えるはずのことも事情が許さず、取り纏まったものにならなかったことでありました。  祖父に当る富五郎は八丁堀に鰻屋をしていたこともありました。その頃は遊芸が流行で、その中にも富本全盛時代で、江戸市中一般にこれが大流行で、富五郎もその道にはなかなか堪能でありましたが、わけて総領娘は大層上手でありました。父娘とも芸事が好き上手であったから自然その道の方へ熱心になり、娘は十か十一の時、もう諸方の御得意から招かれて、行く末は一廉の富本の名人になろうと評判された位でありました。親の富五郎も鼻高々で楽しんでおりましたが、ふと、或る年悪性の疱瘡に罹って亡なくなってしまいました。そのため富五郎は悉皆気を落としてしまい、気の狭い話だが、自暴を起して、商売の方は打っちゃらかして、諸方の部屋へ行って銀張りの博奕などをして遊人の仲間入りをするというような始末になって、家道は段々と衰えて行ったのでありました。  しかし、この富五郎という人は極気受けの好い人で、大層世間からは可愛がられたといいます。やがて、家業を変えて肴屋を始め、神田、大門通りのあたりを得意に如才なく働いたこともありますが、江戸の大火に逢あって着のみ着のままになり、流れて浅草の花川戸へ行き、其所そこでまた肴屋を初めたのでありました。  花川戸の方も、所柄、なかなか富本が流行はやりまして、素人の天狗連が申し合せ、高座をこしらえて富本を語って大勢の人に聞かせている(素人が集まって語り合うことをおさらいという。これに月さらい、大さらいとある)。根が好きでもあり、上手でもあった富五郎がこの連中へ仲間入りをしたことは道理な話……ところが富五郎が高座に出ると、大層評判がよろしく、「肴屋の富さんが出るなら聞きに行こう」というようなわけでした。このおさらいは下手へたな者が先に語る。多少上手な者が後あとで語るのが通例である。そのため聴衆は先に語る人に悪口をいう。下手な人が高座に上がると、「貴様なぞは早く語って降りてしまえ、富さんの出るのが遅くなるぞ」など騒ぎました。すると、その連中の中に、この事を口惜しがり、富五郎の芸を嫉むものがあって、私に湯呑の中に水銀を容れて富五郎に飲ませたものがあったのです。そこは素人の悲しさに、湯くみがない。湯くみは友達が替わり合ってしたのですから、意趣を持った男はその隙に悪いことをしたのと見える(本職の太夫は、他人には湯はくませはしない。皆門人を使うことになっている)。富五郎はその晩から恐ろしく吃逆が出て、どうしても留まらない。身体も変な工合になって行きました。  すると、それを見たお華客先の大門通りの薬種屋の主人が、「これあいけない、富五郎さん、お前さんは水銀にやられたのだ、早速手当てをしなければ……」というので、その主人は一通りの薬剤のことには詳しかったので、解剤をもって手当てをしました。すると、ようやく吃逆は直りましたが、声は全く立たなくなる。身体は利かなくなる。まるで中気のような工合になって、ヨイヨイになってしまいました。  この時はちょうど私の父の兼松が九歳の時であります。九歳の時から一家扶養の任に当って立ち働かねばならない羽目になったというのはこれからで、その上弟が二人、妹が一人、九つや十の子供には実に容易ならぬ負担でありました。  こういう風の一家の事情故、その暫く前から奉公に出ていた袋物屋を暇取って兼松は家へ帰って来ました。家へ帰って来はしたものの、どうして好いか、十歳にも足らぬ子供の智慧にはどうしようもない。けれど、小供心に考えて、父富五郎は体こそ利かぬようになったが、手先はまことに器用な人であったから、「お父とうさん、何か拵えておくれ、私が売って見るから」というので、子供ながら手伝い、或る玩具を製え、それを小風呂敷に包んで縁日へ出て売り初めたのです。  そのおもちゃというのは、今では見掛けもしませんが、薄い板を台にして、それに小さな梯子が掛かり、梯子の上で、人形の火消しが鳶口などを振り上げたり、火の見をしていたりしている形であります。それがチョット思いつきで人目を惹ひき、子供が非常にほしがるので、相当商売になりました。で、細々ながら、まずどうにかやって行く……その内、縁日の商いの道が分るにつけ、いろいろまた親子で工夫をして、一生懸命に働いては、大勢の一家を子供の腕一本でやって行きました。  こういう有様であるから、とても普通の小供のように一通りの職業を習得するは思いも寄らず、糊口をすることが関の山でありました。その中、兼松も段々人となり、妻をも迎えましたが相更らず親をば大切にして、孝行息子というので名が通りました。それは全く感心なもので、お湯へ行くにも父親を背負って行く。頭を剃って上げる。食べたいというものを無理をしても買って食べさせるという風で、兼松の一生はほとんどすべてを父親のために奉仕し尽くしたといってもよろしいほどで、まことに気の毒な人でありました。けれども当人は至極元気で、愚痴一ついわず、さっぱりとしたものでありました。
兼松が妻を迎えた後は、何と名が通っていましたか。
兼松が妻を迎えた後は、孝行息子というので名が通っていました。
JCRRAG_000924
国語
岡の家 鈴木三重吉  岡の上に百姓のお家がありました。家がびんぼうで手つだいの人をやとうことも出来ないので、小さな男の子が、お父さんと一しょにはたらいていました。男の子は、まいにち野へ出たり、こくもつ小屋の中で仕事をしたりして、いちんちじゅう休みなくはたらきました。そして、夕方になるとやっと一時間だけ、かってにあそぶ時間をもらいました。  そのときには、男の子は、いつもきまって、もう一つうしろの岡の上へ出かけました。そこへ上ると、何十町か向うの岡の上に、金の窓のついたお家が見えました。男の子は、まいにち、そのきれいな窓を見にいきました。窓はいつも、しばらくの間きらきらと、まぶしいほど光っています。そのうちに家の人が戸をしめると見えて、きゅうに、ひょいと光がきえます。そして、もう、ただのお家とちっともかわらなくなってしまいます。男の子は、日ぐれだから金の窓もしめるのだなと思って、じぶんもお家へかえって、牛乳とパンを食べて寝るのでした。  或日お父さんは、男の子をよんで、 「おまいはほんとによくはたらいておくれだ。そのごほうびに、きょうは一日おひまを上げるから、どこへでもいってお出で。ただ、このおやすみは、神さまが下さったのだということをわすれてはいけないよ。うかうかくらしてしまわないで、何かいいことをおぼえて来なければ。」と言いました。  男の子はたいそうよろこびました。では、今日こそは、あの金の窓の家へいって見ようと思って、お母さまから、パンを一きれもらって、それをポケットにおしこんで出ていきました。  男の子にはたのしい遠足でした。はだしのまま歩いていくと、往来の白いほこりの上に足のあとがつきました。うしろをふりかえって見ると、じぶんのその足あとがながくつづいています。足あとは、どこまでもじぶんに、ついて来てくれるように見えました。それから、じぶんの影法師も、じぶんのするとおりに、一しょにおどり上ったり、走ったりしてついて来ました。男の子にはそれがゆかいでたまりませんでした。  そのうちに、だんだんにおなかがすいて来ました。男の子は道ばたのいけがきのまえを流れている、小さな川のふちにすわって、パンを食べました。そして、すきとおった、きれいな水をすくって飲みました。それから、食べあましたかたいパンの皮は、小さくくだいて、あたりへふりまいておきました。そうしておけば、小鳥が来て食べます。これはお母さんからおそわったことでした。  男の子はふたたびどんどん歩きました。そして、ようやくのことで、たかい、まっ青な、いつも見る岡の下へつきました。男の子はその岡を上っていきますと、れいのお家がありました。しかしそばへ来て見ると、そのお家の窓はただのガラス窓で、金なぞはどこにもはまってはいませんでした。男の子はすっかりあてがはずれたので、それこそ泣き出したいくらいにがっかりしました。  と、お家からおばさんが出て来ました。そして何かご用ですかと、やさしく聞いてくれました。男の子は、 「私は、うちの後の岡の上から見える、このお家の金の窓を見に来たのです。でも、そんな窓はなくて、ただガラスがはまっているだけですね。」と言いました。おばさんは、くびをふって、 「私の家はびんぼうな百姓ですもの。金などが窓についているはずはありません。金よりもガラスの方があかるくていいんですよ。」  こう言って笑いながら、男の子を戸口の石だんにこしをかけさせて、お牛乳を一ぱいと、パンを一きれもって来てくれました。おばさんは、それから、男の子とちょうどおない年ぐらいの女の子をよび出しました。そして、二人でおあそびなさいというように、うなずいて見せて、ふたたびお家へはいって仕事をしました。  その小さな女の子も、じぶんとおなじように、はだしのままで、黒っ茶けた木綿の上着を着ていました。しかし、その髪の毛は、ちょうど、男の子がいつも見ている光った窓のように、きれいな金色をしていました。それから目は、ま昼の空のようにまっ青にすんでいました。  女の子は、にこにこしながら、男の子をさそって、お家の牛を見せてくれました。それは、ひたいに白い星のある、黒い小牛でした。男の子はじぶんのお家の、四つ足の白い、栗の皮のような赤い色の牛のことを話しました。女の子は、そこいらになっているりんごを一つもいで、二人で食べました。二人はすっかりなかよしになりました。  男の子は、金の窓のことを女の子に話しました。女の子は、 「ええ、私もまいにち見ていますわ。でも、それは、あっちの方にあるんですよ。あなたはあべこべの方へ来たんですわ。」といいました。 「いらっしゃい。こっちへ来ると見えるのよ。」と、女の子はお家のそばの、すこしたかいところへ男の子をつれていきました。そして、金の窓は見えるときがきまっているのだといいました。男の子は、ああきまっている、お日さまがはいるときに見えるのだと答えました。  二人は小だかいところへ上りました。女の子は、 「ああ、今ちょうど見えます。ほら、ごらんなさい。」といいながら、向うの岡の方をゆびさしました。 「ああ、あんなところにもある。」と男の子はびっくりして見入りました。しかし、よく見ると、それは岡の上のじぶんの家でした。男の子はびっくりして、私はもうお家へかえるといい出しました。そして、もう一年もだいじにポケットにしまっていた、赤いすじが一すじはいった、白い、きれいな小さな石を、女の子にやりました。それから、とちの実を三つ、びろうどのようなつやのある、赤いのと、ぽちぽちのついたのと、牛乳のような白い色をしたのと、その三つをやりました。そして、またこんどくるからといって、おおいそぎで走ってかえりました。女の子は、男の子があわててかけてかえるのを、びっくりして見おくっていました。きらきらした夕日の中に、いつまでも立って見ていました。  男の子は、息をもやすめないで、どんどん走ってかえりました。しかし道がずいぶんとおいのでお家へついたときには、もうすっかり暗くなっていました。  じぶんのお家の窓からは、ランプのあかりと、ろのたき火とが、黄色く赤く見えていました。ちょうど、さっき岡の上から見たときとおなじように、きれいにかがやいていました。男の子は、戸をあけてはいりました。お母さんは立って来て、頬ずりをしてむかえました。小さな妹も、よちよちかけて来ました。お父さんはろのそばにすわったまま、にこにこしていました。お母さんは、 「どこへいって来たの? おもしろかった?」と聞きました。 「ええ、ずいぶんゆかいでしたよ。」と男の子は、うれしそうにいいました。 「何かいいことをおぼえて来たかい?」とお父さんが聞きました。 「私は、じぶんたちのこのお家にも、金の窓がついているということをおそわって来ました。」と、男の子はこたえました。
男の子は何を食べて寝ましたか。
男の子は、牛乳とパンを食べて寝ました。
JCRRAG_000925
国語
 言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。 「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、 「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。 「セリヌンティウス。」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」  セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、 「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」  メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。 「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。  群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。 「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」  どっと群衆の間に、歓声が起った。 「万歳、王様万歳。」  ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。 「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」  勇者は、ひどく赤面した。
セリヌンティウスはメロスのどこを殴りましたか。
セリヌンティウスは、メロスの右頬を殴りました。
JCRRAG_000926
国語
 まず、いろいろの話をする前に、前提として私の父祖のこと、つまり、私の家のことを概略話します。  私の父は中島兼松といいました。その三代前は因州侯の藩中で中島重左エ門と名乗った男。悴に同苗長兵衛というものがあって、これが先代からの遺伝と申すか、大層美事な髯をもっておった人物であったから、世間から「髯の長兵衛」と綽名されていたという。その長兵衛の子の中島富五郎になって私の家は全くの町人となりました。  富五郎の子が兼松、これが私の父であります。父の家は随分と貧乏でありました。これは父が道楽をしたためとか、心掛けが悪かったとかいうことからではありません。全く心柄ではないので、父の兼松は九歳の時から身体の悪い父親の一家を背負せおって立って、扶養の義務を尽くさねばならない羽目になったので、そのためとうとうこれという極まった職業を得ることも出来ずじまいになったのであります。父としては種々の希望もあったことでありましょうが、つまり幼年の時から一家の犠牲となって生活に追われたために、習い覚えるはずのことも事情が許さず、取り纏まったものにならなかったことでありました。  祖父に当る富五郎は八丁堀に鰻屋をしていたこともありました。その頃は遊芸が流行で、その中にも富本全盛時代で、江戸市中一般にこれが大流行で、富五郎もその道にはなかなか堪能でありましたが、わけて総領娘は大層上手でありました。父娘とも芸事が好き上手であったから自然その道の方へ熱心になり、娘は十か十一の時、もう諸方の御得意から招かれて、行く末は一廉の富本の名人になろうと評判された位でありました。親の富五郎も鼻高々で楽しんでおりましたが、ふと、或る年悪性の疱瘡に罹って亡なくなってしまいました。そのため富五郎は悉皆気を落としてしまい、気の狭い話だが、自暴を起して、商売の方は打っちゃらかして、諸方の部屋へ行って銀張りの博奕などをして遊人の仲間入りをするというような始末になって、家道は段々と衰えて行ったのでありました。  しかし、この富五郎という人は極気受けの好い人で、大層世間からは可愛がられたといいます。やがて、家業を変えて肴屋を始め、神田、大門通りのあたりを得意に如才なく働いたこともありますが、江戸の大火に逢あって着のみ着のままになり、流れて浅草の花川戸へ行き、其所そこでまた肴屋を初めたのでありました。  花川戸の方も、所柄、なかなか富本が流行はやりまして、素人の天狗連が申し合せ、高座をこしらえて富本を語って大勢の人に聞かせている(素人が集まって語り合うことをおさらいという。これに月さらい、大さらいとある)。根が好きでもあり、上手でもあった富五郎がこの連中へ仲間入りをしたことは道理な話……ところが富五郎が高座に出ると、大層評判がよろしく、「肴屋の富さんが出るなら聞きに行こう」というようなわけでした。このおさらいは下手へたな者が先に語る。多少上手な者が後あとで語るのが通例である。そのため聴衆は先に語る人に悪口をいう。下手な人が高座に上がると、「貴様なぞは早く語って降りてしまえ、富さんの出るのが遅くなるぞ」など騒ぎました。すると、その連中の中に、この事を口惜しがり、富五郎の芸を嫉むものがあって、私に湯呑の中に水銀を容れて富五郎に飲ませたものがあったのです。そこは素人の悲しさに、湯くみがない。湯くみは友達が替わり合ってしたのですから、意趣を持った男はその隙に悪いことをしたのと見える(本職の太夫は、他人には湯はくませはしない。皆門人を使うことになっている)。富五郎はその晩から恐ろしく吃逆が出て、どうしても留まらない。身体も変な工合になって行きました。  すると、それを見たお華客先の大門通りの薬種屋の主人が、「これあいけない、富五郎さん、お前さんは水銀にやられたのだ、早速手当てをしなければ……」というので、その主人は一通りの薬剤のことには詳しかったので、解剤をもって手当てをしました。すると、ようやく吃逆は直りましたが、声は全く立たなくなる。身体は利かなくなる。まるで中気のような工合になって、ヨイヨイになってしまいました。  この時はちょうど私の父の兼松が九歳の時であります。九歳の時から一家扶養の任に当って立ち働かねばならない羽目になったというのはこれからで、その上弟が二人、妹が一人、九つや十の子供には実に容易ならぬ負担でありました。  こういう風の一家の事情故、その暫く前から奉公に出ていた袋物屋を暇取って兼松は家へ帰って来ました。家へ帰って来はしたものの、どうして好いか、十歳にも足らぬ子供の智慧にはどうしようもない。けれど、小供心に考えて、父富五郎は体こそ利かぬようになったが、手先はまことに器用な人であったから、「お父とうさん、何か拵えておくれ、私が売って見るから」というので、子供ながら手伝い、或る玩具を製え、それを小風呂敷に包んで縁日へ出て売り初めたのです。  そのおもちゃというのは、今では見掛けもしませんが、薄い板を台にして、それに小さな梯子が掛かり、梯子の上で、人形の火消しが鳶口などを振り上げたり、火の見をしていたりしている形であります。それがチョット思いつきで人目を惹ひき、子供が非常にほしがるので、相当商売になりました。で、細々ながら、まずどうにかやって行く……その内、縁日の商いの道が分るにつけ、いろいろまた親子で工夫をして、一生懸命に働いては、大勢の一家を子供の腕一本でやって行きました。  こういう有様であるから、とても普通の小供のように一通りの職業を習得するは思いも寄らず、糊口をすることが関の山でありました。その中、兼松も段々人となり、妻をも迎えましたが相更らず親をば大切にして、孝行息子というので名が通りました。それは全く感心なもので、お湯へ行くにも父親を背負って行く。頭を剃って上げる。食べたいというものを無理をしても買って食べさせるという風で、兼松の一生はほとんどすべてを父親のために奉仕し尽くしたといってもよろしいほどで、まことに気の毒な人でありました。けれども当人は至極元気で、愚痴一ついわず、さっぱりとしたものでありました。
私の父中島兼松の三代前の人物は誰ですか。
私の父中島兼松の三代前の人物は、因州侯の藩中で中島重左エ門と名乗った男です。
JCRRAG_000927
国語
 まず、いろいろの話をする前に、前提として私の父祖のこと、つまり、私の家のことを概略話します。  私の父は中島兼松といいました。その三代前は因州侯の藩中で中島重左エ門と名乗った男。悴に同苗長兵衛というものがあって、これが先代からの遺伝と申すか、大層美事な髯をもっておった人物であったから、世間から「髯の長兵衛」と綽名されていたという。その長兵衛の子の中島富五郎になって私の家は全くの町人となりました。  富五郎の子が兼松、これが私の父であります。父の家は随分と貧乏でありました。これは父が道楽をしたためとか、心掛けが悪かったとかいうことからではありません。全く心柄ではないので、父の兼松は九歳の時から身体の悪い父親の一家を背負せおって立って、扶養の義務を尽くさねばならない羽目になったので、そのためとうとうこれという極まった職業を得ることも出来ずじまいになったのであります。父としては種々の希望もあったことでありましょうが、つまり幼年の時から一家の犠牲となって生活に追われたために、習い覚えるはずのことも事情が許さず、取り纏まったものにならなかったことでありました。  祖父に当る富五郎は八丁堀に鰻屋をしていたこともありました。その頃は遊芸が流行で、その中にも富本全盛時代で、江戸市中一般にこれが大流行で、富五郎もその道にはなかなか堪能でありましたが、わけて総領娘は大層上手でありました。父娘とも芸事が好き上手であったから自然その道の方へ熱心になり、娘は十か十一の時、もう諸方の御得意から招かれて、行く末は一廉の富本の名人になろうと評判された位でありました。親の富五郎も鼻高々で楽しんでおりましたが、ふと、或る年悪性の疱瘡に罹って亡なくなってしまいました。そのため富五郎は悉皆気を落としてしまい、気の狭い話だが、自暴を起して、商売の方は打っちゃらかして、諸方の部屋へ行って銀張りの博奕などをして遊人の仲間入りをするというような始末になって、家道は段々と衰えて行ったのでありました。  しかし、この富五郎という人は極気受けの好い人で、大層世間からは可愛がられたといいます。やがて、家業を変えて肴屋を始め、神田、大門通りのあたりを得意に如才なく働いたこともありますが、江戸の大火に逢あって着のみ着のままになり、流れて浅草の花川戸へ行き、其所そこでまた肴屋を初めたのでありました。  花川戸の方も、所柄、なかなか富本が流行はやりまして、素人の天狗連が申し合せ、高座をこしらえて富本を語って大勢の人に聞かせている(素人が集まって語り合うことをおさらいという。これに月さらい、大さらいとある)。根が好きでもあり、上手でもあった富五郎がこの連中へ仲間入りをしたことは道理な話……ところが富五郎が高座に出ると、大層評判がよろしく、「肴屋の富さんが出るなら聞きに行こう」というようなわけでした。このおさらいは下手へたな者が先に語る。多少上手な者が後あとで語るのが通例である。そのため聴衆は先に語る人に悪口をいう。下手な人が高座に上がると、「貴様なぞは早く語って降りてしまえ、富さんの出るのが遅くなるぞ」など騒ぎました。すると、その連中の中に、この事を口惜しがり、富五郎の芸を嫉むものがあって、私に湯呑の中に水銀を容れて富五郎に飲ませたものがあったのです。そこは素人の悲しさに、湯くみがない。湯くみは友達が替わり合ってしたのですから、意趣を持った男はその隙に悪いことをしたのと見える(本職の太夫は、他人には湯はくませはしない。皆門人を使うことになっている)。富五郎はその晩から恐ろしく吃逆が出て、どうしても留まらない。身体も変な工合になって行きました。  すると、それを見たお華客先の大門通りの薬種屋の主人が、「これあいけない、富五郎さん、お前さんは水銀にやられたのだ、早速手当てをしなければ……」というので、その主人は一通りの薬剤のことには詳しかったので、解剤をもって手当てをしました。すると、ようやく吃逆は直りましたが、声は全く立たなくなる。身体は利かなくなる。まるで中気のような工合になって、ヨイヨイになってしまいました。  この時はちょうど私の父の兼松が九歳の時であります。九歳の時から一家扶養の任に当って立ち働かねばならない羽目になったというのはこれからで、その上弟が二人、妹が一人、九つや十の子供には実に容易ならぬ負担でありました。  こういう風の一家の事情故、その暫く前から奉公に出ていた袋物屋を暇取って兼松は家へ帰って来ました。家へ帰って来はしたものの、どうして好いか、十歳にも足らぬ子供の智慧にはどうしようもない。けれど、小供心に考えて、父富五郎は体こそ利かぬようになったが、手先はまことに器用な人であったから、「お父とうさん、何か拵えておくれ、私が売って見るから」というので、子供ながら手伝い、或る玩具を製え、それを小風呂敷に包んで縁日へ出て売り初めたのです。  そのおもちゃというのは、今では見掛けもしませんが、薄い板を台にして、それに小さな梯子が掛かり、梯子の上で、人形の火消しが鳶口などを振り上げたり、火の見をしていたりしている形であります。それがチョット思いつきで人目を惹ひき、子供が非常にほしがるので、相当商売になりました。で、細々ながら、まずどうにかやって行く……その内、縁日の商いの道が分るにつけ、いろいろまた親子で工夫をして、一生懸命に働いては、大勢の一家を子供の腕一本でやって行きました。  こういう有様であるから、とても普通の小供のように一通りの職業を習得するは思いも寄らず、糊口をすることが関の山でありました。その中、兼松も段々人となり、妻をも迎えましたが相更らず親をば大切にして、孝行息子というので名が通りました。それは全く感心なもので、お湯へ行くにも父親を背負って行く。頭を剃って上げる。食べたいというものを無理をしても買って食べさせるという風で、兼松の一生はほとんどすべてを父親のために奉仕し尽くしたといってもよろしいほどで、まことに気の毒な人でありました。けれども当人は至極元気で、愚痴一ついわず、さっぱりとしたものでありました。
兼松は一生誰のために奉仕し尽くしていましたか。
兼松の一生はほとんどすべてを父親のために奉仕し尽くしていました。
JCRRAG_000928
国語
 言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。 「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、 「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。 「セリヌンティウス。」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」  セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、 「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」  メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。 「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。  群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。 「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」  どっと群衆の間に、歓声が起った。 「万歳、王様万歳。」  ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。 「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」  勇者は、ひどく赤面した。
何にひきずられて最後の死力を尽してメロスは走りましたか。
メロスは、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走りました。
JCRRAG_000929
国語
女靴下の話 西東三鬼  人間五十年以上も生きていると、誰でも私の経験したような、奇々怪不可思議な出来事に一度や二度はあうものであろうか。恥を語らねば筋が通らない。話は私の朝帰りから始まる。  およそ朝帰りなるもの、こんないやな気持のものはない。良心の苛責といってしまえばそれまでだが、もっと肉体的な、たとえばズボンのうしろに自分だけが尻尾をぶらさげて歩いているような、みじめな気持である。さてその朝帰りの玄関に出迎えたのが、思いきや、十年以上も会わない東京の悪友で、のっけのセリフが「おかえんなさいまし、エヘヘ」であった。どさくさまぎれの朝酒が夕酒になる頃、初老の悪童のろけていうには、輓近二十二歳の愛人を得て昼夜兼行、多々ますます弁じているが、艶運はともかく、このホルモンは羨ましかろう等々。  さてその晩の汽車で帰る彼を大阪駅に送り、別杯さめやらぬままにウトウトしながら郊外電車で帰宅した。そしてその翌朝、外套のポケットの煙草がほしいと家人にいうと、煙草の代りに指先にぶらさげて来たのが、何と二、三度用いたナイロンの女靴下。それが膝までの短いやつで、ごていねいに両足そろっている――。  私は不覚にも狼狽した。そして電光の速さで前々夜のおぼろの記憶をたどったが、彼女には膝までの靴下を用いる趣味はないはずだ。しかし、万一ということもあるから、おそるおそる電話でおうかがいを立てると「ご冗談でしょ」と受話器の音ガチャン。まさにやぶ蛇である。家人に何と弁解したか、これを読まれる方々のご参考に供したいが、実のところ、ぜんぜん身におぼえのないことだから知らぬ存ぜぬの一点張りであった。  その真相は今もって判らない。多分エロスの神の使者が女に化けて、すでに女体に触れた靴下をひそかに私のポケットにすべり込ませ、少しばかり老人を燃え立たせたのであろう。
不覚にも狼狽したのは誰ですか。
不覚にも狼狽したのは「私」です。
JCRRAG_000930
国語
 弥勒まではそこからまだ十町ほどある。  三田ヶ谷村といっても、一ところに人家がかたまっているわけではなかった。そこに一軒、かしこに一軒、杉の森の陰に三四軒、野の畠はたの向こうに一軒というふうで、町から来てみると、なんだかこれでも村という共同の生活をしているのかと疑われた。けれど少し行くと、人家が両側に並び出して、汚ない理髪店、だるまでもいそうな料理店、子供の集まった駄菓子屋などが眼にとまった。ふと見ると平家ひらや造りの小学校がその右にあって、門に三田ヶ谷村弥勒高等尋常小学校と書いた古びた札がかかっている。授業中で、学童の誦読の声に交って、おりおり教師の甲走った高い声が聞こえる。埃に汚よごれた硝子窓には日が当たって、ところどころ生徒の並んでいるさまや、黒板やテーブルや洋服姿などがかすかにすかして見える。出ではいりの時に生徒でいっぱいになる下駄箱のあたりも今はしんとして、広場には白斑の犬がのそのそと餌をあさっていた。  オルガンの音がかすかに講堂とおぼしきあたりから聞こえて来る。  学校の門前を車は通り抜けた。そこに傘屋があった。家中を油紙やしぶ皿や糸や道具などで散らかして、そのまんなかに五十ぐらいの中爺がせっせと傘を張っていた。家のまわりには油を布しいた傘のまだ乾かわかないのが幾本となく干ほしつらねてある。清三は車をとどめて、役場のあるところをこの中爺にたずねた。  弥勒には小川屋という料理屋があって、学校の教員が宴会をしたり飲み食いに行ったりするということをかねて聞いていた。当分はその料理屋で賄まかないもしてくれるし、夜具も貸してくれるとも聞いた。そこにはお種たねというきれいな評判な娘もいるという。清三はあたりに人がいなかったのをさいわい、通りがかりの足をとどめて、低い垣から庭をのぞいてみた。庭には松が二三本、桜の葉になったのが一二本、障子の黒いのがことにきわだって眼についた。  垣の隅には椿と珊瑚樹との厚い緑の葉が日を受けていた。椿には花がまだ二つ三つ葉がくれに残って見える。  このへんの名物だという赤城おろしも、四月にはいるとまったくやんで、今は野も緑と黄と赤とで美しくいろどられた。麦の畑を貫つらぬいた細い道は、向こうに見えるひょろ長い榛の並木に通じて、その間から役場らしい藁葺屋根が水彩画のように見渡される。  応接室は井泉村役場の応接室よりもきれいであった。そこからは吏員の事務をとっている室が硝子窓をとおしてはっきりと見えた。卓テーブルの上には戸籍台帳やら、収税帳やら、願届を一まとめにした書類やらが秩序よく置かれて、頭を分けたやせぎすの二十四五の男と五十ぐらいの頭のはげた爺とが何かせっせと書いていた。助役らしい鬚の生はえた中年者と土地の勢力家らしい肥った百姓とがしきりに何か笑いながら話していたが、おりおり煙管をトントンとたたく。  村長は四十五ぐらいで、痘痕面で、頭はなかば白かった。ここあたりによく見るタイプで、言葉には時々武州訛が交る。井泉村の助役の手紙を読んで、巻き返して、「私は視学からも助役からもそういう話は聞かなかったが……」と頭を傾かたむけた時は、清三は不思議な思いにうたれた。なんだか狐につままれたような気がした。視学も岸野もあまり無責任に[#「無責任に」は底本では「無責在に」]過ぎるとも思った。  村長はしばらく考えていたが、やがて、「それじゃもう内々転任の話もきまったのかもしれない。今いる平田という教員が評判が悪いので、変えるっていう話はちょっと聞いたことがあるから」と言って、 「一つ学校に行って、校長に会って聞いてみるほうがいい!」  横柄な口のききかたがまずわかいかれの矜持を傷つけた。  何もできもしない百姓の分際で、金があるからといって、生意気な奴だと思った。初めての教員、初めての世間への首途、それがこうした冷淡な幕で開かれようとはかれは思いもかけなかった。  一時間後、かれは学校に行って、校長に会った。授業中なので、三十分ほど教員室で待った。教員室には掛図や大きな算盤や書籍や植物標本やいろいろなものが散らばって乱れていた。女教員が一人隅のほうで何かせっせと調べ物をしていたが、はじめちょっと挨拶したぎりで、言葉もかけてくれなかった。やがてベルが鳴る、長い廊下を生徒はぞろぞろと整列してきて、「別れ」をやるとそのまま、蜘蛛の子を散らしたように広場に散った。今までの静謐とは打って変わって、足音、号令の音、散らばった生徒の騒ぐ音が校内に満ち渡った。  校長の背広には白いチョークがついていた。顔の長い、背の高い、どっちかといえばやせたほうの体格で、師範校出の特色の一種の「気取」がその態度にありありと見えた。知らぬふりをしたのか、それともほんとうに知らぬのか、清三にはその時の校長の心がわからなかった。  校長はこんなことを言った。 「ちっとも知りません……しかし加藤さんがそう言って、岸野さんもご存じなら、いずれなんとか命令があるでしょう。少し待っていていただきたいものですが……」  時宜によればすぐにも使者をやって、よく聞きただしてみてもいいから、今夜一晩は不自由でもあろうが役場に宿ってくれとのことであった。教員室には、教員が出たりはいったりしていた。五十ぐらいの平田という老朽と若い背広の関という准教員とが廊下の柱の所に立って、久しく何事をか語っていた。二人は時々こっちを見た。  ベルがまた鳴った。校長も教員もみな出て行った。生徒はぞろぞろと潮のように集まってはいって来た。女教員は教員室を出ようとして、じろりと清三を見て行った。  唱歌の時間であるとみえて、講堂に生徒が集まって、やがてゆるやかなオルガンの音が静かな校内に聞こえ出した。
村長は何歳ぐらいですか。
村長は四十五ぐらいです。
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紙幣鶴 斎藤茂吉  ある晩カフェに行くと、一隅の卓に倚ったひとりの娘が、墺太利の千円紙幣でしきりに鶴を折っている。ひとりの娘というても、僕は二度三度その娘と話したことがあった。僕の友と一しょに夕餐をしたこともあった。世の人々は、この娘の素性などをいろいろ穿鑿せぬ方が賢いとおもう。娘の前を通りしなに、僕はちょっと娘と会話をした。 「こんばんは。何している」 「こんばんは。どうです、旨いでしょう」 「なんだ千円札じゃないか。勿体ないことをするね」 「いいえ、ちっとも勿体なかないわ。ごらんなさい、墺太利のお金は、こうやってどんどん飛ぶわ」  そうして娘は口を細め、頬をふくらめて、紙幣で折った鶴をぷうと吹いた。鶴は虚空に舞い上ったが、忽ち牀上に落ちた。  娘は、微笑しながら紙幣で折った鶴を僕に示して、"fliegende oesterreichische Kronen!"こういったのであった。この原語の方が、象徴的で、簡潔で、小癪で、よほどうまいところがある。けれども、これをそのまま日本語に直訳してしまってはやはりいけまい。  この小話は、墺太利のカアル皇帝が、西班牙領の離れ小島で崩じた時と、同じような感銘を僕に与えたとおもうから、ここに書きしるしておこう。
「娘」は千円紙幣で何を折っていましたか。
「娘」は千円紙幣で鶴を折っていました。
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国語
岡の家 鈴木三重吉  岡の上に百姓のお家がありました。家がびんぼうで手つだいの人をやとうことも出来ないので、小さな男の子が、お父さんと一しょにはたらいていました。男の子は、まいにち野へ出たり、こくもつ小屋の中で仕事をしたりして、いちんちじゅう休みなくはたらきました。そして、夕方になるとやっと一時間だけ、かってにあそぶ時間をもらいました。  そのときには、男の子は、いつもきまって、もう一つうしろの岡の上へ出かけました。そこへ上ると、何十町か向うの岡の上に、金の窓のついたお家が見えました。男の子は、まいにち、そのきれいな窓を見にいきました。窓はいつも、しばらくの間きらきらと、まぶしいほど光っています。そのうちに家の人が戸をしめると見えて、きゅうに、ひょいと光がきえます。そして、もう、ただのお家とちっともかわらなくなってしまいます。男の子は、日ぐれだから金の窓もしめるのだなと思って、じぶんもお家へかえって、牛乳とパンを食べて寝るのでした。  或日お父さんは、男の子をよんで、 「おまいはほんとによくはたらいておくれだ。そのごほうびに、きょうは一日おひまを上げるから、どこへでもいってお出で。ただ、このおやすみは、神さまが下さったのだということをわすれてはいけないよ。うかうかくらしてしまわないで、何かいいことをおぼえて来なければ。」と言いました。  男の子はたいそうよろこびました。では、今日こそは、あの金の窓の家へいって見ようと思って、お母さまから、パンを一きれもらって、それをポケットにおしこんで出ていきました。  男の子にはたのしい遠足でした。はだしのまま歩いていくと、往来の白いほこりの上に足のあとがつきました。うしろをふりかえって見ると、じぶんのその足あとがながくつづいています。足あとは、どこまでもじぶんに、ついて来てくれるように見えました。それから、じぶんの影法師も、じぶんのするとおりに、一しょにおどり上ったり、走ったりしてついて来ました。男の子にはそれがゆかいでたまりませんでした。  そのうちに、だんだんにおなかがすいて来ました。男の子は道ばたのいけがきのまえを流れている、小さな川のふちにすわって、パンを食べました。そして、すきとおった、きれいな水をすくって飲みました。それから、食べあましたかたいパンの皮は、小さくくだいて、あたりへふりまいておきました。そうしておけば、小鳥が来て食べます。これはお母さんからおそわったことでした。  男の子はふたたびどんどん歩きました。そして、ようやくのことで、たかい、まっ青な、いつも見る岡の下へつきました。男の子はその岡を上っていきますと、れいのお家がありました。しかしそばへ来て見ると、そのお家の窓はただのガラス窓で、金なぞはどこにもはまってはいませんでした。男の子はすっかりあてがはずれたので、それこそ泣き出したいくらいにがっかりしました。  と、お家からおばさんが出て来ました。そして何かご用ですかと、やさしく聞いてくれました。男の子は、 「私は、うちの後の岡の上から見える、このお家の金の窓を見に来たのです。でも、そんな窓はなくて、ただガラスがはまっているだけですね。」と言いました。おばさんは、くびをふって、 「私の家はびんぼうな百姓ですもの。金などが窓についているはずはありません。金よりもガラスの方があかるくていいんですよ。」  こう言って笑いながら、男の子を戸口の石だんにこしをかけさせて、お牛乳を一ぱいと、パンを一きれもって来てくれました。おばさんは、それから、男の子とちょうどおない年ぐらいの女の子をよび出しました。そして、二人でおあそびなさいというように、うなずいて見せて、ふたたびお家へはいって仕事をしました。  その小さな女の子も、じぶんとおなじように、はだしのままで、黒っ茶けた木綿の上着を着ていました。しかし、その髪の毛は、ちょうど、男の子がいつも見ている光った窓のように、きれいな金色をしていました。それから目は、ま昼の空のようにまっ青にすんでいました。  女の子は、にこにこしながら、男の子をさそって、お家の牛を見せてくれました。それは、ひたいに白い星のある、黒い小牛でした。男の子はじぶんのお家の、四つ足の白い、栗の皮のような赤い色の牛のことを話しました。女の子は、そこいらになっているりんごを一つもいで、二人で食べました。二人はすっかりなかよしになりました。  男の子は、金の窓のことを女の子に話しました。女の子は、 「ええ、私もまいにち見ていますわ。でも、それは、あっちの方にあるんですよ。あなたはあべこべの方へ来たんですわ。」といいました。 「いらっしゃい。こっちへ来ると見えるのよ。」と、女の子はお家のそばの、すこしたかいところへ男の子をつれていきました。そして、金の窓は見えるときがきまっているのだといいました。男の子は、ああきまっている、お日さまがはいるときに見えるのだと答えました。  二人は小だかいところへ上りました。女の子は、 「ああ、今ちょうど見えます。ほら、ごらんなさい。」といいながら、向うの岡の方をゆびさしました。 「ああ、あんなところにもある。」と男の子はびっくりして見入りました。しかし、よく見ると、それは岡の上のじぶんの家でした。男の子はびっくりして、私はもうお家へかえるといい出しました。そして、もう一年もだいじにポケットにしまっていた、赤いすじが一すじはいった、白い、きれいな小さな石を、女の子にやりました。それから、とちの実を三つ、びろうどのようなつやのある、赤いのと、ぽちぽちのついたのと、牛乳のような白い色をしたのと、その三つをやりました。そして、またこんどくるからといって、おおいそぎで走ってかえりました。女の子は、男の子があわててかけてかえるのを、びっくりして見おくっていました。きらきらした夕日の中に、いつまでも立って見ていました。  男の子は、息をもやすめないで、どんどん走ってかえりました。しかし道がずいぶんとおいのでお家へついたときには、もうすっかり暗くなっていました。  じぶんのお家の窓からは、ランプのあかりと、ろのたき火とが、黄色く赤く見えていました。ちょうど、さっき岡の上から見たときとおなじように、きれいにかがやいていました。男の子は、戸をあけてはいりました。お母さんは立って来て、頬ずりをしてむかえました。小さな妹も、よちよちかけて来ました。お父さんはろのそばにすわったまま、にこにこしていました。お母さんは、 「どこへいって来たの? おもしろかった?」と聞きました。 「ええ、ずいぶんゆかいでしたよ。」と男の子は、うれしそうにいいました。 「何かいいことをおぼえて来たかい?」とお父さんが聞きました。 「私は、じぶんたちのこのお家にも、金の窓がついているということをおそわって来ました。」と、男の子はこたえました。
男の子は、お母さまからもらったパンをどうしましたか。
男の子は、お母さまからもらったパンをポケットにおしこみ、道ばたの小さな川のふちで食べました。そして、食べあまったかたいパンの皮を小さく切って、周りに振りまきました。
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 弥勒まではそこからまだ十町ほどある。  三田ヶ谷村といっても、一ところに人家がかたまっているわけではなかった。そこに一軒、かしこに一軒、杉の森の陰に三四軒、野の畠はたの向こうに一軒というふうで、町から来てみると、なんだかこれでも村という共同の生活をしているのかと疑われた。けれど少し行くと、人家が両側に並び出して、汚ない理髪店、だるまでもいそうな料理店、子供の集まった駄菓子屋などが眼にとまった。ふと見ると平家ひらや造りの小学校がその右にあって、門に三田ヶ谷村弥勒高等尋常小学校と書いた古びた札がかかっている。授業中で、学童の誦読の声に交って、おりおり教師の甲走った高い声が聞こえる。埃に汚よごれた硝子窓には日が当たって、ところどころ生徒の並んでいるさまや、黒板やテーブルや洋服姿などがかすかにすかして見える。出ではいりの時に生徒でいっぱいになる下駄箱のあたりも今はしんとして、広場には白斑の犬がのそのそと餌をあさっていた。  オルガンの音がかすかに講堂とおぼしきあたりから聞こえて来る。  学校の門前を車は通り抜けた。そこに傘屋があった。家中を油紙やしぶ皿や糸や道具などで散らかして、そのまんなかに五十ぐらいの中爺がせっせと傘を張っていた。家のまわりには油を布しいた傘のまだ乾かわかないのが幾本となく干ほしつらねてある。清三は車をとどめて、役場のあるところをこの中爺にたずねた。  弥勒には小川屋という料理屋があって、学校の教員が宴会をしたり飲み食いに行ったりするということをかねて聞いていた。当分はその料理屋で賄まかないもしてくれるし、夜具も貸してくれるとも聞いた。そこにはお種たねというきれいな評判な娘もいるという。清三はあたりに人がいなかったのをさいわい、通りがかりの足をとどめて、低い垣から庭をのぞいてみた。庭には松が二三本、桜の葉になったのが一二本、障子の黒いのがことにきわだって眼についた。  垣の隅には椿と珊瑚樹との厚い緑の葉が日を受けていた。椿には花がまだ二つ三つ葉がくれに残って見える。  このへんの名物だという赤城おろしも、四月にはいるとまったくやんで、今は野も緑と黄と赤とで美しくいろどられた。麦の畑を貫つらぬいた細い道は、向こうに見えるひょろ長い榛の並木に通じて、その間から役場らしい藁葺屋根が水彩画のように見渡される。  応接室は井泉村役場の応接室よりもきれいであった。そこからは吏員の事務をとっている室が硝子窓をとおしてはっきりと見えた。卓テーブルの上には戸籍台帳やら、収税帳やら、願届を一まとめにした書類やらが秩序よく置かれて、頭を分けたやせぎすの二十四五の男と五十ぐらいの頭のはげた爺とが何かせっせと書いていた。助役らしい鬚の生はえた中年者と土地の勢力家らしい肥った百姓とがしきりに何か笑いながら話していたが、おりおり煙管をトントンとたたく。  村長は四十五ぐらいで、痘痕面で、頭はなかば白かった。ここあたりによく見るタイプで、言葉には時々武州訛が交る。井泉村の助役の手紙を読んで、巻き返して、「私は視学からも助役からもそういう話は聞かなかったが……」と頭を傾かたむけた時は、清三は不思議な思いにうたれた。なんだか狐につままれたような気がした。視学も岸野もあまり無責任に[#「無責任に」は底本では「無責在に」]過ぎるとも思った。  村長はしばらく考えていたが、やがて、「それじゃもう内々転任の話もきまったのかもしれない。今いる平田という教員が評判が悪いので、変えるっていう話はちょっと聞いたことがあるから」と言って、 「一つ学校に行って、校長に会って聞いてみるほうがいい!」  横柄な口のききかたがまずわかいかれの矜持を傷つけた。  何もできもしない百姓の分際で、金があるからといって、生意気な奴だと思った。初めての教員、初めての世間への首途、それがこうした冷淡な幕で開かれようとはかれは思いもかけなかった。  一時間後、かれは学校に行って、校長に会った。授業中なので、三十分ほど教員室で待った。教員室には掛図や大きな算盤や書籍や植物標本やいろいろなものが散らばって乱れていた。女教員が一人隅のほうで何かせっせと調べ物をしていたが、はじめちょっと挨拶したぎりで、言葉もかけてくれなかった。やがてベルが鳴る、長い廊下を生徒はぞろぞろと整列してきて、「別れ」をやるとそのまま、蜘蛛の子を散らしたように広場に散った。今までの静謐とは打って変わって、足音、号令の音、散らばった生徒の騒ぐ音が校内に満ち渡った。  校長の背広には白いチョークがついていた。顔の長い、背の高い、どっちかといえばやせたほうの体格で、師範校出の特色の一種の「気取」がその態度にありありと見えた。知らぬふりをしたのか、それともほんとうに知らぬのか、清三にはその時の校長の心がわからなかった。  校長はこんなことを言った。 「ちっとも知りません……しかし加藤さんがそう言って、岸野さんもご存じなら、いずれなんとか命令があるでしょう。少し待っていていただきたいものですが……」  時宜によればすぐにも使者をやって、よく聞きただしてみてもいいから、今夜一晩は不自由でもあろうが役場に宿ってくれとのことであった。教員室には、教員が出たりはいったりしていた。五十ぐらいの平田という老朽と若い背広の関という准教員とが廊下の柱の所に立って、久しく何事をか語っていた。二人は時々こっちを見た。  ベルがまた鳴った。校長も教員もみな出て行った。生徒はぞろぞろと潮のように集まってはいって来た。女教員は教員室を出ようとして、じろりと清三を見て行った。  唱歌の時間であるとみえて、講堂に生徒が集まって、やがてゆるやかなオルガンの音が静かな校内に聞こえ出した。
校長はどのような体格ですか。
校長は顔の長い、背の高い、どっちかといえばやせたほうの体格です。
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岡の家 鈴木三重吉  岡の上に百姓のお家がありました。家がびんぼうで手つだいの人をやとうことも出来ないので、小さな男の子が、お父さんと一しょにはたらいていました。男の子は、まいにち野へ出たり、こくもつ小屋の中で仕事をしたりして、いちんちじゅう休みなくはたらきました。そして、夕方になるとやっと一時間だけ、かってにあそぶ時間をもらいました。  そのときには、男の子は、いつもきまって、もう一つうしろの岡の上へ出かけました。そこへ上ると、何十町か向うの岡の上に、金の窓のついたお家が見えました。男の子は、まいにち、そのきれいな窓を見にいきました。窓はいつも、しばらくの間きらきらと、まぶしいほど光っています。そのうちに家の人が戸をしめると見えて、きゅうに、ひょいと光がきえます。そして、もう、ただのお家とちっともかわらなくなってしまいます。男の子は、日ぐれだから金の窓もしめるのだなと思って、じぶんもお家へかえって、牛乳とパンを食べて寝るのでした。  或日お父さんは、男の子をよんで、 「おまいはほんとによくはたらいておくれだ。そのごほうびに、きょうは一日おひまを上げるから、どこへでもいってお出で。ただ、このおやすみは、神さまが下さったのだということをわすれてはいけないよ。うかうかくらしてしまわないで、何かいいことをおぼえて来なければ。」と言いました。  男の子はたいそうよろこびました。では、今日こそは、あの金の窓の家へいって見ようと思って、お母さまから、パンを一きれもらって、それをポケットにおしこんで出ていきました。  男の子にはたのしい遠足でした。はだしのまま歩いていくと、往来の白いほこりの上に足のあとがつきました。うしろをふりかえって見ると、じぶんのその足あとがながくつづいています。足あとは、どこまでもじぶんに、ついて来てくれるように見えました。それから、じぶんの影法師も、じぶんのするとおりに、一しょにおどり上ったり、走ったりしてついて来ました。男の子にはそれがゆかいでたまりませんでした。  そのうちに、だんだんにおなかがすいて来ました。男の子は道ばたのいけがきのまえを流れている、小さな川のふちにすわって、パンを食べました。そして、すきとおった、きれいな水をすくって飲みました。それから、食べあましたかたいパンの皮は、小さくくだいて、あたりへふりまいておきました。そうしておけば、小鳥が来て食べます。これはお母さんからおそわったことでした。  男の子はふたたびどんどん歩きました。そして、ようやくのことで、たかい、まっ青な、いつも見る岡の下へつきました。男の子はその岡を上っていきますと、れいのお家がありました。しかしそばへ来て見ると、そのお家の窓はただのガラス窓で、金なぞはどこにもはまってはいませんでした。男の子はすっかりあてがはずれたので、それこそ泣き出したいくらいにがっかりしました。  と、お家からおばさんが出て来ました。そして何かご用ですかと、やさしく聞いてくれました。男の子は、 「私は、うちの後の岡の上から見える、このお家の金の窓を見に来たのです。でも、そんな窓はなくて、ただガラスがはまっているだけですね。」と言いました。おばさんは、くびをふって、 「私の家はびんぼうな百姓ですもの。金などが窓についているはずはありません。金よりもガラスの方があかるくていいんですよ。」  こう言って笑いながら、男の子を戸口の石だんにこしをかけさせて、お牛乳を一ぱいと、パンを一きれもって来てくれました。おばさんは、それから、男の子とちょうどおない年ぐらいの女の子をよび出しました。そして、二人でおあそびなさいというように、うなずいて見せて、ふたたびお家へはいって仕事をしました。  その小さな女の子も、じぶんとおなじように、はだしのままで、黒っ茶けた木綿の上着を着ていました。しかし、その髪の毛は、ちょうど、男の子がいつも見ている光った窓のように、きれいな金色をしていました。それから目は、ま昼の空のようにまっ青にすんでいました。  女の子は、にこにこしながら、男の子をさそって、お家の牛を見せてくれました。それは、ひたいに白い星のある、黒い小牛でした。男の子はじぶんのお家の、四つ足の白い、栗の皮のような赤い色の牛のことを話しました。女の子は、そこいらになっているりんごを一つもいで、二人で食べました。二人はすっかりなかよしになりました。  男の子は、金の窓のことを女の子に話しました。女の子は、 「ええ、私もまいにち見ていますわ。でも、それは、あっちの方にあるんですよ。あなたはあべこべの方へ来たんですわ。」といいました。 「いらっしゃい。こっちへ来ると見えるのよ。」と、女の子はお家のそばの、すこしたかいところへ男の子をつれていきました。そして、金の窓は見えるときがきまっているのだといいました。男の子は、ああきまっている、お日さまがはいるときに見えるのだと答えました。  二人は小だかいところへ上りました。女の子は、 「ああ、今ちょうど見えます。ほら、ごらんなさい。」といいながら、向うの岡の方をゆびさしました。 「ああ、あんなところにもある。」と男の子はびっくりして見入りました。しかし、よく見ると、それは岡の上のじぶんの家でした。男の子はびっくりして、私はもうお家へかえるといい出しました。そして、もう一年もだいじにポケットにしまっていた、赤いすじが一すじはいった、白い、きれいな小さな石を、女の子にやりました。それから、とちの実を三つ、びろうどのようなつやのある、赤いのと、ぽちぽちのついたのと、牛乳のような白い色をしたのと、その三つをやりました。そして、またこんどくるからといって、おおいそぎで走ってかえりました。女の子は、男の子があわててかけてかえるのを、びっくりして見おくっていました。きらきらした夕日の中に、いつまでも立って見ていました。  男の子は、息をもやすめないで、どんどん走ってかえりました。しかし道がずいぶんとおいのでお家へついたときには、もうすっかり暗くなっていました。  じぶんのお家の窓からは、ランプのあかりと、ろのたき火とが、黄色く赤く見えていました。ちょうど、さっき岡の上から見たときとおなじように、きれいにかがやいていました。男の子は、戸をあけてはいりました。お母さんは立って来て、頬ずりをしてむかえました。小さな妹も、よちよちかけて来ました。お父さんはろのそばにすわったまま、にこにこしていました。お母さんは、 「どこへいって来たの? おもしろかった?」と聞きました。 「ええ、ずいぶんゆかいでしたよ。」と男の子は、うれしそうにいいました。 「何かいいことをおぼえて来たかい?」とお父さんが聞きました。 「私は、じぶんたちのこのお家にも、金の窓がついているということをおそわって来ました。」と、男の子はこたえました。
女の子が見せてくれた牛は、どんな牛でしたか。
女の子は、ひたいに白い星のある、黒い小牛を見せてくれました。
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ある女の生涯 島崎藤村  おげんはぐっすり寝て、朝の四時頃には自分の娘や小さな甥なぞの側に眼をさました。慣れない床、慣れない枕、慣れない蚊帳の内で、そんなに前後も知らずに深く眠られたというだけでも、おげんに取ってはめずらしかった。気の置けないものばかり――娘のお新に、婆やに、九つになる小さな甥まで入れると、都合四人も同じ蚊帳の内に枕を並べて寝たこともめずらしかった。  八月のことで、短か夜を寝惜むようなお新はまだよく眠っていた。おげんはそこに眠っている人形の側でも離れるようにして、自分の娘の側を離れた。蚊帳を出て、部屋の雨戸を一二枚ほど開けて見ると、夏の空は明けかかっていた。 「漸く来た。」  とおげんは独りでそれを言って見た。そこは地方によくあるような医院の一室で、遠い村々から来る患者を容れるための部屋になっていた。蜂谷という評判の好い田舎医者がそこを経営していた。おげんが娘や甥を連れてそこへ来たのは自分の養生のためとは言え、普通の患者が病室に泊まったようにも自分を思っていなかったというのは、一つはおげんの亡くなった旦那がまだ達者でさかりの頃に少年の蜂谷を引取って、書生として世話したという縁故があったからで。 「前の日に思い立って、翌る日は家を出て来るような、そんな旦那衆のようなわけにいかすか」 「そうとも」 「そこは女だもの。俺は半年も前から思い立って、漸くここまで来た」  これは二人の人の会話のようであるが、おげんは一人でそれをやった。彼女の内部にはこんな独言を言う二人の人が居た。  おげんはもう年をとって、心細かった。彼女は嫁いで行った小山の家の祖母さんの死を見送り、旦那と自分の間に出来た小山の相続人でお新から言えば唯一人の兄にあたる実子の死を見送り、二年前には旦那の死をも見送った。彼女の周囲にあった親しい人達は、一人減り、二人減り、長年小山に出入してお家大事と勤めて呉れたような大番頭の二人までも早やこの世に居なかった。彼女は孤独で震えるように成ったばかりでなく、もう長いこと自分の身体に異状のあることをも感じていた。彼女は娘のお新と共に――四十の歳まで結婚させることも出来ずに処女で通させて来たような唯一人の不幸なお新と共に最後の「隠れ家」を求めようとするより外にはもう何等の念慮をも持たなかった。  このおげんが小山の家を出ようと思い立った頃は六十の歳だった。彼女は一日も手放しがたいものに思うお新を連れ、預り子の小さな甥を連れ、附添の婆やまで連れて、賑かに家を出て来たが、古い馴染の軒を離れる時にはさすがに限りない感慨を覚えた。彼女はその昂奮を笑いに紛わして来た。「みんな、行って来るぞい」その言葉を養子夫婦にも、奉公人一同にも残して置いて来た。彼女の真意では、しばらく蜂谷の医院に養生した上で、是非とも東京の空まではとこころざしていた。東京には長いこと彼女の見ない弟達が居たから。  蜂谷の医院は中央線の須原駅に近いところにあった。おげんの住慣れた町とは四里ほどの距離にあった。彼女が家を出る時の昂奮はその道のりを汽車で乗って来るまで続いていたし、この医院に着いてもまだ続いていた。(以下略)
蜂谷の医院は何駅の近くにありましたか。
蜂谷の医院は中央線の須原駅の近くにありました。
JCRRAG_000936
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西洋科学は素晴らしい C. スミス C. Smith The Creative CAT 訳 一人の火星人と三人の共産主義者の出任せ話でございます  火星人は御影石の小さな断崖の上に座っていた。そよ風を楽しめるように小ぶりな樅の木の形態を取っている。尖った常緑樹の葉の間を風が気持ちよく吹いていった。  崖下に一人のアメリカ人が立っていた。火星人が目にした初めてのアメリカ人である。  アメリカ人はポケットから魅惑的なまでに巧妙な装置を取り出した。金属製の小箱で、ノズルが持ち上がると即座に炎を発した。彼は苦もなくこの神秘の装置から、至福を齎す薬草の詰まった円筒に火を移した。火星人はこれがアメリカ人たちがシガレットと呼ぶものであることを理解した。アメリカ人がシガレットに火をつけ終わった時、彼は形態を変えた。今度は身長五メートルの紅顔白髯の中国人扇動家の姿である。彼はアメリカ人に向かって英語で叫んだ。「ハロー、フレンド!」  見上げたアメリカ人の顎は今にも外れそうになった。  火星人は崖を降り、静かにアメリカ人に近寄って行った。あまり怖がらせないようにゆっくりと。  それにもかかわらず、アメリカ人は随分気に病んだようだ。というものこんな事を言ったから「お前は現実ではないな? そんなことあるもんか。それともひょっとして?」  火星人はそっとアメリカ人の心の中を覗いて、身長五メートルの中国人扇動家像はアメリカ人の日常心理において安心を齎すものではないと理解した。彼はアメリカ人の心の中で安心感のあるイメージを探した。まずそのアメリカ人の母親のイメージが見つかったので、すぐさまその姿に変態してこう答えた「現実とは何、ダーリン?」  するとアメリカ人は僅かに青ざめて片手で両目を覆った。火星人は再度アメリカ人の心に入り込み、いささか混乱したイメージを探り当てた。  アメリカ人が目を開くと、今度は火星人が若い赤十字の看護婦の姿を取って、ストリップショーを繰り広げている最中だった。歓心を誘うための手順だったにも拘らず、アメリカ人は安心しなかった。恐怖が怒りに転じ、彼は言った「お前は一体何者だ?」  火星人の親切心もここまでだった。オックスフォードあがりの中国国民党軍大将軍の姿となり、イギリス訛り丸出しでこう言った。「私はこの地に棲む若干超自然的な『モノ』として知られておる。気にしないでくれたら嬉しい。西洋科学は実に素晴らしい。よって私は貴方の手の中にある魅力的な機械を調べなければならない。少し話をする時間をいただけないだろうか。」  アメリカ人の心に混乱したイメージの断片が浮かぶのが見て取れた。何やら「禁酒法」とかいうものや、別の「酒を控えるオン・ザ・ワゴン」とかいうものと関連がありそうだった。そして何度も繰り返す「なぜこの俺がこんな所に?」という疑問や。  その間、火星人はライターを検めた。  アメリカ人の手に戻しても、彼は硬直したままだった。 「実によくできた魔法だ」と火星人。「このあたりの岩山ではこの種のことができぬ。私は幾分下級の悪魔でね。貴方は著名なる合衆国陸軍の大尉殿とお見受けする。自己紹介を許されたい。私は羅漢の第一三八七二二九代東方従位輪廻である。雑談する時間はおありかな?」  アメリカ人の目には国民党軍の制服が映っていた。振り返ると、中国人の荷役人夫も通訳も谷間の草地の上で束ねた雑巾のようにひっくり返っているではないか。すっかり気絶していたのだ。ようやくの事で気を取り直したアメリカ人は言った「ラカンだって?」 「羅漢は阿羅漢の一なり」と火星人。  どちらの情報もアメリカ人には受け取ってもらえず、火星人は、どうやらアメリカ軍人と知己を得るに好適な環境をもはや失してしまったと結論した。がっかりした火星人はアメリカ人の心から自分の記憶を消し、気絶した中国人たちの心にも同様の処置を施した。彼は自分の体を崖の上に植え直し、再び樅の木の形態となって、全員の目を覚ました。中国人通訳がアメリカ人に身振り手振りで示しているのを見て、通訳が「この丘には悪魔がいるんです……」と説明しているのがわかった。  アメリカ人がこの話を迷信深い中国人の戯言として腹の底から笑い飛ばすのを見て、火星人はむしろ喜んだ。  彼が見つめる中、一隊は神秘の美を湛える小さな八口河湖の向こうに立ち去っていった。 これは一九四五年のことだった。 火星人はライターを物質化しようと何時間も頭を捻ったが、出来上がったものは何をどうやっても数時間以内に原始的悪臭に戻ってしまった。 時は移って一九五五年。火星人は一人のソ連軍人がやってくると耳にした。神秘的なまでに先端的な西洋世界から来たもう一人の人物と知り合いになるのを心待ちにしていた。(以下略)
火星人は何を検めましたか。
火星人は、ライターを検めました。
JCRRAG_000937
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 まず、いろいろの話をする前に、前提として私の父祖のこと、つまり、私の家のことを概略話します。  私の父は中島兼松といいました。その三代前は因州侯の藩中で中島重左エ門と名乗った男。悴に同苗長兵衛というものがあって、これが先代からの遺伝と申すか、大層美事な髯をもっておった人物であったから、世間から「髯の長兵衛」と綽名されていたという。その長兵衛の子の中島富五郎になって私の家は全くの町人となりました。  富五郎の子が兼松、これが私の父であります。父の家は随分と貧乏でありました。これは父が道楽をしたためとか、心掛けが悪かったとかいうことからではありません。全く心柄ではないので、父の兼松は九歳の時から身体の悪い父親の一家を背負せおって立って、扶養の義務を尽くさねばならない羽目になったので、そのためとうとうこれという極まった職業を得ることも出来ずじまいになったのであります。父としては種々の希望もあったことでありましょうが、つまり幼年の時から一家の犠牲となって生活に追われたために、習い覚えるはずのことも事情が許さず、取り纏まったものにならなかったことでありました。  祖父に当る富五郎は八丁堀に鰻屋をしていたこともありました。その頃は遊芸が流行で、その中にも富本全盛時代で、江戸市中一般にこれが大流行で、富五郎もその道にはなかなか堪能でありましたが、わけて総領娘は大層上手でありました。父娘とも芸事が好き上手であったから自然その道の方へ熱心になり、娘は十か十一の時、もう諸方の御得意から招かれて、行く末は一廉の富本の名人になろうと評判された位でありました。親の富五郎も鼻高々で楽しんでおりましたが、ふと、或る年悪性の疱瘡に罹って亡なくなってしまいました。そのため富五郎は悉皆気を落としてしまい、気の狭い話だが、自暴を起して、商売の方は打っちゃらかして、諸方の部屋へ行って銀張りの博奕などをして遊人の仲間入りをするというような始末になって、家道は段々と衰えて行ったのでありました。  しかし、この富五郎という人は極気受けの好い人で、大層世間からは可愛がられたといいます。やがて、家業を変えて肴屋を始め、神田、大門通りのあたりを得意に如才なく働いたこともありますが、江戸の大火に逢あって着のみ着のままになり、流れて浅草の花川戸へ行き、其所そこでまた肴屋を初めたのでありました。  花川戸の方も、所柄、なかなか富本が流行はやりまして、素人の天狗連が申し合せ、高座をこしらえて富本を語って大勢の人に聞かせている(素人が集まって語り合うことをおさらいという。これに月さらい、大さらいとある)。根が好きでもあり、上手でもあった富五郎がこの連中へ仲間入りをしたことは道理な話……ところが富五郎が高座に出ると、大層評判がよろしく、「肴屋の富さんが出るなら聞きに行こう」というようなわけでした。このおさらいは下手へたな者が先に語る。多少上手な者が後あとで語るのが通例である。そのため聴衆は先に語る人に悪口をいう。下手な人が高座に上がると、「貴様なぞは早く語って降りてしまえ、富さんの出るのが遅くなるぞ」など騒ぎました。すると、その連中の中に、この事を口惜しがり、富五郎の芸を嫉むものがあって、私に湯呑の中に水銀を容れて富五郎に飲ませたものがあったのです。そこは素人の悲しさに、湯くみがない。湯くみは友達が替わり合ってしたのですから、意趣を持った男はその隙に悪いことをしたのと見える(本職の太夫は、他人には湯はくませはしない。皆門人を使うことになっている)。富五郎はその晩から恐ろしく吃逆が出て、どうしても留まらない。身体も変な工合になって行きました。  すると、それを見たお華客先の大門通りの薬種屋の主人が、「これあいけない、富五郎さん、お前さんは水銀にやられたのだ、早速手当てをしなければ……」というので、その主人は一通りの薬剤のことには詳しかったので、解剤をもって手当てをしました。すると、ようやく吃逆は直りましたが、声は全く立たなくなる。身体は利かなくなる。まるで中気のような工合になって、ヨイヨイになってしまいました。  この時はちょうど私の父の兼松が九歳の時であります。九歳の時から一家扶養の任に当って立ち働かねばならない羽目になったというのはこれからで、その上弟が二人、妹が一人、九つや十の子供には実に容易ならぬ負担でありました。  こういう風の一家の事情故、その暫く前から奉公に出ていた袋物屋を暇取って兼松は家へ帰って来ました。家へ帰って来はしたものの、どうして好いか、十歳にも足らぬ子供の智慧にはどうしようもない。けれど、小供心に考えて、父富五郎は体こそ利かぬようになったが、手先はまことに器用な人であったから、「お父とうさん、何か拵えておくれ、私が売って見るから」というので、子供ながら手伝い、或る玩具を製え、それを小風呂敷に包んで縁日へ出て売り初めたのです。  そのおもちゃというのは、今では見掛けもしませんが、薄い板を台にして、それに小さな梯子が掛かり、梯子の上で、人形の火消しが鳶口などを振り上げたり、火の見をしていたりしている形であります。それがチョット思いつきで人目を惹ひき、子供が非常にほしがるので、相当商売になりました。で、細々ながら、まずどうにかやって行く……その内、縁日の商いの道が分るにつけ、いろいろまた親子で工夫をして、一生懸命に働いては、大勢の一家を子供の腕一本でやって行きました。  こういう有様であるから、とても普通の小供のように一通りの職業を習得するは思いも寄らず、糊口をすることが関の山でありました。その中、兼松も段々人となり、妻をも迎えましたが相更らず親をば大切にして、孝行息子というので名が通りました。それは全く感心なもので、お湯へ行くにも父親を背負って行く。頭を剃って上げる。食べたいというものを無理をしても買って食べさせるという風で、兼松の一生はほとんどすべてを父親のために奉仕し尽くしたといってもよろしいほどで、まことに気の毒な人でありました。けれども当人は至極元気で、愚痴一ついわず、さっぱりとしたものでありました。
富五郎が高座に出た時の評判はどうでしたか。
富五郎が高座に出た時の評判は、大層評判がよろしく、「肴屋の富さんが出るなら聞きに行こう」というようなわけでした。
JCRRAG_000938
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女靴下の話 西東三鬼  人間五十年以上も生きていると、誰でも私の経験したような、奇々怪不可思議な出来事に一度や二度はあうものであろうか。恥を語らねば筋が通らない。話は私の朝帰りから始まる。  およそ朝帰りなるもの、こんないやな気持のものはない。良心の苛責といってしまえばそれまでだが、もっと肉体的な、たとえばズボンのうしろに自分だけが尻尾をぶらさげて歩いているような、みじめな気持である。さてその朝帰りの玄関に出迎えたのが、思いきや、十年以上も会わない東京の悪友で、のっけのセリフが「おかえんなさいまし、エヘヘ」であった。どさくさまぎれの朝酒が夕酒になる頃、初老の悪童のろけていうには、輓近二十二歳の愛人を得て昼夜兼行、多々ますます弁じているが、艶運はともかく、このホルモンは羨ましかろう等々。  さてその晩の汽車で帰る彼を大阪駅に送り、別杯さめやらぬままにウトウトしながら郊外電車で帰宅した。そしてその翌朝、外套のポケットの煙草がほしいと家人にいうと、煙草の代りに指先にぶらさげて来たのが、何と二、三度用いたナイロンの女靴下。それが膝までの短いやつで、ごていねいに両足そろっている――。  私は不覚にも狼狽した。そして電光の速さで前々夜のおぼろの記憶をたどったが、彼女には膝までの靴下を用いる趣味はないはずだ。しかし、万一ということもあるから、おそるおそる電話でおうかがいを立てると「ご冗談でしょ」と受話器の音ガチャン。まさにやぶ蛇である。家人に何と弁解したか、これを読まれる方々のご参考に供したいが、実のところ、ぜんぜん身におぼえのないことだから知らぬ存ぜぬの一点張りであった。  その真相は今もって判らない。多分エロスの神の使者が女に化けて、すでに女体に触れた靴下をひそかに私のポケットにすべり込ませ、少しばかり老人を燃え立たせたのであろう。
「私」が汽車で帰る彼を送ったのは何駅ですか。
「私」が汽車で帰る彼を送ったのは大阪駅です。
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紙幣鶴 斎藤茂吉  ある晩カフェに行くと、一隅の卓に倚ったひとりの娘が、墺太利の千円紙幣でしきりに鶴を折っている。ひとりの娘というても、僕は二度三度その娘と話したことがあった。僕の友と一しょに夕餐をしたこともあった。世の人々は、この娘の素性などをいろいろ穿鑿せぬ方が賢いとおもう。娘の前を通りしなに、僕はちょっと娘と会話をした。 「こんばんは。何している」 「こんばんは。どうです、旨いでしょう」 「なんだ千円札じゃないか。勿体ないことをするね」 「いいえ、ちっとも勿体なかないわ。ごらんなさい、墺太利のお金は、こうやってどんどん飛ぶわ」  そうして娘は口を細め、頬をふくらめて、紙幣で折った鶴をぷうと吹いた。鶴は虚空に舞い上ったが、忽ち牀上に落ちた。  娘は、微笑しながら紙幣で折った鶴を僕に示して、"fliegende oesterreichische Kronen!"こういったのであった。この原語の方が、象徴的で、簡潔で、小癪で、よほどうまいところがある。けれども、これをそのまま日本語に直訳してしまってはやはりいけまい。  この小話は、墺太利のカアル皇帝が、西班牙領の離れ小島で崩じた時と、同じような感銘を僕に与えたとおもうから、ここに書きしるしておこう。
この小話は、どんな感銘を「僕」に与えましたか。
この小話は、墺太利のカアル皇帝が、西班牙領の離れ小島で崩じた時と同じような感銘を「僕」に与えました。
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国語
 つぎの日も、そのつぎの日も、葉子は森先生を橋の上で待合して学校へ行った。けれどノートの事については何にも仰有らなかった。葉子もそれをきこうとはしなかった。  光子は葉子が先生と一緒に学校へ来るのが妬しくてならなかった。その週間も過ぎて、つぎの地理の時間が来た。  葉子が忘れようとしていた記憶はまた新しくなった。葉子は、おずおずと先生の方を見た。先週習ったところは幾度となく復習して来たから、どこをきかれても答えられたけれど、先生は葉子の方を決して見なかった。そして光子に向って、 「巴里はどこの都ですか」とお訊ねになった。すると「佛蘭西の都であります」と光子が嬉しそうに答えた。  地理の時間が終ると、運動場のアカシヤの木の下へいって、葉子はぼんやり足もとを見つめていた。何ということなしに悲しかった。 「葉子さん」そう言って後から葉子の肩を軽く叩いた。それは葉子と仲好の朝子であった。朝子は葉子の顔を覗きこんで「どうしたの」ときいた。 「どうもしないの」そういって葉子は笑って見せた。 「そんなら好いけど。何だか考えこんでいらっしゃるんですもの、言って好いことなら私に話して頂戴な」 「いいえ、そんな事じゃないの、私すこし頭痛がするの」 「さう、そりゃいけないわね」  葉子はじっと思入って朝子を見つめて「朝子さん」 「え」 「あなた森先生お好き?」 「ええ、好きよ、大好きだわ」 「あたしも好きなの、でも先生は私のことを怒っていらっしゃる様なの」 「そんなことはないでしょう」  葉子は、朝子に心配の種を残らず打明けた。それから二人は森先生のやさしいことや、先生は何処の生れの方だろうという事や、先生にもお母様があるだろうかという事や、もし先生が病気なさったら、毎日側そばについて看病してあげましょうねという事や、もしや死んでしまっても、先生のお墓の傍に、小さい家をたてて、先生のお好きな花をどっさり植えましょうという事などを語り合った。
葉子は誰を橋の上で待合して学校へ行きましたか。
葉子は森先生を橋の上で待合して学校へ行きました。
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国語
今朝の夢・大きな象が 田井田かわず  散らかった部屋の床に布団を敷いて寝ていると、夢見心地に何かの音が聞こえた気がした。意識を持ちあげて耳をすましてみると、どうやら気のせいというわけでも、夢の中というわけでも無いようだ。  興味をそそられて、私にしては珍しく果敢に布団から起き出し、ダイニングに居た父に声をかけた。 「父さん、これ何の音?」  トランペットとか、ああいったたぐいの楽器をとりあえず思いっきり吹いてみたような音、と言えば伝わるかどうかは分からないが、とりあえずそういう音が遠くから何かの信号のように響いている。父はただ、窓の外を眺めながら呟いた。 「さぁ、なんだろな」  音の出所はハッキリしているようで、家からは長い坂を下って登って、歩いて四十分ほどの所にある公園から聞こえていると言う事を、家族が口々に言った。その公園は県内でもちょっと有名なくらい規模が大きいのでそこで何かイベントでもしてるんだろうかと私は思ったが、緊迫した様子を見るとそういうわけでもないらしい。 「何だろう……。なんか象の鳴き声にも似てるよね」  自分でそう口にしてみて、一つのニュースを思い出した。  つい最近、海の向こうから商業目的で三頭の巨大な像が連れてこられたと言うのだ。しかしあまりの大きさのため管理が行き届かず、街ひとつ、その巨大な像に踏み荒らされたと言う、日本国内でも結構大きな事件だった。一度は捕まえたものの、どうしてもその象の管理に手こずり、鬼ごっこを繰り返していると聞いた。  父も同じことを考えたらしく、私の言葉に反応して拳を手のひらに打った。 「象だっ!」  同じように状況を察した兄と母と、一緒になって急いで避難する準備を始める。 「帰ってきたとき大変じゃないように、ある程度部屋は片付けときなさい」母が言った。  象が踏み荒らせば、どうしたって散らかるんじゃないだろうかとも考えたが、なるほど自分でまず片付けておけば、だいたいどこら辺にあるかもわかるし、最初から散らかしておくよりはましかもしれないと思った。  となりの部屋の兄が私に、急げよと言って、早々と片づけを済ましてダイニングに向かう。私は慌てつつも片づけをしながら財布と、いつも持ち歩いているメモ帳と筆記用具をかばんにまとめた。  最近片づけに慣れてきたと自負していたのに、慌てたためか若干手間を取ったが、なんとか終わらせると家族のそろうダイニングに入った。なぜか母は、キッチンで弁当を作っている。 「音が近づいてきた」  私は呟いた。  家の正面に付いた窓から、静かな道路を眺める。車が一台も走っていないのは、この前の災害で渋滞のため逃げ遅れ踏みつぶされた人が居る、と言うニュースを皆が知っているためかと何となく考える。それにしたって人が逃げる影すらもない。みんな家で息を飲んでいるのだろうか。 「来た」  誰かが言った。  足音もなく、窓の向こうに象の太い足がぬっと覗く。足だけで窓を覆い尽くさんばかりの大きさだった。  足元しか見えないが、マンションの四階くらいの高さはあるだろうか。象はそこで立ち止まっていた。こんな大きな像が三匹も、どうやって海を渡ったのだろう。  私たちは、象が何もしないまま過ぎ去る事を祈りながら、心持ち身をかがめそっと様子をうかがう。母はまだ弁当を詰めていた。  そのとき家が持ち上がり、大きく揺れ始めた。象が鼻で持ち上げ左右に揺らしてるのであろう。私たちは床に這いつくばった。  悪あがきで、象がそっと家を下ろしてくれる事を祈ったが、家はポイと手放された。(いや、<鼻>放されると言うべきなのだろうか)私たちの家はその勢いのまま、家の裏手にある小さいアパートの上に落ちた。 「あちゃー……」 「……しょうがないわよ。こうなっちゃぁ」  私と母は家の横の窓から足元の様子を見ていう。家はどこも崩れなかったためか、あんがい楽天的だ。  アパートの方は天井が崩れて、中が見えていた。家の人と目が合うと、大丈夫だよと、手を振ってくれた。  私は言葉も無く、何度も謝った。  巨大な象はそれからも鼻をぶんぶん振りながら何かしら壊しつつ道路を進んで行った。外を見れば、象の通り道は一目でわかる事だろう。  とりあえず一難去ったと息をついていると、突然に玄関の扉が開いた。 「大丈夫!?」  アパートに乗り上げて、しかも斜め上を向いている家の玄関に、どうやってたどり着いたのかは分からないが、そこには向こう隣りの市に住んでいる友人の姿があった。高速道路を使えば車で十五分ほどとはいえ、わざわざこんな所まで来てくれたのだろうか。 「おばちゃんなんでお弁当作ってるの?」  流石しっかりしている友人は、母の行動に対してきっちりツッコンだ。  「ちょうどこっちに来たってニュースで言うから、心配で…!とりあえず、このままここに居たら危ないから、一緒に避難所に行こう!」  母の弁明も、私たちの疑問も聞かずに自分の事を説明すると、友人は素晴らしい手際の良さで、さっと避難所の場所を確認し、私達を連れ出した。  私たちは促されるまま彼女のお父さんが運転する車に乗せてもらった。「いまなら車も少ないし、象の第一波も終わった。つぎが来る前に」と、そう言って、瓦礫の合間を縫い、夕陽の差すなか、私たちを乗せた車は避難所に向かった。  ところで、出る前に一度部屋をのぞいてみたら、片づけた甲斐あってか、それとも物が少ないためか、そう酷い事にはなっておらず私はほっとした。
私たちの家はどこに落ちましたか。
私たちの家は家の裏手にある小さいアパートの上に落ちました。
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国語
撮影所殺人事件 酒井嘉七  あなたは、勿論、エキストラって御存じでしょう。――活動写真撮影のときに、臨時に雇われて、群衆になったりする――あれですよ。私は聖林にいる時分から、これが本職だったのです。私が千九百三十年に日本へ帰って来た時分には、こんなことで、此方で、おまんまなんか、頂けたものじゃ御座いませんでした。しかし、それから五年の後、私が刑務所から出て来ますと、日本の撮影場もすっかり、亜米利加のあの頃と同じようになっていました。  私は、あちらへ舞い戻ったつもりになって、ABCプロや、XYZプロダクションで、毎日のように、エキストラ稼ぎをしていたんです。  あの朝は、とても霧の深い、息苦しいような、お天気でした。 「こんな日和じゃ、撮影も駄目だろう」  私は、こう思いながら、出て行ったのですが、監督は、 「夜の気分を出すのには丁度いい、すぐ撮影開始だ」  と命令したものです。  場面は神戸の元町、一丁目角。とても金のかかった、いいセットでした。撮影台本には次のように書いてありました―― 「午前一時、人通りが殆んど絶えた元町通りを、ダンス・ホールの帰りか、または、酒場で飲んでいたらしい、与多者風の、若者二三が歩いて行く。と、一人が、軒店のおでん屋に頭を入れる――」  御存じのように、こうした場合に雇われるエキストラは、 「用意、カメラ、アクション――」  の声がかかると、セットの中にいることを忘れて、ただ、呑気に歩いているか、または、話していれば、それでいいのです。しかし、これが、なかなか、六ツヶ敷いことで、撮影されていながら、ほんとに遊んでいる時のような、ゆったりとした気分になれば、もう、エキストラとしては一人前なんです。  この時の、私の役は、今の台本にありました、「ダンス・ホールか、酒場からの帰りらしい与多者」で、カメラがクランクされ初めると、通りを少し歩いて、軒下のおでん屋に頭を突込めば、それでいいのでした。しかし、そのままでストップするんじゃありません。親爺さんに、なんとか相手になっていなければならなかったのです。で、私は、 「父さん、一杯つけてくんな」  と、云ったものです。すると、この親爺さん、いかにも真面目に、 「やあ、いらっしゃい」  と、顔を上げましたが、見ると、五年前にほんものの元町通りでおでん屋をしていた親爺なんです。私は、すっかり驚いてしまいました。 「おや、親爺さん、いつからエキストラになんか、なっているんだい」  と、聞きますと、少し変な顔をしましたが、何の返事もせずに、酒の燗をしてるんです。私は、はっきり、五年前の、あの夜を思い出しました。 (彼女を殺したのも、こんな霧の深い夜だった。ここに、この親爺がいたんだ。  ――親爺さん、酒をつけてくんな。  と、云うと、  ――はい、どうぞ。  と返事して、徳利を出した。大きなグラスのカップに入れて、ぐっと一と息、そして、ふと、後を見ると、彼女が男を連れて……)  こう、思って、ふと、振り向くと、何と驚いたことに、正真正銘の彼女が、男をつれて、こちらへ来るんです。私は、はっ、としました。 「こんな馬鹿なことが……。これはセットじゃないか」  こう思って、目を見はりましたが、彼女に相違ありません。私を裏切った、憎い女に違いないのです。 「しかし、あいつは、俺が殺したのじゃないか。五年前の、今日のように、霧の深い晩に、確に俺の手で殺したのだ。――それがために、長い五ヶ年を、刑務所で暮したのじゃないか」  私は自分自身で、気が狂ったのではないか、と思いました。実際、こんな馬鹿げたことがこの、世の中にあろうとは考えられません。しかし、近づいて来る女を見れば見るほど、彼女に相違ありません。 「うぬ、まだ生きていたのか」  こう思うと、私は逆上してしまいました。無意識の中に、五年前にやったと同じように、おでん屋の親爺が前においている出刀をひったくると――。 (以下略)
「やあ、いらっしゃい」と顔を上げたのは誰でしたか。
「やあ、いらっしゃい」と顔を上げたのは、五年前にほんものの元町通りでおでん屋をしていた親爺でした。
JCRRAG_000943
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撮影所殺人事件 酒井嘉七  あなたは、勿論、エキストラって御存じでしょう。――活動写真撮影のときに、臨時に雇われて、群衆になったりする――あれですよ。私は聖林にいる時分から、これが本職だったのです。私が千九百三十年に日本へ帰って来た時分には、こんなことで、此方で、おまんまなんか、頂けたものじゃ御座いませんでした。しかし、それから五年の後、私が刑務所から出て来ますと、日本の撮影場もすっかり、亜米利加のあの頃と同じようになっていました。  私は、あちらへ舞い戻ったつもりになって、ABCプロや、XYZプロダクションで、毎日のように、エキストラ稼ぎをしていたんです。  あの朝は、とても霧の深い、息苦しいような、お天気でした。 「こんな日和じゃ、撮影も駄目だろう」  私は、こう思いながら、出て行ったのですが、監督は、 「夜の気分を出すのには丁度いい、すぐ撮影開始だ」  と命令したものです。  場面は神戸の元町、一丁目角。とても金のかかった、いいセットでした。撮影台本には次のように書いてありました―― 「午前一時、人通りが殆んど絶えた元町通りを、ダンス・ホールの帰りか、または、酒場で飲んでいたらしい、与多者風の、若者二三が歩いて行く。と、一人が、軒店のおでん屋に頭を入れる――」  御存じのように、こうした場合に雇われるエキストラは、 「用意、カメラ、アクション――」  の声がかかると、セットの中にいることを忘れて、ただ、呑気に歩いているか、または、話していれば、それでいいのです。しかし、これが、なかなか、六ツヶ敷いことで、撮影されていながら、ほんとに遊んでいる時のような、ゆったりとした気分になれば、もう、エキストラとしては一人前なんです。  この時の、私の役は、今の台本にありました、「ダンス・ホールか、酒場からの帰りらしい与多者」で、カメラがクランクされ初めると、通りを少し歩いて、軒下のおでん屋に頭を突込めば、それでいいのでした。しかし、そのままでストップするんじゃありません。親爺さんに、なんとか相手になっていなければならなかったのです。で、私は、 「父さん、一杯つけてくんな」  と、云ったものです。すると、この親爺さん、いかにも真面目に、 「やあ、いらっしゃい」  と、顔を上げましたが、見ると、五年前にほんものの元町通りでおでん屋をしていた親爺なんです。私は、すっかり驚いてしまいました。 「おや、親爺さん、いつからエキストラになんか、なっているんだい」  と、聞きますと、少し変な顔をしましたが、何の返事もせずに、酒の燗をしてるんです。私は、はっきり、五年前の、あの夜を思い出しました。 (彼女を殺したのも、こんな霧の深い夜だった。ここに、この親爺がいたんだ。  ――親爺さん、酒をつけてくんな。  と、云うと、  ――はい、どうぞ。  と返事して、徳利を出した。大きなグラスのカップに入れて、ぐっと一と息、そして、ふと、後を見ると、彼女が男を連れて……)  こう、思って、ふと、振り向くと、何と驚いたことに、正真正銘の彼女が、男をつれて、こちらへ来るんです。私は、はっ、としました。 「こんな馬鹿なことが……。これはセットじゃないか」  こう思って、目を見はりましたが、彼女に相違ありません。私を裏切った、憎い女に違いないのです。 「しかし、あいつは、俺が殺したのじゃないか。五年前の、今日のように、霧の深い晩に、確に俺の手で殺したのだ。――それがために、長い五ヶ年を、刑務所で暮したのじゃないか」  私は自分自身で、気が狂ったのではないか、と思いました。実際、こんな馬鹿げたことがこの、世の中にあろうとは考えられません。しかし、近づいて来る女を見れば見るほど、彼女に相違ありません。 「うぬ、まだ生きていたのか」  こう思うと、私は逆上してしまいました。無意識の中に、五年前にやったと同じように、おでん屋の親爺が前においている出刀をひったくると――。 (以下略)
「あの朝」は、どんなお天気でしたか。
「あの朝」は、とても霧の深い、息苦しいようなお天気でした。
JCRRAG_000944
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叔母たちはまた、若いころ、たいした浮気もので、蓮葉女だったから、姪の操行を油断なく見張り、厳しく取りしまるには全く見事に適当だと思われていた。年とった蓮葉女ほど、がっちりして用心ぶかく、無情なほど礼儀正しい付きそい役はまたとないのである。彼女は叔母たちの眼をはなれることはめったに許されなかった。城の領地のそとに出るときにはかならず、しっかりとした付きそいがついた。というよりはむしろ、十分な見張りがつけられたのである。また絶えず厳格な行儀作法や文句をいわずに服従することについて講釈を聞かされていた。そして、男については、いやはや、絶対に近づかないように教えこまれ、また断じて信用しないように言われていたから、彼女は正当な許しがなければ、世界じゅうでもっとも眉目秀麗な伊達男にさえ、いちべつもくれはしなかっただろう。いや、たとえその男が彼女の足もとで死にかけていたにせよ、見むきもしなかっただろう。 このしつけかたのすばらしい効果は、見事にあらわれてきた。この若い婦人は従順と品行方正のかがみであった。ほかの娘たちは世間ではなやかに評判になって、愛らしさをなくし、だれの手にも手折られ、やがては投げすてられがちであった。ところが、彼女はあの汚れのない老嬢たちの保護のもとに、はずかしげにほころびて、みずみずしく美しい婦人になろうとして、あたかも刺に守られて色づく薔薇の蕾のようだった。叔母たちは誇らしく満足げに彼女をながめ、たとえ世のなかのすべての若い女たちが道をふみあやまろうとも、カッツェンエレンボーゲンの跡取り娘には、ありがたいことに、そのようなことは決しておこるはずがない、と吹聴した。 しかし、フォン・ランドショート男爵が、どれほど子供にめぐまれることが少かったにせよ、彼の家族は決して小人数ではなかった。神の御心は彼にたくさんの貧しい縁者をめぐみたもうていたのである。彼らはだれもかれも、およそ貧乏な親類にはつきものの親愛の情をもっていて、おどろくほど男爵を慕い、あらゆる機会を見つけては大ぜいでやってきて、城をにぎわした。一門の祝祭にはこういう善良なひとびとがあつまって祝ったが、費用は男爵がもった。そして彼らは山海の珍味に満腹すると、このような家族の会合、このような心からの歓楽ほどたのしいものは決してあるものではない、とよく言ったものである。
姪は何のようでしたか。
姪は刺に守られて色づく薔薇の蕾のようでした。
JCRRAG_000945
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私の飼った犬 斎藤弘吉 最初はカラフト犬  私が最初に飼った犬は、カラフト犬でした。大正の終わりごろですが、その当時はほしいと思う日本犬が手にはいらなかったので、立耳巻尾で形が似ているカラフト犬を、ホロナイ河口で漁業組合長をしていた友人に頼んで送ってもらったのです。生後二カ月余、全身黒褐色で胸のところに白毛があり、ムクムクふとって、ちょうどクマの子そっくりでしたので“クマ”と名づけました。東京の気候は、カラフト犬には暖かすぎるので、夜も外につないでおきました。ところが、これがわざわいとなったのです。というのは、飼って間もなく夜半に外から侵入して来た狂犬病の浮浪犬にかまれ、この恐ろしい病気をうつされて、とうとう私自身の手で悲しい処置をしなければならなくなったのでした。犬を飼ったら、決して外から他の犬がはいって来られるところに置くものでないと覚ったことでした。 土佐闘犬の子犬  自分の家の犬が狂犬病になったので、一家中十八日間も毎日世田谷の家から目黒の伝染病研究所に通って予防注射を受け、もう再び犬は飼うものでないと決心したのでしたが、一度かわいい純真な犬の愛情を知ると、もうどうにもさびしくてたまらず、つぎに飼ったのが血統の正しい土佐闘犬の子でした。うす茶色の美しい犬でしたが、残念ながら骨軟症という骨の病気にかかり、これをなおそうと牛の骨を食べさせすぎて、胃腸を悪くし、とうとう死なせてしまいました。  その後、私は日本犬保存会を作り、日本犬の調査や研究を始めたので、よい日本犬が手にはいり、戦前まで飼った犬は全部日本犬で、合計十数頭にのぼります。このうち、いまなお忘れられない犬のことを少し述べましょう。 秋田犬“出羽”号  秋田犬“出羽”は秋田県大館市のある畜犬商が種犬にしていた犬で、うす赤の、肩の高さ六十一センチぐらい、耳が小さく立ち、尾は太く左巻きで、体型も気性もまことによい犬でした。当時、私の家は山小屋ふうの洋館で、板敷でしたので、夜は家の中に入れて自由にしておきました。家から十六メートルばかり離れた中門のあたりに人が来ると、私たちにはその足音も聞こえないのに、出羽はもう玄関のドアの前に行って低くウーッとうなっているのです。家の者が来客と話して、警戒しなくてもよい人間とわかると、もう身を引いておとなしくなります。私が来客と話しているときは、いつも私のイスの側に横になっているのですが、客と議論したりして声高になると、出羽は立ってウーッと攻撃の姿勢をとるのでした。  夜、私たちは二階にやすみ、出羽は階段の下の洗面所のドアの前に寝て、私たちを守ってくれるのがいつものならわしでしたが、年の暮れのある夜半のことです。突然出羽が猛然とほえたので、びっくりして飛び起きました。出羽のほえ声は実に大きな威力のある声で、数百メートル離れた駅までも聞こえるほどだったのです。階段を下りて見ると、出羽は洗面所のドアに向かってほえているので、ドアを開けて見ると、上の回転窓が閉め忘れたとみえ開いているのです。ちょうど雪の降った晩でしたが、かなり遠い道路から畑をまっすぐに横切ってこの窓の下まで来て、またまっすぐに道路まで逃げて行った人間の足跡が、雪の上に残っていました。  当時は、有名な“説教強盗”と呼ばれた怪盗が出没し、どうにも捕えられなかったときです。私たちは、きっと説教強盗に違いない、開いていた回転窓から忍び込もうと近よって、出羽のあの猛烈な勢いに逃げたものだろうとウワサをしたことでした。説教強盗は、はいった家では必ず「番犬を飼いなさい」と説教していたそうです。 (以下略)
「私」が最初に飼った犬は何ですか。
「私」が最初に飼った犬は、カラフト犬です。
JCRRAG_000946
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撮影所殺人事件 酒井嘉七  あなたは、勿論、エキストラって御存じでしょう。――活動写真撮影のときに、臨時に雇われて、群衆になったりする――あれですよ。私は聖林にいる時分から、これが本職だったのです。私が千九百三十年に日本へ帰って来た時分には、こんなことで、此方で、おまんまなんか、頂けたものじゃ御座いませんでした。しかし、それから五年の後、私が刑務所から出て来ますと、日本の撮影場もすっかり、亜米利加のあの頃と同じようになっていました。  私は、あちらへ舞い戻ったつもりになって、ABCプロや、XYZプロダクションで、毎日のように、エキストラ稼ぎをしていたんです。  あの朝は、とても霧の深い、息苦しいような、お天気でした。 「こんな日和じゃ、撮影も駄目だろう」  私は、こう思いながら、出て行ったのですが、監督は、 「夜の気分を出すのには丁度いい、すぐ撮影開始だ」  と命令したものです。  場面は神戸の元町、一丁目角。とても金のかかった、いいセットでした。撮影台本には次のように書いてありました―― 「午前一時、人通りが殆んど絶えた元町通りを、ダンス・ホールの帰りか、または、酒場で飲んでいたらしい、与多者風の、若者二三が歩いて行く。と、一人が、軒店のおでん屋に頭を入れる――」  御存じのように、こうした場合に雇われるエキストラは、 「用意、カメラ、アクション――」  の声がかかると、セットの中にいることを忘れて、ただ、呑気に歩いているか、または、話していれば、それでいいのです。しかし、これが、なかなか、六ツヶ敷いことで、撮影されていながら、ほんとに遊んでいる時のような、ゆったりとした気分になれば、もう、エキストラとしては一人前なんです。  この時の、私の役は、今の台本にありました、「ダンス・ホールか、酒場からの帰りらしい与多者」で、カメラがクランクされ初めると、通りを少し歩いて、軒下のおでん屋に頭を突込めば、それでいいのでした。しかし、そのままでストップするんじゃありません。親爺さんに、なんとか相手になっていなければならなかったのです。で、私は、 「父さん、一杯つけてくんな」  と、云ったものです。すると、この親爺さん、いかにも真面目に、 「やあ、いらっしゃい」  と、顔を上げましたが、見ると、五年前にほんものの元町通りでおでん屋をしていた親爺なんです。私は、すっかり驚いてしまいました。 「おや、親爺さん、いつからエキストラになんか、なっているんだい」  と、聞きますと、少し変な顔をしましたが、何の返事もせずに、酒の燗をしてるんです。私は、はっきり、五年前の、あの夜を思い出しました。 (彼女を殺したのも、こんな霧の深い夜だった。ここに、この親爺がいたんだ。  ――親爺さん、酒をつけてくんな。  と、云うと、  ――はい、どうぞ。  と返事して、徳利を出した。大きなグラスのカップに入れて、ぐっと一と息、そして、ふと、後を見ると、彼女が男を連れて……)  こう、思って、ふと、振り向くと、何と驚いたことに、正真正銘の彼女が、男をつれて、こちらへ来るんです。私は、はっ、としました。 「こんな馬鹿なことが……。これはセットじゃないか」  こう思って、目を見はりましたが、彼女に相違ありません。私を裏切った、憎い女に違いないのです。 「しかし、あいつは、俺が殺したのじゃないか。五年前の、今日のように、霧の深い晩に、確に俺の手で殺したのだ。――それがために、長い五ヶ年を、刑務所で暮したのじゃないか」  私は自分自身で、気が狂ったのではないか、と思いました。実際、こんな馬鹿げたことがこの、世の中にあろうとは考えられません。しかし、近づいて来る女を見れば見るほど、彼女に相違ありません。 「うぬ、まだ生きていたのか」  こう思うと、私は逆上してしまいました。無意識の中に、五年前にやったと同じように、おでん屋の親爺が前においている出刀をひったくると――。 (以下略)
「私」が無意識の中でひったくったのは何ですか。
「私」が無意識の中でひったくったのは、おでん屋の親爺が前においている出刀です。
JCRRAG_000947
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撮影所殺人事件 酒井嘉七  あなたは、勿論、エキストラって御存じでしょう。――活動写真撮影のときに、臨時に雇われて、群衆になったりする――あれですよ。私は聖林にいる時分から、これが本職だったのです。私が千九百三十年に日本へ帰って来た時分には、こんなことで、此方で、おまんまなんか、頂けたものじゃ御座いませんでした。しかし、それから五年の後、私が刑務所から出て来ますと、日本の撮影場もすっかり、亜米利加のあの頃と同じようになっていました。  私は、あちらへ舞い戻ったつもりになって、ABCプロや、XYZプロダクションで、毎日のように、エキストラ稼ぎをしていたんです。  あの朝は、とても霧の深い、息苦しいような、お天気でした。 「こんな日和じゃ、撮影も駄目だろう」  私は、こう思いながら、出て行ったのですが、監督は、 「夜の気分を出すのには丁度いい、すぐ撮影開始だ」  と命令したものです。  場面は神戸の元町、一丁目角。とても金のかかった、いいセットでした。撮影台本には次のように書いてありました―― 「午前一時、人通りが殆んど絶えた元町通りを、ダンス・ホールの帰りか、または、酒場で飲んでいたらしい、与多者風の、若者二三が歩いて行く。と、一人が、軒店のおでん屋に頭を入れる――」  御存じのように、こうした場合に雇われるエキストラは、 「用意、カメラ、アクション――」  の声がかかると、セットの中にいることを忘れて、ただ、呑気に歩いているか、または、話していれば、それでいいのです。しかし、これが、なかなか、六ツヶ敷いことで、撮影されていながら、ほんとに遊んでいる時のような、ゆったりとした気分になれば、もう、エキストラとしては一人前なんです。  この時の、私の役は、今の台本にありました、「ダンス・ホールか、酒場からの帰りらしい与多者」で、カメラがクランクされ初めると、通りを少し歩いて、軒下のおでん屋に頭を突込めば、それでいいのでした。しかし、そのままでストップするんじゃありません。親爺さんに、なんとか相手になっていなければならなかったのです。で、私は、 「父さん、一杯つけてくんな」  と、云ったものです。すると、この親爺さん、いかにも真面目に、 「やあ、いらっしゃい」  と、顔を上げましたが、見ると、五年前にほんものの元町通りでおでん屋をしていた親爺なんです。私は、すっかり驚いてしまいました。 「おや、親爺さん、いつからエキストラになんか、なっているんだい」  と、聞きますと、少し変な顔をしましたが、何の返事もせずに、酒の燗をしてるんです。私は、はっきり、五年前の、あの夜を思い出しました。 (彼女を殺したのも、こんな霧の深い夜だった。ここに、この親爺がいたんだ。  ――親爺さん、酒をつけてくんな。  と、云うと、  ――はい、どうぞ。  と返事して、徳利を出した。大きなグラスのカップに入れて、ぐっと一と息、そして、ふと、後を見ると、彼女が男を連れて……)  こう、思って、ふと、振り向くと、何と驚いたことに、正真正銘の彼女が、男をつれて、こちらへ来るんです。私は、はっ、としました。 「こんな馬鹿なことが……。これはセットじゃないか」  こう思って、目を見はりましたが、彼女に相違ありません。私を裏切った、憎い女に違いないのです。 「しかし、あいつは、俺が殺したのじゃないか。五年前の、今日のように、霧の深い晩に、確に俺の手で殺したのだ。――それがために、長い五ヶ年を、刑務所で暮したのじゃないか」  私は自分自身で、気が狂ったのではないか、と思いました。実際、こんな馬鹿げたことがこの、世の中にあろうとは考えられません。しかし、近づいて来る女を見れば見るほど、彼女に相違ありません。 「うぬ、まだ生きていたのか」  こう思うと、私は逆上してしまいました。無意識の中に、五年前にやったと同じように、おでん屋の親爺が前においている出刀をひったくると――。 (以下略)
「私」が日本へ帰って来たのは何年ですか。
「私」が日本へ帰って来たのは千九百三十年です。
JCRRAG_000948
国語
撮影所殺人事件 酒井嘉七  あなたは、勿論、エキストラって御存じでしょう。――活動写真撮影のときに、臨時に雇われて、群衆になったりする――あれですよ。私は聖林にいる時分から、これが本職だったのです。私が千九百三十年に日本へ帰って来た時分には、こんなことで、此方で、おまんまなんか、頂けたものじゃ御座いませんでした。しかし、それから五年の後、私が刑務所から出て来ますと、日本の撮影場もすっかり、亜米利加のあの頃と同じようになっていました。  私は、あちらへ舞い戻ったつもりになって、ABCプロや、XYZプロダクションで、毎日のように、エキストラ稼ぎをしていたんです。  あの朝は、とても霧の深い、息苦しいような、お天気でした。 「こんな日和じゃ、撮影も駄目だろう」  私は、こう思いながら、出て行ったのですが、監督は、 「夜の気分を出すのには丁度いい、すぐ撮影開始だ」  と命令したものです。  場面は神戸の元町、一丁目角。とても金のかかった、いいセットでした。撮影台本には次のように書いてありました―― 「午前一時、人通りが殆んど絶えた元町通りを、ダンス・ホールの帰りか、または、酒場で飲んでいたらしい、与多者風の、若者二三が歩いて行く。と、一人が、軒店のおでん屋に頭を入れる――」  御存じのように、こうした場合に雇われるエキストラは、 「用意、カメラ、アクション――」  の声がかかると、セットの中にいることを忘れて、ただ、呑気に歩いているか、または、話していれば、それでいいのです。しかし、これが、なかなか、六ツヶ敷いことで、撮影されていながら、ほんとに遊んでいる時のような、ゆったりとした気分になれば、もう、エキストラとしては一人前なんです。  この時の、私の役は、今の台本にありました、「ダンス・ホールか、酒場からの帰りらしい与多者」で、カメラがクランクされ初めると、通りを少し歩いて、軒下のおでん屋に頭を突込めば、それでいいのでした。しかし、そのままでストップするんじゃありません。親爺さんに、なんとか相手になっていなければならなかったのです。で、私は、 「父さん、一杯つけてくんな」  と、云ったものです。すると、この親爺さん、いかにも真面目に、 「やあ、いらっしゃい」  と、顔を上げましたが、見ると、五年前にほんものの元町通りでおでん屋をしていた親爺なんです。私は、すっかり驚いてしまいました。 「おや、親爺さん、いつからエキストラになんか、なっているんだい」  と、聞きますと、少し変な顔をしましたが、何の返事もせずに、酒の燗をしてるんです。私は、はっきり、五年前の、あの夜を思い出しました。 (彼女を殺したのも、こんな霧の深い夜だった。ここに、この親爺がいたんだ。  ――親爺さん、酒をつけてくんな。  と、云うと、  ――はい、どうぞ。  と返事して、徳利を出した。大きなグラスのカップに入れて、ぐっと一と息、そして、ふと、後を見ると、彼女が男を連れて……)  こう、思って、ふと、振り向くと、何と驚いたことに、正真正銘の彼女が、男をつれて、こちらへ来るんです。私は、はっ、としました。 「こんな馬鹿なことが……。これはセットじゃないか」  こう思って、目を見はりましたが、彼女に相違ありません。私を裏切った、憎い女に違いないのです。 「しかし、あいつは、俺が殺したのじゃないか。五年前の、今日のように、霧の深い晩に、確に俺の手で殺したのだ。――それがために、長い五ヶ年を、刑務所で暮したのじゃないか」  私は自分自身で、気が狂ったのではないか、と思いました。実際、こんな馬鹿げたことがこの、世の中にあろうとは考えられません。しかし、近づいて来る女を見れば見るほど、彼女に相違ありません。 「うぬ、まだ生きていたのか」  こう思うと、私は逆上してしまいました。無意識の中に、五年前にやったと同じように、おでん屋の親爺が前においている出刀をひったくると――。 (以下略)
監督は「私」に何と命令しましたか。
監督は「私」に、「夜の気分を出すのには丁度いい、すぐ撮影開始だ」と命令しました。
JCRRAG_000949
国語
私の飼った犬 斎藤弘吉 最初はカラフト犬  私が最初に飼った犬は、カラフト犬でした。大正の終わりごろですが、その当時はほしいと思う日本犬が手にはいらなかったので、立耳巻尾で形が似ているカラフト犬を、ホロナイ河口で漁業組合長をしていた友人に頼んで送ってもらったのです。生後二カ月余、全身黒褐色で胸のところに白毛があり、ムクムクふとって、ちょうどクマの子そっくりでしたので“クマ”と名づけました。東京の気候は、カラフト犬には暖かすぎるので、夜も外につないでおきました。ところが、これがわざわいとなったのです。というのは、飼って間もなく夜半に外から侵入して来た狂犬病の浮浪犬にかまれ、この恐ろしい病気をうつされて、とうとう私自身の手で悲しい処置をしなければならなくなったのでした。犬を飼ったら、決して外から他の犬がはいって来られるところに置くものでないと覚ったことでした。 土佐闘犬の子犬  自分の家の犬が狂犬病になったので、一家中十八日間も毎日世田谷の家から目黒の伝染病研究所に通って予防注射を受け、もう再び犬は飼うものでないと決心したのでしたが、一度かわいい純真な犬の愛情を知ると、もうどうにもさびしくてたまらず、つぎに飼ったのが血統の正しい土佐闘犬の子でした。うす茶色の美しい犬でしたが、残念ながら骨軟症という骨の病気にかかり、これをなおそうと牛の骨を食べさせすぎて、胃腸を悪くし、とうとう死なせてしまいました。  その後、私は日本犬保存会を作り、日本犬の調査や研究を始めたので、よい日本犬が手にはいり、戦前まで飼った犬は全部日本犬で、合計十数頭にのぼります。このうち、いまなお忘れられない犬のことを少し述べましょう。 秋田犬“出羽”号  秋田犬“出羽”は秋田県大館市のある畜犬商が種犬にしていた犬で、うす赤の、肩の高さ六十一センチぐらい、耳が小さく立ち、尾は太く左巻きで、体型も気性もまことによい犬でした。当時、私の家は山小屋ふうの洋館で、板敷でしたので、夜は家の中に入れて自由にしておきました。家から十六メートルばかり離れた中門のあたりに人が来ると、私たちにはその足音も聞こえないのに、出羽はもう玄関のドアの前に行って低くウーッとうなっているのです。家の者が来客と話して、警戒しなくてもよい人間とわかると、もう身を引いておとなしくなります。私が来客と話しているときは、いつも私のイスの側に横になっているのですが、客と議論したりして声高になると、出羽は立ってウーッと攻撃の姿勢をとるのでした。  夜、私たちは二階にやすみ、出羽は階段の下の洗面所のドアの前に寝て、私たちを守ってくれるのがいつものならわしでしたが、年の暮れのある夜半のことです。突然出羽が猛然とほえたので、びっくりして飛び起きました。出羽のほえ声は実に大きな威力のある声で、数百メートル離れた駅までも聞こえるほどだったのです。階段を下りて見ると、出羽は洗面所のドアに向かってほえているので、ドアを開けて見ると、上の回転窓が閉め忘れたとみえ開いているのです。ちょうど雪の降った晩でしたが、かなり遠い道路から畑をまっすぐに横切ってこの窓の下まで来て、またまっすぐに道路まで逃げて行った人間の足跡が、雪の上に残っていました。  当時は、有名な“説教強盗”と呼ばれた怪盗が出没し、どうにも捕えられなかったときです。私たちは、きっと説教強盗に違いない、開いていた回転窓から忍び込もうと近よって、出羽のあの猛烈な勢いに逃げたものだろうとウワサをしたことでした。説教強盗は、はいった家では必ず「番犬を飼いなさい」と説教していたそうです。 (以下略)
「私」はカラフト犬に何と名づけましたか。
「私」はカラフト犬に“クマ”と名づけました。
JCRRAG_000950
国語
私の飼った犬 斎藤弘吉 最初はカラフト犬  私が最初に飼った犬は、カラフト犬でした。大正の終わりごろですが、その当時はほしいと思う日本犬が手にはいらなかったので、立耳巻尾で形が似ているカラフト犬を、ホロナイ河口で漁業組合長をしていた友人に頼んで送ってもらったのです。生後二カ月余、全身黒褐色で胸のところに白毛があり、ムクムクふとって、ちょうどクマの子そっくりでしたので“クマ”と名づけました。東京の気候は、カラフト犬には暖かすぎるので、夜も外につないでおきました。ところが、これがわざわいとなったのです。というのは、飼って間もなく夜半に外から侵入して来た狂犬病の浮浪犬にかまれ、この恐ろしい病気をうつされて、とうとう私自身の手で悲しい処置をしなければならなくなったのでした。犬を飼ったら、決して外から他の犬がはいって来られるところに置くものでないと覚ったことでした。 土佐闘犬の子犬  自分の家の犬が狂犬病になったので、一家中十八日間も毎日世田谷の家から目黒の伝染病研究所に通って予防注射を受け、もう再び犬は飼うものでないと決心したのでしたが、一度かわいい純真な犬の愛情を知ると、もうどうにもさびしくてたまらず、つぎに飼ったのが血統の正しい土佐闘犬の子でした。うす茶色の美しい犬でしたが、残念ながら骨軟症という骨の病気にかかり、これをなおそうと牛の骨を食べさせすぎて、胃腸を悪くし、とうとう死なせてしまいました。  その後、私は日本犬保存会を作り、日本犬の調査や研究を始めたので、よい日本犬が手にはいり、戦前まで飼った犬は全部日本犬で、合計十数頭にのぼります。このうち、いまなお忘れられない犬のことを少し述べましょう。 秋田犬“出羽”号  秋田犬“出羽”は秋田県大館市のある畜犬商が種犬にしていた犬で、うす赤の、肩の高さ六十一センチぐらい、耳が小さく立ち、尾は太く左巻きで、体型も気性もまことによい犬でした。当時、私の家は山小屋ふうの洋館で、板敷でしたので、夜は家の中に入れて自由にしておきました。家から十六メートルばかり離れた中門のあたりに人が来ると、私たちにはその足音も聞こえないのに、出羽はもう玄関のドアの前に行って低くウーッとうなっているのです。家の者が来客と話して、警戒しなくてもよい人間とわかると、もう身を引いておとなしくなります。私が来客と話しているときは、いつも私のイスの側に横になっているのですが、客と議論したりして声高になると、出羽は立ってウーッと攻撃の姿勢をとるのでした。  夜、私たちは二階にやすみ、出羽は階段の下の洗面所のドアの前に寝て、私たちを守ってくれるのがいつものならわしでしたが、年の暮れのある夜半のことです。突然出羽が猛然とほえたので、びっくりして飛び起きました。出羽のほえ声は実に大きな威力のある声で、数百メートル離れた駅までも聞こえるほどだったのです。階段を下りて見ると、出羽は洗面所のドアに向かってほえているので、ドアを開けて見ると、上の回転窓が閉め忘れたとみえ開いているのです。ちょうど雪の降った晩でしたが、かなり遠い道路から畑をまっすぐに横切ってこの窓の下まで来て、またまっすぐに道路まで逃げて行った人間の足跡が、雪の上に残っていました。  当時は、有名な“説教強盗”と呼ばれた怪盗が出没し、どうにも捕えられなかったときです。私たちは、きっと説教強盗に違いない、開いていた回転窓から忍び込もうと近よって、出羽のあの猛烈な勢いに逃げたものだろうとウワサをしたことでした。説教強盗は、はいった家では必ず「番犬を飼いなさい」と説教していたそうです。 (以下略)
秋田犬出羽を飼っていた当時、「私の家」はどんな家でしたか。
秋田犬出羽を飼っていた当時、「私の家」は山小屋ふうの洋館で、板敷でした。
JCRRAG_000951
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石の思い 坂口安吾  私の父は私の十八の年(丁度東京の大地震の秋であったが)に死んだのだから父と子との交渉が相当あってもよい筈なのだが、何もない。私は十三人もある兄弟(尤も妾の子もある)の末男で下に妹が一人あるだけ父とは全く年齢が違う。だから私の友人達が子供と二十五か三十しか違わないので子供達と友達みたいに話をしているのを見ると変な気がするので、私と父にはそういう記憶が全くない。  私の父は二、三流ぐらいの政治家で、つまり田舎政治家とでも称する人種で、十ぺんぐらい代議士に当選して地方の支部長というようなもの、中央ではあまり名前の知られていない人物であった。しかし、こういう人物は極度に多忙なのであろう。家にいるなどということはめったにない。ところが私の親父は半面森春濤門下の漢詩人で晩年には「北越詩話」という本を三十年もかかって書いており、家にいるときは書斎にこもったきり顔をだすことがなく、私が父を見るのは墨をすらされる時だけであった。女中が旦那様がお呼びですといって私を呼びにくる、用件は分っているのだ、墨をするのにきまっている。父はニコリともしない、こぼしたりすると苛々怒るだけである。私はただ癪にさわっていただけだ。女中がたくさんいるのに、なんのために私が墨をすらなければならないのか。その父とは私に墨をすらせる以外に何の交渉関係もない他人であり、その外の場所では年中顔を見るということもなかった。  だから私は父の愛などは何も知らないのだ。父のない子供はむしろ父の愛に就て考えるであろうが、私には父があり、その父と一ヶ月に一度ぐらい呼ばれて墨をする関係にあり、仏頂面を見て苛々何か言われて腹を立てて引上げてくるだけで、父の愛などと云えば私には凡そ滑稽な、無関係なことだった。幸い私の小学校時代には今の少年少女の読物のような家庭的な童話文学が存在せず、私の読んだ本といえば立川文庫などという忍術使いや豪傑の本ばかりだから、そういう方面から父親の愛などを考えさせられる何物もなかった。父親などは自分とは関係のない存在だと私は切り離してしまっていた。そして墨をすらされるたびに、うるさい奴だと思った。威張りくさった奴だと思った。そしてともかく父だからそれだけは仕方がなかろうと考えていただけである。  子供が十三人もいるのだから相当うんざりするだろうが、然し、父の子供に対する冷淡さは気質的なもので、数の上の関係ではなかったようだ。子供などはどうにでも勝手に育って勝手になれと考えていたのだろうと思う。  ただ田舎では「家」というものにこだわるので、「家」の後継者である長男にだけは特別こだわる。父も長兄には特別心を労したらしいが、この長兄は私とは年齢も違い上京中で家にはおらなかったから、その父と子の関係もよく知らない。ただ父の遺稿に、わが子(長男)を見て先考を思い不孝をわびるというような老後の詩があり、親父にそんな気持があったかね、これは詩の常套の世界にすぎないのだろうと冷やかしたくなるのだが、然し、父の伝記を読むと、長男にだけはひどく心を労していたことが諸家によって語られている。父の莫逆の友だった市島春城翁、政治上の同輩だった町田忠治というような人の話に、長男のことを常に呉々も頼んでおり、又、長男のことを非常によく話題にして、長男にすすめられて西洋の絵を見るようになったとか、登山に趣味を持つようになったとか、そんなことまで得々と喋っているのであった。これは私にとては今もって無関係の世界であり、父はともかく「家」として兄に就て考えておったが、私にとっては、父と子の関係はなかった。私にとっては、父のない子供より父が在るだけ父に就て無であり、ただ墨をすらせる不快な老人を知っていただけであった。  私の家は昔は大金満家であったようだ。徳川時代は田地の外に銀山だの銅山を持ち阿賀川の水がかれてもあそこの金はかれないなどと言われたそうだが、父が使い果して私の物心ついたときはひどい貧乏であった。まったくひどい貧乏であった。借金で生活していたのであろう。尤も家はひろかった。使用人も多かった。出入りの者も多かったが、それだけ貧乏もひどかったので、母の苦労は大変であったのだろう。だから母はひどいヒステリイであった。その怒りが私に集中しておった。  私は元来手のつけられないヒネクレた子供であった。子供らしい可愛さなどの何一つない子供で、マセていて、餓鬼大将で、喧嘩ばかりしていた。私が生れたとき、私の身体のどこかが胎内にひっかかって出てこず母は死ぬところであったそうで、子供の多さにうんざりしている母は生れる時から私に苦しめられて冷めたい距離をもったようだ。おまけに育つにつれて手のつけられないヒネクレた子供で、世間の子供に例がないので、うんざりしたのは無理がない。  私は小学校へ上らぬうちから新聞を読んでいた。その読み方が子供みたいに字を読むのが楽しくて読んでいるのではないので、書いてあることが面白いから熱読しており、特に講談(そのころは小説の外に必ず講談が載っていた。私は小説は読まなかった。面白くなかったのだ)を読み、角力の記事を読む。この角力の記事には当時は必ず四十八手の絵がはいっており、この絵がひどく魅力であったのを忘れない。私は小学校時代は一番になったことは一度もない。一番は必ず山田というお寺の子供で二番が私か又は横山(後にペンネームを池田寿夫という左翼の評論家か何かになった人である)という人で、私はたいがい横山にも負けて三番であったように記憶する。私は予習も復習も宿題もしたためしがなく、学校から帰ると入口へカバンを投げ入れて夜まで遊びに行く。餓鬼大将で、勉強しないと叱られる子供を無理に呼びだし、この呼びだしに応じないと私に殴られたりするから子供は母親よりも私を怖れて窓からぬけだしてきたりして、私は鼻つまみであった。外の町内の子供と喧嘩をする。すると喧嘩のやり方が私のやることは卑怯至極でとても子供の習慣にない戦法を用いるから、いつも憎まれ、着ている着物は一日で破れ、いつも乞食の子供のような破れた着物をきていた。そして、夜になって家へ帰ると、母は門をしめ、戸にカンヌキをかけて私を入れてくれない。私と母との関係は憎み合うことであった。 (以下略)
「私の父」はいつ死にましたか。
「私の父」は、私の十八の年(丁度東京の大地震の秋)に死にました。
JCRRAG_000952
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石の思い 坂口安吾  私の父は私の十八の年(丁度東京の大地震の秋であったが)に死んだのだから父と子との交渉が相当あってもよい筈なのだが、何もない。私は十三人もある兄弟(尤も妾の子もある)の末男で下に妹が一人あるだけ父とは全く年齢が違う。だから私の友人達が子供と二十五か三十しか違わないので子供達と友達みたいに話をしているのを見ると変な気がするので、私と父にはそういう記憶が全くない。  私の父は二、三流ぐらいの政治家で、つまり田舎政治家とでも称する人種で、十ぺんぐらい代議士に当選して地方の支部長というようなもの、中央ではあまり名前の知られていない人物であった。しかし、こういう人物は極度に多忙なのであろう。家にいるなどということはめったにない。ところが私の親父は半面森春濤門下の漢詩人で晩年には「北越詩話」という本を三十年もかかって書いており、家にいるときは書斎にこもったきり顔をだすことがなく、私が父を見るのは墨をすらされる時だけであった。女中が旦那様がお呼びですといって私を呼びにくる、用件は分っているのだ、墨をするのにきまっている。父はニコリともしない、こぼしたりすると苛々怒るだけである。私はただ癪にさわっていただけだ。女中がたくさんいるのに、なんのために私が墨をすらなければならないのか。その父とは私に墨をすらせる以外に何の交渉関係もない他人であり、その外の場所では年中顔を見るということもなかった。  だから私は父の愛などは何も知らないのだ。父のない子供はむしろ父の愛に就て考えるであろうが、私には父があり、その父と一ヶ月に一度ぐらい呼ばれて墨をする関係にあり、仏頂面を見て苛々何か言われて腹を立てて引上げてくるだけで、父の愛などと云えば私には凡そ滑稽な、無関係なことだった。幸い私の小学校時代には今の少年少女の読物のような家庭的な童話文学が存在せず、私の読んだ本といえば立川文庫などという忍術使いや豪傑の本ばかりだから、そういう方面から父親の愛などを考えさせられる何物もなかった。父親などは自分とは関係のない存在だと私は切り離してしまっていた。そして墨をすらされるたびに、うるさい奴だと思った。威張りくさった奴だと思った。そしてともかく父だからそれだけは仕方がなかろうと考えていただけである。  子供が十三人もいるのだから相当うんざりするだろうが、然し、父の子供に対する冷淡さは気質的なもので、数の上の関係ではなかったようだ。子供などはどうにでも勝手に育って勝手になれと考えていたのだろうと思う。  ただ田舎では「家」というものにこだわるので、「家」の後継者である長男にだけは特別こだわる。父も長兄には特別心を労したらしいが、この長兄は私とは年齢も違い上京中で家にはおらなかったから、その父と子の関係もよく知らない。ただ父の遺稿に、わが子(長男)を見て先考を思い不孝をわびるというような老後の詩があり、親父にそんな気持があったかね、これは詩の常套の世界にすぎないのだろうと冷やかしたくなるのだが、然し、父の伝記を読むと、長男にだけはひどく心を労していたことが諸家によって語られている。父の莫逆の友だった市島春城翁、政治上の同輩だった町田忠治というような人の話に、長男のことを常に呉々も頼んでおり、又、長男のことを非常によく話題にして、長男にすすめられて西洋の絵を見るようになったとか、登山に趣味を持つようになったとか、そんなことまで得々と喋っているのであった。これは私にとては今もって無関係の世界であり、父はともかく「家」として兄に就て考えておったが、私にとっては、父と子の関係はなかった。私にとっては、父のない子供より父が在るだけ父に就て無であり、ただ墨をすらせる不快な老人を知っていただけであった。  私の家は昔は大金満家であったようだ。徳川時代は田地の外に銀山だの銅山を持ち阿賀川の水がかれてもあそこの金はかれないなどと言われたそうだが、父が使い果して私の物心ついたときはひどい貧乏であった。まったくひどい貧乏であった。借金で生活していたのであろう。尤も家はひろかった。使用人も多かった。出入りの者も多かったが、それだけ貧乏もひどかったので、母の苦労は大変であったのだろう。だから母はひどいヒステリイであった。その怒りが私に集中しておった。  私は元来手のつけられないヒネクレた子供であった。子供らしい可愛さなどの何一つない子供で、マセていて、餓鬼大将で、喧嘩ばかりしていた。私が生れたとき、私の身体のどこかが胎内にひっかかって出てこず母は死ぬところであったそうで、子供の多さにうんざりしている母は生れる時から私に苦しめられて冷めたい距離をもったようだ。おまけに育つにつれて手のつけられないヒネクレた子供で、世間の子供に例がないので、うんざりしたのは無理がない。  私は小学校へ上らぬうちから新聞を読んでいた。その読み方が子供みたいに字を読むのが楽しくて読んでいるのではないので、書いてあることが面白いから熱読しており、特に講談(そのころは小説の外に必ず講談が載っていた。私は小説は読まなかった。面白くなかったのだ)を読み、角力の記事を読む。この角力の記事には当時は必ず四十八手の絵がはいっており、この絵がひどく魅力であったのを忘れない。私は小学校時代は一番になったことは一度もない。一番は必ず山田というお寺の子供で二番が私か又は横山(後にペンネームを池田寿夫という左翼の評論家か何かになった人である)という人で、私はたいがい横山にも負けて三番であったように記憶する。私は予習も復習も宿題もしたためしがなく、学校から帰ると入口へカバンを投げ入れて夜まで遊びに行く。餓鬼大将で、勉強しないと叱られる子供を無理に呼びだし、この呼びだしに応じないと私に殴られたりするから子供は母親よりも私を怖れて窓からぬけだしてきたりして、私は鼻つまみであった。外の町内の子供と喧嘩をする。すると喧嘩のやり方が私のやることは卑怯至極でとても子供の習慣にない戦法を用いるから、いつも憎まれ、着ている着物は一日で破れ、いつも乞食の子供のような破れた着物をきていた。そして、夜になって家へ帰ると、母は門をしめ、戸にカンヌキをかけて私を入れてくれない。私と母との関係は憎み合うことであった。 (以下略)
「私」の兄弟は何人ですか。
「私」の兄弟は十三人です。
JCRRAG_000953
国語
ああ玉杯に花うけて 佐藤紅緑  豆腐屋のチビ公はいまたんぼのあぜを伝ってつぎの町へ急ぎつつある。さわやかな春の朝日が森をはなれて黄金の光の雨を緑の麦畑に、黄色な菜畑に、げんげさくくれないの田に降らす、あぜの草は夜露からめざめて軽やかに頭を上げる、すみれは薄紫の扉を開き、たんぽぽはオレンジ色の冠をささげる。堰の水はちょろちょろ音立てて田へ落ちると、かえるはこれからなきだす準備にとりかかっている。  チビ公は肩のてんびん棒にぶらさげた両方のおけをくるりとまわした。そうしてしばらく景色に見とれた。堤の上にかっと朝日をうけてうきだしている村の屋根屋根、火の見やぐら、役場の窓、白い土蔵、それらはいまねむりから活動に向かって歓喜の声をあげているかのよう、ところどころに立つ炊煙はのどかに風にゆれて林をめぐり、お宮の背後へなびき、それからうっとりとかすむ空のエメラルド色にまぎれゆく。  そこの畠にはえんどうの花、そらまめの花がさきみだれてる中にこつとしてねぎの坊主がつっ立っている。いつもここまでくるとチビ公の背中が暖かくなる。春とはいえども暁は寒い、奥歯をかみしめかみしめチビ公は豆腐をおけに移して家をでなければならないのである。町の人々が朝飯がすんだあとでは一丁の豆腐も売れない、どうしても六時にはひとまわりせねばならぬのだ。  だが、このねぎ畑のところへくるとかれはいつも足が進まなくなる、ねぎ畑のつぎは広い麦畑で、そのつぎには生け垣があって二つの土蔵があって、がちょうの叫び声がきこえる、それはこの町の医者の家である。  医者がいつの年からこの家に住んだのかは今年十五歳になるチビ公の知らないところだ、伯父の話ではチビ公の父が巨財を投じてこの家を建てたのだが、父は政党にむちゅうになってすべての財産をなくなしてしまった、父が死んでからかれは母とともに一人の伯父の厄介になった、それはかれの二歳のときである。 「しっかりしろよ、おまえのお父さまはえらい人なんだぞ」  伯父はチビ公をつれてこのねぎ畑で昔の話をした。それからというものはチビ公はいつもねぎ畑に立ってそのことを考えるのであった。 「この家をとりかえしてお母さんを入れてやりたい」  今日もかれはこう思った、がかれはゆかねばならない、荷を肩に負うて一足二足よろめいてやっとふみとどまる、かれは十五ではあるがいたってちいさい、村ではかれを千三と呼ぶ人はない、チビ公のあだ名でとおっている、かれはチビ公といわれるのが非常にいやであった、が人よりもちびなのだからしかたがない、来年になったら大きくなるだろうと、そればかりを楽しみにしていた、が来年になっても大きくならない、それでもう一つ来年を待っているのであった。  かれがこのあぜ道に立っているとき、おりおりいうにいわれぬ侮辱を受けることがある。それは役場の助役の子で阪井巌というのがかれを見るとぶんなぐるのである。もちろん巌はだれを見てもなぐる、かれは喧嘩が強くてむこう見ずで、いつでも身体に生きずが絶えない、かれは小学校でチビ公と同級であった、小学校時代にはチビ公はいつも首席であったが巌は一度落第してきたにかかわらず末席であった。かれはいつもへびをふところに入れて友達をおどかしたり、女生徒を走らしたり、そうしておわりにはそれをさいて食うのであった。 (以下略)
たんぽぽがささげるのは何色の冠ですか。
たんぽぽがささげるのはオレンジ色の冠です。
JCRRAG_000954
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石の思い 坂口安吾  私の父は私の十八の年(丁度東京の大地震の秋であったが)に死んだのだから父と子との交渉が相当あってもよい筈なのだが、何もない。私は十三人もある兄弟(尤も妾の子もある)の末男で下に妹が一人あるだけ父とは全く年齢が違う。だから私の友人達が子供と二十五か三十しか違わないので子供達と友達みたいに話をしているのを見ると変な気がするので、私と父にはそういう記憶が全くない。  私の父は二、三流ぐらいの政治家で、つまり田舎政治家とでも称する人種で、十ぺんぐらい代議士に当選して地方の支部長というようなもの、中央ではあまり名前の知られていない人物であった。しかし、こういう人物は極度に多忙なのであろう。家にいるなどということはめったにない。ところが私の親父は半面森春濤門下の漢詩人で晩年には「北越詩話」という本を三十年もかかって書いており、家にいるときは書斎にこもったきり顔をだすことがなく、私が父を見るのは墨をすらされる時だけであった。女中が旦那様がお呼びですといって私を呼びにくる、用件は分っているのだ、墨をするのにきまっている。父はニコリともしない、こぼしたりすると苛々怒るだけである。私はただ癪にさわっていただけだ。女中がたくさんいるのに、なんのために私が墨をすらなければならないのか。その父とは私に墨をすらせる以外に何の交渉関係もない他人であり、その外の場所では年中顔を見るということもなかった。  だから私は父の愛などは何も知らないのだ。父のない子供はむしろ父の愛に就て考えるであろうが、私には父があり、その父と一ヶ月に一度ぐらい呼ばれて墨をする関係にあり、仏頂面を見て苛々何か言われて腹を立てて引上げてくるだけで、父の愛などと云えば私には凡そ滑稽な、無関係なことだった。幸い私の小学校時代には今の少年少女の読物のような家庭的な童話文学が存在せず、私の読んだ本といえば立川文庫などという忍術使いや豪傑の本ばかりだから、そういう方面から父親の愛などを考えさせられる何物もなかった。父親などは自分とは関係のない存在だと私は切り離してしまっていた。そして墨をすらされるたびに、うるさい奴だと思った。威張りくさった奴だと思った。そしてともかく父だからそれだけは仕方がなかろうと考えていただけである。  子供が十三人もいるのだから相当うんざりするだろうが、然し、父の子供に対する冷淡さは気質的なもので、数の上の関係ではなかったようだ。子供などはどうにでも勝手に育って勝手になれと考えていたのだろうと思う。  ただ田舎では「家」というものにこだわるので、「家」の後継者である長男にだけは特別こだわる。父も長兄には特別心を労したらしいが、この長兄は私とは年齢も違い上京中で家にはおらなかったから、その父と子の関係もよく知らない。ただ父の遺稿に、わが子(長男)を見て先考を思い不孝をわびるというような老後の詩があり、親父にそんな気持があったかね、これは詩の常套の世界にすぎないのだろうと冷やかしたくなるのだが、然し、父の伝記を読むと、長男にだけはひどく心を労していたことが諸家によって語られている。父の莫逆の友だった市島春城翁、政治上の同輩だった町田忠治というような人の話に、長男のことを常に呉々も頼んでおり、又、長男のことを非常によく話題にして、長男にすすめられて西洋の絵を見るようになったとか、登山に趣味を持つようになったとか、そんなことまで得々と喋っているのであった。これは私にとては今もって無関係の世界であり、父はともかく「家」として兄に就て考えておったが、私にとっては、父と子の関係はなかった。私にとっては、父のない子供より父が在るだけ父に就て無であり、ただ墨をすらせる不快な老人を知っていただけであった。  私の家は昔は大金満家であったようだ。徳川時代は田地の外に銀山だの銅山を持ち阿賀川の水がかれてもあそこの金はかれないなどと言われたそうだが、父が使い果して私の物心ついたときはひどい貧乏であった。まったくひどい貧乏であった。借金で生活していたのであろう。尤も家はひろかった。使用人も多かった。出入りの者も多かったが、それだけ貧乏もひどかったので、母の苦労は大変であったのだろう。だから母はひどいヒステリイであった。その怒りが私に集中しておった。  私は元来手のつけられないヒネクレた子供であった。子供らしい可愛さなどの何一つない子供で、マセていて、餓鬼大将で、喧嘩ばかりしていた。私が生れたとき、私の身体のどこかが胎内にひっかかって出てこず母は死ぬところであったそうで、子供の多さにうんざりしている母は生れる時から私に苦しめられて冷めたい距離をもったようだ。おまけに育つにつれて手のつけられないヒネクレた子供で、世間の子供に例がないので、うんざりしたのは無理がない。  私は小学校へ上らぬうちから新聞を読んでいた。その読み方が子供みたいに字を読むのが楽しくて読んでいるのではないので、書いてあることが面白いから熱読しており、特に講談(そのころは小説の外に必ず講談が載っていた。私は小説は読まなかった。面白くなかったのだ)を読み、角力の記事を読む。この角力の記事には当時は必ず四十八手の絵がはいっており、この絵がひどく魅力であったのを忘れない。私は小学校時代は一番になったことは一度もない。一番は必ず山田というお寺の子供で二番が私か又は横山(後にペンネームを池田寿夫という左翼の評論家か何かになった人である)という人で、私はたいがい横山にも負けて三番であったように記憶する。私は予習も復習も宿題もしたためしがなく、学校から帰ると入口へカバンを投げ入れて夜まで遊びに行く。餓鬼大将で、勉強しないと叱られる子供を無理に呼びだし、この呼びだしに応じないと私に殴られたりするから子供は母親よりも私を怖れて窓からぬけだしてきたりして、私は鼻つまみであった。外の町内の子供と喧嘩をする。すると喧嘩のやり方が私のやることは卑怯至極でとても子供の習慣にない戦法を用いるから、いつも憎まれ、着ている着物は一日で破れ、いつも乞食の子供のような破れた着物をきていた。そして、夜になって家へ帰ると、母は門をしめ、戸にカンヌキをかけて私を入れてくれない。私と母との関係は憎み合うことであった。 (以下略)
「私」が父を見るのはどんな時だけでしたか。
「私」が父を見るのは、墨をすらされる時だけでした。
JCRRAG_000955
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石の思い 坂口安吾  私の父は私の十八の年(丁度東京の大地震の秋であったが)に死んだのだから父と子との交渉が相当あってもよい筈なのだが、何もない。私は十三人もある兄弟(尤も妾の子もある)の末男で下に妹が一人あるだけ父とは全く年齢が違う。だから私の友人達が子供と二十五か三十しか違わないので子供達と友達みたいに話をしているのを見ると変な気がするので、私と父にはそういう記憶が全くない。  私の父は二、三流ぐらいの政治家で、つまり田舎政治家とでも称する人種で、十ぺんぐらい代議士に当選して地方の支部長というようなもの、中央ではあまり名前の知られていない人物であった。しかし、こういう人物は極度に多忙なのであろう。家にいるなどということはめったにない。ところが私の親父は半面森春濤門下の漢詩人で晩年には「北越詩話」という本を三十年もかかって書いており、家にいるときは書斎にこもったきり顔をだすことがなく、私が父を見るのは墨をすらされる時だけであった。女中が旦那様がお呼びですといって私を呼びにくる、用件は分っているのだ、墨をするのにきまっている。父はニコリともしない、こぼしたりすると苛々怒るだけである。私はただ癪にさわっていただけだ。女中がたくさんいるのに、なんのために私が墨をすらなければならないのか。その父とは私に墨をすらせる以外に何の交渉関係もない他人であり、その外の場所では年中顔を見るということもなかった。  だから私は父の愛などは何も知らないのだ。父のない子供はむしろ父の愛に就て考えるであろうが、私には父があり、その父と一ヶ月に一度ぐらい呼ばれて墨をする関係にあり、仏頂面を見て苛々何か言われて腹を立てて引上げてくるだけで、父の愛などと云えば私には凡そ滑稽な、無関係なことだった。幸い私の小学校時代には今の少年少女の読物のような家庭的な童話文学が存在せず、私の読んだ本といえば立川文庫などという忍術使いや豪傑の本ばかりだから、そういう方面から父親の愛などを考えさせられる何物もなかった。父親などは自分とは関係のない存在だと私は切り離してしまっていた。そして墨をすらされるたびに、うるさい奴だと思った。威張りくさった奴だと思った。そしてともかく父だからそれだけは仕方がなかろうと考えていただけである。  子供が十三人もいるのだから相当うんざりするだろうが、然し、父の子供に対する冷淡さは気質的なもので、数の上の関係ではなかったようだ。子供などはどうにでも勝手に育って勝手になれと考えていたのだろうと思う。  ただ田舎では「家」というものにこだわるので、「家」の後継者である長男にだけは特別こだわる。父も長兄には特別心を労したらしいが、この長兄は私とは年齢も違い上京中で家にはおらなかったから、その父と子の関係もよく知らない。ただ父の遺稿に、わが子(長男)を見て先考を思い不孝をわびるというような老後の詩があり、親父にそんな気持があったかね、これは詩の常套の世界にすぎないのだろうと冷やかしたくなるのだが、然し、父の伝記を読むと、長男にだけはひどく心を労していたことが諸家によって語られている。父の莫逆の友だった市島春城翁、政治上の同輩だった町田忠治というような人の話に、長男のことを常に呉々も頼んでおり、又、長男のことを非常によく話題にして、長男にすすめられて西洋の絵を見るようになったとか、登山に趣味を持つようになったとか、そんなことまで得々と喋っているのであった。これは私にとては今もって無関係の世界であり、父はともかく「家」として兄に就て考えておったが、私にとっては、父と子の関係はなかった。私にとっては、父のない子供より父が在るだけ父に就て無であり、ただ墨をすらせる不快な老人を知っていただけであった。  私の家は昔は大金満家であったようだ。徳川時代は田地の外に銀山だの銅山を持ち阿賀川の水がかれてもあそこの金はかれないなどと言われたそうだが、父が使い果して私の物心ついたときはひどい貧乏であった。まったくひどい貧乏であった。借金で生活していたのであろう。尤も家はひろかった。使用人も多かった。出入りの者も多かったが、それだけ貧乏もひどかったので、母の苦労は大変であったのだろう。だから母はひどいヒステリイであった。その怒りが私に集中しておった。  私は元来手のつけられないヒネクレた子供であった。子供らしい可愛さなどの何一つない子供で、マセていて、餓鬼大将で、喧嘩ばかりしていた。私が生れたとき、私の身体のどこかが胎内にひっかかって出てこず母は死ぬところであったそうで、子供の多さにうんざりしている母は生れる時から私に苦しめられて冷めたい距離をもったようだ。おまけに育つにつれて手のつけられないヒネクレた子供で、世間の子供に例がないので、うんざりしたのは無理がない。  私は小学校へ上らぬうちから新聞を読んでいた。その読み方が子供みたいに字を読むのが楽しくて読んでいるのではないので、書いてあることが面白いから熱読しており、特に講談(そのころは小説の外に必ず講談が載っていた。私は小説は読まなかった。面白くなかったのだ)を読み、角力の記事を読む。この角力の記事には当時は必ず四十八手の絵がはいっており、この絵がひどく魅力であったのを忘れない。私は小学校時代は一番になったことは一度もない。一番は必ず山田というお寺の子供で二番が私か又は横山(後にペンネームを池田寿夫という左翼の評論家か何かになった人である)という人で、私はたいがい横山にも負けて三番であったように記憶する。私は予習も復習も宿題もしたためしがなく、学校から帰ると入口へカバンを投げ入れて夜まで遊びに行く。餓鬼大将で、勉強しないと叱られる子供を無理に呼びだし、この呼びだしに応じないと私に殴られたりするから子供は母親よりも私を怖れて窓からぬけだしてきたりして、私は鼻つまみであった。外の町内の子供と喧嘩をする。すると喧嘩のやり方が私のやることは卑怯至極でとても子供の習慣にない戦法を用いるから、いつも憎まれ、着ている着物は一日で破れ、いつも乞食の子供のような破れた着物をきていた。そして、夜になって家へ帰ると、母は門をしめ、戸にカンヌキをかけて私を入れてくれない。私と母との関係は憎み合うことであった。 (以下略)
「私の親父」が晩年に書いた本は何ですか。
「私の親父」が晩年に書いた本は、「北越詩話」という本です。
JCRRAG_000956
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石の思い 坂口安吾  私の父は私の十八の年(丁度東京の大地震の秋であったが)に死んだのだから父と子との交渉が相当あってもよい筈なのだが、何もない。私は十三人もある兄弟(尤も妾の子もある)の末男で下に妹が一人あるだけ父とは全く年齢が違う。だから私の友人達が子供と二十五か三十しか違わないので子供達と友達みたいに話をしているのを見ると変な気がするので、私と父にはそういう記憶が全くない。  私の父は二、三流ぐらいの政治家で、つまり田舎政治家とでも称する人種で、十ぺんぐらい代議士に当選して地方の支部長というようなもの、中央ではあまり名前の知られていない人物であった。しかし、こういう人物は極度に多忙なのであろう。家にいるなどということはめったにない。ところが私の親父は半面森春濤門下の漢詩人で晩年には「北越詩話」という本を三十年もかかって書いており、家にいるときは書斎にこもったきり顔をだすことがなく、私が父を見るのは墨をすらされる時だけであった。女中が旦那様がお呼びですといって私を呼びにくる、用件は分っているのだ、墨をするのにきまっている。父はニコリともしない、こぼしたりすると苛々怒るだけである。私はただ癪にさわっていただけだ。女中がたくさんいるのに、なんのために私が墨をすらなければならないのか。その父とは私に墨をすらせる以外に何の交渉関係もない他人であり、その外の場所では年中顔を見るということもなかった。  だから私は父の愛などは何も知らないのだ。父のない子供はむしろ父の愛に就て考えるであろうが、私には父があり、その父と一ヶ月に一度ぐらい呼ばれて墨をする関係にあり、仏頂面を見て苛々何か言われて腹を立てて引上げてくるだけで、父の愛などと云えば私には凡そ滑稽な、無関係なことだった。幸い私の小学校時代には今の少年少女の読物のような家庭的な童話文学が存在せず、私の読んだ本といえば立川文庫などという忍術使いや豪傑の本ばかりだから、そういう方面から父親の愛などを考えさせられる何物もなかった。父親などは自分とは関係のない存在だと私は切り離してしまっていた。そして墨をすらされるたびに、うるさい奴だと思った。威張りくさった奴だと思った。そしてともかく父だからそれだけは仕方がなかろうと考えていただけである。  子供が十三人もいるのだから相当うんざりするだろうが、然し、父の子供に対する冷淡さは気質的なもので、数の上の関係ではなかったようだ。子供などはどうにでも勝手に育って勝手になれと考えていたのだろうと思う。  ただ田舎では「家」というものにこだわるので、「家」の後継者である長男にだけは特別こだわる。父も長兄には特別心を労したらしいが、この長兄は私とは年齢も違い上京中で家にはおらなかったから、その父と子の関係もよく知らない。ただ父の遺稿に、わが子(長男)を見て先考を思い不孝をわびるというような老後の詩があり、親父にそんな気持があったかね、これは詩の常套の世界にすぎないのだろうと冷やかしたくなるのだが、然し、父の伝記を読むと、長男にだけはひどく心を労していたことが諸家によって語られている。父の莫逆の友だった市島春城翁、政治上の同輩だった町田忠治というような人の話に、長男のことを常に呉々も頼んでおり、又、長男のことを非常によく話題にして、長男にすすめられて西洋の絵を見るようになったとか、登山に趣味を持つようになったとか、そんなことまで得々と喋っているのであった。これは私にとては今もって無関係の世界であり、父はともかく「家」として兄に就て考えておったが、私にとっては、父と子の関係はなかった。私にとっては、父のない子供より父が在るだけ父に就て無であり、ただ墨をすらせる不快な老人を知っていただけであった。  私の家は昔は大金満家であったようだ。徳川時代は田地の外に銀山だの銅山を持ち阿賀川の水がかれてもあそこの金はかれないなどと言われたそうだが、父が使い果して私の物心ついたときはひどい貧乏であった。まったくひどい貧乏であった。借金で生活していたのであろう。尤も家はひろかった。使用人も多かった。出入りの者も多かったが、それだけ貧乏もひどかったので、母の苦労は大変であったのだろう。だから母はひどいヒステリイであった。その怒りが私に集中しておった。  私は元来手のつけられないヒネクレた子供であった。子供らしい可愛さなどの何一つない子供で、マセていて、餓鬼大将で、喧嘩ばかりしていた。私が生れたとき、私の身体のどこかが胎内にひっかかって出てこず母は死ぬところであったそうで、子供の多さにうんざりしている母は生れる時から私に苦しめられて冷めたい距離をもったようだ。おまけに育つにつれて手のつけられないヒネクレた子供で、世間の子供に例がないので、うんざりしたのは無理がない。  私は小学校へ上らぬうちから新聞を読んでいた。その読み方が子供みたいに字を読むのが楽しくて読んでいるのではないので、書いてあることが面白いから熱読しており、特に講談(そのころは小説の外に必ず講談が載っていた。私は小説は読まなかった。面白くなかったのだ)を読み、角力の記事を読む。この角力の記事には当時は必ず四十八手の絵がはいっており、この絵がひどく魅力であったのを忘れない。私は小学校時代は一番になったことは一度もない。一番は必ず山田というお寺の子供で二番が私か又は横山(後にペンネームを池田寿夫という左翼の評論家か何かになった人である)という人で、私はたいがい横山にも負けて三番であったように記憶する。私は予習も復習も宿題もしたためしがなく、学校から帰ると入口へカバンを投げ入れて夜まで遊びに行く。餓鬼大将で、勉強しないと叱られる子供を無理に呼びだし、この呼びだしに応じないと私に殴られたりするから子供は母親よりも私を怖れて窓からぬけだしてきたりして、私は鼻つまみであった。外の町内の子供と喧嘩をする。すると喧嘩のやり方が私のやることは卑怯至極でとても子供の習慣にない戦法を用いるから、いつも憎まれ、着ている着物は一日で破れ、いつも乞食の子供のような破れた着物をきていた。そして、夜になって家へ帰ると、母は門をしめ、戸にカンヌキをかけて私を入れてくれない。私と母との関係は憎み合うことであった。 (以下略)
「私」は小学校へ上らぬうちから何を読んでいましたか。
「私」は小学校へ上らぬうちから新聞を読んでいました。
JCRRAG_000957
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ああ玉杯に花うけて 佐藤紅緑  豆腐屋のチビ公はいまたんぼのあぜを伝ってつぎの町へ急ぎつつある。さわやかな春の朝日が森をはなれて黄金の光の雨を緑の麦畑に、黄色な菜畑に、げんげさくくれないの田に降らす、あぜの草は夜露からめざめて軽やかに頭を上げる、すみれは薄紫の扉を開き、たんぽぽはオレンジ色の冠をささげる。堰の水はちょろちょろ音立てて田へ落ちると、かえるはこれからなきだす準備にとりかかっている。  チビ公は肩のてんびん棒にぶらさげた両方のおけをくるりとまわした。そうしてしばらく景色に見とれた。堤の上にかっと朝日をうけてうきだしている村の屋根屋根、火の見やぐら、役場の窓、白い土蔵、それらはいまねむりから活動に向かって歓喜の声をあげているかのよう、ところどころに立つ炊煙はのどかに風にゆれて林をめぐり、お宮の背後へなびき、それからうっとりとかすむ空のエメラルド色にまぎれゆく。  そこの畠にはえんどうの花、そらまめの花がさきみだれてる中にこつとしてねぎの坊主がつっ立っている。いつもここまでくるとチビ公の背中が暖かくなる。春とはいえども暁は寒い、奥歯をかみしめかみしめチビ公は豆腐をおけに移して家をでなければならないのである。町の人々が朝飯がすんだあとでは一丁の豆腐も売れない、どうしても六時にはひとまわりせねばならぬのだ。  だが、このねぎ畑のところへくるとかれはいつも足が進まなくなる、ねぎ畑のつぎは広い麦畑で、そのつぎには生け垣があって二つの土蔵があって、がちょうの叫び声がきこえる、それはこの町の医者の家である。  医者がいつの年からこの家に住んだのかは今年十五歳になるチビ公の知らないところだ、伯父の話ではチビ公の父が巨財を投じてこの家を建てたのだが、父は政党にむちゅうになってすべての財産をなくなしてしまった、父が死んでからかれは母とともに一人の伯父の厄介になった、それはかれの二歳のときである。 「しっかりしろよ、おまえのお父さまはえらい人なんだぞ」  伯父はチビ公をつれてこのねぎ畑で昔の話をした。それからというものはチビ公はいつもねぎ畑に立ってそのことを考えるのであった。 「この家をとりかえしてお母さんを入れてやりたい」  今日もかれはこう思った、がかれはゆかねばならない、荷を肩に負うて一足二足よろめいてやっとふみとどまる、かれは十五ではあるがいたってちいさい、村ではかれを千三と呼ぶ人はない、チビ公のあだ名でとおっている、かれはチビ公といわれるのが非常にいやであった、が人よりもちびなのだからしかたがない、来年になったら大きくなるだろうと、そればかりを楽しみにしていた、が来年になっても大きくならない、それでもう一つ来年を待っているのであった。  かれがこのあぜ道に立っているとき、おりおりいうにいわれぬ侮辱を受けることがある。それは役場の助役の子で阪井巌というのがかれを見るとぶんなぐるのである。もちろん巌はだれを見てもなぐる、かれは喧嘩が強くてむこう見ずで、いつでも身体に生きずが絶えない、かれは小学校でチビ公と同級であった、小学校時代にはチビ公はいつも首席であったが巌は一度落第してきたにかかわらず末席であった。かれはいつもへびをふところに入れて友達をおどかしたり、女生徒を走らしたり、そうしておわりにはそれをさいて食うのであった。 (以下略)
阪井巌は誰の子ですか。
阪井巌は役場の助役の子です。
JCRRAG_000958
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ああ玉杯に花うけて 佐藤紅緑  豆腐屋のチビ公はいまたんぼのあぜを伝ってつぎの町へ急ぎつつある。さわやかな春の朝日が森をはなれて黄金の光の雨を緑の麦畑に、黄色な菜畑に、げんげさくくれないの田に降らす、あぜの草は夜露からめざめて軽やかに頭を上げる、すみれは薄紫の扉を開き、たんぽぽはオレンジ色の冠をささげる。堰の水はちょろちょろ音立てて田へ落ちると、かえるはこれからなきだす準備にとりかかっている。  チビ公は肩のてんびん棒にぶらさげた両方のおけをくるりとまわした。そうしてしばらく景色に見とれた。堤の上にかっと朝日をうけてうきだしている村の屋根屋根、火の見やぐら、役場の窓、白い土蔵、それらはいまねむりから活動に向かって歓喜の声をあげているかのよう、ところどころに立つ炊煙はのどかに風にゆれて林をめぐり、お宮の背後へなびき、それからうっとりとかすむ空のエメラルド色にまぎれゆく。  そこの畠にはえんどうの花、そらまめの花がさきみだれてる中にこつとしてねぎの坊主がつっ立っている。いつもここまでくるとチビ公の背中が暖かくなる。春とはいえども暁は寒い、奥歯をかみしめかみしめチビ公は豆腐をおけに移して家をでなければならないのである。町の人々が朝飯がすんだあとでは一丁の豆腐も売れない、どうしても六時にはひとまわりせねばならぬのだ。  だが、このねぎ畑のところへくるとかれはいつも足が進まなくなる、ねぎ畑のつぎは広い麦畑で、そのつぎには生け垣があって二つの土蔵があって、がちょうの叫び声がきこえる、それはこの町の医者の家である。  医者がいつの年からこの家に住んだのかは今年十五歳になるチビ公の知らないところだ、伯父の話ではチビ公の父が巨財を投じてこの家を建てたのだが、父は政党にむちゅうになってすべての財産をなくなしてしまった、父が死んでからかれは母とともに一人の伯父の厄介になった、それはかれの二歳のときである。 「しっかりしろよ、おまえのお父さまはえらい人なんだぞ」  伯父はチビ公をつれてこのねぎ畑で昔の話をした。それからというものはチビ公はいつもねぎ畑に立ってそのことを考えるのであった。 「この家をとりかえしてお母さんを入れてやりたい」  今日もかれはこう思った、がかれはゆかねばならない、荷を肩に負うて一足二足よろめいてやっとふみとどまる、かれは十五ではあるがいたってちいさい、村ではかれを千三と呼ぶ人はない、チビ公のあだ名でとおっている、かれはチビ公といわれるのが非常にいやであった、が人よりもちびなのだからしかたがない、来年になったら大きくなるだろうと、そればかりを楽しみにしていた、が来年になっても大きくならない、それでもう一つ来年を待っているのであった。  かれがこのあぜ道に立っているとき、おりおりいうにいわれぬ侮辱を受けることがある。それは役場の助役の子で阪井巌というのがかれを見るとぶんなぐるのである。もちろん巌はだれを見てもなぐる、かれは喧嘩が強くてむこう見ずで、いつでも身体に生きずが絶えない、かれは小学校でチビ公と同級であった、小学校時代にはチビ公はいつも首席であったが巌は一度落第してきたにかかわらず末席であった。かれはいつもへびをふところに入れて友達をおどかしたり、女生徒を走らしたり、そうしておわりにはそれをさいて食うのであった。 (以下略)
チビ公は今年何歳になりますか。
チビ公は今年十五歳になります。
JCRRAG_000959
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ああ玉杯に花うけて 佐藤紅緑  豆腐屋のチビ公はいまたんぼのあぜを伝ってつぎの町へ急ぎつつある。さわやかな春の朝日が森をはなれて黄金の光の雨を緑の麦畑に、黄色な菜畑に、げんげさくくれないの田に降らす、あぜの草は夜露からめざめて軽やかに頭を上げる、すみれは薄紫の扉を開き、たんぽぽはオレンジ色の冠をささげる。堰の水はちょろちょろ音立てて田へ落ちると、かえるはこれからなきだす準備にとりかかっている。  チビ公は肩のてんびん棒にぶらさげた両方のおけをくるりとまわした。そうしてしばらく景色に見とれた。堤の上にかっと朝日をうけてうきだしている村の屋根屋根、火の見やぐら、役場の窓、白い土蔵、それらはいまねむりから活動に向かって歓喜の声をあげているかのよう、ところどころに立つ炊煙はのどかに風にゆれて林をめぐり、お宮の背後へなびき、それからうっとりとかすむ空のエメラルド色にまぎれゆく。  そこの畠にはえんどうの花、そらまめの花がさきみだれてる中にこつとしてねぎの坊主がつっ立っている。いつもここまでくるとチビ公の背中が暖かくなる。春とはいえども暁は寒い、奥歯をかみしめかみしめチビ公は豆腐をおけに移して家をでなければならないのである。町の人々が朝飯がすんだあとでは一丁の豆腐も売れない、どうしても六時にはひとまわりせねばならぬのだ。  だが、このねぎ畑のところへくるとかれはいつも足が進まなくなる、ねぎ畑のつぎは広い麦畑で、そのつぎには生け垣があって二つの土蔵があって、がちょうの叫び声がきこえる、それはこの町の医者の家である。  医者がいつの年からこの家に住んだのかは今年十五歳になるチビ公の知らないところだ、伯父の話ではチビ公の父が巨財を投じてこの家を建てたのだが、父は政党にむちゅうになってすべての財産をなくなしてしまった、父が死んでからかれは母とともに一人の伯父の厄介になった、それはかれの二歳のときである。 「しっかりしろよ、おまえのお父さまはえらい人なんだぞ」  伯父はチビ公をつれてこのねぎ畑で昔の話をした。それからというものはチビ公はいつもねぎ畑に立ってそのことを考えるのであった。 「この家をとりかえしてお母さんを入れてやりたい」  今日もかれはこう思った、がかれはゆかねばならない、荷を肩に負うて一足二足よろめいてやっとふみとどまる、かれは十五ではあるがいたってちいさい、村ではかれを千三と呼ぶ人はない、チビ公のあだ名でとおっている、かれはチビ公といわれるのが非常にいやであった、が人よりもちびなのだからしかたがない、来年になったら大きくなるだろうと、そればかりを楽しみにしていた、が来年になっても大きくならない、それでもう一つ来年を待っているのであった。  かれがこのあぜ道に立っているとき、おりおりいうにいわれぬ侮辱を受けることがある。それは役場の助役の子で阪井巌というのがかれを見るとぶんなぐるのである。もちろん巌はだれを見てもなぐる、かれは喧嘩が強くてむこう見ずで、いつでも身体に生きずが絶えない、かれは小学校でチビ公と同級であった、小学校時代にはチビ公はいつも首席であったが巌は一度落第してきたにかかわらず末席であった。かれはいつもへびをふところに入れて友達をおどかしたり、女生徒を走らしたり、そうしておわりにはそれをさいて食うのであった。 (以下略)
チビ公がくるりとまわしたのは何ですか。
チビ公がくるりとまわしたのは、肩のてんびん棒にぶらさげた両方のおけです。
JCRRAG_000960
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ああ玉杯に花うけて 佐藤紅緑  豆腐屋のチビ公はいまたんぼのあぜを伝ってつぎの町へ急ぎつつある。さわやかな春の朝日が森をはなれて黄金の光の雨を緑の麦畑に、黄色な菜畑に、げんげさくくれないの田に降らす、あぜの草は夜露からめざめて軽やかに頭を上げる、すみれは薄紫の扉を開き、たんぽぽはオレンジ色の冠をささげる。堰の水はちょろちょろ音立てて田へ落ちると、かえるはこれからなきだす準備にとりかかっている。  チビ公は肩のてんびん棒にぶらさげた両方のおけをくるりとまわした。そうしてしばらく景色に見とれた。堤の上にかっと朝日をうけてうきだしている村の屋根屋根、火の見やぐら、役場の窓、白い土蔵、それらはいまねむりから活動に向かって歓喜の声をあげているかのよう、ところどころに立つ炊煙はのどかに風にゆれて林をめぐり、お宮の背後へなびき、それからうっとりとかすむ空のエメラルド色にまぎれゆく。  そこの畠にはえんどうの花、そらまめの花がさきみだれてる中にこつとしてねぎの坊主がつっ立っている。いつもここまでくるとチビ公の背中が暖かくなる。春とはいえども暁は寒い、奥歯をかみしめかみしめチビ公は豆腐をおけに移して家をでなければならないのである。町の人々が朝飯がすんだあとでは一丁の豆腐も売れない、どうしても六時にはひとまわりせねばならぬのだ。  だが、このねぎ畑のところへくるとかれはいつも足が進まなくなる、ねぎ畑のつぎは広い麦畑で、そのつぎには生け垣があって二つの土蔵があって、がちょうの叫び声がきこえる、それはこの町の医者の家である。  医者がいつの年からこの家に住んだのかは今年十五歳になるチビ公の知らないところだ、伯父の話ではチビ公の父が巨財を投じてこの家を建てたのだが、父は政党にむちゅうになってすべての財産をなくなしてしまった、父が死んでからかれは母とともに一人の伯父の厄介になった、それはかれの二歳のときである。 「しっかりしろよ、おまえのお父さまはえらい人なんだぞ」  伯父はチビ公をつれてこのねぎ畑で昔の話をした。それからというものはチビ公はいつもねぎ畑に立ってそのことを考えるのであった。 「この家をとりかえしてお母さんを入れてやりたい」  今日もかれはこう思った、がかれはゆかねばならない、荷を肩に負うて一足二足よろめいてやっとふみとどまる、かれは十五ではあるがいたってちいさい、村ではかれを千三と呼ぶ人はない、チビ公のあだ名でとおっている、かれはチビ公といわれるのが非常にいやであった、が人よりもちびなのだからしかたがない、来年になったら大きくなるだろうと、そればかりを楽しみにしていた、が来年になっても大きくならない、それでもう一つ来年を待っているのであった。  かれがこのあぜ道に立っているとき、おりおりいうにいわれぬ侮辱を受けることがある。それは役場の助役の子で阪井巌というのがかれを見るとぶんなぐるのである。もちろん巌はだれを見てもなぐる、かれは喧嘩が強くてむこう見ずで、いつでも身体に生きずが絶えない、かれは小学校でチビ公と同級であった、小学校時代にはチビ公はいつも首席であったが巌は一度落第してきたにかかわらず末席であった。かれはいつもへびをふところに入れて友達をおどかしたり、女生徒を走らしたり、そうしておわりにはそれをさいて食うのであった。 (以下略)
小学校時代にいつも首席であったのは誰ですか。
小学校時代にいつも首席であったのはチビ公です。
JCRRAG_000961
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ある女の生涯 島崎藤村  おげんはぐっすり寝て、朝の四時頃には自分の娘や小さな甥なぞの側に眼をさました。慣れない床、慣れない枕、慣れない蚊帳の内で、そんなに前後も知らずに深く眠られたというだけでも、おげんに取ってはめずらしかった。気の置けないものばかり――娘のお新に、婆やに、九つになる小さな甥まで入れると、都合四人も同じ蚊帳の内に枕を並べて寝たこともめずらしかった。  八月のことで、短か夜を寝惜むようなお新はまだよく眠っていた。おげんはそこに眠っている人形の側でも離れるようにして、自分の娘の側を離れた。蚊帳を出て、部屋の雨戸を一二枚ほど開けて見ると、夏の空は明けかかっていた。 「漸く来た。」  とおげんは独りでそれを言って見た。そこは地方によくあるような医院の一室で、遠い村々から来る患者を容れるための部屋になっていた。蜂谷という評判の好い田舎医者がそこを経営していた。おげんが娘や甥を連れてそこへ来たのは自分の養生のためとは言え、普通の患者が病室に泊まったようにも自分を思っていなかったというのは、一つはおげんの亡くなった旦那がまだ達者でさかりの頃に少年の蜂谷を引取って、書生として世話したという縁故があったからで。 「前の日に思い立って、翌る日は家を出て来るような、そんな旦那衆のようなわけにいかすか」 「そうとも」 「そこは女だもの。俺は半年も前から思い立って、漸くここまで来た」  これは二人の人の会話のようであるが、おげんは一人でそれをやった。彼女の内部にはこんな独言を言う二人の人が居た。  おげんはもう年をとって、心細かった。彼女は嫁いで行った小山の家の祖母さんの死を見送り、旦那と自分の間に出来た小山の相続人でお新から言えば唯一人の兄にあたる実子の死を見送り、二年前には旦那の死をも見送った。彼女の周囲にあった親しい人達は、一人減り、二人減り、長年小山に出入してお家大事と勤めて呉れたような大番頭の二人までも早やこの世に居なかった。彼女は孤独で震えるように成ったばかりでなく、もう長いこと自分の身体に異状のあることをも感じていた。彼女は娘のお新と共に――四十の歳まで結婚させることも出来ずに処女で通させて来たような唯一人の不幸なお新と共に最後の「隠れ家」を求めようとするより外にはもう何等の念慮をも持たなかった。  このおげんが小山の家を出ようと思い立った頃は六十の歳だった。彼女は一日も手放しがたいものに思うお新を連れ、預り子の小さな甥を連れ、附添の婆やまで連れて、賑かに家を出て来たが、古い馴染の軒を離れる時にはさすがに限りない感慨を覚えた。彼女はその昂奮を笑いに紛わして来た。「みんな、行って来るぞい」その言葉を養子夫婦にも、奉公人一同にも残して置いて来た。彼女の真意では、しばらく蜂谷の医院に養生した上で、是非とも東京の空まではとこころざしていた。東京には長いこと彼女の見ない弟達が居たから。  蜂谷の医院は中央線の須原駅に近いところにあった。おげんの住慣れた町とは四里ほどの距離にあった。彼女が家を出る時の昂奮はその道のりを汽車で乗って来るまで続いていたし、この医院に着いてもまだ続いていた。(以下略)
おげんが眼をさましたのは何時頃でしたか。
おげんが眼をさましたのは朝の四時頃でした。
JCRRAG_000962
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ある女の生涯 島崎藤村  おげんはぐっすり寝て、朝の四時頃には自分の娘や小さな甥なぞの側に眼をさました。慣れない床、慣れない枕、慣れない蚊帳の内で、そんなに前後も知らずに深く眠られたというだけでも、おげんに取ってはめずらしかった。気の置けないものばかり――娘のお新に、婆やに、九つになる小さな甥まで入れると、都合四人も同じ蚊帳の内に枕を並べて寝たこともめずらしかった。  八月のことで、短か夜を寝惜むようなお新はまだよく眠っていた。おげんはそこに眠っている人形の側でも離れるようにして、自分の娘の側を離れた。蚊帳を出て、部屋の雨戸を一二枚ほど開けて見ると、夏の空は明けかかっていた。 「漸く来た。」  とおげんは独りでそれを言って見た。そこは地方によくあるような医院の一室で、遠い村々から来る患者を容れるための部屋になっていた。蜂谷という評判の好い田舎医者がそこを経営していた。おげんが娘や甥を連れてそこへ来たのは自分の養生のためとは言え、普通の患者が病室に泊まったようにも自分を思っていなかったというのは、一つはおげんの亡くなった旦那がまだ達者でさかりの頃に少年の蜂谷を引取って、書生として世話したという縁故があったからで。 「前の日に思い立って、翌る日は家を出て来るような、そんな旦那衆のようなわけにいかすか」 「そうとも」 「そこは女だもの。俺は半年も前から思い立って、漸くここまで来た」  これは二人の人の会話のようであるが、おげんは一人でそれをやった。彼女の内部にはこんな独言を言う二人の人が居た。  おげんはもう年をとって、心細かった。彼女は嫁いで行った小山の家の祖母さんの死を見送り、旦那と自分の間に出来た小山の相続人でお新から言えば唯一人の兄にあたる実子の死を見送り、二年前には旦那の死をも見送った。彼女の周囲にあった親しい人達は、一人減り、二人減り、長年小山に出入してお家大事と勤めて呉れたような大番頭の二人までも早やこの世に居なかった。彼女は孤独で震えるように成ったばかりでなく、もう長いこと自分の身体に異状のあることをも感じていた。彼女は娘のお新と共に――四十の歳まで結婚させることも出来ずに処女で通させて来たような唯一人の不幸なお新と共に最後の「隠れ家」を求めようとするより外にはもう何等の念慮をも持たなかった。  このおげんが小山の家を出ようと思い立った頃は六十の歳だった。彼女は一日も手放しがたいものに思うお新を連れ、預り子の小さな甥を連れ、附添の婆やまで連れて、賑かに家を出て来たが、古い馴染の軒を離れる時にはさすがに限りない感慨を覚えた。彼女はその昂奮を笑いに紛わして来た。「みんな、行って来るぞい」その言葉を養子夫婦にも、奉公人一同にも残して置いて来た。彼女の真意では、しばらく蜂谷の医院に養生した上で、是非とも東京の空まではとこころざしていた。東京には長いこと彼女の見ない弟達が居たから。  蜂谷の医院は中央線の須原駅に近いところにあった。おげんの住慣れた町とは四里ほどの距離にあった。彼女が家を出る時の昂奮はその道のりを汽車で乗って来るまで続いていたし、この医院に着いてもまだ続いていた。(以下略)
おげんの甥はいくつになりますか。
おげんの甥は九つになります。
JCRRAG_000963
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ある女の生涯 島崎藤村  おげんはぐっすり寝て、朝の四時頃には自分の娘や小さな甥なぞの側に眼をさました。慣れない床、慣れない枕、慣れない蚊帳の内で、そんなに前後も知らずに深く眠られたというだけでも、おげんに取ってはめずらしかった。気の置けないものばかり――娘のお新に、婆やに、九つになる小さな甥まで入れると、都合四人も同じ蚊帳の内に枕を並べて寝たこともめずらしかった。  八月のことで、短か夜を寝惜むようなお新はまだよく眠っていた。おげんはそこに眠っている人形の側でも離れるようにして、自分の娘の側を離れた。蚊帳を出て、部屋の雨戸を一二枚ほど開けて見ると、夏の空は明けかかっていた。 「漸く来た。」  とおげんは独りでそれを言って見た。そこは地方によくあるような医院の一室で、遠い村々から来る患者を容れるための部屋になっていた。蜂谷という評判の好い田舎医者がそこを経営していた。おげんが娘や甥を連れてそこへ来たのは自分の養生のためとは言え、普通の患者が病室に泊まったようにも自分を思っていなかったというのは、一つはおげんの亡くなった旦那がまだ達者でさかりの頃に少年の蜂谷を引取って、書生として世話したという縁故があったからで。 「前の日に思い立って、翌る日は家を出て来るような、そんな旦那衆のようなわけにいかすか」 「そうとも」 「そこは女だもの。俺は半年も前から思い立って、漸くここまで来た」  これは二人の人の会話のようであるが、おげんは一人でそれをやった。彼女の内部にはこんな独言を言う二人の人が居た。  おげんはもう年をとって、心細かった。彼女は嫁いで行った小山の家の祖母さんの死を見送り、旦那と自分の間に出来た小山の相続人でお新から言えば唯一人の兄にあたる実子の死を見送り、二年前には旦那の死をも見送った。彼女の周囲にあった親しい人達は、一人減り、二人減り、長年小山に出入してお家大事と勤めて呉れたような大番頭の二人までも早やこの世に居なかった。彼女は孤独で震えるように成ったばかりでなく、もう長いこと自分の身体に異状のあることをも感じていた。彼女は娘のお新と共に――四十の歳まで結婚させることも出来ずに処女で通させて来たような唯一人の不幸なお新と共に最後の「隠れ家」を求めようとするより外にはもう何等の念慮をも持たなかった。  このおげんが小山の家を出ようと思い立った頃は六十の歳だった。彼女は一日も手放しがたいものに思うお新を連れ、預り子の小さな甥を連れ、附添の婆やまで連れて、賑かに家を出て来たが、古い馴染の軒を離れる時にはさすがに限りない感慨を覚えた。彼女はその昂奮を笑いに紛わして来た。「みんな、行って来るぞい」その言葉を養子夫婦にも、奉公人一同にも残して置いて来た。彼女の真意では、しばらく蜂谷の医院に養生した上で、是非とも東京の空まではとこころざしていた。東京には長いこと彼女の見ない弟達が居たから。  蜂谷の医院は中央線の須原駅に近いところにあった。おげんの住慣れた町とは四里ほどの距離にあった。彼女が家を出る時の昂奮はその道のりを汽車で乗って来るまで続いていたし、この医院に着いてもまだ続いていた。(以下略)
おげんが旦那の死を見送ったのは何年前ですか。
おげんが旦那の死を見送ったのは二年前です。
JCRRAG_000964
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ある女の生涯 島崎藤村  おげんはぐっすり寝て、朝の四時頃には自分の娘や小さな甥なぞの側に眼をさました。慣れない床、慣れない枕、慣れない蚊帳の内で、そんなに前後も知らずに深く眠られたというだけでも、おげんに取ってはめずらしかった。気の置けないものばかり――娘のお新に、婆やに、九つになる小さな甥まで入れると、都合四人も同じ蚊帳の内に枕を並べて寝たこともめずらしかった。  八月のことで、短か夜を寝惜むようなお新はまだよく眠っていた。おげんはそこに眠っている人形の側でも離れるようにして、自分の娘の側を離れた。蚊帳を出て、部屋の雨戸を一二枚ほど開けて見ると、夏の空は明けかかっていた。 「漸く来た。」  とおげんは独りでそれを言って見た。そこは地方によくあるような医院の一室で、遠い村々から来る患者を容れるための部屋になっていた。蜂谷という評判の好い田舎医者がそこを経営していた。おげんが娘や甥を連れてそこへ来たのは自分の養生のためとは言え、普通の患者が病室に泊まったようにも自分を思っていなかったというのは、一つはおげんの亡くなった旦那がまだ達者でさかりの頃に少年の蜂谷を引取って、書生として世話したという縁故があったからで。 「前の日に思い立って、翌る日は家を出て来るような、そんな旦那衆のようなわけにいかすか」 「そうとも」 「そこは女だもの。俺は半年も前から思い立って、漸くここまで来た」  これは二人の人の会話のようであるが、おげんは一人でそれをやった。彼女の内部にはこんな独言を言う二人の人が居た。  おげんはもう年をとって、心細かった。彼女は嫁いで行った小山の家の祖母さんの死を見送り、旦那と自分の間に出来た小山の相続人でお新から言えば唯一人の兄にあたる実子の死を見送り、二年前には旦那の死をも見送った。彼女の周囲にあった親しい人達は、一人減り、二人減り、長年小山に出入してお家大事と勤めて呉れたような大番頭の二人までも早やこの世に居なかった。彼女は孤独で震えるように成ったばかりでなく、もう長いこと自分の身体に異状のあることをも感じていた。彼女は娘のお新と共に――四十の歳まで結婚させることも出来ずに処女で通させて来たような唯一人の不幸なお新と共に最後の「隠れ家」を求めようとするより外にはもう何等の念慮をも持たなかった。  このおげんが小山の家を出ようと思い立った頃は六十の歳だった。彼女は一日も手放しがたいものに思うお新を連れ、預り子の小さな甥を連れ、附添の婆やまで連れて、賑かに家を出て来たが、古い馴染の軒を離れる時にはさすがに限りない感慨を覚えた。彼女はその昂奮を笑いに紛わして来た。「みんな、行って来るぞい」その言葉を養子夫婦にも、奉公人一同にも残して置いて来た。彼女の真意では、しばらく蜂谷の医院に養生した上で、是非とも東京の空まではとこころざしていた。東京には長いこと彼女の見ない弟達が居たから。  蜂谷の医院は中央線の須原駅に近いところにあった。おげんの住慣れた町とは四里ほどの距離にあった。彼女が家を出る時の昂奮はその道のりを汽車で乗って来るまで続いていたし、この医院に着いてもまだ続いていた。(以下略)
少年の蜂谷を引取って書生として世話したのは誰ですか。
少年の蜂谷を引取って書生として世話したのは、おげんの亡くなった旦那です。
JCRRAG_000965
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私の飼った犬 斎藤弘吉 最初はカラフト犬  私が最初に飼った犬は、カラフト犬でした。大正の終わりごろですが、その当時はほしいと思う日本犬が手にはいらなかったので、立耳巻尾で形が似ているカラフト犬を、ホロナイ河口で漁業組合長をしていた友人に頼んで送ってもらったのです。生後二カ月余、全身黒褐色で胸のところに白毛があり、ムクムクふとって、ちょうどクマの子そっくりでしたので“クマ”と名づけました。東京の気候は、カラフト犬には暖かすぎるので、夜も外につないでおきました。ところが、これがわざわいとなったのです。というのは、飼って間もなく夜半に外から侵入して来た狂犬病の浮浪犬にかまれ、この恐ろしい病気をうつされて、とうとう私自身の手で悲しい処置をしなければならなくなったのでした。犬を飼ったら、決して外から他の犬がはいって来られるところに置くものでないと覚ったことでした。 土佐闘犬の子犬  自分の家の犬が狂犬病になったので、一家中十八日間も毎日世田谷の家から目黒の伝染病研究所に通って予防注射を受け、もう再び犬は飼うものでないと決心したのでしたが、一度かわいい純真な犬の愛情を知ると、もうどうにもさびしくてたまらず、つぎに飼ったのが血統の正しい土佐闘犬の子でした。うす茶色の美しい犬でしたが、残念ながら骨軟症という骨の病気にかかり、これをなおそうと牛の骨を食べさせすぎて、胃腸を悪くし、とうとう死なせてしまいました。  その後、私は日本犬保存会を作り、日本犬の調査や研究を始めたので、よい日本犬が手にはいり、戦前まで飼った犬は全部日本犬で、合計十数頭にのぼります。このうち、いまなお忘れられない犬のことを少し述べましょう。 秋田犬“出羽”号  秋田犬“出羽”は秋田県大館市のある畜犬商が種犬にしていた犬で、うす赤の、肩の高さ六十一センチぐらい、耳が小さく立ち、尾は太く左巻きで、体型も気性もまことによい犬でした。当時、私の家は山小屋ふうの洋館で、板敷でしたので、夜は家の中に入れて自由にしておきました。家から十六メートルばかり離れた中門のあたりに人が来ると、私たちにはその足音も聞こえないのに、出羽はもう玄関のドアの前に行って低くウーッとうなっているのです。家の者が来客と話して、警戒しなくてもよい人間とわかると、もう身を引いておとなしくなります。私が来客と話しているときは、いつも私のイスの側に横になっているのですが、客と議論したりして声高になると、出羽は立ってウーッと攻撃の姿勢をとるのでした。  夜、私たちは二階にやすみ、出羽は階段の下の洗面所のドアの前に寝て、私たちを守ってくれるのがいつものならわしでしたが、年の暮れのある夜半のことです。突然出羽が猛然とほえたので、びっくりして飛び起きました。出羽のほえ声は実に大きな威力のある声で、数百メートル離れた駅までも聞こえるほどだったのです。階段を下りて見ると、出羽は洗面所のドアに向かってほえているので、ドアを開けて見ると、上の回転窓が閉め忘れたとみえ開いているのです。ちょうど雪の降った晩でしたが、かなり遠い道路から畑をまっすぐに横切ってこの窓の下まで来て、またまっすぐに道路まで逃げて行った人間の足跡が、雪の上に残っていました。  当時は、有名な“説教強盗”と呼ばれた怪盗が出没し、どうにも捕えられなかったときです。私たちは、きっと説教強盗に違いない、開いていた回転窓から忍び込もうと近よって、出羽のあの猛烈な勢いに逃げたものだろうとウワサをしたことでした。説教強盗は、はいった家では必ず「番犬を飼いなさい」と説教していたそうです。 (以下略)
秋田犬出羽は、夜いつもどこに寝ていましたか。
秋田犬出羽は、夜いつも、階段の下の洗面所のドアの前に寝ていました。
JCRRAG_000966
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あさぼらけ 砂東 塩  トウヒコウしよう――と、凪は言った。中学校の帰り道のことだ。  頭の中で「トウヒコウ」が「トウ飛行」に変わる。脳が「逃避行」と浮かれた誤字変換を上書きした。 「逃げるの?」 「全部捨てて自由になりたい。歩は今の生活が窮屈じゃない?」  窮屈だろうか、と歩は考えた。  朝起きた頃に母親は「行ってきます」と家を出ていく。歩は一人で朝食をすませて学校。いつもどおりの顔ぶれ、いつもと同じやりとり、凪だけが異質に映る教室。家に帰ったら一人で夕飯。部屋でくつろいでいると「ただいま」と母親の声。彼女がお風呂に入っているうちに料理を温め、一緒にテレビを観て一日が終わる。  歩がベッドに入って目を閉じると、毎晩のように凪の顔が浮かんだ。現実の凪も、寝入りばなに訪れる凪も、その存在がどこか地球にそぐわない気がした。異質で、特別で、宇宙人みたいだ。 「凪には、地球は窮屈かもね」 「地球?」  凪は愉快そうに目を細めた。歩のそういう突拍子もないとこが好き、と事もなげに言う。凪のそういうところが、普通の感覚とズレていると思う。 「今夜、両親いないんだ」  道を曲がってひと気のない路地に入ると、凪は手を繋いできた。汗ばむ季節になっても、凪は手を繋ぐことをやめない。凪が宇宙に帰ったら一生手を繋げないんだろうかと、他愛もない妄想で手に力がこもった。呼応するように、凪も手を握り返してきた。 「地球から脱出するのは難しいけど、海はすぐそこだから」 「海に逃避行するの?」 「歩も一緒に行こうよ。今の季節なら夜もそんなに寒くない」 「夜?」 「今夜行こう。うちに泊まるって言えば大丈夫だよ」  凪の家のすぐ裏が海だった。それって逃避行でも何でもないんじゃないかと思ったけれど、だから「じゃあ行こうかな」と口にした。歩が母親にメールすると、凪のご両親によろしくと返ってきた。画面をのぞき見た凪が、「よろしくだって」と空に向かって報告した。
凪は中学校の帰り道で何と言いましたか。
凪は中学校の帰り道でトウヒコウしようと言いました。
JCRRAG_000967
国語
 ある日私は大通りからそっちの方へと入って行って見た。  私はそこにガラス窓や、ドアや、不恰好なヴェランダや、低い物干台などを発見した。二条三条ある横の通りを縦に小さな巷路の貫ぬいているのを発見した。新開地でもあるかのように新しくぞんざいに建てられた二階屋の軒から軒へと続いてつらなっているのを発見した。しかもところどころに空地があってそこに夕日がさし込んで来ているのを、二階の小さな窓のところに柘榴か何かの盆栽が置いてあって、それにその余照が明るくさし添っているのを発見した。これが魚河岸だろうか。かつてはこの大都会の胃であり腸であった魚河岸の内部だろうか。それは私とて今までに一度だってその内部に入って見たことがあるのではなかった。それはその内部に知っている人でもあって、それが案内でもしてくれたなら、入って見ることも出来たであろうが、あの雑踏では外から来たものが内部まで入って見ることはとても不可能であったのであった。私は書生時代にいつも橋のこっちの袂から四日市の方へと近路をして抜けて行ったが、その時分の雑踏はとてもお話にならないものだった。まごまごしていれば、(何だ! この小僧、邪魔なところにいるな!)といわぬばかりに突き飛ばされた。従って魚河岸は東京でも一番活発なところ、また一番わかりにくいところとして常にその頃の私の頭に印象されて残っていた。それだけに廃址という感じが一層はっきりと私の頭に来た。  私は川に近い通り――大きな魚問屋があって、鮭だの鱈だの一杯に昔並べられてあったところ今はさびしく荒凉とした通りになっているところを通って、四日市の通り近くまで行って、そしてまた細い巷路に右に入って行って見た。昔のままの大きな蒲鉾屋がただ一軒そこに残っていたりなどした。バラックであるせいもあろうが、あたりが何となくがらんとして、昔は厚く塗りかためた土蔵づくりの家並ばかりだったので、さし入りたくも容易にさし入れなかった午後四時過ぎの日影が、そこにもここにも、格子の窓にも、家と家との間にある細い路地にも、シタミの横のところにも、共同の水道の口からほとばしり出している水にも、そこに立っている女の横顔にもまた通りを昔と違った幅で歩いている赤ぶちの大きな犬の尾にも、昔の伊達気分などはもはや少しも持っていないだろうと思われるような小料理屋の招牌にも、自由自在にさし入って来て、至るところにその静けさとさびしさとを展げているのだった。私は古都でもさまよっている詩人のようにして静かに歩いた。  かん茂の半ぺん、弁松のあなご、そういうものにも長く長く親しんで来たが、今ではもはやそれを本当に味わうことは出来ないなどと思いながら、また、そういうものがあたりの変遷と共にみんな亡びて無くなって行くことなどを悲しみながら、私は長い間その界わいを彷徨した。  私は震災の時のことなどをくり返した。このあたりでも逃げおくれて屍になって水に浮んだものの多かったこと、舟に一ぱい乗るには乗っても、両岸の火で熱くってとてもたまらなかったということなどをくり返した。巷路からこっちへと出て来るところには、山くじらを売っている店のあるのなどを眼にした。
私は大通りからそっちの方へと入って行って何を発見しましたか。
私はそこにガラス窓や、ドアや、不恰好なヴェランダや、低い物干台などの他、新開地でもあるかのように新しくぞんざいに建てられた二階屋の軒から軒へと続いてつらなっているのや、ところどころに空地があってそこに夕日がさし込んで来ているのを、二階の小さな窓のところに柘榴か何かの盆栽が置いてあって、それにその余照が明るくさし添っているのを発見しました。
JCRRAG_000968
国語
 ある日私は大通りからそっちの方へと入って行って見た。  私はそこにガラス窓や、ドアや、不恰好なヴェランダや、低い物干台などを発見した。二条三条ある横の通りを縦に小さな巷路の貫ぬいているのを発見した。新開地でもあるかのように新しくぞんざいに建てられた二階屋の軒から軒へと続いてつらなっているのを発見した。しかもところどころに空地があってそこに夕日がさし込んで来ているのを、二階の小さな窓のところに柘榴か何かの盆栽が置いてあって、それにその余照が明るくさし添っているのを発見した。これが魚河岸だろうか。かつてはこの大都会の胃であり腸であった魚河岸の内部だろうか。それは私とて今までに一度だってその内部に入って見たことがあるのではなかった。それはその内部に知っている人でもあって、それが案内でもしてくれたなら、入って見ることも出来たであろうが、あの雑踏では外から来たものが内部まで入って見ることはとても不可能であったのであった。私は書生時代にいつも橋のこっちの袂から四日市の方へと近路をして抜けて行ったが、その時分の雑踏はとてもお話にならないものだった。まごまごしていれば、(何だ! この小僧、邪魔なところにいるな!)といわぬばかりに突き飛ばされた。従って魚河岸は東京でも一番活発なところ、また一番わかりにくいところとして常にその頃の私の頭に印象されて残っていた。それだけに廃址という感じが一層はっきりと私の頭に来た。  私は川に近い通り――大きな魚問屋があって、鮭だの鱈だの一杯に昔並べられてあったところ今はさびしく荒凉とした通りになっているところを通って、四日市の通り近くまで行って、そしてまた細い巷路に右に入って行って見た。昔のままの大きな蒲鉾屋がただ一軒そこに残っていたりなどした。バラックであるせいもあろうが、あたりが何となくがらんとして、昔は厚く塗りかためた土蔵づくりの家並ばかりだったので、さし入りたくも容易にさし入れなかった午後四時過ぎの日影が、そこにもここにも、格子の窓にも、家と家との間にある細い路地にも、シタミの横のところにも、共同の水道の口からほとばしり出している水にも、そこに立っている女の横顔にもまた通りを昔と違った幅で歩いている赤ぶちの大きな犬の尾にも、昔の伊達気分などはもはや少しも持っていないだろうと思われるような小料理屋の招牌にも、自由自在にさし入って来て、至るところにその静けさとさびしさとを展げているのだった。私は古都でもさまよっている詩人のようにして静かに歩いた。  かん茂の半ぺん、弁松のあなご、そういうものにも長く長く親しんで来たが、今ではもはやそれを本当に味わうことは出来ないなどと思いながら、また、そういうものがあたりの変遷と共にみんな亡びて無くなって行くことなどを悲しみながら、私は長い間その界わいを彷徨した。  私は震災の時のことなどをくり返した。このあたりでも逃げおくれて屍になって水に浮んだものの多かったこと、舟に一ぱい乗るには乗っても、両岸の火で熱くってとてもたまらなかったということなどをくり返した。巷路からこっちへと出て来るところには、山くじらを売っている店のあるのなどを眼にした。
私は書生時代にいつもどこからどこの方へと近路をして抜けて行きましたか。
私は書生時代にいつも橋のこっちの袂から四日市の方へと近路をして抜けて行きました。
JCRRAG_000969
国語
真夏の夢 ストリンドベルヒ August Strindberg 有島武郎訳  北の国も真夏のころは花よめのようなよそおいをこらして、大地は喜びに満ち、小川は走り、牧場の花はまっすぐに延び、小鳥は歌いさえずります。その時一羽の鳩が森のおくから飛んで来て、寝ついたなりで日をくらす九十に余るおばあさんの家の窓近く羽を休めました。  物の二十年も臥せったなりのこのおばあさんは、二人のむすこが耕すささやかな畑地のほかに、窓越しに見るものはありませなんだが、おばあさんの窓のガラスは、にじのようなさまざまな色のをはめてあったから、そこからのぞく人間も世間も、普通のものとは異なっていました。まくらの上でちょっと頭さえ動かせば、目に見える景色が赤、黄、緑、青、鳩羽というように変わりました。冬になって木々のこずえが、銀色の葉でも連ねたように霜で包まれますと、おばあさんはまくらの上で、ちょっと身動きしたばかりでそれを緑にしました。実際は灰色でも野は緑に空は蒼く、世の中はもう夏のとおりでした。おばあさんはこんなふうで、魔術でも使える気でいるとたいくつをしませんでした。そればかりではありません。この窓ガラスにはもう一つ変わった所があって、ガラスのきざみ具合で見るものを大きくも小さくもする事ができるようになっておりました。だからもし大きなむすこが腹をたてて帰って来て、庭先でどなりでもするような事があると、おばあさんは以前のような、小さい、言う事をきく子どもにしようと思っただけで、即座にちっぽけに見る事もできましたし、孫たちがよちよち歩きで庭に出て来るのを見るにつけ、そのおい先を考えると、ワン、ツー、スリー、拡大のガラスからのぞきさえすれば、見るまに背の高い、育ち上がったみごとな大男になってしまいました。  こんなおもしろい窓ではありますが、夏が来るとおばあさんはその窓をあけ放させました。いかな窓でも夏の景色ほどな景色は見せてくれませんから。さて夏の中でもすぐれた美しい聖ヨハネ祭に、そのおばあさんが畑と牧場とを見わたしていますと、ひょっくり鳩が歌い始めました。声も美しくエス・キリスト、さては天国の歓喜をほめたたえて、重荷に苦しむものや、浮き世のつらさの限りをなめたものは、残らず来いとよび立てました。  おばあさんはそれを聞きましたが、その日はこの世も天国ほどに美しくって、これ以上のものをほしいとも思いませんでしたから、礼を言って断わってしまいました。  で鳩は今度は牧場を飛び越して、ある百姓がしきりと井戸を掘っている山の中の森に来ました。その百姓は深い所にはいって、頭の上に六尺も土のある様子はまるで墓のあなの底にでもいるようでした。  あなの中にいて、大空も海も牧場も見ないこんな人こそは、きっと天国に行きたいにちがいないと思いましたから、鳩は木の枝の上で天国の歓喜を鳩らしく歌い始めました。  ところが百姓は、 「いやです。私はまず井戸を掘らんければなりません。でないと夏分のお客さんは水にこまるし、あのかわいそうな奥さんと子ども衆もいなくなってしまいますからね」  と言いました。  で鳩は今度は海岸に飛んで行きました。そこではさきほどの百姓の兄弟にあたる人が引き網をしていました。鳩は蘆の中にとまって歌いました。  その男も言いますには、 「いやです。私は何より先に家で食うだけのものを作らねばなりません。でないと子どもらがひもじいって泣きます。あとの事、あとの事。まだ天国の事なんか考えずともよろしい。死ぬ前には生きるという事があるんだから」  で鳩はまた百姓の言ったかわいそうな奥さんが夏を過ごしている、大きないなかの住宅にとんで行きました。その時奥さんは縁側に出て手ミシンで縫物をしていました。顔は百合の花のような血の気のない顔、頭の毛は喪のベールのような黒い髪、しかして罌粟のような赤い毛の帽子をかぶっていました。奥さんは聖ヨハネの祭日にむすめに着せようとして、美しい前掛けを縫っていました。むすめはお母さんの足もとの床の上にすわって、布切れの端を切りこまざいて遊んでいました。(以下略)
夏が来ると、おばあさんは窓をどうしましたか。
おばあさんは、夏が来ると窓をあけ放させました。
JCRRAG_000970
国語
跳ね橋がもはや下ろされていて、その見知らぬ人は城門の前に進んでいた。彼は背の高い立派な騎士で、黒い馬にまたがっていた。顔色は青ざめていたが、輝かしい神秘的な眼をしていて、堂々としたうちにもうち沈んだところがあった。男爵は彼がこのように簡単なひとりぼっちの旅姿でやってきたことに、いささか気分を悪くした。男爵の威厳をしめそうとする気もちが一瞬きずつけられた。この客の有様はこの重大な場合に正式の礼を欠くものではないか、縁をむすぼうとしている相手の大切な家柄に対しても、敬意が足りないではないか、と彼は考えたくなった。とはいえ、男爵は、相手が若さのためにはやる心をおさえきれず、供のものたちよりも先に着いたに違いないときめて自分をなぐさめた。 「かように時刻もわきまえずにお邪魔してまことに申しわけございません」とその見知らぬ人は言った。  ここで男爵は彼をさえぎって、おびただしい世辞や挨拶を述べたてた。実をいうと、彼は自分が礼儀正しく雄弁であることを鼻にかけていたのである。その見知らぬ人は一、二度その言葉の奔流をせきとめようとしてみたが無駄だった。そこで彼は頭を下げて、その奔流の流れるままにしておいた。男爵がひと句切りするまでには、彼らは城の中庭にきていた。そしてその見知らぬ人はふたたび話しだそうとしたが、またもやさえぎられてしまった。このとき、この家の婦人たちがあらわれて、尻ごみしながら顔をあからめている花嫁を連れてきたのだ。彼は一瞬心をうばわれた人のようにじっと彼女を見つめた。あたかも彼の魂がそっくりその凝視にそそぎこまれ、その美しい姿の上にとどまったかのように思われた。未婚の叔母の一人がなにごとか彼女の耳にささやいた。彼女はなんとか口をひらこうとして、そのうるおいのある青い眼をおそるおそる上げ、この見知らぬ人に問いかけるように、ちらっと恥ずかしそうな視線を向け、やがてまたうつむいてしまった。言葉は消えてしまったが、彼女の唇には愛らしい微笑がただよい、やわらかなえくぼが頬にうかんで、今の一瞥が意に満たないものではなかったことを語っていた。情にもろい十八という年頃の娘は、ただでさえ恋愛や結婚にかたむきやすいのだから、こんなに立派な騎士が気に入らないわけがなかった。
見知らぬ人は何色の馬にまたがっていましたか。
見知らぬ人は黒い馬にまたがっていました。
JCRRAG_000971
国語
跳ね橋がもはや下ろされていて、その見知らぬ人は城門の前に進んでいた。彼は背の高い立派な騎士で、黒い馬にまたがっていた。顔色は青ざめていたが、輝かしい神秘的な眼をしていて、堂々としたうちにもうち沈んだところがあった。男爵は彼がこのように簡単なひとりぼっちの旅姿でやってきたことに、いささか気分を悪くした。男爵の威厳をしめそうとする気もちが一瞬きずつけられた。この客の有様はこの重大な場合に正式の礼を欠くものではないか、縁をむすぼうとしている相手の大切な家柄に対しても、敬意が足りないではないか、と彼は考えたくなった。とはいえ、男爵は、相手が若さのためにはやる心をおさえきれず、供のものたちよりも先に着いたに違いないときめて自分をなぐさめた。 「かように時刻もわきまえずにお邪魔してまことに申しわけございません」とその見知らぬ人は言った。  ここで男爵は彼をさえぎって、おびただしい世辞や挨拶を述べたてた。実をいうと、彼は自分が礼儀正しく雄弁であることを鼻にかけていたのである。その見知らぬ人は一、二度その言葉の奔流をせきとめようとしてみたが無駄だった。そこで彼は頭を下げて、その奔流の流れるままにしておいた。男爵がひと句切りするまでには、彼らは城の中庭にきていた。そしてその見知らぬ人はふたたび話しだそうとしたが、またもやさえぎられてしまった。このとき、この家の婦人たちがあらわれて、尻ごみしながら顔をあからめている花嫁を連れてきたのだ。彼は一瞬心をうばわれた人のようにじっと彼女を見つめた。あたかも彼の魂がそっくりその凝視にそそぎこまれ、その美しい姿の上にとどまったかのように思われた。未婚の叔母の一人がなにごとか彼女の耳にささやいた。彼女はなんとか口をひらこうとして、そのうるおいのある青い眼をおそるおそる上げ、この見知らぬ人に問いかけるように、ちらっと恥ずかしそうな視線を向け、やがてまたうつむいてしまった。言葉は消えてしまったが、彼女の唇には愛らしい微笑がただよい、やわらかなえくぼが頬にうかんで、今の一瞥が意に満たないものではなかったことを語っていた。情にもろい十八という年頃の娘は、ただでさえ恋愛や結婚にかたむきやすいのだから、こんなに立派な騎士が気に入らないわけがなかった。
男爵は自分がどうであることを鼻にかけていましたか。
男爵は自分が礼儀正しく雄弁であることを鼻にかけていました。
JCRRAG_000972
国語
跳ね橋がもはや下ろされていて、その見知らぬ人は城門の前に進んでいた。彼は背の高い立派な騎士で、黒い馬にまたがっていた。顔色は青ざめていたが、輝かしい神秘的な眼をしていて、堂々としたうちにもうち沈んだところがあった。男爵は彼がこのように簡単なひとりぼっちの旅姿でやってきたことに、いささか気分を悪くした。男爵の威厳をしめそうとする気もちが一瞬きずつけられた。この客の有様はこの重大な場合に正式の礼を欠くものではないか、縁をむすぼうとしている相手の大切な家柄に対しても、敬意が足りないではないか、と彼は考えたくなった。とはいえ、男爵は、相手が若さのためにはやる心をおさえきれず、供のものたちよりも先に着いたに違いないときめて自分をなぐさめた。 「かように時刻もわきまえずにお邪魔してまことに申しわけございません」とその見知らぬ人は言った。  ここで男爵は彼をさえぎって、おびただしい世辞や挨拶を述べたてた。実をいうと、彼は自分が礼儀正しく雄弁であることを鼻にかけていたのである。その見知らぬ人は一、二度その言葉の奔流をせきとめようとしてみたが無駄だった。そこで彼は頭を下げて、その奔流の流れるままにしておいた。男爵がひと句切りするまでには、彼らは城の中庭にきていた。そしてその見知らぬ人はふたたび話しだそうとしたが、またもやさえぎられてしまった。このとき、この家の婦人たちがあらわれて、尻ごみしながら顔をあからめている花嫁を連れてきたのだ。彼は一瞬心をうばわれた人のようにじっと彼女を見つめた。あたかも彼の魂がそっくりその凝視にそそぎこまれ、その美しい姿の上にとどまったかのように思われた。未婚の叔母の一人がなにごとか彼女の耳にささやいた。彼女はなんとか口をひらこうとして、そのうるおいのある青い眼をおそるおそる上げ、この見知らぬ人に問いかけるように、ちらっと恥ずかしそうな視線を向け、やがてまたうつむいてしまった。言葉は消えてしまったが、彼女の唇には愛らしい微笑がただよい、やわらかなえくぼが頬にうかんで、今の一瞥が意に満たないものではなかったことを語っていた。情にもろい十八という年頃の娘は、ただでさえ恋愛や結婚にかたむきやすいのだから、こんなに立派な騎士が気に入らないわけがなかった。
男爵がひと句切りするまでには、彼らは城のどこにきていましたか。
男爵がひと句切りするまでには、彼らは城の中庭にきていました。
JCRRAG_000973
国語
 ある日私は大通りからそっちの方へと入って行って見た。  私はそこにガラス窓や、ドアや、不恰好なヴェランダや、低い物干台などを発見した。二条三条ある横の通りを縦に小さな巷路の貫ぬいているのを発見した。新開地でもあるかのように新しくぞんざいに建てられた二階屋の軒から軒へと続いてつらなっているのを発見した。しかもところどころに空地があってそこに夕日がさし込んで来ているのを、二階の小さな窓のところに柘榴か何かの盆栽が置いてあって、それにその余照が明るくさし添っているのを発見した。これが魚河岸だろうか。かつてはこの大都会の胃であり腸であった魚河岸の内部だろうか。それは私とて今までに一度だってその内部に入って見たことがあるのではなかった。それはその内部に知っている人でもあって、それが案内でもしてくれたなら、入って見ることも出来たであろうが、あの雑踏では外から来たものが内部まで入って見ることはとても不可能であったのであった。私は書生時代にいつも橋のこっちの袂から四日市の方へと近路をして抜けて行ったが、その時分の雑踏はとてもお話にならないものだった。まごまごしていれば、(何だ! この小僧、邪魔なところにいるな!)といわぬばかりに突き飛ばされた。従って魚河岸は東京でも一番活発なところ、また一番わかりにくいところとして常にその頃の私の頭に印象されて残っていた。それだけに廃址という感じが一層はっきりと私の頭に来た。  私は川に近い通り――大きな魚問屋があって、鮭だの鱈だの一杯に昔並べられてあったところ今はさびしく荒凉とした通りになっているところを通って、四日市の通り近くまで行って、そしてまた細い巷路に右に入って行って見た。昔のままの大きな蒲鉾屋がただ一軒そこに残っていたりなどした。バラックであるせいもあろうが、あたりが何となくがらんとして、昔は厚く塗りかためた土蔵づくりの家並ばかりだったので、さし入りたくも容易にさし入れなかった午後四時過ぎの日影が、そこにもここにも、格子の窓にも、家と家との間にある細い路地にも、シタミの横のところにも、共同の水道の口からほとばしり出している水にも、そこに立っている女の横顔にもまた通りを昔と違った幅で歩いている赤ぶちの大きな犬の尾にも、昔の伊達気分などはもはや少しも持っていないだろうと思われるような小料理屋の招牌にも、自由自在にさし入って来て、至るところにその静けさとさびしさとを展げているのだった。私は古都でもさまよっている詩人のようにして静かに歩いた。  かん茂の半ぺん、弁松のあなご、そういうものにも長く長く親しんで来たが、今ではもはやそれを本当に味わうことは出来ないなどと思いながら、また、そういうものがあたりの変遷と共にみんな亡びて無くなって行くことなどを悲しみながら、私は長い間その界わいを彷徨した。  私は震災の時のことなどをくり返した。このあたりでも逃げおくれて屍になって水に浮んだものの多かったこと、舟に一ぱい乗るには乗っても、両岸の火で熱くってとてもたまらなかったということなどをくり返した。巷路からこっちへと出て来るところには、山くじらを売っている店のあるのなどを眼にした。
昔のままの何がただ一軒そこに残っていましたか。
昔のままの大きな蒲鉾屋がただ一軒そこに残っていました。
JCRRAG_000974
国語
 つぎの日も、そのつぎの日も、葉子は森先生を橋の上で待合して学校へ行った。けれどノートの事については何にも仰有らなかった。葉子もそれをきこうとはしなかった。  光子は葉子が先生と一緒に学校へ来るのが妬しくてならなかった。その週間も過ぎて、つぎの地理の時間が来た。  葉子が忘れようとしていた記憶はまた新しくなった。葉子は、おずおずと先生の方を見た。先週習ったところは幾度となく復習して来たから、どこをきかれても答えられたけれど、先生は葉子の方を決して見なかった。そして光子に向って、 「巴里はどこの都ですか」とお訊ねになった。すると「佛蘭西の都であります」と光子が嬉しそうに答えた。  地理の時間が終ると、運動場のアカシヤの木の下へいって、葉子はぼんやり足もとを見つめていた。何ということなしに悲しかった。 「葉子さん」そう言って後から葉子の肩を軽く叩いた。それは葉子と仲好の朝子であった。朝子は葉子の顔を覗きこんで「どうしたの」ときいた。 「どうもしないの」そういって葉子は笑って見せた。 「そんなら好いけど。何だか考えこんでいらっしゃるんですもの、言って好いことなら私に話して頂戴な」 「いいえ、そんな事じゃないの、私すこし頭痛がするの」 「さう、そりゃいけないわね」  葉子はじっと思入って朝子を見つめて「朝子さん」 「え」 「あなた森先生お好き?」 「ええ、好きよ、大好きだわ」 「あたしも好きなの、でも先生は私のことを怒っていらっしゃる様なの」 「そんなことはないでしょう」  葉子は、朝子に心配の種を残らず打明けた。それから二人は森先生のやさしいことや、先生は何処の生れの方だろうという事や、先生にもお母様があるだろうかという事や、もし先生が病気なさったら、毎日側そばについて看病してあげましょうねという事や、もしや死んでしまっても、先生のお墓の傍に、小さい家をたてて、先生のお好きな花をどっさり植えましょうという事などを語り合った。
先生はどこを決して見ませんでしたか。
先生は葉子の方を決して見ませんでした。
JCRRAG_000975
国語
 ある日私は大通りからそっちの方へと入って行って見た。  私はそこにガラス窓や、ドアや、不恰好なヴェランダや、低い物干台などを発見した。二条三条ある横の通りを縦に小さな巷路の貫ぬいているのを発見した。新開地でもあるかのように新しくぞんざいに建てられた二階屋の軒から軒へと続いてつらなっているのを発見した。しかもところどころに空地があってそこに夕日がさし込んで来ているのを、二階の小さな窓のところに柘榴か何かの盆栽が置いてあって、それにその余照が明るくさし添っているのを発見した。これが魚河岸だろうか。かつてはこの大都会の胃であり腸であった魚河岸の内部だろうか。それは私とて今までに一度だってその内部に入って見たことがあるのではなかった。それはその内部に知っている人でもあって、それが案内でもしてくれたなら、入って見ることも出来たであろうが、あの雑踏では外から来たものが内部まで入って見ることはとても不可能であったのであった。私は書生時代にいつも橋のこっちの袂から四日市の方へと近路をして抜けて行ったが、その時分の雑踏はとてもお話にならないものだった。まごまごしていれば、(何だ! この小僧、邪魔なところにいるな!)といわぬばかりに突き飛ばされた。従って魚河岸は東京でも一番活発なところ、また一番わかりにくいところとして常にその頃の私の頭に印象されて残っていた。それだけに廃址という感じが一層はっきりと私の頭に来た。  私は川に近い通り――大きな魚問屋があって、鮭だの鱈だの一杯に昔並べられてあったところ今はさびしく荒凉とした通りになっているところを通って、四日市の通り近くまで行って、そしてまた細い巷路に右に入って行って見た。昔のままの大きな蒲鉾屋がただ一軒そこに残っていたりなどした。バラックであるせいもあろうが、あたりが何となくがらんとして、昔は厚く塗りかためた土蔵づくりの家並ばかりだったので、さし入りたくも容易にさし入れなかった午後四時過ぎの日影が、そこにもここにも、格子の窓にも、家と家との間にある細い路地にも、シタミの横のところにも、共同の水道の口からほとばしり出している水にも、そこに立っている女の横顔にもまた通りを昔と違った幅で歩いている赤ぶちの大きな犬の尾にも、昔の伊達気分などはもはや少しも持っていないだろうと思われるような小料理屋の招牌にも、自由自在にさし入って来て、至るところにその静けさとさびしさとを展げているのだった。私は古都でもさまよっている詩人のようにして静かに歩いた。  かん茂の半ぺん、弁松のあなご、そういうものにも長く長く親しんで来たが、今ではもはやそれを本当に味わうことは出来ないなどと思いながら、また、そういうものがあたりの変遷と共にみんな亡びて無くなって行くことなどを悲しみながら、私は長い間その界わいを彷徨した。  私は震災の時のことなどをくり返した。このあたりでも逃げおくれて屍になって水に浮んだものの多かったこと、舟に一ぱい乗るには乗っても、両岸の火で熱くってとてもたまらなかったということなどをくり返した。巷路からこっちへと出て来るところには、山くじらを売っている店のあるのなどを眼にした。
私は、巷路からこっちへと出て来るところには、何を眼にしましたか。
私は、巷路からこっちへと出て来るところには、山くじらを売っている店があるのなどを眼にしました。
JCRRAG_000976
国語
 学問上の閲歴のようなものを書けという『思想』の編輯部からの話があった。これまでもあちこちから同じことをしばしば勧められたが、いつも書く気になれなかった。人に語るほどの閲歴もないし、久しい前のことは記憶もはっきりせず、その上に、じぶんのことを書くのは書きにくくもあるので、筆をとりかねたのである。それに、ぼくがいくらか学問上のしごとをしたとするにしても、その大部分は一般の学界とは殆どかかりあいのないものであったから、ぼくの閲歴はぼくだけの閲歴であって、それによって学界の動向などが知られるわけでもなく、従ってそれを書くことに大した意味はない、という理由もあった。しかし書かないことを固執するにも及ぶまいから、思い出されることを思い出すままに少しばかり書いてみることにする。  学問上の論文らしいものを書いたのは明治時代の末からであるが、書物の形でそれを公にしたのは、『朝鮮歴史地理』と『神代史の新しい研究』とがはじめであって、何れも大正二(一九一三)年の出版である。しかし、かなり前から長い間かかってしたしごとをまとめたものは、大正五(一九一六)年から十(一九二一)年までに四巻を出した『文学に現はれたる我が国民思想の研究』である。それから後にも、『古事記』や『書紀』についての考や日本の上代史上のいくつかの問題を取扱ったものを書いたことはあるが、大正時代の末ころから後のおもな著作は、シナ思想に関するものであって、初から単行本で出したものもあるが、その多くは、『東洋学報』とか『東洋文庫論叢』とか、または東大文学部出版の名義になっている『満鮮地理歴史研究報告』とか、または早大のぼくの研究室から出した『東洋思想研究』とか、そういうもので発表した。それで、どうしてこういうようなしごとをするようになったかということであるが、それには『国民思想の研究』のことから始めるのが便宜であろう。 『国民思想の研究』という書名は、出版まぎわにつけたものであるし、ああいう形でああいうものを書こうという構想のほぼまとまったのも、大正のはじめのころであったろうと思うが、手をつけはじめたのは、それよりも十二、三年前のことである。たしか明治三十三(一九〇〇)年であったように記憶するが、その前の二、三年ほどの間、地方の中学の教師をしていたのを、この年に東京に帰って獨逸学協会学校につとめることになった。同じようなしごとではあるが、いくらか新しい気分にもなったので、この機会に明治維新のことを、主として思想の方面について、少し考えてみようと思いついた。どうしてそういうことを思いついたかは忘れたが、フクチ オウチの『幕府衰亡論』、キムラ カイシュウの『三十年史』、タナベ レンシュウの『幕末外交談』、その他、旧幕臣たちの著書を読んでいたので、それに誘われたところがあったのであろうか。トガワという人の『幕末小史』や『旧幕府』という月刊雑誌の出たのも、このころであったかと思うが、もしそうならば、それらもいくらかの刺戟になったかも知れぬ。あるいはまたいわゆる勤王論のような立ちばからのみ維新を考えることに物足らぬ感じを、前からもっていたようにも思われるので、そういうことから導かれたところがあったかとも考えられる。何れにしても、じぶんのことながらはっきりは思い出されぬ。それはともかくも、そのころには幕末期における幕府のしごと、特にヨウロッパの文物を学び取ろうとして努力したことに、最も多く興味がひかれ、その方面に関係のある書物で手に入り易いものをいろいろ読んでみた。ところが、何につけても疑問が起って、わからないことばかり出て来た。そうして、もっと広くその時代の、また溯ってエド時代の初期からの、文化上社会上の情勢を知らなくては、小さい疑問も解けないことに、だんだん気がついて来た。それで、そういうことを知るために役にたちそうな書物を何によらず読んでみることにしたが、そのころには、版本でも現代式の活字本の覆刻が少ししかできていず、また写本のままで伝わっているものが多かったので、読みたいものを手がるに手に入れることができなかった。勿論、珍本とか人の知らないようなものとかも読もうとしたのではなく、だれでも一応は読むべきはずの、ごくありふれた本を見ようとしたのであるが、貧乏生活をしていたので、そういう書物を買う余裕すらもなかったのである。それで、ウエノの図書館を利用する外に方法がないと思い、学校から帰ると、夜にかけて、殆ど毎日のようにそこに通った。三十三年から三十六年ころまでそれが続いたように思う。図書館が音楽学校の前にあって、小さな木造の閲覧室をもっていたころのことである。ただいわゆるエド文学に関するものは、活字の覆刻本がかなり出ていたので、そういうものだけはどうかこうかじぶんの書物でまにあわせることができた。  ここでしばらくこの時から十年あまり前のことをふりかえってみる。ぼくは明治二十三(一八九〇)年に東京に出て来て、今の早大の前身である東京専門学校の政治科に入り、一年半ばかりいて、翌二十四年にそこを卒業したことになっている。数え年で十八、九の時であったし、そのころの学校も学校であったから、学問というようなことは何もわからなかった。ところが、そのころ博文館から『日本文学全書』というものが出、版元は忘れたが近松や西鶴芭蕉などの廉価な覆刻本もいくらかずつ現われて来たので、そういうものをぼつぼつ読んでいるうちに、学校の講義などよりはその方がずっとおもしろくなった。それからひきつづいて『日本歌学全書』というものも出版せられるようになり、『源氏』の『湖月抄』もオオサカあたりの書林からか出たので、それらをつぎつぎに読んでいった。これは二十五、六年ころのことであったろうか。独りでかってに読んだのだから、わからぬところもあり、誤解していることも多かったであろうが、とにかくこういうようにして、いろいろの古典やエド時代の文学を少しばかりのぞいて見ることができた。宣長の『古訓古事記』や『書紀』の本文を始めて読んだのも同じころであったが、今から思うと、これらは何のことかわからずに読むことだけをしたものらしい。ぼくは日本の古典などの講義をだれからもきいたことがない。シナのも、小学校時代の外は、同様である。人に交わることが殆どなかったので、こういうことについて話しあう友人というようなものも有もたなかった。ただかねてから『国民之友』とか『日本人』とかいうような雑誌は見ていたし、文学雑誌では鴎外の『しがらみ草紙』を特に愛読していたので、そういうものが、古典などを読むにも、おのずから何ほどかの助けとなったであろう。
獨逸学協会学校につとめてからは、何について考えてみようと思いつきましたか。
獨逸学協会学校につとめてからは、明治維新のことを、主として思想の方面について、少し考えてみようと思いつきました。
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西洋科学は素晴らしい C. スミス C. Smith The Creative CAT 訳 一人の火星人と三人の共産主義者の出任せ話でございます  火星人は御影石の小さな断崖の上に座っていた。そよ風を楽しめるように小ぶりな樅の木の形態を取っている。尖った常緑樹の葉の間を風が気持ちよく吹いていった。  崖下に一人のアメリカ人が立っていた。火星人が目にした初めてのアメリカ人である。  アメリカ人はポケットから魅惑的なまでに巧妙な装置を取り出した。金属製の小箱で、ノズルが持ち上がると即座に炎を発した。彼は苦もなくこの神秘の装置から、至福を齎す薬草の詰まった円筒に火を移した。火星人はこれがアメリカ人たちがシガレットと呼ぶものであることを理解した。アメリカ人がシガレットに火をつけ終わった時、彼は形態を変えた。今度は身長五メートルの紅顔白髯の中国人扇動家の姿である。彼はアメリカ人に向かって英語で叫んだ。「ハロー、フレンド!」  見上げたアメリカ人の顎は今にも外れそうになった。  火星人は崖を降り、静かにアメリカ人に近寄って行った。あまり怖がらせないようにゆっくりと。  それにもかかわらず、アメリカ人は随分気に病んだようだ。というものこんな事を言ったから「お前は現実ではないな? そんなことあるもんか。それともひょっとして?」  火星人はそっとアメリカ人の心の中を覗いて、身長五メートルの中国人扇動家像はアメリカ人の日常心理において安心を齎すものではないと理解した。彼はアメリカ人の心の中で安心感のあるイメージを探した。まずそのアメリカ人の母親のイメージが見つかったので、すぐさまその姿に変態してこう答えた「現実とは何、ダーリン?」  するとアメリカ人は僅かに青ざめて片手で両目を覆った。火星人は再度アメリカ人の心に入り込み、いささか混乱したイメージを探り当てた。  アメリカ人が目を開くと、今度は火星人が若い赤十字の看護婦の姿を取って、ストリップショーを繰り広げている最中だった。歓心を誘うための手順だったにも拘らず、アメリカ人は安心しなかった。恐怖が怒りに転じ、彼は言った「お前は一体何者だ?」  火星人の親切心もここまでだった。オックスフォードあがりの中国国民党軍大将軍の姿となり、イギリス訛り丸出しでこう言った。「私はこの地に棲む若干超自然的な『モノ』として知られておる。気にしないでくれたら嬉しい。西洋科学は実に素晴らしい。よって私は貴方の手の中にある魅力的な機械を調べなければならない。少し話をする時間をいただけないだろうか。」  アメリカ人の心に混乱したイメージの断片が浮かぶのが見て取れた。何やら「禁酒法」とかいうものや、別の「酒を控えるオン・ザ・ワゴン」とかいうものと関連がありそうだった。そして何度も繰り返す「なぜこの俺がこんな所に?」という疑問や。  その間、火星人はライターを検めた。  アメリカ人の手に戻しても、彼は硬直したままだった。 「実によくできた魔法だ」と火星人。「このあたりの岩山ではこの種のことができぬ。私は幾分下級の悪魔でね。貴方は著名なる合衆国陸軍の大尉殿とお見受けする。自己紹介を許されたい。私は羅漢の第一三八七二二九代東方従位輪廻である。雑談する時間はおありかな?」  アメリカ人の目には国民党軍の制服が映っていた。振り返ると、中国人の荷役人夫も通訳も谷間の草地の上で束ねた雑巾のようにひっくり返っているではないか。すっかり気絶していたのだ。ようやくの事で気を取り直したアメリカ人は言った「ラカンだって?」 「羅漢は阿羅漢の一なり」と火星人。  どちらの情報もアメリカ人には受け取ってもらえず、火星人は、どうやらアメリカ軍人と知己を得るに好適な環境をもはや失してしまったと結論した。がっかりした火星人はアメリカ人の心から自分の記憶を消し、気絶した中国人たちの心にも同様の処置を施した。彼は自分の体を崖の上に植え直し、再び樅の木の形態となって、全員の目を覚ました。中国人通訳がアメリカ人に身振り手振りで示しているのを見て、通訳が「この丘には悪魔がいるんです……」と説明しているのがわかった。  アメリカ人がこの話を迷信深い中国人の戯言として腹の底から笑い飛ばすのを見て、火星人はむしろ喜んだ。  彼が見つめる中、一隊は神秘の美を湛える小さな八口河湖の向こうに立ち去っていった。 これは一九四五年のことだった。 火星人はライターを物質化しようと何時間も頭を捻ったが、出来上がったものは何をどうやっても数時間以内に原始的悪臭に戻ってしまった。 時は移って一九五五年。火星人は一人のソ連軍人がやってくると耳にした。神秘的なまでに先端的な西洋世界から来たもう一人の人物と知り合いになるのを心待ちにしていた。(以下略)
誰が崖下に立っていましたか。
一人のアメリカ人が、崖下に立っていました。
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西洋科学は素晴らしい C. スミス C. Smith The Creative CAT 訳 一人の火星人と三人の共産主義者の出任せ話でございます  火星人は御影石の小さな断崖の上に座っていた。そよ風を楽しめるように小ぶりな樅の木の形態を取っている。尖った常緑樹の葉の間を風が気持ちよく吹いていった。  崖下に一人のアメリカ人が立っていた。火星人が目にした初めてのアメリカ人である。  アメリカ人はポケットから魅惑的なまでに巧妙な装置を取り出した。金属製の小箱で、ノズルが持ち上がると即座に炎を発した。彼は苦もなくこの神秘の装置から、至福を齎す薬草の詰まった円筒に火を移した。火星人はこれがアメリカ人たちがシガレットと呼ぶものであることを理解した。アメリカ人がシガレットに火をつけ終わった時、彼は形態を変えた。今度は身長五メートルの紅顔白髯の中国人扇動家の姿である。彼はアメリカ人に向かって英語で叫んだ。「ハロー、フレンド!」  見上げたアメリカ人の顎は今にも外れそうになった。  火星人は崖を降り、静かにアメリカ人に近寄って行った。あまり怖がらせないようにゆっくりと。  それにもかかわらず、アメリカ人は随分気に病んだようだ。というものこんな事を言ったから「お前は現実ではないな? そんなことあるもんか。それともひょっとして?」  火星人はそっとアメリカ人の心の中を覗いて、身長五メートルの中国人扇動家像はアメリカ人の日常心理において安心を齎すものではないと理解した。彼はアメリカ人の心の中で安心感のあるイメージを探した。まずそのアメリカ人の母親のイメージが見つかったので、すぐさまその姿に変態してこう答えた「現実とは何、ダーリン?」  するとアメリカ人は僅かに青ざめて片手で両目を覆った。火星人は再度アメリカ人の心に入り込み、いささか混乱したイメージを探り当てた。  アメリカ人が目を開くと、今度は火星人が若い赤十字の看護婦の姿を取って、ストリップショーを繰り広げている最中だった。歓心を誘うための手順だったにも拘らず、アメリカ人は安心しなかった。恐怖が怒りに転じ、彼は言った「お前は一体何者だ?」  火星人の親切心もここまでだった。オックスフォードあがりの中国国民党軍大将軍の姿となり、イギリス訛り丸出しでこう言った。「私はこの地に棲む若干超自然的な『モノ』として知られておる。気にしないでくれたら嬉しい。西洋科学は実に素晴らしい。よって私は貴方の手の中にある魅力的な機械を調べなければならない。少し話をする時間をいただけないだろうか。」  アメリカ人の心に混乱したイメージの断片が浮かぶのが見て取れた。何やら「禁酒法」とかいうものや、別の「酒を控えるオン・ザ・ワゴン」とかいうものと関連がありそうだった。そして何度も繰り返す「なぜこの俺がこんな所に?」という疑問や。  その間、火星人はライターを検めた。  アメリカ人の手に戻しても、彼は硬直したままだった。 「実によくできた魔法だ」と火星人。「このあたりの岩山ではこの種のことができぬ。私は幾分下級の悪魔でね。貴方は著名なる合衆国陸軍の大尉殿とお見受けする。自己紹介を許されたい。私は羅漢の第一三八七二二九代東方従位輪廻である。雑談する時間はおありかな?」  アメリカ人の目には国民党軍の制服が映っていた。振り返ると、中国人の荷役人夫も通訳も谷間の草地の上で束ねた雑巾のようにひっくり返っているではないか。すっかり気絶していたのだ。ようやくの事で気を取り直したアメリカ人は言った「ラカンだって?」 「羅漢は阿羅漢の一なり」と火星人。  どちらの情報もアメリカ人には受け取ってもらえず、火星人は、どうやらアメリカ軍人と知己を得るに好適な環境をもはや失してしまったと結論した。がっかりした火星人はアメリカ人の心から自分の記憶を消し、気絶した中国人たちの心にも同様の処置を施した。彼は自分の体を崖の上に植え直し、再び樅の木の形態となって、全員の目を覚ました。中国人通訳がアメリカ人に身振り手振りで示しているのを見て、通訳が「この丘には悪魔がいるんです……」と説明しているのがわかった。  アメリカ人がこの話を迷信深い中国人の戯言として腹の底から笑い飛ばすのを見て、火星人はむしろ喜んだ。  彼が見つめる中、一隊は神秘の美を湛える小さな八口河湖の向こうに立ち去っていった。 これは一九四五年のことだった。 火星人はライターを物質化しようと何時間も頭を捻ったが、出来上がったものは何をどうやっても数時間以内に原始的悪臭に戻ってしまった。 時は移って一九五五年。火星人は一人のソ連軍人がやってくると耳にした。神秘的なまでに先端的な西洋世界から来たもう一人の人物と知り合いになるのを心待ちにしていた。(以下略)
至福を齎す薬草の詰まった円筒を、アメリカ人たちは何と呼びますか。
アメリカ人たちは、至福を齎す薬草の詰まった円筒をシガレットと呼びます。
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跳ね橋がもはや下ろされていて、その見知らぬ人は城門の前に進んでいた。彼は背の高い立派な騎士で、黒い馬にまたがっていた。顔色は青ざめていたが、輝かしい神秘的な眼をしていて、堂々としたうちにもうち沈んだところがあった。男爵は彼がこのように簡単なひとりぼっちの旅姿でやってきたことに、いささか気分を悪くした。男爵の威厳をしめそうとする気もちが一瞬きずつけられた。この客の有様はこの重大な場合に正式の礼を欠くものではないか、縁をむすぼうとしている相手の大切な家柄に対しても、敬意が足りないではないか、と彼は考えたくなった。とはいえ、男爵は、相手が若さのためにはやる心をおさえきれず、供のものたちよりも先に着いたに違いないときめて自分をなぐさめた。 「かように時刻もわきまえずにお邪魔してまことに申しわけございません」とその見知らぬ人は言った。  ここで男爵は彼をさえぎって、おびただしい世辞や挨拶を述べたてた。実をいうと、彼は自分が礼儀正しく雄弁であることを鼻にかけていたのである。その見知らぬ人は一、二度その言葉の奔流をせきとめようとしてみたが無駄だった。そこで彼は頭を下げて、その奔流の流れるままにしておいた。男爵がひと句切りするまでには、彼らは城の中庭にきていた。そしてその見知らぬ人はふたたび話しだそうとしたが、またもやさえぎられてしまった。このとき、この家の婦人たちがあらわれて、尻ごみしながら顔をあからめている花嫁を連れてきたのだ。彼は一瞬心をうばわれた人のようにじっと彼女を見つめた。あたかも彼の魂がそっくりその凝視にそそぎこまれ、その美しい姿の上にとどまったかのように思われた。未婚の叔母の一人がなにごとか彼女の耳にささやいた。彼女はなんとか口をひらこうとして、そのうるおいのある青い眼をおそるおそる上げ、この見知らぬ人に問いかけるように、ちらっと恥ずかしそうな視線を向け、やがてまたうつむいてしまった。言葉は消えてしまったが、彼女の唇には愛らしい微笑がただよい、やわらかなえくぼが頬にうかんで、今の一瞥が意に満たないものではなかったことを語っていた。情にもろい十八という年頃の娘は、ただでさえ恋愛や結婚にかたむきやすいのだから、こんなに立派な騎士が気に入らないわけがなかった。
十八という年頃の娘は、何にかたむきやすいのですか。
十八という年頃の娘は、恋愛や結婚にかたむきやすいです。
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田舎医師の子 相馬泰三      一  六年振りに、庸介が自分の郷里へ帰って来たのは七月上旬のことであった。  その日は、その頃のそうした昨日、一昨日と同じように別にこれという事もない日であった。夜の八時頃、彼は、暗く闇に包まれた父の家へ到着した。  彼は意気地なくおどおどしていた。玄関の戸は事実、彼によって非常に注意深く静かに開けられたのであったが、それは彼の耳にのみはあまりに乱暴な大きな音を立てた。「なあにこれは俺の父の家だ。俺の生れた家だ。……俺は今、久しぶりに自分のふるさとへ帰って来たのだ!」彼は、心の中でこう自分自身に力附けようとした。  誰もそこへ出て来る者がなかった。彼はそこに突立ったまま、何と言葉を発していいか、また、何としていいか自分に解からなかった。「来るのではなかった。やっぱりここは俺の来る所ではなかった。そうだ。……否、まったく何という馬鹿げた事だ。この家は俺の生れた家だ。……それ、その一間を距てた向うの襖の中には、現在この俺を生んだ母が何か喋舌っているではないか。それがこの俺の耳に今聞えているではないか。そら! その襖が開くぞ。……そして、それ、そこへ第一に現われて来るのが、……お前の帰るのを一生懸命に待っていてくれた妹の房子だ。……六年目に会うのだよ。どんなに大きく、可愛らしくなっている事だか。……」そこへ、自分の荷を運んで車夫が入って来た。色の褪せた粗末な革鞄をほとんど投げ出すように彼の足許へ置くと、我慢がしきれないと云ったように急いで顔や手に流れている汗を手拭でふいた。  取次ぎに出て来た一人の少女(それが小間使で、お志保というのであるという事を彼は知っているはずはなかった。)が慎ましやかに坐って自分を仰ぎ見ているのに気がつくと、彼は「そうだった。」と思った。「どなたさまでいらっしゃいますか。……どちらからお出になりましたので?」少女は黙ってはいるが、その顔の表情が確かにそう云っているのが解かった。彼はあわてて、少しまご附いて、意味もなく、 「あ、私は……。」こう云った。が、ひどく手持不沙汰なのでそのまま口を噤んでしまった。ちょうどその時、 「まあ、兄さんだわ。……兄さん!……ほら、やっぱり妾が当ってよ。」こう云って妹が元気よく走り出して来てくれなかったら、彼は、飛んでもない、重苦しい翻訳劇の白のような調子で、不恰好な挨拶を云い出したかも知れなかったのである。  祖母、母、今年十二歳になる姪の律子などが珍らしがって我慢なくそこへどやどやとやって来た。 「どんなに待ったか知れなかったわ。むろん、先月のうちだとばっかり思っていたのよ。」  荷物を内へ運び入れながら、妹は無邪気な、馴々しい調子で云った。これが不思議にも堪え難い窮屈さから救い出してくれた。そしてそれからずーッと数時間の間、安易な、日常茶飯の気分が保たれた。      二  父は往診に出ていて、まだ帰宅していなかった。  庸介は暑苦しいので、着て来た洋服をすぐに浴衣に替えた。そして久し振りの挨拶が一通りすむと、絵団扇で襲いかかる蚊を追い払いながら、 「明るいうちに着きたいと思いましたが、汽車の時間をすっかり間違ってしまったので、それで………」こう云った。  しかし、それは、全然、嘘であった。庸介を乗せた汽車はその日のお午少し過ぎた頃にこの家から一里半ほど距った所にある淋しい、小さな停車場へ着いたのであった。そしてその時、彼は確かにそこへ下車したのであった。赤帽のいない駅なので、自分のお粗末な革鞄をまるで引摺るようにして、空架橋の線路の向う側からこっち側へと昇って降りて来た。改札口を出ると、一人の車夫を探し出して来てそれに荷物を運ばせて、停車場前に列んでいる、汽車の待合所を兼ねた小さな旅舎の一つへと上って行った。そしてそこでお茶を命じ、喰いたくもない食事を命じ、それからひどく疲れたから、などと云って、旅行用の空気枕を取り出して横になったりしたのであった。  夏の太陽が赤々と燃えて、野の末の遠い山の蔭へ落ちかけた頃になって、宿の女中が胡散臭さそうに、 「あの、……お客様はお泊りでござんすのかね。」  と云った時にようやく立ち上って、そこを発つ仕度に取掛った。そして彼は口の内で苦々しく独言った。 「お客様はお泊りでござんすのかね、だとさ。これはいったい、何と云うこった。俺は六年ぶりで自分の郷里へ帰って来たんだよ。自分の生れた家が、ついここから一里半しかない所にあるんじゃないか、そうさ。……そして家の者がみんなで自分を待っていてくれているんじゃないか。……それだのにこの人はそこへ明るいうちは乗り込めないんだとさ。誰がそんな事を本当にする者があるものか。……」  それは、彼が今年三十歳の大人であったという理由からであった。――そうではない。そんなはずのある道理がどこに在るものか。否、それではこう言ってみよう。もし、彼が今十七歳の少年であったとしたら、たといどんな場合だとしても、何でそんな真似をしたであろう。  彼は二十三歳の時、東京のある専門学校を卒業した。その後、一年半の間、就職難のために父の補助を受けて、それから自活の途に入った。思わしい事もなかったにかかわらずとにかく押しも押されもしない一個の男として、大勢の他人に混じって独立して来た。(以下略)
姪の律子は今年何歳になりますか。
姪の律子は今年十二歳になります。
JCRRAG_000981
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田舎医師の子 相馬泰三      一  六年振りに、庸介が自分の郷里へ帰って来たのは七月上旬のことであった。  その日は、その頃のそうした昨日、一昨日と同じように別にこれという事もない日であった。夜の八時頃、彼は、暗く闇に包まれた父の家へ到着した。  彼は意気地なくおどおどしていた。玄関の戸は事実、彼によって非常に注意深く静かに開けられたのであったが、それは彼の耳にのみはあまりに乱暴な大きな音を立てた。「なあにこれは俺の父の家だ。俺の生れた家だ。……俺は今、久しぶりに自分のふるさとへ帰って来たのだ!」彼は、心の中でこう自分自身に力附けようとした。  誰もそこへ出て来る者がなかった。彼はそこに突立ったまま、何と言葉を発していいか、また、何としていいか自分に解からなかった。「来るのではなかった。やっぱりここは俺の来る所ではなかった。そうだ。……否、まったく何という馬鹿げた事だ。この家は俺の生れた家だ。……それ、その一間を距てた向うの襖の中には、現在この俺を生んだ母が何か喋舌っているではないか。それがこの俺の耳に今聞えているではないか。そら! その襖が開くぞ。……そして、それ、そこへ第一に現われて来るのが、……お前の帰るのを一生懸命に待っていてくれた妹の房子だ。……六年目に会うのだよ。どんなに大きく、可愛らしくなっている事だか。……」そこへ、自分の荷を運んで車夫が入って来た。色の褪せた粗末な革鞄をほとんど投げ出すように彼の足許へ置くと、我慢がしきれないと云ったように急いで顔や手に流れている汗を手拭でふいた。  取次ぎに出て来た一人の少女(それが小間使で、お志保というのであるという事を彼は知っているはずはなかった。)が慎ましやかに坐って自分を仰ぎ見ているのに気がつくと、彼は「そうだった。」と思った。「どなたさまでいらっしゃいますか。……どちらからお出になりましたので?」少女は黙ってはいるが、その顔の表情が確かにそう云っているのが解かった。彼はあわてて、少しまご附いて、意味もなく、 「あ、私は……。」こう云った。が、ひどく手持不沙汰なのでそのまま口を噤んでしまった。ちょうどその時、 「まあ、兄さんだわ。……兄さん!……ほら、やっぱり妾が当ってよ。」こう云って妹が元気よく走り出して来てくれなかったら、彼は、飛んでもない、重苦しい翻訳劇の白のような調子で、不恰好な挨拶を云い出したかも知れなかったのである。  祖母、母、今年十二歳になる姪の律子などが珍らしがって我慢なくそこへどやどやとやって来た。 「どんなに待ったか知れなかったわ。むろん、先月のうちだとばっかり思っていたのよ。」  荷物を内へ運び入れながら、妹は無邪気な、馴々しい調子で云った。これが不思議にも堪え難い窮屈さから救い出してくれた。そしてそれからずーッと数時間の間、安易な、日常茶飯の気分が保たれた。      二  父は往診に出ていて、まだ帰宅していなかった。  庸介は暑苦しいので、着て来た洋服をすぐに浴衣に替えた。そして久し振りの挨拶が一通りすむと、絵団扇で襲いかかる蚊を追い払いながら、 「明るいうちに着きたいと思いましたが、汽車の時間をすっかり間違ってしまったので、それで………」こう云った。  しかし、それは、全然、嘘であった。庸介を乗せた汽車はその日のお午少し過ぎた頃にこの家から一里半ほど距った所にある淋しい、小さな停車場へ着いたのであった。そしてその時、彼は確かにそこへ下車したのであった。赤帽のいない駅なので、自分のお粗末な革鞄をまるで引摺るようにして、空架橋の線路の向う側からこっち側へと昇って降りて来た。改札口を出ると、一人の車夫を探し出して来てそれに荷物を運ばせて、停車場前に列んでいる、汽車の待合所を兼ねた小さな旅舎の一つへと上って行った。そしてそこでお茶を命じ、喰いたくもない食事を命じ、それからひどく疲れたから、などと云って、旅行用の空気枕を取り出して横になったりしたのであった。  夏の太陽が赤々と燃えて、野の末の遠い山の蔭へ落ちかけた頃になって、宿の女中が胡散臭さそうに、 「あの、……お客様はお泊りでござんすのかね。」  と云った時にようやく立ち上って、そこを発つ仕度に取掛った。そして彼は口の内で苦々しく独言った。 「お客様はお泊りでござんすのかね、だとさ。これはいったい、何と云うこった。俺は六年ぶりで自分の郷里へ帰って来たんだよ。自分の生れた家が、ついここから一里半しかない所にあるんじゃないか、そうさ。……そして家の者がみんなで自分を待っていてくれているんじゃないか。……それだのにこの人はそこへ明るいうちは乗り込めないんだとさ。誰がそんな事を本当にする者があるものか。……」  それは、彼が今年三十歳の大人であったという理由からであった。――そうではない。そんなはずのある道理がどこに在るものか。否、それではこう言ってみよう。もし、彼が今十七歳の少年であったとしたら、たといどんな場合だとしても、何でそんな真似をしたであろう。  彼は二十三歳の時、東京のある専門学校を卒業した。その後、一年半の間、就職難のために父の補助を受けて、それから自活の途に入った。思わしい事もなかったにかかわらずとにかく押しも押されもしない一個の男として、大勢の他人に混じって独立して来た。(以下略)
庸介はどこの専門学校を卒業しましたか。
庸介は東京の専門学校を卒業しました。
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私の飼った犬 斎藤弘吉 最初はカラフト犬  私が最初に飼った犬は、カラフト犬でした。大正の終わりごろですが、その当時はほしいと思う日本犬が手にはいらなかったので、立耳巻尾で形が似ているカラフト犬を、ホロナイ河口で漁業組合長をしていた友人に頼んで送ってもらったのです。生後二カ月余、全身黒褐色で胸のところに白毛があり、ムクムクふとって、ちょうどクマの子そっくりでしたので“クマ”と名づけました。東京の気候は、カラフト犬には暖かすぎるので、夜も外につないでおきました。ところが、これがわざわいとなったのです。というのは、飼って間もなく夜半に外から侵入して来た狂犬病の浮浪犬にかまれ、この恐ろしい病気をうつされて、とうとう私自身の手で悲しい処置をしなければならなくなったのでした。犬を飼ったら、決して外から他の犬がはいって来られるところに置くものでないと覚ったことでした。 土佐闘犬の子犬  自分の家の犬が狂犬病になったので、一家中十八日間も毎日世田谷の家から目黒の伝染病研究所に通って予防注射を受け、もう再び犬は飼うものでないと決心したのでしたが、一度かわいい純真な犬の愛情を知ると、もうどうにもさびしくてたまらず、つぎに飼ったのが血統の正しい土佐闘犬の子でした。うす茶色の美しい犬でしたが、残念ながら骨軟症という骨の病気にかかり、これをなおそうと牛の骨を食べさせすぎて、胃腸を悪くし、とうとう死なせてしまいました。  その後、私は日本犬保存会を作り、日本犬の調査や研究を始めたので、よい日本犬が手にはいり、戦前まで飼った犬は全部日本犬で、合計十数頭にのぼります。このうち、いまなお忘れられない犬のことを少し述べましょう。 秋田犬“出羽”号  秋田犬“出羽”は秋田県大館市のある畜犬商が種犬にしていた犬で、うす赤の、肩の高さ六十一センチぐらい、耳が小さく立ち、尾は太く左巻きで、体型も気性もまことによい犬でした。当時、私の家は山小屋ふうの洋館で、板敷でしたので、夜は家の中に入れて自由にしておきました。家から十六メートルばかり離れた中門のあたりに人が来ると、私たちにはその足音も聞こえないのに、出羽はもう玄関のドアの前に行って低くウーッとうなっているのです。家の者が来客と話して、警戒しなくてもよい人間とわかると、もう身を引いておとなしくなります。私が来客と話しているときは、いつも私のイスの側に横になっているのですが、客と議論したりして声高になると、出羽は立ってウーッと攻撃の姿勢をとるのでした。  夜、私たちは二階にやすみ、出羽は階段の下の洗面所のドアの前に寝て、私たちを守ってくれるのがいつものならわしでしたが、年の暮れのある夜半のことです。突然出羽が猛然とほえたので、びっくりして飛び起きました。出羽のほえ声は実に大きな威力のある声で、数百メートル離れた駅までも聞こえるほどだったのです。階段を下りて見ると、出羽は洗面所のドアに向かってほえているので、ドアを開けて見ると、上の回転窓が閉め忘れたとみえ開いているのです。ちょうど雪の降った晩でしたが、かなり遠い道路から畑をまっすぐに横切ってこの窓の下まで来て、またまっすぐに道路まで逃げて行った人間の足跡が、雪の上に残っていました。  当時は、有名な“説教強盗”と呼ばれた怪盗が出没し、どうにも捕えられなかったときです。私たちは、きっと説教強盗に違いない、開いていた回転窓から忍び込もうと近よって、出羽のあの猛烈な勢いに逃げたものだろうとウワサをしたことでした。説教強盗は、はいった家では必ず「番犬を飼いなさい」と説教していたそうです。 (以下略)
「私」が飼った土佐闘犬の子犬は何色でしたか。
「私」が飼った土佐闘犬の子犬は、うす茶色でした。
JCRRAG_000983
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田舎医師の子 相馬泰三      一  六年振りに、庸介が自分の郷里へ帰って来たのは七月上旬のことであった。  その日は、その頃のそうした昨日、一昨日と同じように別にこれという事もない日であった。夜の八時頃、彼は、暗く闇に包まれた父の家へ到着した。  彼は意気地なくおどおどしていた。玄関の戸は事実、彼によって非常に注意深く静かに開けられたのであったが、それは彼の耳にのみはあまりに乱暴な大きな音を立てた。「なあにこれは俺の父の家だ。俺の生れた家だ。……俺は今、久しぶりに自分のふるさとへ帰って来たのだ!」彼は、心の中でこう自分自身に力附けようとした。  誰もそこへ出て来る者がなかった。彼はそこに突立ったまま、何と言葉を発していいか、また、何としていいか自分に解からなかった。「来るのではなかった。やっぱりここは俺の来る所ではなかった。そうだ。……否、まったく何という馬鹿げた事だ。この家は俺の生れた家だ。……それ、その一間を距てた向うの襖の中には、現在この俺を生んだ母が何か喋舌っているではないか。それがこの俺の耳に今聞えているではないか。そら! その襖が開くぞ。……そして、それ、そこへ第一に現われて来るのが、……お前の帰るのを一生懸命に待っていてくれた妹の房子だ。……六年目に会うのだよ。どんなに大きく、可愛らしくなっている事だか。……」そこへ、自分の荷を運んで車夫が入って来た。色の褪せた粗末な革鞄をほとんど投げ出すように彼の足許へ置くと、我慢がしきれないと云ったように急いで顔や手に流れている汗を手拭でふいた。  取次ぎに出て来た一人の少女(それが小間使で、お志保というのであるという事を彼は知っているはずはなかった。)が慎ましやかに坐って自分を仰ぎ見ているのに気がつくと、彼は「そうだった。」と思った。「どなたさまでいらっしゃいますか。……どちらからお出になりましたので?」少女は黙ってはいるが、その顔の表情が確かにそう云っているのが解かった。彼はあわてて、少しまご附いて、意味もなく、 「あ、私は……。」こう云った。が、ひどく手持不沙汰なのでそのまま口を噤んでしまった。ちょうどその時、 「まあ、兄さんだわ。……兄さん!……ほら、やっぱり妾が当ってよ。」こう云って妹が元気よく走り出して来てくれなかったら、彼は、飛んでもない、重苦しい翻訳劇の白のような調子で、不恰好な挨拶を云い出したかも知れなかったのである。  祖母、母、今年十二歳になる姪の律子などが珍らしがって我慢なくそこへどやどやとやって来た。 「どんなに待ったか知れなかったわ。むろん、先月のうちだとばっかり思っていたのよ。」  荷物を内へ運び入れながら、妹は無邪気な、馴々しい調子で云った。これが不思議にも堪え難い窮屈さから救い出してくれた。そしてそれからずーッと数時間の間、安易な、日常茶飯の気分が保たれた。      二  父は往診に出ていて、まだ帰宅していなかった。  庸介は暑苦しいので、着て来た洋服をすぐに浴衣に替えた。そして久し振りの挨拶が一通りすむと、絵団扇で襲いかかる蚊を追い払いながら、 「明るいうちに着きたいと思いましたが、汽車の時間をすっかり間違ってしまったので、それで………」こう云った。  しかし、それは、全然、嘘であった。庸介を乗せた汽車はその日のお午少し過ぎた頃にこの家から一里半ほど距った所にある淋しい、小さな停車場へ着いたのであった。そしてその時、彼は確かにそこへ下車したのであった。赤帽のいない駅なので、自分のお粗末な革鞄をまるで引摺るようにして、空架橋の線路の向う側からこっち側へと昇って降りて来た。改札口を出ると、一人の車夫を探し出して来てそれに荷物を運ばせて、停車場前に列んでいる、汽車の待合所を兼ねた小さな旅舎の一つへと上って行った。そしてそこでお茶を命じ、喰いたくもない食事を命じ、それからひどく疲れたから、などと云って、旅行用の空気枕を取り出して横になったりしたのであった。  夏の太陽が赤々と燃えて、野の末の遠い山の蔭へ落ちかけた頃になって、宿の女中が胡散臭さそうに、 「あの、……お客様はお泊りでござんすのかね。」  と云った時にようやく立ち上って、そこを発つ仕度に取掛った。そして彼は口の内で苦々しく独言った。 「お客様はお泊りでござんすのかね、だとさ。これはいったい、何と云うこった。俺は六年ぶりで自分の郷里へ帰って来たんだよ。自分の生れた家が、ついここから一里半しかない所にあるんじゃないか、そうさ。……そして家の者がみんなで自分を待っていてくれているんじゃないか。……それだのにこの人はそこへ明るいうちは乗り込めないんだとさ。誰がそんな事を本当にする者があるものか。……」  それは、彼が今年三十歳の大人であったという理由からであった。――そうではない。そんなはずのある道理がどこに在るものか。否、それではこう言ってみよう。もし、彼が今十七歳の少年であったとしたら、たといどんな場合だとしても、何でそんな真似をしたであろう。  彼は二十三歳の時、東京のある専門学校を卒業した。その後、一年半の間、就職難のために父の補助を受けて、それから自活の途に入った。思わしい事もなかったにかかわらずとにかく押しも押されもしない一個の男として、大勢の他人に混じって独立して来た。(以下略)
庸介が自分の郷里へ帰って来たのは何年振りでしたか。
庸介が自分の郷里へ帰って来たのは六年振りでした。
JCRRAG_000984
国語
世界怪談名作集 幽霊の移転 ストックトン Francis Richard Stockton 岡本綺堂訳  ジョン・ヒンクマン氏の田園住宅は、いろいろの理由から僕にとっては甚だ愉快な場所で、やや無遠慮ではあるが、まことに居心地のよい接待ぶりの寓居であった。庭には綺麗に刈り込んだ芝原と、塔のように突っ立った槲や楡の木があって、ほかにも所どころに木立ちが茂っていた。家から遠くないところに小さい流れがあって、そこには皮付きの粗末な橋が架けてあった。  ここらには花もあれば果物もあり、愉快な人たちも住んでいて、将棋、玉突き、騎馬、散歩、魚釣りなどの遊戯機関もそなわっていた。それらはもちろん、大いに人を惹くの力はあったが、単にそれだけのことでは、そこに長居をする気にはなれない。僕は鱒の捕れる時節に招待されたのであるが、まず初夏の時節をよしとして訪問したのである。草は乾いて、日光はさのみ暑からず、そよそよと風が吹く。その時、わがマデライン嬢とともに、枝の茂った楡の下蔭をそぞろに歩み、木立のあいだをしずかに縫ってゆくのであった。  僕はわがマデライン嬢といったが、実のところ、彼女はまだ僕のものではないのである。彼女はその身を僕に捧げたというわけでもなく、僕のほうからもまだなんとも言い出したのではなかったが、自分が今後この世に生きながらえてゆくには、どうしても彼女をわがものにしなければならないと考えているので、自分の腹のうちだけでは、彼女をわがマデラインと呼んでいるのであった。自分の考えていることを早く彼女の前に告白してしまえば、こんな独りぎめなどをしている必要はないのであるが、さてそれが非常にむずかしい事件であった。  それはすべての恋する人が恐れるように、およそ恋愛の成るか成らぬかの間にまた楽しい時代があるのであるから、にわかにそれを突破して終末に近づき、わが愛情の目的物との交通または結合を手早く片付けてしまうのを恐れるばかりでなく、僕は主人のジョン・ヒンクマン氏を大いに恐れているがためであった。かの紳士は僕のよい友達ではあるが、彼にたいしておまえの姪をくれと言い出すのは、僕以上の大胆な男でなければ出来ないことであった。彼女は主としてこの家内いっさいのことを切り廻している上に、ヒンクマン氏がしばしば語るところによれば、氏は彼女を晩年の杖はしらとも頼んでいるのであった。この問題について、マデライン嬢が承諾をあたえる見込みがあるなら断然それを切り出すだけの勇気を生じたでもあろうが、前にもいう通りの次第で、僕は一度も彼女にそれを打ち明けたことはなく、ただそれについて、昼も夜も――ことに夜は絶えず思い明かしているだけのことであった。  ある夜、僕は自分の寝室にあてられた広びろしい一室の、大きいベッドの上に身を横たえながら、まだ眠りもやらずにいると、この室内の一部へ映し込んできた新しい月のぼんやりした光りによって、主人のヒンクマン氏がドアに近い大きい椅子に沿うて立っているのを見た。  僕は非常に驚いたのである。それには二つの理由がある。第一、主人はいまだかつて僕の部屋へ来たことはないのである。第二、彼はけさ外出して、幾日間は帰宅しないはずである。それがために、僕は今夜マデライン嬢とあいたずさえて、月を見ながら廊下に久しく出ていることが出来たのであった。今ここにあらわれた人の姿は、いつもの着物を着ているヒンクマン氏に相違なかったが、ただその姿のなんとなく朦朧たるところがたしかに幽霊であることを思わせた。  善良なる老人は途中で殺されたのであろうか。そうして、彼の魂魄がその事実を僕に告げんとして帰ったのであろうか。さらにまた、彼の愛する――の保護を僕に頼みに来たのであろうか。こう考えると、僕の胸はにわかにおどった。  その瞬間に、かの幽霊のようなものは話しかけた。 「あなたはヒンクマン氏が今夜帰るかどうだか、ご承知ですか」  彼は心配そうな様子である。この場合、うわべに落ち着きを見せなければならないと思いながら、僕は答えた。 「帰りますまい」 「やれ、ありがたい」と、彼は自分の立っていたところの椅子に倚りながら言った。「ここの家に二年半も住んでいるあいだ、あの人はひと晩も家をあけたことはなかったのです。これで私がどんなに助かるか、あなたにはとても想像がつきますまいよ」  こう言いながら、彼は足をのばして背中を椅子へ寄せかけた。その姿かたちは以前よりも濃くなって、着物の色もはっきりと浮かんできて、心配そうであった彼の容貌も救われたように満足の色をみせた。 「二年半……」と、僕は叫んだ。「君の言うことは分からないな」 「わたしがここへ来てから、たしかにそれほどの長さになるのです」と、幽霊は言った。「なにしろ私のは普通の場合と違うのですからな。それについて少しお断わりをする前に、もう一度おたずね申しておきたいのはヒンクマン氏のことですが、あの人は今夜たしかに帰りませんか」 「僕の言うことになんでも嘘はない」と、僕は答えた。「ヒンクマン氏はきょう、二百マイルも遠いブリストルへいったのだ」(以下略)
僕が招待されたのはいつですか。
僕は、鱒の捕れる時節に招待されました。
JCRRAG_000985
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世界怪談名作集 幽霊の移転 ストックトン Francis Richard Stockton 岡本綺堂訳  ジョン・ヒンクマン氏の田園住宅は、いろいろの理由から僕にとっては甚だ愉快な場所で、やや無遠慮ではあるが、まことに居心地のよい接待ぶりの寓居であった。庭には綺麗に刈り込んだ芝原と、塔のように突っ立った槲や楡の木があって、ほかにも所どころに木立ちが茂っていた。家から遠くないところに小さい流れがあって、そこには皮付きの粗末な橋が架けてあった。  ここらには花もあれば果物もあり、愉快な人たちも住んでいて、将棋、玉突き、騎馬、散歩、魚釣りなどの遊戯機関もそなわっていた。それらはもちろん、大いに人を惹くの力はあったが、単にそれだけのことでは、そこに長居をする気にはなれない。僕は鱒の捕れる時節に招待されたのであるが、まず初夏の時節をよしとして訪問したのである。草は乾いて、日光はさのみ暑からず、そよそよと風が吹く。その時、わがマデライン嬢とともに、枝の茂った楡の下蔭をそぞろに歩み、木立のあいだをしずかに縫ってゆくのであった。  僕はわがマデライン嬢といったが、実のところ、彼女はまだ僕のものではないのである。彼女はその身を僕に捧げたというわけでもなく、僕のほうからもまだなんとも言い出したのではなかったが、自分が今後この世に生きながらえてゆくには、どうしても彼女をわがものにしなければならないと考えているので、自分の腹のうちだけでは、彼女をわがマデラインと呼んでいるのであった。自分の考えていることを早く彼女の前に告白してしまえば、こんな独りぎめなどをしている必要はないのであるが、さてそれが非常にむずかしい事件であった。  それはすべての恋する人が恐れるように、およそ恋愛の成るか成らぬかの間にまた楽しい時代があるのであるから、にわかにそれを突破して終末に近づき、わが愛情の目的物との交通または結合を手早く片付けてしまうのを恐れるばかりでなく、僕は主人のジョン・ヒンクマン氏を大いに恐れているがためであった。かの紳士は僕のよい友達ではあるが、彼にたいしておまえの姪をくれと言い出すのは、僕以上の大胆な男でなければ出来ないことであった。彼女は主としてこの家内いっさいのことを切り廻している上に、ヒンクマン氏がしばしば語るところによれば、氏は彼女を晩年の杖はしらとも頼んでいるのであった。この問題について、マデライン嬢が承諾をあたえる見込みがあるなら断然それを切り出すだけの勇気を生じたでもあろうが、前にもいう通りの次第で、僕は一度も彼女にそれを打ち明けたことはなく、ただそれについて、昼も夜も――ことに夜は絶えず思い明かしているだけのことであった。  ある夜、僕は自分の寝室にあてられた広びろしい一室の、大きいベッドの上に身を横たえながら、まだ眠りもやらずにいると、この室内の一部へ映し込んできた新しい月のぼんやりした光りによって、主人のヒンクマン氏がドアに近い大きい椅子に沿うて立っているのを見た。  僕は非常に驚いたのである。それには二つの理由がある。第一、主人はいまだかつて僕の部屋へ来たことはないのである。第二、彼はけさ外出して、幾日間は帰宅しないはずである。それがために、僕は今夜マデライン嬢とあいたずさえて、月を見ながら廊下に久しく出ていることが出来たのであった。今ここにあらわれた人の姿は、いつもの着物を着ているヒンクマン氏に相違なかったが、ただその姿のなんとなく朦朧たるところがたしかに幽霊であることを思わせた。  善良なる老人は途中で殺されたのであろうか。そうして、彼の魂魄がその事実を僕に告げんとして帰ったのであろうか。さらにまた、彼の愛する――の保護を僕に頼みに来たのであろうか。こう考えると、僕の胸はにわかにおどった。  その瞬間に、かの幽霊のようなものは話しかけた。 「あなたはヒンクマン氏が今夜帰るかどうだか、ご承知ですか」  彼は心配そうな様子である。この場合、うわべに落ち着きを見せなければならないと思いながら、僕は答えた。 「帰りますまい」 「やれ、ありがたい」と、彼は自分の立っていたところの椅子に倚りながら言った。「ここの家に二年半も住んでいるあいだ、あの人はひと晩も家をあけたことはなかったのです。これで私がどんなに助かるか、あなたにはとても想像がつきますまいよ」  こう言いながら、彼は足をのばして背中を椅子へ寄せかけた。その姿かたちは以前よりも濃くなって、着物の色もはっきりと浮かんできて、心配そうであった彼の容貌も救われたように満足の色をみせた。 「二年半……」と、僕は叫んだ。「君の言うことは分からないな」 「わたしがここへ来てから、たしかにそれほどの長さになるのです」と、幽霊は言った。「なにしろ私のは普通の場合と違うのですからな。それについて少しお断わりをする前に、もう一度おたずね申しておきたいのはヒンクマン氏のことですが、あの人は今夜たしかに帰りませんか」 「僕の言うことになんでも嘘はない」と、僕は答えた。「ヒンクマン氏はきょう、二百マイルも遠いブリストルへいったのだ」(以下略)
僕は、誰をわがものにしなければならないと考えていますか。
僕は、マデライン嬢をわがものにしなければならないと考えています。
JCRRAG_000986
国語
田舎医師の子 相馬泰三      一  六年振りに、庸介が自分の郷里へ帰って来たのは七月上旬のことであった。  その日は、その頃のそうした昨日、一昨日と同じように別にこれという事もない日であった。夜の八時頃、彼は、暗く闇に包まれた父の家へ到着した。  彼は意気地なくおどおどしていた。玄関の戸は事実、彼によって非常に注意深く静かに開けられたのであったが、それは彼の耳にのみはあまりに乱暴な大きな音を立てた。「なあにこれは俺の父の家だ。俺の生れた家だ。……俺は今、久しぶりに自分のふるさとへ帰って来たのだ!」彼は、心の中でこう自分自身に力附けようとした。  誰もそこへ出て来る者がなかった。彼はそこに突立ったまま、何と言葉を発していいか、また、何としていいか自分に解からなかった。「来るのではなかった。やっぱりここは俺の来る所ではなかった。そうだ。……否、まったく何という馬鹿げた事だ。この家は俺の生れた家だ。……それ、その一間を距てた向うの襖の中には、現在この俺を生んだ母が何か喋舌っているではないか。それがこの俺の耳に今聞えているではないか。そら! その襖が開くぞ。……そして、それ、そこへ第一に現われて来るのが、……お前の帰るのを一生懸命に待っていてくれた妹の房子だ。……六年目に会うのだよ。どんなに大きく、可愛らしくなっている事だか。……」そこへ、自分の荷を運んで車夫が入って来た。色の褪せた粗末な革鞄をほとんど投げ出すように彼の足許へ置くと、我慢がしきれないと云ったように急いで顔や手に流れている汗を手拭でふいた。  取次ぎに出て来た一人の少女(それが小間使で、お志保というのであるという事を彼は知っているはずはなかった。)が慎ましやかに坐って自分を仰ぎ見ているのに気がつくと、彼は「そうだった。」と思った。「どなたさまでいらっしゃいますか。……どちらからお出になりましたので?」少女は黙ってはいるが、その顔の表情が確かにそう云っているのが解かった。彼はあわてて、少しまご附いて、意味もなく、 「あ、私は……。」こう云った。が、ひどく手持不沙汰なのでそのまま口を噤んでしまった。ちょうどその時、 「まあ、兄さんだわ。……兄さん!……ほら、やっぱり妾が当ってよ。」こう云って妹が元気よく走り出して来てくれなかったら、彼は、飛んでもない、重苦しい翻訳劇の白のような調子で、不恰好な挨拶を云い出したかも知れなかったのである。  祖母、母、今年十二歳になる姪の律子などが珍らしがって我慢なくそこへどやどやとやって来た。 「どんなに待ったか知れなかったわ。むろん、先月のうちだとばっかり思っていたのよ。」  荷物を内へ運び入れながら、妹は無邪気な、馴々しい調子で云った。これが不思議にも堪え難い窮屈さから救い出してくれた。そしてそれからずーッと数時間の間、安易な、日常茶飯の気分が保たれた。      二  父は往診に出ていて、まだ帰宅していなかった。  庸介は暑苦しいので、着て来た洋服をすぐに浴衣に替えた。そして久し振りの挨拶が一通りすむと、絵団扇で襲いかかる蚊を追い払いながら、 「明るいうちに着きたいと思いましたが、汽車の時間をすっかり間違ってしまったので、それで………」こう云った。  しかし、それは、全然、嘘であった。庸介を乗せた汽車はその日のお午少し過ぎた頃にこの家から一里半ほど距った所にある淋しい、小さな停車場へ着いたのであった。そしてその時、彼は確かにそこへ下車したのであった。赤帽のいない駅なので、自分のお粗末な革鞄をまるで引摺るようにして、空架橋の線路の向う側からこっち側へと昇って降りて来た。改札口を出ると、一人の車夫を探し出して来てそれに荷物を運ばせて、停車場前に列んでいる、汽車の待合所を兼ねた小さな旅舎の一つへと上って行った。そしてそこでお茶を命じ、喰いたくもない食事を命じ、それからひどく疲れたから、などと云って、旅行用の空気枕を取り出して横になったりしたのであった。  夏の太陽が赤々と燃えて、野の末の遠い山の蔭へ落ちかけた頃になって、宿の女中が胡散臭さそうに、 「あの、……お客様はお泊りでござんすのかね。」  と云った時にようやく立ち上って、そこを発つ仕度に取掛った。そして彼は口の内で苦々しく独言った。 「お客様はお泊りでござんすのかね、だとさ。これはいったい、何と云うこった。俺は六年ぶりで自分の郷里へ帰って来たんだよ。自分の生れた家が、ついここから一里半しかない所にあるんじゃないか、そうさ。……そして家の者がみんなで自分を待っていてくれているんじゃないか。……それだのにこの人はそこへ明るいうちは乗り込めないんだとさ。誰がそんな事を本当にする者があるものか。……」  それは、彼が今年三十歳の大人であったという理由からであった。――そうではない。そんなはずのある道理がどこに在るものか。否、それではこう言ってみよう。もし、彼が今十七歳の少年であったとしたら、たといどんな場合だとしても、何でそんな真似をしたであろう。  彼は二十三歳の時、東京のある専門学校を卒業した。その後、一年半の間、就職難のために父の補助を受けて、それから自活の途に入った。思わしい事もなかったにかかわらずとにかく押しも押されもしない一個の男として、大勢の他人に混じって独立して来た。(以下略)
庸介が暗く闇に包まれた父の家へ到着したのは何時頃でしたか。
庸介が暗く闇に包まれた父の家へ到着したのは夜の八時頃でした。
JCRRAG_000987
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あさぼらけ 砂東 塩  トウヒコウしよう――と、凪は言った。中学校の帰り道のことだ。  頭の中で「トウヒコウ」が「トウ飛行」に変わる。脳が「逃避行」と浮かれた誤字変換を上書きした。 「逃げるの?」 「全部捨てて自由になりたい。歩は今の生活が窮屈じゃない?」  窮屈だろうか、と歩は考えた。  朝起きた頃に母親は「行ってきます」と家を出ていく。歩は一人で朝食をすませて学校。いつもどおりの顔ぶれ、いつもと同じやりとり、凪だけが異質に映る教室。家に帰ったら一人で夕飯。部屋でくつろいでいると「ただいま」と母親の声。彼女がお風呂に入っているうちに料理を温め、一緒にテレビを観て一日が終わる。  歩がベッドに入って目を閉じると、毎晩のように凪の顔が浮かんだ。現実の凪も、寝入りばなに訪れる凪も、その存在がどこか地球にそぐわない気がした。異質で、特別で、宇宙人みたいだ。 「凪には、地球は窮屈かもね」 「地球?」  凪は愉快そうに目を細めた。歩のそういう突拍子もないとこが好き、と事もなげに言う。凪のそういうところが、普通の感覚とズレていると思う。 「今夜、両親いないんだ」  道を曲がってひと気のない路地に入ると、凪は手を繋いできた。汗ばむ季節になっても、凪は手を繋ぐことをやめない。凪が宇宙に帰ったら一生手を繋げないんだろうかと、他愛もない妄想で手に力がこもった。呼応するように、凪も手を握り返してきた。 「地球から脱出するのは難しいけど、海はすぐそこだから」 「海に逃避行するの?」 「歩も一緒に行こうよ。今の季節なら夜もそんなに寒くない」 「夜?」 「今夜行こう。うちに泊まるって言えば大丈夫だよ」  凪の家のすぐ裏が海だった。それって逃避行でも何でもないんじゃないかと思ったけれど、だから「じゃあ行こうかな」と口にした。歩が母親にメールすると、凪のご両親によろしくと返ってきた。画面をのぞき見た凪が、「よろしくだって」と空に向かって報告した。
歩は何人で夕飯を食べますか。
歩は一人で夕飯を食べます。
JCRRAG_000988
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真夏の夢 ストリンドベルヒ August Strindberg 有島武郎訳  北の国も真夏のころは花よめのようなよそおいをこらして、大地は喜びに満ち、小川は走り、牧場の花はまっすぐに延び、小鳥は歌いさえずります。その時一羽の鳩が森のおくから飛んで来て、寝ついたなりで日をくらす九十に余るおばあさんの家の窓近く羽を休めました。  物の二十年も臥せったなりのこのおばあさんは、二人のむすこが耕すささやかな畑地のほかに、窓越しに見るものはありませなんだが、おばあさんの窓のガラスは、にじのようなさまざまな色のをはめてあったから、そこからのぞく人間も世間も、普通のものとは異なっていました。まくらの上でちょっと頭さえ動かせば、目に見える景色が赤、黄、緑、青、鳩羽というように変わりました。冬になって木々のこずえが、銀色の葉でも連ねたように霜で包まれますと、おばあさんはまくらの上で、ちょっと身動きしたばかりでそれを緑にしました。実際は灰色でも野は緑に空は蒼く、世の中はもう夏のとおりでした。おばあさんはこんなふうで、魔術でも使える気でいるとたいくつをしませんでした。そればかりではありません。この窓ガラスにはもう一つ変わった所があって、ガラスのきざみ具合で見るものを大きくも小さくもする事ができるようになっておりました。だからもし大きなむすこが腹をたてて帰って来て、庭先でどなりでもするような事があると、おばあさんは以前のような、小さい、言う事をきく子どもにしようと思っただけで、即座にちっぽけに見る事もできましたし、孫たちがよちよち歩きで庭に出て来るのを見るにつけ、そのおい先を考えると、ワン、ツー、スリー、拡大のガラスからのぞきさえすれば、見るまに背の高い、育ち上がったみごとな大男になってしまいました。  こんなおもしろい窓ではありますが、夏が来るとおばあさんはその窓をあけ放させました。いかな窓でも夏の景色ほどな景色は見せてくれませんから。さて夏の中でもすぐれた美しい聖ヨハネ祭に、そのおばあさんが畑と牧場とを見わたしていますと、ひょっくり鳩が歌い始めました。声も美しくエス・キリスト、さては天国の歓喜をほめたたえて、重荷に苦しむものや、浮き世のつらさの限りをなめたものは、残らず来いとよび立てました。  おばあさんはそれを聞きましたが、その日はこの世も天国ほどに美しくって、これ以上のものをほしいとも思いませんでしたから、礼を言って断わってしまいました。  で鳩は今度は牧場を飛び越して、ある百姓がしきりと井戸を掘っている山の中の森に来ました。その百姓は深い所にはいって、頭の上に六尺も土のある様子はまるで墓のあなの底にでもいるようでした。  あなの中にいて、大空も海も牧場も見ないこんな人こそは、きっと天国に行きたいにちがいないと思いましたから、鳩は木の枝の上で天国の歓喜を鳩らしく歌い始めました。  ところが百姓は、 「いやです。私はまず井戸を掘らんければなりません。でないと夏分のお客さんは水にこまるし、あのかわいそうな奥さんと子ども衆もいなくなってしまいますからね」  と言いました。  で鳩は今度は海岸に飛んで行きました。そこではさきほどの百姓の兄弟にあたる人が引き網をしていました。鳩は蘆の中にとまって歌いました。  その男も言いますには、 「いやです。私は何より先に家で食うだけのものを作らねばなりません。でないと子どもらがひもじいって泣きます。あとの事、あとの事。まだ天国の事なんか考えずともよろしい。死ぬ前には生きるという事があるんだから」  で鳩はまた百姓の言ったかわいそうな奥さんが夏を過ごしている、大きないなかの住宅にとんで行きました。その時奥さんは縁側に出て手ミシンで縫物をしていました。顔は百合の花のような血の気のない顔、頭の毛は喪のベールのような黒い髪、しかして罌粟のような赤い毛の帽子をかぶっていました。奥さんは聖ヨハネの祭日にむすめに着せようとして、美しい前掛けを縫っていました。むすめはお母さんの足もとの床の上にすわって、布切れの端を切りこまざいて遊んでいました。(以下略)
鳩は牧場を飛び越してどこへ来ましたか。
鳩は牧場を飛び越して、ある百姓がしきりと井戸を掘っている山の中の森に来ました。
JCRRAG_000989
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凍るアラベスク 妹尾韶夫 一  風の寒い黄昏だった。勝子は有楽町駅の高い石段を降りると、三十近い職業婦人の落着いた足どりで、自動車の込合った中を通り抜けて、銀座の方へ急いだ。  勝子は東京郊外に住んではいても、銀座へは一年に一度か二度しか来なかった。郊外の下宿から、毎日体操教師として近くの小さい女学校に通うほかには、滅多に外に出たことがなかった。  やや茶色がかった皮膚には健康らしい艶があって、体全体の格好がよくて背の高い彼女は、誰が見てもどちらかと云えば美人に違いなかったが、それでもまだ家庭と云うことを考えたことはなかった。それには別に変った理由があるわけではない。ただ彼女は結婚と云うものを、そんなに楽しいものと思わないまでである。世の中の大部分の人は、みないいかげんな結婚をして、とにかく表面だけは楽しげに見えても、立入ってみればそれぞれ不幸を抱いている。それより冷徹した冬の大空を昇る月のように――この月に自分を例える時には彼女はいつも涙ぐましいほど浄化された気持になれた――自由に純潔でありたいと思った。彼女は淋しいのが好きだった。それに彼女には仕事と云うものがある。彼女は満身の愛を生徒たちに捧げた。また実際それらの生徒たちは、愛さずにいられぬほど可愛らしかった。小さい学校が彼女の世界の総てであった。毎日の生徒の世話、運動会、試験、校友会、遠足、父兄会、対校競技、修学旅行、講習、それに自分自身の修養、女教師の生活もなかなか忙しいのである。だから散歩がてらに銀座へ買物に来るようなことは彼女にとって珍らしい出来事だった。  勝子は数寄屋橋を渡ると、五六台続いて横切る自動車を立止って待って、それから電車道を通り抜けて、滑らかな人道の上を静に銀座の方へ歩き始めた。  すると向うから、黒い外套に灰色の絹の襟巻をした一人の紳士が来て、じろじろ彼女を見ながら通りすぎたのであるが、その男の細長い顔は血の気がなくて紙のように白く、濃い眉の下の鋭い眼には気味悪いほどの光があって、美しいと云うよりはむしろストライキングなその顔立から、彼女は瞬間ではあったが妙な印象を受けたのであった。  まだ明るいのに華やかな銀座の店々には電燈がついて、そぞろ歩く人々の顔も何となく晴やかであった。  勝子は暖い百貨店へ入ると、誰でもするように暫らく物珍らしげに当てどもなく歩きまわり、やっと毛糸ばかり並べた場所を見つけると、そこでフライシャーの白いのを一ポンド半買って、いつも大切な買物をする時に必ず持って来る紫色のメリンスの風呂敷を出して包んで、目的を果したものの微かな満足を感じながら昇降機の方へ行った。  そして下りの昇降機を待つ間、そこにあった大きな姿見の前に立って、暖かそうな駱駝色のコートと、同じ色の緑色の頸巻にくるまった自分の姿を映して、光線のぐあいか髪の恰好やからだったが、いつもより美しく見えるのに軽い誇りを感じた。  が、その時、彼女は同じ鏡に先刻橋のそばで会った男が映っているのを見てぎょッとした。而も男はやや離れた処に立って彼女の後姿を見ているらしく、明るい電燈を受けた顔が凄いほど白かった。  彼女は振向きもしないで、鏡のそばを離れると、急いで一群の人とともに昇降機に乗って下へ降りた。  街へ出るとすっかり日が暮れて、時々吹く風がぞッとするほど身にしみた。  彼女は風呂敷包を小脇に抱えて、さっさと歩きながら鏡に映った男のことを、思うともなく思い出した。途中で出会ったのにまた引返して自分と同じ店に入ったのだから、あるいは自分の跡をつけて来たのかも知れぬ。もし左様だとすれば何の為であろう。  明るい電燈の点った飾窓を見るような風をして、彼女はふと後ろを振向いてみた。  すると彼女の想像通り、五六間離れた処を歩くその男の姿が見えたので、はッと胸轟かせながら、いそいで向き直って今までより歩度を速めて歩きだした。  そして尾張町の角を曲ると、一直線に有楽町の停車場の方へ向かった。(以下略)
有楽町駅の高い石段を降りた勝子はどこへ急ぎましたか。
有楽町駅の高い石段を降りた勝子は銀座の方へ急ぎました。
JCRRAG_000990
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あさぼらけ 砂東 塩  トウヒコウしよう――と、凪は言った。中学校の帰り道のことだ。  頭の中で「トウヒコウ」が「トウ飛行」に変わる。脳が「逃避行」と浮かれた誤字変換を上書きした。 「逃げるの?」 「全部捨てて自由になりたい。歩は今の生活が窮屈じゃない?」  窮屈だろうか、と歩は考えた。  朝起きた頃に母親は「行ってきます」と家を出ていく。歩は一人で朝食をすませて学校。いつもどおりの顔ぶれ、いつもと同じやりとり、凪だけが異質に映る教室。家に帰ったら一人で夕飯。部屋でくつろいでいると「ただいま」と母親の声。彼女がお風呂に入っているうちに料理を温め、一緒にテレビを観て一日が終わる。  歩がベッドに入って目を閉じると、毎晩のように凪の顔が浮かんだ。現実の凪も、寝入りばなに訪れる凪も、その存在がどこか地球にそぐわない気がした。異質で、特別で、宇宙人みたいだ。 「凪には、地球は窮屈かもね」 「地球?」  凪は愉快そうに目を細めた。歩のそういう突拍子もないとこが好き、と事もなげに言う。凪のそういうところが、普通の感覚とズレていると思う。 「今夜、両親いないんだ」  道を曲がってひと気のない路地に入ると、凪は手を繋いできた。汗ばむ季節になっても、凪は手を繋ぐことをやめない。凪が宇宙に帰ったら一生手を繋げないんだろうかと、他愛もない妄想で手に力がこもった。呼応するように、凪も手を握り返してきた。 「地球から脱出するのは難しいけど、海はすぐそこだから」 「海に逃避行するの?」 「歩も一緒に行こうよ。今の季節なら夜もそんなに寒くない」 「夜?」 「今夜行こう。うちに泊まるって言えば大丈夫だよ」  凪の家のすぐ裏が海だった。それって逃避行でも何でもないんじゃないかと思ったけれど、だから「じゃあ行こうかな」と口にした。歩が母親にメールすると、凪のご両親によろしくと返ってきた。画面をのぞき見た凪が、「よろしくだって」と空に向かって報告した。
歩は何をすると、毎晩のように凪の顔が浮かびましたか。
歩はベッドに入って目を閉じると、毎晩のように凪の顔が浮かびました。
JCRRAG_000991
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田舎医師の子 相馬泰三      一  六年振りに、庸介が自分の郷里へ帰って来たのは七月上旬のことであった。  その日は、その頃のそうした昨日、一昨日と同じように別にこれという事もない日であった。夜の八時頃、彼は、暗く闇に包まれた父の家へ到着した。  彼は意気地なくおどおどしていた。玄関の戸は事実、彼によって非常に注意深く静かに開けられたのであったが、それは彼の耳にのみはあまりに乱暴な大きな音を立てた。「なあにこれは俺の父の家だ。俺の生れた家だ。……俺は今、久しぶりに自分のふるさとへ帰って来たのだ!」彼は、心の中でこう自分自身に力附けようとした。  誰もそこへ出て来る者がなかった。彼はそこに突立ったまま、何と言葉を発していいか、また、何としていいか自分に解からなかった。「来るのではなかった。やっぱりここは俺の来る所ではなかった。そうだ。……否、まったく何という馬鹿げた事だ。この家は俺の生れた家だ。……それ、その一間を距てた向うの襖の中には、現在この俺を生んだ母が何か喋舌っているではないか。それがこの俺の耳に今聞えているではないか。そら! その襖が開くぞ。……そして、それ、そこへ第一に現われて来るのが、……お前の帰るのを一生懸命に待っていてくれた妹の房子だ。……六年目に会うのだよ。どんなに大きく、可愛らしくなっている事だか。……」そこへ、自分の荷を運んで車夫が入って来た。色の褪せた粗末な革鞄をほとんど投げ出すように彼の足許へ置くと、我慢がしきれないと云ったように急いで顔や手に流れている汗を手拭でふいた。  取次ぎに出て来た一人の少女(それが小間使で、お志保というのであるという事を彼は知っているはずはなかった。)が慎ましやかに坐って自分を仰ぎ見ているのに気がつくと、彼は「そうだった。」と思った。「どなたさまでいらっしゃいますか。……どちらからお出になりましたので?」少女は黙ってはいるが、その顔の表情が確かにそう云っているのが解かった。彼はあわてて、少しまご附いて、意味もなく、 「あ、私は……。」こう云った。が、ひどく手持不沙汰なのでそのまま口を噤んでしまった。ちょうどその時、 「まあ、兄さんだわ。……兄さん!……ほら、やっぱり妾が当ってよ。」こう云って妹が元気よく走り出して来てくれなかったら、彼は、飛んでもない、重苦しい翻訳劇の白のような調子で、不恰好な挨拶を云い出したかも知れなかったのである。  祖母、母、今年十二歳になる姪の律子などが珍らしがって我慢なくそこへどやどやとやって来た。 「どんなに待ったか知れなかったわ。むろん、先月のうちだとばっかり思っていたのよ。」  荷物を内へ運び入れながら、妹は無邪気な、馴々しい調子で云った。これが不思議にも堪え難い窮屈さから救い出してくれた。そしてそれからずーッと数時間の間、安易な、日常茶飯の気分が保たれた。      二  父は往診に出ていて、まだ帰宅していなかった。  庸介は暑苦しいので、着て来た洋服をすぐに浴衣に替えた。そして久し振りの挨拶が一通りすむと、絵団扇で襲いかかる蚊を追い払いながら、 「明るいうちに着きたいと思いましたが、汽車の時間をすっかり間違ってしまったので、それで………」こう云った。  しかし、それは、全然、嘘であった。庸介を乗せた汽車はその日のお午少し過ぎた頃にこの家から一里半ほど距った所にある淋しい、小さな停車場へ着いたのであった。そしてその時、彼は確かにそこへ下車したのであった。赤帽のいない駅なので、自分のお粗末な革鞄をまるで引摺るようにして、空架橋の線路の向う側からこっち側へと昇って降りて来た。改札口を出ると、一人の車夫を探し出して来てそれに荷物を運ばせて、停車場前に列んでいる、汽車の待合所を兼ねた小さな旅舎の一つへと上って行った。そしてそこでお茶を命じ、喰いたくもない食事を命じ、それからひどく疲れたから、などと云って、旅行用の空気枕を取り出して横になったりしたのであった。  夏の太陽が赤々と燃えて、野の末の遠い山の蔭へ落ちかけた頃になって、宿の女中が胡散臭さそうに、 「あの、……お客様はお泊りでござんすのかね。」  と云った時にようやく立ち上って、そこを発つ仕度に取掛った。そして彼は口の内で苦々しく独言った。 「お客様はお泊りでござんすのかね、だとさ。これはいったい、何と云うこった。俺は六年ぶりで自分の郷里へ帰って来たんだよ。自分の生れた家が、ついここから一里半しかない所にあるんじゃないか、そうさ。……そして家の者がみんなで自分を待っていてくれているんじゃないか。……それだのにこの人はそこへ明るいうちは乗り込めないんだとさ。誰がそんな事を本当にする者があるものか。……」  それは、彼が今年三十歳の大人であったという理由からであった。――そうではない。そんなはずのある道理がどこに在るものか。否、それではこう言ってみよう。もし、彼が今十七歳の少年であったとしたら、たといどんな場合だとしても、何でそんな真似をしたであろう。  彼は二十三歳の時、東京のある専門学校を卒業した。その後、一年半の間、就職難のために父の補助を受けて、それから自活の途に入った。思わしい事もなかったにかかわらずとにかく押しも押されもしない一個の男として、大勢の他人に混じって独立して来た。(以下略)
房子は庸介の何ですか。
房子は庸介の妹です。
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凍るアラベスク 妹尾韶夫 一  風の寒い黄昏だった。勝子は有楽町駅の高い石段を降りると、三十近い職業婦人の落着いた足どりで、自動車の込合った中を通り抜けて、銀座の方へ急いだ。  勝子は東京郊外に住んではいても、銀座へは一年に一度か二度しか来なかった。郊外の下宿から、毎日体操教師として近くの小さい女学校に通うほかには、滅多に外に出たことがなかった。  やや茶色がかった皮膚には健康らしい艶があって、体全体の格好がよくて背の高い彼女は、誰が見てもどちらかと云えば美人に違いなかったが、それでもまだ家庭と云うことを考えたことはなかった。それには別に変った理由があるわけではない。ただ彼女は結婚と云うものを、そんなに楽しいものと思わないまでである。世の中の大部分の人は、みないいかげんな結婚をして、とにかく表面だけは楽しげに見えても、立入ってみればそれぞれ不幸を抱いている。それより冷徹した冬の大空を昇る月のように――この月に自分を例える時には彼女はいつも涙ぐましいほど浄化された気持になれた――自由に純潔でありたいと思った。彼女は淋しいのが好きだった。それに彼女には仕事と云うものがある。彼女は満身の愛を生徒たちに捧げた。また実際それらの生徒たちは、愛さずにいられぬほど可愛らしかった。小さい学校が彼女の世界の総てであった。毎日の生徒の世話、運動会、試験、校友会、遠足、父兄会、対校競技、修学旅行、講習、それに自分自身の修養、女教師の生活もなかなか忙しいのである。だから散歩がてらに銀座へ買物に来るようなことは彼女にとって珍らしい出来事だった。  勝子は数寄屋橋を渡ると、五六台続いて横切る自動車を立止って待って、それから電車道を通り抜けて、滑らかな人道の上を静に銀座の方へ歩き始めた。  すると向うから、黒い外套に灰色の絹の襟巻をした一人の紳士が来て、じろじろ彼女を見ながら通りすぎたのであるが、その男の細長い顔は血の気がなくて紙のように白く、濃い眉の下の鋭い眼には気味悪いほどの光があって、美しいと云うよりはむしろストライキングなその顔立から、彼女は瞬間ではあったが妙な印象を受けたのであった。  まだ明るいのに華やかな銀座の店々には電燈がついて、そぞろ歩く人々の顔も何となく晴やかであった。  勝子は暖い百貨店へ入ると、誰でもするように暫らく物珍らしげに当てどもなく歩きまわり、やっと毛糸ばかり並べた場所を見つけると、そこでフライシャーの白いのを一ポンド半買って、いつも大切な買物をする時に必ず持って来る紫色のメリンスの風呂敷を出して包んで、目的を果したものの微かな満足を感じながら昇降機の方へ行った。  そして下りの昇降機を待つ間、そこにあった大きな姿見の前に立って、暖かそうな駱駝色のコートと、同じ色の緑色の頸巻にくるまった自分の姿を映して、光線のぐあいか髪の恰好やからだったが、いつもより美しく見えるのに軽い誇りを感じた。  が、その時、彼女は同じ鏡に先刻橋のそばで会った男が映っているのを見てぎょッとした。而も男はやや離れた処に立って彼女の後姿を見ているらしく、明るい電燈を受けた顔が凄いほど白かった。  彼女は振向きもしないで、鏡のそばを離れると、急いで一群の人とともに昇降機に乗って下へ降りた。  街へ出るとすっかり日が暮れて、時々吹く風がぞッとするほど身にしみた。  彼女は風呂敷包を小脇に抱えて、さっさと歩きながら鏡に映った男のことを、思うともなく思い出した。途中で出会ったのにまた引返して自分と同じ店に入ったのだから、あるいは自分の跡をつけて来たのかも知れぬ。もし左様だとすれば何の為であろう。  明るい電燈の点った飾窓を見るような風をして、彼女はふと後ろを振向いてみた。  すると彼女の想像通り、五六間離れた処を歩くその男の姿が見えたので、はッと胸轟かせながら、いそいで向き直って今までより歩度を速めて歩きだした。  そして尾張町の角を曲ると、一直線に有楽町の停車場の方へ向かった。(以下略)
勝子はどこに住んでいますか。
勝子は東京郊外に住んでいます。
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凍るアラベスク 妹尾韶夫 一  風の寒い黄昏だった。勝子は有楽町駅の高い石段を降りると、三十近い職業婦人の落着いた足どりで、自動車の込合った中を通り抜けて、銀座の方へ急いだ。  勝子は東京郊外に住んではいても、銀座へは一年に一度か二度しか来なかった。郊外の下宿から、毎日体操教師として近くの小さい女学校に通うほかには、滅多に外に出たことがなかった。  やや茶色がかった皮膚には健康らしい艶があって、体全体の格好がよくて背の高い彼女は、誰が見てもどちらかと云えば美人に違いなかったが、それでもまだ家庭と云うことを考えたことはなかった。それには別に変った理由があるわけではない。ただ彼女は結婚と云うものを、そんなに楽しいものと思わないまでである。世の中の大部分の人は、みないいかげんな結婚をして、とにかく表面だけは楽しげに見えても、立入ってみればそれぞれ不幸を抱いている。それより冷徹した冬の大空を昇る月のように――この月に自分を例える時には彼女はいつも涙ぐましいほど浄化された気持になれた――自由に純潔でありたいと思った。彼女は淋しいのが好きだった。それに彼女には仕事と云うものがある。彼女は満身の愛を生徒たちに捧げた。また実際それらの生徒たちは、愛さずにいられぬほど可愛らしかった。小さい学校が彼女の世界の総てであった。毎日の生徒の世話、運動会、試験、校友会、遠足、父兄会、対校競技、修学旅行、講習、それに自分自身の修養、女教師の生活もなかなか忙しいのである。だから散歩がてらに銀座へ買物に来るようなことは彼女にとって珍らしい出来事だった。  勝子は数寄屋橋を渡ると、五六台続いて横切る自動車を立止って待って、それから電車道を通り抜けて、滑らかな人道の上を静に銀座の方へ歩き始めた。  すると向うから、黒い外套に灰色の絹の襟巻をした一人の紳士が来て、じろじろ彼女を見ながら通りすぎたのであるが、その男の細長い顔は血の気がなくて紙のように白く、濃い眉の下の鋭い眼には気味悪いほどの光があって、美しいと云うよりはむしろストライキングなその顔立から、彼女は瞬間ではあったが妙な印象を受けたのであった。  まだ明るいのに華やかな銀座の店々には電燈がついて、そぞろ歩く人々の顔も何となく晴やかであった。  勝子は暖い百貨店へ入ると、誰でもするように暫らく物珍らしげに当てどもなく歩きまわり、やっと毛糸ばかり並べた場所を見つけると、そこでフライシャーの白いのを一ポンド半買って、いつも大切な買物をする時に必ず持って来る紫色のメリンスの風呂敷を出して包んで、目的を果したものの微かな満足を感じながら昇降機の方へ行った。  そして下りの昇降機を待つ間、そこにあった大きな姿見の前に立って、暖かそうな駱駝色のコートと、同じ色の緑色の頸巻にくるまった自分の姿を映して、光線のぐあいか髪の恰好やからだったが、いつもより美しく見えるのに軽い誇りを感じた。  が、その時、彼女は同じ鏡に先刻橋のそばで会った男が映っているのを見てぎょッとした。而も男はやや離れた処に立って彼女の後姿を見ているらしく、明るい電燈を受けた顔が凄いほど白かった。  彼女は振向きもしないで、鏡のそばを離れると、急いで一群の人とともに昇降機に乗って下へ降りた。  街へ出るとすっかり日が暮れて、時々吹く風がぞッとするほど身にしみた。  彼女は風呂敷包を小脇に抱えて、さっさと歩きながら鏡に映った男のことを、思うともなく思い出した。途中で出会ったのにまた引返して自分と同じ店に入ったのだから、あるいは自分の跡をつけて来たのかも知れぬ。もし左様だとすれば何の為であろう。  明るい電燈の点った飾窓を見るような風をして、彼女はふと後ろを振向いてみた。  すると彼女の想像通り、五六間離れた処を歩くその男の姿が見えたので、はッと胸轟かせながら、いそいで向き直って今までより歩度を速めて歩きだした。  そして尾張町の角を曲ると、一直線に有楽町の停車場の方へ向かった。(以下略)
勝子は大切な買物をする時に何を必ず持って来ますか。
勝子は大切な買物をする時、紫色のメリンスの風呂敷を必ず持って来ます。
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凍るアラベスク 妹尾韶夫 一  風の寒い黄昏だった。勝子は有楽町駅の高い石段を降りると、三十近い職業婦人の落着いた足どりで、自動車の込合った中を通り抜けて、銀座の方へ急いだ。  勝子は東京郊外に住んではいても、銀座へは一年に一度か二度しか来なかった。郊外の下宿から、毎日体操教師として近くの小さい女学校に通うほかには、滅多に外に出たことがなかった。  やや茶色がかった皮膚には健康らしい艶があって、体全体の格好がよくて背の高い彼女は、誰が見てもどちらかと云えば美人に違いなかったが、それでもまだ家庭と云うことを考えたことはなかった。それには別に変った理由があるわけではない。ただ彼女は結婚と云うものを、そんなに楽しいものと思わないまでである。世の中の大部分の人は、みないいかげんな結婚をして、とにかく表面だけは楽しげに見えても、立入ってみればそれぞれ不幸を抱いている。それより冷徹した冬の大空を昇る月のように――この月に自分を例える時には彼女はいつも涙ぐましいほど浄化された気持になれた――自由に純潔でありたいと思った。彼女は淋しいのが好きだった。それに彼女には仕事と云うものがある。彼女は満身の愛を生徒たちに捧げた。また実際それらの生徒たちは、愛さずにいられぬほど可愛らしかった。小さい学校が彼女の世界の総てであった。毎日の生徒の世話、運動会、試験、校友会、遠足、父兄会、対校競技、修学旅行、講習、それに自分自身の修養、女教師の生活もなかなか忙しいのである。だから散歩がてらに銀座へ買物に来るようなことは彼女にとって珍らしい出来事だった。  勝子は数寄屋橋を渡ると、五六台続いて横切る自動車を立止って待って、それから電車道を通り抜けて、滑らかな人道の上を静に銀座の方へ歩き始めた。  すると向うから、黒い外套に灰色の絹の襟巻をした一人の紳士が来て、じろじろ彼女を見ながら通りすぎたのであるが、その男の細長い顔は血の気がなくて紙のように白く、濃い眉の下の鋭い眼には気味悪いほどの光があって、美しいと云うよりはむしろストライキングなその顔立から、彼女は瞬間ではあったが妙な印象を受けたのであった。  まだ明るいのに華やかな銀座の店々には電燈がついて、そぞろ歩く人々の顔も何となく晴やかであった。  勝子は暖い百貨店へ入ると、誰でもするように暫らく物珍らしげに当てどもなく歩きまわり、やっと毛糸ばかり並べた場所を見つけると、そこでフライシャーの白いのを一ポンド半買って、いつも大切な買物をする時に必ず持って来る紫色のメリンスの風呂敷を出して包んで、目的を果したものの微かな満足を感じながら昇降機の方へ行った。  そして下りの昇降機を待つ間、そこにあった大きな姿見の前に立って、暖かそうな駱駝色のコートと、同じ色の緑色の頸巻にくるまった自分の姿を映して、光線のぐあいか髪の恰好やからだったが、いつもより美しく見えるのに軽い誇りを感じた。  が、その時、彼女は同じ鏡に先刻橋のそばで会った男が映っているのを見てぎょッとした。而も男はやや離れた処に立って彼女の後姿を見ているらしく、明るい電燈を受けた顔が凄いほど白かった。  彼女は振向きもしないで、鏡のそばを離れると、急いで一群の人とともに昇降機に乗って下へ降りた。  街へ出るとすっかり日が暮れて、時々吹く風がぞッとするほど身にしみた。  彼女は風呂敷包を小脇に抱えて、さっさと歩きながら鏡に映った男のことを、思うともなく思い出した。途中で出会ったのにまた引返して自分と同じ店に入ったのだから、あるいは自分の跡をつけて来たのかも知れぬ。もし左様だとすれば何の為であろう。  明るい電燈の点った飾窓を見るような風をして、彼女はふと後ろを振向いてみた。  すると彼女の想像通り、五六間離れた処を歩くその男の姿が見えたので、はッと胸轟かせながら、いそいで向き直って今までより歩度を速めて歩きだした。  そして尾張町の角を曲ると、一直線に有楽町の停車場の方へ向かった。(以下略)
彼女は満身の愛を誰に捧げましたか。
彼女は満身の愛を生徒たちに捧げました。
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玉菜ぐるま 斎藤茂吉  欧羅巴には、骨骼の逞しい、実に大きな馬がいる。僕は仏蘭西に上陸するや、直ぐその大きな馬に気づいた。この馬は、欧羅巴の至るところで働いている。その骨組が巌丈で、大きな図体は、駈競をする馬などと相対せしめるなら、その心持が勿体ないほど違うのであった。  僕はいまだ童子で、生れた家の庭隈でひとり遊んでいると、「茂吉、じょうめが通るから、ちょっと来てみろまず」母はこんなことをいって僕を呼んだものである。なるほど遥か向うの街道を騎馬の人が駆歩している。駆歩する馬の後えには少しずつ土げむりが立って見える。その遥かな街道は、小山の中腹を鑿開いたのであるから、やや見上げるようになっていた。  じょうめは上馬の義ででもあろうか。けれども東北の訛はすでに労働馬と相対の名に変化していた。その日本の労働馬は欧羅巴のに較べるといかにも小さい。  僕は維也納で勉強をしていて、朝夕にこの大きな馬を見た。馬は、或る時は石炭を一ぱい積んだ車をひいていた。維也納は困っていた時なので、血の気のうすい上さんが佇んでその車をしばらく目送している光景などもあった。馬は或る時は麦酒樽を満載して通っていた。或る時は屠った仔牛を沢山積んで歩いていた。仔牛の屍の下半身が一列にぶらさがっている。下肢と尾が一様の或る律動で揺れている。その上段には仔牛の首の方が一列に並びいる。みんな目をつぶって舌が垂れている。そんな光景もあった。  大きな蹄が音立てて街上を踏んでいるのを見ると、寂しい留学生の心はいつも和んで来た。馬は或る時はらはらさせるほど賑かなところで悠々と黄いろな尿を垂れているのを、暫くながめていたこともある。そして、三軍疾く戦はば敵人必ず敗亡せむ。武王曰く、善哉。これでなければ駄目だ。こういってはしゃいだこともあった。  或る冬の朝、青い玉菜を山のように積んだ箱ぐるまを引いていた。何しろ玉菜の数が多くて、たかだかと虚空に聳えているような気がした。僕はこの光景にひどく感服した。ひとりの翁が車上にあって、二つの馬を馭している。鉄錆のような声で馬にものいっているが、その単調な語が留学生には分からない。馬の肩のところに頸圏が二つ並んで、その尖が上を向いているのは、馬に一種の威容を保たせている。僕は時々その頸圏のことも思った。  きょうも教室を出て玉菜ぐるまを見ようと思った。徒歩して先ず輪街をめぐった。それからドナウ運河を渡り、プラテル街から道を東北に取って、プラテルに来た。ついにドナウの長橋を渡った。そこで市街が絶えて、ようやく村落の趣になった。  僕は疲れてカフェに入り気のしずまることを欲していた。その時、実に偶然を絶して、大きな玉菜ぐるまが、地ひびき立てて窓前を通った。僕は戸を排し、感心してそれを見た。その時神の加護ということを思うた。次いでこの神は一体 Kosmogonie か Theogonie かと思うた刹那に、何か罪ふかいような気がしてそれを否定してしまった。
欧羅巴にはどんな馬がいますか。
欧羅巴には、骨骼の逞しい、実に大きな馬がいます。
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玉菜ぐるま 斎藤茂吉  欧羅巴には、骨骼の逞しい、実に大きな馬がいる。僕は仏蘭西に上陸するや、直ぐその大きな馬に気づいた。この馬は、欧羅巴の至るところで働いている。その骨組が巌丈で、大きな図体は、駈競をする馬などと相対せしめるなら、その心持が勿体ないほど違うのであった。  僕はいまだ童子で、生れた家の庭隈でひとり遊んでいると、「茂吉、じょうめが通るから、ちょっと来てみろまず」母はこんなことをいって僕を呼んだものである。なるほど遥か向うの街道を騎馬の人が駆歩している。駆歩する馬の後えには少しずつ土げむりが立って見える。その遥かな街道は、小山の中腹を鑿開いたのであるから、やや見上げるようになっていた。  じょうめは上馬の義ででもあろうか。けれども東北の訛はすでに労働馬と相対の名に変化していた。その日本の労働馬は欧羅巴のに較べるといかにも小さい。  僕は維也納で勉強をしていて、朝夕にこの大きな馬を見た。馬は、或る時は石炭を一ぱい積んだ車をひいていた。維也納は困っていた時なので、血の気のうすい上さんが佇んでその車をしばらく目送している光景などもあった。馬は或る時は麦酒樽を満載して通っていた。或る時は屠った仔牛を沢山積んで歩いていた。仔牛の屍の下半身が一列にぶらさがっている。下肢と尾が一様の或る律動で揺れている。その上段には仔牛の首の方が一列に並びいる。みんな目をつぶって舌が垂れている。そんな光景もあった。  大きな蹄が音立てて街上を踏んでいるのを見ると、寂しい留学生の心はいつも和んで来た。馬は或る時はらはらさせるほど賑かなところで悠々と黄いろな尿を垂れているのを、暫くながめていたこともある。そして、三軍疾く戦はば敵人必ず敗亡せむ。武王曰く、善哉。これでなければ駄目だ。こういってはしゃいだこともあった。  或る冬の朝、青い玉菜を山のように積んだ箱ぐるまを引いていた。何しろ玉菜の数が多くて、たかだかと虚空に聳えているような気がした。僕はこの光景にひどく感服した。ひとりの翁が車上にあって、二つの馬を馭している。鉄錆のような声で馬にものいっているが、その単調な語が留学生には分からない。馬の肩のところに頸圏が二つ並んで、その尖が上を向いているのは、馬に一種の威容を保たせている。僕は時々その頸圏のことも思った。  きょうも教室を出て玉菜ぐるまを見ようと思った。徒歩して先ず輪街をめぐった。それからドナウ運河を渡り、プラテル街から道を東北に取って、プラテルに来た。ついにドナウの長橋を渡った。そこで市街が絶えて、ようやく村落の趣になった。  僕は疲れてカフェに入り気のしずまることを欲していた。その時、実に偶然を絶して、大きな玉菜ぐるまが、地ひびき立てて窓前を通った。僕は戸を排し、感心してそれを見た。その時神の加護ということを思うた。次いでこの神は一体 Kosmogonie か Theogonie かと思うた刹那に、何か罪ふかいような気がしてそれを否定してしまった。
「僕」はどこで勉強をしていましたか。
「僕」は維也納で勉強をしていました。
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凍るアラベスク 妹尾韶夫 一  風の寒い黄昏だった。勝子は有楽町駅の高い石段を降りると、三十近い職業婦人の落着いた足どりで、自動車の込合った中を通り抜けて、銀座の方へ急いだ。  勝子は東京郊外に住んではいても、銀座へは一年に一度か二度しか来なかった。郊外の下宿から、毎日体操教師として近くの小さい女学校に通うほかには、滅多に外に出たことがなかった。  やや茶色がかった皮膚には健康らしい艶があって、体全体の格好がよくて背の高い彼女は、誰が見てもどちらかと云えば美人に違いなかったが、それでもまだ家庭と云うことを考えたことはなかった。それには別に変った理由があるわけではない。ただ彼女は結婚と云うものを、そんなに楽しいものと思わないまでである。世の中の大部分の人は、みないいかげんな結婚をして、とにかく表面だけは楽しげに見えても、立入ってみればそれぞれ不幸を抱いている。それより冷徹した冬の大空を昇る月のように――この月に自分を例える時には彼女はいつも涙ぐましいほど浄化された気持になれた――自由に純潔でありたいと思った。彼女は淋しいのが好きだった。それに彼女には仕事と云うものがある。彼女は満身の愛を生徒たちに捧げた。また実際それらの生徒たちは、愛さずにいられぬほど可愛らしかった。小さい学校が彼女の世界の総てであった。毎日の生徒の世話、運動会、試験、校友会、遠足、父兄会、対校競技、修学旅行、講習、それに自分自身の修養、女教師の生活もなかなか忙しいのである。だから散歩がてらに銀座へ買物に来るようなことは彼女にとって珍らしい出来事だった。  勝子は数寄屋橋を渡ると、五六台続いて横切る自動車を立止って待って、それから電車道を通り抜けて、滑らかな人道の上を静に銀座の方へ歩き始めた。  すると向うから、黒い外套に灰色の絹の襟巻をした一人の紳士が来て、じろじろ彼女を見ながら通りすぎたのであるが、その男の細長い顔は血の気がなくて紙のように白く、濃い眉の下の鋭い眼には気味悪いほどの光があって、美しいと云うよりはむしろストライキングなその顔立から、彼女は瞬間ではあったが妙な印象を受けたのであった。  まだ明るいのに華やかな銀座の店々には電燈がついて、そぞろ歩く人々の顔も何となく晴やかであった。  勝子は暖い百貨店へ入ると、誰でもするように暫らく物珍らしげに当てどもなく歩きまわり、やっと毛糸ばかり並べた場所を見つけると、そこでフライシャーの白いのを一ポンド半買って、いつも大切な買物をする時に必ず持って来る紫色のメリンスの風呂敷を出して包んで、目的を果したものの微かな満足を感じながら昇降機の方へ行った。  そして下りの昇降機を待つ間、そこにあった大きな姿見の前に立って、暖かそうな駱駝色のコートと、同じ色の緑色の頸巻にくるまった自分の姿を映して、光線のぐあいか髪の恰好やからだったが、いつもより美しく見えるのに軽い誇りを感じた。  が、その時、彼女は同じ鏡に先刻橋のそばで会った男が映っているのを見てぎょッとした。而も男はやや離れた処に立って彼女の後姿を見ているらしく、明るい電燈を受けた顔が凄いほど白かった。  彼女は振向きもしないで、鏡のそばを離れると、急いで一群の人とともに昇降機に乗って下へ降りた。  街へ出るとすっかり日が暮れて、時々吹く風がぞッとするほど身にしみた。  彼女は風呂敷包を小脇に抱えて、さっさと歩きながら鏡に映った男のことを、思うともなく思い出した。途中で出会ったのにまた引返して自分と同じ店に入ったのだから、あるいは自分の跡をつけて来たのかも知れぬ。もし左様だとすれば何の為であろう。  明るい電燈の点った飾窓を見るような風をして、彼女はふと後ろを振向いてみた。  すると彼女の想像通り、五六間離れた処を歩くその男の姿が見えたので、はッと胸轟かせながら、いそいで向き直って今までより歩度を速めて歩きだした。  そして尾張町の角を曲ると、一直線に有楽町の停車場の方へ向かった。(以下略)
勝子は毎日どこに通っていましたか。
勝子は毎日、近くの小さい女学校に通っていました。
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国語
玉菜ぐるま 斎藤茂吉  欧羅巴には、骨骼の逞しい、実に大きな馬がいる。僕は仏蘭西に上陸するや、直ぐその大きな馬に気づいた。この馬は、欧羅巴の至るところで働いている。その骨組が巌丈で、大きな図体は、駈競をする馬などと相対せしめるなら、その心持が勿体ないほど違うのであった。  僕はいまだ童子で、生れた家の庭隈でひとり遊んでいると、「茂吉、じょうめが通るから、ちょっと来てみろまず」母はこんなことをいって僕を呼んだものである。なるほど遥か向うの街道を騎馬の人が駆歩している。駆歩する馬の後えには少しずつ土げむりが立って見える。その遥かな街道は、小山の中腹を鑿開いたのであるから、やや見上げるようになっていた。  じょうめは上馬の義ででもあろうか。けれども東北の訛はすでに労働馬と相対の名に変化していた。その日本の労働馬は欧羅巴のに較べるといかにも小さい。  僕は維也納で勉強をしていて、朝夕にこの大きな馬を見た。馬は、或る時は石炭を一ぱい積んだ車をひいていた。維也納は困っていた時なので、血の気のうすい上さんが佇んでその車をしばらく目送している光景などもあった。馬は或る時は麦酒樽を満載して通っていた。或る時は屠った仔牛を沢山積んで歩いていた。仔牛の屍の下半身が一列にぶらさがっている。下肢と尾が一様の或る律動で揺れている。その上段には仔牛の首の方が一列に並びいる。みんな目をつぶって舌が垂れている。そんな光景もあった。  大きな蹄が音立てて街上を踏んでいるのを見ると、寂しい留学生の心はいつも和んで来た。馬は或る時はらはらさせるほど賑かなところで悠々と黄いろな尿を垂れているのを、暫くながめていたこともある。そして、三軍疾く戦はば敵人必ず敗亡せむ。武王曰く、善哉。これでなければ駄目だ。こういってはしゃいだこともあった。  或る冬の朝、青い玉菜を山のように積んだ箱ぐるまを引いていた。何しろ玉菜の数が多くて、たかだかと虚空に聳えているような気がした。僕はこの光景にひどく感服した。ひとりの翁が車上にあって、二つの馬を馭している。鉄錆のような声で馬にものいっているが、その単調な語が留学生には分からない。馬の肩のところに頸圏が二つ並んで、その尖が上を向いているのは、馬に一種の威容を保たせている。僕は時々その頸圏のことも思った。  きょうも教室を出て玉菜ぐるまを見ようと思った。徒歩して先ず輪街をめぐった。それからドナウ運河を渡り、プラテル街から道を東北に取って、プラテルに来た。ついにドナウの長橋を渡った。そこで市街が絶えて、ようやく村落の趣になった。  僕は疲れてカフェに入り気のしずまることを欲していた。その時、実に偶然を絶して、大きな玉菜ぐるまが、地ひびき立てて窓前を通った。僕は戸を排し、感心してそれを見た。その時神の加護ということを思うた。次いでこの神は一体 Kosmogonie か Theogonie かと思うた刹那に、何か罪ふかいような気がしてそれを否定してしまった。
駆歩する馬の後えには何が立って見えましたか。
駆歩する馬の後えには、土げむりが立って見えました。
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玉菜ぐるま 斎藤茂吉  欧羅巴には、骨骼の逞しい、実に大きな馬がいる。僕は仏蘭西に上陸するや、直ぐその大きな馬に気づいた。この馬は、欧羅巴の至るところで働いている。その骨組が巌丈で、大きな図体は、駈競をする馬などと相対せしめるなら、その心持が勿体ないほど違うのであった。  僕はいまだ童子で、生れた家の庭隈でひとり遊んでいると、「茂吉、じょうめが通るから、ちょっと来てみろまず」母はこんなことをいって僕を呼んだものである。なるほど遥か向うの街道を騎馬の人が駆歩している。駆歩する馬の後えには少しずつ土げむりが立って見える。その遥かな街道は、小山の中腹を鑿開いたのであるから、やや見上げるようになっていた。  じょうめは上馬の義ででもあろうか。けれども東北の訛はすでに労働馬と相対の名に変化していた。その日本の労働馬は欧羅巴のに較べるといかにも小さい。  僕は維也納で勉強をしていて、朝夕にこの大きな馬を見た。馬は、或る時は石炭を一ぱい積んだ車をひいていた。維也納は困っていた時なので、血の気のうすい上さんが佇んでその車をしばらく目送している光景などもあった。馬は或る時は麦酒樽を満載して通っていた。或る時は屠った仔牛を沢山積んで歩いていた。仔牛の屍の下半身が一列にぶらさがっている。下肢と尾が一様の或る律動で揺れている。その上段には仔牛の首の方が一列に並びいる。みんな目をつぶって舌が垂れている。そんな光景もあった。  大きな蹄が音立てて街上を踏んでいるのを見ると、寂しい留学生の心はいつも和んで来た。馬は或る時はらはらさせるほど賑かなところで悠々と黄いろな尿を垂れているのを、暫くながめていたこともある。そして、三軍疾く戦はば敵人必ず敗亡せむ。武王曰く、善哉。これでなければ駄目だ。こういってはしゃいだこともあった。  或る冬の朝、青い玉菜を山のように積んだ箱ぐるまを引いていた。何しろ玉菜の数が多くて、たかだかと虚空に聳えているような気がした。僕はこの光景にひどく感服した。ひとりの翁が車上にあって、二つの馬を馭している。鉄錆のような声で馬にものいっているが、その単調な語が留学生には分からない。馬の肩のところに頸圏が二つ並んで、その尖が上を向いているのは、馬に一種の威容を保たせている。僕は時々その頸圏のことも思った。  きょうも教室を出て玉菜ぐるまを見ようと思った。徒歩して先ず輪街をめぐった。それからドナウ運河を渡り、プラテル街から道を東北に取って、プラテルに来た。ついにドナウの長橋を渡った。そこで市街が絶えて、ようやく村落の趣になった。  僕は疲れてカフェに入り気のしずまることを欲していた。その時、実に偶然を絶して、大きな玉菜ぐるまが、地ひびき立てて窓前を通った。僕は戸を排し、感心してそれを見た。その時神の加護ということを思うた。次いでこの神は一体 Kosmogonie か Theogonie かと思うた刹那に、何か罪ふかいような気がしてそれを否定してしまった。
母は何といって僕を呼びましたか。
母は「茂吉、じょうめが通るから、ちょっと来てみろまず」といって僕を呼びました。
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玉菜ぐるま 斎藤茂吉  欧羅巴には、骨骼の逞しい、実に大きな馬がいる。僕は仏蘭西に上陸するや、直ぐその大きな馬に気づいた。この馬は、欧羅巴の至るところで働いている。その骨組が巌丈で、大きな図体は、駈競をする馬などと相対せしめるなら、その心持が勿体ないほど違うのであった。  僕はいまだ童子で、生れた家の庭隈でひとり遊んでいると、「茂吉、じょうめが通るから、ちょっと来てみろまず」母はこんなことをいって僕を呼んだものである。なるほど遥か向うの街道を騎馬の人が駆歩している。駆歩する馬の後えには少しずつ土げむりが立って見える。その遥かな街道は、小山の中腹を鑿開いたのであるから、やや見上げるようになっていた。  じょうめは上馬の義ででもあろうか。けれども東北の訛はすでに労働馬と相対の名に変化していた。その日本の労働馬は欧羅巴のに較べるといかにも小さい。  僕は維也納で勉強をしていて、朝夕にこの大きな馬を見た。馬は、或る時は石炭を一ぱい積んだ車をひいていた。維也納は困っていた時なので、血の気のうすい上さんが佇んでその車をしばらく目送している光景などもあった。馬は或る時は麦酒樽を満載して通っていた。或る時は屠った仔牛を沢山積んで歩いていた。仔牛の屍の下半身が一列にぶらさがっている。下肢と尾が一様の或る律動で揺れている。その上段には仔牛の首の方が一列に並びいる。みんな目をつぶって舌が垂れている。そんな光景もあった。  大きな蹄が音立てて街上を踏んでいるのを見ると、寂しい留学生の心はいつも和んで来た。馬は或る時はらはらさせるほど賑かなところで悠々と黄いろな尿を垂れているのを、暫くながめていたこともある。そして、三軍疾く戦はば敵人必ず敗亡せむ。武王曰く、善哉。これでなければ駄目だ。こういってはしゃいだこともあった。  或る冬の朝、青い玉菜を山のように積んだ箱ぐるまを引いていた。何しろ玉菜の数が多くて、たかだかと虚空に聳えているような気がした。僕はこの光景にひどく感服した。ひとりの翁が車上にあって、二つの馬を馭している。鉄錆のような声で馬にものいっているが、その単調な語が留学生には分からない。馬の肩のところに頸圏が二つ並んで、その尖が上を向いているのは、馬に一種の威容を保たせている。僕は時々その頸圏のことも思った。  きょうも教室を出て玉菜ぐるまを見ようと思った。徒歩して先ず輪街をめぐった。それからドナウ運河を渡り、プラテル街から道を東北に取って、プラテルに来た。ついにドナウの長橋を渡った。そこで市街が絶えて、ようやく村落の趣になった。  僕は疲れてカフェに入り気のしずまることを欲していた。その時、実に偶然を絶して、大きな玉菜ぐるまが、地ひびき立てて窓前を通った。僕は戸を排し、感心してそれを見た。その時神の加護ということを思うた。次いでこの神は一体 Kosmogonie か Theogonie かと思うた刹那に、何か罪ふかいような気がしてそれを否定してしまった。
僕が渡った運河は何ですか。
僕が渡った運河はドナウ運河です。