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| Question
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663
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|---|---|---|---|---|
JCRRAG_001101
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国語
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マイン河とライン河の合流しているところからそう遠くない、上ドイツの荒れはてた幻想的な地方、オーデンヴァルトの高地のいただきに、ずっとむかしのこと、フォン・ランドショート男爵の城が立っていた。それは今ではすっかり朽ちはてて、ほとんど山毛欅やうっそうとした樅の木のなかに埋もれてしまっている。しかし、その木々のうえには、古い物見櫓がいまもなお見え、前述のかつての城主と同様、なんとか頭を高くもたげようとし、近隣の地方を見おろしているのである。
その男爵はカッツェンエレンボーゲン(原註2)という大家の分家で、今は衰えているが、祖先の財産の残りと往年の誇りとを受けついでいた。祖先たちは戦争好きだったために、ひどく家産を蕩尽してしまったが、男爵はなおも昔の威容をいくらかでも保とうと懸命になっていた。その当時は平和だったので、ドイツの貴族たちは、たいてい、鷲の巣のように山のなかにつくられた不便な古い城をすてて、もっと便利な住居を谷間に建てていた。それでも男爵はあいかわらず誇らしげにその小さな砦にひきこもって、親ゆずりの頑固さから、家代々の宿敵に対する恨みを胸に抱いていた。だから彼は、先祖のあいだにおこった争いのために、いく人かのごく近くに住んでいる人たちとも折りあいが悪かった。
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フォン・ランドショート男爵の城は、今は何に埋もれてしまっていますか。
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フォン・ランドショート男爵の城は、今は山毛欅やうっそうとした樅の木のなかに埋もれてしまっています。
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JCRRAG_001102
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国語
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マイン河とライン河の合流しているところからそう遠くない、上ドイツの荒れはてた幻想的な地方、オーデンヴァルトの高地のいただきに、ずっとむかしのこと、フォン・ランドショート男爵の城が立っていた。それは今ではすっかり朽ちはてて、ほとんど山毛欅やうっそうとした樅の木のなかに埋もれてしまっている。しかし、その木々のうえには、古い物見櫓がいまもなお見え、前述のかつての城主と同様、なんとか頭を高くもたげようとし、近隣の地方を見おろしているのである。
その男爵はカッツェンエレンボーゲン(原註2)という大家の分家で、今は衰えているが、祖先の財産の残りと往年の誇りとを受けついでいた。祖先たちは戦争好きだったために、ひどく家産を蕩尽してしまったが、男爵はなおも昔の威容をいくらかでも保とうと懸命になっていた。その当時は平和だったので、ドイツの貴族たちは、たいてい、鷲の巣のように山のなかにつくられた不便な古い城をすてて、もっと便利な住居を谷間に建てていた。それでも男爵はあいかわらず誇らしげにその小さな砦にひきこもって、親ゆずりの頑固さから、家代々の宿敵に対する恨みを胸に抱いていた。だから彼は、先祖のあいだにおこった争いのために、いく人かのごく近くに住んでいる人たちとも折りあいが悪かった。
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山毛欅やうっそうとした樅の木々のうえには、何がいまもなお見えますか。
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山毛欅やうっそうとした樅の木々のうえには、古い物見櫓がいまもなお見えます。
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JCRRAG_001103
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国語
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マイン河とライン河の合流しているところからそう遠くない、上ドイツの荒れはてた幻想的な地方、オーデンヴァルトの高地のいただきに、ずっとむかしのこと、フォン・ランドショート男爵の城が立っていた。それは今ではすっかり朽ちはてて、ほとんど山毛欅やうっそうとした樅の木のなかに埋もれてしまっている。しかし、その木々のうえには、古い物見櫓がいまもなお見え、前述のかつての城主と同様、なんとか頭を高くもたげようとし、近隣の地方を見おろしているのである。
その男爵はカッツェンエレンボーゲン(原註2)という大家の分家で、今は衰えているが、祖先の財産の残りと往年の誇りとを受けついでいた。祖先たちは戦争好きだったために、ひどく家産を蕩尽してしまったが、男爵はなおも昔の威容をいくらかでも保とうと懸命になっていた。その当時は平和だったので、ドイツの貴族たちは、たいてい、鷲の巣のように山のなかにつくられた不便な古い城をすてて、もっと便利な住居を谷間に建てていた。それでも男爵はあいかわらず誇らしげにその小さな砦にひきこもって、親ゆずりの頑固さから、家代々の宿敵に対する恨みを胸に抱いていた。だから彼は、先祖のあいだにおこった争いのために、いく人かのごく近くに住んでいる人たちとも折りあいが悪かった。
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祖先たちはなぜ、ひどく家産を蕩尽してしまったのですか。
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祖先たちは戦争好きだったために、ひどく家産を蕩尽してしまいました。
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JCRRAG_001104
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国語
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男爵には一人の娘があるだけだった。しかし、自然は一人の子供しかさずけない場合には、きっとその償いにその子を非凡なものにするのだが、この男爵の娘もその通りだった。乳母たちも、噂好きな人たちも、田舎の親戚たちも、みんなが彼女の父親に断言して、美しさにかけてはドイツじゅうで彼女にならぶものはない、と言ったのである。いったいこの人たちより、ものをよく知っている人がほかにいるだろうか。そのうえ、彼女は二人の独身の叔母の監督のもとに、たいへん気をつけて育てられた。その叔母たちは若いころ数年間ドイツのある小さな宮廷にすごし、立派な貴婦人を教育するためになくてはならないあらゆる方面の知識に通じていた。この叔母たちの薫陶をうけて、彼女の才芸はおどろくばかりのものになった。十八歳になるころには見事に刺繍することができた。彼女は壁掛けに聖徒たちの一代記を刺繍したことがあるが、その顔の表情があまり力づよかったので、まるで煉獄で苦しんでいる人間さながらに見えた。彼女はたいして苦労もせずに本を読むことができ、教会の伝説をいくつか判読し、中世の英雄詩に出てくるふしぎな騎士物語はほとんど全部読み解くことができた。彼女は書くことにもかなりの上達ぶりを見せ、自分の名前を一字もぬかさずに、たいへんわかりやすく署名することができたので、叔母たちは眼鏡をかけないでも読むことができた。彼女は手すさびに見事な腕前で婦人好みの装飾品をなんでもつくったし、当時のもっとも玄妙な舞踊にも長け、さまざまな歌曲をハープやギターでひくこともでき、恋愛詩人がうたうあまい民謡をすべて暗誦していた。
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自然は一人の子供しかさずけない場合には、その償いにその子をどのようにするものですか。
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自然は一人の子供しかさずけない場合には、その償いにその子を非凡なものにするものです。
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JCRRAG_001105
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国語
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男爵には一人の娘があるだけだった。しかし、自然は一人の子供しかさずけない場合には、きっとその償いにその子を非凡なものにするのだが、この男爵の娘もその通りだった。乳母たちも、噂好きな人たちも、田舎の親戚たちも、みんなが彼女の父親に断言して、美しさにかけてはドイツじゅうで彼女にならぶものはない、と言ったのである。いったいこの人たちより、ものをよく知っている人がほかにいるだろうか。そのうえ、彼女は二人の独身の叔母の監督のもとに、たいへん気をつけて育てられた。その叔母たちは若いころ数年間ドイツのある小さな宮廷にすごし、立派な貴婦人を教育するためになくてはならないあらゆる方面の知識に通じていた。この叔母たちの薫陶をうけて、彼女の才芸はおどろくばかりのものになった。十八歳になるころには見事に刺繍することができた。彼女は壁掛けに聖徒たちの一代記を刺繍したことがあるが、その顔の表情があまり力づよかったので、まるで煉獄で苦しんでいる人間さながらに見えた。彼女はたいして苦労もせずに本を読むことができ、教会の伝説をいくつか判読し、中世の英雄詩に出てくるふしぎな騎士物語はほとんど全部読み解くことができた。彼女は書くことにもかなりの上達ぶりを見せ、自分の名前を一字もぬかさずに、たいへんわかりやすく署名することができたので、叔母たちは眼鏡をかけないでも読むことができた。彼女は手すさびに見事な腕前で婦人好みの装飾品をなんでもつくったし、当時のもっとも玄妙な舞踊にも長け、さまざまな歌曲をハープやギターでひくこともでき、恋愛詩人がうたうあまい民謡をすべて暗誦していた。
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男爵には何人の娘がいましたか。
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男爵には一人の娘がいるだけでした。
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JCRRAG_001106
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国語
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今朝の夢・大きな象が
田井田かわず
散らかった部屋の床に布団を敷いて寝ていると、夢見心地に何かの音が聞こえた気がした。意識を持ちあげて耳をすましてみると、どうやら気のせいというわけでも、夢の中というわけでも無いようだ。
興味をそそられて、私にしては珍しく果敢に布団から起き出し、ダイニングに居た父に声をかけた。
「父さん、これ何の音?」
トランペットとか、ああいったたぐいの楽器をとりあえず思いっきり吹いてみたような音、と言えば伝わるかどうかは分からないが、とりあえずそういう音が遠くから何かの信号のように響いている。父はただ、窓の外を眺めながら呟いた。
「さぁ、なんだろな」
音の出所はハッキリしているようで、家からは長い坂を下って登って、歩いて四十分ほどの所にある公園から聞こえていると言う事を、家族が口々に言った。その公園は県内でもちょっと有名なくらい規模が大きいのでそこで何かイベントでもしてるんだろうかと私は思ったが、緊迫した様子を見るとそういうわけでもないらしい。
「何だろう……。なんか象の鳴き声にも似てるよね」
自分でそう口にしてみて、一つのニュースを思い出した。
つい最近、海の向こうから商業目的で三頭の巨大な像が連れてこられたと言うのだ。しかしあまりの大きさのため管理が行き届かず、街ひとつ、その巨大な像に踏み荒らされたと言う、日本国内でも結構大きな事件だった。一度は捕まえたものの、どうしてもその象の管理に手こずり、鬼ごっこを繰り返していると聞いた。
父も同じことを考えたらしく、私の言葉に反応して拳を手のひらに打った。
「象だっ!」
同じように状況を察した兄と母と、一緒になって急いで避難する準備を始める。
「帰ってきたとき大変じゃないように、ある程度部屋は片付けときなさい」母が言った。
象が踏み荒らせば、どうしたって散らかるんじゃないだろうかとも考えたが、なるほど自分でまず片付けておけば、だいたいどこら辺にあるかもわかるし、最初から散らかしておくよりはましかもしれないと思った。
となりの部屋の兄が私に、急げよと言って、早々と片づけを済ましてダイニングに向かう。私は慌てつつも片づけをしながら財布と、いつも持ち歩いているメモ帳と筆記用具をかばんにまとめた。
最近片づけに慣れてきたと自負していたのに、慌てたためか若干手間を取ったが、なんとか終わらせると家族のそろうダイニングに入った。なぜか母は、キッチンで弁当を作っている。
「音が近づいてきた」
私は呟いた。
家の正面に付いた窓から、静かな道路を眺める。車が一台も走っていないのは、この前の災害で渋滞のため逃げ遅れ踏みつぶされた人が居る、と言うニュースを皆が知っているためかと何となく考える。それにしたって人が逃げる影すらもない。みんな家で息を飲んでいるのだろうか。
「来た」
誰かが言った。
足音もなく、窓の向こうに象の太い足がぬっと覗く。足だけで窓を覆い尽くさんばかりの大きさだった。
足元しか見えないが、マンションの四階くらいの高さはあるだろうか。象はそこで立ち止まっていた。こんな大きな像が三匹も、どうやって海を渡ったのだろう。
私たちは、象が何もしないまま過ぎ去る事を祈りながら、心持ち身をかがめそっと様子をうかがう。母はまだ弁当を詰めていた。
そのとき家が持ち上がり、大きく揺れ始めた。象が鼻で持ち上げ左右に揺らしてるのであろう。私たちは床に這いつくばった。
悪あがきで、象がそっと家を下ろしてくれる事を祈ったが、家はポイと手放された。(いや、<鼻>放されると言うべきなのだろうか)私たちの家はその勢いのまま、家の裏手にある小さいアパートの上に落ちた。
「あちゃー……」
「……しょうがないわよ。こうなっちゃぁ」
私と母は家の横の窓から足元の様子を見ていう。家はどこも崩れなかったためか、あんがい楽天的だ。
アパートの方は天井が崩れて、中が見えていた。家の人と目が合うと、大丈夫だよと、手を振ってくれた。
私は言葉も無く、何度も謝った。
巨大な象はそれからも鼻をぶんぶん振りながら何かしら壊しつつ道路を進んで行った。外を見れば、象の通り道は一目でわかる事だろう。
とりあえず一難去ったと息をついていると、突然に玄関の扉が開いた。
「大丈夫!?」
アパートに乗り上げて、しかも斜め上を向いている家の玄関に、どうやってたどり着いたのかは分からないが、そこには向こう隣りの市に住んでいる友人の姿があった。高速道路を使えば車で十五分ほどとはいえ、わざわざこんな所まで来てくれたのだろうか。
「おばちゃんなんでお弁当作ってるの?」
流石しっかりしている友人は、母の行動に対してきっちりツッコンだ。
「ちょうどこっちに来たってニュースで言うから、心配で…!とりあえず、このままここに居たら危ないから、一緒に避難所に行こう!」
母の弁明も、私たちの疑問も聞かずに自分の事を説明すると、友人は素晴らしい手際の良さで、さっと避難所の場所を確認し、私達を連れ出した。
私たちは促されるまま彼女のお父さんが運転する車に乗せてもらった。「いまなら車も少ないし、象の第一波も終わった。つぎが来る前に」と、そう言って、瓦礫の合間を縫い、夕陽の差すなか、私たちを乗せた車は避難所に向かった。
ところで、出る前に一度部屋をのぞいてみたら、片づけた甲斐あってか、それとも物が少ないためか、そう酷い事にはなっておらず私はほっとした。
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私たちは誰の運転する車に乗りましたか。
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私たちは友人のお父さんが運転する車に乗りました。
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JCRRAG_001107
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国語
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シュタルケンファウストは嘆息して、武士の涙を注いで友人の時ならぬ非運を悼んだ。それから自分が引きうけた厄介な使命のことをしみじみと考えた。彼の心は重く、頭は混乱した。招かれぬ客として敵意のあるひとびとのなかにあらわれ、そしてその人たちの希望をふみにじるようなことを知らせて、祝宴をしめっぽくしなければならないのだ。それにもかかわらず、彼の心には、ある好奇心がささやいて、カッツェンエレンボーゲンの名高い美人で、それほどまでに用心ぶかく世間からへだてられていた人をひとめ見たいと思っていた。彼は女性の熱烈な崇拝者であり、また、その性格には、奇癖と山気とがいくらかあり、そのために変った冒険ならどんなことでも好きだった。
出発に先立って、彼は友の葬儀について修道院の僧たちとしかるべき手筈をととのえた。友はヴルツブルクの寺院に埋葬されることになったが、その近くには彼の名高い親戚がいた。服喪中の伯爵の従者たちがその遺骸をあずかった。
ところで今こそカッツェンエレンボーゲンの旧家に話をもどすべきときだ。この人たちは来客を待ちわび、そしてまたそれ以上に御馳走を待ちこがれているのだ。また、尊敬すべき小男の男爵に話をもどさなければならない。彼は物見櫓の上で吹きさらしになっている。
夜は迫っていたが、やはり客は来なかった。男爵はがっかりして櫓からおりた。宴会は今まで一時間一時間とおくらされてきたが、もうこれ以上のばすわけにはいかなかった。肉はとっくに焼けすぎて、料理人は困りはてていた。家のもの全部の顔つきがまるで飢餓のために参ってしまった守備兵のようだった。男爵はしぶしぶながら命令をくだして、賓客がいないままで祝宴をはじめようとした。皆が食卓につき、ちょうど食べはじめるばかりになった折りも折り、角笛の音が城のそとからひびいてきて、見知らぬ人が近づいてくるのを知らせた。ふたたび吹きならす長い音のこだまが、古びた城の中庭にひびきわたると、城壁から見張りがそれに答えた。男爵はいそいで未来の花婿を迎えに出ていった。
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シュタルケンファウストは友の葬儀について誰としかるべき手筈をととのえましたか。
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シュタルケンファウストは友の葬儀について修道院の僧たちとしかるべき手筈をととのえました。
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JCRRAG_001108
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国語
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シュタルケンファウストは嘆息して、武士の涙を注いで友人の時ならぬ非運を悼んだ。それから自分が引きうけた厄介な使命のことをしみじみと考えた。彼の心は重く、頭は混乱した。招かれぬ客として敵意のあるひとびとのなかにあらわれ、そしてその人たちの希望をふみにじるようなことを知らせて、祝宴をしめっぽくしなければならないのだ。それにもかかわらず、彼の心には、ある好奇心がささやいて、カッツェンエレンボーゲンの名高い美人で、それほどまでに用心ぶかく世間からへだてられていた人をひとめ見たいと思っていた。彼は女性の熱烈な崇拝者であり、また、その性格には、奇癖と山気とがいくらかあり、そのために変った冒険ならどんなことでも好きだった。
出発に先立って、彼は友の葬儀について修道院の僧たちとしかるべき手筈をととのえた。友はヴルツブルクの寺院に埋葬されることになったが、その近くには彼の名高い親戚がいた。服喪中の伯爵の従者たちがその遺骸をあずかった。
ところで今こそカッツェンエレンボーゲンの旧家に話をもどすべきときだ。この人たちは来客を待ちわび、そしてまたそれ以上に御馳走を待ちこがれているのだ。また、尊敬すべき小男の男爵に話をもどさなければならない。彼は物見櫓の上で吹きさらしになっている。
夜は迫っていたが、やはり客は来なかった。男爵はがっかりして櫓からおりた。宴会は今まで一時間一時間とおくらされてきたが、もうこれ以上のばすわけにはいかなかった。肉はとっくに焼けすぎて、料理人は困りはてていた。家のもの全部の顔つきがまるで飢餓のために参ってしまった守備兵のようだった。男爵はしぶしぶながら命令をくだして、賓客がいないままで祝宴をはじめようとした。皆が食卓につき、ちょうど食べはじめるばかりになった折りも折り、角笛の音が城のそとからひびいてきて、見知らぬ人が近づいてくるのを知らせた。ふたたび吹きならす長い音のこだまが、古びた城の中庭にひびきわたると、城壁から見張りがそれに答えた。男爵はいそいで未来の花婿を迎えに出ていった。
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男爵はどこで吹きさらしになっていますか。
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男爵は物見櫓の上で吹きさらしになっています。
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JCRRAG_001109
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国語
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男爵は小男だったけれども、大きな心をもち、自分をとりまく小さな世界のなかでは自分がいちばん偉い人物なのだという思いに満足して得意であった。周囲の壁から、気味の悪いむかしの武士たちの肖像画が恐ろしい顔をして見おろしていたが、彼は好んでその武士たちのことを長々と話したものだ。そして、彼は自分の費用でごちそうしてやった人たちほどよい聞き手はまたとないことに気がついた。彼はふしぎなことが大好きで、ドイツじゅうの山や谷にみちみちている超自然的な物語はどれも固く信じているのだった。ところが、この客たちの信仰ぶりは、男爵自身をしのぐほどだった。彼らはふしぎな話にはどれにも目をまるくし、口をあけて聞きいり、たとえその話が百ぺん繰りかえされても、かならずびっくり仰天するのだった。こうしてフォン・ランドショート男爵は、自分の食卓での予言者となり、小さな領土の絶対君主として、わけても自分が当代随一の賢者であると信じて、幸福に日をおくった。
ちょうどこの話のころ、きわめて重大な事柄についてこの城に一族の大集会があった。それはかねて決められていた男爵の娘の花婿をむかえることについてだった。父親とあるバヴァリアの老貴族とのあいだにすでに話しあいがすすめられており、権威ある両家を、子供たちの結婚によって取りむすぶことになっていた。その下準備はもはや作法通りすまされていた。当の若者たちはたがいに見も知らぬままで婚約させられ、婚礼の日どりがさだめられた。フォン・アルテンブルク若伯爵はそのためにすでに軍隊から呼びもどされ、現に男爵の城へ花嫁をむかえにゆく途上にあった。伯爵からの手紙が、たまたまその滞在先のヴルツブルクからとどき、到着予定の日時をしらせてきてあった。
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周囲の壁からは、どんな肖像画が恐ろしい顔をして見下ろしていましたか。
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周囲の壁からは、気味の悪いむかしの武士たちの肖像画が恐ろしい顔をして見おろしていました。
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JCRRAG_001110
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国語
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男爵は小男だったけれども、大きな心をもち、自分をとりまく小さな世界のなかでは自分がいちばん偉い人物なのだという思いに満足して得意であった。周囲の壁から、気味の悪いむかしの武士たちの肖像画が恐ろしい顔をして見おろしていたが、彼は好んでその武士たちのことを長々と話したものだ。そして、彼は自分の費用でごちそうしてやった人たちほどよい聞き手はまたとないことに気がついた。彼はふしぎなことが大好きで、ドイツじゅうの山や谷にみちみちている超自然的な物語はどれも固く信じているのだった。ところが、この客たちの信仰ぶりは、男爵自身をしのぐほどだった。彼らはふしぎな話にはどれにも目をまるくし、口をあけて聞きいり、たとえその話が百ぺん繰りかえされても、かならずびっくり仰天するのだった。こうしてフォン・ランドショート男爵は、自分の食卓での予言者となり、小さな領土の絶対君主として、わけても自分が当代随一の賢者であると信じて、幸福に日をおくった。
ちょうどこの話のころ、きわめて重大な事柄についてこの城に一族の大集会があった。それはかねて決められていた男爵の娘の花婿をむかえることについてだった。父親とあるバヴァリアの老貴族とのあいだにすでに話しあいがすすめられており、権威ある両家を、子供たちの結婚によって取りむすぶことになっていた。その下準備はもはや作法通りすまされていた。当の若者たちはたがいに見も知らぬままで婚約させられ、婚礼の日どりがさだめられた。フォン・アルテンブルク若伯爵はそのためにすでに軍隊から呼びもどされ、現に男爵の城へ花嫁をむかえにゆく途上にあった。伯爵からの手紙が、たまたまその滞在先のヴルツブルクからとどき、到着予定の日時をしらせてきてあった。
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男爵は誰ほどよい聞き手はまたとないことに気がつきましたか。
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男爵は自分の費用でごちそうしてやった人たちほどよい聞き手はまたとないことに気がつきました。
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JCRRAG_001111
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国語
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男爵は小男だったけれども、大きな心をもち、自分をとりまく小さな世界のなかでは自分がいちばん偉い人物なのだという思いに満足して得意であった。周囲の壁から、気味の悪いむかしの武士たちの肖像画が恐ろしい顔をして見おろしていたが、彼は好んでその武士たちのことを長々と話したものだ。そして、彼は自分の費用でごちそうしてやった人たちほどよい聞き手はまたとないことに気がついた。彼はふしぎなことが大好きで、ドイツじゅうの山や谷にみちみちている超自然的な物語はどれも固く信じているのだった。ところが、この客たちの信仰ぶりは、男爵自身をしのぐほどだった。彼らはふしぎな話にはどれにも目をまるくし、口をあけて聞きいり、たとえその話が百ぺん繰りかえされても、かならずびっくり仰天するのだった。こうしてフォン・ランドショート男爵は、自分の食卓での予言者となり、小さな領土の絶対君主として、わけても自分が当代随一の賢者であると信じて、幸福に日をおくった。
ちょうどこの話のころ、きわめて重大な事柄についてこの城に一族の大集会があった。それはかねて決められていた男爵の娘の花婿をむかえることについてだった。父親とあるバヴァリアの老貴族とのあいだにすでに話しあいがすすめられており、権威ある両家を、子供たちの結婚によって取りむすぶことになっていた。その下準備はもはや作法通りすまされていた。当の若者たちはたがいに見も知らぬままで婚約させられ、婚礼の日どりがさだめられた。フォン・アルテンブルク若伯爵はそのためにすでに軍隊から呼びもどされ、現に男爵の城へ花嫁をむかえにゆく途上にあった。伯爵からの手紙が、たまたまその滞在先のヴルツブルクからとどき、到着予定の日時をしらせてきてあった。
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男爵はどんな物語をどれも固く信じていましたか。
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男爵はドイツじゅうの山や谷にみちみちている超自然的な物語をどれも固く信じていました。
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JCRRAG_001112
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国語
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男爵は小男だったけれども、大きな心をもち、自分をとりまく小さな世界のなかでは自分がいちばん偉い人物なのだという思いに満足して得意であった。周囲の壁から、気味の悪いむかしの武士たちの肖像画が恐ろしい顔をして見おろしていたが、彼は好んでその武士たちのことを長々と話したものだ。そして、彼は自分の費用でごちそうしてやった人たちほどよい聞き手はまたとないことに気がついた。彼はふしぎなことが大好きで、ドイツじゅうの山や谷にみちみちている超自然的な物語はどれも固く信じているのだった。ところが、この客たちの信仰ぶりは、男爵自身をしのぐほどだった。彼らはふしぎな話にはどれにも目をまるくし、口をあけて聞きいり、たとえその話が百ぺん繰りかえされても、かならずびっくり仰天するのだった。こうしてフォン・ランドショート男爵は、自分の食卓での予言者となり、小さな領土の絶対君主として、わけても自分が当代随一の賢者であると信じて、幸福に日をおくった。
ちょうどこの話のころ、きわめて重大な事柄についてこの城に一族の大集会があった。それはかねて決められていた男爵の娘の花婿をむかえることについてだった。父親とあるバヴァリアの老貴族とのあいだにすでに話しあいがすすめられており、権威ある両家を、子供たちの結婚によって取りむすぶことになっていた。その下準備はもはや作法通りすまされていた。当の若者たちはたがいに見も知らぬままで婚約させられ、婚礼の日どりがさだめられた。フォン・アルテンブルク若伯爵はそのためにすでに軍隊から呼びもどされ、現に男爵の城へ花嫁をむかえにゆく途上にあった。伯爵からの手紙が、たまたまその滞在先のヴルツブルクからとどき、到着予定の日時をしらせてきてあった。
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男爵は自分を当代随一の何と信じていましたか。
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男爵は自分を当代随一の賢者と信じていました。
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JCRRAG_001113
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国語
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男爵は小男だったけれども、大きな心をもち、自分をとりまく小さな世界のなかでは自分がいちばん偉い人物なのだという思いに満足して得意であった。周囲の壁から、気味の悪いむかしの武士たちの肖像画が恐ろしい顔をして見おろしていたが、彼は好んでその武士たちのことを長々と話したものだ。そして、彼は自分の費用でごちそうしてやった人たちほどよい聞き手はまたとないことに気がついた。彼はふしぎなことが大好きで、ドイツじゅうの山や谷にみちみちている超自然的な物語はどれも固く信じているのだった。ところが、この客たちの信仰ぶりは、男爵自身をしのぐほどだった。彼らはふしぎな話にはどれにも目をまるくし、口をあけて聞きいり、たとえその話が百ぺん繰りかえされても、かならずびっくり仰天するのだった。こうしてフォン・ランドショート男爵は、自分の食卓での予言者となり、小さな領土の絶対君主として、わけても自分が当代随一の賢者であると信じて、幸福に日をおくった。
ちょうどこの話のころ、きわめて重大な事柄についてこの城に一族の大集会があった。それはかねて決められていた男爵の娘の花婿をむかえることについてだった。父親とあるバヴァリアの老貴族とのあいだにすでに話しあいがすすめられており、権威ある両家を、子供たちの結婚によって取りむすぶことになっていた。その下準備はもはや作法通りすまされていた。当の若者たちはたがいに見も知らぬままで婚約させられ、婚礼の日どりがさだめられた。フォン・アルテンブルク若伯爵はそのためにすでに軍隊から呼びもどされ、現に男爵の城へ花嫁をむかえにゆく途上にあった。伯爵からの手紙が、たまたまその滞在先のヴルツブルクからとどき、到着予定の日時をしらせてきてあった。
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フォン・アルテンブルク若伯爵はどこから呼びもどされましたか。
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フォン・アルテンブルク若伯爵は軍隊から呼びもどされました。
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JCRRAG_001114
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国語
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城は大わらわで彼をむかえるにふさわしい歓迎の準備をしていた。美しい花嫁はなみなみならず念入りに飾りたてられた。例の二人の叔母が彼女の化粧を受けもち、朝のうちいっぱい、彼女の装身具のひとつひとつについて言いあらそいをしていた。当の花嫁は、二人のいさかいを巧みに利用して、自分の好みどおりにしたが、幸いにしてそれは申し分のないものだった。彼女の美しさといったら、世の若い花婿がこれ以上を望むことはとうていできないほどだったし、期待にときめく心で彼女の魅力はいっそう輝きを増していた。
顔や襟もとにさす赤み、静かな胸の高まり、ときおり幻想にふける眼ざし、すべてが彼女の小さな胸におこっているかすかな動揺をあらわしていた。叔母たちは絶えず彼女のまわりをうろうろしていた。未婚の叔母というものは、とかくこういうことにたいへん興味をもつものなのだ。叔母たちは彼女に、どう振舞ったらよいか、どんなことを言えばよいか、また、どういうふうに心まちの愛人を迎えればよいか、ということについて、何くれとなく真面目な助言をあたえていた。
男爵もそれに劣らぬほど準備にいそがしかった。彼には、実のところ、これといってしなければならないことは全くなかった。しかし、彼は生れつきせっかちな気ぜわしい男だったから、まわりの人たちがみなせかせかしているのに、平気で落ちついていられるはずはなかった。彼は心配でたまらないといった様子で、城の上から下までやきもきしながら歩きまわった。仕事をしている召使たちを絶えず呼びたてて、怠けずに働くようにいましめたり、また、広間という広間、部屋という部屋を、何もしないでせかせかとうるさくどなりまわり、まるで暑い夏の日に大きな青蠅がぶんぶんとびまわるようだった。
そのあいだにも、犢の肥ったのが殺され、森には猟師たちの喚声がひびき、厨は山海の珍味でいっぱいになり、酒蔵からはライン酒やフェルネ酒がしこたま運びだされた。そしてハイデルベルクの大酒樽さえ徴発されてきた。用意万端ととのって、ドイツ風の真心こめた歓待の精神で、にぎやかにその賓客を迎えるばかりになった。ところが、その客はなかなか現われなかった。時間は刻々とすぎていった。太陽は先刻までオーデンヴァルトのこんもりした森にさんさんたる光を頭上からそそいでいたが、今は山の嶺にそってかすかに光っていた。男爵はいちばん高い櫓にのぼり、遠くに伯爵とその従者たちが見えないものかと思って瞳をこらした。一度は彼らを見たと思った。角笛の音が谷間から流れてきて、山のこだまとなって長く尾をひいた。馬に乗った一群のひとびとがはるか下のほうに見え、ゆっくりと道を進んできた。ところが、彼らはもう少しで山のふもとにつくというとき、急に違う方向にそれてしまった。太陽の最後の光が消えうせ、蝙蝠が夕闇のなかをひらひら舞いはじめた。路は次第にぼんやりしてきて、もうそこには何ひとつ動くものは見当らなくなった。ただ、ときおり農夫が野良仕事からとぼとぼ家路にむかってゆくだけだった。
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何が、花嫁の小さな胸におこっているかすかな動揺をあらわしていましたか。
|
顔や襟もとにさす赤み、静かな胸の高まり、ときおり幻想にふける眼ざし、すべてが花嫁の小さな胸におこっているかすかな動揺をあらわしていました。
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JCRRAG_001115
|
国語
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城は大わらわで彼をむかえるにふさわしい歓迎の準備をしていた。美しい花嫁はなみなみならず念入りに飾りたてられた。例の二人の叔母が彼女の化粧を受けもち、朝のうちいっぱい、彼女の装身具のひとつひとつについて言いあらそいをしていた。当の花嫁は、二人のいさかいを巧みに利用して、自分の好みどおりにしたが、幸いにしてそれは申し分のないものだった。彼女の美しさといったら、世の若い花婿がこれ以上を望むことはとうていできないほどだったし、期待にときめく心で彼女の魅力はいっそう輝きを増していた。
顔や襟もとにさす赤み、静かな胸の高まり、ときおり幻想にふける眼ざし、すべてが彼女の小さな胸におこっているかすかな動揺をあらわしていた。叔母たちは絶えず彼女のまわりをうろうろしていた。未婚の叔母というものは、とかくこういうことにたいへん興味をもつものなのだ。叔母たちは彼女に、どう振舞ったらよいか、どんなことを言えばよいか、また、どういうふうに心まちの愛人を迎えればよいか、ということについて、何くれとなく真面目な助言をあたえていた。
男爵もそれに劣らぬほど準備にいそがしかった。彼には、実のところ、これといってしなければならないことは全くなかった。しかし、彼は生れつきせっかちな気ぜわしい男だったから、まわりの人たちがみなせかせかしているのに、平気で落ちついていられるはずはなかった。彼は心配でたまらないといった様子で、城の上から下までやきもきしながら歩きまわった。仕事をしている召使たちを絶えず呼びたてて、怠けずに働くようにいましめたり、また、広間という広間、部屋という部屋を、何もしないでせかせかとうるさくどなりまわり、まるで暑い夏の日に大きな青蠅がぶんぶんとびまわるようだった。
そのあいだにも、犢の肥ったのが殺され、森には猟師たちの喚声がひびき、厨は山海の珍味でいっぱいになり、酒蔵からはライン酒やフェルネ酒がしこたま運びだされた。そしてハイデルベルクの大酒樽さえ徴発されてきた。用意万端ととのって、ドイツ風の真心こめた歓待の精神で、にぎやかにその賓客を迎えるばかりになった。ところが、その客はなかなか現われなかった。時間は刻々とすぎていった。太陽は先刻までオーデンヴァルトのこんもりした森にさんさんたる光を頭上からそそいでいたが、今は山の嶺にそってかすかに光っていた。男爵はいちばん高い櫓にのぼり、遠くに伯爵とその従者たちが見えないものかと思って瞳をこらした。一度は彼らを見たと思った。角笛の音が谷間から流れてきて、山のこだまとなって長く尾をひいた。馬に乗った一群のひとびとがはるか下のほうに見え、ゆっくりと道を進んできた。ところが、彼らはもう少しで山のふもとにつくというとき、急に違う方向にそれてしまった。太陽の最後の光が消えうせ、蝙蝠が夕闇のなかをひらひら舞いはじめた。路は次第にぼんやりしてきて、もうそこには何ひとつ動くものは見当らなくなった。ただ、ときおり農夫が野良仕事からとぼとぼ家路にむかってゆくだけだった。
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男爵は生れつきどんな男でしたか。
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男爵は生れつきせっかちな気ぜわしい男でした。
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JCRRAG_001116
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国語
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城は大わらわで彼をむかえるにふさわしい歓迎の準備をしていた。美しい花嫁はなみなみならず念入りに飾りたてられた。例の二人の叔母が彼女の化粧を受けもち、朝のうちいっぱい、彼女の装身具のひとつひとつについて言いあらそいをしていた。当の花嫁は、二人のいさかいを巧みに利用して、自分の好みどおりにしたが、幸いにしてそれは申し分のないものだった。彼女の美しさといったら、世の若い花婿がこれ以上を望むことはとうていできないほどだったし、期待にときめく心で彼女の魅力はいっそう輝きを増していた。
顔や襟もとにさす赤み、静かな胸の高まり、ときおり幻想にふける眼ざし、すべてが彼女の小さな胸におこっているかすかな動揺をあらわしていた。叔母たちは絶えず彼女のまわりをうろうろしていた。未婚の叔母というものは、とかくこういうことにたいへん興味をもつものなのだ。叔母たちは彼女に、どう振舞ったらよいか、どんなことを言えばよいか、また、どういうふうに心まちの愛人を迎えればよいか、ということについて、何くれとなく真面目な助言をあたえていた。
男爵もそれに劣らぬほど準備にいそがしかった。彼には、実のところ、これといってしなければならないことは全くなかった。しかし、彼は生れつきせっかちな気ぜわしい男だったから、まわりの人たちがみなせかせかしているのに、平気で落ちついていられるはずはなかった。彼は心配でたまらないといった様子で、城の上から下までやきもきしながら歩きまわった。仕事をしている召使たちを絶えず呼びたてて、怠けずに働くようにいましめたり、また、広間という広間、部屋という部屋を、何もしないでせかせかとうるさくどなりまわり、まるで暑い夏の日に大きな青蠅がぶんぶんとびまわるようだった。
そのあいだにも、犢の肥ったのが殺され、森には猟師たちの喚声がひびき、厨は山海の珍味でいっぱいになり、酒蔵からはライン酒やフェルネ酒がしこたま運びだされた。そしてハイデルベルクの大酒樽さえ徴発されてきた。用意万端ととのって、ドイツ風の真心こめた歓待の精神で、にぎやかにその賓客を迎えるばかりになった。ところが、その客はなかなか現われなかった。時間は刻々とすぎていった。太陽は先刻までオーデンヴァルトのこんもりした森にさんさんたる光を頭上からそそいでいたが、今は山の嶺にそってかすかに光っていた。男爵はいちばん高い櫓にのぼり、遠くに伯爵とその従者たちが見えないものかと思って瞳をこらした。一度は彼らを見たと思った。角笛の音が谷間から流れてきて、山のこだまとなって長く尾をひいた。馬に乗った一群のひとびとがはるか下のほうに見え、ゆっくりと道を進んできた。ところが、彼らはもう少しで山のふもとにつくというとき、急に違う方向にそれてしまった。太陽の最後の光が消えうせ、蝙蝠が夕闇のなかをひらひら舞いはじめた。路は次第にぼんやりしてきて、もうそこには何ひとつ動くものは見当らなくなった。ただ、ときおり農夫が野良仕事からとぼとぼ家路にむかってゆくだけだった。
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森には誰の喚声がひびきましたか。
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森には猟師たちの喚声がひびきました。
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JCRRAG_001117
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国語
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城は大わらわで彼をむかえるにふさわしい歓迎の準備をしていた。美しい花嫁はなみなみならず念入りに飾りたてられた。例の二人の叔母が彼女の化粧を受けもち、朝のうちいっぱい、彼女の装身具のひとつひとつについて言いあらそいをしていた。当の花嫁は、二人のいさかいを巧みに利用して、自分の好みどおりにしたが、幸いにしてそれは申し分のないものだった。彼女の美しさといったら、世の若い花婿がこれ以上を望むことはとうていできないほどだったし、期待にときめく心で彼女の魅力はいっそう輝きを増していた。
顔や襟もとにさす赤み、静かな胸の高まり、ときおり幻想にふける眼ざし、すべてが彼女の小さな胸におこっているかすかな動揺をあらわしていた。叔母たちは絶えず彼女のまわりをうろうろしていた。未婚の叔母というものは、とかくこういうことにたいへん興味をもつものなのだ。叔母たちは彼女に、どう振舞ったらよいか、どんなことを言えばよいか、また、どういうふうに心まちの愛人を迎えればよいか、ということについて、何くれとなく真面目な助言をあたえていた。
男爵もそれに劣らぬほど準備にいそがしかった。彼には、実のところ、これといってしなければならないことは全くなかった。しかし、彼は生れつきせっかちな気ぜわしい男だったから、まわりの人たちがみなせかせかしているのに、平気で落ちついていられるはずはなかった。彼は心配でたまらないといった様子で、城の上から下までやきもきしながら歩きまわった。仕事をしている召使たちを絶えず呼びたてて、怠けずに働くようにいましめたり、また、広間という広間、部屋という部屋を、何もしないでせかせかとうるさくどなりまわり、まるで暑い夏の日に大きな青蠅がぶんぶんとびまわるようだった。
そのあいだにも、犢の肥ったのが殺され、森には猟師たちの喚声がひびき、厨は山海の珍味でいっぱいになり、酒蔵からはライン酒やフェルネ酒がしこたま運びだされた。そしてハイデルベルクの大酒樽さえ徴発されてきた。用意万端ととのって、ドイツ風の真心こめた歓待の精神で、にぎやかにその賓客を迎えるばかりになった。ところが、その客はなかなか現われなかった。時間は刻々とすぎていった。太陽は先刻までオーデンヴァルトのこんもりした森にさんさんたる光を頭上からそそいでいたが、今は山の嶺にそってかすかに光っていた。男爵はいちばん高い櫓にのぼり、遠くに伯爵とその従者たちが見えないものかと思って瞳をこらした。一度は彼らを見たと思った。角笛の音が谷間から流れてきて、山のこだまとなって長く尾をひいた。馬に乗った一群のひとびとがはるか下のほうに見え、ゆっくりと道を進んできた。ところが、彼らはもう少しで山のふもとにつくというとき、急に違う方向にそれてしまった。太陽の最後の光が消えうせ、蝙蝠が夕闇のなかをひらひら舞いはじめた。路は次第にぼんやりしてきて、もうそこには何ひとつ動くものは見当らなくなった。ただ、ときおり農夫が野良仕事からとぼとぼ家路にむかってゆくだけだった。
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酒蔵からは何がしこたま運びだされましたか。
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酒蔵からはライン酒やフェルネ酒がしこたま運びだされました。
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JCRRAG_001118
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国語
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ランドショートの古城がこうした混乱状態におかれていたとき、オーデンヴァルトのほかの方面では、ひじょうに興味ある光景が展開していた。
フォン・アルテンブルク若伯爵は、落ちついたゆっくりした足どりで、のどかに結婚式への旅をつづけていた。どんな男でも、友人たちが求婚のわずらわしさや不安をいっさい自分の手から取り除いてくれて、しかも花嫁が目的地で待っているのは、晩餐が自分を待ちうけているのと同様たしかなことだとなれば、だれしもそんな足どりで旅をするものだ。彼はヴルツブルクで若い戦友に出あった。相手は国境で勤務を共にしたことのある男で、ヘルマン・フォン・シュタルケンファウストといい、ドイツ騎士団のなかでもっとも勇猛で立派な勇士の一人で、ちょうど軍隊から還るところだった。彼の父の城は、ランドショートの古城砦から遠くはなかったが、代々の反目から、両家は敵意をいだき、たがいによそよそしくしていた。
なつかしい再会の機会にめぐまれて、若い友人たちは、自分たちの過去の冒険や武運のことを残らず語りあった。そして伯爵は、ある若い婦人とこれから婚礼をあげることになったいきさつを、いちぶしじゅう物語った。自分はまだその婦人に一度も会ったことはないのだが、その人の美しさといったら、実にうっとりするほどだと聞いている、と伯爵は言った。
この友人たちの行く道はおなじ方向だったから、これから先の旅をいっしょにしようということになった。そして、のんきに旅をすることができるように、彼らは朝早くヴルツブルクを発った。伯爵は自分の従者たちに命じて、あとからきて追いつくように言った。
彼らは軍隊生活や冒険を思い出しては道中のつれづれをまぎらした。しかし、伯爵は、ときとしていくらかくどくなるほど、その花嫁の音にきこえた美しさや、彼を待っている幸福について話した。
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ランドショートの古城が混乱状態におかれていたとき、どこで、ひじょうに興味ある光景が展開していましたか。
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ランドショートの古城が混乱状態におかれていたとき、オーデンヴァルトのほかの方面では、ひじょうに興味ある光景が展開していました。
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JCRRAG_001119
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国語
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ランドショートの古城がこうした混乱状態におかれていたとき、オーデンヴァルトのほかの方面では、ひじょうに興味ある光景が展開していた。
フォン・アルテンブルク若伯爵は、落ちついたゆっくりした足どりで、のどかに結婚式への旅をつづけていた。どんな男でも、友人たちが求婚のわずらわしさや不安をいっさい自分の手から取り除いてくれて、しかも花嫁が目的地で待っているのは、晩餐が自分を待ちうけているのと同様たしかなことだとなれば、だれしもそんな足どりで旅をするものだ。彼はヴルツブルクで若い戦友に出あった。相手は国境で勤務を共にしたことのある男で、ヘルマン・フォン・シュタルケンファウストといい、ドイツ騎士団のなかでもっとも勇猛で立派な勇士の一人で、ちょうど軍隊から還るところだった。彼の父の城は、ランドショートの古城砦から遠くはなかったが、代々の反目から、両家は敵意をいだき、たがいによそよそしくしていた。
なつかしい再会の機会にめぐまれて、若い友人たちは、自分たちの過去の冒険や武運のことを残らず語りあった。そして伯爵は、ある若い婦人とこれから婚礼をあげることになったいきさつを、いちぶしじゅう物語った。自分はまだその婦人に一度も会ったことはないのだが、その人の美しさといったら、実にうっとりするほどだと聞いている、と伯爵は言った。
この友人たちの行く道はおなじ方向だったから、これから先の旅をいっしょにしようということになった。そして、のんきに旅をすることができるように、彼らは朝早くヴルツブルクを発った。伯爵は自分の従者たちに命じて、あとからきて追いつくように言った。
彼らは軍隊生活や冒険を思い出しては道中のつれづれをまぎらした。しかし、伯爵は、ときとしていくらかくどくなるほど、その花嫁の音にきこえた美しさや、彼を待っている幸福について話した。
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若伯爵はどこで若い戦友に出あいましたか。
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若伯爵はヴルツブルクで若い戦友に出あいました。
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JCRRAG_001120
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国語
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ランドショートの古城がこうした混乱状態におかれていたとき、オーデンヴァルトのほかの方面では、ひじょうに興味ある光景が展開していた。
フォン・アルテンブルク若伯爵は、落ちついたゆっくりした足どりで、のどかに結婚式への旅をつづけていた。どんな男でも、友人たちが求婚のわずらわしさや不安をいっさい自分の手から取り除いてくれて、しかも花嫁が目的地で待っているのは、晩餐が自分を待ちうけているのと同様たしかなことだとなれば、だれしもそんな足どりで旅をするものだ。彼はヴルツブルクで若い戦友に出あった。相手は国境で勤務を共にしたことのある男で、ヘルマン・フォン・シュタルケンファウストといい、ドイツ騎士団のなかでもっとも勇猛で立派な勇士の一人で、ちょうど軍隊から還るところだった。彼の父の城は、ランドショートの古城砦から遠くはなかったが、代々の反目から、両家は敵意をいだき、たがいによそよそしくしていた。
なつかしい再会の機会にめぐまれて、若い友人たちは、自分たちの過去の冒険や武運のことを残らず語りあった。そして伯爵は、ある若い婦人とこれから婚礼をあげることになったいきさつを、いちぶしじゅう物語った。自分はまだその婦人に一度も会ったことはないのだが、その人の美しさといったら、実にうっとりするほどだと聞いている、と伯爵は言った。
この友人たちの行く道はおなじ方向だったから、これから先の旅をいっしょにしようということになった。そして、のんきに旅をすることができるように、彼らは朝早くヴルツブルクを発った。伯爵は自分の従者たちに命じて、あとからきて追いつくように言った。
彼らは軍隊生活や冒険を思い出しては道中のつれづれをまぎらした。しかし、伯爵は、ときとしていくらかくどくなるほど、その花嫁の音にきこえた美しさや、彼を待っている幸福について話した。
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ヘルマン・フォン・シュタルケンファウストは、どこでもっとも勇猛で立派な勇士の一人でしたか。
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ヘルマン・フォン・シュタルケンファウストは、ドイツ騎士団のなかでもっとも勇猛で立派な勇士の一人でした。
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JCRRAG_001121
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国語
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ランドショートの古城がこうした混乱状態におかれていたとき、オーデンヴァルトのほかの方面では、ひじょうに興味ある光景が展開していた。
フォン・アルテンブルク若伯爵は、落ちついたゆっくりした足どりで、のどかに結婚式への旅をつづけていた。どんな男でも、友人たちが求婚のわずらわしさや不安をいっさい自分の手から取り除いてくれて、しかも花嫁が目的地で待っているのは、晩餐が自分を待ちうけているのと同様たしかなことだとなれば、だれしもそんな足どりで旅をするものだ。彼はヴルツブルクで若い戦友に出あった。相手は国境で勤務を共にしたことのある男で、ヘルマン・フォン・シュタルケンファウストといい、ドイツ騎士団のなかでもっとも勇猛で立派な勇士の一人で、ちょうど軍隊から還るところだった。彼の父の城は、ランドショートの古城砦から遠くはなかったが、代々の反目から、両家は敵意をいだき、たがいによそよそしくしていた。
なつかしい再会の機会にめぐまれて、若い友人たちは、自分たちの過去の冒険や武運のことを残らず語りあった。そして伯爵は、ある若い婦人とこれから婚礼をあげることになったいきさつを、いちぶしじゅう物語った。自分はまだその婦人に一度も会ったことはないのだが、その人の美しさといったら、実にうっとりするほどだと聞いている、と伯爵は言った。
この友人たちの行く道はおなじ方向だったから、これから先の旅をいっしょにしようということになった。そして、のんきに旅をすることができるように、彼らは朝早くヴルツブルクを発った。伯爵は自分の従者たちに命じて、あとからきて追いつくように言った。
彼らは軍隊生活や冒険を思い出しては道中のつれづれをまぎらした。しかし、伯爵は、ときとしていくらかくどくなるほど、その花嫁の音にきこえた美しさや、彼を待っている幸福について話した。
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若い友人たちは、何を語りあいましたか。
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若い友人たちは、自分たちの過去の冒険や武運のことを残らず語りあいました。
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JCRRAG_001122
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国語
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ランドショートの古城がこうした混乱状態におかれていたとき、オーデンヴァルトのほかの方面では、ひじょうに興味ある光景が展開していた。
フォン・アルテンブルク若伯爵は、落ちついたゆっくりした足どりで、のどかに結婚式への旅をつづけていた。どんな男でも、友人たちが求婚のわずらわしさや不安をいっさい自分の手から取り除いてくれて、しかも花嫁が目的地で待っているのは、晩餐が自分を待ちうけているのと同様たしかなことだとなれば、だれしもそんな足どりで旅をするものだ。彼はヴルツブルクで若い戦友に出あった。相手は国境で勤務を共にしたことのある男で、ヘルマン・フォン・シュタルケンファウストといい、ドイツ騎士団のなかでもっとも勇猛で立派な勇士の一人で、ちょうど軍隊から還るところだった。彼の父の城は、ランドショートの古城砦から遠くはなかったが、代々の反目から、両家は敵意をいだき、たがいによそよそしくしていた。
なつかしい再会の機会にめぐまれて、若い友人たちは、自分たちの過去の冒険や武運のことを残らず語りあった。そして伯爵は、ある若い婦人とこれから婚礼をあげることになったいきさつを、いちぶしじゅう物語った。自分はまだその婦人に一度も会ったことはないのだが、その人の美しさといったら、実にうっとりするほどだと聞いている、と伯爵は言った。
この友人たちの行く道はおなじ方向だったから、これから先の旅をいっしょにしようということになった。そして、のんきに旅をすることができるように、彼らは朝早くヴルツブルクを発った。伯爵は自分の従者たちに命じて、あとからきて追いつくように言った。
彼らは軍隊生活や冒険を思い出しては道中のつれづれをまぎらした。しかし、伯爵は、ときとしていくらかくどくなるほど、その花嫁の音にきこえた美しさや、彼を待っている幸福について話した。
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彼らはいつヴルツブルクを発ちましたか。
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彼らは朝早くヴルツブルクを発ちました。
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JCRRAG_001123
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国語
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このようにして彼らはオーデンヴァルトの山中にはいり、そのなかでも一番ものさびしい、うっそうと樹木の生いしげった山路を越えかかっていた。周知のように、ドイツの森林にはいつも盗賊がはびこっていたが、それはドイツの城に幽霊がよく出没するのとおなじことである。それに当時は解散した兵士の群が国じゅうを流れあるいていたので、こんな盗賊がことに多かった。それだから、この騎士たちが、こうした無頼漢の一味に森の真中で襲われたといっても、別におどろくべきことではあるまい。彼らは勇ましく防いだものの、危くうち負かされそうになった。だが、ちょうどそのとき伯爵の従者が到着し、助太刀しようとした。盗賊たちは彼らを見て逃げだしたが、そのときすでに伯爵は致命傷を負っていた。彼はそろそろと傷を悪くしないように用心しながらヴルツブルクの町へ運びかえされ、それから一人の修道僧が近くの修道院から招かれた。この僧は魂を救うのもうまかったが、身体の治療にかけても有名だった。だが彼の手練も、医術のほうはもはや役に立たなかった。不幸な伯爵の余命は数刻のうちに迫っていたのだ。
いまわの息も絶えだえに、彼は切にその友にねがって、ただちにランドショートの城へ行き、彼が花嫁との約束をはたすことができなくなったやむをえない理由を説明してくれるように言った。彼は恋人としてもっとも熱烈なものというのではなかったが、きわめて几帳面な男で、この使命がいちはやく丁重にはたされることをしきりに望んでいるように見えた。「もしこれが果されないならば」と彼は言った。「ぼくは墓のなかで安らかに眠れないだろう」彼はこの最後の言葉をことさらおごそかに繰りかえした。このような感動的な一瞬にものを頼まれたらためらっているわけにはいかなかった。シュタルケンファウストは伯爵をなだめて気を落ちつかせようとつとめ、誠意をこめてその望みをはたすことを約束し、おごそかな誓いのしるしの手を彼に差しのべた。瀕死の男は感謝してその手をにぎりしめたが、間もなく夢うつつの状態におちいり、花嫁のこと、婚約のこと、誓いの言葉を口走り、馬を命じて、自分でランドショートの城へ乗ってゆくとうわごとを言った。そして、ついに息をひきとったが、鞍へとびのるような恰好をしていた。
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ドイツの森林にはいつも何がはびこっていましたか。
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ドイツの森林にはいつも盗賊がはびこっていました。
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JCRRAG_001124
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国語
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このようにして彼らはオーデンヴァルトの山中にはいり、そのなかでも一番ものさびしい、うっそうと樹木の生いしげった山路を越えかかっていた。周知のように、ドイツの森林にはいつも盗賊がはびこっていたが、それはドイツの城に幽霊がよく出没するのとおなじことである。それに当時は解散した兵士の群が国じゅうを流れあるいていたので、こんな盗賊がことに多かった。それだから、この騎士たちが、こうした無頼漢の一味に森の真中で襲われたといっても、別におどろくべきことではあるまい。彼らは勇ましく防いだものの、危くうち負かされそうになった。だが、ちょうどそのとき伯爵の従者が到着し、助太刀しようとした。盗賊たちは彼らを見て逃げだしたが、そのときすでに伯爵は致命傷を負っていた。彼はそろそろと傷を悪くしないように用心しながらヴルツブルクの町へ運びかえされ、それから一人の修道僧が近くの修道院から招かれた。この僧は魂を救うのもうまかったが、身体の治療にかけても有名だった。だが彼の手練も、医術のほうはもはや役に立たなかった。不幸な伯爵の余命は数刻のうちに迫っていたのだ。
いまわの息も絶えだえに、彼は切にその友にねがって、ただちにランドショートの城へ行き、彼が花嫁との約束をはたすことができなくなったやむをえない理由を説明してくれるように言った。彼は恋人としてもっとも熱烈なものというのではなかったが、きわめて几帳面な男で、この使命がいちはやく丁重にはたされることをしきりに望んでいるように見えた。「もしこれが果されないならば」と彼は言った。「ぼくは墓のなかで安らかに眠れないだろう」彼はこの最後の言葉をことさらおごそかに繰りかえした。このような感動的な一瞬にものを頼まれたらためらっているわけにはいかなかった。シュタルケンファウストは伯爵をなだめて気を落ちつかせようとつとめ、誠意をこめてその望みをはたすことを約束し、おごそかな誓いのしるしの手を彼に差しのべた。瀕死の男は感謝してその手をにぎりしめたが、間もなく夢うつつの状態におちいり、花嫁のこと、婚約のこと、誓いの言葉を口走り、馬を命じて、自分でランドショートの城へ乗ってゆくとうわごとを言った。そして、ついに息をひきとったが、鞍へとびのるような恰好をしていた。
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当時は何の群が国じゅうを流れあるいていましたか。
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当時は解散した兵士の群が国じゅうを流れあるいていました。
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JCRRAG_001125
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国語
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このようにして彼らはオーデンヴァルトの山中にはいり、そのなかでも一番ものさびしい、うっそうと樹木の生いしげった山路を越えかかっていた。周知のように、ドイツの森林にはいつも盗賊がはびこっていたが、それはドイツの城に幽霊がよく出没するのとおなじことである。それに当時は解散した兵士の群が国じゅうを流れあるいていたので、こんな盗賊がことに多かった。それだから、この騎士たちが、こうした無頼漢の一味に森の真中で襲われたといっても、別におどろくべきことではあるまい。彼らは勇ましく防いだものの、危くうち負かされそうになった。だが、ちょうどそのとき伯爵の従者が到着し、助太刀しようとした。盗賊たちは彼らを見て逃げだしたが、そのときすでに伯爵は致命傷を負っていた。彼はそろそろと傷を悪くしないように用心しながらヴルツブルクの町へ運びかえされ、それから一人の修道僧が近くの修道院から招かれた。この僧は魂を救うのもうまかったが、身体の治療にかけても有名だった。だが彼の手練も、医術のほうはもはや役に立たなかった。不幸な伯爵の余命は数刻のうちに迫っていたのだ。
いまわの息も絶えだえに、彼は切にその友にねがって、ただちにランドショートの城へ行き、彼が花嫁との約束をはたすことができなくなったやむをえない理由を説明してくれるように言った。彼は恋人としてもっとも熱烈なものというのではなかったが、きわめて几帳面な男で、この使命がいちはやく丁重にはたされることをしきりに望んでいるように見えた。「もしこれが果されないならば」と彼は言った。「ぼくは墓のなかで安らかに眠れないだろう」彼はこの最後の言葉をことさらおごそかに繰りかえした。このような感動的な一瞬にものを頼まれたらためらっているわけにはいかなかった。シュタルケンファウストは伯爵をなだめて気を落ちつかせようとつとめ、誠意をこめてその望みをはたすことを約束し、おごそかな誓いのしるしの手を彼に差しのべた。瀕死の男は感謝してその手をにぎりしめたが、間もなく夢うつつの状態におちいり、花嫁のこと、婚約のこと、誓いの言葉を口走り、馬を命じて、自分でランドショートの城へ乗ってゆくとうわごとを言った。そして、ついに息をひきとったが、鞍へとびのるような恰好をしていた。
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盗賊たちが伯爵の従者を見て逃げ出したとき、誰が致命傷を負っていましたか。
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盗賊たちが伯爵の従者を見て逃げ出したとき、伯爵が致命傷を負っていました。
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JCRRAG_001126
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国語
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このようにして彼らはオーデンヴァルトの山中にはいり、そのなかでも一番ものさびしい、うっそうと樹木の生いしげった山路を越えかかっていた。周知のように、ドイツの森林にはいつも盗賊がはびこっていたが、それはドイツの城に幽霊がよく出没するのとおなじことである。それに当時は解散した兵士の群が国じゅうを流れあるいていたので、こんな盗賊がことに多かった。それだから、この騎士たちが、こうした無頼漢の一味に森の真中で襲われたといっても、別におどろくべきことではあるまい。彼らは勇ましく防いだものの、危くうち負かされそうになった。だが、ちょうどそのとき伯爵の従者が到着し、助太刀しようとした。盗賊たちは彼らを見て逃げだしたが、そのときすでに伯爵は致命傷を負っていた。彼はそろそろと傷を悪くしないように用心しながらヴルツブルクの町へ運びかえされ、それから一人の修道僧が近くの修道院から招かれた。この僧は魂を救うのもうまかったが、身体の治療にかけても有名だった。だが彼の手練も、医術のほうはもはや役に立たなかった。不幸な伯爵の余命は数刻のうちに迫っていたのだ。
いまわの息も絶えだえに、彼は切にその友にねがって、ただちにランドショートの城へ行き、彼が花嫁との約束をはたすことができなくなったやむをえない理由を説明してくれるように言った。彼は恋人としてもっとも熱烈なものというのではなかったが、きわめて几帳面な男で、この使命がいちはやく丁重にはたされることをしきりに望んでいるように見えた。「もしこれが果されないならば」と彼は言った。「ぼくは墓のなかで安らかに眠れないだろう」彼はこの最後の言葉をことさらおごそかに繰りかえした。このような感動的な一瞬にものを頼まれたらためらっているわけにはいかなかった。シュタルケンファウストは伯爵をなだめて気を落ちつかせようとつとめ、誠意をこめてその望みをはたすことを約束し、おごそかな誓いのしるしの手を彼に差しのべた。瀕死の男は感謝してその手をにぎりしめたが、間もなく夢うつつの状態におちいり、花嫁のこと、婚約のこと、誓いの言葉を口走り、馬を命じて、自分でランドショートの城へ乗ってゆくとうわごとを言った。そして、ついに息をひきとったが、鞍へとびのるような恰好をしていた。
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伯爵はどこに運びかえされましたか。
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伯爵はヴルツブルクの町へ運びかえされました。
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JCRRAG_001127
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国語
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シュタルケンファウストは嘆息して、武士の涙を注いで友人の時ならぬ非運を悼んだ。それから自分が引きうけた厄介な使命のことをしみじみと考えた。彼の心は重く、頭は混乱した。招かれぬ客として敵意のあるひとびとのなかにあらわれ、そしてその人たちの希望をふみにじるようなことを知らせて、祝宴をしめっぽくしなければならないのだ。それにもかかわらず、彼の心には、ある好奇心がささやいて、カッツェンエレンボーゲンの名高い美人で、それほどまでに用心ぶかく世間からへだてられていた人をひとめ見たいと思っていた。彼は女性の熱烈な崇拝者であり、また、その性格には、奇癖と山気とがいくらかあり、そのために変った冒険ならどんなことでも好きだった。
出発に先立って、彼は友の葬儀について修道院の僧たちとしかるべき手筈をととのえた。友はヴルツブルクの寺院に埋葬されることになったが、その近くには彼の名高い親戚がいた。服喪中の伯爵の従者たちがその遺骸をあずかった。
ところで今こそカッツェンエレンボーゲンの旧家に話をもどすべきときだ。この人たちは来客を待ちわび、そしてまたそれ以上に御馳走を待ちこがれているのだ。また、尊敬すべき小男の男爵に話をもどさなければならない。彼は物見櫓の上で吹きさらしになっている。
夜は迫っていたが、やはり客は来なかった。男爵はがっかりして櫓からおりた。宴会は今まで一時間一時間とおくらされてきたが、もうこれ以上のばすわけにはいかなかった。肉はとっくに焼けすぎて、料理人は困りはてていた。家のもの全部の顔つきがまるで飢餓のために参ってしまった守備兵のようだった。男爵はしぶしぶながら命令をくだして、賓客がいないままで祝宴をはじめようとした。皆が食卓につき、ちょうど食べはじめるばかりになった折りも折り、角笛の音が城のそとからひびいてきて、見知らぬ人が近づいてくるのを知らせた。ふたたび吹きならす長い音のこだまが、古びた城の中庭にひびきわたると、城壁から見張りがそれに答えた。男爵はいそいで未来の花婿を迎えに出ていった。
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シュタルケンファウストは何を悼みましたか。
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シュタルケンファウストは友人の時ならぬ非運を悼みました。
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JCRRAG_001128
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国語
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シュタルケンファウストは嘆息して、武士の涙を注いで友人の時ならぬ非運を悼んだ。それから自分が引きうけた厄介な使命のことをしみじみと考えた。彼の心は重く、頭は混乱した。招かれぬ客として敵意のあるひとびとのなかにあらわれ、そしてその人たちの希望をふみにじるようなことを知らせて、祝宴をしめっぽくしなければならないのだ。それにもかかわらず、彼の心には、ある好奇心がささやいて、カッツェンエレンボーゲンの名高い美人で、それほどまでに用心ぶかく世間からへだてられていた人をひとめ見たいと思っていた。彼は女性の熱烈な崇拝者であり、また、その性格には、奇癖と山気とがいくらかあり、そのために変った冒険ならどんなことでも好きだった。
出発に先立って、彼は友の葬儀について修道院の僧たちとしかるべき手筈をととのえた。友はヴルツブルクの寺院に埋葬されることになったが、その近くには彼の名高い親戚がいた。服喪中の伯爵の従者たちがその遺骸をあずかった。
ところで今こそカッツェンエレンボーゲンの旧家に話をもどすべきときだ。この人たちは来客を待ちわび、そしてまたそれ以上に御馳走を待ちこがれているのだ。また、尊敬すべき小男の男爵に話をもどさなければならない。彼は物見櫓の上で吹きさらしになっている。
夜は迫っていたが、やはり客は来なかった。男爵はがっかりして櫓からおりた。宴会は今まで一時間一時間とおくらされてきたが、もうこれ以上のばすわけにはいかなかった。肉はとっくに焼けすぎて、料理人は困りはてていた。家のもの全部の顔つきがまるで飢餓のために参ってしまった守備兵のようだった。男爵はしぶしぶながら命令をくだして、賓客がいないままで祝宴をはじめようとした。皆が食卓につき、ちょうど食べはじめるばかりになった折りも折り、角笛の音が城のそとからひびいてきて、見知らぬ人が近づいてくるのを知らせた。ふたたび吹きならす長い音のこだまが、古びた城の中庭にひびきわたると、城壁から見張りがそれに答えた。男爵はいそいで未来の花婿を迎えに出ていった。
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何がとっくに焼けすぎていましたか。
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肉がとっくに焼けすぎていました。
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JCRRAG_001129
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国語
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シュタルケンファウストは嘆息して、武士の涙を注いで友人の時ならぬ非運を悼んだ。それから自分が引きうけた厄介な使命のことをしみじみと考えた。彼の心は重く、頭は混乱した。招かれぬ客として敵意のあるひとびとのなかにあらわれ、そしてその人たちの希望をふみにじるようなことを知らせて、祝宴をしめっぽくしなければならないのだ。それにもかかわらず、彼の心には、ある好奇心がささやいて、カッツェンエレンボーゲンの名高い美人で、それほどまでに用心ぶかく世間からへだてられていた人をひとめ見たいと思っていた。彼は女性の熱烈な崇拝者であり、また、その性格には、奇癖と山気とがいくらかあり、そのために変った冒険ならどんなことでも好きだった。
出発に先立って、彼は友の葬儀について修道院の僧たちとしかるべき手筈をととのえた。友はヴルツブルクの寺院に埋葬されることになったが、その近くには彼の名高い親戚がいた。服喪中の伯爵の従者たちがその遺骸をあずかった。
ところで今こそカッツェンエレンボーゲンの旧家に話をもどすべきときだ。この人たちは来客を待ちわび、そしてまたそれ以上に御馳走を待ちこがれているのだ。また、尊敬すべき小男の男爵に話をもどさなければならない。彼は物見櫓の上で吹きさらしになっている。
夜は迫っていたが、やはり客は来なかった。男爵はがっかりして櫓からおりた。宴会は今まで一時間一時間とおくらされてきたが、もうこれ以上のばすわけにはいかなかった。肉はとっくに焼けすぎて、料理人は困りはてていた。家のもの全部の顔つきがまるで飢餓のために参ってしまった守備兵のようだった。男爵はしぶしぶながら命令をくだして、賓客がいないままで祝宴をはじめようとした。皆が食卓につき、ちょうど食べはじめるばかりになった折りも折り、角笛の音が城のそとからひびいてきて、見知らぬ人が近づいてくるのを知らせた。ふたたび吹きならす長い音のこだまが、古びた城の中庭にひびきわたると、城壁から見張りがそれに答えた。男爵はいそいで未来の花婿を迎えに出ていった。
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シュタルケンファウストは何の熱烈な崇拝者でしたか。
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シュタルケンファウストは女性の熱烈な崇拝者でした。
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JCRRAG_001130
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国語
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跳ね橋がもはや下ろされていて、その見知らぬ人は城門の前に進んでいた。彼は背の高い立派な騎士で、黒い馬にまたがっていた。顔色は青ざめていたが、輝かしい神秘的な眼をしていて、堂々としたうちにもうち沈んだところがあった。男爵は彼がこのように簡単なひとりぼっちの旅姿でやってきたことに、いささか気分を悪くした。男爵の威厳をしめそうとする気もちが一瞬きずつけられた。この客の有様はこの重大な場合に正式の礼を欠くものではないか、縁をむすぼうとしている相手の大切な家柄に対しても、敬意が足りないではないか、と彼は考えたくなった。とはいえ、男爵は、相手が若さのためにはやる心をおさえきれず、供のものたちよりも先に着いたに違いないときめて自分をなぐさめた。
「かように時刻もわきまえずにお邪魔してまことに申しわけございません」とその見知らぬ人は言った。
ここで男爵は彼をさえぎって、おびただしい世辞や挨拶を述べたてた。実をいうと、彼は自分が礼儀正しく雄弁であることを鼻にかけていたのである。その見知らぬ人は一、二度その言葉の奔流をせきとめようとしてみたが無駄だった。そこで彼は頭を下げて、その奔流の流れるままにしておいた。男爵がひと句切りするまでには、彼らは城の中庭にきていた。そしてその見知らぬ人はふたたび話しだそうとしたが、またもやさえぎられてしまった。このとき、この家の婦人たちがあらわれて、尻ごみしながら顔をあからめている花嫁を連れてきたのだ。彼は一瞬心をうばわれた人のようにじっと彼女を見つめた。あたかも彼の魂がそっくりその凝視にそそぎこまれ、その美しい姿の上にとどまったかのように思われた。未婚の叔母の一人がなにごとか彼女の耳にささやいた。彼女はなんとか口をひらこうとして、そのうるおいのある青い眼をおそるおそる上げ、この見知らぬ人に問いかけるように、ちらっと恥ずかしそうな視線を向け、やがてまたうつむいてしまった。言葉は消えてしまったが、彼女の唇には愛らしい微笑がただよい、やわらかなえくぼが頬にうかんで、今の一瞥が意に満たないものではなかったことを語っていた。情にもろい十八という年頃の娘は、ただでさえ恋愛や結婚にかたむきやすいのだから、こんなに立派な騎士が気に入らないわけがなかった。
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何がもはや下ろされていましたか。
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跳ね橋がもはや下ろされていました。
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JCRRAG_001131
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国語
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あさぼらけ
砂東 塩
トウヒコウしよう――と、凪は言った。中学校の帰り道のことだ。
頭の中で「トウヒコウ」が「トウ飛行」に変わる。脳が「逃避行」と浮かれた誤字変換を上書きした。
「逃げるの?」
「全部捨てて自由になりたい。歩は今の生活が窮屈じゃない?」
窮屈だろうか、と歩は考えた。
朝起きた頃に母親は「行ってきます」と家を出ていく。歩は一人で朝食をすませて学校。いつもどおりの顔ぶれ、いつもと同じやりとり、凪だけが異質に映る教室。家に帰ったら一人で夕飯。部屋でくつろいでいると「ただいま」と母親の声。彼女がお風呂に入っているうちに料理を温め、一緒にテレビを観て一日が終わる。
歩がベッドに入って目を閉じると、毎晩のように凪の顔が浮かんだ。現実の凪も、寝入りばなに訪れる凪も、その存在がどこか地球にそぐわない気がした。異質で、特別で、宇宙人みたいだ。
「凪には、地球は窮屈かもね」
「地球?」
凪は愉快そうに目を細めた。歩のそういう突拍子もないとこが好き、と事もなげに言う。凪のそういうところが、普通の感覚とズレていると思う。
「今夜、両親いないんだ」
道を曲がってひと気のない路地に入ると、凪は手を繋いできた。汗ばむ季節になっても、凪は手を繋ぐことをやめない。凪が宇宙に帰ったら一生手を繋げないんだろうかと、他愛もない妄想で手に力がこもった。呼応するように、凪も手を握り返してきた。
「地球から脱出するのは難しいけど、海はすぐそこだから」
「海に逃避行するの?」
「歩も一緒に行こうよ。今の季節なら夜もそんなに寒くない」
「夜?」
「今夜行こう。うちに泊まるって言えば大丈夫だよ」
凪の家のすぐ裏が海だった。それって逃避行でも何でもないんじゃないかと思ったけれど、だから「じゃあ行こうかな」と口にした。歩が母親にメールすると、凪のご両親によろしくと返ってきた。画面をのぞき見た凪が、「よろしくだって」と空に向かって報告した。
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母親はいつ家を出ていきますか。
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母親は朝起きた頃に家を出ていきます。
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JCRRAG_001132
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国語
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「行こうか」
歩が凪に揺り起こされて時計を見ると、時刻は午前2時を回っていた。記憶にあるのは0時42分のスマホ表示。日付が変わっても外からは笑い声が聞こえていて、知らないうちに眠ってしまったようだった。
凪は半袖の上にパーカーを羽織り、懐中電灯を手にリビングを出ていく。玄関で虫除けスプレーを吹きつけ、ドアを開けると波の音が耳に飛び込んできた。外灯の明かりがポツポツと道を照らしているだけで、まわりの家は暗く静まっている。
「凪はずっと起きてた?」
歩が問うと、凪は答えた。
「起きてたよ。歩がよだれ垂らしてるとこ、写真に撮っといた」
「えっ」
嘘だよ、と凪は笑う。道を行くと小さな駐車場があり、そこを抜けて砂浜に降りた。
月は低い位置にあって、黒い海の上に光の道をつくっていた。人の気配はない。何か踏んだような気がして足元を見ると花火の残骸だった。凪は気にせずどんどん進み、家から遠ざかっていく。
砂浜の端の岩場近くまで来ると、凪はようやく足を止めた。懐中電灯を切ってその場所に座り込み、水平線に目を向ける。歩が隣に腰をおろすと、凪は肩に頭をのせてきた。潮の匂いと凪の匂いが混じりあい、逃避行なのだと思い出す。繋いだ手に、ザラザラした砂粒を感じた。
「歩、目を閉じて。世界から抜け出せる」
凪の言う通り目を閉じると、波の音に重なって凪の息づかいが聞こえてきた。そこに自分の呼吸と、心臓の音が加わる。ゴーッと飛行機の音がして、「ほらね」と凪がわらった気配があった。
「ここは二人だけの星。誰にも言っちゃダメだよ」
凪の声は、地球の真ん中へんから聞こえて来るようだった。凪は本当は地球人で、それ以外のすべての人が宇宙人なのかもしれない。
「二人だけの地球?」
「夜が明けるまでは」
冷やりとした空気で目を覚ました。凪の寝息が近くにある。そっと体を起こすと、夜明け間近の空は淡いピンク色と水色に染まっていた。
「世界は裏返ったのかもしれない」
声がして後ろを振り返ると、凪が目を開けていた。ゆっくり立ち上がった凪は、世界を摑まえるように両手を広げる。
「歩。きっと、もう逃げなくていいんだ」
凪の向こうで、鏡写しの空が淡いさざなみとなって踊っていた。
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歩が凪の隣に腰をおろすと、凪は何をしてきましたか。
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歩が凪の隣に腰をおろすと、凪は肩に頭をのせてきました。
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JCRRAG_001133
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国語
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歩が凪の家のチャイムを鳴らしたのは、約束の夜9時ちょうどだった。
潮の香りが鼻先をかすめる。風は生ぬるく、家の裏手から笑い声が聞こえた。パチパチと火花が爆ぜる音。見上げると一面に星がひしめきあって、視界を星空だけにしようと体をそらしたらガチャと音がした。
「歩、何やってんの?」
「星、きれいだなあと思って」
そらした背を戻すと、ワンピースを着た凪が立っていた。水色の生地に、腰から下は淡いピンク色のレースが幾重にも重ねられ、風に揺られてヒラヒラ踊っている。
「凪、その格好……」
凪は答える代わりに手を握ってきた。
「今、海に行っても大学生がいるから入って」
何度かお邪魔したことのあるリビングに、いつもは置かれていない姿見があった。凪は鏡の前に立って、クルッと一回転してみせる。首の後ろのリボンを解くと、器用に背中のファスナーを下ろした。そして下着だけになると、「ほら」とワンピースを差し出してきた。
「歩もこういうの好きだと思って」
手のひらが、汗でじっとりと濡れていた。凪の素肌と、ヒラヒラのワンピースの間で視線がウロウロとさまよう。躊躇っていると凪はため息をついて、手に持っていた服をひょいと肩にかけた。
「歩が好きじゃないならいい。着替えてくるからちょっと待ってて」
凪が背を向けた瞬間、思わずフリルをつかんでいた。凪の肩から滑り落ちたワンピースは、床の上に淡いさざなみをつくる。しゃがみこんでレースに触れた。
「これ、誰の服?」
「母親が昔何かの発表会で着た服。いとこが演劇に使いたいからって、クリーニングに出して戻ってきたとこ」
と、凪は答えた。
「着ても、いいの?」
「いいよ、別に。いとこが着るわけじゃないみたいだし、知らない人の汗まみれになる前に歩に着てほしかったんだ」
「どうして?」
「理由を言った方がいい?」
問われて首を振ると、凪はワンピースを拾い上げてフリルを整えた。
「一人じゃ着にくいから」
凪に見つめられながら、ティーシャツとズボンを脱いだ。恥ずかしさと高揚感と、背徳感が胸にある。外から笑い声が聞こえてきた。
「歩にはちょっと大きいかな」
凪の息が、うなじをかすめた。凪の手が、少しきつめにリボンを結ぶ。
「うん。いい感じ」
促されて姿見を見ると、知らない人間が映っていた。凪がしていたようにクルッと一回転すると、裾の中にフワッと空気が入り込んでくる。様子を見ていた凪がクスッと笑った。
「今夜のことはふたりだけの秘密」
うなじに、柔らかく湿ったものが触れた。唇だったかもしれない。それとも、汗で湿った指先だろうか。
「うちの親には言わない。歩の親にも内緒。もちろんクラスの人たちにも」
ファスナーを下ろす音がした。凪の手が肩に触れたかと思うと、ワンピースはストンと床に落ちる。鏡には、素肌を晒した二人の中学生。慌ててティーシャツを手に取る。凪は「着替えてくる」とワンピースを手に部屋を出ていった。
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海には誰がいますか。
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海には大学生がいます。
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JCRRAG_001134
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国語
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歩が凪の家のチャイムを鳴らしたのは、約束の夜9時ちょうどだった。
潮の香りが鼻先をかすめる。風は生ぬるく、家の裏手から笑い声が聞こえた。パチパチと火花が爆ぜる音。見上げると一面に星がひしめきあって、視界を星空だけにしようと体をそらしたらガチャと音がした。
「歩、何やってんの?」
「星、きれいだなあと思って」
そらした背を戻すと、ワンピースを着た凪が立っていた。水色の生地に、腰から下は淡いピンク色のレースが幾重にも重ねられ、風に揺られてヒラヒラ踊っている。
「凪、その格好……」
凪は答える代わりに手を握ってきた。
「今、海に行っても大学生がいるから入って」
何度かお邪魔したことのあるリビングに、いつもは置かれていない姿見があった。凪は鏡の前に立って、クルッと一回転してみせる。首の後ろのリボンを解くと、器用に背中のファスナーを下ろした。そして下着だけになると、「ほら」とワンピースを差し出してきた。
「歩もこういうの好きだと思って」
手のひらが、汗でじっとりと濡れていた。凪の素肌と、ヒラヒラのワンピースの間で視線がウロウロとさまよう。躊躇っていると凪はため息をついて、手に持っていた服をひょいと肩にかけた。
「歩が好きじゃないならいい。着替えてくるからちょっと待ってて」
凪が背を向けた瞬間、思わずフリルをつかんでいた。凪の肩から滑り落ちたワンピースは、床の上に淡いさざなみをつくる。しゃがみこんでレースに触れた。
「これ、誰の服?」
「母親が昔何かの発表会で着た服。いとこが演劇に使いたいからって、クリーニングに出して戻ってきたとこ」
と、凪は答えた。
「着ても、いいの?」
「いいよ、別に。いとこが着るわけじゃないみたいだし、知らない人の汗まみれになる前に歩に着てほしかったんだ」
「どうして?」
「理由を言った方がいい?」
問われて首を振ると、凪はワンピースを拾い上げてフリルを整えた。
「一人じゃ着にくいから」
凪に見つめられながら、ティーシャツとズボンを脱いだ。恥ずかしさと高揚感と、背徳感が胸にある。外から笑い声が聞こえてきた。
「歩にはちょっと大きいかな」
凪の息が、うなじをかすめた。凪の手が、少しきつめにリボンを結ぶ。
「うん。いい感じ」
促されて姿見を見ると、知らない人間が映っていた。凪がしていたようにクルッと一回転すると、裾の中にフワッと空気が入り込んでくる。様子を見ていた凪がクスッと笑った。
「今夜のことはふたりだけの秘密」
うなじに、柔らかく湿ったものが触れた。唇だったかもしれない。それとも、汗で湿った指先だろうか。
「うちの親には言わない。歩の親にも内緒。もちろんクラスの人たちにも」
ファスナーを下ろす音がした。凪の手が肩に触れたかと思うと、ワンピースはストンと床に落ちる。鏡には、素肌を晒した二人の中学生。慌ててティーシャツを手に取る。凪は「着替えてくる」とワンピースを手に部屋を出ていった。
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歩が凪の家のチャイムを鳴らしたのは、何時ちょうどでしたか。
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歩が凪の家のチャイムを鳴らしたのは、夜9時ちょうどでした。
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JCRRAG_001135
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国語
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「行こうか」
歩が凪に揺り起こされて時計を見ると、時刻は午前2時を回っていた。記憶にあるのは0時42分のスマホ表示。日付が変わっても外からは笑い声が聞こえていて、知らないうちに眠ってしまったようだった。
凪は半袖の上にパーカーを羽織り、懐中電灯を手にリビングを出ていく。玄関で虫除けスプレーを吹きつけ、ドアを開けると波の音が耳に飛び込んできた。外灯の明かりがポツポツと道を照らしているだけで、まわりの家は暗く静まっている。
「凪はずっと起きてた?」
歩が問うと、凪は答えた。
「起きてたよ。歩がよだれ垂らしてるとこ、写真に撮っといた」
「えっ」
嘘だよ、と凪は笑う。道を行くと小さな駐車場があり、そこを抜けて砂浜に降りた。
月は低い位置にあって、黒い海の上に光の道をつくっていた。人の気配はない。何か踏んだような気がして足元を見ると花火の残骸だった。凪は気にせずどんどん進み、家から遠ざかっていく。
砂浜の端の岩場近くまで来ると、凪はようやく足を止めた。懐中電灯を切ってその場所に座り込み、水平線に目を向ける。歩が隣に腰をおろすと、凪は肩に頭をのせてきた。潮の匂いと凪の匂いが混じりあい、逃避行なのだと思い出す。繋いだ手に、ザラザラした砂粒を感じた。
「歩、目を閉じて。世界から抜け出せる」
凪の言う通り目を閉じると、波の音に重なって凪の息づかいが聞こえてきた。そこに自分の呼吸と、心臓の音が加わる。ゴーッと飛行機の音がして、「ほらね」と凪がわらった気配があった。
「ここは二人だけの星。誰にも言っちゃダメだよ」
凪の声は、地球の真ん中へんから聞こえて来るようだった。凪は本当は地球人で、それ以外のすべての人が宇宙人なのかもしれない。
「二人だけの地球?」
「夜が明けるまでは」
冷やりとした空気で目を覚ました。凪の寝息が近くにある。そっと体を起こすと、夜明け間近の空は淡いピンク色と水色に染まっていた。
「世界は裏返ったのかもしれない」
声がして後ろを振り返ると、凪が目を開けていた。ゆっくり立ち上がった凪は、世界を摑まえるように両手を広げる。
「歩。きっと、もう逃げなくていいんだ」
凪の向こうで、鏡写しの空が淡いさざなみとなって踊っていた。
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凪は何を手にリビングを出ていきますか。
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凪は懐中電灯を手にリビングを出ていきます。
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JCRRAG_001136
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国語
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歩が凪の家のチャイムを鳴らしたのは、約束の夜9時ちょうどだった。
潮の香りが鼻先をかすめる。風は生ぬるく、家の裏手から笑い声が聞こえた。パチパチと火花が爆ぜる音。見上げると一面に星がひしめきあって、視界を星空だけにしようと体をそらしたらガチャと音がした。
「歩、何やってんの?」
「星、きれいだなあと思って」
そらした背を戻すと、ワンピースを着た凪が立っていた。水色の生地に、腰から下は淡いピンク色のレースが幾重にも重ねられ、風に揺られてヒラヒラ踊っている。
「凪、その格好……」
凪は答える代わりに手を握ってきた。
「今、海に行っても大学生がいるから入って」
何度かお邪魔したことのあるリビングに、いつもは置かれていない姿見があった。凪は鏡の前に立って、クルッと一回転してみせる。首の後ろのリボンを解くと、器用に背中のファスナーを下ろした。そして下着だけになると、「ほら」とワンピースを差し出してきた。
「歩もこういうの好きだと思って」
手のひらが、汗でじっとりと濡れていた。凪の素肌と、ヒラヒラのワンピースの間で視線がウロウロとさまよう。躊躇っていると凪はため息をついて、手に持っていた服をひょいと肩にかけた。
「歩が好きじゃないならいい。着替えてくるからちょっと待ってて」
凪が背を向けた瞬間、思わずフリルをつかんでいた。凪の肩から滑り落ちたワンピースは、床の上に淡いさざなみをつくる。しゃがみこんでレースに触れた。
「これ、誰の服?」
「母親が昔何かの発表会で着た服。いとこが演劇に使いたいからって、クリーニングに出して戻ってきたとこ」
と、凪は答えた。
「着ても、いいの?」
「いいよ、別に。いとこが着るわけじゃないみたいだし、知らない人の汗まみれになる前に歩に着てほしかったんだ」
「どうして?」
「理由を言った方がいい?」
問われて首を振ると、凪はワンピースを拾い上げてフリルを整えた。
「一人じゃ着にくいから」
凪に見つめられながら、ティーシャツとズボンを脱いだ。恥ずかしさと高揚感と、背徳感が胸にある。外から笑い声が聞こえてきた。
「歩にはちょっと大きいかな」
凪の息が、うなじをかすめた。凪の手が、少しきつめにリボンを結ぶ。
「うん。いい感じ」
促されて姿見を見ると、知らない人間が映っていた。凪がしていたようにクルッと一回転すると、裾の中にフワッと空気が入り込んでくる。様子を見ていた凪がクスッと笑った。
「今夜のことはふたりだけの秘密」
うなじに、柔らかく湿ったものが触れた。唇だったかもしれない。それとも、汗で湿った指先だろうか。
「うちの親には言わない。歩の親にも内緒。もちろんクラスの人たちにも」
ファスナーを下ろす音がした。凪の手が肩に触れたかと思うと、ワンピースはストンと床に落ちる。鏡には、素肌を晒した二人の中学生。慌ててティーシャツを手に取る。凪は「着替えてくる」とワンピースを手に部屋を出ていった。
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誰が凪が着ていたワンピースを演劇で使いたいと言っているのですか。
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いとこが、凪が着ていたワンピースを演劇で使いたいと言っています。
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JCRRAG_001137
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国語
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「行こうか」
歩が凪に揺り起こされて時計を見ると、時刻は午前2時を回っていた。記憶にあるのは0時42分のスマホ表示。日付が変わっても外からは笑い声が聞こえていて、知らないうちに眠ってしまったようだった。
凪は半袖の上にパーカーを羽織り、懐中電灯を手にリビングを出ていく。玄関で虫除けスプレーを吹きつけ、ドアを開けると波の音が耳に飛び込んできた。外灯の明かりがポツポツと道を照らしているだけで、まわりの家は暗く静まっている。
「凪はずっと起きてた?」
歩が問うと、凪は答えた。
「起きてたよ。歩がよだれ垂らしてるとこ、写真に撮っといた」
「えっ」
嘘だよ、と凪は笑う。道を行くと小さな駐車場があり、そこを抜けて砂浜に降りた。
月は低い位置にあって、黒い海の上に光の道をつくっていた。人の気配はない。何か踏んだような気がして足元を見ると花火の残骸だった。凪は気にせずどんどん進み、家から遠ざかっていく。
砂浜の端の岩場近くまで来ると、凪はようやく足を止めた。懐中電灯を切ってその場所に座り込み、水平線に目を向ける。歩が隣に腰をおろすと、凪は肩に頭をのせてきた。潮の匂いと凪の匂いが混じりあい、逃避行なのだと思い出す。繋いだ手に、ザラザラした砂粒を感じた。
「歩、目を閉じて。世界から抜け出せる」
凪の言う通り目を閉じると、波の音に重なって凪の息づかいが聞こえてきた。そこに自分の呼吸と、心臓の音が加わる。ゴーッと飛行機の音がして、「ほらね」と凪がわらった気配があった。
「ここは二人だけの星。誰にも言っちゃダメだよ」
凪の声は、地球の真ん中へんから聞こえて来るようだった。凪は本当は地球人で、それ以外のすべての人が宇宙人なのかもしれない。
「二人だけの地球?」
「夜が明けるまでは」
冷やりとした空気で目を覚ました。凪の寝息が近くにある。そっと体を起こすと、夜明け間近の空は淡いピンク色と水色に染まっていた。
「世界は裏返ったのかもしれない」
声がして後ろを振り返ると、凪が目を開けていた。ゆっくり立ち上がった凪は、世界を摑まえるように両手を広げる。
「歩。きっと、もう逃げなくていいんだ」
凪の向こうで、鏡写しの空が淡いさざなみとなって踊っていた。
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歩が凪に揺り起こされて時計を見ると、時刻は何時を回っていましたか。
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歩が凪に揺り起こされて時計を見ると、時刻は午前2時を回っていました。
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JCRRAG_001138
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国語
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あさぼらけ
砂東 塩
トウヒコウしよう――と、凪は言った。中学校の帰り道のことだ。
頭の中で「トウヒコウ」が「トウ飛行」に変わる。脳が「逃避行」と浮かれた誤字変換を上書きした。
「逃げるの?」
「全部捨てて自由になりたい。歩は今の生活が窮屈じゃない?」
窮屈だろうか、と歩は考えた。
朝起きた頃に母親は「行ってきます」と家を出ていく。歩は一人で朝食をすませて学校。いつもどおりの顔ぶれ、いつもと同じやりとり、凪だけが異質に映る教室。家に帰ったら一人で夕飯。部屋でくつろいでいると「ただいま」と母親の声。彼女がお風呂に入っているうちに料理を温め、一緒にテレビを観て一日が終わる。
歩がベッドに入って目を閉じると、毎晩のように凪の顔が浮かんだ。現実の凪も、寝入りばなに訪れる凪も、その存在がどこか地球にそぐわない気がした。異質で、特別で、宇宙人みたいだ。
「凪には、地球は窮屈かもね」
「地球?」
凪は愉快そうに目を細めた。歩のそういう突拍子もないとこが好き、と事もなげに言う。凪のそういうところが、普通の感覚とズレていると思う。
「今夜、両親いないんだ」
道を曲がってひと気のない路地に入ると、凪は手を繋いできた。汗ばむ季節になっても、凪は手を繋ぐことをやめない。凪が宇宙に帰ったら一生手を繋げないんだろうかと、他愛もない妄想で手に力がこもった。呼応するように、凪も手を握り返してきた。
「地球から脱出するのは難しいけど、海はすぐそこだから」
「海に逃避行するの?」
「歩も一緒に行こうよ。今の季節なら夜もそんなに寒くない」
「夜?」
「今夜行こう。うちに泊まるって言えば大丈夫だよ」
凪の家のすぐ裏が海だった。それって逃避行でも何でもないんじゃないかと思ったけれど、だから「じゃあ行こうかな」と口にした。歩が母親にメールすると、凪のご両親によろしくと返ってきた。画面をのぞき見た凪が、「よろしくだって」と空に向かって報告した。
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歩が母親にメールすると、どんな返事が返ってきましたか。
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歩が母親にメールすると、凪のご両親によろしくと返ってきました。
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JCRRAG_001139
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国語
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「行こうか」
歩が凪に揺り起こされて時計を見ると、時刻は午前2時を回っていた。記憶にあるのは0時42分のスマホ表示。日付が変わっても外からは笑い声が聞こえていて、知らないうちに眠ってしまったようだった。
凪は半袖の上にパーカーを羽織り、懐中電灯を手にリビングを出ていく。玄関で虫除けスプレーを吹きつけ、ドアを開けると波の音が耳に飛び込んできた。外灯の明かりがポツポツと道を照らしているだけで、まわりの家は暗く静まっている。
「凪はずっと起きてた?」
歩が問うと、凪は答えた。
「起きてたよ。歩がよだれ垂らしてるとこ、写真に撮っといた」
「えっ」
嘘だよ、と凪は笑う。道を行くと小さな駐車場があり、そこを抜けて砂浜に降りた。
月は低い位置にあって、黒い海の上に光の道をつくっていた。人の気配はない。何か踏んだような気がして足元を見ると花火の残骸だった。凪は気にせずどんどん進み、家から遠ざかっていく。
砂浜の端の岩場近くまで来ると、凪はようやく足を止めた。懐中電灯を切ってその場所に座り込み、水平線に目を向ける。歩が隣に腰をおろすと、凪は肩に頭をのせてきた。潮の匂いと凪の匂いが混じりあい、逃避行なのだと思い出す。繋いだ手に、ザラザラした砂粒を感じた。
「歩、目を閉じて。世界から抜け出せる」
凪の言う通り目を閉じると、波の音に重なって凪の息づかいが聞こえてきた。そこに自分の呼吸と、心臓の音が加わる。ゴーッと飛行機の音がして、「ほらね」と凪がわらった気配があった。
「ここは二人だけの星。誰にも言っちゃダメだよ」
凪の声は、地球の真ん中へんから聞こえて来るようだった。凪は本当は地球人で、それ以外のすべての人が宇宙人なのかもしれない。
「二人だけの地球?」
「夜が明けるまでは」
冷やりとした空気で目を覚ました。凪の寝息が近くにある。そっと体を起こすと、夜明け間近の空は淡いピンク色と水色に染まっていた。
「世界は裏返ったのかもしれない」
声がして後ろを振り返ると、凪が目を開けていた。ゆっくり立ち上がった凪は、世界を摑まえるように両手を広げる。
「歩。きっと、もう逃げなくていいんだ」
凪の向こうで、鏡写しの空が淡いさざなみとなって踊っていた。
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凪の声は、どこから聞こえて来るようでしたか。
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凪の声は、地球の真ん中へんから聞こえて来るようでした。
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JCRRAG_001140
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国語
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共食い金魚
砂東 塩
ぬるく、ゆるやかに対流する閉じた世界。水のなかで食いちぎられた尾びれを揺らしながらプラスチック越しに見える景色。小さな魚たちは、空気の充満したこの重苦しい世界に憧れたりするのだろうか。
頭上に浮かぶ餌、エアポンプから排出される酸素。プラスチックでできた水草は光を受けても光合成しない。薄暗い部屋の隅、小さな魚たちは小さな水槽のなかで数枚の人工の草陰に隠れる。けれどあの大きな赤い生き物はそれを押しのけ、ぬるく濁った水とともにすべてを飲み込んでしまう。
丸飲みされて、溶けて、排出される。
◇
寝苦しさに目が覚めた。首筋に張り付いた髪を無造作にかきあげたその手で鎖骨から胸元までを拭う。じっとりと濡れた肌、空気中の水分はゆるく締め付けるように脳を圧迫してくる。首を振るが、偏頭痛は変わらずそこにあった。
嫌な夢を見た気がする。
はっきりとは思い出せないけれど、体の芯でまだぞわぞわとうごめいている圧迫感と不安感、焦燥感の名残に、私は最近繰り返し見るいつもの夢なのだろうと思った。金魚に食われる金魚の夢だ。寝室の隅では水槽が低く唸り続けている。私の隣では夫が寝ている。
夏祭りの夜、金魚すくいなどしなかった。なのにうちには金魚がいる。当日の夜まで出かける約束もしていなかったし、浴衣も準備もしておらず、部屋着の白いTシャツにジーンズ、ビーチサンダルという出で立ちで、今隣に寝ている夫も似たような格好だった。夕飯のカレーライスを半分ほど食べたときに聞こえたパンパンという乾いた花火の音に誘われ、「行ってみるか」と半分だるそうに口にしたのは夫。私と夫は結婚十一年目。子どもができないまま、互いの趣味はそれぞれに持ち、約束して出かけることなんて年に何度もなく、二人での外出は常に行き当たりばったりだ。
私たちはかき氷を買ってフラフラ歩き、公園の端でベンチに座って、手持ち花火に興じる数人の子どもたちをながめ、はしゃぐ彼らを諌める大人たちを横目にうかがい、かき氷のカップが空になった頃には子どもたちもその親らしき大人もいなくなっていた。屋台のまわりも人はまばらになり、そろそろ売り切って片付けてしまおうという雰囲気だった。
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小さな魚たちは小さな水槽のなかで何に隠れますか。
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小さな魚たちは小さな水槽のなかで数枚の人工の草陰に隠れます。
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JCRRAG_001141
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国語
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真夏のある日、起きたら出目金が消えていた。ゆらゆらと二匹の赤い金魚が泳ぐその水槽の、水草もどきのプラスチックの陰に、かすかに元の姿を想像できる、透明な骨のようなものが沈んでいた。その骨もいつしかどこかへ見えなくなった。
私は、朝起きて、洗濯をして、食事の支度をして二人分の弁当を詰める。二匹の金魚に餌をやり、九時から三時のパートを終えて、更衣室で世間話をして職場を後にする。買い物をして、干してある洗濯ものを片付けて、軽く掃除。夕飯の支度をして、お風呂を沸かして、金魚の餌。
悠々と泳ぐ金魚は、金魚を食べた金魚。憎々しさをおぼえながら、それでも毎日毎日餌をやり続ける。夕暮れ空のような朱色は時おり光を反射して金色に輝く。そうして世界を、ちっぽけなプラスチックの水槽を我が物顔で占拠する。
眠る間際、水音に混じってゴンと鈍い音がした。跳ねた金魚がプラスチックの蓋にぶつかったようだ。小さな世界に閉じ込められて、そこから脱出しても死ぬだけなのに。ゴン、とまた聞こえた。その世界で満足していれば餌にも困らないのに、外に出たいなんて強欲だ。
「子ども、できなかったね」
私の声は電気の消えた寝室の闇に吸い込まれた。隣の夫は何も言わないまま、寝返りをうってこちらに顔を向けた。布団の中で、夫の手が私の腕をさすった。
「不満はないのに、変わらない毎日がどんどん不安になってく。このまま老いて朽ちて、小さな世界しか知らないままで。自分がちっぽけな金魚のフンみたいな気がしてくる」
二匹の金魚はいずれ一匹になる。一匹になっても悠々と泳いでいられるだろうか。もがいて、跳ねて、死ぬ前に外の世界へ脱出。
「そんなことないよ」と言って夫は目を閉じ、しばらくして寝息が聞こえてきた。不安の正体を探すように、暗闇のなかで目を凝らした。ゴン、という音とともに赤色の光が弾け、私は空を突き破って世界から脱出した。死ぬかと思ったけれど、目覚めると隣では夫が寝ていた。スマートフォンのアラームを止める。
カーテンの隙間から朝日が射し込み、水槽の中でキラリとその光が反射した。パシャリ、ゴン。
変わらない一日が始まる。洗濯、朝食、餌やり。パート、雑談、買い物。ショッピングモールで赤色の服に目がとまり、衝動的にレジまで持っていった。赤というより金魚色の、肌触りのいいリネンのワンピース。
不安に食われるまえに、先に不安を食らってやる。
私はホームセンターでひと回り大きい水槽を買った。小さくなった水槽で傷ついた二匹の金魚。剥がれた鱗は水に沈んだのかフンになったのか知らないけれど、私は他の金魚を食らったあんたたちを食らう気はない。
『たまには外で食べよう』
メールを送った。買ったばかりのワンピースに袖を通し、夫からの返事を待たず家を出た。背後でパシャリと水が跳ねた気がした。
―― end
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どんな日に出目金は消えていましたか。
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真夏のある日に出目金は消えていました。
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国語
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共食い金魚
砂東 塩
ぬるく、ゆるやかに対流する閉じた世界。水のなかで食いちぎられた尾びれを揺らしながらプラスチック越しに見える景色。小さな魚たちは、空気の充満したこの重苦しい世界に憧れたりするのだろうか。
頭上に浮かぶ餌、エアポンプから排出される酸素。プラスチックでできた水草は光を受けても光合成しない。薄暗い部屋の隅、小さな魚たちは小さな水槽のなかで数枚の人工の草陰に隠れる。けれどあの大きな赤い生き物はそれを押しのけ、ぬるく濁った水とともにすべてを飲み込んでしまう。
丸飲みされて、溶けて、排出される。
◇
寝苦しさに目が覚めた。首筋に張り付いた髪を無造作にかきあげたその手で鎖骨から胸元までを拭う。じっとりと濡れた肌、空気中の水分はゆるく締め付けるように脳を圧迫してくる。首を振るが、偏頭痛は変わらずそこにあった。
嫌な夢を見た気がする。
はっきりとは思い出せないけれど、体の芯でまだぞわぞわとうごめいている圧迫感と不安感、焦燥感の名残に、私は最近繰り返し見るいつもの夢なのだろうと思った。金魚に食われる金魚の夢だ。寝室の隅では水槽が低く唸り続けている。私の隣では夫が寝ている。
夏祭りの夜、金魚すくいなどしなかった。なのにうちには金魚がいる。当日の夜まで出かける約束もしていなかったし、浴衣も準備もしておらず、部屋着の白いTシャツにジーンズ、ビーチサンダルという出で立ちで、今隣に寝ている夫も似たような格好だった。夕飯のカレーライスを半分ほど食べたときに聞こえたパンパンという乾いた花火の音に誘われ、「行ってみるか」と半分だるそうに口にしたのは夫。私と夫は結婚十一年目。子どもができないまま、互いの趣味はそれぞれに持ち、約束して出かけることなんて年に何度もなく、二人での外出は常に行き当たりばったりだ。
私たちはかき氷を買ってフラフラ歩き、公園の端でベンチに座って、手持ち花火に興じる数人の子どもたちをながめ、はしゃぐ彼らを諌める大人たちを横目にうかがい、かき氷のカップが空になった頃には子どもたちもその親らしき大人もいなくなっていた。屋台のまわりも人はまばらになり、そろそろ売り切って片付けてしまおうという雰囲気だった。
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私と夫は結婚何年目ですか。
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私と夫は結婚十一年目です。
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国語
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共食い金魚
砂東 塩
ぬるく、ゆるやかに対流する閉じた世界。水のなかで食いちぎられた尾びれを揺らしながらプラスチック越しに見える景色。小さな魚たちは、空気の充満したこの重苦しい世界に憧れたりするのだろうか。
頭上に浮かぶ餌、エアポンプから排出される酸素。プラスチックでできた水草は光を受けても光合成しない。薄暗い部屋の隅、小さな魚たちは小さな水槽のなかで数枚の人工の草陰に隠れる。けれどあの大きな赤い生き物はそれを押しのけ、ぬるく濁った水とともにすべてを飲み込んでしまう。
丸飲みされて、溶けて、排出される。
◇
寝苦しさに目が覚めた。首筋に張り付いた髪を無造作にかきあげたその手で鎖骨から胸元までを拭う。じっとりと濡れた肌、空気中の水分はゆるく締め付けるように脳を圧迫してくる。首を振るが、偏頭痛は変わらずそこにあった。
嫌な夢を見た気がする。
はっきりとは思い出せないけれど、体の芯でまだぞわぞわとうごめいている圧迫感と不安感、焦燥感の名残に、私は最近繰り返し見るいつもの夢なのだろうと思った。金魚に食われる金魚の夢だ。寝室の隅では水槽が低く唸り続けている。私の隣では夫が寝ている。
夏祭りの夜、金魚すくいなどしなかった。なのにうちには金魚がいる。当日の夜まで出かける約束もしていなかったし、浴衣も準備もしておらず、部屋着の白いTシャツにジーンズ、ビーチサンダルという出で立ちで、今隣に寝ている夫も似たような格好だった。夕飯のカレーライスを半分ほど食べたときに聞こえたパンパンという乾いた花火の音に誘われ、「行ってみるか」と半分だるそうに口にしたのは夫。私と夫は結婚十一年目。子どもができないまま、互いの趣味はそれぞれに持ち、約束して出かけることなんて年に何度もなく、二人での外出は常に行き当たりばったりだ。
私たちはかき氷を買ってフラフラ歩き、公園の端でベンチに座って、手持ち花火に興じる数人の子どもたちをながめ、はしゃぐ彼らを諌める大人たちを横目にうかがい、かき氷のカップが空になった頃には子どもたちもその親らしき大人もいなくなっていた。屋台のまわりも人はまばらになり、そろそろ売り切って片付けてしまおうという雰囲気だった。
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私たちは何を買ってフラフラ歩きましたか。
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私たちはかき氷を買ってフラフラ歩きました。
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国語
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真夏のある日、起きたら出目金が消えていた。ゆらゆらと二匹の赤い金魚が泳ぐその水槽の、水草もどきのプラスチックの陰に、かすかに元の姿を想像できる、透明な骨のようなものが沈んでいた。その骨もいつしかどこかへ見えなくなった。
私は、朝起きて、洗濯をして、食事の支度をして二人分の弁当を詰める。二匹の金魚に餌をやり、九時から三時のパートを終えて、更衣室で世間話をして職場を後にする。買い物をして、干してある洗濯ものを片付けて、軽く掃除。夕飯の支度をして、お風呂を沸かして、金魚の餌。
悠々と泳ぐ金魚は、金魚を食べた金魚。憎々しさをおぼえながら、それでも毎日毎日餌をやり続ける。夕暮れ空のような朱色は時おり光を反射して金色に輝く。そうして世界を、ちっぽけなプラスチックの水槽を我が物顔で占拠する。
眠る間際、水音に混じってゴンと鈍い音がした。跳ねた金魚がプラスチックの蓋にぶつかったようだ。小さな世界に閉じ込められて、そこから脱出しても死ぬだけなのに。ゴン、とまた聞こえた。その世界で満足していれば餌にも困らないのに、外に出たいなんて強欲だ。
「子ども、できなかったね」
私の声は電気の消えた寝室の闇に吸い込まれた。隣の夫は何も言わないまま、寝返りをうってこちらに顔を向けた。布団の中で、夫の手が私の腕をさすった。
「不満はないのに、変わらない毎日がどんどん不安になってく。このまま老いて朽ちて、小さな世界しか知らないままで。自分がちっぽけな金魚のフンみたいな気がしてくる」
二匹の金魚はいずれ一匹になる。一匹になっても悠々と泳いでいられるだろうか。もがいて、跳ねて、死ぬ前に外の世界へ脱出。
「そんなことないよ」と言って夫は目を閉じ、しばらくして寝息が聞こえてきた。不安の正体を探すように、暗闇のなかで目を凝らした。ゴン、という音とともに赤色の光が弾け、私は空を突き破って世界から脱出した。死ぬかと思ったけれど、目覚めると隣では夫が寝ていた。スマートフォンのアラームを止める。
カーテンの隙間から朝日が射し込み、水槽の中でキラリとその光が反射した。パシャリ、ゴン。
変わらない一日が始まる。洗濯、朝食、餌やり。パート、雑談、買い物。ショッピングモールで赤色の服に目がとまり、衝動的にレジまで持っていった。赤というより金魚色の、肌触りのいいリネンのワンピース。
不安に食われるまえに、先に不安を食らってやる。
私はホームセンターでひと回り大きい水槽を買った。小さくなった水槽で傷ついた二匹の金魚。剥がれた鱗は水に沈んだのかフンになったのか知らないけれど、私は他の金魚を食らったあんたたちを食らう気はない。
『たまには外で食べよう』
メールを送った。買ったばかりのワンピースに袖を通し、夫からの返事を待たず家を出た。背後でパシャリと水が跳ねた気がした。
―― end
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私は何人分の弁当を詰めるのですか。
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私は二人分の弁当を詰めます。
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国語
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真夏のある日、起きたら出目金が消えていた。ゆらゆらと二匹の赤い金魚が泳ぐその水槽の、水草もどきのプラスチックの陰に、かすかに元の姿を想像できる、透明な骨のようなものが沈んでいた。その骨もいつしかどこかへ見えなくなった。
私は、朝起きて、洗濯をして、食事の支度をして二人分の弁当を詰める。二匹の金魚に餌をやり、九時から三時のパートを終えて、更衣室で世間話をして職場を後にする。買い物をして、干してある洗濯ものを片付けて、軽く掃除。夕飯の支度をして、お風呂を沸かして、金魚の餌。
悠々と泳ぐ金魚は、金魚を食べた金魚。憎々しさをおぼえながら、それでも毎日毎日餌をやり続ける。夕暮れ空のような朱色は時おり光を反射して金色に輝く。そうして世界を、ちっぽけなプラスチックの水槽を我が物顔で占拠する。
眠る間際、水音に混じってゴンと鈍い音がした。跳ねた金魚がプラスチックの蓋にぶつかったようだ。小さな世界に閉じ込められて、そこから脱出しても死ぬだけなのに。ゴン、とまた聞こえた。その世界で満足していれば餌にも困らないのに、外に出たいなんて強欲だ。
「子ども、できなかったね」
私の声は電気の消えた寝室の闇に吸い込まれた。隣の夫は何も言わないまま、寝返りをうってこちらに顔を向けた。布団の中で、夫の手が私の腕をさすった。
「不満はないのに、変わらない毎日がどんどん不安になってく。このまま老いて朽ちて、小さな世界しか知らないままで。自分がちっぽけな金魚のフンみたいな気がしてくる」
二匹の金魚はいずれ一匹になる。一匹になっても悠々と泳いでいられるだろうか。もがいて、跳ねて、死ぬ前に外の世界へ脱出。
「そんなことないよ」と言って夫は目を閉じ、しばらくして寝息が聞こえてきた。不安の正体を探すように、暗闇のなかで目を凝らした。ゴン、という音とともに赤色の光が弾け、私は空を突き破って世界から脱出した。死ぬかと思ったけれど、目覚めると隣では夫が寝ていた。スマートフォンのアラームを止める。
カーテンの隙間から朝日が射し込み、水槽の中でキラリとその光が反射した。パシャリ、ゴン。
変わらない一日が始まる。洗濯、朝食、餌やり。パート、雑談、買い物。ショッピングモールで赤色の服に目がとまり、衝動的にレジまで持っていった。赤というより金魚色の、肌触りのいいリネンのワンピース。
不安に食われるまえに、先に不安を食らってやる。
私はホームセンターでひと回り大きい水槽を買った。小さくなった水槽で傷ついた二匹の金魚。剥がれた鱗は水に沈んだのかフンになったのか知らないけれど、私は他の金魚を食らったあんたたちを食らう気はない。
『たまには外で食べよう』
メールを送った。買ったばかりのワンピースに袖を通し、夫からの返事を待たず家を出た。背後でパシャリと水が跳ねた気がした。
―― end
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私はホームセンターで何を買いましたか。
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私はホームセンターでひと回り大きい水槽を買いました。
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国語
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前線都市
AfterNotes
第1章 重峰イノリという機構について
第1章 第1節「Prologue」
彼らは、よく晴れた夏の日に訪れた。
かつて日本と呼ばれていた島国の、工業地帯が広がる田舎町。その中央に、突如として地下深くまで続く大穴が開いたのだ。地盤沈下か、あるいは埋め立て工事の際に欠陥があったのかと、政府が調査計画を立て始めたころ。彼らはずるりと穴の中から這い出した。
怪物らしさはそのままに輪郭だけ人間に似せたような歪な容姿。おぞましい呻き声。人知を超えた異能力。なにより、手当たり次第にヒトを食い荒らす凶悪性。
その「外敵」を恐れた人々は現代科学の総力を上げてとある「生体兵器」を作り出し、外敵諸共封じ込めるという策を打ち出した。
故にこの町は、こう呼ばれる。
――前線都市、と。
第1章 第2節「重ね重ねて、祈り奉る」
まだ朝日が昇り切る前の薄暗い寝室で、重峰イノリは目を覚ました。空色の瞳がぱちり、ぱちりと数回瞬いて現状を把握する。それからゆっくりと身を起こし、ベッドサイドに置かれていた円筒形の無骨な器具に手を伸ばす。彼はその底面を自身の首筋に押し当てると、指先で軽くボタンを押し込んだ。
かしゅ、という軽い音とともに、首に当てていた部分から突き出た針が皮膚を貫く。そのまま数秒経って器具のランプが点滅するのを確認し、彼は無造作にそれを引き抜いた。器具には止血剤の塗布と針の消毒を自動で行う機能が搭載されており、傷口からは一滴の血も流れていない。
イノリは静かに目を伏せる。頭蓋内の魔力管制デバイスが反応し様々な情報を脳裏に提示し始めるが、彼はそのひとつひとつを適切に処理しつつ、最後にこう結論付けた。
――身体機能および魔力回路、双方に異常なし。
簡単に着替えを済ませ、カソックの上着とストラを腕に抱えたまま部屋を出る。リビングのソファにそれらを掛けて、イノリはまっすぐに聖堂を目指した。居住棟と教会は重い扉一枚に隔てられていて、開けばすぐに古めかしくも荘厳な聖堂に繋がっている。彼の朝はまず聖堂内の清掃と礼拝から始まるのが常だった。その様は、まるで熱心な信徒のようだろう。しかし実のところ彼のこの習慣は信仰心に拠るものではなく、自身が所有する魔術の精度と効果を強めるための儀式でしかない。
無人の聖堂で、既に暗記している誓言をあえて聖書片手に読み上げる。形ばかり繕ったままごとのようなそれを、指摘するものはこの町に誰ひとりとしていない。何故なら彼らにとって神に等しいその存在は、天上ではなく脳に埋め込まれたデバイスを通して、彼らを監視しているのだから。
「……なればこそ偉大なりし我らが母、大いなる戦神クレィアの導きに従いて、遍く外敵を討ち滅ぼさん」
最後の一節を唱え終え、ぱたんと聖書を閉じる。柱時計は午前7時過ぎを示していた。寝起きの悪い同居人はまだ布団の中にいる時間だが、朝食の準備を始めるには丁度いい頃合いだろう。そう当たりを付けて、イノリは聖堂の正面扉の錠を外し居住棟へと戻る。しかしリビングには、意外にも既に人影があった。
「おっと。――今日は随分と早いね、ミコト」
「好きで起きたわけではない。あまりにも喧しくて、寝ていられなかった」
ミコト、と呼ばれた青年は不機嫌そうに欠伸混じりにそう言った。桔梗色の瞳はまだ眠たげに瞬きを繰り返していて、イノリは小さく苦笑した。ある程度防音の効いた聖堂にいたとはいえ、騒音の類は彼の耳に届いていない。つまりはミコトを目覚めさせたのは物理的な音の波ではなく、魔力が激しく衝突し合う気配なのだろう。生命としての肉体を持たず、魔力の集合体である「魔術式」の彼は、性質上そういったものに敏感だった。
「この近くで戦闘になるのは珍しいな。討伐?」
「……外敵はE級とD級が5体ずつ、Cが1体。東地区の連中が迎撃している」
「東。――あぁ、大鏡隊長か」
「あれが出てくると他以上に騒々しい。迷惑だ」
ソファの背もたれに身を預けた拍子に、ミコトの長い白髪がさらりと揺れる。それを横目にイノリはシャツの袖口を捲りつつ簡易的なキッチンに入ると、背中越しに声をかけた。
「それはまた災難だったね。珈琲でも淹れようか?」
「……温かいものなら」
「了解」
イノリはミル式のコーヒーメーカーに豆をセットして、知り尽くしているミコト好みの味に合わせて豆の挽き具合を設定する。生き物の身体構造とは根本的に異なるミコトは、食べ物からの栄養補給を必要とせず自ら食事を摂ることもない。そんな彼が唯一好んで口にする珈琲には少しだけ手間をかけるのが、イノリの密かな習慣となっていた。
自身は配給品のパンとレーションを咀嚼しながら、珈琲が淹れ終わるのを待つ。
その時、イノリの首にかけられていた白銀のロザリオが小さく点滅した。
「……」
「……」
二人は思わず顔を見合わせる。尚も点滅を繰り返しているロザリオに彼は渋々といった仕草で指先を伸ばし、とん、と一度触れて呟く。
「応答」
途端、平坦な機械音声が室内に響く。同時に空中に浮かび上がった半透明の操作ウィンドウには、地図と男性の顔写真、そして簡素なプロフィールが表示されていた。
『No。38645およびNo。24875を規律違反者と認定。至急捜索および排除を実行してください』
「――命令を承認」
応えながら、彼はコーヒーメーカーの一時停止ボタンを押す。背後では面倒臭そうに立ち上がったミコトがふわりと宙に浮かんでいた。その腕には、置いたままにしていた上着とストラが抱えられている。それらを受け取って服装を正し、イノリは小首を傾げてこう言った。
「とりあえずは、豆の抽出が始まる前で良かったね」
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イノリの首には何がかけられていましたか。
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イノリの首には白銀のロザリオがかけられていました。
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JCRRAG_001147
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国語
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第2章 神崎ルカの長い1日
第2章 第1節「東の魔術師」
前線都市東部中央、通称「研究特区」。
その食堂で、魔術師・神崎ルカは大きく伸びをした。生活補助ロボットが管理運営する食堂内に、他の魔術師の姿は無い。朝食にしても昼食にしてもひどく中途半端な時間帯だからだろう。では何故彼がここにいるのかと言えば、単純に夜間警戒の当番明けで食事を取り損ねていたからである。交代時間ギリギリまで外敵を迎撃していたため魔力残量は残り30パーセントを下回り、彼の愛機である武装端末『エリック』も、フルパワーで連続稼働した影響により性能が低下し始めている。要するに彼も彼の武器も、一仕事終えたばかりで疲れ切っていたのだった。
1時間程前に攻撃を受け骨折し、十数分前に魔術で治癒されたばかりの右肩の調子を確かめるようにぐるりと回して、ルカは両手を合わせ目を閉じる。
「ご馳走様でした」
すると、その時。まるで見計らったかのごとく、彼の手首にはまったバングル――『エリック』が、淡く点滅し始めた。同時に、機械音声が再生される。
[マスター]
「ん?」
「端末名“エリザベート”よりメッセージを受信。応答しますか?]
「リクさんから?……わかった、繋いで」
[了。接続開始]
『エリック』の声が途切れて、掠れたノイズが鳴る。次の瞬間、うってかわって朗らかな子どもの声がルカの名を呼んだ。
[あ、ルカ?お疲れ様ー!]
「お疲れ様です。……なにかありました?」
[うんまぁ、あったといえばあった、かな。とり急ぎ聞いて欲しいんだけれど]
「わかりました。じゃあ今から戻りますんで――」
[いや、大丈夫だよ。もうそっちに着く]
はい?と、ルカが聞き返すより早く。通信越しではなくもっと近くで――具体的には食堂の入り口の向こう側から、地響きと共に轟音が響いた。思わず肩を跳ねさせたルカの横で、テーブルやら椅子やらが衝撃によって揺れている。さらには、緊急事態を察知した店員ロボットたちが意味もなく走り回って。混乱の最中、がらりと入り口のドアが開いた。
来訪者たるその少年は、自身の武装端末である[エリザベート]を戦闘状態で起動したまま、――つまりは無骨な鋼鉄の大剣を二つ左右に浮かび上がらせたまま、顔を引き攣らせるルカににっこりと笑いかけた。
「ほら、すぐだったでしょ?」
第2章 第2節「反乱分子」
ちょっと困ったことになったんだよねと、大鏡リクは唇を尖らせて呟いた。彼がオレンジジュースの入ったグラスをストローでかき回す度に、氷同士がぶつかり合ってからからと音を立てる。その様は、まるで普通の子どものようだった――東地区遊撃部隊隊長、“撃墜王”の異名を持つ魔術師だとは信じられない程に。けれど彼の直属の部下にして副官であるところのルカは、自然と居住まいを正した。
「困ったこと、というと?」
「今朝のさ、違反者の処分が執行されたことって報告受けてる?」
昨晩は夜警当番だったでしょう、と問われて、記憶を辿る。昨晩は緊急出動が多く、そのせいでルカの元へは多種多様な報告を上がってきていたが、その中に違反者処分に関するものなどあっただろうか?勤務開始から順番に思い出していって、その量にうんざりし始めた頃――
「……あぁ、ありましたね。西3工場の……確か山岡ミズチと水車町カノコの二人組。巡回担当が回収前の死体を見てしまったとかで」
思い至ったのは、交代時間となり日中の警備担当へ引き継ぎをしている最中にかかってきた通報である。通報者は不意に見つけてしまった死体に驚いたのか、もしくは2人組と面識があったのかひどく動揺していて、話を聞き出すのにも時間がかかったのだ。本日ルカが残業することになった要因のひとつである。
「そう、それそれ。……あ、ちなみにその件で“なにかした”?」
「いいえ。そんな余計なことはしませんよ」
そう言って、ルカはまだ湯気の立つ緑茶の湯呑みに口を付けた。――その言葉通り、ルカは例の通報者へ「すぐに離脱して何も見なかったことにしろ」と指示している。それが最善策だからだ。監視塔により規則違反者と認定されれば、『同族殺し』こと重峰イノリが処分に動く。邪魔や妨害を試みれば、その行為も規則違反と認定される。そうやって、ただ死体だけが増えていく――故に、重峰イノリという“機構”には極力関わるなというのが、少なくとも東地区に所属する魔術師の中では共通認識となっていた。
それを聞いたリクもまた当たり前のようにうなずいて、後に小さく眉を寄せた。その両耳で、待機形態のピアス型となった“エリザベート”が揺れている。
「そうなんだよ。そうなんだけどね。どうやらその通報者くん――あ、名前は“財前ユズキ”っていうんだけど。彼、処分された山岡ミズチの友人だったらしくって。冷静になったら腹が立ってきたのかな?東の魔術師に何を言っても動いてくれないから、それならと西地区に突撃したんだって」
「……はい?」
「で、まぁ間の悪いことに、というかタイミング良く?駆け込んだ先で過激派の連中に出会ってしまって。盛り上がっちゃったんだろうね。彼らと手を組んで人間相手に反乱起こすので助力してくださいって連絡がたったいま送られてきたところなんだけど」
これ放っておいたら共謀罪になるよねぇ。
軽い調子で告げるリクに、ルカは思わず頭を抱えた。滅茶苦茶過ぎて笑えもしない話だ。東じゃダメだと西に行った癖に結局東の魔術師に協力要請してるじゃないか、とか。魔術師数人が集まったところで人間相手に敵うはずないだろう、とか。言いたいことは沢山あったもののとりあえずは呑み込んで、ルカは口を開いた。
「……反乱って、具体的に何するつもりなんです?」
するとリクは伸びをするように背もたれへのしかかり、ぴんと立てた人差し指を上に向けた。示したのは天井、ではなくそのさらに上の。
「監視塔をぶっ壊すんだってさ」
ついに、一瞬とはいえルカの思考は停止した。意味がわからない。いや言葉は理解できているのだが、そこに至った過程がわからなかった。監視塔を、破壊する。なるほど確かにそうすれば人間たちの“目”は一時的に失われ、うまくやればその隙をつくことも出来るかもしれない。当然その作戦を思いついた時点で違反者認定はされているだろうからあの”重峰イノリ“と交戦する必要は出てくるが、何か算段があるのだとして。
そんな単純なことを、今までに実行した魔術師がひとりもいないと、本当に思っているのだろうか?それとも、自分たちであれば成功すると?どちらにせよ無謀すぎる。
なにより。
戦力を確保したかったのだとしても、リクに――東地区の幹部クラスに、先んじて連絡するのはあまりに浅はかすぎる。長くこの街にいれば彼らの作戦の無謀さなど計算するまでもなくわかりきっている。むしろリクが言った通り、無視すれば共謀罪に問われる可能性だってあるのだから――協力、どころか。
「一応、きいておきますけど。どうするおつもりなんです?」
「向こうが動き始める前に叩き潰すしかないねぇ。ともだちが処分されて怒る気持ちもわかるけれど、感情だけでどうにかなるようなものじゃない。巻き込まれるのはごめんだし、なによりあの調子じゃあ、西地区の大将さんにも同じような連絡してそうだから。こちらだけが動かなかったとなると貸しを作ることになっちゃうからね」
というわけで、と。愛らしく小首を傾げるリクが言わんとしている内容を、既にルカは察していた。だからこそ深く重いため息を吐き出し、湯呑みをテーブルに置く。
「……わかりました。俺はなにをすればいいですか?」
「さっすが。話が早くて助かるよ」
ぷらぷらと床から浮いた両足を揺らして笑うリクに、ルカも釣られて苦笑いを漏らす。どうやら本日の彼の残業は、またさらに延長となるようだ。
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前線都市東部中央の通称は何ですか。
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前線都市東部中央の通称は「研究特区」です。
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国語
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第2章 神崎ルカの長い1日
第2章 第1節「東の魔術師」
前線都市東部中央、通称「研究特区」。
その食堂で、魔術師・神崎ルカは大きく伸びをした。生活補助ロボットが管理運営する食堂内に、他の魔術師の姿は無い。朝食にしても昼食にしてもひどく中途半端な時間帯だからだろう。では何故彼がここにいるのかと言えば、単純に夜間警戒の当番明けで食事を取り損ねていたからである。交代時間ギリギリまで外敵を迎撃していたため魔力残量は残り30パーセントを下回り、彼の愛機である武装端末『エリック』も、フルパワーで連続稼働した影響により性能が低下し始めている。要するに彼も彼の武器も、一仕事終えたばかりで疲れ切っていたのだった。
1時間程前に攻撃を受け骨折し、十数分前に魔術で治癒されたばかりの右肩の調子を確かめるようにぐるりと回して、ルカは両手を合わせ目を閉じる。
「ご馳走様でした」
すると、その時。まるで見計らったかのごとく、彼の手首にはまったバングル――『エリック』が、淡く点滅し始めた。同時に、機械音声が再生される。
[マスター]
「ん?」
「端末名“エリザベート”よりメッセージを受信。応答しますか?]
「リクさんから?……わかった、繋いで」
[了。接続開始]
『エリック』の声が途切れて、掠れたノイズが鳴る。次の瞬間、うってかわって朗らかな子どもの声がルカの名を呼んだ。
[あ、ルカ?お疲れ様ー!]
「お疲れ様です。……なにかありました?」
[うんまぁ、あったといえばあった、かな。とり急ぎ聞いて欲しいんだけれど]
「わかりました。じゃあ今から戻りますんで――」
[いや、大丈夫だよ。もうそっちに着く]
はい?と、ルカが聞き返すより早く。通信越しではなくもっと近くで――具体的には食堂の入り口の向こう側から、地響きと共に轟音が響いた。思わず肩を跳ねさせたルカの横で、テーブルやら椅子やらが衝撃によって揺れている。さらには、緊急事態を察知した店員ロボットたちが意味もなく走り回って。混乱の最中、がらりと入り口のドアが開いた。
来訪者たるその少年は、自身の武装端末である[エリザベート]を戦闘状態で起動したまま、――つまりは無骨な鋼鉄の大剣を二つ左右に浮かび上がらせたまま、顔を引き攣らせるルカににっこりと笑いかけた。
「ほら、すぐだったでしょ?」
第2章 第2節「反乱分子」
ちょっと困ったことになったんだよねと、大鏡リクは唇を尖らせて呟いた。彼がオレンジジュースの入ったグラスをストローでかき回す度に、氷同士がぶつかり合ってからからと音を立てる。その様は、まるで普通の子どものようだった――東地区遊撃部隊隊長、“撃墜王”の異名を持つ魔術師だとは信じられない程に。けれど彼の直属の部下にして副官であるところのルカは、自然と居住まいを正した。
「困ったこと、というと?」
「今朝のさ、違反者の処分が執行されたことって報告受けてる?」
昨晩は夜警当番だったでしょう、と問われて、記憶を辿る。昨晩は緊急出動が多く、そのせいでルカの元へは多種多様な報告を上がってきていたが、その中に違反者処分に関するものなどあっただろうか?勤務開始から順番に思い出していって、その量にうんざりし始めた頃――
「……あぁ、ありましたね。西3工場の……確か山岡ミズチと水車町カノコの二人組。巡回担当が回収前の死体を見てしまったとかで」
思い至ったのは、交代時間となり日中の警備担当へ引き継ぎをしている最中にかかってきた通報である。通報者は不意に見つけてしまった死体に驚いたのか、もしくは2人組と面識があったのかひどく動揺していて、話を聞き出すのにも時間がかかったのだ。本日ルカが残業することになった要因のひとつである。
「そう、それそれ。……あ、ちなみにその件で“なにかした”?」
「いいえ。そんな余計なことはしませんよ」
そう言って、ルカはまだ湯気の立つ緑茶の湯呑みに口を付けた。――その言葉通り、ルカは例の通報者へ「すぐに離脱して何も見なかったことにしろ」と指示している。それが最善策だからだ。監視塔により規則違反者と認定されれば、『同族殺し』こと重峰イノリが処分に動く。邪魔や妨害を試みれば、その行為も規則違反と認定される。そうやって、ただ死体だけが増えていく――故に、重峰イノリという“機構”には極力関わるなというのが、少なくとも東地区に所属する魔術師の中では共通認識となっていた。
それを聞いたリクもまた当たり前のようにうなずいて、後に小さく眉を寄せた。その両耳で、待機形態のピアス型となった“エリザベート”が揺れている。
「そうなんだよ。そうなんだけどね。どうやらその通報者くん――あ、名前は“財前ユズキ”っていうんだけど。彼、処分された山岡ミズチの友人だったらしくって。冷静になったら腹が立ってきたのかな?東の魔術師に何を言っても動いてくれないから、それならと西地区に突撃したんだって」
「……はい?」
「で、まぁ間の悪いことに、というかタイミング良く?駆け込んだ先で過激派の連中に出会ってしまって。盛り上がっちゃったんだろうね。彼らと手を組んで人間相手に反乱起こすので助力してくださいって連絡がたったいま送られてきたところなんだけど」
これ放っておいたら共謀罪になるよねぇ。
軽い調子で告げるリクに、ルカは思わず頭を抱えた。滅茶苦茶過ぎて笑えもしない話だ。東じゃダメだと西に行った癖に結局東の魔術師に協力要請してるじゃないか、とか。魔術師数人が集まったところで人間相手に敵うはずないだろう、とか。言いたいことは沢山あったもののとりあえずは呑み込んで、ルカは口を開いた。
「……反乱って、具体的に何するつもりなんです?」
するとリクは伸びをするように背もたれへのしかかり、ぴんと立てた人差し指を上に向けた。示したのは天井、ではなくそのさらに上の。
「監視塔をぶっ壊すんだってさ」
ついに、一瞬とはいえルカの思考は停止した。意味がわからない。いや言葉は理解できているのだが、そこに至った過程がわからなかった。監視塔を、破壊する。なるほど確かにそうすれば人間たちの“目”は一時的に失われ、うまくやればその隙をつくことも出来るかもしれない。当然その作戦を思いついた時点で違反者認定はされているだろうからあの”重峰イノリ“と交戦する必要は出てくるが、何か算段があるのだとして。
そんな単純なことを、今までに実行した魔術師がひとりもいないと、本当に思っているのだろうか?それとも、自分たちであれば成功すると?どちらにせよ無謀すぎる。
なにより。
戦力を確保したかったのだとしても、リクに――東地区の幹部クラスに、先んじて連絡するのはあまりに浅はかすぎる。長くこの街にいれば彼らの作戦の無謀さなど計算するまでもなくわかりきっている。むしろリクが言った通り、無視すれば共謀罪に問われる可能性だってあるのだから――協力、どころか。
「一応、きいておきますけど。どうするおつもりなんです?」
「向こうが動き始める前に叩き潰すしかないねぇ。ともだちが処分されて怒る気持ちもわかるけれど、感情だけでどうにかなるようなものじゃない。巻き込まれるのはごめんだし、なによりあの調子じゃあ、西地区の大将さんにも同じような連絡してそうだから。こちらだけが動かなかったとなると貸しを作ることになっちゃうからね」
というわけで、と。愛らしく小首を傾げるリクが言わんとしている内容を、既にルカは察していた。だからこそ深く重いため息を吐き出し、湯呑みをテーブルに置く。
「……わかりました。俺はなにをすればいいですか?」
「さっすが。話が早くて助かるよ」
ぷらぷらと床から浮いた両足を揺らして笑うリクに、ルカも釣られて苦笑いを漏らす。どうやら本日の彼の残業は、またさらに延長となるようだ。
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ルカは誰の直属の部下にして副官ですか。
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ルカは大鏡リクの直属の部下にして副官です。
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JCRRAG_001149
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国語
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前線都市
AfterNotes
第1章 重峰イノリという機構について
第1章 第1節「Prologue」
彼らは、よく晴れた夏の日に訪れた。
かつて日本と呼ばれていた島国の、工業地帯が広がる田舎町。その中央に、突如として地下深くまで続く大穴が開いたのだ。地盤沈下か、あるいは埋め立て工事の際に欠陥があったのかと、政府が調査計画を立て始めたころ。彼らはずるりと穴の中から這い出した。
怪物らしさはそのままに輪郭だけ人間に似せたような歪な容姿。おぞましい呻き声。人知を超えた異能力。なにより、手当たり次第にヒトを食い荒らす凶悪性。
その「外敵」を恐れた人々は現代科学の総力を上げてとある「生体兵器」を作り出し、外敵諸共封じ込めるという策を打ち出した。
故にこの町は、こう呼ばれる。
――前線都市、と。
第1章 第2節「重ね重ねて、祈り奉る」
まだ朝日が昇り切る前の薄暗い寝室で、重峰イノリは目を覚ました。空色の瞳がぱちり、ぱちりと数回瞬いて現状を把握する。それからゆっくりと身を起こし、ベッドサイドに置かれていた円筒形の無骨な器具に手を伸ばす。彼はその底面を自身の首筋に押し当てると、指先で軽くボタンを押し込んだ。
かしゅ、という軽い音とともに、首に当てていた部分から突き出た針が皮膚を貫く。そのまま数秒経って器具のランプが点滅するのを確認し、彼は無造作にそれを引き抜いた。器具には止血剤の塗布と針の消毒を自動で行う機能が搭載されており、傷口からは一滴の血も流れていない。
イノリは静かに目を伏せる。頭蓋内の魔力管制デバイスが反応し様々な情報を脳裏に提示し始めるが、彼はそのひとつひとつを適切に処理しつつ、最後にこう結論付けた。
――身体機能および魔力回路、双方に異常なし。
簡単に着替えを済ませ、カソックの上着とストラを腕に抱えたまま部屋を出る。リビングのソファにそれらを掛けて、イノリはまっすぐに聖堂を目指した。居住棟と教会は重い扉一枚に隔てられていて、開けばすぐに古めかしくも荘厳な聖堂に繋がっている。彼の朝はまず聖堂内の清掃と礼拝から始まるのが常だった。その様は、まるで熱心な信徒のようだろう。しかし実のところ彼のこの習慣は信仰心に拠るものではなく、自身が所有する魔術の精度と効果を強めるための儀式でしかない。
無人の聖堂で、既に暗記している誓言をあえて聖書片手に読み上げる。形ばかり繕ったままごとのようなそれを、指摘するものはこの町に誰ひとりとしていない。何故なら彼らにとって神に等しいその存在は、天上ではなく脳に埋め込まれたデバイスを通して、彼らを監視しているのだから。
「……なればこそ偉大なりし我らが母、大いなる戦神クレィアの導きに従いて、遍く外敵を討ち滅ぼさん」
最後の一節を唱え終え、ぱたんと聖書を閉じる。柱時計は午前7時過ぎを示していた。寝起きの悪い同居人はまだ布団の中にいる時間だが、朝食の準備を始めるには丁度いい頃合いだろう。そう当たりを付けて、イノリは聖堂の正面扉の錠を外し居住棟へと戻る。しかしリビングには、意外にも既に人影があった。
「おっと。――今日は随分と早いね、ミコト」
「好きで起きたわけではない。あまりにも喧しくて、寝ていられなかった」
ミコト、と呼ばれた青年は不機嫌そうに欠伸混じりにそう言った。桔梗色の瞳はまだ眠たげに瞬きを繰り返していて、イノリは小さく苦笑した。ある程度防音の効いた聖堂にいたとはいえ、騒音の類は彼の耳に届いていない。つまりはミコトを目覚めさせたのは物理的な音の波ではなく、魔力が激しく衝突し合う気配なのだろう。生命としての肉体を持たず、魔力の集合体である「魔術式」の彼は、性質上そういったものに敏感だった。
「この近くで戦闘になるのは珍しいな。討伐?」
「……外敵はE級とD級が5体ずつ、Cが1体。東地区の連中が迎撃している」
「東。――あぁ、大鏡隊長か」
「あれが出てくると他以上に騒々しい。迷惑だ」
ソファの背もたれに身を預けた拍子に、ミコトの長い白髪がさらりと揺れる。それを横目にイノリはシャツの袖口を捲りつつ簡易的なキッチンに入ると、背中越しに声をかけた。
「それはまた災難だったね。珈琲でも淹れようか?」
「……温かいものなら」
「了解」
イノリはミル式のコーヒーメーカーに豆をセットして、知り尽くしているミコト好みの味に合わせて豆の挽き具合を設定する。生き物の身体構造とは根本的に異なるミコトは、食べ物からの栄養補給を必要とせず自ら食事を摂ることもない。そんな彼が唯一好んで口にする珈琲には少しだけ手間をかけるのが、イノリの密かな習慣となっていた。
自身は配給品のパンとレーションを咀嚼しながら、珈琲が淹れ終わるのを待つ。
その時、イノリの首にかけられていた白銀のロザリオが小さく点滅した。
「……」
「……」
二人は思わず顔を見合わせる。尚も点滅を繰り返しているロザリオに彼は渋々といった仕草で指先を伸ばし、とん、と一度触れて呟く。
「応答」
途端、平坦な機械音声が室内に響く。同時に空中に浮かび上がった半透明の操作ウィンドウには、地図と男性の顔写真、そして簡素なプロフィールが表示されていた。
『No。38645およびNo。24875を規律違反者と認定。至急捜索および排除を実行してください』
「――命令を承認」
応えながら、彼はコーヒーメーカーの一時停止ボタンを押す。背後では面倒臭そうに立ち上がったミコトがふわりと宙に浮かんでいた。その腕には、置いたままにしていた上着とストラが抱えられている。それらを受け取って服装を正し、イノリは小首を傾げてこう言った。
「とりあえずは、豆の抽出が始まる前で良かったね」
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重峰イノリの瞳は何色ですか。
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重峰イノリの瞳は空色です。
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JCRRAG_001150
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国語
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前線都市
AfterNotes
第1章 重峰イノリという機構について
第1章 第1節「Prologue」
彼らは、よく晴れた夏の日に訪れた。
かつて日本と呼ばれていた島国の、工業地帯が広がる田舎町。その中央に、突如として地下深くまで続く大穴が開いたのだ。地盤沈下か、あるいは埋め立て工事の際に欠陥があったのかと、政府が調査計画を立て始めたころ。彼らはずるりと穴の中から這い出した。
怪物らしさはそのままに輪郭だけ人間に似せたような歪な容姿。おぞましい呻き声。人知を超えた異能力。なにより、手当たり次第にヒトを食い荒らす凶悪性。
その「外敵」を恐れた人々は現代科学の総力を上げてとある「生体兵器」を作り出し、外敵諸共封じ込めるという策を打ち出した。
故にこの町は、こう呼ばれる。
――前線都市、と。
第1章 第2節「重ね重ねて、祈り奉る」
まだ朝日が昇り切る前の薄暗い寝室で、重峰イノリは目を覚ました。空色の瞳がぱちり、ぱちりと数回瞬いて現状を把握する。それからゆっくりと身を起こし、ベッドサイドに置かれていた円筒形の無骨な器具に手を伸ばす。彼はその底面を自身の首筋に押し当てると、指先で軽くボタンを押し込んだ。
かしゅ、という軽い音とともに、首に当てていた部分から突き出た針が皮膚を貫く。そのまま数秒経って器具のランプが点滅するのを確認し、彼は無造作にそれを引き抜いた。器具には止血剤の塗布と針の消毒を自動で行う機能が搭載されており、傷口からは一滴の血も流れていない。
イノリは静かに目を伏せる。頭蓋内の魔力管制デバイスが反応し様々な情報を脳裏に提示し始めるが、彼はそのひとつひとつを適切に処理しつつ、最後にこう結論付けた。
――身体機能および魔力回路、双方に異常なし。
簡単に着替えを済ませ、カソックの上着とストラを腕に抱えたまま部屋を出る。リビングのソファにそれらを掛けて、イノリはまっすぐに聖堂を目指した。居住棟と教会は重い扉一枚に隔てられていて、開けばすぐに古めかしくも荘厳な聖堂に繋がっている。彼の朝はまず聖堂内の清掃と礼拝から始まるのが常だった。その様は、まるで熱心な信徒のようだろう。しかし実のところ彼のこの習慣は信仰心に拠るものではなく、自身が所有する魔術の精度と効果を強めるための儀式でしかない。
無人の聖堂で、既に暗記している誓言をあえて聖書片手に読み上げる。形ばかり繕ったままごとのようなそれを、指摘するものはこの町に誰ひとりとしていない。何故なら彼らにとって神に等しいその存在は、天上ではなく脳に埋め込まれたデバイスを通して、彼らを監視しているのだから。
「……なればこそ偉大なりし我らが母、大いなる戦神クレィアの導きに従いて、遍く外敵を討ち滅ぼさん」
最後の一節を唱え終え、ぱたんと聖書を閉じる。柱時計は午前7時過ぎを示していた。寝起きの悪い同居人はまだ布団の中にいる時間だが、朝食の準備を始めるには丁度いい頃合いだろう。そう当たりを付けて、イノリは聖堂の正面扉の錠を外し居住棟へと戻る。しかしリビングには、意外にも既に人影があった。
「おっと。――今日は随分と早いね、ミコト」
「好きで起きたわけではない。あまりにも喧しくて、寝ていられなかった」
ミコト、と呼ばれた青年は不機嫌そうに欠伸混じりにそう言った。桔梗色の瞳はまだ眠たげに瞬きを繰り返していて、イノリは小さく苦笑した。ある程度防音の効いた聖堂にいたとはいえ、騒音の類は彼の耳に届いていない。つまりはミコトを目覚めさせたのは物理的な音の波ではなく、魔力が激しく衝突し合う気配なのだろう。生命としての肉体を持たず、魔力の集合体である「魔術式」の彼は、性質上そういったものに敏感だった。
「この近くで戦闘になるのは珍しいな。討伐?」
「……外敵はE級とD級が5体ずつ、Cが1体。東地区の連中が迎撃している」
「東。――あぁ、大鏡隊長か」
「あれが出てくると他以上に騒々しい。迷惑だ」
ソファの背もたれに身を預けた拍子に、ミコトの長い白髪がさらりと揺れる。それを横目にイノリはシャツの袖口を捲りつつ簡易的なキッチンに入ると、背中越しに声をかけた。
「それはまた災難だったね。珈琲でも淹れようか?」
「……温かいものなら」
「了解」
イノリはミル式のコーヒーメーカーに豆をセットして、知り尽くしているミコト好みの味に合わせて豆の挽き具合を設定する。生き物の身体構造とは根本的に異なるミコトは、食べ物からの栄養補給を必要とせず自ら食事を摂ることもない。そんな彼が唯一好んで口にする珈琲には少しだけ手間をかけるのが、イノリの密かな習慣となっていた。
自身は配給品のパンとレーションを咀嚼しながら、珈琲が淹れ終わるのを待つ。
その時、イノリの首にかけられていた白銀のロザリオが小さく点滅した。
「……」
「……」
二人は思わず顔を見合わせる。尚も点滅を繰り返しているロザリオに彼は渋々といった仕草で指先を伸ばし、とん、と一度触れて呟く。
「応答」
途端、平坦な機械音声が室内に響く。同時に空中に浮かび上がった半透明の操作ウィンドウには、地図と男性の顔写真、そして簡素なプロフィールが表示されていた。
『No。38645およびNo。24875を規律違反者と認定。至急捜索および排除を実行してください』
「――命令を承認」
応えながら、彼はコーヒーメーカーの一時停止ボタンを押す。背後では面倒臭そうに立ち上がったミコトがふわりと宙に浮かんでいた。その腕には、置いたままにしていた上着とストラが抱えられている。それらを受け取って服装を正し、イノリは小首を傾げてこう言った。
「とりあえずは、豆の抽出が始まる前で良かったね」
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居住棟と教会は何に隔てられていますか。
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居住棟と教会は重い扉一枚に隔てられています。
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JCRRAG_001151
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国語
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薬は効き、食生活もかなり気をつけていたおかげか、体は順調に回復した。貰った薬は飲みきり、それでも軽い下痢だけが気になったので、わたしは下心を隠しつつ、またあの診療所を訪れた。
相変わらずひと気が無く、すぐに診察室に呼ばれる。蛇ノ目先生はわたしを覚えていてくれた。
「浜さん髪切ったんですか」
そう、今日までの一週間のうちにわたしは髪を整えた。異性に気づかれると大変うれしい。意識して少し髪を触ってしまう。
「お似合いですよ」
「いやあ、蛇ノ目先生みたいにきれいな方に褒められると照れますね」
「お上手ですね、浜さん」
にこにこと笑って軽く流されたがそれすら嬉しい。
「いやいや、そんな美人がこのひと気のないビルで診療してるなんて、大丈夫ですか」
「そうですね。居酒屋さんがあるから酔った人も来られますけど、店員さんの親切のおかげでなんとか。そう言えば浜さんはムキムキですね」
触診をしながら鍛えてるのかと尋ねられ、わたしはスポーツクラブに行くのが習慣だと答える。
「そうなんですか!やっぱり鍛えてると体の調子は違うモノですか」
「比較的、回復力が上がる気がしますよ!ま、いまはお腹壊してますけど」
他の患者がいないのをいいことに、ひとしきり話してから腹薬を受け取った。自分ばかりが話して彼女の事はあまり聞けなかった気がするが、たくさん見れた笑顔を思い出し、足取り軽く帰宅した。
半年後、流行に乗って風邪を引いたわたしは、喜んで会社を早退し蛇ノ目医院に足を運んだ。
例の無表情な受付に呼ばれ、診察室へ入る。
「こんにちは」
鈴の音を期待して挨拶すると、中にいたのはボサボサ頭で頬のこけた男だった。仏頂面で会釈をする。思わず「お前は誰だ」と口走りそうになる。不審者のようにも見えるが白衣を着ているし、受付の女性は何も言っていなかった。イスに座るときにちらりと男の名札を見ると「蛇ノ目卓美」と書かれている。裕美さんの親類という事だろうか。
男はカルテを読みながら、「はー」とか「へー」とか言っていた。
「浜さんですね。もう下痢は良いんですか」
こちらを見もせずに男は言った。
「はい。今回は風邪で」
「へぇー。そう思って市販の薬を買わずに病院へ来るなんて、真面目ですね」
不信感による疑心暗鬼かもしれないが、わざわざ病院に来るなと言われた気がしてムカっとする。本当にこの嫌味な男は裕美さんと血のつながりがあるのだろうか。裕美さんの話しではこの病院には女性二人しかいないような口ぶりだったのに、なぜきょう裕美さんがここにおらず、この男がいるのだろう。
懐疑的な気持ちで、男の問診に答える。男の声は低すぎてときどき聞きとりづらく、聞き返しても同じような調子で返ってくるので、気を張って話しを聞く必要があった。背中に当たる聴診器の冷たさが不快に感じられる。
「咳が出てるって話しでしたけど、気管支も肺も何ともないみたいなので、とりあえず普通の風邪薬だけだしときます。」
「ありがとうございます」
「浜さんくらいだったら、飲まない方がいいくらいかもしれないですけど、まぁ仕事のときとかしんどいでしょうから、そういう時だけ飲んでください。」
気休めになりますよ。と言った後に鼻で笑われ、男に対する不快感が喉元まで迫ってくる。言ってることは正しいかもしれないが、よくもその気の利かない言葉遣いで医者などやっているモノだと言ってやりたかった。そうするとますます裕美さんとの関係が気になり、文句の代りにその事が口から出た。
「以前ここで女医さんにお世話になったのですが、今日はお休みなんですか」
男が初めてわたしの顔を見た。真正面から見ると横顔の印象より若く見える。
「妻は亡くなりました」
男が短く答えた。先ほどから表情は全く変わらない。「妻」とは誰のことなのかと、男の顔を見ながらしばらく考えた。
「え、あなたは……」
「裕美の夫です。あんたはもしかして、裕美に会いに来たのかもしれませんが、あいつは亡くなりました。」
俺みたいな夫がいてガッカリしましたか、といって男はニヤリと笑った。ふざけている。
「本当に。君のような男が彼女と結婚することができただなんて信じがたいですね。半年前、わたしが彼女と会ったとき、彼女は元気そうだった。どうして亡くなったんですか」
「あの時から病気でしたよ。あんたから見てどうだったか知りませんが、もうぼろぼろでした」
彼女が体の治癒力を上げる運動に興味を示していたことを思い出す。彼女のことを語る男の目は冷たくあくまで淡々としていた。
「君は、気づいていても働く彼女を止めなかったのか」
なぜ一番側にいたと公言するこいつが、医者であるこいつが彼女を助けてやることをしなかったのだ。
「俺はちゃんと言いましたよ。でもあいつは本当に頑固で、医者のくせに医者の言うことを聞かない。馬鹿なやつでしたよ」
「君にそういう資格があるのか」
ぼそぼそとハッキリしない声で話す男の言葉をさえぎる。蛇ノ目は目を伏せてペンを弄り始めた。
苛立ちが抑えきれずため息が出る。
「あなたはこれまでどこで何を?」
「総合病院にいました」
「裕美さんと比べられるのが嫌で違う職場を選んだんですか。裕美さんをこんな危ないところで一人働かせてたんですか」
男に対する苛立ちと嫉妬ではらわたが煮えくり返っている。
「あんたも思ったでしょ。俺が自分で客を捕まえる開業医には向いてないって。でもあいつが診療所をやりたいって言って俺を追いだしたんだ」
この期に及んで言い訳を並べる男を一発殴ってやろうと拳を握り締めたとき、男がふと顔を伏せた。
「あいつが居なきゃ、こんなとこ続けられるはずがない」
声が次第にかすれてくる。
「比べられて嫌とも思わない。どう考えたって、裕美の方が医者として優れてるに決まってるじゃないですか」
蛇ノ目の言葉を聞いて、拳はすっかり力を無くしてしまった。蛇ノ目はカルテの上の裕美さんの文字をなぞっていた。その姿を見てやっと、この人たちは夫婦だったのだと納得できたのかもしれない。
「……出すぎたことを言いました。心からお悔やみ申し上げます」
「……ありがとうございます」
二人でゆっくりと視線を合わす。それは、互いを許しあうためだった。
「わたしも実は、妻において行かれたんですよ。死んじゃいないけど」
赤い目元をした男を慰めたいような気になって、そんなことをうっかり話してしまう。蛇ノ目はその言い訳めいた慰めの言葉を鼻で笑った。
「なるほど、じゃあ、お仲間ですね」
「そうですね」
そう言ってお互いの身の上に起った出来事を茶化す。しかし、不思議と悪い気はしなかった。
「……締めるんですか。この診療所は」
「いや、意外と下の人が使っているらしいので。あと約一名養ってる子もいますし。」
蛇ノ目が扉の向こうを指さす。そしてにやりと笑った。
「だから、浜さんもまた来てくださいね」
窓の外で桜の花びらが舞った。もう春が終わる。
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わたしはどこに行くのが習慣なのですか。
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わたしはスポーツクラブに行くのが習慣です。
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JCRRAG_001152
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国語
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第2章 神崎ルカの長い1日
第2章 第1節「東の魔術師」
前線都市東部中央、通称「研究特区」。
その食堂で、魔術師・神崎ルカは大きく伸びをした。生活補助ロボットが管理運営する食堂内に、他の魔術師の姿は無い。朝食にしても昼食にしてもひどく中途半端な時間帯だからだろう。では何故彼がここにいるのかと言えば、単純に夜間警戒の当番明けで食事を取り損ねていたからである。交代時間ギリギリまで外敵を迎撃していたため魔力残量は残り30パーセントを下回り、彼の愛機である武装端末『エリック』も、フルパワーで連続稼働した影響により性能が低下し始めている。要するに彼も彼の武器も、一仕事終えたばかりで疲れ切っていたのだった。
1時間程前に攻撃を受け骨折し、十数分前に魔術で治癒されたばかりの右肩の調子を確かめるようにぐるりと回して、ルカは両手を合わせ目を閉じる。
「ご馳走様でした」
すると、その時。まるで見計らったかのごとく、彼の手首にはまったバングル――『エリック』が、淡く点滅し始めた。同時に、機械音声が再生される。
[マスター]
「ん?」
「端末名“エリザベート”よりメッセージを受信。応答しますか?]
「リクさんから?……わかった、繋いで」
[了。接続開始]
『エリック』の声が途切れて、掠れたノイズが鳴る。次の瞬間、うってかわって朗らかな子どもの声がルカの名を呼んだ。
[あ、ルカ?お疲れ様ー!]
「お疲れ様です。……なにかありました?」
[うんまぁ、あったといえばあった、かな。とり急ぎ聞いて欲しいんだけれど]
「わかりました。じゃあ今から戻りますんで――」
[いや、大丈夫だよ。もうそっちに着く]
はい?と、ルカが聞き返すより早く。通信越しではなくもっと近くで――具体的には食堂の入り口の向こう側から、地響きと共に轟音が響いた。思わず肩を跳ねさせたルカの横で、テーブルやら椅子やらが衝撃によって揺れている。さらには、緊急事態を察知した店員ロボットたちが意味もなく走り回って。混乱の最中、がらりと入り口のドアが開いた。
来訪者たるその少年は、自身の武装端末である[エリザベート]を戦闘状態で起動したまま、――つまりは無骨な鋼鉄の大剣を二つ左右に浮かび上がらせたまま、顔を引き攣らせるルカににっこりと笑いかけた。
「ほら、すぐだったでしょ?」
第2章 第2節「反乱分子」
ちょっと困ったことになったんだよねと、大鏡リクは唇を尖らせて呟いた。彼がオレンジジュースの入ったグラスをストローでかき回す度に、氷同士がぶつかり合ってからからと音を立てる。その様は、まるで普通の子どものようだった――東地区遊撃部隊隊長、“撃墜王”の異名を持つ魔術師だとは信じられない程に。けれど彼の直属の部下にして副官であるところのルカは、自然と居住まいを正した。
「困ったこと、というと?」
「今朝のさ、違反者の処分が執行されたことって報告受けてる?」
昨晩は夜警当番だったでしょう、と問われて、記憶を辿る。昨晩は緊急出動が多く、そのせいでルカの元へは多種多様な報告を上がってきていたが、その中に違反者処分に関するものなどあっただろうか?勤務開始から順番に思い出していって、その量にうんざりし始めた頃――
「……あぁ、ありましたね。西3工場の……確か山岡ミズチと水車町カノコの二人組。巡回担当が回収前の死体を見てしまったとかで」
思い至ったのは、交代時間となり日中の警備担当へ引き継ぎをしている最中にかかってきた通報である。通報者は不意に見つけてしまった死体に驚いたのか、もしくは2人組と面識があったのかひどく動揺していて、話を聞き出すのにも時間がかかったのだ。本日ルカが残業することになった要因のひとつである。
「そう、それそれ。……あ、ちなみにその件で“なにかした”?」
「いいえ。そんな余計なことはしませんよ」
そう言って、ルカはまだ湯気の立つ緑茶の湯呑みに口を付けた。――その言葉通り、ルカは例の通報者へ「すぐに離脱して何も見なかったことにしろ」と指示している。それが最善策だからだ。監視塔により規則違反者と認定されれば、『同族殺し』こと重峰イノリが処分に動く。邪魔や妨害を試みれば、その行為も規則違反と認定される。そうやって、ただ死体だけが増えていく――故に、重峰イノリという“機構”には極力関わるなというのが、少なくとも東地区に所属する魔術師の中では共通認識となっていた。
それを聞いたリクもまた当たり前のようにうなずいて、後に小さく眉を寄せた。その両耳で、待機形態のピアス型となった“エリザベート”が揺れている。
「そうなんだよ。そうなんだけどね。どうやらその通報者くん――あ、名前は“財前ユズキ”っていうんだけど。彼、処分された山岡ミズチの友人だったらしくって。冷静になったら腹が立ってきたのかな?東の魔術師に何を言っても動いてくれないから、それならと西地区に突撃したんだって」
「……はい?」
「で、まぁ間の悪いことに、というかタイミング良く?駆け込んだ先で過激派の連中に出会ってしまって。盛り上がっちゃったんだろうね。彼らと手を組んで人間相手に反乱起こすので助力してくださいって連絡がたったいま送られてきたところなんだけど」
これ放っておいたら共謀罪になるよねぇ。
軽い調子で告げるリクに、ルカは思わず頭を抱えた。滅茶苦茶過ぎて笑えもしない話だ。東じゃダメだと西に行った癖に結局東の魔術師に協力要請してるじゃないか、とか。魔術師数人が集まったところで人間相手に敵うはずないだろう、とか。言いたいことは沢山あったもののとりあえずは呑み込んで、ルカは口を開いた。
「……反乱って、具体的に何するつもりなんです?」
するとリクは伸びをするように背もたれへのしかかり、ぴんと立てた人差し指を上に向けた。示したのは天井、ではなくそのさらに上の。
「監視塔をぶっ壊すんだってさ」
ついに、一瞬とはいえルカの思考は停止した。意味がわからない。いや言葉は理解できているのだが、そこに至った過程がわからなかった。監視塔を、破壊する。なるほど確かにそうすれば人間たちの“目”は一時的に失われ、うまくやればその隙をつくことも出来るかもしれない。当然その作戦を思いついた時点で違反者認定はされているだろうからあの”重峰イノリ“と交戦する必要は出てくるが、何か算段があるのだとして。
そんな単純なことを、今までに実行した魔術師がひとりもいないと、本当に思っているのだろうか?それとも、自分たちであれば成功すると?どちらにせよ無謀すぎる。
なにより。
戦力を確保したかったのだとしても、リクに――東地区の幹部クラスに、先んじて連絡するのはあまりに浅はかすぎる。長くこの街にいれば彼らの作戦の無謀さなど計算するまでもなくわかりきっている。むしろリクが言った通り、無視すれば共謀罪に問われる可能性だってあるのだから――協力、どころか。
「一応、きいておきますけど。どうするおつもりなんです?」
「向こうが動き始める前に叩き潰すしかないねぇ。ともだちが処分されて怒る気持ちもわかるけれど、感情だけでどうにかなるようなものじゃない。巻き込まれるのはごめんだし、なによりあの調子じゃあ、西地区の大将さんにも同じような連絡してそうだから。こちらだけが動かなかったとなると貸しを作ることになっちゃうからね」
というわけで、と。愛らしく小首を傾げるリクが言わんとしている内容を、既にルカは察していた。だからこそ深く重いため息を吐き出し、湯呑みをテーブルに置く。
「……わかりました。俺はなにをすればいいですか?」
「さっすが。話が早くて助かるよ」
ぷらぷらと床から浮いた両足を揺らして笑うリクに、ルカも釣られて苦笑いを漏らす。どうやら本日の彼の残業は、またさらに延長となるようだ。
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食堂は何ロボットが管理運営していますか。
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食堂は生活補助ロボットが管理運営しています。
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JCRRAG_001153
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国語
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第2章 神崎ルカの長い1日
第2章 第1節「東の魔術師」
前線都市東部中央、通称「研究特区」。
その食堂で、魔術師・神崎ルカは大きく伸びをした。生活補助ロボットが管理運営する食堂内に、他の魔術師の姿は無い。朝食にしても昼食にしてもひどく中途半端な時間帯だからだろう。では何故彼がここにいるのかと言えば、単純に夜間警戒の当番明けで食事を取り損ねていたからである。交代時間ギリギリまで外敵を迎撃していたため魔力残量は残り30パーセントを下回り、彼の愛機である武装端末『エリック』も、フルパワーで連続稼働した影響により性能が低下し始めている。要するに彼も彼の武器も、一仕事終えたばかりで疲れ切っていたのだった。
1時間程前に攻撃を受け骨折し、十数分前に魔術で治癒されたばかりの右肩の調子を確かめるようにぐるりと回して、ルカは両手を合わせ目を閉じる。
「ご馳走様でした」
すると、その時。まるで見計らったかのごとく、彼の手首にはまったバングル――『エリック』が、淡く点滅し始めた。同時に、機械音声が再生される。
[マスター]
「ん?」
「端末名“エリザベート”よりメッセージを受信。応答しますか?]
「リクさんから?……わかった、繋いで」
[了。接続開始]
『エリック』の声が途切れて、掠れたノイズが鳴る。次の瞬間、うってかわって朗らかな子どもの声がルカの名を呼んだ。
[あ、ルカ?お疲れ様ー!]
「お疲れ様です。……なにかありました?」
[うんまぁ、あったといえばあった、かな。とり急ぎ聞いて欲しいんだけれど]
「わかりました。じゃあ今から戻りますんで――」
[いや、大丈夫だよ。もうそっちに着く]
はい?と、ルカが聞き返すより早く。通信越しではなくもっと近くで――具体的には食堂の入り口の向こう側から、地響きと共に轟音が響いた。思わず肩を跳ねさせたルカの横で、テーブルやら椅子やらが衝撃によって揺れている。さらには、緊急事態を察知した店員ロボットたちが意味もなく走り回って。混乱の最中、がらりと入り口のドアが開いた。
来訪者たるその少年は、自身の武装端末である[エリザベート]を戦闘状態で起動したまま、――つまりは無骨な鋼鉄の大剣を二つ左右に浮かび上がらせたまま、顔を引き攣らせるルカににっこりと笑いかけた。
「ほら、すぐだったでしょ?」
第2章 第2節「反乱分子」
ちょっと困ったことになったんだよねと、大鏡リクは唇を尖らせて呟いた。彼がオレンジジュースの入ったグラスをストローでかき回す度に、氷同士がぶつかり合ってからからと音を立てる。その様は、まるで普通の子どものようだった――東地区遊撃部隊隊長、“撃墜王”の異名を持つ魔術師だとは信じられない程に。けれど彼の直属の部下にして副官であるところのルカは、自然と居住まいを正した。
「困ったこと、というと?」
「今朝のさ、違反者の処分が執行されたことって報告受けてる?」
昨晩は夜警当番だったでしょう、と問われて、記憶を辿る。昨晩は緊急出動が多く、そのせいでルカの元へは多種多様な報告を上がってきていたが、その中に違反者処分に関するものなどあっただろうか?勤務開始から順番に思い出していって、その量にうんざりし始めた頃――
「……あぁ、ありましたね。西3工場の……確か山岡ミズチと水車町カノコの二人組。巡回担当が回収前の死体を見てしまったとかで」
思い至ったのは、交代時間となり日中の警備担当へ引き継ぎをしている最中にかかってきた通報である。通報者は不意に見つけてしまった死体に驚いたのか、もしくは2人組と面識があったのかひどく動揺していて、話を聞き出すのにも時間がかかったのだ。本日ルカが残業することになった要因のひとつである。
「そう、それそれ。……あ、ちなみにその件で“なにかした”?」
「いいえ。そんな余計なことはしませんよ」
そう言って、ルカはまだ湯気の立つ緑茶の湯呑みに口を付けた。――その言葉通り、ルカは例の通報者へ「すぐに離脱して何も見なかったことにしろ」と指示している。それが最善策だからだ。監視塔により規則違反者と認定されれば、『同族殺し』こと重峰イノリが処分に動く。邪魔や妨害を試みれば、その行為も規則違反と認定される。そうやって、ただ死体だけが増えていく――故に、重峰イノリという“機構”には極力関わるなというのが、少なくとも東地区に所属する魔術師の中では共通認識となっていた。
それを聞いたリクもまた当たり前のようにうなずいて、後に小さく眉を寄せた。その両耳で、待機形態のピアス型となった“エリザベート”が揺れている。
「そうなんだよ。そうなんだけどね。どうやらその通報者くん――あ、名前は“財前ユズキ”っていうんだけど。彼、処分された山岡ミズチの友人だったらしくって。冷静になったら腹が立ってきたのかな?東の魔術師に何を言っても動いてくれないから、それならと西地区に突撃したんだって」
「……はい?」
「で、まぁ間の悪いことに、というかタイミング良く?駆け込んだ先で過激派の連中に出会ってしまって。盛り上がっちゃったんだろうね。彼らと手を組んで人間相手に反乱起こすので助力してくださいって連絡がたったいま送られてきたところなんだけど」
これ放っておいたら共謀罪になるよねぇ。
軽い調子で告げるリクに、ルカは思わず頭を抱えた。滅茶苦茶過ぎて笑えもしない話だ。東じゃダメだと西に行った癖に結局東の魔術師に協力要請してるじゃないか、とか。魔術師数人が集まったところで人間相手に敵うはずないだろう、とか。言いたいことは沢山あったもののとりあえずは呑み込んで、ルカは口を開いた。
「……反乱って、具体的に何するつもりなんです?」
するとリクは伸びをするように背もたれへのしかかり、ぴんと立てた人差し指を上に向けた。示したのは天井、ではなくそのさらに上の。
「監視塔をぶっ壊すんだってさ」
ついに、一瞬とはいえルカの思考は停止した。意味がわからない。いや言葉は理解できているのだが、そこに至った過程がわからなかった。監視塔を、破壊する。なるほど確かにそうすれば人間たちの“目”は一時的に失われ、うまくやればその隙をつくことも出来るかもしれない。当然その作戦を思いついた時点で違反者認定はされているだろうからあの”重峰イノリ“と交戦する必要は出てくるが、何か算段があるのだとして。
そんな単純なことを、今までに実行した魔術師がひとりもいないと、本当に思っているのだろうか?それとも、自分たちであれば成功すると?どちらにせよ無謀すぎる。
なにより。
戦力を確保したかったのだとしても、リクに――東地区の幹部クラスに、先んじて連絡するのはあまりに浅はかすぎる。長くこの街にいれば彼らの作戦の無謀さなど計算するまでもなくわかりきっている。むしろリクが言った通り、無視すれば共謀罪に問われる可能性だってあるのだから――協力、どころか。
「一応、きいておきますけど。どうするおつもりなんです?」
「向こうが動き始める前に叩き潰すしかないねぇ。ともだちが処分されて怒る気持ちもわかるけれど、感情だけでどうにかなるようなものじゃない。巻き込まれるのはごめんだし、なによりあの調子じゃあ、西地区の大将さんにも同じような連絡してそうだから。こちらだけが動かなかったとなると貸しを作ることになっちゃうからね」
というわけで、と。愛らしく小首を傾げるリクが言わんとしている内容を、既にルカは察していた。だからこそ深く重いため息を吐き出し、湯呑みをテーブルに置く。
「……わかりました。俺はなにをすればいいですか?」
「さっすが。話が早くて助かるよ」
ぷらぷらと床から浮いた両足を揺らして笑うリクに、ルカも釣られて苦笑いを漏らす。どうやら本日の彼の残業は、またさらに延長となるようだ。
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監視塔が破壊されると一時的に何が失われますか。
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監視塔が破壊されると一時的に人間たちの“目”が失われます。
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国語
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第2章 神崎ルカの長い1日
第2章 第1節「東の魔術師」
前線都市東部中央、通称「研究特区」。
その食堂で、魔術師・神崎ルカは大きく伸びをした。生活補助ロボットが管理運営する食堂内に、他の魔術師の姿は無い。朝食にしても昼食にしてもひどく中途半端な時間帯だからだろう。では何故彼がここにいるのかと言えば、単純に夜間警戒の当番明けで食事を取り損ねていたからである。交代時間ギリギリまで外敵を迎撃していたため魔力残量は残り30パーセントを下回り、彼の愛機である武装端末『エリック』も、フルパワーで連続稼働した影響により性能が低下し始めている。要するに彼も彼の武器も、一仕事終えたばかりで疲れ切っていたのだった。
1時間程前に攻撃を受け骨折し、十数分前に魔術で治癒されたばかりの右肩の調子を確かめるようにぐるりと回して、ルカは両手を合わせ目を閉じる。
「ご馳走様でした」
すると、その時。まるで見計らったかのごとく、彼の手首にはまったバングル――『エリック』が、淡く点滅し始めた。同時に、機械音声が再生される。
[マスター]
「ん?」
「端末名“エリザベート”よりメッセージを受信。応答しますか?]
「リクさんから?……わかった、繋いで」
[了。接続開始]
『エリック』の声が途切れて、掠れたノイズが鳴る。次の瞬間、うってかわって朗らかな子どもの声がルカの名を呼んだ。
[あ、ルカ?お疲れ様ー!]
「お疲れ様です。……なにかありました?」
[うんまぁ、あったといえばあった、かな。とり急ぎ聞いて欲しいんだけれど]
「わかりました。じゃあ今から戻りますんで――」
[いや、大丈夫だよ。もうそっちに着く]
はい?と、ルカが聞き返すより早く。通信越しではなくもっと近くで――具体的には食堂の入り口の向こう側から、地響きと共に轟音が響いた。思わず肩を跳ねさせたルカの横で、テーブルやら椅子やらが衝撃によって揺れている。さらには、緊急事態を察知した店員ロボットたちが意味もなく走り回って。混乱の最中、がらりと入り口のドアが開いた。
来訪者たるその少年は、自身の武装端末である[エリザベート]を戦闘状態で起動したまま、――つまりは無骨な鋼鉄の大剣を二つ左右に浮かび上がらせたまま、顔を引き攣らせるルカににっこりと笑いかけた。
「ほら、すぐだったでしょ?」
第2章 第2節「反乱分子」
ちょっと困ったことになったんだよねと、大鏡リクは唇を尖らせて呟いた。彼がオレンジジュースの入ったグラスをストローでかき回す度に、氷同士がぶつかり合ってからからと音を立てる。その様は、まるで普通の子どものようだった――東地区遊撃部隊隊長、“撃墜王”の異名を持つ魔術師だとは信じられない程に。けれど彼の直属の部下にして副官であるところのルカは、自然と居住まいを正した。
「困ったこと、というと?」
「今朝のさ、違反者の処分が執行されたことって報告受けてる?」
昨晩は夜警当番だったでしょう、と問われて、記憶を辿る。昨晩は緊急出動が多く、そのせいでルカの元へは多種多様な報告を上がってきていたが、その中に違反者処分に関するものなどあっただろうか?勤務開始から順番に思い出していって、その量にうんざりし始めた頃――
「……あぁ、ありましたね。西3工場の……確か山岡ミズチと水車町カノコの二人組。巡回担当が回収前の死体を見てしまったとかで」
思い至ったのは、交代時間となり日中の警備担当へ引き継ぎをしている最中にかかってきた通報である。通報者は不意に見つけてしまった死体に驚いたのか、もしくは2人組と面識があったのかひどく動揺していて、話を聞き出すのにも時間がかかったのだ。本日ルカが残業することになった要因のひとつである。
「そう、それそれ。……あ、ちなみにその件で“なにかした”?」
「いいえ。そんな余計なことはしませんよ」
そう言って、ルカはまだ湯気の立つ緑茶の湯呑みに口を付けた。――その言葉通り、ルカは例の通報者へ「すぐに離脱して何も見なかったことにしろ」と指示している。それが最善策だからだ。監視塔により規則違反者と認定されれば、『同族殺し』こと重峰イノリが処分に動く。邪魔や妨害を試みれば、その行為も規則違反と認定される。そうやって、ただ死体だけが増えていく――故に、重峰イノリという“機構”には極力関わるなというのが、少なくとも東地区に所属する魔術師の中では共通認識となっていた。
それを聞いたリクもまた当たり前のようにうなずいて、後に小さく眉を寄せた。その両耳で、待機形態のピアス型となった“エリザベート”が揺れている。
「そうなんだよ。そうなんだけどね。どうやらその通報者くん――あ、名前は“財前ユズキ”っていうんだけど。彼、処分された山岡ミズチの友人だったらしくって。冷静になったら腹が立ってきたのかな?東の魔術師に何を言っても動いてくれないから、それならと西地区に突撃したんだって」
「……はい?」
「で、まぁ間の悪いことに、というかタイミング良く?駆け込んだ先で過激派の連中に出会ってしまって。盛り上がっちゃったんだろうね。彼らと手を組んで人間相手に反乱起こすので助力してくださいって連絡がたったいま送られてきたところなんだけど」
これ放っておいたら共謀罪になるよねぇ。
軽い調子で告げるリクに、ルカは思わず頭を抱えた。滅茶苦茶過ぎて笑えもしない話だ。東じゃダメだと西に行った癖に結局東の魔術師に協力要請してるじゃないか、とか。魔術師数人が集まったところで人間相手に敵うはずないだろう、とか。言いたいことは沢山あったもののとりあえずは呑み込んで、ルカは口を開いた。
「……反乱って、具体的に何するつもりなんです?」
するとリクは伸びをするように背もたれへのしかかり、ぴんと立てた人差し指を上に向けた。示したのは天井、ではなくそのさらに上の。
「監視塔をぶっ壊すんだってさ」
ついに、一瞬とはいえルカの思考は停止した。意味がわからない。いや言葉は理解できているのだが、そこに至った過程がわからなかった。監視塔を、破壊する。なるほど確かにそうすれば人間たちの“目”は一時的に失われ、うまくやればその隙をつくことも出来るかもしれない。当然その作戦を思いついた時点で違反者認定はされているだろうからあの”重峰イノリ“と交戦する必要は出てくるが、何か算段があるのだとして。
そんな単純なことを、今までに実行した魔術師がひとりもいないと、本当に思っているのだろうか?それとも、自分たちであれば成功すると?どちらにせよ無謀すぎる。
なにより。
戦力を確保したかったのだとしても、リクに――東地区の幹部クラスに、先んじて連絡するのはあまりに浅はかすぎる。長くこの街にいれば彼らの作戦の無謀さなど計算するまでもなくわかりきっている。むしろリクが言った通り、無視すれば共謀罪に問われる可能性だってあるのだから――協力、どころか。
「一応、きいておきますけど。どうするおつもりなんです?」
「向こうが動き始める前に叩き潰すしかないねぇ。ともだちが処分されて怒る気持ちもわかるけれど、感情だけでどうにかなるようなものじゃない。巻き込まれるのはごめんだし、なによりあの調子じゃあ、西地区の大将さんにも同じような連絡してそうだから。こちらだけが動かなかったとなると貸しを作ることになっちゃうからね」
というわけで、と。愛らしく小首を傾げるリクが言わんとしている内容を、既にルカは察していた。だからこそ深く重いため息を吐き出し、湯呑みをテーブルに置く。
「……わかりました。俺はなにをすればいいですか?」
「さっすが。話が早くて助かるよ」
ぷらぷらと床から浮いた両足を揺らして笑うリクに、ルカも釣られて苦笑いを漏らす。どうやら本日の彼の残業は、またさらに延長となるようだ。
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ぷらぷらと床から浮いた両足を揺らして笑っているのは誰ですか。
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ぷらぷらと床から浮いた両足を揺らして笑っているのはリクです。
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国語
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今朝の夢・お菓子のお姫様
田井田かわず
すべてがお菓子でできている王国がありました。その国の家はみんな、クッキーやウエハースを組み飴でつないで、外側には砂糖を塗って作られていました。家具も同じようにお菓子で作られ、人々は朝も昼も、そして夜もお菓子を食べて暮らしていました。
そんなお菓子の国のお姫様は、お菓子が大嫌いでした。
朝ごはんのコンポートも、昼のケーキバイキングも、お茶の時間も夜だって、とにかくお菓子を見ようともしません。
しかし、そのために体の弱くなってしまったお姫様は、お菓子のように見せかけられたベッドで、一日中本を読み、物思いにふけっていました。本当はお菓子に見たてたベッドや家具さえ嫌でしたが、姫の不健康を悲しむ王様との話し合いの末(父である慈悲深い王様に頼みこまれたので)、頑なにお菓子を拒むお姫様も妥協したのでした。
王様がいつものように、姫を案じてお城の中の教会で独り祈っていた夜のことです。
王様が祈りを終えて立ち上がり、ちょうど振り返ったとき教会の扉が音も無く開きました。何事かと王様が目を凝らすと、そこにフードを深く被り足の先までマントで覆った人が立っていました。
「突然の来訪にこのような格好、重なる無礼をどうかお許しください」
その人は言いました。王様は注意深く声を聞いていましたが、それでもその人の性別さえ判断するのが難しいようでした。
その人は名前も言わずに、そこに立ったまま淡々と話し出しました。
「お姫様の事で参りました。聡明な王様は薄々お気づきかもしれません」
「なんだ」
王様は答えました。
「お菓子をお食べにならないお姫様の体は、もうずいぶん前から腐り始めています」
突然聞かされた、あまりの事に王様は愕然としました。しかしその人に言われたように、王様自身がずっと感じてた事でした。
お菓子を中心としてすべてが成り立っているこの世界で、何を考えてか、それを口にしないお姫様の身体が正常を保っているはずはありません。現にお姫様は布団から起き上がって何かすれば、ほどなく眩暈が起きてしまうほど弱っているのです。
しかしこんな怪しげな人の言葉を、王が鵜呑みにするわけには行きません。
「なぜ医者でも無いどころか、いま初めて会ったお前にそのような事が言えるのだ!」
王様は声を震わせて言いました。
その人が何も答えないので、王様は腕を組んで上目にその人を睨みます。
しばらく互いに見つめ合っていたように思いますが、マントにくるまれたその人は結局なにも言わずに一つ頭を下げて姿を消しました。
人の気配が無くなると、王様はその不思議な光景に目もくれず、臣下を集めて愛娘を救うための会議を始めました。
数ヶ月後、お姫様に縁談が持ち上がりました。お相手は隣の国の第二王子様です。
王様は社交界で彼に会ったとき、お姫様の話しをしました。優しい王子様は王様の話しを熱心に聞き、お姫様の命を助けるために助けが必要だと聞かされると王様の手を強く握りました。
「思慮深いお姫様には、きっと何かお考えがあるのでしょう。でも弱った命を放ってはおけません。私がお姫様の助けになれるのでしたら、どうかお姫様に会わせて下さい」
そう熱く宣言して、今回お見合いの約束を取り付けたのでした。
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お菓子の国のお姫様は何が大嫌いでしたか。
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お菓子の国のお姫様はお菓子が大嫌いでした。
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JCRRAG_001156
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国語
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今朝の夢・お菓子のお姫様
田井田かわず
すべてがお菓子でできている王国がありました。その国の家はみんな、クッキーやウエハースを組み飴でつないで、外側には砂糖を塗って作られていました。家具も同じようにお菓子で作られ、人々は朝も昼も、そして夜もお菓子を食べて暮らしていました。
そんなお菓子の国のお姫様は、お菓子が大嫌いでした。
朝ごはんのコンポートも、昼のケーキバイキングも、お茶の時間も夜だって、とにかくお菓子を見ようともしません。
しかし、そのために体の弱くなってしまったお姫様は、お菓子のように見せかけられたベッドで、一日中本を読み、物思いにふけっていました。本当はお菓子に見たてたベッドや家具さえ嫌でしたが、姫の不健康を悲しむ王様との話し合いの末(父である慈悲深い王様に頼みこまれたので)、頑なにお菓子を拒むお姫様も妥協したのでした。
王様がいつものように、姫を案じてお城の中の教会で独り祈っていた夜のことです。
王様が祈りを終えて立ち上がり、ちょうど振り返ったとき教会の扉が音も無く開きました。何事かと王様が目を凝らすと、そこにフードを深く被り足の先までマントで覆った人が立っていました。
「突然の来訪にこのような格好、重なる無礼をどうかお許しください」
その人は言いました。王様は注意深く声を聞いていましたが、それでもその人の性別さえ判断するのが難しいようでした。
その人は名前も言わずに、そこに立ったまま淡々と話し出しました。
「お姫様の事で参りました。聡明な王様は薄々お気づきかもしれません」
「なんだ」
王様は答えました。
「お菓子をお食べにならないお姫様の体は、もうずいぶん前から腐り始めています」
突然聞かされた、あまりの事に王様は愕然としました。しかしその人に言われたように、王様自身がずっと感じてた事でした。
お菓子を中心としてすべてが成り立っているこの世界で、何を考えてか、それを口にしないお姫様の身体が正常を保っているはずはありません。現にお姫様は布団から起き上がって何かすれば、ほどなく眩暈が起きてしまうほど弱っているのです。
しかしこんな怪しげな人の言葉を、王が鵜呑みにするわけには行きません。
「なぜ医者でも無いどころか、いま初めて会ったお前にそのような事が言えるのだ!」
王様は声を震わせて言いました。
その人が何も答えないので、王様は腕を組んで上目にその人を睨みます。
しばらく互いに見つめ合っていたように思いますが、マントにくるまれたその人は結局なにも言わずに一つ頭を下げて姿を消しました。
人の気配が無くなると、王様はその不思議な光景に目もくれず、臣下を集めて愛娘を救うための会議を始めました。
数ヶ月後、お姫様に縁談が持ち上がりました。お相手は隣の国の第二王子様です。
王様は社交界で彼に会ったとき、お姫様の話しをしました。優しい王子様は王様の話しを熱心に聞き、お姫様の命を助けるために助けが必要だと聞かされると王様の手を強く握りました。
「思慮深いお姫様には、きっと何かお考えがあるのでしょう。でも弱った命を放ってはおけません。私がお姫様の助けになれるのでしたら、どうかお姫様に会わせて下さい」
そう熱く宣言して、今回お見合いの約束を取り付けたのでした。
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王様がいつものように、お城の中の教会で独り祈っていたのは、誰を案じて祈っていましたか。
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王様は姫を案じて祈っていました。
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国語
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今朝の夢・お菓子のお姫様
田井田かわず
すべてがお菓子でできている王国がありました。その国の家はみんな、クッキーやウエハースを組み飴でつないで、外側には砂糖を塗って作られていました。家具も同じようにお菓子で作られ、人々は朝も昼も、そして夜もお菓子を食べて暮らしていました。
そんなお菓子の国のお姫様は、お菓子が大嫌いでした。
朝ごはんのコンポートも、昼のケーキバイキングも、お茶の時間も夜だって、とにかくお菓子を見ようともしません。
しかし、そのために体の弱くなってしまったお姫様は、お菓子のように見せかけられたベッドで、一日中本を読み、物思いにふけっていました。本当はお菓子に見たてたベッドや家具さえ嫌でしたが、姫の不健康を悲しむ王様との話し合いの末(父である慈悲深い王様に頼みこまれたので)、頑なにお菓子を拒むお姫様も妥協したのでした。
王様がいつものように、姫を案じてお城の中の教会で独り祈っていた夜のことです。
王様が祈りを終えて立ち上がり、ちょうど振り返ったとき教会の扉が音も無く開きました。何事かと王様が目を凝らすと、そこにフードを深く被り足の先までマントで覆った人が立っていました。
「突然の来訪にこのような格好、重なる無礼をどうかお許しください」
その人は言いました。王様は注意深く声を聞いていましたが、それでもその人の性別さえ判断するのが難しいようでした。
その人は名前も言わずに、そこに立ったまま淡々と話し出しました。
「お姫様の事で参りました。聡明な王様は薄々お気づきかもしれません」
「なんだ」
王様は答えました。
「お菓子をお食べにならないお姫様の体は、もうずいぶん前から腐り始めています」
突然聞かされた、あまりの事に王様は愕然としました。しかしその人に言われたように、王様自身がずっと感じてた事でした。
お菓子を中心としてすべてが成り立っているこの世界で、何を考えてか、それを口にしないお姫様の身体が正常を保っているはずはありません。現にお姫様は布団から起き上がって何かすれば、ほどなく眩暈が起きてしまうほど弱っているのです。
しかしこんな怪しげな人の言葉を、王が鵜呑みにするわけには行きません。
「なぜ医者でも無いどころか、いま初めて会ったお前にそのような事が言えるのだ!」
王様は声を震わせて言いました。
その人が何も答えないので、王様は腕を組んで上目にその人を睨みます。
しばらく互いに見つめ合っていたように思いますが、マントにくるまれたその人は結局なにも言わずに一つ頭を下げて姿を消しました。
人の気配が無くなると、王様はその不思議な光景に目もくれず、臣下を集めて愛娘を救うための会議を始めました。
数ヶ月後、お姫様に縁談が持ち上がりました。お相手は隣の国の第二王子様です。
王様は社交界で彼に会ったとき、お姫様の話しをしました。優しい王子様は王様の話しを熱心に聞き、お姫様の命を助けるために助けが必要だと聞かされると王様の手を強く握りました。
「思慮深いお姫様には、きっと何かお考えがあるのでしょう。でも弱った命を放ってはおけません。私がお姫様の助けになれるのでしたら、どうかお姫様に会わせて下さい」
そう熱く宣言して、今回お見合いの約束を取り付けたのでした。
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王様が教会で祈りを終えて立ち上がったときに訪れてきた人は、何で足の先まで覆っていましたか。
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王様が教会で祈っていたときに訪れてきた人は、マントで足の先まで覆っていました。
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今朝の夢・お菓子のお姫様
田井田かわず
すべてがお菓子でできている王国がありました。その国の家はみんな、クッキーやウエハースを組み飴でつないで、外側には砂糖を塗って作られていました。家具も同じようにお菓子で作られ、人々は朝も昼も、そして夜もお菓子を食べて暮らしていました。
そんなお菓子の国のお姫様は、お菓子が大嫌いでした。
朝ごはんのコンポートも、昼のケーキバイキングも、お茶の時間も夜だって、とにかくお菓子を見ようともしません。
しかし、そのために体の弱くなってしまったお姫様は、お菓子のように見せかけられたベッドで、一日中本を読み、物思いにふけっていました。本当はお菓子に見たてたベッドや家具さえ嫌でしたが、姫の不健康を悲しむ王様との話し合いの末(父である慈悲深い王様に頼みこまれたので)、頑なにお菓子を拒むお姫様も妥協したのでした。
王様がいつものように、姫を案じてお城の中の教会で独り祈っていた夜のことです。
王様が祈りを終えて立ち上がり、ちょうど振り返ったとき教会の扉が音も無く開きました。何事かと王様が目を凝らすと、そこにフードを深く被り足の先までマントで覆った人が立っていました。
「突然の来訪にこのような格好、重なる無礼をどうかお許しください」
その人は言いました。王様は注意深く声を聞いていましたが、それでもその人の性別さえ判断するのが難しいようでした。
その人は名前も言わずに、そこに立ったまま淡々と話し出しました。
「お姫様の事で参りました。聡明な王様は薄々お気づきかもしれません」
「なんだ」
王様は答えました。
「お菓子をお食べにならないお姫様の体は、もうずいぶん前から腐り始めています」
突然聞かされた、あまりの事に王様は愕然としました。しかしその人に言われたように、王様自身がずっと感じてた事でした。
お菓子を中心としてすべてが成り立っているこの世界で、何を考えてか、それを口にしないお姫様の身体が正常を保っているはずはありません。現にお姫様は布団から起き上がって何かすれば、ほどなく眩暈が起きてしまうほど弱っているのです。
しかしこんな怪しげな人の言葉を、王が鵜呑みにするわけには行きません。
「なぜ医者でも無いどころか、いま初めて会ったお前にそのような事が言えるのだ!」
王様は声を震わせて言いました。
その人が何も答えないので、王様は腕を組んで上目にその人を睨みます。
しばらく互いに見つめ合っていたように思いますが、マントにくるまれたその人は結局なにも言わずに一つ頭を下げて姿を消しました。
人の気配が無くなると、王様はその不思議な光景に目もくれず、臣下を集めて愛娘を救うための会議を始めました。
数ヶ月後、お姫様に縁談が持ち上がりました。お相手は隣の国の第二王子様です。
王様は社交界で彼に会ったとき、お姫様の話しをしました。優しい王子様は王様の話しを熱心に聞き、お姫様の命を助けるために助けが必要だと聞かされると王様の手を強く握りました。
「思慮深いお姫様には、きっと何かお考えがあるのでしょう。でも弱った命を放ってはおけません。私がお姫様の助けになれるのでしたら、どうかお姫様に会わせて下さい」
そう熱く宣言して、今回お見合いの約束を取り付けたのでした。
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お姫様の縁談の相手は誰ですか。
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お姫様の縁談の相手は隣の国の第二王子様です。
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JCRRAG_001159
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国語
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その日、隣の国の第二王子様はお姫様の寝室に通されました。
「はじめまして。お加減はいかがですか」
王子様は親しみを込めてお姫様に笑顔を向けました。
「はじめまして。遠路はるばるお越し下さり、ありがとうございます。わたしは起きあがるとどうも具合が悪いので、このままで失礼いたします。王子様もさぞお疲れでしょうから、どうぞお座り下さい」
お姫様は表情をピクリとも動かさないまま挨拶をして、王子様にチーズタルトの形をした椅子を勧めました。
王子様はお姫様の丁寧な言葉の裏に冷たい心を感じて、なんと可哀想な人だろうと思い、お姫様を憐れみました。
「可哀想なお姫様。どうしてそうも頑なにお菓子を食べる事を拒まれるのですか」
いくらか他愛のない話しをした後に、王子様はきり出しました。
お姫様は王子様から目をそらせてそっと息を吐きましたが、何も言いません。
王子様は椅子から少し、身を乗り出しました。
「お姫様。あなたはご自身が多くの人から愛され、そして心配されている事をご存知でしょう。どうしても苦手だったら、何かお好きな物と一緒に食べてみましょう。私が、あなたが好きになるような料理人を探します。あなたと一緒に、あなたがお菓子を食べられるように考えていきます」
王子様はお姫様の反応が良くないと見ても、一生懸命に色んな提案をしました。
お姫様は俯きがちに一点をじっと見つめていて、そしてぽつりと言いました。
「それでも、わたしは食べたくないのです」
王子様は、お姫様の心を動かせずに意気消沈しました。
「……気難しいお姫様。それほどにわたしの言葉が聴きたくないのでしたら、今日は帰ります」
それ以降も王子様は何度か手紙をよこしましたが、お姫様は捨てることは無くてもお読みになる事もありませんでした。
数日後、お姫様の友人が訪ねてきました。
お姫様はやっぱりベッドの中のまま、友人はベッドの際に腰掛けて世間話に混ぜてこのあいだ尋ねてきた王子様の話しをしました。
友人は熱心にお姫様に語りかけた王子に同情的でした。
「あなた本当に偏屈で強情よね。少しくらい話しを合わせて食べればいいじゃないの。あんたの為に色々知恵を絞ってくれたんでしょうよ」
「そこが嫌なのよ。私のため私のためって、初めて会った人に言われてもね」
「私が言っても聞かないくせに」
友人はそう言って出されたお茶に口をつけました。
それからそう経たない内、お姫様にまた縁談が持ち上がりました。
お相手は、社交会に出てる人も話しにしか聞かないような遠い国の王子様でした。
その王子様は簡潔な挨拶をし、静かに腰を折りました。
なんとなく声を掛けづらいその静かな様子のために、お姫様はただ黙って王子様を見つめていました。
顔を上げた王子様と目が合いました。
色素の薄い灰色の瞳は中心の黒眼をきつく絞って、お姫様はその視線に突き刺されるような思いになりました。
「あなたが何にそんなにこだわってるのか、わたしにはわかりません」
王子様は、その冷たい印象とは変わって、ゆっくりと優しい口調で話しました。
「あなたの身体の事はきっとあなたが一番わかるでしょうから、食べるか食べないか、自分で決めなさい。食べないでもし死んでしまったとしてもあなたの選択です」
「……何がおっしゃりたいのでしょうか」
無遠慮な発言であるにも関わらず、お姫様は異国の王子の声に聴き惚れました。
「……もしあなたがこの婚約をうける気になったら、私はあなたがどこに進もうと、側にいて見守りましょう」
王子様はその場に立ったまま、あくまで静かに、淡々と言いました。
それから二人は多く言葉を交わすこと無く別れました。
独りになったあと、そっけない態度の王子様の言葉が不思議とお姫様の心に深く響き、お姫様はベッドの上でしばらく考え事をしました。
もうずいぶん前から体の衰えは感じていたし、特にここ数カ月は多くの人から心配されては居たのですが、さっきの王子の発言で初めて死を意識したような気すらしました。本当に、死に近づいているのかもしれない。そうは思って居たけれど、お姫様はまだ二十歳になったばかりでした。きっとまだ大丈夫だろう、まだ生きる時間はある、やり直すまでの時間は残されていると、お姫様はぼんやり納得してまた布団の中に戻ろうとしました。
すると突然部屋の中が真っ暗になりました。
窓からさす光も無く、電気を消すより暗い部屋は明らかに異様です。
お姫様は体を起こして身をかがめ、耳をすましました。
するとどこからともなく声が聞こえました。
「姫よ。お前はもう気が付いているはずだ」
決然と語るその声は空気も揺るがす地響きのようでもあり、耳をくすぐるそよ風のようでもありました。
「なんのことです」
「お前の体は内側からどんどん腐り、死んで行っている。物心ついてほどなく菓子を食べ無くなったお前の体は、六歳の頃からその身をそぎ始め、今となっては、たとえ生活を改めても手遅れなのだ」
お姫様は何も言いませんでした。
不思議だと思う事はなにもありませんでした。灰色の目をした王子の言うとおり、自分の体のことは察していたのです。生を受けてまだ20年と言えど、その年月は十分に長く、過去を振り返れば色んなことがありました。半生以上をこのベッドの上で過ごしていますが、それでも優しい父や愉快な友人のおかげで、思い出すことは沢山あります。
お姫様はそれだけの生を、生きる糧無しに過ごしてきたのです。
当然の報いだとお姫様は思いました。自分の体のことを初めて理解し納得したお姫様は景色の戻った部屋の中、己の全てが壊れてしまったように思いました。
そして、お姫様は彼女の死を暗に宣言した王子の優しい声を思い出していたのでした。
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お姫様は何歳ですか。
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お姫様は二十歳です。
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JCRRAG_001160
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国語
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今朝の夢・お菓子のお姫様
田井田かわず
すべてがお菓子でできている王国がありました。その国の家はみんな、クッキーやウエハースを組み飴でつないで、外側には砂糖を塗って作られていました。家具も同じようにお菓子で作られ、人々は朝も昼も、そして夜もお菓子を食べて暮らしていました。
そんなお菓子の国のお姫様は、お菓子が大嫌いでした。
朝ごはんのコンポートも、昼のケーキバイキングも、お茶の時間も夜だって、とにかくお菓子を見ようともしません。
しかし、そのために体の弱くなってしまったお姫様は、お菓子のように見せかけられたベッドで、一日中本を読み、物思いにふけっていました。本当はお菓子に見たてたベッドや家具さえ嫌でしたが、姫の不健康を悲しむ王様との話し合いの末(父である慈悲深い王様に頼みこまれたので)、頑なにお菓子を拒むお姫様も妥協したのでした。
王様がいつものように、姫を案じてお城の中の教会で独り祈っていた夜のことです。
王様が祈りを終えて立ち上がり、ちょうど振り返ったとき教会の扉が音も無く開きました。何事かと王様が目を凝らすと、そこにフードを深く被り足の先までマントで覆った人が立っていました。
「突然の来訪にこのような格好、重なる無礼をどうかお許しください」
その人は言いました。王様は注意深く声を聞いていましたが、それでもその人の性別さえ判断するのが難しいようでした。
その人は名前も言わずに、そこに立ったまま淡々と話し出しました。
「お姫様の事で参りました。聡明な王様は薄々お気づきかもしれません」
「なんだ」
王様は答えました。
「お菓子をお食べにならないお姫様の体は、もうずいぶん前から腐り始めています」
突然聞かされた、あまりの事に王様は愕然としました。しかしその人に言われたように、王様自身がずっと感じてた事でした。
お菓子を中心としてすべてが成り立っているこの世界で、何を考えてか、それを口にしないお姫様の身体が正常を保っているはずはありません。現にお姫様は布団から起き上がって何かすれば、ほどなく眩暈が起きてしまうほど弱っているのです。
しかしこんな怪しげな人の言葉を、王が鵜呑みにするわけには行きません。
「なぜ医者でも無いどころか、いま初めて会ったお前にそのような事が言えるのだ!」
王様は声を震わせて言いました。
その人が何も答えないので、王様は腕を組んで上目にその人を睨みます。
しばらく互いに見つめ合っていたように思いますが、マントにくるまれたその人は結局なにも言わずに一つ頭を下げて姿を消しました。
人の気配が無くなると、王様はその不思議な光景に目もくれず、臣下を集めて愛娘を救うための会議を始めました。
数ヶ月後、お姫様に縁談が持ち上がりました。お相手は隣の国の第二王子様です。
王様は社交界で彼に会ったとき、お姫様の話しをしました。優しい王子様は王様の話しを熱心に聞き、お姫様の命を助けるために助けが必要だと聞かされると王様の手を強く握りました。
「思慮深いお姫様には、きっと何かお考えがあるのでしょう。でも弱った命を放ってはおけません。私がお姫様の助けになれるのでしたら、どうかお姫様に会わせて下さい」
そう熱く宣言して、今回お見合いの約束を取り付けたのでした。
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お姫様はどのぐらい弱っていますか。
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お姫様は布団から起き上がって何かすれば、ほどなく眩暈が起きてしまうほど弱っています。
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JCRRAG_001161
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国語
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その日、隣の国の第二王子様はお姫様の寝室に通されました。
「はじめまして。お加減はいかがですか」
王子様は親しみを込めてお姫様に笑顔を向けました。
「はじめまして。遠路はるばるお越し下さり、ありがとうございます。わたしは起きあがるとどうも具合が悪いので、このままで失礼いたします。王子様もさぞお疲れでしょうから、どうぞお座り下さい」
お姫様は表情をピクリとも動かさないまま挨拶をして、王子様にチーズタルトの形をした椅子を勧めました。
王子様はお姫様の丁寧な言葉の裏に冷たい心を感じて、なんと可哀想な人だろうと思い、お姫様を憐れみました。
「可哀想なお姫様。どうしてそうも頑なにお菓子を食べる事を拒まれるのですか」
いくらか他愛のない話しをした後に、王子様はきり出しました。
お姫様は王子様から目をそらせてそっと息を吐きましたが、何も言いません。
王子様は椅子から少し、身を乗り出しました。
「お姫様。あなたはご自身が多くの人から愛され、そして心配されている事をご存知でしょう。どうしても苦手だったら、何かお好きな物と一緒に食べてみましょう。私が、あなたが好きになるような料理人を探します。あなたと一緒に、あなたがお菓子を食べられるように考えていきます」
王子様はお姫様の反応が良くないと見ても、一生懸命に色んな提案をしました。
お姫様は俯きがちに一点をじっと見つめていて、そしてぽつりと言いました。
「それでも、わたしは食べたくないのです」
王子様は、お姫様の心を動かせずに意気消沈しました。
「……気難しいお姫様。それほどにわたしの言葉が聴きたくないのでしたら、今日は帰ります」
それ以降も王子様は何度か手紙をよこしましたが、お姫様は捨てることは無くてもお読みになる事もありませんでした。
数日後、お姫様の友人が訪ねてきました。
お姫様はやっぱりベッドの中のまま、友人はベッドの際に腰掛けて世間話に混ぜてこのあいだ尋ねてきた王子様の話しをしました。
友人は熱心にお姫様に語りかけた王子に同情的でした。
「あなた本当に偏屈で強情よね。少しくらい話しを合わせて食べればいいじゃないの。あんたの為に色々知恵を絞ってくれたんでしょうよ」
「そこが嫌なのよ。私のため私のためって、初めて会った人に言われてもね」
「私が言っても聞かないくせに」
友人はそう言って出されたお茶に口をつけました。
それからそう経たない内、お姫様にまた縁談が持ち上がりました。
お相手は、社交会に出てる人も話しにしか聞かないような遠い国の王子様でした。
その王子様は簡潔な挨拶をし、静かに腰を折りました。
なんとなく声を掛けづらいその静かな様子のために、お姫様はただ黙って王子様を見つめていました。
顔を上げた王子様と目が合いました。
色素の薄い灰色の瞳は中心の黒眼をきつく絞って、お姫様はその視線に突き刺されるような思いになりました。
「あなたが何にそんなにこだわってるのか、わたしにはわかりません」
王子様は、その冷たい印象とは変わって、ゆっくりと優しい口調で話しました。
「あなたの身体の事はきっとあなたが一番わかるでしょうから、食べるか食べないか、自分で決めなさい。食べないでもし死んでしまったとしてもあなたの選択です」
「……何がおっしゃりたいのでしょうか」
無遠慮な発言であるにも関わらず、お姫様は異国の王子の声に聴き惚れました。
「……もしあなたがこの婚約をうける気になったら、私はあなたがどこに進もうと、側にいて見守りましょう」
王子様はその場に立ったまま、あくまで静かに、淡々と言いました。
それから二人は多く言葉を交わすこと無く別れました。
独りになったあと、そっけない態度の王子様の言葉が不思議とお姫様の心に深く響き、お姫様はベッドの上でしばらく考え事をしました。
もうずいぶん前から体の衰えは感じていたし、特にここ数カ月は多くの人から心配されては居たのですが、さっきの王子の発言で初めて死を意識したような気すらしました。本当に、死に近づいているのかもしれない。そうは思って居たけれど、お姫様はまだ二十歳になったばかりでした。きっとまだ大丈夫だろう、まだ生きる時間はある、やり直すまでの時間は残されていると、お姫様はぼんやり納得してまた布団の中に戻ろうとしました。
すると突然部屋の中が真っ暗になりました。
窓からさす光も無く、電気を消すより暗い部屋は明らかに異様です。
お姫様は体を起こして身をかがめ、耳をすましました。
するとどこからともなく声が聞こえました。
「姫よ。お前はもう気が付いているはずだ」
決然と語るその声は空気も揺るがす地響きのようでもあり、耳をくすぐるそよ風のようでもありました。
「なんのことです」
「お前の体は内側からどんどん腐り、死んで行っている。物心ついてほどなく菓子を食べ無くなったお前の体は、六歳の頃からその身をそぎ始め、今となっては、たとえ生活を改めても手遅れなのだ」
お姫様は何も言いませんでした。
不思議だと思う事はなにもありませんでした。灰色の目をした王子の言うとおり、自分の体のことは察していたのです。生を受けてまだ20年と言えど、その年月は十分に長く、過去を振り返れば色んなことがありました。半生以上をこのベッドの上で過ごしていますが、それでも優しい父や愉快な友人のおかげで、思い出すことは沢山あります。
お姫様はそれだけの生を、生きる糧無しに過ごしてきたのです。
当然の報いだとお姫様は思いました。自分の体のことを初めて理解し納得したお姫様は景色の戻った部屋の中、己の全てが壊れてしまったように思いました。
そして、お姫様は彼女の死を暗に宣言した王子の優しい声を思い出していたのでした。
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隣の国の第二王子様はお姫様の丁寧な言葉の裏に何を感じたのですか。
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隣の国の第二王子様はお姫様の丁寧な言葉の裏に冷たい心を感じました。
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その日、隣の国の第二王子様はお姫様の寝室に通されました。
「はじめまして。お加減はいかがですか」
王子様は親しみを込めてお姫様に笑顔を向けました。
「はじめまして。遠路はるばるお越し下さり、ありがとうございます。わたしは起きあがるとどうも具合が悪いので、このままで失礼いたします。王子様もさぞお疲れでしょうから、どうぞお座り下さい」
お姫様は表情をピクリとも動かさないまま挨拶をして、王子様にチーズタルトの形をした椅子を勧めました。
王子様はお姫様の丁寧な言葉の裏に冷たい心を感じて、なんと可哀想な人だろうと思い、お姫様を憐れみました。
「可哀想なお姫様。どうしてそうも頑なにお菓子を食べる事を拒まれるのですか」
いくらか他愛のない話しをした後に、王子様はきり出しました。
お姫様は王子様から目をそらせてそっと息を吐きましたが、何も言いません。
王子様は椅子から少し、身を乗り出しました。
「お姫様。あなたはご自身が多くの人から愛され、そして心配されている事をご存知でしょう。どうしても苦手だったら、何かお好きな物と一緒に食べてみましょう。私が、あなたが好きになるような料理人を探します。あなたと一緒に、あなたがお菓子を食べられるように考えていきます」
王子様はお姫様の反応が良くないと見ても、一生懸命に色んな提案をしました。
お姫様は俯きがちに一点をじっと見つめていて、そしてぽつりと言いました。
「それでも、わたしは食べたくないのです」
王子様は、お姫様の心を動かせずに意気消沈しました。
「……気難しいお姫様。それほどにわたしの言葉が聴きたくないのでしたら、今日は帰ります」
それ以降も王子様は何度か手紙をよこしましたが、お姫様は捨てることは無くてもお読みになる事もありませんでした。
数日後、お姫様の友人が訪ねてきました。
お姫様はやっぱりベッドの中のまま、友人はベッドの際に腰掛けて世間話に混ぜてこのあいだ尋ねてきた王子様の話しをしました。
友人は熱心にお姫様に語りかけた王子に同情的でした。
「あなた本当に偏屈で強情よね。少しくらい話しを合わせて食べればいいじゃないの。あんたの為に色々知恵を絞ってくれたんでしょうよ」
「そこが嫌なのよ。私のため私のためって、初めて会った人に言われてもね」
「私が言っても聞かないくせに」
友人はそう言って出されたお茶に口をつけました。
それからそう経たない内、お姫様にまた縁談が持ち上がりました。
お相手は、社交会に出てる人も話しにしか聞かないような遠い国の王子様でした。
その王子様は簡潔な挨拶をし、静かに腰を折りました。
なんとなく声を掛けづらいその静かな様子のために、お姫様はただ黙って王子様を見つめていました。
顔を上げた王子様と目が合いました。
色素の薄い灰色の瞳は中心の黒眼をきつく絞って、お姫様はその視線に突き刺されるような思いになりました。
「あなたが何にそんなにこだわってるのか、わたしにはわかりません」
王子様は、その冷たい印象とは変わって、ゆっくりと優しい口調で話しました。
「あなたの身体の事はきっとあなたが一番わかるでしょうから、食べるか食べないか、自分で決めなさい。食べないでもし死んでしまったとしてもあなたの選択です」
「……何がおっしゃりたいのでしょうか」
無遠慮な発言であるにも関わらず、お姫様は異国の王子の声に聴き惚れました。
「……もしあなたがこの婚約をうける気になったら、私はあなたがどこに進もうと、側にいて見守りましょう」
王子様はその場に立ったまま、あくまで静かに、淡々と言いました。
それから二人は多く言葉を交わすこと無く別れました。
独りになったあと、そっけない態度の王子様の言葉が不思議とお姫様の心に深く響き、お姫様はベッドの上でしばらく考え事をしました。
もうずいぶん前から体の衰えは感じていたし、特にここ数カ月は多くの人から心配されては居たのですが、さっきの王子の発言で初めて死を意識したような気すらしました。本当に、死に近づいているのかもしれない。そうは思って居たけれど、お姫様はまだ二十歳になったばかりでした。きっとまだ大丈夫だろう、まだ生きる時間はある、やり直すまでの時間は残されていると、お姫様はぼんやり納得してまた布団の中に戻ろうとしました。
すると突然部屋の中が真っ暗になりました。
窓からさす光も無く、電気を消すより暗い部屋は明らかに異様です。
お姫様は体を起こして身をかがめ、耳をすましました。
するとどこからともなく声が聞こえました。
「姫よ。お前はもう気が付いているはずだ」
決然と語るその声は空気も揺るがす地響きのようでもあり、耳をくすぐるそよ風のようでもありました。
「なんのことです」
「お前の体は内側からどんどん腐り、死んで行っている。物心ついてほどなく菓子を食べ無くなったお前の体は、六歳の頃からその身をそぎ始め、今となっては、たとえ生活を改めても手遅れなのだ」
お姫様は何も言いませんでした。
不思議だと思う事はなにもありませんでした。灰色の目をした王子の言うとおり、自分の体のことは察していたのです。生を受けてまだ20年と言えど、その年月は十分に長く、過去を振り返れば色んなことがありました。半生以上をこのベッドの上で過ごしていますが、それでも優しい父や愉快な友人のおかげで、思い出すことは沢山あります。
お姫様はそれだけの生を、生きる糧無しに過ごしてきたのです。
当然の報いだとお姫様は思いました。自分の体のことを初めて理解し納得したお姫様は景色の戻った部屋の中、己の全てが壊れてしまったように思いました。
そして、お姫様は彼女の死を暗に宣言した王子の優しい声を思い出していたのでした。
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物心ついてほどなく菓子を食べ無くなったお姫様の体は、何歳の頃からその身をそぎ始めましたか。
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物心ついてほどなく菓子を食べ無くなったお姫様の体は、六歳の頃からその身をそぎ始めました。
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JCRRAG_001163
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国語
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目が覚めると、泣いていた。
――思い出せない。
夢の中で出会ったあの人の名前が。顔や声はぼんやりと覚えているのに、名前だけがさっぱりと思い出せない。しかしその後の夢には、何日経ってもあの人が現れる事は無かった。もう一度だけ、あの人に会いたい。その想いに憑りつかれた私は、ある場所にたどり着いた。
『夢魅つ宿』
そこの主人は、人を望む夢に導く不思議な力があるという。「夢見屋」などと呼ばれて、その不思議な力を求める常連の客もいるらしい。にわかには信じ難い話だが、藁にもすがる様な気持ちで、事情を説明した。
「ええ、わかりました。では夜にまた、お伺いしますので。」
宿やの主人はそう言って去っていったが、慣れた様子で受け答えするのですっかり拍子抜けして、山深い森の奥に佇む宿の趣を楽しむ余裕まで出来てしまった。
そろそろ床に入ろうかというとき
「失礼します。」
と声がして、宿の主人がやってきた。
「それでは、始めます。」
布団の中で、まるで手術みたいだな、と思いながら目を閉じた。私が眠りに落ちるのを、枕の左側では主人が正座で待っている。こんな状況では眠れるはずもないと思っていたのに、不思議にもあっさり、息を吸って吐くように、意識は夢の深淵へと導かれていった。
そして私はもう一度、あの人に出会った。そこは輪郭が曖昧な世界だった。シンプルで広いリビングに窓から白い光が差して、少ない物々を淡く浮かび上がらせた。とても幸福な世界。涼しくて春の陽気を感じるような、希望の世界。二人掛けのソファがあって、隣に君がいて。微睡みながら、君の他愛のない話に気持ち半分の返事をする。そんな世界。君の顔の輪郭も、弾けるような笑みの表情も、柔らかな声の形も、ほのかに温かい肌の感触も、はっきりと分かる。それなのに……。
「ねえ、どうしても思い出せないんだ。」
これを聞いたら壊れてしまう。
「すごく今更なことなんだけどね」
分かっている。
「君の名前を、教えて?」
少し驚いたような顔をして、それでも君は笑って、太陽のように笑って。
窓から差していた白い光が徐々に広がり、世界と君を少しずつ侵食していく。
(やっぱり聞かなければ良かったかな。)
壊れ物に触れるように、そっと、やさしく君の手を握って。お別れだと、忘れないように君の顔を見上げて、目が合って。見つめ合って。
(でも、これで良いか。)
凝縮された時間が永遠のように感じられた。そうだったら良いのにな、とも思った。それでもやっぱり最後の瞬間はやって来て、君の唇が短く動いた。そしてまた笑った。
翌日宿を後にするとき、主人が訪ねた。
「もう、いいのかい?」
「うん。」
短く頷いて、私はその不思議な宿を後にした。
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『夢魅つ宿』の主人は「何屋」と呼ばれていますか。
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『夢魅つ宿』の主人は「夢見屋」と呼ばれています。
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JCRRAG_001164
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国語
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その日、隣の国の第二王子様はお姫様の寝室に通されました。
「はじめまして。お加減はいかがですか」
王子様は親しみを込めてお姫様に笑顔を向けました。
「はじめまして。遠路はるばるお越し下さり、ありがとうございます。わたしは起きあがるとどうも具合が悪いので、このままで失礼いたします。王子様もさぞお疲れでしょうから、どうぞお座り下さい」
お姫様は表情をピクリとも動かさないまま挨拶をして、王子様にチーズタルトの形をした椅子を勧めました。
王子様はお姫様の丁寧な言葉の裏に冷たい心を感じて、なんと可哀想な人だろうと思い、お姫様を憐れみました。
「可哀想なお姫様。どうしてそうも頑なにお菓子を食べる事を拒まれるのですか」
いくらか他愛のない話しをした後に、王子様はきり出しました。
お姫様は王子様から目をそらせてそっと息を吐きましたが、何も言いません。
王子様は椅子から少し、身を乗り出しました。
「お姫様。あなたはご自身が多くの人から愛され、そして心配されている事をご存知でしょう。どうしても苦手だったら、何かお好きな物と一緒に食べてみましょう。私が、あなたが好きになるような料理人を探します。あなたと一緒に、あなたがお菓子を食べられるように考えていきます」
王子様はお姫様の反応が良くないと見ても、一生懸命に色んな提案をしました。
お姫様は俯きがちに一点をじっと見つめていて、そしてぽつりと言いました。
「それでも、わたしは食べたくないのです」
王子様は、お姫様の心を動かせずに意気消沈しました。
「……気難しいお姫様。それほどにわたしの言葉が聴きたくないのでしたら、今日は帰ります」
それ以降も王子様は何度か手紙をよこしましたが、お姫様は捨てることは無くてもお読みになる事もありませんでした。
数日後、お姫様の友人が訪ねてきました。
お姫様はやっぱりベッドの中のまま、友人はベッドの際に腰掛けて世間話に混ぜてこのあいだ尋ねてきた王子様の話しをしました。
友人は熱心にお姫様に語りかけた王子に同情的でした。
「あなた本当に偏屈で強情よね。少しくらい話しを合わせて食べればいいじゃないの。あんたの為に色々知恵を絞ってくれたんでしょうよ」
「そこが嫌なのよ。私のため私のためって、初めて会った人に言われてもね」
「私が言っても聞かないくせに」
友人はそう言って出されたお茶に口をつけました。
それからそう経たない内、お姫様にまた縁談が持ち上がりました。
お相手は、社交会に出てる人も話しにしか聞かないような遠い国の王子様でした。
その王子様は簡潔な挨拶をし、静かに腰を折りました。
なんとなく声を掛けづらいその静かな様子のために、お姫様はただ黙って王子様を見つめていました。
顔を上げた王子様と目が合いました。
色素の薄い灰色の瞳は中心の黒眼をきつく絞って、お姫様はその視線に突き刺されるような思いになりました。
「あなたが何にそんなにこだわってるのか、わたしにはわかりません」
王子様は、その冷たい印象とは変わって、ゆっくりと優しい口調で話しました。
「あなたの身体の事はきっとあなたが一番わかるでしょうから、食べるか食べないか、自分で決めなさい。食べないでもし死んでしまったとしてもあなたの選択です」
「……何がおっしゃりたいのでしょうか」
無遠慮な発言であるにも関わらず、お姫様は異国の王子の声に聴き惚れました。
「……もしあなたがこの婚約をうける気になったら、私はあなたがどこに進もうと、側にいて見守りましょう」
王子様はその場に立ったまま、あくまで静かに、淡々と言いました。
それから二人は多く言葉を交わすこと無く別れました。
独りになったあと、そっけない態度の王子様の言葉が不思議とお姫様の心に深く響き、お姫様はベッドの上でしばらく考え事をしました。
もうずいぶん前から体の衰えは感じていたし、特にここ数カ月は多くの人から心配されては居たのですが、さっきの王子の発言で初めて死を意識したような気すらしました。本当に、死に近づいているのかもしれない。そうは思って居たけれど、お姫様はまだ二十歳になったばかりでした。きっとまだ大丈夫だろう、まだ生きる時間はある、やり直すまでの時間は残されていると、お姫様はぼんやり納得してまた布団の中に戻ろうとしました。
すると突然部屋の中が真っ暗になりました。
窓からさす光も無く、電気を消すより暗い部屋は明らかに異様です。
お姫様は体を起こして身をかがめ、耳をすましました。
するとどこからともなく声が聞こえました。
「姫よ。お前はもう気が付いているはずだ」
決然と語るその声は空気も揺るがす地響きのようでもあり、耳をくすぐるそよ風のようでもありました。
「なんのことです」
「お前の体は内側からどんどん腐り、死んで行っている。物心ついてほどなく菓子を食べ無くなったお前の体は、六歳の頃からその身をそぎ始め、今となっては、たとえ生活を改めても手遅れなのだ」
お姫様は何も言いませんでした。
不思議だと思う事はなにもありませんでした。灰色の目をした王子の言うとおり、自分の体のことは察していたのです。生を受けてまだ20年と言えど、その年月は十分に長く、過去を振り返れば色んなことがありました。半生以上をこのベッドの上で過ごしていますが、それでも優しい父や愉快な友人のおかげで、思い出すことは沢山あります。
お姫様はそれだけの生を、生きる糧無しに過ごしてきたのです。
当然の報いだとお姫様は思いました。自分の体のことを初めて理解し納得したお姫様は景色の戻った部屋の中、己の全てが壊れてしまったように思いました。
そして、お姫様は彼女の死を暗に宣言した王子の優しい声を思い出していたのでした。
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遠い国の王子様の瞳の色はどんな色ですか。
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遠い国の王子様の瞳の色は色素の薄い灰色です。
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JCRRAG_001165
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国語
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電紙
りりー
今回発表するのはこの「電紙」です。この紙は最新のナノバイオcpuが搭載されて、紙の繊維が小さいコンピューター「電脳繊維」になっています。それぞれの電脳繊維は容量が少ないですが協調性並行処理アルゴリズムによって1。34*10^3[TB/sec]の処理速度を実現しました。
電紙は紙のように扱えます。簡単なペーパークラフトを作るだけで高性能なPCを作ることができます。専用ののりで貼るだけでデーター容量を増やすことができます。従来の「自作」のようにめんどくさい部品の取り付けや、設定はいりません。
電紙は処理熱で自動発電します。電源も大きな空冷ファンも水冷チューブも必要ありません。
電紙はトルクを発生することができます。設定し、簡単なプログラムを書くだけでロボットができます。
電紙は学校、オフィス、家庭に新時代の文化を築きます。
なんて商品が発売されたもんだから皆がこぞって買って近所の電気屋ですら整理券を配る始末。
テレビで毎日話題になって、本屋では電紙のムック本が平積みになっても足らなかった。毎日売れて売れて売れまくった。
学校ではノート代わりに電紙ノートが、会社では電紙パソコンが、みんな電紙を使う新時代を電紙は築く。
予定だった。
しばらくしてみんな気がついた。これは所詮ただの紙だと。
手汗でふやけて画面がぐにゃぐにゃ
鞄の底で残業したデータが破れた。
生徒は紙飛行機にして、カメラ機能で覗きをやった。
国から規制されるのは発売から半年もたたない中だったとさ。
|
電紙には何が搭載されていますか。
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電紙には最新のナノバイオcpuが搭載されています。
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JCRRAG_001166
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国語
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目が覚めると、泣いていた。
――思い出せない。
夢の中で出会ったあの人の名前が。顔や声はぼんやりと覚えているのに、名前だけがさっぱりと思い出せない。しかしその後の夢には、何日経ってもあの人が現れる事は無かった。もう一度だけ、あの人に会いたい。その想いに憑りつかれた私は、ある場所にたどり着いた。
『夢魅つ宿』
そこの主人は、人を望む夢に導く不思議な力があるという。「夢見屋」などと呼ばれて、その不思議な力を求める常連の客もいるらしい。にわかには信じ難い話だが、藁にもすがる様な気持ちで、事情を説明した。
「ええ、わかりました。では夜にまた、お伺いしますので。」
宿やの主人はそう言って去っていったが、慣れた様子で受け答えするのですっかり拍子抜けして、山深い森の奥に佇む宿の趣を楽しむ余裕まで出来てしまった。
そろそろ床に入ろうかというとき
「失礼します。」
と声がして、宿の主人がやってきた。
「それでは、始めます。」
布団の中で、まるで手術みたいだな、と思いながら目を閉じた。私が眠りに落ちるのを、枕の左側では主人が正座で待っている。こんな状況では眠れるはずもないと思っていたのに、不思議にもあっさり、息を吸って吐くように、意識は夢の深淵へと導かれていった。
そして私はもう一度、あの人に出会った。そこは輪郭が曖昧な世界だった。シンプルで広いリビングに窓から白い光が差して、少ない物々を淡く浮かび上がらせた。とても幸福な世界。涼しくて春の陽気を感じるような、希望の世界。二人掛けのソファがあって、隣に君がいて。微睡みながら、君の他愛のない話に気持ち半分の返事をする。そんな世界。君の顔の輪郭も、弾けるような笑みの表情も、柔らかな声の形も、ほのかに温かい肌の感触も、はっきりと分かる。それなのに……。
「ねえ、どうしても思い出せないんだ。」
これを聞いたら壊れてしまう。
「すごく今更なことなんだけどね」
分かっている。
「君の名前を、教えて?」
少し驚いたような顔をして、それでも君は笑って、太陽のように笑って。
窓から差していた白い光が徐々に広がり、世界と君を少しずつ侵食していく。
(やっぱり聞かなければ良かったかな。)
壊れ物に触れるように、そっと、やさしく君の手を握って。お別れだと、忘れないように君の顔を見上げて、目が合って。見つめ合って。
(でも、これで良いか。)
凝縮された時間が永遠のように感じられた。そうだったら良いのにな、とも思った。それでもやっぱり最後の瞬間はやって来て、君の唇が短く動いた。そしてまた笑った。
翌日宿を後にするとき、主人が訪ねた。
「もう、いいのかい?」
「うん。」
短く頷いて、私はその不思議な宿を後にした。
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私が眠りに落ちるのを、主人はどのようにして待っていますか。
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私が眠りに落ちるのを、主人は正座で待っています。
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JCRRAG_001167
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国語
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電紙
りりー
今回発表するのはこの「電紙」です。この紙は最新のナノバイオcpuが搭載されて、紙の繊維が小さいコンピューター「電脳繊維」になっています。それぞれの電脳繊維は容量が少ないですが協調性並行処理アルゴリズムによって1。34*10^3[TB/sec]の処理速度を実現しました。
電紙は紙のように扱えます。簡単なペーパークラフトを作るだけで高性能なPCを作ることができます。専用ののりで貼るだけでデーター容量を増やすことができます。従来の「自作」のようにめんどくさい部品の取り付けや、設定はいりません。
電紙は処理熱で自動発電します。電源も大きな空冷ファンも水冷チューブも必要ありません。
電紙はトルクを発生することができます。設定し、簡単なプログラムを書くだけでロボットができます。
電紙は学校、オフィス、家庭に新時代の文化を築きます。
なんて商品が発売されたもんだから皆がこぞって買って近所の電気屋ですら整理券を配る始末。
テレビで毎日話題になって、本屋では電紙のムック本が平積みになっても足らなかった。毎日売れて売れて売れまくった。
学校ではノート代わりに電紙ノートが、会社では電紙パソコンが、みんな電紙を使う新時代を電紙は築く。
予定だった。
しばらくしてみんな気がついた。これは所詮ただの紙だと。
手汗でふやけて画面がぐにゃぐにゃ
鞄の底で残業したデータが破れた。
生徒は紙飛行機にして、カメラ機能で覗きをやった。
国から規制されるのは発売から半年もたたない中だったとさ。
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電紙はどうやって発電しますか。
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電紙は処理熱で自動発電します。
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JCRRAG_001168
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国語
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薬は効き、食生活もかなり気をつけていたおかげか、体は順調に回復した。貰った薬は飲みきり、それでも軽い下痢だけが気になったので、わたしは下心を隠しつつ、またあの診療所を訪れた。
相変わらずひと気が無く、すぐに診察室に呼ばれる。蛇ノ目先生はわたしを覚えていてくれた。
「浜さん髪切ったんですか」
そう、今日までの一週間のうちにわたしは髪を整えた。異性に気づかれると大変うれしい。意識して少し髪を触ってしまう。
「お似合いですよ」
「いやあ、蛇ノ目先生みたいにきれいな方に褒められると照れますね」
「お上手ですね、浜さん」
にこにこと笑って軽く流されたがそれすら嬉しい。
「いやいや、そんな美人がこのひと気のないビルで診療してるなんて、大丈夫ですか」
「そうですね。居酒屋さんがあるから酔った人も来られますけど、店員さんの親切のおかげでなんとか。そう言えば浜さんはムキムキですね」
触診をしながら鍛えてるのかと尋ねられ、わたしはスポーツクラブに行くのが習慣だと答える。
「そうなんですか!やっぱり鍛えてると体の調子は違うモノですか」
「比較的、回復力が上がる気がしますよ!ま、いまはお腹壊してますけど」
他の患者がいないのをいいことに、ひとしきり話してから腹薬を受け取った。自分ばかりが話して彼女の事はあまり聞けなかった気がするが、たくさん見れた笑顔を思い出し、足取り軽く帰宅した。
半年後、流行に乗って風邪を引いたわたしは、喜んで会社を早退し蛇ノ目医院に足を運んだ。
例の無表情な受付に呼ばれ、診察室へ入る。
「こんにちは」
鈴の音を期待して挨拶すると、中にいたのはボサボサ頭で頬のこけた男だった。仏頂面で会釈をする。思わず「お前は誰だ」と口走りそうになる。不審者のようにも見えるが白衣を着ているし、受付の女性は何も言っていなかった。イスに座るときにちらりと男の名札を見ると「蛇ノ目卓美」と書かれている。裕美さんの親類という事だろうか。
男はカルテを読みながら、「はー」とか「へー」とか言っていた。
「浜さんですね。もう下痢は良いんですか」
こちらを見もせずに男は言った。
「はい。今回は風邪で」
「へぇー。そう思って市販の薬を買わずに病院へ来るなんて、真面目ですね」
不信感による疑心暗鬼かもしれないが、わざわざ病院に来るなと言われた気がしてムカっとする。本当にこの嫌味な男は裕美さんと血のつながりがあるのだろうか。裕美さんの話しではこの病院には女性二人しかいないような口ぶりだったのに、なぜきょう裕美さんがここにおらず、この男がいるのだろう。
懐疑的な気持ちで、男の問診に答える。男の声は低すぎてときどき聞きとりづらく、聞き返しても同じような調子で返ってくるので、気を張って話しを聞く必要があった。背中に当たる聴診器の冷たさが不快に感じられる。
「咳が出てるって話しでしたけど、気管支も肺も何ともないみたいなので、とりあえず普通の風邪薬だけだしときます。」
「ありがとうございます」
「浜さんくらいだったら、飲まない方がいいくらいかもしれないですけど、まぁ仕事のときとかしんどいでしょうから、そういう時だけ飲んでください。」
気休めになりますよ。と言った後に鼻で笑われ、男に対する不快感が喉元まで迫ってくる。言ってることは正しいかもしれないが、よくもその気の利かない言葉遣いで医者などやっているモノだと言ってやりたかった。そうするとますます裕美さんとの関係が気になり、文句の代りにその事が口から出た。
「以前ここで女医さんにお世話になったのですが、今日はお休みなんですか」
男が初めてわたしの顔を見た。真正面から見ると横顔の印象より若く見える。
「妻は亡くなりました」
男が短く答えた。先ほどから表情は全く変わらない。「妻」とは誰のことなのかと、男の顔を見ながらしばらく考えた。
「え、あなたは……」
「裕美の夫です。あんたはもしかして、裕美に会いに来たのかもしれませんが、あいつは亡くなりました。」
俺みたいな夫がいてガッカリしましたか、といって男はニヤリと笑った。ふざけている。
「本当に。君のような男が彼女と結婚することができただなんて信じがたいですね。半年前、わたしが彼女と会ったとき、彼女は元気そうだった。どうして亡くなったんですか」
「あの時から病気でしたよ。あんたから見てどうだったか知りませんが、もうぼろぼろでした」
彼女が体の治癒力を上げる運動に興味を示していたことを思い出す。彼女のことを語る男の目は冷たくあくまで淡々としていた。
「君は、気づいていても働く彼女を止めなかったのか」
なぜ一番側にいたと公言するこいつが、医者であるこいつが彼女を助けてやることをしなかったのだ。
「俺はちゃんと言いましたよ。でもあいつは本当に頑固で、医者のくせに医者の言うことを聞かない。馬鹿なやつでしたよ」
「君にそういう資格があるのか」
ぼそぼそとハッキリしない声で話す男の言葉をさえぎる。蛇ノ目は目を伏せてペンを弄り始めた。
苛立ちが抑えきれずため息が出る。
「あなたはこれまでどこで何を?」
「総合病院にいました」
「裕美さんと比べられるのが嫌で違う職場を選んだんですか。裕美さんをこんな危ないところで一人働かせてたんですか」
男に対する苛立ちと嫉妬ではらわたが煮えくり返っている。
「あんたも思ったでしょ。俺が自分で客を捕まえる開業医には向いてないって。でもあいつが診療所をやりたいって言って俺を追いだしたんだ」
この期に及んで言い訳を並べる男を一発殴ってやろうと拳を握り締めたとき、男がふと顔を伏せた。
「あいつが居なきゃ、こんなとこ続けられるはずがない」
声が次第にかすれてくる。
「比べられて嫌とも思わない。どう考えたって、裕美の方が医者として優れてるに決まってるじゃないですか」
蛇ノ目の言葉を聞いて、拳はすっかり力を無くしてしまった。蛇ノ目はカルテの上の裕美さんの文字をなぞっていた。その姿を見てやっと、この人たちは夫婦だったのだと納得できたのかもしれない。
「……出すぎたことを言いました。心からお悔やみ申し上げます」
「……ありがとうございます」
二人でゆっくりと視線を合わす。それは、互いを許しあうためだった。
「わたしも実は、妻において行かれたんですよ。死んじゃいないけど」
赤い目元をした男を慰めたいような気になって、そんなことをうっかり話してしまう。蛇ノ目はその言い訳めいた慰めの言葉を鼻で笑った。
「なるほど、じゃあ、お仲間ですね」
「そうですね」
そう言ってお互いの身の上に起った出来事を茶化す。しかし、不思議と悪い気はしなかった。
「……締めるんですか。この診療所は」
「いや、意外と下の人が使っているらしいので。あと約一名養ってる子もいますし。」
蛇ノ目が扉の向こうを指さす。そしてにやりと笑った。
「だから、浜さんもまた来てくださいね」
窓の外で桜の花びらが舞った。もう春が終わる。
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裕美はどんな運動に興味を示していましたか?
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裕美は体の治癒力を上げる運動に興味を示していました。
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JCRRAG_001169
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国語
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電紙
りりー
今回発表するのはこの「電紙」です。この紙は最新のナノバイオcpuが搭載されて、紙の繊維が小さいコンピューター「電脳繊維」になっています。それぞれの電脳繊維は容量が少ないですが協調性並行処理アルゴリズムによって1。34*10^3[TB/sec]の処理速度を実現しました。
電紙は紙のように扱えます。簡単なペーパークラフトを作るだけで高性能なPCを作ることができます。専用ののりで貼るだけでデーター容量を増やすことができます。従来の「自作」のようにめんどくさい部品の取り付けや、設定はいりません。
電紙は処理熱で自動発電します。電源も大きな空冷ファンも水冷チューブも必要ありません。
電紙はトルクを発生することができます。設定し、簡単なプログラムを書くだけでロボットができます。
電紙は学校、オフィス、家庭に新時代の文化を築きます。
なんて商品が発売されたもんだから皆がこぞって買って近所の電気屋ですら整理券を配る始末。
テレビで毎日話題になって、本屋では電紙のムック本が平積みになっても足らなかった。毎日売れて売れて売れまくった。
学校ではノート代わりに電紙ノートが、会社では電紙パソコンが、みんな電紙を使う新時代を電紙は築く。
予定だった。
しばらくしてみんな気がついた。これは所詮ただの紙だと。
手汗でふやけて画面がぐにゃぐにゃ
鞄の底で残業したデータが破れた。
生徒は紙飛行機にして、カメラ機能で覗きをやった。
国から規制されるのは発売から半年もたたない中だったとさ。
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電紙が国から規制されたのはいつでしたか?
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国から規制されたのは発売から半年もたたない中でした。
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JCRRAG_001170
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国語
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人生が偶然の連続の結果、成功へと到達するなんて、小説の中だけのこと、ぼくはずっとそう考えていた。そんな劇的で幸運な人生を歩けるのは、世界のなかでも、0コンマ01パーセントにも満たないのではないだろうか?
この得体のしれない虫の幼虫も、僕の境遇と大して違いはないだろう。つまり平凡な六等星の生き方だ。
そう、ぼくが、海釣りの餌に、庭木にたかっていた幼虫を使ったのは、むしろ必然のことだった。金が底をついていたのだ。最後の給料、といってもあの会社は、賃金形態も支給日も、きちんとあったものではなかったが、それでも
「今日でやめさせてください」
といったとき、上司兼経理兼人事係りは
「はい。これ、今月分と退職金」
と、十万円を封筒にいれ、手渡してくれたのだ。その最後の給料が、残高三桁になり、仕方なく徒歩四十三分の海へ、食糧を仕入れにいくことにしたのだった。
竿は物置にたくさんあった。亡き父のものだ。
ぼくは、庭にある、低木の木の葉に、うじゃうじゃとついていた、茶色っぽい幼虫をつまんでタッパーにいれた。
一石二鳥ではないか? 虫退治にもなるわけだし。どの木も葉が穴だらけだった。これでは光合成もままならない。
そうだ、そうだ、とひとりで賛成をする。
ぼくは海へ出ると、防波堤の先端ちかくに持参した折りたたみ椅子をこしらえ、早速糸を垂らした。海は凪いでいた。
先客はひとりいた。帽子の下から白いものがのぞくのは、いわゆる、リタイア世代だろうか。椅子のそばには缶コーヒーの空き缶や、栄養ドリンクのビンも飲み干されて倒れている。
糸の動きをぼんやり追いながら、ぼくはこれからのことを考えていた。この先どうしようか? もちろん、ハローワークへ行って失業手当をもらう、というのは一番賢明な選択だろう。
しかし、どうにもおっくうである。だいいち、就業しようと努力しているところを、たえず提示する必要があるという条件は難関である。自分にできるのだろうか? 気力がゼロのぼくに?
ぼくが辞めた会社では浄水器のセールスが仕事だった。
「こんなに水が綺麗になります、奥様」
ぼくは毎日、訪問した家で、浄水器の水を飲んだ。相手が不安になるほど飲んだ。そして一件も契約できないと、会社でその水を頭からかけられ、
「頭をひやして、もう一度いけ」と罵声も浴びせられ、また出かける、その繰り返しだった。
十分にダークだ。いやブラック企業である。浄水器の水で、病気も軽くなるというふれこみを売りにしている会社である。従業員も水さえ豊富にあればやっていけると考えたのだろう。
それでも、ぼくは一年七ヶ月間働いたが、とうとう心身ともに病んで辞めたのだ。円形脱毛症プラス抑うつ症状、そして睡眠障害のニート、それがいまのぼくの肩書きである。
ともあれ、歩いていける範囲に海があり、釣りができるのはありがたかった。時間は限りなくあったから。
波の動きをながめていると、眠気が漂ってくる。夜間はまったく眠れないぼくは、ここちよい潮風にうとうとして、糸を垂らしていたが
「兄ちゃん、ひいているよ」という声で、はっと条件反射でリールをまいて、竿をあげる。
魚は小さいがアジがかかっていた。
「あ、どうも、助かりました」クーラーボックスにほうりこみながら、いちおうお礼をいい、また幼虫を針につけた。
「それ、食いつきがいいけど、なんの虫?」
オレンジのキャップをかぶった男は近寄り、たずねてきた。
「さあ? よかったら、どうぞ」
タッパーをさしだすと、「おお」という顔をした。グロテスクだからだろう。三センチほどの、いわゆるベージュがかった色の芋虫である。もそもそしていた。
「じゃあ、さっそくこれで試してみようか」
と、自分の椅子をひきよせ、並んで糸を垂らす。
「まったく、釣りっていうのは、リラックスできるスポーツだね」
と、ぼくに話しかけてくる。たぶん、話し相手がほしかったのだろう。ぼくも、ええ、まあ、とか適当に答えながら、再び糸をたらしていたが、その、見るからにリッチそうな、つまり、服のブランドや竿の仕様で判断した、その男は、虫の餌に嬉々としていた。
「いいよ、これ。いいねえ」
彼はその後たてつづけに七匹釣った。ぼくは、その後は小魚一匹である。男は悪いと思うのか、決まり悪そうにタッパーに手をのばすので、
「いいですよ、全部つかってください」
タッパーを丸ごと渡した。虫と一緒に葉もたっぷりいれていたので、やつらはまだ生き生きしている。魚にとってはジューシーなのだろうな。
「本当? いいの?」
と、彼はやけに嬉しそうであったが、やにわに携帯が鳴った。着信音は『威風堂々』だった。男はああ、とか、なに、とか応対をしているが、ぼくが始めから睨んだとおり、電話の話ぶりや威厳をもった態度からして、相応の地位のある人らしい。
「残念だ。行かなくてはならない」
名残惜しそうなので、ぼくはその虫をあげることにした。
「うちには、うじゃうじゃいるんで」
「そうか、感謝するよ、君。ところで、その代わりといってはなんだが、この釣れた魚もらってくれ。これから行くところが急にできて、なに? そっちのクーラーボックスに入りきれない? そうか、じゃあ、こうしよう。名詞をあげるから、空のボックスと竿、あとでうちに届けてくれないか? そう、お礼もしたいしね」
男はぼくに一枚の名刺をおしつけ、クーラーボックスのみならず、竿や椅子、弁当がら等のごみも残して去っていった。
しかし、なぜか虫のタッパーだけは大事に小脇にかかえている。
ぼくが成り行きに対処できずに、呆然としているあいだに、浜から上がった道に、お迎えの黒い車がすーっと横付けされ 彼はさっそうとのりこんでしまったのだ。まるでテレビのようだった。
あとに残された二人分の釣り道具を前に、ぼくは少し気落ちしたが、まあ、魚が考えていたより多く手に入ったわけだし、とポジテブに考え、家にもどることにした。リッチな男のボックスには、アイナメやサヨリ、アジが入っていた。
両肩に大小のクーラーボックス、手には2本の竿、背中に折りたたみレジャー椅子をせおい、歩く姿は浦島太郎に見えるだろう、となんとか気力をふるいおこし、他人の目は気にせずに歩いた。
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物置にたくさんあった竿は誰のものでしたか?
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物置にたくさんあった竿は亡き父のものでした。
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JCRRAG_001171
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国語
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人生が偶然の連続の結果、成功へと到達するなんて、小説の中だけのこと、ぼくはずっとそう考えていた。そんな劇的で幸運な人生を歩けるのは、世界のなかでも、0コンマ01パーセントにも満たないのではないだろうか?
この得体のしれない虫の幼虫も、僕の境遇と大して違いはないだろう。つまり平凡な六等星の生き方だ。
そう、ぼくが、海釣りの餌に、庭木にたかっていた幼虫を使ったのは、むしろ必然のことだった。金が底をついていたのだ。最後の給料、といってもあの会社は、賃金形態も支給日も、きちんとあったものではなかったが、それでも
「今日でやめさせてください」
といったとき、上司兼経理兼人事係りは
「はい。これ、今月分と退職金」
と、十万円を封筒にいれ、手渡してくれたのだ。その最後の給料が、残高三桁になり、仕方なく徒歩四十三分の海へ、食糧を仕入れにいくことにしたのだった。
竿は物置にたくさんあった。亡き父のものだ。
ぼくは、庭にある、低木の木の葉に、うじゃうじゃとついていた、茶色っぽい幼虫をつまんでタッパーにいれた。
一石二鳥ではないか? 虫退治にもなるわけだし。どの木も葉が穴だらけだった。これでは光合成もままならない。
そうだ、そうだ、とひとりで賛成をする。
ぼくは海へ出ると、防波堤の先端ちかくに持参した折りたたみ椅子をこしらえ、早速糸を垂らした。海は凪いでいた。
先客はひとりいた。帽子の下から白いものがのぞくのは、いわゆる、リタイア世代だろうか。椅子のそばには缶コーヒーの空き缶や、栄養ドリンクのビンも飲み干されて倒れている。
糸の動きをぼんやり追いながら、ぼくはこれからのことを考えていた。この先どうしようか? もちろん、ハローワークへ行って失業手当をもらう、というのは一番賢明な選択だろう。
しかし、どうにもおっくうである。だいいち、就業しようと努力しているところを、たえず提示する必要があるという条件は難関である。自分にできるのだろうか? 気力がゼロのぼくに?
ぼくが辞めた会社では浄水器のセールスが仕事だった。
「こんなに水が綺麗になります、奥様」
ぼくは毎日、訪問した家で、浄水器の水を飲んだ。相手が不安になるほど飲んだ。そして一件も契約できないと、会社でその水を頭からかけられ、
「頭をひやして、もう一度いけ」と罵声も浴びせられ、また出かける、その繰り返しだった。
十分にダークだ。いやブラック企業である。浄水器の水で、病気も軽くなるというふれこみを売りにしている会社である。従業員も水さえ豊富にあればやっていけると考えたのだろう。
それでも、ぼくは一年七ヶ月間働いたが、とうとう心身ともに病んで辞めたのだ。円形脱毛症プラス抑うつ症状、そして睡眠障害のニート、それがいまのぼくの肩書きである。
ともあれ、歩いていける範囲に海があり、釣りができるのはありがたかった。時間は限りなくあったから。
波の動きをながめていると、眠気が漂ってくる。夜間はまったく眠れないぼくは、ここちよい潮風にうとうとして、糸を垂らしていたが
「兄ちゃん、ひいているよ」という声で、はっと条件反射でリールをまいて、竿をあげる。
魚は小さいがアジがかかっていた。
「あ、どうも、助かりました」クーラーボックスにほうりこみながら、いちおうお礼をいい、また幼虫を針につけた。
「それ、食いつきがいいけど、なんの虫?」
オレンジのキャップをかぶった男は近寄り、たずねてきた。
「さあ? よかったら、どうぞ」
タッパーをさしだすと、「おお」という顔をした。グロテスクだからだろう。三センチほどの、いわゆるベージュがかった色の芋虫である。もそもそしていた。
「じゃあ、さっそくこれで試してみようか」
と、自分の椅子をひきよせ、並んで糸を垂らす。
「まったく、釣りっていうのは、リラックスできるスポーツだね」
と、ぼくに話しかけてくる。たぶん、話し相手がほしかったのだろう。ぼくも、ええ、まあ、とか適当に答えながら、再び糸をたらしていたが、その、見るからにリッチそうな、つまり、服のブランドや竿の仕様で判断した、その男は、虫の餌に嬉々としていた。
「いいよ、これ。いいねえ」
彼はその後たてつづけに七匹釣った。ぼくは、その後は小魚一匹である。男は悪いと思うのか、決まり悪そうにタッパーに手をのばすので、
「いいですよ、全部つかってください」
タッパーを丸ごと渡した。虫と一緒に葉もたっぷりいれていたので、やつらはまだ生き生きしている。魚にとってはジューシーなのだろうな。
「本当? いいの?」
と、彼はやけに嬉しそうであったが、やにわに携帯が鳴った。着信音は『威風堂々』だった。男はああ、とか、なに、とか応対をしているが、ぼくが始めから睨んだとおり、電話の話ぶりや威厳をもった態度からして、相応の地位のある人らしい。
「残念だ。行かなくてはならない」
名残惜しそうなので、ぼくはその虫をあげることにした。
「うちには、うじゃうじゃいるんで」
「そうか、感謝するよ、君。ところで、その代わりといってはなんだが、この釣れた魚もらってくれ。これから行くところが急にできて、なに? そっちのクーラーボックスに入りきれない? そうか、じゃあ、こうしよう。名詞をあげるから、空のボックスと竿、あとでうちに届けてくれないか? そう、お礼もしたいしね」
男はぼくに一枚の名刺をおしつけ、クーラーボックスのみならず、竿や椅子、弁当がら等のごみも残して去っていった。
しかし、なぜか虫のタッパーだけは大事に小脇にかかえている。
ぼくが成り行きに対処できずに、呆然としているあいだに、浜から上がった道に、お迎えの黒い車がすーっと横付けされ 彼はさっそうとのりこんでしまったのだ。まるでテレビのようだった。
あとに残された二人分の釣り道具を前に、ぼくは少し気落ちしたが、まあ、魚が考えていたより多く手に入ったわけだし、とポジテブに考え、家にもどることにした。リッチな男のボックスには、アイナメやサヨリ、アジが入っていた。
両肩に大小のクーラーボックス、手には2本の竿、背中に折りたたみレジャー椅子をせおい、歩く姿は浦島太郎に見えるだろう、となんとか気力をふるいおこし、他人の目は気にせずに歩いた。
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リッチな男のボックスには、何が入っていましたか?
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リッチな男のボックスには、アイナメやサヨリ、アジが入っていました。
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JCRRAG_001172
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国語
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人生が偶然の連続の結果、成功へと到達するなんて、小説の中だけのこと、ぼくはずっとそう考えていた。そんな劇的で幸運な人生を歩けるのは、世界のなかでも、0コンマ01パーセントにも満たないのではないだろうか?
この得体のしれない虫の幼虫も、僕の境遇と大して違いはないだろう。つまり平凡な六等星の生き方だ。
そう、ぼくが、海釣りの餌に、庭木にたかっていた幼虫を使ったのは、むしろ必然のことだった。金が底をついていたのだ。最後の給料、といってもあの会社は、賃金形態も支給日も、きちんとあったものではなかったが、それでも
「今日でやめさせてください」
といったとき、上司兼経理兼人事係りは
「はい。これ、今月分と退職金」
と、十万円を封筒にいれ、手渡してくれたのだ。その最後の給料が、残高三桁になり、仕方なく徒歩四十三分の海へ、食糧を仕入れにいくことにしたのだった。
竿は物置にたくさんあった。亡き父のものだ。
ぼくは、庭にある、低木の木の葉に、うじゃうじゃとついていた、茶色っぽい幼虫をつまんでタッパーにいれた。
一石二鳥ではないか? 虫退治にもなるわけだし。どの木も葉が穴だらけだった。これでは光合成もままならない。
そうだ、そうだ、とひとりで賛成をする。
ぼくは海へ出ると、防波堤の先端ちかくに持参した折りたたみ椅子をこしらえ、早速糸を垂らした。海は凪いでいた。
先客はひとりいた。帽子の下から白いものがのぞくのは、いわゆる、リタイア世代だろうか。椅子のそばには缶コーヒーの空き缶や、栄養ドリンクのビンも飲み干されて倒れている。
糸の動きをぼんやり追いながら、ぼくはこれからのことを考えていた。この先どうしようか? もちろん、ハローワークへ行って失業手当をもらう、というのは一番賢明な選択だろう。
しかし、どうにもおっくうである。だいいち、就業しようと努力しているところを、たえず提示する必要があるという条件は難関である。自分にできるのだろうか? 気力がゼロのぼくに?
ぼくが辞めた会社では浄水器のセールスが仕事だった。
「こんなに水が綺麗になります、奥様」
ぼくは毎日、訪問した家で、浄水器の水を飲んだ。相手が不安になるほど飲んだ。そして一件も契約できないと、会社でその水を頭からかけられ、
「頭をひやして、もう一度いけ」と罵声も浴びせられ、また出かける、その繰り返しだった。
十分にダークだ。いやブラック企業である。浄水器の水で、病気も軽くなるというふれこみを売りにしている会社である。従業員も水さえ豊富にあればやっていけると考えたのだろう。
それでも、ぼくは一年七ヶ月間働いたが、とうとう心身ともに病んで辞めたのだ。円形脱毛症プラス抑うつ症状、そして睡眠障害のニート、それがいまのぼくの肩書きである。
ともあれ、歩いていける範囲に海があり、釣りができるのはありがたかった。時間は限りなくあったから。
波の動きをながめていると、眠気が漂ってくる。夜間はまったく眠れないぼくは、ここちよい潮風にうとうとして、糸を垂らしていたが
「兄ちゃん、ひいているよ」という声で、はっと条件反射でリールをまいて、竿をあげる。
魚は小さいがアジがかかっていた。
「あ、どうも、助かりました」クーラーボックスにほうりこみながら、いちおうお礼をいい、また幼虫を針につけた。
「それ、食いつきがいいけど、なんの虫?」
オレンジのキャップをかぶった男は近寄り、たずねてきた。
「さあ? よかったら、どうぞ」
タッパーをさしだすと、「おお」という顔をした。グロテスクだからだろう。三センチほどの、いわゆるベージュがかった色の芋虫である。もそもそしていた。
「じゃあ、さっそくこれで試してみようか」
と、自分の椅子をひきよせ、並んで糸を垂らす。
「まったく、釣りっていうのは、リラックスできるスポーツだね」
と、ぼくに話しかけてくる。たぶん、話し相手がほしかったのだろう。ぼくも、ええ、まあ、とか適当に答えながら、再び糸をたらしていたが、その、見るからにリッチそうな、つまり、服のブランドや竿の仕様で判断した、その男は、虫の餌に嬉々としていた。
「いいよ、これ。いいねえ」
彼はその後たてつづけに七匹釣った。ぼくは、その後は小魚一匹である。男は悪いと思うのか、決まり悪そうにタッパーに手をのばすので、
「いいですよ、全部つかってください」
タッパーを丸ごと渡した。虫と一緒に葉もたっぷりいれていたので、やつらはまだ生き生きしている。魚にとってはジューシーなのだろうな。
「本当? いいの?」
と、彼はやけに嬉しそうであったが、やにわに携帯が鳴った。着信音は『威風堂々』だった。男はああ、とか、なに、とか応対をしているが、ぼくが始めから睨んだとおり、電話の話ぶりや威厳をもった態度からして、相応の地位のある人らしい。
「残念だ。行かなくてはならない」
名残惜しそうなので、ぼくはその虫をあげることにした。
「うちには、うじゃうじゃいるんで」
「そうか、感謝するよ、君。ところで、その代わりといってはなんだが、この釣れた魚もらってくれ。これから行くところが急にできて、なに? そっちのクーラーボックスに入りきれない? そうか、じゃあ、こうしよう。名詞をあげるから、空のボックスと竿、あとでうちに届けてくれないか? そう、お礼もしたいしね」
男はぼくに一枚の名刺をおしつけ、クーラーボックスのみならず、竿や椅子、弁当がら等のごみも残して去っていった。
しかし、なぜか虫のタッパーだけは大事に小脇にかかえている。
ぼくが成り行きに対処できずに、呆然としているあいだに、浜から上がった道に、お迎えの黒い車がすーっと横付けされ 彼はさっそうとのりこんでしまったのだ。まるでテレビのようだった。
あとに残された二人分の釣り道具を前に、ぼくは少し気落ちしたが、まあ、魚が考えていたより多く手に入ったわけだし、とポジテブに考え、家にもどることにした。リッチな男のボックスには、アイナメやサヨリ、アジが入っていた。
両肩に大小のクーラーボックス、手には2本の竿、背中に折りたたみレジャー椅子をせおい、歩く姿は浦島太郎に見えるだろう、となんとか気力をふるいおこし、他人の目は気にせずに歩いた。
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ぼくはどれくらいの期間働きましたか?
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ぼくは一年七ヶ月間働きました。
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JCRRAG_001173
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国語
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ぼくの家は台地にあった。母によれば由緒ある旧家ということで、樹木の生い茂った敷地はかなり広い。ぼくは、鍵のかかっていない勝手口から入る。クーラーボックスを台所におくと、エプロンをして、さっそく魚をさばきにかかる。
新鮮なうちに下ごしらえをすれば、いたみもなく、いろいろな料理にできる。ぼくのたったひとつのとりえは、料理が好きで、幾分器用なところだろう。手際よくさばき、最後の魚の腹に包丁を入れた時にカチッと刃が何かにあたった。
「ん?」
ぼくは出刃で、そろそろと白い腹を探りながら、開いていく。
刃にあたったのは指輪だった。おおっ! つまんでみると、裏にはアルファベットが刻んである、本物っぽいではないか。マリッジリングだ!
ぼくは歓喜した。金属である。もし本物のプラチナであれば、換金できる。なんとラッキーな! これはリッチ紳士が釣った魚である。あの幼虫が、こんな指輪に変身するとは! すばらしい。
人生がバラ色になった気がした。思いがけない展開だった。
指輪は綺麗に洗い、ジャムの空き瓶を探し入れた。ちゃりん。そして活力を得たぼくは、魚をすべて下処理して、半分は煮付けに半分はマリネにすることにした。その夜はなぜかぐっすり眠れた。
次の日、ぼくは母のところに行くことにした。
ぼくは母が四十を過ぎてから生んだ、一人息子なのである
母は軽い認知症なのだが、持病の股関節の不具合も悪化して、施設で療養をしていた。ぼくの家から、市電で二駅のところに、その施設はあって、昨日作った煮つけをタッパーにいれて、持っていくことにした。母は魚の煮付けを食べたがっていたのだ。
駅からは歩いて十五分くらいの高台が施設への道のりで、駅前の商店街を抜けていく。その中に貴金属の買取りや骨董もどきを扱う店があり、そこで指輪を鑑定してもらおうと考えていた。
ところが、その日は近くの神社の例大祭なのか、露天商がたくさん出ていて、人ごみも普段の数倍である。ぼくは、魚の煮付けをビニール袋にいれて、右手にさげていたが、突然肩に人があたり、押されてよろめいた。思わず、ポケットにいれていた左手を出し、露天商の店の枠組みつかまり、難を逃れる。
と、同時に指輪の入っていた瓶がポケットを脱走して、ころころころと転がってしまった。
「おい、こら、待て」
転がった先は今川焼きの屋台の裏だった。
「お?」
今川焼きのあるじは、それを拾った。
「あ、すいません、それ、ぼくのなんです」
「おい、こりゃあ、」
ねじり鉢巻の今川焼き屋は、隣の烏賊焼きの露天商との隙間から出てきた。
「盗品でないのか?」
え、盗品? いや、これはたしかに貰った魚の腹に入っていたわけだし、魚の腹のものはすべて権利を主張できる、はずだし。 ぼくは、のそのそと微小な脳細胞を回転させた。
「ちがいますよ、盗品ではないです」
「いや、よくみせてくれ」
今川焼き屋はビンのふたを開け、指輪をとりだした。前後左右と内側をじっくりみていたが、
「やっぱり、これはおれがなくした指輪だ!」
と、断言した。
「ま、まさか」
「ほら見てみろ。指輪に彫られている、蛇がくわえているのは今川焼きだろう? それに、内側のイニシャル、おれがカミさんからもらった証だ、MからSへ、となっている、これが証拠だ」
と、今川焼き屋は言った。たしかに蛇には気がついていたが、くわえているのが今川焼きとは、こじつけではないか? むしろ宝玉にみえるが、と言おうとすると、
「あんちゃん、なあ、ゆずってくれよ、おれの指輪はどこをさがしても見つからないし、カミサンは怒るし、結婚指輪だからなあ、『たったそれだけの愛なのね』とか、責められるし、な、みつかったことにしておきたいんだよ」
と顔を寄せ、小さな声でささやくのだ。しんから困っているみたいだった。
「……」
仕方ない、と僕は思った。だいたい、この指輪は、もとはあの紳士からもらったものなんだし、欲をつのらせるのはやめよう、と考えた。
「いいですよ、あげます」
ぼくがそういうと、今川焼き屋は
「おお、太っ腹だね、財務大臣! ありがと、ありがたいよ、なにしろ、新しいのはおろか中古だって、その日暮らしの露天商ごときが買える値段でないからね、あんちゃん、恩にきるよ」と手で拝み
「そうだ、あんちゃん、お礼といってはなんだが、この今川焼きもっていきなよ。いますぐ、包むからな、まってくれよ」
と、いいながら、今川焼きの男は指輪を小指にはめている。
「おお。ぴったりだよ、やっぱり、あんたはおれの救世主!」
そしてぼくはそのあと、今川焼きを三十個も持つはめとなった。
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ぼくの家はどこにありましたか?
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ぼくの家は台地にありました。
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JCRRAG_001174
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国語
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ぼくの家は台地にあった。母によれば由緒ある旧家ということで、樹木の生い茂った敷地はかなり広い。ぼくは、鍵のかかっていない勝手口から入る。クーラーボックスを台所におくと、エプロンをして、さっそく魚をさばきにかかる。
新鮮なうちに下ごしらえをすれば、いたみもなく、いろいろな料理にできる。ぼくのたったひとつのとりえは、料理が好きで、幾分器用なところだろう。手際よくさばき、最後の魚の腹に包丁を入れた時にカチッと刃が何かにあたった。
「ん?」
ぼくは出刃で、そろそろと白い腹を探りながら、開いていく。
刃にあたったのは指輪だった。おおっ! つまんでみると、裏にはアルファベットが刻んである、本物っぽいではないか。マリッジリングだ!
ぼくは歓喜した。金属である。もし本物のプラチナであれば、換金できる。なんとラッキーな! これはリッチ紳士が釣った魚である。あの幼虫が、こんな指輪に変身するとは! すばらしい。
人生がバラ色になった気がした。思いがけない展開だった。
指輪は綺麗に洗い、ジャムの空き瓶を探し入れた。ちゃりん。そして活力を得たぼくは、魚をすべて下処理して、半分は煮付けに半分はマリネにすることにした。その夜はなぜかぐっすり眠れた。
次の日、ぼくは母のところに行くことにした。
ぼくは母が四十を過ぎてから生んだ、一人息子なのである
母は軽い認知症なのだが、持病の股関節の不具合も悪化して、施設で療養をしていた。ぼくの家から、市電で二駅のところに、その施設はあって、昨日作った煮つけをタッパーにいれて、持っていくことにした。母は魚の煮付けを食べたがっていたのだ。
駅からは歩いて十五分くらいの高台が施設への道のりで、駅前の商店街を抜けていく。その中に貴金属の買取りや骨董もどきを扱う店があり、そこで指輪を鑑定してもらおうと考えていた。
ところが、その日は近くの神社の例大祭なのか、露天商がたくさん出ていて、人ごみも普段の数倍である。ぼくは、魚の煮付けをビニール袋にいれて、右手にさげていたが、突然肩に人があたり、押されてよろめいた。思わず、ポケットにいれていた左手を出し、露天商の店の枠組みつかまり、難を逃れる。
と、同時に指輪の入っていた瓶がポケットを脱走して、ころころころと転がってしまった。
「おい、こら、待て」
転がった先は今川焼きの屋台の裏だった。
「お?」
今川焼きのあるじは、それを拾った。
「あ、すいません、それ、ぼくのなんです」
「おい、こりゃあ、」
ねじり鉢巻の今川焼き屋は、隣の烏賊焼きの露天商との隙間から出てきた。
「盗品でないのか?」
え、盗品? いや、これはたしかに貰った魚の腹に入っていたわけだし、魚の腹のものはすべて権利を主張できる、はずだし。 ぼくは、のそのそと微小な脳細胞を回転させた。
「ちがいますよ、盗品ではないです」
「いや、よくみせてくれ」
今川焼き屋はビンのふたを開け、指輪をとりだした。前後左右と内側をじっくりみていたが、
「やっぱり、これはおれがなくした指輪だ!」
と、断言した。
「ま、まさか」
「ほら見てみろ。指輪に彫られている、蛇がくわえているのは今川焼きだろう? それに、内側のイニシャル、おれがカミさんからもらった証だ、MからSへ、となっている、これが証拠だ」
と、今川焼き屋は言った。たしかに蛇には気がついていたが、くわえているのが今川焼きとは、こじつけではないか? むしろ宝玉にみえるが、と言おうとすると、
「あんちゃん、なあ、ゆずってくれよ、おれの指輪はどこをさがしても見つからないし、カミサンは怒るし、結婚指輪だからなあ、『たったそれだけの愛なのね』とか、責められるし、な、みつかったことにしておきたいんだよ」
と顔を寄せ、小さな声でささやくのだ。しんから困っているみたいだった。
「……」
仕方ない、と僕は思った。だいたい、この指輪は、もとはあの紳士からもらったものなんだし、欲をつのらせるのはやめよう、と考えた。
「いいですよ、あげます」
ぼくがそういうと、今川焼き屋は
「おお、太っ腹だね、財務大臣! ありがと、ありがたいよ、なにしろ、新しいのはおろか中古だって、その日暮らしの露天商ごときが買える値段でないからね、あんちゃん、恩にきるよ」と手で拝み
「そうだ、あんちゃん、お礼といってはなんだが、この今川焼きもっていきなよ。いますぐ、包むからな、まってくれよ」
と、いいながら、今川焼きの男は指輪を小指にはめている。
「おお。ぴったりだよ、やっぱり、あんたはおれの救世主!」
そしてぼくはそのあと、今川焼きを三十個も持つはめとなった。
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誰が指輪の入っていた瓶を拾いましたか?
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今川焼きのあるじが指輪の入っていた瓶を拾いました。
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ぼくの家は台地にあった。母によれば由緒ある旧家ということで、樹木の生い茂った敷地はかなり広い。ぼくは、鍵のかかっていない勝手口から入る。クーラーボックスを台所におくと、エプロンをして、さっそく魚をさばきにかかる。
新鮮なうちに下ごしらえをすれば、いたみもなく、いろいろな料理にできる。ぼくのたったひとつのとりえは、料理が好きで、幾分器用なところだろう。手際よくさばき、最後の魚の腹に包丁を入れた時にカチッと刃が何かにあたった。
「ん?」
ぼくは出刃で、そろそろと白い腹を探りながら、開いていく。
刃にあたったのは指輪だった。おおっ! つまんでみると、裏にはアルファベットが刻んである、本物っぽいではないか。マリッジリングだ!
ぼくは歓喜した。金属である。もし本物のプラチナであれば、換金できる。なんとラッキーな! これはリッチ紳士が釣った魚である。あの幼虫が、こんな指輪に変身するとは! すばらしい。
人生がバラ色になった気がした。思いがけない展開だった。
指輪は綺麗に洗い、ジャムの空き瓶を探し入れた。ちゃりん。そして活力を得たぼくは、魚をすべて下処理して、半分は煮付けに半分はマリネにすることにした。その夜はなぜかぐっすり眠れた。
次の日、ぼくは母のところに行くことにした。
ぼくは母が四十を過ぎてから生んだ、一人息子なのである
母は軽い認知症なのだが、持病の股関節の不具合も悪化して、施設で療養をしていた。ぼくの家から、市電で二駅のところに、その施設はあって、昨日作った煮つけをタッパーにいれて、持っていくことにした。母は魚の煮付けを食べたがっていたのだ。
駅からは歩いて十五分くらいの高台が施設への道のりで、駅前の商店街を抜けていく。その中に貴金属の買取りや骨董もどきを扱う店があり、そこで指輪を鑑定してもらおうと考えていた。
ところが、その日は近くの神社の例大祭なのか、露天商がたくさん出ていて、人ごみも普段の数倍である。ぼくは、魚の煮付けをビニール袋にいれて、右手にさげていたが、突然肩に人があたり、押されてよろめいた。思わず、ポケットにいれていた左手を出し、露天商の店の枠組みつかまり、難を逃れる。
と、同時に指輪の入っていた瓶がポケットを脱走して、ころころころと転がってしまった。
「おい、こら、待て」
転がった先は今川焼きの屋台の裏だった。
「お?」
今川焼きのあるじは、それを拾った。
「あ、すいません、それ、ぼくのなんです」
「おい、こりゃあ、」
ねじり鉢巻の今川焼き屋は、隣の烏賊焼きの露天商との隙間から出てきた。
「盗品でないのか?」
え、盗品? いや、これはたしかに貰った魚の腹に入っていたわけだし、魚の腹のものはすべて権利を主張できる、はずだし。 ぼくは、のそのそと微小な脳細胞を回転させた。
「ちがいますよ、盗品ではないです」
「いや、よくみせてくれ」
今川焼き屋はビンのふたを開け、指輪をとりだした。前後左右と内側をじっくりみていたが、
「やっぱり、これはおれがなくした指輪だ!」
と、断言した。
「ま、まさか」
「ほら見てみろ。指輪に彫られている、蛇がくわえているのは今川焼きだろう? それに、内側のイニシャル、おれがカミさんからもらった証だ、MからSへ、となっている、これが証拠だ」
と、今川焼き屋は言った。たしかに蛇には気がついていたが、くわえているのが今川焼きとは、こじつけではないか? むしろ宝玉にみえるが、と言おうとすると、
「あんちゃん、なあ、ゆずってくれよ、おれの指輪はどこをさがしても見つからないし、カミサンは怒るし、結婚指輪だからなあ、『たったそれだけの愛なのね』とか、責められるし、な、みつかったことにしておきたいんだよ」
と顔を寄せ、小さな声でささやくのだ。しんから困っているみたいだった。
「……」
仕方ない、と僕は思った。だいたい、この指輪は、もとはあの紳士からもらったものなんだし、欲をつのらせるのはやめよう、と考えた。
「いいですよ、あげます」
ぼくがそういうと、今川焼き屋は
「おお、太っ腹だね、財務大臣! ありがと、ありがたいよ、なにしろ、新しいのはおろか中古だって、その日暮らしの露天商ごときが買える値段でないからね、あんちゃん、恩にきるよ」と手で拝み
「そうだ、あんちゃん、お礼といってはなんだが、この今川焼きもっていきなよ。いますぐ、包むからな、まってくれよ」
と、いいながら、今川焼きの男は指輪を小指にはめている。
「おお。ぴったりだよ、やっぱり、あんたはおれの救世主!」
そしてぼくはそのあと、今川焼きを三十個も持つはめとなった。
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ぼくが魚を捌いているときに刃に当たったのは何でしたか?
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ぼくが魚を捌いているときに刃に当たったのは指輪でした。
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国語
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母のいる施設に着いたときは、ちょうど三時のおやつの少し前であった。スタッフに今川焼きを渡し、みんなのおやつにしてくれ、と告げると、心なしか、施設のなかがほんわりムードになった。
今川焼きの香ばしい、甘いにおいがみんなの気持ちに灯をともしたのかもしれない。あるいは、高齢者にはノスタルジーを感じる食べ物なのだろう。
母は十数人のメンバーとともに、テーブルが6台しつらえてあるホールに集い、それぞれが、大型テレビをぼんやり見たり、隣の人とおしゃべりをしていた。
母は歩くと股関節が痛むのか、車椅子に座っていたが、傍らにいる女性と楽しそうに話している。
ぼくが近づくと、彼女は母と同じ目線でしゃがんでいたが、ぱっと立ち上がった。
「あ、息子さんですね、いま、お母さまと息子さんの話をしていたのです」
「あなたは?」
ぼくがそう尋ねたのは、施設のユニホームでなく、紺色のブランドもののジャージを着ていたからである。
「実習生です」
「そうですか、母がお世話になっています」
施設には介護関係の職業につきたい学生が、たびたび実習にきていた。お年寄りの話し相手は、多忙なスタッフにはなかなかできないので、若い実習生は歓迎され、施設にも学生も双方にメリットがあるのだろう。
そこに母と実習生の分の今川焼きが、お皿に盛られて運ばれてきた。
「あら、うれしい」
母は愛好をくずした。
「好物がたべられてよかったね、母さん」
ぼくは母に、魚の煮付けも夕飯に食べるように話す。
二ヶ月前に施設に入居したものの、まだ自宅に心残りがあるのか、母は食欲が落ちていた。
施設の栄養管理のスタッフが、時々は慣れ親しんだ、家の味をお持ちください、というので、持参したのだった。
「息子さん、魚を料理するのですか?」
実習生がおどろいたようにたずねる。
「この子の煮る魚は、なつかしい味がするのよ。味付けもちょうどよい薄味でね。でも、仕事なんかは、優しいとかえってだめよね。今の世の中は、正直なだけでは通用しない、こすかしいのだけが生き残れる」
母はふがいないぼくに対する愚痴を言いながら、今川焼きを口に運んだ。
その後、夕食の介助を申し訳程度して、残った魚は部屋にある冷蔵庫にいれると、ぼくは母に帰ることを伝えた。
「戸締りをきちんとするように、大切な家だから」
母はぼくにいったが、泥棒がなにを盗むというのだろう? 現金は一銭もなかったのだ。
施設をでたところで、先ほどの女性の実習生が立っていた。
「あの、すこし聞きたいことがあるのですが、駅までご一緒してよろしいでしょうか」
彼女はどうやら待っていてくれたらしい。ぼくは心のなかで歓喜した。
駅までの道のりで聞いたところによると、彼女は大学で、人の味覚と記憶の相関を研究しているらしい。大学でなく、それとも、大学院なのか? ここでの実習は教員職になるための一課程らしく、
「単位をとるためだけ、なんです」
という。施設での実習着のジャージを脱いで、薄手のカットソーとジーンズに着替えた彼女は、普通以上にかわいらしかった。
「実は、今の学校も、一度職についてから、さらに学びたくなって入学したので、年ばかりくってます」とはにかみ
「慣れ親しんだ味が、埋もれていた記憶を引き出すという説があります」と続けた。
ぼくはうんとか、へえ、とかいいながら、彼女の睫毛がばさばさするのを見ていた。まるで蛾の触角のようであった。
そんな想像を見透かすように、
「よかったら、ここに一緒に行きませんか?」
と、チケットを差し出した。そこには『魅惑の蝶たち』というタイトルがついていた。市のカルチャーホールで開催されているらしい。
「喜んで、といいたいところなんだけど、あまり金なくて」
「あら、正直なんですね」
「それだけが、とりえかも」
二人で笑って、結局土曜日に一緒にいくことになった。
ぼくはここではたと気がついた。あの芋虫が、魚に、さらに指輪となり、そのあと、今川焼きになった。そして彼女に行き着いた! これは昔話のわらしべ長者みたいじゃないか!
たしか、あの昔話では、一本のわらが、みかんになり、みかんが絹の反物になり、そして反物は馬になる。さらに馬をゆずった長者の家で、主となるわけである。その家の娘と結婚して、幸せに暮らすというストーリーだったと思う。そのまんまだ! 話しをなぞっている!
僕と彼女はめぐりあう運命だったのだろうか? 彼女が化け物に変身するという類のどんでん返しだけは、まっぴらであるが……。
|
ホールにはテーブルが何台しつらえてありますか?
|
ホールにはテーブルが6台しつらえてあります。
|
JCRRAG_001177
|
国語
|
母のいる施設に着いたときは、ちょうど三時のおやつの少し前であった。スタッフに今川焼きを渡し、みんなのおやつにしてくれ、と告げると、心なしか、施設のなかがほんわりムードになった。
今川焼きの香ばしい、甘いにおいがみんなの気持ちに灯をともしたのかもしれない。あるいは、高齢者にはノスタルジーを感じる食べ物なのだろう。
母は十数人のメンバーとともに、テーブルが6台しつらえてあるホールに集い、それぞれが、大型テレビをぼんやり見たり、隣の人とおしゃべりをしていた。
母は歩くと股関節が痛むのか、車椅子に座っていたが、傍らにいる女性と楽しそうに話している。
ぼくが近づくと、彼女は母と同じ目線でしゃがんでいたが、ぱっと立ち上がった。
「あ、息子さんですね、いま、お母さまと息子さんの話をしていたのです」
「あなたは?」
ぼくがそう尋ねたのは、施設のユニホームでなく、紺色のブランドもののジャージを着ていたからである。
「実習生です」
「そうですか、母がお世話になっています」
施設には介護関係の職業につきたい学生が、たびたび実習にきていた。お年寄りの話し相手は、多忙なスタッフにはなかなかできないので、若い実習生は歓迎され、施設にも学生も双方にメリットがあるのだろう。
そこに母と実習生の分の今川焼きが、お皿に盛られて運ばれてきた。
「あら、うれしい」
母は愛好をくずした。
「好物がたべられてよかったね、母さん」
ぼくは母に、魚の煮付けも夕飯に食べるように話す。
二ヶ月前に施設に入居したものの、まだ自宅に心残りがあるのか、母は食欲が落ちていた。
施設の栄養管理のスタッフが、時々は慣れ親しんだ、家の味をお持ちください、というので、持参したのだった。
「息子さん、魚を料理するのですか?」
実習生がおどろいたようにたずねる。
「この子の煮る魚は、なつかしい味がするのよ。味付けもちょうどよい薄味でね。でも、仕事なんかは、優しいとかえってだめよね。今の世の中は、正直なだけでは通用しない、こすかしいのだけが生き残れる」
母はふがいないぼくに対する愚痴を言いながら、今川焼きを口に運んだ。
その後、夕食の介助を申し訳程度して、残った魚は部屋にある冷蔵庫にいれると、ぼくは母に帰ることを伝えた。
「戸締りをきちんとするように、大切な家だから」
母はぼくにいったが、泥棒がなにを盗むというのだろう? 現金は一銭もなかったのだ。
施設をでたところで、先ほどの女性の実習生が立っていた。
「あの、すこし聞きたいことがあるのですが、駅までご一緒してよろしいでしょうか」
彼女はどうやら待っていてくれたらしい。ぼくは心のなかで歓喜した。
駅までの道のりで聞いたところによると、彼女は大学で、人の味覚と記憶の相関を研究しているらしい。大学でなく、それとも、大学院なのか? ここでの実習は教員職になるための一課程らしく、
「単位をとるためだけ、なんです」
という。施設での実習着のジャージを脱いで、薄手のカットソーとジーンズに着替えた彼女は、普通以上にかわいらしかった。
「実は、今の学校も、一度職についてから、さらに学びたくなって入学したので、年ばかりくってます」とはにかみ
「慣れ親しんだ味が、埋もれていた記憶を引き出すという説があります」と続けた。
ぼくはうんとか、へえ、とかいいながら、彼女の睫毛がばさばさするのを見ていた。まるで蛾の触角のようであった。
そんな想像を見透かすように、
「よかったら、ここに一緒に行きませんか?」
と、チケットを差し出した。そこには『魅惑の蝶たち』というタイトルがついていた。市のカルチャーホールで開催されているらしい。
「喜んで、といいたいところなんだけど、あまり金なくて」
「あら、正直なんですね」
「それだけが、とりえかも」
二人で笑って、結局土曜日に一緒にいくことになった。
ぼくはここではたと気がついた。あの芋虫が、魚に、さらに指輪となり、そのあと、今川焼きになった。そして彼女に行き着いた! これは昔話のわらしべ長者みたいじゃないか!
たしか、あの昔話では、一本のわらが、みかんになり、みかんが絹の反物になり、そして反物は馬になる。さらに馬をゆずった長者の家で、主となるわけである。その家の娘と結婚して、幸せに暮らすというストーリーだったと思う。そのまんまだ! 話しをなぞっている!
僕と彼女はめぐりあう運命だったのだろうか? 彼女が化け物に変身するという類のどんでん返しだけは、まっぴらであるが……。
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母は何に座っていましたか?
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母は車椅子に座っていました。
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JCRRAG_001178
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国語
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母のいる施設に着いたときは、ちょうど三時のおやつの少し前であった。スタッフに今川焼きを渡し、みんなのおやつにしてくれ、と告げると、心なしか、施設のなかがほんわりムードになった。
今川焼きの香ばしい、甘いにおいがみんなの気持ちに灯をともしたのかもしれない。あるいは、高齢者にはノスタルジーを感じる食べ物なのだろう。
母は十数人のメンバーとともに、テーブルが6台しつらえてあるホールに集い、それぞれが、大型テレビをぼんやり見たり、隣の人とおしゃべりをしていた。
母は歩くと股関節が痛むのか、車椅子に座っていたが、傍らにいる女性と楽しそうに話している。
ぼくが近づくと、彼女は母と同じ目線でしゃがんでいたが、ぱっと立ち上がった。
「あ、息子さんですね、いま、お母さまと息子さんの話をしていたのです」
「あなたは?」
ぼくがそう尋ねたのは、施設のユニホームでなく、紺色のブランドもののジャージを着ていたからである。
「実習生です」
「そうですか、母がお世話になっています」
施設には介護関係の職業につきたい学生が、たびたび実習にきていた。お年寄りの話し相手は、多忙なスタッフにはなかなかできないので、若い実習生は歓迎され、施設にも学生も双方にメリットがあるのだろう。
そこに母と実習生の分の今川焼きが、お皿に盛られて運ばれてきた。
「あら、うれしい」
母は愛好をくずした。
「好物がたべられてよかったね、母さん」
ぼくは母に、魚の煮付けも夕飯に食べるように話す。
二ヶ月前に施設に入居したものの、まだ自宅に心残りがあるのか、母は食欲が落ちていた。
施設の栄養管理のスタッフが、時々は慣れ親しんだ、家の味をお持ちください、というので、持参したのだった。
「息子さん、魚を料理するのですか?」
実習生がおどろいたようにたずねる。
「この子の煮る魚は、なつかしい味がするのよ。味付けもちょうどよい薄味でね。でも、仕事なんかは、優しいとかえってだめよね。今の世の中は、正直なだけでは通用しない、こすかしいのだけが生き残れる」
母はふがいないぼくに対する愚痴を言いながら、今川焼きを口に運んだ。
その後、夕食の介助を申し訳程度して、残った魚は部屋にある冷蔵庫にいれると、ぼくは母に帰ることを伝えた。
「戸締りをきちんとするように、大切な家だから」
母はぼくにいったが、泥棒がなにを盗むというのだろう? 現金は一銭もなかったのだ。
施設をでたところで、先ほどの女性の実習生が立っていた。
「あの、すこし聞きたいことがあるのですが、駅までご一緒してよろしいでしょうか」
彼女はどうやら待っていてくれたらしい。ぼくは心のなかで歓喜した。
駅までの道のりで聞いたところによると、彼女は大学で、人の味覚と記憶の相関を研究しているらしい。大学でなく、それとも、大学院なのか? ここでの実習は教員職になるための一課程らしく、
「単位をとるためだけ、なんです」
という。施設での実習着のジャージを脱いで、薄手のカットソーとジーンズに着替えた彼女は、普通以上にかわいらしかった。
「実は、今の学校も、一度職についてから、さらに学びたくなって入学したので、年ばかりくってます」とはにかみ
「慣れ親しんだ味が、埋もれていた記憶を引き出すという説があります」と続けた。
ぼくはうんとか、へえ、とかいいながら、彼女の睫毛がばさばさするのを見ていた。まるで蛾の触角のようであった。
そんな想像を見透かすように、
「よかったら、ここに一緒に行きませんか?」
と、チケットを差し出した。そこには『魅惑の蝶たち』というタイトルがついていた。市のカルチャーホールで開催されているらしい。
「喜んで、といいたいところなんだけど、あまり金なくて」
「あら、正直なんですね」
「それだけが、とりえかも」
二人で笑って、結局土曜日に一緒にいくことになった。
ぼくはここではたと気がついた。あの芋虫が、魚に、さらに指輪となり、そのあと、今川焼きになった。そして彼女に行き着いた! これは昔話のわらしべ長者みたいじゃないか!
たしか、あの昔話では、一本のわらが、みかんになり、みかんが絹の反物になり、そして反物は馬になる。さらに馬をゆずった長者の家で、主となるわけである。その家の娘と結婚して、幸せに暮らすというストーリーだったと思う。そのまんまだ! 話しをなぞっている!
僕と彼女はめぐりあう運命だったのだろうか? 彼女が化け物に変身するという類のどんでん返しだけは、まっぴらであるが……。
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ぼくは母に、何を夕飯に食べるよう話しましたか?
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ぼくは母に、魚の煮付けを食べるよう話しました。
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JCRRAG_001179
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国語
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次の日、小雨がふっていたが、ぼくは例のリッチな紳士の家にクーラーボックスを届けることにした。ぼくは、そのかさばるボックスを水道できれいに洗い、椅子や竿もまとめ、自転車に積んでいった。
お礼、という誘惑があった。たしか紳士はそういっていた。
名刺の住所は高級住宅地で、ぼくの家からは、5キロほどのところであった。K市は東京には快速で一時間以内にいけるという利便さよりも、閑静な丘陵地のシックな落ち着いた住宅街ということで、古今とわず人気のある土地であった
ぼくが紳士の家をスマホのナビで探し、呼び鈴を押すと、お手伝いらしき女性がでてきた。
「だんな様よりうかがっています」
といって、釣り道具をあずかるという。彼は予測していたとおり、不在らしい。まあ、ウイークデイにふらふらしているのは、ぼくみたいな、ニートだけだろうな。
多分捨ててしまっただろう、と思ったが、虫の入っていたタッパーはないか、念のため聞くと、お手伝いさんは、首をかしげながらいったん中に引っ込み、長いあいだかかり、もう、忘れられたんじゃないか、と思うころやっと出てきた。
「虫がさなぎになっているので、このまま預からせてくださいとのことです」
どうやら、紳士に電話で聞いたらしい。それにしてもあいつがさなぎになったとはね、ぼくはちょっぴり感心した。ガッツがあるな、と見直した。魚に食われるまえに、変化するとは……。
一寸の虫にも五分の魂だな。
「到来物で失礼とは存じますが、これをお持ちください、だんな様の言伝でございます」
といってワインをさしだした。
ぼくはのけぞった。お金持ちは違うなあ、本当に。ラベルは判読不可能だが、わずかに読める文字で推察するに、フランスのなんちゃらブルゴーとかだった。ぼくはありがたく頂戴することにした。
所得の再分配だ! 貧しきものに光を、と心で唱えながら、自転車で家にもどった。マリネをさかなに乾杯しよう。
「芋虫くんに、乾杯!」
いや待てよ。ぼくはワインの栓を抜くのをやめた。とりあえず、土曜日まで温存しよう。土曜日はあの娘と会える予定だし……ぼくは本当にわらしべ長者になった気分であった。芋虫がワインに、だしな。
土曜日、待ち合わせの時刻に行くと、彼女はもう来ていた。会場はマニアらしい人でごったがえし、予想していたよりも混雑している。圧倒的に男性が多いことに気づく。
「叔父がそのマニアなんです」
彼女は券の出所を説明する。
「叔父の本職は公務員なんですが、蝶々のこととなると、寝食をわすれ、山でもジャングルでも南極でも行ってしまうんです。あら、南極には蝶はいないかしら? つまり、どのマニアも新種を見つけたいし、あいにく新種はめったにみつからないみたいですよ」
展示してある蝶々は美しかった 。白いパネルに剥製となって、静止している蝶の、燐粉の美しさはどんな絵の具でも表現できないだろう。一見地味な色あいでも、紋というのであろうか、模様の神秘に、息をのんでしまう。捕獲する鳥を驚かせる目的の、目のような模様も、ため息をついてしまう美しさであった。小魔女に見せられた彼らのように、とりこになり、地の果てでも追っていきたくなる、
男の習性をかい間見た気がした。
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ぼくはリッチな紳士のクーラーボックスを何に積んでいきましたか?
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ぼくはリッチな紳士のクーラーボックスを自転車に積んでいきました。
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JCRRAG_001180
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国語
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母のいる施設に着いたときは、ちょうど三時のおやつの少し前であった。スタッフに今川焼きを渡し、みんなのおやつにしてくれ、と告げると、心なしか、施設のなかがほんわりムードになった。
今川焼きの香ばしい、甘いにおいがみんなの気持ちに灯をともしたのかもしれない。あるいは、高齢者にはノスタルジーを感じる食べ物なのだろう。
母は十数人のメンバーとともに、テーブルが6台しつらえてあるホールに集い、それぞれが、大型テレビをぼんやり見たり、隣の人とおしゃべりをしていた。
母は歩くと股関節が痛むのか、車椅子に座っていたが、傍らにいる女性と楽しそうに話している。
ぼくが近づくと、彼女は母と同じ目線でしゃがんでいたが、ぱっと立ち上がった。
「あ、息子さんですね、いま、お母さまと息子さんの話をしていたのです」
「あなたは?」
ぼくがそう尋ねたのは、施設のユニホームでなく、紺色のブランドもののジャージを着ていたからである。
「実習生です」
「そうですか、母がお世話になっています」
施設には介護関係の職業につきたい学生が、たびたび実習にきていた。お年寄りの話し相手は、多忙なスタッフにはなかなかできないので、若い実習生は歓迎され、施設にも学生も双方にメリットがあるのだろう。
そこに母と実習生の分の今川焼きが、お皿に盛られて運ばれてきた。
「あら、うれしい」
母は愛好をくずした。
「好物がたべられてよかったね、母さん」
ぼくは母に、魚の煮付けも夕飯に食べるように話す。
二ヶ月前に施設に入居したものの、まだ自宅に心残りがあるのか、母は食欲が落ちていた。
施設の栄養管理のスタッフが、時々は慣れ親しんだ、家の味をお持ちください、というので、持参したのだった。
「息子さん、魚を料理するのですか?」
実習生がおどろいたようにたずねる。
「この子の煮る魚は、なつかしい味がするのよ。味付けもちょうどよい薄味でね。でも、仕事なんかは、優しいとかえってだめよね。今の世の中は、正直なだけでは通用しない、こすかしいのだけが生き残れる」
母はふがいないぼくに対する愚痴を言いながら、今川焼きを口に運んだ。
その後、夕食の介助を申し訳程度して、残った魚は部屋にある冷蔵庫にいれると、ぼくは母に帰ることを伝えた。
「戸締りをきちんとするように、大切な家だから」
母はぼくにいったが、泥棒がなにを盗むというのだろう? 現金は一銭もなかったのだ。
施設をでたところで、先ほどの女性の実習生が立っていた。
「あの、すこし聞きたいことがあるのですが、駅までご一緒してよろしいでしょうか」
彼女はどうやら待っていてくれたらしい。ぼくは心のなかで歓喜した。
駅までの道のりで聞いたところによると、彼女は大学で、人の味覚と記憶の相関を研究しているらしい。大学でなく、それとも、大学院なのか? ここでの実習は教員職になるための一課程らしく、
「単位をとるためだけ、なんです」
という。施設での実習着のジャージを脱いで、薄手のカットソーとジーンズに着替えた彼女は、普通以上にかわいらしかった。
「実は、今の学校も、一度職についてから、さらに学びたくなって入学したので、年ばかりくってます」とはにかみ
「慣れ親しんだ味が、埋もれていた記憶を引き出すという説があります」と続けた。
ぼくはうんとか、へえ、とかいいながら、彼女の睫毛がばさばさするのを見ていた。まるで蛾の触角のようであった。
そんな想像を見透かすように、
「よかったら、ここに一緒に行きませんか?」
と、チケットを差し出した。そこには『魅惑の蝶たち』というタイトルがついていた。市のカルチャーホールで開催されているらしい。
「喜んで、といいたいところなんだけど、あまり金なくて」
「あら、正直なんですね」
「それだけが、とりえかも」
二人で笑って、結局土曜日に一緒にいくことになった。
ぼくはここではたと気がついた。あの芋虫が、魚に、さらに指輪となり、そのあと、今川焼きになった。そして彼女に行き着いた! これは昔話のわらしべ長者みたいじゃないか!
たしか、あの昔話では、一本のわらが、みかんになり、みかんが絹の反物になり、そして反物は馬になる。さらに馬をゆずった長者の家で、主となるわけである。その家の娘と結婚して、幸せに暮らすというストーリーだったと思う。そのまんまだ! 話しをなぞっている!
僕と彼女はめぐりあう運命だったのだろうか? 彼女が化け物に変身するという類のどんでん返しだけは、まっぴらであるが……。
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実習生は大学で、何を研究しているのですか?
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実習生は大学で、人の味覚と記憶の相関を研究しています。
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JCRRAG_001181
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国語
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次の日、小雨がふっていたが、ぼくは例のリッチな紳士の家にクーラーボックスを届けることにした。ぼくは、そのかさばるボックスを水道できれいに洗い、椅子や竿もまとめ、自転車に積んでいった。
お礼、という誘惑があった。たしか紳士はそういっていた。
名刺の住所は高級住宅地で、ぼくの家からは、5キロほどのところであった。K市は東京には快速で一時間以内にいけるという利便さよりも、閑静な丘陵地のシックな落ち着いた住宅街ということで、古今とわず人気のある土地であった
ぼくが紳士の家をスマホのナビで探し、呼び鈴を押すと、お手伝いらしき女性がでてきた。
「だんな様よりうかがっています」
といって、釣り道具をあずかるという。彼は予測していたとおり、不在らしい。まあ、ウイークデイにふらふらしているのは、ぼくみたいな、ニートだけだろうな。
多分捨ててしまっただろう、と思ったが、虫の入っていたタッパーはないか、念のため聞くと、お手伝いさんは、首をかしげながらいったん中に引っ込み、長いあいだかかり、もう、忘れられたんじゃないか、と思うころやっと出てきた。
「虫がさなぎになっているので、このまま預からせてくださいとのことです」
どうやら、紳士に電話で聞いたらしい。それにしてもあいつがさなぎになったとはね、ぼくはちょっぴり感心した。ガッツがあるな、と見直した。魚に食われるまえに、変化するとは……。
一寸の虫にも五分の魂だな。
「到来物で失礼とは存じますが、これをお持ちください、だんな様の言伝でございます」
といってワインをさしだした。
ぼくはのけぞった。お金持ちは違うなあ、本当に。ラベルは判読不可能だが、わずかに読める文字で推察するに、フランスのなんちゃらブルゴーとかだった。ぼくはありがたく頂戴することにした。
所得の再分配だ! 貧しきものに光を、と心で唱えながら、自転車で家にもどった。マリネをさかなに乾杯しよう。
「芋虫くんに、乾杯!」
いや待てよ。ぼくはワインの栓を抜くのをやめた。とりあえず、土曜日まで温存しよう。土曜日はあの娘と会える予定だし……ぼくは本当にわらしべ長者になった気分であった。芋虫がワインに、だしな。
土曜日、待ち合わせの時刻に行くと、彼女はもう来ていた。会場はマニアらしい人でごったがえし、予想していたよりも混雑している。圧倒的に男性が多いことに気づく。
「叔父がそのマニアなんです」
彼女は券の出所を説明する。
「叔父の本職は公務員なんですが、蝶々のこととなると、寝食をわすれ、山でもジャングルでも南極でも行ってしまうんです。あら、南極には蝶はいないかしら? つまり、どのマニアも新種を見つけたいし、あいにく新種はめったにみつからないみたいですよ」
展示してある蝶々は美しかった 。白いパネルに剥製となって、静止している蝶の、燐粉の美しさはどんな絵の具でも表現できないだろう。一見地味な色あいでも、紋というのであろうか、模様の神秘に、息をのんでしまう。捕獲する鳥を驚かせる目的の、目のような模様も、ため息をついてしまう美しさであった。小魔女に見せられた彼らのように、とりこになり、地の果てでも追っていきたくなる、
男の習性をかい間見た気がした。
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タッパーにいた虫はどうなっていましたか?
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タッパーにいた虫はさなぎになっていました。
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JCRRAG_001182
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国語
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展示施設の中ほどにショーケースのような四方をアクリル板で囲った、スペースがあり、その中に生きている蝶が乱舞していた。
ケースには特殊な加工がしてあり、こちらからは蝶がみられるが、蝶からは外が見えず、まるで森のなかにいるように、ありのままの姿で舞う姿が観察されます、という説明書きがあった。この展示会の一番の目玉なのだろう。
「きれい!」
彼女が小走りで近寄った。
腕の部分だけ透ける水色のブラウスを着た彼女は、軽やかに舞う蝶にも見える。ぼくは思わず見とれてしまった。
ああ、それにしてもさえない自分をさらに感じてしまう。こっちは五百円玉大のはげもあるし、さえないニートだ。彼女はどうしてぼくを誘ったのだろう? ぼんやりしながら、彼女を目で追っていた。
水槽のような五メートル四方ぐらいの、角柱形の外側は、美しい光景を観察している人が十数人いたが、ぼくは、ふと気になるものを見つけ、人のあいだを縫って近寄った。蝶が輪舞するショウギャラリーには本物の木の枝を配置してあるが、そこに幼虫であろう芋虫がいた。
大きさも色も、ぼくの家の庭の芋虫に酷似している。
「え?」
あの芋虫は、これと同じモノなのか? この珍しい品種の蝶が自分の家の庭にいるのだろうか? 彼女が近寄ってきた。
「ねえ、これと同じようなのが、わんさか、ぼくの家にいるんだけど?」
「ま、まさか、これって、すごく希少な蝶みたいよ?」
彼女は説明の書かれたプレートを指差す。
「そうだよね、でも、たくさんいて、この幼虫はよく見るし、この蝶もさ、あたりまえのように、敷地を飛んでいるし」
「そうだったら、なんかそれって凄いことみたいに思うの。これから、行ってみたい、いいかしら?」
「そりゃ、全然かまわないけど」
かまわないけど、金がない、とはいえず、言葉を飲み込んだ。ぼくはここまで自転車で一時間ちょいかけてきたのだ。
電車賃がないなんて、どうして言える? 彼女をあの市電に案内すれば、自分の運賃ぐらいはなんとかなるだろうが。
「話が決まったたら、行きましょう」
彼女はぼくの手を握って、蝶々の展示場から飛び出す。そしてエレベーターを使い、地下の駐車場に導いた。
「あたし、勘だけはいいのよね、どうぞ、乗って。君のお宅までこの車で行きましょう」
「はあ、」
ぼくは指し示された助手席に乗った。彼女の車は赤いワーゲン・ゴルフだった。
「勘って、どういう意味?」
ぼくは車がパーキングから的確にかつ迅速に飛び出したあとたずねた。
「勘、ていうか、今日はなんとなく車のほうが、いいかな……っていう考えが頭にわくと、素直に従うっていうことよ」
「はあ、で、ゴルフですか」
「ああ、これ?」彼女は笑った。
「父が心配性でね。車体が頑丈であればあるほど、事故にあわないと考えているの。お金を出してもらうわけだから、わたしは文句いえないわよね」
彼女はぼくの家の住所を聞いた。そしてそれを音声でナビに伝える。車はさすがに堅実な走りを見せた。
「君の家のことは、お母さまからいろいろ聞いているの。お母さまは婿取りをした、といっていたわ、なんでも江戸時代から、その家の当主はその家にしか生息しない蝶を、守る家系だとか、そういっていたわ」
彼女はぼくにそういった。
「……母はそう見えないけど、認知症だから」
話の信憑性の問題だ。
「そうかもしれないけど、過去の記憶ほど鮮明である、ということを考えると、まんざら妄想とは思えなくてね」
「そうですか」
ぼくは、なんで彼女がぼくを誘ったか、納得した。蝶のことか。そうだったのか、叔父さんとやらのためか。
「むしろ、わたしなんかより叔父が来られればいいな、と思うの。でも今は、南米のほうへいっているはずなのよね」
ほらな。
「ああ、なるほど」
「でも、電話すればふっとんでくるかも」
「え?」
ぼくは思いがけない展開にびびって萎縮していた。これではさらに漫画かドラマみたいではないか? 車のなかで、彼女はぼくの家の敷地内のことについて尋ねる。
「そうなのね、きっと君の家って、四方を谷にかこまれているし、あの幼虫が蝶になって限られたエリアにとどまっているのかもしれないわ」
「……」
土曜日ということで、渋滞があり、市電よりはかなり時間がかかって、ぼくの家についた。彼女は驚いたように、
「やだ、うちからそんなに遠くないところだわ」
と言った。やだ、といいながらも、うれしそうだったので意外だった。周りを背の高い防風林でかこまれたぼくの家は、こう見ると、ひとつの城のようでもあった。
蝶はこの高さを乗り越えられないのかもしれない。
車から降りた彼女はぼくがさししめす木を、目を皿にして見ていた。しかし、幼虫はまったく、これでもかというほど、一匹もいなかった。
さなぎになってしまったのか、成虫になり飛んでいったのか、あんなにうじゃうじゃいたのに、ぼくはまるで自分のいったことが大嘘だと、思われるようで、必死で弁解した。
「変だなあ、あんなにわんさかいたのに」
「……」
彼女は怒ったのだろうか? ひとりで、あちこち見ながら写真をとったり、上を見上げたりしている。
ぼくは自分の人生が突然に終わったと感じた。あのリッチ紳士に幼虫をあげなければよかった。そうだ、あのときに返してもらえば……
やにわに彼女が電話をする。ハローとかいっているので国際電話なのか、やがて「はい、そうします」といっているのが聞こえる、
「ねえ、さなぎないかしら?」
「さなぎですね、お嬢様。」ぼくは、条件反射で、浄水器のセールスの口調になってしまった。
「さなぎさえあれば、飼育箱で保存しながら、羽化がみられるでしょう。叔父はこれからすぐコスタリカを発って、戻るというの。さなぎがひとつでもあればいいんだけど」
「ひとつ、人より力もち……」などと、ぼくは相当混乱していた。
さなぎ様! どこにいらっしゃいますか!
ここでさなぎがなければ、ぼくの人生はおしまいである。おしまい、彼女は怒って帰り、ぼくはまたひとりで釣り。魚のくいつきのいい幼虫くんもいないし!
「あ!」ぼくは叫んだ。
「さなぎ、あります。さなぎあるんです。このまえのリッチ紳士の家に」
「……リッチ紳士?」
「そう、あの、ここから自転車で少しいったところの高級住宅地に、
お金のある人の家に、あるんです」
そうだった。なんてぼくはラッキーなんだ。
だが、自転車! ぼくはあのカルチャーセンターにおいてきてしまった。自転車がないのだ。なんて不幸なんだ。天国と地獄だ。
泣く泣く、そのおおまかな場所と苗字をしどろもどろにいうと、彼女はおなかをかかえて笑いだした、
「そこ、私の家よ! そのリッチ紳士って父のことなのね! なんて不思議! 偶然ってあるのね」
と彼女はいうと、ぼくが口を開く前に車に飛び乗り、あっという間に出て行った。土煙だけもうもうと上がる。
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彼女の車はどのようなものでしたか?
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彼女の車は赤いワーゲン・ゴルフでした。
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国語
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次の日、小雨がふっていたが、ぼくは例のリッチな紳士の家にクーラーボックスを届けることにした。ぼくは、そのかさばるボックスを水道できれいに洗い、椅子や竿もまとめ、自転車に積んでいった。
お礼、という誘惑があった。たしか紳士はそういっていた。
名刺の住所は高級住宅地で、ぼくの家からは、5キロほどのところであった。K市は東京には快速で一時間以内にいけるという利便さよりも、閑静な丘陵地のシックな落ち着いた住宅街ということで、古今とわず人気のある土地であった
ぼくが紳士の家をスマホのナビで探し、呼び鈴を押すと、お手伝いらしき女性がでてきた。
「だんな様よりうかがっています」
といって、釣り道具をあずかるという。彼は予測していたとおり、不在らしい。まあ、ウイークデイにふらふらしているのは、ぼくみたいな、ニートだけだろうな。
多分捨ててしまっただろう、と思ったが、虫の入っていたタッパーはないか、念のため聞くと、お手伝いさんは、首をかしげながらいったん中に引っ込み、長いあいだかかり、もう、忘れられたんじゃないか、と思うころやっと出てきた。
「虫がさなぎになっているので、このまま預からせてくださいとのことです」
どうやら、紳士に電話で聞いたらしい。それにしてもあいつがさなぎになったとはね、ぼくはちょっぴり感心した。ガッツがあるな、と見直した。魚に食われるまえに、変化するとは……。
一寸の虫にも五分の魂だな。
「到来物で失礼とは存じますが、これをお持ちください、だんな様の言伝でございます」
といってワインをさしだした。
ぼくはのけぞった。お金持ちは違うなあ、本当に。ラベルは判読不可能だが、わずかに読める文字で推察するに、フランスのなんちゃらブルゴーとかだった。ぼくはありがたく頂戴することにした。
所得の再分配だ! 貧しきものに光を、と心で唱えながら、自転車で家にもどった。マリネをさかなに乾杯しよう。
「芋虫くんに、乾杯!」
いや待てよ。ぼくはワインの栓を抜くのをやめた。とりあえず、土曜日まで温存しよう。土曜日はあの娘と会える予定だし……ぼくは本当にわらしべ長者になった気分であった。芋虫がワインに、だしな。
土曜日、待ち合わせの時刻に行くと、彼女はもう来ていた。会場はマニアらしい人でごったがえし、予想していたよりも混雑している。圧倒的に男性が多いことに気づく。
「叔父がそのマニアなんです」
彼女は券の出所を説明する。
「叔父の本職は公務員なんですが、蝶々のこととなると、寝食をわすれ、山でもジャングルでも南極でも行ってしまうんです。あら、南極には蝶はいないかしら? つまり、どのマニアも新種を見つけたいし、あいにく新種はめったにみつからないみたいですよ」
展示してある蝶々は美しかった 。白いパネルに剥製となって、静止している蝶の、燐粉の美しさはどんな絵の具でも表現できないだろう。一見地味な色あいでも、紋というのであろうか、模様の神秘に、息をのんでしまう。捕獲する鳥を驚かせる目的の、目のような模様も、ため息をついてしまう美しさであった。小魔女に見せられた彼らのように、とりこになり、地の果てでも追っていきたくなる、
男の習性をかい間見た気がした。
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彼女の叔父の本職は何ですか?
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彼女の叔父の本職は公務員です。
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展示施設の中ほどにショーケースのような四方をアクリル板で囲った、スペースがあり、その中に生きている蝶が乱舞していた。
ケースには特殊な加工がしてあり、こちらからは蝶がみられるが、蝶からは外が見えず、まるで森のなかにいるように、ありのままの姿で舞う姿が観察されます、という説明書きがあった。この展示会の一番の目玉なのだろう。
「きれい!」
彼女が小走りで近寄った。
腕の部分だけ透ける水色のブラウスを着た彼女は、軽やかに舞う蝶にも見える。ぼくは思わず見とれてしまった。
ああ、それにしてもさえない自分をさらに感じてしまう。こっちは五百円玉大のはげもあるし、さえないニートだ。彼女はどうしてぼくを誘ったのだろう? ぼんやりしながら、彼女を目で追っていた。
水槽のような五メートル四方ぐらいの、角柱形の外側は、美しい光景を観察している人が十数人いたが、ぼくは、ふと気になるものを見つけ、人のあいだを縫って近寄った。蝶が輪舞するショウギャラリーには本物の木の枝を配置してあるが、そこに幼虫であろう芋虫がいた。
大きさも色も、ぼくの家の庭の芋虫に酷似している。
「え?」
あの芋虫は、これと同じモノなのか? この珍しい品種の蝶が自分の家の庭にいるのだろうか? 彼女が近寄ってきた。
「ねえ、これと同じようなのが、わんさか、ぼくの家にいるんだけど?」
「ま、まさか、これって、すごく希少な蝶みたいよ?」
彼女は説明の書かれたプレートを指差す。
「そうだよね、でも、たくさんいて、この幼虫はよく見るし、この蝶もさ、あたりまえのように、敷地を飛んでいるし」
「そうだったら、なんかそれって凄いことみたいに思うの。これから、行ってみたい、いいかしら?」
「そりゃ、全然かまわないけど」
かまわないけど、金がない、とはいえず、言葉を飲み込んだ。ぼくはここまで自転車で一時間ちょいかけてきたのだ。
電車賃がないなんて、どうして言える? 彼女をあの市電に案内すれば、自分の運賃ぐらいはなんとかなるだろうが。
「話が決まったたら、行きましょう」
彼女はぼくの手を握って、蝶々の展示場から飛び出す。そしてエレベーターを使い、地下の駐車場に導いた。
「あたし、勘だけはいいのよね、どうぞ、乗って。君のお宅までこの車で行きましょう」
「はあ、」
ぼくは指し示された助手席に乗った。彼女の車は赤いワーゲン・ゴルフだった。
「勘って、どういう意味?」
ぼくは車がパーキングから的確にかつ迅速に飛び出したあとたずねた。
「勘、ていうか、今日はなんとなく車のほうが、いいかな……っていう考えが頭にわくと、素直に従うっていうことよ」
「はあ、で、ゴルフですか」
「ああ、これ?」彼女は笑った。
「父が心配性でね。車体が頑丈であればあるほど、事故にあわないと考えているの。お金を出してもらうわけだから、わたしは文句いえないわよね」
彼女はぼくの家の住所を聞いた。そしてそれを音声でナビに伝える。車はさすがに堅実な走りを見せた。
「君の家のことは、お母さまからいろいろ聞いているの。お母さまは婿取りをした、といっていたわ、なんでも江戸時代から、その家の当主はその家にしか生息しない蝶を、守る家系だとか、そういっていたわ」
彼女はぼくにそういった。
「……母はそう見えないけど、認知症だから」
話の信憑性の問題だ。
「そうかもしれないけど、過去の記憶ほど鮮明である、ということを考えると、まんざら妄想とは思えなくてね」
「そうですか」
ぼくは、なんで彼女がぼくを誘ったか、納得した。蝶のことか。そうだったのか、叔父さんとやらのためか。
「むしろ、わたしなんかより叔父が来られればいいな、と思うの。でも今は、南米のほうへいっているはずなのよね」
ほらな。
「ああ、なるほど」
「でも、電話すればふっとんでくるかも」
「え?」
ぼくは思いがけない展開にびびって萎縮していた。これではさらに漫画かドラマみたいではないか? 車のなかで、彼女はぼくの家の敷地内のことについて尋ねる。
「そうなのね、きっと君の家って、四方を谷にかこまれているし、あの幼虫が蝶になって限られたエリアにとどまっているのかもしれないわ」
「……」
土曜日ということで、渋滞があり、市電よりはかなり時間がかかって、ぼくの家についた。彼女は驚いたように、
「やだ、うちからそんなに遠くないところだわ」
と言った。やだ、といいながらも、うれしそうだったので意外だった。周りを背の高い防風林でかこまれたぼくの家は、こう見ると、ひとつの城のようでもあった。
蝶はこの高さを乗り越えられないのかもしれない。
車から降りた彼女はぼくがさししめす木を、目を皿にして見ていた。しかし、幼虫はまったく、これでもかというほど、一匹もいなかった。
さなぎになってしまったのか、成虫になり飛んでいったのか、あんなにうじゃうじゃいたのに、ぼくはまるで自分のいったことが大嘘だと、思われるようで、必死で弁解した。
「変だなあ、あんなにわんさかいたのに」
「……」
彼女は怒ったのだろうか? ひとりで、あちこち見ながら写真をとったり、上を見上げたりしている。
ぼくは自分の人生が突然に終わったと感じた。あのリッチ紳士に幼虫をあげなければよかった。そうだ、あのときに返してもらえば……
やにわに彼女が電話をする。ハローとかいっているので国際電話なのか、やがて「はい、そうします」といっているのが聞こえる、
「ねえ、さなぎないかしら?」
「さなぎですね、お嬢様。」ぼくは、条件反射で、浄水器のセールスの口調になってしまった。
「さなぎさえあれば、飼育箱で保存しながら、羽化がみられるでしょう。叔父はこれからすぐコスタリカを発って、戻るというの。さなぎがひとつでもあればいいんだけど」
「ひとつ、人より力もち……」などと、ぼくは相当混乱していた。
さなぎ様! どこにいらっしゃいますか!
ここでさなぎがなければ、ぼくの人生はおしまいである。おしまい、彼女は怒って帰り、ぼくはまたひとりで釣り。魚のくいつきのいい幼虫くんもいないし!
「あ!」ぼくは叫んだ。
「さなぎ、あります。さなぎあるんです。このまえのリッチ紳士の家に」
「……リッチ紳士?」
「そう、あの、ここから自転車で少しいったところの高級住宅地に、
お金のある人の家に、あるんです」
そうだった。なんてぼくはラッキーなんだ。
だが、自転車! ぼくはあのカルチャーセンターにおいてきてしまった。自転車がないのだ。なんて不幸なんだ。天国と地獄だ。
泣く泣く、そのおおまかな場所と苗字をしどろもどろにいうと、彼女はおなかをかかえて笑いだした、
「そこ、私の家よ! そのリッチ紳士って父のことなのね! なんて不思議! 偶然ってあるのね」
と彼女はいうと、ぼくが口を開く前に車に飛び乗り、あっという間に出て行った。土煙だけもうもうと上がる。
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彼女は何を着ていましたか?
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彼女は腕の部分だけ透ける水色のブラウスを着ていました。
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行ってしまった。まあ、しかたない。これで終わりか。
ぼくはため息をついた。なんてことない。振り出しにもどっちゃった。この家に一人の生活に。気が向けば、海に向かい……魚をとり、それを料理して、食べて、生きる、もう、釣りに幼虫は使えないけど。
そうだ、いままでがわらしべ長者みたいだったけど、最後は違う、どんでん返し、貧乏と孤独になっておしまい、だ。ぼくはどれくらいそこに立ちん坊していたのだろう?
気がつくと日が傾いてきた。すると、ひらひらと緑色の蝶がどこからともなく飛び始めた。蝶だ! これが……あの蝶か?
まるで、一日の終わりを祝福するように飛んでいる。よくみると、羽の裏側は黄金に輝いている。また、見る方向によっては玉虫色にも輝く。
きれいだな、ぼくは思わずみとれてしまう。こんなに美しい蝶がいることを、なんで母は教えてくれなかったのだろう。
この年まで、なんで気がつかなかったのか。
教えると、秘密は漏れる。でも今回は漏れてしまった。
ぼくは急に空腹を覚えた。そうだ、乾杯をしよう。ちょうどマリネがあるし、あの紳士の家のお手伝いさんがくれたワインもあるし、
自棄酒だ! ぼくが家の勝手口に向かうと、車が門に至る坂を登ってくる音がした。まさか?
彼女だった。
「持ってきたわよ、ほら」
と彼女はプラスチックの飼育箱をトランクから出す。例のさなぎ様たちだ。
「それから、これも」とフランスパンも出した。
フランスパンの香ばしい香りがぼくの歓喜に拍車をかける。
「キッチンから、くすねてきたの。これがやっとだったのよ、お手伝いの目は厳しいの」
とパンをバキッと太ももで割った。太ももにも感謝だ。
「叔父はきっと喜ぶわよ」
ぼくたちは、縁側の戸を開け放ち、座布団を敷いて、夜になると今度は蛍を見ながら、ワインとマリネで食事をした。そしてフランスパンもたっぷり食べた。ぼくは庭にあったルッコラを摘んでサラダをこさえた。
「蝶に乾杯!」
いままでの人生のなかで一番の食事だった。
彼女の夢はこういうものだった。人がものをたべるのは、ただエネルギーの元を摂取するということだけではなくて、そこに一緒にいる人や、そのシーンや、それから気持ちとか、想いとか全部かかわりあっていること、自分はそういう記憶と味について研究していること、そして認知症などで、記憶を失っても、また懐かしい味に遭遇すれば、きっと失われたものが、復活するということを研究で明らかにしたいこと。
「きのうの今川焼きね、あれで、とても貴重なことを思いだしたの」
「貴重なこと?」
「そうなの。昔、幼稚園か小学に入学したてのころ、初めて神社の縁日にいったのよね。そこに、今川焼きが売っていた。そのときは、お手伝いのねえやにつれていってもらったのよね、母は病弱で、とてもそんな人ごみはだめだった。で、なにかお土産を買おうと、お祭りらしいなにかを、イカとかわたあめとか、でもねえやは不衛生だから、だめだって、店の前を素通りで。一番はずれの屋台が今川焼きだった。わたしは駄々をこねて、道に大の字に寝て、買わないと動かないと言い張り、やっと許してもらった」
「うん」
「でも、残りが一個だけしかなくて。おじさんが袋にいれてくれたのを大事に持って帰り、母にわたすと、半分にして『はんぶんこね』って、わたしにくれた。思わず胸に飛び込むと、母がにっこりとして」
あの味が、その記憶が、昨日の施設のあのときでよみがえったのだ、という彼女を、涙をうっすら浮かべる彼女をぼくは本当にいとおしいと思った。
そして、彼女の叔父さんがぼくの家にやってきた。飼育箱のさなぎの羽化も撮影できたし、叔父さんは
「これはすごい発見だ」
と、小躍りして興奮しまくっていた。ぼくの家は叔父さんや助手やたくさんの人が出入りするようになり、ぼくは食費をもらって、彼らの食事を作り、雑用、時には手伝いもした。
さらに、叔父さんはここをシーズン中は自然のままの展示場にしたいといいだした。蝶の季節は一時的だし、ぼくは母と相談して、一番よい方法かと、了承した。
屋敷と蝶の維持管理のことが、母のストレスだったのだ。
蝶の季節になると母は施設にロングステイにいき、ぼくは彼女のお父さんであるリッチ紳士のクルーザーに寝泊りをしたりすることもあった。
ぼくはあいかわらず定職につかず、クルーザーで海釣りをたのしんだり、魚料理をしたり、気ままにくらしている。
彼女は研究のために、記憶をよみがえらすヒントになる食べ物をぼくに作らせたりする。彼女は研究が三度の飯より好きらしい。
ぼくはそんなアシストもまあ、そこそこ楽しく、蝶みたに、甘い水を求めて、ふらふらしているってことである。
そうだな、あの幼虫が、ぼくの人生の分かれ道だったんだな。
「ねー与太郎、『しもつかれ』を作ってくれる?」
彼女がちょっとだけ甘えた口調で聞いてくる。
偶然の連続による、ささやかな幸せ、ここにもあった。
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彼女はプラスチックの飼育箱と何を出しましたか?
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彼女はプラスチックの飼育箱とフランスパンを出しました。
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JCRRAG_001186
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国語
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展示施設の中ほどにショーケースのような四方をアクリル板で囲った、スペースがあり、その中に生きている蝶が乱舞していた。
ケースには特殊な加工がしてあり、こちらからは蝶がみられるが、蝶からは外が見えず、まるで森のなかにいるように、ありのままの姿で舞う姿が観察されます、という説明書きがあった。この展示会の一番の目玉なのだろう。
「きれい!」
彼女が小走りで近寄った。
腕の部分だけ透ける水色のブラウスを着た彼女は、軽やかに舞う蝶にも見える。ぼくは思わず見とれてしまった。
ああ、それにしてもさえない自分をさらに感じてしまう。こっちは五百円玉大のはげもあるし、さえないニートだ。彼女はどうしてぼくを誘ったのだろう? ぼんやりしながら、彼女を目で追っていた。
水槽のような五メートル四方ぐらいの、角柱形の外側は、美しい光景を観察している人が十数人いたが、ぼくは、ふと気になるものを見つけ、人のあいだを縫って近寄った。蝶が輪舞するショウギャラリーには本物の木の枝を配置してあるが、そこに幼虫であろう芋虫がいた。
大きさも色も、ぼくの家の庭の芋虫に酷似している。
「え?」
あの芋虫は、これと同じモノなのか? この珍しい品種の蝶が自分の家の庭にいるのだろうか? 彼女が近寄ってきた。
「ねえ、これと同じようなのが、わんさか、ぼくの家にいるんだけど?」
「ま、まさか、これって、すごく希少な蝶みたいよ?」
彼女は説明の書かれたプレートを指差す。
「そうだよね、でも、たくさんいて、この幼虫はよく見るし、この蝶もさ、あたりまえのように、敷地を飛んでいるし」
「そうだったら、なんかそれって凄いことみたいに思うの。これから、行ってみたい、いいかしら?」
「そりゃ、全然かまわないけど」
かまわないけど、金がない、とはいえず、言葉を飲み込んだ。ぼくはここまで自転車で一時間ちょいかけてきたのだ。
電車賃がないなんて、どうして言える? 彼女をあの市電に案内すれば、自分の運賃ぐらいはなんとかなるだろうが。
「話が決まったたら、行きましょう」
彼女はぼくの手を握って、蝶々の展示場から飛び出す。そしてエレベーターを使い、地下の駐車場に導いた。
「あたし、勘だけはいいのよね、どうぞ、乗って。君のお宅までこの車で行きましょう」
「はあ、」
ぼくは指し示された助手席に乗った。彼女の車は赤いワーゲン・ゴルフだった。
「勘って、どういう意味?」
ぼくは車がパーキングから的確にかつ迅速に飛び出したあとたずねた。
「勘、ていうか、今日はなんとなく車のほうが、いいかな……っていう考えが頭にわくと、素直に従うっていうことよ」
「はあ、で、ゴルフですか」
「ああ、これ?」彼女は笑った。
「父が心配性でね。車体が頑丈であればあるほど、事故にあわないと考えているの。お金を出してもらうわけだから、わたしは文句いえないわよね」
彼女はぼくの家の住所を聞いた。そしてそれを音声でナビに伝える。車はさすがに堅実な走りを見せた。
「君の家のことは、お母さまからいろいろ聞いているの。お母さまは婿取りをした、といっていたわ、なんでも江戸時代から、その家の当主はその家にしか生息しない蝶を、守る家系だとか、そういっていたわ」
彼女はぼくにそういった。
「……母はそう見えないけど、認知症だから」
話の信憑性の問題だ。
「そうかもしれないけど、過去の記憶ほど鮮明である、ということを考えると、まんざら妄想とは思えなくてね」
「そうですか」
ぼくは、なんで彼女がぼくを誘ったか、納得した。蝶のことか。そうだったのか、叔父さんとやらのためか。
「むしろ、わたしなんかより叔父が来られればいいな、と思うの。でも今は、南米のほうへいっているはずなのよね」
ほらな。
「ああ、なるほど」
「でも、電話すればふっとんでくるかも」
「え?」
ぼくは思いがけない展開にびびって萎縮していた。これではさらに漫画かドラマみたいではないか? 車のなかで、彼女はぼくの家の敷地内のことについて尋ねる。
「そうなのね、きっと君の家って、四方を谷にかこまれているし、あの幼虫が蝶になって限られたエリアにとどまっているのかもしれないわ」
「……」
土曜日ということで、渋滞があり、市電よりはかなり時間がかかって、ぼくの家についた。彼女は驚いたように、
「やだ、うちからそんなに遠くないところだわ」
と言った。やだ、といいながらも、うれしそうだったので意外だった。周りを背の高い防風林でかこまれたぼくの家は、こう見ると、ひとつの城のようでもあった。
蝶はこの高さを乗り越えられないのかもしれない。
車から降りた彼女はぼくがさししめす木を、目を皿にして見ていた。しかし、幼虫はまったく、これでもかというほど、一匹もいなかった。
さなぎになってしまったのか、成虫になり飛んでいったのか、あんなにうじゃうじゃいたのに、ぼくはまるで自分のいったことが大嘘だと、思われるようで、必死で弁解した。
「変だなあ、あんなにわんさかいたのに」
「……」
彼女は怒ったのだろうか? ひとりで、あちこち見ながら写真をとったり、上を見上げたりしている。
ぼくは自分の人生が突然に終わったと感じた。あのリッチ紳士に幼虫をあげなければよかった。そうだ、あのときに返してもらえば……
やにわに彼女が電話をする。ハローとかいっているので国際電話なのか、やがて「はい、そうします」といっているのが聞こえる、
「ねえ、さなぎないかしら?」
「さなぎですね、お嬢様。」ぼくは、条件反射で、浄水器のセールスの口調になってしまった。
「さなぎさえあれば、飼育箱で保存しながら、羽化がみられるでしょう。叔父はこれからすぐコスタリカを発って、戻るというの。さなぎがひとつでもあればいいんだけど」
「ひとつ、人より力もち……」などと、ぼくは相当混乱していた。
さなぎ様! どこにいらっしゃいますか!
ここでさなぎがなければ、ぼくの人生はおしまいである。おしまい、彼女は怒って帰り、ぼくはまたひとりで釣り。魚のくいつきのいい幼虫くんもいないし!
「あ!」ぼくは叫んだ。
「さなぎ、あります。さなぎあるんです。このまえのリッチ紳士の家に」
「……リッチ紳士?」
「そう、あの、ここから自転車で少しいったところの高級住宅地に、
お金のある人の家に、あるんです」
そうだった。なんてぼくはラッキーなんだ。
だが、自転車! ぼくはあのカルチャーセンターにおいてきてしまった。自転車がないのだ。なんて不幸なんだ。天国と地獄だ。
泣く泣く、そのおおまかな場所と苗字をしどろもどろにいうと、彼女はおなかをかかえて笑いだした、
「そこ、私の家よ! そのリッチ紳士って父のことなのね! なんて不思議! 偶然ってあるのね」
と彼女はいうと、ぼくが口を開く前に車に飛び乗り、あっという間に出て行った。土煙だけもうもうと上がる。
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リッチ紳士は彼女の何にあたりますか?
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リッチ紳士は彼女の父です。
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国語
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展示施設の中ほどにショーケースのような四方をアクリル板で囲った、スペースがあり、その中に生きている蝶が乱舞していた。
ケースには特殊な加工がしてあり、こちらからは蝶がみられるが、蝶からは外が見えず、まるで森のなかにいるように、ありのままの姿で舞う姿が観察されます、という説明書きがあった。この展示会の一番の目玉なのだろう。
「きれい!」
彼女が小走りで近寄った。
腕の部分だけ透ける水色のブラウスを着た彼女は、軽やかに舞う蝶にも見える。ぼくは思わず見とれてしまった。
ああ、それにしてもさえない自分をさらに感じてしまう。こっちは五百円玉大のはげもあるし、さえないニートだ。彼女はどうしてぼくを誘ったのだろう? ぼんやりしながら、彼女を目で追っていた。
水槽のような五メートル四方ぐらいの、角柱形の外側は、美しい光景を観察している人が十数人いたが、ぼくは、ふと気になるものを見つけ、人のあいだを縫って近寄った。蝶が輪舞するショウギャラリーには本物の木の枝を配置してあるが、そこに幼虫であろう芋虫がいた。
大きさも色も、ぼくの家の庭の芋虫に酷似している。
「え?」
あの芋虫は、これと同じモノなのか? この珍しい品種の蝶が自分の家の庭にいるのだろうか? 彼女が近寄ってきた。
「ねえ、これと同じようなのが、わんさか、ぼくの家にいるんだけど?」
「ま、まさか、これって、すごく希少な蝶みたいよ?」
彼女は説明の書かれたプレートを指差す。
「そうだよね、でも、たくさんいて、この幼虫はよく見るし、この蝶もさ、あたりまえのように、敷地を飛んでいるし」
「そうだったら、なんかそれって凄いことみたいに思うの。これから、行ってみたい、いいかしら?」
「そりゃ、全然かまわないけど」
かまわないけど、金がない、とはいえず、言葉を飲み込んだ。ぼくはここまで自転車で一時間ちょいかけてきたのだ。
電車賃がないなんて、どうして言える? 彼女をあの市電に案内すれば、自分の運賃ぐらいはなんとかなるだろうが。
「話が決まったたら、行きましょう」
彼女はぼくの手を握って、蝶々の展示場から飛び出す。そしてエレベーターを使い、地下の駐車場に導いた。
「あたし、勘だけはいいのよね、どうぞ、乗って。君のお宅までこの車で行きましょう」
「はあ、」
ぼくは指し示された助手席に乗った。彼女の車は赤いワーゲン・ゴルフだった。
「勘って、どういう意味?」
ぼくは車がパーキングから的確にかつ迅速に飛び出したあとたずねた。
「勘、ていうか、今日はなんとなく車のほうが、いいかな……っていう考えが頭にわくと、素直に従うっていうことよ」
「はあ、で、ゴルフですか」
「ああ、これ?」彼女は笑った。
「父が心配性でね。車体が頑丈であればあるほど、事故にあわないと考えているの。お金を出してもらうわけだから、わたしは文句いえないわよね」
彼女はぼくの家の住所を聞いた。そしてそれを音声でナビに伝える。車はさすがに堅実な走りを見せた。
「君の家のことは、お母さまからいろいろ聞いているの。お母さまは婿取りをした、といっていたわ、なんでも江戸時代から、その家の当主はその家にしか生息しない蝶を、守る家系だとか、そういっていたわ」
彼女はぼくにそういった。
「……母はそう見えないけど、認知症だから」
話の信憑性の問題だ。
「そうかもしれないけど、過去の記憶ほど鮮明である、ということを考えると、まんざら妄想とは思えなくてね」
「そうですか」
ぼくは、なんで彼女がぼくを誘ったか、納得した。蝶のことか。そうだったのか、叔父さんとやらのためか。
「むしろ、わたしなんかより叔父が来られればいいな、と思うの。でも今は、南米のほうへいっているはずなのよね」
ほらな。
「ああ、なるほど」
「でも、電話すればふっとんでくるかも」
「え?」
ぼくは思いがけない展開にびびって萎縮していた。これではさらに漫画かドラマみたいではないか? 車のなかで、彼女はぼくの家の敷地内のことについて尋ねる。
「そうなのね、きっと君の家って、四方を谷にかこまれているし、あの幼虫が蝶になって限られたエリアにとどまっているのかもしれないわ」
「……」
土曜日ということで、渋滞があり、市電よりはかなり時間がかかって、ぼくの家についた。彼女は驚いたように、
「やだ、うちからそんなに遠くないところだわ」
と言った。やだ、といいながらも、うれしそうだったので意外だった。周りを背の高い防風林でかこまれたぼくの家は、こう見ると、ひとつの城のようでもあった。
蝶はこの高さを乗り越えられないのかもしれない。
車から降りた彼女はぼくがさししめす木を、目を皿にして見ていた。しかし、幼虫はまったく、これでもかというほど、一匹もいなかった。
さなぎになってしまったのか、成虫になり飛んでいったのか、あんなにうじゃうじゃいたのに、ぼくはまるで自分のいったことが大嘘だと、思われるようで、必死で弁解した。
「変だなあ、あんなにわんさかいたのに」
「……」
彼女は怒ったのだろうか? ひとりで、あちこち見ながら写真をとったり、上を見上げたりしている。
ぼくは自分の人生が突然に終わったと感じた。あのリッチ紳士に幼虫をあげなければよかった。そうだ、あのときに返してもらえば……
やにわに彼女が電話をする。ハローとかいっているので国際電話なのか、やがて「はい、そうします」といっているのが聞こえる、
「ねえ、さなぎないかしら?」
「さなぎですね、お嬢様。」ぼくは、条件反射で、浄水器のセールスの口調になってしまった。
「さなぎさえあれば、飼育箱で保存しながら、羽化がみられるでしょう。叔父はこれからすぐコスタリカを発って、戻るというの。さなぎがひとつでもあればいいんだけど」
「ひとつ、人より力もち……」などと、ぼくは相当混乱していた。
さなぎ様! どこにいらっしゃいますか!
ここでさなぎがなければ、ぼくの人生はおしまいである。おしまい、彼女は怒って帰り、ぼくはまたひとりで釣り。魚のくいつきのいい幼虫くんもいないし!
「あ!」ぼくは叫んだ。
「さなぎ、あります。さなぎあるんです。このまえのリッチ紳士の家に」
「……リッチ紳士?」
「そう、あの、ここから自転車で少しいったところの高級住宅地に、
お金のある人の家に、あるんです」
そうだった。なんてぼくはラッキーなんだ。
だが、自転車! ぼくはあのカルチャーセンターにおいてきてしまった。自転車がないのだ。なんて不幸なんだ。天国と地獄だ。
泣く泣く、そのおおまかな場所と苗字をしどろもどろにいうと、彼女はおなかをかかえて笑いだした、
「そこ、私の家よ! そのリッチ紳士って父のことなのね! なんて不思議! 偶然ってあるのね」
と彼女はいうと、ぼくが口を開く前に車に飛び乗り、あっという間に出て行った。土煙だけもうもうと上がる。
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ぼくは自転車をどこにおいてきてしまいましたか?
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ぼくは自転車をカルチャーセンターにおいてきてしまいました。
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国語
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行ってしまった。まあ、しかたない。これで終わりか。
ぼくはため息をついた。なんてことない。振り出しにもどっちゃった。この家に一人の生活に。気が向けば、海に向かい……魚をとり、それを料理して、食べて、生きる、もう、釣りに幼虫は使えないけど。
そうだ、いままでがわらしべ長者みたいだったけど、最後は違う、どんでん返し、貧乏と孤独になっておしまい、だ。ぼくはどれくらいそこに立ちん坊していたのだろう?
気がつくと日が傾いてきた。すると、ひらひらと緑色の蝶がどこからともなく飛び始めた。蝶だ! これが……あの蝶か?
まるで、一日の終わりを祝福するように飛んでいる。よくみると、羽の裏側は黄金に輝いている。また、見る方向によっては玉虫色にも輝く。
きれいだな、ぼくは思わずみとれてしまう。こんなに美しい蝶がいることを、なんで母は教えてくれなかったのだろう。
この年まで、なんで気がつかなかったのか。
教えると、秘密は漏れる。でも今回は漏れてしまった。
ぼくは急に空腹を覚えた。そうだ、乾杯をしよう。ちょうどマリネがあるし、あの紳士の家のお手伝いさんがくれたワインもあるし、
自棄酒だ! ぼくが家の勝手口に向かうと、車が門に至る坂を登ってくる音がした。まさか?
彼女だった。
「持ってきたわよ、ほら」
と彼女はプラスチックの飼育箱をトランクから出す。例のさなぎ様たちだ。
「それから、これも」とフランスパンも出した。
フランスパンの香ばしい香りがぼくの歓喜に拍車をかける。
「キッチンから、くすねてきたの。これがやっとだったのよ、お手伝いの目は厳しいの」
とパンをバキッと太ももで割った。太ももにも感謝だ。
「叔父はきっと喜ぶわよ」
ぼくたちは、縁側の戸を開け放ち、座布団を敷いて、夜になると今度は蛍を見ながら、ワインとマリネで食事をした。そしてフランスパンもたっぷり食べた。ぼくは庭にあったルッコラを摘んでサラダをこさえた。
「蝶に乾杯!」
いままでの人生のなかで一番の食事だった。
彼女の夢はこういうものだった。人がものをたべるのは、ただエネルギーの元を摂取するということだけではなくて、そこに一緒にいる人や、そのシーンや、それから気持ちとか、想いとか全部かかわりあっていること、自分はそういう記憶と味について研究していること、そして認知症などで、記憶を失っても、また懐かしい味に遭遇すれば、きっと失われたものが、復活するということを研究で明らかにしたいこと。
「きのうの今川焼きね、あれで、とても貴重なことを思いだしたの」
「貴重なこと?」
「そうなの。昔、幼稚園か小学に入学したてのころ、初めて神社の縁日にいったのよね。そこに、今川焼きが売っていた。そのときは、お手伝いのねえやにつれていってもらったのよね、母は病弱で、とてもそんな人ごみはだめだった。で、なにかお土産を買おうと、お祭りらしいなにかを、イカとかわたあめとか、でもねえやは不衛生だから、だめだって、店の前を素通りで。一番はずれの屋台が今川焼きだった。わたしは駄々をこねて、道に大の字に寝て、買わないと動かないと言い張り、やっと許してもらった」
「うん」
「でも、残りが一個だけしかなくて。おじさんが袋にいれてくれたのを大事に持って帰り、母にわたすと、半分にして『はんぶんこね』って、わたしにくれた。思わず胸に飛び込むと、母がにっこりとして」
あの味が、その記憶が、昨日の施設のあのときでよみがえったのだ、という彼女を、涙をうっすら浮かべる彼女をぼくは本当にいとおしいと思った。
そして、彼女の叔父さんがぼくの家にやってきた。飼育箱のさなぎの羽化も撮影できたし、叔父さんは
「これはすごい発見だ」
と、小躍りして興奮しまくっていた。ぼくの家は叔父さんや助手やたくさんの人が出入りするようになり、ぼくは食費をもらって、彼らの食事を作り、雑用、時には手伝いもした。
さらに、叔父さんはここをシーズン中は自然のままの展示場にしたいといいだした。蝶の季節は一時的だし、ぼくは母と相談して、一番よい方法かと、了承した。
屋敷と蝶の維持管理のことが、母のストレスだったのだ。
蝶の季節になると母は施設にロングステイにいき、ぼくは彼女のお父さんであるリッチ紳士のクルーザーに寝泊りをしたりすることもあった。
ぼくはあいかわらず定職につかず、クルーザーで海釣りをたのしんだり、魚料理をしたり、気ままにくらしている。
彼女は研究のために、記憶をよみがえらすヒントになる食べ物をぼくに作らせたりする。彼女は研究が三度の飯より好きらしい。
ぼくはそんなアシストもまあ、そこそこ楽しく、蝶みたに、甘い水を求めて、ふらふらしているってことである。
そうだな、あの幼虫が、ぼくの人生の分かれ道だったんだな。
「ねー与太郎、『しもつかれ』を作ってくれる?」
彼女がちょっとだけ甘えた口調で聞いてくる。
偶然の連続による、ささやかな幸せ、ここにもあった。
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ぼくは庭にあった何を摘んでサラダをこさえましたか?
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ぼくは庭にあったルッコラを摘んでサラダをこさえました。
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国語
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行ってしまった。まあ、しかたない。これで終わりか。
ぼくはため息をついた。なんてことない。振り出しにもどっちゃった。この家に一人の生活に。気が向けば、海に向かい……魚をとり、それを料理して、食べて、生きる、もう、釣りに幼虫は使えないけど。
そうだ、いままでがわらしべ長者みたいだったけど、最後は違う、どんでん返し、貧乏と孤独になっておしまい、だ。ぼくはどれくらいそこに立ちん坊していたのだろう?
気がつくと日が傾いてきた。すると、ひらひらと緑色の蝶がどこからともなく飛び始めた。蝶だ! これが……あの蝶か?
まるで、一日の終わりを祝福するように飛んでいる。よくみると、羽の裏側は黄金に輝いている。また、見る方向によっては玉虫色にも輝く。
きれいだな、ぼくは思わずみとれてしまう。こんなに美しい蝶がいることを、なんで母は教えてくれなかったのだろう。
この年まで、なんで気がつかなかったのか。
教えると、秘密は漏れる。でも今回は漏れてしまった。
ぼくは急に空腹を覚えた。そうだ、乾杯をしよう。ちょうどマリネがあるし、あの紳士の家のお手伝いさんがくれたワインもあるし、
自棄酒だ! ぼくが家の勝手口に向かうと、車が門に至る坂を登ってくる音がした。まさか?
彼女だった。
「持ってきたわよ、ほら」
と彼女はプラスチックの飼育箱をトランクから出す。例のさなぎ様たちだ。
「それから、これも」とフランスパンも出した。
フランスパンの香ばしい香りがぼくの歓喜に拍車をかける。
「キッチンから、くすねてきたの。これがやっとだったのよ、お手伝いの目は厳しいの」
とパンをバキッと太ももで割った。太ももにも感謝だ。
「叔父はきっと喜ぶわよ」
ぼくたちは、縁側の戸を開け放ち、座布団を敷いて、夜になると今度は蛍を見ながら、ワインとマリネで食事をした。そしてフランスパンもたっぷり食べた。ぼくは庭にあったルッコラを摘んでサラダをこさえた。
「蝶に乾杯!」
いままでの人生のなかで一番の食事だった。
彼女の夢はこういうものだった。人がものをたべるのは、ただエネルギーの元を摂取するということだけではなくて、そこに一緒にいる人や、そのシーンや、それから気持ちとか、想いとか全部かかわりあっていること、自分はそういう記憶と味について研究していること、そして認知症などで、記憶を失っても、また懐かしい味に遭遇すれば、きっと失われたものが、復活するということを研究で明らかにしたいこと。
「きのうの今川焼きね、あれで、とても貴重なことを思いだしたの」
「貴重なこと?」
「そうなの。昔、幼稚園か小学に入学したてのころ、初めて神社の縁日にいったのよね。そこに、今川焼きが売っていた。そのときは、お手伝いのねえやにつれていってもらったのよね、母は病弱で、とてもそんな人ごみはだめだった。で、なにかお土産を買おうと、お祭りらしいなにかを、イカとかわたあめとか、でもねえやは不衛生だから、だめだって、店の前を素通りで。一番はずれの屋台が今川焼きだった。わたしは駄々をこねて、道に大の字に寝て、買わないと動かないと言い張り、やっと許してもらった」
「うん」
「でも、残りが一個だけしかなくて。おじさんが袋にいれてくれたのを大事に持って帰り、母にわたすと、半分にして『はんぶんこね』って、わたしにくれた。思わず胸に飛び込むと、母がにっこりとして」
あの味が、その記憶が、昨日の施設のあのときでよみがえったのだ、という彼女を、涙をうっすら浮かべる彼女をぼくは本当にいとおしいと思った。
そして、彼女の叔父さんがぼくの家にやってきた。飼育箱のさなぎの羽化も撮影できたし、叔父さんは
「これはすごい発見だ」
と、小躍りして興奮しまくっていた。ぼくの家は叔父さんや助手やたくさんの人が出入りするようになり、ぼくは食費をもらって、彼らの食事を作り、雑用、時には手伝いもした。
さらに、叔父さんはここをシーズン中は自然のままの展示場にしたいといいだした。蝶の季節は一時的だし、ぼくは母と相談して、一番よい方法かと、了承した。
屋敷と蝶の維持管理のことが、母のストレスだったのだ。
蝶の季節になると母は施設にロングステイにいき、ぼくは彼女のお父さんであるリッチ紳士のクルーザーに寝泊りをしたりすることもあった。
ぼくはあいかわらず定職につかず、クルーザーで海釣りをたのしんだり、魚料理をしたり、気ままにくらしている。
彼女は研究のために、記憶をよみがえらすヒントになる食べ物をぼくに作らせたりする。彼女は研究が三度の飯より好きらしい。
ぼくはそんなアシストもまあ、そこそこ楽しく、蝶みたに、甘い水を求めて、ふらふらしているってことである。
そうだな、あの幼虫が、ぼくの人生の分かれ道だったんだな。
「ねー与太郎、『しもつかれ』を作ってくれる?」
彼女がちょっとだけ甘えた口調で聞いてくる。
偶然の連続による、ささやかな幸せ、ここにもあった。
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彼女の叔父さんはぼくの家をどうしたいといいだしましたか?
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彼女の叔父さんはぼくの家をシーズン中は自然のままの展示場にしたいといいだしました。
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JCRRAG_001190
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国語
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ぼくを引き取ってくれたのは、ちょっと稼ぎの良い独身の男だった。年齢はまだ三十代初めだという彼がどうやって孤児院からぼくを引き取ったのか、ぼくはよく知らない。ただ髪も短く小奇麗な様子だったのもあって、里親として認められたのかもしれない。
ぼくに初めて会いに来た日、彼はさらりとした茶色い前髪を横に流しダークスーツを着て、いかにも会社員といった格好で、ぼくに自己紹介した。
「私はクリス。よろしく」
そのとき握手を交わした彼の掌が、冷たいのにちょっと汗ばんでいたのが印象的だ。
その日の彼はあまり話そうとせず、ぼくの言葉に相槌を打ったり、ときどき投げかけた質問にも短く返すだけだった。ぼくが初対面の男から受けた印象は、無口、無表情、でも無関心な感じは不思議としない、そしてやっぱり小奇麗。という感じだった。
いくらか慣れてもその印象は変わらず、ただ、いつも持ってくる高そうなお菓子から、身入りの良い人なんだろうと言うふうに、想像した。同時に“彼女”にはいくらお金を使っているんだろうかと不思議に思った。孤児院の女の子たちの間で、あしながおじさんの近代版みたいな本が流行っていたのだ。彼女がいるなら、きっとこんな孤児院に高級菓子を持ってきている場合ではないだろう。まさか、本物のあしながおじさんと言うわけもあるまい。ある日ぼくは彼に、孤児院に来る理由について聞いてみた。彼の答えはこうだった。
「子どもを育てるのが夢だったんだ。でも女は苦手でな」
前半だけ聞けばごくごくまっとうな理由だった。ぼくは色々想像していた分、度肝を抜かれ、「そりゃそうだ」と返事してしまった。
しかし後になって、言葉を吟味してみると、もしかしたらゲイなのかもしれないという疑惑をもったが、養父クリスと住んで五年、いまのところ彼氏を紹介された事はない。
ぼくがクリスに引き取られたのは十一歳のとき。子どもを育てるのが夢だというわりに、クリスは学校なんかの手続きが終わった途端に仕事を追い始め、平日は朝と夜しか家に居なかった。会話は「おはよう」と「おやすみ」くらい。
ぼくとしては、既に分別をわきまえた年齢だったし、半分くらいは家事手伝いとしてこの家に置かれたのだろうと思った。なので彼に面倒を掛けぬよう、言われる前から自分で買い物に行き、毎日彼の分まで食事を作っていた。最初のうちは、クリスもたぶん遠慮して、ぼくの買ってきたものを黙って食べていたが、一週間もすると、お茶だけは自分で買ってくるようになった。
そんな風に距離を測りながら一ヶ月ほどたったころだろうか。クリスがめずらしく仕事を早く切り上げ、アップルパイとバニラアイスを買ってきた。
まだ夕飯を作り始める前だったが、クリスが、「パイが冷める」と急かすので、ぼくは家の主人に従い、夕飯を後回しにして皿とフォークを並べた。
クリスが適当な皿にパイをのせて、「アイスいるか?」と聞く。ぼくはパイの横を指差すが、クリスはなんとパイの上にアイスを乗っけてしまった。これではせっかくのパイがぐじゅぐじゅになってしまう。そういう文句をぼくは呑み込んだが顔は隠せなかった。
「早く食ってみろ。絶対にうまい。うまいから!」
そう強く言ってクリスがアイスを乗せたパイを頬張ってみせる。ぼくも嫌々ながら養父に習い、息を止めてパイを口に運んだ。
口の中で生地がサクサクと鳴って、バニラアイスは熱いリンゴジャムと混ざりすっと溶ける。想像した食感と全然違ったために感想が出てこず、ぼくはもう一口パイを食べた。食えると思った。一口食べるごとになんだか癖になる。
パイが冷める前に、アイスが溶ける前にと、ぼくたちはそれを夢中でほおばり、食べ終わった後はなんとなく目があってにやりと笑顔を交わした。
「どうだお前、うまかったろ?」
クリスが口周りをナプキンで拭いてから、どうだといった顔をした。
「ああ!あんたは正しかった!」
それはぼくたちが初めてお互い笑顔で交わした会話だった。
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ぼくを引き取った男の年齢はいくつですか?
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ぼくを引き取った男の年齢は三十代初めです。
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JCRRAG_001191
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国語
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行ってしまった。まあ、しかたない。これで終わりか。
ぼくはため息をついた。なんてことない。振り出しにもどっちゃった。この家に一人の生活に。気が向けば、海に向かい……魚をとり、それを料理して、食べて、生きる、もう、釣りに幼虫は使えないけど。
そうだ、いままでがわらしべ長者みたいだったけど、最後は違う、どんでん返し、貧乏と孤独になっておしまい、だ。ぼくはどれくらいそこに立ちん坊していたのだろう?
気がつくと日が傾いてきた。すると、ひらひらと緑色の蝶がどこからともなく飛び始めた。蝶だ! これが……あの蝶か?
まるで、一日の終わりを祝福するように飛んでいる。よくみると、羽の裏側は黄金に輝いている。また、見る方向によっては玉虫色にも輝く。
きれいだな、ぼくは思わずみとれてしまう。こんなに美しい蝶がいることを、なんで母は教えてくれなかったのだろう。
この年まで、なんで気がつかなかったのか。
教えると、秘密は漏れる。でも今回は漏れてしまった。
ぼくは急に空腹を覚えた。そうだ、乾杯をしよう。ちょうどマリネがあるし、あの紳士の家のお手伝いさんがくれたワインもあるし、
自棄酒だ! ぼくが家の勝手口に向かうと、車が門に至る坂を登ってくる音がした。まさか?
彼女だった。
「持ってきたわよ、ほら」
と彼女はプラスチックの飼育箱をトランクから出す。例のさなぎ様たちだ。
「それから、これも」とフランスパンも出した。
フランスパンの香ばしい香りがぼくの歓喜に拍車をかける。
「キッチンから、くすねてきたの。これがやっとだったのよ、お手伝いの目は厳しいの」
とパンをバキッと太ももで割った。太ももにも感謝だ。
「叔父はきっと喜ぶわよ」
ぼくたちは、縁側の戸を開け放ち、座布団を敷いて、夜になると今度は蛍を見ながら、ワインとマリネで食事をした。そしてフランスパンもたっぷり食べた。ぼくは庭にあったルッコラを摘んでサラダをこさえた。
「蝶に乾杯!」
いままでの人生のなかで一番の食事だった。
彼女の夢はこういうものだった。人がものをたべるのは、ただエネルギーの元を摂取するということだけではなくて、そこに一緒にいる人や、そのシーンや、それから気持ちとか、想いとか全部かかわりあっていること、自分はそういう記憶と味について研究していること、そして認知症などで、記憶を失っても、また懐かしい味に遭遇すれば、きっと失われたものが、復活するということを研究で明らかにしたいこと。
「きのうの今川焼きね、あれで、とても貴重なことを思いだしたの」
「貴重なこと?」
「そうなの。昔、幼稚園か小学に入学したてのころ、初めて神社の縁日にいったのよね。そこに、今川焼きが売っていた。そのときは、お手伝いのねえやにつれていってもらったのよね、母は病弱で、とてもそんな人ごみはだめだった。で、なにかお土産を買おうと、お祭りらしいなにかを、イカとかわたあめとか、でもねえやは不衛生だから、だめだって、店の前を素通りで。一番はずれの屋台が今川焼きだった。わたしは駄々をこねて、道に大の字に寝て、買わないと動かないと言い張り、やっと許してもらった」
「うん」
「でも、残りが一個だけしかなくて。おじさんが袋にいれてくれたのを大事に持って帰り、母にわたすと、半分にして『はんぶんこね』って、わたしにくれた。思わず胸に飛び込むと、母がにっこりとして」
あの味が、その記憶が、昨日の施設のあのときでよみがえったのだ、という彼女を、涙をうっすら浮かべる彼女をぼくは本当にいとおしいと思った。
そして、彼女の叔父さんがぼくの家にやってきた。飼育箱のさなぎの羽化も撮影できたし、叔父さんは
「これはすごい発見だ」
と、小躍りして興奮しまくっていた。ぼくの家は叔父さんや助手やたくさんの人が出入りするようになり、ぼくは食費をもらって、彼らの食事を作り、雑用、時には手伝いもした。
さらに、叔父さんはここをシーズン中は自然のままの展示場にしたいといいだした。蝶の季節は一時的だし、ぼくは母と相談して、一番よい方法かと、了承した。
屋敷と蝶の維持管理のことが、母のストレスだったのだ。
蝶の季節になると母は施設にロングステイにいき、ぼくは彼女のお父さんであるリッチ紳士のクルーザーに寝泊りをしたりすることもあった。
ぼくはあいかわらず定職につかず、クルーザーで海釣りをたのしんだり、魚料理をしたり、気ままにくらしている。
彼女は研究のために、記憶をよみがえらすヒントになる食べ物をぼくに作らせたりする。彼女は研究が三度の飯より好きらしい。
ぼくはそんなアシストもまあ、そこそこ楽しく、蝶みたに、甘い水を求めて、ふらふらしているってことである。
そうだな、あの幼虫が、ぼくの人生の分かれ道だったんだな。
「ねー与太郎、『しもつかれ』を作ってくれる?」
彼女がちょっとだけ甘えた口調で聞いてくる。
偶然の連続による、ささやかな幸せ、ここにもあった。
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ぼくはリッチ紳士の何に寝泊まりすることもありましたか?
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ぼくはリッチ紳士のクルーザーに寝泊まりすることもありました。
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JCRRAG_001192
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国語
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ぼくを引き取ってくれたのは、ちょっと稼ぎの良い独身の男だった。年齢はまだ三十代初めだという彼がどうやって孤児院からぼくを引き取ったのか、ぼくはよく知らない。ただ髪も短く小奇麗な様子だったのもあって、里親として認められたのかもしれない。
ぼくに初めて会いに来た日、彼はさらりとした茶色い前髪を横に流しダークスーツを着て、いかにも会社員といった格好で、ぼくに自己紹介した。
「私はクリス。よろしく」
そのとき握手を交わした彼の掌が、冷たいのにちょっと汗ばんでいたのが印象的だ。
その日の彼はあまり話そうとせず、ぼくの言葉に相槌を打ったり、ときどき投げかけた質問にも短く返すだけだった。ぼくが初対面の男から受けた印象は、無口、無表情、でも無関心な感じは不思議としない、そしてやっぱり小奇麗。という感じだった。
いくらか慣れてもその印象は変わらず、ただ、いつも持ってくる高そうなお菓子から、身入りの良い人なんだろうと言うふうに、想像した。同時に“彼女”にはいくらお金を使っているんだろうかと不思議に思った。孤児院の女の子たちの間で、あしながおじさんの近代版みたいな本が流行っていたのだ。彼女がいるなら、きっとこんな孤児院に高級菓子を持ってきている場合ではないだろう。まさか、本物のあしながおじさんと言うわけもあるまい。ある日ぼくは彼に、孤児院に来る理由について聞いてみた。彼の答えはこうだった。
「子どもを育てるのが夢だったんだ。でも女は苦手でな」
前半だけ聞けばごくごくまっとうな理由だった。ぼくは色々想像していた分、度肝を抜かれ、「そりゃそうだ」と返事してしまった。
しかし後になって、言葉を吟味してみると、もしかしたらゲイなのかもしれないという疑惑をもったが、養父クリスと住んで五年、いまのところ彼氏を紹介された事はない。
ぼくがクリスに引き取られたのは十一歳のとき。子どもを育てるのが夢だというわりに、クリスは学校なんかの手続きが終わった途端に仕事を追い始め、平日は朝と夜しか家に居なかった。会話は「おはよう」と「おやすみ」くらい。
ぼくとしては、既に分別をわきまえた年齢だったし、半分くらいは家事手伝いとしてこの家に置かれたのだろうと思った。なので彼に面倒を掛けぬよう、言われる前から自分で買い物に行き、毎日彼の分まで食事を作っていた。最初のうちは、クリスもたぶん遠慮して、ぼくの買ってきたものを黙って食べていたが、一週間もすると、お茶だけは自分で買ってくるようになった。
そんな風に距離を測りながら一ヶ月ほどたったころだろうか。クリスがめずらしく仕事を早く切り上げ、アップルパイとバニラアイスを買ってきた。
まだ夕飯を作り始める前だったが、クリスが、「パイが冷める」と急かすので、ぼくは家の主人に従い、夕飯を後回しにして皿とフォークを並べた。
クリスが適当な皿にパイをのせて、「アイスいるか?」と聞く。ぼくはパイの横を指差すが、クリスはなんとパイの上にアイスを乗っけてしまった。これではせっかくのパイがぐじゅぐじゅになってしまう。そういう文句をぼくは呑み込んだが顔は隠せなかった。
「早く食ってみろ。絶対にうまい。うまいから!」
そう強く言ってクリスがアイスを乗せたパイを頬張ってみせる。ぼくも嫌々ながら養父に習い、息を止めてパイを口に運んだ。
口の中で生地がサクサクと鳴って、バニラアイスは熱いリンゴジャムと混ざりすっと溶ける。想像した食感と全然違ったために感想が出てこず、ぼくはもう一口パイを食べた。食えると思った。一口食べるごとになんだか癖になる。
パイが冷める前に、アイスが溶ける前にと、ぼくたちはそれを夢中でほおばり、食べ終わった後はなんとなく目があってにやりと笑顔を交わした。
「どうだお前、うまかったろ?」
クリスが口周りをナプキンで拭いてから、どうだといった顔をした。
「ああ!あんたは正しかった!」
それはぼくたちが初めてお互い笑顔で交わした会話だった。
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孤児院の女の子たちの間では何が流行っていましたか?
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孤児院の女の子たちの間ではあしながおじさんの近代版みたいな本が流行っていました。
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JCRRAG_001193
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国語
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ぼくを引き取ってくれたのは、ちょっと稼ぎの良い独身の男だった。年齢はまだ三十代初めだという彼がどうやって孤児院からぼくを引き取ったのか、ぼくはよく知らない。ただ髪も短く小奇麗な様子だったのもあって、里親として認められたのかもしれない。
ぼくに初めて会いに来た日、彼はさらりとした茶色い前髪を横に流しダークスーツを着て、いかにも会社員といった格好で、ぼくに自己紹介した。
「私はクリス。よろしく」
そのとき握手を交わした彼の掌が、冷たいのにちょっと汗ばんでいたのが印象的だ。
その日の彼はあまり話そうとせず、ぼくの言葉に相槌を打ったり、ときどき投げかけた質問にも短く返すだけだった。ぼくが初対面の男から受けた印象は、無口、無表情、でも無関心な感じは不思議としない、そしてやっぱり小奇麗。という感じだった。
いくらか慣れてもその印象は変わらず、ただ、いつも持ってくる高そうなお菓子から、身入りの良い人なんだろうと言うふうに、想像した。同時に“彼女”にはいくらお金を使っているんだろうかと不思議に思った。孤児院の女の子たちの間で、あしながおじさんの近代版みたいな本が流行っていたのだ。彼女がいるなら、きっとこんな孤児院に高級菓子を持ってきている場合ではないだろう。まさか、本物のあしながおじさんと言うわけもあるまい。ある日ぼくは彼に、孤児院に来る理由について聞いてみた。彼の答えはこうだった。
「子どもを育てるのが夢だったんだ。でも女は苦手でな」
前半だけ聞けばごくごくまっとうな理由だった。ぼくは色々想像していた分、度肝を抜かれ、「そりゃそうだ」と返事してしまった。
しかし後になって、言葉を吟味してみると、もしかしたらゲイなのかもしれないという疑惑をもったが、養父クリスと住んで五年、いまのところ彼氏を紹介された事はない。
ぼくがクリスに引き取られたのは十一歳のとき。子どもを育てるのが夢だというわりに、クリスは学校なんかの手続きが終わった途端に仕事を追い始め、平日は朝と夜しか家に居なかった。会話は「おはよう」と「おやすみ」くらい。
ぼくとしては、既に分別をわきまえた年齢だったし、半分くらいは家事手伝いとしてこの家に置かれたのだろうと思った。なので彼に面倒を掛けぬよう、言われる前から自分で買い物に行き、毎日彼の分まで食事を作っていた。最初のうちは、クリスもたぶん遠慮して、ぼくの買ってきたものを黙って食べていたが、一週間もすると、お茶だけは自分で買ってくるようになった。
そんな風に距離を測りながら一ヶ月ほどたったころだろうか。クリスがめずらしく仕事を早く切り上げ、アップルパイとバニラアイスを買ってきた。
まだ夕飯を作り始める前だったが、クリスが、「パイが冷める」と急かすので、ぼくは家の主人に従い、夕飯を後回しにして皿とフォークを並べた。
クリスが適当な皿にパイをのせて、「アイスいるか?」と聞く。ぼくはパイの横を指差すが、クリスはなんとパイの上にアイスを乗っけてしまった。これではせっかくのパイがぐじゅぐじゅになってしまう。そういう文句をぼくは呑み込んだが顔は隠せなかった。
「早く食ってみろ。絶対にうまい。うまいから!」
そう強く言ってクリスがアイスを乗せたパイを頬張ってみせる。ぼくも嫌々ながら養父に習い、息を止めてパイを口に運んだ。
口の中で生地がサクサクと鳴って、バニラアイスは熱いリンゴジャムと混ざりすっと溶ける。想像した食感と全然違ったために感想が出てこず、ぼくはもう一口パイを食べた。食えると思った。一口食べるごとになんだか癖になる。
パイが冷める前に、アイスが溶ける前にと、ぼくたちはそれを夢中でほおばり、食べ終わった後はなんとなく目があってにやりと笑顔を交わした。
「どうだお前、うまかったろ?」
クリスが口周りをナプキンで拭いてから、どうだといった顔をした。
「ああ!あんたは正しかった!」
それはぼくたちが初めてお互い笑顔で交わした会話だった。
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ぼくがクリスに引き取られたのは何歳のときですか?
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ぼくがクリスに引き取られたのは十一歳のときです。
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JCRRAG_001194
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国語
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キーボードをタップしていたグワスケの指が止まる。パソコンの画面には、長く打ち込まれた文章の羅列がズラリと並んでいた。左手をマウスから離し、まだ湯気が立つコーヒーをすすった。
一息つくと、我が子の様に自分の書いた文章を一通り見て席を立った。ギシギシ言う木製の床を軋ませながら水垢のはびこったキッチンでコップを水に浸す。
昨日も見直ししたし、さっきも軽くだが見直したし誤字脱字はもうないだろう。長く座っていたせいで痛む腰を軽く叩き、印刷を始めた。
グワスケは普通学校を卒業し、小説家を志す一人の青年である。フリーターとして生計を立てていて、毎日がギリギリの生活を続けている。
彼は生活ため、生活費が余るほどあるときも貯金し、娯楽を削りに削っていた。親からの反対を押し切ったし、友人の誘いにだって一度も行ってない。
その苦労の末に、彼はついに一冊の本を完成させた。
その本はグワスケにとっての希望である。今までの生活を全て賭けて製作した、チップである。
彼の手持ちのチップはもうない。ここで負ければ後がない。ここで成功を収めねば、これまで削りに削った生活も破綻する。多くの投稿者から生き残り、1位を取ることで得られる賞金でようやく今月の家賃も支払える。
ようやく支度を終えたグワスケは、自分の352ページに渡る小説を片手に玄関を出た。道行く人々をかいくぐって出版社へ向かう。自信が無いわけではないが、裁判に出廷する被告人の様な気分になる。
「大丈夫グワ。何も心配なんて無いグワよ…」
そう何度も口ずさみ、小説を出した後にあるバイトのことを頭の中に描き、失敗のないように考えを練りに練っていた。
やがてスクランブル交差点を抜け、周りにすっかりと溶け込んでいて分かりにくい「傑作!今月の小説集」を出版している「ヨコナベ会社」到着した。間違いのない様に地図を何度も何度も確認し、中へ入って行った。
グワスケは受付前に立ち、受付に居る女性に何とか話そうとしたが足が短いため、話すことはおろか姿を見せることもできなかった。どうにか話しかける方法を考えている内に、受付の女性と話す人が3人も用事を済ませ、帰って行った。
「グワワワーッ!受付のヒトー!ここにいるグワー!」
原稿を下に置き、飛べない翼で何度も跳んで受付嬢に気付いてもらおうとする。それでも気付かない。
「おい、そこの君。家鴨の受付はその隣だグワ」
蒼い羽毛の家鴨がメガネの位置を直しながらグワスケに話し掛けてきた。何とも几帳面そうな顔をしていて、でも瞼は眠たそうに半分が閉じている。
「そうだったグワそうだったグワ。ちょっとパニクってしまったグワ」
床に置いた原稿を拾いなおし、ホコリを叩いた。その蒼い家鴨に一礼して家鴨の受付へと向かおうとする。
「君は小説の投稿者グワ?」
グワスケはそうですが…と答える。見た感じ受付の家鴨には見えないし、一体何なんだろう。
「まあ俺もここの会社の家鴨だグワ。受付には渡しておくグワよ。」
グワスケは頭を下げて原稿を蒼い家鴨に手渡しした。手渡ししたときにスーツから漂う香水の匂いが鼻についた。香水に詳しいわけではないが、あからさま過ぎる程に上品な香りはこの蒼い家鴨の身分が高い事を物語っていた。
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グワスケは何をマウスから離しましたか?
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グワスケは左手をマウスから離しました。
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JCRRAG_001195
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国語
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ぼくを引き取ってくれたのは、ちょっと稼ぎの良い独身の男だった。年齢はまだ三十代初めだという彼がどうやって孤児院からぼくを引き取ったのか、ぼくはよく知らない。ただ髪も短く小奇麗な様子だったのもあって、里親として認められたのかもしれない。
ぼくに初めて会いに来た日、彼はさらりとした茶色い前髪を横に流しダークスーツを着て、いかにも会社員といった格好で、ぼくに自己紹介した。
「私はクリス。よろしく」
そのとき握手を交わした彼の掌が、冷たいのにちょっと汗ばんでいたのが印象的だ。
その日の彼はあまり話そうとせず、ぼくの言葉に相槌を打ったり、ときどき投げかけた質問にも短く返すだけだった。ぼくが初対面の男から受けた印象は、無口、無表情、でも無関心な感じは不思議としない、そしてやっぱり小奇麗。という感じだった。
いくらか慣れてもその印象は変わらず、ただ、いつも持ってくる高そうなお菓子から、身入りの良い人なんだろうと言うふうに、想像した。同時に“彼女”にはいくらお金を使っているんだろうかと不思議に思った。孤児院の女の子たちの間で、あしながおじさんの近代版みたいな本が流行っていたのだ。彼女がいるなら、きっとこんな孤児院に高級菓子を持ってきている場合ではないだろう。まさか、本物のあしながおじさんと言うわけもあるまい。ある日ぼくは彼に、孤児院に来る理由について聞いてみた。彼の答えはこうだった。
「子どもを育てるのが夢だったんだ。でも女は苦手でな」
前半だけ聞けばごくごくまっとうな理由だった。ぼくは色々想像していた分、度肝を抜かれ、「そりゃそうだ」と返事してしまった。
しかし後になって、言葉を吟味してみると、もしかしたらゲイなのかもしれないという疑惑をもったが、養父クリスと住んで五年、いまのところ彼氏を紹介された事はない。
ぼくがクリスに引き取られたのは十一歳のとき。子どもを育てるのが夢だというわりに、クリスは学校なんかの手続きが終わった途端に仕事を追い始め、平日は朝と夜しか家に居なかった。会話は「おはよう」と「おやすみ」くらい。
ぼくとしては、既に分別をわきまえた年齢だったし、半分くらいは家事手伝いとしてこの家に置かれたのだろうと思った。なので彼に面倒を掛けぬよう、言われる前から自分で買い物に行き、毎日彼の分まで食事を作っていた。最初のうちは、クリスもたぶん遠慮して、ぼくの買ってきたものを黙って食べていたが、一週間もすると、お茶だけは自分で買ってくるようになった。
そんな風に距離を測りながら一ヶ月ほどたったころだろうか。クリスがめずらしく仕事を早く切り上げ、アップルパイとバニラアイスを買ってきた。
まだ夕飯を作り始める前だったが、クリスが、「パイが冷める」と急かすので、ぼくは家の主人に従い、夕飯を後回しにして皿とフォークを並べた。
クリスが適当な皿にパイをのせて、「アイスいるか?」と聞く。ぼくはパイの横を指差すが、クリスはなんとパイの上にアイスを乗っけてしまった。これではせっかくのパイがぐじゅぐじゅになってしまう。そういう文句をぼくは呑み込んだが顔は隠せなかった。
「早く食ってみろ。絶対にうまい。うまいから!」
そう強く言ってクリスがアイスを乗せたパイを頬張ってみせる。ぼくも嫌々ながら養父に習い、息を止めてパイを口に運んだ。
口の中で生地がサクサクと鳴って、バニラアイスは熱いリンゴジャムと混ざりすっと溶ける。想像した食感と全然違ったために感想が出てこず、ぼくはもう一口パイを食べた。食えると思った。一口食べるごとになんだか癖になる。
パイが冷める前に、アイスが溶ける前にと、ぼくたちはそれを夢中でほおばり、食べ終わった後はなんとなく目があってにやりと笑顔を交わした。
「どうだお前、うまかったろ?」
クリスが口周りをナプキンで拭いてから、どうだといった顔をした。
「ああ!あんたは正しかった!」
それはぼくたちが初めてお互い笑顔で交わした会話だった。
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クリスはパイの上に何を乗っけましたか?
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クリスはパイの上にアイスを乗っけました。
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JCRRAG_001196
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国語
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キーボードをタップしていたグワスケの指が止まる。パソコンの画面には、長く打ち込まれた文章の羅列がズラリと並んでいた。左手をマウスから離し、まだ湯気が立つコーヒーをすすった。
一息つくと、我が子の様に自分の書いた文章を一通り見て席を立った。ギシギシ言う木製の床を軋ませながら水垢のはびこったキッチンでコップを水に浸す。
昨日も見直ししたし、さっきも軽くだが見直したし誤字脱字はもうないだろう。長く座っていたせいで痛む腰を軽く叩き、印刷を始めた。
グワスケは普通学校を卒業し、小説家を志す一人の青年である。フリーターとして生計を立てていて、毎日がギリギリの生活を続けている。
彼は生活ため、生活費が余るほどあるときも貯金し、娯楽を削りに削っていた。親からの反対を押し切ったし、友人の誘いにだって一度も行ってない。
その苦労の末に、彼はついに一冊の本を完成させた。
その本はグワスケにとっての希望である。今までの生活を全て賭けて製作した、チップである。
彼の手持ちのチップはもうない。ここで負ければ後がない。ここで成功を収めねば、これまで削りに削った生活も破綻する。多くの投稿者から生き残り、1位を取ることで得られる賞金でようやく今月の家賃も支払える。
ようやく支度を終えたグワスケは、自分の352ページに渡る小説を片手に玄関を出た。道行く人々をかいくぐって出版社へ向かう。自信が無いわけではないが、裁判に出廷する被告人の様な気分になる。
「大丈夫グワ。何も心配なんて無いグワよ…」
そう何度も口ずさみ、小説を出した後にあるバイトのことを頭の中に描き、失敗のないように考えを練りに練っていた。
やがてスクランブル交差点を抜け、周りにすっかりと溶け込んでいて分かりにくい「傑作!今月の小説集」を出版している「ヨコナベ会社」到着した。間違いのない様に地図を何度も何度も確認し、中へ入って行った。
グワスケは受付前に立ち、受付に居る女性に何とか話そうとしたが足が短いため、話すことはおろか姿を見せることもできなかった。どうにか話しかける方法を考えている内に、受付の女性と話す人が3人も用事を済ませ、帰って行った。
「グワワワーッ!受付のヒトー!ここにいるグワー!」
原稿を下に置き、飛べない翼で何度も跳んで受付嬢に気付いてもらおうとする。それでも気付かない。
「おい、そこの君。家鴨の受付はその隣だグワ」
蒼い羽毛の家鴨がメガネの位置を直しながらグワスケに話し掛けてきた。何とも几帳面そうな顔をしていて、でも瞼は眠たそうに半分が閉じている。
「そうだったグワそうだったグワ。ちょっとパニクってしまったグワ」
床に置いた原稿を拾いなおし、ホコリを叩いた。その蒼い家鴨に一礼して家鴨の受付へと向かおうとする。
「君は小説の投稿者グワ?」
グワスケはそうですが…と答える。見た感じ受付の家鴨には見えないし、一体何なんだろう。
「まあ俺もここの会社の家鴨だグワ。受付には渡しておくグワよ。」
グワスケは頭を下げて原稿を蒼い家鴨に手渡しした。手渡ししたときにスーツから漂う香水の匂いが鼻についた。香水に詳しいわけではないが、あからさま過ぎる程に上品な香りはこの蒼い家鴨の身分が高い事を物語っていた。
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「傑作!今月の小説集」を出版しているのは何という会社ですか?
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「傑作!今月の小説集」を出版しているのは「ヨコナベ会社」という会社です。
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国語
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キーボードをタップしていたグワスケの指が止まる。パソコンの画面には、長く打ち込まれた文章の羅列がズラリと並んでいた。左手をマウスから離し、まだ湯気が立つコーヒーをすすった。
一息つくと、我が子の様に自分の書いた文章を一通り見て席を立った。ギシギシ言う木製の床を軋ませながら水垢のはびこったキッチンでコップを水に浸す。
昨日も見直ししたし、さっきも軽くだが見直したし誤字脱字はもうないだろう。長く座っていたせいで痛む腰を軽く叩き、印刷を始めた。
グワスケは普通学校を卒業し、小説家を志す一人の青年である。フリーターとして生計を立てていて、毎日がギリギリの生活を続けている。
彼は生活ため、生活費が余るほどあるときも貯金し、娯楽を削りに削っていた。親からの反対を押し切ったし、友人の誘いにだって一度も行ってない。
その苦労の末に、彼はついに一冊の本を完成させた。
その本はグワスケにとっての希望である。今までの生活を全て賭けて製作した、チップである。
彼の手持ちのチップはもうない。ここで負ければ後がない。ここで成功を収めねば、これまで削りに削った生活も破綻する。多くの投稿者から生き残り、1位を取ることで得られる賞金でようやく今月の家賃も支払える。
ようやく支度を終えたグワスケは、自分の352ページに渡る小説を片手に玄関を出た。道行く人々をかいくぐって出版社へ向かう。自信が無いわけではないが、裁判に出廷する被告人の様な気分になる。
「大丈夫グワ。何も心配なんて無いグワよ…」
そう何度も口ずさみ、小説を出した後にあるバイトのことを頭の中に描き、失敗のないように考えを練りに練っていた。
やがてスクランブル交差点を抜け、周りにすっかりと溶け込んでいて分かりにくい「傑作!今月の小説集」を出版している「ヨコナベ会社」到着した。間違いのない様に地図を何度も何度も確認し、中へ入って行った。
グワスケは受付前に立ち、受付に居る女性に何とか話そうとしたが足が短いため、話すことはおろか姿を見せることもできなかった。どうにか話しかける方法を考えている内に、受付の女性と話す人が3人も用事を済ませ、帰って行った。
「グワワワーッ!受付のヒトー!ここにいるグワー!」
原稿を下に置き、飛べない翼で何度も跳んで受付嬢に気付いてもらおうとする。それでも気付かない。
「おい、そこの君。家鴨の受付はその隣だグワ」
蒼い羽毛の家鴨がメガネの位置を直しながらグワスケに話し掛けてきた。何とも几帳面そうな顔をしていて、でも瞼は眠たそうに半分が閉じている。
「そうだったグワそうだったグワ。ちょっとパニクってしまったグワ」
床に置いた原稿を拾いなおし、ホコリを叩いた。その蒼い家鴨に一礼して家鴨の受付へと向かおうとする。
「君は小説の投稿者グワ?」
グワスケはそうですが…と答える。見た感じ受付の家鴨には見えないし、一体何なんだろう。
「まあ俺もここの会社の家鴨だグワ。受付には渡しておくグワよ。」
グワスケは頭を下げて原稿を蒼い家鴨に手渡しした。手渡ししたときにスーツから漂う香水の匂いが鼻についた。香水に詳しいわけではないが、あからさま過ぎる程に上品な香りはこの蒼い家鴨の身分が高い事を物語っていた。
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グワスケは誰に話し掛けられましたか?
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グワスケは蒼い羽毛の家鴨に話し掛けられました。
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国語
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キーボードをタップしていたグワスケの指が止まる。パソコンの画面には、長く打ち込まれた文章の羅列がズラリと並んでいた。左手をマウスから離し、まだ湯気が立つコーヒーをすすった。
一息つくと、我が子の様に自分の書いた文章を一通り見て席を立った。ギシギシ言う木製の床を軋ませながら水垢のはびこったキッチンでコップを水に浸す。
昨日も見直ししたし、さっきも軽くだが見直したし誤字脱字はもうないだろう。長く座っていたせいで痛む腰を軽く叩き、印刷を始めた。
グワスケは普通学校を卒業し、小説家を志す一人の青年である。フリーターとして生計を立てていて、毎日がギリギリの生活を続けている。
彼は生活ため、生活費が余るほどあるときも貯金し、娯楽を削りに削っていた。親からの反対を押し切ったし、友人の誘いにだって一度も行ってない。
その苦労の末に、彼はついに一冊の本を完成させた。
その本はグワスケにとっての希望である。今までの生活を全て賭けて製作した、チップである。
彼の手持ちのチップはもうない。ここで負ければ後がない。ここで成功を収めねば、これまで削りに削った生活も破綻する。多くの投稿者から生き残り、1位を取ることで得られる賞金でようやく今月の家賃も支払える。
ようやく支度を終えたグワスケは、自分の352ページに渡る小説を片手に玄関を出た。道行く人々をかいくぐって出版社へ向かう。自信が無いわけではないが、裁判に出廷する被告人の様な気分になる。
「大丈夫グワ。何も心配なんて無いグワよ…」
そう何度も口ずさみ、小説を出した後にあるバイトのことを頭の中に描き、失敗のないように考えを練りに練っていた。
やがてスクランブル交差点を抜け、周りにすっかりと溶け込んでいて分かりにくい「傑作!今月の小説集」を出版している「ヨコナベ会社」到着した。間違いのない様に地図を何度も何度も確認し、中へ入って行った。
グワスケは受付前に立ち、受付に居る女性に何とか話そうとしたが足が短いため、話すことはおろか姿を見せることもできなかった。どうにか話しかける方法を考えている内に、受付の女性と話す人が3人も用事を済ませ、帰って行った。
「グワワワーッ!受付のヒトー!ここにいるグワー!」
原稿を下に置き、飛べない翼で何度も跳んで受付嬢に気付いてもらおうとする。それでも気付かない。
「おい、そこの君。家鴨の受付はその隣だグワ」
蒼い羽毛の家鴨がメガネの位置を直しながらグワスケに話し掛けてきた。何とも几帳面そうな顔をしていて、でも瞼は眠たそうに半分が閉じている。
「そうだったグワそうだったグワ。ちょっとパニクってしまったグワ」
床に置いた原稿を拾いなおし、ホコリを叩いた。その蒼い家鴨に一礼して家鴨の受付へと向かおうとする。
「君は小説の投稿者グワ?」
グワスケはそうですが…と答える。見た感じ受付の家鴨には見えないし、一体何なんだろう。
「まあ俺もここの会社の家鴨だグワ。受付には渡しておくグワよ。」
グワスケは頭を下げて原稿を蒼い家鴨に手渡しした。手渡ししたときにスーツから漂う香水の匂いが鼻についた。香水に詳しいわけではないが、あからさま過ぎる程に上品な香りはこの蒼い家鴨の身分が高い事を物語っていた。
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グワスケの小説は何ページに渡りますか?
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グワスケの小説は352ページに渡ります。
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国語
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キーボードをタップしていたグワスケの指が止まる。パソコンの画面には、長く打ち込まれた文章の羅列がズラリと並んでいた。左手をマウスから離し、まだ湯気が立つコーヒーをすすった。
一息つくと、我が子の様に自分の書いた文章を一通り見て席を立った。ギシギシ言う木製の床を軋ませながら水垢のはびこったキッチンでコップを水に浸す。
昨日も見直ししたし、さっきも軽くだが見直したし誤字脱字はもうないだろう。長く座っていたせいで痛む腰を軽く叩き、印刷を始めた。
グワスケは普通学校を卒業し、小説家を志す一人の青年である。フリーターとして生計を立てていて、毎日がギリギリの生活を続けている。
彼は生活ため、生活費が余るほどあるときも貯金し、娯楽を削りに削っていた。親からの反対を押し切ったし、友人の誘いにだって一度も行ってない。
その苦労の末に、彼はついに一冊の本を完成させた。
その本はグワスケにとっての希望である。今までの生活を全て賭けて製作した、チップである。
彼の手持ちのチップはもうない。ここで負ければ後がない。ここで成功を収めねば、これまで削りに削った生活も破綻する。多くの投稿者から生き残り、1位を取ることで得られる賞金でようやく今月の家賃も支払える。
ようやく支度を終えたグワスケは、自分の352ページに渡る小説を片手に玄関を出た。道行く人々をかいくぐって出版社へ向かう。自信が無いわけではないが、裁判に出廷する被告人の様な気分になる。
「大丈夫グワ。何も心配なんて無いグワよ…」
そう何度も口ずさみ、小説を出した後にあるバイトのことを頭の中に描き、失敗のないように考えを練りに練っていた。
やがてスクランブル交差点を抜け、周りにすっかりと溶け込んでいて分かりにくい「傑作!今月の小説集」を出版している「ヨコナベ会社」到着した。間違いのない様に地図を何度も何度も確認し、中へ入って行った。
グワスケは受付前に立ち、受付に居る女性に何とか話そうとしたが足が短いため、話すことはおろか姿を見せることもできなかった。どうにか話しかける方法を考えている内に、受付の女性と話す人が3人も用事を済ませ、帰って行った。
「グワワワーッ!受付のヒトー!ここにいるグワー!」
原稿を下に置き、飛べない翼で何度も跳んで受付嬢に気付いてもらおうとする。それでも気付かない。
「おい、そこの君。家鴨の受付はその隣だグワ」
蒼い羽毛の家鴨がメガネの位置を直しながらグワスケに話し掛けてきた。何とも几帳面そうな顔をしていて、でも瞼は眠たそうに半分が閉じている。
「そうだったグワそうだったグワ。ちょっとパニクってしまったグワ」
床に置いた原稿を拾いなおし、ホコリを叩いた。その蒼い家鴨に一礼して家鴨の受付へと向かおうとする。
「君は小説の投稿者グワ?」
グワスケはそうですが…と答える。見た感じ受付の家鴨には見えないし、一体何なんだろう。
「まあ俺もここの会社の家鴨だグワ。受付には渡しておくグワよ。」
グワスケは頭を下げて原稿を蒼い家鴨に手渡しした。手渡ししたときにスーツから漂う香水の匂いが鼻についた。香水に詳しいわけではないが、あからさま過ぎる程に上品な香りはこの蒼い家鴨の身分が高い事を物語っていた。
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香水の香りはどんなことを物語っていましたか?
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香水の香りは蒼い家鴨の身分が高い事を物語っていました。
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国語
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バベルの塔
(1)
男がすんでいる町のはずれに、小さな塔があった。
いつのころからか、その塔には数人の聖職者が住み始めた。
彼らは「自由」と「正義」以外に教義をもたない教団らしい。
町の何人かの人達は、彼らの教義に共感して聖職者の塔に入っていった。
その中に男の友人の姿もあった。
ある日、聖職者の塔から逃げ出してきた男の友人が、男の家に駆け込んだ。
「助かった。危うく処刑されるところだった。
今朝、私は台所にいた鼠がパンをかじっていたので叩き殺したのだが、
聖職者の塔の連中から、それは罪だと責め立てられたのだ。
無論、彼らに鼠を殺してはならぬというという教義はないのだが、
声の大きい者がその行為を非難すれば、たちどころに皆がその行為を責めはじめる。
弁明は難しい。長々と弁明すれば長すぎると言って聞きいれられず、
要点をしぼれば、言葉たらずで揚げ足をとられる。
とにかく聖職者の塔では、ひとたび口撃がはじまると、非難する側が絶対正義で
非難される側は反撃不能な弱者なのだ。」
(2)
ある日、男は自分の息子が聖職者の塔に通っている事を知った。
男は塔から戻ってきた息子を問い詰めたが、息子は自慢げに話をはじめた。
「おとうさん、聖職者の塔はすばらしいよ。みごとに正義が実現されている。
今日は、食器を落として割った者がひとり、地下牢に送られたよ。」
男は息子に言った。
「息子よ、お前も小さいころに何度も食器を落として割った事があるだろう。」
息子は笑いながら答えた。
「おとうさん、僕の失敗は過去のことです。今日の事と何の関係がありますか?
悪いことをして見つかった人が、皆の判断で裁かれた。それだけですよ。」
「それでも、食器を割ったことに対する罰として、牢に幽閉とはひどすぎるだろう」
「おとうさんのように彼をかばった人もいたけど、その人も牢に入ったよ。
お父さんも聖職者の塔で学ぶべきだよ。
聖職者の塔では、おとうさんのように皆の意見に反論する人はいない。」
「息子よ、それは違う。反論すれば牢屋に入れられるような所に、
反論する者が残るだろうか。
良識あるものは愛想をつかして離れてしまったのではないか?」
男の息子は机をたたいて椅子を立つと、家を出て行ってしまった。
「さようなら、おとうさん。
聖職者の塔にはおとうさんのように同調性の無い人はいないし、
お互いにわかりあえる仲間がいる。僕は聖職者の塔で、彼らと一緒に正義を追求します。」
(3)
男は息子を連れ戻すために何度か聖職者の塔に乗り込んだが、
すべて徒労に終わった。
聖職者の塔では、全員が顔の覆われた法衣を着ており誰が誰だかわからない。
聖職者たちは、はじめは男を快く迎え入れたのだが、男を敵とみなすや、
一斉に罵詈雑言を浴びせた。
男は顔の見えない聖職者たちに囲まれて責め立てられた。
男の反論は、そこにいる誰にも届かずにむなしく空を漂った。
中傷、嘲笑、恫喝。考えうるかぎりの負の感情と言葉が男に叩きつけられた。
男は「同じ言葉を話しているのに言葉が通じない絶望」に打ちひしがれて、
とうとう職者の塔には近づかなくなった。
日がたつにつれ、聖職者の塔には、若者を中心に多くの人が集まってきた。
塔は増設を続けてみるみるうちに高くなり、町全体を見下ろせるようにまでなった。
最近では、彼らは塔の上から不正義(と彼らが判断する)な行いを見つけると、
その者を聖職者の塔に引きずり込んで彼らの判断の元で断罪しているとの噂もある。
だが、町の大人たちの多くは、聖職者の塔の中で何が行われているかを知らない。
実状を知っているわずかな賢者は「おろかな連中なのだから、無視していれば害はない」という。
しかし、男は思った。
いつか、あの聖職者たちが町に出てきたときに、
言葉が通じない彼らと、どうやって一緒に暮らしていけばいいのかと。
聖職者があふれる町の中で、
はたして賢者たちは「無視していれば害がない」と言い続けることができるのだろうかと。
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塔には誰が住み始めましたか?
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塔には数人の聖職者が住み始めました。
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