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JCRRAG_001201
国語
バベルの塔 (1) 男がすんでいる町のはずれに、小さな塔があった。 いつのころからか、その塔には数人の聖職者が住み始めた。 彼らは「自由」と「正義」以外に教義をもたない教団らしい。 町の何人かの人達は、彼らの教義に共感して聖職者の塔に入っていった。 その中に男の友人の姿もあった。 ある日、聖職者の塔から逃げ出してきた男の友人が、男の家に駆け込んだ。 「助かった。危うく処刑されるところだった。 今朝、私は台所にいた鼠がパンをかじっていたので叩き殺したのだが、 聖職者の塔の連中から、それは罪だと責め立てられたのだ。 無論、彼らに鼠を殺してはならぬというという教義はないのだが、 声の大きい者がその行為を非難すれば、たちどころに皆がその行為を責めはじめる。 弁明は難しい。長々と弁明すれば長すぎると言って聞きいれられず、 要点をしぼれば、言葉たらずで揚げ足をとられる。 とにかく聖職者の塔では、ひとたび口撃がはじまると、非難する側が絶対正義で 非難される側は反撃不能な弱者なのだ。」 (2) ある日、男は自分の息子が聖職者の塔に通っている事を知った。 男は塔から戻ってきた息子を問い詰めたが、息子は自慢げに話をはじめた。 「おとうさん、聖職者の塔はすばらしいよ。みごとに正義が実現されている。 今日は、食器を落として割った者がひとり、地下牢に送られたよ。」 男は息子に言った。 「息子よ、お前も小さいころに何度も食器を落として割った事があるだろう。」 息子は笑いながら答えた。 「おとうさん、僕の失敗は過去のことです。今日の事と何の関係がありますか? 悪いことをして見つかった人が、皆の判断で裁かれた。それだけですよ。」 「それでも、食器を割ったことに対する罰として、牢に幽閉とはひどすぎるだろう」 「おとうさんのように彼をかばった人もいたけど、その人も牢に入ったよ。 お父さんも聖職者の塔で学ぶべきだよ。 聖職者の塔では、おとうさんのように皆の意見に反論する人はいない。」 「息子よ、それは違う。反論すれば牢屋に入れられるような所に、 反論する者が残るだろうか。 良識あるものは愛想をつかして離れてしまったのではないか?」 男の息子は机をたたいて椅子を立つと、家を出て行ってしまった。 「さようなら、おとうさん。 聖職者の塔にはおとうさんのように同調性の無い人はいないし、 お互いにわかりあえる仲間がいる。僕は聖職者の塔で、彼らと一緒に正義を追求します。」 (3) 男は息子を連れ戻すために何度か聖職者の塔に乗り込んだが、 すべて徒労に終わった。 聖職者の塔では、全員が顔の覆われた法衣を着ており誰が誰だかわからない。 聖職者たちは、はじめは男を快く迎え入れたのだが、男を敵とみなすや、 一斉に罵詈雑言を浴びせた。 男は顔の見えない聖職者たちに囲まれて責め立てられた。 男の反論は、そこにいる誰にも届かずにむなしく空を漂った。 中傷、嘲笑、恫喝。考えうるかぎりの負の感情と言葉が男に叩きつけられた。 男は「同じ言葉を話しているのに言葉が通じない絶望」に打ちひしがれて、 とうとう職者の塔には近づかなくなった。 日がたつにつれ、聖職者の塔には、若者を中心に多くの人が集まってきた。 塔は増設を続けてみるみるうちに高くなり、町全体を見下ろせるようにまでなった。 最近では、彼らは塔の上から不正義(と彼らが判断する)な行いを見つけると、 その者を聖職者の塔に引きずり込んで彼らの判断の元で断罪しているとの噂もある。 だが、町の大人たちの多くは、聖職者の塔の中で何が行われているかを知らない。 実状を知っているわずかな賢者は「おろかな連中なのだから、無視していれば害はない」という。 しかし、男は思った。 いつか、あの聖職者たちが町に出てきたときに、 言葉が通じない彼らと、どうやって一緒に暮らしていけばいいのかと。 聖職者があふれる町の中で、 はたして賢者たちは「無視していれば害がない」と言い続けることができるのだろうかと。
男の息子はどこに通っていますか?
男の息子は聖職者の塔に通っています。
JCRRAG_001202
国語
バベルの塔 (1) 男がすんでいる町のはずれに、小さな塔があった。 いつのころからか、その塔には数人の聖職者が住み始めた。 彼らは「自由」と「正義」以外に教義をもたない教団らしい。 町の何人かの人達は、彼らの教義に共感して聖職者の塔に入っていった。 その中に男の友人の姿もあった。 ある日、聖職者の塔から逃げ出してきた男の友人が、男の家に駆け込んだ。 「助かった。危うく処刑されるところだった。 今朝、私は台所にいた鼠がパンをかじっていたので叩き殺したのだが、 聖職者の塔の連中から、それは罪だと責め立てられたのだ。 無論、彼らに鼠を殺してはならぬというという教義はないのだが、 声の大きい者がその行為を非難すれば、たちどころに皆がその行為を責めはじめる。 弁明は難しい。長々と弁明すれば長すぎると言って聞きいれられず、 要点をしぼれば、言葉たらずで揚げ足をとられる。 とにかく聖職者の塔では、ひとたび口撃がはじまると、非難する側が絶対正義で 非難される側は反撃不能な弱者なのだ。」 (2) ある日、男は自分の息子が聖職者の塔に通っている事を知った。 男は塔から戻ってきた息子を問い詰めたが、息子は自慢げに話をはじめた。 「おとうさん、聖職者の塔はすばらしいよ。みごとに正義が実現されている。 今日は、食器を落として割った者がひとり、地下牢に送られたよ。」 男は息子に言った。 「息子よ、お前も小さいころに何度も食器を落として割った事があるだろう。」 息子は笑いながら答えた。 「おとうさん、僕の失敗は過去のことです。今日の事と何の関係がありますか? 悪いことをして見つかった人が、皆の判断で裁かれた。それだけですよ。」 「それでも、食器を割ったことに対する罰として、牢に幽閉とはひどすぎるだろう」 「おとうさんのように彼をかばった人もいたけど、その人も牢に入ったよ。 お父さんも聖職者の塔で学ぶべきだよ。 聖職者の塔では、おとうさんのように皆の意見に反論する人はいない。」 「息子よ、それは違う。反論すれば牢屋に入れられるような所に、 反論する者が残るだろうか。 良識あるものは愛想をつかして離れてしまったのではないか?」 男の息子は机をたたいて椅子を立つと、家を出て行ってしまった。 「さようなら、おとうさん。 聖職者の塔にはおとうさんのように同調性の無い人はいないし、 お互いにわかりあえる仲間がいる。僕は聖職者の塔で、彼らと一緒に正義を追求します。」 (3) 男は息子を連れ戻すために何度か聖職者の塔に乗り込んだが、 すべて徒労に終わった。 聖職者の塔では、全員が顔の覆われた法衣を着ており誰が誰だかわからない。 聖職者たちは、はじめは男を快く迎え入れたのだが、男を敵とみなすや、 一斉に罵詈雑言を浴びせた。 男は顔の見えない聖職者たちに囲まれて責め立てられた。 男の反論は、そこにいる誰にも届かずにむなしく空を漂った。 中傷、嘲笑、恫喝。考えうるかぎりの負の感情と言葉が男に叩きつけられた。 男は「同じ言葉を話しているのに言葉が通じない絶望」に打ちひしがれて、 とうとう職者の塔には近づかなくなった。 日がたつにつれ、聖職者の塔には、若者を中心に多くの人が集まってきた。 塔は増設を続けてみるみるうちに高くなり、町全体を見下ろせるようにまでなった。 最近では、彼らは塔の上から不正義(と彼らが判断する)な行いを見つけると、 その者を聖職者の塔に引きずり込んで彼らの判断の元で断罪しているとの噂もある。 だが、町の大人たちの多くは、聖職者の塔の中で何が行われているかを知らない。 実状を知っているわずかな賢者は「おろかな連中なのだから、無視していれば害はない」という。 しかし、男は思った。 いつか、あの聖職者たちが町に出てきたときに、 言葉が通じない彼らと、どうやって一緒に暮らしていけばいいのかと。 聖職者があふれる町の中で、 はたして賢者たちは「無視していれば害がない」と言い続けることができるのだろうかと。
塔は増設を続けてどうなりましたか?
塔は増設を続けてみるみるうちに高くなり、町全体を見下ろせるようにまでなりました。
JCRRAG_001203
国語
バベルの塔 (1) 男がすんでいる町のはずれに、小さな塔があった。 いつのころからか、その塔には数人の聖職者が住み始めた。 彼らは「自由」と「正義」以外に教義をもたない教団らしい。 町の何人かの人達は、彼らの教義に共感して聖職者の塔に入っていった。 その中に男の友人の姿もあった。 ある日、聖職者の塔から逃げ出してきた男の友人が、男の家に駆け込んだ。 「助かった。危うく処刑されるところだった。 今朝、私は台所にいた鼠がパンをかじっていたので叩き殺したのだが、 聖職者の塔の連中から、それは罪だと責め立てられたのだ。 無論、彼らに鼠を殺してはならぬというという教義はないのだが、 声の大きい者がその行為を非難すれば、たちどころに皆がその行為を責めはじめる。 弁明は難しい。長々と弁明すれば長すぎると言って聞きいれられず、 要点をしぼれば、言葉たらずで揚げ足をとられる。 とにかく聖職者の塔では、ひとたび口撃がはじまると、非難する側が絶対正義で 非難される側は反撃不能な弱者なのだ。」 (2) ある日、男は自分の息子が聖職者の塔に通っている事を知った。 男は塔から戻ってきた息子を問い詰めたが、息子は自慢げに話をはじめた。 「おとうさん、聖職者の塔はすばらしいよ。みごとに正義が実現されている。 今日は、食器を落として割った者がひとり、地下牢に送られたよ。」 男は息子に言った。 「息子よ、お前も小さいころに何度も食器を落として割った事があるだろう。」 息子は笑いながら答えた。 「おとうさん、僕の失敗は過去のことです。今日の事と何の関係がありますか? 悪いことをして見つかった人が、皆の判断で裁かれた。それだけですよ。」 「それでも、食器を割ったことに対する罰として、牢に幽閉とはひどすぎるだろう」 「おとうさんのように彼をかばった人もいたけど、その人も牢に入ったよ。 お父さんも聖職者の塔で学ぶべきだよ。 聖職者の塔では、おとうさんのように皆の意見に反論する人はいない。」 「息子よ、それは違う。反論すれば牢屋に入れられるような所に、 反論する者が残るだろうか。 良識あるものは愛想をつかして離れてしまったのではないか?」 男の息子は机をたたいて椅子を立つと、家を出て行ってしまった。 「さようなら、おとうさん。 聖職者の塔にはおとうさんのように同調性の無い人はいないし、 お互いにわかりあえる仲間がいる。僕は聖職者の塔で、彼らと一緒に正義を追求します。」 (3) 男は息子を連れ戻すために何度か聖職者の塔に乗り込んだが、 すべて徒労に終わった。 聖職者の塔では、全員が顔の覆われた法衣を着ており誰が誰だかわからない。 聖職者たちは、はじめは男を快く迎え入れたのだが、男を敵とみなすや、 一斉に罵詈雑言を浴びせた。 男は顔の見えない聖職者たちに囲まれて責め立てられた。 男の反論は、そこにいる誰にも届かずにむなしく空を漂った。 中傷、嘲笑、恫喝。考えうるかぎりの負の感情と言葉が男に叩きつけられた。 男は「同じ言葉を話しているのに言葉が通じない絶望」に打ちひしがれて、 とうとう職者の塔には近づかなくなった。 日がたつにつれ、聖職者の塔には、若者を中心に多くの人が集まってきた。 塔は増設を続けてみるみるうちに高くなり、町全体を見下ろせるようにまでなった。 最近では、彼らは塔の上から不正義(と彼らが判断する)な行いを見つけると、 その者を聖職者の塔に引きずり込んで彼らの判断の元で断罪しているとの噂もある。 だが、町の大人たちの多くは、聖職者の塔の中で何が行われているかを知らない。 実状を知っているわずかな賢者は「おろかな連中なのだから、無視していれば害はない」という。 しかし、男は思った。 いつか、あの聖職者たちが町に出てきたときに、 言葉が通じない彼らと、どうやって一緒に暮らしていけばいいのかと。 聖職者があふれる町の中で、 はたして賢者たちは「無視していれば害がない」と言い続けることができるのだろうかと。
聖職者の教団の教義は何ですか?
聖職者の教団の教義は「自由」と「正義」です。
JCRRAG_001204
国語
バベルの塔 (1) 男がすんでいる町のはずれに、小さな塔があった。 いつのころからか、その塔には数人の聖職者が住み始めた。 彼らは「自由」と「正義」以外に教義をもたない教団らしい。 町の何人かの人達は、彼らの教義に共感して聖職者の塔に入っていった。 その中に男の友人の姿もあった。 ある日、聖職者の塔から逃げ出してきた男の友人が、男の家に駆け込んだ。 「助かった。危うく処刑されるところだった。 今朝、私は台所にいた鼠がパンをかじっていたので叩き殺したのだが、 聖職者の塔の連中から、それは罪だと責め立てられたのだ。 無論、彼らに鼠を殺してはならぬというという教義はないのだが、 声の大きい者がその行為を非難すれば、たちどころに皆がその行為を責めはじめる。 弁明は難しい。長々と弁明すれば長すぎると言って聞きいれられず、 要点をしぼれば、言葉たらずで揚げ足をとられる。 とにかく聖職者の塔では、ひとたび口撃がはじまると、非難する側が絶対正義で 非難される側は反撃不能な弱者なのだ。」 (2) ある日、男は自分の息子が聖職者の塔に通っている事を知った。 男は塔から戻ってきた息子を問い詰めたが、息子は自慢げに話をはじめた。 「おとうさん、聖職者の塔はすばらしいよ。みごとに正義が実現されている。 今日は、食器を落として割った者がひとり、地下牢に送られたよ。」 男は息子に言った。 「息子よ、お前も小さいころに何度も食器を落として割った事があるだろう。」 息子は笑いながら答えた。 「おとうさん、僕の失敗は過去のことです。今日の事と何の関係がありますか? 悪いことをして見つかった人が、皆の判断で裁かれた。それだけですよ。」 「それでも、食器を割ったことに対する罰として、牢に幽閉とはひどすぎるだろう」 「おとうさんのように彼をかばった人もいたけど、その人も牢に入ったよ。 お父さんも聖職者の塔で学ぶべきだよ。 聖職者の塔では、おとうさんのように皆の意見に反論する人はいない。」 「息子よ、それは違う。反論すれば牢屋に入れられるような所に、 反論する者が残るだろうか。 良識あるものは愛想をつかして離れてしまったのではないか?」 男の息子は机をたたいて椅子を立つと、家を出て行ってしまった。 「さようなら、おとうさん。 聖職者の塔にはおとうさんのように同調性の無い人はいないし、 お互いにわかりあえる仲間がいる。僕は聖職者の塔で、彼らと一緒に正義を追求します。」 (3) 男は息子を連れ戻すために何度か聖職者の塔に乗り込んだが、 すべて徒労に終わった。 聖職者の塔では、全員が顔の覆われた法衣を着ており誰が誰だかわからない。 聖職者たちは、はじめは男を快く迎え入れたのだが、男を敵とみなすや、 一斉に罵詈雑言を浴びせた。 男は顔の見えない聖職者たちに囲まれて責め立てられた。 男の反論は、そこにいる誰にも届かずにむなしく空を漂った。 中傷、嘲笑、恫喝。考えうるかぎりの負の感情と言葉が男に叩きつけられた。 男は「同じ言葉を話しているのに言葉が通じない絶望」に打ちひしがれて、 とうとう職者の塔には近づかなくなった。 日がたつにつれ、聖職者の塔には、若者を中心に多くの人が集まってきた。 塔は増設を続けてみるみるうちに高くなり、町全体を見下ろせるようにまでなった。 最近では、彼らは塔の上から不正義(と彼らが判断する)な行いを見つけると、 その者を聖職者の塔に引きずり込んで彼らの判断の元で断罪しているとの噂もある。 だが、町の大人たちの多くは、聖職者の塔の中で何が行われているかを知らない。 実状を知っているわずかな賢者は「おろかな連中なのだから、無視していれば害はない」という。 しかし、男は思った。 いつか、あの聖職者たちが町に出てきたときに、 言葉が通じない彼らと、どうやって一緒に暮らしていけばいいのかと。 聖職者があふれる町の中で、 はたして賢者たちは「無視していれば害がない」と言い続けることができるのだろうかと。
聖職者の塔では全員何を着ていますか?
聖職者の塔では全員顔の覆われた法衣を着ています。
JCRRAG_001205
国語
前線都市 AfterNotes 第1章 重峰イノリという機構について 第1章 第1節「Prologue」    彼らは、よく晴れた夏の日に訪れた。  かつて日本と呼ばれていた島国の、工業地帯が広がる田舎町。その中央に、突如として地下深くまで続く大穴が開いたのだ。地盤沈下か、あるいは埋め立て工事の際に欠陥があったのかと、政府が調査計画を立て始めたころ。彼らはずるりと穴の中から這い出した。  怪物らしさはそのままに輪郭だけ人間に似せたような歪な容姿。おぞましい呻き声。人知を超えた異能力。なにより、手当たり次第にヒトを食い荒らす凶悪性。  その「外敵」を恐れた人々は現代科学の総力を上げてとある「生体兵器」を作り出し、外敵諸共封じ込めるという策を打ち出した。  故にこの町は、こう呼ばれる。 ――前線都市、と。 第1章 第2節「重ね重ねて、祈り奉る」  まだ朝日が昇り切る前の薄暗い寝室で、重峰イノリは目を覚ました。空色の瞳がぱちり、ぱちりと数回瞬いて現状を把握する。それからゆっくりと身を起こし、ベッドサイドに置かれていた円筒形の無骨な器具に手を伸ばす。彼はその底面を自身の首筋に押し当てると、指先で軽くボタンを押し込んだ。 かしゅ、という軽い音とともに、首に当てていた部分から突き出た針が皮膚を貫く。そのまま数秒経って器具のランプが点滅するのを確認し、彼は無造作にそれを引き抜いた。器具には止血剤の塗布と針の消毒を自動で行う機能が搭載されており、傷口からは一滴の血も流れていない。  イノリは静かに目を伏せる。頭蓋内の魔力管制デバイスが反応し様々な情報を脳裏に提示し始めるが、彼はそのひとつひとつを適切に処理しつつ、最後にこう結論付けた。 ――身体機能および魔力回路、双方に異常なし。  簡単に着替えを済ませ、カソックの上着とストラを腕に抱えたまま部屋を出る。リビングのソファにそれらを掛けて、イノリはまっすぐに聖堂を目指した。居住棟と教会は重い扉一枚に隔てられていて、開けばすぐに古めかしくも荘厳な聖堂に繋がっている。彼の朝はまず聖堂内の清掃と礼拝から始まるのが常だった。その様は、まるで熱心な信徒のようだろう。しかし実のところ彼のこの習慣は信仰心に拠るものではなく、自身が所有する魔術の精度と効果を強めるための儀式でしかない。  無人の聖堂で、既に暗記している誓言をあえて聖書片手に読み上げる。形ばかり繕ったままごとのようなそれを、指摘するものはこの町に誰ひとりとしていない。何故なら彼らにとって神に等しいその存在は、天上ではなく脳に埋め込まれたデバイスを通して、彼らを監視しているのだから。  「……なればこそ偉大なりし我らが母、大いなる戦神クレィアの導きに従いて、遍く外敵を討ち滅ぼさん」   最後の一節を唱え終え、ぱたんと聖書を閉じる。柱時計は午前7時過ぎを示していた。寝起きの悪い同居人はまだ布団の中にいる時間だが、朝食の準備を始めるには丁度いい頃合いだろう。そう当たりを付けて、イノリは聖堂の正面扉の錠を外し居住棟へと戻る。しかしリビングには、意外にも既に人影があった。  「おっと。――今日は随分と早いね、ミコト」  「好きで起きたわけではない。あまりにも喧しくて、寝ていられなかった」  ミコト、と呼ばれた青年は不機嫌そうに欠伸混じりにそう言った。桔梗色の瞳はまだ眠たげに瞬きを繰り返していて、イノリは小さく苦笑した。ある程度防音の効いた聖堂にいたとはいえ、騒音の類は彼の耳に届いていない。つまりはミコトを目覚めさせたのは物理的な音の波ではなく、魔力が激しく衝突し合う気配なのだろう。生命としての肉体を持たず、魔力の集合体である「魔術式」の彼は、性質上そういったものに敏感だった。  「この近くで戦闘になるのは珍しいな。討伐?」  「……外敵はE級とD級が5体ずつ、Cが1体。東地区の連中が迎撃している」  「東。――あぁ、大鏡隊長か」  「あれが出てくると他以上に騒々しい。迷惑だ」 ソファの背もたれに身を預けた拍子に、ミコトの長い白髪がさらりと揺れる。それを横目にイノリはシャツの袖口を捲りつつ簡易的なキッチンに入ると、背中越しに声をかけた。  「それはまた災難だったね。珈琲でも淹れようか?」  「……温かいものなら」  「了解」 イノリはミル式のコーヒーメーカーに豆をセットして、知り尽くしているミコト好みの味に合わせて豆の挽き具合を設定する。生き物の身体構造とは根本的に異なるミコトは、食べ物からの栄養補給を必要とせず自ら食事を摂ることもない。そんな彼が唯一好んで口にする珈琲には少しだけ手間をかけるのが、イノリの密かな習慣となっていた。 自身は配給品のパンとレーションを咀嚼しながら、珈琲が淹れ終わるのを待つ。  その時、イノリの首にかけられていた白銀のロザリオが小さく点滅した。  「……」  「……」 二人は思わず顔を見合わせる。尚も点滅を繰り返しているロザリオに彼は渋々といった仕草で指先を伸ばし、とん、と一度触れて呟く。  「応答」 途端、平坦な機械音声が室内に響く。同時に空中に浮かび上がった半透明の操作ウィンドウには、地図と男性の顔写真、そして簡素なプロフィールが表示されていた。  『No。38645およびNo。24875を規律違反者と認定。至急捜索および排除を実行してください』  「――命令を承認」  応えながら、彼はコーヒーメーカーの一時停止ボタンを押す。背後では面倒臭そうに立ち上がったミコトがふわりと宙に浮かんでいた。その腕には、置いたままにしていた上着とストラが抱えられている。それらを受け取って服装を正し、イノリは小首を傾げてこう言った。  「とりあえずは、豆の抽出が始まる前で良かったね」
中央に、突如として地下深くまで続く大穴が開いたのはどんな町ですか?
かつて日本と呼ばれていた島国の、工業地帯が広がる田舎町に、地下深くまで続く大穴が開きました。
JCRRAG_001206
国語
 真夏のある日、起きたら出目金が消えていた。ゆらゆらと二匹の赤い金魚が泳ぐその水槽の、水草もどきのプラスチックの陰に、かすかに元の姿を想像できる、透明な骨のようなものが沈んでいた。その骨もいつしかどこかへ見えなくなった。  私は、朝起きて、洗濯をして、食事の支度をして二人分の弁当を詰める。二匹の金魚に餌をやり、九時から三時のパートを終えて、更衣室で世間話をして職場を後にする。買い物をして、干してある洗濯ものを片付けて、軽く掃除。夕飯の支度をして、お風呂を沸かして、金魚の餌。  悠々と泳ぐ金魚は、金魚を食べた金魚。憎々しさをおぼえながら、それでも毎日毎日餌をやり続ける。夕暮れ空のような朱色は時おり光を反射して金色に輝く。そうして世界を、ちっぽけなプラスチックの水槽を我が物顔で占拠する。  眠る間際、水音に混じってゴンと鈍い音がした。跳ねた金魚がプラスチックの蓋にぶつかったようだ。小さな世界に閉じ込められて、そこから脱出しても死ぬだけなのに。ゴン、とまた聞こえた。その世界で満足していれば餌にも困らないのに、外に出たいなんて強欲だ。 「子ども、できなかったね」  私の声は電気の消えた寝室の闇に吸い込まれた。隣の夫は何も言わないまま、寝返りをうってこちらに顔を向けた。布団の中で、夫の手が私の腕をさすった。 「不満はないのに、変わらない毎日がどんどん不安になってく。このまま老いて朽ちて、小さな世界しか知らないままで。自分がちっぽけな金魚のフンみたいな気がしてくる」  二匹の金魚はいずれ一匹になる。一匹になっても悠々と泳いでいられるだろうか。もがいて、跳ねて、死ぬ前に外の世界へ脱出。 「そんなことないよ」と言って夫は目を閉じ、しばらくして寝息が聞こえてきた。不安の正体を探すように、暗闇のなかで目を凝らした。ゴン、という音とともに赤色の光が弾け、私は空を突き破って世界から脱出した。死ぬかと思ったけれど、目覚めると隣では夫が寝ていた。スマートフォンのアラームを止める。  カーテンの隙間から朝日が射し込み、水槽の中でキラリとその光が反射した。パシャリ、ゴン。  変わらない一日が始まる。洗濯、朝食、餌やり。パート、雑談、買い物。ショッピングモールで赤色の服に目がとまり、衝動的にレジまで持っていった。赤というより金魚色の、肌触りのいいリネンのワンピース。  不安に食われるまえに、先に不安を食らってやる。  私はホームセンターでひと回り大きい水槽を買った。小さくなった水槽で傷ついた二匹の金魚。剥がれた鱗は水に沈んだのかフンになったのか知らないけれど、私は他の金魚を食らったあんたたちを食らう気はない。 『たまには外で食べよう』  メールを送った。買ったばかりのワンピースに袖を通し、夫からの返事を待たず家を出た。背後でパシャリと水が跳ねた気がした。 ―― end
何匹の金魚が小さくなった水槽で傷つきましたか?
二匹の金魚が小さくなった水槽で傷つきました。
JCRRAG_001207
国語
ぼくの家は台地にあった。母によれば由緒ある旧家ということで、樹木の生い茂った敷地はかなり広い。ぼくは、鍵のかかっていない勝手口から入る。クーラーボックスを台所におくと、エプロンをして、さっそく魚をさばきにかかる。  新鮮なうちに下ごしらえをすれば、いたみもなく、いろいろな料理にできる。ぼくのたったひとつのとりえは、料理が好きで、幾分器用なところだろう。手際よくさばき、最後の魚の腹に包丁を入れた時にカチッと刃が何かにあたった。 「ん?」  ぼくは出刃で、そろそろと白い腹を探りながら、開いていく。  刃にあたったのは指輪だった。おおっ! つまんでみると、裏にはアルファベットが刻んである、本物っぽいではないか。マリッジリングだ!  ぼくは歓喜した。金属である。もし本物のプラチナであれば、換金できる。なんとラッキーな! これはリッチ紳士が釣った魚である。あの幼虫が、こんな指輪に変身するとは! すばらしい。  人生がバラ色になった気がした。思いがけない展開だった。  指輪は綺麗に洗い、ジャムの空き瓶を探し入れた。ちゃりん。そして活力を得たぼくは、魚をすべて下処理して、半分は煮付けに半分はマリネにすることにした。その夜はなぜかぐっすり眠れた。  次の日、ぼくは母のところに行くことにした。  ぼくは母が四十を過ぎてから生んだ、一人息子なのである  母は軽い認知症なのだが、持病の股関節の不具合も悪化して、施設で療養をしていた。ぼくの家から、市電で二駅のところに、その施設はあって、昨日作った煮つけをタッパーにいれて、持っていくことにした。母は魚の煮付けを食べたがっていたのだ。  駅からは歩いて十五分くらいの高台が施設への道のりで、駅前の商店街を抜けていく。その中に貴金属の買取りや骨董もどきを扱う店があり、そこで指輪を鑑定してもらおうと考えていた。  ところが、その日は近くの神社の例大祭なのか、露天商がたくさん出ていて、人ごみも普段の数倍である。ぼくは、魚の煮付けをビニール袋にいれて、右手にさげていたが、突然肩に人があたり、押されてよろめいた。思わず、ポケットにいれていた左手を出し、露天商の店の枠組みつかまり、難を逃れる。  と、同時に指輪の入っていた瓶がポケットを脱走して、ころころころと転がってしまった。 「おい、こら、待て」  転がった先は今川焼きの屋台の裏だった。 「お?」  今川焼きのあるじは、それを拾った。 「あ、すいません、それ、ぼくのなんです」 「おい、こりゃあ、」  ねじり鉢巻の今川焼き屋は、隣の烏賊焼きの露天商との隙間から出てきた。 「盗品でないのか?」  え、盗品? いや、これはたしかに貰った魚の腹に入っていたわけだし、魚の腹のものはすべて権利を主張できる、はずだし。 ぼくは、のそのそと微小な脳細胞を回転させた。 「ちがいますよ、盗品ではないです」 「いや、よくみせてくれ」  今川焼き屋はビンのふたを開け、指輪をとりだした。前後左右と内側をじっくりみていたが、 「やっぱり、これはおれがなくした指輪だ!」 と、断言した。 「ま、まさか」 「ほら見てみろ。指輪に彫られている、蛇がくわえているのは今川焼きだろう? それに、内側のイニシャル、おれがカミさんからもらった証だ、MからSへ、となっている、これが証拠だ」  と、今川焼き屋は言った。たしかに蛇には気がついていたが、くわえているのが今川焼きとは、こじつけではないか? むしろ宝玉にみえるが、と言おうとすると、 「あんちゃん、なあ、ゆずってくれよ、おれの指輪はどこをさがしても見つからないし、カミサンは怒るし、結婚指輪だからなあ、『たったそれだけの愛なのね』とか、責められるし、な、みつかったことにしておきたいんだよ」  と顔を寄せ、小さな声でささやくのだ。しんから困っているみたいだった。 「……」  仕方ない、と僕は思った。だいたい、この指輪は、もとはあの紳士からもらったものなんだし、欲をつのらせるのはやめよう、と考えた。 「いいですよ、あげます」  ぼくがそういうと、今川焼き屋は 「おお、太っ腹だね、財務大臣! ありがと、ありがたいよ、なにしろ、新しいのはおろか中古だって、その日暮らしの露天商ごときが買える値段でないからね、あんちゃん、恩にきるよ」と手で拝み 「そうだ、あんちゃん、お礼といってはなんだが、この今川焼きもっていきなよ。いますぐ、包むからな、まってくれよ」 と、いいながら、今川焼きの男は指輪を小指にはめている。 「おお。ぴったりだよ、やっぱり、あんたはおれの救世主!」  そしてぼくはそのあと、今川焼きを三十個も持つはめとなった。
ぼくは魚を何にすることにしましたか?
ぼくは魚を半分は煮付けに半分はマリネにすることにしました。
JCRRAG_001208
国語
私の記憶は私の四歳頃のことまでさかのぼることができる。その頃私は、私の生みの親たちと一緒に横浜の寿町に住んでいた。 父が何をしていたのか、むろん私は知らなかった。あとできいたところによると、父はその頃、寿警察署の刑事かなんかを勤めていたようである。 私の思出からは、この頃のほんの少しの間だけが私の天国であったように思う。なぜなら、私は父に非常に可愛がられたことを覚えているから……。 私はいつも父につれられて風呂に行った。毎夕私は、父の肩車に乗せられて父の頭に抱きついて銭湯の暖簾をくぐった。床屋に行くときも父が必ず、私をつれて行ってくれた。父は私の傍につきっきりで、生え際や眉の剃方についてなにかと世話をやいていたが、それでもなお気に入らぬと本職の手から剃刀を取って自分で剃ってくれたりなんかした。私の衣類の柄の見立てなども父がしたようであったし、肩揚げや腰揚げのことまでも父が自分で指図して母に針をとらせたようであった。私が病気した時、枕元につきっきりで看護してくれたのもやはり父だった。父は間がな隙がな私の脈をとったり、額に手をあてたりして、注意を怠らなかった。そうした時、私は物をいう必要がなかった。父は私の眼差しから私の願いを知って、それをみたしてくれたから。 私に物を食べさせる時も、父は決して迂闊には与えなかった。肉は食べやすいように小さくむしり魚は小骨一つ残さず取りさり、ご飯やお湯は必ず自分の舌で味って見て、熱すぎれば根気よくさましてからくれるのだった。つまり、他の家庭なら母親がしてくれることを、私はみな父によってされていたのである。 今から考えて見て、むろん私の家庭は裕福であったとは思われない。しかし人生に対する私の最初の印象は、決して不快なものではなかった。思うにその頃の私の家庭も、かなり貧しい、欠乏がちの生活をしていたのであろう。ただ、なんとかいう氏族の末流にあたる由緒ある家庭の長男に生れたと信じている私の父が、事実、その頃はまだかなり裕福に暮していた祖父のもとでわがままな若様風に育てられたところから、こうした貧窮の間にもなお、私をその昔のままの気位で育てたのに違いなかったのである。
父は、私に物を食べさせる時、どのようにして与えていましたか?
父は、私に物を食べさせる時、肉は食べやすい程度に小さくむしり、魚は小骨を一つも残さず取り除き、ご飯やお湯は必ず一度自分の舌で味わって、熱すぎた場合は根気強く冷ましてから与えていました。
JCRRAG_001209
国語
私が六つの年の秋頃だった――その間私は、私たちの家がむやみに引越したということだけしか覚えていない――私たちの家に、母の実家から母の妹が、だから私の叔母がやって来た。叔母は婦人病かなんか患っていたが、辺鄙な田舎では充分の治療が出来ないというので、私たちの家から病院に通うためだった。  叔母はその頃二十二、三であったろう。顔立ちの整った、ちょっとこぎれいな娘だった。気立てもやさしく、する事なす事しっかりしていて、几帳面で、てきぱきした性質であった。だから人受けもよく、親たちにも愛せられていたようでもある。だが、いつの間にかこの叔母と私の父との仲が変になったようである。  父はその頃、程近い海岸の倉庫に雇われて人夫の積荷下荷をノートにとる仕事をしていたが、例によってなにかと口実をつけては仕事を休んでいた。そんな風だから私の家の暮し向きのゆたかである筈はなく、そのためであろう、母と叔母とは内職に麻糸つなぎをしていた。毎日毎日、母はそうして繋いだ三つか四つの麻糸の塊を風呂敷に包んで、わずかな工賃を貰いに弟を背負っては出かけるのだった。  ところが不思議なことに、母が出かけるとすぐ、父は必ず、自分の寝そべっている玄関脇の三畳の間へ叔母を呼び込むのであった。別にたいして話をしているようでもないのに、叔母はなかなかその部屋から出て来ないのが常だった。私はこまちゃくれた好奇心にそそられないわけには行かなかった。私はついにあるとき、そっと爪立ちをして、襖の引手の破目から中を覗いて見た……。  だが、私は別にそれ程驚かなかった。なぜなら、こうした光景を見たのは今が初めてではなかったからである。私のもっと小さい時分から、父や母はだらしない場面をいくたびか私に見せた。二人はずいぶん不注意だったのだ。そのためかどうか、私はかなり早熟で、四つ位の年から性への興味を喚び覚まされていたように思う。
叔母がやって来たのは、私がいくつの年の秋頃でしたか?
叔母がやって来たのは、私が六つの年の秋頃でした。
JCRRAG_001210
国語
ぼくの家は台地にあった。母によれば由緒ある旧家ということで、樹木の生い茂った敷地はかなり広い。ぼくは、鍵のかかっていない勝手口から入る。クーラーボックスを台所におくと、エプロンをして、さっそく魚をさばきにかかる。  新鮮なうちに下ごしらえをすれば、いたみもなく、いろいろな料理にできる。ぼくのたったひとつのとりえは、料理が好きで、幾分器用なところだろう。手際よくさばき、最後の魚の腹に包丁を入れた時にカチッと刃が何かにあたった。 「ん?」  ぼくは出刃で、そろそろと白い腹を探りながら、開いていく。  刃にあたったのは指輪だった。おおっ! つまんでみると、裏にはアルファベットが刻んである、本物っぽいではないか。マリッジリングだ!  ぼくは歓喜した。金属である。もし本物のプラチナであれば、換金できる。なんとラッキーな! これはリッチ紳士が釣った魚である。あの幼虫が、こんな指輪に変身するとは! すばらしい。  人生がバラ色になった気がした。思いがけない展開だった。  指輪は綺麗に洗い、ジャムの空き瓶を探し入れた。ちゃりん。そして活力を得たぼくは、魚をすべて下処理して、半分は煮付けに半分はマリネにすることにした。その夜はなぜかぐっすり眠れた。  次の日、ぼくは母のところに行くことにした。  ぼくは母が四十を過ぎてから生んだ、一人息子なのである  母は軽い認知症なのだが、持病の股関節の不具合も悪化して、施設で療養をしていた。ぼくの家から、市電で二駅のところに、その施設はあって、昨日作った煮つけをタッパーにいれて、持っていくことにした。母は魚の煮付けを食べたがっていたのだ。  駅からは歩いて十五分くらいの高台が施設への道のりで、駅前の商店街を抜けていく。その中に貴金属の買取りや骨董もどきを扱う店があり、そこで指輪を鑑定してもらおうと考えていた。  ところが、その日は近くの神社の例大祭なのか、露天商がたくさん出ていて、人ごみも普段の数倍である。ぼくは、魚の煮付けをビニール袋にいれて、右手にさげていたが、突然肩に人があたり、押されてよろめいた。思わず、ポケットにいれていた左手を出し、露天商の店の枠組みつかまり、難を逃れる。  と、同時に指輪の入っていた瓶がポケットを脱走して、ころころころと転がってしまった。 「おい、こら、待て」  転がった先は今川焼きの屋台の裏だった。 「お?」  今川焼きのあるじは、それを拾った。 「あ、すいません、それ、ぼくのなんです」 「おい、こりゃあ、」  ねじり鉢巻の今川焼き屋は、隣の烏賊焼きの露天商との隙間から出てきた。 「盗品でないのか?」  え、盗品? いや、これはたしかに貰った魚の腹に入っていたわけだし、魚の腹のものはすべて権利を主張できる、はずだし。 ぼくは、のそのそと微小な脳細胞を回転させた。 「ちがいますよ、盗品ではないです」 「いや、よくみせてくれ」  今川焼き屋はビンのふたを開け、指輪をとりだした。前後左右と内側をじっくりみていたが、 「やっぱり、これはおれがなくした指輪だ!」 と、断言した。 「ま、まさか」 「ほら見てみろ。指輪に彫られている、蛇がくわえているのは今川焼きだろう? それに、内側のイニシャル、おれがカミさんからもらった証だ、MからSへ、となっている、これが証拠だ」  と、今川焼き屋は言った。たしかに蛇には気がついていたが、くわえているのが今川焼きとは、こじつけではないか? むしろ宝玉にみえるが、と言おうとすると、 「あんちゃん、なあ、ゆずってくれよ、おれの指輪はどこをさがしても見つからないし、カミサンは怒るし、結婚指輪だからなあ、『たったそれだけの愛なのね』とか、責められるし、な、みつかったことにしておきたいんだよ」  と顔を寄せ、小さな声でささやくのだ。しんから困っているみたいだった。 「……」  仕方ない、と僕は思った。だいたい、この指輪は、もとはあの紳士からもらったものなんだし、欲をつのらせるのはやめよう、と考えた。 「いいですよ、あげます」  ぼくがそういうと、今川焼き屋は 「おお、太っ腹だね、財務大臣! ありがと、ありがたいよ、なにしろ、新しいのはおろか中古だって、その日暮らしの露天商ごときが買える値段でないからね、あんちゃん、恩にきるよ」と手で拝み 「そうだ、あんちゃん、お礼といってはなんだが、この今川焼きもっていきなよ。いますぐ、包むからな、まってくれよ」 と、いいながら、今川焼きの男は指輪を小指にはめている。 「おお。ぴったりだよ、やっぱり、あんたはおれの救世主!」  そしてぼくはそのあと、今川焼きを三十個も持つはめとなった。
今川焼き屋は、指輪に彫られている蛇は何をくわえていると言いましたか?
今川焼き屋は、指輪に彫られている蛇は今川焼きをくわえていると言いました。
JCRRAG_001211
国語
 私の三つの時の七月に母は霍乱で死んだ。それ以来私は祖母の手に育てられた。私のうちには父母の外に祖母と曾祖母がいた。母がなくなってからはこの二人のばばが私を育ててくれたのであるが、就中祖母は我が子のように可愛がってくれた。私も『おばあさん、おばあさん』といってなついていた。夜は床に入ってから寝着くまで祖母の乳を吸うていた。何も出ないのであるがこれを吸わねば寝着かれなかった。牛乳の無かった時代だから定めて私を育てるのに骨が折れたことであろう。  私は悪い癖があった。それは寝ていて糞をたれることで、このために時々夜半に祖母達が大騒ぎをした。その糞騒ぎの真最中に泥棒が這入ったことがあった。これは私の四つか五つの時であった。この賊は私の祖父の所の下部であった。私の父は菱田という家から養子に来たものでこの菱田の主人即ち私の祖父にあたる左近衛門というは、その頃奥の頭役といって、他では奥家老といった役を勤めていた。ここには若党仲間などいくらもいた。その中の一人があに計らんや賊の親玉であって、常に私の家の様子をよく知っていたので、この夜半の騒ぎに乗じて這入ったのであった。彼は以前にも、私の父の同役の勤番の鈴木という内へ宵のうちに行って、そこの下部といろいろ話して、その夜主人が当直だということを知って、忍込み大小や衣類を盗み、それを有馬藩邸に対した横町の裏門の石橋の下へ隠して置いた。この裏門のあった所は、綱坂という坂で、昔渡辺綱が居たという処である。間もなく彼は召捕られて屋敷内の牢屋へ繋がれたが、夜食物の差入口から一つの柱をこわして『牢抜』をした。よほど無理に抜けたと見えて、柱の釘に肉片が附いていた。そんな事にひるまず彼はその足で直ちに私のうちへ忍込んだのであった。盗み出したのは納戸にあった小箪笥で、その中から雑用金と銀金具物などを取り箪笥は屋敷内へ棄てて行った。  そこで藩にも差置けぬというので幕府の捕手の手を借りて召捕ってもらう事にした。もとより公然幕府の手を借りるという事は手数のことだから、ないないで捕手に物をつかって頼んだのであった。かかる者の徘徊するのはまず吉原であるから、捕手は吉原を探っていると、或る青楼の二階へかの男が上がろうとしている所を見つけた。彼は見附かったと知って巧に影を隠した。すると捕手は直ちに品川へ向って、そこの廓で捕えた。北から逃げた者は直ちに南に向うという捕手の見込が中ったのである。そして暫く屋敷の牢屋へ入れて置いたが、やがて牢中で死んだ。
母は「私」がいくつの時に何で死にましたか?
母は「私」が三つの時に霍乱で死にました。
JCRRAG_001212
国語
 本誌の読者は「夫婦百景」の筆者獅子文六が、同時に岩田豊雄であることぐらいはご承知であろう。その夫人静子さんが、急な病いで亡くなられた。四十四歳といえば、まだ人生を終るには早く、夫君が今後ますます多くの傑作を書かねばならぬように、夫人もまた、将来にさまざまな期待と希望とを抱いて、この春を迎えようとしていたにちがいない。  私は岩田君ともっとも親しい友人の一人として、この不幸を正視することができないくらいである。まして、いま、この不幸について公けに語ることは、いかにもその時機でないような気がするのだが、本誌の編集者は、強引に、そして巧妙に私を説き伏せた。私は、一方にためらう自分を励ましながら、すこしでも書くに値する一文を、岩田夫人のために捧げる決心をした。  十五年前、私は、ある神社の会館で行われた岩田夫妻の結婚披露式に列したことをはっきり覚えている。友人を代表するかたちで、私が一席、祝辞を述べることになったのだが、どんなことを喋ったか、それはもうわすれてしまった。しかし、事の序に、新夫人に向って、岩田豊雄なる人物の紹介をちょっぴりしたように思う。たしか、岩田君はわれわれ文筆に従事するもののうちでも、とりわけ気むずかし屋の方に属するけれども、その代りに、彼は、万事に、はなはだ呑みこみがよく、夫人の方で、もしその弱点を巧みに利用されたら、おそらく、極めて御し易い男性となるであろう、というような、警告とも気易めともつかぬ一言であった。
岩田夫妻の結婚披露式はどこで行われましたか。
岩田夫妻の結婚披露式はある神社の会館で行われました。
JCRRAG_001213
国語
 本誌の読者は「夫婦百景」の筆者獅子文六が、同時に岩田豊雄であることぐらいはご承知であろう。その夫人静子さんが、急な病いで亡くなられた。四十四歳といえば、まだ人生を終るには早く、夫君が今後ますます多くの傑作を書かねばならぬように、夫人もまた、将来にさまざまな期待と希望とを抱いて、この春を迎えようとしていたにちがいない。  私は岩田君ともっとも親しい友人の一人として、この不幸を正視することができないくらいである。まして、いま、この不幸について公けに語ることは、いかにもその時機でないような気がするのだが、本誌の編集者は、強引に、そして巧妙に私を説き伏せた。私は、一方にためらう自分を励ましながら、すこしでも書くに値する一文を、岩田夫人のために捧げる決心をした。  十五年前、私は、ある神社の会館で行われた岩田夫妻の結婚披露式に列したことをはっきり覚えている。友人を代表するかたちで、私が一席、祝辞を述べることになったのだが、どんなことを喋ったか、それはもうわすれてしまった。しかし、事の序に、新夫人に向って、岩田豊雄なる人物の紹介をちょっぴりしたように思う。たしか、岩田君はわれわれ文筆に従事するもののうちでも、とりわけ気むずかし屋の方に属するけれども、その代りに、彼は、万事に、はなはだ呑みこみがよく、夫人の方で、もしその弱点を巧みに利用されたら、おそらく、極めて御し易い男性となるであろう、というような、警告とも気易めともつかぬ一言であった。
岩田夫妻の結婚披露式は何年前に行われましたか。
岩田夫妻の結婚披露式は十五年前に行われました。
JCRRAG_001214
国語
 本誌の読者は「夫婦百景」の筆者獅子文六が、同時に岩田豊雄であることぐらいはご承知であろう。その夫人静子さんが、急な病いで亡くなられた。四十四歳といえば、まだ人生を終るには早く、夫君が今後ますます多くの傑作を書かねばならぬように、夫人もまた、将来にさまざまな期待と希望とを抱いて、この春を迎えようとしていたにちがいない。  私は岩田君ともっとも親しい友人の一人として、この不幸を正視することができないくらいである。まして、いま、この不幸について公けに語ることは、いかにもその時機でないような気がするのだが、本誌の編集者は、強引に、そして巧妙に私を説き伏せた。私は、一方にためらう自分を励ましながら、すこしでも書くに値する一文を、岩田夫人のために捧げる決心をした。  十五年前、私は、ある神社の会館で行われた岩田夫妻の結婚披露式に列したことをはっきり覚えている。友人を代表するかたちで、私が一席、祝辞を述べることになったのだが、どんなことを喋ったか、それはもうわすれてしまった。しかし、事の序に、新夫人に向って、岩田豊雄なる人物の紹介をちょっぴりしたように思う。たしか、岩田君はわれわれ文筆に従事するもののうちでも、とりわけ気むずかし屋の方に属するけれども、その代りに、彼は、万事に、はなはだ呑みこみがよく、夫人の方で、もしその弱点を巧みに利用されたら、おそらく、極めて御し易い男性となるであろう、というような、警告とも気易めともつかぬ一言であった。
四十四歳は、何を終えるには早いですか。
四十四歳は、人生を終えるには早いです。
JCRRAG_001215
国語
場所 私は普通のよく居るサラリーマンである。 毎月の給料も貰え、なに不自由なく日々を暮らしている。 しかし私は自分には居場所がないことをよく感じるのだ・・・。 会社で確かに働いてはいるのだが、それも別に私でなければならないというわけでもなく、とって替われる人が居るから別に・・・・。 会社での私の扱いはそんなものであった。 このままでいいのだろうか・・・・。 私以外にもこのようなことで悩んでる人はたくさんいるのだろう。だから仕方ない。 しかし私は仕方ないでこのまま終わらせたくはなかった・・・・。 自分の居場所とはなんだろう。会社で必要とされること?友達や仲間が多いこと?彼女がいること? いくつもの事柄が私の頭の中で、クルクルと回り始める。 考えてみてもどれもしっくり来ない。なぜかどれも違うような気がするのだ・・・。 会社で必要とされれば、確かに嬉しいだろう。 友達や仲間が多ければ、確かに楽しいだろう。
いくつもの事柄が誰の頭の中で、クルクルと回り始めますか?
いくつもの事柄が私の頭の中で、クルクルと回り始めます。
JCRRAG_001216
国語
 ある春の夕、Padre Organtinoはたった一人、長いアビト(法衣)の裾を引きながら、南蛮寺の庭を歩いていた。  庭には松や檜の間に、薔薇だの、橄欖だの、月桂だの、西洋の植物が植えてあった。殊に咲き始めた薔薇の花は、木々を幽かにする夕明りの中に、薄甘い匂を漂わせていた。それはこの庭の静寂に、何か日本とは思われない、不可思議な魅力を添えるようだった。  オルガンティノは寂しそうに、砂の赤い小径を歩きながら、ぼんやり追憶に耽っていた。羅馬の大本山、リスポアの港、羅面琴の音、巴旦杏の味、「御主、わがアニマ(霊魂)の鏡」の歌――そう云う思い出はいつのまにか、この紅毛の沙門の心へ、懐郷の悲しみを運んで来た。彼はその悲しみを払うために、そっと泥烏須(神)の御名を唱えた。が、悲しみは消えないばかりか、前よりは一層彼の胸へ、重苦しい空気を拡げ出した。 「この国の風景は美しい――。」  オルガンティノは反省した。
Organtinoは何を引きながら、南蛮寺の庭を歩いていましたか?
Organtinoは長いアビト(法衣)の裾を引きながら、南蛮寺の庭を歩いていました。
JCRRAG_001217
国語
 ビーズは透明な赤、青、緑、黄の四色。ワイヤーをぐるぐる巻きにしたトンボの眼鏡のような直径一センチほどの目が赤い顔につけられていて、左右の目の位置が上下にずれているから正面から見ると酔っ払ったオヤジだ。太い嘴は青く、数が足りなかったのか赤いビーズがひとつだけ使われている。ずんぐりした胴体に比べて頼りない足。お尻に生えた十数本のワイヤーは長い尾羽。  鳥をもらったのは十年以上前になる。何度か店に来た客で、南アフリカに帰るから記念にと言って渡された。名前は知らない。顔も覚えていないけれど、体つきは鳥に似ていた気がする。  廃業して自宅に持って帰ってきた鳥の尾羽には、たまに洗濯したマイバッグを掛けて干している。尾羽の端が鳴門の渦潮みたいにぐるぐるに巻かれているが、巻いたのは以前同じ建物で商売していた女性だ。彼女とはもうずいぶん連絡をとっていない。子どもが生まれたことはフェイスブックで知った。今のところ巻いた尾羽を伸ばす気はない。
鳥をもらったのは何年以上前ですか?
鳥をもらったのは十年以上前です。
JCRRAG_001218
国語
 私の三つの時の七月に母は霍乱で死んだ。それ以来私は祖母の手に育てられた。私のうちには父母の外に祖母と曾祖母がいた。母がなくなってからはこの二人のばばが私を育ててくれたのであるが、就中祖母は我が子のように可愛がってくれた。私も『おばあさん、おばあさん』といってなついていた。夜は床に入ってから寝着くまで祖母の乳を吸うていた。何も出ないのであるがこれを吸わねば寝着かれなかった。牛乳の無かった時代だから定めて私を育てるのに骨が折れたことであろう。  私は悪い癖があった。それは寝ていて糞をたれることで、このために時々夜半に祖母達が大騒ぎをした。その糞騒ぎの真最中に泥棒が這入ったことがあった。これは私の四つか五つの時であった。この賊は私の祖父の所の下部であった。私の父は菱田という家から養子に来たものでこの菱田の主人即ち私の祖父にあたる左近衛門というは、その頃奥の頭役といって、他では奥家老といった役を勤めていた。ここには若党仲間などいくらもいた。その中の一人があに計らんや賊の親玉であって、常に私の家の様子をよく知っていたので、この夜半の騒ぎに乗じて這入ったのであった。彼は以前にも、私の父の同役の勤番の鈴木という内へ宵のうちに行って、そこの下部といろいろ話して、その夜主人が当直だということを知って、忍込み大小や衣類を盗み、それを有馬藩邸に対した横町の裏門の石橋の下へ隠して置いた。この裏門のあった所は、綱坂という坂で、昔渡辺綱が居たという処である。間もなく彼は召捕られて屋敷内の牢屋へ繋がれたが、夜食物の差入口から一つの柱をこわして『牢抜』をした。よほど無理に抜けたと見えて、柱の釘に肉片が附いていた。そんな事にひるまず彼はその足で直ちに私のうちへ忍込んだのであった。盗み出したのは納戸にあった小箪笥で、その中から雑用金と銀金具物などを取り箪笥は屋敷内へ棄てて行った。  そこで藩にも差置けぬというので幕府の捕手の手を借りて召捕ってもらう事にした。もとより公然幕府の手を借りるという事は手数のことだから、ないないで捕手に物をつかって頼んだのであった。かかる者の徘徊するのはまず吉原であるから、捕手は吉原を探っていると、或る青楼の二階へかの男が上がろうとしている所を見つけた。彼は見附かったと知って巧に影を隠した。すると捕手は直ちに品川へ向って、そこの廓で捕えた。北から逃げた者は直ちに南に向うという捕手の見込が中ったのである。そして暫く屋敷の牢屋へ入れて置いたが、やがて牢中で死んだ。
糞騒ぎの真最中に這入ったのは誰で、これは「私」がいくつの時でしたか?
糞騒ぎの真最中に泥棒が這入ったことがあり、これは私の四つか五つの時でした。
JCRRAG_001219
国語
それからそれがどうなったのか…… それは僕には分らなかった とにかく朝霧罩めた飛行場から 機影はもう永遠に消え去っていた。 あとには残酷な砂礫だの、雑草だの 頬を裂るような寒さが残った。 ――こんな残酷な空寞たる朝にも猶 人は人に笑顔を以て対さねばならないとは なんとも情ないことに思われるのだったが それなのに其処でもまた 笑いを沢山湛えた者ほど 優越を感じているのであった。 陽は霧に光り、草葉の霜は解け、 遠くの民家に鶏は鳴いたが、 霧も光も霜も鶏も みんな人々の心には沁まず、 人々は家に帰って食卓についた。   (飛行機に残ったのは僕、   バットの空箱を蹴ってみる) 注:バット…たばこの銘柄の名称 以上は、中原中也(1907-1937)の死後刊行された詩集『在りし日の歌』より「青い瞳 2 冬の朝」を抜粋したものである。なお、抜粋するにあたって旧かなづかいを現代かなづかいに改めている。
残酷な空漠たる朝においても優越を感じているのは誰ですか。
残酷な空漠たる朝においても優越を感じているのは、笑いを沢山湛えた者です。
JCRRAG_001220
国語
経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。勿論、普通には経験という語の意義が明に定まっておらず、ヴントの如きは経験に基づいて推理せられたる知識をも間接経験と名づけ、物理学、化学などを間接経験の学と称している(Wundt, Grundriss der Psychologie, Einl. §I)。しかしこれらの知識は正当の意味において経験ということができぬばかりではなく、意識現象であっても、他人の意識は自己に経験ができず、自己の意識であっても、過去についての想起、現前であっても、これを判断した時は已すでに純粋の経験ではない。真の純粋経験は何らの意味もない、事実其儘の現在意識あるのみである。
直接経験と同一なのは何ですか?
直接経験と同一なのは、純粋経験です。
JCRRAG_001221
国語
 えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私を居堪らずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。    何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、土塀が崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるような向日葵があったりカンナが咲いていたりする。
私の心を始終圧えつけていたのは何ですか?
私の心を始終圧えつけていたのは、えたいの知れない不吉な塊です。
JCRRAG_001222
国語
次の日、小雨がふっていたが、ぼくは例のリッチな紳士の家にクーラーボックスを届けることにした。ぼくは、そのかさばるボックスを水道できれいに洗い、椅子や竿もまとめ、自転車に積んでいった。  お礼、という誘惑があった。たしか紳士はそういっていた。  名刺の住所は高級住宅地で、ぼくの家からは、5キロほどのところであった。K市は東京には快速で一時間以内にいけるという利便さよりも、閑静な丘陵地のシックな落ち着いた住宅街ということで、古今とわず人気のある土地であった  ぼくが紳士の家をスマホのナビで探し、呼び鈴を押すと、お手伝いらしき女性がでてきた。 「だんな様よりうかがっています」 といって、釣り道具をあずかるという。彼は予測していたとおり、不在らしい。まあ、ウイークデイにふらふらしているのは、ぼくみたいな、ニートだけだろうな。  多分捨ててしまっただろう、と思ったが、虫の入っていたタッパーはないか、念のため聞くと、お手伝いさんは、首をかしげながらいったん中に引っ込み、長いあいだかかり、もう、忘れられたんじゃないか、と思うころやっと出てきた。 「虫がさなぎになっているので、このまま預からせてくださいとのことです」  どうやら、紳士に電話で聞いたらしい。それにしてもあいつがさなぎになったとはね、ぼくはちょっぴり感心した。ガッツがあるな、と見直した。魚に食われるまえに、変化するとは……。  一寸の虫にも五分の魂だな。 「到来物で失礼とは存じますが、これをお持ちください、だんな様の言伝でございます」  といってワインをさしだした。  ぼくはのけぞった。お金持ちは違うなあ、本当に。ラベルは判読不可能だが、わずかに読める文字で推察するに、フランスのなんちゃらブルゴーとかだった。ぼくはありがたく頂戴することにした。  所得の再分配だ! 貧しきものに光を、と心で唱えながら、自転車で家にもどった。マリネをさかなに乾杯しよう。 「芋虫くんに、乾杯!」  いや待てよ。ぼくはワインの栓を抜くのをやめた。とりあえず、土曜日まで温存しよう。土曜日はあの娘と会える予定だし……ぼくは本当にわらしべ長者になった気分であった。芋虫がワインに、だしな。  土曜日、待ち合わせの時刻に行くと、彼女はもう来ていた。会場はマニアらしい人でごったがえし、予想していたよりも混雑している。圧倒的に男性が多いことに気づく。 「叔父がそのマニアなんです」  彼女は券の出所を説明する。 「叔父の本職は公務員なんですが、蝶々のこととなると、寝食をわすれ、山でもジャングルでも南極でも行ってしまうんです。あら、南極には蝶はいないかしら? つまり、どのマニアも新種を見つけたいし、あいにく新種はめったにみつからないみたいですよ」  展示してある蝶々は美しかった 。白いパネルに剥製となって、静止している蝶の、燐粉の美しさはどんな絵の具でも表現できないだろう。一見地味な色あいでも、紋というのであろうか、模様の神秘に、息をのんでしまう。捕獲する鳥を驚かせる目的の、目のような模様も、ため息をついてしまう美しさであった。小魔女に見せられた彼らのように、とりこになり、地の果てでも追っていきたくなる、 男の習性をかい間見た気がした。
ぼくが呼び鈴を押すと誰が出てきましたか?
ぼくが呼び鈴を押すとお手伝いらしき女性が出てきました。
JCRRAG_001223
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前線都市 AfterNotes 第1章 重峰イノリという機構について 第1章 第1節「Prologue」    彼らは、よく晴れた夏の日に訪れた。  かつて日本と呼ばれていた島国の、工業地帯が広がる田舎町。その中央に、突如として地下深くまで続く大穴が開いたのだ。地盤沈下か、あるいは埋め立て工事の際に欠陥があったのかと、政府が調査計画を立て始めたころ。彼らはずるりと穴の中から這い出した。  怪物らしさはそのままに輪郭だけ人間に似せたような歪な容姿。おぞましい呻き声。人知を超えた異能力。なにより、手当たり次第にヒトを食い荒らす凶悪性。  その「外敵」を恐れた人々は現代科学の総力を上げてとある「生体兵器」を作り出し、外敵諸共封じ込めるという策を打ち出した。  故にこの町は、こう呼ばれる。 ――前線都市、と。 第1章 第2節「重ね重ねて、祈り奉る」  まだ朝日が昇り切る前の薄暗い寝室で、重峰イノリは目を覚ました。空色の瞳がぱちり、ぱちりと数回瞬いて現状を把握する。それからゆっくりと身を起こし、ベッドサイドに置かれていた円筒形の無骨な器具に手を伸ばす。彼はその底面を自身の首筋に押し当てると、指先で軽くボタンを押し込んだ。 かしゅ、という軽い音とともに、首に当てていた部分から突き出た針が皮膚を貫く。そのまま数秒経って器具のランプが点滅するのを確認し、彼は無造作にそれを引き抜いた。器具には止血剤の塗布と針の消毒を自動で行う機能が搭載されており、傷口からは一滴の血も流れていない。  イノリは静かに目を伏せる。頭蓋内の魔力管制デバイスが反応し様々な情報を脳裏に提示し始めるが、彼はそのひとつひとつを適切に処理しつつ、最後にこう結論付けた。 ――身体機能および魔力回路、双方に異常なし。  簡単に着替えを済ませ、カソックの上着とストラを腕に抱えたまま部屋を出る。リビングのソファにそれらを掛けて、イノリはまっすぐに聖堂を目指した。居住棟と教会は重い扉一枚に隔てられていて、開けばすぐに古めかしくも荘厳な聖堂に繋がっている。彼の朝はまず聖堂内の清掃と礼拝から始まるのが常だった。その様は、まるで熱心な信徒のようだろう。しかし実のところ彼のこの習慣は信仰心に拠るものではなく、自身が所有する魔術の精度と効果を強めるための儀式でしかない。  無人の聖堂で、既に暗記している誓言をあえて聖書片手に読み上げる。形ばかり繕ったままごとのようなそれを、指摘するものはこの町に誰ひとりとしていない。何故なら彼らにとって神に等しいその存在は、天上ではなく脳に埋め込まれたデバイスを通して、彼らを監視しているのだから。  「……なればこそ偉大なりし我らが母、大いなる戦神クレィアの導きに従いて、遍く外敵を討ち滅ぼさん」   最後の一節を唱え終え、ぱたんと聖書を閉じる。柱時計は午前7時過ぎを示していた。寝起きの悪い同居人はまだ布団の中にいる時間だが、朝食の準備を始めるには丁度いい頃合いだろう。そう当たりを付けて、イノリは聖堂の正面扉の錠を外し居住棟へと戻る。しかしリビングには、意外にも既に人影があった。  「おっと。――今日は随分と早いね、ミコト」  「好きで起きたわけではない。あまりにも喧しくて、寝ていられなかった」  ミコト、と呼ばれた青年は不機嫌そうに欠伸混じりにそう言った。桔梗色の瞳はまだ眠たげに瞬きを繰り返していて、イノリは小さく苦笑した。ある程度防音の効いた聖堂にいたとはいえ、騒音の類は彼の耳に届いていない。つまりはミコトを目覚めさせたのは物理的な音の波ではなく、魔力が激しく衝突し合う気配なのだろう。生命としての肉体を持たず、魔力の集合体である「魔術式」の彼は、性質上そういったものに敏感だった。  「この近くで戦闘になるのは珍しいな。討伐?」  「……外敵はE級とD級が5体ずつ、Cが1体。東地区の連中が迎撃している」  「東。――あぁ、大鏡隊長か」  「あれが出てくると他以上に騒々しい。迷惑だ」 ソファの背もたれに身を預けた拍子に、ミコトの長い白髪がさらりと揺れる。それを横目にイノリはシャツの袖口を捲りつつ簡易的なキッチンに入ると、背中越しに声をかけた。  「それはまた災難だったね。珈琲でも淹れようか?」  「……温かいものなら」  「了解」 イノリはミル式のコーヒーメーカーに豆をセットして、知り尽くしているミコト好みの味に合わせて豆の挽き具合を設定する。生き物の身体構造とは根本的に異なるミコトは、食べ物からの栄養補給を必要とせず自ら食事を摂ることもない。そんな彼が唯一好んで口にする珈琲には少しだけ手間をかけるのが、イノリの密かな習慣となっていた。 自身は配給品のパンとレーションを咀嚼しながら、珈琲が淹れ終わるのを待つ。  その時、イノリの首にかけられていた白銀のロザリオが小さく点滅した。  「……」  「……」 二人は思わず顔を見合わせる。尚も点滅を繰り返しているロザリオに彼は渋々といった仕草で指先を伸ばし、とん、と一度触れて呟く。  「応答」 途端、平坦な機械音声が室内に響く。同時に空中に浮かび上がった半透明の操作ウィンドウには、地図と男性の顔写真、そして簡素なプロフィールが表示されていた。  『No。38645およびNo。24875を規律違反者と認定。至急捜索および排除を実行してください』  「――命令を承認」  応えながら、彼はコーヒーメーカーの一時停止ボタンを押す。背後では面倒臭そうに立ち上がったミコトがふわりと宙に浮かんでいた。その腕には、置いたままにしていた上着とストラが抱えられている。それらを受け取って服装を正し、イノリは小首を傾げてこう言った。  「とりあえずは、豆の抽出が始まる前で良かったね」
イノリは誰好みの味に合わせて豆の挽き具合を設定しましたか?
イノリはミコト好みの味に合わせて豆の挽き具合を設定しました。
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 祖父は、私が少し大きくなってからはとんともう錦絵をくれぬようになった。私はこれをひどく淋しく思っていたが、祖父は在番が終って藩地へ帰る時に、特に買ってくれたのが右の保元平治物語の十冊揃いである。  それから私は仮名ややさしい漢字がわかるようになって、盛衰記や保元平治物語を拾い読みした。これは八つか九つの頃であった。日本の歴史を知った端緒は実にこの二書であった。  草双紙も好んだが、これは私のうちには無かった。隣の間室という家に草双紙を綴じ合わせたのがあったのを、四つか五つの頃からよく遊びに行って見ることにしていた。この家も常府であったが、藩地に帰る時に、私が好きだからというのでその草双紙を私にくれて行った。その後はそこにあったものの外の草双紙もよその家へ行ってよく借りて読んだ。草双紙は仮名ばかりだから、大概ひとりで読めた。私の内では父が古戦記を見せることは奨励したが、草双紙を見せることは好まなかった。当時の江戸の女たちは皆草双紙を大変に好んだものであったが、うちの二人の祖母もまた継母も田舎出で、そういう趣味がなかった。  しかし私の実母は、死ぬ少し前に、始めて猿若の芝居を見た。三代目中村歌右衛門の血達磨で、母が江戸へ出て来て始めてこの大芝居を見たのであった。その頃大概の芝居は直きに草双紙になって出た。母はそれを買って愛読していた。それで死んだ時に、祖母は母の棺へこの血達磨の草双紙を入れてやったと後に聞いた。かつて私のうちにただ一部あった草双紙はこうして亡き母のお伽に行ってしまった。  継母も始めて田舎から出て来たものだから、一度は芝居を見せねばならぬというので、うちに嫁した年、即ち私の六つの年に、猿若二丁目の河原崎座を見せた。その時継母が持って帰った、番附や鸚鵡石を後に見ると、その時の狂言は八代目団十郎の児雷也であった。この時継母と同行したのは山本の家族であった。それから母にのみ見せて祖母などに見せないのは気の毒だというので、父は大奮発して、更に曾祖母と祖母を見せにやった。私はその時ついて行った。これが私の芝居見物の始まりであった。同伴したのは心安い医者などや、上屋敷にいた常府の婆連で、桝を二つほど買切って見た。
父は何を見せることは奨励しましたが、何を見せることは好みませんでしたか?
父は古戦記を見せることは奨励しましたが、草双紙を見せることは好みませんでした。
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展示施設の中ほどにショーケースのような四方をアクリル板で囲った、スペースがあり、その中に生きている蝶が乱舞していた。  ケースには特殊な加工がしてあり、こちらからは蝶がみられるが、蝶からは外が見えず、まるで森のなかにいるように、ありのままの姿で舞う姿が観察されます、という説明書きがあった。この展示会の一番の目玉なのだろう。 「きれい!」  彼女が小走りで近寄った。  腕の部分だけ透ける水色のブラウスを着た彼女は、軽やかに舞う蝶にも見える。ぼくは思わず見とれてしまった。  ああ、それにしてもさえない自分をさらに感じてしまう。こっちは五百円玉大のはげもあるし、さえないニートだ。彼女はどうしてぼくを誘ったのだろう? ぼんやりしながら、彼女を目で追っていた。  水槽のような五メートル四方ぐらいの、角柱形の外側は、美しい光景を観察している人が十数人いたが、ぼくは、ふと気になるものを見つけ、人のあいだを縫って近寄った。蝶が輪舞するショウギャラリーには本物の木の枝を配置してあるが、そこに幼虫であろう芋虫がいた。  大きさも色も、ぼくの家の庭の芋虫に酷似している。 「え?」  あの芋虫は、これと同じモノなのか? この珍しい品種の蝶が自分の家の庭にいるのだろうか? 彼女が近寄ってきた。 「ねえ、これと同じようなのが、わんさか、ぼくの家にいるんだけど?」 「ま、まさか、これって、すごく希少な蝶みたいよ?」  彼女は説明の書かれたプレートを指差す。 「そうだよね、でも、たくさんいて、この幼虫はよく見るし、この蝶もさ、あたりまえのように、敷地を飛んでいるし」 「そうだったら、なんかそれって凄いことみたいに思うの。これから、行ってみたい、いいかしら?」 「そりゃ、全然かまわないけど」  かまわないけど、金がない、とはいえず、言葉を飲み込んだ。ぼくはここまで自転車で一時間ちょいかけてきたのだ。  電車賃がないなんて、どうして言える? 彼女をあの市電に案内すれば、自分の運賃ぐらいはなんとかなるだろうが。 「話が決まったたら、行きましょう」  彼女はぼくの手を握って、蝶々の展示場から飛び出す。そしてエレベーターを使い、地下の駐車場に導いた。 「あたし、勘だけはいいのよね、どうぞ、乗って。君のお宅までこの車で行きましょう」 「はあ、」  ぼくは指し示された助手席に乗った。彼女の車は赤いワーゲン・ゴルフだった。 「勘って、どういう意味?」  ぼくは車がパーキングから的確にかつ迅速に飛び出したあとたずねた。 「勘、ていうか、今日はなんとなく車のほうが、いいかな……っていう考えが頭にわくと、素直に従うっていうことよ」 「はあ、で、ゴルフですか」 「ああ、これ?」彼女は笑った。 「父が心配性でね。車体が頑丈であればあるほど、事故にあわないと考えているの。お金を出してもらうわけだから、わたしは文句いえないわよね」  彼女はぼくの家の住所を聞いた。そしてそれを音声でナビに伝える。車はさすがに堅実な走りを見せた。 「君の家のことは、お母さまからいろいろ聞いているの。お母さまは婿取りをした、といっていたわ、なんでも江戸時代から、その家の当主はその家にしか生息しない蝶を、守る家系だとか、そういっていたわ」  彼女はぼくにそういった。 「……母はそう見えないけど、認知症だから」  話の信憑性の問題だ。 「そうかもしれないけど、過去の記憶ほど鮮明である、ということを考えると、まんざら妄想とは思えなくてね」 「そうですか」  ぼくは、なんで彼女がぼくを誘ったか、納得した。蝶のことか。そうだったのか、叔父さんとやらのためか。 「むしろ、わたしなんかより叔父が来られればいいな、と思うの。でも今は、南米のほうへいっているはずなのよね」 ほらな。 「ああ、なるほど」 「でも、電話すればふっとんでくるかも」 「え?」  ぼくは思いがけない展開にびびって萎縮していた。これではさらに漫画かドラマみたいではないか? 車のなかで、彼女はぼくの家の敷地内のことについて尋ねる。 「そうなのね、きっと君の家って、四方を谷にかこまれているし、あの幼虫が蝶になって限られたエリアにとどまっているのかもしれないわ」 「……」  土曜日ということで、渋滞があり、市電よりはかなり時間がかかって、ぼくの家についた。彼女は驚いたように、 「やだ、うちからそんなに遠くないところだわ」  と言った。やだ、といいながらも、うれしそうだったので意外だった。周りを背の高い防風林でかこまれたぼくの家は、こう見ると、ひとつの城のようでもあった。  蝶はこの高さを乗り越えられないのかもしれない。  車から降りた彼女はぼくがさししめす木を、目を皿にして見ていた。しかし、幼虫はまったく、これでもかというほど、一匹もいなかった。  さなぎになってしまったのか、成虫になり飛んでいったのか、あんなにうじゃうじゃいたのに、ぼくはまるで自分のいったことが大嘘だと、思われるようで、必死で弁解した。 「変だなあ、あんなにわんさかいたのに」 「……」  彼女は怒ったのだろうか? ひとりで、あちこち見ながら写真をとったり、上を見上げたりしている。  ぼくは自分の人生が突然に終わったと感じた。あのリッチ紳士に幼虫をあげなければよかった。そうだ、あのときに返してもらえば……  やにわに彼女が電話をする。ハローとかいっているので国際電話なのか、やがて「はい、そうします」といっているのが聞こえる、 「ねえ、さなぎないかしら?」 「さなぎですね、お嬢様。」ぼくは、条件反射で、浄水器のセールスの口調になってしまった。 「さなぎさえあれば、飼育箱で保存しながら、羽化がみられるでしょう。叔父はこれからすぐコスタリカを発って、戻るというの。さなぎがひとつでもあればいいんだけど」 「ひとつ、人より力もち……」などと、ぼくは相当混乱していた。  さなぎ様! どこにいらっしゃいますか!  ここでさなぎがなければ、ぼくの人生はおしまいである。おしまい、彼女は怒って帰り、ぼくはまたひとりで釣り。魚のくいつきのいい幼虫くんもいないし! 「あ!」ぼくは叫んだ。 「さなぎ、あります。さなぎあるんです。このまえのリッチ紳士の家に」 「……リッチ紳士?」 「そう、あの、ここから自転車で少しいったところの高級住宅地に、 お金のある人の家に、あるんです」  そうだった。なんてぼくはラッキーなんだ。  だが、自転車! ぼくはあのカルチャーセンターにおいてきてしまった。自転車がないのだ。なんて不幸なんだ。天国と地獄だ。  泣く泣く、そのおおまかな場所と苗字をしどろもどろにいうと、彼女はおなかをかかえて笑いだした、 「そこ、私の家よ! そのリッチ紳士って父のことなのね! なんて不思議! 偶然ってあるのね」  と彼女はいうと、ぼくが口を開く前に車に飛び乗り、あっという間に出て行った。土煙だけもうもうと上がる。
ぼくの母は彼女に、ぼくの家の当主はどんな家系だといっていましたか?
ぼくの母は彼女に、ぼくの家の当主はその家にしか生息しない蝶を、守る家系だといっていました。
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 私の生れたのは弘化四年四月十五日であった。代々伊予松山藩の士で、父を内藤房之進同人といった。同人とは妙な名であるが、これは易の卦から取ったのである。母は八十といった。私は長男で助之進といった。その頃父は家族を携えて江戸の藩邸に住んでいたので、私はこの江戸で産声をあげたのであった。幕府の頃は二百六十大名は皆参勤交代といって、一年は江戸に住み次の一年は藩地に住んだ。そして大名の家族は江戸に住んでいた。それに準じて家来も沢山江戸藩邸に居た。その中で単身国許から一年交代で勤めに出るのもあり、また家族を引連れて、一年交代でなく或る時期まで江戸藩邸に住むのもあった。前者を勤番といい、後者を常府といった。私の父は弘化三年の冬にこの常府を命ぜられ、松山から引越して江戸へ出た、その翌年に私が生れたのであるから、私は松山でたねを下ろされ、腹の中にかがまりながら海陸二百五十里を来て江戸でこの世に出たのである。  大名の屋敷はその頃上屋敷中屋敷下屋敷と三ヶ所に分って構えたもので、私の君侯の上屋敷は芝愛宕下にあり、中屋敷は三田一丁目にあり、下屋敷は深川や目黒や田町などにあった。この中屋敷で私は生れたのである。ちょうど今の慶応義塾の北隣の高台で、今はいろいろに分割されているが、あの総てが中屋敷であった。慶応義塾の下に春日神社が今でもあるが、あれが、私の産土神で、あの社へお宮参りもしたのであった。  私の幼時の記憶の最も古いのは、何でも二つか三つ頃に溝へ落っこちた事である。私どもの住んでいた小屋は藩から立てられたもので、勤番小屋、常府小屋に区別され各役相応の等差があった。私の父は側役といって、君侯のそばで用を弁じる者即ち小姓の監督をし、なお多少君侯に心添えもするという役で、外勤めの者の頭分というのと同等に待遇されていた。故にその身分だけの小屋を貰っていたが、或る時、私の母の弟で、交野金兵衛といって、同じく常府で居たものが、私を連れて外出しようとした。家の門の前に溝があって、石橋がかかっていた。交野の叔父は私の手を引いてそこを渡ろうとした。すると私は独りで渡るといい張った。叔父も若かったから、それならといって離した。私はヨチヨチ渡りかけたと思うと真逆様に溝へ落ちた。小便もし、あらゆる汚ない物を流す真黒な溝であった。私は助け上げ家に入れられて、着物を脱がせられるやら、湯をあびせられるやら大騒ぎであった。どうもその時の汚なさ臭さ苦しさは今でも記憶している。
幕府の頃の二百六十大名は、一年はどこに住み次の一年はどこに住みましたか。
幕府の頃の二百六十大名は皆参勤交代といって、一年は江戸に住み、次の一年は藩地に住みました。
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 私の生れたのは弘化四年四月十五日であった。代々伊予松山藩の士で、父を内藤房之進同人といった。同人とは妙な名であるが、これは易の卦から取ったのである。母は八十といった。私は長男で助之進といった。その頃父は家族を携えて江戸の藩邸に住んでいたので、私はこの江戸で産声をあげたのであった。幕府の頃は二百六十大名は皆参勤交代といって、一年は江戸に住み次の一年は藩地に住んだ。そして大名の家族は江戸に住んでいた。それに準じて家来も沢山江戸藩邸に居た。その中で単身国許から一年交代で勤めに出るのもあり、また家族を引連れて、一年交代でなく或る時期まで江戸藩邸に住むのもあった。前者を勤番といい、後者を常府といった。私の父は弘化三年の冬にこの常府を命ぜられ、松山から引越して江戸へ出た、その翌年に私が生れたのであるから、私は松山でたねを下ろされ、腹の中にかがまりながら海陸二百五十里を来て江戸でこの世に出たのである。  大名の屋敷はその頃上屋敷中屋敷下屋敷と三ヶ所に分って構えたもので、私の君侯の上屋敷は芝愛宕下にあり、中屋敷は三田一丁目にあり、下屋敷は深川や目黒や田町などにあった。この中屋敷で私は生れたのである。ちょうど今の慶応義塾の北隣の高台で、今はいろいろに分割されているが、あの総てが中屋敷であった。慶応義塾の下に春日神社が今でもあるが、あれが、私の産土神で、あの社へお宮参りもしたのであった。  私の幼時の記憶の最も古いのは、何でも二つか三つ頃に溝へ落っこちた事である。私どもの住んでいた小屋は藩から立てられたもので、勤番小屋、常府小屋に区別され各役相応の等差があった。私の父は側役といって、君侯のそばで用を弁じる者即ち小姓の監督をし、なお多少君侯に心添えもするという役で、外勤めの者の頭分というのと同等に待遇されていた。故にその身分だけの小屋を貰っていたが、或る時、私の母の弟で、交野金兵衛といって、同じく常府で居たものが、私を連れて外出しようとした。家の門の前に溝があって、石橋がかかっていた。交野の叔父は私の手を引いてそこを渡ろうとした。すると私は独りで渡るといい張った。叔父も若かったから、それならといって離した。私はヨチヨチ渡りかけたと思うと真逆様に溝へ落ちた。小便もし、あらゆる汚ない物を流す真黒な溝であった。私は助け上げ家に入れられて、着物を脱がせられるやら、湯をあびせられるやら大騒ぎであった。どうもその時の汚なさ臭さ苦しさは今でも記憶している。
君侯の上屋敷と中屋敷はそれぞれどこにありましたか?
君侯の上屋敷は芝愛宕下にあり、中屋敷は三田一丁目にありました。
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 私の生れたのは弘化四年四月十五日であった。代々伊予松山藩の士で、父を内藤房之進同人といった。同人とは妙な名であるが、これは易の卦から取ったのである。母は八十といった。私は長男で助之進といった。その頃父は家族を携えて江戸の藩邸に住んでいたので、私はこの江戸で産声をあげたのであった。幕府の頃は二百六十大名は皆参勤交代といって、一年は江戸に住み次の一年は藩地に住んだ。そして大名の家族は江戸に住んでいた。それに準じて家来も沢山江戸藩邸に居た。その中で単身国許から一年交代で勤めに出るのもあり、また家族を引連れて、一年交代でなく或る時期まで江戸藩邸に住むのもあった。前者を勤番といい、後者を常府といった。私の父は弘化三年の冬にこの常府を命ぜられ、松山から引越して江戸へ出た、その翌年に私が生れたのであるから、私は松山でたねを下ろされ、腹の中にかがまりながら海陸二百五十里を来て江戸でこの世に出たのである。  大名の屋敷はその頃上屋敷中屋敷下屋敷と三ヶ所に分って構えたもので、私の君侯の上屋敷は芝愛宕下にあり、中屋敷は三田一丁目にあり、下屋敷は深川や目黒や田町などにあった。この中屋敷で私は生れたのである。ちょうど今の慶応義塾の北隣の高台で、今はいろいろに分割されているが、あの総てが中屋敷であった。慶応義塾の下に春日神社が今でもあるが、あれが、私の産土神で、あの社へお宮参りもしたのであった。  私の幼時の記憶の最も古いのは、何でも二つか三つ頃に溝へ落っこちた事である。私どもの住んでいた小屋は藩から立てられたもので、勤番小屋、常府小屋に区別され各役相応の等差があった。私の父は側役といって、君侯のそばで用を弁じる者即ち小姓の監督をし、なお多少君侯に心添えもするという役で、外勤めの者の頭分というのと同等に待遇されていた。故にその身分だけの小屋を貰っていたが、或る時、私の母の弟で、交野金兵衛といって、同じく常府で居たものが、私を連れて外出しようとした。家の門の前に溝があって、石橋がかかっていた。交野の叔父は私の手を引いてそこを渡ろうとした。すると私は独りで渡るといい張った。叔父も若かったから、それならといって離した。私はヨチヨチ渡りかけたと思うと真逆様に溝へ落ちた。小便もし、あらゆる汚ない物を流す真黒な溝であった。私は助け上げ家に入れられて、着物を脱がせられるやら、湯をあびせられるやら大騒ぎであった。どうもその時の汚なさ臭さ苦しさは今でも記憶している。
大名は皆参勤交代の際、江戸と藩地にそれぞれ何年住みましたか。
大名は参勤交代の際、一年は江戸に住み、次の一年は藩地に住みました。
JCRRAG_001229
国語
 私の三つの時の七月に母は霍乱で死んだ。それ以来私は祖母の手に育てられた。私のうちには父母の外に祖母と曾祖母がいた。母がなくなってからはこの二人のばばが私を育ててくれたのであるが、就中祖母は我が子のように可愛がってくれた。私も『おばあさん、おばあさん』といってなついていた。夜は床に入ってから寝着くまで祖母の乳を吸うていた。何も出ないのであるがこれを吸わねば寝着かれなかった。牛乳の無かった時代だから定めて私を育てるのに骨が折れたことであろう。  私は悪い癖があった。それは寝ていて糞をたれることで、このために時々夜半に祖母達が大騒ぎをした。その糞騒ぎの真最中に泥棒が這入ったことがあった。これは私の四つか五つの時であった。この賊は私の祖父の所の下部であった。私の父は菱田という家から養子に来たものでこの菱田の主人即ち私の祖父にあたる左近衛門というは、その頃奥の頭役といって、他では奥家老といった役を勤めていた。ここには若党仲間などいくらもいた。その中の一人があに計らんや賊の親玉であって、常に私の家の様子をよく知っていたので、この夜半の騒ぎに乗じて這入ったのであった。彼は以前にも、私の父の同役の勤番の鈴木という内へ宵のうちに行って、そこの下部といろいろ話して、その夜主人が当直だということを知って、忍込み大小や衣類を盗み、それを有馬藩邸に対した横町の裏門の石橋の下へ隠して置いた。この裏門のあった所は、綱坂という坂で、昔渡辺綱が居たという処である。間もなく彼は召捕られて屋敷内の牢屋へ繋がれたが、夜食物の差入口から一つの柱をこわして『牢抜』をした。よほど無理に抜けたと見えて、柱の釘に肉片が附いていた。そんな事にひるまず彼はその足で直ちに私のうちへ忍込んだのであった。盗み出したのは納戸にあった小箪笥で、その中から雑用金と銀金具物などを取り箪笥は屋敷内へ棄てて行った。  そこで藩にも差置けぬというので幕府の捕手の手を借りて召捕ってもらう事にした。もとより公然幕府の手を借りるという事は手数のことだから、ないないで捕手に物をつかって頼んだのであった。かかる者の徘徊するのはまず吉原であるから、捕手は吉原を探っていると、或る青楼の二階へかの男が上がろうとしている所を見つけた。彼は見附かったと知って巧に影を隠した。すると捕手は直ちに品川へ向って、そこの廓で捕えた。北から逃げた者は直ちに南に向うという捕手の見込が中ったのである。そして暫く屋敷の牢屋へ入れて置いたが、やがて牢中で死んだ。
「私」のうちにいたのは父母の外に誰と誰ですか?
「私」のうちには父母の外に祖母と曾祖母がいました。
JCRRAG_001230
国語
 一体この頃の刑法は、別に明文は無く、幕府及び諸藩では皆前例によって刑罰を与えていた。盗賊でも取った金額が多いかあるいは強盗であると、死刑に処するという事になっていた。かの賊も十分死刑にあたるものであったが、死刑にするとなると藩邸で殺す事は出来ない。是非とも幕府の仕置場即ち鈴ヶ森か小塚ッ原でせねばならぬ。これは大変に手数がかかる事だから大抵は牢屋で毒を一服飲ませて殺したものである。かの賊の死んだのもやはりこの一服で死んだのであった。その男は梅とかいう者であったと覚えている。  重犯などでなくちょっとした盗みなどをした仲間下部などは、一日か二日後手に縛って、邸内の人の立集う所にさらして置き、十分諸人に顔を見知らせた上で、『門前払い』即ち追払ってしまう例である。私も度々この『さらしもの』を見たことであった。  五歳の冬に私は上下着をした。小さな上下に大小をたばさみ、親類うちなど披露にまわった。上下着をしてからは、小っぽけな体でも屋敷外へ出る時には大小をささねばならなかった。もとよりそれは軽い、玩具のようなものであった。屋敷内では上下を着たり袴をはく時の外は脇差一腰だけをさした。脇差だけは子供同士遊ぶ時でも差さねばならなかった。  私の六つになった年の正月に継母が来た。これを大変珍しいことに思った。この継母は春日という家から来たので、その頃は藩地松山にいたが、おりふしその姉の嫁している山本という家の主人が目付をしていたのが常府を命ぜられて出府したので、それに伴われて来たのである。春日の家とは遠縁であった。従って山本とも知合いであった。まだうちへ嫁して来ないその前年の冬に、私は祖母に伴われて山本の家に行き、もう間もなく母になるべき人に逢った事を覚えている。子供心にも珍らしい改った気がした。
幕府の仕置場はどことどこですか?
幕府の仕置場は鈴ヶ森と小塚ッ原です。
JCRRAG_001231
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 私の三つの時の七月に母は霍乱で死んだ。それ以来私は祖母の手に育てられた。私のうちには父母の外に祖母と曾祖母がいた。母がなくなってからはこの二人のばばが私を育ててくれたのであるが、就中祖母は我が子のように可愛がってくれた。私も『おばあさん、おばあさん』といってなついていた。夜は床に入ってから寝着くまで祖母の乳を吸うていた。何も出ないのであるがこれを吸わねば寝着かれなかった。牛乳の無かった時代だから定めて私を育てるのに骨が折れたことであろう。  私は悪い癖があった。それは寝ていて糞をたれることで、このために時々夜半に祖母達が大騒ぎをした。その糞騒ぎの真最中に泥棒が這入ったことがあった。これは私の四つか五つの時であった。この賊は私の祖父の所の下部であった。私の父は菱田という家から養子に来たものでこの菱田の主人即ち私の祖父にあたる左近衛門というは、その頃奥の頭役といって、他では奥家老といった役を勤めていた。ここには若党仲間などいくらもいた。その中の一人があに計らんや賊の親玉であって、常に私の家の様子をよく知っていたので、この夜半の騒ぎに乗じて這入ったのであった。彼は以前にも、私の父の同役の勤番の鈴木という内へ宵のうちに行って、そこの下部といろいろ話して、その夜主人が当直だということを知って、忍込み大小や衣類を盗み、それを有馬藩邸に対した横町の裏門の石橋の下へ隠して置いた。この裏門のあった所は、綱坂という坂で、昔渡辺綱が居たという処である。間もなく彼は召捕られて屋敷内の牢屋へ繋がれたが、夜食物の差入口から一つの柱をこわして『牢抜』をした。よほど無理に抜けたと見えて、柱の釘に肉片が附いていた。そんな事にひるまず彼はその足で直ちに私のうちへ忍込んだのであった。盗み出したのは納戸にあった小箪笥で、その中から雑用金と銀金具物などを取り箪笥は屋敷内へ棄てて行った。  そこで藩にも差置けぬというので幕府の捕手の手を借りて召捕ってもらう事にした。もとより公然幕府の手を借りるという事は手数のことだから、ないないで捕手に物をつかって頼んだのであった。かかる者の徘徊するのはまず吉原であるから、捕手は吉原を探っていると、或る青楼の二階へかの男が上がろうとしている所を見つけた。彼は見附かったと知って巧に影を隠した。すると捕手は直ちに品川へ向って、そこの廓で捕えた。北から逃げた者は直ちに南に向うという捕手の見込が中ったのである。そして暫く屋敷の牢屋へ入れて置いたが、やがて牢中で死んだ。
「私」の父はどこから養子に来て、また「私」の祖父は誰ですか?
「私」の父は菱田という家から養子に来て、また「私」の祖父は左近衛門です。
JCRRAG_001232
国語
 一体この頃の刑法は、別に明文は無く、幕府及び諸藩では皆前例によって刑罰を与えていた。盗賊でも取った金額が多いかあるいは強盗であると、死刑に処するという事になっていた。かの賊も十分死刑にあたるものであったが、死刑にするとなると藩邸で殺す事は出来ない。是非とも幕府の仕置場即ち鈴ヶ森か小塚ッ原でせねばならぬ。これは大変に手数がかかる事だから大抵は牢屋で毒を一服飲ませて殺したものである。かの賊の死んだのもやはりこの一服で死んだのであった。その男は梅とかいう者であったと覚えている。  重犯などでなくちょっとした盗みなどをした仲間下部などは、一日か二日後手に縛って、邸内の人の立集う所にさらして置き、十分諸人に顔を見知らせた上で、『門前払い』即ち追払ってしまう例である。私も度々この『さらしもの』を見たことであった。  五歳の冬に私は上下着をした。小さな上下に大小をたばさみ、親類うちなど披露にまわった。上下着をしてからは、小っぽけな体でも屋敷外へ出る時には大小をささねばならなかった。もとよりそれは軽い、玩具のようなものであった。屋敷内では上下を着たり袴をはく時の外は脇差一腰だけをさした。脇差だけは子供同士遊ぶ時でも差さねばならなかった。  私の六つになった年の正月に継母が来た。これを大変珍しいことに思った。この継母は春日という家から来たので、その頃は藩地松山にいたが、おりふしその姉の嫁している山本という家の主人が目付をしていたのが常府を命ぜられて出府したので、それに伴われて来たのである。春日の家とは遠縁であった。従って山本とも知合いであった。まだうちへ嫁して来ないその前年の冬に、私は祖母に伴われて山本の家に行き、もう間もなく母になるべき人に逢った事を覚えている。子供心にも珍らしい改った気がした。
「私」が上下着をした時と継母が来た時はそれぞれいつといつですか?
五歳の冬に私は上下着をし、私の六つになった年の正月に継母が来ました。
JCRRAG_001233
国語
 一体この頃の刑法は、別に明文は無く、幕府及び諸藩では皆前例によって刑罰を与えていた。盗賊でも取った金額が多いかあるいは強盗であると、死刑に処するという事になっていた。かの賊も十分死刑にあたるものであったが、死刑にするとなると藩邸で殺す事は出来ない。是非とも幕府の仕置場即ち鈴ヶ森か小塚ッ原でせねばならぬ。これは大変に手数がかかる事だから大抵は牢屋で毒を一服飲ませて殺したものである。かの賊の死んだのもやはりこの一服で死んだのであった。その男は梅とかいう者であったと覚えている。  重犯などでなくちょっとした盗みなどをした仲間下部などは、一日か二日後手に縛って、邸内の人の立集う所にさらして置き、十分諸人に顔を見知らせた上で、『門前払い』即ち追払ってしまう例である。私も度々この『さらしもの』を見たことであった。  五歳の冬に私は上下着をした。小さな上下に大小をたばさみ、親類うちなど披露にまわった。上下着をしてからは、小っぽけな体でも屋敷外へ出る時には大小をささねばならなかった。もとよりそれは軽い、玩具のようなものであった。屋敷内では上下を着たり袴をはく時の外は脇差一腰だけをさした。脇差だけは子供同士遊ぶ時でも差さねばならなかった。  私の六つになった年の正月に継母が来た。これを大変珍しいことに思った。この継母は春日という家から来たので、その頃は藩地松山にいたが、おりふしその姉の嫁している山本という家の主人が目付をしていたのが常府を命ぜられて出府したので、それに伴われて来たのである。春日の家とは遠縁であった。従って山本とも知合いであった。まだうちへ嫁して来ないその前年の冬に、私は祖母に伴われて山本の家に行き、もう間もなく母になるべき人に逢った事を覚えている。子供心にも珍らしい改った気がした。
継母は何という家から来て、その頃はどこにいましたか?
継母は春日という家から来て、その頃は藩地松山にいました。
JCRRAG_001234
国語
 一体この頃の刑法は、別に明文は無く、幕府及び諸藩では皆前例によって刑罰を与えていた。盗賊でも取った金額が多いかあるいは強盗であると、死刑に処するという事になっていた。かの賊も十分死刑にあたるものであったが、死刑にするとなると藩邸で殺す事は出来ない。是非とも幕府の仕置場即ち鈴ヶ森か小塚ッ原でせねばならぬ。これは大変に手数がかかる事だから大抵は牢屋で毒を一服飲ませて殺したものである。かの賊の死んだのもやはりこの一服で死んだのであった。その男は梅とかいう者であったと覚えている。  重犯などでなくちょっとした盗みなどをした仲間下部などは、一日か二日後手に縛って、邸内の人の立集う所にさらして置き、十分諸人に顔を見知らせた上で、『門前払い』即ち追払ってしまう例である。私も度々この『さらしもの』を見たことであった。  五歳の冬に私は上下着をした。小さな上下に大小をたばさみ、親類うちなど披露にまわった。上下着をしてからは、小っぽけな体でも屋敷外へ出る時には大小をささねばならなかった。もとよりそれは軽い、玩具のようなものであった。屋敷内では上下を着たり袴をはく時の外は脇差一腰だけをさした。脇差だけは子供同士遊ぶ時でも差さねばならなかった。  私の六つになった年の正月に継母が来た。これを大変珍しいことに思った。この継母は春日という家から来たので、その頃は藩地松山にいたが、おりふしその姉の嫁している山本という家の主人が目付をしていたのが常府を命ぜられて出府したので、それに伴われて来たのである。春日の家とは遠縁であった。従って山本とも知合いであった。まだうちへ嫁して来ないその前年の冬に、私は祖母に伴われて山本の家に行き、もう間もなく母になるべき人に逢った事を覚えている。子供心にも珍らしい改った気がした。
「私」が屋敷の外に出る時ささねばならなかったものと、子供同士遊ぶ時でもささねばならなかったものは、それぞれ何ですか?
「私」が屋敷の外に出る時ささねばならなかったものは大小で、子供同士遊ぶ時でもささねばならなかったものは脇差です。
JCRRAG_001235
国語
 この冬、十二月二十四日愛宕の市へ、私のうちの下部は正月の買物に行った。年の市は所々の宮寺にあったが、愛宕の年の市は芝辺では最も盛んで、藩邸の者もこの市で正月の物を調えたもので、うちの下部もその晩新しい手桶や注連飾などを買って帰った。父はすぐその手桶に嘉永四年云々と書き認めていた。その時俄に邸内が騒がしくなって、火の見櫓で鐘と板木とあえ交ぜに叩き出した。この火の見櫓はどこの屋敷にもあったもので、火事があると係の者がそれへ上って方角を見定め、高声にその方角を知らせ、そして板木を叩いた。鎮火すると鐘を鳴らした。最も近火で、藩邸も危いという時には鐘と板木とあえ交ぜに打つことになっていた。その非常の音を聞いたので、家の者悉く騒立って見ると、我が邸内の君侯の厩から火が出たのである。今も地形が存しているが、私の家は君侯の住居の近くの高台でその厩は表長屋に近い低い方であったから、私も下女に負われてその火事を見た。この時私は始めて火事というものを見たのであった。  ついでにいうが、私の藩の上屋敷はその以前、私の二歳の時に焼けた。これは『麹町火事』と称した大火で、麹町から愛宕下まで焼けたのである。そこで上屋敷にいた者も一時は君侯はじめ中屋敷の方に住まって、私の家へも親類の丹波などというのが来ていた。後にその上屋敷は建築された。これについては材木を藩地から取寄せ、大工も藩地のを呼寄せて、素晴らしく堅固なるものを作った。これは明治以後残っていたが、一時陸軍省の管轄となり、その後は私有地となって取りこわされた。或る人の話ではその表門は米国の或る好事家の別荘の門になっていて日本の昔の大名屋敷の門としてその主人の自慢になっているとのことである。  さて私のうちも継母が来てからは賑やかになった。この継母が来た時私に土産にくれたのは箱根細工の菓子箪笥で、どの抽斗をあけても各々菓子が這入っていたので、私は大変喜んだ。継母は心得た人で私を十分愛してはくれたが、しかし実母に離れて以来祖母を母としていた習慣は相変らず続いて、継母が来てからも、やはり夜は祖母と寝た、もうその頃は乳を吸いはしなかったが、祖母も私を人手にかけず、私も祖母のみ慕った。
いつ、どこへ「私」のうちの下部は正月の買物に行きましたか?
この冬、12月24日愛宕の市へ、私のうちの下部は正月の買物に行きました。
JCRRAG_001236
国語
 この冬、十二月二十四日愛宕の市へ、私のうちの下部は正月の買物に行った。年の市は所々の宮寺にあったが、愛宕の年の市は芝辺では最も盛んで、藩邸の者もこの市で正月の物を調えたもので、うちの下部もその晩新しい手桶や注連飾などを買って帰った。父はすぐその手桶に嘉永四年云々と書き認めていた。その時俄に邸内が騒がしくなって、火の見櫓で鐘と板木とあえ交ぜに叩き出した。この火の見櫓はどこの屋敷にもあったもので、火事があると係の者がそれへ上って方角を見定め、高声にその方角を知らせ、そして板木を叩いた。鎮火すると鐘を鳴らした。最も近火で、藩邸も危いという時には鐘と板木とあえ交ぜに打つことになっていた。その非常の音を聞いたので、家の者悉く騒立って見ると、我が邸内の君侯の厩から火が出たのである。今も地形が存しているが、私の家は君侯の住居の近くの高台でその厩は表長屋に近い低い方であったから、私も下女に負われてその火事を見た。この時私は始めて火事というものを見たのであった。  ついでにいうが、私の藩の上屋敷はその以前、私の二歳の時に焼けた。これは『麹町火事』と称した大火で、麹町から愛宕下まで焼けたのである。そこで上屋敷にいた者も一時は君侯はじめ中屋敷の方に住まって、私の家へも親類の丹波などというのが来ていた。後にその上屋敷は建築された。これについては材木を藩地から取寄せ、大工も藩地のを呼寄せて、素晴らしく堅固なるものを作った。これは明治以後残っていたが、一時陸軍省の管轄となり、その後は私有地となって取りこわされた。或る人の話ではその表門は米国の或る好事家の別荘の門になっていて日本の昔の大名屋敷の門としてその主人の自慢になっているとのことである。  さて私のうちも継母が来てからは賑やかになった。この継母が来た時私に土産にくれたのは箱根細工の菓子箪笥で、どの抽斗をあけても各々菓子が這入っていたので、私は大変喜んだ。継母は心得た人で私を十分愛してはくれたが、しかし実母に離れて以来祖母を母としていた習慣は相変らず続いて、継母が来てからも、やはり夜は祖母と寝た、もうその頃は乳を吸いはしなかったが、祖母も私を人手にかけず、私も祖母のみ慕った。
この冬、12月24日愛宕の市へ、誰が何をしに行きましたか?
12月24日愛宕の市へ、私のうちの下部が正月の買物に行きました。
JCRRAG_001237
国語
 この冬、十二月二十四日愛宕の市へ、私のうちの下部は正月の買物に行った。年の市は所々の宮寺にあったが、愛宕の年の市は芝辺では最も盛んで、藩邸の者もこの市で正月の物を調えたもので、うちの下部もその晩新しい手桶や注連飾などを買って帰った。父はすぐその手桶に嘉永四年云々と書き認めていた。その時俄に邸内が騒がしくなって、火の見櫓で鐘と板木とあえ交ぜに叩き出した。この火の見櫓はどこの屋敷にもあったもので、火事があると係の者がそれへ上って方角を見定め、高声にその方角を知らせ、そして板木を叩いた。鎮火すると鐘を鳴らした。最も近火で、藩邸も危いという時には鐘と板木とあえ交ぜに打つことになっていた。その非常の音を聞いたので、家の者悉く騒立って見ると、我が邸内の君侯の厩から火が出たのである。今も地形が存しているが、私の家は君侯の住居の近くの高台でその厩は表長屋に近い低い方であったから、私も下女に負われてその火事を見た。この時私は始めて火事というものを見たのであった。  ついでにいうが、私の藩の上屋敷はその以前、私の二歳の時に焼けた。これは『麹町火事』と称した大火で、麹町から愛宕下まで焼けたのである。そこで上屋敷にいた者も一時は君侯はじめ中屋敷の方に住まって、私の家へも親類の丹波などというのが来ていた。後にその上屋敷は建築された。これについては材木を藩地から取寄せ、大工も藩地のを呼寄せて、素晴らしく堅固なるものを作った。これは明治以後残っていたが、一時陸軍省の管轄となり、その後は私有地となって取りこわされた。或る人の話ではその表門は米国の或る好事家の別荘の門になっていて日本の昔の大名屋敷の門としてその主人の自慢になっているとのことである。  さて私のうちも継母が来てからは賑やかになった。この継母が来た時私に土産にくれたのは箱根細工の菓子箪笥で、どの抽斗をあけても各々菓子が這入っていたので、私は大変喜んだ。継母は心得た人で私を十分愛してはくれたが、しかし実母に離れて以来祖母を母としていた習慣は相変らず続いて、継母が来てからも、やはり夜は祖母と寝た、もうその頃は乳を吸いはしなかったが、祖母も私を人手にかけず、私も祖母のみ慕った。
下部はその晩、何や何などを買って帰りましたか?
下部はその晩、新しい手桶や注連飾などを買って帰りました。
JCRRAG_001238
国語
 この冬、十二月二十四日愛宕の市へ、私のうちの下部は正月の買物に行った。年の市は所々の宮寺にあったが、愛宕の年の市は芝辺では最も盛んで、藩邸の者もこの市で正月の物を調えたもので、うちの下部もその晩新しい手桶や注連飾などを買って帰った。父はすぐその手桶に嘉永四年云々と書き認めていた。その時俄に邸内が騒がしくなって、火の見櫓で鐘と板木とあえ交ぜに叩き出した。この火の見櫓はどこの屋敷にもあったもので、火事があると係の者がそれへ上って方角を見定め、高声にその方角を知らせ、そして板木を叩いた。鎮火すると鐘を鳴らした。最も近火で、藩邸も危いという時には鐘と板木とあえ交ぜに打つことになっていた。その非常の音を聞いたので、家の者悉く騒立って見ると、我が邸内の君侯の厩から火が出たのである。今も地形が存しているが、私の家は君侯の住居の近くの高台でその厩は表長屋に近い低い方であったから、私も下女に負われてその火事を見た。この時私は始めて火事というものを見たのであった。  ついでにいうが、私の藩の上屋敷はその以前、私の二歳の時に焼けた。これは『麹町火事』と称した大火で、麹町から愛宕下まで焼けたのである。そこで上屋敷にいた者も一時は君侯はじめ中屋敷の方に住まって、私の家へも親類の丹波などというのが来ていた。後にその上屋敷は建築された。これについては材木を藩地から取寄せ、大工も藩地のを呼寄せて、素晴らしく堅固なるものを作った。これは明治以後残っていたが、一時陸軍省の管轄となり、その後は私有地となって取りこわされた。或る人の話ではその表門は米国の或る好事家の別荘の門になっていて日本の昔の大名屋敷の門としてその主人の自慢になっているとのことである。  さて私のうちも継母が来てからは賑やかになった。この継母が来た時私に土産にくれたのは箱根細工の菓子箪笥で、どの抽斗をあけても各々菓子が這入っていたので、私は大変喜んだ。継母は心得た人で私を十分愛してはくれたが、しかし実母に離れて以来祖母を母としていた習慣は相変らず続いて、継母が来てからも、やはり夜は祖母と寝た、もうその頃は乳を吸いはしなかったが、祖母も私を人手にかけず、私も祖母のみ慕った。
火の見櫓であえ交ぜに叩き出されたのは、何と何ですか?
火の見櫓で鐘と板木があえ交ぜに叩き出されました。
JCRRAG_001239
国語
 この冬、十二月二十四日愛宕の市へ、私のうちの下部は正月の買物に行った。年の市は所々の宮寺にあったが、愛宕の年の市は芝辺では最も盛んで、藩邸の者もこの市で正月の物を調えたもので、うちの下部もその晩新しい手桶や注連飾などを買って帰った。父はすぐその手桶に嘉永四年云々と書き認めていた。その時俄に邸内が騒がしくなって、火の見櫓で鐘と板木とあえ交ぜに叩き出した。この火の見櫓はどこの屋敷にもあったもので、火事があると係の者がそれへ上って方角を見定め、高声にその方角を知らせ、そして板木を叩いた。鎮火すると鐘を鳴らした。最も近火で、藩邸も危いという時には鐘と板木とあえ交ぜに打つことになっていた。その非常の音を聞いたので、家の者悉く騒立って見ると、我が邸内の君侯の厩から火が出たのである。今も地形が存しているが、私の家は君侯の住居の近くの高台でその厩は表長屋に近い低い方であったから、私も下女に負われてその火事を見た。この時私は始めて火事というものを見たのであった。  ついでにいうが、私の藩の上屋敷はその以前、私の二歳の時に焼けた。これは『麹町火事』と称した大火で、麹町から愛宕下まで焼けたのである。そこで上屋敷にいた者も一時は君侯はじめ中屋敷の方に住まって、私の家へも親類の丹波などというのが来ていた。後にその上屋敷は建築された。これについては材木を藩地から取寄せ、大工も藩地のを呼寄せて、素晴らしく堅固なるものを作った。これは明治以後残っていたが、一時陸軍省の管轄となり、その後は私有地となって取りこわされた。或る人の話ではその表門は米国の或る好事家の別荘の門になっていて日本の昔の大名屋敷の門としてその主人の自慢になっているとのことである。  さて私のうちも継母が来てからは賑やかになった。この継母が来た時私に土産にくれたのは箱根細工の菓子箪笥で、どの抽斗をあけても各々菓子が這入っていたので、私は大変喜んだ。継母は心得た人で私を十分愛してはくれたが、しかし実母に離れて以来祖母を母としていた習慣は相変らず続いて、継母が来てからも、やはり夜は祖母と寝た、もうその頃は乳を吸いはしなかったが、祖母も私を人手にかけず、私も祖母のみ慕った。
『麹町火事』と称した大火で、どこからどこまでが焼けましたか?
『麹町火事』と称した大火で、麹町から愛宕下までが焼けました。
JCRRAG_001240
国語
 私は子供の時一番楽しみだったのは本を読むことであった。その頃には絵本がいろいろあって、年齢に応じて程度が違えてあり、挿画には少しばかりの絵解がしてあった。桃太郎やカチカチ山は最も小さい子供の見るもの、それより進んでは軍物語であった。それには八幡太郎義家や義経や義仲などの一代記があった。こういう本は子供のある家にはどこにもありまた土産にもしたものであった。外へ出て絵草紙屋の前を通ると私はきっとせがんだ。私は玩具よりも絵本が好きなので、殊に沢山持っていた。それから錦画もその頃盛んに行われたが、これも私は好きで沢山持ち、就中軍画が好きであった。菱田の祖父が在番で来ている時は私のうちに同居することもあった。この祖父は外出をするごとにきっと私に錦画を買ってくれた。だから私は祖父が外出すると楽しんでその帰りを待った。  私は絵を見て楽しむ外に、またその画を摸写することが好きだった。小学校で図画を教える今時と違って、当時は大人でも大抵はどんな簡単な物の形も描き得なかった。それに子供の私がいろいろな物を描くので人が珍らしがり、自分も自慢半分に盛んに描いたのはやはり武者絵が多かった。  私は武者で好きだったのは初めは八幡太郎であったが、少し年を経てから木曾義仲が大変に贔屓になった。その頃は九郎判官義経を贔屓にするというのが普通であったが、私は義仲でなくちゃならなかった。絵本でも錦絵でも義仲に関した物を非常に喜んだ。義仲があんな風に討死したのが可哀そうでならなかった。従って静より巴御前の方が好きであった。第一勇気もあると思った。五、六歳になっては、更に源平盛衰記保元平治物語の絵入本を見ることを初めた。文字はまだ読めなかったが、よく父から絵解をしてもらったので、その筋をよく解していた。
「私」が武者で好きだったのは、初めは誰で、少し年を経てからは誰でしたか?
「私」が武者で好きだったのは、初めは八幡太郎で、少し年を経てから木曾義仲でした。
JCRRAG_001241
国語
 私は子供の時一番楽しみだったのは本を読むことであった。その頃には絵本がいろいろあって、年齢に応じて程度が違えてあり、挿画には少しばかりの絵解がしてあった。桃太郎やカチカチ山は最も小さい子供の見るもの、それより進んでは軍物語であった。それには八幡太郎義家や義経や義仲などの一代記があった。こういう本は子供のある家にはどこにもありまた土産にもしたものであった。外へ出て絵草紙屋の前を通ると私はきっとせがんだ。私は玩具よりも絵本が好きなので、殊に沢山持っていた。それから錦画もその頃盛んに行われたが、これも私は好きで沢山持ち、就中軍画が好きであった。菱田の祖父が在番で来ている時は私のうちに同居することもあった。この祖父は外出をするごとにきっと私に錦画を買ってくれた。だから私は祖父が外出すると楽しんでその帰りを待った。  私は絵を見て楽しむ外に、またその画を摸写することが好きだった。小学校で図画を教える今時と違って、当時は大人でも大抵はどんな簡単な物の形も描き得なかった。それに子供の私がいろいろな物を描くので人が珍らしがり、自分も自慢半分に盛んに描いたのはやはり武者絵が多かった。  私は武者で好きだったのは初めは八幡太郎であったが、少し年を経てから木曾義仲が大変に贔屓になった。その頃は九郎判官義経を贔屓にするというのが普通であったが、私は義仲でなくちゃならなかった。絵本でも錦絵でも義仲に関した物を非常に喜んだ。義仲があんな風に討死したのが可哀そうでならなかった。従って静より巴御前の方が好きであった。第一勇気もあると思った。五、六歳になっては、更に源平盛衰記保元平治物語の絵入本を見ることを初めた。文字はまだ読めなかったが、よく父から絵解をしてもらったので、その筋をよく解していた。
軍物語には、八幡太郎義家や誰や誰などの一代記がありましたか?
軍物語には、八幡太郎義家や義経や義仲などの一代記がありました。
JCRRAG_001242
国語
 私は子供の時一番楽しみだったのは本を読むことであった。その頃には絵本がいろいろあって、年齢に応じて程度が違えてあり、挿画には少しばかりの絵解がしてあった。桃太郎やカチカチ山は最も小さい子供の見るもの、それより進んでは軍物語であった。それには八幡太郎義家や義経や義仲などの一代記があった。こういう本は子供のある家にはどこにもありまた土産にもしたものであった。外へ出て絵草紙屋の前を通ると私はきっとせがんだ。私は玩具よりも絵本が好きなので、殊に沢山持っていた。それから錦画もその頃盛んに行われたが、これも私は好きで沢山持ち、就中軍画が好きであった。菱田の祖父が在番で来ている時は私のうちに同居することもあった。この祖父は外出をするごとにきっと私に錦画を買ってくれた。だから私は祖父が外出すると楽しんでその帰りを待った。  私は絵を見て楽しむ外に、またその画を摸写することが好きだった。小学校で図画を教える今時と違って、当時は大人でも大抵はどんな簡単な物の形も描き得なかった。それに子供の私がいろいろな物を描くので人が珍らしがり、自分も自慢半分に盛んに描いたのはやはり武者絵が多かった。  私は武者で好きだったのは初めは八幡太郎であったが、少し年を経てから木曾義仲が大変に贔屓になった。その頃は九郎判官義経を贔屓にするというのが普通であったが、私は義仲でなくちゃならなかった。絵本でも錦絵でも義仲に関した物を非常に喜んだ。義仲があんな風に討死したのが可哀そうでならなかった。従って静より巴御前の方が好きであった。第一勇気もあると思った。五、六歳になっては、更に源平盛衰記保元平治物語の絵入本を見ることを初めた。文字はまだ読めなかったが、よく父から絵解をしてもらったので、その筋をよく解していた。
「私」は何よりも何が好きで、殊に沢山持っていましたか?
「私」は玩具よりも絵本が好きで、殊に沢山持っていました。
JCRRAG_001243
国語
 私は子供の時一番楽しみだったのは本を読むことであった。その頃には絵本がいろいろあって、年齢に応じて程度が違えてあり、挿画には少しばかりの絵解がしてあった。桃太郎やカチカチ山は最も小さい子供の見るもの、それより進んでは軍物語であった。それには八幡太郎義家や義経や義仲などの一代記があった。こういう本は子供のある家にはどこにもありまた土産にもしたものであった。外へ出て絵草紙屋の前を通ると私はきっとせがんだ。私は玩具よりも絵本が好きなので、殊に沢山持っていた。それから錦画もその頃盛んに行われたが、これも私は好きで沢山持ち、就中軍画が好きであった。菱田の祖父が在番で来ている時は私のうちに同居することもあった。この祖父は外出をするごとにきっと私に錦画を買ってくれた。だから私は祖父が外出すると楽しんでその帰りを待った。  私は絵を見て楽しむ外に、またその画を摸写することが好きだった。小学校で図画を教える今時と違って、当時は大人でも大抵はどんな簡単な物の形も描き得なかった。それに子供の私がいろいろな物を描くので人が珍らしがり、自分も自慢半分に盛んに描いたのはやはり武者絵が多かった。  私は武者で好きだったのは初めは八幡太郎であったが、少し年を経てから木曾義仲が大変に贔屓になった。その頃は九郎判官義経を贔屓にするというのが普通であったが、私は義仲でなくちゃならなかった。絵本でも錦絵でも義仲に関した物を非常に喜んだ。義仲があんな風に討死したのが可哀そうでならなかった。従って静より巴御前の方が好きであった。第一勇気もあると思った。五、六歳になっては、更に源平盛衰記保元平治物語の絵入本を見ることを初めた。文字はまだ読めなかったが、よく父から絵解をしてもらったので、その筋をよく解していた。
最も小さい子供の見るものは何や何でしたか?
桃太郎やカチカチ山は最も小さい子供の見るものでした。
JCRRAG_001244
国語
 祖父は、私が少し大きくなってからはとんともう錦絵をくれぬようになった。私はこれをひどく淋しく思っていたが、祖父は在番が終って藩地へ帰る時に、特に買ってくれたのが右の保元平治物語の十冊揃いである。  それから私は仮名ややさしい漢字がわかるようになって、盛衰記や保元平治物語を拾い読みした。これは八つか九つの頃であった。日本の歴史を知った端緒は実にこの二書であった。  草双紙も好んだが、これは私のうちには無かった。隣の間室という家に草双紙を綴じ合わせたのがあったのを、四つか五つの頃からよく遊びに行って見ることにしていた。この家も常府であったが、藩地に帰る時に、私が好きだからというのでその草双紙を私にくれて行った。その後はそこにあったものの外の草双紙もよその家へ行ってよく借りて読んだ。草双紙は仮名ばかりだから、大概ひとりで読めた。私の内では父が古戦記を見せることは奨励したが、草双紙を見せることは好まなかった。当時の江戸の女たちは皆草双紙を大変に好んだものであったが、うちの二人の祖母もまた継母も田舎出で、そういう趣味がなかった。  しかし私の実母は、死ぬ少し前に、始めて猿若の芝居を見た。三代目中村歌右衛門の血達磨で、母が江戸へ出て来て始めてこの大芝居を見たのであった。その頃大概の芝居は直きに草双紙になって出た。母はそれを買って愛読していた。それで死んだ時に、祖母は母の棺へこの血達磨の草双紙を入れてやったと後に聞いた。かつて私のうちにただ一部あった草双紙はこうして亡き母のお伽に行ってしまった。  継母も始めて田舎から出て来たものだから、一度は芝居を見せねばならぬというので、うちに嫁した年、即ち私の六つの年に、猿若二丁目の河原崎座を見せた。その時継母が持って帰った、番附や鸚鵡石を後に見ると、その時の狂言は八代目団十郎の児雷也であった。この時継母と同行したのは山本の家族であった。それから母にのみ見せて祖母などに見せないのは気の毒だというので、父は大奮発して、更に曾祖母と祖母を見せにやった。私はその時ついて行った。これが私の芝居見物の始まりであった。同伴したのは心安い医者などや、上屋敷にいた常府の婆連で、桝を二つほど買切って見た。
祖父は何が終ってどこへ帰る時に、右の保元平治物語の十冊揃いを買ってくれましたか。
祖父は在番が終って藩地へ帰る時に、右の保元平治物語の十冊揃いを買ってくれました。
JCRRAG_001245
国語
 祖父は、私が少し大きくなってからはとんともう錦絵をくれぬようになった。私はこれをひどく淋しく思っていたが、祖父は在番が終って藩地へ帰る時に、特に買ってくれたのが右の保元平治物語の十冊揃いである。  それから私は仮名ややさしい漢字がわかるようになって、盛衰記や保元平治物語を拾い読みした。これは八つか九つの頃であった。日本の歴史を知った端緒は実にこの二書であった。  草双紙も好んだが、これは私のうちには無かった。隣の間室という家に草双紙を綴じ合わせたのがあったのを、四つか五つの頃からよく遊びに行って見ることにしていた。この家も常府であったが、藩地に帰る時に、私が好きだからというのでその草双紙を私にくれて行った。その後はそこにあったものの外の草双紙もよその家へ行ってよく借りて読んだ。草双紙は仮名ばかりだから、大概ひとりで読めた。私の内では父が古戦記を見せることは奨励したが、草双紙を見せることは好まなかった。当時の江戸の女たちは皆草双紙を大変に好んだものであったが、うちの二人の祖母もまた継母も田舎出で、そういう趣味がなかった。  しかし私の実母は、死ぬ少し前に、始めて猿若の芝居を見た。三代目中村歌右衛門の血達磨で、母が江戸へ出て来て始めてこの大芝居を見たのであった。その頃大概の芝居は直きに草双紙になって出た。母はそれを買って愛読していた。それで死んだ時に、祖母は母の棺へこの血達磨の草双紙を入れてやったと後に聞いた。かつて私のうちにただ一部あった草双紙はこうして亡き母のお伽に行ってしまった。  継母も始めて田舎から出て来たものだから、一度は芝居を見せねばならぬというので、うちに嫁した年、即ち私の六つの年に、猿若二丁目の河原崎座を見せた。その時継母が持って帰った、番附や鸚鵡石を後に見ると、その時の狂言は八代目団十郎の児雷也であった。この時継母と同行したのは山本の家族であった。それから母にのみ見せて祖母などに見せないのは気の毒だというので、父は大奮発して、更に曾祖母と祖母を見せにやった。私はその時ついて行った。これが私の芝居見物の始まりであった。同伴したのは心安い医者などや、上屋敷にいた常府の婆連で、桝を二つほど買切って見た。
「私」は仮名ややさしい漢字がわかるようになって、何や何を拾い読みしましたか?
「私」は仮名ややさしい漢字がわかるようになって、盛衰記や保元平治物語を拾い読みしました。
JCRRAG_001246
国語
ヴォーケ夫人は、ド・コンフラン家の生まれの老婦人で、四十年来パリのネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通り[1]で賄い付きの下宿をしっかりと営んできた。そこはカルチェ・ラタンとフォーブール・サンマルソーの中間にあった。この下宿はメゾン・ヴォーケの名で知られ、老若男女を問わず等しく受け入れてきた。誹謗中傷がこの立派な施設の品性を傷つける様なことは一度もなかった。その一方で、ここでは三十年来、若い女性の姿はついぞ見かけられなかったし、若者で長く居ついた者もなかったので、ここの住人達はおのずから、この下宿の雰囲気を寂しげなものにしてしまっていた。とはいえ、この物語が始まった一八一九年のことだが、貧しい若い女性も一人、下宿人の中に混じっていた。悲劇が全盛の現代文学では、物語の中で過剰な、あるいは、乱暴な言葉が濫用され過ぎるとの不評をこうむる作品が多いが、私もここでは不評覚悟で、そうした手法を用いる必要がある。この物語は写実的言葉による展開の盛り上がりによるのではなく、衝撃の結末によって、恐らくパリ城壁の内外で人々の涙を誘うことができるだろう。私が敢えて使うこの手法は、しかし、パリ以外でも理解されるだろうか?疑問は残るが。さてこの物語の舞台となる場所をあれこれと観察し固有色を用いて説明しても、せいぜいモンマルトルの丘からモンルージュの丘に至る辺りの住人くらいにしか共感を得られないだろう。まるで谷間のようなこの地域ときたら、壁土はいつ崩れてもおかしくないし、溝は泥で真っ黒な色をしている。
下宿はどことどこの中間にありましたか?
下宿は、カルチェ・ラタンとフォーブール・サンマルソーの中間にありました。
JCRRAG_001247
国語
ヴォーケ夫人は、ド・コンフラン家の生まれの老婦人で、四十年来パリのネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通り[1]で賄い付きの下宿をしっかりと営んできた。そこはカルチェ・ラタンとフォーブール・サンマルソーの中間にあった。この下宿はメゾン・ヴォーケの名で知られ、老若男女を問わず等しく受け入れてきた。誹謗中傷がこの立派な施設の品性を傷つける様なことは一度もなかった。その一方で、ここでは三十年来、若い女性の姿はついぞ見かけられなかったし、若者で長く居ついた者もなかったので、ここの住人達はおのずから、この下宿の雰囲気を寂しげなものにしてしまっていた。とはいえ、この物語が始まった一八一九年のことだが、貧しい若い女性も一人、下宿人の中に混じっていた。悲劇が全盛の現代文学では、物語の中で過剰な、あるいは、乱暴な言葉が濫用され過ぎるとの不評をこうむる作品が多いが、私もここでは不評覚悟で、そうした手法を用いる必要がある。この物語は写実的言葉による展開の盛り上がりによるのではなく、衝撃の結末によって、恐らくパリ城壁の内外で人々の涙を誘うことができるだろう。私が敢えて使うこの手法は、しかし、パリ以外でも理解されるだろうか?疑問は残るが。さてこの物語の舞台となる場所をあれこれと観察し固有色を用いて説明しても、せいぜいモンマルトルの丘からモンルージュの丘に至る辺りの住人くらいにしか共感を得られないだろう。まるで谷間のようなこの地域ときたら、壁土はいつ崩れてもおかしくないし、溝は泥で真っ黒な色をしている。
この物語が始まったのはいつのことで、誰が一人、下宿人の中に混じっていましたか?
この物語が始まったのは一八一九年のことで、貧しい若い女性が一人、下宿人の中に混じっていました。
JCRRAG_001248
国語
賄い付き下宿として運営されているこの館はヴォーケ夫人が所有していた。館はネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りの低地にあったが、この場所がラルバレート通り辺りから急な荒れた坂を下った所になるので、馬がここを上がったり下がったりすることは余りなかった。この環境はヴァル・ド・グラスの丸屋根とパンテオンの丸屋根に挟まれた窮屈なこの通りを支配する静けさをもたらしていた。二つの記念碑的丸屋根は近辺に黄ばんだ色を投げかけ、また丸天井は厳しい色調の意匠が凝らされ、全体を暗く包み込むことによって、すっかり周辺の雰囲気を変えてしまっていた。その辺りは、舗道は乾き、溝には泥もなければ水もなく、草は壁の高さにまで伸びている。最も楽天的な人間もここでは他の通行人同様に悲しくなり、馬車の音がここでは騒ぎとなり、家々は軒並み陰鬱で、城壁もまるで牢獄のように感じられる。もしパリっ子がここで道に迷ったとしたら、目にするのは高級下宿屋か学校、悲惨さか倦怠感、老人が死にかけているか、あるいは陽気な若者が仕方なく働いているか、そんな光景だけだろう。パリのどの区域だって、ここほどひどいところはないし、はっきり言って一番知られていない場所なのだ。ネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りは至る所、まるで鈍色の空気に浸ったような街だし、この物語にぴったりはまる唯一の場所なのだ。ここにセピア・カラーや深遠な思想をどんなに一生懸命ほどこしたところで、知性を溢れさせるのはなかなか難しい。ここでは日の光が段々と衰え、案内人の声も妙に空しくこだますので、初めての旅行者はまさにあのカタコンベに降りてゆく気分にさえなってしまう。
賄い付き下宿を所有していたのは誰ですか。
賄い付き下宿を所有していたのはヴォーケ夫人です。
JCRRAG_001249
国語
賄い付き下宿として運営されているこの館はヴォーケ夫人が所有していた。館はネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りの低地にあったが、この場所がラルバレート通り辺りから急な荒れた坂を下った所になるので、馬がここを上がったり下がったりすることは余りなかった。この環境はヴァル・ド・グラスの丸屋根とパンテオンの丸屋根に挟まれた窮屈なこの通りを支配する静けさをもたらしていた。二つの記念碑的丸屋根は近辺に黄ばんだ色を投げかけ、また丸天井は厳しい色調の意匠が凝らされ、全体を暗く包み込むことによって、すっかり周辺の雰囲気を変えてしまっていた。その辺りは、舗道は乾き、溝には泥もなければ水もなく、草は壁の高さにまで伸びている。最も楽天的な人間もここでは他の通行人同様に悲しくなり、馬車の音がここでは騒ぎとなり、家々は軒並み陰鬱で、城壁もまるで牢獄のように感じられる。もしパリっ子がここで道に迷ったとしたら、目にするのは高級下宿屋か学校、悲惨さか倦怠感、老人が死にかけているか、あるいは陽気な若者が仕方なく働いているか、そんな光景だけだろう。パリのどの区域だって、ここほどひどいところはないし、はっきり言って一番知られていない場所なのだ。ネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りは至る所、まるで鈍色の空気に浸ったような街だし、この物語にぴったりはまる唯一の場所なのだ。ここにセピア・カラーや深遠な思想をどんなに一生懸命ほどこしたところで、知性を溢れさせるのはなかなか難しい。ここでは日の光が段々と衰え、案内人の声も妙に空しくこだますので、初めての旅行者はまさにあのカタコンベ[2]に降りてゆく気分にさえなってしまう。
その辺りの溝には何もなければ何もないでしょうか?
その辺りの溝には泥もなければ水もないです。
JCRRAG_001250
国語
賄い付き下宿として運営されているこの館はヴォーケ夫人が所有していた。館はネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りの低地にあったが、この場所がラルバレート通り辺りから急な荒れた坂を下った所になるので、馬がここを上がったり下がったりすることは余りなかった。この環境はヴァル・ド・グラスの丸屋根とパンテオンの丸屋根に挟まれた窮屈なこの通りを支配する静けさをもたらしていた。二つの記念碑的丸屋根は近辺に黄ばんだ色を投げかけ、また丸天井は厳しい色調の意匠が凝らされ、全体を暗く包み込むことによって、すっかり周辺の雰囲気を変えてしまっていた。その辺りは、舗道は乾き、溝には泥もなければ水もなく、草は壁の高さにまで伸びている。最も楽天的な人間もここでは他の通行人同様に悲しくなり、馬車の音がここでは騒ぎとなり、家々は軒並み陰鬱で、城壁もまるで牢獄のように感じられる。もしパリっ子がここで道に迷ったとしたら、目にするのは高級下宿屋か学校、悲惨さか倦怠感、老人が死にかけているか、あるいは陽気な若者が仕方なく働いているか、そんな光景だけだろう。パリのどの区域だって、ここほどひどいところはないし、はっきり言って一番知られていない場所なのだ。ネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りは至る所、まるで鈍色の空気に浸ったような街だし、この物語にぴったりはまる唯一の場所なのだ。ここにセピア・カラーや深遠な思想をどんなに一生懸命ほどこしたところで、知性を溢れさせるのはなかなか難しい。ここでは日の光が段々と衰え、案内人の声も妙に空しくこだますので、初めての旅行者はまさにあのカタコンベ[2]に降りてゆく気分にさえなってしまう。
2つの記念碑的丸屋根は近辺に何を投げかけ、また丸天井は何が凝らされていましたか?
二つの記念碑的丸屋根は近辺に黄ばんだ色を投げかけ、また丸天井は厳しい色調の意匠が凝らされていました。
JCRRAG_001251
国語
賄い付き下宿として運営されているこの館はヴォーケ夫人が所有していた。館はネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りの低地にあったが、この場所がラルバレート通り辺りから急な荒れた坂を下った所になるので、馬がここを上がったり下がったりすることは余りなかった。この環境はヴァル・ド・グラスの丸屋根とパンテオンの丸屋根に挟まれた窮屈なこの通りを支配する静けさをもたらしていた。二つの記念碑的丸屋根は近辺に黄ばんだ色を投げかけ、また丸天井は厳しい色調の意匠が凝らされ、全体を暗く包み込むことによって、すっかり周辺の雰囲気を変えてしまっていた。その辺りは、舗道は乾き、溝には泥もなければ水もなく、草は壁の高さにまで伸びている。最も楽天的な人間もここでは他の通行人同様に悲しくなり、馬車の音がここでは騒ぎとなり、家々は軒並み陰鬱で、城壁もまるで牢獄のように感じられる。もしパリっ子がここで道に迷ったとしたら、目にするのは高級下宿屋か学校、悲惨さか倦怠感、老人が死にかけているか、あるいは陽気な若者が仕方なく働いているか、そんな光景だけだろう。パリのどの区域だって、ここほどひどいところはないし、はっきり言って一番知られていない場所なのだ。ネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りは至る所、まるで鈍色の空気に浸ったような街だし、この物語にぴったりはまる唯一の場所なのだ。ここにセピア・カラーや深遠な思想をどんなに一生懸命ほどこしたところで、知性を溢れさせるのはなかなか難しい。ここでは日の光が段々と衰え、案内人の声も妙に空しくこだますので、初めての旅行者はまさにあのカタコンベ[2]に降りてゆく気分にさえなってしまう。
ここでは家々は軒並みどのようで、城壁はまるで何のように感じられますか?
ここでは家々は軒並み陰鬱で、城壁はまるで牢獄のように感じられます。
JCRRAG_001252
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この下宿の正面は小さな庭に面している一方、建物とネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りとは直角をなすかたちとなっていて、館の裏側断面を通から眺めることが出来た。正面入り口の前面に六フィート幅の砂利の空間があり、それと庭に挟まれて砂利の通路が走っていた。通路の脇にはゼラニウム、夾竹桃や柘榴が植わった青や白の陶器の大鉢が並んでいる。この通路には中門を通って入るのだが、その上には表札が掲げられていて、〈メゾン・ヴォーケ〉と書かれ、更にその下には、〈賄い付き高級下宿、男女その他歓迎〉とも書かれている。日中はけたたましく鳴る呼び鈴が取り付けられた透かし戸を通してメゾン・ヴォーケの外に目をやると、道路の反対側にカプチン病院[3]が見え、近所に住む芸術家によって緑の大理石に愛をテーマにした絵が描かれたアーケードを見ることが出来る。引っ込みの奥には絵と着想を同じくしたキューピッドの彫像が立っている。そこに釉薬の剥がれたあとを見ると、象徴好きの者は、パリジャンの愛の神話、業病からの何がしかの回復といった物語を連想するのだった。彫刻の台座の下部には半ば消えかけた記銘があり、それはある時代、パリに入ったヴォルテールの情熱がほとばしるのを見ることが出来たあの一七七七年時代を想起させた。
何と何とが直角をなすかたちとなっていましたか?
建物とネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りとが直角をなすかたちとなっていました。
JCRRAG_001253
国語
賄い付き下宿として運営されているこの館はヴォーケ夫人が所有していた。館はネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りの低地にあったが、この場所がラルバレート通り辺りから急な荒れた坂を下った所になるので、馬がここを上がったり下がったりすることは余りなかった。この環境はヴァル・ド・グラスの丸屋根とパンテオンの丸屋根に挟まれた窮屈なこの通りを支配する静けさをもたらしていた。二つの記念碑的丸屋根は近辺に黄ばんだ色を投げかけ、また丸天井は厳しい色調の意匠が凝らされ、全体を暗く包み込むことによって、すっかり周辺の雰囲気を変えてしまっていた。その辺りは、舗道は乾き、溝には泥もなければ水もなく、草は壁の高さにまで伸びている。最も楽天的な人間もここでは他の通行人同様に悲しくなり、馬車の音がここでは騒ぎとなり、家々は軒並み陰鬱で、城壁もまるで牢獄のように感じられる。もしパリっ子がここで道に迷ったとしたら、目にするのは高級下宿屋か学校、悲惨さか倦怠感、老人が死にかけているか、あるいは陽気な若者が仕方なく働いているか、そんな光景だけだろう。パリのどの区域だって、ここほどひどいところはないし、はっきり言って一番知られていない場所なのだ。ネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りは至る所、まるで鈍色の空気に浸ったような街だし、この物語にぴったりはまる唯一の場所なのだ。ここにセピア・カラーや深遠な思想をどんなに一生懸命ほどこしたところで、知性を溢れさせるのはなかなか難しい。ここでは日の光が段々と衰え、案内人の声も妙に空しくこだますので、初めての旅行者はまさにあのカタコンベ[2]に降りてゆく気分にさえなってしまう。
ここは何や何をどんなに一生懸命ほどこしたところで、知性を溢れさせるのはなかなか難しいですか?
ここはセピア・カラーや深遠な思想をどんなに一生懸命ほどこしたところで、知性を溢れさせるのはなかなか難しいです。
JCRRAG_001254
国語
私はまたその妹とすごした海岸の夏をわすれたことはない。あの松原のなかで潮風の香をかぎ松をこえてくる海の音をききながら二人して折物をして遊んだとき、円窓のそとにはなぎの若木がならんで砂地のうえに涼しい紺色の影を落した。妹はふっくらと実のいった長い指に折紙をあちらこちらに畳みながらふくふくした顔をかしげて独り言をいったり、たわいもないことをいいかけたりする。つややかな丸髷に結ってうす色の珊瑚の玉をさしていた。桃色の鶴や、浅葱のふくら雀や、出来たのをひとつひとつ見せてはつづけてゆく。私は妹と向きあってなんのかのとかまいながらやっとのことで蓮花とだまし舟を折った。ここにあるひとたばの折紙はなつかしいそのおりの残りである。藍や鶸や朽葉など重りあって縞になった縁をみれば女の子のしめる博多の帯を思いだす。そのめざましい鬱金はあの待宵の花の色、いつぞや妹と植えたらば夜昼の境にまどろむ黄昏の女神の夢のようにほのぼのと咲いた。この紫は螢草、螢が好きな草ゆえに私も好きな草である。私はこんなにして色ばかり見るのが楽しい。じっと見つめていれば瞳のなかへ吸いこまれてゆくような気がする。ようやく筆の持てる頃から絵が好きで、使い残りの紅皿を姉にねだって口のはたを染めながら皿のふちに青く光る紅を溶して虻や蜻蛉の絵をかいた。そののちやっとの思いで小さな絵具箱を買ってもらい一日部屋に閉じこもってくさ草紙の絵やなど写したが、なにも写すものもなく描くものも浮んでこないときは皿のうえにそれこれの色をまぜてあらたに生れる色の不思議に眼をみはり、また濃い色を水に落して雲の形、入道の形に沈んでゆくのに眺め入った。さてもこの綺麗な色紙はいつの日かまた妹の指に畳まれて鶴となり、ふくら雀となるであろうか。
「私」が妹と向きあって折ったのは何と何ですか?
私は妹と向きあって蓮花とだまし舟を折りました。
JCRRAG_001255
国語
私はまたその妹とすごした海岸の夏をわすれたことはない。あの松原のなかで潮風の香をかぎ松をこえてくる海の音をききながら二人して折物をして遊んだとき、円窓のそとにはなぎの若木がならんで砂地のうえに涼しい紺色の影を落した。妹はふっくらと実のいった長い指に折紙をあちらこちらに畳みながらふくふくした顔をかしげて独り言をいったり、たわいもないことをいいかけたりする。つややかな丸髷に結ってうす色の珊瑚の玉をさしていた。桃色の鶴や、浅葱のふくら雀や、出来たのをひとつひとつ見せてはつづけてゆく。私は妹と向きあってなんのかのとかまいながらやっとのことで蓮花とだまし舟を折った。ここにあるひとたばの折紙はなつかしいそのおりの残りである。藍や鶸や朽葉など重りあって縞になった縁をみれば女の子のしめる博多の帯を思いだす。そのめざましい鬱金はあの待宵の花の色、いつぞや妹と植えたらば夜昼の境にまどろむ黄昏の女神の夢のようにほのぼのと咲いた。この紫は螢草、螢が好きな草ゆえに私も好きな草である。私はこんなにして色ばかり見るのが楽しい。じっと見つめていれば瞳のなかへ吸いこまれてゆくような気がする。ようやく筆の持てる頃から絵が好きで、使い残りの紅皿を姉にねだって口のはたを染めながら皿のふちに青く光る紅を溶して虻や蜻蛉の絵をかいた。そののちやっとの思いで小さな絵具箱を買ってもらい一日部屋に閉じこもってくさ草紙の絵やなど写したが、なにも写すものもなく描くものも浮んでこないときは皿のうえにそれこれの色をまぜてあらたに生れる色の不思議に眼をみはり、また濃い色を水に落して雲の形、入道の形に沈んでゆくのに眺め入った。さてもこの綺麗な色紙はいつの日かまた妹の指に畳まれて鶴となり、ふくら雀となるであろうか。
「私」が皿のふちに青く光る紅を溶してかいたのは何や何の絵ですか?
「私」は皿のふちに青く光る紅を溶して虻や蜻蛉の絵をかきました。
JCRRAG_001256
国語
「ああ、」と女は深い嘆息を吐いて、目の前の血を眺めているうちに、急に心細くなって、こう言った。「血のように赤く、雪のように白い小児が、ひとりあったらね!」 言ってしまうと、女の胸は急に軽くなりました。そして確かに自分の願がとどいたような気がしました。女は家へ入りました。それから一月経つと、雪が消えました。二月すると、色々な物が青くなりました。三月すると、地の中から花が咲きました。四月すると、木々の梢が青葉に包まれ、枝と枝が重なり合って、小鳥は森に谺を起こして、木の上の花を散らすくらいに、歌い出しました。五月経った時に、おかみさんは、杜松の樹の下へ行きましたが、杜松の甘い香気を嚊ぐと、胸の底が躍り立つような気がして来て、嬉しさに我しらずそこへ膝を突きました。六月目が過ぎると、杜松の実は堅く、肉づいて来ましたが、女はただ静として居ました。七月になると、女は杜松の実を落して、しきりに食べました。するとだんだん気がふさいで、病気になりました。それから八月経った時に、女は夫の所へ行って、泣きながら、こう言いました。 「もしかわたしが死んだら、あの杜松の根元へ埋めて下さいね。」 これですっかり安心して、嬉しそうにしているうちに、九月が過ぎて、十月目になって、女は雪のように白く、血のように赤い小児を生みました。それを見ると、女はあんまり喜んで、とうとう死んでしまいました。 夫は女を杜松の根元へ埋めました。そしてその時には、大変に泣きましたが、時が経つと、悲みもだんだん薄くなりました。それから暫くすると、男はすっかり諦めて、泣くのをやめました。それから暫くして、男は別なおかみさんをもらいました。 二度目のおかみさんには、女の子が生まれました。初のおかみさんの子は、血のように赤く、雪のように白い男の子でした。おかみさんは自分の娘を見ると、可愛くって、可愛くって、たまらないほどでしたが、この小さな男の子を見るたんびに、いやな気持になりました。どうかして夫の財産を残らず自分の娘にやりたいものだが、それには、この男の子が邪魔になる、というような考えが、始終女の心をはなれませんでした。それでおかみさんは、だんだん鬼のような心になって、いつもこの子を目の敵にして、打ったり、敲いたり、家中を追廻したりするので、かわいそうな小児は、始終びくびくして、学校から帰っても、家にはおちついていられないくらいでした。
女は何のように白く、何のように赤い小児を生みましたか?
女は雪のように白く、血のように赤い小児を生みました。
JCRRAG_001257
国語
「ああ、」と女は深い嘆息を吐いて、目の前の血を眺めているうちに、急に心細くなって、こう言った。「血のように赤く、雪のように白い小児が、ひとりあったらね!」 言ってしまうと、女の胸は急に軽くなりました。そして確かに自分の願がとどいたような気がしました。女は家へ入りました。それから一月経つと、雪が消えました。二月すると、色々な物が青くなりました。三月すると、地の中から花が咲きました。四月すると、木々の梢が青葉に包まれ、枝と枝が重なり合って、小鳥は森に谺を起こして、木の上の花を散らすくらいに、歌い出しました。五月経った時に、おかみさんは、杜松の樹の下へ行きましたが、杜松の甘い香気を嚊ぐと、胸の底が躍り立つような気がして来て、嬉しさに我しらずそこへ膝を突きました。六月目が過ぎると、杜松の実は堅く、肉づいて来ましたが、女はただ静として居ました。七月になると、女は杜松の実を落して、しきりに食べました。するとだんだん気がふさいで、病気になりました。それから八月経った時に、女は夫の所へ行って、泣きながら、こう言いました。 「もしかわたしが死んだら、あの杜松の根元へ埋めて下さいね。」 これですっかり安心して、嬉しそうにしているうちに、九月が過ぎて、十月目になって、女は雪のように白く、血のように赤い小児を生みました。それを見ると、女はあんまり喜んで、とうとう死んでしまいました。 夫は女を杜松の根元へ埋めました。そしてその時には、大変に泣きましたが、時が経つと、悲みもだんだん薄くなりました。それから暫くすると、男はすっかり諦めて、泣くのをやめました。それから暫くして、男は別なおかみさんをもらいました。 二度目のおかみさんには、女の子が生まれました。初のおかみさんの子は、血のように赤く、雪のように白い男の子でした。おかみさんは自分の娘を見ると、可愛くって、可愛くって、たまらないほどでしたが、この小さな男の子を見るたんびに、いやな気持になりました。どうかして夫の財産を残らず自分の娘にやりたいものだが、それには、この男の子が邪魔になる、というような考えが、始終女の心をはなれませんでした。それでおかみさんは、だんだん鬼のような心になって、いつもこの子を目の敵にして、打ったり、敲いたり、家中を追廻したりするので、かわいそうな小児は、始終びくびくして、学校から帰っても、家にはおちついていられないくらいでした。
初のおかみさんの子は男の子で、二度目のおかみさんに生まれたのは女の子ですか?
はい、初のおかみさんの子は男の子で、二度目のおかみさんに生まれたのは女の子です。
JCRRAG_001258
国語
或る時、おかみさんが、二階の小部屋へはいっていると、女の子もついて来て、こう言いました。 「母さん、林檎を頂戴。」 「あいよ。」とおかあさんが言って、箱の中から美麗な林檎を出して、女の子にやりました。その箱には大きな、重い蓋と頑固な鉄の錠が、ついていました。 「母さん、」と女の子が言った。「兄さんにも、一つあげないこと?」 おかあさんは機嫌をわるくしたが、それでも何気なしに、こういいました。 「あいよ、学校から帰って来たらね。」 そして男の子が帰って来るのを窓から見ると、急に悪魔が心の中へはいってでも来たように、女の子の持っている林檎をひったくって、 「兄さんより先に食べるんじゃない。」 と言いながら、林檎を箱の中へ投込んで、蓋をしてしまいました。 そこへ男の子が帰って来て、扉の所まで来ると、悪魔のついた継母は、わざと優しい声で、 「坊や、林檎をあげようか?」といって、じろりと男の子の顔を見ました。 「母さん、」と男の子が言った。「何て顔してるの!ええ、林檎を下さい。」 「じゃあ、一緒においで!」といって、継母は部屋へはいって、箱の蓋を持上げながら、「さあ自分で一個お取りなさい。」 こういわれて、男の子が箱の中へ頭を突込んだ途端に、ガタンと蓋を落したので、小児の頭はころりととれて、赤い林檎の中へ落ちました。それを見ると、継母は急に恐ろしくなって、「どうしたら、脱れられるだろう?」と思いました。そこで継母は、自分の居室にある箪笥のところに行って、手近の抽斗から、白い手巾を出して来て、頭を首にくっつけた上を、ぐるぐると巻いて、傷の分らないようにし、そして手へ林檎を持たせて、男の子を入口の椅子の上へ座らせておきました。 間もなく、女の子のマリちゃんが、今ちょうど、台所で、炉の前に立って、沸立った鍋をかき回しているお母さんのそばへ来ました。 「母さん、」とマリちゃんが言った。「兄さんは扉の前に座って、真白なお顔をして、林檎を手に持っているのよ。わたしがその林檎を頂戴と言っても、何とも言わないんですもの、わたし怖くなっちゃったわ!」 「もう一遍行ってごらん。」とお母さんが言った。「そして返事をしなかったら、横面を張っておやり。」
その箱には何と何がついていましたか?
その箱には、大きな重い蓋と頑固な鉄の錠がついていました。
JCRRAG_001259
国語
「ああ、」と女は深い嘆息を吐いて、目の前の血を眺めているうちに、急に心細くなって、こう言った。「血のように赤く、雪のように白い小児が、ひとりあったらね!」 言ってしまうと、女の胸は急に軽くなりました。そして確かに自分の願がとどいたような気がしました。女は家へ入りました。それから一月経つと、雪が消えました。二月すると、色々な物が青くなりました。三月すると、地の中から花が咲きました。四月すると、木々の梢が青葉に包まれ、枝と枝が重なり合って、小鳥は森に谺を起こして、木の上の花を散らすくらいに、歌い出しました。五月経った時に、おかみさんは、杜松の樹の下へ行きましたが、杜松の甘い香気を嚊ぐと、胸の底が躍り立つような気がして来て、嬉しさに我しらずそこへ膝を突きました。六月目が過ぎると、杜松の実は堅く、肉づいて来ましたが、女はただ静として居ました。七月になると、女は杜松の実を落して、しきりに食べました。するとだんだん気がふさいで、病気になりました。それから八月経った時に、女は夫の所へ行って、泣きながら、こう言いました。 「もしかわたしが死んだら、あの杜松の根元へ埋めて下さいね。」 これですっかり安心して、嬉しそうにしているうちに、九月が過ぎて、十月目になって、女は雪のように白く、血のように赤い小児を生みました。それを見ると、女はあんまり喜んで、とうとう死んでしまいました。 夫は女を杜松の根元へ埋めました。そしてその時には、大変に泣きましたが、時が経つと、悲みもだんだん薄くなりました。それから暫くすると、男はすっかり諦めて、泣くのをやめました。それから暫くして、男は別なおかみさんをもらいました。 二度目のおかみさんには、女の子が生まれました。初のおかみさんの子は、血のように赤く、雪のように白い男の子でした。おかみさんは自分の娘を見ると、可愛くって、可愛くって、たまらないほどでしたが、この小さな男の子を見るたんびに、いやな気持になりました。どうかして夫の財産を残らず自分の娘にやりたいものだが、それには、この男の子が邪魔になる、というような考えが、始終女の心をはなれませんでした。それでおかみさんは、だんだん鬼のような心になって、いつもこの子を目の敵にして、打ったり、敲いたり、家中を追廻したりするので、かわいそうな小児は、始終びくびくして、学校から帰っても、家にはおちついていられないくらいでした。
それから一月経つと、何が消えて、二月すると、何が青くなりましたか?
それから一月経つと、雪が消えて、二月すると、色々な物が青くなりました。
JCRRAG_001260
国語
或る時、おかみさんが、二階の小部屋へはいっていると、女の子もついて来て、こう言いました。 「母さん、林檎を頂戴。」 「あいよ。」とおかあさんが言って、箱の中から美麗な林檎を出して、女の子にやりました。その箱には大きな、重い蓋と頑固な鉄の錠が、ついていました。 「母さん、」と女の子が言った。「兄さんにも、一つあげないこと?」 おかあさんは機嫌をわるくしたが、それでも何気なしに、こういいました。 「あいよ、学校から帰って来たらね。」 そして男の子が帰って来るのを窓から見ると、急に悪魔が心の中へはいってでも来たように、女の子の持っている林檎をひったくって、 「兄さんより先に食べるんじゃない。」 と言いながら、林檎を箱の中へ投込んで、蓋をしてしまいました。 そこへ男の子が帰って来て、扉の所まで来ると、悪魔のついた継母は、わざと優しい声で、 「坊や、林檎をあげようか?」といって、じろりと男の子の顔を見ました。 「母さん、」と男の子が言った。「何て顔してるの!ええ、林檎を下さい。」 「じゃあ、一緒においで!」といって、継母は部屋へはいって、箱の蓋を持上げながら、「さあ自分で一個お取りなさい。」 こういわれて、男の子が箱の中へ頭を突込んだ途端に、ガタンと蓋を落したので、小児の頭はころりととれて、赤い林檎の中へ落ちました。それを見ると、継母は急に恐ろしくなって、「どうしたら、脱れられるだろう?」と思いました。そこで継母は、自分の居室にある箪笥のところに行って、手近の抽斗から、白い手巾を出して来て、頭を首にくっつけた上を、ぐるぐると巻いて、傷の分らないようにし、そして手へ林檎を持たせて、男の子を入口の椅子の上へ座らせておきました。 間もなく、女の子のマリちゃんが、今ちょうど、台所で、炉の前に立って、沸立った鍋をかき回しているお母さんのそばへ来ました。 「母さん、」とマリちゃんが言った。「兄さんは扉の前に座って、真白なお顔をして、林檎を手に持っているのよ。わたしがその林檎を頂戴と言っても、何とも言わないんですもの、わたし怖くなっちゃったわ!」 「もう一遍行ってごらん。」とお母さんが言った。「そして返事をしなかったら、横面を張っておやり。」
継母は、自分の居室にある箪笥のところに行って、どこから何を出して来ましたか?
継母は、自分の居室にある箪笥のところに行って、手近の抽斗から白い手巾を出して来ました。
JCRRAG_001261
国語
羅貫中は「水滸伝」を著わして、そのために子孫三代にわたって唖の児が生まれ、紫式部は「源氏物語」を著わして、一度は地獄にまでおちたが、それはおもうに彼等が架空の物語や狂言綺語を書いて世の人々を惑わせた悪業のために、そのむくいを身にうけたというべきであろう。そしてその文をみると、それぞれかわっためずらしい趣向をこらし、その文章の勢い・調子は真にせまり、あるいは低く、あるいは高く、あたかもころがるようになめらかで流暢であって、これを読むものの心持をしてたのしく快くさせるものである。その当時の出来事を、遠い後の世である今日において、さながら眼前にありありとてらし出して見ることができるようなおもいがする。さてここに、私もちょうど泰平の世を謳歌するようなのんきなむだばなしを書いたが、それは口からでまかせにしゃべりちらしたものである。雉が祭礼の庭で鳴いたり竜が野で戦ったりするような奇怪千万で、ありもしない怪奇談であるから、みずからかえりみてさえ、根拠のない、疎漏の多い、つたないものだとおもう。ましてこれを拾い読みするものは、もとよりこれが信ずるに足るほんものだというはずがない。だから、私の場合は、世間の人をまどわす罪もなく、子孫に口唇裂や平たい鼻などの変わり者が生まれるという業のむくいをうけるはずが、どうしてあろうか。そのおそれはないというものである。明和五年三月、雨はれて月おぼろにかすむ晩春の夜、座敷のあかりまどの下で編みつくり、書肆に渡す。題して「雨月物語」ということにした。剪枝畸人しるす。
「源氏物語」を著したのは誰ですか?
「源氏物語」を著したのは、紫式部です。
JCRRAG_001262
国語
羅貫中は「水滸伝」を著わして、そのために子孫三代にわたって唖の児が生まれ、紫式部は「源氏物語」を著わして、一度は地獄にまでおちたが、それはおもうに彼等が架空の物語や狂言綺語を書いて世の人々を惑わせた悪業のために、そのむくいを身にうけたというべきであろう。そしてその文をみると、それぞれかわっためずらしい趣向をこらし、その文章の勢い・調子は真にせまり、あるいは低く、あるいは高く、あたかもころがるようになめらかで流暢であって、これを読むものの心持をしてたのしく快くさせるものである。その当時の出来事を、遠い後の世である今日において、さながら眼前にありありとてらし出して見ることができるようなおもいがする。さてここに、私もちょうど泰平の世を謳歌するようなのんきなむだばなしを書いたが、それは口からでまかせにしゃべりちらしたものである。雉が祭礼の庭で鳴いたり竜が野で戦ったりするような奇怪千万で、ありもしない怪奇談であるから、みずからかえりみてさえ、根拠のない、疎漏の多い、つたないものだとおもう。ましてこれを拾い読みするものは、もとよりこれが信ずるに足るほんものだというはずがない。だから、私の場合は、世間の人をまどわす罪もなく、子孫に口唇裂や平たい鼻などの変わり者が生まれるという業のむくいをうけるはずが、どうしてあろうか。そのおそれはないというものである。明和五年三月、雨はれて月おぼろにかすむ晩春の夜、座敷のあかりまどの下で編みつくり、書肆に渡す。題して「雨月物語」ということにした。剪枝畸人しるす。
「水滸伝」を著したのは誰ですか?
「水滸伝」を著したのは羅貫中です。
JCRRAG_001263
国語
羅貫中は「水滸伝」を著わして、そのために子孫三代にわたって唖の児が生まれ、紫式部は「源氏物語」を著わして、一度は地獄にまでおちたが、それはおもうに彼等が架空の物語や狂言綺語を書いて世の人々を惑わせた悪業のために、そのむくいを身にうけたというべきであろう。そしてその文をみると、それぞれかわっためずらしい趣向をこらし、その文章の勢い・調子は真にせまり、あるいは低く、あるいは高く、あたかもころがるようになめらかで流暢であって、これを読むものの心持をしてたのしく快くさせるものである。その当時の出来事を、遠い後の世である今日において、さながら眼前にありありとてらし出して見ることができるようなおもいがする。さてここに、私もちょうど泰平の世を謳歌するようなのんきなむだばなしを書いたが、それは口からでまかせにしゃべりちらしたものである。雉が祭礼の庭で鳴いたり竜が野で戦ったりするような奇怪千万で、ありもしない怪奇談であるから、みずからかえりみてさえ、根拠のない、疎漏の多い、つたないものだとおもう。ましてこれを拾い読みするものは、もとよりこれが信ずるに足るほんものだというはずがない。だから、私の場合は、世間の人をまどわす罪もなく、子孫に口唇裂や平たい鼻などの変わり者が生まれるという業のむくいをうけるはずが、どうしてあろうか。そのおそれはないというものである。明和五年三月、雨はれて月おぼろにかすむ晩春の夜、座敷のあかりまどの下で編みつくり、書肆に渡す。題して「雨月物語」ということにした。剪枝畸人しるす。
私が書いたのは、どんなむだばなしですか?
私が書いたのは、泰平の世を謳歌するようなのんきなむだばなしです。
JCRRAG_001264
国語
君のおっしゃるところは、人間の道の道理をかりて説かれますので、いかにもそれにかなっているように見えますが、じつはやはり醜い人間の欲情・煩悩の域から脱してはおられません。遠い中国の例をひくまでもありません。わが国の昔にも、応神天皇が兄皇子の大鷦鷯の王をさしおいて、末皇子の菟道の王を皇太子とお定めになりました。天皇崩御ののち、この兄弟の皇子たちは互いにゆずりあって、どちらも帝位につこうとしません。三年たってもそのゆずりあいが終りそうにもないのを、菟道の王はふかく御心配になって、『どうして私がこれ以上生きながらえて、天下の人々に迷惑をかけられようか』とおっしゃると、御自害あそばされたので、やむなく兄皇子が帝位におつきになりました。これこそ帝位の尊厳を重んじ、父に孝、兄に悌という人道をまもり、ほんとうの真心をつくしていやしい私欲というものがないというべきです。聖賢堯舜の道とはこれをいうのでしょう。わが国において、儒教を尊んで、もっぱらそれを天皇道の理論的な裏づけとしているのは、菟道の王が百済の王仁を招聘して学ばせられたのがはじめでありますから、この御兄弟の皇子の御心こそ、そのまま中国の聖人の精神ともいってよいでしょう。また『周のはじめ、武王、殷の紂王の暴虐を憤ってこれを討ち、ために天下の民を安らかにした。これは臣の身として君を弑したというべきではない。仁にもとり義にもとった一人の不徳者紂をころしたのである』ということが、『孟子』という書物に記されていると人づてに聞いております。だから、中国の書籍は、経典・史策・詩文にいたるまで、神意にかなって、わが国に渡来しないものはありませんが、『孟子』という書物だけはまだ日本に伝わっておりません。
百済の王仁を招聘して学ばせられたのは誰ですか?
百済の王仁を招聘して学ばせられたのは、菟道の王です。
JCRRAG_001265
国語
その日、隣の国の第二王子様はお姫様の寝室に通されました。 「はじめまして。お加減はいかがですか」  王子様は親しみを込めてお姫様に笑顔を向けました。 「はじめまして。遠路はるばるお越し下さり、ありがとうございます。わたしは起きあがるとどうも具合が悪いので、このままで失礼いたします。王子様もさぞお疲れでしょうから、どうぞお座り下さい」  お姫様は表情をピクリとも動かさないまま挨拶をして、王子様にチーズタルトの形をした椅子を勧めました。  王子様はお姫様の丁寧な言葉の裏に冷たい心を感じて、なんと可哀想な人だろうと思い、お姫様を憐れみました。 「可哀想なお姫様。どうしてそうも頑なにお菓子を食べる事を拒まれるのですか」  いくらか他愛のない話しをした後に、王子様はきり出しました。  お姫様は王子様から目をそらせてそっと息を吐きましたが、何も言いません。  王子様は椅子から少し、身を乗り出しました。 「お姫様。あなたはご自身が多くの人から愛され、そして心配されている事をご存知でしょう。どうしても苦手だったら、何かお好きな物と一緒に食べてみましょう。私が、あなたが好きになるような料理人を探します。あなたと一緒に、あなたがお菓子を食べられるように考えていきます」  王子様はお姫様の反応が良くないと見ても、一生懸命に色んな提案をしました。  お姫様は俯きがちに一点をじっと見つめていて、そしてぽつりと言いました。 「それでも、わたしは食べたくないのです」   王子様は、お姫様の心を動かせずに意気消沈しました。 「……気難しいお姫様。それほどにわたしの言葉が聴きたくないのでしたら、今日は帰ります」  それ以降も王子様は何度か手紙をよこしましたが、お姫様は捨てることは無くてもお読みになる事もありませんでした。  数日後、お姫様の友人が訪ねてきました。  お姫様はやっぱりベッドの中のまま、友人はベッドの際に腰掛けて世間話に混ぜてこのあいだ尋ねてきた王子様の話しをしました。  友人は熱心にお姫様に語りかけた王子に同情的でした。 「あなた本当に偏屈で強情よね。少しくらい話しを合わせて食べればいいじゃないの。あんたの為に色々知恵を絞ってくれたんでしょうよ」 「そこが嫌なのよ。私のため私のためって、初めて会った人に言われてもね」 「私が言っても聞かないくせに」  友人はそう言って出されたお茶に口をつけました。  それからそう経たない内、お姫様にまた縁談が持ち上がりました。  お相手は、社交会に出てる人も話しにしか聞かないような遠い国の王子様でした。  その王子様は簡潔な挨拶をし、静かに腰を折りました。  なんとなく声を掛けづらいその静かな様子のために、お姫様はただ黙って王子様を見つめていました。  顔を上げた王子様と目が合いました。  色素の薄い灰色の瞳は中心の黒眼をきつく絞って、お姫様はその視線に突き刺されるような思いになりました。 「あなたが何にそんなにこだわってるのか、わたしにはわかりません」  王子様は、その冷たい印象とは変わって、ゆっくりと優しい口調で話しました。 「あなたの身体の事はきっとあなたが一番わかるでしょうから、食べるか食べないか、自分で決めなさい。食べないでもし死んでしまったとしてもあなたの選択です」 「……何がおっしゃりたいのでしょうか」  無遠慮な発言であるにも関わらず、お姫様は異国の王子の声に聴き惚れました。 「……もしあなたがこの婚約をうける気になったら、私はあなたがどこに進もうと、側にいて見守りましょう」  王子様はその場に立ったまま、あくまで静かに、淡々と言いました。  それから二人は多く言葉を交わすこと無く別れました。  独りになったあと、そっけない態度の王子様の言葉が不思議とお姫様の心に深く響き、お姫様はベッドの上でしばらく考え事をしました。  もうずいぶん前から体の衰えは感じていたし、特にここ数カ月は多くの人から心配されては居たのですが、さっきの王子の発言で初めて死を意識したような気すらしました。本当に、死に近づいているのかもしれない。そうは思って居たけれど、お姫様はまだ二十歳になったばかりでした。きっとまだ大丈夫だろう、まだ生きる時間はある、やり直すまでの時間は残されていると、お姫様はぼんやり納得してまた布団の中に戻ろうとしました。  すると突然部屋の中が真っ暗になりました。  窓からさす光も無く、電気を消すより暗い部屋は明らかに異様です。  お姫様は体を起こして身をかがめ、耳をすましました。  するとどこからともなく声が聞こえました。 「姫よ。お前はもう気が付いているはずだ」  決然と語るその声は空気も揺るがす地響きのようでもあり、耳をくすぐるそよ風のようでもありました。 「なんのことです」 「お前の体は内側からどんどん腐り、死んで行っている。物心ついてほどなく菓子を食べ無くなったお前の体は、六歳の頃からその身をそぎ始め、今となっては、たとえ生活を改めても手遅れなのだ」  お姫様は何も言いませんでした。  不思議だと思う事はなにもありませんでした。灰色の目をした王子の言うとおり、自分の体のことは察していたのです。生を受けてまだ20年と言えど、その年月は十分に長く、過去を振り返れば色んなことがありました。半生以上をこのベッドの上で過ごしていますが、それでも優しい父や愉快な友人のおかげで、思い出すことは沢山あります。  お姫様はそれだけの生を、生きる糧無しに過ごしてきたのです。  当然の報いだとお姫様は思いました。自分の体のことを初めて理解し納得したお姫様は景色の戻った部屋の中、己の全てが壊れてしまったように思いました。  そして、お姫様は彼女の死を暗に宣言した王子の優しい声を思い出していたのでした。
お姫様は隣の国の第二王子様にどんな形をした椅子を勧めましたか?
お姫様は隣の国の第二王子様にチーズタルトの形をした椅子を勧めました。
JCRRAG_001266
国語
電紙 りりー  今回発表するのはこの「電紙」です。この紙は最新のナノバイオcpuが搭載されて、紙の繊維が小さいコンピューター「電脳繊維」になっています。それぞれの電脳繊維は容量が少ないですが協調性並行処理アルゴリズムによって1。34*10^3[TB/sec]の処理速度を実現しました。  電紙は紙のように扱えます。簡単なペーパークラフトを作るだけで高性能なPCを作ることができます。専用ののりで貼るだけでデーター容量を増やすことができます。従来の「自作」のようにめんどくさい部品の取り付けや、設定はいりません。  電紙は処理熱で自動発電します。電源も大きな空冷ファンも水冷チューブも必要ありません。  電紙はトルクを発生することができます。設定し、簡単なプログラムを書くだけでロボットができます。  電紙は学校、オフィス、家庭に新時代の文化を築きます。  なんて商品が発売されたもんだから皆がこぞって買って近所の電気屋ですら整理券を配る始末。 テレビで毎日話題になって、本屋では電紙のムック本が平積みになっても足らなかった。毎日売れて売れて売れまくった。 学校ではノート代わりに電紙ノートが、会社では電紙パソコンが、みんな電紙を使う新時代を電紙は築く。  予定だった。 しばらくしてみんな気がついた。これは所詮ただの紙だと。 手汗でふやけて画面がぐにゃぐにゃ 鞄の底で残業したデータが破れた。 生徒は紙飛行機にして、カメラ機能で覗きをやった。 国から規制されるのは発売から半年もたたない中だったとさ。
電紙は何で貼るとデーター容量を増やすことができますか?
電紙は専用ののりで貼るとデーター容量を増やすことができます。
JCRRAG_001267
国語
人生が偶然の連続の結果、成功へと到達するなんて、小説の中だけのこと、ぼくはずっとそう考えていた。そんな劇的で幸運な人生を歩けるのは、世界のなかでも、0コンマ01パーセントにも満たないのではないだろうか?   この得体のしれない虫の幼虫も、僕の境遇と大して違いはないだろう。つまり平凡な六等星の生き方だ。  そう、ぼくが、海釣りの餌に、庭木にたかっていた幼虫を使ったのは、むしろ必然のことだった。金が底をついていたのだ。最後の給料、といってもあの会社は、賃金形態も支給日も、きちんとあったものではなかったが、それでも 「今日でやめさせてください」 といったとき、上司兼経理兼人事係りは 「はい。これ、今月分と退職金」 と、十万円を封筒にいれ、手渡してくれたのだ。その最後の給料が、残高三桁になり、仕方なく徒歩四十三分の海へ、食糧を仕入れにいくことにしたのだった。  竿は物置にたくさんあった。亡き父のものだ。  ぼくは、庭にある、低木の木の葉に、うじゃうじゃとついていた、茶色っぽい幼虫をつまんでタッパーにいれた。  一石二鳥ではないか? 虫退治にもなるわけだし。どの木も葉が穴だらけだった。これでは光合成もままならない。  そうだ、そうだ、とひとりで賛成をする。  ぼくは海へ出ると、防波堤の先端ちかくに持参した折りたたみ椅子をこしらえ、早速糸を垂らした。海は凪いでいた。  先客はひとりいた。帽子の下から白いものがのぞくのは、いわゆる、リタイア世代だろうか。椅子のそばには缶コーヒーの空き缶や、栄養ドリンクのビンも飲み干されて倒れている。  糸の動きをぼんやり追いながら、ぼくはこれからのことを考えていた。この先どうしようか? もちろん、ハローワークへ行って失業手当をもらう、というのは一番賢明な選択だろう。  しかし、どうにもおっくうである。だいいち、就業しようと努力しているところを、たえず提示する必要があるという条件は難関である。自分にできるのだろうか? 気力がゼロのぼくに?  ぼくが辞めた会社では浄水器のセールスが仕事だった。 「こんなに水が綺麗になります、奥様」  ぼくは毎日、訪問した家で、浄水器の水を飲んだ。相手が不安になるほど飲んだ。そして一件も契約できないと、会社でその水を頭からかけられ、 「頭をひやして、もう一度いけ」と罵声も浴びせられ、また出かける、その繰り返しだった。  十分にダークだ。いやブラック企業である。浄水器の水で、病気も軽くなるというふれこみを売りにしている会社である。従業員も水さえ豊富にあればやっていけると考えたのだろう。  それでも、ぼくは一年七ヶ月間働いたが、とうとう心身ともに病んで辞めたのだ。円形脱毛症プラス抑うつ症状、そして睡眠障害のニート、それがいまのぼくの肩書きである。  ともあれ、歩いていける範囲に海があり、釣りができるのはありがたかった。時間は限りなくあったから。  波の動きをながめていると、眠気が漂ってくる。夜間はまったく眠れないぼくは、ここちよい潮風にうとうとして、糸を垂らしていたが 「兄ちゃん、ひいているよ」という声で、はっと条件反射でリールをまいて、竿をあげる。  魚は小さいがアジがかかっていた。 「あ、どうも、助かりました」クーラーボックスにほうりこみながら、いちおうお礼をいい、また幼虫を針につけた。 「それ、食いつきがいいけど、なんの虫?」  オレンジのキャップをかぶった男は近寄り、たずねてきた。 「さあ? よかったら、どうぞ」  タッパーをさしだすと、「おお」という顔をした。グロテスクだからだろう。三センチほどの、いわゆるベージュがかった色の芋虫である。もそもそしていた。 「じゃあ、さっそくこれで試してみようか」  と、自分の椅子をひきよせ、並んで糸を垂らす。 「まったく、釣りっていうのは、リラックスできるスポーツだね」  と、ぼくに話しかけてくる。たぶん、話し相手がほしかったのだろう。ぼくも、ええ、まあ、とか適当に答えながら、再び糸をたらしていたが、その、見るからにリッチそうな、つまり、服のブランドや竿の仕様で判断した、その男は、虫の餌に嬉々としていた。 「いいよ、これ。いいねえ」  彼はその後たてつづけに七匹釣った。ぼくは、その後は小魚一匹である。男は悪いと思うのか、決まり悪そうにタッパーに手をのばすので、 「いいですよ、全部つかってください」  タッパーを丸ごと渡した。虫と一緒に葉もたっぷりいれていたので、やつらはまだ生き生きしている。魚にとってはジューシーなのだろうな。 「本当? いいの?」  と、彼はやけに嬉しそうであったが、やにわに携帯が鳴った。着信音は『威風堂々』だった。男はああ、とか、なに、とか応対をしているが、ぼくが始めから睨んだとおり、電話の話ぶりや威厳をもった態度からして、相応の地位のある人らしい。 「残念だ。行かなくてはならない」  名残惜しそうなので、ぼくはその虫をあげることにした。 「うちには、うじゃうじゃいるんで」 「そうか、感謝するよ、君。ところで、その代わりといってはなんだが、この釣れた魚もらってくれ。これから行くところが急にできて、なに? そっちのクーラーボックスに入りきれない? そうか、じゃあ、こうしよう。名詞をあげるから、空のボックスと竿、あとでうちに届けてくれないか? そう、お礼もしたいしね」  男はぼくに一枚の名刺をおしつけ、クーラーボックスのみならず、竿や椅子、弁当がら等のごみも残して去っていった。  しかし、なぜか虫のタッパーだけは大事に小脇にかかえている。  ぼくが成り行きに対処できずに、呆然としているあいだに、浜から上がった道に、お迎えの黒い車がすーっと横付けされ 彼はさっそうとのりこんでしまったのだ。まるでテレビのようだった。  あとに残された二人分の釣り道具を前に、ぼくは少し気落ちしたが、まあ、魚が考えていたより多く手に入ったわけだし、とポジテブに考え、家にもどることにした。リッチな男のボックスには、アイナメやサヨリ、アジが入っていた。  両肩に大小のクーラーボックス、手には2本の竿、背中に折りたたみレジャー椅子をせおい、歩く姿は浦島太郎に見えるだろう、となんとか気力をふるいおこし、他人の目は気にせずに歩いた。
ぼくが辞めた会社では何が仕事でしたか?
ぼくが辞めた会社では浄水器のセールスが仕事でした。
JCRRAG_001268
国語
或る時、おかみさんが、二階の小部屋へはいっていると、女の子もついて来て、こう言いました。 「母さん、林檎を頂戴。」 「あいよ。」とおかあさんが言って、箱の中から美麗な林檎を出して、女の子にやりました。その箱には大きな、重い蓋と頑固な鉄の錠が、ついていました。 「母さん、」と女の子が言った。「兄さんにも、一つあげないこと?」 おかあさんは機嫌をわるくしたが、それでも何気なしに、こういいました。 「あいよ、学校から帰って来たらね。」 そして男の子が帰って来るのを窓から見ると、急に悪魔が心の中へはいってでも来たように、女の子の持っている林檎をひったくって、 「兄さんより先に食べるんじゃない。」 と言いながら、林檎を箱の中へ投込んで、蓋をしてしまいました。 そこへ男の子が帰って来て、扉の所まで来ると、悪魔のついた継母は、わざと優しい声で、 「坊や、林檎をあげようか?」といって、じろりと男の子の顔を見ました。 「母さん、」と男の子が言った。「何て顔してるの!ええ、林檎を下さい。」 「じゃあ、一緒においで!」といって、継母は部屋へはいって、箱の蓋を持上げながら、「さあ自分で一個お取りなさい。」 こういわれて、男の子が箱の中へ頭を突込んだ途端に、ガタンと蓋を落したので、小児の頭はころりととれて、赤い林檎の中へ落ちました。それを見ると、継母は急に恐ろしくなって、「どうしたら、脱れられるだろう?」と思いました。そこで継母は、自分の居室にある箪笥のところに行って、手近の抽斗から、白い手巾を出して来て、頭を首にくっつけた上を、ぐるぐると巻いて、傷の分らないようにし、そして手へ林檎を持たせて、男の子を入口の椅子の上へ座らせておきました。 間もなく、女の子のマリちゃんが、今ちょうど、台所で、炉の前に立って、沸立った鍋をかき回しているお母さんのそばへ来ました。 「母さん、」とマリちゃんが言った。「兄さんは扉の前に座って、真白なお顔をして、林檎を手に持っているのよ。わたしがその林檎を頂戴と言っても、何とも言わないんですもの、わたし怖くなっちゃったわ!」 「もう一遍行ってごらん。」とお母さんが言った。「そして返事をしなかったら、横面を張っておやり。」
兄さんは真白なお顔をして、何の前に座って何を手に持っていますか?
兄さんは真白なお顔をして、扉の前に座って、林檎を手に持っています。
JCRRAG_001269
国語
人生が偶然の連続の結果、成功へと到達するなんて、小説の中だけのこと、ぼくはずっとそう考えていた。そんな劇的で幸運な人生を歩けるのは、世界のなかでも、0コンマ01パーセントにも満たないのではないだろうか?   この得体のしれない虫の幼虫も、僕の境遇と大して違いはないだろう。つまり平凡な六等星の生き方だ。  そう、ぼくが、海釣りの餌に、庭木にたかっていた幼虫を使ったのは、むしろ必然のことだった。金が底をついていたのだ。最後の給料、といってもあの会社は、賃金形態も支給日も、きちんとあったものではなかったが、それでも 「今日でやめさせてください」 といったとき、上司兼経理兼人事係りは 「はい。これ、今月分と退職金」 と、十万円を封筒にいれ、手渡してくれたのだ。その最後の給料が、残高三桁になり、仕方なく徒歩四十三分の海へ、食糧を仕入れにいくことにしたのだった。  竿は物置にたくさんあった。亡き父のものだ。  ぼくは、庭にある、低木の木の葉に、うじゃうじゃとついていた、茶色っぽい幼虫をつまんでタッパーにいれた。  一石二鳥ではないか? 虫退治にもなるわけだし。どの木も葉が穴だらけだった。これでは光合成もままならない。  そうだ、そうだ、とひとりで賛成をする。  ぼくは海へ出ると、防波堤の先端ちかくに持参した折りたたみ椅子をこしらえ、早速糸を垂らした。海は凪いでいた。  先客はひとりいた。帽子の下から白いものがのぞくのは、いわゆる、リタイア世代だろうか。椅子のそばには缶コーヒーの空き缶や、栄養ドリンクのビンも飲み干されて倒れている。  糸の動きをぼんやり追いながら、ぼくはこれからのことを考えていた。この先どうしようか? もちろん、ハローワークへ行って失業手当をもらう、というのは一番賢明な選択だろう。  しかし、どうにもおっくうである。だいいち、就業しようと努力しているところを、たえず提示する必要があるという条件は難関である。自分にできるのだろうか? 気力がゼロのぼくに?  ぼくが辞めた会社では浄水器のセールスが仕事だった。 「こんなに水が綺麗になります、奥様」  ぼくは毎日、訪問した家で、浄水器の水を飲んだ。相手が不安になるほど飲んだ。そして一件も契約できないと、会社でその水を頭からかけられ、 「頭をひやして、もう一度いけ」と罵声も浴びせられ、また出かける、その繰り返しだった。  十分にダークだ。いやブラック企業である。浄水器の水で、病気も軽くなるというふれこみを売りにしている会社である。従業員も水さえ豊富にあればやっていけると考えたのだろう。  それでも、ぼくは一年七ヶ月間働いたが、とうとう心身ともに病んで辞めたのだ。円形脱毛症プラス抑うつ症状、そして睡眠障害のニート、それがいまのぼくの肩書きである。  ともあれ、歩いていける範囲に海があり、釣りができるのはありがたかった。時間は限りなくあったから。  波の動きをながめていると、眠気が漂ってくる。夜間はまったく眠れないぼくは、ここちよい潮風にうとうとして、糸を垂らしていたが 「兄ちゃん、ひいているよ」という声で、はっと条件反射でリールをまいて、竿をあげる。  魚は小さいがアジがかかっていた。 「あ、どうも、助かりました」クーラーボックスにほうりこみながら、いちおうお礼をいい、また幼虫を針につけた。 「それ、食いつきがいいけど、なんの虫?」  オレンジのキャップをかぶった男は近寄り、たずねてきた。 「さあ? よかったら、どうぞ」  タッパーをさしだすと、「おお」という顔をした。グロテスクだからだろう。三センチほどの、いわゆるベージュがかった色の芋虫である。もそもそしていた。 「じゃあ、さっそくこれで試してみようか」  と、自分の椅子をひきよせ、並んで糸を垂らす。 「まったく、釣りっていうのは、リラックスできるスポーツだね」  と、ぼくに話しかけてくる。たぶん、話し相手がほしかったのだろう。ぼくも、ええ、まあ、とか適当に答えながら、再び糸をたらしていたが、その、見るからにリッチそうな、つまり、服のブランドや竿の仕様で判断した、その男は、虫の餌に嬉々としていた。 「いいよ、これ。いいねえ」  彼はその後たてつづけに七匹釣った。ぼくは、その後は小魚一匹である。男は悪いと思うのか、決まり悪そうにタッパーに手をのばすので、 「いいですよ、全部つかってください」  タッパーを丸ごと渡した。虫と一緒に葉もたっぷりいれていたので、やつらはまだ生き生きしている。魚にとってはジューシーなのだろうな。 「本当? いいの?」  と、彼はやけに嬉しそうであったが、やにわに携帯が鳴った。着信音は『威風堂々』だった。男はああ、とか、なに、とか応対をしているが、ぼくが始めから睨んだとおり、電話の話ぶりや威厳をもった態度からして、相応の地位のある人らしい。 「残念だ。行かなくてはならない」  名残惜しそうなので、ぼくはその虫をあげることにした。 「うちには、うじゃうじゃいるんで」 「そうか、感謝するよ、君。ところで、その代わりといってはなんだが、この釣れた魚もらってくれ。これから行くところが急にできて、なに? そっちのクーラーボックスに入りきれない? そうか、じゃあ、こうしよう。名詞をあげるから、空のボックスと竿、あとでうちに届けてくれないか? そう、お礼もしたいしね」  男はぼくに一枚の名刺をおしつけ、クーラーボックスのみならず、竿や椅子、弁当がら等のごみも残して去っていった。  しかし、なぜか虫のタッパーだけは大事に小脇にかかえている。  ぼくが成り行きに対処できずに、呆然としているあいだに、浜から上がった道に、お迎えの黒い車がすーっと横付けされ 彼はさっそうとのりこんでしまったのだ。まるでテレビのようだった。  あとに残された二人分の釣り道具を前に、ぼくは少し気落ちしたが、まあ、魚が考えていたより多く手に入ったわけだし、とポジテブに考え、家にもどることにした。リッチな男のボックスには、アイナメやサヨリ、アジが入っていた。  両肩に大小のクーラーボックス、手には2本の竿、背中に折りたたみレジャー椅子をせおい、歩く姿は浦島太郎に見えるだろう、となんとか気力をふるいおこし、他人の目は気にせずに歩いた。
ぼくは海釣りの餌に、何を使いましたか?
ぼくは海釣りの餌に、庭木にたかっていた幼虫を使いました。
JCRRAG_001270
国語
紙幣鶴 斎藤茂吉  ある晩カフェに行くと、一隅の卓に倚ったひとりの娘が、墺太利の千円紙幣でしきりに鶴を折っている。ひとりの娘というても、僕は二度三度その娘と話したことがあった。僕の友と一しょに夕餐をしたこともあった。世の人々は、この娘の素性などをいろいろ穿鑿せぬ方が賢いとおもう。娘の前を通りしなに、僕はちょっと娘と会話をした。 「こんばんは。何している」 「こんばんは。どうです、旨いでしょう」 「なんだ千円札じゃないか。勿体ないことをするね」 「いいえ、ちっとも勿体なかないわ。ごらんなさい、墺太利のお金は、こうやってどんどん飛ぶわ」  そうして娘は口を細め、頬をふくらめて、紙幣で折った鶴をぷうと吹いた。鶴は虚空に舞い上ったが、忽ち牀上に落ちた。  娘は、微笑しながら紙幣で折った鶴を僕に示して、"fliegende oesterreichische Kronen!"こういったのであった。この原語の方が、象徴的で、簡潔で、小癪で、よほどうまいところがある。けれども、これをそのまま日本語に直訳してしまってはやはりいけまい。  この小話は、墺太利のカアル皇帝が、西班牙領の離れ小島で崩じた時と、同じような感銘を僕に与えたとおもうから、ここに書きしるしておこう。
「僕」は何度、「ひとりの娘」と話したことがありましたか?
「僕」は二度三度、「ひとりの娘」と話したことがありました。
JCRRAG_001271
国語
紙幣鶴 斎藤茂吉  ある晩カフェに行くと、一隅の卓に倚ったひとりの娘が、墺太利の千円紙幣でしきりに鶴を折っている。ひとりの娘というても、僕は二度三度その娘と話したことがあった。僕の友と一しょに夕餐をしたこともあった。世の人々は、この娘の素性などをいろいろ穿鑿せぬ方が賢いとおもう。娘の前を通りしなに、僕はちょっと娘と会話をした。 「こんばんは。何している」 「こんばんは。どうです、旨いでしょう」 「なんだ千円札じゃないか。勿体ないことをするね」 「いいえ、ちっとも勿体なかないわ。ごらんなさい、墺太利のお金は、こうやってどんどん飛ぶわ」  そうして娘は口を細め、頬をふくらめて、紙幣で折った鶴をぷうと吹いた。鶴は虚空に舞い上ったが、忽ち牀上に落ちた。  娘は、微笑しながら紙幣で折った鶴を僕に示して、"fliegende oesterreichische Kronen!"こういったのであった。この原語の方が、象徴的で、簡潔で、小癪で、よほどうまいところがある。けれども、これをそのまま日本語に直訳してしまってはやはりいけまい。  この小話は、墺太利のカアル皇帝が、西班牙領の離れ小島で崩じた時と、同じような感銘を僕に与えたとおもうから、ここに書きしるしておこう。
「僕」はある晩どこに行きましたか?
「僕」はある晩カフェに行きました。
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国語
 本誌の読者は「夫婦百景」の筆者獅子文六が、同時に岩田豊雄であることぐらいはご承知であろう。その夫人静子さんが、急な病いで亡くなられた。四十四歳といえば、まだ人生を終るには早く、夫君が今後ますます多くの傑作を書かねばならぬように、夫人もまた、将来にさまざまな期待と希望とを抱いて、この春を迎えようとしていたにちがいない。  私は岩田君ともっとも親しい友人の一人として、この不幸を正視することができないくらいである。まして、いま、この不幸について公けに語ることは、いかにもその時機でないような気がするのだが、本誌の編集者は、強引に、そして巧妙に私を説き伏せた。私は、一方にためらう自分を励ましながら、すこしでも書くに値する一文を、岩田夫人のために捧げる決心をした。  十五年前、私は、ある神社の会館で行われた岩田夫妻の結婚披露式に列したことをはっきり覚えている。友人を代表するかたちで、私が一席、祝辞を述べることになったのだが、どんなことを喋ったか、それはもうわすれてしまった。しかし、事の序に、新夫人に向って、岩田豊雄なる人物の紹介をちょっぴりしたように思う。たしか、岩田君はわれわれ文筆に従事するもののうちでも、とりわけ気むずかし屋の方に属するけれども、その代りに、彼は、万事に、はなはだ呑みこみがよく、夫人の方で、もしその弱点を巧みに利用されたら、おそらく、極めて御し易い男性となるであろう、というような、警告とも気易めともつかぬ一言であった。
「私」は「すこしでも書くに値する一文」を、誰のために捧げる決心をしましたか。
「私」は「すこしでも書くに値する一文」を、岩田夫人のために捧げる決心をしました。
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国語
世界怪談名作集 幽霊の移転 ストックトン Francis Richard Stockton 岡本綺堂訳  ジョン・ヒンクマン氏の田園住宅は、いろいろの理由から僕にとっては甚だ愉快な場所で、やや無遠慮ではあるが、まことに居心地のよい接待ぶりの寓居であった。庭には綺麗に刈り込んだ芝原と、塔のように突っ立った槲や楡の木があって、ほかにも所どころに木立ちが茂っていた。家から遠くないところに小さい流れがあって、そこには皮付きの粗末な橋が架けてあった。  ここらには花もあれば果物もあり、愉快な人たちも住んでいて、将棋、玉突き、騎馬、散歩、魚釣りなどの遊戯機関もそなわっていた。それらはもちろん、大いに人を惹くの力はあったが、単にそれだけのことでは、そこに長居をする気にはなれない。僕は鱒の捕れる時節に招待されたのであるが、まず初夏の時節をよしとして訪問したのである。草は乾いて、日光はさのみ暑からず、そよそよと風が吹く。その時、わがマデライン嬢とともに、枝の茂った楡の下蔭をそぞろに歩み、木立のあいだをしずかに縫ってゆくのであった。  僕はわがマデライン嬢といったが、実のところ、彼女はまだ僕のものではないのである。彼女はその身を僕に捧げたというわけでもなく、僕のほうからもまだなんとも言い出したのではなかったが、自分が今後この世に生きながらえてゆくには、どうしても彼女をわがものにしなければならないと考えているので、自分の腹のうちだけでは、彼女をわがマデラインと呼んでいるのであった。自分の考えていることを早く彼女の前に告白してしまえば、こんな独りぎめなどをしている必要はないのであるが、さてそれが非常にむずかしい事件であった。  それはすべての恋する人が恐れるように、およそ恋愛の成るか成らぬかの間にまた楽しい時代があるのであるから、にわかにそれを突破して終末に近づき、わが愛情の目的物との交通または結合を手早く片付けてしまうのを恐れるばかりでなく、僕は主人のジョン・ヒンクマン氏を大いに恐れているがためであった。かの紳士は僕のよい友達ではあるが、彼にたいしておまえの姪をくれと言い出すのは、僕以上の大胆な男でなければ出来ないことであった。彼女は主としてこの家内いっさいのことを切り廻している上に、ヒンクマン氏がしばしば語るところによれば、氏は彼女を晩年の杖はしらとも頼んでいるのであった。この問題について、マデライン嬢が承諾をあたえる見込みがあるなら断然それを切り出すだけの勇気を生じたでもあろうが、前にもいう通りの次第で、僕は一度も彼女にそれを打ち明けたことはなく、ただそれについて、昼も夜も――ことに夜は絶えず思い明かしているだけのことであった。  ある夜、僕は自分の寝室にあてられた広びろしい一室の、大きいベッドの上に身を横たえながら、まだ眠りもやらずにいると、この室内の一部へ映し込んできた新しい月のぼんやりした光りによって、主人のヒンクマン氏がドアに近い大きい椅子に沿うて立っているのを見た。  僕は非常に驚いたのである。それには二つの理由がある。第一、主人はいまだかつて僕の部屋へ来たことはないのである。第二、彼はけさ外出して、幾日間は帰宅しないはずである。それがために、僕は今夜マデライン嬢とあいたずさえて、月を見ながら廊下に久しく出ていることが出来たのであった。今ここにあらわれた人の姿は、いつもの着物を着ているヒンクマン氏に相違なかったが、ただその姿のなんとなく朦朧たるところがたしかに幽霊であることを思わせた。  善良なる老人は途中で殺されたのであろうか。そうして、彼の魂魄がその事実を僕に告げんとして帰ったのであろうか。さらにまた、彼の愛する――の保護を僕に頼みに来たのであろうか。こう考えると、僕の胸はにわかにおどった。  その瞬間に、かの幽霊のようなものは話しかけた。 「あなたはヒンクマン氏が今夜帰るかどうだか、ご承知ですか」  彼は心配そうな様子である。この場合、うわべに落ち着きを見せなければならないと思いながら、僕は答えた。 「帰りますまい」 「やれ、ありがたい」と、彼は自分の立っていたところの椅子に倚りながら言った。「ここの家に二年半も住んでいるあいだ、あの人はひと晩も家をあけたことはなかったのです。これで私がどんなに助かるか、あなたにはとても想像がつきますまいよ」  こう言いながら、彼は足をのばして背中を椅子へ寄せかけた。その姿かたちは以前よりも濃くなって、着物の色もはっきりと浮かんできて、心配そうであった彼の容貌も救われたように満足の色をみせた。 「二年半……」と、僕は叫んだ。「君の言うことは分からないな」 「わたしがここへ来てから、たしかにそれほどの長さになるのです」と、幽霊は言った。「なにしろ私のは普通の場合と違うのですからな。それについて少しお断わりをする前に、もう一度おたずね申しておきたいのはヒンクマン氏のことですが、あの人は今夜たしかに帰りませんか」 「僕の言うことになんでも嘘はない」と、僕は答えた。「ヒンクマン氏はきょう、二百マイルも遠いブリストルへいったのだ」(以下略)
ジョン・ヒンクマン氏の田園住宅は僕にとってどんな場所でしたか?
ジョン・ヒンクマン氏の田園住宅は僕にとって甚だ愉快な場所であり、まことに居心地のよい接待ぶりの寓居でした。
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国語
 親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。  親類のものから西洋製のナイフを貰って奇麗な刃を日に翳して、友達に見せていたら、一人が光る事は光るが切れそうもないと云った。切れぬ事があるか、何でも切ってみせると受け合った。そんなら君の指を切ってみろと注文したから、何だ指ぐらいこの通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。幸ナイフが小さいのと、親指の骨が堅かったので、今だに親指は手に付いている。しかし創痕は死ぬまで消えぬ。
何が死ぬまで消えませんか?
創痕が死ぬまで消えません。
JCRRAG_001275
国語
 本誌の読者は「夫婦百景」の筆者獅子文六が、同時に岩田豊雄であることぐらいはご承知であろう。その夫人静子さんが、急な病いで亡くなられた。四十四歳といえば、まだ人生を終るには早く、夫君が今後ますます多くの傑作を書かねばならぬように、夫人もまた、将来にさまざまな期待と希望とを抱いて、この春を迎えようとしていたにちがいない。  私は岩田君ともっとも親しい友人の一人として、この不幸を正視することができないくらいである。まして、いま、この不幸について公けに語ることは、いかにもその時機でないような気がするのだが、本誌の編集者は、強引に、そして巧妙に私を説き伏せた。私は、一方にためらう自分を励ましながら、すこしでも書くに値する一文を、岩田夫人のために捧げる決心をした。  十五年前、私は、ある神社の会館で行われた岩田夫妻の結婚披露式に列したことをはっきり覚えている。友人を代表するかたちで、私が一席、祝辞を述べることになったのだが、どんなことを喋ったか、それはもうわすれてしまった。しかし、事の序に、新夫人に向って、岩田豊雄なる人物の紹介をちょっぴりしたように思う。たしか、岩田君はわれわれ文筆に従事するもののうちでも、とりわけ気むずかし屋の方に属するけれども、その代りに、彼は、万事に、はなはだ呑みこみがよく、夫人の方で、もしその弱点を巧みに利用されたら、おそらく、極めて御し易い男性となるであろう、というような、警告とも気易めともつかぬ一言であった。
「夫婦百景」の筆者は誰ですか。
「夫婦百景」の筆者は獅子文六です。
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国語
朝、食堂でスウプを1さじ、すっと吸ってお母さまが、 「あ」 と幽かな叫び声をお挙げになった。 「髪の毛?」 スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。 「いいえ」 お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた。ヒラリ、という形容は、お母さまの場合、決して誇張では無い。婦人雑誌などに出ているお食事のいただき方などとは、てんでまるで、違っていらっしゃる。弟の直治がいつか、お酒を飲みながら、姉の私に向ってこう言った事がある。 「爵位があるから、貴族だというわけにはいかないんだぜ。爵位が無くても、天爵というものを持っている立派な貴族のひともあるし、おれたちのように爵位だけは持っていても、貴族どころか、賤民にちかいのもいる。岩島なんてのは(と直治の学友の伯爵のお名前を挙げて)あんなのは、まったく、新宿の遊廓の客引き番頭よりも、もっとげびてる感じじゃねえか。こないだも、柳井(と、やはり弟の学友で、子爵の御次男のかたのお名前を挙げて)の兄貴の結婚式に、あんちきしょう、タキシイドなんか着て、なんだってまた、タキシイドなんかを着て来る必要があるんだ、それはまあいいとして、テーブルスピーチの時に、あの野郎、ゴザイマスルという不可思議な言葉をつかったのには、げっとなった。気取るという事は、上品という事と、ぜんぜん無関係なあさましい虚勢だ。高等御下宿と書いてある看板が本郷あたりによくあったものだけれども、じっさい華族なんてものの大部分は、高等御乞食とでもいったようなものなんだ。しんの貴族は、あんな岩島みたいな下手な気取りかたなんか、しやしないよ。おれたちの一族でも、ほんものの貴族は、まあ、ママくらいのものだろう。あれは、ほんものだよ。かなわねえところがある」
「私」の弟の名前は何ですか?
「私」の弟の名前は直治です。
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国語
イギリスで、わたしの心をもっとも楽しく魅惑するのは、昔から伝わっている祭日のならわしと田舎の遊びごとである。そういうものを見て、わたしが思いおこすのは、まだ若かったころに、わたしの空想がえがいた数々の絵である。あのころ、わたしは世界というものを書物を通してしか知らなかったし、世界は詩人たちがえがいた通りのものだと信じこんでいた。そしてさらに、その絵といっしょに、純朴だった昔の日々の香りがもどってくる。そして、やはりおなじ間違いかもしれないが、そのころ世間のひとびとは今よりずっと素朴で、親しみぶかく、そして嬉々としていたように思う。残念なことに、そういうものは日毎にかすかになってくるのである。時がたつにしたがって次第に擦りへらされるだけでなく、新しい流行に消し去られてしまうのだ。この国の各地にあるゴシック建築の美しい遺物が、時代の荒廃にまかされて崩壊したり、あるいは、後の世に手が加えられたり改築されたりして、もとのすがたを失ってゆくのにも似ているのである。しかし、詩は田園の遊戯や祭日の宴楽から多くの主題を得たのだが、今でもそれをなつかしみ、纏綿としてはなれない。それは、あたかも、蔦が古いゴシックの門や崩れかかった塔に、ゆたかな葉をまきつけて、自分を支えてくれた恩にこたえ、ゆらゆらする廃墟を抱きしめ、いわば、その若い緑でいつまでも香り高いものにしておこうとするのとおなじようである。 しかし、さまざまの古い祭のなかでも、クリスマスの祝いは、最も強いしみじみした連想を目ざめさせる。それには、おごそかで清らかな感情がこもっており、それがわたしたちの陽気な気分に溶けあい、心は神聖で高尚な悦楽の境地に高められる。クリスマスのころの教会の礼拝は、たいへん優美で感動的である。キリスト教の起源の美しい物語や、キリスト生誕のときの田園の光景がじゅんじゅんと説かれる。そして、降臨節のあいだに、その礼拝には次第に熱意と哀感が加わり、ついに、あの、人類に平和と善意とがもたらされたクリスマスの朝に、歓喜の声となって噴出するのである。教会で、聖歌隊の全員が鳴りひびくオルガンに合わせて、クリスマスの聖歌を歌い、その勝ち誇った調和音が大伽藍の隅々まで満たしてしまうのを聞くときほど、音楽が荘厳に人の道徳的感情に迫ってくるのを知らない。 古い昔からの美しいしきたりによって、この、愛と平和の宗教の宣布を記念する祭りの日々には、一族は相つどい、また、肉親のものでも、世の中の苦労や、喜びや、悲しみで、いつも引きはなされがちなひとびとがまたひきよせられるのだ。そして、子供たちは、すでに世間に旅立って、遠くはなればなれにさまよっていても、もう一度両親の家の炉ばたに呼びかえされて、その愛のつどいの場所に団欒し、幼年時代のなつかしい思い出のなかで、ふたたび若がえり、いつくしみあうのである。
あのころ、わたしは世界というものを何を通してしか知りませんでしたか?
あのころ、わたしは世界というものを書物を通してしか知りませんでした。
JCRRAG_001278
国語
季節そのものも、クリスマスの祝いに魅力をそえる。ほかの季節には、わたしたちはほとんど大部分の愉しみを自然の美しさから得るのである。わたしたちの心は戸外に飛びだし、陽ざしの暖かい自然のなかで気を晴らすのだ。わたしたちは「野外のいたるところに生きる」のである。鳥の歌、小川のささやき、息吹いている春の香り、やわらかい夏の官能、黄金色の秋の盛観、さわやかな緑の衣をつけた大地、爽快な紺碧の大空、そしてまた豪華な雲が群がる空。すべてがわたしたちの心を、沈黙のまま、なんともいえぬ歓喜で満たし、わたしたちは、尽きぬ感覚の逸楽にひたるのだ。しかし、冬が深くなり、自然があらゆる魅力をうばわれて、一面に雪の経帷子につつまれると、わたしたちは心の満足を精神的な源にもとめるようになる。自然の風光は荒れてさびしく、日は短く陰気で、夜は暗澹として、わたしたちの戸外の散策は拘束され、感情もまた外にさまよい出て行かずに、内にとじこめられ、わたしたちは互いの交歓に愉しみを見つけようとする。わたしたちの思索は、ほかの季節よりも集中し、友情も湧きでてくる。わたしたちは、ひとと睦じくすることの魅力をしみじみと感じ、互いに喜びをわけあうようになり、親しく寄りあうのだ。心は心を呼び、わたしたちは、胸の奥の静かなところにある深い愛の泉から喜びを汲みとるのだが、この泉は求められれば、家庭の幸福の純粋な水を与えてくれるのである。 夜は戸外が真暗で陰鬱なので、炉の火があたたかく輝いている部屋にはいると、心はのびのびとふくらむのだ。赤い焔は人工の夏と太陽の光とを部屋じゅうに満ちわたらせ、どの顔も明るく歓待の色に輝く。人をもてなす誠実な顔が、やさしい微笑みにほころびるのは、冬の炉がいちばんである。はにかみながらそっと相手を見る恋の眼ざしが、いろいろなことを甘く物語るようになるのも、冬の炉ばたにまさるところはない。冬のからっ風が玄関を吹きぬけ、遠くのドアをばたばたさせ、窓のあたりにひゅうひゅう鳴り、煙突から吹きおりてくるとき、奥まった心地よい部屋で、一家の和楽するさまを、落ちついて安心した心持ちで見ることができるほどありがたいことはないだろう。 イギリスでは元来社会のどの階層にも田園の風習が強くしみわたっているので、ひとびとは昔からいつも、祝祭や休日で田園生活の単調さが途切れるのを喜んだ。そして、クリスマスの宗教上の儀式や社会の慣例を特によく守ったのである。以前クリスマスを祝ったときには、ひとびとは古風で滑稽なことをしたり、道化た行列をもよおしたりして、歓楽にわれを忘れ、おたがいに全く友だちになりあったのだが、そういうことについて古物研究家が書いている詳細は、無味乾燥なものでも、読んでたいへん面白いものだ。クリスマスにはどの家も戸を開放し、人はみな胸襟をひらいたようである。百姓も貴族もいっしょになり、あらゆる階級の人がひとつの、あたたかい寛大な、喜びと親切の流れにとけあう。城や荘園邸の大広間には、竪琴が鳴り、クリスマスの歌声がひびき、広い食卓にはもてなしのご馳走が山のように盛りあげられ、その重さに食卓は唸り声をたてるほどだった。ひどく貧乏な百姓家でも、緑色の月桂樹や柊を飾りたてて、祝日を迎えた。炉は陽気に燃えて、格子のあいだから光がちらちらし、通りがかりの人はだれでも招かれて、かけがねをあけ、炉のまわりに集って世間話をしている人の群に加わり、古くからの滑稽な話や、なんどもくりかえされたクリスマスの物語に興じて、ひとびとは冬の夜ながをすごしたのである。
何がクリスマスの祝いに魅力をそえますか?
季節そのものもクリスマスの祝いに魅力をそえます。
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国語
イギリスで、わたしの心をもっとも楽しく魅惑するのは、昔から伝わっている祭日のならわしと田舎の遊びごとである。そういうものを見て、わたしが思いおこすのは、まだ若かったころに、わたしの空想がえがいた数々の絵である。あのころ、わたしは世界というものを書物を通してしか知らなかったし、世界は詩人たちがえがいた通りのものだと信じこんでいた。そしてさらに、その絵といっしょに、純朴だった昔の日々の香りがもどってくる。そして、やはりおなじ間違いかもしれないが、そのころ世間のひとびとは今よりずっと素朴で、親しみぶかく、そして嬉々としていたように思う。残念なことに、そういうものは日毎にかすかになってくるのである。時がたつにしたがって次第に擦りへらされるだけでなく、新しい流行に消し去られてしまうのだ。この国の各地にあるゴシック建築の美しい遺物が、時代の荒廃にまかされて崩壊したり、あるいは、後の世に手が加えられたり改築されたりして、もとのすがたを失ってゆくのにも似ているのである。しかし、詩は田園の遊戯や祭日の宴楽から多くの主題を得たのだが、今でもそれをなつかしみ、纏綿としてはなれない。それは、あたかも、蔦が古いゴシックの門や崩れかかった塔に、ゆたかな葉をまきつけて、自分を支えてくれた恩にこたえ、ゆらゆらする廃墟を抱きしめ、いわば、その若い緑でいつまでも香り高いものにしておこうとするのとおなじようである。 しかし、さまざまの古い祭のなかでも、クリスマスの祝いは、最も強いしみじみした連想を目ざめさせる。それには、おごそかで清らかな感情がこもっており、それがわたしたちの陽気な気分に溶けあい、心は神聖で高尚な悦楽の境地に高められる。クリスマスのころの教会の礼拝は、たいへん優美で感動的である。キリスト教の起源の美しい物語や、キリスト生誕のときの田園の光景がじゅんじゅんと説かれる。そして、降臨節のあいだに、その礼拝には次第に熱意と哀感が加わり、ついに、あの、人類に平和と善意とがもたらされたクリスマスの朝に、歓喜の声となって噴出するのである。教会で、聖歌隊の全員が鳴りひびくオルガンに合わせて、クリスマスの聖歌を歌い、その勝ち誇った調和音が大伽藍の隅々まで満たしてしまうのを聞くときほど、音楽が荘厳に人の道徳的感情に迫ってくるのを知らない。 古い昔からの美しいしきたりによって、この、愛と平和の宗教の宣布を記念する祭りの日々には、一族は相つどい、また、肉親のものでも、世の中の苦労や、喜びや、悲しみで、いつも引きはなされがちなひとびとがまたひきよせられるのだ。そして、子供たちは、すでに世間に旅立って、遠くはなればなれにさまよっていても、もう一度両親の家の炉ばたに呼びかえされて、その愛のつどいの場所に団欒し、幼年時代のなつかしい思い出のなかで、ふたたび若がえり、いつくしみあうのである。
教会では、聖歌隊の全員が何に合わせて、クリスマスの聖歌を歌いますか?
教会では、聖歌隊の全員が鳴りひびくオルガンに合わせて、クリスマスの聖歌を歌います。
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国語
ヴォーケ夫人は、ド・コンフラン家の生まれの老婦人で、四十年来パリのネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通り[1]で賄い付きの下宿をしっかりと営んできた。そこはカルチェ・ラタンとフォーブール・サンマルソーの中間にあった。この下宿はメゾン・ヴォーケの名で知られ、老若男女を問わず等しく受け入れてきた。誹謗中傷がこの立派な施設の品性を傷つける様なことは一度もなかった。その一方で、ここでは三十年来、若い女性の姿はついぞ見かけられなかったし、若者で長く居ついた者もなかったので、ここの住人達はおのずから、この下宿の雰囲気を寂しげなものにしてしまっていた。とはいえ、この物語が始まった一八一九年のことだが、貧しい若い女性も一人、下宿人の中に混じっていた。悲劇が全盛の現代文学では、物語の中で過剰な、あるいは、乱暴な言葉が濫用され過ぎるとの不評をこうむる作品が多いが、私もここでは不評覚悟で、そうした手法を用いる必要がある。この物語は写実的言葉による展開の盛り上がりによるのではなく、衝撃の結末によって、恐らくパリ城壁の内外で人々の涙を誘うことができるだろう。私が敢えて使うこの手法は、しかし、パリ以外でも理解されるだろうか?疑問は残るが。さてこの物語の舞台となる場所をあれこれと観察し固有色を用いて説明しても、せいぜいモンマルトルの丘からモンルージュの丘に至る辺りの住人くらいにしか共感を得られないだろう。まるで谷間のようなこの地域ときたら、壁土はいつ崩れてもおかしくないし、溝は泥で真っ黒な色をしている。
悲劇が全盛の現代文学では、物語の中でどのような、あるいは、どのような言葉が濫用され過ぎるとの不評をこうむる作品が多いですか?
悲劇が全盛の現代文学では、物語の中で過剰な、あるいは、乱暴な言葉が濫用され過ぎるとの不評をこうむる作品が多いです。
JCRRAG_001281
国語
 私は母の愛というものについて考える。カーライルの、母の愛ほど尊いものはないと言っているが、私も母の愛ほど尊いものはないと思う。子供のためには自分の全てを犠牲にして尽すという愛の一面に、自分の子供を真直に、正直に、善良に育てていくという厳しい、鋭い眼がある。この二つの感情から結ばれた母の愛より大きなものはないと思う。しかし世の中には子供に対して責任感の薄い母も多い。が、そういう者は例外として、真に子供のために尽した母に対してはその子供は永久にその愛を忘れる事が出来ない。そして、子供は生長して社会に立つようになっても、母から言い含められた教訓を思えば、如何なる場合にも悪事を為し得ないのは事実である。何時も母の涙の光った眼が自分の上に注がれているからである。これは架空的の宗教よりも強く、またなんら根拠のない道徳よりももっと強くその子供の上に感化を与えている。神を信ずるよりも母を信ずる方が子供にとっては深く、且つ強いのである。実に母と子の関係は奇蹟と言ってもよい程に尊い感じのするものであり、また強い熱意のある信仰である。そして、母と子の愛は、男と女の愛よりも更に尊く、自然であり、別の意味において光輝のあるもののように感ずる。  私は多くの不良少年の事実については知らないが、自分の家に来た下女、又は知っている人間の例について考えてみれば、母親の所謂しっかりした家の子供は恐れというものを感ずる、悪いという事を知る。しかし、母親が放縦であり、無自覚である家の子供は、叱っても恐れというものを感じない。そして悪いという事について根本的に無自覚である。唯世の中は胡魔化して行けばよいというような事しか考えていない。この一事を見ても、子供心に信仰をもたしめるものは、全く母の感化である。
誰が「母の愛ほど尊いものはない」と言っていますか?
「母の愛ほど尊いものはない」と言っているのはカーライルです。
JCRRAG_001282
国語
私が六つの年の秋頃だった――その間私は、私たちの家がむやみに引越したということだけしか覚えていない――私たちの家に、母の実家から母の妹が、だから私の叔母がやって来た。叔母は婦人病かなんか患っていたが、辺鄙な田舎では充分の治療が出来ないというので、私たちの家から病院に通うためだった。  叔母はその頃二十二、三であったろう。顔立ちの整った、ちょっとこぎれいな娘だった。気立てもやさしく、する事なす事しっかりしていて、几帳面で、てきぱきした性質であった。だから人受けもよく、親たちにも愛せられていたようでもある。だが、いつの間にかこの叔母と私の父との仲が変になったようである。  父はその頃、程近い海岸の倉庫に雇われて人夫の積荷下荷をノートにとる仕事をしていたが、例によってなにかと口実をつけては仕事を休んでいた。そんな風だから私の家の暮し向きのゆたかである筈はなく、そのためであろう、母と叔母とは内職に麻糸つなぎをしていた。毎日毎日、母はそうして繋いだ三つか四つの麻糸の塊を風呂敷に包んで、わずかな工賃を貰いに弟を背負っては出かけるのだった。  ところが不思議なことに、母が出かけるとすぐ、父は必ず、自分の寝そべっている玄関脇の三畳の間へ叔母を呼び込むのであった。別にたいして話をしているようでもないのに、叔母はなかなかその部屋から出て来ないのが常だった。私はこまちゃくれた好奇心にそそられないわけには行かなかった。私はついにあるとき、そっと爪立ちをして、襖の引手の破目から中を覗いて見た……。  だが、私は別にそれ程驚かなかった。なぜなら、こうした光景を見たのは今が初めてではなかったからである。私のもっと小さい時分から、父や母はだらしない場面をいくたびか私に見せた。二人はずいぶん不注意だったのだ。そのためかどうか、私はかなり早熟で、四つ位の年から性への興味を喚び覚まされていたように思う。
母と叔母がしていた内職は何ですか?
母と叔母がしていた内職は、麻糸つなぎです。
JCRRAG_001283
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私の記憶は私の四歳頃のことまでさかのぼることができる。その頃私は、私の生みの親たちと一緒に横浜の寿町に住んでいた。 父が何をしていたのか、むろん私は知らなかった。あとできいたところによると、父はその頃、寿警察署の刑事かなんかを勤めていたようである。 私の思出からは、この頃のほんの少しの間だけが私の天国であったように思う。なぜなら、私は父に非常に可愛がられたことを覚えているから……。 私はいつも父につれられて風呂に行った。毎夕私は、父の肩車に乗せられて父の頭に抱きついて銭湯の暖簾をくぐった。床屋に行くときも父が必ず、私をつれて行ってくれた。父は私の傍につきっきりで、生え際や眉の剃方についてなにかと世話をやいていたが、それでもなお気に入らぬと本職の手から剃刀を取って自分で剃ってくれたりなんかした。私の衣類の柄の見立てなども父がしたようであったし、肩揚げや腰揚げのことまでも父が自分で指図して母に針をとらせたようであった。私が病気した時、枕元につきっきりで看護してくれたのもやはり父だった。父は間がな隙がな私の脈をとったり、額に手をあてたりして、注意を怠らなかった。そうした時、私は物をいう必要がなかった。父は私の眼差しから私の願いを知って、それをみたしてくれたから。 私に物を食べさせる時も、父は決して迂闊には与えなかった。肉は食べやすいように小さくむしり魚は小骨一つ残さず取りさり、ご飯やお湯は必ず自分の舌で味って見て、熱すぎれば根気よくさましてからくれるのだった。つまり、他の家庭なら母親がしてくれることを、私はみな父によってされていたのである。 今から考えて見て、むろん私の家庭は裕福であったとは思われない。しかし人生に対する私の最初の印象は、決して不快なものではなかった。思うにその頃の私の家庭も、かなり貧しい、欠乏がちの生活をしていたのであろう。ただ、なんとかいう氏族の末流にあたる由緒ある家庭の長男に生れたと信じている私の父が、事実、その頃はまだかなり裕福に暮していた祖父のもとでわがままな若様風に育てられたところから、こうした貧窮の間にもなお、私をその昔のままの気位で育てたのに違いなかったのである。
父が、いつも私をつれて行ってくれた場所はどことどこですか?
父が、いつも私をつれて行ってくれた場所は、銭湯と床屋です。
JCRRAG_001284
国語
堯は掃除をすました部屋の窓を明け放ち、籐の寝椅子に休んでいた。と、ジュッジュッという啼き声がしてかなむぐらの垣の蔭に笹鳴きの鶯が見え隠れするのが見えた。  ジュッ、ジュッ、堯は鎌首をもたげて、口でその啼き声を模ねながら、小鳥の様子を見ていた。――彼は自家でカナリヤを飼っていたことがある。  美しい午前の日光が葉をこぼれている。笹鳴きは口の音に迷わされてはいるが、そんな場合のカナリヤなどのように、機微な感情は現わさなかった。食欲に肥えふとって、なにか堅いチョッキでも着たような恰好をしている。――堯が模ねをやめると、愛想もなく、下枝の間を渡りながら行ってしまった。  低地を距てて、谷に臨んだ日当りのいいある華族の庭が見えた。黄に枯れた朝鮮芝に赤い蒲団が干してある。――堯はいつになく早起きをした午前にうっとりとした。  しばらくして彼は、葉が褐色に枯れ落ちている屋根に、つるもどきの赤い実がつややかに露われているのを見ながら、家の門を出た。  風もない青空に、黄に化りきった公孫樹は、静かに影を畳んで休ろうていた。白い化粧煉瓦を張った長い塀が、いかにも澄んだ冬の空気を映していた。その下を孫を負ぶった老婆が緩りゆっくり歩いて来る。  堯は長い坂を下りて郵便局へ行った。日の射し込んでいる郵便局は絶えず扉が鳴り、人びとは朝の新鮮な空気を撒き散らしていた。堯は永い間こんな空気に接しなかったような気がした。  彼は細い坂を緩りゆっくり登った。山茶花の花ややつでの花が咲いていた。堯は十二月になっても蝶がいるのに驚いた。それの飛んで行った方角には日光に撒かれた虻の光点が忙しく行き交うていた。 「痴呆のような幸福だ」と彼は思った。そしてうつらうつら日溜りに屈まっていた。――やはりその日溜りの少し離れたところに小さい子供達がなにかして遊んでいた。四五歳の童子や童女達であった。 「見てやしないだろうな」と思いながら堯は浅く水が流れている溝のなかへ痰を吐いた。そして彼らの方へ近づいて行った。女の子であばれているのもあった。男の子で温柔しくしているのもあった。穉い線が石墨で路に描かれていた。――堯はふと、これはどこかで見たことのある情景だと思った。不意に心が揺れた。揺り覚まされた虻が茫漠とした堯の過去へ飛び去った。その麗かな臘月の午前へ。  堯の虻は見つけた。山茶花を。その花片のこぼれるあたりに遊んでいる童子たちを。――それはたとえば彼が半紙などを忘れて学校へ行ったとき、先生に断わりを言って急いで自家へ取りに帰って来る、学校は授業中の、なにか珍しい午前の路であった。そんなときでもなければ垣間見ることを許されなかった、聖なる時刻の有様であった。そう思ってみて堯は微笑んだ。
堯が自家で飼っていたことがあるのは何ですか?
堯が自家で飼っていたことがあるのは、カナリヤです。
JCRRAG_001285
国語
城は大わらわで彼をむかえるにふさわしい歓迎の準備をしていた。美しい花嫁はなみなみならず念入りに飾りたてられた。例の二人の叔母が彼女の化粧を受けもち、朝のうちいっぱい、彼女の装身具のひとつひとつについて言いあらそいをしていた。当の花嫁は、二人のいさかいを巧みに利用して、自分の好みどおりにしたが、幸いにしてそれは申し分のないものだった。彼女の美しさといったら、世の若い花婿がこれ以上を望むことはとうていできないほどだったし、期待にときめく心で彼女の魅力はいっそう輝きを増していた。 顔や襟もとにさす赤み、静かな胸の高まり、ときおり幻想にふける眼ざし、すべてが彼女の小さな胸におこっているかすかな動揺をあらわしていた。叔母たちは絶えず彼女のまわりをうろうろしていた。未婚の叔母というものは、とかくこういうことにたいへん興味をもつものなのだ。叔母たちは彼女に、どう振舞ったらよいか、どんなことを言えばよいか、また、どういうふうに心まちの愛人を迎えればよいか、ということについて、何くれとなく真面目な助言をあたえていた。 男爵もそれに劣らぬほど準備にいそがしかった。彼には、実のところ、これといってしなければならないことは全くなかった。しかし、彼は生れつきせっかちな気ぜわしい男だったから、まわりの人たちがみなせかせかしているのに、平気で落ちついていられるはずはなかった。彼は心配でたまらないといった様子で、城の上から下までやきもきしながら歩きまわった。仕事をしている召使たちを絶えず呼びたてて、怠けずに働くようにいましめたり、また、広間という広間、部屋という部屋を、何もしないでせかせかとうるさくどなりまわり、まるで暑い夏の日に大きな青蠅がぶんぶんとびまわるようだった。 そのあいだにも、犢の肥ったのが殺され、森には猟師たちの喚声がひびき、厨は山海の珍味でいっぱいになり、酒蔵からはライン酒やフェルネ酒がしこたま運びだされた。そしてハイデルベルクの大酒樽さえ徴発されてきた。用意万端ととのって、ドイツ風の真心こめた歓待の精神で、にぎやかにその賓客を迎えるばかりになった。ところが、その客はなかなか現われなかった。時間は刻々とすぎていった。太陽は先刻までオーデンヴァルトのこんもりした森にさんさんたる光を頭上からそそいでいたが、今は山の嶺にそってかすかに光っていた。男爵はいちばん高い櫓にのぼり、遠くに伯爵とその従者たちが見えないものかと思って瞳をこらした。一度は彼らを見たと思った。角笛の音が谷間から流れてきて、山のこだまとなって長く尾をひいた。馬に乗った一群のひとびとがはるか下のほうに見え、ゆっくりと道を進んできた。ところが、彼らはもう少しで山のふもとにつくというとき、急に違う方向にそれてしまった。太陽の最後の光が消えうせ、蝙蝠が夕闇のなかをひらひら舞いはじめた。路は次第にぼんやりしてきて、もうそこには何ひとつ動くものは見当らなくなった。ただ、ときおり農夫が野良仕事からとぼとぼ家路にむかってゆくだけだった。
誰が花嫁の化粧を受けもちましたか?
二人の叔母が花嫁の化粧を受けもちました。
JCRRAG_001286
国語
イギリスで、わたしの心をもっとも楽しく魅惑するのは、昔から伝わっている祭日のならわしと田舎の遊びごとである。そういうものを見て、わたしが思いおこすのは、まだ若かったころに、わたしの空想がえがいた数々の絵である。あのころ、わたしは世界というものを書物を通してしか知らなかったし、世界は詩人たちがえがいた通りのものだと信じこんでいた。そしてさらに、その絵といっしょに、純朴だった昔の日々の香りがもどってくる。そして、やはりおなじ間違いかもしれないが、そのころ世間のひとびとは今よりずっと素朴で、親しみぶかく、そして嬉々としていたように思う。残念なことに、そういうものは日毎にかすかになってくるのである。時がたつにしたがって次第に擦りへらされるだけでなく、新しい流行に消し去られてしまうのだ。この国の各地にあるゴシック建築の美しい遺物が、時代の荒廃にまかされて崩壊したり、あるいは、後の世に手が加えられたり改築されたりして、もとのすがたを失ってゆくのにも似ているのである。しかし、詩は田園の遊戯や祭日の宴楽から多くの主題を得たのだが、今でもそれをなつかしみ、纏綿としてはなれない。それは、あたかも、蔦が古いゴシックの門や崩れかかった塔に、ゆたかな葉をまきつけて、自分を支えてくれた恩にこたえ、ゆらゆらする廃墟を抱きしめ、いわば、その若い緑でいつまでも香り高いものにしておこうとするのとおなじようである。 しかし、さまざまの古い祭のなかでも、クリスマスの祝いは、最も強いしみじみした連想を目ざめさせる。それには、おごそかで清らかな感情がこもっており、それがわたしたちの陽気な気分に溶けあい、心は神聖で高尚な悦楽の境地に高められる。クリスマスのころの教会の礼拝は、たいへん優美で感動的である。キリスト教の起源の美しい物語や、キリスト生誕のときの田園の光景がじゅんじゅんと説かれる。そして、降臨節のあいだに、その礼拝には次第に熱意と哀感が加わり、ついに、あの、人類に平和と善意とがもたらされたクリスマスの朝に、歓喜の声となって噴出するのである。教会で、聖歌隊の全員が鳴りひびくオルガンに合わせて、クリスマスの聖歌を歌い、その勝ち誇った調和音が大伽藍の隅々まで満たしてしまうのを聞くときほど、音楽が荘厳に人の道徳的感情に迫ってくるのを知らない。 古い昔からの美しいしきたりによって、この、愛と平和の宗教の宣布を記念する祭りの日々には、一族は相つどい、また、肉親のものでも、世の中の苦労や、喜びや、悲しみで、いつも引きはなされがちなひとびとがまたひきよせられるのだ。そして、子供たちは、すでに世間に旅立って、遠くはなればなれにさまよっていても、もう一度両親の家の炉ばたに呼びかえされて、その愛のつどいの場所に団欒し、幼年時代のなつかしい思い出のなかで、ふたたび若がえり、いつくしみあうのである。
イギリスで、わたしの心をもっとも楽しく魅惑するのは、何ですか?
イギリスで、わたしの心をもっとも楽しく魅惑するのは、昔から伝わっている祭日のならわしと田舎の遊びごとです。
JCRRAG_001287
国語
現代の洗練された風習がもたらした最も快からぬことは、心のこもった昔ながらの休日のならわしをうちこわしてしまったことだ。この現代の進歩のために、このような生活の装飾物の鮮明な鑿のあとはなくなり、その活気のある浮彫は取り去られてしまった。世の中はむかしよりいっそう滑らかになり磨きあげられたが、その表面はあきらかにこれという特徴のないものになった。クリスマスの遊戯や儀式の多くは全く消滅してしまい、フォールスタフ老人のスペイン産白葡萄酒のように、いたずらに註釈者の研究や論争の材料になってしまった。これらの遊戯や儀式が栄えた時代は、元気と活力が汪溢していて、ひとびとの人生のたのしみ方は粗野だったが、心のそこから元気いっぱいにやったのだ。そのころは野性的な絵のように美しい時代で、詩には豊富な素材をあたえ、戯曲にはいくたの魅力的な人物や風俗を供したのだ。世間は以前よりいっそう世俗的になった。気晴らしは多くなったが、喜びは減った。快楽の流れの幅は広くなったが、深さは浅くなり、かつては落ちついた家庭生活の奥深いところに和やかに流れていたのに、そういう深い静かな水路はなくなってしまった。社会は開化し優雅になったが、きわだった地方的な特性も、家族的な感情も、純朴な炉辺の喜びも、大半は失った。心の大きい昔の人の伝統的な慣習や、封建時代の歓待ぶりや、王侯然とした饗宴は滅びさり、それが行われた貴族の城や豪壮な荘園邸もそれと運命をともにした。そのような饗宴は、ほの暗い広間や、大きな樫の木の廻廊や、綴織を飾った客間にはふさわしいが、現代の別荘の明るい見栄えのよい広間や、派手な客室には向いていないのである。 しかし、このように昔の祭礼の面目がなくなったとはいっても、イギリスではクリスマスは今もなお楽しく心がおどるときである。あらゆるイギリス人の胸のなかに、家庭的感情が湧きおこって、強い力をもつのは、見るからに嬉しいことである。親睦の食卓のための万端の準備がされて、友人や親戚がふたたび結びあわされる。ご馳走の贈物はさかんに往き来して、尊敬の意のしるしともなり、友情を深めるものともなる。常緑樹は家にも教会にも飾られて、平和と喜びの象徴となる。こういうことすべてのおかげで、睦まじい交わりが結ばれ、慈悲ぶかい同情心が燃えたたされるのである。夜更けに歌をうたって歩く人たちの声は、たとえ上手ではないとしても、冬の真夜中に湧きおこって、無上の調和をかもしだすのだ。「深い眠りがひとびとの上に落ちる」静かな厳粛な時刻に、わたしは彼らの歌声に起されて、心に喜びをひめて聞きいり、これは、ふたたび天使の歌声が地に降りてきて、平和と善意とを人類に告げしらせるのだとさえ思った。想像力は、このような道徳的な力に働きかけられると、じつに見ごとに、すべてのものを旋律と美とに変えるものだ。雄鶏の鬨の声が、深く寝しずまった村に、ときおり聞えて、「羽のはえた奥方たちに夜半をしらせる」のだが、ひとびとは聖なる祭日の近づいたことを告げているのだと思うのである。
夜更けに歌をうたって歩く人たちの声は、たとえ上手ではないとしても、冬の真夜中に湧きおこって、無上の調和をかもしだすのですか?
はい、夜更けに歌をうたって歩く人たちの声は、たとえ上手ではないとしても、冬の真夜中に湧きおこって、無上の調和をかもしだします。
JCRRAG_001288
国語
ハドソン河の河幅がひろがり、むかしオランダ人の航海者がタッパン・ジーと名づけていたところでは、彼らは用心していつでも帆をちぢめ、航海者の守り、聖ニコラスに加護をねがいながら、横断したものだ。そこの東側の岸にくいこんでいる広い入江の奥に、小さな市場か田舎の港といったような町があり、ある人たちはグリーンズバラと呼んでいるが、本来はタリー・タウン(ぶらつき町)という名が正しく、また普通にはその名で知られている。聞くところによれば、この名は、そのむかしこの近隣の女房たちがつけたもので、市場のひらかれる日に亭主連が村の居酒屋のあたりをぶらついてはなれない頑固な癖があったからだという。それはともかくとして、わたしはこの事実の真偽のほどはうけあわない。ただ一応そのことを述べて、正確と厳正を期そうというわけである。この村からさほど遠くない、おそらく二マイルほどはなれた高い丘に、小さな渓谷、というよりはむしろ窪地というべきところがあるが、そこは世の中でいちばん静かな場所である。小川が滑るように流れそのせせらぎは人を眠りにいざない、ときたま鶉が鳴いたり、啄木鳥の木を叩く音が聞えるが、あたりに漲ぎる静寂を破る響はそれくらいのものだ。 思いおこしてみると、わたしがまだ少年のころはじめて栗鼠射ちで手柄をたてたのは、この渓谷の片側に茂っている高い胡桃の木の林だった。わたしがその林のなかにはいりこんだのはちょうど午どきで、自然はことのほか静かで、わたしは自分の銃のとどろく音にもおどろいたものだ。銃声はあたりの日曜日のような静けさを破り、こだまとなって尾をひき、怒ったように鳴りひびくのだった。世の中の騒がしさから逃れ、わずらわしいことばかり多かった人生の余暇を静かに夢みながら暮すことができる隠居所をもとめるならば、この小さな渓谷にまさるところは知らない。 このあたりには、ものういような静けさがただよっているし、またその住民はむかしのオランダ移住民の子孫だが一風変った気質をもっているので、このさびしい谷は長いあいだスリーピー・ホロー(まどろみの窪)という名で知られていた。そして、そこの百姓息子は、この近在のどこへ行ってもスリーピー・ホローの若衆と呼ばれていた。眠気をさそう夢のような力がこのあたりをおおっており、大気の中にさえ立ちこめているようだった。移住のはじまったころ、ドイツのある偉い祈祷医師がこの場所に魔法をかけたのだというものもあるが、またあるものは、ヘンドリック・ハドソン船長がこの土地を発見するよりも前に、インディアンの老酋長で、種族の予言者か妖術師であった男が、ここで祈祷をおこなったのだとも言っている。たしかに、この場所にはいまだになにか魔力が利いていて、それが善良なひとびとの心に呪いをかけ、そのおかげで彼らはいつでも幻想にふけりながらうろついているのである。彼らは、ありとあらゆるふしぎな信心に夢中になり、夢幻の境に遊んだり、幻想におちいったりするし、しばしば奇怪なものを見たり、虚空に音楽や人声を聞くこともある。近隣一帯には伝説は豊富だし、幽霊のでる場所も多いし、うす暗い時刻につきものの迷信もあまたある。流星がとぶのも、隕石がひらめくのも、この谷間では国じゅうのどこよりも頻繁だし、悪夢の魔女は九人の供をひきつれて、ここで跳びはねるのが好きらしい。
むかしオランダ人の航海者がタッパン・ジーと名づけていたところでは、彼らは航海者の守りである誰に加護をねがいながら、横断したものですか?
むかしオランダ人の航海者がタッパン・ジーと名づけていたところでは、彼らは航海者の守りである聖ニコラスに加護をねがいながら、横断したものです。
JCRRAG_001289
国語
ヴォーケ夫人は、ド・コンフラン家の生まれの老婦人で、四十年来パリのネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通り[1]で賄い付きの下宿をしっかりと営んできた。そこはカルチェ・ラタンとフォーブール・サンマルソーの中間にあった。この下宿はメゾン・ヴォーケの名で知られ、老若男女を問わず等しく受け入れてきた。誹謗中傷がこの立派な施設の品性を傷つける様なことは一度もなかった。その一方で、ここでは三十年来、若い女性の姿はついぞ見かけられなかったし、若者で長く居ついた者もなかったので、ここの住人達はおのずから、この下宿の雰囲気を寂しげなものにしてしまっていた。とはいえ、この物語が始まった一八一九年のことだが、貧しい若い女性も一人、下宿人の中に混じっていた。悲劇が全盛の現代文学では、物語の中で過剰な、あるいは、乱暴な言葉が濫用され過ぎるとの不評をこうむる作品が多いが、私もここでは不評覚悟で、そうした手法を用いる必要がある。この物語は写実的言葉による展開の盛り上がりによるのではなく、衝撃の結末によって、恐らくパリ城壁の内外で人々の涙を誘うことができるだろう。私が敢えて使うこの手法は、しかし、パリ以外でも理解されるだろうか?疑問は残るが。さてこの物語の舞台となる場所をあれこれと観察し固有色を用いて説明しても、せいぜいモンマルトルの丘からモンルージュの丘に至る辺りの住人くらいにしか共感を得られないだろう。まるで谷間のようなこの地域ときたら、壁土はいつ崩れてもおかしくないし、溝は泥で真っ黒な色をしている。
ヴォーケ夫人は、どこの生まれの老婦人で、四十年来どこで賄い付きの下宿を営んできましたか?
ヴォーケ夫人は、ド・コンフラン家の生まれの老婦人で、四十年来パリのネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りで賄い付きの下宿を営んできました。
JCRRAG_001290
国語
ヴォーケ夫人は、ド・コンフラン家の生まれの老婦人で、四十年来パリのネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通り[1]で賄い付きの下宿をしっかりと営んできた。そこはカルチェ・ラタンとフォーブール・サンマルソーの中間にあった。この下宿はメゾン・ヴォーケの名で知られ、老若男女を問わず等しく受け入れてきた。誹謗中傷がこの立派な施設の品性を傷つける様なことは一度もなかった。その一方で、ここでは三十年来、若い女性の姿はついぞ見かけられなかったし、若者で長く居ついた者もなかったので、ここの住人達はおのずから、この下宿の雰囲気を寂しげなものにしてしまっていた。とはいえ、この物語が始まった一八一九年のことだが、貧しい若い女性も一人、下宿人の中に混じっていた。悲劇が全盛の現代文学では、物語の中で過剰な、あるいは、乱暴な言葉が濫用され過ぎるとの不評をこうむる作品が多いが、私もここでは不評覚悟で、そうした手法を用いる必要がある。この物語は写実的言葉による展開の盛り上がりによるのではなく、衝撃の結末によって、恐らくパリ城壁の内外で人々の涙を誘うことができるだろう。私が敢えて使うこの手法は、しかし、パリ以外でも理解されるだろうか?疑問は残るが。さてこの物語の舞台となる場所をあれこれと観察し固有色を用いて説明しても、せいぜいモンマルトルの丘からモンルージュの丘に至る辺りの住人くらいにしか共感を得られないだろう。まるで谷間のようなこの地域ときたら、壁土はいつ崩れてもおかしくないし、溝は泥で真っ黒な色をしている。
この物語は、写実的言葉による展開の盛り上がりによるのではなく、何によって、どこで人々の涙を誘うことができるだろうとされていますか?
この物語は写実的言葉による展開の盛り上がりによるのではなく、衝撃の結末によって、恐らくパリ城壁の内外で人々の涙を誘うことができるだろうとされています。
JCRRAG_001291
国語
マイン河とライン河の合流しているところからそう遠くない、上ドイツの荒れはてた幻想的な地方、オーデンヴァルトの高地のいただきに、ずっとむかしのこと、フォン・ランドショート男爵の城が立っていた。それは今ではすっかり朽ちはてて、ほとんど山毛欅やうっそうとした樅の木のなかに埋もれてしまっている。しかし、その木々のうえには、古い物見櫓がいまもなお見え、前述のかつての城主と同様、なんとか頭を高くもたげようとし、近隣の地方を見おろしているのである。 その男爵はカッツェンエレンボーゲン(原註2)という大家の分家で、今は衰えているが、祖先の財産の残りと往年の誇りとを受けついでいた。祖先たちは戦争好きだったために、ひどく家産を蕩尽してしまったが、男爵はなおも昔の威容をいくらかでも保とうと懸命になっていた。その当時は平和だったので、ドイツの貴族たちは、たいてい、鷲の巣のように山のなかにつくられた不便な古い城をすてて、もっと便利な住居を谷間に建てていた。それでも男爵はあいかわらず誇らしげにその小さな砦にひきこもって、親ゆずりの頑固さから、家代々の宿敵に対する恨みを胸に抱いていた。だから彼は、先祖のあいだにおこった争いのために、いく人かのごく近くに住んでいる人たちとも折りあいが悪かった。
フォン・ランドショート男爵の城が立っていたのはどこですか?
フォン・ランドショート男爵の城が立っていたのは、マイン河とライン河の合流しているところからそう遠くない、上ドイツの荒れはてた幻想的な地方、オーデンヴァルトの高地のいただきです。
JCRRAG_001292
国語
叔母たちはまた、若いころ、たいした浮気もので、蓮葉女だったから、姪の操行を油断なく見張り、厳しく取りしまるには全く見事に適当だと思われていた。年とった蓮葉女ほど、がっちりして用心ぶかく、無情なほど礼儀正しい付きそい役はまたとないのである。彼女は叔母たちの眼をはなれることはめったに許されなかった。城の領地のそとに出るときにはかならず、しっかりとした付きそいがついた。というよりはむしろ、十分な見張りがつけられたのである。また絶えず厳格な行儀作法や文句をいわずに服従することについて講釈を聞かされていた。そして、男については、いやはや、絶対に近づかないように教えこまれ、また断じて信用しないように言われていたから、彼女は正当な許しがなければ、世界じゅうでもっとも眉目秀麗な伊達男にさえ、いちべつもくれはしなかっただろう。いや、たとえその男が彼女の足もとで死にかけていたにせよ、見むきもしなかっただろう。 このしつけかたのすばらしい効果は、見事にあらわれてきた。この若い婦人は従順と品行方正のかがみであった。ほかの娘たちは世間ではなやかに評判になって、愛らしさをなくし、だれの手にも手折られ、やがては投げすてられがちであった。ところが、彼女はあの汚れのない老嬢たちの保護のもとに、はずかしげにほころびて、みずみずしく美しい婦人になろうとして、あたかも刺に守られて色づく薔薇の蕾のようだった。叔母たちは誇らしく満足げに彼女をながめ、たとえ世のなかのすべての若い女たちが道をふみあやまろうとも、カッツェンエレンボーゲンの跡取り娘には、ありがたいことに、そのようなことは決しておこるはずがない、と吹聴した。 しかし、フォン・ランドショート男爵が、どれほど子供にめぐまれることが少かったにせよ、彼の家族は決して小人数ではなかった。神の御心は彼にたくさんの貧しい縁者をめぐみたもうていたのである。彼らはだれもかれも、およそ貧乏な親類にはつきものの親愛の情をもっていて、おどろくほど男爵を慕い、あらゆる機会を見つけては大ぜいでやってきて、城をにぎわした。一門の祝祭にはこういう善良なひとびとがあつまって祝ったが、費用は男爵がもった。そして彼らは山海の珍味に満腹すると、このような家族の会合、このような心からの歓楽ほどたのしいものは決してあるものではない、とよく言ったものである。
叔母たちは若いころ、どんな女でしたか?
叔母たちは若いころ、たいした浮気もので、蓮葉女でした。
JCRRAG_001293
国語
叔母たちはまた、若いころ、たいした浮気もので、蓮葉女だったから、姪の操行を油断なく見張り、厳しく取りしまるには全く見事に適当だと思われていた。年とった蓮葉女ほど、がっちりして用心ぶかく、無情なほど礼儀正しい付きそい役はまたとないのである。彼女は叔母たちの眼をはなれることはめったに許されなかった。城の領地のそとに出るときにはかならず、しっかりとした付きそいがついた。というよりはむしろ、十分な見張りがつけられたのである。また絶えず厳格な行儀作法や文句をいわずに服従することについて講釈を聞かされていた。そして、男については、いやはや、絶対に近づかないように教えこまれ、また断じて信用しないように言われていたから、彼女は正当な許しがなければ、世界じゅうでもっとも眉目秀麗な伊達男にさえ、いちべつもくれはしなかっただろう。いや、たとえその男が彼女の足もとで死にかけていたにせよ、見むきもしなかっただろう。 このしつけかたのすばらしい効果は、見事にあらわれてきた。この若い婦人は従順と品行方正のかがみであった。ほかの娘たちは世間ではなやかに評判になって、愛らしさをなくし、だれの手にも手折られ、やがては投げすてられがちであった。ところが、彼女はあの汚れのない老嬢たちの保護のもとに、はずかしげにほころびて、みずみずしく美しい婦人になろうとして、あたかも刺に守られて色づく薔薇の蕾のようだった。叔母たちは誇らしく満足げに彼女をながめ、たとえ世のなかのすべての若い女たちが道をふみあやまろうとも、カッツェンエレンボーゲンの跡取り娘には、ありがたいことに、そのようなことは決しておこるはずがない、と吹聴した。 しかし、フォン・ランドショート男爵が、どれほど子供にめぐまれることが少かったにせよ、彼の家族は決して小人数ではなかった。神の御心は彼にたくさんの貧しい縁者をめぐみたもうていたのである。彼らはだれもかれも、およそ貧乏な親類にはつきものの親愛の情をもっていて、おどろくほど男爵を慕い、あらゆる機会を見つけては大ぜいでやってきて、城をにぎわした。一門の祝祭にはこういう善良なひとびとがあつまって祝ったが、費用は男爵がもった。そして彼らは山海の珍味に満腹すると、このような家族の会合、このような心からの歓楽ほどたのしいものは決してあるものではない、とよく言ったものである。
姪は絶えず何を聞かされていましたか?
姪は絶えず厳格な行儀作法や文句をいわずに服従することについて講釈を聞かされていました。
JCRRAG_001294
国語
叔母たちはまた、若いころ、たいした浮気もので、蓮葉女だったから、姪の操行を油断なく見張り、厳しく取りしまるには全く見事に適当だと思われていた。年とった蓮葉女ほど、がっちりして用心ぶかく、無情なほど礼儀正しい付きそい役はまたとないのである。彼女は叔母たちの眼をはなれることはめったに許されなかった。城の領地のそとに出るときにはかならず、しっかりとした付きそいがついた。というよりはむしろ、十分な見張りがつけられたのである。また絶えず厳格な行儀作法や文句をいわずに服従することについて講釈を聞かされていた。そして、男については、いやはや、絶対に近づかないように教えこまれ、また断じて信用しないように言われていたから、彼女は正当な許しがなければ、世界じゅうでもっとも眉目秀麗な伊達男にさえ、いちべつもくれはしなかっただろう。いや、たとえその男が彼女の足もとで死にかけていたにせよ、見むきもしなかっただろう。 このしつけかたのすばらしい効果は、見事にあらわれてきた。この若い婦人は従順と品行方正のかがみであった。ほかの娘たちは世間ではなやかに評判になって、愛らしさをなくし、だれの手にも手折られ、やがては投げすてられがちであった。ところが、彼女はあの汚れのない老嬢たちの保護のもとに、はずかしげにほころびて、みずみずしく美しい婦人になろうとして、あたかも刺に守られて色づく薔薇の蕾のようだった。叔母たちは誇らしく満足げに彼女をながめ、たとえ世のなかのすべての若い女たちが道をふみあやまろうとも、カッツェンエレンボーゲンの跡取り娘には、ありがたいことに、そのようなことは決しておこるはずがない、と吹聴した。 しかし、フォン・ランドショート男爵が、どれほど子供にめぐまれることが少かったにせよ、彼の家族は決して小人数ではなかった。神の御心は彼にたくさんの貧しい縁者をめぐみたもうていたのである。彼らはだれもかれも、およそ貧乏な親類にはつきものの親愛の情をもっていて、おどろくほど男爵を慕い、あらゆる機会を見つけては大ぜいでやってきて、城をにぎわした。一門の祝祭にはこういう善良なひとびとがあつまって祝ったが、費用は男爵がもった。そして彼らは山海の珍味に満腹すると、このような家族の会合、このような心からの歓楽ほどたのしいものは決してあるものではない、とよく言ったものである。
一門の祝祭の費用は誰がもちましたか?
一門の祝祭の費用は男爵がもちました。
JCRRAG_001295
国語
叔母たちはまた、若いころ、たいした浮気もので、蓮葉女だったから、姪の操行を油断なく見張り、厳しく取りしまるには全く見事に適当だと思われていた。年とった蓮葉女ほど、がっちりして用心ぶかく、無情なほど礼儀正しい付きそい役はまたとないのである。彼女は叔母たちの眼をはなれることはめったに許されなかった。城の領地のそとに出るときにはかならず、しっかりとした付きそいがついた。というよりはむしろ、十分な見張りがつけられたのである。また絶えず厳格な行儀作法や文句をいわずに服従することについて講釈を聞かされていた。そして、男については、いやはや、絶対に近づかないように教えこまれ、また断じて信用しないように言われていたから、彼女は正当な許しがなければ、世界じゅうでもっとも眉目秀麗な伊達男にさえ、いちべつもくれはしなかっただろう。いや、たとえその男が彼女の足もとで死にかけていたにせよ、見むきもしなかっただろう。 このしつけかたのすばらしい効果は、見事にあらわれてきた。この若い婦人は従順と品行方正のかがみであった。ほかの娘たちは世間ではなやかに評判になって、愛らしさをなくし、だれの手にも手折られ、やがては投げすてられがちであった。ところが、彼女はあの汚れのない老嬢たちの保護のもとに、はずかしげにほころびて、みずみずしく美しい婦人になろうとして、あたかも刺に守られて色づく薔薇の蕾のようだった。叔母たちは誇らしく満足げに彼女をながめ、たとえ世のなかのすべての若い女たちが道をふみあやまろうとも、カッツェンエレンボーゲンの跡取り娘には、ありがたいことに、そのようなことは決しておこるはずがない、と吹聴した。 しかし、フォン・ランドショート男爵が、どれほど子供にめぐまれることが少かったにせよ、彼の家族は決して小人数ではなかった。神の御心は彼にたくさんの貧しい縁者をめぐみたもうていたのである。彼らはだれもかれも、およそ貧乏な親類にはつきものの親愛の情をもっていて、おどろくほど男爵を慕い、あらゆる機会を見つけては大ぜいでやってきて、城をにぎわした。一門の祝祭にはこういう善良なひとびとがあつまって祝ったが、費用は男爵がもった。そして彼らは山海の珍味に満腹すると、このような家族の会合、このような心からの歓楽ほどたのしいものは決してあるものではない、とよく言ったものである。
姪は誰の眼をはなれることがめったに許されなかったのですか?
娘は叔母たちの眼をはなれることはめったに許されませんでした。
JCRRAG_001296
国語
薬は効き、食生活もかなり気をつけていたおかげか、体は順調に回復した。貰った薬は飲みきり、それでも軽い下痢だけが気になったので、わたしは下心を隠しつつ、またあの診療所を訪れた。  相変わらずひと気が無く、すぐに診察室に呼ばれる。蛇ノ目先生はわたしを覚えていてくれた。 「浜さん髪切ったんですか」  そう、今日までの一週間のうちにわたしは髪を整えた。異性に気づかれると大変うれしい。意識して少し髪を触ってしまう。 「お似合いですよ」 「いやあ、蛇ノ目先生みたいにきれいな方に褒められると照れますね」 「お上手ですね、浜さん」  にこにこと笑って軽く流されたがそれすら嬉しい。 「いやいや、そんな美人がこのひと気のないビルで診療してるなんて、大丈夫ですか」 「そうですね。居酒屋さんがあるから酔った人も来られますけど、店員さんの親切のおかげでなんとか。そう言えば浜さんはムキムキですね」  触診をしながら鍛えてるのかと尋ねられ、わたしはスポーツクラブに行くのが習慣だと答える。 「そうなんですか!やっぱり鍛えてると体の調子は違うモノですか」 「比較的、回復力が上がる気がしますよ!ま、いまはお腹壊してますけど」  他の患者がいないのをいいことに、ひとしきり話してから腹薬を受け取った。自分ばかりが話して彼女の事はあまり聞けなかった気がするが、たくさん見れた笑顔を思い出し、足取り軽く帰宅した。  半年後、流行に乗って風邪を引いたわたしは、喜んで会社を早退し蛇ノ目医院に足を運んだ。  例の無表情な受付に呼ばれ、診察室へ入る。 「こんにちは」  鈴の音を期待して挨拶すると、中にいたのはボサボサ頭で頬のこけた男だった。仏頂面で会釈をする。思わず「お前は誰だ」と口走りそうになる。不審者のようにも見えるが白衣を着ているし、受付の女性は何も言っていなかった。イスに座るときにちらりと男の名札を見ると「蛇ノ目卓美」と書かれている。裕美さんの親類という事だろうか。  男はカルテを読みながら、「はー」とか「へー」とか言っていた。 「浜さんですね。もう下痢は良いんですか」  こちらを見もせずに男は言った。 「はい。今回は風邪で」 「へぇー。そう思って市販の薬を買わずに病院へ来るなんて、真面目ですね」  不信感による疑心暗鬼かもしれないが、わざわざ病院に来るなと言われた気がしてムカっとする。本当にこの嫌味な男は裕美さんと血のつながりがあるのだろうか。裕美さんの話しではこの病院には女性二人しかいないような口ぶりだったのに、なぜきょう裕美さんがここにおらず、この男がいるのだろう。  懐疑的な気持ちで、男の問診に答える。男の声は低すぎてときどき聞きとりづらく、聞き返しても同じような調子で返ってくるので、気を張って話しを聞く必要があった。背中に当たる聴診器の冷たさが不快に感じられる。 「咳が出てるって話しでしたけど、気管支も肺も何ともないみたいなので、とりあえず普通の風邪薬だけだしときます。」 「ありがとうございます」 「浜さんくらいだったら、飲まない方がいいくらいかもしれないですけど、まぁ仕事のときとかしんどいでしょうから、そういう時だけ飲んでください。」  気休めになりますよ。と言った後に鼻で笑われ、男に対する不快感が喉元まで迫ってくる。言ってることは正しいかもしれないが、よくもその気の利かない言葉遣いで医者などやっているモノだと言ってやりたかった。そうするとますます裕美さんとの関係が気になり、文句の代りにその事が口から出た。 「以前ここで女医さんにお世話になったのですが、今日はお休みなんですか」  男が初めてわたしの顔を見た。真正面から見ると横顔の印象より若く見える。 「妻は亡くなりました」  男が短く答えた。先ほどから表情は全く変わらない。「妻」とは誰のことなのかと、男の顔を見ながらしばらく考えた。 「え、あなたは……」 「裕美の夫です。あんたはもしかして、裕美に会いに来たのかもしれませんが、あいつは亡くなりました。」  俺みたいな夫がいてガッカリしましたか、といって男はニヤリと笑った。ふざけている。 「本当に。君のような男が彼女と結婚することができただなんて信じがたいですね。半年前、わたしが彼女と会ったとき、彼女は元気そうだった。どうして亡くなったんですか」 「あの時から病気でしたよ。あんたから見てどうだったか知りませんが、もうぼろぼろでした」  彼女が体の治癒力を上げる運動に興味を示していたことを思い出す。彼女のことを語る男の目は冷たくあくまで淡々としていた。 「君は、気づいていても働く彼女を止めなかったのか」  なぜ一番側にいたと公言するこいつが、医者であるこいつが彼女を助けてやることをしなかったのだ。 「俺はちゃんと言いましたよ。でもあいつは本当に頑固で、医者のくせに医者の言うことを聞かない。馬鹿なやつでしたよ」 「君にそういう資格があるのか」  ぼそぼそとハッキリしない声で話す男の言葉をさえぎる。蛇ノ目は目を伏せてペンを弄り始めた。  苛立ちが抑えきれずため息が出る。 「あなたはこれまでどこで何を?」 「総合病院にいました」 「裕美さんと比べられるのが嫌で違う職場を選んだんですか。裕美さんをこんな危ないところで一人働かせてたんですか」  男に対する苛立ちと嫉妬ではらわたが煮えくり返っている。 「あんたも思ったでしょ。俺が自分で客を捕まえる開業医には向いてないって。でもあいつが診療所をやりたいって言って俺を追いだしたんだ」  この期に及んで言い訳を並べる男を一発殴ってやろうと拳を握り締めたとき、男がふと顔を伏せた。 「あいつが居なきゃ、こんなとこ続けられるはずがない」  声が次第にかすれてくる。 「比べられて嫌とも思わない。どう考えたって、裕美の方が医者として優れてるに決まってるじゃないですか」  蛇ノ目の言葉を聞いて、拳はすっかり力を無くしてしまった。蛇ノ目はカルテの上の裕美さんの文字をなぞっていた。その姿を見てやっと、この人たちは夫婦だったのだと納得できたのかもしれない。 「……出すぎたことを言いました。心からお悔やみ申し上げます」 「……ありがとうございます」  二人でゆっくりと視線を合わす。それは、互いを許しあうためだった。 「わたしも実は、妻において行かれたんですよ。死んじゃいないけど」  赤い目元をした男を慰めたいような気になって、そんなことをうっかり話してしまう。蛇ノ目はその言い訳めいた慰めの言葉を鼻で笑った。 「なるほど、じゃあ、お仲間ですね」 「そうですね」  そう言ってお互いの身の上に起った出来事を茶化す。しかし、不思議と悪い気はしなかった。 「……締めるんですか。この診療所は」 「いや、意外と下の人が使っているらしいので。あと約一名養ってる子もいますし。」  蛇ノ目が扉の向こうを指さす。そしてにやりと笑った。 「だから、浜さんもまた来てくださいね」  窓の外で桜の花びらが舞った。もう春が終わる。
ボサボサ頭で頬のこけた男の名札には何と書かれていますか?
ボサボサ頭で頬のこけた男の名札には蛇ノ目卓美と書かれています。
JCRRAG_001297
社内規定
働き方改革を推進するための関係法律の整備に関する法律(平成30年法律第71号)による改正により、2020年4月より、パートタイム労働者や有期雇用労働者、派遣労働者の待遇について、会社が職務内容、職務内容・配置の変更範囲等を考慮して、通常の労働者との間で不合理な待遇差を設けることは禁止されます(パートタイム・有期雇用労働法第8条、第9条及び労働者派遣事業の適正な運営の確保及び派遣労働者の保護等に関する法律(昭和60年法律第88号)第30条の3)。また、中小企業におけるパートタイム労働者、有期雇用労働者については、2021年4月から、会社が職務内容、職務内容・配置の変更範囲等を考慮して、通常の労働者との間で不合理な待遇差を設けることは禁止されます。なお、これらの法律では、賃金だけでなく、福利厚生、休暇などすべての待遇が対象とされています。そしてパートタイム労働者・有期雇用労働者と通常の労働者との間で、賃金等について取扱いに違いがある場合、パートタイム・有期雇用労働者から求められたときは、会社は相違の内容及び理由について説明する必要があります。(パートタイム・有期雇用労働法第14条第2項)。
中小企業におけるパートタイム労働者、有期雇用労働者について、通常の労働者との間で不合理な待遇差を設けることが禁止されるのは、いつからですか。
中小企業におけるパートタイム労働者、有期雇用労働者について、通常の労働者との間で不合理な待遇差を設けることが禁止されるのは、2021年4月からです。
JCRRAG_001298
社内規定
(採用時の提出書類) 第5条 1項 労働者として採用された者は、採用された日から3週間以内に所定の書類を提出しなければならない。 (1) 住民票記載事項証明書 (2) 自動車運転免許証の写し(ただし、自動車運転免許証を有する場合に限る。) (3) 資格証明書の写し(ただし、何らかの資格証明書を有する場合に限る。) (4) その他会社が指定するもの 2項 1項の定めにより提出した書類の記載事項に変更が生じたときは、労働者として採用された者は、速やかに書面で会社に変更事項を届け出なければならない。 【第5条 採用時の提出書類】 会社が、労働者の年齢、現住所を確認するに当たり、労働者から戸籍謄本(抄本)や住民票の写しを提出させることは適切ではありません。住民票記載事項の証明書により処理することが適切です。「住民票記載事項証明書」とは「住民票」の項目のうち、申請者が希望する項目のみを記載してもらうことができる書類のことです。住民票の写しとは異なり、必要な情報だけを記載したものを各所に提出することができます。また、提出させる書類については、会社はその提出目的を労働者に説明し、明らかにしなければなりません。
誰が採用された日から3週間以内に所定の書類を提出しなければなりませんか。
労働者として採用された者が、採用された日から3週間以内に所定の書類を提出しなければならなりません。
JCRRAG_001299
社内規定
「1か月単位の変形労働時間制における所定労働時間の定め方について」 1か月単位の変形労働時間制については、1か月以内の一定期間(変形期間)を平均して1週間当たりの労働時間が週の法定労働時間(40時間)を超えない範囲で、就業規則等に各日、各週の所定労働時間を具体的に定めなければなりません。そしてこの場合、変形期間における所定労働時間の合計は、次の式によって計算された時間の範囲内で設定します。 1週間の法定労働時間(40時間)×変形期間の暦日数/7 この式によって変形期間が1か月の場合の所定労働時間の総枠を計算します。例えば、1か月が31日で、1週間の法定労働時間が40時間の場合、変形期間が1か月の場合の所定労働時間の総枠は、40×31/7=177.1時間(小数点第2位以下省略)となります。 同様に、1週間の法定労働時間が40時間の場合、1か月が30日、29日、28日ならば、所定労働時間の総枠は、それぞれ171.4時間、165.7時間、160時間と見積もれます。 なお、1週間の法定労働時間が44時間の場合は、1週間の法定労働時間(44時間)×変形期間の暦日数/7を使って計算できます。
1か月単位の変形労働時間制については、1か月以内の一定期間(変形期間)を平均して1週間当たりの労働時間が週の法定労働時間(40時間)を超えない範囲で、就業規則等に何が具体的に定められなければなりませんか。
1か月単位の変形労働時間制については、1か月以内の一定期間(変形期間)を平均して1週間当たりの労働時間が週の法定労働時間(40時間)を超えない範囲で、就業規則等に各日、各週の所定労働時間が具体的に定められなければなりません。
JCRRAG_001300
社内規定
(試用期間について) 第6条 第1項 労働者として新たに採用した者については、採用した日から1ヶ月間を試用期間とする。 第2項 労働者として新たに採用した者について、会社が特に認めたときは、試用期間を短縮すること、又は設けないことがある。 第3項 試用期間中に労働者として不適格と認めた者は、解雇することがある。ただし、入社後14日を経過した試用期間中に労働者として不適格と認めた者については、第53条第2項に定める手続によって行う。 第4項 試用期間は、勤続年数に通算する。 【第6条 試用期間について】 第1項 試用期間を設ける場合にその期間の長さに関する定めは労基法上ありませんが、労働者の地位を不安定にすることから、あまりに長い期間を試用期間とすることは好ましくありません。 第2項 試用期間中の解雇については、最初の14日間以内であれば即時に解雇することができますが、試用期間中の者を14日を超えて雇用した後に解雇する場合には、原則として30日以上前に予告をしなければなりません。予告をしない場合には、平均賃金の30日分以上の解雇予告手当を支払うことが必要となります(労基法第20条、第21条)。
試用期間中の解雇については、最初の何日間以内であれば即時に解雇することができますか、また試用期間中の者を14日を超えて雇用した後に解雇する場合には、原則として何日以上前に予告がされなければなりませんか。
試用期間中の解雇については、最初の14日間以内であれば即時に解雇することができますが、試用期間中の者を14日を超えて雇用した後に解雇する場合には、原則として30日以上前に予告がされなければなりません。