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JCRRAG_012101
法律
3. 元夫が父親となるのを避ける方法 離婚後300日以内に子どもが生まれたとしても、嫡出推定規定によって必ず元夫が父親になるわけではありません。元夫が父親となることを避けるための手段として、次のような方法があります。 「懐胎時期に関する証明書」を提出する 嫡出否認の訴えを起こす 3-1. 「懐胎時期に関する証明書」を提出する 離婚後300日以内に子どもが生まれた場合でも、医師の診断を受け、離婚後に妊娠したことを証明できれば、元夫が父親になることを避けられます。具体的には、診断した医師が作成した「懐胎時期に関する証明書」を、出生届と一緒に提出することで、元夫を父親としない出生届が認められるのです。 ただし、この手段が認められるのは、あくまでも離婚後に妊娠したことが証明できるケースです。証明ができない場合や、妊娠のタイミングが離婚前の場合、この手段は利用できません。 3-2. 嫡出否認の訴えを起こす 嫡出否認の訴えを起こすという手段もあります。嫡出否認の訴えとは、嫡出推定によって親子と推定された父親と子どもの親子関係を否定するための裁判上の手続きです。 嫡出否認の訴えには調停前置主義が適用されるため、訴訟で争う前に調停を通じて夫と子どもの親子関係について話し合うことになります。話し合いが合意に至れば、元夫と子どもが親子ではないと認められるのです。 しかし、嫡出否認の訴えを提起できるのは父親だけです。そのため、元夫が訴えの提起に協力してくれない、元夫に連絡したくないといった理由で、訴えを提起することができないケースが少なくありません。 4. 民法改正により嫡出推定規定が見直される 離婚後300日問題や無戸籍の問題の解決などを目的とする民法の改正法が2022年に成立しました。改正されるポイントの一つが嫡出推定規定の見直しで、2024年4月1日から新たな嫡出推定規定がスタートします。 見直しの内容としては、離婚後300日以内に生まれた子どもでも、出産の時点で母親が再婚していれば、再婚した夫の子どもと推定されるようになります。 つまり、離婚してから子どもが生まれるまでに再婚していれば、嫡出否認の訴えなどの手続きをしなくても、再婚後の夫を父親とする出生届が認められます。 なお、離婚後300日以内に再婚しなかった場合は、従来通り元夫の子どもと推定されます。 5. 嫡出推定規定の見直し以外の制度変更 2024年4月から見直されるのは、嫡出推定規定だけではありません。離婚や親子の問題に関する主な制度変更として、次の2点があります。 再婚禁止期間の廃止 母親や子どもによる嫡出否認の訴えの提起 5-1. 再婚禁止期間の廃止 夫と離婚したり、死別したりした女性には、100日間という再婚禁止期間が設けられています。そのため、離婚から100日が経過しなければ、女性は再婚することができません。 再婚禁止期間が設けられているのは、離婚後に生まれた子どもの父親について、元夫と再婚後の夫で、推定が重なる期間が生じるのを避けるためです。 嫡出推定規定により、婚姻から200日を経過した後、または離婚から300日以内に生まれた子どもは、婚姻中に生まれた子どもと推定されます。そのため、再婚禁止期間がなく離婚日と同日に再婚できる場合、100日の推定が重複する期間が生じることになります。 しかし、嫡出推定規定が見直されることで、離婚後300日以内に再婚していれば生まれた子どもは再婚後の夫の子どもと推定されます。元夫と再婚後の夫で推定が重複する期間がなくなるため、再婚禁止期間が廃止されることになったのです。 5-2. 母親や子どもによる嫡出否認の訴えの提起 現行制度では、嫡出否認の訴えを提起できるのが父親だけなので、元夫に協力を求めなければなりません。このルールが訴えを提起するためのハードルとなっており、子どもが無戸籍となる一因とも指摘されていました。 2024年4月からは、母親や子どもも訴えを提起できるようになります。元夫が訴えの提起に協力してくれない場合や、協力を求めることができない場合でも、母親や子どもが手続きを進めることができるのです。 また、嫡出否認の訴えの提起には、夫が子どもの出生を知ってから1年以内という出訴期間が設けられています。2024年4月からは出訴期間が1年から3年に延長されます。
離婚後300日以内に子どもが生まれた場合でも、どのようなことを証明できれば、元夫が父親になることを避けられますか。
離婚後300日以内に子どもが生まれた場合でも、医師の診断を受け、離婚後に妊娠したことを証明できれば、元夫が父親になることを避けられます。
JCRRAG_012102
法律
3. 元夫が父親となるのを避ける方法 離婚後300日以内に子どもが生まれたとしても、嫡出推定規定によって必ず元夫が父親になるわけではありません。元夫が父親となることを避けるための手段として、次のような方法があります。 「懐胎時期に関する証明書」を提出する 嫡出否認の訴えを起こす 3-1. 「懐胎時期に関する証明書」を提出する 離婚後300日以内に子どもが生まれた場合でも、医師の診断を受け、離婚後に妊娠したことを証明できれば、元夫が父親になることを避けられます。具体的には、診断した医師が作成した「懐胎時期に関する証明書」を、出生届と一緒に提出することで、元夫を父親としない出生届が認められるのです。 ただし、この手段が認められるのは、あくまでも離婚後に妊娠したことが証明できるケースです。証明ができない場合や、妊娠のタイミングが離婚前の場合、この手段は利用できません。 3-2. 嫡出否認の訴えを起こす 嫡出否認の訴えを起こすという手段もあります。嫡出否認の訴えとは、嫡出推定によって親子と推定された父親と子どもの親子関係を否定するための裁判上の手続きです。 嫡出否認の訴えには調停前置主義が適用されるため、訴訟で争う前に調停を通じて夫と子どもの親子関係について話し合うことになります。話し合いが合意に至れば、元夫と子どもが親子ではないと認められるのです。 しかし、嫡出否認の訴えを提起できるのは父親だけです。そのため、元夫が訴えの提起に協力してくれない、元夫に連絡したくないといった理由で、訴えを提起することができないケースが少なくありません。 4. 民法改正により嫡出推定規定が見直される 離婚後300日問題や無戸籍の問題の解決などを目的とする民法の改正法が2022年に成立しました。改正されるポイントの一つが嫡出推定規定の見直しで、2024年4月1日から新たな嫡出推定規定がスタートします。 見直しの内容としては、離婚後300日以内に生まれた子どもでも、出産の時点で母親が再婚していれば、再婚した夫の子どもと推定されるようになります。 つまり、離婚してから子どもが生まれるまでに再婚していれば、嫡出否認の訴えなどの手続きをしなくても、再婚後の夫を父親とする出生届が認められます。 なお、離婚後300日以内に再婚しなかった場合は、従来通り元夫の子どもと推定されます。 5. 嫡出推定規定の見直し以外の制度変更 2024年4月から見直されるのは、嫡出推定規定だけではありません。離婚や親子の問題に関する主な制度変更として、次の2点があります。 再婚禁止期間の廃止 母親や子どもによる嫡出否認の訴えの提起 5-1. 再婚禁止期間の廃止 夫と離婚したり、死別したりした女性には、100日間という再婚禁止期間が設けられています。そのため、離婚から100日が経過しなければ、女性は再婚することができません。 再婚禁止期間が設けられているのは、離婚後に生まれた子どもの父親について、元夫と再婚後の夫で、推定が重なる期間が生じるのを避けるためです。 嫡出推定規定により、婚姻から200日を経過した後、または離婚から300日以内に生まれた子どもは、婚姻中に生まれた子どもと推定されます。そのため、再婚禁止期間がなく離婚日と同日に再婚できる場合、100日の推定が重複する期間が生じることになります。 しかし、嫡出推定規定が見直されることで、離婚後300日以内に再婚していれば生まれた子どもは再婚後の夫の子どもと推定されます。元夫と再婚後の夫で推定が重複する期間がなくなるため、再婚禁止期間が廃止されることになったのです。 5-2. 母親や子どもによる嫡出否認の訴えの提起 現行制度では、嫡出否認の訴えを提起できるのが父親だけなので、元夫に協力を求めなければなりません。このルールが訴えを提起するためのハードルとなっており、子どもが無戸籍となる一因とも指摘されていました。 2024年4月からは、母親や子どもも訴えを提起できるようになります。元夫が訴えの提起に協力してくれない場合や、協力を求めることができない場合でも、母親や子どもが手続きを進めることができるのです。 また、嫡出否認の訴えの提起には、夫が子どもの出生を知ってから1年以内という出訴期間が設けられています。2024年4月からは出訴期間が1年から3年に延長されます。
出生届と一緒に提出することで、元夫を父親としない出生届が認められるのはどういうものですか。
出生届と一緒に提出することで、元夫を父親としない出生届が認められるのは、診断した医師が作成した「懐胎時期に関する証明書」です。
JCRRAG_012103
法律
3. 元夫が父親となるのを避ける方法 離婚後300日以内に子どもが生まれたとしても、嫡出推定規定によって必ず元夫が父親になるわけではありません。元夫が父親となることを避けるための手段として、次のような方法があります。 「懐胎時期に関する証明書」を提出する 嫡出否認の訴えを起こす 3-1. 「懐胎時期に関する証明書」を提出する 離婚後300日以内に子どもが生まれた場合でも、医師の診断を受け、離婚後に妊娠したことを証明できれば、元夫が父親になることを避けられます。具体的には、診断した医師が作成した「懐胎時期に関する証明書」を、出生届と一緒に提出することで、元夫を父親としない出生届が認められるのです。 ただし、この手段が認められるのは、あくまでも離婚後に妊娠したことが証明できるケースです。証明ができない場合や、妊娠のタイミングが離婚前の場合、この手段は利用できません。 3-2. 嫡出否認の訴えを起こす 嫡出否認の訴えを起こすという手段もあります。嫡出否認の訴えとは、嫡出推定によって親子と推定された父親と子どもの親子関係を否定するための裁判上の手続きです。 嫡出否認の訴えには調停前置主義が適用されるため、訴訟で争う前に調停を通じて夫と子どもの親子関係について話し合うことになります。話し合いが合意に至れば、元夫と子どもが親子ではないと認められるのです。 しかし、嫡出否認の訴えを提起できるのは父親だけです。そのため、元夫が訴えの提起に協力してくれない、元夫に連絡したくないといった理由で、訴えを提起することができないケースが少なくありません。 4. 民法改正により嫡出推定規定が見直される 離婚後300日問題や無戸籍の問題の解決などを目的とする民法の改正法が2022年に成立しました。改正されるポイントの一つが嫡出推定規定の見直しで、2024年4月1日から新たな嫡出推定規定がスタートします。 見直しの内容としては、離婚後300日以内に生まれた子どもでも、出産の時点で母親が再婚していれば、再婚した夫の子どもと推定されるようになります。 つまり、離婚してから子どもが生まれるまでに再婚していれば、嫡出否認の訴えなどの手続きをしなくても、再婚後の夫を父親とする出生届が認められます。 なお、離婚後300日以内に再婚しなかった場合は、従来通り元夫の子どもと推定されます。 5. 嫡出推定規定の見直し以外の制度変更 2024年4月から見直されるのは、嫡出推定規定だけではありません。離婚や親子の問題に関する主な制度変更として、次の2点があります。 再婚禁止期間の廃止 母親や子どもによる嫡出否認の訴えの提起 5-1. 再婚禁止期間の廃止 夫と離婚したり、死別したりした女性には、100日間という再婚禁止期間が設けられています。そのため、離婚から100日が経過しなければ、女性は再婚することができません。 再婚禁止期間が設けられているのは、離婚後に生まれた子どもの父親について、元夫と再婚後の夫で、推定が重なる期間が生じるのを避けるためです。 嫡出推定規定により、婚姻から200日を経過した後、または離婚から300日以内に生まれた子どもは、婚姻中に生まれた子どもと推定されます。そのため、再婚禁止期間がなく離婚日と同日に再婚できる場合、100日の推定が重複する期間が生じることになります。 しかし、嫡出推定規定が見直されることで、離婚後300日以内に再婚していれば生まれた子どもは再婚後の夫の子どもと推定されます。元夫と再婚後の夫で推定が重複する期間がなくなるため、再婚禁止期間が廃止されることになったのです。 5-2. 母親や子どもによる嫡出否認の訴えの提起 現行制度では、嫡出否認の訴えを提起できるのが父親だけなので、元夫に協力を求めなければなりません。このルールが訴えを提起するためのハードルとなっており、子どもが無戸籍となる一因とも指摘されていました。 2024年4月からは、母親や子どもも訴えを提起できるようになります。元夫が訴えの提起に協力してくれない場合や、協力を求めることができない場合でも、母親や子どもが手続きを進めることができるのです。 また、嫡出否認の訴えの提起には、夫が子どもの出生を知ってから1年以内という出訴期間が設けられています。2024年4月からは出訴期間が1年から3年に延長されます。
嫡出否認の訴えを提起できるのは誰ですか。
嫡出否認の訴えを提起できるのは父親だけです。
JCRRAG_012104
法律
3. 元夫が父親となるのを避ける方法 離婚後300日以内に子どもが生まれたとしても、嫡出推定規定によって必ず元夫が父親になるわけではありません。元夫が父親となることを避けるための手段として、次のような方法があります。 「懐胎時期に関する証明書」を提出する 嫡出否認の訴えを起こす 3-1. 「懐胎時期に関する証明書」を提出する 離婚後300日以内に子どもが生まれた場合でも、医師の診断を受け、離婚後に妊娠したことを証明できれば、元夫が父親になることを避けられます。具体的には、診断した医師が作成した「懐胎時期に関する証明書」を、出生届と一緒に提出することで、元夫を父親としない出生届が認められるのです。 ただし、この手段が認められるのは、あくまでも離婚後に妊娠したことが証明できるケースです。証明ができない場合や、妊娠のタイミングが離婚前の場合、この手段は利用できません。 3-2. 嫡出否認の訴えを起こす 嫡出否認の訴えを起こすという手段もあります。嫡出否認の訴えとは、嫡出推定によって親子と推定された父親と子どもの親子関係を否定するための裁判上の手続きです。 嫡出否認の訴えには調停前置主義が適用されるため、訴訟で争う前に調停を通じて夫と子どもの親子関係について話し合うことになります。話し合いが合意に至れば、元夫と子どもが親子ではないと認められるのです。 しかし、嫡出否認の訴えを提起できるのは父親だけです。そのため、元夫が訴えの提起に協力してくれない、元夫に連絡したくないといった理由で、訴えを提起することができないケースが少なくありません。 4. 民法改正により嫡出推定規定が見直される 離婚後300日問題や無戸籍の問題の解決などを目的とする民法の改正法が2022年に成立しました。改正されるポイントの一つが嫡出推定規定の見直しで、2024年4月1日から新たな嫡出推定規定がスタートします。 見直しの内容としては、離婚後300日以内に生まれた子どもでも、出産の時点で母親が再婚していれば、再婚した夫の子どもと推定されるようになります。 つまり、離婚してから子どもが生まれるまでに再婚していれば、嫡出否認の訴えなどの手続きをしなくても、再婚後の夫を父親とする出生届が認められます。 なお、離婚後300日以内に再婚しなかった場合は、従来通り元夫の子どもと推定されます。 5. 嫡出推定規定の見直し以外の制度変更 2024年4月から見直されるのは、嫡出推定規定だけではありません。離婚や親子の問題に関する主な制度変更として、次の2点があります。 再婚禁止期間の廃止 母親や子どもによる嫡出否認の訴えの提起 5-1. 再婚禁止期間の廃止 夫と離婚したり、死別したりした女性には、100日間という再婚禁止期間が設けられています。そのため、離婚から100日が経過しなければ、女性は再婚することができません。 再婚禁止期間が設けられているのは、離婚後に生まれた子どもの父親について、元夫と再婚後の夫で、推定が重なる期間が生じるのを避けるためです。 嫡出推定規定により、婚姻から200日を経過した後、または離婚から300日以内に生まれた子どもは、婚姻中に生まれた子どもと推定されます。そのため、再婚禁止期間がなく離婚日と同日に再婚できる場合、100日の推定が重複する期間が生じることになります。 しかし、嫡出推定規定が見直されることで、離婚後300日以内に再婚していれば生まれた子どもは再婚後の夫の子どもと推定されます。元夫と再婚後の夫で推定が重複する期間がなくなるため、再婚禁止期間が廃止されることになったのです。 5-2. 母親や子どもによる嫡出否認の訴えの提起 現行制度では、嫡出否認の訴えを提起できるのが父親だけなので、元夫に協力を求めなければなりません。このルールが訴えを提起するためのハードルとなっており、子どもが無戸籍となる一因とも指摘されていました。 2024年4月からは、母親や子どもも訴えを提起できるようになります。元夫が訴えの提起に協力してくれない場合や、協力を求めることができない場合でも、母親や子どもが手続きを進めることができるのです。 また、嫡出否認の訴えの提起には、夫が子どもの出生を知ってから1年以内という出訴期間が設けられています。2024年4月からは出訴期間が1年から3年に延長されます。
離婚後300日問題や無戸籍の問題の解決などを目的とする民法の改正法は、いつ成立しましたか。
離婚後300日問題や無戸籍の問題の解決などを目的とする民法の改正法が2022年に成立しました。
JCRRAG_012105
法律
3. 元夫が父親となるのを避ける方法 離婚後300日以内に子どもが生まれたとしても、嫡出推定規定によって必ず元夫が父親になるわけではありません。元夫が父親となることを避けるための手段として、次のような方法があります。 「懐胎時期に関する証明書」を提出する 嫡出否認の訴えを起こす 3-1. 「懐胎時期に関する証明書」を提出する 離婚後300日以内に子どもが生まれた場合でも、医師の診断を受け、離婚後に妊娠したことを証明できれば、元夫が父親になることを避けられます。具体的には、診断した医師が作成した「懐胎時期に関する証明書」を、出生届と一緒に提出することで、元夫を父親としない出生届が認められるのです。 ただし、この手段が認められるのは、あくまでも離婚後に妊娠したことが証明できるケースです。証明ができない場合や、妊娠のタイミングが離婚前の場合、この手段は利用できません。 3-2. 嫡出否認の訴えを起こす 嫡出否認の訴えを起こすという手段もあります。嫡出否認の訴えとは、嫡出推定によって親子と推定された父親と子どもの親子関係を否定するための裁判上の手続きです。 嫡出否認の訴えには調停前置主義が適用されるため、訴訟で争う前に調停を通じて夫と子どもの親子関係について話し合うことになります。話し合いが合意に至れば、元夫と子どもが親子ではないと認められるのです。 しかし、嫡出否認の訴えを提起できるのは父親だけです。そのため、元夫が訴えの提起に協力してくれない、元夫に連絡したくないといった理由で、訴えを提起することができないケースが少なくありません。 4. 民法改正により嫡出推定規定が見直される 離婚後300日問題や無戸籍の問題の解決などを目的とする民法の改正法が2022年に成立しました。改正されるポイントの一つが嫡出推定規定の見直しで、2024年4月1日から新たな嫡出推定規定がスタートします。 見直しの内容としては、離婚後300日以内に生まれた子どもでも、出産の時点で母親が再婚していれば、再婚した夫の子どもと推定されるようになります。 つまり、離婚してから子どもが生まれるまでに再婚していれば、嫡出否認の訴えなどの手続きをしなくても、再婚後の夫を父親とする出生届が認められます。 なお、離婚後300日以内に再婚しなかった場合は、従来通り元夫の子どもと推定されます。 5. 嫡出推定規定の見直し以外の制度変更 2024年4月から見直されるのは、嫡出推定規定だけではありません。離婚や親子の問題に関する主な制度変更として、次の2点があります。 再婚禁止期間の廃止 母親や子どもによる嫡出否認の訴えの提起 5-1. 再婚禁止期間の廃止 夫と離婚したり、死別したりした女性には、100日間という再婚禁止期間が設けられています。そのため、離婚から100日が経過しなければ、女性は再婚することができません。 再婚禁止期間が設けられているのは、離婚後に生まれた子どもの父親について、元夫と再婚後の夫で、推定が重なる期間が生じるのを避けるためです。 嫡出推定規定により、婚姻から200日を経過した後、または離婚から300日以内に生まれた子どもは、婚姻中に生まれた子どもと推定されます。そのため、再婚禁止期間がなく離婚日と同日に再婚できる場合、100日の推定が重複する期間が生じることになります。 しかし、嫡出推定規定が見直されることで、離婚後300日以内に再婚していれば生まれた子どもは再婚後の夫の子どもと推定されます。元夫と再婚後の夫で推定が重複する期間がなくなるため、再婚禁止期間が廃止されることになったのです。 5-2. 母親や子どもによる嫡出否認の訴えの提起 現行制度では、嫡出否認の訴えを提起できるのが父親だけなので、元夫に協力を求めなければなりません。このルールが訴えを提起するためのハードルとなっており、子どもが無戸籍となる一因とも指摘されていました。 2024年4月からは、母親や子どもも訴えを提起できるようになります。元夫が訴えの提起に協力してくれない場合や、協力を求めることができない場合でも、母親や子どもが手続きを進めることができるのです。 また、嫡出否認の訴えの提起には、夫が子どもの出生を知ってから1年以内という出訴期間が設けられています。2024年4月からは出訴期間が1年から3年に延長されます。
離婚後300日以内に再婚していれば、生まれた子どもは誰の子どもと推定されますか。
離婚後300日以内に再婚していれば生まれた子どもは再婚後の夫の子どもと推定されます。
JCRRAG_012106
法律
1. 育児・介護と仕事の両立を支援する制度が充実 育児・介護休業法の改正法には、育児と介護の両分野で多岐にわたる改正事項が盛り込まれています。2025年4月から施行される主な改正事項は次の通りです。 育児関係 子の看護休暇が小学校3年生まで拡大 残業免除の対象が小学校就学前まで拡大 短時間勤務制度の代替措置にテレワーク追加 育児のためのテレワーク導入(努力義務) 育児休業取得状況の公表義務が300人超の企業に拡大 介護関係 介護休暇を取得できる要件の緩和 介護離職防止のための雇用環境整備 介護離職防止に向けた個別の周知と意向確認 介護のためのテレワーク導入(努力義務) 改正内容の詳細を、育児に関するものと介護に関するものに分けて解説します。 2. 【育児関係】小学生までの子どもを持つ人への支援が充実 今回の改正では、3歳ごろから小学生までの子どもを持つ人を対象とする支援などが充実します。また、育児と仕事の両立が図りやすくなるよう、テレワークの推進も盛り込まれました。 2-1. 子の看護休暇が小学校3年生まで拡大 子の看護休暇の対象となる子どもの範囲および休暇の取得可能事由が拡大され、休暇がより取得しやすくなります。また、名称が「子の看護等休暇」に改められます(改正育児・介護休業法第16条の2)。 具体的な変更点としては、対象となる子どもの範囲が従来の小学校就学前までから、小学校3年生までに拡大。休暇を取得できる事由についても、病気・けが、予防接種・健康診断に限定されていましたが、感染症による学級閉鎖時や、入園(入学)・卒園式への参加などが追加されます。 また、労使協定により、継続雇用期間が6か月未満の労働者を看護休暇の対象外にできる規定が廃止されます。 改正前 改正後 名称 子の看護休暇 子の看護等休暇 対象となる子の範囲 小学校就学前まで 小学校3年生修了までに延長 取得事由 病気・けが 予防接種・健康診断 左記に加えて 感染症に伴う学級閉鎖等 入園(入学)式、卒園式を追加 労使協定の締結により 除外できる労働者 (1)引き続き雇用された期間が6か月未満 (2)週の所定労働日数が2日以下 (1)を撤廃し、(2)のみに ※出典:「育児・介護休業法、次世代育成支援対策推進法の2024(令和6)年改正ポイント」(厚生労働省)を加工して作成 2-2. 残業免除の対象が小学校就学前まで拡大 一定の年齢に達するまでの子どもを養育する労働者が、残業の免除を請求した場合、所定労働時間を超えた労働が制限(禁止)されます。 2025年4月以降は、残業の免除を請求できる対象者が拡大されます。具体的には、これまで「3歳未満の子を養育する労働者」が請求できましたが、今後は「小学校就学前の子を養育する労働者」が請求できるようになります(同法第16条の8)。 2-3. 短時間勤務制度の代替措置にテレワーク追加 3歳未満の子どもを持つ労働者が短時間勤務を希望すれば、企業側は勤務時間を6時間まで短縮しなければなりません。もし、短時間勤務を認めることが難しい場合、代替措置として、次のいずれかを講じる必要があります。 育児休業に関する制度に準ずる措置 フレックスタイム制度 時差出勤(始業・終業の時刻を繰り上げまたは繰り下げ) 保育施設の設置運営その他これに準ずる便宜の供与 2025年4月以降は、これらの代替措置にテレワーク(在宅勤務)が追加されます(同法第23条2項)。 2-4. 育児のためのテレワーク導入(努力義務) 3歳未満の子どもを養育し、育児休業を取得していない労働者がテレワークを選択できるよう、必要な措置を講じる努力義務が企業に課されます(同法第24条2項)。 あくまでも努力義務であり、企業は必ず対応が求められるわけではありませんが、子育てと仕事の両立をサポートするため、必要な措置を積極的に講じることが期待されます。 2-5. 育児休業取得状況の公表義務が300人超の企業に拡大 現行制度では、常時雇用する労働者が1,000人を超える企業に対し、男性労働者の育休取得状況などを年1回公表することが義務化されています。2025年4月以降は、300人を超える企業まで公表義務の対象が拡大されます(同法第22条の2)。 「常時雇用する労働者」とは、雇用形態を問わず期間の定めなく雇用されている労働者が該当します。期間の定めがあっても、過去1年以上引き続き雇用されている労働者や、雇入れの時から1年以上引き続き雇用されると見込まれる労働者なども含まれます。 公表する必要があるのは、男性の「育児休業等の取得率」または「育児休業等と育児目的休暇の取得率」で、公表前事業年度の終了後おおむね3か月以内に、インターネットなどで公表しなければなりません。 ※育児休業等とは、育児・介護休業法に規定する以下の休業のことです。 ・育児休業(産後パパ育休を含む) ・法第23条第2項(3歳未満の子を育てる労働者について所定労働時間の短縮措置を講じない場合の代替措置義務)又は第24条第1項(小学校就学前の子を育てる労働者に関する努力義務)の規定に基づく措置として育児休業に関する制度に準ずる措置を講じた場合は、その措置に基づく休業
休暇がより取得しやすくなるのは、どういうものですか
休暇がより取得しやすくなるのは、子の看護休暇の対象となる子どもの範囲および休暇の取得可能事由が拡大されたからです。
JCRRAG_012107
法律
1. 育児・介護と仕事の両立を支援する制度が充実 育児・介護休業法の改正法には、育児と介護の両分野で多岐にわたる改正事項が盛り込まれています。2025年4月から施行される主な改正事項は次の通りです。 育児関係 子の看護休暇が小学校3年生まで拡大 残業免除の対象が小学校就学前まで拡大 短時間勤務制度の代替措置にテレワーク追加 育児のためのテレワーク導入(努力義務) 育児休業取得状況の公表義務が300人超の企業に拡大 介護関係 介護休暇を取得できる要件の緩和 介護離職防止のための雇用環境整備 介護離職防止に向けた個別の周知と意向確認 介護のためのテレワーク導入(努力義務) 改正内容の詳細を、育児に関するものと介護に関するものに分けて解説します。 2. 【育児関係】小学生までの子どもを持つ人への支援が充実 今回の改正では、3歳ごろから小学生までの子どもを持つ人を対象とする支援などが充実します。また、育児と仕事の両立が図りやすくなるよう、テレワークの推進も盛り込まれました。 2-1. 子の看護休暇が小学校3年生まで拡大 子の看護休暇の対象となる子どもの範囲および休暇の取得可能事由が拡大され、休暇がより取得しやすくなります。また、名称が「子の看護等休暇」に改められます(改正育児・介護休業法第16条の2)。 具体的な変更点としては、対象となる子どもの範囲が従来の小学校就学前までから、小学校3年生までに拡大。休暇を取得できる事由についても、病気・けが、予防接種・健康診断に限定されていましたが、感染症による学級閉鎖時や、入園(入学)・卒園式への参加などが追加されます。 また、労使協定により、継続雇用期間が6か月未満の労働者を看護休暇の対象外にできる規定が廃止されます。 改正前 改正後 名称 子の看護休暇 子の看護等休暇 対象となる子の範囲 小学校就学前まで 小学校3年生修了までに延長 取得事由 病気・けが 予防接種・健康診断 左記に加えて 感染症に伴う学級閉鎖等 入園(入学)式、卒園式を追加 労使協定の締結により 除外できる労働者 (1)引き続き雇用された期間が6か月未満 (2)週の所定労働日数が2日以下 (1)を撤廃し、(2)のみに ※出典:「育児・介護休業法、次世代育成支援対策推進法の2024(令和6)年改正ポイント」(厚生労働省)を加工して作成 2-2. 残業免除の対象が小学校就学前まで拡大 一定の年齢に達するまでの子どもを養育する労働者が、残業の免除を請求した場合、所定労働時間を超えた労働が制限(禁止)されます。 2025年4月以降は、残業の免除を請求できる対象者が拡大されます。具体的には、これまで「3歳未満の子を養育する労働者」が請求できましたが、今後は「小学校就学前の子を養育する労働者」が請求できるようになります(同法第16条の8)。 2-3. 短時間勤務制度の代替措置にテレワーク追加 3歳未満の子どもを持つ労働者が短時間勤務を希望すれば、企業側は勤務時間を6時間まで短縮しなければなりません。もし、短時間勤務を認めることが難しい場合、代替措置として、次のいずれかを講じる必要があります。 育児休業に関する制度に準ずる措置 フレックスタイム制度 時差出勤(始業・終業の時刻を繰り上げまたは繰り下げ) 保育施設の設置運営その他これに準ずる便宜の供与 2025年4月以降は、これらの代替措置にテレワーク(在宅勤務)が追加されます(同法第23条2項)。 2-4. 育児のためのテレワーク導入(努力義務) 3歳未満の子どもを養育し、育児休業を取得していない労働者がテレワークを選択できるよう、必要な措置を講じる努力義務が企業に課されます(同法第24条2項)。 あくまでも努力義務であり、企業は必ず対応が求められるわけではありませんが、子育てと仕事の両立をサポートするため、必要な措置を積極的に講じることが期待されます。 2-5. 育児休業取得状況の公表義務が300人超の企業に拡大 現行制度では、常時雇用する労働者が1,000人を超える企業に対し、男性労働者の育休取得状況などを年1回公表することが義務化されています。2025年4月以降は、300人を超える企業まで公表義務の対象が拡大されます(同法第22条の2)。 「常時雇用する労働者」とは、雇用形態を問わず期間の定めなく雇用されている労働者が該当します。期間の定めがあっても、過去1年以上引き続き雇用されている労働者や、雇入れの時から1年以上引き続き雇用されると見込まれる労働者なども含まれます。 公表する必要があるのは、男性の「育児休業等の取得率」または「育児休業等と育児目的休暇の取得率」で、公表前事業年度の終了後おおむね3か月以内に、インターネットなどで公表しなければなりません。 ※育児休業等とは、育児・介護休業法に規定する以下の休業のことです。 ・育児休業(産後パパ育休を含む) ・法第23条第2項(3歳未満の子を育てる労働者について所定労働時間の短縮措置を講じない場合の代替措置義務)又は第24条第1項(小学校就学前の子を育てる労働者に関する努力義務)の規定に基づく措置として育児休業に関する制度に準ずる措置を講じた場合は、その措置に基づく休業
対象となる子どもの範囲が従来の小学校就学前までから、何年生までに拡大しましたか。
対象となる子どもの範囲が従来の小学校就学前までから、小学校3年生までに拡大しました。
JCRRAG_012108
法律
1. 育児・介護と仕事の両立を支援する制度が充実 育児・介護休業法の改正法には、育児と介護の両分野で多岐にわたる改正事項が盛り込まれています。2025年4月から施行される主な改正事項は次の通りです。 育児関係 子の看護休暇が小学校3年生まで拡大 残業免除の対象が小学校就学前まで拡大 短時間勤務制度の代替措置にテレワーク追加 育児のためのテレワーク導入(努力義務) 育児休業取得状況の公表義務が300人超の企業に拡大 介護関係 介護休暇を取得できる要件の緩和 介護離職防止のための雇用環境整備 介護離職防止に向けた個別の周知と意向確認 介護のためのテレワーク導入(努力義務) 改正内容の詳細を、育児に関するものと介護に関するものに分けて解説します。 2. 【育児関係】小学生までの子どもを持つ人への支援が充実 今回の改正では、3歳ごろから小学生までの子どもを持つ人を対象とする支援などが充実します。また、育児と仕事の両立が図りやすくなるよう、テレワークの推進も盛り込まれました。 2-1. 子の看護休暇が小学校3年生まで拡大 子の看護休暇の対象となる子どもの範囲および休暇の取得可能事由が拡大され、休暇がより取得しやすくなります。また、名称が「子の看護等休暇」に改められます(改正育児・介護休業法第16条の2)。 具体的な変更点としては、対象となる子どもの範囲が従来の小学校就学前までから、小学校3年生までに拡大。休暇を取得できる事由についても、病気・けが、予防接種・健康診断に限定されていましたが、感染症による学級閉鎖時や、入園(入学)・卒園式への参加などが追加されます。 また、労使協定により、継続雇用期間が6か月未満の労働者を看護休暇の対象外にできる規定が廃止されます。 改正前 改正後 名称 子の看護休暇 子の看護等休暇 対象となる子の範囲 小学校就学前まで 小学校3年生修了までに延長 取得事由 病気・けが 予防接種・健康診断 左記に加えて 感染症に伴う学級閉鎖等 入園(入学)式、卒園式を追加 労使協定の締結により 除外できる労働者 (1)引き続き雇用された期間が6か月未満 (2)週の所定労働日数が2日以下 (1)を撤廃し、(2)のみに ※出典:「育児・介護休業法、次世代育成支援対策推進法の2024(令和6)年改正ポイント」(厚生労働省)を加工して作成 2-2. 残業免除の対象が小学校就学前まで拡大 一定の年齢に達するまでの子どもを養育する労働者が、残業の免除を請求した場合、所定労働時間を超えた労働が制限(禁止)されます。 2025年4月以降は、残業の免除を請求できる対象者が拡大されます。具体的には、これまで「3歳未満の子を養育する労働者」が請求できましたが、今後は「小学校就学前の子を養育する労働者」が請求できるようになります(同法第16条の8)。 2-3. 短時間勤務制度の代替措置にテレワーク追加 3歳未満の子どもを持つ労働者が短時間勤務を希望すれば、企業側は勤務時間を6時間まで短縮しなければなりません。もし、短時間勤務を認めることが難しい場合、代替措置として、次のいずれかを講じる必要があります。 育児休業に関する制度に準ずる措置 フレックスタイム制度 時差出勤(始業・終業の時刻を繰り上げまたは繰り下げ) 保育施設の設置運営その他これに準ずる便宜の供与 2025年4月以降は、これらの代替措置にテレワーク(在宅勤務)が追加されます(同法第23条2項)。 2-4. 育児のためのテレワーク導入(努力義務) 3歳未満の子どもを養育し、育児休業を取得していない労働者がテレワークを選択できるよう、必要な措置を講じる努力義務が企業に課されます(同法第24条2項)。 あくまでも努力義務であり、企業は必ず対応が求められるわけではありませんが、子育てと仕事の両立をサポートするため、必要な措置を積極的に講じることが期待されます。 2-5. 育児休業取得状況の公表義務が300人超の企業に拡大 現行制度では、常時雇用する労働者が1,000人を超える企業に対し、男性労働者の育休取得状況などを年1回公表することが義務化されています。2025年4月以降は、300人を超える企業まで公表義務の対象が拡大されます(同法第22条の2)。 「常時雇用する労働者」とは、雇用形態を問わず期間の定めなく雇用されている労働者が該当します。期間の定めがあっても、過去1年以上引き続き雇用されている労働者や、雇入れの時から1年以上引き続き雇用されると見込まれる労働者なども含まれます。 公表する必要があるのは、男性の「育児休業等の取得率」または「育児休業等と育児目的休暇の取得率」で、公表前事業年度の終了後おおむね3か月以内に、インターネットなどで公表しなければなりません。 ※育児休業等とは、育児・介護休業法に規定する以下の休業のことです。 ・育児休業(産後パパ育休を含む) ・法第23条第2項(3歳未満の子を育てる労働者について所定労働時間の短縮措置を講じない場合の代替措置義務)又は第24条第1項(小学校就学前の子を育てる労働者に関する努力義務)の規定に基づく措置として育児休業に関する制度に準ずる措置を講じた場合は、その措置に基づく休業
休暇を取得できる事由についても、病気・けが、予防接種・健康診断以外に、何が追加されますか。
休暇を取得できる事由についても、病気・けが、予防接種・健康診断以外に、感染症による学級閉鎖時や、入園(入学)・卒園式への参加などが追加されます。
JCRRAG_012109
法律
1. 育児・介護と仕事の両立を支援する制度が充実 育児・介護休業法の改正法には、育児と介護の両分野で多岐にわたる改正事項が盛り込まれています。2025年4月から施行される主な改正事項は次の通りです。 育児関係 子の看護休暇が小学校3年生まで拡大 残業免除の対象が小学校就学前まで拡大 短時間勤務制度の代替措置にテレワーク追加 育児のためのテレワーク導入(努力義務) 育児休業取得状況の公表義務が300人超の企業に拡大 介護関係 介護休暇を取得できる要件の緩和 介護離職防止のための雇用環境整備 介護離職防止に向けた個別の周知と意向確認 介護のためのテレワーク導入(努力義務) 改正内容の詳細を、育児に関するものと介護に関するものに分けて解説します。 2. 【育児関係】小学生までの子どもを持つ人への支援が充実 今回の改正では、3歳ごろから小学生までの子どもを持つ人を対象とする支援などが充実します。また、育児と仕事の両立が図りやすくなるよう、テレワークの推進も盛り込まれました。 2-1. 子の看護休暇が小学校3年生まで拡大 子の看護休暇の対象となる子どもの範囲および休暇の取得可能事由が拡大され、休暇がより取得しやすくなります。また、名称が「子の看護等休暇」に改められます(改正育児・介護休業法第16条の2)。 具体的な変更点としては、対象となる子どもの範囲が従来の小学校就学前までから、小学校3年生までに拡大。休暇を取得できる事由についても、病気・けが、予防接種・健康診断に限定されていましたが、感染症による学級閉鎖時や、入園(入学)・卒園式への参加などが追加されます。 また、労使協定により、継続雇用期間が6か月未満の労働者を看護休暇の対象外にできる規定が廃止されます。 改正前 改正後 名称 子の看護休暇 子の看護等休暇 対象となる子の範囲 小学校就学前まで 小学校3年生修了までに延長 取得事由 病気・けが 予防接種・健康診断 左記に加えて 感染症に伴う学級閉鎖等 入園(入学)式、卒園式を追加 労使協定の締結により 除外できる労働者 (1)引き続き雇用された期間が6か月未満 (2)週の所定労働日数が2日以下 (1)を撤廃し、(2)のみに ※出典:「育児・介護休業法、次世代育成支援対策推進法の2024(令和6)年改正ポイント」(厚生労働省)を加工して作成 2-2. 残業免除の対象が小学校就学前まで拡大 一定の年齢に達するまでの子どもを養育する労働者が、残業の免除を請求した場合、所定労働時間を超えた労働が制限(禁止)されます。 2025年4月以降は、残業の免除を請求できる対象者が拡大されます。具体的には、これまで「3歳未満の子を養育する労働者」が請求できましたが、今後は「小学校就学前の子を養育する労働者」が請求できるようになります(同法第16条の8)。 2-3. 短時間勤務制度の代替措置にテレワーク追加 3歳未満の子どもを持つ労働者が短時間勤務を希望すれば、企業側は勤務時間を6時間まで短縮しなければなりません。もし、短時間勤務を認めることが難しい場合、代替措置として、次のいずれかを講じる必要があります。 育児休業に関する制度に準ずる措置 フレックスタイム制度 時差出勤(始業・終業の時刻を繰り上げまたは繰り下げ) 保育施設の設置運営その他これに準ずる便宜の供与 2025年4月以降は、これらの代替措置にテレワーク(在宅勤務)が追加されます(同法第23条2項)。 2-4. 育児のためのテレワーク導入(努力義務) 3歳未満の子どもを養育し、育児休業を取得していない労働者がテレワークを選択できるよう、必要な措置を講じる努力義務が企業に課されます(同法第24条2項)。 あくまでも努力義務であり、企業は必ず対応が求められるわけではありませんが、子育てと仕事の両立をサポートするため、必要な措置を積極的に講じることが期待されます。 2-5. 育児休業取得状況の公表義務が300人超の企業に拡大 現行制度では、常時雇用する労働者が1,000人を超える企業に対し、男性労働者の育休取得状況などを年1回公表することが義務化されています。2025年4月以降は、300人を超える企業まで公表義務の対象が拡大されます(同法第22条の2)。 「常時雇用する労働者」とは、雇用形態を問わず期間の定めなく雇用されている労働者が該当します。期間の定めがあっても、過去1年以上引き続き雇用されている労働者や、雇入れの時から1年以上引き続き雇用されると見込まれる労働者なども含まれます。 公表する必要があるのは、男性の「育児休業等の取得率」または「育児休業等と育児目的休暇の取得率」で、公表前事業年度の終了後おおむね3か月以内に、インターネットなどで公表しなければなりません。 ※育児休業等とは、育児・介護休業法に規定する以下の休業のことです。 ・育児休業(産後パパ育休を含む) ・法第23条第2項(3歳未満の子を育てる労働者について所定労働時間の短縮措置を講じない場合の代替措置義務)又は第24条第1項(小学校就学前の子を育てる労働者に関する努力義務)の規定に基づく措置として育児休業に関する制度に準ずる措置を講じた場合は、その措置に基づく休業
3歳未満の子どもを持つ労働者が短時間勤務を希望すれば、企業側は勤務時間を何時間まで短縮しなければなりませんか。
3歳未満の子どもを持つ労働者が短時間勤務を希望すれば、企業側は勤務時間を6時間まで短縮しなければなりません。
JCRRAG_012110
法律
1. 育児・介護と仕事の両立を支援する制度が充実 育児・介護休業法の改正法には、育児と介護の両分野で多岐にわたる改正事項が盛り込まれています。2025年4月から施行される主な改正事項は次の通りです。 育児関係 子の看護休暇が小学校3年生まで拡大 残業免除の対象が小学校就学前まで拡大 短時間勤務制度の代替措置にテレワーク追加 育児のためのテレワーク導入(努力義務) 育児休業取得状況の公表義務が300人超の企業に拡大 介護関係 介護休暇を取得できる要件の緩和 介護離職防止のための雇用環境整備 介護離職防止に向けた個別の周知と意向確認 介護のためのテレワーク導入(努力義務) 改正内容の詳細を、育児に関するものと介護に関するものに分けて解説します。 2. 【育児関係】小学生までの子どもを持つ人への支援が充実 今回の改正では、3歳ごろから小学生までの子どもを持つ人を対象とする支援などが充実します。また、育児と仕事の両立が図りやすくなるよう、テレワークの推進も盛り込まれました。 2-1. 子の看護休暇が小学校3年生まで拡大 子の看護休暇の対象となる子どもの範囲および休暇の取得可能事由が拡大され、休暇がより取得しやすくなります。また、名称が「子の看護等休暇」に改められます(改正育児・介護休業法第16条の2)。 具体的な変更点としては、対象となる子どもの範囲が従来の小学校就学前までから、小学校3年生までに拡大。休暇を取得できる事由についても、病気・けが、予防接種・健康診断に限定されていましたが、感染症による学級閉鎖時や、入園(入学)・卒園式への参加などが追加されます。 また、労使協定により、継続雇用期間が6か月未満の労働者を看護休暇の対象外にできる規定が廃止されます。 改正前 改正後 名称 子の看護休暇 子の看護等休暇 対象となる子の範囲 小学校就学前まで 小学校3年生修了までに延長 取得事由 病気・けが 予防接種・健康診断 左記に加えて 感染症に伴う学級閉鎖等 入園(入学)式、卒園式を追加 労使協定の締結により 除外できる労働者 (1)引き続き雇用された期間が6か月未満 (2)週の所定労働日数が2日以下 (1)を撤廃し、(2)のみに ※出典:「育児・介護休業法、次世代育成支援対策推進法の2024(令和6)年改正ポイント」(厚生労働省)を加工して作成 2-2. 残業免除の対象が小学校就学前まで拡大 一定の年齢に達するまでの子どもを養育する労働者が、残業の免除を請求した場合、所定労働時間を超えた労働が制限(禁止)されます。 2025年4月以降は、残業の免除を請求できる対象者が拡大されます。具体的には、これまで「3歳未満の子を養育する労働者」が請求できましたが、今後は「小学校就学前の子を養育する労働者」が請求できるようになります(同法第16条の8)。 2-3. 短時間勤務制度の代替措置にテレワーク追加 3歳未満の子どもを持つ労働者が短時間勤務を希望すれば、企業側は勤務時間を6時間まで短縮しなければなりません。もし、短時間勤務を認めることが難しい場合、代替措置として、次のいずれかを講じる必要があります。 育児休業に関する制度に準ずる措置 フレックスタイム制度 時差出勤(始業・終業の時刻を繰り上げまたは繰り下げ) 保育施設の設置運営その他これに準ずる便宜の供与 2025年4月以降は、これらの代替措置にテレワーク(在宅勤務)が追加されます(同法第23条2項)。 2-4. 育児のためのテレワーク導入(努力義務) 3歳未満の子どもを養育し、育児休業を取得していない労働者がテレワークを選択できるよう、必要な措置を講じる努力義務が企業に課されます(同法第24条2項)。 あくまでも努力義務であり、企業は必ず対応が求められるわけではありませんが、子育てと仕事の両立をサポートするため、必要な措置を積極的に講じることが期待されます。 2-5. 育児休業取得状況の公表義務が300人超の企業に拡大 現行制度では、常時雇用する労働者が1,000人を超える企業に対し、男性労働者の育休取得状況などを年1回公表することが義務化されています。2025年4月以降は、300人を超える企業まで公表義務の対象が拡大されます(同法第22条の2)。 「常時雇用する労働者」とは、雇用形態を問わず期間の定めなく雇用されている労働者が該当します。期間の定めがあっても、過去1年以上引き続き雇用されている労働者や、雇入れの時から1年以上引き続き雇用されると見込まれる労働者なども含まれます。 公表する必要があるのは、男性の「育児休業等の取得率」または「育児休業等と育児目的休暇の取得率」で、公表前事業年度の終了後おおむね3か月以内に、インターネットなどで公表しなければなりません。 ※育児休業等とは、育児・介護休業法に規定する以下の休業のことです。 ・育児休業(産後パパ育休を含む) ・法第23条第2項(3歳未満の子を育てる労働者について所定労働時間の短縮措置を講じない場合の代替措置義務)又は第24条第1項(小学校就学前の子を育てる労働者に関する努力義務)の規定に基づく措置として育児休業に関する制度に準ずる措置を講じた場合は、その措置に基づく休業
現行制度では、常時雇用する労働者が何人を超える企業に対し、男性労働者の育休取得状況などを年1回公表することが義務化されていますか。
現行制度では、常時雇用する労働者が1,000人を超える企業に対し、男性労働者の育休取得状況などを年1回公表することが義務化されています。
JCRRAG_012111
法律
3. 【介護関係】環境整備や制度周知で離職を防止 介護関係の主な改正内容としては、介護を支援するための環境整備や制度の周知など、介護離職の防止に向けた取り組みが義務化されます。また、介護休暇を取得できる要件の緩和なども実施されます。 3-1. 介護休暇を取得できる要件の緩和 介護休暇は、要介護状態にある家族を介護する際に認められる休暇で、年5日(対象家族が2人以上の場合は年10日)まで取得できます。 事業主は労使協定の締結により、一部の労働者を休暇取得の対象外とすることができます。2025年4月からは、介護休暇の対象外にできる範囲が次のように縮小されます(同法第16条の6)。 継続雇用期間6か月未満の労働者 週の所定労働日数が2日以下の労働者 ▼ 週の所定労働日数が2日以下の労働者のみ ※継続雇用期間6か月未満の労働者を除外することはできない 継続雇用期間6か月未満の労働者も休暇取得の対象となるため、入社したばかりでも介護休暇を取得できるようになります。 3-2. 介護離職防止のための雇用環境整備 介護離職を防止する観点から、介護休業や介護両立支援制度などの申し出が円滑に行われるようにするための環境整備が、事業主に義務付けられます。具体的には、次のいずれかを実施しなければなりません(同法第22条の2項から4項)。 介護休業・介護両立支援制度などに関する研修の実施 介護休業・介護両立支援制度などに関する相談体制の整備(相談窓口設置) 自社の労働者の介護休業取得・介護両立支援制度などの利用事例の収集・提供 自社の労働者へ介護休業・介護両立支援制度などの利用促進に関する方針の周知 なお、介護両立支援制度には、次のような制度や措置が含まれます。 介護休暇に関する制度 所定外労働の制限に関する制度 時間外労働の制限に関する制度 深夜業の制限に関する制度 介護のための所定労働時間の短縮などの措置 3-3. 介護離職防止に向けた個別の周知と意向確認 介護に直面した旨を申し出た労働者に対し、介護休業制度などに関する次の事項の周知と、介護休業の取得や介護両立支援制度などの利用に関する意向確認を、個別に行うことが事業主に義務付けられます(同法第21条2項)。 介護休業に関する制度、介護両立支援制度などの内容 介護休業・介護両立支援制度等の申出先(人事部など) 介護休業給付金に関する事項 個別の周知や意向確認の方法は、面談(オンライン面談)か書面交付、FAX、電子メールのいずれかで、FAXと電子メールは労働者が希望した場合に認められます。 また、介護休業や介護両立支援制度などへの理解と関心を深めるため、労働者が介護に直面する前の早い段階で情報提供することも義務付けられます(同法第21条3項)。 情報提供が必要な期間は、「労働者が40歳に達する日(誕生日前日)の属する年度(1年間)」、または「労働者が40歳に達する日の翌日(誕生日)から1年間」のいずれかです。 情報提供する内容や方法は、介護に直面した旨を申し出た労働者に対する周知・意向確認の内容や方法と同じです。 3-4. 介護のためのテレワーク導入(努力義務) 要介護状態にある家族を介護しており、介護休業を取得していない労働者がテレワークを選択できるよう、必要な措置を講じる努力義務が企業に課されます(改正法第24条4項)。 育児のためのテレワーク導入と同様、あくまでも努力義務ですが、介護と仕事の両立を実現できるよう、積極的な対応が求められます。 4. 改正法の施行で求められる企業の対応 改正育児・介護休業法の施行により、育児・介護の支援に関する制度の充実化が進むため、企業側のより積極的な対応が求められます。 法律で義務付けられた事項に正しく対応しなければ、厚生労働大臣から勧告を受け、勧告の内容にも従わない場合は企業名が公表される可能性があります(同法第56条、同条の2)。 企業名が公表されると、育児・介護と仕事の両立に非協力的な企業だと認識されてしまい、社会的に大きなダメージを受けることになるでしょう。そのため、法改正の内容を正しく理解し、適切に対応することが必要です。 4-1. 労使協定や就業規則の見直しと周知 2025年4月から、子の看護休暇や残業免除の対象拡大、介護休暇の要件緩和など、休暇や労働時間に関するルールが変更されます。労使協定の締結や就業規則の規定にかかわる事項も多く含まれるため、必要に応じて内容を見直さなければなりません。 見直しを行なった場合は、社内への周知などを迅速に行うようにしましょう。 4-2. 休暇の増加に対応できる人員確保 子の看護休暇や介護休暇の要件緩和により、休暇の取得者が増加することも考えられます。 休暇の増加に伴い業務のしわ寄せが生じ、その結果、休みにくい雰囲気になってしまえば、休暇を取得しやすくなっても職場への不満に繋がるかもしれません。そのため、育児や介護をすることになっても、安心して休暇を取得できる人員の確保が求められます。 4-3. 研修実施や窓口設置への対応 特に介護関係の改正では、介護離職を防止する観点から、研修の実施や相談窓口の設置、制度の周知と意向確認など、幅広い対応が必要となります。
介護関係の主な改正内容では、どのような取り組みが義務化されますか。
介護関係の主な改正内容では、介護を支援するための環境整備や制度の周知など、介護離職の防止に向けた取り組みが義務化されます。
JCRRAG_012112
法律
3. 【介護関係】環境整備や制度周知で離職を防止 介護関係の主な改正内容としては、介護を支援するための環境整備や制度の周知など、介護離職の防止に向けた取り組みが義務化されます。また、介護休暇を取得できる要件の緩和なども実施されます。 3-1. 介護休暇を取得できる要件の緩和 介護休暇は、要介護状態にある家族を介護する際に認められる休暇で、年5日(対象家族が2人以上の場合は年10日)まで取得できます。 事業主は労使協定の締結により、一部の労働者を休暇取得の対象外とすることができます。2025年4月からは、介護休暇の対象外にできる範囲が次のように縮小されます(同法第16条の6)。 継続雇用期間6か月未満の労働者 週の所定労働日数が2日以下の労働者 ▼ 週の所定労働日数が2日以下の労働者のみ ※継続雇用期間6か月未満の労働者を除外することはできない 継続雇用期間6か月未満の労働者も休暇取得の対象となるため、入社したばかりでも介護休暇を取得できるようになります。 3-2. 介護離職防止のための雇用環境整備 介護離職を防止する観点から、介護休業や介護両立支援制度などの申し出が円滑に行われるようにするための環境整備が、事業主に義務付けられます。具体的には、次のいずれかを実施しなければなりません(同法第22条の2項から4項)。 介護休業・介護両立支援制度などに関する研修の実施 介護休業・介護両立支援制度などに関する相談体制の整備(相談窓口設置) 自社の労働者の介護休業取得・介護両立支援制度などの利用事例の収集・提供 自社の労働者へ介護休業・介護両立支援制度などの利用促進に関する方針の周知 なお、介護両立支援制度には、次のような制度や措置が含まれます。 介護休暇に関する制度 所定外労働の制限に関する制度 時間外労働の制限に関する制度 深夜業の制限に関する制度 介護のための所定労働時間の短縮などの措置 3-3. 介護離職防止に向けた個別の周知と意向確認 介護に直面した旨を申し出た労働者に対し、介護休業制度などに関する次の事項の周知と、介護休業の取得や介護両立支援制度などの利用に関する意向確認を、個別に行うことが事業主に義務付けられます(同法第21条2項)。 介護休業に関する制度、介護両立支援制度などの内容 介護休業・介護両立支援制度等の申出先(人事部など) 介護休業給付金に関する事項 個別の周知や意向確認の方法は、面談(オンライン面談)か書面交付、FAX、電子メールのいずれかで、FAXと電子メールは労働者が希望した場合に認められます。 また、介護休業や介護両立支援制度などへの理解と関心を深めるため、労働者が介護に直面する前の早い段階で情報提供することも義務付けられます(同法第21条3項)。 情報提供が必要な期間は、「労働者が40歳に達する日(誕生日前日)の属する年度(1年間)」、または「労働者が40歳に達する日の翌日(誕生日)から1年間」のいずれかです。 情報提供する内容や方法は、介護に直面した旨を申し出た労働者に対する周知・意向確認の内容や方法と同じです。 3-4. 介護のためのテレワーク導入(努力義務) 要介護状態にある家族を介護しており、介護休業を取得していない労働者がテレワークを選択できるよう、必要な措置を講じる努力義務が企業に課されます(改正法第24条4項)。 育児のためのテレワーク導入と同様、あくまでも努力義務ですが、介護と仕事の両立を実現できるよう、積極的な対応が求められます。 4. 改正法の施行で求められる企業の対応 改正育児・介護休業法の施行により、育児・介護の支援に関する制度の充実化が進むため、企業側のより積極的な対応が求められます。 法律で義務付けられた事項に正しく対応しなければ、厚生労働大臣から勧告を受け、勧告の内容にも従わない場合は企業名が公表される可能性があります(同法第56条、同条の2)。 企業名が公表されると、育児・介護と仕事の両立に非協力的な企業だと認識されてしまい、社会的に大きなダメージを受けることになるでしょう。そのため、法改正の内容を正しく理解し、適切に対応することが必要です。 4-1. 労使協定や就業規則の見直しと周知 2025年4月から、子の看護休暇や残業免除の対象拡大、介護休暇の要件緩和など、休暇や労働時間に関するルールが変更されます。労使協定の締結や就業規則の規定にかかわる事項も多く含まれるため、必要に応じて内容を見直さなければなりません。 見直しを行なった場合は、社内への周知などを迅速に行うようにしましょう。 4-2. 休暇の増加に対応できる人員確保 子の看護休暇や介護休暇の要件緩和により、休暇の取得者が増加することも考えられます。 休暇の増加に伴い業務のしわ寄せが生じ、その結果、休みにくい雰囲気になってしまえば、休暇を取得しやすくなっても職場への不満に繋がるかもしれません。そのため、育児や介護をすることになっても、安心して休暇を取得できる人員の確保が求められます。 4-3. 研修実施や窓口設置への対応 特に介護関係の改正では、介護離職を防止する観点から、研修の実施や相談窓口の設置、制度の周知と意向確認など、幅広い対応が必要となります。
介護休暇は、年何日まで取得できますか。
介護休暇は、要介護状態にある家族を介護する際に認められる休暇で、年5日(対象家族が2人以上の場合は年10日)まで取得できます。
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法律
3. 【介護関係】環境整備や制度周知で離職を防止 介護関係の主な改正内容としては、介護を支援するための環境整備や制度の周知など、介護離職の防止に向けた取り組みが義務化されます。また、介護休暇を取得できる要件の緩和なども実施されます。 3-1. 介護休暇を取得できる要件の緩和 介護休暇は、要介護状態にある家族を介護する際に認められる休暇で、年5日(対象家族が2人以上の場合は年10日)まで取得できます。 事業主は労使協定の締結により、一部の労働者を休暇取得の対象外とすることができます。2025年4月からは、介護休暇の対象外にできる範囲が次のように縮小されます(同法第16条の6)。 継続雇用期間6か月未満の労働者 週の所定労働日数が2日以下の労働者 ▼ 週の所定労働日数が2日以下の労働者のみ ※継続雇用期間6か月未満の労働者を除外することはできない 継続雇用期間6か月未満の労働者も休暇取得の対象となるため、入社したばかりでも介護休暇を取得できるようになります。 3-2. 介護離職防止のための雇用環境整備 介護離職を防止する観点から、介護休業や介護両立支援制度などの申し出が円滑に行われるようにするための環境整備が、事業主に義務付けられます。具体的には、次のいずれかを実施しなければなりません(同法第22条の2項から4項)。 介護休業・介護両立支援制度などに関する研修の実施 介護休業・介護両立支援制度などに関する相談体制の整備(相談窓口設置) 自社の労働者の介護休業取得・介護両立支援制度などの利用事例の収集・提供 自社の労働者へ介護休業・介護両立支援制度などの利用促進に関する方針の周知 なお、介護両立支援制度には、次のような制度や措置が含まれます。 介護休暇に関する制度 所定外労働の制限に関する制度 時間外労働の制限に関する制度 深夜業の制限に関する制度 介護のための所定労働時間の短縮などの措置 3-3. 介護離職防止に向けた個別の周知と意向確認 介護に直面した旨を申し出た労働者に対し、介護休業制度などに関する次の事項の周知と、介護休業の取得や介護両立支援制度などの利用に関する意向確認を、個別に行うことが事業主に義務付けられます(同法第21条2項)。 介護休業に関する制度、介護両立支援制度などの内容 介護休業・介護両立支援制度等の申出先(人事部など) 介護休業給付金に関する事項 個別の周知や意向確認の方法は、面談(オンライン面談)か書面交付、FAX、電子メールのいずれかで、FAXと電子メールは労働者が希望した場合に認められます。 また、介護休業や介護両立支援制度などへの理解と関心を深めるため、労働者が介護に直面する前の早い段階で情報提供することも義務付けられます(同法第21条3項)。 情報提供が必要な期間は、「労働者が40歳に達する日(誕生日前日)の属する年度(1年間)」、または「労働者が40歳に達する日の翌日(誕生日)から1年間」のいずれかです。 情報提供する内容や方法は、介護に直面した旨を申し出た労働者に対する周知・意向確認の内容や方法と同じです。 3-4. 介護のためのテレワーク導入(努力義務) 要介護状態にある家族を介護しており、介護休業を取得していない労働者がテレワークを選択できるよう、必要な措置を講じる努力義務が企業に課されます(改正法第24条4項)。 育児のためのテレワーク導入と同様、あくまでも努力義務ですが、介護と仕事の両立を実現できるよう、積極的な対応が求められます。 4. 改正法の施行で求められる企業の対応 改正育児・介護休業法の施行により、育児・介護の支援に関する制度の充実化が進むため、企業側のより積極的な対応が求められます。 法律で義務付けられた事項に正しく対応しなければ、厚生労働大臣から勧告を受け、勧告の内容にも従わない場合は企業名が公表される可能性があります(同法第56条、同条の2)。 企業名が公表されると、育児・介護と仕事の両立に非協力的な企業だと認識されてしまい、社会的に大きなダメージを受けることになるでしょう。そのため、法改正の内容を正しく理解し、適切に対応することが必要です。 4-1. 労使協定や就業規則の見直しと周知 2025年4月から、子の看護休暇や残業免除の対象拡大、介護休暇の要件緩和など、休暇や労働時間に関するルールが変更されます。労使協定の締結や就業規則の規定にかかわる事項も多く含まれるため、必要に応じて内容を見直さなければなりません。 見直しを行なった場合は、社内への周知などを迅速に行うようにしましょう。 4-2. 休暇の増加に対応できる人員確保 子の看護休暇や介護休暇の要件緩和により、休暇の取得者が増加することも考えられます。 休暇の増加に伴い業務のしわ寄せが生じ、その結果、休みにくい雰囲気になってしまえば、休暇を取得しやすくなっても職場への不満に繋がるかもしれません。そのため、育児や介護をすることになっても、安心して休暇を取得できる人員の確保が求められます。 4-3. 研修実施や窓口設置への対応 特に介護関係の改正では、介護離職を防止する観点から、研修の実施や相談窓口の設置、制度の周知と意向確認など、幅広い対応が必要となります。
介護離職を防止する観点から、どのようなことが事業主に義務付けられますか。
介護離職を防止する観点から、介護休業や介護両立支援制度などの申し出が円滑に行われるようにするための環境整備が、事業主に義務付けられます。
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法律
3. 【介護関係】環境整備や制度周知で離職を防止 介護関係の主な改正内容としては、介護を支援するための環境整備や制度の周知など、介護離職の防止に向けた取り組みが義務化されます。また、介護休暇を取得できる要件の緩和なども実施されます。 3-1. 介護休暇を取得できる要件の緩和 介護休暇は、要介護状態にある家族を介護する際に認められる休暇で、年5日(対象家族が2人以上の場合は年10日)まで取得できます。 事業主は労使協定の締結により、一部の労働者を休暇取得の対象外とすることができます。2025年4月からは、介護休暇の対象外にできる範囲が次のように縮小されます(同法第16条の6)。 継続雇用期間6か月未満の労働者 週の所定労働日数が2日以下の労働者 ▼ 週の所定労働日数が2日以下の労働者のみ ※継続雇用期間6か月未満の労働者を除外することはできない 継続雇用期間6か月未満の労働者も休暇取得の対象となるため、入社したばかりでも介護休暇を取得できるようになります。 3-2. 介護離職防止のための雇用環境整備 介護離職を防止する観点から、介護休業や介護両立支援制度などの申し出が円滑に行われるようにするための環境整備が、事業主に義務付けられます。具体的には、次のいずれかを実施しなければなりません(同法第22条の2項から4項)。 介護休業・介護両立支援制度などに関する研修の実施 介護休業・介護両立支援制度などに関する相談体制の整備(相談窓口設置) 自社の労働者の介護休業取得・介護両立支援制度などの利用事例の収集・提供 自社の労働者へ介護休業・介護両立支援制度などの利用促進に関する方針の周知 なお、介護両立支援制度には、次のような制度や措置が含まれます。 介護休暇に関する制度 所定外労働の制限に関する制度 時間外労働の制限に関する制度 深夜業の制限に関する制度 介護のための所定労働時間の短縮などの措置 3-3. 介護離職防止に向けた個別の周知と意向確認 介護に直面した旨を申し出た労働者に対し、介護休業制度などに関する次の事項の周知と、介護休業の取得や介護両立支援制度などの利用に関する意向確認を、個別に行うことが事業主に義務付けられます(同法第21条2項)。 介護休業に関する制度、介護両立支援制度などの内容 介護休業・介護両立支援制度等の申出先(人事部など) 介護休業給付金に関する事項 個別の周知や意向確認の方法は、面談(オンライン面談)か書面交付、FAX、電子メールのいずれかで、FAXと電子メールは労働者が希望した場合に認められます。 また、介護休業や介護両立支援制度などへの理解と関心を深めるため、労働者が介護に直面する前の早い段階で情報提供することも義務付けられます(同法第21条3項)。 情報提供が必要な期間は、「労働者が40歳に達する日(誕生日前日)の属する年度(1年間)」、または「労働者が40歳に達する日の翌日(誕生日)から1年間」のいずれかです。 情報提供する内容や方法は、介護に直面した旨を申し出た労働者に対する周知・意向確認の内容や方法と同じです。 3-4. 介護のためのテレワーク導入(努力義務) 要介護状態にある家族を介護しており、介護休業を取得していない労働者がテレワークを選択できるよう、必要な措置を講じる努力義務が企業に課されます(改正法第24条4項)。 育児のためのテレワーク導入と同様、あくまでも努力義務ですが、介護と仕事の両立を実現できるよう、積極的な対応が求められます。 4. 改正法の施行で求められる企業の対応 改正育児・介護休業法の施行により、育児・介護の支援に関する制度の充実化が進むため、企業側のより積極的な対応が求められます。 法律で義務付けられた事項に正しく対応しなければ、厚生労働大臣から勧告を受け、勧告の内容にも従わない場合は企業名が公表される可能性があります(同法第56条、同条の2)。 企業名が公表されると、育児・介護と仕事の両立に非協力的な企業だと認識されてしまい、社会的に大きなダメージを受けることになるでしょう。そのため、法改正の内容を正しく理解し、適切に対応することが必要です。 4-1. 労使協定や就業規則の見直しと周知 2025年4月から、子の看護休暇や残業免除の対象拡大、介護休暇の要件緩和など、休暇や労働時間に関するルールが変更されます。労使協定の締結や就業規則の規定にかかわる事項も多く含まれるため、必要に応じて内容を見直さなければなりません。 見直しを行なった場合は、社内への周知などを迅速に行うようにしましょう。 4-2. 休暇の増加に対応できる人員確保 子の看護休暇や介護休暇の要件緩和により、休暇の取得者が増加することも考えられます。 休暇の増加に伴い業務のしわ寄せが生じ、その結果、休みにくい雰囲気になってしまえば、休暇を取得しやすくなっても職場への不満に繋がるかもしれません。そのため、育児や介護をすることになっても、安心して休暇を取得できる人員の確保が求められます。 4-3. 研修実施や窓口設置への対応 特に介護関係の改正では、介護離職を防止する観点から、研修の実施や相談窓口の設置、制度の周知と意向確認など、幅広い対応が必要となります。
介護に直面した旨を申し出た労働者に対し、どのようなことを個別に行うことが事業主に義務付けられますか。
介護に直面した旨を申し出た労働者に対し、介護休業制度などに関する次の事項の周知と、介護休業の取得や介護両立支援制度などの利用に関する意向確認を、個別に行うことが事業主に義務付けられます(同法第21条2項)。
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3. 【介護関係】環境整備や制度周知で離職を防止 介護関係の主な改正内容としては、介護を支援するための環境整備や制度の周知など、介護離職の防止に向けた取り組みが義務化されます。また、介護休暇を取得できる要件の緩和なども実施されます。 3-1. 介護休暇を取得できる要件の緩和 介護休暇は、要介護状態にある家族を介護する際に認められる休暇で、年5日(対象家族が2人以上の場合は年10日)まで取得できます。 事業主は労使協定の締結により、一部の労働者を休暇取得の対象外とすることができます。2025年4月からは、介護休暇の対象外にできる範囲が次のように縮小されます(同法第16条の6)。 継続雇用期間6か月未満の労働者 週の所定労働日数が2日以下の労働者 ▼ 週の所定労働日数が2日以下の労働者のみ ※継続雇用期間6か月未満の労働者を除外することはできない 継続雇用期間6か月未満の労働者も休暇取得の対象となるため、入社したばかりでも介護休暇を取得できるようになります。 3-2. 介護離職防止のための雇用環境整備 介護離職を防止する観点から、介護休業や介護両立支援制度などの申し出が円滑に行われるようにするための環境整備が、事業主に義務付けられます。具体的には、次のいずれかを実施しなければなりません(同法第22条の2項から4項)。 介護休業・介護両立支援制度などに関する研修の実施 介護休業・介護両立支援制度などに関する相談体制の整備(相談窓口設置) 自社の労働者の介護休業取得・介護両立支援制度などの利用事例の収集・提供 自社の労働者へ介護休業・介護両立支援制度などの利用促進に関する方針の周知 なお、介護両立支援制度には、次のような制度や措置が含まれます。 介護休暇に関する制度 所定外労働の制限に関する制度 時間外労働の制限に関する制度 深夜業の制限に関する制度 介護のための所定労働時間の短縮などの措置 3-3. 介護離職防止に向けた個別の周知と意向確認 介護に直面した旨を申し出た労働者に対し、介護休業制度などに関する次の事項の周知と、介護休業の取得や介護両立支援制度などの利用に関する意向確認を、個別に行うことが事業主に義務付けられます(同法第21条2項)。 介護休業に関する制度、介護両立支援制度などの内容 介護休業・介護両立支援制度等の申出先(人事部など) 介護休業給付金に関する事項 個別の周知や意向確認の方法は、面談(オンライン面談)か書面交付、FAX、電子メールのいずれかで、FAXと電子メールは労働者が希望した場合に認められます。 また、介護休業や介護両立支援制度などへの理解と関心を深めるため、労働者が介護に直面する前の早い段階で情報提供することも義務付けられます(同法第21条3項)。 情報提供が必要な期間は、「労働者が40歳に達する日(誕生日前日)の属する年度(1年間)」、または「労働者が40歳に達する日の翌日(誕生日)から1年間」のいずれかです。 情報提供する内容や方法は、介護に直面した旨を申し出た労働者に対する周知・意向確認の内容や方法と同じです。 3-4. 介護のためのテレワーク導入(努力義務) 要介護状態にある家族を介護しており、介護休業を取得していない労働者がテレワークを選択できるよう、必要な措置を講じる努力義務が企業に課されます(改正法第24条4項)。 育児のためのテレワーク導入と同様、あくまでも努力義務ですが、介護と仕事の両立を実現できるよう、積極的な対応が求められます。 4. 改正法の施行で求められる企業の対応 改正育児・介護休業法の施行により、育児・介護の支援に関する制度の充実化が進むため、企業側のより積極的な対応が求められます。 法律で義務付けられた事項に正しく対応しなければ、厚生労働大臣から勧告を受け、勧告の内容にも従わない場合は企業名が公表される可能性があります(同法第56条、同条の2)。 企業名が公表されると、育児・介護と仕事の両立に非協力的な企業だと認識されてしまい、社会的に大きなダメージを受けることになるでしょう。そのため、法改正の内容を正しく理解し、適切に対応することが必要です。 4-1. 労使協定や就業規則の見直しと周知 2025年4月から、子の看護休暇や残業免除の対象拡大、介護休暇の要件緩和など、休暇や労働時間に関するルールが変更されます。労使協定の締結や就業規則の規定にかかわる事項も多く含まれるため、必要に応じて内容を見直さなければなりません。 見直しを行なった場合は、社内への周知などを迅速に行うようにしましょう。 4-2. 休暇の増加に対応できる人員確保 子の看護休暇や介護休暇の要件緩和により、休暇の取得者が増加することも考えられます。 休暇の増加に伴い業務のしわ寄せが生じ、その結果、休みにくい雰囲気になってしまえば、休暇を取得しやすくなっても職場への不満に繋がるかもしれません。そのため、育児や介護をすることになっても、安心して休暇を取得できる人員の確保が求められます。 4-3. 研修実施や窓口設置への対応 特に介護関係の改正では、介護離職を防止する観点から、研修の実施や相談窓口の設置、制度の周知と意向確認など、幅広い対応が必要となります。
法律で義務付けられた事項に正しく対応しなければ、厚生労働大臣から勧告を受け、勧告の内容にも従わない場合はどのような処置を受ける可能性がありますか。
法律で義務付けられた事項に正しく対応しなければ、厚生労働大臣から勧告を受け、勧告の内容にも従わない場合は企業名が公表される可能性があります(同法第56条、同条の2)。
JCRRAG_012116
法律
就職祝い金とは、就職や転職が決まった人へのお祝いとして、転職エージェントや求人サイトの運営会社などが提供する金銭のことです。金銭だけでなく、ギフト券やポイントカードのポイントの提供、資格取得や研修受講にかかる費用のキャッシュバックなどが行われるケースもあります。 1-1. 祝い金が活用されてきた背景 転職エージェントなどの職業紹介事業者は、人材を募集している企業に求職者を紹介し、採用が決まれば年収に応じた紹介手数料を受け取るのが一般的なビジネスモデルです。つまり、職業紹介事業者にとって、より多くの求職者がサービスに登録し、採用が決まれば決まるほど、収益の増加に繋がります。 そのため、サービスへの登録を促す目的で、職業紹介事業者を中心に祝い金が活用されてきたのです。しかし、祝い金の弊害が指摘されるようになり、提供の禁止に向けた規制が徐々に強化、拡大されていきました。 1-2. 祝い金の問題点と提供禁止の動き 就職や転職に際し、就職祝い金を受け取ることができるのは、求職者にとって大きな魅力です。祝い金が支払われるかどうかを基準に、転職エージェントなどの職業紹介事業者を選ぶ人もいるでしょう。 しかし、高額な祝い金が支払われることを理由に職業紹介事業者を選んだものの、肝心の職業紹介サービスの質が低いため、自身にマッチした企業への就職や転職に失敗してしまうケースがあります。 そこで、政府は職業紹介事業者に対し、祝い金の提供ではなく、サービスの質の向上をPRすることで求職の申込みを勧奨するべきなどと指摘。祝い金の提供の禁止などを目的に「職業安定法に基づく指針」を改正し、2021年4月に施行しました。 2. 【2021年4月~】転職エージェントなどの祝い金提供が原則禁止に 指針の改正により2021年4月から、転職エージェントなどの職業紹介事業者について、就職祝い金など金銭を提供することが原則禁止となりました。 ほかにも、自らの紹介で就職した無期雇用契約者に対し、就職した日から2年間は転職を勧奨することができなくなりました。 職業紹介事業者が企業から手数料を繰り返し得るため、自ら紹介した就職者に対して「転職すれば就職祝い金を提供する」などと持ちかけ、退職を勧奨するという事例があるためです。 手数料収入を得るための退職勧奨について、政府が「労働市場における需給調整機能を歪め、労働者の雇用の安定を阻害する」と問題視し、求職者の早期離職を避ける観点から、祝い金の提供とともに原則禁止となりました。
就職祝い金とは、どのようなものですか。
就職祝い金とは、就職や転職が決まった人へのお祝いとして、転職エージェントや求人サイトの運営会社などが提供する金銭のことです。
JCRRAG_012117
法律
就職祝い金とは、就職や転職が決まった人へのお祝いとして、転職エージェントや求人サイトの運営会社などが提供する金銭のことです。金銭だけでなく、ギフト券やポイントカードのポイントの提供、資格取得や研修受講にかかる費用のキャッシュバックなどが行われるケースもあります。 1-1. 祝い金が活用されてきた背景 転職エージェントなどの職業紹介事業者は、人材を募集している企業に求職者を紹介し、採用が決まれば年収に応じた紹介手数料を受け取るのが一般的なビジネスモデルです。つまり、職業紹介事業者にとって、より多くの求職者がサービスに登録し、採用が決まれば決まるほど、収益の増加に繋がります。 そのため、サービスへの登録を促す目的で、職業紹介事業者を中心に祝い金が活用されてきたのです。しかし、祝い金の弊害が指摘されるようになり、提供の禁止に向けた規制が徐々に強化、拡大されていきました。 1-2. 祝い金の問題点と提供禁止の動き 就職や転職に際し、就職祝い金を受け取ることができるのは、求職者にとって大きな魅力です。祝い金が支払われるかどうかを基準に、転職エージェントなどの職業紹介事業者を選ぶ人もいるでしょう。 しかし、高額な祝い金が支払われることを理由に職業紹介事業者を選んだものの、肝心の職業紹介サービスの質が低いため、自身にマッチした企業への就職や転職に失敗してしまうケースがあります。 そこで、政府は職業紹介事業者に対し、祝い金の提供ではなく、サービスの質の向上をPRすることで求職の申込みを勧奨するべきなどと指摘。祝い金の提供の禁止などを目的に「職業安定法に基づく指針」を改正し、2021年4月に施行しました。 2. 【2021年4月~】転職エージェントなどの祝い金提供が原則禁止に 指針の改正により2021年4月から、転職エージェントなどの職業紹介事業者について、就職祝い金など金銭を提供することが原則禁止となりました。 ほかにも、自らの紹介で就職した無期雇用契約者に対し、就職した日から2年間は転職を勧奨することができなくなりました。 職業紹介事業者が企業から手数料を繰り返し得るため、自ら紹介した就職者に対して「転職すれば就職祝い金を提供する」などと持ちかけ、退職を勧奨するという事例があるためです。 手数料収入を得るための退職勧奨について、政府が「労働市場における需給調整機能を歪め、労働者の雇用の安定を阻害する」と問題視し、求職者の早期離職を避ける観点から、祝い金の提供とともに原則禁止となりました。
金銭以外には、どのようなサービスを受けられるケースがありますか。
金銭以外には、ギフト券やポイントカードのポイントの提供、資格取得や研修受講にかかる費用のキャッシュバックなどが行われるケースもあります。
JCRRAG_012118
法律
就職祝い金とは、就職や転職が決まった人へのお祝いとして、転職エージェントや求人サイトの運営会社などが提供する金銭のことです。金銭だけでなく、ギフト券やポイントカードのポイントの提供、資格取得や研修受講にかかる費用のキャッシュバックなどが行われるケースもあります。 1-1. 祝い金が活用されてきた背景 転職エージェントなどの職業紹介事業者は、人材を募集している企業に求職者を紹介し、採用が決まれば年収に応じた紹介手数料を受け取るのが一般的なビジネスモデルです。つまり、職業紹介事業者にとって、より多くの求職者がサービスに登録し、採用が決まれば決まるほど、収益の増加に繋がります。 そのため、サービスへの登録を促す目的で、職業紹介事業者を中心に祝い金が活用されてきたのです。しかし、祝い金の弊害が指摘されるようになり、提供の禁止に向けた規制が徐々に強化、拡大されていきました。 1-2. 祝い金の問題点と提供禁止の動き 就職や転職に際し、就職祝い金を受け取ることができるのは、求職者にとって大きな魅力です。祝い金が支払われるかどうかを基準に、転職エージェントなどの職業紹介事業者を選ぶ人もいるでしょう。 しかし、高額な祝い金が支払われることを理由に職業紹介事業者を選んだものの、肝心の職業紹介サービスの質が低いため、自身にマッチした企業への就職や転職に失敗してしまうケースがあります。 そこで、政府は職業紹介事業者に対し、祝い金の提供ではなく、サービスの質の向上をPRすることで求職の申込みを勧奨するべきなどと指摘。祝い金の提供の禁止などを目的に「職業安定法に基づく指針」を改正し、2021年4月に施行しました。 2. 【2021年4月~】転職エージェントなどの祝い金提供が原則禁止に 指針の改正により2021年4月から、転職エージェントなどの職業紹介事業者について、就職祝い金など金銭を提供することが原則禁止となりました。 ほかにも、自らの紹介で就職した無期雇用契約者に対し、就職した日から2年間は転職を勧奨することができなくなりました。 職業紹介事業者が企業から手数料を繰り返し得るため、自ら紹介した就職者に対して「転職すれば就職祝い金を提供する」などと持ちかけ、退職を勧奨するという事例があるためです。 手数料収入を得るための退職勧奨について、政府が「労働市場における需給調整機能を歪め、労働者の雇用の安定を阻害する」と問題視し、求職者の早期離職を避ける観点から、祝い金の提供とともに原則禁止となりました。
転職エージェントなどの職業紹介事業者は、どのようなビジネスモデルですか。
転職エージェントなどの職業紹介事業者は、人材を募集している企業に求職者を紹介し、採用が決まれば年収に応じた紹介手数料を受け取るのが一般的なビジネスモデルです。
JCRRAG_012119
法律
就職祝い金とは、就職や転職が決まった人へのお祝いとして、転職エージェントや求人サイトの運営会社などが提供する金銭のことです。金銭だけでなく、ギフト券やポイントカードのポイントの提供、資格取得や研修受講にかかる費用のキャッシュバックなどが行われるケースもあります。 1-1. 祝い金が活用されてきた背景 転職エージェントなどの職業紹介事業者は、人材を募集している企業に求職者を紹介し、採用が決まれば年収に応じた紹介手数料を受け取るのが一般的なビジネスモデルです。つまり、職業紹介事業者にとって、より多くの求職者がサービスに登録し、採用が決まれば決まるほど、収益の増加に繋がります。 そのため、サービスへの登録を促す目的で、職業紹介事業者を中心に祝い金が活用されてきたのです。しかし、祝い金の弊害が指摘されるようになり、提供の禁止に向けた規制が徐々に強化、拡大されていきました。 1-2. 祝い金の問題点と提供禁止の動き 就職や転職に際し、就職祝い金を受け取ることができるのは、求職者にとって大きな魅力です。祝い金が支払われるかどうかを基準に、転職エージェントなどの職業紹介事業者を選ぶ人もいるでしょう。 しかし、高額な祝い金が支払われることを理由に職業紹介事業者を選んだものの、肝心の職業紹介サービスの質が低いため、自身にマッチした企業への就職や転職に失敗してしまうケースがあります。 そこで、政府は職業紹介事業者に対し、祝い金の提供ではなく、サービスの質の向上をPRすることで求職の申込みを勧奨するべきなどと指摘。祝い金の提供の禁止などを目的に「職業安定法に基づく指針」を改正し、2021年4月に施行しました。 2. 【2021年4月~】転職エージェントなどの祝い金提供が原則禁止に 指針の改正により2021年4月から、転職エージェントなどの職業紹介事業者について、就職祝い金など金銭を提供することが原則禁止となりました。 ほかにも、自らの紹介で就職した無期雇用契約者に対し、就職した日から2年間は転職を勧奨することができなくなりました。 職業紹介事業者が企業から手数料を繰り返し得るため、自ら紹介した就職者に対して「転職すれば就職祝い金を提供する」などと持ちかけ、退職を勧奨するという事例があるためです。 手数料収入を得るための退職勧奨について、政府が「労働市場における需給調整機能を歪め、労働者の雇用の安定を阻害する」と問題視し、求職者の早期離職を避ける観点から、祝い金の提供とともに原則禁止となりました。
指針の改正により2021年4月から、転職エージェントなどの職業紹介事業者について、原則禁止となったことはなんですか?
指針の改正により2021年4月から、転職エージェントなどの職業紹介事業者について、就職祝い金など金銭を提供することが原則禁止となりました。
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就職祝い金とは、就職や転職が決まった人へのお祝いとして、転職エージェントや求人サイトの運営会社などが提供する金銭のことです。金銭だけでなく、ギフト券やポイントカードのポイントの提供、資格取得や研修受講にかかる費用のキャッシュバックなどが行われるケースもあります。 1-1. 祝い金が活用されてきた背景 転職エージェントなどの職業紹介事業者は、人材を募集している企業に求職者を紹介し、採用が決まれば年収に応じた紹介手数料を受け取るのが一般的なビジネスモデルです。つまり、職業紹介事業者にとって、より多くの求職者がサービスに登録し、採用が決まれば決まるほど、収益の増加に繋がります。 そのため、サービスへの登録を促す目的で、職業紹介事業者を中心に祝い金が活用されてきたのです。しかし、祝い金の弊害が指摘されるようになり、提供の禁止に向けた規制が徐々に強化、拡大されていきました。 1-2. 祝い金の問題点と提供禁止の動き 就職や転職に際し、就職祝い金を受け取ることができるのは、求職者にとって大きな魅力です。祝い金が支払われるかどうかを基準に、転職エージェントなどの職業紹介事業者を選ぶ人もいるでしょう。 しかし、高額な祝い金が支払われることを理由に職業紹介事業者を選んだものの、肝心の職業紹介サービスの質が低いため、自身にマッチした企業への就職や転職に失敗してしまうケースがあります。 そこで、政府は職業紹介事業者に対し、祝い金の提供ではなく、サービスの質の向上をPRすることで求職の申込みを勧奨するべきなどと指摘。祝い金の提供の禁止などを目的に「職業安定法に基づく指針」を改正し、2021年4月に施行しました。 2. 【2021年4月~】転職エージェントなどの祝い金提供が原則禁止に 指針の改正により2021年4月から、転職エージェントなどの職業紹介事業者について、就職祝い金など金銭を提供することが原則禁止となりました。 ほかにも、自らの紹介で就職した無期雇用契約者に対し、就職した日から2年間は転職を勧奨することができなくなりました。 職業紹介事業者が企業から手数料を繰り返し得るため、自ら紹介した就職者に対して「転職すれば就職祝い金を提供する」などと持ちかけ、退職を勧奨するという事例があるためです。 手数料収入を得るための退職勧奨について、政府が「労働市場における需給調整機能を歪め、労働者の雇用の安定を阻害する」と問題視し、求職者の早期離職を避ける観点から、祝い金の提供とともに原則禁止となりました。
手数料収入を得るための退職勧奨について、どのような観点から、祝い金の提供とともに原則禁止となりましたか。
手数料収入を得るための退職勧奨について、政府が「労働市場における需給調整機能を歪め、労働者の雇用の安定を阻害する」と問題視し、求職者の早期離職を避ける観点から、祝い金の提供とともに原則禁止となりました。
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法律
3. 少年審判による処分の内容 少年審判によって裁判官が下す処分には、主に次の4種類があります。 保護処分 知事または児童相談所長送致 検察官送致(逆送) 不処分 3-1. 保護処分 少年を更生させるための処分で、大きく次の3種類に分類されます。 保護観察 少年院などに入所せず、保護観察官や保護司による指導監督のもと、通常の生活の中で更生を目指す処分。指示された遵守事項に少年が従わないような場合、少年院送致や児童自立支援施設等送致となる可能性があります。 少年院送致 更生施設である少年院に入所させ、矯正教育を受けさせる処分。再非行を犯すおそれが強く、社会内での更生が難しいなどと判断された場合に下される可能性が高いです。 児童自立支援施設等送致 少年院よりも開放的な福祉施設である児童自立支援施設などに入所させ、生活指導を受けさせる処分。比較的、低年齢の少年や、非行性が進んでいない少年などに下されるケースが多いです。 3種類のうち、どの処分が下されるかは、犯罪行為の内容、これまでの調査や観察の結果などを踏まえて決められます。 また、保護処分はあくまでも少年の更生が目的であり、刑罰ではありません。そのため、どの処分が下されたとしても、前科が付くことはありません。 3-2. 知事または児童相談所長送致 知事または児童相談所長に事件を送致し、少年への対応を児童福祉施設の措置にゆだねる処分です。 18歳未満の少年を対象に、非行性は高くはないものの、家庭環境などに問題があり、継続的な指導が必要と判断される場合に下される可能性があります。なお、こちらも前科は付きません。 3-3. 検察官送致(逆送) 少年の非行歴や心身の成熟度、事件の内容などを踏まえ、保護処分などではなく刑事裁判による処罰が相当と判断された場合の処分です。家庭裁判所に送致された少年事件が検察官に戻されるため、「逆送」とも呼ばれます。 なお、犯行時16歳以上で、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた事件では、原則として逆送となります(原則検察官送致対象事件)。さらに、特定少年の場合は、死刑、無期または短期(法定刑の下限)1年以上の懲役・禁錮にあたる罪の事件も逆送の対象に含まれます。 3-4. 不処分 調査や審判などを通じた教育的な働きかけにより、少年に再非行のおそれがないと認められる場合、処分を下す必要がないと判断されます(不処分)。不処分が認められれば、保護観察や各施設への入所といった処分を受けず、通常の生活に戻ることができます。
指示された遵守事項に少年が従わないような場合、どのような処置をとる可能性がありますか。
指示された遵守事項に少年が従わないような場合、少年院送致や児童自立支援施設等送致となる可能性があります。
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3. 少年審判による処分の内容 少年審判によって裁判官が下す処分には、主に次の4種類があります。 保護処分 知事または児童相談所長送致 検察官送致(逆送) 不処分 3-1. 保護処分 少年を更生させるための処分で、大きく次の3種類に分類されます。 保護観察 少年院などに入所せず、保護観察官や保護司による指導監督のもと、通常の生活の中で更生を目指す処分。指示された遵守事項に少年が従わないような場合、少年院送致や児童自立支援施設等送致となる可能性があります。 少年院送致 更生施設である少年院に入所させ、矯正教育を受けさせる処分。再非行を犯すおそれが強く、社会内での更生が難しいなどと判断された場合に下される可能性が高いです。 児童自立支援施設等送致 少年院よりも開放的な福祉施設である児童自立支援施設などに入所させ、生活指導を受けさせる処分。比較的、低年齢の少年や、非行性が進んでいない少年などに下されるケースが多いです。 3種類のうち、どの処分が下されるかは、犯罪行為の内容、これまでの調査や観察の結果などを踏まえて決められます。 また、保護処分はあくまでも少年の更生が目的であり、刑罰ではありません。そのため、どの処分が下されたとしても、前科が付くことはありません。 3-2. 知事または児童相談所長送致 知事または児童相談所長に事件を送致し、少年への対応を児童福祉施設の措置にゆだねる処分です。 18歳未満の少年を対象に、非行性は高くはないものの、家庭環境などに問題があり、継続的な指導が必要と判断される場合に下される可能性があります。なお、こちらも前科は付きません。 3-3. 検察官送致(逆送) 少年の非行歴や心身の成熟度、事件の内容などを踏まえ、保護処分などではなく刑事裁判による処罰が相当と判断された場合の処分です。家庭裁判所に送致された少年事件が検察官に戻されるため、「逆送」とも呼ばれます。 なお、犯行時16歳以上で、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた事件では、原則として逆送となります(原則検察官送致対象事件)。さらに、特定少年の場合は、死刑、無期または短期(法定刑の下限)1年以上の懲役・禁錮にあたる罪の事件も逆送の対象に含まれます。 3-4. 不処分 調査や審判などを通じた教育的な働きかけにより、少年に再非行のおそれがないと認められる場合、処分を下す必要がないと判断されます(不処分)。不処分が認められれば、保護観察や各施設への入所といった処分を受けず、通常の生活に戻ることができます。
犯行時16歳以上で、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた事件では、どのような処置になりますか。
犯行時16歳以上で、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた事件では、原則として逆送となります(原則検察官送致対象事件)。
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3. 少年審判による処分の内容 少年審判によって裁判官が下す処分には、主に次の4種類があります。 保護処分 知事または児童相談所長送致 検察官送致(逆送) 不処分 3-1. 保護処分 少年を更生させるための処分で、大きく次の3種類に分類されます。 保護観察 少年院などに入所せず、保護観察官や保護司による指導監督のもと、通常の生活の中で更生を目指す処分。指示された遵守事項に少年が従わないような場合、少年院送致や児童自立支援施設等送致となる可能性があります。 少年院送致 更生施設である少年院に入所させ、矯正教育を受けさせる処分。再非行を犯すおそれが強く、社会内での更生が難しいなどと判断された場合に下される可能性が高いです。 児童自立支援施設等送致 少年院よりも開放的な福祉施設である児童自立支援施設などに入所させ、生活指導を受けさせる処分。比較的、低年齢の少年や、非行性が進んでいない少年などに下されるケースが多いです。 3種類のうち、どの処分が下されるかは、犯罪行為の内容、これまでの調査や観察の結果などを踏まえて決められます。 また、保護処分はあくまでも少年の更生が目的であり、刑罰ではありません。そのため、どの処分が下されたとしても、前科が付くことはありません。 3-2. 知事または児童相談所長送致 知事または児童相談所長に事件を送致し、少年への対応を児童福祉施設の措置にゆだねる処分です。 18歳未満の少年を対象に、非行性は高くはないものの、家庭環境などに問題があり、継続的な指導が必要と判断される場合に下される可能性があります。なお、こちらも前科は付きません。 3-3. 検察官送致(逆送) 少年の非行歴や心身の成熟度、事件の内容などを踏まえ、保護処分などではなく刑事裁判による処罰が相当と判断された場合の処分です。家庭裁判所に送致された少年事件が検察官に戻されるため、「逆送」とも呼ばれます。 なお、犯行時16歳以上で、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた事件では、原則として逆送となります(原則検察官送致対象事件)。さらに、特定少年の場合は、死刑、無期または短期(法定刑の下限)1年以上の懲役・禁錮にあたる罪の事件も逆送の対象に含まれます。 3-4. 不処分 調査や審判などを通じた教育的な働きかけにより、少年に再非行のおそれがないと認められる場合、処分を下す必要がないと判断されます(不処分)。不処分が認められれば、保護観察や各施設への入所といった処分を受けず、通常の生活に戻ることができます。
不処分が認められた場合、どうなりますか。
不処分が認められれば、保護観察や各施設への入所といった処分を受けず、通常の生活に戻ることができます。
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法律
1. 嫡出推定規定とは 妻が婚姻中に懐胎(妊娠)した場合、子どもは夫との間に生まれた子どもと推定されます(民法第772条)。この制度が「嫡出推定規定」です。 そして、婚姻の成立から200日を経過した後、または婚姻の解消や取り消しから300日以内に生まれた子どもは、婚姻中に懐胎したと推定されます(同条第2項)。 つまり、夫と離婚した日から300日以内に生まれた子どもは、出生届を提出すると実際の血の繋がりとは関係なく元夫の子どもと推定されるのです。 なお、いわゆる授かり婚(できちゃった婚)などで、婚姻の成立から200日以内に生まれた子どもは、夫との子どもと推定されません。しかし、戸籍の実務上は、父子関係に争いがなければ出生届を出すことで夫との子どもと推定されます。 2. 嫡出推定規定から生じる問題 親には子どもを扶養する義務があります。嫡出推定規定は、扶養義務を負っている父親が誰かを早期に確定し、子どもの権利を保護する目的で設けられています。 しかし、嫡出推定規定があることで離婚後300日問題が発生し、無戸籍の子どもが生まれている事態にも繋がってしまっているのです。 2-1. 離婚後300日問題とは 離婚する前から元夫以外の男性と肉体関係に及んでいると、離婚から300日以内にその男性との子どもが生まれる可能性があります。 夫と離婚し、子どもの実父である男性と再婚しても、離婚から300日以内に子どもが生まれた場合、出生届を提出すると元夫との子どもとして扱われてしまいます。 これが、嫡出推定規定によって生じる離婚後300日問題です。 2-2. 子どもが無戸籍になる問題も 嫡出推定規定により、子どもの戸籍上の父親が元夫となることを避けるため、母親が出生届を提出しないケースがあります。そのため、戸籍がない人(無戸籍者)が全国に存在しているのです。 出生届を提出せずに無戸籍のままでいると、行政上のサービスを受けられない、権利を行使できないといったデメリットが生じる可能性があります。 具体的には、次のようなデメリットが考えられます。 運転免許やパスポートを取得できない 銀行口座を開設できない 家を借りることができない 選挙権を行使できない 進学や就職などで不便を強いられる
妻が婚姻中に懐胎(妊娠)した場合、子どもは誰との間に生まれた子どもと推定されますか。
妻が婚姻中に懐胎(妊娠)した場合、子どもは夫との間に生まれた子どもと推定されます(民法第772条)。
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法律
1. 嫡出推定規定とは 妻が婚姻中に懐胎(妊娠)した場合、子どもは夫との間に生まれた子どもと推定されます(民法第772条)。この制度が「嫡出推定規定」です。 そして、婚姻の成立から200日を経過した後、または婚姻の解消や取り消しから300日以内に生まれた子どもは、婚姻中に懐胎したと推定されます(同条第2項)。 つまり、夫と離婚した日から300日以内に生まれた子どもは、出生届を提出すると実際の血の繋がりとは関係なく元夫の子どもと推定されるのです。 なお、いわゆる授かり婚(できちゃった婚)などで、婚姻の成立から200日以内に生まれた子どもは、夫との子どもと推定されません。しかし、戸籍の実務上は、父子関係に争いがなければ出生届を出すことで夫との子どもと推定されます。 2. 嫡出推定規定から生じる問題 親には子どもを扶養する義務があります。嫡出推定規定は、扶養義務を負っている父親が誰かを早期に確定し、子どもの権利を保護する目的で設けられています。 しかし、嫡出推定規定があることで離婚後300日問題が発生し、無戸籍の子どもが生まれている事態にも繋がってしまっているのです。 2-1. 離婚後300日問題とは 離婚する前から元夫以外の男性と肉体関係に及んでいると、離婚から300日以内にその男性との子どもが生まれる可能性があります。 夫と離婚し、子どもの実父である男性と再婚しても、離婚から300日以内に子どもが生まれた場合、出生届を提出すると元夫との子どもとして扱われてしまいます。 これが、嫡出推定規定によって生じる離婚後300日問題です。 2-2. 子どもが無戸籍になる問題も 嫡出推定規定により、子どもの戸籍上の父親が元夫となることを避けるため、母親が出生届を提出しないケースがあります。そのため、戸籍がない人(無戸籍者)が全国に存在しているのです。 出生届を提出せずに無戸籍のままでいると、行政上のサービスを受けられない、権利を行使できないといったデメリットが生じる可能性があります。 具体的には、次のようなデメリットが考えられます。 運転免許やパスポートを取得できない 銀行口座を開設できない 家を借りることができない 選挙権を行使できない 進学や就職などで不便を強いられる
婚姻の成立から200日を経過した後、または婚姻の解消や取り消しから300日以内に生まれた子どもは、いつ懐胎したと推定されますか。
婚姻の成立から200日を経過した後、または婚姻の解消や取り消しから300日以内に生まれた子どもは、婚姻中に懐胎したと推定されます。
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法律
1. 嫡出推定規定とは 妻が婚姻中に懐胎(妊娠)した場合、子どもは夫との間に生まれた子どもと推定されます(民法第772条)。この制度が「嫡出推定規定」です。 そして、婚姻の成立から200日を経過した後、または婚姻の解消や取り消しから300日以内に生まれた子どもは、婚姻中に懐胎したと推定されます(同条第2項)。 つまり、夫と離婚した日から300日以内に生まれた子どもは、出生届を提出すると実際の血の繋がりとは関係なく元夫の子どもと推定されるのです。 なお、いわゆる授かり婚(できちゃった婚)などで、婚姻の成立から200日以内に生まれた子どもは、夫との子どもと推定されません。しかし、戸籍の実務上は、父子関係に争いがなければ出生届を出すことで夫との子どもと推定されます。 2. 嫡出推定規定から生じる問題 親には子どもを扶養する義務があります。嫡出推定規定は、扶養義務を負っている父親が誰かを早期に確定し、子どもの権利を保護する目的で設けられています。 しかし、嫡出推定規定があることで離婚後300日問題が発生し、無戸籍の子どもが生まれている事態にも繋がってしまっているのです。 2-1. 離婚後300日問題とは 離婚する前から元夫以外の男性と肉体関係に及んでいると、離婚から300日以内にその男性との子どもが生まれる可能性があります。 夫と離婚し、子どもの実父である男性と再婚しても、離婚から300日以内に子どもが生まれた場合、出生届を提出すると元夫との子どもとして扱われてしまいます。 これが、嫡出推定規定によって生じる離婚後300日問題です。 2-2. 子どもが無戸籍になる問題も 嫡出推定規定により、子どもの戸籍上の父親が元夫となることを避けるため、母親が出生届を提出しないケースがあります。そのため、戸籍がない人(無戸籍者)が全国に存在しているのです。 出生届を提出せずに無戸籍のままでいると、行政上のサービスを受けられない、権利を行使できないといったデメリットが生じる可能性があります。 具体的には、次のようなデメリットが考えられます。 運転免許やパスポートを取得できない 銀行口座を開設できない 家を借りることができない 選挙権を行使できない 進学や就職などで不便を強いられる
嫡出推定規定は、どのような目的で設けられていますか。
嫡出推定規定は、扶養義務を負っている父親が誰かを早期に確定し、子どもの権利を保護する目的で設けられています。
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法律
1. 嫡出推定規定とは 妻が婚姻中に懐胎(妊娠)した場合、子どもは夫との間に生まれた子どもと推定されます(民法第772条)。この制度が「嫡出推定規定」です。 そして、婚姻の成立から200日を経過した後、または婚姻の解消や取り消しから300日以内に生まれた子どもは、婚姻中に懐胎したと推定されます(同条第2項)。 つまり、夫と離婚した日から300日以内に生まれた子どもは、出生届を提出すると実際の血の繋がりとは関係なく元夫の子どもと推定されるのです。 なお、いわゆる授かり婚(できちゃった婚)などで、婚姻の成立から200日以内に生まれた子どもは、夫との子どもと推定されません。しかし、戸籍の実務上は、父子関係に争いがなければ出生届を出すことで夫との子どもと推定されます。 2. 嫡出推定規定から生じる問題 親には子どもを扶養する義務があります。嫡出推定規定は、扶養義務を負っている父親が誰かを早期に確定し、子どもの権利を保護する目的で設けられています。 しかし、嫡出推定規定があることで離婚後300日問題が発生し、無戸籍の子どもが生まれている事態にも繋がってしまっているのです。 2-1. 離婚後300日問題とは 離婚する前から元夫以外の男性と肉体関係に及んでいると、離婚から300日以内にその男性との子どもが生まれる可能性があります。 夫と離婚し、子どもの実父である男性と再婚しても、離婚から300日以内に子どもが生まれた場合、出生届を提出すると元夫との子どもとして扱われてしまいます。 これが、嫡出推定規定によって生じる離婚後300日問題です。 2-2. 子どもが無戸籍になる問題も 嫡出推定規定により、子どもの戸籍上の父親が元夫となることを避けるため、母親が出生届を提出しないケースがあります。そのため、戸籍がない人(無戸籍者)が全国に存在しているのです。 出生届を提出せずに無戸籍のままでいると、行政上のサービスを受けられない、権利を行使できないといったデメリットが生じる可能性があります。 具体的には、次のようなデメリットが考えられます。 運転免許やパスポートを取得できない 銀行口座を開設できない 家を借りることができない 選挙権を行使できない 進学や就職などで不便を強いられる
出生届を提出せずに無戸籍のままでいると、どのようなデメリットが生じる可能性がありますか。
出生届を提出せずに無戸籍のままでいると、行政上のサービスを受けられない、権利を行使できないといったデメリットが生じる可能性があります。
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歴史
新撰組を結成した翌年の元治元年の六月五日は彼等にとって最も重要な日になった。 なにせこの事件が原因となって明治維新が一年遅れたと言われているほどだった。 あの有名な三條小橋にある旅宿の池田屋で長州藩の浪士たちを襲撃した「池田屋事件」が決行された日である。  四條小橋に、升屋喜右衛門という古道具屋があった。主人は38~39歳で、使用人を2~3人雇っていて裕福な暮らしをしていた。 この古道具屋に浪士風の人間が激しく出入りしていたので、新撰組は前々から怪しく思っていた。 六月五日に踏み込んでみると店の中には甲冑が十組、鉄砲が2~3挺、その他長州藩とのやりとりをしている手紙が数通見つかった。その中には、「機会を逃すな」との非常に怪しい文書まであった。  とりあえず、武器を押収して土蔵に封印して店の主人「喜右衛門」を壬生の屯所に連行して拷問した結果恐るべき計画が発覚したのである。  喜右衛門は仮名であり、その正体は古高俊太郎という江州の浪人だった。 前年の「八月十八日の政変」にて中川宮と松平容保を恨んでいた。 火を京の御所に放火して混乱の中にある中川宮と松平容保を要撃しようとする計画だった。 さらに古高は「三條通りの旅宿の客は全員長州藩の人間である」ことまで自白した。  新撰組が驚いていると、町役人からさらに報告が続いた。 「升屋の土蔵の封印を破って武具を奪って行った者がいる!」 「三條小路の旅宿「池田屋」や「四国屋」長州藩の浪士達が集合して何かを企んでいる」  京都市中見廻り役として治安の責任の一半を担っている新撰組は、守護職である松平容保の家に応急の措置を求める報告を即座に行った。  松平容保は松平越中守と協力して、会津、桑名、一橋、彦根、加賀の兵を始め、町奉行や東西与力、同心を動員して、祇園、木屋町、三條通り、その他要所配置するために、実に3000人以上配置された。 今までにない警戒体制だった。  会津藩と新撰組は、午後八時に祇園の会所に集合する筈だったが、会津側が人数の準備に時間がかかり、午後十時近くなっても、約束の場所に到着しなかった。  焦った近藤勇は、一刻を争う事態だと考えて、独断で新撰組を率いて出動する事にした。  新撰組の隊員三十名を二分して、近藤勇は自ら隊長となって一隊を率いて池田屋へ向かった。 他の一隊は土方歳三が統率して四国屋へ向かう事になった。
池田屋へ向かった隊の隊長は誰ですか。
近藤勇は自ら隊長となって一隊を率いて池田屋へ向かった。
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歴史
新撰組の前身である幕府が集めた浪士団が家茂将軍を警護するという目的で、江戸を出発したのは文久三年の二月八日だった。  総勢およそ二百四十名で、二十三日に京都郊外にある壬生に着いたがこの集団を「新徴組」と呼んだ。 隊長格は庄内出身の清河八郎で、高身長の顔立ちの整った男であり眼光鋭い男だったと言われている。  幕府は最初は浪士の人員を五十名位集めようという方針だった。 実際は日本中の浪士達が「旗本位にはなれるかもしれない」と思って沢山集まって来た。 甲州の侠客、祐天仙之助が、二十人ほどの子分を連れて加入、すぐに五番隊の伍長として採用された事などを見ても、大体この浪士団の正体がどんな荒くれ者達だったかがわかるだろう。  しかし新徴組は京都に到着したら二十日ばかりで分裂してしまった。 芹沢鴨、近藤等十三人が隊長の清河八郎に反発して、宿舎だった八木源之丞の家の前に「壬生村浪士屯所」という看板を出したのが、新撰組の始まりだった。  隊員だった永倉新八こと、杉村義衛(大正四年まで存命している)が後年話しているが、総勢十三名で始まった新撰組も、初めはひどく貧乏であった。 三月に隊が出来て、五月になるのに、まだ冬用の綿入れを着ている者が多かった。 色々考えた結果、芹沢鴨が率先して八名の浪士が大坂まで出向き、鴻池を脅して二百両借りて戻ってきた。 これではただの暴力団だ。  
新撰組が始まった時は何人で構成されていましたか。
芹沢鴨、近藤等十三人が隊長の清河八郎に反発して、宿舎だった八木源之丞の家の前に「壬生村浪士屯所」という看板を出したのが、新撰組の始まりだった。
JCRRAG_012130
歴史
わずか一割に満たない隊士たちの中心は芹沢鴨を中心とする水戸浪人の一派で、京都の政治情勢に期待していた。 「尊王攘夷」の早い実現を夢見ていたのだった。 水戸の尊攘派のトップである武田耕雲斎が徳川慶喜の側近として京都におり、 尊王攘夷は実現しない事も知る由もなかった。 芹沢鴨一派の他に近藤勇の一派がいた。  新撰組が三月に組織されたときは芹沢が局長筆頭であり、 三名の局長の内二名までが水戸派、三人目の局長は近藤勇となっている。 守護職肥後守の管轄になり、新撰組としての最初の意見書は 「徳川家茂将軍が上洛して攘夷について決断されたことを我々一同大変喜んでおります。 しかし三月二十三日に徳川家茂将軍が江戸へ帰ると聞いて、大変驚いております。 将軍がもし京都に滞在し続けていただければ、国民全員安心するはずです。 ここで江戸へ戻られると、日本が危うくなるかもしれません。 もうしばらく京都に滞在されますよう、どうかお願い申し上げます。」  時局収拾のため即座に尊王攘夷をして欲しかった水戸派と松平容保の願望をそのまま表現したものだが、 いつまで経っても物事がうまくいかなかったので、芹沢派はいよいよただの乱暴者の集団になってしまった。  文久三年三月から九月までの新撰組の最初の半年間は、ほとんど仕事らしい仕事をしていない。 この間に文久政変中最大のクーデターだった八月十八日の変が起こり、新撰組は事件当日は御所の警備を指示され、翌日から市中見廻りの任務についたが、いわゆる「新撰組」らしい大活躍はなく、芹沢一派の暴力沙汰くらいしかなかった。  九月十六日、新撰組は松平容保の密命によって芹沢一派の清掃を決行し、芹沢鴨は亡くなり、近藤勇が後を継いで厳格な統制の下に組織を一新した。 松平容保は、近藤勇体制になって初めて腹の底から新撰組を信頼できるようになった。
新撰組隊長が芹沢鴨から誰に変わりましたか。
九月十六日、新撰組は松平容保の密命によって芹沢一派の清掃を決行し、芹沢鴨は亡くなり、近藤勇が後を継いで厳格な統制の下に組織を一新した。
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歴史
新撰組を結成した翌年の元治元年の六月五日は彼等にとって最も重要な日になった。 なにせこの事件が原因となって明治維新が一年遅れたと言われているほどだった。 あの有名な三條小橋にある旅宿の池田屋で長州藩の浪士たちを襲撃した「池田屋事件」が決行された日である。  四條小橋に、升屋喜右衛門という古道具屋があった。主人は38~39歳で、使用人を2~3人雇っていて裕福な暮らしをしていた。 この古道具屋に浪士風の人間が激しく出入りしていたので、新撰組は前々から怪しく思っていた。 六月五日に踏み込んでみると店の中には甲冑が十組、鉄砲が2~3挺、その他長州藩とのやりとりをしている手紙が数通見つかった。その中には、「機会を逃すな」との非常に怪しい文書まであった。  とりあえず、武器を押収して土蔵に封印して店の主人「喜右衛門」を壬生の屯所に連行して拷問した結果恐るべき計画が発覚したのである。  喜右衛門は仮名であり、その正体は古高俊太郎という江州の浪人だった。 前年の「八月十八日の政変」にて中川宮と松平容保を恨んでいた。 火を京の御所に放火して混乱の中にある中川宮と松平容保を要撃しようとする計画だった。 さらに古高は「三條通りの旅宿の客は全員長州藩の人間である」ことまで自白した。  新撰組が驚いていると、町役人からさらに報告が続いた。 升屋の土蔵の封印を破って武具を奪って行った者がいる、また、三條小路の旅宿の「池田屋」や「四国屋」に長州藩の浪士達が集合して何かを企んでいるという情報が来た。  京都市中見廻り役として治安の責任の一半を担っている新撰組は、守護職である松平容保の家に応急の措置を求める報告を即座に行った。  松平容保は松平越中守と協力して、会津、桑名、一橋、彦根、加賀の兵を始め、町奉行や東西与力、同心を動員して、祇園、木屋町、三條通り、その他要所配置するために、実に3000人以上配置された。 今までにない警戒体制だった。  会津藩と新撰組は、午後八時に祇園の会所に集合する筈だったが、会津側が人数の準備に時間がかかり、午後十時近くなっても、約束の場所に到着しなかった。  焦った近藤勇は、一刻を争う事態だと考えて、独断で新撰組を率いて出動する事にした。  新撰組の隊員三十名を二分して、近藤勇は自ら一隊を率いて池田屋へ。 他の一隊は土方歳三が統率して四国屋へ向かう事になった。
長州藩の浪士達が集合している旅宿はどこですか。
三條小路の旅宿の「池田屋」や「四国屋」に長州藩の浪士達が集合して何かを企んでいるという情報が来た。
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歴史
近藤勇は玄関に立ち大声を張り上げた。 「主人は居るか!御用改めであるぞ!」 そして家の中に上り込んだ。  主人はすぐに二階に向って、 「皆様、来客調べです!」  と大きな声で叫んだが、遅かった。 「何だ何だ!?」  九州藩の仲間が来たのかと思って、一番先に出て来た北副佶摩の頭を、近藤勇の持つ刀・虎徹が一閃して割った。  思わず火が出る様な乱闘がそれからも続いた。  この事件については、近藤勇自身が家族宛てに書いた手紙に、詳しく書かれている。 「新撰組の面子だけで、敵の集まる三條小橋と縄手に分かれることになった。午後10時頃に一斉に家に踏み込んだが、一ヶ所は人っ子一人いなかった、もう一ヶ所に浪士達が大量に潜伏していた。奴らも覚悟を持っていたので、一時余りかかる戦闘を繰り広げた」  池田屋事件では一時余りかかる戦闘を繰り広げた、と近藤勇の手紙にあるが、一時余りとは、現在では二時間余りを意味している。 二時間余りもの間入り乱れて戦ったのだからその激闘振りもわかる。 「戦った結果討ち取ったのが7人、怪我させた者4人、捕まえた者2人、これは局中の成果である。 全てが終わった後にやっと、御守護職や御所司代率いる3000人の軍勢がやって来た。 その後我々が屯所へ戻ったら、会津藩の者が四人捕まえて、一人討ち取った。桑名藩の者が一人捕まえたとのこと。  翌日六月六日の正午頃、部隊は引き上げて行った。前代未聞の事件だった」  以上の手紙の通り、池田屋襲撃は、殆んど新撰組の独擅場であった。 彼等が得意満面になるのは当然だった。
池田屋襲撃事件は事件発生から終了までどれくらいかかりましたか。
池田屋事件では一時余りかかる戦闘を繰り広げた、と近藤勇の手紙にあるが、一時余りとは、現在では二時間余りを意味している。
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武蔵は二刀流の創始者であるが、一生の試合数六十数回のうちに一度も二刀流を使っていない。 「兵法三十五箇条」にはこう書かれている。 「二刀流として太刀を二つ両手に持つのは、左手に太刀をなじませるのが目的なのだ。 片手で太刀を扱えるようになれば、軍陣だろうと、馬の上であろうと、川沿であろうと、細道だろうと、石原や人込みだろうと 走っている時だろうと、もしも左手に道具を持っている時に思うように動けなくても片手で戦えるようになる、初めは太刀を扱うのは大変だけと慣れれば自由に使えるようになるだろう」  後世では二天政名流や二刀二天流などの士は左右に刀を持って二刀流として戦った例は有るが、武蔵は片手でも両手で持った時のように使うために左右に刀を持っていたのである。  同書の中に、 「期を知るという事は、早い期を知ること、遅い期を知ること、逃げるべき期を知り、逃げてはいけない期を知る、これこそが「一流直通」という極意である。 これは口伝で伝えられているものである。」  とあるが、伊藤一刀斎いうところの「間」であろう。 ついでに立ち回りの心得を二つ三つ書いておくが立ち回り役者のデタラメな立ち回りではない事を心得ておくといい。 二つの足とは太刀を一回振る内に足は二つ運ぶことである。太刀を払いのける時や、前に出る時も後ろに下がる時も、足は二つの動きをすること。 次につながるような足運びをするのが大事である。太刀を一回振る度に足を一回だけ動かしていては動きにくくなる。 常に歩くように足を動かすのが大事である。 太刀を一回振る度に足を一回動かすだけでは動きにくくなるとは、足が動きにくくなり変化に対応しにくくなるという意味である。 姿勢を整え、顔はうつむかず、上を見すぎる事無く、胸を出さずに腹を出して、腰をかがめずに、膝を固めずに、体をまっすぐにして辺りを広く見渡す事である。
宮本武蔵は二刀流で戦った事はありますか。
武蔵は二刀流の創始者であるが、一生の試合数六十数回のうちに一度も二刀流を使っていない。
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アルベルト・アインシュタインは一八七九年三月の出生である。日本ならば明治十二年卯歳の生まれで数え年四十三(大正十年)になる訳である。生まれた場所は南ドイツでドナウの流れに沿った小都市ウルムである。今のドイツで一番高いゴシックの寺塔のあるという他には格別世界に誇るべき物をもたないらしいこの市名は偶然にこの科学者の出現と結び付けられる事になった。この土地における彼の幼年時代について知り得られる事実は遺憾ながら極めて少ない。ただ一つの逸話として伝えられているのは、彼が五歳の時に、父から一つの羅針盤を見せられた事がある、その時に、何ら直接に接触するもののない磁針が、見えざる力の作用で動くのを見て非常に強い印象を受けたという事である。その時の印象が彼の後年の仕事に影響を与えたという事が彼自身の口から伝わっている。  丁度この頃、彼の父は家族を挙げてミュンヘンに移住した。今度の家は前のせまくるしい住居とちがって広い庭園に囲まれていたので、そこで初めて自由に接することの出来た自然界の印象も彼の生涯に決して無意味ではなかったといって間違いない。  彼の家族にユダヤ人種の血が流れているという事は注目すべき事である。後年の彼の仕事や、社会人生観には、この事実と思い合せて初めて理解される点が少なくないように思う。それはとにかく彼がミュンヘンの小学校で受けたローマカトリックの教義と家庭におけるユダヤ教の教義との相対的な矛盾――因襲的な独断と独断の背馳はいちが彼の幼い心にどのような反応を起こさせたか、これも本人に聞いてみたい問題である。  この時代の彼の外観には何らの鋭い天才の閃きは見えなかった。ものを言う事を覚えるのが普通より遅く、そのために両親が心配したくらいで、大きくなってもやはり口が重かった。八、九歳頃の彼はむしろ控え目で、あまり人好きのしない、独りぼっちの仲間外れになっていた。ただその頃から真実と正義に対する極端な偏執が目についた。それで人々は「馬鹿正直(ビーダーマイアー)」という渾名あだなを彼に与えた。この「馬鹿正直」を徹底させたものが今日の彼の仕事になろうとは、誰も夢にも考えなかった事であろう。  音楽に対する嗜好は早くから眼覚めていた。独りで讃美歌のようなものを作って、独りでこっそり歌っていたが、恥ずかしがって両親にもそれは隠して聞かせなかったそうである。腕白な遊戯などから遠ざかった独りぼっちの子供の内省的な傾向がここにも認められる。
アインシュタインが幼い頃、感動したものはなんですか。
彼が五歳の時に、父から一つの羅針盤を見せられた事がある、その時に、何ら直接に接触するもののない磁針が、見えざる力の作用で動くのを見て非常に強い印象を受けたという事である。
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 小さいころのアインシュタインの外観には何らの鋭い天才の閃きは見えなかった。ものを言う事を覚えるのが普通より遅く、そのために両親が心配したくらいで、大きくなってもやはり口が重かった。八歳頃の彼はむしろ控え目で、あまり人好きのしない、独りぼっちの仲間外れになっていた。ただその頃から真実と正義に対する極端な偏執が目についた。それで人々は「馬鹿正直(ビーダーマイアー)」という渾名あだなを彼に与えた。この「馬鹿正直」を徹底させたものが今日の彼の仕事になろうとは、誰も夢にも考えなかった事であろう。  音楽に対する嗜好は早くから眼覚めていた。独りで讃美歌のようなものを作って、独りでこっそり歌っていたが、恥ずかしがって両親にもそれは隠して聞かせなかったそうである。腕白な遊戯などから遠ざかった独りぼっちの子供の内省的な傾向がここにも認められる。  後年まで彼につきまとったユダヤ人に対するショーヴィニズムの迫害は、もうこの頃から彼の幼い心に小さな波風を立て始めたらしい。そしてその不正義に対する反抗心が彼の性格に何かの痕跡を残さない訳には行かなかったろうと思われる。「ユダヤ人はその職業上の環境や民族の過去のために、人から信用されるという経験に乏しい。この点に関してユダヤ人の学者に注目して見るのがいい。彼らは論理というものにちからこぶを入れる。すなわち理法によって他の承諾を強要する。民族的反感からは信用したくない人でも、論理の前には屈伏しなければならない事を知っているから。」こういったニーチェのにがにがしい言葉が今でも強く私たちの耳に響くように思われる。  彼の学校の成績はあまりよくなかった。特に言語などを機械的に暗記する事の下手な彼には当時の軍隊式の詰め込み教育は具合が悪かった。これに反して数学的推理の能力は早くから芽を出し始めた。計算は上手でなくても考え方が非常に巧妙であった。ある時彼の伯父に当たる人で、工業技師をしているヤーコブ・アインシュタインに、代数学とは一体どんなものかと質問した事があった。その時に伯父さんが「代数というのは、不精者のずるい計算術である。知らない答をXと名づけて、そしてそれを知っているような顔をして取扱って、それと知っているものとの関係式を書く。そこからこのXを定めるという方法だ」といって聞かせた。このひょうきんな、しかし要を得た説明は子供の頭に眠っている未知の代数学を呼び覚ますには充分であった。それから色々な代数の問題はひとりで楽に解けるようになった。始めて、幾何学のピタゴラスの定理にぶつかった時にはそれでも三週間頭をひねったが、しまいには遂にその証明に成った。論理的に確実なある物を捕える喜びは、もうこの頃から彼のうら若い頭に滲み渡っていた。数理に関する彼の所得は学校の教程などとは無関係に驚くべき速度で増大した。十五歳の時にはもう大学に入れるだけの実力があるという事を係の教師が宣言している。
アインシュタインは小さい頃はどんな子でしたか。
小さいころのアインシュタインの外観には何らの鋭い天才の閃きは見えなかった。ものを言う事を覚えるのが普通より遅く、そのために両親が心配したくらいで、大きくなってもやはり口が重かった。八歳頃の彼はむしろ控え目で、あまり人好きのしない、独りぼっちの仲間外れになっていた。
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 一九〇一年、スイス滞在五年の後にチューリヒの公民権を得てやっと公職に就く資格が出来た。同窓の友グロスマンの斡旋で特許局の技師となって、そこに一九〇二年から一九〇九年まで勤めていた。彼のような抽象に長じた理論家が極めて卑近な発明の審査をやっていたという事は面白い事である。彼自身の言葉によるとこの職務にも相当な興味をもって働いていたようである。  一九〇五年になって彼は永い間の研究の結果を発表し始めた。頭の中にいっぱいにたまっていたものが大河の堤を決したような勢いで溢れ出した。アインシュタインが『物理年鑑』に出した論文だけでも四つの論文を出した。いずれも立派なものであるが、その中の一つが相対論の元祖と称せられる「運動せる物体の電気力学」であった。ドイツの大家プランクはこの論文を見て驚いてこの無名の青年に手紙を寄せ、その非凡な着想の成就を祝福した。  ベルリンの大学は彼を招こうとして躊躇していた。やっと彼の椅子が出来ると間もなく、チューリヒの大学の方で理論物理学の助教授として招聘された。これが一九〇九年、彼が三十一歳の時である。特許局に隠れていた足掛け八年の地味な平和の生活は、おそらく彼にとっては意義の深いものであったに違いないが、ともかくも三十一にして彼は立って始めて本舞台に乗り出した訳である。一九一一年にはプラーグの正教授に招聘され、一九一二年に再びチューリヒのポリテキニクムの教授となった。大戦が始まった一九一四年の春にベルリンに移ってそこで仕事を大成したのである。  ベルリン大学における彼の聴講生の数は従来のレコードを破っている。一昨年来急に世界的に有名になってから新聞雑誌記者は勿論、画家彫刻家までが彼の門に押しよせて、肖像を描かせろ胸像を作らしてくれとせがむ。講義を終えて廊下へ出ると学生が押しかけて質問をする。自宅へ帰ると世界中の学者や素人から色々な質問や注文の手紙が来ている。それに対して一々何とか返事を出さなければならないのである。外国から講演をしに来てくれと頼まれる。このような要求は研究に熱心な学者としての彼には迷惑なものに相違ないが、彼は格別いやな顔をしないで気長に親切に誰にでも満足を与えているようである。  彼の名声が急に上がる一方で、彼に対する迫害の火の手も高くなった。ユダヤ人種排斥という日本人にはちょっと分からない、しかし多くのドイツ人には分かりやすい原理に、幾分は別の妙な動機も加わって、一団のアインシュタイン排斥同盟のようなものが出来た。勿論大多数は物理学者以外の人で、中にはずいぶんいかがわしい人も交じっているようである。これが一日ベルリンのフィルハーモニーで公開の弾劾演説をやって無闇な悪口を並べた。中に物理学者と名のつく人も一人居て、これはさすがに直接の人身攻撃はやらないで相対原理の批判のような事を述べたが、それはほとんど科学的には無価値なものであった。要するにこの演説会は純粋な悪感情の表現に終ってしまった。気の長いアインシュタインもかなり不愉快を感じたと見えて、急にベルリンを去ると言い出した。するとベルリン大学に居る屈指の諸大家は、一方アインシュタインをなだめると同時に、連名で新聞へ弁明書を出し、彼に対する攻撃の不当な事を正し、彼の科学的貢献の偉大な事を保証した。またアインシュタインは気が進まなかったらしいのを、すすめて自身の弁明書を書かせ、これを同じ新聞に掲載した。その短い文章は例の通りキビキビとして極めて要を得ているのは勿論であるが、その行文の間に卑怯な迫害者に対する苦々しさが滲透しているようである。彼に対する同情者は遠方から電報をよこしたりした。その中にはマックス・ラインハルトの名も交じっていた。
アインシュタインが迫害を受けてベルリンを去ると言ったらベルリン大学はどうしましたか。
ベルリン大学に居る屈指の諸大家は、一方アインシュタインをなだめると同時に、連名で新聞へ弁明書を出し、彼に対する攻撃の不当な事を正し、彼の科学的貢献の偉大な事を保証した。
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 一九〇一年、スイス滞在五年の後にチューリヒの公民権を得てやっと公職に就く資格が出来た。同窓の友グロスマンの斡旋で特許局の技師となって、そこに一九〇二年から一九〇九年まで勤めていた。彼のような抽象に長じた理論家が極めて卑近な発明の審査をやっていたという事は面白い事である。彼自身の言葉によるとこの職務にも相当な興味をもって働いていたようである。  一九〇五年になって彼は永い間の研究の結果を発表し始めた。頭の中にいっぱいにたまっていたものが大河の堤を決したような勢いで溢れ出した。アインシュタインが『物理年鑑』に出した論文だけでも四つの論文を出した。いずれも立派なものであるが、その中の一つが相対論の元祖と称せられる「運動せる物体の電気力学」であった。ドイツの大家プランクはこの論文を見て驚いてこの無名の青年に手紙を寄せ、その非凡な着想の成就を祝福した。  ベルリンの大学は彼を招こうとして躊躇していた。やっと彼の椅子が出来ると間もなく、チューリヒの大学の方で理論物理学の助教授として招聘された。これが一九〇九年、彼が三十一歳の時である。特許局に隠れていた足掛け八年の地味な平和の生活は、おそらく彼にとっては意義の深いものであったに違いないが、ともかくも三十一にして彼は立って始めて本舞台に乗り出した訳である。一九一一年にはプラーグの正教授に招聘され、一九一二年に再びチューリヒのポリテキニクムの教授となった。大戦が始まった一九一四年の春にベルリンに移ってそこで仕事を大成したのである。  ベルリン大学における彼の聴講生の数は従来のレコードを破っている。一昨年来急に世界的に有名になってから新聞雑誌記者は勿論、画家彫刻家までが彼の門に押しよせて、肖像を描かせろ胸像を作らしてくれとせがむ。講義を終えて廊下へ出ると学生が押しかけて質問をする。自宅へ帰ると世界中の学者や素人から色々な質問や注文の手紙が来ている。それに対して一々何とか返事を出さなければならないのである。外国から講演をしに来てくれと頼まれる。このような要求は研究に熱心な学者としての彼には迷惑なものに相違ないが、彼は格別いやな顔をしないで気長に親切に誰にでも満足を与えているようである。  彼の名声が急に上がる一方で、彼に対する迫害の火の手も高くなった。ユダヤ人種排斥という日本人にはちょっと分からない、しかし多くのドイツ人には分かりやすい原理に、幾分は別の妙な動機も加わって、一団のアインシュタイン排斥同盟のようなものが出来た。勿論大多数は物理学者以外の人で、中にはずいぶんいかがわしい人も交じっているようである。これが一日ベルリンのフィルハーモニーで公開の弾劾演説をやって無闇な悪口を並べた。中に物理学者と名のつく人も一人居て、これはさすがに直接の人身攻撃はやらないで相対原理の批判のような事を述べたが、それはほとんど科学的には無価値なものであった。要するにこの演説会は純粋な悪感情の表現に終ってしまった。気の長いアインシュタインもかなり不愉快を感じたと見えて、急にベルリンを去ると言い出した。するとベルリン大学に居る屈指の諸大家は、一方アインシュタインをなだめると同時に、連名で新聞へ弁明書を出し、彼に対する攻撃の不当な事を正し、彼の科学的貢献の偉大な事を保証した。またアインシュタインは気が進まなかったらしいのを、すすめて自身の弁明書を書かせ、これを同じ新聞に掲載した。その短い文章は例の通りキビキビとして極めて要を得ているのは勿論であるが、その行文の間に卑怯な迫害者に対する苦々しさが滲透しているようである。彼に対する同情者は遠方から電報をよこしたりした。その中にはマックス・ラインハルトの名も交じっていた。
アインシュタインが論文を発表したのはどこか。
アインシュタインは『物理年鑑』に出した論文だけでも四つの論文を出した。
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アインシュタインは「芸術から受けるような精神的幸福は他の方面からはとても得られないものだ」と人に話したそうである。ともかく彼は芸術を馬鹿にしない種類の科学者である。アインシュタインの芸術方面における趣味の中で最も顕著なものは音楽である。彼の弾くヴァイオリンが一人前のものだという事は定評があるらしい。かなりテクニックの難しいブラームスのものでも鮮やかに弾きこなすそうである。技術ばかりでなくて相当な理解をもった芸術的な演奏が出来た。  それから、子供の時に唱歌をやったのと同じように、時々ピアノの鍵盤の前に坐って即興でショパンのファンタジーをやるのが人知れぬ楽しみの一つだそうである。この話を聞くと私は何となくボルツマンを思い出す。しかしボルツマンは陰気でアインシュタインは明るい。  音楽の中では古典的なものを好むそうです。特にゴシックの建築に例えられるバッハのものを彼が好むのは偶然ではないかもしれない。ベートーヴェンの作品でも大きなシンフォニーなどより、むしろカンマームジークの類を好むという事や、ショパン、シューマンその他浪漫派の作者や、またワグナーその他の楽劇にあまり同情しない事なども、何となく彼の面目を想像させる。  絵画には全く無関心だそうである。四元の世界を眺めている彼には二元の芸術はあるいはあまりに児戯に近いかもしれない。万象を時と空間の要素に切りつめた彼には色彩の美しさなどはあまりに空虚な幻に過ぎないかもしれない。  三元的な彫刻には多少の同情がある。特に建築の美には歎美を惜しまないそうである。  そういえば音楽はあらゆる芸術の中で唯一の四元的なものともいわれない事はない。この芸術には一種の「運動」が本質的なものである。ただその時とともに運動する「もの」と空間とが物質的でないだけである。
アインシュタインに趣味はありましたか。
アインシュタインの芸術方面における趣味の中で最も顕著なものは音楽である。
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文学にも無関心ではないそうである。ただ忙しい彼には沢山色々のものを読む暇がないのであろう。彼はシェークスピアを尊敬していた。そして、ゲーテをそれほどに思わないらしい。ドストエフスキー、セルバンテス、ホーマー、ストリンドベルヒ、ゴットフリード・ケラー*、こんな名前が好きな方の側に、ゾラやイブセンなどが好かない方の側に挙げられている。この名簿も色々な意味で吾々には面白く感じられる。 * ゴットフリード・ケラーとはどんな人かと思って小宮君に聞いてみると、この人(一八一九―一八九〇)はスイスチューリヒの生まれで、描写の細かい、しかし抒情的気分に富んだ写実小説家だそうである。  哲学者の仕事に対する彼の態度は想像するに難くない。ロックやヒュームやカントには多少の耳を借しても、ヘーゲルやフィヒテは問題にならないらしい。これはありそうな事である。とにかく将来の哲学者は彼から多くを学ばねばなるまい。ショーペンハウアーとニーチェは文学者として褒められるそうである。しかしニーチェはあんまりギラギラしている(glitzernd)といっている。  彼が一種の煙霞癖をもっている事は少年時代のイタリア旅行から芽を出しているように見える。しかし彼の旅行は単に月並な名所や景色だけを追って、汽車の中で居眠りする類のものではなくて、何の目的もなく野に山に海浜にさすらうのが好きだという事である。しかし彼がその夢見るような眼をして、そういう場所をさまよい歩いている間に、どんな活動が彼の脳に起こっているかという事は誰にも分らない。  勝負事には一切見向かない。蒐集癖も皆無である。学者の中で彼ほど書物の所有に冷淡な人も少ないといわれている。もっとも彼のような根本的に新しい仕事に参考になる文献の数は比較的極めて少数である事は当然である。いわゆるオーソリティは彼自身の頭蓋骨以外にはどこにも居ないのである。  彼の日常生活はおそらく質素なものであろう。学者の中で折々見受けるような金銭に無関心な人ではないらしい。彼の著者の翻訳者には印税のかなりな割合の分け前を要求して来るというような噂も聞いた。多くの日本人には多少変な感じもするが、ドイツ人という者を知っている人には別にそう不思議とは思われない。特に彼の人種の事までも取り立てて考えるほどの事ではないと思われる。  夜はよく眠るそうです。神経のいらいらした者が、彼のような仕事をして、そしてそれが成効に近づいたとすればかなり興奮するにちがいない。勝手に仕事を途中で中止してのんきに安眠するという事は存外難しい事であるに違いない。しかし彼は適当な時にさっさと切り上げて床につく、そして仕事の事は全く忘れて安眠が出来ると彼自身人に話している。ただ一番最初の相対原理に取り付いた時だけはさすがにそうはいかなかったらしい。幾日も喪心者のようになって彷徨したといっている。一つは年の若かったせいでもあろうが、その時の気持ちはおそらくただ選ばれたごく少数の学者芸術家あるいは宗教家にして始めて味わい得られる種類のものであったろう。
彼は誰を尊敬していましたか。
彼はシェークスピアを尊敬していました。
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文学にも無関心ではないそうである。ただ忙しい彼には沢山色々のものを読む暇がないのであろう。彼はシェークスピアを尊敬していた。そして、ゲーテをそれほどに思わないらしい。ドストエフスキー、セルバンテス、ホーマー、ストリンドベルヒ、ゴットフリード・ケラー*、こんな名前が好きな方の側に、ゾラやイブセンなどが好かない方の側に挙げられている。この名簿も色々な意味で吾々には面白く感じられる。 * ゴットフリード・ケラーとはどんな人かと思って小宮君に聞いてみると、この人(一八一九―一八九〇)はスイスチューリヒの生まれで、描写の細かい、しかし抒情的気分に富んだ写実小説家だそうである。  哲学者の仕事に対する彼の態度は想像するに難くない。ロックやヒュームやカントには多少の耳を借しても、ヘーゲルやフィヒテは問題にならないらしい。これはありそうな事である。とにかく将来の哲学者は彼から多くを学ばねばなるまい。ショーペンハウアーとニーチェは文学者として褒められるそうである。しかしニーチェはあんまりギラギラしている(glitzernd)といっている。  彼が一種の煙霞癖をもっている事は少年時代のイタリア旅行から芽を出しているように見える。しかし彼の旅行は単に月並な名所や景色だけを追って、汽車の中で居眠りする類のものではなくて、何の目的もなく野に山に海浜にさすらうのが好きだという事である。しかし彼がその夢見るような眼をして、そういう場所をさまよい歩いている間に、どんな活動が彼の脳に起こっているかという事は誰にも分らない。  勝負事には一切見向かない。蒐集癖も皆無である。学者の中で彼ほど書物の所有に冷淡な人も少ないといわれている。もっとも彼のような根本的に新しい仕事に参考になる文献の数は比較的極めて少数である事は当然である。いわゆるオーソリティは彼自身の頭蓋骨以外にはどこにも居ないのである。  彼の日常生活はおそらく質素なものであろう。学者の中で折々見受けるような金銭に無関心な人ではないらしい。彼の著者の翻訳者には印税のかなりな割合の分け前を要求して来るというような噂も聞いた。多くの日本人には多少変な感じもするが、ドイツ人という者を知っている人には別にそう不思議とは思われない。特に彼の人種の事までも取り立てて考えるほどの事ではないと思われる。  夜はよく眠るそうです。神経のいらいらした者が、彼のような仕事をして、そしてそれが成効に近づいたとすればかなり興奮するにちがいない。勝手に仕事を途中で中止してのんきに安眠するという事は存外難しい事であるに違いない。しかし彼は適当な時にさっさと切り上げて床につく、そして仕事の事は全く忘れて安眠が出来ると彼自身人に話している。ただ一番最初の相対原理に取り付いた時だけはさすがにそうはいかなかったらしい。幾日も喪心者のようになって彷徨したといっている。一つは年の若かったせいでもあろうが、その時の気持ちはおそらくただ選ばれたごく少数の学者芸術家あるいは宗教家にして始めて味わい得られる種類のものであったろう。
ゴットフリード・ケラーとはどんな人かと思って誰に聞いてみましたか。
ゴットフリード・ケラーとはどんな人かと思って小宮君に聞いてみました。
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文学にも無関心ではないそうである。ただ忙しい彼には沢山色々のものを読む暇がないのであろう。彼はシェークスピアを尊敬していた。そして、ゲーテをそれほどに思わないらしい。ドストエフスキー、セルバンテス、ホーマー、ストリンドベルヒ、ゴットフリード・ケラー*、こんな名前が好きな方の側に、ゾラやイブセンなどが好かない方の側に挙げられている。この名簿も色々な意味で吾々には面白く感じられる。 * ゴットフリード・ケラーとはどんな人かと思って小宮君に聞いてみると、この人(一八一九―一八九〇)はスイスチューリヒの生まれで、描写の細かい、しかし抒情的気分に富んだ写実小説家だそうである。  哲学者の仕事に対する彼の態度は想像するに難くない。ロックやヒュームやカントには多少の耳を借しても、ヘーゲルやフィヒテは問題にならないらしい。これはありそうな事である。とにかく将来の哲学者は彼から多くを学ばねばなるまい。ショーペンハウアーとニーチェは文学者として褒められるそうである。しかしニーチェはあんまりギラギラしている(glitzernd)といっている。  彼が一種の煙霞癖をもっている事は少年時代のイタリア旅行から芽を出しているように見える。しかし彼の旅行は単に月並な名所や景色だけを追って、汽車の中で居眠りする類のものではなくて、何の目的もなく野に山に海浜にさすらうのが好きだという事である。しかし彼がその夢見るような眼をして、そういう場所をさまよい歩いている間に、どんな活動が彼の脳に起こっているかという事は誰にも分らない。  勝負事には一切見向かない。蒐集癖も皆無である。学者の中で彼ほど書物の所有に冷淡な人も少ないといわれている。もっとも彼のような根本的に新しい仕事に参考になる文献の数は比較的極めて少数である事は当然である。いわゆるオーソリティは彼自身の頭蓋骨以外にはどこにも居ないのである。  彼の日常生活はおそらく質素なものであろう。学者の中で折々見受けるような金銭に無関心な人ではないらしい。彼の著者の翻訳者には印税のかなりな割合の分け前を要求して来るというような噂も聞いた。多くの日本人には多少変な感じもするが、ドイツ人という者を知っている人には別にそう不思議とは思われない。特に彼の人種の事までも取り立てて考えるほどの事ではないと思われる。  夜はよく眠るそうです。神経のいらいらした者が、彼のような仕事をして、そしてそれが成効に近づいたとすればかなり興奮するにちがいない。勝手に仕事を途中で中止してのんきに安眠するという事は存外難しい事であるに違いない。しかし彼は適当な時にさっさと切り上げて床につく、そして仕事の事は全く忘れて安眠が出来ると彼自身人に話している。ただ一番最初の相対原理に取り付いた時だけはさすがにそうはいかなかったらしい。幾日も喪心者のようになって彷徨したといっている。一つは年の若かったせいでもあろうが、その時の気持ちはおそらくただ選ばれたごく少数の学者芸術家あるいは宗教家にして始めて味わい得られる種類のものであったろう。
アインシュタインには癖とかありましたか。
彼が一種の煙霞癖をもっている事は少年時代のイタリア旅行から芽を出しているように見える。しかし彼の旅行は単に月並な名所や景色だけを追って、汽車の中で居眠りする類のものではなくて、何の目的もなく野に山に海浜にさすらうのが好きだという事である。
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歴史
チューリッヒでのアインシュタイン教授のことを私は上の文に記しましたが、その後世界大戦が勃発し、それが一九一八年にようやく収まった後に、教授のその間に発表しました一般相対性理論が世界的に著名となったので、わが日本国でも改造社の山本実彦氏が京都帝国大学の西田教授と相談してアインシュタイン教授を招聘することを決定しました。 私もこの話を聞いて、私も大いに賛成したのでした。しかし実はこのころアインシュタイン教授は諸方からの同様な招聘に悩まされて、多くはそれを謝絶していられたということを後に親しく話されたのでしたが、それにもかかわらずわが国からの招聘を快諾されたということは、教授がいかに多く東洋への興味をもっていられたかを示すのでありました。改造社からは当時ベルリンに滞在していた社員室伏氏を通じてこれをアインシュタイン教授に謀るとともに、私からも一書を親しく同教授に送ったのでした。それは大正十年夏のことであり、その後十二月に招聘の契約書を送りましたが、翌年五月にそれに対する承諾書が来ました。それには九月にドイツのライプチッヒで自然科学者大会が開かれるが、これは創立百年の記念会であるから、そこでの講演を終えて後に直ちに出発することにすると記してあり、その書信の終わりには、 「あなたとこの秋にお目にかかること、そして私たちにとってはお伽噺とぎばなしの幔幕まんまくで包まれている輝かしいあなたの国を知ることをよろこばしくもくろみながら 親しい挨拶あいさつをもって あなたの親愛な アルバート=アインシュタイン です」 という懐かしい言葉が添えられてました。かくて十月八日マルセイユ出帆の北野丸に塔乗して十一月十七日に神戸に到着されたのです。私たちはそれを神戸で出迎えましたが、東京帝大の長岡教授、九州帝大の桑木教授、東北帝大の愛知教授なども来合わせられました。天候が悪く船がやや遅れたので、その日は京都に着いたのも日暮れになってしまい、都ホテルで一泊の後、翌日直ちに東京に向かわれたのでした。それから東京、仙台、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡の各地で講演を行ない、十二月二十九日に榛名丸に門司で乗船して帰国の途に就かれたのでしたが、それらの間に夫人とともに諸所の風光に接し、また東洋の芸術を見て驚異の感に打たれられたようでもありました。そのとき私が記した文をここに再録して記念としたいと思います。"
アインシュタイン教授を日本に招聘する事を決めたのは誰ですか。
改造社の山本実彦氏が京都帝国大学の西田教授と相談して教授を招聘することを決定しました。
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歴史
「世界中のいろいろな有様を見るのは自分にとってほんとうに望ましいことです。自分は夢のなかで見たような日本を知りたいので、この旅行に来ました。実際私は日本ほど特殊な興味を感ずるところはありません」と、教授はいつも私たちに話されました。「科学と芸術とは外見の上では異なっているけれども、それでも両者はこれらが湧き出る同じ精神力を通じて密接に互いに関連している」と、教授は筆をとって書かれたこともありました。「科学は一つの宗教である」という言葉も書かれていました。教授は科学者ではあっても、芸術を人間の永遠の尊い仕事として、同様に強く愛好していました。それで科学の対象としての自然のほかに、芸術の対象としての自然もよく観てみようと思いました。そしてこの意味で遠く離れた日本の山河や田園や風俗や、さらにヨーロッパの芸術とはまるで異なっている東洋の固有の芸術に対して多大の興味を抱かれたので、講演の合間合間にそれらのものに接することに大きな喜びを感じてらっしゃったのでした。  柔らかな愛らしい自然のなかに、小さな木造の家を建てて簡素に住んでいる穏やかな心の人たちとして、この国の生活をゆかしく印象づけたのも、これによるものでした。ヨーロッパのような生存競争の激しい深刻さのないことが、すべての人たちの感情をどれほどゆるやかに伸び伸びとさせ、美しい家族的親愛さをたたえさせているのであろうと、これをうらやまれました。もとより近代の生活がそれをだんだんと薄くなっていくことにも気づかれはしたでしょうが、しかしヨーロッパに全く欠けているいろいろな美点をここに見出だして、そういう有様が現実に存在しているのを目撃したことをよろこばれました。教授のおだやかな性格には日本の人たちがどこか遠慮ぶかいつつましさをそなえていることをゆかしくも思われたのでした。なんというはにかましい可憐な心の持ち主であろうと、日本の女性を見られもしたのでした。  そしてこのような特殊な環境のなかにこそ特殊な芸術がおのずから育つのであるとも、教授は思われたのです。能楽のしっとりと落ちついたゆるやかさのなかに、象徴的な複雑さを含んだ緊張しきった動作があるのに、むしろ驚異の感を抱かされたのでした。冥想的な哲学的なこころに浸たされて、教授はいつまでもそのまえに座ろうとせられました。またそれとともに一方では古代的な要素を多く含んでいる雅楽にも異常な興味を感ぜられました。東洋風な古画に接しては、陰影をもたないはっきりした輪廓線の鋭さにいつも眼をつけられました。また写実や投射法を無視した構図に対しても、そのひとりでに感情に導かれて、それらが少しも観照を妨げないことに注目されました。諸所の神社仏閣における彫刻や建築にも少なからぬ興味をひかれたのでした。しかしそれらのなかで最も深く教授を感激させたのは、京都の仙洞御所のなかで清涼殿の前庭をかこんだ一帯のおもむきであったのです。そこにはきれいな箒目を縦横にした白砂で埋まった四角な広い庭があり、それをとり囲んで二方にはすっきりとした廊下の半ばに白い腰付きの障子が並んでいました。西側は清涼殿のおもてで、黄いろい簾が紅の紐で結ばれ、黒瓦の下に平行にかかっているのが見られます。南側には紫宸殿の後ろ側の板戸がありました。「なんという瀟洒なこころよい建築であろう。私は未だかつてこんな気もちの安らかなものを見たことはない」と、教授はほんとうに驚きの表情に満ちてそこにたたずまれていました。砂を敷いた庭の一隅に一叢のわずかばかりの竹林が四角に囲われて立っており、そこからやや隔たって二、三本の竹があるだけで、他には静寂のほか何もないのでした。昔は朝になると、この竹林に小鳥が来てさえずるので、それで時刻を知ったのだという説明を、非常におもしろがって聞かれました。もうずっと先方へゆかれた夫人を呼び戻してこの話を繰り返して話されたほどでした、明け放しな宮廷の寒さを身に覚えながら、昔は火の気もおかれなかったことや、宮廷内では三十七歳をこえるまでは、冬足袋たびもゆるされずに素裸足すはだしでいなければならなかったことなどを聞かれて、ふしぎな夢物語のようにも思われたようでした。かような場所を中心にしてなだらかな美しい山々で囲まれた京都の一帯は、教授に最も深い印象を与えたので、そのあたりのいろいろな風光に接するのをこの上ない楽しみとおっしゃられたのでした。
アインシュタインは日本をどう思っていましたか。
「世界中のいろいろな有様を見るのは自分にとってほんとうに望ましいことです。自分は夢のなかで見たような日本を知りたいので、この旅行に来ました。実際私は日本ほど特殊な興味を感ずるところはありません」と、教授はいつも私たちに話されました。
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歴史
「世界中のいろいろな有様を見るのは自分にとってほんとうに望ましいことです。自分は夢のなかで見たような日本を知りたいので、この旅行に来ました。実際私は日本ほど特殊な興味を感ずるところはありません」と、教授はいつも私たちに話されました。「科学と芸術とは外見の上では異なっているけれども、それでも両者はこれらが湧き出る同じ精神力を通じて密接に互いに関連している」と、教授は筆をとって書かれたこともありました。「科学は一つの宗教である」という言葉も書かれていました。教授は科学者ではあっても、芸術を人間の永遠の尊い仕事として、同様に強く愛好していました。それで科学の対象としての自然のほかに、芸術の対象としての自然もよく観てみようと思いました。そしてこの意味で遠く離れた日本の山河や田園や風俗や、さらにヨーロッパの芸術とはまるで異なっている東洋の固有の芸術に対して多大の興味を抱かれたので、講演の合間合間にそれらのものに接することに大きな喜びを感じてらっしゃったのでした。  柔らかな愛らしい自然のなかに、小さな木造の家を建てて簡素に住んでいる穏やかな心の人たちとして、この国の生活をゆかしく印象づけたのも、これによるものでした。ヨーロッパのような生存競争の激しい深刻さのないことが、すべての人たちの感情をどれほどゆるやかに伸び伸びとさせ、美しい家族的親愛さをたたえさせているのであろうと、これをうらやまれました。もとより近代の生活がそれをだんだんと薄くなっていくことにも気づかれはしたでしょうが、しかしヨーロッパに全く欠けているいろいろな美点をここに見出だして、そういう有様が現実に存在しているのを目撃したことをよろこばれました。教授のおだやかな性格には日本の人たちがどこか遠慮ぶかいつつましさをそなえていることをゆかしくも思われたのでした。なんというはにかましい可憐な心の持ち主であろうと、日本の女性を見られもしたのでした。  そしてこのような特殊な環境のなかにこそ特殊な芸術がおのずから育つのであるとも、教授は思われたのです。能楽のしっとりと落ちついたゆるやかさのなかに、象徴的な複雑さを含んだ緊張しきった動作があるのに、むしろ驚異の感を抱かされたのでした。冥想的な哲学的なこころに浸たされて、教授はいつまでもそのまえに座ろうとせられました。またそれとともに一方では古代的な要素を多く含んでいる雅楽にも異常な興味を感ぜられました。東洋風な古画に接しては、陰影をもたないはっきりした輪廓線の鋭さにいつも眼をつけられました。また写実や投射法を無視した構図に対しても、そのひとりでに感情に導かれて、それらが少しも観照を妨げないことに注目されました。諸所の神社仏閣における彫刻や建築にも少なからぬ興味をひかれたのでした。しかしそれらのなかで最も深く教授を感激させたのは、京都の仙洞御所のなかで清涼殿の前庭をかこんだ一帯のおもむきであったのです。そこにはきれいな箒目を縦横にした白砂で埋まった四角な広い庭があり、それをとり囲んで二方にはすっきりとした廊下の半ばに白い腰付きの障子が並んでいました。西側は清涼殿のおもてで、黄いろい簾が紅の紐で結ばれ、黒瓦の下に平行にかかっているのが見られます。南側には紫宸殿の後ろ側の板戸がありました。「なんという瀟洒なこころよい建築であろう。私は未だかつてこんな気もちの安らかなものを見たことはない」と、教授はほんとうに驚きの表情に満ちてそこにたたずまれていました。砂を敷いた庭の一隅に一叢のわずかばかりの竹林が四角に囲われて立っており、そこからやや隔たって二、三本の竹があるだけで、他には静寂のほか何もないのでした。昔は朝になると、この竹林に小鳥が来てさえずるので、それで時刻を知ったのだという説明を、非常におもしろがって聞かれました。もうずっと先方へゆかれた夫人を呼び戻してこの話を繰り返して話されたほどでした、明け放しな宮廷の寒さを身に覚えながら、昔は火の気もおかれなかったことや、宮廷内では三十七歳をこえるまでは、冬足袋たびもゆるされずに素裸足すはだしでいなければならなかったことなどを聞かれて、ふしぎな夢物語のようにも思われたようでした。かような場所を中心にしてなだらかな美しい山々で囲まれた京都の一帯は、教授に最も深い印象を与えたので、そのあたりのいろいろな風光に接するのをこの上ない楽しみとおっしゃられたのでした。
アインシュタインは科学と芸術をどう考えていましたか。
「科学と芸術とは外見の上では異なっているけれども、それでも両者はこれらが湧き出る同じ精神力を通じて密接に互いに関連している」と、教授は筆をとって書かれたこともありました。
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歴史
アインシュタインは相対性原理で世界に名を知られているが、その原理をわきまえている人は何人いるかわからない。古典化した物理学を刷新して、そのやぼったさを払拭した一人であることは異論ないのである。  彼は十八歳の頃から時間空間の問題に悩み、七年後、二十六歳でついに特殊相対性原理を発表することができた。その導きだした方程式はローレンツ変換と同じであるが、意味は全く異なっている。 何個か例を挙げれば、真空内の光の速度はいつでも同一で、限界速度であるとみるべきである。エーテルは無意味である。従来の速度の合成は修正しなければならない。 また、古典式の幾何学は変更する必要がある。エネルギー保存の法則と物質保存の法則が不可分のものであるなどと説き、更にこれをまとめた一般相対性原理においては宇宙観を述べて、 万有引力論や光が引力場によって曲げられることや、極星のように大きな重力場から発する力は、波長が長くなるなどを論じた。 これらは古典的な人には思いがけない事であったから、非難も誹謗もあったが、ユダヤ系の学者はこれを支持する本を書いて褒めたたえた。一九一四年にベルリン学士院会員に加え大学教授に任命されました。 この時のアインシュタインは三十五歳だったため、いかに彼が優れていたかがわかるだろう。
アインシュタインが特殊相対性理論を発表したのは何歳ですか。
彼は十八歳の頃から時間空間の問題に悩み、七年後、二十六歳でついに特殊相対性原理を発表することができた。
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歴史
教授はいつも親しく接していた人たちに対して親しさを持っていました。時には自分で冗談やジョークを言って笑っていました。ホテルでの食事でしきりに献立表から何かを選ぼうとしている人を見ると、「これはいくら研究したってわからないものの一つでくじを引くようなものです。あんなにむだに頭をつかっていては、その人の食事はうまさを失うでしょう。だから、自分はいつも妻に任せている」と言われ、私が同じものを注文すると、「講演で我々ふたりはいつも組になるのだから、食皿も同じにしてもいいですね」と笑われました。名古屋城内で襖に描かれた虎の絵を見て、「経済学者の顔のようだ」と言われたり、熱田神宮で手洗いの浄水溜めを見て、「神聖の水は危険だ」とからかったり、大阪で講演半ばの休憩時間に忙がしく食事を取ったときに、「もう少しいかがですか」とすすめるの山本氏に対し、「歌う鳥はたくさんは食べません」と答えられたりしました。岡本一平氏が東京朝日に書いた漫画を見て、それに添えた文章をいつも付き添っていた稲垣氏に訳させてはいかにも無邪気に笑っていました。真摯な一面にはそういう明るい上品な笑いが常にこもっていました。また機会があると、ヴァイオリンを手にして私たちにもそれを喜んで聞かせてくれました。帝国ホテルでの歓迎会の席上でも演奏していましたが、名古屋では医科大学にいられたミハエリス教授とともにホテルの一室で合奏して午後の半日を楽しまれました。夫人が「私の夫は物理学者にならないで音楽家になっても成功したにちがいありません」と言われ、また「あれがあまりうますぎるので、私はそれ以来楽器を手にするのをやめました」と言われたりしましたが、実際にそういうとき教授はほんとうの芸術家の気分に浸って演奏されるのでした。  教授は派手な歓迎会などはあまり喜ばず、それよりも静かな休息時間の方がはるかにいいとさえ言われました。アメリカ化された建築物や、やかましい音楽なども好まれませんでした。 私がアメリカをまだ見たことがないということを話したら、「あんな国にゆくものでは決してない。あそこはすべて金銭ばかりの一次元の世界だから」と答えられました。「ただアメリカでとるべきところは民主的である点だけだ」とも言われました。人情的に見てスイスやオランダなどは好まれていたようですが、ドイツはかなり嫌われていました。教授をドイツ人として歓迎したり、またドイツ人仲間の会合が催されたときには、私たちをみて「また黒赤黄いろだ」と苦笑したりしていました。世界大戦中にはスイスに行っていたことなどを話されたこともありました。
私がアメリカをまだ見たことがないということを話したらアインシュタインは何を言いましたか。
私がアメリカをまだ見たことがないということを話したら、「あんな国にゆくものでは決してない。あそこはすべて金銭ばかりの一次元の世界だから」と答えられました。「ただアメリカでとるべきところは民主的である点だけだ」とも言われました。
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歴史
現存する坂本龍馬の写真を見ると、身だしなみに無頓着で、むさくるしく、いかにもぱっとしない浪士といった格好である。  家族の話によると、龍馬が常用していた黒羽二重の紋付羽織袴は、いつも膝の下30センチあたりのところが、ピカピカ油染みで光っていた。  鼻をこすって、何かというと得意がる癖があったという。一日に五回も六回もこれをやっていたという。  酒は大酒のみとはいえず寧ろ喰い意地の方が汚かった。クチャクチャと口に唾をため、よく乾いた昆布などを噛んでいた。  誰が見ても粗野な見た目の中に、もし天才的なものを求めるなら、それはあの眼つき。少し腫れぼったいから、恐らくは近眼だったのだろう。  ただし、遠くをみて、物思いにふけるようなかすかな憂いの気は常人のそれではなかった。  龍馬を語る者は、必ず彼を「土佐勤皇党の彗星」と呼ぶ。計り知れない彼の行動は、大衆文学のヒーローとしては申し分がない。 誰でも、その姿に喝采し、大きな声を上げるに違いない。  龍馬は天保六年十一月に、高知本町一丁目に生まれた。彼の先祖は長宗我部氏に仕えていた。  郷士はどの地方でも、武士の下っ端だったが、土佐藩では特にこの差別待遇が凄まじかった。  維新の政変とは、ある意味でいえば、上級武士に対する下級武士の挑戦である。  下級武士が現状打破を叫ぶ余り、その論調が討幕論に走り、上級武士は現状維持の建前から、佐幕論となり、公武合体論を唱えたのは各藩を通じての大体の情勢であった。  土佐でも、その例に洩れず、勤皇論は、その軽輩武士の間に起こった。  その代表者が、武市半平太と坂本龍馬である。  武市はおちついていて、物事に動じない男だったが、顎が突き出ていたので、あだ名を「アゴ」と言われていた。  龍馬は江戸から帰って来るとまず、 「アゴは相変わらず窮屈なことをいってるのか」  といえば、半平太も負けずに、 「痣が帰国したようだが、また大ボラを吹いているんだろうな」  とそばにいた者に言った。  悪口は言い合っていたが、互いのことを頼もしく思ってもいた。  痣とは龍馬の背中にある痣で、やっぱりあだ名になっていた。 龍馬はこの痣を小供の様に恥ずかしがって、いつもメリヤスのシャツを着て、昔から人前で肌を見せたことがなかった。  とにかく、この応酬は二人の性格をよく現していた。窮屈と大法螺は、土佐人の特徴である。 前者の特徴を持っているものには板垣退助がおり、大法螺の無軌道型には後藤象二郎がいる。  龍馬がもっぱら修めたのは、剣術と航海術だったが、文学も相当のものだった。文字もへただったが、一種の風格を備えていた。  勘のよかったことには一寸の隙もなかった。  ある時、蘭学者の和蘭政体論を聴講中に龍馬は突然立ち上がって、 「先生、どうも原義を誤っている様です。今一度お調べください」と言った。  学者がそんなことはない、と突っぱねると、 「それでは原義が条理を失っているわけですな」  という。  念の為に調べてみると、原義と学者の講義はちがっていた。先生も顔を赤くして、訂正したという逸話がある。 「江戸から帰ってきた痣の奴は近頃読書しているようだ」  と、友人達が押しかけて行くと、龍馬は「資治通鑑」の白文を棒読みにしている。訓点も何もない。それでいて、内容はしっかりと理解していたのである。
坂本龍馬に癖はありましたか。
龍馬が常用していた黒羽二重の紋付羽織袴は、いつも膝の下30センチあたりのところが、ピカピカ油染みで光っていた。鼻をこすって、何かというと得意がる癖があったという。
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歴史
現存する坂本龍馬の写真を見ると、身だしなみに無頓着で、むさくるしく、いかにもぱっとしない浪士といった格好である。  家族の話によると、龍馬が常用していた黒羽二重の紋付羽織袴は、いつも膝の下30センチあたりのところが、ピカピカ油染みで光っていた。  鼻をこすって、何かというと得意がる癖があったという。一日に五回も六回もこれをやっていたという。  酒は大酒のみとはいえず寧ろ喰い意地の方が汚かった。クチャクチャと口に唾をため、よく乾いた昆布などを噛んでいた。  誰が見ても粗野な見た目の中に、もし天才的なものを求めるなら、それはあの眼つき。少し腫れぼったいから、恐らくは近眼だったのだろう。  ただし、遠くをみて、物思いにふけるようなかすかな憂いの気は常人のそれではなかった。  龍馬を語る者は、必ず彼を「土佐勤皇党の彗星」と呼ぶ。計り知れない彼の行動は、大衆文学のヒーローとしては申し分がない。 誰でも、その姿に喝采し、大きな声を上げるに違いない。  龍馬は天保六年十一月に、高知本町一丁目に生まれた。彼の先祖は長宗我部氏に仕えていた。  郷士はどの地方でも、武士の下っ端だったが、土佐藩では特にこの差別待遇が凄まじかった。  維新の政変とは、ある意味でいえば、上級武士に対する下級武士の挑戦である。  下級武士が現状打破を叫ぶ余り、その論調が討幕論に走り、上級武士は現状維持の建前から、佐幕論となり、公武合体論を唱えたのは各藩を通じての大体の情勢であった。  土佐でも、その例に洩れず、勤皇論は、その軽輩武士の間に起こった。  その代表者が、武市半平太と坂本龍馬である。  武市はおちついていて、物事に動じない男だったが、顎が突き出ていたので、あだ名を「アゴ」と言われていた。  龍馬は江戸から帰って来るとまず、 「アゴは相変わらず窮屈なことをいってるのか」  といえば、半平太も負けずに、 「痣が帰国したようだが、また大ボラを吹いているんだろうな」  とそばにいた者に言った。  悪口は言い合っていたが、互いのことを頼もしく思ってもいた。  痣とは龍馬の背中にある痣で、やっぱりあだ名になっていた。 龍馬はこの痣を小供の様に恥ずかしがって、いつもメリヤスのシャツを着て、昔から人前で肌を見せたことがなかった。  とにかく、この応酬は二人の性格をよく現していた。窮屈と大法螺は、土佐人の特徴である。 前者の特徴を持っているものには板垣退助がおり、大法螺の無軌道型には後藤象二郎がいる。  龍馬がもっぱら修めたのは、剣術と航海術だったが、文学も相当のものだった。文字もへただったが、一種の風格を備えていた。  勘のよかったことには一寸の隙もなかった。  ある時、蘭学者の和蘭政体論を聴講中に龍馬は突然立ち上がって、 「先生、どうも原義を誤っている様です。今一度お調べください」と言った。  学者がそんなことはない、と突っぱねると、 「それでは原義が条理を失っているわけですな」  という。  念の為に調べてみると、原義と学者の講義はちがっていた。先生も顔を赤くして、訂正したという逸話がある。 「江戸から帰ってきた痣の奴は近頃読書しているようだ」  と、友人達が押しかけて行くと、龍馬は「資治通鑑」の白文を棒読みにしている。訓点も何もない。それでいて、内容はしっかりと理解していたのである。
坂本龍馬は自分の痣のことをどう思っていましたか。
龍馬はこの痣を小供の様に恥ずかしがって、いつもメリヤスのシャツを着て、昔から人前で肌を見せたことがなかった。
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歴史
現存する坂本龍馬の写真を見ると、身だしなみに無頓着で、むさくるしく、いかにもぱっとしない浪士といった格好である。  家族の話によると、龍馬が常用していた黒羽二重の紋付羽織袴は、いつも膝の下30センチあたりのところが、ピカピカ油染みで光っていた。  鼻をこすって、何かというと得意がる癖があったという。一日に五回も六回もこれをやっていたという。  酒は大酒のみとはいえず寧ろ喰い意地の方が汚かった。クチャクチャと口に唾をため、よく乾いた昆布などを噛んでいた。  誰が見ても粗野な見た目の中に、もし天才的なものを求めるなら、それはあの眼つき。少し腫れぼったいから、恐らくは近眼だったのだろう。  ただし、遠くをみて、物思いにふけるようなかすかな憂いの気は常人のそれではなかった。  龍馬を語る者は、必ず彼を「土佐勤皇党の彗星」と呼ぶ。計り知れない彼の行動は、大衆文学のヒーローとしては申し分がない。 誰でも、その姿に喝采し、大きな声を上げるに違いない。  龍馬は天保六年十一月に、高知本町一丁目に生まれた。彼の先祖は長宗我部氏に仕えていた。  郷士はどの地方でも、武士の下っ端だったが、土佐藩では特にこの差別待遇が凄まじかった。  維新の政変とは、ある意味でいえば、上級武士に対する下級武士の挑戦である。  下級武士が現状打破を叫ぶ余り、その論調が討幕論に走り、上級武士は現状維持の建前から、佐幕論となり、公武合体論を唱えたのは各藩を通じての大体の情勢であった。  土佐でも、その例に洩れず、勤皇論は、その軽輩武士の間に起こった。  その代表者が、武市半平太と坂本龍馬である。  武市はおちついていて、物事に動じない男だったが、顎が突き出ていたので、あだ名を「アゴ」と言われていた。  龍馬は江戸から帰って来るとまず、 「アゴは相変わらず窮屈なことをいってるのか」  といえば、半平太も負けずに、 「痣が帰国したようだが、また大ボラを吹いているんだろうな」  とそばにいた者に言った。  悪口は言い合っていたが、互いのことを頼もしく思ってもいた。  痣とは龍馬の背中にある痣で、やっぱりあだ名になっていた。 龍馬はこの痣を小供の様に恥ずかしがって、いつもメリヤスのシャツを着て、昔から人前で肌を見せたことがなかった。  とにかく、この応酬は二人の性格をよく現していた。窮屈と大法螺は、土佐人の特徴である。 前者の特徴を持っているものには板垣退助がおり、大法螺の無軌道型には後藤象二郎がいる。  龍馬がもっぱら修めたのは、剣術と航海術だったが、文学も相当のものだった。文字もへただったが、一種の風格を備えていた。  勘のよかったことには一寸の隙もなかった。  ある時、蘭学者の和蘭政体論を聴講中に龍馬は突然立ち上がって、 「先生、どうも原義を誤っている様です。今一度お調べください」と言った。  学者がそんなことはない、と突っぱねると、 「それでは原義が条理を失っているわけですな」  という。  念の為に調べてみると、原義と学者の講義はちがっていた。先生も顔を赤くして、訂正したという逸話がある。 「江戸から帰ってきた痣の奴は近頃読書しているようだ」  と、友人達が押しかけて行くと、龍馬は「資治通鑑」の白文を棒読みにしている。訓点も何もない。それでいて、内容はしっかりと理解していたのである。
坂本龍馬は文武両道でしたか。
龍馬がもっぱら修めたのは、剣術と航海術だったが、文学も相当のものだった。文字もへただったが、一種の風格を備えていた。
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歴史
文久二年八月、龍馬は江戸に向かい、剣客である千葉重太郎と共に、氷川にある勝海舟の家を訪れた。  世間の評判通りに、勝が開国論者で売国奴だったなら刺し殺すつもりだったのである。  案内されるままに海舟の室に入り、次の間で帯刀をほどこうとすると、 「時節柄刀を放すのは武士の油断だ。そのままでお入りなさい」  という。  一礼して座に着くと、勝は姿勢を正して、 「今日は拙者を刺しに来たのだな。隠しても駄目だ。気を使っているのがわかる」  と一喝しておいて、「死ぬも生きるも命次第だ、私には避けようがない。ただまずは私の胸の内の熱い思いを聞いてくれ。その後に理由があるなら従おう」  と言って、欧米海軍の盛大である事と、その持論である海軍振興策をとうとうと話した。  勝は万延元年に、幕府の遣米使の一人として、海外の新文明に接しているのである。  その話は広く物事に通じており、また要点を巧みに探り当てていることを、田舎者の龍馬にしたらただ呆然として聞いていたのだろう。  ものにこだわらない龍馬のことだ。すぐに海舟の門人になることを申し込んだ。  龍馬はこの時の喜びを、率直に故郷の姉に告げている。 「人間の一生なんて何が起こるかわからない、運の悪い者は風呂から出ようとして睾丸を爪で割って死ぬ奴だっている、 それと比べたら私は運が強く、死ねる場所へ出ても死ぬことはできない。自分で死のうと思っても生きねばならならない、 今では日本一の人物である勝麟太郎殿という方の弟子となり、思いついた事を一生懸命頑張っている日々だ」  龍馬は元来倒幕論者だ。それが幕臣である勝海舟に心服したのは、海舟の中に時流に超越した、一種の人格を認めたからである。  海舟も同時に龍馬の天禀の才を認めていた。  かつて龍馬が西郷隆盛を評して、 「馬鹿も馬鹿、あいつは底の知れぬ大馬鹿である。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴り」  と放語したのに三嘆し、その日記に、 「評する人も評する人、評価される人も評価せらるる人」と特記した。  坂本は西郷の様に、所謂大馬鹿に成り切れぬところに、その長所があり、短所があったわけである。
坂本龍馬が勝海舟の弟子になったのはなぜですか。
龍馬は元来倒幕論者だ。それが幕臣である勝海舟に心服したのは、海舟の中に時流に超越した、一種の人格を認めたからである。
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歴史
文久二年八月、龍馬は江戸に向かい、剣客である千葉重太郎と共に、氷川にある勝海舟の家を訪れた。  世間の評判通りに、勝が開国論者で売国奴だったなら刺し殺すつもりだったのである。  案内されるままに海舟の室に入り、次の間で帯刀をほどこうとすると、 「時節柄刀を放すのは武士の油断だ。そのままでお入りなさい」  という。  一礼して座に着くと、勝は姿勢を正して、 「今日は拙者を刺しに来たのだな。隠しても駄目だ。気を使っているのがわかる」  と一喝しておいて、「死ぬも生きるも命次第だ、私には避けようがない。ただまずは私の胸の内の熱い思いを聞いてくれ。その後に理由があるなら従おう」  と言って、欧米海軍の盛大である事と、その持論である海軍振興策をとうとうと話した。  勝は万延元年に、幕府の遣米使の一人として、海外の新文明に接しているのである。  その話は広く物事に通じており、また要点を巧みに探り当てていることを、田舎者の龍馬にしたらただ呆然として聞いていたのだろう。  ものにこだわらない龍馬のことだ。すぐに海舟の門人になることを申し込んだ。  龍馬はこの時の喜びを、率直に故郷の姉に告げている。 「人間の一生なんて何が起こるかわからない、運の悪い者は風呂から出ようとして睾丸を爪で割って死ぬ奴だっている、 それと比べたら私は運が強く、死ねる場所へ出ても死ぬことはできない。自分で死のうと思っても生きねばならならない、 今では日本一の人物である勝麟太郎殿という方の弟子となり、思いついた事を一生懸命頑張っている日々だ」  龍馬は元来倒幕論者だ。それが幕臣である勝海舟に心服したのは、海舟の中に時流に超越した、一種の人格を認めたからである。  海舟も同時に龍馬の天禀の才を認めていた。  かつて龍馬が西郷隆盛を評して、 「馬鹿も馬鹿、あいつは底の知れぬ大馬鹿である。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴り」  と放語したのに三嘆し、その日記に、 「評する人も評する人、評価される人も評価せらるる人」と特記した。  坂本は西郷の様に、所謂大馬鹿に成り切れぬところに、その長所があり、短所があったわけである。
坂本龍馬は西郷隆盛をどう思っていましたか。
龍馬が西郷隆盛を評して、「馬鹿も馬鹿、あいつは底の知れぬ大馬鹿である。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴り」と放語した。
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歴史
 お伊勢参りを終えた直後に熱が出て松原で二十三日ほど寝倒れていたが近所の坊主が親切にしてくれた、様子を見に来ては粥などを恵んでくれた。 ようやく動けるようになったから、坊主に礼を言って、杖にすがりながら一日に一里ぐらいずつ歩き、疲れると乞食の穴へ入れてもらって六~七日ほど休息したが、 食べ物は自分で貰いにでる必要があるから村へ物乞いに行くと、番太郎の六尺棒にぶん殴られて村の外へつまみだされるというように、乞食生活も病気になると楽ではない。 とはいえ、時にはウチで奉公しろとか、ウチの子供になれ、とか言ってくる人もいたが、五~六日いると窮屈で、長い期間滞在することはできなかった。 また乞食になってはブラブラ歩くうちに崖から落ちてキンタマを打って気絶したのが元でキンタマが腫れて膿がしたたるようになり閉口して江戸のわが家へ戻ったが、 キンタマがくずれて立つことも座る事もできず、二年間外出できなかった。  よくよくキンタマに祟られた親子で、海舟も九歳の年に病犬にキンタマをかまれた。狂犬病は治らんというから、これは狂犬ではなかったのかも知れん。 しかし死の手前をさまよい、七十日間床についた。外科の医者がふるえて海舟のキンタマを縫えないから、オヤジが刀を子供の枕元へ突っ立ってて大いに力んでキンタマを縫ってやったら海舟も泣かなかった。しかし命は今晩どうなるかさえわからないと医者が言うから、家の者は泣くばかりで何もできない。 オヤジは非常に怒ってその日から毎日毎晩水を浴びて金比羅様へ裸参りをし、始終海舟を抱いて寝て誰にも触らせず、 毎日毎日あばれたから(但し、あばれたのはオヤジ自身の方である。なぜ暴れたか意味不明)近所の者はあの剣術使いは子供が犬に食われてオヤジが狂ったと言った。狂犬病の発狂状態をオヤジが引き受けたせいか、海舟は七十日寝て治ったのである。「夢酔独言」に曰く「それから今になんともないから病人は看病がかんじんだよ」と書かれている。
オヤジは非常に怒ってその日から毎日毎晩何をしましたか。
オヤジは非常に怒ってその日から毎日毎晩水を浴びて金比羅様へ裸参りをしました。
JCRRAG_012153
歴史
日本と南洋諸国、すなわち呂宋、マカオ、安南、東京、占城、カンボジア、シャム、パタニ等と貿易をしたのは相当古くからであるが、それらの国々へ渡航する船舶に対し、官許の免許状(朱印)を与えて、公に貿易を許可したのは豊臣秀吉である。 それは我国の文禄元年、西暦の一五九二年のことであり、それ以来御朱印船は、呂宋のマニラ市を中心として、南洋貿易を営み、平和のうちに巨利を博した。 朱印を許した秀吉は、それらの船がもってきた珍奇な器物を進呈されて心を喜ばせていた。  それなのに、その秀吉が南洋、主に呂宋に対して経略の手を延ばしたのは原田孫七郎の進言があったからである。 原田孫七郎は、その兄である喜右衛門と共にマニラに住んで貿易業を営んで大成功していた。 賢く大胆で知略があり、イスパニア語に通じており、呂宋のみならずフィリピン群島全体の事情に精通していたが、日本に帰朝するや秀吉に謁見し、フィリピンの現状を語った上「その本国イスパニアは、宗教政策を利用し、他国を侵略することを常套手段といたしおりまして今にしてフィリピンを、日本に攻略しなければ、イスパニアによって、かえって日本こそ侵略されるでしょう」と進言した。丁度そのころ秀吉は征韓の志を起しており、軍備や兵糧を充実させた時であったから、天性の豪気を爆発させすぐに呂宋の総督マリニャス宛てに降伏を勧める書を書き、最後に「来春、九州肥前に進軍させすぐさま、旗を降ろして降参すべし。もしはいつくばって遅延するようならすぐ征伐するだろう」と記させた。何という恫喝的な、強硬な外交文書であろうか。  ところでその結果はどうなったかというと、マニラに戻った孫七郎の手によってこの文書を渡された総督のマリニャスは、憤慨したものの、折柄本国のイスパニアが、オランダと事を構えていて国家存亡の際だったので、日本と抗争状態に入ることをおそれ、僧侶コボスと船長リヤノという者を使者として日本に遣わしたことで、秀吉を懐柔しようという策を考えた。 一応、秀吉の強硬外交は成功したのであった。 しかしマニラ総督が貢を入れるとも降服するとも申し出なかったから、更に第二の文書を孫七郎の兄である喜右衛門の手からマニラ総督に渡させた。「もし今後毎年ごとに貢ぎ物をよこすなら、出征を見合わしてもよい」という意味の文書であった。 マニラ総督はこの文書を見ると又憤慨したものの、やはり本国イスパニアの事情が事情だったので、又も懐柔手段をとり、喜右衛門に船長カルバリコと宣教師三名を付け、返書と土産物とを添えて日本へ遣わした。 その使者が日本へ渡り、秀吉に謁見して発言したのは、降伏ではなくて通商同盟の問題であった。そこで秀吉は通訳を通してこう言った。 「私の母は日輪胎に入ることを夢見て私を産んだ。占い師はこれを占い、この子はやがて世界を統一するであろうと言った。 しかし我が国には万世一系の天皇がいる。よって私は先に朝鮮を武力で治め、支那に和平を求めて、王女をわが皇室に献上すると約束した。だが彼はこの盟約を破ってしまったのでふたたび兵を出して征服しようとしている。船を進ませて呂宋に入るのは簡単なことである。呂宋の大守は早く私に降伏せよ。そうでなければ近いうちに討伐を受けるであろう」  しかしマニラ総督の使者は、 「私どもは国交を修めるために参りましたものでありますから殿下のご要求にお答えするには改めて総督からの訓令を待たなければなりません。使者を出して回答が来るまで私どもを人質として日本に置いて下さいますようお願いします」と言った。  ごもっともな言葉であったので秀吉はその乞いを許したが、その後そのマニラの使者の中の三人の宣教師が、人質として日本にとどまったのは、その実、キリシタン布教のためであり、布教の真の目的は、日本侵略のためであることを探知し、宣教師と、日本の信徒二十六人とを刑戮し、その後、そのことに就いて、マニラ総督より抗議の使者が来るや「治外法権の設定なき以上、各国の在留人は、日本の法律に従うべきである」とつっぱね、あくまで強硬外交の実を示した。  しかし秀吉は、その後間もなく慶長三年に亡くなったので、折角の対呂宋強硬外交も、実利的の実は結ばなかった。  しかし、その後に天下を治めた徳川家康の南洋政策に対し、その秀吉の対呂宋強硬外交は、日本の武威を示しておいてくれたという点で大変役に立った。
豊臣秀吉が呂宋に侵攻したのはなぜですか。
秀吉が南洋、主に呂宋に対して経略の手を延ばしたのは原田孫七郎の進言があったからである。
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歴史
日本と南洋諸国、すなわち呂宋、マカオ、安南、東京、占城、カンボジア、シャム、パタニ等と貿易をしたのは相当古くからであるが、それらの国々へ渡航する船舶に対し、官許の免許状(朱印)を与えて、公に貿易を許可したのは豊臣秀吉である。 それは我国の文禄元年、西暦の一五九二年のことであり、それ以来御朱印船は、呂宋のマニラ市を中心として、南洋貿易を営み、平和のうちに巨利を博した。 朱印を許した秀吉は、それらの船がもってきた珍奇な器物を進呈されて心を喜ばせていた。  それなのに、その秀吉が南洋、主に呂宋に対して経略の手を延ばしたのは原田孫七郎の進言があったからである。 原田孫七郎は、その兄である喜右衛門と共にマニラに住んで貿易業を営んで大成功していた。 賢く大胆で知略があり、イスパニア語に通じており、呂宋のみならずフィリピン群島全体の事情に精通していたが、日本に帰朝するや秀吉に謁見し、フィリピンの現状を語った上「その本国イスパニアは、宗教政策を利用し、他国を侵略することを常套手段といたしおりまして今にしてフィリピンを、日本に攻略しなければ、イスパニアによって、かえって日本こそ侵略されるでしょう」と進言した。丁度そのころ秀吉は征韓の志を起しており、軍備や兵糧を充実させた時であったから、天性の豪気を爆発させすぐに呂宋の総督マリニャス宛てに降伏を勧める書を書き、最後に「来春、九州肥前に進軍させすぐさま、旗を降ろして降参すべし。もしはいつくばって遅延するようならすぐ征伐するだろう」と記させた。何という恫喝的な、強硬な外交文書であろうか。  ところでその結果はどうなったかというと、マニラに戻った孫七郎の手によってこの文書を渡された総督のマリニャスは、憤慨したものの、折柄本国のイスパニアが、オランダと事を構えていて国家存亡の際だったので、日本と抗争状態に入ることをおそれ、僧侶コボスと船長リヤノという者を使者として日本に遣わしたことで、秀吉を懐柔しようという策を考えた。 一応、秀吉の強硬外交は成功したのであった。 しかしマニラ総督が貢を入れるとも降服するとも申し出なかったから、更に第二の文書を孫七郎の兄である喜右衛門の手からマニラ総督に渡させた。「もし今後毎年ごとに貢ぎ物をよこすなら、出征を見合わしてもよい」という意味の文書であった。 マニラ総督はこの文書を見ると又憤慨したものの、やはり本国イスパニアの事情が事情だったので、又も懐柔手段をとり、喜右衛門に船長カルバリコと宣教師三名を付け、返書と土産物とを添えて日本へ遣わした。 その使者が日本へ渡り、秀吉に謁見して発言したのは、降伏ではなくて通商同盟の問題であった。そこで秀吉は通訳を通してこう言った。 「私の母は日輪胎に入ることを夢見て私を産んだ。占い師はこれを占い、この子はやがて世界を統一するであろうと言った。 しかし我が国には万世一系の天皇がいる。よって私は先に朝鮮を武力で治め、支那に和平を求めて、王女をわが皇室に献上すると約束した。だが彼はこの盟約を破ってしまったのでふたたび兵を出して征服しようとしている。船を進ませて呂宋に入るのは簡単なことである。呂宋の大守は早く私に降伏せよ。そうでなければ近いうちに討伐を受けるであろう」  しかしマニラ総督の使者は、 「私どもは国交を修めるために参りましたものでありますから殿下のご要求にお答えするには改めて総督からの訓令を待たなければなりません。使者を出して回答が来るまで私どもを人質として日本に置いて下さいますようお願いします」と言った。  ごもっともな言葉であったので秀吉はその乞いを許したが、その後そのマニラの使者の中の三人の宣教師が、人質として日本にとどまったのは、その実、キリシタン布教のためであり、布教の真の目的は、日本侵略のためであることを探知し、宣教師と、日本の信徒二十六人とを刑戮し、その後、そのことに就いて、マニラ総督より抗議の使者が来るや「治外法権の設定なき以上、各国の在留人は、日本の法律に従うべきである」とつっぱね、あくまで強硬外交の実を示した。  しかし秀吉は、その後間もなく慶長三年に亡くなったので、折角の対呂宋強硬外交も、実利的の実は結ばなかった。  しかし、その後に天下を治めた徳川家康の南洋政策に対し、その秀吉の対呂宋強硬外交は、日本の武威を示しておいてくれたという点で大変役に立った。
秀吉の降伏を勧める書を呼んだマリニャス提督はどうしましたか。
マニラに戻った孫七郎の手によってこの文書を渡された総督のマリニャスは、憤慨したものの、折柄本国のイスパニアが、オランダと事を構えていて国家存亡の際だったので、日本と抗争状態に入ることをおそれ、僧侶コボスと船長リヤノという者を使者として日本に遣わしたことで、秀吉を懐柔しようという策を考えた。
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歴史
日本と南洋諸国、すなわち呂宋、マカオ、安南、東京、占城、カンボジア、シャム、パタニ等と貿易をしたのは相当古くからであるが、それらの国々へ渡航する船舶に対し、官許の免許状(朱印)を与えて、公に貿易を許可したのは豊臣秀吉である。 それは我国の文禄元年、西暦の一五九二年のことであり、それ以来御朱印船は、呂宋のマニラ市を中心として、南洋貿易を営み、平和のうちに巨利を博した。 朱印を許した秀吉は、それらの船がもってきた珍奇な器物を進呈されて心を喜ばせていた。  それなのに、その秀吉が南洋、主に呂宋に対して経略の手を延ばしたのは原田孫七郎の進言があったからである。 原田孫七郎は、その兄である喜右衛門と共にマニラに住んで貿易業を営んで大成功していた。 賢く大胆で知略があり、イスパニア語に通じており、呂宋のみならずフィリピン群島全体の事情に精通していたが、日本に帰朝するや秀吉に謁見し、フィリピンの現状を語った上「その本国イスパニアは、宗教政策を利用し、他国を侵略することを常套手段といたしおりまして今にしてフィリピンを、日本に攻略しなければ、イスパニアによって、かえって日本こそ侵略されるでしょう」と進言した。丁度そのころ秀吉は征韓の志を起しており、軍備や兵糧を充実させた時であったから、天性の豪気を爆発させすぐに呂宋の総督マリニャス宛てに降伏を勧める書を書き、最後に「来春、九州肥前に進軍させすぐさま、旗を降ろして降参すべし。もしはいつくばって遅延するようならすぐ征伐するだろう」と記させた。何という恫喝的な、強硬な外交文書であろうか。  ところでその結果はどうなったかというと、マニラに戻った孫七郎の手によってこの文書を渡された総督のマリニャスは、憤慨したものの、折柄本国のイスパニアが、オランダと事を構えていて国家存亡の際だったので、日本と抗争状態に入ることをおそれ、僧侶コボスと船長リヤノという者を使者として日本に遣わしたことで、秀吉を懐柔しようという策を考えた。 一応、秀吉の強硬外交は成功したのであった。 しかしマニラ総督が貢を入れるとも降服するとも申し出なかったから、更に第二の文書を孫七郎の兄である喜右衛門の手からマニラ総督に渡させた。「もし今後毎年ごとに貢ぎ物をよこすなら、出征を見合わしてもよい」という意味の文書であった。 マニラ総督はこの文書を見ると又憤慨したものの、やはり本国イスパニアの事情が事情だったので、又も懐柔手段をとり、喜右衛門に船長カルバリコと宣教師三名を付け、返書と土産物とを添えて日本へ遣わした。 その使者が日本へ渡り、秀吉に謁見して発言したのは、降伏ではなくて通商同盟の問題であった。そこで秀吉は通訳を通してこう言った。 「私の母は日輪胎に入ることを夢見て私を産んだ。占い師はこれを占い、この子はやがて世界を統一するであろうと言った。 しかし我が国には万世一系の天皇がいる。よって私は先に朝鮮を武力で治め、支那に和平を求めて、王女をわが皇室に献上すると約束した。だが彼はこの盟約を破ってしまったのでふたたび兵を出して征服しようとしている。船を進ませて呂宋に入るのは簡単なことである。呂宋の大守は早く私に降伏せよ。そうでなければ近いうちに討伐を受けるであろう」  しかしマニラ総督の使者は、 「私どもは国交を修めるために参りましたものでありますから殿下のご要求にお答えするには改めて総督からの訓令を待たなければなりません。使者を出して回答が来るまで私どもを人質として日本に置いて下さいますようお願いします」と言った。  ごもっともな言葉であったので秀吉はその乞いを許したが、その後そのマニラの使者の中の三人の宣教師が、人質として日本にとどまったのは、その実、キリシタン布教のためであり、布教の真の目的は、日本侵略のためであることを探知し、宣教師と、日本の信徒二十六人とを刑戮し、その後、そのことに就いて、マニラ総督より抗議の使者が来るや「治外法権の設定なき以上、各国の在留人は、日本の法律に従うべきである」とつっぱね、あくまで強硬外交の実を示した。  しかし秀吉は、その後間もなく慶長三年に亡くなったので、折角の対呂宋強硬外交も、実利的の実は結ばなかった。  しかし、その後に天下を治めた徳川家康の南洋政策に対し、その秀吉の対呂宋強硬外交は、日本の武威を示しておいてくれたという点で大変役に立った。
原田孫七郎は秀吉にどう進言しましたか。
日本に帰朝するや秀吉に謁見し、フィリピンの現状を語った上「その本国イスパニアは、宗教政策を利用し、他国を侵略することを常套手段といたしおりまして今にしてフィリピンを、日本に攻略しなければ、イスパニアによって、かえって日本こそ侵略されるでしょう」と進言した。
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歴史
日本と南洋諸国、すなわち呂宋、マカオ、安南、東京、占城、カンボジア、シャム、パタニ等と貿易をしたのは相当古くからであるが、それらの国々へ渡航する船舶に対し、官許の免許状(朱印)を与えて、公に貿易を許可したのは豊臣秀吉である。 それは我国の文禄元年、西暦の一五九二年のことであり、それ以来御朱印船は、呂宋のマニラ市を中心として、南洋貿易を営み、平和のうちに巨利を博した。 朱印を許した秀吉は、それらの船がもってきた珍奇な器物を進呈されて心を喜ばせていた。  それなのに、その秀吉が南洋、主に呂宋に対して経略の手を延ばしたのは原田孫七郎の進言があったからである。 原田孫七郎は、その兄である喜右衛門と共にマニラに住んで貿易業を営んで大成功していた。 賢く大胆で知略があり、イスパニア語に通じており、呂宋のみならずフィリピン群島全体の事情に精通していたが、日本に帰朝するや秀吉に謁見し、フィリピンの現状を語った上「その本国イスパニアは、宗教政策を利用し、他国を侵略することを常套手段といたしおりまして今にしてフィリピンを、日本に攻略しなければ、イスパニアによって、かえって日本こそ侵略されるでしょう」と進言した。丁度そのころ秀吉は征韓の志を起しており、軍備や兵糧を充実させた時であったから、天性の豪気を爆発させすぐに呂宋の総督マリニャス宛てに降伏を勧める書を書き、最後に「来春、九州肥前に進軍させすぐさま、旗を降ろして降参すべし。もしはいつくばって遅延するようならすぐ征伐するだろう」と記させた。何という恫喝的な、強硬な外交文書であろうか。  ところでその結果はどうなったかというと、マニラに戻った孫七郎の手によってこの文書を渡された総督のマリニャスは、憤慨したものの、折柄本国のイスパニアが、オランダと事を構えていて国家存亡の際だったので、日本と抗争状態に入ることをおそれ、僧侶コボスと船長リヤノという者を使者として日本に遣わしたことで、秀吉を懐柔しようという策を考えた。 一応、秀吉の強硬外交は成功したのであった。 しかしマニラ総督が貢を入れるとも降服するとも申し出なかったから、更に第二の文書を孫七郎の兄である喜右衛門の手からマニラ総督に渡させた。「もし今後毎年ごとに貢ぎ物をよこすなら、出征を見合わしてもよい」という意味の文書であった。 マニラ総督はこの文書を見ると又憤慨したものの、やはり本国イスパニアの事情が事情だったので、又も懐柔手段をとり、喜右衛門に船長カルバリコと宣教師三名を付け、返書と土産物とを添えて日本へ遣わした。 その使者が日本へ渡り、秀吉に謁見して発言したのは、降伏ではなくて通商同盟の問題であった。そこで秀吉は通訳を通してこう言った。 「私の母は日輪胎に入ることを夢見て私を産んだ。占い師はこれを占い、この子はやがて世界を統一するであろうと言った。 しかし我が国には万世一系の天皇がいる。よって私は先に朝鮮を武力で治め、支那に和平を求めて、王女をわが皇室に献上すると約束した。だが彼はこの盟約を破ってしまったのでふたたび兵を出して征服しようとしている。船を進ませて呂宋に入るのは簡単なことである。呂宋の大守は早く私に降伏せよ。そうでなければ近いうちに討伐を受けるであろう」  しかしマニラ総督の使者は、 「私どもは国交を修めるために参りましたものでありますから殿下のご要求にお答えするには改めて総督からの訓令を待たなければなりません。使者を出して回答が来るまで私どもを人質として日本に置いて下さいますようお願いします」と言った。  ごもっともな言葉であったので秀吉はその乞いを許したが、その後そのマニラの使者の中の三人の宣教師が、人質として日本にとどまったのは、その実、キリシタン布教のためであり、布教の真の目的は、日本侵略のためであることを探知し、宣教師と、日本の信徒二十六人とを刑戮し、その後、そのことに就いて、マニラ総督より抗議の使者が来るや「治外法権の設定なき以上、各国の在留人は、日本の法律に従うべきである」とつっぱね、あくまで強硬外交の実を示した。  しかし秀吉は、その後間もなく慶長三年に亡くなったので、折角の対呂宋強硬外交も、実利的の実は結ばなかった。  しかし、その後に天下を治めた徳川家康の南洋政策に対し、その秀吉の対呂宋強硬外交は、日本の武威を示しておいてくれたという点で大変役に立った。
南洋諸国との貿易を初めて公式に許可したのは誰ですか。
日本と南洋諸国、すなわち呂宋、マカオ、安南、東京、占城、カンボジア、シャム、パタニ等と貿易をしたのは相当古くからであるが、それらの国々へ渡航する船舶に対し、官許の免許状(朱印)を与えて、公に貿易を許可したのは豊臣秀吉である。
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歴史
徳川家康の南洋政策は、豊臣秀吉の強硬な、むしろ恫喝的、侵略的なそれとは異なり、きわめて穏健で親和的で実利的であった。つまり、ひとえに貿易を興し、国益を図ろうとする経済的な画策だったのである。  秀吉が九通しか許さなかった御朱印を、家康は慶長九年に一挙二十九通許可し盛んに貿易させたのであった。 しかし家康が南洋諸国に政策の手を延ばし、外交を開始したのは、それより少し早い慶長六年のことであり、安南都統の阮敬という者が「日本人が当国の海岸に漂流して来て当国人をみだりに殺戮するんだが」と申して来たのに対して「凶徒は貴国の法律に則って処罰してください」と返書を与えたことから始まり、安南の大都統である瑞国公より、通商に関する来書があった時「風や波は天候によるので注意がいるが、凶賊は人なので、その凶賊は既に日本の近海より姿を消したから、安心して通商に従事してほしい」という意味の返書をした。そうして同年にカンボジア国王より同じく通商に関する文書が来たら「遠くから信書を伝えられ、これを抜いて読むことは、蓮華を床にして雹や雪の語らいを聴くようなものだ」という、至極巧妙な外交辞令を用いて相手を喜ばせ、なお、日本よりの貿易船は朱印をもって入港許可証としたので、これを所持している船は優遇して信用してほしいと希望し、同じ年に、また同じ王から来書があるや、両国の交際のいよいよ厚くなることを喜ぶと云い、更に同国に内乱があることに同情し「国民の願いに応じてしっかりした慈悲を施すことができれば、国家は自然に安泰するけど、やむを得ない場合は戦闘になるのもしょうがないだろう」と大戦術家であると共に大政治家である家康らしい注意を与えた。 更に兵器などは日本産のものは極めて鋭利だから、要望さえあれば供給してもよいと何時の時代にもある戦闘国に対して第三国が行う武器を売り込む営業を早速行ったりもした。  そうして秀吉時代に一時杜絶した呂宋との通商も家康時代に入って再び復活した。  慶長六年のことであったが、マニラの大守テイヨから久しぶりに手紙があり、日本人が支那人と共同して暴動をするんだがどうしたらよいかと処置を教えてもらいにきた。 これが秀吉であったなら「わたしのような神の住む国の男子が、異国で暴動などするわけがない!」などと高飛車におどしつけたことであろうが、家康は至極国際公法的に、凶徒は容赦なく貴国の法律に照らして処罰した方が良いと返書し、更に、メキシコと交通したいが、斡旋してくれるなら嬉しいんだけどと依頼したりした。  翌七年、またテイヨから文書が来ると、家康はいよいよ親和外交の奥の手を発揮し「姿かたちを見なくても、言葉を聴かなくても、情をかわせば世の中の人々を一つの家族のように見るようなものだ」などと、およそ秀吉が、わしは太陽の申し子じゃ、お前、まごまごして早く降参しないことには、征伐するぞ、などという傍若無人の言葉とは似ても似つかない、嬉しがらせるようなの辞令を与え、さてその後から、再度自分の希望のメキシコ通商の斡旋方を依頼し「日本がメキシコと交通しようとするのは、単に日本のためばかりでなく、貴国の為でもあるのです。というのは、今回そのため関東の浦賀を碇泊所としますがこれは貴国にとっても便利だと思います。  尚、日本の現在は、国の内外は平穏だし盗賊がでる心配もないから安心して船舶を通せますよ」と送った。そこで呂宋は安心して同年船を浦賀に向け、書状及び贈物を献上して、それ以来盛んに通商貿易をした。 しかしメキシコと日本との通商交通の斡旋をしようとはしなかったが、それは家康に悪意があって反抗したのではなく、それとはむしろ反対に日本とメキシコが交通貿易をするようになったなら、折角復活した日本と呂宋との貿易が、メキシコのために妨害されるかもしれないことをおそれた結果なのであった。つまり自分一人日本の寵児になろうとしたのであって、秀吉のために横面をなぐられて恐怖した彼が、家康によって撫でられたので、そこまでなついて来たのであり、秀吉、家康の硬軟二道の外交術が、南洋諸国を、よく日本に馴染ませた一例ということが出来る。
徳川家康の南洋政策はどういうものでしたか。
徳川家康の南洋政策は、豊臣秀吉の強硬な、むしろ恫喝的、侵略的なそれとは異なり、きわめて穏健で親和的で実利的であった。
JCRRAG_012158
歴史
徳川家康の南洋政策は、豊臣秀吉の強硬な、むしろ恫喝的、侵略的なそれとは異なり、きわめて穏健で親和的で実利的であった。つまり、ひとえに貿易を興し、国益を図ろうとする経済的な画策だったのである。  秀吉が九通しか許さなかった御朱印を、家康は慶長九年に一挙二十九通許可し盛んに貿易させたのであった。 しかし家康が南洋諸国に政策の手を延ばし、外交を開始したのは、それより少し早い慶長六年のことであり、安南都統の阮敬という者が「日本人が当国の海岸に漂流して来て当国人をみだりに殺戮するんだが」と申して来たのに対して「凶徒は貴国の法律に則って処罰してください」と返書を与えたことから始まり、安南の大都統である瑞国公より、通商に関する来書があった時「風や波は天候によるので注意がいるが、凶賊は人なので、その凶賊は既に日本の近海より姿を消したから、安心して通商に従事してほしい」という意味の返書をした。そうして同年にカンボジア国王より同じく通商に関する文書が来たら「遠くから信書を伝えられ、これを抜いて読むことは、蓮華を床にして雹や雪の語らいを聴くようなものだ」という、至極巧妙な外交辞令を用いて相手を喜ばせ、なお、日本よりの貿易船は朱印をもって入港許可証としたので、これを所持している船は優遇して信用してほしいと希望し、同じ年に、また同じ王から来書があるや、両国の交際のいよいよ厚くなることを喜ぶと云い、更に同国に内乱があることに同情し「国民の願いに応じてしっかりした慈悲を施すことができれば、国家は自然に安泰するけど、やむを得ない場合は戦闘になるのもしょうがないだろう」と大戦術家であると共に大政治家である家康らしい注意を与えた。 更に兵器などは日本産のものは極めて鋭利だから、要望さえあれば供給してもよいと何時の時代にもある戦闘国に対して第三国が行う武器を売り込む営業を早速行ったりもした。  そうして秀吉時代に一時杜絶した呂宋との通商も家康時代に入って再び復活した。  慶長六年のことであったが、マニラの大守テイヨから久しぶりに手紙があり、日本人が支那人と共同して暴動をするんだがどうしたらよいかと処置を教えてもらいにきた。 これが秀吉であったなら「わたしのような神の住む国の男子が、異国で暴動などするわけがない!」などと高飛車におどしつけたことであろうが、家康は至極国際公法的に、凶徒は容赦なく貴国の法律に照らして処罰した方が良いと返書し、更に、メキシコと交通したいが、斡旋してくれるなら嬉しいんだけどと依頼したりした。  翌七年、またテイヨから文書が来ると、家康はいよいよ親和外交の奥の手を発揮し「姿かたちを見なくても、言葉を聴かなくても、情をかわせば世の中の人々を一つの家族のように見るようなものだ」などと、およそ秀吉が、わしは太陽の申し子じゃ、お前、まごまごして早く降参しないことには、征伐するぞ、などという傍若無人の言葉とは似ても似つかない、嬉しがらせるようなの辞令を与え、さてその後から、再度自分の希望のメキシコ通商の斡旋方を依頼し「日本がメキシコと交通しようとするのは、単に日本のためばかりでなく、貴国の為でもあるのです。というのは、今回そのため関東の浦賀を碇泊所としますがこれは貴国にとっても便利だと思います。  尚、日本の現在は、国の内外は平穏だし盗賊がでる心配もないから安心して船舶を通せますよ」と送った。そこで呂宋は安心して同年船を浦賀に向け、書状及び贈物を献上して、それ以来盛んに通商貿易をした。 しかしメキシコと日本との通商交通の斡旋をしようとはしなかったが、それは家康に悪意があって反抗したのではなく、それとはむしろ反対に日本とメキシコが交通貿易をするようになったなら、折角復活した日本と呂宋との貿易が、メキシコのために妨害されるかもしれないことをおそれた結果なのであった。つまり自分一人日本の寵児になろうとしたのであって、秀吉のために横面をなぐられて恐怖した彼が、家康によって撫でられたので、そこまでなついて来たのであり、秀吉、家康の硬軟二道の外交術が、南洋諸国を、よく日本に馴染ませた一例ということが出来る。
マニラの大守テイヨからの手紙に家康はどうしましたか。
家康は至極国際公法的に、凶徒は容赦なく貴国の法律に照らして処罰した方が良いと返書し、更に、メキシコと交通したいが、斡旋してくれるなら嬉しいんだけどと依頼したりした。
JCRRAG_012159
歴史
徳川家康の南洋政策は、豊臣秀吉の強硬な、むしろ恫喝的、侵略的なそれとは異なり、きわめて穏健で親和的で実利的であった。つまり、ひとえに貿易を興し、国益を図ろうとする経済的な画策だったのである。  秀吉が九通しか許さなかった御朱印を、家康は慶長九年に一挙二十九通許可し盛んに貿易させたのであった。 しかし家康が南洋諸国に政策の手を延ばし、外交を開始したのは、それより少し早い慶長六年のことであり、安南都統の阮敬という者が「日本人が当国の海岸に漂流して来て当国人をみだりに殺戮するんだが」と申して来たのに対して「凶徒は貴国の法律に則って処罰してください」と返書を与えたことから始まり、安南の大都統である瑞国公より、通商に関する来書があった時「風や波は天候によるので注意がいるが、凶賊は人なので、その凶賊は既に日本の近海より姿を消したから、安心して通商に従事してほしい」という意味の返書をした。そうして同年にカンボジア国王より同じく通商に関する文書が来たら「遠くから信書を伝えられ、これを抜いて読むことは、蓮華を床にして雹や雪の語らいを聴くようなものだ」という、至極巧妙な外交辞令を用いて相手を喜ばせ、なお、日本よりの貿易船は朱印をもって入港許可証としたので、これを所持している船は優遇して信用してほしいと希望し、同じ年に、また同じ王から来書があるや、両国の交際のいよいよ厚くなることを喜ぶと云い、更に同国に内乱があることに同情し「国民の願いに応じてしっかりした慈悲を施すことができれば、国家は自然に安泰するけど、やむを得ない場合は戦闘になるのもしょうがないだろう」と大戦術家であると共に大政治家である家康らしい注意を与えた。 更に兵器などは日本産のものは極めて鋭利だから、要望さえあれば供給してもよいと何時の時代にもある戦闘国に対して第三国が行う武器を売り込む営業を早速行ったりもした。  そうして秀吉時代に一時杜絶した呂宋との通商も家康時代に入って再び復活した。  慶長六年のことであったが、マニラの大守テイヨから久しぶりに手紙があり、日本人が支那人と共同して暴動をするんだがどうしたらよいかと処置を教えてもらいにきた。 これが秀吉であったなら「わたしのような神の住む国の男子が、異国で暴動などするわけがない!」などと高飛車におどしつけたことであろうが、家康は至極国際公法的に、凶徒は容赦なく貴国の法律に照らして処罰した方が良いと返書し、更に、メキシコと交通したいが、斡旋してくれるなら嬉しいんだけどと依頼したりした。  翌七年、またテイヨから文書が来ると、家康はいよいよ親和外交の奥の手を発揮し「姿かたちを見なくても、言葉を聴かなくても、情をかわせば世の中の人々を一つの家族のように見るようなものだ」などと、およそ秀吉が、わしは太陽の申し子じゃ、お前、まごまごして早く降参しないことには、征伐するぞ、などという傍若無人の言葉とは似ても似つかない、嬉しがらせるようなの辞令を与え、さてその後から、再度自分の希望のメキシコ通商の斡旋方を依頼し「日本がメキシコと交通しようとするのは、単に日本のためばかりでなく、貴国の為でもあるのです。というのは、今回そのため関東の浦賀を碇泊所としますがこれは貴国にとっても便利だと思います。  尚、日本の現在は、国の内外は平穏だし盗賊がでる心配もないから安心して船舶を通せますよ」と送った。そこで呂宋は安心して同年船を浦賀に向け、書状及び贈物を献上して、それ以来盛んに通商貿易をした。 しかしメキシコと日本との通商交通の斡旋をしようとはしなかったが、それは家康に悪意があって反抗したのではなく、それとはむしろ反対に日本とメキシコが交通貿易をするようになったなら、折角復活した日本と呂宋との貿易が、メキシコのために妨害されるかもしれないことをおそれた結果なのであった。つまり自分一人日本の寵児になろうとしたのであって、秀吉のために横面をなぐられて恐怖した彼が、家康によって撫でられたので、そこまでなついて来たのであり、秀吉、家康の硬軟二道の外交術が、南洋諸国を、よく日本に馴染ませた一例ということが出来る。
呂宋はメキシコと日本との通商の斡旋をしましたか。
メキシコと日本との通商交通の斡旋をしようとはしなかった。
JCRRAG_012160
歴史
天正十年六月十八日、尾州清洲の植原次郎右衛門が大広間において、織田家の宿将たちが一堂に集まり、主家の跡目について大評定を開いた。これが有名な清洲会議である。  この年の六月二日、京都本能寺にいた織田信長は、家臣である日向守光秀の反逆によって倒れ、その長男である三位中将織田信忠もまた、二条の城において、父と運命を共にした。 当時、織田の長臣である柴田勝家は、上杉景勝を討つべく、佐々内蔵助成政、前田又左衛門利家、佐久間玄蕃允盛政、及び養子伊賀守勝豊以下を率いて、越中魚津にて陣地の中にあった。本能寺の変が知らせられたのは同月四日の夜に入ってからであるが、陣中の慌てぶりはただごとではなく、戦の最中であっても勝家は越前に、盛政は富山に退いた。又滝川左近将監一益も、武蔵野において北条左京大夫氏政と合戦中であったが、たちまち講和して、尾州長島の居城に帰った。 更に森勝蔵長勝は、上杉家と争っていたのだが、信濃川中島へ撤退し松本を経て、美濃に退いていた。 さて最後に、羽柴筑前守秀吉であるが、当時、中国地方で毛利大膳大夫輝元を攻めて、高松城へ水攻めをやっていたのだが、京都の凶報が秀吉の陣に達したのは、六月三日子の刻である。 五日の朝まで、信長が死した事の事を秘密にしたまま、ついに毛利との講和に成功した。和平を結ぶや否や飛ぶように馬を走らせ、光秀の虚を山崎宝寺た天王山で突き上げ、光秀をして三日天下の哀れをこうむった。 この山崎合戦はまさに秀吉の天下取りの戦争であった。そして信長の残した事業に対して、偉大なる発言権を握ったわけだ。勝家以下の諸将が、本能寺の変に応じて上洛を期待したけれども、秀吉の神速なる行動には及ぶべくもなかった。だが、信長の遺児や臣下や家来が多数が存在する以上、すぐ秀吉が天下を取るわけには行かない。 遺児の中の何人をして、信長の跡継ぎにするかということが大問題であった。さて信長と信忠の血を継いでいる者は、次男の信雄、三男の信孝と、信忠の子である三法師丸がいる。この三人のうちから誰を立てて、主家の跡目とするかが、清洲会議の目的であった。
清洲会議の目的はなんですか。
信長と信忠の血を継いでいる者は、次男の信雄、三男の信孝と、信忠の子である三法師丸がいる。この三人のうちから誰を立てて、主家の跡目とするかが、清洲会議の目的であった。
JCRRAG_012161
歴史
天正十年六月十八日、尾州清洲の植原次郎右衛門が大広間において、織田家の宿将たちが一堂に集まり、主家の跡目について大評定を開いた。これが有名な清洲会議である。  この年の六月二日、京都本能寺にいた織田信長は、家臣である日向守光秀の反逆によって倒れ、その長男である三位中将織田信忠もまた、二条の城において、父と運命を共にした。 当時、織田の長臣である柴田勝家は、上杉景勝を討つべく、佐々内蔵助成政、前田又左衛門利家、佐久間玄蕃允盛政、及び養子伊賀守勝豊以下を率いて、越中魚津にて陣地の中にあった。本能寺の変が知らせられたのは同月四日の夜に入ってからであるが、陣中の慌てぶりはただごとではなく、戦の最中であっても勝家は越前に、盛政は富山に退いた。又滝川左近将監一益も、武蔵野において北条左京大夫氏政と合戦中であったが、たちまち講和して、尾州長島の居城に帰った。 更に森勝蔵長勝は、上杉家と争っていたのだが、信濃川中島へ撤退し松本を経て、美濃に退いていた。 さて最後に、羽柴筑前守秀吉であるが、当時、中国地方で毛利大膳大夫輝元を攻めて、高松城へ水攻めをやっていたのだが、京都の凶報が秀吉の陣に達したのは、六月三日子の刻である。 五日の朝まで、信長が死した事の事を秘密にしたまま、ついに毛利との講和に成功した。和平を結ぶや否や飛ぶように馬を走らせ、光秀の虚を山崎宝寺た天王山で突き上げ、光秀をして三日天下の哀れをこうむった。 この山崎合戦はまさに秀吉の天下取りの戦争であった。そして信長の残した事業に対して、偉大なる発言権を握ったわけだ。勝家以下の諸将が、本能寺の変に応じて上洛を期待したけれども、秀吉の神速なる行動には及ぶべくもなかった。だが、信長の遺児や臣下や家来が多数が存在する以上、すぐ秀吉が天下を取るわけには行かない。 遺児の中の何人をして、信長の跡継ぎにするかということが大問題であった。さて信長と信忠の血を継いでいる者は、次男の信雄、三男の信孝と、信忠の子である三法師丸がいる。この三人のうちから誰を立てて、主家の跡目とするかが、清洲会議の目的であった。
清洲会議はどこで行われましたか。
天正十年六月十八日、尾州清洲の植原次郎右衛門が大広間において、織田家の宿将たちが一堂に集まり、主家の跡目について大評定を開いた。これが有名な清洲会議である。
JCRRAG_012162
歴史
信長や信忠の血をうけている者には、次男の信雄、三男の信孝、信忠の子である三法師丸がいる。 この三人のうちから誰を立てて、主家の跡目とするかが、清洲会議の目的であった。 一座の長老である柴田勝家が、まず開口一番、織田家の世継ぎには才知がある三男の信孝殿が最もふさわしいといった。 最も威厳のある柴田勝家の言う事であるから、異見をもっている部将がいても、中々口出しできなかった。 満座がシンとして静まり返っている中、おもむろに反対意見を出したのは豊臣秀吉である。 「柴田殿のいう事もごもっともではあるが、信孝殿は確かに才知があるが、後継ぎにするのはどうだろうか。信長公の孫である三法師丸殿がいらっしゃるからには、三法師丸を後継ぎにするのが、最も正当であると思うがどうだろうか」と。 勝家の推した信孝は、三男ということになってはいるが、実は次男なのだ。 信雄と信孝とは永禄元年の同月に生まれ、信孝の方が二十日余りも早かったのだが信雄が信忠と母を同じくしたのだが、信孝は腹ちがいだったので、人々は信雄を尊重して早速に信長に報告し、次男ということになってしまった。 信長に対する報告が早かったので、信雄が次男になったのである。 信雄の素質は平凡だったが、信孝は相当の優秀な人物である。成長するにつれ、ひっそりと不満を覚えていても無理はなかった。 勝家を頼ったのも、もっともであるし勝家もまた信孝を推すことで、自分の価値を付けようと考えたのも当然であろう。 秀吉の反対は、この場にいる全員を動揺させたが、秀吉の言い分にも正当な理由がある。 しかし間もなく勝家の次に人望のある、丹羽長秀の言葉が紛糾しているこの会議を決定に導いた。 長秀がいうには、子を後継ぎにするとしたらこの場合、信雄と信孝、両方のどちらかを推すかは問題となる。 それなら秀吉の言うように、信長の孫である三法師殿を後継ぎにするなら一番大義名分にかなっているように思う。 その上、主君の仇を討った功労者は秀吉である。今は信長の敵討ちをした功労者の言う事を聞くのがいいのではないか、と。 戦国時代では、百の言葉より一つの武功である。豊臣秀吉の意見が採用され、信長の跡目は三法師丸が相続することで会議は決まった。 そして柴田、丹羽、池田、羽柴の四将は、各々役人を京に置いて天下の事を処断する事となった。
清洲会議の結果だれが後継ぎになりましたか。
豊臣秀吉の意見が採用され、信長の跡目は三法師丸が相続することで会議は決まった。
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歴史
信長や信忠の血をうけている者には、次男の信雄、三男の信孝、信忠の子である三法師丸がいる。 この三人のうちから誰を立てて、主家の跡目とするかが、清洲会議の目的であった。 一座の長老である柴田勝家が、まず開口一番、織田家の世継ぎには才知がある三男の信孝殿が最もふさわしいといった。 最も威厳のある柴田勝家の言う事であるから、異見をもっている部将がいても、中々口出しできなかった。 満座がシンとして静まり返っている中、おもむろに反対意見を出したのは豊臣秀吉である。 「柴田殿のいう事もごもっともではあるが、信孝殿は確かに才知があるが、後継ぎにするのはどうだろうか。信長公の孫である三法師丸殿がいらっしゃるからには、三法師丸を後継ぎにするのが、最も正当であると思うがどうだろうか」と。 勝家の推した信孝は、三男ということになってはいるが、実は次男なのだ。 信雄と信孝とは永禄元年の同月に生まれ、信孝の方が二十日余りも早かったのだが信雄が信忠と母を同じくしたのだが、信孝は腹ちがいだったので、人々は信雄を尊重して早速に信長に報告し、次男ということになってしまった。 信長に対する報告が早かったので、信雄が次男になったのである。 信雄の素質は平凡だったが、信孝は相当の優秀な人物である。成長するにつれ、ひっそりと不満を覚えていても無理はなかった。 勝家を頼ったのも、もっともであるし勝家もまた信孝を推すことで、自分の価値を付けようと考えたのも当然であろう。 秀吉の反対は、この場にいる全員を動揺させたが、秀吉の言い分にも正当な理由がある。 しかし間もなく勝家の次に人望のある、丹羽長秀の言葉が紛糾しているこの会議を決定に導いた。 長秀がいうには、子を後継ぎにするとしたらこの場合、信雄と信孝、両方のどちらかを推すかは問題となる。 それなら秀吉の言うように、信長の孫である三法師殿を後継ぎにするなら一番大義名分にかなっているように思う。 その上、主君の仇を討った功労者は秀吉である。今は信長の敵討ちをした功労者の言う事を聞くのがいいのではないか、と。 戦国時代では、百の言葉より一つの武功である。豊臣秀吉の意見が採用され、信長の跡目は三法師丸が相続することで会議は決まった。 そして柴田、丹羽、池田、羽柴の四将は、各々役人を京に置いて天下の事を処断する事となった。
清洲会議において、柴田勝家が跡目に勧めたのは誰ですか。
一座の長老である柴田勝家が、まず開口一番、織田家の世継ぎには才知がある三男の信孝殿が最もふさわしいといった。
JCRRAG_012164
歴史
勝家の陣へは、苦しくなった信孝からの救援の便が、次から次とやって来る。 勝家は大いに焦るが、簡単にはここを通るわけにはいかない。 そこで盛政と相談して、この元々柴田伊賀守の与力であった山路将監が、一方を防衛している将であったが、彼を使って秀吉に裏切らせて秀吉の陣を乱し、賤ヶ岳の戦いに勝利しようという目論見を立てた。 日頃山路将監と親しかった宇野忠三郎という者に、密命を含ませた。忠三郎は即座に夜中に将監のいる陣所に忍び込んで、面会を求めた。 将監は「今は敵味方だし、しかも陣の中なので会うとか無理だ」といって会おうとしない。 忠三郎が是非にと願うので、将監は対面することとなった。 忠三郎が勝家の胸の内を話すと、将監は「主人である柴田勝豊も秀吉の味方となっており、私も一方の固めを任されています。今ここで裏切ることは武士として情けない、と答えて引き受けようとしない。忠三郎は更に説得した。  柴田勝豊を主人と言ったが、あなたは柴田勝家から勝豊の与力として添えられた者なわけで、むしろ主従の関係は柴田勝家との間にあるんじゃないか、義理に反すると誰が言うだろうか?さらに山路には恩賞として柴田勝豊の持っている領土の内、丸岡の城を付けて十二万石をもらえると思うぞ、と勧めるので、山路将監はとうとう欲に目がくらんで裏切る事を承知した。 たしかに十二万石を渡そうという誓いの紙まで要求している位である。一度柴田方を裏切って、秀吉につき、今度は秀吉を裏切って柴田についた。
日頃山路将監と親しかった誰に、密命を含ませましたか。
日頃山路将監と親しかった宇野忠三郎という者に、密命を含ませました。
JCRRAG_012165
歴史
清洲会議の結果、三法師丸が織田家を相続して、信雄と信孝が後見人ときまっていた。 豊臣秀吉は安土城の修復をして、三法師丸を迎え入れようとしていた。しかし岐阜にいる信孝は、三法師丸を秀吉の手に委ねようとしない。 秀吉に三法師丸を任せるのは、結局は信孝自身の存在を稀薄なものとさせると考えたからである。 秀吉はついに、丹羽長秀、筒井順慶、長岡(後の細川)忠興等三万の兵を率いて、濃州へ打って出る事にした。 まず、大垣の城主氏家内膳正を囲んだが、一戦を交えることもなくして降りたので、秀吉の大軍は大垣の城に入った。 伝え聞いた付近の小城は風を望んで降ったので、岐阜城は忽ちにして取り巻かれて仕舞った。信孝の方でも、いち早く救援を勝家にお願いしたが、生憎の雪が降ってしまった。 勝家、豊臣秀吉への怒りからか「猿面冠者に出し抜かれた」と地駄太を踏むが意味が無い。そこへ今度は佐久間盛政の急な報告で、長浜にいる勝豊が裏切って兵をおこしたとの報であるが、勝家は盛政が勝豊と仲が悪いのを知っているので、ありもしない事と思って取り合わなかった。 しかし勝豊の元の城下、丸岡から、勝豊の家臣の妻子が長浜に移る為に騒がしくなっているとの報告を受けては勝家も疑うわけには行かなかった。 驚き怒るけれども、機先は既に制せられている。岐阜にいる信孝も、勝家の救援がないのではどうしようもないので、長秀を通じて秀吉と和平を結んだ。 秀吉は即座に信孝の生母である阪氏と三法師丸を受け取って、和平を受け入れて、山崎に帰った。三法師丸は安土城に入り、清洲にいた織田信雄を呼び寄せて後見人とさせた。
織田信孝が三法師丸を秀吉の元に渡そうとしなかったのはなぜですか。
秀吉に三法師丸を任せるのは、結局は信孝自身の存在を稀薄なものとさせると考えたからである。
JCRRAG_012166
歴史
盛政は例によって大音をあげ、味方の諸士たちは臆病神が付いたのか?と馬鹿にすると、原彦次郎曰く「言う通りで、味方の兵が逃げるのは、大将に臆病神が取り付いて引き返して備えうる手段を取らないからである。退却する軍が勝利出来るわけが無い」と言い放った。 盛政は一言もなしである。前田利家父子は二千騎をもって備えていたが、敗軍と思ったら、華々しい働きもせず早速に府中に撤退した。 利家の出陣は別に勝家の家臣であるからというわけでもなく、ただ国境に接していただけという関係であり、そのうえ秀吉とはむしろ仲が良かった位であるから、都合のいい中立の立場になったのだ。この合戦に先手を打つ秀吉と利家の間にある種の協定さえあったと思われるのである。 丹羽長秀、これを見て良い頃合いだと砦に突出を命じた。北国勢はすべて潰えて、北へ西へと落ちて行った。 小原新七等七八騎で、盛政等を落ち延びさせようと、小高い場所で、追い来る秀吉勢を突き落として防いでいるのを、伊木半七真先に進んで、ついに小原等を退けた。  賤ヶ岳の戦いにおいて、加藤虎之助、加藤清正、糟屋助右衛門、福島市松、片桐助作、平野権平、脇坂甚内七人の働きは抜群であった。 なので秀吉は賞賛して七人各々に感謝状を渡し、数百石ずつの知行であったのを、全員同時に三千石まで引き上げた。これが有名な賤ヶ岳七本槍である。石川兵助、伊木半七、桜井左吉三人の働きも、賤ヶ岳七本槍に劣らなかったので、三振の太刀と称して、褒美を取らせたと伝わっている。
賤ヶ岳七本槍とはなんですか。
賤ヶ岳の戦いにおいて、加藤虎之助、加藤清正、糟屋助右衛門、福島市松、片桐助作、平野権平、脇坂甚内七人の働きは抜群であった。 なので秀吉は賞賛して七人各々に感謝状を渡し、数百石ずつの知行であったのを、全員同時に三千石まで引き上げた。これが有名な賤ヶ岳七本槍である。
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歴史
盛政は例によって大音をあげ、味方の諸士たちは臆病神が付いたのか?と馬鹿にすると、原彦次郎曰く「言う通りで、味方の兵が逃げるのは、大将に臆病神が取り付いて引き返して備えうる手段を取らないからである。退却する軍が勝利出来るわけが無い」と言い放った。 盛政は一言もなしである。前田利家父子は二千騎をもって備えていたが、敗軍と思ったら、華々しい働きもせず早速に府中に撤退した。 利家の出陣は別に勝家の家臣であるからというわけでもなく、ただ国境に接していただけという関係であり、そのうえ秀吉とはむしろ仲が良かった位であるから、都合のいい中立の立場になったのだ。この合戦に先手を打つ秀吉と利家の間にある種の協定さえあったと思われるのである。 丹羽長秀、これを見て良い頃合いだと砦に突出を命じた。北国勢はすべて潰えて、北へ西へと落ちて行った。 小原新七等七八騎で、盛政等を落ち延びさせようと、小高い場所で、追い来る秀吉勢を突き落として防いでいるのを、伊木半七真先に進んで、ついに小原等を退けた。  賤ヶ岳の戦いにおいて、加藤虎之助、加藤清正、糟屋助右衛門、福島市松、片桐助作、平野権平、脇坂甚内七人の働きは抜群であった。 なので秀吉は賞賛して七人各々に感謝状を渡し、数百石ずつの知行であったのを、全員同時に三千石まで引き上げた。これが有名な賤ヶ岳七本槍である。石川兵助、伊木半七、桜井左吉三人の働きも、賤ヶ岳七本槍に劣らなかったので、三振の太刀と称して、褒美を取らせたと伝わっている。
三振の太刀とはなんですか。
石川兵助、伊木半七、桜井左吉三人の働きも、賤ヶ岳七本槍に劣らなかったので、三振の太刀と称して、褒美を取らせたと伝わっている。
JCRRAG_012168
歴史
北軍の総大将である柴田勝家は、今市の北狐塚に陣を張っていたのだが、盛政の敗軍の情報が伝わると、陣中は動揺してしまい、いつの間にか落ちてゆく軍勢が多く、わずか二千足らずになった。 勝家は嘆いた。「盛政は向こう見ずになって私の指揮に従わず、この結果となってしまったのは悔しいが、今は後悔してもしょうがない。華やかな一戦をしたあとに切腹しよう」と覚悟した。 毛受庄助が進み出て「今の世に名将と言われるほどのあなたが、この山間などで討死してしまうのは末代までの恥である。 どうにか北の庄に入って、心静かに切腹してください」と勧め、自らは勝家の馬印をもってここに留まって防戦すると言った。 勝家は庄助の意見を受け入れて金の御幣の馬印を渡して馬を北の庄へと向けた。 庄助は兄の茂左衛門と共に三百騎という戦力で、大谷村の塚谷までやってくる敵と奮戦したが、筒井の家来である島左近に討たれた。  勝家はその間に北の庄を目指して移動していたが、前田利家の府中の城下にさしかかった時は、付いて来る者は僅かに馬八騎、歩兵は三十人か四十人に過ぎなかった。勝家は利家に「あなたは秀吉と私と昔から仲が良いが、今後は秀吉に従って、幼ない君主のために力を尽くしてほしい」といった。 利家は、朝から何も食べていない勝家の為に、お茶漬けと酒を出して慰めた。  四月二十三日、越前北の庄の城は、既に秀吉の軍勢に囲まれていた。北ノ庄城の戦いの前夜である。 勝家は城もろとも消え果ててしまう覚悟をしているので、城内を広間より書院に至るまで飾りたて、最後の酒宴を開いた。 勝家の妻はお市の方と言い、信長の妹である。小谷の城主である浅井長政の元に嫁ぎ、二男三女を授かったが、後に織田対朝倉・浅井の争いとなってしまい、姉川に敗した長政が、小谷城の露と消えた時に説得され、兄である信長の手に引き取られた事がある。 清洲会議が行われる頃まで岐阜にいて、三人の娘と共に寂しく暮らしていたが、勝家に再度嫁がせたのである。 勝家の元に来て一年も経たずに、再び落城の憂き目を見る事になった。 勝家は娘たちと共に秀吉の元に行くことを勧めるが「今更生き長らえる望みなどあるわけがない、一緒に死ぬ事こそ本望である」と涙を流して聞かない。  二十四日の明け方に、火を城に放つと共に柴田勝家を始めとした男女三十九人、一堂に自害して、煙の中で亡くなった。 勝家の五十四歳の時である。お市の方は、生涯で二度も落城という惨事に遭った不幸な戦国時代の女性である。 秀吉もかねて、お市の方に恋心を持っていたので、秀吉と勝家との争いにはこうした恋の恨みも少しはあったのであろう、という説もある。 お市の方の娘たちは、無事秀吉の手に届けられたが、後に長女は秀吉の北の方淀君となり、次女は京極宰相高次の室に、三女は将軍秀忠の夫人となった。戦国の世の女性の運命もまた不思議なものである。
柴田勝家はどういう最期を迎えましたか。
二十四日の明け方に、火を城に放つと共に柴田勝家を始めとした男女三十九人、一堂に自害して、煙の中で亡くなった。
JCRRAG_012169
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北軍の総大将である柴田勝家は、今市の北狐塚に陣を張っていたのだが、盛政の敗軍の情報が伝わると、陣中は動揺してしまい、いつの間にか落ちてゆく軍勢が多く、わずか二千足らずになった。 勝家は嘆いた。「盛政は向こう見ずになって私の指揮に従わず、この結果となってしまったのは悔しいが、今は後悔してもしょうがない。華やかな一戦をしたあとに切腹しよう」と覚悟した。 毛受庄助が進み出て「今の世に名将と言われるほどのあなたが、この山間などで討死してしまうのは末代までの恥である。 どうにか北の庄に入って、心静かに切腹してください」と勧め、自らは勝家の馬印をもってここに留まって防戦すると言った。 勝家は庄助の意見を受け入れて金の御幣の馬印を渡して馬を北の庄へと向けた。 庄助は兄の茂左衛門と共に三百騎という戦力で、大谷村の塚谷までやってくる敵と奮戦したが、筒井の家来である島左近に討たれた。  勝家はその間に北の庄を目指して移動していたが、前田利家の府中の城下にさしかかった時は、付いて来る者は僅かに馬八騎、歩兵は三十人か四十人に過ぎなかった。勝家は利家に「あなたは秀吉と私と昔から仲が良いが、今後は秀吉に従って、幼ない君主のために力を尽くしてほしい」といった。 利家は、朝から何も食べていない勝家の為に、お茶漬けと酒を出して慰めた。  四月二十三日、越前北の庄の城は、既に秀吉の軍勢に囲まれていた。北ノ庄城の戦いの前夜である。 勝家は城もろとも消え果ててしまう覚悟をしているので、城内を広間より書院に至るまで飾りたて、最後の酒宴を開いた。 勝家の妻はお市の方と言い、信長の妹である。小谷の城主である浅井長政の元に嫁ぎ、二男三女を授かったが、後に織田対朝倉・浅井の争いとなってしまい、姉川に敗した長政が、小谷城の露と消えた時に説得され、兄である信長の手に引き取られた事がある。 清洲会議が行われる頃まで岐阜にいて、三人の娘と共に寂しく暮らしていたが、勝家に再度嫁がせたのである。 勝家の元に来て一年も経たずに、再び落城の憂き目を見る事になった。 勝家は娘たちと共に秀吉の元に行くことを勧めるが「今更生き長らえる望みなどあるわけがない、一緒に死ぬ事こそ本望である」と涙を流して聞かない。  二十四日の明け方に、火を城に放つと共に柴田勝家を始めとした男女三十九人、一堂に自害して、煙の中で亡くなった。 勝家の五十四歳の時である。お市の方は、生涯で二度も落城という惨事に遭った不幸な戦国時代の女性である。 秀吉もかねて、お市の方に恋心を持っていたので、秀吉と勝家との争いにはこうした恋の恨みも少しはあったのであろう、という説もある。 お市の方の娘たちは、無事秀吉の手に届けられたが、後に長女は秀吉の北の方淀君となり、次女は京極宰相高次の室に、三女は将軍秀忠の夫人となった。戦国の世の女性の運命もまた不思議なものである。
お市の方に子供はいましたか。
勝家の妻はお市の方と言い、信長の妹である。小谷の城主である浅井長政の元に嫁ぎ、二男三女を授かった。
JCRRAG_012170
歴史
北軍の総大将である柴田勝家は、今市の北狐塚に陣を張っていたのだが、盛政の敗軍の情報が伝わると、陣中は動揺してしまい、いつの間にか落ちてゆく軍勢が多く、わずか二千足らずになった。 勝家は嘆いた。「盛政は向こう見ずになって私の指揮に従わず、この結果となってしまったのは悔しいが、今は後悔してもしょうがない。華やかな一戦をしたあとに切腹しよう」と覚悟した。 毛受庄助が進み出て「今の世に名将と言われるほどのあなたが、この山間などで討死してしまうのは末代までの恥である。 どうにか北の庄に入って、心静かに切腹してください」と勧め、自らは勝家の馬印をもってここに留まって防戦すると言った。 勝家は庄助の意見を受け入れて金の御幣の馬印を渡して馬を北の庄へと向けた。 庄助は兄の茂左衛門と共に三百騎という戦力で、大谷村の塚谷までやってくる敵と奮戦したが、筒井の家来である島左近に討たれた。  勝家はその間に北の庄を目指して移動していたが、前田利家の府中の城下にさしかかった時は、付いて来る者は僅かに馬八騎、歩兵は三十人か四十人に過ぎなかった。勝家は利家に「あなたは秀吉と私と昔から仲が良いが、今後は秀吉に従って、幼ない君主のために力を尽くしてほしい」といった。 利家は、朝から何も食べていない勝家の為に、お茶漬けと酒を出して慰めた。  四月二十三日、越前北の庄の城は、既に秀吉の軍勢に囲まれていた。北ノ庄城の戦いの前夜である。 勝家は城もろとも消え果ててしまう覚悟をしているので、城内を広間より書院に至るまで飾りたて、最後の酒宴を開いた。 勝家の妻はお市の方と言い、信長の妹である。小谷の城主である浅井長政の元に嫁ぎ、二男三女を授かったが、後に織田対朝倉・浅井の争いとなってしまい、姉川に敗した長政が、小谷城の露と消えた時に説得され、兄である信長の手に引き取られた事がある。 清洲会議が行われる頃まで岐阜にいて、三人の娘と共に寂しく暮らしていたが、勝家に再度嫁がせたのである。 勝家の元に来て一年も経たずに、再び落城の憂き目を見る事になった。 勝家は娘たちと共に秀吉の元に行くことを勧めるが「今更生き長らえる望みなどあるわけがない、一緒に死ぬ事こそ本望である」と涙を流して聞かない。  二十四日の明け方に、火を城に放つと共に柴田勝家を始めとした男女三十九人、一堂に自害して、煙の中で亡くなった。 勝家の五十四歳の時である。お市の方は、生涯で二度も落城という惨事に遭った不幸な戦国時代の女性である。 秀吉もかねて、お市の方に恋心を持っていたので、秀吉と勝家との争いにはこうした恋の恨みも少しはあったのであろう、という説もある。 お市の方の娘たちは、無事秀吉の手に届けられたが、後に長女は秀吉の北の方淀君となり、次女は京極宰相高次の室に、三女は将軍秀忠の夫人となった。戦国の世の女性の運命もまた不思議なものである。
お市の方の娘たちは、無事誰の手に届けられましたか。
お市の方の娘たちは、無事秀吉の手に届けられました。
JCRRAG_012171
歴史
 明智光秀は、信長の将校中、一番のインテリだった。 学問もあり、武道も心得ている。戦術も上手だし、築城術にも通じている。そして、武将としての品位と体面とを保つ事を心がけている。  それだけに、もったいぶったもっともらしい顔をしており、偽善家らしくも見えたのであろう。リアリストで、率直を愛する信長は光秀がすまし過ぎているので、「おい! すますない!」といって時々は肩の一つもつつきたくなるような男であったのであろう。  神経質で陰気で、条理も心得ており、信長のやり方を腹の中では、充分批判しながら、しかしすまして、勿体ぶった顔をしている光秀は、信長には何となく、気になる、虫の好かない所があったのだろう。  といってガッチリしているのだから、役には立つし、軍役や雑役に使ってソツがないので、だんだん重用しながらも、信長としては、ときどきそのアラを探して、やっつけて見たくなるような男であったに違いない。  信長は、人を褒賞したり抜擢したりする点で、決して物惜しみする男ではないが、しかしそのあまりに率直な自信のある行動が自分の知らぬうちに、人の恨みを買うように出来ている。浅井長政など、かなり優遇して娘婿にしたのにも関わらず、朝倉征伐に行ったときその背後で裏切られた。例の金ヶ崎の退陣でも、さんざんな目に会った。 「浅井が不満を持つわけがないんだがな」  といって、信長は浅井の反逆の知らせを簡単には信じなかった。しかし、自分が恨まれないつもりで、恨まれている所に、信長の性格的な欠陥があったのであろう。  荒木村重なども、やはりそうである。村重と初めて会った時、壮士というならこれを食って見ろといって、剣の尖に餅か何かを刺して、突きつけた。村重は平然として、口から喰ったというが、後で考えればひどい事をする奴だと思ったに違いない。 村重なども、相当重用しながら裏切られている。松永久秀などもそうである。  光秀が反逆した原因は、丹波の波多野兄弟を光秀が「命は引き受けた」といって降伏して心を改めて服従させたのを、信長が殺してしまった事。家康が安土に来るとき、光秀に酒や食事を出して人をもてなす役をさせた所、あまりに丁重過ぎたので信長が怒って途中で止めさせた事。 森蘭丸が信長に近江にある亡き父の領土がほしいと哀願したところ、三年待てと言った。 ところがその領土は現在光秀の物なので、三年のうち自分の位置が危ういのではないかということを知って、反逆の意を固くしたという説。  しかし、光秀が信長に背いたのは、平生の鬱憤を晴すと同時に、あわよくば天下を取ろうとする大志があったに違いない。 秀吉が信長の不慮の死を機会に信長の子孫を立てずに自分で天下を取ったのを、光秀はもっと積極的に、自分の私憤を晴らすと同時に、天下取りを志したに違いない。 「三日天下」などいう言葉が残っている以上、当時天下の人心は、光秀のそうした大志を知っていたに違いない。 京師の地子銭を免除したり相当政治的なことをやった以上、信長を殺せば後は野となれ山となれ的なヤケクソでやった事ではない。  有名の愛宕山の連歌で、 ときは今天が下知る五月かな  という句を見ても、天下を狙う大志が躍動しているわけである。老獪な連歌師である紹巴は、その時に光秀の真意に気が付いていたと見え、光秀の敗軍と知るや愛宕山にかけつけて、「知る」という字を消して、その上に「再び知る」と、書いて置いた。そして、秀吉に質問された時、「天が下成る」であったのを自分に反感を持つものが、知るに訂正したのであるといった。 知るとあるのを消して再び知るとかいた所に紹巴の頭のよさがある。  とにかく光秀の魂胆は、反逆五分、大志五分であったのであろう。天下を取ることも、必ずしも空想ではなかった。
織田信長は人から恨みを買う人物でしたか。
信長は、人を褒賞したり抜擢したりする点で、決して物惜しみする男ではないが、しかしそのあまりに率直な自信のある行動が自分の知らぬうちに、人の恨みを買うように出来ている。
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歴史
 明智光秀は、信長の将校中、一番のインテリだった。 学問もあり、武道も心得ている。戦術も上手だし、築城術にも通じている。そして、武将としての品位と体面とを保つ事を心がけている。  それだけに、もったいぶったもっともらしい顔をしており、偽善家らしくも見えたのであろう。リアリストで、率直を愛する信長は光秀がすまし過ぎているので、「おい! すますない!」といって時々は肩の一つもつつきたくなるような男であったのであろう。  神経質で陰気で、条理も心得ており、信長のやり方を腹の中では、充分批判しながら、しかしすまして、勿体ぶった顔をしている光秀は、信長には何となく、気になる、虫の好かない所があったのだろう。  といってガッチリしているのだから、役には立つし、軍役や雑役に使ってソツがないので、だんだん重用しながらも、信長としては、ときどきそのアラを探して、やっつけて見たくなるような男であったに違いない。  信長は、人を褒賞したり抜擢したりする点で、決して物惜しみする男ではないが、しかしそのあまりに率直な自信のある行動が自分の知らぬうちに、人の恨みを買うように出来ている。浅井長政など、かなり優遇して娘婿にしたのにも関わらず、朝倉征伐に行ったときその背後で裏切られた。例の金ヶ崎の退陣でも、さんざんな目に会った。 「浅井が不満を持つわけがないんだがな」  といって、信長は浅井の反逆の知らせを簡単には信じなかった。しかし、自分が恨まれないつもりで、恨まれている所に、信長の性格的な欠陥があったのであろう。  荒木村重なども、やはりそうである。村重と初めて会った時、壮士というならこれを食って見ろといって、剣の尖に餅か何かを刺して、突きつけた。村重は平然として、口から喰ったというが、後で考えればひどい事をする奴だと思ったに違いない。 村重なども、相当重用しながら裏切られている。松永久秀などもそうである。  光秀が反逆した原因は、丹波の波多野兄弟を光秀が「命は引き受けた」といって降伏して心を改めて服従させたのを、信長が殺してしまった事。家康が安土に来るとき、光秀に酒や食事を出して人をもてなす役をさせた所、あまりに丁重過ぎたので信長が怒って途中で止めさせた事。 森蘭丸が信長に近江にある亡き父の領土がほしいと哀願したところ、三年待てと言った。 ところがその領土は現在光秀の物なので、三年のうち自分の位置が危ういのではないかということを知って、反逆の意を固くしたという説。  しかし、光秀が信長に背いたのは、平生の鬱憤を晴すと同時に、あわよくば天下を取ろうとする大志があったに違いない。 秀吉が信長の不慮の死を機会に信長の子孫を立てずに自分で天下を取ったのを、光秀はもっと積極的に、自分の私憤を晴らすと同時に、天下取りを志したに違いない。 「三日天下」などいう言葉が残っている以上、当時天下の人心は、光秀のそうした大志を知っていたに違いない。 京師の地子銭を免除したり相当政治的なことをやった以上、信長を殺せば後は野となれ山となれ的なヤケクソでやった事ではない。  有名の愛宕山の連歌で、 ときは今天が下知る五月かな  という句を見ても、天下を狙う大志が躍動しているわけである。老獪な連歌師である紹巴は、その時に光秀の真意に気が付いていたと見え、光秀の敗軍と知るや愛宕山にかけつけて、「知る」という字を消して、その上に「再び知る」と、書いて置いた。そして、秀吉に質問された時、「天が下成る」であったのを自分に反感を持つものが、知るに訂正したのであるといった。 知るとあるのを消して再び知るとかいた所に紹巴の頭のよさがある。  とにかく光秀の魂胆は、反逆五分、大志五分であったのであろう。天下を取ることも、必ずしも空想ではなかった。
明智光秀が織田信長を裏切ったのはなぜですか。
光秀が信長に背いたのは、平生の鬱憤を晴すと同時に、あわよくば天下を取ろうとする大志があったに違いない。
JCRRAG_012173
歴史
秀吉は中国地方にいて、信長の死を聞いて相当あわてた。 その第一報は、黒田如水の所へ京都の長谷川宗仁というものから飛脚が来たというものである。 秀吉は、情報が外部に漏れるといけないからその飛脚を殺せと云った。 如水は、手柄こそあれ殺すような話じゃないといって、秀吉に内緒でかくまったというが、寛大で慈悲深い秀吉が、そんな事を言い出すのだから、かなりあわてていたに違いない。  むろん、毛利には信長の訃報を秘密にして、和を講じた。和平が成立した後、信長の訃報を知らせて、わが軍に追撃をするかどうかと聞いた。毛利の方でも、ちょっと迷ったが例の小早川隆景、秀吉の度量を知って、このうえ戦う事への不利を説いたので、秀吉後顧の憂いなしに京師に走らせ上ることが出来た。その上毛利の旗を借りて、毛利の援兵がいるように見せかけることにした。当時秀吉の居城は、姫路である。秀吉麾下の者にとっては、故郷である。  備中の陣に、兇報が来たとき、黒田如水は秀吉に悔みをいうかわりに、するするとそばへ寄って、その膝を叩き、 「ついに運が開きましたね!天下取りがんばりましょう!」  といった。 秀吉が心の底で思っていることをあまりに露骨に言うものだから、秀吉は生涯如水を信頼しながらも少しためらうところがあったといわれている。  秀吉だって、信長の死はわが開運のチャンスと思ったに違いない。光秀は、私憤を利用して、無理にそういうチャンスを作ろうとし、秀吉は、偶然そういうチャンスが到来したので、信長の死をチャンスだと考える点では、同じであっただろう。  だからこそ『太閤記』の作者は 「天下が正しい道に進むかは山崎の一戦にかかっている。天下間違った道に進むかも山崎の一戦にかかっている。正しいと言っても完全に正しくはないだろうし、その逆もある、順も逆もどちらも似て非なるものではあるが、これを明らかにする鏡は無く、これを察する人間もいない、英雄が知恵を使って、天下の全てをもてあそぶ事はそもそも天の意志なのだろうか」となかなかしゃれた事をいっている。
信長の死を聞いた豊臣秀吉はどうしましたか。
秀吉は中国地方にいて、信長の死を聞いて相当あわてた。
JCRRAG_012174
歴史
秀吉は中国地方にいて、信長の死を聞いて相当あわてた。 その第一報は、黒田如水の所へ京都の長谷川宗仁というものから飛脚が来たというものである。 秀吉は、情報が外部に漏れるといけないからその飛脚を殺せと云った。 如水は、手柄こそあれ殺すような話じゃないといって、秀吉に内緒でかくまったというが、寛大で慈悲深い秀吉が、そんな事を言い出すのだから、かなりあわてていたに違いない。  むろん、毛利には信長の訃報を秘密にして、和を講じた。和平が成立した後、信長の訃報を知らせて、わが軍に追撃をするかどうかと聞いた。毛利の方でも、ちょっと迷ったが例の小早川隆景、秀吉の度量を知って、このうえ戦う事への不利を説いたので、秀吉後顧の憂いなしに京師に走らせ上ることが出来た。その上毛利の旗を借りて、毛利の援兵がいるように見せかけることにした。当時秀吉の居城は、姫路である。秀吉麾下の者にとっては、故郷である。  備中の陣に、兇報が来たとき、黒田如水は秀吉に悔みをいうかわりに、するするとそばへ寄って、その膝を叩き、 「ついに運が開きましたね!天下取りがんばりましょう!」  といった。 秀吉が心の底で思っていることをあまりに露骨に言うものだから、秀吉は生涯如水を信頼しながらも少しためらうところがあったといわれている。  秀吉だって、信長の死はわが開運のチャンスと思ったに違いない。光秀は、私憤を利用して、無理にそういうチャンスを作ろうとし、秀吉は、偶然そういうチャンスが到来したので、信長の死をチャンスだと考える点では、同じであっただろう。  だからこそ『太閤記』の作者は 「天下が正しい道に進むかは山崎の一戦にかかっている。天下間違った道に進むかも山崎の一戦にかかっている。正しいと言っても完全に正しくはないだろうし、その逆もある、順も逆もどちらも似て非なるものではあるが、これを明らかにする鏡は無く、これを察する人間もいない、英雄が知恵を使って、天下の全てをもてあそぶ事はそもそも天の意志なのだろうか」となかなかしゃれた事をいっている。
信長の死を知って豊臣秀吉は天下を取るチャンスだと思いましたか。
秀吉だって、信長の死はわが開運のチャンスと思ったに違いない。
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歴史
 山崎で戦うとすれば、大切な肝心要の地は天王山である。 光秀がここを取れば、いつでも秀吉の左翼から、拳下りに弓を打ち鉄砲を撃って切ってかかることが出来るし、秀吉がここを取れば逆に光秀軍の右翼を脅かすことが出来るのである。いわゆるどちらにも有利となる戦場である。  だから、光秀は十三日の早暁、中央軍第二陣の大将松田太郎左衛門に二千人の兵を付けて、天王山の占領を命じた。  秀吉も同じく、十三日の早暁に堀尾茂助をまず行かせて、それでも心もとなく思ってきたので、更に堀久太郎を行かせている。 人数は堀尾と堀の二人で四千人の軍勢である。光秀の方は、丑の中刻で、秀吉の方は丑の上刻であったという。 丑の上刻と云えば二時半で、中刻は三時だから、三十分違いである。  が、光秀の方が早かったという説もある。正確な時計がないのだから、三十分位はどちらが早かったか分かるものでない。 しかし、出立の時刻よりも、天王山に到る道のりの関係や、登り道の関係も考えねばならない。 とにかく、秀吉軍の方が、先へ天王山の頂上を占領する事ができ、後から来る松田政近の軍勢を、追い落とした。 山崎合戦の勝敗の岐路は、天王山への登山競争にあったわけである。 光秀もその戦略眼においては、一歩も秀吉に譲らなかったのであるが、天王山の地理などには、光秀の方が、その領土の関係上疎かったかも知れないのである。
山崎の戦いで先に天王山を占領したのはどっちの軍勢ですか。
秀吉軍の方が、先へ天王山の頂上を占領する事ができ、後から来る松田政近の軍勢を、追い落とした。
JCRRAG_012176
歴史
 山崎で戦うとすれば、大切な肝心要の地は天王山である。 光秀がここを取れば、いつでも秀吉の左翼から、拳下りに弓を打ち鉄砲を撃って切ってかかることが出来るし、秀吉がここを取れば逆に光秀軍の右翼を脅かすことが出来るのである。いわゆるどちらにも有利となる戦場である。  だから、光秀は十三日の早暁、中央軍第二陣の大将松田太郎左衛門に二千人の兵を付けて、天王山の占領を命じた。  秀吉も同じく、十三日の早暁に堀尾茂助をまず行かせて、それでも心もとなく思ってきたので、更に堀久太郎を行かせている。 人数は堀尾と堀の二人で四千人の軍勢である。光秀の方は、丑の中刻で、秀吉の方は丑の上刻であったという。 丑の上刻と云えば二時半で、中刻は三時だから、三十分違いである。  が、光秀の方が早かったという説もある。正確な時計がないのだから、三十分位はどちらが早かったか分かるものでない。 しかし、出立の時刻よりも、天王山に到る道のりの関係や、登り道の関係も考えねばならない。 とにかく、秀吉軍の方が、先へ天王山の頂上を占領する事ができ、後から来る松田政近の軍勢を、追い落とした。 山崎合戦の勝敗の岐路は、天王山への登山競争にあったわけである。 光秀もその戦略眼においては、一歩も秀吉に譲らなかったのであるが、天王山の地理などには、光秀の方が、その領土の関係上疎かったかも知れないのである。
なぜ明智光秀軍は天王山を占領できなかったのですか。
光秀もその戦略眼においては、一歩も秀吉に譲らなかったのであるが、天王山の地理などには、光秀の方が、その領土の関係上疎かったかも知れないのである。
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歴史
光秀は、十三日午前中、全軍を円明寺の川畔に展開した。秀吉軍が展開するのは、それからずっと遅れた。 なぜ光秀が展開を完了したのにもかかわらず、まだ部隊の準備が整っていない秀吉軍を打たなかったか、それが一つの敗因であると戦術家は批評している。  戦が開始する前、高山右近の家来の甘利八郎太夫という男が、腰掛けに座って戦いの準備が整うのを待っている右近の前に出て、 「私はいまどうしていいか分らない事があるから、御判断をお願いしたい。お殿様は、私を無能な人間として、給与など少しも下さっていない。その私が、ここで手柄を取ってしまうと、殿様が物事を見通す見識がないと思われることになって不忠になる。といって、臆病な振る舞いをすると、父祖の名を汚して親不孝になってしまう。どうしましょうか」と、三回もくり返して聞いた。 皮肉な奴が居たものである。右近は心の中で怒り、斬り捨てようとも思ったが、大事の前の小事であるしクリスチャンであるしとだまっていると、「不忠と言われても、先祖代々の名を汚すわけには行かない」といって、明智勢に切り入って、一番槍、一番首、二番首の功名を一人でさらってしまった。  戦いは、午後に入って始まった。高山右近は、明智の中央軍にいる斎藤内蔵介に向かったが、相手は明智方第一の剛将なので高山勢がさんざんに打ちまかされ、やっと信孝、丹羽長秀の応援によってようやく盛り返すことが出来た。  秀吉は生駒親正、木村隼人を天王山方面に増援して、横から突いてきた。 こうなると、光秀の軍は絶えず右翼を脅かされることになり、中央軍が奮戦しようと敗色の色が濃くなってきた。  それと同時に、左翼は淀川を頼りにして配備が手薄であったところ、秀吉の第三軍たる池田勝入斎が川沿いから歩いて渡れる小路を発見し、潜行して光秀軍の左翼たる津田与三郎等の陣に切ってかかった。  光秀が、天王山に関心を向けすぎて淀川の方を気にしなかった事もまた一つの敗因でなかったかといわれている。  中央軍は左右両翼ともよく戦った。関ヶ原当時の西軍などとは比べものにならない。光秀がいかに優秀な人材をもっていたかがわかる。  しかし、天王山が秀吉軍のものになり、そのほうから横撃されると同時に洞ヶ峠にいた筒井順慶の大軍が裏切って淀川を渡り、光秀の背後に襲いかかって来た。  順慶は光秀の世話になっている無二の親友である。だから順慶自身は、光秀の勧誘に心がうごいたが、家老の杉倉右近、島左近の二人が主人を注意して出陣させず、ただ人数だけを山崎の対岸にある八幡の洞ヶ峠に出した。  そこで、戦争を見物していて、勝った方へ味方しようというのである。今から考えれば、秀吉が勝つのだから、秀吉の方へハッキリついていた方が、『洞ヶ峠』などという醜い名を後世にまで残さないでよかったのであろうが、順慶の立場はかなり難しい立場であったし、秀吉対光秀の勝敗も、後世の我々が考えるように簡単に見通しのつくものではなかったのだろう。  筒井までが裏切ったのでは万事休すと言うしかなかった。筒井の裏切りを見抜いて、明智方でも斎藤大八郎、柴田源左衛門等が備えていたが、こうなってはひとたまりもなかった。  光秀は、一旦は勝竜寺城に入ったが、夜の十二時頃に桂川を渡り深草から小栗栖にかかって、土民の手にかかった。物騒な世の中で、落人となったが最後、誰に殺されても文句がないのである。また匪賊のような連中がいて、戦争があるとすぐ落人狩りをやり出すのである。本能寺の変を聴いて堺から伊賀を通って、三河へ帰った家康だって土民のために危険な目にあったし、現に家康と同行していた甲斐の旧臣穴山梅雪は土民にやられているのだ。
明智光秀が、最後誰に殺されても文句がない状態だったのはなぜか。
物騒な世の中で、落人となったが最後、誰に殺されても文句がないのである。
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歴史
元亀元年六月二十八日、織田信長が徳川家康の助けをかりて、江北にある姉川において越前の朝倉義景や江北の浅井長政の連合軍を撃破した。 これが、姉川の合戦である。  姉川の合戦は、浅井及び織田においては、野村合戦という。朝倉においては三田村合戦という。徳川は姉川合戦という。後に徳川が天下を取ったのだから、結局名前も姉川合戦になったというわけである。  元来、織田家と朝倉家とは仲が悪かった。両家とも欺波家の家老であった。 応仁の乱の時に斯波家も両方に分れたとき、朝倉は宗家の義廉に背いた治郎大輔義敏の肩を持った。 そして策略をめぐらせて義敏から越前の守護職をゆずらせ、越前の国主になった。 織田家は宗家の義廉に仕えて、信長の時代まで、とにかく形式だけでも斯波の家臣となっていた。 だから織田からしたら朝倉は主君にそむく臣下の家であったわけだし、朝倉の方からしたら、織田は家臣の家臣の家じゃないかと見下していた。  だが、両家の間に美濃の斎藤という緩衝地帯があるうちはまだよかった。それが無くなった今はいつ衝突してもおかしくなかった。  江北三十九万石の領主浅井長政は、その当時まだ二十五歳の若者であったが非常に勢いがあり、彼を敵に回しては信長が京都を出るにしても不便だった。 信長は妹おいちを娘分として、長政と結婚させて親子の間柄になった。  浅井長政は織田信長と縁者となることについて条件を出した。浅井と越前の朝倉とは、代々親しい間柄であるから、今後朝倉とも争いごとを起こさないでくれというのであった。信長はその条件を受け入れて、越前にかまわないという誓いの紙を、長政に渡した。  永正十一年七月二十八日、信長は長政と佐和山で対面することになった。 佐和山は、当時浅井方の勇将、磯野丹波守の居城であった。 信長からの数々の贈り物に対して長政は備前兼光の太刀を贈った。 この浅井家の太刀を送ったのは、浅井家が滅亡する前兆であったと、後に語り伝えられた。  無力でありながら陰謀好きの将軍足利義昭は、近畿にいる諸侯を集めて、信長を追い払おうとした。 その主力は、越前の朝倉であった。  信長は、朝倉退治のため、元亀元年四月、北陸の雪が溶けるのを待って徳川家康と共に敦賀表に進行した。  しかも前年に長政に渡した約束の書があるにもかかわらず、長政に対して一言の挨拶もなかった。 信長が長政に挨拶しなかったのは、挨拶したら長政の立場が悪くなって困るだろうとの配慮があったのだ、と言われている。  決して、浅井長政を馬鹿にしたのではなく、信長は長政に対してはこれまでにもかなり好遇している。  信長の越前への出発を聞いて、一番腹を立てたのは長政の父久政である。 久政は長政が十六歳のとき、家老達から隠居をすすめられて、長政に家督を譲った位の男なのであまり利口でなく頑固であった。 信長が約束を破った事に怒り、信長のことだから越前の帰りがけにはきっとここへ来て小谷城へも押し寄せて来るに違いない。 そんな危険な信長よりこちらから手を切って朝倉と協力した方がいいと言った。 長政の忠臣である遠藤喜右衛門や赤尾美作は「信長も昔の信長とは違う、今では畿内五州、美濃、尾張、三河、伊勢等十二ヶ国の領主である。以前の信長のように、そんな事をやるわけがない。それに当家と朝倉が合体しても、わずか一国半である。到底信長に適うわけがない。 この際は磯野丹波守に千か二千の兵を出して形式的に信長に対する加勢として越前に言って、ひたすら信長を頼りにした方が良い」といったが久政は一切聴かず、他の家臣達も久政の提案に同意するものが多く、長政も父の命に反対することができずに信長に反旗を翻して前後から信長を挟み撃ちすることになった。  越前にいた信長はが長政が裏切ったと聞いたが、「縁者である上、江北一円を渡してるのだから、不満に思うわけはないんだけど」と、簡単には信じなかったが、これが事実だと知ると、あわてて京都に引き上げた。この時、木下藤吉郎は殿を勤めた。金ヶ崎殿軍として太閣出世譚ものがたりの一頁である。  信長はやがて岐阜に引き上げ、浅井征伐のために大軍を起こして六月十九日に浅井の居城がある小谷に向かった。それが姉川合戦の発端である。
浅井長政は織田信長と縁者になる際に出した条件はなんですか。
浅井と越前の朝倉とは、代々親しい間柄であるから、今後朝倉とも争いごとを起こさないでくれというのであった。
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歴史
元亀元年六月二十八日、織田信長が徳川家康の助けをかりて、江北にある姉川において越前の朝倉義景や江北の浅井長政の連合軍を撃破した。 これが、姉川の合戦である。  姉川の合戦は、浅井及び織田においては、野村合戦という。朝倉においては三田村合戦という。徳川は姉川合戦という。後に徳川が天下を取ったのだから、結局名前も姉川合戦になったというわけである。  元来、織田家と朝倉家とは仲が悪かった。両家とも欺波家の家老であった。 応仁の乱の時に斯波家も両方に分れたとき、朝倉は宗家の義廉に背いた治郎大輔義敏の肩を持った。 そして策略をめぐらせて義敏から越前の守護職をゆずらせ、越前の国主になった。 織田家は宗家の義廉に仕えて、信長の時代まで、とにかく形式だけでも斯波の家臣となっていた。 だから織田からしたら朝倉は主君にそむく臣下の家であったわけだし、朝倉の方からしたら、織田は家臣の家臣の家じゃないかと見下していた。  だが、両家の間に美濃の斎藤という緩衝地帯があるうちはまだよかった。それが無くなった今はいつ衝突してもおかしくなかった。  江北三十九万石の領主浅井長政は、その当時まだ二十五歳の若者であったが非常に勢いがあり、彼を敵に回しては信長が京都を出るにしても不便だった。 信長は妹おいちを娘分として、長政と結婚させて親子の間柄になった。  浅井長政は織田信長と縁者となることについて条件を出した。浅井と越前の朝倉とは、代々親しい間柄であるから、今後朝倉とも争いごとを起こさないでくれというのであった。信長はその条件を受け入れて、越前にかまわないという誓いの紙を、長政に渡した。  永正十一年七月二十八日、信長は長政と佐和山で対面することになった。 佐和山は、当時浅井方の勇将、磯野丹波守の居城であった。 信長からの数々の贈り物に対して長政は備前兼光の太刀を贈った。 この浅井家の太刀を送ったのは、浅井家が滅亡する前兆であったと、後に語り伝えられた。  無力でありながら陰謀好きの将軍足利義昭は、近畿にいる諸侯を集めて、信長を追い払おうとした。 その主力は、越前の朝倉であった。  信長は、朝倉退治のため、元亀元年四月、北陸の雪が溶けるのを待って徳川家康と共に敦賀表に進行した。  しかも前年に長政に渡した約束の書があるにもかかわらず、長政に対して一言の挨拶もなかった。 信長が長政に挨拶しなかったのは、挨拶したら長政の立場が悪くなって困るだろうとの配慮があったのだ、と言われている。  決して、浅井長政を馬鹿にしたのではなく、信長は長政に対してはこれまでにもかなり好遇している。  信長の越前への出発を聞いて、一番腹を立てたのは長政の父久政である。 久政は長政が十六歳のとき、家老達から隠居をすすめられて、長政に家督を譲った位の男なのであまり利口でなく頑固であった。 信長が約束を破った事に怒り、信長のことだから越前の帰りがけにはきっとここへ来て小谷城へも押し寄せて来るに違いない。 そんな危険な信長よりこちらから手を切って朝倉と協力した方がいいと言った。 長政の忠臣である遠藤喜右衛門や赤尾美作は「信長も昔の信長とは違う、今では畿内五州、美濃、尾張、三河、伊勢等十二ヶ国の領主である。以前の信長のように、そんな事をやるわけがない。それに当家と朝倉が合体しても、わずか一国半である。到底信長に適うわけがない。 この際は磯野丹波守に千か二千の兵を出して形式的に信長に対する加勢として越前に言って、ひたすら信長を頼りにした方が良い」といったが久政は一切聴かず、他の家臣達も久政の提案に同意するものが多く、長政も父の命に反対することができずに信長に反旗を翻して前後から信長を挟み撃ちすることになった。  越前にいた信長はが長政が裏切ったと聞いたが、「縁者である上、江北一円を渡してるのだから、不満に思うわけはないんだけど」と、簡単には信じなかったが、これが事実だと知ると、あわてて京都に引き上げた。この時、木下藤吉郎は殿を勤めた。金ヶ崎殿軍として太閣出世譚ものがたりの一頁である。  信長はやがて岐阜に引き上げ、浅井征伐のために大軍を起こして六月十九日に浅井の居城がある小谷に向かった。それが姉川合戦の発端である。
姉川の合戦は呼び方が複数あるのはなぜですか。
姉川の合戦は、浅井及び織田においては、野村合戦という。朝倉においては三田村合戦という。徳川は姉川合戦という。後に徳川が天下を取ったのだから、結局名前も姉川合戦になったというわけである。
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歴史
 京都から岐阜に帰って準備を整えた信長は、六月十九日に二万以上の大軍を用意して岐阜を立ち、二十一日早くも浅井の本城がある小谷に迫り町家を焼き払った。しかし、一向に浅井が出て戦わないので引き上げて姉川を渡り、その左岸にある横山城を攻めた。 そして、横山城の北竜ヶ鼻に陣して、家康が来るのを待った。 六月二十七日、家康は約五千以上の騎馬を率いて応援に駆けつけた。  家康に取っても、大事ないくさであった。信長から加勢をお願いされて、家康の側近と相談したが、本多平八郎忠勝が家康に「信長公を安心の出来る味方と思っているかも知れないが、そうとは限らないと思います。隙あらば殿を面倒な戦いをさせて戦死をするように工作をするとも限りません。今回の出撃は非常に大事であります」と進言した。 家康はその言葉によろこび、わざと多くの軍勢を引き連れずに行ったのだ。出先で敗れても、国が手薄にならぬ為の用意であった。  長政は、朝倉に対する義理から、好意から信長に背いているのに、肝心の朝倉義景は、この大事な一戦に自ら出向いて来ないのである。 隣の家が焼けているうちは、まだまだという考えなのである。もっとも、そうした暗愚の義景を頼りにしたのは、長政の失敗でもあるが。  長政、朝倉の応援を得て、横山城を救おうとして、二十五日小谷城を出てその東にある大寄山に陣を張った。 翌二十八日には、三十町も進み来り、浅井軍は野村に朝倉勢は三田村に展開した。  かくて、織田徳川軍は姉川を挟んで浅井朝倉軍と南北に対峙した。  今南軍、織田徳川方の陣容を見るに、  織田信長(三十七歳)   ――二百四十余万石、兵数六万、姉川に来たのは、その半数――     第一陣 阪井 政尚┐     第二陣 池田 信輝│     第三陣 木下 秀吉│     第四陣 柴田 勝家├(兵各三千)     第五陣 森  可成│     第六陣 佐久間信盛┘     本陣 信長(兵五千余)    横山城への抑え     丹羽 長秀(兵三千)     氏家 直元(兵千)     安藤 範俊(兵千)  徳川家康(二十九歳)   ――六十余万石、兵数約一万六千、姉川に来たもの約五千――     第一陣 酒井 忠次(兵千余)     第二陣 小笠原長忠(兵千余)     第三陣 石川 数正(兵千余)     本陣 家康(兵二千余)  外に信長より家康への加勢として     稲葉 通朝(兵千余)  徳川家康の部将の中でも酒井石川は譜代だが、小笠原与八郎長忠だけはそうではない。 小笠原は、元々今川家の大将で武功の勇猛な武将である。家康に従ってはいるが、もし家康が信長へ加勢として上方にでも遠征したら、その隙に遠州をかすめ取るというつもりだった。家康もその辺はちゃんとわかっているので一緒に連れて来たわけである。 つまり、まだ馴れない猛獣に、くさりをつけて引っぱって来て戦争に使おうというのである。 それだけの小笠原であるから、武功の士も多く、姉川においての働きもまた格別であった。  家康が到着した時に信長は遠い所から応援に来たことに感謝しながら、明日はどうか弱そうな所に行って助けてくれといった。 つまり予備隊になってくれというわけだ。 家康はその提案を嫌って、軍は少ないが独立して一つの軍として戦いたいと主張した。 この主張が通らないのなら、本国に引き返しますといった。 信長はそういうのなら、朝倉勢を引き受けて貰いたいといった。もっとも北国の大敵に向わせられるには、お前の軍の数だけでは、あまりに小人数である。私の軍勢から、誰かえらんでくれといった。 家康は、自分は小国で小勢を使う事に慣れているから大勢は使えないし、知らぬ人間に指図するのも気苦労だから、自分の軍勢だけで沢山だと断った。信長は重ねて、朝倉という北国の大軍を家康だけに任せたとあっては、信長が天下の笑いものになるから、義理でもいいから誰かを使ってくれと、ひたすら勧めたので、家康は仕方がないので稲葉伊予守貞通を貸してくれといった。  稲葉伊予守は、稲葉一徹で美濃三人衆の一人として、斎藤家以来の名誉の士だった。 茶室で信長に殺されかけたのを、床の間にかかっている韓退之の詩『雲横秦嶺』を読んで自らの命を助けた文武を兼ね備えた豪傑である。  戦いの後、信長は稲葉の功労を褒めて、自分の一字をやって長通と名乗れという。 稲葉はよろこばずして信長に向かって、「殿は盲大将にして、人の剛勇と臆病が分らないのだ。自分は上方勢の中では、槍取る者とも言われるが、徳川殿の中に加わってしまっては、足手まといの弱兵だし役に立ったとも思えないしそんな私の勲功をお褒めになるなど身びいきというもので、三河の人にそう思われる事も恥ずかしいのです」と。自分の勲功を謙遜し、家康勢を褒め上げるなど、外交手段を心得たなかなかの曲者である。  浅井朝倉の陣容は、次の通りだった。   浅井勢  浅井長政(二十六歳)   ――三十九万石、兵数約一万――     第一陣 磯野 員昌(兵千五百)     第二陣 浅井 政澄(兵千)     第三陣 阿閑 貞秀(兵千)     第四陣 新庄 直頼(兵千)     本陣 長政(兵三千五百)  朝倉勢(朝倉義景)   ――八十七万石、兵数二万、姉川に来りしもの一万――     第一陣 朝倉 景紀(兵三千)     第二陣 前波新八郎(兵三千)     本陣 朝倉 景健(兵四千)                 『真書太閣記』によると、浅井朝倉方の戦前の軍議の模様は、左の通りだ。
本多平八郎忠勝が家康に行った進言はなんですか。
本多平八郎忠勝が家康に「信長公を安心の出来る味方と思っているかも知れないが、そうとは限らないと思います。隙あらば殿を面倒な戦いをさせて戦死をするように工作をするとも限りません。今回の出撃は非常に大事であります」と進言した。
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歴史
 京都から岐阜に帰って準備を整えた信長は、六月十九日に二万以上の大軍を用意して岐阜を立ち、二十一日早くも浅井の本城がある小谷に迫り町家を焼き払った。しかし、一向に浅井が出て戦わないので引き上げて姉川を渡り、その左岸にある横山城を攻めた。 そして、横山城の北竜ヶ鼻に陣して、家康が来るのを待った。 六月二十七日、家康は約五千以上の騎馬を率いて応援に駆けつけた。  家康に取っても、大事ないくさであった。信長から加勢をお願いされて、家康の側近と相談したが、本多平八郎忠勝が家康に「信長公を安心の出来る味方と思っているかも知れないが、そうとは限らないと思います。隙あらば殿を面倒な戦いをさせて戦死をするように工作をするとも限りません。今回の出撃は非常に大事であります」と進言した。 家康はその言葉によろこび、わざと多くの軍勢を引き連れずに行ったのだ。出先で敗れても、国が手薄にならぬ為の用意であった。  長政は、朝倉に対する義理から、好意から信長に背いているのに、肝心の朝倉義景は、この大事な一戦に自ら出向いて来ないのである。 隣の家が焼けているうちは、まだまだという考えなのである。もっとも、そうした暗愚の義景を頼りにしたのは、長政の失敗でもあるが。  長政、朝倉の応援を得て、横山城を救おうとして、二十五日小谷城を出てその東にある大寄山に陣を張った。 翌二十八日には、三十町も進み来り、浅井軍は野村に朝倉勢は三田村に展開した。  かくて、織田徳川軍は姉川を挟んで浅井朝倉軍と南北に対峙した。  今南軍、織田徳川方の陣容を見るに、  織田信長(三十七歳)   ――二百四十余万石、兵数六万、姉川に来たのは、その半数――     第一陣 阪井 政尚┐     第二陣 池田 信輝│     第三陣 木下 秀吉│     第四陣 柴田 勝家├(兵各三千)     第五陣 森  可成│     第六陣 佐久間信盛┘     本陣 信長(兵五千余)    横山城への抑え     丹羽 長秀(兵三千)     氏家 直元(兵千)     安藤 範俊(兵千)  徳川家康(二十九歳)   ――六十余万石、兵数約一万六千、姉川に来たもの約五千――     第一陣 酒井 忠次(兵千余)     第二陣 小笠原長忠(兵千余)     第三陣 石川 数正(兵千余)     本陣 家康(兵二千余)  外に信長より家康への加勢として     稲葉 通朝(兵千余)  徳川家康の部将の中でも酒井石川は譜代だが、小笠原与八郎長忠だけはそうではない。 小笠原は、元々今川家の大将で武功の勇猛な武将である。家康に従ってはいるが、もし家康が信長へ加勢として上方にでも遠征したら、その隙に遠州をかすめ取るというつもりだった。家康もその辺はちゃんとわかっているので一緒に連れて来たわけである。 つまり、まだ馴れない猛獣に、くさりをつけて引っぱって来て戦争に使おうというのである。 それだけの小笠原であるから、武功の士も多く、姉川においての働きもまた格別であった。  家康が到着した時に信長は遠い所から応援に来たことに感謝しながら、明日はどうか弱そうな所に行って助けてくれといった。 つまり予備隊になってくれというわけだ。 家康はその提案を嫌って、軍は少ないが独立して一つの軍として戦いたいと主張した。 この主張が通らないのなら、本国に引き返しますといった。 信長はそういうのなら、朝倉勢を引き受けて貰いたいといった。もっとも北国の大敵に向わせられるには、お前の軍の数だけでは、あまりに小人数である。私の軍勢から、誰かえらんでくれといった。 家康は、自分は小国で小勢を使う事に慣れているから大勢は使えないし、知らぬ人間に指図するのも気苦労だから、自分の軍勢だけで沢山だと断った。信長は重ねて、朝倉という北国の大軍を家康だけに任せたとあっては、信長が天下の笑いものになるから、義理でもいいから誰かを使ってくれと、ひたすら勧めたので、家康は仕方がないので稲葉伊予守貞通を貸してくれといった。  稲葉伊予守は、稲葉一徹で美濃三人衆の一人として、斎藤家以来の名誉の士だった。 茶室で信長に殺されかけたのを、床の間にかかっている韓退之の詩『雲横秦嶺』を読んで自らの命を助けた文武を兼ね備えた豪傑である。  戦いの後、信長は稲葉の功労を褒めて、自分の一字をやって長通と名乗れという。 稲葉はよろこばずして信長に向かって、「殿は盲大将にして、人の剛勇と臆病が分らないのだ。自分は上方勢の中では、槍取る者とも言われるが、徳川殿の中に加わってしまっては、足手まといの弱兵だし役に立ったとも思えないしそんな私の勲功をお褒めになるなど身びいきというもので、三河の人にそう思われる事も恥ずかしいのです」と。自分の勲功を謙遜し、家康勢を褒め上げるなど、外交手段を心得たなかなかの曲者である。  浅井朝倉の陣容は、次の通りだった。   浅井勢  浅井長政(二十六歳)   ――三十九万石、兵数約一万――     第一陣 磯野 員昌(兵千五百)     第二陣 浅井 政澄(兵千)     第三陣 阿閑 貞秀(兵千)     第四陣 新庄 直頼(兵千)     本陣 長政(兵三千五百)  朝倉勢(朝倉義景)   ――八十七万石、兵数二万、姉川に来りしもの一万――     第一陣 朝倉 景紀(兵三千)     第二陣 前波新八郎(兵三千)     本陣 朝倉 景健(兵四千)                 『真書太閣記』によると、浅井朝倉方の戦前の軍議の模様は、左の通りだ。
家康が信長に自分の部下を連れていけと言われて選んだのは誰ですか。
信長は重ねて、朝倉という北国の大軍を家康だけに任せたとあっては、信長が天下の笑いものになるから、義理でもいいから誰かを使ってくれと、ひたすら勧めたので、家康は仕方がないので稲葉伊予守貞通を貸してくれといった。
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歴史
 京都から岐阜に帰って準備を整えた信長は、六月十九日に二万以上の大軍を用意して岐阜を立ち、二十一日早くも浅井の本城がある小谷に迫り町家を焼き払った。しかし、一向に浅井が出て戦わないので引き上げて姉川を渡り、その左岸にある横山城を攻めた。 そして、横山城の北竜ヶ鼻に陣して、家康が来るのを待った。 六月二十七日、家康は約五千以上の騎馬を率いて応援に駆けつけた。  家康に取っても、大事ないくさであった。信長から加勢をお願いされて、家康の側近と相談したが、本多平八郎忠勝が家康に「信長公を安心の出来る味方と思っているかも知れないが、そうとは限らないと思います。隙あらば殿を面倒な戦いをさせて戦死をするように工作をするとも限りません。今回の出撃は非常に大事であります」と進言した。 家康はその言葉によろこび、わざと多くの軍勢を引き連れずに行ったのだ。出先で敗れても、国が手薄にならぬ為の用意であった。  長政は、朝倉に対する義理から、好意から信長に背いているのに、肝心の朝倉義景は、この大事な一戦に自ら出向いて来ないのである。 隣の家が焼けているうちは、まだまだという考えなのである。もっとも、そうした暗愚の義景を頼りにしたのは、長政の失敗でもあるが。  長政、朝倉の応援を得て、横山城を救おうとして、二十五日小谷城を出てその東にある大寄山に陣を張った。 翌二十八日には、三十町も進み来り、浅井軍は野村に朝倉勢は三田村に展開した。  かくて、織田徳川軍は姉川を挟んで浅井朝倉軍と南北に対峙した。  今南軍、織田徳川方の陣容を見るに、  織田信長(三十七歳)   ――二百四十余万石、兵数六万、姉川に来たのは、その半数――     第一陣 阪井 政尚┐     第二陣 池田 信輝│     第三陣 木下 秀吉│     第四陣 柴田 勝家├(兵各三千)     第五陣 森  可成│     第六陣 佐久間信盛┘     本陣 信長(兵五千余)    横山城への抑え     丹羽 長秀(兵三千)     氏家 直元(兵千)     安藤 範俊(兵千)  徳川家康(二十九歳)   ――六十余万石、兵数約一万六千、姉川に来たもの約五千――     第一陣 酒井 忠次(兵千余)     第二陣 小笠原長忠(兵千余)     第三陣 石川 数正(兵千余)     本陣 家康(兵二千余)  外に信長より家康への加勢として     稲葉 通朝(兵千余)  徳川家康の部将の中でも酒井石川は譜代だが、小笠原与八郎長忠だけはそうではない。 小笠原は、元々今川家の大将で武功の勇猛な武将である。家康に従ってはいるが、もし家康が信長へ加勢として上方にでも遠征したら、その隙に遠州をかすめ取るというつもりだった。家康もその辺はちゃんとわかっているので一緒に連れて来たわけである。 つまり、まだ馴れない猛獣に、くさりをつけて引っぱって来て戦争に使おうというのである。 それだけの小笠原であるから、武功の士も多く、姉川においての働きもまた格別であった。  家康が到着した時に信長は遠い所から応援に来たことに感謝しながら、明日はどうか弱そうな所に行って助けてくれといった。 つまり予備隊になってくれというわけだ。 家康はその提案を嫌って、軍は少ないが独立して一つの軍として戦いたいと主張した。 この主張が通らないのなら、本国に引き返しますといった。 信長はそういうのなら、朝倉勢を引き受けて貰いたいといった。もっとも北国の大敵に向わせられるには、お前の軍の数だけでは、あまりに小人数である。私の軍勢から、誰かえらんでくれといった。 家康は、自分は小国で小勢を使う事に慣れているから大勢は使えないし、知らぬ人間に指図するのも気苦労だから、自分の軍勢だけで沢山だと断った。信長は重ねて、朝倉という北国の大軍を家康だけに任せたとあっては、信長が天下の笑いものになるから、義理でもいいから誰かを使ってくれと、ひたすら勧めたので、家康は仕方がないので稲葉伊予守貞通を貸してくれといった。  稲葉伊予守は、稲葉一徹で美濃三人衆の一人として、斎藤家以来の名誉の士だった。 茶室で信長に殺されかけたのを、床の間にかかっている韓退之の詩『雲横秦嶺』を読んで自らの命を助けた文武を兼ね備えた豪傑である。  戦いの後、信長は稲葉の功労を褒めて、自分の一字をやって長通と名乗れという。 稲葉はよろこばずして信長に向かって、「殿は盲大将にして、人の剛勇と臆病が分らないのだ。自分は上方勢の中では、槍取る者とも言われるが、徳川殿の中に加わってしまっては、足手まといの弱兵だし役に立ったとも思えないしそんな私の勲功をお褒めになるなど身びいきというもので、三河の人にそう思われる事も恥ずかしいのです」と。自分の勲功を謙遜し、家康勢を褒め上げるなど、外交手段を心得たなかなかの曲者である。  浅井朝倉の陣容は、次の通りだった。   浅井勢  浅井長政(二十六歳)   ――三十九万石、兵数約一万――     第一陣 磯野 員昌(兵千五百)     第二陣 浅井 政澄(兵千)     第三陣 阿閑 貞秀(兵千)     第四陣 新庄 直頼(兵千)     本陣 長政(兵三千五百)  朝倉勢(朝倉義景)   ――八十七万石、兵数二万、姉川に来りしもの一万――     第一陣 朝倉 景紀(兵三千)     第二陣 前波新八郎(兵三千)     本陣 朝倉 景健(兵四千)                 『真書太閣記』によると、浅井朝倉方の戦前の軍議の模様は、左の通りだ。
徳川家康が姉川の戦いに小笠原与八郎長忠を連れて来たのはなぜですか。
小笠原は、元々今川家の大将で武功の勇猛な武将である。家康に従ってはいるが、もし家康が信長へ加勢として上方にでも遠征したら、その隙に遠州をかすめ取るというつもりだった。家康もその辺はちゃんとわかっているので一緒に連れて来たわけである。
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歴史
朝倉勢はいくさに勝つぞと姉川を渡り左岸に殺到したところ、徳川勢をひき寄せて、左右からこれを迎え撃った。 酒井忠次、榊原康政等は姉川の上流を渡り、朝倉勢の側面から横槍を入れて無二無三に攻め立てたので、朝倉勢はようやく浮き足立った。 徳川勢はこれに乗じて追撃したので、朝倉軍はうろたえて川を渡って撤退しようとして、大将孫三郎景健さえ乱軍の中に取り巻かれた。 その時、朝倉家において唯一の豪の者ときこえた真柄十郎左衛門直隆が取って返して奮戦した。 十郎左衛門はこの度の戦に景健の後見人として義景から特に頼まれて出陣した男だ。 彼は講談でも有名な男だが、北国無双の怪力である。その使っている太刀は有名な太郎太刀だ。  越前の千代鶴という鍛冶が作り出した太刀で七尺八寸あったといわれている。講談では余り幅が広いので、前方を見る邪魔にならぬよう窓をつけてあったとさえ言われている。それは嘘かもしれないが、重量を減らすためにところどころ窓があったかも知れない。 だが真柄の領内で、この太刀を担ぐことができる百姓はたった一人であり、常に家来が四人で運んでいたというから七尺八寸という方が本当かも知れない。  これに対して次郎太刀というのもあった。其の方は六尺五寸(一説には四尺三寸)あったといわれている。  直隆、景健の苦戦を見て、太郎太刀を「薙刀の如く」ふりかざし、馬手や弓手を当たりを付けられた事を幸いに薙ぎ伏せて斬り伏せて、縦に横にと十文字に駆け抜けて、向かってくる者の兜の真向や鎧の袖を微塵になれと言わんばかりに斬って回り、流石の徳川勢も直隆一人に斬り立てられてしまった。 直隆の向かう所、20〜30メートル四方は小田原のようになってしまった。
太郎太刀はどれ位の長さがありますか。
越前の千代鶴という鍛冶が作り出した太刀で七尺八寸あったといわれている。
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歴史
朝倉勢はいくさに勝つぞと姉川を渡り左岸に殺到したところ、徳川勢をひき寄せて、左右からこれを迎え撃った。 酒井忠次、榊原康政等は姉川の上流を渡り、朝倉勢の側面から横槍を入れて無二無三に攻め立てたので、朝倉勢はようやく浮き足立った。 徳川勢はこれに乗じて追撃したので、朝倉軍はうろたえて川を渡って撤退しようとして、大将孫三郎景健さえ乱軍の中に取り巻かれた。 その時、朝倉家において唯一の豪の者ときこえた真柄十郎左衛門直隆が取って返して奮戦した。 十郎左衛門はこの度の戦に景健の後見人として義景から特に頼まれて出陣した男だ。 彼は講談でも有名な男だが、北国無双の怪力である。その使っている太刀は有名な太郎太刀だ。  越前の千代鶴という鍛冶が作り出した太刀で七尺八寸あったといわれている。講談では余り幅が広いので、前方を見る邪魔にならぬよう窓をつけてあったとさえ言われている。それは嘘かもしれないが、重量を減らすためにところどころ窓があったかも知れない。だが一説には五尺三寸というから、その方が本当であっただろう。 だが真柄の領内で、この太刀を担ぐことができる百姓はたった一人であり、常に家来が四人で運んでいたというから七尺八寸という方が本当かも知れない。  これに対して次郎太刀というのもあった。其の方は六尺五寸(一説には四尺三寸)あったといわれている。  直隆、景健の苦戦を見て、太郎太刀を「薙刀の如く」ふりかざし、馬手や弓手を当たりを付けられた事を幸いに薙ぎ伏せて斬り伏せて、縦に横にと十文字に駆け抜けて、向かってくる者の兜の真向や鎧の袖を微塵になれと言わんばかりに斬って回り、流石の徳川勢も直隆一人に斬り立てられてしまった。  
太郎太刀を運んでいたのは誰ですか。
真柄の領内で、この太刀を担ぐことができる百姓はたった一人であり、常に家来が四人で運んでいたという。
JCRRAG_012185
歴史
姉川の沿岸は、水田が多く人や馬は足を取られて満足に歩けなかった。 特に越前の軍勢は地理を知らなかったので、水田に人や馬の足を取られて銃撃される者が多かった。 真柄父子を始めとした、前波兄弟や小林瑞周軒、竜門寺、黒坂備中守等のたくさんの大将分がこの戦いで討ち死にした。 これに比べると、地理を把握していた浅井軍の被害者は少なかった。  この戦では徳川勢は余り苦労していないようだったが、朝倉勢に「裏切り組」というのがいた。 裏切り組とは百人位の勇士を募り、一人一人に四尺五寸、長く造らせた野太刀を持たせて、戦いの最中に森陰から現われて不意打ちとして家康の旗本へ切りかかった者たちを指す。 効果はてきめんで旗本は混乱してしまったが、清水久三郎達が家康の馬前に立ち塞がり、五・六人斬り伏せたのでピンチを切り抜けた。  これは後に語られた話だが、徳川頼宣がある時「加藤喜介正次は、常に刀と脇差の柄に手をかけているからみんなが笑った。そうしたら加藤喜介が「姉川合戦の時に朝倉の兵が味方の真似をして、家康公のそばへ近付いて不意打ちで切りかかったんだよ。しかし私は常に刀に手をかけていたので、すぐに二騎の内の一人を斬ってもう一人は天野三郎兵衛が仕留めた。この時に家康公も太刀を少し抜いてその太刀に血がかかるだけで済んだ。だからいつでも刀の柄に手をかけているのだ」と言ったというが、喜介よりもその朝倉の兵はもっと勇敢だった。 敵の中に二人だけで乗り込んで討ち死にする。さらに二人の首の中に『一足無間』という誓い文が書かれていた。なんとも思い切った、豪の者達だったな」と褒めたというが、かなり朝倉方も負けていなかった事がわかる。
裏切り組とはなんですか。
裏切り組とは百人位の勇士を募り、一人一人に四尺五寸、長く造らせた野太刀を持たせて、戦いの最中に森陰から現われて不意打ちとして家康の旗本へ切りかかった者たちを指す。
JCRRAG_012186
歴史
浅井を敵にまわした織田勢の方は、もっと苦戦していた。 浅井方の第一陣にいる磯野丹波守は勇猛無双の大将だ。 その他彼に従う高宮三河守や大野木大和守、誰もが優れた勇敢な武士達である。 もともと浅井軍は強いのだ。 だから木下藤吉郎が一番陣を望んだが許されなかった。 それは秀吉の軍勢は何年も近江にいて浅井軍と接触しているため、浅井の強さを恐れているだろうという理由だった。 だからこそ信長も長政を味方にしておきたかったのだ。 丹波守を先頭に総勢五千以上の騎馬隊が織田の一番陣、酒井右近の陣に攻めかかる。 丹波守自ら槍をとって先頭を進み、騎馬隊の強者達に真っ向から対峙した。 右近の陣は鉄砲に打ちすくめられ久蔵を初め百余人撃たれて、敗走した。 池田勝三郎も丹波守の猛威に恐れおののいて敗走した。 家康の方が早くも朝倉勢対してに勝ち目を見せ初めたので家康の援軍として控えている稲葉一徹が「家康の方はもう大丈夫だろう」と見て浅井勢の右翼に横槍を入れたのと、横山城を抑える役目用に残しておいた氏家卜全と安藤伊賀とが浅井勢の左翼を攻撃した。 こうした両サイドからの挟み撃ちによって、織田軍はやっと盛り返して浅井勢を倒し、姉川の戦いを制したのだ。 戦の後に信長が「義濃三人衆が弱かったらわが軍の旗本たちがもっと頑張っただろうに」といって稲葉、氏家、安藤三人に感謝状と名馬、太刀等をやったところを見ると、戦いの様子が分かるだろう。 それに家康の方が先に朝倉に勝ったので、浅井の兵士たちも不安になって乱れ始めたのだろう。 徳川と織田とは、かなり離れて戦っているつもりだったが、最後には乱戦になったらしく、酒井忠次の払った長刀の切っ先が信長勢である池田勝三郎信輝の股間に当たったくらいだ。 後年、人呼んでこの傷を「左衛門キズ」といった。 池田と酒井は戦の前夜に信長の前で、「家康を先陣にするかしないか」で議論をし合った仲なのだ。 その時酒井は、「とにかく言ってもしょうがない。全ては明日どうなるかだ」と言って別れて帰った。 だから酒井の長刀が池田の股に当たったことは二人とも第一戦に立って奮戦していたわけで、双方とも前夜の言葉にウソがなかったわけで、「とんでもない振る舞いだな」と人々は言い合ったという。
誰が自ら槍をとって先頭を進み、騎馬隊の強者達に真っ向から対峙しましたか。
丹波守自ら槍をとって先頭を進み、騎馬隊の強者達に真っ向から対峙しました。
JCRRAG_012187
歴史
浅井を敵にまわした織田勢の方は、もっと苦戦していた。 浅井方の第一陣にいる磯野丹波守は勇猛無双の大将だ。 その他彼に従う高宮三河守や大野木大和守、誰もが優れた勇敢な武士達である。 もともと浅井軍は強いのだ。 だから木下藤吉郎が一番陣を望んだが許されなかった。 それは秀吉の軍勢は何年も近江にいて浅井軍と接触しているため、浅井の強さを恐れているだろうという理由だった。 だからこそ信長も長政を味方にしておきたかったのだ。 丹波守を先頭に総勢五千以上の騎馬隊が織田の一番陣、酒井右近の陣に攻めかかる。 丹波守自ら槍をとって先頭を進み、騎馬隊の強者達に真っ向から対峙した。 右近の陣は鉄砲に打ちすくめられ久蔵を初め百余人撃たれて、敗走した。 池田勝三郎も丹波守の猛威に恐れおののいて敗走した。 家康の方が早くも朝倉勢対してに勝ち目を見せ初めたので家康の援軍として控えている稲葉一徹が「家康の方はもう大丈夫だろう」と見て浅井勢の右翼に横槍を入れたのと、横山城を抑える役目用に残しておいた氏家卜全と安藤伊賀とが浅井勢の左翼を攻撃した。 こうした両サイドからの挟み撃ちによって、織田軍はやっと盛り返して浅井勢を倒し、姉川の戦いを制したのだ。 戦の後に信長が「義濃三人衆が弱かったらわが軍の旗本たちがもっと頑張っただろうに」といって稲葉、氏家、安藤三人に感謝状と名馬、太刀等をやったところを見ると、戦いの様子が分かるだろう。 それに家康の方が先に朝倉に勝ったので、浅井の兵士たちも不安になって乱れ始めたのだろう。 徳川と織田とは、かなり離れて戦っているつもりだったが、最後には乱戦になったらしく、酒井忠次の払った長刀の切っ先が信長勢である池田勝三郎信輝の股間に当たったくらいだ。 後年、人呼んでこの傷を「左衛門キズ」といった。 池田と酒井は戦の前夜に信長の前で、「家康を先陣にするかしないか」で議論をし合った仲なのだ。 その時酒井は、「とにかく言ってもしょうがない。全ては明日どうなるかだ」と言って別れて帰った。 だから酒井の長刀が池田の股に当たったことは二人とも第一戦に立って奮戦していたわけで、双方とも前夜の言葉にウソがなかったわけで、「とんでもない振る舞いだな」と人々は言い合ったという。
姉川の戦いは織田軍と徳川軍入り乱れての戦いになりましたか。
徳川と織田とは、かなり離れて戦っているつもりだったが、最後には乱戦になったらしく、酒井忠次の払った長刀の切っ先が信長勢である池田勝三郎信輝の股間に当たったくらいだ。
JCRRAG_012188
歴史
天文十八年三月のこと、織田信秀が四十二歳で亡くなった。 信秀が死ぬ三年前に古渡城にて成人を迎えて幼名である吉法師を改名した三男の信長は、すぐに父の跡を継いで上総介と名付けた。  信秀の法事が那古野万松寺にて行われた時の事である。 重臣達を始めきらびやかに居並んで居る所に、信長は焼香を上げるために信秀の仏前に進んだ。  これから織田家の大将になるという信長が亡き父の前に立った姿を見てみんな驚いた。 長柄の太刀脇差をしめなわでぐるぐる巻きにして、頭を茶筌に結った髪は乱れたままであることに加えに袴も履かないという有様だった。 そして抹香を一つかみして投げ入れると一度頭をさげて帰ってしまったのだ。 信長の弟である勘十郎信行の折目正しい肩衣袴で丁寧に礼拝したのと比べて人々は「なるほど、信長公は聞きしに勝る大馬鹿者だ!」と馬鹿にした。 心ある重臣達は織田家の将来を想って沈んだ気持になって居たが、そのなかに筑紫からこの寺に客の僧となって来ている坊さんが「信長公こそは名国主となる人だ」といった。 この坊さんもなかなか人を見る目があったという事になるわけだが、なにしろ幼年時代からこの年頃にかけての信長の行いはたしかに普通ならバカに見られても文句の言いようがないだろう。尾張の治黙寺に習字のけいこをしに行かされたが、モチロン習字なんぞするわけがない。 川からフナを取って来て来てふきの葉でナマスを造る位はまだいいほうで、ともだちの弁当を奪い取ってして平らげたりした。 町を通りながら、栗、柿、瓜をかじり、餅をほおばった。人が笑おうが指を指そうがお構いなしである。  十六までは別に遊びはしなかったが、ただ、朝や夕方に馬を走らせたり、鷹狩りを催したり、春から秋にかけて川に飛び込んだりして日々を暮らしていた。 しかし友人を集めて竹槍を持たせて戦わせたりする時に、褒美を最初は少しだけ渡して後からこっそり多く与えていた事や、当時から槍は三間柄が有利であるとの見解を持っていた事や、更にこの頃じょじょに戦が始まる度に威力を発揮して来た鉄砲の稽古に熱心であった事などを見ると、筑紫の坊さんの目もたしかだったのだろう。  平手中務政秀は信長のお守り役であるが、前々から主である信長の行いを気に病んでいた。 色々と説得しては見るものの一向に効き目がない。 そのうちに、政秀の長男に五郎右衛門というのがいるのだが、良い馬を持っていた所を馬好きの信長が見て欲しがった所、あっさりと断られてしまった。 親父も頑固なら息子も強情な奴だと、信長の機嫌が非常に悪かった。 政秀はこのやりとりを見て「今までの教育が失敗しているのに、更にまた息子までしくじってしまった。こうなったら死ぬことで許してもらうしかない」と決意して、天文二十二年の正月十三日、六十歳ほどのしわの入った腹を切腹して亡くなった。  その遺書には、  心を正しくしなければ誰も誠意をもって仕えないですよ、ただ賢さだけではでなく心の度量を広く持ってください、  欲張ってもいけませんしえこひいきがあってはいけません、才能を見出さなければなりませんよ、  力だけでは立派にはなれないので、勉強もしっかりするように、  礼節を軽視しない方がいいですよ  などと書かれていた。  信長は涙を流して後悔したけどどうしようもない。せめてと思って西春日井郡小木の里に政秀寺という菩提寺を建てて二百石を渡した。(後に清須に移し今は名古屋に在る)  信長は鷹狩りで小鳥を狩ると「政秀!この鳥を食えよ!」と空になげ、小川の畔に来たら「政秀!この水を飲めよ!」と叫んで涙を流した。  政秀の覚悟の死によって信長は大いに行いを改めたが、同時にその天性の武力や威厳を振るい出した。
織田信秀の法事において、信長の恰好はどんなものでしたか。
長柄の太刀脇差をしめなわでぐるぐる巻きにして、頭を茶筌に結った髪は乱れたままであることに加えに袴も履かないという有様だった。
JCRRAG_012189
歴史
天文十八年三月のこと、織田信秀が四十二歳で亡くなった。 信秀が死ぬ三年前に古渡城にて成人を迎えて幼名である吉法師を改名した三男の信長は、すぐに父の跡を継いで上総介と名付けた。  信秀の法事が那古野万松寺にて行われた時の事である。 重臣達を始めきらびやかに居並んで居る所に、信長は焼香を上げるために信秀の仏前に進んだ。  これから織田家の大将になるという信長が亡き父の前に立った姿を見てみんな驚いた。 長柄の太刀脇差をしめなわでぐるぐる巻きにして、頭を茶筌に結った髪は乱れたままであることに加えに袴も履かないという有様だった。 そして抹香を一つかみして投げ入れると一度頭をさげて帰ってしまったのだ。 信長の弟である勘十郎信行の折目正しい肩衣袴で丁寧に礼拝したのと比べて人々は「なるほど、信長公は聞きしに勝る大馬鹿者だ!」と馬鹿にした。 心ある重臣達は織田家の将来を想って沈んだ気持になって居たが、そのなかに筑紫からこの寺に客の僧となって来ている坊さんが「信長公こそは名国主となる人だ」といった。 この坊さんもなかなか人を見る目があったという事になるわけだが、なにしろ幼年時代からこの年頃にかけての信長の行いはたしかに普通ならバカに見られても文句の言いようがないだろう。尾張の治黙寺に習字のけいこをしに行かされたが、モチロン習字なんぞするわけがない。 川からフナを取って来て来てふきの葉でナマスを造る位はまだいいほうで、ともだちの弁当を奪い取ってして平らげたりした。 町を通りながら、栗、柿、瓜をかじり、餅をほおばった。人が笑おうが指を指そうがお構いなしである。  十六までは別に遊びはしなかったが、ただ、朝や夕方に馬を走らせたり、鷹狩りを催したり、春から秋にかけて川に飛び込んだりして日々を暮らしていた。 しかし友人を集めて竹槍を持たせて戦わせたりする時に、褒美を最初は少しだけ渡して後からこっそり多く与えていた事や、当時から槍は三間柄が有利であるとの見解を持っていた事や、更にこの頃じょじょに戦が始まる度に威力を発揮して来た鉄砲の稽古に熱心であった事などを見ると、筑紫の坊さんの目もたしかだったのだろう。  平手中務政秀は信長のお守り役であるが、前々から主である信長の行いを気に病んでいた。 色々と説得しては見るものの一向に効き目がない。 そのうちに、政秀の長男に五郎右衛門というのがいるのだが、良い馬を持っていた所を馬好きの信長が見て欲しがった所、あっさりと断られてしまった。 親父も頑固なら息子も強情な奴だと、信長の機嫌が非常に悪かった。 政秀はこのやりとりを見て「今までの教育が失敗しているのに、更にまた息子までしくじってしまった。こうなったら死ぬことで許してもらうしかない」と決意して、天文二十二年の正月十三日、六十歳ほどのしわの入った腹を切腹して亡くなった。  その遺書には、  心を正しくしなければ誰も誠意をもって仕えないですよ、ただ賢さだけではでなく心の度量を広く持ってください、  欲張ってもいけませんしえこひいきがあってはいけません、才能を見出さなければなりませんよ、  力だけでは立派にはなれないので、勉強もしっかりするように、  礼節を軽視しない方がいいですよ  などと書かれていた。  信長は涙を流して後悔したけどどうしようもない。せめてと思って西春日井郡小木の里に政秀寺という菩提寺を建てて二百石を渡した。(後に清須に移し今は名古屋に在る)  信長は鷹狩りで小鳥を狩ると「政秀!この鳥を食えよ!」と空になげ、小川の畔に来たら「政秀!この水を飲めよ!」と叫んで涙を流した。  政秀の覚悟の死によって信長は大いに行いを改めたが、同時にその天性の武力や威厳を振るい出した。
小さい頃の信長は尾張の治黙寺に習字のけいこに行って習字を学びましたか。
尾張の治黙寺に習字のけいこをしに行かされたが、モチロン習字なんぞするわけがない。川からフナを取って来て来てふきの葉でナマスを造る位はまだいいほうで、ともだちの弁当を奪い取ってして平らげたりした。
JCRRAG_012190
歴史
天文十八年三月のこと、織田信秀が四十二歳で亡くなった。 信秀が死ぬ三年前に古渡城にて成人を迎えて幼名である吉法師を改名した三男の信長は、すぐに父の跡を継いで上総介と名付けた。  信秀の法事が那古野万松寺にて行われた時の事である。 重臣達を始めきらびやかに居並んで居る所に、信長は焼香を上げるために信秀の仏前に進んだ。  これから織田家の大将になるという信長が亡き父の前に立った姿を見てみんな驚いた。 長柄の太刀脇差をしめなわでぐるぐる巻きにして、頭を茶筌に結った髪は乱れたままであることに加えに袴も履かないという有様だった。 そして抹香を一つかみして投げ入れると一度頭をさげて帰ってしまったのだ。 信長の弟である勘十郎信行の折目正しい肩衣袴で丁寧に礼拝したのと比べて人々は「なるほど、信長公は聞きしに勝る大馬鹿者だ!」と馬鹿にした。 心ある重臣達は織田家の将来を想って沈んだ気持になって居たが、そのなかに筑紫からこの寺に客の僧となって来ている坊さんが「信長公こそは名国主となる人だ」といった。 この坊さんもなかなか人を見る目があったという事になるわけだが、なにしろ幼年時代からこの年頃にかけての信長の行いはたしかに普通ならバカに見られても文句の言いようがないだろう。尾張の治黙寺に習字のけいこをしに行かされたが、モチロン習字なんぞするわけがない。 川からフナを取って来て来てふきの葉でナマスを造る位はまだいいほうで、ともだちの弁当を奪い取ってして平らげたりした。 町を通りながら、栗、柿、瓜をかじり、餅をほおばった。人が笑おうが指を指そうがお構いなしである。  十六までは別に遊びはしなかったが、ただ、朝や夕方に馬を走らせたり、鷹狩りを催したり、春から秋にかけて川に飛び込んだりして日々を暮らしていた。 しかし友人を集めて竹槍を持たせて戦わせたりする時に、褒美を最初は少しだけ渡して後からこっそり多く与えていた事や、当時から槍は三間柄が有利であるとの見解を持っていた事や、更にこの頃じょじょに戦が始まる度に威力を発揮して来た鉄砲の稽古に熱心であった事などを見ると、筑紫の坊さんの目もたしかだったのだろう。  平手中務政秀は信長のお守り役であるが、前々から主である信長の行いを気に病んでいた。 色々と説得しては見るものの一向に効き目がない。 そのうちに、政秀の長男に五郎右衛門というのがいるのだが、良い馬を持っていた所を馬好きの信長が見て欲しがった所、あっさりと断られてしまった。 親父も頑固なら息子も強情な奴だと、信長の機嫌が非常に悪かった。 政秀はこのやりとりを見て「今までの教育が失敗しているのに、更にまた息子までしくじってしまった。こうなったら死ぬことで許してもらうしかない」と決意して、天文二十二年の正月十三日、六十歳ほどのしわの入った腹を切腹して亡くなった。  その遺書には、  心を正しくしなければ誰も誠意をもって仕えないですよ、ただ賢さだけではでなく心の度量を広く持ってください、  欲張ってもいけませんしえこひいきがあってはいけません、才能を見出さなければなりませんよ、  力だけでは立派にはなれないので、勉強もしっかりするように、  礼節を軽視しない方がいいですよ  などと書かれていた。  信長は涙を流して後悔したけどどうしようもない。せめてと思って西春日井郡小木の里に政秀寺という菩提寺を建てて二百石を渡した。(後に清須に移し今は名古屋に在る)  信長は鷹狩りで小鳥を狩ると「政秀!この鳥を食えよ!」と空になげ、小川の畔に来たら「政秀!この水を飲めよ!」と叫んで涙を流した。  政秀の覚悟の死によって信長は大いに行いを改めたが、同時にその天性の武力や威厳を振るい出した。
織田信秀の法事において、信長が抹香を一つかみして投げ入れて帰ってしまった後に、人々はどうしましたか。
信長の弟である勘十郎信行の折目正しい肩衣袴で丁寧に礼拝したのと比べて人々は「なるほど、信長公は聞きしに勝る大馬鹿者だ!」と馬鹿にした。
JCRRAG_012191
歴史
天文十八年三月のこと、織田信秀が四十二歳で亡くなった。 信秀が死ぬ三年前に古渡城にて成人を迎えて幼名である吉法師を改名した三男の信長は、すぐに父の跡を継いで上総介と名付けた。  信秀の法事が那古野万松寺にて行われた時の事である。 重臣達を始めきらびやかに居並んで居る所に、信長は焼香を上げるために信秀の仏前に進んだ。  これから織田家の大将になるという信長が亡き父の前に立った姿を見てみんな驚いた。 長柄の太刀脇差をしめなわでぐるぐる巻きにして、頭を茶筌に結った髪は乱れたままであることに加えに袴も履かないという有様だった。 そして抹香を一つかみして投げ入れると一度頭をさげて帰ってしまったのだ。 信長の弟である勘十郎信行の折目正しい肩衣袴で丁寧に礼拝したのと比べて人々は「なるほど、信長公は聞きしに勝る大馬鹿者だ!」と馬鹿にした。 心ある重臣達は織田家の将来を想って沈んだ気持になって居たが、そのなかに筑紫からこの寺に客の僧となって来ている坊さんが「信長公こそは名国主となる人だ」といった。 この坊さんもなかなか人を見る目があったという事になるわけだが、なにしろ幼年時代からこの年頃にかけての信長の行いはたしかに普通ならバカに見られても文句の言いようがないだろう。尾張の治黙寺に習字のけいこをしに行かされたが、モチロン習字なんぞするわけがない。 川からフナを取って来て来てふきの葉でナマスを造る位はまだいいほうで、ともだちの弁当を奪い取ってして平らげたりした。 町を通りながら、栗、柿、瓜をかじり、餅をほおばった。人が笑おうが指を指そうがお構いなしである。  十六までは別に遊びはしなかったが、ただ、朝や夕方に馬を走らせたり、鷹狩りを催したり、春から秋にかけて川に飛び込んだりして日々を暮らしていた。 しかし友人を集めて竹槍を持たせて戦わせたりする時に、褒美を最初は少しだけ渡して後からこっそり多く与えていた事や、当時から槍は三間柄が有利であるとの見解を持っていた事や、更にこの頃じょじょに戦が始まる度に威力を発揮して来た鉄砲の稽古に熱心であった事などを見ると、筑紫の坊さんの目もたしかだったのだろう。  平手中務政秀は信長のお守り役であるが、前々から主である信長の行いを気に病んでいた。 色々と説得しては見るものの一向に効き目がない。 そのうちに、政秀の長男に五郎右衛門というのがいるのだが、良い馬を持っていた所を馬好きの信長が見て欲しがった所、あっさりと断られてしまった。 親父も頑固なら息子も強情な奴だと、信長の機嫌が非常に悪かった。 政秀はこのやりとりを見て「今までの教育が失敗しているのに、更にまた息子までしくじってしまった。こうなったら死ぬことで許してもらうしかない」と決意して、天文二十二年の正月十三日、六十歳ほどのしわの入った腹を切腹して亡くなった。  その遺書には、  心を正しくしなければ誰も誠意をもって仕えないですよ、ただ賢さだけではでなく心の度量を広く持ってください、  欲張ってもいけませんしえこひいきがあってはいけません、才能を見出さなければなりませんよ、  力だけでは立派にはなれないので、勉強もしっかりするように、  礼節を軽視しない方がいいですよ  などと書かれていた。  信長は涙を流して後悔したけどどうしようもない。せめてと思って西春日井郡小木の里に政秀寺という菩提寺を建てて二百石を渡した。(後に清須に移し今は名古屋に在る)  信長は鷹狩りで小鳥を狩ると「政秀!この鳥を食えよ!」と空になげ、小川の畔に来たら「政秀!この水を飲めよ!」と叫んで涙を流した。  政秀の覚悟の死によって信長は大いに行いを改めたが、同時にその天性の武力や威厳を振るい出した。
平手中務政秀の遺書を読んで信長はどうしましたか。
信長は涙を流して後悔したけどどうしようもない。せめてと思って西春日井郡小木の里に政秀寺という菩提寺を建てて二百石を渡した。
JCRRAG_012192
歴史
義元は当時駿河の国府にいた松平竹千代に行くように命じた。竹千代というのはすなわち後の徳川家康である。 竹千代は実に不遇な目に遭っており、始めは渥美郡牟呂村の千石の地しか与えられず、家臣をちゃんと面倒見る事にさえ苦労していた。 そのため鳥居伊賀守忠吉は自らの財産を大量に松平家の為に使ったとさえ言われている。 後に三河武士と称された家臣達は何があってもじっと我慢して機会を窺っていた。  松平元康が、どんなに優秀な先陣を勤めたかを簡単にいうなら、弘治三年四月には刈屋を攻めて、七月には大府に向かい、翌年の二月には、義元を裏切って信長に通じていた寺部城主鈴木重教を攻めて、同じく四月には兵糧を大高城に入れた。  もちろん、この頃には信長も準備はしっかり準備しているのであって、大高城も充分に監視していて兵糧の入るかどうかを厳重に警戒していた。 もし今川から大高城に兵糧を入れる気配があったらとしたら、大高城から近い鷲津や丸根の二つの城は法螺貝を吹き、その音を聞いたら寺部等の砦にいる兵たちは速攻で大高にかけつけろ、丹下、中島の二つの城の兵士は、丸根、鷲津の援軍として待機しろと命じていつ兵糧が入るか待ち構えていた。  四月十七日夜に入ると共に支度をしていた、松平次郎三郎元康は、十八という若い年齢の武者ながら大きな任務を成功させるべく出発しようとした。 酒井与四郎正親、小五郎忠次、石川与七郎数正達が「信長ならば必ず城へ兵糧を入れるのを邪魔するような計画を立てているはずだ。とても兵糧を入れるのは無理だ」と説得したけど、元康は秘策を用意していたのだから聴くハズがない。 一丈八尺ほどの長さの黒地に葵の紋三つを付けた白い旗を七本も掲げて四千余騎の軍勢が出発した。 前軍は鷲津、丸根、大高を脇目に見ながら寺部城に向かって突然攻撃した。ちょうど深夜だったので、信長の軍勢はびっくりして防戦にでたが松平勢はすでに一ノ木戸を押し破って入り、火を放ったと思うとサッと引き上げた。 引き上げたと思うと更に梅ヶ坪城に向かい二の丸や三の丸まで打ち入って同じ様に火を付けた。 厳重に大高城を監視していた丸根や鷲津の番兵達は、遠くからおたけびがすると思っているうちに、寺部や梅ヶ坪の城に煌々と火が上がっているのを見て驚き困惑した。 大高城に最も近い丸根、鷲津を差し置いて、寺部なんてはした城を先に攻めるわけがないと思っていたからである。 怪しんで見たものの味方のピンチである。取り合えず城をほとんど空にして火の手が上がっている所に駆け付けた。 「私の作戦が大当たりだ!」と暗闇の中でほくそ笑んだのは元康である。この隙に簡単に兵糧を大高城に入れてしまった。  この大高城への兵糧入れこそ、家康の出世絵巻中の第一景である。 大高城への兵糧入れに成功した元康は、五月に更に大府に向かい、八月には衣城を下した。翌三年三月には刈屋を攻め、七月、東広瀬、寺部の二城を落とし、十二月に村木の砦を占領して翌年正月にこれを壊している。
松平竹千代は誰の助けを得ていましたか。
竹千代は実に不遇な目に遭っており、始めは渥美郡牟呂村の千石の地しか与えられず、家臣をちゃんと面倒見る事にさえ苦労していた。 そのため鳥居伊賀守忠吉は自らの財産を大量に松平家の為に使ったとさえ言われている。
JCRRAG_012193
歴史
義元は当時駿河の国府にいた松平竹千代に行くように命じた。竹千代というのはすなわち後の徳川家康である。 竹千代は実に不遇な目に遭っており、始めは渥美郡牟呂村の千石の地しか与えられず、家臣をちゃんと面倒見る事にさえ苦労していた。 そのため鳥居伊賀守忠吉は自らの財産を大量に松平家の為に使ったとさえ言われている。 後に三河武士と称された家臣達は何があってもじっと我慢して機会を窺っていた。  松平元康が、どんなに優秀な先陣を勤めたかを簡単にいうなら、弘治三年四月には刈屋を攻めて、七月には大府に向かい、翌年の二月には、義元を裏切って信長に通じていた寺部城主鈴木重教を攻めて、同じく四月には兵糧を大高城に入れた。  もちろん、この頃には信長も準備はしっかり準備しているのであって、大高城も充分に監視していて兵糧の入るかどうかを厳重に警戒していた。 もし今川から大高城に兵糧を入れる気配があったらとしたら、大高城から近い鷲津や丸根の二つの城は法螺貝を吹き、その音を聞いたら寺部等の砦にいる兵たちは速攻で大高にかけつけろ、丹下、中島の二つの城の兵士は、丸根、鷲津の援軍として待機しろと命じていつ兵糧が入るか待ち構えていた。  四月十七日夜に入ると共に支度をしていた、松平次郎三郎元康は、十八という若い年齢の武者ながら大きな任務を成功させるべく出発しようとした。 酒井与四郎正親、小五郎忠次、石川与七郎数正達が「信長ならば必ず城へ兵糧を入れるのを邪魔するような計画を立てているはずだ。とても兵糧を入れるのは無理だ」と説得したけど、元康は秘策を用意していたのだから聴くハズがない。 一丈八尺ほどの長さの黒地に葵の紋三つを付けた白い旗を七本も掲げて四千余騎の軍勢が出発した。 前軍は鷲津、丸根、大高を脇目に見ながら寺部城に向かって突然攻撃した。ちょうど深夜だったので、信長の軍勢はびっくりして防戦にでたが松平勢はすでに一ノ木戸を押し破って入り、火を放ったと思うとサッと引き上げた。 引き上げたと思うと更に梅ヶ坪城に向かい二の丸や三の丸まで打ち入って同じ様に火を付けた。 厳重に大高城を監視していた丸根や鷲津の番兵達は、遠くからおたけびがすると思っているうちに、寺部や梅ヶ坪の城に煌々と火が上がっているのを見て驚き困惑した。 大高城に最も近い丸根、鷲津を差し置いて、寺部なんてはした城を先に攻めるわけがないと思っていたからである。 怪しんで見たものの味方のピンチである。取り合えず城をほとんど空にして火の手が上がっている所に駆け付けた。 「私の作戦が大当たりだ!」と暗闇の中でほくそ笑んだのは元康である。この隙に簡単に兵糧を大高城に入れてしまった。  この大高城への兵糧入れこそ、家康の出世絵巻中の第一景である。 大高城への兵糧入れに成功した元康は、五月に更に大府に向かい、八月には衣城を下した。翌三年三月には刈屋を攻め、七月、東広瀬、寺部の二城を落とし、十二月に村木の砦を占領して翌年正月にこれを壊している。
徳川家康が出世のきっかけになった出来事はなんですか。
大高城への兵糧入れこそ、家康の出世絵巻中の第一景である。
JCRRAG_012194
歴史
永禄三年の五月一日に今川義元はついに全軍に出発するよう命令した。 前軍は十日に出発したが、一日おいた十二日、義元は息子である氏真に留守を任せて自ら府中(今の静岡)を出発した。 総勢二万五千と言っているが四万とも言われている。数字を盛るところは今の中国の大将達と同じである。 義元は桶狭間の戦いへの出発に際していくつかの凶兆があった事が伝えられている。 元来義元は兄の氏輝が家督を継いでいるので自分は禅僧となって富士にある善徳寺に住んでいた。 氏輝には子供がいなかったので二十歳の義元を呼び戻して家督を譲った。 今川次郎大輔義元である。 ところがこの時邪魔をしたのが義元の次兄で、花倉寺の主である良真である。 良真の計算では兄である自分が家を継ぐはずだったのに、自分だけ氏輝、義元とは母親がちがうからのけものにされたのだと、ついに義元と戦ったが敗れてしまい花倉寺で自殺したという事があった。  その花倉寺良真が義元出発の夜に化けて出た。 義元は枕元にある銘刀・松倉郷を抜いて切り払った。 幽霊だから切り払われても大した事はないのであろうが良真は飛び退いて言った。 「おまえの命運が尽きたのを告げに来たのだ」と。 出陣の間際に縁起でもないことをわざわざ報告に来たわけである。 義元も負けずに「おまえは私の怨敵であるはずなのになんで私に吉凶を告げるんだ?」人間でなくてもうそをつくかも知れないと思ったのだ。 良真は「なるほど確かにおまえは私の怨敵だ、しかし今川の家が滅びてしまうのが悲しくて告げに来たのだ」と言うや否や消えてなくなった。  その他に、駿州の鎮守総社大明神に神の使いとして目撃されている白狐がいたのだが、義元が出発する日になんと胸が割けて死んでいたとも言われている。
今川義元が桶狭間の戦いに出発する時に、鎮守総社大明神で何が起きましたか
駿州の鎮守総社大明神に神の使いとして目撃されている白狐がいたのだが、義元が出発する日になんと胸が割けて死んでいたとも言われている。
JCRRAG_012195
歴史
桶狭間の戦い前夜に信長は重臣達を集めたが、一向に戦についての話をすることもなく世間話しかしなかった。気が気でなくなった林通勝は、進み出て口を開いた。 「すでに丸根の佐久間から敵の状況を教えてもらったが、今川義元の大軍にはとても勝てる気がしない。さいわい清須城は天下の名城だからここに立て籠もるのがいいだろう」と。  信長はあっさり答えた。「昔から籠城なんかしても戦況が好転したためしはない。明日は夜中に鳴海表に出動して、私が死ぬか奴を殺すかの決戦をするのみだ」と。 これを聞いた森三左衛門可成、柴田権六勝家などは喜び勇んで「馬前で討ち死にする覚悟です!」とこたえた。 夜が更けた頃に信長が広間に出て、さいと言う名前の女房に今は何時かと尋ねた。 さいが「夜半過ぎました」と答えると馬に鞍を置き、湯漬け(お茶漬け)を出せと命じた。 女房が昆布と勝栗を添えて湯漬けを出すと悠々と食事を終えた。腹ごしらえも充分である。 食事がすむと腰掛けに座り小鼓を取り寄せ、東を向いて謡曲である『敦盛』をうたい出した。 この『敦盛』は信長が常に好んで歌ったものである。 「……この世は仮の居場所でしかない、草や葉や白露や水に宿る月のようなもので、金谷で栄華を極めた者達も、無常の風に誘われて先立った。 南楼の月をもてあそぶ者達も月よりも先に死んで有為の雲に隠れてしまった。人の世は五十年であり天下にくらべれば夢や幻のようなものだ、一度生まれたからには滅するしかない……」  朗々として迫らない信長の歌声が、林のように静まりかえった陣営達にひびき渡った。 部下の将士達も信長の決死のほどを胸にしみ渡らせたことであろう。 本庄正宗の大刀を腰にして栗毛の馬に乗った。城内から出たのは小姓の岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎の五騎に過ぎない。 そのまま大手口に差しかかると、黒々と一団が控えている。見てみると森、柴田をリーダーとした三百余騎の馬である。「両人とも早いぞ早いぞ!」と声をかけて置いて、ひた走りに駆けて熱田の宮前に着いた時は、軍勢は千八百となっていた。
織田信長が桶狭間の戦いの前夜に「敦盛」を歌ってどうなりましたか。
朗々として迫らない信長の歌声が、林のように静まりかえった陣営達にひびき渡った。部下の将士達も信長の決死のほどを胸にしみ渡らせたことであろう。
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桶狭間の戦いの前、信長はこの時に賽銭を神社の神前に投げながら、「表が出れば私が勝つだろう!」といった。神社の神官に調べさせると、投げた賽銭全てがみんな表が出たので将士が喜び勇んだ。 これは、銭の裏と裏とを、糊でくっつけたもので投げればそりゃみんな表が出るわけである。  すでにこの頃は夜は全く明けていて、今日は暑くなるだろうなと太陽が、山のからかなり高く昇っている。 信長が振り返れば決死の表情をうかべた将士達が千八百人静かに付いてきている、今川の軍勢は、なにしろこちらの十倍を越すような大軍である。 少しでも味方を多勢いるように見せなければならないというので、加藤順盛に命じて町家から、菖蒲幟や木綿切等を集めさせて、熱田の者に竹さおをつけて一本ずつ持たせ、高い所に指物の様に立たせて、兵士のダミーを作った。 『桶狭間合戦記』に、 「熱田へ出発する時に織田信長は馬の鞍の前輸と後輸へ両手を掛けて、横に乗って後輪によりかかって鼻歌を歌う」  とある。大方、例の『敦盛』と同じように好んで居た「死のうは一定しのび草には何をしよぞ、一定かたりのこすよの……」  という小唄でも口ずさんでいたのであろう。決戦間近に控えてのこの余裕ぶりは何といっても天才的な武将であった。
桶狭間の戦いの前に「表が出たら我が軍の勝つだろう!」と言って投げた賽銭が、全部表だったのはなぜですか。
銭の裏と裏とを、糊でくっつけたもので投げればそりゃみんな表が出るわけである。
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歴史
信長の将士は善戦しているのだが、なんせ今川勢の数は多すぎるので正攻法ではすでに信長に不利という戦局になっていた。  政次、重休、季忠三名の首が今川の本営に送られた事を善照寺で信長がすぐにその本軍を率いて今川軍に攻め込もうとしたのも無理はなかった。 林通勝、池田信輝、柴田勝家等が、信長をなだめて「敵は多く味方は少ない、ただでさえ路が狭くて少ししか軍勢を出す事が出来ないのに、どうやって正面から戦ができるというのですか」と諫めたが、余裕を失った信長は耳を貸さずに中島に渡ろうとした。 この時に、もし信長が中島に渡って正面から戦をしたならば、恐らく「織田信長」という名を天下に知らしめずに桶狭間の戦いで終ったことであろう。 丁度その時梁田政綱が放った斥候が、沓掛方面から帰ってきて「義元は今から大高に移ろうとして桶狭間に向った」という報告をした。 間もなくもう一人が義元が「田楽狭間」に駐屯した事を報告した。 梁田政綱が織田信長に「義元は今までの勝利に調子にのって恐らくは油断してるから、このチャンスを逃さず間道から奇襲すれば義元の首を取れるんじゃないか」と提案した。 今まで駄々をこねていた信長は流石名将と言われるだけはある、すぐに政綱の言葉に従って善照寺には少数の兵を残して旗や幟を多く立てて兵がたくさんいるようにダミーを作り、自らは間道より田楽狭間に向かって進んだ。 この日は朝から暑かったが昼頃になって雷鳴と共に豪雨が降り始め、防風は山々の木をゆるがせた。 なので軍馬の音が今川勢に知られる事もないので熱田にいる神の助けとばかり喜び勇んで山路を進んだ。  信長達が想像してた通り義元は続々と届く勝利の知らせに喜んで近所の神官や僧侶達がお祝いの酒や肴を持って来たのに気をよくして宴会を開いていた。  この時の義元の装備は、赤地の錦の直垂に白の具足、八竜が描かれた五枚冑、松倉郷と大左文字の太刀脇差を装備していた。 義元の宴会が最高潮になってきた頃に、信長の兵は田楽狭間を真下に見下ろせる太子ヶ根の丘にいた。 田楽狭間は桶狭間へ通じる一本道の他は両側共に山で囲まれている。 こうなると義元は袋の中の鼠である。 丘の上で信長は馬から下りて「斬り込むかどうするか」と話すと森可成は「馬のまま駆け降りましょう」と答えた。 ちょうど昼頃になって風雨がやや静かになったのを見計らって、一度にどっと斬り込んだ。 義元の本営では、まさか信長がこの様な不意打ちをするとは夢にも思っていなかったので、味方同志の争いが起ったのかな?位考えていたが、騒音はますます大きくなるばかりである。 義元は混乱を抑えようと帷幕を上げた所を桑原甚内が斬りかかったが近くにいた武士に斬られた。 甚内と一緒に来た服部小平太がこの中にまぎれ込んだ所、義元は味方と間違えて「馬を引け!」と命じたので、そこで槍で義元の脇腹を突いた。 義元は流石に屈することなく槍の柄を斬って折ると同時に小平太の膝を切り裂いたので小平太は倒れてしまう。 同じく義元の首をねらった毛利新助が名乗り出ると同時に義元に組み付いて首をとろうとした。 頭を押えようとあせった新助は左手の人差指を義元の口に押し込んだが咬み切られてしまう。 そしてとうとう義元の首を切り落とし、高々と挙げた。 不意打ちを食らった上に大将が討ち死にし、今川勢は非常に混乱した。
信長の将士は善戦しているのだが、なんせ今川勢の数は多すぎるので正攻法ではすでに誰に不利という戦局になっていましたか。
信長の将士は善戦しているのだが、なんせ今川勢の数は多すぎるので正攻法ではすでに信長に不利という戦局になっていました。
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歴史
桶狭間の戦いにおいては敗軍になりながら、なぜか不思議に運が向いたのは松平元康、後の徳川家康である。 元康は五月十九日の朝、丸根を落とした後大高にいたが晩になって義元が敗けたという知らせが届いた。 周りは退軍をすすめたが、元康は「もし義元が生きていたら合わす顔がない!」といって聞かない。 だが伯父である水野信元が浅井道忠を使いとして敗けた知らせを持って来ているので、元康はこの話が真実であることを確かめた後、十九日の午後十一時すぎ、月の出を待って道忠を案内として三河に退却したが、土民達に苦められながらやっと岡崎に着いた。着いてみると岡崎城の今川勢は騒いで城を明け退いていたので、元康「捨てられた城なら入ろう」と言ってここに留まる事にした。その後永禄五年五月に、水野信元が仲介して信長と清須城で面会して同盟を結び、幼少から耐えた甲斐があって次第に勢力を拡大することができるようになった。 元康は今川義元への義理を思い、義元の子である氏真に弔い合戦をすすめたけれども全くやる気配がなかった。 義元は信長に負けて地にまみれたとはいえ三つの大国を領土としたほどの才能ある武将であったが、子どもの氏真に関しては全く暗愚であると言って良かった。  義元の死後も朝比奈兵衛大夫のような立派な家老も四・五人はいるのであるが、氏真は彼らを少しも大事にせず、三浦右衛門義元と云う柔弱の奴を重用し、踊ったり宴会に明け暮れていた。 自分の気に入った者には、自らの愛人を与え、人の娘の美しさに歌を付けたりまるで武士の家に生まれたことなんて忘れ去ったようである。 三浦は、桶狭間の勇士である井伊直盛の領地を欲しがったり、更に義元の愛人だった菊鶴という女をこっそり妻にしながら国政をやるというのだから、まともな者達は次第に離れて今川家が衰退する原因を作りつつあったわけである。  天文二十二年に義元が氏真を戒めた手紙がある。 「お前はあまりにも分別のない行動をしすぎる、今後のことをちゃんと考えてるのか?……弓や馬は男がしなければならないことだ、器用も不器用も関係なく稽古しなきゃならないのだ、国を治めるのなら文武両道じゃなくてはできないぞ……君主は重みや威厳がなければならない。私はなにかと失敗することもあった。自分の代ではなんとか持ちこたえたけど、氏真までこの調子だと今川家は国を無くして滅ぶだけだぞ……」  義元が自らの欠点をさらけ出して氏真を戒めている心境は察するに余りある。  今川義元が学問に偏っていた武将とすれば、信長はむしろ真の武将であった。 戦国争乱の時には学問タイプより武力タイプの方が勝ってしまうのは無理のない話である。信長は印形を造らせた事があるが自分には「天下布武」、信孝には「戈剣平天下」、信雄には「威加海内」という印形を造らせた。これで信長の意の一端を伺うに足りる。  しかし武力一点張りでなかった事は、暗殺しようとした稲葉一徹が、かの『雪擁藍関』の詩をよく理解していたという一点で暗殺の件を許したこともあり、義元が一首の和歌の故に部下を許した、好対照的な逸話をもっても知られる。
徳川家康が義元が敗けた報を信じたのはなぜか。
伯父である水野信元が浅井道忠を使いとして敗けた知らせを持って来ているので、元康はこの話が真実であることを確かめた。
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歴史
桶狭間の戦いにおいては敗軍になりながら、なぜか不思議に運が向いたのは松平元康、後の徳川家康である。 元康は五月十九日の朝、丸根を落とした後大高にいたが晩になって義元が敗けたという知らせが届いた。 周りは退軍をすすめたが、元康は「もし義元が生きていたら合わす顔がない!」といって聞かない。 だが伯父である水野信元が浅井道忠を使いとして敗けた知らせを持って来ているので、元康はこの話が真実であることを確かめた後、十九日の午後十一時すぎ、月の出を待って道忠を案内として三河に退却したが、土民達に苦められながらやっと岡崎に着いた。着いてみると岡崎城の今川勢は騒いで城を明け退いていたので、元康「捨てられた城なら入ろう」と言ってここに留まる事にした。その後永禄五年五月に、水野信元が仲介して信長と清須城で面会して同盟を結び、幼少から耐えた甲斐があって次第に勢力を拡大することができるようになった。 元康は今川義元への義理を思い、義元の子である氏真に弔い合戦をすすめたけれども全くやる気配がなかった。 義元は信長に負けて地にまみれたとはいえ三つの大国を領土としたほどの才能ある武将であったが、子どもの氏真に関しては全く暗愚であると言って良かった。  義元の死後も朝比奈兵衛大夫のような立派な家老も四・五人はいるのであるが、氏真は彼らを少しも大事にせず、三浦右衛門義元と云う柔弱の奴を重用し、踊ったり宴会に明け暮れていた。 自分の気に入った者には、自らの愛人を与え、人の娘の美しさに歌を付けたりまるで武士の家に生まれたことなんて忘れ去ったようである。 三浦は、桶狭間の勇士である井伊直盛の領地を欲しがったり、更に義元の愛人だった菊鶴という女をこっそり妻にしながら国政をやるというのだから、まともな者達は次第に離れて今川家が衰退する原因を作りつつあったわけである。  天文二十二年に義元が氏真を戒めた手紙がある。 「お前はあまりにも分別のない行動をしすぎる、今後のことをちゃんと考えてるのか?……弓や馬は男がしなければならないことだ、器用も不器用も関係なく稽古しなきゃならないのだ、国を治めるのなら文武両道じゃなくてはできないぞ……君主は重みや威厳がなければならない。私はなにかと失敗することもあった。自分の代ではなんとか持ちこたえたけど、氏真までこの調子だと今川家は国を無くして滅ぶだけだぞ……」  義元が自らの欠点をさらけ出して氏真を戒めている心境は察するに余りある。  今川義元が学問に偏っていた武将とすれば、信長はむしろ真の武将であった。 戦国争乱の時には学問タイプより武力タイプの方が勝ってしまうのは無理のない話である。信長は印形を造らせた事があるが自分には「天下布武」、信孝には「戈剣平天下」、信雄には「威加海内」という印形を造らせた。これで信長の意の一端を伺うに足りる。  しかし武力一点張りでなかった事は、暗殺しようとした稲葉一徹が、かの『雪擁藍関』の詩をよく理解していたという一点で暗殺の件を許したこともあり、義元が一首の和歌の故に部下を許した、好対照的な逸話をもっても知られる。
桶狭間の戦いの後今川義元の息子今川氏真は仇を取ろうと思わなかったのですか。
元康は今川義元への義理を思い、義元の子である氏真に弔い合戦をすすめたけれども全くやる気配がなかった。
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桶狭間の戦いにおいては敗軍になりながら、なぜか不思議に運が向いたのは松平元康、後の徳川家康である。 元康は五月十九日の朝、丸根を落とした後大高にいたが晩になって義元が敗けたという知らせが届いた。 周りは退軍をすすめたが、元康は「もし義元が生きていたら合わす顔がない!」といって聞かない。 だが伯父である水野信元が浅井道忠を使いとして敗けた知らせを持って来ているので、元康はこの話が真実であることを確かめた後、十九日の午後十一時すぎ、月の出を待って道忠を案内として三河に退却したが、土民達に苦められながらやっと岡崎に着いた。着いてみると岡崎城の今川勢は騒いで城を明け退いていたので、元康「捨てられた城なら入ろう」と言ってここに留まる事にした。その後永禄五年五月に、水野信元が仲介して信長と清須城で面会して同盟を結び、幼少から耐えた甲斐があって次第に勢力を拡大することができるようになった。 元康は今川義元への義理を思い、義元の子である氏真に弔い合戦をすすめたけれども全くやる気配がなかった。 義元は信長に負けて地にまみれたとはいえ三つの大国を領土としたほどの才能ある武将であったが、子どもの氏真に関しては全く暗愚であると言って良かった。  義元の死後も朝比奈兵衛大夫のような立派な家老も四・五人はいるのであるが、氏真は彼らを少しも大事にせず、三浦右衛門義元と云う柔弱の奴を重用し、踊ったり宴会に明け暮れていた。 自分の気に入った者には、自らの愛人を与え、人の娘の美しさに歌を付けたりまるで武士の家に生まれたことなんて忘れ去ったようである。 三浦は、桶狭間の勇士である井伊直盛の領地を欲しがったり、更に義元の愛人だった菊鶴という女をこっそり妻にしながら国政をやるというのだから、まともな者達は次第に離れて今川家が衰退する原因を作りつつあったわけである。  天文二十二年に義元が氏真を戒めた手紙がある。 「お前はあまりにも分別のない行動をしすぎる、今後のことをちゃんと考えてるのか?……弓や馬は男がしなければならないことだ、器用も不器用も関係なく稽古しなきゃならないのだ、国を治めるのなら文武両道じゃなくてはできないぞ……君主は重みや威厳がなければならない。私はなにかと失敗することもあった。自分の代ではなんとか持ちこたえたけど、氏真までこの調子だと今川家は国を無くして滅ぶだけだぞ……」  義元が自らの欠点をさらけ出して氏真を戒めている心境は察するに余りある。  今川義元が学問に偏っていた武将とすれば、信長はむしろ真の武将であった。 戦国争乱の時には学問タイプより武力タイプの方が勝ってしまうのは無理のない話である。信長は印形を造らせた事があるが自分には「天下布武」、信孝には「戈剣平天下」、信雄には「威加海内」という印形を造らせた。これで信長の意の一端を伺うに足りる。  しかし武力一点張りでなかった事は、暗殺しようとした稲葉一徹が、かの『雪擁藍関』の詩をよく理解していたという一点で暗殺の件を許したこともあり、義元が一首の和歌の故に部下を許した、好対照的な逸話をもっても知られる。
信長が造った印形には何がありますか。
信長は印形を造らせた事があるが自分には「天下布武」、信孝には「戈剣平天下」、信雄には「威加海内」という印形を造らせた。