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JCRRAG_012201
歴史
天文十二年八月二十五日、乗員百名以上を乗せた中国の船が種子ヶ島に漂着した。 言葉は通じなかったが、五峯という明国の学生が乗っていて筆談することができた。 ところが、船中に特に異様な二名の人物がいる。一人はフランシスコ、もう一人はダ・モータというポルトガルの商人で二人ともその手に不思議な一物をブラ下げていた。  一物の長さは二・三尺で中央に穴が開いている。持ってみると非常に重い。火が通る路があり、穴の中に火薬を入れ、弾丸を添えて、底をふさいで海岸に的を置いた。 一物を肩に当て腰をひねって横向きに構え、火をつける。電光が走った。雷のような轟音が鳴る。 そして的が射抜かれているのである。見物していた一同は耳をふさいで砂の中に頭を突っ込んだ。  この一物の一発たるや、銀山をくだく、鉄壁すら穿つ、国に仇をなす悪人には、これに触ればたちどころにその魂を失うだろう、まことに珍品だ。 そこで領主は高価だろうとかまわず言い値で買う!とこの一品を買い求めた。  二名の南蛮人に先生になってもらって、目をにらみ腰をひねって的を睨む秘伝を教えてもらい、同時に篠川小四郎に命じて火薬の作り方を会得して、金兵衛尉清定という職人に命じて模造させるようにした。 パッと見形は良く出来たけれども、底をふさぐ手段がわからなかった。 次の年、訪れた南蛮船に鉄匠がいたので、底をふさぐ秘訣を会得したという。 天文十二年八月二十五日、この日が日本に鉄砲が伝来した日と言えるだろう。 そして、日本の実情が西欧に知られた最初の日でもあった。  鉄砲が実戦に使用されたのは十二年後、信玄が川中島の戦いで三百挺の鉄砲を使ったのが最も早かった。  信玄は戦術の研究家であり、各種兵器を機能に応じて適材適所で使い回し、各種兵器を総合的かつ合理的に組織するというやり方だった。 なので新しく登場した武器を見逃すわけがなかった。 けれども、彼の用意した鉄砲は伝来したばかりのまだまだ幼稚なつくりだった。 火縄銃は弾の装填に時間がかかる。発射してから次を発射するまでに結構な時間が空くから、歩兵に突撃させる隙を与える。 突撃されればそれまでだから、信玄は鉄砲の威力を見くびっていた。 要するに鉄砲なんてものは、その最初の射撃を防御さえすれば弾の装填の時間中に殴り放題できる、という結論に達した。 竹束によって最初の射撃をふせぐ方法をあみだし、防具がちゃんとしていれば威力なんてないようなもんだと見切りをつけて、鉄砲の使用をやめてしまった。 信玄最大の失策であり、武田家滅亡の原因であった。川中島の戦いで謙信と争っているうちはそれでよかった。
日本に鉄砲が伝来したのはいつですか。
天文十二年八月二十五日、乗員百名以上を乗せた中国の船が種子ヶ島に漂着したこの日が日本に鉄砲が伝来した日と言えるだろう。
JCRRAG_012202
歴史
天文十二年八月二十五日、乗員百名以上を乗せた中国の船が種子ヶ島に漂着した。 言葉は通じなかったが、五峯という明国の学生が乗っていて筆談することができた。 ところが、船中に特に異様な二名の人物がいる。一人はフランシスコ、もう一人はダ・モータというポルトガルの商人で二人ともその手に不思議な一物をブラ下げていた。  一物の長さは二・三尺で中央に穴が開いている。持ってみると非常に重い。火が通る路があり、穴の中に火薬を入れ、弾丸を添えて、底をふさいで海岸に的を置いた。 一物を肩に当て腰をひねって横向きに構え、火をつける。電光が走った。雷のような轟音が鳴る。 そして的が射抜かれているのである。見物していた一同は耳をふさいで砂の中に頭を突っ込んだ。  この一物の一発たるや、銀山をくだく、鉄壁すら穿つ、国に仇をなす悪人には、これに触ればたちどころにその魂を失うだろう、まことに珍品だ。 そこで領主は高価だろうとかまわず言い値で買う!とこの一品を買い求めた。  二名の南蛮人に先生になってもらって、目をにらみ腰をひねって的を睨む秘伝を教えてもらい、同時に篠川小四郎に命じて火薬の作り方を会得して、金兵衛尉清定という職人に命じて模造させるようにした。 パッと見形は良く出来たけれども、底をふさぐ手段がわからなかった。 次の年、訪れた南蛮船に鉄匠がいたので、底をふさぐ秘訣を会得したという。 天文十二年八月二十五日、この日が日本に鉄砲が伝来した日と言えるだろう。 そして、日本の実情が西欧に知られた最初の日でもあった。  鉄砲が実戦に使用されたのは十二年後、信玄が川中島の戦いで三百挺の鉄砲を使ったのが最も早かった。  信玄は戦術の研究家であり、各種兵器を機能に応じて適材適所で使い回し、各種兵器を総合的かつ合理的に組織するというやり方だった。 なので新しく登場した武器を見逃すわけがなかった。 けれども、彼の用意した鉄砲は伝来したばかりのまだまだ幼稚なつくりだった。 火縄銃は弾の装填に時間がかかる。発射してから次を発射するまでに結構な時間が空くから、歩兵に突撃させる隙を与える。 突撃されればそれまでだから、信玄は鉄砲の威力を見くびっていた。 要するに鉄砲なんてものは、その最初の射撃を防御さえすれば弾の装填の時間中に殴り放題できる、という結論に達した。 竹束によって最初の射撃をふせぐ方法をあみだし、防具がちゃんとしていれば威力なんてないようなもんだと見切りをつけて、鉄砲の使用をやめてしまった。 信玄最大の失策であり、武田家滅亡の原因であった。川中島の戦いで謙信と争っているうちはそれでよかった。
鉄砲を実際の戦で初めて使用したのは誰ですか。
鉄砲が実戦に使用されたのは十二年後、信玄が川中島の戦いで三百挺の鉄砲を使ったのが最も早かった。
JCRRAG_012203
歴史
天文十二年八月二十五日、乗員百名以上を乗せた中国の船が種子ヶ島に漂着した。 言葉は通じなかったが、五峯という明国の学生が乗っていて筆談することができた。 ところが、船中に特に異様な二名の人物がいる。一人はフランシスコ、もう一人はダ・モータというポルトガルの商人で二人ともその手に不思議な一物をブラ下げていた。  一物の長さは二・三尺で中央に穴が開いている。持ってみると非常に重い。火が通る路があり、穴の中に火薬を入れ、弾丸を添えて、底をふさいで海岸に的を置いた。 一物を肩に当て腰をひねって横向きに構え、火をつける。電光が走った。雷のような轟音が鳴る。 そして的が射抜かれているのである。見物していた一同は耳をふさいで砂の中に頭を突っ込んだ。  この一物の一発たるや、銀山をくだく、鉄壁すら穿つ、国に仇をなす悪人には、これに触ればたちどころにその魂を失うだろう、まことに珍品だ。 そこで領主は高価だろうとかまわず言い値で買う!とこの一品を買い求めた。  二名の南蛮人に先生になってもらって、目をにらみ腰をひねって的を睨む秘伝を教えてもらい、同時に篠川小四郎に命じて火薬の作り方を会得して、金兵衛尉清定という職人に命じて模造させるようにした。 パッと見形は良く出来たけれども、底をふさぐ手段がわからなかった。 次の年、訪れた南蛮船に鉄匠がいたので、底をふさぐ秘訣を会得したという。 天文十二年八月二十五日、この日が日本に鉄砲が伝来した日と言えるだろう。 そして、日本の実情が西欧に知られた最初の日でもあった。  鉄砲が実戦に使用されたのは十二年後、信玄が川中島の戦いで三百挺の鉄砲を使ったのが最も早かった。  信玄は戦術の研究家であり、各種兵器を機能に応じて適材適所で使い回し、各種兵器を総合的かつ合理的に組織するというやり方だった。 なので新しく登場した武器を見逃すわけがなかった。 けれども、彼の用意した鉄砲は伝来したばかりのまだまだ幼稚なつくりだった。 火縄銃は弾の装填に時間がかかる。発射してから次を発射するまでに結構な時間が空くから、歩兵に突撃させる隙を与える。 突撃されればそれまでだから、信玄は鉄砲の威力を見くびっていた。 要するに鉄砲なんてものは、その最初の射撃を防御さえすれば弾の装填の時間中に殴り放題できる、という結論に達した。 竹束によって最初の射撃をふせぐ方法をあみだし、防具がちゃんとしていれば威力なんてないようなもんだと見切りをつけて、鉄砲の使用をやめてしまった。 信玄最大の失策であり、武田家滅亡の原因であった。川中島の戦いで謙信と争っているうちはそれでよかった。
信玄が使った銃はどんなものでしたか。
彼の用意した鉄砲は伝来したばかりのまだまだ幼稚なつくりだった。
JCRRAG_012204
歴史
鉄砲の威力を発揮させる使用法を理解した最初の人は信長であった。  信長は理知そのものの化身といえた。彼は一切の宗教に興味がない男であったが、キリスト教徒が同時に新しい学問や芸術などの品を輸入するのでこれを最大限に利用した。 鉄砲だの、時計だの、新しい航海術、天文や医学、なんでも知ってるような白人の坊主共が、神様と言ったとたんに目の色を変えて霊魂は不滅だの最後の審判などとたわいもないことを言い出す。賢い奴らだからなにか魂胆があってこんな事を言ってるんだろうと信長は思っていたが、ある日オルガンチノというバテレンを別室に呼び入れ、家臣を全て遠ざけた。 「さて、お前も商売なんだろうし本当のことを言いたくはないだろうが、今日は家来達も遠ざけたし遠慮なく話すがよい。天主だのアニマの不滅などというのはバカ共をたぶらかすウソなんだろ?」と言い出した。 信長は納得できない事はトコトンまで追求する性格だった。オルガンチノは地球儀を持って「イタリアを指してここは自分の生まれた故郷であるが、同胞をすてて、万里の海を越えてこんなところへきたからには、元より命は捨てています。殿下も知ってるように、日々苦しい生活を過ごして童貞をまもり、ひたすら人々の幸福のために心身をすり減らしているのも、現世の幸せを望まず、この命を天主に捧げて死後の幸福を信じるからで神の存在を信じなくてこんなことできませんよ」と大袈裟にいった。信長はこの坊主の表裏ない言葉をウソではないとおもったが、彼らは馬鹿だと判断した。利用価値のあるものは毒だろうと利用する。  こういう人間であったから、鉄砲のもつ威力について、信玄のように見切りをつけなかった。利用できるあらゆる可能性を考えて戦術も工夫した。 鉄砲自体も発達したが、彼の編みだした戦術は同時に日本最初の近代戦術だったのである。  弾の装填の隙を無くすために鉄砲を三段に分けることにした。三千挺の鉄砲なら、千挺づつ三段にわけて一斉に発射する。 同時に敵が突撃してくる速度を落とさせるために、鉄砲の前面に堀を作って柵をこしらえた。 この陰から三段の鉄砲で順次に隙間なく撃ち出すことによって敵兵をこちらへ寄せつけず撃退できるだろう、という戦術だった。  この戦術をつかって大勝利したのが長篠合戦であり、鉄砲に見切りをつけた武田方はこの合戦で滅亡した。  信長の軍勢は各自それぞれ木の杭を背負って進軍してくる。木杭は数万本にもなる。設楽原に達したら、まず濠を掘って柵をつくり、柵の内側に鉄砲組を三段に配置した。 こうしておいて、歩兵が柵の前面へ出て敵を誘導する。 敵が突撃したのを確認すると、退却して柵の内側へ逃げ、矢来を閉じてしまうのである。甲州勢は信長の思う壺にはまってしまった。  甲州勢の主戦武器は刀や槍であった。推太鼓を鳴らし、何段かの密集隊となって波のように押し寄せて行くという戦法で、家康が三方ヶ原の戦いで惨敗したのも推太鼓の密集隊に踏み破られたせいである。  波のように押し寄せる密集隊も三段構えの鉄砲に撃たれてバタバタと倒れる。とはいえさすがに百戦練磨なので、友軍の死体を踏み越えて、六番手まで繰りだして第一柵、第二柵まで進んだが、鉄砲を射ちまくられて敗走するしかなかった。主戦武器の威力に格段の違いがあっては仕方がない。長篠の戦いにおいて二万の甲州勢は一万七千人も戦死した。  信長の天下は、鉄砲の威力によって得ることの出来た天下であったが、鉄砲を利用し得た信長は偶然ではなかったのである。早くから鉄砲を知った信玄が鉄砲の利用方法に気付かず滅亡し、各地に鉄砲を知らぬ者はなかったが、これを本当に利用できる見識と手腕は信長だけが持っていた。  朝鮮役の快進軍は鉄砲と弓の差でもあった。朝鮮軍は一挺の鉄砲を持っておらず、その存在すら知らなかった。彼らの主戦武器たる弩(いしゆみ)は射程がない。 城壁をかこんだ日本軍が鉄砲を撃つ。百雷の音。もくもくとした煙の間から味方がバタバタ倒れて行く。魂が消え失せて、日本軍が縄梯子をかけて城壁をよじ登るのを呆然と見守るばかりで、まるで戦争にならない。大きな道を走るように、京城へ攻めこむことさえできた。しかし、明の援軍には鉄砲が整備されていた。
織田信長はキリスト教を信じていましたか。
彼は一切の宗教に興味がない男であった。
JCRRAG_012205
歴史
鉄砲の威力を発揮させる使用法を理解した最初の人は信長であった。  信長は理知そのものの化身といえた。彼は一切の宗教に興味がない男であったが、キリスト教徒が同時に新しい学問や芸術などの品を輸入するのでこれを最大限に利用した。 鉄砲だの、時計だの、新しい航海術、天文や医学、なんでも知ってるような白人の坊主共が、神様と言ったとたんに目の色を変えて霊魂は不滅だの最後の審判などとたわいもないことを言い出す。賢い奴らだからなにか魂胆があってこんな事を言ってるんだろうと信長は思っていたが、ある日オルガンチノというバテレンを別室に呼び入れ、家臣を全て遠ざけた。 「さて、お前も商売なんだろうし本当のことを言いたくはないだろうが、今日は家来達も遠ざけたし遠慮なく話すがよい。天主だのアニマの不滅などというのはバカ共をたぶらかすウソなんだろ?」と言い出した。 信長は納得できない事はトコトンまで追求する性格だった。オルガンチノは地球儀を持って「イタリアを指してここは自分の生まれた故郷であるが、同胞をすてて、万里の海を越えてこんなところへきたからには、元より命は捨てています。殿下も知ってるように、日々苦しい生活を過ごして童貞をまもり、ひたすら人々の幸福のために心身をすり減らしているのも、現世の幸せを望まず、この命を天主に捧げて死後の幸福を信じるからで神の存在を信じなくてこんなことできませんよ」と大袈裟にいった。信長はこの坊主の表裏ない言葉をウソではないとおもったが、彼らは馬鹿だと判断した。利用価値のあるものは毒だろうと利用する。  こういう人間であったから、鉄砲のもつ威力について、信玄のように見切りをつけなかった。利用できるあらゆる可能性を考えて戦術も工夫した。 鉄砲自体も発達したが、彼の編みだした戦術は同時に日本最初の近代戦術だったのである。  弾の装填の隙を無くすために鉄砲を三段に分けることにした。三千挺の鉄砲なら、千挺づつ三段にわけて一斉に発射する。 同時に敵が突撃してくる速度を落とさせるために、鉄砲の前面に堀を作って柵をこしらえた。 この陰から三段の鉄砲で順次に隙間なく撃ち出すことによって敵兵をこちらへ寄せつけず撃退できるだろう、という戦術だった。  この戦術をつかって大勝利したのが長篠合戦であり、鉄砲に見切りをつけた武田方はこの合戦で滅亡した。  信長の軍勢は各自それぞれ木の杭を背負って進軍してくる。木杭は数万本にもなる。設楽原に達したら、まず濠を掘って柵をつくり、柵の内側に鉄砲組を三段に配置した。 こうしておいて、歩兵が柵の前面へ出て敵を誘導する。 敵が突撃したのを確認すると、退却して柵の内側へ逃げ、矢来を閉じてしまうのである。甲州勢は信長の思う壺にはまってしまった。  甲州勢の主戦武器は刀や槍であった。推太鼓を鳴らし、何段かの密集隊となって波のように押し寄せて行くという戦法で、家康が三方ヶ原の戦いで惨敗したのも推太鼓の密集隊に踏み破られたせいである。  波のように押し寄せる密集隊も三段構えの鉄砲に撃たれてバタバタと倒れる。とはいえさすがに百戦練磨なので、友軍の死体を踏み越えて、六番手まで繰りだして第一柵、第二柵まで進んだが、鉄砲を射ちまくられて敗走するしかなかった。主戦武器の威力に格段の違いがあっては仕方がない。長篠の戦いにおいて二万の甲州勢は一万七千人も戦死した。  信長の天下は、鉄砲の威力によって得ることの出来た天下であったが、鉄砲を利用し得た信長は偶然ではなかったのである。早くから鉄砲を知った信玄が鉄砲の利用方法に気付かず滅亡し、各地に鉄砲を知らぬ者はなかったが、これを本当に利用できる見識と手腕は信長だけが持っていた。  朝鮮役の快進軍は鉄砲と弓の差でもあった。朝鮮軍は一挺の鉄砲を持っておらず、その存在すら知らなかった。彼らの主戦武器たる弩(いしゆみ)は射程がない。 城壁をかこんだ日本軍が鉄砲を撃つ。百雷の音。もくもくとした煙の間から味方がバタバタ倒れて行く。魂が消え失せて、日本軍が縄梯子をかけて城壁をよじ登るのを呆然と見守るばかりで、まるで戦争にならない。大きな道を走るように、京城へ攻めこむことさえできた。しかし、明の援軍には鉄砲が整備されていた。
信長が編みだした戦術とはなにか。
弾の装填の隙を無くすために鉄砲を三段に分けることにした。三千挺の鉄砲なら、千挺づつ三段にわけて一斉に発射する。同時に敵が突撃してくる速度を落とさせるために、鉄砲の前面に堀を作って柵をこしらえた。この陰から三段の鉄砲で順次に隙間なく撃ち出すことによって敵兵をこちらへ寄せつけず撃退できるだろう、という戦術だった。
JCRRAG_012206
歴史
鉄砲の威力を発揮させる使用法を理解した最初の人は信長であった。  信長は理知そのものの化身といえた。彼は一切の宗教に興味がない男であったが、キリスト教徒が同時に新しい学問や芸術などの品を輸入するのでこれを最大限に利用した。 鉄砲だの、時計だの、新しい航海術、天文や医学、なんでも知ってるような白人の坊主共が、神様と言ったとたんに目の色を変えて霊魂は不滅だの最後の審判などとたわいもないことを言い出す。賢い奴らだからなにか魂胆があってこんな事を言ってるんだろうと信長は思っていたが、ある日オルガンチノというバテレンを別室に呼び入れ、家臣を全て遠ざけた。 「さて、お前も商売なんだろうし本当のことを言いたくはないだろうが、今日は家来達も遠ざけたし遠慮なく話すがよい。天主だのアニマの不滅などというのはバカ共をたぶらかすウソなんだろ?」と言い出した。 信長は納得できない事はトコトンまで追求する性格だった。オルガンチノは地球儀を持って「イタリアを指してここは自分の生まれた故郷であるが、同胞をすてて、万里の海を越えてこんなところへきたからには、元より命は捨てています。殿下も知ってるように、日々苦しい生活を過ごして童貞をまもり、ひたすら人々の幸福のために心身をすり減らしているのも、現世の幸せを望まず、この命を天主に捧げて死後の幸福を信じるからで神の存在を信じなくてこんなことできませんよ」と大袈裟にいった。信長はこの坊主の表裏ない言葉をウソではないとおもったが、彼らは馬鹿だと判断した。利用価値のあるものは毒だろうと利用する。  こういう人間であったから、鉄砲のもつ威力について、信玄のように見切りをつけなかった。利用できるあらゆる可能性を考えて戦術も工夫した。 鉄砲自体も発達したが、彼の編みだした戦術は同時に日本最初の近代戦術だったのである。  弾の装填の隙を無くすために鉄砲を三段に分けることにした。三千挺の鉄砲なら、千挺づつ三段にわけて一斉に発射する。 同時に敵が突撃してくる速度を落とさせるために、鉄砲の前面に堀を作って柵をこしらえた。 この陰から三段の鉄砲で順次に隙間なく撃ち出すことによって敵兵をこちらへ寄せつけず撃退できるだろう、という戦術だった。  この戦術をつかって大勝利したのが長篠合戦であり、鉄砲に見切りをつけた武田方はこの合戦で滅亡した。  信長の軍勢は各自それぞれ木の杭を背負って進軍してくる。木杭は数万本にもなる。設楽原に達したら、まず濠を掘って柵をつくり、柵の内側に鉄砲組を三段に配置した。 こうしておいて、歩兵が柵の前面へ出て敵を誘導する。 敵が突撃したのを確認すると、退却して柵の内側へ逃げ、矢来を閉じてしまうのである。甲州勢は信長の思う壺にはまってしまった。  甲州勢の主戦武器は刀や槍であった。推太鼓を鳴らし、何段かの密集隊となって波のように押し寄せて行くという戦法で、家康が三方ヶ原の戦いで惨敗したのも推太鼓の密集隊に踏み破られたせいである。  波のように押し寄せる密集隊も三段構えの鉄砲に撃たれてバタバタと倒れる。とはいえさすがに百戦練磨なので、友軍の死体を踏み越えて、六番手まで繰りだして第一柵、第二柵まで進んだが、鉄砲を射ちまくられて敗走するしかなかった。主戦武器の威力に格段の違いがあっては仕方がない。長篠の戦いにおいて二万の甲州勢は一万七千人も戦死した。  信長の天下は、鉄砲の威力によって得ることの出来た天下であったが、鉄砲を利用し得た信長は偶然ではなかったのである。早くから鉄砲を知った信玄が鉄砲の利用方法に気付かず滅亡し、各地に鉄砲を知らぬ者はなかったが、これを本当に利用できる見識と手腕は信長だけが持っていた。  朝鮮役の快進軍は鉄砲と弓の差でもあった。朝鮮軍は一挺の鉄砲を持っておらず、その存在すら知らなかった。彼らの主戦武器たる弩(いしゆみ)は射程がない。 城壁をかこんだ日本軍が鉄砲を撃つ。百雷の音。もくもくとした煙の間から味方がバタバタ倒れて行く。魂が消え失せて、日本軍が縄梯子をかけて城壁をよじ登るのを呆然と見守るばかりで、まるで戦争にならない。大きな道を走るように、京城へ攻めこむことさえできた。しかし、明の援軍には鉄砲が整備されていた。
長篠の戦いで甲州勢は壊滅的な打撃を受けましたか。
長篠の戦いにおいて二万の甲州勢は一万七千人も戦死した。
JCRRAG_012207
歴史
鉄砲の威力を発揮させる使用法を理解した最初の人は信長であった。  信長は理知そのものの化身といえた。彼は一切の宗教に興味がない男であったが、キリスト教徒が同時に新しい学問や芸術などの品を輸入するのでこれを最大限に利用した。 鉄砲だの、時計だの、新しい航海術、天文や医学、なんでも知ってるような白人の坊主共が、神様と言ったとたんに目の色を変えて霊魂は不滅だの最後の審判などとたわいもないことを言い出す。賢い奴らだからなにか魂胆があってこんな事を言ってるんだろうと信長は思っていたが、ある日オルガンチノというバテレンを別室に呼び入れ、家臣を全て遠ざけた。 「さて、お前も商売なんだろうし本当のことを言いたくはないだろうが、今日は家来達も遠ざけたし遠慮なく話すがよい。天主だのアニマの不滅などというのはバカ共をたぶらかすウソなんだろ?」と言い出した。 信長は納得できない事はトコトンまで追求する性格だった。オルガンチノは地球儀を持って「イタリアを指してここは自分の生まれた故郷であるが、同胞をすてて、万里の海を越えてこんなところへきたからには、元より命は捨てています。殿下も知ってるように、日々苦しい生活を過ごして童貞をまもり、ひたすら人々の幸福のために心身をすり減らしているのも、現世の幸せを望まず、この命を天主に捧げて死後の幸福を信じるからで神の存在を信じなくてこんなことできませんよ」と大袈裟にいった。信長はこの坊主の表裏ない言葉をウソではないとおもったが、彼らは馬鹿だと判断した。利用価値のあるものは毒だろうと利用する。  こういう人間であったから、鉄砲のもつ威力について、信玄のように見切りをつけなかった。利用できるあらゆる可能性を考えて戦術も工夫した。 鉄砲自体も発達したが、彼の編みだした戦術は同時に日本最初の近代戦術だったのである。  弾の装填の隙を無くすために鉄砲を三段に分けることにした。三千挺の鉄砲なら、千挺づつ三段にわけて一斉に発射する。 同時に敵が突撃してくる速度を落とさせるために、鉄砲の前面に堀を作って柵をこしらえた。 この陰から三段の鉄砲で順次に隙間なく撃ち出すことによって敵兵をこちらへ寄せつけず撃退できるだろう、という戦術だった。  この戦術をつかって大勝利したのが長篠合戦であり、鉄砲に見切りをつけた武田方はこの合戦で滅亡した。  信長の軍勢は各自それぞれ木の杭を背負って進軍してくる。木杭は数万本にもなる。設楽原に達したら、まず濠を掘って柵をつくり、柵の内側に鉄砲組を三段に配置した。 こうしておいて、歩兵が柵の前面へ出て敵を誘導する。 敵が突撃したのを確認すると、退却して柵の内側へ逃げ、矢来を閉じてしまうのである。甲州勢は信長の思う壺にはまってしまった。  甲州勢の主戦武器は刀や槍であった。推太鼓を鳴らし、何段かの密集隊となって波のように押し寄せて行くという戦法で、家康が三方ヶ原の戦いで惨敗したのも推太鼓の密集隊に踏み破られたせいである。  波のように押し寄せる密集隊も三段構えの鉄砲に撃たれてバタバタと倒れる。とはいえさすがに百戦練磨なので、友軍の死体を踏み越えて、六番手まで繰りだして第一柵、第二柵まで進んだが、鉄砲を射ちまくられて敗走するしかなかった。主戦武器の威力に格段の違いがあっては仕方がない。長篠の戦いにおいて二万の甲州勢は一万七千人も戦死した。  信長の天下は、鉄砲の威力によって得ることの出来た天下であったが、鉄砲を利用し得た信長は偶然ではなかったのである。早くから鉄砲を知った信玄が鉄砲の利用方法に気付かず滅亡し、各地に鉄砲を知らぬ者はなかったが、これを本当に利用できる見識と手腕は信長だけが持っていた。  朝鮮役の快進軍は鉄砲と弓の差でもあった。朝鮮軍は一挺の鉄砲を持っておらず、その存在すら知らなかった。彼らの主戦武器たる弩(いしゆみ)は射程がない。 城壁をかこんだ日本軍が鉄砲を撃つ。百雷の音。もくもくとした煙の間から味方がバタバタ倒れて行く。魂が消え失せて、日本軍が縄梯子をかけて城壁をよじ登るのを呆然と見守るばかりで、まるで戦争にならない。大きな道を走るように、京城へ攻めこむことさえできた。しかし、明の援軍には鉄砲が整備されていた。
文禄の役(朝鮮役)でも鉄砲は活躍しましたか。
朝鮮役の快進軍は鉄砲と弓の差でもあった。朝鮮軍は一挺の鉄砲を持っておらず、その存在すら知らなかった。彼らの主戦武器たる弩(いしゆみ)は射程がない。城壁をかこんだ日本軍が鉄砲を撃つ。百雷の音。もくもくとした煙の間から味方がバタバタ倒れて行く。魂が消え失せて、日本軍が縄梯子をかけて城壁をよじ登るのを呆然と見守るばかりで、まるで戦争にならない。大きな道を走るように、京城へ攻めこむことさえできた。
JCRRAG_012208
歴史
信長はその精神的にも内容的にもまさしく近代化の元祖であったが、直弟子の秀吉を経て、家康の代に至って近代化は終わりを告げてしまったのである。  家康は小田原征伐の功労によって、関八州を貰い江戸に移った。 このとき彼が出した最初の法令の一つが「領内で鉄砲を私的に所有することは厳禁」だった。 信長は戦争においてはスピード感を重視した。進軍と共に輸送路を確保する事に重点をおき縦横に道を通じることにおよんで、戦の勝困をつくった。 家康は鉄砲の製造や開発を禁じて、橋を壊して関所を設けて鎖国した。  応仁から信長の時代までに至る戦国時代は弱肉強食や下剋上、信義などなく、保身のためや利益のために裏切り裏切られ、戦術においても外交においても、策略が横行している時代だった。 裏切って利益を手に入れ身を守って大成功するのは気持ちいいが、いつの日か自分が裏切られるか見当がつかない。 策略が横行しているあまりの激しさに策士自身が疲れたのだ。 これほどまで辛い思いをして利益をむさぼるのは割に合わない。 ともかく自国が潰れないように保ちながら安眠したいという気持ちが育ち、自然に君臣仁義という妥協的な生き方が時代の主流となってきた。 家康はこの時代ではこの思想の寵児だったが、巧みに時代を誘導して人心を掌握する天才的な手腕があった。  君臣仁義は徳川時代に完成した武士道であった。 要するに、平和を保つ思想の元に生まれた武士道で、実戦に即応したものではない。戦略の立場からは自縄自縛の障害となり、戦に勝つという思想には縁遠い保守的なものだ。 実戦の策略や罠は葬り去られ、一騎打ちや蛮勇がほめたたえられる。 本多正信の智略よりも大久保彦左衛門の猪突猛進が武士の正道と見られるようになってしまった。信長の精神は全く死滅したのである。  剣道においても形式主義の柳生流が全盛となり、勝負第一主義、必勝必殺主義の宮本武蔵の剣法は葬り去られた。
江戸時代になったら鉄砲はどうなりましたか。
家康は鉄砲の製造や開発を禁じて、橋を壊して関所を設けて鎖国した。
JCRRAG_012209
歴史
長篠の戦いの戦機がいよいよ熟した二十日の夜である。 織田軍の陣中において、戦の前の最後の作戦会議が開かれた。 陣中の余興にと、信長は家康の部下である酒井左衛門尉忠次に「夷舞(えびすまい)」をリクエストし、えびらを叩いて手を打って囃し立てた。 充分な自信があったのであろう。落ちつき払った作戦会議の席であった。 いよいよ会議に入ったら、忠次が真っ先に「鳶ヶ巣の周囲の砦を夜襲して、同時に武田勢の逃げ道を断つのはどうでしょう」と提案した。 そうしたら信長が「こんな愚かな策を真っ先に提案しおって!」と、怒って退出したが、後でこっそり忠次を呼び入れて、「お前の作戦は最高だが、だから外に漏れないようにわざと怒ったのだ」と言って信長の秘蔵の物である「瓢箪板の忍び轡」を与えた。 忠次は喜んで飛び跳ねて、本多豊後守広孝、松平主殿助伊忠、奥平監物貞勝などと共に兵を三千人、菅沼新八郎を教導として出発した。 松山越の観音堂の前で各々が下馬して、甲冑を背負って険しい場所に挑んだが、真っ暗ではあるしどう行くか悩んだ。 忠次はそこで案内者を先に行かせて、木の根に縄を結び付け、これを伝って一人ずつ登って行かせた。 つまりロック・クライミングをやったわけである。甲冑を着けると、鳶ヶ巣目がけて一勢に突撃した。
織田信長が長篠の戦いの作戦会議で酒井忠次の提案に対しどうしましたか。
信長が「こんな愚かな策を真っ先に提案しおって!」と、怒って退出したが、後でこっそり忠次を呼び入れて、「お前の作戦は最高だが、だから外に漏れないようにわざと怒ったのだ」と言って信長の秘蔵の物である「瓢箪板の忍び轡」を与えた。
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歴史
 陶晴賢が主君である大内義隆を殺した理由は、義隆が相良遠江守武任を寵愛し優遇したからである。 相良は筑前の人間で義隆に仕えたが、並外れた才智を持っていたので、大内譜代の老臣陶、杉、内藤達より信用されていた。 陶はそれを不快に感じて遂に天文十九年に義隆を殺したのだ。  この事変の時の毛利元就の態度は非常に曖昧だった。陶の方からも義隆の方からも元就のところへ援助を求めて来ている。 元就は隆元、元春、隆景などを集めて相談したが、その時家臣である熊谷伊豆守の「とにかく今回の戦は陶が勝つと思うから、とにかく陶の方へ味方をしておいて、後でタイミングをうかがって陶を倒した方がいいと思う」という意見が通って陶に味方をしているのである。  厳島合戦は毛利元就が主君のために陶晴賢を倒した事になっているが、秀吉の山崎合戦のように大義名分的なものではないのである。  もっとも元就は、大内義隆の被官ではあるが必ずしも家来ではない。 だから晴賢を討伐せよという勅命まで受けているがそれも政略的な意味で「必ず主の仇討ちに報いる!」という志に燃えていたわけではないのである。  ただ陶晴賢と戦争することについて、主君の為に晴賢が道理に外れてるから倒す、という看板を掲げて名分を正したに過ぎない。  毛利が陶と仲が悪くなった原因は、むしろ他にあるようだ。 晴賢が義隆を殺した後の二・三年間は何事もなく交際していたのだが、元就が攻略した尼子方の備後国江田の旗返城を陶が毛利に預けないで、江良丹後守に預けた。 これが元就が陶に不快を感じた原因である。  そしてチャンスを敏感にとらえて見逃さない元就は陶が石州の吉見正頼を攻めに行ったタイミングに乗じて安芸にある桜尾や銀山等の城を落としてしまった。  その上で吉見正頼の三本松の城へ加勢を派遣した。この加勢の大将は城から出て、陶に対して声高らかに、「毛利右馬頭元就、正頼と一味し、当城へも加勢を入れている。加勢の大将は私だ、元就自身は、芸州神領表へ討ち出て、桜尾、銀山の古城をすべて攻略して、やがて山口へ攻め入るという状況になっている、注意した方がいい」と叫んだ。  陶はさぞびっくりしただろう。芸州神領表というのは、その辺一帯の厳島の神領であったのである。  とにかく元就は、雄志大略の武将であった。幼年時代厳島に詣でに行ったとき、家臣が「君を中国の主にしてくれたまえ」と祈ったというのを笑って「何故、日本の主にならせ給えとは祈らぬぞ」といった程の男だから、主君の仇を討つということなどよりも、陶を滅して、自分が取って代わらんという雄志大略の方が強かったのである。  北条早雲が、横合からとび出して行って、茶々丸を殺して伊豆をとったやり方などよりは、よっぽど、理窟があるが、結局陶晴賢との勢力戦であったのであろう。
陶晴賢が主君である大内義隆を殺した理由はなんですか。
陶晴賢が主君である大内義隆を殺した理由は、義隆が相良遠江守武任を寵愛し優遇したからである。
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とにかく毛利元就は、すぐれた才能を持ち大きなはかりごとが出来る武将であった。 幼年時代に厳島にお参りした時に、家臣が「君を中国地方の主にさせてください」と祈ったというのを笑って「何故、日本の主にさせてくれとは祈らないんだ?」といった程の男だ。 だから主君の仇を討つということなどよりも、陶を滅して自分が取って代わってやろうという企らみの方が強かったのである。  北条早雲が横合からとび出して行って、茶々丸を殺して伊豆を取ったやり方などよりは、よっぽど理屈があるけど結局陶晴賢との勢力戦であったのであろう。  元々毛利元就という男は、戦国時代屈指の名将である。 徳川家康と北条早雲を足して2で割ったような大将である。家康を超えるほどの寛容さと慈悲深さを持っている。 謀略を用いる点においては家康よりはずっと辛辣である。 厳島合戦の時はちょうど五十二歳の分別盛りである。長子隆元三十二歳、次子吉川元春二十三歳、三子隆景二十二歳。吉川元春は、かつて梅雪と言われていた。  熊谷伊豆守の娘の新庄局がなんとも醜い娘で、誰も結婚する人が見つからないと聞いて、その父の武勇に賞賛しながら、「その娘のためにさぞや嘆いているのだろう。私が結婚するといえば熊谷家は、毛利のために一生懸命頑張ってくれるだろう」と言って結婚した男である。  乃木将軍式スパルタ式の猛将である。三男の隆景は彼を「楊柳」と呼ぶほどの容姿端麗な武士であった。 その才略は抜群で後に秀吉が天下を経営する際の相談相手となり、秀吉から「日本の蓋でも勤まる」と評されたが、こいつもまた勇ましさが抜群で、朝鮮の役には碧蹄館において、十万の明軍を相手に、決戦した勇将である。だから元就は「良い子まで生むんだから幸運な大将である」と言われた。
すぐれた才能を持ち大きなはかりごとが出来る武将であったのは誰ですか。
すぐれた才能を持ち大きなはかりごとが出来る武将であったのは毛利元就です。
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歴史
厳島の戦いの時、毛利の軍勢は三千五百から六百程度の小勢であった。これに対して陶晴賢は二万余の大軍である。  だから平場の戦いでは毛利はどう頑張っても陶の敵ではない。そこで元就が考えたのは、厳島に城を建てる事だった。  元就は厳島に城を建てて、ここが毛利軍にとって大切な場所であるように見せかけ、ここへ陶の大軍をおびき寄せて、狭い場所で決着を付けようと思ったのである。  元就が厳島へ築城を始めると元就の策略を知らない家臣はみんな反対した。「あんな所へ城を築いてもしこれが陶に取られたら安芸はその腹匕首で刺されるようなものです!」と。  元就はそういう家臣の反対を押し切って要となる害鼻城を築いた。  元就は家来達に対して、「お前達の話を聞かないで厳島に城を築いて見たけどさ、よく考えてみると…ひどい失策をしたもんだな。敵に取られる為に城を築いたようなもんだ。あそこを取られては一大事になるな」と言った。  戦国の世は日本同士の戦争であるから、スパイは敵にも味方にも沢山入り混じっていた。 だから元就のこういう後悔してる姿などはすぐスパイによって敵へ知られることになるが、それが元就の目的だったのである。 その上、その頃一人の座頭が吉田の城下へ来ていた。『平家』などを語りに元就の城へも出入りしている。 元就はこの座頭を陶晴賢のスパイだと知って、わざと自分のそばへ近づけていた。 ある日、元就が老臣共を集め座頭に聞こえるか聞こえないかわからない位の所でわざと小声で作戦会議を行い「厳島の城を攻められては味方は苦労するが、敵方の岩国の域主である弘中三河守は、こっちのスパイだから陶の大軍が厳島へこないようにしてくれるであろう」と囁やいていた。  座頭は鬼の首でもとったように、この話を陶方へ話したのはモチロンである。  弘治元年九月、陶晴賢は二万七千余の軍勢を率いて、山口の岩国永興寺に陣を広げ作戦会議をする。 晴賢はあくまでもスパイの言う事を信じ、厳島へ渡って宮尾城を攻め滅ぼして、そして毛利の命をもらおうという考えである。  岩国の城主弘中三河守隆兼は、陶方の第一の名将である。 元就の策略を見破っており「元就が厳島に城を築いている事を後悔しているのならば、それを口にして言うわけがない。元就の目的は、厳島へ我が大軍をひきつけ、楽に倒そうという企みなのだろう。厳島の海を渡るのをストップして、草津や二十日市を攻め落として、吉田へ押し寄せれば毛利元就を倒せるだろう」と言った。  だが頭の良い元就は、弘中三河守の進言を封じる為に座頭を使って、陶に一服盛ってあるのだから叶わない。 晴賢は三河守の折角の進言を蹴って、大軍を率いて七百余りの軍船で厳島へ渡ってしまった。三河守も仕方がなく陶から二日遅れて厳島へ渡った。 信長は桶狭間というせまい土地で今川義元を急襲して首級をあげたが、そのやり方はいくらなんでも一か八かの賭けすぎる。 それに比べると元就は、計画を練りに練って敵を死地におびき寄せている。同じ出世戦争でもその内容は比べものにならないと思う。
毛利元就が厳島の戦いで厳島に築城したのはなぜですか。
元就は厳島に城を建てて、ここが毛利軍にとって大切な場所であるように見せかけ、ここへ陶の大軍をおびき寄せて、狭い場所で決着を付けようと思ったのである。
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歴史
厳島の戦いの時、毛利の軍勢は三千五百から六百程度の小勢であった。これに対して陶晴賢は二万余の大軍である。  だから平場の戦いでは毛利はどう頑張っても陶の敵ではない。そこで元就が考えたのは、厳島に城を建てる事だった。  元就は厳島に城を建てて、ここが毛利軍にとって大切な場所であるように見せかけ、ここへ陶の大軍をおびき寄せて、狭い場所で決着を付けようと思ったのである。  元就が厳島へ築城を始めると元就の策略を知らない家臣はみんな反対した。「あんな所へ城を築いてもしこれが陶に取られたら安芸はその腹匕首で刺されるようなものです!」と。  元就はそういう家臣の反対を押し切って要となる害鼻城を築いた。  元就は家来達に対して、「お前達の話を聞かないで厳島に城を築いて見たけどさ、よく考えてみると…ひどい失策をしたもんだな。敵に取られる為に城を築いたようなもんだ。あそこを取られては一大事になるな」と言った。  戦国の世は日本同士の戦争であるから、スパイは敵にも味方にも沢山入り混じっていた。 だから元就のこういう後悔してる姿などはすぐスパイによって敵へ知られることになるが、それが元就の目的だったのである。 その上、その頃一人の座頭が吉田の城下へ来ていた。『平家』などを語りに元就の城へも出入りしている。 元就はこの座頭を陶晴賢のスパイだと知って、わざと自分のそばへ近づけていた。 ある日、元就が老臣共を集め座頭に聞こえるか聞こえないかわからない位の所でわざと小声で作戦会議を行い「厳島の城を攻められては味方は苦労するが、敵方の岩国の域主である弘中三河守は、こっちのスパイだから陶の大軍が厳島へこないようにしてくれるであろう」と囁やいていた。  座頭は鬼の首でもとったように、この話を陶方へ話したのはモチロンである。  弘治元年九月、陶晴賢は二万七千余の軍勢を率いて、山口の岩国永興寺に陣を広げ作戦会議をする。 晴賢はあくまでもスパイの言う事を信じ、厳島へ渡って宮尾城を攻め滅ぼして、そして毛利の命をもらおうという考えである。  岩国の城主弘中三河守隆兼は、陶方の第一の名将である。 元就の策略を見破っており「元就が厳島に城を築いている事を後悔しているのならば、それを口にして言うわけがない。元就の目的は、厳島へ我が大軍をひきつけ、楽に倒そうという企みなのだろう。厳島の海を渡るのをストップして、草津や二十日市を攻め落として、吉田へ押し寄せれば毛利元就を倒せるだろう」と言った。  だが頭の良い元就は、弘中三河守の進言を封じる為に座頭を使って、陶に一服盛ってあるのだから叶わない。 晴賢は三河守の折角の進言を蹴って、大軍を率いて七百余りの軍船で厳島へ渡ってしまった。三河守も仕方がなく陶から二日遅れて厳島へ渡った。 信長は桶狭間というせまい土地で今川義元を急襲して首級をあげたが、そのやり方はいくらなんでも一か八かの賭けすぎる。 それに比べると元就は、計画を練りに練って敵を死地におびき寄せている。同じ出世戦争でもその内容は比べものにならないと思う。
毛利元就が厳島に築城したのを失敗したと言ったのはなぜですか。
戦国の世は日本同士の戦争であるから、スパイは敵にも味方にも沢山入り混じっていた。だから元就のこういう後悔してる姿などはすぐスパイによって敵へ知られることになるが、それが元就の目的だったのである。
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厳島の戦いの時、毛利の軍勢は三千五百から六百程度の小勢であった。これに対して陶晴賢は二万余の大軍である。  だから平場の戦いでは毛利はどう頑張っても陶の敵ではない。そこで元就が考えたのは、厳島に城を建てる事だった。  元就は厳島に城を建てて、ここが毛利軍にとって大切な場所であるように見せかけ、ここへ陶の大軍をおびき寄せて、狭い場所で決着を付けようと思ったのである。  元就が厳島へ築城を始めると元就の策略を知らない家臣はみんな反対した。「あんな所へ城を築いてもしこれが陶に取られたら安芸はその腹匕首で刺されるようなものです!」と。  元就はそういう家臣の反対を押し切って要となる害鼻城を築いた。  元就は家来達に対して、「お前達の話を聞かないで厳島に城を築いて見たけどさ、よく考えてみると…ひどい失策をしたもんだな。敵に取られる為に城を築いたようなもんだ。あそこを取られては一大事になるな」と言った。  戦国の世は日本同士の戦争であるから、スパイは敵にも味方にも沢山入り混じっていた。 だから元就のこういう後悔してる姿などはすぐスパイによって敵へ知られることになるが、それが元就の目的だったのである。 その上、その頃一人の座頭が吉田の城下へ来ていた。『平家』などを語りに元就の城へも出入りしている。 元就はこの座頭を陶晴賢のスパイだと知って、わざと自分のそばへ近づけていた。 ある日、元就が老臣共を集め座頭に聞こえるか聞こえないかわからない位の所でわざと小声で作戦会議を行い「厳島の城を攻められては味方は苦労するが、敵方の岩国の域主である弘中三河守は、こっちのスパイだから陶の大軍が厳島へこないようにしてくれるであろう」と囁やいていた。  座頭は鬼の首でもとったように、この話を陶方へ話したのはモチロンである。  弘治元年九月、陶晴賢は二万七千余の軍勢を率いて、山口の岩国永興寺に陣を広げ作戦会議をする。 晴賢はあくまでもスパイの言う事を信じ、厳島へ渡って宮尾城を攻め滅ぼして、そして毛利の命をもらおうという考えである。  岩国の城主弘中三河守隆兼は、陶方の第一の名将である。 元就の策略を見破っており「元就が厳島に城を築いている事を後悔しているのならば、それを口にして言うわけがない。元就の目的は、厳島へ我が大軍をひきつけ、楽に倒そうという企みなのだろう。厳島の海を渡るのをストップして、草津や二十日市を攻め落として、吉田へ押し寄せれば毛利元就を倒せるだろう」と言った。  だが頭の良い元就は、弘中三河守の進言を封じる為に座頭を使って、陶に一服盛ってあるのだから叶わない。 晴賢は三河守の折角の進言を蹴って、大軍を率いて七百余りの軍船で厳島へ渡ってしまった。三河守も仕方がなく陶から二日遅れて厳島へ渡った。 信長は桶狭間というせまい土地で今川義元を急襲して首級をあげたが、そのやり方はいくらなんでも一か八かの賭けすぎる。 それに比べると元就は、計画を練りに練って敵を死地におびき寄せている。同じ出世戦争でもその内容は比べものにならないと思う。
厳島の戦いで毛利軍の情報を陶晴賢軍に流していたスパイは誰ですか。
一人の座頭が吉田の城下へ来ていた。『平家』などを語りに元就の城へも出入りしている。元就はこの座頭を敵のスパイだと知って、わざと自分のそばへ近づけていた。
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厳島の戦いの時、毛利の軍勢は三千五百から六百程度の小勢であった。これに対して陶晴賢は二万余の大軍である。  だから平場の戦いでは毛利はどう頑張っても陶の敵ではない。そこで元就が考えたのは、厳島に城を建てる事だった。  元就は厳島に城を建てて、ここが毛利軍にとって大切な場所であるように見せかけ、ここへ陶の大軍をおびき寄せて、狭い場所で決着を付けようと思ったのである。  元就が厳島へ築城を始めると元就の策略を知らない家臣はみんな反対した。「あんな所へ城を築いてもしこれが陶に取られたら安芸はその腹匕首で刺されるようなものです!」と。  元就はそういう家臣の反対を押し切って要となる害鼻城を築いた。  元就は家来達に対して、「お前達の話を聞かないで厳島に城を築いて見たけどさ、よく考えてみると…ひどい失策をしたもんだな。敵に取られる為に城を築いたようなもんだ。あそこを取られては一大事になるな」と言った。  戦国の世は日本同士の戦争であるから、スパイは敵にも味方にも沢山入り混じっていた。 だから元就のこういう後悔してる姿などはすぐスパイによって敵へ知られることになるが、それが元就の目的だったのである。 その上、その頃一人の座頭が吉田の城下へ来ていた。『平家』などを語りに元就の城へも出入りしている。 元就はこの座頭を陶晴賢のスパイだと知って、わざと自分のそばへ近づけていた。 ある日、元就が老臣共を集め座頭に聞こえるか聞こえないかわからない位の所でわざと小声で作戦会議を行い「厳島の城を攻められては味方は苦労するが、敵方の岩国の域主である弘中三河守は、こっちのスパイだから陶の大軍が厳島へこないようにしてくれるであろう」と囁やいていた。  座頭は鬼の首でもとったように、この話を陶方へ話したのはモチロンである。  弘治元年九月、陶晴賢は二万七千余の軍勢を率いて、山口の岩国永興寺に陣を広げ作戦会議をする。 晴賢はあくまでもスパイの言う事を信じ、厳島へ渡って宮尾城を攻め滅ぼして、そして毛利の命をもらおうという考えである。  岩国の城主弘中三河守隆兼は、陶方の第一の名将である。 元就の策略を見破っており「元就が厳島に城を築いている事を後悔しているのならば、それを口にして言うわけがない。元就の目的は、厳島へ我が大軍をひきつけ、楽に倒そうという企みなのだろう。厳島の海を渡るのをストップして、草津や二十日市を攻め落として、吉田へ押し寄せれば毛利元就を倒せるだろう」と言った。  だが頭の良い元就は、弘中三河守の進言を封じる為に座頭を使って、陶に一服盛ってあるのだから叶わない。 晴賢は三河守の折角の進言を蹴って、大軍を率いて七百余りの軍船で厳島へ渡ってしまった。三河守も仕方がなく陶から二日遅れて厳島へ渡った。 信長は桶狭間というせまい土地で今川義元を急襲して首級をあげたが、そのやり方はいくらなんでも一か八かの賭けすぎる。 それに比べると元就は、計画を練りに練って敵を死地におびき寄せている。同じ出世戦争でもその内容は比べものにならないと思う。
陶晴賢は部下の弘中三河守隆兼に進言されてどうしましたか。
晴賢は三河守の折角の進言を蹴って、大軍を率いて七百余りの軍船で厳島へ渡ってしまった。
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この厳島の戦いは、元就の一夜陣として有名である。 だが、一夜のうちに毛利一家の存亡を賭けたわけであるが、しかし元就の心のなかには勝利に対する信念が沸き起こっていたのではないかと思われる。  元就は鼓の浦へ着く前に今まで船中に連れて来ていたスパイの座頭を捕えて、「陶への進言よくぞやってくれた、お前のおかげで主君の首が今日中に見れるだろう、先にあの世に行って主君を待っていろ」といって、海に投げて血祭にした。  小早川隆景の当夜の行動には二説ある。隆景は先に漁船に身を隠して宮尾城のピンチを救う為に宮尾城へ入ったと書いてあるが、これは恐らく俗説だろう。 当夜は熊谷信直の部下を従え、厳島神社の大鳥居の方面から敵の兵船の間を抜ける所を敵が待て!と止めると「味方になりにきた九州の兵です」と言って簡単に上陸して塔の岡の坂下に陣を広げて、本軍の鬨の声があがるのを待っていた。  毛利の第一軍は地御前より厳島を迂回して東北岸鼓の浦に上陸して博奕尾の険を越えて塔の岡の陶軍の本陣を背面から攻撃し、第二軍は宮尾城の城兵と協力し、元就軍の本軍が鬨の声を発するタイミングで正面より陶の本陣を攻撃するもので、小早川隆景はこれを率いていた。  第三軍は村上や来島等の海軍で組織されており、厳島の対岸を警備して場合によって陶の水軍と合戦をしようというものだ。  元就が鼓の浦へ上陸しようとする時、雨がしきりに降ったので児玉就忠が元就に傘を差そうとしたが元就は拳で払いのけた。  陶の方は塔の岡を本陣としたが、諸軍勢は厳島の神社付近の地に散らばっており、何の統制も無かったらしい。  先弘中三河守は陶に早く宮尾城を攻略すべきだと進言したけれども、陶はそのアイディアを採用せずに城攻めは十月一日にきまっていた。その一日の夜が明けるころに元就軍が殺到したわけである。  元就は鼓の浦へ着くと、乗っていた兵船を全て二十日市へ戻した。生きて帰るつもりもない正に背水の陣である。 吉川元春は先陣となって、えいえい声を掛けて坂を上っていたが、その声が自動的に鬨の声になって陶の本陣がある塔の岡へ殺到した。  陶方も毛利軍の夜襲と知って、諸方より本陣へ急いで集まって防戦しようとしたが、急いで集まった大軍だから配備は滅茶苦茶だった。 兵は多いが土地は狭く自由に動けない所に、元就の軍勢は、揉まれながら攻めたから、陶軍は早くも混乱した。  前から打ち合っていた小早川隆景の軍隊は本軍の鬨の声を聞くと、これもまた大声をあげながら前面から攻撃した。 大和伊豆、三浦越中、弘中三河守等の勇将は、「敵は少し!恐るるに足らん!返せ返せ!」と叫んで奮戦したが一度混乱した大軍は、どっと崩れるままに、逃げるために我先に船に乗ろうと海岸を目指して逃げ出した。 晴賢は、自分で采配を振るったが一度崩れ立った大軍はどうしようもなく、あっというまに塔の岡の本陣は毛利軍に蹂躙されてしまった。  敗兵達が船に乗ったばかりに陶の水軍があわて出したところを、毛利の第三軍たる村上、来島等の水軍が攻めかかったので、陶の水軍はこれまたあっという間に撃破されて多くの兵船は防州の矢代島を目指して逃げてしまった。  塔の岡の本陣を攻め落とされた陶軍は、厳島神社の裏を西へ西へと逃走した。 弘中三河守は同中務と共に主君である晴賢の退却を援護するために五百騎ばかりで吉川元春の追撃を迎え撃った。 弘中父子が必死に防戦したから、流石の吉川勢も倒し切れずに退却した。 元春自身が槍をとって奮戦していると弘中軍の武将青景波多野や、滝町の横町、柳小路から吉川勢を横撃した。  この時吉川勢はなかなか危なかったのだが、熊谷信直が駆けつけてピンチを救ったので、弘中の軍は滝小路の民家に火を放って弥山道の大聖院に撤退した。 吉川勢は、その火が厳島神社に引火する事を恐れて消火に努めている間に、晴賢は三浦に守られながら大元浦に落ちのびた。 大元浦は、厳島神社から西北へ2〜300メートルのところにある。そこへ吉川勢に代わって小早川隆景が精鋭を率いて追撃して来た。  陶がここで討ち死にしようとするのを「ひとまず山口へひいて隊を整えましょう。この三浦殿をつとめてここで討ち死にします」と晴賢を説得して、三浦房清は、羽仁越中守、同将監、大和伊豆守たちを粉骨砕身して戦った。  三浦房清はことごとく討ち死にしてただ一人になって山道で休んでいるところへ、二宮杢之介が馳け付けると、三浦房清は嘘をついて「味方です」という。味方での「で」の字の発音が山口の音だなと思い、二宮は敵だと理解して「合言葉を言え!」と迫った。見破られた三浦房清は立ち上がって奮戦したが、矢に討たれた。  陶は、さらに西方に隠れたが、味方の兵や船の影は全くなく、ついに大江浦にて小川伝いに山中に入ってその辺りにて自害したと言われている。
厳島の戦いで毛利元就は陶晴賢のスパイをどうしましたか。
元就は鼓の浦へ着く前に今まで船中に連れて来ていたスパイの座頭を捕えて、「陶への進言よくぞやってくれた、お前のおかげで主君の首が今日中に見れるだろう、先にあの世に行って主君を待っていろ」といって、海に投げて血祭にした。
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歴史
この厳島の戦いは、元就の一夜陣として有名である。 だが、一夜のうちに毛利一家の存亡を賭けたわけであるが、しかし元就の心のなかには勝利に対する信念が沸き起こっていたのではないかと思われる。  元就は鼓の浦へ着く前に今まで船中に連れて来ていたスパイの座頭を捕えて、「陶への進言よくぞやってくれた、お前のおかげで主君の首が今日中に見れるだろう、先にあの世に行って主君を待っていろ」といって、海に投げて血祭にした。  小早川隆景の当夜の行動には二説ある。隆景は先に漁船に身を隠して宮尾城のピンチを救う為に宮尾城へ入ったと書いてあるが、これは恐らく俗説だろう。 当夜は熊谷信直の部下を従え、厳島神社の大鳥居の方面から敵の兵船の間を抜ける所を敵が待て!と止めると「味方になりにきた九州の兵です」と言って簡単に上陸して塔の岡の坂下に陣を広げて、本軍の鬨の声があがるのを待っていた。  毛利の第一軍は地御前より厳島を迂回して東北岸鼓の浦に上陸して博奕尾の険を越えて塔の岡の陶軍の本陣を背面から攻撃し、第二軍は宮尾城の城兵と協力し、元就軍の本軍が鬨の声を発するタイミングで正面より陶の本陣を攻撃するもので、小早川隆景はこれを率いていた。  第三軍は村上や来島等の海軍で組織されており、厳島の対岸を警備して場合によって陶の水軍と合戦をしようというものだ。  元就が鼓の浦へ上陸しようとする時、雨がしきりに降ったので児玉就忠が元就に傘を差そうとしたが元就は拳で払いのけた。  陶の方は塔の岡を本陣としたが、諸軍勢は厳島の神社付近の地に散らばっており、何の統制も無かったらしい。  先弘中三河守は陶に早く宮尾城を攻略すべきだと進言したけれども、陶はそのアイディアを採用せずに城攻めは十月一日にきまっていた。その一日の夜が明けるころに元就軍が殺到したわけである。  元就は鼓の浦へ着くと、乗っていた兵船を全て二十日市へ戻した。生きて帰るつもりもない正に背水の陣である。 吉川元春は先陣となって、えいえい声を掛けて坂を上っていたが、その声が自動的に鬨の声になって陶の本陣がある塔の岡へ殺到した。  陶方も毛利軍の夜襲と知って、諸方より本陣へ急いで集まって防戦しようとしたが、急いで集まった大軍だから配備は滅茶苦茶だった。 兵は多いが土地は狭く自由に動けない所に、元就の軍勢は、揉まれながら攻めたから、陶軍は早くも混乱した。  前から打ち合っていた小早川隆景の軍隊は本軍の鬨の声を聞くと、これもまた大声をあげながら前面から攻撃した。 大和伊豆、三浦越中、弘中三河守等の勇将は、「敵は少し!恐るるに足らん!返せ返せ!」と叫んで奮戦したが一度混乱した大軍は、どっと崩れるままに、逃げるために我先に船に乗ろうと海岸を目指して逃げ出した。 晴賢は、自分で采配を振るったが一度崩れ立った大軍はどうしようもなく、あっというまに塔の岡の本陣は毛利軍に蹂躙されてしまった。  敗兵達が船に乗ったばかりに陶の水軍があわて出したところを、毛利の第三軍たる村上、来島等の水軍が攻めかかったので、陶の水軍はこれまたあっという間に撃破されて多くの兵船は防州の矢代島を目指して逃げてしまった。  塔の岡の本陣を攻め落とされた陶軍は、厳島神社の裏を西へ西へと逃走した。 弘中三河守は同中務と共に主君である晴賢の退却を援護するために五百騎ばかりで吉川元春の追撃を迎え撃った。 弘中父子が必死に防戦したから、流石の吉川勢も倒し切れずに退却した。 元春自身が槍をとって奮戦していると弘中軍の武将青景波多野や、滝町の横町、柳小路から吉川勢を横撃した。  この時吉川勢はなかなか危なかったのだが、熊谷信直が駆けつけてピンチを救ったので、弘中の軍は滝小路の民家に火を放って弥山道の大聖院に撤退した。 吉川勢は、その火が厳島神社に引火する事を恐れて消火に努めている間に、晴賢は三浦に守られながら大元浦に落ちのびた。 大元浦は、厳島神社から西北へ2〜300メートルのところにある。そこへ吉川勢に代わって小早川隆景が精鋭を率いて追撃して来た。  陶がここで討ち死にしようとするのを「ひとまず山口へひいて隊を整えましょう。この三浦殿をつとめてここで討ち死にします」と晴賢を説得して、三浦房清は、羽仁越中守、同将監、大和伊豆守たちを粉骨砕身して戦った。  三浦房清はことごとく討ち死にしてただ一人になって山道で休んでいるところへ、二宮杢之介が馳け付けると、三浦房清は嘘をついて「味方です」という。味方での「で」の字の発音が山口の音だなと思い、二宮は敵だと理解して「合言葉を言え!」と迫った。見破られた三浦房清は立ち上がって奮戦したが、矢に討たれた。  陶は、さらに西方に隠れたが、味方の兵や船の影は全くなく、ついに大江浦にて小川伝いに山中に入ってその辺りにて自害したと言われている。
三浦房清の嘘はどうやって見破られましたか。
三浦房清はことごとく討ち死にしてただ一人になって山道で休んでいるところへ、二宮杢之介が馳け付けると、三浦房清は嘘をついて「味方です」という。味方での「で」の字の発音が山口の音だなと思い、二宮は敵だと理解して「合言葉を言え!」と迫った。見破られた三浦房清は立ち上がって奮戦したが、矢に討たれた。
JCRRAG_012218
歴史
この厳島の戦いは、元就の一夜陣として有名である。 だが、一夜のうちに毛利一家の存亡を賭けたわけであるが、しかし元就の心のなかには勝利に対する信念が沸き起こっていたのではないかと思われる。  元就は鼓の浦へ着く前に今まで船中に連れて来ていたスパイの座頭を捕えて、「陶への進言よくぞやってくれた、お前のおかげで主君の首が今日中に見れるだろう、先にあの世に行って主君を待っていろ」といって、海に投げて血祭にした。  小早川隆景の当夜の行動には二説ある。隆景は先に漁船に身を隠して宮尾城のピンチを救う為に宮尾城へ入ったと書いてあるが、これは恐らく俗説だろう。 当夜は熊谷信直の部下を従え、厳島神社の大鳥居の方面から敵の兵船の間を抜ける所を敵が待て!と止めると「味方になりにきた九州の兵です」と言って簡単に上陸して塔の岡の坂下に陣を広げて、本軍の鬨の声があがるのを待っていた。  毛利の第一軍は地御前より厳島を迂回して東北岸鼓の浦に上陸して博奕尾の険を越えて塔の岡の陶軍の本陣を背面から攻撃し、第二軍は宮尾城の城兵と協力し、元就軍の本軍が鬨の声を発するタイミングで正面より陶の本陣を攻撃するもので、小早川隆景はこれを率いていた。  第三軍は村上や来島等の海軍で組織されており、厳島の対岸を警備して場合によって陶の水軍と合戦をしようというものだ。  元就が鼓の浦へ上陸しようとする時、雨がしきりに降ったので児玉就忠が元就に傘を差そうとしたが元就は拳で払いのけた。  陶の方は塔の岡を本陣としたが、諸軍勢は厳島の神社付近の地に散らばっており、何の統制も無かったらしい。  先弘中三河守は陶に早く宮尾城を攻略すべきだと進言したけれども、陶はそのアイディアを採用せずに城攻めは十月一日にきまっていた。その一日の夜が明けるころに元就軍が殺到したわけである。  元就は鼓の浦へ着くと、乗っていた兵船を全て二十日市へ戻した。生きて帰るつもりもない正に背水の陣である。 吉川元春は先陣となって、えいえい声を掛けて坂を上っていたが、その声が自動的に鬨の声になって陶の本陣がある塔の岡へ殺到した。  陶方も毛利軍の夜襲と知って、諸方より本陣へ急いで集まって防戦しようとしたが、急いで集まった大軍だから配備は滅茶苦茶だった。 兵は多いが土地は狭く自由に動けない所に、元就の軍勢は、揉まれながら攻めたから、陶軍は早くも混乱した。  前から打ち合っていた小早川隆景の軍隊は本軍の鬨の声を聞くと、これもまた大声をあげながら前面から攻撃した。 大和伊豆、三浦越中、弘中三河守等の勇将は、「敵は少し!恐るるに足らん!返せ返せ!」と叫んで奮戦したが一度混乱した大軍は、どっと崩れるままに、逃げるために我先に船に乗ろうと海岸を目指して逃げ出した。 晴賢は、自分で采配を振るったが一度崩れ立った大軍はどうしようもなく、あっというまに塔の岡の本陣は毛利軍に蹂躙されてしまった。  敗兵達が船に乗ったばかりに陶の水軍があわて出したところを、毛利の第三軍たる村上、来島等の水軍が攻めかかったので、陶の水軍はこれまたあっという間に撃破されて多くの兵船は防州の矢代島を目指して逃げてしまった。  塔の岡の本陣を攻め落とされた陶軍は、厳島神社の裏を西へ西へと逃走した。 弘中三河守は同中務と共に主君である晴賢の退却を援護するために五百騎ばかりで吉川元春の追撃を迎え撃った。 弘中父子が必死に防戦したから、流石の吉川勢も倒し切れずに退却した。 元春自身が槍をとって奮戦していると弘中軍の武将青景波多野や、滝町の横町、柳小路から吉川勢を横撃した。  この時吉川勢はなかなか危なかったのだが、熊谷信直が駆けつけてピンチを救ったので、弘中の軍は滝小路の民家に火を放って弥山道の大聖院に撤退した。 吉川勢は、その火が厳島神社に引火する事を恐れて消火に努めている間に、晴賢は三浦に守られながら大元浦に落ちのびた。 大元浦は、厳島神社から西北へ2〜300メートルのところにある。そこへ吉川勢に代わって小早川隆景が精鋭を率いて追撃して来た。  陶がここで討ち死にしようとするのを「ひとまず山口へひいて隊を整えましょう。この三浦殿をつとめてここで討ち死にします」と晴賢を説得して、三浦房清は、羽仁越中守、同将監、大和伊豆守たちを粉骨砕身して戦った。  三浦房清はことごとく討ち死にしてただ一人になって山道で休んでいるところへ、二宮杢之介が馳け付けると、三浦房清は嘘をついて「味方です」という。味方での「で」の字の発音が山口の音だなと思い、二宮は敵だと理解して「合言葉を言え!」と迫った。見破られた三浦房清は立ち上がって奮戦したが、矢に討たれた。  陶は、さらに西方に隠れたが、味方の兵や船の影は全くなく、ついに大江浦にて小川伝いに山中に入ってその辺りにて自害したと言われている。
陶晴賢の最期はどうなりましたか。
陶は、さらに西方に隠れたが、味方の兵や船の影は全くなく、ついに大江浦にて小川伝いに山中に入ってその辺りにて自害したと言われている。
JCRRAG_012219
歴史
 川中島における上杉謙信と武田信玄の一騎討ちは、誰もがよく知っているところであるがその合戦の模様については知る人はなかなか少ない。  甲越の二人の将が戦う事になったのは、天文二十二年であり、これ以来二十六年間の交戦状態において、川中島における交戦は数回あったが、主な戦いは弘治元年七月十九日に犀川河畔の戦闘と永禄四年九月十日の川中島合戦との二回だけである。 この九月十日の合戦こそ甲越戦記のクライマックスで、謙信が小豆長光の銘刀をふりかぶって、信玄に斬りかかること九回にわたったと言われている。  武田信玄も、上杉謙信も、その軍隊の編制において、統率において、団体戦法において、用兵において、戦国の猛者達をはるかに凌駕しており、つまり我が国における戦術の開祖と言ってもいいだろう。  武田家は、源義家の弟、新羅義光の後の第十六代信虎の子が信玄である。 幼名は勝千代、天文五年の時に十六歳で将軍足利義晴より名を賜り、晴信と名乗った。 この年に父である信虎と共に信州佐久の海ノ口城の平賀源心を攻めたが倒せず、囲いを解いて帰るときに信玄はわずか三百騎を引き連れて引き返し、ホッと一息ついている敵の油断に乗じて城を討ち、城将である平賀源心を討った。  また経書や兵書に精通しており『孫子』を愛読していて、軍旗に『孫子』軍争編の妙語である「疾如レ風徐如レ林侵略如レ火不レ動如レ山」を二行に書かせていた。  上杉謙信は元長尾氏で平氏である。先祖が関東から上杉氏に随従して越後に来て、その重臣となり、上杉氏が衰えるに及んで勢力を得て、謙信の父である為景に及んで国内を圧倒した。為景が死に兄の晴景が後を継いだが、病弱で自国内のライバルすら圧服することが出来ないので、弟の謙信はわずか十四歳にして戦陣に出ることになり、十九歳にして長尾家を相続し、春日山城に国内を治めて名を知らしめた。  しかし謙信が上杉氏と称したのは、越後の上杉氏の後継ぎとなったのではなく関東管領山ノ内上杉家を継いだのである。 すなわち三十二歳の時、山ノ内憲政から頼まれて関東の管領職を譲られて上杉氏と称したのである。  また兵学に精通し、敬神家で、槍は一代に冠絶し、春日の名槍を自在に繰り、剣をよくして、備前長船小豆長光二尺四寸五分の大刀を打ち振るうのであるから、真に好個の武将である。  信玄が重厚かつ精強であれば、謙信は尖鋭かつ果断のかんしゃく持ちである。  太田資正は謙信を「謙信公の性格を言うと十の内八割は大賢人、残り二割は大悪人だと思います。怒りに乗じてやってはいけないことをやってしまう。これは悪い所です。 勇猛にして無欲だし器量も大きい、潔白で、正直で何も隠すところなく、頭も鋭く察する能力に長けている、慈悲の心があって部下を育てる、アドバイスを許容する等、その善き所なり」評価している。
武田信玄が風林火山を旗に記したのはなぜか。
経書や兵書に精通しており『孫子』を愛読していて、軍旗に『孫子』軍争編の妙語である「疾如レ風徐如レ林侵略如レ火不レ動如レ山」を二行に書かせていた。
JCRRAG_012220
歴史
川中島の合戦は終わったわけである。  大戦ではあったけれども、政治的には何の効果もなかった。このため、上杉、武田両家とも別にどうなったわけでなく、川中島は元のままであった。  両軍の損傷を比べて見ると、 上杉方  死者三千四百 武田方  死者四千五百  これで見ると、武田方の方がひどくやられている。その上弟の信繁は討ち死に、信玄自身、子の義信も負傷している。 上杉方は、名のある者は、一人も死んでいない。また作戦的には、武田方は巧みに裏をかかれている。  しかし、戦国時代では戦争の勝敗は「芝居を踏みたるを勝ちとす」としてある。芝居というのは、多分戦場ということであろう。 つまり戦場に居残った方が勝ちである。そう考えると、武田方が勝ったことになる。  豊臣秀吉が、川中島の合戦を批評して、「卯の刻より辰の刻までは、上杉の勝ちなり、辰の刻より巳みの刻までは武田方の勝ちなり」と言っているが、これは一番正当な批評かも知れない。  川中島合戦の時は、信玄は四十一歳で謙信は三十二歳である。秀吉にいわせると「はかどらない戦争を」やったに過ぎないかも知れないが、信玄は深謀にして精強、謙信は尖鋭にして果断、実にいいマッチングであり、ボクシングでいえば体重のちがいもなく両方とも鍛練された武器を持っていたわけであるからこの川中島の合戦も引き分けになったのは、当然かも知れないのである。
豊臣秀吉は、川中島の合戦に勝ったのは武田軍上杉軍どちらだと言っていますか。
豊臣秀吉が、川中島の合戦を批評して、「卯の刻より辰の刻までは、上杉の勝ちなり、辰の刻より巳みの刻までは武田方の勝ちなり」と言っている。
JCRRAG_012221
歴史
天正十五年、豊臣秀吉が薩摩の島津義久を討った時に九州全土に力を持っていた島津も、東西の両道から南下する豊臣勢にはかなわずに、たちまち崩壊した程であるから、沿道の小名郷士の輩は頃合いをみて秀吉の軍門に下ったのであった。  秀吉はこの一円を、さいしょは小西行長に治めさせていたが、郷士や土民はよく豊臣の命令に従った。  徳川の天下となった後も、これらの郷士の子孫達は豊臣への恩義を忘れずにあえて徳川幕府に仕える事なく、山間や漁村に隠れて出てこようとしなかった。  行長の残した家臣である益田甚兵衛好次はそれらに隠れ住んでいた浪士の一人である。 始めは肥後の宇土郡にある江辺村にて晴耕雨読の生活を送ること三十余年であったが、寛永十四年に「天草島原の切利支丹一揆の乱」が起こった年の夏、大矢野島に渡り越野浦に移り住んでいた。 元来行長はキリシタン宗の信者であったから、その家臣も多くキリスト教の教えを奉じていたのであって、益田好次も小さい頃からこれを信じて居た。 天正十八年末、徳川幕府は全国に渡ってキリシタンはご法度であるという禁令を出した。  九州の地は早くから西洋人との交渉があったから、キリスト教もこの地に伝わった。 キリスト教伝来の年が西暦一五四九年、島原の乱が同じく一六三七年であるからこの間に九十年近い歳月がある。 この長い年月に渡っての、宣教師を始めとした熱烈な伝道は、国禁を忍んで秘かに信仰する大量の信者を作った。  益田好次には男の子がいた。その名は四郎である。五歳にして書を書き、天性の素質は人々を驚かせた。 幼い頃にして熊本の藩士の小姓となったが、十二・三の頃にそこを辞めて長崎に出たら明(中国)の人に雇われた。 その明人はある時、四郎の風貌を見て「この子は市井に埋まる者でない。必ず天下の大事をなしとげるだろう」と語ったという。 好次の下に帰ったのが寛永十四年、年は十六歳であったが、非常に賢い素質に加えて容姿は典雅にして挙動は処女のようであった。 当時は美少年が尊重される世相であったから美少年の四郎はたちまち衆人からあがめられるものとなった。 この弱冠の美少年こそは、キリシタン一揆の総帥となった「天草四郎時貞」である。  当時島原一円の領主であった松倉重次は惰弱の暗君で、いたずらに重税をほしいままにした。 宗教上の圧迫も残虐であり宗徒を温泉雲仙(雲仙嶽)の火口へ投げ込んだりした。 領主の暴政に、人心は離反して次第に動揺し、根拠のないうわさ話やデマが盛んに飛び交った。 病身がちであった将軍家光は既に亡くなっているが、未だ亡くなった事を公表していないのだとか、この冬には両肥の国に疫病が起こって、ただ天主を信ずる者だけが身を全うし得るであろうとか、なかなかのデマである。 四郎時貞が父と共に住居している大矢野島に並んだ千束島に、大矢野松右衛門、千束善右衛門、大江源右衛門、森宗意、山善左衛門と云う五人の宗門長老の者達がいる。 彼らはこの島に隠れる事二十六年、熱心な伝道者であったが、かつては益田好次と同様に豊臣の恩義を受けた者である。  この年の夏に彼等は人心の動揺を利用して、「慶長の頃天草上津浦のバテレンが、国禁によって国外へ追放された時の遺言に、今より後二十六年、天帝は天をして東西の雲を焼き、大地をして季節外れの花を咲かせるであろう。国や都では騒動が起こり人民は苦しむだろうが、天帝は二八の天章をこの地に下し、宗教の力をもって救うであろうとあるが、今年は正にその時である」 とデマを放った。 丁度この夏はかんばつで日が照っており、島原では深江村を始め時期外れの桜が咲いたりしたから、人民は簡単にこれらのデマを信じた。 そこで松右衛門は好次と共謀して、「四郎こそ天帝が降すのしるしである」といって、大矢野島宮津に道場を開き法を説いた。 道場に来る老若男女は、威風を放って懇切丁寧に説法する美少年の姿に、まず目を見張ったに違いない。その上彼等が尊敬してきた長老達が四郎を礼拝する姿を見ては、驚きから次第に崇めるようになった。更に四郎が不思議な神通力を持っているという噂が、門徒の信心をさらに強め、新たに宗門に投ずる者を次第に増やした。 四郎が天を仰いで念ずると鳩が飛んで来て四郎の手の上に卵を産み、卵の中から天主の画像と聖書を出したとか、一人の狂った女が来たのに四郎がうなずくとたちまちに正気に戻ったとか、またある時には、道場に来て四郎を罵倒する者があったが、その場ですぐに喋れなくなった、などという。
天草四郎が衆人から崇められていたのはなぜか。
当時は美少年が尊重される世相であったから美少年の四郎はたちまち衆人からあがめられるものとなった。
JCRRAG_012222
歴史
天正十五年、豊臣秀吉が薩摩の島津義久を討った時に九州全土に力を持っていた島津も、東西の両道から南下する豊臣勢にはかなわずに、たちまち崩壊した程であるから、沿道の小名郷士の輩は頃合いをみて秀吉の軍門に下ったのであった。  秀吉はこの一円を、さいしょは小西行長に治めさせていたが、郷士や土民はよく豊臣の命令に従った。  徳川の天下となった後も、これらの郷士の子孫達は豊臣への恩義を忘れずにあえて徳川幕府に仕える事なく、山間や漁村に隠れて出てこようとしなかった。  行長の残した家臣である益田甚兵衛好次はそれらに隠れ住んでいた浪士の一人である。 始めは肥後の宇土郡にある江辺村にて晴耕雨読の生活を送ること三十余年であったが、寛永十四年に「天草島原の切利支丹一揆の乱」が起こった年の夏、大矢野島に渡り越野浦に移り住んでいた。 元来行長はキリシタン宗の信者であったから、その家臣も多くキリスト教の教えを奉じていたのであって、益田好次も小さい頃からこれを信じて居た。 天正十八年末、徳川幕府は全国に渡ってキリシタンはご法度であるという禁令を出した。  九州の地は早くから西洋人との交渉があったから、キリスト教もこの地に伝わった。 キリスト教伝来の年が西暦一五四九年、島原の乱が同じく一六三七年であるからこの間に九十年近い歳月がある。 この長い年月に渡っての、宣教師を始めとした熱烈な伝道は、国禁を忍んで秘かに信仰する大量の信者を作った。  益田好次には男の子がいた。その名は四郎である。五歳にして書を書き、天性の素質は人々を驚かせた。 幼い頃にして熊本の藩士の小姓となったが、十二・三の頃にそこを辞めて長崎に出たら明(中国)の人に雇われた。 その明人はある時、四郎の風貌を見て「この子は市井に埋まる者でない。必ず天下の大事をなしとげるだろう」と語ったという。 好次の下に帰ったのが寛永十四年、年は十六歳であったが、非常に賢い素質に加えて容姿は典雅にして挙動は処女のようであった。 当時は美少年が尊重される世相であったから美少年の四郎はたちまち衆人からあがめられるものとなった。 この弱冠の美少年こそは、キリシタン一揆の総帥となった「天草四郎時貞」である。  当時島原一円の領主であった松倉重次は惰弱の暗君で、いたずらに重税をほしいままにした。 宗教上の圧迫も残虐であり宗徒を温泉雲仙(雲仙嶽)の火口へ投げ込んだりした。 領主の暴政に、人心は離反して次第に動揺し、根拠のないうわさ話やデマが盛んに飛び交った。 病身がちであった将軍家光は既に亡くなっているが、未だ亡くなった事を公表していないのだとか、この冬には両肥の国に疫病が起こって、ただ天主を信ずる者だけが身を全うし得るであろうとか、なかなかのデマである。 四郎時貞が父と共に住居している大矢野島に並んだ千束島に、大矢野松右衛門、千束善右衛門、大江源右衛門、森宗意、山善左衛門と云う五人の宗門長老の者達がいる。 彼らはこの島に隠れる事二十六年、熱心な伝道者であったが、かつては益田好次と同様に豊臣の恩義を受けた者である。  この年の夏に彼等は人心の動揺を利用して、「慶長の頃天草上津浦のバテレンが、国禁によって国外へ追放された時の遺言に、今より後二十六年、天帝は天をして東西の雲を焼き、大地をして季節外れの花を咲かせるであろう。国や都では騒動が起こり人民は苦しむだろうが、天帝は二八の天章をこの地に下し、宗教の力をもって救うであろうとあるが、今年は正にその時である」 とデマを放った。 丁度この夏はかんばつで日が照っており、島原では深江村を始め時期外れの桜が咲いたりしたから、人民は簡単にこれらのデマを信じた。 そこで松右衛門は好次と共謀して、「四郎こそ天帝が降すのしるしである」といって、大矢野島宮津に道場を開き法を説いた。 道場に来る老若男女は、威風を放って懇切丁寧に説法する美少年の姿に、まず目を見張ったに違いない。その上彼等が尊敬してきた長老達が四郎を礼拝する姿を見ては、驚きから次第に崇めるようになった。更に四郎が不思議な神通力を持っているという噂が、門徒の信心をさらに強め、新たに宗門に投ずる者を次第に増やした。 四郎が天を仰いで念ずると鳩が飛んで来て四郎の手の上に卵を産み、卵の中から天主の画像と聖書を出したとか、一人の狂った女が来たのに四郎がうなずくとたちまちに正気に戻ったとか、またある時には、道場に来て四郎を罵倒する者があったが、その場ですぐに喋れなくなった、などという。
人民が五人の宗門長老のデマを信じたのはなぜですか。
丁度この夏はかんばつで日が照っており、島原では深江村を始め時期外れの桜が咲いたりしたから、人民は簡単にこれらのデマを信じた。
JCRRAG_012223
歴史
天正十五年、豊臣秀吉が薩摩の島津義久を討った時に九州全土に力を持っていた島津も、東西の両道から南下する豊臣勢にはかなわずに、たちまち崩壊した程であるから、沿道の小名郷士の輩は頃合いをみて秀吉の軍門に下ったのであった。  秀吉はこの一円を、さいしょは小西行長に治めさせていたが、郷士や土民はよく豊臣の命令に従った。  徳川の天下となった後も、これらの郷士の子孫達は豊臣への恩義を忘れずにあえて徳川幕府に仕える事なく、山間や漁村に隠れて出てこようとしなかった。  行長の残した家臣である益田甚兵衛好次はそれらに隠れ住んでいた浪士の一人である。 始めは肥後の宇土郡にある江辺村にて晴耕雨読の生活を送ること三十余年であったが、寛永十四年に「天草島原の切利支丹一揆の乱」が起こった年の夏、大矢野島に渡り越野浦に移り住んでいた。 元来行長はキリシタン宗の信者であったから、その家臣も多くキリスト教の教えを奉じていたのであって、益田好次も小さい頃からこれを信じて居た。 天正十八年末、徳川幕府は全国に渡ってキリシタンはご法度であるという禁令を出した。  九州の地は早くから西洋人との交渉があったから、キリスト教もこの地に伝わった。 キリスト教伝来の年が西暦一五四九年、島原の乱が同じく一六三七年であるからこの間に九十年近い歳月がある。 この長い年月に渡っての、宣教師を始めとした熱烈な伝道は、国禁を忍んで秘かに信仰する大量の信者を作った。  益田好次には男の子がいた。その名は四郎である。五歳にして書を書き、天性の素質は人々を驚かせた。 幼い頃にして熊本の藩士の小姓となったが、十二・三の頃にそこを辞めて長崎に出たら明(中国)の人に雇われた。 その明人はある時、四郎の風貌を見て「この子は市井に埋まる者でない。必ず天下の大事をなしとげるだろう」と語ったという。 好次の下に帰ったのが寛永十四年、年は十六歳であったが、非常に賢い素質に加えて容姿は典雅にして挙動は処女のようであった。 当時は美少年が尊重される世相であったから美少年の四郎はたちまち衆人からあがめられるものとなった。 この弱冠の美少年こそは、キリシタン一揆の総帥となった「天草四郎時貞」である。  当時島原一円の領主であった松倉重次は惰弱の暗君で、いたずらに重税をほしいままにした。 宗教上の圧迫も残虐であり宗徒を温泉雲仙(雲仙嶽)の火口へ投げ込んだりした。 領主の暴政に、人心は離反して次第に動揺し、根拠のないうわさ話やデマが盛んに飛び交った。 病身がちであった将軍家光は既に亡くなっているが、未だ亡くなった事を公表していないのだとか、この冬には両肥の国に疫病が起こって、ただ天主を信ずる者だけが身を全うし得るであろうとか、なかなかのデマである。 四郎時貞が父と共に住居している大矢野島に並んだ千束島に、大矢野松右衛門、千束善右衛門、大江源右衛門、森宗意、山善左衛門と云う五人の宗門長老の者達がいる。 彼らはこの島に隠れる事二十六年、熱心な伝道者であったが、かつては益田好次と同様に豊臣の恩義を受けた者である。  この年の夏に彼等は人心の動揺を利用して、「慶長の頃天草上津浦のバテレンが、国禁によって国外へ追放された時の遺言に、今より後二十六年、天帝は天をして東西の雲を焼き、大地をして季節外れの花を咲かせるであろう。国や都では騒動が起こり人民は苦しむだろうが、天帝は二八の天章をこの地に下し、宗教の力をもって救うであろうとあるが、今年は正にその時である」 とデマを放った。 丁度この夏はかんばつで日が照っており、島原では深江村を始め時期外れの桜が咲いたりしたから、人民は簡単にこれらのデマを信じた。 そこで松右衛門は好次と共謀して、「四郎こそ天帝が降すのしるしである」といって、大矢野島宮津に道場を開き法を説いた。 道場に来る老若男女は、威風を放って懇切丁寧に説法する美少年の姿に、まず目を見張ったに違いない。その上彼等が尊敬してきた長老達が四郎を礼拝する姿を見ては、驚きから次第に崇めるようになった。更に四郎が不思議な神通力を持っているという噂が、門徒の信心をさらに強め、新たに宗門に投ずる者を次第に増やした。 四郎が天を仰いで念ずると鳩が飛んで来て四郎の手の上に卵を産み、卵の中から天主の画像と聖書を出したとか、一人の狂った女が来たのに四郎がうなずくとたちまちに正気に戻ったとか、またある時には、道場に来て四郎を罵倒する者があったが、その場ですぐに喋れなくなった、などという。
キリスト教が九州の島原に広まったのはなぜですか。
九州の地は早くから西洋人との交渉があったから、キリスト教もこの地に伝わった。キリスト教伝来の年が西暦一五四九年、島原の乱が同じく一六三七年であるからこの間に九十年近い歳月がある。この長い年月に渡っての、宣教師を始めとした熱烈な伝道は、国禁を忍んで秘かに信仰する大量の信者を作った。
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歴史
「領主板倉氏のキリスト教徒への圧迫と課税の苛酷さは、もう耐えられない。 今年は作物が不作だったし、どうやって耐えられるだろうか。こうなったら非常手段に出るしかないと思う」 この様な論議が色んな村の庄屋の寄り合いの席で持ち出される。 大矢野島と島原との間に湯島と云う小島があるが、信徒等はここに秘密のアジトを設置して、天草島原の両地方の人々が来て会議を行い、策を練った。 後にこの島が「談合島」と呼ばれるようになった理由である。  島原の南有馬村の庄屋である治右衛門に角蔵という弟がいて、北有馬村の百姓である三吉と共に熱烈なキリスト信者であった。 彼等の父はかつて藩の宗教弾圧によって斬られてしまったが、角蔵と三吉は各々の父のドクロと天主像を並べてこっそり拝んでいた。 このころに至って公然と人々にさらけ出した所彼らを信仰する人間は七百人もふえたが、領内の不穏を察していた有馬藩では彼らを逮捕するため松田兵右衛門を先頭に二十五人を編成して船に乗っていく事になった。 角蔵と三吉の妻や子も捕まえられたが、三吉は角蔵に向って「俺が死ぬのは信仰のためだし全然かまわん、むしろ望むところだ。しかし五歳の男の子と三歳の女の子という宗教の何か知らないような年端も行かない子どもまで捕らえられるとなると涙が出るよ」というと角蔵は「何を言うんだ。俺達は教えのために死ぬんだから、生きてる時の栄光だの死んだ後どうなろうと何の意味もないだろうが」と答えて笑いながら捕まった。たまたま三吉の家で礼拝していた男女が七十人以上いたが、角蔵と三吉の家族を始め、主謀者と見なされた者たち総勢十六人が、藩び船に乗せられて日が暮れようとしている海へ去っていくのを見送って、「私たちもそのうち処罰されるだろう。今はただみんなと天国に会えるのを期待するだけだ」と叫びながら見送った。 この事件は十月二十二日の事であるが、その翌日である二十三日に有江村の佐志木作右衛門の屋敷に信徒が集まっているのを耳にした代官林兵右衛門は単身この家に乗り込んで、天主の画像を奪って破りかまどに放り投げて燃やしてしまった。いままで耐え忍んでいた信徒達もこれを見ては怒らないわけがなかった。 そこにいた信徒達四十五人は全員農具を手に取って、兵右衛門を殴り殺した。 ここで佐志木作右衛門は、千束島の山善左衛門たちと話し合ったが、このまま藩の奴らに好き勝手される位なら俺達が立ち上がるしかないといった。 「天主の教えを信じる以上、日本全土を敵にしても怖くないわ!まして九州なんて余計に怖くない。成功すればいいし失敗したら死んで天に上るだけよ」 これを聞いた者達は皆従ってくれた兵を募る手紙をあっという間に加津佐、串山、小浜、千々岩を始め、北は有江、堂崎、布津、深江、中木場にあるさまざまな村に届けた。  この時に島原の領主である松倉重次は、江戸に出張中していたから留守を守っていた島原城では大騒ぎである。 老臣の岡本新兵衛は、兵士を集めて船で沿岸を偵察していたが、ありとあらゆる所で一揆が起こっていた。 うかつに上陸した奴は、間違いなく襲われる始末である。 さらに一揆は代官所を襲って銃や槍や刀などの武器を奪い取って装備している。 この上に元々島原の住民は銃の製造技術を持っていて、射撃の名手も少なくない。 三会村の百姓の金作なんてのは遠くに置いた針を百発百中で撃ち抜くというほどの腕前で人呼んで「懸針金作」とよばれていた位だ。  銃の名手だけでなく大きな斧を振るう置いた農夫がいるかと思えば、剣法を知っている浪士がいる。 こうした油断できない一揆の群れがどこにひそんでいるかわからないのだから、戦に慣れている藩士達もとまどうばかりで次々と死んでいった。    島原城から出撃した討伐隊もさんざんなカウンターを食らって、早々に撤退して城に籠らなければならなかった。 信徒達は城下の民家や神社や寺を焼き払って陣を開いた。 この頃になると信徒達も大軍になっていたので、誰か総大将を立てようという論議が出て来た。 なら稀代の天才「天草四郎時貞」こそふさわしいのではとなったので、大矢野宮津の道場に使いを出した。 四郎はその話をすぐに了承して総大将になることにした。 そして「わたしを大将にするのであれば、どんな命令でも従って欲しい。まずは戦力の準備をするために人数を確認してほしい」と命令した。 道場の周囲にはすでに七百の武装民が集っていた。 間もなく四郎は警備をしてくれる四・五十人と共に島原の大江村に渡った。 首謀者達はここで相談してまず長崎付近へ一万二千人を二手にわけて、日見峠と茂木峠に陣を敷き、長崎を見下ろすような形になった。 使いを渡して「もしキリスト教に入らないなら、一斉におそいかかって放火してその勢いに乗って島原城を乗っ取ろう」と計画を練った。 重要な地でもある長崎を奪うこの作戦はもはや暴徒の発想などではなかった。 まさに出動しようとしているところへ天草の上津浦から使いが来た。「寺沢家の支城である富岡では信徒を鎮圧する為に三宅藤兵衛を大将として、上津浦の近くの島子志柿の辺りまで軍勢を指し向けたから至急に加勢をおねがいしたい」と。  そこで、長崎への進撃を一旦ストップして四郎千五百を率いて天草に渡り、上津浦の人数と合して三道より進んだ。
林兵右衛門が天主の画像を奪って破りかまどに放り投げて燃やしてしまったら、信徒たちはどうしましたか。
有江村の佐志木作右衛門の屋敷に信徒が集まっているのを耳にした代官林兵右衛門は単身この家に乗り込んで、天主の画像を奪って破りかまどに放り投げて燃やしてしまった。いままで耐え忍んでいた信徒達もこれを見ては怒らないわけがなかった。そこにいた信徒達四十五人は全員農具を手に取って、兵右衛門を殴り殺した。
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歴史
「領主板倉氏のキリスト教徒への圧迫と課税の苛酷さは、もう耐えられない。 今年は作物が不作だったし、どうやって耐えられるだろうか。こうなったら非常手段に出るしかないと思う」 この様な論議が色んな村の庄屋の寄り合いの席で持ち出される。 大矢野島と島原との間に湯島と云う小島があるが、信徒等はここに秘密のアジトを設置して、天草島原の両地方の人々が来て会議を行い、策を練った。 後にこの島が「談合島」と呼ばれるようになった理由である。  島原の南有馬村の庄屋である治右衛門に角蔵という弟がいて、北有馬村の百姓である三吉と共に熱烈なキリスト信者であった。 彼等の父はかつて藩の宗教弾圧によって斬られてしまったが、角蔵と三吉は各々の父のドクロと天主像を並べてこっそり拝んでいた。 このころに至って公然と人々にさらけ出した所彼らを信仰する人間は七百人もふえたが、領内の不穏を察していた有馬藩では彼らを逮捕するため松田兵右衛門を先頭に二十五人を編成して船に乗っていく事になった。 角蔵と三吉の妻や子も捕まえられたが、三吉は角蔵に向って「俺が死ぬのは信仰のためだし全然かまわん、むしろ望むところだ。しかし五歳の男の子と三歳の女の子という宗教の何か知らないような年端も行かない子どもまで捕らえられるとなると涙が出るよ」というと角蔵は「何を言うんだ。俺達は教えのために死ぬんだから、生きてる時の栄光だの死んだ後どうなろうと何の意味もないだろうが」と答えて笑いながら捕まった。たまたま三吉の家で礼拝していた男女が七十人以上いたが、角蔵と三吉の家族を始め、主謀者と見なされた者たち総勢十六人が、藩び船に乗せられて日が暮れようとしている海へ去っていくのを見送って、「私たちもそのうち処罰されるだろう。今はただみんなと天国に会えるのを期待するだけだ」と叫びながら見送った。 この事件は十月二十二日の事であるが、その翌日である二十三日に有江村の佐志木作右衛門の屋敷に信徒が集まっているのを耳にした代官林兵右衛門は単身この家に乗り込んで、天主の画像を奪って破りかまどに放り投げて燃やしてしまった。いままで耐え忍んでいた信徒達もこれを見ては怒らないわけがなかった。 そこにいた信徒達四十五人は全員農具を手に取って、兵右衛門を殴り殺した。 ここで佐志木作右衛門は、千束島の山善左衛門たちと話し合ったが、このまま藩の奴らに好き勝手される位なら俺達が立ち上がるしかないといった。 「天主の教えを信じる以上、日本全土を敵にしても怖くないわ!まして九州なんて余計に怖くない。成功すればいいし失敗したら死んで天に上るだけよ」 これを聞いた者達は皆従ってくれた兵を募る手紙をあっという間に加津佐、串山、小浜、千々岩を始め、北は有江、堂崎、布津、深江、中木場にあるさまざまな村に届けた。  この時に島原の領主である松倉重次は、江戸に出張中していたから留守を守っていた島原城では大騒ぎである。 老臣の岡本新兵衛は、兵士を集めて船で沿岸を偵察していたが、ありとあらゆる所で一揆が起こっていた。 うかつに上陸した奴は、間違いなく襲われる始末である。 さらに一揆は代官所を襲って銃や槍や刀などの武器を奪い取って装備している。 この上に元々島原の住民は銃の製造技術を持っていて、射撃の名手も少なくない。 三会村の百姓の金作なんてのは遠くに置いた針を百発百中で撃ち抜くというほどの腕前で人呼んで「懸針金作」とよばれていた位だ。  銃の名手だけでなく大きな斧を振るう置いた農夫がいるかと思えば、剣法を知っている浪士がいる。 こうした油断できない一揆の群れがどこにひそんでいるかわからないのだから、戦に慣れている藩士達もとまどうばかりで次々と死んでいった。    島原城から出撃した討伐隊もさんざんなカウンターを食らって、早々に撤退して城に籠らなければならなかった。 信徒達は城下の民家や神社や寺を焼き払って陣を開いた。 この頃になると信徒達も大軍になっていたので、誰か総大将を立てようという論議が出て来た。 なら稀代の天才「天草四郎時貞」こそふさわしいのではとなったので、大矢野宮津の道場に使いを出した。 四郎はその話をすぐに了承して総大将になることにした。 そして「わたしを大将にするのであれば、どんな命令でも従って欲しい。まずは戦力の準備をするために人数を確認してほしい」と命令した。 道場の周囲にはすでに七百の武装民が集っていた。 間もなく四郎は警備をしてくれる四・五十人と共に島原の大江村に渡った。 首謀者達はここで相談してまず長崎付近へ一万二千人を二手にわけて、日見峠と茂木峠に陣を敷き、長崎を見下ろすような形になった。 使いを渡して「もしキリスト教に入らないなら、一斉におそいかかって放火してその勢いに乗って島原城を乗っ取ろう」と計画を練った。 重要な地でもある長崎を奪うこの作戦はもはや暴徒の発想などではなかった。 まさに出動しようとしているところへ天草の上津浦から使いが来た。「寺沢家の支城である富岡では信徒を鎮圧する為に三宅藤兵衛を大将として、上津浦の近くの島子志柿の辺りまで軍勢を指し向けたから至急に加勢をおねがいしたい」と。  そこで、長崎への進撃を一旦ストップして四郎千五百を率いて天草に渡り、上津浦の人数と合して三道より進んだ。
天草四郎が島原の乱で総大将になったのはなぜですか。
信徒達も大軍になっていたので、誰か総大将を立てようという論議が出て来た。 なら稀代の天才「天草四郎時貞」こそふさわしいのではとなったので、大矢野宮津の道場に使いを出した。 四郎はその話をすぐに了承して総大将になることにした。
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歴史
天草から島原へ軍を引き返した天草四郎時貞は島原城と富岡城を攻めたあぐねていた所に幕府軍が近づいたので「こうなったら何処かを要害城にして持久戦に持ち込むしかない」と決めた。 口津村の甚右衛門は、かつて有馬氏の治政していた時代にあった古い城である原城を拠点にしようと提案し、みんなが賛同したからこの古い城である原城を修復して立て籠もる事になった。 口津村の松倉藩の倉庫にあったお米五千石、銃二千丁、弓百本はすべて一揆達によって奪い去られた。 幕府の命を受けた使いが有江村の陣に到着した十二月八日には、原城は準備がすっかり整っていたのである。  城の総大将はもちろん天草四郎時貞であるが、その下に作戦指揮官として元有馬家の家臣だった蘆塚忠兵衛年、松島半之丞、松倉家の家中の医師有家久意、相津玄察、布津の太右衛門、参謀本部を構成して、益田好次、赤星主膳、有江休意、相津宗印以下十数名の浪士が作戦会議担当することになった。 監視役には森宗意、蜷川左京、その他、弓奉行、鉄砲奉行、使番など数十名の浪士が役割を与えられた。 加津佐、堂崎、三会、有馬、串山、布津、有家、深江、安徳、木場、千々岩、上津浦、大矢野、口野津、小浜などの十数か所の村、庄屋達三十数名が「物頭役」として十の軍に分けられ、総勢二万七千、老若男女を合せると三万を越す人数を指揮した。  幕府によって集められた幕府軍は、鍋島元茂の一万、松倉重次の二千五百、立花忠茂の五千、細川光利の一万三千、有馬忠郷の八千を始めとして各地の大名が兵を出して、城中にいる一揆勢と比較して数倍にもなった。
原城が天草四郎時貞の要害城に選ばれた理由はなにか。
天草四郎時貞は島原城と富岡城を攻めたあぐねていた所に幕府軍が近づいたので「こうなったら何処かを要害城にして持久戦に持ち込むしかない」と決めた。口津村の甚右衛門は、かつて有馬氏の治政していた時代にあった古い城である原城を拠点にしようと提案し、みんなが賛同したからこの古い城である原城を修復して立て籠もる事になった。
JCRRAG_012227
歴史
最初に幕府の命令を受けて板倉重昌がすぐに江戸を出発した時に、柳生宗矩はたまたま有馬玄頭邸で能楽を見物していたが、板倉重昌が江戸を出発した話を耳にすると、席を外して外出し、馬に乗って重昌の後を追いかけた。 品川を駆け抜け川崎まで走ったがついに追い着く事が出来なかった。 日が暮れてしまったのでやむを得ず引き返した宗矩はそのまま将軍である徳川家光に謁見して「大至急使いを板倉重昌から変えて欲しい」とお願いした。 幕府の決定を覆すような事を言いだしたので、家光は非常に不機嫌になった。 何も言わず奥に引っ込んだが、夜中になっても宗矩は黙って座ったまま一向に動かない。 折れた家光は、ついに宗矩の話を聞くことにした。その時の宗矩の言い分はこうである。 「まずキリスト教徒達は深く教を信じています。自分の命を捨ててでも信仰は曲げません。武士の忠義と同じようなものです。 織田信長ほどの力をもった人間でも、本願寺の信徒、あるいは伊勢長島、三河の一向一揆に手を焼いたという事を思い出して欲しいのです。 たしかに板倉重昌は若い頃、大阪の陣で武功をあげた程の人物です。 百姓一揆なんて大したこと無いだろうと思っているでしょうがそれは大間違いです。 さらに板倉重昌は確かに素晴らしい人物ですが三河深沢に一万五千石ぽっちの小さい大名でしかありません。 恐らく細川の五十四万石、有馬の二十一万石、立花の十一万石などの九州の藩は、そんな少ない石高しか持っていない重昌の命令になんて従わないとおもいます。 結果戦が捗らず、更に新たに権威がある者が責任者としてやってきたら重昌の面目丸つぶれです。帰るに帰れないでしょう」 あなたは惜しい人材を一人殺したも同然だ。という柳生宗矩の理路整然とした忠告に、流石の家光も後悔したけれどもどうしようもなかった。 悲しい事に、宗矩の話した事はすべて的中したのであった。
板倉重昌が江戸を出発した話を聞いた柳生宗矩はどうしましたか。
柳生宗矩はたまたま有馬玄頭邸で能楽を見物していたが、板倉重昌が江戸を出発した話を耳にすると、席を外して外出し、馬に乗って重昌の後を追いかけた。
JCRRAG_012228
歴史
松平信綱はさらに城の中にいる天草四郎の甥である小平を使って小左衛門の手紙を持たせて城内に入らせた。 その手紙の内容というのは、 一、幕府軍はもう数十万以上いる……(中略)江戸からは、キリスト教徒達は殺さず生かして捕らえるように、無駄な戦闘は避けよ、柵の外で殺さず幕府のいう事を聞けと言われている。 一、(前略)城から逃げた者が三・四人いるが、殺さずに金銀を渡して元の村に返して今年の農作業をさせるようにした(後略) 一、将軍の命によって(中略)キリスト教徒は、何才だろうと処刑する事になっている。(中略)無理矢理キリスト教徒にさせられた者は幕府として命は助けてやる(中略)もちろんキリスト教を捨てられない者は城に留まろうが討ち死にしようが好きにしてもよい。(後略) 一、天草四郎が大将だという事はわかっている。だが十五・六の年齢の子供がこんな人数を集めておおがかりな事ができるわけない。四郎の名を使って悪だくみをしているやつが他にいるんじゃないか?と思っている。もし本当にそういうことなら、天草四郎が大将であっても、投稿しても幕府は罪を許そうと考えている。 一、こんな事を書いて迷惑に思わないでください。幕府は一揆軍の誰であろうと城から出たいという意思も尊重するし、また城に戻って戦って死にたいと言っても受け入れる。(後略)  実に誠意が溢れているのがわかる手紙だった。 この手紙と同時に天草四郎の母と姉からも城中の甚兵衛や天草四郎に同じ内容の手紙を送っていた。 四郎の母は洗礼名を「マルタ」と呼んでおり、天草四郎が蜂起した事に対して、熊本藩によって捕まったのだが「母の為に恐れる事無く立派に戦え」と四郎へ言った程の強い女である。  しかしここに至っては肉親の情が湧いて手紙を書いてしまったのだろう。  この二つの手紙の返事はその日の内に城内から帰って来た。 その手紙には「知っての通り他の宗教を信じてる人間を無理にキリスト教徒にしてません。城内の皆は自分の命を天主に捧げる覚悟をもっています」  と書かれてあった。  実際に城を抜けた者は三万人前後の中で数名に過ぎず、信仰の力は天下の勢を前にしてゆらぐことはなかった。  この後に信綱自ら天草四郎へ降伏すべきという内容の手紙を送ったが、天草四郎の返事には松倉氏がいかに人を苦しめている政治を行っているかを延々と訴え、信仰を変える難しさを告げ、 「みんな極楽浄土に行く事を疑いようがありません、今生きている中でただひたすら願うばかりです」と結んでいる。
天草四郎の母が、天草四郎に向けて手紙を送ったのはなぜですか。
四郎の母は洗礼名を「マルタ」と呼んでおり、天草四郎が蜂起した事に対して、熊本藩によって捕まったのだが「母の為に恐れる事無く立派に戦え」と四郎へ言った程の強い女である。しかしここに至っては肉親の情が湧いて手紙を書いてしまったのだろう。
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歴史
松平信綱はさらに城の中にいる天草四郎の甥である小平を使って小左衛門の手紙を持たせて城内に入らせた。 その手紙の内容というのは、 一、幕府軍はもう数十万以上いる……(中略)江戸からは、キリスト教徒達は殺さず生かして捕らえるように、無駄な戦闘は避けよ、柵の外で殺さず幕府のいう事を聞けと言われている。 一、(前略)城から逃げた者が三・四人いるが、殺さずに金銀を渡して元の村に返して今年の農作業をさせるようにした(後略) 一、将軍の命によって(中略)キリスト教徒は、何才だろうと処刑する事になっている。(中略)無理矢理キリスト教徒にさせられた者は幕府として命は助けてやる(中略)もちろんキリスト教を捨てられない者は城に留まろうが討ち死にしようが好きにしてもよい。(後略) 一、天草四郎が大将だという事はわかっている。だが十五・六の年齢の子供がこんな人数を集めておおがかりな事ができるわけない。四郎の名を使って悪だくみをしているやつが他にいるんじゃないか?と思っている。もし本当にそういうことなら、天草四郎が大将であっても、投稿しても幕府は罪を許そうと考えている。 一、こんな事を書いて迷惑に思わないでください。幕府は一揆軍の誰であろうと城から出たいという意思も尊重するし、また城に戻って戦って死にたいと言っても受け入れる。(後略)  実に誠意が溢れているのがわかる手紙だった。 この手紙と同時に天草四郎の母と姉からも城中の甚兵衛や天草四郎に同じ内容の手紙を送っていた。 四郎の母は洗礼名を「マルタ」と呼んでおり、天草四郎が蜂起した事に対して、熊本藩によって捕まったのだが「母の為に恐れる事無く立派に戦え」と四郎へ言った程の強い女である。  しかしここに至っては肉親の情が湧いて手紙を書いてしまったのだろう。  この二つの手紙の返事はその日の内に城内から帰って来た。 その手紙には「知っての通り他の宗教を信じてる人間を無理にキリスト教徒にしてません。城内の皆は自分の命を天主に捧げる覚悟をもっています」  と書かれてあった。  実際に城を抜けた者は三万人前後の中で数名に過ぎず、信仰の力は天下の勢を前にしてゆらぐことはなかった。  この後に信綱自ら天草四郎へ降伏すべきという内容の手紙を送ったが、天草四郎の返事には松倉氏がいかに人を苦しめている政治を行っているかを延々と訴え、信仰を変える難しさを告げ、 「みんな極楽浄土に行く事を疑いようがありません、今生きている中でただひたすら願うばかりです」と結んでいる。
松平信綱の手紙によって城を抜けた人はいましたか。
城を抜けた者は三万人前後の中で数名に過ぎず、信仰の力は天下の勢を前にしてゆらぐことはなかった。
JCRRAG_012230
歴史
城中のキリスト教徒も今日が最後になると覚悟したから、矢や銃弾を惜しまずに木石を落し器具に火をつけて投げ必死に防戦を繰り返した。  幕府軍はそこで石火矢を放った。城内は火や煙に包まれて、老人や子供の叫び声はひどいものだった。  板倉重矩は緋縅の鎧に十文字の槍をもち、石谷十蔵と共に城内に乗り込んで、 「我が父重昌の仇を取るために来た!天草四郎時貞!出てきて私と戦え!」と大きな声で叫んだ。 その言葉を聞いた宗徒の部将である有江休意は、黒髪赤顔で眼光鋭く人を射るように六尺の長身をおどらせて現れた。 重矩の従士は左右から槍を突き付けようとしたが、重矩は後方に下がって有江一対一で立ち向かった。 重矩の槍が休意の額を刺し、血が流れて眼に入ったので、休意は刀を抜いて斬りかかって来た。重矩は向かい合うと同時に、休意の右肩から斬り下してついに倒した。  その後信綱はこの事を知って褒めたたえ、水野勝成は自分が腰に下げていた宇多国房の刀を進呈したという。  細川の先鋒である長岡佐渡などの一隊は、そこら中で天草四郎時貞を求め探した。 その最中陣佐左衛門は、火煙をくぐって石塁の中に入って見ると、一人の少年が傷ついて倒れているのを発見した。 一人の少女がそばにいて嘆き悲しんでいる。 佐左衛門が中に入り込んで少年の首を斬って出ようとすると、少女が袖をつかんで放さない。 三宅半右衛門が来て、その少女も斬ってしまった。  忠利は「少年の首は時貞のものであろう」と信綱に見せる事にした。天草四郎時貞の母を呼んで首を見せると、その少年の首こそ四郎時貞の首であることがわかった。  かくて籠城以来、本丸にはためいていた聖餐の聖旗も地に落ちて、この乱も終わりを告げたのであった。
少年の首はだれの首でしたか。
忠利は「少年の首は時貞のものであろう」と信綱に見せる事にした。天草四郎時貞の母を呼んで首を見せると、その少年の首こそ四郎時貞の首であることがわかった。
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歴史
真田幸村の名前には、色々な説がある。 兄の真田信幸は「私の弟の本当の名前は武田信玄の舎弟である典厩と同じ名前だし字も同じだよ」と言っている信繁であることは確実だった。 『真田家古老物語』の著者である桃井友直は「考えた所最初は信繁と名乗りその後に幸重になり、後に信賀と名乗っているのだろう」と言っている。  大阪の陣の前後には幸村が名乗ったのだと思うが『常山紀談』の著者などは、信仍と書いている。 これで見ると徳川時代には信仍で通ったのかも知れない。 しかし、とにかく真田幸村という名前が徳川時代の大衆文学者に採用されたためこの名前が圧倒的に有名になったのだろう。  むかしは姓名判断などはなかったのであるが幸村ほど智才優れた者は何かにつけていろいろと名前を変えたのだろう。  真田は信濃の名族である海野小太郎の最後に生まれた子で、相当な名族であり祖父の幸隆の時代に武田家に仕えたが、この幸隆が敵を同士討ちさせるアイディアを上手く出せる智将である。 真田三代記というが、この幸隆と幸村の子の大助を加えて、四代記にしてもいい位である。  真田幸村が豊臣家をひいきにしている武士というべきでもないのに、なぜ豊臣秀頼のために華々しき戦死を遂げたかという理由には、おそらく父の真田昌幸から徳川家といろいろあったのである。  上州の沼田は利根川の上流が片品川とくっつく所にあり、右に利根川左に片品川がある非常に敵を防ぐのに適している地であるが、関東管領の家が亡びた後に真田が自力で切り取った土地である。  武田家が亡びた後、真田家は表面上は徳川に従っていたが、家康が北条と媾和する時北条側の要求によって沼田を北条側へ渡すことになり、家康は真田家に「沼田を北条へ渡してくれ、その代わりお前には上田をやる」といった。  ところが真田昌幸は「上田は武田信玄時代から真田が持ってる場所だし、徳川から貰う筋合いはない。その上、沼田は俺が頑張って取った土地だ。理由もなく人にやるわけない」といって家康の要求を断り、さらにひそかに豊臣秀吉に使いを出して、手下にしてくれとお願いした。  家康は怒って、大久保忠世、鳥居元忠、井伊直政達に攻めさせた。  それを昌幸が相当な軍略を使って撃退している。 小牧山の直後、秀吉と家康の関係がこじれていた時だから、秀吉が上杉景勝に命じて昌幸を応援させるはずだったという。  この競り合いが真田家が徳川家を相手にした最初の出来事である。と同時に真田が秀吉のひいきになる。  その後、家康が秀吉と和睦したので、真田昌幸も地勢の関係上家康と和睦した。  家康は昌幸の武勇は侮れないと思い、真田の長男である信幸を、本多忠勝の婿にしようとした。 そして使いを出すと、真田昌幸は「お前のような使者の言う事は信じられない。聞き間違いだろう。帰ってもう一回聞いてこい」といって受けつけなかった。  徳川の家臣の娘などと結婚させてたまるかと思いが良くわかる。  そこで家康が秀吉に相談すると、 「真田の言う事ももっともだ。中務が娘を育てている間に、私が婿に迎えるというなら引き受けるだろう」と、いったとある。  家康は即座に本多忠勝の娘を養女にして、信幸の嫁にさせた。 結局、真田信幸は女房の縁に引かれて、後に父や弟と別れて徳川家康に付いて従ったわけである。  ところが天正十六年になって、秀吉が北条氏政を上洛しようと交渉が始まった時、北条家で持ち出した条件が、また沼田を一部よこせというのである。 先年徳川と和平をした時に貰うハズであったが、真田家がわがままを言って貰えなかった。 今度はぜひ沼田を貰いたい、そうすれば上洛すると提案した。この時の北条の使いが板部岡江雪斎という男だ。  北条としては沼田がそんなに欲しくはなかったのだろうがそういう難題を出して、北条家の面目を立てさせてから上洛しようというのであろう。  秀吉はすぐに、上州における真田の領地の内、沼田を入れて三分の二を北条に譲ることにさせて残りの三分の一を名胡桃城と共に真田家の領土とした。 そして沼田に対する所有権は徳川から真田に与えさせることにした。  江雪斎もそれを理解して帰った。 ところが、沼田の城代となった猪俣範直という武士がむちゃくちゃで、条約も何にも眼中になく、真田領の名胡桃城まで攻め取ってしまったのである。 昌幸がそれを豊臣秀吉に訴えた。豊臣秀吉は北条家の条約違反に怒って、ついに小田原征討を決心したのである。  昌幸からいえば自分の面目を立ててもらうために、北条征伐を秀吉が決めてくれたのでかなり嬉しかったに違いないだろうと思う。 関ヶ原の時に昌幸が一も二もなく大阪に味方したのは、この時の感激を覚えていたのであろう。
真田幸村は本当は真田信繁なのに幸村で定着したのはなぜか。
真田幸村という名前が徳川時代の大衆文学者に採用されたためこの名前が圧倒的に有名になったのだろう。
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歴史
真田幸村の名前には、色々な説がある。 兄の真田信幸は「私の弟の本当の名前は武田信玄の舎弟である典厩と同じ名前だし字も同じだよ」と言っている信繁であることは確実だった。 『真田家古老物語』の著者である桃井友直は「考えた所最初は信繁と名乗りその後に幸重になり、後に信賀と名乗っているのだろう」と言っている。  大阪の陣の前後には幸村が名乗ったのだと思うが『常山紀談』の著者などは、信仍と書いている。 これで見ると徳川時代には信仍で通ったのかも知れない。 しかし、とにかく真田幸村という名前が徳川時代の大衆文学者に採用されたためこの名前が圧倒的に有名になったのだろう。  むかしは姓名判断などはなかったのであるが幸村ほど智才優れた者は何かにつけていろいろと名前を変えたのだろう。  真田は信濃の名族である海野小太郎の最後に生まれた子で、相当な名族であり祖父の幸隆の時代に武田家に仕えたが、この幸隆が敵を同士討ちさせるアイディアを上手く出せる智将である。 真田三代記というが、この幸隆と幸村の子の大助を加えて、四代記にしてもいい位である。  真田幸村が豊臣家をひいきにしている武士というべきでもないのに、なぜ豊臣秀頼のために華々しき戦死を遂げたかという理由には、おそらく父の真田昌幸から徳川家といろいろあったのである。  上州の沼田は利根川の上流が片品川とくっつく所にあり、右に利根川左に片品川がある非常に敵を防ぐのに適している地であるが、関東管領の家が亡びた後に真田が自力で切り取った土地である。  武田家が亡びた後、真田家は表面上は徳川に従っていたが、家康が北条と媾和する時北条側の要求によって沼田を北条側へ渡すことになり、家康は真田家に「沼田を北条へ渡してくれ、その代わりお前には上田をやる」といった。  ところが真田昌幸は「上田は武田信玄時代から真田が持ってる場所だし、徳川から貰う筋合いはない。その上、沼田は俺が頑張って取った土地だ。理由もなく人にやるわけない」といって家康の要求を断り、さらにひそかに豊臣秀吉に使いを出して、手下にしてくれとお願いした。  家康は怒って、大久保忠世、鳥居元忠、井伊直政達に攻めさせた。  それを昌幸が相当な軍略を使って撃退している。 小牧山の直後、秀吉と家康の関係がこじれていた時だから、秀吉が上杉景勝に命じて昌幸を応援させるはずだったという。  この競り合いが真田家が徳川家を相手にした最初の出来事である。と同時に真田が秀吉のひいきになる。  その後、家康が秀吉と和睦したので、真田昌幸も地勢の関係上家康と和睦した。  家康は昌幸の武勇は侮れないと思い、真田の長男である信幸を、本多忠勝の婿にしようとした。 そして使いを出すと、真田昌幸は「お前のような使者の言う事は信じられない。聞き間違いだろう。帰ってもう一回聞いてこい」といって受けつけなかった。  徳川の家臣の娘などと結婚させてたまるかと思いが良くわかる。  そこで家康が秀吉に相談すると、 「真田の言う事ももっともだ。中務が娘を育てている間に、私が婿に迎えるというなら引き受けるだろう」と、いったとある。  家康は即座に本多忠勝の娘を養女にして、信幸の嫁にさせた。 結局、真田信幸は女房の縁に引かれて、後に父や弟と別れて徳川家康に付いて従ったわけである。  ところが天正十六年になって、秀吉が北条氏政を上洛しようと交渉が始まった時、北条家で持ち出した条件が、また沼田を一部よこせというのである。 先年徳川と和平をした時に貰うハズであったが、真田家がわがままを言って貰えなかった。 今度はぜひ沼田を貰いたい、そうすれば上洛すると提案した。この時の北条の使いが板部岡江雪斎という男だ。  北条としては沼田がそんなに欲しくはなかったのだろうがそういう難題を出して、北条家の面目を立てさせてから上洛しようというのであろう。  秀吉はすぐに、上州における真田の領地の内、沼田を入れて三分の二を北条に譲ることにさせて残りの三分の一を名胡桃城と共に真田家の領土とした。 そして沼田に対する所有権は徳川から真田に与えさせることにした。  江雪斎もそれを理解して帰った。 ところが、沼田の城代となった猪俣範直という武士がむちゃくちゃで、条約も何にも眼中になく、真田領の名胡桃城まで攻め取ってしまったのである。 昌幸がそれを豊臣秀吉に訴えた。豊臣秀吉は北条家の条約違反に怒って、ついに小田原征討を決心したのである。  昌幸からいえば自分の面目を立ててもらうために、北条征伐を秀吉が決めてくれたのでかなり嬉しかったに違いないだろうと思う。 関ヶ原の時に昌幸が一も二もなく大阪に味方したのは、この時の感激を覚えていたのであろう。
家康は真田家に対して沼田を北条へ渡してくれという提案を断られてどうしましたか。
家康は怒って、大久保忠世、鳥居元忠、井伊直政達に攻めさせた。
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真田幸村の名前には、色々な説がある。 兄の真田信幸は「私の弟の本当の名前は武田信玄の舎弟である典厩と同じ名前だし字も同じだよ」と言っている信繁であることは確実だった。 『真田家古老物語』の著者である桃井友直は「考えた所最初は信繁と名乗りその後に幸重になり、後に信賀と名乗っているのだろう」と言っている。  大阪の陣の前後には幸村が名乗ったのだと思うが『常山紀談』の著者などは、信仍と書いている。 これで見ると徳川時代には信仍で通ったのかも知れない。 しかし、とにかく真田幸村という名前が徳川時代の大衆文学者に採用されたためこの名前が圧倒的に有名になったのだろう。  むかしは姓名判断などはなかったのであるが幸村ほど智才優れた者は何かにつけていろいろと名前を変えたのだろう。  真田は信濃の名族である海野小太郎の最後に生まれた子で、相当な名族であり祖父の幸隆の時代に武田家に仕えたが、この幸隆が敵を同士討ちさせるアイディアを上手く出せる智将である。 真田三代記というが、この幸隆と幸村の子の大助を加えて、四代記にしてもいい位である。  真田幸村が豊臣家をひいきにしている武士というべきでもないのに、なぜ豊臣秀頼のために華々しき戦死を遂げたかという理由には、おそらく父の真田昌幸から徳川家といろいろあったのである。  上州の沼田は利根川の上流が片品川とくっつく所にあり、右に利根川左に片品川がある非常に敵を防ぐのに適している地であるが、関東管領の家が亡びた後に真田が自力で切り取った土地である。  武田家が亡びた後、真田家は表面上は徳川に従っていたが、家康が北条と媾和する時北条側の要求によって沼田を北条側へ渡すことになり、家康は真田家に「沼田を北条へ渡してくれ、その代わりお前には上田をやる」といった。  ところが真田昌幸は「上田は武田信玄時代から真田が持ってる場所だし、徳川から貰う筋合いはない。その上、沼田は俺が頑張って取った土地だ。理由もなく人にやるわけない」といって家康の要求を断り、さらにひそかに豊臣秀吉に使いを出して、手下にしてくれとお願いした。  家康は怒って、大久保忠世、鳥居元忠、井伊直政達に攻めさせた。  それを昌幸が相当な軍略を使って撃退している。 小牧山の直後、秀吉と家康の関係がこじれていた時だから、秀吉が上杉景勝に命じて昌幸を応援させるはずだったという。  この競り合いが真田家が徳川家を相手にした最初の出来事である。と同時に真田が秀吉のひいきになる。  その後、家康が秀吉と和睦したので、真田昌幸も地勢の関係上家康と和睦した。  家康は昌幸の武勇は侮れないと思い、真田の長男である信幸を、本多忠勝の婿にしようとした。 そして使いを出すと、真田昌幸は「お前のような使者の言う事は信じられない。聞き間違いだろう。帰ってもう一回聞いてこい」といって受けつけなかった。  徳川の家臣の娘などと結婚させてたまるかと思いが良くわかる。  そこで家康が秀吉に相談すると、 「真田の言う事ももっともだ。中務が娘を育てている間に、私が婿に迎えるというなら引き受けるだろう」と、いったとある。  家康は即座に本多忠勝の娘を養女にして、信幸の嫁にさせた。 結局、真田信幸は女房の縁に引かれて、後に父や弟と別れて徳川家康に付いて従ったわけである。  ところが天正十六年になって、秀吉が北条氏政を上洛しようと交渉が始まった時、北条家で持ち出した条件が、また沼田を一部よこせというのである。 先年徳川と和平をした時に貰うハズであったが、真田家がわがままを言って貰えなかった。 今度はぜひ沼田を貰いたい、そうすれば上洛すると提案した。この時の北条の使いが板部岡江雪斎という男だ。  北条としては沼田がそんなに欲しくはなかったのだろうがそういう難題を出して、北条家の面目を立てさせてから上洛しようというのであろう。  秀吉はすぐに、上州における真田の領地の内、沼田を入れて三分の二を北条に譲ることにさせて残りの三分の一を名胡桃城と共に真田家の領土とした。 そして沼田に対する所有権は徳川から真田に与えさせることにした。  江雪斎もそれを理解して帰った。 ところが、沼田の城代となった猪俣範直という武士がむちゃくちゃで、条約も何にも眼中になく、真田領の名胡桃城まで攻め取ってしまったのである。 昌幸がそれを豊臣秀吉に訴えた。豊臣秀吉は北条家の条約違反に怒って、ついに小田原征討を決心したのである。  昌幸からいえば自分の面目を立ててもらうために、北条征伐を秀吉が決めてくれたのでかなり嬉しかったに違いないだろうと思う。 関ヶ原の時に昌幸が一も二もなく大阪に味方したのは、この時の感激を覚えていたのであろう。
家康は真田の長男である信幸を、本多忠勝の婿にしようとして秀吉に相談したらどうなったか。
家康は即座に本多忠勝の娘を自分の養女にして、信幸の嫁にさせた。
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真田幸村の名前には、色々な説がある。 兄の真田信幸は「私の弟の本当の名前は武田信玄の舎弟である典厩と同じ名前だし字も同じだよ」と言っている信繁であることは確実だった。 『真田家古老物語』の著者である桃井友直は「考えた所最初は信繁と名乗りその後に幸重になり、後に信賀と名乗っているのだろう」と言っている。  大阪の陣の前後には幸村が名乗ったのだと思うが『常山紀談』の著者などは、信仍と書いている。 これで見ると徳川時代には信仍で通ったのかも知れない。 しかし、とにかく真田幸村という名前が徳川時代の大衆文学者に採用されたためこの名前が圧倒的に有名になったのだろう。  むかしは姓名判断などはなかったのであるが幸村ほど智才優れた者は何かにつけていろいろと名前を変えたのだろう。  真田は信濃の名族である海野小太郎の最後に生まれた子で、相当な名族であり祖父の幸隆の時代に武田家に仕えたが、この幸隆が敵を同士討ちさせるアイディアを上手く出せる智将である。 真田三代記というが、この幸隆と幸村の子の大助を加えて、四代記にしてもいい位である。  真田幸村が豊臣家をひいきにしている武士というべきでもないのに、なぜ豊臣秀頼のために華々しき戦死を遂げたかという理由には、おそらく父の真田昌幸から徳川家といろいろあったのである。  上州の沼田は利根川の上流が片品川とくっつく所にあり、右に利根川左に片品川がある非常に敵を防ぐのに適している地であるが、関東管領の家が亡びた後に真田が自力で切り取った土地である。  武田家が亡びた後、真田家は表面上は徳川に従っていたが、家康が北条と媾和する時北条側の要求によって沼田を北条側へ渡すことになり、家康は真田家に「沼田を北条へ渡してくれ、その代わりお前には上田をやる」といった。  ところが真田昌幸は「上田は武田信玄時代から真田が持ってる場所だし、徳川から貰う筋合いはない。その上、沼田は俺が頑張って取った土地だ。理由もなく人にやるわけない」といって家康の要求を断り、さらにひそかに豊臣秀吉に使いを出して、手下にしてくれとお願いした。  家康は怒って、大久保忠世、鳥居元忠、井伊直政達に攻めさせた。  それを昌幸が相当な軍略を使って撃退している。 小牧山の直後、秀吉と家康の関係がこじれていた時だから、秀吉が上杉景勝に命じて昌幸を応援させるはずだったという。  この競り合いが真田家が徳川家を相手にした最初の出来事である。と同時に真田が秀吉のひいきになる。  その後、家康が秀吉と和睦したので、真田昌幸も地勢の関係上家康と和睦した。  家康は昌幸の武勇は侮れないと思い、真田の長男である信幸を、本多忠勝の婿にしようとした。 そして使いを出すと、真田昌幸は「お前のような使者の言う事は信じられない。聞き間違いだろう。帰ってもう一回聞いてこい」といって受けつけなかった。  徳川の家臣の娘などと結婚させてたまるかと思いが良くわかる。  そこで家康が秀吉に相談すると、 「真田の言う事ももっともだ。中務が娘を育てている間に、私が婿に迎えるというなら引き受けるだろう」と、いったとある。  家康は即座に本多忠勝の娘を養女にして、信幸の嫁にさせた。 結局、真田信幸は女房の縁に引かれて、後に父や弟と別れて徳川家康に付いて従ったわけである。  ところが天正十六年になって、秀吉が北条氏政を上洛しようと交渉が始まった時、北条家で持ち出した条件が、また沼田を一部よこせというのである。 先年徳川と和平をした時に貰うハズであったが、真田家がわがままを言って貰えなかった。 今度はぜひ沼田を貰いたい、そうすれば上洛すると提案した。この時の北条の使いが板部岡江雪斎という男だ。  北条としては沼田がそんなに欲しくはなかったのだろうがそういう難題を出して、北条家の面目を立てさせてから上洛しようというのであろう。  秀吉はすぐに、上州における真田の領地の内、沼田を入れて三分の二を北条に譲ることにさせて残りの三分の一を名胡桃城と共に真田家の領土とした。 そして沼田に対する所有権は徳川から真田に与えさせることにした。  江雪斎もそれを理解して帰った。 ところが、沼田の城代となった猪俣範直という武士がむちゃくちゃで、条約も何にも眼中になく、真田領の名胡桃城まで攻め取ってしまったのである。 昌幸がそれを豊臣秀吉に訴えた。豊臣秀吉は北条家の条約違反に怒って、ついに小田原征討を決心したのである。  昌幸からいえば自分の面目を立ててもらうために、北条征伐を秀吉が決めてくれたのでかなり嬉しかったに違いないだろうと思う。 関ヶ原の時に昌幸が一も二もなく大阪に味方したのは、この時の感激を覚えていたのであろう。
小田原征伐が起こったのはなぜですか。
豊臣秀吉は北条家の条約違反に怒って、ついに小田原征討を決心したのである。
JCRRAG_012235
歴史
関ヶ原の戦いの時に、真田家父子三人が徳川家康に従って会津へ向かう途中に石田三成からの使者が来た。 真田昌幸は信幸、幸村の兄弟にその事を告げて相談した。  昌幸は「もちろん大阪の味方になろう」と言った。  兄の信幸「家康は天皇のように百万を超える人達を従えている。だから討ち滅ぼされるような人ではないのだろう、徳川方に味方するのが良いと思う」という。  書物によると、ここで信幸と幸村の二人が激論を交わしているという。  信幸「私は本多忠勝と親しい関係だ。だから石田側に付くわけにはいかない」と言えば、  幸村「嫁さんの縁に引かれて父親に弓を引くとはな」と言う。  信幸「石田三成の味方をすれば必ず敗けるだろう。その時味方に付いた者達は必ず殺される。父と弟との危機を助けて真田家の断絶だけは回避しなければならない」と。  幸村がいうには「西軍が敗れたら父も私も戦場で死ぬだろう。兄上の助けなど別に借りない!天正十三年以来豊臣家からの恩義は深いのだから、石田三成に味方するのが当然だろう。 家だろうと人だろうと滅ぶし死ぬべき時が来たら潔く死ねばいい、何を汚く生き延びることを考えてるんだ」と。  信幸は怒って幸村を斬ろうとした。  幸村は「首をはねるのはやめてくれ、この幸村の命は豊臣家のために使うつもりだ。志を貫くのだ」といった。  昌幸はどっちにつくかという兄弟喧嘩を仲裁し、私は幸村と同じ考えだから幸村と共に引き返そうと思う。信幸は自分の心のままに動くがいい、といって幸村と昌幸、信幸は別れた。  今の私たちが知っているように、石田方がはっきり敗れるとは分かっていないのだから、父子兄弟の言い分が対立したのであろう。 そして、本多忠勝の婿である信幸がいつの間にか徳川に親しんでいたのは人間として自然な事だろう。  昌幸の腹の内では、真田が東西両軍に別れていればいずれか真田の血脈は残るという気持ちもあっただろう。 敗けた場合には、お互いに助け合おうというような事も、暗黙の了解だったのかもしれない。 父子兄弟とも頭がいいのであるから、大事な場合に激論などする筈はない。後世の人々が、その後の幸村の行動などからそんな情景を考え出したのであろう。  真田が東西両軍に別れたのは、真田家を滅ぼさないためには良い作戦であった。
関ケ原の戦いの際、真田家父子三人は話し合ってどうしましたか。
昌幸はどっちにつくかという兄弟喧嘩を仲裁し、私は幸村と同じ考えだから幸村と共に引き返そうと思う。信幸は自分の心のままに動くがいい、といって幸村と昌幸、信幸は別れた。
JCRRAG_012236
歴史
ボイルの時代には、気体といえば空気だけしか知られていなかったのですが、この空気がいろいろ大切な役目をもっていることをもボイルは明らかにしたのでした。空気が音を伝えることもその一つですが、また空気がなければ火が燃えないことをも実験で確かめました。そのほかに人間や動物などは空気を呼吸して生きていることをもはっきりと知っていたので、魚が水のなかで生きているのは、水のなかに溶けて含まれている空気を魚が呼吸しているからだということをも述べています。これも今では誰でも知っている事がらなのですが、その当時としてはやはりすぐれた考え方であったので、すべて生物には空気を呼吸することが必要であるとしたのは、生物学の上でも重要な意味をもつ事柄であったのでした。  空気の性質については、ボイルはもう一つの大切な関係を見つけ出しました。これは空気ばかりでなく、一般の気体にも当てはまるものとして、今ではボイルの法則という名称で知られており、普通の物理学の教科書にも載っていますから、皆さんもよく知っているでしょう。それは、つまり気体の体積と圧力とは互いに逆比例して変わるということで、ですから圧力を増せば体積は小さくなり、反対に圧力が減れば、それだけ体積がひろがります。古い昔には、ある場所から空気をとり除けようとしても、直ぐによそから空気がそこへ入り込んで来て、真空にはならなかったので、その事から自然は真空を嫌うのだということが一般に信じられていたのでした。しかしこの事実は、空気が圧力の小さい方へひろがってゆくという関係が分かれば、それで説明ができるのですから、ボイルの法則の発見で、もはやそれは不思議でも何でもなくなったわけです。科学はこのようにして自然の不思議をだんだんに解いてゆくことができるのです。
ボイルの法則ができてなにがわかりましたか。
古い昔には、ある場所から空気をとり除けようとしても、直ぐによそから空気がそこへ入り込んで来て、真空にはならなかったので、その事から自然は真空を嫌うのだということが一般に信じられていたのでした。しかしこの事実は、空気が圧力の小さい方へひろがってゆくという関係が分かれば、それで説明ができるのですから、ボイルの法則の発見で、もはやそれは不思議でも何でもなくなったわけです。
JCRRAG_012237
歴史
関ヶ原の戦の後に真田昌幸と真田幸村の父子は、高野山のふもとにある九度禿の宿に引退しました。 この時発明した内職が、真田紐であるという。そして昌幸は六十七歳で死ぬことになる。 昌幸は死を前にして「私が死後三年以内に必ず、東西は手切れとなるだろう。私が生きていれば、相当の自信があるが」といって嘆いた。 幸村は「ぜひそうなった時の対策を教えてくれ」といった。 昌幸は「策を教えるのは簡単だが、お前は私ほどの人望がないから、策を教えてもできないだろう」と言った。 幸村が是非にというので「東西手切れになったら、軍を率いてまずは美野の青野ヶ原で敵を迎えるのだ。しかしそれは東軍と決戦するのではなく、かるくあしらって次は瀬田へ下がるのだ。 そこでも、四・五日は耐える事はできるだろう。そうすればこの真田安房守こそ東軍を支えたという噂が日本中に伝わり、太閤に恩義がある大名の中には大阪方へ味方する奴が出て来るだろう。 しかし、この策はこの私が生きていれば出来るだけなので、お前は腕や頭は私に劣らないが、人望が足りないからこの策は通用しないだろう」と言った。 後に幸村が大阪に入城した冬の陣の時、城を出て東軍を迎撃したほうがいいと主張したが、採用されなかった。昌幸の見通した通りである。  大阪の陣が起こる前に豊臣秀頼からの招状が幸村の所へ来た。 徳川家に仕えて報酬を貰いたくないから、大阪に行こうというのは幸村として止むを得ないことである。 秀頼への忠節というだけではなく、親譲りの意地もあれば武人としての夢も多少はあったであろう。  真田幸村が大阪に入城するというデマが大量に飛び交っていた。紀州の領主である浅野長晟は九度山付近の百姓に命じてひそかに警戒していた。  ところが幸村は父親である真田昌幸の法事をやるといって、付近の名主や大庄屋と言った連中を招待して酒が飲める飲めないの区別なく酒を飲ませ酔いつぶしてしまった。 その間に前から用意した支度をきびきびとした動きで百姓たちが乗っている馬に荷物を付けて、百人ばかりの同勢にて、槍、長刀や刀の鞘を外し、鉄砲には火縄をつけ、紀伊川を渡り、大阪を目指して出発した。 付近の百姓どもは大騒ぎしたが、村中の顔役達は真田邸で酔いつぶれているのでどうすることも出来なかった。 浅野長晟はこの話を聴いて、真田の者を百姓どもに監視させたのはこっちの失敗であったと後悔した。 大阪へ着くと、幸村はたった一人で大野治長の所へ行った。 幸村はその頃髪を剃っていたので、伝心月叟と名乗り「大峰の山伏なのだが、祈祷の巻物を差しあげたい」という。 残念ながら大野治長は不在であり、番所の脇で待たされていた。 丁度そのころ脇で十人位で刀や脇差の目利きごっこをしていた。 一人の武士が幸村に対して「あなたの刀を見せていただきたい」と言ってきた。幸村は「山伏の私が犬を驚かせるために使ってるようなものなので、人様に見せるようなもんじゃないんだが」と言って、差し出した。 若き武士が幸村の刀を抜いて見ると、刃の匂いや金の光が非常に素晴らしいモノだった。脇差もまた同様だった。これはとんでもないぞと中子を見ると刀は正宗で脇差は貞宗であった。こいつはただの坊主ではないと若い武士どもが騒いでいる所へ、治長が帰って来て真田幸村であることが判明した。 その後幸村はその時の若い武士達に会い「刀のお目利きは上達しましたか?」と冗談を言ったという。
若き武士が幸村の刀を抜いたらどうなりましたか。
若き武士が幸村の刀を抜いて見ると、刃の匂いや金の光が非常に素晴らしいモノだった。脇差もまた同様だった。これはとんでもないぞと中子を見ると刀は正宗で脇差は貞宗であった。
JCRRAG_012238
歴史
関ヶ原の戦の後に真田昌幸と真田幸村の父子は、高野山のふもとにある九度禿の宿に引退しました。 この時発明した内職が、真田紐であるという。そして昌幸は六十七歳で死ぬことになる。 昌幸は死を前にして「私が死後三年以内に必ず、東西は手切れとなるだろう。私が生きていれば、相当の自信があるが」といって嘆いた。 幸村は「ぜひそうなった時の対策を教えてくれ」といった。 昌幸は「策を教えるのは簡単だが、お前は私ほどの人望がないから、策を教えてもできないだろう」と言った。 幸村が是非にというので「東西手切れになったら、軍を率いてまずは美野の青野ヶ原で敵を迎えるのだ。しかしそれは東軍と決戦するのではなく、かるくあしらって次は瀬田へ下がるのだ。 そこでも、四・五日は耐える事はできるだろう。そうすればこの真田安房守こそ東軍を支えたという噂が日本中に伝わり、太閤に恩義がある大名の中には大阪方へ味方する奴が出て来るだろう。 しかし、この策はこの私が生きていれば出来るだけなので、お前は腕や頭は私に劣らないが、人望が足りないからこの策は通用しないだろう」と言った。 後に幸村が大阪に入城した冬の陣の時、城を出て東軍を迎撃したほうがいいと主張したが、採用されなかった。昌幸の見通した通りである。  大阪の陣が起こる前に豊臣秀頼からの招状が幸村の所へ来た。 徳川家に仕えて報酬を貰いたくないから、大阪に行こうというのは幸村として止むを得ないことである。 秀頼への忠節というだけではなく、親譲りの意地もあれば武人としての夢も多少はあったであろう。  真田幸村が大阪に入城するというデマが大量に飛び交っていた。紀州の領主である浅野長晟は九度山付近の百姓に命じてひそかに警戒していた。  ところが幸村は父親である真田昌幸の法事をやるといって、付近の名主や大庄屋と言った連中を招待して酒が飲める飲めないの区別なく酒を飲ませ酔いつぶしてしまった。 その間に前から用意した支度をきびきびとした動きで百姓たちが乗っている馬に荷物を付けて、百人ばかりの同勢にて、槍、長刀や刀の鞘を外し、鉄砲には火縄をつけ、紀伊川を渡り、大阪を目指して出発した。 付近の百姓どもは大騒ぎしたが、村中の顔役達は真田邸で酔いつぶれているのでどうすることも出来なかった。 浅野長晟はこの話を聴いて、真田の者を百姓どもに監視させたのはこっちの失敗であったと後悔した。 大阪へ着くと、幸村はたった一人で大野治長の所へ行った。 幸村はその頃髪を剃っていたので、伝心月叟と名乗り「大峰の山伏なのだが、祈祷の巻物を差しあげたい」という。 残念ながら大野治長は不在であり、番所の脇で待たされていた。 丁度そのころ脇で十人位で刀や脇差の目利きごっこをしていた。 一人の武士が幸村に対して「あなたの刀を見せていただきたい」と言ってきた。幸村は「山伏の私が犬を驚かせるために使ってるようなものなので、人様に見せるようなもんじゃないんだが」と言って、差し出した。 若き武士が幸村の刀を抜いて見ると、刃の匂いや金の光が非常に素晴らしいモノだった。脇差もまた同様だった。これはとんでもないぞと中子を見ると刀は正宗で脇差は貞宗であった。こいつはただの坊主ではないと若い武士どもが騒いでいる所へ、治長が帰って来て真田幸村であることが判明した。 その後幸村はその時の若い武士達に会い「刀のお目利きは上達しましたか?」と冗談を言ったという。
真田昌幸が死ぬ前に幸村に話した対策が、自分にはできるが幸村にはできないという話は当たりましたか。
後に幸村が大阪に入城した冬の陣の時、城を出て東軍を迎撃したほうがいいと主張したが、採用されなかった。昌幸の見通した通りである。
JCRRAG_012239
歴史
関ヶ原の戦の後に真田昌幸と真田幸村の父子は、高野山のふもとにある九度禿の宿に引退しました。 この時発明した内職が、真田紐であるという。そして昌幸は六十七歳で死ぬことになる。 昌幸は死を前にして「私が死後三年以内に必ず、東西は手切れとなるだろう。私が生きていれば、相当の自信があるが」といって嘆いた。 幸村は「ぜひそうなった時の対策を教えてくれ」といった。 昌幸は「策を教えるのは簡単だが、お前は私ほどの人望がないから、策を教えてもできないだろう」と言った。 幸村が是非にというので「東西手切れになったら、軍を率いてまずは美野の青野ヶ原で敵を迎えるのだ。しかしそれは東軍と決戦するのではなく、かるくあしらって次は瀬田へ下がるのだ。 そこでも、四・五日は耐える事はできるだろう。そうすればこの真田安房守こそ東軍を支えたという噂が日本中に伝わり、太閤に恩義がある大名の中には大阪方へ味方する奴が出て来るだろう。 しかし、この策はこの私が生きていれば出来るだけなので、お前は腕や頭は私に劣らないが、人望が足りないからこの策は通用しないだろう」と言った。 後に幸村が大阪に入城した冬の陣の時、城を出て東軍を迎撃したほうがいいと主張したが、採用されなかった。昌幸の見通した通りである。  大阪の陣が起こる前に豊臣秀頼からの招状が幸村の所へ来た。 徳川家に仕えて報酬を貰いたくないから、大阪に行こうというのは幸村として止むを得ないことである。 秀頼への忠節というだけではなく、親譲りの意地もあれば武人としての夢も多少はあったであろう。  真田幸村が大阪に入城するというデマが大量に飛び交っていた。紀州の領主である浅野長晟は九度山付近の百姓に命じてひそかに警戒していた。  ところが幸村は父親である真田昌幸の法事をやるといって、付近の名主や大庄屋と言った連中を招待して酒が飲める飲めないの区別なく酒を飲ませ酔いつぶしてしまった。 その間に前から用意した支度をきびきびとした動きで百姓たちが乗っている馬に荷物を付けて、百人ばかりの同勢にて、槍、長刀や刀の鞘を外し、鉄砲には火縄をつけ、紀伊川を渡り、大阪を目指して出発した。 付近の百姓どもは大騒ぎしたが、村中の顔役達は真田邸で酔いつぶれているのでどうすることも出来なかった。 浅野長晟はこの話を聴いて、真田の者を百姓どもに監視させたのはこっちの失敗であったと後悔した。 大阪へ着くと、幸村はたった一人で大野治長の所へ行った。 幸村はその頃髪を剃っていたので、伝心月叟と名乗り「大峰の山伏なのだが、祈祷の巻物を差しあげたい」という。 残念ながら大野治長は不在であり、番所の脇で待たされていた。 丁度そのころ脇で十人位で刀や脇差の目利きごっこをしていた。 一人の武士が幸村に対して「あなたの刀を見せていただきたい」と言ってきた。幸村は「山伏の私が犬を驚かせるために使ってるようなものなので、人様に見せるようなもんじゃないんだが」と言って、差し出した。 若き武士が幸村の刀を抜いて見ると、刃の匂いや金の光が非常に素晴らしいモノだった。脇差もまた同様だった。これはとんでもないぞと中子を見ると刀は正宗で脇差は貞宗であった。こいつはただの坊主ではないと若い武士どもが騒いでいる所へ、治長が帰って来て真田幸村であることが判明した。 その後幸村はその時の若い武士達に会い「刀のお目利きは上達しましたか?」と冗談を言ったという。
真田幸村はどうやって大阪城に入城しましたか。
幸村は父親である真田昌幸の法事をやるといって、付近の名主や大庄屋と言った連中を招待して酒が飲める飲めないの区別なく酒を飲ませ酔いつぶしてしまった。その間に前から用意した支度をきびきびとした動きで百姓たちが乗っている馬に荷物を付けて、百人ばかりの同勢にて、槍、長刀や刀の鞘を外し、鉄砲には火縄をつけ、紀伊川を渡り、大阪を目指して出発した。
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歴史
東西手切れとなった瞬間に真田幸村は城を出て東軍を迎え撃つべきだと力説した。 後藤又兵衛もまた真田幸村の説を採用するべきだと後押ししたが、大野や渡辺などが聞き入れてくれず、ついに籠城をするべきだという説が勝った。  籠城の準備として大阪城へ大軍が進むであろう道は南側しかないので、こっちの方面に砦を築く事になった。 玉造口を隔てて笹山があり、砦を築くには非常に好都合な所なのでさっそく砦の構築にかかったが、その工事に従事している人夫達が、いつの間にか「この出丸を堅固に守れる人は、真田幸村以外にいないだろう」と言い合って、いつの間にか真田丸という名前が付いてしまった。  城の中で会議した結果、真田幸村は守備の将をやるようにと命じられた。 しかし真田幸村は、自分には部下が七十人位しかいないのでという理由で辞退したが、後藤が「人夫どもまでが真田丸といっている以上、真田幸村が引き受けないってのは良く無いんじゃないか?」と言ったので、「そういうことならば縄張りも自分にやらせてほしい」と言って引き受けた。  真田家というより真田昌幸から伝授された秘法によって、出丸を築いた。  真田幸村が「出丸の曲尺であっても兵家の秘法になる」と『慶元記参考』にある。  真田幸村は冬の陣の間中自分に付けられた三千人を率いてこの危険な小さな砦を守り、数万の大軍を四方から受けても恐れる事はなかった。
なぜ真田丸と名前が付きましたか。
砦の構築にかかったが、その工事に従事している人夫達が、いつの間にか「この出丸を堅固に守れる人は、真田幸村以外にいないだろう」と言い合って、いつの間にか真田丸という名前が付いてしまった。
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歴史
東西手切れとなった瞬間に真田幸村は城を出て東軍を迎え撃つべきだと力説した。 後藤又兵衛もまた真田幸村の説を採用するべきだと後押ししたが、大野や渡辺などが聞き入れてくれず、ついに籠城をするべきだという説が勝った。  籠城の準備として大阪城へ大軍が進むであろう道は南側しかないので、こっちの方面に砦を築く事になった。 玉造口を隔てて笹山があり、砦を築くには非常に好都合な所なのでさっそく砦の構築にかかったが、その工事に従事している人夫達が、いつの間にか「この出丸を堅固に守れる人は、真田幸村以外にいないだろう」と言い合って、いつの間にか真田丸という名前が付いてしまった。  城の中で会議した結果、真田幸村は守備の将をやるようにと命じられた。 しかし真田幸村は、自分には部下が七十人位しかいないのでという理由で辞退したが、後藤が「人夫どもまでが真田丸といっている以上、真田幸村が引き受けないってのは良く無いんじゃないか?」と言ったので、「そういうことならば縄張りも自分にやらせてほしい」と言って引き受けた。  真田家というより真田昌幸から伝授された秘法によって、出丸を築いた。  真田幸村が「出丸の曲尺であっても兵家の秘法になる」と『慶元記参考』にある。  真田幸村は冬の陣の間中自分に付けられた三千人を率いてこの危険な小さな砦を守り、数万の大軍を四方から受けても恐れる事はなかった。
真田幸村が真田丸を守る事になったのはなぜですか。
後藤が「人夫どもまでが真田丸といっている以上、真田幸村が引き受けないってのは良く無いんじゃないか?」と言ったので、「そういうことならば縄張りも自分にやらせてほしい」と言って引き受けた。
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歴史
東西手切れとなった瞬間に真田幸村は城を出て東軍を迎え撃つべきだと力説した。 後藤又兵衛もまた真田幸村の説を採用するべきだと後押ししたが、大野や渡辺などが聞き入れてくれず、ついに籠城をするべきだという説が勝った。  籠城の準備として大阪城へ大軍が進むであろう道は南側しかないので、こっちの方面に砦を築く事になった。 玉造口を隔てて笹山があり、砦を築くには非常に好都合な所なのでさっそく砦の構築にかかったが、その工事に従事している人夫達が、いつの間にか「この出丸を堅固に守れる人は、真田幸村以外にいないだろう」と言い合って、いつの間にか真田丸という名前が付いてしまった。  城の中で会議した結果、真田幸村は守備の将をやるようにと命じられた。 しかし真田幸村は、自分には部下が七十人位しかいないのでという理由で辞退したが、後藤が「人夫どもまでが真田丸といっている以上、真田幸村が引受けないってのは良く無いんじゃないか?」と言ったので、「そういうことならば縄張りも自分にやらせてほしい」と言って引き受けた。  真田家というより真田昌幸から伝授された秘法によって、出丸を築いた。  真田幸村が「出丸の曲尺であっても兵家の秘法になる」と『慶元記参考』にある。  真田幸村は冬の陣の間中自分に付けられた三千人を率いてこの危険な小さな砦を守り、数万の大軍を四方から受けても恐れる事はなかった。 真田丸の砦は、大阪冬の陣中、遂に破られなかった。  講和を結んでから徳川家康は、幸村を勧誘しようとして幸村の叔父である隠岐守信尹を使いとして「信州の土地三万石をやるから」と言って、味方になるように誘った。  幸村は出丸の外に叔父の信尹を迎えて久しぶりの対面を喜んだが、徳川家に付く事だけはきっぱり断った。  信尹はやむなく引き返して、家康にその話を伝えると、家康は「では信濃一国を渡すからどうか頼むともう一回言って来てくれ」と言った。 信尹は再び幸村に対面してこういうと、幸村は叔父の信尹に対して、「信濃一国だけじゃなく天下を渡すと言われても、秀頼公に背いたり不義をするようなことはできない。またこんな事言いに来たら次は命の保証はしませんよ」と追い返した。 『常山紀談』の著者などは「この場合幸村が豊臣家のためにこのような義理を通そうとしたのを道理にかなってるとは言ってはならない」と言っている。 「豊臣家は真田家にとって長年にわたって君主になってるわけじゃない。もし彼が忠義を貫くべきというのなら、武田家が亡びた後に山中に隠れなければならないのはなんでだろうか?」  などと評している。
大阪冬の陣で真田丸は破られましたか。
真田丸の砦は、大阪冬の陣中、遂に破られなかった。
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歴史
東西手切れとなった瞬間に真田幸村は城を出て東軍を迎え撃つべきだと力説した。 後藤又兵衛もまた真田幸村の説を採用するべきだと後押ししたが、大野や渡辺などが聞き入れてくれず、ついに籠城をするべきだという説が勝った。  籠城の準備として大阪城へ大軍が進むであろう道は南側しかないので、こっちの方面に砦を築く事になった。 玉造口を隔てて笹山があり、砦を築くには非常に好都合な所なのでさっそく砦の構築にかかったが、その工事に従事している人夫達が、いつの間にか「この出丸を堅固に守れる人は、真田幸村以外にいないだろう」と言い合って、いつの間にか真田丸という名前が付いてしまった。  城の中で会議した結果、真田幸村は守備の将をやるようにと命じられた。 しかし真田幸村は、自分には部下が七十人位しかいないのでという理由で辞退したが、後藤が「人夫どもまでが真田丸といっている以上、真田幸村が引受けないってのは良く無いんじゃないか?」と言ったので、「そういうことならば縄張りも自分にやらせてほしい」と言って引き受けた。  真田家というより真田昌幸から伝授された秘法によって、出丸を築いた。  真田幸村が「出丸の曲尺であっても兵家の秘法になる」と『慶元記参考』にある。  真田幸村は冬の陣の間中自分に付けられた三千人を率いてこの危険な小さな砦を守り、数万の大軍を四方から受けても恐れる事はなかった。 真田丸の砦は、大阪冬の陣中、遂に破られなかった。  講和を結んでから徳川家康は、幸村を勧誘しようとして幸村の叔父である隠岐守信尹を使いとして「信州の土地三万石をやるから」と言って、味方になるように誘った。  幸村は出丸の外に叔父の信尹を迎えて久しぶりの対面を喜んだが、徳川家に付く事だけはきっぱり断った。  信尹はやむなく引き返して、家康にその話を伝えると、家康は「では信濃一国を渡すからどうか頼むともう一回言って来てくれ」と言った。 信尹は再び幸村に対面してこういうと、幸村は叔父の信尹に対して、「信濃一国だけじゃなく天下を渡すと言われても、秀頼公に背いたり不義をするようなことはできない。またこんな事言いに来たら次は命の保証はしませんよ」と追い返した。 『常山紀談』の著者などは「この場合幸村が豊臣家のためにこのような義理を通そうとしたのを道理にかなってるとは言ってはならない」と言っている。 「豊臣家は真田家にとって長年にわたって君主になってるわけじゃない。もし彼が忠義を貫くべきというのなら、武田家が亡びた後に山中に隠れなければならないのはなんでだろうか?」  などと評している。
叔父の信尹に、徳川家康が信濃一国を渡すからと徳川家に付いてくれと言っていると聞かされた真田幸村はどうしましたか。
幸村は叔父の信尹に対して、「信濃一国だけじゃなく天下を渡すと言われても、秀頼公に背いたり不義をするようなことはできない。またこんな事言いに来たら次は命の保証はしませんよ」と追い返した。
JCRRAG_012244
歴史
和平が成立した時に真田幸村は後藤又兵衛とともに「関東から提案された停戦交渉は、なにか策略があるに違いない」と力説して「秀頼公の許可は取れないだろう」と言ったのだが、 例によってこの提案は大野、渡辺等は受け入れてくれなかったのである。  幸村は原隼人とはお互いに武田家の家臣だった時代からの旧友であったので、彼を招いてもてなした。  酒を酌み交わした後、幸村は小鼓を取り出して自ら打ち始め、息子である大助に「曲舞」を舞わせて楽しんだ。  それから庭に出て白河原毛のたくましい馬に六文銭をあしらった鞍を置いてゆらりと跨った。 五・六度乗り回して、友人の原に見せつけ「次の戦では、城が壊れてしまえば、平場の戦になるだろう。私は天王寺表へ乗り出し、この馬が生きている限りは戦って死のうと思う。この馬はとても大事にしているんだ」と言って馬から下りて、それからさらに酒盛りを続け、夜半になってこの旧友の二人は名残惜しみながら別れた。  またこの和睦の成った時に、幸村の築いた砦である真田丸も壊されることになった。  この破壊工事の奉行に、本多正純がやって来て、その手で取り壊そうとしたので、幸村は大いに怒って抗議した。  だが、正純も中々引き下がる事はなかった。  両者が互いにいがみあっている事がやがて家康の耳に入った。 すると家康は「幸村が壊すのが正しいだろう、正純が間違っているな」と、早速判決を下して幸村に自分の手で壊す事を許した。  この辺りで家康が寛大な態度を見せつけて、幸村の心を少しでも関東に惹かせようと試みたのかも知れない。 だが幸村は、家康の考えなど気にすることなく、自分の人夫を使って地形までも跡方もなく削り取り、真田昌幸伝授の秘法が使われた形跡を留めなかった。
真田丸をどっちが壊すかで真田幸村と本多正純が争っているという話を聞いた家康はどうしましたか。
家康は「幸村が壊すのが正しいだろう、正純が間違っているな」と、早速判決を下して幸村に自分の手で壊す事を許した。
JCRRAG_012245
歴史
 真田昌幸と真田幸村は、信州へ引き返す途中に沼田へ立ち寄ろうとした。 沼田城は真田信幸の居城であり、信幸の妻たるあの本多忠勝の娘である小松姫が留守を守っていたが、昌幸が入城しようとすると 「すでに父と子が敵対関係となっている以上、たとえ父だろうと城に入れるわけにはいかない!」と城門を閉ざして女房共に武装させて、二人を入れることを拒んだ。 真田昌幸は怒るどころか感心して「さすが日本一と世にいえる本多忠勝の娘よ。弓取の妻はこうあるべきよ!」と寄らずに上田へ帰った。 本多平八郎忠勝は、徳川家随一の剛将である。小牧山の役においてたった五百騎で、秀吉の数万の大軍を牽制して、秀吉を感嘆させた男である。 蜻蛉切りという長い槍を持っている随一の武功の男である。 ある時忠勝は子息である忠朝と、居城である桑名城の濠に船を浮かべて、忠朝に「櫂であの葦を薙ぎはらって見よ」と言った。 忠朝も強力無双の若者であるが、櫂を取って葦を払うと、葦が折れた。忠勝はそれを見て「今の若者は手ぬるいなあ、私に貸せ」と、自身が櫂を持って横に払うと、葦が切れたという。 そんな事ができたのかどうかわからなかったが、とにかく秀吉に忠信の兜を受け継ぐものは、忠勝の外にないといわれたり「関東の本多忠勝、関西の立花宗茂」と比べられたりした典型的な武人である。
真田昌幸と真田幸村は、信州へ引き返す途中に沼田城へ立ち寄ろうとしたらどうなりましたか。
沼田城は真田信幸の居城であり、信幸の妻たるあの本多忠勝の娘である小松姫が留守を守っていたが、昌幸が入城しようとすると「すでに父と子が敵対関係となっている以上、たとえ父だろうと城に入れるわけにはいかない!」と城門を閉ざして女房共に武装させて、二人を入れることを拒んだ。
JCRRAG_012246
歴史
夜がほんのりと明け始めた。 そこで東の門を覗いてみると、中は静まり返って、人の気配もなかった。 なんだろう、と言い合いながら東の門を開いて味方を通そうとしている所へ、越前勢の先手がやっとのところで押し寄せて来た。  大和川に流された吉田修理亮に代わって、本多飛騨守、松平壱岐守達を含む二千余騎の軍勢である。  だが石川や宮木は、これを真田勢が来襲してきたのだと思い違ってしまい、凄まじい同志討ちがここに始まった。  石川や宮木質が葵の紋に気付いた時は、すでに手の施しようのないほどの激しい戦いになっていた。 ようやくのことで彼等が兜を脱いで、大地にひざまずいたので、越前勢も静まった。  しかしこんな不始末が家康に知られてはどんなことになるかもわからないとあって、彼等はその場を繕うために雑兵の首を十三ほど切り取り、そこにあった真田の旗を証拠として付けて、家康に差し出した。  家康は非常に喜んで「真田ほどの者が旗を捨てるとはよほどのことよ」と褒めたたえ「その旗を家宝にせよ」とそばにいた尾張義直卿に話した。  義直は、丁重に受け取ってその旗をよく見たが、顔色が変わり「これは家宝にはなりませぬ」と言う。  家康もまた、よく見れば旗の隅に細字で小さく「棄旗」と書いてあった。 「実に武略の人よ」と家康は真田幸村に対して讃嘆したとある。  家康の軍が、こんな失敗を重ねてぐずぐずしている間に、幸村は軍を勝曼院の前から石之華表の西まで三隊に備え旗馬印を竜粧に押し立てていた。  殺気が天を突いて、黒雲が巻き上がるようだった。  太陽も登ってきて、いよいよ合戦が始まろうとしたその時、幸村は一子大助を呼んで「お前は城に戻って、君主である秀頼の最後を見届けた後に死ぬがよい」と言った。 だが大助は「そのことは他の家来にまかせておけばいいじゃないか」と、中々聞いてくれなかった。 そして、「あくまで父の最期を見届けたい」と言うのを説得してやっと城中に帰らせた。  幸村は大助の去っていく後ろ姿をみながら「昨日誉田にて痛手を負ったが、弱ってるようにも見えないな、あれな最後まで人に笑われることもないだろう、安心した」と言って、涙したという。  幸村はなぜ大助を城に返して秀頼の最後を見届けさせたのか。  その心の底には、もし秀頼の命が助かるような事があれば、大助をもう一度世に出したいという親心が動いていた。  原隼人との会合の時にも「息子に、一度も人らしい事をさせないで殺すのが残念だ」と述懐している。
家康は「棄旗」と書かれた文字を見てどうしましたか。
「実に武略の人よ」と家康は真田幸村に対して讃嘆したとある。
JCRRAG_012247
歴史
夜がほんのりと明け始めた。 そこで東の門を覗いてみると、中は静まり返って、人の気配もなかった。 なんだろう、と言い合いながら東の門を開いて味方を通そうとしている所へ、越前勢の先手がやっとのところで押し寄せて来た。  大和川に流された吉田修理亮に代わって、本多飛騨守、松平壱岐守達を含む二千余騎の軍勢である。  だが石川や宮木は、これを真田勢が来襲してきたのだと思い違ってしまい、凄まじい同志討ちがここに始まった。  石川や宮木質が葵の紋に気付いた時は、すでに手の施しようのないほどの激しい戦いになっていた。 ようやくのことで彼等が兜を脱いで、大地にひざまずいたので、越前勢も静まった。  しかしこんな不始末が家康に知られてはどんなことになるかもわからないとあって、彼等はその場を繕うために雑兵の首を十三ほど切り取り、そこにあった真田の旗を証拠として付けて、家康に差し出した。  家康は非常に喜んで「真田ほどの者が旗を捨てるとはよほどのことよ」と褒めたたえ「その旗を家宝にせよ」とそばにいた尾張義直卿に話した。  義直は、丁重に受け取ってその旗をよく見たが、顔色が変わり「これは家宝にはなりませぬ」と言う。  家康もまた、よく見れば旗の隅に細字で小さく「棄旗」と書いてあった。 「実に武略の人よ」と家康は真田幸村に対して讃嘆したとある。  家康の軍が、こんな失敗を重ねてぐずぐずしている間に、幸村は軍を勝曼院の前から石之華表の西まで三隊に備え旗馬印を竜粧に押し立てていた。  殺気が天を突いて、黒雲が巻き上がるようだった。  太陽も登ってきて、いよいよ合戦が始まろうとしたその時、幸村は一子大助を呼んで「お前は城に戻って、君主である秀頼の最後を見届けた後に死ぬがよい」と言った。 だが大助は「そのことは他の家来にまかせておけばいいじゃないか」と、中々聞いてくれなかった。 そして、「あくまで父の最期を見届けたい」と言うのを説得してやっと城中に帰らせた。  幸村は大助の去っていく後ろ姿をみながら「昨日誉田にて痛手を負ったが、弱ってるようにも見えないな、あれな最後まで人に笑われることもないだろう、安心した」と言って、涙したという。  幸村はなぜ大助を城に返して秀頼の最後を見届けさせたのか。  その心の底には、もし秀頼の命が助かるような事があれば、大助をもう一度世に出したいという親心が動いていた。  原隼人との会合の時にも「息子に、一度も人らしい事をさせないで殺すのが残念だ」と述懐している。
真田幸村が大助を城に返した理由はなんですか。
もし秀頼の命が助かるような事があれば、大助をもう一度世に出したいという親心が動いていた。
JCRRAG_012248
歴史
真田幸村の最期の戦いは越前勢の大軍を真っ向に受ける形で開始された。天王寺・岡山の戦いである。  幸村は何度も越前勢をなやませながら、天王寺と一心寺との間の竜の丸で待機して兵士達に食料を食べさせた。  幸村はここでひとまず休憩をいれて、その間に明石掃部助全登をして今宮表より阿部野へ迂回させて、家康の本陣を後より襲おうとしたが、この計画は松平武蔵守の軍勢に邪魔されてなかなかできなかった。  そこで、幸村は毛利勝永と話し合って、いよいよ秀頼公に出陣してもらう事をお願いしようと決めた。 秀頼公が御旗や御馬印を玉造口まで押し出して、敵の勢力を割いて明石の軍を目的地に進ませる計画だった。 真田の穴山小助、毛利の古林一平次達がその緊急の使者として城内へ走った。  この使者たちが行き来している不穏な動きを察知したのが、越前方の監使である榊原飛騨守である。 飛騨守は「今こそ攻撃する時だ、遅れたら必ず後ろから追撃されるだろう!」と松平忠直にアドバイスした。  松平忠直は早速、舎弟である伊予守忠昌、出羽守直次に左右の両軍を率いて、二万以上の騎馬を編成して押し寄せたが、真田幸村は「しばらく待って戦おう」と、味方の準備が整うのを待ちながら動かず戦っていた。  すると意外にも、本多忠政、松平忠明ら、渡辺大谷達が切り崩しながら真田の陣へ駆け込んで来た。  また水野勝成等も、昨日の敗北を取り返そうと、勝曼院の西の方から六百人ほど、鬨の声を挙げて攻めてきた。 幸村は、ついに三方から敵を受けたのである。 「もはやこれまでだな」と意を決して、兜の忍び緒を増花形結び、これは討ち死にする時の結び方である。馬の上にて鎧の上帯を締め、秀頼公より頂いた緋縮緬の陣羽織をさっと着流して、金の采配を手に取って敵に向かっていったと言う。  徳川は三方の軍勢を合わせて三万五千人、真田勢はわずかに二千人余り。 本来なら徳川が圧倒的有利にも関わらず戦況がかんばしくないのである。 家康は気を揉んで、稲富喜三郎、田付兵庫達に鉄砲隊を連れて越前勢の横から真田勢を一斉射撃しろと命じたくらいである。  真田勢がいかに死闘を繰り広げていたかが良くわかるだろう。  幸村は三度の重賞を負ったところへ、この鉄砲隊の弾が左の首辺りに当たったので、落馬しそうになって鞍の前輪にしがみついた所を、忠直の部下の西尾仁右衛門が槍で突いたので、幸村はドウと馬から落ちた。  西尾はその首を取ったが、誰の首なのかわからなかった。  後にその兜が、かつて原隼人に話したとおりの物であったので、口を開いて確認してみると、前歯が二本欠けていたので、これこそが幸村の首級と分かった。  西尾はバカだったので、その時も太刀を取って帰らなかったが、太刀は後に越前家の斎藤勘四郎が、これを貰って帰った。  幸村の首級と太刀は、後に兄の信幸が受け取ったので、信幸は首級は高野山天徳院に埋葬し、太刀は自らが受け取り真田家の家宝としたと言う。  一子大助は、城中において、秀頼公の最期を見届けた後、父の言葉に従ってすぐに自害した。
真田幸村はなぜ「もはやこれまでだな」と思ったのか。
幸村は、ついに三方から敵を受けたのである。
JCRRAG_012249
歴史
真田幸村の最期の戦いは越前勢の大軍を真っ向に受ける形で開始された。天王寺・岡山の戦いである。  幸村は何度も越前勢をなやませながら、天王寺と一心寺との間の竜の丸で待機して兵士達に食料を食べさせた。  幸村はここでひとまず休憩をいれて、その間に明石掃部助全登をして今宮表より阿部野へ迂回させて、家康の本陣を後より襲おうとしたが、この計画は松平武蔵守の軍勢に邪魔されてなかなかできなかった。  そこで、幸村は毛利勝永と話し合って、いよいよ秀頼公に出陣してもらう事をお願いしようと決めた。 秀頼公が御旗や御馬印を玉造口まで押し出して、敵の勢力を割いて明石の軍を目的地に進ませる計画だった。 真田の穴山小助、毛利の古林一平次達がその緊急の使者として城内へ走った。  この使者たちが行き来している不穏な動きを察知したのが、越前方の監使である榊原飛騨守である。 飛騨守は「今こそ攻撃する時だ、遅れたら必ず後ろから追撃されるだろう!」と松平忠直にアドバイスした。  松平忠直は早速、舎弟である伊予守忠昌、出羽守直次に左右の両軍を率いて、二万以上の騎馬を編成して押し寄せたが、真田幸村は「しばらく待って戦おう」と、味方の準備が整うのを待ちながら動かず戦っていた。  すると意外にも、本多忠政、松平忠明ら、渡辺大谷達が切り崩しながら真田の陣へ駆け込んで来た。  また水野勝成等も、昨日の敗北を取り返そうと、勝曼院の西の方から六百人ほど、鬨の声を挙げて攻めてきた。 幸村は、ついに三方から敵を受けたのである。 「もはやこれまでだな」と意を決して、兜の忍び緒を増花形結び、これは討ち死にする時の結び方である。馬の上にて鎧の上帯を締め、秀頼公より頂いた緋縮緬の陣羽織をさっと着流して、金の采配を手に取って敵に向かっていったと言う。  徳川は三方の軍勢を合わせて三万五千人、真田勢はわずかに二千人余り。 本来なら徳川が圧倒的有利にも関わらず戦況がかんばしくないのである。 家康は気を揉んで、稲富喜三郎、田付兵庫達に鉄砲隊を連れて越前勢の横から真田勢を一斉射撃しろと命じたくらいである。  真田勢がいかに死闘を繰り広げていたかが良くわかるだろう。  幸村は三度の重賞を負ったところへ、この鉄砲隊の弾が左の首辺りに当たったので、落馬しそうになって鞍の前輪にしがみついた所を、忠直の部下の西尾仁右衛門が槍で突いたので、幸村はドウと馬から落ちた。  西尾はその首を取ったが、誰の首なのかわからなかった。  後にその兜が、かつて原隼人に話したとおりの物であったので、口を開いて確認してみると、前歯が二本欠けていたので、これこそが幸村の首級と分かった。  西尾はバカだったので、その時も太刀を取って帰らなかったが、太刀は後に越前家の斎藤勘四郎が、これを貰って帰った。  幸村の首級と太刀は、後に兄の信幸が受け取ったので、信幸は首級は高野山天徳院に埋葬し、太刀は自らが受け取り真田家の家宝としたと言う。  一子大助は、城中において、秀頼公の最期を見届けた後、父の言葉に従ってすぐに自害した。
真田幸村の死後、幸村の首と太刀はどうなりましたか。
幸村の首級と太刀は、後に兄の信幸が受け取ったので、信幸は首級は高野山天徳院に埋葬し、太刀は自らが受け取り真田家の家宝とした。
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歴史
真田幸村の最期の戦いは越前勢の大軍を真っ向に受ける形で開始された。天王寺・岡山の戦いである。  幸村は何度も越前勢をなやませながら、天王寺と一心寺との間の竜の丸で待機して兵士達に食料を食べさせた。  幸村はここでひとまず休憩をいれて、その間に明石掃部助全登をして今宮表より阿部野へ迂回させて、家康の本陣を後より襲おうとしたが、この計画は松平武蔵守の軍勢に邪魔されてなかなかできなかった。  そこで、幸村は毛利勝永と話し合って、いよいよ秀頼公に出陣してもらう事をお願いしようと決めた。 秀頼公が御旗や御馬印を玉造口まで押し出して、敵の勢力を割いて明石の軍を目的地に進ませる計画だった。 真田の穴山小助、毛利の古林一平次達がその緊急の使者として城内へ走った。  この使者たちが行き来している不穏な動きを察知したのが、越前方の監使である榊原飛騨守である。 飛騨守は「今こそ攻撃する時だ、遅れたら必ず後ろから追撃されるだろう!」と松平忠直にアドバイスした。  松平忠直は早速、舎弟である伊予守忠昌、出羽守直次に左右の両軍を率いて、二万以上の騎馬を編成して押し寄せたが、真田幸村は「しばらく待って戦おう」と、味方の準備が整うのを待ちながら動かず戦っていた。  すると意外にも、本多忠政、松平忠明ら、渡辺大谷達が切り崩しながら真田の陣へ駆け込んで来た。  また水野勝成等も、昨日の敗北を取り返そうと、勝曼院の西の方から六百人ほど、鬨の声を挙げて攻めてきた。 幸村は、ついに三方から敵を受けたのである。 「もはやこれまでだな」と意を決して、兜の忍び緒を増花形結び、これは討ち死にする時の結び方である。馬の上にて鎧の上帯を締め、秀頼公より頂いた緋縮緬の陣羽織をさっと着流して、金の采配を手に取って敵に向かっていったと言う。  徳川は三方の軍勢を合わせて三万五千人、真田勢はわずかに二千人余り。 本来なら徳川が圧倒的有利にも関わらず戦況がかんばしくないのである。 家康は気を揉んで、稲富喜三郎、田付兵庫達に鉄砲隊を連れて越前勢の横から真田勢を一斉射撃しろと命じたくらいである。  真田勢がいかに死闘を繰り広げていたかが良くわかるだろう。  幸村は三度の重賞を負ったところへ、この鉄砲隊の弾が左の首辺りに当たったので、落馬しそうになって鞍の前輪にしがみついた所を、忠直の部下の西尾仁右衛門が槍で突いたので、幸村はドウと馬から落ちた。  西尾はその首を取ったが、誰の首なのかわからなかった。  後にその兜が、かつて原隼人に話したとおりの物であったので、口を開いて確認してみると、前歯が二本欠けていたので、これこそが幸村の首級と分かった。  西尾はバカだったので、その時も太刀を取って帰らなかったが、太刀は後に越前家の斎藤勘四郎が、これを貰って帰った。  幸村の首級と太刀は、後に兄の信幸が受け取ったので、信幸は首級は高野山天徳院に埋葬し、太刀は自らが受け取り真田家の家宝としたと言う。  一子大助は、城中において、秀頼公の最期を見届けた後、父の言葉に従ってすぐに自害した。
家康はなぜ気を揉んだのか。
徳川は三方の軍勢を合わせて三万五千人、真田勢はわずかに二千人余り。本来なら徳川が圧倒的有利にも関わらず戦況がかんばしくないのである。
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歴史
 ワットの蒸気機関が蒸気の力を利用したものであることは、誰も知っている通りですが、蒸気が物を動かすだけの力をもっているということは非常に古くから知られていたのですし、それを利用しようと考えた人々もたくさんにあったのでした。それでも一つの立派な機械が発明されるまでには、いろいろな段階を経て、だんだんにそこに到達しなくてはならないので、蒸気機関のでき上がって来た道筋などは、それのよい例を示しているといってよいのでしょう。  蒸気を利用したものの中で最も古く知られているのは、西洋紀元前百数十年という頃にアレキサンドリアのヘロンという人のつくった一つの装置です。この人はいろいろな機械を工夫したので名だかいのですが、蒸気をつかって球をぐるぐるまわして見せたのでした。この球の内部は中空になっているので、その両側にそれぞれ管をつけておいて、水の沸騰する器のなかから出てくる蒸気が管を通って球に入りこむようにし、別にこの球には蒸気のふき出る短い二つの出口をつけておくのです。そうすると蒸気がはげしい勢いで球にはいって、それから出口から噴き出るにつれて、球はぐるぐるまわり出すのです。  これは玩具のようなものでありますが、ともかく蒸気の力で球がまわり出すので、そこで後になってこれを機械に利用しようという考えが起こって来たのも当然であったのでしょう。もっともそれは十六世紀から十七世紀にわたる頃になってからのことなのですが、イタリアのブランカとか、フランスのド・コウというような人たちがそれについていろいろ工夫を凝らしたということです。それでもこれ等はまだ実際の役に立つまでにゆかなかったので、さらにもっとよい考えを必要としたのですが、それについて最初にいくらかの成功を果たしたのはフランスのドニ・パパンでした。パパンは一六四七年の生まれで、アンジェの大学で医学を修めた後にパリで学位を得たのでしたが、宗教の上で新教を信じていたのでその頃の世間から迫害を受け、イギリスのロンドンに赴いて学問を続けました。そして間もなく偉い学者を集めている王立協会の幹事にもなったのを見れば、その才能にすぐれていたこともわかるのです。この頃から彼は蒸気の利用を考えていたとの事ですが、一六八七年にはドイツのヘッセンの領主に招かれて、マールブルグの大学の数学の教授になりました。しかし彼の関心はやはり蒸気の問題にあったので、それについていろいろ実験を行った結果、次のようなものをつくり上げました。  それは気筒の底に水を入れ、それを熱して蒸気としたので、そうすると筒の上の方からはめられたピストンがこの蒸気の力で持ち上げられますが、蒸気が冷えて再び凝結するとこのピストンは外からの大気の圧力でまた下って来るのです。  今から見れば、これはごく幼稚な機械にちがいありませんが、しかし蒸気のはたらきを利用した最初のものと見なされる点で重要な意味をもっているのです。その頃鉱山の採掘が盛んに行われ出すにつれて、深く掘りさげた鉱坑のなかに水がたまって、その水を汲み出すのにどこでも苦しんでいたので、パパンはこの機械を排水に使ったらよかろうと考えたのでしたが、これはまだうまく成功しませんでした。その後パパンは一七〇七年にロンドンへ戻りましたけれども、その頃の世間にさほど認められないで、一七一二年に不遇のうちに亡くなりました。  ところで実際に鉱山の排水につかうことのできるような蒸気機関を始めてつくり出したのは、イギリスのトーマス・セーヴァリーという人でした。この人は一六五〇年頃に生まれ、長じてからは軍隊に入っていろいろな技術に熟達するようになったとのことです。蒸気機関をつくってその特許をとったのは一六九八年でありましたが、パパンのよりは構造もいくらか複雑になっていて、うまくつくられていました。それでこれをつかってかなり深い坑から水を汲み出すことも出来、その頃の鉱山所有者たちに大いに喜ばれたということです。もっともセーヴァリーの最初の機関はいくらか不完全であったので、それを改良するのにトーマス・ニューコメンという人の力を借りたという話がありますが、それはどれほど確かであるかわかりません。  それにしても、ともかくセーヴァリーのよりも一層完全なものをこのトーマス・ニューコメンがつくったことだけは確かなことでした。ニューコメンは一六六三年に生まれて一七二九年に亡くなった人ですが、鍜冶屋を商売にしていましたし、また生地がセーヴァリーの住んでいた場所とはさほど離れてもいなかったので、セーヴァリーの蒸気機関のことを知っていたのには違いないのです。それでさらにこれに工夫を加えて改良を施し、一層役に立つものにすることができたのでした。もっともそれには当時の王立協会の会員で、名だかい科学者であったロバート・フックという人がいろいろと助言をしてくれたという話も伝わっています。そうして一七〇五年にその機関がうまく出来上がったので、その後諸所の鉱山でそれが使われることとなったのでした。
ドニ・パパンが作った蒸気を使った機械はなぜ非常に意味があるのですか。
蒸気のはたらきを利用した最初のものと見なされる点で重要な意味をもっているのです。
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歴史
蒸気機関がこのようにしてだんだん実用に供せられるようになりましたが、この頃のものはいかにも不経済のものでありました。なぜかといえば気筒のなかの熱い蒸気を外から水を注ぎ込んでさましてしまうというのですから、また次に蒸気を送るのにつけても一時冷たくしてしまうのはそれだけ熱をむだにすることになるからです。そのほかに蒸気の力の利用も十分にはされていないので、その強い力を直接つかう方法がまた考えられなくてはならなかったのでした。しかしこれらの点の改良はなかなかむずかしかったので、その後いくらかずつの考案を行った人たちもいたのでしたが、結局ワットの出るまではうまく成功しなかったのです。  ジェームズ・ワットは一七三六年の一月十九日にイギリスのグリノックという小さな港町で生まれました。父親は大工でしたが、そのほかの商売も同時に行っていたとのことです。ワットは幼い頃身体が弱かったのですが、それでも土地の学校を終えて、その後は父親の仕事場で働いていました。ところが、その時分からどことなく指先が器用で、それが職人たちの間でも評判になったといわれています。つまりこの幼い頃からの彼の天分がそういうところに現れていたにちがいないのです。  ところが一七五三年には母親が亡くなり、その上父の商売がどうしてもうまくゆかなくなったので、その翌年ワットはグラスゴーにある母方の親戚のもとへ送られてしまいました。彼はそこで何とかして身を立てたいと思って、親戚を通じてグラスゴー大学のディック教授に頼みましたところ、教授は大いにこれに同情してロンドンの知人に紹介してくれました。その頃のワットの希望は数学器具の製造を行いたいことにあったので、いろいろ探しまわってようやくそういう場所を見つけ出して徒弟になりました。そして熱心にそれを学んで、普通には三、四年もかかることを一年足らずで覚えてしまうという有様でした。  かくて一七五七年には再びグラスゴーに戻りましたが、そこでは大学のなかに店を開いて数学器具製造を行うことを許されたので、彼は大いに喜び、それに励みました。それでもその生計はかなりに困難であったらしいので、最初はずいぶん苦しんだようでしたが、数年後にはジョン・クレイグという人と共に共同経営をするようになり、ようやくそれも楽になったのでした。そして一七六三年にはトロンゲート街に自分だけの店を開くことさえできるようになりました。
ジェームズ・ワットはどこで生まれましたか。
ジェームズ・ワットはイギリスのグリノックという小さな港町で生まれました。
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歴史
パストゥールの学問上の仕事は非常にたくさんあって、ここでそれを一々こまかくお話ししているわけにはゆきませんが、ごく大体をいえば微生物に関する研究と、それで起される病気からの免疫の方法を明らかにしたことであります。 まず微生物が自然に発生するものではないということに対しては、たとえ空気があっても、それが完全にきれいであれば微生物が決して発生しないということを、実験で示しました。 普通の空気のなかにはどこにでも腐敗をおこさせる細菌がいるのですが、場所によってはそれの少ない処もあるので、人家から離れたへんぴな場所や高い山の上ではそうであることを実験で示しました。 そして高さ三千メートルもあるモンブランの山の頂きでは腐敗がほとんど起らないことも確かめました。 またこの実験に続いて、酒類を醗酵させる働きがすべて微生物によること、しかもその際にも微生物にいろいろの種類があって、その働きのめいめいちがうことなどを明らかにしました。 これらの研究で腐敗とか醗酵とかのはたらきがすべて微生物によって起されることが確かになったので、これは学問の上で大きな功績の一つであります。またパストゥールは、このような醗酵がいつもある温度の範囲のなかでのみ起こることを示したので、実用の上に意外に大きな効果を挙げるようになったのでした。 それは元来フランスでは葡萄酒の醸造が盛んに行われていて、それが重要な産物となっていたのでしたが、醸造家が時々失敗して腐敗させたり風味をそこなわせることがあって困っていたのに、パストゥールはそれが醗酵菌の作用によることを示し、摂氏五十度乃至ないし六十度の温度に数分間熱しさえすればこの菌を取り除くことのできるのを明らかにしたからです。 それまでは葡萄酒を保存するのに止むを得ずアルコールを混ぜていたのでしたが、それでは値段も高くなり、また健康にも害があったのです。ところがパストゥールの方法で醗酵菌を除いてしまえば、ごく簡単に保存が出来るので、醸造家にはこの上もなく都合よくなり、以来この方法はパストゥーリゼーションと呼ばれて広く行われるようになりました。 またこの頃フランスには蚕にペブラン病と名づけられた一種の病気が流行し出してだんだんに全国にひろがってそのおかげで養蚕業がまるでみじめな有様になり、ある地方では桑を植えることもやめてしまったので、土地も荒れ果てるほどになりました。 それで政府ではこの対策を講ずる必要に迫られ、パストゥールにその病気の研究を依嘱したので、彼はそれから五年間いろいろな苦心を重ねてこれをしらべた末に、ついに蚕から出る蛾のからだのなかに病原となる微生物のあるのを見つけ出し、その後この病気の予防法をも明らかにしました。このおかげでフランスの養蚕業も以前のように回復して再び盛んになったのは、フランスの産業に対する大きな貢献であったといわなければなりませんが、それと共に学問の上でも、病原体としての微生物を確実にした点ですばらしい功績を示したのでありました。  実際にこの時までは微生物がいろいろな病原になるということもよくわかっていなかったのですから、医者が外科手術を行う場合にも一向に消毒を行わないで平気ですましていたのでしたが、ここで消毒の必要であることもわかり、そこで消毒には石炭酸をつかえばよいということをイギリスの外科医ジョセフ・リスターが見つけ出しました。これは一八六七年のことでしたが、その後数年経って普仏戦争が起こったので、そのおりの負傷者の手当にはそれが非常に役立ったのでした。
フランス政府がパストゥールにぺブラン病の研究を依嘱したらどうなりましたか。
彼はそれから五年間いろいろな苦心を重ねてこれをしらべた末に、ついに蚕から出る蛾のからだのなかに病原となる微生物のあるのを見つけ出し、その後この病気の予防法をも明らかにしました。
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歴史
ワットはその後いろいろな仕事を行ったのですが、蒸気機関に興味をもつようになったのは、ちょうど一七六三年の頃にグラスゴー大学からニューコメンの蒸気機関の模型を修繕するように頼まれたことにありました。つまりこの事が後のワットの発明を結果することにもなったのですから、まことに運命というものは不思議でもあります。  ワットはそれまでは蒸気のはたらきについていくらの知識ももっていなかったのでしたが、この模型をしらべてゆくうちにいろいろな事を知りました。それでともかく模型を修理したものの、この機関にはいろいろな欠点があることもわかり、それを何とか改良したいと思い立ったのでした。最もいけないことは、上にも述べましたように気筒のなかの熱い蒸気に水を注ぎ込んで冷やしてしまうことですから、ワットはその蒸気をよその場所に導いて来て、そこで冷やすようにしたならよかろうと考え、気筒から別に管をつけて他の器につなぎ、その器を水で冷やすようにしました。これは今では凝結器と言われているものです。この方法で蒸気はよそで冷えることになりますから、気筒の温度は下がらないですむことになりました。つまりそれだけ蒸気を出すための燃料が節約されることになるので、これは実に蒸気機関にとって重要な意味をもっているのです。ワットはこの考案に対して一七六五年に特許を得ました。この他に、ワットの改良のもう一つの大切な事は、ピストンを蒸気の力で一方にだけ動かす代わりに、両方に往復するように工夫したことです。それには、つまり蒸気をピストンの両側に交互に入れるようにすればよいので、そのようにして一度は蒸気がピストンの下側に入ってそれを上方に押し上げ、次には上側に入って下方に押しさげるようにするのです。おまけに、もしそれが出来さえすれば、気筒を上下に立てておくことも必要でなくなり、これを横にしておいてピストンを左右に動かすこともでき、それにれて蒸気の力を十分に強くしてピストンの運動を活溌にさせることができるわけです。しかしこれを実際に行って、それに成功するまでには、さまざまの苦心を必要としたので、それでも一七六九年になってようやく満足なものが出来上がり、その特許を取ることもできました。もちろんそれから後にもワットはいろいろな点で、その機関を改良したので、それはほとんどそのために一生涯を費したといってもよいくらいでありました。  ところがこれ等の発明に凝っていた一方では、それだけ生活にも困ることになったので、土地測量の仕事を行ったり、そのほかいろいろな事をしなければならなかったのでした。それでもワットを熱心に感じ入った人たちが彼を助けてくれたので、そのおかげで成功したといってもよいのでしょう。最初は硫酸製造をやり、また炭坑の持主でもあったレーバックという人が協力してくれましたが、数年後にはこの人も財産をなくしてしまったので、それからはブールトンという人に頼って共同事業を行うことになりました。  ワットはこの外にいろいろな特許をも得ましたし、それらによって名声が漸次に高まったので、晩年には幸福に過ごすことができました。また一七八四年にはエディンバラ王立協会の会員に選ばれ、その翌年にはロンドン王立協会の会員となり、さらに一八一四年にはフランスのアカデミーの外国会員にも選ばれて、多大の名声を一身に担いました。しかし老年になったので、一八〇〇年には隠退して故郷に帰り、静かな生活を送りましたが、一八一九年の八月二十五日に八十四歳の高齢で亡くなりました。この頃にはすでにこの蒸気機関を利用した汽船や汽車もつくられて世を驚かしていたので、ワットの死は一層すべての人々から惜しまれたことでもあったのでした。ワットの遺骸はハンズワース教区にある教会の墓地に葬られましたが、一八二四年にはウェストミンスター寺院のなかにその彫像が建てられ、イギリスでの最大の栄誉にもなったのでした。そればかりでなく、最初にも述べたように、その蒸気機関のおかげで産業革命というような大きな変化を社会に与えたということは、実に驚くべきことで、それに比較される程の人はほとんど他にはないといってもよいのでありましょう。これもワットのひたすら真摯な努力が実を結んだものにほかならないのです。
ワットの凝結器は蒸気機関にとってどれだけ重要でしたか。
ワットはその蒸気をよその場所に導いて来て、そこで冷やすようにしたならよかろうと考え、気筒から別に管をつけて他の器につなぎ、その器を水で冷やすようにしました。これは今では凝結器と言われているものです。この方法で蒸気はよそで冷えることになりますから、気筒の温度は下がらないですむことになりました。つまりそれだけ蒸気を出すための燃料が節約されることになるので、これは実に蒸気機関にとって重要な意味をもっているのです。
JCRRAG_012255
歴史
ワットはその後いろいろな仕事を行ったのですが、蒸気機関に興味をもつようになったのは、ちょうど一七六三年の頃にグラスゴー大学からニューコメンの蒸気機関の模型を修繕するように頼まれたことにありました。つまりこの事が後のワットの発明を結果することにもなったのですから、まことに運命というものは不思議でもあります。  ワットはそれまでは蒸気のはたらきについていくらの知識ももっていなかったのでしたが、この模型をしらべてゆくうちにいろいろな事を知りました。それでともかく模型を修理したものの、この機関にはいろいろな欠点があることもわかり、それを何とか改良したいと思い立ったのでした。最もいけないことは、上にも述べましたように気筒のなかの熱い蒸気に水を注ぎ込んで冷やしてしまうことですから、ワットはその蒸気をよその場所に導いて来て、そこで冷やすようにしたならよかろうと考え、気筒から別に管をつけて他の器につなぎ、その器を水で冷やすようにしました。これは今では凝結器と言われているものです。この方法で蒸気はよそで冷えることになりますから、気筒の温度は下がらないですむことになりました。つまりそれだけ蒸気を出すための燃料が節約されることになるので、これは実に蒸気機関にとって重要な意味をもっているのです。ワットはこの考案に対して一七六五年に特許を得ました。この他に、ワットの改良のもう一つの大切な事は、ピストンを蒸気の力で一方にだけ動かす代わりに、両方に往復するように工夫したことです。それには、つまり蒸気をピストンの両側に交互に入れるようにすればよいので、そのようにして一度は蒸気がピストンの下側に入ってそれを上方に押し上げ、次には上側に入って下方に押しさげるようにするのです。おまけに、もしそれが出来さえすれば、気筒を上下に立てておくことも必要でなくなり、これを横にしておいてピストンを左右に動かすこともでき、それにれて蒸気の力を十分に強くしてピストンの運動を活溌にさせることができるわけです。しかしこれを実際に行って、それに成功するまでには、さまざまの苦心を必要としたので、それでも一七六九年になってようやく満足なものが出来上がり、その特許を取ることもできました。もちろんそれから後にもワットはいろいろな点で、その機関を改良したので、それはほとんどそのために一生涯を費したといってもよいくらいでありました。  ところがこれ等の発明に凝っていた一方では、それだけ生活にも困ることになったので、土地測量の仕事を行ったり、そのほかいろいろな事をしなければならなかったのでした。それでもワットを熱心に感じ入った人たちが彼を助けてくれたので、そのおかげで成功したといってもよいのでしょう。最初は硫酸製造をやり、また炭坑の持主でもあったレーバックという人が協力してくれましたが、数年後にはこの人も財産をなくしてしまったので、それからはブールトンという人に頼って共同事業を行うことになりました。  ワットはこの外にいろいろな特許をも得ましたし、それらによって名声が漸次に高まったので、晩年には幸福に過ごすことができました。また一七八四年にはエディンバラ王立協会の会員に選ばれ、その翌年にはロンドン王立協会の会員となり、さらに一八一四年にはフランスのアカデミーの外国会員にも選ばれて、多大の名声を一身に担いました。しかし老年になったので、一八〇〇年には隠退して故郷に帰り、静かな生活を送りましたが、一八一九年の八月二十五日に八十四歳の高齢で亡くなりました。この頃にはすでにこの蒸気機関を利用した汽船や汽車もつくられて世を驚かしていたので、ワットの死は一層すべての人々から惜しまれたことでもあったのでした。ワットの遺骸はハンズワース教区にある教会の墓地に葬られましたが、一八二四年にはウェストミンスター寺院のなかにその彫像が建てられ、イギリスでの最大の栄誉にもなったのでした。そればかりでなく、最初にも述べたように、その蒸気機関のおかげで産業革命というような大きな変化を社会に与えたということは、実に驚くべきことで、それに比較される程の人はほとんど他にはないといってもよいのでありましょう。これもワットのひたすら真摯な努力が実を結んだものにほかならないのです。
ワットは蒸気機関の発明によって名声を担いましたか。
一七八四年にはエディンバラ王立協会の会員に選ばれ、その翌年にはロンドン王立協会の会員となり、さらに一八一四年にはフランスのアカデミーの外国会員にも選ばれて、多大の名声を一身に担いました。
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歴史
ワットはその後いろいろな仕事を行ったのですが、蒸気機関に興味をもつようになったのは、ちょうど一七六三年の頃にグラスゴー大学からニューコメンの蒸気機関の模型を修繕するように頼まれたことにありました。つまりこの事が後のワットの発明を結果することにもなったのですから、まことに運命というものは不思議でもあります。  ワットはそれまでは蒸気のはたらきについていくらの知識ももっていなかったのでしたが、この模型をしらべてゆくうちにいろいろな事を知りました。それでともかく模型を修理したものの、この機関にはいろいろな欠点があることもわかり、それを何とか改良したいと思い立ったのでした。最もいけないことは、上にも述べましたように気筒のなかの熱い蒸気に水を注ぎ込んで冷やしてしまうことですから、ワットはその蒸気をよその場所に導いて来て、そこで冷やすようにしたならよかろうと考え、気筒から別に管をつけて他の器につなぎ、その器を水で冷やすようにしました。これは今では凝結器と言われているものです。この方法で蒸気はよそで冷えることになりますから、気筒の温度は下がらないですむことになりました。つまりそれだけ蒸気を出すための燃料が節約されることになるので、これは実に蒸気機関にとって重要な意味をもっているのです。ワットはこの考案に対して一七六五年に特許を得ました。この他に、ワットの改良のもう一つの大切な事は、ピストンを蒸気の力で一方にだけ動かす代わりに、両方に往復するように工夫したことです。それには、つまり蒸気をピストンの両側に交互に入れるようにすればよいので、そのようにして一度は蒸気がピストンの下側に入ってそれを上方に押し上げ、次には上側に入って下方に押しさげるようにするのです。おまけに、もしそれが出来さえすれば、気筒を上下に立てておくことも必要でなくなり、これを横にしておいてピストンを左右に動かすこともでき、それにれて蒸気の力を十分に強くしてピストンの運動を活溌にさせることができるわけです。しかしこれを実際に行って、それに成功するまでには、さまざまの苦心を必要としたので、それでも一七六九年になってようやく満足なものが出来上がり、その特許を取ることもできました。もちろんそれから後にもワットはいろいろな点で、その機関を改良したので、それはほとんどそのために一生涯を費したといってもよいくらいでありました。  ところがこれ等の発明に凝っていた一方では、それだけ生活にも困ることになったので、土地測量の仕事を行ったり、そのほかいろいろな事をしなければならなかったのでした。それでもワットを熱心に感じ入った人たちが彼を助けてくれたので、そのおかげで成功したといってもよいのでしょう。最初は硫酸製造をやり、また炭坑の持主でもあったレーバックという人が協力してくれましたが、数年後にはこの人も財産をなくしてしまったので、それからはブールトンという人に頼って共同事業を行うことになりました。  ワットはこの外にいろいろな特許をも得ましたし、それらによって名声が漸次に高まったので、晩年には幸福に過ごすことができました。また一七八四年にはエディンバラ王立協会の会員に選ばれ、その翌年にはロンドン王立協会の会員となり、さらに一八一四年にはフランスのアカデミーの外国会員にも選ばれて、多大の名声を一身に担いました。しかし老年になったので、一八〇〇年には隠退して故郷に帰り、静かな生活を送りましたが、一八一九年の八月二十五日に八十四歳の高齢で亡くなりました。この頃にはすでにこの蒸気機関を利用した汽船や汽車もつくられて世を驚かしていたので、ワットの死は一層すべての人々から惜しまれたことでもあったのでした。ワットの遺骸はハンズワース教区にある教会の墓地に葬られましたが、一八二四年にはウェストミンスター寺院のなかにその彫像が建てられ、イギリスでの最大の栄誉にもなったのでした。そればかりでなく、最初にも述べたように、その蒸気機関のおかげで産業革命というような大きな変化を社会に与えたということは、実に驚くべきことで、それに比較される程の人はほとんど他にはないといってもよいのでありましょう。これもワットのひたすら真摯な努力が実を結んだものにほかならないのです。
ジェームズワットは蒸気機関の発明で金持ちになりましたか。
これ等の発明に凝っていた一方では、それだけ生活にも困ることになったので、土地測量の仕事を行ったり、そのほかいろいろな事をしなければならなかったのでした。
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歴史
ワットはその後いろいろな仕事を行ったのですが、蒸気機関に興味をもつようになったのは、ちょうど一七六三年の頃にグラスゴー大学からニューコメンの蒸気機関の模型を修繕するように頼まれたことにありました。つまりこの事が後のワットの発明を結果することにもなったのですから、まことに運命というものは不思議でもあります。  ワットはそれまでは蒸気のはたらきについていくらの知識ももっていなかったのでしたが、この模型をしらべてゆくうちにいろいろな事を知りました。それでともかく模型を修理したものの、この機関にはいろいろな欠点があることもわかり、それを何とか改良したいと思い立ったのでした。最もいけないことは、上にも述べましたように気筒のなかの熱い蒸気に水を注ぎ込んで冷やしてしまうことですから、ワットはその蒸気をよその場所に導いて来て、そこで冷やすようにしたならよかろうと考え、気筒から別に管をつけて他の器につなぎ、その器を水で冷やすようにしました。これは今では凝結器と言われているものです。この方法で蒸気はよそで冷えることになりますから、気筒の温度は下がらないですむことになりました。つまりそれだけ蒸気を出すための燃料が節約されることになるので、これは実に蒸気機関にとって重要な意味をもっているのです。ワットはこの考案に対して一七六五年に特許を得ました。この他に、ワットの改良のもう一つの大切な事は、ピストンを蒸気の力で一方にだけ動かす代わりに、両方に往復するように工夫したことです。それには、つまり蒸気をピストンの両側に交互に入れるようにすればよいので、そのようにして一度は蒸気がピストンの下側に入ってそれを上方に押し上げ、次には上側に入って下方に押しさげるようにするのです。おまけに、もしそれが出来さえすれば、気筒を上下に立てておくことも必要でなくなり、これを横にしておいてピストンを左右に動かすこともでき、それにれて蒸気の力を十分に強くしてピストンの運動を活溌にさせることができるわけです。しかしこれを実際に行って、それに成功するまでには、さまざまの苦心を必要としたので、それでも一七六九年になってようやく満足なものが出来上がり、その特許を取ることもできました。もちろんそれから後にもワットはいろいろな点で、その機関を改良したので、それはほとんどそのために一生涯を費したといってもよいくらいでありました。  ところがこれ等の発明に凝っていた一方では、それだけ生活にも困ることになったので、土地測量の仕事を行ったり、そのほかいろいろな事をしなければならなかったのでした。それでもワットを熱心に感じ入った人たちが彼を助けてくれたので、そのおかげで成功したといってもよいのでしょう。最初は硫酸製造をやり、また炭坑の持主でもあったレーバックという人が協力してくれましたが、数年後にはこの人も財産をなくしてしまったので、それからはブールトンという人に頼って共同事業を行うことになりました。  ワットはこの外にいろいろな特許をも得ましたし、それらによって名声が漸次に高まったので、晩年には幸福に過ごすことができました。また一七八四年にはエディンバラ王立協会の会員に選ばれ、その翌年にはロンドン王立協会の会員となり、さらに一八一四年にはフランスのアカデミーの外国会員にも選ばれて、多大の名声を一身に担いました。しかし老年になったので、一八〇〇年には隠退して故郷に帰り、静かな生活を送りましたが、一八一九年の八月二十五日に八十四歳の高齢で亡くなりました。この頃にはすでにこの蒸気機関を利用した汽船や汽車もつくられて世を驚かしていたので、ワットの死は一層すべての人々から惜しまれたことでもあったのでした。ワットの遺骸はハンズワース教区にある教会の墓地に葬られましたが、一八二四年にはウェストミンスター寺院のなかにその彫像が建てられ、イギリスでの最大の栄誉にもなったのでした。そればかりでなく、最初にも述べたように、その蒸気機関のおかげで産業革命というような大きな変化を社会に与えたということは、実に驚くべきことで、それに比較される程の人はほとんど他にはないといってもよいのでありましょう。これもワットのひたすら真摯な努力が実を結んだものにほかならないのです。
ジェームズワットがウェストミンスター寺院に彫像が建てられたのはなぜか。
ワットの遺骸はハンズワース教区にある教会の墓地に葬られましたが、一八二四年にはウェストミンスター寺院のなかにその彫像が建てられ、イギリスでの最大の栄誉にもなったのでした。
JCRRAG_012258
歴史
 メンデルの名はグレゴール・ヨハンというのですが、一八二一年の七月二十二日にオーストリアのシュレジーエンにあるごく小さな村ハインツェンドルフで生まれました。家は農家でしたが、中学に当たるギムナジウムを卒業してから、ブリュンというところにある僧院で神学教育を受け、それを終えて一八四七年にそこの僧院の司祭となりました。そしてそれでともかく一人前の僧侶となったのですが、メンデルにはそのような僧職がどうも十分には気が向かないように感じられました。それで何か学問を修めたいという心がしきりに起こって来たので、遂に決心を定めて、一八五一年にオーストリーの首都であるヴィーンに赴き、そこの大学に入って、数学、物理学、および博物学を熱心に学びました。メンデルは、この時もはや三十歳にもなっているので、普通の学生とは年齢の上でもちがうわけですが、ひたすら学問を修めたいという心から、一生懸命に勉強したのでした。そして三年後に、大学を卒業してから、一八五四年にもとのブリュンの町に帰り、そこである実科学校の教師となりました。  ブリュンの町に戻るとなると、僧侶の職の方も勤めないわけにはゆかないので、それは以前のように行っていましたが、大学で修めた博物学に大いに興味を感じていたので、それからは僧院のなかに自分でいろいろの動物を飼ったり、また植物を栽培して、それらをこまかく観察することを楽しみとしました。そしてその間に遺伝の問題に不思議を感じ、これを実験して見ようと思い立ったのです。  僧院の庭はさほど広くもなかったのですが、それでも六十坪ほどの土地を利用して、えんどう豆を栽培してみました。そしてえんどう豆のいろいろな種類の間に交配を行うと、どんな雑種ができるかを、一々しらべて見ました。メンデルはこの実験を八年間もつづけて行ったということです。そしてその結果が一通りわかって来たので、一八六五年にブリュンの博物学会の会合の席で、これを発表し、その翌年にはこの学会の記要に「雑種植物の研究」という題で、論文を公にしました。これが遺伝の法則を初めて明らかにした大切な論文なのです。その他に、メンデルは柳やたんぽぽのような植物についても、また蜜蜂や鼠などの動物についてもそれぞれ交配を行って遺伝の研究をつづけていました。  このようにしてブリュンの僧院には一八六八年まで十五年間を過ごしましたがこの年に僧正の職についたので、その後は自分の研究を進めるだけの暇がなくなってしまったのは、メンデルにとっては遺憾のことであったのでしょう。それにメンデルのそれまでの研究についても、今日でこそその重大な意味を誰しもが認めているのですが、その頃の人々には一向に顧みられず、そのままに見過ごされていたのでした。これはいわばメンデルだけが時代に先んじてもいたので、やむを得ないことでもあったのでしょうが、やはり彼にとっては残念な次第でもあったわけです。ところが、そればかりではなく、僧正の職についてその仕事を忠実に行って来たのはよかったにしても、その頃政府が特別の税金をこの僧院に課したので、これを不当であるとしてメンデルは政府と争い、いかにしてもこれに屈しなかったということです。これは一八七二年頃のことでありましたが、その後いろいろとよくない出来事にであい、もともと快活でもあり友情も並みはずれて深かった性格にまでも影響して、だんだんに世の人を嫌うようになったともいわれています。そして一八八四年の一月六日に腎臓炎をわずらってなくなりました。  メンデルの研究は、かくて世間からは全く知られずに、その後も久しく埋もれていましたが、それがようやく見つけ出されたのは一九〇〇年のことで、メンデルがブリュンの学界でこれを発表してから、実に三十五年も経ってからのことでした。  どうしてメンデルの研究がこのとき発見されたかといいますと、それにはおもしろい話があるのです。ちょうどその頃、同じく遺伝について研究していた三人の学者がいました。それは、ドイツのコレンス、オーストリーのツェルマック、およびオランダのド・フリースです。この人たちの研究の結果がそれぞれ学会で発表されてみると、ふしぎにもそれらが互いに一致しているので、これは確かな事であるとして認められるようになったのでしたが、そうなると、同じ事を研究した学者が以前にもありはしなかったかということが、学界の話題となりました。そして古い論文をしらべてゆくうちに、メンデルの研究が見つけ出されたのです。そしてすでに三十五年も前に、メンデルが立派に同じ結果を出して居て、かつそれを詳しく説明していることまで、すっかりわかったのでした。それでこれをメンデルの法則とたたえるようになったのです。メンデルはつまりこのような事を何も知らないで、亡くなったのでしたが、学問の上の仕事は、それが正しければ、立派に残っていて、いつかは見つけ出されて、その偉大な栄誉をになうことのできるものであるということが、この一事によってもみごとに証拠立てられるのです。かくてメンデルは、たとえ不遇のうちに死したとしても、その名は、科学の歴史の上に限りなく燦然と輝くことでもありましょう。
メンデルはなぜ僧職を勤めていたのに学問を学ぶことにしたのですか。
メンデルにはそのような僧職がどうも十分には気が向かないように感じられました。それで何か学問を修めたいという心がしきりに起こって来たので、遂に決心を定めて、一八五一年にオーストリーの首都であるヴィーンに赴き、そこの大学に入って、数学、物理学、および博物学を熱心に学びました。
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歴史
 メンデルの名はグレゴール・ヨハンというのですが、一八二一年の七月二十二日にオーストリアのシュレジーエンにあるごく小さな村ハインツェンドルフで生まれました。家は農家でしたが、中学に当たるギムナジウムを卒業してから、ブリュンというところにある僧院で神学教育を受け、それを終えて一八四七年にそこの僧院の司祭となりました。そしてそれでともかく一人前の僧侶となったのですが、メンデルにはそのような僧職がどうも十分には気が向かないように感じられました。それで何か学問を修めたいという心がしきりに起こって来たので、遂に決心を定めて、一八五一年にオーストリーの首都であるヴィーンに赴き、そこの大学に入って、数学、物理学、および博物学を熱心に学びました。メンデルは、この時もはや三十歳にもなっているので、普通の学生とは年齢の上でもちがうわけですが、ひたすら学問を修めたいという心から、一生懸命に勉強したのでした。そして三年後に、大学を卒業してから、一八五四年にもとのブリュンの町に帰り、そこである実科学校の教師となりました。  ブリュンの町に戻るとなると、僧侶の職の方も勤めないわけにはゆかないので、それは以前のように行っていましたが、大学で修めた博物学に大いに興味を感じていたので、それからは僧院のなかに自分でいろいろの動物を飼ったり、また植物を栽培して、それらをこまかく観察することを楽しみとしました。そしてその間に遺伝の問題に不思議を感じ、これを実験して見ようと思い立ったのです。  僧院の庭はさほど広くもなかったのですが、それでも六十坪ほどの土地を利用して、えんどう豆を栽培してみました。そしてえんどう豆のいろいろな種類の間に交配を行うと、どんな雑種ができるかを、一々しらべて見ました。メンデルはこの実験を八年間もつづけて行ったということです。そしてその結果が一通りわかって来たので、一八六五年にブリュンの博物学会の会合の席で、これを発表し、その翌年にはこの学会の記要に「雑種植物の研究」という題で、論文を公にしました。これが遺伝の法則を初めて明らかにした大切な論文なのです。その他に、メンデルは柳やたんぽぽのような植物についても、また蜜蜂や鼠などの動物についてもそれぞれ交配を行って遺伝の研究をつづけていました。  このようにしてブリュンの僧院には一八六八年まで十五年間を過ごしましたがこの年に僧正の職についたので、その後は自分の研究を進めるだけの暇がなくなってしまったのは、メンデルにとっては遺憾のことであったのでしょう。それにメンデルのそれまでの研究についても、今日でこそその重大な意味を誰しもが認めているのですが、その頃の人々には一向に顧みられず、そのままに見過ごされていたのでした。これはいわばメンデルだけが時代に先んじてもいたので、やむを得ないことでもあったのでしょうが、やはり彼にとっては残念な次第でもあったわけです。ところが、そればかりではなく、僧正の職についてその仕事を忠実に行って来たのはよかったにしても、その頃政府が特別の税金をこの僧院に課したので、これを不当であるとしてメンデルは政府と争い、いかにしてもこれに屈しなかったということです。これは一八七二年頃のことでありましたが、その後いろいろとよくない出来事にであい、もともと快活でもあり友情も並みはずれて深かった性格にまでも影響して、だんだんに世の人を嫌うようになったともいわれています。そして一八八四年の一月六日に腎臓炎をわずらってなくなりました。  メンデルの研究は、かくて世間からは全く知られずに、その後も久しく埋もれていましたが、それがようやく見つけ出されたのは一九〇〇年のことで、メンデルがブリュンの学界でこれを発表してから、実に三十五年も経ってからのことでした。  どうしてメンデルの研究がこのとき発見されたかといいますと、それにはおもしろい話があるのです。ちょうどその頃、同じく遺伝について研究していた三人の学者がいました。それは、ドイツのコレンス、オーストリーのツェルマック、およびオランダのド・フリースです。この人たちの研究の結果がそれぞれ学会で発表されてみると、ふしぎにもそれらが互いに一致しているので、これは確かな事であるとして認められるようになったのでしたが、そうなると、同じ事を研究した学者が以前にもありはしなかったかということが、学界の話題となりました。そして古い論文をしらべてゆくうちに、メンデルの研究が見つけ出されたのです。そしてすでに三十五年も前に、メンデルが立派に同じ結果を出して居て、かつそれを詳しく説明していることまで、すっかりわかったのでした。それでこれをメンデルの法則とたたえるようになったのです。メンデルはつまりこのような事を何も知らないで、亡くなったのでしたが、学問の上の仕事は、それが正しければ、立派に残っていて、いつかは見つけ出されて、その偉大な栄誉をになうことのできるものであるということが、この一事によってもみごとに証拠立てられるのです。かくてメンデルは、たとえ不遇のうちに死したとしても、その名は、科学の歴史の上に限りなく燦然と輝くことでもありましょう。
メンデルが遺伝に興味を持ったのはなぜですか。
僧院のなかに自分でいろいろの動物を飼ったり、また植物を栽培して、それらをこまかく観察することを楽しみとしました。そしてその間に遺伝の問題に不思議を感じ、これを実験して見ようと思い立ったのです。
JCRRAG_012260
歴史
 メンデルの名はグレゴール・ヨハンというのですが、一八二一年の七月二十二日にオーストリアのシュレジーエンにあるごく小さな村ハインツェンドルフで生まれました。家は農家でしたが、中学に当たるギムナジウムを卒業してから、ブリュンというところにある僧院で神学教育を受け、それを終えて一八四七年にそこの僧院の司祭となりました。そしてそれでともかく一人前の僧侶となったのですが、メンデルにはそのような僧職がどうも十分には気が向かないように感じられました。それで何か学問を修めたいという心がしきりに起こって来たので、遂に決心を定めて、一八五一年にオーストリーの首都であるヴィーンに赴き、そこの大学に入って、数学、物理学、および博物学を熱心に学びました。メンデルは、この時もはや三十歳にもなっているので、普通の学生とは年齢の上でもちがうわけですが、ひたすら学問を修めたいという心から、一生懸命に勉強したのでした。そして三年後に、大学を卒業してから、一八五四年にもとのブリュンの町に帰り、そこである実科学校の教師となりました。  ブリュンの町に戻るとなると、僧侶の職の方も勤めないわけにはゆかないので、それは以前のように行っていましたが、大学で修めた博物学に大いに興味を感じていたので、それからは僧院のなかに自分でいろいろの動物を飼ったり、また植物を栽培して、それらをこまかく観察することを楽しみとしました。そしてその間に遺伝の問題に不思議を感じ、これを実験して見ようと思い立ったのです。  僧院の庭はさほど広くもなかったのですが、それでも六十坪ほどの土地を利用して、えんどう豆を栽培してみました。そしてえんどう豆のいろいろな種類の間に交配を行うと、どんな雑種ができるかを、一々しらべて見ました。メンデルはこの実験を八年間もつづけて行ったということです。そしてその結果が一通りわかって来たので、一八六五年にブリュンの博物学会の会合の席で、これを発表し、その翌年にはこの学会の記要に「雑種植物の研究」という題で、論文を公にしました。これが遺伝の法則を初めて明らかにした大切な論文なのです。その他に、メンデルは柳やたんぽぽのような植物についても、また蜜蜂や鼠などの動物についてもそれぞれ交配を行って遺伝の研究をつづけていました。  このようにしてブリュンの僧院には一八六八年まで十五年間を過ごしましたがこの年に僧正の職についたので、その後は自分の研究を進めるだけの暇がなくなってしまったのは、メンデルにとっては遺憾のことであったのでしょう。それにメンデルのそれまでの研究についても、今日でこそその重大な意味を誰しもが認めているのですが、その頃の人々には一向に顧みられず、そのままに見過ごされていたのでした。これはいわばメンデルだけが時代に先んじてもいたので、やむを得ないことでもあったのでしょうが、やはり彼にとっては残念な次第でもあったわけです。ところが、そればかりではなく、僧正の職についてその仕事を忠実に行って来たのはよかったにしても、その頃政府が特別の税金をこの僧院に課したので、これを不当であるとしてメンデルは政府と争い、いかにしてもこれに屈しなかったということです。これは一八七二年頃のことでありましたが、その後いろいろとよくない出来事にであい、もともと快活でもあり友情も並みはずれて深かった性格にまでも影響して、だんだんに世の人を嫌うようになったともいわれています。そして一八八四年の一月六日に腎臓炎をわずらってなくなりました。  メンデルの研究は、かくて世間からは全く知られずに、その後も久しく埋もれていましたが、それがようやく見つけ出されたのは一九〇〇年のことで、メンデルがブリュンの学界でこれを発表してから、実に三十五年も経ってからのことでした。  どうしてメンデルの研究がこのとき発見されたかといいますと、それにはおもしろい話があるのです。ちょうどその頃、同じく遺伝について研究していた三人の学者がいました。それは、ドイツのコレンス、オーストリーのツェルマック、およびオランダのド・フリースです。この人たちの研究の結果がそれぞれ学会で発表されてみると、ふしぎにもそれらが互いに一致しているので、これは確かな事であるとして認められるようになったのでしたが、そうなると、同じ事を研究した学者が以前にもありはしなかったかということが、学界の話題となりました。そして古い論文をしらべてゆくうちに、メンデルの研究が見つけ出されたのです。そしてすでに三十五年も前に、メンデルが立派に同じ結果を出して居て、かつそれを詳しく説明していることまで、すっかりわかったのでした。それでこれをメンデルの法則とたたえるようになったのです。メンデルはつまりこのような事を何も知らないで、亡くなったのでしたが、学問の上の仕事は、それが正しければ、立派に残っていて、いつかは見つけ出されて、その偉大な栄誉をになうことのできるものであるということが、この一事によってもみごとに証拠立てられるのです。かくてメンデルは、たとえ不遇のうちに死したとしても、その名は、科学の歴史の上に限りなく燦然と輝くことでもありましょう。
メンデルはえんどう豆の実験の結果何を見つけましたか。
一八六五年にブリュンの博物学会の会合の席で発表し、その翌年にはこの学会の記要に「雑種植物の研究」という題で、論文を公にしました。
JCRRAG_012261
歴史
 メンデルの名はグレゴール・ヨハンというのですが、一八二一年の七月二十二日にオーストリアのシュレジーエンにあるごく小さな村ハインツェンドルフで生まれました。家は農家でしたが、中学に当たるギムナジウムを卒業してから、ブリュンというところにある僧院で神学教育を受け、それを終えて一八四七年にそこの僧院の司祭となりました。そしてそれでともかく一人前の僧侶となったのですが、メンデルにはそのような僧職がどうも十分には気が向かないように感じられました。それで何か学問を修めたいという心がしきりに起こって来たので、遂に決心を定めて、一八五一年にオーストリーの首都であるヴィーンに赴き、そこの大学に入って、数学、物理学、および博物学を熱心に学びました。メンデルは、この時もはや三十歳にもなっているので、普通の学生とは年齢の上でもちがうわけですが、ひたすら学問を修めたいという心から、一生懸命に勉強したのでした。そして三年後に、大学を卒業してから、一八五四年にもとのブリュンの町に帰り、そこである実科学校の教師となりました。  ブリュンの町に戻るとなると、僧侶の職の方も勤めないわけにはゆかないので、それは以前のように行っていましたが、大学で修めた博物学に大いに興味を感じていたので、それからは僧院のなかに自分でいろいろの動物を飼ったり、また植物を栽培して、それらをこまかく観察することを楽しみとしました。そしてその間に遺伝の問題に不思議を感じ、これを実験して見ようと思い立ったのです。  僧院の庭はさほど広くもなかったのですが、それでも六十坪ほどの土地を利用して、えんどう豆を栽培してみました。そしてえんどう豆のいろいろな種類の間に交配を行うと、どんな雑種ができるかを、一々しらべて見ました。メンデルはこの実験を八年間もつづけて行ったということです。そしてその結果が一通りわかって来たので、一八六五年にブリュンの博物学会の会合の席で、これを発表し、その翌年にはこの学会の記要に「雑種植物の研究」という題で、論文を公にしました。これが遺伝の法則を初めて明らかにした大切な論文なのです。その他に、メンデルは柳やたんぽぽのような植物についても、また蜜蜂や鼠などの動物についてもそれぞれ交配を行って遺伝の研究をつづけていました。  このようにしてブリュンの僧院には一八六八年まで十五年間を過ごしましたがこの年に僧正の職についたので、その後は自分の研究を進めるだけの暇がなくなってしまったのは、メンデルにとっては遺憾のことであったのでしょう。それにメンデルのそれまでの研究についても、今日でこそその重大な意味を誰しもが認めているのですが、その頃の人々には一向に顧みられず、そのままに見過ごされていたのでした。これはいわばメンデルだけが時代に先んじてもいたので、やむを得ないことでもあったのでしょうが、やはり彼にとっては残念な次第でもあったわけです。ところが、そればかりではなく、僧正の職についてその仕事を忠実に行って来たのはよかったにしても、その頃政府が特別の税金をこの僧院に課したので、これを不当であるとしてメンデルは政府と争い、いかにしてもこれに屈しなかったということです。これは一八七二年頃のことでありましたが、その後いろいろとよくない出来事にであい、もともと快活でもあり友情も並みはずれて深かった性格にまでも影響して、だんだんに世の人を嫌うようになったともいわれています。そして一八八四年の一月六日に腎臓炎をわずらってなくなりました。  メンデルの研究は、かくて世間からは全く知られずに、その後も久しく埋もれていましたが、それがようやく見つけ出されたのは一九〇〇年のことで、メンデルがブリュンの学界でこれを発表してから、実に三十五年も経ってからのことでした。  どうしてメンデルの研究がこのとき発見されたかといいますと、それにはおもしろい話があるのです。ちょうどその頃、同じく遺伝について研究していた三人の学者がいました。それは、ドイツのコレンス、オーストリーのツェルマック、およびオランダのド・フリースです。この人たちの研究の結果がそれぞれ学会で発表されてみると、ふしぎにもそれらが互いに一致しているので、これは確かな事であるとして認められるようになったのでしたが、そうなると、同じ事を研究した学者が以前にもありはしなかったかということが、学界の話題となりました。そして古い論文をしらべてゆくうちに、メンデルの研究が見つけ出されたのです。そしてすでに三十五年も前に、メンデルが立派に同じ結果を出して居て、かつそれを詳しく説明していることまで、すっかりわかったのでした。それでこれをメンデルの法則とたたえるようになったのです。メンデルはつまりこのような事を何も知らないで、亡くなったのでしたが、学問の上の仕事は、それが正しければ、立派に残っていて、いつかは見つけ出されて、その偉大な栄誉をになうことのできるものであるということが、この一事によってもみごとに証拠立てられるのです。かくてメンデルは、たとえ不遇のうちに死したとしても、その名は、科学の歴史の上に限りなく燦然と輝くことでもありましょう。
メンデルの研究がメンデルの法則と名付けられたことをメンデルは知っていますか。
古い論文をしらべてゆくうちに、メンデルの研究が見つけ出されたのです。そしてすでに三十五年も前に、メンデルが立派に同じ結果を出して居て、かつそれを詳しく説明していることまで、すっかりわかったのでした。それでこれをメンデルの法則とたたえるようになったのです。メンデルはつまりこのような事を何も知らないで、亡くなったのでした。
JCRRAG_012262
歴史
メンデルが僧院の庭で長い年月をかけていろいろと苦心した上にようやく見つけ出したメンデルの法則というのは、どういうものかということを、ここでなるべくわかり易く説明してみましょう。  それはまず親から子に遺伝する性質のなかには、優性と劣性として区別される二種類の性質があって、優性をもっているものと、劣性をもっているものと交配させると、それから生まれてくるものは大体において優性をそなえているというのです。これを優性の法則といいます。しかしこのようにして出来た雑種をもう一度おたがいに交配させると、今度は優性と劣性とが分離して現れ、優性のもの3に対して劣牲のもの1という割合で第二代目の雑種が生ずるのです。これはメンデルの分離の法則といわれていますが、さらにこの第二代目の雑種のうち優性を示している三つの中の一つは純粋の優性でありますけれども、その他の二つには優性と同時に劣性が幾らか含まれているということも明らかにされました。もちろん、この場合にも何が優性であり、何が劣性であるかということについては、めいめいの動物や植物についてよく観察してそれを定めてゆかなくてはならないのですが、いつもこのような一般的な法則が成立つということを見つけ出したのは、実にメンデルの偉大な業績であります。  この他に、メンデルは再結合の法則というのを見つけ出しました。メンデルの実験を行ったえんどうのなかには、種子が円くて黄いろい色をしたのと、しわがあって、緑色をしたのとがありましたが、これらを交配させてみると、それから生じた第一代雑種の結んだ実はすべて円くて黄いろいものでありました。この事で、円くて黄いろいのは優性で、しわがあって緑いろなのは劣性であることがわかったのです。ところがこの第一代雑種の種子をまいて、今度はそれについて自花授精をさせてみると、それで出来た第二代雑種のなかには、四種類のちがったものが現れました。この四種類というのは、つまり次の四つで、それらの数の割合は下の数字で示した通りです。 黄いろくて円いもの    9 緑いろで円いもの     3 黄いろくて皺のあるもの  3 緑いろで皺のあるもの   1  この結果を見ると、優性と劣性との割合はやはり3と1とになっていますが、最初には黄いろいことと円いこととが伴なって結びついており、緑いろと皺のあるのともそうであったのに、ここではこれ等の性質が離れてしまって、かえって他の性質と結びついて現れることのあるのが、明らかにわかるのです。つまり個々の性質はそれぞれ独立のものであって、それらが分離して再び他のものと結合するということが、これで示されたので、その意味でこれを再結合の法則、または独立結合の法則というのです。
メンデルの分離の法則を教えてください。
優性のもの3に対して劣牲のもの1という割合で第二代目の雑種が生ずるのです。これはメンデルの分離の法則といわれています。
JCRRAG_012263
歴史
メンデルが僧院の庭で長い年月をかけていろいろと苦心した上にようやく見つけ出したメンデルの法則というのは、どういうものかということを、ここでなるべくわかり易く説明してみましょう。  それはまず親から子に遺伝する性質のなかには、優性と劣性として区別される二種類の性質があって、優性をもっているものと、劣性をもっているものと交配させると、それから生まれてくるものは大体において優性をそなえているというのです。これを優性の法則といいます。しかしこのようにして出来た雑種をもう一度おたがいに交配させると、今度は優性と劣性とが分離して現れ、優性のもの3に対して劣牲のもの1という割合で第二代目の雑種が生ずるのです。これはメンデルの分離の法則といわれていますが、さらにこの第二代目の雑種のうち優性を示している三つの中の一つは純粋の優性でありますけれども、その他の二つには優性と同時に劣性が幾らか含まれているということも明らかにされました。もちろん、この場合にも何が優性であり、何が劣性であるかということについては、めいめいの動物や植物についてよく観察してそれを定めてゆかなくてはならないのですが、いつもこのような一般的な法則が成立つということを見つけ出したのは、実にメンデルの偉大な業績であります。  この他に、メンデルは再結合の法則というのを見つけ出しました。メンデルの実験を行ったえんどうのなかには、種子が円くて黄いろい色をしたのと、しわがあって、緑色をしたのとがありましたが、これらを交配させてみると、それから生じた第一代雑種の結んだ実はすべて円くて黄いろいものでありました。この事で、円くて黄いろいのは優性で、しわがあって緑いろなのは劣性であることがわかったのです。ところがこの第一代雑種の種子をまいて、今度はそれについて自花授精をさせてみると、それで出来た第二代雑種のなかには、四種類のちがったものが現れました。この四種類というのは、つまり次の四つで、それらの数の割合は下の数字で示した通りです。 黄いろくて円いもの    9 緑いろで円いもの     3 黄いろくて皺のあるもの  3 緑いろで皺のあるもの   1  この結果を見ると、優性と劣性との割合はやはり3と1とになっていますが、最初には黄いろいことと円いこととが伴なって結びついており、緑いろと皺のあるのともそうであったのに、ここではこれ等の性質が離れてしまって、かえって他の性質と結びついて現れることのあるのが、明らかにわかるのです。つまり個々の性質はそれぞれ独立のものであって、それらが分離して再び他のものと結合するということが、これで示されたので、その意味でこれを再結合の法則、または独立結合の法則というのです。
メンデルの独立結合の法則を教えてください。
個々の性質はそれぞれ独立のものであって、それらが分離して再び他のものと結合するということが、これで示されたので、その意味でこれを再結合の法則、または独立結合の法則というのです。
JCRRAG_012264
歴史
キュリー夫人の故国はポーランドで、一八六七年の十一月七日にその首都ワルソーで生まれました。その名をマリー・スクロドフスカと称しましたが、父はギムナジウム(中等学校)の教師で、物理学と数学とを教えており、母も以前に女学校を立てたことのある人であったというのですから、学問に縁故の深い家柄であったわけです。そしてこれがすでに後にマリーを学問の研究に携わらせる何かの動機となっていたのかも知れません。しかし母はマリーが五歳に達したときに不幸にして亡くなってしまったので、その後はもっぱら父の手で育てられました。ところで父はギムナジウムの教師ではあったのですが、その家計は決して豊かではなかったのに、おまけに非常にまじめな人であったので、学校に物理学の実験器械などが十分に備えてなかったのを遺憾に感じ、予算も少なかったので、自費でそれらを買いととのえたものですから、授業の方はいくらかうまく出来たものの、家計はひどく困ったということです。でもそういう父の感化のおかげで、子供たちも自然に学問の尊さをしみじみと知ることができたのでした。  マリーは女学校に入学して熱心に勉強しました。ところが、その頃のポーランドは悲しいことに、ロシヤ、ドイツ、オーストリーの三ヶ国に分割されてしまっていたので、ワルソーの町はロシア領に属して、特に極度な圧制を受けていたのでした。学校の書物などもすべてロシア語のもので、ポーランドの言葉などはまるで許されなかったのです。マリーはこのようななかで、しかし学問を勉強する準備としてフランス、ドイツ、イギリスの言語を大いに勉強して、それらにもよく通じたので、十七歳で女学校を卒業してからは、語学の家庭教師を勤めて、不足がちな家計を助けたということです。  さて、どこの国でも圧制が度を過ぎると、それに対する反抗がおこって来るのは当然のことであります。ポーランドには祖国愛に強い人たちがたくさんいます。それでいろいろな形でその運動がおこされましたけれども、ワルソーでは十分にその目的が達せられなかったので、オーストリー領にあるクラカウの町に赴いてこれに携わる人々もたくさんいました。そしてマリーもやがてまたその仲間に加わりました。ところがマリーはしばらくクラカウに居るうちに、自分の心の奥に一つの悩みを覚え始めました。それは祖国のために尽そうとする心に変わりはないのですが、自分が幼少の頃から熱心に希望していたのは学問の上で仕事をしたいということであったので、今まるでそれと違ったことをしているのがいかにも心残りに感じられたのです。そこでいろいろと考えなやんだ末に、学問の上で成功することも祖国に尽くす心の上に変わりはないのだということをひたすらに感じ、その後は科学研究に身を任せようと固く決心したのでした。  それにしても女学校を出ただけの学問では進んで何を研究するというわけにもゆきませんから、もっと勉強しなくてはいけないと感じましたが、クラカウでは万事に不便なので、何かよい方法をと考慮していました。ところが、ちょうどその頃姉がフランスのパリで医学を学んでいたので、そこへ赴いて、どんなに苦学してもよいから一生懸命に勉強してみたいと決心しました。この決心こそ実にマリーが学問の生活に立ち入る大切な出発点なのでありました。人間には誰にもこういう決心が必要なので、ここに一生の運命がかかっているとも見られるのでしょう。
マリーの家が家計に困ったのはなぜですか。
父はギムナジウムの教師ではあったのですが、その家計は決して豊かではなかったのに、おまけに非常にまじめな人であったので、学校に物理学の実験器械などが十分に備えてなかったのを遺憾に感じ、予算も少なかったので、自費でそれらを買いととのえたものですから、授業の方はいくらかうまく出来たものの、家計はひどく困ったということです。
JCRRAG_012265
歴史
キュリー夫人の故国はポーランドで、一八六七年の十一月七日にその首都ワルソーで生まれました。その名をマリー・スクロドフスカと称しましたが、父はギムナジウム(中等学校)の教師で、物理学と数学とを教えており、母も以前に女学校を立てたことのある人であったというのですから、学問に縁故の深い家柄であったわけです。そしてこれがすでに後にマリーを学問の研究に携わらせる何かの動機となっていたのかも知れません。しかし母はマリーが五歳に達したときに不幸にして亡くなってしまったので、その後はもっぱら父の手で育てられました。ところで父はギムナジウムの教師ではあったのですが、その家計は決して豊かではなかったのに、おまけに非常にまじめな人であったので、学校に物理学の実験器械などが十分に備えてなかったのを遺憾に感じ、予算も少なかったので、自費でそれらを買いととのえたものですから、授業の方はいくらかうまく出来たものの、家計はひどく困ったということです。でもそういう父の感化のおかげで、子供たちも自然に学問の尊さをしみじみと知ることができたのでした。  マリーは女学校に入学して熱心に勉強しました。ところが、その頃のポーランドは悲しいことに、ロシヤ、ドイツ、オーストリーの三ヶ国に分割されてしまっていたので、ワルソーの町はロシア領に属して、特に極度な圧制を受けていたのでした。学校の書物などもすべてロシア語のもので、ポーランドの言葉などはまるで許されなかったのです。マリーはこのようななかで、しかし学問を勉強する準備としてフランス、ドイツ、イギリスの言語を大いに勉強して、それらにもよく通じたので、十七歳で女学校を卒業してからは、語学の家庭教師を勤めて、不足がちな家計を助けたということです。  さて、どこの国でも圧制が度を過ぎると、それに対する反抗がおこって来るのは当然のことであります。ポーランドには祖国愛に強い人たちがたくさんいます。それでいろいろな形でその運動がおこされましたけれども、ワルソーでは十分にその目的が達せられなかったので、オーストリー領にあるクラカウの町に赴いてこれに携わる人々もたくさんいました。そしてマリーもやがてまたその仲間に加わりました。ところがマリーはしばらくクラカウに居るうちに、自分の心の奥に一つの悩みを覚え始めました。それは祖国のために尽そうとする心に変わりはないのですが、自分が幼少の頃から熱心に希望していたのは学問の上で仕事をしたいということであったので、今まるでそれと違ったことをしているのがいかにも心残りに感じられたのです。そこでいろいろと考えなやんだ末に、学問の上で成功することも祖国に尽くす心の上に変わりはないのだということをひたすらに感じ、その後は科学研究に身を任せようと固く決心したのでした。  それにしても女学校を出ただけの学問では進んで何を研究するというわけにもゆきませんから、もっと勉強しなくてはいけないと感じましたが、クラカウでは万事に不便なので、何かよい方法をと考慮していました。ところが、ちょうどその頃姉がフランスのパリで医学を学んでいたので、そこへ赴いて、どんなに苦学してもよいから一生懸命に勉強してみたいと決心しました。この決心こそ実にマリーが学問の生活に立ち入る大切な出発点なのでありました。人間には誰にもこういう決心が必要なので、ここに一生の運命がかかっているとも見られるのでしょう。
マリーが学問に専念しようとした理由はなんですか。
学問の上で成功することも祖国に尽くす心の上に変わりはないのだということをひたすらに感じ、その後は科学研究に身を任せようと固く決心したのでした。
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歴史
パドーヴァ時代にガリレイは、コペルニクスの書物を読んで、その学説の正しいことを感じ、自分でもこれを研究してみたいと望んだのでした。コペルニクスという人はポーランドの国の僧侶であったのですが、イタリヤへ来て学問を修め、その後帰国してから、有名な地動説をとなえ、その書物は一五四三年に彼の没する直前に出版されて、それから世に広まったのでしたが、その頃の宗教家のはげしい非難にあって、ほとんど禁止の運命に置かれていたのでした。宗教家の反対というのはキリスト教の聖書に、我々人間は神にかたどってつくられたものであり、そしてこの人間の住んでいる地球は宇宙の中心にあって、あらゆる天体はそれをめぐっているということが記されているのに、コペルニクスの地動説では、太陽のまわりを地球がまわっていると説くので、これは神聖な聖書にそむく虚偽異端の説であるというのでした。ガリレイは、この宇宙の正しい事実を言いあらわす科学こそ神の栄光と偉大さをもの語るものであって、これを禁圧するのは、それこそかえって神の意志に背くものであるという強固な信条のもとに、むしろコペルニクスの説を肯定しようとしたのでした。しかしその頃の宗教家たちには、そのようなすぐれた思想がわかるはずはありません。かえって自分たちの狭い考えに捉われて、依然としてこれに反対していました。  ところが、その当時ドイツにヨハンネス・ケプラーというすぐれた若い学者があって、オーストリーのグラーツ大学で数学の講師をしていましたが、この人が惑星の軌道について研究した結果をガリレイのもとに送って来ました。このケプラーは有名な惑星運動の法則を立てた人ですが、その仕事はずっと後に完成したので、この時の研究というのはそれ以前のものに過ぎなかったのですが、それでもガリレイはこれに非常な興味を感じ、彼に親愛にみちた返書を送りました。そのなかには、「私はコペルニクスの運命を恐れています。彼は少数の人たちからは不朽の栄誉を得たとしても、愚者に充みちた大多数の民衆にとっては軽蔑と汚辱との対象にしか過ぎないでしょう」という言葉が記されています。  その後ガリレイは天体観測を自分で行おうと考え、オランダで発明された望遠鏡の話を聞いて、それと同様のものを製作し、望遠鏡でいろいろな星を観測しました。これは一六〇九年のことで、その結果として月に高い山のあることや、銀河がたくさんの星の集まりであること、木星には四つの月が附随していること、金星、水星が月と同じようにみちかけを示すこと、太陽に黒点のあることなどを見つけ出し、それらの事からコペルニクスの説の真であることをますます確信するようになりました。
ガリレオ・ガリレイが地動説を支持したのはなぜですか。
ガリレイは、この宇宙の正しい事実を言いあらわす科学こそ神の栄光と偉大さをもの語るものであって、これを禁圧するのは、それこそかえって神の意志に背くものであるという強固な信条のもとに、むしろコペルニクスの説を肯定しようとしたのでした。
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歴史
一六一〇年に、ガリレイがピザに帰ってからは、その地がローマ法王の直接の管下に属するだけに、ますます宗教家たちの反対が強くなり、異端説を主張するのをひどく責めるようになりました。その間にガリレイは、その誤解を説き、また科学と宗教との異なることを示そうとしてあらゆる努力を費やしましたが、それは到底当時の人々の耳には入らなかったので、また中にはガリレイの名声の高いのを嫉む人々の策謀などもそれに混ざって来て、遂には大僧正の命令で地動説をとなえてはならないということを警告されました。これは一六一六年のことでしたが、その後もしかしガリレイは自分の信念だけは変えませんでした。しかしただ当分のうちはできるだけ事を荒立てないように黙って過ごしましたが、数年経てからは事情もいくらか違って来ました。 ガリレイは、一六二九年になって問答の形式で普通に「天文対話」と呼ばれている書物を著し一六三二年にこれを出版しました。  ところがこの書物についてある僧侶がローマ法王にあらぬことを吹き込んだので、法王は宗教裁判所に審査させることになり、ガリレイはこれによって大僧正の以前の警告を無視しているという判決が下されて、ローマに出頭を命ぜられました。ガリレイはこの時すでに七十歳に近い老年で、おまけに病身で衰弱していましたが、その冬の寒い季節にやむなく旅に出かけ、翌年の二月にようやくローマに到着しました。しかし疲労がはなはだしいのでしばらくの間静養が許され、四月になって裁判所で審問が始まりました。  この審判の結果は、ガリレイの書物の領布を禁じ、地動説を放棄することを条件として閑居を命ぜられたので、その宣告の日には自分でその判決文を読んで宣誓のために署名をさせられたのでした。それからガリレイはフィレンツェの自分の家に帰って、そこに閉じこもって晩年を送りましたが、この間の彼の生活は実に寂しい有様ですごされました。その一人娘のバージニアが彼の病苦をやさしく慰めはしたものの、その後まもなく亡くなりました。
ガリレイは、一六二九年になって問答の形式で普通に「天文対話」と呼ばれている書物を著し何年にこれを出版しましたか。
ガリレイは、一六二九年になって問答の形式で普通に「天文対話」と呼ばれている書物を著し一六三二年にこれを出版しました
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歴史
ボイルはしかしそういう古い考え方に囚われないで、実際事実の上でいろいろな物質を分解してみて、もうこれ以上分解されないと見られるものを元素とみなそうとしたのでした。つまり元素は、人間の考えの上で定められるものではなく、自然の事実を調べて見つけ出してゆかなくてはならないということを、はっきりと言い現したのでした。もちろんボイルの時代にはたくさんの元素が知られているわけではなかったのですが、それでも錬金術者がいかに苦心して変えようとしても変えられなかったいろいろな金属、すなわち金、銀、銅、鉄、鉛などはどれもボイルの言った意味での元素であることが、だんだんにわかって来たのでした。  ボイルのもう一つの大切な仕事としては、混合物と化合物との差別を初めてはっきりさせたことです。物質がいろいろ変化してゆく際に、お互いに混ざり合っても、もとの性質がそのまま失われずに残っている場合と、そうでなくてまるで性質が変わってしまう場合とがあります。  例えば水に砂糖や塩を溶かすと甘い水や、からい水が出来るのは誰でも知っているでしょうが、その際には砂糖の甘味や塩の辛味は水に溶けてもそのまま残っているのです。これはそれが単に混合しているだけであるからで、ところがそれとは違って、例えば酸素と水素とから水がつくられるというような場合には、水には酸素や水素の性質はまるで見られません。これは水が酸素と水素との混合物でなくて、化合物であるからです。  もちろんボイルの頃には、酸素や水素などの気体もまだ見つけ出されてはいなかったので、今では普通に知られているこれ等らの事にしても一向にわかってはいなかったのですが、それでいてボイルが混合物と化合物との差別をはっきりさせたことは、実にその考え方のすぐれていたのを示しているのです。  
ロバートボイルはボイルの法則以外に発見したものはありますか。
ボイルのもう一つの大切な仕事としては、混合物と化合物との差別を初めてはっきりさせたことです。
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歴史
光秀は、十三日午前中、全軍を円明寺川畔に展開した。秀吉軍が展開するのは、それからずっと遅れた。 なぜ光秀が展開を完了したのにもかかわらず、まだ部隊の準備が整っていない秀吉軍を打たなかったか、それが山崎の戦いの一つの敗因であると戦術家は批評している。  戦が開始する前、高山右近の家来の甘利八郎太夫という男が、腰掛けに座って戦いの準備が整うのを待っている右近の前に出て、 「私はいまどうしていいか分からない事があるから、御判断をお願いしたい。お殿様は、私を無能な人間として、給与など少しも下さっていない。その私が、ここで手柄を取ってしまうと、殿様が物事を見通す見識がないと思われることになって不忠になる。といって、臆病な振る舞いをすると、父祖の名を汚して親不孝になってしまう。どうしましょうか」と、三回もくり返して聞いた。 皮肉な奴が居たものである。右近は心の中で怒り、斬り捨てようとも思ったが、大事の前の小事であるしクリスチャンであるしとだまっていると、「不忠と言われても、先祖代々の名を汚すわけには行かない」といって、明智勢に切り入って、一番槍、一番首、二番首の功名を一人でさらってしまった。  戦いは、午後に入って始まった。高山右近は、明智の中央軍にいる斎藤内蔵介に向かったが、相手は明智方第一の剛将なので高山勢がさんざんに打ちまかされ、やっと信孝、丹羽長秀の応援によってようやく盛り返すことが出来た。  秀吉は生駒親正、木村隼人を天王山方面に増援して、横から突いてきた。 こうなると、光秀の軍は絶えず右翼を脅かされることになり、中央軍が奮戦しようと敗色の色が濃くなってきた。  それと同時に、左翼は淀川を頼りにして配備が手薄であったところ、秀吉の第三軍たる池田勝入斎が川沿いから歩いて渡れる小路を発見し、潜行して光秀軍の左翼たる津田与三郎等の陣に切ってかかった。  光秀が、天王山に関心を向けすぎて淀川の方を気にしなかった事もまた一つの敗因でなかったかといわれている。  中央軍は左右両翼ともよく戦った。関ヶ原当時の西軍などとは比べものにならない。光秀がいかに優秀な人材をもっていたかがわかる。  しかし、天王山が秀吉軍のものになり、そのほうから横撃されると同時に洞ヶ峠にいた筒井順慶の大軍が裏切って淀川を渡り、光秀の背後に襲いかかって来た。  筒井順慶は明智光秀の世話になっている無二の親友である。だから順慶自身は、光秀の勧誘に心がうごいたが、家老の杉倉右近、島左近の二人が主人を注意して出陣させず、ただ人数だけを山崎の対岸にある八幡の洞ヶ峠に出した。  筒井順慶は、戦争を見物していて、勝った方へ味方しようと考えていたのである。今から考えれば、秀吉が勝つのだから、秀吉の方へハッキリついていた方が、『洞ヶ峠』などという醜い名を後世にまで残さないでよかったのであろうが、順慶の立場はかなり難しい立場であったし、秀吉対光秀の勝敗も、後世の我々が考えるように簡単に見通しのつくものではなかったのだろう。  筒井までが裏切ったのでは万事休すと言うしかなかった。筒井の裏切りを見抜いて、明智方でも斎藤大八郎、柴田源左衛門等が備えていたが、こうなってはひとたまりもなかった。  光秀は、一旦は勝竜寺城に入ったが、夜の十二時頃に桂川を渡り深草から小栗栖にかかって、土民の手にかかった。物騒な世の中で、落人となったが最後、誰に殺されても文句がないのである。また匪賊のような連中がいて、戦争があるとすぐ落人狩りをやり出すのである。本能寺の変を聴いて堺から伊賀を通って、三河へ帰った家康だって土民のために危険な目にあったし、現に家康と同行していた甲斐の旧臣穴山梅雪は土民にやられているのだ。
山崎の戦いで静観していた筒井順慶が明智光秀を裏切ったのはなぜですか。
筒井順慶は、戦争を見物していて、勝った方へ味方しようと考えていたのである。
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歴史
どこの国でも、その国の全体の有様を知るのには、地図がつくられていなければなりませんが、正しい地図をつくるのには、すべての場所に出かけて行って土地の測量を正確に行わなければならないのは、言うまでもありません。ところが、我が国においてそのような正確な土地の測量は、昔はほとんど行われていなかったので、従って正しい地図もまるでなかったのでした。それというのも、このような測量をするのにはいろいろな精密な器械も必要でありましたし、また土地測量の基準として星の位置を正しく観測することも必要であったからです。そこで、このような仕事が、我が国では最初に誰によってなされたのかといいますと、それはここにお話ししようとする伊能忠敬によるのでありまして、しかもその測量は日本全国に及んでいるのですから、実に驚くべき事でもあるのです。それは今から百数十年も前のことでありますし、その時代にはどこへ旅をするのにも、すべて自分で足を運ばなくてはならなかったので、全国の地図を完成するのにも、二十年に近い歳月を費さなくてはならなかったのでした。そのようなことを思うと、この大きな仕事を自分一人で成し遂げた伊能忠敬の功績はまことにすばらしいものであったといわなければなりません。そのほかに、ちょうどこの時代にはわが国の北辺がようやく騒がしくなり始め、それに林子平の『海国兵談』なども出て、国防の問題もいろいろ議論させられるようになっていましたので、それにつけても正確な地図が必要とされたに違いないのですから、この点から見ても忠敬の仕事は大きな意味をもっていたといわなければならないのでしょう。  ところで、忠敬がどのようにしてこの土地測量の仕事を始めるようになったかということについても、ともかくも古い昔の時代であっただけに、特別な決心が必要であったのに違いないので、それらの事について、次に少しくお話しして見たいと思います。
伊能忠敬が地図を作るまで日本に正確な地図がなかったのはなぜですか。
正しい地図をつくるのには、すべての場所に出かけて行って土地の測量を正確に行わなければならないのは、言うまでもありません。ところが、我が国においてそのような正確な土地の測量は、昔はほとんど行われていなかったので、従って正しい地図もまるでなかったのでした。
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歴史
どこの国でも、その国の全体の有様を知るのには、地図がつくられていなければなりませんが、正しい地図をつくるのには、すべての場所に出かけて行って土地の測量を正確に行わなければならないのは、言うまでもありません。ところが、我が国においてそのような正確な土地の測量は、昔はほとんど行われていなかったので、従って正しい地図もまるでなかったのでした。それというのも、このような測量をするのにはいろいろな精密な器械も必要でありましたし、また土地測量の基準として星の位置を正しく観測することも必要であったからです。そこで、このような仕事が、我が国では最初に誰によってなされたのかといいますと、それはここにお話ししようとする伊能忠敬によるのでありまして、しかもその測量は日本全国に及んでいるのですから、実に驚くべき事でもあるのです。それは今から百数十年も前のことでありますし、その時代にはどこへ旅をするのにも、すべて自分で足を運ばなくてはならなかったので、全国の地図を完成するのにも、二十年に近い歳月を費さなくてはならなかったのでした。そのようなことを思うと、この大きな仕事を自分一人で成し遂げた伊能忠敬の功績はまことにすばらしいものであったといわなければなりません。そのほかに、ちょうどこの時代にはわが国の北辺がようやく騒がしくなり始め、それに林子平の『海国兵談』なども出て、国防の問題もいろいろ議論させられるようになっていましたので、それにつけても正確な地図が必要とされたに違いないのですから、この点から見ても忠敬の仕事は大きな意味をもっていたといわなければならないのでしょう。  ところで、忠敬がどのようにしてこの土地測量の仕事を始めるようになったかということについても、ともかくも古い昔の時代であっただけに、特別な決心が必要であったのに違いないので、それらの事について、次に少しくお話しして見たいと思います。
なぜ日本は正確な地図が必要になってきたのですか。
ちょうどこの時代にはわが国の北辺がようやく騒がしくなり始め、それに林子平の『海国兵談』なども出て、国防の問題もいろいろ議論させられるようになっていましたので、それにつけても正確な地図が必要とされた。
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歴史
どこの国でも、その国の全体の有様を知るのには、地図がつくられていなければなりませんが、正しい地図をつくるのには、すべての場所に出かけて行って土地の測量を正確に行わなければならないのは、言うまでもありません。ところが、我が国においてそのような正確な土地の測量は、昔はほとんど行われていなかったので、従って正しい地図もまるでなかったのでした。それというのも、このような測量をするのにはいろいろな精密な器械も必要でありましたし、また土地測量の基準として星の位置を正しく観測することも必要であったからです。そこで、このような仕事が、我が国では最初に誰によってなされたのかといいますと、それはここにお話ししようとする伊能忠敬によるのでありまして、しかもその測量は日本全国に及んでいるのですから、実に驚くべき事でもあるのです。それは今から百数十年も前のことでありますし、その時代にはどこへ旅をするのにも、すべて自分で足を運ばなくてはならなかったので、全国の地図を完成するのにも、二十年に近い歳月を費さなくてはならなかったのでした。そのようなことを思うと、この大きな仕事を自分一人で成し遂げた伊能忠敬の功績はまことにすばらしいものであったといわなければなりません。そのほかに、ちょうどこの時代にはわが国の北辺がようやく騒がしくなり始め、それに林子平の『海国兵談』なども出て、国防の問題もいろいろ議論させられるようになっていましたので、それにつけても正確な地図が必要とされたに違いないのですから、この点から見ても忠敬の仕事は大きな意味をもっていたといわなければならないのでしょう。  ところで、忠敬がどのようにしてこの土地測量の仕事を始めるようになったかということについても、ともかくも古い昔の時代であっただけに、特別な決心が必要であったのに違いないので、それらの事について、次に少しくお話しして見たいと思います。
伊能忠敬が日本地図を完成させるまでに何年かかりましたか。
全国の地図を完成するのにも、二十年に近い歳月を費さなくてはならなかったのでした。
JCRRAG_012273
歴史
伊能忠敬は、幼名を三治郎、後に佐忠太といいましたが、成人して通称三郎右衞門と称し、字は子齊、東河と号し、晩年には勘解由とも称しました。上総国かずさのくに山武郡小関村で延享二年一月十一日に神保利左衞門貞恒の第三男として生まれたのでした。もっともこの時に父は小関村の小關家を継いでいたのでしたが、忠敬が七歳のときに妻の死歿に遭い神保家に戻りましたので、それでも、忠敬は幼かったのでその儘まま小關家に留まり、十一歳になってようやく父の許に帰ったということです。ですから、忠敬の幼時は言わば不遇の境地に置かれていたのでしたが、その頃から学問を好んでいたということは、後に自分で記しているところによっても確かであったのでした。しかしそれでもなかなかその方に向かうことなどは思いもよらないところであったので、十八歳になった際には、下総佐原町の伊能家に婿養子に遣られ、その時忠敬と名のることとなったのでした。ところで伊能家は元来は佐原町の豪家であったのでしたが、この頃家運が甚だ衰えていましたので、忠敬はそこへ赴くと共に、まず家運を回復することに全力を尽さなくてはならなかったのです。それでこの時から実に三十年の長い間、この事に熱心に従い、産業の発展に努めたのでした。この産業という中には、米穀を豊作の土池から買って来て、それを他に売りさばくことや、また醸造や薪問屋の営業などもあったということです。ともかくそのようにして忠敬の一生懸命の努力のおかげで家運も再び盛んになることができたので、それに忠敬は救民の事業などをも興したので、終いには尊敬されて名主ともなり、また幕府からも大いに賞められて、苗字、佩刀をも許されました。この事は忠敬が自分の仕事に対していつも忠実にはたらく人物であることを既に十分に示しているのであります。  ところが、この間に忠敬は妻の死に二度も遭っていたというので、彼の前半生は決して幸福とはいわれなかったのでしたが、それでも自分の仕事に屈することなく励んで来たので、ようやく家運も盛んになったのでした。そこで彼の年齢も五十歳に達して隠居が許されるようになると、さっそくに家督を長子景敬に譲り、自分は江戸に出て、かねてから望んでいた学問の道を修めようと決心したのでした。これはその頃としてもまことに特別な心がけで、忠敬のような人物でなければとても出来なかったところであると思われるのです。
伊能忠敬は名前を忠敬にしたきっかけはなんですか。
十八歳になった際には、下総佐原町の伊能家に婿養子に遣られ、その時忠敬と名のることとなったのでした。
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歴史
伊能忠敬は、幼名を三治郎、後に佐忠太といいましたが、成人して通称三郎右衞門と称し、字は子齊、東河と号し、晩年には勘解由とも称しました。上総国かずさのくに山武郡小関村で延享二年一月十一日に神保利左衞門貞恒の第三男として生まれたのでした。もっともこの時に父は小関村の小關家を継いでいたのでしたが、忠敬が七歳のときに妻の死歿に遭い神保家に戻りましたので、それでも、忠敬は幼かったのでその儘まま小關家に留まり、十一歳になってようやく父の許に帰ったということです。ですから、忠敬の幼時は言わば不遇の境地に置かれていたのでしたが、その頃から学問を好んでいたということは、後に自分で記しているところによっても確かであったのでした。しかしそれでもなかなかその方に向かうことなどは思いもよらないところであったので、十八歳になった際には、下総佐原町の伊能家に婿養子に遣られ、その時忠敬と名のることとなったのでした。ところで伊能家は元来は佐原町の豪家であったのでしたが、この頃家運が甚だ衰えていましたので、忠敬はそこへ赴くと共に、まず家運を回復することに全力を尽さなくてはならなかったのです。それでこの時から実に三十年の長い間、この事に熱心に従い、産業の発展に努めたのでした。この産業という中には、米穀を豊作の土池から買って来て、それを他に売りさばくことや、また醸造や薪問屋の営業などもあったということです。ともかくそのようにして忠敬の一生懸命の努力のおかげで家運も再び盛んになることができたので、それに忠敬は救民の事業などをも興したので、終いには尊敬されて名主ともなり、また幕府からも大いに賞められて、苗字、佩刀をも許されました。この事は忠敬が自分の仕事に対していつも忠実にはたらく人物であることを既に十分に示しているのであります。  ところが、この間に忠敬は妻の死に二度も遭っていたというので、彼の前半生は決して幸福とはいわれなかったのでしたが、それでも自分の仕事に屈することなく励んで来たので、ようやく家運も盛んになったのでした。そこで彼の年齢も五十歳に達して隠居が許されるようになると、さっそくに家督を長子景敬に譲り、自分は江戸に出て、かねてから望んでいた学問の道を修めようと決心したのでした。これはその頃としてもまことに特別な心がけで、忠敬のような人物でなければとても出来なかったところであると思われるのです。
伊能忠敬は伊能家の家運をどうやって回復しましたか。
三十年の長い間、この事に熱心に従い、産業の発展に努めたのでした。この産業という中には、米穀を豊作の土池から買って来て、それを他に売りさばくことや、また醸造や薪問屋の営業などもあったということです。
JCRRAG_012275
歴史
忠敬が隠居したのは寛政六年のことでありましたが、翌七年の五月には江戸に出て、深川の黒江町に居住し、それから学問を修めようとしたのでした。ところが、ちょうどこの時に彼は幸運にめぐまれました。それはこの年の三月に幕府が暦法改正の仕事を始めるために大阪から暦学天文の大家として知られている高橋作左衞門至時、ならびに間五郎兵衞重富を江戸に呼びよせたことで、高橋は四月に、間は六月に江戸に到着したからです。この高橋と間とは共に大阪で名高かった麻田剛立の門弟であって、既に十分の実力をそなえていたのでしたが、もしそのまま大阪に居住していたとしたならば、忠敬もたやすくその教えを乞うことはできなかったに違いないのでした。ところが、この両人が忠敬の江戸に出るのと時を同じくして江戸に来合わせたということは、忠敬にとってまことに得難い奇遇であったといわなければなりません。ともかくも忠敬はこの事を聞いて大いに喜び、さっそくに高橋作左衞門のもとを訪ねて、鄭重に入門を請いました。そして測量、地理、暦術を熱心に学びました。この時、忠敬は五十一歳であったのに対し、師の高橋は三十二歳であったのですが、忠敬は高橋を師とあがめて、いろいろな知識や技術を学んだということを思うと、これも実に一つの美談であるといわなければなりますまい。  高橋作左衛門はその頃暦学では他に並ぶものがないといわれたほどの人で、寛政丁巳暦と称せられたのは彼と間重富との方寸によって成り立ったものであったのでしたが、それだけに門弟に対してもなかなかに厳しく教える人間だと言われていた。 しかし忠敬にはそれが却って幸いであったのでした。忠敬は暦学天文と共に、それを利用して行う土地測量の方法をも熱心に研究しました。土地を測量するのには、ある位置に機械を据えつけて、それで目標の観測を行わなくてはならないのですが、それぞれの土地には傾斜があったり凹凸があるので、実際にはいろいろな苦労が要るのです。それで方位を測る器械や、傾斜を測る器械などを工夫して、これを行わなければなりません。それはともかくも西洋で行われている方法を詳しくしらべて、それに依るのがよいと考えて、そこでいろいろな測量の器械をつくってみました。忠敬が作った道具には、ものさし(尺度)、間棹、間縄、量程車、羅鍼、方位盤、象限儀、時計、測量定分儀、圭表儀、望遠鏡などがありました。これらの器械のことについては、後に忠敬の門弟の渡邊愼という人が書きのこした「伊能東河先生量地伝習録」という書物にかなり詳しく記されているのですが、それを読んで見ても、忠敬がいかにこれについて苦心を重ねたかがはっきりとわかるのです。  その一つの例をとり出して見ますと、これらの器械のうちで最も簡単なものさしにしましても、その頃我が国ではこれが厳密には定まっていなかったのでした。まず比較的広く行われていた物さしとしては、享保尺というのと、又四郎尺というのとありましたが、それらも幾らか長さのちがいがありました。そこで忠敬はこの二つの物さしの平均をとって新しい尺度を定め、これを折衷尺と名づけ、これを測量の土台にしたのでした。後に明治の時代になって度量衡法を定める場合に、やはりこの忠敬の折衷尺を基として、一メートルが三尺三寸に当たると定められたのですが、ともかく測量を正しく行うのには物さしの寸法をはっきりと定めておかなくてはならないのですから、それを最初に行う人の苦心はこのようなところにもあったのでした。忠敬はこの物さしを使って後に地球の緯度の一度が二十八里二分に当たるという結果を出しているのですが、これは現在の測定に比べて見ても僅かに千分の二ほどしか違っていないということで、忠敬の測量がその時代としていかに精密なものであったかが、この一事でも知られるのであります。
「伊能東河先生量地伝習録」にはどのようなことが記述されていますか。
忠敬が作った道具には、ものさし(尺度)、間棹、間縄、量程車、羅鍼、方位盤、象限儀、時計、測量定分儀、圭表儀、望遠鏡などがありました。これらの器械のことについては、後に忠敬の門弟の渡邊愼という人が書きのこした「伊能東河先生量地伝習録」という書物にかなり詳しく記されている。
JCRRAG_012276
歴史
忠敬が隠居したのは寛政六年のことでありましたが、翌七年の五月には江戸に出て、深川の黒江町に居住し、それから学問を修めようとしたのでした。ところが、ちょうどこの時に彼は幸運にめぐまれました。それはこの年の三月に幕府が暦法改正の仕事を始めるために大阪から暦学天文の大家として知られている高橋作左衞門至時、ならびに間五郎兵衞重富を江戸に呼びよせたことで、高橋は四月に、間は六月に江戸に到着したからです。この高橋と間とは共に大阪で名高かった麻田剛立の門弟であって、既に十分の実力をそなえていたのでしたが、もしそのまま大阪に居住していたとしたならば、忠敬もたやすくその教えを乞うことはできなかったに違いないのでした。ところが、この両人が忠敬の江戸に出るのと時を同じくして江戸に来合わせたということは、忠敬にとってまことに得難い奇遇であったといわなければなりません。ともかくも忠敬はこの事を聞いて大いに喜び、さっそくに高橋作左衞門のもとを訪ねて、鄭重に入門を請いました。そして測量、地理、暦術を熱心に学びました。この時、忠敬は五十一歳であったのに対し、師の高橋は三十二歳であったのですが、忠敬は高橋を師とあがめて、いろいろな知識や技術を学んだということを思うと、これも実に一つの美談であるといわなければなりますまい。  高橋作左衛門はその頃暦学では他に並ぶものがないといわれたほどの人で、寛政丁巳暦と称せられたのは彼と間重富との方寸によって成り立ったものであったのでしたが、それだけに門弟に対してもなかなかに厳しく教える人間だと言われていた。 しかし忠敬にはそれが却って幸いであったのでした。忠敬は暦学天文と共に、それを利用して行う土地測量の方法をも熱心に研究しました。土地を測量するのには、ある位置に機械を据えつけて、それで目標の観測を行わなくてはならないのですが、それぞれの土地には傾斜があったり凹凸があるので、実際にはいろいろな苦労が要るのです。それで方位を測る器械や、傾斜を測る器械などを工夫して、これを行わなければなりません。それはともかくも西洋で行われている方法を詳しくしらべて、それに依るのがよいと考えて、そこでいろいろな測量の器械をつくってみました。忠敬が作った道具には、ものさし(尺度)、間棹、間縄、量程車、羅鍼、方位盤、象限儀、時計、測量定分儀、圭表儀、望遠鏡などがありました。これらの器械のことについては、後に忠敬の門弟の渡邊愼という人が書きのこした「伊能東河先生量地伝習録」という書物にかなり詳しく記されているのですが、それを読んで見ても、忠敬がいかにこれについて苦心を重ねたかがはっきりとわかるのです。  その一つの例をとり出して見ますと、これらの器械のうちで最も簡単なものさしにしましても、その頃我が国ではこれが厳密には定まっていなかったのでした。まず比較的広く行われていた物さしとしては、享保尺というのと、又四郎尺というのとありましたが、それらも幾らか長さのちがいがありました。そこで忠敬はこの二つの物さしの平均をとって新しい尺度を定め、これを折衷尺と名づけ、これを測量の土台にしたのでした。後に明治の時代になって度量衡法を定める場合に、やはりこの忠敬の折衷尺を基として、一メートルが三尺三寸に当たると定められたのですが、ともかく測量を正しく行うのには物さしの寸法をはっきりと定めておかなくてはならないのですから、それを最初に行う人の苦心はこのようなところにもあったのでした。忠敬はこの物さしを使って後に地球の緯度の一度が二十八里二分に当たるという結果を出しているのですが、これは現在の測定に比べて見ても僅かに千分の二ほどしか違っていないということで、忠敬の測量がその時代としていかに精密なものであったかが、この一事でも知られるのであります。
伊能忠敬の測量は正確でしたか。
忠敬はこの物さしを使って後に地球の緯度の一度が二十八里二分に当たるという結果を出しているのですが、これは現在の測定に比べて見ても僅かに千分の二ほどしか違っていないということで、忠敬の測量がその時代としていかに精密なものであったかが、この一事でも知られるのであります。
JCRRAG_012277
歴史
忠敬が隠居したのは寛政六年のことでありましたが、翌七年の五月には江戸に出て、深川の黒江町に居住し、それから学問を修めようとしたのでした。ところが、ちょうどこの時に彼は幸運にめぐまれました。それはこの年の三月に幕府が暦法改正の仕事を始めるために大阪から暦学天文の大家として知られている高橋作左衞門至時、ならびに間五郎兵衞重富を江戸に呼びよせたことで、高橋は四月に、間は六月に江戸に到着したからです。この高橋と間とは共に大阪で名高かった麻田剛立の門弟であって、既に十分の実力をそなえていたのでしたが、もしそのまま大阪に居住していたとしたならば、忠敬もたやすくその教えを乞うことはできなかったに違いないのでした。ところが、この両人が忠敬の江戸に出るのと時を同じくして江戸に来合わせたということは、忠敬にとってまことに得難い奇遇であったといわなければなりません。ともかくも忠敬はこの事を聞いて大いに喜び、さっそくに高橋作左衞門のもとを訪ねて、鄭重に入門を請いました。そして測量、地理、暦術を熱心に学びました。この時、忠敬は五十一歳であったのに対し、師の高橋は三十二歳であったのですが、忠敬は高橋を師とあがめて、いろいろな知識や技術を学んだということを思うと、これも実に一つの美談であるといわなければなりますまい。  高橋作左衛門はその頃暦学では他に並ぶものがないといわれたほどの人で、寛政丁巳暦と称せられたのは彼と間重富との方寸によって成り立ったものであったのでしたが、それだけに門弟に対してもなかなかに厳しく教える人間だと言われていた。 しかし忠敬にはそれが却って幸いであったのでした。忠敬は暦学天文と共に、それを利用して行う土地測量の方法をも熱心に研究しました。土地を測量するのには、ある位置に機械を据えつけて、それで目標の観測を行わなくてはならないのですが、それぞれの土地には傾斜があったり凹凸があるので、実際にはいろいろな苦労が要るのです。それで方位を測る器械や、傾斜を測る器械などを工夫して、これを行わなければなりません。それはともかくも西洋で行われている方法を詳しくしらべて、それに依るのがよいと考えて、そこでいろいろな測量の器械をつくってみました。忠敬が作った道具には、ものさし(尺度)、間棹、間縄、量程車、羅鍼、方位盤、象限儀、時計、測量定分儀、圭表儀、望遠鏡などがありました。これらの器械のことについては、後に忠敬の門弟の渡邊愼という人が書きのこした「伊能東河先生量地伝習録」という書物にかなり詳しく記されているのですが、それを読んで見ても、忠敬がいかにこれについて苦心を重ねたかがはっきりとわかるのです。  その一つの例をとり出して見ますと、これらの器械のうちで最も簡単なものさしにしましても、その頃我が国ではこれが厳密には定まっていなかったのでした。まず比較的広く行われていた物さしとしては、享保尺というのと、又四郎尺というのとありましたが、それらも幾らか長さのちがいがありました。そこで忠敬はこの二つの物さしの平均をとって新しい尺度を定め、これを折衷尺と名づけ、これを測量の土台にしたのでした。後に明治の時代になって度量衡法を定める場合に、やはりこの忠敬の折衷尺を基として、一メートルが三尺三寸に当たると定められたのですが、ともかく測量を正しく行うのには物さしの寸法をはっきりと定めておかなくてはならないのですから、それを最初に行う人の苦心はこのようなところにもあったのでした。忠敬はこの物さしを使って後に地球の緯度の一度が二十八里二分に当たるという結果を出しているのですが、これは現在の測定に比べて見ても僅かに千分の二ほどしか違っていないということで、忠敬の測量がその時代としていかに精密なものであったかが、この一事でも知られるのであります。
伊能忠敬の師匠である高橋作左衛門はどういう人でしたか。
高橋作左衛門はその頃暦学では他に並ぶものがないといわれたほどの人で、寛政丁巳暦と称せられたのは彼と間重富との方寸によって成り立ったものであったのでしたが、それだけに門弟に対してもなかなかに厳しく教える人間だと言われていた。
JCRRAG_012278
歴史
忠敬が隠居したのは寛政六年のことでありましたが、翌七年の五月には江戸に出て、深川の黒江町に居住し、それから学問を修めようとしたのでした。ところが、ちょうどこの時に彼は幸運にめぐまれました。それはこの年の三月に幕府が暦法改正の仕事を始めるために大阪から暦学天文の大家として知られている高橋作左衞門至時、ならびに間五郎兵衞重富を江戸に呼びよせたことで、高橋は四月に、間は六月に江戸に到着したからです。この高橋と間とは共に大阪で名高かった麻田剛立の門弟であって、既に十分の実力をそなえていたのでしたが、もしそのまま大阪に居住していたとしたならば、忠敬もたやすくその教えを乞うことはできなかったに違いないのでした。ところが、この両人が忠敬の江戸に出るのと時を同じくして江戸に来合わせたということは、忠敬にとってまことに得難い奇遇であったといわなければなりません。ともかくも忠敬はこの事を聞いて大いに喜び、さっそくに高橋作左衞門のもとを訪ねて、鄭重に入門を請いました。そして測量、地理、暦術を熱心に学びました。この時、忠敬は五十一歳であったのに対し、師の高橋は三十二歳であったのですが、忠敬は高橋を師とあがめて、いろいろな知識や技術を学んだということを思うと、これも実に一つの美談であるといわなければなりますまい。  高橋作左衛門はその頃暦学では他に並ぶものがないといわれたほどの人で、寛政丁巳暦と称せられたのは彼と間重富との方寸によって成り立ったものであったのでしたが、それだけに門弟に対してもなかなかに厳しく教える人間だと言われていた。 しかし忠敬にはそれが却って幸いであったのでした。忠敬は暦学天文と共に、それを利用して行う土地測量の方法をも熱心に研究しました。土地を測量するのには、ある位置に機械を据えつけて、それで目標の観測を行わなくてはならないのですが、それぞれの土地には傾斜があったり凹凸があるので、実際にはいろいろな苦労が要るのです。それで方位を測る器械や、傾斜を測る器械などを工夫して、これを行わなければなりません。それはともかくも西洋で行われている方法を詳しくしらべて、それに依るのがよいと考えて、そこでいろいろな測量の器械をつくってみました。忠敬が作った道具には、ものさし(尺度)、間棹、間縄、量程車、羅鍼、方位盤、象限儀、時計、測量定分儀、圭表儀、望遠鏡などがありました。これらの器械のことについては、後に忠敬の門弟の渡邊愼という人が書きのこした「伊能東河先生量地伝習録」という書物にかなり詳しく記されているのですが、それを読んで見ても、忠敬がいかにこれについて苦心を重ねたかがはっきりとわかるのです。  その一つの例をとり出して見ますと、これらの器械のうちで最も簡単なものさしにしましても、その頃我が国ではこれが厳密には定まっていなかったのでした。まず比較的広く行われていた物さしとしては、享保尺というのと、又四郎尺というのとありましたが、それらも幾らか長さのちがいがありました。そこで忠敬はこの二つの物さしの平均をとって新しい尺度を定め、これを折衷尺と名づけ、これを測量の土台にしたのでした。後に明治の時代になって度量衡法を定める場合に、やはりこの忠敬の折衷尺を基として、一メートルが三尺三寸に当たると定められたのですが、ともかく測量を正しく行うのには物さしの寸法をはっきりと定めておかなくてはならないのですから、それを最初に行う人の苦心はこのようなところにもあったのでした。忠敬はこの物さしを使って後に地球の緯度の一度が二十八里二分に当たるという結果を出しているのですが、これは現在の測定に比べて見ても僅かに千分の二ほどしか違っていないということで、忠敬の測量がその時代としていかに精密なものであったかが、この一事でも知られるのであります。
伊能忠敬は高橋作左衛門のもとで何を学びましたか。
高橋作左衞門のもとを訪ねて、鄭重に入門を請いました。そして測量、地理、暦術を熱心に学びました。
JCRRAG_012279
歴史
忠敬が隠居したのは寛政六年のことでありましたが、翌七年の五月には江戸に出て、深川の黒江町に居住し、それから学問を修めようとしたのでした。ところが、ちょうどこの時に彼は幸運にめぐまれました。それはこの年の三月に幕府が暦法改正の仕事を始めるために大阪から暦学天文の大家として知られている高橋作左衞門至時、ならびに間五郎兵衞重富を江戸に呼びよせたことで、高橋は四月に、間は六月に江戸に到着したからです。この高橋と間とは共に大阪で名高かった麻田剛立の門弟であって、既に十分の実力をそなえていたのでしたが、もしそのまま大阪に居住していたとしたならば、忠敬もたやすくその教えを乞うことはできなかったに違いないのでした。ところが、この両人が忠敬の江戸に出るのと時を同じくして江戸に来合わせたということは、忠敬にとってまことに得難い奇遇であったといわなければなりません。ともかくも忠敬はこの事を聞いて大いに喜び、さっそくに高橋作左衞門のもとを訪ねて、鄭重に入門を請いました。そして測量、地理、暦術を熱心に学びました。この時、忠敬は五十一歳であったのに対し、師の高橋は三十二歳であったのですが、忠敬は高橋を師とあがめて、いろいろな知識や技術を学んだということを思うと、これも実に一つの美談であるといわなければなりますまい。  高橋作左衛門はその頃暦学では他に並ぶものがないといわれたほどの人で、寛政丁巳暦と称せられたのは彼と間重富との方寸によって成り立ったものであったのでしたが、それだけに門弟に対してもなかなかに厳しく教える人間だと言われていた。 しかし忠敬にはそれが却って幸いであったのでした。忠敬は暦学天文と共に、それを利用して行う土地測量の方法をも熱心に研究しました。土地を測量するのには、ある位置に機械を据えつけて、それで目標の観測を行わなくてはならないのですが、それぞれの土地には傾斜があったり凹凸があるので、実際にはいろいろな苦労が要るのです。それで方位を測る器械や、傾斜を測る器械などを工夫して、これを行わなければなりません。それはともかくも西洋で行われている方法を詳しくしらべて、それに依るのがよいと考えて、そこでいろいろな測量の器械をつくってみました。忠敬が作った道具には、ものさし(尺度)、間棹、間縄、量程車、羅鍼、方位盤、象限儀、時計、測量定分儀、圭表儀、望遠鏡などがありました。これらの器械のことについては、後に忠敬の門弟の渡邊愼という人が書きのこした「伊能東河先生量地伝習録」という書物にかなり詳しく記されているのですが、それを読んで見ても、忠敬がいかにこれについて苦心を重ねたかがはっきりとわかるのです。  その一つの例をとり出して見ますと、これらの器械のうちで最も簡単なものさしにしましても、その頃我が国ではこれが厳密には定まっていなかったのでした。まず比較的広く行われていた物さしとしては、享保尺というのと、又四郎尺というのとありましたが、それらも幾らか長さのちがいがありました。そこで忠敬はこの二つの物さしの平均をとって新しい尺度を定め、これを折衷尺と名づけ、これを測量の土台にしたのでした。後に明治の時代になって度量衡法を定める場合に、やはりこの忠敬の折衷尺を基として、一メートルが三尺三寸に当たると定められたのですが、ともかく測量を正しく行うのには物さしの寸法をはっきりと定めておかなくてはならないのですから、それを最初に行う人の苦心はこのようなところにもあったのでした。忠敬はこの物さしを使って後に地球の緯度の一度が二十八里二分に当たるという結果を出しているのですが、これは現在の測定に比べて見ても僅かに千分の二ほどしか違っていないということで、忠敬の測量がその時代としていかに精密なものであったかが、この一事でも知られるのであります。
伊能忠敬はなぜ折衷尺を開発しましたか。
比較的広く行われていた物さしとしては、享保尺というのと、又四郎尺というのとありましたが、それらも幾らか長さのちがいがありました。そこで忠敬はこの二つの物さしの平均をとって新しい尺度を定め、これを折衷尺と名づけ、これを測量の土台にしたのでした。
JCRRAG_012280
歴史
前にも述べたように、ちょうどこの頃我が国の沿海にロシアの艦船などが出没し、ようやく騒がしくなって来ましたので、寛政十二年になると、幕府が忠敬に命じてまず蝦夷の測量を行わせることになりました。この頃の蝦夷といえば、まだまるで拓けてもいなかったので、その地を旅するだけでもなかなかの難事であったのでしたが、忠敬は既に五十六歳にもなる身でほとんど一年間を費してその土地測量を行い、その年の十二月に蝦夷の地図をつくり上げたということです。この蝦夷の地で、忠敬は間宮倫宗に出会い、それから倫宗と親しく交友したのでした。  蝦夷の測量を終わってから、忠敬は更に日本全国の測量を志し、それから実に十八年の長い間到るところに旅してこの大きな仕事を果たしたというのは、まことに驚くべきことであるといわなければなりますまい。その間に文化元年には尾張、越前より東に当たる地図を完成し、同四年にはその後の測量にかかる地図をつくり、文化六年に大体において日本輿地全図をつくり上げました。この中には全国の大図、中図、小図の三種類のものがありましたが、それらはそれぞれ三万六千分の一、二十一万六千分の一、四十三万二千分の一の大きさに相当するものです。いずれにしてもこれだけのものを、僅かに幾人かの門弟と共に完全につくり上げた功績はまことにすばらしいことであるといわなければなりません。  忠敬はともかくもこのようにして自分の志した大きな事業を成し遂げた上で、文政元年の四月十三日に江戸八丁堀亀島町の邸で亡くなりました。その際には、特に遺言して、自分がこのように日本全国を測量するという大きな仕事をなし遂げることのできたのも、全く高橋作左衞門師のおかげであったのであるから、その恩を深く感謝するためにせめてその墓側に葬ってくれといったとのことです。高橋至時は既にそれ以前の文化元年に亡くなって、浅草の源空寺に葬られていましたので、忠敬の遺骸もこの遺言に従ってその墓側に葬られました。しかしこの時には、その日本輿地全図と、ならびにそれに付随している輿地実測録がまだ完全に出来上がっていなかったので、その完成を見るまでは忠敬の喪を公に発表しないでおいたということで、これらが出来上がった後に、文政四年の九月四日に喪を発したのでした。  忠敬の著した書物としては、「国郡昼夜時刻対数表」、「記源術並びに用法」、「求割円八線表」、「割円八線表源法」、「地球測遠術問答」、「仏国暦衆編斥妄」などというのがあります。この他に「測量日記」二十八冊、「大日本沿海実測録」十四冊などがあり、これらはその測量の実際を知る上で、特に重要なものであります。下総の佐原町には、忠敬の旧宅が今でも残っていて、これらの書物や、測量に使った器械道具なども保存されているので、これはまことに貴重な記念物です。  忠敬のすばらしい功績については、今日一般によく認められているのですが、明治十六年には正四位を追贈させられましたし、また明治二十二年には東京地学協会で芝公園の円山に記念碑を立て、それには「贈正四位伊能忠敬先生遺功碑」としるしてあります。またその後、帝国学士院では、大谷亮吉氏に依嘱して、忠敬の事績を詳しく調査し、これが「伊能忠敬」と題する一書となって刊行されています。このようにして忠敬の遺した仕事はいつまでも大きな意味をもって記憶されてゆくことを考えますと、はやく学問の道を志した彼もまた安心して亡くなったのでありましょう。
伊能忠敬が作った日本輿地全図の縮尺は一つだけですか。
文化六年に大体において日本輿地全図をつくり上げました。この中には全国の大図、中図、小図の三種類のものがありましたが、それらはそれぞれ三万六千分の一、二十一万六千分の一、四十三万二千分の一の大きさに相当するものです。
JCRRAG_012281
歴史
前にも述べたように、ちょうどこの頃我が国の沿海にロシアの艦船などが出没し、ようやく騒がしくなって来ましたので、寛政十二年になると、幕府が忠敬に命じてまず蝦夷の測量を行わせることになりました。この頃の蝦夷といえば、まだまるで拓けてもいなかったので、その地を旅するだけでもなかなかの難事であったのでしたが、忠敬は既に五十六歳にもなる身でほとんど一年間を費してその土地測量を行い、その年の十二月に蝦夷の地図をつくり上げたということです。この蝦夷の地で、忠敬は間宮倫宗に出会い、それから倫宗と親しく交友したのでした。  蝦夷の測量を終わってから、忠敬は更に日本全国の測量を志し、それから実に十八年の長い間到るところに旅してこの大きな仕事を果たしたというのは、まことに驚くべきことであるといわなければなりますまい。その間に文化元年には尾張、越前より東に当たる地図を完成し、同四年にはその後の測量にかかる地図をつくり、文化六年に大体において日本輿地全図をつくり上げました。この中には全国の大図、中図、小図の三種類のものがありましたが、それらはそれぞれ三万六千分の一、二十一万六千分の一、四十三万二千分の一の大きさに相当するものです。いずれにしてもこれだけのものを、僅かに幾人かの門弟と共に完全につくり上げた功績はまことにすばらしいことであるといわなければなりません。  忠敬はともかくもこのようにして自分の志した大きな事業を成し遂げた上で、文政元年の四月十三日に江戸八丁堀亀島町の邸で亡くなりました。その際には、特に遺言して、自分がこのように日本全国を測量するという大きな仕事をなし遂げることのできたのも、全く高橋作左衞門師のおかげであったのであるから、その恩を深く感謝するためにせめてその墓側に葬ってくれといったとのことです。高橋至時は既にそれ以前の文化元年に亡くなって、浅草の源空寺に葬られていましたので、忠敬の遺骸もこの遺言に従ってその墓側に葬られました。しかしこの時には、その日本輿地全図と、ならびにそれに付随している輿地実測録がまだ完全に出来上がっていなかったので、その完成を見るまでは忠敬の喪を公に発表しないでおいたということで、これらが出来上がった後に、文政四年の九月四日に喪を発したのでした。  忠敬の著した書物としては、「国郡昼夜時刻対数表」、「記源術並びに用法」、「求割円八線表」、「割円八線表源法」、「地球測遠術問答」、「仏国暦衆編斥妄」などというのがあります。この他に「測量日記」二十八冊、「大日本沿海実測録」十四冊などがあり、これらはその測量の実際を知る上で、特に重要なものであります。下総の佐原町には、忠敬の旧宅が今でも残っていて、これらの書物や、測量に使った器械道具なども保存されているので、これはまことに貴重な記念物です。  忠敬のすばらしい功績については、今日一般によく認められているのですが、明治十六年には正四位を追贈させられましたし、また明治二十二年には東京地学協会で芝公園の円山に記念碑を立て、それには「贈正四位伊能忠敬先生遺功碑」としるしてあります。またその後、帝国学士院では、大谷亮吉氏に依嘱して、忠敬の事績を詳しく調査し、これが「伊能忠敬」と題する一書となって刊行されています。このようにして忠敬の遺した仕事はいつまでも大きな意味をもって記憶されてゆくことを考えますと、はやく学問の道を志した彼もまた安心して亡くなったのでありましょう。
伊能忠敬が高橋作左衞門の墓の近くに埋葬されたのはなぜか。
自分がこのように日本全国を測量するという大きな仕事をなし遂げることのできたのも、全く高橋作左衞門師のおかげであったのであるから、その恩を深く感謝するためにせめてその墓側に葬ってくれといったとのことです。
JCRRAG_012282
歴史
源内が最初本草学を修めてそれに詳しかったことは、すでに記した通りですが、江戸に来て田村藍水に教えをうけてからは一層これに熱心になり、田村藍水や松田元長などという人たちと相謀って、宝暦七年から十二年に至る間に五回にわたって、東都薬品会というのを催しました。そしていつも薬物を備えておかなければ病疾を癒やすことはできないというので、その間に広く諸国を巡って、多くの種類の薬草を集めたのでした。そして西洋からの薬品だけをあてにしていたのでは、商船が来なかった際には間に合わなくなるので、そんなことではいけないとも言っているのですが、そういう識見はその頃源内にして始めてもち得たのであると思われるのです。  また明和二年には、源内は武蔵国秩父の中津川に赴いて、そこで金、銀、銅、鉄、緑青、明礬、たんぱん、磁石などを見つけ出し、そこで山金採掘の仕事にとりかかりましたが、それはさほどうまくゆかなかったとのことです。しかしその傍らに秩父の山から木炭の焼出しを行い、またそれを運び出すために、荒川に通船業を起こして、それには大いに成功したといわれています。この炭焼を始めたのは少し後の事で安永四年のことでした。この外に鉱山の関係では、出羽の新庄侯のために銅の検査を行い、また秋田の佐竹侯のために院内の銀山を見まわったこともあるとのことです。  源内の始めてつくった源内焼という一種の陶器も広く世間に知られたのでしたが、これは彼が支那交趾の陶器の美しい彩色を研究して、それからつくり上げたのだと伝えられています。また明和七年に長崎に赴いた際には、天草深江の土が特別に陶器をつくるのに適しているのを見つけ出し、それを建白したとのことです。また金唐革とか、紅革などといわれるものを製作したり、伽羅の木で源内櫛というのを作ったり、硝子ガラス板に水銀を塗って自惚鏡という鏡も作りました。  このように源内は実に多方面の仕事をしたのでしたが、更に驚くべきことは、その頃オランダ人の持って来た考案に基づいて、自分でいろいろな科学的な装置を工夫したことです。そのなかにはまず今日の寒暖計に相当する寒熱昇降器というのがあり、また方向を示す磁針器や、水平面を見る平線儀というのもありました。平線儀は、その頃田畑用水掛井手や溜池などを築くときに水盛違いで仕損じるのを防ぐためでした。しかし源内がそのほかに最も得意としていたのは火浣布というのとエレキテルという器械との二つでした。  この中で、火浣布というのは、秩父の奥で見つけ出した石綿をつかって、それで織った布なのですが、これで唐米袋と言われているような袋をつくると、それは火に焼けないばかりでなく、その布のよごれは火に浣われるようにとれてしまうというので、火浣布と名づけたのでした。それを敷いて香をたくのに最も都合がよいというので、香敷に多く使われたということです。  エレキテルというのは、つまり今日の摩擦起電機のことなのですが、源内はオランダ人の記したところによると自分で工夫して、これをつくったので、安永五年にそれを発明したと伝えられているのです。外側は木箱で出来ており、その側にハンドルをつけてまわすようになっています。箱のなかには車があって、それがハンドルの回転につれてまわるようになっており、それと共に調帯が硝子ガラスの円筒と銀箔の貼ってある板とを摩擦して電気をおこす仕掛けになっています。そしてこの電気は針金の線で蓄電器へ導かれるようにしてあります。源内はこのエレキテルをつかって、紙細工の人形を動かしたり、火花をとばしたりしたので、その頃の人々はそれを眺めて、いかにも驚いたということであります。安永五年といえば、西暦一七七六年に当るので、西洋でもまだ電流をつくる電池などはまるで無かった時代であり、クーロンが電気力の法則を見つけ出したのも、それより後の一七八五年のことであったのですから、そういう時代に我が国で源内によりエレキテルがつくられたということは、まことに著しいことであったといわなければなりますまい。
平賀源内が平線儀を発明したのはなぜですか。
平線儀は、その頃田畑用水掛井手や溜池などを築くときに水盛違いで仕損じるのを防ぐためでした。
JCRRAG_012283
歴史
源内が最初本草学を修めてそれに詳しかったことは、すでに記した通りですが、江戸に来て田村藍水に教えをうけてからは一層これに熱心になり、田村藍水や松田元長などという人たちと相謀って、宝暦七年から十二年に至る間に五回にわたって、東都薬品会というのを催しました。そしていつも薬物を備えておかなければ病疾を癒やすことはできないというので、その間に広く諸国を巡って、多くの種類の薬草を集めたのでした。そして西洋からの薬品だけをあてにしていたのでは、商船が来なかった際には間に合わなくなるので、そんなことではいけないとも言っているのですが、そういう識見はその頃源内にして始めてもち得たのであると思われるのです。  また明和二年には、源内は武蔵国秩父の中津川に赴いて、そこで金、銀、銅、鉄、緑青、明礬、たんぱん、磁石などを見つけ出し、そこで山金採掘の仕事にとりかかりましたが、それはさほどうまくゆかなかったとのことです。しかしその傍らに秩父の山から木炭の焼出しを行い、またそれを運び出すために、荒川に通船業を起こして、それには大いに成功したといわれています。この炭焼を始めたのは少し後の事で安永四年のことでした。この外に鉱山の関係では、出羽の新庄侯のために銅の検査を行い、また秋田の佐竹侯のために院内の銀山を見まわったこともあるとのことです。  源内の始めてつくった源内焼という一種の陶器も広く世間に知られたのでしたが、これは彼が支那交趾の陶器の美しい彩色を研究して、それからつくり上げたのだと伝えられています。また明和七年に長崎に赴いた際には、天草深江の土が特別に陶器をつくるのに適しているのを見つけ出し、それを建白したとのことです。また金唐革とか、紅革などといわれるものを製作したり、伽羅の木で源内櫛というのを作ったり、硝子ガラス板に水銀を塗って自惚鏡という鏡も作りました。  このように源内は実に多方面の仕事をしたのでしたが、更に驚くべきことは、その頃オランダ人の持って来た考案に基づいて、自分でいろいろな科学的な装置を工夫したことです。そのなかにはまず今日の寒暖計に相当する寒熱昇降器というのがあり、また方向を示す磁針器や、水平面を見る平線儀というのもありました。平線儀は、その頃田畑用水掛井手や溜池などを築くときに水盛違いで仕損じるのを防ぐためでした。しかし源内がそのほかに最も得意としていたのは火浣布というのとエレキテルという器械との二つでした。  この中で、火浣布というのは、秩父の奥で見つけ出した石綿をつかって、それで織った布なのですが、これで唐米袋と言われているような袋をつくると、それは火に焼けないばかりでなく、その布のよごれは火に浣われるようにとれてしまうというので、火浣布と名づけたのでした。それを敷いて香をたくのに最も都合がよいというので、香敷に多く使われたということです。  エレキテルというのは、つまり今日の摩擦起電機のことなのですが、源内はオランダ人の記したところによると自分で工夫して、これをつくったので、安永五年にそれを発明したと伝えられているのです。外側は木箱で出来ており、その側にハンドルをつけてまわすようになっています。箱のなかには車があって、それがハンドルの回転につれてまわるようになっており、それと共に調帯が硝子ガラスの円筒と銀箔の貼ってある板とを摩擦して電気をおこす仕掛けになっています。そしてこの電気は針金の線で蓄電器へ導かれるようにしてあります。源内はこのエレキテルをつかって、紙細工の人形を動かしたり、火花をとばしたりしたので、その頃の人々はそれを眺めて、いかにも驚いたということであります。安永五年といえば、西暦一七七六年に当るので、西洋でもまだ電流をつくる電池などはまるで無かった時代であり、クーロンが電気力の法則を見つけ出したのも、それより後の一七八五年のことであったのですから、そういう時代に我が国で源内によりエレキテルがつくられたということは、まことに著しいことであったといわなければなりますまい。
平賀源内が発明した火浣布はなぜ香敷に使われたのですか。
火浣布というのは、秩父の奥で見つけ出した石綿をつかって、それで織った布なのですが、これで唐米袋と言われているような袋をつくると、それは火に焼けないばかりでなく、その布のよごれは火に浣われるようにとれてしまうというので、火浣布と名づけたのでした。それを敷いて香をたくのに最も都合がよいというので、香敷に多く使われたということです。
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歴史
源内が最初本草学を修めてそれに詳しかったことは、すでに記した通りですが、江戸に来て田村藍水に教えをうけてからは一層これに熱心になり、田村藍水や松田元長などという人たちと相謀って、宝暦七年から十二年に至る間に五回にわたって、東都薬品会というのを催しました。そしていつも薬物を備えておかなければ病疾を癒やすことはできないというので、その間に広く諸国を巡って、多くの種類の薬草を集めたのでした。そして西洋からの薬品だけをあてにしていたのでは、商船が来なかった際には間に合わなくなるので、そんなことではいけないとも言っているのですが、そういう識見はその頃源内にして始めてもち得たのであると思われるのです。  また明和二年には、源内は武蔵国秩父の中津川に赴いて、そこで金、銀、銅、鉄、緑青、明礬、たんぱん、磁石などを見つけ出し、そこで山金採掘の仕事にとりかかりましたが、それはさほどうまくゆかなかったとのことです。しかしその傍らに秩父の山から木炭の焼出しを行い、またそれを運び出すために、荒川に通船業を起こして、それには大いに成功したといわれています。この炭焼を始めたのは少し後の事で安永四年のことでした。この外に鉱山の関係では、出羽の新庄侯のために銅の検査を行い、また秋田の佐竹侯のために院内の銀山を見まわったこともあるとのことです。  源内の始めてつくった源内焼という一種の陶器も広く世間に知られたのでしたが、これは彼が支那交趾の陶器の美しい彩色を研究して、それからつくり上げたのだと伝えられています。また明和七年に長崎に赴いた際には、天草深江の土が特別に陶器をつくるのに適しているのを見つけ出し、それを建白したとのことです。また金唐革とか、紅革などといわれるものを製作したり、伽羅の木で源内櫛というのを作ったり、硝子ガラス板に水銀を塗って自惚鏡という鏡も作りました。  このように源内は実に多方面の仕事をしたのでしたが、更に驚くべきことは、その頃オランダ人の持って来た考案に基づいて、自分でいろいろな科学的な装置を工夫したことです。そのなかにはまず今日の寒暖計に相当する寒熱昇降器というのがあり、また方向を示す磁針器や、水平面を見る平線儀というのもありました。平線儀は、その頃田畑用水掛井手や溜池などを築くときに水盛違いで仕損じるのを防ぐためでした。しかし源内がそのほかに最も得意としていたのは火浣布というのとエレキテルという器械との二つでした。  この中で、火浣布というのは、秩父の奥で見つけ出した石綿をつかって、それで織った布なのですが、これで唐米袋と言われているような袋をつくると、それは火に焼けないばかりでなく、その布のよごれは火に浣われるようにとれてしまうというので、火浣布と名づけたのでした。それを敷いて香をたくのに最も都合がよいというので、香敷に多く使われたということです。  エレキテルというのは、つまり今日の摩擦起電機のことなのですが、源内はオランダ人の記したところによると自分で工夫して、これをつくったので、安永五年にそれを発明したと伝えられているのです。外側は木箱で出来ており、その側にハンドルをつけてまわすようになっています。箱のなかには車があって、それがハンドルの回転につれてまわるようになっており、それと共に調帯が硝子ガラスの円筒と銀箔の貼ってある板とを摩擦して電気をおこす仕掛けになっています。そしてこの電気は針金の線で蓄電器へ導かれるようにしてあります。源内はこのエレキテルをつかって、紙細工の人形を動かしたり、火花をとばしたりしたので、その頃の人々はそれを眺めて、いかにも驚いたということであります。安永五年といえば、西暦一七七六年に当るので、西洋でもまだ電流をつくる電池などはまるで無かった時代であり、クーロンが電気力の法則を見つけ出したのも、それより後の一七八五年のことであったのですから、そういう時代に我が国で源内によりエレキテルがつくられたということは、まことに著しいことであったといわなければなりますまい。
平賀源内は発明したエレキテルでなにをしましたか。
源内はこのエレキテルをつかって、紙細工の人形を動かしたり、火花をとばしたりした。
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源内の行った仕事としては、西洋の油絵の描き方を会得して、それを人々に伝えたり、また田沼侯のためにオランダ語の翻訳に従事したりしたことです。その著書としては、本草に関するものがたくさんにある外に、農作物、物産に関するものもあり、火浣布、陶器、寒熱昇降器などの説明もあり、また他面には多くの滑稽本、洒落本、及び浄瑠璃の作品があるので、これ等は実は源内があらゆる方面においてすぐれた才能をもっていたことを示すものであります。しかしそれにも拘らず晩年には甚だ不遇であったので、殊に安永八年には図らずも罪を得て十一月二十日に牢獄につながれることとなり、十二月十八日に獄内で死んだということです。この罪を得た原因についてもいろいろな説があって、どれが本当かわかりませんが、ともかくその際に人に刄傷を加えたのは確かなようです。源内の墓は江戸、浅草橋場町の総泉寺と、郷里の志度浦の自性院にあるのですが、杉田玄白がその碑文に、「非常の人あり、非常の事を好む。ああ非常の人、遂に非常に死す」と記しているそうです。ともかくこのように平賀源内はその当時において稀に見る非常の人であったに違いないので、しかし一般の人々に先だって彼が科学や技術の道に進んだことは、いつまでも忘れられない事なのでありましょう。この点を尊重して大正十三年には源内に従五位を追贈せられたので、彼もまたこれにより安んじて瞑することができるのでありましょう。また現に彼の遺品としては、磁針器と平線儀とが香川県の教育会議所蔵として残っており、エレキテルの一つは逓信博物館に、もう一つは志度町の平賀家にあり、金唐革張りの手文庫が秩父の久保道三氏の元にあるとのことです。私たちは今日において遠い以前の源内のことを想うと、そこにいろいろな感想をもたないわけにゆかないのでしょう。
平賀源内の墓の碑文に杉田玄白が記した文はなにか。
源内の墓は江戸、浅草橋場町の総泉寺と、郷里の志度浦の自性院にあるのですが、杉田玄白がその碑文に、「非常の人あり、非常の事を好む。ああ非常の人、遂に非常に死す」と記しているそうです。
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ニュートン祭になぜ林檎を飾るかといえば、それはニュートンが林檎の実が落ちるのを見て万有引力を発見したという有名な話があるからです。この話の由来について少しだけ説明してみますと、次の通りです。  ニュートンの名はアイザックと言いますが、その生まれた故郷は、イギリスの中部にあるリンコルン伯爵領地のなかのウールスソープという小さな村でした。その村で小学校を卒業してから隣町の中学校に入ったところが、家庭の事情で一年ばかり経って家に呼び戻され、農業に従事することになりました。それというのも父はアイザックの生まれる前に病気で死んでしまい、母親は一旦他家に再嫁したのに、そこでまた夫と死別してニュートンの生家に帰って来たからでした。しかしアイザックがいかにも学問好きなので、そのまま農業をさせておくのも惜しいと人々に忠告されて、ともかく中学校を続けさせることになったのですが、成績も非常によかったので、卒業後はもう少し学問を大成させようということになり、十八歳の折にケンブリッジの大学に入学しました。  大学では数学や物理学を修め、一六六五年に優等で卒業し、そのまま大学に留まってまた研究を続けていました。ところがその頃のヨーロッパではペスト病が激しく流行し、諸処を襲っては恐ろしく多数の死者を出すという有様であったのです。ちょうど翌年の夏にはイギリスがその流行に襲われたので、ケンブリッジ大学もしばらくの間閉鎖して、学生はみんな郷里へかえることになりました。それでニュートンも故郷に戻ったのですが、その間にも自分の好きな研究は少しも怠りませんでした。そのときの研究というのが、ちょうど星の運動であったのです。つまり星の運動はどんな力に支配されているのかという問題を深く考えていたのですが、ある日庭園を散歩してみると、ふと林檎の実が枝からぼたりと落ちたのを見て、それで万有引力ということに気がついたというのです。  この話は、ニュートンが死んでから十年程後に出版されたヴォルテールという人の著書のなかに、ニュートンの姪から聞いたものとして記されているので、その後伝えられて有名になったのですが、ニュートンが本当に林檎の実から引力を思いついたということは、甚だ疑わしいのです。ニュートンの家の庭園に林檎の樹が確かにあったという考証があったり、またその樹の幹の一部だといわれるものがある博物館に保存されてもいますけれども、それでも話の筋道がどうもこれだけでははっきりしないのです。  というのは、話をもう少し科学的に運ばせてゆかなくてはいけないからです。林檎の実が地面に落ちるくらいのことは、誰でも古い昔から知っているのですし、ニュートンがそれを見て、偶然に何か思いついたとしたところで、それはきっともっと別の事柄であったに違いないのです。ところでこの別の事柄というのが科学的には非常に大切なので、それがわからなくては、ニュートンの本当の偉さが知られないのですから、そこでニュートン自身の書いた書物のなかから、この問題をどんな風に解いて行ったかを、ここにお話ししたいと思います。
ニュートンはペストの影響を受けましたか。
ヨーロッパではペスト病が激しく流行し、諸処を襲っては恐ろしく多数の死者を出すという有様であったのです。ちょうど翌年の夏にはイギリスがその流行に襲われたので、ケンブリッジ大学もしばらくの間閉鎖して、学生はみんな郷里へかえることになりました。それでニュートンも故郷に戻った。
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ニュートン祭になぜ林檎を飾るかといえば、それはニュートンが林檎の実が落ちるのを見て万有引力を発見したという有名な話があるからです。この話の由来について少しだけ説明してみますと、次の通りです。  ニュートンの名はアイザックと言いますが、その生まれた故郷は、イギリスの中部にあるリンコルン伯爵領地のなかのウールスソープという小さな村でした。その村で小学校を卒業してから隣町の中学校に入ったところが、家庭の事情で一年ばかり経って家に呼び戻され、農業に従事することになりました。それというのも父はアイザックの生まれる前に病気で死んでしまい、母親は一旦他家に再嫁したのに、そこでまた夫と死別してニュートンの生家に帰って来たからでした。しかしアイザックがいかにも学問好きなので、そのまま農業をさせておくのも惜しいと人々に忠告されて、ともかく中学校を続けさせることになったのですが、成績も非常によかったので、卒業後はもう少し学問を大成させようということになり、十八歳の折にケンブリッジの大学に入学しました。  大学では数学や物理学を修め、一六六五年に優等で卒業し、そのまま大学に留まってまた研究を続けていました。ところがその頃のヨーロッパではペスト病が激しく流行し、諸処を襲っては恐ろしく多数の死者を出すという有様であったのです。ちょうど翌年の夏にはイギリスがその流行に襲われたので、ケンブリッジ大学もしばらくの間閉鎖して、学生はみんな郷里へかえることになりました。それでニュートンも故郷に戻ったのですが、その間にも自分の好きな研究は少しも怠りませんでした。そのときの研究というのが、ちょうど星の運動であったのです。つまり星の運動はどんな力に支配されているのかという問題を深く考えていたのですが、ある日庭園を散歩してみると、ふと林檎の実が枝からぼたりと落ちたのを見て、それで万有引力ということに気がついたというのです。  この話は、ニュートンが死んでから十年程後に出版されたヴォルテールという人の著書のなかに、ニュートンの姪から聞いたものとして記されているので、その後伝えられて有名になったのですが、ニュートンが本当に林檎の実から引力を思いついたということは、甚だ疑わしいのです。ニュートンの家の庭園に林檎の樹が確かにあったという考証があったり、またその樹の幹の一部だといわれるものがある博物館に保存されてもいますけれども、それでも話の筋道がどうもこれだけでははっきりしないのです。  というのは、話をもう少し科学的に運ばせてゆかなくてはいけないからです。林檎の実が地面に落ちるくらいのことは、誰でも古い昔から知っているのですし、ニュートンがそれを見て、偶然に何か思いついたとしたところで、それはきっともっと別の事柄であったに違いないのです。ところでこの別の事柄というのが科学的には非常に大切なので、それがわからなくては、ニュートンの本当の偉さが知られないのですから、そこでニュートン自身の書いた書物のなかから、この問題をどんな風に解いて行ったかを、ここにお話ししたいと思います。
アイザックは中学校を止めて農業に従事することになったが、なぜ中学校に戻ることができたのか。
アイザックがいかにも学問好きなので、そのまま農業をさせておくのも惜しいと人々に忠告されて、ともかく中学校を続けさせることになった。
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ちょうど翌年の夏にはイギリスがその流行に襲われたので、ケンブリッジ大学もしばらくの間閉鎖して、学生はみんな郷里へかえることになりました。それでニュートンも故郷に戻ったのですが、その間にも自分の好きな研究は少しも怠りませんでした。そのときの研究というのが、ちょうど星の運動であったのです。つまり星の運動はどんな力に支配されているのかという問題を深く考えていたのですが、ある日庭園を散歩してみると、ふと林檎の実が枝からぼたりと落ちたのを見て、それで万有引力ということに気がついたというのです。  この話は、ニュートンが死んでから十年程後に出版されたヴォルテールという人の著書のなかに、ニュートンの姪から聞いたものとして記されているので、その後伝えられて有名になったのですが、ニュートンが本当に林檎の実から引力を思いついたということは、甚だ疑わしいのです。ニュートンの家の庭園に林檎の樹が確かにあったという考証があったり、またその樹の幹の一部だといわれるものがある博物館に保存されてもいますけれども、それでも話の筋道がどうもこれだけでははっきりしないのです。  というのは、話をもう少し科学的に運ばせてゆかなくてはいけないからです。林檎の実が地面に落ちるくらいのことは、誰でも古い昔から知っているのですし、ニュートンがそれを見て、偶然に何か思いついたとしたところで、それはきっともっと別の事柄であったに違いないのです。ところでこの別の事柄というのが科学的には非常に大切なので、それがわからなくては、ニュートンの本当の偉さが知られないのですから、そこでニュートン自身の書いた書物のなかから、この問題をどんな風に解いて行ったかを、ここにお話ししたいと思います。 月も地球に落ちてくる  ニュートンがどうして万有引力を発見したかというと、それにはいろいろな苦心が重ねられたので、林檎の実が落ちるのを見たぐらいですぐにそんなすばらしい発見が出来るものではありません。  林檎の実に限らず、どんなものでも地球上で支えるものがなければ落ちるということは誰でも知っています。これを自由落下といいますが、それに対する法則はニュートンよりも前に、イタリアのガリレイという学者がすでに発見しました。ところで皆さんは、何も支えるものが無いのに拘わらず、いつまで経っても地面に落ちて来ないものがあるのを知っていますか。何だかそういうと謎みたいに聞こえますが、それはつまり空に輝いている月です。月は地球の周りをまわっているのだということが、今でははっきりわかっていますけれども、それにしても月はどうして地面に落ちないのでしょうか。林檎は落ちるけれども、月は落ちない。これが多分ニュートンの最初の疑問ではなかったのでしょうか。つまり月を問題にしたところに、ニュートンの人並みにすぐれた慧眼があったのです。  そこでニュートンは、はっきりとした論理を追究してゆきました。林檎が落ちるならば、月もまた落ちなくてはならない。それなら月は果たしてどんな速さで落ちているかを計算して見よう。これがニュートンの研究の出発点でありました。  これだけでは皆さんに月の落ちていることがまだよくわからないかも知れませんから、もう少し説明するとこういうことになるのです。野球の球を投げると、曲線を描いて遠方に落ちます。投げる力が強ければ、強い程ほど遠くへゆくでしょう。大砲の弾丸でも同じことです。そこで仮に非常に強い力で弾丸を打ち出したならどこまでゆくかと考えて見ましょう。この力をますます強くしたと考えれば、落ちる場所はだんだん遠方になり、例えば日本から打ち出したものが支那までとどき、もっと強ければ支那を超えてヨーロッパまでもゆき、ついにはそれも通り越してアメリカにも達するという理屈です。実際にそんなことは出来ないにしても、理窟りくつの上では確かにそうなるのに違いないので、つまり月は非常な速さで投げ出されていると見れば、それは地球をぐるぐるまわるけれども、結局それでも地面に届かないということになるのです。  ともかくこのようにしてニュートンは月の運動を研究して、それを地球上で物の落ちるのと比較し、月が遠方にあるから、それに対する地球の引力は距離の遠いだけ減っているのを見出し、その大きさが丁度距離の二乗に逆比例するということを計算で出したのでした。 万有引力の発見  さて地球と月との間に引力が働いているならば、その外の星や太陽の間にもやはり同じような引力が働くにちがいないというのが、ニュートンの次に考えたところでした。太陽のまわりの星の運動については、その頃ケプラーの法則というのが知られていました。これは星の軌道が太陽を焦点とした楕円だということを示したものでありますが、ニュートンは太陽と星との間にも同じような引力があると考えて、この軌道を説明することができはしまいかと、いろいろ苦心しました。この問題を解くのには、非常に長い年月を要したので、それは数学の上で微積分学といわれているものを考え出して、それを使わなければならなかったからです。この研究を完全にまとめて書いた有名なプリンシピアという書物が出版されたのは一六八六年ですから、前の林檎の話からは二十年も後に当たります。ともかくもこれであらゆる物体の間に万有引力が働いているということが証拠立てられたのでした。ニュートンが非常な勉強家であったことはその当時の誰も驚いていたので、彼の親友であった天文学者のハリーがある時、 「それ程たくさんの大きな発見を君は自分でどうして成し遂げることができたと思うか」と尋ねましたら、ニュートンは、「僕はただ間断なくそれを考えただけだよ」と答えたということです。それから稀まれに見る謙遜家であったことは、彼の有名な次の言葉がそれを十分に示しています。 「私は世間が私をどう見るかを知りません。しかし私自身では、ちょうど限りない真理の大洋が横たわっている前で、浜辺に滑かかな小石や美しい貝殻を拾って楽しげに遊んでいる一人の小児のようにしか思われないのです。」  それはなんと奥ゆかしい言葉ではありませんか。  ニュートンの果たした科学上の仕事はこの万有引力の発見のほかに光に関する研究などいろいろあるのですが、ここではそれらは省いておきます。それにしてもともかくニュートンはイタリアのガリレイについて科学の正しい道をふみ進めた人としてたたえられていることは、今では誰もが認めていることにちがいないのです。
ニュートンは林檎が落ちるのを見て万有引力を発見したという話は誰が書きましたか。
ある日庭園を散歩してみると、ふと林檎の実が枝からぼたりと落ちたのを見て、それで万有引力ということに気がついたというのです。この話は、ニュートンが死んでから十年程後に出版されたヴォルテールという人の著書のなかに、ニュートンの姪から聞いたものとして記されている。
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ちょうど翌年の夏にはイギリスがその流行に襲われたので、ケンブリッジ大学もしばらくの間閉鎖して、学生はみんな郷里へかえることになりました。それでニュートンも故郷に戻ったのですが、その間にも自分の好きな研究は少しも怠りませんでした。そのときの研究というのが、ちょうど星の運動であったのです。つまり星の運動はどんな力に支配されているのかという問題を深く考えていたのですが、ある日庭園を散歩してみると、ふと林檎の実が枝からぼたりと落ちたのを見て、それで万有引力ということに気がついたというのです。  この話は、ニュートンが死んでから十年程後に出版されたヴォルテールという人の著書のなかに、ニュートンの姪から聞いたものとして記されているので、その後伝えられて有名になったのですが、ニュートンが本当に林檎の実から引力を思いついたということは、甚だ疑わしいのです。ニュートンの家の庭園に林檎の樹が確かにあったという考証があったり、またその樹の幹の一部だといわれるものがある博物館に保存されてもいますけれども、それでも話の筋道がどうもこれだけでははっきりしないのです。  というのは、話をもう少し科学的に運ばせてゆかなくてはいけないからです。林檎の実が地面に落ちるくらいのことは、誰でも古い昔から知っているのですし、ニュートンがそれを見て、偶然に何か思いついたとしたところで、それはきっともっと別の事柄であったに違いないのです。ところでこの別の事柄というのが科学的には非常に大切なので、それがわからなくては、ニュートンの本当の偉さが知られないのですから、そこでニュートン自身の書いた書物のなかから、この問題をどんな風に解いて行ったかを、ここにお話ししたいと思います。 月も地球に落ちてくる  ニュートンがどうして万有引力を発見したかというと、それにはいろいろな苦心が重ねられたので、林檎の実が落ちるのを見たぐらいですぐにそんなすばらしい発見が出来るものではありません。  林檎の実に限らず、どんなものでも地球上で支えるものがなければ落ちるということは誰でも知っています。これを自由落下といいますが、それに対する法則はニュートンよりも前に、イタリアのガリレイという学者がすでに発見しました。ところで皆さんは、何も支えるものが無いのに拘わらず、いつまで経っても地面に落ちて来ないものがあるのを知っていますか。何だかそういうと謎みたいに聞こえますが、それはつまり空に輝いている月です。月は地球の周りをまわっているのだということが、今でははっきりわかっていますけれども、それにしても月はどうして地面に落ちないのでしょうか。林檎は落ちるけれども、月は落ちない。これが多分ニュートンの最初の疑問ではなかったのでしょうか。つまり月を問題にしたところに、ニュートンの人並みにすぐれた慧眼があったのです。  そこでニュートンは、はっきりとした論理を追究してゆきました。林檎が落ちるならば、月もまた落ちなくてはならない。それなら月は果たしてどんな速さで落ちているかを計算して見よう。これがニュートンの研究の出発点でありました。  これだけでは皆さんに月の落ちていることがまだよくわからないかも知れませんから、もう少し説明するとこういうことになるのです。野球の球を投げると、曲線を描いて遠方に落ちます。投げる力が強ければ、強い程ほど遠くへゆくでしょう。大砲の弾丸でも同じことです。そこで仮に非常に強い力で弾丸を打ち出したならどこまでゆくかと考えて見ましょう。この力をますます強くしたと考えれば、落ちる場所はだんだん遠方になり、例えば日本から打ち出したものが支那までとどき、もっと強ければ支那を超えてヨーロッパまでもゆき、ついにはそれも通り越してアメリカにも達するという理屈です。実際にそんなことは出来ないにしても、理屈の上では確かにそうなるのに違いないので、つまり月は非常な速さで投げ出されていると見れば、それは地球をぐるぐるまわるけれども、結局それでも地面に届かないということになるのです。  ともかくこのようにしてニュートンは月の運動を研究して、それを地球上で物の落ちるのと比較し、月が遠方にあるから、それに対する地球の引力は距離の遠いだけ減っているのを見出し、その大きさが丁度距離の二乗に逆比例するということを計算で出したのでした。 万有引力の発見  さて地球と月との間に引力が働いているならば、その外の星や太陽の間にもやはり同じような引力が働くにちがいないというのが、ニュートンの次に考えたところでした。太陽のまわりの星の運動については、その頃ケプラーの法則というのが知られていました。これは星の軌道が太陽を焦点とした楕円だということを示したものでありますが、ニュートンは太陽と星との間にも同じような引力があると考えて、この軌道を説明することができはしまいかと、いろいろ苦心しました。この問題を解くのには、非常に長い年月を要したので、それは数学の上で微積分学といわれているものを考え出して、それを使わなければならなかったからです。この研究を完全にまとめて書いた有名なプリンシピアという書物が出版されたのは一六八六年ですから、前の林檎の話からは二十年も後に当たります。ともかくもこれであらゆる物体の間に万有引力が働いているということが証拠立てられたのでした。ニュートンが非常な勉強家であったことはその当時の誰も驚いていたので、彼の親友であった天文学者のハリーがある時、 「それ程たくさんの大きな発見を君は自分でどうして成し遂げることができたと思うか」と尋ねましたら、ニュートンは、「僕はただ間断なくそれを考えただけだよ」と答えたということです。それから稀まれに見る謙遜家であったことは、彼の有名な次の言葉がそれを十分に示しています。 「私は世間が私をどう見るかを知りません。しかし私自身では、ちょうど限りない真理の大洋が横たわっている前で、浜辺に滑かかな小石や美しい貝殻を拾って楽しげに遊んでいる一人の小児のようにしか思われないのです。」  それはなんと奥ゆかしい言葉ではありませんか。  ニュートンの果たした科学上の仕事はこの万有引力の発見のほかに光に関する研究などいろいろあるのですが、ここではそれらは省いておきます。それにしてもともかくニュートンはイタリアのガリレイについて科学の正しい道をふみ進めた人としてたたえられていることは、今では誰もが認めていることにちがいないのです。
なぜニュートンは月が地面に落ちないと疑問に思ったのか。
林檎が落ちるならば、月もまた落ちなくてはならない。それなら月は果たしてどんな速さで落ちているかを計算して見よう。これがニュートンの研究の出発点でありました。
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歴史
イギリスのニュートンといえば、科学の先祖のように尊ばれているのは、多分皆さんもご存じでしょう。毎年十二月の二十五日になると、大学の物理学の教室では、古い先輩の方々から学生までが集まって、ニュートン祭というものを行います。ニュートンの肖像を正面に飾って、赤い林檎の実をその前に盛って、それから先輩の思出話や、大学の先生方のおもしろい逸話を漫画に描いたのを写し出したり、賑やかにその夜を興じ過ごすのが例になっています。そしてニュートンへの思慕を通じて、みんな科学を知る喜びをしっかりと胸に抱くのです。  十二月の二十五日は、ニュートンの誕生日に当たるので、その生まれたのは一六四二年のことですから、今からはもう三〇〇年前になります。そんなに昔のことですから、その頃にはもちろん今日のような科学はまるで無かったといってよいのです。ところがニュートンは小さい時から科学的な頭をもっていて、器械をいじることなどが好きで、それからだんだん学問を勉強して、ついに科学の先祖といわれるまでになったのでした。  イギリスでは国家に功労のあった偉い人達をロンドンのウエストミンスター寺院に葬ることになっているのですが、その光栄を荷なった人々の中には、政治家や軍人ばかりでなく、文学者や科学者などもたくさんにあります。これは学問に重きを置く上から当然のことでありますが、科学者のなかでニュートンの墓石がひと際目立って並んでいることはいうまでもありません。ニュートンは一七二七年の三月三十一日に八十四歳の高齢で亡くなりました。それから今日まで彼の名声は、ひとりイギリスばかりではなく、世界中のどこにもゆきわたっているのを見ても、その一生涯の仕事の大きさが想われるわけです。
ニュートンはウエストミンスター寺院に葬られましたか。
イギリスでは国家に功労のあった偉い人達をロンドンのウエストミンスター寺院に葬ることになっているのですが、その光栄を荷なった人々の中には、政治家や軍人ばかりでなく、文学者や科学者などもたくさんにあります。これは学問に重きを置く上から当然のことでありますが、科学者のなかでニュートンの墓石がひと際目立って並んでいることはいうまでもありません。
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歴史
科学の上の学説や理論のうちで、今日までに広く世間一般の問題にされたものはいろいろありますが、そのなかである方面から強い反対を受け、それをとなえる学者に社会的な迫害を与えるほどになったものとして、古くはコペルニクスの地動説があり、近代になってはダーウィンの生物進化論であることは、多分皆さんも知られていることでありましょう。ダーウィンの生物進化論を反対する主要な原因は宗教的な信仰によるのでありまして、ことに西洋では古くからキリスト教の信仰が深くふだんの生活のなかにまでしみ込んでいるので、その聖書のなかに記されていることをそのまま真実として信じることになるのでした。本当に考えるならば、聖書の字句は、まだ発達しなかったごく古い時代の人達に教えるためにできたのでありますから、科学の真理がだんだんに明らかにされて来るに従って、それを適宜に解釈しなおしてゆかなくてはならないのですが、それほどの深い考えをもたない人たちは、単にその形式に捉われてしまうことにもなるのです。それでコペルニクスの地動説などは、その頃の宗教家からはげしい反対をうけて、科学的にそれを本当であるとしたガリレイなどもひどく迫害されたことは、すでにここでもお話ししたのでしたが、ダーウィンの生物進化論もやはり同じ運命であったのでした。このダーウィンの学説の出たのは十九世紀の半ば頃のことで、この時代には古いコペルニクスやガリレイの頃とはちがって、科学が著しく進んでおり、それのあらゆる適用が世間に広まって、すべての人たちがその利便をしみじみと感じていることも確かであったのですが、それでいてダーウィンの学説が出ると、宗教的な立場からそれへの反対がおこるというのですから、実に人間の心理というものはふしぎであると言わなければなりません。もちろん、物事を正しく考えてゆきさえすれば、そんなはずはあり得ないのですけれども、それが出来ないところに人間の弱点があるのでしょう。ごく近頃になってさえ、アメリカのあるところで進化論を学校で教えることを禁止したというような話が伝えられましたし、またそれとはよほど立場がちがってはいるものの、我が国でも思想の上から進化論に反対する人たちがあると聞きます。しかしすべてこれらは科学の本当の意味を理解しないことから起こるので、これでは一方でしきりに科学振興などを叫んでも、そこに大きな矛盾のあることをみずから暴露しているようなことになります。科学の学説や理論は、自然のいろいろな事実を理解してゆくために、ぜひとも必要なのであって、それらはもちろん現在のままで完全であるとは限りませんけれども、だんだんにそれらを完全に導いてゆくことが、科学の進歩を持ち来たすものであるということを、十分によく悟らなくてはなりません。宗教や思想などはいうまでもなくそれとは無関係のものであるべきはずなのです。  さて、生物の進化論はどうして現れて来たのかということについて、まずごく簡単な説明を述べておきましょう。根本的にいえば、生命をもっている生物がどうしてこの地球の上に生じて来たかという問題が、今日でもまだ全く解かれていない極めてふしぎな事なのでありますが、それはしばらくおくとしても、生物に関してはふしぎな問題が非常にたくさんあるのです。第一に、生物の種類、それを学問の上では「種」と名づけていますが、この種が実に数多くあります。ダーウィンの時代にはもう数十万の種が知られていたのですが、今日では百万にも及んでいます。それほどたくさんの種がどうして生まれて来たかということが、ともかくふしぎな事に違いありません。昔の人たちは、とかく物事を大ざっぱに考えたので、我が国などでも蛆虫のようなものは汚いごみのなかから自然に湧いて生まれてくるようにいいならわしたり、昆虫は草の葉の露から生まれるなどとも考えたのでした。ごく古い頃にエジプトの人々は、鼠がナイル河の泥から生まれると信じていたという話も伝わっています。学問を修めた人のなかにも、普通の物質のなかから熱などの関係で生まれてくるのではないかと、まじめに考えたこともあるのです。ましてバクテリヤのような小さな生物になると、それの自然発生ということがかなり近頃まで考えられたのでした。しかし少し理窟を追って考えてゆくならば、無生物からしてひょっくりと生物が生まれてくるはずのないことは、むしろ当然であると思われるのです。  さて、それならばたくさんの生物の種類がどうして出て来たかということが、科学の上で極めて重要な問題となるわけです。
ダーウィンの生物進化論はなぜ反対されたのですか。
ダーウィンの生物進化論を反対する主要な原因は宗教的な信仰によるのでありまして、ことに西洋では古くからキリスト教の信仰が深くふだんの生活のなかにまでしみ込んでいるので、その聖書のなかに記されていることをそのまま真実として信じることになるのでした。
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歴史
科学の上の学説や理論のうちで、今日までに広く世間一般の問題にされたものはいろいろありますが、そのなかである方面から強い反対を受け、それをとなえる学者に社会的な迫害を与えるほどになったものとして、古くはコペルニクスの地動説があり、近代になってはダーウィンの生物進化論であることは、多分皆さんも知られていることでありましょう。ダーウィンの生物進化論を反対する主要な原因は宗教的な信仰によるのでありまして、ことに西洋では古くからキリスト教の信仰が深くふだんの生活のなかにまでしみ込んでいるので、その聖書のなかに記されていることをそのまま真実として信じることになるのでした。本当に考えるならば、聖書の字句は、まだ発達しなかったごく古い時代の人達に教えるためにできたのでありますから、科学の真理がだんだんに明らかにされて来るに従って、それを適宜に解釈しなおしてゆかなくてはならないのですが、それほどの深い考えをもたない人たちは、単にその形式に捉われてしまうことにもなるのです。それでコペルニクスの地動説などは、その頃の宗教家からはげしい反対をうけて、科学的にそれを本当であるとしたガリレイなどもひどく迫害されたことは、すでにここでもお話ししたのでしたが、ダーウィンの生物進化論もやはり同じ運命であったのでした。このダーウィンの学説の出たのは十九世紀の半ば頃のことで、この時代には古いコペルニクスやガリレイの頃とはちがって、科学が著しく進んでおり、それのあらゆる適用が世間に広まって、すべての人たちがその利便をしみじみと感じていることも確かであったのですが、それでいてダーウィンの学説が出ると、宗教的な立場からそれへの反対がおこるというのですから、実に人間の心理というものはふしぎであると言わなければなりません。もちろん、物事を正しく考えてゆきさえすれば、そんなはずはあり得ないのですけれども、それが出来ないところに人間の弱点があるのでしょう。ごく近頃になってさえ、アメリカのあるところで進化論を学校で教えることを禁止したというような話が伝えられましたし、またそれとはよほど立場がちがってはいるものの、我が国でも思想の上から進化論に反対する人たちがあると聞きます。しかしすべてこれらは科学の本当の意味を理解しないことから起こるので、これでは一方でしきりに科学振興などを叫んでも、そこに大きな矛盾のあることをみずから暴露しているようなことになります。科学の学説や理論は、自然のいろいろな事実を理解してゆくために、ぜひとも必要なのであって、それらはもちろん現在のままで完全であるとは限りませんけれども、だんだんにそれらを完全に導いてゆくことが、科学の進歩を持ち来たすものであるということを、十分によく悟らなくてはなりません。宗教や思想などはいうまでもなくそれとは無関係のものであるべきはずなのです。  さて、生物の進化論はどうして現れて来たのかということについて、まずごく簡単な説明を述べておきましょう。根本的にいえば、生命をもっている生物がどうしてこの地球の上に生じて来たかという問題が、今日でもまだ全く解かれていない極めてふしぎな事なのでありますが、それはしばらくおくとしても、生物に関してはふしぎな問題が非常にたくさんあるのです。第一に、生物の種類、それを学問の上では「種」と名づけていますが、この種が実に数多くあります。ダーウィンの時代にはもう数十万の種が知られていたのですが、今日では百万にも及んでいます。それほどたくさんの種がどうして生まれて来たかということが、ともかくふしぎな事に違いありません。昔の人たちは、とかく物事を大ざっぱに考えたので、我が国などでも蛆虫のようなものは汚いごみのなかから自然に湧いて生まれてくるようにいいならわしたり、昆虫は草の葉の露から生まれるなどとも考えたのでした。ごく古い頃にエジプトの人々は、鼠がナイル河の泥から生まれると信じていたという話も伝わっています。学問を修めた人のなかにも、普通の物質のなかから熱などの関係で生まれてくるのではないかと、まじめに考えたこともあるのです。ましてバクテリヤのような小さな生物になると、それの自然発生ということがかなり近頃まで考えられたのでした。しかし少し理窟を追って考えてゆくならば、無生物からしてひょっくりと生物が生まれてくるはずのないことは、むしろ当然であると思われるのです。  さて、それならばたくさんの生物の種類がどうして出て来たかということが、科学の上で極めて重要な問題となるわけです。
宗教や思想と化学は関係ありますか。
科学の学説や理論は、自然のいろいろな事実を理解してゆくために、ぜひとも必要なのであって、それらはもちろん現在のままで完全であるとは限りませんけれども、だんだんにそれらを完全に導いてゆくことが、科学の進歩を持ち来たすものであるということを、十分によく悟らなくてはなりません。宗教や思想などはいうまでもなくそれとは無関係のものであるべきはずなのです。
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歴史
 生物の種類を分けてゆく研究を最初に行なった人は、スウェーデンの名だかい学者カル・フォン・リンネで、まず植物を分類した著書を一七三五年に公刊し、その後動物の分類をも行ったのでしたが、その際に人間を動物のなかの霊長類の一つの種類となし、高等な猿類と並べたのでした。それでこの事がすでにその頃の宗教家の非難の的となり、これは人間が人間自身を侮辱し、かつ神の威光を汚すけしからぬことだとされました。  それでもリンネは生物を科学的に分類してゆけば、そうならなくてはならないというように信じていたのでした。もっとも最初の頃には、生物の種類のたくさんに存在することに対しては、これらは神が創造したものであって、それがいつまでも不変に保たれていると考えたのでしたが、後にはそれらの種類もだんだんに進化してゆくということを許すようになったといわれています。  それにしてもまだこの頃には生物の進化に関する証拠が何もなかったのですから、これが科学的には本当の価値をもたなかったのでした。  ところで、その頃フランスにビュッフォンという学者がいましたが、この人も動物をいろいろ研究しているうちに、食物や気候などによってやはり種類が変わってゆくのではないかという説を称となえました。これにももちろんまださほど確かな証拠はなかったのですが、ともかくそういう説を出したところが、同じく宗教家の反対に出遇であい、特にソルボンヌ大学の神学部ではビュッフォンを責めて、その説を取り消させてしまったということです。ところが十八世紀の終わりになってから、生物が変遷し、また進化するという考えがだんだん学者によって支持されるようになったのでした。特にこれを強く主張したのは、ドイツのゲーテ、イギリスのエラスマス・ダーウィン、及びフランスのラマルクの三人でありました。ゲーテというのは、詩人、小説家として誰も知らないものはないほど名だかい人でありますが、同時に自然科学者としてもいろいろな研究を行ったので、なかでも生物に対しては、その形がそれぞれちがっていても、根源は一つであるということをいろいろな事実によって証明しようとしたのでした。  例えば人間の腕や、鳥の翼や、アシカのひれや、獣の前足などはすべて同じ骨格をもっていることを示し、ただ空中を飛んだり、水中を泳いだり、地面を歩いたりすることにより形がちがって来るのだと説いたのでした。またエラスマス・ダーウィンは、ここでお話ししようとするチャールズ・ダーウィンの祖父に当たる人ですが、動物のからだの斑紋が周囲の有様によって変わることに注目して、その種類が変わってゆくことを考えたのです。更にラマルクは上に挙げたビュッフォンの弟子でありましたが、なお一層よくたくさんの事実をしらべて、生物の器官の変わってゆくことを説きました。つまりいろいろな器官もそれをよく使うと発達し、また使わないものは退化するというのです。  例えばきりんの首の長いのは高い樹の実を食するために伸びたので、もぐらの眼の小さいのは地面の下の暗いところにばかり棲んでいるからだと考えました。  
カル・フォン・リンネの研究は、なぜ非難の的になったのですか。
人間を動物のなかの霊長類の一つの種類となし、高等な猿類と並べたのでした。それでこの事がすでにその頃の宗教家の非難の的となり、これは人間が人間自身を侮辱し、かつ神の威光を汚すけしからぬことだとされました。
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歴史
生物の種類を分けてゆく研究を最初に行なった人は、スウェーデンの名だかい学者カル・フォン・リンネで、まず植物を分類した著書を一七三五年に公刊し、その後動物の分類をも行ったのでしたが、その際に人間を動物のなかの霊長類の一つの種類となし、高等な猿類と並べたのでした。それでこの事がすでにその頃の宗教家の非難の的となり、これは人間が人間自身を侮辱し、かつ神の威光を汚すけしからぬことだとされました。  それでもリンネは生物を科学的に分類してゆけば、そうならなくてはならないというように信じていたのでした。もっとも最初の頃には、生物の種類のたくさんに存在することに対しては、これらは神が創造したものであって、それがいつまでも不変に保たれていると考えたのでしたが、後にはそれらの種類もだんだんに進化してゆくということを許すようになったといわれています。  それにしてもまだこの頃には生物の進化に関する証拠が何もなかったのですから、これが科学的には本当の価値をもたなかったのでした。  ところで、その頃フランスにビュッフォンという学者がいましたが、この人も動物をいろいろ研究しているうちに、食物や気候などによってやはり種類が変わってゆくのではないかという説を称となえました。これにももちろんまださほど確かな証拠はなかったのですが、ともかくそういう説を出したところが、同じく宗教家の反対に出遇であい、特にソルボンヌ大学の神学部ではビュッフォンを責めて、その説を取り消させてしまったということです。ところが十八世紀の終わりになってから、生物が変遷し、また進化するという考えがだんだん学者によって支持されるようになったのでした。特にこれを強く主張したのは、ドイツのゲーテ、イギリスのエラスマス・ダーウィン、及びフランスのラマルクの三人でありました。ゲーテというのは、詩人、小説家として誰も知らないものはないほど名だかい人でありますが、同時に自然科学者としてもいろいろな研究を行ったので、なかでも生物に対しては、その形がそれぞれちがっていても、根源は一つであるということをいろいろな事実によって証明しようとしたのでした。  例えば人間の腕や、鳥の翼や、アシカのひれや、獣の前足などはすべて同じ骨格をもっていることを示し、ただ空中を飛んだり、水中を泳いだり、地面を歩いたりすることにより形がちがって来るのだと説いたのでした。またエラスマス・ダーウィンは、ここでお話ししようとするチャールズ・ダーウィンの祖父に当たる人ですが、動物のからだの斑紋が周囲の有様によって変わることに注目して、その種類が変わってゆくことを考えたのです。更にラマルクは上に挙げたビュッフォンの弟子でありましたが、なお一層よくたくさんの事実をしらべて、生物の器官の変わってゆくことを説きました。つまりいろいろな器官もそれをよく使うと発達し、また使わないものは退化するというのです。  例えばきりんの首の長いのは高い樹の実を食するために伸びたので、もぐらの眼の小さいのは地面の下の暗いところにばかり棲んでいるからだと考えました。  "
詩人のゲーテが生物進化論を支持したのはなぜですか。
ゲーテというのは、詩人、小説家として誰も知らないものはないほど名だかい人でありますが、同時に自然科学者としてもいろいろな研究を行ったので、なかでも生物に対しては、その形がそれぞれちがっていても、根源は一つであるということをいろいろな事実によって証明しようとしたのでした。
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歴史
チャールズ・ダーウィンは一八〇九年にイギリスのシュルスベリーというところで生まれました。ダーウィン家は先祖から裕福な農民であって、十八世紀時代には一層恵まれて来たのでしたが、前にも記した祖父のエラスマスは才気独創に富んだ人で、博物学者であると共に、哲学や詩を才能を発揮し、大いに社会的にも活躍していました。その息子のロバートは医者となりましたが、同時に王立協会の会員にも選ばれて、同じく世間の信用を得ていました。チャールズはその次男に当たるのです。父はチャールズにも医学を修めさせようとして、最初にはエディンバラ大学に入学させたのでしたが、人体解剖などを嫌って、それで医学をさほど好まないようになり、その後ケンブリッジ大学に転じてからは、むしろ植物学や地質学や昆虫学に興味をよせるようになったということです。  一八三一年に大学を卒業しましたが、その頃広く世界をまわって見たいという希望に燃えていたので、折よく軍艦ビーグル号の艦長が同行をすすめたのを非常に喜んで、それで世界を一周することができたのでした。ビーグル号は軍艦とはいっても、わずかに二百四十トンの小型の帆船で、おまけに古ぼけた老朽船であったのですから、その航海はなかなか楽ではありませんでした。それでも一八三一年の十二月二十七日にイギリスを出帆して、南北アメリカをめぐり、更にオーストラリヤ方面に向い、その間に五年の日子を費して、一八三六年の十月二日にようやく帰って来ました。ビーグル号の目的は、イギリス海軍の命令で各地の測量を行うのにあったのですが、ダーウィンにとっては諸処でめずらしい動物や植物を見るのがこの上もない楽しみであったので、それらが後に生物進化の考えをまとめるのに大いに役立ったのでした。それでも彼はアメリカで病気にかかり、帰国後までもそれがたたってとかく不健康に過ごしたということであります。  帰国後ケンブリッジからロンドンに移りその間に旅行記を整理したり、旅行から持ち帰ったたくさんの動物や植物について研究したり、地質学上の資料を調べたりして、忙しく過ごしました。そして一八三九年には従姉エンマ・ウェジウッドと結婚し、その後一八四二年にダウンという土地に移り、ここで一八八二年四月十八日に逝去するまでの長い年月を平和に送りました。しかしこの間に多くの研究を行って、幾つもの不朽の著述を完成させました。  ダーウィンのこれ等の著述のうちで最も名だかいのは、一八五九年に出版された『種の起源』と題する書物です。このなかには生物が進化することを示すいろいろな事実が示されていて、それが起こるのは自然淘汰によるとしたのです。自然淘汰というのは、いろいろな生物が生存してゆくために生物はお互いに競争し、また自然にも対抗してゆかなくてはならないのですが、そのうちで生存に都合のいいものが残り、生存をつづけるだけの力のないものは滅びて無くなってしまうということを意味するのです。人間が家畜や鳥などを飼って育てるときにも、ある特別な種類をとり出してその子孫をふやしてゆくうちに、だんだん変わったものにすることのできるのと同様で、自然のなかにもそれと同じことが行われ、そして生物が進化してゆくというのであります。  ダーウィンのこの考えと全く同じことをやはりその頃の学者であり、また探険家でもあったアルフレッド・ウォーレスという人も考えました。ウォーレスは南アメリカのブラジルやマレイ群島などで長年の間動植物を研究してその考えに到達したのでしたが、一八五八年にその説をまとめて発表しようとし、ちょうどダーウィンと以前からの知り合いでもあったので、ダーウィンのもとに論文を送ってよこしました。ダーウィンはそれを見て自分の考えと全く一致しているのに驚きましたが、ともかくそれを生物学の権威ある学会として知られていたリンネ学会に送りました。ところがこの学会の幹事たちは、ダーウィンもよく知っていて、その研究についても以前から話し合ってダーウィンも同じ考えをもっていたことを心得ていましたから、この機会にその研究も発表させた方がよいとして、一つの論文を書かせてウォーレスのと同時に学会の雑誌に載せることにしました。ダーウィンが『種の起原』を出版したのはその翌年のことで、そこで詳しく自分の説を述べたのです。ところがウォーレスもこの書物を読んで、ダーウィンの仕事を大いに尊敬し、自分の著書はずっと後になって、すなわち一八八九年に出版したので、しかもそのなかで進化論のことをダーウィニズムと称しているのです。この二人の学者が互いに自分の功績を誇ることなく、ただ心から真理を明らかにすることを望んで、尊敬しあったことは、実に科学の歴史の上で、この上もなくうるわしい事がらであったといわなければなりません。  ダーウィンの学説はその後だんだん学界に広まって来ましたが、生物学が進むにつれていろいろこまかい点も明らかになり、多少とも違った意見も出されています。それにしても生物が漸次変遷し進化してゆくということは、大体において認められているのですが、まだそのことを十分に証拠立てるのには資料が不十分であるといって疑っている学者もいるわけではないのです。また一方では遺伝の研究がだんだん進んで来ましたので、それに関する事実をしっかりと突きとめなくては進化の原因もほんとうにはわからないともせられているのです。学問の上でこれらについてはなお将来の研究を待たなくてはならないのですが、それにしてもダーウィンの研究がこの上もなく重大な意味を生物学の上に持ち来たしたということは確かなのですから、この点で科学の歴史の上に彼の名は実に輝かしく印象されているといわなければなりません。
ダーウィンは世界一周をしてどうなりましたか。
ダーウィンにとっては諸処でめずらしい動物や植物を見るのがこの上もない楽しみであったので、それらが後に生物進化の考えをまとめるのに大いに役立ったのでした。
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歴史
パストゥールの学問上の仕事は非常にたくさんあって、ここでそれを一々こまかくお話ししているわけにはゆきませんが、ごく大体をいえば微生物に関する研究と、それで起される病気からの免疫の方法を明らかにしたことであります。 まず微生物が自然に発生するものではないということに対しては、たとえ空気があっても、それが完全にきれいであれば微生物が決して発生しないということを、実験で示しました。 普通の空気のなかにはどこにでも腐敗をおこさせる細菌がいるのですが、場所によってはそれの少ない処もあるので、人家から離れたへんぴな場所や高い山の上ではそうであることを実験で示しました。 そして高さ三千メートルもあるモンブランの山の頂きでは腐敗がほとんど起らないことも確かめました。 またこの実験に続いて、酒類を醗酵させる働きがすべて微生物によること、しかもその際にも微生物にいろいろの種類があって、その働きのめいめいちがうことなどを明らかにしました。 これらの研究で腐敗とか醗酵とかのはたらきがすべて微生物によって起されることが確かになったので、これは学問の上で大きな功績の一つであります。またパストゥールは、このような醗酵がいつもある温度の範囲のなかでのみ起こることを示したので、実用の上に意外に大きな効果を挙げるようになったのでした。 それは元来フランスでは葡萄酒の醸造が盛んに行われていて、それが重要な産物となっていたのでしたが、醸造家が時々失敗して腐敗させたり風味をそこなわせることがあって困っていたのに、パストゥールはそれが醗酵菌の作用によることを示し、摂氏五十度乃至ないし六十度の温度に数分間熱しさえすればこの菌を取り除くことのできるのを明らかにしたからです。 それまでは葡萄酒を保存するのに止むを得ずアルコールを混ぜていたのでしたが、それでは値段も高くなり、また健康にも害があったのです。ところがパストゥールの方法で醗酵菌を除いてしまえば、ごく簡単に保存が出来るので、醸造家にはこの上もなく都合よくなり、以来この方法はパストゥーリゼーションと呼ばれて広く行われるようになりました。 またこの頃フランスには蚕にペブラン病と名づけられた一種の病気が流行し出してだんだんに全国にひろがってそのおかげで養蚕業がまるでみじめな有様になり、ある地方では桑を植えることもやめてしまったので、土地も荒れ果てるほどになりました。 それで政府ではこの対策を講ずる必要に迫られ、パストゥールにその病気の研究を依嘱したので、彼はそれから五年間いろいろな苦心を重ねてこれをしらべた末に、ついに蚕から出る蛾のからだのなかに病原となる微生物のあるのを見つけ出し、その後この病気の予防法をも明らかにしました。このおかげでフランスの養蚕業も以前のように回復して再び盛んになったのは、フランスの産業に対する大きな貢献であったといわなければなりませんが、それと共に学問の上でも、病原体としての微生物を確実にした点ですばらしい功績を示したのでありました。  実際にこの時までは微生物がいろいろな病原になるということもよくわかっていなかったのですから、医者が外科手術を行う場合にも一向に消毒を行わないで平気ですましていたのでしたが、ここで消毒の必要であることもわかり、そこで消毒には石炭酸をつかえばよいということをイギリスの外科医ジョセフ・リスターが見つけ出しました。これは一八六七年のことでしたが、その後数年経って普仏戦争が起こったので、そのおりの負傷者の手当にはそれが非常に役立ったのでした。
パストゥールが葡萄酒の発酵菌を取り除く方法を発見してどうなりましたか。
葡萄酒を保存するのに止むを得ずアルコールを混ぜていたのでしたが、それでは値段も高くなり、また健康にも害があったのです。ところがパストゥールの方法で醗酵菌を除いてしまえば、ごく簡単に保存が出来るので、醸造家にはこの上もなく都合よくなり、以来この方法はパストゥーリゼーションと呼ばれて広く行われるようになりました。
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歴史
チャールズ・ダーウィンは一八〇九年にイギリスのシュルスベリーというところで生まれました。ダーウィン家は先祖から裕福な農民であって、十八世紀時代には一層恵まれて来たのでしたが、前にも記した祖父のエラスマスは才気独創に富んだ人で、博物学者であると共に、哲学や詩を才能を発揮し、大いに社会的にも活躍していました。その息子のロバートは医者となりましたが、同時に王立協会の会員にも選ばれて、同じく世間の信用を得ていました。チャールズはその次男に当たるのです。父はチャールズにも医学を修めさせようとして、最初にはエディンバラ大学に入学させたのでしたが、人体解剖などを嫌って、それで医学をさほど好まないようになり、その後ケンブリッジ大学に転じてからは、むしろ植物学や地質学や昆虫学に興味をよせるようになったということです。  一八三一年に大学を卒業しましたが、その頃広く世界をまわって見たいという希望に燃えていたので、折よく軍艦ビーグル号の艦長が同行をすすめたのを非常に喜んで、それで世界を一周することができたのでした。ビーグル号は軍艦とはいっても、わずかに二百四十トンの小型の帆船で、おまけに古ぼけた老朽船であったのですから、その航海はなかなか楽ではありませんでした。それでも一八三一年の十二月二十七日にイギリスを出帆して、南北アメリカをめぐり、更にオーストラリヤ方面に向い、その間に五年の日子を費して、一八三六年の十月二日にようやく帰って来ました。ビーグル号の目的は、イギリス海軍の命令で各地の測量を行うのにあったのですが、ダーウィンにとっては諸処でめずらしい動物や植物を見るのがこの上もない楽しみであったので、それらが後に生物進化の考えをまとめるのに大いに役立ったのでした。それでも彼はアメリカで病気にかかり、帰国後までもそれがたたってとかく不健康に過ごしたということであります。  帰国後ケンブリッジからロンドンに移りその間に旅行記を整理したり、旅行から持ち帰ったたくさんの動物や植物について研究したり、地質学上の資料を調べたりして、忙しく過ごしました。そして一八三九年には従姉エンマ・ウェジウッドと結婚し、その後一八四二年にダウンという土地に移り、ここで一八八二年四月十八日に逝去するまでの長い年月を平和に送りました。しかしこの間に多くの研究を行って、幾つもの不朽の著述を完成させました。  ダーウィンのこれ等の著述のうちで最も名だかいのは、一八五九年に出版された『種の起源』と題する書物です。このなかには生物が進化することを示すいろいろな事実が示されていて、それが起こるのは自然淘汰によるとしたのです。自然淘汰というのは、いろいろな生物が生存してゆくために生物はお互いに競争し、また自然にも対抗してゆかなくてはならないのですが、そのうちで生存に都合のいいものが残り、生存をつづけるだけの力のないものは滅びて無くなってしまうということを意味するのです。人間が家畜や鳥などを飼って育てるときにも、ある特別な種類をとり出してその子孫をふやしてゆくうちに、だんだん変わったものにすることのできるのと同様で、自然のなかにもそれと同じことが行われ、そして生物が進化してゆくというのであります。  ダーウィンのこの考えと全く同じことをやはりその頃の学者であり、また探険家でもあったアルフレッド・ウォーレスという人も考えました。ウォーレスは南アメリカのブラジルやマレイ群島などで長年の間動植物を研究してその考えに到達したのでしたが、一八五八年にその説をまとめて発表しようとし、ちょうどダーウィンと以前からの知り合いでもあったので、ダーウィンのもとに論文を送ってよこしました。ダーウィンはそれを見て自分の考えと全く一致しているのに驚きましたが、ともかくそれを生物学の権威ある学会として知られていたリンネ学会に送りました。ところがこの学会の幹事たちは、ダーウィンもよく知っていて、その研究についても以前から話し合ってダーウィンも同じ考えをもっていたことを心得ていましたから、この機会にその研究も発表させた方がよいとして、一つの論文を書かせてウォーレスのと同時に学会の雑誌に載せることにしました。ダーウィンが『種の起原』を出版したのはその翌年のことで、そこで詳しく自分の説を述べたのです。ところがウォーレスもこの書物を読んで、ダーウィンの仕事を大いに尊敬し、自分の著書はずっと後になって、すなわち一八八九年に出版したので、しかもそのなかで進化論のことをダーウィニズムと称しているのです。この二人の学者が互いに自分の功績を誇ることなく、ただ心から真理を明らかにすることを望んで、尊敬しあったことは、実に科学の歴史の上で、この上もなくうるわしい事がらであったといわなければなりません。  ダーウィンの学説はその後だんだん学界に広まって来ましたが、生物学が進むにつれていろいろこまかい点も明らかになり、多少とも違った意見も出されています。それにしても生物が漸次変遷し進化してゆくということは、大体において認められているのですが、まだそのことを十分に証拠立てるのには資料が不十分であるといって疑っている学者もいるわけではないのです。また一方では遺伝の研究がだんだん進んで来ましたので、それに関する事実をしっかりと突きとめなくては進化の原因もほんとうにはわからないともせられているのです。学問の上でこれらについてはなお将来の研究を待たなくてはならないのですが、それにしてもダーウィンの研究がこの上もなく重大な意味を生物学の上に持ち来たしたということは確かなのですから、この点で科学の歴史の上に彼の名は実に輝かしく印象されているといわなければなりません。
ダーウィンの提唱した「自然淘汰」とはなんですか。
自然淘汰というのは、いろいろな生物が生存してゆくために生物はお互いに競争し、また自然にも対抗してゆかなくてはならないのですが、そのうちで生存に都合のいいものが残り、生存をつづけるだけの力のないものは滅びて無くなってしまうということを意味するのです。
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歴史
チャールズ・ダーウィンは一八〇九年にイギリスのシュルスベリーというところで生まれました。ダーウィン家は先祖から裕福な農民であって、十八世紀時代には一層恵まれて来たのでしたが、前にも記した祖父のエラスマスは才気独創に富んだ人で、博物学者であると共に、哲学や詩を才能を発揮し、大いに社会的にも活躍していました。その息子のロバートは医者となりましたが、同時に王立協会の会員にも選ばれて、同じく世間の信用を得ていました。チャールズはその次男に当たるのです。父はチャールズにも医学を修めさせようとして、最初にはエディンバラ大学に入学させたのでしたが、人体解剖などを嫌って、それで医学をさほど好まないようになり、その後ケンブリッジ大学に転じてからは、むしろ植物学や地質学や昆虫学に興味をよせるようになったということです。  一八三一年に大学を卒業しましたが、その頃広く世界をまわって見たいという希望に燃えていたので、折よく軍艦ビーグル号の艦長が同行をすすめたのを非常に喜んで、それで世界を一周することができたのでした。ビーグル号は軍艦とはいっても、わずかに二百四十トンの小型の帆船で、おまけに古ぼけた老朽船であったのですから、その航海はなかなか楽ではありませんでした。それでも一八三一年の十二月二十七日にイギリスを出帆して、南北アメリカをめぐり、更にオーストラリヤ方面に向い、その間に五年の日子を費して、一八三六年の十月二日にようやく帰って来ました。ビーグル号の目的は、イギリス海軍の命令で各地の測量を行うのにあったのですが、ダーウィンにとっては諸処でめずらしい動物や植物を見るのがこの上もない楽しみであったので、それらが後に生物進化の考えをまとめるのに大いに役立ったのでした。それでも彼はアメリカで病気にかかり、帰国後までもそれがたたってとかく不健康に過ごしたということであります。  帰国後ケンブリッジからロンドンに移りその間に旅行記を整理したり、旅行から持ち帰ったたくさんの動物や植物について研究したり、地質学上の資料を調べたりして、忙しく過ごしました。そして一八三九年には従姉エンマ・ウェジウッドと結婚し、その後一八四二年にダウンという土地に移り、ここで一八八二年四月十八日に逝去するまでの長い年月を平和に送りました。しかしこの間に多くの研究を行って、幾つもの不朽の著述を完成させました。  ダーウィンのこれ等の著述のうちで最も名だかいのは、一八五九年に出版された『種の起源』と題する書物です。このなかには生物が進化することを示すいろいろな事実が示されていて、それが起こるのは自然淘汰によるとしたのです。自然淘汰というのは、いろいろな生物が生存してゆくために生物はお互いに競争し、また自然にも対抗してゆかなくてはならないのですが、そのうちで生存に都合のいいものが残り、生存をつづけるだけの力のないものは滅びて無くなってしまうということを意味するのです。人間が家畜や鳥などを飼って育てるときにも、ある特別な種類をとり出してその子孫をふやしてゆくうちに、だんだん変わったものにすることのできるのと同様で、自然のなかにもそれと同じことが行われ、そして生物が進化してゆくというのであります。  ダーウィンのこの考えと全く同じことをやはりその頃の学者であり、また探険家でもあったアルフレッド・ウォーレスという人も考えました。ウォーレスは南アメリカのブラジルやマレイ群島などで長年の間動植物を研究してその考えに到達したのでしたが、一八五八年にその説をまとめて発表しようとし、ちょうどダーウィンと以前からの知り合いでもあったので、ダーウィンのもとに論文を送ってよこしました。ダーウィンはそれを見て自分の考えと全く一致しているのに驚きましたが、ともかくそれを生物学の権威ある学会として知られていたリンネ学会に送りました。ところがこの学会の幹事たちは、ダーウィンもよく知っていて、その研究についても以前から話し合ってダーウィンも同じ考えをもっていたことを心得ていましたから、この機会にその研究も発表させた方がよいとして、一つの論文を書かせてウォーレスのと同時に学会の雑誌に載せることにしました。ダーウィンが『種の起原』を出版したのはその翌年のことで、そこで詳しく自分の説を述べたのです。ところがウォーレスもこの書物を読んで、ダーウィンの仕事を大いに尊敬し、自分の著書はずっと後になって、すなわち一八八九年に出版したので、しかもそのなかで進化論のことをダーウィニズムと称しているのです。この二人の学者が互いに自分の功績を誇ることなく、ただ心から真理を明らかにすることを望んで、尊敬しあったことは、実に科学の歴史の上で、この上もなくうるわしい事がらであったといわなければなりません。  ダーウィンの学説はその後だんだん学界に広まって来ましたが、生物学が進むにつれていろいろこまかい点も明らかになり、多少とも違った意見も出されています。それにしても生物が漸次変遷し進化してゆくということは、大体において認められているのですが、まだそのことを十分に証拠立てるのには資料が不十分であるといって疑っている学者もいるわけではないのです。また一方では遺伝の研究がだんだん進んで来ましたので、それに関する事実をしっかりと突きとめなくては進化の原因もほんとうにはわからないともせられているのです。学問の上でこれらについてはなお将来の研究を待たなくてはならないのですが、それにしてもダーウィンの研究がこの上もなく重大な意味を生物学の上に持ち来たしたということは確かなのですから、この点で科学の歴史の上に彼の名は実に輝かしく印象されているといわなければなりません。
ダーウィンはなぜ医者にならなかったのか。
父はチャールズにも医学を修めさせようとして、最初にはエディンバラ大学に入学させたのでしたが、人体解剖などを嫌って、それで医学をさほど好まないようになり、その後ケンブリッジ大学に転じてからは、むしろ植物学や地質学や昆虫学に興味をよせるようになったということです。
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歴史
チャールズ・ダーウィンは一八〇九年にイギリスのシュルスベリーというところで生まれました。ダーウィン家は先祖から裕福な農民であって、十八世紀時代には一層恵まれて来たのでしたが、前にも記した祖父のエラスマスは才気独創に富んだ人で、博物学者であると共に、哲学や詩を才能を発揮し、大いに社会的にも活躍していました。その息子のロバートは医者となりましたが、同時に王立協会の会員にも選ばれて、同じく世間の信用を得ていました。チャールズはその次男に当たるのです。父はチャールズにも医学を修めさせようとして、最初にはエディンバラ大学に入学させたのでしたが、人体解剖などを嫌って、それで医学をさほど好まないようになり、その後ケンブリッジ大学に転じてからは、むしろ植物学や地質学や昆虫学に興味をよせるようになったということです。  一八三一年に大学を卒業しましたが、その頃広く世界をまわって見たいという希望に燃えていたので、折よく軍艦ビーグル号の艦長が同行をすすめたのを非常に喜んで、それで世界を一周することができたのでした。ビーグル号は軍艦とはいっても、わずかに二百四十トンの小型の帆船で、おまけに古ぼけた老朽船であったのですから、その航海はなかなか楽ではありませんでした。それでも一八三一年の十二月二十七日にイギリスを出帆して、南北アメリカをめぐり、更にオーストラリヤ方面に向い、その間に五年の日子を費して、一八三六年の十月二日にようやく帰って来ました。ビーグル号の目的は、イギリス海軍の命令で各地の測量を行うのにあったのですが、ダーウィンにとっては諸処でめずらしい動物や植物を見るのがこの上もない楽しみであったので、それらが後に生物進化の考えをまとめるのに大いに役立ったのでした。それでも彼はアメリカで病気にかかり、帰国後までもそれがたたってとかく不健康に過ごしたということであります。  帰国後ケンブリッジからロンドンに移りその間に旅行記を整理したり、旅行から持ち帰ったたくさんの動物や植物について研究したり、地質学上の資料を調べたりして、忙しく過ごしました。そして一八三九年には従姉エンマ・ウェジウッドと結婚し、その後一八四二年にダウンという土地に移り、ここで一八八二年四月十八日に逝去するまでの長い年月を平和に送りました。しかしこの間に多くの研究を行って、幾つもの不朽の著述を完成させました。  ダーウィンのこれ等の著述のうちで最も名だかいのは、一八五九年に出版された『種の起源』と題する書物です。このなかには生物が進化することを示すいろいろな事実が示されていて、それが起こるのは自然淘汰によるとしたのです。自然淘汰というのは、いろいろな生物が生存してゆくために生物はお互いに競争し、また自然にも対抗してゆかなくてはならないのですが、そのうちで生存に都合のいいものが残り、生存をつづけるだけの力のないものは滅びて無くなってしまうということを意味するのです。人間が家畜や鳥などを飼って育てるときにも、ある特別な種類をとり出してその子孫をふやしてゆくうちに、だんだん変わったものにすることのできるのと同様で、自然のなかにもそれと同じことが行われ、そして生物が進化してゆくというのであります。  ダーウィンのこの考えと全く同じことをやはりその頃の学者であり、また探険家でもあったアルフレッド・ウォーレスという人も考えました。ウォーレスは南アメリカのブラジルやマレイ群島などで長年の間動植物を研究してその考えに到達したのでしたが、一八五八年にその説をまとめて発表しようとし、ちょうどダーウィンと以前からの知り合いでもあったので、ダーウィンのもとに論文を送ってよこしました。ダーウィンはそれを見て自分の考えと全く一致しているのに驚きましたが、ともかくそれを生物学の権威ある学会として知られていたリンネ学会に送りました。ところがこの学会の幹事たちは、ダーウィンもよく知っていて、その研究についても以前から話し合ってダーウィンも同じ考えをもっていたことを心得ていましたから、この機会にその研究も発表させた方がよいとして、一つの論文を書かせてウォーレスのと同時に学会の雑誌に載せることにしました。ダーウィンが『種の起原』を出版したのはその翌年のことで、そこで詳しく自分の説を述べたのです。ところがウォーレスもこの書物を読んで、ダーウィンの仕事を大いに尊敬し、自分の著書はずっと後になって、すなわち一八八九年に出版したので、しかもそのなかで進化論のことをダーウィニズムと称しているのです。この二人の学者が互いに自分の功績を誇ることなく、ただ心から真理を明らかにすることを望んで、尊敬しあったことは、実に科学の歴史の上で、この上もなくうるわしい事がらであったといわなければなりません。  ダーウィンの学説はその後だんだん学界に広まって来ましたが、生物学が進むにつれていろいろこまかい点も明らかになり、多少とも違った意見も出されています。それにしても生物が漸次変遷し進化してゆくということは、大体において認められているのですが、まだそのことを十分に証拠立てるのには資料が不十分であるといって疑っている学者もいるわけではないのです。また一方では遺伝の研究がだんだん進んで来ましたので、それに関する事実をしっかりと突きとめなくては進化の原因もほんとうにはわからないともせられているのです。学問の上でこれらについてはなお将来の研究を待たなくてはならないのですが、それにしてもダーウィンの研究がこの上もなく重大な意味を生物学の上に持ち来たしたということは確かなのですから、この点で科学の歴史の上に彼の名は実に輝かしく印象されているといわなければなりません。
ダーウィンの研究と同じ考えのアルフレッド・ウォーレスの論文が学会の雑誌に二人同時に載ることになったのはなぜか。
学会の幹事たちは、ダーウィンもよく知っていて、その研究についても以前から話し合ってダーウィンも同じ考えをもっていたことを心得ていましたから、この機会にその研究も発表させた方がよいとして、一つの論文を書かせてウォーレスのと同時に学会の雑誌に載せることにしました。
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歴史
自然科学のいろいろな部門がすべてそうであったように、医学もまた我が国でだんだんに発達して来たのは明治以後のことでありますが、しかしそうなるまでにはやはり江戸時代の終わり頃に多くの蘭学者たちによって西洋の医学がさかんに輸入されたことを見のがしてはならないのです。もちろんそれ以前にも我が国に医術というものが無かったわけではないのですが、それらはただ個々の経験を集めたようなものであって、まだ全く学問として系統立ってはいなかったのでありましたし、またわれわれ人間のからだのなかのいろいろな器官がどんなものであり、どんな働きをしているかというようなことは、まるでわかっていなかったのですから、本当の意味での医学が発達するのには、どうしても西洋の医学を輸入する必要があったのでした。ところでこれを実際に行った人々のなかで、ここにお話ししようとする杉田玄白やまた前野蘭化などというのが特に名だかいのですが、それに続いてたくさんの蘭学医が出たので、今日の人々はこれらの先駆者たちの並々ならぬ苦心とその功績とを忘れてはならないのでありましょう。  もっとも杉田玄白よりも少し以前に、京都に山脇東洋という名だかい医者がいました。その父の清水東軒という人も同じく医者で、山脇玄修という人について医学を修めたのでしたが、後に東洋がその養子となって山脇と名のったのだということです。しかしこの医学というのはその頃古医方といわれていたもので、上に述べた西洋の医学とはちがったものであったのですが、山脇東洋は人体の本当の有様を知るのには、どうしてもこれを実際に解剖して真相を見きわめなくてはならないと感じ、長い間それを念願していたのでした。  それでもこの頃は屍体の解剖などが厳禁だったので、かわうそなどを用いてそれをしらべたりしていましたが、これでは人体のことはまだよくわかりません。そこで十五年の歳月を費して機会を待っているうちに、ようやく寳暦四年になって死刑屍の解剖が許されることになり、その年の閏三月七日に行われた死刑者の屍を請いうけてその解剖を実行したのでした。この時、山脇東洋と共に若狭の酒井侯の侍医であった小杉玄適という人もそれを実見して、ここに初めて内臓の有様が明らかになったということです。東洋はこの結果を記して、「臧志」という一書にまとめました。今から見れば、それには幾らかの誤りもないではありませんが、しかしともかくもこれは我が国で人体内臓のことを記した最初の書物として、重要な意味をもっているのです。  東洋と共に屍体解剖を実見した小杉玄適と同じく、杉田玄白もまた酒井侯の侍医であり、互いに親しい間柄であったことは注目するに足りることで、そこで東洋の書物からも大きな刺激をうけて、後に玄白が同様にそれの実見を行ったことは、この時代の医学の上に重要な意味をもつ事であったといわなければなりません。
西洋の医学を輸入する前の我が国の医術はどんなものでしたか。
我が国に医術というものが無かったわけではないのですが、それらはただ個々の経験を集めたようなものであって、まだ全く学問として系統立ってはいなかったのでありましたし、またわれわれ人間のからだのなかのいろいろな器官がどんなものであり、どんな働きをしているかというようなことは、まるでわかっていなかった。