ID stringlengths 13 13 | Category stringclasses 12 values | Context stringlengths 1 4.96k | Question stringlengths 7 248 | GroundtruthAnswer stringlengths 2 663 |
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JCRRAG_012301 | 歴史 | 自然科学のいろいろな部門がすべてそうであったように、医学もまた我が国でだんだんに発達して来たのは明治以後のことでありますが、しかしそうなるまでにはやはり江戸時代の終わり頃に多くの蘭学者たちによって西洋の医学がさかんに輸入されたことを見のがしてはならないのです。もちろんそれ以前にも我が国に医術というものが無かったわけではないのですが、それらはただ個々の経験を集めたようなものであって、まだ全く学問として系統立ってはいなかったのでありましたし、またわれわれ人間のからだのなかのいろいろな器官がどんなものであり、どんな働きをしているかというようなことは、まるでわかっていなかったのですから、本当の意味での医学が発達するのには、どうしても西洋の医学を輸入する必要があったのでした。ところでこれを実際に行った人々のなかで、ここにお話ししようとする杉田玄白やまた前野蘭化などというのが特に名だかいのですが、それに続いてたくさんの蘭学医が出たので、今日の人々はこれらの先駆者たちの並々ならぬ苦心とその功績とを忘れてはならないのでありましょう。
もっとも杉田玄白よりも少し以前に、京都に山脇東洋という名だかい医者がいました。その父の清水東軒という人も同じく医者で、山脇玄修という人について医学を修めたのでしたが、後に東洋がその養子となって山脇と名のったのだということです。しかしこの医学というのはその頃古医方といわれていたもので、上に述べた西洋の医学とはちがったものであったのですが、山脇東洋は人体の本当の有様を知るのには、どうしてもこれを実際に解剖して真相を見きわめなくてはならないと感じ、長い間それを念願していたのでした。
それでもこの頃は屍体の解剖などが厳禁だったので、かわうそなどを用いてそれをしらべたりしていましたが、これでは人体のことはまだよくわかりません。そこで十五年の歳月を費して機会を待っているうちに、ようやく寳暦四年になって死刑屍の解剖が許されることになり、その年の閏三月七日に行われた死刑者の屍を請いうけてその解剖を実行したのでした。この時、山脇東洋と共に若狭の酒井侯の侍医であった小杉玄適という人もそれを実見して、ここに初めて内臓の有様が明らかになったということです。東洋はこの結果を記して、「臧志」という一書にまとめました。今から見れば、それには幾らかの誤りもないではありませんが、しかしともかくもこれは我が国で人体内臓のことを記した最初の書物として、重要な意味をもっているのです。
東洋と共に屍体解剖を実見した小杉玄適と同じく、杉田玄白もまた酒井侯の侍医であり、互いに親しい間柄であったことは注目するに足りることで、そこで東洋の書物からも大きな刺激をうけて、後に玄白が同様にそれの実見を行ったことは、この時代の医学の上に重要な意味をもつ事であったといわなければなりません。
| 我が国で人体内臓のことを記した最初の書物はなんですか。 | 寳暦四年になって死刑屍の解剖が許されることになり、その年の閏三月七日に行われた死刑者の屍を請いうけてその解剖を実行したのでした。この時、山脇東洋と共に若狭の酒井侯の侍医であった小杉玄適という人もそれを実見して、ここに初めて内臓の有様が明らかになったということです。東洋はこの結果を記して、「臧志」という一書にまとめました。 |
JCRRAG_012302 | 歴史 | 杉田玄白は享保十八年、若狭酒井侯に仕えた父甫仙の江戸の邸内で生まれました。父も同じく医者でオランダの外科を学んで、かなり有名な人でありました。玄白というのは通称ですが、名は翼、字は士鳳齋又は九幸翁と名乗りました。
若年のうちに既に幕府の医官西玄哲の門に入って外科を修め、また宮瀬龍門という人から経史を学び、すぐれた才能を示したのでした。その頃、京都で上に記しました山脇東洋や、そのほか吉益東洞などという医家が名だかくなって全国に聞こえるようになったのでしたが、同藩の小杉玄適が東洋のもとで学んでから、江戸に来て盛んに古医方ということを称えたので、それに刺激させられて玄白も大いに医学を究めようとし、しかしそのためにはオランダの医学を知る必要があると感じて、そこで自分の親友前野良沢と共にオランダの医者バブルに就いて大いにその薀奥を究めようとしたのでした。
そしてそれには訳官西幸作などにも近づいてオランダ語にも通じ、その上で十分にオランダ医学を修得して、その極めて精緻なのに感服したということです。前野良沢というのは、やはり代々医者を業とした家がらの人で、中津侯に仕えていましたが、良沢は幼時に孤児となったので、山城淀藩の医者の宮田氏に養われて育ったのでした。
玄白はともかくこのようにして良沢と共にオランダの医学に精通するようになってから、ドイツのクルムスの解剖図譜のオランダ訳書を藩侯から賜わったので、それを詳しくしらべてゆくと、古くからの言い伝えとは大いに違っているので、これを実際についてよく調べてみたいと思っていたのでしたが、たまたま明和八年三月になってこれを確かめる機会が与えられたのでした。
ちょうどその三月四日の未明に江戸千住の小塚原で一人の婦人の刑屍体の解剖が行われることになったので、玄白は前野良沢と共にそこに赴き、クルムスの解剖図譜と照らし合わせて見たところが、この図譜がいかにも正確に実際と一致しているのに、さらに驚いたのでした。これはその後小塚原の腑分と言い伝えられた名だかい事実になっているのです。
玄白と良沢は、西洋医学の正しさに感服して、クルムスの解剖図譜を大いに世に広めることが大切であると考え、その翌日から良沢の邸に同志を会合し、良沢を盟主となし玄白のほかに中川淳庵、桂川甫周、石川玄常、およびその他の人々が相寄ってこの書の翻訳に従事することとなり、その後四箇年を費し稿を改めること十一回に及んで、ついに安永三年八月に至ってその仕事を一先ず完成しました。これが名だかい「解体新書」という書物で、四巻から成っているので、我が国のその頃の医学に貢献したことは、実に多大であったのでした。
玄白はその後も多くの書物を著しましたが、そのなかには、「瘍家大成」、「蘭学事始」、「形影夜話」、「狂医之弁」、「医叟独語」、「外科備考」、「天津楼漫筆」、「養生七不可」などがあります。そして文化十四年四月十七日に八十五歳の高齢で病死しました。玄白の功績を追賞されて、明治四十年に正四位を追賞されたことは、彼の一代の光栄というべきでしょう。玄白は晩年に一子を挙げ、立卿と名づけましたが、この立卿も、またその子の成卿も、同じく医家として世に聞こえていた人々であります。かくて杉田一家の我が国の医学に貢献した事跡は決してすくなくはなかったと言わなければなりません。 | 小杉玄適が杉田玄白に古医方を称えたらどうなりましたか。 | 玄白も大いに医学を究めようとし、しかしそのためにはオランダの医学を知る必要があると感じて、そこで自分の親友前野良沢と共にオランダの医者バブルに就いて大いにその薀奥を究めようとしたのでした。 |
JCRRAG_012303 | 歴史 | 杉田玄白は享保十八年、若狭酒井侯に仕えた父甫仙の江戸の邸内で生まれました。父も同じく医者でオランダの外科を学んで、かなり有名な人でありました。玄白というのは通称ですが、名は翼、字は士鳳齋又は九幸翁と名乗りました。
若年のうちに既に幕府の医官西玄哲の門に入って外科を修め、また宮瀬龍門という人から経史を学び、すぐれた才能を示したのでした。その頃、京都で上に記しました山脇東洋や、そのほか吉益東洞などという医家が名だかくなって全国に聞こえるようになったのでしたが、同藩の小杉玄適が東洋のもとで学んでから、江戸に来て盛んに古医方ということを称えたので、それに刺激させられて玄白も大いに医学を究めようとし、しかしそのためにはオランダの医学を知る必要があると感じて、そこで自分の親友前野良沢と共にオランダの医者バブルに就いて大いにその薀奥を究めようとしたのでした。
そしてそれには訳官西幸作などにも近づいてオランダ語にも通じ、その上で十分にオランダ医学を修得して、その極めて精緻なのに感服したということです。前野良沢というのは、やはり代々医者を業とした家がらの人で、中津侯に仕えていましたが、良沢は幼時に孤児となったので、山城淀藩の医者の宮田氏に養われて育ったのでした。
玄白はともかくこのようにして良沢と共にオランダの医学に精通するようになってから、ドイツのクルムスの解剖図譜のオランダ訳書を藩侯から賜わったので、それを詳しくしらべてゆくと、古くからの言い伝えとは大いに違っているので、これを実際についてよく調べてみたいと思っていたのでしたが、たまたま明和八年三月になってこれを確かめる機会が与えられたのでした。
ちょうどその三月四日の未明に江戸千住の小塚原で一人の婦人の刑屍体の解剖が行われることになったので、玄白は前野良沢と共にそこに赴き、クルムスの解剖図譜と照らし合わせて見たところが、この図譜がいかにも正確に実際と一致しているのに、さらに驚いたのでした。これはその後小塚原の腑分と言い伝えられた名だかい事実になっているのです。
玄白と良沢は、西洋医学の正しさに感服して、クルムスの解剖図譜を大いに世に広めることが大切であると考え、その翌日から良沢の邸に同志を会合し、良沢を盟主となし玄白のほかに中川淳庵、桂川甫周、石川玄常、およびその他の人々が相寄ってこの書の翻訳に従事することとなり、その後四箇年を費し稿を改めること十一回に及んで、ついに安永三年八月に至ってその仕事を一先ず完成しました。これが名だかい「解体新書」という書物で、四巻から成っているので、我が国のその頃の医学に貢献したことは、実に多大であったのでした。
玄白はその後も多くの書物を著しましたが、そのなかには、「瘍家大成」、「蘭学事始」、「形影夜話」、「狂医之弁」、「医叟独語」、「外科備考」、「天津楼漫筆」、「養生七不可」などがあります。そして文化十四年四月十七日に八十五歳の高齢で病死しました。玄白の功績を追賞されて、明治四十年に正四位を追賞されたことは、彼の一代の光栄というべきでしょう。玄白は晩年に一子を挙げ、立卿と名づけましたが、この立卿も、またその子の成卿も、同じく医家として世に聞こえていた人々であります。かくて杉田一家の我が国の医学に貢献した事跡は決してすくなくはなかったと言わなければなりません。 | 杉田玄白が前野良沢らとともに翻訳に従事した書物は何ですか。 | 玄白と良沢は、西洋医学の正しさに感服して、クルムスの解剖図譜を大いに世に広めることが大切であると考え、その翌日から良沢の邸に同志を会合し、良沢を盟主となし玄白のほかに中川淳庵、桂川甫周、石川玄常、およびその他の人々が相寄ってこの書の翻訳に従事することとなり、その後四箇年を費し稿を改めること十一回に及んで、ついに安永三年八月に至ってその仕事を一先ず完成しました。これが名だかい「解体新書」という書物で、四巻から成っている。 |
JCRRAG_012304 | 歴史 | 杉田玄白は享保十八年、若狭酒井侯に仕えた父甫仙の江戸の邸内で生まれました。父も同じく医者でオランダの外科を学んで、かなり有名な人でありました。玄白というのは通称ですが、名は翼、字は士鳳齋又は九幸翁と名乗りました。
若年のうちに既に幕府の医官西玄哲の門に入って外科を修め、また宮瀬龍門という人から経史を学び、すぐれた才能を示したのでした。その頃、京都で上に記しました山脇東洋や、そのほか吉益東洞などという医家が名だかくなって全国に聞こえるようになったのでしたが、同藩の小杉玄適が東洋のもとで学んでから、江戸に来て盛んに古医方ということを称えたので、それに刺激させられて玄白も大いに医学を究めようとし、しかしそのためにはオランダの医学を知る必要があると感じて、そこで自分の親友前野良沢と共にオランダの医者バブルに就いて大いにその薀奥を究めようとしたのでした。
そしてそれには訳官西幸作などにも近づいてオランダ語にも通じ、その上で十分にオランダ医学を修得して、その極めて精緻なのに感服したということです。前野良沢というのは、やはり代々医者を業とした家がらの人で、中津侯に仕えていましたが、良沢は幼時に孤児となったので、山城淀藩の医者の宮田氏に養われて育ったのでした。
玄白はともかくこのようにして良沢と共にオランダの医学に精通するようになってから、ドイツのクルムスの解剖図譜のオランダ訳書を藩侯から賜わったので、それを詳しくしらべてゆくと、古くからの言い伝えとは大いに違っているので、これを実際についてよく調べてみたいと思っていたのでしたが、たまたま明和八年(1771年)三月になってこれを確かめる機会が与えられたのでした。
ちょうどその明和八年(1771年)三月四日の未明に江戸千住の小塚原で一人の婦人の刑屍体の解剖が行われることになったので、玄白は前野良沢と共にそこに赴き、クルムスの解剖図譜と照らし合わせて見たところが、この図譜がいかにも正確に実際と一致しているのに、さらに驚いたのでした。これはその後小塚原の腑分と言い伝えられた名だかい事実になっているのです。
ところで玄白と良沢とは、ここで西洋医学の正しいのに感服して、この書物を大いに世に広めることが大切であると考え、その翌日三月五日から良沢の邸に同志を会合し、良沢を盟主となし玄白のほかになお中川淳庵、桂川甫周、石川玄常、およびその他の人々が相寄ってこの書の翻訳に従事することとなり、その後四箇年を費し稿を改めること十一回に及んで、安永三年(1774年)についに完成したのが「解体新書」という名高い書物で、四巻からなっています。
玄白はその後も多くの書物を著しましたが、そのなかには、「瘍家大成」、「蘭学事始」、「形影夜話」、「狂医之弁」、「医叟独語」、「外科備考」、「天津楼漫筆」、「養生七不可」などがあります。そして文化十四年四月十七日に八十五歳の高齢で病死しました。玄白の功績を追賞されて、明治四十年に正四位を追賞されたことは、彼の一代の光栄というべきでしょう。玄白は晩年に一子を挙げ、立卿と名づけましたが、この立卿も、またその子の成卿も、同じく医家として世に聞こえていた人々であります。かくて杉田一家の我が国の医学に貢献した事跡は決してすくなくはなかったと言わなければなりません。
「解体新書」は、上にもお話ししましたように杉田玄白等の四年にわたる苦心の結果で出来あがったものであり、その頃の我が国の医学に非常に役立った書物なのでありますが、この書をつくり上げるまでに玄白等がどれほど骨折ったかは、後に玄白が著した「蘭学事始」という書のなかに詳しく記してあります。「解体新書」の出来あがったのは安永三年でありましたが、「蘭学事始」はそれからおよそ五十年を経て玄白の死した文化十四年よりも三年程以前に玄白が書きのこしておいたもので、それも久しく世に知られなかったのでしたが、明治維新の直前になって神田孝平および福沢諭吉によってふとそれが見つけ出されたので、それで玄白等の異常な苦心も明らかにされるようになったのは、まことにめずらしい事でもあると思われます。またその外に、玄白が建部清庵という人との間にとりかわした手簡文を集めた「和蘭医事問答」や、随筆集である「形影夜話」のなかにも同様なことが記してあるので、ともかくも「解体新書」ができ上がるまでに彼が非常に大きな努力を費したことは確かであります。
「解体新書」はクルムスの原著の翻訳にはちがいないのですが、そのほかにオランダの解剖書をたくさんに参照してその図を採ったり、またいろいろの説をも引用しているばかりでなく、東洋での古来の説をも時々まじえて、それに玄白の経験を基にした考えをも記しているので、全体としては単なる翻訳以上に出ているのでした。しかし玄白も漸次年を経るに従って更さらに完全なものをつくり上げようと考え、この「解体新書」をもう一度改刻しようと志していたのでしたが、老年になるに従って自分の手ではそれを果たすことが困難になって来たので、そこで門人の大槻玄沢に依嘱してこの仕事を行うことに決心したのでした。玄沢はそこでクルムスの原著を改めてよく調べたり、また書類を多く参照したりして、それに十年の歳月を費し、稿を改めること三回に及んで、文政九年に至り「重訂解体新書」なるものを完成したのでした。それには杉田玄白先生新訳、大槻玄沢先生重訂と記されていますが、玄沢がこのために大いに苦心努力したのは言うまでもないのです。全体で十三巻から成り、最初の四巻は解体新書を重訂したものでありますが、そのほかのものは玄沢が、註釈として付け加えたもので、そのなかにいろいろな大切な事が記されていました。玄白はこの書の稿が成ったときに、それに次の文を寄せているのです。このなかに門人茂質とあるのは大槻玄沢の名であります。
| 解体新書が完成したのは何年ですか。 | 安永三年(1774年)についに完成したのが「解体新書」という名高い書物で、四巻からなっています。 |
JCRRAG_012305 | 歴史 | 「解体新書」は、上にもお話ししましたように杉田玄白等の四年にわたる苦心の結果で出来あがったものであり、その頃の我が国の医学に非常に役立った書物なのでありますが、この書をつくり上げるまでに玄白等がどれほど骨折ったかは、後に玄白が著した「蘭学事始」という書の中に詳しく記してあります。「解体新書」の出来あがったのは安永三年でありましたが、「蘭学事始」はそれからおよそ五十年を経て玄白の死した文化十四年よりも三年程以前に玄白が書きのこしておいたもので、それも久しく世に知られなかったのでしたが、明治維新の直前になって神田孝平および福沢諭吉によってふとそれが見つけ出されたので、それで玄白等の異常な苦心も明らかにされるようになったのは、まことにめずらしい事でもあると思われます。またその外に、玄白が建部清庵という人との間にとりかわした手簡文を集めた「和蘭医事問答」や、随筆集である「形影夜話」のなかにも同様なことが記してあるので、ともかくも「解体新書」ができ上がるまでに彼が非常に大きな努力を費したことは確かであります。
「解体新書」はクルムスの原著の翻訳にはちがいないのですが、そのほかにオランダの解剖書をたくさんに参照してその図を採ったり、またいろいろの説をも引用しているばかりでなく、東洋での古来の説をも時々まじえて、それに玄白の経験を基にした考えをも記しているので、全体としては単なる翻訳以上に出ているのでした。しかし玄白も漸次年を経るに従って更さらに完全なものをつくり上げようと考え、この「解体新書」をもう一度改刻しようと志していたのでしたが、老年になるに従って自分の手ではそれを果たすことが困難になって来たので、そこで門人の大槻玄沢に依嘱してこの仕事を行うことに決心したのでした。玄沢はそこでクルムスの原著を改めてよく調べたり、また書類を多く参照したりして、それに十年の歳月を費し、稿を改めること三回に及んで、文政九年に至り「重訂解体新書」なるものを完成したのでした。それには杉田玄白先生新訳、大槻玄沢先生重訂と記されていますが、玄沢がこのために大いに苦心努力したのは言うまでもないのです。全体で十三巻から成り、最初の四巻は解体新書を重訂したものでありますが、そのほかのものは玄沢が、註釈として付け加えたもので、そのなかにいろいろな大切な事が記されていました。玄白はこの書の稿が成ったときに、それに次の文を寄せているのです。このなかに門人茂質とあるのは大槻玄沢の名であります。
| 重訂解体新書は全部で何巻ですか。 | 文政九年に至り「重訂解体新書」なるものを完成したのでした。それには杉田玄白先生新訳、大槻玄沢先生重訂と記されていますが、玄沢がこのために大いに苦心努力したのは言うまでもないのです。全体で十三巻から成り、最初の四巻は解体新書を重訂したものであります。 |
JCRRAG_012306 | 歴史 | 科学が昔からどんな風に進んで、またその影響をどう社会に及ぼして来たかという歴史をよく見てゆくと、なかなかおもしろいのです。科学は学問として絶えず進んでゆくのですが、それに伴れていろいろな便利な機械が発明されて来るので、そうすれば世のなかの人々はどうしてもそういう機械を利用しないではいられなくなります。すると機械の発達に従ってすべての物の生産や、また交通の有様などがちがって来ますから、つまりはそれが人間の社会の有様を変えてゆくことになるので、このようにして昔から今日に至るまで文化が発達して来たのだといってもよいのでしょう。このように考えてゆくと、人間の社会にとって科学がどれほど重要なものであるかということも、初めて本当にわかって来るのでしょう。
さて科学の発達につれて社会の有様がいちじるしく変わったのは、いつ頃からであるかといいますと、それはもちろん古い時代にもいくらかはあったに違いありませんが、歴史の上で最も目立っているのは、十八世紀の末から十九世紀の初めにかけてのことであります。それ以前にも機械の利用はいろいろあったのは確かですが、ちょうどこの頃に以前よりもずっと便利ないろいろな機械が発明されたので、それを盛んに産業の上で使うようになったからであります。そのなかには織物の紡績につかう機械やそのほかのものもありましたが、なかでもいちばん重要なのは蒸気のはたらきを利用する蒸気機関であって、これがジェームズ・ワットによって蒸気機関はさらにすばらしいものに改良されたのでした。それ以前には水や風の力を利用する水車や風車が主な機械であって、その外には人間の手足の力とか、牛馬をつかうぐらいがせいぜいであったので、これでは大きな工業などが発達しなかったのも当然なのでありましたが、一度蒸気機関が現れると、これはいかにも便利なものでありましたから、たちまちあらゆる方面に利用せられて、諸所に大きな工場が建てられるようにもなりました。そうなると今までは多くの人々が主に家庭のなかで働いていたのに引きかえて、工場に雇われていろいろな生産労働に従事するようになりましたから、社会の全体の有様もそれに伴って大いに変わって来ました。それから蒸気機関を据えつけて、汽車や汽船が動き出すようになると、諸所の交通もそれまでとは比べられないほど便利になり、これも社会の有様を変えてゆきました。世界の歴史の上では、この著しい変わりかたを名づけて、産業革命と言っているのですが、ともかくもこれはそれ以前に見られなかった重要な変化なのでありました。そしてそれがワットのつくった蒸気機関のおかげであったことを思って見ますと、ワットが世界の歴史を産業革命や蒸気機関の発展に向けたのだといってもよいほどに、それは重要な発明であったと見なければなりません。ですからすばらしい機械の発明というものは、それ自身のすぐれた価値のほかに、世界の歴史をも運命づけるというほどに重大な意味をもっていることが、これではっきりとわかるのでしょう。 | ジェームズ・ワットの発明は重要でしたか。 | ワットが世界の歴史を産業革命や蒸気機関の発展に向けたのだといってもよいほどに、それは重要な発明であったと見なければなりません。 |
JCRRAG_012307 | 歴史 | 科学が昔からどんな風に進んで、またその影響をどう社会に及ぼして来たかという歴史をよく見てゆくと、なかなかおもしろいのです。科学は学問として絶えず進んでゆくのですが、それに伴れていろいろな便利な機械が発明されて来るので、そうすれば世のなかの人々はどうしてもそういう機械を利用しないではいられなくなります。すると機械の発達に従ってすべての物の生産や、また交通の有様などがちがって来ますから、つまりはそれが人間の社会の有様を変えてゆくことになるので、このようにして昔から今日に至るまで文化が発達して来たのだといってもよいのでしょう。このように考えてゆくと、人間の社会にとって科学がどれほど重要なものであるかということも、初めて本当にわかって来るのでしょう。
さて科学の発達につれて社会の有様がいちじるしく変わったのは、いつ頃からであるかといいますと、それはもちろん古い時代にもいくらかはあったに違いありませんが、歴史の上で最も目立っているのは、十八世紀の末から十九世紀の初めにかけてのことであります。それ以前にも機械の利用はいろいろあったのは確かですが、ちょうどこの頃に以前よりもずっと便利ないろいろな機械が発明されたので、それを盛んに産業の上で使うようになったからであります。そのなかには織物の紡績につかう機械やそのほかのものもありましたが、なかでもいちばん重要なのは蒸気のはたらきを利用する蒸気機関であって、これがジェームズ・ワットによって蒸気機関はさらにすばらしいものに改良されたのでした。それ以前には水や風の力を利用する水車や風車が主な機械であって、その外には人間の手足の力とか、牛馬をつかうぐらいがせいぜいであったので、これでは大きな工業などが発達しなかったのも当然なのでありましたが、一度蒸気機関が現れると、これはいかにも便利なものでありましたから、たちまちあらゆる方面に利用せられて、諸所に大きな工場が建てられるようにもなりました。そうなると今までは多くの人々が主に家庭のなかで働いていたのに引きかえて、工場に雇われていろいろな生産労働に従事するようになりましたから、社会の全体の有様もそれに伴って大いに変わって来ました。それから蒸気機関を据えつけて、汽車や汽船が動き出すようになると、諸所の交通もそれまでとは比べられないほど便利になり、これも社会の有様を変えてゆきました。世界の歴史の上では、この著しい変わりかたを名づけて、産業革命と言っているのですが、ともかくもこれはそれ以前に見られなかった重要な変化なのでありました。そしてそれがワットのつくった蒸気機関のおかげであったことを思って見ますと、ワットが世界の歴史を産業革命や蒸気機関の発展に向けたのだといってもよいほどに、それは重要な発明であったと見なければなりません。ですからすばらしい機械の発明というものは、それ自身のすぐれた価値のほかに、世界の歴史をも運命づけるというほどに重大な意味をもっていることが、これではっきりとわかるのでしょう。 | 蒸気機関が出来て社会はどう変わりましたか。 | 以前には水や風の力を利用する水車や風車が主な機械であって、その外には人間の手足の力とか、牛馬をつかうぐらいがせいぜいであったので、これでは大きな工業などが発達しなかったのも当然なのでありましたが、一度蒸気機関が現れると、これはいかにも便利なものでありましたから、たちまちあらゆる方面に利用させられ、諸所に大きな工場が建てられるようにもなりました。 |
JCRRAG_012308 | 歴史 | 科学が昔からどんな風に進んで、またその影響をどう社会に及ぼして来たかという歴史をよく見てゆくと、なかなかおもしろいのです。科学は学問として絶えず進んでゆくのですが、それに伴れていろいろな便利な機械が発明されて来るので、そうすれば世のなかの人々はどうしてもそういう機械を利用しないではいられなくなります。すると機械の発達に従ってすべての物の生産や、また交通の有様などがちがって来ますから、つまりはそれが人間の社会の有様を変えてゆくことになるので、このようにして昔から今日に至るまで文化が発達して来たのだといってもよいのでしょう。このように考えてゆくと、人間の社会にとって科学がどれほど重要なものであるかということも、初めて本当にわかって来るのでしょう。
さて科学の発達につれて社会の有様がいちじるしく変わったのは、いつ頃からであるかといいますと、それはもちろん古い時代にもいくらかはあったに違いありませんが、歴史の上で最も目立っているのは、十八世紀の末から十九世紀の初めにかけてのことであります。それ以前にも機械の利用はいろいろあったのは確かですが、ちょうどこの頃に以前よりもずっと便利ないろいろな機械が発明されたので、それを盛んに産業の上で使うようになったからであります。そのなかには織物の紡績につかう機械やそのほかのものもありましたが、なかでもいちばん重要なのは蒸気のはたらきを利用する蒸気機関であって、これがジェームズ・ワットによって蒸気機関はさらにすばらしいものに改良されたのでした。それ以前には水や風の力を利用する水車や風車が主な機械であって、その外には人間の手足の力とか、牛馬をつかうぐらいがせいぜいであったので、これでは大きな工業などが発達しなかったのも当然なのでありましたが、一度蒸気機関が現れると、これはいかにも便利なものでありましたから、たちまちあらゆる方面に利用せられて、諸所に大きな工場が建てられるようにもなりました。そうなると今までは多くの人々が主に家庭のなかで働いていたのに引きかえて、工場に雇われていろいろな生産労働に従事するようになりましたから、社会の全体の有様もそれに伴って大いに変わって来ました。それから蒸気機関を据えつけて、汽車や汽船が動き出すようになると、諸所の交通もそれまでとは比べられないほど便利になり、これも社会の有様を変えてゆきました。世界の歴史の上では、この著しい変わりかたを名づけて、産業革命と言っているのですが、ともかくもこれはそれ以前に見られなかった重要な変化なのでありました。そしてそれがワットのつくった蒸気機関のおかげであったことを思って見ますと、ワットが世界の歴史を産業革命や蒸気機関の発展に向けたのだといってもよいほどに、それは重要な発明であったと見なければなりません。ですからすばらしい機械の発明というものは、それ自身のすぐれた価値のほかに、世界の歴史をも運命づけるというほどに重大な意味をもっていることが、これではっきりとわかるのでしょう。 | 蒸気機関が出来てどれだけ便利になりましたか。 | 蒸気機関を据えつけて、汽車や汽船が動き出すようになると、諸所の交通もそれまでとは比べられないほど便利になり、これも社会の有様を変えてゆきました。 |
JCRRAG_012309 | 歴史 | ワットの蒸気機関が蒸気の力を利用したものであることは、誰も知っている通りですが、蒸気が物を動かすだけの力をもっているということは非常に古くから知られていたのですし、それを利用しようと考えた人々もたくさんにあったのでした。それでも一つの立派な機械が発明されるまでには、いろいろな段階を経て、だんだんにそこに到達しなくてはならないので、蒸気機関の出来上がって来た道筋などは、それのよい例を示しているといってよいのでしょう。
蒸気を利用したものの中で最も古く知られているのは、西洋紀元前百数十年という頃にアレキサンドリアのヘロンという人のつくった一つの装置です。この人はいろいろな機械を工夫したので名だかいのですが、蒸気をつかって球をぐるぐるまわして見せたのでした。この球の内部は中空になっているので、その両側にそれぞれ管をつけておいて、水の沸騰する器のなかから出てくる蒸気が管を通って球に入りこむようにし、別にこの球には蒸気のふき出る短かい二つの出口をつけておくのです。そうすると蒸気がはげしい勢いで球にはいって、それから出口から噴き出るにつれて、球はぐるぐるまわり出すのです。
これは玩具のようなものでありますが、ともかく蒸気の力で球がまわり出すので、そこで後になってこれを機械に利用しようという考えが起こって来たのも当然であったのでしょう。もっともそれは十六世紀から十七世紀にわたる頃になってからのことなのですが、イタリアのブランカとか、フランスのド・コウというような人たちがそれについていろいろ工夫を凝らしたということです。それでもこれ等はまだ実際の役に立つまでにゆかなかったので、さらにもっとよい考えを必要としたのですが、それについて最初にいくらかの成功を果たしたのはフランスのドニ・パパンでした。パパンは一六四七年の生まれで、アンジェの大学で医学を修めた後にパリで学位を得たのでしたが、宗教の上で新教を信じていたのでその頃の世間から迫害を受け、イギリスのロンドンに赴いて学問を続けました。そして間もなく偉い学者を集めている王立協会の幹事にもなったのを見れば、その才能にすぐれていたこともわかるのです。この頃から彼は蒸気の利用を考えていたとの事ですが、一六八七年にはドイツのヘッセンの領主に招かれて、マールブルグの大学の数学の教授になりました。しかし彼の関心はやはり蒸気の問題にあったので、それについていろいろ実験を行った結果、次のようなものをつくり上げました。
それは気筒の底に水を入れ、それを熱して蒸気としたので、そうすると筒の上の方からはめられたピストンがこの蒸気の力で持ち上げられますが、蒸気が冷えて再び凝結するとこのピストンは外からの大気の圧力でまた下って来るのです。
今から見れば、これはごく幼稚な機械にちがいありませんが、しかし蒸気のはたらきを利用した最初のものと見なされる点で重要な意味をもっているのです。その頃鉱山の採掘が盛んに行われ出すにつれて、深く掘りさげた鉱坑のなかに水がたまって、その水を汲み出すのにどこでも苦しんでいたので、パパンはこの機械を排水に使ったらよかろうと考えたのでしたが、これはまだうまく成功しませんでした。その後パパンは一七〇七年にロンドンへ戻りましたけれども、その頃の世間にさほど認められないで、一七一二年に不遇のうちに亡くなりました。
ところで実際に鉱山の排水につかうことのできるような蒸気機関を始めてつくり出したのは、イギリスのトーマス・セーヴァリーという人でした。この人は一六五〇年頃に生まれ、長じてからは軍隊に入っていろいろな技術に熟達するようになったとのことです。蒸気機関をつくってその特許をとったのは一六九八年でありましたが、パパンのよりは構造もいくらか複雑になっていて、うまくつくられていました。それでこれをつかってかなり深い坑から水を汲み出すことも出来、その頃の鉱山所有者たちに大いに喜ばれたということです。もっともセーヴァリーの最初の機関はいくらか不完全であったので、それを改良するのにニューコメンという人の力を借りたという話がありますが、それはどれほど確かであるかわかりません。
それにしても、ともかくセーヴァリーのよりも一層完全なものをこのニューコメンがつくったことだけは確かなことでした。ニューコメンは一六六三年に生まれて一七二九年に亡くなった人ですが、鍜冶屋を商売にしていましたし、また生地がセーヴァリーの住んでいた場所とはさほど離れてもいなかったので、セーヴァリーの蒸気機関のことを知っていたのには違いないのです。それでさらにこれに工夫を加えて改良を施し、一層役に立つものにすることができたのでした。もっともそれには当時の王立協会の会員で、名だかい科学者であったロバート・フックという人がいろいろと助言をしてくれたという話も伝わっています。そうして一七〇五年にその機関がうまく出来上がったので、その後諸所の鉱山でそれが使われることとなったのでした。
| 蒸気を利用した最も古い発明はどんなものでしたか。 | 蒸気を利用したものの中で最も古く知られているのは、西洋紀元前百数十年という頃にアレキサンドリアのヘロンという人のつくった一つの装置です。 |
JCRRAG_012310 | 歴史 | 慈悲の女神、天使として、フロレンス・ナイチンゲールは生きているうちから、なかば伝説につつまれた存在であった。後の時代になれば聖女めいた色彩は一層濃くされて、天上のものが人間界の苦しみうめいているなかへ下りてきた姿のように語られ描かれているが、フロレンス・ナイチンゲールの長い現実の生活は、はたしてそんな慈悲の香炉から立ちのぼる匂いのようなものであったろうか。
人間のために何事かをなし得た人々は、今も昔もきわめて人間らしさの激しくきつい人々、その情熱も智力も意志もひとしおつよい人々ではなかったのだろうか。
フロレンス・ナイチンゲールは一八二〇年にイギリスの由緒ある上流の娘として誕生した。一八二〇年といえば日本では徳川時代の文政三年、一茶だの塙保己一だのという人が活躍した時代、イギリスは植民地インドからの富でますます豊かになりながら、一方にうめることのできない貧富の差を示してきたヴィクトーリア女皇の時代である。
少女としてのフロレンスの毎日は、上流家庭の娘たちがみなそうであったように立派な家庭教師についてフランス語、ラテン語などの語学を勉強したり、音楽、舞踊、絵画、手芸などをはじめ、若い貴婦人として社交界に出たとき、狩猟の折にこまらないようにと乗馬などまで、規則正しく仕込まれていたに違いない。小さいこの上流の令嬢が、あるとき一匹の犬が負傷しているのを見て大層かわいそうがって、折からそこにいあわせた牧師を大人のように命令して手伝わせながら、その傷の手当をし、添え木をつけてやるまでは満足しなかったというエピソードが、生まれながら慈悲の女神であったフロレンスの逸話のようにつたえられている。が、このエピソードがもし実際あったことなら、本当の面白さは後から粉飾された小天使めいた解釈とは別のところにあると思われる。小さい犬をかわいそうがる心は、子供にとって普通といえる自然の感情だけれども、その感情を徹底的に表現して、犬の脚に添え木をつけるまでやらなければ承知できなかったフロレンスの実際的で、行動的な性質こそ、彼女の生涯を左右した一つの大きな特色であったと思う。そしてまた、その小さい少女の彼女が、牧師を終わりまで手伝わさせねばおかなかった独特の人を支配してゆく力、それもやはりこの婦人の生涯をつらぬいた特徴ある一つの天性の才能であった。 | 生まれながら慈悲の女神であったフロレンスの逸話を教えてください。 | 一匹の犬が負傷しているのを見て大層かわいそうがって、折からそこにいあわせた牧師を大人のように命令して手伝わせながら、その傷の手当をし、添え木をつけてやるまでは満足しなかったエピソードがある。 |
JCRRAG_012311 | 歴史 | フロレンスのロンドンの住居は、当時社交界のよりぬきの人々が住んでいたメイフェアにあった。ダービーシアに別邸があり、次第に若い令嬢として成長して来たフロレンスの生活は、子供部屋から客間へ、舞踏の広間へと移って行った。どこか気性に独創的なところのある、富裕な教養たかいこの令嬢のまわりには、当然崇拝者の何人かが動いていたろうしまたどこの社会でも共通なように、彼女の両親の社会的な地位により多くの魅惑を感じている青年やその親たちが、月並のお世辞で彼女をとりまいてもいたであろう。だが、フロレンスの両親はやがてこの才色兼備のわが娘の素振りに、少しずつ疑問を抱きはじめた。
世間では親も娘もそれを唯一の目的として心を砕いている婿選びに興味をもつ素振りもないし、社交界に出たばかりの娘たちを有頂天にさせる華美な遊楽や交際も、フロレンスはただ生まれ合わせた境遇の義務の一つとして、それに従っているというだけのように見える。フロレンスの心がそこで満たされていないということは、ふとしたおりおりにフロレンスの表情ににじむ何ともいえない倦怠感から十分察せられる。何不自由ない淑女であるフロレンスがもとめているものは、一体何なのだろう。
彼女は自分のうちに、正に燃え立って焔となろうと願っている一つの激しくせつない欲望を感じているのであった。一人の女として、自分の全心をうちこんでやれるような意義のある何事かをしたいという情熱、自分の生涯をその火に賭して悔いない仕事、それをこのヴィクトーリア時代の淑女はさがし求めて、毎日のなまぬるいしきたりずくめの上流生活の空気の中であえいでいるのであった。
全身全霊にうちこめる何かがやりたい。この願望は、おそらく活発な心をもって生まれた千万人の若い女の胸に、今日もなお湧きつつある思いではないだろうか。だが、そのうち何人かは、そういう仕事を自分の行く手に見出すことに成功するだろう。よしんばそれらしいものを見出したとして、果してそのうちの幾人が、自分の最初の希望を、人生の終わりまでつらぬきとおすことができるだろうか。
若い婦人にとって何よりの敵である境遇の重荷は、フロレンスの若い首筋にもずっしりとのしかかっているのであった。第一は、彼女が生まれた時代のイギリスの習慣の保守的な重み、第二は彼女が特に上流の淑女であるという重み、その二つの石は、やっとフロレンスが自分の人生に目的を見出して、看護婦になりたいといい出した時、先ず母夫人の驚愕、涙となってあらわれた。フロレンスは、二十五歳で、看護婦の仕事こそ自分の全力を傾注するに足る社会的な事業だと思いきめたのであった。
十九世紀中葉のその時代のイギリスで、病人の看護をするのが聖業であるというような女は、他のまともな正業には従えない女、主としてもう往来を歩くには年をとりすぎたアルコール中毒の淫売婦あがりの婆さんたちであった。こういう看護婦というものがどんな不徳、冷血、不潔でおそろしいものであったかはディッケンズの小説によく描き出されている。病院の看護婦といえば、風紀のみだれたもの、という代名詞のように思われていた。酒気を帯びないで勤務している者は一人もないという状態であった。他ならぬそういう看護婦の中に入って行こうというのであるから、フロレンスの周囲が驚倒したのもいわばもっとものことであったろう。
フロレンスの申し出は、断然反対された。 | フロレンスの看護婦になりたいという申し出はどうなったか。 | フロレンスの申し出は、断然反対された。 |
JCRRAG_012312 | 歴史 | フロレンスのロンドンの住居は、当時社交界のよりぬきの人々が住んでいたメイフェアにあった。ダービーシアに別邸があり、次第に若い令嬢として成長して来たフロレンスの生活は、子供部屋から客間へ、舞踏の広間へと移って行った。どこか気性に独創的なところのある、富裕な教養たかいこの令嬢のまわりには、当然崇拝者の何人かが動いていたろうしまたどこの社会でも共通なように、彼女の両親の社会的な地位により多くの魅惑を感じている青年やその親たちが、月並のお世辞で彼女をとりまいてもいたであろう。だが、フロレンスの両親はやがてこの才色兼備のわが娘の素振りに、少しずつ疑問を抱きはじめた。
世間では親も娘もそれを唯一の目的として心を砕いている婿選びに興味をもつ素振りもないし、社交界に出たばかりの娘たちを有頂天にさせる華美な遊楽や交際も、フロレンスはただ生まれ合わせた境遇の義務の一つとして、それに従っているというだけのように見える。フロレンスの心がそこで満たされていないということは、ふとしたおりおりにフロレンスの表情ににじむ何ともいえない倦怠感から十分察せられる。何不自由ない淑女であるフロレンスがもとめているものは、一体何なのだろう。
彼女は自分のうちに、正に燃え立って焔となろうと願っている一つの激しくせつない欲望を感じているのであった。一人の女として、自分の全心をうちこんでやれるような意義のある何事かをしたいという情熱、自分の生涯をその火に賭して悔いない仕事、それをこのヴィクトーリア時代の淑女はさがし求めて、毎日のなまぬるいしきたりずくめの上流生活の空気の中であえいでいるのであった。
全身全霊にうちこめる何かがやりたい。この願望は、おそらく活発な心をもって生まれた千万人の若い女の胸に、今日もなお湧きつつある思いではないだろうか。だが、そのうち何人かは、そういう仕事を自分の行く手に見出すことに成功するだろう。よしんばそれらしいものを見出したとして、果してそのうちの幾人が、自分の最初の希望を、人生の終わりまでつらぬきとおすことができるだろうか。
若い婦人にとって何よりの敵である境遇の重荷は、フロレンスの若い首筋にもずっしりとのしかかっているのであった。第一は、彼女が生まれた時代のイギリスの習慣の保守的な重み、第二は彼女が特に上流の淑女であるという重み、その二つの石は、やっとフロレンスが自分の人生に目的を見出して、看護婦になりたいといい出した時、先ず母夫人の驚愕、涙となってあらわれた。フロレンスは、二十五歳で、看護婦の仕事こそ自分の全力を傾注するに足る社会的な事業だと思いきめたのであった。
十九世紀中葉のその時代のイギリスで、病人の看護をするのが聖業であるというような女は、他のまともな正業には従えない女、主としてもう往来を歩くには年をとりすぎたアルコール中毒の淫売婦あがりの婆さんたちであった。こういう看護婦というものがどんな不徳、冷血、不潔でおそろしいものであったかはディッケンズの小説によく描き出されている。病院の看護婦といえば、風紀のみだれたもの、という代名詞のように思われていた。酒気を帯びないで勤務している者は一人もないという状態であった。他ならぬそういう看護婦の中に入って行こうというのであるから、フロレンスの周囲が驚倒したのもいわばもっとものことであったろう。
フロレンスの申し出は、断然反対された。 | フロレンスのロンドンの住居はどこですか。 | フロレンスのロンドンの住居は、当時社交界のよりぬきの人々が住んでいたメイフェアにあった。 |
JCRRAG_012313 | 歴史 | フロレンスはこの第一歩の挫折を、決して自分の生涯の計画の挫折としてはうけとらなかった。
それから後の八年という歳月は、フロレンスの上流令嬢としての生活の底におそるべき不屈な努力と実力の蓄積とをはらんで進行した。
この表面の挫折に遭うまでのフロレンスは、何といっても自分の境遇の条件にしばられている一方であったが、この八年に、彼女は不撓な精神で、自分の境遇の条件を一貫した目的に従わせ、そのために活かしてつかって行くという生涯の態度を学んだのであった。
この期間にフロレンスは医学調査会の報告や、衛生局のパンフレットや、病院、孤児院などの沿革をむさぼり読んだ。
ロンドンの社交季節の暇をぬすんで貧民学校や救護所の見学をした。両親との贅沢な外国旅行の間に、暇を見つけては病院めぐりをし、貧民窟めぐりをし、ヨーロッパの大都会の病院と貧民窟とでフロレンスの知らないところはないという位になった。
ドイツのカイゼルスウェールト温泉へ母と姉とで滞在したとき、フロレンスは二人の貴婦人たちが入湯や社交に日を消している間をぬけ出して、同地の看護婦養成所に三ヵ月以上も滞在した。「これこそ彼女の生涯を支配した重大事件であった」と、興味深い伝記作者のリットン・ストレーチーは、記録している。
同じころ、更にもう一つの重大事件というべきものが、フロレンスの生活をその根から揺り動かした。やがて三十歳になろうとしている婦人の強烈な情感が一人の優秀な青年にひきつけられたのであった。フロレンスにとってこの情感のなみは全く新しいものであり、その激しい生まれつきにふさわしく並々ならない動揺を来したように見える。当時のしきたりは、生粋の上流人であるフロレンスの感情の秩序にもしみこんでいるのであるから、彼女にとって恋愛の心は結婚の門に通じている一本道の上だけで自身に向かって承認されるものである。当時の日記にはフロレンスの苦しい心持ちがまざまざとのこされている。「私には満足を求める知的な性質がある。その満足はあの人から得られる。私には満足を求める情熱的な性質がある。その満足もあの人から得られる。私には満足を要求する道徳的、行動的な性質がある。その満足はあの人の生活中には得られない。時には私もともかく情熱的な性質を満足させようと考えないでもないが……」しかし、フロレンスは自分の本心を知っている。
そういう自分の心があるとき自分に涙をこぼさせるものであったとしても、やはり「私の現在の生活の延長と誇張とに釘づけにされ、自分にとって真実な豊かな生活を築く好機会を永久に逃してしまうこと」はとてもできないとわかっている。
フロレンスは、苦しくても本心の声に従わずにはいられない。彼女はその青年との結婚を断念することで、自分の愛の火の上にもふたをきせてしまった。これほどまでに人生的な大望に身をこがす一人の成熟しきった女性にとって、活動の機会を与えられず過ぎてゆく日々はいかに苦悩そのものであったかは、彼女の正直な次の告白が語っている。「人生三十一年、好ましいと思われるものは死ばかりである」と。
| 彼女の生涯を支配した重大事件であった。と記録している大事件はなにか。 | ドイツのカイゼルスウェールト温泉へ母と姉とで滞在したとき、フロレンスは二人の貴婦人たちが入湯や社交に日を消している間をぬけ出して、同地の看護婦養成所に三ヵ月以上も滞在した。 |
JCRRAG_012314 | 歴史 | フロレンスはこの第一歩の挫折を、決して自分の生涯の計画の挫折としてはうけとらなかった。
それから後の八年という歳月は、フロレンスの上流令嬢としての生活の底におそるべき不屈な努力と実力の蓄積とをはらんで進行した。
この表面の挫折に遭うまでのフロレンスは、何といっても自分の境遇の条件にしばられている一方であったが、この八年に、彼女は不撓な精神で、自分の境遇の条件を一貫した目的に従わせ、そのために活かしてつかって行くという生涯の態度を学んだのであった。
この期間にフロレンスは医学調査会の報告や、衛生局のパンフレットや、病院、孤児院などの沿革をむさぼり読んだ。
ロンドンの社交季節の暇をぬすんで貧民学校や救護所の見学をした。両親との贅沢な外国旅行の間に、暇を見つけては病院めぐりをし、貧民窟めぐりをし、ヨーロッパの大都会の病院と貧民窟とでフロレンスの知らないところはないという位になった。
ドイツのカイゼルスウェールト温泉へ母と姉とで滞在したとき、フロレンスは二人の貴婦人たちが入湯や社交に日を消している間をぬけ出して、同地の看護婦養成所に三ヵ月以上も滞在した。「これこそ彼女の生涯を支配した重大事件であった」と、興味深い伝記作者のリットン・ストレーチーは、記録している。
同じころ、更にもう一つの重大事件というべきものが、フロレンスの生活をその根から揺り動かした。やがて三十歳になろうとしている婦人の強烈な情感が一人の優秀な青年にひきつけられたのであった。フロレンスにとってこの情感のなみは全く新しいものであり、その激しい生まれつきにふさわしく並々ならない動揺を来したように見える。当時のしきたりは、生粋の上流人であるフロレンスの感情の秩序にもしみこんでいるのであるから、彼女にとって恋愛の心は結婚の門に通じている一本道の上だけで自身に向かって承認されるものである。当時の日記にはフロレンスの苦しい心持ちがまざまざとのこされている。「私には満足を求める知的な性質がある。その満足はあの人から得られる。私には満足を求める情熱的な性質がある。その満足もあの人から得られる。私には満足を要求する道徳的、行動的な性質がある。その満足はあの人の生活中には得られない。時には私もともかく情熱的な性質を満足させようと考えないでもないが……」しかし、フロレンスは自分の本心を知っている。
そういう自分の心があるとき自分に涙をこぼさせるものであったとしても、やはり「私の現在の生活の延長と誇張とに釘づけにされ、自分にとって真実な豊かな生活を築く好機会を永久に逃してしまうこと」はとてもできないとわかっている。
フロレンスは、苦しくても本心の声に従わずにはいられない。彼女はその青年との結婚を断念することで、自分の愛の火の上にもふたをきせてしまった。これほどまでに人生的な大望に身をこがす一人の成熟しきった女性にとって、活動の機会を与えられず過ぎてゆく日々はいかに苦悩そのものであったかは、彼女の正直な次の告白が語っている。「人生三十一年、好ましいと思われるものは死ばかりである」と。
| フロレンスは青年との恋愛を断念した時に何を言いましたか。 | 彼女はその青年との結婚を断念することで、自分の愛の火の上にもふたをきせてしまった。これほどまでに人生的な大望に身をこがす一人の成熟しきった女性にとって、活動の機会を与えられず過ぎてゆく日々はいかに苦悩そのものであったかは、彼女の正直な次の告白が語っている。「人生三十一年、好ましいと思われるものは死ばかりである」と。 |
JCRRAG_012315 | 歴史 | それにしてもフロレンスは何故そのような執着をもって社会衛生に関係した仕事などに情熱を感じたのであろうか。
無責任な幾多の伝記者は、ここであの犬のエピソードを思い出し、ナイチンゲール嬢の天使の心を描き出すのであるが、現実はもっと強力複雑な動機を時代の空気としてもっていた。その事実は、私たちにとってまじめに理解されなければならない。フロレンスが、物心ついて世の中を眺めはじめた一八四五、六年代は、イギリスがヴィクトーリア女皇の統治の下に近代社会として未曾有の発展をとげた画期的な時期であった。商工業の急激な進歩、産業界全面の革新は一方に大英国の富をつみ上げてゆくと一緒に、その大都会の他の一方に猛烈な勢いで貧民窟と救民院の無力な活動と犯罪率の上昇とを生み出した歴史的な一時代であった。心あるイギリス人は、この富と貧との新しい社会悲惨の図絵に無関心でいられず、ひろがる犯罪、流行病から自分の家族を安全にあらせようと願えば勢い都市の衛生、都市の施設というものを議会の問題とせずにはいられなかった。文学の世界で、写実主義がおこってディッケンズがあらわれ、ロンドンの下層の生活の悲惨さを描いたのがこの時代であった。サッカレイが「虚栄の市」「ペンデニス」「ニューコム一家」などで当時上流を占めた投資家貴族の生活を辛辣に描き出したのもこの時代であった。ロシアではツルゲーネフが「猟人日記」からひきつづき、その時代の若いロシアの青年男女の姿を「その前夜」「処女地」などに描いた時代である。よりよい社会への願望、研究、行動が空想的であった前世紀の理想社会への憧れから科学的な社会主義の方向に高まりつつ、世界の卓抜な才能と思想とを方向づけていた巨大な一時代であった。たとえ、淑女らしさという金縛りを身にうけてはいても、その時代の先進国であったイギリス生まれの知識婦人であったフロレンス・ナイチンゲールが、社会衛生、道徳改善の事業にその規模の大きい現実的な精力の対象を見出したということは、決して不思議ではなかったのであった。
| フロレンスが、物心ついて世の中を眺めはじめた一八四五、六年代のイギリスはどういう時代でしたか。 | イギリスがヴィクトーリア女皇の統治の下に近代社会として未曾有の発展をとげた画期的な時期であった。商工業の急激な進歩、産業界全面の革新は一方に大英国の富をつみ上げてゆくと一緒に、その大都会の他の一方に猛烈な勢いで貧民窟と救民院の無力な活動と犯罪率の上昇とを生み出した歴史的な一時代であった。 |
JCRRAG_012316 | 歴史 | ハーレー街の慈善病院監督となった翌年、三十四歳のフロレンス・ナイチンゲールが遂にその渾身の力を傾けて遂行すべき仕事が起こった。一八五三年に英露のトルコ分割を目的とするクリミア戦争が起こった。この戦役におけるイギリス負傷兵の状況の酸鼻が、しばしば議会の問題となり、世界の注目がそこにあつめられた。この時代まだ笞刑の行われていたイギリス陸軍の兵士が、クリミア戦争で傷つき、運ばれてゆくスクータリーの陸軍病院という名は、有識の人々の間で「地獄」の別名となった。
シドニー・ハーバートという時の大臣の一人が、この時思い出したのはフロレンス・ナイチンゲールの存在であった。彼はフロレンスこそ、この場合に何事かをなし得る婦人であるとして、招きの手紙を送った。折から、ナイチンゲールの心にひらめいていた計画も、符節を合してまさにそのことであった。
フロレンスが二人の親友と三十八人の看護婦をひきいて一週間のうちにロンドンを立ち、トルコのスクータリーに到着したのは一八五四年の十一月であった。
このクリミア戦争にはトルストイが一士官としてロシア軍に加わっており、セバストーポリについた第一歩に負傷者の哀れな有様に激しく心を動かされたのが、この同じ年の十二月であったことも思い出される。
ロンドンを立つ時、当局の役人はナイチンゲールの問いに答えて、スクーターには何一つ欠けたものはないと明言した。よしんば衛生材料が多少不足していても四日間でコンスタンチノープルから支給されるのだから、と。
その言葉にもかかわらずフロレンスは女の勘で、いろいろな材料と金とをどっさりたずさえて、さて、到着したスクータリーの陸軍病院は、彼女の一行をどういう有様で迎えただろうか。
巨大なバラック建ての廊下や大きい病室には、ありとあらゆる欠乏、怠慢、混乱、悲惨が充ち満ちていた。建物の真下を走っている大下水から汚物の悪臭がのぼって来る。その床はぼろぼろで洗えもしない。壁には塵埃が厚くこびりついていて寝台は四マイルもぎっしりつめられていた。
ところ構わず南京虫の大群が横行している。
フロレンスがみたどこの貧民窟よりも不潔である。日常品の欠乏ははなはだしく、ビールの空きビンにローソクが立っていた。たらい、タオル、シャボン、箒、盆、皿、ナイフ、フォーク、スプーンなどという必需品さえなかった。医療材料、薬品も揃っていない。働いている人々といえば無能な医者と官僚主義に頭も心も痲痺している役人と、疲労困憊して自らも半病人になっている少数の人々ばかりであった。
ナイチンゲールが女としての勘でもたらした品物と金とは、全く無限の役にたった。
スクータリーの名状できない混乱をとおして、秩序と常識と先見と判断との光りが、日に夜にフロレンスが執務しているバラック病院の大廊下のそばの小さい部屋から放射されはじめた。
変化は確実であった。病兵はタオルとシャボン、ナイフとフォーク、櫛と歯ブラシとを、喜んで使い始めた。
六ヵ月の間に病院の料理場と洗濯場とは改良され、本国からの積送品を整理するための政府の倉庫ができ、病兵の寝具類は煮沸器で消毒されるようになった。
彼女が病兵にもスープ、葡萄酒、ジェリーなどが必要だといったとき、役人たちはお話にならぬ贅沢だ!
と目をみはった。彼女の努力でも精力でも、どうしても実施されなかったことが、このスクータリーに一つ残った。
病兵の喰べる「肉を骨から離す」事である。役所の規定は「食物は等分に分配すべし」とだけあって、配られたのが骨ばかりだったにしてもそれはその兵士の不運なのだし、ましてそれを噛む顎を弾丸にやられていたとすれば、それこそその兵の重なる不運と諦めるしかない状態なのであった。
病院へのあらゆる必需品を調達するのは全部フロレンスの仕事であった。
兵たちに靴下、シャツが着せられたのは彼女の個人的な出費とタイムズ社の寄附金があってからできたことであった。
これらの緊迫した仕事がどんなものであったかは、当時彼女を看護の天使、優しい「灯をかかげた女人」として世人が感動を示したのに対して、フロレンス自身洩らした言葉にもうかがわれる。
看護という特殊な仕事は確かに彼女に「おしつけられた役目の中で一番軽い物であった」のだと。
しかしながら、その軽いものも何と桁外れな大きさをもっていたことだろう。病院の苦痛のもっとも激しいところ、助けのもっとも必要なところには、いつも必ずナイチンゲールの平静な鼓舞のまなざしがあった。
そのまなざしは危ない瀬戸際で兵士たちの勇気をとり直させ、医者の沈着を支え、そして、失われそうであった命をとりとめる役にたつのであった。その死亡率を半減させた兵士たちの心からなる喜びの眼に彼女が天使に見えたのは自然だった。 | ナイチンゲールがスクータリーの陸軍病院にいくことになったのはなぜか。 | イギリス陸軍の兵士が、クリミア戦争で傷つき、運ばれてゆくスクータリーの陸軍病院という名は、有識の人々の間で「地獄」の別名となった。シドニー・ハーバートという時の大臣の一人が、この時思い出したのはフロレンス・ナイチンゲールの存在であった。彼はフロレンスこそ、この場合に何事かをなし得る婦人であるとして、招きの手紙を送った。 |
JCRRAG_012317 | 歴史 | ハーレー街の慈善病院監督となった翌年、三十四歳のフロレンス・ナイチンゲールが遂にその渾身の力を傾けて遂行すべき仕事が起こった。一八五三年に英露のトルコ分割を目的とするクリミア戦争が起こった。この戦役におけるイギリス負傷兵の状況の酸鼻が、しばしば議会の問題となり、世界の注目がそこにあつめられた。この時代まだ笞刑の行われていたイギリス陸軍の兵士が、クリミア戦争で傷つき、運ばれてゆくスクータリーの陸軍病院という名は、有識の人々の間で「地獄」の別名となった。
シドニー・ハーバートという時の大臣の一人が、この時思い出したのはフロレンス・ナイチンゲールの存在であった。彼はフロレンスこそ、この場合に何事かをなし得る婦人であるとして、招きの手紙を送った。折から、ナイチンゲールの心にひらめいていた計画も、符節を合してまさにそのことであった。
フロレンスが二人の親友と三十八人の看護婦をひきいて一週間のうちにロンドンを立ち、トルコのスクータリーに到着したのは一八五四年の十一月であった。
このクリミア戦争にはトルストイが一士官としてロシア軍に加わっており、セバストーポリについた第一歩に負傷者の哀れな有様に激しく心を動かされたのが、この同じ年の十二月であったことも思い出される。
ロンドンを立つ時、当局の役人はナイチンゲールの問いに答えて、スクーターには何一つ欠けたものはないと明言した。よしんば衛生材料が多少不足していても四日間でコンスタンチノープルから支給されるのだから、と。
その言葉にもかかわらずフロレンスは女の勘で、いろいろな材料と金とをどっさりたずさえて、さて、到着したスクータリーの陸軍病院は、彼女の一行をどういう有様で迎えただろうか。
巨大なバラック建ての廊下や大きい病室には、ありとあらゆる欠乏、怠慢、混乱、悲惨が充ち満ちていた。建物の真下を走っている大下水から汚物の悪臭がのぼって来る。その床はぼろぼろで洗えもしない。壁には塵埃が厚くこびりついていて寝台は四マイルもぎっしりつめられていた。
ところ構わず南京虫の大群が横行している。
フロレンスがみたどこの貧民窟よりも不潔である。日常品の欠乏ははなはだしく、ビールの空きビンにローソクが立っていた。たらい、タオル、シャボン、箒、盆、皿、ナイフ、フォーク、スプーンなどという必需品さえなかった。医療材料、薬品も揃っていない。働いている人々といえば無能な医者と官僚主義に頭も心も痲痺している役人と、疲労困憊して自らも半病人になっている少数の人々ばかりであった。
ナイチンゲールが女としての勘でもたらした品物と金とは、全く無限の役にたった。
スクータリーの名状できない混乱をとおして、秩序と常識と先見と判断との光りが、日に夜にフロレンスが執務しているバラック病院の大廊下のそばの小さい部屋から放射されはじめた。
変化は確実であった。病兵はタオルとシャボン、ナイフとフォーク、櫛と歯ブラシとを、喜んで使い始めた。
六ヵ月の間に病院の料理場と洗濯場とは改良され、本国からの積送品を整理するための政府の倉庫ができ、病兵の寝具類は煮沸器で消毒されるようになった。
彼女が病兵にもスープ、葡萄酒、ジェリーなどが必要だといったとき、役人たちはお話にならぬ贅沢だ!
と目をみはった。彼女の努力でも精力でも、どうしても実施されなかったことが、このスクータリーに一つ残った。
病兵の喰べる「肉を骨から離す」事である。役所の規定は「食物は等分に分配すべし」とだけあって、配られたのが骨ばかりだったにしてもそれはその兵士の不運なのだし、ましてそれを噛む顎を弾丸にやられていたとすれば、それこそその兵の重なる不運と諦めるしかない状態なのであった。
病院へのあらゆる必需品を調達するのは全部フロレンスの仕事であった。
兵たちに靴下、シャツが着せられたのは彼女の個人的な出費とタイムズ社の寄附金があってからできたことであった。
これらの緊迫した仕事がどんなものであったかは、当時彼女を看護の天使、優しい「灯をかかげた女人」として世人が感動を示したのに対して、フロレンス自身洩らした言葉にもうかがわれる。
看護という特殊な仕事は確かに彼女に「おしつけられた役目の中で一番軽い物であった」のだと。
しかしながら、その軽いものも何と桁外れな大きさをもっていたことだろう。病院の苦痛のもっとも激しいところ、助けのもっとも必要なところには、いつも必ずナイチンゲールの平静な鼓舞のまなざしがあった。
そのまなざしは危ない瀬戸際で兵士たちの勇気をとり直させ、医者の沈着を支え、そして、失われそうであった命をとりとめる役にたつのであった。その死亡率を半減させた兵士たちの心からなる喜びの眼に彼女が天使に見えたのは自然だった。 | フロレンスからみてスクータリーの陸軍病院はどうでしたか。 | フロレンスがみたどこの貧民窟よりも不潔である。 |
JCRRAG_012318 | 歴史 | ハーレー街の慈善病院監督となった翌年、三十四歳のフロレンス・ナイチンゲールが遂にその渾身の力を傾けて遂行すべき仕事が起こった。一八五三年に英露のトルコ分割を目的とするクリミア戦争が起こった。この戦役におけるイギリス負傷兵の状況の酸鼻が、しばしば議会の問題となり、世界の注目がそこにあつめられた。この時代まだ笞刑の行われていたイギリス陸軍の兵士が、クリミア戦争で傷つき、運ばれてゆくスクータリーの陸軍病院という名は、有識の人々の間で「地獄」の別名となった。
シドニー・ハーバートという時の大臣の一人が、この時思い出したのはフロレンス・ナイチンゲールの存在であった。彼はフロレンスこそ、この場合に何事かをなし得る婦人であるとして、招きの手紙を送った。折から、ナイチンゲールの心にひらめいていた計画も、符節を合してまさにそのことであった。
フロレンスが二人の親友と三十八人の看護婦をひきいて一週間のうちにロンドンを立ち、トルコのスクータリーに到着したのは一八五四年の十一月であった。
このクリミア戦争にはトルストイが一士官としてロシア軍に加わっており、セバストーポリについた第一歩に負傷者の哀れな有様に激しく心を動かされたのが、この同じ年の十二月であったことも思い出される。
ロンドンを立つ時、当局の役人はナイチンゲールの問いに答えて、スクーターには何一つ欠けたものはないと明言した。よしんば衛生材料が多少不足していても四日間でコンスタンチノープルから支給されるのだから、と。
その言葉にもかかわらずフロレンスは女の勘で、いろいろな材料と金とをどっさりたずさえて、さて、到着したスクータリーの陸軍病院は、彼女の一行をどういう有様で迎えただろうか。
巨大なバラック建ての廊下や大きい病室には、ありとあらゆる欠乏、怠慢、混乱、悲惨が充ち満ちていた。建物の真下を走っている大下水から汚物の悪臭がのぼって来る。その床はぼろぼろで洗えもしない。壁には塵埃が厚くこびりついていて寝台は四マイルもぎっしりつめられていた。
ところ構わず南京虫の大群が横行している。
フロレンスがみたどこの貧民窟よりも不潔である。日常品の欠乏ははなはだしく、ビールの空きビンにローソクが立っていた。たらい、タオル、シャボン、箒、盆、皿、ナイフ、フォーク、スプーンなどという必需品さえなかった。医療材料、薬品も揃っていない。働いている人々といえば無能な医者と官僚主義に頭も心も痲痺している役人と、疲労困憊して自らも半病人になっている少数の人々ばかりであった。
ナイチンゲールが女としての勘でもたらした品物と金とは、全く無限の役にたった。
スクータリーの名状できない混乱をとおして、秩序と常識と先見と判断との光りが、日に夜にフロレンスが執務しているバラック病院の大廊下のそばの小さい部屋から放射されはじめた。
変化は確実であった。病兵はタオルとシャボン、ナイフとフォーク、櫛と歯ブラシとを、喜んで使い始めた。
六ヵ月の間に病院の料理場と洗濯場とは改良され、本国からの積送品を整理するための政府の倉庫ができ、病兵の寝具類は煮沸器で消毒されるようになった。
彼女が病兵にもスープ、葡萄酒、ジェリーなどが必要だといったとき、役人たちはお話にならぬ贅沢だ!
と目をみはった。彼女の努力でも精力でも、どうしても実施されなかったことが、このスクータリーに一つ残った。
病兵の喰べる「肉を骨から離す」事である。役所の規定は「食物は等分に分配すべし」とだけあって、配られたのが骨ばかりだったにしてもそれはその兵士の不運なのだし、ましてそれを噛む顎を弾丸にやられていたとすれば、それこそその兵の重なる不運と諦めるしかない状態なのであった。
病院へのあらゆる必需品を調達するのは全部フロレンスの仕事であった。
兵たちに靴下、シャツが着せられたのは彼女の個人的な出費とタイムズ社の寄附金があってからできたことであった。
これらの緊迫した仕事がどんなものであったかは、当時彼女を看護の天使、優しい「灯をかかげた女人」として世人が感動を示したのに対して、フロレンス自身洩らした言葉にもうかがわれる。
看護という特殊な仕事は確かに彼女に「おしつけられた役目の中で一番軽い物であった」のだと。
しかしながら、その軽いものも何と桁外れな大きさをもっていたことだろう。病院の苦痛のもっとも激しいところ、助けのもっとも必要なところには、いつも必ずナイチンゲールの平静な鼓舞のまなざしがあった。
そのまなざしは危ない瀬戸際で兵士たちの勇気をとり直させ、医者の沈着を支え、そして、失われそうであった命をとりとめる役にたつのであった。その死亡率を半減させた兵士たちの心からなる喜びの眼に彼女が天使に見えたのは自然だった。 | フロレンスが女の勘で、いろいろな材料と金とをどっさりたずさえて陸軍病院にいったことでどうなりましたか。 | 病兵はタオルとシャボン、ナイフとフォーク、櫛と歯ブラシとを、喜んで使い始めた。六ヵ月の間に病院の料理場と洗濯場とは改良され、本国からの積送品を整理するための政府の倉庫ができ、病兵の寝具類は煮沸器で消毒されるようになった。 |
JCRRAG_012319 | 歴史 | ハーレー街の慈善病院監督となった翌年、三十四歳のフロレンス・ナイチンゲールが遂にその渾身の力を傾けて遂行すべき仕事が起こった。一八五三年に英露のトルコ分割を目的とするクリミア戦争が起こった。この戦役におけるイギリス負傷兵の状況の酸鼻が、しばしば議会の問題となり、世界の注目がそこにあつめられた。この時代まだ笞刑の行われていたイギリス陸軍の兵士が、クリミア戦争で傷つき、運ばれてゆくスクータリーの陸軍病院という名は、有識の人々の間で「地獄」の別名となった。
シドニー・ハーバートという時の大臣の一人が、この時思い出したのはフロレンス・ナイチンゲールの存在であった。彼はフロレンスこそ、この場合に何事かをなし得る婦人であるとして、招きの手紙を送った。折から、ナイチンゲールの心にひらめいていた計画も、符節を合してまさにそのことであった。
フロレンスが二人の親友と三十八人の看護婦をひきいて一週間のうちにロンドンを立ち、トルコのスクータリーに到着したのは一八五四年の十一月であった。
このクリミア戦争にはトルストイが一士官としてロシア軍に加わっており、セバストーポリについた第一歩に負傷者の哀れな有様に激しく心を動かされたのが、この同じ年の十二月であったことも思い出される。
ロンドンを立つ時、当局の役人はナイチンゲールの問いに答えて、スクーターには何一つ欠けたものはないと明言した。よしんば衛生材料が多少不足していても四日間でコンスタンチノープルから支給されるのだから、と。
その言葉にもかかわらずフロレンスは女の勘で、いろいろな材料と金とをどっさりたずさえて、さて、到着したスクータリーの陸軍病院は、彼女の一行をどういう有様で迎えただろうか。
巨大なバラック建ての廊下や大きい病室には、ありとあらゆる欠乏、怠慢、混乱、悲惨が充ち満ちていた。建物の真下を走っている大下水から汚物の悪臭がのぼって来る。その床はぼろぼろで洗えもしない。壁には塵埃が厚くこびりついていて寝台は四マイルもぎっしりつめられていた。
ところ構わず南京虫の大群が横行している。
フロレンスがみたどこの貧民窟よりも不潔である。日常品の欠乏ははなはだしく、ビールの空きビンにローソクが立っていた。たらい、タオル、シャボン、箒、盆、皿、ナイフ、フォーク、スプーンなどという必需品さえなかった。医療材料、薬品も揃っていない。働いている人々といえば無能な医者と官僚主義に頭も心も痲痺している役人と、疲労困憊して自らも半病人になっている少数の人々ばかりであった。
ナイチンゲールが女としての勘でもたらした品物と金とは、全く無限の役にたった。
スクータリーの名状できない混乱をとおして、秩序と常識と先見と判断との光りが、日に夜にフロレンスが執務しているバラック病院の大廊下のそばの小さい部屋から放射されはじめた。
変化は確実であった。病兵はタオルとシャボン、ナイフとフォーク、櫛と歯ブラシとを、喜んで使い始めた。
六ヵ月の間に病院の料理場と洗濯場とは改良され、本国からの積送品を整理するための政府の倉庫ができ、病兵の寝具類は煮沸器で消毒されるようになった。
彼女が病兵にもスープ、葡萄酒、ジェリーなどが必要だといったとき、役人たちはお話にならぬ贅沢だ!
と目をみはった。彼女の努力でも精力でも、どうしても実施されなかったことが、このスクータリーに一つ残った。
病兵の喰べる「肉を骨から離す」事である。役所の規定は「食物は等分に分配すべし」とだけあって、配られたのが骨ばかりだったにしてもそれはその兵士の不運なのだし、ましてそれを噛む顎を弾丸にやられていたとすれば、それこそその兵の重なる不運と諦めるしかない状態なのであった。
病院へのあらゆる必需品を調達するのは全部フロレンスの仕事であった。
兵たちに靴下、シャツが着せられたのは彼女の個人的な出費とタイムズ社の寄附金があってからできたことであった。
これらの緊迫した仕事がどんなものであったかは、当時彼女を看護の天使、優しい「灯をかかげた女人」として世人が感動を示したのに対して、フロレンス自身洩らした言葉にもうかがわれる。
看護という特殊な仕事は確かに彼女に「おしつけられた役目の中で一番軽い物であった」のだと。
しかしながら、その軽いものも何と桁外れな大きさをもっていたことだろう。病院の苦痛のもっとも激しいところ、助けのもっとも必要なところには、いつも必ずナイチンゲールの平静な鼓舞のまなざしがあった。
そのまなざしは危ない瀬戸際で兵士たちの勇気をとり直させ、医者の沈着を支え、そして、失われそうであった命をとりとめる役にたつのであった。その死亡率を半減させた兵士たちの心からなる喜びの眼に彼女が天使に見えたのは自然だった。 | フロレンスがどう頑張ってもどうしても実施されなかったことが、このスクータリーに一つ残ったのはなんですか。 | 病兵の喰べる「肉を骨から離す」事である。 |
JCRRAG_012320 | 歴史 | ハーレー街の慈善病院監督となった翌年、三十四歳のフロレンス・ナイチンゲールが遂にその渾身の力を傾けて遂行すべき仕事が起こった。一八五三年に英露のトルコ分割を目的とするクリミア戦争が起こった。この戦役におけるイギリス負傷兵の状況の酸鼻が、しばしば議会の問題となり、世界の注目がそこにあつめられた。この時代まだ笞刑の行われていたイギリス陸軍の兵士が、クリミア戦争で傷つき、運ばれてゆくスクータリーの陸軍病院という名は、有識の人々の間で「地獄」の別名となった。
シドニー・ハーバートという時の大臣の一人が、この時思い出したのはフロレンス・ナイチンゲールの存在であった。彼はフロレンスこそ、この場合に何事かをなし得る婦人であるとして、招きの手紙を送った。折から、ナイチンゲールの心にひらめいていた計画も、符節を合してまさにそのことであった。
フロレンスが二人の親友と三十八人の看護婦をひきいて一週間のうちにロンドンを立ち、トルコのスクータリーに到着したのは一八五四年の十一月であった。
このクリミア戦争にはトルストイが一士官としてロシア軍に加わっており、セバストーポリについた第一歩に負傷者の哀れな有様に激しく心を動かされたのが、この同じ年の十二月であったことも思い出される。
ロンドンを立つ時、当局の役人はナイチンゲールの問いに答えて、スクーターには何一つ欠けたものはないと明言した。よしんば衛生材料が多少不足していても四日間でコンスタンチノープルから支給されるのだから、と。
その言葉にもかかわらずフロレンスは女の勘で、いろいろな材料と金とをどっさりたずさえて、さて、到着したスクータリーの陸軍病院は、彼女の一行をどういう有様で迎えただろうか。
巨大なバラック建ての廊下や大きい病室には、ありとあらゆる欠乏、怠慢、混乱、悲惨が充ち満ちていた。建物の真下を走っている大下水から汚物の悪臭がのぼって来る。その床はぼろぼろで洗えもしない。壁には塵埃が厚くこびりついていて寝台は四マイルもぎっしりつめられていた。
ところ構わず南京虫の大群が横行している。
フロレンスがみたどこの貧民窟よりも不潔である。日常品の欠乏ははなはだしく、ビールの空きビンにローソクが立っていた。たらい、タオル、シャボン、箒、盆、皿、ナイフ、フォーク、スプーンなどという必需品さえなかった。医療材料、薬品も揃っていない。働いている人々といえば無能な医者と官僚主義に頭も心も痲痺している役人と、疲労困憊して自らも半病人になっている少数の人々ばかりであった。
ナイチンゲールが女としての勘でもたらした品物と金とは、全く無限の役にたった。
スクータリーの名状できない混乱をとおして、秩序と常識と先見と判断との光りが、日に夜にフロレンスが執務しているバラック病院の大廊下のそばの小さい部屋から放射されはじめた。
変化は確実であった。病兵はタオルとシャボン、ナイフとフォーク、櫛と歯ブラシとを、喜んで使い始めた。
六ヵ月の間に病院の料理場と洗濯場とは改良され、本国からの積送品を整理するための政府の倉庫ができ、病兵の寝具類は煮沸器で消毒されるようになった。
彼女が病兵にもスープ、葡萄酒、ジェリーなどが必要だといったとき、役人たちはお話にならぬ贅沢だ!
と目をみはった。彼女の努力でも精力でも、どうしても実施されなかったことが、このスクータリーに一つ残った。
病兵の喰べる「肉を骨から離す」事である。役所の規定は「食物は等分に分配すべし」とだけあって、配られたのが骨ばかりだったにしてもそれはその兵士の不運なのだし、ましてそれを噛む顎を弾丸にやられていたとすれば、それこそその兵の重なる不運と諦めるしかない状態なのであった。
病院へのあらゆる必需品を調達するのは全部フロレンスの仕事であった。
兵たちに靴下、シャツが着せられたのは彼女の個人的な出費とタイムズ社の寄附金があってからできたことであった。
これらの緊迫した仕事がどんなものであったかは、当時彼女を看護の天使、優しい「灯をかかげた女人」として世人が感動を示したのに対して、フロレンス自身洩らした言葉にもうかがわれる。
看護という特殊な仕事は確かに彼女に「おしつけられた役目の中で一番軽い物であった」のだと。
しかしながら、その軽いものも何と桁外れな大きさをもっていたことだろう。病院の苦痛のもっとも激しいところ、助けのもっとも必要なところには、いつも必ずナイチンゲールの平静な鼓舞のまなざしがあった。
そのまなざしは危ない瀬戸際で兵士たちの勇気をとり直させ、医者の沈着を支え、そして、失われそうであった命をとりとめる役にたつのであった。その死亡率を半減させた兵士たちの心からなる喜びの眼に彼女が天使に見えたのは自然だった。 | ナイチンゲールの奮闘によって死亡率を半減させた兵士たちからはナイチンゲールはどう見えましたか。 | 死亡率を半減させた兵士たちの心からなる喜びの眼に彼女が天使に見えたのは自然だった。 |
JCRRAG_012321 | 歴史 | この雄々しい活動の人を夜鶯ナイチンゲールめ!と罵る人間もいた。
その筆頭はスクータリー病院の院長ホール博士と連隊長連であった。女と戦争と何の関係があるのか。
彼らはこの観念から抜けられなかった。
軍医、看護卒、看護婦、病院関係の諸役人と大臣たちも、ナイチンゲールを天使とは考えられない人々の群であった。
おそろしい無秩序と官僚風のしみとおったスクータリーへ、新しい敷布を一とおり行きわたらせるためにでもナイチンゲールは、厳格な方法、きっちりした規律、些細な事をゆるがせにしない厳密な注意、不断の努力、不屈の意志と断固とした決心が入用であった。彼女の平静な表情の下に燃えさかっている情熱、澄んだ静かな声の中にこもっていて一旦その声に命じられたら服従せずにいられない一種独特な権威、それらは臆病の夜鶯ナイチンゲールの持ちものであるはずはない。
おだやかな優しさや、いわゆる女らしい自己否定で、彼女はクリミアでの業績をなしとげたのではなかった。
この一行がはじめコンスタンチノープルに近づいた時、一人の看護婦が「上陸しましたらすぐ可哀相な人々の看護をはじめましょう」といったに対して、「一番丈夫な人たちは洗濯ダライにかかって貰いましょう」と答えた彼女の実際の鋭い洞察も、記憶さるべきところではないだろうか。
戦争が終わって四ヵ月後の一八五六年の夏、フロレンス・ナイチンゲールはクリミアの天使として民衆の熱狂に迎えられながらイギリスに帰って来た。ヴィクトーリア女皇が贈ったブローチを白レースの襟の上に飾ったナイチンゲールの肖像は世界の隅々にまで広がった。
世間的な名声は、クリミアでの英雄的な行為の記憶によって、世の人々の間に生きた。
が、それから後の三十年間に、ナイチンゲールがほとんど長椅子の上にねたきりで完成した事の意義こそは、更に重大であった。
ナイチンゲールにとってクリミアでの成果は彼女の経歴の有益な踏み石に過ぎず、それは世界を働かせる為の梃子台であった。
クリミアでの激働ですっかり健康を害してイギリスに着いた彼女は、心臓衰弱に襲われ、たえず気絶の発作と全身の衰弱に悩まされた。
医師は極力静養を求める。ナイチンゲールにとって、どうして今休養などをとっていられよう。今こそ好機が到来したのだ。
鉄は熱い中にこそ打つべきだ。長椅子の上であえぎながら、彼女は報告を読み、手紙を口述し、激しい動悸の合間には熱病的な冗談をとばした。
ナイチンゲールは、イギリスの陸軍病院の全組織の改善という大計画につかれているのであった。
自分の体のままにならないフロレンスは間もなく自分の周囲に献身的な人々の小さい群をもった。
もっとも重要なのは後に陸軍大臣となったシドニー・ハーバートとその夫人とであった。
きわめて柔軟で同情に富む天質をもって生まれ、従ってその時代の人間性を強調する息吹きにも感じ易かったシドニー・ハーバートは、フロレンスの指揮と指導の性質にひきよせられ、公共の目的のためには全く献身的な独特な友情を保った。
そのほか、このグループの中にはハリー・バーネー卿がおり、詩人のクラッフがおり、クリミアへも一緒に行ったメー叔母さんもいた。
そして、三十年以上彼女の最も緊密な秘書として働いたサザーランド博士がいた。当時の社会が婦人の登場を許していなかったあらゆる政治的関係、役所関係の間へ、ナイチンゲールは彼女のあらゆる条件を活用して、ハーバートを動かし、バーネー卿を活動させた。
ナイチンゲールに役立とうとして仕事をはじめたこれらの人々は、やがて真剣にその能力と忍耐との極限まで彼女のためにはかたむけつくさなければならないことを知った。寝台の上に真っ蒼になって息をきらしながら、なお仕事を捨てないフロレンスを見て、彼女が骨身を惜しんでいるといえる者は一人もいないのであった。 | ナイチンゲールを罵る人間がいたのはなぜですか。 | 女と戦争と何の関係があるのか。彼らはこの観念から抜けられなかった。 |
JCRRAG_012322 | 歴史 | この雄々しい活動の人を夜鶯ナイチンゲールめ!と罵る人間もいた。
その筆頭はスクータリー病院の院長ホール博士と連隊長連であった。女と戦争と何の関係があるのか。
彼らはこの観念から抜けられなかった。
軍医、看護卒、看護婦、病院関係の諸役人と大臣たちも、ナイチンゲールを天使とは考えられない人々の群であった。
おそろしい無秩序と官僚風のしみとおったスクータリーへ、新しい敷布を一とおり行きわたらせるためにでもナイチンゲールは、厳格な方法、きっちりした規律、些細な事をゆるがせにしない厳密な注意、不断の努力、不屈の意志と断固とした決心が入用であった。彼女の平静な表情の下に燃えさかっている情熱、澄んだ静かな声の中にこもっていて一旦その声に命じられたら服従せずにいられない一種独特な権威、それらは臆病の夜鶯ナイチンゲールの持ちものであるはずはない。
おだやかな優しさや、いわゆる女らしい自己否定で、彼女はクリミアでの業績をなしとげたのではなかった。
この一行がはじめコンスタンチノープルに近づいた時、一人の看護婦が「上陸しましたらすぐ可哀相な人々の看護をはじめましょう」といったに対して、「一番丈夫な人たちは洗濯ダライにかかって貰いましょう」と答えた彼女の実際の鋭い洞察も、記憶さるべきところではないだろうか。
戦争が終わって四ヵ月後の一八五六年の夏、フロレンス・ナイチンゲールはクリミアの天使として民衆の熱狂に迎えられながらイギリスに帰って来た。ヴィクトーリア女皇が贈ったブローチを白レースの襟の上に飾ったナイチンゲールの肖像は世界の隅々にまで広がった。
世間的な名声は、クリミアでの英雄的な行為の記憶によって、世の人々の間に生きた。
が、それから後の三十年間に、ナイチンゲールがほとんど長椅子の上にねたきりで完成した事の意義こそは、更に重大であった。
ナイチンゲールにとってクリミアでの成果は彼女の経歴の有益な踏み石に過ぎず、それは世界を働かせる為の梃子台であった。
クリミアでの激働ですっかり健康を害してイギリスに着いた彼女は、心臓衰弱に襲われ、たえず気絶の発作と全身の衰弱に悩まされた。
医師は極力静養を求める。ナイチンゲールにとって、どうして今休養などをとっていられよう。今こそ好機が到来したのだ。
鉄は熱い中にこそ打つべきだ。長椅子の上であえぎながら、彼女は報告を読み、手紙を口述し、激しい動悸の合間には熱病的な冗談をとばした。
ナイチンゲールは、イギリスの陸軍病院の全組織の改善という大計画につかれているのであった。
自分の体のままにならないフロレンスは間もなく自分の周囲に献身的な人々の小さい群をもった。
もっとも重要なのは後に陸軍大臣となったシドニー・ハーバートとその夫人とであった。
きわめて柔軟で同情に富む天質をもって生まれ、従ってその時代の人間性を強調する息吹きにも感じ易かったシドニー・ハーバートは、フロレンスの指揮と指導の性質にひきよせられ、公共の目的のためには全く献身的な独特な友情を保った。
そのほか、このグループの中にはハリー・バーネー卿がおり、詩人のクラッフがおり、クリミアへも一緒に行ったメー叔母さんもいた。
そして、三十年以上彼女の最も緊密な秘書として働いたサザーランド博士がいた。当時の社会が婦人の登場を許していなかったあらゆる政治的関係、役所関係の間へ、ナイチンゲールは彼女のあらゆる条件を活用して、ハーバートを動かし、バーネー卿を活動させた。
ナイチンゲールに役立とうとして仕事をはじめたこれらの人々は、やがて真剣にその能力と忍耐との極限まで彼女のためにはかたむけつくさなければならないことを知った。寝台の上に真っ蒼になって息をきらしながら、なお仕事を捨てないフロレンスを見て、彼女が骨身を惜しんでいるといえる者は一人もいないのであった。 | フロレンス・ナイチンゲールがイギリスに帰った後の悩みはなんでしたか。 | クリミアでの激働ですっかり健康を害してイギリスに着いた彼女は、心臓衰弱に襲われ、たえず気絶の発作と全身の衰弱に悩まされた。 |
JCRRAG_012323 | 歴史 | この雄々しい活動の人を夜鶯ナイチンゲールめ!と罵る人間もいた。
その筆頭はスクータリー病院の院長ホール博士と連隊長連であった。女と戦争と何の関係があるのか。
彼らはこの観念から抜けられなかった。
軍医、看護卒、看護婦、病院関係の諸役人と大臣たちも、ナイチンゲールを天使とは考えられない人々の群であった。
おそろしい無秩序と官僚風のしみとおったスクータリーへ、新しい敷布を一とおり行きわたらせるためにでもナイチンゲールは、厳格な方法、きっちりした規律、些細な事をゆるがせにしない厳密な注意、不断の努力、不屈の意志と断固とした決心が入用であった。彼女の平静な表情の下に燃えさかっている情熱、澄んだ静かな声の中にこもっていて一旦その声に命じられたら服従せずにいられない一種独特な権威、それらは臆病の夜鶯ナイチンゲールの持ちものであるはずはない。
おだやかな優しさや、いわゆる女らしい自己否定で、彼女はクリミアでの業績をなしとげたのではなかった。
この一行がはじめコンスタンチノープルに近づいた時、一人の看護婦が「上陸しましたらすぐ可哀相な人々の看護をはじめましょう」といったに対して、「一番丈夫な人たちは洗濯ダライにかかって貰いましょう」と答えた彼女の実際の鋭い洞察も、記憶さるべきところではないだろうか。
戦争が終わって四ヵ月後の一八五六年の夏、フロレンス・ナイチンゲールはクリミアの天使として民衆の熱狂に迎えられながらイギリスに帰って来た。ヴィクトーリア女皇が贈ったブローチを白レースの襟の上に飾ったナイチンゲールの肖像は世界の隅々にまで広がった。
世間的な名声は、クリミアでの英雄的な行為の記憶によって、世の人々の間に生きた。
が、それから後の三十年間に、ナイチンゲールがほとんど長椅子の上にねたきりで完成した事の意義こそは、更に重大であった。
ナイチンゲールにとってクリミアでの成果は彼女の経歴の有益な踏み石に過ぎず、それは世界を働かせる為の梃子台であった。
クリミアでの激働ですっかり健康を害してイギリスに着いた彼女は、心臓衰弱に襲われ、たえず気絶の発作と全身の衰弱に悩まされた。
医師は極力静養を求める。ナイチンゲールにとって、どうして今休養などをとっていられよう。今こそ好機が到来したのだ。
鉄は熱い中にこそ打つべきだ。長椅子の上であえぎながら、彼女は報告を読み、手紙を口述し、激しい動悸の合間には熱病的な冗談をとばした。
ナイチンゲールは、イギリスの陸軍病院の全組織の改善という大計画につかれているのであった。
自分の体のままにならないフロレンスは間もなく自分の周囲に献身的な人々の小さい群をもった。
もっとも重要なのは後に陸軍大臣となったシドニー・ハーバートとその夫人とであった。
きわめて柔軟で同情に富む天質をもって生まれ、従ってその時代の人間性を強調する息吹きにも感じ易かったシドニー・ハーバートは、フロレンスの指揮と指導の性質にひきよせられ、公共の目的のためには全く献身的な独特な友情を保った。
そのほか、このグループの中にはハリー・バーネー卿がおり、詩人のクラッフがおり、クリミアへも一緒に行ったメー叔母さんもいた。
そして、三十年以上彼女の最も緊密な秘書として働いたサザーランド博士がいた。当時の社会が婦人の登場を許していなかったあらゆる政治的関係、役所関係の間へ、ナイチンゲールは彼女のあらゆる条件を活用して、ハーバートを動かし、バーネー卿を活動させた。
ナイチンゲールに役立とうとして仕事をはじめたこれらの人々は、やがて真剣にその能力と忍耐との極限まで彼女のためにはかたむけつくさなければならないことを知った。寝台の上に真っ蒼になって息をきらしながら、なお仕事を捨てないフロレンスを見て、彼女が骨身を惜しんでいるといえる者は一人もいないのであった。 | ナイチンゲールに役立とうとして仕事をはじめた人々は、真剣に極限まで彼女のためにはかたむけつくさなければならないことを知ったのはなぜですか。 | 寝台の上に真っ蒼になって息をきらしながら、なお仕事を捨てないフロレンスを見て、彼女が骨身を惜しんでいるといえる者は一人もいないのであった。 |
JCRRAG_012324 | 歴史 | 「病院に関する覚書」が出て、その方面に根本的改革をもたらしたのは一八五九年のことであった。その翌年にはナイチンゲール看護婦養成所を開設した。彼女の剛毅、機智、大衆から与えられている輿論の支持を全面的に用いて、ナイチンゲールの官僚主義とのたたかいはつづけられていたが、シドニー・ハーバートが病いに倒れるとともに政治的な敗北が、役所方面での彼女の計画をほとんど旧態に戻してしまった。
苦しい時がはじまった。詩人のアーサー・クラッフがひきつづいて亡くなった。忠実であったメー叔母は、彼女の許から去った。これはメー叔母が死んだ時よりも大きい苦痛をフローレンスにもたらした。
けれども、彼女の不撓な気質は、それから後は一層広い範囲の病院、貧民収容所の状態を改善した。
彼女の傑出した論説の中には一九〇九年の窮民救助法調査会に先鞭をつけているものもあった。インドの衛生状態にも彼女の関心が向けられ、長年の間、新任印度総督はその出発前にナイチンゲールを訪ねるのが習慣であった。
このインドの衛生問題について、私たちに多くのことを教える一つのエピソードがつたえられている。
それは、インドにおける彼女の影響が最高潮にあったとき、ナイチンゲールがクリミアの経験をどこまでも固執して、炎熱の激しいインドの病院でも、病室の窓々は開放されていなければならないと強硬に主張したために大恐慌を来したという事実である。
「彼女の生涯の大成果は、病気の科学的な取扱いに非常な刺激を与えたことである。
しかし真の科学的方法への理解は彼女には縁遠いものであった。
彼女はこれまでの活動家の一人として、経験論者であった」と有名なイギリスの伝記者リットン・ストレーチーは率直にいっている。
パストゥールとリスターによって病原菌が発見され、世界人類の病と死とは飛躍的に克服されるようになったが、彼女は「病原菌狂信」を嘲笑し「伝染」というものはないとした。
しかし、新鮮な空気の利きめは彼女が自分の目で見、その手で開けた窓々からスクータリーへ導き入れたのである。新鮮な空気が必要なのに、窓を密閉していたとき、それを開放した彼女の方法は貴重であった。
けれども、気温が全くちがい、暑さの全く違うインドで、病室を開け放したらどうだろう。
全インドの医者が、インドで窓を開けたら病人の命はたちまち危なくされると大抗議をしたのは当然である。
彼女は組織者、企画者、行動する天才であった。が、近代科学者ではなかった。経験にたよってその範囲での成功に固執する彼女の主観的な態度そのものが、科学的でなかった。いってみれば、貴族らしい強情さでもある。 | なぜナイチンゲールはインドの病院で大恐慌を来してしまったのか。 | ナイチンゲールがクリミアの経験をどこまでも固執して、炎熱の激しいインドの病院でも、病室の窓々は開放されていなければならないと強硬に主張したために大恐慌を来した。 |
JCRRAG_012325 | 歴史 | 人間の病気にはいろいろの種類がありますが、そのなかで最も恐ろしいものは伝染病であって、昔の時代にはコレラやペストや天然痘などの伝染病がひどく流行し、それで数えきれないほどたくさんの人々の生命を奪ったことも、ずいぶん度々あったのでした。
そのほかにも伝染病の種類はたくさんにあるのですが、昔の人たちはそれらを恐ろしいとは思っていたものの、どうしてそういう病気が伝染するのかはまるでわからなかったのですから、ともかく神さまにお祈りするとか、いろいろのおまじないなどをして、それから免れようとするのがせいぜいであったのでした。
ところでこのような多くの伝染病は眼に見えないほどの小さなばい菌からおこるのだということは、今では一般に知られていますし、ですから消毒を行ってそのばい菌を殺してしまえば病気もなくなってしまうこともすっかりわかったのですが、それがこれほどわかったのは、つまりは微生物学という学問がすばらしく発達して来たおかげなのです。
さて、この微生物学はいつ頃から始まったのかといいますと、それはもちろんばい菌のような微生物を見ることのできる顕微鏡がだんだん発達してからのことであるのはいうまでもありません。
顕微鏡の最初のものは、虫眼鏡を利用してつくられたのですが、それは十七世紀の時代で、オランダのレーヴェンホークという学者が初めて水溜りのなかにある微生物を見つけ出したといわれています。
微生物といっても、もちろんその頃はどんなものかはっきりしなかったのですが、だんだんにその研究が進んで来て、十九世紀の半ば頃になってようやくそのなかには原虫類という動物に属するものと、細菌またはバクテリアと呼ばれる植物に属するものとあることがわかって来ました。
またこのような微生物が見つけ出されてからも、それらの微生物はどこからか自然に湧き出てくるものだという考えが一般に行われていて、これはなかなか人々の頭を去らなかったのでした。
もっとも十七世紀の時代に既にイタリヤのレーデイという動物学者は肉が腐っても蠅を近よらせなければ蛆が発生しないということを実験で示したのでしたが、微生物はまさかそうはいくまいと、多くの人々は考えていましたし、また十七世紀の始め頃には、食料品を熱して缶詰にすると、いつまでも腐敗しないことがわかり、その方法が広く行われるようになったのにも拘らず、この際に微生物の発生しないのは、微生物に必要である空気が取りのけられているからだといって、やはり自然発生を信じている人々もかなりあったのでした。
ですからそういう考えの全く誤りであることが確かにされたのは、ようやく十九世紀の半ば過ぎのことで、そこには、ここにお話ししようとするパストゥールのたくさんの輝かしい研究が成されたからであるということを知らなければならないのです。
実際に微生物学はパストゥールのおかげでどれ程進歩したかを見ますと、いかにも驚くべきほどで、昔から悪魔のように呪われた伝染病が、今では適当な方法を講じさえすれば、さほど恐ろしいものではなくなったというのも、すべてこれらの研究のおかげであることを思うならば、このような研究こそじつに我々人間にとってこの上なく尊い賜物であるといわなくてはならないでしょう。 | 顕微鏡を使って微生物を初めて見つけたのは誰ですか。 | 顕微鏡の最初のものは、虫眼鏡を利用してつくられたのですが、それは十七世紀の時代で、オランダのレーヴェンホークという学者が初めて水溜りのなかにある微生物を見つけ出したといわれています。 |
JCRRAG_012326 | 歴史 | 人間の病気にはいろいろの種類がありますが、そのなかで最も恐ろしいものは伝染病であって、昔の時代にはコレラやペストや天然痘などの伝染病がひどく流行し、それで数えきれないほどたくさんの人々の生命を奪ったことも、ずいぶん度々あったのでした。
そのほかにも伝染病の種類はたくさんにあるのですが、昔の人たちはそれらを恐ろしいとは思っていたものの、どうしてそういう病気が伝染するのかはまるでわからなかったのですから、ともかく神さまにお祈りするとか、いろいろのおまじないなどをして、それから免れようとするのがせいぜいであったのでした。
ところでこのような多くの伝染病は眼に見えないほどの小さなばい菌からおこるのだということは、今では一般に知られていますし、ですから消毒を行ってそのばい菌を殺してしまえば病気もなくなってしまうこともすっかりわかったのですが、それがこれほどわかったのは、つまりは微生物学という学問がすばらしく発達して来たおかげなのです。
さて、この微生物学はいつ頃から始まったのかといいますと、それはもちろんばい菌のような微生物を見ることのできる顕微鏡がだんだん発達してからのことであるのはいうまでもありません。
顕微鏡の最初のものは、虫眼鏡を利用してつくられたのですが、それは十七世紀の時代で、オランダのレーヴェンホークという学者が初めて水溜りのなかにある微生物を見つけ出したといわれています。
微生物といっても、もちろんその頃はどんなものかはっきりしなかったのですが、だんだんにその研究が進んで来て、十九世紀の半ば頃になってようやくそのなかには原虫類という動物に属するものと、細菌またはバクテリアと呼ばれる植物に属するものとあることがわかって来ました。
またこのような微生物が見つけ出されてからも、それらの微生物はどこからか自然に湧き出てくるものだという考えが一般に行われていて、これはなかなか人々の頭を去らなかったのでした。
もっとも十七世紀の時代に既にイタリヤのレーデイという動物学者は肉が腐っても蠅を近よらせなければ蛆が発生しないということを実験で示したのでしたが、微生物はまさかそうはいくまいと、多くの人々は考えていましたし、また十七世紀の始め頃には、食料品を熱して缶詰にすると、いつまでも腐敗しないことがわかり、その方法が広く行われるようになったのにも拘らず、この際に微生物の発生しないのは、微生物に必要である空気が取りのけられているからだといって、やはり自然発生を信じている人々もかなりあったのでした。
ですからそういう考えの全く誤りであることが確かにされたのは、ようやく十九世紀の半ば過ぎのことで、そこには、ここにお話ししようとするパストゥールのたくさんの輝かしい研究が成されたからであるということを知らなければならないのです。
実際に微生物学はパストゥールのおかげでどれ程進歩したかを見ますと、いかにも驚くべきほどで、昔から悪魔のように呪われた伝染病が、今では適当な方法を講じさえすれば、さほど恐ろしいものではなくなったというのも、すべてこれらの研究のおかげであることを思うならば、このような研究こそじつに我々人間にとってこの上なく尊い賜物であるといわなくてはならないでしょう。 | イタリヤのレーデイという動物学者が発見したのはなんですか。 | 十七世紀の時代に既にイタリヤのレーデイという動物学者は肉が腐っても蠅を近よらせなければ蛆が発生しないということを実験で示した。 |
JCRRAG_012327 | 歴史 | 一般に「海賊」と聞いて思い浮かぶのは、理不尽に船を襲い金品を奪う無法者の姿。いわゆる「パイレーツ」であろう。しかし村上海賊の海上活動の実態を正しく紐解けば、決して悪者ではなく、むしろ瀬戸内海交通の秩序を支える上で不可欠な存在であったことがわかる。
村上海賊が歴史上に姿を現したのは南北朝時代である。1349年には「野嶋」(能島村上氏)の名が見られ、東寺領の荘園であった弓削島に入る幕府の船を警固する役割を持った勢力として登場した。この頃には海上の小勢力の一つに過ぎなかったが、やがて因島村上氏が遣明船の警固を守護大名から命じられるなど、村上三家は陸の勢力との結束を固め、芸予諸島を本拠に瀬戸内海の主要な航路や港を掌握する一大勢力へと成長した。
戦国時代、村上海賊が活躍した海戦は枚挙に暇がないが、その代表的な海戦として、村上三家が連携をして織田信長方の船団に勝利をおさめた第一次木津川口合戦がある。中国地方の大名・毛利輝元は、室町幕府最後の将軍・足利義昭の命を受けて、信長と対峙する石山本願寺へ兵糧を運び込もうとする。毛利軍の主力であった村上海賊は、海の難所で培われた巧みな操船技術で敵を取り囲み、「ほうろく火矢」という火薬を用いた武器を用いて信長方を撃破し、無事に兵糧を運び入れることに成功した。この合戦で海賊の力を知った信長や羽柴秀吉は、海賊を味方につけ瀬戸内海の制海権を握るべく、懐柔作戦を展開する。村上海賊の存在は、天下人や陸の大名の動向をも左右したのである。
一方、平時には芸予諸島の海城を拠点に様々な海上活動を展開した。その一つが「海の安全保障」である。
芸予諸島に近づいたフロイス一行は、海賊に襲われる危険を回避し、航海の安全をはかるため、「署名」によって瀬戸内海を自由に通行できるよう、村上海賊に好意ある寛大な処遇を求めた。すると村上海賊は、「怪しい船に出会った時にみせるがよい」(『完訳フロイス日本史』)と言い、紋章が入った絹の旗と署名を渡した。フロイスらが手にしたこの旗が後に「過所船旗」と呼ばれる通行許可証である。村上海賊はこの旗を配布し、あるいは海賊を船に乗せて水先案内を行うことで、津々浦々に潜む他の海賊や航路の難所から船を守り、その対価として通行料を徴収した。海の難所であるからこそ、この掟は重視され、大名や商人の船はこれに従うことで航海の安全が保障されたのである。この通行料を徴収する海の関所を「札浦」と言うが、芸予諸島を基点として、全盛期には九州北部から畿内における航路の要港に「札浦」が設けられるほどに勢力を拡大した。
また海の安全保障者のほかに「商人」の顔も垣間見ることができる。能島城の目と鼻の先にある見近島は、商品である中国産の貿易陶磁器や備前焼を一時的に保管する物流の基地であった。村上海賊が物資流通に関与することにより、その本拠地である芸予諸島には国内外の高級な品々や優雅な文化がもたらされたのである。 | 通行料を徴収する海の関所を何といいますか。 | 通行料を徴収する海の関所を「札浦」と言います。 |
JCRRAG_012328 | 歴史 | 鎌倉幕府の成立
全国に及ぶ支配権
源頼朝は天皇の血筋を引き、源義朝の遺児のなかでも年長でした。
反平氏の際には、血筋ゆえに頼朝のもとに東国の武士が結集しました。
1180年、頼朝は挙兵して、相模国さがみのくに鎌倉を根拠地に勢力を強めました。
1183年(平氏の敗走後)、寿永二年十月宣旨―A
当時、争乱や飢饉で東国の荘園・公領からの税納入が停滞
朝廷は頼朝に税納入を保証させ、代わりに東国の実質的な支配を許可
1185年の平氏滅亡後、後白河上皇は頼朝を恐れ、源義経に追討を命じました。
頼朝は先んじて都に軍を送り、後白河に義経追討の命令を出させました。
加えて頼朝は、追討のために後白河から次の2つの権利を得ました。
諸国に守護を、公領・荘園に地頭を置く権利
公領・荘園から1段あたり5升の兵粮米ひょうろうまいを徴収する権利
頼朝の支配が西国にも及びました。―B
名実ともに幕府成立
源頼朝に追われた源義経は、奥州藤原氏の藤原秀衡ひでひら を頼りました。
秀衡の死後、子の藤原泰衡やすひらは頼朝を恐れて義経を自殺に追い込みました。
頼朝は義経をかくまったことを理由に、奥州藤原氏を滅ぼした。
後白河上皇の死後、1192年に頼朝は征夷大将軍に就任しました。
名実ともに鎌倉幕府が成立し(A・Bを経て機構は既に存在)、以降の鎌倉幕府の滅亡までの時代を鎌倉時代と呼びます。
幕府の支配体制
封建制度―土地を介した主従関係
将軍(頼朝)は開発領主(田地開墾に及んだ土着の軍事貴族や有力農民)と主従関係を結びました。
将軍と主従関係を結んだ者を御家人と呼びます。
御恩(将軍が御家人に与える恩恵)
本領安堵
先祖伝来の田地の支配を将軍が保障すること
新恩給与
新たな田地を将軍から与えられること(平家没官領へいけもっかんりょうなどから分与)
平家没官領
平氏に寄進された大量の荘園群で、平氏滅亡後に朝廷に没収され、全て頼朝に付与
奉公(御家人が将軍に与える恩恵)
戦時
軍役
平時
京都大番役(京の警護)・鎌倉番役(鎌倉の警護)
中央の機構(初期の幕府)
他機関と異なり、裁判を司る執権の長官は、機関の決定権(訴訟の裁決権)なし
訴訟の裁決権は将軍にあり、それゆえに他の長官と異なる名称
地方の機関
守護
諸国に1人置かれ、国の治安維持や地頭の指揮統率を担当しました。
有力御家人が任命され、基本的な権限は大犯三ヵ条と総称します
大犯三ヵ条
地頭に京都大番役の催促/謀叛人の逮捕/殺害人の逮捕
地頭
公領・荘園に置かれ、現地で直接支配をおこない、名主からの徴税を担当しました。
知行国主・荘園領主が朝廷関係者の場合(上図)
将軍が源頼朝の頃、朝廷関係者の力はまだ強く残っていました。
地頭は公領で将軍と受領の、荘園で将軍と荘園領主の2元的支配を受けました。 | 新恩給与とは何ですか。 | 新恩給与とは、新たな田地を将軍から与えられることです。 |
JCRRAG_012329 | 歴史 | 国際金融の新体制と米国の経済的覇権
1944年、アメリカのブレトン=ウッズで国際会議が開かれ、国際金融の新体制の構想が決まりました。
大戦後、会議の協定に基づいて次の諸機関・制度が成立しました。
1945年12月、国際通貨基金 (IMF)
国際的な為替の安定を 目指して設立された、国際連合 の専門機関
1945年12月、国際復興開発銀行 (世界銀行 、IBRD)
第二次 世界大戦後の復興と後進国開発を目指して設立された、国際連合の専門機関
1947年10月、関税と貿易に関する一般協定 (GATT)
関税やその他の貿易障壁を取り除き、自由 貿易を促進する目的で結ばれた協定
1995年、この協定を発展させて世界貿易機関(WTO)が発足
新体制では、金1オンス(約31.1グラム)=35ドルと定められ、ドルと各国通貨の交換比率が固定されました。
この体制はブレトン=ウッズ体制 と呼ばれ、ドル を国際通貨制度の中心である基軸通貨としました。
ブレトン=ウッズ体制
アメリカが保有する世界の7割の金を基盤とする金本位制
敗戦国の戦後処理
ドイツ
連合国の占領
1945年、ポツダム協定
ポツダム会談で決定された協定
①アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の 4国によってドイツと旧首都ベルリンの分割占領
②民主化の徹底
戦争犯罪の追及
ニュルンベルク に国際軍事裁判所が設置され、ドイツの指導者を対象に、戦争犯罪を裁く世界史上はじめての裁判が開かれました。
オーストリア
1938年にドイツに併合されたオーストリアは、米・英・仏・ソの4国によって分割占領されました 。
1955年、4国と国家条約が結ばれ、中立国として独立を回復しました。
イタリア
1947年、パリ講和条約
イタリアが海外領土を放棄
日本
アメリカ軍の占領
日本は、降伏の決定打を与えたアメリカ軍による事実上の単独占領となりました。
軍隊の解散・女性解放・農地改革・教育改革などの民主的改革が実施されました。
1946年、主権在民(国民主権)をうたった 日本国憲法が公布
戦争犯罪の追及
極東国際軍事裁判 が東京で開かれ、日本の指導者の戦争犯罪が裁かれました。
アメリカ・西欧-共産党・ソ連への警戒
フランス・イタリアでは、共産党が第二次世界大戦中に抵抗運動で活躍したことで支持を得ました。
また、東欧諸国やバルカン諸国では、第二次世界大戦中にソ連による解放がおこなわれ、親ソ政権が樹立しました。
共産党への支持、親ソ政権の樹立は、アメリカなどの資本主義国から警戒されました。
例えば、次の人物たちが共産党やソ連への警戒を表明しました。
1946年、イギリス前首相チャーチル
親ソ政権がバルト海からアドリア海まで列をなす状況を、ソ連が西側の資本主義国に対して「鉄のカーテン」を下ろしていると表現して批判
1947年、アメリカ大統領トルーマン
ギリシアとトルコへの援助をおこない 、共産主義の拡大を封じ込める政策トルーマン=ドクトリン を宣言
1947年、アメリカ国務長官マーシャル
ヨーロッパの共産主義化を防止するために、ヨーロッパの経済復興援助計画マーシャル=プラン を発表
ソ連や東欧諸国は援助受入れを拒否し 、対抗としてコミンフォルム を組織したので、東西ヨーロッパの分裂が表面化
ソ連・東欧-結束による抵抗
1947年、ソ連・東欧諸国の共産党は、マーシャル=プランに対抗して、情報交換機関であるコミンフォルム (共産党情報局)を結成しました。 | ブレトン=ウッズ体制では、金1オンスはいくらでしたか。 | ブレトン=ウッズ体制では、金1オンスは35ドルと定められ、ドルと各国通貨の交換比率が固定されました。 |
JCRRAG_012330 | 歴史 | トルコ革命
亡国の危機
第一次世界大戦において、同盟国のオスマン帝国は敗北しました。
オスマン帝国は、次の大戦中・大戦後の取り決めで崩壊寸前の状況に置かれました。
1916年5月、サイクス=ピコ協定
イギリス・フランス・ロシア間で大戦後のオスマン帝国領の分割を決めた協定
フセイン・マクマホン協定、バルフォア宣言の内容と矛盾し、今日のパレスチナ問題の原因
1920年8月、セーヴル条約
第一次世界大戦における協商国とオスマン帝国の講和条約
①イギリスが国際連盟の委任統治領としてイラク・トランスヨルダン・パレスチナ を支配
②フランスが国際連盟の委任統治領としてシリアを支配
③その他として軍備縮小、治外法権、財政干渉、海峡の開放など
内容が領土の大幅削減など大変厳しく、1924年、改定してローザンヌ条約 を締結
委任統治
植民地形成が大戦の一因のため、国際連盟からの「委任」と表現
ギリシアの侵攻と祖国解放の戦い
1919年、ギリシアがオスマン帝国の混乱に乗じて、アナトリア半島(小アジア)西部の都市イズミルを占領しました。
オスマン帝国軍人ムスタファ=ケマルは、大国民議会(アンカラ政府)を組織し、抵抗運動を指導しました。
1922年、ムスタファ=ケマルは、イズミル を奪回してギリシアを撤退させました。
トルコ共和国の樹立
ギリシアの撃退後、大国民議会は次のことを実施しました。
1922年、スルタン制 廃止
オスマン帝国の滅亡
1923年、ローザンヌ条約 締結
セーヴル条約破棄を宣言した大国民議会と協商国が締結した新たな講和条約
イズミル・イスタンブル周辺・東トラキアなどの領土と主権を回復
軍備制限や治外法権を撤廃
1923年、大国民議会はトルコ共和国 の樹立を宣言しました。
ムスタファ=ケマル がトルコ共和国の初代大統領に選出されました。
首都
ムスタファ=ケマルは、旧オスマン帝国の首都イスタンブルを避け、アンカラ を首都と定めました。
憲法
1924年、ムスタファ=ケマルは共和国憲法を発布しました。
政教分離
1924年、ムスタファ=ケマルはカリフ制を廃止して政教分離を実施しました 。
その他近代化の政策
ムスタファ=ケマルが、次の近代化政策を推進しました。
イスラーム暦にかわって太陽暦を採用
女性参政権を実現(女性の地位向上 )
アラビア文字にかわってトルコ語のローマ字 表記を採用
イスラーム諸国の動向
エジプト
イギリスの保護国であったエジプト で、第一次世界大戦後にワフド党 が独立運動を始めました。
1922年、イギリスが保護権を放棄し、エジプト の独立を認めました。
しかし、イギリスがスエズ運河の支配権などの特権を手放さず、エジプト王国の独立は形式的なものでした。
1936年、エジプト=イギリス同盟条約
イギリスがエジプト王国の主権を認めた条約
条約締結後もイギリスはスエズ運河地帯に駐留を継続
アフガニスタン
1919年(第一次世界大戦後 )、第3次アフガン戦争
イギリスの保護国であったアフガニスタンが、イギリスからの独立を果たした戦争
イラン
第一次世界大戦後、カージャール朝ペルシアでは、レザー=ハーンがクーデタによって実権を握りました。
1925年、レザー=ハーン はカージャール朝を廃し、パフレヴィー朝 を開きました。
1935年、パフレヴィー朝は他称であった国名「ペルシア」を「イラン」に改めました。
パフレヴィー朝イランは近代化に努めましたが、イギリス資本が石油資源を支配し続けました 。
サウジアラビア王国
1932年、イブン=サウード はアラビア半島のほぼ統一を果たし、サウジアラビア王国 を建国しました。
イラク・ヨルダン・レバノン・シリア
イギリス・フランスの委任統治になっていた次の国々が独立しました。
1932年、イラク がイギリス の委任統治から独立
1946年、ヨルダンがイギリス の委任統治のトランスヨルダンから独立
1943年、レバノンがフランス の委任統治から独立
1946年、シリアがフランス の委任統治から独立 | 1922年にイズミル を奪回してギリシアを撤退させたのは誰ですか。 | 1922年イズミル を奪回してギリシアを撤退させたのは、ムスタファ=ケマルです。 |
JCRRAG_012331 | 歴史 | トルコ革命
亡国の危機
第一次世界大戦において、同盟国のオスマン帝国は敗北しました。
オスマン帝国は、次の大戦中・大戦後の取り決めで崩壊寸前の状況に置かれました。
1916年5月、サイクス=ピコ協定
イギリス・フランス・ロシア間で大戦後のオスマン帝国領の分割を決めた協定
フセイン・マクマホン協定、バルフォア宣言の内容と矛盾し、今日のパレスチナ問題の原因
1920年8月、セーヴル条約
第一次世界大戦における協商国とオスマン帝国の講和条約
①イギリスが国際連盟の委任統治領としてイラク・トランスヨルダン・パレスチナ を支配
②フランスが国際連盟の委任統治領としてシリアを支配
③その他として軍備縮小、治外法権、財政干渉、海峡の開放など
内容が領土の大幅削減など大変厳しく、1924年、改定してローザンヌ条約 を締結
委任統治
植民地形成が大戦の一因のため、国際連盟からの「委任」と表現
ギリシアの侵攻と祖国解放の戦い
1919年、ギリシアがオスマン帝国の混乱に乗じて、アナトリア半島(小アジア)西部の都市イズミルを占領しました。
オスマン帝国軍人ムスタファ=ケマルは、大国民議会(アンカラ政府)を組織し、抵抗運動を指導しました。
1922年、ムスタファ=ケマルは、イズミル を奪回してギリシアを撤退させました。
トルコ共和国の樹立
ギリシアの撃退後、大国民議会は次のことを実施しました。
1922年、スルタン制 廃止
オスマン帝国の滅亡
1923年、ローザンヌ条約 締結
セーヴル条約破棄を宣言した大国民議会と協商国が締結した新たな講和条約
イズミル・イスタンブル周辺・東トラキアなどの領土と主権を回復
軍備制限や治外法権を撤廃
1923年、大国民議会はトルコ共和国 の樹立を宣言しました。
ムスタファ=ケマル がトルコ共和国の初代大統領に選出されました。
首都
ムスタファ=ケマルは、旧オスマン帝国の首都イスタンブルを避け、アンカラ を首都と定めました。
憲法
1924年、ムスタファ=ケマルは共和国憲法を発布しました。
政教分離
1924年、ムスタファ=ケマルはカリフ制を廃止して政教分離を実施しました 。
その他近代化の政策
ムスタファ=ケマルが、次の近代化政策を推進しました。
イスラーム暦にかわって太陽暦を採用
女性参政権を実現(女性の地位向上 )
アラビア文字にかわってトルコ語のローマ字 表記を採用
イスラーム諸国の動向
エジプト
イギリスの保護国であったエジプト で、第一次世界大戦後にワフド党 が独立運動を始めました。
1922年、イギリスが保護権を放棄し、エジプト の独立を認めました。
しかし、イギリスがスエズ運河の支配権などの特権を手放さず、エジプト王国の独立は形式的なものでした。
1936年、エジプト=イギリス同盟条約
イギリスがエジプト王国の主権を認めた条約
条約締結後もイギリスはスエズ運河地帯に駐留を継続
アフガニスタン
1919年(第一次世界大戦後 )、第3次アフガン戦争
イギリスの保護国であったアフガニスタンが、イギリスからの独立を果たした戦争
イラン
第一次世界大戦後、カージャール朝ペルシアでは、レザー=ハーンがクーデタによって実権を握りました。
1925年、レザー=ハーン はカージャール朝を廃し、パフレヴィー朝 を開きました。
1935年、パフレヴィー朝は他称であった国名「ペルシア」を「イラン」に改めました。
パフレヴィー朝イランは近代化に努めましたが、イギリス資本が石油資源を支配し続けました 。
サウジアラビア王国
1932年、イブン=サウード はアラビア半島のほぼ統一を果たし、サウジアラビア王国 を建国しました。
イラク・ヨルダン・レバノン・シリア
イギリス・フランスの委任統治になっていた次の国々が独立しました。
1932年、イラク がイギリス の委任統治から独立
1946年、ヨルダンがイギリス の委任統治のトランスヨルダンから独立
1943年、レバノンがフランス の委任統治から独立
1946年、シリアがフランス の委任統治から独立 | セーヴル条約の内容が厳しかったため改定された条約は何ですか、また何年に締結されましたか。 | セーヴル条約の内容が厳しかったため改定された条約は、1924年に締結されたローザンヌ条約です。 |
JCRRAG_012332 | 歴史 | トルコ革命
亡国の危機
第一次世界大戦において、同盟国のオスマン帝国は敗北しました。
オスマン帝国は、次の大戦中・大戦後の取り決めで崩壊寸前の状況に置かれました。
1916年5月、サイクス=ピコ協定
イギリス・フランス・ロシア間で大戦後のオスマン帝国領の分割を決めた協定
フセイン・マクマホン協定、バルフォア宣言の内容と矛盾し、今日のパレスチナ問題の原因
1920年8月、セーヴル条約
第一次世界大戦における協商国とオスマン帝国の講和条約
①イギリスが国際連盟の委任統治領としてイラク・トランスヨルダン・パレスチナ を支配
②フランスが国際連盟の委任統治領としてシリアを支配
③その他として軍備縮小、治外法権、財政干渉、海峡の開放など
内容が領土の大幅削減など大変厳しく、1924年、改定してローザンヌ条約 を締結
委任統治
植民地形成が大戦の一因のため、国際連盟からの「委任」と表現
ギリシアの侵攻と祖国解放の戦い
1919年、ギリシアがオスマン帝国の混乱に乗じて、アナトリア半島(小アジア)西部の都市イズミルを占領しました。
オスマン帝国軍人ムスタファ=ケマルは、大国民議会(アンカラ政府)を組織し、抵抗運動を指導しました。
1922年、ムスタファ=ケマルは、イズミル を奪回してギリシアを撤退させました。
トルコ共和国の樹立
ギリシアの撃退後、大国民議会は次のことを実施しました。
1922年、スルタン制 廃止
オスマン帝国の滅亡
1923年、ローザンヌ条約 締結
セーヴル条約破棄を宣言した大国民議会と協商国が締結した新たな講和条約
イズミル・イスタンブル周辺・東トラキアなどの領土と主権を回復
軍備制限や治外法権を撤廃
1923年、大国民議会はトルコ共和国 の樹立を宣言しました。
ムスタファ=ケマル がトルコ共和国の初代大統領に選出されました。
首都
ムスタファ=ケマルは、旧オスマン帝国の首都イスタンブルを避け、アンカラ を首都と定めました。
憲法
1924年、ムスタファ=ケマルは共和国憲法を発布しました。
政教分離
1924年、ムスタファ=ケマルはカリフ制を廃止して政教分離を実施しました 。
その他近代化の政策
ムスタファ=ケマルが、次の近代化政策を推進しました。
イスラーム暦にかわって太陽暦を採用
女性参政権を実現(女性の地位向上 )
アラビア文字にかわってトルコ語のローマ字 表記を採用
イスラーム諸国の動向
エジプト
イギリスの保護国であったエジプト で、第一次世界大戦後にワフド党 が独立運動を始めました。
1922年、イギリスが保護権を放棄し、エジプト の独立を認めました。
しかし、イギリスがスエズ運河の支配権などの特権を手放さず、エジプト王国の独立は形式的なものでした。
1936年、エジプト=イギリス同盟条約
イギリスがエジプト王国の主権を認めた条約
条約締結後もイギリスはスエズ運河地帯に駐留を継続
アフガニスタン
1919年(第一次世界大戦後 )、第3次アフガン戦争
イギリスの保護国であったアフガニスタンが、イギリスからの独立を果たした戦争
イラン
第一次世界大戦後、カージャール朝ペルシアでは、レザー=ハーンがクーデタによって実権を握りました。
1925年、レザー=ハーン はカージャール朝を廃し、パフレヴィー朝 を開きました。
1935年、パフレヴィー朝は他称であった国名「ペルシア」を「イラン」に改めました。
パフレヴィー朝イランは近代化に努めましたが、イギリス資本が石油資源を支配し続けました 。
サウジアラビア王国
1932年、イブン=サウード はアラビア半島のほぼ統一を果たし、サウジアラビア王国 を建国しました。
イラク・ヨルダン・レバノン・シリア
イギリス・フランスの委任統治になっていた次の国々が独立しました。
1932年、イラク がイギリス の委任統治から独立
1946年、ヨルダンがイギリス の委任統治のトランスヨルダンから独立
1943年、レバノンがフランス の委任統治から独立
1946年、シリアがフランス の委任統治から独立 | 1916年に、イギリス・フランス・ロシア間で大戦後のオスマン帝国領の分割を決めた協定を何と言いますか。 | 1916年に、イギリス・フランス・ロシア間で大戦後のオスマン帝国領の分割を決めた協定を、サイクス=ピコ協定と言います。 |
JCRRAG_012333 | 歴史 | 林内閣は特に何もしないまま短い期間で終了し、元貴族院議長であった近衛文麿が次の総理大臣に就任しました。この第一次近衛内閣の時代に、1937年7月、北京郊外の蘆溝橋で日本と中国の軍隊が衝突するという盧溝橋事件が起こり、それがきっかけで日中戦争が勃発しました。この事件は、日本軍のほうが仕掛けたものです。
前に述べたように、1935年に満州と中国との国境沿いに非武装地帯・冀東地区に防共自治政府を設置していて、これは共産党を阻止するための非武装地帯のことですが、だんだん日本軍は、この非武装地帯を侵略していこうと思うようになりました。
それを一番先に察したのが張学良で、1936年に蒋介石が共産党討伐に西安に訪れていたところを、張がとらえて監禁し、八項目の要求を突きつけてこう言います(西安事件)。「あなたは非武装地帯をつくったから安心しているかもしれないが、日本はその非武装地帯の破壊を目論んでいるようだ」
この説得に応じた蒋介石は、「いまは共産党と争っている場合ではない。一緒に日本軍の南下を防ぐべきだ」と思い、国民政府と共産党が手を組むことで、第二次国共合作がはじまりました。
ところで、日本はどうして日中戦争に入っていったのでしょう。日本が戦争をはじめた大義名分は「防共」で、要するにコミンテルン(国際共産党)対策です。国家の成立を認めないというのが共産主義の基本なので、つまり国家を破壊することが共産党の最終目的となります。
別の言い方をすると、日本や西洋の国々にとって、共産主義に対しての共通の認識は、「国家を破壊するテロリスト集団」というものでした。別にソ連を崩壊させようというわけではなく、共産主義を世界からなくしていかないと国家テロが起こり、世界の平和が侵されるという意味です。
そういったなか、共産党と国民政府が西安事件をきっかけにして接近しはじめたわけです。なので、「中国政府がテロリストと結託しようとしている。なんとか止めないと大変なことになる」という認識が、日本が日中戦争をおこなう大きなきっかけとなったわけです。もし中国政府が共産党と手を組んで日本を攻めてきたら、大変な脅威になりますからね。 | 林内閣は特に何もしないまま短い期間で終了し、その後誰が次の総理大臣に就任しましたか。 | 林内閣は特に何もしないまま短い期間で終了し、元貴族院議長であった近衛文麿が次の総理大臣に就任しました。 |
JCRRAG_012334 | 歴史 | 林内閣は特に何もしないまま短い期間で終了し、元貴族院議長であった近衛文麿が次の総理大臣に就任しました。この第一次近衛内閣の時代に、1937年7月、北京郊外の蘆溝橋で日本と中国の軍隊が衝突するという盧溝橋事件が起こり、それがきっかけで日中戦争が勃発しました。この事件は、日本軍のほうが仕掛けたものです。
前に述べたように、1935年に満州と中国との国境沿いに非武装地帯・冀東地区に防共自治政府を設置していて、これは共産党を阻止するための非武装地帯のことですが、だんだん日本軍は、この非武装地帯を侵略していこうと思うようになりました。
それを一番先に察したのが張学良で、1936年に蒋介石が共産党討伐に西安に訪れていたところを、張がとらえて監禁し、八項目の要求を突きつけてこう言います(西安事件)。「あなたは非武装地帯をつくったから安心しているかもしれないが、日本はその非武装地帯の破壊を目論んでいるようだ」
この説得に応じた蒋介石は、「いまは共産党と争っている場合ではない。一緒に日本軍の南下を防ぐべきだ」と思い、国民政府と共産党が手を組むことで、第二次国共合作がはじまりました。
ところで、日本はどうして日中戦争に入っていったのでしょう。日本が戦争をはじめた大義名分は「防共」で、要するにコミンテルン(国際共産党)対策です。国家の成立を認めないというのが共産主義の基本なので、つまり国家を破壊することが共産党の最終目的となります。
別の言い方をすると、日本や西洋の国々にとって、共産主義に対しての共通の認識は、「国家を破壊するテロリスト集団」というものでした。別にソ連を崩壊させようというわけではなく、共産主義を世界からなくしていかないと国家テロが起こり、世界の平和が侵されるという意味です。
そういったなか、共産党と国民政府が西安事件をきっかけにして接近しはじめたわけです。なので、「中国政府がテロリストと結託しようとしている。なんとか止めないと大変なことになる」という認識が、日本が日中戦争をおこなう大きなきっかけとなったわけです。もし中国政府が共産党と手を組んで日本を攻めてきたら、大変な脅威になりますからね。 | 第一次近衛内閣の時代に、1937年7月、北京郊外の蘆溝橋で日本と中国の軍隊が衝突するという盧溝橋事件が起こり、それがきっかけで何が勃発しましたか。 | 第一次近衛内閣の時代に、1937年7月、北京郊外の蘆溝橋で日本と中国の軍隊が衝突するという盧溝橋事件が起こり、それがきっかけで日中戦争が勃発しました。 |
JCRRAG_012335 | 歴史 | 護憲三派による第一次加藤高明内閣は、その後、憲政会と立憲政友会の仲が悪くなってしまい、崩壊してしまいました。そこで、憲政会独自の単独内閣として第二次加藤内閣がつくられましたが、加藤が1926年1月に死去したため、若槻礼次郎が後を引き継ぎました。そしてこの年に大正天皇が亡くなり、時代は激動の昭和へと突入していきます。
しかし、関東大震災が起こってから4年経ったにもかかわらず、若槻内閣は戦後恐慌を引きずっていました。かなり深刻な経済問題は引き続き起きていて、特に震災手形(関東大震災のために現金化できなくなった手形)の処理に困っていました。
そこで1927年3月、それを何とかするための法案を議会に提出し、審議している最中に、衆議院予算委員会で片岡直温大蔵大臣がひどい失言をしてしまいます。震災手形割引損失補償で崖っぷちに追い込まれている銀行を早くなんとかしなければいけない、という趣旨ではあったのですが、その一例として「本日、東京渡辺銀行が破綻したが、まことに遺憾であります」と発言してしまったのです。
東京渡辺銀行は、一時期確かに支払いを中止せざるを得ない状況にはなっていたのですが、破綻はしていませんでした。午後からまた業務を再開していたのに、まるで倒産してしまったかのように言ってしまったので、どんどん取り付け騒ぎが起こり、その結果本当に倒産してしまったのです。
それだけではなく、取り付け騒ぎがほかの銀行にまで影響を及ぼし、中小の銀行がどんどんつぶれるというひどい事態を引き起こしました。これを、昭和初期に起こった金融恐慌とよびます。 | 護憲三派による第一次加藤高明内閣は、その後、憲政会と立憲政友会の仲が悪くなってしまい、どうなりましたか。 | 護憲三派による第一次加藤高明内閣は、その後、憲政会と立憲政友会の仲が悪くなってしまい、崩壊してしまいました。 |
JCRRAG_012336 | 歴史 | 全国に広まった金融恐慌は、特殊銀行(特定の政策目的のために設立された銀行)である台湾銀行まで巻き込み、休業せざるを得なくなりました。第一次世界大戦で大もうけをした成金の一つに、台湾で砂糖やバナナなどを取り扱っていた鈴木商店という商社がありました。台湾銀行は、そこに莫大なお金(いまのお金に換算すると何十兆円に相当する)を融資していました。
その鈴木商店が金融恐慌のおかげで倒産してしまい、台湾銀行は大打撃を受けて、休業に追い込まれます。休業は倒産ではなく、窓口を開けていると破綻する可能性があるということで、営業時間内に窓口を閉めてしまうことを休業といいます。
これに対して、台湾銀行救済緊急勅令案を若槻内閣が出しました。緊急勅令とはなにかというと、国会の議会を飛ばして、緊急に出される天皇命令のことをいいます。具体的な内容としては、日本銀行の特別貸し出しによって台湾銀行を救おうとしたのですが、この案に枢密院が反対して、廃案にされてしまいます。
枢密院とは、もともと憲法の草案の審議をするための機関で、天皇の諮問機関でした。明治憲法がつくられたあとは、天皇の顧問役として存在していました。その枢密院が台湾銀行救済緊急勅令案に反対したため、若槻内閣は恐慌を抑えることができなくなってしまい、総辞職に追い込まれます。
憲政会の若槻の次に登場するのは、立憲政友会の田中義一内閣です。田中内閣は大蔵大臣に高橋是清を置いて恐慌対策に取り組み、緊急勅令として、モラトリアム(支払猶予令)をおこないました。
銀行の破綻の原因となった取り付け騒ぎを起こさないために、預金者がお金をおろせないようにしました。ずっというわけにはいかないので、このときは三週間という期限を設けました。そして、その三週間が経過するまえに、各銀行に日本銀行から特別融資(非常貸し出し)をおこない、経営を改善させました。
しかし、銀行に融資したとしても、再開したときにまた経営状態が悪くなってつぶれてしまっては意味がないので、ここで銀行法の改正に乗り出します。これは、資本金規定などを見直して、中小銀行を設立できなくするという法律です。中小の銀行は倒産しやすいので、大銀行と合併しないかぎり、銀行業務を続けてはいけないとしました。
その結果、日本の銀行は、三井、三菱、住友、安田、第一の五大銀行にまとまっていきました。これにより、このあとのファシズムにいたるまでに、金融資本の独占が財閥によって起きてきます。とりあえず、高橋蔵相のおこなった政策によって、金融恐慌はなんとか終わりを迎えました。 | 全国に広まった金融恐慌は、特殊銀行(特定の政策目的のために設立された銀行)である台湾銀行まで巻き込み、どのような結果になりましたか。 | 全国に広まった金融恐慌は、特殊銀行(特定の政策目的のために設立された銀行)である台湾銀行まで巻き込み、休業せざるを得なくなりました。 |
JCRRAG_012337 | 歴史 | 全国に広まった金融恐慌は、特殊銀行(特定の政策目的のために設立された銀行)である台湾銀行まで巻き込み、休業せざるを得なくなりました。第一次世界大戦で大もうけをした成金の一つに、台湾で砂糖やバナナなどを取り扱っていた鈴木商店という商社がありました。台湾銀行は、そこに莫大なお金(いまのお金に換算すると何十兆円に相当する)を融資していました。
その鈴木商店が金融恐慌のおかげで倒産してしまい、台湾銀行は大打撃を受けて、休業に追い込まれます。休業は倒産ではなく、窓口を開けていると破綻する可能性があるということで、営業時間内に窓口を閉めてしまうことを休業といいます。
これに対して、台湾銀行救済緊急勅令案を若槻内閣が出しました。緊急勅令とはなにかというと、国会の議会を飛ばして、緊急に出される天皇命令のことをいいます。具体的な内容としては、日本銀行の特別貸し出しによって台湾銀行を救おうとしたのですが、この案に枢密院が反対して、廃案にされてしまいます。
枢密院とは、もともと憲法の草案の審議をするための機関で、天皇の諮問機関でした。明治憲法がつくられたあとは、天皇の顧問役として存在していました。その枢密院が台湾銀行救済緊急勅令案に反対したため、若槻内閣は恐慌を抑えることができなくなってしまい、総辞職に追い込まれます。
憲政会の若槻の次に登場するのは、立憲政友会の田中義一内閣です。田中内閣は大蔵大臣に高橋是清を置いて恐慌対策に取り組み、緊急勅令として、モラトリアム(支払猶予令)をおこないました。
銀行の破綻の原因となった取り付け騒ぎを起こさないために、預金者がお金をおろせないようにしました。ずっというわけにはいかないので、このときは三週間という期限を設けました。そして、その三週間が経過するまえに、各銀行に日本銀行から特別融資(非常貸し出し)をおこない、経営を改善させました。
しかし、銀行に融資したとしても、再開したときにまた経営状態が悪くなってつぶれてしまっては意味がないので、ここで銀行法の改正に乗り出します。これは、資本金規定などを見直して、中小銀行を設立できなくするという法律です。中小の銀行は倒産しやすいので、大銀行と合併しないかぎり、銀行業務を続けてはいけないとしました。
その結果、日本の銀行は、三井、三菱、住友、安田、第一の五大銀行にまとまっていきました。これにより、このあとのファシズムにいたるまでに、金融資本の独占が財閥によって起きてきます。とりあえず、高橋蔵相のおこなった政策によって、金融恐慌はなんとか終わりを迎えました。 | 第一次世界大戦で大もうけをした成金の一つに、どのような商社がありましたか。 | 第一次世界大戦で大もうけをした成金の一つに、台湾で砂糖やバナナなどを取り扱っていた鈴木商店という商社がありました。 |
JCRRAG_012338 | 歴史 | もともと陸軍の出身であった田中義一首相は、このときは立憲政友会の総裁でした。若槻内閣で外務大臣に就任していたのは幣原喜重郎ですが、ワシントン体制を受け入れたことからもわかるように、協調外交路線をとって政務にのぞんでいました。しかし、枢密院はそれに不満を抱いていて、緊急勅令がたびたび廃案になったりもしました。
そこで、外相も兼務していた田中義一は、中国に対して高圧的な政策を推し進めます。この頃の中国は、反日派である蒋介石をトップにした国民政府(南京)が支持されていて、全土統一を目指していましたが、いろいろな土地に軍閥といわれる人たちが割拠していて、まるで戦国時代のような状況でした。
日本が目をつけていた満州(中国北東部)は、親日派の軍閥・張作霖が権勢をふるっていました。その頃の旅順・大連の租借権は日本にあり、さらに長春より南側の南満州鉄道(満鉄)の権益も日本にありました。なので、張作霖としても、日本に敵対するよりは、手を組んでお互いの権益を広げていったほうが有意義だと考えていました。
一方、反日派の蒋介石は、親日派の張作霖が支配していた華北や満州に、国民革命軍を送り込みました。これを北伐といい、日本にとってはとても邪魔な動きでした。そこで田中首相は、軍人や外交官を集めて、東方会議を開いて対中国政策を検討しました。そして、中国にある日本の権益は武力を使ってでも守るという結論に至り、蒋介石の北伐を食い止めるために、1927年から山東出兵をおこないました。 | もともと陸軍の出身であった田中義一首相は、このときはどこの総裁でしたか。 | もともと陸軍の出身であった田中義一首相は、このときは立憲政友会の総裁でした。 |
JCRRAG_012339 | 歴史 | もともと陸軍の出身であった田中義一首相は、このときは立憲政友会の総裁でした。若槻内閣で外務大臣に就任していたのは幣原喜重郎ですが、ワシントン体制を受け入れたことからもわかるように、協調外交路線をとって政務にのぞんでいました。しかし、枢密院はそれに不満を抱いていて、緊急勅令がたびたび廃案になったりもしました。
そこで、外相も兼務していた田中義一は、中国に対して高圧的な政策を推し進めます。この頃の中国は、反日派である蒋介石をトップにした国民政府(南京)が支持されていて、全土統一を目指していましたが、いろいろな土地に軍閥といわれる人たちが割拠していて、まるで戦国時代のような状況でした。
日本が目をつけていた満州(中国北東部)は、親日派の軍閥・張作霖が権勢をふるっていました。その頃の旅順・大連の租借権は日本にあり、さらに長春より南側の南満州鉄道(満鉄)の権益も日本にありました。なので、張作霖としても、日本に敵対するよりは、手を組んでお互いの権益を広げていったほうが有意義だと考えていました。
一方、反日派の蒋介石は、親日派の張作霖が支配していた華北や満州に、国民革命軍を送り込みました。これを北伐といい、日本にとってはとても邪魔な動きでした。そこで田中首相は、軍人や外交官を集めて、東方会議を開いて対中国政策を検討しました。そして、中国にある日本の権益は武力を使ってでも守るという結論に至り、蒋介石の北伐を食い止めるために、1927年から山東出兵をおこないました。 | 日本が目をつけていた満州(中国北東部)は、誰が権勢をふるっていましたか。 | 日本が目をつけていた満州(中国北東部)は、親日派の軍閥・張作霖が権勢をふるっていました。 |
JCRRAG_012340 | 歴史 | 南京の蒋介石以外にも、北京や上海の勢力も北伐軍に加わってきたため、張作霖はだんだん押されてきます。関東軍(関東州〔旅順・大連〕と満州に留まっていた日本陸軍の部隊)の参謀であった河本大作は、このまま放っておくと張作霖が蒋介石の方に寝返ってしまうのではないかと考えを巡らせはじめます。
そんなことになるようなら、むしろ張作霖を守るより抹殺してしまい、自分たちの力で直接満州を支配したほうがいいのではないかと思いはじめたのです。そこで、張作霖が乗っていた列車を、奉天で爆破して張作霖もろとも殺してしまうという事件を起こしました。これが、1928年6月に起こった張作霖爆殺事件です。
しかし、張作霖一人を殺すのは簡単にできても、満州全体を支配するのは決して簡単なことではありません。結局、満州支配は失敗に終わってしまいます。それだけでなく、張作霖の息子の張学良が、日本を信じていた父親が殺されてしまったということで親日派をやめ、蒋介石側につきます。それもあって、蒋介石の国民政府による中国全土の統一が達成されてしまいました。
ちなみに、満州支配のために張作霖を殺したのは、関東軍が勝手に判断して実行したことでした。それが最悪の事態を招いてしまったため、とてもまともに報告できないということで、「満州某重大事件」という言い方で伝えられました。
しかも、この事件の処理のこともあり、田中義一は昭和天皇からの信用を失ってしまい、1929年7月に総理大臣を辞めるはめになりました。 | 張作霖がだんだん押されているのはなぜですか。 | 張作霖がだんだん押されているのは、南京の蒋介石以外にも、北京や上海の勢力も北伐軍に加わってきたためです。 |
JCRRAG_012341 | 歴史 | 南京の蒋介石以外にも、北京や上海の勢力も北伐軍に加わってきたため、張作霖はだんだん押されてきます。関東軍(関東州〔旅順・大連〕と満州に留まっていた日本陸軍の部隊)の参謀であった河本大作は、このまま放っておくと張作霖が蒋介石の方に寝返ってしまうのではないかと考えを巡らせはじめます。
そんなことになるようなら、むしろ張作霖を守るより抹殺してしまい、自分たちの力で直接満州を支配したほうがいいのではないかと思いはじめたのです。そこで、張作霖が乗っていた列車を、奉天で爆破して張作霖もろとも殺してしまうという事件を起こしました。これが、1928年6月に起こった張作霖爆殺事件です。
しかし、張作霖一人を殺すのは簡単にできても、満州全体を支配するのは決して簡単なことではありません。結局、満州支配は失敗に終わってしまいます。それだけでなく、張作霖の息子の張学良が、日本を信じていた父親が殺されてしまったということで親日派をやめ、蒋介石側につきます。それもあって、蒋介石の国民政府による中国全土の統一が達成されてしまいました。
ちなみに、満州支配のために張作霖を殺したのは、関東軍が勝手に判断して実行したことでした。それが最悪の事態を招いてしまったため、とてもまともに報告できないということで、「満州某重大事件」という言い方で伝えられました。
しかも、この事件の処理のこともあり、田中義一は昭和天皇からの信用を失ってしまい、1929年7月に総理大臣を辞めるはめになりました。 | 関東軍(関東州〔旅順・大連〕と満州に留まっていた日本陸軍の部隊)の参謀であった河本大作は、どのような考えを巡らせはじめましたか。 | 関東軍(関東州〔旅順・大連〕と満州に留まっていた日本陸軍の部隊)の参謀であった河本大作は、このまま放っておくと張作霖が蒋介石の方に寝返ってしまうのではないかと考えを巡らせはじめました。 |
JCRRAG_012342 | 歴史 | 南京の蒋介石以外にも、北京や上海の勢力も北伐軍に加わってきたため、張作霖はだんだん押されてきます。関東軍(関東州〔旅順・大連〕と満州に留まっていた日本陸軍の部隊)の参謀であった河本大作は、このまま放っておくと張作霖が蒋介石の方に寝返ってしまうのではないかと考えを巡らせはじめます。
そんなことになるようなら、むしろ張作霖を守るより抹殺してしまい、自分たちの力で直接満州を支配したほうがいいのではないかと思いはじめたのです。そこで、張作霖が乗っていた列車を、奉天で爆破して張作霖もろとも殺してしまうという事件を起こしました。これが、1928年6月に起こった張作霖爆殺事件です。
しかし、張作霖一人を殺すのは簡単にできても、満州全体を支配するのは決して簡単なことではありません。結局、満州支配は失敗に終わってしまいます。それだけでなく、張作霖の息子の張学良が、日本を信じていた父親が殺されてしまったということで親日派をやめ、蒋介石側につきます。それもあって、蒋介石の国民政府による中国全土の統一が達成されてしまいました。
ちなみに、満州支配のために張作霖を殺したのは、関東軍が勝手に判断して実行したことでした。それが最悪の事態を招いてしまったため、とてもまともに報告できないということで、「満州某重大事件」という言い方で伝えられました。
しかも、この事件の処理のこともあり、田中義一は昭和天皇からの信用を失ってしまい、1929年7月に総理大臣を辞めるはめになりました。 | 張作霖の息子の張学良は、日本を信じていた父親が殺されてしまったということでどのような行動をとりましたか。 | 張作霖の息子の張学良は、日本を信じていた父親が殺されてしまったということで親日派をやめ、蒋介石側につきました。 |
JCRRAG_012343 | 歴史 | 南京の蒋介石以外にも、北京や上海の勢力も北伐軍に加わってきたため、張作霖はだんだん押されてきます。関東軍(関東州〔旅順・大連〕と満州に留まっていた日本陸軍の部隊)の参謀であった河本大作は、このまま放っておくと張作霖が蒋介石の方に寝返ってしまうのではないかと考えを巡らせはじめます。
そんなことになるようなら、むしろ張作霖を守るより抹殺してしまい、自分たちの力で直接満州を支配したほうがいいのではないかと思いはじめたのです。そこで、張作霖が乗っていた列車を、奉天で爆破して張作霖もろとも殺してしまうという事件を起こしました。これが、1928年6月に起こった張作霖爆殺事件です。
しかし、張作霖一人を殺すのは簡単にできても、満州全体を支配するのは決して簡単なことではありません。結局、満州支配は失敗に終わってしまいます。それだけでなく、張作霖の息子の張学良が、日本を信じていた父親が殺されてしまったということで親日派をやめ、蒋介石側につきます。それもあって、蒋介石の国民政府による中国全土の統一が達成されてしまいました。
ちなみに、満州支配のために張作霖を殺したのは、関東軍が勝手に判断して実行したことでした。それが最悪の事態を招いてしまったため、とてもまともに報告できないということで、「満州某重大事件」という言い方で伝えられました。
しかも、この事件の処理のこともあり、田中義一は昭和天皇からの信用を失ってしまい、1929年7月に総理大臣を辞めるはめになりました。 | 満州支配のために張作霖を殺したのは、誰が判断したことでしたか。 | 満州支配のために張作霖を殺したのは、関東軍が勝手に判断して実行したことでした。 |
JCRRAG_012344 | 歴史 | 田中義一が辞任したあとは、政権与党が交代するかたちとなり、憲政党と政友本党が一緒になってできた立憲民政党から、浜口雄幸内閣が誕生しました。大蔵省出身の浜口は、加藤高明内閣で大蔵大臣をしたこともある経済畑の人間でした。
1920年代というのは恐慌の多い時代で、20年に戦後恐慌、23年に震災恐慌、27年に金融恐慌と、ほぼ3年おきに恐慌が起きていました。高橋是清がおこなった財政政策によってなんとか金融恐慌は脱しましたが、それでも景気が悪いことには変わりがありませんでした。
そこで浜口内閣は、日本銀行総裁だった井上準之助を大蔵大臣に就かせて、景気回復に力を尽くしました。具体的な政策は三つあって、緊縮財政、産業合理化、金解禁を推し進めました。緊縮財政をおこなうと余計に景気が悪くなる可能性がありますが、政府の無駄遣いを無くして財政を健全にするという意味では、仕方ない部分もありました。
景気のほうは別の政策でよくしていこうということで、その中でもっとも注目すべきは、1930年の金解禁、要するに金本位制に戻したということです。1897年、日本は日清戦争が起きたあとに、中国からの賠償金で金本位制に変わりました。
しかし、その20年後の1917年に、金輸出禁止によって金本位制ではなくなっています。第一次世界大戦によって経済が混乱し、ヨーロッパ諸国がみな金本位制をやめたので、日本もそれに従うかたちでした。
ヨーロッパの国々は、第一次世界大戦後、それぞれのタイミングで金本位制に戻していきましたが、日本は戦後恐慌などの影響で景気が良くならず、金本位制に戻したくても戻せなかったのです。それを、浜口内閣は金本位制に戻そうとしたわけです。
なぜかというと、そのほうが為替相場が安定するからで、第一次世界大戦が起こったおかげで飛躍的に伸びた日本の工業力を生かして、どんどん製品を海外に輸出していきたいと思ったのです。そのためには為替相場の安定が必要でした。 | 田中義一が辞任したあとは、誰の内閣が誕生しましたか。 | 田中義一が辞任したあとは、政権与党が交代するかたちとなり、憲政党と政友本党が一緒になってできた立憲民政党から、浜口雄幸内閣が誕生しました。 |
JCRRAG_012345 | 歴史 | 田中義一が辞任したあとは、政権与党が交代するかたちとなり、憲政党と政友本党が一緒になってできた立憲民政党から、浜口雄幸内閣が誕生しました。大蔵省出身の浜口は、加藤高明内閣で大蔵大臣をしたこともある経済畑の人間でした。
1920年代というのは恐慌の多い時代で、20年に戦後恐慌、23年に震災恐慌、27年に金融恐慌と、ほぼ3年おきに恐慌が起きていました。高橋是清がおこなった財政政策によってなんとか金融恐慌は脱しましたが、それでも景気が悪いことには変わりがありませんでした。
そこで浜口内閣は、日本銀行総裁だった井上準之助を大蔵大臣に就かせて、景気回復に力を尽くしました。具体的な政策は三つあって、緊縮財政、産業合理化、金解禁を推し進めました。緊縮財政をおこなうと余計に景気が悪くなる可能性がありますが、政府の無駄遣いを無くして財政を健全にするという意味では、仕方ない部分もありました。
景気のほうは別の政策でよくしていこうということで、その中でもっとも注目すべきは、1930年の金解禁、要するに金本位制に戻したということです。1897年、日本は日清戦争が起きたあとに、中国からの賠償金で金本位制に変わりました。
しかし、その20年後の1917年に、金輸出禁止によって金本位制ではなくなっています。第一次世界大戦によって経済が混乱し、ヨーロッパ諸国がみな金本位制をやめたので、日本もそれに従うかたちでした。
ヨーロッパの国々は、第一次世界大戦後、それぞれのタイミングで金本位制に戻していきましたが、日本は戦後恐慌などの影響で景気が良くならず、金本位制に戻したくても戻せなかったのです。それを、浜口内閣は金本位制に戻そうとしたわけです。
なぜかというと、そのほうが為替相場が安定するからで、第一次世界大戦が起こったおかげで飛躍的に伸びた日本の工業力を生かして、どんどん製品を海外に輸出していきたいと思ったのです。そのためには為替相場の安定が必要でした。 | 大蔵省出身の浜口は、どのような人間でしたか。 | 大蔵省出身の浜口は、加藤高明内閣で大蔵大臣をしたこともある経済畑の人間でした。 |
JCRRAG_012346 | 歴史 | 田中義一が辞任したあとは、政権与党が交代するかたちとなり、憲政党と政友本党が一緒になってできた立憲民政党から、浜口雄幸内閣が誕生しました。大蔵省出身の浜口は、加藤高明内閣で大蔵大臣をしたこともある経済畑の人間でした。
1920年代というのは恐慌の多い時代で、20年に戦後恐慌、23年に震災恐慌、27年に金融恐慌と、ほぼ3年おきに恐慌が起きていました。高橋是清がおこなった財政政策によってなんとか金融恐慌は脱しましたが、それでも景気が悪いことには変わりがありませんでした。
そこで浜口内閣は、日本銀行総裁だった井上準之助を大蔵大臣に就かせて、景気回復に力を尽くしました。具体的な政策は三つあって、緊縮財政、産業合理化、金解禁を推し進めました。緊縮財政をおこなうと余計に景気が悪くなる可能性がありますが、政府の無駄遣いを無くして財政を健全にするという意味では、仕方ない部分もありました。
景気のほうは別の政策でよくしていこうということで、その中でもっとも注目すべきは、1930年の金解禁、要するに金本位制に戻したということです。1897年、日本は日清戦争が起きたあとに、中国からの賠償金で金本位制に変わりました。
しかし、その20年後の1917年に、金輸出禁止によって金本位制ではなくなっています。第一次世界大戦によって経済が混乱し、ヨーロッパ諸国がみな金本位制をやめたので、日本もそれに従うかたちでした。
ヨーロッパの国々は、第一次世界大戦後、それぞれのタイミングで金本位制に戻していきましたが、日本は戦後恐慌などの影響で景気が良くならず、金本位制に戻したくても戻せなかったのです。それを、浜口内閣は金本位制に戻そうとしたわけです。
なぜかというと、そのほうが為替相場が安定するからで、第一次世界大戦が起こったおかげで飛躍的に伸びた日本の工業力を生かして、どんどん製品を海外に輸出していきたいと思ったのです。そのためには為替相場の安定が必要でした。 | 1897年、日本は何が起きたあとに、金本位制に変わりましたか。 | 1897年、日本は日清戦争が起きたあとに、中国からの賠償金で金本位制に変わりました。 |
JCRRAG_012347 | 歴史 | 田中義一が辞任したあとは、政権与党が交代するかたちとなり、憲政党と政友本党が一緒になってできた立憲民政党から、浜口雄幸内閣が誕生しました。大蔵省出身の浜口は、加藤高明内閣で大蔵大臣をしたこともある経済畑の人間でした。
1920年代というのは恐慌の多い時代で、20年に戦後恐慌、23年に震災恐慌、27年に金融恐慌と、ほぼ3年おきに恐慌が起きていました。高橋是清がおこなった財政政策によってなんとか金融恐慌は脱しましたが、それでも景気が悪いことには変わりがありませんでした。
そこで浜口内閣は、日本銀行総裁だった井上準之助を大蔵大臣に就かせて、景気回復に力を尽くしました。具体的な政策は三つあって、緊縮財政、産業合理化、金解禁を推し進めました。緊縮財政をおこなうと余計に景気が悪くなる可能性がありますが、政府の無駄遣いを無くして財政を健全にするという意味では、仕方ない部分もありました。
景気のほうは別の政策でよくしていこうということで、その中でもっとも注目すべきは、1930年の金解禁、要するに金本位制に戻したということです。1897年、日本は日清戦争が起きたあとに、中国からの賠償金で金本位制に変わりました。
しかし、その20年後の1917年に、金輸出禁止によって金本位制ではなくなっています。第一次世界大戦によって経済が混乱し、ヨーロッパ諸国がみな金本位制をやめたので、日本もそれに従うかたちでした。
ヨーロッパの国々は、第一次世界大戦後、それぞれのタイミングで金本位制に戻していきましたが、日本は戦後恐慌などの影響で景気が良くならず、金本位制に戻したくても戻せなかったのです。それを、浜口内閣は金本位制に戻そうとしたわけです。
なぜかというと、そのほうが為替相場が安定するからで、第一次世界大戦が起こったおかげで飛躍的に伸びた日本の工業力を生かして、どんどん製品を海外に輸出していきたいと思ったのです。そのためには為替相場の安定が必要でした。 | ヨーロッパの国々は、第一次世界大戦後、それぞれのタイミングで金本位制に戻していきましたが、日本はなぜ、金本位制に戻したくても戻せなかったのですか。 | ヨーロッパの国々は、第一次世界大戦後、それぞれのタイミングで金本位制に戻していきましたが、日本は戦後恐慌などの影響で景気が良くならず、金本位制に戻したくても戻せなかったのです。 |
JCRRAG_012348 | 歴史 | 浜口内閣は金本位制に戻そうとしましたが、このときの金解禁は問題を含んでいました。それは、金本位制をやめる1917年より前のレートで金解禁をおこなったことです。1930年の百円の価値は四十ドル弱でしたが、それを四十九ドル八十五セントで解禁してしまったため、結果として円高になってしまいました。これを旧平価解禁とよびます。
日本経済を国際競争力があるものに育てたかったのですが、これだと、円の実質的な値段より高くなってしまったので、円高になったのです。すると、海外に物を売りづらくなるというわけです。
しかも、運の悪いことに、金本位制に戻したことで世界の経済とつながったのですが、前の年にアメリカで起きていた世界恐慌ともリンクしてしまって、よけいに日本の製品が海外で売れなくなってしまいました。
こうした経緯があって、1930年に昭和恐慌が起こってしまいました。
しかもこの年は、お米が大豊作でした。そのため、米価が下がります。消費者にとってはお米が安くなることはありがたいのですが、生産農家にとっては大打撃です。しかも、その次の年は逆に大凶作で、米価が暴落し、収入ががくっと減りました。
その頃は、多くの農家で、お米以外に生糸の原料になる蚕を飼育していましたが、世界恐慌が起こったことで、アメリカに対する生糸の輸出量が急に減ったことで、生糸の価格が暴落しました。そのため、こちらでも農家は打撃をうけます。
その上、この頃欧米で人造絹糸(人絹)、要するに化学繊維の製造がはじまったことで、ますます高級で高価な絹が売れなくなったのです。このようにどんどん悪い条件がかさなり、農協恐慌が起きてしまいます。特に東北地方の農村が受けた打撃はひどいもので、欠食児童がたくさん出たり、娘の身売りがおこなわれるようにもなりました。 | 1930年の百円の価値は四十ドル弱でしたが、それを四十九ドル八十五セントで解禁してしまったため、結果としてどうなってしまいましたか。 | 1930年の百円の価値は四十ドル弱でしたが、それを四十九ドル八十五セントで解禁してしまったため、結果として円高になってしまいました。 |
JCRRAG_012349 | 歴史 | 浜口内閣は金本位制に戻そうとしましたが、このときの金解禁は問題を含んでいました。それは、金本位制をやめる1917年より前のレートで金解禁をおこなったことです。1930年の百円の価値は四十ドル弱でしたが、それを四十九ドル八十五セントで解禁してしまったため、結果として円高になってしまいました。これを旧平価解禁とよびます。
日本経済を国際競争力があるものに育てたかったのですが、これだと、円の実質的な値段より高くなってしまったので、円高になったのです。すると、海外に物を売りづらくなるというわけです。
しかも、運の悪いことに、金本位制に戻したことで世界の経済とつながったのですが、前の年にアメリカで起きていた世界恐慌ともリンクしてしまって、よけいに日本の製品が海外で売れなくなってしまいました。
こうした経緯があって、1930年に昭和恐慌が起こってしまいました。
しかもこの年は、お米が大豊作でした。そのため、米価が下がります。消費者にとってはお米が安くなることはありがたいのですが、生産農家にとっては大打撃です。しかも、その次の年は逆に大凶作で、米価が暴落し、収入ががくっと減りました。
その頃は、多くの農家で、お米以外に生糸の原料になる蚕を飼育していましたが、世界恐慌が起こったことで、アメリカに対する生糸の輸出量が急に減ったことで、生糸の価格が暴落しました。そのため、こちらでも農家は打撃をうけます。
その上、この頃欧米で人造絹糸(人絹)、要するに化学繊維の製造がはじまったことで、ますます高級で高価な絹が売れなくなったのです。このようにどんどん悪い条件がかさなり、農協恐慌が起きてしまいます。特に東北地方の農村が受けた打撃はひどいもので、欠食児童がたくさん出たり、娘の身売りがおこなわれるようにもなりました。 | 金本位制に戻したことで世界の経済とつながったのですが、何とリンクしてしまって、よけいに日本の製品が海外で売れなくなってしまいましたか。 | 金本位制に戻したことで世界の経済とつながったのですが、前の年にアメリカで起きていた世界恐慌ともリンクしてしまって、よけいに日本の製品が海外で売れなくなってしまいました。 |
JCRRAG_012350 | 歴史 | 浜口内閣は金本位制に戻そうとしましたが、このときの金解禁は問題を含んでいました。それは、金本位制をやめる1917年より前のレートで金解禁をおこなったことです。1930年の百円の価値は四十ドル弱でしたが、それを四十九ドル八十五セントで解禁してしまったため、結果として円高になってしまいました。これを旧平価解禁とよびます。
日本経済を国際競争力があるものに育てたかったのですが、これだと、円の実質的な値段より高くなってしまったので、円高になったのです。すると、海外に物を売りづらくなるというわけです。
しかも、運の悪いことに、金本位制に戻したことで世界の経済とつながったのですが、前の年にアメリカで起きていた世界恐慌ともリンクしてしまって、よけいに日本の製品が海外で売れなくなってしまいました。
こうした経緯があって、1930年に昭和恐慌が起こってしまいました。
しかもこの年は、お米が大豊作でした。そのため、米価が下がります。消費者にとってはお米が安くなることはありがたいのですが、生産農家にとっては大打撃です。しかも、その次の年は逆に大凶作で、米価が暴落し、収入ががくっと減りました。
その頃は、多くの農家で、お米以外に生糸の原料になる蚕を飼育していましたが、世界恐慌が起こったことで、アメリカに対する生糸の輸出量が急に減ったことで、生糸の価格が暴落しました。そのため、こちらでも農家は打撃をうけます。
その上、この頃欧米で人造絹糸(人絹)、要するに化学繊維の製造がはじまったことで、ますます高級で高価な絹が売れなくなったのです。このようにどんどん悪い条件がかさなり、農協恐慌が起きてしまいます。特に東北地方の農村が受けた打撃はひどいもので、欠食児童がたくさん出たり、娘の身売りがおこなわれるようにもなりました。 | 消費者にとってはお米が安くなることはありがたいのですが、生産農家にとってはどうでしたか。 | 消費者にとってはお米が安くなることはありがたいのですが、生産農家にとっては大打撃でした。 |
JCRRAG_012351 | 歴史 | 浜口内閣は金本位制に戻そうとしましたが、このときの金解禁は問題を含んでいました。それは、金本位制をやめる1917年より前のレートで金解禁をおこなったことです。1930年の百円の価値は四十ドル弱でしたが、それを四十九ドル八十五セントで解禁してしまったため、結果として円高になってしまいました。これを旧平価解禁とよびます。
日本経済を国際競争力があるものに育てたかったのですが、これだと、円の実質的な値段より高くなってしまったので、円高になったのです。すると、海外に物を売りづらくなるというわけです。
しかも、運の悪いことに、金本位制に戻したことで世界の経済とつながったのですが、前の年にアメリカで起きていた世界恐慌ともリンクしてしまって、よけいに日本の製品が海外で売れなくなってしまいました。
こうした経緯があって、1930年に昭和恐慌が起こってしまいました。
しかもこの年は、お米が大豊作でした。そのため、米価が下がります。消費者にとってはお米が安くなることはありがたいのですが、生産農家にとっては大打撃です。しかも、その次の年は逆に大凶作で、米価が暴落し、収入ががくっと減りました。
その頃は、多くの農家で、お米以外に生糸の原料になる蚕を飼育していましたが、世界恐慌が起こったことで、アメリカに対する生糸の輸出量が急に減ったことで、生糸の価格が暴落しました。そのため、こちらでも農家は打撃をうけます。
その上、この頃欧米で人造絹糸(人絹)、要するに化学繊維の製造がはじまったことで、ますます高級で高価な絹が売れなくなったのです。このようにどんどん悪い条件がかさなり、農協恐慌が起きてしまいます。特に東北地方の農村が受けた打撃はひどいもので、欠食児童がたくさん出たり、娘の身売りがおこなわれるようにもなりました。 | 多くの農家で、お米以外に生糸の原料になる蚕を飼育していましたが、世界恐慌が起こったことで、どこの国に対する生糸の輸出量が急に減ったことで、生糸の価格が暴落しましたか。 | 多くの農家で、お米以外に生糸の原料になる蚕を飼育していましたが、世界恐慌が起こったことで、アメリカに対する生糸の輸出量が急に減ったことで、生糸の価格が暴落しました。 |
JCRRAG_012352 | 歴史 | 昭和恐慌が1930年に起こったことで、会社がばたばたとつぶれていくので、それを防ぐために、1931年に重要産業統制法というものを制定しました。これは、簡単に言えば、カルテルの結成を助ける法律です。
重要産業というのは、例えば鉄鋼や石炭などのことの、政府にとっての重要な産業という意味です。この法律の趣旨としては、「重要な産業はつぶれては困るので、大企業と合併しなさい」ということでした。その結果、政府にとっての重要な産業を、四大財閥が独占していきました。
金融恐慌が以前起きた時には、銀行法改正によって、日本の銀行業界は三井、三菱、住友、安田、第一の五大銀行が牛耳ることになりました。さらに昭和恐慌では、日本の重要産業が四大財閥によって独占されるようになり、それぞれ三井、三菱、住友、安田のことを指しました。五大銀行から第一がいないだけですね。
二つの恐慌が起こったことにより、日本の経済は財閥が牛耳ることになります。そしてこのあと、日本の政治に関しては軍部が独占することになります。日本の経済を独占した財閥と、日本の政治を独占した軍部は、一番儲かる商売に手を出すようになり、要するにそれが戦争でした。こうやって、日本がファシズムにいたる原因の一つが、ここで出来上がったのです。
1930年に、軍縮会議がロンドンでおこなわれ、そこに浜口内閣の外務大臣・幣原喜重郎が参加しました。主力艦の保有制限を決めた1921年~22年のワシントン会議に続いて、補助艦の保有がこのロンドン海軍軍縮会議で制限されました。
ワシントン会議では海軍にとって不満が残る結果だったので、幣原外相に圧力をかけたのですが、結局、ロンドン会議も満足のいく結果ではありませんでした。浜口内閣は協調路線だったので、反対している海軍を押し切って、その妥協案でロンドン海軍軍縮条約に調印しました。
これに対して海軍や右翼勢力は、「軍部のことを軍の許しがない状態で決めることは、統帥権を干犯するものだ」と反対しました(統帥権干犯問題)。「干犯」とはどういう意味かというと、文字どおり、他に干渉することでその権利を犯すということです。
なんとか条約の批准に漕ぎつけた浜口内閣でしたが、東京駅で右翼の青年に狙撃された浜口首相は重傷を負ってしまい、内閣は退陣しなければいけなくなりました。さらにこの時、金解禁をするような政党内閣ではなかなか景気がよくならないからと、軍部政権樹立を目指してクーデター未遂事件が起こっています(三月事件)。
浜口内閣が退陣したあとは、与党は変わらず立憲民政党のまま、若槻礼次郎が総理大臣に就きます(第二次若槻内閣)。 | 昭和恐慌が1930年に起こったことで、会社がばたばたとつぶれていくので、それを防ぐために、1931年に何を制定しましたか。 | 昭和恐慌が1930年に起こったことで、会社がばたばたとつぶれていくので、それを防ぐために、1931年に重要産業統制法というものを制定しました。 |
JCRRAG_012353 | 歴史 | 昭和恐慌が1930年に起こったことで、会社がばたばたとつぶれていくので、それを防ぐために、1931年に重要産業統制法というものを制定しました。これは、簡単に言えば、カルテルの結成を助ける法律です。
重要産業というのは、例えば鉄鋼や石炭などのことの、政府にとっての重要な産業という意味です。この法律の趣旨としては、「重要な産業はつぶれては困るので、大企業と合併しなさい」ということでした。その結果、政府にとっての重要な産業を、四大財閥が独占していきました。
金融恐慌が以前起きた時には、銀行法改正によって、日本の銀行業界は三井、三菱、住友、安田、第一の五大銀行が牛耳ることになりました。さらに昭和恐慌では、日本の重要産業が四大財閥によって独占されるようになり、それぞれ三井、三菱、住友、安田のことを指しました。五大銀行から第一がいないだけですね。
二つの恐慌が起こったことにより、日本の経済は財閥が牛耳ることになります。そしてこのあと、日本の政治に関しては軍部が独占することになります。日本の経済を独占した財閥と、日本の政治を独占した軍部は、一番儲かる商売に手を出すようになり、要するにそれが戦争でした。こうやって、日本がファシズムにいたる原因の一つが、ここで出来上がったのです。
1930年に、軍縮会議がロンドンでおこなわれ、そこに浜口内閣の外務大臣・幣原喜重郎が参加しました。主力艦の保有制限を決めた1921年~22年のワシントン会議に続いて、補助艦の保有がこのロンドン海軍軍縮会議で制限されました。
ワシントン会議では海軍にとって不満が残る結果だったので、幣原外相に圧力をかけたのですが、結局、ロンドン会議も満足のいく結果ではありませんでした。浜口内閣は協調路線だったので、反対している海軍を押し切って、その妥協案でロンドン海軍軍縮条約に調印しました。
これに対して海軍や右翼勢力は、「軍部のことを軍の許しがない状態で決めることは、統帥権を干犯するものだ」と反対しました(統帥権干犯問題)。「干犯」とはどういう意味かというと、文字どおり、他に干渉することでその権利を犯すということです。
なんとか条約の批准に漕ぎつけた浜口内閣でしたが、東京駅で右翼の青年に狙撃された浜口首相は重傷を負ってしまい、内閣は退陣しなければいけなくなりました。さらにこの時、金解禁をするような政党内閣ではなかなか景気がよくならないからと、軍部政権樹立を目指してクーデター未遂事件が起こっています(三月事件)。
浜口内閣が退陣したあとは、与党は変わらず立憲民政党のまま、若槻礼次郎が総理大臣に就きます(第二次若槻内閣)。 | 重要産業というのは、どのような意味ですか。 | 重要産業というのは、例えば鉄鋼や石炭などのことの、政府にとっての重要な産業という意味です。 |
JCRRAG_012354 | 歴史 | 昭和恐慌が1930年に起こったことで、会社がばたばたとつぶれていくので、それを防ぐために、1931年に重要産業統制法というものを制定しました。これは、簡単に言えば、カルテルの結成を助ける法律です。
重要産業というのは、例えば鉄鋼や石炭などのことの、政府にとっての重要な産業という意味です。この法律の趣旨としては、「重要な産業はつぶれては困るので、大企業と合併しなさい」ということでした。その結果、政府にとっての重要な産業を、四大財閥が独占していきました。
金融恐慌が以前起きた時には、銀行法改正によって、日本の銀行業界は三井、三菱、住友、安田、第一の五大銀行が牛耳ることになりました。さらに昭和恐慌では、日本の重要産業が四大財閥によって独占されるようになり、それぞれ三井、三菱、住友、安田のことを指しました。五大銀行から第一がいないだけですね。
二つの恐慌が起こったことにより、日本の経済は財閥が牛耳ることになります。そしてこのあと、日本の政治に関しては軍部が独占することになります。日本の経済を独占した財閥と、日本の政治を独占した軍部は、一番儲かる商売に手を出すようになり、要するにそれが戦争でした。こうやって、日本がファシズムにいたる原因の一つが、ここで出来上がったのです。
1930年に、軍縮会議がロンドンでおこなわれ、そこに浜口内閣の外務大臣・幣原喜重郎が参加しました。主力艦の保有制限を決めた1921年~22年のワシントン会議に続いて、補助艦の保有がこのロンドン海軍軍縮会議で制限されました。
ワシントン会議では海軍にとって不満が残る結果だったので、幣原外相に圧力をかけたのですが、結局、ロンドン会議も満足のいく結果ではありませんでした。浜口内閣は協調路線だったので、反対している海軍を押し切って、その妥協案でロンドン海軍軍縮条約に調印しました。
これに対して海軍や右翼勢力は、「軍部のことを軍の許しがない状態で決めることは、統帥権を干犯するものだ」と反対しました(統帥権干犯問題)。「干犯」とはどういう意味かというと、文字どおり、他に干渉することでその権利を犯すということです。
なんとか条約の批准に漕ぎつけた浜口内閣でしたが、東京駅で右翼の青年に狙撃された浜口首相は重傷を負ってしまい、内閣は退陣しなければいけなくなりました。さらにこの時、金解禁をするような政党内閣ではなかなか景気がよくならないからと、軍部政権樹立を目指してクーデター未遂事件が起こっています(三月事件)。
浜口内閣が退陣したあとは、与党は変わらず立憲民政党のまま、若槻礼次郎が総理大臣に就きます(第二次若槻内閣)。 | 金融恐慌が以前起きた時には、銀行法改正によって、日本の銀行業界はどこの銀行が牛耳ることになりましたか。 | 金融恐慌が以前起きた時には、銀行法改正によって、日本の銀行業界は三井、三菱、住友、安田、第一の五大銀行が牛耳ることになりました。 |
JCRRAG_012355 | 歴史 | 昭和恐慌が1930年に起こったことで、会社がばたばたとつぶれていくので、それを防ぐために、1931年に重要産業統制法というものを制定しました。これは、簡単に言えば、カルテルの結成を助ける法律です。
重要産業というのは、例えば鉄鋼や石炭などのことの、政府にとっての重要な産業という意味です。この法律の趣旨としては、「重要な産業はつぶれては困るので、大企業と合併しなさい」ということでした。その結果、政府にとっての重要な産業を、四大財閥が独占していきました。
金融恐慌が以前起きた時には、銀行法改正によって、日本の銀行業界は三井、三菱、住友、安田、第一の五大銀行が牛耳ることになりました。さらに昭和恐慌では、日本の重要産業が四大財閥によって独占されるようになり、それぞれ三井、三菱、住友、安田のことを指しました。五大銀行から第一がいないだけですね。
二つの恐慌が起こったことにより、日本の経済は財閥が牛耳ることになります。そしてこのあと、日本の政治に関しては軍部が独占することになります。日本の経済を独占した財閥と、日本の政治を独占した軍部は、一番儲かる商売に手を出すようになり、要するにそれが戦争でした。こうやって、日本がファシズムにいたる原因の一つが、ここで出来上がったのです。
1930年に、軍縮会議がロンドンでおこなわれ、そこに浜口内閣の外務大臣・幣原喜重郎が参加しました。主力艦の保有制限を決めた1921年~22年のワシントン会議に続いて、補助艦の保有がこのロンドン海軍軍縮会議で制限されました。
ワシントン会議では海軍にとって不満が残る結果だったので、幣原外相に圧力をかけたのですが、結局、ロンドン会議も満足のいく結果ではありませんでした。浜口内閣は協調路線だったので、反対している海軍を押し切って、その妥協案でロンドン海軍軍縮条約に調印しました。
これに対して海軍や右翼勢力は、「軍部のことを軍の許しがない状態で決めることは、統帥権を干犯するものだ」と反対しました(統帥権干犯問題)。「干犯」とはどういう意味かというと、文字どおり、他に干渉することでその権利を犯すということです。
なんとか条約の批准に漕ぎつけた浜口内閣でしたが、東京駅で右翼の青年に狙撃された浜口首相は重傷を負ってしまい、内閣は退陣しなければいけなくなりました。さらにこの時、金解禁をするような政党内閣ではなかなか景気がよくならないからと、軍部政権樹立を目指してクーデター未遂事件が起こっています(三月事件)。
浜口内閣が退陣したあとは、与党は変わらず立憲民政党のまま、若槻礼次郎が総理大臣に就きます(第二次若槻内閣)。 | 昭和恐慌では、日本の重要産業が四大財閥によって独占されるようになり、それぞれどこのことを指しましたか。 | 昭和恐慌では、日本の重要産業が四大財閥によって独占されるようになり、それぞれ三井、三菱、住友、安田のことを指しました。 |
JCRRAG_012356 | 歴史 | 昭和恐慌が1930年に起こったことで、会社がばたばたとつぶれていくので、それを防ぐために、1931年に重要産業統制法というものを制定しました。これは、簡単に言えば、カルテルの結成を助ける法律です。
重要産業というのは、例えば鉄鋼や石炭などのことの、政府にとっての重要な産業という意味です。この法律の趣旨としては、「重要な産業はつぶれては困るので、大企業と合併しなさい」ということでした。その結果、政府にとっての重要な産業を、四大財閥が独占していきました。
金融恐慌が以前起きた時には、銀行法改正によって、日本の銀行業界は三井、三菱、住友、安田、第一の五大銀行が牛耳ることになりました。さらに昭和恐慌では、日本の重要産業が四大財閥によって独占されるようになり、それぞれ三井、三菱、住友、安田のことを指しました。五大銀行から第一がいないだけですね。
二つの恐慌が起こったことにより、日本の経済は財閥が牛耳ることになります。そしてこのあと、日本の政治に関しては軍部が独占することになります。日本の経済を独占した財閥と、日本の政治を独占した軍部は、一番儲かる商売に手を出すようになり、要するにそれが戦争でした。こうやって、日本がファシズムにいたる原因の一つが、ここで出来上がったのです。
1930年に、軍縮会議がロンドンでおこなわれ、そこに浜口内閣の外務大臣・幣原喜重郎が参加しました。主力艦の保有制限を決めた1921年~22年のワシントン会議に続いて、補助艦の保有がこのロンドン海軍軍縮会議で制限されました。
ワシントン会議では海軍にとって不満が残る結果だったので、幣原外相に圧力をかけたのですが、結局、ロンドン会議も満足のいく結果ではありませんでした。浜口内閣は協調路線だったので、反対している海軍を押し切って、その妥協案でロンドン海軍軍縮条約に調印しました。
これに対して海軍や右翼勢力は、「軍部のことを軍の許しがない状態で決めることは、統帥権を干犯するものだ」と反対しました(統帥権干犯問題)。「干犯」とはどういう意味かというと、文字どおり、他に干渉することでその権利を犯すということです。
なんとか条約の批准に漕ぎつけた浜口内閣でしたが、東京駅で右翼の青年に狙撃された浜口首相は重傷を負ってしまい、内閣は退陣しなければいけなくなりました。さらにこの時、金解禁をするような政党内閣ではなかなか景気がよくならないからと、軍部政権樹立を目指してクーデター未遂事件が起こっています(三月事件)。
浜口内閣が退陣したあとは、与党は変わらず立憲民政党のまま、若槻礼次郎が総理大臣に就きます(第二次若槻内閣)。 | 1930年に、軍縮会議がロンドンでおこなわれ、そこに誰が参加しましたか。 | 1930年に、軍縮会議がロンドンでおこなわれ、そこに浜口内閣の外務大臣・幣原喜重郎が参加しました。 |
JCRRAG_012357 | 歴史 | 中国東北部で、1931年に満州事変が起こります。そのきっかけとなったのは柳条湖事件で、日本の関東軍が南満州鉄道を爆破するのですが、それを中国軍がやったことにして、それを口実に軍事行動を起こし、最終的に満州事変につなげていったのです。
その頃、「世界最終戦論」という本を書いた石原莞爾は、関東軍の参謀でしたが、第二次世界大戦を予想していたのかしていなかったのかはわかりませんが、最終的に大きな戦争が起こるだろうということを予測していたようです。
欧州陣営とアジア陣営の二つに陣営が分かれ、欧州陣営ではアメリカが、アジア陣営では日本が、それぞれの覇者となっていき、そして、欧州陣営とアジア陣営が最終戦争をおこない、世界の覇者が決定するだろう、というのが世界最終戦論の内容です。そこで勝利をつかむためには、日本にとって満州の権益は欠かせないものであるということです。
実際に、たとえば日露戦争のあと、アメリカはハリマン計画(アメリカの鉄道王ハリマンが長春~大連間の鉄道を日本政府から買い取って共同経営をする計画)や、国務長官ノックスの満鉄中立化提案などで、満州の権益にこだわりをみせてきました。なぜかというと、アメリカが中国分割に遅れをとっていたからです。
中国分割は1890年代後半におこなわれていましたが、アメリカが遅れをとった理由としては、その時期、アメリカはハワイの併合やフィリピンの領有などに忙しかったからです。それで、1899年に、「アメリカも中国分割に参加させろ」ということを言い出します。アメリカの国務長官であったジョン・ヘイが、「門戸解放・機会均等」を訴えかけたのです。
そこまで満州を重要視していなかったアメリカですが、関東軍としては、もしアメリカが割り込んできたとしたら大変なことなので、しきりに「満蒙の危機」を叫んで、なんとしてでも満州の権益を守っていこうと考え、満州事変を起こしたわけです。
柳条湖事件の報告を若槻内閣が受けたとき、軍部が突っ走らないように、不拡大方針を発表しますが、危機をあおることで国民の支持を受けていた軍部は、内閣のいうことを無視して戦況を広げていきました。
三月事件に続き、1931年に、十月事件が勃発します。満州事件に対して政府が不拡大方針をとろうとするので、政党内閣を倒して、軍部内閣をつくっていこうとする計画でした。これも失敗には終わるのですが、軍部の独走を抑えきれないと悟った若槻内閣は、総辞職する道を選びます。 | 中国東北部で、1931年に何が起こりましたか。 | 中国東北部で、1931年に満州事変が起こりました。 |
JCRRAG_012358 | 歴史 | 中国東北部で、1931年に満州事変が起こります。そのきっかけとなったのは柳条湖事件で、日本の関東軍が南満州鉄道を爆破するのですが、それを中国軍がやったことにして、それを口実に軍事行動を起こし、最終的に満州事変につなげていったのです。
その頃、「世界最終戦論」という本を書いた石原莞爾は、関東軍の参謀でしたが、第二次世界大戦を予想していたのかしていなかったのかはわかりませんが、最終的に大きな戦争が起こるだろうということを予測していたようです。
欧州陣営とアジア陣営の二つに陣営が分かれ、欧州陣営ではアメリカが、アジア陣営では日本が、それぞれの覇者となっていき、そして、欧州陣営とアジア陣営が最終戦争をおこない、世界の覇者が決定するだろう、というのが世界最終戦論の内容です。そこで勝利をつかむためには、日本にとって満州の権益は欠かせないものであるということです。
実際に、たとえば日露戦争のあと、アメリカはハリマン計画(アメリカの鉄道王ハリマンが長春~大連間の鉄道を日本政府から買い取って共同経営をする計画)や、国務長官ノックスの満鉄中立化提案などで、満州の権益にこだわりをみせてきました。なぜかというと、アメリカが中国分割に遅れをとっていたからです。
中国分割は1890年代後半におこなわれていましたが、アメリカが遅れをとった理由としては、その時期、アメリカはハワイの併合やフィリピンの領有などに忙しかったからです。それで、1899年に、「アメリカも中国分割に参加させろ」ということを言い出します。アメリカの国務長官であったジョン・ヘイが、「門戸解放・機会均等」を訴えかけたのです。
そこまで満州を重要視していなかったアメリカですが、関東軍としては、もしアメリカが割り込んできたとしたら大変なことなので、しきりに「満蒙の危機」を叫んで、なんとしてでも満州の権益を守っていこうと考え、満州事変を起こしたわけです。
柳条湖事件の報告を若槻内閣が受けたとき、軍部が突っ走らないように、不拡大方針を発表しますが、危機をあおることで国民の支持を受けていた軍部は、内閣のいうことを無視して戦況を広げていきました。
三月事件に続き、1931年に、十月事件が勃発します。満州事件に対して政府が不拡大方針をとろうとするので、政党内閣を倒して、軍部内閣をつくっていこうとする計画でした。これも失敗には終わるのですが、軍部の独走を抑えきれないと悟った若槻内閣は、総辞職する道を選びます。 | 「世界最終戦論」という本を書いた石原莞爾は、何を予測していたと考えられますか。 | 「世界最終戦論」という本を書いた石原莞爾は、関東軍の参謀でしたが、第二次世界大戦を予想していたのかしていなかったのかはわかりませんが、最終的に大きな戦争が起こるだろうということを予測していたようです。 |
JCRRAG_012359 | 歴史 | 中国東北部で、1931年に満州事変が起こります。そのきっかけとなったのは柳条湖事件で、日本の関東軍が南満州鉄道を爆破するのですが、それを中国軍がやったことにして、それを口実に軍事行動を起こし、最終的に満州事変につなげていったのです。
その頃、「世界最終戦論」という本を書いた石原莞爾は、関東軍の参謀でしたが、第二次世界大戦を予想していたのかしていなかったのかはわかりませんが、最終的に大きな戦争が起こるだろうということを予測していたようです。
欧州陣営とアジア陣営の二つに陣営が分かれ、欧州陣営ではアメリカが、アジア陣営では日本が、それぞれの覇者となっていき、そして、欧州陣営とアジア陣営が最終戦争をおこない、世界の覇者が決定するだろう、というのが世界最終戦論の内容です。そこで勝利をつかむためには、日本にとって満州の権益は欠かせないものであるということです。
実際に、たとえば日露戦争のあと、アメリカはハリマン計画(アメリカの鉄道王ハリマンが長春~大連間の鉄道を日本政府から買い取って共同経営をする計画)や、国務長官ノックスの満鉄中立化提案などで、満州の権益にこだわりをみせてきました。なぜかというと、アメリカが中国分割に遅れをとっていたからです。
中国分割は1890年代後半におこなわれていましたが、アメリカが遅れをとった理由としては、その時期、アメリカはハワイの併合やフィリピンの領有などに忙しかったからです。それで、1899年に、「アメリカも中国分割に参加させろ」ということを言い出します。アメリカの国務長官であったジョン・ヘイが、「門戸解放・機会均等」を訴えかけたのです。
そこまで満州を重要視していなかったアメリカですが、関東軍としては、もしアメリカが割り込んできたとしたら大変なことなので、しきりに「満蒙の危機」を叫んで、なんとしてでも満州の権益を守っていこうと考え、満州事変を起こしたわけです。
柳条湖事件の報告を若槻内閣が受けたとき、軍部が突っ走らないように、不拡大方針を発表しますが、危機をあおることで国民の支持を受けていた軍部は、内閣のいうことを無視して戦況を広げていきました。
三月事件に続き、1931年に、十月事件が勃発します。満州事件に対して政府が不拡大方針をとろうとするので、政党内閣を倒して、軍部内閣をつくっていこうとする計画でした。これも失敗には終わるのですが、軍部の独走を抑えきれないと悟った若槻内閣は、総辞職する道を選びます。 | どのような内容が世界最終戦論の内容ですか。 | 欧州陣営とアジア陣営の二つに陣営が分かれ、欧州陣営ではアメリカが、アジア陣営では日本が、それぞれの覇者となっていき、そして、欧州陣営とアジア陣営が最終戦争をおこない、世界の覇者が決定するだろう、というのが世界最終戦論の内容です。 |
JCRRAG_012360 | 歴史 | 中国東北部で、1931年に満州事変が起こります。そのきっかけとなったのは柳条湖事件で、日本の関東軍が南満州鉄道を爆破するのですが、それを中国軍がやったことにして、それを口実に軍事行動を起こし、最終的に満州事変につなげていったのです。
その頃、「世界最終戦論」という本を書いた石原莞爾は、関東軍の参謀でしたが、第二次世界大戦を予想していたのかしていなかったのかはわかりませんが、最終的に大きな戦争が起こるだろうということを予測していたようです。
欧州陣営とアジア陣営の二つに陣営が分かれ、欧州陣営ではアメリカが、アジア陣営では日本が、それぞれの覇者となっていき、そして、欧州陣営とアジア陣営が最終戦争をおこない、世界の覇者が決定するだろう、というのが世界最終戦論の内容です。そこで勝利をつかむためには、日本にとって満州の権益は欠かせないものであるということです。
実際に、たとえば日露戦争のあと、アメリカはハリマン計画(アメリカの鉄道王ハリマンが長春~大連間の鉄道を日本政府から買い取って共同経営をする計画)や、国務長官ノックスの満鉄中立化提案などで、満州の権益にこだわりをみせてきました。なぜかというと、アメリカが中国分割に遅れをとっていたからです。
中国分割は1890年代後半におこなわれていましたが、アメリカが遅れをとった理由としては、その時期、アメリカはハワイの併合やフィリピンの領有などに忙しかったからです。それで、1899年に、「アメリカも中国分割に参加させろ」ということを言い出します。アメリカの国務長官であったジョン・ヘイが、「門戸解放・機会均等」を訴えかけたのです。
そこまで満州を重要視していなかったアメリカですが、関東軍としては、もしアメリカが割り込んできたとしたら大変なことなので、しきりに「満蒙の危機」を叫んで、なんとしてでも満州の権益を守っていこうと考え、満州事変を起こしたわけです。
柳条湖事件の報告を若槻内閣が受けたとき、軍部が突っ走らないように、不拡大方針を発表しますが、危機をあおることで国民の支持を受けていた軍部は、内閣のいうことを無視して戦況を広げていきました。
三月事件に続き、1931年に、十月事件が勃発します。満州事件に対して政府が不拡大方針をとろうとするので、政党内閣を倒して、軍部内閣をつくっていこうとする計画でした。これも失敗には終わるのですが、軍部の独走を抑えきれないと悟った若槻内閣は、総辞職する道を選びます。 | 中国分割は1890年代後半におこなわれていましたが、アメリカが遅れをとったのはなぜですか。 | 中国分割は1890年代後半におこなわれていましたが、アメリカが遅れをとった理由としては、その時期、アメリカはハワイの併合やフィリピンの領有などに忙しかったからです。 |
JCRRAG_012361 | 歴史 | 中国東北部で、1931年に満州事変が起こります。そのきっかけとなったのは柳条湖事件で、日本の関東軍が南満州鉄道を爆破するのですが、それを中国軍がやったことにして、それを口実に軍事行動を起こし、最終的に満州事変につなげていったのです。
その頃、「世界最終戦論」という本を書いた石原莞爾は、関東軍の参謀でしたが、第二次世界大戦を予想していたのかしていなかったのかはわかりませんが、最終的に大きな戦争が起こるだろうということを予測していたようです。
欧州陣営とアジア陣営の二つに陣営が分かれ、欧州陣営ではアメリカが、アジア陣営では日本が、それぞれの覇者となっていき、そして、欧州陣営とアジア陣営が最終戦争をおこない、世界の覇者が決定するだろう、というのが世界最終戦論の内容です。そこで勝利をつかむためには、日本にとって満州の権益は欠かせないものであるということです。
実際に、たとえば日露戦争のあと、アメリカはハリマン計画(アメリカの鉄道王ハリマンが長春~大連間の鉄道を日本政府から買い取って共同経営をする計画)や、国務長官ノックスの満鉄中立化提案などで、満州の権益にこだわりをみせてきました。なぜかというと、アメリカが中国分割に遅れをとっていたからです。
中国分割は1890年代後半におこなわれていましたが、アメリカが遅れをとった理由としては、その時期、アメリカはハワイの併合やフィリピンの領有などに忙しかったからです。それで、1899年に、「アメリカも中国分割に参加させろ」ということを言い出します。アメリカの国務長官であったジョン・ヘイが、「門戸解放・機会均等」を訴えかけたのです。
そこまで満州を重要視していなかったアメリカですが、関東軍としては、もしアメリカが割り込んできたとしたら大変なことなので、しきりに「満蒙の危機」を叫んで、なんとしてでも満州の権益を守っていこうと考え、満州事変を起こしたわけです。
柳条湖事件の報告を若槻内閣が受けたとき、軍部が突っ走らないように、不拡大方針を発表しますが、危機をあおることで国民の支持を受けていた軍部は、内閣のいうことを無視して戦況を広げていきました。
三月事件に続き、1931年に、十月事件が勃発します。満州事件に対して政府が不拡大方針をとろうとするので、政党内閣を倒して、軍部内閣をつくっていこうとする計画でした。これも失敗には終わるのですが、軍部の独走を抑えきれないと悟った若槻内閣は、総辞職する道を選びます。 | 中国分割はいつおこなわれていましたか。 | 中国分割は1890年代後半におこなわれていました。 |
JCRRAG_012362 | 歴史 | 若槻内閣の次は犬養毅内閣でしたが、日本経済の混乱の原因となった金解禁をやめて、1931年12月に金輸出再禁止をおこないます。このとき大蔵大臣を務めていたのは高橋是清でした。
つまり、金本位制を完全に廃止して、管理通貨制度を導入するということです。金と交換できない紙幣(不換紙幣)をもとにした通貨制度で、状況をみて、それに応じて通貨を発行できるようになります。
その結果、もともと百円=約四十九ドルだったところが、二、三十ドルほどに下がりました。その頃の本来の日本のお金の価値は、もっと低かったのです。この頃は世界恐慌もやっとひと段落して、ヨーロッパ諸国も景気が徐々に上向きになりかけていました。
そういった時期に金輸出再禁止をおこなったものですから、日本製品はまさに“全品半額セール”状態となり、日本製品は飛ぶように売れて、輸出量がいきなり伸び、日本は空前の好景気を迎えることとなりました。
イギリスの産業革命の中心は綿織物で、それを大量に生産することで世界中に売りさばき、莫大な利益を得ていました。しかしこの時、日本の綿織物業は、イギリスより抜きん出て世界一になります。
特に重化学工業の発展はめざましく、日本の産業構造自体が大きな変化を見せました。明治以来の財閥のほかに、日産コンツェルンや、日窒コンツェルンなどの新興財閥もうまれて、それが軍部と関係を持ち、満州や朝鮮に進出していきました。
犬養内閣は、「満州事変は起こってしまったことなのでいまさら仕方ないが、満州国は不承認」というスタンスでした。この頃になると政党政治の影が薄くなり、軍部や右翼の動きが活発になって、それを抑えきれずに退陣するというケースが頻発しました。
政党政治のままでは日本の軍事行動に不安があるということで、軍部や右翼の中には、軍事クーデターによって軍部が政権を握るべきだという人たちも出てきました。そういった時代のなか、三月事件・十月事件が勃発したわけですが、1932年になってもなお、政党政治家や財界の大物を狙ってテロ事件が起きました。井上日召を軸として血盟団が結成され、前首相であった井上準之助や三井合名会社の理事長・団琢磨が殺されたりもしました(血盟団事件)。
これはつまり、政党内閣における経済政策に対しての反論と、それに癒着している財閥に対しての反乱が表面化したものでした。そして、満州国の建国に反対した犬養首相も暗殺されてしまいます。殺したのは海軍の青年将校たちでした(五・一五事件)。
こうして「憲政の常道」は終わりをむかえ、日本は戦争へと突き進んでいくのです。 | 若槻内閣の次は犬養毅内閣でしたが、1931年12月に何をおこないましたか。 | 若槻内閣の次は犬養毅内閣でしたが、日本経済の混乱の原因となった金解禁をやめて、1931年12月に金輸出再禁止をおこないました。 |
JCRRAG_012363 | 歴史 | 若槻内閣の次は犬養毅内閣でしたが、日本経済の混乱の原因となった金解禁をやめて、1931年12月に金輸出再禁止をおこないます。このとき大蔵大臣を務めていたのは高橋是清でした。
つまり、金本位制を完全に廃止して、管理通貨制度を導入するということです。金と交換できない紙幣(不換紙幣)をもとにした通貨制度で、状況をみて、それに応じて通貨を発行できるようになります。
その結果、もともと百円=約四十九ドルだったところが、二、三十ドルほどに下がりました。その頃の本来の日本のお金の価値は、もっと低かったのです。この頃は世界恐慌もやっとひと段落して、ヨーロッパ諸国も景気が徐々に上向きになりかけていました。
そういった時期に金輸出再禁止をおこなったものですから、日本製品はまさに“全品半額セール”状態となり、日本製品は飛ぶように売れて、輸出量がいきなり伸び、日本は空前の好景気を迎えることとなりました。
イギリスの産業革命の中心は綿織物で、それを大量に生産することで世界中に売りさばき、莫大な利益を得ていました。しかしこの時、日本の綿織物業は、イギリスより抜きん出て世界一になります。
特に重化学工業の発展はめざましく、日本の産業構造自体が大きな変化を見せました。明治以来の財閥のほかに、日産コンツェルンや、日窒コンツェルンなどの新興財閥もうまれて、それが軍部と関係を持ち、満州や朝鮮に進出していきました。
犬養内閣は、「満州事変は起こってしまったことなのでいまさら仕方ないが、満州国は不承認」というスタンスでした。この頃になると政党政治の影が薄くなり、軍部や右翼の動きが活発になって、それを抑えきれずに退陣するというケースが頻発しました。
政党政治のままでは日本の軍事行動に不安があるということで、軍部や右翼の中には、軍事クーデターによって軍部が政権を握るべきだという人たちも出てきました。そういった時代のなか、三月事件・十月事件が勃発したわけですが、1932年になってもなお、政党政治家や財界の大物を狙ってテロ事件が起きました。井上日召を軸として血盟団が結成され、前首相であった井上準之助や三井合名会社の理事長・団琢磨が殺されたりもしました(血盟団事件)。
これはつまり、政党内閣における経済政策に対しての反論と、それに癒着している財閥に対しての反乱が表面化したものでした。そして、満州国の建国に反対した犬養首相も暗殺されてしまいます。殺したのは海軍の青年将校たちでした(五・一五事件)。
こうして「憲政の常道」は終わりをむかえ、日本は戦争へと突き進んでいくのです。 | イギリスの産業革命の中心は何でしたか。 | イギリスの産業革命の中心は綿織物でした。 |
JCRRAG_012364 | 歴史 | 若槻内閣の次は犬養毅内閣でしたが、日本経済の混乱の原因となった金解禁をやめて、1931年12月に金輸出再禁止をおこないます。このとき大蔵大臣を務めていたのは高橋是清でした。
つまり、金本位制を完全に廃止して、管理通貨制度を導入するということです。金と交換できない紙幣(不換紙幣)をもとにした通貨制度で、状況をみて、それに応じて通貨を発行できるようになります。
その結果、もともと百円=約四十九ドルだったところが、二、三十ドルほどに下がりました。その頃の本来の日本のお金の価値は、もっと低かったのです。この頃は世界恐慌もやっとひと段落して、ヨーロッパ諸国も景気が徐々に上向きになりかけていました。
そういった時期に金輸出再禁止をおこなったものですから、日本製品はまさに“全品半額セール”状態となり、日本製品は飛ぶように売れて、輸出量がいきなり伸び、日本は空前の好景気を迎えることとなりました。
イギリスの産業革命の中心は綿織物で、それを大量に生産することで世界中に売りさばき、莫大な利益を得ていました。しかしこの時、日本の綿織物業は、イギリスより抜きん出て世界一になります。
特に重化学工業の発展はめざましく、日本の産業構造自体が大きな変化を見せました。明治以来の財閥のほかに、日産コンツェルンや、日窒コンツェルンなどの新興財閥もうまれて、それが軍部と関係を持ち、満州や朝鮮に進出していきました。
犬養内閣は、「満州事変は起こってしまったことなのでいまさら仕方ないが、満州国は不承認」というスタンスでした。この頃になると政党政治の影が薄くなり、軍部や右翼の動きが活発になって、それを抑えきれずに退陣するというケースが頻発しました。
政党政治のままでは日本の軍事行動に不安があるということで、軍部や右翼の中には、軍事クーデターによって軍部が政権を握るべきだという人たちも出てきました。そういった時代のなか、三月事件・十月事件が勃発したわけですが、1932年になってもなお、政党政治家や財界の大物を狙ってテロ事件が起きました。井上日召を軸として血盟団が結成され、前首相であった井上準之助や三井合名会社の理事長・団琢磨が殺されたりもしました(血盟団事件)。
これはつまり、政党内閣における経済政策に対しての反論と、それに癒着している財閥に対しての反乱が表面化したものでした。そして、満州国の建国に反対した犬養首相も暗殺されてしまいます。殺したのは海軍の青年将校たちでした(五・一五事件)。
こうして「憲政の常道」は終わりをむかえ、日本は戦争へと突き進んでいくのです。 | 犬養内閣は、どのようなスタンスでしたか。 | 犬養内閣は、「満州事変は起こってしまったことなのでいまさら仕方ないが、満州国は不承認」というスタンスでした。 |
JCRRAG_012365 | 歴史 | 若槻内閣の次は犬養毅内閣でしたが、日本経済の混乱の原因となった金解禁をやめて、1931年12月に金輸出再禁止をおこないます。このとき大蔵大臣を務めていたのは高橋是清でした。
つまり、金本位制を完全に廃止して、管理通貨制度を導入するということです。金と交換できない紙幣(不換紙幣)をもとにした通貨制度で、状況をみて、それに応じて通貨を発行できるようになります。
その結果、もともと百円=約四十九ドルだったところが、二、三十ドルほどに下がりました。その頃の本来の日本のお金の価値は、もっと低かったのです。この頃は世界恐慌もやっとひと段落して、ヨーロッパ諸国も景気が徐々に上向きになりかけていました。
そういった時期に金輸出再禁止をおこなったものですから、日本製品はまさに“全品半額セール”状態となり、日本製品は飛ぶように売れて、輸出量がいきなり伸び、日本は空前の好景気を迎えることとなりました。
イギリスの産業革命の中心は綿織物で、それを大量に生産することで世界中に売りさばき、莫大な利益を得ていました。しかしこの時、日本の綿織物業は、イギリスより抜きん出て世界一になります。
特に重化学工業の発展はめざましく、日本の産業構造自体が大きな変化を見せました。明治以来の財閥のほかに、日産コンツェルンや、日窒コンツェルンなどの新興財閥もうまれて、それが軍部と関係を持ち、満州や朝鮮に進出していきました。
犬養内閣は、「満州事変は起こってしまったことなのでいまさら仕方ないが、満州国は不承認」というスタンスでした。この頃になると政党政治の影が薄くなり、軍部や右翼の動きが活発になって、それを抑えきれずに退陣するというケースが頻発しました。
政党政治のままでは日本の軍事行動に不安があるということで、軍部や右翼の中には、軍事クーデターによって軍部が政権を握るべきだという人たちも出てきました。そういった時代のなか、三月事件・十月事件が勃発したわけですが、1932年になってもなお、政党政治家や財界の大物を狙ってテロ事件が起きました。井上日召を軸として血盟団が結成され、前首相であった井上準之助や三井合名会社の理事長・団琢磨が殺されたりもしました(血盟団事件)。
これはつまり、政党内閣における経済政策に対しての反論と、それに癒着している財閥に対しての反乱が表面化したものでした。そして、満州国の建国に反対した犬養首相も暗殺されてしまいます。殺したのは海軍の青年将校たちでした(五・一五事件)。
こうして「憲政の常道」は終わりをむかえ、日本は戦争へと突き進んでいくのです。 | 政党政治のままでは日本の軍事行動に不安があるということで、軍部や右翼の中には、どのような考えの人たちが出てきましたか。 | 政党政治のままでは日本の軍事行動に不安があるということで、軍部や右翼の中には、軍事クーデターによって軍部が政権を握るべきだという人たちも出てきました。 |
JCRRAG_012366 | 歴史 | 人気がなくなって政府の支持が落ちたりすると、内閣総理大臣を決めている元老たちは、とたんに政党や国民に媚びるようなことをしだします。次の総理大臣に元老が選んだのは、立憲政友会の党首であった原敬でした。立憲政友会が与党だったので、総理大臣もそこから出そう、というわけでした。
今までの総理大臣はみんな華族や士族で、貴族院議員でした。しかし、岩手県選出の衆議院議員だった原敬は、藩閥でもありません。そのため、平民宰相とよばれて、国民から絶大な人気がありました。それだけでなく、軍部大臣と外務大臣以外は全員立憲政友会の党首だったので、初めて本格的な政党内閣が誕生したのです。
原内閣は選挙法を見直して、選挙権を持てる資格を緩和しました。納税資格を直接国税十円から三円にして、国民の二パーセントしかいなかった選挙権保有者が、五パーセント以上になり、倍以上になりました。
しかし、普通選挙には否定的でした。それに憲政会は反発し、普選獲得運動をおこないますが、1920年の総選挙では立憲政友会が圧勝し、絶対多数を占めました。選挙権をはじめて持てるようになった人たちは、原さんのおかげで投票できるようになった、ということで、みんな立憲政友会に投票します。
一方、普通選挙を求めている人たちは、選挙権がないので、たとえその人たちが百万人集まっても、一票にもならないのです。また、小選挙区制を原内閣が導入したことも関係しています。一選挙区から当選するのはたった一名なので、死に票がもっとも多く出る選挙制度といえるでしょう。
それだけでなく、原内閣は、教育を奨励し、交通機関の整備、産業貿易の振興、国防の充実という四大政綱をかかげて、第一次世界大戦が起きたことによる好景気で増えた税収分を使って、積極政策を推し進めました。つまり、立憲政友会が圧勝するのは当たり前だったわけです。 | 人気がなくなって政府の支持が落ちたりすると、内閣総理大臣を決めている元老たちは、どのようなことをしだしますか。 | 人気がなくなって政府の支持が落ちたりすると、内閣総理大臣を決めている元老たちは、とたんに政党や国民に媚びるようなことをしだします。 |
JCRRAG_012367 | 歴史 | 人気がなくなって政府の支持が落ちたりすると、内閣総理大臣を決めている元老たちは、とたんに政党や国民に媚びるようなことをしだします。次の総理大臣に元老が選んだのは、立憲政友会の党首であった原敬でした。立憲政友会が与党だったので、総理大臣もそこから出そう、というわけでした。
今までの総理大臣はみんな華族や士族で、貴族院議員でした。しかし、岩手県選出の衆議院議員だった原敬は、藩閥でもありません。そのため、平民宰相とよばれて、国民から絶大な人気がありました。それだけでなく、軍部大臣と外務大臣以外は全員立憲政友会の党首だったので、初めて本格的な政党内閣が誕生したのです。
原内閣は選挙法を見直して、選挙権を持てる資格を緩和しました。納税資格を直接国税十円から三円にして、国民の二パーセントしかいなかった選挙権保有者が、五パーセント以上になり、倍以上になりました。
しかし、普通選挙には否定的でした。それに憲政会は反発し、普選獲得運動をおこないますが、1920年の総選挙では立憲政友会が圧勝し、絶対多数を占めました。選挙権をはじめて持てるようになった人たちは、原さんのおかげで投票できるようになった、ということで、みんな立憲政友会に投票します。
一方、普通選挙を求めている人たちは、選挙権がないので、たとえその人たちが百万人集まっても、一票にもならないのです。また、小選挙区制を原内閣が導入したことも関係しています。一選挙区から当選するのはたった一名なので、死に票がもっとも多く出る選挙制度といえるでしょう。
それだけでなく、原内閣は、教育を奨励し、交通機関の整備、産業貿易の振興、国防の充実という四大政綱をかかげて、第一次世界大戦が起きたことによる好景気で増えた税収分を使って、積極政策を推し進めました。つまり、立憲政友会が圧勝するのは当たり前だったわけです。 | 今までの総理大臣はみんなどのような特徴がありましたか。 | 今までの総理大臣はみんな華族や士族で、貴族院議員でした。 |
JCRRAG_012368 | 歴史 | 人気がなくなって政府の支持が落ちたりすると、内閣総理大臣を決めている元老たちは、とたんに政党や国民に媚びるようなことをしだします。次の総理大臣に元老が選んだのは、立憲政友会の党首であった原敬でした。立憲政友会が与党だったので、総理大臣もそこから出そう、というわけでした。
今までの総理大臣はみんな華族や士族で、貴族院議員でした。しかし、岩手県選出の衆議院議員だった原敬は、藩閥でもありません。そのため、平民宰相とよばれて、国民から絶大な人気がありました。それだけでなく、軍部大臣と外務大臣以外は全員立憲政友会の党首だったので、初めて本格的な政党内閣が誕生したのです。
原内閣は選挙法を見直して、選挙権を持てる資格を緩和しました。納税資格を直接国税十円から三円にして、国民の二パーセントしかいなかった選挙権保有者が、五パーセント以上になり、倍以上になりました。
しかし、普通選挙には否定的でした。それに憲政会は反発し、普選獲得運動をおこないますが、1920年の総選挙では立憲政友会が圧勝し、絶対多数を占めました。選挙権をはじめて持てるようになった人たちは、原さんのおかげで投票できるようになった、ということで、みんな立憲政友会に投票します。
一方、普通選挙を求めている人たちは、選挙権がないので、たとえその人たちが百万人集まっても、一票にもならないのです。また、小選挙区制を原内閣が導入したことも関係しています。一選挙区から当選するのはたった一名なので、死に票がもっとも多く出る選挙制度といえるでしょう。
それだけでなく、原内閣は、教育を奨励し、交通機関の整備、産業貿易の振興、国防の充実という四大政綱をかかげて、第一次世界大戦が起きたことによる好景気で増えた税収分を使って、積極政策を推し進めました。つまり、立憲政友会が圧勝するのは当たり前だったわけです。 | 原内閣は選挙法を見直して、何を緩和しましたか。 | 原内閣は選挙法を見直して、選挙権を持てる資格を緩和しました。 |
JCRRAG_012369 | 歴史 | 戦争中は、大戦景気に沸いていた日本国内ですが、ヨーロッパは総力戦をやっていたので、アジア市場に商品が輸入されなくなりました。そこに注目した日本が、アジア市場で商品をどんどん売りさばいて、その結果、景気が良くなったのです。
とくに造船業、鉄鋼業、海運業は急成長を果たして、日本は世界第三位の海運国にのし上がりました。この時代、船成金や鉄成金といった人々がたくさん登場してきます。日本の人口も七千七百万人に増えて、明治維新からこちら50年ほどで倍近くになっています。
農業依存の社会で維持できる人口は少なく、江戸時代のはじめから明治初期まではずっと三千万人ほどでした。それが、産業が発達することによって工場の労働者などが増えて、飢饉が起こってもある程度生き残れるようになったのです。
しかし、第一次世界大戦が終焉を迎えると、ヨーロッパがアジア市場に戻ってきます。するととたんに日本の品物は売れなくなります。当時はアジア市場で物が不足していたから売れていただけで、日本の商品が安くて高品質だったから売れていたわけではありません。
国際競争力が高いヨーロッパの商品がアジアに戻ってくると、日本製品の売れ行きはがくっと下がるのです。その結果、不況から恐慌になってしまい、これを1920年の戦後恐慌とよびます。アジアで儲からなくなり、税収も減ってしまうと、四大政綱の公約実現は難しくなります。
すると、政策に対して批判が起こりますが、原内閣は衆議院で絶対多数を掌握していたため、そのまま政治運営を続けました。そんななか、1921年11月に、原敬首相が東京駅で刺殺されてしまいます。そんな事件が起こり、原敬内閣は終焉を迎えました。
たしかに人口が増えるとそれだけ市場規模も拡大するのですが、アジアに輸出しようにも、とてもヨーロッパにはおよばなかったので、日本の産業革命の限界が見える時代でした。
対して、全世界に植民地を持っていたイギリスは、植民地を基盤に産業革命で生まれた大量生産品を売りさばくことで、大量生産の原料も仕入れていました。すると、日本にもやはり植民地が必要なのではないか、ということになります。どうしても、産業革命の行き着く先は帝国主義となってしまうのです。 | 戦争中は、大戦景気に沸いていた日本国内ですが、ヨーロッパは総力戦をやっていたので、どのようなことが起こりましたか。 | 戦争中は、大戦景気に沸いていた日本国内ですが、ヨーロッパは総力戦をやっていたので、アジア市場に商品が輸入されなくなりました。 |
JCRRAG_012370 | 歴史 | 戦争中は、大戦景気に沸いていた日本国内ですが、ヨーロッパは総力戦をやっていたので、アジア市場に商品が輸入されなくなりました。そこに注目した日本が、アジア市場で商品をどんどん売りさばいて、その結果、景気が良くなったのです。
とくに造船業、鉄鋼業、海運業は急成長を果たして、日本は世界第三位の海運国にのし上がりました。この時代、船成金や鉄成金といった人々がたくさん登場してきます。日本の人口も七千七百万人に増えて、明治維新からこちら50年ほどで倍近くになっています。
農業依存の社会で維持できる人口は少なく、江戸時代のはじめから明治初期まではずっと三千万人ほどでした。それが、産業が発達することによって工場の労働者などが増えて、飢饉が起こってもある程度生き残れるようになったのです。
しかし、第一次世界大戦が終焉を迎えると、ヨーロッパがアジア市場に戻ってきます。するととたんに日本の品物は売れなくなります。当時はアジア市場で物が不足していたから売れていただけで、日本の商品が安くて高品質だったから売れていたわけではありません。
国際競争力が高いヨーロッパの商品がアジアに戻ってくると、日本製品の売れ行きはがくっと下がるのです。その結果、不況から恐慌になってしまい、これを1920年の戦後恐慌とよびます。アジアで儲からなくなり、税収も減ってしまうと、四大政綱の公約実現は難しくなります。
すると、政策に対して批判が起こりますが、原内閣は衆議院で絶対多数を掌握していたため、そのまま政治運営を続けました。そんななか、1921年11月に、原敬首相が東京駅で刺殺されてしまいます。そんな事件が起こり、原敬内閣は終焉を迎えました。
たしかに人口が増えるとそれだけ市場規模も拡大するのですが、アジアに輸出しようにも、とてもヨーロッパにはおよばなかったので、日本の産業革命の限界が見える時代でした。
対して、全世界に植民地を持っていたイギリスは、植民地を基盤に産業革命で生まれた大量生産品を売りさばくことで、大量生産の原料も仕入れていました。すると、日本にもやはり植民地が必要なのではないか、ということになります。どうしても、産業革命の行き着く先は帝国主義となってしまうのです。 | 造船業、鉄鋼業、海運業は急成長を果たして、日本はどうなりましたか。 | 造船業、鉄鋼業、海運業は急成長を果たして、日本は世界第三位の海運国にのし上がりました。 |
JCRRAG_012371 | 歴史 | 戦争中は、大戦景気に沸いていた日本国内ですが、ヨーロッパは総力戦をやっていたので、アジア市場に商品が輸入されなくなりました。そこに注目した日本が、アジア市場で商品をどんどん売りさばいて、その結果、景気が良くなったのです。
とくに造船業、鉄鋼業、海運業は急成長を果たして、日本は世界第三位の海運国にのし上がりました。この時代、船成金や鉄成金といった人々がたくさん登場してきます。日本の人口も七千七百万人に増えて、明治維新からこちら50年ほどで倍近くになっています。
農業依存の社会で維持できる人口は少なく、江戸時代のはじめから明治初期まではずっと三千万人ほどでした。それが、産業が発達することによって工場の労働者などが増えて、飢饉が起こってもある程度生き残れるようになったのです。
しかし、第一次世界大戦が終焉を迎えると、ヨーロッパがアジア市場に戻ってきます。するととたんに日本の品物は売れなくなります。当時はアジア市場で物が不足していたから売れていただけで、日本の商品が安くて高品質だったから売れていたわけではありません。
国際競争力が高いヨーロッパの商品がアジアに戻ってくると、日本製品の売れ行きはがくっと下がるのです。その結果、不況から恐慌になってしまい、これを1920年の戦後恐慌とよびます。アジアで儲からなくなり、税収も減ってしまうと、四大政綱の公約実現は難しくなります。
すると、政策に対して批判が起こりますが、原内閣は衆議院で絶対多数を掌握していたため、そのまま政治運営を続けました。そんななか、1921年11月に、原敬首相が東京駅で刺殺されてしまいます。そんな事件が起こり、原敬内閣は終焉を迎えました。
たしかに人口が増えるとそれだけ市場規模も拡大するのですが、アジアに輸出しようにも、とてもヨーロッパにはおよばなかったので、日本の産業革命の限界が見える時代でした。
対して、全世界に植民地を持っていたイギリスは、植民地を基盤に産業革命で生まれた大量生産品を売りさばくことで、大量生産の原料も仕入れていました。すると、日本にもやはり植民地が必要なのではないか、ということになります。どうしても、産業革命の行き着く先は帝国主義となってしまうのです。 | 国際競争力が高いヨーロッパの商品がアジアに戻ってくると、日本製品の売れ行きはどうなりますか。 | 国際競争力が高いヨーロッパの商品がアジアに戻ってくると、日本製品の売れ行きはがくっと下がるのです。 |
JCRRAG_012372 | 歴史 | 戦争中は、大戦景気に沸いていた日本国内ですが、ヨーロッパは総力戦をやっていたので、アジア市場に商品が輸入されなくなりました。そこに注目した日本が、アジア市場で商品をどんどん売りさばいて、その結果、景気が良くなったのです。
とくに造船業、鉄鋼業、海運業は急成長を果たして、日本は世界第三位の海運国にのし上がりました。この時代、船成金や鉄成金といった人々がたくさん登場してきます。日本の人口も七千七百万人に増えて、明治維新からこちら50年ほどで倍近くになっています。
農業依存の社会で維持できる人口は少なく、江戸時代のはじめから明治初期まではずっと三千万人ほどでした。それが、産業が発達することによって工場の労働者などが増えて、飢饉が起こってもある程度生き残れるようになったのです。
しかし、第一次世界大戦が終焉を迎えると、ヨーロッパがアジア市場に戻ってきます。するととたんに日本の品物は売れなくなります。当時はアジア市場で物が不足していたから売れていただけで、日本の商品が安くて高品質だったから売れていたわけではありません。
国際競争力が高いヨーロッパの商品がアジアに戻ってくると、日本製品の売れ行きはがくっと下がるのです。その結果、不況から恐慌になってしまい、これを1920年の戦後恐慌とよびます。アジアで儲からなくなり、税収も減ってしまうと、四大政綱の公約実現は難しくなります。
すると、政策に対して批判が起こりますが、原内閣は衆議院で絶対多数を掌握していたため、そのまま政治運営を続けました。そんななか、1921年11月に、原敬首相が東京駅で刺殺されてしまいます。そんな事件が起こり、原敬内閣は終焉を迎えました。
たしかに人口が増えるとそれだけ市場規模も拡大するのですが、アジアに輸出しようにも、とてもヨーロッパにはおよばなかったので、日本の産業革命の限界が見える時代でした。
対して、全世界に植民地を持っていたイギリスは、植民地を基盤に産業革命で生まれた大量生産品を売りさばくことで、大量生産の原料も仕入れていました。すると、日本にもやはり植民地が必要なのではないか、ということになります。どうしても、産業革命の行き着く先は帝国主義となってしまうのです。 | 1921年11月に、誰が東京駅で刺殺されてしまいますか。 | 1921年11月に、原敬首相が東京駅で刺殺されてしまいます。 |
JCRRAG_012373 | 歴史 | 戦争中は、大戦景気に沸いていた日本国内ですが、ヨーロッパは総力戦をやっていたので、アジア市場に商品が輸入されなくなりました。そこに注目した日本が、アジア市場で商品をどんどん売りさばいて、その結果、景気が良くなったのです。
とくに造船業、鉄鋼業、海運業は急成長を果たして、日本は世界第三位の海運国にのし上がりました。この時代、船成金や鉄成金といった人々がたくさん登場してきます。日本の人口も七千七百万人に増えて、明治維新からこちら50年ほどで倍近くになっています。
農業依存の社会で維持できる人口は少なく、江戸時代のはじめから明治初期まではずっと三千万人ほどでした。それが、産業が発達することによって工場の労働者などが増えて、飢饉が起こってもある程度生き残れるようになったのです。
しかし、第一次世界大戦が終焉を迎えると、ヨーロッパがアジア市場に戻ってきます。するととたんに日本の品物は売れなくなります。当時はアジア市場で物が不足していたから売れていただけで、日本の商品が安くて高品質だったから売れていたわけではありません。
国際競争力が高いヨーロッパの商品がアジアに戻ってくると、日本製品の売れ行きはがくっと下がるのです。その結果、不況から恐慌になってしまい、これを1920年の戦後恐慌とよびます。アジアで儲からなくなり、税収も減ってしまうと、四大政綱の公約実現は難しくなります。
すると、政策に対して批判が起こりますが、原内閣は衆議院で絶対多数を掌握していたため、そのまま政治運営を続けました。そんななか、1921年11月に、原敬首相が東京駅で刺殺されてしまいます。そんな事件が起こり、原敬内閣は終焉を迎えました。
たしかに人口が増えるとそれだけ市場規模も拡大するのですが、アジアに輸出しようにも、とてもヨーロッパにはおよばなかったので、日本の産業革命の限界が見える時代でした。
対して、全世界に植民地を持っていたイギリスは、植民地を基盤に産業革命で生まれた大量生産品を売りさばくことで、大量生産の原料も仕入れていました。すると、日本にもやはり植民地が必要なのではないか、ということになります。どうしても、産業革命の行き着く先は帝国主義となってしまうのです。 | 全世界に植民地を持っていたイギリスは、どのように大量生産の原料を仕入れていましたか。 | 全世界に植民地を持っていたイギリスは、植民地を基盤に産業革命で生まれた大量生産品を売りさばくことで、大量生産の原料も仕入れていました。 |
JCRRAG_012374 | 歴史 | パリ講和会議が1919年に開かれ、戦勝国の一員として、日本からも西園寺公望、牧野伸顕が出席しました。ここで結ばれた条約がヴェルサイユ条約で、この会議で定められた体制がヴェルサイユ体制です。
この会議では、民族自決が唱えられました。これはアメリカのウィルソン大統領が発言したもので、ある民族がある民族を支配する状況があるから植民地支配もなくならないわけで、それを避けるためには、それぞれの民族が独立するべきである、といったものです。
ただし、ここでいう民族自決とは、あくまでも白色人種に限ったものだったので、これに対して日本は、人種差別撤廃案を世界ではじめて提唱するのですが、イギリス、アメリカに反対されて否決されてしまいました。
パリ講和議会では、世界平和の機関をつくって、二度とあのような戦争は起こらないようにしよう、ということで、国際連盟が設立されました。国際連盟の常任理事国は、イギリス、フランス、日本、イタリアの四カ国で、ロシアとアメリカが入っていないことが問題となりました。
なぜ国際連盟に入れてもらえなかったかというと、その頃のロシアは、ロシア革命が起こった直後で、当時ほとんどの国がソヴィエト革命政権を国家として認めていなかったからです。また、ドイツも敗戦国のため、加入が認められませんでした。
アメリカは国際連盟の設立を推し進めた国なのに、なぜ加入していないかというと、モンロー主義を唱えていたからです。これは、アメリカの五代大統領のモンローが唱えていた、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸の相互不干渉主義からくるものです。
また、全会一致が原則の国際連盟でしたが、各国が結局自分の国の利益を一番に考えるため、抑止機能としてはうまく働かないという問題点も浮き出てきました。 | パリ講和議会では、世界平和の機関をつくって、二度とあのような戦争は起こらないようにしよう、ということで、何が設立されましたか。 | パリ講和議会では、世界平和の機関をつくって、二度とあのような戦争は起こらないようにしよう、ということで、国際連盟が設立されました。 |
JCRRAG_012375 | 歴史 | 原敬内閣のあとは、高橋是清内閣が登場してきました。その時代に、1921年から翌年にかけて、アメリカのハーディング大統領が提唱したワシントン会議が開かれました。日本全権として、幣原喜重郎、加藤友三郎たちが参加しました。そこで、ワシントン体制という国際協調の体制が決められました。
ワシントン会議では、三つの条約がむすばれました。それぞれ四カ国条約、九カ国条約、ワシントン海軍軍縮条約です。現状を維持し、変えずにいることで、太平洋の島々をめぐる紛争をなくしていこうというものが四カ国条約で、太平洋諸島の平和維持のためのものです。アメリカ、フランス、イギリス、日本の間でむすばれました。これにより、二国間でむすばれていた日英同盟は撤廃されました。
中国経営に対する取り決めが九カ国条約で、内容は、中国の主権を尊重することと、門戸開放、機会均等です。そのため、日本が所持していた山東半島の旧ドイツ権益を中国に返すことになりました。
このなかで最も重要だった海軍軍縮条約ですが、こちらはアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの五カ国の中で、主力艦保有量のバランスが決められて、この後10年間は新しく主力艦をつくらないという条約です。
ちなみに主力艦の割合は、アメリカとイギリスが5で、日本が3、フランスとイタリアは1・67でした。ぱっと見、日本はフランスとイタリアの倍ありますが、フランスとイタリアはヨーロッパ大陸にあるので、もともと海軍はあまり必要ではないのです。一方、アメリカとイギリスに比べると、日本の割合は六です。
なので、ワシントン体制は、国際平和を名目に、日本の力を抑えようとしたといっても過言ではないかもしれません。日本は九カ国条約がむすばれたことによって山東半島を返還したのですが、日本以外の国は自分が持っていた租借地をまったく返還しません。
彼らが持っていた租借地はもとからあったものだけど、日本のは、第一次世界大戦でドイツから奪ったものだから返還が必要だ、ということだったようです。 | 原敬内閣のあとは、誰の内閣が登場してきましたか。 | 原敬内閣のあとは、高橋是清内閣が登場してきました。 |
JCRRAG_012376 | 歴史 | 原敬内閣のあとは、高橋是清内閣が登場してきました。その時代に、1921年から翌年にかけて、アメリカのハーディング大統領が提唱したワシントン会議が開かれました。日本全権として、幣原喜重郎、加藤友三郎たちが参加しました。そこで、ワシントン体制という国際協調の体制が決められました。
ワシントン会議では、三つの条約がむすばれました。それぞれ四カ国条約、九カ国条約、ワシントン海軍軍縮条約です。現状を維持し、変えずにいることで、太平洋の島々をめぐる紛争をなくしていこうというものが四カ国条約で、太平洋諸島の平和維持のためのものです。アメリカ、フランス、イギリス、日本の間でむすばれました。これにより、二国間でむすばれていた日英同盟は撤廃されました。
中国経営に対する取り決めが九カ国条約で、内容は、中国の主権を尊重することと、門戸開放、機会均等です。そのため、日本が所持していた山東半島の旧ドイツ権益を中国に返すことになりました。
このなかで最も重要だった海軍軍縮条約ですが、こちらはアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの五カ国の中で、主力艦保有量のバランスが決められて、この後10年間は新しく主力艦をつくらないという条約です。
ちなみに主力艦の割合は、アメリカとイギリスが5で、日本が3、フランスとイタリアは1・67でした。ぱっと見、日本はフランスとイタリアの倍ありますが、フランスとイタリアはヨーロッパ大陸にあるので、もともと海軍はあまり必要ではないのです。一方、アメリカとイギリスに比べると、日本の割合は六です。
なので、ワシントン体制は、国際平和を名目に、日本の力を抑えようとしたといっても過言ではないかもしれません。日本は九カ国条約がむすばれたことによって山東半島を返還したのですが、日本以外の国は自分が持っていた租借地をまったく返還しません。
彼らが持っていた租借地はもとからあったものだけど、日本のは、第一次世界大戦でドイツから奪ったものだから返還が必要だ、ということだったようです。 | 1921年から翌年にかけて、誰が提唱した会議が開かれましたか。 | 1921年から翌年にかけて、アメリカのハーディング大統領が提唱したワシントン会議が開かれました。 |
JCRRAG_012377 | 歴史 | 大正時代は、二つに分けて見ていきましょう。1912年の大正時代のはじまりから、第一次世界大戦を経て、米騒動で1918年に寺内内閣が退陣するまでの時期を前半とし、1918年の原敬内閣の成立から関東大震災が起こり、1926年に大正時代が終わるまでを後半とします。
明治天皇は1912年にこの世を去り、次に大正天皇が即位しましたので、ここから大正時代がはじまります。こちらで書いたように、その頃は桂太郎と西園寺公望が交互に内閣総理大臣に就任していた桂園時代でしたが、第二次西園寺内閣だったこの年に、二個師団増設要求が陸軍者から出てきます。これは、朝鮮に陸軍師団を一つ増やしてほしいという意味です。
その2年前の1910年に日本は韓国を併合していますが、中国で1911年に辛亥革命が起こり、中華民国(臨時大統領は孫文)が1912年に建国されました。
なぜ二個師団増設を求めたかというと、このように中国が混乱しているときだったので、日本が勢力を伸ばせるチャンスだと考え、大陸進出の拠点になる朝鮮に、二個師団を増やしてくれということでした。
その頃、西園寺は恐慌対策に追われている最中でしたから、「そんなお金はない」といって、この要求を拒否しました。それに怒った陸軍大臣・上原勇作は単独で大臣を辞めてしまいます。ここで問題が起こりました。以前制定された軍部大臣現役武官制というものがありましたね。
上原が陸軍大臣を辞任したあと、西園寺が新たに陸軍大臣を任命すればよかったのですが、陸軍大臣、海軍大臣は現役の軍人に限るという規定があったため、陸軍者から大臣を出すべきなのですが、その陸軍者が、西園寺内閣には陸軍大臣を設けないという意向を示していたので、後任が決まりませんでした。
結局、陸軍大臣が決まらなかったという前代未聞の理由で、西園寺内閣は瓦解してしまいました。大臣が一人でも欠けてしまうと、内閣は機能しなくなってしまうのです。 | 上原が陸軍大臣を辞任したあと、西園寺が新たに陸軍大臣を任命すればよかったのですが、どのような理由で、後任が決まらなかったのですか。 | 上原が陸軍大臣を辞任したあと、西園寺が新たに陸軍大臣を任命すればよかったのですが、陸軍大臣、海軍大臣は現役の軍人に限るという規定があったため、陸軍者から大臣を出すべきなのですが、その陸軍者が、西園寺内閣には陸軍大臣を設けないという意向を示していたので、後任が決まりませんでした。 |
JCRRAG_012378 | 歴史 | 大正時代は、二つに分けて見ていきましょう。1912年の大正時代のはじまりから、第一次世界大戦を経て、米騒動で1918年に寺内内閣が退陣するまでの時期を前半とし、1918年の原敬内閣の成立から関東大震災が起こり、1926年に大正時代が終わるまでを後半とします。
明治天皇は1912年にこの世を去り、次に大正天皇が即位しましたので、ここから大正時代がはじまります。こちらで書いたように、その頃は桂太郎と西園寺公望が交互に内閣総理大臣に就任していた桂園時代でしたが、第二次西園寺内閣だったこの年に、二個師団増設要求が陸軍者から出てきます。これは、朝鮮に陸軍師団を一つ増やしてほしいという意味です。
その2年前の1910年に日本は韓国を併合していますが、中国で1911年に辛亥革命が起こり、中華民国(臨時大統領は孫文)が1912年に建国されました。
なぜ二個師団増設を求めたかというと、このように中国が混乱しているときだったので、日本が勢力を伸ばせるチャンスだと考え、大陸進出の拠点になる朝鮮に、二個師団を増やしてくれということでした。
その頃、西園寺は恐慌対策に追われている最中でしたから、「そんなお金はない」といって、この要求を拒否しました。それに怒った陸軍大臣・上原勇作は単独で大臣を辞めてしまいます。ここで問題が起こりました。以前制定された軍部大臣現役武官制というものがありましたね。
上原が陸軍大臣を辞任したあと、西園寺が新たに陸軍大臣を任命すればよかったのですが、陸軍大臣、海軍大臣は現役の軍人に限るという規定があったため、陸軍者から大臣を出すべきなのですが、その陸軍者が、西園寺内閣には陸軍大臣を設けないという意向を示していたので、後任が決まりませんでした。
結局、陸軍大臣が決まらなかったという前代未聞の理由で、西園寺内閣は瓦解してしまいました。大臣が一人でも欠けてしまうと、内閣は機能しなくなってしまうのです。 | 陸軍大臣が決まらなかったという前代未聞の理由で、西園寺内閣はどうなりましたか。 | 陸軍大臣が決まらなかったという前代未聞の理由で、西園寺内閣は瓦解してしまいました。 |
JCRRAG_012379 | 歴史 | 西園寺内閣の次に登場するのが、第三次桂太郎内閣です。山県系の桂は、議会を無視するタイプの超然主義です。それに対しての反発が起こります。それが第一次護憲運動といって、閥族打破、憲政擁護をスローガンにした運動でした。つまり、憲法に沿った政治を守っていくために、閥族を打破し、官僚支配をやめさせようというものです。
運動の軸になった人物は、立憲政友会の尾崎行雄、立憲国民党(憲政本党から改称)の犬養毅たちで、実業界やマスメディアを巻き込み、全国に広めて、規模を大きくしていきました。
政府系の国民新聞社が護憲運動のデモ隊に襲撃されたり、国会が取り囲まれたり、大変な事態を引き起こしたところで、衆議院議長・大岡育造が、「このまま放っておいたら内乱が起こる」といって、桂太郎に退陣するよう迫りました。そして、第三次桂内閣は組閣からたった五十日あまりで退陣するはめになりました(大正政変)。
その次は海軍出身の山本権兵衛内閣が登場しましたが、さすがに激しくなっていた護憲運動の要求をはねのけるわけにはいかず、まず軍部大臣現役武官制を改正しました。現役以外の予備校、後備役の中将や大将でも軍部大臣になれるようにしました。
また、以前のように政党員でも高級官僚になれるようにと、文官任用令を緩めました。薩摩出身だった山本ですが、穏健派なので、立憲政友会を与党とし、薩長閥族にとってはあまり都合がよくない政策をどんどん取り入れていきます。その頃、そのやり方に反発して山本内閣をつぶしたいと考えている勢力も登場してきました。
ここで一旦、古代の出来事を思い出してください。540年に大伴金村が失脚したときの原因ですが、賄賂事件が発覚したからですね。どの時代にもいえることですが、気に入らない政治家の政治生命をつぶしたい時は、醜聞をリークしてバラすというのが最も使われている手段です。
そして、1914年にシーメンス事件というものが発覚します。これは、ドイツのジーメンスという会社による日本海軍高官への、軍艦や武器輸出などについての贈賄事件です。これを薩長藩閥の官僚がバラしたため、一気に海軍に対しての批判意識が高まりました。海軍出身であった山本は、責任をとるというかたちで内閣総辞職をせざるをえなくなりました。 | 西園寺内閣の次に登場するのは、誰の内閣ですか。 | 西園寺内閣の次に登場するのが、第三次桂太郎内閣です。 |
JCRRAG_012380 | 歴史 | 西園寺内閣の次に登場するのが、第三次桂太郎内閣です。山県系の桂は、議会を無視するタイプの超然主義です。それに対しての反発が起こります。それが第一次護憲運動といって、閥族打破、憲政擁護をスローガンにした運動でした。つまり、憲法に沿った政治を守っていくために、閥族を打破し、官僚支配をやめさせようというものです。
運動の軸になった人物は、立憲政友会の尾崎行雄、立憲国民党(憲政本党から改称)の犬養毅たちで、実業界やマスメディアを巻き込み、全国に広めて、規模を大きくしていきました。
政府系の国民新聞社が護憲運動のデモ隊に襲撃されたり、国会が取り囲まれたり、大変な事態を引き起こしたところで、衆議院議長・大岡育造が、「このまま放っておいたら内乱が起こる」といって、桂太郎に退陣するよう迫りました。そして、第三次桂内閣は組閣からたった五十日あまりで退陣するはめになりました(大正政変)。
その次は海軍出身の山本権兵衛内閣が登場しましたが、さすがに激しくなっていた護憲運動の要求をはねのけるわけにはいかず、まず軍部大臣現役武官制を改正しました。現役以外の予備校、後備役の中将や大将でも軍部大臣になれるようにしました。
また、以前のように政党員でも高級官僚になれるようにと、文官任用令を緩めました。薩摩出身だった山本ですが、穏健派なので、立憲政友会を与党とし、薩長閥族にとってはあまり都合がよくない政策をどんどん取り入れていきます。その頃、そのやり方に反発して山本内閣をつぶしたいと考えている勢力も登場してきました。
ここで一旦、古代の出来事を思い出してください。540年に大伴金村が失脚したときの原因ですが、賄賂事件が発覚したからですね。どの時代にもいえることですが、気に入らない政治家の政治生命をつぶしたい時は、醜聞をリークしてバラすというのが最も使われている手段です。
そして、1914年にシーメンス事件というものが発覚します。これは、ドイツのジーメンスという会社による日本海軍高官への、軍艦や武器輸出などについての贈賄事件です。これを薩長藩閥の官僚がバラしたため、一気に海軍に対しての批判意識が高まりました。海軍出身であった山本は、責任をとるというかたちで内閣総辞職をせざるをえなくなりました。 | 運動の軸になった人物は、どのような人物たちで、実業界やマスメディアを巻き込み、全国に広めて、規模を大きくしていきましたか。 | 運動の軸になった人物は、立憲政友会の尾崎行雄、立憲国民党(憲政本党から改称)の犬養毅たちで、実業界やマスメディアを巻き込み、全国に広めて、規模を大きくしていきました。 |
JCRRAG_012381 | 歴史 | 西園寺内閣の次に登場するのが、第三次桂太郎内閣です。山県系の桂は、議会を無視するタイプの超然主義です。それに対しての反発が起こります。それが第一次護憲運動といって、閥族打破、憲政擁護をスローガンにした運動でした。つまり、憲法に沿った政治を守っていくために、閥族を打破し、官僚支配をやめさせようというものです。
運動の軸になった人物は、立憲政友会の尾崎行雄、立憲国民党(憲政本党から改称)の犬養毅たちで、実業界やマスメディアを巻き込み、全国に広めて、規模を大きくしていきました。
政府系の国民新聞社が護憲運動のデモ隊に襲撃されたり、国会が取り囲まれたり、大変な事態を引き起こしたところで、衆議院議長・大岡育造が、「このまま放っておいたら内乱が起こる」といって、桂太郎に退陣するよう迫りました。そして、第三次桂内閣は組閣からたった五十日あまりで退陣するはめになりました(大正政変)。
その次は海軍出身の山本権兵衛内閣が登場しましたが、さすがに激しくなっていた護憲運動の要求をはねのけるわけにはいかず、まず軍部大臣現役武官制を改正しました。現役以外の予備校、後備役の中将や大将でも軍部大臣になれるようにしました。
また、以前のように政党員でも高級官僚になれるようにと、文官任用令を緩めました。薩摩出身だった山本ですが、穏健派なので、立憲政友会を与党とし、薩長閥族にとってはあまり都合がよくない政策をどんどん取り入れていきます。その頃、そのやり方に反発して山本内閣をつぶしたいと考えている勢力も登場してきました。
ここで一旦、古代の出来事を思い出してください。540年に大伴金村が失脚したときの原因ですが、賄賂事件が発覚したからですね。どの時代にもいえることですが、気に入らない政治家の政治生命をつぶしたい時は、醜聞をリークしてバラすというのが最も使われている手段です。
そして、1914年にシーメンス事件というものが発覚します。これは、ドイツのジーメンスという会社による日本海軍高官への、軍艦や武器輸出などについての贈賄事件です。これを薩長藩閥の官僚がバラしたため、一気に海軍に対しての批判意識が高まりました。海軍出身であった山本は、責任をとるというかたちで内閣総辞職をせざるをえなくなりました。 | 第三次桂内閣は組閣から何日で退陣するはめになりましたか。 | 第三次桂内閣は組閣からたった五十日あまりで退陣するはめになりました。 |
JCRRAG_012382 | 歴史 | 西園寺内閣の次に登場するのが、第三次桂太郎内閣です。山県系の桂は、議会を無視するタイプの超然主義です。それに対しての反発が起こります。それが第一次護憲運動といって、閥族打破、憲政擁護をスローガンにした運動でした。つまり、憲法に沿った政治を守っていくために、閥族を打破し、官僚支配をやめさせようというものです。
運動の軸になった人物は、立憲政友会の尾崎行雄、立憲国民党(憲政本党から改称)の犬養毅たちで、実業界やマスメディアを巻き込み、全国に広めて、規模を大きくしていきました。
政府系の国民新聞社が護憲運動のデモ隊に襲撃されたり、国会が取り囲まれたり、大変な事態を引き起こしたところで、衆議院議長・大岡育造が、「このまま放っておいたら内乱が起こる」といって、桂太郎に退陣するよう迫りました。そして、第三次桂内閣は組閣からたった五十日あまりで退陣するはめになりました(大正政変)。
その次は海軍出身の山本権兵衛内閣が登場しましたが、さすがに激しくなっていた護憲運動の要求をはねのけるわけにはいかず、まず軍部大臣現役武官制を改正しました。現役以外の予備校、後備役の中将や大将でも軍部大臣になれるようにしました。
また、以前のように政党員でも高級官僚になれるようにと、文官任用令を緩めました。薩摩出身だった山本ですが、穏健派なので、立憲政友会を与党とし、薩長閥族にとってはあまり都合がよくない政策をどんどん取り入れていきます。その頃、そのやり方に反発して山本内閣をつぶしたいと考えている勢力も登場してきました。
ここで一旦、古代の出来事を思い出してください。540年に大伴金村が失脚したときの原因ですが、賄賂事件が発覚したからですね。どの時代にもいえることですが、気に入らない政治家の政治生命をつぶしたい時は、醜聞をリークしてバラすというのが最も使われている手段です。
そして、1914年にシーメンス事件というものが発覚します。これは、ドイツのジーメンスという会社による日本海軍高官への、軍艦や武器輸出などについての贈賄事件です。これを薩長藩閥の官僚がバラしたため、一気に海軍に対しての批判意識が高まりました。海軍出身であった山本は、責任をとるというかたちで内閣総辞職をせざるをえなくなりました。 | 山本は、どのようなかたちで内閣総辞職をせざるをえなくなりましたか。 | 山本は、責任をとるというかたちで内閣総辞職をせざるをえなくなりました。 |
JCRRAG_012383 | 歴史 | 山本権兵衛内閣の次の内閣総理大臣をどうするかで、元老たちは悩みました。また閥族にしてしまうと、護憲運動が再発するかもしれない。だからといって、政党に気に入られたいと思っているような政治家では、元老たちも藩閥なので、都合がよくないのです。
そして仕方なく決まったのが、政界から逃げていたとはいえ、まだまだ国民的な人気は高かった大隈重信です。明治十四年の政変(1881年)で罷免されたのち、健全なジャーナリズムと野党を育てていかないと、日本はだめになるという持論を持っていた大隈は、立憲改進党と東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立しました。
そして、第二次大隈重信内閣が1914年4月に発足されました。大隈自身が設立した立憲改進党の意思を受け継いだ立憲同志が与党でした。
この頃、ヨーロッパは利害関係から大きく二つに分かれて対立していたため、大きな動きがありました。それぞれオーストリア、イタリア、ドイツの三国同盟と、フランス、イギリス、ロシアの三国協商です。
ロシアとフランスは前から仲が良く、三国協商はもともと露仏同盟でした。それに対してロシアとドイツは、ポーランドをはさんで向かい合う位置にあったので、地理的にも対立関係にありました。そのドイツにイタリア、オーストリアが味方をして三国同盟となりました。
その頃は三国同盟と、露仏同盟は対立してはいましたが、力関係は同じくらいでしたので、均衡が保たれていたため、戦争は起きませんでした。
しかし、イギリスが露仏同盟に加わり、バランスが崩れます。なぜイギリスが加わったかというと、理由は二つあります。日露戦争によってロシアの南下政策がストップしたことが一つ目。植民地を少ししか持っていなかったドイツやイタリアが帝国主義化し、職民権獲得に参戦しだしたことが二つ目です。
すると、イギリスは南下政策を止めたロシアと対立する必要はなくなるのですが、ドイツ、オーストリア、イタリアに脅威を感じることになります。なので、ロシアとフランスの味方をしだしたのです。
その力関係が崩れてきたことによって、例えばバルカン半島の紛争や、いろいろな紛争が勃発して第一次世界大戦に突入するのですが、サラエヴォ事件が、戦争の直接の引き金となりました。オーストリアの皇太子夫妻が1914年6月にセルビア人に暗殺されてしまいました。ここでまず、オーストリアとセルビアが戦争になります。
そこに、セルビアと親交があったロシアが加わり、さらにフランス、イギリスも参戦します。ドイツはオーストリアにつきました。こうして、最後はヨーロッパ全体が戦争状態となり、世界を二分した第一次世界大戦に突入していくこととなります。日本は、日英同盟を理由にして、ドイツに宣戦布告し、三国協商(連合国)側として参戦しました。 | 大隈は、何を創立しましたか。 | 明治十四年の政変(1881年)で罷免されたのち、健全なジャーナリズムと野党を育てていかないと、日本はだめになるという持論を持っていた大隈は、立憲改進党と東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立しました。 |
JCRRAG_012384 | 歴史 | 山本権兵衛内閣の次の内閣総理大臣をどうするかで、元老たちは悩みました。また閥族にしてしまうと、護憲運動が再発するかもしれない。だからといって、政党に気に入られたいと思っているような政治家では、元老たちも藩閥なので、都合がよくないのです。
そして仕方なく決まったのが、政界から逃げていたとはいえ、まだまだ国民的な人気は高かった大隈重信です。明治十四年の政変(1881年)で罷免されたのち、健全なジャーナリズムと野党を育てていかないと、日本はだめになるという持論を持っていた大隈は、立憲改進党と東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立しました。
そして、第二次大隈重信内閣が1914年4月に発足されました。大隈自身が設立した立憲改進党の意思を受け継いだ立憲同志が与党でした。
この頃、ヨーロッパは利害関係から大きく二つに分かれて対立していたため、大きな動きがありました。それぞれオーストリア、イタリア、ドイツの三国同盟と、フランス、イギリス、ロシアの三国協商です。
ロシアとフランスは前から仲が良く、三国協商はもともと露仏同盟でした。それに対してロシアとドイツは、ポーランドをはさんで向かい合う位置にあったので、地理的にも対立関係にありました。そのドイツにイタリア、オーストリアが味方をして三国同盟となりました。
その頃は三国同盟と、露仏同盟は対立してはいましたが、力関係は同じくらいでしたので、均衡が保たれていたため、戦争は起きませんでした。
しかし、イギリスが露仏同盟に加わり、バランスが崩れます。なぜイギリスが加わったかというと、理由は二つあります。日露戦争によってロシアの南下政策がストップしたことが一つ目。植民地を少ししか持っていなかったドイツやイタリアが帝国主義化し、職民権獲得に参戦しだしたことが二つ目です。
すると、イギリスは南下政策を止めたロシアと対立する必要はなくなるのですが、ドイツ、オーストリア、イタリアに脅威を感じることになります。なので、ロシアとフランスの味方をしだしたのです。
その力関係が崩れてきたことによって、例えばバルカン半島の紛争や、いろいろな紛争が勃発して第一次世界大戦に突入するのですが、サラエヴォ事件が、戦争の直接の引き金となりました。オーストリアの皇太子夫妻が1914年6月にセルビア人に暗殺されてしまいました。ここでまず、オーストリアとセルビアが戦争になります。
そこに、セルビアと親交があったロシアが加わり、さらにフランス、イギリスも参戦します。ドイツはオーストリアにつきました。こうして、最後はヨーロッパ全体が戦争状態となり、世界を二分した第一次世界大戦に突入していくこととなります。日本は、日英同盟を理由にして、ドイツに宣戦布告し、三国協商(連合国)側として参戦しました。 | 第二次大隈重信内閣はいつ発足されましたか。 | 第二次大隈重信内閣が1914年4月に発足されました。 |
JCRRAG_012385 | 歴史 | 山本権兵衛内閣の次の内閣総理大臣をどうするかで、元老たちは悩みました。また閥族にしてしまうと、護憲運動が再発するかもしれない。だからといって、政党に気に入られたいと思っているような政治家では、元老たちも藩閥なので、都合がよくないのです。
そして仕方なく決まったのが、政界から逃げていたとはいえ、まだまだ国民的な人気は高かった大隈重信です。明治十四年の政変(1881年)で罷免されたのち、健全なジャーナリズムと野党を育てていかないと、日本はだめになるという持論を持っていた大隈は、立憲改進党と東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立しました。
そして、第二次大隈重信内閣が1914年4月に発足されました。大隈自身が設立した立憲改進党の意思を受け継いだ立憲同志が与党でした。
この頃、ヨーロッパは利害関係から大きく二つに分かれて対立していたため、大きな動きがありました。それぞれオーストリア、イタリア、ドイツの三国同盟と、フランス、イギリス、ロシアの三国協商です。
ロシアとフランスは前から仲が良く、三国協商はもともと露仏同盟でした。それに対してロシアとドイツは、ポーランドをはさんで向かい合う位置にあったので、地理的にも対立関係にありました。そのドイツにイタリア、オーストリアが味方をして三国同盟となりました。
その頃は三国同盟と、露仏同盟は対立してはいましたが、力関係は同じくらいでしたので、均衡が保たれていたため、戦争は起きませんでした。
しかし、イギリスが露仏同盟に加わり、バランスが崩れます。なぜイギリスが加わったかというと、理由は二つあります。日露戦争によってロシアの南下政策がストップしたことが一つ目。植民地を少ししか持っていなかったドイツやイタリアが帝国主義化し、職民権獲得に参戦しだしたことが二つ目です。
すると、イギリスは南下政策を止めたロシアと対立する必要はなくなるのですが、ドイツ、オーストリア、イタリアに脅威を感じることになります。なので、ロシアとフランスの味方をしだしたのです。
その力関係が崩れてきたことによって、例えばバルカン半島の紛争や、いろいろな紛争が勃発して第一次世界大戦に突入するのですが、サラエヴォ事件が、戦争の直接の引き金となりました。オーストリアの皇太子夫妻が1914年6月にセルビア人に暗殺されてしまいました。ここでまず、オーストリアとセルビアが戦争になります。
そこに、セルビアと親交があったロシアが加わり、さらにフランス、イギリスも参戦します。ドイツはオーストリアにつきました。こうして、最後はヨーロッパ全体が戦争状態となり、世界を二分した第一次世界大戦に突入していくこととなります。日本は、日英同盟を理由にして、ドイツに宣戦布告し、三国協商(連合国)側として参戦しました。 | 三国協商はもともと何同盟でしたか。 | ロシアとフランスは前から仲が良く、三国協商はもともと露仏同盟でした。 |
JCRRAG_012386 | 歴史 | 戦争がはじまると、三国同盟だったイタリアが、ドイツ主導の帝国主義に嫌気がさして、連合国側にまわってしまいます。最初、アメリカは中立の立場にいたのですが、ドイツがはじめた無制限潜水艦作戦がきっかけとなって、参戦に転じました。
その時世界のほとんどの国がドイツの敵となっていたため、ドイツは潜水艦で敵の国籍を見ないまま攻撃をするようになり、アメリカの船まで被害を受けてしまいました。そのため、無視できなくなったというわけです。
連合国にアメリカが加わったことで、三国協商側が圧倒的にリードをして、第一次世界大戦は連合国の圧勝に終わりました。第一次世界大戦は、ヨーロッパで勃発した、ヨーロッパ諸国同士の総力戦といえるでしょう。これになぜ日本が参戦したかというと、中国での利権を拡大しようとしている日本にとって、ドイツから利権を奪える最大のチャンスだと思ったからです。
実際に、山東半島にあるドイツの租借地であった青島や、赤道以北の南洋諸島の一部を占領できました。さらに、1915年に、アジアからヨーロッパ諸国が目を離している隙に、中国に対して、高圧的な二十一カ条の要求を提示しました。
これの内容としては、ドイツから奪った山東省の権益を日本が引き継ぐこと、旅順・大連の租借期限を延ばすこと、中国最大の製鉄会社(漢冶萍公司)を日中合同事業にすること、といったところでしたが、袁世凱をトップとした中華民国は、ほとんどの要求を受け容れました。これにより、中国国内の反日運動はさらに激しさを増しました。
日本はこのあと、1916年に第四次日露協約、1917年に日英覚書(日本の権益継承の確認)、アメリカと石井・ランシング協定をそれぞれ結び、第一次世界大戦の時に日本がやったことを、結果的にアメリカ、イギリス、ロシアに認めさせました。
日本が中国に進出することに対してアメリカは批判的でしたが、ここはお互いの利害を比べてみることで、アメリカの門戸開放・機会均等を日本が認めるかわりに、日本の特殊権益を認めてもらったのです。この時の「門戸開放・機会均等」とは、アメリカも中国に自由に進出していいですよ、という意味です。
イギリス・アメリカ・ロシアが当時の世界の三大国でしたので、国際社会の力関係で生き抜いていくには、イギリス・アメリカ・ロシアを味方にする必要がありました。逆に、この国々が認めれば、反発する国は世界中に存在しなかったのです。
こうして日本は、第一次世界大戦で獲得した権益を確かなものにしたのです。 | 国際社会の力関係で生き抜いていくには、どの国を味方にする必要がありましたか。 | イギリス・アメリカ・ロシアが当時の世界の三大国でしたので、国際社会の力関係で生き抜いていくには、イギリス・アメリカ・ロシアを味方にする必要がありました。 |
JCRRAG_012387 | 歴史 | ロシア革命が1917年に起こりました。そしてロシアは社会主義国となりますが、それに反発する人たちが出てきます。そして、アメリカ、イギリス、フランス、日本の四カ国が、シベリア出兵を決定します。出兵の名目としては、チェコスロバキア軍を助けようということでしたが、実際はロシアに対する革命干渉でした。
日本でもシベリア出兵が決定すると、兵隊にお米を持たせなければいけないので、お米が大量に必要になります。そこを見越して、米穀商人たちが米価をつり上げだしました。お米がなかったわけではないのですが、ないふりをして、売るのを惜しみだしたのです。
急激な米価高騰が起こったのは1918年でしたが、これに対して、富山県の漁村の主婦たちが反発運動をはじめました。この米騒動は「越中女一揆」ともよばれていて、それをきっかけにして、全国で米騒動が勃発しました。
これに対して、寺内内閣は軍隊を出動させて鎮圧させようとしました。本当に悪いのは米価をつりあげている商人なのに、そちらの処罰や規制はせずに、暴れているほうのみに目を向けて強硬手段をとるというのは、いかにも軍人的な考え方です。
結局、国民や国会内部からも反対をされてしまい、寺内内閣はどうしようもなくなり、総辞職に追い込まれてしまいました。 | ロシア革命はいつ起こりましたか。 | ロシア革命が1917年に起こりました。 |
JCRRAG_012388 | 歴史 | ロシア革命が1917年に起こりました。そしてロシアは社会主義国となりますが、それに反発する人たちが出てきます。そして、アメリカ、イギリス、フランス、日本の四カ国が、シベリア出兵を決定します。出兵の名目としては、チェコスロバキア軍を助けようということでしたが、実際はロシアに対する革命干渉でした。
日本でもシベリア出兵が決定すると、兵隊にお米を持たせなければいけないので、お米が大量に必要になります。そこを見越して、米穀商人たちが米価をつり上げだしました。お米がなかったわけではないのですが、ないふりをして、売るのを惜しみだしたのです。
急激な米価高騰が起こったのは1918年でしたが、これに対して、富山県の漁村の主婦たちが反発運動をはじめました。この米騒動は「越中女一揆」ともよばれていて、それをきっかけにして、全国で米騒動が勃発しました。
これに対して、寺内内閣は軍隊を出動させて鎮圧させようとしました。本当に悪いのは米価をつりあげている商人なのに、そちらの処罰や規制はせずに、暴れているほうのみに目を向けて強硬手段をとるというのは、いかにも軍人的な考え方です。
結局、国民や国会内部からも反対をされてしまい、寺内内閣はどうしようもなくなり、総辞職に追い込まれてしまいました。 | 日本でもシベリア出兵が決定すると、どのような理由でお米が大量に必要になりますか。 | 日本でもシベリア出兵が決定すると、兵隊にお米を持たせなければいけないので、お米が大量に必要になります。 |
JCRRAG_012389 | 歴史 | ロシア革命が1917年に起こりました。そしてロシアは社会主義国となりますが、それに反発する人たちが出てきます。そして、アメリカ、イギリス、フランス、日本の四カ国が、シベリア出兵を決定します。出兵の名目としては、チェコスロバキア軍を助けようということでしたが、実際はロシアに対する革命干渉でした。
日本でもシベリア出兵が決定すると、兵隊にお米を持たせなければいけないので、お米が大量に必要になります。そこを見越して、米穀商人たちが米価をつり上げだしました。お米がなかったわけではないのですが、ないふりをして、売るのを惜しみだしたのです。
急激な米価高騰が起こったのは1918年でしたが、これに対して、富山県の漁村の主婦たちが反発運動をはじめました。この米騒動は「越中女一揆」ともよばれていて、それをきっかけにして、全国で米騒動が勃発しました。
これに対して、寺内内閣は軍隊を出動させて鎮圧させようとしました。本当に悪いのは米価をつりあげている商人なのに、そちらの処罰や規制はせずに、暴れているほうのみに目を向けて強硬手段をとるというのは、いかにも軍人的な考え方です。
結局、国民や国会内部からも反対をされてしまい、寺内内閣はどうしようもなくなり、総辞職に追い込まれてしまいました。 | 急激な米価高騰が起こったのは1918年でしたが、これに対して、どのような人たちが反発運動をはじめましたか。 | 急激な米価高騰が起こったのは1918年でしたが、これに対して、富山県の漁村の主婦たちが反発運動をはじめました。 |
JCRRAG_012390 | 歴史 | ロシア革命が1917年に起こりました。そしてロシアは社会主義国となりますが、それに反発する人たちが出てきます。そして、アメリカ、イギリス、フランス、日本の四カ国が、シベリア出兵を決定します。出兵の名目としては、チェコスロバキア軍を助けようということでしたが、実際はロシアに対する革命干渉でした。
日本でもシベリア出兵が決定すると、兵隊にお米を持たせなければいけないので、お米が大量に必要になります。そこを見越して、米穀商人たちが米価をつり上げだしました。お米がなかったわけではないのですが、ないふりをして、売るのを惜しみだしたのです。
急激な米価高騰が起こったのは1918年でしたが、これに対して、富山県の漁村の主婦たちが反発運動をはじめました。この米騒動は「越中女一揆」ともよばれていて、それをきっかけにして、全国で米騒動が勃発しました。
これに対して、寺内内閣は軍隊を出動させて鎮圧させようとしました。本当に悪いのは米価をつりあげている商人なのに、そちらの処罰や規制はせずに、暴れているほうのみに目を向けて強硬手段をとるというのは、いかにも軍人的な考え方です。
結局、国民や国会内部からも反対をされてしまい、寺内内閣はどうしようもなくなり、総辞職に追い込まれてしまいました。 | この米騒動は「越中女一揆」ともよばれていて、それをきっかけにして、全国で何が勃発しましたか。 | この米騒動は「越中女一揆」ともよばれていて、それをきっかけにして、全国で米騒動が勃発しました。 |
JCRRAG_012391 | 歴史 | 日本は、1895年4月に締結された下関条約によって、遼東半島の権利を手に入れました。しかし、その頃南下政策を進めていたロシアは、遼東半島を領有しようと目をつけていたのです。
そこで、ロシアはドイツとフランスに声をかけ、一緒に日本に対して圧力をかけてきました。これを三国干渉とよんでいます。日清戦争に先だって、なぜイギリスが日本を支援しようとしたかというと、ロシアの南進を止めたかったというのも一つの理由です。
例えばインドや東欧の国々などには、イギリスの植民地やイギリスが影響力を持っている土地が多く、それらはロシアの南にありました。なのでイギリスは何とかしてロシアの南下を止めたかったのです。
日本も、満州や朝鮮の地域へのロシアの南下に危機感を抱いていました。なぜロシアが南下政策をとっていたかというと、不凍港(一年中凍らない港)がほしかったからです。ロシアは不凍港を持っていなかったので、一年のうち三ヶ月から四ヶ月は経済活動や軍事活動を制限せざるを得なくなり、国力的にも遅れをとっていました。
まだその頃は、飛行機が発明されていなかったので、船が最良の輸送手段で、また、軍事手段でもあり、経済手段だったのです。その遅れを取り戻すためにも、ロシアは何としても不凍港を手に入れたいと思っていたため、南下政策をすすめていました。
なぜイギリスがロシアではなく、日清戦争やこのあと勃発する日露戦争で、日本を支援する側にまわっていたかというと、そのあたりの事情が大きかったようです。 | 日本は、1895年4月に締結された下関条約によって、何の権利を手に入れましたか。 | 日本は、1895年4月に締結された下関条約によって、遼東半島の権利を手に入れました。 |
JCRRAG_012392 | 歴史 | 日本は、1895年4月に締結された下関条約によって、遼東半島の権利を手に入れました。しかし、その頃南下政策を進めていたロシアは、遼東半島を領有しようと目をつけていたのです。
そこで、ロシアはドイツとフランスに声をかけ、一緒に日本に対して圧力をかけてきました。これを三国干渉とよんでいます。日清戦争に先だって、なぜイギリスが日本を支援しようとしたかというと、ロシアの南進を止めたかったというのも一つの理由です。
例えばインドや東欧の国々などには、イギリスの植民地やイギリスが影響力を持っている土地が多く、それらはロシアの南にありました。なのでイギリスは何とかしてロシアの南下を止めたかったのです。
日本も、満州や朝鮮の地域へのロシアの南下に危機感を抱いていました。なぜロシアが南下政策をとっていたかというと、不凍港(一年中凍らない港)がほしかったからです。ロシアは不凍港を持っていなかったので、一年のうち三ヶ月から四ヶ月は経済活動や軍事活動を制限せざるを得なくなり、国力的にも遅れをとっていました。
まだその頃は、飛行機が発明されていなかったので、船が最良の輸送手段で、また、軍事手段でもあり、経済手段だったのです。その遅れを取り戻すためにも、ロシアは何としても不凍港を手に入れたいと思っていたため、南下政策をすすめていました。
なぜイギリスがロシアではなく、日清戦争やこのあと勃発する日露戦争で、日本を支援する側にまわっていたかというと、そのあたりの事情が大きかったようです。 | 南下政策を進めていたロシアは、どこを領有しようと目をつけていましたか。 | その頃南下政策を進めていたロシアは、遼東半島を領有しようと目をつけていたのです。 |
JCRRAG_012393 | 歴史 | 日本は、1895年4月に締結された下関条約によって、遼東半島の権利を手に入れました。しかし、その頃南下政策を進めていたロシアは、遼東半島を領有しようと目をつけていたのです。
そこで、ロシアはドイツとフランスに声をかけ、一緒に日本に対して圧力をかけてきました。これを三国干渉とよんでいます。日清戦争に先だって、なぜイギリスが日本を支援しようとしたかというと、ロシアの南進を止めたかったというのも一つの理由です。
例えばインドや東欧の国々などには、イギリスの植民地やイギリスが影響力を持っている土地が多く、それらはロシアの南にありました。なのでイギリスは何とかしてロシアの南下を止めたかったのです。
日本も、満州や朝鮮の地域へのロシアの南下に危機感を抱いていました。なぜロシアが南下政策をとっていたかというと、不凍港(一年中凍らない港)がほしかったからです。ロシアは不凍港を持っていなかったので、一年のうち三ヶ月から四ヶ月は経済活動や軍事活動を制限せざるを得なくなり、国力的にも遅れをとっていました。
まだその頃は、飛行機が発明されていなかったので、船が最良の輸送手段で、また、軍事手段でもあり、経済手段だったのです。その遅れを取り戻すためにも、ロシアは何としても不凍港を手に入れたいと思っていたため、南下政策をすすめていました。
なぜイギリスがロシアではなく、日清戦争やこのあと勃発する日露戦争で、日本を支援する側にまわっていたかというと、そのあたりの事情が大きかったようです。 | 日本も、満州や朝鮮の地域へのロシアの南下についてどう感じていましたか。 | 日本も、満州や朝鮮の地域へのロシアの南下に危機感を抱いていました。 |
JCRRAG_012394 | 歴史 | 日本は、1895年4月に締結された下関条約によって、遼東半島の権利を手に入れました。しかし、その頃南下政策を進めていたロシアは、遼東半島を領有しようと目をつけていたのです。
そこで、ロシアはドイツとフランスに声をかけ、一緒に日本に対して圧力をかけてきました。これを三国干渉とよんでいます。日清戦争に先だって、なぜイギリスが日本を支援しようとしたかというと、ロシアの南進を止めたかったというのも一つの理由です。
例えばインドや東欧の国々などには、イギリスの植民地やイギリスが影響力を持っている土地が多く、それらはロシアの南にありました。なのでイギリスは何とかしてロシアの南下を止めたかったのです。
日本も、満州や朝鮮の地域へのロシアの南下に危機感を抱いていました。なぜロシアが南下政策をとっていたかというと、不凍港(一年中凍らない港)がほしかったからです。ロシアは不凍港を持っていなかったので、一年のうち三ヶ月から四ヶ月は経済活動や軍事活動を制限せざるを得なくなり、国力的にも遅れをとっていました。
まだその頃は、飛行機が発明されていなかったので、船が最良の輸送手段で、また、軍事手段でもあり、経済手段だったのです。その遅れを取り戻すためにも、ロシアは何としても不凍港を手に入れたいと思っていたため、南下政策をすすめていました。
なぜイギリスがロシアではなく、日清戦争やこのあと勃発する日露戦争で、日本を支援する側にまわっていたかというと、そのあたりの事情が大きかったようです。 | ロシアは不凍港を持っていなかったので、国力はどうなっていたか。 | ロシアは不凍港を持っていなかったので、一年のうち三ヶ月から四ヶ月は経済活動や軍事活動を制限せざるを得なくなり、国力的にも遅れをとっていました。 |
JCRRAG_012395 | 歴史 | 三国干渉が具体的にどういったものだったかというと、『三千万両と引き換えに、遼東半島を清に返還しろ』というものでした。その頃の日本のお金にしてみると、四千五百万円といったところです。
結局、日本は要求をのむしかなく、遼東半島を清に返還しました。ヨーロッパの列強に迫られては、仕方なくもありましたが、とても悔しく思った日本の心境は「臥薪嘗胆」という言葉で表現されました。これは、薪の上で寝て痛い思いをしても、肝を嘗めて苦さを味わったとしても、忘れたくないほどの悔しさだったという意味です。
この出来事は、ロシアに対する反感を強く日本国民に植え付けることとなりました。そして、日本の軍事拡張をうながすことになるのです。しかも、1898年に、ロシアはその遼東半島を清から租借するのです。租借というのは、期限を設けて占領することです。
清がロシアの租借に応じた理由は、ロシアを後ろ盾として味方につけておけば、日本がよけいな手出しをしてこないだろうと思ったからで、三国干渉後に、清のほうからロシアに近づいていったという背景がありました。
日清戦争が起きた後、朝鮮では親日派の大院君が実権を握っていたのですが、三国干渉のあとは、ロシアの力を借りた閔妃派が権力を奪い返しました。
しかしそのあと、宮中に武装組織が乱入し、1895年10月に閔妃は暗殺されてしまいます(閔妃殺害事件、乙未事変)。これは、当時の駐韓公使だった三浦梧楼らが、親露的になった閔妃のことを良く思わなかったため、暗殺を指示して起こした事件でした。
しかし、この暗殺事件がきっかけとなり、朝鮮はいままで以上にロシアへ接近しだし、1897年に大韓帝国(韓国)を宣言しました。李王朝のままでしたが、清からの独立をはっきりさせたのです。 | 三国干渉は具体的にどういったものでしたか。 | 三国干渉が具体的にどういったものだったかというと、『三千万両と引き換えに、遼東半島を清に返還しろ』というものでした。 |
JCRRAG_012396 | 歴史 | 三国干渉が具体的にどういったものだったかというと、『三千万両と引き換えに、遼東半島を清に返還しろ』というものでした。その頃の日本のお金にしてみると、四千五百万円といったところです。
結局、日本は要求をのむしかなく、遼東半島を清に返還しました。ヨーロッパの列強に迫られては、仕方なくもありましたが、とても悔しく思った日本の心境は「臥薪嘗胆」という言葉で表現されました。これは、薪の上で寝て痛い思いをしても、肝を嘗めて苦さを味わったとしても、忘れたくないほどの悔しさだったという意味です。
この出来事は、ロシアに対する反感を強く日本国民に植え付けることとなりました。そして、日本の軍事拡張をうながすことになるのです。しかも、1898年に、ロシアはその遼東半島を清から租借するのです。租借というのは、期限を設けて占領することです。
清がロシアの租借に応じた理由は、ロシアを後ろ盾として味方につけておけば、日本がよけいな手出しをしてこないだろうと思ったからで、三国干渉後に、清のほうからロシアに近づいていったという背景がありました。
日清戦争が起きた後、朝鮮では親日派の大院君が実権を握っていたのですが、三国干渉のあとは、ロシアの力を借りた閔妃派が権力を奪い返しました。
しかしそのあと、宮中に武装組織が乱入し、1895年10月に閔妃は暗殺されてしまいます(閔妃殺害事件、乙未事変)。これは、当時の駐韓公使だった三浦梧楼らが、親露的になった閔妃のことを良く思わなかったため、暗殺を指示して起こした事件でした。
しかし、この暗殺事件がきっかけとなり、朝鮮はいままで以上にロシアへ接近しだし、1897年に大韓帝国(韓国)を宣言しました。李王朝のままでしたが、清からの独立をはっきりさせたのです。 | 1898年に、ロシアは清から何をしましたか。 | 1898年に、ロシアはその遼東半島を清から租借するのです。 |
JCRRAG_012397 | 歴史 | 三国干渉が具体的にどういったものだったかというと、『三千万両と引き換えに、遼東半島を清に返還しろ』というものでした。その頃の日本のお金にしてみると、四千五百万円といったところです。
結局、日本は要求をのむしかなく、遼東半島を清に返還しました。ヨーロッパの列強に迫られては、仕方なくもありましたが、とても悔しく思った日本の心境は「臥薪嘗胆」という言葉で表現されました。これは、薪の上で寝て痛い思いをしても、肝を嘗めて苦さを味わったとしても、忘れたくないほどの悔しさだったという意味です。
この出来事は、ロシアに対する反感を強く日本国民に植え付けることとなりました。そして、日本の軍事拡張をうながすことになるのです。しかも、1898年に、ロシアはその遼東半島を清から租借するのです。租借というのは、期限を設けて占領することです。
清がロシアの租借に応じた理由は、ロシアを後ろ盾として味方につけておけば、日本がよけいな手出しをしてこないだろうと思ったからで、三国干渉後に、清のほうからロシアに近づいていったという背景がありました。
日清戦争が起きた後、朝鮮では親日派の大院君が実権を握っていたのですが、三国干渉のあとは、ロシアの力を借りた閔妃派が権力を奪い返しました。
しかしそのあと、宮中に武装組織が乱入し、1895年10月に閔妃は暗殺されてしまいます(閔妃殺害事件、乙未事変)。これは、当時の駐韓公使だった三浦梧楼らが、親露的になった閔妃のことを良く思わなかったため、暗殺を指示して起こした事件でした。
しかし、この暗殺事件がきっかけとなり、朝鮮はいままで以上にロシアへ接近しだし、1897年に大韓帝国(韓国)を宣言しました。李王朝のままでしたが、清からの独立をはっきりさせたのです。 | 清がロシアの租借に応じた理由には、どのような背景がありましたか。 | 清がロシアの租借に応じた理由は、ロシアを後ろ盾として味方につけておけば、日本がよけいな手出しをしてこないだろうと思ったからで、三国干渉後に、清のほうからロシアに近づいていったという背景がありました。 |
JCRRAG_012398 | 歴史 | 清はロシアと1896年に露清密約を結んでいます。これは、日本が侵略してきたときに盾になってもらうかわりに、ロシアに満州の権益を与えるというものでした。そして、その密約の一つとして、旅順・大連を1898年にロシアに租借させました。
しかし、中国の民衆から、中国の国土がどんどんヨーロッパに占領されていく現状に対して反乱が起こります。それが、1899年の義和団の乱で、義和団という宗教をバックにしたものです。
義和団は、ヨーロッパの侵略などに怯えず、中国はもともとは強い国なんだから、毅然とした態度をとってはねのけるべきだと主張します。このスローガンを「扶清滅洋」といい、その義和団の乱に後押しされるようにして、1900年に北清事変というものが勃発します。
ちなみに、民衆が反乱を起こしたのが義和団の乱ですが、北清事変は義和団に影響されて清政府が起こした連合軍との戦争です。その連合軍は八カ国で構成されていましたが、その中で一番活躍していたのは日本です。「極東の憲兵」といわれるほどすごい活躍で、日本の軍事力を欧米列強に見せつけることに成功しました。
結局、北清事変は清側が敗北し、連合軍側が勝利しました。そして、講和条約のような北京議定書が結ばれました。そのなかで問題となったのは、もっとも活躍したのは日本のはずなのに、満州駐在兵(満州に兵隊を置く権利)がロシアのものになってしまったということでした。
結果、日本の中では、ロシアに対しての反発意識がどんどん強くなっていきました。 | 清はロシアと1896年に何を結んでいますか。 | 清はロシアと1896年に露清密約を結んでいます。 |
JCRRAG_012399 | 歴史 | 清はロシアと1896年に露清密約を結んでいます。これは、日本が侵略してきたときに盾になってもらうかわりに、ロシアに満州の権益を与えるというものでした。そして、その密約の一つとして、旅順・大連を1898年にロシアに租借させました。
しかし、中国の民衆から、中国の国土がどんどんヨーロッパに占領されていく現状に対して反乱が起こります。それが、1899年の義和団の乱で、義和団という宗教をバックにしたものです。
義和団は、ヨーロッパの侵略などに怯えず、中国はもともとは強い国なんだから、毅然とした態度をとってはねのけるべきだと主張します。このスローガンを「扶清滅洋」といい、その義和団の乱に後押しされるようにして、1900年に北清事変というものが勃発します。
ちなみに、民衆が反乱を起こしたのが義和団の乱ですが、北清事変は義和団に影響されて清政府が起こした連合軍との戦争です。その連合軍は八カ国で構成されていましたが、その中で一番活躍していたのは日本です。「極東の憲兵」といわれるほどすごい活躍で、日本の軍事力を欧米列強に見せつけることに成功しました。
結局、北清事変は清側が敗北し、連合軍側が勝利しました。そして、講和条約のような北京議定書が結ばれました。そのなかで問題となったのは、もっとも活躍したのは日本のはずなのに、満州駐在兵(満州に兵隊を置く権利)がロシアのものになってしまったということでした。
結果、日本の中では、ロシアに対しての反発意識がどんどん強くなっていきました。 | 義和団は、ヨーロッパの侵略などに怯えず、どのような主張をしましたか。 | 義和団は、ヨーロッパの侵略などに怯えず、中国はもともとは強い国なんだから、毅然とした態度をとってはねのけるべきだと主張します。 |
JCRRAG_012400 | 歴史 | 清はロシアと1896年に露清密約を結んでいます。これは、日本が侵略してきたときに盾になってもらうかわりに、ロシアに満州の権益を与えるというものでした。そして、その密約の一つとして、旅順・大連を1898年にロシアに租借させました。
しかし、中国の民衆から、中国の国土がどんどんヨーロッパに占領されていく現状に対して反乱が起こります。それが、1899年の義和団の乱で、義和団という宗教をバックにしたものです。
義和団は、ヨーロッパの侵略などに怯えず、中国はもともとは強い国なんだから、毅然とした態度をとってはねのけるべきだと主張します。このスローガンを「扶清滅洋」といい、その義和団の乱に後押しされるようにして、1900年に北清事変というものが勃発します。
ちなみに、民衆が反乱を起こしたのが義和団の乱ですが、北清事変は義和団に影響されて清政府が起こした連合軍との戦争です。その連合軍は八カ国で構成されていましたが、その中で一番活躍していたのは日本です。「極東の憲兵」といわれるほどすごい活躍で、日本の軍事力を欧米列強に見せつけることに成功しました。
結局、北清事変は清側が敗北し、連合軍側が勝利しました。そして、講和条約のような北京議定書が結ばれました。そのなかで問題となったのは、もっとも活躍したのは日本のはずなのに、満州駐在兵(満州に兵隊を置く権利)がロシアのものになってしまったということでした。
結果、日本の中では、ロシアに対しての反発意識がどんどん強くなっていきました。 | 北清事変はどことの戦争ですか。 | 北清事変は義和団に影響されて清政府が起こした連合軍との戦争です。 |
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