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|---|---|---|---|---|
JCRRAG_012401 | 歴史 | 清はロシアと1896年に露清密約を結んでいます。これは、日本が侵略してきたときに盾になってもらうかわりに、ロシアに満州の権益を与えるというものでした。そして、その密約の一つとして、旅順・大連を1898年にロシアに租借させました。
しかし、中国の民衆から、中国の国土がどんどんヨーロッパに占領されていく現状に対して反乱が起こります。それが、1899年の義和団の乱で、義和団という宗教をバックにしたものです。
義和団は、ヨーロッパの侵略などに怯えず、中国はもともとは強い国なんだから、毅然とした態度をとってはねのけるべきだと主張します。このスローガンを「扶清滅洋」といい、その義和団の乱に後押しされるようにして、1900年に北清事変というものが勃発します。
ちなみに、民衆が反乱を起こしたのが義和団の乱ですが、北清事変は義和団に影響されて清政府が起こした連合軍との戦争です。その連合軍は八カ国で構成されていましたが、その中で一番活躍していたのは日本です。「極東の憲兵」といわれるほどすごい活躍で、日本の軍事力を欧米列強に見せつけることに成功しました。
結局、北清事変は清側が敗北し、連合軍側が勝利しました。そして、講和条約のような北京議定書が結ばれました。そのなかで問題となったのは、もっとも活躍したのは日本のはずなのに、満州駐在兵(満州に兵隊を置く権利)がロシアのものになってしまったということでした。
結果、日本の中では、ロシアに対しての反発意識がどんどん強くなっていきました。 | 北清事変はどちらが勝利しましたか。 | 北清事変は清側が敗北し、連合軍側が勝利しました。 |
JCRRAG_012402 | 歴史 | 清はロシアと1896年に露清密約を結んでいます。これは、日本が侵略してきたときに盾になってもらうかわりに、ロシアに満州の権益を与えるというものでした。そして、その密約の一つとして、旅順・大連を1898年にロシアに租借させました。
しかし、中国の民衆から、中国の国土がどんどんヨーロッパに占領されていく現状に対して反乱が起こります。それが、1899年の義和団の乱で、義和団という宗教をバックにしたものです。
義和団は、ヨーロッパの侵略などに怯えず、中国はもともとは強い国なんだから、毅然とした態度をとってはねのけるべきだと主張します。このスローガンを「扶清滅洋」といい、その義和団の乱に後押しされるようにして、1900年に北清事変というものが勃発します。
ちなみに、民衆が反乱を起こしたのが義和団の乱ですが、北清事変は義和団に影響されて清政府が起こした連合軍との戦争です。その連合軍は八カ国で構成されていましたが、その中で一番活躍していたのは日本です。「極東の憲兵」といわれるほどすごい活躍で、日本の軍事力を欧米列強に見せつけることに成功しました。
結局、北清事変は清側が敗北し、連合軍側が勝利しました。そして、講和条約のような北京議定書が結ばれました。そのなかで問題となったのは、もっとも活躍したのは日本のはずなのに、満州駐在兵(満州に兵隊を置く権利)がロシアのものになってしまったということでした。
結果、日本の中では、ロシアに対しての反発意識がどんどん強くなっていきました。 | 連合軍は八カ国で構成されていましたが、その中で一番活躍していたのはどの国でしたか。 | 連合軍は八カ国で構成されていましたが、その中で一番活躍していたのは日本です。 |
JCRRAG_012403 | 歴史 | 日本国内でのロシアに対する反感によって、日英同盟論と、日露協商論という二つの動きが起こります。イギリスと同盟を組んでロシアを追い詰めようというのが日英同盟論で、日露戦争も視野に入れています。この論を唱えていたのは、軍部の権力を握っていた山県有朋と、桂太郎などです。
対して、日露協商論というのは、平たく言えば満韓交換論です。ロシアに満州の権益を与えるかわりに、韓国での日本の権益をロシアに認めさせようというもので、これは、わざわざ争わずに妥協点を見つけて自らのやるべきことをやっていこうという、伊藤博文や井上馨らしい考え方です。
どちらに決まったかというと、1901年に桂太郎が内閣総理大臣に就任したことによって、力関係がそちらに傾き、1902年に日英同盟が締結されました。そして、1904年に日露戦争が勃発することになります。
教科書などを見ると、日英同盟協約を結んだあと、日本国内では戦争をおこなうべきだという開戦論と、戦争はしないほうがいいという非戦論が起こったと書かれていることが多いのですが、実際は国民全体が開戦論を唱えていて、非戦論に賛成する人はほとんどいませんでした。
なぜかというと、侵略するために戦争するのではなく、ロシアが好き勝手侵略行為をおこない、本当なら日本のものである権益をロシアに奪われてしまったことに対しての戦争だと国民が思っていたからです。
その頃は、国力を強くしていくには植民地を拡大していけばいいという、帝国主義的な考え方が世界的にも普及していたので、非戦論を実際に唱えていたのは、社会主義者である幸徳秋水や堺利彦などのほんの一部の者や、キリスト教のような考えを持っていた内村鑑三といった人だけでした。 | 日本国内でのロシアに対する反感によって、何が起こりましたか。 | 日本国内でのロシアに対する反感によって、日英同盟論と、日露協商論という二つの動きが起こります。 |
JCRRAG_012404 | 歴史 | 日本国内でのロシアに対する反感によって、日英同盟論と、日露協商論という二つの動きが起こります。イギリスと同盟を組んでロシアを追い詰めようというのが日英同盟論で、日露戦争も視野に入れています。この論を唱えていたのは、軍部の権力を握っていた山県有朋と、桂太郎などです。
対して、日露協商論というのは、平たく言えば満韓交換論です。ロシアに満州の権益を与えるかわりに、韓国での日本の権益をロシアに認めさせようというもので、これは、わざわざ争わずに妥協点を見つけて自らのやるべきことをやっていこうという、伊藤博文や井上馨らしい考え方です。
どちらに決まったかというと、1901年に桂太郎が内閣総理大臣に就任したことによって、力関係がそちらに傾き、1902年に日英同盟が締結されました。そして、1904年に日露戦争が勃発することになります。
教科書などを見ると、日英同盟協約を結んだあと、日本国内では戦争をおこなうべきだという開戦論と、戦争はしないほうがいいという非戦論が起こったと書かれていることが多いのですが、実際は国民全体が開戦論を唱えていて、非戦論に賛成する人はほとんどいませんでした。
なぜかというと、侵略するために戦争するのではなく、ロシアが好き勝手侵略行為をおこない、本当なら日本のものである権益をロシアに奪われてしまったことに対しての戦争だと国民が思っていたからです。
その頃は、国力を強くしていくには植民地を拡大していけばいいという、帝国主義的な考え方が世界的にも普及していたので、非戦論を実際に唱えていたのは、社会主義者である幸徳秋水や堺利彦などのほんの一部の者や、キリスト教のような考えを持っていた内村鑑三といった人だけでした。 | イギリスと同盟を組んでロシアを追い詰めようという論は、何と呼ばれていますか。 | イギリスと同盟を組んでロシアを追い詰めようというのが日英同盟論で、日露戦争も視野に入れています。 |
JCRRAG_012405 | 歴史 | 日本国内でのロシアに対する反感によって、日英同盟論と、日露協商論という二つの動きが起こります。イギリスと同盟を組んでロシアを追い詰めようというのが日英同盟論で、日露戦争も視野に入れています。この論を唱えていたのは、軍部の権力を握っていた山県有朋と、桂太郎などです。
対して、日露協商論というのは、平たく言えば満韓交換論です。ロシアに満州の権益を与えるかわりに、韓国での日本の権益をロシアに認めさせようというもので、これは、わざわざ争わずに妥協点を見つけて自らのやるべきことをやっていこうという、伊藤博文や井上馨らしい考え方です。
どちらに決まったかというと、1901年に桂太郎が内閣総理大臣に就任したことによって、力関係がそちらに傾き、1902年に日英同盟が締結されました。そして、1904年に日露戦争が勃発することになります。
教科書などを見ると、日英同盟協約を結んだあと、日本国内では戦争をおこなうべきだという開戦論と、戦争はしないほうがいいという非戦論が起こったと書かれていることが多いのですが、実際は国民全体が開戦論を唱えていて、非戦論に賛成する人はほとんどいませんでした。
なぜかというと、侵略するために戦争するのではなく、ロシアが好き勝手侵略行為をおこない、本当なら日本のものである権益をロシアに奪われてしまったことに対しての戦争だと国民が思っていたからです。
その頃は、国力を強くしていくには植民地を拡大していけばいいという、帝国主義的な考え方が世界的にも普及していたので、非戦論を実際に唱えていたのは、社会主義者である幸徳秋水や堺利彦などのほんの一部の者や、キリスト教のような考えを持っていた内村鑑三といった人だけでした。 | 日露協商論というのは、何のことですか。 | 日露協商論というのは、平たく言えば満韓交換論です。 |
JCRRAG_012406 | 歴史 | 日本国内でのロシアに対する反感によって、日英同盟論と、日露協商論という二つの動きが起こります。イギリスと同盟を組んでロシアを追い詰めようというのが日英同盟論で、日露戦争も視野に入れています。この論を唱えていたのは、軍部の権力を握っていた山県有朋と、桂太郎などです。
対して、日露協商論というのは、平たく言えば満韓交換論です。ロシアに満州の権益を与えるかわりに、韓国での日本の権益をロシアに認めさせようというもので、これは、わざわざ争わずに妥協点を見つけて自らのやるべきことをやっていこうという、伊藤博文や井上馨らしい考え方です。
どちらに決まったかというと、1901年に桂太郎が内閣総理大臣に就任したことによって、力関係がそちらに傾き、1902年に日英同盟が締結されました。そして、1904年に日露戦争が勃発することになります。
教科書などを見ると、日英同盟協約を結んだあと、日本国内では戦争をおこなうべきだという開戦論と、戦争はしないほうがいいという非戦論が起こったと書かれていることが多いのですが、実際は国民全体が開戦論を唱えていて、非戦論に賛成する人はほとんどいませんでした。
なぜかというと、侵略するために戦争するのではなく、ロシアが好き勝手侵略行為をおこない、本当なら日本のものである権益をロシアに奪われてしまったことに対しての戦争だと国民が思っていたからです。
その頃は、国力を強くしていくには植民地を拡大していけばいいという、帝国主義的な考え方が世界的にも普及していたので、非戦論を実際に唱えていたのは、社会主義者である幸徳秋水や堺利彦などのほんの一部の者や、キリスト教のような考えを持っていた内村鑑三といった人だけでした。 | 何年に日英同盟が締結されましたか。 | 1902年に日英同盟が締結されました。 |
JCRRAG_012407 | 歴史 | 「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、千利休である。
茶室「待庵」をてがける
天正10年(1582)6月、本能寺の変があった後、利休は信長に代わって豊臣秀吉(羽柴秀吉)に仕えます。そして同年8月、秀吉から茶室を作るよう命じられ、約半年間かけて茶室「待庵」を完成させました。これは現存する利休作の唯一の茶室で、現在は国宝となっています。
天正11年(1583)5月に開かれた秀吉の茶会では初めて茶頭を務め、『宗湛日記』によればその翌年には大坂城内の庭園に2畳の茶室を制作。これ以後、利休は茶道具も創作するようになりました。禁欲主義を思わせる装飾性のない彼の作品は利休道具と呼ばれています。
居士号「利休」を賜り名声を得る
天正13年(1585)秀吉の禁中茶会に奉仕した彼は、正親町天皇から居士号「利休」を賜ります。その後の活躍は目覚ましく、同年中に「黄金の茶室」を設計し、その2年後には北野大茶湯を主管。また聚楽第内に利休屋敷を構えて3000石を賜わるなど名声と権威を誇りました。
秀吉の逆鱗に触れ、切腹!
秀吉のもとで大きく飛躍した利休ですが、天正19年(1591)突然秀吉の逆鱗に触れてしまいます。堺で蟄居(自宅謹慎)を命じられた利休は、京都に呼び戻されたのち聚楽屋敷内で自害を迫られ切腹。利休の弟子だった前田利家、古田織部、細川忠興らの大名達が奔走したものの助命はかなわず、利休の首は一条戻橋でさらされました。
利休が残したおもな功績
千利休の名前は現代でもよく知られていますが、おもな功績とはどんなものなのでしょうか。利休が残した2つの偉業をご紹介します。
「わび茶」の完成
利休は「わび茶」と呼ばれる茶の湯の様式を完成させました。これは安土桃山時代に流行した簡素簡略の境地「わび」の精神を重んじたものです。当時の茶の湯は高価な茶碗や派手な演出が好まれましたが、「わび茶」ではそのような無駄は排除されたのです。
利休は自ら器具をデザインしたり、茶を飲む空間にも手を加えたりしました。それまで数寄屋と呼ばれる書院造の部屋の一部を茶席としていましたが、彼は茶室を独立させて「草庵」を生みだします。これはのちに「囲い」とも呼ばれるようになりました。
「黄金の茶室」の制作
利休のもう1つの功績といえば、黄金の茶室を作ったことでしょう。これは運搬できる組み立て式の茶室で、正親町天皇や北野大茶湯などでも披露されました。当時の記録によれば、壁、天井、柱、障子などすべてが金張りで、使用の際は黄金の台子や皆具が置かれたといいます。
利休は秀吉の命令でこの茶室を作りましたが、これは「わび茶」とは対極にあるものです。そのため、利休は秀吉に対して不満を持っていたのではないかとも考えられています。
利休はどんな人物だったのか?
茶人として名を成した利休ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか。利休にまつわるエピソードをご紹介します。
秀吉の相談役でもあった
秀吉の信頼を得ていた利休は、相談役を担い政治にも関わっていました。この時代の茶室は密談の場としても使われていたため、利休は多くの情報を耳にしていたことになります。天下人である秀吉にとって、利休は相談役に適していたといえるでしょう。
そんな利休は諸大名からの評価も高く、大坂城内でも秀吉の弟・秀長と同等の権威を持っていました。しかしこれはのちに、秀吉から警戒される理由にもなります。利休の切腹は、秀吉がその力を恐れたからだともいわれています。
多くの弟子を抱えていた
利休には、「利休七哲」を筆頭に多数の弟子がいました。武将や大名の中にも弟子がおり、秀吉が恐れた蒲生氏郷をはじめ、明智光秀の娘・ガラシャの夫である忠興や織田有楽斎など、幅広い人々と交流をもっていたのです。利休の「わび茶」の精神はそれだけ多くの人を魅了したといえるでしょう。
茶道の総合プロデューサーだった!?
利休はただの茶人ではなく、茶道の総合プロディースも行っていました。茶室内の光を自在に操る合理的で自由な空間作りや、茶室の設計、花入・茶杓の制作など、茶道の世界に次々と新しいものを取り入れたのです。茶会の形式を簡略化してわび道具を制作するといった総合プロデュース力こそ、彼が茶聖と呼ばれるようになった理由かもしれません。
切腹の真相は謎とされる
時の権力者に重用され歴史の表舞台に躍り出た利休は、「わび茶」を大成させその名を残しました。信長や秀吉をはじめ名だたる武将に信頼されていたことから、利休の人格や能力の高さがうかがい知れるでしょう。
最後は武士のように潔く切腹しましたが、自害理由は諸説あり真相はわかっていません。しかし彼が残した功績は、後世に大きな影響を及ぼしました。 | 「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、誰であるか。 | 「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、千利休である。 |
JCRRAG_012408 | 歴史 | 「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、千利休である。
茶室「待庵」をてがける
天正10年(1582)6月、本能寺の変があった後、利休は信長に代わって豊臣秀吉(羽柴秀吉)に仕えます。そして同年8月、秀吉から茶室を作るよう命じられ、約半年間かけて茶室「待庵」を完成させました。これは現存する利休作の唯一の茶室で、現在は国宝となっています。
天正11年(1583)5月に開かれた秀吉の茶会では初めて茶頭を務め、『宗湛日記』によればその翌年には大坂城内の庭園に2畳の茶室を制作。これ以後、利休は茶道具も創作するようになりました。禁欲主義を思わせる装飾性のない彼の作品は利休道具と呼ばれています。
居士号「利休」を賜り名声を得る
天正13年(1585)秀吉の禁中茶会に奉仕した彼は、正親町天皇から居士号「利休」を賜ります。その後の活躍は目覚ましく、同年中に「黄金の茶室」を設計し、その2年後には北野大茶湯を主管。また聚楽第内に利休屋敷を構えて3000石を賜わるなど名声と権威を誇りました。
秀吉の逆鱗に触れ、切腹!
秀吉のもとで大きく飛躍した利休ですが、天正19年(1591)突然秀吉の逆鱗に触れてしまいます。堺で蟄居(自宅謹慎)を命じられた利休は、京都に呼び戻されたのち聚楽屋敷内で自害を迫られ切腹。利休の弟子だった前田利家、古田織部、細川忠興らの大名達が奔走したものの助命はかなわず、利休の首は一条戻橋でさらされました。
利休が残したおもな功績
千利休の名前は現代でもよく知られていますが、おもな功績とはどんなものなのでしょうか。利休が残した2つの偉業をご紹介します。
「わび茶」の完成
利休は「わび茶」と呼ばれる茶の湯の様式を完成させました。これは安土桃山時代に流行した簡素簡略の境地「わび」の精神を重んじたものです。当時の茶の湯は高価な茶碗や派手な演出が好まれましたが、「わび茶」ではそのような無駄は排除されたのです。
利休は自ら器具をデザインしたり、茶を飲む空間にも手を加えたりしました。それまで数寄屋と呼ばれる書院造の部屋の一部を茶席としていましたが、彼は茶室を独立させて「草庵」を生みだします。これはのちに「囲い」とも呼ばれるようになりました。
「黄金の茶室」の制作
利休のもう1つの功績といえば、黄金の茶室を作ったことでしょう。これは運搬できる組み立て式の茶室で、正親町天皇や北野大茶湯などでも披露されました。当時の記録によれば、壁、天井、柱、障子などすべてが金張りで、使用の際は黄金の台子や皆具が置かれたといいます。
利休は秀吉の命令でこの茶室を作りましたが、これは「わび茶」とは対極にあるものです。そのため、利休は秀吉に対して不満を持っていたのではないかとも考えられています。
利休はどんな人物だったのか?
茶人として名を成した利休ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか。利休にまつわるエピソードをご紹介します。
秀吉の相談役でもあった
秀吉の信頼を得ていた利休は、相談役を担い政治にも関わっていました。この時代の茶室は密談の場としても使われていたため、利休は多くの情報を耳にしていたことになります。天下人である秀吉にとって、利休は相談役に適していたといえるでしょう。
そんな利休は諸大名からの評価も高く、大坂城内でも秀吉の弟・秀長と同等の権威を持っていました。しかしこれはのちに、秀吉から警戒される理由にもなります。利休の切腹は、秀吉がその力を恐れたからだともいわれています。
多くの弟子を抱えていた
利休には、「利休七哲」を筆頭に多数の弟子がいました。武将や大名の中にも弟子がおり、秀吉が恐れた蒲生氏郷をはじめ、明智光秀の娘・ガラシャの夫である忠興や織田有楽斎など、幅広い人々と交流をもっていたのです。利休の「わび茶」の精神はそれだけ多くの人を魅了したといえるでしょう。
茶道の総合プロデューサーだった!?
利休はただの茶人ではなく、茶道の総合プロディースも行っていました。茶室内の光を自在に操る合理的で自由な空間作りや、茶室の設計、花入・茶杓の制作など、茶道の世界に次々と新しいものを取り入れたのです。茶会の形式を簡略化してわび道具を制作するといった総合プロデュース力こそ、彼が茶聖と呼ばれるようになった理由かもしれません。
切腹の真相は謎とされる
時の権力者に重用され歴史の表舞台に躍り出た利休は、「わび茶」を大成させその名を残しました。信長や秀吉をはじめ名だたる武将に信頼されていたことから、利休の人格や能力の高さがうかがい知れるでしょう。
最後は武士のように潔く切腹しましたが、自害理由は諸説あり真相はわかっていません。しかし彼が残した功績は、後世に大きな影響を及ぼしました。 | 待庵は、現存する利休作の唯一の茶室で、現在は何となっていますか。 | 待庵は、現存する利休作の唯一の茶室で、現在は国宝となっています。 |
JCRRAG_012409 | 歴史 | 「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、千利休である。
茶室「待庵」をてがける
天正10年(1582)6月、本能寺の変があった後、利休は信長に代わって豊臣秀吉(羽柴秀吉)に仕えます。そして同年8月、秀吉から茶室を作るよう命じられ、約半年間かけて茶室「待庵」を完成させました。これは現存する利休作の唯一の茶室で、現在は国宝となっています。
天正11年(1583)5月に開かれた秀吉の茶会では初めて茶頭を務め、『宗湛日記』によればその翌年には大坂城内の庭園に2畳の茶室を制作。これ以後、利休は茶道具も創作するようになりました。禁欲主義を思わせる装飾性のない彼の作品は利休道具と呼ばれています。
居士号「利休」を賜り名声を得る
天正13年(1585)秀吉の禁中茶会に奉仕した彼は、正親町天皇から居士号「利休」を賜ります。その後の活躍は目覚ましく、同年中に「黄金の茶室」を設計し、その2年後には北野大茶湯を主管。また聚楽第内に利休屋敷を構えて3000石を賜わるなど名声と権威を誇りました。
秀吉の逆鱗に触れ、切腹!
秀吉のもとで大きく飛躍した利休ですが、天正19年(1591)突然秀吉の逆鱗に触れてしまいます。堺で蟄居(自宅謹慎)を命じられた利休は、京都に呼び戻されたのち聚楽屋敷内で自害を迫られ切腹。利休の弟子だった前田利家、古田織部、細川忠興らの大名達が奔走したものの助命はかなわず、利休の首は一条戻橋でさらされました。
利休が残したおもな功績
千利休の名前は現代でもよく知られていますが、おもな功績とはどんなものなのでしょうか。利休が残した2つの偉業をご紹介します。
「わび茶」の完成
利休は「わび茶」と呼ばれる茶の湯の様式を完成させました。これは安土桃山時代に流行した簡素簡略の境地「わび」の精神を重んじたものです。当時の茶の湯は高価な茶碗や派手な演出が好まれましたが、「わび茶」ではそのような無駄は排除されたのです。
利休は自ら器具をデザインしたり、茶を飲む空間にも手を加えたりしました。それまで数寄屋と呼ばれる書院造の部屋の一部を茶席としていましたが、彼は茶室を独立させて「草庵」を生みだします。これはのちに「囲い」とも呼ばれるようになりました。
「黄金の茶室」の制作
利休のもう1つの功績といえば、黄金の茶室を作ったことでしょう。これは運搬できる組み立て式の茶室で、正親町天皇や北野大茶湯などでも披露されました。当時の記録によれば、壁、天井、柱、障子などすべてが金張りで、使用の際は黄金の台子や皆具が置かれたといいます。
利休は秀吉の命令でこの茶室を作りましたが、これは「わび茶」とは対極にあるものです。そのため、利休は秀吉に対して不満を持っていたのではないかとも考えられています。
利休はどんな人物だったのか?
茶人として名を成した利休ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか。利休にまつわるエピソードをご紹介します。
秀吉の相談役でもあった
秀吉の信頼を得ていた利休は、相談役を担い政治にも関わっていました。この時代の茶室は密談の場としても使われていたため、利休は多くの情報を耳にしていたことになります。天下人である秀吉にとって、利休は相談役に適していたといえるでしょう。
そんな利休は諸大名からの評価も高く、大坂城内でも秀吉の弟・秀長と同等の権威を持っていました。しかしこれはのちに、秀吉から警戒される理由にもなります。利休の切腹は、秀吉がその力を恐れたからだともいわれています。
多くの弟子を抱えていた
利休には、「利休七哲」を筆頭に多数の弟子がいました。武将や大名の中にも弟子がおり、秀吉が恐れた蒲生氏郷をはじめ、明智光秀の娘・ガラシャの夫である忠興や織田有楽斎など、幅広い人々と交流をもっていたのです。利休の「わび茶」の精神はそれだけ多くの人を魅了したといえるでしょう。
茶道の総合プロデューサーだった!?
利休はただの茶人ではなく、茶道の総合プロディースも行っていました。茶室内の光を自在に操る合理的で自由な空間作りや、茶室の設計、花入・茶杓の制作など、茶道の世界に次々と新しいものを取り入れたのです。茶会の形式を簡略化してわび道具を制作するといった総合プロデュース力こそ、彼が茶聖と呼ばれるようになった理由かもしれません。
切腹の真相は謎とされる
時の権力者に重用され歴史の表舞台に躍り出た利休は、「わび茶」を大成させその名を残しました。信長や秀吉をはじめ名だたる武将に信頼されていたことから、利休の人格や能力の高さがうかがい知れるでしょう。
最後は武士のように潔く切腹しましたが、自害理由は諸説あり真相はわかっていません。しかし彼が残した功績は、後世に大きな影響を及ぼしました。 | 利休は何と呼ばれる茶の湯の様式を完成させましたか。 | 利休は「わび茶」と呼ばれる茶の湯の様式を完成させました。 |
JCRRAG_012410 | 歴史 | 「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、千利休である。
茶室「待庵」をてがける
天正10年(1582)6月、本能寺の変があった後、利休は信長に代わって豊臣秀吉(羽柴秀吉)に仕えます。そして同年8月、秀吉から茶室を作るよう命じられ、約半年間かけて茶室「待庵」を完成させました。これは現存する利休作の唯一の茶室で、現在は国宝となっています。
天正11年(1583)5月に開かれた秀吉の茶会では初めて茶頭を務め、『宗湛日記』によればその翌年には大坂城内の庭園に2畳の茶室を制作。これ以後、利休は茶道具も創作するようになりました。禁欲主義を思わせる装飾性のない彼の作品は利休道具と呼ばれています。
居士号「利休」を賜り名声を得る
天正13年(1585)秀吉の禁中茶会に奉仕した彼は、正親町天皇から居士号「利休」を賜ります。その後の活躍は目覚ましく、同年中に「黄金の茶室」を設計し、その2年後には北野大茶湯を主管。また聚楽第内に利休屋敷を構えて3000石を賜わるなど名声と権威を誇りました。
秀吉の逆鱗に触れ、切腹!
秀吉のもとで大きく飛躍した利休ですが、天正19年(1591)突然秀吉の逆鱗に触れてしまいます。堺で蟄居(自宅謹慎)を命じられた利休は、京都に呼び戻されたのち聚楽屋敷内で自害を迫られ切腹。利休の弟子だった前田利家、古田織部、細川忠興らの大名達が奔走したものの助命はかなわず、利休の首は一条戻橋でさらされました。
利休が残したおもな功績
千利休の名前は現代でもよく知られていますが、おもな功績とはどんなものなのでしょうか。利休が残した2つの偉業をご紹介します。
「わび茶」の完成
利休は「わび茶」と呼ばれる茶の湯の様式を完成させました。これは安土桃山時代に流行した簡素簡略の境地「わび」の精神を重んじたものです。当時の茶の湯は高価な茶碗や派手な演出が好まれましたが、「わび茶」ではそのような無駄は排除されたのです。
利休は自ら器具をデザインしたり、茶を飲む空間にも手を加えたりしました。それまで数寄屋と呼ばれる書院造の部屋の一部を茶席としていましたが、彼は茶室を独立させて「草庵」を生みだします。これはのちに「囲い」とも呼ばれるようになりました。
「黄金の茶室」の制作
利休のもう1つの功績といえば、黄金の茶室を作ったことでしょう。これは運搬できる組み立て式の茶室で、正親町天皇や北野大茶湯などでも披露されました。当時の記録によれば、壁、天井、柱、障子などすべてが金張りで、使用の際は黄金の台子や皆具が置かれたといいます。
利休は秀吉の命令でこの茶室を作りましたが、これは「わび茶」とは対極にあるものです。そのため、利休は秀吉に対して不満を持っていたのではないかとも考えられています。
利休はどんな人物だったのか?
茶人として名を成した利休ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか。利休にまつわるエピソードをご紹介します。
秀吉の相談役でもあった
秀吉の信頼を得ていた利休は、相談役を担い政治にも関わっていました。この時代の茶室は密談の場としても使われていたため、利休は多くの情報を耳にしていたことになります。天下人である秀吉にとって、利休は相談役に適していたといえるでしょう。
そんな利休は諸大名からの評価も高く、大坂城内でも秀吉の弟・秀長と同等の権威を持っていました。しかしこれはのちに、秀吉から警戒される理由にもなります。利休の切腹は、秀吉がその力を恐れたからだともいわれています。
多くの弟子を抱えていた
利休には、「利休七哲」を筆頭に多数の弟子がいました。武将や大名の中にも弟子がおり、秀吉が恐れた蒲生氏郷をはじめ、明智光秀の娘・ガラシャの夫である忠興や織田有楽斎など、幅広い人々と交流をもっていたのです。利休の「わび茶」の精神はそれだけ多くの人を魅了したといえるでしょう。
茶道の総合プロデューサーだった!?
利休はただの茶人ではなく、茶道の総合プロディースも行っていました。茶室内の光を自在に操る合理的で自由な空間作りや、茶室の設計、花入・茶杓の制作など、茶道の世界に次々と新しいものを取り入れたのです。茶会の形式を簡略化してわび道具を制作するといった総合プロデュース力こそ、彼が茶聖と呼ばれるようになった理由かもしれません。
切腹の真相は謎とされる
時の権力者に重用され歴史の表舞台に躍り出た利休は、「わび茶」を大成させその名を残しました。信長や秀吉をはじめ名だたる武将に信頼されていたことから、利休の人格や能力の高さがうかがい知れるでしょう。
最後は武士のように潔く切腹しましたが、自害理由は諸説あり真相はわかっていません。しかし彼が残した功績は、後世に大きな影響を及ぼしました。 | 利休は誰の命令でこの茶室を作りましたか。 | 利休は秀吉の命令でこの茶室を作りました。 |
JCRRAG_012411 | 歴史 | 「わび茶」を確立した茶聖と言われる人物は、千利休である。
茶室「待庵」をてがける
天正10年(1582)6月、本能寺の変があった後、利休は信長に代わって豊臣秀吉(羽柴秀吉)に仕えます。そして同年8月、秀吉から茶室を作るよう命じられ、約半年間かけて茶室「待庵」を完成させました。これは現存する利休作の唯一の茶室で、現在は国宝となっています。
天正11年(1583)5月に開かれた秀吉の茶会では初めて茶頭を務め、『宗湛日記』によればその翌年には大坂城内の庭園に2畳の茶室を制作。これ以後、利休は茶道具も創作するようになりました。禁欲主義を思わせる装飾性のない彼の作品は利休道具と呼ばれています。
居士号「利休」を賜り名声を得る
天正13年(1585)秀吉の禁中茶会に奉仕した彼は、正親町天皇から居士号「利休」を賜ります。その後の活躍は目覚ましく、同年中に「黄金の茶室」を設計し、その2年後には北野大茶湯を主管。また聚楽第内に利休屋敷を構えて3000石を賜わるなど名声と権威を誇りました。
秀吉の逆鱗に触れ、切腹!
秀吉のもとで大きく飛躍した利休ですが、天正19年(1591)突然秀吉の逆鱗に触れてしまいます。堺で蟄居(自宅謹慎)を命じられた利休は、京都に呼び戻されたのち聚楽屋敷内で自害を迫られ切腹。利休の弟子だった前田利家、古田織部、細川忠興らの大名達が奔走したものの助命はかなわず、利休の首は一条戻橋でさらされました。
利休が残したおもな功績
千利休の名前は現代でもよく知られていますが、おもな功績とはどんなものなのでしょうか。利休が残した2つの偉業をご紹介します。
「わび茶」の完成
利休は「わび茶」と呼ばれる茶の湯の様式を完成させました。これは安土桃山時代に流行した簡素簡略の境地「わび」の精神を重んじたものです。当時の茶の湯は高価な茶碗や派手な演出が好まれましたが、「わび茶」ではそのような無駄は排除されたのです。
利休は自ら器具をデザインしたり、茶を飲む空間にも手を加えたりしました。それまで数寄屋と呼ばれる書院造の部屋の一部を茶席としていましたが、彼は茶室を独立させて「草庵」を生みだします。これはのちに「囲い」とも呼ばれるようになりました。
「黄金の茶室」の制作
利休のもう1つの功績といえば、黄金の茶室を作ったことでしょう。これは運搬できる組み立て式の茶室で、正親町天皇や北野大茶湯などでも披露されました。当時の記録によれば、壁、天井、柱、障子などすべてが金張りで、使用の際は黄金の台子や皆具が置かれたといいます。
利休は秀吉の命令でこの茶室を作りましたが、これは「わび茶」とは対極にあるものです。そのため、利休は秀吉に対して不満を持っていたのではないかとも考えられています。
利休はどんな人物だったのか?
茶人として名を成した利休ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか。利休にまつわるエピソードをご紹介します。
秀吉の相談役でもあった
秀吉の信頼を得ていた利休は、相談役を担い政治にも関わっていました。この時代の茶室は密談の場としても使われていたため、利休は多くの情報を耳にしていたことになります。天下人である秀吉にとって、利休は相談役に適していたといえるでしょう。
そんな利休は諸大名からの評価も高く、大坂城内でも秀吉の弟・秀長と同等の権威を持っていました。しかしこれはのちに、秀吉から警戒される理由にもなります。利休の切腹は、秀吉がその力を恐れたからだともいわれています。
多くの弟子を抱えていた
利休には、「利休七哲」を筆頭に多数の弟子がいました。武将や大名の中にも弟子がおり、秀吉が恐れた蒲生氏郷をはじめ、明智光秀の娘・ガラシャの夫である忠興や織田有楽斎など、幅広い人々と交流をもっていたのです。利休の「わび茶」の精神はそれだけ多くの人を魅了したといえるでしょう。
茶道の総合プロデューサーだった!?
利休はただの茶人ではなく、茶道の総合プロディースも行っていました。茶室内の光を自在に操る合理的で自由な空間作りや、茶室の設計、花入・茶杓の制作など、茶道の世界に次々と新しいものを取り入れたのです。茶会の形式を簡略化してわび道具を制作するといった総合プロデュース力こそ、彼が茶聖と呼ばれるようになった理由かもしれません。
切腹の真相は謎とされる
時の権力者に重用され歴史の表舞台に躍り出た利休は、「わび茶」を大成させその名を残しました。信長や秀吉をはじめ名だたる武将に信頼されていたことから、利休の人格や能力の高さがうかがい知れるでしょう。
最後は武士のように潔く切腹しましたが、自害理由は諸説あり真相はわかっていません。しかし彼が残した功績は、後世に大きな影響を及ぼしました。 | 利休には、誰を筆頭に多数の弟子がいましたか。 | 利休には、「利休七哲」を筆頭に多数の弟子がいました。 |
JCRRAG_012412 | 歴史 | 井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、井伊直政である。
生まれから徳川家康に仕えるまで
直政の生まれは、どのようなものだったのでしょうか。
家康に仕えるまでの経緯を振り返ります。
今川家家臣・井伊家の嫡男として誕生
直政は、永禄4年(1561)今川氏の家臣・井伊直親の嫡男として遠江国井伊谷で誕生しました。幼名は虎松です。
井伊家は代々国人領主で、当時の当主・井伊直盛(直親の従兄)は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死しました。また父・直親は、直政が誕生した翌年に謀反を疑われ、今川氏真に殺されてしまいます。直政は新野親矩の嘆願により助命されましたが、のちに井伊家家老・小野道好(政次)から命を狙われたため、出家して浄土寺や鳳来寺に入りました。
家康に小姓として取り立てられる
その後、母・おひよが徳川家臣・松下清景と再婚し、直政は松下家の養子となります。これにより家康に見出された直政は、天正3年(1575)には井伊氏に復することを許され、井伊万千代に改名。さらには旧領・井伊谷の領有を認められて家康の小姓に取り立てられました。
徳川の重臣として地位を確立する
家康の小姓となった直政は、武田氏との戦いにより戦功を挙げます。そして、家康の重臣として目覚ましい活躍を見せていったのです。
「井伊の赤鬼」と呼ばれるように
天正10年(1582)22歳で元服した彼は名前を直政と改めます。同年に起こった本能寺の変では家康の伊賀越えに従い、天正壬午の乱では北条家との講和交渉を担当。家康が武田家旧領の信濃国・甲斐国を得ると、武田家の旧臣達を編成した部隊の大将となりました。この部隊は「武田の赤備え」と呼ばれ戦国最強を誇った武田の兵法や軍装を継承しており、小牧・長久手の戦いで初めて赤備えを率いて武功を挙げた直政は、その勇猛果敢さから「井伊の赤鬼」と呼ばれ諸大名から恐れられました。 | 井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、誰であるか。 | 井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、井伊直政である。 |
JCRRAG_012413 | 歴史 | 井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、井伊直政である。
生まれから徳川家康に仕えるまで
直政の生まれは、どのようなものだったのでしょうか。
家康に仕えるまでの経緯を振り返ります。
今川家家臣・井伊家の嫡男として誕生
直政は、永禄4年(1561)今川氏の家臣・井伊直親の嫡男として遠江国井伊谷で誕生しました。幼名は虎松です。
井伊家は代々国人領主で、当時の当主・井伊直盛(直親の従兄)は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死しました。また父・直親は、直政が誕生した翌年に謀反を疑われ、今川氏真に殺されてしまいます。直政は新野親矩の嘆願により助命されましたが、のちに井伊家家老・小野道好(政次)から命を狙われたため、出家して浄土寺や鳳来寺に入りました。
家康に小姓として取り立てられる
その後、母・おひよが徳川家臣・松下清景と再婚し、直政は松下家の養子となります。これにより家康に見出された直政は、天正3年(1575)には井伊氏に復することを許され、井伊万千代に改名。さらには旧領・井伊谷の領有を認められて家康の小姓に取り立てられました。
徳川の重臣として地位を確立する
家康の小姓となった直政は、武田氏との戦いにより戦功を挙げます。そして、家康の重臣として目覚ましい活躍を見せていったのです。
「井伊の赤鬼」と呼ばれるように
天正10年(1582)22歳で元服した彼は名前を直政と改めます。同年に起こった本能寺の変では家康の伊賀越えに従い、天正壬午の乱では北条家との講和交渉を担当。家康が武田家旧領の信濃国・甲斐国を得ると、武田家の旧臣達を編成した部隊の大将となりました。この部隊は「武田の赤備え」と呼ばれ戦国最強を誇った武田の兵法や軍装を継承しており、小牧・長久手の戦いで初めて赤備えを率いて武功を挙げた直政は、その勇猛果敢さから「井伊の赤鬼」と呼ばれ諸大名から恐れられました。 | 直政は、永禄4年(1561)今川氏の家臣・井伊直親の嫡男としてどこで誕生しましたか。 | 直政は、永禄4年(1561)今川氏の家臣・井伊直親の嫡男として遠江国井伊谷で誕生しました。 |
JCRRAG_012414 | 歴史 | 井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、井伊直政である。
生まれから徳川家康に仕えるまで
直政の生まれは、どのようなものだったのでしょうか。
家康に仕えるまでの経緯を振り返ります。
今川家家臣・井伊家の嫡男として誕生
直政は、永禄4年(1561)今川氏の家臣・井伊直親の嫡男として遠江国井伊谷で誕生しました。幼名は虎松です。
井伊家は代々国人領主で、当時の当主・井伊直盛(直親の従兄)は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死しました。また父・直親は、直政が誕生した翌年に謀反を疑われ、今川氏真に殺されてしまいます。直政は新野親矩の嘆願により助命されましたが、のちに井伊家家老・小野道好(政次)から命を狙われたため、出家して浄土寺や鳳来寺に入りました。
家康に小姓として取り立てられる
その後、母・おひよが徳川家臣・松下清景と再婚し、直政は松下家の養子となります。これにより家康に見出された直政は、天正3年(1575)には井伊氏に復することを許され、井伊万千代に改名。さらには旧領・井伊谷の領有を認められて家康の小姓に取り立てられました。
徳川の重臣として地位を確立する
家康の小姓となった直政は、武田氏との戦いにより戦功を挙げます。そして、家康の重臣として目覚ましい活躍を見せていったのです。
「井伊の赤鬼」と呼ばれるように
天正10年(1582)22歳で元服した彼は名前を直政と改めます。同年に起こった本能寺の変では家康の伊賀越えに従い、天正壬午の乱では北条家との講和交渉を担当。家康が武田家旧領の信濃国・甲斐国を得ると、武田家の旧臣達を編成した部隊の大将となりました。この部隊は「武田の赤備え」と呼ばれ戦国最強を誇った武田の兵法や軍装を継承しており、小牧・長久手の戦いで初めて赤備えを率いて武功を挙げた直政は、その勇猛果敢さから「井伊の赤鬼」と呼ばれ諸大名から恐れられました。 | 直政は、永禄4年(1561)誰の嫡男として遠江国井伊谷で誕生しましたか。 | 直政は、永禄4年(1561)今川氏の家臣・井伊直親の嫡男として遠江国井伊谷で誕生しました。 |
JCRRAG_012415 | 歴史 | 井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、井伊直政である。
生まれから徳川家康に仕えるまで
直政の生まれは、どのようなものだったのでしょうか。
家康に仕えるまでの経緯を振り返ります。
今川家家臣・井伊家の嫡男として誕生
直政は、永禄4年(1561)今川氏の家臣・井伊直親の嫡男として遠江国井伊谷で誕生しました。幼名は虎松です。
井伊家は代々国人領主で、当時の当主・井伊直盛(直親の従兄)は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死しました。また父・直親は、直政が誕生した翌年に謀反を疑われ、今川氏真に殺されてしまいます。直政は新野親矩の嘆願により助命されましたが、のちに井伊家家老・小野道好(政次)から命を狙われたため、出家して浄土寺や鳳来寺に入りました。
家康に小姓として取り立てられる
その後、母・おひよが徳川家臣・松下清景と再婚し、直政は松下家の養子となります。これにより家康に見出された直政は、天正3年(1575)には井伊氏に復することを許され、井伊万千代に改名。さらには旧領・井伊谷の領有を認められて家康の小姓に取り立てられました。
徳川の重臣として地位を確立する
家康の小姓となった直政は、武田氏との戦いにより戦功を挙げます。そして、家康の重臣として目覚ましい活躍を見せていったのです。
「井伊の赤鬼」と呼ばれるように
天正10年(1582)22歳で元服した彼は名前を直政と改めます。同年に起こった本能寺の変では家康の伊賀越えに従い、天正壬午の乱では北条家との講和交渉を担当。家康が武田家旧領の信濃国・甲斐国を得ると、武田家の旧臣達を編成した部隊の大将となりました。この部隊は「武田の赤備え」と呼ばれ戦国最強を誇った武田の兵法や軍装を継承しており、小牧・長久手の戦いで初めて赤備えを率いて武功を挙げた直政は、その勇猛果敢さから「井伊の赤鬼」と呼ばれ諸大名から恐れられました。 | 家康に見出された直政は、いつ井伊氏に復することを許されましたか。 | 家康に見出された直政は、天正3年(1575)には井伊氏に復することを許されました。 |
JCRRAG_012416 | 歴史 | 井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、井伊直政である。
生まれから徳川家康に仕えるまで
直政の生まれは、どのようなものだったのでしょうか。
家康に仕えるまでの経緯を振り返ります。
今川家家臣・井伊家の嫡男として誕生
直政は、永禄4年(1561)今川氏の家臣・井伊直親の嫡男として遠江国井伊谷で誕生しました。幼名は虎松です。
井伊家は代々国人領主で、当時の当主・井伊直盛(直親の従兄)は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死しました。また父・直親は、直政が誕生した翌年に謀反を疑われ、今川氏真に殺されてしまいます。直政は新野親矩の嘆願により助命されましたが、のちに井伊家家老・小野道好(政次)から命を狙われたため、出家して浄土寺や鳳来寺に入りました。
家康に小姓として取り立てられる
その後、母・おひよが徳川家臣・松下清景と再婚し、直政は松下家の養子となります。これにより家康に見出された直政は、天正3年(1575)には井伊氏に復することを許され、井伊万千代に改名。さらには旧領・井伊谷の領有を認められて家康の小姓に取り立てられました。
徳川の重臣として地位を確立する
家康の小姓となった直政は、武田氏との戦いにより戦功を挙げます。そして、家康の重臣として目覚ましい活躍を見せていったのです。
「井伊の赤鬼」と呼ばれるように
天正10年(1582)22歳で元服した彼は名前を直政と改めます。同年に起こった本能寺の変では家康の伊賀越えに従い、天正壬午の乱では北条家との講和交渉を担当。家康が武田家旧領の信濃国・甲斐国を得ると、武田家の旧臣達を編成した部隊の大将となりました。この部隊は「武田の赤備え」と呼ばれ戦国最強を誇った武田の兵法や軍装を継承しており、小牧・長久手の戦いで初めて赤備えを率いて武功を挙げた直政は、その勇猛果敢さから「井伊の赤鬼」と呼ばれ諸大名から恐れられました。 | 小牧・長久手の戦いで初めて赤備えを率いて武功を挙げた直政は、何と呼ばれ諸大名から恐れられましたか。 | 小牧・長久手の戦いで初めて赤備えを率いて武功を挙げた直政は、その勇猛果敢さから「井伊の赤鬼」と呼ばれ諸大名から恐れられました。 |
JCRRAG_012417 | 歴史 | 井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、井伊直政である。
秀吉から武勇や政治的手腕を評価される
家康のもとで本領を発揮した直政は、豊臣秀吉からも高い評価を受けることになります。
天正14年(1586)家康が秀吉に臣従すると、直政は秀吉から武勇や政治的手腕を評価され、従五位下に叙位されたほか豊臣姓も賜りました。その2年後の聚楽第行幸(じゅらくていぎょうこう)の際には、徳川重臣のなかで直政だけ一つ身分が上の侍従に任官されます。こうして直政は、徳川家で最も格式の高い重臣となったのです。
豊臣方の武将を徳川に引き込んだ
直政はもともと外様の新参者でしたが、小田原征伐や奥州仕置などで次々と戦功を挙げました。その活躍もあってか、家康が江戸に入った際は、徳川家臣団のなかで最も高い12万石を与えられています。
秀吉の死後に起こった政治抗争では豊臣方の武将を家康の味方に引き入れるなど交渉にも手腕を発揮しており、特に黒田如水(官兵衛)・長政父子と盟約を結んで、他の武将を徳川方に組み入れたことは大きな功績だったといえるでしょう。
関ヶ原の戦いとその後の繁栄
家康のもとで手腕を発揮していった直政は、関ヶ原の戦いや江戸幕府の開府にも大きく貢献しました。
東軍の軍監に任命され指揮をとった
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが勃発すると、直政は本多忠勝と共に軍監となって指揮をとり、東軍の中心的存在となりました。この戦いで直政は、全国の名だたる諸大名を西軍から東軍に取り込むことに成功しています。
開戦後は島津義弘の甥・島津豊久を討ち、退却する島津軍を追撃。狙撃されて落馬したものの、その猛追ぶりには配下も追いつけなかったといいます。
江戸幕府の基礎固めに尽力
直政は関ヶ原の戦いで大怪我をしましたが、戦後処理や江戸幕府の基礎固めにも尽力しました。西軍の総大将・毛利輝元との交渉役も担当しており、この交渉により所領を与えられた輝元は、直政に感謝するとともに指南役も頼んでいます。また、徳川家と島津家の和平交渉の仲立ちや真田昌幸・幸村(信繁)親子の助命にも尽力しました。
佐和山藩から彦根藩へ
直政はこれらの功績により、家康から石田三成の旧領・近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石を与えられました。京都近くに配置されたのは、西国の抑えや朝廷の守護という意味合いがあったと考えられています。それだけ家康から厚い信頼を得ていたといえるでしょう。
慶長7年(1602)直政はついにこの世から去ります。直政がいた佐和山藩は彦根城の築城にともなって廃止され、新たに彦根藩30万石が置かれました。それ以降、彦根藩は井伊家の藩として明治時代まで栄えました。
直政の人物像とは?
徳川家に尽力しさまざまな功績を残した直政ですが、一体どのような人物だったのでしょうか。
その人物像がうかがえるエピソードを3つご紹介します。
優しい美男子として知られる
直政は複数の史料から美男子だったといわれています。家康は直政を寵愛しており、自邸近くに直政の住まいを作り通っていたそうです。また、人質として徳川方にやってきた秀吉の母やその侍女達も、直政の優しく丁寧なもてなしに惚れ込んだといいます。直政には男女ともに虜にする魅力があったといえるでしょう。
「人斬り兵部」と呼ばれ家臣に恐れられた
直政は多くの領国を与えられるほど厚く家康に奉公していましたが、それを自分の家臣にも強要していました。わずかな失敗でも手討ちにしたため当時の官位に由来して「人斬り兵部」と呼ばれ、耐えかねて忠勝のもとに去る家臣も多かったようです。直政は厳格で気性が激しかったといわれますが、それ故に家康も厚く信頼していたといえそうです。
妻に頭が上がらない恐妻家だった!?
そんな厳しい性格の直政ですが、正室・唐梅院(とうばいいん)には頭が上らなかったようです。
彼女は、侍女が夫の子供をはらんだと知ると父親のもとに帰してしまいました。直政は正室に遠慮してしばらくこの子供に会いませんでしたが、12歳になりようやく召し寄せます。この子こそ、大坂冬の陣で井伊家大将として活躍し、やがて井伊宗家の家督を継ぐことになる直孝でした。
天下無双と評された猛将
その気になれば天下統一も可能だと諸将から評価されていたといわれる直政。しかし彼は、そのような野心を見せることなく、家康が天下人になるよう貢献しました。その働きは、『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』にも「家康が幕府を開くにあたっての一番の功労者」と記載されるほどです。彼は関ヶ原の戦いで負った傷が原因で42歳で亡くなりましたが、井伊家はその後も繁栄し、江戸264年間を通じて井伊直弼など4名の大老を輩出しました。 | 直政は秀吉から武勇や政治的手腕を評価され、従五位下に叙位されたほか何を賜りましたか。 | 直政は秀吉から武勇や政治的手腕を評価され、従五位下に叙位されたほか豊臣姓も賜りました。 |
JCRRAG_012418 | 歴史 | 井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、井伊直政である。
秀吉から武勇や政治的手腕を評価される
家康のもとで本領を発揮した直政は、豊臣秀吉からも高い評価を受けることになります。
天正14年(1586)家康が秀吉に臣従すると、直政は秀吉から武勇や政治的手腕を評価され、従五位下に叙位されたほか豊臣姓も賜りました。その2年後の聚楽第行幸(じゅらくていぎょうこう)の際には、徳川重臣のなかで直政だけ一つ身分が上の侍従に任官されます。こうして直政は、徳川家で最も格式の高い重臣となったのです。
豊臣方の武将を徳川に引き込んだ
直政はもともと外様の新参者でしたが、小田原征伐や奥州仕置などで次々と戦功を挙げました。その活躍もあってか、家康が江戸に入った際は、徳川家臣団のなかで最も高い12万石を与えられています。
秀吉の死後に起こった政治抗争では豊臣方の武将を家康の味方に引き入れるなど交渉にも手腕を発揮しており、特に黒田如水(官兵衛)・長政父子と盟約を結んで、他の武将を徳川方に組み入れたことは大きな功績だったといえるでしょう。
関ヶ原の戦いとその後の繁栄
家康のもとで手腕を発揮していった直政は、関ヶ原の戦いや江戸幕府の開府にも大きく貢献しました。
東軍の軍監に任命され指揮をとった
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが勃発すると、直政は本多忠勝と共に軍監となって指揮をとり、東軍の中心的存在となりました。この戦いで直政は、全国の名だたる諸大名を西軍から東軍に取り込むことに成功しています。
開戦後は島津義弘の甥・島津豊久を討ち、退却する島津軍を追撃。狙撃されて落馬したものの、その猛追ぶりには配下も追いつけなかったといいます。
江戸幕府の基礎固めに尽力
直政は関ヶ原の戦いで大怪我をしましたが、戦後処理や江戸幕府の基礎固めにも尽力しました。西軍の総大将・毛利輝元との交渉役も担当しており、この交渉により所領を与えられた輝元は、直政に感謝するとともに指南役も頼んでいます。また、徳川家と島津家の和平交渉の仲立ちや真田昌幸・幸村(信繁)親子の助命にも尽力しました。
佐和山藩から彦根藩へ
直政はこれらの功績により、家康から石田三成の旧領・近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石を与えられました。京都近くに配置されたのは、西国の抑えや朝廷の守護という意味合いがあったと考えられています。それだけ家康から厚い信頼を得ていたといえるでしょう。
慶長7年(1602)直政はついにこの世から去ります。直政がいた佐和山藩は彦根城の築城にともなって廃止され、新たに彦根藩30万石が置かれました。それ以降、彦根藩は井伊家の藩として明治時代まで栄えました。
直政の人物像とは?
徳川家に尽力しさまざまな功績を残した直政ですが、一体どのような人物だったのでしょうか。
その人物像がうかがえるエピソードを3つご紹介します。
優しい美男子として知られる
直政は複数の史料から美男子だったといわれています。家康は直政を寵愛しており、自邸近くに直政の住まいを作り通っていたそうです。また、人質として徳川方にやってきた秀吉の母やその侍女達も、直政の優しく丁寧なもてなしに惚れ込んだといいます。直政には男女ともに虜にする魅力があったといえるでしょう。
「人斬り兵部」と呼ばれ家臣に恐れられた
直政は多くの領国を与えられるほど厚く家康に奉公していましたが、それを自分の家臣にも強要していました。わずかな失敗でも手討ちにしたため当時の官位に由来して「人斬り兵部」と呼ばれ、耐えかねて忠勝のもとに去る家臣も多かったようです。直政は厳格で気性が激しかったといわれますが、それ故に家康も厚く信頼していたといえそうです。
妻に頭が上がらない恐妻家だった!?
そんな厳しい性格の直政ですが、正室・唐梅院(とうばいいん)には頭が上らなかったようです。
彼女は、侍女が夫の子供をはらんだと知ると父親のもとに帰してしまいました。直政は正室に遠慮してしばらくこの子供に会いませんでしたが、12歳になりようやく召し寄せます。この子こそ、大坂冬の陣で井伊家大将として活躍し、やがて井伊宗家の家督を継ぐことになる直孝でした。
天下無双と評された猛将
その気になれば天下統一も可能だと諸将から評価されていたといわれる直政。しかし彼は、そのような野心を見せることなく、家康が天下人になるよう貢献しました。その働きは、『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』にも「家康が幕府を開くにあたっての一番の功労者」と記載されるほどです。彼は関ヶ原の戦いで負った傷が原因で42歳で亡くなりましたが、井伊家はその後も繁栄し、江戸264年間を通じて井伊直弼など4名の大老を輩出しました。 | 家康が江戸に入った際、直政は徳川家臣団のなかで最も高い何万石を与えられていますか。 | 家康が江戸に入った際、直政は徳川家臣団のなかで最も高い12万石を与えられています。 |
JCRRAG_012419 | 歴史 | 井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、井伊直政である。
秀吉から武勇や政治的手腕を評価される
家康のもとで本領を発揮した直政は、豊臣秀吉からも高い評価を受けることになります。
天正14年(1586)家康が秀吉に臣従すると、直政は秀吉から武勇や政治的手腕を評価され、従五位下に叙位されたほか豊臣姓も賜りました。その2年後の聚楽第行幸(じゅらくていぎょうこう)の際には、徳川重臣のなかで直政だけ一つ身分が上の侍従に任官されます。こうして直政は、徳川家で最も格式の高い重臣となったのです。
豊臣方の武将を徳川に引き込んだ
直政はもともと外様の新参者でしたが、小田原征伐や奥州仕置などで次々と戦功を挙げました。その活躍もあってか、家康が江戸に入った際は、徳川家臣団のなかで最も高い12万石を与えられています。
秀吉の死後に起こった政治抗争では豊臣方の武将を家康の味方に引き入れるなど交渉にも手腕を発揮しており、特に黒田如水(官兵衛)・長政父子と盟約を結んで、他の武将を徳川方に組み入れたことは大きな功績だったといえるでしょう。
関ヶ原の戦いとその後の繁栄
家康のもとで手腕を発揮していった直政は、関ヶ原の戦いや江戸幕府の開府にも大きく貢献しました。
東軍の軍監に任命され指揮をとった
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが勃発すると、直政は本多忠勝と共に軍監となって指揮をとり、東軍の中心的存在となりました。この戦いで直政は、全国の名だたる諸大名を西軍から東軍に取り込むことに成功しています。
開戦後は島津義弘の甥・島津豊久を討ち、退却する島津軍を追撃。狙撃されて落馬したものの、その猛追ぶりには配下も追いつけなかったといいます。
江戸幕府の基礎固めに尽力
直政は関ヶ原の戦いで大怪我をしましたが、戦後処理や江戸幕府の基礎固めにも尽力しました。西軍の総大将・毛利輝元との交渉役も担当しており、この交渉により所領を与えられた輝元は、直政に感謝するとともに指南役も頼んでいます。また、徳川家と島津家の和平交渉の仲立ちや真田昌幸・幸村(信繁)親子の助命にも尽力しました。
佐和山藩から彦根藩へ
直政はこれらの功績により、家康から石田三成の旧領・近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石を与えられました。京都近くに配置されたのは、西国の抑えや朝廷の守護という意味合いがあったと考えられています。それだけ家康から厚い信頼を得ていたといえるでしょう。
慶長7年(1602)直政はついにこの世から去ります。直政がいた佐和山藩は彦根城の築城にともなって廃止され、新たに彦根藩30万石が置かれました。それ以降、彦根藩は井伊家の藩として明治時代まで栄えました。
直政の人物像とは?
徳川家に尽力しさまざまな功績を残した直政ですが、一体どのような人物だったのでしょうか。
その人物像がうかがえるエピソードを3つご紹介します。
優しい美男子として知られる
直政は複数の史料から美男子だったといわれています。家康は直政を寵愛しており、自邸近くに直政の住まいを作り通っていたそうです。また、人質として徳川方にやってきた秀吉の母やその侍女達も、直政の優しく丁寧なもてなしに惚れ込んだといいます。直政には男女ともに虜にする魅力があったといえるでしょう。
「人斬り兵部」と呼ばれ家臣に恐れられた
直政は多くの領国を与えられるほど厚く家康に奉公していましたが、それを自分の家臣にも強要していました。わずかな失敗でも手討ちにしたため当時の官位に由来して「人斬り兵部」と呼ばれ、耐えかねて忠勝のもとに去る家臣も多かったようです。直政は厳格で気性が激しかったといわれますが、それ故に家康も厚く信頼していたといえそうです。
妻に頭が上がらない恐妻家だった!?
そんな厳しい性格の直政ですが、正室・唐梅院(とうばいいん)には頭が上らなかったようです。
彼女は、侍女が夫の子供をはらんだと知ると父親のもとに帰してしまいました。直政は正室に遠慮してしばらくこの子供に会いませんでしたが、12歳になりようやく召し寄せます。この子こそ、大坂冬の陣で井伊家大将として活躍し、やがて井伊宗家の家督を継ぐことになる直孝でした。
天下無双と評された猛将
その気になれば天下統一も可能だと諸将から評価されていたといわれる直政。しかし彼は、そのような野心を見せることなく、家康が天下人になるよう貢献しました。その働きは、『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』にも「家康が幕府を開くにあたっての一番の功労者」と記載されるほどです。彼は関ヶ原の戦いで負った傷が原因で42歳で亡くなりましたが、井伊家はその後も繁栄し、江戸264年間を通じて井伊直弼など4名の大老を輩出しました。 | 直政は本多忠勝と共に軍監となって指揮をとり、どのような存在となりましたか。 | 直政は本多忠勝と共に軍監となって指揮をとり、東軍の中心的存在となりました。 |
JCRRAG_012420 | 歴史 | 井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、井伊直政である。
秀吉から武勇や政治的手腕を評価される
家康のもとで本領を発揮した直政は、豊臣秀吉からも高い評価を受けることになります。
天正14年(1586)家康が秀吉に臣従すると、直政は秀吉から武勇や政治的手腕を評価され、従五位下に叙位されたほか豊臣姓も賜りました。その2年後の聚楽第行幸(じゅらくていぎょうこう)の際には、徳川重臣のなかで直政だけ一つ身分が上の侍従に任官されます。こうして直政は、徳川家で最も格式の高い重臣となったのです。
豊臣方の武将を徳川に引き込んだ
直政はもともと外様の新参者でしたが、小田原征伐や奥州仕置などで次々と戦功を挙げました。その活躍もあってか、家康が江戸に入った際は、徳川家臣団のなかで最も高い12万石を与えられています。
秀吉の死後に起こった政治抗争では豊臣方の武将を家康の味方に引き入れるなど交渉にも手腕を発揮しており、特に黒田如水(官兵衛)・長政父子と盟約を結んで、他の武将を徳川方に組み入れたことは大きな功績だったといえるでしょう。
関ヶ原の戦いとその後の繁栄
家康のもとで手腕を発揮していった直政は、関ヶ原の戦いや江戸幕府の開府にも大きく貢献しました。
東軍の軍監に任命され指揮をとった
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが勃発すると、直政は本多忠勝と共に軍監となって指揮をとり、東軍の中心的存在となりました。この戦いで直政は、全国の名だたる諸大名を西軍から東軍に取り込むことに成功しています。
開戦後は島津義弘の甥・島津豊久を討ち、退却する島津軍を追撃。狙撃されて落馬したものの、その猛追ぶりには配下も追いつけなかったといいます。
江戸幕府の基礎固めに尽力
直政は関ヶ原の戦いで大怪我をしましたが、戦後処理や江戸幕府の基礎固めにも尽力しました。西軍の総大将・毛利輝元との交渉役も担当しており、この交渉により所領を与えられた輝元は、直政に感謝するとともに指南役も頼んでいます。また、徳川家と島津家の和平交渉の仲立ちや真田昌幸・幸村(信繁)親子の助命にも尽力しました。
佐和山藩から彦根藩へ
直政はこれらの功績により、家康から石田三成の旧領・近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石を与えられました。京都近くに配置されたのは、西国の抑えや朝廷の守護という意味合いがあったと考えられています。それだけ家康から厚い信頼を得ていたといえるでしょう。
慶長7年(1602)直政はついにこの世から去ります。直政がいた佐和山藩は彦根城の築城にともなって廃止され、新たに彦根藩30万石が置かれました。それ以降、彦根藩は井伊家の藩として明治時代まで栄えました。
直政の人物像とは?
徳川家に尽力しさまざまな功績を残した直政ですが、一体どのような人物だったのでしょうか。
その人物像がうかがえるエピソードを3つご紹介します。
優しい美男子として知られる
直政は複数の史料から美男子だったといわれています。家康は直政を寵愛しており、自邸近くに直政の住まいを作り通っていたそうです。また、人質として徳川方にやってきた秀吉の母やその侍女達も、直政の優しく丁寧なもてなしに惚れ込んだといいます。直政には男女ともに虜にする魅力があったといえるでしょう。
「人斬り兵部」と呼ばれ家臣に恐れられた
直政は多くの領国を与えられるほど厚く家康に奉公していましたが、それを自分の家臣にも強要していました。わずかな失敗でも手討ちにしたため当時の官位に由来して「人斬り兵部」と呼ばれ、耐えかねて忠勝のもとに去る家臣も多かったようです。直政は厳格で気性が激しかったといわれますが、それ故に家康も厚く信頼していたといえそうです。
妻に頭が上がらない恐妻家だった!?
そんな厳しい性格の直政ですが、正室・唐梅院(とうばいいん)には頭が上らなかったようです。
彼女は、侍女が夫の子供をはらんだと知ると父親のもとに帰してしまいました。直政は正室に遠慮してしばらくこの子供に会いませんでしたが、12歳になりようやく召し寄せます。この子こそ、大坂冬の陣で井伊家大将として活躍し、やがて井伊宗家の家督を継ぐことになる直孝でした。
天下無双と評された猛将
その気になれば天下統一も可能だと諸将から評価されていたといわれる直政。しかし彼は、そのような野心を見せることなく、家康が天下人になるよう貢献しました。その働きは、『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』にも「家康が幕府を開くにあたっての一番の功労者」と記載されるほどです。彼は関ヶ原の戦いで負った傷が原因で42歳で亡くなりましたが、井伊家はその後も繁栄し、江戸264年間を通じて井伊直弼など4名の大老を輩出しました。 | 直政は関ヶ原の戦いで大怪我をしましたが、何にも尽力しましたか。 | 直政は関ヶ原の戦いで大怪我をしましたが、戦後処理や江戸幕府の基礎固めにも尽力しました。 |
JCRRAG_012421 | 歴史 | 井伊直虎に育てられたことで知られ徳川四天王にも数えられる人物は、井伊直政である。
秀吉から武勇や政治的手腕を評価される
家康のもとで本領を発揮した直政は、豊臣秀吉からも高い評価を受けることになります。
天正14年(1586)家康が秀吉に臣従すると、直政は秀吉から武勇や政治的手腕を評価され、従五位下に叙位されたほか豊臣姓も賜りました。その2年後の聚楽第行幸(じゅらくていぎょうこう)の際には、徳川重臣のなかで直政だけ一つ身分が上の侍従に任官されます。こうして直政は、徳川家で最も格式の高い重臣となったのです。
豊臣方の武将を徳川に引き込んだ
直政はもともと外様の新参者でしたが、小田原征伐や奥州仕置などで次々と戦功を挙げました。その活躍もあってか、家康が江戸に入った際は、徳川家臣団のなかで最も高い12万石を与えられています。
秀吉の死後に起こった政治抗争では豊臣方の武将を家康の味方に引き入れるなど交渉にも手腕を発揮しており、特に黒田如水(官兵衛)・長政父子と盟約を結んで、他の武将を徳川方に組み入れたことは大きな功績だったといえるでしょう。
関ヶ原の戦いとその後の繁栄
家康のもとで手腕を発揮していった直政は、関ヶ原の戦いや江戸幕府の開府にも大きく貢献しました。
東軍の軍監に任命され指揮をとった
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが勃発すると、直政は本多忠勝と共に軍監となって指揮をとり、東軍の中心的存在となりました。この戦いで直政は、全国の名だたる諸大名を西軍から東軍に取り込むことに成功しています。
開戦後は島津義弘の甥・島津豊久を討ち、退却する島津軍を追撃。狙撃されて落馬したものの、その猛追ぶりには配下も追いつけなかったといいます。
江戸幕府の基礎固めに尽力
直政は関ヶ原の戦いで大怪我をしましたが、戦後処理や江戸幕府の基礎固めにも尽力しました。西軍の総大将・毛利輝元との交渉役も担当しており、この交渉により所領を与えられた輝元は、直政に感謝するとともに指南役も頼んでいます。また、徳川家と島津家の和平交渉の仲立ちや真田昌幸・幸村(信繁)親子の助命にも尽力しました。
佐和山藩から彦根藩へ
直政はこれらの功績により、家康から石田三成の旧領・近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石を与えられました。京都近くに配置されたのは、西国の抑えや朝廷の守護という意味合いがあったと考えられています。それだけ家康から厚い信頼を得ていたといえるでしょう。
慶長7年(1602)直政はついにこの世から去ります。直政がいた佐和山藩は彦根城の築城にともなって廃止され、新たに彦根藩30万石が置かれました。それ以降、彦根藩は井伊家の藩として明治時代まで栄えました。
直政の人物像とは?
徳川家に尽力しさまざまな功績を残した直政ですが、一体どのような人物だったのでしょうか。
その人物像がうかがえるエピソードを3つご紹介します。
優しい美男子として知られる
直政は複数の史料から美男子だったといわれています。家康は直政を寵愛しており、自邸近くに直政の住まいを作り通っていたそうです。また、人質として徳川方にやってきた秀吉の母やその侍女達も、直政の優しく丁寧なもてなしに惚れ込んだといいます。直政には男女ともに虜にする魅力があったといえるでしょう。
「人斬り兵部」と呼ばれ家臣に恐れられた
直政は多くの領国を与えられるほど厚く家康に奉公していましたが、それを自分の家臣にも強要していました。わずかな失敗でも手討ちにしたため当時の官位に由来して「人斬り兵部」と呼ばれ、耐えかねて忠勝のもとに去る家臣も多かったようです。直政は厳格で気性が激しかったといわれますが、それ故に家康も厚く信頼していたといえそうです。
妻に頭が上がらない恐妻家だった!?
そんな厳しい性格の直政ですが、正室・唐梅院(とうばいいん)には頭が上らなかったようです。
彼女は、侍女が夫の子供をはらんだと知ると父親のもとに帰してしまいました。直政は正室に遠慮してしばらくこの子供に会いませんでしたが、12歳になりようやく召し寄せます。この子こそ、大坂冬の陣で井伊家大将として活躍し、やがて井伊宗家の家督を継ぐことになる直孝でした。
天下無双と評された猛将
その気になれば天下統一も可能だと諸将から評価されていたといわれる直政。しかし彼は、そのような野心を見せることなく、家康が天下人になるよう貢献しました。その働きは、『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』にも「家康が幕府を開くにあたっての一番の功労者」と記載されるほどです。彼は関ヶ原の戦いで負った傷が原因で42歳で亡くなりましたが、井伊家はその後も繁栄し、江戸264年間を通じて井伊直弼など4名の大老を輩出しました。 | 直政がいた佐和山藩は彦根城の築城にともなって廃止され、新たに彦根藩何万石が置かれましたか。 | 直政がいた佐和山藩は彦根城の築城にともなって廃止され、新たに彦根藩30万石が置かれました。 |
JCRRAG_012422 | 歴史 | 信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、森蘭丸である。
信長の側近として生きた蘭丸
まずは蘭丸の生涯について振り返りましょう。その出自から、彼が信長のもとで活躍することは決まっていたといえるかもしれません。
織田家重臣:森可成の子として生まれる
蘭丸は、永禄8年(1565)信長の家臣で金山城主だった森可成(よしなり)の三男として尾張国葉栗郡で誕生しました。本名は森成利(なりとし)といい、名前には諸説あります。文書には「乱」「乱法師」が用いられ諱は長定とあるものの、当時の古文書では「成利」と署名されているようです。
武勇に優れた父は信長から厚い信頼を得ており、その跡を継いだ兄・長可(ながよし)も重用されました。蘭丸は天正5年(1577)5月に弟らとともに小姓として召し抱えられ、それ以降は信長の側近として活動。17歳の頃には近江に500石の知行を与えられました。
使者や側近として活躍する
蘭丸の活躍は『信長公記』(しんちょうこうき)にも記されており、信長の息子たちに刀を贈り届けたり、朱印状を与えたりと、使者としての仕事も多くこなしています。母・妙向尼が信長と石山本願寺の和睦に奔走したときは、蘭丸を通して信長に直談判したといわれているため、間接的に大きな役割を担っていたともいえるでしょう。
天正10年(1582)には、甲州征伐に貢献した兄が恩賞として旧武田領を得て領地替えとなったため、兄の所領だった美濃金山城を与えられています。
本能寺の変で明智光秀軍と奮戦!
蘭丸は、天正10年(1582)本能寺の変で1万の光秀軍に囲まれて奮闘しました。しかし明智配下の安田国継により、わずか18歳で2人の弟とともに討ち死にします。こうして最期まで主君と運命をともにした蘭丸でしたが、一説では以前から光秀の謀反を疑っていたともいわれています。もし信長が蘭丸の言葉を信じていたら、本能寺の変は防げていたのかもしれませんね。 | 信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、誰であるか。 | 信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、森蘭丸である。 |
JCRRAG_012423 | 歴史 | 信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、森蘭丸である。
信長の側近として生きた蘭丸
まずは蘭丸の生涯について振り返りましょう。その出自から、彼が信長のもとで活躍することは決まっていたといえるかもしれません。
織田家重臣:森可成の子として生まれる
蘭丸は、永禄8年(1565)信長の家臣で金山城主だった森可成(よしなり)の三男として尾張国葉栗郡で誕生しました。本名は森成利(なりとし)といい、名前には諸説あります。文書には「乱」「乱法師」が用いられ諱は長定とあるものの、当時の古文書では「成利」と署名されているようです。
武勇に優れた父は信長から厚い信頼を得ており、その跡を継いだ兄・長可(ながよし)も重用されました。蘭丸は天正5年(1577)5月に弟らとともに小姓として召し抱えられ、それ以降は信長の側近として活動。17歳の頃には近江に500石の知行を与えられました。
使者や側近として活躍する
蘭丸の活躍は『信長公記』(しんちょうこうき)にも記されており、信長の息子たちに刀を贈り届けたり、朱印状を与えたりと、使者としての仕事も多くこなしています。母・妙向尼が信長と石山本願寺の和睦に奔走したときは、蘭丸を通して信長に直談判したといわれているため、間接的に大きな役割を担っていたともいえるでしょう。
天正10年(1582)には、甲州征伐に貢献した兄が恩賞として旧武田領を得て領地替えとなったため、兄の所領だった美濃金山城を与えられています。
本能寺の変で明智光秀軍と奮戦!
蘭丸は、天正10年(1582)本能寺の変で1万の光秀軍に囲まれて奮闘しました。しかし明智配下の安田国継により、わずか18歳で2人の弟とともに討ち死にします。こうして最期まで主君と運命をともにした蘭丸でしたが、一説では以前から光秀の謀反を疑っていたともいわれています。もし信長が蘭丸の言葉を信じていたら、本能寺の変は防げていたのかもしれませんね。 | 蘭丸は、永禄8年(1565)信長の家臣で金山城主だった森可成の三男としてどこで誕生しましたか。 | 蘭丸は、永禄8年(1565)信長の家臣で金山城主だった森可成(よしなり)の三男として尾張国葉栗郡で誕生しました。 |
JCRRAG_012424 | 歴史 | 信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、森蘭丸である。
信長の側近として生きた蘭丸
まずは蘭丸の生涯について振り返りましょう。その出自から、彼が信長のもとで活躍することは決まっていたといえるかもしれません。
織田家重臣:森可成の子として生まれる
蘭丸は、永禄8年(1565)信長の家臣で金山城主だった森可成(よしなり)の三男として尾張国葉栗郡で誕生しました。本名は森成利(なりとし)といい、名前には諸説あります。文書には「乱」「乱法師」が用いられ諱は長定とあるものの、当時の古文書では「成利」と署名されているようです。
武勇に優れた父は信長から厚い信頼を得ており、その跡を継いだ兄・長可(ながよし)も重用されました。蘭丸は天正5年(1577)5月に弟らとともに小姓として召し抱えられ、それ以降は信長の側近として活動。17歳の頃には近江に500石の知行を与えられました。
使者や側近として活躍する
蘭丸の活躍は『信長公記』(しんちょうこうき)にも記されており、信長の息子たちに刀を贈り届けたり、朱印状を与えたりと、使者としての仕事も多くこなしています。母・妙向尼が信長と石山本願寺の和睦に奔走したときは、蘭丸を通して信長に直談判したといわれているため、間接的に大きな役割を担っていたともいえるでしょう。
天正10年(1582)には、甲州征伐に貢献した兄が恩賞として旧武田領を得て領地替えとなったため、兄の所領だった美濃金山城を与えられています。
本能寺の変で明智光秀軍と奮戦!
蘭丸は、天正10年(1582)本能寺の変で1万の光秀軍に囲まれて奮闘しました。しかし明智配下の安田国継により、わずか18歳で2人の弟とともに討ち死にします。こうして最期まで主君と運命をともにした蘭丸でしたが、一説では以前から光秀の謀反を疑っていたともいわれています。もし信長が蘭丸の言葉を信じていたら、本能寺の変は防げていたのかもしれませんね。 | 蘭丸はいつ弟らとともに小姓として召し抱えられましたか。 | 蘭丸は天正5年(1577)5月に弟らとともに小姓として召し抱えられました。 |
JCRRAG_012425 | 歴史 | 信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、森蘭丸である。
信長の側近として生きた蘭丸
まずは蘭丸の生涯について振り返りましょう。その出自から、彼が信長のもとで活躍することは決まっていたといえるかもしれません。
織田家重臣:森可成の子として生まれる
蘭丸は、永禄8年(1565)信長の家臣で金山城主だった森可成(よしなり)の三男として尾張国葉栗郡で誕生しました。本名は森成利(なりとし)といい、名前には諸説あります。文書には「乱」「乱法師」が用いられ諱は長定とあるものの、当時の古文書では「成利」と署名されているようです。
武勇に優れた父は信長から厚い信頼を得ており、その跡を継いだ兄・長可(ながよし)も重用されました。蘭丸は天正5年(1577)5月に弟らとともに小姓として召し抱えられ、それ以降は信長の側近として活動。17歳の頃には近江に500石の知行を与えられました。
使者や側近として活躍する
蘭丸の活躍は『信長公記』(しんちょうこうき)にも記されており、信長の息子たちに刀を贈り届けたり、朱印状を与えたりと、使者としての仕事も多くこなしています。母・妙向尼が信長と石山本願寺の和睦に奔走したときは、蘭丸を通して信長に直談判したといわれているため、間接的に大きな役割を担っていたともいえるでしょう。
天正10年(1582)には、甲州征伐に貢献した兄が恩賞として旧武田領を得て領地替えとなったため、兄の所領だった美濃金山城を与えられています。
本能寺の変で明智光秀軍と奮戦!
蘭丸は、天正10年(1582)本能寺の変で1万の光秀軍に囲まれて奮闘しました。しかし明智配下の安田国継により、わずか18歳で2人の弟とともに討ち死にします。こうして最期まで主君と運命をともにした蘭丸でしたが、一説では以前から光秀の謀反を疑っていたともいわれています。もし信長が蘭丸の言葉を信じていたら、本能寺の変は防げていたのかもしれませんね。 | 蘭丸の活躍は何に記されていますか。 | 蘭丸の活躍は『信長公記』(しんちょうこうき)にも記されています。 |
JCRRAG_012426 | 歴史 | 信長に寵愛された小姓で10代で亡くなった人物は、森蘭丸である。
信長の側近として生きた蘭丸
まずは蘭丸の生涯について振り返りましょう。その出自から、彼が信長のもとで活躍することは決まっていたといえるかもしれません。
織田家重臣:森可成の子として生まれる
蘭丸は、永禄8年(1565)信長の家臣で金山城主だった森可成(よしなり)の三男として尾張国葉栗郡で誕生しました。本名は森成利(なりとし)といい、名前には諸説あります。文書には「乱」「乱法師」が用いられ諱は長定とあるものの、当時の古文書では「成利」と署名されているようです。
武勇に優れた父は信長から厚い信頼を得ており、その跡を継いだ兄・長可(ながよし)も重用されました。蘭丸は天正5年(1577)5月に弟らとともに小姓として召し抱えられ、それ以降は信長の側近として活動。17歳の頃には近江に500石の知行を与えられました。
使者や側近として活躍する
蘭丸の活躍は『信長公記』(しんちょうこうき)にも記されており、信長の息子たちに刀を贈り届けたり、朱印状を与えたりと、使者としての仕事も多くこなしています。母・妙向尼が信長と石山本願寺の和睦に奔走したときは、蘭丸を通して信長に直談判したといわれているため、間接的に大きな役割を担っていたともいえるでしょう。
天正10年(1582)には、甲州征伐に貢献した兄が恩賞として旧武田領を得て領地替えとなったため、兄の所領だった美濃金山城を与えられています。
本能寺の変で明智光秀軍と奮戦!
蘭丸は、天正10年(1582)本能寺の変で1万の光秀軍に囲まれて奮闘しました。しかし明智配下の安田国継により、わずか18歳で2人の弟とともに討ち死にします。こうして最期まで主君と運命をともにした蘭丸でしたが、一説では以前から光秀の謀反を疑っていたともいわれています。もし信長が蘭丸の言葉を信じていたら、本能寺の変は防げていたのかもしれませんね。 | 蘭丸は本能寺の変で誰に囲まれて奮闘しましたか。 | 蘭丸は、天正10年(1582)本能寺の変で1万の光秀軍に囲まれて奮闘しました。 |
JCRRAG_012427 | 歴史 | 越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、上杉謙信である。
遠征を目前にして病に倒れる
天正5年(1577)12月、遠征から春日山城に帰還した謙信は、翌年の遠征にむけて大動員令を出しました。しかしその直前、城内の厠で倒れて昏睡状態に陥り、享年49歳で急死してしまいます。死因は諸説ありますが、脳溢血の可能性が高いようです。謙信の死後は養子の景勝が家督を継ぎましたが、内乱により上杉家は衰退していきました。
猛威を振るった謙信の戦いとは?
謙信はその強さから後世では軍神とも称えられています。ここでは、名だたる武将と激突してきた謙信の戦いを振り返ります。
川中島の戦い:武田信玄と激戦を繰り広げる
謙信といえばすぐに思い浮かぶのが甲斐国の戦国大名・武田信玄との5度にわたる「川中島の戦い」でしょう。これは北信濃の支配権をめぐる戦いで、もっとも激戦となった第四次の戦いが川中島(現在の長野県長野市)で行われたことからこの総称がつけられています。この戦いは戦国時代最大の激戦ともいわれ、第四次の戦いは両者本陣にまで至り、謙信みずから信玄に切りつけたほどだったそうです。
小田原城の戦い:北条氏康の討伐を狙う
永禄3年(1560)桶狭間の戦いによって甲相駿三国同盟の一つである今川家が崩れ、これに乗じて謙信は北条氏康討伐に出陣します。北条方の諸城を攻略して厩橋城で年を越すと、翌年3月には10万余の軍を率いて氏康の居城を包囲。ところが氏康と同盟関係にある信玄が謙信の背後を牽制したことや、長期出兵できない武将が撤兵したことから、結局落城できずに兵を引きました。謙信は越後に帰る途中、武蔵国の松山城を落城し、厩橋城に城代をおいて帰国しています。
信長包囲網:織田信長と対立する
謙信は一向一揆に苦しめられていましたが、織田信長との戦いで苦境にあった石山本願寺の顕如と和睦しています。これは将軍・義昭が幕府再興の援助を願い出たからだといわれており、この謙信の決断によって信長包囲網が築かれました。もともと信長とは同盟関係にあった謙信ですが、毛利元就とも同盟を組んだことで信長との同盟が破綻。それ以降、上杉氏と織田氏は敵対することになりました。
謙信にまつわる逸話
圧倒的な強さを誇る謙信は、どのような人物だったのでしょうか?
ここでは謙信にまつわるエピソードを4つご紹介します。
故事「敵に塩を送る」の語源に
永禄10年(1567)信玄は同盟を組んでいた今川氏真との関係が悪化し、塩を止められてしまいます。信玄の治める信濃は内陸で塩が採れないため、これは厳しい経済封鎖でした。謙信はこれを卑怯な行為だと批判し、宿敵である信玄に塩を送ります。これはのちに「敵に塩を送る」という故事にもなりました。
そのときお礼として贈られた日本刀は、重要文化財として現在も東京国立博物館に所蔵されています。
武神・毘沙門天の化身と呼ばれた
謙信は毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「毘」の文字を用いました。毘沙門天は四天王の一人で、北方の守護神とされる武神です。謙信はその生涯で70回ほど戦をしましたが、大きな合戦では一度も敗戦しておらず、死後も「武田軍と上杉軍の強さは天下一だ」と称えられるほどでした。まさに毘沙門天の化身といえるでしょう。
唐沢山城での圧巻の的中突破
唐沢山城が北条氏政によって包囲されたときのこと、救援に向かった謙信はその戦況から城主・佐野昌綱の危機を感じ、自ら城に入り力を貸そうと考えました。そして、甲冑も着けずに十文字槍を構え、わずか数十騎で3万5千の北条軍の中を敵中突破したのです。北条軍は、襲えば奇策によって報いられると思い誰も攻撃しませんでした。これを聞いた北条方の将兵らは、「夜叉羅刹とは是なるべし」と謙信を恐れたといわれています。
実は女性だったという説も…
戦国時代の武将にしては珍しく、謙信は生涯独身を貫き側室もいませんでした。このことから、実は女性だったのではないかという説も囁かれています。その根拠としては、毎月腹痛を起こし合戦中でも部屋に籠っていたこと、瞽女(ゴゼ)歌という民謡で「男も及ばぬ大力無双」と歌われていたことなどが挙げられます。
真実は定かではありませんが、もし女性であれば戦国最強の女傑といえるかもしれません。
生涯不犯の軍神だった
多くの合戦で勝利し確固たる地位を築いた謙信ですが、最後は病に倒れて亡くなりました。病没前の遠征では、上洛して信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたともいわれています。謙信がもう少し長く生きていたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。
彼は妻帯せず子がいませんでしたが、養子に引き継がれた上杉家はその後も継承され現在に至っています。 | 越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、誰であるか。 | 越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、上杉謙信である。 |
JCRRAG_012428 | 歴史 | 越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、上杉謙信である。
遠征を目前にして病に倒れる
天正5年(1577)12月、遠征から春日山城に帰還した謙信は、翌年の遠征にむけて大動員令を出しました。しかしその直前、城内の厠で倒れて昏睡状態に陥り、享年49歳で急死してしまいます。死因は諸説ありますが、脳溢血の可能性が高いようです。謙信の死後は養子の景勝が家督を継ぎましたが、内乱により上杉家は衰退していきました。
猛威を振るった謙信の戦いとは?
謙信はその強さから後世では軍神とも称えられています。ここでは、名だたる武将と激突してきた謙信の戦いを振り返ります。
川中島の戦い:武田信玄と激戦を繰り広げる
謙信といえばすぐに思い浮かぶのが甲斐国の戦国大名・武田信玄との5度にわたる「川中島の戦い」でしょう。これは北信濃の支配権をめぐる戦いで、もっとも激戦となった第四次の戦いが川中島(現在の長野県長野市)で行われたことからこの総称がつけられています。この戦いは戦国時代最大の激戦ともいわれ、第四次の戦いは両者本陣にまで至り、謙信みずから信玄に切りつけたほどだったそうです。
小田原城の戦い:北条氏康の討伐を狙う
永禄3年(1560)桶狭間の戦いによって甲相駿三国同盟の一つである今川家が崩れ、これに乗じて謙信は北条氏康討伐に出陣します。北条方の諸城を攻略して厩橋城で年を越すと、翌年3月には10万余の軍を率いて氏康の居城を包囲。ところが氏康と同盟関係にある信玄が謙信の背後を牽制したことや、長期出兵できない武将が撤兵したことから、結局落城できずに兵を引きました。謙信は越後に帰る途中、武蔵国の松山城を落城し、厩橋城に城代をおいて帰国しています。
信長包囲網:織田信長と対立する
謙信は一向一揆に苦しめられていましたが、織田信長との戦いで苦境にあった石山本願寺の顕如と和睦しています。これは将軍・義昭が幕府再興の援助を願い出たからだといわれており、この謙信の決断によって信長包囲網が築かれました。もともと信長とは同盟関係にあった謙信ですが、毛利元就とも同盟を組んだことで信長との同盟が破綻。それ以降、上杉氏と織田氏は敵対することになりました。
謙信にまつわる逸話
圧倒的な強さを誇る謙信は、どのような人物だったのでしょうか?
ここでは謙信にまつわるエピソードを4つご紹介します。
故事「敵に塩を送る」の語源に
永禄10年(1567)信玄は同盟を組んでいた今川氏真との関係が悪化し、塩を止められてしまいます。信玄の治める信濃は内陸で塩が採れないため、これは厳しい経済封鎖でした。謙信はこれを卑怯な行為だと批判し、宿敵である信玄に塩を送ります。これはのちに「敵に塩を送る」という故事にもなりました。
そのときお礼として贈られた日本刀は、重要文化財として現在も東京国立博物館に所蔵されています。
武神・毘沙門天の化身と呼ばれた
謙信は毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「毘」の文字を用いました。毘沙門天は四天王の一人で、北方の守護神とされる武神です。謙信はその生涯で70回ほど戦をしましたが、大きな合戦では一度も敗戦しておらず、死後も「武田軍と上杉軍の強さは天下一だ」と称えられるほどでした。まさに毘沙門天の化身といえるでしょう。
唐沢山城での圧巻の的中突破
唐沢山城が北条氏政によって包囲されたときのこと、救援に向かった謙信はその戦況から城主・佐野昌綱の危機を感じ、自ら城に入り力を貸そうと考えました。そして、甲冑も着けずに十文字槍を構え、わずか数十騎で3万5千の北条軍の中を敵中突破したのです。北条軍は、襲えば奇策によって報いられると思い誰も攻撃しませんでした。これを聞いた北条方の将兵らは、「夜叉羅刹とは是なるべし」と謙信を恐れたといわれています。
実は女性だったという説も…
戦国時代の武将にしては珍しく、謙信は生涯独身を貫き側室もいませんでした。このことから、実は女性だったのではないかという説も囁かれています。その根拠としては、毎月腹痛を起こし合戦中でも部屋に籠っていたこと、瞽女(ゴゼ)歌という民謡で「男も及ばぬ大力無双」と歌われていたことなどが挙げられます。
真実は定かではありませんが、もし女性であれば戦国最強の女傑といえるかもしれません。
生涯不犯の軍神だった
多くの合戦で勝利し確固たる地位を築いた謙信ですが、最後は病に倒れて亡くなりました。病没前の遠征では、上洛して信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたともいわれています。謙信がもう少し長く生きていたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。
彼は妻帯せず子がいませんでしたが、養子に引き継がれた上杉家はその後も継承され現在に至っています。 | 謙信はその強さから後世では何と称えられていますか。 | 謙信はその強さから後世では軍神とも称えられています。 |
JCRRAG_012429 | 歴史 | 越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、上杉謙信である。
遠征を目前にして病に倒れる
天正5年(1577)12月、遠征から春日山城に帰還した謙信は、翌年の遠征にむけて大動員令を出しました。しかしその直前、城内の厠で倒れて昏睡状態に陥り、享年49歳で急死してしまいます。死因は諸説ありますが、脳溢血の可能性が高いようです。謙信の死後は養子の景勝が家督を継ぎましたが、内乱により上杉家は衰退していきました。
猛威を振るった謙信の戦いとは?
謙信はその強さから後世では軍神とも称えられています。ここでは、名だたる武将と激突してきた謙信の戦いを振り返ります。
川中島の戦い:武田信玄と激戦を繰り広げる
謙信といえばすぐに思い浮かぶのが甲斐国の戦国大名・武田信玄との5度にわたる「川中島の戦い」でしょう。これは北信濃の支配権をめぐる戦いで、もっとも激戦となった第四次の戦いが川中島(現在の長野県長野市)で行われたことからこの総称がつけられています。この戦いは戦国時代最大の激戦ともいわれ、第四次の戦いは両者本陣にまで至り、謙信みずから信玄に切りつけたほどだったそうです。
小田原城の戦い:北条氏康の討伐を狙う
永禄3年(1560)桶狭間の戦いによって甲相駿三国同盟の一つである今川家が崩れ、これに乗じて謙信は北条氏康討伐に出陣します。北条方の諸城を攻略して厩橋城で年を越すと、翌年3月には10万余の軍を率いて氏康の居城を包囲。ところが氏康と同盟関係にある信玄が謙信の背後を牽制したことや、長期出兵できない武将が撤兵したことから、結局落城できずに兵を引きました。謙信は越後に帰る途中、武蔵国の松山城を落城し、厩橋城に城代をおいて帰国しています。
信長包囲網:織田信長と対立する
謙信は一向一揆に苦しめられていましたが、織田信長との戦いで苦境にあった石山本願寺の顕如と和睦しています。これは将軍・義昭が幕府再興の援助を願い出たからだといわれており、この謙信の決断によって信長包囲網が築かれました。もともと信長とは同盟関係にあった謙信ですが、毛利元就とも同盟を組んだことで信長との同盟が破綻。それ以降、上杉氏と織田氏は敵対することになりました。
謙信にまつわる逸話
圧倒的な強さを誇る謙信は、どのような人物だったのでしょうか?
ここでは謙信にまつわるエピソードを4つご紹介します。
故事「敵に塩を送る」の語源に
永禄10年(1567)信玄は同盟を組んでいた今川氏真との関係が悪化し、塩を止められてしまいます。信玄の治める信濃は内陸で塩が採れないため、これは厳しい経済封鎖でした。謙信はこれを卑怯な行為だと批判し、宿敵である信玄に塩を送ります。これはのちに「敵に塩を送る」という故事にもなりました。
そのときお礼として贈られた日本刀は、重要文化財として現在も東京国立博物館に所蔵されています。
武神・毘沙門天の化身と呼ばれた
謙信は毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「毘」の文字を用いました。毘沙門天は四天王の一人で、北方の守護神とされる武神です。謙信はその生涯で70回ほど戦をしましたが、大きな合戦では一度も敗戦しておらず、死後も「武田軍と上杉軍の強さは天下一だ」と称えられるほどでした。まさに毘沙門天の化身といえるでしょう。
唐沢山城での圧巻の的中突破
唐沢山城が北条氏政によって包囲されたときのこと、救援に向かった謙信はその戦況から城主・佐野昌綱の危機を感じ、自ら城に入り力を貸そうと考えました。そして、甲冑も着けずに十文字槍を構え、わずか数十騎で3万5千の北条軍の中を敵中突破したのです。北条軍は、襲えば奇策によって報いられると思い誰も攻撃しませんでした。これを聞いた北条方の将兵らは、「夜叉羅刹とは是なるべし」と謙信を恐れたといわれています。
実は女性だったという説も…
戦国時代の武将にしては珍しく、謙信は生涯独身を貫き側室もいませんでした。このことから、実は女性だったのではないかという説も囁かれています。その根拠としては、毎月腹痛を起こし合戦中でも部屋に籠っていたこと、瞽女(ゴゼ)歌という民謡で「男も及ばぬ大力無双」と歌われていたことなどが挙げられます。
真実は定かではありませんが、もし女性であれば戦国最強の女傑といえるかもしれません。
生涯不犯の軍神だった
多くの合戦で勝利し確固たる地位を築いた謙信ですが、最後は病に倒れて亡くなりました。病没前の遠征では、上洛して信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたともいわれています。謙信がもう少し長く生きていたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。
彼は妻帯せず子がいませんでしたが、養子に引き継がれた上杉家はその後も継承され現在に至っています。 | 謙信は毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも何の文字を用いましたか。 | 謙信は毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「毘」の文字を用いました。 |
JCRRAG_012430 | 歴史 | 越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、上杉謙信である。
遠征を目前にして病に倒れる
天正5年(1577)12月、遠征から春日山城に帰還した謙信は、翌年の遠征にむけて大動員令を出しました。しかしその直前、城内の厠で倒れて昏睡状態に陥り、享年49歳で急死してしまいます。死因は諸説ありますが、脳溢血の可能性が高いようです。謙信の死後は養子の景勝が家督を継ぎましたが、内乱により上杉家は衰退していきました。
猛威を振るった謙信の戦いとは?
謙信はその強さから後世では軍神とも称えられています。ここでは、名だたる武将と激突してきた謙信の戦いを振り返ります。
川中島の戦い:武田信玄と激戦を繰り広げる
謙信といえばすぐに思い浮かぶのが甲斐国の戦国大名・武田信玄との5度にわたる「川中島の戦い」でしょう。これは北信濃の支配権をめぐる戦いで、もっとも激戦となった第四次の戦いが川中島(現在の長野県長野市)で行われたことからこの総称がつけられています。この戦いは戦国時代最大の激戦ともいわれ、第四次の戦いは両者本陣にまで至り、謙信みずから信玄に切りつけたほどだったそうです。
小田原城の戦い:北条氏康の討伐を狙う
永禄3年(1560)桶狭間の戦いによって甲相駿三国同盟の一つである今川家が崩れ、これに乗じて謙信は北条氏康討伐に出陣します。北条方の諸城を攻略して厩橋城で年を越すと、翌年3月には10万余の軍を率いて氏康の居城を包囲。ところが氏康と同盟関係にある信玄が謙信の背後を牽制したことや、長期出兵できない武将が撤兵したことから、結局落城できずに兵を引きました。謙信は越後に帰る途中、武蔵国の松山城を落城し、厩橋城に城代をおいて帰国しています。
信長包囲網:織田信長と対立する
謙信は一向一揆に苦しめられていましたが、織田信長との戦いで苦境にあった石山本願寺の顕如と和睦しています。これは将軍・義昭が幕府再興の援助を願い出たからだといわれており、この謙信の決断によって信長包囲網が築かれました。もともと信長とは同盟関係にあった謙信ですが、毛利元就とも同盟を組んだことで信長との同盟が破綻。それ以降、上杉氏と織田氏は敵対することになりました。
謙信にまつわる逸話
圧倒的な強さを誇る謙信は、どのような人物だったのでしょうか?
ここでは謙信にまつわるエピソードを4つご紹介します。
故事「敵に塩を送る」の語源に
永禄10年(1567)信玄は同盟を組んでいた今川氏真との関係が悪化し、塩を止められてしまいます。信玄の治める信濃は内陸で塩が採れないため、これは厳しい経済封鎖でした。謙信はこれを卑怯な行為だと批判し、宿敵である信玄に塩を送ります。これはのちに「敵に塩を送る」という故事にもなりました。
そのときお礼として贈られた日本刀は、重要文化財として現在も東京国立博物館に所蔵されています。
武神・毘沙門天の化身と呼ばれた
謙信は毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「毘」の文字を用いました。毘沙門天は四天王の一人で、北方の守護神とされる武神です。謙信はその生涯で70回ほど戦をしましたが、大きな合戦では一度も敗戦しておらず、死後も「武田軍と上杉軍の強さは天下一だ」と称えられるほどでした。まさに毘沙門天の化身といえるでしょう。
唐沢山城での圧巻の的中突破
唐沢山城が北条氏政によって包囲されたときのこと、救援に向かった謙信はその戦況から城主・佐野昌綱の危機を感じ、自ら城に入り力を貸そうと考えました。そして、甲冑も着けずに十文字槍を構え、わずか数十騎で3万5千の北条軍の中を敵中突破したのです。北条軍は、襲えば奇策によって報いられると思い誰も攻撃しませんでした。これを聞いた北条方の将兵らは、「夜叉羅刹とは是なるべし」と謙信を恐れたといわれています。
実は女性だったという説も…
戦国時代の武将にしては珍しく、謙信は生涯独身を貫き側室もいませんでした。このことから、実は女性だったのではないかという説も囁かれています。その根拠としては、毎月腹痛を起こし合戦中でも部屋に籠っていたこと、瞽女(ゴゼ)歌という民謡で「男も及ばぬ大力無双」と歌われていたことなどが挙げられます。
真実は定かではありませんが、もし女性であれば戦国最強の女傑といえるかもしれません。
生涯不犯の軍神だった
多くの合戦で勝利し確固たる地位を築いた謙信ですが、最後は病に倒れて亡くなりました。病没前の遠征では、上洛して信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたともいわれています。謙信がもう少し長く生きていたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。
彼は妻帯せず子がいませんでしたが、養子に引き継がれた上杉家はその後も継承され現在に至っています。 | 謙信はその生涯で70回ほど戦をしましたが、大きな合戦では一度も敗戦しておらず、死後も何と称えられるほどでしたか。 | 謙信はその生涯で70回ほど戦をしましたが、大きな合戦では一度も敗戦しておらず、死後も「武田軍と上杉軍の強さは天下一だ」と称えられるほどでした。 |
JCRRAG_012431 | 歴史 | 越後の龍・軍神と呼ばれた人物は、上杉謙信である。
遠征を目前にして病に倒れる
天正5年(1577)12月、遠征から春日山城に帰還した謙信は、翌年の遠征にむけて大動員令を出しました。しかしその直前、城内の厠で倒れて昏睡状態に陥り、享年49歳で急死してしまいます。死因は諸説ありますが、脳溢血の可能性が高いようです。謙信の死後は養子の景勝が家督を継ぎましたが、内乱により上杉家は衰退していきました。
猛威を振るった謙信の戦いとは?
謙信はその強さから後世では軍神とも称えられています。ここでは、名だたる武将と激突してきた謙信の戦いを振り返ります。
川中島の戦い:武田信玄と激戦を繰り広げる
謙信といえばすぐに思い浮かぶのが甲斐国の戦国大名・武田信玄との5度にわたる「川中島の戦い」でしょう。これは北信濃の支配権をめぐる戦いで、もっとも激戦となった第四次の戦いが川中島(現在の長野県長野市)で行われたことからこの総称がつけられています。この戦いは戦国時代最大の激戦ともいわれ、第四次の戦いは両者本陣にまで至り、謙信みずから信玄に切りつけたほどだったそうです。
小田原城の戦い:北条氏康の討伐を狙う
永禄3年(1560)桶狭間の戦いによって甲相駿三国同盟の一つである今川家が崩れ、これに乗じて謙信は北条氏康討伐に出陣します。北条方の諸城を攻略して厩橋城で年を越すと、翌年3月には10万余の軍を率いて氏康の居城を包囲。ところが氏康と同盟関係にある信玄が謙信の背後を牽制したことや、長期出兵できない武将が撤兵したことから、結局落城できずに兵を引きました。謙信は越後に帰る途中、武蔵国の松山城を落城し、厩橋城に城代をおいて帰国しています。
信長包囲網:織田信長と対立する
謙信は一向一揆に苦しめられていましたが、織田信長との戦いで苦境にあった石山本願寺の顕如と和睦しています。これは将軍・義昭が幕府再興の援助を願い出たからだといわれており、この謙信の決断によって信長包囲網が築かれました。もともと信長とは同盟関係にあった謙信ですが、毛利元就とも同盟を組んだことで信長との同盟が破綻。それ以降、上杉氏と織田氏は敵対することになりました。
謙信にまつわる逸話
圧倒的な強さを誇る謙信は、どのような人物だったのでしょうか?
ここでは謙信にまつわるエピソードを4つご紹介します。
故事「敵に塩を送る」の語源に
永禄10年(1567)信玄は同盟を組んでいた今川氏真との関係が悪化し、塩を止められてしまいます。信玄の治める信濃は内陸で塩が採れないため、これは厳しい経済封鎖でした。謙信はこれを卑怯な行為だと批判し、宿敵である信玄に塩を送ります。これはのちに「敵に塩を送る」という故事にもなりました。
そのときお礼として贈られた日本刀は、重要文化財として現在も東京国立博物館に所蔵されています。
武神・毘沙門天の化身と呼ばれた
謙信は毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「毘」の文字を用いました。毘沙門天は四天王の一人で、北方の守護神とされる武神です。謙信はその生涯で70回ほど戦をしましたが、大きな合戦では一度も敗戦しておらず、死後も「武田軍と上杉軍の強さは天下一だ」と称えられるほどでした。まさに毘沙門天の化身といえるでしょう。
唐沢山城での圧巻の的中突破
唐沢山城が北条氏政によって包囲されたときのこと、救援に向かった謙信はその戦況から城主・佐野昌綱の危機を感じ、自ら城に入り力を貸そうと考えました。そして、甲冑も着けずに十文字槍を構え、わずか数十騎で3万5千の北条軍の中を敵中突破したのです。北条軍は、襲えば奇策によって報いられると思い誰も攻撃しませんでした。これを聞いた北条方の将兵らは、「夜叉羅刹とは是なるべし」と謙信を恐れたといわれています。
実は女性だったという説も…
戦国時代の武将にしては珍しく、謙信は生涯独身を貫き側室もいませんでした。このことから、実は女性だったのではないかという説も囁かれています。その根拠としては、毎月腹痛を起こし合戦中でも部屋に籠っていたこと、瞽女(ゴゼ)歌という民謡で「男も及ばぬ大力無双」と歌われていたことなどが挙げられます。
真実は定かではありませんが、もし女性であれば戦国最強の女傑といえるかもしれません。
生涯不犯の軍神だった
多くの合戦で勝利し確固たる地位を築いた謙信ですが、最後は病に倒れて亡くなりました。病没前の遠征では、上洛して信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたともいわれています。謙信がもう少し長く生きていたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。
彼は妻帯せず子がいませんでしたが、養子に引き継がれた上杉家はその後も継承され現在に至っています。 | 天正5年(1577)12月、遠征から春日山城に帰還した謙信は、翌年の遠征にむけて何を出しましたか。 | 天正5年(1577)12月、遠征から春日山城に帰還した謙信は、翌年の遠征にむけて大動員令を出しました。 |
JCRRAG_012432 | 歴史 | 父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、斎藤義龍である。
謎に包まれた出生
義龍は美濃国を治める戦国武将・斎藤道三の息子として育ちました。しかしその出自には俗説も囁かれています。
側室:深芳野から生まれる
義龍は、大永7年(1527)斎藤道三の長男として美濃国で生まれました。母親は側室の深芳野(みよしの)で、美濃一ともいわれていた長身の美女です。この頃の道三は美濃の守護・土岐頼芸(ときよりなり)に仕えており、深芳野はもともと頼芸のお気に入りの妾(めかけ)でした。それが道三に譲られる形になり、直後に義龍が生まれたのです。
そのため江戸時代にまとめられた『美濃国諸家系譜』で、頼芸の子を懐妊していたのではないかという俗説が生まれました。
家督を継承し稲葉山城主になる
天文23年(1554)道三の隠居により、義龍は家督を継いで稲葉山城主となります。この隠居は領国経営につまずいたためといわれますが、『信長公記』や『江美濃記』には記述がなく、隠居していないという説もあります。
道三は小坊主から油売りになり、祖父の地盤を受け継いで美濃の守護・土岐家へと食い込みました。主君を追放し一代で美濃を乗っ取ったことから「美濃のマムシ」と呼ばれますが、近年の研究では父子二代で美濃の国盗りを行ったことがわかっています。
そのように入手した美濃を受け継いだ義龍は、徐々に道三との間に溝を深めていくのです。
深刻化する父との確執
義龍は幼いころから父との確執を抱えていました。それはやがて、父殺しへと発展していきます。
道三は弟たちを溺愛していた
道三は義龍に冷たい態度をとり、弟の孫四郎や喜平次らを「利口者」だと溺愛するようになりました。そして、義龍の相続権を廃し、正室・小見の方の子である孫四郎を嫡子に、末弟の喜平次に名門一色氏を名乗らせようとしたのです。これにより道三と義龍の関係は悪化し、弟たちも大きな態度を取るようになります。
さらに当時の美濃では家中の不満がたまっており、多方面から危機感を抱いた義龍は戦いを決意します。 | 父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、誰であるか。 | 父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、斎藤義龍である。 |
JCRRAG_012433 | 歴史 | 父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、斎藤義龍である。
謎に包まれた出生
義龍は美濃国を治める戦国武将・斎藤道三の息子として育ちました。しかしその出自には俗説も囁かれています。
側室:深芳野から生まれる
義龍は、大永7年(1527)斎藤道三の長男として美濃国で生まれました。母親は側室の深芳野(みよしの)で、美濃一ともいわれていた長身の美女です。この頃の道三は美濃の守護・土岐頼芸(ときよりなり)に仕えており、深芳野はもともと頼芸のお気に入りの妾(めかけ)でした。それが道三に譲られる形になり、直後に義龍が生まれたのです。
そのため江戸時代にまとめられた『美濃国諸家系譜』で、頼芸の子を懐妊していたのではないかという俗説が生まれました。
家督を継承し稲葉山城主になる
天文23年(1554)道三の隠居により、義龍は家督を継いで稲葉山城主となります。この隠居は領国経営につまずいたためといわれますが、『信長公記』や『江美濃記』には記述がなく、隠居していないという説もあります。
道三は小坊主から油売りになり、祖父の地盤を受け継いで美濃の守護・土岐家へと食い込みました。主君を追放し一代で美濃を乗っ取ったことから「美濃のマムシ」と呼ばれますが、近年の研究では父子二代で美濃の国盗りを行ったことがわかっています。
そのように入手した美濃を受け継いだ義龍は、徐々に道三との間に溝を深めていくのです。
深刻化する父との確執
義龍は幼いころから父との確執を抱えていました。それはやがて、父殺しへと発展していきます。
道三は弟たちを溺愛していた
道三は義龍に冷たい態度をとり、弟の孫四郎や喜平次らを「利口者」だと溺愛するようになりました。そして、義龍の相続権を廃し、正室・小見の方の子である孫四郎を嫡子に、末弟の喜平次に名門一色氏を名乗らせようとしたのです。これにより道三と義龍の関係は悪化し、弟たちも大きな態度を取るようになります。
さらに当時の美濃では家中の不満がたまっており、多方面から危機感を抱いた義龍は戦いを決意します。 | 義龍は、大永7年(1527)斎藤道三の長男としてどこで生まれましたか。 | 義龍は、大永7年(1527)斎藤道三の長男として美濃国で生まれました。 |
JCRRAG_012434 | 歴史 | 父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、斎藤義龍である。
謎に包まれた出生
義龍は美濃国を治める戦国武将・斎藤道三の息子として育ちました。しかしその出自には俗説も囁かれています。
側室:深芳野から生まれる
義龍は、大永7年(1527)斎藤道三の長男として美濃国で生まれました。母親は側室の深芳野(みよしの)で、美濃一ともいわれていた長身の美女です。この頃の道三は美濃の守護・土岐頼芸(ときよりなり)に仕えており、深芳野はもともと頼芸のお気に入りの妾(めかけ)でした。それが道三に譲られる形になり、直後に義龍が生まれたのです。
そのため江戸時代にまとめられた『美濃国諸家系譜』で、頼芸の子を懐妊していたのではないかという俗説が生まれました。
家督を継承し稲葉山城主になる
天文23年(1554)道三の隠居により、義龍は家督を継いで稲葉山城主となります。この隠居は領国経営につまずいたためといわれますが、『信長公記』や『江美濃記』には記述がなく、隠居していないという説もあります。
道三は小坊主から油売りになり、祖父の地盤を受け継いで美濃の守護・土岐家へと食い込みました。主君を追放し一代で美濃を乗っ取ったことから「美濃のマムシ」と呼ばれますが、近年の研究では父子二代で美濃の国盗りを行ったことがわかっています。
そのように入手した美濃を受け継いだ義龍は、徐々に道三との間に溝を深めていくのです。
深刻化する父との確執
義龍は幼いころから父との確執を抱えていました。それはやがて、父殺しへと発展していきます。
道三は弟たちを溺愛していた
道三は義龍に冷たい態度をとり、弟の孫四郎や喜平次らを「利口者」だと溺愛するようになりました。そして、義龍の相続権を廃し、正室・小見の方の子である孫四郎を嫡子に、末弟の喜平次に名門一色氏を名乗らせようとしたのです。これにより道三と義龍の関係は悪化し、弟たちも大きな態度を取るようになります。
さらに当時の美濃では家中の不満がたまっており、多方面から危機感を抱いた義龍は戦いを決意します。 | 義龍の母親は誰ですか。 | 母親は側室の深芳野(みよしの)で、美濃一ともいわれていた長身の美女です。 |
JCRRAG_012435 | 歴史 | 父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、斎藤義龍である。
謎に包まれた出生
義龍は美濃国を治める戦国武将・斎藤道三の息子として育ちました。しかしその出自には俗説も囁かれています。
側室:深芳野から生まれる
義龍は、大永7年(1527)斎藤道三の長男として美濃国で生まれました。母親は側室の深芳野(みよしの)で、美濃一ともいわれていた長身の美女です。この頃の道三は美濃の守護・土岐頼芸(ときよりなり)に仕えており、深芳野はもともと頼芸のお気に入りの妾(めかけ)でした。それが道三に譲られる形になり、直後に義龍が生まれたのです。
そのため江戸時代にまとめられた『美濃国諸家系譜』で、頼芸の子を懐妊していたのではないかという俗説が生まれました。
家督を継承し稲葉山城主になる
天文23年(1554)道三の隠居により、義龍は家督を継いで稲葉山城主となります。この隠居は領国経営につまずいたためといわれますが、『信長公記』や『江美濃記』には記述がなく、隠居していないという説もあります。
道三は小坊主から油売りになり、祖父の地盤を受け継いで美濃の守護・土岐家へと食い込みました。主君を追放し一代で美濃を乗っ取ったことから「美濃のマムシ」と呼ばれますが、近年の研究では父子二代で美濃の国盗りを行ったことがわかっています。
そのように入手した美濃を受け継いだ義龍は、徐々に道三との間に溝を深めていくのです。
深刻化する父との確執
義龍は幼いころから父との確執を抱えていました。それはやがて、父殺しへと発展していきます。
道三は弟たちを溺愛していた
道三は義龍に冷たい態度をとり、弟の孫四郎や喜平次らを「利口者」だと溺愛するようになりました。そして、義龍の相続権を廃し、正室・小見の方の子である孫四郎を嫡子に、末弟の喜平次に名門一色氏を名乗らせようとしたのです。これにより道三と義龍の関係は悪化し、弟たちも大きな態度を取るようになります。
さらに当時の美濃では家中の不満がたまっており、多方面から危機感を抱いた義龍は戦いを決意します。 | 義龍は家督を継いで何となりますか。 | 義龍は家督を継いで稲葉山城主となります。 |
JCRRAG_012436 | 歴史 | 父殺しの汚名を背負いながら生きた武将は、斎藤義龍である。
謎に包まれた出生
義龍は美濃国を治める戦国武将・斎藤道三の息子として育ちました。しかしその出自には俗説も囁かれています。
側室:深芳野から生まれる
義龍は、大永7年(1527)斎藤道三の長男として美濃国で生まれました。母親は側室の深芳野(みよしの)で、美濃一ともいわれていた長身の美女です。この頃の道三は美濃の守護・土岐頼芸(ときよりなり)に仕えており、深芳野はもともと頼芸のお気に入りの妾(めかけ)でした。それが道三に譲られる形になり、直後に義龍が生まれたのです。
そのため江戸時代にまとめられた『美濃国諸家系譜』で、頼芸の子を懐妊していたのではないかという俗説が生まれました。
家督を継承し稲葉山城主になる
天文23年(1554)道三の隠居により、義龍は家督を継いで稲葉山城主となります。この隠居は領国経営につまずいたためといわれますが、『信長公記』や『江美濃記』には記述がなく、隠居していないという説もあります。
道三は小坊主から油売りになり、祖父の地盤を受け継いで美濃の守護・土岐家へと食い込みました。主君を追放し一代で美濃を乗っ取ったことから「美濃のマムシ」と呼ばれますが、近年の研究では父子二代で美濃の国盗りを行ったことがわかっています。
そのように入手した美濃を受け継いだ義龍は、徐々に道三との間に溝を深めていくのです。
深刻化する父との確執
義龍は幼いころから父との確執を抱えていました。それはやがて、父殺しへと発展していきます。
道三は弟たちを溺愛していた
道三は義龍に冷たい態度をとり、弟の孫四郎や喜平次らを「利口者」だと溺愛するようになりました。そして、義龍の相続権を廃し、正室・小見の方の子である孫四郎を嫡子に、末弟の喜平次に名門一色氏を名乗らせようとしたのです。これにより道三と義龍の関係は悪化し、弟たちも大きな態度を取るようになります。
さらに当時の美濃では家中の不満がたまっており、多方面から危機感を抱いた義龍は戦いを決意します。 | 道三が、義龍の相続権を廃し、正室・小見の方の子である孫四郎を嫡子に、末弟の喜平次に名門一色氏を名乗らせようとした結果、どうなりましたか。 | 道三と義龍の関係は悪化し、弟たちも大きな態度を取るようになります。 |
JCRRAG_012437 | 歴史 | 長良川の戦いで父を討つ
弘治元年(1555)義龍は長井道利と共謀し、稲葉山城におびきだした弟たちを酒に酔わせ殺害。これに驚いた道三は大桑城に落ち延びましたが、翌年には長良川で義龍と対峙します。このとき道三に味方する勢力は少なく、旧土岐氏の支持を得た義龍はその勢力に支えられて父を討ちました。兵力の差は歴然で、義龍軍1万7500人に対し道三軍は2700人余りだったといいます。
手腕を発揮するも認めてもらえず……
道三に味方した勢力には明智氏もいましたが、義龍は別動隊を率いて攻め滅ぼしています。また、道三の娘婿である尾張国の織田信長は道三に援軍を送ったものの、少し戦っただけで撤退したようです。
幼いころから能力を認められなかった義龍ですが、長良川の戦いで存分に手腕を発揮しました。しかし、道三は戦死前に「美濃を信長に譲る」という遺言状を残しており、義龍は最後まで認められなかったのです。
美濃国主となった義龍
父を討ち美濃国主となった義龍は、領国経営に乗り出します。ここで義龍は、内政手腕を発揮しました。
内政に着手し新しい基礎を築く
義龍は所領問題の解決や宿老による合議制を導入するなど、戦国大名としての基礎を築き、官位の獲得にも注力し、永禄元年(1558)には、治部省の正五位にあたる、治部大輔(ちぶのたいふ)という位に任命されています。この役職は清和天皇から出て源姓を名のった清和源氏の血をひく者が任命されるため、土岐氏の末裔であることを誇示する意味もあったかもしれません。
永禄2年(1559)には将軍を補佐する名誉職「相伴衆(しょうばんしゅう)」にも加わっています。
信長と対立する
父の親戚にあたる信長とも敵対することになった義龍は、信長と不仲だった彼の兄弟たちに目を付けました。
家督を狙い謀反した信長の実弟・織田信行は、義龍と連絡をとりあい陰謀を巡らせたのです。しかし、それが信長の耳に入り処刑されてしまいます。また信長の庶兄・織田信広も義龍と共謀して謀反を企みますが、やはり信長に知られ未遂に終わりました。
突然訪れた最期
美濃を支配し権威を手に入れた義龍ですが、その栄華は長くは続きませんでした。永禄3年(1560)第一子が早逝すると、悲しみにくれた妻が続けて亡くなってしまいます。さらにその翌年、32歳という若さで義龍自身も急死したのです。一説にはハンセン病だったとされていますが、その真実は定かではありません。
義龍の跡を継いだ龍興は、信長の侵攻を止められず美濃を追われました。こうして情勢は急展開を迎えたのです。
残された逸話
父に冷遇された義龍は、短いながらも美濃国主を務めるなどの功績を残しました。ここでは彼にまつわる逸話を2つご紹介します。
信長暗殺を狙っていた!
永禄2年(1559)信長がわずかな家臣をつれて上洛した際、義龍は暗殺を企てました。そのとき派遣したのは火縄銃を装備した兵士たちで、これは日本初の狙撃として記録に残されています。火縄銃といえば信長のイメージがありますが、義龍もうまく銃を使う発想をもっていたといえそうです。
義龍が改名した理由とは?
義龍は何度か改名していますが、これは父殺しに関連していました。
一つは「一色左京大夫」という名前で、足利氏一門の一色氏を名乗ることで自分の正当性を主張したと考えられます。母・深芳野は一色氏出身とされていたため、一色氏を名乗れば頼芸の子だとアピールでき、土岐氏家臣たちを味方につけやすかったのです。
道三死後に名乗った「范可(はんか)」は、中国・唐の時代に仕方なく父殺しをした人物の名前でした。義龍は自分と重ねてこの名を使ったといわれますが、故事の実在は確認されておらず、真偽のほどはわかりません。
信長の美濃攻略が遅れた可能性も
父・道三から「耄者(ほれもの/馬鹿者の意味)」と呼ばれた義龍ですが、実際には優れた才覚をもつ人物だったようです。長良川の戦いで苦しめられた道三は、かつて義龍を無能だと評したことを後悔したともいわれています。
義龍は志半ばで亡くなりましたが、もし生きていればさらに猛威を振るったことでしょう。もしかすると、信長の美濃攻略を大幅に遅らせるほどの存在になっていたかもしれません。 | 義龍は長井道利と共謀し、稲葉山城におびきだした弟たちをどのように殺害しましたか。 | 義龍は長井道利と共謀し、稲葉山城におびきだした弟たちを酒に酔わせ殺害しました。 |
JCRRAG_012438 | 歴史 | 長良川の戦いで父を討つ
弘治元年(1555)義龍は長井道利と共謀し、稲葉山城におびきだした弟たちを酒に酔わせ殺害。これに驚いた道三は大桑城に落ち延びましたが、翌年には長良川で義龍と対峙します。このとき道三に味方する勢力は少なく、旧土岐氏の支持を得た義龍はその勢力に支えられて父を討ちました。兵力の差は歴然で、義龍軍1万7500人に対し道三軍は2700人余りだったといいます。
手腕を発揮するも認めてもらえず……
道三に味方した勢力には明智氏もいましたが、義龍は別動隊を率いて攻め滅ぼしています。また、道三の娘婿である尾張国の織田信長は道三に援軍を送ったものの、少し戦っただけで撤退したようです。
幼いころから能力を認められなかった義龍ですが、長良川の戦いで存分に手腕を発揮しました。しかし、道三は戦死前に「美濃を信長に譲る」という遺言状を残しており、義龍は最後まで認められなかったのです。
美濃国主となった義龍
父を討ち美濃国主となった義龍は、領国経営に乗り出します。ここで義龍は、内政手腕を発揮しました。
内政に着手し新しい基礎を築く
義龍は所領問題の解決や宿老による合議制を導入するなど、戦国大名としての基礎を築き、官位の獲得にも注力し、永禄元年(1558)には、治部省の正五位にあたる、治部大輔(ちぶのたいふ)という位に任命されています。この役職は清和天皇から出て源姓を名のった清和源氏の血をひく者が任命されるため、土岐氏の末裔であることを誇示する意味もあったかもしれません。
永禄2年(1559)には将軍を補佐する名誉職「相伴衆(しょうばんしゅう)」にも加わっています。
信長と対立する
父の親戚にあたる信長とも敵対することになった義龍は、信長と不仲だった彼の兄弟たちに目を付けました。
家督を狙い謀反した信長の実弟・織田信行は、義龍と連絡をとりあい陰謀を巡らせたのです。しかし、それが信長の耳に入り処刑されてしまいます。また信長の庶兄・織田信広も義龍と共謀して謀反を企みますが、やはり信長に知られ未遂に終わりました。
突然訪れた最期
美濃を支配し権威を手に入れた義龍ですが、その栄華は長くは続きませんでした。永禄3年(1560)第一子が早逝すると、悲しみにくれた妻が続けて亡くなってしまいます。さらにその翌年、32歳という若さで義龍自身も急死したのです。一説にはハンセン病だったとされていますが、その真実は定かではありません。
義龍の跡を継いだ龍興は、信長の侵攻を止められず美濃を追われました。こうして情勢は急展開を迎えたのです。
残された逸話
父に冷遇された義龍は、短いながらも美濃国主を務めるなどの功績を残しました。ここでは彼にまつわる逸話を2つご紹介します。
信長暗殺を狙っていた!
永禄2年(1559)信長がわずかな家臣をつれて上洛した際、義龍は暗殺を企てました。そのとき派遣したのは火縄銃を装備した兵士たちで、これは日本初の狙撃として記録に残されています。火縄銃といえば信長のイメージがありますが、義龍もうまく銃を使う発想をもっていたといえそうです。
義龍が改名した理由とは?
義龍は何度か改名していますが、これは父殺しに関連していました。
一つは「一色左京大夫」という名前で、足利氏一門の一色氏を名乗ることで自分の正当性を主張したと考えられます。母・深芳野は一色氏出身とされていたため、一色氏を名乗れば頼芸の子だとアピールでき、土岐氏家臣たちを味方につけやすかったのです。
道三死後に名乗った「范可(はんか)」は、中国・唐の時代に仕方なく父殺しをした人物の名前でした。義龍は自分と重ねてこの名を使ったといわれますが、故事の実在は確認されておらず、真偽のほどはわかりません。
信長の美濃攻略が遅れた可能性も
父・道三から「耄者(ほれもの/馬鹿者の意味)」と呼ばれた義龍ですが、実際には優れた才覚をもつ人物だったようです。長良川の戦いで苦しめられた道三は、かつて義龍を無能だと評したことを後悔したともいわれています。
義龍は志半ばで亡くなりましたが、もし生きていればさらに猛威を振るったことでしょう。もしかすると、信長の美濃攻略を大幅に遅らせるほどの存在になっていたかもしれません。 | 義龍はどのようにして、戦国大名としての基礎を築きましたか。 | 義龍は所領問題の解決や宿老による合議制を導入するなど、戦国大名としての基礎を築きました。 |
JCRRAG_012439 | 歴史 | 長良川の戦いで父を討つ
弘治元年(1555)義龍は長井道利と共謀し、稲葉山城におびきだした弟たちを酒に酔わせ殺害。これに驚いた道三は大桑城に落ち延びましたが、翌年には長良川で義龍と対峙します。このとき道三に味方する勢力は少なく、旧土岐氏の支持を得た義龍はその勢力に支えられて父を討ちました。兵力の差は歴然で、義龍軍1万7500人に対し道三軍は2700人余りだったといいます。
手腕を発揮するも認めてもらえず……
道三に味方した勢力には明智氏もいましたが、義龍は別動隊を率いて攻め滅ぼしています。また、道三の娘婿である尾張国の織田信長は道三に援軍を送ったものの、少し戦っただけで撤退したようです。
幼いころから能力を認められなかった義龍ですが、長良川の戦いで存分に手腕を発揮しました。しかし、道三は戦死前に「美濃を信長に譲る」という遺言状を残しており、義龍は最後まで認められなかったのです。
美濃国主となった義龍
父を討ち美濃国主となった義龍は、領国経営に乗り出します。ここで義龍は、内政手腕を発揮しました。
内政に着手し新しい基礎を築く
義龍は所領問題の解決や宿老による合議制を導入するなど、戦国大名としての基礎を築き、官位の獲得にも注力し、永禄元年(1558)には、治部省の正五位にあたる、治部大輔(ちぶのたいふ)という位に任命されています。この役職は清和天皇から出て源姓を名のった清和源氏の血をひく者が任命されるため、土岐氏の末裔であることを誇示する意味もあったかもしれません。
永禄2年(1559)には将軍を補佐する名誉職「相伴衆(しょうばんしゅう)」にも加わっています。
信長と対立する
父の親戚にあたる信長とも敵対することになった義龍は、信長と不仲だった彼の兄弟たちに目を付けました。
家督を狙い謀反した信長の実弟・織田信行は、義龍と連絡をとりあい陰謀を巡らせたのです。しかし、それが信長の耳に入り処刑されてしまいます。また信長の庶兄・織田信広も義龍と共謀して謀反を企みますが、やはり信長に知られ未遂に終わりました。
突然訪れた最期
美濃を支配し権威を手に入れた義龍ですが、その栄華は長くは続きませんでした。永禄3年(1560)第一子が早逝すると、悲しみにくれた妻が続けて亡くなってしまいます。さらにその翌年、32歳という若さで義龍自身も急死したのです。一説にはハンセン病だったとされていますが、その真実は定かではありません。
義龍の跡を継いだ龍興は、信長の侵攻を止められず美濃を追われました。こうして情勢は急展開を迎えたのです。
残された逸話
父に冷遇された義龍は、短いながらも美濃国主を務めるなどの功績を残しました。ここでは彼にまつわる逸話を2つご紹介します。
信長暗殺を狙っていた!
永禄2年(1559)信長がわずかな家臣をつれて上洛した際、義龍は暗殺を企てました。そのとき派遣したのは火縄銃を装備した兵士たちで、これは日本初の狙撃として記録に残されています。火縄銃といえば信長のイメージがありますが、義龍もうまく銃を使う発想をもっていたといえそうです。
義龍が改名した理由とは?
義龍は何度か改名していますが、これは父殺しに関連していました。
一つは「一色左京大夫」という名前で、足利氏一門の一色氏を名乗ることで自分の正当性を主張したと考えられます。母・深芳野は一色氏出身とされていたため、一色氏を名乗れば頼芸の子だとアピールでき、土岐氏家臣たちを味方につけやすかったのです。
道三死後に名乗った「范可(はんか)」は、中国・唐の時代に仕方なく父殺しをした人物の名前でした。義龍は自分と重ねてこの名を使ったといわれますが、故事の実在は確認されておらず、真偽のほどはわかりません。
信長の美濃攻略が遅れた可能性も
父・道三から「耄者(ほれもの/馬鹿者の意味)」と呼ばれた義龍ですが、実際には優れた才覚をもつ人物だったようです。長良川の戦いで苦しめられた道三は、かつて義龍を無能だと評したことを後悔したともいわれています。
義龍は志半ばで亡くなりましたが、もし生きていればさらに猛威を振るったことでしょう。もしかすると、信長の美濃攻略を大幅に遅らせるほどの存在になっていたかもしれません。 | 義龍は、永禄2年にどのような職に加わりましたか。 | 永禄2年(1559)には将軍を補佐する名誉職「相伴衆(しょうばんしゅう)」にも加わっています。 |
JCRRAG_012440 | 歴史 | 長良川の戦いで父を討つ
弘治元年(1555)義龍は長井道利と共謀し、稲葉山城におびきだした弟たちを酒に酔わせ殺害。これに驚いた道三は大桑城に落ち延びましたが、翌年には長良川で義龍と対峙します。このとき道三に味方する勢力は少なく、旧土岐氏の支持を得た義龍はその勢力に支えられて父を討ちました。兵力の差は歴然で、義龍軍1万7500人に対し道三軍は2700人余りだったといいます。
手腕を発揮するも認めてもらえず……
道三に味方した勢力には明智氏もいましたが、義龍は別動隊を率いて攻め滅ぼしています。また、道三の娘婿である尾張国の織田信長は道三に援軍を送ったものの、少し戦っただけで撤退したようです。
幼いころから能力を認められなかった義龍ですが、長良川の戦いで存分に手腕を発揮しました。しかし、道三は戦死前に「美濃を信長に譲る」という遺言状を残しており、義龍は最後まで認められなかったのです。
美濃国主となった義龍
父を討ち美濃国主となった義龍は、領国経営に乗り出します。ここで義龍は、内政手腕を発揮しました。
内政に着手し新しい基礎を築く
義龍は所領問題の解決や宿老による合議制を導入するなど、戦国大名としての基礎を築き、官位の獲得にも注力し、永禄元年(1558)には、治部省の正五位にあたる、治部大輔(ちぶのたいふ)という位に任命されています。この役職は清和天皇から出て源姓を名のった清和源氏の血をひく者が任命されるため、土岐氏の末裔であることを誇示する意味もあったかもしれません。
永禄2年(1559)には将軍を補佐する名誉職「相伴衆(しょうばんしゅう)」にも加わっています。
信長と対立する
父の親戚にあたる信長とも敵対することになった義龍は、信長と不仲だった彼の兄弟たちに目を付けました。
家督を狙い謀反した信長の実弟・織田信行は、義龍と連絡をとりあい陰謀を巡らせたのです。しかし、それが信長の耳に入り処刑されてしまいます。また信長の庶兄・織田信広も義龍と共謀して謀反を企みますが、やはり信長に知られ未遂に終わりました。
突然訪れた最期
美濃を支配し権威を手に入れた義龍ですが、その栄華は長くは続きませんでした。永禄3年(1560)第一子が早逝すると、悲しみにくれた妻が続けて亡くなってしまいます。さらにその翌年、32歳という若さで義龍自身も急死したのです。一説にはハンセン病だったとされていますが、その真実は定かではありません。
義龍の跡を継いだ龍興は、信長の侵攻を止められず美濃を追われました。こうして情勢は急展開を迎えたのです。
残された逸話
父に冷遇された義龍は、短いながらも美濃国主を務めるなどの功績を残しました。ここでは彼にまつわる逸話を2つご紹介します。
信長暗殺を狙っていた!
永禄2年(1559)信長がわずかな家臣をつれて上洛した際、義龍は暗殺を企てました。そのとき派遣したのは火縄銃を装備した兵士たちで、これは日本初の狙撃として記録に残されています。火縄銃といえば信長のイメージがありますが、義龍もうまく銃を使う発想をもっていたといえそうです。
義龍が改名した理由とは?
義龍は何度か改名していますが、これは父殺しに関連していました。
一つは「一色左京大夫」という名前で、足利氏一門の一色氏を名乗ることで自分の正当性を主張したと考えられます。母・深芳野は一色氏出身とされていたため、一色氏を名乗れば頼芸の子だとアピールでき、土岐氏家臣たちを味方につけやすかったのです。
道三死後に名乗った「范可(はんか)」は、中国・唐の時代に仕方なく父殺しをした人物の名前でした。義龍は自分と重ねてこの名を使ったといわれますが、故事の実在は確認されておらず、真偽のほどはわかりません。
信長の美濃攻略が遅れた可能性も
父・道三から「耄者(ほれもの/馬鹿者の意味)」と呼ばれた義龍ですが、実際には優れた才覚をもつ人物だったようです。長良川の戦いで苦しめられた道三は、かつて義龍を無能だと評したことを後悔したともいわれています。
義龍は志半ばで亡くなりましたが、もし生きていればさらに猛威を振るったことでしょう。もしかすると、信長の美濃攻略を大幅に遅らせるほどの存在になっていたかもしれません。 | 義龍軍1万7500人に対し道三軍は何人余りだったといいますか。 | 義龍軍1万7500人に対し道三軍は2700人余りだったといいます。 |
JCRRAG_012441 | 歴史 | 長良川の戦いで父を討つ
弘治元年(1555)義龍は長井道利と共謀し、稲葉山城におびきだした弟たちを酒に酔わせ殺害。これに驚いた道三は大桑城に落ち延びましたが、翌年には長良川で義龍と対峙します。このとき道三に味方する勢力は少なく、旧土岐氏の支持を得た義龍はその勢力に支えられて父を討ちました。兵力の差は歴然で、義龍軍1万7500人に対し道三軍は2700人余りだったといいます。
手腕を発揮するも認めてもらえず……
道三に味方した勢力には明智氏もいましたが、義龍は別動隊を率いて攻め滅ぼしています。また、道三の娘婿である尾張国の織田信長は道三に援軍を送ったものの、少し戦っただけで撤退したようです。
幼いころから能力を認められなかった義龍ですが、長良川の戦いで存分に手腕を発揮しました。しかし、道三は戦死前に「美濃を信長に譲る」という遺言状を残しており、義龍は最後まで認められなかったのです。
美濃国主となった義龍
父を討ち美濃国主となった義龍は、領国経営に乗り出します。ここで義龍は、内政手腕を発揮しました。
内政に着手し新しい基礎を築く
義龍は所領問題の解決や宿老による合議制を導入するなど、戦国大名としての基礎を築き、官位の獲得にも注力し、永禄元年(1558)には、治部省の正五位にあたる、治部大輔(ちぶのたいふ)という位に任命されています。この役職は清和天皇から出て源姓を名のった清和源氏の血をひく者が任命されるため、土岐氏の末裔であることを誇示する意味もあったかもしれません。
永禄2年(1559)には将軍を補佐する名誉職「相伴衆(しょうばんしゅう)」にも加わっています。
信長と対立する
父の親戚にあたる信長とも敵対することになった義龍は、信長と不仲だった彼の兄弟たちに目を付けました。
家督を狙い謀反した信長の実弟・織田信行は、義龍と連絡をとりあい陰謀を巡らせたのです。しかし、それが信長の耳に入り処刑されてしまいます。また信長の庶兄・織田信広も義龍と共謀して謀反を企みますが、やはり信長に知られ未遂に終わりました。
突然訪れた最期
美濃を支配し権威を手に入れた義龍ですが、その栄華は長くは続きませんでした。永禄3年(1560)第一子が早逝すると、悲しみにくれた妻が続けて亡くなってしまいます。さらにその翌年、32歳という若さで義龍自身も急死したのです。一説にはハンセン病だったとされていますが、その真実は定かではありません。
義龍の跡を継いだ龍興は、信長の侵攻を止められず美濃を追われました。こうして情勢は急展開を迎えたのです。
残された逸話
父に冷遇された義龍は、短いながらも美濃国主を務めるなどの功績を残しました。ここでは彼にまつわる逸話を2つご紹介します。
信長暗殺を狙っていた!
永禄2年(1559)信長がわずかな家臣をつれて上洛した際、義龍は暗殺を企てました。そのとき派遣したのは火縄銃を装備した兵士たちで、これは日本初の狙撃として記録に残されています。火縄銃といえば信長のイメージがありますが、義龍もうまく銃を使う発想をもっていたといえそうです。
義龍が改名した理由とは?
義龍は何度か改名していますが、これは父殺しに関連していました。
一つは「一色左京大夫」という名前で、足利氏一門の一色氏を名乗ることで自分の正当性を主張したと考えられます。母・深芳野は一色氏出身とされていたため、一色氏を名乗れば頼芸の子だとアピールでき、土岐氏家臣たちを味方につけやすかったのです。
道三死後に名乗った「范可(はんか)」は、中国・唐の時代に仕方なく父殺しをした人物の名前でした。義龍は自分と重ねてこの名を使ったといわれますが、故事の実在は確認されておらず、真偽のほどはわかりません。
信長の美濃攻略が遅れた可能性も
父・道三から「耄者(ほれもの/馬鹿者の意味)」と呼ばれた義龍ですが、実際には優れた才覚をもつ人物だったようです。長良川の戦いで苦しめられた道三は、かつて義龍を無能だと評したことを後悔したともいわれています。
義龍は志半ばで亡くなりましたが、もし生きていればさらに猛威を振るったことでしょう。もしかすると、信長の美濃攻略を大幅に遅らせるほどの存在になっていたかもしれません。 | 義龍は父を討ち何となったか。 | 義龍は父を討ち美濃国主となった。 |
JCRRAG_012442 | 歴史 | 室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、足利義輝である。
生まれから将軍就任まで
義輝の生まれはどのようなものだったのでしょうか。激動の幼少期を振り返ります。
11歳で幕府将軍職を譲られる
義輝は、天文5年(1536)12代将軍・足利義晴の子として、京都の東山南禅寺で誕生しました。幼名は菊童丸といい、将軍と正室の間に生まれた男子は9代将軍・義尚以来、また摂関家出身の母を持つのは彼が初めてでした。
天文15年(1546)菊童丸はわずか11歳で幕府将軍職を譲位されます。これには、自分が健在なうちに地位を譲って後見しようという父・義晴の考えがあったようです。
将軍就任式は近江坂本の日吉神社で行われ、元服以降は義藤と名乗りました。
細川晴元と和睦して帰京
義輝が幼いころ、父・義晴は管領の細川晴元と権威争いを繰り広げていました。晴元は同族の細川高国と家督争いをしており、高国が将軍・義晴を擁立したため、対立関係に陥っていたのです。
義晴は戦で負けるたびに近江坂本に逃れ、京への復帰と坂本・朽木への脱出を繰り返しました。義輝もそれに従ったため、将軍家の嫡男は伊勢氏邸宅で養育される慣例だったものの、彼は両親のもとで育てられました。
慌ただしい環境で育った義輝ですが、天文17年(1548)父・義晴が晴元と和睦したため京に戻ります。このとき晴元も義輝の将軍就任を承諾しました。
将軍復権を目指し奔走
将軍として帰京した義輝は、足利将軍家の復権を目指します。しかし、それは一筋縄ではいきませんでした。
三好長慶と対立するが…
晴元は高国を討ち権力基盤を築きましたが、その後も細川家の闘争は続き、義輝はこの戦いに巻き込まれます。
亡き高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて挙兵すると、晴元の家臣・三好長慶が離反し氏綱に味方しました。そのため義輝は長慶と対峙しますが、戦局はなかなか好転せず長慶暗殺を図るも失敗。天文21年(1552)ようやく長慶と和睦すると、義輝は京都に戻りました。これにより長慶は幕臣に取り立てられ、晴元は京を脱出しています。 | 室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、誰であるか。 | 室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、足利義輝である。 |
JCRRAG_012443 | 歴史 | 室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、足利義輝である。
生まれから将軍就任まで
義輝の生まれはどのようなものだったのでしょうか。激動の幼少期を振り返ります。
11歳で幕府将軍職を譲られる
義輝は、天文5年(1536)12代将軍・足利義晴の子として、京都の東山南禅寺で誕生しました。幼名は菊童丸といい、将軍と正室の間に生まれた男子は9代将軍・義尚以来、また摂関家出身の母を持つのは彼が初めてでした。
天文15年(1546)菊童丸はわずか11歳で幕府将軍職を譲位されます。これには、自分が健在なうちに地位を譲って後見しようという父・義晴の考えがあったようです。
将軍就任式は近江坂本の日吉神社で行われ、元服以降は義藤と名乗りました。
細川晴元と和睦して帰京
義輝が幼いころ、父・義晴は管領の細川晴元と権威争いを繰り広げていました。晴元は同族の細川高国と家督争いをしており、高国が将軍・義晴を擁立したため、対立関係に陥っていたのです。
義晴は戦で負けるたびに近江坂本に逃れ、京への復帰と坂本・朽木への脱出を繰り返しました。義輝もそれに従ったため、将軍家の嫡男は伊勢氏邸宅で養育される慣例だったものの、彼は両親のもとで育てられました。
慌ただしい環境で育った義輝ですが、天文17年(1548)父・義晴が晴元と和睦したため京に戻ります。このとき晴元も義輝の将軍就任を承諾しました。
将軍復権を目指し奔走
将軍として帰京した義輝は、足利将軍家の復権を目指します。しかし、それは一筋縄ではいきませんでした。
三好長慶と対立するが…
晴元は高国を討ち権力基盤を築きましたが、その後も細川家の闘争は続き、義輝はこの戦いに巻き込まれます。
亡き高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて挙兵すると、晴元の家臣・三好長慶が離反し氏綱に味方しました。そのため義輝は長慶と対峙しますが、戦局はなかなか好転せず長慶暗殺を図るも失敗。天文21年(1552)ようやく長慶と和睦すると、義輝は京都に戻りました。これにより長慶は幕臣に取り立てられ、晴元は京を脱出しています。 | 義輝は、天文5年(1536)12代将軍・足利義晴の子として、京都のどこで誕生しましたか。 | 義輝は、天文5年(1536)12代将軍・足利義晴の子として、京都の東山南禅寺で誕生しました。 |
JCRRAG_012444 | 歴史 | 室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、足利義輝である。
生まれから将軍就任まで
義輝の生まれはどのようなものだったのでしょうか。激動の幼少期を振り返ります。
11歳で幕府将軍職を譲られる
義輝は、天文5年(1536)12代将軍・足利義晴の子として、京都の東山南禅寺で誕生しました。幼名は菊童丸といい、将軍と正室の間に生まれた男子は9代将軍・義尚以来、また摂関家出身の母を持つのは彼が初めてでした。
天文15年(1546)菊童丸はわずか11歳で幕府将軍職を譲位されます。これには、自分が健在なうちに地位を譲って後見しようという父・義晴の考えがあったようです。
将軍就任式は近江坂本の日吉神社で行われ、元服以降は義藤と名乗りました。
細川晴元と和睦して帰京
義輝が幼いころ、父・義晴は管領の細川晴元と権威争いを繰り広げていました。晴元は同族の細川高国と家督争いをしており、高国が将軍・義晴を擁立したため、対立関係に陥っていたのです。
義晴は戦で負けるたびに近江坂本に逃れ、京への復帰と坂本・朽木への脱出を繰り返しました。義輝もそれに従ったため、将軍家の嫡男は伊勢氏邸宅で養育される慣例だったものの、彼は両親のもとで育てられました。
慌ただしい環境で育った義輝ですが、天文17年(1548)父・義晴が晴元と和睦したため京に戻ります。このとき晴元も義輝の将軍就任を承諾しました。
将軍復権を目指し奔走
将軍として帰京した義輝は、足利将軍家の復権を目指します。しかし、それは一筋縄ではいきませんでした。
三好長慶と対立するが…
晴元は高国を討ち権力基盤を築きましたが、その後も細川家の闘争は続き、義輝はこの戦いに巻き込まれます。
亡き高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて挙兵すると、晴元の家臣・三好長慶が離反し氏綱に味方しました。そのため義輝は長慶と対峙しますが、戦局はなかなか好転せず長慶暗殺を図るも失敗。天文21年(1552)ようやく長慶と和睦すると、義輝は京都に戻りました。これにより長慶は幕臣に取り立てられ、晴元は京を脱出しています。 | 義輝は、天文5年(1536)誰の子として、京都の東山南禅寺で誕生しましたか。 | 義輝は、天文5年(1536)12代将軍・足利義晴の子として、京都の東山南禅寺で誕生しました。 |
JCRRAG_012445 | 歴史 | 室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、足利義輝である。
生まれから将軍就任まで
義輝の生まれはどのようなものだったのでしょうか。激動の幼少期を振り返ります。
11歳で幕府将軍職を譲られる
義輝は、天文5年(1536)12代将軍・足利義晴の子として、京都の東山南禅寺で誕生しました。幼名は菊童丸といい、将軍と正室の間に生まれた男子は9代将軍・義尚以来、また摂関家出身の母を持つのは彼が初めてでした。
天文15年(1546)菊童丸はわずか11歳で幕府将軍職を譲位されます。これには、自分が健在なうちに地位を譲って後見しようという父・義晴の考えがあったようです。
将軍就任式は近江坂本の日吉神社で行われ、元服以降は義藤と名乗りました。
細川晴元と和睦して帰京
義輝が幼いころ、父・義晴は管領の細川晴元と権威争いを繰り広げていました。晴元は同族の細川高国と家督争いをしており、高国が将軍・義晴を擁立したため、対立関係に陥っていたのです。
義晴は戦で負けるたびに近江坂本に逃れ、京への復帰と坂本・朽木への脱出を繰り返しました。義輝もそれに従ったため、将軍家の嫡男は伊勢氏邸宅で養育される慣例だったものの、彼は両親のもとで育てられました。
慌ただしい環境で育った義輝ですが、天文17年(1548)父・義晴が晴元と和睦したため京に戻ります。このとき晴元も義輝の将軍就任を承諾しました。
将軍復権を目指し奔走
将軍として帰京した義輝は、足利将軍家の復権を目指します。しかし、それは一筋縄ではいきませんでした。
三好長慶と対立するが…
晴元は高国を討ち権力基盤を築きましたが、その後も細川家の闘争は続き、義輝はこの戦いに巻き込まれます。
亡き高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて挙兵すると、晴元の家臣・三好長慶が離反し氏綱に味方しました。そのため義輝は長慶と対峙しますが、戦局はなかなか好転せず長慶暗殺を図るも失敗。天文21年(1552)ようやく長慶と和睦すると、義輝は京都に戻りました。これにより長慶は幕臣に取り立てられ、晴元は京を脱出しています。 | 天文15年(1546)菊童丸はわずか11歳で何を譲位されますか。 | 天文15年(1546)菊童丸はわずか11歳で幕府将軍職を譲位されます。 |
JCRRAG_012446 | 歴史 | 室町幕府の第13代将軍として活躍した人物は、足利義輝である。
生まれから将軍就任まで
義輝の生まれはどのようなものだったのでしょうか。激動の幼少期を振り返ります。
11歳で幕府将軍職を譲られる
義輝は、天文5年(1536)12代将軍・足利義晴の子として、京都の東山南禅寺で誕生しました。幼名は菊童丸といい、将軍と正室の間に生まれた男子は9代将軍・義尚以来、また摂関家出身の母を持つのは彼が初めてでした。
天文15年(1546)菊童丸はわずか11歳で幕府将軍職を譲位されます。これには、自分が健在なうちに地位を譲って後見しようという父・義晴の考えがあったようです。
将軍就任式は近江坂本の日吉神社で行われ、元服以降は義藤と名乗りました。
細川晴元と和睦して帰京
義輝が幼いころ、父・義晴は管領の細川晴元と権威争いを繰り広げていました。晴元は同族の細川高国と家督争いをしており、高国が将軍・義晴を擁立したため、対立関係に陥っていたのです。
義晴は戦で負けるたびに近江坂本に逃れ、京への復帰と坂本・朽木への脱出を繰り返しました。義輝もそれに従ったため、将軍家の嫡男は伊勢氏邸宅で養育される慣例だったものの、彼は両親のもとで育てられました。
慌ただしい環境で育った義輝ですが、天文17年(1548)父・義晴が晴元と和睦したため京に戻ります。このとき晴元も義輝の将軍就任を承諾しました。
将軍復権を目指し奔走
将軍として帰京した義輝は、足利将軍家の復権を目指します。しかし、それは一筋縄ではいきませんでした。
三好長慶と対立するが…
晴元は高国を討ち権力基盤を築きましたが、その後も細川家の闘争は続き、義輝はこの戦いに巻き込まれます。
亡き高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて挙兵すると、晴元の家臣・三好長慶が離反し氏綱に味方しました。そのため義輝は長慶と対峙しますが、戦局はなかなか好転せず長慶暗殺を図るも失敗。天文21年(1552)ようやく長慶と和睦すると、義輝は京都に戻りました。これにより長慶は幕臣に取り立てられ、晴元は京を脱出しています。 | 義輝は長慶と対峙しますが、戦局はなかなか好転せず何を図るも失敗しましたか。 | 義輝は長慶と対峙しますが、戦局はなかなか好転せず長慶暗殺を図るも失敗しました。 |
JCRRAG_012447 | 歴史 | 戦国大名との修好に尽力する
幕府権力の復活を目指していた義輝は、戦国大名らと親しい関係を築きました。有力武将同士の抗争が起きた際は頻繁に調停を行い、場合によっては守護などに任命することもありました。
また、自分の名前の一部である「藤」や「輝」の字を家臣や諸大名に与えるだけでなく、さらには、足利将軍家の通字「義」を与えることもあったようです。
永禄の変で散る!義輝の最期
将軍家に尽くした義輝は「永禄の変」で命を落とします。この戦いはどのような経緯で起こったのでしょうか。
松永久秀・三好三人衆と激突
義輝は激しい戦局を潜り抜け将軍復権に尽力しましたが、そのような動きを疎む人物がいました。それは飾り物の将軍を擁立しようと企てていた松永久秀と三好三人衆です。
彼らは義輝の叔父・足利義維と組み、その嫡男で義輝の従兄弟にあたる義栄を新将軍にしようしていました。しかし、朝廷は耳を貸さなかったため、将軍への直訴として永禄8年(1565)約1万人の軍を率いて二条御所に侵入したのです。この「永禄の変」で義輝は自ら奮戦しましたが、最後は一斉に襲い掛かられて殺害されました。
多くの群衆がその死を悼んだ
義輝の死後、京都の天台宗の寺院・真正極楽寺(真如堂)で、義輝を弔う仏事が行われました。ここでは民間芸能の六斎踊りが披露され、摂津や近江坂本から集った約3000人が鉦鼓(しょうこ/念仏の時にたたく青銅製のかね)を鳴らし、身分を問わず7~8万の人々がその死を悼みました。これには三好三人衆政権への抵抗の意味もあったと考えられています。
語り継がれる人物像とは?
将軍でありながら生涯で多くの戦いを経験した義輝ですが、そもそもどのような人物だったのでしょうか。
武勇に優れた果敢な人物
義輝は『足利季世記(あしかがきせいき)』や『日本外史(にほんがいし)』で、武芸に秀でた剣豪として描写されています。この人物像は後世の創作といわれていますが、宣教師ルイス・フロイスもその著書のなかで「とても武勇に優れて、勇気ある人だった」と称えているため、勇猛果敢な人物だったことは確かでしょう。
塚原卜伝も認めた剣の腕前
義輝は剣聖・塚原卜伝の直弟子の一人で、奥義「一之太刀」を伝授されたといわれています。必ずしも奥義を極めたとは言い切れませんが、このような側面からも武術に秀でた人物だったと想像できます。
義輝は剣豪将軍の異名でも知られていますが、そのような名前が付けられたのも剣術に優れていたからでしょう。
最期は名刀で奮戦
永禄の変で、義輝は多数の日本刀を用いて奮闘したとされています。ルイス・フロイスの『日本史』には「自ら薙刀を振るい、その技量の見事さに人々は驚いた。その後は薙刀を投げ捨てて刀を抜いて戦った」と描かれ、『日本外史』には「足利家の名刀を畳に刺して、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて戦った」という記述がみられます。
使用されたのは「鬼丸國綱」「大包平」「九字兼定」「朝嵐兼光」「綾小路定利」「二つ銘則宗」「三日月宗近」など名刀ばかり。しかし、これらの名前が登場するのは歴史小説の中で、信憑性の高い史料には見当たらないようです。
このような創作をされるほど、義輝は人々を魅了する存在だったのでしょう。
誇り高き室町幕府将軍
長らく名ばかり将軍となっていた足利将軍家ですが、義輝は復権に尽力し親政を行いました。しかし、次期将軍となった弟・義昭により、将軍は再度飾り物になってしまいます。そして、織田信長の台頭により、ついに室町幕府は滅亡するのです。
多くの戦国武将たちがしのぎを削りあうようになったこの時期に、足利将軍として義輝が果たした役割は大きいでしょう。最後まで果敢に戦った義輝は、誇り高い将軍だったといえそうです。 | 幕府権力の復活を目指していた義輝は、誰と親しい関係を築きましたか。 | 幕府権力の復活を目指していた義輝は、戦国大名らと親しい関係を築きました。 |
JCRRAG_012448 | 歴史 | 戦国大名との修好に尽力する
幕府権力の復活を目指していた義輝は、戦国大名らと親しい関係を築きました。有力武将同士の抗争が起きた際は頻繁に調停を行い、場合によっては守護などに任命することもありました。
また、自分の名前の一部である「藤」や「輝」の字を家臣や諸大名に与えるだけでなく、さらには、足利将軍家の通字「義」を与えることもあったようです。
永禄の変で散る!義輝の最期
将軍家に尽くした義輝は「永禄の変」で命を落とします。この戦いはどのような経緯で起こったのでしょうか。
松永久秀・三好三人衆と激突
義輝は激しい戦局を潜り抜け将軍復権に尽力しましたが、そのような動きを疎む人物がいました。それは飾り物の将軍を擁立しようと企てていた松永久秀と三好三人衆です。
彼らは義輝の叔父・足利義維と組み、その嫡男で義輝の従兄弟にあたる義栄を新将軍にしようしていました。しかし、朝廷は耳を貸さなかったため、将軍への直訴として永禄8年(1565)約1万人の軍を率いて二条御所に侵入したのです。この「永禄の変」で義輝は自ら奮戦しましたが、最後は一斉に襲い掛かられて殺害されました。
多くの群衆がその死を悼んだ
義輝の死後、京都の天台宗の寺院・真正極楽寺(真如堂)で、義輝を弔う仏事が行われました。ここでは民間芸能の六斎踊りが披露され、摂津や近江坂本から集った約3000人が鉦鼓(しょうこ/念仏の時にたたく青銅製のかね)を鳴らし、身分を問わず7~8万の人々がその死を悼みました。これには三好三人衆政権への抵抗の意味もあったと考えられています。
語り継がれる人物像とは?
将軍でありながら生涯で多くの戦いを経験した義輝ですが、そもそもどのような人物だったのでしょうか。
武勇に優れた果敢な人物
義輝は『足利季世記(あしかがきせいき)』や『日本外史(にほんがいし)』で、武芸に秀でた剣豪として描写されています。この人物像は後世の創作といわれていますが、宣教師ルイス・フロイスもその著書のなかで「とても武勇に優れて、勇気ある人だった」と称えているため、勇猛果敢な人物だったことは確かでしょう。
塚原卜伝も認めた剣の腕前
義輝は剣聖・塚原卜伝の直弟子の一人で、奥義「一之太刀」を伝授されたといわれています。必ずしも奥義を極めたとは言い切れませんが、このような側面からも武術に秀でた人物だったと想像できます。
義輝は剣豪将軍の異名でも知られていますが、そのような名前が付けられたのも剣術に優れていたからでしょう。
最期は名刀で奮戦
永禄の変で、義輝は多数の日本刀を用いて奮闘したとされています。ルイス・フロイスの『日本史』には「自ら薙刀を振るい、その技量の見事さに人々は驚いた。その後は薙刀を投げ捨てて刀を抜いて戦った」と描かれ、『日本外史』には「足利家の名刀を畳に刺して、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて戦った」という記述がみられます。
使用されたのは「鬼丸國綱」「大包平」「九字兼定」「朝嵐兼光」「綾小路定利」「二つ銘則宗」「三日月宗近」など名刀ばかり。しかし、これらの名前が登場するのは歴史小説の中で、信憑性の高い史料には見当たらないようです。
このような創作をされるほど、義輝は人々を魅了する存在だったのでしょう。
誇り高き室町幕府将軍
長らく名ばかり将軍となっていた足利将軍家ですが、義輝は復権に尽力し親政を行いました。しかし、次期将軍となった弟・義昭により、将軍は再度飾り物になってしまいます。そして、織田信長の台頭により、ついに室町幕府は滅亡するのです。
多くの戦国武将たちがしのぎを削りあうようになったこの時期に、足利将軍として義輝が果たした役割は大きいでしょう。最後まで果敢に戦った義輝は、誇り高い将軍だったといえそうです。 | 義輝は最後はどのように殺害されましたか。 | 義輝は自ら奮戦しましたが、最後は一斉に襲い掛かられて殺害されました。 |
JCRRAG_012449 | 歴史 | 戦国大名との修好に尽力する
幕府権力の復活を目指していた義輝は、戦国大名らと親しい関係を築きました。有力武将同士の抗争が起きた際は頻繁に調停を行い、場合によっては守護などに任命することもありました。
また、自分の名前の一部である「藤」や「輝」の字を家臣や諸大名に与えるだけでなく、さらには、足利将軍家の通字「義」を与えることもあったようです。
永禄の変で散る!義輝の最期
将軍家に尽くした義輝は「永禄の変」で命を落とします。この戦いはどのような経緯で起こったのでしょうか。
松永久秀・三好三人衆と激突
義輝は激しい戦局を潜り抜け将軍復権に尽力しましたが、そのような動きを疎む人物がいました。それは飾り物の将軍を擁立しようと企てていた松永久秀と三好三人衆です。
彼らは義輝の叔父・足利義維と組み、その嫡男で義輝の従兄弟にあたる義栄を新将軍にしようしていました。しかし、朝廷は耳を貸さなかったため、将軍への直訴として永禄8年(1565)約1万人の軍を率いて二条御所に侵入したのです。この「永禄の変」で義輝は自ら奮戦しましたが、最後は一斉に襲い掛かられて殺害されました。
多くの群衆がその死を悼んだ
義輝の死後、京都の天台宗の寺院・真正極楽寺(真如堂)で、義輝を弔う仏事が行われました。ここでは民間芸能の六斎踊りが披露され、摂津や近江坂本から集った約3000人が鉦鼓(しょうこ/念仏の時にたたく青銅製のかね)を鳴らし、身分を問わず7~8万の人々がその死を悼みました。これには三好三人衆政権への抵抗の意味もあったと考えられています。
語り継がれる人物像とは?
将軍でありながら生涯で多くの戦いを経験した義輝ですが、そもそもどのような人物だったのでしょうか。
武勇に優れた果敢な人物
義輝は『足利季世記(あしかがきせいき)』や『日本外史(にほんがいし)』で、武芸に秀でた剣豪として描写されています。この人物像は後世の創作といわれていますが、宣教師ルイス・フロイスもその著書のなかで「とても武勇に優れて、勇気ある人だった」と称えているため、勇猛果敢な人物だったことは確かでしょう。
塚原卜伝も認めた剣の腕前
義輝は剣聖・塚原卜伝の直弟子の一人で、奥義「一之太刀」を伝授されたといわれています。必ずしも奥義を極めたとは言い切れませんが、このような側面からも武術に秀でた人物だったと想像できます。
義輝は剣豪将軍の異名でも知られていますが、そのような名前が付けられたのも剣術に優れていたからでしょう。
最期は名刀で奮戦
永禄の変で、義輝は多数の日本刀を用いて奮闘したとされています。ルイス・フロイスの『日本史』には「自ら薙刀を振るい、その技量の見事さに人々は驚いた。その後は薙刀を投げ捨てて刀を抜いて戦った」と描かれ、『日本外史』には「足利家の名刀を畳に刺して、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて戦った」という記述がみられます。
使用されたのは「鬼丸國綱」「大包平」「九字兼定」「朝嵐兼光」「綾小路定利」「二つ銘則宗」「三日月宗近」など名刀ばかり。しかし、これらの名前が登場するのは歴史小説の中で、信憑性の高い史料には見当たらないようです。
このような創作をされるほど、義輝は人々を魅了する存在だったのでしょう。
誇り高き室町幕府将軍
長らく名ばかり将軍となっていた足利将軍家ですが、義輝は復権に尽力し親政を行いました。しかし、次期将軍となった弟・義昭により、将軍は再度飾り物になってしまいます。そして、織田信長の台頭により、ついに室町幕府は滅亡するのです。
多くの戦国武将たちがしのぎを削りあうようになったこの時期に、足利将軍として義輝が果たした役割は大きいでしょう。最後まで果敢に戦った義輝は、誇り高い将軍だったといえそうです。 | 義輝の死後、どこで、義輝を弔う仏事が行われましたか。 | 義輝の死後、京都の天台宗の寺院・真正極楽寺(真如堂)で、義輝を弔う仏事が行われました。 |
JCRRAG_012450 | 歴史 | 戦国大名との修好に尽力する
幕府権力の復活を目指していた義輝は、戦国大名らと親しい関係を築きました。有力武将同士の抗争が起きた際は頻繁に調停を行い、場合によっては守護などに任命することもありました。
また、自分の名前の一部である「藤」や「輝」の字を家臣や諸大名に与えるだけでなく、さらには、足利将軍家の通字「義」を与えることもあったようです。
永禄の変で散る!義輝の最期
将軍家に尽くした義輝は「永禄の変」で命を落とします。この戦いはどのような経緯で起こったのでしょうか。
松永久秀・三好三人衆と激突
義輝は激しい戦局を潜り抜け将軍復権に尽力しましたが、そのような動きを疎む人物がいました。それは飾り物の将軍を擁立しようと企てていた松永久秀と三好三人衆です。
彼らは義輝の叔父・足利義維と組み、その嫡男で義輝の従兄弟にあたる義栄を新将軍にしようしていました。しかし、朝廷は耳を貸さなかったため、将軍への直訴として永禄8年(1565)約1万人の軍を率いて二条御所に侵入したのです。この「永禄の変」で義輝は自ら奮戦しましたが、最後は一斉に襲い掛かられて殺害されました。
多くの群衆がその死を悼んだ
義輝の死後、京都の天台宗の寺院・真正極楽寺(真如堂)で、義輝を弔う仏事が行われました。ここでは民間芸能の六斎踊りが披露され、摂津や近江坂本から集った約3000人が鉦鼓(しょうこ/念仏の時にたたく青銅製のかね)を鳴らし、身分を問わず7~8万の人々がその死を悼みました。これには三好三人衆政権への抵抗の意味もあったと考えられています。
語り継がれる人物像とは?
将軍でありながら生涯で多くの戦いを経験した義輝ですが、そもそもどのような人物だったのでしょうか。
武勇に優れた果敢な人物
義輝は『足利季世記(あしかがきせいき)』や『日本外史(にほんがいし)』で、武芸に秀でた剣豪として描写されています。この人物像は後世の創作といわれていますが、宣教師ルイス・フロイスもその著書のなかで「とても武勇に優れて、勇気ある人だった」と称えているため、勇猛果敢な人物だったことは確かでしょう。
塚原卜伝も認めた剣の腕前
義輝は剣聖・塚原卜伝の直弟子の一人で、奥義「一之太刀」を伝授されたといわれています。必ずしも奥義を極めたとは言い切れませんが、このような側面からも武術に秀でた人物だったと想像できます。
義輝は剣豪将軍の異名でも知られていますが、そのような名前が付けられたのも剣術に優れていたからでしょう。
最期は名刀で奮戦
永禄の変で、義輝は多数の日本刀を用いて奮闘したとされています。ルイス・フロイスの『日本史』には「自ら薙刀を振るい、その技量の見事さに人々は驚いた。その後は薙刀を投げ捨てて刀を抜いて戦った」と描かれ、『日本外史』には「足利家の名刀を畳に刺して、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて戦った」という記述がみられます。
使用されたのは「鬼丸國綱」「大包平」「九字兼定」「朝嵐兼光」「綾小路定利」「二つ銘則宗」「三日月宗近」など名刀ばかり。しかし、これらの名前が登場するのは歴史小説の中で、信憑性の高い史料には見当たらないようです。
このような創作をされるほど、義輝は人々を魅了する存在だったのでしょう。
誇り高き室町幕府将軍
長らく名ばかり将軍となっていた足利将軍家ですが、義輝は復権に尽力し親政を行いました。しかし、次期将軍となった弟・義昭により、将軍は再度飾り物になってしまいます。そして、織田信長の台頭により、ついに室町幕府は滅亡するのです。
多くの戦国武将たちがしのぎを削りあうようになったこの時期に、足利将軍として義輝が果たした役割は大きいでしょう。最後まで果敢に戦った義輝は、誇り高い将軍だったといえそうです。 | 義輝は『足利季世記』や『日本外史』で、どのように描写されていますか。 | 義輝は『足利季世記(あしかがきせいき)』や『日本外史(にほんがいし)』で、武芸に秀でた剣豪として描写されています。 |
JCRRAG_012451 | 歴史 | 戦国大名との修好に尽力する
幕府権力の復活を目指していた義輝は、戦国大名らと親しい関係を築きました。有力武将同士の抗争が起きた際は頻繁に調停を行い、場合によっては守護などに任命することもありました。
また、自分の名前の一部である「藤」や「輝」の字を家臣や諸大名に与えるだけでなく、さらには、足利将軍家の通字「義」を与えることもあったようです。
永禄の変で散る!義輝の最期
将軍家に尽くした義輝は「永禄の変」で命を落とします。この戦いはどのような経緯で起こったのでしょうか。
松永久秀・三好三人衆と激突
義輝は激しい戦局を潜り抜け将軍復権に尽力しましたが、そのような動きを疎む人物がいました。それは飾り物の将軍を擁立しようと企てていた松永久秀と三好三人衆です。
彼らは義輝の叔父・足利義維と組み、その嫡男で義輝の従兄弟にあたる義栄を新将軍にしようしていました。しかし、朝廷は耳を貸さなかったため、将軍への直訴として永禄8年(1565)約1万人の軍を率いて二条御所に侵入したのです。この「永禄の変」で義輝は自ら奮戦しましたが、最後は一斉に襲い掛かられて殺害されました。
多くの群衆がその死を悼んだ
義輝の死後、京都の天台宗の寺院・真正極楽寺(真如堂)で、義輝を弔う仏事が行われました。ここでは民間芸能の六斎踊りが披露され、摂津や近江坂本から集った約3000人が鉦鼓(しょうこ/念仏の時にたたく青銅製のかね)を鳴らし、身分を問わず7~8万の人々がその死を悼みました。これには三好三人衆政権への抵抗の意味もあったと考えられています。
語り継がれる人物像とは?
将軍でありながら生涯で多くの戦いを経験した義輝ですが、そもそもどのような人物だったのでしょうか。
武勇に優れた果敢な人物
義輝は『足利季世記(あしかがきせいき)』や『日本外史(にほんがいし)』で、武芸に秀でた剣豪として描写されています。この人物像は後世の創作といわれていますが、宣教師ルイス・フロイスもその著書のなかで「とても武勇に優れて、勇気ある人だった」と称えているため、勇猛果敢な人物だったことは確かでしょう。
塚原卜伝も認めた剣の腕前
義輝は剣聖・塚原卜伝の直弟子の一人で、奥義「一之太刀」を伝授されたといわれています。必ずしも奥義を極めたとは言い切れませんが、このような側面からも武術に秀でた人物だったと想像できます。
義輝は剣豪将軍の異名でも知られていますが、そのような名前が付けられたのも剣術に優れていたからでしょう。
最期は名刀で奮戦
永禄の変で、義輝は多数の日本刀を用いて奮闘したとされています。ルイス・フロイスの『日本史』には「自ら薙刀を振るい、その技量の見事さに人々は驚いた。その後は薙刀を投げ捨てて刀を抜いて戦った」と描かれ、『日本外史』には「足利家の名刀を畳に刺して、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて戦った」という記述がみられます。
使用されたのは「鬼丸國綱」「大包平」「九字兼定」「朝嵐兼光」「綾小路定利」「二つ銘則宗」「三日月宗近」など名刀ばかり。しかし、これらの名前が登場するのは歴史小説の中で、信憑性の高い史料には見当たらないようです。
このような創作をされるほど、義輝は人々を魅了する存在だったのでしょう。
誇り高き室町幕府将軍
長らく名ばかり将軍となっていた足利将軍家ですが、義輝は復権に尽力し親政を行いました。しかし、次期将軍となった弟・義昭により、将軍は再度飾り物になってしまいます。そして、織田信長の台頭により、ついに室町幕府は滅亡するのです。
多くの戦国武将たちがしのぎを削りあうようになったこの時期に、足利将軍として義輝が果たした役割は大きいでしょう。最後まで果敢に戦った義輝は、誇り高い将軍だったといえそうです。 | 義輝は何の異名でも知られていますか。 | 義輝は剣豪将軍の異名でも知られています。 |
JCRRAG_012452 | 歴史 | 明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、斎藤利三である。
明智家の家臣になった経緯
利三は光秀の家臣になるまでにさまざまな主君に仕えていました。どのような経緯で光秀の重臣となったのでしょうか。
美濃斎藤氏の一族出身
利三は天文3年(1534)戦国武将・斎藤利賢の次男として美濃国で誕生しました。斎藤道三とは別の系譜で、美濃斎藤氏の一族出身ではあるものの、その家系については諸説あるようです。
母は越中蜷川家・蜷川親順の娘といわれていますが、徳川家の正史『徳川実紀』には「斎藤利三は明智光秀の妹の子」とも記載されています。
幕府の奉公衆から稲葉家の家臣に
妙心寺智勝院所蔵の稲葉一鉄像です。
もともと利三は実兄・石谷頼辰や光秀と同じように幕府の奉公衆でしたが、上京後は摂津国・松山新介に、次いで斎藤義龍に仕えるようになりました。
ところが同じく義龍の家臣だった西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄(良通)が、斎藤家から離反して織田家に従属。利三はこれに従い、その後は稲葉氏の家臣となります。
光秀に重用され丹波黒井城主になる
一鉄の家臣となった利三ですが、元亀元年(1570)以降は光秀の配下になったようです。この鞍替えについては、利三が一鉄といさかいを起こして袂を分かち、親戚関係にあった光秀をたよったからともいわれています。
光秀の家臣になってからは、明智秀満と並んで筆頭家老として重用されました。光秀の丹波平定後は、1万石の丹波黒井城主になり氷上郡の統治にもあたっています。 | 明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、誰であるか。 | 明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、斎藤利三である。 |
JCRRAG_012453 | 歴史 | 明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、斎藤利三である。
明智家の家臣になった経緯
利三は光秀の家臣になるまでにさまざまな主君に仕えていました。どのような経緯で光秀の重臣となったのでしょうか。
美濃斎藤氏の一族出身
利三は天文3年(1534)戦国武将・斎藤利賢の次男として美濃国で誕生しました。斎藤道三とは別の系譜で、美濃斎藤氏の一族出身ではあるものの、その家系については諸説あるようです。
母は越中蜷川家・蜷川親順の娘といわれていますが、徳川家の正史『徳川実紀』には「斎藤利三は明智光秀の妹の子」とも記載されています。
幕府の奉公衆から稲葉家の家臣に
妙心寺智勝院所蔵の稲葉一鉄像です。
もともと利三は実兄・石谷頼辰や光秀と同じように幕府の奉公衆でしたが、上京後は摂津国・松山新介に、次いで斎藤義龍に仕えるようになりました。
ところが同じく義龍の家臣だった西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄(良通)が、斎藤家から離反して織田家に従属。利三はこれに従い、その後は稲葉氏の家臣となります。
光秀に重用され丹波黒井城主になる
一鉄の家臣となった利三ですが、元亀元年(1570)以降は光秀の配下になったようです。この鞍替えについては、利三が一鉄といさかいを起こして袂を分かち、親戚関係にあった光秀をたよったからともいわれています。
光秀の家臣になってからは、明智秀満と並んで筆頭家老として重用されました。光秀の丹波平定後は、1万石の丹波黒井城主になり氷上郡の統治にもあたっています。 | 利三は天文3年(1534)誰の次男として美濃国で誕生しましたか。 | 利三は天文3年(1534)戦国武将・斎藤利賢の次男として美濃国で誕生しました。 |
JCRRAG_012454 | 歴史 | 明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、斎藤利三である。
明智家の家臣になった経緯
利三は光秀の家臣になるまでにさまざまな主君に仕えていました。どのような経緯で光秀の重臣となったのでしょうか。
美濃斎藤氏の一族出身
利三は天文3年(1534)戦国武将・斎藤利賢の次男として美濃国で誕生しました。斎藤道三とは別の系譜で、美濃斎藤氏の一族出身ではあるものの、その家系については諸説あるようです。
母は越中蜷川家・蜷川親順の娘といわれていますが、徳川家の正史『徳川実紀』には「斎藤利三は明智光秀の妹の子」とも記載されています。
幕府の奉公衆から稲葉家の家臣に
妙心寺智勝院所蔵の稲葉一鉄像です。
もともと利三は実兄・石谷頼辰や光秀と同じように幕府の奉公衆でしたが、上京後は摂津国・松山新介に、次いで斎藤義龍に仕えるようになりました。
ところが同じく義龍の家臣だった西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄(良通)が、斎藤家から離反して織田家に従属。利三はこれに従い、その後は稲葉氏の家臣となります。
光秀に重用され丹波黒井城主になる
一鉄の家臣となった利三ですが、元亀元年(1570)以降は光秀の配下になったようです。この鞍替えについては、利三が一鉄といさかいを起こして袂を分かち、親戚関係にあった光秀をたよったからともいわれています。
光秀の家臣になってからは、明智秀満と並んで筆頭家老として重用されました。光秀の丹波平定後は、1万石の丹波黒井城主になり氷上郡の統治にもあたっています。 | 利三は天文3年(1534)戦国武将・斎藤利賢の次男としてどこで誕生しましたか。 | 利三は天文3年(1534)戦国武将・斎藤利賢の次男として美濃国で誕生しました。 |
JCRRAG_012455 | 歴史 | 明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、斎藤利三である。
明智家の家臣になった経緯
利三は光秀の家臣になるまでにさまざまな主君に仕えていました。どのような経緯で光秀の重臣となったのでしょうか。
美濃斎藤氏の一族出身
利三は天文3年(1534)戦国武将・斎藤利賢の次男として美濃国で誕生しました。斎藤道三とは別の系譜で、美濃斎藤氏の一族出身ではあるものの、その家系については諸説あるようです。
母は越中蜷川家・蜷川親順の娘といわれていますが、徳川家の正史『徳川実紀』には「斎藤利三は明智光秀の妹の子」とも記載されています。
幕府の奉公衆から稲葉家の家臣に
妙心寺智勝院所蔵の稲葉一鉄像です。
もともと利三は実兄・石谷頼辰や光秀と同じように幕府の奉公衆でしたが、上京後は摂津国・松山新介に、次いで斎藤義龍に仕えるようになりました。
ところが同じく義龍の家臣だった西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄(良通)が、斎藤家から離反して織田家に従属。利三はこれに従い、その後は稲葉氏の家臣となります。
光秀に重用され丹波黒井城主になる
一鉄の家臣となった利三ですが、元亀元年(1570)以降は光秀の配下になったようです。この鞍替えについては、利三が一鉄といさかいを起こして袂を分かち、親戚関係にあった光秀をたよったからともいわれています。
光秀の家臣になってからは、明智秀満と並んで筆頭家老として重用されました。光秀の丹波平定後は、1万石の丹波黒井城主になり氷上郡の統治にもあたっています。 | 利三は斎藤道三とは別の系譜で、何の出身ではあるものの、その家系については諸説あるようですか。 | 利三は斎藤道三とは別の系譜で、美濃斎藤氏の一族出身ではあるものの、その家系については諸説あるようです。 |
JCRRAG_012456 | 歴史 | 明智光秀家臣で最期まで恩義に報いた重臣は、斎藤利三である。
明智家の家臣になった経緯
利三は光秀の家臣になるまでにさまざまな主君に仕えていました。どのような経緯で光秀の重臣となったのでしょうか。
美濃斎藤氏の一族出身
利三は天文3年(1534)戦国武将・斎藤利賢の次男として美濃国で誕生しました。斎藤道三とは別の系譜で、美濃斎藤氏の一族出身ではあるものの、その家系については諸説あるようです。
母は越中蜷川家・蜷川親順の娘といわれていますが、徳川家の正史『徳川実紀』には「斎藤利三は明智光秀の妹の子」とも記載されています。
幕府の奉公衆から稲葉家の家臣に
妙心寺智勝院所蔵の稲葉一鉄像です。
もともと利三は実兄・石谷頼辰や光秀と同じように幕府の奉公衆でしたが、上京後は摂津国・松山新介に、次いで斎藤義龍に仕えるようになりました。
ところが同じく義龍の家臣だった西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄(良通)が、斎藤家から離反して織田家に従属。利三はこれに従い、その後は稲葉氏の家臣となります。
光秀に重用され丹波黒井城主になる
一鉄の家臣となった利三ですが、元亀元年(1570)以降は光秀の配下になったようです。この鞍替えについては、利三が一鉄といさかいを起こして袂を分かち、親戚関係にあった光秀をたよったからともいわれています。
光秀の家臣になってからは、明智秀満と並んで筆頭家老として重用されました。光秀の丹波平定後は、1万石の丹波黒井城主になり氷上郡の統治にもあたっています。 | 光秀の丹波平定後は、何になり氷上郡の統治にもあたっていますか。 | 光秀の丹波平定後は、1万石の丹波黒井城主になり氷上郡の統治にもあたっています。 |
JCRRAG_012457 | 歴史 | 利三は、本能寺の変において主君・光秀に付き従い、最期までその忠義を貫きました。
本能寺の変は光秀だけでなく、家臣である利三にとっても運命を左右する重要な出来事でした。
利三は、本能寺の変の計画を光秀から打ち明けられた際、その無謀さに反対しましたが、主君の命令に従う決意を固めます。
秀満とともに反対意見を述べたものの、光秀の恩義に応えるため、首謀者の一人として行動を共にしたのです。
利三は、山崎の戦いで先鋒を務めて奮戦し、敗北後も最後まで抗い続けました。
しかし逃亡中に力尽き、近江堅田で捕らえられ、六条河原で斬首されました。
また、利三は、本能寺の変に関わった黒幕の一人ではないかとも疑われています。
信長から切腹を命じられた経緯や、親しい関係にあった長宗我部氏とのつながりがその理由に挙げられます。
信長から切腹を命じられた
利三の口利きにより稲葉家から那波直治を光秀が引き抜いた際、一鉄はこれを不服として信長に抗議しました。その意見を聞き入れた信長は、那波を稲葉家に返し、利三を切腹させるよう命じます。しかし光秀はこの命令を拒否したため、激怒した信長から折檻されました。
信長の判断が下されたのは、本能寺の変のわずか3~4日前のことです。切腹は周囲のとりなしで撤回されたものの、信長に不服を感じた利三が、主君の光秀に働きかけたのではないかと考えられています。
親戚・長宗我部氏との関係
光秀は織田氏と同盟関係にあった四国・長宗我部氏との取次役を務めており、家臣の利三も長宗我部元親と姻戚関係にあるなど深い関係にありました。
ところが石山本願寺が降伏したことで、その背面に位置していた長宗我部氏の価値が薄れ、信長は同盟関係を結んでいたにもかかわらず四国に勢力を拡大しようと動き出します。利三はこれを阻止しようとしたとも考えられており、山科言経の『言経卿記(ときつねきょうき)』には「日向守内斎藤蔵助 今度謀叛随一也」と事件の中心人物とするような記載もみられます。
なお、長宗我部氏も信長の裏切りには反発しましたが、のちの史料から降伏を決意していたことがわかっています。
娘は徳川家光の乳母・春日局
麟祥院所蔵の春日局蔵です。
利三の後室は一鉄の娘で、2人の間には斎藤利宗、斎藤三存らが生まれました。しかし最も有名なのは末娘の福でしょう。
母方の親戚である三条西公国に養育された彼女は、書道、歌道、香道など公家の教養を身につけた後、伯父・稲葉重通の養女になり、稲葉正成の後妻となりました。
その後は2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の徳川家光)の乳母に任命され、家光の将軍継嗣において功績を残したり大奥をまとめたりと権勢を振るいました。朝廷から賜った「春日局」という称号で広く知られています。
明智家の重臣として全うした
利三はさまざまな主君に仕えましたが、最期は明智家の重臣としてこの世を去りました。光秀に対しては大きな恩義を感じていたのかもしれません。
利三の死後、その首は親交のあった絵師・海北友松によって京都の真正極楽寺へと葬られました。斬首後は光秀の首とともに本能寺に晒されたとも言われており、まさに最後まで主君と運命を共にしたといえるでしょう。 | 利三は、本能寺の変において誰に付き従い、最期までその忠義を貫きましたか。 | 利三は、本能寺の変において主君・光秀に付き従い、最期までその忠義を貫きました。 |
JCRRAG_012458 | 歴史 | 利三は、本能寺の変において主君・光秀に付き従い、最期までその忠義を貫きました。
本能寺の変は光秀だけでなく、家臣である利三にとっても運命を左右する重要な出来事でした。
利三は、本能寺の変の計画を光秀から打ち明けられた際、その無謀さに反対しましたが、主君の命令に従う決意を固めます。
秀満とともに反対意見を述べたものの、光秀の恩義に応えるため、首謀者の一人として行動を共にしたのです。
利三は、山崎の戦いで先鋒を務めて奮戦し、敗北後も最後まで抗い続けました。
しかし逃亡中に力尽き、近江堅田で捕らえられ、六条河原で斬首されました。
また、利三は、本能寺の変に関わった黒幕の一人ではないかとも疑われています。
信長から切腹を命じられた経緯や、親しい関係にあった長宗我部氏とのつながりがその理由に挙げられます。
信長から切腹を命じられた
利三の口利きにより稲葉家から那波直治を光秀が引き抜いた際、一鉄はこれを不服として信長に抗議しました。その意見を聞き入れた信長は、那波を稲葉家に返し、利三を切腹させるよう命じます。しかし光秀はこの命令を拒否したため、激怒した信長から折檻されました。
信長の判断が下されたのは、本能寺の変のわずか3~4日前のことです。切腹は周囲のとりなしで撤回されたものの、信長に不服を感じた利三が、主君の光秀に働きかけたのではないかと考えられています。
親戚・長宗我部氏との関係
光秀は織田氏と同盟関係にあった四国・長宗我部氏との取次役を務めており、家臣の利三も長宗我部元親と姻戚関係にあるなど深い関係にありました。
ところが石山本願寺が降伏したことで、その背面に位置していた長宗我部氏の価値が薄れ、信長は同盟関係を結んでいたにもかかわらず四国に勢力を拡大しようと動き出します。利三はこれを阻止しようとしたとも考えられており、山科言経の『言経卿記(ときつねきょうき)』には「日向守内斎藤蔵助 今度謀叛随一也」と事件の中心人物とするような記載もみられます。
なお、長宗我部氏も信長の裏切りには反発しましたが、のちの史料から降伏を決意していたことがわかっています。
娘は徳川家光の乳母・春日局
麟祥院所蔵の春日局蔵です。
利三の後室は一鉄の娘で、2人の間には斎藤利宗、斎藤三存らが生まれました。しかし最も有名なのは末娘の福でしょう。
母方の親戚である三条西公国に養育された彼女は、書道、歌道、香道など公家の教養を身につけた後、伯父・稲葉重通の養女になり、稲葉正成の後妻となりました。
その後は2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の徳川家光)の乳母に任命され、家光の将軍継嗣において功績を残したり大奥をまとめたりと権勢を振るいました。朝廷から賜った「春日局」という称号で広く知られています。
明智家の重臣として全うした
利三はさまざまな主君に仕えましたが、最期は明智家の重臣としてこの世を去りました。光秀に対しては大きな恩義を感じていたのかもしれません。
利三の死後、その首は親交のあった絵師・海北友松によって京都の真正極楽寺へと葬られました。斬首後は光秀の首とともに本能寺に晒されたとも言われており、まさに最後まで主君と運命を共にしたといえるでしょう。 | 利三は、何の戦いで先鋒を務めて奮戦し、敗北後も最後まで抗い続けましたか。 | 利三は、山崎の戦いで先鋒を務めて奮戦し、敗北後も最後まで抗い続けました。 |
JCRRAG_012459 | 歴史 | 利三は、本能寺の変において主君・光秀に付き従い、最期までその忠義を貫きました。
本能寺の変は光秀だけでなく、家臣である利三にとっても運命を左右する重要な出来事でした。
利三は、本能寺の変の計画を光秀から打ち明けられた際、その無謀さに反対しましたが、主君の命令に従う決意を固めます。
秀満とともに反対意見を述べたものの、光秀の恩義に応えるため、首謀者の一人として行動を共にしたのです。
利三は、山崎の戦いで先鋒を務めて奮戦し、敗北後も最後まで抗い続けました。
しかし逃亡中に力尽き、近江堅田で捕らえられ、六条河原で斬首されました。
また、利三は、本能寺の変に関わった黒幕の一人ではないかとも疑われています。
信長から切腹を命じられた経緯や、親しい関係にあった長宗我部氏とのつながりがその理由に挙げられます。
信長から切腹を命じられた
利三の口利きにより稲葉家から那波直治を光秀が引き抜いた際、一鉄はこれを不服として信長に抗議しました。その意見を聞き入れた信長は、那波を稲葉家に返し、利三を切腹させるよう命じます。しかし光秀はこの命令を拒否したため、激怒した信長から折檻されました。
信長の判断が下されたのは、本能寺の変のわずか3~4日前のことです。切腹は周囲のとりなしで撤回されたものの、信長に不服を感じた利三が、主君の光秀に働きかけたのではないかと考えられています。
親戚・長宗我部氏との関係
光秀は織田氏と同盟関係にあった四国・長宗我部氏との取次役を務めており、家臣の利三も長宗我部元親と姻戚関係にあるなど深い関係にありました。
ところが石山本願寺が降伏したことで、その背面に位置していた長宗我部氏の価値が薄れ、信長は同盟関係を結んでいたにもかかわらず四国に勢力を拡大しようと動き出します。利三はこれを阻止しようとしたとも考えられており、山科言経の『言経卿記(ときつねきょうき)』には「日向守内斎藤蔵助 今度謀叛随一也」と事件の中心人物とするような記載もみられます。
なお、長宗我部氏も信長の裏切りには反発しましたが、のちの史料から降伏を決意していたことがわかっています。
娘は徳川家光の乳母・春日局
麟祥院所蔵の春日局蔵です。
利三の後室は一鉄の娘で、2人の間には斎藤利宗、斎藤三存らが生まれました。しかし最も有名なのは末娘の福でしょう。
母方の親戚である三条西公国に養育された彼女は、書道、歌道、香道など公家の教養を身につけた後、伯父・稲葉重通の養女になり、稲葉正成の後妻となりました。
その後は2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の徳川家光)の乳母に任命され、家光の将軍継嗣において功績を残したり大奥をまとめたりと権勢を振るいました。朝廷から賜った「春日局」という称号で広く知られています。
明智家の重臣として全うした
利三はさまざまな主君に仕えましたが、最期は明智家の重臣としてこの世を去りました。光秀に対しては大きな恩義を感じていたのかもしれません。
利三の死後、その首は親交のあった絵師・海北友松によって京都の真正極楽寺へと葬られました。斬首後は光秀の首とともに本能寺に晒されたとも言われており、まさに最後まで主君と運命を共にしたといえるでしょう。 | 利三は、本能寺の変の計画を光秀から打ち明けられた際、どうしましたか。 | 利三は、本能寺の変の計画を光秀から打ち明けられた際、その無謀さに反対しましたが、主君の命令に従う決意を固めます。 |
JCRRAG_012460 | 歴史 | 利三は、本能寺の変において主君・光秀に付き従い、最期までその忠義を貫きました。
本能寺の変は光秀だけでなく、家臣である利三にとっても運命を左右する重要な出来事でした。
利三は、本能寺の変の計画を光秀から打ち明けられた際、その無謀さに反対しましたが、主君の命令に従う決意を固めます。
秀満とともに反対意見を述べたものの、光秀の恩義に応えるため、首謀者の一人として行動を共にしたのです。
利三は、山崎の戦いで先鋒を務めて奮戦し、敗北後も最後まで抗い続けました。
しかし逃亡中に力尽き、近江堅田で捕らえられ、六条河原で斬首されました。
また、利三は、本能寺の変に関わった黒幕の一人ではないかとも疑われています。
信長から切腹を命じられた経緯や、親しい関係にあった長宗我部氏とのつながりがその理由に挙げられます。
信長から切腹を命じられた
利三の口利きにより稲葉家から那波直治を光秀が引き抜いた際、一鉄はこれを不服として信長に抗議しました。その意見を聞き入れた信長は、那波を稲葉家に返し、利三を切腹させるよう命じます。しかし光秀はこの命令を拒否したため、激怒した信長から折檻されました。
信長の判断が下されたのは、本能寺の変のわずか3~4日前のことです。切腹は周囲のとりなしで撤回されたものの、信長に不服を感じた利三が、主君の光秀に働きかけたのではないかと考えられています。
親戚・長宗我部氏との関係
光秀は織田氏と同盟関係にあった四国・長宗我部氏との取次役を務めており、家臣の利三も長宗我部元親と姻戚関係にあるなど深い関係にありました。
ところが石山本願寺が降伏したことで、その背面に位置していた長宗我部氏の価値が薄れ、信長は同盟関係を結んでいたにもかかわらず四国に勢力を拡大しようと動き出します。利三はこれを阻止しようとしたとも考えられており、山科言経の『言経卿記(ときつねきょうき)』には「日向守内斎藤蔵助 今度謀叛随一也」と事件の中心人物とするような記載もみられます。
なお、長宗我部氏も信長の裏切りには反発しましたが、のちの史料から降伏を決意していたことがわかっています。
娘は徳川家光の乳母・春日局
麟祥院所蔵の春日局蔵です。
利三の後室は一鉄の娘で、2人の間には斎藤利宗、斎藤三存らが生まれました。しかし最も有名なのは末娘の福でしょう。
母方の親戚である三条西公国に養育された彼女は、書道、歌道、香道など公家の教養を身につけた後、伯父・稲葉重通の養女になり、稲葉正成の後妻となりました。
その後は2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の徳川家光)の乳母に任命され、家光の将軍継嗣において功績を残したり大奥をまとめたりと権勢を振るいました。朝廷から賜った「春日局」という称号で広く知られています。
明智家の重臣として全うした
利三はさまざまな主君に仕えましたが、最期は明智家の重臣としてこの世を去りました。光秀に対しては大きな恩義を感じていたのかもしれません。
利三の死後、その首は親交のあった絵師・海北友松によって京都の真正極楽寺へと葬られました。斬首後は光秀の首とともに本能寺に晒されたとも言われており、まさに最後まで主君と運命を共にしたといえるでしょう。 | 利三の後室は一鉄の娘で、2人の間には誰が生まれましたか。 | 利三の後室は一鉄の娘で、2人の間には斎藤利宗、斎藤三存らが生まれました。 |
JCRRAG_012461 | 歴史 | 利三は、本能寺の変において主君・光秀に付き従い、最期までその忠義を貫きました。
本能寺の変は光秀だけでなく、家臣である利三にとっても運命を左右する重要な出来事でした。
利三は、本能寺の変の計画を光秀から打ち明けられた際、その無謀さに反対しましたが、主君の命令に従う決意を固めます。
秀満とともに反対意見を述べたものの、光秀の恩義に応えるため、首謀者の一人として行動を共にしたのです。
利三は、山崎の戦いで先鋒を務めて奮戦し、敗北後も最後まで抗い続けました。
しかし逃亡中に力尽き、近江堅田で捕らえられ、六条河原で斬首されました。
また、利三は、本能寺の変に関わった黒幕の一人ではないかとも疑われています。
信長から切腹を命じられた経緯や、親しい関係にあった長宗我部氏とのつながりがその理由に挙げられます。
信長から切腹を命じられた
利三の口利きにより稲葉家から那波直治を光秀が引き抜いた際、一鉄はこれを不服として信長に抗議しました。その意見を聞き入れた信長は、那波を稲葉家に返し、利三を切腹させるよう命じます。しかし光秀はこの命令を拒否したため、激怒した信長から折檻されました。
信長の判断が下されたのは、本能寺の変のわずか3~4日前のことです。切腹は周囲のとりなしで撤回されたものの、信長に不服を感じた利三が、主君の光秀に働きかけたのではないかと考えられています。
親戚・長宗我部氏との関係
光秀は織田氏と同盟関係にあった四国・長宗我部氏との取次役を務めており、家臣の利三も長宗我部元親と姻戚関係にあるなど深い関係にありました。
ところが石山本願寺が降伏したことで、その背面に位置していた長宗我部氏の価値が薄れ、信長は同盟関係を結んでいたにもかかわらず四国に勢力を拡大しようと動き出します。利三はこれを阻止しようとしたとも考えられており、山科言経の『言経卿記(ときつねきょうき)』には「日向守内斎藤蔵助 今度謀叛随一也」と事件の中心人物とするような記載もみられます。
なお、長宗我部氏も信長の裏切りには反発しましたが、のちの史料から降伏を決意していたことがわかっています。
娘は徳川家光の乳母・春日局
麟祥院所蔵の春日局蔵です。
利三の後室は一鉄の娘で、2人の間には斎藤利宗、斎藤三存らが生まれました。しかし最も有名なのは末娘の福でしょう。
母方の親戚である三条西公国に養育された彼女は、書道、歌道、香道など公家の教養を身につけた後、伯父・稲葉重通の養女になり、稲葉正成の後妻となりました。
その後は2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の徳川家光)の乳母に任命され、家光の将軍継嗣において功績を残したり大奥をまとめたりと権勢を振るいました。朝廷から賜った「春日局」という称号で広く知られています。
明智家の重臣として全うした
利三はさまざまな主君に仕えましたが、最期は明智家の重臣としてこの世を去りました。光秀に対しては大きな恩義を感じていたのかもしれません。
利三の死後、その首は親交のあった絵師・海北友松によって京都の真正極楽寺へと葬られました。斬首後は光秀の首とともに本能寺に晒されたとも言われており、まさに最後まで主君と運命を共にしたといえるでしょう。 | 利三の死後、その首は親交のあった絵師・海北友松によってどこへと葬られましたか。 | 利三の死後、その首は親交のあった絵師・海北友松によって京都の真正極楽寺へと葬られました。 |
JCRRAG_012462 | 歴史 | 竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、黒田官兵衛である。
生まれから播磨での活躍
軍師として活躍した官兵衛は、幼い頃から文武両道な人物でした。また、英傑に仕える以前にも戦で功績を残しています。
播磨国に生まれる
官兵衛は天文15年(1546)、黒田職隆(もとたか)の嫡男として播磨国で生まれました。黒田氏は祖父の代から播磨で権力をもつ赤松家の分家・小寺氏に仕えており、祖父は能力を高く買われ姫路城主に、父は小寺政職(まさもと)の養女と結婚しています。
幼い頃の官兵衛は和歌や連歌が好きでしたが、僧侶の説得もありその道を断念。父と同じく政職の近くに仕え、その翌年には初陣を飾りました。永禄10年(1567)頃には家督と家老職を継承し、政職の姪にあたる櫛橋伊定(くしはし・これさだ)の娘・光(てる)と結婚して姫路城主になっています。
青山・土器山の戦いでの奇襲
永禄12年(1569)青山・土器山の戦い(あおやま・かわらけやまのたたかい)が起こります。 発端は長く対立関係にあった赤松宗家の当主・赤松義祐と龍野赤松氏の赤松政秀による政争でした。足利義昭や信長に取り入って支援を得た政秀は、義祐に味方した小寺政職の配下である姫路城に兵を差し向けます。赤松政秀軍は約3000人の兵力、それに対し姫路城主の官兵衛率いる軍勢はわずか約300人でしたが、官兵衛は奇襲をかけこの難局を乗り越えます。翌月には政秀側の夜襲により窮地に陥りますが、援軍によりなんとか危機を回避。しかし、このまま戦いが長引けば勝ち目はないと判断した官兵衛は敢えて体力の回復していない兵に出撃命令を出して敵を強襲、赤松政秀軍は予想外の攻撃に混乱して敗走しました。 | 竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、誰であるか。 | 竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、黒田官兵衛である。 |
JCRRAG_012463 | 歴史 | 竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、黒田官兵衛である。
生まれから播磨での活躍
軍師として活躍した官兵衛は、幼い頃から文武両道な人物でした。また、英傑に仕える以前にも戦で功績を残しています。
播磨国に生まれる
官兵衛は天文15年(1546)、黒田職隆(もとたか)の嫡男として播磨国で生まれました。黒田氏は祖父の代から播磨で権力をもつ赤松家の分家・小寺氏に仕えており、祖父は能力を高く買われ姫路城主に、父は小寺政職(まさもと)の養女と結婚しています。
幼い頃の官兵衛は和歌や連歌が好きでしたが、僧侶の説得もありその道を断念。父と同じく政職の近くに仕え、その翌年には初陣を飾りました。永禄10年(1567)頃には家督と家老職を継承し、政職の姪にあたる櫛橋伊定(くしはし・これさだ)の娘・光(てる)と結婚して姫路城主になっています。
青山・土器山の戦いでの奇襲
永禄12年(1569)青山・土器山の戦い(あおやま・かわらけやまのたたかい)が起こります。 発端は長く対立関係にあった赤松宗家の当主・赤松義祐と龍野赤松氏の赤松政秀による政争でした。足利義昭や信長に取り入って支援を得た政秀は、義祐に味方した小寺政職の配下である姫路城に兵を差し向けます。赤松政秀軍は約3000人の兵力、それに対し姫路城主の官兵衛率いる軍勢はわずか約300人でしたが、官兵衛は奇襲をかけこの難局を乗り越えます。翌月には政秀側の夜襲により窮地に陥りますが、援軍によりなんとか危機を回避。しかし、このまま戦いが長引けば勝ち目はないと判断した官兵衛は敢えて体力の回復していない兵に出撃命令を出して敵を強襲、赤松政秀軍は予想外の攻撃に混乱して敗走しました。 | 官兵衛は天文15年(1546)、誰の嫡男として播磨国で生まれましたか。 | 官兵衛は天文15年(1546)、黒田職隆(もとたか)の嫡男として播磨国で生まれました。 |
JCRRAG_012464 | 歴史 | 竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、黒田官兵衛である。
生まれから播磨での活躍
軍師として活躍した官兵衛は、幼い頃から文武両道な人物でした。また、英傑に仕える以前にも戦で功績を残しています。
播磨国に生まれる
官兵衛は天文15年(1546)、黒田職隆(もとたか)の嫡男として播磨国で生まれました。黒田氏は祖父の代から播磨で権力をもつ赤松家の分家・小寺氏に仕えており、祖父は能力を高く買われ姫路城主に、父は小寺政職(まさもと)の養女と結婚しています。
幼い頃の官兵衛は和歌や連歌が好きでしたが、僧侶の説得もありその道を断念。父と同じく政職の近くに仕え、その翌年には初陣を飾りました。永禄10年(1567)頃には家督と家老職を継承し、政職の姪にあたる櫛橋伊定(くしはし・これさだ)の娘・光(てる)と結婚して姫路城主になっています。
青山・土器山の戦いでの奇襲
永禄12年(1569)青山・土器山の戦い(あおやま・かわらけやまのたたかい)が起こります。 発端は長く対立関係にあった赤松宗家の当主・赤松義祐と龍野赤松氏の赤松政秀による政争でした。足利義昭や信長に取り入って支援を得た政秀は、義祐に味方した小寺政職の配下である姫路城に兵を差し向けます。赤松政秀軍は約3000人の兵力、それに対し姫路城主の官兵衛率いる軍勢はわずか約300人でしたが、官兵衛は奇襲をかけこの難局を乗り越えます。翌月には政秀側の夜襲により窮地に陥りますが、援軍によりなんとか危機を回避。しかし、このまま戦いが長引けば勝ち目はないと判断した官兵衛は敢えて体力の回復していない兵に出撃命令を出して敵を強襲、赤松政秀軍は予想外の攻撃に混乱して敗走しました。 | 官兵衛は天文15年(1546)、黒田職隆の嫡男としてどこで生まれましたか。 | 官兵衛は天文15年(1546)、黒田職隆(もとたか)の嫡男として播磨国で生まれました。 |
JCRRAG_012465 | 歴史 | 竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、黒田官兵衛である。
生まれから播磨での活躍
軍師として活躍した官兵衛は、幼い頃から文武両道な人物でした。また、英傑に仕える以前にも戦で功績を残しています。
播磨国に生まれる
官兵衛は天文15年(1546)、黒田職隆(もとたか)の嫡男として播磨国で生まれました。黒田氏は祖父の代から播磨で権力をもつ赤松家の分家・小寺氏に仕えており、祖父は能力を高く買われ姫路城主に、父は小寺政職(まさもと)の養女と結婚しています。
幼い頃の官兵衛は和歌や連歌が好きでしたが、僧侶の説得もありその道を断念。父と同じく政職の近くに仕え、その翌年には初陣を飾りました。永禄10年(1567)頃には家督と家老職を継承し、政職の姪にあたる櫛橋伊定(くしはし・これさだ)の娘・光(てる)と結婚して姫路城主になっています。
青山・土器山の戦いでの奇襲
永禄12年(1569)青山・土器山の戦い(あおやま・かわらけやまのたたかい)が起こります。 発端は長く対立関係にあった赤松宗家の当主・赤松義祐と龍野赤松氏の赤松政秀による政争でした。足利義昭や信長に取り入って支援を得た政秀は、義祐に味方した小寺政職の配下である姫路城に兵を差し向けます。赤松政秀軍は約3000人の兵力、それに対し姫路城主の官兵衛率いる軍勢はわずか約300人でしたが、官兵衛は奇襲をかけこの難局を乗り越えます。翌月には政秀側の夜襲により窮地に陥りますが、援軍によりなんとか危機を回避。しかし、このまま戦いが長引けば勝ち目はないと判断した官兵衛は敢えて体力の回復していない兵に出撃命令を出して敵を強襲、赤松政秀軍は予想外の攻撃に混乱して敗走しました。 | 幼い頃の官兵衛は何が好きでしたか。 | 幼い頃の官兵衛は和歌や連歌が好きでした。 |
JCRRAG_012466 | 歴史 | 竹中半兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」とも呼ばれ高く評価された人物は、黒田官兵衛である。
生まれから播磨での活躍
軍師として活躍した官兵衛は、幼い頃から文武両道な人物でした。また、英傑に仕える以前にも戦で功績を残しています。
播磨国に生まれる
官兵衛は天文15年(1546)、黒田職隆(もとたか)の嫡男として播磨国で生まれました。黒田氏は祖父の代から播磨で権力をもつ赤松家の分家・小寺氏に仕えており、祖父は能力を高く買われ姫路城主に、父は小寺政職(まさもと)の養女と結婚しています。
幼い頃の官兵衛は和歌や連歌が好きでしたが、僧侶の説得もありその道を断念。父と同じく政職の近くに仕え、その翌年には初陣を飾りました。永禄10年(1567)頃には家督と家老職を継承し、政職の姪にあたる櫛橋伊定(くしはし・これさだ)の娘・光(てる)と結婚して姫路城主になっています。
青山・土器山の戦いでの奇襲
永禄12年(1569)青山・土器山の戦い(あおやま・かわらけやまのたたかい)が起こります。 発端は長く対立関係にあった赤松宗家の当主・赤松義祐と龍野赤松氏の赤松政秀による政争でした。足利義昭や信長に取り入って支援を得た政秀は、義祐に味方した小寺政職の配下である姫路城に兵を差し向けます。赤松政秀軍は約3000人の兵力、それに対し姫路城主の官兵衛率いる軍勢はわずか約300人でしたが、官兵衛は奇襲をかけこの難局を乗り越えます。翌月には政秀側の夜襲により窮地に陥りますが、援軍によりなんとか危機を回避。しかし、このまま戦いが長引けば勝ち目はないと判断した官兵衛は敢えて体力の回復していない兵に出撃命令を出して敵を強襲、赤松政秀軍は予想外の攻撃に混乱して敗走しました。 | 官兵衛は誰と結婚しのちに何になりましたか。 | 永禄10年(1567)頃には家督と家老職を継承し、姫路城主になっています。 |
JCRRAG_012467 | 歴史 | 英傑のもとで暗躍!
小寺家家臣だった官兵衛は、やがて天下人に重用されるようになります。その活躍や功績はどのようなものだったのでしょうか。
信長に臣従する
このころの小寺家は、西には毛利家、東には赤松家を通じて播磨支配を進めていた織田家という脅威がありました。どちらかにつくか評定したところ、重臣たちの中で官兵衛だけが織田家を支持します。結果的に臣従が決まったものの、誰も信長のもとに行きたがらず、官兵衛自身がこの役を引き受けることになりました。
秀吉の取り次ぎにより信長に謁見した官兵衛は、播磨の情勢などについて聞かれ意見を述べます。官兵衛の能力を認めた信長は、彼を気に入って名刀「圧切長谷部(へしきりはせべ)」を授けました。
秀吉への献策と官兵衛の活躍
その後、織田家臣となった官兵衛は、秀吉の与力として多くの活躍をしました。このころ中国方面の軍事司令を任されていた秀吉は、播磨平定後に毛利家を討つべく備中高松城を目指します。この城は沼地に囲まれ攻略が困難でしたが、官兵衛は水没させるという前代未聞の水攻めを進言し成功させました。
また本能寺の変で信長が非業の死を遂げたことを知った際は、秀吉に対して直ちに毛利家との和睦をまとめて明智光秀を討つことを進言。この「中国大返し」と呼ばれる行軍によって信長の仇を討ったことが、秀吉の天下人への第一歩となりました。
12万石の豊前国主となる
九州平定後の天正15年(1587)官兵衛は豊前国の中の約12万石を与えられ、中津城を築城し始めました。その間もさまざまな一揆や反乱がおこり、嫡男の長政とともに鎮圧のために尽力します。
やがて中津城が完成すると長政に家督を継承。中津城は長政に任せ、自身は伏見の京屋敷や天満の大坂屋敷を拠点として秀吉に仕え続けました。
殉死を禁じた最期
秀吉の死後、関ヶ原の戦いが起こります。長政は豊臣恩顧の大名を家康方に引き込んで西軍を敗退させ、この功績により豊前国中津12万石から筑前国名島52万石に大幅に増加されました。官兵衛にも勲功恩賞や領地加増が提示されますが、彼はこれを辞退し政治から離れて隠居生活を送ります。
最期は京都伏見藩邸で病死し、その際には家臣の殉死を禁止したといわれています。
官兵衛の人物像とは
英傑のもとで暗躍した官兵衛ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか。彼の逸話をいくつかご紹介します。
キリシタン大名だった
官兵衛はキリシタン大名としても知られており、ドン・シメオンという洗礼名をもっています。秀吉は天正15年(1587)に「バテレン追放令」を出しましたが、官兵衛はそれでも信仰を貫きました。キリスト教に関してたびたび対立したものの、秀吉は官兵衛を追放することなく重用し続けています。
官兵衛はのちに出家して「如水」とも名乗っており、葬儀はキリスト教式と仏式教の両方で行われました。
築城の名手として知られる
優れた調略で知られる官兵衛ですが、築城の名手という側面もありました。居住した妻鹿城、中津城、福岡城のほかにも、姫路城、大坂城、讃岐高松城、石垣山城、名護屋城、広島城など主要な築城に関わり、総奉行として縄張りや助言を行っています。同じく築城の名手として知られる加藤清正は「自分の城は3~4日で落城するが、福岡城は30~40日は落ちない」と官兵衛の腕を賞賛しています。
秀吉もその智謀を恐れていた?
本能寺の変が起こった際、官兵衛は秀吉に「光秀が裏切ったことで天下の道が開けた」と献策しましたが、秀吉はこれ以降、官兵衛を恐れるようになったといいます。
『名将言行録』によれば、秀吉が家臣に「自分の次に天下を治めるのは誰か」と尋ねたところ、家臣らは徳川家康や前田利家の名前を挙げました。しかし秀吉は官兵衛の名を出し「奴に100万石を与えたら途端に天下を奪うだろう」と言ったのです。これを聞いた官兵衛は「我家の禍なり」と、剃髪して如水を名乗ったといわれます。
”両兵衛”として知られる竹中半兵衛との絆
天正6年(1578)小寺家と信長の間を取り次いでいた戦国武将・荒木村重が信長に反旗を翻し、有岡城の戦いが勃発します。官兵衛は説得の使者として荒木のもとに向かいますが、捕縛され地下牢に監禁されてしまいました。
信長は官兵衛が裏切ったと考えて、人質になっていた長政を殺すよう命令します。この役目を買って出た半兵衛は、官兵衛が裏切るなどありえないと信じ、命がけで長政を守りました。
約1年後に解放されたとき半兵衛はすでに亡くなっていましたが、官兵衛は心から感謝したといわれています。
晩年は連歌や茶の湯もたしなんだ官兵衛
天才軍師といわれ智謀や調略で活躍した官兵衛ですが、晩年は子供時代に好きだった連歌や茶の湯を楽しんだようです。連歌の大家・細川幽斎と交流を深め、茶道もたしなむようになりました。政治を離れた官兵衛は心穏やかな晩年を過ごしたといえるでしょう。 | 官兵衛の能力を認めた信長は、彼を気に入って何を授けましたか。 | 官兵衛の能力を認めた信長は、彼を気に入って名刀「圧切長谷部(へしきりはせべ)」を授けました。 |
JCRRAG_012468 | 歴史 | 英傑のもとで暗躍!
小寺家家臣だった官兵衛は、やがて天下人に重用されるようになります。その活躍や功績はどのようなものだったのでしょうか。
信長に臣従する
このころの小寺家は、西には毛利家、東には赤松家を通じて播磨支配を進めていた織田家という脅威がありました。どちらかにつくか評定したところ、重臣たちの中で官兵衛だけが織田家を支持します。結果的に臣従が決まったものの、誰も信長のもとに行きたがらず、官兵衛自身がこの役を引き受けることになりました。
秀吉の取り次ぎにより信長に謁見した官兵衛は、播磨の情勢などについて聞かれ意見を述べます。官兵衛の能力を認めた信長は、彼を気に入って名刀「圧切長谷部(へしきりはせべ)」を授けました。
秀吉への献策と官兵衛の活躍
その後、織田家臣となった官兵衛は、秀吉の与力として多くの活躍をしました。このころ中国方面の軍事司令を任されていた秀吉は、播磨平定後に毛利家を討つべく備中高松城を目指します。この城は沼地に囲まれ攻略が困難でしたが、官兵衛は水没させるという前代未聞の水攻めを進言し成功させました。
また本能寺の変で信長が非業の死を遂げたことを知った際は、秀吉に対して直ちに毛利家との和睦をまとめて明智光秀を討つことを進言。この「中国大返し」と呼ばれる行軍によって信長の仇を討ったことが、秀吉の天下人への第一歩となりました。
12万石の豊前国主となる
九州平定後の天正15年(1587)官兵衛は豊前国の中の約12万石を与えられ、中津城を築城し始めました。その間もさまざまな一揆や反乱がおこり、嫡男の長政とともに鎮圧のために尽力します。
やがて中津城が完成すると長政に家督を継承。中津城は長政に任せ、自身は伏見の京屋敷や天満の大坂屋敷を拠点として秀吉に仕え続けました。
殉死を禁じた最期
秀吉の死後、関ヶ原の戦いが起こります。長政は豊臣恩顧の大名を家康方に引き込んで西軍を敗退させ、この功績により豊前国中津12万石から筑前国名島52万石に大幅に増加されました。官兵衛にも勲功恩賞や領地加増が提示されますが、彼はこれを辞退し政治から離れて隠居生活を送ります。
最期は京都伏見藩邸で病死し、その際には家臣の殉死を禁止したといわれています。
官兵衛の人物像とは
英傑のもとで暗躍した官兵衛ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか。彼の逸話をいくつかご紹介します。
キリシタン大名だった
官兵衛はキリシタン大名としても知られており、ドン・シメオンという洗礼名をもっています。秀吉は天正15年(1587)に「バテレン追放令」を出しましたが、官兵衛はそれでも信仰を貫きました。キリスト教に関してたびたび対立したものの、秀吉は官兵衛を追放することなく重用し続けています。
官兵衛はのちに出家して「如水」とも名乗っており、葬儀はキリスト教式と仏式教の両方で行われました。
築城の名手として知られる
優れた調略で知られる官兵衛ですが、築城の名手という側面もありました。居住した妻鹿城、中津城、福岡城のほかにも、姫路城、大坂城、讃岐高松城、石垣山城、名護屋城、広島城など主要な築城に関わり、総奉行として縄張りや助言を行っています。同じく築城の名手として知られる加藤清正は「自分の城は3~4日で落城するが、福岡城は30~40日は落ちない」と官兵衛の腕を賞賛しています。
秀吉もその智謀を恐れていた?
本能寺の変が起こった際、官兵衛は秀吉に「光秀が裏切ったことで天下の道が開けた」と献策しましたが、秀吉はこれ以降、官兵衛を恐れるようになったといいます。
『名将言行録』によれば、秀吉が家臣に「自分の次に天下を治めるのは誰か」と尋ねたところ、家臣らは徳川家康や前田利家の名前を挙げました。しかし秀吉は官兵衛の名を出し「奴に100万石を与えたら途端に天下を奪うだろう」と言ったのです。これを聞いた官兵衛は「我家の禍なり」と、剃髪して如水を名乗ったといわれます。
”両兵衛”として知られる竹中半兵衛との絆
天正6年(1578)小寺家と信長の間を取り次いでいた戦国武将・荒木村重が信長に反旗を翻し、有岡城の戦いが勃発します。官兵衛は説得の使者として荒木のもとに向かいますが、捕縛され地下牢に監禁されてしまいました。
信長は官兵衛が裏切ったと考えて、人質になっていた長政を殺すよう命令します。この役目を買って出た半兵衛は、官兵衛が裏切るなどありえないと信じ、命がけで長政を守りました。
約1年後に解放されたとき半兵衛はすでに亡くなっていましたが、官兵衛は心から感謝したといわれています。
晩年は連歌や茶の湯もたしなんだ官兵衛
天才軍師といわれ智謀や調略で活躍した官兵衛ですが、晩年は子供時代に好きだった連歌や茶の湯を楽しんだようです。連歌の大家・細川幽斎と交流を深め、茶道もたしなむようになりました。政治を離れた官兵衛は心穏やかな晩年を過ごしたといえるでしょう。 | 官兵衛は備中高松城をどのように攻めるよう進言しましたか。 | 官兵衛は備中高松城を水没させるという前代未聞の水攻めを進言し成功させました。 |
JCRRAG_012469 | 歴史 | 英傑のもとで暗躍!
小寺家家臣だった官兵衛は、やがて天下人に重用されるようになります。その活躍や功績はどのようなものだったのでしょうか。
信長に臣従する
このころの小寺家は、西には毛利家、東には赤松家を通じて播磨支配を進めていた織田家という脅威がありました。どちらかにつくか評定したところ、重臣たちの中で官兵衛だけが織田家を支持します。結果的に臣従が決まったものの、誰も信長のもとに行きたがらず、官兵衛自身がこの役を引き受けることになりました。
秀吉の取り次ぎにより信長に謁見した官兵衛は、播磨の情勢などについて聞かれ意見を述べます。官兵衛の能力を認めた信長は、彼を気に入って名刀「圧切長谷部(へしきりはせべ)」を授けました。
秀吉への献策と官兵衛の活躍
その後、織田家臣となった官兵衛は、秀吉の与力として多くの活躍をしました。このころ中国方面の軍事司令を任されていた秀吉は、播磨平定後に毛利家を討つべく備中高松城を目指します。この城は沼地に囲まれ攻略が困難でしたが、官兵衛は水没させるという前代未聞の水攻めを進言し成功させました。
また本能寺の変で信長が非業の死を遂げたことを知った際は、秀吉に対して直ちに毛利家との和睦をまとめて明智光秀を討つことを進言。この「中国大返し」と呼ばれる行軍によって信長の仇を討ったことが、秀吉の天下人への第一歩となりました。
12万石の豊前国主となる
九州平定後の天正15年(1587)官兵衛は豊前国の中の約12万石を与えられ、中津城を築城し始めました。その間もさまざまな一揆や反乱がおこり、嫡男の長政とともに鎮圧のために尽力します。
やがて中津城が完成すると長政に家督を継承。中津城は長政に任せ、自身は伏見の京屋敷や天満の大坂屋敷を拠点として秀吉に仕え続けました。
殉死を禁じた最期
秀吉の死後、関ヶ原の戦いが起こります。長政は豊臣恩顧の大名を家康方に引き込んで西軍を敗退させ、この功績により豊前国中津12万石から筑前国名島52万石に大幅に増加されました。官兵衛にも勲功恩賞や領地加増が提示されますが、彼はこれを辞退し政治から離れて隠居生活を送ります。
最期は京都伏見藩邸で病死し、その際には家臣の殉死を禁止したといわれています。
官兵衛の人物像とは
英傑のもとで暗躍した官兵衛ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか。彼の逸話をいくつかご紹介します。
キリシタン大名だった
官兵衛はキリシタン大名としても知られており、ドン・シメオンという洗礼名をもっています。秀吉は天正15年(1587)に「バテレン追放令」を出しましたが、官兵衛はそれでも信仰を貫きました。キリスト教に関してたびたび対立したものの、秀吉は官兵衛を追放することなく重用し続けています。
官兵衛はのちに出家して「如水」とも名乗っており、葬儀はキリスト教式と仏式教の両方で行われました。
築城の名手として知られる
優れた調略で知られる官兵衛ですが、築城の名手という側面もありました。居住した妻鹿城、中津城、福岡城のほかにも、姫路城、大坂城、讃岐高松城、石垣山城、名護屋城、広島城など主要な築城に関わり、総奉行として縄張りや助言を行っています。同じく築城の名手として知られる加藤清正は「自分の城は3~4日で落城するが、福岡城は30~40日は落ちない」と官兵衛の腕を賞賛しています。
秀吉もその智謀を恐れていた?
本能寺の変が起こった際、官兵衛は秀吉に「光秀が裏切ったことで天下の道が開けた」と献策しましたが、秀吉はこれ以降、官兵衛を恐れるようになったといいます。
『名将言行録』によれば、秀吉が家臣に「自分の次に天下を治めるのは誰か」と尋ねたところ、家臣らは徳川家康や前田利家の名前を挙げました。しかし秀吉は官兵衛の名を出し「奴に100万石を与えたら途端に天下を奪うだろう」と言ったのです。これを聞いた官兵衛は「我家の禍なり」と、剃髪して如水を名乗ったといわれます。
”両兵衛”として知られる竹中半兵衛との絆
天正6年(1578)小寺家と信長の間を取り次いでいた戦国武将・荒木村重が信長に反旗を翻し、有岡城の戦いが勃発します。官兵衛は説得の使者として荒木のもとに向かいますが、捕縛され地下牢に監禁されてしまいました。
信長は官兵衛が裏切ったと考えて、人質になっていた長政を殺すよう命令します。この役目を買って出た半兵衛は、官兵衛が裏切るなどありえないと信じ、命がけで長政を守りました。
約1年後に解放されたとき半兵衛はすでに亡くなっていましたが、官兵衛は心から感謝したといわれています。
晩年は連歌や茶の湯もたしなんだ官兵衛
天才軍師といわれ智謀や調略で活躍した官兵衛ですが、晩年は子供時代に好きだった連歌や茶の湯を楽しんだようです。連歌の大家・細川幽斎と交流を深め、茶道もたしなむようになりました。政治を離れた官兵衛は心穏やかな晩年を過ごしたといえるでしょう。 | 官兵衛は中津城が完成すると誰に家督を継承しましたか。 | 官兵衛は中津城が完成すると長政に家督を継承しました。 |
JCRRAG_012470 | 歴史 | 英傑のもとで暗躍!
小寺家家臣だった官兵衛は、やがて天下人に重用されるようになります。その活躍や功績はどのようなものだったのでしょうか。
信長に臣従する
このころの小寺家は、西には毛利家、東には赤松家を通じて播磨支配を進めていた織田家という脅威がありました。どちらかにつくか評定したところ、重臣たちの中で官兵衛だけが織田家を支持します。結果的に臣従が決まったものの、誰も信長のもとに行きたがらず、官兵衛自身がこの役を引き受けることになりました。
秀吉の取り次ぎにより信長に謁見した官兵衛は、播磨の情勢などについて聞かれ意見を述べます。官兵衛の能力を認めた信長は、彼を気に入って名刀「圧切長谷部(へしきりはせべ)」を授けました。
秀吉への献策と官兵衛の活躍
その後、織田家臣となった官兵衛は、秀吉の与力として多くの活躍をしました。このころ中国方面の軍事司令を任されていた秀吉は、播磨平定後に毛利家を討つべく備中高松城を目指します。この城は沼地に囲まれ攻略が困難でしたが、官兵衛は水没させるという前代未聞の水攻めを進言し成功させました。
また本能寺の変で信長が非業の死を遂げたことを知った際は、秀吉に対して直ちに毛利家との和睦をまとめて明智光秀を討つことを進言。この「中国大返し」と呼ばれる行軍によって信長の仇を討ったことが、秀吉の天下人への第一歩となりました。
12万石の豊前国主となる
九州平定後の天正15年(1587)官兵衛は豊前国の中の約12万石を与えられ、中津城を築城し始めました。その間もさまざまな一揆や反乱がおこり、嫡男の長政とともに鎮圧のために尽力します。
やがて中津城が完成すると長政に家督を継承。中津城は長政に任せ、自身は伏見の京屋敷や天満の大坂屋敷を拠点として秀吉に仕え続けました。
殉死を禁じた最期
秀吉の死後、関ヶ原の戦いが起こります。長政は豊臣恩顧の大名を家康方に引き込んで西軍を敗退させ、この功績により豊前国中津12万石から筑前国名島52万石に大幅に増加されました。官兵衛にも勲功恩賞や領地加増が提示されますが、彼はこれを辞退し政治から離れて隠居生活を送ります。
最期は京都伏見藩邸で病死し、その際には家臣の殉死を禁止したといわれています。
官兵衛の人物像とは
英傑のもとで暗躍した官兵衛ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか。彼の逸話をいくつかご紹介します。
キリシタン大名だった
官兵衛はキリシタン大名としても知られており、ドン・シメオンという洗礼名をもっています。秀吉は天正15年(1587)に「バテレン追放令」を出しましたが、官兵衛はそれでも信仰を貫きました。キリスト教に関してたびたび対立したものの、秀吉は官兵衛を追放することなく重用し続けています。
官兵衛はのちに出家して「如水」とも名乗っており、葬儀はキリスト教式と仏式教の両方で行われました。
築城の名手として知られる
優れた調略で知られる官兵衛ですが、築城の名手という側面もありました。居住した妻鹿城、中津城、福岡城のほかにも、姫路城、大坂城、讃岐高松城、石垣山城、名護屋城、広島城など主要な築城に関わり、総奉行として縄張りや助言を行っています。同じく築城の名手として知られる加藤清正は「自分の城は3~4日で落城するが、福岡城は30~40日は落ちない」と官兵衛の腕を賞賛しています。
秀吉もその智謀を恐れていた?
本能寺の変が起こった際、官兵衛は秀吉に「光秀が裏切ったことで天下の道が開けた」と献策しましたが、秀吉はこれ以降、官兵衛を恐れるようになったといいます。
『名将言行録』によれば、秀吉が家臣に「自分の次に天下を治めるのは誰か」と尋ねたところ、家臣らは徳川家康や前田利家の名前を挙げました。しかし秀吉は官兵衛の名を出し「奴に100万石を与えたら途端に天下を奪うだろう」と言ったのです。これを聞いた官兵衛は「我家の禍なり」と、剃髪して如水を名乗ったといわれます。
”両兵衛”として知られる竹中半兵衛との絆
天正6年(1578)小寺家と信長の間を取り次いでいた戦国武将・荒木村重が信長に反旗を翻し、有岡城の戦いが勃発します。官兵衛は説得の使者として荒木のもとに向かいますが、捕縛され地下牢に監禁されてしまいました。
信長は官兵衛が裏切ったと考えて、人質になっていた長政を殺すよう命令します。この役目を買って出た半兵衛は、官兵衛が裏切るなどありえないと信じ、命がけで長政を守りました。
約1年後に解放されたとき半兵衛はすでに亡くなっていましたが、官兵衛は心から感謝したといわれています。
晩年は連歌や茶の湯もたしなんだ官兵衛
天才軍師といわれ智謀や調略で活躍した官兵衛ですが、晩年は子供時代に好きだった連歌や茶の湯を楽しんだようです。連歌の大家・細川幽斎と交流を深め、茶道もたしなむようになりました。政治を離れた官兵衛は心穏やかな晩年を過ごしたといえるでしょう。 | 官兵衛はのちに出家して何と名乗っており、葬儀はキリスト教式と仏式教の両方で行われましたか。 | 官兵衛はのちに出家して「如水」とも名乗っており、葬儀はキリスト教式と仏式教の両方で行われました。 |
JCRRAG_012471 | 歴史 | 英傑のもとで暗躍!
小寺家家臣だった官兵衛は、やがて天下人に重用されるようになります。その活躍や功績はどのようなものだったのでしょうか。
信長に臣従する
このころの小寺家は、西には毛利家、東には赤松家を通じて播磨支配を進めていた織田家という脅威がありました。どちらかにつくか評定したところ、重臣たちの中で官兵衛だけが織田家を支持します。結果的に臣従が決まったものの、誰も信長のもとに行きたがらず、官兵衛自身がこの役を引き受けることになりました。
秀吉の取り次ぎにより信長に謁見した官兵衛は、播磨の情勢などについて聞かれ意見を述べます。官兵衛の能力を認めた信長は、彼を気に入って名刀「圧切長谷部(へしきりはせべ)」を授けました。
秀吉への献策と官兵衛の活躍
その後、織田家臣となった官兵衛は、秀吉の与力として多くの活躍をしました。このころ中国方面の軍事司令を任されていた秀吉は、播磨平定後に毛利家を討つべく備中高松城を目指します。この城は沼地に囲まれ攻略が困難でしたが、官兵衛は水没させるという前代未聞の水攻めを進言し成功させました。
また本能寺の変で信長が非業の死を遂げたことを知った際は、秀吉に対して直ちに毛利家との和睦をまとめて明智光秀を討つことを進言。この「中国大返し」と呼ばれる行軍によって信長の仇を討ったことが、秀吉の天下人への第一歩となりました。
12万石の豊前国主となる
九州平定後の天正15年(1587)官兵衛は豊前国の中の約12万石を与えられ、中津城を築城し始めました。その間もさまざまな一揆や反乱がおこり、嫡男の長政とともに鎮圧のために尽力します。
やがて中津城が完成すると長政に家督を継承。中津城は長政に任せ、自身は伏見の京屋敷や天満の大坂屋敷を拠点として秀吉に仕え続けました。
殉死を禁じた最期
秀吉の死後、関ヶ原の戦いが起こります。長政は豊臣恩顧の大名を家康方に引き込んで西軍を敗退させ、この功績により豊前国中津12万石から筑前国名島52万石に大幅に増加されました。官兵衛にも勲功恩賞や領地加増が提示されますが、彼はこれを辞退し政治から離れて隠居生活を送ります。
最期は京都伏見藩邸で病死し、その際には家臣の殉死を禁止したといわれています。
官兵衛の人物像とは
英傑のもとで暗躍した官兵衛ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか。彼の逸話をいくつかご紹介します。
キリシタン大名だった
官兵衛はキリシタン大名としても知られており、ドン・シメオンという洗礼名をもっています。秀吉は天正15年(1587)に「バテレン追放令」を出しましたが、官兵衛はそれでも信仰を貫きました。キリスト教に関してたびたび対立したものの、秀吉は官兵衛を追放することなく重用し続けています。
官兵衛はのちに出家して「如水」とも名乗っており、葬儀はキリスト教式と仏式教の両方で行われました。
築城の名手として知られる
優れた調略で知られる官兵衛ですが、築城の名手という側面もありました。居住した妻鹿城、中津城、福岡城のほかにも、姫路城、大坂城、讃岐高松城、石垣山城、名護屋城、広島城など主要な築城に関わり、総奉行として縄張りや助言を行っています。同じく築城の名手として知られる加藤清正は「自分の城は3~4日で落城するが、福岡城は30~40日は落ちない」と官兵衛の腕を賞賛しています。
秀吉もその智謀を恐れていた?
本能寺の変が起こった際、官兵衛は秀吉に「光秀が裏切ったことで天下の道が開けた」と献策しましたが、秀吉はこれ以降、官兵衛を恐れるようになったといいます。
『名将言行録』によれば、秀吉が家臣に「自分の次に天下を治めるのは誰か」と尋ねたところ、家臣らは徳川家康や前田利家の名前を挙げました。しかし秀吉は官兵衛の名を出し「奴に100万石を与えたら途端に天下を奪うだろう」と言ったのです。これを聞いた官兵衛は「我家の禍なり」と、剃髪して如水を名乗ったといわれます。
”両兵衛”として知られる竹中半兵衛との絆
天正6年(1578)小寺家と信長の間を取り次いでいた戦国武将・荒木村重が信長に反旗を翻し、有岡城の戦いが勃発します。官兵衛は説得の使者として荒木のもとに向かいますが、捕縛され地下牢に監禁されてしまいました。
信長は官兵衛が裏切ったと考えて、人質になっていた長政を殺すよう命令します。この役目を買って出た半兵衛は、官兵衛が裏切るなどありえないと信じ、命がけで長政を守りました。
約1年後に解放されたとき半兵衛はすでに亡くなっていましたが、官兵衛は心から感謝したといわれています。
晩年は連歌や茶の湯もたしなんだ官兵衛
天才軍師といわれ智謀や調略で活躍した官兵衛ですが、晩年は子供時代に好きだった連歌や茶の湯を楽しんだようです。連歌の大家・細川幽斎と交流を深め、茶道もたしなむようになりました。政治を離れた官兵衛は心穏やかな晩年を過ごしたといえるでしょう。 | 官兵衛はキリシタン大名としても知られており、何という洗礼名をもっていますか。 | 官兵衛はキリシタン大名としても知られており、ドン・シメオンという洗礼名をもっています。 |
JCRRAG_012472 | 歴史 | 戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、北条氏康である。
氏康の生涯と代表的な戦い
戦国時代、伊豆・相模・武蔵・上野と4つの国を支配し後北条氏の全盛を築いた氏康。その生い立ちとはどのようなものだったのでしょうか。
家督を継いで第3代当主に
氏康は永正12年(1515)北条氏綱の嫡男として相模国小田原城で生まれました。初代の早雲にとっては孫にあたります。享禄3年(1530)小沢原の戦いで初陣を果たし大勝を収めた彼は、その後も甲斐山中合戦などの戦いで功績を重ねました。天文7年(1538)の第一次国府台の戦いでは、父と共に敵の総大将を討つなど活躍しています。
天文10年(1541)氏綱が死去すると、家督を継承して後北条氏第3代当主に就任しました。
河越城の戦いに勝利する
天文14年(1545)今川義元が父・氏綱に奪われた東駿河を奪還すべく挙兵します。氏康は駿河に急ぎましたが、今川軍に押され状況は不利でした。それに加え、義元と組んでいた山内上杉家の関東管領・上杉憲政や扇谷上杉家の上杉朝定らが、義弟・北条綱成が守る河越城を包囲します。東西からの挟み撃ちに陥った氏康は、武田信玄の斡旋により義元と和睦。東駿河の河東地域を割譲することになりました。
しかし、関東では両上杉氏に加えて氏康の義兄弟だった古河公方・足利晴氏も敵方にまわり、河越城の包囲に加わります。約8万人の連合軍に包囲された河越城は半年ほど籠城戦に耐えましたが、義元との戦いから関東に戻った北条本軍は1万人未満の兵力しかなく圧倒的に不利でした。
そこで氏康は、河越城の返上と降伏を申し出て油断させると、綱成と連携して夜襲をかけます。連合軍は混乱のうちに敗走し、勝利した氏康は関東の主導権を確保しました。この河越夜戦は、桶狭間の戦い、厳島合戦と並んで「日本三大奇襲戦」の一つといわれています。
このとき敗走した憲政は、北条征伐を条件として関東管領職と上杉姓を越後・長尾景虎に譲渡。景虎は上杉謙信と名乗り、関東に侵攻します。氏康は武田家や今川家と同盟を結び、謙信と戦い続けることになりました。 | 氏康は永正12年(1515)北条氏綱の嫡男としてどこで生まれましたか。 | 氏康は永正12年(1515)北条氏綱の嫡男として相模国小田原城で生まれました。 |
JCRRAG_012473 | 歴史 | 戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、北条氏康である。
氏康の生涯と代表的な戦い
戦国時代、伊豆・相模・武蔵・上野と4つの国を支配し後北条氏の全盛を築いた氏康。その生い立ちとはどのようなものだったのでしょうか。
家督を継いで第3代当主に
氏康は永正12年(1515)北条氏綱の嫡男として相模国小田原城で生まれました。初代の早雲にとっては孫にあたります。享禄3年(1530)小沢原の戦いで初陣を果たし大勝を収めた彼は、その後も甲斐山中合戦などの戦いで功績を重ねました。天文7年(1538)の第一次国府台の戦いでは、父と共に敵の総大将を討つなど活躍しています。
天文10年(1541)氏綱が死去すると、家督を継承して後北条氏第3代当主に就任しました。
河越城の戦いに勝利する
天文14年(1545)今川義元が父・氏綱に奪われた東駿河を奪還すべく挙兵します。氏康は駿河に急ぎましたが、今川軍に押され状況は不利でした。それに加え、義元と組んでいた山内上杉家の関東管領・上杉憲政や扇谷上杉家の上杉朝定らが、義弟・北条綱成が守る河越城を包囲します。東西からの挟み撃ちに陥った氏康は、武田信玄の斡旋により義元と和睦。東駿河の河東地域を割譲することになりました。
しかし、関東では両上杉氏に加えて氏康の義兄弟だった古河公方・足利晴氏も敵方にまわり、河越城の包囲に加わります。約8万人の連合軍に包囲された河越城は半年ほど籠城戦に耐えましたが、義元との戦いから関東に戻った北条本軍は1万人未満の兵力しかなく圧倒的に不利でした。
そこで氏康は、河越城の返上と降伏を申し出て油断させると、綱成と連携して夜襲をかけます。連合軍は混乱のうちに敗走し、勝利した氏康は関東の主導権を確保しました。この河越夜戦は、桶狭間の戦い、厳島合戦と並んで「日本三大奇襲戦」の一つといわれています。
このとき敗走した憲政は、北条征伐を条件として関東管領職と上杉姓を越後・長尾景虎に譲渡。景虎は上杉謙信と名乗り、関東に侵攻します。氏康は武田家や今川家と同盟を結び、謙信と戦い続けることになりました。 | 氏康は、天文10年(1541)氏綱が死去すると、家督を継承して何に就任しましたか。 | 氏康は、天文10年(1541)氏綱が死去すると、家督を継承して後北条氏第3代当主に就任しました。 |
JCRRAG_012474 | 歴史 | 戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、北条氏康である。
氏康の生涯と代表的な戦い
戦国時代、伊豆・相模・武蔵・上野と4つの国を支配し後北条氏の全盛を築いた氏康。その生い立ちとはどのようなものだったのでしょうか。
家督を継いで第3代当主に
氏康は永正12年(1515)北条氏綱の嫡男として相模国小田原城で生まれました。初代の早雲にとっては孫にあたります。享禄3年(1530)小沢原の戦いで初陣を果たし大勝を収めた彼は、その後も甲斐山中合戦などの戦いで功績を重ねました。天文7年(1538)の第一次国府台の戦いでは、父と共に敵の総大将を討つなど活躍しています。
天文10年(1541)氏綱が死去すると、家督を継承して後北条氏第3代当主に就任しました。
河越城の戦いに勝利する
天文14年(1545)今川義元が父・氏綱に奪われた東駿河を奪還すべく挙兵します。氏康は駿河に急ぎましたが、今川軍に押され状況は不利でした。それに加え、義元と組んでいた山内上杉家の関東管領・上杉憲政や扇谷上杉家の上杉朝定らが、義弟・北条綱成が守る河越城を包囲します。東西からの挟み撃ちに陥った氏康は、武田信玄の斡旋により義元と和睦。東駿河の河東地域を割譲することになりました。
しかし、関東では両上杉氏に加えて氏康の義兄弟だった古河公方・足利晴氏も敵方にまわり、河越城の包囲に加わります。約8万人の連合軍に包囲された河越城は半年ほど籠城戦に耐えましたが、義元との戦いから関東に戻った北条本軍は1万人未満の兵力しかなく圧倒的に不利でした。
そこで氏康は、河越城の返上と降伏を申し出て油断させると、綱成と連携して夜襲をかけます。連合軍は混乱のうちに敗走し、勝利した氏康は関東の主導権を確保しました。この河越夜戦は、桶狭間の戦い、厳島合戦と並んで「日本三大奇襲戦」の一つといわれています。
このとき敗走した憲政は、北条征伐を条件として関東管領職と上杉姓を越後・長尾景虎に譲渡。景虎は上杉謙信と名乗り、関東に侵攻します。氏康は武田家や今川家と同盟を結び、謙信と戦い続けることになりました。 | 戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、誰であるか。 | 戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、北条氏康である。 |
JCRRAG_012475 | 歴史 | 戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、北条氏康である。
氏康の生涯と代表的な戦い
戦国時代、伊豆・相模・武蔵・上野と4つの国を支配し後北条氏の全盛を築いた氏康。その生い立ちとはどのようなものだったのでしょうか。
家督を継いで第3代当主に
氏康は永正12年(1515)北条氏綱の嫡男として相模国小田原城で生まれました。初代の早雲にとっては孫にあたります。享禄3年(1530)小沢原の戦いで初陣を果たし大勝を収めた彼は、その後も甲斐山中合戦などの戦いで功績を重ねました。天文7年(1538)の第一次国府台の戦いでは、父と共に敵の総大将を討つなど活躍しています。
天文10年(1541)氏綱が死去すると、家督を継承して後北条氏第3代当主に就任しました。
河越城の戦いに勝利する
天文14年(1545)今川義元が父・氏綱に奪われた東駿河を奪還すべく挙兵します。氏康は駿河に急ぎましたが、今川軍に押され状況は不利でした。それに加え、義元と組んでいた山内上杉家の関東管領・上杉憲政や扇谷上杉家の上杉朝定らが、義弟・北条綱成が守る河越城を包囲します。東西からの挟み撃ちに陥った氏康は、武田信玄の斡旋により義元と和睦。東駿河の河東地域を割譲することになりました。
しかし、関東では両上杉氏に加えて氏康の義兄弟だった古河公方・足利晴氏も敵方にまわり、河越城の包囲に加わります。約8万人の連合軍に包囲された河越城は半年ほど籠城戦に耐えましたが、義元との戦いから関東に戻った北条本軍は1万人未満の兵力しかなく圧倒的に不利でした。
そこで氏康は、河越城の返上と降伏を申し出て油断させると、綱成と連携して夜襲をかけます。連合軍は混乱のうちに敗走し、勝利した氏康は関東の主導権を確保しました。この河越夜戦は、桶狭間の戦い、厳島合戦と並んで「日本三大奇襲戦」の一つといわれています。
このとき敗走した憲政は、北条征伐を条件として関東管領職と上杉姓を越後・長尾景虎に譲渡。景虎は上杉謙信と名乗り、関東に侵攻します。氏康は武田家や今川家と同盟を結び、謙信と戦い続けることになりました。 | 約8万人の連合軍に包囲された河越城はどれだけ籠城戦に耐えましたか。 | 約8万人の連合軍に包囲された河越城は半年ほど籠城戦に耐えました。 |
JCRRAG_012476 | 歴史 | 戦国大名の後北条氏の3代目とされる人物は、北条氏康である。
氏康の生涯と代表的な戦い
戦国時代、伊豆・相模・武蔵・上野と4つの国を支配し後北条氏の全盛を築いた氏康。その生い立ちとはどのようなものだったのでしょうか。
家督を継いで第3代当主に
氏康は永正12年(1515)北条氏綱の嫡男として相模国小田原城で生まれました。初代の早雲にとっては孫にあたります。享禄3年(1530)小沢原の戦いで初陣を果たし大勝を収めた彼は、その後も甲斐山中合戦などの戦いで功績を重ねました。天文7年(1538)の第一次国府台の戦いでは、父と共に敵の総大将を討つなど活躍しています。
天文10年(1541)氏綱が死去すると、家督を継承して後北条氏第3代当主に就任しました。
河越城の戦いに勝利する
天文14年(1545)今川義元が父・氏綱に奪われた東駿河を奪還すべく挙兵します。氏康は駿河に急ぎましたが、今川軍に押され状況は不利でした。それに加え、義元と組んでいた山内上杉家の関東管領・上杉憲政や扇谷上杉家の上杉朝定らが、義弟・北条綱成が守る河越城を包囲します。東西からの挟み撃ちに陥った氏康は、武田信玄の斡旋により義元と和睦。東駿河の河東地域を割譲することになりました。
しかし、関東では両上杉氏に加えて氏康の義兄弟だった古河公方・足利晴氏も敵方にまわり、河越城の包囲に加わります。約8万人の連合軍に包囲された河越城は半年ほど籠城戦に耐えましたが、義元との戦いから関東に戻った北条本軍は1万人未満の兵力しかなく圧倒的に不利でした。
そこで氏康は、河越城の返上と降伏を申し出て油断させると、綱成と連携して夜襲をかけます。連合軍は混乱のうちに敗走し、勝利した氏康は関東の主導権を確保しました。この河越夜戦は、桶狭間の戦い、厳島合戦と並んで「日本三大奇襲戦」の一つといわれています。
このとき敗走した憲政は、北条征伐を条件として関東管領職と上杉姓を越後・長尾景虎に譲渡。景虎は上杉謙信と名乗り、関東に侵攻します。氏康は武田家や今川家と同盟を結び、謙信と戦い続けることになりました。 | この河越夜戦は、桶狭間の戦い、厳島合戦と並んで何の一つといわれていますか。 | この河越夜戦は、桶狭間の戦い、厳島合戦と並んで「日本三大奇襲戦」の一つといわれています。 |
JCRRAG_012477 | 歴史 | 隠居とその最期
永禄2年(1559)氏康は嫡子・氏政に家督を譲り隠居しますが、その後も小田原城に残り、氏政を後見しながら政治や軍事の実権を握り続けました。
永禄3年(1560)桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれると、信玄の駿河侵攻が始まります。またその4年後には、上総国などの支配をめぐり里見義堯(よしたか)・義弘父子と対立しました。
隠居後も数々の戦いに身を投じた氏康でしたが、永禄9年(1566)以降は多くの戦を息子らに任せるようになります。また元亀元年(1570)の夏頃からは半身不随や言語障害と思われる症状になり、最期は小田原城で死没しました。
外交や内政にも手腕を発揮!
“相模の獅子”の異名をもつ氏康は、戦いだけではなく外交や内政でも大きな結果を残しました。ここではその功績を振り返ります。
甲相駿三国同盟を結んだ
氏康は、甲斐の信玄、駿河の義元とともに「甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)」という和平協定を結びました。攻守軍事、相互不可侵、領土、婚姻といった要素からなり、幾度となく戦を繰り返しながら完成したこの協定は、当時の東国情勢に大きな影響を及ぼしたと考えられています。
検地を徹底し税制改革を行った
氏康は徹底した検地を行い、税制改革にも熱心に取り組みました。領民の負担軽減にも尽力し、それまで継続されてきた諸点役(しょてんやく)という多様な税を整理。貫高の6%の懸銭を納めさせることで、不定期の徴収から領民を解放したのです。
また租税を50文から35文に減額し、凶作や飢饉が起こったときは年貢を減らしたり免除したりしました。
通貨と度量衡を統一した
当時は全国的に良質な永楽銭が不足し悪銭が増加していましたが、氏康は他大名に先駆けて永楽銭への通貨統一を進めました。地域ごとに異なっていた枡も遠江の榛原枡を公定枡と定め、度量衡を統一しています。また、誰でも直接不法を訴えられるよう目安箱も設置しました。
小田原城下町の都市開発を行った
氏康は小田原の城下町を発展させるために、全国から職人や文化人を呼び寄せて大規模な都市開発を行いました。清掃にも気を遣い清潔な都市となった小田原の城下町は、東国最大の都市といわれるほどに成長したのです。
京都南禅寺の僧・東嶺智旺(とうれいちおう)は「町の小路数万間、地一塵無し。東南は海。海水小田原の麓を遶る」とその様子を記しています。
残された逸話
関東覇者として君臨した氏康は、ほかの武将たちからも一目置かれる存在でした。そんな彼の人物像がわかる逸話をご紹介します。
諸将が恐れた氏康傷
氏康の顔面には2つの傷があったといわれています。これは戦場で常に先陣をきり、敵に背を向けず正面から立ち向かったことを示すものです。諸将はこの向こう傷を「氏康傷」と呼び、その武勇を称えました。また身体には7つの刀傷もあったといわれています。
12歳で堂々たる態度を会得
猛将と名高い氏康ですが、『北条五代記』によれば、12歳の頃に武術の調練を見て気絶したことがあったようです。このとき氏康は、家臣の前で恥を晒したといい自害しようとしました。しかし家老が「初めて見るものに驚くのは当然で恥ではない、むしろあらかじめの心構えが大切なのだ」と忠言したため、以降の氏康は常にしっかりと心構えをし、堂々とした態度をとったということです。
民衆に慕われた実力者
信玄、義元、謙信らとしのぎを削った氏康は、戦国を代表する勇猛果敢な武将の一人でした。また、民意を積極的に取り入れ善政を敷いた名将としても知られています。
氏康の政治手腕は称賛され、のちに関東に入った徳川家康はこれを踏襲し15代に及ぶ徳川治世の基にしたといわれています。関東の覇者として君臨した氏康が後世に与えた影響は大きいといえるでしょう。 | 永禄2年(1559)氏康は嫡子・氏政に家督を譲り隠居しますが、その後も小田原城に残り、誰を後見しながら政治や軍事の実権を握り続けましたか。 | 永禄2年(1559)氏康は嫡子・氏政に家督を譲り隠居しますが、その後も小田原城に残り、氏政を後見しながら政治や軍事の実権を握り続けました。 |
JCRRAG_012478 | 歴史 | 隠居とその最期
永禄2年(1559)氏康は嫡子・氏政に家督を譲り隠居しますが、その後も小田原城に残り、氏政を後見しながら政治や軍事の実権を握り続けました。
永禄3年(1560)桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれると、信玄の駿河侵攻が始まります。またその4年後には、上総国などの支配をめぐり里見義堯(よしたか)・義弘父子と対立しました。
隠居後も数々の戦いに身を投じた氏康でしたが、永禄9年(1566)以降は多くの戦を息子らに任せるようになります。また元亀元年(1570)の夏頃からは半身不随や言語障害と思われる症状になり、最期は小田原城で死没しました。
外交や内政にも手腕を発揮!
“相模の獅子”の異名をもつ氏康は、戦いだけではなく外交や内政でも大きな結果を残しました。ここではその功績を振り返ります。
甲相駿三国同盟を結んだ
氏康は、甲斐の信玄、駿河の義元とともに「甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)」という和平協定を結びました。攻守軍事、相互不可侵、領土、婚姻といった要素からなり、幾度となく戦を繰り返しながら完成したこの協定は、当時の東国情勢に大きな影響を及ぼしたと考えられています。
検地を徹底し税制改革を行った
氏康は徹底した検地を行い、税制改革にも熱心に取り組みました。領民の負担軽減にも尽力し、それまで継続されてきた諸点役(しょてんやく)という多様な税を整理。貫高の6%の懸銭を納めさせることで、不定期の徴収から領民を解放したのです。
また租税を50文から35文に減額し、凶作や飢饉が起こったときは年貢を減らしたり免除したりしました。
通貨と度量衡を統一した
当時は全国的に良質な永楽銭が不足し悪銭が増加していましたが、氏康は他大名に先駆けて永楽銭への通貨統一を進めました。地域ごとに異なっていた枡も遠江の榛原枡を公定枡と定め、度量衡を統一しています。また、誰でも直接不法を訴えられるよう目安箱も設置しました。
小田原城下町の都市開発を行った
氏康は小田原の城下町を発展させるために、全国から職人や文化人を呼び寄せて大規模な都市開発を行いました。清掃にも気を遣い清潔な都市となった小田原の城下町は、東国最大の都市といわれるほどに成長したのです。
京都南禅寺の僧・東嶺智旺(とうれいちおう)は「町の小路数万間、地一塵無し。東南は海。海水小田原の麓を遶る」とその様子を記しています。
残された逸話
関東覇者として君臨した氏康は、ほかの武将たちからも一目置かれる存在でした。そんな彼の人物像がわかる逸話をご紹介します。
諸将が恐れた氏康傷
氏康の顔面には2つの傷があったといわれています。これは戦場で常に先陣をきり、敵に背を向けず正面から立ち向かったことを示すものです。諸将はこの向こう傷を「氏康傷」と呼び、その武勇を称えました。また身体には7つの刀傷もあったといわれています。
12歳で堂々たる態度を会得
猛将と名高い氏康ですが、『北条五代記』によれば、12歳の頃に武術の調練を見て気絶したことがあったようです。このとき氏康は、家臣の前で恥を晒したといい自害しようとしました。しかし家老が「初めて見るものに驚くのは当然で恥ではない、むしろあらかじめの心構えが大切なのだ」と忠言したため、以降の氏康は常にしっかりと心構えをし、堂々とした態度をとったということです。
民衆に慕われた実力者
信玄、義元、謙信らとしのぎを削った氏康は、戦国を代表する勇猛果敢な武将の一人でした。また、民意を積極的に取り入れ善政を敷いた名将としても知られています。
氏康の政治手腕は称賛され、のちに関東に入った徳川家康はこれを踏襲し15代に及ぶ徳川治世の基にしたといわれています。関東の覇者として君臨した氏康が後世に与えた影響は大きいといえるでしょう。 | 氏康は、甲斐の信玄、駿河の義元とともに何という和平協定を結びましたか。 | 氏康は、甲斐の信玄、駿河の義元とともに「甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)」という和平協定を結びました。 |
JCRRAG_012479 | 歴史 | 隠居とその最期
永禄2年(1559)氏康は嫡子・氏政に家督を譲り隠居しますが、その後も小田原城に残り、氏政を後見しながら政治や軍事の実権を握り続けました。
永禄3年(1560)桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれると、信玄の駿河侵攻が始まります。またその4年後には、上総国などの支配をめぐり里見義堯(よしたか)・義弘父子と対立しました。
隠居後も数々の戦いに身を投じた氏康でしたが、永禄9年(1566)以降は多くの戦を息子らに任せるようになります。また元亀元年(1570)の夏頃からは半身不随や言語障害と思われる症状になり、最期は小田原城で死没しました。
外交や内政にも手腕を発揮!
“相模の獅子”の異名をもつ氏康は、戦いだけではなく外交や内政でも大きな結果を残しました。ここではその功績を振り返ります。
甲相駿三国同盟を結んだ
氏康は、甲斐の信玄、駿河の義元とともに「甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)」という和平協定を結びました。攻守軍事、相互不可侵、領土、婚姻といった要素からなり、幾度となく戦を繰り返しながら完成したこの協定は、当時の東国情勢に大きな影響を及ぼしたと考えられています。
検地を徹底し税制改革を行った
氏康は徹底した検地を行い、税制改革にも熱心に取り組みました。領民の負担軽減にも尽力し、それまで継続されてきた諸点役(しょてんやく)という多様な税を整理。貫高の6%の懸銭を納めさせることで、不定期の徴収から領民を解放したのです。
また租税を50文から35文に減額し、凶作や飢饉が起こったときは年貢を減らしたり免除したりしました。
通貨と度量衡を統一した
当時は全国的に良質な永楽銭が不足し悪銭が増加していましたが、氏康は他大名に先駆けて永楽銭への通貨統一を進めました。地域ごとに異なっていた枡も遠江の榛原枡を公定枡と定め、度量衡を統一しています。また、誰でも直接不法を訴えられるよう目安箱も設置しました。
小田原城下町の都市開発を行った
氏康は小田原の城下町を発展させるために、全国から職人や文化人を呼び寄せて大規模な都市開発を行いました。清掃にも気を遣い清潔な都市となった小田原の城下町は、東国最大の都市といわれるほどに成長したのです。
京都南禅寺の僧・東嶺智旺(とうれいちおう)は「町の小路数万間、地一塵無し。東南は海。海水小田原の麓を遶る」とその様子を記しています。
残された逸話
関東覇者として君臨した氏康は、ほかの武将たちからも一目置かれる存在でした。そんな彼の人物像がわかる逸話をご紹介します。
諸将が恐れた氏康傷
氏康の顔面には2つの傷があったといわれています。これは戦場で常に先陣をきり、敵に背を向けず正面から立ち向かったことを示すものです。諸将はこの向こう傷を「氏康傷」と呼び、その武勇を称えました。また身体には7つの刀傷もあったといわれています。
12歳で堂々たる態度を会得
猛将と名高い氏康ですが、『北条五代記』によれば、12歳の頃に武術の調練を見て気絶したことがあったようです。このとき氏康は、家臣の前で恥を晒したといい自害しようとしました。しかし家老が「初めて見るものに驚くのは当然で恥ではない、むしろあらかじめの心構えが大切なのだ」と忠言したため、以降の氏康は常にしっかりと心構えをし、堂々とした態度をとったということです。
民衆に慕われた実力者
信玄、義元、謙信らとしのぎを削った氏康は、戦国を代表する勇猛果敢な武将の一人でした。また、民意を積極的に取り入れ善政を敷いた名将としても知られています。
氏康の政治手腕は称賛され、のちに関東に入った徳川家康はこれを踏襲し15代に及ぶ徳川治世の基にしたといわれています。関東の覇者として君臨した氏康が後世に与えた影響は大きいといえるでしょう。 | 氏康は、領民の負担軽減にも尽力し、それまで継続されてきた何という税を整理しましたか。 | 氏康は、領民の負担軽減にも尽力し、それまで継続されてきた諸点役(しょてんやく)という多様な税を整理しました。 |
JCRRAG_012480 | 歴史 | 隠居とその最期
永禄2年(1559)氏康は嫡子・氏政に家督を譲り隠居しますが、その後も小田原城に残り、氏政を後見しながら政治や軍事の実権を握り続けました。
永禄3年(1560)桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれると、信玄の駿河侵攻が始まります。またその4年後には、上総国などの支配をめぐり里見義堯(よしたか)・義弘父子と対立しました。
隠居後も数々の戦いに身を投じた氏康でしたが、永禄9年(1566)以降は多くの戦を息子らに任せるようになります。また元亀元年(1570)の夏頃からは半身不随や言語障害と思われる症状になり、最期は小田原城で死没しました。
外交や内政にも手腕を発揮!
“相模の獅子”の異名をもつ氏康は、戦いだけではなく外交や内政でも大きな結果を残しました。ここではその功績を振り返ります。
甲相駿三国同盟を結んだ
氏康は、甲斐の信玄、駿河の義元とともに「甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)」という和平協定を結びました。攻守軍事、相互不可侵、領土、婚姻といった要素からなり、幾度となく戦を繰り返しながら完成したこの協定は、当時の東国情勢に大きな影響を及ぼしたと考えられています。
検地を徹底し税制改革を行った
氏康は徹底した検地を行い、税制改革にも熱心に取り組みました。領民の負担軽減にも尽力し、それまで継続されてきた諸点役(しょてんやく)という多様な税を整理。貫高の6%の懸銭を納めさせることで、不定期の徴収から領民を解放したのです。
また租税を50文から35文に減額し、凶作や飢饉が起こったときは年貢を減らしたり免除したりしました。
通貨と度量衡を統一した
当時は全国的に良質な永楽銭が不足し悪銭が増加していましたが、氏康は他大名に先駆けて永楽銭への通貨統一を進めました。地域ごとに異なっていた枡も遠江の榛原枡を公定枡と定め、度量衡を統一しています。また、誰でも直接不法を訴えられるよう目安箱も設置しました。
小田原城下町の都市開発を行った
氏康は小田原の城下町を発展させるために、全国から職人や文化人を呼び寄せて大規模な都市開発を行いました。清掃にも気を遣い清潔な都市となった小田原の城下町は、東国最大の都市といわれるほどに成長したのです。
京都南禅寺の僧・東嶺智旺(とうれいちおう)は「町の小路数万間、地一塵無し。東南は海。海水小田原の麓を遶る」とその様子を記しています。
残された逸話
関東覇者として君臨した氏康は、ほかの武将たちからも一目置かれる存在でした。そんな彼の人物像がわかる逸話をご紹介します。
諸将が恐れた氏康傷
氏康の顔面には2つの傷があったといわれています。これは戦場で常に先陣をきり、敵に背を向けず正面から立ち向かったことを示すものです。諸将はこの向こう傷を「氏康傷」と呼び、その武勇を称えました。また身体には7つの刀傷もあったといわれています。
12歳で堂々たる態度を会得
猛将と名高い氏康ですが、『北条五代記』によれば、12歳の頃に武術の調練を見て気絶したことがあったようです。このとき氏康は、家臣の前で恥を晒したといい自害しようとしました。しかし家老が「初めて見るものに驚くのは当然で恥ではない、むしろあらかじめの心構えが大切なのだ」と忠言したため、以降の氏康は常にしっかりと心構えをし、堂々とした態度をとったということです。
民衆に慕われた実力者
信玄、義元、謙信らとしのぎを削った氏康は、戦国を代表する勇猛果敢な武将の一人でした。また、民意を積極的に取り入れ善政を敷いた名将としても知られています。
氏康の政治手腕は称賛され、のちに関東に入った徳川家康はこれを踏襲し15代に及ぶ徳川治世の基にしたといわれています。関東の覇者として君臨した氏康が後世に与えた影響は大きいといえるでしょう。 | 誰でも直接不法を訴えられるよう何を設置しましたか。 | 誰でも直接不法を訴えられるよう目安箱も設置しました。 |
JCRRAG_012481 | 歴史 | 隠居とその最期
永禄2年(1559)氏康は嫡子・氏政に家督を譲り隠居しますが、その後も小田原城に残り、氏政を後見しながら政治や軍事の実権を握り続けました。
永禄3年(1560)桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれると、信玄の駿河侵攻が始まります。またその4年後には、上総国などの支配をめぐり里見義堯(よしたか)・義弘父子と対立しました。
隠居後も数々の戦いに身を投じた氏康でしたが、永禄9年(1566)以降は多くの戦を息子らに任せるようになります。また元亀元年(1570)の夏頃からは半身不随や言語障害と思われる症状になり、最期は小田原城で死没しました。
外交や内政にも手腕を発揮!
“相模の獅子”の異名をもつ氏康は、戦いだけではなく外交や内政でも大きな結果を残しました。ここではその功績を振り返ります。
甲相駿三国同盟を結んだ
氏康は、甲斐の信玄、駿河の義元とともに「甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)」という和平協定を結びました。攻守軍事、相互不可侵、領土、婚姻といった要素からなり、幾度となく戦を繰り返しながら完成したこの協定は、当時の東国情勢に大きな影響を及ぼしたと考えられています。
検地を徹底し税制改革を行った
氏康は徹底した検地を行い、税制改革にも熱心に取り組みました。領民の負担軽減にも尽力し、それまで継続されてきた諸点役(しょてんやく)という多様な税を整理。貫高の6%の懸銭を納めさせることで、不定期の徴収から領民を解放したのです。
また租税を50文から35文に減額し、凶作や飢饉が起こったときは年貢を減らしたり免除したりしました。
通貨と度量衡を統一した
当時は全国的に良質な永楽銭が不足し悪銭が増加していましたが、氏康は他大名に先駆けて永楽銭への通貨統一を進めました。地域ごとに異なっていた枡も遠江の榛原枡を公定枡と定め、度量衡を統一しています。また、誰でも直接不法を訴えられるよう目安箱も設置しました。
小田原城下町の都市開発を行った
氏康は小田原の城下町を発展させるために、全国から職人や文化人を呼び寄せて大規模な都市開発を行いました。清掃にも気を遣い清潔な都市となった小田原の城下町は、東国最大の都市といわれるほどに成長したのです。
京都南禅寺の僧・東嶺智旺(とうれいちおう)は「町の小路数万間、地一塵無し。東南は海。海水小田原の麓を遶る」とその様子を記しています。
残された逸話
関東覇者として君臨した氏康は、ほかの武将たちからも一目置かれる存在でした。そんな彼の人物像がわかる逸話をご紹介します。
諸将が恐れた氏康傷
氏康の顔面には2つの傷があったといわれています。これは戦場で常に先陣をきり、敵に背を向けず正面から立ち向かったことを示すものです。諸将はこの向こう傷を「氏康傷」と呼び、その武勇を称えました。また身体には7つの刀傷もあったといわれています。
12歳で堂々たる態度を会得
猛将と名高い氏康ですが、『北条五代記』によれば、12歳の頃に武術の調練を見て気絶したことがあったようです。このとき氏康は、家臣の前で恥を晒したといい自害しようとしました。しかし家老が「初めて見るものに驚くのは当然で恥ではない、むしろあらかじめの心構えが大切なのだ」と忠言したため、以降の氏康は常にしっかりと心構えをし、堂々とした態度をとったということです。
民衆に慕われた実力者
信玄、義元、謙信らとしのぎを削った氏康は、戦国を代表する勇猛果敢な武将の一人でした。また、民意を積極的に取り入れ善政を敷いた名将としても知られています。
氏康の政治手腕は称賛され、のちに関東に入った徳川家康はこれを踏襲し15代に及ぶ徳川治世の基にしたといわれています。関東の覇者として君臨した氏康が後世に与えた影響は大きいといえるでしょう。 | 清掃にも気を遣い清潔な都市となった小田原の城下町は、何といわれるほどに成長したのですか。 | 清掃にも気を遣い清潔な都市となった小田原の城下町は、東国最大の都市といわれるほどに成長したのです。 |
JCRRAG_012482 | 歴史 | 関ヶ原で斬首された怪僧は、安国寺恵瓊である。
恵瓊の生まれから毛利家臣時代まで
そもそも恵瓊はなぜ毛利家の外交僧となったのでしょうか。その経緯について振り返ります。
安芸武田氏の滅亡により出家
恵瓊は、天文8年(1539年)武田信重(光広)の子として安芸国に生まれた。天文10年(1541)毛利元就により安芸武田氏が滅亡すると、安国寺(不動院)に入って出家。その後は京都の東福寺に入り、臨済宗の僧・竺雲恵心(じくうんえしん)の弟子になりました。
天正2年(1574)には安国寺の住職になり、その後は東福寺や南禅寺の住職を経て、中央禅林最高の位につきます。建仁寺、方丈寺、霊仙寺の再興や、凌雲寺仏殿の安国寺への移築など、僧としてさまざまな功績を残しました。
毛利氏の外交僧となる
毛利家が恵心に帰依していたことがキッカケで、恵瓊は毛利家の外交僧になります。永禄11年(1568)に起こった大友家との合戦では、豪族らを毛利方の味方にする交渉で貢献。また元亀2年(1571)には将軍・足利義昭に対して大友家、浦上家、三好家との和議の斡旋を依頼し、大友、浦上との講和を成功させます。天正元年(1573)織田信長により将軍・義昭が京都を追放された際は、帰京を要請する会議に毛利家の使者として参加しました。
僧でありながら豊臣大名に!?
本能寺の変が起こった後の恵瓊は、秀吉の側近としても活躍しました。毛利家の外交僧だった彼はどのようにその地位を手に入れたのでしょうか。
毛利氏と秀吉の和睦を取りまとめる
天正10年(1582)毛利家と秀吉は備中高松城の戦いで対陣していました。この最中に本能寺の変によって信長が死去しましたが、秀吉はそれを隠して毛利氏に和睦案を提示。恵瓊はこれを取りまとめ、もし和睦できず毛利家が滅亡したときは、小早川秀包と吉川広家を秀吉の家臣に取り立てるよう願い出ます。交渉の甲斐あってか、毛利家の領国は無事に認められました。
このとき恵瓊は、秀吉の躍進を予測し、進んで和睦を取りまとめたとされています。この態度が秀吉の信任に繋がったのです。 | 恵瓊は、天文10年(1541)毛利元就により安芸武田氏が滅亡すると、何に入って出家しましたか。 | 恵瓊は、天文10年(1541)毛利元就により安芸武田氏が滅亡すると、安国寺(不動院)に入って出家しました。 |
JCRRAG_012483 | 歴史 | 関ヶ原で斬首された怪僧は、安国寺恵瓊である。
恵瓊の生まれから毛利家臣時代まで
そもそも恵瓊はなぜ毛利家の外交僧となったのでしょうか。その経緯について振り返ります。
安芸武田氏の滅亡により出家
恵瓊は、天文8年(1539年)武田信重(光広)の子として安芸国に生まれた。天文10年(1541)毛利元就により安芸武田氏が滅亡すると、安国寺(不動院)に入って出家。その後は京都の東福寺に入り、臨済宗の僧・竺雲恵心(じくうんえしん)の弟子になりました。
天正2年(1574)には安国寺の住職になり、その後は東福寺や南禅寺の住職を経て、中央禅林最高の位につきます。建仁寺、方丈寺、霊仙寺の再興や、凌雲寺仏殿の安国寺への移築など、僧としてさまざまな功績を残しました。
毛利氏の外交僧となる
毛利家が恵心に帰依していたことがキッカケで、恵瓊は毛利家の外交僧になります。永禄11年(1568)に起こった大友家との合戦では、豪族らを毛利方の味方にする交渉で貢献。また元亀2年(1571)には将軍・足利義昭に対して大友家、浦上家、三好家との和議の斡旋を依頼し、大友、浦上との講和を成功させます。天正元年(1573)織田信長により将軍・義昭が京都を追放された際は、帰京を要請する会議に毛利家の使者として参加しました。
僧でありながら豊臣大名に!?
本能寺の変が起こった後の恵瓊は、秀吉の側近としても活躍しました。毛利家の外交僧だった彼はどのようにその地位を手に入れたのでしょうか。
毛利氏と秀吉の和睦を取りまとめる
天正10年(1582)毛利家と秀吉は備中高松城の戦いで対陣していました。この最中に本能寺の変によって信長が死去しましたが、秀吉はそれを隠して毛利氏に和睦案を提示。恵瓊はこれを取りまとめ、もし和睦できず毛利家が滅亡したときは、小早川秀包と吉川広家を秀吉の家臣に取り立てるよう願い出ます。交渉の甲斐あってか、毛利家の領国は無事に認められました。
このとき恵瓊は、秀吉の躍進を予測し、進んで和睦を取りまとめたとされています。この態度が秀吉の信任に繋がったのです。 | 恵瓊は、何を予測し、進んで和睦を取りまとめたとされていますか。 | 恵瓊は、秀吉の躍進を予測し、進んで和睦を取りまとめたとされています。 |
JCRRAG_012484 | 歴史 | 関ヶ原で斬首された怪僧は、安国寺恵瓊である。
恵瓊の生まれから毛利家臣時代まで
そもそも恵瓊はなぜ毛利家の外交僧となったのでしょうか。その経緯について振り返ります。
安芸武田氏の滅亡により出家
恵瓊は、天文8年(1539年)武田信重(光広)の子として安芸国に生まれた。天文10年(1541)毛利元就により安芸武田氏が滅亡すると、安国寺(不動院)に入って出家。その後は京都の東福寺に入り、臨済宗の僧・竺雲恵心(じくうんえしん)の弟子になりました。
天正2年(1574)には安国寺の住職になり、その後は東福寺や南禅寺の住職を経て、中央禅林最高の位につきます。建仁寺、方丈寺、霊仙寺の再興や、凌雲寺仏殿の安国寺への移築など、僧としてさまざまな功績を残しました。
毛利氏の外交僧となる
毛利家が恵心に帰依していたことがキッカケで、恵瓊は毛利家の外交僧になります。永禄11年(1568)に起こった大友家との合戦では、豪族らを毛利方の味方にする交渉で貢献。また元亀2年(1571)には将軍・足利義昭に対して大友家、浦上家、三好家との和議の斡旋を依頼し、大友、浦上との講和を成功させます。天正元年(1573)織田信長により将軍・義昭が京都を追放された際は、帰京を要請する会議に毛利家の使者として参加しました。
僧でありながら豊臣大名に!?
本能寺の変が起こった後の恵瓊は、秀吉の側近としても活躍しました。毛利家の外交僧だった彼はどのようにその地位を手に入れたのでしょうか。
毛利氏と秀吉の和睦を取りまとめる
天正10年(1582)毛利家と秀吉は備中高松城の戦いで対陣していました。この最中に本能寺の変によって信長が死去しましたが、秀吉はそれを隠して毛利氏に和睦案を提示。恵瓊はこれを取りまとめ、もし和睦できず毛利家が滅亡したときは、小早川秀包と吉川広家を秀吉の家臣に取り立てるよう願い出ます。交渉の甲斐あってか、毛利家の領国は無事に認められました。
このとき恵瓊は、秀吉の躍進を予測し、進んで和睦を取りまとめたとされています。この態度が秀吉の信任に繋がったのです。 | 毛利家が恵心に帰依していたことがキッカケで、恵瓊は毛利家の何になりますか。 | 毛利家が恵心に帰依していたことがキッカケで、恵瓊は毛利家の外交僧になります。 |
JCRRAG_012485 | 歴史 | 関ヶ原で斬首された怪僧は、安国寺恵瓊である。
恵瓊の生まれから毛利家臣時代まで
そもそも恵瓊はなぜ毛利家の外交僧となったのでしょうか。その経緯について振り返ります。
安芸武田氏の滅亡により出家
恵瓊は、天文8年(1539年)武田信重(光広)の子として安芸国に生まれた。天文10年(1541)毛利元就により安芸武田氏が滅亡すると、安国寺(不動院)に入って出家。その後は京都の東福寺に入り、臨済宗の僧・竺雲恵心(じくうんえしん)の弟子になりました。
天正2年(1574)には安国寺の住職になり、その後は東福寺や南禅寺の住職を経て、中央禅林最高の位につきます。建仁寺、方丈寺、霊仙寺の再興や、凌雲寺仏殿の安国寺への移築など、僧としてさまざまな功績を残しました。
毛利氏の外交僧となる
毛利家が恵心に帰依していたことがキッカケで、恵瓊は毛利家の外交僧になります。永禄11年(1568)に起こった大友家との合戦では、豪族らを毛利方の味方にする交渉で貢献。また元亀2年(1571)には将軍・足利義昭に対して大友家、浦上家、三好家との和議の斡旋を依頼し、大友、浦上との講和を成功させます。天正元年(1573)織田信長により将軍・義昭が京都を追放された際は、帰京を要請する会議に毛利家の使者として参加しました。
僧でありながら豊臣大名に!?
本能寺の変が起こった後の恵瓊は、秀吉の側近としても活躍しました。毛利家の外交僧だった彼はどのようにその地位を手に入れたのでしょうか。
毛利氏と秀吉の和睦を取りまとめる
天正10年(1582)毛利家と秀吉は備中高松城の戦いで対陣していました。この最中に本能寺の変によって信長が死去しましたが、秀吉はそれを隠して毛利氏に和睦案を提示。恵瓊はこれを取りまとめ、もし和睦できず毛利家が滅亡したときは、小早川秀包と吉川広家を秀吉の家臣に取り立てるよう願い出ます。交渉の甲斐あってか、毛利家の領国は無事に認められました。
このとき恵瓊は、秀吉の躍進を予測し、進んで和睦を取りまとめたとされています。この態度が秀吉の信任に繋がったのです。 | 恵瓊は、天正元年(1573)織田信長により将軍・義昭が京都を追放された際は、帰京を要請する会議に何として参加しましたか。 | 恵瓊は、天正元年(1573)織田信長により将軍・義昭が京都を追放された際は、帰京を要請する会議に毛利家の使者として参加しました。 |
JCRRAG_012486 | 歴史 | 関ヶ原で斬首された怪僧は、安国寺恵瓊である。
恵瓊の生まれから毛利家臣時代まで
そもそも恵瓊はなぜ毛利家の外交僧となったのでしょうか。その経緯について振り返ります。
安芸武田氏の滅亡により出家
恵瓊は、天文8年(1539年)武田信重(光広)の子として安芸国に生まれた。天文10年(1541)毛利元就により安芸武田氏が滅亡すると、安国寺(不動院)に入って出家。その後は京都の東福寺に入り、臨済宗の僧・竺雲恵心(じくうんえしん)の弟子になりました。
天正2年(1574)には安国寺の住職になり、その後は東福寺や南禅寺の住職を経て、中央禅林最高の位につきます。建仁寺、方丈寺、霊仙寺の再興や、凌雲寺仏殿の安国寺への移築など、僧としてさまざまな功績を残しました。
毛利氏の外交僧となる
毛利家が恵心に帰依していたことがキッカケで、恵瓊は毛利家の外交僧になります。永禄11年(1568)に起こった大友家との合戦では、豪族らを毛利方の味方にする交渉で貢献。また元亀2年(1571)には将軍・足利義昭に対して大友家、浦上家、三好家との和議の斡旋を依頼し、大友、浦上との講和を成功させます。天正元年(1573)織田信長により将軍・義昭が京都を追放された際は、帰京を要請する会議に毛利家の使者として参加しました。
僧でありながら豊臣大名に!?
本能寺の変が起こった後の恵瓊は、秀吉の側近としても活躍しました。毛利家の外交僧だった彼はどのようにその地位を手に入れたのでしょうか。
毛利氏と秀吉の和睦を取りまとめる
天正10年(1582)毛利家と秀吉は備中高松城の戦いで対陣していました。この最中に本能寺の変によって信長が死去しましたが、秀吉はそれを隠して毛利氏に和睦案を提示。恵瓊はこれを取りまとめ、もし和睦できず毛利家が滅亡したときは、小早川秀包と吉川広家を秀吉の家臣に取り立てるよう願い出ます。交渉の甲斐あってか、毛利家の領国は無事に認められました。
このとき恵瓊は、秀吉の躍進を予測し、進んで和睦を取りまとめたとされています。この態度が秀吉の信任に繋がったのです。 | 恵瓊は、永禄11年(1568)に起こった大友家との合戦では、何の交渉で貢献しましたか。 | 恵瓊は、永禄11年(1568)に起こった大友家との合戦では、豪族らを毛利方の味方にする交渉で貢献しました。 |
JCRRAG_012487 | 歴史 | 6万石の秀吉近臣に上り詰める
天正13年(1585)毛利家の秀吉への臣従について交渉を担当した恵瓊は秀吉から賞賛されます。このころの彼はすでに秀吉の側近も兼ねており、四国征伐後には伊予国和気郡に2万3000石を与えられ、九州征伐後には6万石に加増と、僧でありながら豊臣大名という異例の位置づけでした。
その活躍は目覚ましく、九州征伐に先立ち黒田官兵衛らとともに大友家と毛利家の和睦を締結。秀吉による検地や厳島神社の作事の奉行を務めたほか、戦国武将としても小田原征伐や朝鮮出兵に参加して功績を残しています。
関ヶ原の戦いでの働きとは?
秀吉のもとで目覚ましい活躍を遂げた恵瓊ですが、やがて最期の瞬間が訪れます。関ヶ原の戦いで恵瓊はどのような働きをしたのでしょうか。
石田三成と通じ西軍として参加
恵瓊は毛利一族の中でも親秀吉派だった小早川隆景に近い存在で、秀吉が病に伏した際、隆景が死去すると毛利が軽視されると心配しました。この読みは的中し、自身も小早川家と並ぶ毛利家の支柱・吉川広家と対立します。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、懇意だった西軍の石田三成と通じ、毛利家当主・毛利輝元を西軍総大将として担ぎ出すことに成功。合戦で毛利秀元・吉川広家とともに徳川家康軍の後方に陣取りますが、前に布陣していた広家が家康に内通しており毛利軍の参戦を阻止しました。そのため恵瓊は、戦闘に参加できずに終わってしまいます。
逃亡するも斬首される
西軍の敗北後、毛利本家の陣に赴いた恵瓊は広家に諭され逃亡。鞍馬寺や本願寺に匿われ息をひそめましたが、敵将・鳥居信商に捕縛され家康の陣所に送られます。
その後、恵瓊は六条河原で斬首され、三成、小西行長とともにさらし首に処せられました。
交渉手腕に長けた恵瓊の逸話
さまざまな交渉に尽力した恵瓊はどんな人物だったのでしょうか。ここでは彼にまつわるエピソードをご紹介します。
天下を予見する慧眼の持ち主だった
信長の上洛前から毛利家の外交僧として活躍していた恵瓊。彼は信長の突然の死や秀吉の躍進を予見しており、その読みが見事に的中したことからすぐれた眼力の持ち主といわれています。
『太閤記』には、無名時代の秀吉に「将来天下を取る相がある」と言い、のちに天下人となった秀吉から領地を与えられる描写があります。
恵瓊はなぜ斬首されたのか?
関ヶ原の戦いで戦闘に参加しなかったにもかかわらず斬首された恵瓊。その理由は、恵瓊も西軍の首脳の1人とみなされたからだったようです。
彼は輝元を西軍総大将として担ぎ出しましたが、この功績こそが彼を死に至らしめました。毛利家からの助命の嘆願はなかったため、恵瓊はいざとなれば切り捨てられる存在だったとも考えられます。
戦国一の寝業師だった
弁舌や調略でうまく交渉を重ね、戦国の世を渡り歩いた恵瓊。彼には先見の明がありましたが、斬首という自分の最期までは予見できなかったようです。
大名になったかどうかについては諸説あるものの、秀吉の近臣として取り立てられたことは確かでした。もし逃亡という道を選ばずに家康との交渉をうまく進めていたら、関ヶ原の戦い後も家康のもとで活躍していたかもしれませんね。 | 天正13年(1585)毛利家の秀吉への臣従について交渉を担当した恵瓊は誰から賞賛されますか。 | 天正13年(1585)毛利家の秀吉への臣従について交渉を担当した恵瓊は秀吉から賞賛されます。 |
JCRRAG_012488 | 歴史 | 6万石の秀吉近臣に上り詰める
天正13年(1585)毛利家の秀吉への臣従について交渉を担当した恵瓊は秀吉から賞賛されます。このころの彼はすでに秀吉の側近も兼ねており、四国征伐後には伊予国和気郡に2万3000石を与えられ、九州征伐後には6万石に加増と、僧でありながら豊臣大名という異例の位置づけでした。
その活躍は目覚ましく、九州征伐に先立ち黒田官兵衛らとともに大友家と毛利家の和睦を締結。秀吉による検地や厳島神社の作事の奉行を務めたほか、戦国武将としても小田原征伐や朝鮮出兵に参加して功績を残しています。
関ヶ原の戦いでの働きとは?
秀吉のもとで目覚ましい活躍を遂げた恵瓊ですが、やがて最期の瞬間が訪れます。関ヶ原の戦いで恵瓊はどのような働きをしたのでしょうか。
石田三成と通じ西軍として参加
恵瓊は毛利一族の中でも親秀吉派だった小早川隆景に近い存在で、秀吉が病に伏した際、隆景が死去すると毛利が軽視されると心配しました。この読みは的中し、自身も小早川家と並ぶ毛利家の支柱・吉川広家と対立します。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、懇意だった西軍の石田三成と通じ、毛利家当主・毛利輝元を西軍総大将として担ぎ出すことに成功。合戦で毛利秀元・吉川広家とともに徳川家康軍の後方に陣取りますが、前に布陣していた広家が家康に内通しており毛利軍の参戦を阻止しました。そのため恵瓊は、戦闘に参加できずに終わってしまいます。
逃亡するも斬首される
西軍の敗北後、毛利本家の陣に赴いた恵瓊は広家に諭され逃亡。鞍馬寺や本願寺に匿われ息をひそめましたが、敵将・鳥居信商に捕縛され家康の陣所に送られます。
その後、恵瓊は六条河原で斬首され、三成、小西行長とともにさらし首に処せられました。
交渉手腕に長けた恵瓊の逸話
さまざまな交渉に尽力した恵瓊はどんな人物だったのでしょうか。ここでは彼にまつわるエピソードをご紹介します。
天下を予見する慧眼の持ち主だった
信長の上洛前から毛利家の外交僧として活躍していた恵瓊。彼は信長の突然の死や秀吉の躍進を予見しており、その読みが見事に的中したことからすぐれた眼力の持ち主といわれています。
『太閤記』には、無名時代の秀吉に「将来天下を取る相がある」と言い、のちに天下人となった秀吉から領地を与えられる描写があります。
恵瓊はなぜ斬首されたのか?
関ヶ原の戦いで戦闘に参加しなかったにもかかわらず斬首された恵瓊。その理由は、恵瓊も西軍の首脳の1人とみなされたからだったようです。
彼は輝元を西軍総大将として担ぎ出しましたが、この功績こそが彼を死に至らしめました。毛利家からの助命の嘆願はなかったため、恵瓊はいざとなれば切り捨てられる存在だったとも考えられます。
戦国一の寝業師だった
弁舌や調略でうまく交渉を重ね、戦国の世を渡り歩いた恵瓊。彼には先見の明がありましたが、斬首という自分の最期までは予見できなかったようです。
大名になったかどうかについては諸説あるものの、秀吉の近臣として取り立てられたことは確かでした。もし逃亡という道を選ばずに家康との交渉をうまく進めていたら、関ヶ原の戦い後も家康のもとで活躍していたかもしれませんね。 | 恵瓊は、毛利家当主・毛利輝元を何として担ぎ出すことに成功しますか。 | 恵瓊は、毛利家当主・毛利輝元を西軍総大将として担ぎ出すことに成功します。 |
JCRRAG_012489 | 歴史 | 6万石の秀吉近臣に上り詰める
天正13年(1585)毛利家の秀吉への臣従について交渉を担当した恵瓊は秀吉から賞賛されます。このころの彼はすでに秀吉の側近も兼ねており、四国征伐後には伊予国和気郡に2万3000石を与えられ、九州征伐後には6万石に加増と、僧でありながら豊臣大名という異例の位置づけでした。
その活躍は目覚ましく、九州征伐に先立ち黒田官兵衛らとともに大友家と毛利家の和睦を締結。秀吉による検地や厳島神社の作事の奉行を務めたほか、戦国武将としても小田原征伐や朝鮮出兵に参加して功績を残しています。
関ヶ原の戦いでの働きとは?
秀吉のもとで目覚ましい活躍を遂げた恵瓊ですが、やがて最期の瞬間が訪れます。関ヶ原の戦いで恵瓊はどのような働きをしたのでしょうか。
石田三成と通じ西軍として参加
恵瓊は毛利一族の中でも親秀吉派だった小早川隆景に近い存在で、秀吉が病に伏した際、隆景が死去すると毛利が軽視されると心配しました。この読みは的中し、自身も小早川家と並ぶ毛利家の支柱・吉川広家と対立します。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、懇意だった西軍の石田三成と通じ、毛利家当主・毛利輝元を西軍総大将として担ぎ出すことに成功。合戦で毛利秀元・吉川広家とともに徳川家康軍の後方に陣取りますが、前に布陣していた広家が家康に内通しており毛利軍の参戦を阻止しました。そのため恵瓊は、戦闘に参加できずに終わってしまいます。
逃亡するも斬首される
西軍の敗北後、毛利本家の陣に赴いた恵瓊は広家に諭され逃亡。鞍馬寺や本願寺に匿われ息をひそめましたが、敵将・鳥居信商に捕縛され家康の陣所に送られます。
その後、恵瓊は六条河原で斬首され、三成、小西行長とともにさらし首に処せられました。
交渉手腕に長けた恵瓊の逸話
さまざまな交渉に尽力した恵瓊はどんな人物だったのでしょうか。ここでは彼にまつわるエピソードをご紹介します。
天下を予見する慧眼の持ち主だった
信長の上洛前から毛利家の外交僧として活躍していた恵瓊。彼は信長の突然の死や秀吉の躍進を予見しており、その読みが見事に的中したことからすぐれた眼力の持ち主といわれています。
『太閤記』には、無名時代の秀吉に「将来天下を取る相がある」と言い、のちに天下人となった秀吉から領地を与えられる描写があります。
恵瓊はなぜ斬首されたのか?
関ヶ原の戦いで戦闘に参加しなかったにもかかわらず斬首された恵瓊。その理由は、恵瓊も西軍の首脳の1人とみなされたからだったようです。
彼は輝元を西軍総大将として担ぎ出しましたが、この功績こそが彼を死に至らしめました。毛利家からの助命の嘆願はなかったため、恵瓊はいざとなれば切り捨てられる存在だったとも考えられます。
戦国一の寝業師だった
弁舌や調略でうまく交渉を重ね、戦国の世を渡り歩いた恵瓊。彼には先見の明がありましたが、斬首という自分の最期までは予見できなかったようです。
大名になったかどうかについては諸説あるものの、秀吉の近臣として取り立てられたことは確かでした。もし逃亡という道を選ばずに家康との交渉をうまく進めていたら、関ヶ原の戦い後も家康のもとで活躍していたかもしれませんね。 | その後、恵瓊は六条河原で斬首され、三成、小西行長とともにどうなりましたか。 | その後、恵瓊は六条河原で斬首され、三成、小西行長とともにさらし首に処せられました。 |
JCRRAG_012490 | 歴史 | 6万石の秀吉近臣に上り詰める
天正13年(1585)毛利家の秀吉への臣従について交渉を担当した恵瓊は秀吉から賞賛されます。このころの彼はすでに秀吉の側近も兼ねており、四国征伐後には伊予国和気郡に2万3000石を与えられ、九州征伐後には6万石に加増と、僧でありながら豊臣大名という異例の位置づけでした。
その活躍は目覚ましく、九州征伐に先立ち黒田官兵衛らとともに大友家と毛利家の和睦を締結。秀吉による検地や厳島神社の作事の奉行を務めたほか、戦国武将としても小田原征伐や朝鮮出兵に参加して功績を残しています。
関ヶ原の戦いでの働きとは?
秀吉のもとで目覚ましい活躍を遂げた恵瓊ですが、やがて最期の瞬間が訪れます。関ヶ原の戦いで恵瓊はどのような働きをしたのでしょうか。
石田三成と通じ西軍として参加
恵瓊は毛利一族の中でも親秀吉派だった小早川隆景に近い存在で、秀吉が病に伏した際、隆景が死去すると毛利が軽視されると心配しました。この読みは的中し、自身も小早川家と並ぶ毛利家の支柱・吉川広家と対立します。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、懇意だった西軍の石田三成と通じ、毛利家当主・毛利輝元を西軍総大将として担ぎ出すことに成功。合戦で毛利秀元・吉川広家とともに徳川家康軍の後方に陣取りますが、前に布陣していた広家が家康に内通しており毛利軍の参戦を阻止しました。そのため恵瓊は、戦闘に参加できずに終わってしまいます。
逃亡するも斬首される
西軍の敗北後、毛利本家の陣に赴いた恵瓊は広家に諭され逃亡。鞍馬寺や本願寺に匿われ息をひそめましたが、敵将・鳥居信商に捕縛され家康の陣所に送られます。
その後、恵瓊は六条河原で斬首され、三成、小西行長とともにさらし首に処せられました。
交渉手腕に長けた恵瓊の逸話
さまざまな交渉に尽力した恵瓊はどんな人物だったのでしょうか。ここでは彼にまつわるエピソードをご紹介します。
天下を予見する慧眼の持ち主だった
信長の上洛前から毛利家の外交僧として活躍していた恵瓊。彼は信長の突然の死や秀吉の躍進を予見しており、その読みが見事に的中したことからすぐれた眼力の持ち主といわれています。
『太閤記』には、無名時代の秀吉に「将来天下を取る相がある」と言い、のちに天下人となった秀吉から領地を与えられる描写があります。
恵瓊はなぜ斬首されたのか?
関ヶ原の戦いで戦闘に参加しなかったにもかかわらず斬首された恵瓊。その理由は、恵瓊も西軍の首脳の1人とみなされたからだったようです。
彼は輝元を西軍総大将として担ぎ出しましたが、この功績こそが彼を死に至らしめました。毛利家からの助命の嘆願はなかったため、恵瓊はいざとなれば切り捨てられる存在だったとも考えられます。
戦国一の寝業師だった
弁舌や調略でうまく交渉を重ね、戦国の世を渡り歩いた恵瓊。彼には先見の明がありましたが、斬首という自分の最期までは予見できなかったようです。
大名になったかどうかについては諸説あるものの、秀吉の近臣として取り立てられたことは確かでした。もし逃亡という道を選ばずに家康との交渉をうまく進めていたら、関ヶ原の戦い後も家康のもとで活躍していたかもしれませんね。 | 『太閤記』には、無名時代の秀吉に「将来天下を取る相がある」と言い、どのような描写がありますか。 | 『太閤記』には、無名時代の秀吉に「将来天下を取る相がある」と言い、のちに天下人となった秀吉から領地を与えられる描写があります。 |
JCRRAG_012491 | 歴史 | 6万石の秀吉近臣に上り詰める
天正13年(1585)毛利家の秀吉への臣従について交渉を担当した恵瓊は秀吉から賞賛されます。このころの彼はすでに秀吉の側近も兼ねており、四国征伐後には伊予国和気郡に2万3000石を与えられ、九州征伐後には6万石に加増と、僧でありながら豊臣大名という異例の位置づけでした。
その活躍は目覚ましく、九州征伐に先立ち黒田官兵衛らとともに大友家と毛利家の和睦を締結。秀吉による検地や厳島神社の作事の奉行を務めたほか、戦国武将としても小田原征伐や朝鮮出兵に参加して功績を残しています。
関ヶ原の戦いでの働きとは?
秀吉のもとで目覚ましい活躍を遂げた恵瓊ですが、やがて最期の瞬間が訪れます。関ヶ原の戦いで恵瓊はどのような働きをしたのでしょうか。
石田三成と通じ西軍として参加
恵瓊は毛利一族の中でも親秀吉派だった小早川隆景に近い存在で、秀吉が病に伏した際、隆景が死去すると毛利が軽視されると心配しました。この読みは的中し、自身も小早川家と並ぶ毛利家の支柱・吉川広家と対立します。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、懇意だった西軍の石田三成と通じ、毛利家当主・毛利輝元を西軍総大将として担ぎ出すことに成功。合戦で毛利秀元・吉川広家とともに徳川家康軍の後方に陣取りますが、前に布陣していた広家が家康に内通しており毛利軍の参戦を阻止しました。そのため恵瓊は、戦闘に参加できずに終わってしまいます。
逃亡するも斬首される
西軍の敗北後、毛利本家の陣に赴いた恵瓊は広家に諭され逃亡。鞍馬寺や本願寺に匿われ息をひそめましたが、敵将・鳥居信商に捕縛され家康の陣所に送られます。
その後、恵瓊は六条河原で斬首され、三成、小西行長とともにさらし首に処せられました。
交渉手腕に長けた恵瓊の逸話
さまざまな交渉に尽力した恵瓊はどんな人物だったのでしょうか。ここでは彼にまつわるエピソードをご紹介します。
天下を予見する慧眼の持ち主だった
信長の上洛前から毛利家の外交僧として活躍していた恵瓊。彼は信長の突然の死や秀吉の躍進を予見しており、その読みが見事に的中したことからすぐれた眼力の持ち主といわれています。
『太閤記』には、無名時代の秀吉に「将来天下を取る相がある」と言い、のちに天下人となった秀吉から領地を与えられる描写があります。
恵瓊はなぜ斬首されたのか?
関ヶ原の戦いで戦闘に参加しなかったにもかかわらず斬首された恵瓊。その理由は、恵瓊も西軍の首脳の1人とみなされたからだったようです。
彼は輝元を西軍総大将として担ぎ出しましたが、この功績こそが彼を死に至らしめました。毛利家からの助命の嘆願はなかったため、恵瓊はいざとなれば切り捨てられる存在だったとも考えられます。
戦国一の寝業師だった
弁舌や調略でうまく交渉を重ね、戦国の世を渡り歩いた恵瓊。彼には先見の明がありましたが、斬首という自分の最期までは予見できなかったようです。
大名になったかどうかについては諸説あるものの、秀吉の近臣として取り立てられたことは確かでした。もし逃亡という道を選ばずに家康との交渉をうまく進めていたら、関ヶ原の戦い後も家康のもとで活躍していたかもしれませんね。 | 毛利家からの助命の嘆願はなく、恵瓊はどのような存在だったと考えられますか。 | 毛利家からの助命の嘆願はなかったため、恵瓊はいざとなれば切り捨てられる存在だったとも考えられます。 |
JCRRAG_012492 | 歴史 | 柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、丹羽長秀である。
長秀の生まれと佐和山城主になるまで
長秀の出自はどのようなものだったのでしょうか。その生まれから戦功をあげて台頭するまでを振り返ります。
尾張で生まれ信長に仕える
長秀は、天文4年(1535)丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれました。もともとは斯波氏の家臣だった丹羽氏ですが、長秀は15歳のときから信長に仕えています。
長秀は天文22年(1553)19歳になり梅津表の合戦で初陣を果たします。その後は、弘治2年(1556)稲生の戦い、永禄3年(1560)桶狭間の戦いに織田軍団として従軍しました。
美濃国の戦いで台頭する
長秀は斎藤龍興との美濃国の戦いで台頭したと考えられており、その後も信長のもとで武功を上げています。信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛した際にも、南近江の六角氏を攻めた観音寺城の戦いで活躍しました。また姉川の戦い後は、信長が半年以上も包囲して落とした近江・佐和山城の城主になっています。
「織田家の双璧」と呼ばれる実力者に
信長のもとで頭角を表した長秀は、その後も実力を発揮していきます。そして織田家の中で重要なポジションに上り詰めたのです。
若狭一国を支配した
天正元年(1573)信長から若狭一国を与えられた長秀は、織田家初の国持大名となりました。当初国内では、長秀、粟屋氏、逸見氏が各地方の領主を務め独立の支配権を持っていましたが、軍事、治安維持、流通統制など一国単位のものについては長秀が取りまとめていたようです。中には、長秀の家臣・溝口秀勝が信長直臣に取り立てられ、独立した知行を受ける例もありました。
| 長秀は、いつ丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれましたか。 | 長秀は、天文4年(1535)丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれました。 |
JCRRAG_012493 | 歴史 | 柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、丹羽長秀である。
長秀の生まれと佐和山城主になるまで
長秀の出自はどのようなものだったのでしょうか。その生まれから戦功をあげて台頭するまでを振り返ります。
尾張で生まれ信長に仕える
長秀は、天文4年(1535)丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれました。もともとは斯波氏の家臣だった丹羽氏ですが、長秀は15歳のときから信長に仕えています。
長秀は天文22年(1553)19歳になり梅津表の合戦で初陣を果たします。その後は、弘治2年(1556)稲生の戦い、永禄3年(1560)桶狭間の戦いに織田軍団として従軍しました。
美濃国の戦いで台頭する
長秀は斎藤龍興との美濃国の戦いで台頭したと考えられており、その後も信長のもとで武功を上げています。信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛した際にも、南近江の六角氏を攻めた観音寺城の戦いで活躍しました。また姉川の戦い後は、信長が半年以上も包囲して落とした近江・佐和山城の城主になっています。
「織田家の双璧」と呼ばれる実力者に
信長のもとで頭角を表した長秀は、その後も実力を発揮していきます。そして織田家の中で重要なポジションに上り詰めたのです。
若狭一国を支配した
天正元年(1573)信長から若狭一国を与えられた長秀は、織田家初の国持大名となりました。当初国内では、長秀、粟屋氏、逸見氏が各地方の領主を務め独立の支配権を持っていましたが、軍事、治安維持、流通統制など一国単位のものについては長秀が取りまとめていたようです。中には、長秀の家臣・溝口秀勝が信長直臣に取り立てられ、独立した知行を受ける例もありました。
| 長秀は、天文4年(1535)誰の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれましたか。 | 長秀は、天文4年(1535)丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれました。 |
JCRRAG_012494 | 歴史 | 柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、丹羽長秀である。
長秀の生まれと佐和山城主になるまで
長秀の出自はどのようなものだったのでしょうか。その生まれから戦功をあげて台頭するまでを振り返ります。
尾張で生まれ信長に仕える
長秀は、天文4年(1535)丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれました。もともとは斯波氏の家臣だった丹羽氏ですが、長秀は15歳のときから信長に仕えています。
長秀は天文22年(1553)19歳になり梅津表の合戦で初陣を果たします。その後は、弘治2年(1556)稲生の戦い、永禄3年(1560)桶狭間の戦いに織田軍団として従軍しました。
美濃国の戦いで台頭する
長秀は斎藤龍興との美濃国の戦いで台頭したと考えられており、その後も信長のもとで武功を上げています。信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛した際にも、南近江の六角氏を攻めた観音寺城の戦いで活躍しました。また姉川の戦い後は、信長が半年以上も包囲して落とした近江・佐和山城の城主になっています。
「織田家の双璧」と呼ばれる実力者に
信長のもとで頭角を表した長秀は、その後も実力を発揮していきます。そして織田家の中で重要なポジションに上り詰めたのです。
若狭一国を支配した
天正元年(1573)信長から若狭一国を与えられた長秀は、織田家初の国持大名となりました。当初国内では、長秀、粟屋氏、逸見氏が各地方の領主を務め独立の支配権を持っていましたが、軍事、治安維持、流通統制など一国単位のものについては長秀が取りまとめていたようです。中には、長秀の家臣・溝口秀勝が信長直臣に取り立てられ、独立した知行を受ける例もありました。
| 長秀は、天文4年(1535)丹羽長政の次男としてどこに生まれましたか。 | 長秀は、天文4年(1535)丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれました。 |
JCRRAG_012495 | 歴史 | 柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、丹羽長秀である。
長秀の生まれと佐和山城主になるまで
長秀の出自はどのようなものだったのでしょうか。その生まれから戦功をあげて台頭するまでを振り返ります。
尾張で生まれ信長に仕える
長秀は、天文4年(1535)丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれました。もともとは斯波氏の家臣だった丹羽氏ですが、長秀は15歳のときから信長に仕えています。
長秀は天文22年(1553)19歳になり梅津表の合戦で初陣を果たします。その後は、弘治2年(1556)稲生の戦い、永禄3年(1560)桶狭間の戦いに織田軍団として従軍しました。
美濃国の戦いで台頭する
長秀は斎藤龍興との美濃国の戦いで台頭したと考えられており、その後も信長のもとで武功を上げています。信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛した際にも、南近江の六角氏を攻めた観音寺城の戦いで活躍しました。また姉川の戦い後は、信長が半年以上も包囲して落とした近江・佐和山城の城主になっています。
「織田家の双璧」と呼ばれる実力者に
信長のもとで頭角を表した長秀は、その後も実力を発揮していきます。そして織田家の中で重要なポジションに上り詰めたのです。
若狭一国を支配した
天正元年(1573)信長から若狭一国を与えられた長秀は、織田家初の国持大名となりました。当初国内では、長秀、粟屋氏、逸見氏が各地方の領主を務め独立の支配権を持っていましたが、軍事、治安維持、流通統制など一国単位のものについては長秀が取りまとめていたようです。中には、長秀の家臣・溝口秀勝が信長直臣に取り立てられ、独立した知行を受ける例もありました。
| 長秀は天文22年(1553)19歳になり何の合戦で初陣を果たしますか。 | 長秀は天文22年(1553)19歳になり梅津表の合戦で初陣を果たします。 |
JCRRAG_012496 | 歴史 | 柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男は、丹羽長秀である。
長秀の生まれと佐和山城主になるまで
長秀の出自はどのようなものだったのでしょうか。その生まれから戦功をあげて台頭するまでを振り返ります。
尾張で生まれ信長に仕える
長秀は、天文4年(1535)丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれました。もともとは斯波氏の家臣だった丹羽氏ですが、長秀は15歳のときから信長に仕えています。
長秀は天文22年(1553)19歳になり梅津表の合戦で初陣を果たします。その後は、弘治2年(1556)稲生の戦い、永禄3年(1560)桶狭間の戦いに織田軍団として従軍しました。
美濃国の戦いで台頭する
長秀は斎藤龍興との美濃国の戦いで台頭したと考えられており、その後も信長のもとで武功を上げています。信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛した際にも、南近江の六角氏を攻めた観音寺城の戦いで活躍しました。また姉川の戦い後は、信長が半年以上も包囲して落とした近江・佐和山城の城主になっています。
「織田家の双璧」と呼ばれる実力者に
信長のもとで頭角を表した長秀は、その後も実力を発揮していきます。そして織田家の中で重要なポジションに上り詰めたのです。
若狭一国を支配した
天正元年(1573)信長から若狭一国を与えられた長秀は、織田家初の国持大名となりました。当初国内では、長秀、粟屋氏、逸見氏が各地方の領主を務め独立の支配権を持っていましたが、軍事、治安維持、流通統制など一国単位のものについては長秀が取りまとめていたようです。中には、長秀の家臣・溝口秀勝が信長直臣に取り立てられ、独立した知行を受ける例もありました。
| 天正元年(1573)信長から若狭一国を与えられた長秀は、織田家初の何となりましたか。 | 天正元年(1573)信長から若狭一国を与えられた長秀は、織田家初の国持大名となりました。 |
JCRRAG_012497 | 歴史 | 織田家の二番家老になる
その後も長秀は高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆で戦功を挙げ、天正伊賀の乱にも従軍。また安土城の建築では総奉行を務めるなど、政治面でも大きな功績を残しました。誅殺や幽閉といった命令にも忠実に応え、京都で行われた御馬揃え(いわゆる軍事パレード)では一番に入場するという高待遇を受けたほどです。功績が認められた長秀は二番家老の地位を与えられ、それ以降、勝家とともに織田家の双璧といわれるようになりました。
本能寺の変後の長秀
信長から厚い信頼を受けた長秀ですが、本能寺の変で主君を失ってしまいます。その後の長秀はどのような行動を起こしたのでしょうか。
本能寺の変と山崎の戦い
天正10年(1582)6月2日、明智光秀の裏切りにより本能寺の変がおこります。信長の三男・信孝とともに四国出陣の準備中だった長秀は、このとき徳川家康らの接待のため軍を離れていました。大将不在の中で本能寺の変の報せを聞いた兵の多くは逃げてしまいましたが、長秀は残った兵をまとめると、光秀の娘婿・津田信澄を共謀者として殺害。その後、秀吉軍の到着を待って合流します。軍議の結果、総大将は信孝に決まりましたが、これは名目上のもので、実際には秀吉が軍を主導することになりました。こうして、長秀も加わった秀吉軍は山崎の戦いで明智軍を破り、主君の敵討ちに成功したのです。
約123万石の大名に上り詰める
天正10年(1582)織田家の今後を問う清洲会議が開かれ、長秀は秀吉が後継者として推した信長の嫡孫にあたる三法師を支持します。秀吉と勝家が争った天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護。この戦いのあと長秀は、若狭に加えて越前と加賀2郡を与えられ、約123万石という有数の大名になりました。
しかし、それからわずか2年後の天正13年(1585)4月16日、長秀は51歳でこの世を去ったのです。
長秀にまつわる逸話
長秀は一つずつ戦功を積み重ね、信長や秀吉のもとで出世していきました。質実剛健な長秀にはどんな逸話が残されているのでしょうか。
死因は腹の寄生虫だった?
長秀の死は奇怪なことで知られています。死因は腹に巣食った寄生虫で、痛みに耐えかねた長秀は腹を切り裂き二日後に死亡しました。この事実はさまざまな資料に残されており、『多聞院日記』では病気で死ぬのは無念だと腹を切ったとあり、『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には腹から鳥のようなくちばしをもつ石亀に似た虫が出てきたという記載があります。
米五郎左の通称で知られる
長秀には米五郎左という通称がありました。これは織田家内で流行した家臣を讃える歌「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」が元になっており、秀吉は木綿のように質素だが重宝し、長秀は米のように必要不可欠、勝家の先鋒での勇猛さは素晴らしく、佐久間信盛は難関な殿軍(最後尾)を任せられるという意味です。
信長は酔って機嫌が良くなると、「不動行光、つくも髪、人には五郎左御座候」と歌いました。不動行光は名刀、つくも髪は九十九髪茄子茶入という茶器、五郎左は長秀。信長にとって長秀は、宝物と並ぶ自慢の家臣だったのです。
名刀あざ丸を所有したが……
武将にとっての刀は、武器であり誇りでもありました。ある時、長秀は名刀「あざ丸」を所有しましたが、それからというもの眼病に悩まされたといいます。
この刀はかつて熱田神宮の神職で織田方の武将だった千秋季光が所有していたもので、彼の戦死後に陰山一景が奪ったものの、その直後の織田方との戦いで両目を射抜かれたといういわくつきの品でした。
長秀は周囲の助言に従いあざ丸を熱田神宮へ奉納、それ以降は眼病も収まったそうです。
受け継がれた長秀の血筋
長秀の死後、丹羽家は西軍として関ヶ原の戦いに参加しますが、西軍が敗れたために改易され領地を失ってしまいました。しかし、徳川秀忠のとりなしで大名に復帰。幕末には新政府軍と敵対し敗北を喫しますが、降伏したことで5万石の領地が残され、廃藩置県後も華族として名を残しています。
織田家宿老に上り詰めた長秀は、地道に功績を積み重ね主君の信頼を得ました。その血筋は現在まで脈々と受け継がれています。 | 功績が認められた長秀は二番家老の地位を与えられ、それ以降、勝家とともに何といわれるようになりましたか。 | 功績が認められた長秀は二番家老の地位を与えられ、それ以降、勝家とともに織田家の双璧といわれるようになりました。 |
JCRRAG_012498 | 歴史 | 織田家の二番家老になる
その後も長秀は高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆で戦功を挙げ、天正伊賀の乱にも従軍。また安土城の建築では総奉行を務めるなど、政治面でも大きな功績を残しました。誅殺や幽閉といった命令にも忠実に応え、京都で行われた御馬揃え(いわゆる軍事パレード)では一番に入場するという高待遇を受けたほどです。功績が認められた長秀は二番家老の地位を与えられ、それ以降、勝家とともに織田家の双璧といわれるようになりました。
本能寺の変後の長秀
信長から厚い信頼を受けた長秀ですが、本能寺の変で主君を失ってしまいます。その後の長秀はどのような行動を起こしたのでしょうか。
本能寺の変と山崎の戦い
天正10年(1582)6月2日、明智光秀の裏切りにより本能寺の変がおこります。信長の三男・信孝とともに四国出陣の準備中だった長秀は、このとき徳川家康らの接待のため軍を離れていました。大将不在の中で本能寺の変の報せを聞いた兵の多くは逃げてしまいましたが、長秀は残った兵をまとめると、光秀の娘婿・津田信澄を共謀者として殺害。その後、秀吉軍の到着を待って合流します。軍議の結果、総大将は信孝に決まりましたが、これは名目上のもので、実際には秀吉が軍を主導することになりました。こうして、長秀も加わった秀吉軍は山崎の戦いで明智軍を破り、主君の敵討ちに成功したのです。
約123万石の大名に上り詰める
天正10年(1582)織田家の今後を問う清洲会議が開かれ、長秀は秀吉が後継者として推した信長の嫡孫にあたる三法師を支持します。秀吉と勝家が争った天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護。この戦いのあと長秀は、若狭に加えて越前と加賀2郡を与えられ、約123万石という有数の大名になりました。
しかし、それからわずか2年後の天正13年(1585)4月16日、長秀は51歳でこの世を去ったのです。
長秀にまつわる逸話
長秀は一つずつ戦功を積み重ね、信長や秀吉のもとで出世していきました。質実剛健な長秀にはどんな逸話が残されているのでしょうか。
死因は腹の寄生虫だった?
長秀の死は奇怪なことで知られています。死因は腹に巣食った寄生虫で、痛みに耐えかねた長秀は腹を切り裂き二日後に死亡しました。この事実はさまざまな資料に残されており、『多聞院日記』では病気で死ぬのは無念だと腹を切ったとあり、『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には腹から鳥のようなくちばしをもつ石亀に似た虫が出てきたという記載があります。
米五郎左の通称で知られる
長秀には米五郎左という通称がありました。これは織田家内で流行した家臣を讃える歌「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」が元になっており、秀吉は木綿のように質素だが重宝し、長秀は米のように必要不可欠、勝家の先鋒での勇猛さは素晴らしく、佐久間信盛は難関な殿軍(最後尾)を任せられるという意味です。
信長は酔って機嫌が良くなると、「不動行光、つくも髪、人には五郎左御座候」と歌いました。不動行光は名刀、つくも髪は九十九髪茄子茶入という茶器、五郎左は長秀。信長にとって長秀は、宝物と並ぶ自慢の家臣だったのです。
名刀あざ丸を所有したが……
武将にとっての刀は、武器であり誇りでもありました。ある時、長秀は名刀「あざ丸」を所有しましたが、それからというもの眼病に悩まされたといいます。
この刀はかつて熱田神宮の神職で織田方の武将だった千秋季光が所有していたもので、彼の戦死後に陰山一景が奪ったものの、その直後の織田方との戦いで両目を射抜かれたといういわくつきの品でした。
長秀は周囲の助言に従いあざ丸を熱田神宮へ奉納、それ以降は眼病も収まったそうです。
受け継がれた長秀の血筋
長秀の死後、丹羽家は西軍として関ヶ原の戦いに参加しますが、西軍が敗れたために改易され領地を失ってしまいました。しかし、徳川秀忠のとりなしで大名に復帰。幕末には新政府軍と敵対し敗北を喫しますが、降伏したことで5万石の領地が残され、廃藩置県後も華族として名を残しています。
織田家宿老に上り詰めた長秀は、地道に功績を積み重ね主君の信頼を得ました。その血筋は現在まで脈々と受け継がれています。 | 長秀も加わった秀吉軍は山崎の戦いでどうなりましたか。 | 長秀も加わった秀吉軍は山崎の戦いで明智軍を破り、主君の敵討ちに成功したのです。 |
JCRRAG_012499 | 歴史 | 織田家の二番家老になる
その後も長秀は高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆で戦功を挙げ、天正伊賀の乱にも従軍。また安土城の建築では総奉行を務めるなど、政治面でも大きな功績を残しました。誅殺や幽閉といった命令にも忠実に応え、京都で行われた御馬揃え(いわゆる軍事パレード)では一番に入場するという高待遇を受けたほどです。功績が認められた長秀は二番家老の地位を与えられ、それ以降、勝家とともに織田家の双璧といわれるようになりました。
本能寺の変後の長秀
信長から厚い信頼を受けた長秀ですが、本能寺の変で主君を失ってしまいます。その後の長秀はどのような行動を起こしたのでしょうか。
本能寺の変と山崎の戦い
天正10年(1582)6月2日、明智光秀の裏切りにより本能寺の変がおこります。信長の三男・信孝とともに四国出陣の準備中だった長秀は、このとき徳川家康らの接待のため軍を離れていました。大将不在の中で本能寺の変の報せを聞いた兵の多くは逃げてしまいましたが、長秀は残った兵をまとめると、光秀の娘婿・津田信澄を共謀者として殺害。その後、秀吉軍の到着を待って合流します。軍議の結果、総大将は信孝に決まりましたが、これは名目上のもので、実際には秀吉が軍を主導することになりました。こうして、長秀も加わった秀吉軍は山崎の戦いで明智軍を破り、主君の敵討ちに成功したのです。
約123万石の大名に上り詰める
天正10年(1582)織田家の今後を問う清洲会議が開かれ、長秀は秀吉が後継者として推した信長の嫡孫にあたる三法師を支持します。秀吉と勝家が争った天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護。この戦いのあと長秀は、若狭に加えて越前と加賀2郡を与えられ、約123万石という有数の大名になりました。
しかし、それからわずか2年後の天正13年(1585)4月16日、長秀は51歳でこの世を去ったのです。
長秀にまつわる逸話
長秀は一つずつ戦功を積み重ね、信長や秀吉のもとで出世していきました。質実剛健な長秀にはどんな逸話が残されているのでしょうか。
死因は腹の寄生虫だった?
長秀の死は奇怪なことで知られています。死因は腹に巣食った寄生虫で、痛みに耐えかねた長秀は腹を切り裂き二日後に死亡しました。この事実はさまざまな資料に残されており、『多聞院日記』では病気で死ぬのは無念だと腹を切ったとあり、『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には腹から鳥のようなくちばしをもつ石亀に似た虫が出てきたという記載があります。
米五郎左の通称で知られる
長秀には米五郎左という通称がありました。これは織田家内で流行した家臣を讃える歌「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」が元になっており、秀吉は木綿のように質素だが重宝し、長秀は米のように必要不可欠、勝家の先鋒での勇猛さは素晴らしく、佐久間信盛は難関な殿軍(最後尾)を任せられるという意味です。
信長は酔って機嫌が良くなると、「不動行光、つくも髪、人には五郎左御座候」と歌いました。不動行光は名刀、つくも髪は九十九髪茄子茶入という茶器、五郎左は長秀。信長にとって長秀は、宝物と並ぶ自慢の家臣だったのです。
名刀あざ丸を所有したが……
武将にとっての刀は、武器であり誇りでもありました。ある時、長秀は名刀「あざ丸」を所有しましたが、それからというもの眼病に悩まされたといいます。
この刀はかつて熱田神宮の神職で織田方の武将だった千秋季光が所有していたもので、彼の戦死後に陰山一景が奪ったものの、その直後の織田方との戦いで両目を射抜かれたといういわくつきの品でした。
長秀は周囲の助言に従いあざ丸を熱田神宮へ奉納、それ以降は眼病も収まったそうです。
受け継がれた長秀の血筋
長秀の死後、丹羽家は西軍として関ヶ原の戦いに参加しますが、西軍が敗れたために改易され領地を失ってしまいました。しかし、徳川秀忠のとりなしで大名に復帰。幕末には新政府軍と敵対し敗北を喫しますが、降伏したことで5万石の領地が残され、廃藩置県後も華族として名を残しています。
織田家宿老に上り詰めた長秀は、地道に功績を積み重ね主君の信頼を得ました。その血筋は現在まで脈々と受け継がれています。 | 長秀は、若狭に加えて越前と加賀2郡を与えられ、何になりましたか。 | 長秀は、若狭に加えて越前と加賀2郡を与えられ、約123万石という有数の大名になりました。 |
JCRRAG_012500 | 歴史 | 織田家の二番家老になる
その後も長秀は高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆で戦功を挙げ、天正伊賀の乱にも従軍。また安土城の建築では総奉行を務めるなど、政治面でも大きな功績を残しました。誅殺や幽閉といった命令にも忠実に応え、京都で行われた御馬揃え(いわゆる軍事パレード)では一番に入場するという高待遇を受けたほどです。功績が認められた長秀は二番家老の地位を与えられ、それ以降、勝家とともに織田家の双璧といわれるようになりました。
本能寺の変後の長秀
信長から厚い信頼を受けた長秀ですが、本能寺の変で主君を失ってしまいます。その後の長秀はどのような行動を起こしたのでしょうか。
本能寺の変と山崎の戦い
天正10年(1582)6月2日、明智光秀の裏切りにより本能寺の変がおこります。信長の三男・信孝とともに四国出陣の準備中だった長秀は、このとき徳川家康らの接待のため軍を離れていました。大将不在の中で本能寺の変の報せを聞いた兵の多くは逃げてしまいましたが、長秀は残った兵をまとめると、光秀の娘婿・津田信澄を共謀者として殺害。その後、秀吉軍の到着を待って合流します。軍議の結果、総大将は信孝に決まりましたが、これは名目上のもので、実際には秀吉が軍を主導することになりました。こうして、長秀も加わった秀吉軍は山崎の戦いで明智軍を破り、主君の敵討ちに成功したのです。
約123万石の大名に上り詰める
天正10年(1582)織田家の今後を問う清洲会議が開かれ、長秀は秀吉が後継者として推した信長の嫡孫にあたる三法師を支持します。秀吉と勝家が争った天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護。この戦いのあと長秀は、若狭に加えて越前と加賀2郡を与えられ、約123万石という有数の大名になりました。
しかし、それからわずか2年後の天正13年(1585)4月16日、長秀は51歳でこの世を去ったのです。
長秀にまつわる逸話
長秀は一つずつ戦功を積み重ね、信長や秀吉のもとで出世していきました。質実剛健な長秀にはどんな逸話が残されているのでしょうか。
死因は腹の寄生虫だった?
長秀の死は奇怪なことで知られています。死因は腹に巣食った寄生虫で、痛みに耐えかねた長秀は腹を切り裂き二日後に死亡しました。この事実はさまざまな資料に残されており、『多聞院日記』では病気で死ぬのは無念だと腹を切ったとあり、『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には腹から鳥のようなくちばしをもつ石亀に似た虫が出てきたという記載があります。
米五郎左の通称で知られる
長秀には米五郎左という通称がありました。これは織田家内で流行した家臣を讃える歌「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」が元になっており、秀吉は木綿のように質素だが重宝し、長秀は米のように必要不可欠、勝家の先鋒での勇猛さは素晴らしく、佐久間信盛は難関な殿軍(最後尾)を任せられるという意味です。
信長は酔って機嫌が良くなると、「不動行光、つくも髪、人には五郎左御座候」と歌いました。不動行光は名刀、つくも髪は九十九髪茄子茶入という茶器、五郎左は長秀。信長にとって長秀は、宝物と並ぶ自慢の家臣だったのです。
名刀あざ丸を所有したが……
武将にとっての刀は、武器であり誇りでもありました。ある時、長秀は名刀「あざ丸」を所有しましたが、それからというもの眼病に悩まされたといいます。
この刀はかつて熱田神宮の神職で織田方の武将だった千秋季光が所有していたもので、彼の戦死後に陰山一景が奪ったものの、その直後の織田方との戦いで両目を射抜かれたといういわくつきの品でした。
長秀は周囲の助言に従いあざ丸を熱田神宮へ奉納、それ以降は眼病も収まったそうです。
受け継がれた長秀の血筋
長秀の死後、丹羽家は西軍として関ヶ原の戦いに参加しますが、西軍が敗れたために改易され領地を失ってしまいました。しかし、徳川秀忠のとりなしで大名に復帰。幕末には新政府軍と敵対し敗北を喫しますが、降伏したことで5万石の領地が残され、廃藩置県後も華族として名を残しています。
織田家宿老に上り詰めた長秀は、地道に功績を積み重ね主君の信頼を得ました。その血筋は現在まで脈々と受け継がれています。 | 信長は酔って機嫌が良くなると、何と歌いましたか。 | 信長は酔って機嫌が良くなると、「不動行光、つくも髪、人には五郎左御座候」と歌いました。 |
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