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JCRRAG_012501 | 歴史 | 織田家の二番家老になる
その後も長秀は高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆で戦功を挙げ、天正伊賀の乱にも従軍。また安土城の建築では総奉行を務めるなど、政治面でも大きな功績を残しました。誅殺や幽閉といった命令にも忠実に応え、京都で行われた御馬揃え(いわゆる軍事パレード)では一番に入場するという高待遇を受けたほどです。功績が認められた長秀は二番家老の地位を与えられ、それ以降、勝家とともに織田家の双璧といわれるようになりました。
本能寺の変後の長秀
信長から厚い信頼を受けた長秀ですが、本能寺の変で主君を失ってしまいます。その後の長秀はどのような行動を起こしたのでしょうか。
本能寺の変と山崎の戦い
天正10年(1582)6月2日、明智光秀の裏切りにより本能寺の変がおこります。信長の三男・信孝とともに四国出陣の準備中だった長秀は、このとき徳川家康らの接待のため軍を離れていました。大将不在の中で本能寺の変の報せを聞いた兵の多くは逃げてしまいましたが、長秀は残った兵をまとめると、光秀の娘婿・津田信澄を共謀者として殺害。その後、秀吉軍の到着を待って合流します。軍議の結果、総大将は信孝に決まりましたが、これは名目上のもので、実際には秀吉が軍を主導することになりました。こうして、長秀も加わった秀吉軍は山崎の戦いで明智軍を破り、主君の敵討ちに成功したのです。
約123万石の大名に上り詰める
天正10年(1582)織田家の今後を問う清洲会議が開かれ、長秀は秀吉が後継者として推した信長の嫡孫にあたる三法師を支持します。秀吉と勝家が争った天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護。この戦いのあと長秀は、若狭に加えて越前と加賀2郡を与えられ、約123万石という有数の大名になりました。
しかし、それからわずか2年後の天正13年(1585)4月16日、長秀は51歳でこの世を去ったのです。
長秀にまつわる逸話
長秀は一つずつ戦功を積み重ね、信長や秀吉のもとで出世していきました。質実剛健な長秀にはどんな逸話が残されているのでしょうか。
死因は腹の寄生虫だった?
長秀の死は奇怪なことで知られています。死因は腹に巣食った寄生虫で、痛みに耐えかねた長秀は腹を切り裂き二日後に死亡しました。この事実はさまざまな資料に残されており、『多聞院日記』では病気で死ぬのは無念だと腹を切ったとあり、『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には腹から鳥のようなくちばしをもつ石亀に似た虫が出てきたという記載があります。
米五郎左の通称で知られる
長秀には米五郎左という通称がありました。これは織田家内で流行した家臣を讃える歌「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」が元になっており、秀吉は木綿のように質素だが重宝し、長秀は米のように必要不可欠、勝家の先鋒での勇猛さは素晴らしく、佐久間信盛は難関な殿軍(最後尾)を任せられるという意味です。
信長は酔って機嫌が良くなると、「不動行光、つくも髪、人には五郎左御座候」と歌いました。不動行光は名刀、つくも髪は九十九髪茄子茶入という茶器、五郎左は長秀。信長にとって長秀は、宝物と並ぶ自慢の家臣だったのです。
名刀あざ丸を所有したが……
武将にとっての刀は、武器であり誇りでもありました。ある時、長秀は名刀「あざ丸」を所有しましたが、それからというもの眼病に悩まされたといいます。
この刀はかつて熱田神宮の神職で織田方の武将だった千秋季光が所有していたもので、彼の戦死後に陰山一景が奪ったものの、その直後の織田方との戦いで両目を射抜かれたといういわくつきの品でした。
長秀は周囲の助言に従いあざ丸を熱田神宮へ奉納、それ以降は眼病も収まったそうです。
受け継がれた長秀の血筋
長秀の死後、丹羽家は西軍として関ヶ原の戦いに参加しますが、西軍が敗れたために改易され領地を失ってしまいました。しかし、徳川秀忠のとりなしで大名に復帰。幕末には新政府軍と敵対し敗北を喫しますが、降伏したことで5万石の領地が残され、廃藩置県後も華族として名を残しています。
織田家宿老に上り詰めた長秀は、地道に功績を積み重ね主君の信頼を得ました。その血筋は現在まで脈々と受け継がれています。 | 長秀は周囲の助言に従いあざ丸を熱田神宮へ奉納するとどうなりましたか。 | 長秀は周囲の助言に従いあざ丸を熱田神宮へ奉納、それ以降は眼病も収まったそうです。 |
JCRRAG_012502 | 歴史 | 関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、島津豊久である。
豊久の生い立ちと戦場での活躍
豊久が生まれたのは戦国最強とも評される、九州最大勢力の島津家です。豪傑揃いの島津四兄弟を父にもつ彼は、若くして実力を発揮しました。
幼少期から初陣まで
豊久は、元亀元年(1570)島津四兄弟の末弟・家久の子として串木野城で生まれました。天正12年(1584)「沖田畷の戦い」で初陣を果たし、元服前にも関わらず敵の首級1つを討ち取ります。
父の家久は四兄弟の中で唯一側室の子でしたが、若年の頃から「軍法戦術に妙を得たり」と祖父に評価されており、兄弟がその戦功を妬んだという噂もあるほどでした。豊久は父譲りの戦闘センスをいかんなく発揮したのです。
18歳で家督を継承する
天正15年(1587)「戸次川の戦い」で父に従い先陣を切るも敗北。天正15年(1587)には父が急死したため、家督を継いで日向佐土原城の城主となります。
島津氏はこの年に豊臣秀吉に降伏しており、家久は豊臣の陣中から帰った直後に亡くなりました。これは暗殺ともいわれており、秀吉はその疑惑を避けるかのように、豊久に所領を与えるよう命じたといいます。
父を失った後の豊久は、伯父・義弘によって実子同様に養育されました。
秀吉のもとで戦功をあげる
その後、豊久はさまざまな戦いで活躍をみせます。天正18年(1590)小田原征伐に従軍したのち、文禄元年(1592)文禄・慶長の役で朝鮮に出兵。ここでの活躍は目覚ましく、「豊久跳んで敵船に移り敵を斬ること麻の如し」と記録されるほどでした。敵から奪った船を献上した際は感謝の書状をもらっており、敵の首級も複数討ち取るなど戦功をあげています。慶長3年(1598)帰国を命じられると、6年間滞在した朝鮮から日本に戻りました。 | 豊久は、元亀元年(1570)誰の子として串木野城で生まれましたか。 | 豊久は、元亀元年(1570)島津四兄弟の末弟・家久の子として串木野城で生まれました。 |
JCRRAG_012503 | 歴史 | 関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、島津豊久である。
豊久の生い立ちと戦場での活躍
豊久が生まれたのは戦国最強とも評される、九州最大勢力の島津家です。豪傑揃いの島津四兄弟を父にもつ彼は、若くして実力を発揮しました。
幼少期から初陣まで
豊久は、元亀元年(1570)島津四兄弟の末弟・家久の子として串木野城で生まれました。天正12年(1584)「沖田畷の戦い」で初陣を果たし、元服前にも関わらず敵の首級1つを討ち取ります。
父の家久は四兄弟の中で唯一側室の子でしたが、若年の頃から「軍法戦術に妙を得たり」と祖父に評価されており、兄弟がその戦功を妬んだという噂もあるほどでした。豊久は父譲りの戦闘センスをいかんなく発揮したのです。
18歳で家督を継承する
天正15年(1587)「戸次川の戦い」で父に従い先陣を切るも敗北。天正15年(1587)には父が急死したため、家督を継いで日向佐土原城の城主となります。
島津氏はこの年に豊臣秀吉に降伏しており、家久は豊臣の陣中から帰った直後に亡くなりました。これは暗殺ともいわれており、秀吉はその疑惑を避けるかのように、豊久に所領を与えるよう命じたといいます。
父を失った後の豊久は、伯父・義弘によって実子同様に養育されました。
秀吉のもとで戦功をあげる
その後、豊久はさまざまな戦いで活躍をみせます。天正18年(1590)小田原征伐に従軍したのち、文禄元年(1592)文禄・慶長の役で朝鮮に出兵。ここでの活躍は目覚ましく、「豊久跳んで敵船に移り敵を斬ること麻の如し」と記録されるほどでした。敵から奪った船を献上した際は感謝の書状をもらっており、敵の首級も複数討ち取るなど戦功をあげています。慶長3年(1598)帰国を命じられると、6年間滞在した朝鮮から日本に戻りました。 | 島津豊久は、元亀元年(1570)島津四兄弟の末弟・家久の子としてどこで生まれましたか。 | 島津豊久は、元亀元年(1570)島津四兄弟の末弟・家久の子として串木野城で生まれました。 |
JCRRAG_012504 | 歴史 | 関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、島津豊久である。
豊久の生い立ちと戦場での活躍
豊久が生まれたのは戦国最強とも評される、九州最大勢力の島津家です。豪傑揃いの島津四兄弟を父にもつ彼は、若くして実力を発揮しました。
幼少期から初陣まで
豊久は、元亀元年(1570)島津四兄弟の末弟・家久の子として串木野城で生まれました。天正12年(1584)「沖田畷の戦い」で初陣を果たし、元服前にも関わらず敵の首級1つを討ち取ります。
父の家久は四兄弟の中で唯一側室の子でしたが、若年の頃から「軍法戦術に妙を得たり」と祖父に評価されており、兄弟がその戦功を妬んだという噂もあるほどでした。豊久は父譲りの戦闘センスをいかんなく発揮したのです。
18歳で家督を継承する
天正15年(1587)「戸次川の戦い」で父に従い先陣を切るも敗北。天正15年(1587)には父が急死したため、家督を継いで日向佐土原城の城主となります。
島津氏はこの年に豊臣秀吉に降伏しており、家久は豊臣の陣中から帰った直後に亡くなりました。これは暗殺ともいわれており、秀吉はその疑惑を避けるかのように、豊久に所領を与えるよう命じたといいます。
父を失った後の豊久は、伯父・義弘によって実子同様に養育されました。
秀吉のもとで戦功をあげる
その後、豊久はさまざまな戦いで活躍をみせます。天正18年(1590)小田原征伐に従軍したのち、文禄元年(1592)文禄・慶長の役で朝鮮に出兵。ここでの活躍は目覚ましく、「豊久跳んで敵船に移り敵を斬ること麻の如し」と記録されるほどでした。敵から奪った船を献上した際は感謝の書状をもらっており、敵の首級も複数討ち取るなど戦功をあげています。慶長3年(1598)帰国を命じられると、6年間滞在した朝鮮から日本に戻りました。 | 島津豊久は、天正12年(1584)「沖田畷の戦い」で初陣を果たし、元服前にも関わらず何を討ち取りましたか。 | 島津豊久は、天正12年(1584)「沖田畷の戦い」で初陣を果たし、元服前にも関わらず敵の首級1つを討ち取りました。 |
JCRRAG_012505 | 歴史 | 関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、島津豊久である。
豊久の生い立ちと戦場での活躍
豊久が生まれたのは戦国最強とも評される、九州最大勢力の島津家です。豪傑揃いの島津四兄弟を父にもつ彼は、若くして実力を発揮しました。
幼少期から初陣まで
豊久は、元亀元年(1570)島津四兄弟の末弟・家久の子として串木野城で生まれました。天正12年(1584)「沖田畷の戦い」で初陣を果たし、元服前にも関わらず敵の首級1つを討ち取ります。
父の家久は四兄弟の中で唯一側室の子でしたが、若年の頃から「軍法戦術に妙を得たり」と祖父に評価されており、兄弟がその戦功を妬んだという噂もあるほどでした。豊久は父譲りの戦闘センスをいかんなく発揮したのです。
18歳で家督を継承する
天正15年(1587)「戸次川の戦い」で父に従い先陣を切るも敗北。天正15年(1587)には父が急死したため、家督を継いで日向佐土原城の城主となります。
島津氏はこの年に豊臣秀吉に降伏しており、家久は豊臣の陣中から帰った直後に亡くなりました。これは暗殺ともいわれており、秀吉はその疑惑を避けるかのように、豊久に所領を与えるよう命じたといいます。
父を失った後の豊久は、伯父・義弘によって実子同様に養育されました。
秀吉のもとで戦功をあげる
その後、豊久はさまざまな戦いで活躍をみせます。天正18年(1590)小田原征伐に従軍したのち、文禄元年(1592)文禄・慶長の役で朝鮮に出兵。ここでの活躍は目覚ましく、「豊久跳んで敵船に移り敵を斬ること麻の如し」と記録されるほどでした。敵から奪った船を献上した際は感謝の書状をもらっており、敵の首級も複数討ち取るなど戦功をあげています。慶長3年(1598)帰国を命じられると、6年間滞在した朝鮮から日本に戻りました。 | 島津豊久は、天正15年(1587)に父が急死したため、家督を継いで何となりますか。 | 島津豊久は、天正15年(1587)には父が急死したため、家督を継いで日向佐土原城の城主となります。 |
JCRRAG_012506 | 歴史 | 関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導した人物は、島津豊久である。
豊久の生い立ちと戦場での活躍
豊久が生まれたのは戦国最強とも評される、九州最大勢力の島津家です。豪傑揃いの島津四兄弟を父にもつ彼は、若くして実力を発揮しました。
幼少期から初陣まで
豊久は、元亀元年(1570)島津四兄弟の末弟・家久の子として串木野城で生まれました。天正12年(1584)「沖田畷の戦い」で初陣を果たし、元服前にも関わらず敵の首級1つを討ち取ります。
父の家久は四兄弟の中で唯一側室の子でしたが、若年の頃から「軍法戦術に妙を得たり」と祖父に評価されており、兄弟がその戦功を妬んだという噂もあるほどでした。豊久は父譲りの戦闘センスをいかんなく発揮したのです。
18歳で家督を継承する
天正15年(1587)「戸次川の戦い」で父に従い先陣を切るも敗北。天正15年(1587)には父が急死したため、家督を継いで日向佐土原城の城主となります。
島津氏はこの年に豊臣秀吉に降伏しており、家久は豊臣の陣中から帰った直後に亡くなりました。これは暗殺ともいわれており、秀吉はその疑惑を避けるかのように、豊久に所領を与えるよう命じたといいます。
父を失った後の豊久は、伯父・義弘によって実子同様に養育されました。
秀吉のもとで戦功をあげる
その後、豊久はさまざまな戦いで活躍をみせます。天正18年(1590)小田原征伐に従軍したのち、文禄元年(1592)文禄・慶長の役で朝鮮に出兵。ここでの活躍は目覚ましく、「豊久跳んで敵船に移り敵を斬ること麻の如し」と記録されるほどでした。敵から奪った船を献上した際は感謝の書状をもらっており、敵の首級も複数討ち取るなど戦功をあげています。慶長3年(1598)帰国を命じられると、6年間滞在した朝鮮から日本に戻りました。 | 父を失った後の島津豊久は、誰によって実子同様に養育されましたか。 | 父を失った後の島津豊久は、伯父・義弘によって実子同様に養育されました。 |
JCRRAG_012507 | 歴史 | 有名な「島津の退き口」とは?
多くの戦いで武勇を発揮した豊久ですが、関ヶ原の戦いにおける「島津の退き口」は最も勇猛果敢だったといえます。彼の最期はどのようなものだったのでしょうか。
関ヶ原の戦いに西軍として参加
島津豊久は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに島津義弘とともに参加します。当初義弘は東軍の援軍要請に応えましたが、やむを得ない事情により西軍として戦うことを決意。しかし義弘には本国の軍を動かす力がなく、手勢がわずかだったことから石田三成らに軽視されてしまいます。さらに大垣での軍議では、夜襲を提案したものの田舎戦法だと笑われました。
そのような事情もあり、いざ戦いが始まると豊久らは攻撃せず静観を決め込みます。驚いた三成は加勢を要請しますが、使者が下馬しなかったため豊久は激怒しました。このような島津方の動きは、西軍敗北の一因となったようです。
多くの犠牲を伴った決死の敵中突破
戦局が東軍に有利となると、島津軍は戦場で孤立し退路を断たれました。義弘は切腹を覚悟しますが、「戦後の難局に立ち向かうには義弘公が生き残らなければならない」という豊久の言葉を受け、薩摩に帰ることを決意します。
このとき義弘がとった方法が、敵の陣中を正面から突っ切る敵中突破です。しかし東軍の追撃は激しく、島津隊は「捨てがまり(捨て奸)」で時間を稼ぎました。これは最後尾の約10人が鉄砲で迎撃し、全員死ぬと次の10人がまた迎撃する捨て身の戦法です。
死を覚悟した島津隊の形相はただならぬもので、東軍の勇将・福島正則は手出ししなかったといいます。また本多忠勝は落馬させられ、松平忠吉や井伊直政も重傷を負いました。
豊久の最期
「島津の退き口」では、家老・長寿院淳盛に続き、豊久も捨てがまりを務めました。付き従う13騎とともに敵軍に入った豊久は、死闘を繰り広げて討ち死にします。その最期は壮絶で、複数の槍に突かれて3度宙を舞い、陣羽織はボロボロになったといいます。
このような豊久らの活躍により、義弘は無事に薩摩に帰還しました。
残されている逸話
生涯を通して勇猛果敢だった豊久ですが、若くして亡くなったためかその人物像はあまり知られていません。ここでは彼にまつわる逸話をご紹介します。
家臣想いで美少年だった
薩摩藩の伝承によれば豊久は美少年だったようで、残された史料には「比べるものがないくらい美しく、知略と武勇にも優れた少年」「無双の美童」「美少人」といった記載があります。
また家臣一人一人に自ら酒を振る舞うなど思いやりのある人物だったようで、家臣らは自分のことを想ってくれているのだと感じ、より一層奮闘したということです。
義弘を慕い自ら身代わりになる
「島津の退き口」で捨てがまりを務める際、豊久は義弘の別称である島津惟新を名乗り敵陣に進撃したといわれています。彼は義弘の身代わりになることを宣言し、見事その役目を果たしたのです。
豊久は自分を養育してくれた義弘に恩義を感じていました。関ヶ原の戦いで義弘のもとに真っ先に駆け付けたのも、恩義に報いるためだったのでしょう。
豊久の死にまつわる異説
豊久は関ヶ原の戦いで討ち死にしたとされますが、戦地から落ち延びたという異説も残されています。1つは無念の死を遂げ祟りで草木が生えなくなったというもの、もう1つは看病してくれる村人が疑われないように自刃したというものです。
なお、生き延びた義弘は豊久の討ち死にに確証がもてず、秘密裏に安否を探らせたといわれています。
戦国一の壮絶な死を遂げた武将
豊久には子が無く、姪の婿・喜入忠栄が家督を継承したものの断絶してしまいます。そのため島津久雄が継嗣に入り、永吉島津家として受け継がれました。
島津氏が治めた薩摩藩は、幕末には雄藩として強い影響力をもつようになります。その源流は豊久が見せた死闘や勇猛さにあったといえるでしょう。
豊久の討ち死に場所は諸説あり、墓所も複数存在しています。永吉島津家当主が入手した豊久の鎧は、現在でも鹿児島市にある尚古集成館で見ることができます。 | 島津豊久は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに誰とともに参加しますか。 | 島津豊久は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに義弘とともに参加します。 |
JCRRAG_012508 | 歴史 | 有名な「島津の退き口」とは?
多くの戦いで武勇を発揮した豊久ですが、関ヶ原の戦いにおける「島津の退き口」は最も勇猛果敢だったといえます。彼の最期はどのようなものだったのでしょうか。
関ヶ原の戦いに西軍として参加
島津豊久は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに島津義弘とともに参加します。当初義弘は東軍の援軍要請に応えましたが、やむを得ない事情により西軍として戦うことを決意。しかし義弘には本国の軍を動かす力がなく、手勢がわずかだったことから石田三成らに軽視されてしまいます。さらに大垣での軍議では、夜襲を提案したものの田舎戦法だと笑われました。
そのような事情もあり、いざ戦いが始まると豊久らは攻撃せず静観を決め込みます。驚いた三成は加勢を要請しますが、使者が下馬しなかったため豊久は激怒しました。このような島津方の動きは、西軍敗北の一因となったようです。
多くの犠牲を伴った決死の敵中突破
戦局が東軍に有利となると、島津軍は戦場で孤立し退路を断たれました。義弘は切腹を覚悟しますが、「戦後の難局に立ち向かうには義弘公が生き残らなければならない」という豊久の言葉を受け、薩摩に帰ることを決意します。
このとき義弘がとった方法が、敵の陣中を正面から突っ切る敵中突破です。しかし東軍の追撃は激しく、島津隊は「捨てがまり(捨て奸)」で時間を稼ぎました。これは最後尾の約10人が鉄砲で迎撃し、全員死ぬと次の10人がまた迎撃する捨て身の戦法です。
死を覚悟した島津隊の形相はただならぬもので、東軍の勇将・福島正則は手出ししなかったといいます。また本多忠勝は落馬させられ、松平忠吉や井伊直政も重傷を負いました。
豊久の最期
「島津の退き口」では、家老・長寿院淳盛に続き、豊久も捨てがまりを務めました。付き従う13騎とともに敵軍に入った豊久は、死闘を繰り広げて討ち死にします。その最期は壮絶で、複数の槍に突かれて3度宙を舞い、陣羽織はボロボロになったといいます。
このような豊久らの活躍により、義弘は無事に薩摩に帰還しました。
残されている逸話
生涯を通して勇猛果敢だった豊久ですが、若くして亡くなったためかその人物像はあまり知られていません。ここでは彼にまつわる逸話をご紹介します。
家臣想いで美少年だった
薩摩藩の伝承によれば豊久は美少年だったようで、残された史料には「比べるものがないくらい美しく、知略と武勇にも優れた少年」「無双の美童」「美少人」といった記載があります。
また家臣一人一人に自ら酒を振る舞うなど思いやりのある人物だったようで、家臣らは自分のことを想ってくれているのだと感じ、より一層奮闘したということです。
義弘を慕い自ら身代わりになる
「島津の退き口」で捨てがまりを務める際、豊久は義弘の別称である島津惟新を名乗り敵陣に進撃したといわれています。彼は義弘の身代わりになることを宣言し、見事その役目を果たしたのです。
豊久は自分を養育してくれた義弘に恩義を感じていました。関ヶ原の戦いで義弘のもとに真っ先に駆け付けたのも、恩義に報いるためだったのでしょう。
豊久の死にまつわる異説
豊久は関ヶ原の戦いで討ち死にしたとされますが、戦地から落ち延びたという異説も残されています。1つは無念の死を遂げ祟りで草木が生えなくなったというもの、もう1つは看病してくれる村人が疑われないように自刃したというものです。
なお、生き延びた義弘は豊久の討ち死にに確証がもてず、秘密裏に安否を探らせたといわれています。
戦国一の壮絶な死を遂げた武将
豊久には子が無く、姪の婿・喜入忠栄が家督を継承したものの断絶してしまいます。そのため島津久雄が継嗣に入り、永吉島津家として受け継がれました。
島津氏が治めた薩摩藩は、幕末には雄藩として強い影響力をもつようになります。その源流は豊久が見せた死闘や勇猛さにあったといえるでしょう。
豊久の討ち死に場所は諸説あり、墓所も複数存在しています。永吉島津家当主が入手した豊久の鎧は、現在でも鹿児島市にある尚古集成館で見ることができます。 | 島津義弘は切腹を覚悟しますが、何という島津豊久の言葉を受け、薩摩に帰ることを決意しますか。 | 島津義弘は切腹を覚悟しますが、「戦後の難局に立ち向かうには義弘公が生き残らなければならない」という島津豊久の言葉を受け、薩摩に帰ることを決意します。 |
JCRRAG_012509 | 歴史 | 有名な「島津の退き口」とは?
多くの戦いで武勇を発揮した豊久ですが、関ヶ原の戦いにおける「島津の退き口」は最も勇猛果敢だったといえます。彼の最期はどのようなものだったのでしょうか。
関ヶ原の戦いに西軍として参加
島津豊久は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに島津義弘とともに参加します。当初義弘は東軍の援軍要請に応えましたが、やむを得ない事情により西軍として戦うことを決意。しかし義弘には本国の軍を動かす力がなく、手勢がわずかだったことから石田三成らに軽視されてしまいます。さらに大垣での軍議では、夜襲を提案したものの田舎戦法だと笑われました。
そのような事情もあり、いざ戦いが始まると豊久らは攻撃せず静観を決め込みます。驚いた三成は加勢を要請しますが、使者が下馬しなかったため豊久は激怒しました。このような島津方の動きは、西軍敗北の一因となったようです。
多くの犠牲を伴った決死の敵中突破
戦局が東軍に有利となると、島津軍は戦場で孤立し退路を断たれました。義弘は切腹を覚悟しますが、「戦後の難局に立ち向かうには義弘公が生き残らなければならない」という豊久の言葉を受け、薩摩に帰ることを決意します。
このとき義弘がとった方法が、敵の陣中を正面から突っ切る敵中突破です。しかし東軍の追撃は激しく、島津隊は「捨てがまり(捨て奸)」で時間を稼ぎました。これは最後尾の約10人が鉄砲で迎撃し、全員死ぬと次の10人がまた迎撃する捨て身の戦法です。
死を覚悟した島津隊の形相はただならぬもので、東軍の勇将・福島正則は手出ししなかったといいます。また本多忠勝は落馬させられ、松平忠吉や井伊直政も重傷を負いました。
豊久の最期
「島津の退き口」では、家老・長寿院淳盛に続き、豊久も捨てがまりを務めました。付き従う13騎とともに敵軍に入った豊久は、死闘を繰り広げて討ち死にします。その最期は壮絶で、複数の槍に突かれて3度宙を舞い、陣羽織はボロボロになったといいます。
このような豊久らの活躍により、義弘は無事に薩摩に帰還しました。
残されている逸話
生涯を通して勇猛果敢だった豊久ですが、若くして亡くなったためかその人物像はあまり知られていません。ここでは彼にまつわる逸話をご紹介します。
家臣想いで美少年だった
薩摩藩の伝承によれば豊久は美少年だったようで、残された史料には「比べるものがないくらい美しく、知略と武勇にも優れた少年」「無双の美童」「美少人」といった記載があります。
また家臣一人一人に自ら酒を振る舞うなど思いやりのある人物だったようで、家臣らは自分のことを想ってくれているのだと感じ、より一層奮闘したということです。
義弘を慕い自ら身代わりになる
「島津の退き口」で捨てがまりを務める際、豊久は義弘の別称である島津惟新を名乗り敵陣に進撃したといわれています。彼は義弘の身代わりになることを宣言し、見事その役目を果たしたのです。
豊久は自分を養育してくれた義弘に恩義を感じていました。関ヶ原の戦いで義弘のもとに真っ先に駆け付けたのも、恩義に報いるためだったのでしょう。
豊久の死にまつわる異説
豊久は関ヶ原の戦いで討ち死にしたとされますが、戦地から落ち延びたという異説も残されています。1つは無念の死を遂げ祟りで草木が生えなくなったというもの、もう1つは看病してくれる村人が疑われないように自刃したというものです。
なお、生き延びた義弘は豊久の討ち死にに確証がもてず、秘密裏に安否を探らせたといわれています。
戦国一の壮絶な死を遂げた武将
豊久には子が無く、姪の婿・喜入忠栄が家督を継承したものの断絶してしまいます。そのため島津久雄が継嗣に入り、永吉島津家として受け継がれました。
島津氏が治めた薩摩藩は、幕末には雄藩として強い影響力をもつようになります。その源流は豊久が見せた死闘や勇猛さにあったといえるでしょう。
豊久の討ち死に場所は諸説あり、墓所も複数存在しています。永吉島津家当主が入手した豊久の鎧は、現在でも鹿児島市にある尚古集成館で見ることができます。 | 「島津の退き口」では、家老・長寿院淳盛に続き、島津豊久も何を務めましたか。 | 「島津の退き口」では、家老・長寿院淳盛に続き、島津豊久も捨てがまりを務めました。 |
JCRRAG_012510 | 歴史 | 有名な「島津の退き口」とは?
多くの戦いで武勇を発揮した豊久ですが、関ヶ原の戦いにおける「島津の退き口」は最も勇猛果敢だったといえます。彼の最期はどのようなものだったのでしょうか。
関ヶ原の戦いに西軍として参加
島津豊久は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに島津義弘とともに参加します。当初義弘は東軍の援軍要請に応えましたが、やむを得ない事情により西軍として戦うことを決意。しかし義弘には本国の軍を動かす力がなく、手勢がわずかだったことから石田三成らに軽視されてしまいます。さらに大垣での軍議では、夜襲を提案したものの田舎戦法だと笑われました。
そのような事情もあり、いざ戦いが始まると豊久らは攻撃せず静観を決め込みます。驚いた三成は加勢を要請しますが、使者が下馬しなかったため豊久は激怒しました。このような島津方の動きは、西軍敗北の一因となったようです。
多くの犠牲を伴った決死の敵中突破
戦局が東軍に有利となると、島津軍は戦場で孤立し退路を断たれました。義弘は切腹を覚悟しますが、「戦後の難局に立ち向かうには義弘公が生き残らなければならない」という豊久の言葉を受け、薩摩に帰ることを決意します。
このとき義弘がとった方法が、敵の陣中を正面から突っ切る敵中突破です。しかし東軍の追撃は激しく、島津隊は「捨てがまり(捨て奸)」で時間を稼ぎました。これは最後尾の約10人が鉄砲で迎撃し、全員死ぬと次の10人がまた迎撃する捨て身の戦法です。
死を覚悟した島津隊の形相はただならぬもので、東軍の勇将・福島正則は手出ししなかったといいます。また本多忠勝は落馬させられ、松平忠吉や井伊直政も重傷を負いました。
豊久の最期
「島津の退き口」では、家老・長寿院淳盛に続き、豊久も捨てがまりを務めました。付き従う13騎とともに敵軍に入った豊久は、死闘を繰り広げて討ち死にします。その最期は壮絶で、複数の槍に突かれて3度宙を舞い、陣羽織はボロボロになったといいます。
このような豊久らの活躍により、義弘は無事に薩摩に帰還しました。
残されている逸話
生涯を通して勇猛果敢だった豊久ですが、若くして亡くなったためかその人物像はあまり知られていません。ここでは彼にまつわる逸話をご紹介します。
家臣想いで美少年だった
薩摩藩の伝承によれば豊久は美少年だったようで、残された史料には「比べるものがないくらい美しく、知略と武勇にも優れた少年」「無双の美童」「美少人」といった記載があります。
また家臣一人一人に自ら酒を振る舞うなど思いやりのある人物だったようで、家臣らは自分のことを想ってくれているのだと感じ、より一層奮闘したということです。
義弘を慕い自ら身代わりになる
「島津の退き口」で捨てがまりを務める際、豊久は義弘の別称である島津惟新を名乗り敵陣に進撃したといわれています。彼は義弘の身代わりになることを宣言し、見事その役目を果たしたのです。
豊久は自分を養育してくれた義弘に恩義を感じていました。関ヶ原の戦いで義弘のもとに真っ先に駆け付けたのも、恩義に報いるためだったのでしょう。
豊久の死にまつわる異説
豊久は関ヶ原の戦いで討ち死にしたとされますが、戦地から落ち延びたという異説も残されています。1つは無念の死を遂げ祟りで草木が生えなくなったというもの、もう1つは看病してくれる村人が疑われないように自刃したというものです。
なお、生き延びた義弘は豊久の討ち死にに確証がもてず、秘密裏に安否を探らせたといわれています。
戦国一の壮絶な死を遂げた武将
豊久には子が無く、姪の婿・喜入忠栄が家督を継承したものの断絶してしまいます。そのため島津久雄が継嗣に入り、永吉島津家として受け継がれました。
島津氏が治めた薩摩藩は、幕末には雄藩として強い影響力をもつようになります。その源流は豊久が見せた死闘や勇猛さにあったといえるでしょう。
豊久の討ち死に場所は諸説あり、墓所も複数存在しています。永吉島津家当主が入手した豊久の鎧は、現在でも鹿児島市にある尚古集成館で見ることができます。 | 薩摩藩の伝承によれば島津豊久は美少年だったようで、残された史料には何といった記載がありますか。 | 薩摩藩の伝承によれば島津豊久は美少年だったようで、残された史料には「比べるものがないくらい美しく、知略と武勇にも優れた少年」「無双の美童」「美少人」といった記載があります。 |
JCRRAG_012511 | 歴史 | 有名な「島津の退き口」とは?
多くの戦いで武勇を発揮した豊久ですが、関ヶ原の戦いにおける「島津の退き口」は最も勇猛果敢だったといえます。彼の最期はどのようなものだったのでしょうか。
関ヶ原の戦いに西軍として参加
豊久は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに義弘とともに参加します。当初義弘は東軍の援軍要請に応えましたが、やむを得ない事情により西軍として戦うことを決意。しかし義弘には本国の軍を動かす力がなく、手勢がわずかだったことから石田三成らに軽視されてしまいます。さらに大垣での軍議では、夜襲を提案したものの田舎戦法だと笑われました。
そのような事情もあり、いざ戦いが始まると豊久らは攻撃せず静観を決め込みます。驚いた三成は加勢を要請しますが、使者が下馬しなかったため豊久は激怒しました。このような島津方の動きは、西軍敗北の一因となったようです。
多くの犠牲を伴った決死の敵中突破
戦局が東軍に有利となると、島津軍は戦場で孤立し退路を断たれました。義弘は切腹を覚悟しますが、「戦後の難局に立ち向かうには義弘公が生き残らなければならない」という豊久の言葉を受け、薩摩に帰ることを決意します。
このとき義弘がとった方法が、敵の陣中を正面から突っ切る敵中突破です。しかし東軍の追撃は激しく、島津隊は「捨てがまり(捨て奸)」で時間を稼ぎました。これは最後尾の約10人が鉄砲で迎撃し、全員死ぬと次の10人がまた迎撃する捨て身の戦法です。
死を覚悟した島津隊の形相はただならぬもので、東軍の勇将・福島正則は手出ししなかったといいます。また本多忠勝は落馬させられ、松平忠吉や井伊直政も重傷を負いました。
豊久の最期
「島津の退き口」では、家老・長寿院淳盛に続き、豊久も捨てがまりを務めました。付き従う13騎とともに敵軍に入った豊久は、死闘を繰り広げて討ち死にします。その最期は壮絶で、複数の槍に突かれて3度宙を舞い、陣羽織はボロボロになったといいます。
このような豊久らの活躍により、義弘は無事に薩摩に帰還しました。
残されている逸話
生涯を通して勇猛果敢だった豊久ですが、若くして亡くなったためかその人物像はあまり知られていません。ここでは彼にまつわる逸話をご紹介します。
家臣想いで美少年だった
薩摩藩の伝承によれば豊久は美少年だったようで、残された史料には「比べるものがないくらい美しく、知略と武勇にも優れた少年」「無双の美童」「美少人」といった記載があります。
また家臣一人一人に自ら酒を振る舞うなど思いやりのある人物だったようで、家臣らは自分のことを想ってくれているのだと感じ、より一層奮闘したということです。
義弘を慕い自ら身代わりになる
「島津の退き口」で捨てがまりを務める際、豊久は義弘の別称である島津惟新を名乗り敵陣に進撃したといわれています。彼は義弘の身代わりになることを宣言し、見事その役目を果たしたのです。
豊久は自分を養育してくれた義弘に恩義を感じていました。関ヶ原の戦いで義弘のもとに真っ先に駆け付けたのも、恩義に報いるためだったのでしょう。
豊久の死にまつわる異説
豊久は関ヶ原の戦いで討ち死にしたとされますが、戦地から落ち延びたという異説も残されています。1つは無念の死を遂げ祟りで草木が生えなくなったというもの、もう1つは看病してくれる村人が疑われないように自刃したというものです。
なお、生き延びた義弘は豊久の討ち死にに確証がもてず、秘密裏に安否を探らせたといわれています。
戦国一の壮絶な死を遂げた武将
豊久には子が無く、姪の婿・喜入忠栄が家督を継承したものの断絶してしまいます。そのため島津久雄が継嗣に入り、永吉島津家として受け継がれました。
島津氏が治めた薩摩藩は、幕末には雄藩として強い影響力をもつようになります。その源流は豊久が見せた死闘や勇猛さにあったといえるでしょう。
豊久の討ち死に場所は諸説あり、墓所も複数存在しています。永吉島津家当主が入手した豊久の鎧は、現在でも鹿児島市にある尚古集成館で見ることができます。 | 豊久はどの戦いで討ち死にしたとされますか。 | 豊久は関ヶ原の戦いで討ち死にしたとされます。 |
JCRRAG_012512 | 歴史 | 天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、浅井長政である。
長政の生い立ちと浅井家の台頭
北近江国の戦国大名として知られる長政ですが、生まれたときの勢力図は複雑なものでした。彼はどうような状況で育ったのでしょうか。
生まれから家督相続まで
長政は、天文14年(1545)浅井久政の嫡男として南近江の観音寺城下で生まれました。
この頃の浅井氏は北近江の守護・京極氏に下剋上を果たしたものの、南近江の守護・六角氏に敗れて臣従している状態でした。臣従関係を明確にしたい六角氏は、長政に対し当主・六角義賢から一字とった賢政を名乗らせ、家臣・平井定武の娘との婚姻を強制します。
しかし永禄3年(1560)15歳で元服した長政が、野良田の戦いで六角氏に勝利。六角氏に臣従する現状に不満をもつ家臣たちは、この勝利で長政に期待を寄せるようになりました。そして、ついには久政を追放して隠居させてしまいます。こうして長政は強奪するように家督を継ぎました。
六角家から離反!成長を遂げる浅井家
長政は六角氏から離反する意思を示すため、名前を戻し平井定武の娘も返します。また永禄6年(1563)六角氏の筆頭家臣・後藤賢豊が暗殺されると、多くの六角氏家臣が浅井氏に仕官するようになりました。徐々に浅井家が成長を遂げる中、長政の美濃遠征中に六角氏が留守を攻撃するという事件も勃発。長政は見事この攻撃を破り、領土を拡大していったのです。
信長の義弟になるも敵対関係へ
勢力を増していった長政は、のちに天下人と呼ばれるようになる信長と同盟を結びます。しかしこれは長くは続きませんでした。
お市の方との政略結婚
尾張から勢力を拡大していた信長は、美濃の斎藤氏を攻略するため長政に同盟をもちかけました。これは長政に有利な内容でしたが、父の盟友・朝倉義景と信長が不仲だったため、浅井家では反対の声も多かったようです。
結果的に同盟は成立し、長政は戦国一の美女といわれる信長の妹・お市の方と政略結婚します。信長はこの同盟を喜び、通常なら長政側が用意すべき結婚資金も全額負担するほどでした。 | 天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、誰であるか。 | 天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、浅井長政である。 |
JCRRAG_012513 | 歴史 | 天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、浅井長政である。
長政の生い立ちと浅井家の台頭
北近江国の戦国大名として知られる長政ですが、生まれたときの勢力図は複雑なものでした。彼はどうような状況で育ったのでしょうか。
生まれから家督相続まで
長政は、天文14年(1545)浅井久政の嫡男として南近江の観音寺城下で生まれました。
この頃の浅井氏は北近江の守護・京極氏に下剋上を果たしたものの、南近江の守護・六角氏に敗れて臣従している状態でした。臣従関係を明確にしたい六角氏は、長政に対し当主・六角義賢から一字とった賢政を名乗らせ、家臣・平井定武の娘との婚姻を強制します。
しかし永禄3年(1560)15歳で元服した長政が、野良田の戦いで六角氏に勝利。六角氏に臣従する現状に不満をもつ家臣たちは、この勝利で長政に期待を寄せるようになりました。そして、ついには久政を追放して隠居させてしまいます。こうして長政は強奪するように家督を継ぎました。
六角家から離反!成長を遂げる浅井家
長政は六角氏から離反する意思を示すため、名前を戻し平井定武の娘も返します。また永禄6年(1563)六角氏の筆頭家臣・後藤賢豊が暗殺されると、多くの六角氏家臣が浅井氏に仕官するようになりました。徐々に浅井家が成長を遂げる中、長政の美濃遠征中に六角氏が留守を攻撃するという事件も勃発。長政は見事この攻撃を破り、領土を拡大していったのです。
信長の義弟になるも敵対関係へ
勢力を増していった長政は、のちに天下人と呼ばれるようになる信長と同盟を結びます。しかしこれは長くは続きませんでした。
お市の方との政略結婚
尾張から勢力を拡大していた信長は、美濃の斎藤氏を攻略するため長政に同盟をもちかけました。これは長政に有利な内容でしたが、父の盟友・朝倉義景と信長が不仲だったため、浅井家では反対の声も多かったようです。
結果的に同盟は成立し、長政は戦国一の美女といわれる信長の妹・お市の方と政略結婚します。信長はこの同盟を喜び、通常なら長政側が用意すべき結婚資金も全額負担するほどでした。 | 浅井長政は、天文14年(1545)浅井久政の嫡男としてどこで生まれましたか。 | 浅井長政は、天文14年(1545)浅井久政の嫡男として南近江の観音寺城下で生まれました。 |
JCRRAG_012514 | 歴史 | 天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、浅井長政である。
長政の生い立ちと浅井家の台頭
北近江国の戦国大名として知られる長政ですが、生まれたときの勢力図は複雑なものでした。彼はどうような状況で育ったのでしょうか。
生まれから家督相続まで
長政は、天文14年(1545)浅井久政の嫡男として南近江の観音寺城下で生まれました。
この頃の浅井氏は北近江の守護・京極氏に下剋上を果たしたものの、南近江の守護・六角氏に敗れて臣従している状態でした。臣従関係を明確にしたい六角氏は、長政に対し当主・六角義賢から一字とった賢政を名乗らせ、家臣・平井定武の娘との婚姻を強制します。
しかし永禄3年(1560)15歳で元服した長政が、野良田の戦いで六角氏に勝利。六角氏に臣従する現状に不満をもつ家臣たちは、この勝利で長政に期待を寄せるようになりました。そして、ついには久政を追放して隠居させてしまいます。こうして長政は強奪するように家督を継ぎました。
六角家から離反!成長を遂げる浅井家
長政は六角氏から離反する意思を示すため、名前を戻し平井定武の娘も返します。また永禄6年(1563)六角氏の筆頭家臣・後藤賢豊が暗殺されると、多くの六角氏家臣が浅井氏に仕官するようになりました。徐々に浅井家が成長を遂げる中、長政の美濃遠征中に六角氏が留守を攻撃するという事件も勃発。長政は見事この攻撃を破り、領土を拡大していったのです。
信長の義弟になるも敵対関係へ
勢力を増していった長政は、のちに天下人と呼ばれるようになる信長と同盟を結びます。しかしこれは長くは続きませんでした。
お市の方との政略結婚
尾張から勢力を拡大していた信長は、美濃の斎藤氏を攻略するため長政に同盟をもちかけました。これは長政に有利な内容でしたが、父の盟友・朝倉義景と信長が不仲だったため、浅井家では反対の声も多かったようです。
結果的に同盟は成立し、長政は戦国一の美女といわれる信長の妹・お市の方と政略結婚します。信長はこの同盟を喜び、通常なら長政側が用意すべき結婚資金も全額負担するほどでした。 | 長政は、野良田の戦いで誰に勝利しましたか。 | 長政は、野良田の戦いで六角氏に勝利しました。 |
JCRRAG_012515 | 歴史 | 天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、浅井長政である。
長政の生い立ちと浅井家の台頭
北近江国の戦国大名として知られる長政ですが、生まれたときの勢力図は複雑なものでした。彼はどうような状況で育ったのでしょうか。
生まれから家督相続まで
長政は、天文14年(1545)浅井久政の嫡男として南近江の観音寺城下で生まれました。
この頃の浅井氏は北近江の守護・京極氏に下剋上を果たしたものの、南近江の守護・六角氏に敗れて臣従している状態でした。臣従関係を明確にしたい六角氏は、長政に対し当主・六角義賢から一字とった賢政を名乗らせ、家臣・平井定武の娘との婚姻を強制します。
しかし永禄3年(1560)15歳で元服した長政が、野良田の戦いで六角氏に勝利。六角氏に臣従する現状に不満をもつ家臣たちは、この勝利で長政に期待を寄せるようになりました。そして、ついには久政を追放して隠居させてしまいます。こうして長政は強奪するように家督を継ぎました。
六角家から離反!成長を遂げる浅井家
長政は六角氏から離反する意思を示すため、名前を戻し平井定武の娘も返します。また永禄6年(1563)六角氏の筆頭家臣・後藤賢豊が暗殺されると、多くの六角氏家臣が浅井氏に仕官するようになりました。徐々に浅井家が成長を遂げる中、長政の美濃遠征中に六角氏が留守を攻撃するという事件も勃発。長政は見事この攻撃を破り、領土を拡大していったのです。
信長の義弟になるも敵対関係へ
勢力を増していった長政は、のちに天下人と呼ばれるようになる信長と同盟を結びます。しかしこれは長くは続きませんでした。
お市の方との政略結婚
尾張から勢力を拡大していた信長は、美濃の斎藤氏を攻略するため長政に同盟をもちかけました。これは長政に有利な内容でしたが、父の盟友・朝倉義景と信長が不仲だったため、浅井家では反対の声も多かったようです。
結果的に同盟は成立し、長政は戦国一の美女といわれる信長の妹・お市の方と政略結婚します。信長はこの同盟を喜び、通常なら長政側が用意すべき結婚資金も全額負担するほどでした。 | 浅井長政は六角氏から離反する意思を示すため、名前を戻し、誰を返しますか。 | 浅井長政は六角氏から離反する意思を示すため、名前を戻し平井定武の娘も返します。 |
JCRRAG_012516 | 歴史 | 天下人となった織田信長を支えながらも最後には敵対するという、時代に翻弄された人物は、浅井長政である。
長政の生い立ちと浅井家の台頭
北近江国の戦国大名として知られる長政ですが、生まれたときの勢力図は複雑なものでした。彼はどうような状況で育ったのでしょうか。
生まれから家督相続まで
長政は、天文14年(1545)浅井久政の嫡男として南近江の観音寺城下で生まれました。
この頃の浅井氏は北近江の守護・京極氏に下剋上を果たしたものの、南近江の守護・六角氏に敗れて臣従している状態でした。臣従関係を明確にしたい六角氏は、長政に対し当主・六角義賢から一字とった賢政を名乗らせ、家臣・平井定武の娘との婚姻を強制します。
しかし永禄3年(1560)15歳で元服した長政が、野良田の戦いで六角氏に勝利。六角氏に臣従する現状に不満をもつ家臣たちは、この勝利で長政に期待を寄せるようになりました。そして、ついには久政を追放して隠居させてしまいます。こうして長政は強奪するように家督を継ぎました。
六角家から離反!成長を遂げる浅井家
長政は六角氏から離反する意思を示すため、名前を戻し平井定武の娘も返します。また永禄6年(1563)六角氏の筆頭家臣・後藤賢豊が暗殺されると、多くの六角氏家臣が浅井氏に仕官するようになりました。徐々に浅井家が成長を遂げる中、長政の美濃遠征中に六角氏が留守を攻撃するという事件も勃発。長政は見事この攻撃を破り、領土を拡大していったのです。
信長の義弟になるも敵対関係へ
勢力を増していった長政は、のちに天下人と呼ばれるようになる信長と同盟を結びます。しかしこれは長くは続きませんでした。
お市の方との政略結婚
尾張から勢力を拡大していた信長は、美濃の斎藤氏を攻略するため長政に同盟をもちかけました。これは長政に有利な内容でしたが、父の盟友・朝倉義景と信長が不仲だったため、浅井家では反対の声も多かったようです。
結果的に同盟は成立し、長政は戦国一の美女といわれる信長の妹・お市の方と政略結婚します。信長はこの同盟を喜び、通常なら長政側が用意すべき結婚資金も全額負担するほどでした。 | 結果的に同盟は成立し、浅井長政は戦国一の美女といわれる誰と政略結婚しますか。 | 結果的に同盟は成立し、浅井長政は戦国一の美女といわれる信長の妹・お市の方と政略結婚します。 |
JCRRAG_012517 | 歴史 | 織田信長による裏切り
元亀元年(1570)織田信長は浅井長政と結んだ「朝倉への不戦の誓い」を破ります。義景は足利義昭が上洛する際の援護要請に応じず、義昭が将軍となった後も2度の上洛命令を拒否しました。これに怒った信長は義景を攻撃。義兄の裏切りを知った長政は、悩んだ末に朝倉家との同盟を重視し、織田・徳川連合軍を背後から急襲します。こうして義理の兄弟だった長政と信長の関係は一気に崩れていきました。
姉川の戦いで信長と対立
信長と敵対することになった浅井長政は、姉川の戦いで織田・徳川連合軍と激突します。織田方は徳川家康の援軍とあわせて約3万の兵力、長政も義景に援軍を求めますがこちらは約2万の兵力。当初は浅井・朝倉連合軍が優勢でしたが、家康軍の活躍によりこの戦いは織田・徳川連合軍の勝利に終わりました。この時、信長軍が敗走の用意をしていたという逸話も残されていますが、信ぴょう性は薄いようです。
浅井家の滅亡
天正元年(1573)信長による北近江攻撃が再開されました。応戦する長政ですが、織田軍の兵力は約6倍と歴然の差で、浅井家は滅亡に追い込まれます。
小谷城の戦いで籠城する
信長の攻撃により本拠地の小谷城を包囲された長政は、5千の軍勢とともに籠城しました。対抗手段は義景の援軍のみでしたが、2万の兵力で駆けつけた朝倉軍は前哨戦での敗北や城砦の失陥もあり越前国へと撤退。信長はこの朝倉軍を追撃して壊滅に追い込みます。
浅井家では家臣の離反が相次ぎ孤立が強まりましたが、それでも長政は使者・秀吉による降伏勧告を最後まで断り続けました。
『信長公記』にみる長政の最期
信長に徹底抗戦した長政でしたが、最期は自害してこの世を去ります。『信長公記』では天正元年(1573)8月27日に父・久政が、翌28日に長政が小谷城内赤尾屋敷で自害したとされますが、29日付の配下に当てた書状が発見されたことから命日は9月1日と判明しています。これにより浅井家は滅亡し、3代目当主だった長政は29年の人生に幕を閉じました。
義を重んじた長政の人物像とは?
信長と敵対し短い一生を終えた長政ですが、その逸話からは義理人情に厚い戦国武将だったことがうかがえます。ここでは長政の人物像がわかる逸話をいくつかご紹介します。
信長の足利義昭上洛を支援
将軍・義昭を奉じて上洛する際、信長は長政に協力を願い出ました。これを了承した長政は家臣に信長の接待をさせます。
少ない手勢で宿泊する信長を見た家臣は「ここで夜襲をかけて討ち取るべき」と進言しましたが、長政は義兄の信長を騙し討ちするような卑怯なことはできないと拒否。その後は将軍・義昭の警護にも協力し信長を助けました。
小谷城落城の際に妻子を逃がした
長政のエピソードとして最も有名なのが、小谷城落城の際の妻子への対応です。長政はまだ若い妻と幼い3人の子供たちの命を保証するよう、信長に引き渡して生かしました。お市の方は共に自刃することを申し出ましたが、長政の説得を受け入れ、残された子供たちを立派に育て上げたのです。
最期まで家臣に感謝した書状が残る
小谷城落城前、長政は家臣・片桐直貞に書状を残しました。この長政による最後の書状には、家臣らが相次いで寝返るなか最後まで忠義を尽くしてくれたことへの感謝が綴られていたといいます。これは新しい主君への推薦状にもなっており、直貞はこの書状により羽柴家に召し抱えられました。
信長との仲は?頭蓋骨の盃の意味
信長が長政の頭蓋骨を盃にした話は、信長の残虐性を示す逸話として知られています。しかし『信長公記』には、頭蓋骨を箔濃(はくだみ)にして宴酒を催したとあります。
箔濃とは漆塗りの上に金粉をかけたもので、中国では倒した敵将に敬意を払って弔う意味がありました。信長が何度も降伏勧告したのは、それだけ長政を買っていたからとも考えられます。髑髏(どくろ)を飾ったのは供養と成仏のためで、それが信長なりの義の貫き方だったのかもしれません。
浅井家最後の当主となった長政
義勇に優れ29歳という若さで亡くなった長政。華々しく歴史に名を刻むことはありませんでしたが、その義理堅さと人情味溢れるエピソードは広く知られるようになりました。
浅井氏は3代目の長政で断絶しましたが、お市の方との間に生まれた三姉妹は有力武将らに嫁いで浅井家の血を残しています。特に三女・江は徳川将軍家の繁栄にも貢献しました。 | 義兄の裏切りを知った浅井長政は、悩んだ末に朝倉家との同盟を重視し、何軍を背後から急襲しますか。 | 義兄の裏切りを知った浅井長政は、悩んだ末に朝倉家との同盟を重視し、織田・徳川連合軍を背後から急襲します。 |
JCRRAG_012518 | 歴史 | 織田信長による裏切り
元亀元年(1570)織田信長は浅井長政と結んだ「朝倉への不戦の誓い」を破ります。義景は足利義昭が上洛する際の援護要請に応じず、義昭が将軍となった後も2度の上洛命令を拒否しました。これに怒った信長は義景を攻撃。義兄の裏切りを知った長政は、悩んだ末に朝倉家との同盟を重視し、織田・徳川連合軍を背後から急襲します。こうして義理の兄弟だった長政と信長の関係は一気に崩れていきました。
姉川の戦いで信長と対立
信長と敵対することになった浅井長政は、姉川の戦いで織田・徳川連合軍と激突します。織田方は徳川家康の援軍とあわせて約3万の兵力、長政も義景に援軍を求めますがこちらは約2万の兵力。当初は浅井・朝倉連合軍が優勢でしたが、家康軍の活躍によりこの戦いは織田・徳川連合軍の勝利に終わりました。この時、信長軍が敗走の用意をしていたという逸話も残されていますが、信ぴょう性は薄いようです。
浅井家の滅亡
天正元年(1573)信長による北近江攻撃が再開されました。応戦する長政ですが、織田軍の兵力は約6倍と歴然の差で、浅井家は滅亡に追い込まれます。
小谷城の戦いで籠城する
信長の攻撃により本拠地の小谷城を包囲された長政は、5千の軍勢とともに籠城しました。対抗手段は義景の援軍のみでしたが、2万の兵力で駆けつけた朝倉軍は前哨戦での敗北や城砦の失陥もあり越前国へと撤退。信長はこの朝倉軍を追撃して壊滅に追い込みます。
浅井家では家臣の離反が相次ぎ孤立が強まりましたが、それでも長政は使者・秀吉による降伏勧告を最後まで断り続けました。
『信長公記』にみる長政の最期
信長に徹底抗戦した長政でしたが、最期は自害してこの世を去ります。『信長公記』では天正元年(1573)8月27日に父・久政が、翌28日に長政が小谷城内赤尾屋敷で自害したとされますが、29日付の配下に当てた書状が発見されたことから命日は9月1日と判明しています。これにより浅井家は滅亡し、3代目当主だった長政は29年の人生に幕を閉じました。
義を重んじた長政の人物像とは?
信長と敵対し短い一生を終えた長政ですが、その逸話からは義理人情に厚い戦国武将だったことがうかがえます。ここでは長政の人物像がわかる逸話をいくつかご紹介します。
信長の足利義昭上洛を支援
将軍・義昭を奉じて上洛する際、信長は長政に協力を願い出ました。これを了承した長政は家臣に信長の接待をさせます。
少ない手勢で宿泊する信長を見た家臣は「ここで夜襲をかけて討ち取るべき」と進言しましたが、長政は義兄の信長を騙し討ちするような卑怯なことはできないと拒否。その後は将軍・義昭の警護にも協力し信長を助けました。
小谷城落城の際に妻子を逃がした
長政のエピソードとして最も有名なのが、小谷城落城の際の妻子への対応です。長政はまだ若い妻と幼い3人の子供たちの命を保証するよう、信長に引き渡して生かしました。お市の方は共に自刃することを申し出ましたが、長政の説得を受け入れ、残された子供たちを立派に育て上げたのです。
最期まで家臣に感謝した書状が残る
小谷城落城前、長政は家臣・片桐直貞に書状を残しました。この長政による最後の書状には、家臣らが相次いで寝返るなか最後まで忠義を尽くしてくれたことへの感謝が綴られていたといいます。これは新しい主君への推薦状にもなっており、直貞はこの書状により羽柴家に召し抱えられました。
信長との仲は?頭蓋骨の盃の意味
信長が長政の頭蓋骨を盃にした話は、信長の残虐性を示す逸話として知られています。しかし『信長公記』には、頭蓋骨を箔濃(はくだみ)にして宴酒を催したとあります。
箔濃とは漆塗りの上に金粉をかけたもので、中国では倒した敵将に敬意を払って弔う意味がありました。信長が何度も降伏勧告したのは、それだけ長政を買っていたからとも考えられます。髑髏(どくろ)を飾ったのは供養と成仏のためで、それが信長なりの義の貫き方だったのかもしれません。
浅井家最後の当主となった長政
義勇に優れ29歳という若さで亡くなった長政。華々しく歴史に名を刻むことはありませんでしたが、その義理堅さと人情味溢れるエピソードは広く知られるようになりました。
浅井氏は3代目の長政で断絶しましたが、お市の方との間に生まれた三姉妹は有力武将らに嫁いで浅井家の血を残しています。特に三女・江は徳川将軍家の繁栄にも貢献しました。 | 浅井長政は何を最後まで断り続けましたか。 | 浅井長政は使者・秀吉による降伏勧告を最後まで断り続けました。 |
JCRRAG_012519 | 歴史 | 信長による裏切り
元亀元年(1570)信長は長政と結んだ「朝倉への不戦の誓い」を破ります。義景は足利義昭が上洛する際の援護要請に応じず、義昭が将軍となった後も2度の上洛命令を拒否しました。これに怒った信長は義景を攻撃。義兄の裏切りを知った長政は、悩んだ末に朝倉家との同盟を重視し、織田・徳川連合軍を背後から急襲します。こうして義理の兄弟だった長政と信長の関係は一気に崩れていきました。
姉川の戦いで信長と対立
信長と敵対することになった長政は、姉川の戦いで織田・徳川連合軍と激突します。織田方は徳川家康の援軍とあわせて約3万の兵力、長政も義景に援軍を求めますがこちらは約2万の兵力。当初は浅井・朝倉連合軍が優勢でしたが、家康軍の活躍によりこの戦いは織田・徳川連合軍の勝利に終わりました。この時、信長軍が敗走の用意をしていたという逸話も残されていますが、信ぴょう性は薄いようです。
浅井家の滅亡
天正元年(1573)信長による北近江攻撃が再開されました。応戦する長政ですが、織田軍の兵力は約6倍と歴然の差で、浅井家は滅亡に追い込まれます。
小谷城の戦いで籠城する
信長の攻撃により本拠地の小谷城を包囲された長政は、5千の軍勢とともに籠城しました。対抗手段は義景の援軍のみでしたが、2万の兵力で駆けつけた朝倉軍は前哨戦での敗北や城砦の失陥もあり越前国へと撤退。信長はこの朝倉軍を追撃して壊滅に追い込みます。
浅井家では家臣の離反が相次ぎ孤立が強まりましたが、それでも長政は使者・秀吉による降伏勧告を最後まで断り続けました。
『信長公記』にみる長政の最期
信長に徹底抗戦した長政でしたが、最期は自害してこの世を去ります。『信長公記』では天正元年(1573)8月27日に父・久政が、翌28日に長政が小谷城内赤尾屋敷で自害したとされますが、29日付の配下に当てた書状が発見されたことから命日は9月1日と判明しています。これにより浅井家は滅亡し、3代目当主だった長政は29年の人生に幕を閉じました。
義を重んじた長政の人物像とは?
信長と敵対し短い一生を終えた長政ですが、その逸話からは義理人情に厚い戦国武将だったことがうかがえます。ここでは長政の人物像がわかる逸話をいくつかご紹介します。
信長の足利義昭上洛を支援
将軍・義昭を奉じて上洛する際、信長は長政に協力を願い出ました。これを了承した長政は家臣に信長の接待をさせます。
少ない手勢で宿泊する信長を見た家臣は「ここで夜襲をかけて討ち取るべき」と進言しましたが、長政は義兄の信長を騙し討ちするような卑怯なことはできないと拒否。その後は将軍・義昭の警護にも協力し信長を助けました。
小谷城落城の際に妻子を逃がした
長政のエピソードとして最も有名なのが、小谷城落城の際の妻子への対応です。長政はまだ若い妻と幼い3人の子供たちの命を保証するよう、信長に引き渡して生かしました。お市の方は共に自刃することを申し出ましたが、長政の説得を受け入れ、残された子供たちを立派に育て上げたのです。
最期まで家臣に感謝した書状が残る
小谷城落城前、長政は家臣・片桐直貞に書状を残しました。この長政による最後の書状には、家臣らが相次いで寝返るなか最後まで忠義を尽くしてくれたことへの感謝が綴られていたといいます。これは新しい主君への推薦状にもなっており、直貞はこの書状により羽柴家に召し抱えられました。
信長との仲は?頭蓋骨の盃の意味
信長が長政の頭蓋骨を盃にした話は、信長の残虐性を示す逸話として知られています。しかし『信長公記』には、頭蓋骨を箔濃(はくだみ)にして宴酒を催したとあります。
箔濃とは漆塗りの上に金粉をかけたもので、中国では倒した敵将に敬意を払って弔う意味がありました。信長が何度も降伏勧告したのは、それだけ長政を買っていたからとも考えられます。髑髏(どくろ)を飾ったのは供養と成仏のためで、それが信長なりの義の貫き方だったのかもしれません。
浅井家最後の当主となった長政
義勇に優れ29歳という若さで亡くなった長政。華々しく歴史に名を刻むことはありませんでしたが、その義理堅さと人情味溢れるエピソードは広く知られるようになりました。
浅井氏は3代目の長政で断絶しましたが、お市の方との間に生まれた三姉妹は有力武将らに嫁いで浅井家の血を残しています。特に三女・江は徳川将軍家の繁栄にも貢献しました。 | 長政はどのような卑怯なことはできないと拒否しましたか。 | 長政は義兄の信長を騙し討ちするような卑怯なことはできないと拒否しました。 |
JCRRAG_012520 | 歴史 | 織田信長による裏切り
元亀元年(1570)織田信長は浅井長政と結んだ「朝倉への不戦の誓い」を破ります。義景は足利義昭が上洛する際の援護要請に応じず、義昭が将軍となった後も2度の上洛命令を拒否しました。これに怒った信長は義景を攻撃。義兄の裏切りを知った長政は、悩んだ末に朝倉家との同盟を重視し、織田・徳川連合軍を背後から急襲します。こうして義理の兄弟だった長政と信長の関係は一気に崩れていきました。
姉川の戦いで信長と対立
信長と敵対することになった浅井長政は、姉川の戦いで織田・徳川連合軍と激突します。織田方は徳川家康の援軍とあわせて約3万の兵力、長政も義景に援軍を求めますがこちらは約2万の兵力。当初は浅井・朝倉連合軍が優勢でしたが、家康軍の活躍によりこの戦いは織田・徳川連合軍の勝利に終わりました。この時、信長軍が敗走の用意をしていたという逸話も残されていますが、信ぴょう性は薄いようです。
浅井家の滅亡
天正元年(1573)信長による北近江攻撃が再開されました。応戦する長政ですが、織田軍の兵力は約6倍と歴然の差で、浅井家は滅亡に追い込まれます。
小谷城の戦いで籠城する
信長の攻撃により本拠地の小谷城を包囲された長政は、5千の軍勢とともに籠城しました。対抗手段は義景の援軍のみでしたが、2万の兵力で駆けつけた朝倉軍は前哨戦での敗北や城砦の失陥もあり越前国へと撤退。信長はこの朝倉軍を追撃して壊滅に追い込みます。
浅井家では家臣の離反が相次ぎ孤立が強まりましたが、それでも長政は使者・秀吉による降伏勧告を最後まで断り続けました。
『信長公記』にみる長政の最期
信長に徹底抗戦した長政でしたが、最期は自害してこの世を去ります。『信長公記』では天正元年(1573)8月27日に父・久政が、翌28日に長政が小谷城内赤尾屋敷で自害したとされますが、29日付の配下に当てた書状が発見されたことから命日は9月1日と判明しています。これにより浅井家は滅亡し、3代目当主だった長政は29年の人生に幕を閉じました。
義を重んじた長政の人物像とは?
信長と敵対し短い一生を終えた長政ですが、その逸話からは義理人情に厚い戦国武将だったことがうかがえます。ここでは長政の人物像がわかる逸話をいくつかご紹介します。
信長の足利義昭上洛を支援
将軍・義昭を奉じて上洛する際、信長は長政に協力を願い出ました。これを了承した長政は家臣に信長の接待をさせます。
少ない手勢で宿泊する信長を見た家臣は「ここで夜襲をかけて討ち取るべき」と進言しましたが、長政は義兄の信長を騙し討ちするような卑怯なことはできないと拒否。その後は将軍・義昭の警護にも協力し信長を助けました。
小谷城落城の際に妻子を逃がした
長政のエピソードとして最も有名なのが、小谷城落城の際の妻子への対応です。長政はまだ若い妻と幼い3人の子供たちの命を保証するよう、信長に引き渡して生かしました。お市の方は共に自刃することを申し出ましたが、長政の説得を受け入れ、残された子供たちを立派に育て上げたのです。
最期まで家臣に感謝した書状が残る
小谷城落城前、長政は家臣・片桐直貞に書状を残しました。この長政による最後の書状には、家臣らが相次いで寝返るなか最後まで忠義を尽くしてくれたことへの感謝が綴られていたといいます。これは新しい主君への推薦状にもなっており、直貞はこの書状により羽柴家に召し抱えられました。
信長との仲は?頭蓋骨の盃の意味
信長が長政の頭蓋骨を盃にした話は、信長の残虐性を示す逸話として知られています。しかし『信長公記』には、頭蓋骨を箔濃(はくだみ)にして宴酒を催したとあります。
箔濃とは漆塗りの上に金粉をかけたもので、中国では倒した敵将に敬意を払って弔う意味がありました。信長が何度も降伏勧告したのは、それだけ長政を買っていたからとも考えられます。髑髏(どくろ)を飾ったのは供養と成仏のためで、それが信長なりの義の貫き方だったのかもしれません。
浅井家最後の当主となった長政
義勇に優れ29歳という若さで亡くなった長政。華々しく歴史に名を刻むことはありませんでしたが、その義理堅さと人情味溢れるエピソードは広く知られるようになりました。
浅井氏は3代目の長政で断絶しましたが、お市の方との間に生まれた三姉妹は有力武将らに嫁いで浅井家の血を残しています。特に三女・江は徳川将軍家の繁栄にも貢献しました。 | 浅井長政はまだ若い妻と幼い3人の子供たちの命を保証するよう、誰に引き渡して生かしましたか。 | 浅井長政はまだ若い妻と幼い3人の子供たちの命を保証するよう、信長に引き渡して生かしました。 |
JCRRAG_012521 | 歴史 | 織田信長による裏切り
元亀元年(1570)織田信長は浅井長政と結んだ「朝倉への不戦の誓い」を破ります。義景は足利義昭が上洛する際の援護要請に応じず、義昭が将軍となった後も2度の上洛命令を拒否しました。これに怒った信長は義景を攻撃。義兄の裏切りを知った長政は、悩んだ末に朝倉家との同盟を重視し、織田・徳川連合軍を背後から急襲します。こうして義理の兄弟だった長政と信長の関係は一気に崩れていきました。
姉川の戦いで信長と対立
信長と敵対することになった浅井長政は、姉川の戦いで織田・徳川連合軍と激突します。織田方は徳川家康の援軍とあわせて約3万の兵力、長政も義景に援軍を求めますがこちらは約2万の兵力。当初は浅井・朝倉連合軍が優勢でしたが、家康軍の活躍によりこの戦いは織田・徳川連合軍の勝利に終わりました。この時、信長軍が敗走の用意をしていたという逸話も残されていますが、信ぴょう性は薄いようです。
浅井家の滅亡
天正元年(1573)信長による北近江攻撃が再開されました。応戦する長政ですが、織田軍の兵力は約6倍と歴然の差で、浅井家は滅亡に追い込まれます。
小谷城の戦いで籠城する
信長の攻撃により本拠地の小谷城を包囲された長政は、5千の軍勢とともに籠城しました。対抗手段は義景の援軍のみでしたが、2万の兵力で駆けつけた朝倉軍は前哨戦での敗北や城砦の失陥もあり越前国へと撤退。信長はこの朝倉軍を追撃して壊滅に追い込みます。
浅井家では家臣の離反が相次ぎ孤立が強まりましたが、それでも長政は使者・秀吉による降伏勧告を最後まで断り続けました。
『信長公記』にみる長政の最期
信長に徹底抗戦した長政でしたが、最期は自害してこの世を去ります。『信長公記』では天正元年(1573)8月27日に父・久政が、翌28日に長政が小谷城内赤尾屋敷で自害したとされますが、29日付の配下に当てた書状が発見されたことから命日は9月1日と判明しています。これにより浅井家は滅亡し、3代目当主だった長政は29年の人生に幕を閉じました。
義を重んじた長政の人物像とは?
信長と敵対し短い一生を終えた長政ですが、その逸話からは義理人情に厚い戦国武将だったことがうかがえます。ここでは長政の人物像がわかる逸話をいくつかご紹介します。
信長の足利義昭上洛を支援
将軍・義昭を奉じて上洛する際、信長は長政に協力を願い出ました。これを了承した長政は家臣に信長の接待をさせます。
少ない手勢で宿泊する信長を見た家臣は「ここで夜襲をかけて討ち取るべき」と進言しましたが、長政は義兄の信長を騙し討ちするような卑怯なことはできないと拒否。その後は将軍・義昭の警護にも協力し信長を助けました。
小谷城落城の際に妻子を逃がした
長政のエピソードとして最も有名なのが、小谷城落城の際の妻子への対応です。長政はまだ若い妻と幼い3人の子供たちの命を保証するよう、信長に引き渡して生かしました。お市の方は共に自刃することを申し出ましたが、長政の説得を受け入れ、残された子供たちを立派に育て上げたのです。
最期まで家臣に感謝した書状が残る
小谷城落城前、長政は家臣・片桐直貞に書状を残しました。この長政による最後の書状には、家臣らが相次いで寝返るなか最後まで忠義を尽くしてくれたことへの感謝が綴られていたといいます。これは新しい主君への推薦状にもなっており、直貞はこの書状により羽柴家に召し抱えられました。
信長との仲は?頭蓋骨の盃の意味
信長が長政の頭蓋骨を盃にした話は、信長の残虐性を示す逸話として知られています。しかし『信長公記』には、頭蓋骨を箔濃(はくだみ)にして宴酒を催したとあります。
箔濃とは漆塗りの上に金粉をかけたもので、中国では倒した敵将に敬意を払って弔う意味がありました。信長が何度も降伏勧告したのは、それだけ長政を買っていたからとも考えられます。髑髏(どくろ)を飾ったのは供養と成仏のためで、それが信長なりの義の貫き方だったのかもしれません。
浅井家最後の当主となった長政
義勇に優れ29歳という若さで亡くなった長政。華々しく歴史に名を刻むことはありませんでしたが、その義理堅さと人情味溢れるエピソードは広く知られるようになりました。
浅井氏は3代目の長政で断絶しましたが、お市の方との間に生まれた三姉妹は有力武将らに嫁いで浅井家の血を残しています。特に三女・江は徳川将軍家の繁栄にも貢献しました。 | 元亀元年(1570)織田信長は浅井長政と結んだ何を破りますか。 | 元亀元年(1570)織田信長は浅井長政と結んだ「朝倉への不戦の誓い」を破ります。 |
JCRRAG_012522 | 歴史 | 室町幕府最後の将軍は、足利義昭である。
足利義昭の生い立ちと室町幕府
義昭が将軍になるまでには長い道のりがありました。彼が将軍になった背景には、どのような事情があったのでしょうか。
生まれから将軍になるまで
義昭は天文6年(1537)第12代将軍・義晴の次男として京都で生まれました。将軍職は兄・義輝が継ぐことになっていたため、嗣子以外の男子は出家させるという足利家の慣習にならい仏門に入ります。その後は覚慶と名乗り、興福寺一乗院で権少僧都になりました。
しかし、永禄8年(1565)、第13代将軍の兄が松永久通や三好三人衆によって暗殺されると状況が一変。彼自身も興福寺に幽閉されましたが、兄の側近に助けられ脱出に成功し、以降は室町幕府再興を掲げて自分が足利将軍家当主になることを決意します。
将軍就任のために上洛を目指す義昭でしたが、道中を援護してくれる者はなかなかいません。そんな中で義昭が頼ったのが、数ある戦国大名の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いだった信長でした。交渉役となった明智光秀により信長と通じることに成功した義昭は、信長に擁立されてついに入京。14代将軍・義栄が死去したのち、朝廷の宣下によって第15代将軍に就任したのです。
室町幕府の権力の復興を誓う
将軍となった義昭は、幕府再興のためにさまざまな行動を起こしました。まずは三好三人衆を庇った近衛前久を朝廷から追放。幕府の実務には義輝と同じく摂津晴門を起用し、義昭とともに行動していた奉行衆を復職させます。また管領家や関白家には領地を与えるなど、政権の安定を計りました。
その他にも烏丸中御門第を本拠として整備し、二重の水堀や高い石垣など防御力の高い将軍邸を築いています。この本拠には代々室町幕府に仕えてきた者や旧守護家の者が参勤するようになり、義昭は室町幕府再興を果たしたのです。 | 室町幕府最後の将軍は、誰であるか。 | 室町幕府最後の将軍は、足利義昭である。 |
JCRRAG_012523 | 歴史 | 室町幕府最後の将軍は、足利義昭である。
足利義昭の生い立ちと室町幕府
義昭が将軍になるまでには長い道のりがありました。彼が将軍になった背景には、どのような事情があったのでしょうか。
生まれから将軍になるまで
義昭は天文6年(1537)第12代将軍・義晴の次男として京都で生まれました。将軍職は兄・義輝が継ぐことになっていたため、嗣子以外の男子は出家させるという足利家の慣習にならい仏門に入ります。その後は覚慶と名乗り、興福寺一乗院で権少僧都になりました。
しかし、永禄8年(1565)、第13代将軍の兄が松永久通や三好三人衆によって暗殺されると状況が一変。彼自身も興福寺に幽閉されましたが、兄の側近に助けられ脱出に成功し、以降は室町幕府再興を掲げて自分が足利将軍家当主になることを決意します。
将軍就任のために上洛を目指す義昭でしたが、道中を援護してくれる者はなかなかいません。そんな中で義昭が頼ったのが、数ある戦国大名の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いだった信長でした。交渉役となった明智光秀により信長と通じることに成功した義昭は、信長に擁立されてついに入京。14代将軍・義栄が死去したのち、朝廷の宣下によって第15代将軍に就任したのです。
室町幕府の権力の復興を誓う
将軍となった義昭は、幕府再興のためにさまざまな行動を起こしました。まずは三好三人衆を庇った近衛前久を朝廷から追放。幕府の実務には義輝と同じく摂津晴門を起用し、義昭とともに行動していた奉行衆を復職させます。また管領家や関白家には領地を与えるなど、政権の安定を計りました。
その他にも烏丸中御門第を本拠として整備し、二重の水堀や高い石垣など防御力の高い将軍邸を築いています。この本拠には代々室町幕府に仕えてきた者や旧守護家の者が参勤するようになり、義昭は室町幕府再興を果たしたのです。 | 足利義昭は天文6年(1537)誰の次男として京都で生まれましたか。 | 足利義昭は天文6年(1537)第12代将軍・義晴の次男として京都で生まれました。 |
JCRRAG_012524 | 歴史 | 室町幕府最後の将軍は、足利義昭である。
足利義昭の生い立ちと室町幕府
義昭が将軍になるまでには長い道のりがありました。彼が将軍になった背景には、どのような事情があったのでしょうか。
生まれから将軍になるまで
義昭は天文6年(1537)第12代将軍・義晴の次男として京都で生まれました。将軍職は兄・義輝が継ぐことになっていたため、嗣子以外の男子は出家させるという足利家の慣習にならい仏門に入ります。その後は覚慶と名乗り、興福寺一乗院で権少僧都になりました。
しかし、永禄8年(1565)、第13代将軍の兄が松永久通や三好三人衆によって暗殺されると状況が一変。彼自身も興福寺に幽閉されましたが、兄の側近に助けられ脱出に成功し、以降は室町幕府再興を掲げて自分が足利将軍家当主になることを決意します。
将軍就任のために上洛を目指す義昭でしたが、道中を援護してくれる者はなかなかいません。そんな中で義昭が頼ったのが、数ある戦国大名の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いだった信長でした。交渉役となった明智光秀により信長と通じることに成功した義昭は、信長に擁立されてついに入京。14代将軍・義栄が死去したのち、朝廷の宣下によって第15代将軍に就任したのです。
室町幕府の権力の復興を誓う
将軍となった義昭は、幕府再興のためにさまざまな行動を起こしました。まずは三好三人衆を庇った近衛前久を朝廷から追放。幕府の実務には義輝と同じく摂津晴門を起用し、義昭とともに行動していた奉行衆を復職させます。また管領家や関白家には領地を与えるなど、政権の安定を計りました。
その他にも烏丸中御門第を本拠として整備し、二重の水堀や高い石垣など防御力の高い将軍邸を築いています。この本拠には代々室町幕府に仕えてきた者や旧守護家の者が参勤するようになり、義昭は室町幕府再興を果たしたのです。 | 足利義昭は天文6年(1537)第12代将軍・義晴の次男としてどこで生まれましたか。 | 足利義昭は天文6年(1537)第12代将軍・義晴の次男として京都で生まれました。 |
JCRRAG_012525 | 歴史 | 室町幕府最後の将軍は、足利義昭である。
足利義昭の生い立ちと室町幕府
義昭が将軍になるまでには長い道のりがありました。彼が将軍になった背景には、どのような事情があったのでしょうか。
生まれから将軍になるまで
義昭は天文6年(1537)第12代将軍・義晴の次男として京都で生まれました。将軍職は兄・義輝が継ぐことになっていたため、嗣子以外の男子は出家させるという足利家の慣習にならい仏門に入ります。その後は覚慶(かくけい)と名乗り、興福寺一乗院で権少僧都(ごんのしょうそうづ)になりました。
しかし、永禄8年(1565)、第13代将軍の兄が松永久通や三好三人衆によって暗殺されると状況が一変。彼自身も興福寺に幽閉されましたが、兄の側近に助けられ脱出に成功し、以降は室町幕府再興を掲げて自分が足利将軍家当主になることを決意します。
将軍就任のために上洛を目指す義昭でしたが、道中を援護してくれる者はなかなかいません。そんな中で義昭が頼ったのが、数ある戦国大名の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いだった信長でした。交渉役となった明智光秀により信長と通じることに成功した義昭は、信長に擁立されてついに入京。14代将軍・義栄が死去したのち、朝廷の宣下によって第15代将軍に就任したのです。
室町幕府の権力の復興を誓う
将軍となった義昭は、幕府再興のためにさまざまな行動を起こしました。まずは三好三人衆を庇った近衛前久(さきひさ)を朝廷から追放。幕府の実務には義輝と同じく摂津晴門を起用し、義昭とともに行動していた奉行衆を復職させます。また管領家や関白家には領地を与えるなど、政権の安定を計りました。
その他にも烏丸中御門第(からすまるなかみかどだい)を本拠として整備し、二重の水堀や高い石垣など防御力の高い将軍邸を築いています。この本拠には代々室町幕府に仕えてきた者や旧守護家の者が参勤するようになり、義昭は室町幕府再興を果たしたのです。 | 義昭は朝廷の宣下によって何に就任しましたか。 | 義昭は朝廷の宣下によって第15代将軍に就任しました。 |
JCRRAG_012526 | 歴史 | 室町幕府最後の将軍は、足利義昭である。
足利義昭の生い立ちと室町幕府
義昭が将軍になるまでには長い道のりがありました。彼が将軍になった背景には、どのような事情があったのでしょうか。
生まれから将軍になるまで
義昭は天文6年(1537)第12代将軍・義晴の次男として京都で生まれました。将軍職は兄・義輝が継ぐことになっていたため、嗣子以外の男子は出家させるという足利家の慣習にならい仏門に入ります。その後は覚慶と名乗り、興福寺一乗院で権少僧都になりました。
しかし、永禄8年(1565)、第13代将軍の兄が松永久通や三好三人衆によって暗殺されると状況が一変。彼自身も興福寺に幽閉されましたが、兄の側近に助けられ脱出に成功し、以降は室町幕府再興を掲げて自分が足利将軍家当主になることを決意します。
将軍就任のために上洛を目指す義昭でしたが、道中を援護してくれる者はなかなかいません。そんな中で義昭が頼ったのが、数ある戦国大名の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いだった信長でした。交渉役となった明智光秀により信長と通じることに成功した義昭は、信長に擁立されてついに入京。14代将軍・義栄が死去したのち、朝廷の宣下によって第15代将軍に就任したのです。
室町幕府の権力の復興を誓う
将軍となった義昭は、幕府再興のためにさまざまな行動を起こしました。まずは三好三人衆を庇った近衛前久を朝廷から追放。幕府の実務には義輝と同じく摂津晴門を起用し、義昭とともに行動していた奉行衆を復職させます。また管領家や関白家には領地を与えるなど、政権の安定を計りました。
その他にも烏丸中御門第を本拠として整備し、二重の水堀や高い石垣など防御力の高い将軍邸を築いています。この本拠には代々室町幕府に仕えてきた者や旧守護家の者が参勤するようになり、義昭は室町幕府再興を果たしたのです。 | 足利義昭は何を果たしたのですか。 | 足利義昭は室町幕府再興を果たしました。 |
JCRRAG_012527 | 歴史 | 強まる織田信長との対立
念願の幕府再興を遂げた義昭ですが、上洛の際に頼った信長との関係が徐々に悪化していきます。そして、やがて二人は対立するようになったのです。
信長包囲網と義昭
義昭は信長の武功を称え、彼が望んでいた尾張・美濃の領有と和泉の支配を認めました。さらに管領の地位や副将軍への推挙もしています。しかし、幕府再興を願う義昭に対し信長は武力による天下統一を目指しており、この思惑の違いが両者の溝を深めていきます。
この頃の信長は将軍の後見人として権勢を振るっており、将軍の権力を牽制するため「殿中御掟」という掟書を義昭に承認させました。このような状況に不満を募らせた義昭は、信長の影響力を抑制しようと考え、上杉謙信、毛利輝元、本願寺顕如、武田信玄、六角義賢らに御内書を送り、反信長連合の「信長包囲網」を張ります。この包囲網は、以前から信長と対立していた朝倉義景や浅井長政、義輝の敵だった松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わるほど大きなものでした。
信長に敗れ、京を追われる
信長包囲網により信長と対立した義昭でしたが、二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠ったものの最後には降伏することとなります。信長は京都から義昭を追放し、将軍家の領地を自分のものにしました。こうして信長包囲網は瓦解し、天下人となった信長による織田政権が誕生したのです。
追放された義昭は、顕如らの仲介で河内若江城へ、ついで和泉の堺へと移りました。また翌年には紀伊国の興国寺、田辺の泊城にも移っています。天正4年(1576)には輝元を頼って備後国の鞆へ移動、ここでの生活は御料所からの年貢や武将からの支援もあり窮迫していなかったようです。
この頃、義昭は京への帰還や信長追討を願い、全国の大名に御内書を出しました。再び信長包囲網を形成するために、対立していた武田、北条、上杉氏に和睦(甲相越三和)を命じるなど、室町幕府再興をもう一度目指したようです。
関白秀吉と将軍義昭
京を追放された義昭ですが、信長が本能寺で命を落とし、信長に代わって秀吉が天下人となったことで状況が大きく変化します。信長の死と関白秀吉の登場は、義昭にどのような影響を与えたのでしょうか。
信長の死の影響
天正10年(1582)信長とその嫡子・信忠が明智光秀に討たれる「本能寺の変」が起こります。義昭はこれを機に輝元や秀吉、柴田勝家らに上洛の支援を依頼し、翌年には輝元・勝家・徳川家康から上洛の支持を受けます。
天正13年(1585)秀吉が関白になると、その後2年半は「関白秀吉と将軍義昭」という時代が続きました。九州を治める島津義久に対して秀吉と和睦するよう勧めるなど、信長時代とは違い、義昭は秀吉とうまく連携していたといえるでしょう。
将軍義昭の最期
義昭は京への帰還を果たしますが、その翌年には将軍を辞し、戒名をもらって昌山(道休)と称するようになります。この頃の義昭は山城国槇島の1万石を領地として認められており、殿中では元将軍として厚い待遇を受けていたようです。
秀吉との関係は良好だったようで、文禄・慶長の役の際は秀吉から要請を受け軍勢200人を引きつれて参戦しています。晩年には秀吉の御伽衆の一人となり、良き話し相手となりました。
仏門に入ったのち将軍に就任するという数奇な運命を辿った義昭ですが、慶長2年(1597)8月に腫物で死去した。
流浪生活を経験した将軍
義昭は幕臣に守られたり諸大名を頼ったりしながら、何度も諸国を流浪しました。そのような背景から「貧乏公方」と噂されたといいます。しかし彼は、紆余曲折ありながらも61歳まで生きのびました。当時の日本人としては長生きだったといえるでしょう。
有力な戦国武将が台頭したこの時期、幕府再興は容易ではありませんでした。それでも義昭は、流浪生活に耐えながら室町幕府最後の将軍となったのです。 | 義昭は、信長の影響力を抑制しようと考え、誰に御内書を送り、反信長連合の「信長包囲網」を張りますか。 | 義昭は、信長の影響力を抑制しようと考え、上杉謙信、毛利輝元、本願寺顕如、武田信玄、六角義賢らに御内書を送り、反信長連合の「信長包囲網」を張ります。 |
JCRRAG_012528 | 歴史 | 強まる織田信長との対立
念願の幕府再興を遂げた足利義昭ですが、上洛の際に頼った信長との関係が徐々に悪化していきます。そして、やがて二人は対立するようになったのです。
信長包囲網と義昭
足利義昭は信長の武功を称え、彼が望んでいた尾張・美濃の領有と和泉の支配を認めました。さらに管領の地位や副将軍への推挙もしています。しかし、幕府再興を願う義昭に対し信長は武力による天下統一を目指しており、この思惑の違いが両者の溝を深めていきます。
この頃の信長は将軍の後見人として権勢を振るっており、将軍の権力を牽制するため「殿中御掟」という掟書を義昭に承認させました。このような状況に不満を募らせた義昭は、信長の影響力を抑制しようと考え、上杉謙信、毛利輝元、本願寺顕如、武田信玄、六角義賢らに御内書を送り、反信長連合の「信長包囲網」を張ります。この包囲網は、以前から信長と対立していた朝倉義景や浅井長政、義輝の敵だった松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わるほど大きなものでした。
信長に敗れ、京を追われる
信長包囲網により信長と対立した義昭でしたが、二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠ったものの最後には降伏することとなります。信長は京都から義昭を追放し、将軍家の領地を自分のものにしました。こうして信長包囲網は瓦解し、天下人となった信長による織田政権が誕生したのです。
追放された義昭は、顕如らの仲介で河内若江城へ、ついで和泉の堺へと移りました。また翌年には紀伊国の興国寺、田辺の泊城にも移っています。天正4年(1576)には輝元を頼って備後国の鞆へ移動、ここでの生活は御料所からの年貢や武将からの支援もあり窮迫していなかったようです。
この頃、義昭は京への帰還や信長追討を願い、全国の大名に御内書を出しました。再び信長包囲網を形成するために、対立していた武田、北条、上杉氏に和睦(甲相越三和)を命じるなど、室町幕府再興をもう一度目指したようです。
関白秀吉と将軍義昭
京を追放された義昭ですが、信長が本能寺で命を落とし、信長に代わって秀吉が天下人となったことで状況が大きく変化します。信長の死と関白秀吉の登場は、義昭にどのような影響を与えたのでしょうか。
信長の死の影響
天正10年(1582)信長とその嫡子・信忠が明智光秀に討たれる「本能寺の変」が起こります。義昭はこれを機に輝元や秀吉、柴田勝家らに上洛の支援を依頼し、翌年には輝元・勝家・徳川家康から上洛の支持を受けます。
天正13年(1585)秀吉が関白になると、その後2年半は「関白秀吉と将軍義昭」という時代が続きました。九州を治める島津義久に対して秀吉と和睦するよう勧めるなど、信長時代とは違い、義昭は秀吉とうまく連携していたといえるでしょう。
将軍義昭の最期
義昭は京への帰還を果たしますが、その翌年には将軍を辞し、戒名をもらって昌山(道休)と称するようになります。この頃の義昭は山城国槇島の1万石を領地として認められており、殿中では元将軍として厚い待遇を受けていたようです。
秀吉との関係は良好だったようで、文禄・慶長の役の際は秀吉から要請を受け軍勢200人を引きつれて参戦しています。晩年には秀吉の御伽衆の一人となり、良き話し相手となりました。
仏門に入ったのち将軍に就任するという数奇な運命を辿った義昭ですが、慶長2年(1597)8月に腫物で死去した。
流浪生活を経験した将軍
義昭は幕臣に守られたり諸大名を頼ったりしながら、何度も諸国を流浪しました。そのような背景から「貧乏公方」と噂されたといいます。しかし彼は、紆余曲折ありながらも61歳まで生きのびました。当時の日本人としては長生きだったといえるでしょう。
有力な戦国武将が台頭したこの時期、幕府再興は容易ではありませんでした。それでも義昭は、流浪生活に耐えながら室町幕府最後の将軍となったのです。 | 織田信長は京都から足利義昭を追放し、何を自分のものにしましたか。 | 織田信長は京都から足利義昭を追放し、将軍家の領地を自分のものにしました。 |
JCRRAG_012529 | 歴史 | 強まる織田信長との対立
念願の幕府再興を遂げた足利義昭ですが、上洛の際に頼った信長との関係が徐々に悪化していきます。そして、やがて二人は対立するようになったのです。
信長包囲網と義昭
足利義昭は信長の武功を称え、彼が望んでいた尾張・美濃の領有と和泉の支配を認めました。さらに管領の地位や副将軍への推挙もしています。しかし、幕府再興を願う義昭に対し信長は武力による天下統一を目指しており、この思惑の違いが両者の溝を深めていきます。
この頃の信長は将軍の後見人として権勢を振るっており、将軍の権力を牽制するため「殿中御掟」という掟書を義昭に承認させました。このような状況に不満を募らせた義昭は、信長の影響力を抑制しようと考え、上杉謙信、毛利輝元、本願寺顕如、武田信玄、六角義賢らに御内書を送り、反信長連合の「信長包囲網」を張ります。この包囲網は、以前から信長と対立していた朝倉義景や浅井長政、義輝の敵だった松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わるほど大きなものでした。
信長に敗れ、京を追われる
信長包囲網により信長と対立した義昭でしたが、二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠ったものの最後には降伏することとなります。信長は京都から義昭を追放し、将軍家の領地を自分のものにしました。こうして信長包囲網は瓦解し、天下人となった信長による織田政権が誕生したのです。
追放された義昭は、顕如らの仲介で河内若江城へ、ついで和泉の堺へと移りました。また翌年には紀伊国の興国寺、田辺の泊城にも移っています。天正4年(1576)には輝元を頼って備後国の鞆へ移動、ここでの生活は御料所からの年貢や武将からの支援もあり窮迫していなかったようです。
この頃、義昭は京への帰還や信長追討を願い、全国の大名に御内書を出しました。再び信長包囲網を形成するために、対立していた武田、北条、上杉氏に和睦(甲相越三和)を命じるなど、室町幕府再興をもう一度目指したようです。
関白秀吉と将軍義昭
京を追放された義昭ですが、信長が本能寺で命を落とし、信長に代わって秀吉が天下人となったことで状況が大きく変化します。信長の死と関白秀吉の登場は、義昭にどのような影響を与えたのでしょうか。
信長の死の影響
天正10年(1582)信長とその嫡子・信忠が明智光秀に討たれる「本能寺の変」が起こります。義昭はこれを機に輝元や秀吉、柴田勝家らに上洛の支援を依頼し、翌年には輝元・勝家・徳川家康から上洛の支持を受けます。
天正13年(1585)秀吉が関白になると、その後2年半は「関白秀吉と将軍義昭」という時代が続きました。九州を治める島津義久に対して秀吉と和睦するよう勧めるなど、信長時代とは違い、義昭は秀吉とうまく連携していたといえるでしょう。
将軍義昭の最期
義昭は京への帰還を果たしますが、その翌年には将軍を辞し、戒名をもらって昌山(道休)と称するようになります。この頃の義昭は山城国槇島の1万石を領地として認められており、殿中では元将軍として厚い待遇を受けていたようです。
秀吉との関係は良好だったようで、文禄・慶長の役の際は秀吉から要請を受け軍勢200人を引きつれて参戦しています。晩年には秀吉の御伽衆の一人となり、良き話し相手となりました。
仏門に入ったのち将軍に就任するという数奇な運命を辿った義昭ですが、慶長2年(1597)8月に腫物で死去した。
流浪生活を経験した将軍
義昭は幕臣に守られたり諸大名を頼ったりしながら、何度も諸国を流浪しました。そのような背景から「貧乏公方」と噂されたといいます。しかし彼は、紆余曲折ありながらも61歳まで生きのびました。当時の日本人としては長生きだったといえるでしょう。
有力な戦国武将が台頭したこの時期、幕府再興は容易ではありませんでした。それでも義昭は、流浪生活に耐えながら室町幕府最後の将軍となったのです。 | 足利義昭は京への帰還や信長追討を願い、誰に御内書を出しましたか。 | 足利義昭は京への帰還や信長追討を願い、全国の大名に御内書を出しました。 |
JCRRAG_012530 | 歴史 | 強まる織田信長との対立
念願の幕府再興を遂げた足利義昭ですが、上洛の際に頼った信長との関係が徐々に悪化していきます。そして、やがて二人は対立するようになったのです。
信長包囲網と義昭
足利義昭は信長の武功を称え、彼が望んでいた尾張・美濃の領有と和泉の支配を認めました。さらに管領の地位や副将軍への推挙もしています。しかし、幕府再興を願う義昭に対し信長は武力による天下統一を目指しており、この思惑の違いが両者の溝を深めていきます。
この頃の信長は将軍の後見人として権勢を振るっており、将軍の権力を牽制するため「殿中御掟」という掟書を義昭に承認させました。このような状況に不満を募らせた義昭は、信長の影響力を抑制しようと考え、上杉謙信、毛利輝元、本願寺顕如、武田信玄、六角義賢らに御内書を送り、反信長連合の「信長包囲網」を張ります。この包囲網は、以前から信長と対立していた朝倉義景や浅井長政、義輝の敵だった松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わるほど大きなものでした。
信長に敗れ、京を追われる
信長包囲網により信長と対立した義昭でしたが、二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠ったものの最後には降伏することとなります。信長は京都から義昭を追放し、将軍家の領地を自分のものにしました。こうして信長包囲網は瓦解し、天下人となった信長による織田政権が誕生したのです。
追放された義昭は、顕如らの仲介で河内若江城へ、ついで和泉の堺へと移りました。また翌年には紀伊国の興国寺、田辺の泊城にも移っています。天正4年(1576)には輝元を頼って備後国の鞆へ移動、ここでの生活は御料所からの年貢や武将からの支援もあり窮迫していなかったようです。
この頃、義昭は京への帰還や信長追討を願い、全国の大名に御内書を出しました。再び信長包囲網を形成するために、対立していた武田、北条、上杉氏に和睦(甲相越三和)を命じるなど、室町幕府再興をもう一度目指したようです。
関白秀吉と将軍義昭
京を追放された義昭ですが、信長が本能寺で命を落とし、信長に代わって秀吉が天下人となったことで状況が大きく変化します。信長の死と関白秀吉の登場は、義昭にどのような影響を与えたのでしょうか。
信長の死の影響
天正10年(1582)信長とその嫡子・信忠が明智光秀に討たれる「本能寺の変」が起こります。義昭はこれを機に輝元や秀吉、柴田勝家らに上洛の支援を依頼し、翌年には輝元・勝家・徳川家康から上洛の支持を受けます。
天正13年(1585)秀吉が関白になると、その後2年半は「関白秀吉と将軍義昭」という時代が続きました。九州を治める島津義久に対して秀吉と和睦するよう勧めるなど、信長時代とは違い、義昭は秀吉とうまく連携していたといえるでしょう。
将軍義昭の最期
義昭は京への帰還を果たしますが、その翌年には将軍を辞し、戒名をもらって昌山(道休)と称するようになります。この頃の義昭は山城国槇島の1万石を領地として認められており、殿中では元将軍として厚い待遇を受けていたようです。
秀吉との関係は良好だったようで、文禄・慶長の役の際は秀吉から要請を受け軍勢200人を引きつれて参戦しています。晩年には秀吉の御伽衆の一人となり、良き話し相手となりました。
仏門に入ったのち将軍に就任するという数奇な運命を辿った義昭ですが、慶長2年(1597)8月に腫物で死去した。
流浪生活を経験した将軍
義昭は幕臣に守られたり諸大名を頼ったりしながら、何度も諸国を流浪しました。そのような背景から「貧乏公方」と噂されたといいます。しかし彼は、紆余曲折ありながらも61歳まで生きのびました。当時の日本人としては長生きだったといえるでしょう。
有力な戦国武将が台頭したこの時期、幕府再興は容易ではありませんでした。それでも義昭は、流浪生活に耐えながら室町幕府最後の将軍となったのです。 | 織田信長時代とは違い、義昭は誰とうまく連携していたといえるでしょうか。 | 織田信長時代とは違い、義昭は秀吉とうまく連携していたといえるでしょう。 |
JCRRAG_012531 | 歴史 | 強まる織田信長との対立
念願の幕府再興を遂げた足利義昭ですが、上洛の際に頼った信長との関係が徐々に悪化していきます。そして、やがて二人は対立するようになったのです。
信長包囲網と義昭
足利義昭は信長の武功を称え、彼が望んでいた尾張・美濃の領有と和泉の支配を認めました。さらに管領の地位や副将軍への推挙もしています。しかし、幕府再興を願う義昭に対し信長は武力による天下統一を目指しており、この思惑の違いが両者の溝を深めていきます。
この頃の信長は将軍の後見人として権勢を振るっており、将軍の権力を牽制するため「殿中御掟」という掟書を義昭に承認させました。このような状況に不満を募らせた義昭は、信長の影響力を抑制しようと考え、上杉謙信、毛利輝元、本願寺顕如、武田信玄、六角義賢らに御内書を送り、反信長連合の「信長包囲網」を張ります。この包囲網は、以前から信長と対立していた朝倉義景や浅井長政、義輝の敵だった松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わるほど大きなものでした。
信長に敗れ、京を追われる
信長包囲網により信長と対立した義昭でしたが、二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠ったものの最後には降伏することとなります。信長は京都から義昭を追放し、将軍家の領地を自分のものにしました。こうして信長包囲網は瓦解し、天下人となった信長による織田政権が誕生したのです。
追放された義昭は、顕如らの仲介で河内若江城へ、ついで和泉の堺へと移りました。また翌年には紀伊国の興国寺、田辺の泊城にも移っています。天正4年(1576)には輝元を頼って備後国の鞆へ移動、ここでの生活は御料所からの年貢や武将からの支援もあり窮迫していなかったようです。
この頃、義昭は京への帰還や信長追討を願い、全国の大名に御内書を出しました。再び信長包囲網を形成するために、対立していた武田、北条、上杉氏に和睦(甲相越三和)を命じるなど、室町幕府再興をもう一度目指したようです。
関白秀吉と将軍義昭
京を追放された義昭ですが、信長が本能寺で命を落とし、信長に代わって秀吉が天下人となったことで状況が大きく変化します。信長の死と関白秀吉の登場は、義昭にどのような影響を与えたのでしょうか。
信長の死の影響
天正10年(1582)信長とその嫡子・信忠が明智光秀に討たれる「本能寺の変」が起こります。義昭はこれを機に輝元や秀吉、柴田勝家らに上洛の支援を依頼し、翌年には輝元・勝家・徳川家康から上洛の支持を受けます。
天正13年(1585)秀吉が関白になると、その後2年半は「関白秀吉と将軍義昭」という時代が続きました。九州を治める島津義久に対して秀吉と和睦するよう勧めるなど、信長時代とは違い、義昭は秀吉とうまく連携していたといえるでしょう。
将軍義昭の最期
義昭は京への帰還を果たしますが、その翌年には将軍を辞し、戒名をもらって昌山(道休)と称するようになります。この頃の義昭は山城国槇島の1万石を領地として認められており、殿中では元将軍として厚い待遇を受けていたようです。
秀吉との関係は良好だったようで、文禄・慶長の役の際は秀吉から要請を受け軍勢200人を引きつれて参戦しています。晩年には秀吉の御伽衆の一人となり、良き話し相手となりました。
仏門に入ったのち将軍に就任するという数奇な運命を辿った義昭ですが、慶長2年(1597)8月に腫物で死去した。
流浪生活を経験した将軍
義昭は幕臣に守られたり諸大名を頼ったりしながら、何度も諸国を流浪しました。そのような背景から「貧乏公方」と噂されたといいます。しかし彼は、紆余曲折ありながらも61歳まで生きのびました。当時の日本人としては長生きだったといえるでしょう。
有力な戦国武将が台頭したこの時期、幕府再興は容易ではありませんでした。それでも義昭は、流浪生活に耐えながら室町幕府最後の将軍となったのです。 | 足利義昭は、流浪生活に耐えながら何となったのですか。 | 足利義昭は、流浪生活に耐えながら室町幕府最後の将軍となったのです。 |
JCRRAG_012532 | 歴史 | 丹後田辺城主だった戦国武将は、細川藤孝である。
将軍・足利義輝に仕える
戦国時代には多くの戦国大名が誕生し、歴史の表舞台に登場しました。そのような中で幕臣として仕えた藤孝は、一体どのような出自だったのでしょうか。
藤孝の生まれから永禄の変まで
藤孝は、天文3年(1534)三淵晴員の次男として京都東山に生まれました。7歳のときに伯父・細川元常の養子となり、将軍・足利義藤(後の義輝)から偏諱を受けて、幼名の萬吉から「藤孝」を名乗るようになります。
その後は幕臣となり義輝に仕えましたが、永禄8年(1565)に永禄の変が勃発。これにより義輝は三好三人衆に暗殺され、その弟の義昭も興福寺に幽閉されてしまいます。
藤孝は兄らと協力してこれを救い出すと、義昭の将軍就任を目指して奔走することとなりました。
明智光秀との出会いとその関係性
光秀の盟友といわれる藤孝ですが、光秀の前半生が謎に包まれているため、二人の出会いについてもはっきりしたことはわかっていません。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの記述によれば、光秀はもともと藤孝の家臣だったようです。
足利将軍家に仕えていた藤孝は光秀と共謀し、義昭を上洛させることを計画します。上洛の援護を受けてくれる者はなかなかいませんでしたが、光秀が織田信長と交渉して援助を得ることに成功。義昭は上洛を果たし、藤孝は将軍を奉じて入京した信長に従いました。
長岡藤孝を名乗り信長に仕える
藤孝の計画通り上洛して15代将軍となった義昭でしたが、やがて信長との関係が悪化すると京を追放されてしまいます。藤孝はそんな義昭を見限り、信長に恭順を示したのです。
信長の家臣として活躍!
元亀4年(1573)上洛した信長を出迎えた藤孝は、恭順の姿勢を表し信長の家臣となりました。これにより藤孝は山城国長岡の知行を認められ、名字を改めて長岡藤孝と名乗るようになります。
信長の武将となった藤孝は、山城淀城の戦いで功績を挙げ、畿内を転戦するようになりました。高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦、紀州征伐、信貴山城の戦いとさまざまな戦いで結果を残し、光秀の与力としても活躍したようです。 | 丹後田辺城主だった戦国武将は、誰であるか。 | 丹後田辺城主だった戦国武将は、細川藤孝である。 |
JCRRAG_012533 | 歴史 | 丹後田辺城主だった戦国武将は、細川藤孝である。
将軍・足利義輝に仕える
戦国時代には多くの戦国大名が誕生し、歴史の表舞台に登場しました。そのような中で幕臣として仕えた藤孝は、一体どのような出自だったのでしょうか。
藤孝の生まれから永禄の変まで
藤孝は、天文3年(1534)三淵晴員の次男として京都東山に生まれました。7歳のときに伯父・細川元常の養子となり、将軍・足利義藤(後の義輝)から偏諱を受けて、幼名の萬吉から「藤孝」を名乗るようになります。
その後は幕臣となり義輝に仕えましたが、永禄8年(1565)に永禄の変が勃発。これにより義輝は三好三人衆に暗殺され、その弟の義昭も興福寺に幽閉されてしまいます。
藤孝は兄らと協力してこれを救い出すと、義昭の将軍就任を目指して奔走することとなりました。
明智光秀との出会いとその関係性
光秀の盟友といわれる藤孝ですが、光秀の前半生が謎に包まれているため、二人の出会いについてもはっきりしたことはわかっていません。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの記述によれば、光秀はもともと藤孝の家臣だったようです。
足利将軍家に仕えていた藤孝は光秀と共謀し、義昭を上洛させることを計画します。上洛の援護を受けてくれる者はなかなかいませんでしたが、光秀が織田信長と交渉して援助を得ることに成功。義昭は上洛を果たし、藤孝は将軍を奉じて入京した信長に従いました。
長岡藤孝を名乗り信長に仕える
藤孝の計画通り上洛して15代将軍となった義昭でしたが、やがて信長との関係が悪化すると京を追放されてしまいます。藤孝はそんな義昭を見限り、信長に恭順を示したのです。
信長の家臣として活躍!
元亀4年(1573)上洛した信長を出迎えた藤孝は、恭順の姿勢を表し信長の家臣となりました。これにより藤孝は山城国長岡の知行を認められ、名字を改めて長岡藤孝と名乗るようになります。
信長の武将となった藤孝は、山城淀城の戦いで功績を挙げ、畿内を転戦するようになりました。高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦、紀州征伐、信貴山城の戦いとさまざまな戦いで結果を残し、光秀の与力としても活躍したようです。 | 細川藤孝は、天文3年(1534)誰の次男として京都東山に生まれましたか。 | 細川藤孝は、天文3年(1534)三淵晴員の次男として京都東山に生まれました。 |
JCRRAG_012534 | 歴史 | 丹後田辺城主だった戦国武将は、細川藤孝である。
将軍・足利義輝に仕える
戦国時代には多くの戦国大名が誕生し、歴史の表舞台に登場しました。そのような中で幕臣として仕えた藤孝は、一体どのような出自だったのでしょうか。
藤孝の生まれから永禄の変まで
藤孝は、天文3年(1534)三淵晴員の次男として京都東山に生まれました。7歳のときに伯父・細川元常の養子となり、将軍・足利義藤(後の義輝)から偏諱を受けて、幼名の萬吉から「藤孝」を名乗るようになります。
その後は幕臣となり義輝に仕えましたが、永禄8年(1565)に永禄の変が勃発。これにより義輝は三好三人衆に暗殺され、その弟の義昭も興福寺に幽閉されてしまいます。
藤孝は兄らと協力してこれを救い出すと、義昭の将軍就任を目指して奔走することとなりました。
明智光秀との出会いとその関係性
光秀の盟友といわれる藤孝ですが、光秀の前半生が謎に包まれているため、二人の出会いについてもはっきりしたことはわかっていません。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの記述によれば、光秀はもともと藤孝の家臣だったようです。
足利将軍家に仕えていた藤孝は光秀と共謀し、義昭を上洛させることを計画します。上洛の援護を受けてくれる者はなかなかいませんでしたが、光秀が織田信長と交渉して援助を得ることに成功。義昭は上洛を果たし、藤孝は将軍を奉じて入京した信長に従いました。
長岡藤孝を名乗り信長に仕える
藤孝の計画通り上洛して15代将軍となった義昭でしたが、やがて信長との関係が悪化すると京を追放されてしまいます。藤孝はそんな義昭を見限り、信長に恭順を示したのです。
信長の家臣として活躍!
元亀4年(1573)上洛した信長を出迎えた藤孝は、恭順の姿勢を表し信長の家臣となりました。これにより藤孝は山城国長岡の知行を認められ、名字を改めて長岡藤孝と名乗るようになります。
信長の武将となった藤孝は、山城淀城の戦いで功績を挙げ、畿内を転戦するようになりました。高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦、紀州征伐、信貴山城の戦いとさまざまな戦いで結果を残し、光秀の与力としても活躍したようです。 | 細川藤孝は、天文3年(1534)三淵晴員の次男としてどこに生まれましたか。 | 細川藤孝は、天文3年(1534)三淵晴員の次男として京都東山に生まれました。 |
JCRRAG_012535 | 歴史 | 丹後田辺城主だった戦国武将は、細川藤孝である。
将軍・足利義輝に仕える
戦国時代には多くの戦国大名が誕生し、歴史の表舞台に登場しました。そのような中で幕臣として仕えた藤孝は、一体どのような出自だったのでしょうか。
藤孝の生まれから永禄の変まで
藤孝は、天文3年(1534)三淵晴員の次男として京都東山に生まれました。7歳のときに伯父・細川元常の養子となり、将軍・足利義藤(後の義輝)から偏諱を受けて、幼名の萬吉から「藤孝」を名乗るようになります。
その後は幕臣となり義輝に仕えましたが、永禄8年(1565)に永禄の変が勃発。これにより義輝は三好三人衆に暗殺され、その弟の義昭も興福寺に幽閉されてしまいます。
藤孝は兄らと協力してこれを救い出すと、義昭の将軍就任を目指して奔走することとなりました。
明智光秀との出会いとその関係性
光秀の盟友といわれる藤孝ですが、光秀の前半生が謎に包まれているため、二人の出会いについてもはっきりしたことはわかっていません。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの記述によれば、光秀はもともと藤孝の家臣だったようです。
足利将軍家に仕えていた藤孝は光秀と共謀し、義昭を上洛させることを計画します。上洛の援護を受けてくれる者はなかなかいませんでしたが、光秀が織田信長と交渉して援助を得ることに成功。義昭は上洛を果たし、藤孝は将軍を奉じて入京した信長に従いました。
長岡藤孝を名乗り信長に仕える
藤孝の計画通り上洛して15代将軍となった義昭でしたが、やがて信長との関係が悪化すると京を追放されてしまいます。藤孝はそんな義昭を見限り、信長に恭順を示したのです。
信長の家臣として活躍!
元亀4年(1573)上洛した信長を出迎えた藤孝は、恭順の姿勢を表し信長の家臣となりました。これにより藤孝は山城国長岡の知行を認められ、名字を改めて長岡藤孝と名乗るようになります。
信長の武将となった藤孝は、山城淀城の戦いで功績を挙げ、畿内を転戦するようになりました。高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦、紀州征伐、信貴山城の戦いとさまざまな戦いで結果を残し、光秀の与力としても活躍したようです。 | 元亀4年(1573)上洛した信長を出迎えた細川藤孝は、何を表し織田信長の家臣となりましたか。 | 元亀4年(1573)上洛した信長を出迎えた細川藤孝は、恭順の姿勢を表し織田信長の家臣となりました。 |
JCRRAG_012536 | 歴史 | 丹後田辺城主だった戦国武将は、細川藤孝である。
将軍・足利義輝に仕える
戦国時代には多くの戦国大名が誕生し、歴史の表舞台に登場しました。そのような中で幕臣として仕えた藤孝は、一体どのような出自だったのでしょうか。
藤孝の生まれから永禄の変まで
藤孝は、天文3年(1534)三淵晴員の次男として京都東山に生まれました。7歳のときに伯父・細川元常の養子となり、将軍・足利義藤(後の義輝)から偏諱を受けて、幼名の萬吉から「藤孝」を名乗るようになります。
その後は幕臣となり義輝に仕えましたが、永禄8年(1565)に永禄の変が勃発。これにより義輝は三好三人衆に暗殺され、その弟の義昭も興福寺に幽閉されてしまいます。
藤孝は兄らと協力してこれを救い出すと、義昭の将軍就任を目指して奔走することとなりました。
明智光秀との出会いとその関係性
光秀の盟友といわれる藤孝ですが、光秀の前半生が謎に包まれているため、二人の出会いについてもはっきりしたことはわかっていません。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの記述によれば、光秀はもともと藤孝の家臣だったようです。
足利将軍家に仕えていた藤孝は光秀と共謀し、義昭を上洛させることを計画します。上洛の援護を受けてくれる者はなかなかいませんでしたが、光秀が織田信長と交渉して援助を得ることに成功。義昭は上洛を果たし、藤孝は将軍を奉じて入京した信長に従いました。
長岡藤孝を名乗り信長に仕える
藤孝の計画通り上洛して15代将軍となった義昭でしたが、やがて信長との関係が悪化すると京を追放されてしまいます。藤孝はそんな義昭を見限り、信長に恭順を示したのです。
信長の家臣として活躍!
元亀4年(1573)上洛した信長を出迎えた藤孝は、恭順の姿勢を表し信長の家臣となりました。これにより藤孝は山城国長岡の知行を認められ、名字を改めて長岡藤孝と名乗るようになります。
信長の武将となった藤孝は、山城淀城の戦いで功績を挙げ、畿内を転戦するようになりました。高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦、紀州征伐、信貴山城の戦いとさまざまな戦いで結果を残し、光秀の与力としても活躍したようです。 | 織田信長の武将となった藤川藤孝は、何の戦いで功績を挙げ、畿内を転戦するようになりましたか。 | 織田信長の武将となった藤川藤孝は、山城淀城の戦いで功績を挙げ、畿内を転戦するようになりました。 |
JCRRAG_012537 | 歴史 | 細川忠興が明智光秀の娘・ガラシャを娶る
天正6年(1578)織田信長の薦めにより、嫡男・細川忠興と明智光秀の娘・玉(ガラシャ)が結婚することとなります。二人はともに16歳という若さで、信長はこの婚姻に満足していたようです。二人の間には、忠隆・興秋・忠利という三人の男子と二女が生まれました。
玉は美貌の持ち主で、忠興はこの妻をことさら愛していたようです。庭から妻を見たという職人の首をはねたり、のちに妻を幽閉したりしたなどの過激なエピソードも残されています。
信長の死後の細川藤孝
信長の家臣として活躍した藤孝でしたが、やがて「本能寺の変」が起こり、信長がこの世を去ります。主君を失った藤孝はその後どのような行動に移ったのでしょうか。
剃髪し家督を譲る
本能寺の変のあと、にわか天下人となった光秀は「山崎の戦い」で羽柴秀吉軍と対立することになります。光秀はこのとき、盟友だった藤孝に味方につくよう再三依頼しました。
ところが藤孝はこの要請を拒否、剃髪して田辺城に隠居し、家督を息子の忠興に譲ります。あとを任された息子も光秀からの要請に応えず、光秀と関係が深かった筒井順慶も参戦を断ったため、光秀は敗死する結果となりました。
藤孝にとって光秀は、もともと自分の下で足利将軍家に仕えた存在です。盟友だったとはいえ、光秀の支配下に入ることは許せなかったのかもしれません。
田辺城の戦いの経緯
その後の藤孝は秀吉に仕え、山城西ヶ岡に3000石を与えられました。紀州征伐や九州平定での戦功により大隅国3000石も加増されるなど武将としても優れていた藤孝でしたが、主に文化人として千利休らとともに重用されたようです。
しかし慶長3年(1598)に秀吉が死去し、今度は親交のあった徳川家康に接近。慶長5年(1600)に石田三成が挙兵すると、家康側だった藤孝は三男・幸隆とともにわずか500ほどの兵力で田辺城を守ることとなります。この「田辺城の戦い」では1万5000もの大軍に囲まれましたが、藤孝側の士気は高く、藤孝の歌道の弟子が多くいた敵方の戦意も低かったため、長期戦にもつれこみました。最終的には勅命によって「関ヶ原の戦い」の2日前に講和が結ばれ、戦いは終了しています。
残された逸話について
戦国の世を戦略的に生きた藤孝ですが、秀吉も重用したように、実は文化人として大きな影響力をもつ人物でもありました。
当代随一の教養人として知られる
藤孝は和歌・茶道・蹴鞠といった文芸のほか、囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深かったといわれています。剣術・弓術など武芸の素質も高く、腕力もあり遊泳術にも優れていたようです。
また歌人・三条西実枝(にしさねき)からは「古今伝授」を受けていました。これは『古今和歌集』の解釈を秘伝として師から弟子に伝えたもので、「田辺城の戦い」の際にはこれを知る者が藤孝だけだったため、後陽成(ごようぜい)天皇が勅命で藤孝を助けたともいわれています。
藤孝には後陽成天皇の弟宮・八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王をはじめとして、公家から武将までさまざまな門人がいました。
藤孝と小夜左文字
藤孝の愛刀として知られるのが、短刀・小夜左文字です。この刀には悲しい逸話が残されています。
ある日、左文字の所有者だった浪人の妻が盗賊に殺され、左文字が奪われました。残された息子は掛川の研師に弟子入りし、盗賊が左文字の研磨にやってきたときに仇討ちしたのです。
この逸話を耳にした当時の掛川城主・山内一豊は、この研師を召し抱えて左文字を入手しました。この刀を懇願して譲ってもらった藤孝は、仇討ち話と西行法師の歌の一節から「小夜左文字」と名づけ、その後も愛蔵したそうです。
武芸に秀で茶の湯でも
藤孝は戦国武将として優秀だっただけではなく、教養人としても優れた才能を発揮しました。関ヶ原の戦いの時点ですでに70歳近かった藤孝は、その後も京都で隠居生活をし、江戸時代に入った慶長15年(1610)に亡くなります。残された和歌には江戸時代のものもあるため、彼は最後まで文化人として過ごしたといえそうです。
歴史の授業ではあまり詳しく語られないかもしれませんが、文武両道の藤孝の勇姿は、日本史上でも突出していたといえるでしょう。 | 天正6年(1578)織田信長の薦めにより、細川忠興と誰が結婚することとなりますか。 | 天正6年(1578)織田信長の薦めにより、細川忠興と明智光秀の娘・玉(ガラシャ)が結婚することとなります。 |
JCRRAG_012538 | 歴史 | 細川忠興が明智光秀の娘・ガラシャを娶る
天正6年(1578)織田信長の薦めにより、嫡男・細川忠興と明智光秀の娘・玉(ガラシャ)が結婚することとなります。二人はともに16歳という若さで、信長はこの婚姻に満足していたようです。二人の間には、忠隆・興秋・忠利という三人の男子と二女が生まれました。
玉は美貌の持ち主で、忠興はこの妻をことさら愛していたようです。庭から妻を見たという職人の首をはねたり、のちに妻を幽閉したりしたなどの過激なエピソードも残されています。
信長の死後の細川藤孝
信長の家臣として活躍した藤孝でしたが、やがて「本能寺の変」が起こり、信長がこの世を去ります。主君を失った藤孝はその後どのような行動に移ったのでしょうか。
剃髪し家督を譲る
本能寺の変のあと、にわか天下人となった光秀は「山崎の戦い」で羽柴秀吉軍と対立することになります。光秀はこのとき、盟友だった藤孝に味方につくよう再三依頼しました。
ところが藤孝はこの要請を拒否、剃髪して田辺城に隠居し、家督を息子の忠興に譲ります。あとを任された息子も光秀からの要請に応えず、光秀と関係が深かった筒井順慶も参戦を断ったため、光秀は敗死する結果となりました。
藤孝にとって光秀は、もともと自分の下で足利将軍家に仕えた存在です。盟友だったとはいえ、光秀の支配下に入ることは許せなかったのかもしれません。
田辺城の戦いの経緯
その後の藤孝は秀吉に仕え、山城西ヶ岡に3000石を与えられました。紀州征伐や九州平定での戦功により大隅国3000石も加増されるなど武将としても優れていた藤孝でしたが、主に文化人として千利休らとともに重用されたようです。
しかし慶長3年(1598)に秀吉が死去し、今度は親交のあった徳川家康に接近。慶長5年(1600)に石田三成が挙兵すると、家康側だった藤孝は三男・幸隆とともにわずか500ほどの兵力で田辺城を守ることとなります。この「田辺城の戦い」では1万5000もの大軍に囲まれましたが、藤孝側の士気は高く、藤孝の歌道の弟子が多くいた敵方の戦意も低かったため、長期戦にもつれこみました。最終的には勅命によって「関ヶ原の戦い」の2日前に講和が結ばれ、戦いは終了しています。
残された逸話について
戦国の世を戦略的に生きた藤孝ですが、秀吉も重用したように、実は文化人として大きな影響力をもつ人物でもありました。
当代随一の教養人として知られる
藤孝は和歌・茶道・蹴鞠といった文芸のほか、囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深かったといわれています。剣術・弓術など武芸の素質も高く、腕力もあり遊泳術にも優れていたようです。
また歌人・三条西実枝(にしさねき)からは「古今伝授」を受けていました。これは『古今和歌集』の解釈を秘伝として師から弟子に伝えたもので、「田辺城の戦い」の際にはこれを知る者が藤孝だけだったため、後陽成(ごようぜい)天皇が勅命で藤孝を助けたともいわれています。
藤孝には後陽成天皇の弟宮・八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王をはじめとして、公家から武将までさまざまな門人がいました。
藤孝と小夜左文字
藤孝の愛刀として知られるのが、短刀・小夜左文字です。この刀には悲しい逸話が残されています。
ある日、左文字の所有者だった浪人の妻が盗賊に殺され、左文字が奪われました。残された息子は掛川の研師に弟子入りし、盗賊が左文字の研磨にやってきたときに仇討ちしたのです。
この逸話を耳にした当時の掛川城主・山内一豊は、この研師を召し抱えて左文字を入手しました。この刀を懇願して譲ってもらった藤孝は、仇討ち話と西行法師の歌の一節から「小夜左文字」と名づけ、その後も愛蔵したそうです。
武芸に秀で茶の湯でも
藤孝は戦国武将として優秀だっただけではなく、教養人としても優れた才能を発揮しました。関ヶ原の戦いの時点ですでに70歳近かった藤孝は、その後も京都で隠居生活をし、江戸時代に入った慶長15年(1610)に亡くなります。残された和歌には江戸時代のものもあるため、彼は最後まで文化人として過ごしたといえそうです。
歴史の授業ではあまり詳しく語られないかもしれませんが、文武両道の藤孝の勇姿は、日本史上でも突出していたといえるでしょう。 | 細川藤孝はこの要請を拒否、剃髪して田辺城に隠居し、家督を誰に譲りますか。 | 細川藤孝はこの要請を拒否、剃髪して田辺城に隠居し、家督を息子の忠興に譲ります。 |
JCRRAG_012539 | 歴史 | 細川忠興が明智光秀の娘・ガラシャを娶る
天正6年(1578)織田信長の薦めにより、嫡男・細川忠興と明智光秀の娘・玉(ガラシャ)が結婚することとなります。二人はともに16歳という若さで、信長はこの婚姻に満足していたようです。二人の間には、忠隆・興秋・忠利という三人の男子と二女が生まれました。
玉は美貌の持ち主で、忠興はこの妻をことさら愛していたようです。庭から妻を見たという職人の首をはねたり、のちに妻を幽閉したりしたなどの過激なエピソードも残されています。
信長の死後の細川藤孝
信長の家臣として活躍した藤孝でしたが、やがて「本能寺の変」が起こり、信長がこの世を去ります。主君を失った藤孝はその後どのような行動に移ったのでしょうか。
剃髪し家督を譲る
本能寺の変のあと、にわか天下人となった光秀は「山崎の戦い」で羽柴秀吉軍と対立することになります。光秀はこのとき、盟友だった藤孝に味方につくよう再三依頼しました。
ところが藤孝はこの要請を拒否、剃髪して田辺城に隠居し、家督を息子の忠興に譲ります。あとを任された息子も光秀からの要請に応えず、光秀と関係が深かった筒井順慶も参戦を断ったため、光秀は敗死する結果となりました。
藤孝にとって光秀は、もともと自分の下で足利将軍家に仕えた存在です。盟友だったとはいえ、光秀の支配下に入ることは許せなかったのかもしれません。
田辺城の戦いの経緯
その後の藤孝は秀吉に仕え、山城西ヶ岡に3000石を与えられました。紀州征伐や九州平定での戦功により大隅国3000石も加増されるなど武将としても優れていた藤孝でしたが、主に文化人として千利休らとともに重用されたようです。
しかし慶長3年(1598)に秀吉が死去し、今度は親交のあった徳川家康に接近。慶長5年(1600)に石田三成が挙兵すると、家康側だった藤孝は三男・幸隆とともにわずか500ほどの兵力で田辺城を守ることとなります。この「田辺城の戦い」では1万5000もの大軍に囲まれましたが、藤孝側の士気は高く、藤孝の歌道の弟子が多くいた敵方の戦意も低かったため、長期戦にもつれこみました。最終的には勅命によって「関ヶ原の戦い」の2日前に講和が結ばれ、戦いは終了しています。
残された逸話について
戦国の世を戦略的に生きた藤孝ですが、秀吉も重用したように、実は文化人として大きな影響力をもつ人物でもありました。
当代随一の教養人として知られる
藤孝は和歌・茶道・蹴鞠といった文芸のほか、囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深かったといわれています。剣術・弓術など武芸の素質も高く、腕力もあり遊泳術にも優れていたようです。
また歌人・三条西実枝(にしさねき)からは「古今伝授」を受けていました。これは『古今和歌集』の解釈を秘伝として師から弟子に伝えたもので、「田辺城の戦い」の際にはこれを知る者が藤孝だけだったため、後陽成(ごようぜい)天皇が勅命で藤孝を助けたともいわれています。
藤孝には後陽成天皇の弟宮・八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王をはじめとして、公家から武将までさまざまな門人がいました。
藤孝と小夜左文字
藤孝の愛刀として知られるのが、短刀・小夜左文字です。この刀には悲しい逸話が残されています。
ある日、左文字の所有者だった浪人の妻が盗賊に殺され、左文字が奪われました。残された息子は掛川の研師に弟子入りし、盗賊が左文字の研磨にやってきたときに仇討ちしたのです。
この逸話を耳にした当時の掛川城主・山内一豊は、この研師を召し抱えて左文字を入手しました。この刀を懇願して譲ってもらった藤孝は、仇討ち話と西行法師の歌の一節から「小夜左文字」と名づけ、その後も愛蔵したそうです。
武芸に秀で茶の湯でも
藤孝は戦国武将として優秀だっただけではなく、教養人としても優れた才能を発揮しました。関ヶ原の戦いの時点ですでに70歳近かった藤孝は、その後も京都で隠居生活をし、江戸時代に入った慶長15年(1610)に亡くなります。残された和歌には江戸時代のものもあるため、彼は最後まで文化人として過ごしたといえそうです。
歴史の授業ではあまり詳しく語られないかもしれませんが、文武両道の藤孝の勇姿は、日本史上でも突出していたといえるでしょう。 | 慶長5年(1600)に石田三成が挙兵すると、家康側だった細川藤孝は三男・幸隆とともにわずか500ほどの兵力でどこを守ることとなりますか。 | 慶長5年(1600)に石田三成が挙兵すると、家康側だった細川藤孝は三男・幸隆とともにわずか500ほどの兵力で田辺城を守ることとなります。 |
JCRRAG_012540 | 歴史 | 細川忠興が明智光秀の娘・ガラシャを娶る
天正6年(1578)織田信長の薦めにより、嫡男・細川忠興と明智光秀の娘・玉(ガラシャ)が結婚することとなります。二人はともに16歳という若さで、信長はこの婚姻に満足していたようです。二人の間には、忠隆・興秋・忠利という三人の男子と二女が生まれました。
玉は美貌の持ち主で、忠興はこの妻をことさら愛していたようです。庭から妻を見たという職人の首をはねたり、のちに妻を幽閉したりしたなどの過激なエピソードも残されています。
信長の死後の細川藤孝
信長の家臣として活躍した藤孝でしたが、やがて「本能寺の変」が起こり、信長がこの世を去ります。主君を失った藤孝はその後どのような行動に移ったのでしょうか。
剃髪し家督を譲る
本能寺の変のあと、にわか天下人となった光秀は「山崎の戦い」で羽柴秀吉軍と対立することになります。光秀はこのとき、盟友だった藤孝に味方につくよう再三依頼しました。
ところが藤孝はこの要請を拒否、剃髪して田辺城に隠居し、家督を息子の忠興に譲ります。あとを任された息子も光秀からの要請に応えず、光秀と関係が深かった筒井順慶も参戦を断ったため、光秀は敗死する結果となりました。
藤孝にとって光秀は、もともと自分の下で足利将軍家に仕えた存在です。盟友だったとはいえ、光秀の支配下に入ることは許せなかったのかもしれません。
田辺城の戦いの経緯
その後の藤孝は秀吉に仕え、山城西ヶ岡に3000石を与えられました。紀州征伐や九州平定での戦功により大隅国3000石も加増されるなど武将としても優れていた藤孝でしたが、主に文化人として千利休らとともに重用されたようです。
しかし慶長3年(1598)に秀吉が死去し、今度は親交のあった徳川家康に接近。慶長5年(1600)に石田三成が挙兵すると、家康側だった藤孝は三男・幸隆とともにわずか500ほどの兵力で田辺城を守ることとなります。この「田辺城の戦い」では1万5000もの大軍に囲まれましたが、藤孝側の士気は高く、藤孝の歌道の弟子が多くいた敵方の戦意も低かったため、長期戦にもつれこみました。最終的には勅命によって「関ヶ原の戦い」の2日前に講和が結ばれ、戦いは終了しています。
残された逸話について
戦国の世を戦略的に生きた藤孝ですが、秀吉も重用したように、実は文化人として大きな影響力をもつ人物でもありました。
当代随一の教養人として知られる
藤孝は和歌・茶道・蹴鞠といった文芸のほか、囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深かったといわれています。剣術・弓術など武芸の素質も高く、腕力もあり遊泳術にも優れていたようです。
また歌人・三条西実枝(にしさねき)からは「古今伝授」を受けていました。これは『古今和歌集』の解釈を秘伝として師から弟子に伝えたもので、「田辺城の戦い」の際にはこれを知る者が藤孝だけだったため、後陽成(ごようぜい)天皇が勅命で藤孝を助けたともいわれています。
藤孝には後陽成天皇の弟宮・八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王をはじめとして、公家から武将までさまざまな門人がいました。
藤孝と小夜左文字
藤孝の愛刀として知られるのが、短刀・小夜左文字です。この刀には悲しい逸話が残されています。
ある日、左文字の所有者だった浪人の妻が盗賊に殺され、左文字が奪われました。残された息子は掛川の研師に弟子入りし、盗賊が左文字の研磨にやってきたときに仇討ちしたのです。
この逸話を耳にした当時の掛川城主・山内一豊は、この研師を召し抱えて左文字を入手しました。この刀を懇願して譲ってもらった藤孝は、仇討ち話と西行法師の歌の一節から「小夜左文字」と名づけ、その後も愛蔵したそうです。
武芸に秀で茶の湯でも
藤孝は戦国武将として優秀だっただけではなく、教養人としても優れた才能を発揮しました。関ヶ原の戦いの時点ですでに70歳近かった藤孝は、その後も京都で隠居生活をし、江戸時代に入った慶長15年(1610)に亡くなります。残された和歌には江戸時代のものもあるため、彼は最後まで文化人として過ごしたといえそうです。
歴史の授業ではあまり詳しく語られないかもしれませんが、文武両道の藤孝の勇姿は、日本史上でも突出していたといえるでしょう。 | 細川藤孝は和歌・茶道・蹴鞠といった文芸のほか、何などにも造詣が深かったといわれていますか。 | 細川藤孝は和歌・茶道・蹴鞠といった文芸のほか、囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深かったといわれています。 |
JCRRAG_012541 | 歴史 | 細川忠興が明智光秀の娘・ガラシャを娶る
天正6年(1578)織田信長の薦めにより、嫡男・細川忠興と明智光秀の娘・玉(ガラシャ)が結婚することとなります。二人はともに16歳という若さで、信長はこの婚姻に満足していたようです。二人の間には、忠隆・興秋・忠利という三人の男子と二女が生まれました。
玉は美貌の持ち主で、忠興はこの妻をことさら愛していたようです。庭から妻を見たという職人の首をはねたり、のちに妻を幽閉したりしたなどの過激なエピソードも残されています。
信長の死後の細川藤孝
信長の家臣として活躍した藤孝でしたが、やがて「本能寺の変」が起こり、信長がこの世を去ります。主君を失った藤孝はその後どのような行動に移ったのでしょうか。
剃髪し家督を譲る
本能寺の変のあと、にわか天下人となった光秀は「山崎の戦い」で羽柴秀吉軍と対立することになります。光秀はこのとき、盟友だった藤孝に味方につくよう再三依頼しました。
ところが藤孝はこの要請を拒否、剃髪して田辺城に隠居し、家督を息子の忠興に譲ります。あとを任された息子も光秀からの要請に応えず、光秀と関係が深かった筒井順慶も参戦を断ったため、光秀は敗死する結果となりました。
藤孝にとって光秀は、もともと自分の下で足利将軍家に仕えた存在です。盟友だったとはいえ、光秀の支配下に入ることは許せなかったのかもしれません。
田辺城の戦いの経緯
その後の藤孝は秀吉に仕え、山城西ヶ岡に3000石を与えられました。紀州征伐や九州平定での戦功により大隅国3000石も加増されるなど武将としても優れていた藤孝でしたが、主に文化人として千利休らとともに重用されたようです。
しかし慶長3年(1598)に秀吉が死去し、今度は親交のあった徳川家康に接近。慶長5年(1600)に石田三成が挙兵すると、家康側だった藤孝は三男・幸隆とともにわずか500ほどの兵力で田辺城を守ることとなります。この「田辺城の戦い」では1万5000もの大軍に囲まれましたが、藤孝側の士気は高く、藤孝の歌道の弟子が多くいた敵方の戦意も低かったため、長期戦にもつれこみました。最終的には勅命によって「関ヶ原の戦い」の2日前に講和が結ばれ、戦いは終了しています。
残された逸話について
戦国の世を戦略的に生きた藤孝ですが、秀吉も重用したように、実は文化人として大きな影響力をもつ人物でもありました。
当代随一の教養人として知られる
藤孝は和歌・茶道・蹴鞠といった文芸のほか、囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深かったといわれています。剣術・弓術など武芸の素質も高く、腕力もあり遊泳術にも優れていたようです。
また歌人・三条西実枝(にしさねき)からは「古今伝授」を受けていました。これは『古今和歌集』の解釈を秘伝として師から弟子に伝えたもので、「田辺城の戦い」の際にはこれを知る者が藤孝だけだったため、後陽成(ごようぜい)天皇が勅命で藤孝を助けたともいわれています。
藤孝には後陽成天皇の弟宮・八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王をはじめとして、公家から武将までさまざまな門人がいました。
藤孝と小夜左文字
藤孝の愛刀として知られるのが、短刀・小夜左文字です。この刀には悲しい逸話が残されています。
ある日、左文字の所有者だった浪人の妻が盗賊に殺され、左文字が奪われました。残された息子は掛川の研師に弟子入りし、盗賊が左文字の研磨にやってきたときに仇討ちしたのです。
この逸話を耳にした当時の掛川城主・山内一豊は、この研師を召し抱えて左文字を入手しました。この刀を懇願して譲ってもらった藤孝は、仇討ち話と西行法師の歌の一節から「小夜左文字」と名づけ、その後も愛蔵したそうです。
武芸に秀で茶の湯でも
藤孝は戦国武将として優秀だっただけではなく、教養人としても優れた才能を発揮しました。関ヶ原の戦いの時点ですでに70歳近かった藤孝は、その後も京都で隠居生活をし、江戸時代に入った慶長15年(1610)に亡くなります。残された和歌には江戸時代のものもあるため、彼は最後まで文化人として過ごしたといえそうです。
歴史の授業ではあまり詳しく語られないかもしれませんが、文武両道の藤孝の勇姿は、日本史上でも突出していたといえるでしょう。 | 細川藤孝の愛刀として知られるのは、何ですか。 | 細川藤孝の愛刀として知られるのが、短刀・小夜左文字です。 |
JCRRAG_012542 | 歴史 | 伊達政宗の母は、義姫である。
政宗の母:義姫の生い立ちと人物像
まずは義姫の生い立ちと人物像について見ていきましょう。戦国の世をたくましく生きた義姫とは、一体どのような女性だったのでしょうか。
最上家に生まれ伊達家に嫁いだ
義姫は天文17年(1548)出羽国の戦国大名・最上義守の娘として山形城で生まれました。出羽山形藩の初代藩主となった最上義光(よしあき)は2歳年上の実兄です。二人は仲が良かったようで手紙も多数残されています。
最上家と対立していた伊達輝宗に嫁いだ義姫は、19歳で政宗を出産しました。その後、次男の小次郎と2人の娘にも恵まれますが、娘は2人とも早くに亡くなっています。
米沢城の東館に住んだため「お東の方」や「最上御前」とも呼ばれており、出家後は保春院と名乗りました。
勝ち気で頭が良いとされる人物像
義姫はとても気丈で男勝りな性格だったため、「奥羽の鬼姫」と呼ばれるほどでした。また、頭が良く政治にも積極的に関わっており、伊達家の中で大きな発言権があったようです。
歴史上には義姫以外にも政治に関わった女性がいますが、義姫の場合は抜群の行動力を伴っていました。もし男性に生まれていたら兄・義光と肩を並べる武将になっていたかもしれません。 | 伊達政宗の母は、誰であるか。 | 伊達政宗の母は、義姫である。 |
JCRRAG_012543 | 歴史 | 伊達政宗の母は、最上義姫である。
政宗の母:義姫の生い立ちと人物像
まずは義姫の生い立ちと人物像について見ていきましょう。戦国の世をたくましく生きた義姫とは、一体どのような女性だったのでしょうか。
最上家に生まれ伊達家に嫁いだ
義姫は天文17年(1548)出羽国の戦国大名・最上義守の娘として山形城で生まれました。出羽山形藩の初代藩主となった最上義光(よしあき)は2歳年上の実兄です。二人は仲が良かったようで手紙も多数残されています。
最上家と対立していた伊達輝宗に嫁いだ義姫は、19歳で政宗を出産しました。その後、次男の小次郎と2人の娘にも恵まれますが、娘は2人とも早くに亡くなっています。
米沢城の東館に住んだため「お東の方」や「最上御前」とも呼ばれており、出家後は保春院と名乗りました。
勝ち気で頭が良いとされる人物像
義姫はとても気丈で男勝りな性格だったため、「奥羽の鬼姫」と呼ばれるほどでした。また、頭が良く政治にも積極的に関わっており、伊達家の中で大きな発言権があったようです。
歴史上には義姫以外にも政治に関わった女性がいますが、義姫の場合は抜群の行動力を伴っていました。もし男性に生まれていたら兄・義光と肩を並べる武将になっていたかもしれません。 | 最上義姫は天文17年(1548)誰の娘として山形城で生まれましたか。 | 最上義姫は天文17年(1548)出羽国の戦国大名・最上義守の娘として山形城で生まれました。 |
JCRRAG_012544 | 歴史 | 伊達政宗の母は、最上義姫である。
政宗の母:義姫の生い立ちと人物像
まずは義姫の生い立ちと人物像について見ていきましょう。戦国の世をたくましく生きた義姫とは、一体どのような女性だったのでしょうか。
最上家に生まれ伊達家に嫁いだ
義姫は天文17年(1548)出羽国の戦国大名・最上義守の娘として山形城で生まれました。出羽山形藩の初代藩主となった最上義光(よしあき)は2歳年上の実兄です。二人は仲が良かったようで手紙も多数残されています。
最上家と対立していた伊達輝宗に嫁いだ義姫は、19歳で政宗を出産しました。その後、次男の小次郎と2人の娘にも恵まれますが、娘は2人とも早くに亡くなっています。
米沢城の東館に住んだため「お東の方」や「最上御前」とも呼ばれており、出家後は保春院と名乗りました。
勝ち気で頭が良いとされる人物像
義姫はとても気丈で男勝りな性格だったため、「奥羽の鬼姫」と呼ばれるほどでした。また、頭が良く政治にも積極的に関わっており、伊達家の中で大きな発言権があったようです。
歴史上には義姫以外にも政治に関わった女性がいますが、義姫の場合は抜群の行動力を伴っていました。もし男性に生まれていたら兄・義光と肩を並べる武将になっていたかもしれません。 | 最上義姫は天文17年(1548)出羽国の戦国大名・最上義守の娘としてどこで生まれましたか。 | 最上義姫は天文17年(1548)出羽国の戦国大名・最上義守の娘として山形城で生まれました。 |
JCRRAG_012545 | 歴史 | 伊達政宗の母は、最上義姫である。
政宗の母:義姫の生い立ちと人物像
まずは義姫の生い立ちと人物像について見ていきましょう。戦国の世をたくましく生きた義姫とは、一体どのような女性だったのでしょうか。
最上家に生まれ伊達家に嫁いだ
義姫は天文17年(1548)出羽国の戦国大名・最上義守の娘として山形城で生まれました。出羽山形藩の初代藩主となった最上義光(よしあき)は2歳年上の実兄です。二人は仲が良かったようで手紙も多数残されています。
最上家と対立していた伊達輝宗に嫁いだ義姫は、19歳で政宗を出産しました。その後、次男の小次郎と2人の娘にも恵まれますが、娘は2人とも早くに亡くなっています。
米沢城の東館に住んだため「お東の方」や「最上御前」とも呼ばれており、出家後は保春院と名乗りました。
勝ち気で頭が良いとされる人物像
義姫はとても気丈で男勝りな性格だったため、「奥羽の鬼姫」と呼ばれるほどでした。また、頭が良く政治にも積極的に関わっており、伊達家の中で大きな発言権があったようです。
歴史上には義姫以外にも政治に関わった女性がいますが、義姫の場合は抜群の行動力を伴っていました。もし男性に生まれていたら兄・義光と肩を並べる武将になっていたかもしれません。 | 最上義姫は何と呼ばれていましたか。 | 最上義姫は、米沢城の東館に住んだため「お東の方」や「最上御前」とも呼ばれており、出家後は保春院と名乗りました。 |
JCRRAG_012546 | 歴史 | 伊達政宗の母は、最上義姫である。
政宗の母:義姫の生い立ちと人物像
まずは義姫の生い立ちと人物像について見ていきましょう。戦国の世をたくましく生きた義姫とは、一体どのような女性だったのでしょうか。
最上家に生まれ伊達家に嫁いだ
義姫は天文17年(1548)出羽国の戦国大名・最上義守の娘として山形城で生まれました。出羽山形藩の初代藩主となった最上義光(よしあき)は2歳年上の実兄です。二人は仲が良かったようで手紙も多数残されています。
最上家と対立していた伊達輝宗に嫁いだ義姫は、19歳で政宗を出産しました。その後、次男の小次郎と2人の娘にも恵まれますが、娘は2人とも早くに亡くなっています。
米沢城の東館に住んだため「お東の方」や「最上御前」とも呼ばれており、出家後は保春院と名乗りました。
勝ち気で頭が良いとされる人物像
義姫はとても気丈で男勝りな性格だったため、「奥羽の鬼姫」と呼ばれるほどでした。また、頭が良く政治にも積極的に関わっており、伊達家の中で大きな発言権があったようです。
歴史上には義姫以外にも政治に関わった女性がいますが、義姫の場合は抜群の行動力を伴っていました。もし男性に生まれていたら兄・義光と肩を並べる武将になっていたかもしれません。 | 最上義姫はとても気丈で男勝りな性格だったため、何と呼ばれるほどでしたか。 | 最上義姫はとても気丈で男勝りな性格だったため、「奥羽の鬼姫」と呼ばれるほどでした。 |
JCRRAG_012547 | 歴史 | 最上義姫の驚くべき行動力とは?
男性に引けを取らない豪快さをもつ義姫ですが、実際にどのようなエピソードがあるのでしょうか。その驚くべき行動力を示す逸話をご紹介します。
駕籠で陣中へ!夫を撤退させる
戦国時代は親子や兄弟間で争うことも少なくありませんでしたが、天正6年(1578)義姫の身にもそのような事件が起こります。夫の輝宗が上山城主・上山満兼と連合して兄の義光を攻め始めたのです。
このとき義光は不利な状況にあり、義姫は兄の危機を察知し、駕籠で陣中を走り抜け夫の輝宗のもとに向かい、輝宗に抗議し停戦を訴えます。この行動は功を奏し、伊達軍は戦場から撤収しました。
大崎合戦でも輿に乗って登場!
天正16年(1588)の大崎合戦でも義姫は戦場に駆けつけています。政宗はこの戦いで伊達家に離反しようとする大崎義隆を攻めましたが、敵方に義光の援軍が駆けつけたため危機に陥りました。
このとき義姫は、甲冑を身に着けて輿に乗り、兄に停戦を要求したといいます。しかも輿に乗ったまま両軍の間に居座り、両者に対し睨みをきかせました。これにより伊達側も最上側も攻撃できなくなり、80日後ついに撤退。政宗と義光は和睦することとなったのです。
【政宗毒殺未遂事件】その真相は?
並外れた度胸と行動力で知られる義姫ですが、その一方で息子・政宗との不穏なエピソードも有名です。この逸話から母子の不仲説が囁かれていますが、果たして真実はどうなのでしょうか。
伝えられてきた毒殺事件の概要
義姫には政宗を毒殺しようとしたという逸話が残されています。その事件は天正18年(1590)4月、政宗が関白・豊臣秀吉への謁見のため小田原に向かう直前に起こりました。
伊達家の正史『伊達治家記録』によれば、お祝いとして母が用意した膳に箸をつけたところ、政宗は腹痛を起こし、急いで投薬を受けて一命をとりとめたといいます。
この一件でショックを受けた政宗は、母が溺愛する弟に家督を継がせようとしているのではないか、また母の実家である最上家の陰謀ではないかと考え、自ら弟を手討ちにしました。その晩、義姫は実家のある山形に逃げたとされています。
諸説あるまま真相はわからず
通説ではこの事件の首謀者は義姫とされてきました。しかし平成11年(1999)に発見された資料によれば、義姫が出奔したのは弟である小次郎が手討ちにされた晩ではなく、その4年後であることがわかっています。この間、義姫は政宗と共にいたことになるため、首謀者とは考えづらいでしょう。
『伊達治家記録』の記録の中には、政宗が事件の経緯を知らせた手紙があります。ここで政宗は、毒を盛ったのは母だと考えられること、その背後に弟擁立派の存在があること、伊達家の内乱を避けるために仕方なく弟を手討ちにしたことなどを詳しく語っています。
しかしこの事件には諸説あり、果たして何が真実かは未だにわかっていません。
母と息子の仲は良かった事実
不仲説が囁かれる親子ですが、実際は仲が良かったようです。伊達家には親子間の手紙がたくさん残されており、二人は事件後も手紙をやりとりしています。その内容はどれも仲の睦まじさを感じさせるもので、とても事件のわだかまりを感じさせるものではないのだとか。
政宗が朝鮮出兵した際も義姫は手紙を出しており、政宗はそれに感激して「無事に帰ってもう一度会いたい」と返事をしています。
毒殺しようとした政宗とこのような手紙をやりとりすることは考えづらいため、この事実は義姫首謀者説を否定する理由にもなっています。
最期を仙台で迎えた
最上家に出奔した義姫はのちに仙台城へ戻り政宗と再会しました。これは二人が離れてから28年後のことで、再会の際に交わした贈答歌は政宗の歌集に残されています。
驚くべき行動力を発揮した義姫は元和9年(1623)7月17日に死去しました。政宗は十三回忌に菩提を弔うため臨済宗少林山保春院を建立し、自ら母の位牌を作りました。保春院は宝暦2年(1757)の火事で焼けてしまいましたが後に再建され、現在も本堂には政宗がつくった義姫の位牌が残されています。
| 最上義姫は、甲冑を身に着けて輿に乗り、誰に停戦を要求したといいますか。 | 最上義姫は、甲冑を身に着けて輿に乗り、兄に停戦を要求したといいます。 |
JCRRAG_012548 | 歴史 | 最上義姫の驚くべき行動力とは?
男性に引けを取らない豪快さをもつ義姫ですが、実際にどのようなエピソードがあるのでしょうか。その驚くべき行動力を示す逸話をご紹介します。
駕籠で陣中へ!夫を撤退させる
戦国時代は親子や兄弟間で争うことも少なくありませんでしたが、天正6年(1578)義姫の身にもそのような事件が起こります。夫の輝宗が上山城主・上山満兼と連合して兄の義光を攻め始めたのです。
このとき義光は不利な状況にあり、義姫は兄の危機を察知し、駕籠で陣中を走り抜け夫の輝宗のもとに向かい、輝宗に抗議し停戦を訴えます。この行動は功を奏し、伊達軍は戦場から撤収しました。
大崎合戦でも輿に乗って登場!
天正16年(1588)の大崎合戦でも義姫は戦場に駆けつけています。政宗はこの戦いで伊達家に離反しようとする大崎義隆を攻めましたが、敵方に義光の援軍が駆けつけたため危機に陥りました。
このとき義姫は、甲冑を身に着けて輿に乗り、兄に停戦を要求したといいます。しかも輿に乗ったまま両軍の間に居座り、両者に対し睨みをきかせました。これにより伊達側も最上側も攻撃できなくなり、80日後ついに撤退。政宗と義光は和睦することとなったのです。
【政宗毒殺未遂事件】その真相は?
並外れた度胸と行動力で知られる義姫ですが、その一方で息子・政宗との不穏なエピソードも有名です。この逸話から母子の不仲説が囁かれていますが、果たして真実はどうなのでしょうか。
伝えられてきた毒殺事件の概要
義姫には政宗を毒殺しようとしたという逸話が残されています。その事件は天正18年(1590)4月、政宗が関白・豊臣秀吉への謁見のため小田原に向かう直前に起こりました。
伊達家の正史『伊達治家記録』によれば、お祝いとして母が用意した膳に箸をつけたところ、政宗は腹痛を起こし、急いで投薬を受けて一命をとりとめたといいます。
この一件でショックを受けた政宗は、母が溺愛する弟に家督を継がせようとしているのではないか、また母の実家である最上家の陰謀ではないかと考え、自ら弟を手討ちにしました。その晩、義姫は実家のある山形に逃げたとされています。
諸説あるまま真相はわからず
通説ではこの事件の首謀者は義姫とされてきました。しかし平成11年(1999)に発見された資料によれば、義姫が出奔したのは弟である小次郎が手討ちにされた晩ではなく、その4年後であることがわかっています。この間、義姫は政宗と共にいたことになるため、首謀者とは考えづらいでしょう。
『伊達治家記録』の記録の中には、政宗が事件の経緯を知らせた手紙があります。ここで政宗は、毒を盛ったのは母だと考えられること、その背後に弟擁立派の存在があること、伊達家の内乱を避けるために仕方なく弟を手討ちにしたことなどを詳しく語っています。
しかしこの事件には諸説あり、果たして何が真実かは未だにわかっていません。
母と息子の仲は良かった事実
不仲説が囁かれる親子ですが、実際は仲が良かったようです。伊達家には親子間の手紙がたくさん残されており、二人は事件後も手紙をやりとりしています。その内容はどれも仲の睦まじさを感じさせるもので、とても事件のわだかまりを感じさせるものではないのだとか。
政宗が朝鮮出兵した際も義姫は手紙を出しており、政宗はそれに感激して「無事に帰ってもう一度会いたい」と返事をしています。
毒殺しようとした政宗とこのような手紙をやりとりすることは考えづらいため、この事実は義姫首謀者説を否定する理由にもなっています。
最期を仙台で迎えた
最上家に出奔した義姫はのちに仙台城へ戻り政宗と再会しました。これは二人が離れてから28年後のことで、再会の際に交わした贈答歌は政宗の歌集に残されています。
驚くべき行動力を発揮した義姫は元和9年(1623)7月17日に死去しました。政宗は十三回忌に菩提を弔うため臨済宗少林山保春院を建立し、自ら母の位牌を作りました。保春院は宝暦2年(1757)の火事で焼けてしまいましたが後に再建され、現在も本堂には政宗がつくった義姫の位牌が残されています。
| 最上義姫には政宗をどうしようとした逸話が残されていますか。 | 最上義姫には政宗を毒殺しようとしたという逸話が残されています。 |
JCRRAG_012549 | 歴史 | 最上義姫の驚くべき行動力とは?
男性に引けを取らない豪快さをもつ義姫ですが、実際にどのようなエピソードがあるのでしょうか。その驚くべき行動力を示す逸話をご紹介します。
駕籠で陣中へ!夫を撤退させる
戦国時代は親子や兄弟間で争うことも少なくありませんでしたが、天正6年(1578)義姫の身にもそのような事件が起こります。夫の輝宗が上山城主・上山満兼と連合して兄の義光を攻め始めたのです。
このとき義光は不利な状況にあり、義姫は兄の危機を察知し、駕籠で陣中を走り抜け夫の輝宗のもとに向かい、輝宗に抗議し停戦を訴えます。この行動は功を奏し、伊達軍は戦場から撤収しました。
大崎合戦でも輿に乗って登場!
天正16年(1588)の大崎合戦でも義姫は戦場に駆けつけています。政宗はこの戦いで伊達家に離反しようとする大崎義隆を攻めましたが、敵方に義光の援軍が駆けつけたため危機に陥りました。
このとき義姫は、甲冑を身に着けて輿に乗り、兄に停戦を要求したといいます。しかも輿に乗ったまま両軍の間に居座り、両者に対し睨みをきかせました。これにより伊達側も最上側も攻撃できなくなり、80日後ついに撤退。政宗と義光は和睦することとなったのです。
【政宗毒殺未遂事件】その真相は?
並外れた度胸と行動力で知られる義姫ですが、その一方で息子・政宗との不穏なエピソードも有名です。この逸話から母子の不仲説が囁かれていますが、果たして真実はどうなのでしょうか。
伝えられてきた毒殺事件の概要
義姫には政宗を毒殺しようとしたという逸話が残されています。その事件は天正18年(1590)4月、政宗が関白・豊臣秀吉への謁見のため小田原に向かう直前に起こりました。
伊達家の正史『伊達治家記録』によれば、お祝いとして母が用意した膳に箸をつけたところ、政宗は腹痛を起こし、急いで投薬を受けて一命をとりとめたといいます。
この一件でショックを受けた政宗は、母が溺愛する弟に家督を継がせようとしているのではないか、また母の実家である最上家の陰謀ではないかと考え、自ら弟を手討ちにしました。その晩、義姫は実家のある山形に逃げたとされています。
諸説あるまま真相はわからず
通説ではこの事件の首謀者は義姫とされてきました。しかし平成11年(1999)に発見された資料によれば、義姫が出奔したのは弟である小次郎が手討ちにされた晩ではなく、その4年後であることがわかっています。この間、義姫は政宗と共にいたことになるため、首謀者とは考えづらいでしょう。
『伊達治家記録』の記録の中には、政宗が事件の経緯を知らせた手紙があります。ここで政宗は、毒を盛ったのは母だと考えられること、その背後に弟擁立派の存在があること、伊達家の内乱を避けるために仕方なく弟を手討ちにしたことなどを詳しく語っています。
しかしこの事件には諸説あり、果たして何が真実かは未だにわかっていません。
母と息子の仲は良かった事実
不仲説が囁かれる親子ですが、実際は仲が良かったようです。伊達家には親子間の手紙がたくさん残されており、二人は事件後も手紙をやりとりしています。その内容はどれも仲の睦まじさを感じさせるもので、とても事件のわだかまりを感じさせるものではないのだとか。
政宗が朝鮮出兵した際も義姫は手紙を出しており、政宗はそれに感激して「無事に帰ってもう一度会いたい」と返事をしています。
毒殺しようとした政宗とこのような手紙をやりとりすることは考えづらいため、この事実は義姫首謀者説を否定する理由にもなっています。
最期を仙台で迎えた
最上家に出奔した義姫はのちに仙台城へ戻り政宗と再会しました。これは二人が離れてから28年後のことで、再会の際に交わした贈答歌は政宗の歌集に残されています。
驚くべき行動力を発揮した義姫は元和9年(1623)7月17日に死去しました。政宗は十三回忌に菩提を弔うため臨済宗少林山保春院を建立し、自ら母の位牌を作りました。保春院は宝暦2年(1757)の火事で焼けてしまいましたが後に再建され、現在も本堂には政宗がつくった義姫の位牌が残されています。
| 最上家に出奔した義姫はのちに仙台城へ戻り誰と再会しましたか。 | 最上家に出奔した義姫はのちに仙台城へ戻り政宗と再会しました。 |
JCRRAG_012550 | 歴史 | 最上義姫の驚くべき行動力とは?
男性に引けを取らない豪快さをもつ最上義姫ですが、実際にどのようなエピソードがあるのでしょうか。その驚くべき行動力を示す逸話をご紹介します。
駕籠で陣中へ!夫を撤退させる
戦国時代は親子や兄弟間で争うことも少なくありませんでしたが、天正6年(1578)義姫の身にもそのような事件が起こります。夫の輝宗が上山城主・上山満兼と連合して兄の義光を攻め始めたのです。
このとき義光は不利な状況にあり、義姫は兄の危機を察知し、駕籠で陣中を走り抜け夫の輝宗のもとに向かい、輝宗に抗議し停戦を訴えます。この行動は功を奏し、伊達軍は戦場から撤収しました。
大崎合戦でも輿に乗って登場!
天正16年(1588)の大崎合戦でも義姫は戦場に駆けつけています。政宗はこの戦いで伊達家に離反しようとする大崎義隆を攻めましたが、敵方に義光の援軍が駆けつけたため危機に陥りました。
このとき義姫は、甲冑を身に着けて輿に乗り、兄に停戦を要求したといいます。しかも輿に乗ったまま両軍の間に居座り、両者に対し睨みをきかせました。これにより伊達側も最上側も攻撃できなくなり、80日後ついに撤退。政宗と義光は和睦することとなったのです。
【伊達政宗毒殺未遂事件】その真相は?
並外れた度胸と行動力で知られる義姫ですが、その一方で息子・伊達政宗との不穏なエピソードも有名です。この逸話から母子の不仲説が囁かれていますが、果たして真実はどうなのでしょうか。
伝えられてきた毒殺事件の概要
義姫には政宗を毒殺しようとしたという逸話が残されています。その事件は天正18年(1590)4月、政宗が関白・豊臣秀吉への謁見のため小田原に向かう直前に起こりました。
伊達家の正史『伊達治家記録』によれば、お祝いとして母が用意した膳に箸をつけたところ、政宗は腹痛を起こし、急いで投薬を受けて一命をとりとめたといいます。
この一件でショックを受けた政宗は、母が溺愛する弟に家督を継がせようとしているのではないか、また母の実家である最上家の陰謀ではないかと考え、自ら弟を手討ちにしました。その晩、義姫は実家のある山形に逃げたとされています。
諸説あるまま真相はわからず
通説ではこの事件の首謀者は義姫とされてきました。しかし平成11年(1999)に発見された資料によれば、義姫が出奔したのは弟である小次郎が手討ちにされた晩ではなく、その4年後であることがわかっています。この間、義姫は政宗と共にいたことになるため、首謀者とは考えづらいでしょう。
『伊達治家記録』の記録の中には、政宗が事件の経緯を知らせた手紙があります。ここで政宗は、毒を盛ったのは母だと考えられること、その背後に弟擁立派の存在があること、伊達家の内乱を避けるために仕方なく弟を手討ちにしたことなどを詳しく語っています。
しかしこの事件には諸説あり、果たして何が真実かは未だにわかっていません。
母と息子の仲は良かった事実
不仲説が囁かれる親子ですが、実際は仲が良かったようです。伊達家には親子間の手紙がたくさん残されており、二人は事件後も手紙をやりとりしています。その内容はどれも仲の睦まじさを感じさせるもので、とても事件のわだかまりを感じさせるものではないのだとか。
政宗が朝鮮出兵した際も義姫は手紙を出しており、政宗はそれに感激して「無事に帰ってもう一度会いたい」と返事をしています。
毒殺しようとした政宗とこのような手紙をやりとりすることは考えづらいため、この事実は義姫首謀者説を否定する理由にもなっています。
最期を仙台で迎えた
最上家に出奔した義姫はのちに仙台城へ戻り政宗と再会しました。これは二人が離れてから28年後のことで、再会の際に交わした贈答歌は政宗の歌集に残されています。
驚くべき行動力を発揮した義姫は元和9年(1623)7月17日に死去しました。政宗は十三回忌に菩提を弔うため臨済宗少林山保春院を建立し、自ら母の位牌を作りました。保春院は宝暦2年(1757)の火事で焼けてしまいましたが後に再建され、現在も本堂には政宗がつくった義姫の位牌が残されています。
| 保春院は宝暦2年(1757)の火事で焼けてしまいましたが後に再建され、現在も本堂には伊達政宗がつくった何が残されていますか。 | 保春院は宝暦2年(1757)の火事で焼けてしまいましたが後に再建され、現在も本堂には政宗がつくった伊達義姫の位牌が残されています。 |
JCRRAG_012551 | 歴史 | 最上義姫の驚くべき行動力とは?
男性に引けを取らない豪快さをもつ義姫ですが、実際にどのようなエピソードがあるのでしょうか。その驚くべき行動力を示す逸話をご紹介します。
駕籠で陣中へ!夫を撤退させる
戦国時代は親子や兄弟間で争うことも少なくありませんでしたが、天正6年(1578)義姫の身にもそのような事件が起こります。夫の輝宗が上山城主・上山満兼と連合して兄の義光を攻め始めたのです。
このとき義光は不利な状況にあり、義姫は兄の危機を察知し、駕籠で陣中を走り抜け夫の輝宗のもとに向かい、輝宗に抗議し停戦を訴えます。この行動は功を奏し、伊達軍は戦場から撤収しました。
大崎合戦でも輿に乗って登場!
天正16年(1588)の大崎合戦でも義姫は戦場に駆けつけています。政宗はこの戦いで伊達家に離反しようとする大崎義隆を攻めましたが、敵方に義光の援軍が駆けつけたため危機に陥りました。
このとき義姫は、甲冑を身に着けて輿に乗り、兄に停戦を要求したといいます。しかも輿に乗ったまま両軍の間に居座り、両者に対し睨みをきかせました。これにより伊達側も最上側も攻撃できなくなり、80日後ついに撤退。政宗と義光は和睦することとなったのです。
【伊達政宗毒殺未遂事件】その真相は?
並外れた度胸と行動力で知られる義姫ですが、その一方で息子・伊達政宗との不穏なエピソードも有名です。この逸話から母子の不仲説が囁かれていますが、果たして真実はどうなのでしょうか。
伝えられてきた毒殺事件の概要
義姫には政宗を毒殺しようとしたという逸話が残されています。その事件は天正18年(1590)4月、政宗が関白・豊臣秀吉への謁見のため小田原に向かう直前に起こりました。
伊達家の正史『伊達治家記録』によれば、お祝いとして母が用意した膳に箸をつけたところ、政宗は腹痛を起こし、急いで投薬を受けて一命をとりとめたといいます。
この一件でショックを受けた政宗は、母が溺愛する弟に家督を継がせようとしているのではないか、また母の実家である最上家の陰謀ではないかと考え、自ら弟を手討ちにしました。その晩、義姫は実家のある山形に逃げたとされています。
諸説あるまま真相はわからず
通説ではこの事件の首謀者は義姫とされてきました。しかし平成11年(1999)に発見された資料によれば、義姫が出奔したのは弟である小次郎が手討ちにされた晩ではなく、その4年後であることがわかっています。この間、義姫は政宗と共にいたことになるため、首謀者とは考えづらいでしょう。
『伊達治家記録』の記録の中には、政宗が事件の経緯を知らせた手紙があります。ここで政宗は、毒を盛ったのは母だと考えられること、その背後に弟擁立派の存在があること、伊達家の内乱を避けるために仕方なく弟を手討ちにしたことなどを詳しく語っています。
しかしこの事件には諸説あり、果たして何が真実かは未だにわかっていません。
母と息子の仲は良かった事実
不仲説が囁かれる親子ですが、実際は仲が良かったようです。伊達家には親子間の手紙がたくさん残されており、二人は事件後も手紙をやりとりしています。その内容はどれも仲の睦まじさを感じさせるもので、とても事件のわだかまりを感じさせるものではないのだとか。
政宗が朝鮮出兵した際も義姫は手紙を出しており、政宗はそれに感激して「無事に帰ってもう一度会いたい」と返事をしています。
毒殺しようとした政宗とこのような手紙をやりとりすることは考えづらいため、この事実は義姫首謀者説を否定する理由にもなっています。
最期を仙台で迎えた
最上家に出奔した義姫はのちに仙台城へ戻り政宗と再会しました。これは二人が離れてから28年後のことで、再会の際に交わした贈答歌は政宗の歌集に残されています。
驚くべき行動力を発揮した義姫は元和9年(1623)7月17日に死去しました。政宗は十三回忌に菩提を弔うため臨済宗少林山保春院を建立し、自ら母の位牌を作りました。保春院は宝暦2年(1757)の火事で焼けてしまいましたが後に再建され、現在も本堂には政宗がつくった義姫の位牌が残されています。
| 伊達政宗は十三回忌に何をするため臨済宗少林山保春院を建立し、自ら母の位牌を作りましたか。 | 伊達政宗は十三回忌に菩提を弔うため臨済宗少林山保春院を建立し、自ら母の位牌を作りました。 |
JCRRAG_012552 | 歴史 | 戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、三好長慶である。
三好長慶の波乱に満ちた生涯
長慶の人生は幼少期から晩年にいたるまで波乱万丈でした。それは彼の出自にも関係があります。まずはその生い立ちと彼の残した功績について見ていきましょう。
幼くして父を殺される
長慶は大永2年(1522)管領・細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として、現在の徳島県に生まれました。
細川家は足利将軍家の重臣「三管領」の一つで、政治的にも軍事的にも大きな力を持つ大名家です。その家臣だった父・元長は、晴元の政敵である細川高国を討つなど大きな功績を残しました。ところがその勢いを警戒した晴元や同族の三好政長・木沢長政らが謀略して一向一揆を起こし、元長は暗殺されてしまいます。そのため長慶はわずか10歳で家督を継承し、本拠地の阿波に逃げることとなったのです。
父の仇:細川晴元に仕える
元長殺害のために起こした一向一揆は、やがて晴元でも抑えられないほど大きくなり、享禄・天文の乱へと発展していきました。収拾がつかなくなったこの一揆を鎮静化させたのは、父親を殺された長慶です。『本福寺明宗跡書』によると、当時12歳だった長慶が、晴元と石山本願寺の一向一揆勢力の和睦を斡旋したとされています。これは元長が戦死して1年たらずの出来事でした。
長慶はこの直後に元服し、数年後には本願寺に味方をして晴元や政長と戦っています。しかし晴元の家臣の仲介もあり、まだ若年であることを理由に許され、その後は晴元の家臣となりました。
晴元・三好政長との対立
晴元のもとで離反や帰参を繰り返して勢力を拡大した長慶は、やがて石山本願寺からも一目置かれるほどの存在になりました。そんな中、ついに父の仇の一人・長政の征伐に成功します。また天文17年(1548)にはもう一人の仇である政長の追討を決意。これは政長が父の死に関係していたことを知ったからともいわれますが、理由は諸説あるようです。
しかし、政長は晴元から厚く信任されている人物だったため、長慶は越水城で軍議を開き「もし晴元が政長を庇うなら、主君である晴元も敵とみなす」ことを決定します。 | 戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、誰であるか。 | 戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、三好長慶である。 |
JCRRAG_012553 | 歴史 | 戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、三好長慶である。
三好長慶の波乱に満ちた生涯
長慶の人生は幼少期から晩年にいたるまで波乱万丈でした。それは彼の出自にも関係があります。まずはその生い立ちと彼の残した功績について見ていきましょう。
幼くして父を殺される
長慶は大永2年(1522)管領・細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として、現在の徳島県に生まれました。
細川家は足利将軍家の重臣「三管領」の一つで、政治的にも軍事的にも大きな力を持つ大名家です。その家臣だった父・元長は、晴元の政敵である細川高国を討つなど大きな功績を残しました。ところがその勢いを警戒した晴元や同族の三好政長・木沢長政らが謀略して一向一揆を起こし、元長は暗殺されてしまいます。そのため長慶はわずか10歳で家督を継承し、本拠地の阿波に逃げることとなったのです。
父の仇:細川晴元に仕える
元長殺害のために起こした一向一揆は、やがて晴元でも抑えられないほど大きくなり、享禄・天文の乱へと発展していきました。収拾がつかなくなったこの一揆を鎮静化させたのは、父親を殺された長慶です。『本福寺明宗跡書』によると、当時12歳だった長慶が、晴元と石山本願寺の一向一揆勢力の和睦を斡旋したとされています。これは元長が戦死して1年たらずの出来事でした。
長慶はこの直後に元服し、数年後には本願寺に味方をして晴元や政長と戦っています。しかし晴元の家臣の仲介もあり、まだ若年であることを理由に許され、その後は晴元の家臣となりました。
晴元・三好政長との対立
晴元のもとで離反や帰参を繰り返して勢力を拡大した長慶は、やがて石山本願寺からも一目置かれるほどの存在になりました。そんな中、ついに父の仇の一人・長政の征伐に成功します。また天文17年(1548)にはもう一人の仇である政長の追討を決意。これは政長が父の死に関係していたことを知ったからともいわれますが、理由は諸説あるようです。
しかし、政長は晴元から厚く信任されている人物だったため、長慶は越水城で軍議を開き「もし晴元が政長を庇うなら、主君である晴元も敵とみなす」ことを決定します。 | 三好長慶は大永2年(1522)誰の嫡男として、現在の徳島県に生まれましたか。 | 三好長慶は大永2年(1522)管領・細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として、現在の徳島県に生まれました。 |
JCRRAG_012554 | 歴史 | 戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、三好長慶である。
三好長慶の波乱に満ちた生涯
長慶の人生は幼少期から晩年にいたるまで波乱万丈でした。それは彼の出自にも関係があります。まずはその生い立ちと彼の残した功績について見ていきましょう。
幼くして父を殺される
長慶は大永2年(1522)管領・細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として、現在の徳島県に生まれました。
細川家は足利将軍家の重臣「三管領」の一つで、政治的にも軍事的にも大きな力を持つ大名家です。その家臣だった父・元長は、晴元の政敵である細川高国を討つなど大きな功績を残しました。ところがその勢いを警戒した晴元や同族の三好政長・木沢長政らが謀略して一向一揆を起こし、元長は暗殺されてしまいます。そのため長慶はわずか10歳で家督を継承し、本拠地の阿波に逃げることとなったのです。
父の仇:細川晴元に仕える
元長殺害のために起こした一向一揆は、やがて晴元でも抑えられないほど大きくなり、享禄・天文の乱へと発展していきました。収拾がつかなくなったこの一揆を鎮静化させたのは、父親を殺された長慶です。『本福寺明宗跡書』によると、当時12歳だった長慶が、晴元と石山本願寺の一向一揆勢力の和睦を斡旋したとされています。これは元長が戦死して1年たらずの出来事でした。
長慶はこの直後に元服し、数年後には本願寺に味方をして晴元や政長と戦っています。しかし晴元の家臣の仲介もあり、まだ若年であることを理由に許され、その後は晴元の家臣となりました。
晴元・三好政長との対立
晴元のもとで離反や帰参を繰り返して勢力を拡大した長慶は、やがて石山本願寺からも一目置かれるほどの存在になりました。そんな中、ついに父の仇の一人・長政の征伐に成功します。また天文17年(1548)にはもう一人の仇である政長の追討を決意。これは政長が父の死に関係していたことを知ったからともいわれますが、理由は諸説あるようです。
しかし、政長は晴元から厚く信任されている人物だったため、長慶は越水城で軍議を開き「もし晴元が政長を庇うなら、主君である晴元も敵とみなす」ことを決定します。 | 三好長慶は大永2年(1522)管領・細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として、現在のどこに生まれましたか。 | 三好長慶は大永2年(1522)管領・細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として、現在の徳島県に生まれました。 |
JCRRAG_012555 | 歴史 | 戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、三好長慶である。
三好長慶の波乱に満ちた生涯
長慶の人生は幼少期から晩年にいたるまで波乱万丈でした。それは彼の出自にも関係があります。まずはその生い立ちと彼の残した功績について見ていきましょう。
幼くして父を殺される
長慶は大永2年(1522)管領・細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として、現在の徳島県に生まれました。
細川家は足利将軍家の重臣「三管領」の一つで、政治的にも軍事的にも大きな力を持つ大名家です。その家臣だった父・元長は、晴元の政敵である細川高国を討つなど大きな功績を残しました。ところがその勢いを警戒した晴元や同族の三好政長・木沢長政らが謀略して一向一揆を起こし、元長は暗殺されてしまいます。そのため長慶はわずか10歳で家督を継承し、本拠地の阿波に逃げることとなったのです。
父の仇:細川晴元に仕える
元長殺害のために起こした一向一揆は、やがて晴元でも抑えられないほど大きくなり、享禄・天文の乱へと発展していきました。収拾がつかなくなったこの一揆を鎮静化させたのは、父親を殺された長慶です。『本福寺明宗跡書』によると、当時12歳だった長慶が、晴元と石山本願寺の一向一揆勢力の和睦を斡旋したとされています。これは元長が戦死して1年たらずの出来事でした。
長慶はこの直後に元服し、数年後には本願寺に味方をして晴元や政長と戦っています。しかし晴元の家臣の仲介もあり、まだ若年であることを理由に許され、その後は晴元の家臣となりました。
晴元・三好政長との対立
晴元のもとで離反や帰参を繰り返して勢力を拡大した長慶は、やがて石山本願寺からも一目置かれるほどの存在になりました。そんな中、ついに父の仇の一人・長政の征伐に成功します。また天文17年(1548)にはもう一人の仇である政長の追討を決意。これは政長が父の死に関係していたことを知ったからともいわれますが、理由は諸説あるようです。
しかし、政長は晴元から厚く信任されている人物だったため、長慶は越水城で軍議を開き「もし晴元が政長を庇うなら、主君である晴元も敵とみなす」ことを決定します。 | 三好長慶はこの直後に元服し、数年後には本願寺に味方をして誰と戦っていますか。 | 三好長慶はこの直後に元服し、数年後には本願寺に味方をして晴元や政長と戦っています。 |
JCRRAG_012556 | 歴史 | 戦国時代において最初の天下人といわれている人物は、三好長慶である。
三好長慶の波乱に満ちた生涯
長慶の人生は幼少期から晩年にいたるまで波乱万丈でした。それは彼の出自にも関係があります。まずはその生い立ちと彼の残した功績について見ていきましょう。
幼くして父を殺される
長慶は大永2年(1522)管領・細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として、現在の徳島県に生まれました。
細川家は足利将軍家の重臣「三管領」の一つで、政治的にも軍事的にも大きな力を持つ大名家です。その家臣だった父・元長は、晴元の政敵である細川高国を討つなど大きな功績を残しました。ところがその勢いを警戒した晴元や同族の三好政長・木沢長政らが謀略して一向一揆を起こし、元長は暗殺されてしまいます。そのため長慶はわずか10歳で家督を継承し、本拠地の阿波に逃げることとなったのです。
父の仇:細川晴元に仕える
元長殺害のために起こした一向一揆は、やがて晴元でも抑えられないほど大きくなり、享禄・天文の乱へと発展していきました。収拾がつかなくなったこの一揆を鎮静化させたのは、父親を殺された長慶です。『本福寺明宗跡書』によると、当時12歳だった長慶が、晴元と石山本願寺の一向一揆勢力の和睦を斡旋したとされています。これは元長が戦死して1年たらずの出来事でした。
長慶はこの直後に元服し、数年後には本願寺に味方をして晴元や政長と戦っています。しかし晴元の家臣の仲介もあり、まだ若年であることを理由に許され、その後は晴元の家臣となりました。
晴元・三好政長との対立
晴元のもとで離反や帰参を繰り返して勢力を拡大した長慶は、やがて石山本願寺からも一目置かれるほどの存在になりました。そんな中、ついに父の仇の一人・長政の征伐に成功します。また天文17年(1548)にはもう一人の仇である政長の追討を決意。これは政長が父の死に関係していたことを知ったからともいわれますが、理由は諸説あるようです。
しかし、政長は晴元から厚く信任されている人物だったため、長慶は越水城で軍議を開き「もし晴元が政長を庇うなら、主君である晴元も敵とみなす」ことを決定します。 | 三好長慶は越水城で軍議を開き何を決定しますか。 | 三好長慶は越水城で軍議を開き「もし晴元が政長を庇うなら、主君である晴元も敵とみなす」ことを決定します。 |
JCRRAG_012557 | 歴史 | 足利将軍を都から追放する
三好長慶は細川晴元に三好政長父子の討伐を願い出ましたが、その意見は受け入れられませんでした。そのため、長慶はかつて敵だった細川氏綱・遊佐長教と手を組んで晴元に反旗を翻します。これにより政長は討ち取られ、晴元らは将軍・足利義晴と義輝父子たちを連れて逃亡、都は将軍不在の状況に陥りました。
将軍を都から追放した長慶は、主君として氏綱を立て、晴元派の伊丹親興がいる伊丹城を開城させ摂津を平定します。こうして幕府の実権を掌握した彼は、畿内を中心に8か国を支配する大名にまで上り詰めたのです。これは事実上の三好政権の誕生でした。
松永久秀の謀略と長慶の最期
10歳で家督を継いでから怒涛の巻き返しをはかった長慶。最初の天下人という呼び名に相応しい活躍を見せた彼ですが、その状況は長くは続きませんでした。
十河一存の急死が引き金に
長慶の衰退のきっかけは、永禄4年(1561)に起こった弟・十河一存(そごうかずまさ)の急死でした。一存は軍事的に重要な立場にいたため、これは三好家にとって大きな事件だったといえるでしょう。死因は病気とも事故ともいわれますが、陰謀説もあるようです。
一存の死によって彼が治めていた和泉の支配が弱まると、その隙をついて晴元の次男・晴之を盟主とした畠山高政と六角義賢の攻撃が始まります。この戦いは翌年まで続き、さらには弟の一人である三好実休(じっきゅう)が戦死しました。
嫡男の病死が追い打ちをかける
短期間に2人の弟を亡くした長慶ですが、翌年の永禄6年(1563)8月には嫡男・義興が22歳の若さで早世します。そのため一存の息子・重存(義継)を養子に迎えますが、将来を嘱望していた義興を失ったことは長慶にとって大きなショックでした。
またその年の12月には名目上の主君・氏綱も病死し、三好家の政権維持に必要な形式的な管領も失ってしまいます。
安宅冬康を誅殺し、病が悪化!
永禄7年(1564)5月9日、長慶は弟・安宅冬康(あたぎふゆやす)を飯盛山城に呼び出し誅殺するという事件を起こします。これは家臣・松永久秀から「冬康が謀反を起こそうとしている」と知らされたからでしたが、後に久秀の讒言だったことが発覚します。
『足利季世記』によると、この頃の長慶は相次ぐ不幸により心身に異常をきたし、病にかかって思慮を失っていたといいます。冬康の死後はさらに容体が悪化し、最後は飯盛山城で病死しました。
長慶の人物像とは
猛々しく戦い、政権を握った長慶ですが、その功績とは反対に性格は穏やかだったようです。長慶の人物像とはどのようなものだったのでしょうか。
早熟の天才型だった?
長慶はわずか12歳で晴元と一向一揆の和睦を仲介しています。元服前の少年が交渉を取りまとめるのは誰でもできるようなことではありません。このことから早熟の天才肌だったといえそうです。
また長慶は、信長と同じように堺の経済力に注目しており、貿易によって莫大な軍事費や軍需品を入手していました。曽祖父の代から受け継いだ周辺諸国との関係や軍事力に加え、このような鋭い視点があったことが勢力拡大につながったのでしょう。
和睦を繰り返す寛大な性格
戦いを繰り返した長慶ですが、最後まで敵を追い詰めることはなく、和睦をはかる寛大な性格でした。晴元と将軍・義輝を破った際は追撃せず、弟から晴元の三宅城を落とそうと提案されたときも拒否しています。それどころか晴元が帰京する際は警護し、優位な立場にありながら和睦を希望しました。『足利季世記』によれば、長慶はかつての主君と和睦できたことに涙したそうです。
また長慶は晴元の長男・昭元を人質にしていましたが、彼を殺すことなく晴元と再会させています。
晩年は連歌を好んだ
長慶には文化人としての側面もありました。当時の武将の中でも高い教養を誇っていた彼は、たびたび連歌会を開いていたといいます。晩年の彼が勇猛さを失っていたのは、連歌に没頭していたからという見方もあるようです。
松永貞徳の随筆集『戴恩記(たいおんき)』によれば、当時は長慶のこのような一面をなじる者もいたのだとか。しかし長慶はこれに対し和歌で反論しています。
短期間で消滅した三好政権
信長よりも早く天下人になったといわれる長慶は、戦いと和睦を繰り返しながら勢力を拡大していきました。それは三好政権を成立させるほど強大でしたが、残念ながらその名前は信長や秀吉ほど知れ渡ることはありませんでした。そこには長慶の寛大な性格が関係していたのかもしれません。
長慶の栄華は弟の死をきっかけに崩れ始め、最後は心身ともに病に侵されるという結末を迎えています。最初の天下人といわれる長慶は、短くも濃い、波乱万丈な生涯を送ったといえるでしょう。 | 将軍を都から追放した三好長慶は、主君として氏綱を立て、細川晴元派の伊丹親興がいる伊丹城を開城させどこを平定しますか。 | 将軍を都から追放した三好長慶は、主君として氏綱を立て、細川晴元派の伊丹親興がいる伊丹城を開城させ摂津を平定します。 |
JCRRAG_012558 | 歴史 | 足利将軍を都から追放する
三好長慶は細川晴元に三好政長父子の討伐を願い出ましたが、その意見は受け入れられませんでした。そのため、長慶はかつて敵だった細川氏綱・遊佐長教と手を組んで晴元に反旗を翻します。これにより政長は討ち取られ、晴元らは将軍・足利義晴と義輝父子たちを連れて逃亡、都は将軍不在の状況に陥りました。
将軍を都から追放した長慶は、主君として氏綱を立て、晴元派の伊丹親興がいる伊丹城を開城させ摂津を平定します。こうして幕府の実権を掌握した彼は、畿内を中心に8か国を支配する大名にまで上り詰めたのです。これは事実上の三好政権の誕生でした。
松永久秀の謀略と長慶の最期
10歳で家督を継いでから怒涛の巻き返しをはかった長慶。最初の天下人という呼び名に相応しい活躍を見せた彼ですが、その状況は長くは続きませんでした。
十河一存の急死が引き金に
長慶の衰退のきっかけは、永禄4年(1561)に起こった弟・十河一存(そごうかずまさ)の急死でした。一存は軍事的に重要な立場にいたため、これは三好家にとって大きな事件だったといえるでしょう。死因は病気とも事故ともいわれますが、陰謀説もあるようです。
一存の死によって彼が治めていた和泉の支配が弱まると、その隙をついて晴元の次男・晴之を盟主とした畠山高政と六角義賢の攻撃が始まります。この戦いは翌年まで続き、さらには弟の一人である三好実休(じっきゅう)が戦死しました。
嫡男の病死が追い打ちをかける
短期間に2人の弟を亡くした長慶ですが、翌年の永禄6年(1563)8月には嫡男・義興が22歳の若さで早世します。そのため一存の息子・重存(義継)を養子に迎えますが、将来を嘱望していた義興を失ったことは長慶にとって大きなショックでした。
またその年の12月には名目上の主君・氏綱も病死し、三好家の政権維持に必要な形式的な管領も失ってしまいます。
安宅冬康を誅殺し、病が悪化!
永禄7年(1564)5月9日、長慶は弟・安宅冬康(あたぎふゆやす)を飯盛山城に呼び出し誅殺するという事件を起こします。これは家臣・松永久秀から「冬康が謀反を起こそうとしている」と知らされたからでしたが、後に久秀の讒言だったことが発覚します。
『足利季世記』によると、この頃の長慶は相次ぐ不幸により心身に異常をきたし、病にかかって思慮を失っていたといいます。冬康の死後はさらに容体が悪化し、最後は飯盛山城で病死しました。
長慶の人物像とは
猛々しく戦い、政権を握った長慶ですが、その功績とは反対に性格は穏やかだったようです。長慶の人物像とはどのようなものだったのでしょうか。
早熟の天才型だった?
長慶はわずか12歳で晴元と一向一揆の和睦を仲介しています。元服前の少年が交渉を取りまとめるのは誰でもできるようなことではありません。このことから早熟の天才肌だったといえそうです。
また長慶は、信長と同じように堺の経済力に注目しており、貿易によって莫大な軍事費や軍需品を入手していました。曽祖父の代から受け継いだ周辺諸国との関係や軍事力に加え、このような鋭い視点があったことが勢力拡大につながったのでしょう。
和睦を繰り返す寛大な性格
戦いを繰り返した長慶ですが、最後まで敵を追い詰めることはなく、和睦をはかる寛大な性格でした。晴元と将軍・義輝を破った際は追撃せず、弟から晴元の三宅城を落とそうと提案されたときも拒否しています。それどころか晴元が帰京する際は警護し、優位な立場にありながら和睦を希望しました。『足利季世記』によれば、長慶はかつての主君と和睦できたことに涙したそうです。
また長慶は晴元の長男・昭元を人質にしていましたが、彼を殺すことなく晴元と再会させています。
晩年は連歌を好んだ
長慶には文化人としての側面もありました。当時の武将の中でも高い教養を誇っていた彼は、たびたび連歌会を開いていたといいます。晩年の彼が勇猛さを失っていたのは、連歌に没頭していたからという見方もあるようです。
松永貞徳の随筆集『戴恩記(たいおんき)』によれば、当時は長慶のこのような一面をなじる者もいたのだとか。しかし長慶はこれに対し和歌で反論しています。
短期間で消滅した三好政権
信長よりも早く天下人になったといわれる長慶は、戦いと和睦を繰り返しながら勢力を拡大していきました。それは三好政権を成立させるほど強大でしたが、残念ながらその名前は信長や秀吉ほど知れ渡ることはありませんでした。そこには長慶の寛大な性格が関係していたのかもしれません。
長慶の栄華は弟の死をきっかけに崩れ始め、最後は心身ともに病に侵されるという結末を迎えています。最初の天下人といわれる長慶は、短くも濃い、波乱万丈な生涯を送ったといえるでしょう。 | 一存の死によって三好長慶が治めていた和泉の支配が弱まると、どうなりましたか。 | 一存の死によって三好長慶が治めていた和泉の支配が弱まると、その隙をついて晴元の次男・晴之を盟主とした畠山高政と六角義賢の攻撃が始まります。 |
JCRRAG_012559 | 歴史 | 足利将軍を都から追放する
三好長慶は細川晴元に三好政長父子の討伐を願い出ましたが、その意見は受け入れられませんでした。そのため、長慶はかつて敵だった細川氏綱・遊佐長教と手を組んで晴元に反旗を翻します。これにより政長は討ち取られ、晴元らは将軍・足利義晴と義輝父子たちを連れて逃亡、都は将軍不在の状況に陥りました。
将軍を都から追放した長慶は、主君として氏綱を立て、晴元派の伊丹親興がいる伊丹城を開城させ摂津を平定します。こうして幕府の実権を掌握した彼は、畿内を中心に8か国を支配する大名にまで上り詰めたのです。これは事実上の三好政権の誕生でした。
松永久秀の謀略と長慶の最期
10歳で家督を継いでから怒涛の巻き返しをはかった長慶。最初の天下人という呼び名に相応しい活躍を見せた彼ですが、その状況は長くは続きませんでした。
十河一存の急死が引き金に
長慶の衰退のきっかけは、永禄4年(1561)に起こった弟・十河一存(そごうかずまさ)の急死でした。一存は軍事的に重要な立場にいたため、これは三好家にとって大きな事件だったといえるでしょう。死因は病気とも事故ともいわれますが、陰謀説もあるようです。
一存の死によって彼が治めていた和泉の支配が弱まると、その隙をついて晴元の次男・晴之を盟主とした畠山高政と六角義賢の攻撃が始まります。この戦いは翌年まで続き、さらには弟の一人である三好実休(じっきゅう)が戦死しました。
嫡男の病死が追い打ちをかける
短期間に2人の弟を亡くした長慶ですが、翌年の永禄6年(1563)8月には嫡男・義興が22歳の若さで早世します。そのため一存の息子・重存(義継)を養子に迎えますが、将来を嘱望していた義興を失ったことは長慶にとって大きなショックでした。
またその年の12月には名目上の主君・氏綱も病死し、三好家の政権維持に必要な形式的な管領も失ってしまいます。
安宅冬康を誅殺し、病が悪化!
永禄7年(1564)5月9日、長慶は弟・安宅冬康(あたぎふゆやす)を飯盛山城に呼び出し誅殺するという事件を起こします。これは家臣・松永久秀から「冬康が謀反を起こそうとしている」と知らされたからでしたが、後に久秀の讒言だったことが発覚します。
『足利季世記』によると、この頃の長慶は相次ぐ不幸により心身に異常をきたし、病にかかって思慮を失っていたといいます。冬康の死後はさらに容体が悪化し、最後は飯盛山城で病死しました。
長慶の人物像とは
猛々しく戦い、政権を握った長慶ですが、その功績とは反対に性格は穏やかだったようです。長慶の人物像とはどのようなものだったのでしょうか。
早熟の天才型だった?
長慶はわずか12歳で晴元と一向一揆の和睦を仲介しています。元服前の少年が交渉を取りまとめるのは誰でもできるようなことではありません。このことから早熟の天才肌だったといえそうです。
また長慶は、信長と同じように堺の経済力に注目しており、貿易によって莫大な軍事費や軍需品を入手していました。曽祖父の代から受け継いだ周辺諸国との関係や軍事力に加え、このような鋭い視点があったことが勢力拡大につながったのでしょう。
和睦を繰り返す寛大な性格
戦いを繰り返した長慶ですが、最後まで敵を追い詰めることはなく、和睦をはかる寛大な性格でした。晴元と将軍・義輝を破った際は追撃せず、弟から晴元の三宅城を落とそうと提案されたときも拒否しています。それどころか晴元が帰京する際は警護し、優位な立場にありながら和睦を希望しました。『足利季世記』によれば、長慶はかつての主君と和睦できたことに涙したそうです。
また長慶は晴元の長男・昭元を人質にしていましたが、彼を殺すことなく晴元と再会させています。
晩年は連歌を好んだ
長慶には文化人としての側面もありました。当時の武将の中でも高い教養を誇っていた彼は、たびたび連歌会を開いていたといいます。晩年の彼が勇猛さを失っていたのは、連歌に没頭していたからという見方もあるようです。
松永貞徳の随筆集『戴恩記(たいおんき)』によれば、当時は長慶のこのような一面をなじる者もいたのだとか。しかし長慶はこれに対し和歌で反論しています。
短期間で消滅した三好政権
信長よりも早く天下人になったといわれる長慶は、戦いと和睦を繰り返しながら勢力を拡大していきました。それは三好政権を成立させるほど強大でしたが、残念ながらその名前は信長や秀吉ほど知れ渡ることはありませんでした。そこには長慶の寛大な性格が関係していたのかもしれません。
長慶の栄華は弟の死をきっかけに崩れ始め、最後は心身ともに病に侵されるという結末を迎えています。最初の天下人といわれる長慶は、短くも濃い、波乱万丈な生涯を送ったといえるでしょう。 | 三好長慶の衰退のきっかけは何でしたか。 | 三好長慶の衰退のきっかけは、永禄4年(1561)に起こった弟・十河一存(そごうかずまさ)の急死でした。 |
JCRRAG_012560 | 歴史 | 足利将軍を都から追放する
三好長慶は細川晴元に三好政長父子の討伐を願い出ましたが、その意見は受け入れられませんでした。そのため、長慶はかつて敵だった細川氏綱・遊佐長教と手を組んで晴元に反旗を翻します。これにより政長は討ち取られ、晴元らは将軍・足利義晴と義輝父子たちを連れて逃亡、都は将軍不在の状況に陥りました。
将軍を都から追放した長慶は、主君として氏綱を立て、晴元派の伊丹親興がいる伊丹城を開城させ摂津を平定します。こうして幕府の実権を掌握した彼は、畿内を中心に8か国を支配する大名にまで上り詰めたのです。これは事実上の三好政権の誕生でした。
松永久秀の謀略と長慶の最期
10歳で家督を継いでから怒涛の巻き返しをはかった長慶。最初の天下人という呼び名に相応しい活躍を見せた彼ですが、その状況は長くは続きませんでした。
十河一存の急死が引き金に
長慶の衰退のきっかけは、永禄4年(1561)に起こった弟・十河一存(そごうかずまさ)の急死でした。一存は軍事的に重要な立場にいたため、これは三好家にとって大きな事件だったといえるでしょう。死因は病気とも事故ともいわれますが、陰謀説もあるようです。
一存の死によって彼が治めていた和泉の支配が弱まると、その隙をついて晴元の次男・晴之を盟主とした畠山高政と六角義賢の攻撃が始まります。この戦いは翌年まで続き、さらには弟の一人である三好実休(じっきゅう)が戦死しました。
嫡男の病死が追い打ちをかける
短期間に2人の弟を亡くした長慶ですが、翌年の永禄6年(1563)8月には嫡男・義興が22歳の若さで早世します。そのため一存の息子・重存(義継)を養子に迎えますが、将来を嘱望していた義興を失ったことは長慶にとって大きなショックでした。
またその年の12月には名目上の主君・氏綱も病死し、三好家の政権維持に必要な形式的な管領も失ってしまいます。
安宅冬康を誅殺し、病が悪化!
永禄7年(1564)5月9日、長慶は弟・安宅冬康(あたぎふゆやす)を飯盛山城に呼び出し誅殺するという事件を起こします。これは家臣・松永久秀から「冬康が謀反を起こそうとしている」と知らされたからでしたが、後に久秀の讒言だったことが発覚します。
『足利季世記』によると、この頃の長慶は相次ぐ不幸により心身に異常をきたし、病にかかって思慮を失っていたといいます。冬康の死後はさらに容体が悪化し、最後は飯盛山城で病死しました。
長慶の人物像とは
猛々しく戦い、政権を握った長慶ですが、その功績とは反対に性格は穏やかだったようです。長慶の人物像とはどのようなものだったのでしょうか。
早熟の天才型だった?
長慶はわずか12歳で晴元と一向一揆の和睦を仲介しています。元服前の少年が交渉を取りまとめるのは誰でもできるようなことではありません。このことから早熟の天才肌だったといえそうです。
また長慶は、信長と同じように堺の経済力に注目しており、貿易によって莫大な軍事費や軍需品を入手していました。曽祖父の代から受け継いだ周辺諸国との関係や軍事力に加え、このような鋭い視点があったことが勢力拡大につながったのでしょう。
和睦を繰り返す寛大な性格
戦いを繰り返した長慶ですが、最後まで敵を追い詰めることはなく、和睦をはかる寛大な性格でした。晴元と将軍・義輝を破った際は追撃せず、弟から晴元の三宅城を落とそうと提案されたときも拒否しています。それどころか晴元が帰京する際は警護し、優位な立場にありながら和睦を希望しました。『足利季世記』によれば、長慶はかつての主君と和睦できたことに涙したそうです。
また長慶は晴元の長男・昭元を人質にしていましたが、彼を殺すことなく晴元と再会させています。
晩年は連歌を好んだ
長慶には文化人としての側面もありました。当時の武将の中でも高い教養を誇っていた彼は、たびたび連歌会を開いていたといいます。晩年の彼が勇猛さを失っていたのは、連歌に没頭していたからという見方もあるようです。
松永貞徳の随筆集『戴恩記(たいおんき)』によれば、当時は長慶のこのような一面をなじる者もいたのだとか。しかし長慶はこれに対し和歌で反論しています。
短期間で消滅した三好政権
信長よりも早く天下人になったといわれる長慶は、戦いと和睦を繰り返しながら勢力を拡大していきました。それは三好政権を成立させるほど強大でしたが、残念ながらその名前は信長や秀吉ほど知れ渡ることはありませんでした。そこには長慶の寛大な性格が関係していたのかもしれません。
長慶の栄華は弟の死をきっかけに崩れ始め、最後は心身ともに病に侵されるという結末を迎えています。最初の天下人といわれる長慶は、短くも濃い、波乱万丈な生涯を送ったといえるでしょう。 | 三好長慶は何だったといえそうですか。 | 三好長慶は早熟の天才肌だったといえそうです。 |
JCRRAG_012561 | 歴史 | 足利将軍を都から追放する
三好長慶は細川晴元に三好政長父子の討伐を願い出ましたが、その意見は受け入れられませんでした。そのため、長慶はかつて敵だった細川氏綱・遊佐長教と手を組んで晴元に反旗を翻します。これにより政長は討ち取られ、晴元らは将軍・足利義晴と義輝父子たちを連れて逃亡、都は将軍不在の状況に陥りました。
将軍を都から追放した長慶は、主君として氏綱を立て、晴元派の伊丹親興がいる伊丹城を開城させ摂津を平定します。こうして幕府の実権を掌握した彼は、畿内を中心に8か国を支配する大名にまで上り詰めたのです。これは事実上の三好政権の誕生でした。
松永久秀の謀略と長慶の最期
10歳で家督を継いでから怒涛の巻き返しをはかった長慶。最初の天下人という呼び名に相応しい活躍を見せた彼ですが、その状況は長くは続きませんでした。
十河一存の急死が引き金に
長慶の衰退のきっかけは、永禄4年(1561)に起こった弟・十河一存(そごうかずまさ)の急死でした。一存は軍事的に重要な立場にいたため、これは三好家にとって大きな事件だったといえるでしょう。死因は病気とも事故ともいわれますが、陰謀説もあるようです。
一存の死によって彼が治めていた和泉の支配が弱まると、その隙をついて晴元の次男・晴之を盟主とした畠山高政と六角義賢の攻撃が始まります。この戦いは翌年まで続き、さらには弟の一人である三好実休(じっきゅう)が戦死しました。
嫡男の病死が追い打ちをかける
短期間に2人の弟を亡くした長慶ですが、翌年の永禄6年(1563)8月には嫡男・義興が22歳の若さで早世します。そのため一存の息子・重存(義継)を養子に迎えますが、将来を嘱望していた義興を失ったことは長慶にとって大きなショックでした。
またその年の12月には名目上の主君・氏綱も病死し、三好家の政権維持に必要な形式的な管領も失ってしまいます。
安宅冬康を誅殺し、病が悪化!
永禄7年(1564)5月9日、長慶は弟・安宅冬康(あたぎふゆやす)を飯盛山城に呼び出し誅殺するという事件を起こします。これは家臣・松永久秀から「冬康が謀反を起こそうとしている」と知らされたからでしたが、後に久秀の讒言だったことが発覚します。
『足利季世記』によると、この頃の長慶は相次ぐ不幸により心身に異常をきたし、病にかかって思慮を失っていたといいます。冬康の死後はさらに容体が悪化し、最後は飯盛山城で病死しました。
長慶の人物像とは
猛々しく戦い、政権を握った長慶ですが、その功績とは反対に性格は穏やかだったようです。長慶の人物像とはどのようなものだったのでしょうか。
早熟の天才型だった?
長慶はわずか12歳で晴元と一向一揆の和睦を仲介しています。元服前の少年が交渉を取りまとめるのは誰でもできるようなことではありません。このことから早熟の天才肌だったといえそうです。
また長慶は、信長と同じように堺の経済力に注目しており、貿易によって莫大な軍事費や軍需品を入手していました。曽祖父の代から受け継いだ周辺諸国との関係や軍事力に加え、このような鋭い視点があったことが勢力拡大につながったのでしょう。
和睦を繰り返す寛大な性格
戦いを繰り返した長慶ですが、最後まで敵を追い詰めることはなく、和睦をはかる寛大な性格でした。晴元と将軍・義輝を破った際は追撃せず、弟から晴元の三宅城を落とそうと提案されたときも拒否しています。それどころか晴元が帰京する際は警護し、優位な立場にありながら和睦を希望しました。『足利季世記』によれば、長慶はかつての主君と和睦できたことに涙したそうです。
また長慶は晴元の長男・昭元を人質にしていましたが、彼を殺すことなく晴元と再会させています。
晩年は連歌を好んだ
長慶には文化人としての側面もありました。当時の武将の中でも高い教養を誇っていた彼は、たびたび連歌会を開いていたといいます。晩年の彼が勇猛さを失っていたのは、連歌に没頭していたからという見方もあるようです。
松永貞徳の随筆集『戴恩記(たいおんき)』によれば、当時は長慶のこのような一面をなじる者もいたのだとか。しかし長慶はこれに対し和歌で反論しています。
短期間で消滅した三好政権
信長よりも早く天下人になったといわれる長慶は、戦いと和睦を繰り返しながら勢力を拡大していきました。それは三好政権を成立させるほど強大でしたが、残念ながらその名前は信長や秀吉ほど知れ渡ることはありませんでした。そこには長慶の寛大な性格が関係していたのかもしれません。
長慶の栄華は弟の死をきっかけに崩れ始め、最後は心身ともに病に侵されるという結末を迎えています。最初の天下人といわれる長慶は、短くも濃い、波乱万丈な生涯を送ったといえるでしょう。 | 三好長慶の栄華は弟の死をきっかけに崩れ始め、最後はどのような結末を迎えていますか。 | 三好長慶の栄華は弟の死をきっかけに崩れ始め、最後は心身ともに病に侵されるという結末を迎えています。 |
JCRRAG_012562 | 歴史 | 黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、竹中半兵衛である。
竹中半兵衛の生い立ち
半兵衛は10代前半から合戦に身を投じ、若くして家督を継ぎました。秀吉に仕えるようになるまで、どのような人生を送っていたのでしょうか。
長良川の戦いで初陣
半兵衛は、天文13年(1544)美濃斎藤氏の家臣で竹中重元の子として大御堂城で生まれました。弟に竹中重矩、従弟に府内藩の初代藩主・竹中重利などがいます。
弘治2年(1556)、斎藤道三とその嫡男・義龍による「長良川の戦い」が勃発すると、道三側に味方をして初陣を果たします。このとき父が不在だったため、代理で大将を務め籠城戦を乗り切ったといいます。この頃から天才軍師としての片りんをのぞかせていたのかもしれません。
斎藤龍興に仕える
永禄3年(1560)に家督を相続した半兵衛は義龍に仕え、のちにはその子・斎藤龍興に仕えます。その当時、尾張国・織田信長による美濃侵攻は激しさを増しており、若い龍興が当主になってからは攻防が難しくなっていました。それでも半兵衛の戦略で斎藤軍は勝利しましたが、龍興は酒や女性に溺れ、一部の側近のみ寵愛して半兵衛や有力家臣の美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)を避けたのです。そのため半兵衛らは、龍興の居城・稲葉山城(後の岐阜城)を襲撃します。
約半年後、稲葉山城は龍興に返還されましたが、永禄10年(1567)、信長の侵攻で再び陥落。半兵衛は斎藤家を後にして北近江国・浅井長政の客分(一時的な家来)となりますが、約1年で禄を辞退して旧領に帰りました。
半兵衛の経歴と功績について
若い頃から頭角を現していた半兵衛ですが、斎藤氏や浅井氏のもとを去ってからは浪人として暮らします。しかしその後、後世まで語り継がれるような経歴や功績が生み出されるのです。 | 黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、誰であるか。 | 黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、竹中半兵衛である。 |
JCRRAG_012563 | 歴史 | 黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、竹中半兵衛である。
竹中半兵衛の生い立ち
半兵衛は10代前半から合戦に身を投じ、若くして家督を継ぎました。秀吉に仕えるようになるまで、どのような人生を送っていたのでしょうか。
長良川の戦いで初陣
半兵衛は、天文13年(1544)美濃斎藤氏の家臣で竹中重元の子として大御堂城で生まれました。弟に竹中重矩、従弟に府内藩の初代藩主・竹中重利などがいます。
弘治2年(1556)、斎藤道三とその嫡男・義龍による「長良川の戦い」が勃発すると、道三側に味方をして初陣を果たします。このとき父が不在だったため、代理で大将を務め籠城戦を乗り切ったといいます。この頃から天才軍師としての片りんをのぞかせていたのかもしれません。
斎藤龍興に仕える
永禄3年(1560)に家督を相続した半兵衛は義龍に仕え、のちにはその子・斎藤龍興に仕えます。その当時、尾張国・織田信長による美濃侵攻は激しさを増しており、若い龍興が当主になってからは攻防が難しくなっていました。それでも半兵衛の戦略で斎藤軍は勝利しましたが、龍興は酒や女性に溺れ、一部の側近のみ寵愛して半兵衛や有力家臣の美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)を避けたのです。そのため半兵衛らは、龍興の居城・稲葉山城(後の岐阜城)を襲撃します。
約半年後、稲葉山城は龍興に返還されましたが、永禄10年(1567)、信長の侵攻で再び陥落。半兵衛は斎藤家を後にして北近江国・浅井長政の客分(一時的な家来)となりますが、約1年で禄を辞退して旧領に帰りました。
半兵衛の経歴と功績について
若い頃から頭角を現していた半兵衛ですが、斎藤氏や浅井氏のもとを去ってからは浪人として暮らします。しかしその後、後世まで語り継がれるような経歴や功績が生み出されるのです。 | 竹中半兵衛は、天文13年(1544)誰の子として大御堂城で生まれましたか。 | 竹中半兵衛は、天文13年(1544)美濃斎藤氏の家臣で竹中重元(しげちか/しげもと)の子として大御堂城で生まれました。 |
JCRRAG_012564 | 歴史 | 黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、竹中半兵衛である。
竹中半兵衛の生い立ち
半兵衛は10代前半から合戦に身を投じ、若くして家督を継ぎました。秀吉に仕えるようになるまで、どのような人生を送っていたのでしょうか。
長良川の戦いで初陣
半兵衛は、天文13年(1544)美濃斎藤氏の家臣で竹中重元の子として大御堂城で生まれました。弟に竹中重矩、従弟に府内藩の初代藩主・竹中重利などがいます。
弘治2年(1556)、斎藤道三とその嫡男・義龍による「長良川の戦い」が勃発すると、道三側に味方をして初陣を果たします。このとき父が不在だったため、代理で大将を務め籠城戦を乗り切ったといいます。この頃から天才軍師としての片りんをのぞかせていたのかもしれません。
斎藤龍興に仕える
永禄3年(1560)に家督を相続した半兵衛は義龍に仕え、のちにはその子・斎藤龍興に仕えます。その当時、尾張国・織田信長による美濃侵攻は激しさを増しており、若い龍興が当主になってからは攻防が難しくなっていました。それでも半兵衛の戦略で斎藤軍は勝利しましたが、龍興は酒や女性に溺れ、一部の側近のみ寵愛して半兵衛や有力家臣の美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)を避けたのです。そのため半兵衛らは、龍興の居城・稲葉山城(後の岐阜城)を襲撃します。
約半年後、稲葉山城は龍興に返還されましたが、永禄10年(1567)、信長の侵攻で再び陥落。半兵衛は斎藤家を後にして北近江国・浅井長政の客分(一時的な家来)となりますが、約1年で禄を辞退して旧領に帰りました。
半兵衛の経歴と功績について
若い頃から頭角を現していた半兵衛ですが、斎藤氏や浅井氏のもとを去ってからは浪人として暮らします。しかしその後、後世まで語り継がれるような経歴や功績が生み出されるのです。 | 竹中半兵衛は、天文13年(1544)美濃斎藤氏の家臣で竹中重元の子としてどこで生まれましたか。 | 竹中半兵衛は、天文13年(1544)美濃斎藤氏の家臣で竹中重元の子として大御堂城で生まれました。 |
JCRRAG_012565 | 歴史 | 黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、竹中半兵衛である。
竹中半兵衛の生い立ち
半兵衛は10代前半から合戦に身を投じ、若くして家督を継ぎました。秀吉に仕えるようになるまで、どのような人生を送っていたのでしょうか。
長良川の戦いで初陣
半兵衛は、天文13年(1544)美濃斎藤氏の家臣で竹中重元の子として大御堂城で生まれました。弟に竹中重矩、従弟に府内藩の初代藩主・竹中重利などがいます。
弘治2年(1556)、斎藤道三とその嫡男・義龍による「長良川の戦い」が勃発すると、道三側に味方をして初陣を果たします。このとき父が不在だったため、代理で大将を務め籠城戦を乗り切ったといいます。この頃から天才軍師としての片りんをのぞかせていたのかもしれません。
斎藤龍興に仕える
永禄3年(1560)に家督を相続した半兵衛は義龍に仕え、のちにはその子・斎藤龍興に仕えます。その当時、尾張国・織田信長による美濃侵攻は激しさを増しており、若い龍興が当主になってからは攻防が難しくなっていました。それでも半兵衛の戦略で斎藤軍は勝利しましたが、龍興は酒や女性に溺れ、一部の側近のみ寵愛して半兵衛や有力家臣の美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)を避けたのです。そのため半兵衛らは、龍興の居城・稲葉山城(後の岐阜城)を襲撃します。
約半年後、稲葉山城は龍興に返還されましたが、永禄10年(1567)、信長の侵攻で再び陥落。半兵衛は斎藤家を後にして北近江国・浅井長政の客分(一時的な家来)となりますが、約1年で禄を辞退して旧領に帰りました。
半兵衛の経歴と功績について
若い頃から頭角を現していた半兵衛ですが、斎藤氏や浅井氏のもとを去ってからは浪人として暮らします。しかしその後、後世まで語り継がれるような経歴や功績が生み出されるのです。 | 永禄3年(1560)に家督を相続した竹中半兵衛は誰に仕えますか。 | 永禄3年(1560)に家督を相続した竹中半兵衛は義龍に仕えます。 |
JCRRAG_012566 | 歴史 | 黒田官兵衛と共に「両兵衛」「二兵衛」などと呼ばれた人物は、竹中半兵衛である。
竹中半兵衛の生い立ち
半兵衛は10代前半から合戦に身を投じ、若くして家督を継ぎました。秀吉に仕えるようになるまで、どのような人生を送っていたのでしょうか。
長良川の戦いで初陣
半兵衛は、天文13年(1544)美濃斎藤氏の家臣で竹中重元の子として大御堂城で生まれました。弟に竹中重矩、従弟に府内藩の初代藩主・竹中重利などがいます。
弘治2年(1556)、斎藤道三とその嫡男・義龍による「長良川の戦い」が勃発すると、道三側に味方をして初陣を果たします。このとき父が不在だったため、代理で大将を務め籠城戦を乗り切ったといいます。この頃から天才軍師としての片りんをのぞかせていたのかもしれません。
斎藤龍興に仕える
永禄3年(1560)に家督を相続した半兵衛は義龍に仕え、のちにはその子・斎藤龍興に仕えます。その当時、尾張国・織田信長による美濃侵攻は激しさを増しており、若い龍興が当主になってからは攻防が難しくなっていました。それでも半兵衛の戦略で斎藤軍は勝利しましたが、龍興は酒や女性に溺れ、一部の側近のみ寵愛して半兵衛や有力家臣の美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)を避けたのです。そのため半兵衛らは、龍興の居城・稲葉山城(後の岐阜城)を襲撃します。
約半年後、稲葉山城は龍興に返還されましたが、永禄10年(1567)、信長の侵攻で再び陥落。半兵衛は斎藤家を後にして北近江国・浅井長政の客分(一時的な家来)となりますが、約1年で禄を辞退して旧領に帰りました。
半兵衛の経歴と功績について
若い頃から頭角を現していた半兵衛ですが、斎藤氏や浅井氏のもとを去ってからは浪人として暮らします。しかしその後、後世まで語り継がれるような経歴や功績が生み出されるのです。 | 黒田半兵衛は斎藤家を後にして誰の客分となりますか。 | 黒田半兵衛は斎藤家を後にして北近江国・浅井長政の客分となります。 |
JCRRAG_012567 | 歴史 | 三顧の礼で秀吉のもとへ
かつて敵対関係にあった信長ですが、半兵衛を家臣にしたいと考えていました。勧誘を命じられた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、「三顧の礼」で半兵衛を味方に引き入れます。
「三顧の礼」とは目上の人間が格下の者のもとに三度出向いてお願いをすることで、中国の『三国志演義』において劉備が諸葛亮を味方にしたことに由来します。諸葛亮は歴史に名を刻む名軍師ですが、半兵衛もそれほど能力を買われていたのでしょう。
調略活動で活躍した
信長の影響が強まると、反信長勢力による「信長包囲網」が敷かれるようになります。これにより、かつての主君・浅井長政と敵対すると、半兵衛は浅井家臣団との人脈を生かして調略を行いました。浅井氏の長亭軒城や長比城を織田側に寝返らせるなど、見事な活躍をみせています。
その後の「姉川の戦い」にも参加しており、この頃、信長の直臣から秀吉の与力になったと考えられています。
中国攻めに参加する
天正5年(1577)、信長は毛利輝元が治める山陰・山陽地方への侵攻「中国攻め」を開始します。この総大将に任命されたのが秀吉で、半兵衛もこれに従い中国遠征に参加しました。
半兵衛はここでも調略活動で活躍し、宇喜多氏の備前八幡山城を落城させます。これを京都の信長に報告すると、称賛されるとともに100両を授けられたそうです。
有岡城の戦いと黒田官兵衛
天正6年(1578)7月、秀吉軍に加わっていた荒木村重が信長に反旗を翻し「有岡城の戦い」が勃発。秀吉は、村重と旧知の仲である黒田官兵衛を派遣し説得させようと試みますが、官兵衛はそのまま城に監禁されてしまいます。官兵衛が村重に加担したと思い込んだ信長は、秀吉に官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を命じました。
半兵衛はここでも一計を案じ、信長には偽者の首を提出し、松寿丸の命を助けるよう提案します。これにより松寿丸は助かり、家臣・不破矢足の屋敷にかくまわれました。のちに救出された官兵衛は、これに心から感謝したそうです。
半兵衛にまつわる逸話
さまざまな活躍を遂げた半兵衛ですが、史実としての実像は不明瞭といわれています。現在語り継がれている逸話には、どのようなものがあるのでしょうか。
天才軍師や美談は?その真相
半兵衛の活躍は、嫡子・竹中重門によって著された『豊鑑』や、『武功夜話』『太閤記』などに描かれています。江戸時代には官兵衛とともに講談で描かれ、天才軍師のイメージが定着しました。
しかし『信長公記』(しんちょうこうき)には記述が少なく、残されている資料がわずかなため、実態は明らかではありません。一次史料には秀吉の正式な家臣であったという証拠がなく、織田家から秀吉に付けられた与力武将の一人という見方が強いようです。
竹中家譜で語られる半兵衛
竹中一族の系図『竹中家譜』には、「長篠の戦い」でのエピソードが残されています。
戦いの最中、武田勢の一部が左側に移動したため、横から襲われるのではと焦った秀吉は迎撃しようと兵を動かしました。しかし半兵衛はこれを陽動作戦だと捉え、その場を離れなかったといいます。この読みは見事当たりました。
また、半兵衛は天正7年(1579)、中国攻めの最中に病死しますが、秀吉から京での養生を勧められたものの「陣中で死ぬのが武士の本望だ」と断ったそうです。そんな半兵衛が最期に秀吉に授けた兵糧攻め作戦は、その後の秀吉の戦いにも勝利をもたらしています。
太閤記で描かれるイメージ
『太閤記』や『常山紀談』によると、半兵衛は体が弱く、女性のような痩身(そうしん)で、出陣の際も静かに馬に乗るだけだったそうです。そのため斎藤氏時代は、主君・龍興や家臣たちに甘く見られ、龍興の寵臣(ちょうしん)・斎藤飛騨守からは小便を顔にかけられるといった侮辱まで受けました。
この数日後、半兵衛は武具を隠し持って稲葉山城に入城し、宿直部屋にいた飛騨守を斬殺して城を乗っ取ったといわれています。
天才軍師の生き様
半兵衛は現代でも天才軍師として人気がある戦国武将です。さまざまな逸話が残されていますが、史料が少ないため、その活躍や美談は後世の創作という見方もあります。
講談で人気が高い人物はほかにもいますが、いずれにしても語るにふさわしい人物ばかりです。主君への下克上、浪人から軍師への転身など、一筋縄ではいかない人生を歩んだ半兵衛。彼は人々に語られるに十分な、魅力あふれる人物だったといえるでしょう。 | 半兵衛は誰を織田側に寝返らせますか。 | 半兵衛は浅井氏の長亭軒城や長比城を織田側に寝返らせます。 |
JCRRAG_012568 | 歴史 | 三顧の礼で秀吉のもとへ
かつて敵対関係にあった信長ですが、半兵衛を家臣にしたいと考えていました。勧誘を命じられた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、「三顧の礼」で半兵衛を味方に引き入れます。
「三顧の礼」とは目上の人間が格下の者のもとに三度出向いてお願いをすることで、中国の『三国志演義』において劉備が諸葛亮を味方にしたことに由来します。諸葛亮は歴史に名を刻む名軍師ですが、半兵衛もそれほど能力を買われていたのでしょう。
調略活動で活躍した
信長の影響が強まると、反信長勢力による「信長包囲網」が敷かれるようになります。これにより、かつての主君・浅井長政と敵対すると、半兵衛は浅井家臣団との人脈を生かして調略を行いました。浅井氏の長亭軒城や長比城を織田側に寝返らせるなど、見事な活躍をみせています。
その後の「姉川の戦い」にも参加しており、この頃、信長の直臣から秀吉の与力になったと考えられています。
中国攻めに参加する
天正5年(1577)、信長は毛利輝元が治める山陰・山陽地方への侵攻「中国攻め」を開始します。この総大将に任命されたのが秀吉で、半兵衛もこれに従い中国遠征に参加しました。
半兵衛はここでも調略活動で活躍し、宇喜多氏の備前八幡山城を落城させます。これを京都の信長に報告すると、称賛されるとともに100両を授けられたそうです。
有岡城の戦いと黒田官兵衛
天正6年(1578)7月、秀吉軍に加わっていた荒木村重が信長に反旗を翻し「有岡城の戦い」が勃発。秀吉は、村重と旧知の仲である黒田官兵衛を派遣し説得させようと試みますが、官兵衛はそのまま城に監禁されてしまいます。官兵衛が村重に加担したと思い込んだ信長は、秀吉に官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を命じました。
半兵衛はここでも一計を案じ、信長には偽者の首を提出し、松寿丸の命を助けるよう提案します。これにより松寿丸は助かり、家臣・不破矢足の屋敷にかくまわれました。のちに救出された官兵衛は、これに心から感謝したそうです。
半兵衛にまつわる逸話
さまざまな活躍を遂げた半兵衛ですが、史実としての実像は不明瞭といわれています。現在語り継がれている逸話には、どのようなものがあるのでしょうか。
天才軍師や美談は?その真相
半兵衛の活躍は、嫡子・竹中重門によって著された『豊鑑』や、『武功夜話』『太閤記』などに描かれています。江戸時代には官兵衛とともに講談で描かれ、天才軍師のイメージが定着しました。
しかし『信長公記』(しんちょうこうき)には記述が少なく、残されている資料がわずかなため、実態は明らかではありません。一次史料には秀吉の正式な家臣であったという証拠がなく、織田家から秀吉に付けられた与力武将の一人という見方が強いようです。
竹中家譜で語られる半兵衛
竹中一族の系図『竹中家譜』には、「長篠の戦い」でのエピソードが残されています。
戦いの最中、武田勢の一部が左側に移動したため、横から襲われるのではと焦った秀吉は迎撃しようと兵を動かしました。しかし半兵衛はこれを陽動作戦だと捉え、その場を離れなかったといいます。この読みは見事当たりました。
また、半兵衛は天正7年(1579)、中国攻めの最中に病死しますが、秀吉から京での養生を勧められたものの「陣中で死ぬのが武士の本望だ」と断ったそうです。そんな半兵衛が最期に秀吉に授けた兵糧攻め作戦は、その後の秀吉の戦いにも勝利をもたらしています。
太閤記で描かれるイメージ
『太閤記』や『常山紀談』によると、半兵衛は体が弱く、女性のような痩身(そうしん)で、出陣の際も静かに馬に乗るだけだったそうです。そのため斎藤氏時代は、主君・龍興や家臣たちに甘く見られ、龍興の寵臣(ちょうしん)・斎藤飛騨守からは小便を顔にかけられるといった侮辱まで受けました。
この数日後、半兵衛は武具を隠し持って稲葉山城に入城し、宿直部屋にいた飛騨守を斬殺して城を乗っ取ったといわれています。
天才軍師の生き様
半兵衛は現代でも天才軍師として人気がある戦国武将です。さまざまな逸話が残されていますが、史料が少ないため、その活躍や美談は後世の創作という見方もあります。
講談で人気が高い人物はほかにもいますが、いずれにしても語るにふさわしい人物ばかりです。主君への下克上、浪人から軍師への転身など、一筋縄ではいかない人生を歩んだ半兵衛。彼は人々に語られるに十分な、魅力あふれる人物だったといえるでしょう。 | 半兵衛はどこを落城させますか。 | 半兵衛は宇喜多氏の備前八幡山城を落城させます。 |
JCRRAG_012569 | 歴史 | 三顧の礼で秀吉のもとへ
かつて敵対関係にあった信長ですが、半兵衛を家臣にしたいと考えていました。勧誘を命じられた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、「三顧の礼」で半兵衛を味方に引き入れます。
「三顧の礼」とは目上の人間が格下の者のもとに三度出向いてお願いをすることで、中国の『三国志演義』において劉備が諸葛亮を味方にしたことに由来します。諸葛亮は歴史に名を刻む名軍師ですが、半兵衛もそれほど能力を買われていたのでしょう。
調略活動で活躍した
信長の影響が強まると、反信長勢力による「信長包囲網」が敷かれるようになります。これにより、かつての主君・浅井長政と敵対すると、半兵衛は浅井家臣団との人脈を生かして調略を行いました。浅井氏の長亭軒城や長比城を織田側に寝返らせるなど、見事な活躍をみせています。
その後の「姉川の戦い」にも参加しており、この頃、信長の直臣から秀吉の与力になったと考えられています。
中国攻めに参加する
天正5年(1577)、信長は毛利輝元が治める山陰・山陽地方への侵攻「中国攻め」を開始します。この総大将に任命されたのが秀吉で、半兵衛もこれに従い中国遠征に参加しました。
半兵衛はここでも調略活動で活躍し、宇喜多氏の備前八幡山城を落城させます。これを京都の信長に報告すると、称賛されるとともに100両を授けられたそうです。
有岡城の戦いと黒田官兵衛
天正6年(1578)7月、秀吉軍に加わっていた荒木村重が信長に反旗を翻し「有岡城の戦い」が勃発。秀吉は、村重と旧知の仲である黒田官兵衛を派遣し説得させようと試みますが、官兵衛はそのまま城に監禁されてしまいます。官兵衛が村重に加担したと思い込んだ信長は、秀吉に官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を命じました。
半兵衛はここでも一計を案じ、信長には偽者の首を提出し、松寿丸の命を助けるよう提案します。これにより松寿丸は助かり、家臣・不破矢足の屋敷にかくまわれました。のちに救出された官兵衛は、これに心から感謝したそうです。
半兵衛にまつわる逸話
さまざまな活躍を遂げた半兵衛ですが、史実としての実像は不明瞭といわれています。現在語り継がれている逸話には、どのようなものがあるのでしょうか。
天才軍師や美談は?その真相
半兵衛の活躍は、嫡子・竹中重門によって著された『豊鑑』や、『武功夜話』『太閤記』などに描かれています。江戸時代には官兵衛とともに講談で描かれ、天才軍師のイメージが定着しました。
しかし『信長公記』(しんちょうこうき)には記述が少なく、残されている資料がわずかなため、実態は明らかではありません。一次史料には秀吉の正式な家臣であったという証拠がなく、織田家から秀吉に付けられた与力武将の一人という見方が強いようです。
竹中家譜で語られる半兵衛
竹中一族の系図『竹中家譜』には、「長篠の戦い」でのエピソードが残されています。
戦いの最中、武田勢の一部が左側に移動したため、横から襲われるのではと焦った秀吉は迎撃しようと兵を動かしました。しかし半兵衛はこれを陽動作戦だと捉え、その場を離れなかったといいます。この読みは見事当たりました。
また、半兵衛は天正7年(1579)、中国攻めの最中に病死しますが、秀吉から京での養生を勧められたものの「陣中で死ぬのが武士の本望だ」と断ったそうです。そんな半兵衛が最期に秀吉に授けた兵糧攻め作戦は、その後の秀吉の戦いにも勝利をもたらしています。
太閤記で描かれるイメージ
『太閤記』や『常山紀談』によると、半兵衛は体が弱く、女性のような痩身(そうしん)で、出陣の際も静かに馬に乗るだけだったそうです。そのため斎藤氏時代は、主君・龍興や家臣たちに甘く見られ、龍興の寵臣(ちょうしん)・斎藤飛騨守からは小便を顔にかけられるといった侮辱まで受けました。
この数日後、半兵衛は武具を隠し持って稲葉山城に入城し、宿直部屋にいた飛騨守を斬殺して城を乗っ取ったといわれています。
天才軍師の生き様
半兵衛は現代でも天才軍師として人気がある戦国武将です。さまざまな逸話が残されていますが、史料が少ないため、その活躍や美談は後世の創作という見方もあります。
講談で人気が高い人物はほかにもいますが、いずれにしても語るにふさわしい人物ばかりです。主君への下克上、浪人から軍師への転身など、一筋縄ではいかない人生を歩んだ半兵衛。彼は人々に語られるに十分な、魅力あふれる人物だったといえるでしょう。 | 半兵衛は信長には偽者の首を提出し、何と提案しますか。 | 半兵衛は信長には偽者の首を提出し、松寿丸の命を助けるよう提案します。 |
JCRRAG_012570 | 歴史 | 三顧の礼で秀吉のもとへ
かつて敵対関係にあった信長ですが、半兵衛を家臣にしたいと考えていました。勧誘を命じられた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、「三顧の礼」で半兵衛を味方に引き入れます。
「三顧の礼」とは目上の人間が格下の者のもとに三度出向いてお願いをすることで、中国の『三国志演義』において劉備が諸葛亮を味方にしたことに由来します。諸葛亮は歴史に名を刻む名軍師ですが、半兵衛もそれほど能力を買われていたのでしょう。
調略活動で活躍した
信長の影響が強まると、反信長勢力による「信長包囲網」が敷かれるようになります。これにより、かつての主君・浅井長政と敵対すると、半兵衛は浅井家臣団との人脈を生かして調略を行いました。浅井氏の長亭軒城や長比城を織田側に寝返らせるなど、見事な活躍をみせています。
その後の「姉川の戦い」にも参加しており、この頃、信長の直臣から秀吉の与力になったと考えられています。
中国攻めに参加する
天正5年(1577)、信長は毛利輝元が治める山陰・山陽地方への侵攻「中国攻め」を開始します。この総大将に任命されたのが秀吉で、半兵衛もこれに従い中国遠征に参加しました。
半兵衛はここでも調略活動で活躍し、宇喜多氏の備前八幡山城を落城させます。これを京都の信長に報告すると、称賛されるとともに100両を授けられたそうです。
有岡城の戦いと黒田官兵衛
天正6年(1578)7月、秀吉軍に加わっていた荒木村重が信長に反旗を翻し「有岡城の戦い」が勃発。秀吉は、村重と旧知の仲である黒田官兵衛を派遣し説得させようと試みますが、官兵衛はそのまま城に監禁されてしまいます。官兵衛が村重に加担したと思い込んだ信長は、秀吉に官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を命じました。
半兵衛はここでも一計を案じ、信長には偽者の首を提出し、松寿丸の命を助けるよう提案します。これにより松寿丸は助かり、家臣・不破矢足の屋敷にかくまわれました。のちに救出された官兵衛は、これに心から感謝したそうです。
半兵衛にまつわる逸話
さまざまな活躍を遂げた半兵衛ですが、史実としての実像は不明瞭といわれています。現在語り継がれている逸話には、どのようなものがあるのでしょうか。
天才軍師や美談は?その真相
半兵衛の活躍は、嫡子・竹中重門によって著された『豊鑑』や、『武功夜話』『太閤記』などに描かれています。江戸時代には官兵衛とともに講談で描かれ、天才軍師のイメージが定着しました。
しかし『信長公記』(しんちょうこうき)には記述が少なく、残されている資料がわずかなため、実態は明らかではありません。一次史料には秀吉の正式な家臣であったという証拠がなく、織田家から秀吉に付けられた与力武将の一人という見方が強いようです。
竹中家譜で語られる半兵衛
竹中一族の系図『竹中家譜』には、「長篠の戦い」でのエピソードが残されています。
戦いの最中、武田勢の一部が左側に移動したため、横から襲われるのではと焦った秀吉は迎撃しようと兵を動かしました。しかし半兵衛はこれを陽動作戦だと捉え、その場を離れなかったといいます。この読みは見事当たりました。
また、半兵衛は天正7年(1579)、中国攻めの最中に病死しますが、秀吉から京での養生を勧められたものの「陣中で死ぬのが武士の本望だ」と断ったそうです。そんな半兵衛が最期に秀吉に授けた兵糧攻め作戦は、その後の秀吉の戦いにも勝利をもたらしています。
太閤記で描かれるイメージ
『太閤記』や『常山紀談』によると、半兵衛は体が弱く、女性のような痩身(そうしん)で、出陣の際も静かに馬に乗るだけだったそうです。そのため斎藤氏時代は、主君・龍興や家臣たちに甘く見られ、龍興の寵臣(ちょうしん)・斎藤飛騨守からは小便を顔にかけられるといった侮辱まで受けました。
この数日後、半兵衛は武具を隠し持って稲葉山城に入城し、宿直部屋にいた飛騨守を斬殺して城を乗っ取ったといわれています。
天才軍師の生き様
半兵衛は現代でも天才軍師として人気がある戦国武将です。さまざまな逸話が残されていますが、史料が少ないため、その活躍や美談は後世の創作という見方もあります。
講談で人気が高い人物はほかにもいますが、いずれにしても語るにふさわしい人物ばかりです。主君への下克上、浪人から軍師への転身など、一筋縄ではいかない人生を歩んだ半兵衛。彼は人々に語られるに十分な、魅力あふれる人物だったといえるでしょう。 | 半兵衛は天正7年(1579)、何の最中に病死しますか。 | 半兵衛は天正7年(1579)、中国攻めの最中に病死します。 |
JCRRAG_012571 | 歴史 | 三顧の礼で秀吉のもとへ
かつて敵対関係にあった信長ですが、半兵衛を家臣にしたいと考えていました。勧誘を命じられた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、「三顧の礼」で半兵衛を味方に引き入れます。
「三顧の礼」とは目上の人間が格下の者のもとに三度出向いてお願いをすることで、中国の『三国志演義』において劉備が諸葛亮を味方にしたことに由来します。諸葛亮は歴史に名を刻む名軍師ですが、半兵衛もそれほど能力を買われていたのでしょう。
調略活動で活躍した
信長の影響が強まると、反信長勢力による「信長包囲網」が敷かれるようになります。これにより、かつての主君・浅井長政と敵対すると、半兵衛は浅井家臣団との人脈を生かして調略を行いました。浅井氏の長亭軒城や長比城を織田側に寝返らせるなど、見事な活躍をみせています。
その後の「姉川の戦い」にも参加しており、この頃、信長の直臣から秀吉の与力になったと考えられています。
中国攻めに参加する
天正5年(1577)、信長は毛利輝元が治める山陰・山陽地方への侵攻「中国攻め」を開始します。この総大将に任命されたのが秀吉で、半兵衛もこれに従い中国遠征に参加しました。
半兵衛はここでも調略活動で活躍し、宇喜多氏の備前八幡山城を落城させます。これを京都の信長に報告すると、称賛されるとともに100両を授けられたそうです。
有岡城の戦いと黒田官兵衛
天正6年(1578)7月、秀吉軍に加わっていた荒木村重が信長に反旗を翻し「有岡城の戦い」が勃発。秀吉は、村重と旧知の仲である黒田官兵衛を派遣し説得させようと試みますが、官兵衛はそのまま城に監禁されてしまいます。官兵衛が村重に加担したと思い込んだ信長は、秀吉に官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を命じました。
半兵衛はここでも一計を案じ、信長には偽者の首を提出し、松寿丸の命を助けるよう提案します。これにより松寿丸は助かり、家臣・不破矢足の屋敷にかくまわれました。のちに救出された官兵衛は、これに心から感謝したそうです。
半兵衛にまつわる逸話
さまざまな活躍を遂げた半兵衛ですが、史実としての実像は不明瞭といわれています。現在語り継がれている逸話には、どのようなものがあるのでしょうか。
天才軍師や美談は?その真相
半兵衛の活躍は、嫡子・竹中重門によって著された『豊鑑』や、『武功夜話』『太閤記』などに描かれています。江戸時代には官兵衛とともに講談で描かれ、天才軍師のイメージが定着しました。
しかし『信長公記』(しんちょうこうき)には記述が少なく、残されている資料がわずかなため、実態は明らかではありません。一次史料には秀吉の正式な家臣であったという証拠がなく、織田家から秀吉に付けられた与力武将の一人という見方が強いようです。
竹中家譜で語られる半兵衛
竹中一族の系図『竹中家譜』には、「長篠の戦い」でのエピソードが残されています。
戦いの最中、武田勢の一部が左側に移動したため、横から襲われるのではと焦った秀吉は迎撃しようと兵を動かしました。しかし半兵衛はこれを陽動作戦だと捉え、その場を離れなかったといいます。この読みは見事当たりました。
また、半兵衛は天正7年(1579)、中国攻めの最中に病死しますが、秀吉から京での養生を勧められたものの「陣中で死ぬのが武士の本望だ」と断ったそうです。そんな半兵衛が最期に秀吉に授けた兵糧攻め作戦は、その後の秀吉の戦いにも勝利をもたらしています。
太閤記で描かれるイメージ
『太閤記』や『常山紀談』によると、半兵衛は体が弱く、女性のような痩身(そうしん)で、出陣の際も静かに馬に乗るだけだったそうです。そのため斎藤氏時代は、主君・龍興や家臣たちに甘く見られ、龍興の寵臣(ちょうしん)・斎藤飛騨守からは小便を顔にかけられるといった侮辱まで受けました。
この数日後、半兵衛は武具を隠し持って稲葉山城に入城し、宿直部屋にいた飛騨守を斬殺して城を乗っ取ったといわれています。
天才軍師の生き様
半兵衛は現代でも天才軍師として人気がある戦国武将です。さまざまな逸話が残されていますが、史料が少ないため、その活躍や美談は後世の創作という見方もあります。
講談で人気が高い人物はほかにもいますが、いずれにしても語るにふさわしい人物ばかりです。主君への下克上、浪人から軍師への転身など、一筋縄ではいかない人生を歩んだ半兵衛。彼は人々に語られるに十分な、魅力あふれる人物だったといえるでしょう。 | 半兵衛は武具を隠し持ってどこに入城しますか。 | 半兵衛は武具を隠し持って稲葉山城に入城します。 |
JCRRAG_012572 | 歴史 | “尾張の虎”と呼ばれた人物は、織田信秀である。
信長の父・織田信秀の生まれと功績
織田信秀は永正8年(1511)に織田信定の長男として尾張国で生まれました。ただ、尾張が統一されるのは、実は子の信長の代になってからのこと。信秀が生まれた時代の尾張には、織田の本家や分家、さらに彼らが支える主君もいるなど、いろいろな勢力が存在していたのです。
では、その勢力の詳細と、信秀が力をつけていった過程について見ていきましょう。
信秀の家柄とは?
信秀の一家は、尾張の南の4郡を支配する守護代・織田大和守家に仕える清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)の一角、弾正忠(だんじょうのちゅう)家でした。つまり、大和守家が織田の本家、信秀の家柄はそれを支える分家の一つだったのです。
そして、大永6年(1526)4月から7年(1527)6月ごろに家督を受け継いだ信秀は、相続から数年の時を経て勢力拡大に動き出します。
他の有力大名にはない「居城移動」
信秀は天文7年(1538)ごろ、那古野(なごや)城を謀略によって今川氏豊から奪い取ると、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に進出。さらに、古渡城、末森城と、同地域で10年の間に築城と移動を繰り返して勢力を拡大していきました。当時、度重なる拠点の変更は戦国大名としては珍しく、武田氏や毛利氏ら各地の有力大名も生涯居城を移すことはありませんでした。それだけに、信秀の戦略には他の大名にはない特異性があったといえるでしょう。 | “尾張の虎”と呼ばれた人物は、誰であるか。 | “尾張の虎”と呼ばれた人物は、織田信秀である。 |
JCRRAG_012573 | 歴史 | “尾張の虎”と呼ばれた人物は、織田信秀である。
信長の父・織田信秀の生まれと功績
織田信秀は永正8年(1511)に織田信定の長男として尾張国で生まれました。ただ、尾張が統一されるのは、実は子の信長の代になってからのこと。信秀が生まれた時代の尾張には、織田の本家や分家、さらに彼らが支える主君もいるなど、いろいろな勢力が存在していたのです。
では、その勢力の詳細と、信秀が力をつけていった過程について見ていきましょう。
信秀の家柄とは?
信秀の一家は、尾張の南の4郡を支配する守護代・織田大和守家に仕える清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)の一角、弾正忠(だんじょうのちゅう)家でした。つまり、大和守家が織田の本家、信秀の家柄はそれを支える分家の一つだったのです。
そして、大永6年(1526)4月から7年(1527)6月ごろに家督を受け継いだ信秀は、相続から数年の時を経て勢力拡大に動き出します。
他の有力大名にはない「居城移動」
信秀は天文7年(1538)ごろ、那古野(なごや)城を謀略によって今川氏豊から奪い取ると、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に進出。さらに、古渡城、末森城と、同地域で10年の間に築城と移動を繰り返して勢力を拡大していきました。当時、度重なる拠点の変更は戦国大名としては珍しく、武田氏や毛利氏ら各地の有力大名も生涯居城を移すことはありませんでした。それだけに、信秀の戦略には他の大名にはない特異性があったといえるでしょう。 | 織田信秀はいつ織田信定の長男として尾張国で生まれましたか。 | 織田信秀は永正8年(1511)に織田信定の長男として尾張国で生まれました。 |
JCRRAG_012574 | 歴史 | “尾張の虎”と呼ばれた人物は、織田信秀である。
信長の父・織田信秀の生まれと功績
織田信秀は永正8年(1511)に織田信定の長男として尾張国で生まれました。ただ、尾張が統一されるのは、実は子の信長の代になってからのこと。信秀が生まれた時代の尾張には、織田の本家や分家、さらに彼らが支える主君もいるなど、いろいろな勢力が存在していたのです。
では、その勢力の詳細と、信秀が力をつけていった過程について見ていきましょう。
信秀の家柄とは?
信秀の一家は、尾張の南の4郡を支配する守護代・織田大和守家に仕える清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)の一角、弾正忠(だんじょうのちゅう)家でした。つまり、大和守家が織田の本家、信秀の家柄はそれを支える分家の一つだったのです。
そして、大永6年(1526)4月から7年(1527)6月ごろに家督を受け継いだ信秀は、相続から数年の時を経て勢力拡大に動き出します。
他の有力大名にはない「居城移動」
信秀は天文7年(1538)ごろ、那古野(なごや)城を謀略によって今川氏豊から奪い取ると、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に進出。さらに、古渡城、末森城と、同地域で10年の間に築城と移動を繰り返して勢力を拡大していきました。当時、度重なる拠点の変更は戦国大名としては珍しく、武田氏や毛利氏ら各地の有力大名も生涯居城を移すことはありませんでした。それだけに、信秀の戦略には他の大名にはない特異性があったといえるでしょう。 | 織田信秀は永正8年(1511)に誰の長男として尾張国で生まれましたか。 | 織田信秀は永正8年(1511)に織田信定の長男として尾張国で生まれました。 |
JCRRAG_012575 | 歴史 | “尾張の虎”と呼ばれた人物は、織田信秀である。
信長の父・織田信秀の生まれと功績
織田信秀は永正8年(1511)に織田信定の長男として尾張国で生まれました。ただ、尾張が統一されるのは、実は子の信長の代になってからのこと。信秀が生まれた時代の尾張には、織田の本家や分家、さらに彼らが支える主君もいるなど、いろいろな勢力が存在していたのです。
では、その勢力の詳細と、信秀が力をつけていった過程について見ていきましょう。
信秀の家柄とは?
信秀の一家は、尾張の南の4郡を支配する守護代・織田大和守家に仕える清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)の一角、弾正忠(だんじょうのちゅう)家でした。つまり、大和守家が織田の本家、信秀の家柄はそれを支える分家の一つだったのです。
そして、大永6年(1526)4月から7年(1527)6月ごろに家督を受け継いだ信秀は、相続から数年の時を経て勢力拡大に動き出します。
他の有力大名にはない「居城移動」
信秀は天文7年(1538)ごろ、那古野(なごや)城を謀略によって今川氏豊から奪い取ると、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に進出。さらに、古渡城、末森城と、同地域で10年の間に築城と移動を繰り返して勢力を拡大していきました。当時、度重なる拠点の変更は戦国大名としては珍しく、武田氏や毛利氏ら各地の有力大名も生涯居城を移すことはありませんでした。それだけに、信秀の戦略には他の大名にはない特異性があったといえるでしょう。 | 織田信秀は永正8年(1511)に織田信定の長男としてどこで生まれましたか。 | 織田信秀は永正8年(1511)に織田信定の長男として尾張国で生まれました。 |
JCRRAG_012576 | 歴史 | “尾張の虎”と呼ばれた人物は、織田信秀である。
信長の父・織田信秀の生まれと功績
織田信秀は永正8年(1511)に織田信定の長男として尾張国で生まれました。ただ、尾張が統一されるのは、実は子の信長の代になってからのこと。信秀が生まれた時代の尾張には、織田の本家や分家、さらに彼らが支える主君もいるなど、いろいろな勢力が存在していたのです。
では、その勢力の詳細と、信秀が力をつけていった過程について見ていきましょう。
信秀の家柄とは?
信秀の一家は、尾張の南の4郡を支配する守護代・織田大和守家に仕える清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)の一角、弾正忠(だんじょうのちゅう)家でした。つまり、大和守家が織田の本家、信秀の家柄はそれを支える分家の一つだったのです。
そして、大永6年(1526)4月から7年(1527)6月ごろに家督を受け継いだ信秀は、相続から数年の時を経て勢力拡大に動き出します。
他の有力大名にはない「居城移動」
信秀は天文7年(1538)ごろ、那古野(なごや)城を謀略によって今川氏豊から奪い取ると、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に進出。さらに、古渡城、末森城と、同地域で10年の間に築城と移動を繰り返して勢力を拡大していきました。当時、度重なる拠点の変更は戦国大名としては珍しく、武田氏や毛利氏ら各地の有力大名も生涯居城を移すことはありませんでした。それだけに、信秀の戦略には他の大名にはない特異性があったといえるでしょう。 | 信秀は天文7年(1538)ごろ、那古野城を謀略によって誰から奪い取りますか。 | 信秀は天文7年(1538)ごろ、那古野城を謀略によって今川氏豊から奪い取ります。 |
JCRRAG_012577 | 歴史 | 朝廷に献金、将軍に拝謁!
足利義輝
信秀が拝謁した13代将軍の足利義輝です。
築城と移動を繰り返す中で各地の商工業を発展させて経済的基盤を複数確保した信秀は、上洛して朝廷に献金し身分の序列を高めると、室町幕府に参じて第13代将軍である足利義輝にも拝謁します。さらに、伊勢神宮遷宮や内裏修理のために財を投じるなど、朝廷を重視する姿勢を強く示して信頼を勝ち取っていきました。こうして、経済力と地位、双方を同時進行的に高めていくことに力を注いだのです。
松平氏・斎藤氏と戦った
松平清康
徳川家康の祖父である松平清康です。
一方、近隣諸国との領土争いはどうだったのでしょうか。享禄2年(1529)、徳川家康の祖父にあたる松平清康に侵入され一時的に領土を奪われた信秀ですが、清康の不慮の死に乗じて攻勢に転じると、天文9年(1540)には三河国(現在の愛知県東半部)の安祥城を攻略します。その後、清康死後の土地をめぐって信秀と今川義元が争う小豆坂(あずきざか)の戦いが起こります。このさなかに人質として織田家に連れてこられたのが竹千代、のちの徳川家康というわけです。
信秀は天文13年(1544)、国が乱れていた好機を突いて美濃(現在の岐阜県)にも出兵。斎藤道三と争って一進一退の攻防を繰り広げます。こうして領土拡大に努めた信秀は、朝廷工作の成果も相まって、いつしか本家の大和守家はおろか、本家も仕える主君である斯波(しば)家をもしのぐ地位と勢力を築くに至りました。まさに下の者が才覚を発揮して成り上がっていく下克上です。
信秀の人物像とは?
信秀が尾張とその周辺地域への勢力拡大に動き始めた頃の天文3年(1534)、信長が誕生します。のちに型破りな戦略と思考で天下取りにばく進する信長は、信秀からどんな才覚、精神を受け継いだのでしょうか。信秀の人物像と信長への信頼の在り方から探っていきます。
息子に受け継がれる精神
居城を次々に移し、各支配地域の商工業の発展を促した信秀の戦略は、経済基盤の強化が勢力拡大に大きな影響を与えることを子の信長に悟らせたのかもしれません。朝廷や幕府に取り入って地位の向上を図るという政略も同様で、信長がのちの世で楽市・楽座などの政策を投じた背景には、信秀の背を見て育った影響があったのは間違いなさそうです。
軍事面はもとより、経済強化や朝廷の取り込みといった点の重要性を見抜いた信秀の先見性が継承されたことで、信長は他の有力大名をリードすることができたのでしょう。
信長とは信頼関係があった
織田信長
信秀の息子・信長。幼少期に那古野城を継ぎました。
そして、信秀の先見性が最も発揮されたのは、“跡継ぎに信長を選んだこと”なのかもしれません。品行方正だったという信長の弟、信行を後継者に推す声もある中で、「天下の大うつけ」などと悪評高かった信長に幼少の頃に那古野城を譲り、後継に決めて揺るがなかったという信秀。天下取りという偉業に挑むことまで見えていたわけではないでしょうが、いかに信秀が信長の才を信じていたかということは想像に難くありません。
信秀は攻防を繰り広げていた道三と和睦し、信長と道三の娘、濃姫(のうひめ)を結ばせます。道三はその後に信長を支援しました。信秀は生前に織田の本家や主君と本格的に争うことはありませんでしたが、隣国への憂いが薄らいだ信長は尾張を統一、これを機に天下取りに向けて本格的に動き出します。
この親にしてこの子あり
信秀は道三と和睦したわずか4年後の天文21年(1552)に、はやり病でこの世を去りました。尾張の中の小さな勢力だった織田弾正忠家を率い、本家や主君を上回る尾張随一の勢力に押し上げた信秀。その戦略や精神は、後を託した子の信長に色濃く受け継がれました。
信秀が尾張と周辺地域に敷いた勢力拡大の道は、型破りな子の信長により、血縁や幕府、神や仏をも恐れぬ天下布武に昇華され、覇道へとつながっていったのです。 | 信秀は、上洛して朝廷に献金し身分の序列を高めると、室町幕府に参じて誰に拝謁しますか。 | 信秀は、上洛して朝廷に献金し身分の序列を高めると、室町幕府に参じて第13代将軍である足利義輝にも拝謁します。 |
JCRRAG_012578 | 歴史 | 朝廷に献金、将軍に拝謁!
足利義輝
信秀が拝謁した13代将軍の足利義輝です。
築城と移動を繰り返す中で各地の商工業を発展させて経済的基盤を複数確保した信秀は、上洛して朝廷に献金し身分の序列を高めると、室町幕府に参じて第13代将軍である足利義輝にも拝謁します。さらに、伊勢神宮遷宮や内裏修理のために財を投じるなど、朝廷を重視する姿勢を強く示して信頼を勝ち取っていきました。こうして、経済力と地位、双方を同時進行的に高めていくことに力を注いだのです。
松平氏・斎藤氏と戦った
松平清康
徳川家康の祖父である松平清康です。
一方、近隣諸国との領土争いはどうだったのでしょうか。享禄2年(1529)、徳川家康の祖父にあたる松平清康に侵入され一時的に領土を奪われた信秀ですが、清康の不慮の死に乗じて攻勢に転じると、天文9年(1540)には三河国(現在の愛知県東半部)の安祥城を攻略します。その後、清康死後の土地をめぐって信秀と今川義元が争う小豆坂(あずきざか)の戦いが起こります。このさなかに人質として織田家に連れてこられたのが竹千代、のちの徳川家康というわけです。
信秀は天文13年(1544)、国が乱れていた好機を突いて美濃(現在の岐阜県)にも出兵。斎藤道三と争って一進一退の攻防を繰り広げます。こうして領土拡大に努めた信秀は、朝廷工作の成果も相まって、いつしか本家の大和守家はおろか、本家も仕える主君である斯波(しば)家をもしのぐ地位と勢力を築くに至りました。まさに下の者が才覚を発揮して成り上がっていく下克上です。
信秀の人物像とは?
信秀が尾張とその周辺地域への勢力拡大に動き始めた頃の天文3年(1534)、信長が誕生します。のちに型破りな戦略と思考で天下取りにばく進する信長は、信秀からどんな才覚、精神を受け継いだのでしょうか。信秀の人物像と信長への信頼の在り方から探っていきます。
息子に受け継がれる精神
居城を次々に移し、各支配地域の商工業の発展を促した信秀の戦略は、経済基盤の強化が勢力拡大に大きな影響を与えることを子の信長に悟らせたのかもしれません。朝廷や幕府に取り入って地位の向上を図るという政略も同様で、信長がのちの世で楽市・楽座などの政策を投じた背景には、信秀の背を見て育った影響があったのは間違いなさそうです。
軍事面はもとより、経済強化や朝廷の取り込みといった点の重要性を見抜いた信秀の先見性が継承されたことで、信長は他の有力大名をリードすることができたのでしょう。
信長とは信頼関係があった
織田信長
信秀の息子・信長。幼少期に那古野城を継ぎました。
そして、信秀の先見性が最も発揮されたのは、“跡継ぎに信長を選んだこと”なのかもしれません。品行方正だったという信長の弟、信行を後継者に推す声もある中で、「天下の大うつけ」などと悪評高かった信長に幼少の頃に那古野城を譲り、後継に決めて揺るがなかったという信秀。天下取りという偉業に挑むことまで見えていたわけではないでしょうが、いかに信秀が信長の才を信じていたかということは想像に難くありません。
信秀は攻防を繰り広げていた道三と和睦し、信長と道三の娘、濃姫(のうひめ)を結ばせます。道三はその後に信長を支援しました。信秀は生前に織田の本家や主君と本格的に争うことはありませんでしたが、隣国への憂いが薄らいだ信長は尾張を統一、これを機に天下取りに向けて本格的に動き出します。
この親にしてこの子あり
信秀は道三と和睦したわずか4年後の天文21年(1552)に、はやり病でこの世を去りました。尾張の中の小さな勢力だった織田弾正忠家を率い、本家や主君を上回る尾張随一の勢力に押し上げた信秀。その戦略や精神は、後を託した子の信長に色濃く受け継がれました。
信秀が尾張と周辺地域に敷いた勢力拡大の道は、型破りな子の信長により、血縁や幕府、神や仏をも恐れぬ天下布武に昇華され、覇道へとつながっていったのです。 | 信秀が尾張とその周辺地域への勢力拡大に動き始めた頃の天文3年(1534)、誰が誕生しますか。 | 信秀が尾張とその周辺地域への勢力拡大に動き始めた頃の天文3年(1534)、信長が誕生します。 |
JCRRAG_012579 | 歴史 | 朝廷に献金、将軍に拝謁!
足利義輝
信秀が拝謁した13代将軍の足利義輝です。
築城と移動を繰り返す中で各地の商工業を発展させて経済的基盤を複数確保した信秀は、上洛して朝廷に献金し身分の序列を高めると、室町幕府に参じて第13代将軍である足利義輝にも拝謁します。さらに、伊勢神宮遷宮や内裏修理のために財を投じるなど、朝廷を重視する姿勢を強く示して信頼を勝ち取っていきました。こうして、経済力と地位、双方を同時進行的に高めていくことに力を注いだのです。
松平氏・斎藤氏と戦った
松平清康
徳川家康の祖父である松平清康です。
一方、近隣諸国との領土争いはどうだったのでしょうか。享禄2年(1529)、徳川家康の祖父にあたる松平清康に侵入され一時的に領土を奪われた信秀ですが、清康の不慮の死に乗じて攻勢に転じると、天文9年(1540)には三河国(現在の愛知県東半部)の安祥城を攻略します。その後、清康死後の土地をめぐって信秀と今川義元が争う小豆坂(あずきざか)の戦いが起こります。このさなかに人質として織田家に連れてこられたのが竹千代、のちの徳川家康というわけです。
信秀は天文13年(1544)、国が乱れていた好機を突いて美濃(現在の岐阜県)にも出兵。斎藤道三と争って一進一退の攻防を繰り広げます。こうして領土拡大に努めた信秀は、朝廷工作の成果も相まって、いつしか本家の大和守家はおろか、本家も仕える主君である斯波(しば)家をもしのぐ地位と勢力を築くに至りました。まさに下の者が才覚を発揮して成り上がっていく下克上です。
信秀の人物像とは?
信秀が尾張とその周辺地域への勢力拡大に動き始めた頃の天文3年(1534)、信長が誕生します。のちに型破りな戦略と思考で天下取りにばく進する信長は、信秀からどんな才覚、精神を受け継いだのでしょうか。信秀の人物像と信長への信頼の在り方から探っていきます。
息子に受け継がれる精神
居城を次々に移し、各支配地域の商工業の発展を促した信秀の戦略は、経済基盤の強化が勢力拡大に大きな影響を与えることを子の信長に悟らせたのかもしれません。朝廷や幕府に取り入って地位の向上を図るという政略も同様で、信長がのちの世で楽市・楽座などの政策を投じた背景には、信秀の背を見て育った影響があったのは間違いなさそうです。
軍事面はもとより、経済強化や朝廷の取り込みといった点の重要性を見抜いた信秀の先見性が継承されたことで、信長は他の有力大名をリードすることができたのでしょう。
信長とは信頼関係があった
織田信長
信秀の息子・信長。幼少期に那古野城を継ぎました。
そして、信秀の先見性が最も発揮されたのは、“跡継ぎに信長を選んだこと”なのかもしれません。品行方正だったという信長の弟、信行を後継者に推す声もある中で、「天下の大うつけ」などと悪評高かった信長に幼少の頃に那古野城を譲り、後継に決めて揺るがなかったという信秀。天下取りという偉業に挑むことまで見えていたわけではないでしょうが、いかに信秀が信長の才を信じていたかということは想像に難くありません。
信秀は攻防を繰り広げていた道三と和睦し、信長と道三の娘、濃姫(のうひめ)を結ばせます。道三はその後に信長を支援しました。信秀は生前に織田の本家や主君と本格的に争うことはありませんでしたが、隣国への憂いが薄らいだ信長は尾張を統一、これを機に天下取りに向けて本格的に動き出します。
この親にしてこの子あり
信秀は道三と和睦したわずか4年後の天文21年(1552)に、はやり病でこの世を去りました。尾張の中の小さな勢力だった織田弾正忠家を率い、本家や主君を上回る尾張随一の勢力に押し上げた信秀。その戦略や精神は、後を託した子の信長に色濃く受け継がれました。
信秀が尾張と周辺地域に敷いた勢力拡大の道は、型破りな子の信長により、血縁や幕府、神や仏をも恐れぬ天下布武に昇華され、覇道へとつながっていったのです。 | 信秀は、朝廷工作の成果も相まって、いつしか本家の大和守家はおろか、誰をもしのぐ地位と勢力を築くに至りましたか。 | 信秀は、朝廷工作の成果も相まって、いつしか本家の大和守家はおろか、本家も仕える主君である斯波(しば)家をもしのぐ地位と勢力を築くに至りました。 |
JCRRAG_012580 | 歴史 | 朝廷に献金、将軍に拝謁!
足利義輝
信秀が拝謁した13代将軍の足利義輝です。
築城と移動を繰り返す中で各地の商工業を発展させて経済的基盤を複数確保した信秀は、上洛して朝廷に献金し身分の序列を高めると、室町幕府に参じて第13代将軍である足利義輝にも拝謁します。さらに、伊勢神宮遷宮や内裏修理のために財を投じるなど、朝廷を重視する姿勢を強く示して信頼を勝ち取っていきました。こうして、経済力と地位、双方を同時進行的に高めていくことに力を注いだのです。
松平氏・斎藤氏と戦った
松平清康
徳川家康の祖父である松平清康です。
一方、近隣諸国との領土争いはどうだったのでしょうか。享禄2年(1529)、徳川家康の祖父にあたる松平清康に侵入され一時的に領土を奪われた信秀ですが、清康の不慮の死に乗じて攻勢に転じると、天文9年(1540)には三河国(現在の愛知県東半部)の安祥城を攻略します。その後、清康死後の土地をめぐって信秀と今川義元が争う小豆坂(あずきざか)の戦いが起こります。このさなかに人質として織田家に連れてこられたのが竹千代、のちの徳川家康というわけです。
信秀は天文13年(1544)、国が乱れていた好機を突いて美濃(現在の岐阜県)にも出兵。斎藤道三と争って一進一退の攻防を繰り広げます。こうして領土拡大に努めた信秀は、朝廷工作の成果も相まって、いつしか本家の大和守家はおろか、本家も仕える主君である斯波(しば)家をもしのぐ地位と勢力を築くに至りました。まさに下の者が才覚を発揮して成り上がっていく下克上です。
信秀の人物像とは?
信秀が尾張とその周辺地域への勢力拡大に動き始めた頃の天文3年(1534)、信長が誕生します。のちに型破りな戦略と思考で天下取りにばく進する信長は、信秀からどんな才覚、精神を受け継いだのでしょうか。信秀の人物像と信長への信頼の在り方から探っていきます。
息子に受け継がれる精神
居城を次々に移し、各支配地域の商工業の発展を促した信秀の戦略は、経済基盤の強化が勢力拡大に大きな影響を与えることを子の信長に悟らせたのかもしれません。朝廷や幕府に取り入って地位の向上を図るという政略も同様で、信長がのちの世で楽市・楽座などの政策を投じた背景には、信秀の背を見て育った影響があったのは間違いなさそうです。
軍事面はもとより、経済強化や朝廷の取り込みといった点の重要性を見抜いた信秀の先見性が継承されたことで、信長は他の有力大名をリードすることができたのでしょう。
信長とは信頼関係があった
織田信長
信秀の息子・信長。幼少期に那古野城を継ぎました。
そして、信秀の先見性が最も発揮されたのは、“跡継ぎに信長を選んだこと”なのかもしれません。品行方正だったという信長の弟、信行を後継者に推す声もある中で、「天下の大うつけ」などと悪評高かった信長に幼少の頃に那古野城を譲り、後継に決めて揺るがなかったという信秀。天下取りという偉業に挑むことまで見えていたわけではないでしょうが、いかに信秀が信長の才を信じていたかということは想像に難くありません。
信秀は攻防を繰り広げていた道三と和睦し、信長と道三の娘、濃姫(のうひめ)を結ばせます。道三はその後に信長を支援しました。信秀は生前に織田の本家や主君と本格的に争うことはありませんでしたが、隣国への憂いが薄らいだ信長は尾張を統一、これを機に天下取りに向けて本格的に動き出します。
この親にしてこの子あり
信秀は道三と和睦したわずか4年後の天文21年(1552)に、はやり病でこの世を去りました。尾張の中の小さな勢力だった織田弾正忠家を率い、本家や主君を上回る尾張随一の勢力に押し上げた信秀。その戦略や精神は、後を託した子の信長に色濃く受け継がれました。
信秀が尾張と周辺地域に敷いた勢力拡大の道は、型破りな子の信長により、血縁や幕府、神や仏をも恐れぬ天下布武に昇華され、覇道へとつながっていったのです。 | 信秀の戦略は、経済基盤の強化が勢力拡大に大きな影響を与えることを誰に悟らせたのかもしれませんか。 | 信秀の戦略は、経済基盤の強化が勢力拡大に大きな影響を与えることを子の信長に悟らせたのかもしれません。 |
JCRRAG_012581 | 歴史 | 朝廷に献金、将軍に拝謁!
足利義輝
信秀が拝謁した13代将軍の足利義輝です。
築城と移動を繰り返す中で各地の商工業を発展させて経済的基盤を複数確保した信秀は、上洛して朝廷に献金し身分の序列を高めると、室町幕府に参じて第13代将軍である足利義輝にも拝謁します。さらに、伊勢神宮遷宮や内裏修理のために財を投じるなど、朝廷を重視する姿勢を強く示して信頼を勝ち取っていきました。こうして、経済力と地位、双方を同時進行的に高めていくことに力を注いだのです。
松平氏・斎藤氏と戦った
松平清康
徳川家康の祖父である松平清康です。
一方、近隣諸国との領土争いはどうだったのでしょうか。享禄2年(1529)、徳川家康の祖父にあたる松平清康に侵入され一時的に領土を奪われた信秀ですが、清康の不慮の死に乗じて攻勢に転じると、天文9年(1540)には三河国(現在の愛知県東半部)の安祥城を攻略します。その後、清康死後の土地をめぐって信秀と今川義元が争う小豆坂(あずきざか)の戦いが起こります。このさなかに人質として織田家に連れてこられたのが竹千代、のちの徳川家康というわけです。
信秀は天文13年(1544)、国が乱れていた好機を突いて美濃(現在の岐阜県)にも出兵。斎藤道三と争って一進一退の攻防を繰り広げます。こうして領土拡大に努めた信秀は、朝廷工作の成果も相まって、いつしか本家の大和守家はおろか、本家も仕える主君である斯波(しば)家をもしのぐ地位と勢力を築くに至りました。まさに下の者が才覚を発揮して成り上がっていく下克上です。
信秀の人物像とは?
信秀が尾張とその周辺地域への勢力拡大に動き始めた頃の天文3年(1534)、信長が誕生します。のちに型破りな戦略と思考で天下取りにばく進する信長は、信秀からどんな才覚、精神を受け継いだのでしょうか。信秀の人物像と信長への信頼の在り方から探っていきます。
息子に受け継がれる精神
居城を次々に移し、各支配地域の商工業の発展を促した信秀の戦略は、経済基盤の強化が勢力拡大に大きな影響を与えることを子の信長に悟らせたのかもしれません。朝廷や幕府に取り入って地位の向上を図るという政略も同様で、信長がのちの世で楽市・楽座などの政策を投じた背景には、信秀の背を見て育った影響があったのは間違いなさそうです。
軍事面はもとより、経済強化や朝廷の取り込みといった点の重要性を見抜いた信秀の先見性が継承されたことで、信長は他の有力大名をリードすることができたのでしょう。
信長とは信頼関係があった
織田信長
信秀の息子・信長。幼少期に那古野城を継ぎました。
そして、信秀の先見性が最も発揮されたのは、“跡継ぎに信長を選んだこと”なのかもしれません。品行方正だったという信長の弟、信行を後継者に推す声もある中で、「天下の大うつけ」などと悪評高かった信長に幼少の頃に那古野城を譲り、後継に決めて揺るがなかったという信秀。天下取りという偉業に挑むことまで見えていたわけではないでしょうが、いかに信秀が信長の才を信じていたかということは想像に難くありません。
信秀は攻防を繰り広げていた道三と和睦し、信長と道三の娘、濃姫(のうひめ)を結ばせます。道三はその後に信長を支援しました。信秀は生前に織田の本家や主君と本格的に争うことはありませんでしたが、隣国への憂いが薄らいだ信長は尾張を統一、これを機に天下取りに向けて本格的に動き出します。
この親にしてこの子あり
信秀は道三と和睦したわずか4年後の天文21年(1552)に、はやり病でこの世を去りました。尾張の中の小さな勢力だった織田弾正忠家を率い、本家や主君を上回る尾張随一の勢力に押し上げた信秀。その戦略や精神は、後を託した子の信長に色濃く受け継がれました。
信秀が尾張と周辺地域に敷いた勢力拡大の道は、型破りな子の信長により、血縁や幕府、神や仏をも恐れぬ天下布武に昇華され、覇道へとつながっていったのです。 | 信秀は攻防を繰り広げていた道三と和睦し、信長と誰を結ばせますか。 | 信秀は攻防を繰り広げていた道三と和睦し、信長と道三の娘、濃姫(のうひめ)を結ばせます。 |
JCRRAG_012582 | 歴史 | 参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、徳川家光である。
うまれから将軍になるまで
徳川家に生まれた家光ですが、将軍になるまでにはどのような出来事があったのでしょうか?
徳川秀忠の嫡男として誕生
家光は、慶長9年(1604)2代将軍・徳川秀忠の次男として江戸城でうまれました。母は浅井長政の三女・江で、彼女は織田信長の姪にあたります。また、乳母は斎藤利三の娘・福(後の春日局)が務めました。
父・秀忠には数年前に生まれた長男・長丸がいましたが、既に亡くなっていたため、家光が跡継ぎとして扱われました。幼名は祖父・家康と同じ「竹千代」で、幼いころの家光は病弱で言葉に不自由があったといわれています。
弟・国松(忠長)と継承争いした?
2年後の慶長11年(1606)、秀忠に三男・国松(後の忠長)が誕生しました。『武野燭談』によれば、秀忠は家光より容姿や才気に優れた国松を寵愛し、2人の間で次期将軍の座をめぐる争いが起きたといいます。そのため、家光廃嫡の危機を感じた乳母・福は、駿府の家康に直訴しました。これにより家光が後継になることが確定したといわれています。
竹千代から将軍・家光へ
家康死後の元和6年(1620)、元服して竹千代から家光へと名を改めます。「家」の字は家康からとったもので、以降、徳川将軍家の嫡男の名前には「家」が使用されるようになりました。
元和9年(1623)3月、家光は将軍家の跡継ぎとして朝廷から右近衛大将に任命されます。6月に父・秀忠とともに上洛し、7月には伏見城で将軍宣下を受けました。その後、父・秀忠は江戸城西の丸で隠居し、家光は本丸へと移ります。またこの年、家光は摂家・鷹司家の鷹司孝子(たかつかさたかこ)と結婚しました。
二元政治から親政へ
江戸幕府の将軍に就任した家光は、幕政改革に着手します。ここで決定された制度は後世にも影響を与えました。
家光の幕政改革
家光の将軍就任後、父・秀忠は大御所として政治的実権を握り続けました。そのため、幕政は家光側の本丸年寄と、秀忠側の西の丸年寄の合議による二元政治となります。これが解消されたのは秀忠が死去した寛永9年(1632)1月のこと。ようやく実権を集約した家光は、親政を開始し幕政改革に着手しました。家光は旗本中心の直轄軍を再編。また、老中・若年寄・奉行・大目付などの役職を定めて、将軍を最高権力者とする幕府機構を確立します。寛永12年(1635)には、幕府が諸大名をまとめるために制定した武家諸法度を改訂し、大名らに参勤交代を義務づけました。 | 参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、誰であるか。 | 参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、徳川家光である。 |
JCRRAG_012583 | 歴史 | 参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、徳川家光である。
うまれから将軍になるまで
徳川家に生まれた家光ですが、将軍になるまでにはどのような出来事があったのでしょうか?
徳川秀忠の嫡男として誕生
家光は、慶長9年(1604)2代将軍・徳川秀忠の次男として江戸城でうまれました。母は浅井長政の三女・江で、彼女は織田信長の姪にあたります。また、乳母は斎藤利三の娘・福(後の春日局)が務めました。
父・秀忠には数年前に生まれた長男・長丸がいましたが、既に亡くなっていたため、家光が跡継ぎとして扱われました。幼名は祖父・家康と同じ「竹千代」で、幼いころの家光は病弱で言葉に不自由があったといわれています。
弟・国松(忠長)と継承争いした?
2年後の慶長11年(1606)、秀忠に三男・国松(後の忠長)が誕生しました。『武野燭談』によれば、秀忠は家光より容姿や才気に優れた国松を寵愛し、2人の間で次期将軍の座をめぐる争いが起きたといいます。そのため、家光廃嫡の危機を感じた乳母・福は、駿府の家康に直訴しました。これにより家光が後継になることが確定したといわれています。
竹千代から将軍・家光へ
家康死後の元和6年(1620)、元服して竹千代から家光へと名を改めます。「家」の字は家康からとったもので、以降、徳川将軍家の嫡男の名前には「家」が使用されるようになりました。
元和9年(1623)3月、家光は将軍家の跡継ぎとして朝廷から右近衛大将に任命されます。6月に父・秀忠とともに上洛し、7月には伏見城で将軍宣下を受けました。その後、父・秀忠は江戸城西の丸で隠居し、家光は本丸へと移ります。またこの年、家光は摂家・鷹司家の鷹司孝子(たかつかさたかこ)と結婚しました。
二元政治から親政へ
江戸幕府の将軍に就任した家光は、幕政改革に着手します。ここで決定された制度は後世にも影響を与えました。
家光の幕政改革
家光の将軍就任後、父・秀忠は大御所として政治的実権を握り続けました。そのため、幕政は家光側の本丸年寄と、秀忠側の西の丸年寄の合議による二元政治となります。これが解消されたのは秀忠が死去した寛永9年(1632)1月のこと。ようやく実権を集約した家光は、親政を開始し幕政改革に着手しました。家光は旗本中心の直轄軍を再編。また、老中・若年寄・奉行・大目付などの役職を定めて、将軍を最高権力者とする幕府機構を確立します。寛永12年(1635)には、幕府が諸大名をまとめるために制定した武家諸法度を改訂し、大名らに参勤交代を義務づけました。 | 家光は、慶長9年(1604)誰の次男として江戸城でうまれましたか。 | 家光は、慶長9年(1604)2代将軍・徳川秀忠の次男として江戸城でうまれました。 |
JCRRAG_012584 | 歴史 | 参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、徳川家光である。
うまれから将軍になるまで
徳川家に生まれた家光ですが、将軍になるまでにはどのような出来事があったのでしょうか?
徳川秀忠の嫡男として誕生
家光は、慶長9年(1604)2代将軍・徳川秀忠の次男として江戸城でうまれました。母は浅井長政の三女・江で、彼女は織田信長の姪にあたります。また、乳母は斎藤利三の娘・福(後の春日局)が務めました。
父・秀忠には数年前に生まれた長男・長丸がいましたが、既に亡くなっていたため、家光が跡継ぎとして扱われました。幼名は祖父・家康と同じ「竹千代」で、幼いころの家光は病弱で言葉に不自由があったといわれています。
弟・国松(忠長)と継承争いした?
2年後の慶長11年(1606)、秀忠に三男・国松(後の忠長)が誕生しました。『武野燭談』によれば、秀忠は家光より容姿や才気に優れた国松を寵愛し、2人の間で次期将軍の座をめぐる争いが起きたといいます。そのため、家光廃嫡の危機を感じた乳母・福は、駿府の家康に直訴しました。これにより家光が後継になることが確定したといわれています。
竹千代から将軍・家光へ
家康死後の元和6年(1620)、元服して竹千代から家光へと名を改めます。「家」の字は家康からとったもので、以降、徳川将軍家の嫡男の名前には「家」が使用されるようになりました。
元和9年(1623)3月、家光は将軍家の跡継ぎとして朝廷から右近衛大将に任命されます。6月に父・秀忠とともに上洛し、7月には伏見城で将軍宣下を受けました。その後、父・秀忠は江戸城西の丸で隠居し、家光は本丸へと移ります。またこの年、家光は摂家・鷹司家の鷹司孝子(たかつかさたかこ)と結婚しました。
二元政治から親政へ
江戸幕府の将軍に就任した家光は、幕政改革に着手します。ここで決定された制度は後世にも影響を与えました。
家光の幕政改革
家光の将軍就任後、父・秀忠は大御所として政治的実権を握り続けました。そのため、幕政は家光側の本丸年寄と、秀忠側の西の丸年寄の合議による二元政治となります。これが解消されたのは秀忠が死去した寛永9年(1632)1月のこと。ようやく実権を集約した家光は、親政を開始し幕政改革に着手しました。家光は旗本中心の直轄軍を再編。また、老中・若年寄・奉行・大目付などの役職を定めて、将軍を最高権力者とする幕府機構を確立します。寛永12年(1635)には、幕府が諸大名をまとめるために制定した武家諸法度を改訂し、大名らに参勤交代を義務づけました。 | 家光は、慶長9年(1604)2代将軍・徳川秀忠の次男としてどこでうまれましたか。 | 家光は、慶長9年(1604)2代将軍・徳川秀忠の次男として江戸城でうまれました。 |
JCRRAG_012585 | 歴史 | 参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、徳川家光である。
うまれから将軍になるまで
徳川家に生まれた家光ですが、将軍になるまでにはどのような出来事があったのでしょうか?
徳川秀忠の嫡男として誕生
家光は、慶長9年(1604)2代将軍・徳川秀忠の次男として江戸城でうまれました。母は浅井長政の三女・江で、彼女は織田信長の姪にあたります。また、乳母は斎藤利三の娘・福(後の春日局)が務めました。
父・秀忠には数年前に生まれた長男・長丸がいましたが、既に亡くなっていたため、家光が跡継ぎとして扱われました。幼名は祖父・家康と同じ「竹千代」で、幼いころの家光は病弱で言葉に不自由があったといわれています。
弟・国松(忠長)と継承争いした?
2年後の慶長11年(1606)、秀忠に三男・国松(後の忠長)が誕生しました。『武野燭談』によれば、秀忠は家光より容姿や才気に優れた国松を寵愛し、2人の間で次期将軍の座をめぐる争いが起きたといいます。そのため、家光廃嫡の危機を感じた乳母・福は、駿府の家康に直訴しました。これにより家光が後継になることが確定したといわれています。
竹千代から将軍・家光へ
家康死後の元和6年(1620)、元服して竹千代から家光へと名を改めます。「家」の字は家康からとったもので、以降、徳川将軍家の嫡男の名前には「家」が使用されるようになりました。
元和9年(1623)3月、家光は将軍家の跡継ぎとして朝廷から右近衛大将に任命されます。6月に父・秀忠とともに上洛し、7月には伏見城で将軍宣下を受けました。その後、父・秀忠は江戸城西の丸で隠居し、家光は本丸へと移ります。またこの年、家光は摂家・鷹司家の鷹司孝子(たかつかさたかこ)と結婚しました。
二元政治から親政へ
江戸幕府の将軍に就任した家光は、幕政改革に着手します。ここで決定された制度は後世にも影響を与えました。
家光の幕政改革
家光の将軍就任後、父・秀忠は大御所として政治的実権を握り続けました。そのため、幕政は家光側の本丸年寄と、秀忠側の西の丸年寄の合議による二元政治となります。これが解消されたのは秀忠が死去した寛永9年(1632)1月のこと。ようやく実権を集約した家光は、親政を開始し幕政改革に着手しました。家光は旗本中心の直轄軍を再編。また、老中・若年寄・奉行・大目付などの役職を定めて、将軍を最高権力者とする幕府機構を確立します。寛永12年(1635)には、幕府が諸大名をまとめるために制定した武家諸法度を改訂し、大名らに参勤交代を義務づけました。 | 元和6年(1620)、竹千代は元服して何へと名を改めますか。 | 元和6年(1620)、竹千代は元服して家光へと名を改めます。 |
JCRRAG_012586 | 歴史 | 参勤交代・鎖国政策を始めた江戸幕府3代将軍は、徳川家光である。
うまれから将軍になるまで
徳川家に生まれた家光ですが、将軍になるまでにはどのような出来事があったのでしょうか?
徳川秀忠の嫡男として誕生
家光は、慶長9年(1604)2代将軍・徳川秀忠の次男として江戸城でうまれました。母は浅井長政の三女・江で、彼女は織田信長の姪にあたります。また、乳母は斎藤利三の娘・福(後の春日局)が務めました。
父・秀忠には数年前に生まれた長男・長丸がいましたが、既に亡くなっていたため、家光が跡継ぎとして扱われました。幼名は祖父・家康と同じ「竹千代」で、幼いころの家光は病弱で言葉に不自由があったといわれています。
弟・国松(忠長)と継承争いした?
2年後の慶長11年(1606)、秀忠に三男・国松(後の忠長)が誕生しました。『武野燭談』によれば、秀忠は家光より容姿や才気に優れた国松を寵愛し、2人の間で次期将軍の座をめぐる争いが起きたといいます。そのため、家光廃嫡の危機を感じた乳母・福は、駿府の家康に直訴しました。これにより家光が後継になることが確定したといわれています。
竹千代から将軍・家光へ
家康死後の元和6年(1620)、元服して竹千代から家光へと名を改めます。「家」の字は家康からとったもので、以降、徳川将軍家の嫡男の名前には「家」が使用されるようになりました。
元和9年(1623)3月、家光は将軍家の跡継ぎとして朝廷から右近衛大将に任命されます。6月に父・秀忠とともに上洛し、7月には伏見城で将軍宣下を受けました。その後、父・秀忠は江戸城西の丸で隠居し、家光は本丸へと移ります。またこの年、家光は摂家・鷹司家の鷹司孝子(たかつかさたかこ)と結婚しました。
二元政治から親政へ
江戸幕府の将軍に就任した家光は、幕政改革に着手します。ここで決定された制度は後世にも影響を与えました。
家光の幕政改革
家光の将軍就任後、父・秀忠は大御所として政治的実権を握り続けました。そのため、幕政は家光側の本丸年寄と、秀忠側の西の丸年寄の合議による二元政治となります。これが解消されたのは秀忠が死去した寛永9年(1632)1月のこと。ようやく実権を集約した家光は、親政を開始し幕政改革に着手しました。家光は旗本中心の直轄軍を再編。また、老中・若年寄・奉行・大目付などの役職を定めて、将軍を最高権力者とする幕府機構を確立します。寛永12年(1635)には、幕府が諸大名をまとめるために制定した武家諸法度を改訂し、大名らに参勤交代を義務づけました。 | ようやく実権を集約した家光は、何を開始し幕政改革に着手しましたか。 | ようやく実権を集約した家光は、親政を開始し幕政改革に着手しました。 |
JCRRAG_012587 | 歴史 | 対外貿易の管理と統制
対外政策としては、長崎貿易での利益独占・キリスト教禁止令の強化・国際紛争の回避を目的に、貿易の管理や統制を進めました。家光は、東南アジア方面との貿易を管理する目的で長崎奉行に職務規定(鎖国令)を発布。寛永12年(1635)には日本人が海外に行くことも帰国することも禁じます。こうして宣教師の密航手段となっていた朱印船貿易は終わりを告げ、九州各地のポルトガル人は長崎の出島に隔離されました。
島原の乱が勃発!
家光が幕政改革を進めるなか、寛永14年(1637)に島原の乱が勃発します。島原半島と天草諸島の領民は以前から藩の圧政や重税に苦しんでいましたが、そこに家光によるキリシタン弾圧への不満が重なりついに蜂起。これは日本の歴史上最大の一揆といわれ、幕末以前では最後の本格的な戦いとなりました。家光はこの乱を鎮圧し、ポルトガルとの断交を決意。さらには、長崎奉行や九州地方の大名らに対してポルトガル人の追放を命令します。寛永18年(1641)には貿易拠点であるオランダ商館を長崎の出島に移転し、貿易の管理・統制として鎖国体制を固めました。
寛永の大飢饉が発生
寛永19年(1642)からは寛永の大飢饉が発生し、国内の大名や百姓たちが大打撃を受けます。幕府の基盤を固めてきた家光は、この災厄により体制の立て直しを迫られました。家光は諸藩に対し、米作離れ防止のために煙草・酒造・饅頭・南蛮菓子・そばきりなどの製造販売を禁止するなど具体策を指示。また、農民の没落を防ぐために田畑の売買(永代売)を禁止する田畑永代売買禁止令も発布しました。
この大飢饉の原因は大規模な異常気象のほか、武士の困窮、武断政治のための多額の出費など、さまざまな要因があったと考えられています。
家光の最期とその後の幕府
さまざまな障害が起こるなか親政を進めていった家光。その最期はどのようなものだったのでしょうか?
江戸城内で急死する
慶安4年(1651)家光は献上品の茶碗を見ていた際に突然震え出し、倒れて意識が戻らないまま翌日に死去しました。歩行障害があったことから、死因は脳卒中だったと考えられています。前年にはすでに病気になっており、儀礼などは嫡男・徳川家綱が代行していたようです。遺体は日光・輪王寺に葬られ、のちに廟所・大猷院(たいゆういん)が造られました。
武断政治から文治政治へ
家光死後、家綱が第4代将軍に就任しますが、わずか11歳だったことも作用し討幕未遂事件(慶安の変)が起こります。家綱は叔父・保科正之や家光時代からの大老・名臣らの補佐により政情不安を乗り越え、以後約30年間の安定政権を築きました。幕藩体制はさらに整備され、家光時代までの武断政治は終焉を迎えます。そして新たに文治政治の時代が始まったのでした。
家光にまつわるエピソード
家光はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわるエピソードをご紹介します。
祖父・家康を崇拝した「二世権現」
家光はたびたび夢で祖父・家康の姿を見ており、その肖像を絵師・狩野探幽に描かせていました。その絵は「霊夢像」といわれ、現在に伝わっています。また、身につけていたお守りに「二世権現、二世将軍」「生きるも死ぬるも何事もみな大権現様次第に」という内容が書かれた紙を入れていたそうです。権現とは家康の敬称であるため、家光は家康を尊崇していたことがうかがえます。
異母弟・保科正之を重用した
家光は父・秀忠の落とし子である異母弟・正之を可愛がり、別格扱いしていました。正之は出羽国山形藩20万石を拝領したのち、陸奥国会津藩23万石の大名に引き立てられています。家光の死後は、遺言通りに家綱を補佐して幕政改革を主導。家光の引き立てにより活躍の場を得た正之は名君といわれるほどになり、彼を藩祖とした会津藩は幕末にいたるまで幕府を守り続けました。
ヘタウマ絵の描き手だった!?
墨絵をたしなんでいた家光は、自作の絵を家臣に与えることがありました。主に描いていたのは鶺鴒(せきれい)や兎といった動物で、十数点ほど確認されています。決してうまくはないものの素朴で愛嬌があり、現在では「ヘタウマ」として注目されているようです。
江戸時代初期の幕府機構を確立した
3代将軍・家光の親政により、参勤交代や幕府の諸役職など、後世まで続く重要な制度が定まりました。このように功績を残した家光ですが、家康や秀忠と違って重臣たちが重要事項をすべて決定していたという指摘もあり、一部では厳しい評価もあるようです。次代の家綱からは文治政治がスタートしたことから、家光の治世は江戸時代最後の武断政治となりました。 | 家光は、東南アジア方面との貿易を管理する目的で長崎奉行に何を発布しましたか。 | 家光は、東南アジア方面との貿易を管理する目的で長崎奉行に職務規定(鎖国令)を発布しました。 |
JCRRAG_012588 | 歴史 | 対外貿易の管理と統制
対外政策としては、長崎貿易での利益独占・キリスト教禁止令の強化・国際紛争の回避を目的に、貿易の管理や統制を進めました。家光は、東南アジア方面との貿易を管理する目的で長崎奉行に職務規定(鎖国令)を発布。寛永12年(1635)には日本人が海外に行くことも帰国することも禁じます。こうして宣教師の密航手段となっていた朱印船貿易は終わりを告げ、九州各地のポルトガル人は長崎の出島に隔離されました。
島原の乱が勃発!
家光が幕政改革を進めるなか、寛永14年(1637)に島原の乱が勃発します。島原半島と天草諸島の領民は以前から藩の圧政や重税に苦しんでいましたが、そこに家光によるキリシタン弾圧への不満が重なりついに蜂起。これは日本の歴史上最大の一揆といわれ、幕末以前では最後の本格的な戦いとなりました。家光はこの乱を鎮圧し、ポルトガルとの断交を決意。さらには、長崎奉行や九州地方の大名らに対してポルトガル人の追放を命令します。寛永18年(1641)には貿易拠点であるオランダ商館を長崎の出島に移転し、貿易の管理・統制として鎖国体制を固めました。
寛永の大飢饉が発生
寛永19年(1642)からは寛永の大飢饉が発生し、国内の大名や百姓たちが大打撃を受けます。幕府の基盤を固めてきた家光は、この災厄により体制の立て直しを迫られました。家光は諸藩に対し、米作離れ防止のために煙草・酒造・饅頭・南蛮菓子・そばきりなどの製造販売を禁止するなど具体策を指示。また、農民の没落を防ぐために田畑の売買(永代売)を禁止する田畑永代売買禁止令も発布しました。
この大飢饉の原因は大規模な異常気象のほか、武士の困窮、武断政治のための多額の出費など、さまざまな要因があったと考えられています。
家光の最期とその後の幕府
さまざまな障害が起こるなか親政を進めていった家光。その最期はどのようなものだったのでしょうか?
江戸城内で急死する
慶安4年(1651)家光は献上品の茶碗を見ていた際に突然震え出し、倒れて意識が戻らないまま翌日に死去しました。歩行障害があったことから、死因は脳卒中だったと考えられています。前年にはすでに病気になっており、儀礼などは嫡男・徳川家綱が代行していたようです。遺体は日光・輪王寺に葬られ、のちに廟所・大猷院(たいゆういん)が造られました。
武断政治から文治政治へ
家光死後、家綱が第4代将軍に就任しますが、わずか11歳だったことも作用し討幕未遂事件(慶安の変)が起こります。家綱は叔父・保科正之や家光時代からの大老・名臣らの補佐により政情不安を乗り越え、以後約30年間の安定政権を築きました。幕藩体制はさらに整備され、家光時代までの武断政治は終焉を迎えます。そして新たに文治政治の時代が始まったのでした。
家光にまつわるエピソード
家光はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわるエピソードをご紹介します。
祖父・家康を崇拝した「二世権現」
家光はたびたび夢で祖父・家康の姿を見ており、その肖像を絵師・狩野探幽に描かせていました。その絵は「霊夢像」といわれ、現在に伝わっています。また、身につけていたお守りに「二世権現、二世将軍」「生きるも死ぬるも何事もみな大権現様次第に」という内容が書かれた紙を入れていたそうです。権現とは家康の敬称であるため、家光は家康を尊崇していたことがうかがえます。
異母弟・保科正之を重用した
家光は父・秀忠の落とし子である異母弟・正之を可愛がり、別格扱いしていました。正之は出羽国山形藩20万石を拝領したのち、陸奥国会津藩23万石の大名に引き立てられています。家光の死後は、遺言通りに家綱を補佐して幕政改革を主導。家光の引き立てにより活躍の場を得た正之は名君といわれるほどになり、彼を藩祖とした会津藩は幕末にいたるまで幕府を守り続けました。
ヘタウマ絵の描き手だった!?
墨絵をたしなんでいた家光は、自作の絵を家臣に与えることがありました。主に描いていたのは鶺鴒(せきれい)や兎といった動物で、十数点ほど確認されています。決してうまくはないものの素朴で愛嬌があり、現在では「ヘタウマ」として注目されているようです。
江戸時代初期の幕府機構を確立した
3代将軍・家光の親政により、参勤交代や幕府の諸役職など、後世まで続く重要な制度が定まりました。このように功績を残した家光ですが、家康や秀忠と違って重臣たちが重要事項をすべて決定していたという指摘もあり、一部では厳しい評価もあるようです。次代の家綱からは文治政治がスタートしたことから、家光の治世は江戸時代最後の武断政治となりました。 | 寛永14年(1637)に何が勃発しましたか。 | 寛永14年(1637)に島原の乱が勃発しました。 |
JCRRAG_012589 | 歴史 | 対外貿易の管理と統制
対外政策としては、長崎貿易での利益独占・キリスト教禁止令の強化・国際紛争の回避を目的に、貿易の管理や統制を進めました。家光は、東南アジア方面との貿易を管理する目的で長崎奉行に職務規定(鎖国令)を発布。寛永12年(1635)には日本人が海外に行くことも帰国することも禁じます。こうして宣教師の密航手段となっていた朱印船貿易は終わりを告げ、九州各地のポルトガル人は長崎の出島に隔離されました。
島原の乱が勃発!
家光が幕政改革を進めるなか、寛永14年(1637)に島原の乱が勃発します。島原半島と天草諸島の領民は以前から藩の圧政や重税に苦しんでいましたが、そこに家光によるキリシタン弾圧への不満が重なりついに蜂起。これは日本の歴史上最大の一揆といわれ、幕末以前では最後の本格的な戦いとなりました。家光はこの乱を鎮圧し、ポルトガルとの断交を決意。さらには、長崎奉行や九州地方の大名らに対してポルトガル人の追放を命令します。寛永18年(1641)には貿易拠点であるオランダ商館を長崎の出島に移転し、貿易の管理・統制として鎖国体制を固めました。
寛永の大飢饉が発生
寛永19年(1642)からは寛永の大飢饉が発生し、国内の大名や百姓たちが大打撃を受けます。幕府の基盤を固めてきた家光は、この災厄により体制の立て直しを迫られました。家光は諸藩に対し、米作離れ防止のために煙草・酒造・饅頭・南蛮菓子・そばきりなどの製造販売を禁止するなど具体策を指示。また、農民の没落を防ぐために田畑の売買(永代売)を禁止する田畑永代売買禁止令も発布しました。
この大飢饉の原因は大規模な異常気象のほか、武士の困窮、武断政治のための多額の出費など、さまざまな要因があったと考えられています。
家光の最期とその後の幕府
さまざまな障害が起こるなか親政を進めていった家光。その最期はどのようなものだったのでしょうか?
江戸城内で急死する
慶安4年(1651)家光は献上品の茶碗を見ていた際に突然震え出し、倒れて意識が戻らないまま翌日に死去しました。歩行障害があったことから、死因は脳卒中だったと考えられています。前年にはすでに病気になっており、儀礼などは嫡男・徳川家綱が代行していたようです。遺体は日光・輪王寺に葬られ、のちに廟所・大猷院(たいゆういん)が造られました。
武断政治から文治政治へ
家光死後、家綱が第4代将軍に就任しますが、わずか11歳だったことも作用し討幕未遂事件(慶安の変)が起こります。家綱は叔父・保科正之や家光時代からの大老・名臣らの補佐により政情不安を乗り越え、以後約30年間の安定政権を築きました。幕藩体制はさらに整備され、家光時代までの武断政治は終焉を迎えます。そして新たに文治政治の時代が始まったのでした。
家光にまつわるエピソード
家光はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわるエピソードをご紹介します。
祖父・家康を崇拝した「二世権現」
家光はたびたび夢で祖父・家康の姿を見ており、その肖像を絵師・狩野探幽に描かせていました。その絵は「霊夢像」といわれ、現在に伝わっています。また、身につけていたお守りに「二世権現、二世将軍」「生きるも死ぬるも何事もみな大権現様次第に」という内容が書かれた紙を入れていたそうです。権現とは家康の敬称であるため、家光は家康を尊崇していたことがうかがえます。
異母弟・保科正之を重用した
家光は父・秀忠の落とし子である異母弟・正之を可愛がり、別格扱いしていました。正之は出羽国山形藩20万石を拝領したのち、陸奥国会津藩23万石の大名に引き立てられています。家光の死後は、遺言通りに家綱を補佐して幕政改革を主導。家光の引き立てにより活躍の場を得た正之は名君といわれるほどになり、彼を藩祖とした会津藩は幕末にいたるまで幕府を守り続けました。
ヘタウマ絵の描き手だった!?
墨絵をたしなんでいた家光は、自作の絵を家臣に与えることがありました。主に描いていたのは鶺鴒(せきれい)や兎といった動物で、十数点ほど確認されています。決してうまくはないものの素朴で愛嬌があり、現在では「ヘタウマ」として注目されているようです。
江戸時代初期の幕府機構を確立した
3代将軍・家光の親政により、参勤交代や幕府の諸役職など、後世まで続く重要な制度が定まりました。このように功績を残した家光ですが、家康や秀忠と違って重臣たちが重要事項をすべて決定していたという指摘もあり、一部では厳しい評価もあるようです。次代の家綱からは文治政治がスタートしたことから、家光の治世は江戸時代最後の武断政治となりました。 | 家光は諸藩に対し、米作離れ防止のために何の製造販売を禁止するなど具体策を指示しましたか。 | 家光は諸藩に対し、米作離れ防止のために煙草・酒造・饅頭・南蛮菓子・そばきりなどの製造販売を禁止するなど具体策を指示しました。 |
JCRRAG_012590 | 歴史 | 対外貿易の管理と統制
対外政策としては、長崎貿易での利益独占・キリスト教禁止令の強化・国際紛争の回避を目的に、貿易の管理や統制を進めました。家光は、東南アジア方面との貿易を管理する目的で長崎奉行に職務規定(鎖国令)を発布。寛永12年(1635)には日本人が海外に行くことも帰国することも禁じます。こうして宣教師の密航手段となっていた朱印船貿易は終わりを告げ、九州各地のポルトガル人は長崎の出島に隔離されました。
島原の乱が勃発!
家光が幕政改革を進めるなか、寛永14年(1637)に島原の乱が勃発します。島原半島と天草諸島の領民は以前から藩の圧政や重税に苦しんでいましたが、そこに家光によるキリシタン弾圧への不満が重なりついに蜂起。これは日本の歴史上最大の一揆といわれ、幕末以前では最後の本格的な戦いとなりました。家光はこの乱を鎮圧し、ポルトガルとの断交を決意。さらには、長崎奉行や九州地方の大名らに対してポルトガル人の追放を命令します。寛永18年(1641)には貿易拠点であるオランダ商館を長崎の出島に移転し、貿易の管理・統制として鎖国体制を固めました。
寛永の大飢饉が発生
寛永19年(1642)からは寛永の大飢饉が発生し、国内の大名や百姓たちが大打撃を受けます。幕府の基盤を固めてきた家光は、この災厄により体制の立て直しを迫られました。家光は諸藩に対し、米作離れ防止のために煙草・酒造・饅頭・南蛮菓子・そばきりなどの製造販売を禁止するなど具体策を指示。また、農民の没落を防ぐために田畑の売買(永代売)を禁止する田畑永代売買禁止令も発布しました。
この大飢饉の原因は大規模な異常気象のほか、武士の困窮、武断政治のための多額の出費など、さまざまな要因があったと考えられています。
家光の最期とその後の幕府
さまざまな障害が起こるなか親政を進めていった家光。その最期はどのようなものだったのでしょうか?
江戸城内で急死する
慶安4年(1651)家光は献上品の茶碗を見ていた際に突然震え出し、倒れて意識が戻らないまま翌日に死去しました。歩行障害があったことから、死因は脳卒中だったと考えられています。前年にはすでに病気になっており、儀礼などは嫡男・徳川家綱が代行していたようです。遺体は日光・輪王寺に葬られ、のちに廟所・大猷院(たいゆういん)が造られました。
武断政治から文治政治へ
家光死後、家綱が第4代将軍に就任しますが、わずか11歳だったことも作用し討幕未遂事件(慶安の変)が起こります。家綱は叔父・保科正之や家光時代からの大老・名臣らの補佐により政情不安を乗り越え、以後約30年間の安定政権を築きました。幕藩体制はさらに整備され、家光時代までの武断政治は終焉を迎えます。そして新たに文治政治の時代が始まったのでした。
家光にまつわるエピソード
家光はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわるエピソードをご紹介します。
祖父・家康を崇拝した「二世権現」
家光はたびたび夢で祖父・家康の姿を見ており、その肖像を絵師・狩野探幽に描かせていました。その絵は「霊夢像」といわれ、現在に伝わっています。また、身につけていたお守りに「二世権現、二世将軍」「生きるも死ぬるも何事もみな大権現様次第に」という内容が書かれた紙を入れていたそうです。権現とは家康の敬称であるため、家光は家康を尊崇していたことがうかがえます。
異母弟・保科正之を重用した
家光は父・秀忠の落とし子である異母弟・正之を可愛がり、別格扱いしていました。正之は出羽国山形藩20万石を拝領したのち、陸奥国会津藩23万石の大名に引き立てられています。家光の死後は、遺言通りに家綱を補佐して幕政改革を主導。家光の引き立てにより活躍の場を得た正之は名君といわれるほどになり、彼を藩祖とした会津藩は幕末にいたるまで幕府を守り続けました。
ヘタウマ絵の描き手だった!?
墨絵をたしなんでいた家光は、自作の絵を家臣に与えることがありました。主に描いていたのは鶺鴒(せきれい)や兎といった動物で、十数点ほど確認されています。決してうまくはないものの素朴で愛嬌があり、現在では「ヘタウマ」として注目されているようです。
江戸時代初期の幕府機構を確立した
3代将軍・家光の親政により、参勤交代や幕府の諸役職など、後世まで続く重要な制度が定まりました。このように功績を残した家光ですが、家康や秀忠と違って重臣たちが重要事項をすべて決定していたという指摘もあり、一部では厳しい評価もあるようです。次代の家綱からは文治政治がスタートしたことから、家光の治世は江戸時代最後の武断政治となりました。 | 家光はどのように死去しましたか。 | 家光は献上品の茶碗を見ていた際に突然震え出し、倒れて意識が戻らないまま翌日に死去しました。 |
JCRRAG_012591 | 歴史 | 対外貿易の管理と統制
対外政策としては、長崎貿易での利益独占・キリスト教禁止令の強化・国際紛争の回避を目的に、貿易の管理や統制を進めました。家光は、東南アジア方面との貿易を管理する目的で長崎奉行に職務規定(鎖国令)を発布。寛永12年(1635)には日本人が海外に行くことも帰国することも禁じます。こうして宣教師の密航手段となっていた朱印船貿易は終わりを告げ、九州各地のポルトガル人は長崎の出島に隔離されました。
島原の乱が勃発!
家光が幕政改革を進めるなか、寛永14年(1637)に島原の乱が勃発します。島原半島と天草諸島の領民は以前から藩の圧政や重税に苦しんでいましたが、そこに家光によるキリシタン弾圧への不満が重なりついに蜂起。これは日本の歴史上最大の一揆といわれ、幕末以前では最後の本格的な戦いとなりました。家光はこの乱を鎮圧し、ポルトガルとの断交を決意。さらには、長崎奉行や九州地方の大名らに対してポルトガル人の追放を命令します。寛永18年(1641)には貿易拠点であるオランダ商館を長崎の出島に移転し、貿易の管理・統制として鎖国体制を固めました。
寛永の大飢饉が発生
寛永19年(1642)からは寛永の大飢饉が発生し、国内の大名や百姓たちが大打撃を受けます。幕府の基盤を固めてきた家光は、この災厄により体制の立て直しを迫られました。家光は諸藩に対し、米作離れ防止のために煙草・酒造・饅頭・南蛮菓子・そばきりなどの製造販売を禁止するなど具体策を指示。また、農民の没落を防ぐために田畑の売買(永代売)を禁止する田畑永代売買禁止令も発布しました。
この大飢饉の原因は大規模な異常気象のほか、武士の困窮、武断政治のための多額の出費など、さまざまな要因があったと考えられています。
家光の最期とその後の幕府
さまざまな障害が起こるなか親政を進めていった家光。その最期はどのようなものだったのでしょうか?
江戸城内で急死する
慶安4年(1651)家光は献上品の茶碗を見ていた際に突然震え出し、倒れて意識が戻らないまま翌日に死去しました。歩行障害があったことから、死因は脳卒中だったと考えられています。前年にはすでに病気になっており、儀礼などは嫡男・徳川家綱が代行していたようです。遺体は日光・輪王寺に葬られ、のちに廟所・大猷院(たいゆういん)が造られました。
武断政治から文治政治へ
家光死後、家綱が第4代将軍に就任しますが、わずか11歳だったことも作用し討幕未遂事件(慶安の変)が起こります。家綱は叔父・保科正之や家光時代からの大老・名臣らの補佐により政情不安を乗り越え、以後約30年間の安定政権を築きました。幕藩体制はさらに整備され、家光時代までの武断政治は終焉を迎えます。そして新たに文治政治の時代が始まったのでした。
家光にまつわるエピソード
家光はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわるエピソードをご紹介します。
祖父・家康を崇拝した「二世権現」
家光はたびたび夢で祖父・家康の姿を見ており、その肖像を絵師・狩野探幽に描かせていました。その絵は「霊夢像」といわれ、現在に伝わっています。また、身につけていたお守りに「二世権現、二世将軍」「生きるも死ぬるも何事もみな大権現様次第に」という内容が書かれた紙を入れていたそうです。権現とは家康の敬称であるため、家光は家康を尊崇していたことがうかがえます。
異母弟・保科正之を重用した
家光は父・秀忠の落とし子である異母弟・正之を可愛がり、別格扱いしていました。正之は出羽国山形藩20万石を拝領したのち、陸奥国会津藩23万石の大名に引き立てられています。家光の死後は、遺言通りに家綱を補佐して幕政改革を主導。家光の引き立てにより活躍の場を得た正之は名君といわれるほどになり、彼を藩祖とした会津藩は幕末にいたるまで幕府を守り続けました。
ヘタウマ絵の描き手だった!?
墨絵をたしなんでいた家光は、自作の絵を家臣に与えることがありました。主に描いていたのは鶺鴒(せきれい)や兎といった動物で、十数点ほど確認されています。決してうまくはないものの素朴で愛嬌があり、現在では「ヘタウマ」として注目されているようです。
江戸時代初期の幕府機構を確立した
3代将軍・家光の親政により、参勤交代や幕府の諸役職など、後世まで続く重要な制度が定まりました。このように功績を残した家光ですが、家康や秀忠と違って重臣たちが重要事項をすべて決定していたという指摘もあり、一部では厳しい評価もあるようです。次代の家綱からは文治政治がスタートしたことから、家光の治世は江戸時代最後の武断政治となりました。 | 家光はたびたび夢で祖父・家康の姿を見ており、その肖像を誰に描かせていましたか。 | 家光はたびたび夢で祖父・家康の姿を見ており、その肖像を絵師・狩野探幽に描かせていました。 |
JCRRAG_012592 | 歴史 | 新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、柳生十兵衛である。
剣豪・柳生宗矩の子として
剣豪として有名な十兵衛ですが、青年期は紆余曲折あったようです。彼のうまれや徳川家光への出仕について振り返ります。
小姓として徳川家光に仕える
十兵衛は慶長12年(1607)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)で、新陰流免許皆伝者の柳生宗矩(やぎゅうむねのり)とその妻・おりんの長男として生まれました。幼名は七郎、十兵衛という名前は通称です。父・宗矩は徳川秀忠の兵法指南役でもあり、のちに柳生藩の初代藩主となりました。10歳のときに父に連れられて秀忠に謁見した十兵衛は、13歳で徳川家光の小姓となります。元和7年(1621)に宗矩が家光の兵法指南役に就任すると、家光の稽古の相手となり特別な待遇をうけました。
蟄居命令により、故郷へ
寛永3年(1626)家光の怒りに触れた十兵衛は、蟄居を命じられます。家光の怒りの原因は定かではありませんが、なかなか再出仕は許されず、10年前後にわたり江戸を離れました。故郷の柳生庄に引きこもった十兵衛は、祖父や父の口伝や目録について研究したり兵法を研さんしたりしたといいます。また、祖父の門人を訪問することもあったようです。ただし十兵衛にはさまざまな伝説があり、この蟄居期間に諸国を巡って武者修行したという説も残されています。
江戸への帰還と再出仕
長いあいだ蟄居していた十兵衛ですが、やがて江戸へと戻ります。その後の十兵衛はどのように過ごしたのでしょうか?
父から剣術の印可を受ける
家光の兵法指南役に就いた父・宗矩は、家光からの信任を得て累進し、寛永13年(1636)には大名となり大和国柳生藩を立藩していました。そんななか、寛永14年(1637)に十兵衛はついに江戸に帰還します。柳生藩邸に滞在しながら新陰流の相伝を受けた十兵衛は、同年、それらの至極を伝書にまとめました。しかし、その内容を見た父からすべて焼き捨てるよう命じられてしまいます。驚いた十兵衛は、宗矩の友人である臨済宗の禅僧・沢庵宗彭に相談。すると沢庵は宗矩の真意を説き、伝書を加筆修正しました。これにより父の言わんとするところを悟った十兵衛は、再度伝書を提出し、ようやく宗矩に認められて印可(悟りを得たことを証明認可すること)を受けたのでした。 | 新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、誰であるか。 | 新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、柳生十兵衛である。 |
JCRRAG_012593 | 歴史 | 新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、柳生十兵衛である。
剣豪・柳生宗矩の子として
剣豪として有名な十兵衛ですが、青年期は紆余曲折あったようです。彼のうまれや徳川家光への出仕について振り返ります。
小姓として徳川家光に仕える
十兵衛は慶長12年(1607)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)で、新陰流免許皆伝者の柳生宗矩(やぎゅうむねのり)とその妻・おりんの長男として生まれました。幼名は七郎、十兵衛という名前は通称です。父・宗矩は徳川秀忠の兵法指南役でもあり、のちに柳生藩の初代藩主となりました。10歳のときに父に連れられて秀忠に謁見した十兵衛は、13歳で徳川家光の小姓となります。元和7年(1621)に宗矩が家光の兵法指南役に就任すると、家光の稽古の相手となり特別な待遇をうけました。
蟄居命令により、故郷へ
寛永3年(1626)家光の怒りに触れた十兵衛は、蟄居を命じられます。家光の怒りの原因は定かではありませんが、なかなか再出仕は許されず、10年前後にわたり江戸を離れました。故郷の柳生庄に引きこもった十兵衛は、祖父や父の口伝や目録について研究したり兵法を研さんしたりしたといいます。また、祖父の門人を訪問することもあったようです。ただし十兵衛にはさまざまな伝説があり、この蟄居期間に諸国を巡って武者修行したという説も残されています。
江戸への帰還と再出仕
長いあいだ蟄居していた十兵衛ですが、やがて江戸へと戻ります。その後の十兵衛はどのように過ごしたのでしょうか?
父から剣術の印可を受ける
家光の兵法指南役に就いた父・宗矩は、家光からの信任を得て累進し、寛永13年(1636)には大名となり大和国柳生藩を立藩していました。そんななか、寛永14年(1637)に十兵衛はついに江戸に帰還します。柳生藩邸に滞在しながら新陰流の相伝を受けた十兵衛は、同年、それらの至極を伝書にまとめました。しかし、その内容を見た父からすべて焼き捨てるよう命じられてしまいます。驚いた十兵衛は、宗矩の友人である臨済宗の禅僧・沢庵宗彭に相談。すると沢庵は宗矩の真意を説き、伝書を加筆修正しました。これにより父の言わんとするところを悟った十兵衛は、再度伝書を提出し、ようやく宗矩に認められて印可(悟りを得たことを証明認可すること)を受けたのでした。 | 十兵衛は慶長12年(1607)どこで、新陰流免許皆伝者の柳生宗矩(やぎゅうむねのり)とその妻・おりんの長男として生まれましたか。 | 十兵衛は慶長12年(1607)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)で、新陰流免許皆伝者の柳生宗矩(やぎゅうむねのり)とその妻・おりんの長男として生まれました。 |
JCRRAG_012594 | 歴史 | 新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、柳生十兵衛である。
剣豪・柳生宗矩の子として
剣豪として有名な十兵衛ですが、青年期は紆余曲折あったようです。彼のうまれや徳川家光への出仕について振り返ります。
小姓として徳川家光に仕える
十兵衛は慶長12年(1607)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)で、新陰流免許皆伝者の柳生宗矩(やぎゅうむねのり)とその妻・おりんの長男として生まれました。幼名は七郎、十兵衛という名前は通称です。父・宗矩は徳川秀忠の兵法指南役でもあり、のちに柳生藩の初代藩主となりました。10歳のときに父に連れられて秀忠に謁見した十兵衛は、13歳で徳川家光の小姓となります。元和7年(1621)に宗矩が家光の兵法指南役に就任すると、家光の稽古の相手となり特別な待遇をうけました。
蟄居命令により、故郷へ
寛永3年(1626)家光の怒りに触れた十兵衛は、蟄居を命じられます。家光の怒りの原因は定かではありませんが、なかなか再出仕は許されず、10年前後にわたり江戸を離れました。故郷の柳生庄に引きこもった十兵衛は、祖父や父の口伝や目録について研究したり兵法を研さんしたりしたといいます。また、祖父の門人を訪問することもあったようです。ただし十兵衛にはさまざまな伝説があり、この蟄居期間に諸国を巡って武者修行したという説も残されています。
江戸への帰還と再出仕
長いあいだ蟄居していた十兵衛ですが、やがて江戸へと戻ります。その後の十兵衛はどのように過ごしたのでしょうか?
父から剣術の印可を受ける
家光の兵法指南役に就いた父・宗矩は、家光からの信任を得て累進し、寛永13年(1636)には大名となり大和国柳生藩を立藩していました。そんななか、寛永14年(1637)に十兵衛はついに江戸に帰還します。柳生藩邸に滞在しながら新陰流の相伝を受けた十兵衛は、同年、それらの至極を伝書にまとめました。しかし、その内容を見た父からすべて焼き捨てるよう命じられてしまいます。驚いた十兵衛は、宗矩の友人である臨済宗の禅僧・沢庵宗彭に相談。すると沢庵は宗矩の真意を説き、伝書を加筆修正しました。これにより父の言わんとするところを悟った十兵衛は、再度伝書を提出し、ようやく宗矩に認められて印可(悟りを得たことを証明認可すること)を受けたのでした。 | 十兵衛は、何歳で徳川家光の小姓となりましたか。 | 十兵衛は、13歳で徳川家光の小姓となりました。 |
JCRRAG_012595 | 歴史 | 新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、柳生十兵衛である。
剣豪・柳生宗矩の子として
剣豪として有名な十兵衛ですが、青年期は紆余曲折あったようです。彼のうまれや徳川家光への出仕について振り返ります。
小姓として徳川家光に仕える
十兵衛は慶長12年(1607)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)で、新陰流免許皆伝者の柳生宗矩(やぎゅうむねのり)とその妻・おりんの長男として生まれました。幼名は七郎、十兵衛という名前は通称です。父・宗矩は徳川秀忠の兵法指南役でもあり、のちに柳生藩の初代藩主となりました。10歳のときに父に連れられて秀忠に謁見した十兵衛は、13歳で徳川家光の小姓となります。元和7年(1621)に宗矩が家光の兵法指南役に就任すると、家光の稽古の相手となり特別な待遇をうけました。
蟄居命令により、故郷へ
寛永3年(1626)家光の怒りに触れた十兵衛は、蟄居を命じられます。家光の怒りの原因は定かではありませんが、なかなか再出仕は許されず、10年前後にわたり江戸を離れました。故郷の柳生庄に引きこもった十兵衛は、祖父や父の口伝や目録について研究したり兵法を研さんしたりしたといいます。また、祖父の門人を訪問することもあったようです。ただし十兵衛にはさまざまな伝説があり、この蟄居期間に諸国を巡って武者修行したという説も残されています。
江戸への帰還と再出仕
長いあいだ蟄居していた十兵衛ですが、やがて江戸へと戻ります。その後の十兵衛はどのように過ごしたのでしょうか?
父から剣術の印可を受ける
家光の兵法指南役に就いた父・宗矩は、家光からの信任を得て累進し、寛永13年(1636)には大名となり大和国柳生藩を立藩していました。そんななか、寛永14年(1637)に十兵衛はついに江戸に帰還します。柳生藩邸に滞在しながら新陰流の相伝を受けた十兵衛は、同年、それらの至極を伝書にまとめました。しかし、その内容を見た父からすべて焼き捨てるよう命じられてしまいます。驚いた十兵衛は、宗矩の友人である臨済宗の禅僧・沢庵宗彭に相談。すると沢庵は宗矩の真意を説き、伝書を加筆修正しました。これにより父の言わんとするところを悟った十兵衛は、再度伝書を提出し、ようやく宗矩に認められて印可(悟りを得たことを証明認可すること)を受けたのでした。 | 寛永3年(1626)家光の怒りに触れた十兵衛は、何を命じられましたか。 | 寛永3年(1626)家光の怒りに触れた十兵衛は、蟄居を命じられました。 |
JCRRAG_012596 | 歴史 | 新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物は、柳生十兵衛である。
剣豪・柳生宗矩の子として
剣豪として有名な十兵衛ですが、青年期は紆余曲折あったようです。彼のうまれや徳川家光への出仕について振り返ります。
小姓として徳川家光に仕える
十兵衛は慶長12年(1607)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)で、新陰流免許皆伝者の柳生宗矩(やぎゅうむねのり)とその妻・おりんの長男として生まれました。幼名は七郎、十兵衛という名前は通称です。父・宗矩は徳川秀忠の兵法指南役でもあり、のちに柳生藩の初代藩主となりました。10歳のときに父に連れられて秀忠に謁見した十兵衛は、13歳で徳川家光の小姓となります。元和7年(1621)に宗矩が家光の兵法指南役に就任すると、家光の稽古の相手となり特別な待遇をうけました。
蟄居命令により、故郷へ
寛永3年(1626)家光の怒りに触れた十兵衛は、蟄居を命じられます。家光の怒りの原因は定かではありませんが、なかなか再出仕は許されず、10年前後にわたり江戸を離れました。故郷の柳生庄に引きこもった十兵衛は、祖父や父の口伝や目録について研究したり兵法を研さんしたりしたといいます。また、祖父の門人を訪問することもあったようです。ただし十兵衛にはさまざまな伝説があり、この蟄居期間に諸国を巡って武者修行したという説も残されています。
江戸への帰還と再出仕
長いあいだ蟄居していた十兵衛ですが、やがて江戸へと戻ります。その後の十兵衛はどのように過ごしたのでしょうか?
父から剣術の印可を受ける
家光の兵法指南役に就いた父・宗矩は、家光からの信任を得て累進し、寛永13年(1636)には大名となり大和国柳生藩を立藩していました。そんななか、寛永14年(1637)に十兵衛はついに江戸に帰還します。柳生藩邸に滞在しながら新陰流の相伝を受けた十兵衛は、同年、それらの至極を伝書にまとめました。しかし、その内容を見た父からすべて焼き捨てるよう命じられてしまいます。驚いた十兵衛は、宗矩の友人である臨済宗の禅僧・沢庵宗彭に相談。すると沢庵は宗矩の真意を説き、伝書を加筆修正しました。これにより父の言わんとするところを悟った十兵衛は、再度伝書を提出し、ようやく宗矩に認められて印可(悟りを得たことを証明認可すること)を受けたのでした。 | 寛永14年(1637)に十兵衛はついにどこに帰還しましたか。 | 寛永14年(1637)に十兵衛はついに江戸に帰還しました。 |
JCRRAG_012597 | 歴史 | 江戸城御書院番に就任
寛永15年(1638)家光に重用されていた異母弟・柳生友矩(とものり)が病により辞職し、再出仕が許された十兵衛は江戸城御書院番に就任しました。書院番とは江戸幕府の徳川将軍直属の軍団で、その職務は江戸城内の警備や江戸市中の巡回、将軍外出時の随行、幕府巡見使としての諸国派遣など多岐にわたります。十兵衛の場合は、家光の前での兵法披露などもしていたようです。寛永19年(1642)には、故郷に引きこもっていたあいだに収集した資料などをもとに、新陰流の知識をまとめて『月之抄』を執筆。これはのちに彼の代表作となりました。
家督継承と最期
家光に再出仕した十兵衛でしたが、父の死により状況が変わります。十兵衛の家督の継承から最期までについて振り返ります。
8300石を相続して藩主へ
正保3年(1646)父・宗矩が死去し、遺領は家光の裁量によって兄弟間で分けられることになりました。十兵衛は8300石を相続して家督を継承。このとき1万石を下回ったため、立藩から11年目にして大名から旗本の地位に戻りました。そのため十兵衛は大名ではありませんが、便宜上、柳生藩2代目藩主とされています。
十兵衛は強く勇ましく、周囲がそのようすを恐れて従うような人物でした。しかし、家督継承後は寛容な性格になり、家風を守りながら政務に励んだといいます。また身分の低い者にも哀れみを持ち、処罰もしなかったようです。その一方では家業の兵法の発展にも努めました。
大名に返り咲いた柳生家
柳生藩主となった十兵衛でしたが、慶安3年(1650)鷹狩のために出かけた先で急死します。奈良奉行により検死が行われ村人たちも尋問されましたが、死因は不明のまま柳生家の菩提寺・中宮寺(奈良市柳生下町)に埋葬されました。十兵衛には跡継ぎとなる嫡子がいませんでしたが、父の勲功により柳生藩の存続が認められ、同母弟・柳生宗冬が自身の領地を返上して柳生藩を継承。宗冬は加増を重ねていき、やがて総石高1万石以上で再度大名となり柳生藩の地位を回復させました。
十兵衛にまつわる逸話
十兵衛はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわる逸話についてご紹介します。
隻眼の剣豪といわれる理由とは?
十兵衛は片目に眼帯をつけた隻眼の剣豪として知られています。『正傳新陰流』には、幼いころの稽古で父・宗矩の木剣が目に当たったとあり、『柳荒美談』では、宗矩が十兵衛の技量を見極めるために小石を投げて目に当たったと記されています。このように隻眼の理由にはさまざまな説がありますが、当時の史料には隻眼との記述はなく、肖像画とされる人物には両目が描かれているようです。もしかすると、強い剣豪のイメージとして創作されたものかもしれません。
桂小五郎・高杉晋作も学んだ「新陰柳生当流」
十兵衛の祖父・柳生宗厳(むねよし/むねとし/そうごん)には柳生松右衛門という高弟がおり、彼の伝えた新陰流は長州藩で広まっていました。松右衛門の高弟である内藤元幸は、子・就幸にそれを伝授。就幸は家中で新陰流を指南していましたが、十兵衛の噂を聞いて江戸で弟子入りします。内藤家では十兵衛により近代化された新陰流を「新陰柳生当流」と呼んで代々伝えました。これはのちに長州藩の藩校・明倫館でも採用され、幕末で活躍する桂小五郎や高杉晋作らも学んだそうです。
蟄居の原因は酒グセの悪さ!?
十兵衛は酒好きで、酔うと言動が荒くなるタイプだったようです。家光からの蟄居命令もこの酒グセの悪さが原因ではないかといわれており、再出仕の際に沢庵からも忠告されています。しかし、彼の酒好きはおさまらなかったようで、朝から寺に酒を持参し僧たちに振る舞うなどの行動が『沢庵和尚書簡集』に記されています。
柳生十兵衛と宮本武蔵
十兵衛と近い時期に活躍した剣豪に宮本武蔵がいます。もし戦ったらどちらが強いのか……そんなふうに思う人も多いのではないでしょうか。史料には二人の接点はありませんが、十兵衛の父・宗矩と武蔵については、武蔵が将軍家指南役として招かれそうになったところを宗矩が妨害したといった逸話が残されています。ただし、宗矩と武蔵についても確かな史料には接点が見られず、創作の可能性が高いようです。
講談でさらなるヒーローに!
剣豪として幕府に仕え、将軍に剣術を指南・披露するなど活躍した十兵衛。後世では彼を主人公とする講談が多く創作されました。それらの作品のなかで活躍を盛られたことで、十兵衛はヒーローとして広く知られるようになったといえるでしょう。酒グセの悪さなど素行に少々問題があった十兵衛ですが、剣術の腕は達人です。その大きなギャップが彼の魅力といえるかもしれませんね。 | 寛永15年(1638)家光に重用されていた異母弟・柳生友矩(とものり)が病により辞職し、再出仕が許された十兵衛は何に就任しましたか。 | 寛永15年(1638)家光に重用されていた異母弟・柳生友矩(とものり)が病により辞職し、再出仕が許された十兵衛は江戸城御書院番に就任しました。 |
JCRRAG_012598 | 歴史 | 江戸城御書院番に就任
寛永15年(1638)家光に重用されていた異母弟・柳生友矩(とものり)が病により辞職し、再出仕が許された十兵衛は江戸城御書院番に就任しました。書院番とは江戸幕府の徳川将軍直属の軍団で、その職務は江戸城内の警備や江戸市中の巡回、将軍外出時の随行、幕府巡見使としての諸国派遣など多岐にわたります。十兵衛の場合は、家光の前での兵法披露などもしていたようです。寛永19年(1642)には、故郷に引きこもっていたあいだに収集した資料などをもとに、新陰流の知識をまとめて『月之抄』を執筆。これはのちに彼の代表作となりました。
家督継承と最期
家光に再出仕した十兵衛でしたが、父の死により状況が変わります。十兵衛の家督の継承から最期までについて振り返ります。
8300石を相続して藩主へ
正保3年(1646)父・宗矩が死去し、遺領は家光の裁量によって兄弟間で分けられることになりました。十兵衛は8300石を相続して家督を継承。このとき1万石を下回ったため、立藩から11年目にして大名から旗本の地位に戻りました。そのため十兵衛は大名ではありませんが、便宜上、柳生藩2代目藩主とされています。
十兵衛は強く勇ましく、周囲がそのようすを恐れて従うような人物でした。しかし、家督継承後は寛容な性格になり、家風を守りながら政務に励んだといいます。また身分の低い者にも哀れみを持ち、処罰もしなかったようです。その一方では家業の兵法の発展にも努めました。
大名に返り咲いた柳生家
柳生藩主となった十兵衛でしたが、慶安3年(1650)鷹狩のために出かけた先で急死します。奈良奉行により検死が行われ村人たちも尋問されましたが、死因は不明のまま柳生家の菩提寺・中宮寺(奈良市柳生下町)に埋葬されました。十兵衛には跡継ぎとなる嫡子がいませんでしたが、父の勲功により柳生藩の存続が認められ、同母弟・柳生宗冬が自身の領地を返上して柳生藩を継承。宗冬は加増を重ねていき、やがて総石高1万石以上で再度大名となり柳生藩の地位を回復させました。
十兵衛にまつわる逸話
十兵衛はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわる逸話についてご紹介します。
隻眼の剣豪といわれる理由とは?
十兵衛は片目に眼帯をつけた隻眼の剣豪として知られています。『正傳新陰流』には、幼いころの稽古で父・宗矩の木剣が目に当たったとあり、『柳荒美談』では、宗矩が十兵衛の技量を見極めるために小石を投げて目に当たったと記されています。このように隻眼の理由にはさまざまな説がありますが、当時の史料には隻眼との記述はなく、肖像画とされる人物には両目が描かれているようです。もしかすると、強い剣豪のイメージとして創作されたものかもしれません。
桂小五郎・高杉晋作も学んだ「新陰柳生当流」
十兵衛の祖父・柳生宗厳(むねよし/むねとし/そうごん)には柳生松右衛門という高弟がおり、彼の伝えた新陰流は長州藩で広まっていました。松右衛門の高弟である内藤元幸は、子・就幸にそれを伝授。就幸は家中で新陰流を指南していましたが、十兵衛の噂を聞いて江戸で弟子入りします。内藤家では十兵衛により近代化された新陰流を「新陰柳生当流」と呼んで代々伝えました。これはのちに長州藩の藩校・明倫館でも採用され、幕末で活躍する桂小五郎や高杉晋作らも学んだそうです。
蟄居の原因は酒グセの悪さ!?
十兵衛は酒好きで、酔うと言動が荒くなるタイプだったようです。家光からの蟄居命令もこの酒グセの悪さが原因ではないかといわれており、再出仕の際に沢庵からも忠告されています。しかし、彼の酒好きはおさまらなかったようで、朝から寺に酒を持参し僧たちに振る舞うなどの行動が『沢庵和尚書簡集』に記されています。
柳生十兵衛と宮本武蔵
十兵衛と近い時期に活躍した剣豪に宮本武蔵がいます。もし戦ったらどちらが強いのか……そんなふうに思う人も多いのではないでしょうか。史料には二人の接点はありませんが、十兵衛の父・宗矩と武蔵については、武蔵が将軍家指南役として招かれそうになったところを宗矩が妨害したといった逸話が残されています。ただし、宗矩と武蔵についても確かな史料には接点が見られず、創作の可能性が高いようです。
講談でさらなるヒーローに!
剣豪として幕府に仕え、将軍に剣術を指南・披露するなど活躍した十兵衛。後世では彼を主人公とする講談が多く創作されました。それらの作品のなかで活躍を盛られたことで、十兵衛はヒーローとして広く知られるようになったといえるでしょう。酒グセの悪さなど素行に少々問題があった十兵衛ですが、剣術の腕は達人です。その大きなギャップが彼の魅力といえるかもしれませんね。 | 正保3年(1646)父・宗矩が死去し、遺領は誰の裁量によって兄弟間で分けられることになりましたか。 | 正保3年(1646)父・宗矩が死去し、遺領は家光の裁量によって兄弟間で分けられることになりました。 |
JCRRAG_012599 | 歴史 | 江戸城御書院番に就任
寛永15年(1638)家光に重用されていた異母弟・柳生友矩(とものり)が病により辞職し、再出仕が許された十兵衛は江戸城御書院番に就任しました。書院番とは江戸幕府の徳川将軍直属の軍団で、その職務は江戸城内の警備や江戸市中の巡回、将軍外出時の随行、幕府巡見使としての諸国派遣など多岐にわたります。十兵衛の場合は、家光の前での兵法披露などもしていたようです。寛永19年(1642)には、故郷に引きこもっていたあいだに収集した資料などをもとに、新陰流の知識をまとめて『月之抄』を執筆。これはのちに彼の代表作となりました。
家督継承と最期
家光に再出仕した十兵衛でしたが、父の死により状況が変わります。十兵衛の家督の継承から最期までについて振り返ります。
8300石を相続して藩主へ
正保3年(1646)父・宗矩が死去し、遺領は家光の裁量によって兄弟間で分けられることになりました。十兵衛は8300石を相続して家督を継承。このとき1万石を下回ったため、立藩から11年目にして大名から旗本の地位に戻りました。そのため十兵衛は大名ではありませんが、便宜上、柳生藩2代目藩主とされています。
十兵衛は強く勇ましく、周囲がそのようすを恐れて従うような人物でした。しかし、家督継承後は寛容な性格になり、家風を守りながら政務に励んだといいます。また身分の低い者にも哀れみを持ち、処罰もしなかったようです。その一方では家業の兵法の発展にも努めました。
大名に返り咲いた柳生家
柳生藩主となった十兵衛でしたが、慶安3年(1650)鷹狩のために出かけた先で急死します。奈良奉行により検死が行われ村人たちも尋問されましたが、死因は不明のまま柳生家の菩提寺・中宮寺(奈良市柳生下町)に埋葬されました。十兵衛には跡継ぎとなる嫡子がいませんでしたが、父の勲功により柳生藩の存続が認められ、同母弟・柳生宗冬が自身の領地を返上して柳生藩を継承。宗冬は加増を重ねていき、やがて総石高1万石以上で再度大名となり柳生藩の地位を回復させました。
十兵衛にまつわる逸話
十兵衛はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわる逸話についてご紹介します。
隻眼の剣豪といわれる理由とは?
十兵衛は片目に眼帯をつけた隻眼の剣豪として知られています。『正傳新陰流』には、幼いころの稽古で父・宗矩の木剣が目に当たったとあり、『柳荒美談』では、宗矩が十兵衛の技量を見極めるために小石を投げて目に当たったと記されています。このように隻眼の理由にはさまざまな説がありますが、当時の史料には隻眼との記述はなく、肖像画とされる人物には両目が描かれているようです。もしかすると、強い剣豪のイメージとして創作されたものかもしれません。
桂小五郎・高杉晋作も学んだ「新陰柳生当流」
十兵衛の祖父・柳生宗厳(むねよし/むねとし/そうごん)には柳生松右衛門という高弟がおり、彼の伝えた新陰流は長州藩で広まっていました。松右衛門の高弟である内藤元幸は、子・就幸にそれを伝授。就幸は家中で新陰流を指南していましたが、十兵衛の噂を聞いて江戸で弟子入りします。内藤家では十兵衛により近代化された新陰流を「新陰柳生当流」と呼んで代々伝えました。これはのちに長州藩の藩校・明倫館でも採用され、幕末で活躍する桂小五郎や高杉晋作らも学んだそうです。
蟄居の原因は酒グセの悪さ!?
十兵衛は酒好きで、酔うと言動が荒くなるタイプだったようです。家光からの蟄居命令もこの酒グセの悪さが原因ではないかといわれており、再出仕の際に沢庵からも忠告されています。しかし、彼の酒好きはおさまらなかったようで、朝から寺に酒を持参し僧たちに振る舞うなどの行動が『沢庵和尚書簡集』に記されています。
柳生十兵衛と宮本武蔵
十兵衛と近い時期に活躍した剣豪に宮本武蔵がいます。もし戦ったらどちらが強いのか……そんなふうに思う人も多いのではないでしょうか。史料には二人の接点はありませんが、十兵衛の父・宗矩と武蔵については、武蔵が将軍家指南役として招かれそうになったところを宗矩が妨害したといった逸話が残されています。ただし、宗矩と武蔵についても確かな史料には接点が見られず、創作の可能性が高いようです。
講談でさらなるヒーローに!
剣豪として幕府に仕え、将軍に剣術を指南・披露するなど活躍した十兵衛。後世では彼を主人公とする講談が多く創作されました。それらの作品のなかで活躍を盛られたことで、十兵衛はヒーローとして広く知られるようになったといえるでしょう。酒グセの悪さなど素行に少々問題があった十兵衛ですが、剣術の腕は達人です。その大きなギャップが彼の魅力といえるかもしれませんね。 | 十兵衛は慶安3年(1650)どこで急死しますか。 | 十兵衛は慶安3年(1650)鷹狩のために出かけた先で急死します。 |
JCRRAG_012600 | 歴史 | 江戸城御書院番に就任
寛永15年(1638)家光に重用されていた異母弟・柳生友矩(とものり)が病により辞職し、再出仕が許された十兵衛は江戸城御書院番に就任しました。書院番とは江戸幕府の徳川将軍直属の軍団で、その職務は江戸城内の警備や江戸市中の巡回、将軍外出時の随行、幕府巡見使としての諸国派遣など多岐にわたります。十兵衛の場合は、家光の前での兵法披露などもしていたようです。寛永19年(1642)には、故郷に引きこもっていたあいだに収集した資料などをもとに、新陰流の知識をまとめて『月之抄』を執筆。これはのちに彼の代表作となりました。
家督継承と最期
家光に再出仕した十兵衛でしたが、父の死により状況が変わります。十兵衛の家督の継承から最期までについて振り返ります。
8300石を相続して藩主へ
正保3年(1646)父・宗矩が死去し、遺領は家光の裁量によって兄弟間で分けられることになりました。十兵衛は8300石を相続して家督を継承。このとき1万石を下回ったため、立藩から11年目にして大名から旗本の地位に戻りました。そのため十兵衛は大名ではありませんが、便宜上、柳生藩2代目藩主とされています。
十兵衛は強く勇ましく、周囲がそのようすを恐れて従うような人物でした。しかし、家督継承後は寛容な性格になり、家風を守りながら政務に励んだといいます。また身分の低い者にも哀れみを持ち、処罰もしなかったようです。その一方では家業の兵法の発展にも努めました。
大名に返り咲いた柳生家
柳生藩主となった十兵衛でしたが、慶安3年(1650)鷹狩のために出かけた先で急死します。奈良奉行により検死が行われ村人たちも尋問されましたが、死因は不明のまま柳生家の菩提寺・中宮寺(奈良市柳生下町)に埋葬されました。十兵衛には跡継ぎとなる嫡子がいませんでしたが、父の勲功により柳生藩の存続が認められ、同母弟・柳生宗冬が自身の領地を返上して柳生藩を継承。宗冬は加増を重ねていき、やがて総石高1万石以上で再度大名となり柳生藩の地位を回復させました。
十兵衛にまつわる逸話
十兵衛はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわる逸話についてご紹介します。
隻眼の剣豪といわれる理由とは?
十兵衛は片目に眼帯をつけた隻眼の剣豪として知られています。『正傳新陰流』には、幼いころの稽古で父・宗矩の木剣が目に当たったとあり、『柳荒美談』では、宗矩が十兵衛の技量を見極めるために小石を投げて目に当たったと記されています。このように隻眼の理由にはさまざまな説がありますが、当時の史料には隻眼との記述はなく、肖像画とされる人物には両目が描かれているようです。もしかすると、強い剣豪のイメージとして創作されたものかもしれません。
桂小五郎・高杉晋作も学んだ「新陰柳生当流」
十兵衛の祖父・柳生宗厳(むねよし/むねとし/そうごん)には柳生松右衛門という高弟がおり、彼の伝えた新陰流は長州藩で広まっていました。松右衛門の高弟である内藤元幸は、子・就幸にそれを伝授。就幸は家中で新陰流を指南していましたが、十兵衛の噂を聞いて江戸で弟子入りします。内藤家では十兵衛により近代化された新陰流を「新陰柳生当流」と呼んで代々伝えました。これはのちに長州藩の藩校・明倫館でも採用され、幕末で活躍する桂小五郎や高杉晋作らも学んだそうです。
蟄居の原因は酒グセの悪さ!?
十兵衛は酒好きで、酔うと言動が荒くなるタイプだったようです。家光からの蟄居命令もこの酒グセの悪さが原因ではないかといわれており、再出仕の際に沢庵からも忠告されています。しかし、彼の酒好きはおさまらなかったようで、朝から寺に酒を持参し僧たちに振る舞うなどの行動が『沢庵和尚書簡集』に記されています。
柳生十兵衛と宮本武蔵
十兵衛と近い時期に活躍した剣豪に宮本武蔵がいます。もし戦ったらどちらが強いのか……そんなふうに思う人も多いのではないでしょうか。史料には二人の接点はありませんが、十兵衛の父・宗矩と武蔵については、武蔵が将軍家指南役として招かれそうになったところを宗矩が妨害したといった逸話が残されています。ただし、宗矩と武蔵についても確かな史料には接点が見られず、創作の可能性が高いようです。
講談でさらなるヒーローに!
剣豪として幕府に仕え、将軍に剣術を指南・披露するなど活躍した十兵衛。後世では彼を主人公とする講談が多く創作されました。それらの作品のなかで活躍を盛られたことで、十兵衛はヒーローとして広く知られるようになったといえるでしょう。酒グセの悪さなど素行に少々問題があった十兵衛ですが、剣術の腕は達人です。その大きなギャップが彼の魅力といえるかもしれませんね。 | 内藤家では十兵衛により近代化された新陰流を何と呼んで代々伝えましたか。 | 内藤家では十兵衛により近代化された新陰流を「新陰柳生当流」と呼んで代々伝えました。 |
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