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歴史
江戸城御書院番に就任 寛永15年(1638)家光に重用されていた異母弟・柳生友矩(とものり)が病により辞職し、再出仕が許された十兵衛は江戸城御書院番に就任しました。書院番とは江戸幕府の徳川将軍直属の軍団で、その職務は江戸城内の警備や江戸市中の巡回、将軍外出時の随行、幕府巡見使としての諸国派遣など多岐にわたります。十兵衛の場合は、家光の前での兵法披露などもしていたようです。寛永19年(1642)には、故郷に引きこもっていたあいだに収集した資料などをもとに、新陰流の知識をまとめて『月之抄』を執筆。これはのちに彼の代表作となりました。 家督継承と最期 家光に再出仕した十兵衛でしたが、父の死により状況が変わります。十兵衛の家督の継承から最期までについて振り返ります。 8300石を相続して藩主へ 正保3年(1646)父・宗矩が死去し、遺領は家光の裁量によって兄弟間で分けられることになりました。十兵衛は8300石を相続して家督を継承。このとき1万石を下回ったため、立藩から11年目にして大名から旗本の地位に戻りました。そのため十兵衛は大名ではありませんが、便宜上、柳生藩2代目藩主とされています。 十兵衛は強く勇ましく、周囲がそのようすを恐れて従うような人物でした。しかし、家督継承後は寛容な性格になり、家風を守りながら政務に励んだといいます。また身分の低い者にも哀れみを持ち、処罰もしなかったようです。その一方では家業の兵法の発展にも努めました。 大名に返り咲いた柳生家 柳生藩主となった十兵衛でしたが、慶安3年(1650)鷹狩のために出かけた先で急死します。奈良奉行により検死が行われ村人たちも尋問されましたが、死因は不明のまま柳生家の菩提寺・中宮寺(奈良市柳生下町)に埋葬されました。十兵衛には跡継ぎとなる嫡子がいませんでしたが、父の勲功により柳生藩の存続が認められ、同母弟・柳生宗冬が自身の領地を返上して柳生藩を継承。宗冬は加増を重ねていき、やがて総石高1万石以上で再度大名となり柳生藩の地位を回復させました。 十兵衛にまつわる逸話 十兵衛はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわる逸話についてご紹介します。 隻眼の剣豪といわれる理由とは? 十兵衛は片目に眼帯をつけた隻眼の剣豪として知られています。『正傳新陰流』には、幼いころの稽古で父・宗矩の木剣が目に当たったとあり、『柳荒美談』では、宗矩が十兵衛の技量を見極めるために小石を投げて目に当たったと記されています。このように隻眼の理由にはさまざまな説がありますが、当時の史料には隻眼との記述はなく、肖像画とされる人物には両目が描かれているようです。もしかすると、強い剣豪のイメージとして創作されたものかもしれません。 桂小五郎・高杉晋作も学んだ「新陰柳生当流」 十兵衛の祖父・柳生宗厳(むねよし/むねとし/そうごん)には柳生松右衛門という高弟がおり、彼の伝えた新陰流は長州藩で広まっていました。松右衛門の高弟である内藤元幸は、子・就幸にそれを伝授。就幸は家中で新陰流を指南していましたが、十兵衛の噂を聞いて江戸で弟子入りします。内藤家では十兵衛により近代化された新陰流を「新陰柳生当流」と呼んで代々伝えました。これはのちに長州藩の藩校・明倫館でも採用され、幕末で活躍する桂小五郎や高杉晋作らも学んだそうです。 蟄居の原因は酒グセの悪さ!? 十兵衛は酒好きで、酔うと言動が荒くなるタイプだったようです。家光からの蟄居命令もこの酒グセの悪さが原因ではないかといわれており、再出仕の際に沢庵からも忠告されています。しかし、彼の酒好きはおさまらなかったようで、朝から寺に酒を持参し僧たちに振る舞うなどの行動が『沢庵和尚書簡集』に記されています。 柳生十兵衛と宮本武蔵 十兵衛と近い時期に活躍した剣豪に宮本武蔵がいます。もし戦ったらどちらが強いのか……そんなふうに思う人も多いのではないでしょうか。史料には二人の接点はありませんが、十兵衛の父・宗矩と武蔵については、武蔵が将軍家指南役として招かれそうになったところを宗矩が妨害したといった逸話が残されています。ただし、宗矩と武蔵についても確かな史料には接点が見られず、創作の可能性が高いようです。 講談でさらなるヒーローに! 剣豪として幕府に仕え、将軍に剣術を指南・披露するなど活躍した十兵衛。後世では彼を主人公とする講談が多く創作されました。それらの作品のなかで活躍を盛られたことで、十兵衛はヒーローとして広く知られるようになったといえるでしょう。酒グセの悪さなど素行に少々問題があった十兵衛ですが、剣術の腕は達人です。その大きなギャップが彼の魅力といえるかもしれませんね。
十兵衛は片目に何をつけた剣豪として知られていますか。
十兵衛は片目に眼帯をつけた隻眼の剣豪として知られています。
JCRRAG_012602
歴史
鎌倉幕府を開いた人である源頼朝の計画 鎌倉時代とは、1185年から1331年までの約150年間のことを指します。鎌倉幕府が成立したのは、1185年に守護・地頭が設置されてからのことで、源頼朝が征夷大将軍になった1192年ではありません。   この時代は大きく四つに分けることができて、一つ目が、1185年から1199年に頼朝が亡くなるまでの12世紀末ごろで、鎌倉幕府の成立期です。二つ目が、北条時政が初代執権となってから五代執権・時頼までの時期の13世紀前期のことを指し、執権政治の時代です。   三つ目が13世紀後期で、蒙古襲来から得宗専制体制に移り変わっていく時期です。四つ目が14世紀前期で、鎌倉幕府の滅亡と建武の新しい政治の時期を指します。   源頼朝は、1180年に以仁王の令旨を受けて源氏がこぞって平氏を追い詰めていっている時期も、鎌倉幕府の設立に向けての布石を着実にうっていました。同じ年に、御家人を統率するための機関である侍所を設置します。御家人とは単なる武士のことではありません。「御」がついている意味ですが、これは頼朝に対しての敬意を表しています。また、家人とは家来のことで、つまり、頼朝の家来の武士という意味があります。 侍所のトップを担う人として、初代には有力御家人の和田義盛に任せました。ちなみに、侍所の一番偉い人のことを別当といいます。1183年7月には天皇がいない状況になってしまいますが、これは平氏が安徳帝を連れて都落ちしてしまうからです。   その3ヵ月後の10月に、寿永二年十月宣旨を後白河法皇が出すことになりますが、内容としては、源頼朝に東海道と東山道の沙汰権(管理する権利)を与えます、というものでした。それに則り、その次の年に、頼朝は公文所(東海道、東山道の政務をおこなうところ)と問注所(裁判をおこなうところ)を設立しました。   頼朝が征夷大将軍になる前年の1191年に、この公文所が政所となります。公の文書を扱うところ、朝廷の文書を扱うところが公文所なので、それを幕府の政治をおこなうところとしたのです。   これがのちのち鎌倉幕府の軸となる機関に発展していきますが、それは頼朝がみずから政権の中心的存在になる、ということでした。そして、1185年に平氏が滅亡したあとに、満を持して守護・地頭を設置したのです。   ちなみに全国の御家人のまとめ役が侍所ですが、国内の御家人のまとめ役が守護で、各国にそれぞれ一人ずつ配属されました。対して、荘園、公領の管理をする人のことを地頭とよびます。これを通じて、頼朝は政治基盤と財政基盤をしっかりと打ち立てることに尽力したのです。
鎌倉時代とは、いつのことを指しますか。
鎌倉時代とは、1185年から1331年までの約150年間のことを指します。
JCRRAG_012603
歴史
鎌倉幕府を開いた人である源頼朝の計画 鎌倉時代とは、1185年から1331年までの約150年間のことを指します。鎌倉幕府が成立したのは、1185年に守護・地頭が設置されてからのことで、源頼朝が征夷大将軍になった1192年ではありません。   この時代は大きく四つに分けることができて、一つ目が、1185年から1199年に頼朝が亡くなるまでの12世紀末ごろで、鎌倉幕府の成立期です。二つ目が、北条時政が初代執権となってから五代執権・時頼までの時期の13世紀前期のことを指し、執権政治の時代です。   三つ目が13世紀後期で、蒙古襲来から得宗専制体制に移り変わっていく時期です。四つ目が14世紀前期で、鎌倉幕府の滅亡と建武の新しい政治の時期を指します。   源頼朝は、1180年に以仁王の令旨を受けて源氏がこぞって平氏を追い詰めていっている時期も、鎌倉幕府の設立に向けての布石を着実にうっていました。同じ年に、御家人を統率するための機関である侍所を設置します。御家人とは単なる武士のことではありません。「御」がついている意味ですが、これは頼朝に対しての敬意を表しています。また、家人とは家来のことで、つまり、頼朝の家来の武士という意味があります。 侍所のトップを担う人として、初代には有力御家人の和田義盛に任せました。ちなみに、侍所の一番偉い人のことを別当といいます。1183年7月には天皇がいない状況になってしまいますが、これは平氏が安徳帝を連れて都落ちしてしまうからです。   その3ヵ月後の10月に、寿永二年十月宣旨を後白河法皇が出すことになりますが、内容としては、源頼朝に東海道と東山道の沙汰権(管理する権利)を与えます、というものでした。それに則り、その次の年に、頼朝は公文所(東海道、東山道の政務をおこなうところ)と問注所(裁判をおこなうところ)を設立しました。   頼朝が征夷大将軍になる前年の1191年に、この公文所が政所となります。公の文書を扱うところ、朝廷の文書を扱うところが公文所なので、それを幕府の政治をおこなうところとしたのです。   これがのちのち鎌倉幕府の軸となる機関に発展していきますが、それは頼朝がみずから政権の中心的存在になる、ということでした。そして、1185年に平氏が滅亡したあとに、満を持して守護・地頭を設置したのです。   ちなみに全国の御家人のまとめ役が侍所ですが、国内の御家人のまとめ役が守護で、各国にそれぞれ一人ずつ配属されました。対して、荘園、公領の管理をする人のことを地頭とよびます。これを通じて、頼朝は政治基盤と財政基盤をしっかりと打ち立てることに尽力したのです。
鎌倉幕府が成立したのは、1185年になにが設置されてからのことですか。
鎌倉幕府が成立したのは、1185年に守護・地頭が設置されてからのことで、源頼朝が征夷大将軍になった1192年ではありません。
JCRRAG_012604
歴史
鎌倉幕府を開いた人である源頼朝の計画 鎌倉時代とは、1185年から1331年までの約150年間のことを指します。鎌倉幕府が成立したのは、1185年に守護・地頭が設置されてからのことで、源頼朝が征夷大将軍になった1192年ではありません。   この時代は大きく四つに分けることができて、一つ目が、1185年から1199年に頼朝が亡くなるまでの12世紀末ごろで、鎌倉幕府の成立期です。二つ目が、北条時政が初代執権となってから五代執権・時頼までの時期の13世紀前期のことを指し、執権政治の時代です。   三つ目が13世紀後期で、蒙古襲来から得宗専制体制に移り変わっていく時期です。四つ目が14世紀前期で、鎌倉幕府の滅亡と建武の新しい政治の時期を指します。   源頼朝は、1180年に以仁王の令旨を受けて源氏がこぞって平氏を追い詰めていっている時期も、鎌倉幕府の設立に向けての布石を着実にうっていました。同じ年に、御家人を統率するための機関である侍所を設置します。御家人とは単なる武士のことではありません。「御」がついている意味ですが、これは頼朝に対しての敬意を表しています。また、家人とは家来のことで、つまり、頼朝の家来の武士という意味があります。 侍所のトップを担う人として、初代には有力御家人の和田義盛に任せました。ちなみに、侍所の一番偉い人のことを別当といいます。1183年7月には天皇がいない状況になってしまいますが、これは平氏が安徳帝を連れて都落ちしてしまうからです。   その3ヵ月後の10月に、寿永二年十月宣旨を後白河法皇が出すことになりますが、内容としては、源頼朝に東海道と東山道の沙汰権(管理する権利)を与えます、というものでした。それに則り、その次の年に、頼朝は公文所(東海道、東山道の政務をおこなうところ)と問注所(裁判をおこなうところ)を設立しました。   頼朝が征夷大将軍になる前年の1191年に、この公文所が政所となります。公の文書を扱うところ、朝廷の文書を扱うところが公文所なので、それを幕府の政治をおこなうところとしたのです。   これがのちのち鎌倉幕府の軸となる機関に発展していきますが、それは頼朝がみずから政権の中心的存在になる、ということでした。そして、1185年に平氏が滅亡したあとに、満を持して守護・地頭を設置したのです。   ちなみに全国の御家人のまとめ役が侍所ですが、国内の御家人のまとめ役が守護で、各国にそれぞれ一人ずつ配属されました。対して、荘園、公領の管理をする人のことを地頭とよびます。これを通じて、頼朝は政治基盤と財政基盤をしっかりと打ち立てることに尽力したのです。
1185年から1199年に頼朝が亡くなるまでの12世紀末ごろは、鎌倉幕府のどのような時期ですか。
1185年から1199年に頼朝が亡くなるまでの12世紀末ごろで、鎌倉幕府の成立期です。
JCRRAG_012605
歴史
奥州藤原氏が1189年に滅び、源頼朝は翌年1190年に右近衛大将になります。しかし、頼朝が欲しいのは右近衛大将の地位ではなく、征夷大将軍の位でした。右近衛大将は何事においても朝廷を無視して動くわけにはいきません。朝廷の近くを護衛する役職ですから、当たり前といえば当たり前です。 対して征夷大将軍は、平安時代に坂上田村麻呂に与えられた称号のことですが、ある程度自分の裁量で動くことができます。なぜかというと、現在のように電話もメールもない時代なので、関東でもし緊急の用事ができた場合、いちいち朝廷におうかがいを立てている暇がないのです。朝廷が直接命令できないということは、征夷大将軍にある程度任せるしかないということです。   つまり、右近衛大将と征夷大将軍は天と地ほどの差があるのです。なぜ頼朝には征夷大将軍の位が与えられなかったのでしょうか?   頼朝はすでに東海道、東山道の沙汰権を与えられていたので、それをもっと有効活用するためには上の位が欲しかったですし、また「自分は朝廷から関東での武士のまとめ役を任されている」という存在でいたい、関東においてすべて自分の裁量で行いたいという彼の野望を抱いていました。   それを後白河上皇に見破られていて、上皇が生きている間は征夷大将軍にしてもらえなかったのです。1192年に後白河上皇が死去してはじめて、頼朝は征夷大将軍になることができました。 共存する幕府と朝廷   のちの室町時代のことですが、京都にいるのに征夷大将軍をやっている、というのは本当はおかしなことです。本来、征夷大将軍とは蝦夷討伐のリーダーなので、関東にいるのが条件なのです。   頼朝としては、関東に滞在したまま朝廷の権力をバックに、関東を軸に全国の御家人を支配する力を持ちたかったわけで、朝廷のなかで貴族になって権力を振るいたかったわけではなく、また、朝廷を脅かして権力を奪うつもりもなかったのです。   一方、朝廷側としても、かたちの上では鎌倉幕府成立後も院政がおこなわれていましたし、収入もきちんとはいってきていて、特に幕府に地位を脅かされることもなかったので、対立する意味はなかったのです。
源頼朝はいつ右近衛大将になりますか。
奥州藤原氏が1189年に滅び、源頼朝は翌年1190年に右近衛大将になります。
JCRRAG_012606
歴史
奥州藤原氏が1189年に滅び、源頼朝は翌年1190年に右近衛大将になります。しかし、頼朝が欲しいのは右近衛大将の地位ではなく、征夷大将軍の位でした。右近衛大将は何事においても朝廷を無視して動くわけにはいきません。朝廷の近くを護衛する役職ですから、当たり前といえば当たり前です。 対して征夷大将軍は、平安時代に坂上田村麻呂に与えられた称号のことですが、ある程度自分の裁量で動くことができます。なぜかというと、現在のように電話もメールもない時代なので、関東でもし緊急の用事ができた場合、いちいち朝廷におうかがいを立てている暇がないのです。朝廷が直接命令できないということは、征夷大将軍にある程度任せるしかないということです。   つまり、右近衛大将と征夷大将軍は天と地ほどの差があるのです。なぜ頼朝には征夷大将軍の位が与えられなかったのでしょうか?   頼朝はすでに東海道、東山道の沙汰権を与えられていたので、それをもっと有効活用するためには上の位が欲しかったですし、また「自分は朝廷から関東での武士のまとめ役を任されている」という存在でいたい、関東においてすべて自分の裁量で行いたいという彼の野望を抱いていました。   それを後白河上皇に見破られていて、上皇が生きている間は征夷大将軍にしてもらえなかったのです。1192年に後白河上皇が死去してはじめて、頼朝は征夷大将軍になることができました。 共存する幕府と朝廷   のちの室町時代のことですが、京都にいるのに征夷大将軍をやっている、というのは本当はおかしなことです。本来、征夷大将軍とは蝦夷討伐のリーダーなので、関東にいるのが条件なのです。   頼朝としては、関東に滞在したまま朝廷の権力をバックに、関東を軸に全国の御家人を支配する力を持ちたかったわけで、朝廷のなかで貴族になって権力を振るいたかったわけではなく、また、朝廷を脅かして権力を奪うつもりもなかったのです。   一方、朝廷側としても、かたちの上では鎌倉幕府成立後も院政がおこなわれていましたし、収入もきちんとはいってきていて、特に幕府に地位を脅かされることもなかったので、対立する意味はなかったのです。
頼朝が欲しいのは何の位でしたか。
頼朝が欲しいのは右近衛大将の地位ではなく、征夷大将軍の位でした。
JCRRAG_012607
歴史
鎌倉幕府の初代の将軍である源頼朝が1199年にこの世を去りますが、二代目にその子の頼家が就任します。しかし、頼家がまだ若かったというのもありますが、頼朝自身のカリスマ性がすごく、頼朝でないと言うことを聞かないという人もいました。   そこで、十三人の有力な御家人たちで意見をまとめ、それによって政策を実行していこうという、十三人の合議制というものがおこなわれるようになりました。今までは頼朝が命令を出して、その下の御家人たちが命令に従うという形でしたが、頼家の下の十三人での合議制となると、当然彼らの中で主導権の奪い合いになります。   その中で頭一つ分抜けて力をつけていったのが、頼朝の妻・北条政子の父親である北条時政です。北条政子は、二代将軍の頼家と三代将軍の実朝の母親でもあります。この御家人同士の主導権の奪い合いによって、1200年に梶原景時が殺されてしまいます。   梶原景時は、源平の争乱で一番初めの戦いである石橋山の戦い(いまの小田原市付近)にて、頼朝の命を救っています。そんなこともあって、いわば梶原景時は、御家人のなかでも最も力を持っていたといっても過言ではなかったのです。   景時が殺された後、比企能員の乱が1203年に起こります。北条時政がなぜ権力を持ったかというと、頼朝と北条政子のあいだに生まれた頼家と実朝のおかげともいえました。比企能員は同じようなことを考えていて、頼家のところに自分の娘を嫁がせていて、一幡と公暁という子どももいました。つまり、比企能員の孫も後の将軍候補だといえるのです。   自分の立場が危うくなる前に、北条時政は比企能員をだまし討ちにして、そのあと一幡を殺してしまいます。そして、現将軍の頼家を伊豆の修善寺に閉じ込めて将軍としての仕事をできなくしたあと、三代目として実朝を将軍に立てます。     これをきっかけに、北条時政は政所別当(政所の長官)=執権に出世し、そのあとも北条家が代々、政所別当を受け継いでいくことになります。その次の年に頼家は修善寺で殺されてしまいます。1204年のことでした。   このとき、北条時政は何を思ったか、実朝を廃して後妻の娘を嫁がせていた平賀朝雅、つまり自分から見て娘婿を将軍にしようとしたのですが、失敗してしまい、執権を放棄して出家してしまいました。
鎌倉幕府の初代の将軍である源頼朝はいつこの世を去りますか。
鎌倉幕府の初代の将軍である源頼朝が1199年にこの世を去りますが、二代目にその子の頼家が就任します。
JCRRAG_012608
歴史
鎌倉幕府の初代の将軍である源頼朝が1199年にこの世を去りますが、二代目にその子の頼家が就任します。しかし、頼家がまだ若かったというのもありますが、頼朝自身のカリスマ性がすごく、頼朝でないと言うことを聞かないという人もいました。   そこで、十三人の有力な御家人たちで意見をまとめ、それによって政策を実行していこうという、十三人の合議制というものがおこなわれるようになりました。今までは頼朝が命令を出して、その下の御家人たちが命令に従うという形でしたが、頼家の下の十三人での合議制となると、当然彼らの中で主導権の奪い合いになります。   その中で頭一つ分抜けて力をつけていったのが、頼朝の妻・北条政子の父親である北条時政です。北条政子は、二代将軍の頼家と三代将軍の実朝の母親でもあります。この御家人同士の主導権の奪い合いによって、1200年に梶原景時が殺されてしまいます。   梶原景時は、源平の争乱で一番初めの戦いである石橋山の戦い(いまの小田原市付近)にて、頼朝の命を救っています。そんなこともあって、いわば梶原景時は、御家人のなかでも最も力を持っていたといっても過言ではなかったのです。   景時が殺された後、比企能員の乱が1203年に起こります。北条時政がなぜ権力を持ったかというと、頼朝と北条政子のあいだに生まれた頼家と実朝のおかげともいえました。比企能員は同じようなことを考えていて、頼家のところに自分の娘を嫁がせていて、一幡と公暁という子どももいました。つまり、比企能員の孫も後の将軍候補だといえるのです。   自分の立場が危うくなる前に、北条時政は比企能員をだまし討ちにして、そのあと一幡を殺してしまいます。そして、現将軍の頼家を伊豆の修善寺に閉じ込めて将軍としての仕事をできなくしたあと、三代目として実朝を将軍に立てます。     これをきっかけに、北条時政は政所別当(政所の長官)=執権に出世し、そのあとも北条家が代々、政所別当を受け継いでいくことになります。その次の年に頼家は修善寺で殺されてしまいます。1204年のことでした。   このとき、北条時政は何を思ったか、実朝を廃して後妻の娘を嫁がせていた平賀朝雅、つまり自分から見て娘婿を将軍にしようとしたのですが、失敗してしまい、執権を放棄して出家してしまいました。
十三人の有力な御家人たちで意見をまとめ、それによって政策を実行していこうとする制度は何ですか。
十三人の有力な御家人たちで意見をまとめ、それによって政策を実行していこうという、十三人の合議制というものがおこなわれるようになりました。
JCRRAG_012609
歴史
鎌倉幕府の初代の将軍である源頼朝が1199年にこの世を去りますが、二代目にその子の頼家が就任します。しかし、頼家がまだ若かったというのもありますが、頼朝自身のカリスマ性がすごく、頼朝でないと言うことを聞かないという人もいました。   そこで、十三人の有力な御家人たちで意見をまとめ、それによって政策を実行していこうという、十三人の合議制というものがおこなわれるようになりました。今までは頼朝が命令を出して、その下の御家人たちが命令に従うという形でしたが、頼家の下の十三人での合議制となると、当然彼らの中で主導権の奪い合いになります。   その中で頭一つ分抜けて力をつけていったのが、頼朝の妻・北条政子の父親である北条時政です。北条政子は、二代将軍の頼家と三代将軍の実朝の母親でもあります。この御家人同士の主導権の奪い合いによって、1200年に梶原景時が殺されてしまいます。   梶原景時は、源平の争乱で一番初めの戦いである石橋山の戦い(いまの小田原市付近)にて、頼朝の命を救っています。そんなこともあって、いわば梶原景時は、御家人のなかでも最も力を持っていたといっても過言ではなかったのです。   景時が殺された後、比企能員の乱が1203年に起こります。北条時政がなぜ権力を持ったかというと、頼朝と北条政子のあいだに生まれた頼家と実朝のおかげともいえました。比企能員は同じようなことを考えていて、頼家のところに自分の娘を嫁がせていて、一幡と公暁という子どももいました。つまり、比企能員の孫も後の将軍候補だといえるのです。   自分の立場が危うくなる前に、北条時政は比企能員をだまし討ちにして、そのあと一幡を殺してしまいます。そして、現将軍の頼家を伊豆の修善寺に閉じ込めて将軍としての仕事をできなくしたあと、三代目として実朝を将軍に立てます。     これをきっかけに、北条時政は政所別当(政所の長官)=執権に出世し、そのあとも北条家が代々、政所別当を受け継いでいくことになります。その次の年に頼家は修善寺で殺されてしまいます。1204年のことでした。   このとき、北条時政は何を思ったか、実朝を廃して後妻の娘を嫁がせていた平賀朝雅、つまり自分から見て娘婿を将軍にしようとしたのですが、失敗してしまい、執権を放棄して出家してしまいました。
十三人の有力な御家人たちの中で頭一つ分抜けて力をつけていったのはだれですか。
頭一つ分抜けて力をつけていったのが、頼朝の妻・北条政子の父親である北条時政です。
JCRRAG_012610
歴史
鎌倉幕府の初代の将軍である源頼朝が1199年にこの世を去りますが、二代目にその子の頼家が就任します。しかし、頼家がまだ若かったというのもありますが、頼朝自身のカリスマ性がすごく、頼朝でないと言うことを聞かないという人もいました。   そこで、十三人の有力な御家人たちで意見をまとめ、それによって政策を実行していこうという、十三人の合議制というものがおこなわれるようになりました。今までは頼朝が命令を出して、その下の御家人たちが命令に従うという形でしたが、頼家の下の十三人での合議制となると、当然彼らの中で主導権の奪い合いになります。   その中で頭一つ分抜けて力をつけていったのが、頼朝の妻・北条政子の父親である北条時政です。北条政子は、二代将軍の頼家と三代将軍の実朝の母親でもあります。この御家人同士の主導権の奪い合いによって、1200年に梶原景時が殺されてしまいます。   梶原景時は、源平の争乱で一番初めの戦いである石橋山の戦い(いまの小田原市付近)にて、頼朝の命を救っています。そんなこともあって、いわば梶原景時は、御家人のなかでも最も力を持っていたといっても過言ではなかったのです。   景時が殺された後、比企能員の乱が1203年に起こります。北条時政がなぜ権力を持ったかというと、頼朝と北条政子のあいだに生まれた頼家と実朝のおかげともいえました。比企能員は同じようなことを考えていて、頼家のところに自分の娘を嫁がせていて、一幡と公暁という子どももいました。つまり、比企能員の孫も後の将軍候補だといえるのです。   自分の立場が危うくなる前に、北条時政は比企能員をだまし討ちにして、そのあと一幡を殺してしまいます。そして、現将軍の頼家を伊豆の修善寺に閉じ込めて将軍としての仕事をできなくしたあと、三代目として実朝を将軍に立てます。     これをきっかけに、北条時政は政所別当(政所の長官)=執権に出世し、そのあとも北条家が代々、政所別当を受け継いでいくことになります。その次の年に頼家は修善寺で殺されてしまいます。1204年のことでした。   このとき、北条時政は何を思ったか、実朝を廃して後妻の娘を嫁がせていた平賀朝雅、つまり自分から見て娘婿を将軍にしようとしたのですが、失敗してしまい、執権を放棄して出家してしまいました。
梶原景時が殺されたのはいつですか。
御家人同士の主導権の奪い合いによって、1200年に梶原景時が殺されてしまいます。
JCRRAG_012611
歴史
北条時政のあとに執権に就いたのは、その子の義時でした。比企能員の乱の10年後、1213年の和田合戦で、義時はその頃侍所のトップを担っていた和田義盛を倒します。その結果、義時は政所別当のほかに、侍所の別当にも就任することになります。   そのあと、義時は頼家の子・公暁を洗脳しはじめます。結果、公暁はこう考えるようになります。「私の兄(一幡)も父(頼家)も祖父(比企能員)も、死んだのはみんな実朝のせいだ」言うまでもなく、全ての暗殺を企てたのは北条氏ですが、そんなことは決して口には出さず、実朝が将軍になりたいがためにおまえの家族を殺した、と洗脳したのです。   そう聞かされていた公暁は実朝を憎み、将軍である実朝の暗殺を、1219年に鶴岡八幡宮にて実行してしまいます。公暁はもちろん仇討ちのつもりだったのですが、将軍暗殺はとても重い罪です。公暁は討伐されてしまうことになります。 承久の乱が起こる   そんなこんなで源氏はどんどん減っていき、正統な清和源氏は滅んでしまうことになります。そこで、そのあとの将軍として、藤原(九条)頼経を引き入れます。彼は頼朝の遠い親戚でした。   しかし、後鳥羽上皇がこれに反対をします。1192年に源頼朝が征夷大将軍に任命されていますが、任せたのは当時の後鳥羽天皇です。正統でない九条家が征夷大将軍になることは許されない。将軍は正統な源氏がなることのみ許されている」ということになってしまい、義時を討つように命令が出されて、承久の乱が1221年に勃発することになります。     しかし、戦いを仕掛けたはずの後鳥羽上皇側はこれに敗戦し、幕府側が圧勝します。後鳥羽上皇は隠岐に島流しにされてしまいます。華やかに栄えていた平氏の経済的な基礎は、五百箇所にのぼる荘園でした。しかし、承久の乱の後に朝廷側の味方をした貴族や武士から、幕府は三千箇所もの荘園を奪いました。   そこに新しい地頭(新補地頭)を置いて、御家人にも荘園を分け与え、もっともっと勢力を大きくしていきます。さらに幕府は、北条氏をトップとして、朝廷の監視と市中の警備、御家人の管理をするようになります。具体的には、朝廷の直接の支配下である京に、いままでの京都守護のかわりに六波羅探題を設置しました。
北条時政のあとに執権に就いたのは、だれですか。
北条時政のあとに執権に就いたのは、その子の義時でした。
JCRRAG_012612
歴史
北条時政のあとに執権に就いたのは、その子の義時でした。比企能員の乱の10年後、1213年の和田合戦で、義時はその頃侍所のトップを担っていた和田義盛を倒します。その結果、義時は政所別当のほかに、侍所の別当にも就任することになります。   そのあと、義時は頼家の子・公暁を洗脳しはじめます。結果、公暁はこう考えるようになります。「私の兄(一幡)も父(頼家)も祖父(比企能員)も、死んだのはみんな実朝のせいだ」言うまでもなく、全ての暗殺を企てたのは北条氏ですが、そんなことは決して口には出さず、実朝が将軍になりたいがためにおまえの家族を殺した、と洗脳したのです。   そう聞かされていた公暁は実朝を憎み、将軍である実朝の暗殺を、1219年に鶴岡八幡宮にて実行してしまいます。公暁はもちろん仇討ちのつもりだったのですが、将軍暗殺はとても重い罪です。公暁は討伐されてしまうことになります。 承久の乱が起こる   そんなこんなで源氏はどんどん減っていき、正統な清和源氏は滅んでしまうことになります。そこで、そのあとの将軍として、藤原(九条)頼経を引き入れます。彼は頼朝の遠い親戚でした。   しかし、後鳥羽上皇がこれに反対をします。1192年に源頼朝が征夷大将軍に任命されていますが、任せたのは当時の後鳥羽天皇です。正統でない九条家が征夷大将軍になることは許されない。将軍は正統な源氏がなることのみ許されている」ということになってしまい、義時を討つように命令が出されて、承久の乱が1221年に勃発することになります。     しかし、戦いを仕掛けたはずの後鳥羽上皇側はこれに敗戦し、幕府側が圧勝します。後鳥羽上皇は隠岐に島流しにされてしまいます。華やかに栄えていた平氏の経済的な基礎は、五百箇所にのぼる荘園でした。しかし、承久の乱の後に朝廷側の味方をした貴族や武士から、幕府は三千箇所もの荘園を奪いました。   そこに新しい地頭(新補地頭)を置いて、御家人にも荘園を分け与え、もっともっと勢力を大きくしていきます。さらに幕府は、北条氏をトップとして、朝廷の監視と市中の警備、御家人の管理をするようになります。具体的には、朝廷の直接の支配下である京に、いままでの京都守護のかわりに六波羅探題を設置しました。
いつ義時はその頃侍所のトップを担っていた和田義盛を倒しますか。
1213年の和田合戦で、義時はその頃侍所のトップを担っていた和田義盛を倒します。
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歴史
北条時政のあとに執権に就いたのは、その子の義時でした。比企能員の乱の10年後、1213年の和田合戦で、義時はその頃侍所のトップを担っていた和田義盛を倒します。その結果、義時は政所別当のほかに、侍所の別当にも就任することになります。   そのあと、義時は頼家の子・公暁を洗脳しはじめます。結果、公暁はこう考えるようになります。「私の兄(一幡)も父(頼家)も祖父(比企能員)も、死んだのはみんな実朝のせいだ」言うまでもなく、全ての暗殺を企てたのは北条氏ですが、そんなことは決して口には出さず、実朝が将軍になりたいがためにおまえの家族を殺した、と洗脳したのです。   そう聞かされていた公暁は実朝を憎み、将軍である実朝の暗殺を、1219年に鶴岡八幡宮にて実行してしまいます。公暁はもちろん仇討ちのつもりだったのですが、将軍暗殺はとても重い罪です。公暁は討伐されてしまうことになります。 承久の乱が起こる   そんなこんなで源氏はどんどん減っていき、正統な清和源氏は滅んでしまうことになります。そこで、そのあとの将軍として、藤原(九条)頼経を引き入れます。彼は頼朝の遠い親戚でした。   しかし、後鳥羽上皇がこれに反対をします。1192年に源頼朝が征夷大将軍に任命されていますが、任せたのは当時の後鳥羽天皇です。正統でない九条家が征夷大将軍になることは許されない。将軍は正統な源氏がなることのみ許されている」ということになってしまい、義時を討つように命令が出されて、承久の乱が1221年に勃発することになります。     しかし、戦いを仕掛けたはずの後鳥羽上皇側はこれに敗戦し、幕府側が圧勝します。後鳥羽上皇は隠岐に島流しにされてしまいます。華やかに栄えていた平氏の経済的な基礎は、五百箇所にのぼる荘園でした。しかし、承久の乱の後に朝廷側の味方をした貴族や武士から、幕府は三千箇所もの荘園を奪いました。   そこに新しい地頭(新補地頭)を置いて、御家人にも荘園を分け与え、もっともっと勢力を大きくしていきます。さらに幕府は、北条氏をトップとして、朝廷の監視と市中の警備、御家人の管理をするようになります。具体的には、朝廷の直接の支配下である京に、いままでの京都守護のかわりに六波羅探題を設置しました。
義時はだれを洗脳しはじめましたか。
義時は頼家の子・公暁を洗脳しはじめます。
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歴史
北条時政のあとに執権に就いたのは、その子の義時でした。比企能員の乱の10年後、1213年の和田合戦で、義時はその頃侍所のトップを担っていた和田義盛を倒します。その結果、義時は政所別当のほかに、侍所の別当にも就任することになります。   そのあと、義時は頼家の子・公暁を洗脳しはじめます。結果、公暁はこう考えるようになります。「私の兄(一幡)も父(頼家)も祖父(比企能員)も、死んだのはみんな実朝のせいだ」言うまでもなく、全ての暗殺を企てたのは北条氏ですが、そんなことは決して口には出さず、実朝が将軍になりたいがためにおまえの家族を殺した、と洗脳したのです。   そう聞かされていた公暁は実朝を憎み、将軍である実朝の暗殺を、1219年に鶴岡八幡宮にて実行してしまいます。公暁はもちろん仇討ちのつもりだったのですが、将軍暗殺はとても重い罪です。公暁は討伐されてしまうことになります。 承久の乱が起こる   そんなこんなで源氏はどんどん減っていき、正統な清和源氏は滅んでしまうことになります。そこで、そのあとの将軍として、藤原(九条)頼経を引き入れます。彼は頼朝の遠い親戚でした。   しかし、後鳥羽上皇がこれに反対をします。1192年に源頼朝が征夷大将軍に任命されていますが、任せたのは当時の後鳥羽天皇です。正統でない九条家が征夷大将軍になることは許されない。将軍は正統な源氏がなることのみ許されている」ということになってしまい、義時を討つように命令が出されて、承久の乱が1221年に勃発することになります。     しかし、戦いを仕掛けたはずの後鳥羽上皇側はこれに敗戦し、幕府側が圧勝します。後鳥羽上皇は隠岐に島流しにされてしまいます。華やかに栄えていた平氏の経済的な基礎は、五百箇所にのぼる荘園でした。しかし、承久の乱の後に朝廷側の味方をした貴族や武士から、幕府は三千箇所もの荘園を奪いました。   そこに新しい地頭(新補地頭)を置いて、御家人にも荘園を分け与え、もっともっと勢力を大きくしていきます。さらに幕府は、北条氏をトップとして、朝廷の監視と市中の警備、御家人の管理をするようになります。具体的には、朝廷の直接の支配下である京に、いままでの京都守護のかわりに六波羅探題を設置しました。
後鳥羽上皇はどこに島流しにされましたか。
後鳥羽上皇は隠岐に島流しにされてしまいます。
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歴史
北条義時の次に執権に就任したのは泰時です。1224年のことで、彼は三代目でした。その翌年の1225年に、初代別当である大江広元と北条政子がこの世を去りました。幕府での人間関係の基本は、まず将軍・源頼朝という主人がいて、その配下である御家人が周りをかためている、という構図でした。   頼朝と御家人が主従関係を保てているのは、主人が御恩を与えるかわりに、家来たちは奉公するというように、お互いに助け合っていたからうまくいったのです。将軍が家来に与える御恩とは、本領安堵と新恩給与があり、前者はもともと御家人が持っていた土地の支配権を将軍が守りますよ、というもので、後者は新しく土地を分け与えますよ、という意味です。   それに対して、御家人側からの奉公とは、戦争が起こった時には命をかけて将軍のために戦うこと(軍役)、戦いのない平和な時は、京都大番役、鎌倉番役などをつとめることで果たされていました。   こういった持ちつ持たれつな関係があって、源頼朝が生きていたときは、御家人たちは頼朝のいうことを聞いてくれましたが、頼朝が死んでしまってからは、大江広元や頼朝の妻の北条政子が「頼朝ならこんなときはこうしていたはず」と、御家人たちをなだめていました。   しかし、その二人がほぼ同時にこの世を去ってしまったので、御家人たちに命令を下せる司令官のような人がいなくなってしまったのです。これはその代わりになるものをつくらなければならない、ということで、1225年に執権をサポートする役として、連署を設置します。その名の通り「執権と連名で署名する人」のことを指します。   執権が北条泰時のときに、補佐役の連署に任命されたのが、泰時の弟である時房でした。得宗とは、北条義時の直系の家系のことをいいますが、連署は得宗家以外の人から選ばれていました。     また、同じ年に、合議機関である評定衆を設置します。以前の十三人の合議制のときは、カリスマ性のない人物が将軍で、その下の十三人が立場的に並列だったので、その中で主導権をめぐって争いが起きていました。   今回は執権というトップがいて、さらにその補佐役の連署がおり、そのもとで評定衆が合議するというやり方です。これは勘違いする人が多いのですが、執権政治というのは、執権が政務をとることではなく、執権・連署・評定衆の三者によって合議し、政治をしていく体制のことなので、間違えないようにしてください。   この体制の利点ですが、三者によって合議していたからこそ、ほかの御家人がないがしろにされることなく、自分の意見を言う場が設けられていたので、それによって不満がたまることなく楽にまわせていけたのかもしれません。     それだけでなく、泰時がおこなった政策のなかでも最も重要なものとして、1232年の御成敗式目の制定があります。その年号をとって、貞永式目ともよばれます。これは日本ではじめてできた武家法で、御家人だけに適用される法律です。どういったものかというと、武家社会の道理(道徳)と先例(慣習)で、特に大事なものは先例でした。   先例とは、「頼朝だったらどうしていたか」というものが集められた法令集で、つまり頼朝がやってきたことを基本にして、それを法令にしたものです。現代の会社は三代目で倒産することが多いようですが、北条ファミリーは違いました。   十三人の合議制でトップになったのが初代の時政。和田義盛を殺し、実朝を倒し、承久の乱に勝利して「執権政治の体制」をつくったのが二代目の義時。それを誰がやってもできる身近なシステムとして確立させていったのが、三代目の泰時でした。
執権が北条泰時のときに、補佐役の連署に任命されたのはだれですか。
執権が北条泰時のときに、補佐役の連署に任命されたのが、泰時の弟である時房でした。
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歴史
北条義時の次に執権に就任したのは泰時です。1224年のことで、彼は三代目でした。その翌年の1225年に、初代別当である大江広元と北条政子がこの世を去りました。幕府での人間関係の基本は、まず将軍・源頼朝という主人がいて、その配下である御家人が周りをかためている、という構図でした。   頼朝と御家人が主従関係を保てているのは、主人が御恩を与えるかわりに、家来たちは奉公するというように、お互いに助け合っていたからうまくいったのです。将軍が家来に与える御恩とは、本領安堵と新恩給与があり、前者はもともと御家人が持っていた土地の支配権を将軍が守りますよ、というもので、後者は新しく土地を分け与えますよ、という意味です。   それに対して、御家人側からの奉公とは、戦争が起こった時には命をかけて将軍のために戦うこと(軍役)、戦いのない平和な時は、京都大番役、鎌倉番役などをつとめることで果たされていました。   こういった持ちつ持たれつな関係があって、源頼朝が生きていたときは、御家人たちは頼朝のいうことを聞いてくれましたが、頼朝が死んでしまってからは、大江広元や頼朝の妻の北条政子が「頼朝ならこんなときはこうしていたはず」と、御家人たちをなだめていました。   しかし、その二人がほぼ同時にこの世を去ってしまったので、御家人たちに命令を下せる司令官のような人がいなくなってしまったのです。これはその代わりになるものをつくらなければならない、ということで、1225年に執権をサポートする役として、連署を設置します。その名の通り「執権と連名で署名する人」のことを指します。   執権が北条泰時のときに、補佐役の連署に任命されたのが、泰時の弟である時房でした。得宗とは、北条義時の直系の家系のことをいいますが、連署は得宗家以外の人から選ばれていました。     また、同じ年に、合議機関である評定衆を設置します。以前の十三人の合議制のときは、カリスマ性のない人物が将軍で、その下の十三人が立場的に並列だったので、その中で主導権をめぐって争いが起きていました。   今回は執権というトップがいて、さらにその補佐役の連署がおり、そのもとで評定衆が合議するというやり方です。これは勘違いする人が多いのですが、執権政治というのは、執権が政務をとることではなく、執権・連署・評定衆の三者によって合議し、政治をしていく体制のことなので、間違えないようにしてください。   この体制の利点ですが、三者によって合議していたからこそ、ほかの御家人がないがしろにされることなく、自分の意見を言う場が設けられていたので、それによって不満がたまることなく楽にまわせていけたのかもしれません。     それだけでなく、泰時がおこなった政策のなかでも最も重要なものとして、1232年の御成敗式目の制定があります。その年号をとって、貞永式目ともよばれます。これは日本ではじめてできた武家法で、御家人だけに適用される法律です。どういったものかというと、武家社会の道理(道徳)と先例(慣習)で、特に大事なものは先例でした。   先例とは、「頼朝だったらどうしていたか」というものが集められた法令集で、つまり頼朝がやってきたことを基本にして、それを法令にしたものです。現代の会社は三代目で倒産することが多いようですが、北条ファミリーは違いました。   十三人の合議制でトップになったのが初代の時政。和田義盛を殺し、実朝を倒し、承久の乱に勝利して「執権政治の体制」をつくったのが二代目の義時。それを誰がやってもできる身近なシステムとして確立させていったのが、三代目の泰時でした。
将軍が家来に与える御恩とはどのような意味ですか。
将軍が家来に与える御恩とは、本領安堵と新恩給与があり、前者はもともと御家人が持っていた土地の支配権を将軍が守りますよ、というもので、後者は新しく土地を分け与えますよ、という意味です。
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北条義時の次に執権に就任したのは泰時です。1224年のことで、彼は三代目でした。その翌年の1225年に、初代別当である大江広元と北条政子がこの世を去りました。幕府での人間関係の基本は、まず将軍・源頼朝という主人がいて、その配下である御家人が周りをかためている、という構図でした。   頼朝と御家人が主従関係を保てているのは、主人が御恩を与えるかわりに、家来たちは奉公するというように、お互いに助け合っていたからうまくいったのです。将軍が家来に与える御恩とは、本領安堵と新恩給与があり、前者はもともと御家人が持っていた土地の支配権を将軍が守りますよ、というもので、後者は新しく土地を分け与えますよ、という意味です。   それに対して、御家人側からの奉公とは、戦争が起こった時には命をかけて将軍のために戦うこと(軍役)、戦いのない平和な時は、京都大番役、鎌倉番役などをつとめることで果たされていました。   こういった持ちつ持たれつな関係があって、源頼朝が生きていたときは、御家人たちは頼朝のいうことを聞いてくれましたが、頼朝が死んでしまってからは、大江広元や頼朝の妻の北条政子が「頼朝ならこんなときはこうしていたはず」と、御家人たちをなだめていました。   しかし、その二人がほぼ同時にこの世を去ってしまったので、御家人たちに命令を下せる司令官のような人がいなくなってしまったのです。これはその代わりになるものをつくらなければならない、ということで、1225年に執権をサポートする役として、連署を設置します。その名の通り「執権と連名で署名する人」のことを指します。   執権が北条泰時のときに、補佐役の連署に任命されたのが、泰時の弟である時房でした。得宗とは、北条義時の直系の家系のことをいいますが、連署は得宗家以外の人から選ばれていました。     また、同じ年に、合議機関である評定衆を設置します。以前の十三人の合議制のときは、カリスマ性のない人物が将軍で、その下の十三人が立場的に並列だったので、その中で主導権をめぐって争いが起きていました。   今回は執権というトップがいて、さらにその補佐役の連署がおり、そのもとで評定衆が合議するというやり方です。これは勘違いする人が多いのですが、執権政治というのは、執権が政務をとることではなく、執権・連署・評定衆の三者によって合議し、政治をしていく体制のことなので、間違えないようにしてください。   この体制の利点ですが、三者によって合議していたからこそ、ほかの御家人がないがしろにされることなく、自分の意見を言う場が設けられていたので、それによって不満がたまることなく楽にまわせていけたのかもしれません。     それだけでなく、泰時がおこなった政策のなかでも最も重要なものとして、1232年の御成敗式目の制定があります。その年号をとって、貞永式目ともよばれます。これは日本ではじめてできた武家法で、御家人だけに適用される法律です。どういったものかというと、武家社会の道理(道徳)と先例(慣習)で、特に大事なものは先例でした。   先例とは、「頼朝だったらどうしていたか」というものが集められた法令集で、つまり頼朝がやってきたことを基本にして、それを法令にしたものです。現代の会社は三代目で倒産することが多いようですが、北条ファミリーは違いました。   十三人の合議制でトップになったのが初代の時政。和田義盛を殺し、実朝を倒し、承久の乱に勝利して「執権政治の体制」をつくったのが二代目の義時。それを誰がやってもできる身近なシステムとして確立させていったのが、三代目の泰時でした。
初代別当である大江広元と北条政子がこの世を去ったのはいつですか。
1225年に、初代別当である大江広元と北条政子がこの世を去りました。
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歴史
第八代執権である北条時宗の時代に、ある重大な事件が勃発します。それが、蒙古襲来(元寇)だったのですが、その対応に時宗は悩まされ続けることになります。12世紀末から13世紀はじめに日本では鎌倉幕府ができていますが、それと同じ頃に、中国大陸では、モンゴル帝国がチンギス・ハーンによって成立しました。その孫であるフビライ・ハーンは、元を1217年に建国することとなります。   中国の古くからある中華思想(自己を文化の中心の「中華」とする考え方)を大切にしてきたフビライは、その発想にもとづいて、まわりの人たちに服属を求めるようになります。例をあげると、朝鮮半島の高麗、吐蕃(チベット)、越南(ベトナム)などに服属を要求しました。そして、高麗や吐蕃がそれに従ったあと、日本に対しても元は服属しろと要求してきたのです。 文永の役とは?   元から突きつけられた服属要求ですが、このときの執権であった北条時宗はどのように応えたのでしょうか。なんと、使者の首だけお帰りいただくという、なんとも強固な姿勢でのぞんだのです。時宗は使者の首をはねて、従者に持ち帰らせ、「日本は絶対に服属しない」と返答しました。   当然、このあと、元に攻められる可能性は非常に高いということで、異国警固を九州の博多湾沿岸の御家人に命じて、攻撃に対しての準備をととのえました(これはのちに異国警固番役となります)。   元は前触れも無く、いきなり攻め込んできたわけではなく、使者をたてて服属しろといってきたわけなのですが、それを強硬手段で断ったため、それに対する制裁として進攻してきました。これが1274年の文永の役で、一度目の襲来です。   一騎打ちというのが、その頃の日本の合戦の基本的なスタイルでした。一概に一騎打ちといってもいろいろありますが、代表的なものは、争う相手が出てきたら、まずはお互い自己紹介をして、そこから戦闘に入っていました。   のどかだと思われるかもしれませんが、でないと、自分が争った相手がどれくらいの格の者かわからないので、せっかく討ち取ってもあとで恩賞がもらえなかったのです。蒙古に攻め入られたときも、これと同じスタイルで「やあやあ、われこそは・・・・」と日本人は馬に乗ったまま戦う相手の前でやってしまったのですが、相手は当然待ってなどくれません。名乗る前にいきなり攻撃されてしまったので、「おいおい、これはちょっと様子が違うぞ」ということで、非常に焦ります。   モンゴルは火薬を用いた武器も使用していて、弓も持ってはいましたが、基本的に集団戦法でした。その頃の資料に「てつほう」とありますが、これは鉄砲とはちがい、敵を混乱させるために、火薬の入った容器を爆発させて、音と煙を出す武器だといわれています。武器も違っていたし、戦法もまったく異なるものだったので、最初は四苦八苦しました。   結局、博多に上陸されてしまい、大ピンチを迎えるわけですが、この時暴風雨が起こって元軍はそれ以上すすめなくなり、間一髪、幕府軍は元軍を撃退することができました。そのころ偶然にも台風の季節だったというのもありますが、モンゴル人は騎馬民族なので、船で戦う方法を知らなかったのです。文永の役のときは、部下の高麗軍に船の操縦を任せていたのですが、高麗の軍勢はあくまでも元の命令で動いていたため、大してやる気でもなかったのです。   いろいろな幸運が重なって、文永の役では何とかなりますが、そのあとまた攻め入られて上陸されても困るので、石塁という石の塀を博多湾の沿岸につくりました。
フビライ・ハーンは、いつ元を建国しますか。
フビライ・ハーンは、元を1217年に建国することとなります。
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歴史
第八代執権である北条時宗の時代に、ある重大な事件が勃発します。それが、蒙古襲来(元寇)だったのですが、その対応に時宗は悩まされ続けることになります。12世紀末から13世紀はじめに日本では鎌倉幕府ができていますが、それと同じ頃に、中国大陸では、モンゴル帝国がチンギス・ハーンによって成立しました。その孫であるフビライ・ハーンは、元を1217年に建国することとなります。   中国の古くからある中華思想(自己を文化の中心の「中華」とする考え方)を大切にしてきたフビライは、その発想にもとづいて、まわりの人たちに服属を求めるようになります。例をあげると、朝鮮半島の高麗、吐蕃(チベット)、越南(ベトナム)などに服属を要求しました。そして、高麗や吐蕃がそれに従ったあと、日本に対しても元は服属しろと要求してきたのです。 文永の役とは?   元から突きつけられた服属要求ですが、このときの執権であった北条時宗はどのように応えたのでしょうか。なんと、使者の首だけお帰りいただくという、なんとも強固な姿勢でのぞんだのです。時宗は使者の首をはねて、従者に持ち帰らせ、「日本は絶対に服属しない」と返答しました。   当然、このあと、元に攻められる可能性は非常に高いということで、異国警固を九州の博多湾沿岸の御家人に命じて、攻撃に対しての準備をととのえました(これはのちに異国警固番役となります)。   元は前触れも無く、いきなり攻め込んできたわけではなく、使者をたてて服属しろといってきたわけなのですが、それを強硬手段で断ったため、それに対する制裁として進攻してきました。これが1274年の文永の役で、一度目の襲来です。   一騎打ちというのが、その頃の日本の合戦の基本的なスタイルでした。一概に一騎打ちといってもいろいろありますが、代表的なものは、争う相手が出てきたら、まずはお互い自己紹介をして、そこから戦闘に入っていました。   のどかだと思われるかもしれませんが、でないと、自分が争った相手がどれくらいの格の者かわからないので、せっかく討ち取ってもあとで恩賞がもらえなかったのです。蒙古に攻め入られたときも、これと同じスタイルで「やあやあ、われこそは・・・・」と日本人は馬に乗ったまま戦う相手の前でやってしまったのですが、相手は当然待ってなどくれません。名乗る前にいきなり攻撃されてしまったので、「おいおい、これはちょっと様子が違うぞ」ということで、非常に焦ります。   モンゴルは火薬を用いた武器も使用していて、弓も持ってはいましたが、基本的に集団戦法でした。その頃の資料に「てつほう」とありますが、これは鉄砲とはちがい、敵を混乱させるために、火薬の入った容器を爆発させて、音と煙を出す武器だといわれています。武器も違っていたし、戦法もまったく異なるものだったので、最初は四苦八苦しました。   結局、博多に上陸されてしまい、大ピンチを迎えるわけですが、この時暴風雨が起こって元軍はそれ以上すすめなくなり、間一髪、幕府軍は元軍を撃退することができました。そのころ偶然にも台風の季節だったというのもありますが、モンゴル人は騎馬民族なので、船で戦う方法を知らなかったのです。文永の役のときは、部下の高麗軍に船の操縦を任せていたのですが、高麗の軍勢はあくまでも元の命令で動いていたため、大してやる気でもなかったのです。   いろいろな幸運が重なって、文永の役では何とかなりますが、そのあとまた攻め入られて上陸されても困るので、石塁という石の塀を博多湾の沿岸につくりました。
その頃の日本の合戦の基本的なスタイルはどのようなものでしたか。
一騎打ちというのが、その頃の日本の合戦の基本的なスタイルでした。
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歴史
第八代執権である北条時宗の時代に、ある重大な事件が勃発します。それが、蒙古襲来(元寇)だったのですが、その対応に時宗は悩まされ続けることになります。12世紀末から13世紀はじめに日本では鎌倉幕府ができていますが、それと同じ頃に、中国大陸では、モンゴル帝国がチンギス・ハーンによって成立しました。その孫であるフビライ・ハーンは、元を1217年に建国することとなります。   中国の古くからある中華思想(自己を文化の中心の「中華」とする考え方)を大切にしてきたフビライは、その発想にもとづいて、まわりの人たちに服属を求めるようになります。例をあげると、朝鮮半島の高麗、吐蕃(チベット)、越南(ベトナム)などに服属を要求しました。そして、高麗や吐蕃がそれに従ったあと、日本に対しても元は服属しろと要求してきたのです。 文永の役とは?   元から突きつけられた服属要求ですが、このときの執権であった北条時宗はどのように応えたのでしょうか。なんと、使者の首だけお帰りいただくという、なんとも強固な姿勢でのぞんだのです。時宗は使者の首をはねて、従者に持ち帰らせ、「日本は絶対に服属しない」と返答しました。   当然、このあと、元に攻められる可能性は非常に高いということで、異国警固を九州の博多湾沿岸の御家人に命じて、攻撃に対しての準備をととのえました(これはのちに異国警固番役となります)。   元は前触れも無く、いきなり攻め込んできたわけではなく、使者をたてて服属しろといってきたわけなのですが、それを強硬手段で断ったため、それに対する制裁として進攻してきました。これが1274年の文永の役で、一度目の襲来です。   一騎打ちというのが、その頃の日本の合戦の基本的なスタイルでした。一概に一騎打ちといってもいろいろありますが、代表的なものは、争う相手が出てきたら、まずはお互い自己紹介をして、そこから戦闘に入っていました。   のどかだと思われるかもしれませんが、でないと、自分が争った相手がどれくらいの格の者かわからないので、せっかく討ち取ってもあとで恩賞がもらえなかったのです。蒙古に攻め入られたときも、これと同じスタイルで「やあやあ、われこそは・・・・」と日本人は馬に乗ったまま戦う相手の前でやってしまったのですが、相手は当然待ってなどくれません。名乗る前にいきなり攻撃されてしまったので、「おいおい、これはちょっと様子が違うぞ」ということで、非常に焦ります。   モンゴルは火薬を用いた武器も使用していて、弓も持ってはいましたが、基本的に集団戦法でした。その頃の資料に「てつほう」とありますが、これは鉄砲とはちがい、敵を混乱させるために、火薬の入った容器を爆発させて、音と煙を出す武器だといわれています。武器も違っていたし、戦法もまったく異なるものだったので、最初は四苦八苦しました。   結局、博多に上陸されてしまい、大ピンチを迎えるわけですが、この時暴風雨が起こって元軍はそれ以上すすめなくなり、間一髪、幕府軍は元軍を撃退することができました。そのころ偶然にも台風の季節だったというのもありますが、モンゴル人は騎馬民族なので、船で戦う方法を知らなかったのです。文永の役のときは、部下の高麗軍に船の操縦を任せていたのですが、高麗の軍勢はあくまでも元の命令で動いていたため、大してやる気でもなかったのです。   いろいろな幸運が重なって、文永の役では何とかなりますが、そのあとまた攻め入られて上陸されても困るので、石塁という石の塀を博多湾の沿岸につくりました。
モンゴルの基本的な戦法はどのようなものでしたか。
モンゴルは火薬を用いた武器も使用していて、弓も持ってはいましたが、基本的に集団戦法でした。
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歴史
第八代執権である北条時宗の時代に、ある重大な事件が勃発します。それが、蒙古襲来(元寇)だったのですが、その対応に時宗は悩まされ続けることになります。12世紀末から13世紀はじめに日本では鎌倉幕府ができていますが、それと同じ頃に、中国大陸では、モンゴル帝国がチンギス・ハーンによって成立しました。その孫であるフビライ・ハーンは、元を1217年に建国することとなります。   中国の古くからある中華思想(自己を文化の中心の「中華」とする考え方)を大切にしてきたフビライは、その発想にもとづいて、まわりの人たちに服属を求めるようになります。例をあげると、朝鮮半島の高麗、吐蕃(チベット)、越南(ベトナム)などに服属を要求しました。そして、高麗や吐蕃がそれに従ったあと、日本に対しても元は服属しろと要求してきたのです。 文永の役とは?   元から突きつけられた服属要求ですが、このときの執権であった北条時宗はどのように応えたのでしょうか。なんと、使者の首だけお帰りいただくという、なんとも強固な姿勢でのぞんだのです。時宗は使者の首をはねて、従者に持ち帰らせ、「日本は絶対に服属しない」と返答しました。   当然、このあと、元に攻められる可能性は非常に高いということで、異国警固を九州の博多湾沿岸の御家人に命じて、攻撃に対しての準備をととのえました(これはのちに異国警固番役となります)。   元は前触れも無く、いきなり攻め込んできたわけではなく、使者をたてて服属しろといってきたわけなのですが、それを強硬手段で断ったため、それに対する制裁として進攻してきました。これが1274年の文永の役で、一度目の襲来です。   一騎打ちというのが、その頃の日本の合戦の基本的なスタイルでした。一概に一騎打ちといってもいろいろありますが、代表的なものは、争う相手が出てきたら、まずはお互い自己紹介をして、そこから戦闘に入っていました。   のどかだと思われるかもしれませんが、でないと、自分が争った相手がどれくらいの格の者かわからないので、せっかく討ち取ってもあとで恩賞がもらえなかったのです。蒙古に攻め入られたときも、これと同じスタイルで「やあやあ、われこそは・・・・」と日本人は馬に乗ったまま戦う相手の前でやってしまったのですが、相手は当然待ってなどくれません。名乗る前にいきなり攻撃されてしまったので、「おいおい、これはちょっと様子が違うぞ」ということで、非常に焦ります。   モンゴルは火薬を用いた武器も使用していて、弓も持ってはいましたが、基本的に集団戦法でした。その頃の資料に「てつほう」とありますが、これは鉄砲とはちがい、敵を混乱させるために、火薬の入った容器を爆発させて、音と煙を出す武器だといわれています。武器も違っていたし、戦法もまったく異なるものだったので、最初は四苦八苦しました。   結局、博多に上陸されてしまい、大ピンチを迎えるわけですが、この時暴風雨が起こって元軍はそれ以上すすめなくなり、間一髪、幕府軍は元軍を撃退することができました。そのころ偶然にも台風の季節だったというのもありますが、モンゴル人は騎馬民族なので、船で戦う方法を知らなかったのです。文永の役のときは、部下の高麗軍に船の操縦を任せていたのですが、高麗の軍勢はあくまでも元の命令で動いていたため、大してやる気でもなかったのです。   いろいろな幸運が重なって、文永の役では何とかなりますが、そのあとまた攻め入られて上陸されても困るので、石塁という石の塀を博多湾の沿岸につくりました。
博多湾の沿岸につくったものはなにですか。
石塁という石の塀を博多湾の沿岸につくりました。
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歴史
蒙古は一度のみならず、そのあともまた襲来してきますが、今度はまた様子が違いました。中国の南宋が1279年に滅亡します。元をモンゴル民族が建国すると、宋は南へ追いやられ、そのうち滅びてしまい、元の領土の一部に組み込まれます。その2年後である1281年に弘安の役が勃発しますが、これが二度目の元寇です。   一度目の襲来のときは、朝鮮半島側の東路軍のみでした。しかし、二度目は大陸からの江南軍も押し寄せてきて、二手に分かれて博多湾を襲いました。さらに、敵の数は一回目を大きく上回っていて、十万人くらいだったといわれています。   しかし、また同じ結果を迎えてしまいます。いくら数を増やしたところで、モンゴル軍側に航海術がないことに変わりはないですし、二度目も同じく台風に遭って失敗してしまいます。こうなると、「神風」といわれてもおかしくありません。   元は諦めることなく三度目の元寇を企てていたようですが、帝国自体も弱くなりつつあって、それ以上攻めてくることはなくなりました。   窮乏する御家人たち   蒙古軍の撃退には成功しましたが、国内事情のほうに元寇は大きな影響を与えました。時宗の次代である第九代執権・北条貞時の頃になると、目立ってきたのは御家人の窮乏化でした。前にも書いたように、御家人と幕府の関係は、御恩と奉公で成り立っています。とても分かりやすいシステムで、努力すればそれだけご褒美がもらえていました。   しかも、江戸時代とは異なり、御家人は給料をもらっていたわけではありません。武器なども全部自分で買ってそろえて、それで戦い、名を上げることでご褒美をもらい、生活を立てていました。ご褒美がもらえない人たちは、自然と消えていったのです。   そこで、元寇は久しぶりに手柄を立てるチャンスだとばかりに、家などを売り払ってまで準備をして戦いにのぞむ御家人もいました。しかし、勝ったはずなのに、なにも見返りはなかったのです。なぜかというと、勝手に来たものを追い払っただけなので、何も得ていないからです。     日本軍の被害という被害も特になく、国内の戦いで今まであったように、滅んだ人たちの土地を分け与えることもできません。どこにも被害がないので、何もあげられないのです。「蒙古襲来絵詞」という有名な絵巻物があります。戦いの様子が鮮明に描かれていて、同じ時代の作品なので史料的にも価値があるものなのですが、これは本当は「自分はこれだけ働いたのだ」ということを言いたいがために、竹崎季長という肥後の御家人が、画家に頼んで描かせたものだったのです。   「これだけの成果をあげたので、それに見合うご褒美をください」と文章でアピールしたり、偉い人のところへ行って言葉で必死に伝えた御家人もいました。アピールがうまければご褒美の量や質に差が出る時代だったので、こうした絵も残されているのでしょう。     しかし、前述した理由によって、どれだけ必死にアピールしても何も恩賞はもらえません。もらえたとしても微々たるものなので、生活が苦しくなって当然です。その頃の御家人たちは、土地の相続に分割相続を適用していて、父親が亡くなったとき、その遺産を庶子(相続人以外の子ども)を入れた子ども全員で分けて相続するという方法だったので、一人ずつの取り分はとても少ないものでした。   つまり、がんばって奉公してご褒美をもらっていかなければ、貧乏になっていくばかりだったのです。
中国の南宋はいつ滅亡しますか。
中国の南宋が1279年に滅亡します。
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歴史
蒙古は一度のみならず、そのあともまた襲来してきますが、今度はまた様子が違いました。中国の南宋が1279年に滅亡します。元をモンゴル民族が建国すると、宋は南へ追いやられ、そのうち滅びてしまい、元の領土の一部に組み込まれます。その2年後である1281年に弘安の役が勃発しますが、これが二度目の元寇です。   一度目の襲来のときは、朝鮮半島側の東路軍のみでした。しかし、二度目は大陸からの江南軍も押し寄せてきて、二手に分かれて博多湾を襲いました。さらに、敵の数は一回目を大きく上回っていて、十万人くらいだったといわれています。   しかし、また同じ結果を迎えてしまいます。いくら数を増やしたところで、モンゴル軍側に航海術がないことに変わりはないですし、二度目も同じく台風に遭って失敗してしまいます。こうなると、「神風」といわれてもおかしくありません。   元は諦めることなく三度目の元寇を企てていたようですが、帝国自体も弱くなりつつあって、それ以上攻めてくることはなくなりました。   窮乏する御家人たち   蒙古軍の撃退には成功しましたが、国内事情のほうに元寇は大きな影響を与えました。時宗の次代である第九代執権・北条貞時の頃になると、目立ってきたのは御家人の窮乏化でした。前にも書いたように、御家人と幕府の関係は、御恩と奉公で成り立っています。とても分かりやすいシステムで、努力すればそれだけご褒美がもらえていました。   しかも、江戸時代とは異なり、御家人は給料をもらっていたわけではありません。武器なども全部自分で買ってそろえて、それで戦い、名を上げることでご褒美をもらい、生活を立てていました。ご褒美がもらえない人たちは、自然と消えていったのです。   そこで、元寇は久しぶりに手柄を立てるチャンスだとばかりに、家などを売り払ってまで準備をして戦いにのぞむ御家人もいました。しかし、勝ったはずなのに、なにも見返りはなかったのです。なぜかというと、勝手に来たものを追い払っただけなので、何も得ていないからです。     日本軍の被害という被害も特になく、国内の戦いで今まであったように、滅んだ人たちの土地を分け与えることもできません。どこにも被害がないので、何もあげられないのです。「蒙古襲来絵詞」という有名な絵巻物があります。戦いの様子が鮮明に描かれていて、同じ時代の作品なので史料的にも価値があるものなのですが、これは本当は「自分はこれだけ働いたのだ」ということを言いたいがために、竹崎季長という肥後の御家人が、画家に頼んで描かせたものだったのです。   「これだけの成果をあげたので、それに見合うご褒美をください」と文章でアピールしたり、偉い人のところへ行って言葉で必死に伝えた御家人もいました。アピールがうまければご褒美の量や質に差が出る時代だったので、こうした絵も残されているのでしょう。     しかし、前述した理由によって、どれだけ必死にアピールしても何も恩賞はもらえません。もらえたとしても微々たるものなので、生活が苦しくなって当然です。その頃の御家人たちは、土地の相続に分割相続を適用していて、父親が亡くなったとき、その遺産を庶子(相続人以外の子ども)を入れた子ども全員で分けて相続するという方法だったので、一人ずつの取り分はとても少ないものでした。   つまり、がんばって奉公してご褒美をもらっていかなければ、貧乏になっていくばかりだったのです。
二度目の襲来の時の敵の人数はどれくらいだったといわれていますか。
敵の数は一回目を大きく上回っていて、十万人くらいだったといわれています。
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歴史
蒙古は一度のみならず、そのあともまた襲来してきますが、今度はまた様子が違いました。中国の南宋が1279年に滅亡します。元をモンゴル民族が建国すると、宋は南へ追いやられ、そのうち滅びてしまい、元の領土の一部に組み込まれます。その2年後である1281年に弘安の役が勃発しますが、これが二度目の元寇です。   一度目の襲来のときは、朝鮮半島側の東路軍のみでした。しかし、二度目は大陸からの江南軍も押し寄せてきて、二手に分かれて博多湾を襲いました。さらに、敵の数は一回目を大きく上回っていて、十万人くらいだったといわれています。   しかし、また同じ結果を迎えてしまいます。いくら数を増やしたところで、モンゴル軍側に航海術がないことに変わりはないですし、二度目も同じく台風に遭って失敗してしまいます。こうなると、「神風」といわれてもおかしくありません。   元は諦めることなく三度目の元寇を企てていたようですが、帝国自体も弱くなりつつあって、それ以上攻めてくることはなくなりました。   窮乏する御家人たち   蒙古軍の撃退には成功しましたが、国内事情のほうに元寇は大きな影響を与えました。時宗の次代である第九代執権・北条貞時の頃になると、目立ってきたのは御家人の窮乏化でした。前にも書いたように、御家人と幕府の関係は、御恩と奉公で成り立っています。とても分かりやすいシステムで、努力すればそれだけご褒美がもらえていました。   しかも、江戸時代とは異なり、御家人は給料をもらっていたわけではありません。武器なども全部自分で買ってそろえて、それで戦い、名を上げることでご褒美をもらい、生活を立てていました。ご褒美がもらえない人たちは、自然と消えていったのです。   そこで、元寇は久しぶりに手柄を立てるチャンスだとばかりに、家などを売り払ってまで準備をして戦いにのぞむ御家人もいました。しかし、勝ったはずなのに、なにも見返りはなかったのです。なぜかというと、勝手に来たものを追い払っただけなので、何も得ていないからです。     日本軍の被害という被害も特になく、国内の戦いで今まであったように、滅んだ人たちの土地を分け与えることもできません。どこにも被害がないので、何もあげられないのです。「蒙古襲来絵詞」という有名な絵巻物があります。戦いの様子が鮮明に描かれていて、同じ時代の作品なので史料的にも価値があるものなのですが、これは本当は「自分はこれだけ働いたのだ」ということを言いたいがために、竹崎季長という肥後の御家人が、画家に頼んで描かせたものだったのです。   「これだけの成果をあげたので、それに見合うご褒美をください」と文章でアピールしたり、偉い人のところへ行って言葉で必死に伝えた御家人もいました。アピールがうまければご褒美の量や質に差が出る時代だったので、こうした絵も残されているのでしょう。     しかし、前述した理由によって、どれだけ必死にアピールしても何も恩賞はもらえません。もらえたとしても微々たるものなので、生活が苦しくなって当然です。その頃の御家人たちは、土地の相続に分割相続を適用していて、父親が亡くなったとき、その遺産を庶子(相続人以外の子ども)を入れた子ども全員で分けて相続するという方法だったので、一人ずつの取り分はとても少ないものでした。   つまり、がんばって奉公してご褒美をもらっていかなければ、貧乏になっていくばかりだったのです。
御家人と幕府の関係は、なにで成り立っていますか。
御家人と幕府の関係は、御恩と奉公で成り立っています。
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歴史
北条氏はますます力をつけ、御家人はどんどん貧しくなっていきました。今まで西日本は鎌倉幕府の影響力はあまり関係ない地域でした。御家人はほぼいませんでしたし、朝廷に服属する武士が主でした。このような人たちのことを非御家人とよびました。   しかし、西国の武士たちも、元寇がきっかけとなって「われらも外敵に対処するために、ある程度は幕府にお願いしておかなければ」という考えを持つようになります。その結果、西のほうにまで北条氏の勢力が伸びていくこととなり、防衛と統治を強めるために、北条一族が任命される役職の鎮西探題が九州に設置されました。   こうして、全国の守護の半分を北条氏が担うこととなりました。ちなみに、国内の御家人・武士たちのまとめ役のことを守護といいます。それだけでなく、例えば元寇のような緊急事態が起きたときには、非御家人も幕府は動かせるようになっていきます。   間違えないでほしいのですが、幕府が全国を支配していたのではありません。あくまでも幕府が支配していたのは御家人のみで、その支配というのも、幕府の言うことを御家人たちが聞いているだけなのです。そもそも国家というくくりの考え方がないので、御家人以外の人たちは、大寺院を頼りにしたり、朝廷に従ったり、さまざまでした。   こうして、元寇がきっかけとなって、北条の力はより強くなり、御家人の力は弱くなる、ということで、大きな差が生まれてバランスが崩れてきます。
今まで西日本は鎌倉幕府の影響力はありましたか。
今まで西日本は鎌倉幕府の影響力はあまり関係ない地域でした。
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歴史
北条氏はますます力をつけ、御家人はどんどん貧しくなっていきました。今まで西日本は鎌倉幕府の影響力はあまり関係ない地域でした。御家人はほぼいませんでしたし、朝廷に服属する武士が主でした。このような人たちのことを非御家人とよびました。   しかし、西国の武士たちも、元寇がきっかけとなって「われらも外敵に対処するために、ある程度は幕府にお願いしておかなければ」という考えを持つようになります。その結果、西のほうにまで北条氏の勢力が伸びていくこととなり、防衛と統治を強めるために、北条一族が任命される役職の鎮西探題が九州に設置されました。   こうして、全国の守護の半分を北条氏が担うこととなりました。ちなみに、国内の御家人・武士たちのまとめ役のことを守護といいます。それだけでなく、例えば元寇のような緊急事態が起きたときには、非御家人も幕府は動かせるようになっていきます。   間違えないでほしいのですが、幕府が全国を支配していたのではありません。あくまでも幕府が支配していたのは御家人のみで、その支配というのも、幕府の言うことを御家人たちが聞いているだけなのです。そもそも国家というくくりの考え方がないので、御家人以外の人たちは、大寺院を頼りにしたり、朝廷に従ったり、さまざまでした。   こうして、元寇がきっかけとなって、北条の力はより強くなり、御家人の力は弱くなる、ということで、大きな差が生まれてバランスが崩れてきます。
西国の武士たちは、元寇がきっかけでどのような考えを持つようになりますか。
西国の武士たちも、元寇がきっかけとなって「われらも外敵に対処するために、ある程度は幕府にお願いしておかなければ」という考えを持つようになります。
JCRRAG_012627
歴史
北条氏はますます力をつけ、御家人はどんどん貧しくなっていきました。今まで西日本は鎌倉幕府の影響力はあまり関係ない地域でした。御家人はほぼいませんでしたし、朝廷に服属する武士が主でした。このような人たちのことを非御家人とよびました。   しかし、西国の武士たちも、元寇がきっかけとなって「われらも外敵に対処するために、ある程度は幕府にお願いしておかなければ」という考えを持つようになります。その結果、西のほうにまで北条氏の勢力が伸びていくこととなり、防衛と統治を強めるために、北条一族が任命される役職の鎮西探題が九州に設置されました。   こうして、全国の守護の半分を北条氏が担うこととなりました。ちなみに、国内の御家人・武士たちのまとめ役のことを守護といいます。それだけでなく、例えば元寇のような緊急事態が起きたときには、非御家人も幕府は動かせるようになっていきます。   間違えないでほしいのですが、幕府が全国を支配していたのではありません。あくまでも幕府が支配していたのは御家人のみで、その支配というのも、幕府の言うことを御家人たちが聞いているだけなのです。そもそも国家というくくりの考え方がないので、御家人以外の人たちは、大寺院を頼りにしたり、朝廷に従ったり、さまざまでした。   こうして、元寇がきっかけとなって、北条の力はより強くなり、御家人の力は弱くなる、ということで、大きな差が生まれてバランスが崩れてきます。
全国の守護の半分をだれが担うことになりましたか。
全国の守護の半分を北条氏が担うこととなりました。
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歴史
北条氏はますます力をつけ、御家人はどんどん貧しくなっていきました。今まで西日本は鎌倉幕府の影響力はあまり関係ない地域でした。御家人はほぼいませんでしたし、朝廷に服属する武士が主でした。このような人たちのことを非御家人とよびました。   しかし、西国の武士たちも、元寇がきっかけとなって「われらも外敵に対処するために、ある程度は幕府にお願いしておかなければ」という考えを持つようになります。その結果、西のほうにまで北条氏の勢力が伸びていくこととなり、防衛と統治を強めるために、北条一族が任命される役職の鎮西探題が九州に設置されました。   こうして、全国の守護の半分を北条氏が担うこととなりました。ちなみに、国内の御家人・武士たちのまとめ役のことを守護といいます。それだけでなく、例えば元寇のような緊急事態が起きたときには、非御家人も幕府は動かせるようになっていきます。   間違えないでほしいのですが、幕府が全国を支配していたのではありません。あくまでも幕府が支配していたのは御家人のみで、その支配というのも、幕府の言うことを御家人たちが聞いているだけなのです。そもそも国家というくくりの考え方がないので、御家人以外の人たちは、大寺院を頼りにしたり、朝廷に従ったり、さまざまでした。   こうして、元寇がきっかけとなって、北条の力はより強くなり、御家人の力は弱くなる、ということで、大きな差が生まれてバランスが崩れてきます。
国内の御家人・武士たちのまとめ役のことをなにといいますか。
国内の御家人・武士たちのまとめ役のことを守護といいます。
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歴史
そもそも鎌倉幕府の中では、執権がずば抜けて強い力を持っているということではありませんでした。というか、有力な御家人と執権の身分差は、それほど変わりませんでした。この中で別格なのは将軍のみ(殿上人といって、内裏の清涼殿に昇殿を許された人のこと)で、執権、連署、評定衆、有力御家人があまり格差のない立場で政務をとってきました。   しかし、元寇がきっかけとなって、北条家、その中でも得宗家の立場がいきなり強くなり、逆に有力御家人の立場ががくっと弱くなってしまったので、そこに大きな差が生まれました。今までの最高意思決定機関は評定衆だったのですが、得宗家の中でおこなわれる寄合がそれに代わるものとなってきたのです。   得宗を補佐するのが内管領で、その下には御内人がいます。得宗と御家人による寄合で幕府の政策が決まりました。内管領と御内人は得宗の配下ですが、御家人より御内人のほうが力をもち、だんだん御家人は政治から遠ざけられるようになり、得宗専制政治がおこなわれるようになりました。   北条が力をもちすぎているので、当然御家人のほうは面白くありません。その反発がついに表面化して戦いに発展したのが1285年で、霜月騒動とよばれました。これは内管領である平頼綱と、有力御家人の安達泰盛の戦いです。得宗家の家来である内管領ですが、得宗から見ても元々は御家人の一人でしかありません。   つまり、安達泰盛は御家人ですので、内管領は自分にとって格下なはずなのに、その内管領が政治を独裁的におこなっているとなれば、それに対して反発したくなっても当たり前です。しかし、結局平頼綱が安達泰盛とその一族を滅ぼしてしまいます。冷徹なようですが、霜月騒動の結果は御家人たちの力の低下を象徴していたともいえます。   幕府側も、窮乏化する御家人達の反発を放っておくわけにはいかず、永仁の徳政令を1297年に出します。20年以内であれば、御家人が他の御家人に売り払った土地でも無条件で取り戻せるというものです。     しかし、何度も借金をチャラにしますよ、というようなことができるはずがありません。また、永仁の徳政令では、金銭が関係する御家人同士の争いには幕府は関与しません、としてしまったので、社会そのものがギスギスしてきます。
有力な御家人と執権の身分差は、ありましたか。
有力な御家人と執権の身分差は、それほど変わりませんでした。
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歴史
そもそも鎌倉幕府の中では、執権がずば抜けて強い力を持っているということではありませんでした。というか、有力な御家人と執権の身分差は、それほど変わりませんでした。この中で別格なのは将軍のみ(殿上人といって、内裏の清涼殿に昇殿を許された人のこと)で、執権、連署、評定衆、有力御家人があまり格差のない立場で政務をとってきました。   しかし、元寇がきっかけとなって、北条家、その中でも得宗家の立場がいきなり強くなり、逆に有力御家人の立場ががくっと弱くなってしまったので、そこに大きな差が生まれました。今までの最高意思決定機関は評定衆だったのですが、得宗家の中でおこなわれる寄合がそれに代わるものとなってきたのです。   得宗を補佐するのが内管領で、その下には御内人がいます。得宗と御家人による寄合で幕府の政策が決まりました。内管領と御内人は得宗の配下ですが、御家人より御内人のほうが力をもち、だんだん御家人は政治から遠ざけられるようになり、得宗専制政治がおこなわれるようになりました。   北条が力をもちすぎているので、当然御家人のほうは面白くありません。その反発がついに表面化して戦いに発展したのが1285年で、霜月騒動とよばれました。これは内管領である平頼綱と、有力御家人の安達泰盛の戦いです。得宗家の家来である内管領ですが、得宗から見ても元々は御家人の一人でしかありません。   つまり、安達泰盛は御家人ですので、内管領は自分にとって格下なはずなのに、その内管領が政治を独裁的におこなっているとなれば、それに対して反発したくなっても当たり前です。しかし、結局平頼綱が安達泰盛とその一族を滅ぼしてしまいます。冷徹なようですが、霜月騒動の結果は御家人たちの力の低下を象徴していたともいえます。   幕府側も、窮乏化する御家人達の反発を放っておくわけにはいかず、永仁の徳政令を1297年に出します。20年以内であれば、御家人が他の御家人に売り払った土地でも無条件で取り戻せるというものです。     しかし、何度も借金をチャラにしますよ、というようなことができるはずがありません。また、永仁の徳政令では、金銭が関係する御家人同士の争いには幕府は関与しません、としてしまったので、社会そのものがギスギスしてきます。
永仁の徳政令をいつ出しますか。
永仁の徳政令を1297年に出します。
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歴史
そもそも鎌倉幕府の中では、執権がずば抜けて強い力を持っているということではありませんでした。というか、有力な御家人と執権の身分差は、それほど変わりませんでした。この中で別格なのは将軍のみ(殿上人といって、内裏の清涼殿に昇殿を許された人のこと)で、執権、連署、評定衆、有力御家人があまり格差のない立場で政務をとってきました。   しかし、元寇がきっかけとなって、北条家、その中でも得宗家の立場がいきなり強くなり、逆に有力御家人の立場ががくっと弱くなってしまったので、そこに大きな差が生まれました。今までの最高意思決定機関は評定衆だったのですが、得宗家の中でおこなわれる寄合がそれに代わるものとなってきたのです。   得宗を補佐するのが内管領で、その下には御内人がいます。得宗と御家人による寄合で幕府の政策が決まりました。内管領と御内人は得宗の配下ですが、御家人より御内人のほうが力をもち、だんだん御家人は政治から遠ざけられるようになり、得宗専制政治がおこなわれるようになりました。   北条が力をもちすぎているので、当然御家人のほうは面白くありません。その反発がついに表面化して戦いに発展したのが1285年で、霜月騒動とよばれました。これは内管領である平頼綱と、有力御家人の安達泰盛の戦いです。得宗家の家来である内管領ですが、得宗から見ても元々は御家人の一人でしかありません。   つまり、安達泰盛は御家人ですので、内管領は自分にとって格下なはずなのに、その内管領が政治を独裁的におこなっているとなれば、それに対して反発したくなっても当たり前です。しかし、結局平頼綱が安達泰盛とその一族を滅ぼしてしまいます。冷徹なようですが、霜月騒動の結果は御家人たちの力の低下を象徴していたともいえます。   幕府側も、窮乏化する御家人達の反発を放っておくわけにはいかず、永仁の徳政令を1297年に出します。20年以内であれば、御家人が他の御家人に売り払った土地でも無条件で取り戻せるというものです。     しかし、何度も借金をチャラにしますよ、というようなことができるはずがありません。また、永仁の徳政令では、金銭が関係する御家人同士の争いには幕府は関与しません、としてしまったので、社会そのものがギスギスしてきます。
永仁の徳政とはどのようなものですか。
20年以内であれば、御家人が他の御家人に売り払った土地でも無条件で取り戻せるというものです。
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歴史
そもそも鎌倉幕府の中では、執権がずば抜けて強い力を持っているということではありませんでした。というか、有力な御家人と執権の身分差は、それほど変わりませんでした。この中で別格なのは将軍のみ(殿上人といって、内裏の清涼殿に昇殿を許された人のこと)で、執権、連署、評定衆、有力御家人があまり格差のない立場で政務をとってきました。   しかし、元寇がきっかけとなって、北条家、その中でも得宗家の立場がいきなり強くなり、逆に有力御家人の立場ががくっと弱くなってしまったので、そこに大きな差が生まれました。今までの最高意思決定機関は評定衆だったのですが、得宗家の中でおこなわれる寄合がそれに代わるものとなってきたのです。   得宗を補佐するのが内管領で、その下には御内人がいます。得宗と御家人による寄合で幕府の政策が決まりました。内管領と御内人は得宗の配下ですが、御家人より御内人のほうが力をもち、だんだん御家人は政治から遠ざけられるようになり、得宗専制政治がおこなわれるようになりました。   北条が力をもちすぎているので、当然御家人のほうは面白くありません。その反発がついに表面化して戦いに発展したのが1285年で、霜月騒動とよばれました。これは内管領である平頼綱と、有力御家人の安達泰盛の戦いです。得宗家の家来である内管領ですが、得宗から見ても元々は御家人の一人でしかありません。   つまり、安達泰盛は御家人ですので、内管領は自分にとって格下なはずなのに、その内管領が政治を独裁的におこなっているとなれば、それに対して反発したくなっても当たり前です。しかし、結局平頼綱が安達泰盛とその一族を滅ぼしてしまいます。冷徹なようですが、霜月騒動の結果は御家人たちの力の低下を象徴していたともいえます。   幕府側も、窮乏化する御家人達の反発を放っておくわけにはいかず、永仁の徳政令を1297年に出します。20年以内であれば、御家人が他の御家人に売り払った土地でも無条件で取り戻せるというものです。     しかし、何度も借金をチャラにしますよ、というようなことができるはずがありません。また、永仁の徳政令では、金銭が関係する御家人同士の争いには幕府は関与しません、としてしまったので、社会そのものがギスギスしてきます。
だれが安達泰盛とその一族を滅ぼしますか。
平頼綱が安達泰盛とその一族を滅ぼしてしまいます。
JCRRAG_012633
歴史
皇族・貴族から武士へ、政治の主体が変わっていった鎌倉時代では、文化面でも飛躍的な発展を見せました。とくに仏教はますます庶民層に広まり、新しい教団がどんどん生まれました。天台宗の比叡山延暦寺で学んだ人の中から、たくさん鎌倉新仏教を創設する人が出てきます。   そこで根幹である「法華経」を読んでいると、当たり前ですが、どれだけお金を費やすかで極楽に行けるかどうかが決まるかなどとは一切書いてありません。それが、今までの宗教のありかたを見直すきっかけとなったのです。   専修念仏といって、「極楽に行くには念仏を唱えさえすればいい」と説いたのは、浄土宗を起こした法然ですが、これは、「仏に対する気持ちが大事です」という意味で、いい家柄の子どもであったり、立派なお堂をつくったり、たくさんお金を寄進したり、そういうことではないのです。   この考え方をさらに深めていったのが親鸞の浄土真宗で、悪人正機、つまり「煩悩が深い人ほど、仏に救われる」という意味の教えを説きますが、これも「悪い人ほど救われる」ということではありません。   「今まで一度も悪事を働いたことのない人は、そのままでも極楽に行けるが、そんな人など世の中には存在しない。悪いことはしたことはあるけども、心を入れ替えて、仏に対する気持ちをもって、一生懸命念仏を唱えなさい。阿弥陀様はきっと見ていてくださって、救いにきてくれる」    悪人正機とはそういう考え方のことです。何だかキリスト教の教義と似ていますね。一遍は、時宗を開祖した人ですが、基本的な理念は一緒でしたが、楽器を鳴らし、踊りながら念仏を唱える踊念仏によって、いろいろな所で布教活動をおこないました。遊行上人とよばれるのは、それが所以です。   他にも日蓮という人がいて、彼は題目(南無妙法蓮華経)を唱えることで救われると説きましたが、この人は「法華経」こそ釈迦の教えの真髄である、と熱く語ると同時に、他の宗教を批判するなど、過激なところがありました。よりにもよって幕府も批判対象でしたので、流罪になってしまいました。   もっとも、後鳥羽上皇は専修念仏禁止令を発令して法然を制圧しましたし、親鸞にしても同じことだったので、最初のうちはみんな権力者から圧力をかけられています。 禅宗の発達   道元の曹洞宗、栄西の臨済宗などの禅宗も起こってきますが、こちらは座禅によって自分の力で悟りを開くという教えで、念仏ではありません。弾圧のターゲットにはなりませんでしたし、武士が禅宗の気風を気に入ったので、逆に幕府から保護されました。とくに武士が好んで受け入れたので、彼らの間で普及しました。   「喫茶養生記」によってお茶の使い道を説いたのは、栄西という人でしたが、これがのちに茶道と禅が結びついて、独特な発展のしかたをしました。ほかに新しいスタイルがあらわれたのは、仏像彫刻の分野で、東大寺南大門の金剛力士像(仁王像)、興福寺の無著・世親像など、運慶や快慶を筆頭とする慶派の活躍が際立ちました。
仏教がますます庶民層に広まることでなにがどんどん生まれましたか。
仏教はますます庶民層に広まり、新しい教団がどんどん生まれました。
JCRRAG_012634
歴史
皇族・貴族から武士へ、政治の主体が変わっていった鎌倉時代では、文化面でも飛躍的な発展を見せました。とくに仏教はますます庶民層に広まり、新しい教団がどんどん生まれました。天台宗の比叡山延暦寺で学んだ人の中から、たくさん鎌倉新仏教を創設する人が出てきます。   そこで根幹である「法華経」を読んでいると、当たり前ですが、どれだけお金を費やすかで極楽に行けるかどうかが決まるかなどとは一切書いてありません。それが、今までの宗教のありかたを見直すきっかけとなったのです。   専修念仏といって、「極楽に行くには念仏を唱えさえすればいい」と説いたのは、浄土宗を起こした法然ですが、これは、「仏に対する気持ちが大事です」という意味で、いい家柄の子どもであったり、立派なお堂をつくったり、たくさんお金を寄進したり、そういうことではないのです。   この考え方をさらに深めていったのが親鸞の浄土真宗で、悪人正機、つまり「煩悩が深い人ほど、仏に救われる」という意味の教えを説きますが、これも「悪い人ほど救われる」ということではありません。   「今まで一度も悪事を働いたことのない人は、そのままでも極楽に行けるが、そんな人など世の中には存在しない。悪いことはしたことはあるけども、心を入れ替えて、仏に対する気持ちをもって、一生懸命念仏を唱えなさい。阿弥陀様はきっと見ていてくださって、救いにきてくれる」    悪人正機とはそういう考え方のことです。何だかキリスト教の教義と似ていますね。一遍は、時宗を開祖した人ですが、基本的な理念は一緒でしたが、楽器を鳴らし、踊りながら念仏を唱える踊念仏によって、いろいろな所で布教活動をおこないました。遊行上人とよばれるのは、それが所以です。   他にも日蓮という人がいて、彼は題目(南無妙法蓮華経)を唱えることで救われると説きましたが、この人は「法華経」こそ釈迦の教えの真髄である、と熱く語ると同時に、他の宗教を批判するなど、過激なところがありました。よりにもよって幕府も批判対象でしたので、流罪になってしまいました。   もっとも、後鳥羽上皇は専修念仏禁止令を発令して法然を制圧しましたし、親鸞にしても同じことだったので、最初のうちはみんな権力者から圧力をかけられています。 禅宗の発達   道元の曹洞宗、栄西の臨済宗などの禅宗も起こってきますが、こちらは座禅によって自分の力で悟りを開くという教えで、念仏ではありません。弾圧のターゲットにはなりませんでしたし、武士が禅宗の気風を気に入ったので、逆に幕府から保護されました。とくに武士が好んで受け入れたので、彼らの間で普及しました。   「喫茶養生記」によってお茶の使い道を説いたのは、栄西という人でしたが、これがのちに茶道と禅が結びついて、独特な発展のしかたをしました。ほかに新しいスタイルがあらわれたのは、仏像彫刻の分野で、東大寺南大門の金剛力士像(仁王像)、興福寺の無著・世親像など、運慶や快慶を筆頭とする慶派の活躍が際立ちました。
一遍は、なにを開祖した人ですか。
一遍は、時宗を開祖した人ですが、基本的な理念は一緒でしたが、楽器を鳴らし、踊りながら念仏を唱える踊念仏によって、いろいろな所で布教活動をおこないました。
JCRRAG_012635
歴史
皇族・貴族から武士へ、政治の主体が変わっていった鎌倉時代では、文化面でも飛躍的な発展を見せました。とくに仏教はますます庶民層に広まり、新しい教団がどんどん生まれました。天台宗の比叡山延暦寺で学んだ人の中から、たくさん鎌倉新仏教を創設する人が出てきます。   そこで根幹である「法華経」を読んでいると、当たり前ですが、どれだけお金を費やすかで極楽に行けるかどうかが決まるかなどとは一切書いてありません。それが、今までの宗教のありかたを見直すきっかけとなったのです。   専修念仏といって、「極楽に行くには念仏を唱えさえすればいい」と説いたのは、浄土宗を起こした法然ですが、これは、「仏に対する気持ちが大事です」という意味で、いい家柄の子どもであったり、立派なお堂をつくったり、たくさんお金を寄進したり、そういうことではないのです。   この考え方をさらに深めていったのが親鸞の浄土真宗で、悪人正機、つまり「煩悩が深い人ほど、仏に救われる」という意味の教えを説きますが、これも「悪い人ほど救われる」ということではありません。   「今まで一度も悪事を働いたことのない人は、そのままでも極楽に行けるが、そんな人など世の中には存在しない。悪いことはしたことはあるけども、心を入れ替えて、仏に対する気持ちをもって、一生懸命念仏を唱えなさい。阿弥陀様はきっと見ていてくださって、救いにきてくれる」    悪人正機とはそういう考え方のことです。何だかキリスト教の教義と似ていますね。一遍は、時宗を開祖した人ですが、基本的な理念は一緒でしたが、楽器を鳴らし、踊りながら念仏を唱える踊念仏によって、いろいろな所で布教活動をおこないました。遊行上人とよばれるのは、それが所以です。   他にも日蓮という人がいて、彼は題目(南無妙法蓮華経)を唱えることで救われると説きましたが、この人は「法華経」こそ釈迦の教えの真髄である、と熱く語ると同時に、他の宗教を批判するなど、過激なところがありました。よりにもよって幕府も批判対象でしたので、流罪になってしまいました。   もっとも、後鳥羽上皇は専修念仏禁止令を発令して法然を制圧しましたし、親鸞にしても同じことだったので、最初のうちはみんな権力者から圧力をかけられています。 禅宗の発達   道元の曹洞宗、栄西の臨済宗などの禅宗も起こってきますが、こちらは座禅によって自分の力で悟りを開くという教えで、念仏ではありません。弾圧のターゲットにはなりませんでしたし、武士が禅宗の気風を気に入ったので、逆に幕府から保護されました。とくに武士が好んで受け入れたので、彼らの間で普及しました。   「喫茶養生記」によってお茶の使い道を説いたのは、栄西という人でしたが、これがのちに茶道と禅が結びついて、独特な発展のしかたをしました。ほかに新しいスタイルがあらわれたのは、仏像彫刻の分野で、東大寺南大門の金剛力士像(仁王像)、興福寺の無著・世親像など、運慶や快慶を筆頭とする慶派の活躍が際立ちました。
日蓮はなにを唱えることで救われると説きましたか。
日蓮という人がいて、彼は題目(南無妙法蓮華経)を唱えることで救われると説きましたが、この人は「法華経」こそ釈迦の教えの真髄である、と熱く語ると同時に、他の宗教を批判するなど、過激なところがありました。
JCRRAG_012636
歴史
皇族・貴族から武士へ、政治の主体が変わっていった鎌倉時代では、文化面でも飛躍的な発展を見せました。とくに仏教はますます庶民層に広まり、新しい教団がどんどん生まれました。天台宗の比叡山延暦寺で学んだ人の中から、たくさん鎌倉新仏教を創設する人が出てきます。   そこで根幹である「法華経」を読んでいると、当たり前ですが、どれだけお金を費やすかで極楽に行けるかどうかが決まるかなどとは一切書いてありません。それが、今までの宗教のありかたを見直すきっかけとなったのです。   専修念仏といって、「極楽に行くには念仏を唱えさえすればいい」と説いたのは、浄土宗を起こした法然ですが、これは、「仏に対する気持ちが大事です」という意味で、いい家柄の子どもであったり、立派なお堂をつくったり、たくさんお金を寄進したり、そういうことではないのです。   この考え方をさらに深めていったのが親鸞の浄土真宗で、悪人正機、つまり「煩悩が深い人ほど、仏に救われる」という意味の教えを説きますが、これも「悪い人ほど救われる」ということではありません。   「今まで一度も悪事を働いたことのない人は、そのままでも極楽に行けるが、そんな人など世の中には存在しない。悪いことはしたことはあるけども、心を入れ替えて、仏に対する気持ちをもって、一生懸命念仏を唱えなさい。阿弥陀様はきっと見ていてくださって、救いにきてくれる」    悪人正機とはそういう考え方のことです。何だかキリスト教の教義と似ていますね。一遍は、時宗を開祖した人ですが、基本的な理念は一緒でしたが、楽器を鳴らし、踊りながら念仏を唱える踊念仏によって、いろいろな所で布教活動をおこないました。遊行上人とよばれるのは、それが所以です。   他にも日蓮という人がいて、彼は題目(南無妙法蓮華経)を唱えることで救われると説きましたが、この人は「法華経」こそ釈迦の教えの真髄である、と熱く語ると同時に、他の宗教を批判するなど、過激なところがありました。よりにもよって幕府も批判対象でしたので、流罪になってしまいました。   もっとも、後鳥羽上皇は専修念仏禁止令を発令して法然を制圧しましたし、親鸞にしても同じことだったので、最初のうちはみんな権力者から圧力をかけられています。 禅宗の発達   道元の曹洞宗、栄西の臨済宗などの禅宗も起こってきますが、こちらは座禅によって自分の力で悟りを開くという教えで、念仏ではありません。弾圧のターゲットにはなりませんでしたし、武士が禅宗の気風を気に入ったので、逆に幕府から保護されました。とくに武士が好んで受け入れたので、彼らの間で普及しました。   「喫茶養生記」によってお茶の使い道を説いたのは、栄西という人でしたが、これがのちに茶道と禅が結びついて、独特な発展のしかたをしました。ほかに新しいスタイルがあらわれたのは、仏像彫刻の分野で、東大寺南大門の金剛力士像(仁王像)、興福寺の無著・世親像など、運慶や快慶を筆頭とする慶派の活躍が際立ちました。
「喫茶養生記」によってお茶の使い道を説いたのは、だれですか。
「喫茶養生記」によってお茶の使い道を説いたのは、栄西という人でしたが、これがのちに茶道と禅が結びついて、独特な発展のしかたをしました。
JCRRAG_012637
歴史
まだまだ得宗専制政治の体制が続く世の中でしたが、十四代執権となった北条高時は、政治にはあまり興味がない人で、もっぱら田楽(祭礼神事の芸能)などの遊びごとにふけっていました。なので、その補佐としてついていた内管領の長崎高資が軸となって、政治を動かしていくこととなります。   さらに、御家人の不満は解消されないままでしたので、色々嫌味を言われたくなかったのでしょう。まったく御家人を入れず、内管領・御家人のみで政治を動かしていくようになってしまったので、さらに独裁が進んでしまいました。   一方、この時代の朝廷サイドの動きとしては、後嵯峨天皇が1272年にこの世を去った後、亀山天皇と後深草上皇のあいだで対立が生まれていました。大覚寺統が亀山天皇の血統、持明院統が後深草上皇の血統です。   どちらも、次の天皇を自分の系統のなかから出したいと考えていたために起こった対立でしたが、両統迭立といって、大覚寺統と持明院統から交互に天皇を立てるといった折衷案を幕府が提案し、お互いが納得しました。そこで後醍醐天皇が即位することとなりました。 表面化する討幕運動   院政の廃止、天皇の親政を後醍醐天皇が最初におこないました。その頃、院の力は無いに等しいといった状態で、天皇がある程度年をとると、定年退職のようなかたちで院になってもらい、新しく天皇を立てるといった状況でした。幕末の1840年頃まで院政自体は細々と残っていくのですが、中身はそんなものでした。   しかし、後醍醐天皇がいくら純粋な親政をおこないたくても、鎌倉に幕府が存在しているあいだは、自分のみで政治をおこなうことはできません。しかし、その幕府の内外には、不平・不満がたくさんありましたので、後醍醐天皇はそこを刺激しつつ、二度の討幕運動を開始します。   ですが、1324年に起こした最初の計画である正中の変は、すぐにばれてしまい不発に終わり、1331年に起こした二度目の元弘の変も、あえなく失敗に終わり、1332年に後醍醐天皇は隠岐に島流しにされてしまいます。     平安時代に、院政を停止させるために平氏が後白河上皇を閉じ込めたことがありましたね。このとき、それがきっかけで平氏に対する反発を招いてしまい、結果的に平氏は滅びてしまいましたが、今回も後醍醐天皇が島流しにされたことをきっかけに、幕府に対する反発や危機感が一気に大きくなります。   そうした空気をよんで、討幕の令旨を後醍醐天皇の子である護良親王が出し、それに応えるように、楠木正成、新田義貞などが兵を挙げました。ちなみに、楠本正成は非御家人です。このとき動いた非御家人は朝廷の言うことをきく武士で、元寇が起こる前までは、あっちはあっち、こっちはこっちというスタンスで、御家人と非御家人はお互いを邪魔することなく存在していました。当時は朝廷の土地がありあまるほどあったので、その土地を管理することで生活していけましたから。   しかし、元寇が起こってからは、「非常事態のときは命令を聞きなさい」と非御家人にも幕府の力が浸透してきたので、それに対して危機感を感じているというところもありました。対して、新田義貞は御家人です。つまり、朝廷側と、幕府側の中で、長崎高資に対して良く思っていない得宗専制の勢力が一気に立ち上がったということです。もともと幕府の配下だった足利尊氏(高氏)も、幕府に愛想が尽きて敵になっています。   1333年、鎌倉で執権・北条高時が新田軍に倒され、京に上った足利軍は六波羅探題に攻め入ります。なんと、このもともと御家人の足利尊氏という人は、討幕の動きを止めろと命令を受けて京に向かったのですが、京で寝返って、六波羅探題を攻め落としてしまったのです。ほどなく、鎌倉幕府は滅亡の道をたどることとなります。
十四代執権となった北条高時は、どのようなことにふけっていましたか。
十四代執権となった北条高時は、政治にはあまり興味がない人で、もっぱら田楽(祭礼神事の芸能)などの遊びごとにふけっていました。
JCRRAG_012638
歴史
まだまだ得宗専制政治の体制が続く世の中でしたが、十四代執権となった北条高時は、政治にはあまり興味がない人で、もっぱら田楽(祭礼神事の芸能)などの遊びごとにふけっていました。なので、その補佐としてついていた内管領の長崎高資が軸となって、政治を動かしていくこととなります。   さらに、御家人の不満は解消されないままでしたので、色々嫌味を言われたくなかったのでしょう。まったく御家人を入れず、内管領・御家人のみで政治を動かしていくようになってしまったので、さらに独裁が進んでしまいました。   一方、この時代の朝廷サイドの動きとしては、後嵯峨天皇が1272年にこの世を去った後、亀山天皇と後深草上皇のあいだで対立が生まれていました。大覚寺統が亀山天皇の血統、持明院統が後深草上皇の血統です。   どちらも、次の天皇を自分の系統のなかから出したいと考えていたために起こった対立でしたが、両統迭立といって、大覚寺統と持明院統から交互に天皇を立てるといった折衷案を幕府が提案し、お互いが納得しました。そこで後醍醐天皇が即位することとなりました。 表面化する討幕運動   院政の廃止、天皇の親政を後醍醐天皇が最初におこないました。その頃、院の力は無いに等しいといった状態で、天皇がある程度年をとると、定年退職のようなかたちで院になってもらい、新しく天皇を立てるといった状況でした。幕末の1840年頃まで院政自体は細々と残っていくのですが、中身はそんなものでした。   しかし、後醍醐天皇がいくら純粋な親政をおこないたくても、鎌倉に幕府が存在しているあいだは、自分のみで政治をおこなうことはできません。しかし、その幕府の内外には、不平・不満がたくさんありましたので、後醍醐天皇はそこを刺激しつつ、二度の討幕運動を開始します。   ですが、1324年に起こした最初の計画である正中の変は、すぐにばれてしまい不発に終わり、1331年に起こした二度目の元弘の変も、あえなく失敗に終わり、1332年に後醍醐天皇は隠岐に島流しにされてしまいます。     平安時代に、院政を停止させるために平氏が後白河上皇を閉じ込めたことがありましたね。このとき、それがきっかけで平氏に対する反発を招いてしまい、結果的に平氏は滅びてしまいましたが、今回も後醍醐天皇が島流しにされたことをきっかけに、幕府に対する反発や危機感が一気に大きくなります。   そうした空気をよんで、討幕の令旨を後醍醐天皇の子である護良親王が出し、それに応えるように、楠木正成、新田義貞などが兵を挙げました。ちなみに、楠本正成は非御家人です。このとき動いた非御家人は朝廷の言うことをきく武士で、元寇が起こる前までは、あっちはあっち、こっちはこっちというスタンスで、御家人と非御家人はお互いを邪魔することなく存在していました。当時は朝廷の土地がありあまるほどあったので、その土地を管理することで生活していけましたから。   しかし、元寇が起こってからは、「非常事態のときは命令を聞きなさい」と非御家人にも幕府の力が浸透してきたので、それに対して危機感を感じているというところもありました。対して、新田義貞は御家人です。つまり、朝廷側と、幕府側の中で、長崎高資に対して良く思っていない得宗専制の勢力が一気に立ち上がったということです。もともと幕府の配下だった足利尊氏(高氏)も、幕府に愛想が尽きて敵になっています。   1333年、鎌倉で執権・北条高時が新田軍に倒され、京に上った足利軍は六波羅探題に攻め入ります。なんと、このもともと御家人の足利尊氏という人は、討幕の動きを止めろと命令を受けて京に向かったのですが、京で寝返って、六波羅探題を攻め落としてしまったのです。ほどなく、鎌倉幕府は滅亡の道をたどることとなります。
後嵯峨天皇はいつこの世を去りましたか。
後嵯峨天皇が1272年にこの世を去った後、亀山天皇と後深草上皇のあいだで対立が生まれていました。
JCRRAG_012639
歴史
まだまだ得宗専制政治の体制が続く世の中でしたが、十四代執権となった北条高時は、政治にはあまり興味がない人で、もっぱら田楽(祭礼神事の芸能)などの遊びごとにふけっていました。なので、その補佐としてついていた内管領の長崎高資が軸となって、政治を動かしていくこととなります。   さらに、御家人の不満は解消されないままでしたので、色々嫌味を言われたくなかったのでしょう。まったく御家人を入れず、内管領・御家人のみで政治を動かしていくようになってしまったので、さらに独裁が進んでしまいました。   一方、この時代の朝廷サイドの動きとしては、後嵯峨天皇が1272年にこの世を去った後、亀山天皇と後深草上皇のあいだで対立が生まれていました。大覚寺統が亀山天皇の血統、持明院統が後深草上皇の血統です。   どちらも、次の天皇を自分の系統のなかから出したいと考えていたために起こった対立でしたが、両統迭立といって、大覚寺統と持明院統から交互に天皇を立てるといった折衷案を幕府が提案し、お互いが納得しました。そこで後醍醐天皇が即位することとなりました。 表面化する討幕運動   院政の廃止、天皇の親政を後醍醐天皇が最初におこないました。その頃、院の力は無いに等しいといった状態で、天皇がある程度年をとると、定年退職のようなかたちで院になってもらい、新しく天皇を立てるといった状況でした。幕末の1840年頃まで院政自体は細々と残っていくのですが、中身はそんなものでした。   しかし、後醍醐天皇がいくら純粋な親政をおこないたくても、鎌倉に幕府が存在しているあいだは、自分のみで政治をおこなうことはできません。しかし、その幕府の内外には、不平・不満がたくさんありましたので、後醍醐天皇はそこを刺激しつつ、二度の討幕運動を開始します。   ですが、1324年に起こした最初の計画である正中の変は、すぐにばれてしまい不発に終わり、1331年に起こした二度目の元弘の変も、あえなく失敗に終わり、1332年に後醍醐天皇は隠岐に島流しにされてしまいます。     平安時代に、院政を停止させるために平氏が後白河上皇を閉じ込めたことがありましたね。このとき、それがきっかけで平氏に対する反発を招いてしまい、結果的に平氏は滅びてしまいましたが、今回も後醍醐天皇が島流しにされたことをきっかけに、幕府に対する反発や危機感が一気に大きくなります。   そうした空気をよんで、討幕の令旨を後醍醐天皇の子である護良親王が出し、それに応えるように、楠木正成、新田義貞などが兵を挙げました。ちなみに、楠本正成は非御家人です。このとき動いた非御家人は朝廷の言うことをきく武士で、元寇が起こる前までは、あっちはあっち、こっちはこっちというスタンスで、御家人と非御家人はお互いを邪魔することなく存在していました。当時は朝廷の土地がありあまるほどあったので、その土地を管理することで生活していけましたから。   しかし、元寇が起こってからは、「非常事態のときは命令を聞きなさい」と非御家人にも幕府の力が浸透してきたので、それに対して危機感を感じているというところもありました。対して、新田義貞は御家人です。つまり、朝廷側と、幕府側の中で、長崎高資に対して良く思っていない得宗専制の勢力が一気に立ち上がったということです。もともと幕府の配下だった足利尊氏(高氏)も、幕府に愛想が尽きて敵になっています。   1333年、鎌倉で執権・北条高時が新田軍に倒され、京に上った足利軍は六波羅探題に攻め入ります。なんと、このもともと御家人の足利尊氏という人は、討幕の動きを止めろと命令を受けて京に向かったのですが、京で寝返って、六波羅探題を攻め落としてしまったのです。ほどなく、鎌倉幕府は滅亡の道をたどることとなります。
院政の廃止、天皇の親政を最初におこなったのはだれですか。
院政の廃止、天皇の親政を後醍醐天皇が最初におこないました。
JCRRAG_012640
歴史
まだまだ得宗専制政治の体制が続く世の中でしたが、十四代執権となった北条高時は、政治にはあまり興味がない人で、もっぱら田楽(祭礼神事の芸能)などの遊びごとにふけっていました。なので、その補佐としてついていた内管領の長崎高資が軸となって、政治を動かしていくこととなります。   さらに、御家人の不満は解消されないままでしたので、色々嫌味を言われたくなかったのでしょう。まったく御家人を入れず、内管領・御家人のみで政治を動かしていくようになってしまったので、さらに独裁が進んでしまいました。   一方、この時代の朝廷サイドの動きとしては、後嵯峨天皇が1272年にこの世を去った後、亀山天皇と後深草上皇のあいだで対立が生まれていました。大覚寺統が亀山天皇の血統、持明院統が後深草上皇の血統です。   どちらも、次の天皇を自分の系統のなかから出したいと考えていたために起こった対立でしたが、両統迭立といって、大覚寺統と持明院統から交互に天皇を立てるといった折衷案を幕府が提案し、お互いが納得しました。そこで後醍醐天皇が即位することとなりました。 表面化する討幕運動   院政の廃止、天皇の親政を後醍醐天皇が最初におこないました。その頃、院の力は無いに等しいといった状態で、天皇がある程度年をとると、定年退職のようなかたちで院になってもらい、新しく天皇を立てるといった状況でした。幕末の1840年頃まで院政自体は細々と残っていくのですが、中身はそんなものでした。   しかし、後醍醐天皇がいくら純粋な親政をおこないたくても、鎌倉に幕府が存在しているあいだは、自分のみで政治をおこなうことはできません。しかし、その幕府の内外には、不平・不満がたくさんありましたので、後醍醐天皇はそこを刺激しつつ、二度の討幕運動を開始します。   ですが、1324年に起こした最初の計画である正中の変は、すぐにばれてしまい不発に終わり、1331年に起こした二度目の元弘の変も、あえなく失敗に終わり、1332年に後醍醐天皇は隠岐に島流しにされてしまいます。     平安時代に、院政を停止させるために平氏が後白河上皇を閉じ込めたことがありましたね。このとき、それがきっかけで平氏に対する反発を招いてしまい、結果的に平氏は滅びてしまいましたが、今回も後醍醐天皇が島流しにされたことをきっかけに、幕府に対する反発や危機感が一気に大きくなります。   そうした空気をよんで、討幕の令旨を後醍醐天皇の子である護良親王が出し、それに応えるように、楠木正成、新田義貞などが兵を挙げました。ちなみに、楠本正成は非御家人です。このとき動いた非御家人は朝廷の言うことをきく武士で、元寇が起こる前までは、あっちはあっち、こっちはこっちというスタンスで、御家人と非御家人はお互いを邪魔することなく存在していました。当時は朝廷の土地がありあまるほどあったので、その土地を管理することで生活していけましたから。   しかし、元寇が起こってからは、「非常事態のときは命令を聞きなさい」と非御家人にも幕府の力が浸透してきたので、それに対して危機感を感じているというところもありました。対して、新田義貞は御家人です。つまり、朝廷側と、幕府側の中で、長崎高資に対して良く思っていない得宗専制の勢力が一気に立ち上がったということです。もともと幕府の配下だった足利尊氏(高氏)も、幕府に愛想が尽きて敵になっています。   1333年、鎌倉で執権・北条高時が新田軍に倒され、京に上った足利軍は六波羅探題に攻め入ります。なんと、このもともと御家人の足利尊氏という人は、討幕の動きを止めろと命令を受けて京に向かったのですが、京で寝返って、六波羅探題を攻め落としてしまったのです。ほどなく、鎌倉幕府は滅亡の道をたどることとなります。
京に上った足利軍はどこを攻め入りますか。
京に上った足利軍は六波羅探題に攻め入ります。
JCRRAG_012641
歴史
後醍醐天皇は幕府の滅亡後に、隠岐から脱出して京に戻ります。そして、ここから建武の新政がはじまりますが、これは1333年からはじまった後醍醐天皇による親政のことです。一般的に、天皇の命令は宣旨といって、太政官が審議をしてから発令されます。ほかに、蔵人所の審議だけで手軽に出せる綸旨というものもあります。   土地を媒介としたものがこの時代の武家社会だったので、誰がこの土地の持ち主だ、というような、ほとんどの法律が土地の支配に関係するものでした。なので、後醍醐天皇の綸旨にも、土地のことについて考えられたものが多かったのですが、この綸旨に、その頃の武家社会の常識では考えられないような部分が多く存在していたことが問題でした。   たとえば、承久の乱などで武士のものになったはずの土地まで、もとの貴族のものだと認められたり、そのような綸旨がどんどん出されました。   しかし、武家社会では、土地を20年以上支配することができれば、その人の持ちものになるという考え方が定着していました(二十ヵ年年紀法)。平安時代から同じ土地に住み続けていた武士もたくさんいるので、こうなると、建武の新政では自分たちの土地があぶないということで、武士のあいだから大きな批判が出ることになります。   本来は、後醍醐天皇の綸旨は絶対である、とされていたのに、実際は相当な朝令暮改だったようで、一気に改革せねばと焦るあまり、スピード重視でさっさと処理してしまいます。恩賞をみても、公家には良くしているのに、武士には冷たい対応をとっていました。命がけで討幕を一緒に頑張ってきた武士たちが不満を抱かないはずがありません。   もともと建武の新政は平安時代の延喜・天暦の治を目指していましたが、その時代の武士はただのボディガードだったわけで、そのただのボディガードを政策の計画に加わらせようとなど、考えるはずもありません。   討幕の中心人物でもあった足利尊氏は、建武政権で重要な職に就くことすらできませんでした。ここでも大きな反乱が起こることとなります。
後醍醐天皇はいつ隠岐から脱出して京に戻りますか。
後醍醐天皇は幕府の滅亡後に、隠岐から脱出して京に戻ります。
JCRRAG_012642
歴史
後醍醐天皇は幕府の滅亡後に、隠岐から脱出して京に戻ります。そして、ここから建武の新政がはじまりますが、これは1333年からはじまった後醍醐天皇による親政のことです。一般的に、天皇の命令は宣旨といって、太政官が審議をしてから発令されます。ほかに、蔵人所の審議だけで手軽に出せる綸旨というものもあります。   土地を媒介としたものがこの時代の武家社会だったので、誰がこの土地の持ち主だ、というような、ほとんどの法律が土地の支配に関係するものでした。なので、後醍醐天皇の綸旨にも、土地のことについて考えられたものが多かったのですが、この綸旨に、その頃の武家社会の常識では考えられないような部分が多く存在していたことが問題でした。   たとえば、承久の乱などで武士のものになったはずの土地まで、もとの貴族のものだと認められたり、そのような綸旨がどんどん出されました。   しかし、武家社会では、土地を20年以上支配することができれば、その人の持ちものになるという考え方が定着していました(二十ヵ年年紀法)。平安時代から同じ土地に住み続けていた武士もたくさんいるので、こうなると、建武の新政では自分たちの土地があぶないということで、武士のあいだから大きな批判が出ることになります。   本来は、後醍醐天皇の綸旨は絶対である、とされていたのに、実際は相当な朝令暮改だったようで、一気に改革せねばと焦るあまり、スピード重視でさっさと処理してしまいます。恩賞をみても、公家には良くしているのに、武士には冷たい対応をとっていました。命がけで討幕を一緒に頑張ってきた武士たちが不満を抱かないはずがありません。   もともと建武の新政は平安時代の延喜・天暦の治を目指していましたが、その時代の武士はただのボディガードだったわけで、そのただのボディガードを政策の計画に加わらせようとなど、考えるはずもありません。   討幕の中心人物でもあった足利尊氏は、建武政権で重要な職に就くことすらできませんでした。ここでも大きな反乱が起こることとなります。
建武の新政はどのような親政のことですか。
1333年からはじまった後醍醐天皇による親政のことです。
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歴史
後醍醐天皇は幕府の滅亡後に、隠岐から脱出して京に戻ります。そして、ここから建武の新政がはじまりますが、これは1333年からはじまった後醍醐天皇による親政のことです。一般的に、天皇の命令は宣旨といって、太政官が審議をしてから発令されます。ほかに、蔵人所の審議だけで手軽に出せる綸旨というものもあります。   土地を媒介としたものがこの時代の武家社会だったので、誰がこの土地の持ち主だ、というような、ほとんどの法律が土地の支配に関係するものでした。なので、後醍醐天皇の綸旨にも、土地のことについて考えられたものが多かったのですが、この綸旨に、その頃の武家社会の常識では考えられないような部分が多く存在していたことが問題でした。   たとえば、承久の乱などで武士のものになったはずの土地まで、もとの貴族のものだと認められたり、そのような綸旨がどんどん出されました。   しかし、武家社会では、土地を20年以上支配することができれば、その人の持ちものになるという考え方が定着していました(二十ヵ年年紀法)。平安時代から同じ土地に住み続けていた武士もたくさんいるので、こうなると、建武の新政では自分たちの土地があぶないということで、武士のあいだから大きな批判が出ることになります。   本来は、後醍醐天皇の綸旨は絶対である、とされていたのに、実際は相当な朝令暮改だったようで、一気に改革せねばと焦るあまり、スピード重視でさっさと処理してしまいます。恩賞をみても、公家には良くしているのに、武士には冷たい対応をとっていました。命がけで討幕を一緒に頑張ってきた武士たちが不満を抱かないはずがありません。   もともと建武の新政は平安時代の延喜・天暦の治を目指していましたが、その時代の武士はただのボディガードだったわけで、そのただのボディガードを政策の計画に加わらせようとなど、考えるはずもありません。   討幕の中心人物でもあった足利尊氏は、建武政権で重要な職に就くことすらできませんでした。ここでも大きな反乱が起こることとなります。
武家社会では、どれくらいの期間土地を支配すれば、その人の持ちものになるという考え方が定着していましたか。
武家社会では、土地を20年以上支配することができれば、その人の持ちものになるという考え方が定着していました(二十ヵ年年紀法)。
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歴史
後醍醐天皇は幕府の滅亡後に、隠岐から脱出して京に戻ります。そして、ここから建武の新政がはじまりますが、これは1333年からはじまった後醍醐天皇による親政のことです。一般的に、天皇の命令は宣旨といって、太政官が審議をしてから発令されます。ほかに、蔵人所の審議だけで手軽に出せる綸旨というものもあります。   土地を媒介としたものがこの時代の武家社会だったので、誰がこの土地の持ち主だ、というような、ほとんどの法律が土地の支配に関係するものでした。なので、後醍醐天皇の綸旨にも、土地のことについて考えられたものが多かったのですが、この綸旨に、その頃の武家社会の常識では考えられないような部分が多く存在していたことが問題でした。   たとえば、承久の乱などで武士のものになったはずの土地まで、もとの貴族のものだと認められたり、そのような綸旨がどんどん出されました。   しかし、武家社会では、土地を20年以上支配することができれば、その人の持ちものになるという考え方が定着していました(二十ヵ年年紀法)。平安時代から同じ土地に住み続けていた武士もたくさんいるので、こうなると、建武の新政では自分たちの土地があぶないということで、武士のあいだから大きな批判が出ることになります。   本来は、後醍醐天皇の綸旨は絶対である、とされていたのに、実際は相当な朝令暮改だったようで、一気に改革せねばと焦るあまり、スピード重視でさっさと処理してしまいます。恩賞をみても、公家には良くしているのに、武士には冷たい対応をとっていました。命がけで討幕を一緒に頑張ってきた武士たちが不満を抱かないはずがありません。   もともと建武の新政は平安時代の延喜・天暦の治を目指していましたが、その時代の武士はただのボディガードだったわけで、そのただのボディガードを政策の計画に加わらせようとなど、考えるはずもありません。   討幕の中心人物でもあった足利尊氏は、建武政権で重要な職に就くことすらできませんでした。ここでも大きな反乱が起こることとなります。
もともと建武の新政はなにを目指していましたか。
もともと建武の新政は平安時代の延喜・天暦の治を目指していましたが、その時代の武士はただのボディガードだったわけで、そのただのボディガードを政策の計画に加わらせようとなど、考えるはずもありません。
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歴史
室町時代は大まかに三つに分けることができます。一つ目は、南北朝の対立から室町幕府が出来上がるまでの時期。これは、14世紀中期と後期で、1336年に建武式目が制定されるところから、三代将軍足利義満までの時期を指します。   二つ目は、室町幕府が揺れ動く時期。15世紀前期のことで、四代将軍足利義持から七代将軍足利義勝までの時期です。三つ目は、15世紀後期から16世紀前期までを指し、応仁の乱から戦国時代へと移る時期です。   建武政権への不満がどんどんたまっていき、その気持ちは、鎌倉幕府の再興をのぞむようになります。新政開始の翌年、1335年には、北条高時の子である時行が反乱を起こし、一時的に鎌倉を占領するようになります。これは、中先代の乱とよばれています。   はじめ、足利尊氏は新政権から命じられてこの乱を鎮めることに従っていましたが、その後謀反を起こします。尊氏は朝廷から討伐軍を差し向けられ、一度九州に逃げ込みます。しかし、すぐさま逆襲し、湊川の戦いで楠木正成を1336年に倒すと、その勢いが衰えないうちに京を制圧してしまいました。   完全に楠木正成に頼りきっていた後醍醐天皇は、その楠木がいなくなってしまってどうにもできなくなり、吉野(いまの奈良県)に逃亡してしまいます。京では、後醍醐天皇がいなくなってしまったため、持明院統の光明天皇が即位し、1338年、征夷大将軍に足利尊氏を任命します。関東には出向かない征夷大将軍でしたので、武士の頭領としてのポストに意味合いが変化したということです。   室町幕府の成立と、このあと60年にもわたって繰り広げられる南北朝の対立のはじまりでした。「神皇正統記」「梅松論」「太平記」などの歴史書や、軍記物語には、南北朝の対立の様子が描かれています。
新政開始の翌年、1335年に反乱を起こしたのはだれですか。
新政開始の翌年、1335年には、北条高時の子である時行が反乱を起こし、一時的に鎌倉を占領するようになります。
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歴史
室町時代は大まかに三つに分けることができます。一つ目は、南北朝の対立から室町幕府が出来上がるまでの時期。これは、14世紀中期と後期で、1336年に建武式目が制定されるところから、三代将軍足利義満までの時期を指します。   二つ目は、室町幕府が揺れ動く時期。15世紀前期のことで、四代将軍足利義持から七代将軍足利義勝までの時期です。三つ目は、15世紀後期から16世紀前期までを指し、応仁の乱から戦国時代へと移る時期です。   建武政権への不満がどんどんたまっていき、その気持ちは、鎌倉幕府の再興をのぞむようになります。新政開始の翌年、1335年には、北条高時の子である時行が反乱を起こし、一時的に鎌倉を占領するようになります。これは、中先代の乱とよばれています。   はじめ、足利尊氏は新政権から命じられてこの乱を鎮めることに従っていましたが、その後謀反を起こします。尊氏は朝廷から討伐軍を差し向けられ、一度九州に逃げ込みます。しかし、すぐさま逆襲し、湊川の戦いで楠木正成を1336年に倒すと、その勢いが衰えないうちに京を制圧してしまいました。   完全に楠木正成に頼りきっていた後醍醐天皇は、その楠木がいなくなってしまってどうにもできなくなり、吉野(いまの奈良県)に逃亡してしまいます。京では、後醍醐天皇がいなくなってしまったため、持明院統の光明天皇が即位し、1338年、征夷大将軍に足利尊氏を任命します。関東には出向かない征夷大将軍でしたので、武士の頭領としてのポストに意味合いが変化したということです。   室町幕府の成立と、このあと60年にもわたって繰り広げられる南北朝の対立のはじまりでした。「神皇正統記」「梅松論」「太平記」などの歴史書や、軍記物語には、南北朝の対立の様子が描かれています。
持明院統の光明天皇が征夷大将軍に足利尊氏を任命するのはいつですか。
1338年、征夷大将軍に足利尊氏を任命します。
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歴史
室町時代は大まかに三つに分けることができます。一つ目は、南北朝の対立から室町幕府が出来上がるまでの時期。これは、14世紀中期と後期で、1336年に建武式目が制定されるところから、三代将軍足利義満までの時期を指します。   二つ目は、室町幕府が揺れ動く時期。15世紀前期のことで、四代将軍足利義持から七代将軍足利義勝までの時期です。三つ目は、15世紀後期から16世紀前期までを指し、応仁の乱から戦国時代へと移る時期です。   建武政権への不満がどんどんたまっていき、その気持ちは、鎌倉幕府の再興をのぞむようになります。新政開始の翌年、1335年には、北条高時の子である時行が反乱を起こし、一時的に鎌倉を占領するようになります。これは、中先代の乱とよばれています。   はじめ、足利尊氏は新政権から命じられてこの乱を鎮めることに従っていましたが、その後謀反を起こします。尊氏は朝廷から討伐軍を差し向けられ、一度九州に逃げ込みます。しかし、すぐさま逆襲し、湊川の戦いで楠木正成を1336年に倒すと、その勢いが衰えないうちに京を制圧してしまいました。   完全に楠木正成に頼りきっていた後醍醐天皇は、その楠木がいなくなってしまってどうにもできなくなり、吉野(いまの奈良県)に逃亡してしまいます。京では、後醍醐天皇がいなくなってしまったため、持明院統の光明天皇が即位し、1338年、征夷大将軍に足利尊氏を任命します。関東には出向かない征夷大将軍でしたので、武士の頭領としてのポストに意味合いが変化したということです。   室町幕府の成立と、このあと60年にもわたって繰り広げられる南北朝の対立のはじまりでした。「神皇正統記」「梅松論」「太平記」などの歴史書や、軍記物語には、南北朝の対立の様子が描かれています。
尊氏はいつ楠木正成を倒しますか。
湊川の戦いで楠木正成を1336年に倒すと、その勢いが衰えないうちに京を制圧してしまいました。
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歴史
室町時代は大まかに三つに分けることができます。一つ目は、南北朝の対立から室町幕府が出来上がるまでの時期。これは、14世紀中期と後期で、1336年に建武式目が制定されるところから、三代将軍足利義満までの時期を指します。   二つ目は、室町幕府が揺れ動く時期。15世紀前期のことで、四代将軍足利義持から七代将軍足利義勝までの時期です。三つ目は、15世紀後期から16世紀前期までを指し、応仁の乱から戦国時代へと移る時期です。   建武政権への不満がどんどんたまっていき、その気持ちは、鎌倉幕府の再興をのぞむようになります。新政開始の翌年、1335年には、北条高時の子である時行が反乱を起こし、一時的に鎌倉を占領するようになります。これは、中先代の乱とよばれています。   はじめ、足利尊氏は新政権から命じられてこの乱を鎮めることに従っていましたが、その後謀反を起こします。尊氏は朝廷から討伐軍を差し向けられ、一度九州に逃げ込みます。しかし、すぐさま逆襲し、湊川の戦いで楠木正成を1336年に倒すと、その勢いが衰えないうちに京を制圧してしまいました。   完全に楠木正成に頼りきっていた後醍醐天皇は、その楠木がいなくなってしまってどうにもできなくなり、吉野(いまの奈良県)に逃亡してしまいます。京では、後醍醐天皇がいなくなってしまったため、持明院統の光明天皇が即位し、1338年、征夷大将軍に足利尊氏を任命します。関東には出向かない征夷大将軍でしたので、武士の頭領としてのポストに意味合いが変化したということです。   室町幕府の成立と、このあと60年にもわたって繰り広げられる南北朝の対立のはじまりでした。「神皇正統記」「梅松論」「太平記」などの歴史書や、軍記物語には、南北朝の対立の様子が描かれています。
後醍醐天皇は、どこに逃亡しますか。
後醍醐天皇は、その楠木がいなくなってしまってどうにもできなくなり、吉野(いまの奈良県)に逃亡してしまいます。
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歴史
足利尊氏が室町幕府の一番はじめの将軍です。最初は、尊氏は弟の足利直義と一緒に政務をとっていました。つまり、二頭政治というものです。しかし、二人が仲良くやっていたのははじめだけで、そのうち対立が生まれてきます。それが表面化したのが1350年で、観応の擾乱とよばれています。   最終的なきっかけとなったのは、尊氏の側近である執事の高師直が直義に殺されたことです。よく歌舞伎や講談物に登場する高師直ですが、彼は尊氏の補佐をつとめていました。直義はだんだん尊氏に重用されつつある高師直のことを良く思わず、殺してしまうのです。   高師直を殺したことに腹を立てた尊氏は、弟の直義を毒殺してしまい、一応両成敗のような結果にはなったのですが、争いはそれだけでは終わらず、それから3年間も、幕府の中では争いが絶えず起きていました。   守護大名の成立について   観応の擾乱が起こっている時に、半済令というものが発令されます。これは、国内の年貢の半分を武士たちに分け与えるというものでしたが、本当は将軍が家来たちの奉公に対してお返しをするために、直接渡さなければいけないものなのに、抗争が起きていたというのも理由で、その権限を守護に与えてしまいました。   つまり、守護が国内の年貢の半分を徴収できる、ともとれるのです。将軍は、国内のすべての武士をくまなく監視しているわけではないので、誰にどれくらい分け与えればいいかなどわかるはずもありません。その点、守護は武士たちのことをよく知っていたので、守護に仕事を任せたのです。   はじめのうちは、国内の年貢の半分ということで、戦うために必要な軍需米の分配のみをおこなっていたのですが、そのうち守護は土地の分配にまで手を出すようになります。そうなると、自然と武士たちは守護の前で頑張るようになります。将軍の前でいくら成果をあげても意味がないですし、自分の仕事を見ている人の前で努力するのは当たり前です。     その結果、武士たちはだんだん守護の家来のようになっていき、守護がそのうちその地域を支配するようなかたちとなり、守護の大名化、つまり、守護大名の成立へとつながっていくわけです。   以前の鎌倉幕府では、いくら面倒でも御恩と奉公の作業は将軍がおこなっていましたので、お互いうまくいっていたのですが、室町幕府ではその作業をすべて守護に任せてしまいました。そうなっても、しっかりと守護を支配するような体制があればよかったのですが、それがなかったので、結局は形だけの幕府になってしまったということです。
室町幕府の一番はじめの将軍はだれですか。
足利尊氏が室町幕府の一番はじめの将軍です。
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歴史
足利尊氏が室町幕府の一番はじめの将軍です。最初は、尊氏は弟の足利直義と一緒に政務をとっていました。つまり、二頭政治というものです。しかし、二人が仲良くやっていたのははじめだけで、そのうち対立が生まれてきます。それが表面化したのが1350年で、観応の擾乱とよばれています。   最終的なきっかけとなったのは、尊氏の側近である執事の高師直が直義に殺されたことです。よく歌舞伎や講談物に登場する高師直ですが、彼は尊氏の補佐をつとめていました。直義はだんだん尊氏に重用されつつある高師直のことを良く思わず、殺してしまうのです。   高師直を殺したことに腹を立てた尊氏は、弟の直義を毒殺してしまい、一応両成敗のような結果にはなったのですが、争いはそれだけでは終わらず、それから3年間も、幕府の中では争いが絶えず起きていました。   守護大名の成立について   観応の擾乱が起こっている時に、半済令というものが発令されます。これは、国内の年貢の半分を武士たちに分け与えるというものでしたが、本当は将軍が家来たちの奉公に対してお返しをするために、直接渡さなければいけないものなのに、抗争が起きていたというのも理由で、その権限を守護に与えてしまいました。   つまり、守護が国内の年貢の半分を徴収できる、ともとれるのです。将軍は、国内のすべての武士をくまなく監視しているわけではないので、誰にどれくらい分け与えればいいかなどわかるはずもありません。その点、守護は武士たちのことをよく知っていたので、守護に仕事を任せたのです。   はじめのうちは、国内の年貢の半分ということで、戦うために必要な軍需米の分配のみをおこなっていたのですが、そのうち守護は土地の分配にまで手を出すようになります。そうなると、自然と武士たちは守護の前で頑張るようになります。将軍の前でいくら成果をあげても意味がないですし、自分の仕事を見ている人の前で努力するのは当たり前です。     その結果、武士たちはだんだん守護の家来のようになっていき、守護がそのうちその地域を支配するようなかたちとなり、守護の大名化、つまり、守護大名の成立へとつながっていくわけです。   以前の鎌倉幕府では、いくら面倒でも御恩と奉公の作業は将軍がおこなっていましたので、お互いうまくいっていたのですが、室町幕府ではその作業をすべて守護に任せてしまいました。そうなっても、しっかりと守護を支配するような体制があればよかったのですが、それがなかったので、結局は形だけの幕府になってしまったということです。
高師直を殺したことに腹を立てた尊氏は、だれを毒殺しますか。
高師直を殺したことに腹を立てた尊氏は、弟の直義を毒殺してしまい、一応両成敗のような結果にはなったのですが、争いはそれだけでは終わらず、それから3年間も、幕府の中では争いが絶えず起きていました。
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歴史
足利尊氏が室町幕府の一番はじめの将軍です。最初は、尊氏は弟の足利直義と一緒に政務をとっていました。つまり、二頭政治というものです。しかし、二人が仲良くやっていたのははじめだけで、そのうち対立が生まれてきます。それが表面化したのが1350年で、観応の擾乱とよばれています。   最終的なきっかけとなったのは、尊氏の側近である執事の高師直が直義に殺されたことです。よく歌舞伎や講談物に登場する高師直ですが、彼は尊氏の補佐をつとめていました。直義はだんだん尊氏に重用されつつある高師直のことを良く思わず、殺してしまうのです。   高師直を殺したことに腹を立てた尊氏は、弟の直義を毒殺してしまい、一応両成敗のような結果にはなったのですが、争いはそれだけでは終わらず、それから3年間も、幕府の中では争いが絶えず起きていました。   守護大名の成立について   観応の擾乱が起こっている時に、半済令というものが発令されます。これは、国内の年貢の半分を武士たちに分け与えるというものでしたが、本当は将軍が家来たちの奉公に対してお返しをするために、直接渡さなければいけないものなのに、抗争が起きていたというのも理由で、その権限を守護に与えてしまいました。   つまり、守護が国内の年貢の半分を徴収できる、ともとれるのです。将軍は、国内のすべての武士をくまなく監視しているわけではないので、誰にどれくらい分け与えればいいかなどわかるはずもありません。その点、守護は武士たちのことをよく知っていたので、守護に仕事を任せたのです。   はじめのうちは、国内の年貢の半分ということで、戦うために必要な軍需米の分配のみをおこなっていたのですが、そのうち守護は土地の分配にまで手を出すようになります。そうなると、自然と武士たちは守護の前で頑張るようになります。将軍の前でいくら成果をあげても意味がないですし、自分の仕事を見ている人の前で努力するのは当たり前です。     その結果、武士たちはだんだん守護の家来のようになっていき、守護がそのうちその地域を支配するようなかたちとなり、守護の大名化、つまり、守護大名の成立へとつながっていくわけです。   以前の鎌倉幕府では、いくら面倒でも御恩と奉公の作業は将軍がおこなっていましたので、お互いうまくいっていたのですが、室町幕府ではその作業をすべて守護に任せてしまいました。そうなっても、しっかりと守護を支配するような体制があればよかったのですが、それがなかったので、結局は形だけの幕府になってしまったということです。
観応の擾乱が起こっている時に、発令されたものは何というものですか。
観応の擾乱が起こっている時に、半済令というものが発令されます。
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歴史
足利尊氏が室町幕府の一番はじめの将軍です。最初は、尊氏は弟の足利直義と一緒に政務をとっていました。つまり、二頭政治というものです。しかし、二人が仲良くやっていたのははじめだけで、そのうち対立が生まれてきます。それが表面化したのが1350年で、観応の擾乱とよばれています。   最終的なきっかけとなったのは、尊氏の側近である執事の高師直が直義に殺されたことです。よく歌舞伎や講談物に登場する高師直ですが、彼は尊氏の補佐をつとめていました。直義はだんだん尊氏に重用されつつある高師直のことを良く思わず、殺してしまうのです。   高師直を殺したことに腹を立てた尊氏は、弟の直義を毒殺してしまい、一応両成敗のような結果にはなったのですが、争いはそれだけでは終わらず、それから3年間も、幕府の中では争いが絶えず起きていました。   守護大名の成立について   観応の擾乱が起こっている時に、半済令というものが発令されます。これは、国内の年貢の半分を武士たちに分け与えるというものでしたが、本当は将軍が家来たちの奉公に対してお返しをするために、直接渡さなければいけないものなのに、抗争が起きていたというのも理由で、その権限を守護に与えてしまいました。   つまり、守護が国内の年貢の半分を徴収できる、ともとれるのです。将軍は、国内のすべての武士をくまなく監視しているわけではないので、誰にどれくらい分け与えればいいかなどわかるはずもありません。その点、守護は武士たちのことをよく知っていたので、守護に仕事を任せたのです。   はじめのうちは、国内の年貢の半分ということで、戦うために必要な軍需米の分配のみをおこなっていたのですが、そのうち守護は土地の分配にまで手を出すようになります。そうなると、自然と武士たちは守護の前で頑張るようになります。将軍の前でいくら成果をあげても意味がないですし、自分の仕事を見ている人の前で努力するのは当たり前です。     その結果、武士たちはだんだん守護の家来のようになっていき、守護がそのうちその地域を支配するようなかたちとなり、守護の大名化、つまり、守護大名の成立へとつながっていくわけです。   以前の鎌倉幕府では、いくら面倒でも御恩と奉公の作業は将軍がおこなっていましたので、お互いうまくいっていたのですが、室町幕府ではその作業をすべて守護に任せてしまいました。そうなっても、しっかりと守護を支配するような体制があればよかったのですが、それがなかったので、結局は形だけの幕府になってしまったということです。
自然と武士たちはだれの前で頑張るようになりますか。
自然と武士たちは守護の前で頑張るようになります。
JCRRAG_012653
歴史
南北朝合体、明との国交を樹立、守護の勢力削減の三つの事柄を、三代将軍である足利義満はやってのけます。まず最初に、1329年の南北朝合体についてです。   当初は、両者は特に仲が悪かったわけではなく、南朝は吉野に、北朝は京に存在していました。南朝のほうに天皇を象徴するものである三種の神器があったのですが、後亀山天皇と後小松天皇の二人が、それぞれ吉野と京で正当性を力説していて、中途半端な状態にありました。それを、義満がなんとかしようとしたわけです。   どうやったかというと、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に位を譲るというかたちで、二人の面目が保たれるように気をつけつつ、南北朝合体を成功させました。そのあとも後小松天皇は天皇のポストにいつづけることができるので、面子は潰されません。   南朝側は、納得しているかどうかは別として、天皇の位を自分から後小松に譲ってやったんだということで、前天皇として顔も立ちます。北朝側は三種の神器も一緒に手に入れることができるので、名実ともに一系の天皇として存続することができます。   納得の上合体することで、後亀山も後小松も将軍に対して敬意を表したので、三者全員にとって、すべてうまくまとまったということになります。南北朝合体という大仕事のあと、1394年に将軍職からおりた義満は、公家の最高位である太政大臣に就任しました。   さらに、朝廷の権威をバックにつけるためにも重要なステップなのですが、後小松天皇の准母(天皇の母に準ずる地位を認められた女性)が義満天皇の妻となりました。初期の室町幕府では、将軍職は自分が生きている間に誰かに譲るというのが普通でした。   自分が死んだあとに跡目争いが起こることを防ぐことができるからです。また、公家社会の中では征夷大将軍というのはそこまで高い地位でもなかったので、太政大臣という高い地位に就任することによって、将軍家の権力を絶対のものにしていくことにもなりました。
南朝と北朝はどこに存在していましたか。
南朝は吉野に、北朝は京に存在していました。
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歴史
南北朝合体、明との国交を樹立、守護の勢力削減の三つの事柄を、三代将軍である足利義満はやってのけます。まず最初に、1329年の南北朝合体についてです。   当初は、両者は特に仲が悪かったわけではなく、南朝は吉野に、北朝は京に存在していました。南朝のほうに天皇を象徴するものである三種の神器があったのですが、後亀山天皇と後小松天皇の二人が、それぞれ吉野と京で正当性を力説していて、中途半端な状態にありました。それを、義満がなんとかしようとしたわけです。   どうやったかというと、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に位を譲るというかたちで、二人の面目が保たれるように気をつけつつ、南北朝合体を成功させました。そのあとも後小松天皇は天皇のポストにいつづけることができるので、面子は潰されません。   南朝側は、納得しているかどうかは別として、天皇の位を自分から後小松に譲ってやったんだということで、前天皇として顔も立ちます。北朝側は三種の神器も一緒に手に入れることができるので、名実ともに一系の天皇として存続することができます。   納得の上合体することで、後亀山も後小松も将軍に対して敬意を表したので、三者全員にとって、すべてうまくまとまったということになります。南北朝合体という大仕事のあと、1394年に将軍職からおりた義満は、公家の最高位である太政大臣に就任しました。   さらに、朝廷の権威をバックにつけるためにも重要なステップなのですが、後小松天皇の准母(天皇の母に準ずる地位を認められた女性)が義満天皇の妻となりました。初期の室町幕府では、将軍職は自分が生きている間に誰かに譲るというのが普通でした。   自分が死んだあとに跡目争いが起こることを防ぐことができるからです。また、公家社会の中では征夷大将軍というのはそこまで高い地位でもなかったので、太政大臣という高い地位に就任することによって、将軍家の権力を絶対のものにしていくことにもなりました。
義満は、いつ公家の最高位である太政大臣に就任しましたか。
1394年に将軍職からおりた義満は、公家の最高位である太政大臣に就任しました。
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歴史
南北朝合体、明との国交を樹立、守護の勢力削減の三つの事柄を、三代将軍である足利義満はやってのけます。まず最初に、1329年の南北朝合体についてです。   当初は、両者は特に仲が悪かったわけではなく、南朝は吉野に、北朝は京に存在していました。南朝のほうに天皇を象徴するものである三種の神器があったのですが、後亀山天皇と後小松天皇の二人が、それぞれ吉野と京で正当性を力説していて、中途半端な状態にありました。それを、義満がなんとかしようとしたわけです。   どうやったかというと、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に位を譲るというかたちで、二人の面目が保たれるように気をつけつつ、南北朝合体を成功させました。そのあとも後小松天皇は天皇のポストにいつづけることができるので、面子は潰されません。   南朝側は、納得しているかどうかは別として、天皇の位を自分から後小松に譲ってやったんだということで、前天皇として顔も立ちます。北朝側は三種の神器も一緒に手に入れることができるので、名実ともに一系の天皇として存続することができます。   納得の上合体することで、後亀山も後小松も将軍に対して敬意を表したので、三者全員にとって、すべてうまくまとまったということになります。南北朝合体という大仕事のあと、1394年に将軍職からおりた義満は、公家の最高位である太政大臣に就任しました。   さらに、朝廷の権威をバックにつけるためにも重要なステップなのですが、後小松天皇の准母(天皇の母に準ずる地位を認められた女性)が義満天皇の妻となりました。初期の室町幕府では、将軍職は自分が生きている間に誰かに譲るというのが普通でした。   自分が死んだあとに跡目争いが起こることを防ぐことができるからです。また、公家社会の中では征夷大将軍というのはそこまで高い地位でもなかったので、太政大臣という高い地位に就任することによって、将軍家の権力を絶対のものにしていくことにもなりました。
公家社会の中では征夷大将軍というのは高い地位のものでしたか。
公家社会の中では征夷大将軍というのはそこまで高い地位でもなかったので、太政大臣という高い地位に就任することによって、将軍家の権力を絶対のものにしていくことにもなりました。
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歴史
中国で明が建国されたのは1368年のことです。久しぶりに漢民族による国家ができたので、明は古くからある中華思想的なものを復活させたいと思うようになります。そこで、近くの国々に対して協力を求めます。日本はそれをOKし、国交を1401年に樹立、その翌年の1402年に「日本国王源道義」という名前と、「大統暦」という暦をもらいます。   足利義満のことを「源道義」というのですが、これは、「あなたがただ一人の日本の国王である」ということを中国の王様に認めさせたということです。同時に、明の暦を与えられますが、つまり「明と同じ時間を共有し、両国は一心同体でやっていきましょう」という意味で、日本が中華思想の枠組みの中に組み込まれたということです。   これは、元が無理矢理服属させようとしてきたときとは、まったく異なります。明を建国した朱元璋は、漢民族の王朝の血筋を引いているわけではなかったので、ソフトに「中華思想の枠に入ってください」とお願いしにきただけだったので、足利義満にとっても都合のよいものでした。日本唯一の国王と中国から認められることは重要なのです。いまのが二つ目の政策でした。   明とは朝貢貿易というかたちではありましたが、貿易もおこなわれるようになりました。ぱっと見、日本が不利なように見えるのですが、そうではなく、交通費や滞在費は明が出してくれたので、日本から持ち出すものよりもっと多くのものを、明から得ることができたのです。   日明貿易では、お互いの勘合が合わなければ貿易はしてはいけないという規則があり、日本と明のどちらにも勘合という鑑札を持ってくるように義務づけられていたため、勘合貿易ともいわれていました。   なぜそうなったかというと、室町時代の初め、壱岐、対馬、肥前を拠点に海賊が周りの海を荒らしていて、彼らは倭寇とよばれていました。貿易をするには、海賊と本物の貿易船をきちんと見分ける必要があったため、そういった規則がうまれたのです。 守護の勢力削減   守護の勢力削減が、義満の三つ目の政策です。室町幕府はお世辞にもお金持ちとはいえませんでしたので、守護大名の中には、将軍家よりお金持ちがいたりしました。その勢力を削ごうという作戦です。   最初にターゲットになったのは、美濃、尾張、伊勢を支配下においていた守護大名の土岐康行です。1390年、土岐氏内部に対立が起こったときに、それにまぎれて滅ぼしてしまします(土岐氏の乱)。   その次に対象になったのは、山名氏清という人です。彼は十一カ国の守護大名で、大きな権力を持っていました。全国の六分の一をも支配下においていたので、六分一衆といわれていたほどです。これも同じように、1391年に山名氏の内部紛争を利用して倒してしまいます(明徳の乱)。   これだけでは終わらず、周防、長門、石見などの六カ国の守護を務めていた大内義弘が、幕府に対して反発します。結局、1399年、幕府側がこれを制して、大内氏の勢力を大幅に削減することに成功します(応永の乱)。   将軍職自体は四代将軍・義持に譲ってはいましたが、義満は守護をコントロールできるような体制をつくりあげていき、積極的に推し進めました。
中国で明が建国されたのはいつですか。
中国で明が建国されたのは1368年のことです。
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歴史
中国で明が建国されたのは1368年のことです。久しぶりに漢民族による国家ができたので、明は古くからある中華思想的なものを復活させたいと思うようになります。そこで、近くの国々に対して協力を求めます。日本はそれをOKし、国交を1401年に樹立、その翌年の1402年に「日本国王源道義」という名前と、「大統暦」という暦をもらいます。   足利義満のことを「源道義」というのですが、これは、「あなたがただ一人の日本の国王である」ということを中国の王様に認めさせたということです。同時に、明の暦を与えられますが、つまり「明と同じ時間を共有し、両国は一心同体でやっていきましょう」という意味で、日本が中華思想の枠組みの中に組み込まれたということです。   これは、元が無理矢理服属させようとしてきたときとは、まったく異なります。明を建国した朱元璋は、漢民族の王朝の血筋を引いているわけではなかったので、ソフトに「中華思想の枠に入ってください」とお願いしにきただけだったので、足利義満にとっても都合のよいものでした。日本唯一の国王と中国から認められることは重要なのです。いまのが二つ目の政策でした。   明とは朝貢貿易というかたちではありましたが、貿易もおこなわれるようになりました。ぱっと見、日本が不利なように見えるのですが、そうではなく、交通費や滞在費は明が出してくれたので、日本から持ち出すものよりもっと多くのものを、明から得ることができたのです。   日明貿易では、お互いの勘合が合わなければ貿易はしてはいけないという規則があり、日本と明のどちらにも勘合という鑑札を持ってくるように義務づけられていたため、勘合貿易ともいわれていました。   なぜそうなったかというと、室町時代の初め、壱岐、対馬、肥前を拠点に海賊が周りの海を荒らしていて、彼らは倭寇とよばれていました。貿易をするには、海賊と本物の貿易船をきちんと見分ける必要があったため、そういった規則がうまれたのです。 守護の勢力削減   守護の勢力削減が、義満の三つ目の政策です。室町幕府はお世辞にもお金持ちとはいえませんでしたので、守護大名の中には、将軍家よりお金持ちがいたりしました。その勢力を削ごうという作戦です。   最初にターゲットになったのは、美濃、尾張、伊勢を支配下においていた守護大名の土岐康行です。1390年、土岐氏内部に対立が起こったときに、それにまぎれて滅ぼしてしまします(土岐氏の乱)。   その次に対象になったのは、山名氏清という人です。彼は十一カ国の守護大名で、大きな権力を持っていました。全国の六分の一をも支配下においていたので、六分一衆といわれていたほどです。これも同じように、1391年に山名氏の内部紛争を利用して倒してしまいます(明徳の乱)。   これだけでは終わらず、周防、長門、石見などの六カ国の守護を務めていた大内義弘が、幕府に対して反発します。結局、1399年、幕府側がこれを制して、大内氏の勢力を大幅に削減することに成功します(応永の乱)。   将軍職自体は四代将軍・義持に譲ってはいましたが、義満は守護をコントロールできるような体制をつくりあげていき、積極的に推し進めました。
日明貿易では、どのような規則がありましたか。
日明貿易では、お互いの勘合が合わなければ貿易はしてはいけないという規則があり、日本と明のどちらにも勘合という鑑札を持ってくるように義務づけられていたため、勘合貿易ともいわれていました。
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歴史
中国で明が建国されたのは1368年のことです。久しぶりに漢民族による国家ができたので、明は古くからある中華思想的なものを復活させたいと思うようになります。そこで、近くの国々に対して協力を求めます。日本はそれをOKし、国交を1401年に樹立、その翌年の1402年に「日本国王源道義」という名前と、「大統暦」という暦をもらいます。   足利義満のことを「源道義」というのですが、これは、「あなたがただ一人の日本の国王である」ということを中国の王様に認めさせたということです。同時に、明の暦を与えられますが、つまり「明と同じ時間を共有し、両国は一心同体でやっていきましょう」という意味で、日本が中華思想の枠組みの中に組み込まれたということです。   これは、元が無理矢理服属させようとしてきたときとは、まったく異なります。明を建国した朱元璋は、漢民族の王朝の血筋を引いているわけではなかったので、ソフトに「中華思想の枠に入ってください」とお願いしにきただけだったので、足利義満にとっても都合のよいものでした。日本唯一の国王と中国から認められることは重要なのです。いまのが二つ目の政策でした。   明とは朝貢貿易というかたちではありましたが、貿易もおこなわれるようになりました。ぱっと見、日本が不利なように見えるのですが、そうではなく、交通費や滞在費は明が出してくれたので、日本から持ち出すものよりもっと多くのものを、明から得ることができたのです。   日明貿易では、お互いの勘合が合わなければ貿易はしてはいけないという規則があり、日本と明のどちらにも勘合という鑑札を持ってくるように義務づけられていたため、勘合貿易ともいわれていました。   なぜそうなったかというと、室町時代の初め、壱岐、対馬、肥前を拠点に海賊が周りの海を荒らしていて、彼らは倭寇とよばれていました。貿易をするには、海賊と本物の貿易船をきちんと見分ける必要があったため、そういった規則がうまれたのです。 守護の勢力削減   守護の勢力削減が、義満の三つ目の政策です。室町幕府はお世辞にもお金持ちとはいえませんでしたので、守護大名の中には、将軍家よりお金持ちがいたりしました。その勢力を削ごうという作戦です。   最初にターゲットになったのは、美濃、尾張、伊勢を支配下においていた守護大名の土岐康行です。1390年、土岐氏内部に対立が起こったときに、それにまぎれて滅ぼしてしまします(土岐氏の乱)。   その次に対象になったのは、山名氏清という人です。彼は十一カ国の守護大名で、大きな権力を持っていました。全国の六分の一をも支配下においていたので、六分一衆といわれていたほどです。これも同じように、1391年に山名氏の内部紛争を利用して倒してしまいます(明徳の乱)。   これだけでは終わらず、周防、長門、石見などの六カ国の守護を務めていた大内義弘が、幕府に対して反発します。結局、1399年、幕府側がこれを制して、大内氏の勢力を大幅に削減することに成功します(応永の乱)。   将軍職自体は四代将軍・義持に譲ってはいましたが、義満は守護をコントロールできるような体制をつくりあげていき、積極的に推し進めました。
貿易をする際なぜお互いの勘合が合わなければ貿易はしてはいけないという規則がうまれたのですか。
貿易をするには、海賊と本物の貿易船をきちんと見分ける必要があったため、そういった規則がうまれたのです。
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歴史
中国で明が建国されたのは1368年のことです。久しぶりに漢民族による国家ができたので、明は古くからある中華思想的なものを復活させたいと思うようになります。そこで、近くの国々に対して協力を求めます。日本はそれをOKし、国交を1401年に樹立、その翌年の1402年に「日本国王源道義」という名前と、「大統暦」という暦をもらいます。   足利義満のことを「源道義」というのですが、これは、「あなたがただ一人の日本の国王である」ということを中国の王様に認めさせたということです。同時に、明の暦を与えられますが、つまり「明と同じ時間を共有し、両国は一心同体でやっていきましょう」という意味で、日本が中華思想の枠組みの中に組み込まれたということです。   これは、元が無理矢理服属させようとしてきたときとは、まったく異なります。明を建国した朱元璋は、漢民族の王朝の血筋を引いているわけではなかったので、ソフトに「中華思想の枠に入ってください」とお願いしにきただけだったので、足利義満にとっても都合のよいものでした。日本唯一の国王と中国から認められることは重要なのです。いまのが二つ目の政策でした。   明とは朝貢貿易というかたちではありましたが、貿易もおこなわれるようになりました。ぱっと見、日本が不利なように見えるのですが、そうではなく、交通費や滞在費は明が出してくれたので、日本から持ち出すものよりもっと多くのものを、明から得ることができたのです。   日明貿易では、お互いの勘合が合わなければ貿易はしてはいけないという規則があり、日本と明のどちらにも勘合という鑑札を持ってくるように義務づけられていたため、勘合貿易ともいわれていました。   なぜそうなったかというと、室町時代の初め、壱岐、対馬、肥前を拠点に海賊が周りの海を荒らしていて、彼らは倭寇とよばれていました。貿易をするには、海賊と本物の貿易船をきちんと見分ける必要があったため、そういった規則がうまれたのです。 守護の勢力削減   守護の勢力削減が、義満の三つ目の政策です。室町幕府はお世辞にもお金持ちとはいえませんでしたので、守護大名の中には、将軍家よりお金持ちがいたりしました。その勢力を削ごうという作戦です。   最初にターゲットになったのは、美濃、尾張、伊勢を支配下においていた守護大名の土岐康行です。1390年、土岐氏内部に対立が起こったときに、それにまぎれて滅ぼしてしまします(土岐氏の乱)。   その次に対象になったのは、山名氏清という人です。彼は十一カ国の守護大名で、大きな権力を持っていました。全国の六分の一をも支配下においていたので、六分一衆といわれていたほどです。これも同じように、1391年に山名氏の内部紛争を利用して倒してしまいます(明徳の乱)。   これだけでは終わらず、周防、長門、石見などの六カ国の守護を務めていた大内義弘が、幕府に対して反発します。結局、1399年、幕府側がこれを制して、大内氏の勢力を大幅に削減することに成功します(応永の乱)。   将軍職自体は四代将軍・義持に譲ってはいましたが、義満は守護をコントロールできるような体制をつくりあげていき、積極的に推し進めました。
明を建国した朱元璋は、漢民族の王朝の血筋を引いているわけではなかったので、何をお願いしにきましたか。
明を建国した朱元璋は、漢民族の王朝の血筋を引いているわけではなかったので、ソフトに「中華思想の枠に入ってください」とお願いしにきただけだったので、足利義満にとっても都合のよいものでした。
JCRRAG_012660
歴史
中国で明が建国されたのは1368年のことです。久しぶりに漢民族による国家ができたので、明は古くからある中華思想的なものを復活させたいと思うようになります。そこで、近くの国々に対して協力を求めます。日本はそれをOKし、国交を1401年に樹立、その翌年の1402年に「日本国王源道義」という名前と、「大統暦」という暦をもらいます。   足利義満のことを「源道義」というのですが、これは、「あなたがただ一人の日本の国王である」ということを中国の王様に認めさせたということです。同時に、明の暦を与えられますが、つまり「明と同じ時間を共有し、両国は一心同体でやっていきましょう」という意味で、日本が中華思想の枠組みの中に組み込まれたということです。   これは、元が無理矢理服属させようとしてきたときとは、まったく異なります。明を建国した朱元璋は、漢民族の王朝の血筋を引いているわけではなかったので、ソフトに「中華思想の枠に入ってください」とお願いしにきただけだったので、足利義満にとっても都合のよいものでした。日本唯一の国王と中国から認められることは重要なのです。いまのが二つ目の政策でした。   明とは朝貢貿易というかたちではありましたが、貿易もおこなわれるようになりました。ぱっと見、日本が不利なように見えるのですが、そうではなく、交通費や滞在費は明が出してくれたので、日本から持ち出すものよりもっと多くのものを、明から得ることができたのです。   日明貿易では、お互いの勘合が合わなければ貿易はしてはいけないという規則があり、日本と明のどちらにも勘合という鑑札を持ってくるように義務づけられていたため、勘合貿易ともいわれていました。   なぜそうなったかというと、室町時代の初め、壱岐、対馬、肥前を拠点に海賊が周りの海を荒らしていて、彼らは倭寇とよばれていました。貿易をするには、海賊と本物の貿易船をきちんと見分ける必要があったため、そういった規則がうまれたのです。 守護の勢力削減   守護の勢力削減が、義満の三つ目の政策です。室町幕府はお世辞にもお金持ちとはいえませんでしたので、守護大名の中には、将軍家よりお金持ちがいたりしました。その勢力を削ごうという作戦です。   最初にターゲットになったのは、美濃、尾張、伊勢を支配下においていた守護大名の土岐康行です。1390年、土岐氏内部に対立が起こったときに、それにまぎれて滅ぼしてしまします(土岐氏の乱)。   その次に対象になったのは、山名氏清という人です。彼は十一カ国の守護大名で、大きな権力を持っていました。全国の六分の一をも支配下においていたので、六分一衆といわれていたほどです。これも同じように、1391年に山名氏の内部紛争を利用して倒してしまいます(明徳の乱)。   これだけでは終わらず、周防、長門、石見などの六カ国の守護を務めていた大内義弘が、幕府に対して反発します。結局、1399年、幕府側がこれを制して、大内氏の勢力を大幅に削減することに成功します(応永の乱)。   将軍職自体は四代将軍・義持に譲ってはいましたが、義満は守護をコントロールできるような体制をつくりあげていき、積極的に推し進めました。
明と日本の国交はいつ樹立しましたか。
日本はそれをOKし、国交を1401年に樹立、その翌年の1402年に「日本国王源道義」という名前と、「大統暦」という暦をもらいます。
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歴史
1394年に将軍職を息子の足利義持に譲った足利義満ですが、実際に権力を持っていたのは義満のほうでした。しかし、その義満も1408年に死去し、義持だけの時代がきましたが、その頃から少しずつ室町幕府の体制に揺らぎがみられるようになります。   まず最初に、義持は1411年に明との国交を断絶します。理由は朝貢というかたちに疑問を抱いていたからでした。ずっと後の1432年に、六代将軍である義教が国交を復活させましたが、その頃は将軍から有力な守護大名に貿易の実権が移っていました。将軍の権力がだんだん弱くなっていたからです。   とくに日明貿易を経て力をつけていったのは、山口を拠点に活動していた大内氏や、管領だった細川氏です。このあと、1416年から17年にかけて、鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉禅秀(氏憲)とが敵対し、上杉禅秀の乱が勃発します。   一旦、簡潔に室町幕府の組織について説明をいれておきます。まず、将軍の下には管領という補佐役がいて、任命されていたのは細川、斯波、畠山氏の中からでした。この三氏は三管領といわれていました。   管領のもとには鎌倉幕府と同じような役職があって、例えば侍所、政所、評定衆といったものですが、それぞれやることは少しずつ違っていました。次に、地方機関についてですが、旧幕府があった鎌倉には鎌倉府が設置され、鎌倉公方がそこの長官で、関東管領がそれをサポートしていました。鎌倉以外には、九州探題、奥州探題、羽州探題が設置されています。   つまり、本当は足並みをそろえつつ、鎌倉公方と関東管領は地方行政をおこなっていくべきなのですが、関東管領である上杉禅秀が、鎌倉公方である足利持氏に反発したのが上杉禅秀の乱です。これは結局成功はしませんでしたが、一時は関東中に混乱が広がり、しばらく鎌倉公方と関東管領の対立が続くこととなりました。 思考プロセスを表示
足利義満はいつ将軍職を息子の足利義持に譲りましたか。
1394年に将軍職を息子の足利義持に譲った足利義満ですが、実際に権力を持っていたのは義満のほうでした。
JCRRAG_012662
歴史
1394年に将軍職を息子の足利義持に譲った足利義満ですが、実際に権力を持っていたのは義満のほうでした。しかし、その義満も1408年に死去し、義持だけの時代がきましたが、その頃から少しずつ室町幕府の体制に揺らぎがみられるようになります。   まず最初に、義持は1411年に明との国交を断絶します。理由は朝貢というかたちに疑問を抱いていたからでした。ずっと後の1432年に、六代将軍である義教が国交を復活させましたが、その頃は将軍から有力な守護大名に貿易の実権が移っていました。将軍の権力がだんだん弱くなっていたからです。   とくに日明貿易を経て力をつけていったのは、山口を拠点に活動していた大内氏や、管領だった細川氏です。このあと、1416年から17年にかけて、鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉禅秀(氏憲)とが敵対し、上杉禅秀の乱が勃発します。   一旦、簡潔に室町幕府の組織について説明をいれておきます。まず、将軍の下には管領という補佐役がいて、任命されていたのは細川、斯波、畠山氏の中からでした。この三氏は三管領といわれていました。   管領のもとには鎌倉幕府と同じような役職があって、例えば侍所、政所、評定衆といったものですが、それぞれやることは少しずつ違っていました。次に、地方機関についてですが、旧幕府があった鎌倉には鎌倉府が設置され、鎌倉公方がそこの長官で、関東管領がそれをサポートしていました。鎌倉以外には、九州探題、奥州探題、羽州探題が設置されています。   つまり、本当は足並みをそろえつつ、鎌倉公方と関東管領は地方行政をおこなっていくべきなのですが、関東管領である上杉禅秀が、鎌倉公方である足利持氏に反発したのが上杉禅秀の乱です。これは結局成功はしませんでしたが、一時は関東中に混乱が広がり、しばらく鎌倉公方と関東管領の対立が続くこととなりました。 思考プロセスを表示
義持はいつ明との国交を断絶しますか。
義持は1411年に明との国交を断絶します。
JCRRAG_012663
歴史
1394年に将軍職を息子の足利義持に譲った足利義満ですが、実際に権力を持っていたのは義満のほうでした。しかし、その義満も1408年に死去し、義持だけの時代がきましたが、その頃から少しずつ室町幕府の体制に揺らぎがみられるようになります。   まず最初に、義持は1411年に明との国交を断絶します。理由は朝貢というかたちに疑問を抱いていたからでした。ずっと後の1432年に、六代将軍である義教が国交を復活させましたが、その頃は将軍から有力な守護大名に貿易の実権が移っていました。将軍の権力がだんだん弱くなっていたからです。   とくに日明貿易を経て力をつけていったのは、山口を拠点に活動していた大内氏や、管領だった細川氏です。このあと、1416年から17年にかけて、鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉禅秀(氏憲)とが敵対し、上杉禅秀の乱が勃発します。   一旦、簡潔に室町幕府の組織について説明をいれておきます。まず、将軍の下には管領という補佐役がいて、任命されていたのは細川、斯波、畠山氏の中からでした。この三氏は三管領といわれていました。   管領のもとには鎌倉幕府と同じような役職があって、例えば侍所、政所、評定衆といったものですが、それぞれやることは少しずつ違っていました。次に、地方機関についてですが、旧幕府があった鎌倉には鎌倉府が設置され、鎌倉公方がそこの長官で、関東管領がそれをサポートしていました。鎌倉以外には、九州探題、奥州探題、羽州探題が設置されています。   つまり、本当は足並みをそろえつつ、鎌倉公方と関東管領は地方行政をおこなっていくべきなのですが、関東管領である上杉禅秀が、鎌倉公方である足利持氏に反発したのが上杉禅秀の乱です。これは結局成功はしませんでしたが、一時は関東中に混乱が広がり、しばらく鎌倉公方と関東管領の対立が続くこととなりました。 思考プロセスを表示
1432年に、国交を復活させたのはだれですか。
1432年に、六代将軍である義教が国交を復活させましたが、その頃は将軍から有力な守護大名に貿易の実権が移っていました。
JCRRAG_012664
歴史
1428年に、四代将軍である義持が亡くなりますが、六代将軍に就いたのが足利義教でした。彼は三代・義満の子ですが、出家して延暦寺天台座主という地位に就いていました。が、ある事情で、還俗して将軍にならなければいけなくなりました。   その事情とは、五代の義量は若くして父親より先に亡くなってしまい、しばらく将軍がいない時期がありました。この時代は将軍が生きている間に位を次に譲っていたので、ちょっとややこしいのです。   将軍は直系が継ぐのが普通になっていたため、空白の時間がありました。結局、四代の義持は誰にも位を譲ることなく死んでしまいましたので、六代将軍を決めるのにくじ引きを適用しました。それで当たったのが義教だったので、「くじ将軍」とよばれたりしました。   この就任と同じくらいの時期に、徳政、つまり借金の帳消しを求める一揆が起こりました。これは正長の徳政一揆とよばれているのですが、結局は鎮圧されます。問題は、そのあとの義教の政治に対する姿勢でした。   義教は将軍としてはそこまで技量も力もなかったので、権力はあるのに中身が伴ってないところがありました。「くじ引きで当たっただけの将軍」だなんて言われたくないものですから、よけいに気張りすぎたのか、自分に対して少しでも逆らったものには容赦なく厳罰を下すという、極度の恐怖政治をするようになってしまいました。
いつ四代将軍である義持が亡くなりますか。
1428年に、四代将軍である義持が亡くなりますが、六代将軍に就いたのが足利義教でした。
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歴史
1428年に、四代将軍である義持が亡くなりますが、六代将軍に就いたのが足利義教でした。彼は三代・義満の子ですが、出家して延暦寺天台座主という地位に就いていました。が、ある事情で、還俗して将軍にならなければいけなくなりました。   その事情とは、五代の義量は若くして父親より先に亡くなってしまい、しばらく将軍がいない時期がありました。この時代は将軍が生きている間に位を次に譲っていたので、ちょっとややこしいのです。   将軍は直系が継ぐのが普通になっていたため、空白の時間がありました。結局、四代の義持は誰にも位を譲ることなく死んでしまいましたので、六代将軍を決めるのにくじ引きを適用しました。それで当たったのが義教だったので、「くじ将軍」とよばれたりしました。   この就任と同じくらいの時期に、徳政、つまり借金の帳消しを求める一揆が起こりました。これは正長の徳政一揆とよばれているのですが、結局は鎮圧されます。問題は、そのあとの義教の政治に対する姿勢でした。   義教は将軍としてはそこまで技量も力もなかったので、権力はあるのに中身が伴ってないところがありました。「くじ引きで当たっただけの将軍」だなんて言われたくないものですから、よけいに気張りすぎたのか、自分に対して少しでも逆らったものには容赦なく厳罰を下すという、極度の恐怖政治をするようになってしまいました。
将軍はだれが継ぐのが普通でしたか。
将軍は直系が継ぐのが普通になっていたため、空白の時間がありました。
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歴史
1428年に、四代将軍である義持が亡くなりますが、六代将軍に就いたのが足利義教でした。彼は三代・義満の子ですが、出家して延暦寺天台座主という地位に就いていました。が、ある事情で、還俗して将軍にならなければいけなくなりました。   その事情とは、五代の義量は若くして父親より先に亡くなってしまい、しばらく将軍がいない時期がありました。この時代は将軍が生きている間に位を次に譲っていたので、ちょっとややこしいのです。   将軍は直系が継ぐのが普通になっていたため、空白の時間がありました。結局、四代の義持は誰にも位を譲ることなく死んでしまいましたので、六代将軍を決めるのにくじ引きを適用しました。それで当たったのが義教だったので、「くじ将軍」とよばれたりしました。   この就任と同じくらいの時期に、徳政、つまり借金の帳消しを求める一揆が起こりました。これは正長の徳政一揆とよばれているのですが、結局は鎮圧されます。問題は、そのあとの義教の政治に対する姿勢でした。   義教は将軍としてはそこまで技量も力もなかったので、権力はあるのに中身が伴ってないところがありました。「くじ引きで当たっただけの将軍」だなんて言われたくないものですから、よけいに気張りすぎたのか、自分に対して少しでも逆らったものには容赦なく厳罰を下すという、極度の恐怖政治をするようになってしまいました。
義教は将軍として技量や力はありましたか。
義教は将軍としてはそこまで技量も力もなかったので、権力はあるのに中身が伴ってないところがありました。
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歴史
そのような恐怖政治を続けていては、当然反発がおこってきます。1438年から39年にかけて、それが顕著にあらわれだしました。これを永享の乱といいます。これは、鎌倉公方と関東管領の対立がふたたび起こってしまったということになります。   関東管領は上杉憲実ですが、鎌倉公方のほうは同じく足利持氏でした。持氏は将軍である義教の命令を聞かない人間で、義教にとっては扱いづらく、こちらでも対立が起こっていましたので、自然と義教は上杉憲実側につくことになりました。なので、永享の乱のときは、上杉憲実側に幕府が味方して、足利持氏を討伐してしまいました。   永享の乱が起きたことで、上杉憲実が関東での権力を持ったことについて反発が起こり、1440年に結城合戦が勃発します。足利持氏の子を立てて結城氏朝が反乱を起こしたのですが、結局鎮圧されてしまいます。   つまり、この時点で関東は将軍・足利義教の言うことを聞かなくなってきたということが分かります。 将軍の権威が失墜する   そして、このあと、ある大事件が起きます。なんと、将軍・義教が播磨の守護・赤松満祐に暗殺されてしまうのです。これを1441年に起こった嘉吉の変といいます。「ずっと恐怖政治が続いていたら、いつか自分もつぶされてしまうかもしれない。それならいっそのこと、こちらから・・・」と考えた赤松満祐が、自分の家に将軍を招待して、手配の者に殺させて、その上火を放ちました。これは将軍家はじまって以来の大惨事です。   結局、追討軍によって赤松満祐も倒されてしまうのですが、幕府の威光はますます衰退していきました。その後、七代目として義勝が将軍に就任しますが、将軍が代変わりするタイミングを狙って、嘉吉の徳政一揆というものが起こります。   これは、文字通り徳政令を求めて起こした一揆なのですが、義勝はそれを認めてしまい、徳政令を出してしまいます。つまりこれは、将軍の権威が衰えていたからこそ起こったことです。幕府が土一揆(農民などの反抗行動)に従ったのですから。
1438年から39年にかけて、起きた乱はなにといいますか。
永享の乱といいます。
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歴史
そのような恐怖政治を続けていては、当然反発がおこってきます。1438年から39年にかけて、それが顕著にあらわれだしました。これを永享の乱といいます。これは、鎌倉公方と関東管領の対立がふたたび起こってしまったということになります。   関東管領は上杉憲実ですが、鎌倉公方のほうは同じく足利持氏でした。持氏は将軍である義教の命令を聞かない人間で、義教にとっては扱いづらく、こちらでも対立が起こっていましたので、自然と義教は上杉憲実側につくことになりました。なので、永享の乱のときは、上杉憲実側に幕府が味方して、足利持氏を討伐してしまいました。   永享の乱が起きたことで、上杉憲実が関東での権力を持ったことについて反発が起こり、1440年に結城合戦が勃発します。足利持氏の子を立てて結城氏朝が反乱を起こしたのですが、結局鎮圧されてしまいます。   つまり、この時点で関東は将軍・足利義教の言うことを聞かなくなってきたということが分かります。 将軍の権威が失墜する   そして、このあと、ある大事件が起きます。なんと、将軍・義教が播磨の守護・赤松満祐に暗殺されてしまうのです。これを1441年に起こった嘉吉の変といいます。「ずっと恐怖政治が続いていたら、いつか自分もつぶされてしまうかもしれない。それならいっそのこと、こちらから・・・」と考えた赤松満祐が、自分の家に将軍を招待して、手配の者に殺させて、その上火を放ちました。これは将軍家はじまって以来の大惨事です。   結局、追討軍によって赤松満祐も倒されてしまうのですが、幕府の威光はますます衰退していきました。その後、七代目として義勝が将軍に就任しますが、将軍が代変わりするタイミングを狙って、嘉吉の徳政一揆というものが起こります。   これは、文字通り徳政令を求めて起こした一揆なのですが、義勝はそれを認めてしまい、徳政令を出してしまいます。つまりこれは、将軍の権威が衰えていたからこそ起こったことです。幕府が土一揆(農民などの反抗行動)に従ったのですから。
持氏は将軍である義教の命令を聞く人間ですか。
持氏は将軍である義教の命令を聞かない人間で、義教にとっては扱いづらく、こちらでも対立が起こっていましたので、自然と義教は上杉憲実側につくことになりました。
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歴史
そのような恐怖政治を続けていては、当然反発がおこってきます。1438年から39年にかけて、それが顕著にあらわれだしました。これを永享の乱といいます。これは、鎌倉公方と関東管領の対立がふたたび起こってしまったということになります。   関東管領は上杉憲実ですが、鎌倉公方のほうは同じく足利持氏でした。持氏は将軍である義教の命令を聞かない人間で、義教にとっては扱いづらく、こちらでも対立が起こっていましたので、自然と義教は上杉憲実側につくことになりました。なので、永享の乱のときは、上杉憲実側に幕府が味方して、足利持氏を討伐してしまいました。   永享の乱が起きたことで、上杉憲実が関東での権力を持ったことについて反発が起こり、1440年に結城合戦が勃発します。足利持氏の子を立てて結城氏朝が反乱を起こしたのですが、結局鎮圧されてしまいます。   つまり、この時点で関東は将軍・足利義教の言うことを聞かなくなってきたということが分かります。 将軍の権威が失墜する   そして、このあと、ある大事件が起きます。なんと、将軍・義教が播磨の守護・赤松満祐に暗殺されてしまうのです。これを1441年に起こった嘉吉の変といいます。「ずっと恐怖政治が続いていたら、いつか自分もつぶされてしまうかもしれない。それならいっそのこと、こちらから・・・」と考えた赤松満祐が、自分の家に将軍を招待して、手配の者に殺させて、その上火を放ちました。これは将軍家はじまって以来の大惨事です。   結局、追討軍によって赤松満祐も倒されてしまうのですが、幕府の威光はますます衰退していきました。その後、七代目として義勝が将軍に就任しますが、将軍が代変わりするタイミングを狙って、嘉吉の徳政一揆というものが起こります。   これは、文字通り徳政令を求めて起こした一揆なのですが、義勝はそれを認めてしまい、徳政令を出してしまいます。つまりこれは、将軍の権威が衰えていたからこそ起こったことです。幕府が土一揆(農民などの反抗行動)に従ったのですから。
1441年に起こった変をなにといいますか。
1441年に起こった嘉吉の変といいます。
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歴史
そのような恐怖政治を続けていては、当然反発がおこってきます。1438年から39年にかけて、それが顕著にあらわれだしました。これを永享の乱といいます。これは、鎌倉公方と関東管領の対立がふたたび起こってしまったということになります。   関東管領は上杉憲実ですが、鎌倉公方のほうは同じく足利持氏でした。持氏は将軍である義教の命令を聞かない人間で、義教にとっては扱いづらく、こちらでも対立が起こっていましたので、自然と義教は上杉憲実側につくことになりました。なので、永享の乱のときは、上杉憲実側に幕府が味方して、足利持氏を討伐してしまいました。   永享の乱が起きたことで、上杉憲実が関東での権力を持ったことについて反発が起こり、1440年に結城合戦が勃発します。足利持氏の子を立てて結城氏朝が反乱を起こしたのですが、結局鎮圧されてしまいます。   つまり、この時点で関東は将軍・足利義教の言うことを聞かなくなってきたということが分かります。 将軍の権威が失墜する   そして、このあと、ある大事件が起きます。なんと、将軍・義教が播磨の守護・赤松満祐に暗殺されてしまうのです。これを1441年に起こった嘉吉の変といいます。「ずっと恐怖政治が続いていたら、いつか自分もつぶされてしまうかもしれない。それならいっそのこと、こちらから・・・」と考えた赤松満祐が、自分の家に将軍を招待して、手配の者に殺させて、その上火を放ちました。これは将軍家はじまって以来の大惨事です。   結局、追討軍によって赤松満祐も倒されてしまうのですが、幕府の威光はますます衰退していきました。その後、七代目として義勝が将軍に就任しますが、将軍が代変わりするタイミングを狙って、嘉吉の徳政一揆というものが起こります。   これは、文字通り徳政令を求めて起こした一揆なのですが、義勝はそれを認めてしまい、徳政令を出してしまいます。つまりこれは、将軍の権威が衰えていたからこそ起こったことです。幕府が土一揆(農民などの反抗行動)に従ったのですから。
赤松満祐はだれによって倒されますか。
追討軍によって赤松満祐も倒されてしまうのですが、幕府の威光はますます衰退していきました。
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歴史
八代将軍・足利義政の時代に、応仁の乱が起こります。これはいわゆる将軍の後継争いでした。義政の子の義尚を将軍にしたいと考えていた母親・日野富子を軸にした勢力と、義政の弟の義視を将軍として立てようとした勢力、また、管領家などの跡目争いがそれと一緒になって、1467年から77年まで11年間も戦争状態が続きました。 一応、義尚が次の将軍になるのですが、しばらく不安定な状況が続きます。また、大規模な一揆が義尚の時代に起きました。山城国一揆が1485年に勃発して、山城の国人(地元に住み続けていた武士、地侍)が南山城の畠山氏を追い払い、そのあと自治支配が8年間続きました。 加賀の一向一揆は、1488年に勃発しましたが、これは一向宗(浄土真宗)の門徒衆が起こしたものでした。加賀の守護である富樫政親を討伐して、門徒や僧、国人たちによる連合政権を樹立し、1世紀にもわたって加賀地方を本願寺が制することとなりました。 応仁の乱が起きた後は、日本全国をすべてひっくるめて治める政権がなくなってしまった状況だったので、とても混乱していました。 戦国大名が割拠する世界  そして、ここからが戦国時代のはじまりです。戦国大名が支配していた地域のことを分国(領国)といいます。各地で登場した戦国大名が分国を支配していき、周りの地域と武力による戦争を繰り広げていく時代です。 非常に込み入った時代ですので、戦国時代を時系列で見ていくことはしません。本書の目的からも逸れてしまいますので、地方別に有名な、または特徴のある戦国大名を簡潔に紹介していくことにします。  まず、伊達政宗は、東北地方で有名な戦国大名です。伊達氏は守護大名からではなく、国人出身なので、地元に土着していた武士が名を上げたケースです。地域に密着した武士が戦国大名として有名になっていくことは珍しくありませんでした。   鎌倉時代の北条氏とはまた別系統ですが、関東地方では、北条早雲とその一族が、小田原を拠点にもりもりと力をつけていきました。その頃、関東には鎌倉公方がいましたが、それは足利幕府の役職で、堀越公方と古河公方の二つに分かれていました。 そのほかに、関東管領の上杉氏もいて、こちらも扇谷上杉と山内上杉の二つに分裂していましたが、北条氏はそれらを抑圧することで、関東圏の支配力を高めていったのです。越後(いまの新潟県)の守護である山内上杉は、関東管領の仕事があったので、多くの時間、鎌倉にいましたが、それでは越後の管理が行き届かなくなります。 それではいけないということで、守護代といって、かわりに守護の仕事をしてくれる人を置くことにします。地元で家臣たちをまとめる仕事をするのが守護代ですから、結果的に代理である守護代が戦国大名になっていくケースがとても多かったのです。 長尾景虎という人が、越後で上杉の守護代を務めていましたが、彼は上杉憲政の養子になって家督を継ぎ、上杉を名乗るようになり、上杉謙信となっていきます。この上杉謙信と仲が悪かったのが、武田信玄で、彼は甲斐・信濃(山梨・長崎県)の大名を務めていました。 信玄は守護の出身で、川中島で謙信と戦うことになります。今川氏も守護出身で、遠江・駿河(いまの静岡県)を支配しました。中部地方では、尾張の織田氏が有名です。北陸地方では、越前(福井県)を支配した朝倉氏が有名です。一乗谷を拠点とした朝倉でしたが、早いうちから家臣に城下町で生活することを命令したことで世に知られています。
応仁の乱が起きたのはいつの時代ですか。
八代将軍・足利義政の時代に、応仁の乱が起こります。
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歴史
八代将軍・足利義政の時代に、応仁の乱が起こります。これはいわゆる将軍の後継争いでした。義政の子の義尚を将軍にしたいと考えていた母親・日野富子を軸にした勢力と、義政の弟の義視を将軍として立てようとした勢力、また、管領家などの跡目争いがそれと一緒になって、1467年から77年まで11年間も戦争状態が続きました。 一応、義尚が次の将軍になるのですが、しばらく不安定な状況が続きます。また、大規模な一揆が義尚の時代に起きました。山城国一揆が1485年に勃発して、山城の国人(地元に住み続けていた武士、地侍)が南山城の畠山氏を追い払い、そのあと自治支配が8年間続きました。 加賀の一向一揆は、1488年に勃発しましたが、これは一向宗(浄土真宗)の門徒衆が起こしたものでした。加賀の守護である富樫政親を討伐して、門徒や僧、国人たちによる連合政権を樹立し、1世紀にもわたって加賀地方を本願寺が制することとなりました。 応仁の乱が起きた後は、日本全国をすべてひっくるめて治める政権がなくなってしまった状況だったので、とても混乱していました。 戦国大名が割拠する世界  そして、ここからが戦国時代のはじまりです。戦国大名が支配していた地域のことを分国(領国)といいます。各地で登場した戦国大名が分国を支配していき、周りの地域と武力による戦争を繰り広げていく時代です。 非常に込み入った時代ですので、戦国時代を時系列で見ていくことはしません。本書の目的からも逸れてしまいますので、地方別に有名な、または特徴のある戦国大名を簡潔に紹介していくことにします。  まず、伊達政宗は、東北地方で有名な戦国大名です。伊達氏は守護大名からではなく、国人出身なので、地元に土着していた武士が名を上げたケースです。地域に密着した武士が戦国大名として有名になっていくことは珍しくありませんでした。   鎌倉時代の北条氏とはまた別系統ですが、関東地方では、北条早雲とその一族が、小田原を拠点にもりもりと力をつけていきました。その頃、関東には鎌倉公方がいましたが、それは足利幕府の役職で、堀越公方と古河公方の二つに分かれていました。 そのほかに、関東管領の上杉氏もいて、こちらも扇谷上杉と山内上杉の二つに分裂していましたが、北条氏はそれらを抑圧することで、関東圏の支配力を高めていったのです。越後(いまの新潟県)の守護である山内上杉は、関東管領の仕事があったので、多くの時間、鎌倉にいましたが、それでは越後の管理が行き届かなくなります。 それではいけないということで、守護代といって、かわりに守護の仕事をしてくれる人を置くことにします。地元で家臣たちをまとめる仕事をするのが守護代ですから、結果的に代理である守護代が戦国大名になっていくケースがとても多かったのです。 長尾景虎という人が、越後で上杉の守護代を務めていましたが、彼は上杉憲政の養子になって家督を継ぎ、上杉を名乗るようになり、上杉謙信となっていきます。この上杉謙信と仲が悪かったのが、武田信玄で、彼は甲斐・信濃(山梨・長崎県)の大名を務めていました。 信玄は守護の出身で、川中島で謙信と戦うことになります。今川氏も守護出身で、遠江・駿河(いまの静岡県)を支配しました。中部地方では、尾張の織田氏が有名です。北陸地方では、越前(福井県)を支配した朝倉氏が有名です。一乗谷を拠点とした朝倉でしたが、早いうちから家臣に城下町で生活することを命令したことで世に知られています。
山城国一揆は、いつ勃発しましたか。
山城国一揆が1485年に勃発して、山城の国人(地元に住み続けていた武士、地侍)が南山城の畠山氏を追い払い、そのあと自治支配が8年間続きました。
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歴史
八代将軍・足利義政の時代に、応仁の乱が起こります。これはいわゆる将軍の後継争いでした。義政の子の義尚を将軍にしたいと考えていた母親・日野富子を軸にした勢力と、義政の弟の義視を将軍として立てようとした勢力、また、管領家などの跡目争いがそれと一緒になって、1467年から77年まで11年間も戦争状態が続きました。 一応、義尚が次の将軍になるのですが、しばらく不安定な状況が続きます。また、大規模な一揆が義尚の時代に起きました。山城国一揆が1485年に勃発して、山城の国人(地元に住み続けていた武士、地侍)が南山城の畠山氏を追い払い、そのあと自治支配が8年間続きました。 加賀の一向一揆は、1488年に勃発しましたが、これは一向宗(浄土真宗)の門徒衆が起こしたものでした。加賀の守護である富樫政親を討伐して、門徒や僧、国人たちによる連合政権を樹立し、1世紀にもわたって加賀地方を本願寺が制することとなりました。 応仁の乱が起きた後は、日本全国をすべてひっくるめて治める政権がなくなってしまった状況だったので、とても混乱していました。 戦国大名が割拠する世界  そして、ここからが戦国時代のはじまりです。戦国大名が支配していた地域のことを分国(領国)といいます。各地で登場した戦国大名が分国を支配していき、周りの地域と武力による戦争を繰り広げていく時代です。 非常に込み入った時代ですので、戦国時代を時系列で見ていくことはしません。本書の目的からも逸れてしまいますので、地方別に有名な、または特徴のある戦国大名を簡潔に紹介していくことにします。  まず、伊達政宗は、東北地方で有名な戦国大名です。伊達氏は守護大名からではなく、国人出身なので、地元に土着していた武士が名を上げたケースです。地域に密着した武士が戦国大名として有名になっていくことは珍しくありませんでした。   鎌倉時代の北条氏とはまた別系統ですが、関東地方では、北条早雲とその一族が、小田原を拠点にもりもりと力をつけていきました。その頃、関東には鎌倉公方がいましたが、それは足利幕府の役職で、堀越公方と古河公方の二つに分かれていました。 そのほかに、関東管領の上杉氏もいて、こちらも扇谷上杉と山内上杉の二つに分裂していましたが、北条氏はそれらを抑圧することで、関東圏の支配力を高めていったのです。越後(いまの新潟県)の守護である山内上杉は、関東管領の仕事があったので、多くの時間、鎌倉にいましたが、それでは越後の管理が行き届かなくなります。 それではいけないということで、守護代といって、かわりに守護の仕事をしてくれる人を置くことにします。地元で家臣たちをまとめる仕事をするのが守護代ですから、結果的に代理である守護代が戦国大名になっていくケースがとても多かったのです。 長尾景虎という人が、越後で上杉の守護代を務めていましたが、彼は上杉憲政の養子になって家督を継ぎ、上杉を名乗るようになり、上杉謙信となっていきます。この上杉謙信と仲が悪かったのが、武田信玄で、彼は甲斐・信濃(山梨・長崎県)の大名を務めていました。 信玄は守護の出身で、川中島で謙信と戦うことになります。今川氏も守護出身で、遠江・駿河(いまの静岡県)を支配しました。中部地方では、尾張の織田氏が有名です。北陸地方では、越前(福井県)を支配した朝倉氏が有名です。一乗谷を拠点とした朝倉でしたが、早いうちから家臣に城下町で生活することを命令したことで世に知られています。
加賀の一向一揆は、いつ勃発しましたか。
加賀の一向一揆は、1488年に勃発しましたが、これは一向宗(浄土真宗)の門徒衆が起こしたものでした。
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歴史
八代将軍・足利義政の時代に、応仁の乱が起こります。これはいわゆる将軍の後継争いでした。義政の子の義尚を将軍にしたいと考えていた母親・日野富子を軸にした勢力と、義政の弟の義視を将軍として立てようとした勢力、また、管領家などの跡目争いがそれと一緒になって、1467年から77年まで11年間も戦争状態が続きました。 一応、義尚が次の将軍になるのですが、しばらく不安定な状況が続きます。また、大規模な一揆が義尚の時代に起きました。山城国一揆が1485年に勃発して、山城の国人(地元に住み続けていた武士、地侍)が南山城の畠山氏を追い払い、そのあと自治支配が8年間続きました。 加賀の一向一揆は、1488年に勃発しましたが、これは一向宗(浄土真宗)の門徒衆が起こしたものでした。加賀の守護である富樫政親を討伐して、門徒や僧、国人たちによる連合政権を樹立し、1世紀にもわたって加賀地方を本願寺が制することとなりました。 応仁の乱が起きた後は、日本全国をすべてひっくるめて治める政権がなくなってしまった状況だったので、とても混乱していました。 戦国大名が割拠する世界  そして、ここからが戦国時代のはじまりです。戦国大名が支配していた地域のことを分国(領国)といいます。各地で登場した戦国大名が分国を支配していき、周りの地域と武力による戦争を繰り広げていく時代です。 非常に込み入った時代ですので、戦国時代を時系列で見ていくことはしません。本書の目的からも逸れてしまいますので、地方別に有名な、または特徴のある戦国大名を簡潔に紹介していくことにします。  まず、伊達政宗は、東北地方で有名な戦国大名です。伊達氏は守護大名からではなく、国人出身なので、地元に土着していた武士が名を上げたケースです。地域に密着した武士が戦国大名として有名になっていくことは珍しくありませんでした。   鎌倉時代の北条氏とはまた別系統ですが、関東地方では、北条早雲とその一族が、小田原を拠点にもりもりと力をつけていきました。その頃、関東には鎌倉公方がいましたが、それは足利幕府の役職で、堀越公方と古河公方の二つに分かれていました。 そのほかに、関東管領の上杉氏もいて、こちらも扇谷上杉と山内上杉の二つに分裂していましたが、北条氏はそれらを抑圧することで、関東圏の支配力を高めていったのです。越後(いまの新潟県)の守護である山内上杉は、関東管領の仕事があったので、多くの時間、鎌倉にいましたが、それでは越後の管理が行き届かなくなります。 それではいけないということで、守護代といって、かわりに守護の仕事をしてくれる人を置くことにします。地元で家臣たちをまとめる仕事をするのが守護代ですから、結果的に代理である守護代が戦国大名になっていくケースがとても多かったのです。 長尾景虎という人が、越後で上杉の守護代を務めていましたが、彼は上杉憲政の養子になって家督を継ぎ、上杉を名乗るようになり、上杉謙信となっていきます。この上杉謙信と仲が悪かったのが、武田信玄で、彼は甲斐・信濃(山梨・長崎県)の大名を務めていました。 信玄は守護の出身で、川中島で謙信と戦うことになります。今川氏も守護出身で、遠江・駿河(いまの静岡県)を支配しました。中部地方では、尾張の織田氏が有名です。北陸地方では、越前(福井県)を支配した朝倉氏が有名です。一乗谷を拠点とした朝倉でしたが、早いうちから家臣に城下町で生活することを命令したことで世に知られています。
伊達政宗は、どの地方で有名な戦国大名ですか。
伊達政宗は、東北地方で有名な戦国大名です。
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歴史
中国地方では、周防(山口県)を支配していた大内氏が守護から戦国大名になり、戦国時代半ばくらいまでは、日明貿易のおかげで権力を保っていました。しかし、16世紀になると、同じく貿易で力をつけていた細川氏と敵対するようになりました。  寧波の乱というものが1523年に起きるのですが、大内氏がそれで勝利し、日明貿易を独占するようになります。  しかし、1551年にこの大内氏も陶晴賢という家老に討伐されてしまいます。これがいわゆる下克上といわれるもので、身分の低い者が上の者を倒して実力でのし上がっていくことを指します。例えば、関東の北条早雲もそうでしたが、こうして名を上げていくものが戦国大名の中にはたくさんいました。 そして、その陶晴賢も、すぐに安芸(広島県)の毛利氏に倒されてしまいます。尼子氏は、出雲(島根県)を軸に活動していたのですが、もともとは京極氏の守護代でした。結局は毛利氏に倒されて支配されてしまいますが、それまで中国地方は大内氏と尼子氏の地盤でした。  土佐(高知県)の国人の出身である長宗我部氏は、四国を支配していました。また、九州で勢力を誇っていたのは、ともに守護出身の大友氏、島津氏で、それぞれ豊後(大分県)と薩摩(鹿児島県)の支配者でした。  京都に近い美濃、尾張、越前、近江、山城のあたりには、場所のこともあり、地位の高い人が守護として任されています。こういったところで下克上が頻繁に起こるのです。例えば、三管領の一つ、将軍を補佐する家柄である尾張の守護・斯波氏は、彼の守護代だった織田氏と朝倉氏に下克上されています。 浅井氏は近江で力を持っていましたが、この人も、侍所の頂点にいた京極氏を下克上しています。山城では、細川晴元が家臣の三好長慶に倒されていますし、さらにその三好を部下である松永久秀が倒しています。 あまり長い時代ではない戦国時代ですが、この100年にも満たない時期を地域別に見ていくと、その土地ごとにいろいろと特徴があることが分かってきます。
大内氏はいつ陶晴賢という家老に討伐されてしまいますか。
1551年にこの大内氏も陶晴賢という家老に討伐されてしまいます。
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歴史
中国地方では、周防(山口県)を支配していた大内氏が守護から戦国大名になり、戦国時代半ばくらいまでは、日明貿易のおかげで権力を保っていました。しかし、16世紀になると、同じく貿易で力をつけていた細川氏と敵対するようになりました。  寧波の乱というものが1523年に起きるのですが、大内氏がそれで勝利し、日明貿易を独占するようになります。  しかし、1551年にこの大内氏も陶晴賢という家老に討伐されてしまいます。これがいわゆる下克上といわれるもので、身分の低い者が上の者を倒して実力でのし上がっていくことを指します。例えば、関東の北条早雲もそうでしたが、こうして名を上げていくものが戦国大名の中にはたくさんいました。 そして、その陶晴賢も、すぐに安芸(広島県)の毛利氏に倒されてしまいます。尼子氏は、出雲(島根県)を軸に活動していたのですが、もともとは京極氏の守護代でした。結局は毛利氏に倒されて支配されてしまいますが、それまで中国地方は大内氏と尼子氏の地盤でした。  土佐(高知県)の国人の出身である長宗我部氏は、四国を支配していました。また、九州で勢力を誇っていたのは、ともに守護出身の大友氏、島津氏で、それぞれ豊後(大分県)と薩摩(鹿児島県)の支配者でした。  京都に近い美濃、尾張、越前、近江、山城のあたりには、場所のこともあり、地位の高い人が守護として任されています。こういったところで下克上が頻繁に起こるのです。例えば、三管領の一つ、将軍を補佐する家柄である尾張の守護・斯波氏は、彼の守護代だった織田氏と朝倉氏に下克上されています。 浅井氏は近江で力を持っていましたが、この人も、侍所の頂点にいた京極氏を下克上しています。山城では、細川晴元が家臣の三好長慶に倒されていますし、さらにその三好を部下である松永久秀が倒しています。 あまり長い時代ではない戦国時代ですが、この100年にも満たない時期を地域別に見ていくと、その土地ごとにいろいろと特徴があることが分かってきます。
陶晴賢は、だれに倒されますか。
陶晴賢も、すぐに安芸(広島県)の毛利氏に倒されてしまいます。
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歴史
中国地方では、周防(山口県)を支配していた大内氏が守護から戦国大名になり、戦国時代半ばくらいまでは、日明貿易のおかげで権力を保っていました。しかし、16世紀になると、同じく貿易で力をつけていた細川氏と敵対するようになりました。  寧波の乱というものが1523年に起きるのですが、大内氏がそれで勝利し、日明貿易を独占するようになります。  しかし、1551年にこの大内氏も陶晴賢という家老に討伐されてしまいます。これがいわゆる下克上といわれるもので、身分の低い者が上の者を倒して実力でのし上がっていくことを指します。例えば、関東の北条早雲もそうでしたが、こうして名を上げていくものが戦国大名の中にはたくさんいました。 そして、その陶晴賢も、すぐに安芸(広島県)の毛利氏に倒されてしまいます。尼子氏は、出雲(島根県)を軸に活動していたのですが、もともとは京極氏の守護代でした。結局は毛利氏に倒されて支配されてしまいますが、それまで中国地方は大内氏と尼子氏の地盤でした。  土佐(高知県)の国人の出身である長宗我部氏は、四国を支配していました。また、九州で勢力を誇っていたのは、ともに守護出身の大友氏、島津氏で、それぞれ豊後(大分県)と薩摩(鹿児島県)の支配者でした。  京都に近い美濃、尾張、越前、近江、山城のあたりには、場所のこともあり、地位の高い人が守護として任されています。こういったところで下克上が頻繁に起こるのです。例えば、三管領の一つ、将軍を補佐する家柄である尾張の守護・斯波氏は、彼の守護代だった織田氏と朝倉氏に下克上されています。 浅井氏は近江で力を持っていましたが、この人も、侍所の頂点にいた京極氏を下克上しています。山城では、細川晴元が家臣の三好長慶に倒されていますし、さらにその三好を部下である松永久秀が倒しています。 あまり長い時代ではない戦国時代ですが、この100年にも満たない時期を地域別に見ていくと、その土地ごとにいろいろと特徴があることが分かってきます。
尼子氏は、どこの地域を軸に活動していましたか。
尼子氏は、出雲(島根県)を軸に活動していたのですが、もともとは京極氏の守護代でした。
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歴史
日本中が戦国として混乱してしまった一番大きな原因は、前に説明した半済令によって、守護大名の権力が強くなっていたからでしょう。将軍と御家人が御恩と奉公の関係で成り立っていた鎌倉時代のように、秩序があればこんなことにはならなかったのですが、それがなくなってしまったために、一国を守護大名が支配するようなかたちになってしまったのです。   しかし、守護とはいっても、将軍から任命されているからこそその職が成り立っています。なので、将軍というもの自体は、その後も守護を任命する役として、長く生き残っていくわけです。戦乱のど真ん中にいる日本ですが、もちろん彼らの目的は資源の奪い合いで、その対象は農地と鉱山でした。   その頃は、鉱山開発がしきりにおこなわれていた時期で、日本史の上でもその熱意は一番でした。江戸時代のはじめには、外国に日本の銀の四分の一が流出したといわれていますが、この頃とても多くの金・銀が生産されていたので、武力を用いて、鉱山や農地などの資源の奪い合いが起こっていたわけです。   例をあげると、甲州の武田氏が力を持つことができたのも、甲斐金山のおかげですし、上杉氏と戦うのも、越後の金の奪い合いでした。ちなみに、日本で唯一、商業ベースに乗った石油は、越後で産出されたものでした。   「領土争いではなく、正義のための戦争だった」と上杉氏の戦いは美しい話として語り継がれていますが、逆にいえば、よそから奪う必要がないくらい越後には米や金などが豊富にあったので、なんともいえません。   それを守ることのほうが重要だったため、特に危険なことをする必要はなかったのではないでしょうか。
一国をだれが支配するようなかたちになってしまいましたか。
一国を守護大名が支配するようなかたちになってしまったのです。
JCRRAG_012679
歴史
日本中が戦国として混乱してしまった一番大きな原因は、前に説明した半済令によって、守護大名の権力が強くなっていたからでしょう。将軍と御家人が御恩と奉公の関係で成り立っていた鎌倉時代のように、秩序があればこんなことにはならなかったのですが、それがなくなってしまったために、一国を守護大名が支配するようなかたちになってしまったのです。   しかし、守護とはいっても、将軍から任命されているからこそその職が成り立っています。なので、将軍というもの自体は、その後も守護を任命する役として、長く生き残っていくわけです。戦乱のど真ん中にいる日本ですが、もちろん彼らの目的は資源の奪い合いで、その対象は農地と鉱山でした。   その頃は、鉱山開発がしきりにおこなわれていた時期で、日本史の上でもその熱意は一番でした。江戸時代のはじめには、外国に日本の銀の四分の一が流出したといわれていますが、この頃とても多くの金・銀が生産されていたので、武力を用いて、鉱山や農地などの資源の奪い合いが起こっていたわけです。   例をあげると、甲州の武田氏が力を持つことができたのも、甲斐金山のおかげですし、上杉氏と戦うのも、越後の金の奪い合いでした。ちなみに、日本で唯一、商業ベースに乗った石油は、越後で産出されたものでした。   「領土争いではなく、正義のための戦争だった」と上杉氏の戦いは美しい話として語り継がれていますが、逆にいえば、よそから奪う必要がないくらい越後には米や金などが豊富にあったので、なんともいえません。   それを守ることのほうが重要だったため、特に危険なことをする必要はなかったのではないでしょうか。
江戸時代のはじめには、外国にどれくらいの割合の日本の銀が流出したといわれていますか。
江戸時代のはじめには、外国に日本の銀の四分の一が流出したといわれていますが、この頃とても多くの金・銀が生産されていたので、武力を用いて、鉱山や農地などの資源の奪い合いが起こっていたわけです。
JCRRAG_012680
歴史
日本中が戦国として混乱してしまった一番大きな原因は、前に説明した半済令によって、守護大名の権力が強くなっていたからでしょう。将軍と御家人が御恩と奉公の関係で成り立っていた鎌倉時代のように、秩序があればこんなことにはならなかったのですが、それがなくなってしまったために、一国を守護大名が支配するようなかたちになってしまったのです。   しかし、守護とはいっても、将軍から任命されているからこそその職が成り立っています。なので、将軍というもの自体は、その後も守護を任命する役として、長く生き残っていくわけです。戦乱のど真ん中にいる日本ですが、もちろん彼らの目的は資源の奪い合いで、その対象は農地と鉱山でした。   その頃は、鉱山開発がしきりにおこなわれていた時期で、日本史の上でもその熱意は一番でした。江戸時代のはじめには、外国に日本の銀の四分の一が流出したといわれていますが、この頃とても多くの金・銀が生産されていたので、武力を用いて、鉱山や農地などの資源の奪い合いが起こっていたわけです。   例をあげると、甲州の武田氏が力を持つことができたのも、甲斐金山のおかげですし、上杉氏と戦うのも、越後の金の奪い合いでした。ちなみに、日本で唯一、商業ベースに乗った石油は、越後で産出されたものでした。   「領土争いではなく、正義のための戦争だった」と上杉氏の戦いは美しい話として語り継がれていますが、逆にいえば、よそから奪う必要がないくらい越後には米や金などが豊富にあったので、なんともいえません。   それを守ることのほうが重要だったため、特に危険なことをする必要はなかったのではないでしょうか。
甲州の武田氏が力を持つことができたのは、だれのおかげですか。
甲州の武田氏が力を持つことができたのも、甲斐金山のおかげですし、上杉氏と戦うのも、越後の金の奪い合いでした。
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歴史
日本中が戦国として混乱してしまった一番大きな原因は、前に説明した半済令によって、守護大名の権力が強くなっていたからでしょう。将軍と御家人が御恩と奉公の関係で成り立っていた鎌倉時代のように、秩序があればこんなことにはならなかったのですが、それがなくなってしまったために、一国を守護大名が支配するようなかたちになってしまったのです。   しかし、守護とはいっても、将軍から任命されているからこそその職が成り立っています。なので、将軍というもの自体は、その後も守護を任命する役として、長く生き残っていくわけです。戦乱のど真ん中にいる日本ですが、もちろん彼らの目的は資源の奪い合いで、その対象は農地と鉱山でした。   その頃は、鉱山開発がしきりにおこなわれていた時期で、日本史の上でもその熱意は一番でした。江戸時代のはじめには、外国に日本の銀の四分の一が流出したといわれていますが、この頃とても多くの金・銀が生産されていたので、武力を用いて、鉱山や農地などの資源の奪い合いが起こっていたわけです。   例をあげると、甲州の武田氏が力を持つことができたのも、甲斐金山のおかげですし、上杉氏と戦うのも、越後の金の奪い合いでした。ちなみに、日本で唯一、商業ベースに乗った石油は、越後で産出されたものでした。   「領土争いではなく、正義のための戦争だった」と上杉氏の戦いは美しい話として語り継がれていますが、逆にいえば、よそから奪う必要がないくらい越後には米や金などが豊富にあったので、なんともいえません。   それを守ることのほうが重要だったため、特に危険なことをする必要はなかったのではないでしょうか。
日本で唯一、商業ベースに乗った石油は、どこの地域で産出されたものでしたか。
日本で唯一、商業ベースに乗った石油は、越後で産出されたものでした。
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足利義満の時代が、室町時代上もっとも華やかでした。この頃の文化のことを北山文化といいますが、それを象徴する金閣(鹿苑寺金閣)は、京都の北山に義満が建設した山荘です。この北山文化の絵画のジャンルでは、水墨画が流行しました。もともと禅宗の僧侶が、禅の精神を描いたものが水墨画で、明兆、如拙、周文らが名画を後世に伝えています。 北山文化と東山文化の違いとは? 義満の保護をうけて、猿楽能を観阿弥・世阿弥が完成させます。「風姿花伝」(花伝書)は、能の真髄を書きあらわしたものとして現在でも読まれていますが、これは世阿弥がのこしたものです。 この頃、幕府は臨済宗を保護し、臨済宗の寺院の格をつけさせるために、五山・十刹の制を設けました。これは中国の官寺の制を参考にしたものです。最上位の五山を中心にいろいろな漢詩文学も登場しました。これを五山文学とよびます。 東山文化の特徴について 応仁の乱で将軍職を譲った足利義政は、権力争いや一揆が絶え間なく起こっている世の中に嫌気が差して、京の東山に山荘を建てて静かに暮らすようになります。そこに建設したのが銀閣(慈照寺銀閣)で、この時代を象徴するものとなりました。それにちなんで、この頃の文化を東山文化と呼びます。 この時代は、枯山水といって、禅の精神を表した庭園がもてはやされました。その代表的なものが、竜安寺石庭や大徳寺大仙院庭園です。絵画で有名なのは、雪舟の描いた水墨画です。また、大和絵の流派である土佐流を創始したのは土佐光信という人です。大和絵と水墨画を合体させた狩野派は、狩野正信・元信によって生まれました。
室町時代上もっとも華やかだったのはだれの時代ですか。
足利義満の時代が、室町時代上もっとも華やかでした。
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足利義満の時代が、室町時代上もっとも華やかでした。この頃の文化のことを北山文化といいますが、それを象徴する金閣(鹿苑寺金閣)は、京都の北山に義満が建設した山荘です。この北山文化の絵画のジャンルでは、水墨画が流行しました。もともと禅宗の僧侶が、禅の精神を描いたものが水墨画で、明兆、如拙、周文らが名画を後世に伝えています。 北山文化と東山文化の違いとは? 義満の保護をうけて、猿楽能を観阿弥・世阿弥が完成させます。「風姿花伝」(花伝書)は、能の真髄を書きあらわしたものとして現在でも読まれていますが、これは世阿弥がのこしたものです。 この頃、幕府は臨済宗を保護し、臨済宗の寺院の格をつけさせるために、五山・十刹の制を設けました。これは中国の官寺の制を参考にしたものです。最上位の五山を中心にいろいろな漢詩文学も登場しました。これを五山文学とよびます。 東山文化の特徴について 応仁の乱で将軍職を譲った足利義政は、権力争いや一揆が絶え間なく起こっている世の中に嫌気が差して、京の東山に山荘を建てて静かに暮らすようになります。そこに建設したのが銀閣(慈照寺銀閣)で、この時代を象徴するものとなりました。それにちなんで、この頃の文化を東山文化と呼びます。 この時代は、枯山水といって、禅の精神を表した庭園がもてはやされました。その代表的なものが、竜安寺石庭や大徳寺大仙院庭園です。絵画で有名なのは、雪舟の描いた水墨画です。また、大和絵の流派である土佐流を創始したのは土佐光信という人です。大和絵と水墨画を合体させた狩野派は、狩野正信・元信によって生まれました。
室町時代上もっとも華やかだった頃の文化のことをなにといいますか。
この頃の文化のことを北山文化といいますが、それを象徴する金閣(鹿苑寺金閣)は、京都の北山に義満が建設した山荘です。
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歴史
足利義満の時代が、室町時代上もっとも華やかでした。この頃の文化のことを北山文化といいますが、それを象徴する金閣(鹿苑寺金閣)は、京都の北山に義満が建設した山荘です。この北山文化の絵画のジャンルでは、水墨画が流行しました。もともと禅宗の僧侶が、禅の精神を描いたものが水墨画で、明兆、如拙、周文らが名画を後世に伝えています。 北山文化と東山文化の違いとは? 義満の保護をうけて、猿楽能を観阿弥・世阿弥が完成させます。「風姿花伝」(花伝書)は、能の真髄を書きあらわしたものとして現在でも読まれていますが、これは世阿弥がのこしたものです。 この頃、幕府は臨済宗を保護し、臨済宗の寺院の格をつけさせるために、五山・十刹の制を設けました。これは中国の官寺の制を参考にしたものです。最上位の五山を中心にいろいろな漢詩文学も登場しました。これを五山文学とよびます。 東山文化の特徴について 応仁の乱で将軍職を譲った足利義政は、権力争いや一揆が絶え間なく起こっている世の中に嫌気が差して、京の東山に山荘を建てて静かに暮らすようになります。そこに建設したのが銀閣(慈照寺銀閣)で、この時代を象徴するものとなりました。それにちなんで、この頃の文化を東山文化と呼びます。 この時代は、枯山水といって、禅の精神を表した庭園がもてはやされました。その代表的なものが、竜安寺石庭や大徳寺大仙院庭園です。絵画で有名なのは、雪舟の描いた水墨画です。また、大和絵の流派である土佐流を創始したのは土佐光信という人です。大和絵と水墨画を合体させた狩野派は、狩野正信・元信によって生まれました。
猿楽能を完成させるのはだれですか。
猿楽能を観阿弥・世阿弥が完成させます。
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足利義満の時代が、室町時代上もっとも華やかでした。この頃の文化のことを北山文化といいますが、それを象徴する金閣(鹿苑寺金閣)は、京都の北山に義満が建設した山荘です。この北山文化の絵画のジャンルでは、水墨画が流行しました。もともと禅宗の僧侶が、禅の精神を描いたものが水墨画で、明兆、如拙、周文らが名画を後世に伝えています。 北山文化と東山文化の違いとは? 義満の保護をうけて、猿楽能を観阿弥・世阿弥が完成させます。「風姿花伝」(花伝書)は、能の真髄を書きあらわしたものとして現在でも読まれていますが、これは世阿弥がのこしたものです。 この頃、幕府は臨済宗を保護し、臨済宗の寺院の格をつけさせるために、五山・十刹の制を設けました。これは中国の官寺の制を参考にしたものです。最上位の五山を中心にいろいろな漢詩文学も登場しました。これを五山文学とよびます。 東山文化の特徴について 応仁の乱で将軍職を譲った足利義政は、権力争いや一揆が絶え間なく起こっている世の中に嫌気が差して、京の東山に山荘を建てて静かに暮らすようになります。そこに建設したのが銀閣(慈照寺銀閣)で、この時代を象徴するものとなりました。それにちなんで、この頃の文化を東山文化と呼びます。 この時代は、枯山水といって、禅の精神を表した庭園がもてはやされました。その代表的なものが、竜安寺石庭や大徳寺大仙院庭園です。絵画で有名なのは、雪舟の描いた水墨画です。また、大和絵の流派である土佐流を創始したのは土佐光信という人です。大和絵と水墨画を合体させた狩野派は、狩野正信・元信によって生まれました。
応仁の乱で将軍職を譲った足利義政は、どこに山荘を建てて静かに暮らすようになりますか。
応仁の乱で将軍職を譲った足利義政は、権力争いや一揆が絶え間なく起こっている世の中に嫌気が差して、京の東山に山荘を建てて静かに暮らすようになります。
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歴史
この時代は数々の戦国大名が群雄割拠していましたが、その流れを急激に変えるものが、海外から持ちこまれます。それは、1543年に種子島に伝わった鉄砲です。画期的といってもいい武器でしたので、国内で生産もおこなわれるようになったほど、あっという間に日本中に普及しました。その中でも、最もこの武器を有効に使ったといわれるのが、皆様もご存知の織田信長です。彼はいわゆるこの時代のスーパースターですね。   様々な戦国大名がいましたが、彼らと織田信長の一番の違いは、最初から全国統一という明確な理想をもって行動していたというところです。当時のほとんどの戦国大名は、他の人の土地を奪って領土を広げていくとか、下克上をしてそこの支配権を自分のものにするとか、そういったことばかり考えていました。   しかし、全国を統一するという目的をはっきりもって京都を目指した人は、信長が登場する前にはいなかったといっても過言ではありません。 桶狭間の戦いとは?   織田信長の行動した時期は、大まかに三つに分けることができます。信長が京都に上るまでの段階(1560~68年)が第一期。京都での対立の時期(1568~73年)が第二期。そして、武田を討伐して本能寺の変までの時期(1573~82年)を第三期とします。   まず、京都に上るまでの第一期(1560~68年)について説明します。織田氏は尾張(いまの名古屋)の守護代を務める家系でしたが、駿河や三河の勢力が東で控えていました。京都に上ることを目的としていた信長でしたが、織田氏が引き連れている軍勢の数だと、全力で攻めていかないと難しいくらい人手が足りませんでした。    しかし、京都に上るためだけに自軍のすべてを費やしていると、背後ががら空きになってしまいます。誰がどこから、いつ攻めてくるか分からない時代なので、非常に危険です。そこで、信長はまず、背後から攻められる可能性をゼロにすることを考えました。   その頃、甲斐(いまの山梨県)を支配していた武田氏とは不戦条約を結んでいたので、彼らと手を組み、1560年の桶狭間の戦いにて、駿河の今川氏を討伐しました。さらに、お隣の三河にいた松平元康(のちの徳川家康)とは清洲同盟を組むことで、背後から襲われる可能性をなくしました。こうして、上洛に全力を費やすことができるように、基盤をつくっていったのです。   しかし、名古屋から京都までの間には、関ヶ原などの難所もあります。現在でも大阪から東京へ向かう途中、新幹線が関ヶ原の近くで雪のせいで遅れてしまったりすることがあるくらいです。このまま一気に京都に行きたいところですが、名古屋からは少し無理があるということで、信長はもうワンステップ踏むことにします。   拠点が尾張のままでは、京都まで遠いので、美濃(いまの岐阜県)に変えたほうが何かと動きやすいので、美濃の斉藤龍興と戦って倒したあと、稲葉山城を岐阜城と改め、ここを拠点として活動することにしました。そして、そこから一気に山城(京都南東部)に上ろうと信長は考えたのです。
1543年に種子島に伝わったのはなにですか。
1543年に種子島に伝わった鉄砲です。
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歴史
この時代は数々の戦国大名が群雄割拠していましたが、その流れを急激に変えるものが、海外から持ちこまれます。それは、1543年に種子島に伝わった鉄砲です。画期的といってもいい武器でしたので、国内で生産もおこなわれるようになったほど、あっという間に日本中に普及しました。その中でも、最もこの武器を有効に使ったといわれるのが、皆様もご存知の織田信長です。彼はいわゆるこの時代のスーパースターですね。   様々な戦国大名がいましたが、彼らと織田信長の一番の違いは、最初から全国統一という明確な理想をもって行動していたというところです。当時のほとんどの戦国大名は、他の人の土地を奪って領土を広げていくとか、下克上をしてそこの支配権を自分のものにするとか、そういったことばかり考えていました。   しかし、全国を統一するという目的をはっきりもって京都を目指した人は、信長が登場する前にはいなかったといっても過言ではありません。 桶狭間の戦いとは?   織田信長の行動した時期は、大まかに三つに分けることができます。信長が京都に上るまでの段階(1560~68年)が第一期。京都での対立の時期(1568~73年)が第二期。そして、武田を討伐して本能寺の変までの時期(1573~82年)を第三期とします。   まず、京都に上るまでの第一期(1560~68年)について説明します。織田氏は尾張(いまの名古屋)の守護代を務める家系でしたが、駿河や三河の勢力が東で控えていました。京都に上ることを目的としていた信長でしたが、織田氏が引き連れている軍勢の数だと、全力で攻めていかないと難しいくらい人手が足りませんでした。    しかし、京都に上るためだけに自軍のすべてを費やしていると、背後ががら空きになってしまいます。誰がどこから、いつ攻めてくるか分からない時代なので、非常に危険です。そこで、信長はまず、背後から攻められる可能性をゼロにすることを考えました。   その頃、甲斐(いまの山梨県)を支配していた武田氏とは不戦条約を結んでいたので、彼らと手を組み、1560年の桶狭間の戦いにて、駿河の今川氏を討伐しました。さらに、お隣の三河にいた松平元康(のちの徳川家康)とは清洲同盟を組むことで、背後から襲われる可能性をなくしました。こうして、上洛に全力を費やすことができるように、基盤をつくっていったのです。   しかし、名古屋から京都までの間には、関ヶ原などの難所もあります。現在でも大阪から東京へ向かう途中、新幹線が関ヶ原の近くで雪のせいで遅れてしまったりすることがあるくらいです。このまま一気に京都に行きたいところですが、名古屋からは少し無理があるということで、信長はもうワンステップ踏むことにします。   拠点が尾張のままでは、京都まで遠いので、美濃(いまの岐阜県)に変えたほうが何かと動きやすいので、美濃の斉藤龍興と戦って倒したあと、稲葉山城を岐阜城と改め、ここを拠点として活動することにしました。そして、そこから一気に山城(京都南東部)に上ろうと信長は考えたのです。
様々な戦国大名と織田信長との一番の違いはなにですか。
様々な戦国大名がいましたが、彼らと織田信長の一番の違いは、最初から全国統一という明確な理想をもって行動していたというところです。
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この時代は数々の戦国大名が群雄割拠していましたが、その流れを急激に変えるものが、海外から持ちこまれます。それは、1543年に種子島に伝わった鉄砲です。画期的といってもいい武器でしたので、国内で生産もおこなわれるようになったほど、あっという間に日本中に普及しました。その中でも、最もこの武器を有効に使ったといわれるのが、皆様もご存知の織田信長です。彼はいわゆるこの時代のスーパースターですね。   様々な戦国大名がいましたが、彼らと織田信長の一番の違いは、最初から全国統一という明確な理想をもって行動していたというところです。当時のほとんどの戦国大名は、他の人の土地を奪って領土を広げていくとか、下克上をしてそこの支配権を自分のものにするとか、そういったことばかり考えていました。   しかし、全国を統一するという目的をはっきりもって京都を目指した人は、信長が登場する前にはいなかったといっても過言ではありません。 桶狭間の戦いとは?   織田信長の行動した時期は、大まかに三つに分けることができます。信長が京都に上るまでの段階(1560~68年)が第一期。京都での対立の時期(1568~73年)が第二期。そして、武田を討伐して本能寺の変までの時期(1573~82年)を第三期とします。   まず、京都に上るまでの第一期(1560~68年)について説明します。織田氏は尾張(いまの名古屋)の守護代を務める家系でしたが、駿河や三河の勢力が東で控えていました。京都に上ることを目的としていた信長でしたが、織田氏が引き連れている軍勢の数だと、全力で攻めていかないと難しいくらい人手が足りませんでした。    しかし、京都に上るためだけに自軍のすべてを費やしていると、背後ががら空きになってしまいます。誰がどこから、いつ攻めてくるか分からない時代なので、非常に危険です。そこで、信長はまず、背後から攻められる可能性をゼロにすることを考えました。   その頃、甲斐(いまの山梨県)を支配していた武田氏とは不戦条約を結んでいたので、彼らと手を組み、1560年の桶狭間の戦いにて、駿河の今川氏を討伐しました。さらに、お隣の三河にいた松平元康(のちの徳川家康)とは清洲同盟を組むことで、背後から襲われる可能性をなくしました。こうして、上洛に全力を費やすことができるように、基盤をつくっていったのです。   しかし、名古屋から京都までの間には、関ヶ原などの難所もあります。現在でも大阪から東京へ向かう途中、新幹線が関ヶ原の近くで雪のせいで遅れてしまったりすることがあるくらいです。このまま一気に京都に行きたいところですが、名古屋からは少し無理があるということで、信長はもうワンステップ踏むことにします。   拠点が尾張のままでは、京都まで遠いので、美濃(いまの岐阜県)に変えたほうが何かと動きやすいので、美濃の斉藤龍興と戦って倒したあと、稲葉山城を岐阜城と改め、ここを拠点として活動することにしました。そして、そこから一気に山城(京都南東部)に上ろうと信長は考えたのです。
信長は美濃の斉藤龍興と戦って倒したあと、稲葉山城をなんという名前に改めましたか。
美濃の斉藤龍興と戦って倒したあと、稲葉山城を岐阜城と改め、ここを拠点として活動することにしました。
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歴史
織田信長が、いきなり「おれは京都で支配者になる」といっても、まわりは支持してくれないのは分かっていたので、信長は、有名ではあるけれどさほど実力がないような、細々と存在していた将軍を利用することにします。   朝廷や幕府などの大きな後ろ盾がないと、実質的な支配者にはなれません。バックボーンがしっかりしていなければ支持してもらえない、というところは、現在の日本でもそうですね。第十三代・足利義輝が将軍を務めていましたが、1565年、山城の支配者であった松永久秀に暗殺されてしまいます。そしてそのあと、十四代将軍として足利義栄を将軍として立てます。   細川春元を三好長慶が下克上し、さらにその三好長慶を倒したのが松永久秀です。彼は歌舞伎でも一番の悪役として出てきます。松永の目的は、自分の思い通りになる人間を将軍にして、自分が実権を握ることでした。今までも何回もおこなわれたやり方ですね。義栄はいわゆる傍流の人で、父親は将軍ではなかったし、十一代の血を引いているといっても、十一代から十三代まで続いた系統からははずれています。   これを織田信長は逆に利用することにします。「本当なら将軍になるのは直系の十三代の弟君(義昭)だ。義栄ではない。松永のせいでおかしくなってしまった現状を立て直すために、おれは京都へ行くぞ」という名目を立てることで、周りも納得させ、1568年に京都へ入りました。ここまでが第一期となります。
信長は、どのような将軍を利用することにしますか。
信長は、有名ではあるけれどさほど実力がないような、細々と存在していた将軍を利用することにします。
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歴史
織田信長が、いきなり「おれは京都で支配者になる」といっても、まわりは支持してくれないのは分かっていたので、信長は、有名ではあるけれどさほど実力がないような、細々と存在していた将軍を利用することにします。   朝廷や幕府などの大きな後ろ盾がないと、実質的な支配者にはなれません。バックボーンがしっかりしていなければ支持してもらえない、というところは、現在の日本でもそうですね。第十三代・足利義輝が将軍を務めていましたが、1565年、山城の支配者であった松永久秀に暗殺されてしまいます。そしてそのあと、十四代将軍として足利義栄を将軍として立てます。   細川春元を三好長慶が下克上し、さらにその三好長慶を倒したのが松永久秀です。彼は歌舞伎でも一番の悪役として出てきます。松永の目的は、自分の思い通りになる人間を将軍にして、自分が実権を握ることでした。今までも何回もおこなわれたやり方ですね。義栄はいわゆる傍流の人で、父親は将軍ではなかったし、十一代の血を引いているといっても、十一代から十三代まで続いた系統からははずれています。   これを織田信長は逆に利用することにします。「本当なら将軍になるのは直系の十三代の弟君(義昭)だ。義栄ではない。松永のせいでおかしくなってしまった現状を立て直すために、おれは京都へ行くぞ」という名目を立てることで、周りも納得させ、1568年に京都へ入りました。ここまでが第一期となります。
なにの大きな後ろ盾がないと、実質的な支配者にはなれないですか。
朝廷や幕府などの大きな後ろ盾がないと、実質的な支配者にはなれません。
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歴史
織田信長が、いきなり「おれは京都で支配者になる」といっても、まわりは支持してくれないのは分かっていたので、信長は、有名ではあるけれどさほど実力がないような、細々と存在していた将軍を利用することにします。   朝廷や幕府などの大きな後ろ盾がないと、実質的な支配者にはなれません。バックボーンがしっかりしていなければ支持してもらえない、というところは、現在の日本でもそうですね。第十三代・足利義輝が将軍を務めていましたが、1565年、山城の支配者であった松永久秀に暗殺されてしまいます。そしてそのあと、十四代将軍として足利義栄を将軍として立てます。   細川春元を三好長慶が下克上し、さらにその三好長慶を倒したのが松永久秀です。彼は歌舞伎でも一番の悪役として出てきます。松永の目的は、自分の思い通りになる人間を将軍にして、自分が実権を握ることでした。今までも何回もおこなわれたやり方ですね。義栄はいわゆる傍流の人で、父親は将軍ではなかったし、十一代の血を引いているといっても、十一代から十三代まで続いた系統からははずれています。   これを織田信長は逆に利用することにします。「本当なら将軍になるのは直系の十三代の弟君(義昭)だ。義栄ではない。松永のせいでおかしくなってしまった現状を立て直すために、おれは京都へ行くぞ」という名目を立てることで、周りも納得させ、1568年に京都へ入りました。ここまでが第一期となります。
細川春元をだれが下克上しますか。
細川春元を三好長慶が下克上し、さらにその三好長慶を倒したのが松永久秀です。
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歴史
京都での対立の時期が第二期です。そういった経緯で、織田信長は足利義昭を将軍に立てますが、義昭は完全に信長の言いなりになる人ではありませんでした。  「あくまでも偉いのは将軍である自分であって、信長ではない。もちろん世話になった恩はあるけど、もともと自分が将軍になるべきところを助けてもらっただけにすぎない。だから、私は信長の言うことを全部聞く必要はない」というわけで、信長と足利義昭はだんだん対立し始めます。  もちろん義昭一人で戦うのは無理なので、近江の浅井長政、越前の朝倉義景、さらに比叡山延暦寺を味方にして、信長と対決しようとします。  浅井も朝倉も、単独では信長と戦うことは難しいと考えていたので、彼らにとってもこれは都合のいい話でした。浅井と朝倉が手を組み、その頃、南都・北嶺といわれていた僧兵を持つ宗教勢力のうち、北嶺にあたる延暦寺が味方していれば、織田信長とあたるには十分だと考えたのでしょう。   しかし、1570年、姉川の戦いで信長は浅井と朝倉を倒してしまいます(最終的に滅びたのは1573年)。それだけでなく、1571年に延暦寺に火を放ちます。前に平氏が滅んだ時のことを思い出してみてください。直接的な原因は、南都(興福寺、東大寺)を焼き討ちにしたことでした。なので、義昭にしてみれば、信長が宗教勢力に対抗したとしても、まさか焼き討ちにするなどとは思わなかったでしょう。   これで残ったのは足利義昭だけになりました。彼は権力こそあるものの、実力は伴っていなかったので、信長は正親町天皇と結んで、将軍職をなくしてしまい、京都から義昭を追い払ってしまいました。これが室町幕府の最後となりました。   いわゆる政治の基盤が京都で、経済的な基盤は堺(いまの大阪府)でした。1569年、信長は堺を制圧することに成功し、支配しました。ここまでを第二期とします。
織田信長はだれを将軍に立てますか。
織田信長は足利義昭を将軍に立てますが、義昭は完全に信長の言いなりになる人ではありませんでした。 
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歴史
京都での対立の時期が第二期です。そういった経緯で、織田信長は足利義昭を将軍に立てますが、義昭は完全に信長の言いなりになる人ではありませんでした。  「あくまでも偉いのは将軍である自分であって、信長ではない。もちろん世話になった恩はあるけど、もともと自分が将軍になるべきところを助けてもらっただけにすぎない。だから、私は信長の言うことを全部聞く必要はない」というわけで、信長と足利義昭はだんだん対立し始めます。  もちろん義昭一人で戦うのは無理なので、近江の浅井長政、越前の朝倉義景、さらに比叡山延暦寺を味方にして、信長と対決しようとします。  浅井も朝倉も、単独では信長と戦うことは難しいと考えていたので、彼らにとってもこれは都合のいい話でした。浅井と朝倉が手を組み、その頃、南都・北嶺といわれていた僧兵を持つ宗教勢力のうち、北嶺にあたる延暦寺が味方していれば、織田信長とあたるには十分だと考えたのでしょう。   しかし、1570年、姉川の戦いで信長は浅井と朝倉を倒してしまいます(最終的に滅びたのは1573年)。それだけでなく、1571年に延暦寺に火を放ちます。前に平氏が滅んだ時のことを思い出してみてください。直接的な原因は、南都(興福寺、東大寺)を焼き討ちにしたことでした。なので、義昭にしてみれば、信長が宗教勢力に対抗したとしても、まさか焼き討ちにするなどとは思わなかったでしょう。   これで残ったのは足利義昭だけになりました。彼は権力こそあるものの、実力は伴っていなかったので、信長は正親町天皇と結んで、将軍職をなくしてしまい、京都から義昭を追い払ってしまいました。これが室町幕府の最後となりました。   いわゆる政治の基盤が京都で、経済的な基盤は堺(いまの大阪府)でした。1569年、信長は堺を制圧することに成功し、支配しました。ここまでを第二期とします。
いつ信長は堺を制圧することに成功し、支配しましたか。
1569年、信長は堺を制圧することに成功し、支配しました。
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では、第三期をみていきましょう。全国を統一するために必要なことは二つあって、一つ目が、まず戦国大名のトップに立つことでした。そして二つ目が、宗教勢力を完全に支配してしまうことです。   まず、大名の頂点に立つにはどうしたらいいでしょうか。全国にごまんといる大名を一人ずつ倒していては、とても時間が足りません。ならばどうするか。単純に、一番力を持っている大名を倒せばいいのです。すると他の連中は9割はついてくるでしょう。もしついてこない者がいたら、それはそれで倒してしまえばいいのです。   宗教勢力にも、それと同じことが言えます。親分を倒せば、あとは逃げるかついてくるかするわけで、その頃一番力を持っていた集団さえなんとかしてしまえば、ほかの宗教勢力も従わざるをえなくなるということです。当時、宗教勢力のトップにいたのが一向宗(浄土真宗)で、本拠地は、大阪の石山本願寺でした。   ここはお寺の敷地内に町がある、いわゆる寺内町という地形でした。つまり町全体がお寺というとても大きなものでした。しかし、そこのすぐ南にある堺が織田信長の支配圏となったので、一向宗は脅威に感じていました。   この頃は京都でいろいろあった時期でした。一向宗の信徒たちは、信長が堺を制圧した翌年の1570年に、信長に対して挙兵し、石山戦争をはじめました。しかし、信長は無理に対抗しようとはしませんでした。そこまで手が回らなかったともいえます。   それがおさまるのを待ち、伊勢長島の一向一揆を1574年に制圧します。因みに、伊勢長島は一向宗が勢力を誇っていたところです。そのつぎに、越前の一向一揆も制圧しました。1575年のことでした。そうして少しずつ勢力を削ぐことで、1580年に石山本願寺を服属させていったのです。   それだけでなく、もう一つの過激な宗教団体である日蓮宗が、京都を軸に法華一揆などを起こしていたのですが、こちらも平定することに成功しました。
全国を統一するために必要な二つのことはなにですか。
全国を統一するために必要なことは二つあって、一つ目が、まず戦国大名のトップに立つことでした。そして二つ目が、宗教勢力を完全に支配してしまうことです。
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歴史
では、第三期をみていきましょう。全国を統一するために必要なことは二つあって、一つ目が、まず戦国大名のトップに立つことでした。そして二つ目が、宗教勢力を完全に支配してしまうことです。   まず、大名の頂点に立つにはどうしたらいいでしょうか。全国にごまんといる大名を一人ずつ倒していては、とても時間が足りません。ならばどうするか。単純に、一番力を持っている大名を倒せばいいのです。すると他の連中は9割はついてくるでしょう。もしついてこない者がいたら、それはそれで倒してしまえばいいのです。   宗教勢力にも、それと同じことが言えます。親分を倒せば、あとは逃げるかついてくるかするわけで、その頃一番力を持っていた集団さえなんとかしてしまえば、ほかの宗教勢力も従わざるをえなくなるということです。当時、宗教勢力のトップにいたのが一向宗(浄土真宗)で、本拠地は、大阪の石山本願寺でした。   ここはお寺の敷地内に町がある、いわゆる寺内町という地形でした。つまり町全体がお寺というとても大きなものでした。しかし、そこのすぐ南にある堺が織田信長の支配圏となったので、一向宗は脅威に感じていました。   この頃は京都でいろいろあった時期でした。一向宗の信徒たちは、信長が堺を制圧した翌年の1570年に、信長に対して挙兵し、石山戦争をはじめました。しかし、信長は無理に対抗しようとはしませんでした。そこまで手が回らなかったともいえます。   それがおさまるのを待ち、伊勢長島の一向一揆を1574年に制圧します。因みに、伊勢長島は一向宗が勢力を誇っていたところです。そのつぎに、越前の一向一揆も制圧しました。1575年のことでした。そうして少しずつ勢力を削ぐことで、1580年に石山本願寺を服属させていったのです。   それだけでなく、もう一つの過激な宗教団体である日蓮宗が、京都を軸に法華一揆などを起こしていたのですが、こちらも平定することに成功しました。
大名の頂点に立つにはどうしたらいいでしょうか。
単純に、一番力を持っている大名を倒せばいいのです。
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歴史
では、第三期をみていきましょう。全国を統一するために必要なことは二つあって、一つ目が、まず戦国大名のトップに立つことでした。そして二つ目が、宗教勢力を完全に支配してしまうことです。   まず、大名の頂点に立つにはどうしたらいいでしょうか。全国にごまんといる大名を一人ずつ倒していては、とても時間が足りません。ならばどうするか。単純に、一番力を持っている大名を倒せばいいのです。すると他の連中は9割はついてくるでしょう。もしついてこない者がいたら、それはそれで倒してしまえばいいのです。   宗教勢力にも、それと同じことが言えます。親分を倒せば、あとは逃げるかついてくるかするわけで、その頃一番力を持っていた集団さえなんとかしてしまえば、ほかの宗教勢力も従わざるをえなくなるということです。当時、宗教勢力のトップにいたのが一向宗(浄土真宗)で、本拠地は、大阪の石山本願寺でした。   ここはお寺の敷地内に町がある、いわゆる寺内町という地形でした。つまり町全体がお寺というとても大きなものでした。しかし、そこのすぐ南にある堺が織田信長の支配圏となったので、一向宗は脅威に感じていました。   この頃は京都でいろいろあった時期でした。一向宗の信徒たちは、信長が堺を制圧した翌年の1570年に、信長に対して挙兵し、石山戦争をはじめました。しかし、信長は無理に対抗しようとはしませんでした。そこまで手が回らなかったともいえます。   それがおさまるのを待ち、伊勢長島の一向一揆を1574年に制圧します。因みに、伊勢長島は一向宗が勢力を誇っていたところです。そのつぎに、越前の一向一揆も制圧しました。1575年のことでした。そうして少しずつ勢力を削ぐことで、1580年に石山本願寺を服属させていったのです。   それだけでなく、もう一つの過激な宗教団体である日蓮宗が、京都を軸に法華一揆などを起こしていたのですが、こちらも平定することに成功しました。
当時、宗教勢力のトップにいたのは何宗ですか。
当時、宗教勢力のトップにいたのが一向宗(浄土真宗)で、本拠地は、大阪の石山本願寺でした。
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歴史
では、第三期をみていきましょう。全国を統一するために必要なことは二つあって、一つ目が、まず戦国大名のトップに立つことでした。そして二つ目が、宗教勢力を完全に支配してしまうことです。   まず、大名の頂点に立つにはどうしたらいいでしょうか。全国にごまんといる大名を一人ずつ倒していては、とても時間が足りません。ならばどうするか。単純に、一番力を持っている大名を倒せばいいのです。すると他の連中は9割はついてくるでしょう。もしついてこない者がいたら、それはそれで倒してしまえばいいのです。   宗教勢力にも、それと同じことが言えます。親分を倒せば、あとは逃げるかついてくるかするわけで、その頃一番力を持っていた集団さえなんとかしてしまえば、ほかの宗教勢力も従わざるをえなくなるということです。当時、宗教勢力のトップにいたのが一向宗(浄土真宗)で、本拠地は、大阪の石山本願寺でした。   ここはお寺の敷地内に町がある、いわゆる寺内町という地形でした。つまり町全体がお寺というとても大きなものでした。しかし、そこのすぐ南にある堺が織田信長の支配圏となったので、一向宗は脅威に感じていました。   この頃は京都でいろいろあった時期でした。一向宗の信徒たちは、信長が堺を制圧した翌年の1570年に、信長に対して挙兵し、石山戦争をはじめました。しかし、信長は無理に対抗しようとはしませんでした。そこまで手が回らなかったともいえます。   それがおさまるのを待ち、伊勢長島の一向一揆を1574年に制圧します。因みに、伊勢長島は一向宗が勢力を誇っていたところです。そのつぎに、越前の一向一揆も制圧しました。1575年のことでした。そうして少しずつ勢力を削ぐことで、1580年に石山本願寺を服属させていったのです。   それだけでなく、もう一つの過激な宗教団体である日蓮宗が、京都を軸に法華一揆などを起こしていたのですが、こちらも平定することに成功しました。
伊勢長島の一向一揆をいつ制圧しますか。
伊勢長島の一向一揆を1574年に制圧します。
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歴史
当時の大名のトップは誰であったかというと、武田勝頼です。武将の数、軍事力、編成力、どこを見ても他の追従を許しません。そこで、1575年の長篠の戦いで、武田氏の騎馬隊と戦争することになります。   なぜ武田氏が強かったかというと、騎馬隊によるところが大きかったのです。馬で戦うのはなかなか難しいものですから、いい武将でなければ戦争で勝つことはできません。武田武士団といわれるほど、武田氏にはそれがそろっていました。   対して織田側は、あきらかに騎馬戦の能力では武田に劣っていたので、普通にあたっていては勝てません。そこで、鉄砲隊を組織するのに身分の低い足軽を使い、それをうまく使って勝利します。いままでとまるで違う戦法をつかって勝利をつかんだのが長篠の戦いなのです。   その翌年の1576年、信長は安土城を建設します。これは世間に、「自分が武田を破った。なので自分こそが全国の大名のトップなのだ」ということを知らしめるために造った建物です。権力の象徴である城でしたので、戦いの為ではありませんでした。権力を誇示するために豪華な城を造ったわけですから、なんだか5世紀の古墳時代に、権力者が競って大きな古墳を造ったのと似ていますね。  そしてついに、信長は、天目山の戦いにて武田氏を滅ぼします。1582年のことでした。これでほぼ天下統一事業への道のりが達成されたといっても過言ではありませんでした。しかし、完成を目前とした同年6月、京都の本能寺で、信長は配下の明智光秀に攻められて死んでしまいます。これがあの有名な本能寺の変ですね。
当時の大名のトップは誰でしたか。
当時の大名のトップは誰であったかというと、武田勝頼です。
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歴史
当時の大名のトップは誰であったかというと、武田勝頼です。武将の数、軍事力、編成力、どこを見ても他の追従を許しません。そこで、1575年の長篠の戦いで、武田氏の騎馬隊と戦争することになります。   なぜ武田氏が強かったかというと、騎馬隊によるところが大きかったのです。馬で戦うのはなかなか難しいものですから、いい武将でなければ戦争で勝つことはできません。武田武士団といわれるほど、武田氏にはそれがそろっていました。   対して織田側は、あきらかに騎馬戦の能力では武田に劣っていたので、普通にあたっていては勝てません。そこで、鉄砲隊を組織するのに身分の低い足軽を使い、それをうまく使って勝利します。いままでとまるで違う戦法をつかって勝利をつかんだのが長篠の戦いなのです。   その翌年の1576年、信長は安土城を建設します。これは世間に、「自分が武田を破った。なので自分こそが全国の大名のトップなのだ」ということを知らしめるために造った建物です。権力の象徴である城でしたので、戦いの為ではありませんでした。権力を誇示するために豪華な城を造ったわけですから、なんだか5世紀の古墳時代に、権力者が競って大きな古墳を造ったのと似ていますね。  そしてついに、信長は、天目山の戦いにて武田氏を滅ぼします。1582年のことでした。これでほぼ天下統一事業への道のりが達成されたといっても過言ではありませんでした。しかし、完成を目前とした同年6月、京都の本能寺で、信長は配下の明智光秀に攻められて死んでしまいます。これがあの有名な本能寺の変ですね。
1575年の長篠の戦いで、だれの騎馬隊と戦争することになりますか。
1575年の長篠の戦いで、武田氏の騎馬隊と戦争することになります。
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歴史
当時の大名のトップは誰であったかというと、武田勝頼です。武将の数、軍事力、編成力、どこを見ても他の追従を許しません。そこで、1575年の長篠の戦いで、武田氏の騎馬隊と戦争することになります。   なぜ武田氏が強かったかというと、騎馬隊によるところが大きかったのです。馬で戦うのはなかなか難しいものですから、いい武将でなければ戦争で勝つことはできません。武田武士団といわれるほど、武田氏にはそれがそろっていました。   対して織田側は、あきらかに騎馬戦の能力では武田に劣っていたので、普通にあたっていては勝てません。そこで、鉄砲隊を組織するのに身分の低い足軽を使い、それをうまく使って勝利します。いままでとまるで違う戦法をつかって勝利をつかんだのが長篠の戦いなのです。   その翌年の1576年、信長は安土城を建設します。これは世間に、「自分が武田を破った。なので自分こそが全国の大名のトップなのだ」ということを知らしめるために造った建物です。権力の象徴である城でしたので、戦いの為ではありませんでした。権力を誇示するために豪華な城を造ったわけですから、なんだか5世紀の古墳時代に、権力者が競って大きな古墳を造ったのと似ていますね。  そしてついに、信長は、天目山の戦いにて武田氏を滅ぼします。1582年のことでした。これでほぼ天下統一事業への道のりが達成されたといっても過言ではありませんでした。しかし、完成を目前とした同年6月、京都の本能寺で、信長は配下の明智光秀に攻められて死んでしまいます。これがあの有名な本能寺の変ですね。
信長は、なにの戦いにて武田氏を滅ぼしますか。
信長は、天目山の戦いにて武田氏を滅ぼします。