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|---|---|---|---|---|
JCRRAG_012701 | 歴史 | 大宝律令をつくりあげてきた人物ですが、責任者としては刑部親王があげられますが、実際作業をしたのは中臣鎌足の次男である藤原不比等という人です。中臣鎌足は独裁政治で有名な天智天皇が唯一信頼をよせていた人物ともいわれ、政治顧問役としても活躍していましたし、中大兄皇子(天智天皇)と一緒に蘇我氏を退け、大化の改新を推し進めた人物としても広く知られています。
669年(壬申の乱の前)に鎌足はこの世を去りますが、死後、生前の偉業をみとめられ、藤原の姓と大織冠という地位を与えられました。色々な説がある「藤原」の言葉の意味ですが、本当のところは分かっていません。祭祀を司る豪族というところからつけられた「中臣」については分かっていますが、神道祭祀と中臣はだんだん別物とされていくようになります。天智天皇の独裁政治によるものです。なので、新しい姓を授けることになったのかもしれません。
ちなみに、その頃の最高位の官職が大織冠です。天武天皇にとって、壬申の乱が起こった後、本当なら敵の大参謀であった藤原の家系は衰退していったほうがよかったはずなのに、なぜこの時期に藤原不比等が重要な立場に居ることができたのでしょう。
キーポイントは、壬申の乱の前に中臣鎌足がすでに死んでいたことです。もし生きていたら、乱が起こっている時に大友皇子を守るために衝突は避けられなかったでしょうから、藤原氏と一緒に滅亡していた可能性もありますが、この時不比等はまだ子どもで、鎌足も亡くなっていました。ある意味運がよかったのかもしれません。
天武天皇は自分だけの考えで動くような人ではなかったのですが、しっかりとしたイメージをもった天皇で、皇親政治を引っ張っていきました。その後の持統天皇もしっかりと夫の後を引き継いだので、そこに藤原氏が入り込む隙はありませんでした。もちろん不比等という人はとても力のある人だったのでしょうが、文武天皇の時代になると少しずつゆるくなってきたので、藤原氏がそこに目をつけたのかもしれません。藤原氏もわからないところで確実に力をつけてきたのでしょう。
藤原氏はダイレクトに政治の争いに巻き込まれることなく、偶然もありつつですが、うまく時代を生き抜いたといえます。のちの平安時代になると、黄金時代を迎えるわけですから、まったく何が起こるかわからないものです。 | 大宝律令をつくりあげてきた人物ですが、責任者としては刑部親王があげられますが、実際作業をしたのは誰ですか。 | 大宝律令をつくりあげてきた人物ですが、責任者としては刑部親王があげられますが、実際作業をしたのは中臣鎌足の次男である藤原不比等という人です。 |
JCRRAG_012702 | 歴史 | 大宝律令をつくりあげてきた人物ですが、責任者としては刑部親王があげられますが、実際作業をしたのは中臣鎌足の次男である藤原不比等という人です。中臣鎌足は独裁政治で有名な天智天皇が唯一信頼をよせていた人物ともいわれ、政治顧問役としても活躍していましたし、中大兄皇子(天智天皇)と一緒に蘇我氏を退け、大化の改新を推し進めた人物としても広く知られています。
669年(壬申の乱の前)に鎌足はこの世を去りますが、死後、生前の偉業をみとめられ、藤原の姓と大織冠という地位を与えられました。色々な説がある「藤原」の言葉の意味ですが、本当のところは分かっていません。祭祀を司る豪族というところからつけられた「中臣」については分かっていますが、神道祭祀と中臣はだんだん別物とされていくようになります。天智天皇の独裁政治によるものです。なので、新しい姓を授けることになったのかもしれません。
ちなみに、その頃の最高位の官職が大織冠です。天武天皇にとって、壬申の乱が起こった後、本当なら敵の大参謀であった藤原の家系は衰退していったほうがよかったはずなのに、なぜこの時期に藤原不比等が重要な立場に居ることができたのでしょう。
キーポイントは、壬申の乱の前に中臣鎌足がすでに死んでいたことです。もし生きていたら、乱が起こっている時に大友皇子を守るために衝突は避けられなかったでしょうから、藤原氏と一緒に滅亡していた可能性もありますが、この時不比等はまだ子どもで、鎌足も亡くなっていました。ある意味運がよかったのかもしれません。
天武天皇は自分だけの考えで動くような人ではなかったのですが、しっかりとしたイメージをもった天皇で、皇親政治を引っ張っていきました。その後の持統天皇もしっかりと夫の後を引き継いだので、そこに藤原氏が入り込む隙はありませんでした。もちろん不比等という人はとても力のある人だったのでしょうが、文武天皇の時代になると少しずつゆるくなってきたので、藤原氏がそこに目をつけたのかもしれません。藤原氏もわからないところで確実に力をつけてきたのでしょう。
藤原氏はダイレクトに政治の争いに巻き込まれることなく、偶然もありつつですが、うまく時代を生き抜いたといえます。のちの平安時代になると、黄金時代を迎えるわけですから、まったく何が起こるかわからないものです。 | 独裁政治で有名な天智天皇が唯一信頼をよせていた人物ともいわれ、政治顧問役としても活躍していた人物は誰ですか。 | 独裁政治で有名な天智天皇が唯一信頼をよせていた人物ともいわれ、政治顧問役としても活躍していた人物は中臣鎌足です。 |
JCRRAG_012703 | 歴史 | 大宝律令をつくりあげてきた人物ですが、責任者としては刑部親王があげられますが、実際作業をしたのは中臣鎌足の次男である藤原不比等という人です。中臣鎌足は独裁政治で有名な天智天皇が唯一信頼をよせていた人物ともいわれ、政治顧問役としても活躍していましたし、中大兄皇子(天智天皇)と一緒に蘇我氏を退け、大化の改新を推し進めた人物としても広く知られています。
669年(壬申の乱の前)に鎌足はこの世を去りますが、死後、生前の偉業をみとめられ、藤原の姓と大織冠という地位を与えられました。色々な説がある「藤原」の言葉の意味ですが、本当のところは分かっていません。祭祀を司る豪族というところからつけられた「中臣」については分かっていますが、神道祭祀と中臣はだんだん別物とされていくようになります。天智天皇の独裁政治によるものです。なので、新しい姓を授けることになったのかもしれません。
ちなみに、その頃の最高位の官職が大織冠です。天武天皇にとって、壬申の乱が起こった後、本当なら敵の大参謀であった藤原の家系は衰退していったほうがよかったはずなのに、なぜこの時期に藤原不比等が重要な立場に居ることができたのでしょう。
キーポイントは、壬申の乱の前に中臣鎌足がすでに死んでいたことです。もし生きていたら、乱が起こっている時に大友皇子を守るために衝突は避けられなかったでしょうから、藤原氏と一緒に滅亡していた可能性もありますが、この時不比等はまだ子どもで、鎌足も亡くなっていました。ある意味運がよかったのかもしれません。
天武天皇は自分だけの考えで動くような人ではなかったのですが、しっかりとしたイメージをもった天皇で、皇親政治を引っ張っていきました。その後の持統天皇もしっかりと夫の後を引き継いだので、そこに藤原氏が入り込む隙はありませんでした。もちろん不比等という人はとても力のある人だったのでしょうが、文武天皇の時代になると少しずつゆるくなってきたので、藤原氏がそこに目をつけたのかもしれません。藤原氏もわからないところで確実に力をつけてきたのでしょう。
藤原氏はダイレクトに政治の争いに巻き込まれることなく、偶然もありつつですが、うまく時代を生き抜いたといえます。のちの平安時代になると、黄金時代を迎えるわけですから、まったく何が起こるかわからないものです。 | 中臣鎌足がこの世を去ったのは何年ですか。 | 中臣鎌足がこの世を去ったのは669年(壬申の乱の前)です。 |
JCRRAG_012704 | 歴史 | 大きく三つの期間に分けることのできる奈良時代は、それぞれ次のようになります。8世紀前期の聖武天皇の時代が第一期。聖武天皇の娘の時代で、8世紀中期ごろが第二期。そして、天智天皇の系列に戻る8世紀後期が第三期。いずれの時期にも三代ずつ天皇がいました。
元明、元正、聖武が第一期の天皇です。草壁皇子の妻が元明天皇、文武天皇の姉にあたる人物が元正天皇で、この二人が女帝でしたが、あくまでも文武天皇の子である聖武を天皇にするためのつなぎ役でした。文武天皇のときと同じですね。実はその裏で藤原不比等が政務をあやつっていました。
文武天皇の時代に大宝律令が完成したのは前に説明したとおりですが、藤原不比等は大宝律令制定の時に中心となって政治方針をつくっていき、その結果権力をもっていきます。しかし、他にも彼のすごいところはいくつかあります。不比等はまず文武天皇のもとに自分の娘である宮子を嫁がせます。
そして、二人の間に誕生したのがのちの聖武天皇となる首皇子だったのです。元明天皇の頃に起きた大きな出来事には、710年に平城京に遷都したこと、そして「古事記」が712年に、「日本書記」が元正天皇の代の720年に完成したことなどがあげられます。その中で天皇は天皇直系の皇統が引き継いでいくのが当たり前という考えが強調されましたが、それが万世一系です。
その頃は皇族が大勢いたので、決して天皇の候補である男子が少なかったわけではないのですが、それでは不比等にとって、自分の孫を天皇にすることができないかもしれないので都合が悪かったのです。要するに、文武天皇の息子である首皇子を天皇にするために提唱されたのが万世一系だとも言えるわけです。
しかし、不比等は720年にこの世を去ってしまいます。せっかく自分の孫を天皇にしたいという強い想いのもと、万世一系の皇統が天皇になるべきだと「古事記」や「日本書記」でアピールしてきたのに、まさに日本書記が完成した720年に、しかも首皇子が大人になる寸前に死んでしまったのです。
これは彼の誤算だったのでしょう。万世一系の考えが裏目に出てしまいます。皇族たちのあいだに「本当ならこの国を支配するのは万世一系の皇統であるはずなのに、蘇我氏や藤原氏などが出てくるのはおかしい。そのせいで変な時代になってしまった」という考えが生まれてしまい、その勢力が長屋王(高市皇子の子であり文武天皇の孫)をリーダーとして、不比等にかわり、政治的な権力をつかむことになるのです。
この時代で注目すべきところは、藤原不比等→<長屋王>→藤原四子→<橘諸兄>→藤原仲麻呂→<道鏡>→藤原百川というように、藤原と<反藤原>が権力者として代わり番こに登場してくるところです。ちなみに、道鏡は僧侶で、長屋王と諸兄は皇族の出身です。
また、藤原四子が登場すると長屋王の変が起こり、橘諸兄のときは広嗣の乱が起き、藤原仲麻呂が出てくると橘奈良麻呂の変、道鏡が登場すると恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱、百川が出てくると道鏡が追放される、といったように新たな権力者が登場すると、以前の権力者が必ずつぶされるという図式の時代でした。こうして整理してみていくと、誰がどの時期に何をしたかがよく分かってくると思います。 | 元明天皇の頃に起きた大きな出来事には、何が挙げられますか。 | 元明天皇の頃に起きた大きな出来事には、710年に平城京に遷都したこと、そして「古事記」が712年に、「日本書記」が元正天皇の代の720年に完成したことなどがあげられます。 |
JCRRAG_012705 | 歴史 | 大きく三つの期間に分けることのできる奈良時代は、それぞれ次のようになります。8世紀前期の聖武天皇の時代が第一期。聖武天皇の娘の時代で、8世紀中期ごろが第二期。そして、天智天皇の系列に戻る8世紀後期が第三期。いずれの時期にも三代ずつ天皇がいました。
元明、元正、聖武が第一期の天皇です。草壁皇子の妻が元明天皇、文武天皇の姉にあたる人物が元正天皇で、この二人が女帝でしたが、あくまでも文武天皇の子である聖武を天皇にするためのつなぎ役でした。文武天皇のときと同じですね。実はその裏で藤原不比等が政務をあやつっていました。
文武天皇の時代に大宝律令が完成したのは前に説明したとおりですが、藤原不比等は大宝律令制定の時に中心となって政治方針をつくっていき、その結果権力をもっていきます。しかし、他にも彼のすごいところはいくつかあります。不比等はまず文武天皇のもとに自分の娘である宮子を嫁がせます。
そして、二人の間に誕生したのがのちの聖武天皇となる首皇子だったのです。元明天皇の頃に起きた大きな出来事には、710年に平城京に遷都したこと、そして「古事記」が712年に、「日本書記」が元正天皇の代の720年に完成したことなどがあげられます。その中で天皇は天皇直系の皇統が引き継いでいくのが当たり前という考えが強調されましたが、それが万世一系です。
その頃は皇族が大勢いたので、決して天皇の候補である男子が少なかったわけではないのですが、それでは不比等にとって、自分の孫を天皇にすることができないかもしれないので都合が悪かったのです。要するに、文武天皇の息子である首皇子を天皇にするために提唱されたのが万世一系だとも言えるわけです。
しかし、不比等は720年にこの世を去ってしまいます。せっかく自分の孫を天皇にしたいという強い想いのもと、万世一系の皇統が天皇になるべきだと「古事記」や「日本書記」でアピールしてきたのに、まさに日本書記が完成した720年に、しかも首皇子が大人になる寸前に死んでしまったのです。
これは彼の誤算だったのでしょう。万世一系の考えが裏目に出てしまいます。皇族たちのあいだに「本当ならこの国を支配するのは万世一系の皇統であるはずなのに、蘇我氏や藤原氏などが出てくるのはおかしい。そのせいで変な時代になってしまった」という考えが生まれてしまい、その勢力が長屋王(高市皇子の子であり文武天皇の孫)をリーダーとして、不比等にかわり、政治的な権力をつかむことになるのです。
この時代で注目すべきところは、藤原不比等→<長屋王>→藤原四子→<橘諸兄>→藤原仲麻呂→<道鏡>→藤原百川というように、藤原と<反藤原>が権力者として代わり番こに登場してくるところです。ちなみに、道鏡は僧侶で、長屋王と諸兄は皇族の出身です。
また、藤原四子が登場すると長屋王の変が起こり、橘諸兄のときは広嗣の乱が起き、藤原仲麻呂が出てくると橘奈良麻呂の変、道鏡が登場すると恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱、百川が出てくると道鏡が追放される、といったように新たな権力者が登場すると、以前の権力者が必ずつぶされるという図式の時代でした。こうして整理してみていくと、誰がどの時期に何をしたかがよく分かってくると思います。 | 天皇は天皇直系の皇統が引き継いでいくのが当たり前という考えのことを何と言いますか。 | 天皇は天皇直系の皇統が引き継いでいくのが当たり前という考えが強調されましたが、それが万世一系です。 |
JCRRAG_012706 | 歴史 | 大きく三つの期間に分けることのできる奈良時代は、それぞれ次のようになります。8世紀前期の聖武天皇の時代が第一期。聖武天皇の娘の時代で、8世紀中期ごろが第二期。そして、天智天皇の系列に戻る8世紀後期が第三期。いずれの時期にも三代ずつ天皇がいました。
元明、元正、聖武が第一期の天皇です。草壁皇子の妻が元明天皇、文武天皇の姉にあたる人物が元正天皇で、この二人が女帝でしたが、あくまでも文武天皇の子である聖武を天皇にするためのつなぎ役でした。文武天皇のときと同じですね。実はその裏で藤原不比等が政務をあやつっていました。
文武天皇の時代に大宝律令が完成したのは前に説明したとおりですが、藤原不比等は大宝律令制定の時に中心となって政治方針をつくっていき、その結果権力をもっていきます。しかし、他にも彼のすごいところはいくつかあります。不比等はまず文武天皇のもとに自分の娘である宮子を嫁がせます。
そして、二人の間に誕生したのがのちの聖武天皇となる首皇子だったのです。元明天皇の頃に起きた大きな出来事には、710年に平城京に遷都したこと、そして「古事記」が712年に、「日本書記」が元正天皇の代の720年に完成したことなどがあげられます。その中で天皇は天皇直系の皇統が引き継いでいくのが当たり前という考えが強調されましたが、それが万世一系です。
その頃は皇族が大勢いたので、決して天皇の候補である男子が少なかったわけではないのですが、それでは不比等にとって、自分の孫を天皇にすることができないかもしれないので都合が悪かったのです。要するに、文武天皇の息子である首皇子を天皇にするために提唱されたのが万世一系だとも言えるわけです。
しかし、不比等は720年にこの世を去ってしまいます。せっかく自分の孫を天皇にしたいという強い想いのもと、万世一系の皇統が天皇になるべきだと「古事記」や「日本書記」でアピールしてきたのに、まさに日本書記が完成した720年に、しかも首皇子が大人になる寸前に死んでしまったのです。
これは彼の誤算だったのでしょう。万世一系の考えが裏目に出てしまいます。皇族たちのあいだに「本当ならこの国を支配するのは万世一系の皇統であるはずなのに、蘇我氏や藤原氏などが出てくるのはおかしい。そのせいで変な時代になってしまった」という考えが生まれてしまい、その勢力が長屋王(高市皇子の子であり文武天皇の孫)をリーダーとして、不比等にかわり、政治的な権力をつかむことになるのです。
この時代で注目すべきところは、藤原不比等→<長屋王>→藤原四子→<橘諸兄>→藤原仲麻呂→<道鏡>→藤原百川というように、藤原と<反藤原>が権力者として代わり番こに登場してくるところです。ちなみに、道鏡は僧侶で、長屋王と諸兄は皇族の出身です。
また、藤原四子が登場すると長屋王の変が起こり、橘諸兄のときは広嗣の乱が起き、藤原仲麻呂が出てくると橘奈良麻呂の変、道鏡が登場すると恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱、百川が出てくると道鏡が追放される、といったように新たな権力者が登場すると、以前の権力者が必ずつぶされるという図式の時代でした。こうして整理してみていくと、誰がどの時期に何をしたかがよく分かってくると思います。 | 不比等は何年にこの世を去ってしまいますか。 | 不比等は720年にこの世を去ってしまいます。 |
JCRRAG_012707 | 歴史 | 藤原不比等がこの世を去った後、長屋王が政治的実験を握り、724年に聖武が天皇になりますが、どうしても藤原氏に頼ってしまうようになります。というのも、聖武天皇はまだ大人になったばかりで、父親である文武天皇は亡くなっていたし、母親である宮子は生きていて、彼の周りには武智麻呂(南家)、房前(北家)、宇合(式家)、麻呂(京家)という不比等の子どもである四兄弟が周りをかためていたので、仕方なかったのでしょう。
その結果、長屋王と台頭してきた藤原四子が支配権をめぐり争うことになります。藤原氏は聖武天皇の妃である光明子を皇后(正妃)にしようとしますが、それには長屋王が邪魔者だったので、729年、藤原四子が長屋王の変を起こして、陰謀により長屋王を自殺に追いやることとなります。
皇后には皇族の女性しかなれないという決まりが当時あったので、光明子(藤原不比等と後妻の県犬養三千代のあいだに生まれた娘なので皇族ではない)を皇后にしようとした藤原氏に長屋王が反対するのは当然です。そのため、長屋王と藤原四子はどんどん仲が悪くなり、長屋王の変へとつながったのでしょう。
長屋王の死後は、いよいよ藤原氏の天下と思われました。決まりを無視して藤原四子は光明子を聖武天皇の皇后にしてしまいます。聖武天皇も不比等の孫ですし、しかも不比等の孫が皇后になったので、しばらくは藤原氏は安泰と思われたでしょう。ところがそうはいきません。737年、よりにもよって四人ともその頃大流行した天然痘という病にかかって死んでしまったからです。 | 藤原不比等がこの世を去った後、長屋王が政治的実験を握り、724年に天皇になった人物は誰ですか。 | 藤原不比等がこの世を去った後、長屋王が政治的実験を握り、724年に天皇になったのは聖武です。 |
JCRRAG_012708 | 歴史 | 藤原不比等がこの世を去った後、長屋王が政治的実験を握り、724年に聖武が天皇になりますが、どうしても藤原氏に頼ってしまうようになります。というのも、聖武天皇はまだ大人になったばかりで、父親である文武天皇は亡くなっていたし、母親である宮子は生きていて、彼の周りには武智麻呂(南家)、房前(北家)、宇合(式家)、麻呂(京家)という不比等の子どもである四兄弟が周りをかためていたので、仕方なかったのでしょう。
その結果、長屋王と台頭してきた藤原四子が支配権をめぐり争うことになります。藤原氏は聖武天皇の妃である光明子を皇后(正妃)にしようとしますが、それには長屋王が邪魔者だったので、729年、藤原四子が長屋王の変を起こして、陰謀により長屋王を自殺に追いやることとなります。
皇后には皇族の女性しかなれないという決まりが当時あったので、光明子(藤原不比等と後妻の県犬養三千代のあいだに生まれた娘なので皇族ではない)を皇后にしようとした藤原氏に長屋王が反対するのは当然です。そのため、長屋王と藤原四子はどんどん仲が悪くなり、長屋王の変へとつながったのでしょう。
長屋王の死後は、いよいよ藤原氏の天下と思われました。決まりを無視して藤原四子は光明子を聖武天皇の皇后にしてしまいます。聖武天皇も不比等の孫ですし、しかも不比等の孫が皇后になったので、しばらくは藤原氏は安泰と思われたでしょう。ところがそうはいきません。737年、よりにもよって四人ともその頃大流行した天然痘という病にかかって死んでしまったからです。 | 長屋王と台頭してきた誰が支配権をめぐり争うことになりますか。 | 長屋王と台頭してきた藤原四子が支配権をめぐり争うことになります。 |
JCRRAG_012709 | 歴史 | 藤原不比等がこの世を去った後、長屋王が政治的実験を握り、724年に聖武が天皇になりますが、どうしても藤原氏に頼ってしまうようになります。というのも、聖武天皇はまだ大人になったばかりで、父親である文武天皇は亡くなっていたし、母親である宮子は生きていて、彼の周りには武智麻呂(南家)、房前(北家)、宇合(式家)、麻呂(京家)という不比等の子どもである四兄弟が周りをかためていたので、仕方なかったのでしょう。
その結果、長屋王と台頭してきた藤原四子が支配権をめぐり争うことになります。藤原氏は聖武天皇の妃である光明子を皇后(正妃)にしようとしますが、それには長屋王が邪魔者だったので、729年、藤原四子が長屋王の変を起こして、陰謀により長屋王を自殺に追いやることとなります。
皇后には皇族の女性しかなれないという決まりが当時あったので、光明子(藤原不比等と後妻の県犬養三千代のあいだに生まれた娘なので皇族ではない)を皇后にしようとした藤原氏に長屋王が反対するのは当然です。そのため、長屋王と藤原四子はどんどん仲が悪くなり、長屋王の変へとつながったのでしょう。
長屋王の死後は、いよいよ藤原氏の天下と思われました。決まりを無視して藤原四子は光明子を聖武天皇の皇后にしてしまいます。聖武天皇も不比等の孫ですし、しかも不比等の孫が皇后になったので、しばらくは藤原氏は安泰と思われたでしょう。ところがそうはいきません。737年、よりにもよって四人ともその頃大流行した天然痘という病にかかって死んでしまったからです。 | 聖武天皇の妃である光明子を皇后(正妃)にしようとしたのは誰ですか。 | 聖武天皇の妃である光明子を皇后(正妃)にしようとしたのは藤原氏です。 |
JCRRAG_012710 | 歴史 | 藤原不比等がこの世を去った後、長屋王が政治的実験を握り、724年に聖武が天皇になりますが、どうしても藤原氏に頼ってしまうようになります。というのも、聖武天皇はまだ大人になったばかりで、父親である文武天皇は亡くなっていたし、母親である宮子は生きていて、彼の周りには武智麻呂(南家)、房前(北家)、宇合(式家)、麻呂(京家)という不比等の子どもである四兄弟が周りをかためていたので、仕方なかったのでしょう。
その結果、長屋王と台頭してきた藤原四子が支配権をめぐり争うことになります。藤原氏は聖武天皇の妃である光明子を皇后(正妃)にしようとしますが、それには長屋王が邪魔者だったので、729年、藤原四子が長屋王の変を起こして、陰謀により長屋王を自殺に追いやることとなります。
皇后には皇族の女性しかなれないという決まりが当時あったので、光明子(藤原不比等と後妻の県犬養三千代のあいだに生まれた娘なので皇族ではない)を皇后にしようとした藤原氏に長屋王が反対するのは当然です。そのため、長屋王と藤原四子はどんどん仲が悪くなり、長屋王の変へとつながったのでしょう。
長屋王の死後は、いよいよ藤原氏の天下と思われました。決まりを無視して藤原四子は光明子を聖武天皇の皇后にしてしまいます。聖武天皇も不比等の孫ですし、しかも不比等の孫が皇后になったので、しばらくは藤原氏は安泰と思われたでしょう。ところがそうはいきません。737年、よりにもよって四人ともその頃大流行した天然痘という病にかかって死んでしまったからです。 | 決まりを無視して藤原四子は何をしますか。 | 決まりを無視して藤原四子は光明子を聖武天皇の皇后にしてしまいます。 |
JCRRAG_012711 | 歴史 | 「唐では、絶対権力者として皇帝が国を治めていますよ」と、唐の情勢を聖武天皇に伝えたのは、中国から帰国した遣唐使である吉備真備や玄昉たちです。その頃は730年代でしたので、大唐帝国が頂点に達していたころで、かの有名な玄宗皇帝が国を統治していました。
聖武天皇は、藤原氏とは少し距離を置くようになります。おそらく、遣唐使から報告を受けたことや、藤原四子がいなくなったことがきっかけで、自分自身で国を治めていくのが本来の姿だと反省したのでしょう。
そして唐にならって日本を中央集権国家にしていこうと考え、橘諸兄を起用し、吉備真備、玄昉らと一緒に政治に取り組みます。ちなみに橘諸兄は元々は葛城王という皇族で、県犬養三千代と美努王(皇族)のあいだに誕生した子です。
しかし、この流れを良く思わない人間もいました。それが藤原広嗣で、藤原四子の子どもの一人(藤原宇合の息子)だったのですが、聖武天皇にとって広嗣は完全に身内の人間だったので、大きなショックを受けました。
聖武天皇自身、妻の光明皇后も自分の母親の宮子も藤原の人間なので、疑心暗鬼におちいってしまったそうです。これが740年に起きた藤原広嗣の乱とよばれるもので、九州の大宰府で起こった出来事です。広嗣がうったえたのは、吉備真備、玄昉を追い出してほしいということで、聖武天皇について何かあったわけではなかったようですが、聖武天皇自身はこのことで身内に恐怖心を抱いてしまいました。
それ以降、聖武天皇は平城京から、恭仁京、難波宮、紫香楽宮と、逃げるように何度も遷都をすることになります。 | 「唐では、絶対権力者として皇帝が国を治めていますよ」と、唐の情勢を聖武天皇に伝えたのは、誰ですか。 | 「唐では、絶対権力者として皇帝が国を治めていますよ」と、唐の情勢を聖武天皇に伝えたのは、中国から帰国した遣唐使である吉備真備や玄昉たちです。 |
JCRRAG_012712 | 歴史 | 「唐では、絶対権力者として皇帝が国を治めていますよ」と、唐の情勢を聖武天皇に伝えたのは、中国から帰国した遣唐使である吉備真備や玄昉たちです。その頃は730年代でしたので、大唐帝国が頂点に達していたころで、かの有名な玄宗皇帝が国を統治していました。
聖武天皇は、藤原氏とは少し距離を置くようになります。おそらく、遣唐使から報告を受けたことや、藤原四子がいなくなったことがきっかけで、自分自身で国を治めていくのが本来の姿だと反省したのでしょう。
そして唐にならって日本を中央集権国家にしていこうと考え、橘諸兄を起用し、吉備真備、玄昉らと一緒に政治に取り組みます。ちなみに橘諸兄は元々は葛城王という皇族で、県犬養三千代と美努王(皇族)のあいだに誕生した子です。
しかし、この流れを良く思わない人間もいました。それが藤原広嗣で、藤原四子の子どもの一人(藤原宇合の息子)だったのですが、聖武天皇にとって広嗣は完全に身内の人間だったので、大きなショックを受けました。
聖武天皇自身、妻の光明皇后も自分の母親の宮子も藤原の人間なので、疑心暗鬼におちいってしまったそうです。これが740年に起きた藤原広嗣の乱とよばれるもので、九州の大宰府で起こった出来事です。広嗣がうったえたのは、吉備真備、玄昉を追い出してほしいということで、聖武天皇について何かあったわけではなかったようですが、聖武天皇自身はこのことで身内に恐怖心を抱いてしまいました。
それ以降、聖武天皇は平城京から、恭仁京、難波宮、紫香楽宮と、逃げるように何度も遷都をすることになります。 | 唐にならって日本を何にしていこうと考え、橘諸兄を起用し、吉備真備、玄昉らと一緒に政治に取り組みますか。 | 唐にならって日本を中央集権国家にしていこうと考え、橘諸兄を起用し、吉備真備、玄昉らと一緒に政治に取り組みます。 |
JCRRAG_012713 | 歴史 | 「唐では、絶対権力者として皇帝が国を治めていますよ」と、唐の情勢を聖武天皇に伝えたのは、中国から帰国した遣唐使である吉備真備や玄昉たちです。その頃は730年代でしたので、大唐帝国が頂点に達していたころで、かの有名な玄宗皇帝が国を統治していました。
聖武天皇は、藤原氏とは少し距離を置くようになります。おそらく、遣唐使から報告を受けたことや、藤原四子がいなくなったことがきっかけで、自分自身で国を治めていくのが本来の姿だと反省したのでしょう。
そして唐にならって日本を中央集権国家にしていこうと考え、橘諸兄を起用し、吉備真備、玄昉らと一緒に政治に取り組みます。ちなみに橘諸兄は元々は葛城王という皇族で、県犬養三千代と美努王(皇族)のあいだに誕生した子です。
しかし、この流れを良く思わない人間もいました。それが藤原広嗣で、藤原四子の子どもの一人(藤原宇合の息子)だったのですが、聖武天皇にとって広嗣は完全に身内の人間だったので、大きなショックを受けました。
聖武天皇自身、妻の光明皇后も自分の母親の宮子も藤原の人間なので、疑心暗鬼におちいってしまったそうです。これが740年に起きた藤原広嗣の乱とよばれるもので、九州の大宰府で起こった出来事です。広嗣がうったえたのは、吉備真備、玄昉を追い出してほしいということで、聖武天皇について何かあったわけではなかったようですが、聖武天皇自身はこのことで身内に恐怖心を抱いてしまいました。
それ以降、聖武天皇は平城京から、恭仁京、難波宮、紫香楽宮と、逃げるように何度も遷都をすることになります。 | 橘諸兄は元々は葛城王という皇族で、誰と誰のあいだに誕生した子ですか。 | 橘諸兄は元々は葛城王という皇族で、県犬養三千代と美努王(皇族)のあいだに誕生した子です。 |
JCRRAG_012714 | 歴史 | 「唐では、絶対権力者として皇帝が国を治めていますよ」と、唐の情勢を聖武天皇に伝えたのは、中国から帰国した遣唐使である吉備真備や玄昉たちです。その頃は730年代でしたので、大唐帝国が頂点に達していたころで、かの有名な玄宗皇帝が国を統治していました。
聖武天皇は、藤原氏とは少し距離を置くようになります。おそらく、遣唐使から報告を受けたことや、藤原四子がいなくなったことがきっかけで、自分自身で国を治めていくのが本来の姿だと反省したのでしょう。
そして唐にならって日本を中央集権国家にしていこうと考え、橘諸兄を起用し、吉備真備、玄昉らと一緒に政治に取り組みます。ちなみに橘諸兄は元々は葛城王という皇族で、県犬養三千代と美努王(皇族)のあいだに誕生した子です。
しかし、この流れを良く思わない人間もいました。それが藤原広嗣で、藤原四子の子どもの一人(藤原宇合の息子)だったのですが、聖武天皇にとって広嗣は完全に身内の人間だったので、大きなショックを受けました。
聖武天皇自身、妻の光明皇后も自分の母親の宮子も藤原の人間なので、疑心暗鬼におちいってしまったそうです。これが740年に起きた藤原広嗣の乱とよばれるもので、九州の大宰府で起こった出来事です。広嗣がうったえたのは、吉備真備、玄昉を追い出してほしいということで、聖武天皇について何かあったわけではなかったようですが、聖武天皇自身はこのことで身内に恐怖心を抱いてしまいました。
それ以降、聖武天皇は平城京から、恭仁京、難波宮、紫香楽宮と、逃げるように何度も遷都をすることになります。 | 聖武天皇は平城京から、どこへ遷都をしてきましたか。 | 聖武天皇は平城京から、恭仁京、難波宮、紫香楽宮と、逃げるように何度も遷都をすることになります。 |
JCRRAG_012715 | 歴史 | 聖武天皇は714年に国ごとに国分寺を建設するよう命令し、さらに743年に鎮護国家思想を推し進めるために、大仏造立の発願をします。このことから、聖武天皇はどんどん宗教にのめりこんでいくのがわかります。
この時代の仏教は鎮護仏教だったので、われわれが考えるようなものとはまた違ったものでした。仏教の教えを探求することによって、日本という国の支配の方法や国を平和にするための方法を考えていこうとしたのは、奈良時代の教理の研究団体である仏教六学派の南都六宗でした。
国の支配の方法は国家機密で、それが国民に分かってしまうのはまずいと考えられていたので、いろいろな場所をまわって橋をつくったり、布教活動を行っていた渡来系の僧・行基は、はじめの頃かなりひどく押さえつけられていました。南都六宗では布教が禁止されていたのです。
国は寺を二つに分けて国家が管理し、教理が外部に分からないように隠そうとしました。蘇我氏は飛鳥寺、秦氏は太秦寺(広隆寺)といったように、一族の氏寺がつくられていたのは飛鳥時代で、大化の改新以前のはなしですが、それぞれの豪族が仏教を信仰していました。それがうってかわって、大化の改新後は寺院が官寺の制によって官立化されていきました。
国家鎮護のために総国分寺である奈良の東大寺にも大仏が建立されました。それはけっして信仰を広めるためではありませんでした。しかし、749年、聖武天皇は天皇をみずから辞め、孝謙天皇として娘である阿倍内親王にその地位を譲ります。宗教にすがっても、不安な気持ちを拭い去ることはできなかったのでしょう。
苦難の末、中国から招いていた鑑真が日本を訪れ、754年にはいろいろな人が受戒しました。聖武上皇(譲位後は上皇となりました)や孝謙天皇、光明皇太后、得度した僧侶や高級貴族などがそうです。得度をすると僧になることはできるのですが、ステージをあげるにはその後受戒することが必要だったのです。
律令体制は、税金を徴収するかわりにみんなに土地を分け与えますよ、という制度というのは前に説明したとおりですが、これが奈良時代の中期ごろに崩れてきてしまいます。これがさらに時代が混乱してしまうきっかけでした。国家権力が失われると、土地を分け与えるための班田がうまくいかなくなり、税の徴収もしにくくなってしまいます。
そこで、政府は、開墾した土地を期限つきで私有していいですよ、という法律を定めることで、墾田(開墾した土地)を増やしていこうと思い、長屋王政権の723年に三世一身法を制定するのですが、墾田は思ったより増えなかったので、743年の聖武天皇の時代に墾田永年私財の法が発表され、墾田を永久的に私有していいですよ、と法律が変わることになります。
その頃の墾田は増えたら増えたで輸租田という税がかかっていたので、仮にそこが私有地であっても、税収は増えていたのです。聖武天皇の恐怖心や不安、律令体制の崩壊などが仏教勢力の増長に拍車をかけてしまいます。なんとかしなければ、という焦りから仏教にのめりこんでしまった結果でしょう。これがこの先、道鏡という人物の登場につながっていくこととなります。 | 聖武天皇は714年に国ごとに国分寺を建設するよう命令し、さらに743年に鎮護国家思想を推し進めるために、何をしましたか。 | 聖武天皇は714年に国ごとに国分寺を建設するよう命令し、さらに743年に鎮護国家思想を推し進めるために、大仏造立の発願をします。 |
JCRRAG_012716 | 歴史 | 聖武天皇は714年に国ごとに国分寺を建設するよう命令し、さらに743年に鎮護国家思想を推し進めるために、大仏造立の発願をします。このことから、聖武天皇はどんどん宗教にのめりこんでいくのがわかります。
この時代の仏教は鎮護仏教だったので、われわれが考えるようなものとはまた違ったものでした。仏教の教えを探求することによって、日本という国の支配の方法や国を平和にするための方法を考えていこうとしたのは、奈良時代の教理の研究団体である仏教六学派の南都六宗でした。
国の支配の方法は国家機密で、それが国民に分かってしまうのはまずいと考えられていたので、いろいろな場所をまわって橋をつくったり、布教活動を行っていた渡来系の僧・行基は、はじめの頃かなりひどく押さえつけられていました。南都六宗では布教が禁止されていたのです。
国は寺を二つに分けて国家が管理し、教理が外部に分からないように隠そうとしました。蘇我氏は飛鳥寺、秦氏は太秦寺(広隆寺)といったように、一族の氏寺がつくられていたのは飛鳥時代で、大化の改新以前のはなしですが、それぞれの豪族が仏教を信仰していました。それがうってかわって、大化の改新後は寺院が官寺の制によって官立化されていきました。
国家鎮護のために総国分寺である奈良の東大寺にも大仏が建立されました。それはけっして信仰を広めるためではありませんでした。しかし、749年、聖武天皇は天皇をみずから辞め、孝謙天皇として娘である阿倍内親王にその地位を譲ります。宗教にすがっても、不安な気持ちを拭い去ることはできなかったのでしょう。
苦難の末、中国から招いていた鑑真が日本を訪れ、754年にはいろいろな人が受戒しました。聖武上皇(譲位後は上皇となりました)や孝謙天皇、光明皇太后、得度した僧侶や高級貴族などがそうです。得度をすると僧になることはできるのですが、ステージをあげるにはその後受戒することが必要だったのです。
律令体制は、税金を徴収するかわりにみんなに土地を分け与えますよ、という制度というのは前に説明したとおりですが、これが奈良時代の中期ごろに崩れてきてしまいます。これがさらに時代が混乱してしまうきっかけでした。国家権力が失われると、土地を分け与えるための班田がうまくいかなくなり、税の徴収もしにくくなってしまいます。
そこで、政府は、開墾した土地を期限つきで私有していいですよ、という法律を定めることで、墾田(開墾した土地)を増やしていこうと思い、長屋王政権の723年に三世一身法を制定するのですが、墾田は思ったより増えなかったので、743年の聖武天皇の時代に墾田永年私財の法が発表され、墾田を永久的に私有していいですよ、と法律が変わることになります。
その頃の墾田は増えたら増えたで輸租田という税がかかっていたので、仮にそこが私有地であっても、税収は増えていたのです。聖武天皇の恐怖心や不安、律令体制の崩壊などが仏教勢力の増長に拍車をかけてしまいます。なんとかしなければ、という焦りから仏教にのめりこんでしまった結果でしょう。これがこの先、道鏡という人物の登場につながっていくこととなります。 | 大化の改新後、寺院はどのようになったか。 | 大化の改新後は寺院が官寺の制によって官立化されていきました。 |
JCRRAG_012717 | 歴史 | 聖武天皇は714年に国ごとに国分寺を建設するよう命令し、さらに743年に鎮護国家思想を推し進めるために、大仏造立の発願をします。このことから、聖武天皇はどんどん宗教にのめりこんでいくのがわかります。
この時代の仏教は鎮護仏教だったので、われわれが考えるようなものとはまた違ったものでした。仏教の教えを探求することによって、日本という国の支配の方法や国を平和にするための方法を考えていこうとしたのは、奈良時代の教理の研究団体である仏教六学派の南都六宗でした。
国の支配の方法は国家機密で、それが国民に分かってしまうのはまずいと考えられていたので、いろいろな場所をまわって橋をつくったり、布教活動を行っていた渡来系の僧・行基は、はじめの頃かなりひどく押さえつけられていました。南都六宗では布教が禁止されていたのです。
国は寺を二つに分けて国家が管理し、教理が外部に分からないように隠そうとしました。蘇我氏は飛鳥寺、秦氏は太秦寺(広隆寺)といったように、一族の氏寺がつくられていたのは飛鳥時代で、大化の改新以前のはなしですが、それぞれの豪族が仏教を信仰していました。それがうってかわって、大化の改新後は寺院が官寺の制によって官立化されていきました。
国家鎮護のために総国分寺である奈良の東大寺にも大仏が建立されました。それはけっして信仰を広めるためではありませんでした。しかし、749年、聖武天皇は天皇をみずから辞め、孝謙天皇として娘である阿倍内親王にその地位を譲ります。宗教にすがっても、不安な気持ちを拭い去ることはできなかったのでしょう。
苦難の末、中国から招いていた鑑真が日本を訪れ、754年にはいろいろな人が受戒しました。聖武上皇(譲位後は上皇となりました)や孝謙天皇、光明皇太后、得度した僧侶や高級貴族などがそうです。得度をすると僧になることはできるのですが、ステージをあげるにはその後受戒することが必要だったのです。
律令体制は、税金を徴収するかわりにみんなに土地を分け与えますよ、という制度というのは前に説明したとおりですが、これが奈良時代の中期ごろに崩れてきてしまいます。これがさらに時代が混乱してしまうきっかけでした。国家権力が失われると、土地を分け与えるための班田がうまくいかなくなり、税の徴収もしにくくなってしまいます。
そこで、政府は、開墾した土地を期限つきで私有していいですよ、という法律を定めることで、墾田(開墾した土地)を増やしていこうと思い、長屋王政権の723年に三世一身法を制定するのですが、墾田は思ったより増えなかったので、743年の聖武天皇の時代に墾田永年私財の法が発表され、墾田を永久的に私有していいですよ、と法律が変わることになります。
その頃の墾田は増えたら増えたで輸租田という税がかかっていたので、仮にそこが私有地であっても、税収は増えていたのです。聖武天皇の恐怖心や不安、律令体制の崩壊などが仏教勢力の増長に拍車をかけてしまいます。なんとかしなければ、という焦りから仏教にのめりこんでしまった結果でしょう。これがこの先、道鏡という人物の登場につながっていくこととなります。 | 国家鎮護のために、どこに大仏が建立されましたか。 | 国家鎮護のために総国分寺である奈良の東大寺にも大仏が建立されました。 |
JCRRAG_012718 | 歴史 | 聖武天皇は714年に国ごとに国分寺を建設するよう命令し、さらに743年に鎮護国家思想を推し進めるために、大仏造立の発願をします。このことから、聖武天皇はどんどん宗教にのめりこんでいくのがわかります。
この時代の仏教は鎮護仏教だったので、われわれが考えるようなものとはまた違ったものでした。仏教の教えを探求することによって、日本という国の支配の方法や国を平和にするための方法を考えていこうとしたのは、奈良時代の教理の研究団体である仏教六学派の南都六宗でした。
国の支配の方法は国家機密で、それが国民に分かってしまうのはまずいと考えられていたので、いろいろな場所をまわって橋をつくったり、布教活動を行っていた渡来系の僧・行基は、はじめの頃かなりひどく押さえつけられていました。南都六宗では布教が禁止されていたのです。
国は寺を二つに分けて国家が管理し、教理が外部に分からないように隠そうとしました。蘇我氏は飛鳥寺、秦氏は太秦寺(広隆寺)といったように、一族の氏寺がつくられていたのは飛鳥時代で、大化の改新以前のはなしですが、それぞれの豪族が仏教を信仰していました。それがうってかわって、大化の改新後は寺院が官寺の制によって官立化されていきました。
国家鎮護のために総国分寺である奈良の東大寺にも大仏が建立されました。それはけっして信仰を広めるためではありませんでした。しかし、749年、聖武天皇は天皇をみずから辞め、孝謙天皇として娘である阿倍内親王にその地位を譲ります。宗教にすがっても、不安な気持ちを拭い去ることはできなかったのでしょう。
苦難の末、中国から招いていた鑑真が日本を訪れ、754年にはいろいろな人が受戒しました。聖武上皇(譲位後は上皇となりました)や孝謙天皇、光明皇太后、得度した僧侶や高級貴族などがそうです。得度をすると僧になることはできるのですが、ステージをあげるにはその後受戒することが必要だったのです。
律令体制は、税金を徴収するかわりにみんなに土地を分け与えますよ、という制度というのは前に説明したとおりですが、これが奈良時代の中期ごろに崩れてきてしまいます。これがさらに時代が混乱してしまうきっかけでした。国家権力が失われると、土地を分け与えるための班田がうまくいかなくなり、税の徴収もしにくくなってしまいます。
そこで、政府は、開墾した土地を期限つきで私有していいですよ、という法律を定めることで、墾田(開墾した土地)を増やしていこうと思い、長屋王政権の723年に三世一身法を制定するのですが、墾田は思ったより増えなかったので、743年の聖武天皇の時代に墾田永年私財の法が発表され、墾田を永久的に私有していいですよ、と法律が変わることになります。
その頃の墾田は増えたら増えたで輸租田という税がかかっていたので、仮にそこが私有地であっても、税収は増えていたのです。聖武天皇の恐怖心や不安、律令体制の崩壊などが仏教勢力の増長に拍車をかけてしまいます。なんとかしなければ、という焦りから仏教にのめりこんでしまった結果でしょう。これがこの先、道鏡という人物の登場につながっていくこととなります。 | 749年、聖武天皇は天皇をみずから辞め、孝謙天皇として誰にその地位を譲りますか。 | 749年、聖武天皇は天皇をみずから辞め、孝謙天皇として娘である阿倍内親王にその地位を譲ります。 |
JCRRAG_012719 | 歴史 | 聖武天皇は714年に国ごとに国分寺を建設するよう命令し、さらに743年に鎮護国家思想を推し進めるために、大仏造立の発願をします。このことから、聖武天皇はどんどん宗教にのめりこんでいくのがわかります。
この時代の仏教は鎮護仏教だったので、われわれが考えるようなものとはまた違ったものでした。仏教の教えを探求することによって、日本という国の支配の方法や国を平和にするための方法を考えていこうとしたのは、奈良時代の教理の研究団体である仏教六学派の南都六宗でした。
国の支配の方法は国家機密で、それが国民に分かってしまうのはまずいと考えられていたので、いろいろな場所をまわって橋をつくったり、布教活動を行っていた渡来系の僧・行基は、はじめの頃かなりひどく押さえつけられていました。南都六宗では布教が禁止されていたのです。
国は寺を二つに分けて国家が管理し、教理が外部に分からないように隠そうとしました。蘇我氏は飛鳥寺、秦氏は太秦寺(広隆寺)といったように、一族の氏寺がつくられていたのは飛鳥時代で、大化の改新以前のはなしですが、それぞれの豪族が仏教を信仰していました。それがうってかわって、大化の改新後は寺院が官寺の制によって官立化されていきました。
国家鎮護のために総国分寺である奈良の東大寺にも大仏が建立されました。それはけっして信仰を広めるためではありませんでした。しかし、749年、聖武天皇は天皇をみずから辞め、孝謙天皇として娘である阿倍内親王にその地位を譲ります。宗教にすがっても、不安な気持ちを拭い去ることはできなかったのでしょう。
苦難の末、中国から招いていた鑑真が日本を訪れ、754年にはいろいろな人が受戒しました。聖武上皇(譲位後は上皇となりました)や孝謙天皇、光明皇太后、得度した僧侶や高級貴族などがそうです。得度をすると僧になることはできるのですが、ステージをあげるにはその後受戒することが必要だったのです。
律令体制は、税金を徴収するかわりにみんなに土地を分け与えますよ、という制度というのは前に説明したとおりですが、これが奈良時代の中期ごろに崩れてきてしまいます。これがさらに時代が混乱してしまうきっかけでした。国家権力が失われると、土地を分け与えるための班田がうまくいかなくなり、税の徴収もしにくくなってしまいます。
そこで、政府は、開墾した土地を期限つきで私有していいですよ、という法律を定めることで、墾田(開墾した土地)を増やしていこうと思い、長屋王政権の723年に三世一身法を制定するのですが、墾田は思ったより増えなかったので、743年の聖武天皇の時代に墾田永年私財の法が発表され、墾田を永久的に私有していいですよ、と法律が変わることになります。
その頃の墾田は増えたら増えたで輸租田という税がかかっていたので、仮にそこが私有地であっても、税収は増えていたのです。聖武天皇の恐怖心や不安、律令体制の崩壊などが仏教勢力の増長に拍車をかけてしまいます。なんとかしなければ、という焦りから仏教にのめりこんでしまった結果でしょう。これがこの先、道鏡という人物の登場につながっていくこととなります。 | その頃の墾田は増えたら増えたで何という税がかかっていましたか。 | その頃の墾田は増えたら増えたで輸租田という税がかかっていたので、仮にそこが私有地であっても、税収は増えていたのです。 |
JCRRAG_012720 | 歴史 | 阿倍内親王は聖武天皇のたった一人の子どもでした。聖武天皇は数少ない妃しか持たなかったのです。阿倍内親王は女性なのですが、後継ぎが他にいなかったため、孝謙天皇として即位することになりました。
政治のサポートには藤原四子の長兄である仲麻呂(武智麻呂)がつきました。孝謙天皇の母親は藤原氏の女性である光明皇太后でしたし、親戚筋である仲麻呂がつくのは自然でしょう。757年、それに反発した橘諸兄の子である橘奈良麻呂は、藤原仲麻呂に謀叛の罪を着せられ、倒されてしまいます。これは橘諸兄がこの世を去った直後に起こったことで、橘奈良麻呂の変といいます。
実は孝謙天皇は自分の意思で藤原仲麻呂にサポート役をさせたのではなく、光明皇太后に言われてそうしたのです。大事なのは、もっとも力を持っていたのは光明皇太后その人だったというところです。ここから孝謙天皇のもとで藤原仲麻呂が政治的な力を握っていくこととなります。
皇后宮織(729年に新しく設けられた皇后付属機関)が改名されて紫微中台となったのは、749年に孝謙天皇が即位した時ですが、757年に起きた橘奈良麻呂の変を機会に、この紫微中台を天皇より上の立場として制定し、内相の立場を得て、藤原仲麻呂はみずからそのポジションにつきます。
光明皇太后がもっとも力を持っていたのは前述したとおりですが、仲麻呂はさらにその力を高め、自分は後ろ盾として権力をふるっていました。しかし、仲麻呂とお嬢様育ちの孝謙天皇はあまり気が合わず、扱いづらいので煙たく思っていました。
どうにか自分の思いどおりに動かせる人がいないかと仲麻呂は考えますが、そのとき目をつけられたのが大炊王という人で、彼は「日本書記」を編修したことで広く世に知られている舎人親王の子で、天武天皇の孫でした。仲麻呂とは仲がよかったのですが、正当な系統の皇族というわけではありませんでした。
この人なら都合が良いと考えた仲麻呂は、光明天皇を説得し、半ば強引に孝謙天皇に位を譲らせて、淳仁天皇として即位させてしまいました。晴れて仲麻呂は紫微内相という権力の中心人物として独裁政治を行いますが、それは皇太后あってのことでした。残念なことにそれが裏目に出てしまいます。 | 阿倍内親王は誰のたった一人の子どもでしたか。 | 阿倍内親王は聖武天皇のたった一人の子どもでした。 |
JCRRAG_012721 | 歴史 | 阿倍内親王は聖武天皇のたった一人の子どもでした。聖武天皇は数少ない妃しか持たなかったのです。阿倍内親王は女性なのですが、後継ぎが他にいなかったため、孝謙天皇として即位することになりました。
政治のサポートには藤原四子の長兄である仲麻呂(武智麻呂)がつきました。孝謙天皇の母親は藤原氏の女性である光明皇太后でしたし、親戚筋である仲麻呂がつくのは自然でしょう。757年、それに反発した橘諸兄の子である橘奈良麻呂は、藤原仲麻呂に謀叛の罪を着せられ、倒されてしまいます。これは橘諸兄がこの世を去った直後に起こったことで、橘奈良麻呂の変といいます。
実は孝謙天皇は自分の意思で藤原仲麻呂にサポート役をさせたのではなく、光明皇太后に言われてそうしたのです。大事なのは、もっとも力を持っていたのは光明皇太后その人だったというところです。ここから孝謙天皇のもとで藤原仲麻呂が政治的な力を握っていくこととなります。
皇后宮織(729年に新しく設けられた皇后付属機関)が改名されて紫微中台となったのは、749年に孝謙天皇が即位した時ですが、757年に起きた橘奈良麻呂の変を機会に、この紫微中台を天皇より上の立場として制定し、内相の立場を得て、藤原仲麻呂はみずからそのポジションにつきます。
光明皇太后がもっとも力を持っていたのは前述したとおりですが、仲麻呂はさらにその力を高め、自分は後ろ盾として権力をふるっていました。しかし、仲麻呂とお嬢様育ちの孝謙天皇はあまり気が合わず、扱いづらいので煙たく思っていました。
どうにか自分の思いどおりに動かせる人がいないかと仲麻呂は考えますが、そのとき目をつけられたのが大炊王という人で、彼は「日本書記」を編修したことで広く世に知られている舎人親王の子で、天武天皇の孫でした。仲麻呂とは仲がよかったのですが、正当な系統の皇族というわけではありませんでした。
この人なら都合が良いと考えた仲麻呂は、光明天皇を説得し、半ば強引に孝謙天皇に位を譲らせて、淳仁天皇として即位させてしまいました。晴れて仲麻呂は紫微内相という権力の中心人物として独裁政治を行いますが、それは皇太后あってのことでした。残念なことにそれが裏目に出てしまいます。 | 阿倍内親王は、何天皇として即位することになりましたか。 | 阿倍内親王は女性なのですが、後継ぎが他にいなかったため、孝謙天皇として即位することになりました。 |
JCRRAG_012722 | 歴史 | 阿倍内親王は聖武天皇のたった一人の子どもでした。聖武天皇は数少ない妃しか持たなかったのです。阿倍内親王は女性なのですが、後継ぎが他にいなかったため、孝謙天皇として即位することになりました。
政治のサポートには藤原四子の長兄である仲麻呂(武智麻呂)がつきました。孝謙天皇の母親は藤原氏の女性である光明皇太后でしたし、親戚筋である仲麻呂がつくのは自然でしょう。757年、それに反発した橘諸兄の子である橘奈良麻呂は、藤原仲麻呂に謀叛の罪を着せられ、倒されてしまいます。これは橘諸兄がこの世を去った直後に起こったことで、橘奈良麻呂の変といいます。
実は孝謙天皇は自分の意思で藤原仲麻呂にサポート役をさせたのではなく、光明皇太后に言われてそうしたのです。大事なのは、もっとも力を持っていたのは光明皇太后その人だったというところです。ここから孝謙天皇のもとで藤原仲麻呂が政治的な力を握っていくこととなります。
皇后宮織(729年に新しく設けられた皇后付属機関)が改名されて紫微中台となったのは、749年に孝謙天皇が即位した時ですが、757年に起きた橘奈良麻呂の変を機会に、この紫微中台を天皇より上の立場として制定し、内相の立場を得て、藤原仲麻呂はみずからそのポジションにつきます。
光明皇太后がもっとも力を持っていたのは前述したとおりですが、仲麻呂はさらにその力を高め、自分は後ろ盾として権力をふるっていました。しかし、仲麻呂とお嬢様育ちの孝謙天皇はあまり気が合わず、扱いづらいので煙たく思っていました。
どうにか自分の思いどおりに動かせる人がいないかと仲麻呂は考えますが、そのとき目をつけられたのが大炊王という人で、彼は「日本書記」を編修したことで広く世に知られている舎人親王の子で、天武天皇の孫でした。仲麻呂とは仲がよかったのですが、正当な系統の皇族というわけではありませんでした。
この人なら都合が良いと考えた仲麻呂は、光明天皇を説得し、半ば強引に孝謙天皇に位を譲らせて、淳仁天皇として即位させてしまいました。晴れて仲麻呂は紫微内相という権力の中心人物として独裁政治を行いますが、それは皇太后あってのことでした。残念なことにそれが裏目に出てしまいます。 | 実は孝謙天皇は自分の意思で藤原仲麻呂にサポート役をさせたのではなく、誰に言われてそうしたのですか。 | 実は孝謙天皇は自分の意思で藤原仲麻呂にサポート役をさせたのではなく、光明皇太后に言われてそうしたのです。 |
JCRRAG_012723 | 歴史 | ついに760年に藤原仲麻呂の頼みの綱であった光明皇太后が亡くなります。そして、紫微中台の最高権力者が孝謙上皇(上皇とは太上天皇の略で譲位後の呼び名)に移るのですが、孝謙上皇は仲麻呂をあまりよく思ってはいませんでした。彼によって、無理矢理に天皇からおろされたわけですから当然です。
そこで、孝謙上皇の病気を治療した道鏡という僧侶が重用されはじめます。皮肉にも、自分の力を高めるためにつくったはずの紫微中台のおかげで、彼の力は衰えていくことになります。仲麻呂自身が天皇よりも紫微中台に力を持たせていたのですから、とても無念だったでしょう。
淳仁天皇と仲麻呂の力は光明天皇が死去した後、一気に弱くなってしまいますが、なんとかそれを挽回しようと764年に恵美押勝の乱を起こします。ちなみに恵美押勝というのは、淳仁天皇から藤原仲麻呂に授けられた名前です。
具体的に説明すると、これは道鏡を排除するための戦いなのですが、仲麻呂が窮地におちいった時に苦しさのあまり起こした反乱だったので、うまくいくはずがありません。軍事力も政治の軸となっていた紫微中台のほうが上だったので、そちらに軍配があがったのです。
結局、淳仁天皇は淡路に島流しにされ、藤原仲麻呂は追いかけてきた兵に斬られて死んでしまいました。ここでも自分が強くしたはずの軍事力につぶされるという、残念な結果に終わってしまいます。
淳仁天皇はのちに「淡路廃帝」と称されますが、天皇が島流しにされるのはこれがはじめてでしたので、おそらくこちらも無念だったでしょう。そしてこのあと、孝謙天皇はふたたび称徳天皇としてその地位につくことになります。 | 孝謙上皇の病気を治療した何という僧侶が重用されはじめますか。 | 孝謙上皇の病気を治療した道鏡という僧侶が重用されはじめます。 |
JCRRAG_012724 | 歴史 | ついに760年に藤原仲麻呂の頼みの綱であった光明皇太后が亡くなります。そして、紫微中台の最高権力者が孝謙上皇(上皇とは太上天皇の略で譲位後の呼び名)に移るのですが、孝謙上皇は仲麻呂をあまりよく思ってはいませんでした。彼によって、無理矢理に天皇からおろされたわけですから当然です。
そこで、孝謙上皇の病気を治療した道鏡という僧侶が重用されはじめます。皮肉にも、自分の力を高めるためにつくったはずの紫微中台のおかげで、彼の力は衰えていくことになります。仲麻呂自身が天皇よりも紫微中台に力を持たせていたのですから、とても無念だったでしょう。
淳仁天皇と仲麻呂の力は光明天皇が死去した後、一気に弱くなってしまいますが、なんとかそれを挽回しようと764年に恵美押勝の乱を起こします。ちなみに恵美押勝というのは、淳仁天皇から藤原仲麻呂に授けられた名前です。
具体的に説明すると、これは道鏡を排除するための戦いなのですが、仲麻呂が窮地におちいった時に苦しさのあまり起こした反乱だったので、うまくいくはずがありません。軍事力も政治の軸となっていた紫微中台のほうが上だったので、そちらに軍配があがったのです。
結局、淳仁天皇は淡路に島流しにされ、藤原仲麻呂は追いかけてきた兵に斬られて死んでしまいました。ここでも自分が強くしたはずの軍事力につぶされるという、残念な結果に終わってしまいます。
淳仁天皇はのちに「淡路廃帝」と称されますが、天皇が島流しにされるのはこれがはじめてでしたので、おそらくこちらも無念だったでしょう。そしてこのあと、孝謙天皇はふたたび称徳天皇としてその地位につくことになります。 | 自分の力を高めるためにつくったはずの紫微中台のおかげで、彼の力はどうなりますか? | 自分の力を高めるためにつくったはずの紫微中台のおかげで、彼の力は衰えていくことになります。 |
JCRRAG_012725 | 歴史 | ついに760年に藤原仲麻呂の頼みの綱であった光明皇太后が亡くなります。そして、紫微中台の最高権力者が孝謙上皇(上皇とは太上天皇の略で譲位後の呼び名)に移るのですが、孝謙上皇は仲麻呂をあまりよく思ってはいませんでした。彼によって、無理矢理に天皇からおろされたわけですから当然です。
そこで、孝謙上皇の病気を治療した道鏡という僧侶が重用されはじめます。皮肉にも、自分の力を高めるためにつくったはずの紫微中台のおかげで、彼の力は衰えていくことになります。仲麻呂自身が天皇よりも紫微中台に力を持たせていたのですから、とても無念だったでしょう。
淳仁天皇と仲麻呂の力は光明天皇が死去した後、一気に弱くなってしまいますが、なんとかそれを挽回しようと764年に恵美押勝の乱を起こします。ちなみに恵美押勝というのは、淳仁天皇から藤原仲麻呂に授けられた名前です。
具体的に説明すると、これは道鏡を排除するための戦いなのですが、仲麻呂が窮地におちいった時に苦しさのあまり起こした反乱だったので、うまくいくはずがありません。軍事力も政治の軸となっていた紫微中台のほうが上だったので、そちらに軍配があがったのです。
結局、淳仁天皇は淡路に島流しにされ、藤原仲麻呂は追いかけてきた兵に斬られて死んでしまいました。ここでも自分が強くしたはずの軍事力につぶされるという、残念な結果に終わってしまいます。
淳仁天皇はのちに「淡路廃帝」と称されますが、天皇が島流しにされるのはこれがはじめてでしたので、おそらくこちらも無念だったでしょう。そしてこのあと、孝謙天皇はふたたび称徳天皇としてその地位につくことになります。 | 淳仁天皇と仲麻呂の力は光明天皇が死去した後、764年に何を起こしますか。 | 淳仁天皇と仲麻呂の力は光明天皇が死去した後、一気に弱くなってしまいますが、なんとかそれを挽回しようと764年に恵美押勝の乱を起こします。 |
JCRRAG_012726 | 歴史 | ついに760年に藤原仲麻呂の頼みの綱であった光明皇太后が亡くなります。そして、紫微中台の最高権力者が孝謙上皇(上皇とは太上天皇の略で譲位後の呼び名)に移るのですが、孝謙上皇は仲麻呂をあまりよく思ってはいませんでした。彼によって、無理矢理に天皇からおろされたわけですから当然です。
そこで、孝謙上皇の病気を治療した道鏡という僧侶が重用されはじめます。皮肉にも、自分の力を高めるためにつくったはずの紫微中台のおかげで、彼の力は衰えていくことになります。仲麻呂自身が天皇よりも紫微中台に力を持たせていたのですから、とても無念だったでしょう。
淳仁天皇と仲麻呂の力は光明天皇が死去した後、一気に弱くなってしまいますが、なんとかそれを挽回しようと764年に恵美押勝の乱を起こします。ちなみに恵美押勝というのは、淳仁天皇から藤原仲麻呂に授けられた名前です。
具体的に説明すると、これは道鏡を排除するための戦いなのですが、仲麻呂が窮地におちいった時に苦しさのあまり起こした反乱だったので、うまくいくはずがありません。軍事力も政治の軸となっていた紫微中台のほうが上だったので、そちらに軍配があがったのです。
結局、淳仁天皇は淡路に島流しにされ、藤原仲麻呂は追いかけてきた兵に斬られて死んでしまいました。ここでも自分が強くしたはずの軍事力につぶされるという、残念な結果に終わってしまいます。
淳仁天皇はのちに「淡路廃帝」と称されますが、天皇が島流しにされるのはこれがはじめてでしたので、おそらくこちらも無念だったでしょう。そしてこのあと、孝謙天皇はふたたび称徳天皇としてその地位につくことになります。 | 淳仁天皇はのちに何と称されますか。 | 淳仁天皇はのちに「淡路廃帝」と称されます |
JCRRAG_012727 | 歴史 | 道鏡は、称徳天皇のもとでむくむくと力をつけていきました。その理由には、称徳天皇の病気を治したということと、聖武天皇が宗教にのめりこみ、仏教勢力の勢いを強くしてしまったことなどがあげられます。道鏡は太政大臣禅師という地位にいましたが、さらに宗教的にも最高の権力を持っていて、政治も動かすことができるというポストを称徳天皇から与えられることになります。これが法王という地位で、称徳天皇が道鏡だけのためにつくった地位です。その次の年には、寺院以外はこれよりさらに土地を開墾して私有化してはいけない、という法令を発表します。これが寺院以外の加墾禁止令です。このように、道鏡は仏教界のためだけになる政策を推し進めていきます。
ただ、道鏡は考えます。藤原仲麻呂の権力は光明皇后あってこそのものでした。自分も現在、称徳天皇を後ろ盾として権力を握っています。もし後ろ盾がなくなったらと思うと、自分の地位も決して揺るぎないものではないからです。
実際に、称徳天皇は769年にまたしても重病にかかってしまい、道鏡はその当時の病気治療の方法であった加持祈祷で治そうとしますが、なかなかうまくいくものではありません。もしこのまま称徳天皇が死んでしまったら自分の地位も危ない、と道鏡は考え、何とか方法はないかと考え続けた結果、「みずから天皇になること」を答えとして出しました。
そこで彼は「道鏡を天皇にすべし」と宇佐八幡宮(現在の大分県)の託宣があったことを利用して、天皇になろうとしました。これが宇佐八幡宮神託事件です。神様の力をつかって天皇になろうとした道鏡ですが、僧侶なのですから、本当は仏様の力を借りたほうがよかったでしょうに、そうはしなかったようです。
朝廷は、この神託が本物なのか偽物なのか調べるように、和気清麻呂という人物に命じます。「これが本物だといえば、悪いようにはしないよ」と道鏡は和気清麻呂をそそのかしたようですが、清麻呂は「そういう神託はございませんでした」と一蹴します。
道鏡はこれに腹を立て、和気清麻呂の名前を「別部穢麻呂」とさせたうえに、大隅(現在の鹿児島県)に島流しにしてしまいます。結局、翌年の770年に称徳天皇は病死してしまい、道鏡は天皇になれず、藤原仲麻呂と同じく後ろ盾を無くした彼の力は、坂道をころがるように落ちていきました。 | 道鏡は太政大臣禅師という地位にいましたが、その後どのようなポストを称徳天皇から与えられることになりますか。 | 道鏡は太政大臣禅師という地位にいましたが、さらに宗教的にも最高の権力を持っていて、政治も動かすことができるというポストを称徳天皇から与えられることになります。 |
JCRRAG_012728 | 歴史 | 道鏡は、称徳天皇のもとでむくむくと力をつけていきました。その理由には、称徳天皇の病気を治したということと、聖武天皇が宗教にのめりこみ、仏教勢力の勢いを強くしてしまったことなどがあげられます。道鏡は太政大臣禅師という地位にいましたが、さらに宗教的にも最高の権力を持っていて、政治も動かすことができるというポストを称徳天皇から与えられることになります。これが法王という地位で、称徳天皇が道鏡だけのためにつくった地位です。その次の年には、寺院以外はこれよりさらに土地を開墾して私有化してはいけない、という法令を発表します。これが寺院以外の加墾禁止令です。このように、道鏡は仏教界のためだけになる政策を推し進めていきます。
ただ、道鏡は考えます。藤原仲麻呂の権力は光明皇后あってこそのものでした。自分も現在、称徳天皇を後ろ盾として権力を握っています。もし後ろ盾がなくなったらと思うと、自分の地位も決して揺るぎないものではないからです。
実際に、称徳天皇は769年にまたしても重病にかかってしまい、道鏡はその当時の病気治療の方法であった加持祈祷で治そうとしますが、なかなかうまくいくものではありません。もしこのまま称徳天皇が死んでしまったら自分の地位も危ない、と道鏡は考え、何とか方法はないかと考え続けた結果、「みずから天皇になること」を答えとして出しました。
そこで彼は「道鏡を天皇にすべし」と宇佐八幡宮(現在の大分県)の託宣があったことを利用して、天皇になろうとしました。これが宇佐八幡宮神託事件です。神様の力をつかって天皇になろうとした道鏡ですが、僧侶なのですから、本当は仏様の力を借りたほうがよかったでしょうに、そうはしなかったようです。
朝廷は、この神託が本物なのか偽物なのか調べるように、和気清麻呂という人物に命じます。「これが本物だといえば、悪いようにはしないよ」と道鏡は和気清麻呂をそそのかしたようですが、清麻呂は「そういう神託はございませんでした」と一蹴します。
道鏡はこれに腹を立て、和気清麻呂の名前を「別部穢麻呂」とさせたうえに、大隅(現在の鹿児島県)に島流しにしてしまいます。結局、翌年の770年に称徳天皇は病死してしまい、道鏡は天皇になれず、藤原仲麻呂と同じく後ろ盾を無くした彼の力は、坂道をころがるように落ちていきました。 | 法王という地位は、称徳天皇が誰だけのためにつくった地位ですか。 | これが法王という地位で、称徳天皇が道鏡だけのためにつくった地位です。 |
JCRRAG_012729 | 歴史 | 道鏡は、称徳天皇のもとでむくむくと力をつけていきました。その理由には、称徳天皇の病気を治したということと、聖武天皇が宗教にのめりこみ、仏教勢力の勢いを強くしてしまったことなどがあげられます。道鏡は太政大臣禅師という地位にいましたが、さらに宗教的にも最高の権力を持っていて、政治も動かすことができるというポストを称徳天皇から与えられることになります。これが法王という地位で、称徳天皇が道鏡だけのためにつくった地位です。その次の年には、寺院以外はこれよりさらに土地を開墾して私有化してはいけない、という法令を発表します。これが寺院以外の加墾禁止令です。このように、道鏡は仏教界のためだけになる政策を推し進めていきます。
ただ、道鏡は考えます。藤原仲麻呂の権力は光明皇后あってこそのものでした。自分も現在、称徳天皇を後ろ盾として権力を握っています。もし後ろ盾がなくなったらと思うと、自分の地位も決して揺るぎないものではないからです。
実際に、称徳天皇は769年にまたしても重病にかかってしまい、道鏡はその当時の病気治療の方法であった加持祈祷で治そうとしますが、なかなかうまくいくものではありません。もしこのまま称徳天皇が死んでしまったら自分の地位も危ない、と道鏡は考え、何とか方法はないかと考え続けた結果、「みずから天皇になること」を答えとして出しました。
そこで彼は「道鏡を天皇にすべし」と宇佐八幡宮(現在の大分県)の託宣があったことを利用して、天皇になろうとしました。これが宇佐八幡宮神託事件です。神様の力をつかって天皇になろうとした道鏡ですが、僧侶なのですから、本当は仏様の力を借りたほうがよかったでしょうに、そうはしなかったようです。
朝廷は、この神託が本物なのか偽物なのか調べるように、和気清麻呂という人物に命じます。「これが本物だといえば、悪いようにはしないよ」と道鏡は和気清麻呂をそそのかしたようですが、清麻呂は「そういう神託はございませんでした」と一蹴します。
道鏡はこれに腹を立て、和気清麻呂の名前を「別部穢麻呂」とさせたうえに、大隅(現在の鹿児島県)に島流しにしてしまいます。結局、翌年の770年に称徳天皇は病死してしまい、道鏡は天皇になれず、藤原仲麻呂と同じく後ろ盾を無くした彼の力は、坂道をころがるように落ちていきました。 | 称徳天皇は769年にまたしても重病にかかってしまい、道鏡はどのような病気治療の方法を選択しましたか。 | 称徳天皇は769年にまたしても重病にかかってしまい、道鏡はその当時の病気治療の方法であった加持祈祷で治そうとしますが、なかなかうまくいくものではありません。 |
JCRRAG_012730 | 歴史 | 天武、文武、聖武、孝謙・称徳というように、壬申の乱の後は天武系の天皇が続いていたのですが、ここで子孫が途絶えてしまいます。称徳天皇は夫も子どもも持たなかったのです。そこで藤原百川たちは、道鏡などのこの国を統べている体制に反発し、白壁王を担ぎ、光仁天皇として即位させました。
光仁天皇は自他ともに天皇になるなんて思ってもいなかったようです。というのも、朝廷に入ったとき彼はすでに六十歳を超えていましたし、天智天皇の子である施基皇子の息子だったからです。実は藤原百川らにとっては、あえて天武天皇の血筋を崩すことが重要だったのです。
藤原百川らは鎮護国家思想に染まっているこの国を変えるために、天智系の光仁天皇を担ぎました。そもそも天武系の天皇は仏教に没頭していましたから、そこから仏教系の勢力が伸びてきて、道鏡のようなよく分からない人間が出てきてしまったと考えたのです。
光仁天皇は、寺院以外の加墾禁止令をとりやめ、さらに身分の序列や等級によって開墾を制限するという制度も廃止します。そして、道鏡は下野国(現在の栃木県)の薬師寺に追い出されました。結果、荘園(8~9世紀の初期荘園)が増えてしまい、律令体制が崩れていくのも時間の問題となりました。 | 藤原百川らは鎮護国家思想に染まっているこの国を変えるために、誰を担ぎましたか。 | 藤原百川らは鎮護国家思想に染まっているこの国を変えるために、天智系の光仁天皇を担ぎました。 |
JCRRAG_012731 | 歴史 | 天武、文武、聖武、孝謙・称徳というように、壬申の乱の後は天武系の天皇が続いていたのですが、ここで子孫が途絶えてしまいます。称徳天皇は夫も子どもも持たなかったのです。そこで藤原百川たちは、道鏡などのこの国を統べている体制に反発し、白壁王を担ぎ、光仁天皇として即位させました。
光仁天皇は自他ともに天皇になるなんて思ってもいなかったようです。というのも、朝廷に入ったとき彼はすでに六十歳を超えていましたし、天智天皇の子である施基皇子の息子だったからです。実は藤原百川らにとっては、あえて天武天皇の血筋を崩すことが重要だったのです。
藤原百川らは鎮護国家思想に染まっているこの国を変えるために、天智系の光仁天皇を担ぎました。そもそも天武系の天皇は仏教に没頭していましたから、そこから仏教系の勢力が伸びてきて、道鏡のようなよく分からない人間が出てきてしまったと考えたのです。
光仁天皇は、寺院以外の加墾禁止令をとりやめ、さらに身分の序列や等級によって開墾を制限するという制度も廃止します。そして、道鏡は下野国(現在の栃木県)の薬師寺に追い出されました。結果、荘園(8~9世紀の初期荘園)が増えてしまい、律令体制が崩れていくのも時間の問題となりました。 | 光仁天皇は、寺院以外の加墾禁止令をとりやめ、さらにどのような制度も廃止しますか。 | 光仁天皇は、寺院以外の加墾禁止令をとりやめ、さらに身分の序列や等級によって開墾を制限するという制度も廃止します。 |
JCRRAG_012732 | 歴史 | 天武、文武、聖武、孝謙・称徳というように、壬申の乱の後は天武系の天皇が続いていたのですが、ここで子孫が途絶えてしまいます。称徳天皇は夫も子どもも持たなかったのです。そこで藤原百川たちは、道鏡などのこの国を統べている体制に反発し、白壁王を担ぎ、光仁天皇として即位させました。
光仁天皇は自他ともに天皇になるなんて思ってもいなかったようです。というのも、朝廷に入ったとき彼はすでに六十歳を超えていましたし、天智天皇の子である施基皇子の息子だったからです。実は藤原百川らにとっては、あえて天武天皇の血筋を崩すことが重要だったのです。
藤原百川らは鎮護国家思想に染まっているこの国を変えるために、天智系の光仁天皇を担ぎました。そもそも天武系の天皇は仏教に没頭していましたから、そこから仏教系の勢力が伸びてきて、道鏡のようなよく分からない人間が出てきてしまったと考えたのです。
光仁天皇は、寺院以外の加墾禁止令をとりやめ、さらに身分の序列や等級によって開墾を制限するという制度も廃止します。そして、道鏡は下野国(現在の栃木県)の薬師寺に追い出されました。結果、荘園(8~9世紀の初期荘園)が増えてしまい、律令体制が崩れていくのも時間の問題となりました。 | 道鏡はどこに追い出されましたか。 | 道鏡は下野国(現在の栃木県)の薬師寺に追い出されました。 |
JCRRAG_012733 | 歴史 | ここで、奈良時代の文化について、知っておきましょう。奈良時代はとても仏教色の強い文化でした。前に説明したとおり、聖武天皇を代表に、この頃は仏教をバックに鎮護国家を推し進めていたので、そうなるのは当たり前でしょう。
天平文化という名前は、聖武朝の年号に由来しています。その中心的な役割を果たしていたのは、総国分寺として建立された東大寺です。何度も繰り返し戦の炎にのまれてしまった東大寺の本尊、盧舎那仏は、造られた当時の面影は消えてしまっていますが、ほかにも数々の天平仏の傑作が残されています。法華堂(三月堂)の不空羂索観音像、その傍らに控える日光月光菩薩像、執金剛神像、戒壇院の四天王像などがそうです。
正倉院宝庫(校倉造の建物)には、鳥毛立女屏風や御物などの、聖武天皇の豪華な遺品の品々が置かれています。唐招提寺は天平文化の代表的な寺院ですが、こちらは唐から招致された鑑真が建設したもので、名前はそこからつけられています。ここでは鑑真和上像がよく知られています。
ほかに天平文化を語る上ではずせない寺院には、興福寺があげられますが、こちらは藤原氏の氏寺です。誰もが知っていると言っても過言ではない阿修羅像は、この時代の作品のなかで特に際立っています。
この頃の仏像には二種類あって、乾漆像と塑像に分けることができます。乾漆像は漆を乾燥させて固めた仏像です。漆はすごく高価なものでしたので、重要な仏像にこの技法を用いることが多かったようです。塑像は粘土を塗り固めたものですので、もっと一般的なものだったと考えられています。
天平の頃の仏教は、学問的な性格が色濃く出ています。どういうふうにして鎮護国家を実現していくかを寺院が研究していて、その中心にあったのが東大寺でした。また、南都六宗という6つの研究グループに分かれていて、それぞれ三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗と呼ばれています。
ちなみに南都とは平安時代以降に呼ばれるようになった名称で、旧平城京のことです。平安京から見て南にあったことが由来です。 | 天平文化という名前は、何に由来していますか。 | 天平文化という名前は、聖武朝の年号に由来しています。 |
JCRRAG_012734 | 歴史 | ここで、奈良時代の文化について、知っておきましょう。奈良時代はとても仏教色の強い文化でした。前に説明したとおり、聖武天皇を代表に、この頃は仏教をバックに鎮護国家を推し進めていたので、そうなるのは当たり前でしょう。
天平文化という名前は、聖武朝の年号に由来しています。その中心的な役割を果たしていたのは、総国分寺として建立された東大寺です。何度も繰り返し戦の炎にのまれてしまった東大寺の本尊、盧舎那仏は、造られた当時の面影は消えてしまっていますが、ほかにも数々の天平仏の傑作が残されています。法華堂(三月堂)の不空羂索観音像、その傍らに控える日光月光菩薩像、執金剛神像、戒壇院の四天王像などがそうです。
正倉院宝庫(校倉造の建物)には、鳥毛立女屏風や御物などの、聖武天皇の豪華な遺品の品々が置かれています。唐招提寺は天平文化の代表的な寺院ですが、こちらは唐から招致された鑑真が建設したもので、名前はそこからつけられています。ここでは鑑真和上像がよく知られています。
ほかに天平文化を語る上ではずせない寺院には、興福寺があげられますが、こちらは藤原氏の氏寺です。誰もが知っていると言っても過言ではない阿修羅像は、この時代の作品のなかで特に際立っています。
この頃の仏像には二種類あって、乾漆像と塑像に分けることができます。乾漆像は漆を乾燥させて固めた仏像です。漆はすごく高価なものでしたので、重要な仏像にこの技法を用いることが多かったようです。塑像は粘土を塗り固めたものですので、もっと一般的なものだったと考えられています。
天平の頃の仏教は、学問的な性格が色濃く出ています。どういうふうにして鎮護国家を実現していくかを寺院が研究していて、その中心にあったのが東大寺でした。また、南都六宗という6つの研究グループに分かれていて、それぞれ三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗と呼ばれています。
ちなみに南都とは平安時代以降に呼ばれるようになった名称で、旧平城京のことです。平安京から見て南にあったことが由来です。 | この頃の仏像には二種類あって、何と何に分けることができますか。 | この頃の仏像には二種類あって、乾漆像と塑像に分けることができます。 |
JCRRAG_012735 | 歴史 | 平安時代の前半は平安貴族の時代で、後半は武士と院生の時代です。このように二つに分けることのできる平安時代ですが、現在はここが古代と中世の境目とされています。さらに前半部分は3つに分けることができて、1つ目が平安遷都の時代で、8世紀終わりごろから9世紀前半まで、2つ目が藤原北家が猛威をふるう時代で、9世紀中期から10世紀中期ごろまで、そして3つ目が摂関政治の時代で、10世紀末から11世紀中期にかけてです。
後半部分は2つに分けて考えることができて、院政の開始の時代の11世紀後期~12世紀前期と、平氏政権からその崩壊までの12世紀後期までとなります。桓武天皇とその子、平城、嵯峨天皇の時代が平安時代の初期にあたります。仏教勢力の勢いを止められなかった奈良時代ですが、それには二つの大きな理由があります。
ひとつは聖武天皇が仏教を崇拝しすぎてしまったこと、もうひとつは律令体制の崩壊です。強固な政治体制が保たれていれば、仏教勢力の入り込める隙は狭かったはずです。そこで、桓武天皇はまず律令体制の立て直しをはかりました。
その頃、地方によってはあまり朝廷の言うことをきかず、扱いづらい地域もありました。桓武天皇の狙いとしては、税金をちゃんと納めてもらうようにすることと、天皇の命令をすぐに聞いてもらえる体制を整えることなどがありました。
東北地方の蝦夷というところは、あまり朝廷の命令を聞かなかったので、征夷大将軍である坂上田村麻呂を派遣して、言うことを聞かせようとしました。蝦夷征討の最高指揮官が征夷大将軍と呼ばれているのですが、こちらは令外官で、律令には記されていません。仏教勢力の他にもう一つ、桓武天皇にとって邪魔な存在がありました。
それは旧勢力と呼ばれている人たちで、桓武天皇を推していない貴族(律令国家の支配階級の5位以下の人々)でした。律令体制は天皇が中心の政治体制なので、その人たちが近くに居ると非常にやりにくいのです。
そのため784年、桓武天皇はそこから離れるために平城京から山背国(現在の京都府)の長岡京に都をうつしますが、これには反対が多く、遷都を推し進めたリーダーの藤原種継が暗殺されたりして、朝廷に混乱を招きました。この頃は律令体制を立て直すために色々と模索していた時代だったので、その10年後の794年には平安京に都をうつすなど、かなり慌ただしかったようです。 | 平安時代の前半は平安貴族の時代で、後半は何の時代ですか。 | 平安時代の前半は平安貴族の時代で、後半は武士と院生の時代です。 |
JCRRAG_012736 | 歴史 | 平安時代の前半は平安貴族の時代で、後半は武士と院生の時代です。このように二つに分けることのできる平安時代ですが、現在はここが古代と中世の境目とされています。さらに前半部分は3つに分けることができて、1つ目が平安遷都の時代で、8世紀終わりごろから9世紀前半まで、2つ目が藤原北家が猛威をふるう時代で、9世紀中期から10世紀中期ごろまで、そして3つ目が摂関政治の時代で、10世紀末から11世紀中期にかけてです。
後半部分は2つに分けて考えることができて、院政の開始の時代の11世紀後期~12世紀前期と、平氏政権からその崩壊までの12世紀後期までとなります。桓武天皇とその子、平城、嵯峨天皇の時代が平安時代の初期にあたります。仏教勢力の勢いを止められなかった奈良時代ですが、それには二つの大きな理由があります。
ひとつは聖武天皇が仏教を崇拝しすぎてしまったこと、もうひとつは律令体制の崩壊です。強固な政治体制が保たれていれば、仏教勢力の入り込める隙は狭かったはずです。そこで、桓武天皇はまず律令体制の立て直しをはかりました。
その頃、地方によってはあまり朝廷の言うことをきかず、扱いづらい地域もありました。桓武天皇の狙いとしては、税金をちゃんと納めてもらうようにすることと、天皇の命令をすぐに聞いてもらえる体制を整えることなどがありました。
東北地方の蝦夷というところは、あまり朝廷の命令を聞かなかったので、征夷大将軍である坂上田村麻呂を派遣して、言うことを聞かせようとしました。蝦夷征討の最高指揮官が征夷大将軍と呼ばれているのですが、こちらは令外官で、律令には記されていません。仏教勢力の他にもう一つ、桓武天皇にとって邪魔な存在がありました。
それは旧勢力と呼ばれている人たちで、桓武天皇を推していない貴族(律令国家の支配階級の5位以下の人々)でした。律令体制は天皇が中心の政治体制なので、その人たちが近くに居ると非常にやりにくいのです。
そのため784年、桓武天皇はそこから離れるために平城京から山背国(現在の京都府)の長岡京に都をうつしますが、これには反対が多く、遷都を推し進めたリーダーの藤原種継が暗殺されたりして、朝廷に混乱を招きました。この頃は律令体制を立て直すために色々と模索していた時代だったので、その10年後の794年には平安京に都をうつすなど、かなり慌ただしかったようです。 | 桓武天皇の狙いとしては、何がありますか。 | 桓武天皇の狙いとしては、税金をちゃんと納めてもらうようにすることと、天皇の命令をすぐに聞いてもらえる体制を整えることなどがありました。 |
JCRRAG_012737 | 歴史 | 平安時代の前半は平安貴族の時代で、後半は武士と院生の時代です。このように二つに分けることのできる平安時代ですが、現在はここが古代と中世の境目とされています。さらに前半部分は3つに分けることができて、1つ目が平安遷都の時代で、8世紀終わりごろから9世紀前半まで、2つ目が藤原北家が猛威をふるう時代で、9世紀中期から10世紀中期ごろまで、そして3つ目が摂関政治の時代で、10世紀末から11世紀中期にかけてです。
後半部分は2つに分けて考えることができて、院政の開始の時代の11世紀後期~12世紀前期と、平氏政権からその崩壊までの12世紀後期までとなります。桓武天皇とその子、平城、嵯峨天皇の時代が平安時代の初期にあたります。仏教勢力の勢いを止められなかった奈良時代ですが、それには二つの大きな理由があります。
ひとつは聖武天皇が仏教を崇拝しすぎてしまったこと、もうひとつは律令体制の崩壊です。強固な政治体制が保たれていれば、仏教勢力の入り込める隙は狭かったはずです。そこで、桓武天皇はまず律令体制の立て直しをはかりました。
その頃、地方によってはあまり朝廷の言うことをきかず、扱いづらい地域もありました。桓武天皇の狙いとしては、税金をちゃんと納めてもらうようにすることと、天皇の命令をすぐに聞いてもらえる体制を整えることなどがありました。
東北地方の蝦夷というところは、あまり朝廷の命令を聞かなかったので、征夷大将軍である坂上田村麻呂を派遣して、言うことを聞かせようとしました。蝦夷征討の最高指揮官が征夷大将軍と呼ばれているのですが、こちらは令外官で、律令には記されていません。仏教勢力の他にもう一つ、桓武天皇にとって邪魔な存在がありました。
それは旧勢力と呼ばれている人たちで、桓武天皇を推していない貴族(律令国家の支配階級の5位以下の人々)でした。律令体制は天皇が中心の政治体制なので、その人たちが近くに居ると非常にやりにくいのです。
そのため784年、桓武天皇はそこから離れるために平城京から山背国(現在の京都府)の長岡京に都をうつしますが、これには反対が多く、遷都を推し進めたリーダーの藤原種継が暗殺されたりして、朝廷に混乱を招きました。この頃は律令体制を立て直すために色々と模索していた時代だったので、その10年後の794年には平安京に都をうつすなど、かなり慌ただしかったようです。 | 東北地方の蝦夷というところは、あまり朝廷の命令を聞かなかったので、誰を派遣して、言うことを聞かせようとしましたか。 | 東北地方の蝦夷というところは、あまり朝廷の命令を聞かなかったので、征夷大将軍である坂上田村麻呂を派遣して、言うことを聞かせようとしました。 |
JCRRAG_012738 | 歴史 | 道鏡が影響力を持った時代に、九州の果てまで流され、名前まで変えられてしまった和気清麻呂でしたが、返り咲きを果たし再び歴史上に名を上げてきました。この和気清麻呂が平安遷都を強く提案しました。
藤原種継が長岡京に都を移そうと中心になって活動していましたが、彼が暗殺されてしまったので、みんな怖がってしまって新しい場所に都を移そうとする動きが低下しました。下手に何か発言しようものなら暗殺されるかもしれない状況だったので、朝廷内でも、都がまた平城京に戻るのではないかという空気が強くなりました。
そのような不穏な状況に置かれても、旧弊を断ち切るために、和気清麻呂はかたくなに都を移すことを主張したのです。和気氏は元々位の高い貴族ではなかったのですが、道鏡に歯向かった宇佐八幡宮信託事件にしても、平安京遷都にしても、殺されることを臆すことなく行動することによって、有名貴族の一つに名を連ねるようになっていきます。
桓武天皇が行った地方統制の強化策として、勘解由使の設置が挙げられます。これは、地方を治めていた国司が不正をして税を盗み取っていたので、その不正を取り締まるための役所です。中央政権が弱まれば、中央から派遣されて地方を治めていた国司が、地方の有力豪族と手を組んで悪事を働くことも目立つようになります。
さらに地方の軍団・兵士の設備・改革にも力を入れます。今までの地方の軍団は、挑発されたことによって立ち上がった地元農民によって結成された貧弱なものしかありませんでした。これに変わるものとして健児の制を定めました。それにより郡司や地方の有力豪族の子弟などを軸とした、専門の軍団を創設し、国司の役所の警備をさせるようにしたのです。
西暦800年前後は、このようにして、多くの律令体制のたてなおしを試みますが、実際のところ思うような成果をなかなか挙げることができませんでした。 | 藤原種継が長岡京に都を移そうと中心になって活動していましたが、何がきっかけで、みんな怖がってしまって新しい場所に都を移そうとする動きが低下しましたか。 | 藤原種継が長岡京に都を移そうと中心になって活動していましたが、彼が暗殺されてしまったので、みんな怖がってしまって新しい場所に都を移そうとする動きが低下しました。 |
JCRRAG_012739 | 歴史 | 道鏡が影響力を持った時代に、九州の果てまで流され、名前まで変えられてしまった和気清麻呂でしたが、返り咲きを果たし再び歴史上に名を上げてきました。この和気清麻呂が平安遷都を強く提案しました。
藤原種継が長岡京に都を移そうと中心になって活動していましたが、彼が暗殺されてしまったので、みんな怖がってしまって新しい場所に都を移そうとする動きが低下しました。下手に何か発言しようものなら暗殺されるかもしれない状況だったので、朝廷内でも、都がまた平城京に戻るのではないかという空気が強くなりました。
そのような不穏な状況に置かれても、旧弊を断ち切るために、和気清麻呂はかたくなに都を移すことを主張したのです。和気氏は元々位の高い貴族ではなかったのですが、道鏡に歯向かった宇佐八幡宮信託事件にしても、平安京遷都にしても、殺されることを臆すことなく行動することによって、有名貴族の一つに名を連ねるようになっていきます。
桓武天皇が行った地方統制の強化策として、勘解由使の設置が挙げられます。これは、地方を治めていた国司が不正をして税を盗み取っていたので、その不正を取り締まるための役所です。中央政権が弱まれば、中央から派遣されて地方を治めていた国司が、地方の有力豪族と手を組んで悪事を働くことも目立つようになります。
さらに地方の軍団・兵士の設備・改革にも力を入れます。今までの地方の軍団は、挑発されたことによって立ち上がった地元農民によって結成された貧弱なものしかありませんでした。これに変わるものとして健児の制を定めました。それにより郡司や地方の有力豪族の子弟などを軸とした、専門の軍団を創設し、国司の役所の警備をさせるようにしたのです。
西暦800年前後は、このようにして、多くの律令体制のたてなおしを試みますが、実際のところ思うような成果をなかなか挙げることができませんでした。 | 桓武天皇が行った地方統制の強化策として、何の設置が挙げられますか。 | 桓武天皇が行った地方統制の強化策として、勘解由使の設置が挙げられます。 |
JCRRAG_012740 | 歴史 | 道鏡が影響力を持った時代に、九州の果てまで流され、名前まで変えられてしまった和気清麻呂でしたが、返り咲きを果たし再び歴史上に名を上げてきました。この和気清麻呂が平安遷都を強く提案しました。
藤原種継が長岡京に都を移そうと中心になって活動していましたが、彼が暗殺されてしまったので、みんな怖がってしまって新しい場所に都を移そうとする動きが低下しました。下手に何か発言しようものなら暗殺されるかもしれない状況だったので、朝廷内でも、都がまた平城京に戻るのではないかという空気が強くなりました。
そのような不穏な状況に置かれても、旧弊を断ち切るために、和気清麻呂はかたくなに都を移すことを主張したのです。和気氏は元々位の高い貴族ではなかったのですが、道鏡に歯向かった宇佐八幡宮信託事件にしても、平安京遷都にしても、殺されることを臆すことなく行動することによって、有名貴族の一つに名を連ねるようになっていきます。
桓武天皇が行った地方統制の強化策として、勘解由使の設置が挙げられます。これは、地方を治めていた国司が不正をして税を盗み取っていたので、その不正を取り締まるための役所です。中央政権が弱まれば、中央から派遣されて地方を治めていた国司が、地方の有力豪族と手を組んで悪事を働くことも目立つようになります。
さらに地方の軍団・兵士の設備・改革にも力を入れます。今までの地方の軍団は、挑発されたことによって立ち上がった地元農民によって結成された貧弱なものしかありませんでした。これに変わるものとして健児の制を定めました。それにより郡司や地方の有力豪族の子弟などを軸とした、専門の軍団を創設し、国司の役所の警備をさせるようにしたのです。
西暦800年前後は、このようにして、多くの律令体制のたてなおしを試みますが、実際のところ思うような成果をなかなか挙げることができませんでした。 | 中央政権が弱まれば、中央から派遣されて地方を治めていた国司が、何をすることも目立つようになりますか。 | 中央政権が弱まれば、中央から派遣されて地方を治めていた国司が、地方の有力豪族と手を組んで悪事を働くことも目立つようになります。 |
JCRRAG_012741 | 歴史 | 道鏡が影響力を持った時代に、九州の果てまで流され、名前まで変えられてしまった和気清麻呂でしたが、返り咲きを果たし再び歴史上に名を上げてきました。この和気清麻呂が平安遷都を強く提案しました。
藤原種継が長岡京に都を移そうと中心になって活動していましたが、彼が暗殺されてしまったので、みんな怖がってしまって新しい場所に都を移そうとする動きが低下しました。下手に何か発言しようものなら暗殺されるかもしれない状況だったので、朝廷内でも、都がまた平城京に戻るのではないかという空気が強くなりました。
そのような不穏な状況に置かれても、旧弊を断ち切るために、和気清麻呂はかたくなに都を移すことを主張したのです。和気氏は元々位の高い貴族ではなかったのですが、道鏡に歯向かった宇佐八幡宮信託事件にしても、平安京遷都にしても、殺されることを臆すことなく行動することによって、有名貴族の一つに名を連ねるようになっていきます。
桓武天皇が行った地方統制の強化策として、勘解由使の設置が挙げられます。これは、地方を治めていた国司が不正をして税を盗み取っていたので、その不正を取り締まるための役所です。中央政権が弱まれば、中央から派遣されて地方を治めていた国司が、地方の有力豪族と手を組んで悪事を働くことも目立つようになります。
さらに地方の軍団・兵士の設備・改革にも力を入れます。今までの地方の軍団は、挑発されたことによって立ち上がった地元農民によって結成された貧弱なものしかありませんでした。これに変わるものとして健児の制を定めました。それにより郡司や地方の有力豪族の子弟などを軸とした、専門の軍団を創設し、国司の役所の警備をさせるようにしたのです。
西暦800年前後は、このようにして、多くの律令体制のたてなおしを試みますが、実際のところ思うような成果をなかなか挙げることができませんでした。 | 元々位の高い貴族ではなかったが、道鏡に歯向かった宇佐八幡宮信託事件にしても、平安京遷都にしても、殺されることを臆すことなく行動することによって、有名貴族の一つに名を連ねるようになったのは何氏ですか。 | 元々位の高い貴族ではなかったが、道鏡に歯向かった宇佐八幡宮信託事件にしても、平安京遷都にしても、殺されることを臆すことなく行動することによって、有名貴族の一つに名を連ねるようになったのは和気氏です。 |
JCRRAG_012742 | 歴史 | 平城天皇は桓武天皇の次に登場しました。役所の統廃合など、幾つかの行政改革を実行した平城天皇でしたが、病気を理由に3年という短い期間で退位し、809年に弟の嵯峨天皇に位を譲りました。平城天皇は皇太子の時代から、長岡京遷都を指揮した藤原種継の娘、薬子をとても愛していましたが、この女性にはスキャンダルがつきもので、それが理由となって桓武天皇によって宮廷から追放されていました。
しかし、桓武天皇が死亡し、平城天皇に代がかわると、自分をかわいがってくれる天皇のもとで出世したいと考えていたのか、また宮廷に入り込んできます。けれど、たったの3年で平城天皇が辞めてしまい、これは薬子にしてみれば、とうてい納得できないものでした。そこで、どうにかして平城天皇を再び天皇にしたいと考えました。そのためには、まわりの協力を得ることが必要不可欠です。
ただ、「上皇をもう一度天皇にしましょう」と言ったところで、「なぜ?」と聞かれた時に、「だって、私、もっと出世したいんだもの」では、誰も賛同してくれません。そこで、「もう一度、都を平城京に戻すために、上皇を天皇に立てましょう」と理由をつけることにしました。そうすることによって、都を平城京に戻したいと思ってる人たちが自分に賛同してくれるだろうと画策したわけです。
ただ、考えてみてください。平城京から長岡京に都を移したのが784年です、810年ということは既に26年もたっています。「どうして今更平城京に都を戻すなんて面倒なことをするの?」ということで、まるで賛同を得ることが出来ません。
それでも聞く耳をもたず、宮殿などを奈良に建て始めたため、反逆と認定されてしまい、そのバックにいた兄の藤原仲成は殺され、薬子も自害をするしかなくなりました。これが薬子の変です。
平城上皇は剃髪して出家し、奈良に住み続けたことから、のちに平城天皇と称されました。ちなみに、天武や聖武などの天皇の漢字の部分の名称は、その人がこの世を去った後に贈られたもので、諡号といいます。とにかく、この変の結果、藤原四家の一つであった藤原式家が没落し、かわりに北家が勢力を増してくることになります。
| 平城天皇は何天皇の次に登場しましたか。 | 平城天皇は桓武天皇の次に登場しました。 |
JCRRAG_012743 | 歴史 | 平城天皇は桓武天皇の次に登場しました。役所の統廃合など、幾つかの行政改革を実行した平城天皇でしたが、病気を理由に3年という短い期間で退位し、809年に弟の嵯峨天皇に位を譲りました。平城天皇は皇太子の時代から、長岡京遷都を指揮した藤原種継の娘、薬子をとても愛していましたが、この女性にはスキャンダルがつきもので、それが理由となって桓武天皇によって宮廷から追放されていました。
しかし、桓武天皇が死亡し、平城天皇に代がかわると、自分をかわいがってくれる天皇のもとで出世したいと考えていたのか、また宮廷に入り込んできます。けれど、たったの3年で平城天皇が辞めてしまい、これは薬子にしてみれば、とうてい納得できないものでした。そこで、どうにかして平城天皇を再び天皇にしたいと考えました。そのためには、まわりの協力を得ることが必要不可欠です。
ただ、「上皇をもう一度天皇にしましょう」と言ったところで、「なぜ?」と聞かれた時に、「だって、私、もっと出世したいんだもの」では、誰も賛同してくれません。そこで、「もう一度、都を平城京に戻すために、上皇を天皇に立てましょう」と理由をつけることにしました。そうすることによって、都を平城京に戻したいと思ってる人たちが自分に賛同してくれるだろうと画策したわけです。
ただ、考えてみてください。平城京から長岡京に都を移したのが784年です、810年ということは既に26年もたっています。「どうして今更平城京に都を戻すなんて面倒なことをするの?」ということで、まるで賛同を得ることが出来ません。
それでも聞く耳をもたず、宮殿などを奈良に建て始めたため、反逆と認定されてしまい、そのバックにいた兄の藤原仲成は殺され、薬子も自害をするしかなくなりました。これが薬子の変です。
平城上皇は剃髪して出家し、奈良に住み続けたことから、のちに平城天皇と称されました。ちなみに、天武や聖武などの天皇の漢字の部分の名称は、その人がこの世を去った後に贈られたもので、諡号といいます。とにかく、この変の結果、藤原四家の一つであった藤原式家が没落し、かわりに北家が勢力を増してくることになります。
| 平城天皇は、何年に弟の嵯峨天皇に位を譲りましたか。 | 役所の統廃合など、幾つかの行政改革を実行した平城天皇でしたが、病気を理由に3年という短い期間で退位し、809年に弟の嵯峨天皇に位を譲りました。 |
JCRRAG_012744 | 歴史 | 平城天皇は桓武天皇の次に登場しました。役所の統廃合など、幾つかの行政改革を実行した平城天皇でしたが、病気を理由に3年という短い期間で退位し、809年に弟の嵯峨天皇に位を譲りました。平城天皇は皇太子の時代から、長岡京遷都を指揮した藤原種継の娘、薬子をとても愛していましたが、この女性にはスキャンダルがつきもので、それが理由となって桓武天皇によって宮廷から追放されていました。
しかし、桓武天皇が死亡し、平城天皇に代がかわると、自分をかわいがってくれる天皇のもとで出世したいと考えていたのか、また宮廷に入り込んできます。けれど、たったの3年で平城天皇が辞めてしまい、これは薬子にしてみれば、とうてい納得できないものでした。そこで、どうにかして平城天皇を再び天皇にしたいと考えました。そのためには、まわりの協力を得ることが必要不可欠です。
ただ、「上皇をもう一度天皇にしましょう」と言ったところで、「なぜ?」と聞かれた時に、「だって、私、もっと出世したいんだもの」では、誰も賛同してくれません。そこで、「もう一度、都を平城京に戻すために、上皇を天皇に立てましょう」と理由をつけることにしました。そうすることによって、都を平城京に戻したいと思ってる人たちが自分に賛同してくれるだろうと画策したわけです。
ただ、考えてみてください。平城京から長岡京に都を移したのが784年です、810年ということは既に26年もたっています。「どうして今更平城京に都を戻すなんて面倒なことをするの?」ということで、まるで賛同を得ることが出来ません。
それでも聞く耳をもたず、宮殿などを奈良に建て始めたため、反逆と認定されてしまい、そのバックにいた兄の藤原仲成は殺され、薬子も自害をするしかなくなりました。これが薬子の変です。
平城上皇は剃髪して出家し、奈良に住み続けたことから、のちに平城天皇と称されました。ちなみに、天武や聖武などの天皇の漢字の部分の名称は、その人がこの世を去った後に贈られたもので、諡号といいます。とにかく、この変の結果、藤原四家の一つであった藤原式家が没落し、かわりに北家が勢力を増してくることになります。
| 平城天皇が皇太子の時代から、愛していたのは誰ですか。 | 平城天皇が皇太子の時代から、愛していたのは長岡京遷都を指揮した藤原種継の娘、薬子です。 |
JCRRAG_012745 | 歴史 | 平城天皇は桓武天皇の次に登場しました。役所の統廃合など、幾つかの行政改革を実行した平城天皇でしたが、病気を理由に3年という短い期間で退位し、809年に弟の嵯峨天皇に位を譲りました。平城天皇は皇太子の時代から、長岡京遷都を指揮した藤原種継の娘、薬子をとても愛していましたが、この女性にはスキャンダルがつきもので、それが理由となって桓武天皇によって宮廷から追放されていました。
しかし、桓武天皇が死亡し、平城天皇に代がかわると、自分をかわいがってくれる天皇のもとで出世したいと考えていたのか、また宮廷に入り込んできます。けれど、たったの3年で平城天皇が辞めてしまい、これは薬子にしてみれば、とうてい納得できないものでした。そこで、どうにかして平城天皇を再び天皇にしたいと考えました。そのためには、まわりの協力を得ることが必要不可欠です。
ただ、「上皇をもう一度天皇にしましょう」と言ったところで、「なぜ?」と聞かれた時に、「だって、私、もっと出世したいんだもの」では、誰も賛同してくれません。そこで、「もう一度、都を平城京に戻すために、上皇を天皇に立てましょう」と理由をつけることにしました。そうすることによって、都を平城京に戻したいと思ってる人たちが自分に賛同してくれるだろうと画策したわけです。
ただ、考えてみてください。平城京から長岡京に都を移したのが784年です、810年ということは既に26年もたっています。「どうして今更平城京に都を戻すなんて面倒なことをするの?」ということで、まるで賛同を得ることが出来ません。
それでも聞く耳をもたず、宮殿などを奈良に建て始めたため、反逆と認定されてしまい、そのバックにいた兄の藤原仲成は殺され、薬子も自害をするしかなくなりました。これが薬子の変です。
平城上皇は剃髪して出家し、奈良に住み続けたことから、のちに平城天皇と称されました。ちなみに、天武や聖武などの天皇の漢字の部分の名称は、その人がこの世を去った後に贈られたもので、諡号といいます。とにかく、この変の結果、藤原四家の一つであった藤原式家が没落し、かわりに北家が勢力を増してくることになります。
| 平城京から長岡京に都を移したのは何年ですか。 | 平城京から長岡京に都を移したのは784年です。 |
JCRRAG_012746 | 歴史 | 平城天皇もいれると、平城―嵯峨―淳和と、この時代に桓武天皇の子が三代続いて即位したことになります。それまでは順当でよかったのですが、淳和天皇のあとを誰にまかせるかで話し合いが行われました。結局、仁明天皇として嵯峨上皇の子が即位することになり、皇太子には淳和天皇の子である恒貞親王が皇太子になることに決まりました。
おそらく、「これからは自分たちの子孫をかわりばんこに天皇にすることにしましょう」と、嵯峨と淳和、この兄弟のあいだでこういった取り決めがあったのだと思います。ですが実際には、政治の中心を担ったのは藤原良房という人物でした。
少し前の嵯峨天皇の時代に起こった薬子の変の反省を生かして、天皇じきじきの秘書官である蔵人頭というポストを設け、これからは政変の変動が起こらないようにと予防策をとりました。この頃になると、令で決まっていない役職が非常に増えてきました。
検非違使、勘解由使、そのほか征夷大将軍などは、みな令外官でしたので、令が時代に合わなくなったことの証拠ともいえます。嵯峨天皇の側近中の側近である蔵人頭というポストに一番最初に就いたのは、藤原北家出身の藤原冬嗣で、当然発言力も、権力も持つようになります。冬嗣の子が藤原良房です。
しかし、昔からの貴族でもある伴氏と橘氏が次の淳和天皇のバックに控えていました。もとの大伴が伴氏、奈良時代中期に活躍していた橘諸兄、もしくは有名な書家である三筆の一人、橘逸勢の系統が橘氏です。つまり、伴、橘との関係が深かったのが淳和天皇の血筋で、藤原との結びつきが強かったのが嵯峨天皇の血筋ということになります。
| 政治の中心を担ったのは誰でしたか。
| 政治の中心を担ったのは藤原良房という人物でした。 |
JCRRAG_012747 | 歴史 | 平城天皇もいれると、平城―嵯峨―淳和と、この時代に桓武天皇の子が三代続いて即位したことになります。それまでは順当でよかったのですが、淳和天皇のあとを誰にまかせるかで話し合いが行われました。結局、仁明天皇として嵯峨上皇の子が即位することになり、皇太子には淳和天皇の子である恒貞親王が皇太子になることに決まりました。
おそらく、「これからは自分たちの子孫をかわりばんこに天皇にすることにしましょう」と、嵯峨と淳和、この兄弟のあいだでこういった取り決めがあったのだと思います。ですが実際には、政治の中心を担ったのは藤原良房という人物でした。
少し前の嵯峨天皇の時代に起こった薬子の変の反省を生かして、天皇じきじきの秘書官である蔵人頭というポストを設け、これからは政変の変動が起こらないようにと予防策をとりました。この頃になると、令で決まっていない役職が非常に増えてきました。
検非違使、勘解由使、そのほか征夷大将軍などは、みな令外官でしたので、令が時代に合わなくなったことの証拠ともいえます。嵯峨天皇の側近中の側近である蔵人頭というポストに一番最初に就いたのは、藤原北家出身の藤原冬嗣で、当然発言力も、権力も持つようになります。冬嗣の子が藤原良房です。
しかし、昔からの貴族でもある伴氏と橘氏が次の淳和天皇のバックに控えていました。もとの大伴が伴氏、奈良時代中期に活躍していた橘諸兄、もしくは有名な書家である三筆の一人、橘逸勢の系統が橘氏です。つまり、伴、橘との関係が深かったのが淳和天皇の血筋で、藤原との結びつきが強かったのが嵯峨天皇の血筋ということになります。
| 少し前の嵯峨天皇の時代に起こった薬子の変の反省を生かして、どのような予防策をとりましたか。 | 少し前の嵯峨天皇の時代に起こった薬子の変の反省を生かして、天皇じきじきの秘書官である蔵人頭というポストを設け、これからは政変の変動が起こらないようにと予防策をとりました。 |
JCRRAG_012748 | 歴史 | 平城天皇もいれると、平城―嵯峨―淳和と、この時代に桓武天皇の子が三代続いて即位したことになります。それまでは順当でよかったのですが、淳和天皇のあとを誰にまかせるかで話し合いが行われました。結局、仁明天皇として嵯峨上皇の子が即位することになり、皇太子には淳和天皇の子である恒貞親王が皇太子になることに決まりました。
おそらく、「これからは自分たちの子孫をかわりばんこに天皇にすることにしましょう」と、嵯峨と淳和、この兄弟のあいだでこういった取り決めがあったのだと思います。ですが実際には、政治の中心を担ったのは藤原良房という人物でした。
少し前の嵯峨天皇の時代に起こった薬子の変の反省を生かして、天皇じきじきの秘書官である蔵人頭というポストを設け、これからは政変の変動が起こらないようにと予防策をとりました。この頃になると、令で決まっていない役職が非常に増えてきました。
検非違使、勘解由使、そのほか征夷大将軍などは、みな令外官でしたので、令が時代に合わなくなったことの証拠ともいえます。嵯峨天皇の側近中の側近である蔵人頭というポストに一番最初に就いたのは、藤原北家出身の藤原冬嗣で、当然発言力も、権力も持つようになります。冬嗣の子が藤原良房です。
しかし、昔からの貴族でもある伴氏と橘氏が次の淳和天皇のバックに控えていました。もとの大伴が伴氏、奈良時代中期に活躍していた橘諸兄、もしくは有名な書家である三筆の一人、橘逸勢の系統が橘氏です。つまり、伴、橘との関係が深かったのが淳和天皇の血筋で、藤原との結びつきが強かったのが嵯峨天皇の血筋ということになります。
| 冬嗣の子は誰ですか。 | 冬嗣の子が藤原良房です。 |
JCRRAG_012749 | 歴史 | 摂政とは、天皇が女性や健康上の問題があったとき、代わりに政務をおこなう役職のことです。推古女帝の摂政が聖徳太子だったのは有名な話ですね。このとき良房は太政大臣、つまり内閣総理大臣というポストについていましたが、左大臣の源信と大納言の伴善男が、彼が摂政になることについて反対をしていました。
いくら良房が権力をもっているとはいえ、有力閣僚の二人の反対にあってしまえば、そう簡単に摂政になれるわけではありません。重要なのは、源信と伴善男は決して仲良しではなく、むしろ犬猿の仲でしたので、こっちはこっちで反発しあっていた、ということです。ただ良房を摂政にするわけにはいかない、という事柄に関してのみ意見が一致していただけで、それ以外では伴善男は源信を疎ましく思っていました。
ここで応天門の変が起こることになります。応天門は伴氏が管理することに決まっていました。伴善男はみずから応天門に火をつけ、火事を起こし、責任を問われるのを待ちます。そしてすぐに朝廷は伴氏に原因究明の命を出しますが、犯人が警官になるようなものなので、伴善男は源信に罪をなすりつけることができる、というわけです。
そして、調べたふりをして、次のように結論を出しました。「源信が、惟仁親王を天皇にしようとする数々の動きに反対意識をもっており、そのために応天門に放火した」そう証言して、源信を表舞台から降りさせようとしましたが、なんと、藤原良房には放火した真犯人がわかっていて、逆に伴善男のほうが伊豆に島流しにされてしまいます。
一方、源信は良房に助けられたようなかたちになるので、彼が摂政になることに反対できなくなります。つまり、恩を着せられて何もいえなくなってしまったわけです。応天門の変の様子は、「伴大納言絵巻」にそっくりそのまま描写されています。なにはともあれ、こうして良房は、応天門の変のあと、名実ともに政治的実権をつかみ、摂政となりました。866年のことでした。 | 摂政とは、どのような役職のことですか。 | 摂政とは、天皇が女性や健康上の問題があったとき、代わりに政務をおこなう役職のことです。 |
JCRRAG_012750 | 歴史 | 摂政とは、天皇が女性や健康上の問題があったとき、代わりに政務をおこなう役職のことです。推古女帝の摂政が聖徳太子だったのは有名な話ですね。このとき良房は太政大臣、つまり内閣総理大臣というポストについていましたが、左大臣の源信と大納言の伴善男が、彼が摂政になることについて反対をしていました。
いくら良房が権力をもっているとはいえ、有力閣僚の二人の反対にあってしまえば、そう簡単に摂政になれるわけではありません。重要なのは、源信と伴善男は決して仲良しではなく、むしろ犬猿の仲でしたので、こっちはこっちで反発しあっていた、ということです。ただ良房を摂政にするわけにはいかない、という事柄に関してのみ意見が一致していただけで、それ以外では伴善男は源信を疎ましく思っていました。
ここで応天門の変が起こることになります。応天門は伴氏が管理することに決まっていました。伴善男はみずから応天門に火をつけ、火事を起こし、責任を問われるのを待ちます。そしてすぐに朝廷は伴氏に原因究明の命を出しますが、犯人が警官になるようなものなので、伴善男は源信に罪をなすりつけることができる、というわけです。
そして、調べたふりをして、次のように結論を出しました。「源信が、惟仁親王を天皇にしようとする数々の動きに反対意識をもっており、そのために応天門に放火した」そう証言して、源信を表舞台から降りさせようとしましたが、なんと、藤原良房には放火した真犯人がわかっていて、逆に伴善男のほうが伊豆に島流しにされてしまいます。
一方、源信は良房に助けられたようなかたちになるので、彼が摂政になることに反対できなくなります。つまり、恩を着せられて何もいえなくなってしまったわけです。応天門の変の様子は、「伴大納言絵巻」にそっくりそのまま描写されています。なにはともあれ、こうして良房は、応天門の変のあと、名実ともに政治的実権をつかみ、摂政となりました。866年のことでした。 | 推古女帝の摂政は誰でしたか。 | 推古女帝の摂政は聖徳太子です。 |
JCRRAG_012751 | 歴史 | 摂政とは、天皇が女性や健康上の問題があったとき、代わりに政務をおこなう役職のことです。推古女帝の摂政が聖徳太子だったのは有名な話ですね。このとき良房は太政大臣、つまり内閣総理大臣というポストについていましたが、左大臣の源信と大納言の伴善男が、彼が摂政になることについて反対をしていました。
いくら良房が権力をもっているとはいえ、有力閣僚の二人の反対にあってしまえば、そう簡単に摂政になれるわけではありません。重要なのは、源信と伴善男は決して仲良しではなく、むしろ犬猿の仲でしたので、こっちはこっちで反発しあっていた、ということです。ただ良房を摂政にするわけにはいかない、という事柄に関してのみ意見が一致していただけで、それ以外では伴善男は源信を疎ましく思っていました。
ここで応天門の変が起こることになります。応天門は伴氏が管理することに決まっていました。伴善男はみずから応天門に火をつけ、火事を起こし、責任を問われるのを待ちます。そしてすぐに朝廷は伴氏に原因究明の命を出しますが、犯人が警官になるようなものなので、伴善男は源信に罪をなすりつけることができる、というわけです。
そして、調べたふりをして、次のように結論を出しました。「源信が、惟仁親王を天皇にしようとする数々の動きに反対意識をもっており、そのために応天門に放火した」そう証言して、源信を表舞台から降りさせようとしましたが、なんと、藤原良房には放火した真犯人がわかっていて、逆に伴善男のほうが伊豆に島流しにされてしまいます。
一方、源信は良房に助けられたようなかたちになるので、彼が摂政になることに反対できなくなります。つまり、恩を着せられて何もいえなくなってしまったわけです。応天門の変の様子は、「伴大納言絵巻」にそっくりそのまま描写されています。なにはともあれ、こうして良房は、応天門の変のあと、名実ともに政治的実権をつかみ、摂政となりました。867年のことでした。 | 応天門の変の様子は、何にそっくりそのまま描写されていますか。 | 応天門の変の様子は、「伴大納言絵巻」にそっくりそのまま描写されています。 |
JCRRAG_012752 | 歴史 | 上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、直江兼続である。
生い立ち〜直江家相続まで
兼続の生い立ちから、直江家を相続するまでを解説します。
謎に包まれた生い立ち
兼続の生まれについては信ぴょう性の高い史料が残っておらず、諸説あります。通説では永禄3年(1560)に越後上田庄(現・新潟県南魚沼市)坂戸城下で樋口兼豊の長男として生まれたとされていますが、樋口姓は現在の新潟県南魚沼郡湯沢町に多いことから、出身は湯沢ではないかとする説もあります。兼続は幼名が「与六」である。
また、父である兼豊についてもその身分について見解が分かれています。米沢藩の記録書によれば「長尾政景の家老であり、上田長尾氏の執事職であった」とありますが、江戸時代中期の儒学者・新井白石が記した「藩翰譜(はんかんふ)」という家系書によれば、薪や炭を扱う役人だったとされています。ただし、「藩翰譜」は史料を当たったものではなく、伝聞と白石自身の主観が強いという指摘もあり、この記述は疑問視されています。
母は上杉家重臣・直江景綱の妹だったとも、信濃国(現・長野県と岐阜県の一部)の豪族・泉重歳の娘だったとも、どちらでもないとする説もあり、はっきりしません。とはいえ、重臣の妹や豪族の娘だったとする場合、兼豊が薪や炭を扱う役人だったとすると身分がつり合わないため、この点でも兼豊の身分が低かったとする説には疑問が残ります。
上杉家の近習となり、直江家を相続する
永禄7年(1564)、上田長尾家の当主であり、坂戸城主でもあった政景が死去すると、政景の子・長尾顕景(あきかげ)は9歳で上杉謙信の養子となります。4歳の与六もこれに伴い、顕景の小姓・近習として謙信の春日山城へ入りました。ただしこれも通説であり、謙信の実姉で顕景の母でもある仙桃院に望まれ、幼い頃から顕景に近侍していた、という説もあります。
謙信には家督を継ぐ実子がいなかったため、顕景の他に北条氏政の弟・三郎を養子に迎えていましたが、これが後に家督争いの原因となります。なお、顕景は天正3年(1575)に名を景勝と改め、三郎は養子に迎えられた際に名を景虎と改めています。
天正6年(1578)に謙信が急死すると、景勝と景虎の間で家督争いが勃発しました(御館の乱)。家督争いは景勝が勝利し、上杉家は景勝が相続しました。この乱の後処理あたりから、景勝への取次など兼続が側近として活動している様子が史料に記載され始めます。
天正9年(1581)、御館の乱の恩賞を巡る争いから景勝の側近であった直江信綱が殺害されてしまいます。直江家には子どもがいなかったため、兼続は未亡人となった信綱の妻・お船(おせん)と結婚し、兼続が直江家を継ぐことで直江家の断絶を防ぎました。その翌年、本能寺の変で織田信長が死去。時代は豊臣政権へ移行します。 | 上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、誰であるか。 | 上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、直江兼続である。 |
JCRRAG_012753 | 歴史 | 上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、直江兼続である。
生い立ち〜直江家相続まで
兼続の生い立ちから、直江家を相続するまでを解説します。
謎に包まれた生い立ち
兼続の生まれについては信ぴょう性の高い史料が残っておらず、諸説あります。通説では永禄3年(1560)に越後上田庄(現・新潟県南魚沼市)坂戸城下で樋口兼豊の長男として生まれたとされていますが、樋口姓は現在の新潟県南魚沼郡湯沢町に多いことから、出身は湯沢ではないかとする説もあります。兼続は幼名が「与六」である。
また、父である兼豊についてもその身分について見解が分かれています。米沢藩の記録書によれば「長尾政景の家老であり、上田長尾氏の執事職であった」とありますが、江戸時代中期の儒学者・新井白石が記した「藩翰譜(はんかんふ)」という家系書によれば、薪や炭を扱う役人だったとされています。ただし、「藩翰譜」は史料を当たったものではなく、伝聞と白石自身の主観が強いという指摘もあり、この記述は疑問視されています。
母は上杉家重臣・直江景綱の妹だったとも、信濃国(現・長野県と岐阜県の一部)の豪族・泉重歳の娘だったとも、どちらでもないとする説もあり、はっきりしません。とはいえ、重臣の妹や豪族の娘だったとする場合、兼豊が薪や炭を扱う役人だったとすると身分がつり合わないため、この点でも兼豊の身分が低かったとする説には疑問が残ります。
上杉家の近習となり、直江家を相続する
永禄7年(1564)、上田長尾家の当主であり、坂戸城主でもあった政景が死去すると、政景の子・長尾顕景(あきかげ)は9歳で上杉謙信の養子となります。4歳の与六もこれに伴い、顕景の小姓・近習として謙信の春日山城へ入りました。ただしこれも通説であり、謙信の実姉で顕景の母でもある仙桃院に望まれ、幼い頃から顕景に近侍していた、という説もあります。
謙信には家督を継ぐ実子がいなかったため、顕景の他に北条氏政の弟・三郎を養子に迎えていましたが、これが後に家督争いの原因となります。なお、顕景は天正3年(1575)に名を景勝と改め、三郎は養子に迎えられた際に名を景虎と改めています。
天正6年(1578)に謙信が急死すると、景勝と景虎の間で家督争いが勃発しました(御館の乱)。家督争いは景勝が勝利し、上杉家は景勝が相続しました。この乱の後処理あたりから、景勝への取次など兼続が側近として活動している様子が史料に記載され始めます。
天正9年(1581)、御館の乱の恩賞を巡る争いから景勝の側近であった直江信綱が殺害されてしまいます。直江家には子どもがいなかったため、兼続は未亡人となった信綱の妻・お船(おせん)と結婚し、兼続が直江家を継ぐことで直江家の断絶を防ぎました。その翌年、本能寺の変で織田信長が死去。時代は豊臣政権へ移行します。 | 兼続は幼名が何であるか。 | 兼続は幼名が「与六」である。 |
JCRRAG_012754 | 歴史 | 上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、直江兼続である。
生い立ち〜直江家相続まで
兼続の生い立ちから、直江家を相続するまでを解説します。
謎に包まれた生い立ち
兼続の生まれについては信ぴょう性の高い史料が残っておらず、諸説あります。通説では永禄3年(1560)に越後上田庄(現・新潟県南魚沼市)坂戸城下で樋口兼豊の長男として生まれたとされていますが、樋口姓は現在の新潟県南魚沼郡湯沢町に多いことから、出身は湯沢ではないかとする説もあります。兼続は幼名が「与六」である。
また、父である兼豊についてもその身分について見解が分かれています。米沢藩の記録書によれば「長尾政景の家老であり、上田長尾氏の執事職であった」とありますが、江戸時代中期の儒学者・新井白石が記した「藩翰譜(はんかんふ)」という家系書によれば、薪や炭を扱う役人だったとされています。ただし、「藩翰譜」は史料を当たったものではなく、伝聞と白石自身の主観が強いという指摘もあり、この記述は疑問視されています。
母は上杉家重臣・直江景綱の妹だったとも、信濃国(現・長野県と岐阜県の一部)の豪族・泉重歳の娘だったとも、どちらでもないとする説もあり、はっきりしません。とはいえ、重臣の妹や豪族の娘だったとする場合、兼豊が薪や炭を扱う役人だったとすると身分がつり合わないため、この点でも兼豊の身分が低かったとする説には疑問が残ります。
上杉家の近習となり、直江家を相続する
永禄7年(1564)、上田長尾家の当主であり、坂戸城主でもあった政景が死去すると、政景の子・長尾顕景(あきかげ)は9歳で上杉謙信の養子となります。4歳の与六もこれに伴い、顕景の小姓・近習として謙信の春日山城へ入りました。ただしこれも通説であり、謙信の実姉で顕景の母でもある仙桃院に望まれ、幼い頃から顕景に近侍していた、という説もあります。
謙信には家督を継ぐ実子がいなかったため、顕景の他に北条氏政の弟・三郎を養子に迎えていましたが、これが後に家督争いの原因となります。なお、顕景は天正3年(1575)に名を景勝と改め、三郎は養子に迎えられた際に名を景虎と改めています。
天正6年(1578)に謙信が急死すると、景勝と景虎の間で家督争いが勃発しました(御館の乱)。家督争いは景勝が勝利し、上杉家は景勝が相続しました。この乱の後処理あたりから、景勝への取次など兼続が側近として活動している様子が史料に記載され始めます。
天正9年(1581)、御館の乱の恩賞を巡る争いから景勝の側近であった直江信綱が殺害されてしまいます。直江家には子どもがいなかったため、兼続は未亡人となった信綱の妻・お船(おせん)と結婚し、兼続が直江家を継ぐことで直江家の断絶を防ぎました。その翌年、本能寺の変で織田信長が死去。時代は豊臣政権へ移行します。 | 上田長尾家の当主であり、坂戸城主でもあった政景が死去すると、政景の子・長尾顕景(あきかげ)は9歳で誰の養子となりますか。 | 上田長尾家の当主であり、坂戸城主でもあった政景が死去すると、政景の子・長尾顕景(あきかげ)は9歳で上杉謙信の養子となります。 |
JCRRAG_012755 | 歴史 | 上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、直江兼続である。
生い立ち〜直江家相続まで
兼続の生い立ちから、直江家を相続するまでを解説します。
謎に包まれた生い立ち
兼続の生まれについては信ぴょう性の高い史料が残っておらず、諸説あります。通説では永禄3年(1560)に越後上田庄(現・新潟県南魚沼市)坂戸城下で樋口兼豊の長男として生まれたとされていますが、樋口姓は現在の新潟県南魚沼郡湯沢町に多いことから、出身は湯沢ではないかとする説もあります。兼続は幼名が「与六」である。
また、父である兼豊についてもその身分について見解が分かれています。米沢藩の記録書によれば「長尾政景の家老であり、上田長尾氏の執事職であった」とありますが、江戸時代中期の儒学者・新井白石が記した「藩翰譜(はんかんふ)」という家系書によれば、薪や炭を扱う役人だったとされています。ただし、「藩翰譜」は史料を当たったものではなく、伝聞と白石自身の主観が強いという指摘もあり、この記述は疑問視されています。
母は上杉家重臣・直江景綱の妹だったとも、信濃国(現・長野県と岐阜県の一部)の豪族・泉重歳の娘だったとも、どちらでもないとする説もあり、はっきりしません。とはいえ、重臣の妹や豪族の娘だったとする場合、兼豊が薪や炭を扱う役人だったとすると身分がつり合わないため、この点でも兼豊の身分が低かったとする説には疑問が残ります。
上杉家の近習となり、直江家を相続する
永禄7年(1564)、上田長尾家の当主であり、坂戸城主でもあった政景が死去すると、政景の子・長尾顕景(あきかげ)は9歳で上杉謙信の養子となります。4歳の与六もこれに伴い、顕景の小姓・近習として謙信の春日山城へ入りました。ただしこれも通説であり、謙信の実姉で顕景の母でもある仙桃院に望まれ、幼い頃から顕景に近侍していた、という説もあります。
謙信には家督を継ぐ実子がいなかったため、顕景の他に北条氏政の弟・三郎を養子に迎えていましたが、これが後に家督争いの原因となります。なお、顕景は天正3年(1575)に名を景勝と改め、三郎は養子に迎えられた際に名を景虎と改めています。
天正6年(1578)に謙信が急死すると、景勝と景虎の間で家督争いが勃発しました(御館の乱)。家督争いは景勝が勝利し、上杉家は景勝が相続しました。この乱の後処理あたりから、景勝への取次など兼続が側近として活動している様子が史料に記載され始めます。
天正9年(1581)、御館の乱の恩賞を巡る争いから景勝の側近であった直江信綱が殺害されてしまいます。直江家には子どもがいなかったため、兼続は未亡人となった信綱の妻・お船(おせん)と結婚し、兼続が直江家を継ぐことで直江家の断絶を防ぎました。その翌年、本能寺の変で織田信長が死去。時代は豊臣政権へ移行します。 | 顕景は天正3年(1575)に名を何と改めますか。 | 顕景は天正3年(1575)に名を景勝と改め、三郎は養子に迎えられた際に名を景虎と改めています。 |
JCRRAG_012756 | 歴史 | 上杉家の忠臣であり兜に「愛」を掲げた武将は、直江兼続である。
生い立ち〜直江家相続まで
兼続の生い立ちから、直江家を相続するまでを解説します。
謎に包まれた生い立ち
兼続の生まれについては信ぴょう性の高い史料が残っておらず、諸説あります。通説では永禄3年(1560)に越後上田庄(現・新潟県南魚沼市)坂戸城下で樋口兼豊の長男として生まれたとされていますが、樋口姓は現在の新潟県南魚沼郡湯沢町に多いことから、出身は湯沢ではないかとする説もあります。兼続は幼名が「与六」である。
また、父である兼豊についてもその身分について見解が分かれています。米沢藩の記録書によれば「長尾政景の家老であり、上田長尾氏の執事職であった」とありますが、江戸時代中期の儒学者・新井白石が記した「藩翰譜(はんかんふ)」という家系書によれば、薪や炭を扱う役人だったとされています。ただし、「藩翰譜」は史料を当たったものではなく、伝聞と白石自身の主観が強いという指摘もあり、この記述は疑問視されています。
母は上杉家重臣・直江景綱の妹だったとも、信濃国(現・長野県と岐阜県の一部)の豪族・泉重歳の娘だったとも、どちらでもないとする説もあり、はっきりしません。とはいえ、重臣の妹や豪族の娘だったとする場合、兼豊が薪や炭を扱う役人だったとすると身分がつり合わないため、この点でも兼豊の身分が低かったとする説には疑問が残ります。
上杉家の近習となり、直江家を相続する
永禄7年(1564)、上田長尾家の当主であり、坂戸城主でもあった政景が死去すると、政景の子・長尾顕景(あきかげ)は9歳で上杉謙信の養子となります。4歳の与六もこれに伴い、顕景の小姓・近習として謙信の春日山城へ入りました。ただしこれも通説であり、謙信の実姉で顕景の母でもある仙桃院に望まれ、幼い頃から顕景に近侍していた、という説もあります。
謙信には家督を継ぐ実子がいなかったため、顕景の他に北条氏政の弟・三郎を養子に迎えていましたが、これが後に家督争いの原因となります。なお、顕景は天正3年(1575)に名を景勝と改め、三郎は養子に迎えられた際に名を景虎と改めています。
天正6年(1578)に謙信が急死すると、景勝と景虎の間で家督争いが勃発しました(御館の乱)。家督争いは景勝が勝利し、上杉家は景勝が相続しました。この乱の後処理あたりから、景勝への取次など兼続が側近として活動している様子が史料に記載され始めます。
天正9年(1581)、御館の乱の恩賞を巡る争いから景勝の側近であった直江信綱が殺害されてしまいます。直江家には子どもがいなかったため、兼続は未亡人となった信綱の妻・お船(おせん)と結婚し、兼続が直江家を継ぐことで直江家の断絶を防ぎました。その翌年、本能寺の変で織田信長が死去。時代は豊臣政権へ移行します。 | 兼続が直江家を継ぐことで何を防ぎましたか。 | 兼続が直江家を継ぐことで直江家の断絶を防ぎました。 |
JCRRAG_012757 | 歴史 | 豊臣時代〜関ヶ原の戦い
豊臣政権の時代から、関ヶ原の戦いでの兼続についてご紹介します。
豊臣時代の兼続
景勝の腹心は兼続の他に狩野秀治がいましたが、天正12年(1584)に病に倒れて以降は、上杉家に関する内外の取次、執政のほとんどを兼続が行うようになります。しかし、その後も不満分子が反乱を起こすなど、越後国自体が疲弊してしまいます。その状況を打開するために、兼続は新田開発に力を入れるとともに、特産品である青苧(あおそ、衣類の原料)の増産に注力し、莫大な利益を得ることに成功しました。
兼続は秀吉からも信頼を得ていて、「伏見城」の惣構堀普請や、改築のための伏見舟入奉行に命じられていました。信頼の厚さは秀吉の「天下の政治を任せられるのは数人しかいないが、そのうちの一人が直江兼続」という言葉にも表れています。
徳川家康に突きつけた「直江状」
秀吉亡き後、後継者である豊臣秀頼はまだ5歳だったため、政治は「五大老」と「五奉行」の合議制で行われていました。五大老の筆頭だったのが徳川家康ですが、景勝も五大老のひとりとして政治に参加。そして、家康が幅をきかせるようになったことに反発したのが五奉行のひとり、石田三成でした。
景勝は家康の横行に対する抑止力となっていましたが、反面、お互いに不信感を抱く相手でもありました。そんな中、越後の領主、堀秀治が家康に対し「上杉家は謀反を企てているらしい」と上杉家をおとしめる情報を伝え、家康は景勝に上洛と申し開きを要求。これに対して兼続が毅然と反論したのが「直江状」です。以下に要約を記載します。
「景勝が謀反を企てている、という者こそが怪しいのだから、先にその者を調べるべきだ。ろくに調べもせず、簡単に讒言(ざんげん)を聞き入れる家康様の方にこそ、やましいところがあるのではありませんか」
「上杉家が武器を集めているから謀反を企てていると言いますが、上方の武士が茶器などを集めるように、田舎武士は鉄砲や弓矢を集めることが趣味なのです」
「そもそも、讒言した者は上杉家を出奔した者。裏切り者は彼の者の方なのです。景勝と家康様のどちらが正しいのか、明らかではありませんか」
直江状は本物か偽物かの論争があるほど、史料として決定的なものではありません。そのため、本当に兼続が書いたものなのかは定かではありませんが、家康に兼続が書状を送り、それが家康を激怒させた、というのは事実だといわれています。
家康軍に敗北
三成と家康が激突した関ヶ原の戦いでは、家康が勝利をおさめました。兼続はこのとき、景勝とともに三成側(西軍)についています。西軍の敗北を知った兼続は上杉軍を撤退させるべく、自らしんがりを務め、無事上杉軍を撤退させることに成功。撤退戦での働きは、後に家康も称賛するほどだったといわれています。
上杉家は敗北後、上洛して家康に謝罪することで会津120万石から米沢30万石へ所領を減らし、移動する処分となりました。このとき、兼続は徳川家に忠誠を誓い、重光と改名しています。石高が減ったことで、兼続は国力増強に向けさらなる新田開発に注力。30万石だった米沢藩の石高を約2倍の50万石以上へと成長させました。
他にも、氾濫しやすい最上川の上流に大きな堤防を築くなど治水事業に力を入れて農業を行いやすくしたり、城下町の整備や鉱山開発、教育環境の整備を行うなど、政治家としての手腕をいかんなく発揮します。
晩年の兼続
関ヶ原の戦い以降、兼続は上杉家と徳川家の関係改善に努め、家康の重臣でもあった本多正信の次男である本田政重を娘の婿養子として迎え入れました。しかし、政重との養子縁組はのちに解消され、直江家には他に男子がいなかったことから、兼続の死後、直江家は断絶することとなります。
兜に「愛」を掲げた理由とは?
兼続は幼い頃から才気煥発で眉目秀麗、武道にも優れていたとされています。また、兜に「愛」の文字をあしらっていました。景勝への忠心などを見ると間違いでもありませんが、当時「愛」の文字は現代でいう愛の意味では使われておらず、ネガティブな意味合いが強いものでした。そのため、兜に「愛」とあしらっていた理由として、以下2つの説が有力です。
「愛染明王」由来説
謙信が自らを毘沙門天の生まれ変わりだと信じて「毘」の文字を掲げたように、弓を持ち軍神としても知られる愛染明王の文字を掲げたのだ、とされています。
「愛宕権現」由来説
謙信が戦の際に、新潟県上越市にある愛宕神社へ戦勝祈願に訪れていたため、とされています。愛宕権現は各地に分霊され、軍神として信仰されたことから、各地の愛宕神社はそれぞれの土地を治める武将に武運をもたらすとして庇護されていました。
生涯にわたり上杉家を守った忠臣
兼続は出自に諸説ありますが、幼い頃から景勝の忠臣であったことは間違いないようです。秀治の死後は上杉家の内外の取次をひとりで行い、度々所領の立て直しにも成功。関ヶ原での敗戦後は積極的に徳川家との関係改善に努めるなど政治的手腕も発揮しています。美貌にも才気にも恵まれたとされていますが、私欲に走らず参謀としてその手腕を活かしたことが、今もなお愛されている理由なのかもしれません。 | 兼続は新田開発に力を入れるとともに、何の増産に注力し、莫大な利益を得ることに成功しましたか。 | 兼続は新田開発に力を入れるとともに、特産品である青苧(あおそ、衣類の原料)の増産に注力し、莫大な利益を得ることに成功しました。
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JCRRAG_012758 | 歴史 | 豊臣時代〜関ヶ原の戦い
豊臣政権の時代から、関ヶ原の戦いでの兼続についてご紹介します。
豊臣時代の兼続
景勝の腹心は兼続の他に狩野秀治がいましたが、天正12年(1584)に病に倒れて以降は、上杉家に関する内外の取次、執政のほとんどを兼続が行うようになります。しかし、その後も不満分子が反乱を起こすなど、越後国自体が疲弊してしまいます。その状況を打開するために、兼続は新田開発に力を入れるとともに、特産品である青苧(あおそ、衣類の原料)の増産に注力し、莫大な利益を得ることに成功しました。
兼続は秀吉からも信頼を得ていて、「伏見城」の惣構堀普請や、改築のための伏見舟入奉行に命じられていました。信頼の厚さは秀吉の「天下の政治を任せられるのは数人しかいないが、そのうちの一人が直江兼続」という言葉にも表れています。
徳川家康に突きつけた「直江状」
秀吉亡き後、後継者である豊臣秀頼はまだ5歳だったため、政治は「五大老」と「五奉行」の合議制で行われていました。五大老の筆頭だったのが徳川家康ですが、景勝も五大老のひとりとして政治に参加。そして、家康が幅をきかせるようになったことに反発したのが五奉行のひとり、石田三成でした。
景勝は家康の横行に対する抑止力となっていましたが、反面、お互いに不信感を抱く相手でもありました。そんな中、越後の領主、堀秀治が家康に対し「上杉家は謀反を企てているらしい」と上杉家をおとしめる情報を伝え、家康は景勝に上洛と申し開きを要求。これに対して兼続が毅然と反論したのが「直江状」です。以下に要約を記載します。
「景勝が謀反を企てている、という者こそが怪しいのだから、先にその者を調べるべきだ。ろくに調べもせず、簡単に讒言(ざんげん)を聞き入れる家康様の方にこそ、やましいところがあるのではありませんか」
「上杉家が武器を集めているから謀反を企てていると言いますが、上方の武士が茶器などを集めるように、田舎武士は鉄砲や弓矢を集めることが趣味なのです」
「そもそも、讒言した者は上杉家を出奔した者。裏切り者は彼の者の方なのです。景勝と家康様のどちらが正しいのか、明らかではありませんか」
直江状は本物か偽物かの論争があるほど、史料として決定的なものではありません。そのため、本当に兼続が書いたものなのかは定かではありませんが、家康に兼続が書状を送り、それが家康を激怒させた、というのは事実だといわれています。
家康軍に敗北
三成と家康が激突した関ヶ原の戦いでは、家康が勝利をおさめました。兼続はこのとき、景勝とともに三成側(西軍)についています。西軍の敗北を知った兼続は上杉軍を撤退させるべく、自らしんがりを務め、無事上杉軍を撤退させることに成功。撤退戦での働きは、後に家康も称賛するほどだったといわれています。
上杉家は敗北後、上洛して家康に謝罪することで会津120万石から米沢30万石へ所領を減らし、移動する処分となりました。このとき、兼続は徳川家に忠誠を誓い、重光と改名しています。石高が減ったことで、兼続は国力増強に向けさらなる新田開発に注力。30万石だった米沢藩の石高を約2倍の50万石以上へと成長させました。
他にも、氾濫しやすい最上川の上流に大きな堤防を築くなど治水事業に力を入れて農業を行いやすくしたり、城下町の整備や鉱山開発、教育環境の整備を行うなど、政治家としての手腕をいかんなく発揮します。
晩年の兼続
関ヶ原の戦い以降、兼続は上杉家と徳川家の関係改善に努め、家康の重臣でもあった本多正信の次男である本田政重を娘の婿養子として迎え入れました。しかし、政重との養子縁組はのちに解消され、直江家には他に男子がいなかったことから、兼続の死後、直江家は断絶することとなります。
兜に「愛」を掲げた理由とは?
兼続は幼い頃から才気煥発で眉目秀麗、武道にも優れていたとされています。また、兜に「愛」の文字をあしらっていました。景勝への忠心などを見ると間違いでもありませんが、当時「愛」の文字は現代でいう愛の意味では使われておらず、ネガティブな意味合いが強いものでした。そのため、兜に「愛」とあしらっていた理由として、以下2つの説が有力です。
「愛染明王」由来説
謙信が自らを毘沙門天の生まれ変わりだと信じて「毘」の文字を掲げたように、弓を持ち軍神としても知られる愛染明王の文字を掲げたのだ、とされています。
「愛宕権現」由来説
謙信が戦の際に、新潟県上越市にある愛宕神社へ戦勝祈願に訪れていたため、とされています。愛宕権現は各地に分霊され、軍神として信仰されたことから、各地の愛宕神社はそれぞれの土地を治める武将に武運をもたらすとして庇護されていました。
生涯にわたり上杉家を守った忠臣
兼続は出自に諸説ありますが、幼い頃から景勝の忠臣であったことは間違いないようです。秀治の死後は上杉家の内外の取次をひとりで行い、度々所領の立て直しにも成功。関ヶ原での敗戦後は積極的に徳川家との関係改善に努めるなど政治的手腕も発揮しています。美貌にも才気にも恵まれたとされていますが、私欲に走らず参謀としてその手腕を活かしたことが、今もなお愛されている理由なのかもしれません。 | 撤退戦での働きは、後に誰も称賛するほどだったといわれていますか。 | 撤退戦での働きは、後に家康も称賛するほどだったといわれています。 |
JCRRAG_012759 | 歴史 | 豊臣時代〜関ヶ原の戦い
豊臣政権の時代から、関ヶ原の戦いでの兼続についてご紹介します。
豊臣時代の兼続
景勝の腹心は兼続の他に狩野秀治がいましたが、天正12年(1584)に病に倒れて以降は、上杉家に関する内外の取次、執政のほとんどを兼続が行うようになります。しかし、その後も不満分子が反乱を起こすなど、越後国自体が疲弊してしまいます。その状況を打開するために、兼続は新田開発に力を入れるとともに、特産品である青苧(あおそ、衣類の原料)の増産に注力し、莫大な利益を得ることに成功しました。
兼続は秀吉からも信頼を得ていて、「伏見城」の惣構堀普請や、改築のための伏見舟入奉行に命じられていました。信頼の厚さは秀吉の「天下の政治を任せられるのは数人しかいないが、そのうちの一人が直江兼続」という言葉にも表れています。
徳川家康に突きつけた「直江状」
秀吉亡き後、後継者である豊臣秀頼はまだ5歳だったため、政治は「五大老」と「五奉行」の合議制で行われていました。五大老の筆頭だったのが徳川家康ですが、景勝も五大老のひとりとして政治に参加。そして、家康が幅をきかせるようになったことに反発したのが五奉行のひとり、石田三成でした。
景勝は家康の横行に対する抑止力となっていましたが、反面、お互いに不信感を抱く相手でもありました。そんな中、越後の領主、堀秀治が家康に対し「上杉家は謀反を企てているらしい」と上杉家をおとしめる情報を伝え、家康は景勝に上洛と申し開きを要求。これに対して兼続が毅然と反論したのが「直江状」です。以下に要約を記載します。
「景勝が謀反を企てている、という者こそが怪しいのだから、先にその者を調べるべきだ。ろくに調べもせず、簡単に讒言(ざんげん)を聞き入れる家康様の方にこそ、やましいところがあるのではありませんか」
「上杉家が武器を集めているから謀反を企てていると言いますが、上方の武士が茶器などを集めるように、田舎武士は鉄砲や弓矢を集めることが趣味なのです」
「そもそも、讒言した者は上杉家を出奔した者。裏切り者は彼の者の方なのです。景勝と家康様のどちらが正しいのか、明らかではありませんか」
直江状は本物か偽物かの論争があるほど、史料として決定的なものではありません。そのため、本当に兼続が書いたものなのかは定かではありませんが、家康に兼続が書状を送り、それが家康を激怒させた、というのは事実だといわれています。
家康軍に敗北
三成と家康が激突した関ヶ原の戦いでは、家康が勝利をおさめました。兼続はこのとき、景勝とともに三成側(西軍)についています。西軍の敗北を知った兼続は上杉軍を撤退させるべく、自らしんがりを務め、無事上杉軍を撤退させることに成功。撤退戦での働きは、後に家康も称賛するほどだったといわれています。
上杉家は敗北後、上洛して家康に謝罪することで会津120万石から米沢30万石へ所領を減らし、移動する処分となりました。このとき、兼続は徳川家に忠誠を誓い、重光と改名しています。石高が減ったことで、兼続は国力増強に向けさらなる新田開発に注力。30万石だった米沢藩の石高を約2倍の50万石以上へと成長させました。
他にも、氾濫しやすい最上川の上流に大きな堤防を築くなど治水事業に力を入れて農業を行いやすくしたり、城下町の整備や鉱山開発、教育環境の整備を行うなど、政治家としての手腕をいかんなく発揮します。
晩年の兼続
関ヶ原の戦い以降、兼続は上杉家と徳川家の関係改善に努め、家康の重臣でもあった本多正信の次男である本田政重を娘の婿養子として迎え入れました。しかし、政重との養子縁組はのちに解消され、直江家には他に男子がいなかったことから、兼続の死後、直江家は断絶することとなります。
兜に「愛」を掲げた理由とは?
兼続は幼い頃から才気煥発で眉目秀麗、武道にも優れていたとされています。また、兜に「愛」の文字をあしらっていました。景勝への忠心などを見ると間違いでもありませんが、当時「愛」の文字は現代でいう愛の意味では使われておらず、ネガティブな意味合いが強いものでした。そのため、兜に「愛」とあしらっていた理由として、以下2つの説が有力です。
「愛染明王」由来説
謙信が自らを毘沙門天の生まれ変わりだと信じて「毘」の文字を掲げたように、弓を持ち軍神としても知られる愛染明王の文字を掲げたのだ、とされています。
「愛宕権現」由来説
謙信が戦の際に、新潟県上越市にある愛宕神社へ戦勝祈願に訪れていたため、とされています。愛宕権現は各地に分霊され、軍神として信仰されたことから、各地の愛宕神社はそれぞれの土地を治める武将に武運をもたらすとして庇護されていました。
生涯にわたり上杉家を守った忠臣
兼続は出自に諸説ありますが、幼い頃から景勝の忠臣であったことは間違いないようです。秀治の死後は上杉家の内外の取次をひとりで行い、度々所領の立て直しにも成功。関ヶ原での敗戦後は積極的に徳川家との関係改善に努めるなど政治的手腕も発揮しています。美貌にも才気にも恵まれたとされていますが、私欲に走らず参謀としてその手腕を活かしたことが、今もなお愛されている理由なのかもしれません。 | 兼続は国力増強に向け何に注力しましたか。 | 兼続は国力増強に向けさらなる新田開発に注力しました。 |
JCRRAG_012760 | 歴史 | 豊臣時代〜関ヶ原の戦い
豊臣政権の時代から、関ヶ原の戦いでの兼続についてご紹介します。
豊臣時代の兼続
景勝の腹心は兼続の他に狩野秀治がいましたが、天正12年(1584)に病に倒れて以降は、上杉家に関する内外の取次、執政のほとんどを兼続が行うようになります。しかし、その後も不満分子が反乱を起こすなど、越後国自体が疲弊してしまいます。その状況を打開するために、兼続は新田開発に力を入れるとともに、特産品である青苧(あおそ、衣類の原料)の増産に注力し、莫大な利益を得ることに成功しました。
兼続は秀吉からも信頼を得ていて、「伏見城」の惣構堀普請や、改築のための伏見舟入奉行に命じられていました。信頼の厚さは秀吉の「天下の政治を任せられるのは数人しかいないが、そのうちの一人が直江兼続」という言葉にも表れています。
徳川家康に突きつけた「直江状」
秀吉亡き後、後継者である豊臣秀頼はまだ5歳だったため、政治は「五大老」と「五奉行」の合議制で行われていました。五大老の筆頭だったのが徳川家康ですが、景勝も五大老のひとりとして政治に参加。そして、家康が幅をきかせるようになったことに反発したのが五奉行のひとり、石田三成でした。
景勝は家康の横行に対する抑止力となっていましたが、反面、お互いに不信感を抱く相手でもありました。そんな中、越後の領主、堀秀治が家康に対し「上杉家は謀反を企てているらしい」と上杉家をおとしめる情報を伝え、家康は景勝に上洛と申し開きを要求。これに対して兼続が毅然と反論したのが「直江状」です。以下に要約を記載します。
「景勝が謀反を企てている、という者こそが怪しいのだから、先にその者を調べるべきだ。ろくに調べもせず、簡単に讒言(ざんげん)を聞き入れる家康様の方にこそ、やましいところがあるのではありませんか」
「上杉家が武器を集めているから謀反を企てていると言いますが、上方の武士が茶器などを集めるように、田舎武士は鉄砲や弓矢を集めることが趣味なのです」
「そもそも、讒言した者は上杉家を出奔した者。裏切り者は彼の者の方なのです。景勝と家康様のどちらが正しいのか、明らかではありませんか」
直江状は本物か偽物かの論争があるほど、史料として決定的なものではありません。そのため、本当に兼続が書いたものなのかは定かではありませんが、家康に兼続が書状を送り、それが家康を激怒させた、というのは事実だといわれています。
家康軍に敗北
三成と家康が激突した関ヶ原の戦いでは、家康が勝利をおさめました。兼続はこのとき、景勝とともに三成側(西軍)についています。西軍の敗北を知った兼続は上杉軍を撤退させるべく、自らしんがりを務め、無事上杉軍を撤退させることに成功。撤退戦での働きは、後に家康も称賛するほどだったといわれています。
上杉家は敗北後、上洛して家康に謝罪することで会津120万石から米沢30万石へ所領を減らし、移動する処分となりました。このとき、兼続は徳川家に忠誠を誓い、重光と改名しています。石高が減ったことで、兼続は国力増強に向けさらなる新田開発に注力。30万石だった米沢藩の石高を約2倍の50万石以上へと成長させました。
他にも、氾濫しやすい最上川の上流に大きな堤防を築くなど治水事業に力を入れて農業を行いやすくしたり、城下町の整備や鉱山開発、教育環境の整備を行うなど、政治家としての手腕をいかんなく発揮します。
晩年の兼続
関ヶ原の戦い以降、兼続は上杉家と徳川家の関係改善に努め、家康の重臣でもあった本多正信の次男である本田政重を娘の婿養子として迎え入れました。しかし、政重との養子縁組はのちに解消され、直江家には他に男子がいなかったことから、兼続の死後、直江家は断絶することとなります。
兜に「愛」を掲げた理由とは?
兼続は幼い頃から才気煥発で眉目秀麗、武道にも優れていたとされています。また、兜に「愛」の文字をあしらっていました。景勝への忠心などを見ると間違いでもありませんが、当時「愛」の文字は現代でいう愛の意味では使われておらず、ネガティブな意味合いが強いものでした。そのため、兜に「愛」とあしらっていた理由として、以下2つの説が有力です。
「愛染明王」由来説
謙信が自らを毘沙門天の生まれ変わりだと信じて「毘」の文字を掲げたように、弓を持ち軍神としても知られる愛染明王の文字を掲げたのだ、とされています。
「愛宕権現」由来説
謙信が戦の際に、新潟県上越市にある愛宕神社へ戦勝祈願に訪れていたため、とされています。愛宕権現は各地に分霊され、軍神として信仰されたことから、各地の愛宕神社はそれぞれの土地を治める武将に武運をもたらすとして庇護されていました。
生涯にわたり上杉家を守った忠臣
兼続は出自に諸説ありますが、幼い頃から景勝の忠臣であったことは間違いないようです。秀治の死後は上杉家の内外の取次をひとりで行い、度々所領の立て直しにも成功。関ヶ原での敗戦後は積極的に徳川家との関係改善に努めるなど政治的手腕も発揮しています。美貌にも才気にも恵まれたとされていますが、私欲に走らず参謀としてその手腕を活かしたことが、今もなお愛されている理由なのかもしれません。 | 兼続は城下町の整備や鉱山開発、教育環境の整備を行うなど、何としての手腕をいかんなく発揮しますか。 | 兼続は城下町の整備や鉱山開発、教育環境の整備を行うなど、政治家としての手腕をいかんなく発揮します。 |
JCRRAG_012761 | 歴史 | 豊臣時代〜関ヶ原の戦い
豊臣政権の時代から、関ヶ原の戦いでの兼続についてご紹介します。
豊臣時代の兼続
景勝の腹心は兼続の他に狩野秀治がいましたが、天正12年(1584)に病に倒れて以降は、上杉家に関する内外の取次、執政のほとんどを兼続が行うようになります。しかし、その後も不満分子が反乱を起こすなど、越後国自体が疲弊してしまいます。その状況を打開するために、兼続は新田開発に力を入れるとともに、特産品である青苧(あおそ、衣類の原料)の増産に注力し、莫大な利益を得ることに成功しました。
兼続は秀吉からも信頼を得ていて、「伏見城」の惣構堀普請や、改築のための伏見舟入奉行に命じられていました。信頼の厚さは秀吉の「天下の政治を任せられるのは数人しかいないが、そのうちの一人が直江兼続」という言葉にも表れています。
徳川家康に突きつけた「直江状」
秀吉亡き後、後継者である豊臣秀頼はまだ5歳だったため、政治は「五大老」と「五奉行」の合議制で行われていました。五大老の筆頭だったのが徳川家康ですが、景勝も五大老のひとりとして政治に参加。そして、家康が幅をきかせるようになったことに反発したのが五奉行のひとり、石田三成でした。
景勝は家康の横行に対する抑止力となっていましたが、反面、お互いに不信感を抱く相手でもありました。そんな中、越後の領主、堀秀治が家康に対し「上杉家は謀反を企てているらしい」と上杉家をおとしめる情報を伝え、家康は景勝に上洛と申し開きを要求。これに対して兼続が毅然と反論したのが「直江状」です。以下に要約を記載します。
「景勝が謀反を企てている、という者こそが怪しいのだから、先にその者を調べるべきだ。ろくに調べもせず、簡単に讒言(ざんげん)を聞き入れる家康様の方にこそ、やましいところがあるのではありませんか」
「上杉家が武器を集めているから謀反を企てていると言いますが、上方の武士が茶器などを集めるように、田舎武士は鉄砲や弓矢を集めることが趣味なのです」
「そもそも、讒言した者は上杉家を出奔した者。裏切り者は彼の者の方なのです。景勝と家康様のどちらが正しいのか、明らかではありませんか」
直江状は本物か偽物かの論争があるほど、史料として決定的なものではありません。そのため、本当に兼続が書いたものなのかは定かではありませんが、家康に兼続が書状を送り、それが家康を激怒させた、というのは事実だといわれています。
家康軍に敗北
三成と家康が激突した関ヶ原の戦いでは、家康が勝利をおさめました。兼続はこのとき、景勝とともに三成側(西軍)についています。西軍の敗北を知った兼続は上杉軍を撤退させるべく、自らしんがりを務め、無事上杉軍を撤退させることに成功。撤退戦での働きは、後に家康も称賛するほどだったといわれています。
上杉家は敗北後、上洛して家康に謝罪することで会津120万石から米沢30万石へ所領を減らし、移動する処分となりました。このとき、兼続は徳川家に忠誠を誓い、重光と改名しています。石高が減ったことで、兼続は国力増強に向けさらなる新田開発に注力。30万石だった米沢藩の石高を約2倍の50万石以上へと成長させました。
他にも、氾濫しやすい最上川の上流に大きな堤防を築くなど治水事業に力を入れて農業を行いやすくしたり、城下町の整備や鉱山開発、教育環境の整備を行うなど、政治家としての手腕をいかんなく発揮します。
晩年の兼続
関ヶ原の戦い以降、兼続は上杉家と徳川家の関係改善に努め、家康の重臣でもあった本多正信の次男である本田政重を娘の婿養子として迎え入れました。しかし、政重との養子縁組はのちに解消され、直江家には他に男子がいなかったことから、兼続の死後、直江家は断絶することとなります。
兜に「愛」を掲げた理由とは?
兼続は幼い頃から才気煥発で眉目秀麗、武道にも優れていたとされています。また、兜に「愛」の文字をあしらっていました。景勝への忠心などを見ると間違いでもありませんが、当時「愛」の文字は現代でいう愛の意味では使われておらず、ネガティブな意味合いが強いものでした。そのため、兜に「愛」とあしらっていた理由として、以下2つの説が有力です。
「愛染明王」由来説
謙信が自らを毘沙門天の生まれ変わりだと信じて「毘」の文字を掲げたように、弓を持ち軍神としても知られる愛染明王の文字を掲げたのだ、とされています。
「愛宕権現」由来説
謙信が戦の際に、新潟県上越市にある愛宕神社へ戦勝祈願に訪れていたため、とされています。愛宕権現は各地に分霊され、軍神として信仰されたことから、各地の愛宕神社はそれぞれの土地を治める武将に武運をもたらすとして庇護されていました。
生涯にわたり上杉家を守った忠臣
兼続は出自に諸説ありますが、幼い頃から景勝の忠臣であったことは間違いないようです。秀治の死後は上杉家の内外の取次をひとりで行い、度々所領の立て直しにも成功。関ヶ原での敗戦後は積極的に徳川家との関係改善に努めるなど政治的手腕も発揮しています。美貌にも才気にも恵まれたとされていますが、私欲に走らず参謀としてその手腕を活かしたことが、今もなお愛されている理由なのかもしれません。 | 秀治の死後は上杉家の内外の取次をひとりで行い、何に成功しましたか。 | 秀治の死後は上杉家の内外の取次をひとりで行い、度々所領の立て直しにも成功しました。 |
JCRRAG_012762 | 歴史 | 400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、武田勝頼である。
生い立ちから家督を相続するまで
まずは、勝頼の生い立ちから、家督を相続するまでをご紹介します。
戦国武将、武田信玄の4男として生まれる
勝頼は、天文15年(1546)に戦国武将・武田信玄の4男として生まれました。母は信玄の側室であり、信濃国(現在の長野県)の領主・諏訪頼重の娘である諏訪御料人(本名は不明、諏訪御前とも)です。
勝頼の名前は、父・信玄の幼名「勝千代」と、諏訪氏の通字である「頼」から取られたとされています。母の出身・諏訪氏とは信玄の父(勝頼の祖父)の時代に同盟関係であったものの、その後信玄が滅ぼしたという経緯がありました。そこで、武田家内で諏訪氏を良く思わない勢力を納得させるため、兄弟の中で唯一、武田氏の通字である「信」を継がなかったとされています。
元服して高遠城へ
元服すると、高遠(信濃国伊那谷)の城主に任じられます。ここから「伊奈四郎勝頼」の呼び名も生まれました。高遠城主時代の具体的な状況を書いた史料は見つかっていませんが、城を中心とした独自支配権を持つ支城領だったとされています。
一方その頃、武田氏の嫡男・武田義信は父・信玄に謀反を疑われていました。実際に武田家は信玄派と義信派で分裂していて、永禄8年(1565)には義信の家臣たちが信玄暗殺を秘密裏に計画し処刑されるという事態が起こっています。義信自身も2年にわたって幽閉されたのち、自害させられました。
このとき、次男の海野信親は盲目だったため既に出家しており、3男の武田信之は早世していたことから、4男であった勝頼にお鉢が回ってきます。なお、勝頼は義信が幽閉された後、織田信長の養女・龍勝院(血縁では織田信長の姪にあたる)を正室としており、織田・武田同盟が強化されています。
正式な跡継ぎにはなれなかった勝頼
義信の自害の翌月には、勝頼に嫡男である武田信勝が誕生しています。信玄は武田家と織田家の血を引く信勝の誕生を大喜びし、遺言には正式な跡継ぎを信勝と定め、信勝が元服するまでの後見役として、父である勝頼を一時的な武田家当主としました。なお、龍勝院は難産だったとされ、信勝を産んだ4年後に死去しています。
信勝は正式な跡継ぎとしたのに、その父である勝頼を正式な跡継ぎにできなかったのは、勝頼を担ぎ出して諏訪氏が復讐することを恐れた家臣に配慮したからとされています。実際に、勝頼が信玄の死に際して武田家20代当主の座を引き継ぐと、武田家内で信玄派と勝頼派の対立が深まってしまうのです。
長篠の戦いから武田家滅亡まで
長篠の戦いから、武田家が滅亡するまでのエピソードをご紹介します。
武田家の転落のきっかけとなった「長篠の戦い」
勝頼が対立する家臣をまとめられないでいると、天下統一に向けて勢力を伸ばしていた信長と徳川家康の進攻を許してしまいます。勝頼は織田領である東美濃の明知城、徳川領である遠江国の高天神城を続けて落とし、浜松城にも迫るなど武功を重ねますが、徳川方に寝返った奥平親子の討伐に手こずります。
この間に織田・徳川連合軍が長篠城へ到着し、天正3年(1575)6月、ついに長篠の戦いが開戦しました。連合軍は陣城を築いたため、信玄以来の家臣たちは野戦ではなく攻城戦になると感じ取り、圧倒的な兵力差の影響で勝つことはほぼ不可能と確信。撤退を進言するも、勝頼は決戦を選択してしまいます。戦は8時間にも及び、武田軍は攻めあぐねて守りの戦いを強いられた挙句、数々の名将を含む1万人以上もの死傷者を出したとされています。 | 400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、誰であるか。 | 400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、武田勝頼である。 |
JCRRAG_012763 | 歴史 | 400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、武田勝頼である。
生い立ちから家督を相続するまで
まずは、勝頼の生い立ちから、家督を相続するまでをご紹介します。
戦国武将、武田信玄の4男として生まれる
勝頼は、天文15年(1546)に戦国武将・武田信玄の4男として生まれました。母は信玄の側室であり、信濃国(現在の長野県)の領主・諏訪頼重の娘である諏訪御料人(本名は不明、諏訪御前とも)です。
勝頼の名前は、父・信玄の幼名「勝千代」と、諏訪氏の通字である「頼」から取られたとされています。母の出身・諏訪氏とは信玄の父(勝頼の祖父)の時代に同盟関係であったものの、その後信玄が滅ぼしたという経緯がありました。そこで、武田家内で諏訪氏を良く思わない勢力を納得させるため、兄弟の中で唯一、武田氏の通字である「信」を継がなかったとされています。
元服して高遠城へ
元服すると、高遠(信濃国伊那谷)の城主に任じられます。ここから「伊奈四郎勝頼」の呼び名も生まれました。高遠城主時代の具体的な状況を書いた史料は見つかっていませんが、城を中心とした独自支配権を持つ支城領だったとされています。
一方その頃、武田氏の嫡男・武田義信は父・信玄に謀反を疑われていました。実際に武田家は信玄派と義信派で分裂していて、永禄8年(1565)には義信の家臣たちが信玄暗殺を秘密裏に計画し処刑されるという事態が起こっています。義信自身も2年にわたって幽閉されたのち、自害させられました。
このとき、次男の海野信親は盲目だったため既に出家しており、3男の武田信之は早世していたことから、4男であった勝頼にお鉢が回ってきます。なお、勝頼は義信が幽閉された後、織田信長の養女・龍勝院(血縁では織田信長の姪にあたる)を正室としており、織田・武田同盟が強化されています。
正式な跡継ぎにはなれなかった勝頼
義信の自害の翌月には、勝頼に嫡男である武田信勝が誕生しています。信玄は武田家と織田家の血を引く信勝の誕生を大喜びし、遺言には正式な跡継ぎを信勝と定め、信勝が元服するまでの後見役として、父である勝頼を一時的な武田家当主としました。なお、龍勝院は難産だったとされ、信勝を産んだ4年後に死去しています。
信勝は正式な跡継ぎとしたのに、その父である勝頼を正式な跡継ぎにできなかったのは、勝頼を担ぎ出して諏訪氏が復讐することを恐れた家臣に配慮したからとされています。実際に、勝頼が信玄の死に際して武田家20代当主の座を引き継ぐと、武田家内で信玄派と勝頼派の対立が深まってしまうのです。
長篠の戦いから武田家滅亡まで
長篠の戦いから、武田家が滅亡するまでのエピソードをご紹介します。
武田家の転落のきっかけとなった「長篠の戦い」
勝頼が対立する家臣をまとめられないでいると、天下統一に向けて勢力を伸ばしていた信長と徳川家康の進攻を許してしまいます。勝頼は織田領である東美濃の明知城、徳川領である遠江国の高天神城を続けて落とし、浜松城にも迫るなど武功を重ねますが、徳川方に寝返った奥平親子の討伐に手こずります。
この間に織田・徳川連合軍が長篠城へ到着し、天正3年(1575)6月、ついに長篠の戦いが開戦しました。連合軍は陣城を築いたため、信玄以来の家臣たちは野戦ではなく攻城戦になると感じ取り、圧倒的な兵力差の影響で勝つことはほぼ不可能と確信。撤退を進言するも、勝頼は決戦を選択してしまいます。戦は8時間にも及び、武田軍は攻めあぐねて守りの戦いを強いられた挙句、数々の名将を含む1万人以上もの死傷者を出したとされています。 | 勝頼は、いつ戦国武将・武田信玄の4男として生まれましたか。 | 勝頼は、天文15年(1546)に戦国武将・武田信玄の4男として生まれました。 |
JCRRAG_012764 | 歴史 | 400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、武田勝頼である。
生い立ちから家督を相続するまで
まずは、勝頼の生い立ちから、家督を相続するまでをご紹介します。
戦国武将、武田信玄の4男として生まれる
勝頼は、天文15年(1546)に戦国武将・武田信玄の4男として生まれました。母は信玄の側室であり、信濃国(現在の長野県)の領主・諏訪頼重の娘である諏訪御料人(本名は不明、諏訪御前とも)です。
勝頼の名前は、父・信玄の幼名「勝千代」と、諏訪氏の通字である「頼」から取られたとされています。母の出身・諏訪氏とは信玄の父(勝頼の祖父)の時代に同盟関係であったものの、その後信玄が滅ぼしたという経緯がありました。そこで、武田家内で諏訪氏を良く思わない勢力を納得させるため、兄弟の中で唯一、武田氏の通字である「信」を継がなかったとされています。
元服して高遠城へ
元服すると、高遠(信濃国伊那谷)の城主に任じられます。ここから「伊奈四郎勝頼」の呼び名も生まれました。高遠城主時代の具体的な状況を書いた史料は見つかっていませんが、城を中心とした独自支配権を持つ支城領だったとされています。
一方その頃、武田氏の嫡男・武田義信は父・信玄に謀反を疑われていました。実際に武田家は信玄派と義信派で分裂していて、永禄8年(1565)には義信の家臣たちが信玄暗殺を秘密裏に計画し処刑されるという事態が起こっています。義信自身も2年にわたって幽閉されたのち、自害させられました。
このとき、次男の海野信親は盲目だったため既に出家しており、3男の武田信之は早世していたことから、4男であった勝頼にお鉢が回ってきます。なお、勝頼は義信が幽閉された後、織田信長の養女・龍勝院(血縁では織田信長の姪にあたる)を正室としており、織田・武田同盟が強化されています。
正式な跡継ぎにはなれなかった勝頼
義信の自害の翌月には、勝頼に嫡男である武田信勝が誕生しています。信玄は武田家と織田家の血を引く信勝の誕生を大喜びし、遺言には正式な跡継ぎを信勝と定め、信勝が元服するまでの後見役として、父である勝頼を一時的な武田家当主としました。なお、龍勝院は難産だったとされ、信勝を産んだ4年後に死去しています。
信勝は正式な跡継ぎとしたのに、その父である勝頼を正式な跡継ぎにできなかったのは、勝頼を担ぎ出して諏訪氏が復讐することを恐れた家臣に配慮したからとされています。実際に、勝頼が信玄の死に際して武田家20代当主の座を引き継ぐと、武田家内で信玄派と勝頼派の対立が深まってしまうのです。
長篠の戦いから武田家滅亡まで
長篠の戦いから、武田家が滅亡するまでのエピソードをご紹介します。
武田家の転落のきっかけとなった「長篠の戦い」
勝頼が対立する家臣をまとめられないでいると、天下統一に向けて勢力を伸ばしていた信長と徳川家康の進攻を許してしまいます。勝頼は織田領である東美濃の明知城、徳川領である遠江国の高天神城を続けて落とし、浜松城にも迫るなど武功を重ねますが、徳川方に寝返った奥平親子の討伐に手こずります。
この間に織田・徳川連合軍が長篠城へ到着し、天正3年(1575)6月、ついに長篠の戦いが開戦しました。連合軍は陣城を築いたため、信玄以来の家臣たちは野戦ではなく攻城戦になると感じ取り、圧倒的な兵力差の影響で勝つことはほぼ不可能と確信。撤退を進言するも、勝頼は決戦を選択してしまいます。戦は8時間にも及び、武田軍は攻めあぐねて守りの戦いを強いられた挙句、数々の名将を含む1万人以上もの死傷者を出したとされています。 | 勝頼は、天文15年(1546)に誰の4男として生まれましたか。 | 勝頼は、天文15年(1546)に戦国武将・武田信玄の4男として生まれました。 |
JCRRAG_012765 | 歴史 | 400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、武田勝頼である。
生い立ちから家督を相続するまで
まずは、勝頼の生い立ちから、家督を相続するまでをご紹介します。
戦国武将、武田信玄の4男として生まれる
勝頼は、天文15年(1546)に戦国武将・武田信玄の4男として生まれました。母は信玄の側室であり、信濃国(現在の長野県)の領主・諏訪頼重の娘である諏訪御料人(本名は不明、諏訪御前とも)です。
勝頼の名前は、父・信玄の幼名「勝千代」と、諏訪氏の通字である「頼」から取られたとされています。母の出身・諏訪氏とは信玄の父(勝頼の祖父)の時代に同盟関係であったものの、その後信玄が滅ぼしたという経緯がありました。そこで、武田家内で諏訪氏を良く思わない勢力を納得させるため、兄弟の中で唯一、武田氏の通字である「信」を継がなかったとされています。
元服して高遠城へ
元服すると、高遠(信濃国伊那谷)の城主に任じられます。ここから「伊奈四郎勝頼」の呼び名も生まれました。高遠城主時代の具体的な状況を書いた史料は見つかっていませんが、城を中心とした独自支配権を持つ支城領だったとされています。
一方その頃、武田氏の嫡男・武田義信は父・信玄に謀反を疑われていました。実際に武田家は信玄派と義信派で分裂していて、永禄8年(1565)には義信の家臣たちが信玄暗殺を秘密裏に計画し処刑されるという事態が起こっています。義信自身も2年にわたって幽閉されたのち、自害させられました。
このとき、次男の海野信親は盲目だったため既に出家しており、3男の武田信之は早世していたことから、4男であった勝頼にお鉢が回ってきます。なお、勝頼は義信が幽閉された後、織田信長の養女・龍勝院(血縁では織田信長の姪にあたる)を正室としており、織田・武田同盟が強化されています。
正式な跡継ぎにはなれなかった勝頼
義信の自害の翌月には、勝頼に嫡男である武田信勝が誕生しています。信玄は武田家と織田家の血を引く信勝の誕生を大喜びし、遺言には正式な跡継ぎを信勝と定め、信勝が元服するまでの後見役として、父である勝頼を一時的な武田家当主としました。なお、龍勝院は難産だったとされ、信勝を産んだ4年後に死去しています。
信勝は正式な跡継ぎとしたのに、その父である勝頼を正式な跡継ぎにできなかったのは、勝頼を担ぎ出して諏訪氏が復讐することを恐れた家臣に配慮したからとされています。実際に、勝頼が信玄の死に際して武田家20代当主の座を引き継ぐと、武田家内で信玄派と勝頼派の対立が深まってしまうのです。
長篠の戦いから武田家滅亡まで
長篠の戦いから、武田家が滅亡するまでのエピソードをご紹介します。
武田家の転落のきっかけとなった「長篠の戦い」
勝頼が対立する家臣をまとめられないでいると、天下統一に向けて勢力を伸ばしていた信長と徳川家康の進攻を許してしまいます。勝頼は織田領である東美濃の明知城、徳川領である遠江国の高天神城を続けて落とし、浜松城にも迫るなど武功を重ねますが、徳川方に寝返った奥平親子の討伐に手こずります。
この間に織田・徳川連合軍が長篠城へ到着し、天正3年(1575)6月、ついに長篠の戦いが開戦しました。連合軍は陣城を築いたため、信玄以来の家臣たちは野戦ではなく攻城戦になると感じ取り、圧倒的な兵力差の影響で勝つことはほぼ不可能と確信。撤退を進言するも、勝頼は決戦を選択してしまいます。戦は8時間にも及び、武田軍は攻めあぐねて守りの戦いを強いられた挙句、数々の名将を含む1万人以上もの死傷者を出したとされています。 | 勝頼は義信が幽閉された後、誰を正室としていますか。 | 勝頼は義信が幽閉された後、織田信長の養女・龍勝院を正室としています。 |
JCRRAG_012766 | 歴史 | 400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主である人物は、武田勝頼である。
生い立ちから家督を相続するまで
まずは、勝頼の生い立ちから、家督を相続するまでをご紹介します。
戦国武将、武田信玄の4男として生まれる
勝頼は、天文15年(1546)に戦国武将・武田信玄の4男として生まれました。母は信玄の側室であり、信濃国(現在の長野県)の領主・諏訪頼重の娘である諏訪御料人(本名は不明、諏訪御前とも)です。
勝頼の名前は、父・信玄の幼名「勝千代」と、諏訪氏の通字である「頼」から取られたとされています。母の出身・諏訪氏とは信玄の父(勝頼の祖父)の時代に同盟関係であったものの、その後信玄が滅ぼしたという経緯がありました。そこで、武田家内で諏訪氏を良く思わない勢力を納得させるため、兄弟の中で唯一、武田氏の通字である「信」を継がなかったとされています。
元服して高遠城へ
元服すると、高遠(信濃国伊那谷)の城主に任じられます。ここから「伊奈四郎勝頼」の呼び名も生まれました。高遠城主時代の具体的な状況を書いた史料は見つかっていませんが、城を中心とした独自支配権を持つ支城領だったとされています。
一方その頃、武田氏の嫡男・武田義信は父・信玄に謀反を疑われていました。実際に武田家は信玄派と義信派で分裂していて、永禄8年(1565)には義信の家臣たちが信玄暗殺を秘密裏に計画し処刑されるという事態が起こっています。義信自身も2年にわたって幽閉されたのち、自害させられました。
このとき、次男の海野信親は盲目だったため既に出家しており、3男の武田信之は早世していたことから、4男であった勝頼にお鉢が回ってきます。なお、勝頼は義信が幽閉された後、織田信長の養女・龍勝院(血縁では織田信長の姪にあたる)を正室としており、織田・武田同盟が強化されています。
正式な跡継ぎにはなれなかった勝頼
義信の自害の翌月には、勝頼に嫡男である武田信勝が誕生しています。信玄は武田家と織田家の血を引く信勝の誕生を大喜びし、遺言には正式な跡継ぎを信勝と定め、信勝が元服するまでの後見役として、父である勝頼を一時的な武田家当主としました。なお、龍勝院は難産だったとされ、信勝を産んだ4年後に死去しています。
信勝は正式な跡継ぎとしたのに、その父である勝頼を正式な跡継ぎにできなかったのは、勝頼を担ぎ出して諏訪氏が復讐することを恐れた家臣に配慮したからとされています。実際に、勝頼が信玄の死に際して武田家20代当主の座を引き継ぐと、武田家内で信玄派と勝頼派の対立が深まってしまうのです。
長篠の戦いから武田家滅亡まで
長篠の戦いから、武田家が滅亡するまでのエピソードをご紹介します。
武田家の転落のきっかけとなった「長篠の戦い」
勝頼が対立する家臣をまとめられないでいると、天下統一に向けて勢力を伸ばしていた信長と徳川家康の進攻を許してしまいます。勝頼は織田領である東美濃の明知城、徳川領である遠江国の高天神城を続けて落とし、浜松城にも迫るなど武功を重ねますが、徳川方に寝返った奥平親子の討伐に手こずります。
この間に織田・徳川連合軍が長篠城へ到着し、天正3年(1575)6月、ついに長篠の戦いが開戦しました。連合軍は陣城を築いたため、信玄以来の家臣たちは野戦ではなく攻城戦になると感じ取り、圧倒的な兵力差の影響で勝つことはほぼ不可能と確信。撤退を進言するも、勝頼は決戦を選択してしまいます。戦は8時間にも及び、武田軍は攻めあぐねて守りの戦いを強いられた挙句、数々の名将を含む1万人以上もの死傷者を出したとされています。 | 武田軍は攻めあぐねて守りの戦いを強いられた挙句、どれほどの死傷者を出したとされていますか。 | 武田軍は攻めあぐねて守りの戦いを強いられた挙句、数々の名将を含む1万人以上もの死傷者を出したとされています。 |
JCRRAG_012767 | 歴史 | 武田家の衰退
11月、信長の嫡男・織田信忠を総大将とした織田軍によって東美濃の岩村城が落とされると、12月には徳川軍によって遠江国の二俣城を開城させられます。さらに、武田家家臣である依田信蕃が高天神城に撤退したことで、高天神城が地理的に孤立してしまいました。
勝頼はこれを救おうと天正4年(1576)、徳川方の横須賀城を攻めるも、相手の徹底抗戦を受けて撤退。天正5年(1577)にとうとう家康が高天神城を攻めてきたことで、徳川と何度も交戦することになります。
また、勝頼は天正5年(1577)に北条氏政の妹(北条夫人)を後室に迎えます。北条氏と結びつきを強めることで、越後の上杉氏との関係修復をはかったのです。しかし、天正6年(1578)に上杉謙信が死去したのち、上杉氏は養子である上杉景勝と上杉景虎の間で家督争いが勃発。勝頼は両者の和睦調停を買って出て、氏政の実弟である景虎を支持します。しかし、景勝が莫大なお金と領土の割譲を提示したことで、勝頼は景勝に鞍替えしてしまいました。最終的に景虎は自害してしまい、上杉家の家督争いはひとまずおさまるのですが、これにより武田家は織田・徳川だけでなく北条氏も敵に回してしまうことになります。
勝頼の死と武田家の滅亡
北条氏からの信頼を失った勝頼を見て、徳川軍は天正9年(1581)、一気に高天神城を奪回します。勝頼は援軍を送る余力もなく、高天神城は全滅状態で陥落。武田家の威信は墜落し、武田一族の重鎮であった穴山梅雪をはじめとして多くの家臣が織田・徳川方に内通したり、離反したりしました。
天正10年(1582)、外縁にあたる木曾義昌が織田方に寝返ったことで勝頼は激怒、討伐軍を送るも織田・徳川・北条の総攻撃で総崩れに。最後まで徹底抗戦した高遠城も、ことごとく討死して陥落してしまいます。とうとう勝頼は本拠地としていた新府城を捨て、真田昌幸に勧められた上田城へ向かおうとするも、小山田信茂らの進言に加えて不吉とされる浅間山の噴火などを受けて、結局は信茂の居城である岩殿城へ向かいました。
しかし、勝頼を裏切った信茂に鉄砲で撃たれかけたため、最終的に天目山(現在の山梨県甲府市)を目指します。天目山は、かつて武田家13代当主が自害した場所。ここでも織田軍に攻撃されますが、最後まで付き従っていた40人ほどの家臣は徹底抗戦しました。中でも、土屋昌恒は片手で織田軍を次々と斬る「片手千人斬り」の伝説を残すほどの奮闘をみせています。
戦いの混乱が落ち着いたところで、勝頼は嫡子である信勝、夫人、従者を集めて自害。自害に先立ち、信勝に正式に家督相続の儀を行ったとされています。こうして、400年続いた名門武田家は滅亡しました。
戦の手腕は武田信玄に引けを取らなかった!?
初陣で臆することなく敵に突撃して討ち取る、東美濃への進軍後は織田方の支城を一挙に18も攻め落とした、などの武功があることから、勝頼の戦の手腕は父・信玄に引けを取らなかったとされています。また、勝頼は父・信玄が落とせなかった高天神城も落としています。高天神城は、戦国時代「高天神を制する者は遠江を制す」とまで言われたほどの拠点で、誰もが狙っていた城でした。
信長はこうした勝頼の猛攻を非常に警戒しており、「武田勝頼は武田信玄の遺言や法をしっかり守っていて、武田信玄に勝るとも劣らぬ人物。油断すると大変なことになるから注意してほしい。越後から勝頼を牽制してくれ」と謙信に打診するほどでした。勝頼の死後、首級と対面した信長は「日本に比類なき武者だったが、運が尽きてしまったのだな」と漏らすなど、その能力を高く買っていたことがわかります。
類まれなる才能を持った武田家最後の当主
勝頼は母の出自から家臣に信頼してもらえず、兄と父の死によって武田家の当主となったものの、結局は武田家を滅ぼしてしまいます。しかし一方で、勝頼は信長をもってして「信玄に勝るとも劣らない」と言わしめるほどの能力も持ち合わせていました。逆に、こうした父から受け継いだ才能によって織田・徳川両名を強く警戒させてしまったことが、武田家の敗因だったのかもしれません。 | 勝頼は天正5年に誰を後室に迎えますか。 | 勝頼は天正5年(1577)に北条氏政の妹(北条夫人)を後室に迎えます。 |
JCRRAG_012768 | 歴史 | 武田家の衰退
11月、信長の嫡男・織田信忠を総大将とした織田軍によって東美濃の岩村城が落とされると、12月には徳川軍によって遠江国の二俣城を開城させられます。さらに、武田家家臣である依田信蕃が高天神城に撤退したことで、高天神城が地理的に孤立してしまいました。
勝頼はこれを救おうと天正4年(1576)、徳川方の横須賀城を攻めるも、相手の徹底抗戦を受けて撤退。天正5年(1577)にとうとう家康が高天神城を攻めてきたことで、徳川と何度も交戦することになります。
また、勝頼は天正5年(1577)に北条氏政の妹(北条夫人)を後室に迎えます。北条氏と結びつきを強めることで、越後の上杉氏との関係修復をはかったのです。しかし、天正6年(1578)に上杉謙信が死去したのち、上杉氏は養子である上杉景勝と上杉景虎の間で家督争いが勃発。勝頼は両者の和睦調停を買って出て、氏政の実弟である景虎を支持します。しかし、景勝が莫大なお金と領土の割譲を提示したことで、勝頼は景勝に鞍替えしてしまいました。最終的に景虎は自害してしまい、上杉家の家督争いはひとまずおさまるのですが、これにより武田家は織田・徳川だけでなく北条氏も敵に回してしまうことになります。
勝頼の死と武田家の滅亡
北条氏からの信頼を失った勝頼を見て、徳川軍は天正9年(1581)、一気に高天神城を奪回します。勝頼は援軍を送る余力もなく、高天神城は全滅状態で陥落。武田家の威信は墜落し、武田一族の重鎮であった穴山梅雪をはじめとして多くの家臣が織田・徳川方に内通したり、離反したりしました。
天正10年(1582)、外縁にあたる木曾義昌が織田方に寝返ったことで勝頼は激怒、討伐軍を送るも織田・徳川・北条の総攻撃で総崩れに。最後まで徹底抗戦した高遠城も、ことごとく討死して陥落してしまいます。とうとう勝頼は本拠地としていた新府城を捨て、真田昌幸に勧められた上田城へ向かおうとするも、小山田信茂らの進言に加えて不吉とされる浅間山の噴火などを受けて、結局は信茂の居城である岩殿城へ向かいました。
しかし、勝頼を裏切った信茂に鉄砲で撃たれかけたため、最終的に天目山(現在の山梨県甲府市)を目指します。天目山は、かつて武田家13代当主が自害した場所。ここでも織田軍に攻撃されますが、最後まで付き従っていた40人ほどの家臣は徹底抗戦しました。中でも、土屋昌恒は片手で織田軍を次々と斬る「片手千人斬り」の伝説を残すほどの奮闘をみせています。
戦いの混乱が落ち着いたところで、勝頼は嫡子である信勝、夫人、従者を集めて自害。自害に先立ち、信勝に正式に家督相続の儀を行ったとされています。こうして、400年続いた名門武田家は滅亡しました。
戦の手腕は武田信玄に引けを取らなかった!?
初陣で臆することなく敵に突撃して討ち取る、東美濃への進軍後は織田方の支城を一挙に18も攻め落とした、などの武功があることから、勝頼の戦の手腕は父・信玄に引けを取らなかったとされています。また、勝頼は父・信玄が落とせなかった高天神城も落としています。高天神城は、戦国時代「高天神を制する者は遠江を制す」とまで言われたほどの拠点で、誰もが狙っていた城でした。
信長はこうした勝頼の猛攻を非常に警戒しており、「武田勝頼は武田信玄の遺言や法をしっかり守っていて、武田信玄に勝るとも劣らぬ人物。油断すると大変なことになるから注意してほしい。越後から勝頼を牽制してくれ」と謙信に打診するほどでした。勝頼の死後、首級と対面した信長は「日本に比類なき武者だったが、運が尽きてしまったのだな」と漏らすなど、その能力を高く買っていたことがわかります。
類まれなる才能を持った武田家最後の当主
勝頼は母の出自から家臣に信頼してもらえず、兄と父の死によって武田家の当主となったものの、結局は武田家を滅ぼしてしまいます。しかし一方で、勝頼は信長をもってして「信玄に勝るとも劣らない」と言わしめるほどの能力も持ち合わせていました。逆に、こうした父から受け継いだ才能によって織田・徳川両名を強く警戒させてしまったことが、武田家の敗因だったのかもしれません。 | 勝頼は誰に鞍替えしてしまいましたか。 | 勝頼は景勝が莫大なお金と領土の割譲を提示したことで、景勝に鞍替えしてしまいました。 |
JCRRAG_012769 | 歴史 | 武田家の衰退
11月、信長の嫡男・織田信忠を総大将とした織田軍によって東美濃の岩村城が落とされると、12月には徳川軍によって遠江国の二俣城を開城させられます。さらに、武田家家臣である依田信蕃が高天神城に撤退したことで、高天神城が地理的に孤立してしまいました。
勝頼はこれを救おうと天正4年(1576)、徳川方の横須賀城を攻めるも、相手の徹底抗戦を受けて撤退。天正5年(1577)にとうとう家康が高天神城を攻めてきたことで、徳川と何度も交戦することになります。
また、勝頼は天正5年(1577)に北条氏政の妹(北条夫人)を後室に迎えます。北条氏と結びつきを強めることで、越後の上杉氏との関係修復をはかったのです。しかし、天正6年(1578)に上杉謙信が死去したのち、上杉氏は養子である上杉景勝と上杉景虎の間で家督争いが勃発。勝頼は両者の和睦調停を買って出て、氏政の実弟である景虎を支持します。しかし、景勝が莫大なお金と領土の割譲を提示したことで、勝頼は景勝に鞍替えしてしまいました。最終的に景虎は自害してしまい、上杉家の家督争いはひとまずおさまるのですが、これにより武田家は織田・徳川だけでなく北条氏も敵に回してしまうことになります。
勝頼の死と武田家の滅亡
北条氏からの信頼を失った勝頼を見て、徳川軍は天正9年(1581)、一気に高天神城を奪回します。勝頼は援軍を送る余力もなく、高天神城は全滅状態で陥落。武田家の威信は墜落し、武田一族の重鎮であった穴山梅雪をはじめとして多くの家臣が織田・徳川方に内通したり、離反したりしました。
天正10年(1582)、外縁にあたる木曾義昌が織田方に寝返ったことで勝頼は激怒、討伐軍を送るも織田・徳川・北条の総攻撃で総崩れに。最後まで徹底抗戦した高遠城も、ことごとく討死して陥落してしまいます。とうとう勝頼は本拠地としていた新府城を捨て、真田昌幸に勧められた上田城へ向かおうとするも、小山田信茂らの進言に加えて不吉とされる浅間山の噴火などを受けて、結局は信茂の居城である岩殿城へ向かいました。
しかし、勝頼を裏切った信茂に鉄砲で撃たれかけたため、最終的に天目山(現在の山梨県甲府市)を目指します。天目山は、かつて武田家13代当主が自害した場所。ここでも織田軍に攻撃されますが、最後まで付き従っていた40人ほどの家臣は徹底抗戦しました。中でも、土屋昌恒は片手で織田軍を次々と斬る「片手千人斬り」の伝説を残すほどの奮闘をみせています。
戦いの混乱が落ち着いたところで、勝頼は嫡子である信勝、夫人、従者を集めて自害。自害に先立ち、信勝に正式に家督相続の儀を行ったとされています。こうして、400年続いた名門武田家は滅亡しました。
戦の手腕は武田信玄に引けを取らなかった!?
初陣で臆することなく敵に突撃して討ち取る、東美濃への進軍後は織田方の支城を一挙に18も攻め落とした、などの武功があることから、勝頼の戦の手腕は父・信玄に引けを取らなかったとされています。また、勝頼は父・信玄が落とせなかった高天神城も落としています。高天神城は、戦国時代「高天神を制する者は遠江を制す」とまで言われたほどの拠点で、誰もが狙っていた城でした。
信長はこうした勝頼の猛攻を非常に警戒しており、「武田勝頼は武田信玄の遺言や法をしっかり守っていて、武田信玄に勝るとも劣らぬ人物。油断すると大変なことになるから注意してほしい。越後から勝頼を牽制してくれ」と謙信に打診するほどでした。勝頼の死後、首級と対面した信長は「日本に比類なき武者だったが、運が尽きてしまったのだな」と漏らすなど、その能力を高く買っていたことがわかります。
類まれなる才能を持った武田家最後の当主
勝頼は母の出自から家臣に信頼してもらえず、兄と父の死によって武田家の当主となったものの、結局は武田家を滅ぼしてしまいます。しかし一方で、勝頼は信長をもってして「信玄に勝るとも劣らない」と言わしめるほどの能力も持ち合わせていました。逆に、こうした父から受け継いだ才能によって織田・徳川両名を強く警戒させてしまったことが、武田家の敗因だったのかもしれません。 | 高天神城はどのような状態で陥落しますか。 | 高天神城は全滅状態で陥落しました。 |
JCRRAG_012770 | 歴史 | 武田家の衰退
11月、信長の嫡男・織田信忠を総大将とした織田軍によって東美濃の岩村城が落とされると、12月には徳川軍によって遠江国の二俣城を開城させられます。さらに、武田家家臣である依田信蕃が高天神城に撤退したことで、高天神城が地理的に孤立してしまいました。
勝頼はこれを救おうと天正4年(1576)、徳川方の横須賀城を攻めるも、相手の徹底抗戦を受けて撤退。天正5年(1577)にとうとう家康が高天神城を攻めてきたことで、徳川と何度も交戦することになります。
また、勝頼は天正5年(1577)に北条氏政の妹(北条夫人)を後室に迎えます。北条氏と結びつきを強めることで、越後の上杉氏との関係修復をはかったのです。しかし、天正6年(1578)に上杉謙信が死去したのち、上杉氏は養子である上杉景勝と上杉景虎の間で家督争いが勃発。勝頼は両者の和睦調停を買って出て、氏政の実弟である景虎を支持します。しかし、景勝が莫大なお金と領土の割譲を提示したことで、勝頼は景勝に鞍替えしてしまいました。最終的に景虎は自害してしまい、上杉家の家督争いはひとまずおさまるのですが、これにより武田家は織田・徳川だけでなく北条氏も敵に回してしまうことになります。
勝頼の死と武田家の滅亡
北条氏からの信頼を失った勝頼を見て、徳川軍は天正9年(1581)、一気に高天神城を奪回します。勝頼は援軍を送る余力もなく、高天神城は全滅状態で陥落。武田家の威信は墜落し、武田一族の重鎮であった穴山梅雪をはじめとして多くの家臣が織田・徳川方に内通したり、離反したりしました。
天正10年(1582)、外縁にあたる木曾義昌が織田方に寝返ったことで勝頼は激怒、討伐軍を送るも織田・徳川・北条の総攻撃で総崩れに。最後まで徹底抗戦した高遠城も、ことごとく討死して陥落してしまいます。とうとう勝頼は本拠地としていた新府城を捨て、真田昌幸に勧められた上田城へ向かおうとするも、小山田信茂らの進言に加えて不吉とされる浅間山の噴火などを受けて、結局は信茂の居城である岩殿城へ向かいました。
しかし、勝頼を裏切った信茂に鉄砲で撃たれかけたため、最終的に天目山(現在の山梨県甲府市)を目指します。天目山は、かつて武田家13代当主が自害した場所。ここでも織田軍に攻撃されますが、最後まで付き従っていた40人ほどの家臣は徹底抗戦しました。中でも、土屋昌恒は片手で織田軍を次々と斬る「片手千人斬り」の伝説を残すほどの奮闘をみせています。
戦いの混乱が落ち着いたところで、勝頼は嫡子である信勝、夫人、従者を集めて自害。自害に先立ち、信勝に正式に家督相続の儀を行ったとされています。こうして、400年続いた名門武田家は滅亡しました。
戦の手腕は武田信玄に引けを取らなかった!?
初陣で臆することなく敵に突撃して討ち取る、東美濃への進軍後は織田方の支城を一挙に18も攻め落とした、などの武功があることから、勝頼の戦の手腕は父・信玄に引けを取らなかったとされています。また、勝頼は父・信玄が落とせなかった高天神城も落としています。高天神城は、戦国時代「高天神を制する者は遠江を制す」とまで言われたほどの拠点で、誰もが狙っていた城でした。
信長はこうした勝頼の猛攻を非常に警戒しており、「武田勝頼は武田信玄の遺言や法をしっかり守っていて、武田信玄に勝るとも劣らぬ人物。油断すると大変なことになるから注意してほしい。越後から勝頼を牽制してくれ」と謙信に打診するほどでした。勝頼の死後、首級と対面した信長は「日本に比類なき武者だったが、運が尽きてしまったのだな」と漏らすなど、その能力を高く買っていたことがわかります。
類まれなる才能を持った武田家最後の当主
勝頼は母の出自から家臣に信頼してもらえず、兄と父の死によって武田家の当主となったものの、結局は武田家を滅ぼしてしまいます。しかし一方で、勝頼は信長をもってして「信玄に勝るとも劣らない」と言わしめるほどの能力も持ち合わせていました。逆に、こうした父から受け継いだ才能によって織田・徳川両名を強く警戒させてしまったことが、武田家の敗因だったのかもしれません。 | 勝頼は信茂の居城であるどこへ向かいましたか。 | 勝頼は信茂の居城である岩殿城へ向かいました。 |
JCRRAG_012771 | 歴史 | 武田家の衰退
11月、信長の嫡男・織田信忠を総大将とした織田軍によって東美濃の岩村城が落とされると、12月には徳川軍によって遠江国の二俣城を開城させられます。さらに、武田家家臣である依田信蕃が高天神城に撤退したことで、高天神城が地理的に孤立してしまいました。
勝頼はこれを救おうと天正4年(1576)、徳川方の横須賀城を攻めるも、相手の徹底抗戦を受けて撤退。天正5年(1577)にとうとう家康が高天神城を攻めてきたことで、徳川と何度も交戦することになります。
また、勝頼は天正5年(1577)に北条氏政の妹(北条夫人)を後室に迎えます。北条氏と結びつきを強めることで、越後の上杉氏との関係修復をはかったのです。しかし、天正6年(1578)に上杉謙信が死去したのち、上杉氏は養子である上杉景勝と上杉景虎の間で家督争いが勃発。勝頼は両者の和睦調停を買って出て、氏政の実弟である景虎を支持します。しかし、景勝が莫大なお金と領土の割譲を提示したことで、勝頼は景勝に鞍替えしてしまいました。最終的に景虎は自害してしまい、上杉家の家督争いはひとまずおさまるのですが、これにより武田家は織田・徳川だけでなく北条氏も敵に回してしまうことになります。
勝頼の死と武田家の滅亡
北条氏からの信頼を失った勝頼を見て、徳川軍は天正9年(1581)、一気に高天神城を奪回します。勝頼は援軍を送る余力もなく、高天神城は全滅状態で陥落。武田家の威信は墜落し、武田一族の重鎮であった穴山梅雪をはじめとして多くの家臣が織田・徳川方に内通したり、離反したりしました。
天正10年(1582)、外縁にあたる木曾義昌が織田方に寝返ったことで勝頼は激怒、討伐軍を送るも織田・徳川・北条の総攻撃で総崩れに。最後まで徹底抗戦した高遠城も、ことごとく討死して陥落してしまいます。とうとう勝頼は本拠地としていた新府城を捨て、真田昌幸に勧められた上田城へ向かおうとするも、小山田信茂らの進言に加えて不吉とされる浅間山の噴火などを受けて、結局は信茂の居城である岩殿城へ向かいました。
しかし、勝頼を裏切った信茂に鉄砲で撃たれかけたため、最終的に天目山(現在の山梨県甲府市)を目指します。天目山は、かつて武田家13代当主が自害した場所。ここでも織田軍に攻撃されますが、最後まで付き従っていた40人ほどの家臣は徹底抗戦しました。中でも、土屋昌恒は片手で織田軍を次々と斬る「片手千人斬り」の伝説を残すほどの奮闘をみせています。
戦いの混乱が落ち着いたところで、勝頼は嫡子である信勝、夫人、従者を集めて自害。自害に先立ち、信勝に正式に家督相続の儀を行ったとされています。こうして、400年続いた名門武田家は滅亡しました。
戦の手腕は武田信玄に引けを取らなかった!?
初陣で臆することなく敵に突撃して討ち取る、東美濃への進軍後は織田方の支城を一挙に18も攻め落とした、などの武功があることから、勝頼の戦の手腕は父・信玄に引けを取らなかったとされています。また、勝頼は父・信玄が落とせなかった高天神城も落としています。高天神城は、戦国時代「高天神を制する者は遠江を制す」とまで言われたほどの拠点で、誰もが狙っていた城でした。
信長はこうした勝頼の猛攻を非常に警戒しており、「武田勝頼は武田信玄の遺言や法をしっかり守っていて、武田信玄に勝るとも劣らぬ人物。油断すると大変なことになるから注意してほしい。越後から勝頼を牽制してくれ」と謙信に打診するほどでした。勝頼の死後、首級と対面した信長は「日本に比類なき武者だったが、運が尽きてしまったのだな」と漏らすなど、その能力を高く買っていたことがわかります。
類まれなる才能を持った武田家最後の当主
勝頼は母の出自から家臣に信頼してもらえず、兄と父の死によって武田家の当主となったものの、結局は武田家を滅ぼしてしまいます。しかし一方で、勝頼は信長をもってして「信玄に勝るとも劣らない」と言わしめるほどの能力も持ち合わせていました。逆に、こうした父から受け継いだ才能によって織田・徳川両名を強く警戒させてしまったことが、武田家の敗因だったのかもしれません。 | 勝頼は誰を集めて自害しますか。 | 勝頼は嫡子である信勝、夫人、従者を集めて自害した。 |
JCRRAG_012772 | 歴史 | 奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、前田利家である。
「傾奇者」から「槍の又左」へ
若き日は「傾奇者」とされた利家。生まれから武功を上げ始めた青年時代を振り返ります。
荒子前田家当主の四男として誕生
利家は、天文7年(1539)12月25日に尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)を支配していた土豪・荒子前田家の当主である前田利春(利昌とも)の四男として生まれます。幼名は犬千代といい、織田家筆頭家老の林秀貞のもとで与力となっていましたが、天文20年(1551)頃から織田信長の小姓となります。若き日の利家は派手、奇抜な身なりを好み傾奇者とされていました。この点、周囲が驚く行動を好んだ若き日の信長と通じる一面があったといえるでしょう。
赤母衣衆筆頭に抜擢
若き日の利家は血気盛んな青年で、勇猛果敢に戦い武功を上げていきます。天文21年(1552)の萱津(かやづ)の戦いでは、敵の首級一つを上げて初陣を飾りました。元服し前田又左衞門利家と名乗った利家は、稲生の戦いでは右目の下を矢で射抜かれながらも敵を討ち取ります。永禄元年(1558年)の浮野の戦いにも従軍、得意の槍で功績を上げ「槍の又左衞門」や「槍の又左」などの異名で呼ばれるようになります。これらの武功から、利家は信長直属の精鋭部隊である赤母衣衆(あかほろしゅう)筆頭に抜擢。信長の命のもと数多くの戦場を駆け巡ったのです。
浪人時代と帰参
順調に出世街道を進んでいるように見えた利家でしたが、ある事件をきっかけに信長を激怒させてしまいます。
拾阿弥を斬殺
赤母衣衆筆頭となった同じ年に利家は、まつと結ばれ長女の幸を授かりました。順調に人生を歩む利家でしたが、その翌年に「笄(こうがい)斬り」と呼ばれる事件をおこします。きっかけは信長の寵愛を受けていた同朋衆の拾阿弥が利家の笄(結髪用具)を盗んだことでした。大切にしていた笄を盗まれた利家は、拾阿弥を成敗すると憤りましたが、信長が取り成したことで大事にはなりませんでした。しかし、拾阿弥はその後も利家に非礼な態度を続けたため、信長の面前で拾阿弥を斬殺し利家は出奔してしまったのです。
出仕停止処分
拾阿弥の斬殺は信長を激怒させ、利家の成敗は避けられない状況でした。この窮地を救ったのが柴田勝家や森可成らです。彼らが助命に尽力したことにより、利家の罪は減刑され出仕停止処分となりました。
出仕停止となった身では、当然これまでのような生活はできず、利家は浪人として過ごします。浪人の身となった利家は、熱田神宮社家である松岡家の庇護を受けながら織田家への帰参の道を模索し、ある方法を思いつきました。
無断参戦
利家が考えた織田家へ帰参する方法とは、織田軍と共に戦場で戦うことでした。戦場で武功を上げれば出仕停止の処分が解かれると考えたのです。利家は桶狭間の戦いに無断参戦、今川義元率いる2万5000人の大軍を相手に奮戦し計3つの首をとるも、この戦いでの帰参は許されませんでした。
利家の帰参が許されたのは、永禄4年(1561)のこと。無断参戦した利家は豪傑として知られた斎藤家重臣の家臣で、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛を討ち取ります。ほかにも首級を上げた利家は、戦功が認められ2年ぶりに帰参が許されたのです。
帰参と家督相続
帰参が許された利家は永禄12年(1569)、信長の突然の命令により前田家の家督を相続することになります。当時、父の利春はこの世を去り前田家の家督は長兄の利久が継いでいました。信長が利家に前田家の家督を相続させた理由には、利久には実子がいないことにくわえ、病弱で長い間戦場に出ていないことも影響したといわれています。
織田信長の死
前田家の家督を継いだ利家ですが、信長の死によって大きな決断を迫られることになります。 | 奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、誰であるか。 | 奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、前田利家である。 |
JCRRAG_012773 | 歴史 | 奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、前田利家である。
「傾奇者」から「槍の又左」へ
若き日は「傾奇者」とされた利家。生まれから武功を上げ始めた青年時代を振り返ります。
荒子前田家当主の四男として誕生
利家は、天文7年(1539)12月25日に尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)を支配していた土豪・荒子前田家の当主である前田利春(利昌とも)の四男として生まれます。幼名は犬千代といい、織田家筆頭家老の林秀貞のもとで与力となっていましたが、天文20年(1551)頃から織田信長の小姓となります。若き日の利家は派手、奇抜な身なりを好み傾奇者とされていました。この点、周囲が驚く行動を好んだ若き日の信長と通じる一面があったといえるでしょう。
赤母衣衆筆頭に抜擢
若き日の利家は血気盛んな青年で、勇猛果敢に戦い武功を上げていきます。天文21年(1552)の萱津(かやづ)の戦いでは、敵の首級一つを上げて初陣を飾りました。元服し前田又左衞門利家と名乗った利家は、稲生の戦いでは右目の下を矢で射抜かれながらも敵を討ち取ります。永禄元年(1558年)の浮野の戦いにも従軍、得意の槍で功績を上げ「槍の又左衞門」や「槍の又左」などの異名で呼ばれるようになります。これらの武功から、利家は信長直属の精鋭部隊である赤母衣衆(あかほろしゅう)筆頭に抜擢。信長の命のもと数多くの戦場を駆け巡ったのです。
浪人時代と帰参
順調に出世街道を進んでいるように見えた利家でしたが、ある事件をきっかけに信長を激怒させてしまいます。
拾阿弥を斬殺
赤母衣衆筆頭となった同じ年に利家は、まつと結ばれ長女の幸を授かりました。順調に人生を歩む利家でしたが、その翌年に「笄(こうがい)斬り」と呼ばれる事件をおこします。きっかけは信長の寵愛を受けていた同朋衆の拾阿弥が利家の笄(結髪用具)を盗んだことでした。大切にしていた笄を盗まれた利家は、拾阿弥を成敗すると憤りましたが、信長が取り成したことで大事にはなりませんでした。しかし、拾阿弥はその後も利家に非礼な態度を続けたため、信長の面前で拾阿弥を斬殺し利家は出奔してしまったのです。
出仕停止処分
拾阿弥の斬殺は信長を激怒させ、利家の成敗は避けられない状況でした。この窮地を救ったのが柴田勝家や森可成らです。彼らが助命に尽力したことにより、利家の罪は減刑され出仕停止処分となりました。
出仕停止となった身では、当然これまでのような生活はできず、利家は浪人として過ごします。浪人の身となった利家は、熱田神宮社家である松岡家の庇護を受けながら織田家への帰参の道を模索し、ある方法を思いつきました。
無断参戦
利家が考えた織田家へ帰参する方法とは、織田軍と共に戦場で戦うことでした。戦場で武功を上げれば出仕停止の処分が解かれると考えたのです。利家は桶狭間の戦いに無断参戦、今川義元率いる2万5000人の大軍を相手に奮戦し計3つの首をとるも、この戦いでの帰参は許されませんでした。
利家の帰参が許されたのは、永禄4年(1561)のこと。無断参戦した利家は豪傑として知られた斎藤家重臣の家臣で、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛を討ち取ります。ほかにも首級を上げた利家は、戦功が認められ2年ぶりに帰参が許されたのです。
帰参と家督相続
帰参が許された利家は永禄12年(1569)、信長の突然の命令により前田家の家督を相続することになります。当時、父の利春はこの世を去り前田家の家督は長兄の利久が継いでいました。信長が利家に前田家の家督を相続させた理由には、利久には実子がいないことにくわえ、病弱で長い間戦場に出ていないことも影響したといわれています。
織田信長の死
前田家の家督を継いだ利家ですが、信長の死によって大きな決断を迫られることになります。 | 利家は信長直属の精鋭部隊である何に抜擢されましたか。 | 利家は信長直属の精鋭部隊である赤母衣衆筆頭に抜擢されました。 |
JCRRAG_012774 | 歴史 | 奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、前田利家である。
「傾奇者」から「槍の又左」へ
若き日は「傾奇者」とされた利家。生まれから武功を上げ始めた青年時代を振り返ります。
荒子前田家当主の四男として誕生
利家は、天文7年(1539)12月25日に尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)を支配していた土豪・荒子前田家の当主である前田利春(利昌とも)の四男として生まれます。幼名は犬千代といい、織田家筆頭家老の林秀貞のもとで与力となっていましたが、天文20年(1551)頃から織田信長の小姓となります。若き日の利家は派手、奇抜な身なりを好み傾奇者とされていました。この点、周囲が驚く行動を好んだ若き日の信長と通じる一面があったといえるでしょう。
赤母衣衆筆頭に抜擢
若き日の利家は血気盛んな青年で、勇猛果敢に戦い武功を上げていきます。天文21年(1552)の萱津(かやづ)の戦いでは、敵の首級一つを上げて初陣を飾りました。元服し前田又左衞門利家と名乗った利家は、稲生の戦いでは右目の下を矢で射抜かれながらも敵を討ち取ります。永禄元年(1558年)の浮野の戦いにも従軍、得意の槍で功績を上げ「槍の又左衞門」や「槍の又左」などの異名で呼ばれるようになります。これらの武功から、利家は信長直属の精鋭部隊である赤母衣衆(あかほろしゅう)筆頭に抜擢。信長の命のもと数多くの戦場を駆け巡ったのです。
浪人時代と帰参
順調に出世街道を進んでいるように見えた利家でしたが、ある事件をきっかけに信長を激怒させてしまいます。
拾阿弥を斬殺
赤母衣衆筆頭となった同じ年に利家は、まつと結ばれ長女の幸を授かりました。順調に人生を歩む利家でしたが、その翌年に「笄(こうがい)斬り」と呼ばれる事件をおこします。きっかけは信長の寵愛を受けていた同朋衆の拾阿弥が利家の笄(結髪用具)を盗んだことでした。大切にしていた笄を盗まれた利家は、拾阿弥を成敗すると憤りましたが、信長が取り成したことで大事にはなりませんでした。しかし、拾阿弥はその後も利家に非礼な態度を続けたため、信長の面前で拾阿弥を斬殺し利家は出奔してしまったのです。
出仕停止処分
拾阿弥の斬殺は信長を激怒させ、利家の成敗は避けられない状況でした。この窮地を救ったのが柴田勝家や森可成らです。彼らが助命に尽力したことにより、利家の罪は減刑され出仕停止処分となりました。
出仕停止となった身では、当然これまでのような生活はできず、利家は浪人として過ごします。浪人の身となった利家は、熱田神宮社家である松岡家の庇護を受けながら織田家への帰参の道を模索し、ある方法を思いつきました。
無断参戦
利家が考えた織田家へ帰参する方法とは、織田軍と共に戦場で戦うことでした。戦場で武功を上げれば出仕停止の処分が解かれると考えたのです。利家は桶狭間の戦いに無断参戦、今川義元率いる2万5000人の大軍を相手に奮戦し計3つの首をとるも、この戦いでの帰参は許されませんでした。
利家の帰参が許されたのは、永禄4年(1561)のこと。無断参戦した利家は豪傑として知られた斎藤家重臣の家臣で、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛を討ち取ります。ほかにも首級を上げた利家は、戦功が認められ2年ぶりに帰参が許されたのです。
帰参と家督相続
帰参が許された利家は永禄12年(1569)、信長の突然の命令により前田家の家督を相続することになります。当時、父の利春はこの世を去り前田家の家督は長兄の利久が継いでいました。信長が利家に前田家の家督を相続させた理由には、利久には実子がいないことにくわえ、病弱で長い間戦場に出ていないことも影響したといわれています。
織田信長の死
前田家の家督を継いだ利家ですが、信長の死によって大きな決断を迫られることになります。 | 利家は戦功が認められ何年ぶりに帰参が許されたのですか。 | 利家は戦功が認められ2年ぶりに帰参が許されたのです。 |
JCRRAG_012775 | 歴史 | 奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、前田利家である。
「傾奇者」から「槍の又左」へ
若き日は「傾奇者」とされた利家。生まれから武功を上げ始めた青年時代を振り返ります。
荒子前田家当主の四男として誕生
利家は、天文7年(1539)12月25日に尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)を支配していた土豪・荒子前田家の当主である前田利春(利昌とも)の四男として生まれます。幼名は犬千代といい、織田家筆頭家老の林秀貞のもとで与力となっていましたが、天文20年(1551)頃から織田信長の小姓となります。若き日の利家は派手、奇抜な身なりを好み傾奇者とされていました。この点、周囲が驚く行動を好んだ若き日の信長と通じる一面があったといえるでしょう。
赤母衣衆筆頭に抜擢
若き日の利家は血気盛んな青年で、勇猛果敢に戦い武功を上げていきます。天文21年(1552)の萱津(かやづ)の戦いでは、敵の首級一つを上げて初陣を飾りました。元服し前田又左衞門利家と名乗った利家は、稲生の戦いでは右目の下を矢で射抜かれながらも敵を討ち取ります。永禄元年(1558年)の浮野の戦いにも従軍、得意の槍で功績を上げ「槍の又左衞門」や「槍の又左」などの異名で呼ばれるようになります。これらの武功から、利家は信長直属の精鋭部隊である赤母衣衆(あかほろしゅう)筆頭に抜擢。信長の命のもと数多くの戦場を駆け巡ったのです。
浪人時代と帰参
順調に出世街道を進んでいるように見えた利家でしたが、ある事件をきっかけに信長を激怒させてしまいます。
拾阿弥を斬殺
赤母衣衆筆頭となった同じ年に利家は、まつと結ばれ長女の幸を授かりました。順調に人生を歩む利家でしたが、その翌年に「笄(こうがい)斬り」と呼ばれる事件をおこします。きっかけは信長の寵愛を受けていた同朋衆の拾阿弥が利家の笄(結髪用具)を盗んだことでした。大切にしていた笄を盗まれた利家は、拾阿弥を成敗すると憤りましたが、信長が取り成したことで大事にはなりませんでした。しかし、拾阿弥はその後も利家に非礼な態度を続けたため、信長の面前で拾阿弥を斬殺し利家は出奔してしまったのです。
出仕停止処分
拾阿弥の斬殺は信長を激怒させ、利家の成敗は避けられない状況でした。この窮地を救ったのが柴田勝家や森可成らです。彼らが助命に尽力したことにより、利家の罪は減刑され出仕停止処分となりました。
出仕停止となった身では、当然これまでのような生活はできず、利家は浪人として過ごします。浪人の身となった利家は、熱田神宮社家である松岡家の庇護を受けながら織田家への帰参の道を模索し、ある方法を思いつきました。
無断参戦
利家が考えた織田家へ帰参する方法とは、織田軍と共に戦場で戦うことでした。戦場で武功を上げれば出仕停止の処分が解かれると考えたのです。利家は桶狭間の戦いに無断参戦、今川義元率いる2万5000人の大軍を相手に奮戦し計3つの首をとるも、この戦いでの帰参は許されませんでした。
利家の帰参が許されたのは、永禄4年(1561)のこと。無断参戦した利家は豪傑として知られた斎藤家重臣の家臣で、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛を討ち取ります。ほかにも首級を上げた利家は、戦功が認められ2年ぶりに帰参が許されたのです。
帰参と家督相続
帰参が許された利家は永禄12年(1569)、信長の突然の命令により前田家の家督を相続することになります。当時、父の利春はこの世を去り前田家の家督は長兄の利久が継いでいました。信長が利家に前田家の家督を相続させた理由には、利久には実子がいないことにくわえ、病弱で長い間戦場に出ていないことも影響したといわれています。
織田信長の死
前田家の家督を継いだ利家ですが、信長の死によって大きな決断を迫られることになります。 | 利家は永禄12年(1569)、信長の突然の命令により何を相続することになりますか。 | 利家は永禄12年(1569)、信長の突然の命令により前田家の家督を相続することになります。 |
JCRRAG_012776 | 歴史 | 奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた人物は、前田利家である。
「傾奇者」から「槍の又左」へ
若き日は「傾奇者」とされた利家。生まれから武功を上げ始めた青年時代を振り返ります。
荒子前田家当主の四男として誕生
利家は、天文7年(1539)12月25日に尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)を支配していた土豪・荒子前田家の当主である前田利春(利昌とも)の四男として生まれます。幼名は犬千代といい、織田家筆頭家老の林秀貞のもとで与力となっていましたが、天文20年(1551)頃から織田信長の小姓となります。若き日の利家は派手、奇抜な身なりを好み傾奇者とされていました。この点、周囲が驚く行動を好んだ若き日の信長と通じる一面があったといえるでしょう。
赤母衣衆筆頭に抜擢
若き日の利家は血気盛んな青年で、勇猛果敢に戦い武功を上げていきます。天文21年(1552)の萱津(かやづ)の戦いでは、敵の首級一つを上げて初陣を飾りました。元服し前田又左衞門利家と名乗った利家は、稲生の戦いでは右目の下を矢で射抜かれながらも敵を討ち取ります。永禄元年(1558年)の浮野の戦いにも従軍、得意の槍で功績を上げ「槍の又左衞門」や「槍の又左」などの異名で呼ばれるようになります。これらの武功から、利家は信長直属の精鋭部隊である赤母衣衆(あかほろしゅう)筆頭に抜擢。信長の命のもと数多くの戦場を駆け巡ったのです。
浪人時代と帰参
順調に出世街道を進んでいるように見えた利家でしたが、ある事件をきっかけに信長を激怒させてしまいます。
拾阿弥を斬殺
赤母衣衆筆頭となった同じ年に利家は、まつと結ばれ長女の幸を授かりました。順調に人生を歩む利家でしたが、その翌年に「笄(こうがい)斬り」と呼ばれる事件をおこします。きっかけは信長の寵愛を受けていた同朋衆の拾阿弥が利家の笄(結髪用具)を盗んだことでした。大切にしていた笄を盗まれた利家は、拾阿弥を成敗すると憤りましたが、信長が取り成したことで大事にはなりませんでした。しかし、拾阿弥はその後も利家に非礼な態度を続けたため、信長の面前で拾阿弥を斬殺し利家は出奔してしまったのです。
出仕停止処分
拾阿弥の斬殺は信長を激怒させ、利家の成敗は避けられない状況でした。この窮地を救ったのが柴田勝家や森可成らです。彼らが助命に尽力したことにより、利家の罪は減刑され出仕停止処分となりました。
出仕停止となった身では、当然これまでのような生活はできず、利家は浪人として過ごします。浪人の身となった利家は、熱田神宮社家である松岡家の庇護を受けながら織田家への帰参の道を模索し、ある方法を思いつきました。
無断参戦
利家が考えた織田家へ帰参する方法とは、織田軍と共に戦場で戦うことでした。戦場で武功を上げれば出仕停止の処分が解かれると考えたのです。利家は桶狭間の戦いに無断参戦、今川義元率いる2万5000人の大軍を相手に奮戦し計3つの首をとるも、この戦いでの帰参は許されませんでした。
利家の帰参が許されたのは、永禄4年(1561)のこと。無断参戦した利家は豪傑として知られた斎藤家重臣の家臣で、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛を討ち取ります。ほかにも首級を上げた利家は、戦功が認められ2年ぶりに帰参が許されたのです。
帰参と家督相続
帰参が許された利家は永禄12年(1569)、信長の突然の命令により前田家の家督を相続することになります。当時、父の利春はこの世を去り前田家の家督は長兄の利久が継いでいました。信長が利家に前田家の家督を相続させた理由には、利久には実子がいないことにくわえ、病弱で長い間戦場に出ていないことも影響したといわれています。
織田信長の死
前田家の家督を継いだ利家ですが、信長の死によって大きな決断を迫られることになります。 | 信長が利家に前田家の家督を相続させた理由にはどのようなことも影響したといわれていますか。 | 信長が利家に前田家の家督を相続させた理由には、利久には実子がいないことにくわえ、病弱で長い間戦場に出ていないことも影響したといわれています。 |
JCRRAG_012777 | 歴史 | 清洲会議
明智光秀による謀反「本能寺の変」で信長が討たれたことにより、織田家は継嗣問題に直面しました。武将たちのさまざまな思惑が渦巻くなか、信長の後継者を決める清洲会議がおこなわれます。
会議では、信長の次男の織田信雄と三男である織田信孝が後継者の地位を主張。しかし、山崎の戦いで明智軍を破り、信長の仇を討った秀吉が会議を優勢に進め、信長の嫡孫である三法師を後継者としました。後継者決定の過程で秀吉と勝家は対立し、利家はその後の人生を左右する大きな決断を迫られます。
秀吉と勝家のあいだで
秀吉と勝家の間で起こった対立は利家の心を苦しめました。利家は秀吉が足軽時代だった頃から夫婦ぐるみで親交を深め、子どものなかった秀吉夫婦に四女の豪姫を授けるほどでした。一方、勝家との信頼関係もとても深く、「笄斬り」の件で助命に尽力してくれたことに恩義を感じていました。どちらとも戦いたくはないと葛藤する利家でしたが、最終的には意外な行動をとります。勝家と秀吉が対峙した「賤ヶ岳の戦い」で柴田軍として布陣した利家は、突然戦線を離脱。秀吉が有利となる行動をとったのです。
まつに救われた利家
賤ヶ岳の戦いにおける利家の戦線離脱は、秀吉の勝利を決定づけました。しかし、利家は勝家側についた理由を秀吉に問われ、またも苦境に立たされます。このピンチを救ったのが、利家の正妻・まつでした。まつは秀吉と直接会い、利家の心情や敵対する意思がないことを伝えました。その結果、利家はこの危機を乗り越えることができ、秀吉の家臣になることができたのです。
利家の晩年
秀吉の家臣となり奮戦した利家は、天正13年(1585)に能登・加賀・越中を領土に持つ大名となりました。利家の晩年は秀吉の息子である秀頼の守役を任じられるなど、より一層の信頼を秀吉から寄せられています。利家は慶長3年(1598)嫡子である利長に家督を譲りますが隠居はせずに、五大老の一人に選ばれました。
秀吉の死後も、利家は大きな影響力を持ちます。ルール違反ともいえる強引な婚姻政策を進めていた徳川家康に対して、病に侵された身でありながらも利家は激しく反発。家康は利家との対立を望まず和解しており、のちに天下人となる家康に対しても大きな存在であったことがうかがえます。
家康との騒動の直後、利家の病状は悪化。前田利家は、慶長4年(1599)閏3月3日に、大阪の自邸で亡くなりました。
利家の人物像とは?
利家の人物像を振り返ってみましょう。
晩年まで傾奇者を好んだ
青年時代は傾奇者で通っていた利家は、晩年においても傾いた若者を好んだといわれています。この時代の有名な傾奇者といえば、義理の甥にあたる前田利益(慶次郎)です。前田慶次の名で知られる傾奇者と利家の仲は良くなかったといわれていますが、同時代の史料や利家の回顧録には不仲に関する記述がありません。利家は慶次の父にあたる利久から前田家の家督を奪い取った人物です。それが負い目であった可能性は否定できませんが、傾奇者としての生き方を貫いた慶次に好感を持っていたとも考えられます。
前田家の決済はすべて自分で
当時としては扱えるものが少なかった算盤を愛用していた利家は、前田家の決済をすべて自分で行っていました。これは、浪人時代の苦しい生活で金銭の大切さを学んだからといわれています。度が過ぎる節約や倹約に励む利家の姿をみて、まつはケチとまで口にしたほどです。しかし、利家は北条家が滅んだあと困窮する大名にお金を貸しており、遺言においても「こちらから借金の催促はするな、返せない者の借金はなかったことにするように」と利長に残しています。利家がただのケチではなく、義理人情がある人物だということがうかがえます。
戦国時代を駆け抜けた義に熱い人物
短気で喧嘩っ早い傾奇者の青年は、戦国時代を駆け抜け義に熱い人物へと成長しました。義に熱く恩を忘れない人物だからこそ、葛藤し苦しむこともありましたが、その経験が秀吉をはじめ多くの人物の人望を勝ち得たといえるでしょう。 | 秀吉の家臣となり奮戦した利家は、天正13年(1585)に何となりましたか。 | 秀吉の家臣となり奮戦した利家は、天正13年(1585)に能登・加賀・越中を領土に持つ大名となりました。 |
JCRRAG_012778 | 歴史 | 清洲会議
明智光秀による謀反「本能寺の変」で信長が討たれたことにより、織田家は継嗣問題に直面しました。武将たちのさまざまな思惑が渦巻くなか、信長の後継者を決める清洲会議がおこなわれます。
会議では、信長の次男の織田信雄と三男である織田信孝が後継者の地位を主張。しかし、山崎の戦いで明智軍を破り、信長の仇を討った秀吉が会議を優勢に進め、信長の嫡孫である三法師を後継者としました。後継者決定の過程で秀吉と勝家は対立し、利家はその後の人生を左右する大きな決断を迫られます。
秀吉と勝家のあいだで
秀吉と勝家の間で起こった対立は利家の心を苦しめました。利家は秀吉が足軽時代だった頃から夫婦ぐるみで親交を深め、子どものなかった秀吉夫婦に四女の豪姫を授けるほどでした。一方、勝家との信頼関係もとても深く、「笄斬り」の件で助命に尽力してくれたことに恩義を感じていました。どちらとも戦いたくはないと葛藤する利家でしたが、最終的には意外な行動をとります。勝家と秀吉が対峙した「賤ヶ岳の戦い」で柴田軍として布陣した利家は、突然戦線を離脱。秀吉が有利となる行動をとったのです。
まつに救われた利家
賤ヶ岳の戦いにおける利家の戦線離脱は、秀吉の勝利を決定づけました。しかし、利家は勝家側についた理由を秀吉に問われ、またも苦境に立たされます。このピンチを救ったのが、利家の正妻・まつでした。まつは秀吉と直接会い、利家の心情や敵対する意思がないことを伝えました。その結果、利家はこの危機を乗り越えることができ、秀吉の家臣になることができたのです。
利家の晩年
秀吉の家臣となり奮戦した利家は、天正13年(1585)に能登・加賀・越中を領土に持つ大名となりました。利家の晩年は秀吉の息子である秀頼の守役を任じられるなど、より一層の信頼を秀吉から寄せられています。利家は慶長3年(1598)嫡子である利長に家督を譲りますが隠居はせずに、五大老の一人に選ばれました。
秀吉の死後も、利家は大きな影響力を持ちます。ルール違反ともいえる強引な婚姻政策を進めていた徳川家康に対して、病に侵された身でありながらも利家は激しく反発。家康は利家との対立を望まず和解しており、のちに天下人となる家康に対しても大きな存在であったことがうかがえます。
家康との騒動の直後、利家の病状は悪化。前田利家は、慶長4年(1599)閏3月3日に、大阪の自邸で亡くなりました。
利家の人物像とは?
利家の人物像を振り返ってみましょう。
晩年まで傾奇者を好んだ
青年時代は傾奇者で通っていた利家は、晩年においても傾いた若者を好んだといわれています。この時代の有名な傾奇者といえば、義理の甥にあたる前田利益(慶次郎)です。前田慶次の名で知られる傾奇者と利家の仲は良くなかったといわれていますが、同時代の史料や利家の回顧録には不仲に関する記述がありません。利家は慶次の父にあたる利久から前田家の家督を奪い取った人物です。それが負い目であった可能性は否定できませんが、傾奇者としての生き方を貫いた慶次に好感を持っていたとも考えられます。
前田家の決済はすべて自分で
当時としては扱えるものが少なかった算盤を愛用していた利家は、前田家の決済をすべて自分で行っていました。これは、浪人時代の苦しい生活で金銭の大切さを学んだからといわれています。度が過ぎる節約や倹約に励む利家の姿をみて、まつはケチとまで口にしたほどです。しかし、利家は北条家が滅んだあと困窮する大名にお金を貸しており、遺言においても「こちらから借金の催促はするな、返せない者の借金はなかったことにするように」と利長に残しています。利家がただのケチではなく、義理人情がある人物だということがうかがえます。
戦国時代を駆け抜けた義に熱い人物
短気で喧嘩っ早い傾奇者の青年は、戦国時代を駆け抜け義に熱い人物へと成長しました。義に熱く恩を忘れない人物だからこそ、葛藤し苦しむこともありましたが、その経験が秀吉をはじめ多くの人物の人望を勝ち得たといえるでしょう。 | 利家は慶長3年(1598)嫡子である利長に家督を譲りますが隠居はせずに、何の一人に選ばれましたか。 | 利家は慶長3年(1598)嫡子である利長に家督を譲りますが隠居はせずに、五大老の一人に選ばれました。 |
JCRRAG_012779 | 歴史 | 清洲会議
明智光秀による謀反「本能寺の変」で信長が討たれたことにより、織田家は継嗣問題に直面しました。武将たちのさまざまな思惑が渦巻くなか、信長の後継者を決める清洲会議がおこなわれます。
会議では、信長の次男の織田信雄と三男である織田信孝が後継者の地位を主張。しかし、山崎の戦いで明智軍を破り、信長の仇を討った秀吉が会議を優勢に進め、信長の嫡孫である三法師を後継者としました。後継者決定の過程で秀吉と勝家は対立し、利家はその後の人生を左右する大きな決断を迫られます。
秀吉と勝家のあいだで
秀吉と勝家の間で起こった対立は利家の心を苦しめました。利家は秀吉が足軽時代だった頃から夫婦ぐるみで親交を深め、子どものなかった秀吉夫婦に四女の豪姫を授けるほどでした。一方、勝家との信頼関係もとても深く、「笄斬り」の件で助命に尽力してくれたことに恩義を感じていました。どちらとも戦いたくはないと葛藤する利家でしたが、最終的には意外な行動をとります。勝家と秀吉が対峙した「賤ヶ岳の戦い」で柴田軍として布陣した利家は、突然戦線を離脱。秀吉が有利となる行動をとったのです。
まつに救われた利家
賤ヶ岳の戦いにおける利家の戦線離脱は、秀吉の勝利を決定づけました。しかし、利家は勝家側についた理由を秀吉に問われ、またも苦境に立たされます。このピンチを救ったのが、利家の正妻・まつでした。まつは秀吉と直接会い、利家の心情や敵対する意思がないことを伝えました。その結果、利家はこの危機を乗り越えることができ、秀吉の家臣になることができたのです。
利家の晩年
秀吉の家臣となり奮戦した利家は、天正13年(1585)に能登・加賀・越中を領土に持つ大名となりました。利家の晩年は秀吉の息子である秀頼の守役を任じられるなど、より一層の信頼を秀吉から寄せられています。利家は慶長3年(1598)嫡子である利長に家督を譲りますが隠居はせずに、五大老の一人に選ばれました。
秀吉の死後も、利家は大きな影響力を持ちます。ルール違反ともいえる強引な婚姻政策を進めていた徳川家康に対して、病に侵された身でありながらも利家は激しく反発。家康は利家との対立を望まず和解しており、のちに天下人となる家康に対しても大きな存在であったことがうかがえます。
家康との騒動の直後、利家の病状は悪化。前田利家は、慶長4年(1599)閏3月3日に、大阪の自邸で亡くなりました。
利家の人物像とは?
利家の人物像を振り返ってみましょう。
晩年まで傾奇者を好んだ
青年時代は傾奇者で通っていた利家は、晩年においても傾いた若者を好んだといわれています。この時代の有名な傾奇者といえば、義理の甥にあたる前田利益(慶次郎)です。前田慶次の名で知られる傾奇者と利家の仲は良くなかったといわれていますが、同時代の史料や利家の回顧録には不仲に関する記述がありません。利家は慶次の父にあたる利久から前田家の家督を奪い取った人物です。それが負い目であった可能性は否定できませんが、傾奇者としての生き方を貫いた慶次に好感を持っていたとも考えられます。
前田家の決済はすべて自分で
当時としては扱えるものが少なかった算盤を愛用していた利家は、前田家の決済をすべて自分で行っていました。これは、浪人時代の苦しい生活で金銭の大切さを学んだからといわれています。度が過ぎる節約や倹約に励む利家の姿をみて、まつはケチとまで口にしたほどです。しかし、利家は北条家が滅んだあと困窮する大名にお金を貸しており、遺言においても「こちらから借金の催促はするな、返せない者の借金はなかったことにするように」と利長に残しています。利家がただのケチではなく、義理人情がある人物だということがうかがえます。
戦国時代を駆け抜けた義に熱い人物
短気で喧嘩っ早い傾奇者の青年は、戦国時代を駆け抜け義に熱い人物へと成長しました。義に熱く恩を忘れない人物だからこそ、葛藤し苦しむこともありましたが、その経験が秀吉をはじめ多くの人物の人望を勝ち得たといえるでしょう。 | 利家は慶長4年(1599)閏3月3日に、どこで亡くなりましたか。 | 利家は慶長4年(1599)閏3月3日に、大阪の自邸で亡くなりました。 |
JCRRAG_012780 | 歴史 | 清洲会議
明智光秀による謀反「本能寺の変」で信長が討たれたことにより、織田家は継嗣問題に直面しました。武将たちのさまざまな思惑が渦巻くなか、信長の後継者を決める清洲会議がおこなわれます。
会議では、信長の次男の織田信雄と三男である織田信孝が後継者の地位を主張。しかし、山崎の戦いで明智軍を破り、信長の仇を討った秀吉が会議を優勢に進め、信長の嫡孫である三法師を後継者としました。後継者決定の過程で秀吉と勝家は対立し、利家はその後の人生を左右する大きな決断を迫られます。
秀吉と勝家のあいだで
秀吉と勝家の間で起こった対立は利家の心を苦しめました。利家は秀吉が足軽時代だった頃から夫婦ぐるみで親交を深め、子どものなかった秀吉夫婦に四女の豪姫を授けるほどでした。一方、勝家との信頼関係もとても深く、「笄斬り」の件で助命に尽力してくれたことに恩義を感じていました。どちらとも戦いたくはないと葛藤する利家でしたが、最終的には意外な行動をとります。勝家と秀吉が対峙した「賤ヶ岳の戦い」で柴田軍として布陣した利家は、突然戦線を離脱。秀吉が有利となる行動をとったのです。
まつに救われた利家
賤ヶ岳の戦いにおける利家の戦線離脱は、秀吉の勝利を決定づけました。しかし、利家は勝家側についた理由を秀吉に問われ、またも苦境に立たされます。このピンチを救ったのが、利家の正妻・まつでした。まつは秀吉と直接会い、利家の心情や敵対する意思がないことを伝えました。その結果、利家はこの危機を乗り越えることができ、秀吉の家臣になることができたのです。
利家の晩年
秀吉の家臣となり奮戦した利家は、天正13年(1585)に能登・加賀・越中を領土に持つ大名となりました。利家の晩年は秀吉の息子である秀頼の守役を任じられるなど、より一層の信頼を秀吉から寄せられています。利家は慶長3年(1598)嫡子である利長に家督を譲りますが隠居はせずに、五大老の一人に選ばれました。
秀吉の死後も、利家は大きな影響力を持ちます。ルール違反ともいえる強引な婚姻政策を進めていた徳川家康に対して、病に侵された身でありながらも利家は激しく反発。家康は利家との対立を望まず和解しており、のちに天下人となる家康に対しても大きな存在であったことがうかがえます。
家康との騒動の直後、利家の病状は悪化。前田利家は、慶長4年(1599)閏3月3日に、大阪の自邸で亡くなりました。
利家の人物像とは?
利家の人物像を振り返ってみましょう。
晩年まで傾奇者を好んだ
青年時代は傾奇者で通っていた利家は、晩年においても傾いた若者を好んだといわれています。この時代の有名な傾奇者といえば、義理の甥にあたる前田利益(慶次郎)です。前田慶次の名で知られる傾奇者と利家の仲は良くなかったといわれていますが、同時代の史料や利家の回顧録には不仲に関する記述がありません。利家は慶次の父にあたる利久から前田家の家督を奪い取った人物です。それが負い目であった可能性は否定できませんが、傾奇者としての生き方を貫いた慶次に好感を持っていたとも考えられます。
前田家の決済はすべて自分で
当時としては扱えるものが少なかった算盤を愛用していた利家は、前田家の決済をすべて自分で行っていました。これは、浪人時代の苦しい生活で金銭の大切さを学んだからといわれています。度が過ぎる節約や倹約に励む利家の姿をみて、まつはケチとまで口にしたほどです。しかし、利家は北条家が滅んだあと困窮する大名にお金を貸しており、遺言においても「こちらから借金の催促はするな、返せない者の借金はなかったことにするように」と利長に残しています。利家がただのケチではなく、義理人情がある人物だということがうかがえます。
戦国時代を駆け抜けた義に熱い人物
短気で喧嘩っ早い傾奇者の青年は、戦国時代を駆け抜け義に熱い人物へと成長しました。義に熱く恩を忘れない人物だからこそ、葛藤し苦しむこともありましたが、その経験が秀吉をはじめ多くの人物の人望を勝ち得たといえるでしょう。 | まつは秀吉と直接会い、何を伝えましたか。 | まつは秀吉と直接会い、利家の心情や敵対する意思がないことを伝えました。 |
JCRRAG_012781 | 歴史 | 清洲会議
明智光秀による謀反「本能寺の変」で信長が討たれたことにより、織田家は継嗣問題に直面しました。武将たちのさまざまな思惑が渦巻くなか、信長の後継者を決める清洲会議がおこなわれます。
会議では、信長の次男の織田信雄と三男である織田信孝が後継者の地位を主張。しかし、山崎の戦いで明智軍を破り、信長の仇を討った秀吉が会議を優勢に進め、信長の嫡孫である三法師を後継者としました。後継者決定の過程で秀吉と勝家は対立し、利家はその後の人生を左右する大きな決断を迫られます。
秀吉と勝家のあいだで
秀吉と勝家の間で起こった対立は利家の心を苦しめました。利家は秀吉が足軽時代だった頃から夫婦ぐるみで親交を深め、子どものなかった秀吉夫婦に四女の豪姫を授けるほどでした。一方、勝家との信頼関係もとても深く、「笄斬り」の件で助命に尽力してくれたことに恩義を感じていました。どちらとも戦いたくはないと葛藤する利家でしたが、最終的には意外な行動をとります。勝家と秀吉が対峙した「賤ヶ岳の戦い」で柴田軍として布陣した利家は、突然戦線を離脱。秀吉が有利となる行動をとったのです。
まつに救われた利家
賤ヶ岳の戦いにおける利家の戦線離脱は、秀吉の勝利を決定づけました。しかし、利家は勝家側についた理由を秀吉に問われ、またも苦境に立たされます。このピンチを救ったのが、利家の正妻・まつでした。まつは秀吉と直接会い、利家の心情や敵対する意思がないことを伝えました。その結果、利家はこの危機を乗り越えることができ、秀吉の家臣になることができたのです。
利家の晩年
秀吉の家臣となり奮戦した利家は、天正13年(1585)に能登・加賀・越中を領土に持つ大名となりました。利家の晩年は秀吉の息子である秀頼の守役を任じられるなど、より一層の信頼を秀吉から寄せられています。利家は慶長3年(1598)嫡子である利長に家督を譲りますが隠居はせずに、五大老の一人に選ばれました。
秀吉の死後も、利家は大きな影響力を持ちます。ルール違反ともいえる強引な婚姻政策を進めていた徳川家康に対して、病に侵された身でありながらも利家は激しく反発。家康は利家との対立を望まず和解しており、のちに天下人となる家康に対しても大きな存在であったことがうかがえます。
家康との騒動の直後、利家の病状は悪化。前田利家は、慶長4年(1599)閏3月3日に、大阪の自邸で亡くなりました。
利家の人物像とは?
利家の人物像を振り返ってみましょう。
晩年まで傾奇者を好んだ
青年時代は傾奇者で通っていた利家は、晩年においても傾いた若者を好んだといわれています。この時代の有名な傾奇者といえば、義理の甥にあたる前田利益(慶次郎)です。前田慶次の名で知られる傾奇者と利家の仲は良くなかったといわれていますが、同時代の史料や利家の回顧録には不仲に関する記述がありません。利家は慶次の父にあたる利久から前田家の家督を奪い取った人物です。それが負い目であった可能性は否定できませんが、傾奇者としての生き方を貫いた慶次に好感を持っていたとも考えられます。
前田家の決済はすべて自分で
当時としては扱えるものが少なかった算盤を愛用していた利家は、前田家の決済をすべて自分で行っていました。これは、浪人時代の苦しい生活で金銭の大切さを学んだからといわれています。度が過ぎる節約や倹約に励む利家の姿をみて、まつはケチとまで口にしたほどです。しかし、利家は北条家が滅んだあと困窮する大名にお金を貸しており、遺言においても「こちらから借金の催促はするな、返せない者の借金はなかったことにするように」と利長に残しています。利家がただのケチではなく、義理人情がある人物だということがうかがえます。
戦国時代を駆け抜けた義に熱い人物
短気で喧嘩っ早い傾奇者の青年は、戦国時代を駆け抜け義に熱い人物へと成長しました。義に熱く恩を忘れない人物だからこそ、葛藤し苦しむこともありましたが、その経験が秀吉をはじめ多くの人物の人望を勝ち得たといえるでしょう。 | 算盤を愛用していた利家は、何をすべて自分で行っていましたか。 | 算盤を愛用していた利家は、前田家の決済をすべて自分で行っていました。 |
JCRRAG_012782 | 歴史 | 関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、北条氏政である。
北条氏康の後を継いだ氏政
氏政はどのように家督を継承したのでしょうか?うまれから武田領国への侵攻までについて振り返ります。
後北条氏第4代当主に就任
氏政は、天文7年(1538)第3代当主・北条氏康の次男としてうまれ、兄・氏親が早くに亡くなったため世子となりました。天文23年(1554)氏康、武田信玄、今川義元との間で甲相駿三国同盟が成立すると、氏政は信玄の娘・黄梅院を正室に迎えます。政略結婚でしたが、夫婦仲は良かったようです。永禄2年(1559)に父が隠居すると、家督を継承して第4代当主に就任。しかし、氏康の存命中は氏康・氏政の両頭体制が続きました。
上杉謙信との戦い
永禄4年(1561)上杉謙信との小田原城の戦いで後北条氏は窮地に陥ります。しかし、信玄の支援もあり、氏政は籠城戦で上杉軍を撃退。謙信が第4次川中島の戦いで被害を受けると、氏政は信玄に呼応して北関東方面に侵攻し、上杉方に奪われた領土を奪還しました。永禄7年(1564)の第2次国府台合戦では、苦戦しつつも北条綱成とともに安房の里見氏に勝利します。これにより、謙信を盟主としていた諸将が氏政に帰順し、後北条氏は上野国にも勢力を拡大しました。
甲相同盟と越相同盟
永禄3年(1560)桶狭間の戦いで駿河の義元が討死し、甲駿関係が手切れとなったことから、信玄は駿河侵攻を開始しました。これにより、義元の嫡男であり氏政の義弟・今川氏真が没落。後北条氏は駿相同盟を優先し、甲相同盟が破綻します。氏政は武田方から離反した徳川家康と和議を結び、信玄に対抗するため、弟(上杉景虎)を宿敵・謙信に差し出し越相同盟を締結しました。しかし、元亀2年(1571)に父・氏康が病没すると、越相同盟を破棄して甲相同盟を復活させ、信玄の西上作戦に参加。謙信との戦いも再び始まり、氏政は関東の上杉派勢力をほぼ一掃して勢力を拡大しました。
武田領国を挟撃する
天正6年(1578)に謙信が死去すると、謙信の甥・上杉景勝と、氏政の弟で謙信の養子・景虎の間で、後継者をめぐる御館の乱が勃発します。氏政は武田勝頼に援軍を依頼し、勝頼の調停により景虎・景勝は和睦しました。ところが勝頼の撤兵中に和睦が破綻し、景勝が乱を制する形となり景虎は自害。これにより氏政は甲相同盟を破棄し、家康と同盟を結んで武田領国を挟撃します。その後は織田信長に臣従し、家督を氏直に譲って隠居しましたが、政治・軍事の実権は氏政が掌握し続けました。
勢力拡大し、最大版図を築く
その後も氏政は勢力を拡大し、後北条氏の最大版図を築きます。しかし、その裏には天下人との摩擦もありました。
織田家重臣・滝川一益と激突
天正10年(1582)織田氏が甲州征伐に乗り出すと、氏政はこれに呼応し武田領に侵攻。同年、勝頼が天目山の戦いで自刃し、甲斐武田氏が滅亡します。このころ信長は、滝川一益を関東管領として関東統治を目論んでいました。後北条氏は織田氏との婚姻を条件に関東一括統治を願い出ましたが、信長は好意的ではなかったようです。そんな中、明智光秀の謀反により信長が死去します。これにより武田氏旧領の甲斐・信濃をめぐる天正壬午の乱が勃発。後北条氏は一益と対立するも信濃東部から中部を占領下に置き、家康は真田昌幸を調略して北条軍と対立します。この騒動により織田氏は多くの領地を失い、一益も失脚しました。
徳川家康との和睦
その後、後北条氏と家康は対陣しましたが、氏政の子・氏直と家康の娘・督姫の結婚により和睦します。甲斐・信濃は徳川領、上野は北条領とすることで合意しましたが、家康についていた昌幸はこれを不服としました。自分で入手した上野・沼田城が後北条氏に明け渡されることを拒んだ昌幸は、対上杉という名目で新築した上田城に本拠を移すと、そのまま上杉氏に寝返り、徳川・北条と抗戦します。その後、徳川が上田に攻め入る第一次上田合戦が勃発。北条も沼田に攻め入りますが、戦いは真田陣営の勝利となりました。一方、上方では織田家の事実上の後継者となり、柴田勝家と対立していた羽柴秀吉が景勝と同盟を締結。景勝は上野を巡って氏政と争っていたことから、秀吉はこの時点で反北条の姿勢だったと考えられています。 | 関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、誰であるか。 | 関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、北条氏政である。 |
JCRRAG_012783 | 歴史 | 関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、北条氏政である。
北条氏康の後を継いだ氏政
氏政はどのように家督を継承したのでしょうか?うまれから武田領国への侵攻までについて振り返ります。
後北条氏第4代当主に就任
氏政は、天文7年(1538)第3代当主・北条氏康の次男としてうまれ、兄・氏親が早くに亡くなったため世子となりました。天文23年(1554)氏康、武田信玄、今川義元との間で甲相駿三国同盟が成立すると、氏政は信玄の娘・黄梅院を正室に迎えます。政略結婚でしたが、夫婦仲は良かったようです。永禄2年(1559)に父が隠居すると、家督を継承して第4代当主に就任。しかし、氏康の存命中は氏康・氏政の両頭体制が続きました。
上杉謙信との戦い
永禄4年(1561)上杉謙信との小田原城の戦いで後北条氏は窮地に陥ります。しかし、信玄の支援もあり、氏政は籠城戦で上杉軍を撃退。謙信が第4次川中島の戦いで被害を受けると、氏政は信玄に呼応して北関東方面に侵攻し、上杉方に奪われた領土を奪還しました。永禄7年(1564)の第2次国府台合戦では、苦戦しつつも北条綱成とともに安房の里見氏に勝利します。これにより、謙信を盟主としていた諸将が氏政に帰順し、後北条氏は上野国にも勢力を拡大しました。
甲相同盟と越相同盟
永禄3年(1560)桶狭間の戦いで駿河の義元が討死し、甲駿関係が手切れとなったことから、信玄は駿河侵攻を開始しました。これにより、義元の嫡男であり氏政の義弟・今川氏真が没落。後北条氏は駿相同盟を優先し、甲相同盟が破綻します。氏政は武田方から離反した徳川家康と和議を結び、信玄に対抗するため、弟(上杉景虎)を宿敵・謙信に差し出し越相同盟を締結しました。しかし、元亀2年(1571)に父・氏康が病没すると、越相同盟を破棄して甲相同盟を復活させ、信玄の西上作戦に参加。謙信との戦いも再び始まり、氏政は関東の上杉派勢力をほぼ一掃して勢力を拡大しました。
武田領国を挟撃する
天正6年(1578)に謙信が死去すると、謙信の甥・上杉景勝と、氏政の弟で謙信の養子・景虎の間で、後継者をめぐる御館の乱が勃発します。氏政は武田勝頼に援軍を依頼し、勝頼の調停により景虎・景勝は和睦しました。ところが勝頼の撤兵中に和睦が破綻し、景勝が乱を制する形となり景虎は自害。これにより氏政は甲相同盟を破棄し、家康と同盟を結んで武田領国を挟撃します。その後は織田信長に臣従し、家督を氏直に譲って隠居しましたが、政治・軍事の実権は氏政が掌握し続けました。
勢力拡大し、最大版図を築く
その後も氏政は勢力を拡大し、後北条氏の最大版図を築きます。しかし、その裏には天下人との摩擦もありました。
織田家重臣・滝川一益と激突
天正10年(1582)織田氏が甲州征伐に乗り出すと、氏政はこれに呼応し武田領に侵攻。同年、勝頼が天目山の戦いで自刃し、甲斐武田氏が滅亡します。このころ信長は、滝川一益を関東管領として関東統治を目論んでいました。後北条氏は織田氏との婚姻を条件に関東一括統治を願い出ましたが、信長は好意的ではなかったようです。そんな中、明智光秀の謀反により信長が死去します。これにより武田氏旧領の甲斐・信濃をめぐる天正壬午の乱が勃発。後北条氏は一益と対立するも信濃東部から中部を占領下に置き、家康は真田昌幸を調略して北条軍と対立します。この騒動により織田氏は多くの領地を失い、一益も失脚しました。
徳川家康との和睦
その後、後北条氏と家康は対陣しましたが、氏政の子・氏直と家康の娘・督姫の結婚により和睦します。甲斐・信濃は徳川領、上野は北条領とすることで合意しましたが、家康についていた昌幸はこれを不服としました。自分で入手した上野・沼田城が後北条氏に明け渡されることを拒んだ昌幸は、対上杉という名目で新築した上田城に本拠を移すと、そのまま上杉氏に寝返り、徳川・北条と抗戦します。その後、徳川が上田に攻め入る第一次上田合戦が勃発。北条も沼田に攻め入りますが、戦いは真田陣営の勝利となりました。一方、上方では織田家の事実上の後継者となり、柴田勝家と対立していた羽柴秀吉が景勝と同盟を締結。景勝は上野を巡って氏政と争っていたことから、秀吉はこの時点で反北条の姿勢だったと考えられています。 | 氏政は誰を正室に迎えますか。 | 氏政は信玄の娘・黄梅院を正室に迎えます。 |
JCRRAG_012784 | 歴史 | 関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、北条氏政である。
北条氏康の後を継いだ氏政
氏政はどのように家督を継承したのでしょうか?うまれから武田領国への侵攻までについて振り返ります。
後北条氏第4代当主に就任
氏政は、天文7年(1538)第3代当主・北条氏康の次男としてうまれ、兄・氏親が早くに亡くなったため世子となりました。天文23年(1554)氏康、武田信玄、今川義元との間で甲相駿三国同盟が成立すると、氏政は信玄の娘・黄梅院を正室に迎えます。政略結婚でしたが、夫婦仲は良かったようです。永禄2年(1559)に父が隠居すると、家督を継承して第4代当主に就任。しかし、氏康の存命中は氏康・氏政の両頭体制が続きました。
上杉謙信との戦い
永禄4年(1561)上杉謙信との小田原城の戦いで後北条氏は窮地に陥ります。しかし、信玄の支援もあり、氏政は籠城戦で上杉軍を撃退。謙信が第4次川中島の戦いで被害を受けると、氏政は信玄に呼応して北関東方面に侵攻し、上杉方に奪われた領土を奪還しました。永禄7年(1564)の第2次国府台合戦では、苦戦しつつも北条綱成とともに安房の里見氏に勝利します。これにより、謙信を盟主としていた諸将が氏政に帰順し、後北条氏は上野国にも勢力を拡大しました。
甲相同盟と越相同盟
永禄3年(1560)桶狭間の戦いで駿河の義元が討死し、甲駿関係が手切れとなったことから、信玄は駿河侵攻を開始しました。これにより、義元の嫡男であり氏政の義弟・今川氏真が没落。後北条氏は駿相同盟を優先し、甲相同盟が破綻します。氏政は武田方から離反した徳川家康と和議を結び、信玄に対抗するため、弟(上杉景虎)を宿敵・謙信に差し出し越相同盟を締結しました。しかし、元亀2年(1571)に父・氏康が病没すると、越相同盟を破棄して甲相同盟を復活させ、信玄の西上作戦に参加。謙信との戦いも再び始まり、氏政は関東の上杉派勢力をほぼ一掃して勢力を拡大しました。
武田領国を挟撃する
天正6年(1578)に謙信が死去すると、謙信の甥・上杉景勝と、氏政の弟で謙信の養子・景虎の間で、後継者をめぐる御館の乱が勃発します。氏政は武田勝頼に援軍を依頼し、勝頼の調停により景虎・景勝は和睦しました。ところが勝頼の撤兵中に和睦が破綻し、景勝が乱を制する形となり景虎は自害。これにより氏政は甲相同盟を破棄し、家康と同盟を結んで武田領国を挟撃します。その後は織田信長に臣従し、家督を氏直に譲って隠居しましたが、政治・軍事の実権は氏政が掌握し続けました。
勢力拡大し、最大版図を築く
その後も氏政は勢力を拡大し、後北条氏の最大版図を築きます。しかし、その裏には天下人との摩擦もありました。
織田家重臣・滝川一益と激突
天正10年(1582)織田氏が甲州征伐に乗り出すと、氏政はこれに呼応し武田領に侵攻。同年、勝頼が天目山の戦いで自刃し、甲斐武田氏が滅亡します。このころ信長は、滝川一益を関東管領として関東統治を目論んでいました。後北条氏は織田氏との婚姻を条件に関東一括統治を願い出ましたが、信長は好意的ではなかったようです。そんな中、明智光秀の謀反により信長が死去します。これにより武田氏旧領の甲斐・信濃をめぐる天正壬午の乱が勃発。後北条氏は一益と対立するも信濃東部から中部を占領下に置き、家康は真田昌幸を調略して北条軍と対立します。この騒動により織田氏は多くの領地を失い、一益も失脚しました。
徳川家康との和睦
その後、後北条氏と家康は対陣しましたが、氏政の子・氏直と家康の娘・督姫の結婚により和睦します。甲斐・信濃は徳川領、上野は北条領とすることで合意しましたが、家康についていた昌幸はこれを不服としました。自分で入手した上野・沼田城が後北条氏に明け渡されることを拒んだ昌幸は、対上杉という名目で新築した上田城に本拠を移すと、そのまま上杉氏に寝返り、徳川・北条と抗戦します。その後、徳川が上田に攻め入る第一次上田合戦が勃発。北条も沼田に攻め入りますが、戦いは真田陣営の勝利となりました。一方、上方では織田家の事実上の後継者となり、柴田勝家と対立していた羽柴秀吉が景勝と同盟を締結。景勝は上野を巡って氏政と争っていたことから、秀吉はこの時点で反北条の姿勢だったと考えられています。 | 氏政は信玄に呼応して北関東方面に侵攻し、何を奪還しましたか。 | 氏政は信玄に呼応して北関東方面に侵攻し、上杉方に奪われた領土を奪還しました。 |
JCRRAG_012785 | 歴史 | 関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、北条氏政である。
北条氏康の後を継いだ氏政
氏政はどのように家督を継承したのでしょうか?うまれから武田領国への侵攻までについて振り返ります。
後北条氏第4代当主に就任
氏政は、天文7年(1538)第3代当主・北条氏康の次男としてうまれ、兄・氏親が早くに亡くなったため世子となりました。天文23年(1554)氏康、武田信玄、今川義元との間で甲相駿三国同盟が成立すると、氏政は信玄の娘・黄梅院を正室に迎えます。政略結婚でしたが、夫婦仲は良かったようです。永禄2年(1559)に父が隠居すると、家督を継承して第4代当主に就任。しかし、氏康の存命中は氏康・氏政の両頭体制が続きました。
上杉謙信との戦い
永禄4年(1561)上杉謙信との小田原城の戦いで後北条氏は窮地に陥ります。しかし、信玄の支援もあり、氏政は籠城戦で上杉軍を撃退。謙信が第4次川中島の戦いで被害を受けると、氏政は信玄に呼応して北関東方面に侵攻し、上杉方に奪われた領土を奪還しました。永禄7年(1564)の第2次国府台合戦では、苦戦しつつも北条綱成とともに安房の里見氏に勝利します。これにより、謙信を盟主としていた諸将が氏政に帰順し、後北条氏は上野国にも勢力を拡大しました。
甲相同盟と越相同盟
永禄3年(1560)桶狭間の戦いで駿河の義元が討死し、甲駿関係が手切れとなったことから、信玄は駿河侵攻を開始しました。これにより、義元の嫡男であり氏政の義弟・今川氏真が没落。後北条氏は駿相同盟を優先し、甲相同盟が破綻します。氏政は武田方から離反した徳川家康と和議を結び、信玄に対抗するため、弟(上杉景虎)を宿敵・謙信に差し出し越相同盟を締結しました。しかし、元亀2年(1571)に父・氏康が病没すると、越相同盟を破棄して甲相同盟を復活させ、信玄の西上作戦に参加。謙信との戦いも再び始まり、氏政は関東の上杉派勢力をほぼ一掃して勢力を拡大しました。
武田領国を挟撃する
天正6年(1578)に謙信が死去すると、謙信の甥・上杉景勝と、氏政の弟で謙信の養子・景虎の間で、後継者をめぐる御館の乱が勃発します。氏政は武田勝頼に援軍を依頼し、勝頼の調停により景虎・景勝は和睦しました。ところが勝頼の撤兵中に和睦が破綻し、景勝が乱を制する形となり景虎は自害。これにより氏政は甲相同盟を破棄し、家康と同盟を結んで武田領国を挟撃します。その後は織田信長に臣従し、家督を氏直に譲って隠居しましたが、政治・軍事の実権は氏政が掌握し続けました。
勢力拡大し、最大版図を築く
その後も氏政は勢力を拡大し、後北条氏の最大版図を築きます。しかし、その裏には天下人との摩擦もありました。
織田家重臣・滝川一益と激突
天正10年(1582)織田氏が甲州征伐に乗り出すと、氏政はこれに呼応し武田領に侵攻。同年、勝頼が天目山の戦いで自刃し、甲斐武田氏が滅亡します。このころ信長は、滝川一益を関東管領として関東統治を目論んでいました。後北条氏は織田氏との婚姻を条件に関東一括統治を願い出ましたが、信長は好意的ではなかったようです。そんな中、明智光秀の謀反により信長が死去します。これにより武田氏旧領の甲斐・信濃をめぐる天正壬午の乱が勃発。後北条氏は一益と対立するも信濃東部から中部を占領下に置き、家康は真田昌幸を調略して北条軍と対立します。この騒動により織田氏は多くの領地を失い、一益も失脚しました。
徳川家康との和睦
その後、後北条氏と家康は対陣しましたが、氏政の子・氏直と家康の娘・督姫の結婚により和睦します。甲斐・信濃は徳川領、上野は北条領とすることで合意しましたが、家康についていた昌幸はこれを不服としました。自分で入手した上野・沼田城が後北条氏に明け渡されることを拒んだ昌幸は、対上杉という名目で新築した上田城に本拠を移すと、そのまま上杉氏に寝返り、徳川・北条と抗戦します。その後、徳川が上田に攻め入る第一次上田合戦が勃発。北条も沼田に攻め入りますが、戦いは真田陣営の勝利となりました。一方、上方では織田家の事実上の後継者となり、柴田勝家と対立していた羽柴秀吉が景勝と同盟を締結。景勝は上野を巡って氏政と争っていたことから、秀吉はこの時点で反北条の姿勢だったと考えられています。 | 氏政は甲相同盟を破棄し、家康と同盟を結んでどこを挟撃しますか。 | 氏政は甲相同盟を破棄し、家康と同盟を結んで武田領国を挟撃します。 |
JCRRAG_012786 | 歴史 | 関東の雄・北条氏康を父にもち、最後まで豊臣秀吉に対抗した人物は、北条氏政である。
北条氏康の後を継いだ氏政
氏政はどのように家督を継承したのでしょうか?うまれから武田領国への侵攻までについて振り返ります。
後北条氏第4代当主に就任
氏政は、天文7年(1538)第3代当主・北条氏康の次男としてうまれ、兄・氏親が早くに亡くなったため世子となりました。天文23年(1554)氏康、武田信玄、今川義元との間で甲相駿三国同盟が成立すると、氏政は信玄の娘・黄梅院を正室に迎えます。政略結婚でしたが、夫婦仲は良かったようです。永禄2年(1559)に父が隠居すると、家督を継承して第4代当主に就任。しかし、氏康の存命中は氏康・氏政の両頭体制が続きました。
上杉謙信との戦い
永禄4年(1561)上杉謙信との小田原城の戦いで後北条氏は窮地に陥ります。しかし、信玄の支援もあり、氏政は籠城戦で上杉軍を撃退。謙信が第4次川中島の戦いで被害を受けると、氏政は信玄に呼応して北関東方面に侵攻し、上杉方に奪われた領土を奪還しました。永禄7年(1564)の第2次国府台合戦では、苦戦しつつも北条綱成とともに安房の里見氏に勝利します。これにより、謙信を盟主としていた諸将が氏政に帰順し、後北条氏は上野国にも勢力を拡大しました。
甲相同盟と越相同盟
永禄3年(1560)桶狭間の戦いで駿河の義元が討死し、甲駿関係が手切れとなったことから、信玄は駿河侵攻を開始しました。これにより、義元の嫡男であり氏政の義弟・今川氏真が没落。後北条氏は駿相同盟を優先し、甲相同盟が破綻します。氏政は武田方から離反した徳川家康と和議を結び、信玄に対抗するため、弟(上杉景虎)を宿敵・謙信に差し出し越相同盟を締結しました。しかし、元亀2年(1571)に父・氏康が病没すると、越相同盟を破棄して甲相同盟を復活させ、信玄の西上作戦に参加。謙信との戦いも再び始まり、氏政は関東の上杉派勢力をほぼ一掃して勢力を拡大しました。
武田領国を挟撃する
天正6年(1578)に謙信が死去すると、謙信の甥・上杉景勝と、氏政の弟で謙信の養子・景虎の間で、後継者をめぐる御館の乱が勃発します。氏政は武田勝頼に援軍を依頼し、勝頼の調停により景虎・景勝は和睦しました。ところが勝頼の撤兵中に和睦が破綻し、景勝が乱を制する形となり景虎は自害。これにより氏政は甲相同盟を破棄し、家康と同盟を結んで武田領国を挟撃します。その後は織田信長に臣従し、家督を氏直に譲って隠居しましたが、政治・軍事の実権は氏政が掌握し続けました。
勢力拡大し、最大版図を築く
その後も氏政は勢力を拡大し、後北条氏の最大版図を築きます。しかし、その裏には天下人との摩擦もありました。
織田家重臣・滝川一益と激突
天正10年(1582)織田氏が甲州征伐に乗り出すと、氏政はこれに呼応し武田領に侵攻。同年、勝頼が天目山の戦いで自刃し、甲斐武田氏が滅亡します。このころ信長は、滝川一益を関東管領として関東統治を目論んでいました。後北条氏は織田氏との婚姻を条件に関東一括統治を願い出ましたが、信長は好意的ではなかったようです。そんな中、明智光秀の謀反により信長が死去します。これにより武田氏旧領の甲斐・信濃をめぐる天正壬午の乱が勃発。後北条氏は一益と対立するも信濃東部から中部を占領下に置き、家康は真田昌幸を調略して北条軍と対立します。この騒動により織田氏は多くの領地を失い、一益も失脚しました。
徳川家康との和睦
その後、後北条氏と家康は対陣しましたが、氏政の子・氏直と家康の娘・督姫の結婚により和睦します。甲斐・信濃は徳川領、上野は北条領とすることで合意しましたが、家康についていた昌幸はこれを不服としました。自分で入手した上野・沼田城が後北条氏に明け渡されることを拒んだ昌幸は、対上杉という名目で新築した上田城に本拠を移すと、そのまま上杉氏に寝返り、徳川・北条と抗戦します。その後、徳川が上田に攻め入る第一次上田合戦が勃発。北条も沼田に攻め入りますが、戦いは真田陣営の勝利となりました。一方、上方では織田家の事実上の後継者となり、柴田勝家と対立していた羽柴秀吉が景勝と同盟を締結。景勝は上野を巡って氏政と争っていたことから、秀吉はこの時点で反北条の姿勢だったと考えられています。 | 氏政は勢力を拡大し、何を築きますか。 | 氏政は勢力を拡大し、後北条氏の最大版図を築きます。 |
JCRRAG_012787 | 歴史 | 大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、真田幸村である。
真田家の名が知れわたるまで
幼少期の幸村はどんな生活をしていたのか、うまれから真田の家名が広まるまでについて振り返ります。
真田昌幸の次男として生まれる
幸村は真田昌幸の次男として誕生しました。本名は真田信繁で、幸村という名称は後世の講談などにより広まったものだといわれています。生年は定かではなく、永禄10年(1567)または元亀元年(1570)と考えられています。
信濃国小県郡の国衆だった真田家は祖父・幸隆のころに武田家に帰属し、父・昌幸は武田信玄の足軽大将として武田24将にも数えられる武将でした。昌幸は長兄と次兄が長篠の戦いで戦死したことから真田家を継承し、幸隆が担っていた上野国岩櫃城代も受け継ぎました。幸村はそんな父に付き従い、甲府から岩櫃に移ったと考えられています。
第一次上田合戦で徳川家康を撃退!
天正10年(1582)3月、織田・徳川連合軍の甲州征伐により武田家が滅亡すると、君主を失った真田家は信長に恭順し、幸村は関東管領・滝川一益の人質となりました。しかし、同年6月には本能寺の変で信長が死去し、上杉家・北条家・徳川家など近隣勢力が武田遺領を巡って天正壬午の乱をおこします。昌幸はこれを機に、信濃に潜伏していた旧武田家臣と主従関係を結んで沼田城を奪回。その後は上杉家、次いで北条家に帰属しますが、のちに離反して徳川家に仕えるようになります。
しかし、家康が北条家との和睦条件として真田家の沼田領を勝手に譲ったことに激怒。そのため、幸村を人質として上杉家と同盟を組み、第一次上田合戦で家康と激突します。昌幸は上田城に籠城し、不利な状況のなか優れた智謀で徳川軍を敗走させました。この活躍により真田家の名は全国へ知れわたることになったのです。
立身出世と関ヶ原の戦い
真田家は時勢を見ながら臣従する相手を替え生き延びました。人質として貢献した幸村は、やがて戦いでその力量を発揮していきます。
豊臣秀吉の馬廻衆となった幸村
その後、真田家は豊臣秀吉に服属し、昌幸は独立した大名として扱われました。幸村はここでも人質となり、大坂に移って大谷吉継の娘・竹林院を妻に迎えています。豊臣政権時の幸村の動向については史料が少なく詳細は不明ですが、近年の研究によれば、秀吉の馬廻衆となった幸村は1万9000石の知行を有し、独立した大名として遇されていたことがわかっています。知行地の支配については、昌幸の家臣らに任せていたようです。
なお、小田原征伐では吉継とともに石田三成の指揮で忍城攻めに参戦、文禄の役では昌幸や兄・信幸(信之)とともに在陣したと考えられており、文禄3年(1594)11月には従五位下左衛門佐に叙任され豊臣姓を賜りました。
犬伏の別れ、そして西軍への従属
慶長3年(1598)、朝鮮出兵半ばで秀吉が病没します。その後、豊臣政権内で三成らと家康らが対立し、関ヶ原の戦いが勃発しました。昌幸・信幸・幸村の3人は家康の命で上杉征伐に向かいますが、西軍の三成から家康討伐の協力要請を受け、下野犬伏で真田家の今後について話し合います。
そして、吉継の娘を妻にもつ幸村は父と共に西軍に、本多忠勝の娘を妻にもつ信幸は東軍に与し、親子で別々の道を歩むことを決めました。この「犬伏の別れ」は、通説ではどちらが負けても家名を存続できるようにする戦略だったといわれています。
| 大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、誰であるか。 | 大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、真田幸村である。 |
JCRRAG_012788 | 歴史 | 大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、真田幸村である。
真田家の名が知れわたるまで
幼少期の幸村はどんな生活をしていたのか、うまれから真田の家名が広まるまでについて振り返ります。
真田昌幸の次男として生まれる
幸村は真田昌幸の次男として誕生しました。本名は真田信繁で、幸村という名称は後世の講談などにより広まったものだといわれています。生年は定かではなく、永禄10年(1567)または元亀元年(1570)と考えられています。
信濃国小県郡の国衆だった真田家は祖父・幸隆のころに武田家に帰属し、父・昌幸は武田信玄の足軽大将として武田24将にも数えられる武将でした。昌幸は長兄と次兄が長篠の戦いで戦死したことから真田家を継承し、幸隆が担っていた上野国岩櫃城代も受け継ぎました。幸村はそんな父に付き従い、甲府から岩櫃に移ったと考えられています。
第一次上田合戦で徳川家康を撃退!
天正10年(1582)3月、織田・徳川連合軍の甲州征伐により武田家が滅亡すると、君主を失った真田家は信長に恭順し、幸村は関東管領・滝川一益の人質となりました。しかし、同年6月には本能寺の変で信長が死去し、上杉家・北条家・徳川家など近隣勢力が武田遺領を巡って天正壬午の乱をおこします。昌幸はこれを機に、信濃に潜伏していた旧武田家臣と主従関係を結んで沼田城を奪回。その後は上杉家、次いで北条家に帰属しますが、のちに離反して徳川家に仕えるようになります。
しかし、家康が北条家との和睦条件として真田家の沼田領を勝手に譲ったことに激怒。そのため、幸村を人質として上杉家と同盟を組み、第一次上田合戦で家康と激突します。昌幸は上田城に籠城し、不利な状況のなか優れた智謀で徳川軍を敗走させました。この活躍により真田家の名は全国へ知れわたることになったのです。
立身出世と関ヶ原の戦い
真田家は時勢を見ながら臣従する相手を替え生き延びました。人質として貢献した幸村は、やがて戦いでその力量を発揮していきます。
豊臣秀吉の馬廻衆となった幸村
その後、真田家は豊臣秀吉に服属し、昌幸は独立した大名として扱われました。幸村はここでも人質となり、大坂に移って大谷吉継の娘・竹林院を妻に迎えています。豊臣政権時の幸村の動向については史料が少なく詳細は不明ですが、近年の研究によれば、秀吉の馬廻衆となった幸村は1万9000石の知行を有し、独立した大名として遇されていたことがわかっています。知行地の支配については、昌幸の家臣らに任せていたようです。
なお、小田原征伐では吉継とともに石田三成の指揮で忍城攻めに参戦、文禄の役では昌幸や兄・信幸(信之)とともに在陣したと考えられており、文禄3年(1594)11月には従五位下左衛門佐に叙任され豊臣姓を賜りました。
犬伏の別れ、そして西軍への従属
慶長3年(1598)、朝鮮出兵半ばで秀吉が病没します。その後、豊臣政権内で三成らと家康らが対立し、関ヶ原の戦いが勃発しました。昌幸・信幸・幸村の3人は家康の命で上杉征伐に向かいますが、西軍の三成から家康討伐の協力要請を受け、下野犬伏で真田家の今後について話し合います。
そして、吉継の娘を妻にもつ幸村は父と共に西軍に、本多忠勝の娘を妻にもつ信幸は東軍に与し、親子で別々の道を歩むことを決めました。この「犬伏の別れ」は、通説ではどちらが負けても家名を存続できるようにする戦略だったといわれています。
| 幸村は誰の次男として誕生しましたか。 | 幸村は真田昌幸の次男として誕生しました。 |
JCRRAG_012789 | 歴史 | 大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、真田幸村である。
真田家の名が知れわたるまで
幼少期の幸村はどんな生活をしていたのか、うまれから真田の家名が広まるまでについて振り返ります。
真田昌幸の次男として生まれる
幸村は真田昌幸の次男として誕生しました。本名は真田信繁で、幸村という名称は後世の講談などにより広まったものだといわれています。生年は定かではなく、永禄10年(1567)または元亀元年(1570)と考えられています。
信濃国小県郡の国衆だった真田家は祖父・幸隆のころに武田家に帰属し、父・昌幸は武田信玄の足軽大将として武田24将にも数えられる武将でした。昌幸は長兄と次兄が長篠の戦いで戦死したことから真田家を継承し、幸隆が担っていた上野国岩櫃城代も受け継ぎました。幸村はそんな父に付き従い、甲府から岩櫃に移ったと考えられています。
第一次上田合戦で徳川家康を撃退!
天正10年(1582)3月、織田・徳川連合軍の甲州征伐により武田家が滅亡すると、君主を失った真田家は信長に恭順し、幸村は関東管領・滝川一益の人質となりました。しかし、同年6月には本能寺の変で信長が死去し、上杉家・北条家・徳川家など近隣勢力が武田遺領を巡って天正壬午の乱をおこします。昌幸はこれを機に、信濃に潜伏していた旧武田家臣と主従関係を結んで沼田城を奪回。その後は上杉家、次いで北条家に帰属しますが、のちに離反して徳川家に仕えるようになります。
しかし、家康が北条家との和睦条件として真田家の沼田領を勝手に譲ったことに激怒。そのため、幸村を人質として上杉家と同盟を組み、第一次上田合戦で家康と激突します。昌幸は上田城に籠城し、不利な状況のなか優れた智謀で徳川軍を敗走させました。この活躍により真田家の名は全国へ知れわたることになったのです。
立身出世と関ヶ原の戦い
真田家は時勢を見ながら臣従する相手を替え生き延びました。人質として貢献した幸村は、やがて戦いでその力量を発揮していきます。
豊臣秀吉の馬廻衆となった幸村
その後、真田家は豊臣秀吉に服属し、昌幸は独立した大名として扱われました。幸村はここでも人質となり、大坂に移って大谷吉継の娘・竹林院を妻に迎えています。豊臣政権時の幸村の動向については史料が少なく詳細は不明ですが、近年の研究によれば、秀吉の馬廻衆となった幸村は1万9000石の知行を有し、独立した大名として遇されていたことがわかっています。知行地の支配については、昌幸の家臣らに任せていたようです。
なお、小田原征伐では吉継とともに石田三成の指揮で忍城攻めに参戦、文禄の役では昌幸や兄・信幸(信之)とともに在陣したと考えられており、文禄3年(1594)11月には従五位下左衛門佐に叙任され豊臣姓を賜りました。
犬伏の別れ、そして西軍への従属
慶長3年(1598)、朝鮮出兵半ばで秀吉が病没します。その後、豊臣政権内で三成らと家康らが対立し、関ヶ原の戦いが勃発しました。昌幸・信幸・幸村の3人は家康の命で上杉征伐に向かいますが、西軍の三成から家康討伐の協力要請を受け、下野犬伏で真田家の今後について話し合います。
そして、吉継の娘を妻にもつ幸村は父と共に西軍に、本多忠勝の娘を妻にもつ信幸は東軍に与し、親子で別々の道を歩むことを決めました。この「犬伏の別れ」は、通説ではどちらが負けても家名を存続できるようにする戦略だったといわれています。
| 昌幸は長兄と次兄が長篠の戦いで戦死したことから何を受け継ぎましたか。 | 昌幸は長兄と次兄が長篠の戦いで戦死したことから真田家を継承し、幸隆が担っていた上野国岩櫃城代も受け継ぎました。 |
JCRRAG_012790 | 歴史 | 大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、真田幸村である。
真田家の名が知れわたるまで
幼少期の幸村はどんな生活をしていたのか、うまれから真田の家名が広まるまでについて振り返ります。
真田昌幸の次男として生まれる
幸村は真田昌幸の次男として誕生しました。本名は真田信繁で、幸村という名称は後世の講談などにより広まったものだといわれています。生年は定かではなく、永禄10年(1567)または元亀元年(1570)と考えられています。
信濃国小県郡の国衆だった真田家は祖父・幸隆のころに武田家に帰属し、父・昌幸は武田信玄の足軽大将として武田24将にも数えられる武将でした。昌幸は長兄と次兄が長篠の戦いで戦死したことから真田家を継承し、幸隆が担っていた上野国岩櫃城代も受け継ぎました。幸村はそんな父に付き従い、甲府から岩櫃に移ったと考えられています。
第一次上田合戦で徳川家康を撃退!
天正10年(1582)3月、織田・徳川連合軍の甲州征伐により武田家が滅亡すると、君主を失った真田家は信長に恭順し、幸村は関東管領・滝川一益の人質となりました。しかし、同年6月には本能寺の変で信長が死去し、上杉家・北条家・徳川家など近隣勢力が武田遺領を巡って天正壬午の乱をおこします。昌幸はこれを機に、信濃に潜伏していた旧武田家臣と主従関係を結んで沼田城を奪回。その後は上杉家、次いで北条家に帰属しますが、のちに離反して徳川家に仕えるようになります。
しかし、家康が北条家との和睦条件として真田家の沼田領を勝手に譲ったことに激怒。そのため、幸村を人質として上杉家と同盟を組み、第一次上田合戦で家康と激突します。昌幸は上田城に籠城し、不利な状況のなか優れた智謀で徳川軍を敗走させました。この活躍により真田家の名は全国へ知れわたることになったのです。
立身出世と関ヶ原の戦い
真田家は時勢を見ながら臣従する相手を替え生き延びました。人質として貢献した幸村は、やがて戦いでその力量を発揮していきます。
豊臣秀吉の馬廻衆となった幸村
その後、真田家は豊臣秀吉に服属し、昌幸は独立した大名として扱われました。幸村はここでも人質となり、大坂に移って大谷吉継の娘・竹林院を妻に迎えています。豊臣政権時の幸村の動向については史料が少なく詳細は不明ですが、近年の研究によれば、秀吉の馬廻衆となった幸村は1万9000石の知行を有し、独立した大名として遇されていたことがわかっています。知行地の支配については、昌幸の家臣らに任せていたようです。
なお、小田原征伐では吉継とともに石田三成の指揮で忍城攻めに参戦、文禄の役では昌幸や兄・信幸(信之)とともに在陣したと考えられており、文禄3年(1594)11月には従五位下左衛門佐に叙任され豊臣姓を賜りました。
犬伏の別れ、そして西軍への従属
慶長3年(1598)、朝鮮出兵半ばで秀吉が病没します。その後、豊臣政権内で三成らと家康らが対立し、関ヶ原の戦いが勃発しました。昌幸・信幸・幸村の3人は家康の命で上杉征伐に向かいますが、西軍の三成から家康討伐の協力要請を受け、下野犬伏で真田家の今後について話し合います。
そして、吉継の娘を妻にもつ幸村は父と共に西軍に、本多忠勝の娘を妻にもつ信幸は東軍に与し、親子で別々の道を歩むことを決めました。この「犬伏の別れ」は、通説ではどちらが負けても家名を存続できるようにする戦略だったといわれています。
| 昌幸は上田城に籠城し、不利な状況のなか優れた智謀で誰を敗走させましたか。 | 昌幸は上田城に籠城し、不利な状況のなか優れた智謀で徳川軍を敗走させました。 |
JCRRAG_012791 | 歴史 | 大坂の陣の活躍により一気に歴史に名を刻むことになった六文銭を掲げた人物は、真田幸村である。
真田家の名が知れわたるまで
幼少期の幸村はどんな生活をしていたのか、うまれから真田の家名が広まるまでについて振り返ります。
真田昌幸の次男として生まれる
幸村は真田昌幸の次男として誕生しました。本名は真田信繁で、幸村という名称は後世の講談などにより広まったものだといわれています。生年は定かではなく、永禄10年(1567)または元亀元年(1570)と考えられています。
信濃国小県郡の国衆だった真田家は祖父・幸隆のころに武田家に帰属し、父・昌幸は武田信玄の足軽大将として武田24将にも数えられる武将でした。昌幸は長兄と次兄が長篠の戦いで戦死したことから真田家を継承し、幸隆が担っていた上野国岩櫃城代も受け継ぎました。幸村はそんな父に付き従い、甲府から岩櫃に移ったと考えられています。
第一次上田合戦で徳川家康を撃退!
天正10年(1582)3月、織田・徳川連合軍の甲州征伐により武田家が滅亡すると、君主を失った真田家は信長に恭順し、幸村は関東管領・滝川一益の人質となりました。しかし、同年6月には本能寺の変で信長が死去し、上杉家・北条家・徳川家など近隣勢力が武田遺領を巡って天正壬午の乱をおこします。昌幸はこれを機に、信濃に潜伏していた旧武田家臣と主従関係を結んで沼田城を奪回。その後は上杉家、次いで北条家に帰属しますが、のちに離反して徳川家に仕えるようになります。
しかし、家康が北条家との和睦条件として真田家の沼田領を勝手に譲ったことに激怒。そのため、幸村を人質として上杉家と同盟を組み、第一次上田合戦で家康と激突します。昌幸は上田城に籠城し、不利な状況のなか優れた智謀で徳川軍を敗走させました。この活躍により真田家の名は全国へ知れわたることになったのです。
立身出世と関ヶ原の戦い
真田家は時勢を見ながら臣従する相手を替え生き延びました。人質として貢献した幸村は、やがて戦いでその力量を発揮していきます。
豊臣秀吉の馬廻衆となった幸村
その後、真田家は豊臣秀吉に服属し、昌幸は独立した大名として扱われました。幸村はここでも人質となり、大坂に移って大谷吉継の娘・竹林院を妻に迎えています。豊臣政権時の幸村の動向については史料が少なく詳細は不明ですが、近年の研究によれば、秀吉の馬廻衆となった幸村は1万9000石の知行を有し、独立した大名として遇されていたことがわかっています。知行地の支配については、昌幸の家臣らに任せていたようです。
なお、小田原征伐では吉継とともに石田三成の指揮で忍城攻めに参戦、文禄の役では昌幸や兄・信幸(信之)とともに在陣したと考えられており、文禄3年(1594)11月には従五位下左衛門佐に叙任され豊臣姓を賜りました。
犬伏の別れ、そして西軍への従属
慶長3年(1598)、朝鮮出兵半ばで秀吉が病没します。その後、豊臣政権内で三成らと家康らが対立し、関ヶ原の戦いが勃発しました。昌幸・信幸・幸村の3人は家康の命で上杉征伐に向かいますが、西軍の三成から家康討伐の協力要請を受け、下野犬伏で真田家の今後について話し合います。
そして、吉継の娘を妻にもつ幸村は父と共に西軍に、本多忠勝の娘を妻にもつ信幸は東軍に与し、親子で別々の道を歩むことを決めました。この「犬伏の別れ」は、通説ではどちらが負けても家名を存続できるようにする戦略だったといわれています。
| 幸村は大坂に移って誰を妻に迎えていますか。 | 幸村は大坂に移って大谷吉継の娘・竹林院を妻に迎えています。 |
JCRRAG_012792 | 歴史 | 戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、井伊直虎である。
女城主の誕生まで
直虎はなぜ城主となったのでしょうか?井伊家に女城主が誕生するまでの経緯について振り返ります。
井伊家の歴史とは?
藤原家の流れを汲む井伊家の始まりは約1000年前で、龍潭寺(りょうたんじ)の井戸の傍らで保護された藤原共保(ともやす)が初代とされています。鎌倉時代には遠江・井伊谷に勢力を築いて国人領主として栄え、南北朝時代には南朝方の拠点として後醍醐天皇の皇子・宗良親王を迎えて一大勢力を形成。しかし、戦国時代になると、今川家の圧力により支配下に置かれました。
直虎はこの井伊谷の地で、井伊直盛の娘として誕生します。「井伊直虎」という名は歴史上1通の書状のみにしか見られませんが、通説では、江戸時代に書かれた『井伊家伝記』に記載される次郎法師(じろうほうし)と同一人物とされています。生年は定かではなく、天文5年(1536)前後にうまれたと推測されています。
井伊家当主だった父・井伊直盛
直虎の父・直盛は、井伊家の22代当主でした。『井伊年譜』には「井伊直平の娘が築山殿を生んだ」とあり、これが本当ならば直盛と築山殿(徳川家康の正室)は従兄妹となります。直盛は戦場において大軍の先陣を任されるほどでしたが、今川家が織田信長と対立した永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで家臣とともに討ち死にしました。この戦いでは総大将だった今川義元の首も討ち取られ、今川勢は敗退。義元の死をうけて、義元の子・今川氏真が今川家12代当主に就任しました。
元許嫁・井伊直親の死
跡継ぎとなる男子がいなかった直盛は、叔父・井伊直満の子である直親を娘の直虎の許嫁にします。しかし、井伊家家老・小野政直の調略により直満が義元に誅殺され、直親は家臣に連れられて信濃国へと逃亡。直虎は悲しみから井伊家菩提寺・龍潭寺に出家し、次郎法師と名乗るようになりました。数年後、井伊谷に帰参した直親は直盛の養子となりますが、すでに仏門に入っていた直虎は結婚できず、生涯独身を貫くことになりました。直親は井伊一族の奥山朝利の娘・ひよと結婚し、養父・直盛の戦死により家督を継承。しかし、家老・小野政次(道好)の調略により主君・氏真から家康との内通を疑われ、陳謝に向かう道中、今川家重臣・朝比奈泰朝に殺害されました。
次郎法師、還俗して領主に
直親の死後、井伊家の男児は直親の遺児・虎松(後の井伊直政)のみでした。そのため、永禄8年(1565)出家していた次郎法師が還俗(げんぞく=僧籍を離れること)。以降、彼女は井伊直虎と名乗り遠江・井伊谷の女城主となります。この背景には、龍潭寺の和尚・南渓瑞聞(なんけいずいもん)の考えがありました。嫡流が絶え幼い虎松しか男児のいない井伊家はもはや断絶寸前。そこで南溪和尚の提案を受けた井伊家は、直系の血筋である直虎を当主とし、虎松の後見人にしたのです。この相続は君主・今川家にも認められ、直虎はいずれ虎松に家督を継承すべく己の務めを果たすことになったのでした。
| 戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、誰であるか。 | 戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、井伊直虎である。 |
JCRRAG_012793 | 歴史 | 戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、井伊直虎である。
女城主の誕生まで
直虎はなぜ城主となったのでしょうか?井伊家に女城主が誕生するまでの経緯について振り返ります。
井伊家の歴史とは?
藤原家の流れを汲む井伊家の始まりは約1000年前で、龍潭寺(りょうたんじ)の井戸の傍らで保護された藤原共保(ともやす)が初代とされています。鎌倉時代には遠江・井伊谷に勢力を築いて国人領主として栄え、南北朝時代には南朝方の拠点として後醍醐天皇の皇子・宗良親王を迎えて一大勢力を形成。しかし、戦国時代になると、今川家の圧力により支配下に置かれました。
直虎はこの井伊谷の地で、井伊直盛の娘として誕生します。「井伊直虎」という名は歴史上1通の書状のみにしか見られませんが、通説では、江戸時代に書かれた『井伊家伝記』に記載される次郎法師(じろうほうし)と同一人物とされています。生年は定かではなく、天文5年(1536)前後にうまれたと推測されています。
井伊家当主だった父・井伊直盛
直虎の父・直盛は、井伊家の22代当主でした。『井伊年譜』には「井伊直平の娘が築山殿を生んだ」とあり、これが本当ならば直盛と築山殿(徳川家康の正室)は従兄妹となります。直盛は戦場において大軍の先陣を任されるほどでしたが、今川家が織田信長と対立した永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで家臣とともに討ち死にしました。この戦いでは総大将だった今川義元の首も討ち取られ、今川勢は敗退。義元の死をうけて、義元の子・今川氏真が今川家12代当主に就任しました。
元許嫁・井伊直親の死
跡継ぎとなる男子がいなかった直盛は、叔父・井伊直満の子である直親を娘の直虎の許嫁にします。しかし、井伊家家老・小野政直の調略により直満が義元に誅殺され、直親は家臣に連れられて信濃国へと逃亡。直虎は悲しみから井伊家菩提寺・龍潭寺に出家し、次郎法師と名乗るようになりました。数年後、井伊谷に帰参した直親は直盛の養子となりますが、すでに仏門に入っていた直虎は結婚できず、生涯独身を貫くことになりました。直親は井伊一族の奥山朝利の娘・ひよと結婚し、養父・直盛の戦死により家督を継承。しかし、家老・小野政次(道好)の調略により主君・氏真から家康との内通を疑われ、陳謝に向かう道中、今川家重臣・朝比奈泰朝に殺害されました。
次郎法師、還俗して領主に
直親の死後、井伊家の男児は直親の遺児・虎松(後の井伊直政)のみでした。そのため、永禄8年(1565)出家していた次郎法師が還俗(げんぞく=僧籍を離れること)。以降、彼女は井伊直虎と名乗り遠江・井伊谷の女城主となります。この背景には、龍潭寺の和尚・南渓瑞聞(なんけいずいもん)の考えがありました。嫡流が絶え幼い虎松しか男児のいない井伊家はもはや断絶寸前。そこで南溪和尚の提案を受けた井伊家は、直系の血筋である直虎を当主とし、虎松の後見人にしたのです。この相続は君主・今川家にも認められ、直虎はいずれ虎松に家督を継承すべく己の務めを果たすことになったのでした。
| 直虎はこの井伊谷の地で、誰の娘として誕生しますか。 | 直虎はこの井伊谷の地で、井伊直盛の娘として誕生します。 |
JCRRAG_012794 | 歴史 | 戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、井伊直虎である。
女城主の誕生まで
直虎はなぜ城主となったのでしょうか?井伊家に女城主が誕生するまでの経緯について振り返ります。
井伊家の歴史とは?
藤原家の流れを汲む井伊家の始まりは約1000年前で、龍潭寺(りょうたんじ)の井戸の傍らで保護された藤原共保(ともやす)が初代とされています。鎌倉時代には遠江・井伊谷に勢力を築いて国人領主として栄え、南北朝時代には南朝方の拠点として後醍醐天皇の皇子・宗良親王を迎えて一大勢力を形成。しかし、戦国時代になると、今川家の圧力により支配下に置かれました。
直虎はこの井伊谷の地で、井伊直盛の娘として誕生します。「井伊直虎」という名は歴史上1通の書状のみにしか見られませんが、通説では、江戸時代に書かれた『井伊家伝記』に記載される次郎法師(じろうほうし)と同一人物とされています。生年は定かではなく、天文5年(1536)前後にうまれたと推測されています。
井伊家当主だった父・井伊直盛
直虎の父・直盛は、井伊家の22代当主でした。『井伊年譜』には「井伊直平の娘が築山殿を生んだ」とあり、これが本当ならば直盛と築山殿(徳川家康の正室)は従兄妹となります。直盛は戦場において大軍の先陣を任されるほどでしたが、今川家が織田信長と対立した永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで家臣とともに討ち死にしました。この戦いでは総大将だった今川義元の首も討ち取られ、今川勢は敗退。義元の死をうけて、義元の子・今川氏真が今川家12代当主に就任しました。
元許嫁・井伊直親の死
跡継ぎとなる男子がいなかった直盛は、叔父・井伊直満の子である直親を娘の直虎の許嫁にします。しかし、井伊家家老・小野政直の調略により直満が義元に誅殺され、直親は家臣に連れられて信濃国へと逃亡。直虎は悲しみから井伊家菩提寺・龍潭寺に出家し、次郎法師と名乗るようになりました。数年後、井伊谷に帰参した直親は直盛の養子となりますが、すでに仏門に入っていた直虎は結婚できず、生涯独身を貫くことになりました。直親は井伊一族の奥山朝利の娘・ひよと結婚し、養父・直盛の戦死により家督を継承。しかし、家老・小野政次(道好)の調略により主君・氏真から家康との内通を疑われ、陳謝に向かう道中、今川家重臣・朝比奈泰朝に殺害されました。
次郎法師、還俗して領主に
直親の死後、井伊家の男児は直親の遺児・虎松(後の井伊直政)のみでした。そのため、永禄8年(1565)出家していた次郎法師が還俗(げんぞく=僧籍を離れること)。以降、彼女は井伊直虎と名乗り遠江・井伊谷の女城主となります。この背景には、龍潭寺の和尚・南渓瑞聞(なんけいずいもん)の考えがありました。嫡流が絶え幼い虎松しか男児のいない井伊家はもはや断絶寸前。そこで南溪和尚の提案を受けた井伊家は、直系の血筋である直虎を当主とし、虎松の後見人にしたのです。この相続は君主・今川家にも認められ、直虎はいずれ虎松に家督を継承すべく己の務めを果たすことになったのでした。
| 直盛は戦場において何を任されるほどでしたか。 | 直盛は戦場において大軍の先陣を任されるほどでした。 |
JCRRAG_012795 | 歴史 | 戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、井伊直虎である。
女城主の誕生まで
直虎はなぜ城主となったのでしょうか?井伊家に女城主が誕生するまでの経緯について振り返ります。
井伊家の歴史とは?
藤原家の流れを汲む井伊家の始まりは約1000年前で、龍潭寺(りょうたんじ)の井戸の傍らで保護された藤原共保(ともやす)が初代とされています。鎌倉時代には遠江・井伊谷に勢力を築いて国人領主として栄え、南北朝時代には南朝方の拠点として後醍醐天皇の皇子・宗良親王を迎えて一大勢力を形成。しかし、戦国時代になると、今川家の圧力により支配下に置かれました。
直虎はこの井伊谷の地で、井伊直盛の娘として誕生します。「井伊直虎」という名は歴史上1通の書状のみにしか見られませんが、通説では、江戸時代に書かれた『井伊家伝記』に記載される次郎法師(じろうほうし)と同一人物とされています。生年は定かではなく、天文5年(1536)前後にうまれたと推測されています。
井伊家当主だった父・井伊直盛
直虎の父・直盛は、井伊家の22代当主でした。『井伊年譜』には「井伊直平の娘が築山殿を生んだ」とあり、これが本当ならば直盛と築山殿(徳川家康の正室)は従兄妹となります。直盛は戦場において大軍の先陣を任されるほどでしたが、今川家が織田信長と対立した永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで家臣とともに討ち死にしました。この戦いでは総大将だった今川義元の首も討ち取られ、今川勢は敗退。義元の死をうけて、義元の子・今川氏真が今川家12代当主に就任しました。
元許嫁・井伊直親の死
跡継ぎとなる男子がいなかった直盛は、叔父・井伊直満の子である直親を娘の直虎の許嫁にします。しかし、井伊家家老・小野政直の調略により直満が義元に誅殺され、直親は家臣に連れられて信濃国へと逃亡。直虎は悲しみから井伊家菩提寺・龍潭寺に出家し、次郎法師と名乗るようになりました。数年後、井伊谷に帰参した直親は直盛の養子となりますが、すでに仏門に入っていた直虎は結婚できず、生涯独身を貫くことになりました。直親は井伊一族の奥山朝利の娘・ひよと結婚し、養父・直盛の戦死により家督を継承。しかし、家老・小野政次(道好)の調略により主君・氏真から家康との内通を疑われ、陳謝に向かう道中、今川家重臣・朝比奈泰朝に殺害されました。
次郎法師、還俗して領主に
直親の死後、井伊家の男児は直親の遺児・虎松(後の井伊直政)のみでした。そのため、永禄8年(1565)出家していた次郎法師が還俗(げんぞく=僧籍を離れること)。以降、彼女は井伊直虎と名乗り遠江・井伊谷の女城主となります。この背景には、龍潭寺の和尚・南渓瑞聞(なんけいずいもん)の考えがありました。嫡流が絶え幼い虎松しか男児のいない井伊家はもはや断絶寸前。そこで南溪和尚の提案を受けた井伊家は、直系の血筋である直虎を当主とし、虎松の後見人にしたのです。この相続は君主・今川家にも認められ、直虎はいずれ虎松に家督を継承すべく己の務めを果たすことになったのでした。
| 直虎は悲しみから井伊家菩提寺・龍潭寺に出家し、何と名乗るようになりましたか。 | 直虎は悲しみから井伊家菩提寺・龍潭寺に出家し、次郎法師と名乗るようになりました。 |
JCRRAG_012796 | 歴史 | 戦国時代、遠江・井伊谷の女城主となった人物は、井伊直虎である。
女城主の誕生まで
直虎はなぜ城主となったのでしょうか?井伊家に女城主が誕生するまでの経緯について振り返ります。
井伊家の歴史とは?
藤原家の流れを汲む井伊家の始まりは約1000年前で、龍潭寺(りょうたんじ)の井戸の傍らで保護された藤原共保(ともやす)が初代とされています。鎌倉時代には遠江・井伊谷に勢力を築いて国人領主として栄え、南北朝時代には南朝方の拠点として後醍醐天皇の皇子・宗良親王を迎えて一大勢力を形成。しかし、戦国時代になると、今川家の圧力により支配下に置かれました。
直虎はこの井伊谷の地で、井伊直盛の娘として誕生します。「井伊直虎」という名は歴史上1通の書状のみにしか見られませんが、通説では、江戸時代に書かれた『井伊家伝記』に記載される次郎法師(じろうほうし)と同一人物とされています。生年は定かではなく、天文5年(1536)前後にうまれたと推測されています。
井伊家当主だった父・井伊直盛
直虎の父・直盛は、井伊家の22代当主でした。『井伊年譜』には「井伊直平の娘が築山殿を生んだ」とあり、これが本当ならば直盛と築山殿(徳川家康の正室)は従兄妹となります。直盛は戦場において大軍の先陣を任されるほどでしたが、今川家が織田信長と対立した永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで家臣とともに討ち死にしました。この戦いでは総大将だった今川義元の首も討ち取られ、今川勢は敗退。義元の死をうけて、義元の子・今川氏真が今川家12代当主に就任しました。
元許嫁・井伊直親の死
跡継ぎとなる男子がいなかった直盛は、叔父・井伊直満の子である直親を娘の直虎の許嫁にします。しかし、井伊家家老・小野政直の調略により直満が義元に誅殺され、直親は家臣に連れられて信濃国へと逃亡。直虎は悲しみから井伊家菩提寺・龍潭寺に出家し、次郎法師と名乗るようになりました。数年後、井伊谷に帰参した直親は直盛の養子となりますが、すでに仏門に入っていた直虎は結婚できず、生涯独身を貫くことになりました。直親は井伊一族の奥山朝利の娘・ひよと結婚し、養父・直盛の戦死により家督を継承。しかし、家老・小野政次(道好)の調略により主君・氏真から家康との内通を疑われ、陳謝に向かう道中、今川家重臣・朝比奈泰朝に殺害されました。
次郎法師、還俗して領主に
直親の死後、井伊家の男児は直親の遺児・虎松(後の井伊直政)のみでした。そのため、永禄8年(1565)出家していた次郎法師が還俗(げんぞく=僧籍を離れること)。以降、彼女は井伊直虎と名乗り遠江・井伊谷の女城主となります。この背景には、龍潭寺の和尚・南渓瑞聞(なんけいずいもん)の考えがありました。嫡流が絶え幼い虎松しか男児のいない井伊家はもはや断絶寸前。そこで南溪和尚の提案を受けた井伊家は、直系の血筋である直虎を当主とし、虎松の後見人にしたのです。この相続は君主・今川家にも認められ、直虎はいずれ虎松に家督を継承すべく己の務めを果たすことになったのでした。
| 永禄8年(1565)出家していた次郎法師が還俗以降、彼女は井伊直虎と名乗り何となりますか。 | 以降、彼女は井伊直虎と名乗り遠江・井伊谷の女城主となります。 |
JCRRAG_012797 | 歴史 | 徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、本多忠勝である。
旗本部隊の将になるまで
忠勝は古くから家康の家臣として仕えていました。その出会いは幼少期にさかのぼります。
徳川家の最古参譜代として
忠勝は、天文17年(1548)本多忠高の長男として三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市)で誕生しました。本多氏は松平氏に仕えた最古参の譜代で、忠勝も幼い頃から家康に仕えていたといいます。うまれてすぐに父を亡くした彼は、叔父・本多忠真のもとで育ち、永禄3年(1560)13歳のときに桶狭間の戦いの前哨戦となる大高城兵糧入れで初陣を果たしました。
一方、主君・家康は幼少時から人質生活を送っており、桶狭間の戦いのころは今川義元の配下として動いていましたが、この戦いで義元が織田信長に倒されると今川家からの独立を果たします。
三河一向一揆で家康方に
独立した家康が信長と清洲同盟を締結したあと、忠勝はさまざまな戦いに参加しました。永禄6年(1563)9月には、三河の一向宗門徒が家康に反抗し三河一向一揆が勃発。この一揆では、のちに家康の参謀となる本多正信をはじめ多くの本多一族が敵になりましたが、忠勝は一向宗から浄土宗に改宗し、家康側として戦い武功を上げました。これらの功績により、忠勝は旗本先手役に抜擢。以後は家康の居城近くに住んで旗本部隊の将として活躍しました。
徳川四天王としての活躍
忠勝は躍進を続け、徳川四天王と呼ばれるほどの人物になります。そして徳川家中で盤石な地位を築いたのです。
多くの戦いで勇名を馳せる!
元亀元年(1570)姉川の戦いが勃発し、忠勝は1万人の朝倉軍の中に乗り込み敵将・真柄直隆(十郎左衛門)との一騎討ちで勇名を馳せました。元亀3年(1572)の二俣城の戦いでは、前哨戦の偵察隊として動くも武田軍に遭遇。このとき忠勝は殿軍を務め家康本隊を無事に撤退させています。その後も、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、高天神城奪還戦などで武功を上げ、その活躍は敵味方を問わず称賛されました。家康も「まことに我が家の良将なり」と絶賛したといいます。
わずか500人で大軍を威嚇
天正10年(1582)信長が本能寺の変で死去した際、家康は信長から招かれわずかな供回りで堺を見物中でした。信長の死を知った家康は決死の「伊賀越え」を敢行しますが、この家康最大のピンチといわれる場面にも忠勝は付き従っています。また、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、留守を任されたものの徳川軍が苦戦していることを知り、わずか500の兵で駆け付け豊臣方の大軍の戦意を喪失させました。この活躍は、豊臣秀吉から「東国一の勇士」と称賛され、織田信雄も刀を授けるほどだったそうです。
家臣団中2位の石高を得る
家康が秀吉の傘下に入り関東に移封されると、忠勝は上総国夷隅郡大多喜(現在の千葉県夷隅郡大多喜町)に10万石を与えられました。これは徳川家臣団中、第2位の石高だったといいます。家康は江戸から遠くに忠勝を配置していますが、これは敵が攻めてくる国境に譜代の武将を配置するという考えによるものでした。忠勝は安房国・里見氏の北上を防ぐため、居城・大多喜城を大改修するとともに城下町を建設。この城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしました。 | 徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、誰であるか。 | 徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、本多忠勝である。 |
JCRRAG_012798 | 歴史 | 徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、本多忠勝である。
旗本部隊の将になるまで
忠勝は古くから家康の家臣として仕えていました。その出会いは幼少期にさかのぼります。
徳川家の最古参譜代として
忠勝は、天文17年(1548)本多忠高の長男として三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市)で誕生しました。本多氏は松平氏に仕えた最古参の譜代で、忠勝も幼い頃から家康に仕えていたといいます。うまれてすぐに父を亡くした彼は、叔父・本多忠真のもとで育ち、永禄3年(1560)13歳のときに桶狭間の戦いの前哨戦となる大高城兵糧入れで初陣を果たしました。
一方、主君・家康は幼少時から人質生活を送っており、桶狭間の戦いのころは今川義元の配下として動いていましたが、この戦いで義元が織田信長に倒されると今川家からの独立を果たします。
三河一向一揆で家康方に
独立した家康が信長と清洲同盟を締結したあと、忠勝はさまざまな戦いに参加しました。永禄6年(1563)9月には、三河の一向宗門徒が家康に反抗し三河一向一揆が勃発。この一揆では、のちに家康の参謀となる本多正信をはじめ多くの本多一族が敵になりましたが、忠勝は一向宗から浄土宗に改宗し、家康側として戦い武功を上げました。これらの功績により、忠勝は旗本先手役に抜擢。以後は家康の居城近くに住んで旗本部隊の将として活躍しました。
徳川四天王としての活躍
忠勝は躍進を続け、徳川四天王と呼ばれるほどの人物になります。そして徳川家中で盤石な地位を築いたのです。
多くの戦いで勇名を馳せる!
元亀元年(1570)姉川の戦いが勃発し、忠勝は1万人の朝倉軍の中に乗り込み敵将・真柄直隆(十郎左衛門)との一騎討ちで勇名を馳せました。元亀3年(1572)の二俣城の戦いでは、前哨戦の偵察隊として動くも武田軍に遭遇。このとき忠勝は殿軍を務め家康本隊を無事に撤退させています。その後も、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、高天神城奪還戦などで武功を上げ、その活躍は敵味方を問わず称賛されました。家康も「まことに我が家の良将なり」と絶賛したといいます。
わずか500人で大軍を威嚇
天正10年(1582)信長が本能寺の変で死去した際、家康は信長から招かれわずかな供回りで堺を見物中でした。信長の死を知った家康は決死の「伊賀越え」を敢行しますが、この家康最大のピンチといわれる場面にも忠勝は付き従っています。また、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、留守を任されたものの徳川軍が苦戦していることを知り、わずか500の兵で駆け付け豊臣方の大軍の戦意を喪失させました。この活躍は、豊臣秀吉から「東国一の勇士」と称賛され、織田信雄も刀を授けるほどだったそうです。
家臣団中2位の石高を得る
家康が秀吉の傘下に入り関東に移封されると、忠勝は上総国夷隅郡大多喜(現在の千葉県夷隅郡大多喜町)に10万石を与えられました。これは徳川家臣団中、第2位の石高だったといいます。家康は江戸から遠くに忠勝を配置していますが、これは敵が攻めてくる国境に譜代の武将を配置するという考えによるものでした。忠勝は安房国・里見氏の北上を防ぐため、居城・大多喜城を大改修するとともに城下町を建設。この城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしました。 | 忠勝は、天文17年(1548)誰の長男として三河国額田郡蔵前で誕生しましたか。 | 忠勝は、天文17年(1548)本多忠高の長男として三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市)で誕生しました。 |
JCRRAG_012799 | 歴史 | 徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、本多忠勝である。
旗本部隊の将になるまで
忠勝は古くから家康の家臣として仕えていました。その出会いは幼少期にさかのぼります。
徳川家の最古参譜代として
忠勝は、天文17年(1548)本多忠高の長男として三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市)で誕生しました。本多氏は松平氏に仕えた最古参の譜代で、忠勝も幼い頃から家康に仕えていたといいます。うまれてすぐに父を亡くした彼は、叔父・本多忠真のもとで育ち、永禄3年(1560)13歳のときに桶狭間の戦いの前哨戦となる大高城兵糧入れで初陣を果たしました。
一方、主君・家康は幼少時から人質生活を送っており、桶狭間の戦いのころは今川義元の配下として動いていましたが、この戦いで義元が織田信長に倒されると今川家からの独立を果たします。
三河一向一揆で家康方に
独立した家康が信長と清洲同盟を締結したあと、忠勝はさまざまな戦いに参加しました。永禄6年(1563)9月には、三河の一向宗門徒が家康に反抗し三河一向一揆が勃発。この一揆では、のちに家康の参謀となる本多正信をはじめ多くの本多一族が敵になりましたが、忠勝は一向宗から浄土宗に改宗し、家康側として戦い武功を上げました。これらの功績により、忠勝は旗本先手役に抜擢。以後は家康の居城近くに住んで旗本部隊の将として活躍しました。
徳川四天王としての活躍
忠勝は躍進を続け、徳川四天王と呼ばれるほどの人物になります。そして徳川家中で盤石な地位を築いたのです。
多くの戦いで勇名を馳せる!
元亀元年(1570)姉川の戦いが勃発し、忠勝は1万人の朝倉軍の中に乗り込み敵将・真柄直隆(十郎左衛門)との一騎討ちで勇名を馳せました。元亀3年(1572)の二俣城の戦いでは、前哨戦の偵察隊として動くも武田軍に遭遇。このとき忠勝は殿軍を務め家康本隊を無事に撤退させています。その後も、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、高天神城奪還戦などで武功を上げ、その活躍は敵味方を問わず称賛されました。家康も「まことに我が家の良将なり」と絶賛したといいます。
わずか500人で大軍を威嚇
天正10年(1582)信長が本能寺の変で死去した際、家康は信長から招かれわずかな供回りで堺を見物中でした。信長の死を知った家康は決死の「伊賀越え」を敢行しますが、この家康最大のピンチといわれる場面にも忠勝は付き従っています。また、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、留守を任されたものの徳川軍が苦戦していることを知り、わずか500の兵で駆け付け豊臣方の大軍の戦意を喪失させました。この活躍は、豊臣秀吉から「東国一の勇士」と称賛され、織田信雄も刀を授けるほどだったそうです。
家臣団中2位の石高を得る
家康が秀吉の傘下に入り関東に移封されると、忠勝は上総国夷隅郡大多喜(現在の千葉県夷隅郡大多喜町)に10万石を与えられました。これは徳川家臣団中、第2位の石高だったといいます。家康は江戸から遠くに忠勝を配置していますが、これは敵が攻めてくる国境に譜代の武将を配置するという考えによるものでした。忠勝は安房国・里見氏の北上を防ぐため、居城・大多喜城を大改修するとともに城下町を建設。この城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしました。 | 忠勝は、天文17年(1548)本多忠高の長男としてどこで誕生しましたか。 | 忠勝は、天文17年(1548)本多忠高の長男として三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市)で誕生しました。 |
JCRRAG_012800 | 歴史 | 徳川四天王のなかでも徳川家随一の強さを誇った人物は、本多忠勝である。
旗本部隊の将になるまで
忠勝は古くから家康の家臣として仕えていました。その出会いは幼少期にさかのぼります。
徳川家の最古参譜代として
忠勝は、天文17年(1548)本多忠高の長男として三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市)で誕生しました。本多氏は松平氏に仕えた最古参の譜代で、忠勝も幼い頃から家康に仕えていたといいます。うまれてすぐに父を亡くした彼は、叔父・本多忠真のもとで育ち、永禄3年(1560)13歳のときに桶狭間の戦いの前哨戦となる大高城兵糧入れで初陣を果たしました。
一方、主君・家康は幼少時から人質生活を送っており、桶狭間の戦いのころは今川義元の配下として動いていましたが、この戦いで義元が織田信長に倒されると今川家からの独立を果たします。
三河一向一揆で家康方に
独立した家康が信長と清洲同盟を締結したあと、忠勝はさまざまな戦いに参加しました。永禄6年(1563)9月には、三河の一向宗門徒が家康に反抗し三河一向一揆が勃発。この一揆では、のちに家康の参謀となる本多正信をはじめ多くの本多一族が敵になりましたが、忠勝は一向宗から浄土宗に改宗し、家康側として戦い武功を上げました。これらの功績により、忠勝は旗本先手役に抜擢。以後は家康の居城近くに住んで旗本部隊の将として活躍しました。
徳川四天王としての活躍
忠勝は躍進を続け、徳川四天王と呼ばれるほどの人物になります。そして徳川家中で盤石な地位を築いたのです。
多くの戦いで勇名を馳せる!
元亀元年(1570)姉川の戦いが勃発し、忠勝は1万人の朝倉軍の中に乗り込み敵将・真柄直隆(十郎左衛門)との一騎討ちで勇名を馳せました。元亀3年(1572)の二俣城の戦いでは、前哨戦の偵察隊として動くも武田軍に遭遇。このとき忠勝は殿軍を務め家康本隊を無事に撤退させています。その後も、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、高天神城奪還戦などで武功を上げ、その活躍は敵味方を問わず称賛されました。家康も「まことに我が家の良将なり」と絶賛したといいます。
わずか500人で大軍を威嚇
天正10年(1582)信長が本能寺の変で死去した際、家康は信長から招かれわずかな供回りで堺を見物中でした。信長の死を知った家康は決死の「伊賀越え」を敢行しますが、この家康最大のピンチといわれる場面にも忠勝は付き従っています。また、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、留守を任されたものの徳川軍が苦戦していることを知り、わずか500の兵で駆け付け豊臣方の大軍の戦意を喪失させました。この活躍は、豊臣秀吉から「東国一の勇士」と称賛され、織田信雄も刀を授けるほどだったそうです。
家臣団中2位の石高を得る
家康が秀吉の傘下に入り関東に移封されると、忠勝は上総国夷隅郡大多喜(現在の千葉県夷隅郡大多喜町)に10万石を与えられました。これは徳川家臣団中、第2位の石高だったといいます。家康は江戸から遠くに忠勝を配置していますが、これは敵が攻めてくる国境に譜代の武将を配置するという考えによるものでした。忠勝は安房国・里見氏の北上を防ぐため、居城・大多喜城を大改修するとともに城下町を建設。この城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしました。 | 忠勝は一向宗から浄土宗に改宗し、誰側として戦い武功を上げましたか。 | 忠勝は一向宗から浄土宗に改宗し、家康側として戦い武功を上げました。 |
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