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JCRRAG_017801 | 歴史 | 高山城とゆかりの建築群
近世初期、天正16年(1588)から慶長8年(1603)まで16年の年月をかけて飛騨匠たちが建てた高山城は、「城郭の構え、およそ日本国中に五つともこれ無き見事なるよき城地」であったと、近世中期の地誌にも書かれた名城であった。城は元禄8年(1695)に取り壊されたが、それ以前に高山城から移築された建物が東山の寺院群等の建物として残されており、それらを巡ることで今は無き名城高山城をしのび、商家町として発達する以前、城下町として出発したころの高山を感じることができる。神明神社絵馬殿は城内の月見平にあった月見殿、雲龍寺鐘楼門は黄雲閣を移築改修したものである。素玄寺本堂は三ノ丸の評議所を移築したもので、同じく城内から移築された法華寺本堂とともに書院造の面影を残すものである。また、高山陣屋内の御蔵も三ノ丸の米蔵を移築されたものである。これらの建物は比較的細い部材を使うが、簡素な中に優雅さと、通常の社寺建築とは異なる力強さを感じさせる。これも飛騨匠の用材の見事さとセンスによるものである。 | 高山城は天正16年(1588年)に築城が始まり、慶長8年(1603年)まで16年間かけて築かれました。
この城が元禄8年(1695年)に取り壊された場合、築城完了から取り壊しまで何年間存在していたことになりますか。 | 築城完了から取り壊しまでは92年です。 |
JCRRAG_017802 | 歴史 | 秀吉は中国地方にいて、信長の死を聞いて相当あわてた。
その第一報は、黒田如水の所へ京都の長谷川宗仁というものから飛脚が来たというものである。
秀吉は、情報が外部に漏れるといけないからその飛脚を殺せと云った。
如水は、手柄こそあれ殺すような話じゃないといって、秀吉に内緒でかくまったというが、寛大で慈悲深い秀吉が、そんな事を言い出すのだから、かなりあわてていたに違いない。
むろん、毛利には信長の訃報を秘密にして、和を講じた。和平が成立した後、信長の訃報を知らせて、わが軍に追撃をするかどうかと聞いた。毛利の方でも、ちょっと迷ったが例の小早川隆景、秀吉の度量を知って、このうえ戦う事への不利を説いたので、秀吉後顧の憂いなしに京師に走らせ上ることが出来た。その上毛利の旗を借りて、毛利の援兵がいるように見せかけることにした。当時秀吉の居城は、姫路である。秀吉麾下の者にとっては、故郷である。
備中の陣に、兇報が来たとき、黒田如水は秀吉に悔みをいうかわりに、するするとそばへ寄って、その膝を叩き、
「ついに運が開きましたね!天下取りがんばりましょう!」
といった。
秀吉が心の底で思っていることをあまりに露骨に言うものだから、秀吉は生涯如水を信頼しながらも少しためらうところがあったといわれている。
秀吉だって、信長の死はわが開運のチャンスと思ったに違いない。光秀は、私憤を利用して、無理にそういうチャンスを作ろうとし、秀吉は、偶然そういうチャンスが到来したので、信長の死をチャンスだと考える点では、同じであっただろう。
だからこそ『太閤記』の作者は
「天下が正しい道に進むかは山崎の一戦にかかっている。天下間違った道に進むかも山崎の一戦にかかっている。正しいと言っても完全に正しくはないだろうし、その逆もある、順も逆もどちらも似て非なるものではあるが、これを明らかにする鏡は無く、これを察する人間もいない、英雄が知恵を使って、天下の全てをもてあそぶ事はそもそも天の意志なのだろうか」となかなかしゃれた事をいっている。 | 信長の死を知って豊臣秀吉は天下を取るチャンスだと思いましたか。 | 内心天下を取る機会だと思っていた。 |
JCRRAG_017803 | 歴史 | 江戸幕府13代将軍は、徳川家定です。
徳川家定の死因は、通説として「脚気衝心」(かっけきょうしん:ビタミン欠乏症による心不全)あるいは当時流行した「コレラ」(経口感染症の一種)だと言われていますが、大奥では「毒殺説」がまことしやかに囁かれていました。
それが窺えるのが、大奥に奉公していた女中「藤波」(ふじなみ)が、徳川家定が没した翌日に弟に向けて書いたとされる手紙。
そのなかに、水戸や尾張、一橋、「越前松平家」(えちぜんまつだいらけ)など、この辺りの者が皆で共謀し、徳川家定を毒殺したと書かれた一文があったと伝えられています。
しかし藤波は、「御目見以下」(おめみえいか:将軍に謁見する資格がないこと)の身分であり、当時の政治について、その詳細が分かる立場ではないと考えられるため、この手紙に書かれていた内容がすべて正しいとは言い切れませんが、大奥の中では、将軍継嗣問題において徳川慶喜を推していた、徳川斉昭を中心とする一橋派が、徳川家定の決定を恨んで毒殺したのではないかというような噂も流れていたようです。
このように、徳川家定の死の真相は明らかになっていないですが、その遺体は東京都台東区にある「寛永寺」(かんえいじ)に埋葬され、他の徳川歴代将軍5人と共に、重要文化財に指定されている「徳川歴代将軍御霊廟」(とくがわれきだいしょうぐんごれいびょう)のひとつである「常憲院霊廟」(じょうけんいんれいびょう)に祀られています。
徳川家定が用いていたと伝えられる刀剣のひとつが、「太刀 銘 常遠」です。本太刀は、「川越藩」(かわごえはん)の藩主であり、幕末の江戸幕府において外国奉行や老中といった役職を歴任した「松平康英」(まつだいらやすひで)から、徳川家定に献上されたと言われています。
「古備前物」(こびぜんもの)の刀剣として伝来した本太刀の作者「常遠」(つねとお)は、備中国(びっちゅうのくに:現在の岡山県西部)で作刀活動を行なっていた「妹尾派」(せのおは)の刀工。妹尾派の刀剣はあまり現存していないため、本太刀は貴重な1振であると言えます。 | 江戸幕府13代将軍の遺体はどこに埋葬されたか。 | 江戸幕府13代将軍の遺体は東京都台東区にある寛永寺に埋葬された。 |
JCRRAG_017804 | 歴史 | チューリッヒでのアインシュタイン教授のことを私は上の文に記しましたが、その後世界大戦が勃発し、それが一九一八年にようやく収まった後に、教授のその間に発表しました一般相対性理論が世界的に著名となったので、わが日本国でも改造社の山本実彦氏が京都帝国大学の西田教授と相談して教授を招聘することを決定し、私もこの話を聞いて、私も大いに賛成したのでした。しかし実はこのころアインシュタイン教授は諸方からの同様な招聘に悩まされて、多くはそれを謝絶していられたということを後に親しく話されたのでしたが、それにもかかわらずわが国からの招聘を快諾されたということは、教授がいかに多く東洋への興味をもっていられたかを示すのでありました。改造社からは当時ベルリンに滞在していた社員室伏氏を通じてこれをアインシュタイン教授に謀るとともに、私からも一書を親しく同教授に送ったのでした。それは大正十年夏のことであり、その後十二月に招聘の契約書を送りましたが、翌年五月にそれに対する承諾書が来ました。それには九月にドイツのライプチッヒで自然科学者大会が開かれるが、これは創立百年の記念会であるから、そこでの講演を終えて後に直ちに出発することにすると記してあり、その書信の終わりには、
「あなたとこの秋にお目にかかること、そして私たちにとってはお伽噺の幔幕で包まれている輝かしいあなたの国を知ることをよろこばしくもくろみながら
親しい挨拶をもって
あなたの親愛な
アルバート=アインシュタイン です」
という懐かしい言葉が添えられてました。かくて十月八日マルセイユ出帆の北野丸に塔乗して十一月十七日に神戸に到着されたのです。私たちはそれを神戸で出迎えましたが、東京帝大の長岡教授、九州帝大の桑木教授、東北帝大の愛知教授なども来合わせられました。天候が悪く船がやや遅れたので、その日は京都に着いたのも日暮れになってしまい、都ホテルで一泊の後、翌日直ちに東京に向かわれたのでした。それから東京、仙台、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡の七ヶ所で講演を行ない、十二月二十九日に榛名丸に門司で乗船して帰国の途に就かれたのでしたが、それらの間に夫人とともに講演の合間を縫って、浅草、松島、日光、熱田、京都、奈良など六ヶ所を観光し、また東洋の芸術を見て驚異の感に打たれられたようでもありました。そのとき私が記した文をここに再録して記念としたいと思います。 | アインシュタインが日本に訪れて講演と観光を行った場所のうち、数が多かった方を教えてください。 | アインシュタインが日本に訪れて講演と観光を行った場所のうち、数が多かった方は講演で七か所です。 |
JCRRAG_017805 | 歴史 | 南海諸島の命名慣習
いにしえの太郎・二郎・三郎は、今日の太郎・二郎・三郎のような人の名ではないのです。単に同じ人の長次男ということを意味するばかりで、普通の名詞です。全体普通名詞と固有名詞との区別は、よく考えてみればほとんと境界がないのでありまして、同じ名で呼ぶものが幾つもあればもちろん普通名詞でありますが、その物が偶然にも一つしかなければどちらとも見られるのであります。馬琴の『弓張月』を読んだ人は、八丈島の男女が四郎五郎とか、三郎長女とかいう名をもっていた事を記憶しておられるでしょう。あれはもちろん南島における命名慣習を、小説の材料にしたもので、父が祖父の長男であれば太郎で、自分がその三男であれば太郎三郎と名乗る、自分の五男は三郎五郎と名づけるとか、三郎の姉娘は三郎長女と名づけるというような、簡単な名の付け方であったのであります。
権兵衛作や勘太作
八年ほど前に伊豆の大島へ行った時には、この島人が通例名のほかに、右のような古い慣習風味によって人を呼ぶことを目撃したのです。内地でも百姓の仲間では、同じ村の若い者に作造という者が二人いれば、これを区別する方法として父の名を頭に付けて、権兵衛作、勘太作というように呼ぶのもない例ではありませぬ。ロシアではこれが紳士間の普通の作法になっております。
ロシアの名を呼ぶ慣習
英仏などで家名ばかりを単称するのを尊敬の意とするに反して、ロシア国では親しいものの間には「イヴァン」とか「ピヨトル」とか名だけを呼ぶけれども、敬意を表する場合には別に「ムッシュ」も「ヘル」も付けずに、親の名を続けて呼ぶ。たとえば親の名が「ピヨトル」ならば、「イヴァンペトロヴィッチ」と呼び、女ならば「アンナペトロブナ」というように呼びます。 | 内地でも百姓の仲間で、村の若い者に作造という者が二人いた場合、これを区別する方法として父の名を頭に付けて父の名を頭に付けて呼ぶ例の数を教えてください。 | 内地でも百姓の仲間で、村の若い者に作造という者が二人いた場合、父の名を頭に付けて呼ぶ例の数は2で、
「権兵衛作」
「勘太作」
です。 |
JCRRAG_017806 | 歴史 | 安土桃山時代は、1568年から1600年ごろまでの約30年間を指します。この時代は、戦国時代の最終段階であり、織田信長と豊臣秀吉の有名な武将が幕府を開き活躍した時期です。織田信長の勢力が次第に強大になり、足利義昭を奉じて京都に上洛したことで、織田信長が天皇や室町幕府の将軍の権威を利用して畿内および東海地方を支配した。兵農分離や主力武器を弓矢から鉄砲に変える軍事改革を実施した。楽市・楽座、関所の廃止、堺など自治都市の支配や撰銭令などの経済政策が実施された。安土の城を中心に、信長が樹立した中央集権体制が進行し、豊臣秀吉がその後を引き継ぎました。特徴的な文化として茶道や絵画などが栄えた。外交は南蛮貿易や朱印船貿易が長崎や平戸を中心に盛んに行われた。
江戸時代は、1603年から1868年までの約260年間にわたる時代で、徳川家康が江戸幕府を開いたことから始まります。この時代は、平和で安定した時代が続き、商業や文化が発展しました。政治体制は幕藩体制と呼ばれ徳川幕府による安定した統治が行われた。特徴的な文化として浮世絵、歌舞伎などの発展した。また、鎖国政策がとられ、外国との交流が制限されていたのも特徴です。 | 安土桃山時代と江戸時代で文化の違いを説明してください。 | 安土桃山時代は茶道や絵画などが栄えたが、江戸時代は浮世絵、歌舞伎などが発展した。 |
JCRRAG_017807 | 歴史 | 飛騨の社寺建築の美しさの一つに、屋根の優美さがある。飛騨の山々の形に似た美しさを見せる社寺建築の屋根の曲線は、親方から代々伝わる口伝を基に、棟梁の感性によって形作られる。装飾で飾られても、全体を見るとすっきりと簡素に見えるのも、職人の技と感性によるものである。町人文化が発達した近世以降、制作者である職人に加え、発注者であり文化の主要な担い手である旦那衆、作品を評価する周囲の町人の三者の優れた感性によって、高山では多くの名建築や工芸品が生まれてきた。
近世飛騨の社寺建築は、和様を基本として柱上の組み物などに他地域とは異なる独自性が見られる。通常のヒノキやスギでなく、カツラやクリ、マツなど多彩な木材を使うことも大きな特徴であり、ここにも木材を知り尽くした飛騨匠の技を見ることができる。この時代、代々木工を職とする一門が多く現われ、飛騨匠の技の伝承がなされた。このうち、飛騨権守・藤原宗安の直系とされるのが、江戸時代中期以降4代にわたり「水間相模守」を名乗り、優れた彫刻を特徴とした水間一門である。高山中心部には二代目による大雄寺山門や法華寺番神堂、三代目による東山白山神社拝殿、国分寺三重塔がある。また、周辺には東照宮本殿、願生寺本堂、福成寺本堂、速入寺本堂、円徳寺鐘楼等多くの作品があり、一門の作風を知ることができる。水間相模は代々社寺建築を専らとしたが、その流れをくむ者の作品には、それ以外のものもある。村山勘四郎訓縄は彫刻に秀で、相模と共に高山祭屋台を作り、その子民次郎英縄も多くの高山祭屋台を建造改修している。西田伊三郎は木の美しさを最大限生かし、吹き抜けの梁組が特徴的な、近代民家の代表例とされる吉島家住宅を作った。 | 水間一門は、江戸時代中期から4代にわたって「水間相模守」を名乗りました。もし一代がおよそ30年ごとに代替わりしたとすると、水間一門が活動した期間は何年間と推定されますか。 | 水間一門が活動した期間は120年です。 |
JCRRAG_017808 | 歴史 | 元亀元年六月二十八日、織田信長が徳川家康の助けをかりて、江北にある姉川において越前の朝倉義景や江北の浅井長政の連合軍を撃破した。
これが、姉川の合戦である。
この合戦、浅井及び織田においては、野村合戦という。朝倉においては三田村合戦という。徳川は姉川合戦という。後に徳川が天下を取ったのだから、結局名前も姉川合戦になったというわけである。
元来、織田家と朝倉家とは仲が悪かった。両家とも欺波家の家老であった。
応仁の乱の時に斯波家も両方に分れたとき、朝倉は宗家の義廉に背いた治郎大輔義敏の肩を持った。
そして策略をめぐらせて義敏から越前の守護職をゆずらせ、越前の国主になった。
織田家は宗家の義廉に仕えて、信長の時代まで、とにかく形式だけでも斯波の家臣となっていた。
だから織田からしたら朝倉は主君にそむく臣下の家であったわけだし、朝倉の方からしたら、織田は家臣の家臣の家じゃないかと見下していた。
だが、両家の間に美濃の斎藤という緩衝地帯があるうちはまだよかった。それが無くなった今はいつ衝突してもおかしくなかった。
江北三十九万石の領主浅井長政は、その当時まだ二十五歳の若者であったが非常に勢いがあり、彼を敵に回しては信長が京都を出るにしても不便だった。
信長は妹おいちを娘分として、長政と結婚させて親子の間柄になった。
長政は信長と縁者となることについて条件を出した。浅井と越前の朝倉とは、代々親しい間柄であるから、今後朝倉とも争いごとを起こさないでくれというのであった。信長はその条件を受け入れて、越前にかまわないという誓いの紙を、長政に渡した。
永正十一年七月二十八日、信長は長政と佐和山で対面することになった。
佐和山は、当時浅井方の勇将、磯野丹波守の居城であった。
信長からの数々の贈り物に対して長政は備前兼光の太刀を贈った。
この浅井家の太刀を送ったのは、浅井家が滅亡する前兆であったと、後に語り伝えられた。
無力でありながら陰謀好きの将軍足利義昭は、近畿にいる諸侯を集めて、信長を追い払おうとした。
その主力は、越前の朝倉であった。
信長は、朝倉退治のため、元亀元年四月、北陸の雪が溶けるのを待って徳川家康と共に敦賀表に進行した。
しかも前年に長政に渡した約束の書があるにもかかわらず、長政に対して一言の挨拶もなかった。
信長が長政に挨拶しなかったのは、挨拶したら長政の立場が悪くなって困るだろうとの配慮があったのだ、と言われている。
決して、浅井長政を馬鹿にしたのではなく、信長は長政に対してはこれまでにもかなり好遇している。
信長の越前への出発を聞いて、一番腹を立てたのは長政の父久政である。
久政は長政が十六歳のとき、家老達から隠居をすすめられて、長政に家督を譲った位の男なのであまり利口でなく頑固であった。
信長が約束を破った事に怒り、信長のことだから越前の帰りがけにはきっとここへ来て小谷城へも押し寄せて来るに違いない。
そんな危険な信長よりこちらから手を切って朝倉と協力した方がいいと言った。
長政の忠臣である遠藤喜右衛門や赤尾美作は「信長も昔の信長とは違う、今では畿内五州、美濃、尾張、三河、伊勢等十二ヶ国の領主である。以前の信長のように、そんな事をやるわけがない。それに当家と朝倉が合体しても、わずか一国半である。到底信長に適うわけがない。
この際は磯野丹波守に千か二千の兵を出して形式的に信長に対する加勢として越前に言って、ひたすら信長を頼りにした方が良い」といったが久政は一切聴かず、他の家臣達も久政の提案に同意するものが多く、長政も父の命に反対することができずに信長に反旗を翻して前後から信長を挟み撃ちすることになった。
越前にいた信長はが長政が裏切ったと聞いたが、「縁者である上、江北一円を渡してるのだから、不満に思うわけはないんだけど」と、簡単には信じなかったが、これが事実だと知ると、あわてて京都に引き上げた。この時、木下藤吉郎は殿を勤めた。金ヶ崎殿軍として太閣出世譚ものがたりの一頁である。
信長はやがて岐阜に引き上げ、浅井征伐のために大軍を起こして六月十九日に浅井の居城がある小谷に向かった。それが姉川合戦の発端である。 | 姉川の合戦はなぜ起こったのですか。 | 朝倉と事を構えるなと浅井長政と約束したが足利義昭が織田信長に対して朝倉家を主力とした軍勢を差し向けたから。 |
JCRRAG_017809 | 歴史 | 江戸幕府13代将軍は、徳川家定です。
徳川家定の死因は、通説として「脚気衝心」(かっけきょうしん:ビタミン欠乏症による心不全)あるいは当時流行した「コレラ」(経口感染症の一種)だと言われていますが、大奥では「毒殺説」がまことしやかに囁かれていました。
それが窺えるのが、大奥に奉公していた女中「藤波」(ふじなみ)が、徳川家定が没した翌日に弟に向けて書いたとされる手紙。
そのなかに、水戸や尾張、一橋、「越前松平家」(えちぜんまつだいらけ)など、この辺りの者が皆で共謀し、徳川家定を毒殺したと書かれた一文があったと伝えられています。
しかし藤波は、「御目見以下」(おめみえいか:将軍に謁見する資格がないこと)の身分であり、当時の政治について、その詳細が分かる立場ではないと考えられるため、この手紙に書かれていた内容がすべて正しいとは言い切れませんが、大奥の中では、将軍継嗣問題において徳川慶喜を推していた、徳川斉昭を中心とする一橋派が、徳川家定の決定を恨んで毒殺したのではないかというような噂も流れていたようです。
このように、徳川家定の死の真相は明らかになっていないですが、その遺体は東京都台東区にある「寛永寺」(かんえいじ)に埋葬され、他の徳川歴代将軍5人と共に、重要文化財に指定されている「徳川歴代将軍御霊廟」(とくがわれきだいしょうぐんごれいびょう)のひとつである「常憲院霊廟」(じょうけんいんれいびょう)に祀られています。
徳川家定が用いていたと伝えられる刀剣のひとつが、「太刀 銘 常遠」です。本太刀は、「川越藩」(かわごえはん)の藩主であり、幕末の江戸幕府において外国奉行や老中といった役職を歴任した「松平康英」(まつだいらやすひで)から、徳川家定に献上されたと言われています。
「古備前物」(こびぜんもの)の刀剣として伝来した本太刀の作者「常遠」(つねとお)は、備中国(びっちゅうのくに:現在の岡山県西部)で作刀活動を行なっていた「妹尾派」(せのおは)の刀工。妹尾派の刀剣はあまり現存していないため、本太刀は貴重な1振であると言えます。 | 江戸幕府13代将軍が用いていたと伝えられる刀剣のひとつには何があるか。 | 江戸幕府13代将軍が用いていたと伝えられる刀剣のひとつが、「太刀 銘 常遠」である。 |
JCRRAG_017810 | 歴史 | チューリッヒでのアインシュタイン教授のことを私は上の文に記しましたが、その後世界大戦が勃発し、それが一九一八年にようやく収まった後に、教授のその間に発表しました一般相対性理論が世界的に著名となったので、わが日本国でも改造社の山本実彦氏が京都帝国大学の西田教授と相談して教授を招聘することを決定し、私もこの話を聞いて、私も大いに賛成したのでした。しかし実はこのころアインシュタイン教授は諸方からの同様な招聘に悩まされて、多くはそれを謝絶していられたということを後に親しく話されたのでしたが、それにもかかわらずわが国からの招聘を快諾されたということは、教授がいかに多く東洋への興味をもっていられたかを示すのでありました。改造社からは当時ベルリンに滞在していた社員室伏氏を通じてこれをアインシュタイン教授に謀るとともに、私からも一書を親しく同教授に送ったのでした。それは大正十年夏のことであり、その後十二月に招聘の契約書を送りましたが、翌年五月にそれに対する承諾書が来ました。それには九月にドイツのライプチッヒで自然科学者大会が開かれるが、これは創立百年の記念会であるから、そこでの講演を終えて後に直ちに出発することにすると記してあり、その書信の終わりには、
「あなたとこの秋にお目にかかること、そして私たちにとってはお伽噺の幔幕で包まれている輝かしいあなたの国を知ることをよろこばしくもくろみながら
親しい挨拶をもって
あなたの親愛な
アルバート=アインシュタイン です」
という懐かしい言葉が添えられてました。かくて十月八日マルセイユ出帆の北野丸に塔乗して十一月十七日に神戸に到着されたのです。私たちはそれを神戸で出迎えましたが、東京帝大の長岡教授、九州帝大の桑木教授、東北帝大の愛知教授なども来合わせられました。天候が悪く船がやや遅れたので、その日は京都に着いたのも日暮れになってしまい、都ホテルで一泊の後、翌日直ちに東京に向かわれたのでした。それから東京、仙台、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡の七ヶ所で講演を行ない、十二月二十九日に榛名丸に門司で乗船して帰国の途に就かれたのでしたが、それらの間に夫人とともに講演の合間を縫って、浅草、松島、日光、熱田、京都、奈良など六ヶ所を観光し、また東洋の芸術を見て驚異の感に打たれられたようでもありました。そのとき私が記した文をここに再録して記念としたいと思います。 | アインシュタインが日本に訪れて講演と観光を行った場所のうち、数が少なかった方を教えてください。 | アインシュタインが日本に訪れて講演と観光を行った場所のうち、数が少なかった方は観光で六か所です。 |
JCRRAG_017811 | 歴史 | 南海諸島の命名慣習
いにしえの太郎・二郎・三郎は、今日の太郎・二郎・三郎のような人の名ではないのです。単に同じ人の長次男ということを意味するばかりで、普通の名詞です。全体普通名詞と固有名詞との区別は、よく考えてみればほとんと境界がないのでありまして、同じ名で呼ぶものが幾つもあればもちろん普通名詞でありますが、その物が偶然にも一つしかなければどちらとも見られるのであります。馬琴の『弓張月』を読んだ人は、八丈島の男女が四郎五郎とか、三郎長女とかいう名をもっていた事を記憶しておられるでしょう。あれはもちろん南島における命名慣習を、小説の材料にしたもので、父が祖父の長男であれば太郎で、自分がその三男であれば太郎三郎と名乗る、自分の五男は三郎五郎と名づけるとか、三郎の姉娘は三郎長女と名づけるというような、簡単な名の付け方であったのであります。
権兵衛作や勘太作
八年ほど前に伊豆の大島へ行った時には、この島人が通例名のほかに、右のような古い慣習風味によって人を呼ぶことを目撃したのです。内地でも百姓の仲間では、同じ村の若い者に作造という者が二人いれば、これを区別する方法として父の名を頭に付けて、権兵衛作、勘太作というように呼ぶのもない例ではありませぬ。ロシアではこれが紳士間の普通の作法になっております。
ロシアの名を呼ぶ慣習
英仏などで家名ばかりを単称するのを尊敬の意とするに反して、ロシア国では親しいものの間には「イヴァン」とか「ピヨトル」とか名だけを呼ぶけれども、敬意を表する場合には別に「ムッシュ」も「ヘル」も付けずに、親の名を続けて呼ぶ。たとえば親の名が「ピヨトル」ならば、「イヴァンペトロヴィッチ」と呼び、女ならば「アンナペトロブナ」というように呼びます。 | ロシア国では親しいものの間で名を呼ぶ数を教えてください。 | ロシア国では親しいものの間で名を呼ぶ数は2で、
「イヴァン」
「ピヨトル」
です。 |
JCRRAG_017812 | 歴史 | 安土桃山時代は、1568年から1600年ごろまでの約30年間を指します。この時代は、戦国時代の最終段階であり、織田信長と豊臣秀吉の有名な武将が幕府を開き活躍した時期です。織田信長の勢力が次第に強大になり、足利義昭を奉じて京都に上洛したことで、織田信長が天皇や室町幕府の将軍の権威を利用して畿内および東海地方を支配した。兵農分離や主力武器を弓矢から鉄砲に変える軍事改革を実施した。楽市・楽座、関所の廃止、堺など自治都市の支配や撰銭令などの経済政策が実施された。安土の城を中心に、信長が樹立した中央集権体制が進行し、豊臣秀吉がその後を引き継ぎました。特徴的な文化として茶道や絵画などが栄えた。外交は南蛮貿易や朱印船貿易が長崎や平戸を中心に盛んに行われた。
江戸時代は、1603年から1868年までの約260年間にわたる時代で、徳川家康が江戸幕府を開いたことから始まります。この時代は、平和で安定した時代が続き、商業や文化が発展しました。政治体制は幕藩体制と呼ばれ徳川幕府による安定した統治が行われた。特徴的な文化として浮世絵、歌舞伎などの発展した。また、鎖国政策がとられ、外国との交流が制限されていたのも特徴です。 | 安土桃山時代と江戸時代で外交の違いを説明してください。 | 安土桃山時代は南蛮貿易や朱印船貿易が長崎や平戸を中心に盛んに行われたが、江戸時代は鎖国政策がとられ、外国との交流が制限されていた。 |
JCRRAG_017813 | 歴史 | 木の美しさを生かす技は、建築以外にも発揮された。400年前に高山で生まれた飛騨春慶は、江戸時代初期、打ち割った木の木目を生かすために透明な漆で盆に仕上げたことに始まる漆器で、透明で木地の木目が見える漆を用いるため、素材の見立て、加工から漆塗まで全てにわたって高い技術が要求される。宗猷寺には山中を移動しながら木地椀などを作った江戸時代中期以降に築かれた木地師の集団墓地が残されている。一位一刀彫は江戸時代後期、色彩を施さず、イチイの木が持つ木の美しさを生かした彫刻として完成された。これらの伝統工芸の技術や木工技術の粋を結集して作られたのが高山祭屋台である。
古代に生まれた飛騨匠の文化は、飛騨の豊かな自然と豊富な木材に関する知識・経験をもとに、人々の実直な気質によって育まれてきた。これは木と共に生きた1300年の高山の歴史を体感する物語である。 | 高山で生まれた伝統工芸「飛騨春慶」は、今から約400年前に誕生し、飛騨匠文化の始まりは1300年前とされています。
では、飛騨春慶が誕生したのは飛騨匠文化が始まってから何年後ですか。 | 飛騨匠文化が始まってからは900年後です。 |
JCRRAG_017814 | 歴史 | 京都から岐阜に帰って準備を整えた信長は、六月十九日に二万以上の大軍を用意して岐阜を立ち、二十一日早くも浅井の本城がある小谷に迫り町家を焼き払った。しかし、一向に浅井が出て戦わないので引き上げて姉川を渡り、その左岸にある横山城を攻めた。
そして、横山城の北竜ヶ鼻に陣して、家康が来るのを待った。
六月二十七日、家康は約五千以上の騎馬を率いて応援に駆けつけた。
(家康に取っても、大事ないくさであった。信長から加勢をお願いされて、家康の側近と相談したが、本多平八郎忠勝が家康に「信長公を安心の出来る味方と思っているかも知れないが、そうとは限らないと思います。隙あらば殿を面倒な戦いをさせて戦死をするように工作をするとも限りません。
今回の出撃は非常に大事であります」と。
家康はその言葉によろこび、わざと多くの軍勢を引き連れずに行ったのだ。出先で敗れても、国が手薄にならぬ為の用意であった)
長政は、朝倉に対する義理から、好意から信長に背いているのに、肝心の朝倉義景は、この大事な一戦に自ら出向いて来ないのである。
隣の家が焼けているうちは、まだまだという考えなのである。もっとも、そうした暗愚の義景を頼りにしたのは、長政の失敗でもあるが。
長政、朝倉の応援を得て、横山城を救おうとして、二十五日小谷城を出てその東にある大寄山に陣を張った。
翌二十八日には、三十町も進み来り、浅井軍は野村に朝倉勢は三田村に展開した。
かくて、織田徳川軍は姉川を挟んで浅井朝倉軍と南北に対峙した。
今南軍、織田徳川方の陣容を見るに、
織田信長(三十七歳)
――二百四十余万石、兵数六万、姉川に来たのは、その半数――
第一陣 阪井 政尚┐
第二陣 池田 信輝│
第三陣 木下 秀吉│
第四陣 柴田 勝家├(兵各三千)
第五陣 森 可成│
第六陣 佐久間信盛┘
本陣 信長(兵五千余)
横山城への抑え
丹羽 長秀(兵三千)
氏家 直元(兵千)
安藤 範俊(兵千)
徳川家康(二十九歳)
――六十余万石、兵数約一万六千、姉川に来たもの約五千――
第一陣 酒井 忠次(兵千余)
第二陣 小笠原長忠(兵千余)
第三陣 石川 数正(兵千余)
本陣 家康(兵二千余)
外に信長より家康への加勢として
稲葉 通朝(兵千余)
徳川家康の部将の中でも酒井石川は譜代だが、小笠原与八郎長忠だけはそうではない。
小笠原は、元々今川家の大将で武功の勇猛な武将である。家康に従ってはいるが、もし家康が信長へ加勢として上方にでも遠征したら、その隙に遠州をかすめ取るというつもりだった。家康もその辺はちゃんとわかっているので一緒に連れて来たわけである。
つまり、まだ馴れない猛獣に、くさりをつけて引っぱって来て戦争に使おうというのである。
それだけの小笠原であるから、武功の士も多く、姉川においての働きもまた格別であった。
家康が到着した時に信長は遠い所から応援に来たことに感謝しながら、明日はどうか弱そうな所に行って助けてくれといった。
つまり予備隊になってくれというわけだ。
家康はその提案を嫌って、軍は少ないが独立して一つの軍として戦いたいと主張した。
この主張が通らないのなら、本国に引き返しますといった。
信長はそういうのなら、朝倉勢を引き受けて貰いたいといった。もっとも北国の大敵に向わせられるには、お前の軍の数だけでは、あまりに小人数である。私の軍勢から、誰かえらんでくれといった。
家康は、自分は小国で小勢を使う事に慣れているから大勢は使えないし、知らぬ人間に指図するのも気苦労だから、自分の軍勢だけで沢山だと断った。信長は重ねて、朝倉という北国の大軍を家康だけに任せたとあっては、信長が天下の笑いものになるから、義理でもいいから誰かを使ってくれと、ひたすら勧めたので、なら仕方がないので稲葉伊予守貞通を貸してくれといった。
稲葉伊予守は、稲葉一徹で美濃三人衆の一人として、斎藤家以来の名誉の士だった。
茶室で信長に殺されかけたのを、床の間にかかっている韓退之の詩『雲横秦嶺』を読んで自らの命を助けた文武を兼ね備えた豪傑である。
戦いの後、信長は稲葉の功労を褒めて、自分の一字をやって長通と名乗れという。
稲葉はよろこばずして信長に向かって、「殿は盲大将にして、人の剛勇と臆病が分らないのだ。自分は上方勢の中では、槍取る者とも言われるが、徳川殿の中に加わってしまっては、足手まといの弱兵だし役に立ったとも思えないしそんな私の勲功をお褒めになるなど身びいきというもので、三河の人にそう思われる事も恥ずかしいのです」と。自分の勲功を謙遜し、家康勢を褒め上げるなど、外交手段を心得たなかなかの曲者である。
浅井朝倉の陣容は、次の通りだった。
浅井勢
浅井長政(二十六歳)
――三十九万石、兵数約一万――
第一陣 磯野 員昌(兵千五百)
第二陣 浅井 政澄(兵千)
第三陣 阿閑 貞秀(兵千)
第四陣 新庄 直頼(兵千)
本陣 長政(兵三千五百)
朝倉勢(朝倉義景)
――八十七万石、兵数二万、姉川に来りしもの一万――
第一陣 朝倉 景紀(兵三千)
第二陣 前波新八郎(兵三千)
本陣 朝倉 景健(兵四千)
『真書太閣記』によると、浅井朝倉方の戦前の軍議の模様は、左の通りだ。 | 姉川の戦いに徳川家康は乗り気でしたか。 | 徳川家康は姉川の合戦に乗り気ではなく、少数の軍勢で応援に向かいました。 |
JCRRAG_017815 | 歴史 | 江戸幕府13代将軍は、徳川家定です。
徳川家定の死因は、通説として「脚気衝心」(かっけきょうしん:ビタミン欠乏症による心不全)あるいは当時流行した「コレラ」(経口感染症の一種)だと言われていますが、大奥では「毒殺説」がまことしやかに囁かれていました。
それが窺えるのが、大奥に奉公していた女中「藤波」(ふじなみ)が、徳川家定が没した翌日に弟に向けて書いたとされる手紙。
そのなかに、水戸や尾張、一橋、「越前松平家」(えちぜんまつだいらけ)など、この辺りの者が皆で共謀し、徳川家定を毒殺したと書かれた一文があったと伝えられています。
しかし藤波は、「御目見以下」(おめみえいか:将軍に謁見する資格がないこと)の身分であり、当時の政治について、その詳細が分かる立場ではないと考えられるため、この手紙に書かれていた内容がすべて正しいとは言い切れませんが、大奥の中では、将軍継嗣問題において徳川慶喜を推していた、徳川斉昭を中心とする一橋派が、徳川家定の決定を恨んで毒殺したのではないかというような噂も流れていたようです。
このように、徳川家定の死の真相は明らかになっていないですが、その遺体は東京都台東区にある「寛永寺」(かんえいじ)に埋葬され、他の徳川歴代将軍5人と共に、重要文化財に指定されている「徳川歴代将軍御霊廟」(とくがわれきだいしょうぐんごれいびょう)のひとつである「常憲院霊廟」(じょうけんいんれいびょう)に祀られています。
徳川家定が用いていたと伝えられる刀剣のひとつが、「太刀 銘 常遠」です。本太刀は、「川越藩」(かわごえはん)の藩主であり、幕末の江戸幕府において外国奉行や老中といった役職を歴任した「松平康英」(まつだいらやすひで)から、徳川家定に献上されたと言われています。
「古備前物」(こびぜんもの)の刀剣として伝来した本太刀の作者「常遠」(つねとお)は、備中国(びっちゅうのくに:現在の岡山県西部)で作刀活動を行なっていた「妹尾派」(せのおは)の刀工。妹尾派の刀剣はあまり現存していないため、本太刀は貴重な1振であると言えます。 | 徳川家定が用いていたと伝えられる刀剣のひとつは、誰から家定に献上されたか。 | 徳川家定が用いていたと伝えられる刀剣のひとつは、川越藩の藩主である松平康英から、家定に献上された。 |
JCRRAG_017816 | 歴史 | 文久二年八月、龍馬は江戸に向かい、剣客である千葉重太郎と共に、氷川にある勝海舟の家を訪れた。
世間の評判通りに、勝が開国論者で売国奴だったなら刺し殺すつもりだったのである。
案内されるままに海舟の室に入り、次の間で帯刀をほどこうとすると、
「時節柄刀を放すのは武士の油断だ。そのままでお入りなさい」
という。
一礼して座に着くと、勝は姿勢を正して、
「今日は拙者を刺しに来たのだな。隠しても駄目だ。気を使っているのがわかる」
と一喝しておいて、「死ぬも生きるも命次第だ、私には避けようがない。ただまずは私の胸の内の熱い思いを聞いてくれ。その後に理由があるなら従おう」
と言って、欧米海軍の盛大である事と、その持論である海軍振興策をとうとうと話した。
勝は万延元年に、幕府の77名いる万延元年遣米使節の1人として、海外の新文明に接しているのである。
その話は広く物事に通じており、また要点を巧みに探り当てていることを、田舎者の龍馬にしたらただ呆然として聞いていたのだろう。
ものにこだわらない龍馬のことだ。すぐに海舟の門人になることを申し込んだ。
龍馬はこの時の喜びを、率直に故郷の姉に告げている。
「人間の一生なんて何が起こるかわからない、
運の悪い者は風呂から出ようとして睾丸を爪で割って死ぬ奴だって二人はいるだろう、
出かけようとして空から犬が降ってきて死ぬ奴だって三人はいるだろう。
それと比べたら私は運が強く、死ねる場所へ出ても死ぬことはできない。自分で死のうと思っても生きねばならならない、
今では日本一の人物である勝麟太郎殿という方の弟子となり、思いついた事を一生懸命頑張っている日々だ」
龍馬は元来倒幕論者だ。それが幕臣である勝海舟に心服したのは、海舟の中に時流に超越した、一種の人格を認めたからである。
海舟も同時に龍馬の天禀の才を認めていた。
かつて龍馬が西郷隆盛を評して、
「馬鹿も馬鹿、あいつは底の知れぬ大馬鹿である。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴り」
と放語したのに三嘆し、その日記に、
「評する人も評する人、評価される人も評価せらるる人」と特記した。
坂本は西郷の様に、所謂大馬鹿に成り切れぬところに、その長所があり、短所があったわけである。 | 坂本龍馬が運が悪くて死ぬ例として挙げたもののうち、少ないほうを教えてください。 | 坂本龍馬が運が悪くて死ぬ例として挙げたもののうち、少ないほうは「風呂から出ようとして睾丸を爪で割って死ぬ奴」で二人です。 |
JCRRAG_017817 | 歴史 | 南海諸島の命名慣習
いにしえの太郎・二郎・三郎は、今日の太郎・二郎・三郎のような人の名ではないのです。単に同じ人の長次男ということを意味するばかりで、普通の名詞です。全体普通名詞と固有名詞との区別は、よく考えてみればほとんと境界がないのでありまして、同じ名で呼ぶものが幾つもあればもちろん普通名詞でありますが、その物が偶然にも一つしかなければどちらとも見られるのであります。馬琴の『弓張月』を読んだ人は、八丈島の男女が四郎五郎とか、三郎長女とかいう名をもっていた事を記憶しておられるでしょう。あれはもちろん南島における命名慣習を、小説の材料にしたもので、父が祖父の長男であれば太郎で、自分がその三男であれば太郎三郎と名乗る、自分の五男は三郎五郎と名づけるとか、三郎の姉娘は三郎長女と名づけるというような、簡単な名の付け方であったのであります。
権兵衛作や勘太作
八年ほど前に伊豆の大島へ行った時には、この島人が通例名のほかに、右のような古い慣習風味によって人を呼ぶことを目撃したのです。内地でも百姓の仲間では、同じ村の若い者に作造という者が二人いれば、これを区別する方法として父の名を頭に付けて、権兵衛作、勘太作というように呼ぶのもない例ではありませぬ。ロシアではこれが紳士間の普通の作法になっております。
ロシアの名を呼ぶ慣習
英仏などで家名ばかりを単称するのを尊敬の意とするに反して、ロシア国では親しいものの間には「イヴァン」とか「ピヨトル」とか名だけを呼ぶけれども、敬意を表する場合には別に「ムッシュ」も「ヘル」も付けずに、親の名を続けて呼ぶ。たとえば親の名が「ピヨトル」ならば、「イヴァンペトロヴィッチ」と呼び、女ならば「アンナペトロブナ」というように呼びます。 | ロシア国で敬意を表する場合に付けないと言われている言葉の数を教えてください。 | ロシア国で敬意を表する場合に付けないと言われている言葉の数は2で、
「ムッシュ」
「ヘル」
です。 |
JCRRAG_017818 | 歴史 | 江戸時代は、1603年から1868年までの約260年間にわたる時代で、徳川家康は征夷大将軍に就くと、領地である江戸に幕府を開き、ここに江戸幕府(徳川幕府)が誕生する。豊臣秀吉死後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れるとともに、大坂の陣(大坂の役)により豊臣氏勢力を一掃。その後の島原の乱も鎮圧することで、平安時代以降、700年近く続いた政局不安は終焉を迎えた。以後200年以上長期安定政権の基盤を確立し、「元和偃武」とよばれる平和状態が日本にもたらされた。この時代は、平和で安定した時代が続き、商業や文化が発展しました。政治体制は幕藩体制と呼ばれ徳川幕府による安定した統治が行われた。特徴的な文化として浮世絵、歌舞伎などの発展した。また、鎖国政策がとられ、外国との交流が制限されていたのも特徴です。
明治時代は1868年10月23日(明治元年9月8日)[注釈 2]から1912年(明治45年)7月30日までの45年間で天皇が中心となり、中央集権的な近代国家が形成され憲政体制に移行した時代です。政治体制としては、封建制に代わり、天皇を中心とする近代的中央集権制が確立された。西洋文化が流入し、教育制度や科学技術も取り入れられました。これにより、洋服や西洋の食事が普及し、日本の文化が大きく変わりました。明治時代になって開国し、多くの国と交友を結ぶようになりました。この時期に日本は国際的な舞台に立ち、列強の一員としての道を歩み始めます。 | 江戸時代と明治時代の統治統制の中心人物の違いを説明してください。 | 江戸時代は徳川幕府を中心とした統治が行われましたが、明治時代は天皇を中心とした統治が行われた。 |
JCRRAG_017819 | 歴史 | 忍者の里を歩くと、奇妙な風景に包まれる。小高い丘陵に囲まれた風景が行けども行けども続き、迷路のような奥地に誘い込まれる。丘陵の裾野に張り付くように集落が点在し、家々は細かな谷に遮られて見えにく、隠れ里と呼ばれるのに相応しい。上空から見ると細かく枝分れしたような複雑な谷地形が広がっている。こうした独特の地形は今から300万年前の古琵琶湖層という粘土層が侵食されて出来上がった。見晴らしのよい丘陵の先端や谷の入口には必ずといっていいほど城跡があり、侵入者は谷の両側から攻撃を仕掛けられると、袋のねずみのように退路を遮れた。守りが堅く、攻め難い、これが忍者の里である。
城といっても石垣はなく、土を盛り上げ一辺約50m程の土塁で四方を囲んだ館タイプの城館で、土塁の高さは優に5mを越え異様に高い。その数は伊賀、甲賀で800箇所にも及び、日本有数の城館密集地帯である。なぜこのような姿になったのか、それは忍者の組織に求めることができる。 | 伊賀と甲賀の地には800箇所もの城館があり、それぞれがおおよそ50m四方の土塁で囲まれています。これらの城館の総計でどれだけの面積を占めているか。 | 城館が占める総面積は 200万平方メートルです。 |
JCRRAG_017820 | 歴史 | 浅井を敵にまわした織田勢の方は、もっと苦戦していた。
浅井方の第一陣にいる磯野丹波守は勇猛無双の大将だ。
その他彼に従う高宮三河守や大野木大和守、誰もが優れた勇敢な武士達である。
もともと浅井軍は強いのだ。
だから木下藤吉郎が一番陣を望んだが許されなかった。
それは秀吉の軍勢は何年も近江にいて浅井軍と接触しているため、浅井の強さを恐れているだろうという理由だった。
だからこそ信長も長政を味方にしておきたかったのだ。
丹波守を先頭に総勢五千以上の騎馬隊が織田の一番陣、酒井右近の陣に攻めかかる。
丹波守自ら槍をとって先頭を進み、騎馬隊の強者達に真っ向から対峙した。
右近の陣は鉄砲に打ちすくめられ久蔵を初め百余人撃たれて、敗走した。
池田勝三郎も丹波守の猛威に恐れおののいて敗走した。
家康の方が早くも朝倉勢対してに勝ち目を見せ初めたので家康の援軍として控えている稲葉一徹が「家康の方はもう大丈夫だろう」と見て浅井勢の右翼に横槍を入れたのと、横山城を抑える役目用に残しておいた氏家卜全と安藤伊賀とが浅井勢の左翼を攻撃した。
こうした両サイドからの挟み撃ちによって、織田軍はやっと盛り返して浅井勢を倒し、姉川の戦いを制したのだ。
戦の後に信長が「義濃三人衆が弱かったらわが軍の旗本たちがもっと頑張っただろうに」といって稲葉、氏家、安藤三人に感謝状と名馬、太刀等をやったところを見ると、戦いの様子が分かるだろう。
それに家康の方が先に朝倉に勝ったので、浅井の兵士たちも不安になって乱れ始めたのだろう。
徳川と織田とは、かなり離れて戦っているつもりだったが、最後には乱戦になったらしく、酒井忠次の払った長刀の切っ先が信長勢である池田勝三郎信輝の股間に当たったくらいだ。
後年、人呼んでこの傷を「左衛門キズ」といった。
池田と酒井は戦の前夜に信長の前で、「家康を先陣にするかしないか」で議論をし合った仲なのだ。
その時酒井は、「とにかく言ってもしょうがない。全ては明日どうなるかだ」と言って別れて帰った。
だから酒井の長刀が池田の股に当たったことは二人とも第一戦に立って奮戦していたわけで、双方とも前夜の言葉にウソがなかったわけで、「とんでもない振る舞いだな」と人々は言い合ったという。 | 姉川の合戦で織田軍はどうやって勝ったのですか。 | 織田軍は苦戦を強いられていたが義濃三人衆の働きによって盛り返した。 |
JCRRAG_017821 | 歴史 | 1846年(弘化3年)、「紀州藩」(きしゅうはん)の11代藩主「徳川斉順」(とくがわなりゆき)のもとに誕生したのは、「徳川家茂」(とくがわいえもち)です。
徳川家茂は元々徳川将軍家ではなく、紀州藩の跡継ぎだったのです。
しかし、徳川斉順は徳川家茂が生まれる16日前に亡くなっていたため、紀州藩の12代藩主には、徳川家茂の叔父にあたる「徳川斉彊」(とくがわなりかつ)が継いでいました。
ところが、徳川斉彊も30歳の若さで亡くなり、まだ4歳であった徳川家茂が、紀州藩13代藩主の座に就くことになったのです。
徳川家茂は1851年(嘉永4年)に元服し、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)より「偏諱」(へんき:貴人などの名前2字のうちの1字)を賜り、幼名の「菊千代」(きくちよ)から「慶福」(よしとみ)へ改名します。
徳川家茂は紀州藩主継嗣として育てられましたが、生まれてから将軍になるまでの期間を、江戸にある紀州藩邸(現在の東京都港区)で過ごしており、紀州藩に行ったことは1度もなかったのです。
この当時の江戸幕府では、13代将軍の「徳川家定」(とくがわいえさだ)に子どもがおらず、後継者問題で揺れていました。
その次期将軍の候補には、譜代筆頭であった「井伊直弼」(いいなおすけ)を中心とした「南紀派」(なんきは)が推した徳川家茂と、「水戸藩」(みとはん)の9代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)ら「一橋派」(ひとつばしは)が推した「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)のちの「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が挙げられ、両派の間で熾烈な争いが繰り広げられたのです。
1858年(安政5年)4月には、南紀派の井伊直弼が将軍に次ぐ最高職である大老に就任し、幕府における井伊直弼の発言権が強大化しました。そして徳川家茂は、1858年6月に徳川家定の継嗣となることが決定されます。
ところが同年7月、徳川家定が病没したことを受け、徳川家茂は同年10月、14代将軍に就任。徳川家茂は、継嗣となることが決められたわずか4ヵ月後に、将軍の座に就くこととなりました。 | 1846年、徳川斉順のもとに誕生した人物は、元々徳川将軍家ではなく、どこの跡継ぎだったか。 | 1846年、徳川斉順のもとに誕生した人物は、元々徳川将軍家ではなく、紀州藩の跡継ぎだった。 |
JCRRAG_017822 | 歴史 | 文久二年八月、龍馬は江戸に向かい、剣客である千葉重太郎と共に、氷川にある勝海舟の家を訪れた。
世間の評判通りに、勝が開国論者で売国奴だったなら刺し殺すつもりだったのである。
案内されるままに海舟の室に入り、次の間で帯刀をほどこうとすると、
「時節柄刀を放すのは武士の油断だ。そのままでお入りなさい」
という。
一礼して座に着くと、勝は姿勢を正して、
「今日は拙者を刺しに来たのだな。隠しても駄目だ。気を使っているのがわかる」
と一喝しておいて、「死ぬも生きるも命次第だ、私には避けようがない。ただまずは私の胸の内の熱い思いを聞いてくれ。その後に理由があるなら従おう」
と言って、欧米海軍の盛大である事と、その持論である海軍振興策をとうとうと話した。
勝は万延元年に、幕府の77名いる万延元年遣米使節の1人として、海外の新文明に接しているのである。
その話は広く物事に通じており、また要点を巧みに探り当てていることを、田舎者の龍馬にしたらただ呆然として聞いていたのだろう。
ものにこだわらない龍馬のことだ。すぐに海舟の門人になることを申し込んだ。
龍馬はこの時の喜びを、率直に故郷の姉に告げている。
「人間の一生なんて何が起こるかわからない、
運の悪い者は風呂から出ようとして睾丸を爪で割って死ぬ奴だって二人はいるだろう、
出かけようとして空から犬が降ってきて死ぬ奴だって三人はいるだろう。
それと比べたら私は運が強く、死ねる場所へ出ても死ぬことはできない。自分で死のうと思っても生きねばならならない、
今では日本一の人物である勝麟太郎殿という方の弟子となり、思いついた事を一生懸命頑張っている日々だ」
龍馬は元来倒幕論者だ。それが幕臣である勝海舟に心服したのは、海舟の中に時流に超越した、一種の人格を認めたからである。
海舟も同時に龍馬の天禀の才を認めていた。
かつて龍馬が西郷隆盛を評して、
「馬鹿も馬鹿、あいつは底の知れぬ大馬鹿である。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴り」
と放語したのに三嘆し、その日記に、
「評する人も評する人、評価される人も評価せらるる人」と特記した。
坂本は西郷の様に、所謂大馬鹿に成り切れぬところに、その長所があり、短所があったわけである。 | 坂本龍馬が運が悪くて死ぬ例として挙げたもののうち、多いほうを教えてください。 | 坂本龍馬が運が悪くて死ぬ例として挙げたもののうち、多いほうは「出かけようとして空から犬が降ってきて死ぬ奴」で三人です。 |
JCRRAG_017823 | 歴史 | 欧洲における同一慣習
スカンジナビアではこれとよく似ていて、その国人の名字というのは多くは皆親の名から作った名字です。たとえば「アンデルセン」の「セン」は英語の「Son」という字で、「アンデル」の子という意味です。今では代々この家号を伝えているけれども、いずれの時代にかロシアと同じく、本人の名の後にだれそれの子ということを添えて、呼んだ習慣が残っているのであります。
「ソン」または「セン」という語尾のある名字は、北欧系統の諸民種、英人にもドイツ人にもその時その時、これを見かけるのです。また英国人の中に家名の頭に「マック」というのは、これまた子という意味であるから、やはり同一慣習であります。「フィッツゼームス」とか、あるいは「フィッツゼラルド」とかいう名字の「フィッツ」も同じく子供という意味であって、いずれも前述の三郎五郎、四郎太郎、権兵衛作の類によって、ただちにその由来を知ることができるのであります。
支那と日本と共通の慣習
出産の順番で人の字を呼ぶことは、西洋と共通でない慣習でありますが、中国には古くから存在しておったのです。支那では同じ家族に属するいとこの列まで合わせて、長幼の別をもって数字の番号を付ける、その例は『唐詩選』などを見ても人の名を呼ばずに、「王十一の某処に往くを送る」という題があります。この十一は同族間の長幼の順序が、十一番目ということです。かくのごとく通例数字ばかりで呼ぶけれども、また時として郎の字を付けることもありました。郎は「むすこさん」という意味です。則天武后の臣下に張某という非常に美しき男がいました。そこである人はこの人に媚びて「三郎は蓮花に似たり」といったところが、またある者が「蓮花が三郎に似たるなり」といったという話もあります。この三郎はすなわちその例であります。
日本における昔の命名慣習
日本の太郎・次郎も、唐朝文明の輸入の際に、中国風を真似たのであります。それ以前はどんな風に呼んでいたか、明白ではありませんが、皇族の字として稚郎子、仲大兄などと称えたのを見ると、ほぼ想像することができるのであります。太郎・次郎等の漢音が行われた後も、女子については久しい間この風潮がありました。たとえば長女は大子、次女は中子、三女は三子、四女は四子と呼んだようです。女についてはことに名を呼ぶのを避けたらしく思われます。十女・十一女に至っては何と呼んだか。今日の文書には残っていないけれども、なんらかの方法によって名以外のものを呼んだに違いがない。男はもし腹ちがいなどが多くして、十郎以上になれば、十一郎・十次郎とも呼べば、または余一・余二とも呼んだのであります。那須与一、真田与一は、与の字を書いたけれども実は余一で、十一男の事です。戸隠山で鬼女を退治した平惟茂を余吾将軍と呼ぶのは、祖父貞盛の養子となって、長幼の順序が十五番目であったからであります。 | 北欧系統の諸民種、英人にもドイツ人にもその時その時、これを見かける名字の語尾の数を教えてください。 | 北欧系統の諸民種、英人にもドイツ人にもその時その時、これを見かける名字の語尾の数は2で、
「ソン」
「セン」
です。 |
JCRRAG_017824 | 歴史 | 江戸時代は、1603年から1868年までの約260年間にわたる時代で、徳川家康は征夷大将軍に就くと、領地である江戸に幕府を開き、ここに江戸幕府(徳川幕府)が誕生する。豊臣秀吉死後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れるとともに、大坂の陣(大坂の役)により豊臣氏勢力を一掃。その後の島原の乱も鎮圧することで、平安時代以降、700年近く続いた政局不安は終焉を迎えた。以後200年以上長期安定政権の基盤を確立し、「元和偃武」とよばれる平和状態が日本にもたらされた。この時代は、平和で安定した時代が続き、商業や文化が発展しました。政治体制は幕藩体制と呼ばれ徳川幕府による安定した統治が行われた。特徴的な文化として浮世絵、歌舞伎などの発展した。また、鎖国政策がとられ、外国との交流が制限されていたのも特徴です。
明治時代は1868年10月23日(明治元年9月8日)[注釈 2]から1912年(明治45年)7月30日までの45年間で天皇が中心となり、中央集権的な近代国家が形成され憲政体制に移行した時代です。政治体制としては、封建制に代わり、天皇を中心とする近代的中央集権制が確立された。西洋文化が流入し、教育制度や科学技術も取り入れられました。これにより、洋服や西洋の食事が普及し、日本の文化が大きく変わりました。明治時代になって開国し、多くの国と交友を結ぶようになりました。この時期に日本は国際的な舞台に立ち、列強の一員としての道を歩み始めます。 | 江戸時代と明治時代で政治統制の違いを説明してください。 | 江戸時代は幕藩体制と呼ばれ徳川幕府による安定した統治が行われたが、明治時代は天皇が中心となり、中央集権的な近代国家が形成され憲政体制に移行しました。 |
JCRRAG_017825 | 歴史 | 日本は大小6,852の島から成り、長崎県には日本最多の971の島がある。朝鮮半島との間に飛び石のように浮かぶ壱岐と対馬、大陸との間の東シナ海に鎖状に浮かぶ五島列島は、いにしえより、日本と大陸を結ぶ「海の道」の要衝であり、大陸との交流のインターフェースでもあった。
とりわけ、朝鮮半島と指呼の間にある国境の島、壱岐と対馬は、その最前線であった。 | 日本には6,852の島があり、そのうち長崎県には971の島があります。長崎県が持つ島の割合は日本全体の何パーセントになるか。 | 長崎県が持つ島の割合は
約14.17パーセントです。 |
JCRRAG_017826 | 歴史 | 天文十八年三月のこと、織田信秀が四十二歳で亡くなった。
信秀が死ぬ三年前に古渡城にて成人を迎えて幼名である吉法師を改名した三男の信長は、すぐに父の跡を継いで上総介と名付けた。
信秀の法事が那古野万松寺にて行われた時の事である。
重臣達を始めきらびやかに居並んで居る所に、信長は焼香を上げるために信秀の仏前に進んだ。
これから織田家の大将になるという信長が亡き父の前に立った姿を見てみんな驚いた。
長柄の太刀脇差をしめなわでぐるぐる巻きにして、頭を茶筌に結った髪は乱れたままであることに加えに袴も履かないという有様だった。
そして抹香を一つかみして投げ入れると一度頭をさげて帰ってしまったのだ。
信長の弟である勘十郎信行の折目正しい肩衣袴で丁寧に礼拝したのと比べて人々は「なるほど、信長公は聞きしに勝る大馬鹿者だ!」と馬鹿にした。
心ある重臣達は織田家の将来を想って沈んだ気持になって居たが、そのなかに筑紫からこの寺に客の僧となって来ている坊さんが「信長公こそは名国主となる人だ」といった。
この坊さんもなかなか人を見る目があったという事になるわけだが、なにしろ幼年時代からこの年頃にかけての信長の行いはたしかに普通ならバカに見られても文句の言いようがないだろう。尾張の治黙寺に習字のけいこをしに行かされたが、モチロン習字なんぞするわけがない。
川からフナを取って来て来てふきの葉でナマスを造る位はまだいいほうで、ともだちの弁当を奪い取ってして平らげたりした。
町を通りながら、栗、柿、瓜をかじり、餅をほおばった。人が笑おうが指を指そうがお構いなしである。
十六・七までは別に遊びはしなかったが、ただ、朝や夕方に馬を走らせたり、鷹狩りを催したり、春から秋にかけて川に飛び込んだりして日々を暮らしていた。
しかし友人を集めて竹槍を持たせて戦わせたりする時に、褒美を最初は少しだけ渡して後からこっそり多く与えていた事や、当時から槍は三間柄が有利であるとの見解を持っていた事や、更にこの頃じょじょに戦が始まる度に威力を発揮して来た鉄砲の稽古に熱心であった事などを見ると、筑紫の坊さんの目もたしかだったのだろう。
平手中務政秀は信長のお守り役であるが、前々から主である信長の行いを気に病んでいた。
色々と説得しては見るものの一向に効き目がない。
そのうちに、政秀の長男に五郎右衛門というのがいるのだが、良い馬を持っていた所を馬好きの信長が見て欲しがった所、あっさりと断られてしまった。
親父も頑固なら息子も強情な奴だと、信長の機嫌が非常に悪かった。
政秀はこのやりとりを見て「今までの教育が失敗しているのに、更にまた息子までしくじってしまった。こうなったら死ぬことで許してもらうしかない」と決意して、天文二十二年の正月十三日、六十歳ほどのしわの入った腹を切腹して亡くなった。
その遺書には、
心を正しくしなければ誰も誠意をもって仕えないですよ、ただ賢さだけではでなく心の度量を広く持ってください、
欲張ってもいけませんしえこひいきがあってはいけません、才能を見出さなければなりませんよ、
力だけでは立派にはなれないので、勉強もしっかりするように、
礼節を軽視しない方がいいですよ
などと書かれていた。
信長は涙を流して後悔したけどどうしようもない。せめてと思って西春日井郡小木の里に政秀寺という菩提寺を建てて二百石を渡した。(後に清須に移し今は名古屋に在る)
信長は鷹狩りで小鳥を狩ると「政秀!この鳥を食えよ!」と空になげ、小川の畔に来たら「政秀!この水を飲めよ!」と叫んで涙を流した。
政秀の覚悟の死によって信長は大いに行いを改めたが、同時にその天性の武力や威厳を振るい出した。 | 若い頃の織田信長が改心したのはなんでですか。 | お守役の平手中務政秀が信長のために自害した事にショックを受け改心した。 |
JCRRAG_017827 | 歴史 | 1846年(弘化3年)、「紀州藩」(きしゅうはん)の11代藩主「徳川斉順」(とくがわなりゆき)のもとに誕生したのは、「徳川家茂」(とくがわいえもち)です。
徳川家茂は元々徳川将軍家ではなく、紀州藩の跡継ぎだったのです。
しかし、徳川斉順は徳川家茂が生まれる16日前に亡くなっていたため、紀州藩の12代藩主には、徳川家茂の叔父にあたる「徳川斉彊」(とくがわなりかつ)が継いでいました。
ところが、徳川斉彊も30歳の若さで亡くなり、まだ4歳であった徳川家茂が、紀州藩13代藩主の座に就くことになったのです。
徳川家茂は1851年(嘉永4年)に元服し、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)より「偏諱」(へんき:貴人などの名前2字のうちの1字)を賜り、幼名の「菊千代」(きくちよ)から「慶福」(よしとみ)へ改名します。
徳川家茂は紀州藩主継嗣として育てられましたが、生まれてから将軍になるまでの期間を、江戸にある紀州藩邸(現在の東京都港区)で過ごしており、紀州藩に行ったことは1度もなかったのです。
この当時の江戸幕府では、13代将軍の「徳川家定」(とくがわいえさだ)に子どもがおらず、後継者問題で揺れていました。
その次期将軍の候補には、譜代筆頭であった「井伊直弼」(いいなおすけ)を中心とした「南紀派」(なんきは)が推した徳川家茂と、「水戸藩」(みとはん)の9代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)ら「一橋派」(ひとつばしは)が推した「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)のちの「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が挙げられ、両派の間で熾烈な争いが繰り広げられたのです。
1858年(安政5年)4月には、南紀派の井伊直弼が将軍に次ぐ最高職である大老に就任し、幕府における井伊直弼の発言権が強大化しました。そして徳川家茂は、1858年6月に徳川家定の継嗣となることが決定されます。
ところが同年7月、徳川家定が病没したことを受け、徳川家茂は同年10月、14代将軍に就任。徳川家茂は、継嗣となることが決められたわずか4ヵ月後に、将軍の座に就くこととなりました。 | 1846年、徳川斉順のもとに誕生した人物は、1851年に元服し、幼名の菊千代から何へ改名したか。 | 1846年、徳川斉順のもとに誕生した人物は、1851年に元服し、幼名の菊千代から慶福へ改名した。 |
JCRRAG_017828 | 歴史 | 勝海舟のオヤジはお伊勢参りを終えた直後に熱が出て松原で二十日ほど寝倒れていたが近所の坊主が親切にしてくれた、様子を見に来ては粥などを恵んでくれた。
ようやく動けるようになったから、坊主に礼を言って、杖にすがりながら一日に一里ぐらいずつ歩き、疲れると乞食の穴へ入れてもらって六日倒れて休息したが、食べ物は自分で貰いにでる必要があるから村へ物乞いに行くと、番太郎の六尺棒にぶん殴られて村の外へつまみだされるというように、乞食生活も病気になると楽ではない。
とはいえ、時にはウチで奉公しろとか、ウチの子供になれ、とか言ってくる人もいたが、五~六日いると窮屈で、長い期間滞在することはできなかった。
また乞食になってはブラブラ歩くうちに崖から落ちてキンタマを打って気絶したのが元でキンタマが腫れて膿がしたたるようになり閉口して江戸のわが家へ戻ったが、キンタマがくずれて立つことも座る事もできず、二年間倒れていた。
よくよくキンタマに祟られた親子で、海舟も九歳の年に病犬にキンタマをかまれた。狂犬病は治らんというから、これは狂犬ではなかったのかも知れん。
しかし死の手前をさまよい、七十日間倒れて床についた。外科の医者がふるえて海舟のキンタマを縫えないから、オヤジが刀を子供の枕元へ突っ立ってて大いに力んでキンタマを縫ってやったら海舟も泣かなかった。しかし命は今晩どうなるかさえわからないと医者が言うから、家の者は泣くばかりで何もできない。
オヤジは非常に怒ってその日から毎日毎晩水を浴びて金比羅様へ裸参りをし、始終海舟を抱いて寝て誰にも触らせず、
毎日毎日あばれたから(但し、あばれたのはオヤジ自身の方である。なぜ暴れたか意味不明)近所の者はあの剣術使いは子供が犬に食われてオヤジが狂ったと言った。狂犬病の発狂状態をオヤジが引き受けたせいか、海舟は七十日寝て治ったのである。「夢酔独言」に曰く「それから今になんともないから病人は看病がかんじんだよ」と書かれている。 | 勝海舟のオヤジが倒れていた時期のうち、最も長い期間を教えてください。 | 勝海舟のオヤジが倒れていた時期のうち、最も長い期間は二年間です。 |
JCRRAG_017829 | 歴史 | 欧洲における同一慣習
スカンジナビアではこれとよく似ていて、その国人の名字というのは多くは皆親の名から作った名字です。たとえば「アンデルセン」の「セン」は英語の「Son」という字で、「アンデル」の子という意味です。今では代々この家号を伝えているけれども、いずれの時代にかロシアと同じく、本人の名の後にだれそれの子ということを添えて、呼んだ習慣が残っているのであります。
「ソン」または「セン」という語尾のある名字は、北欧系統の諸民種、英人にもドイツ人にもその時その時、これを見かけるのです。また英国人の中に家名の頭に「マック」というのは、これまた子という意味であるから、やはり同一慣習であります。「フィッツゼームス」とか、あるいは「フィッツゼラルド」とかいう名字の「フィッツ」も同じく子供という意味であって、いずれも前述の三郎五郎、四郎太郎、権兵衛作の類によって、ただちにその由来を知ることができるのであります。
支那と日本と共通の慣習
出産の順番で人の字を呼ぶことは、西洋と共通でない慣習でありますが、中国には古くから存在しておったのです。支那では同じ家族に属するいとこの列まで合わせて、長幼の別をもって数字の番号を付ける、その例は『唐詩選』などを見ても人の名を呼ばずに、「王十一の某処に往くを送る」という題があります。この十一は同族間の長幼の順序が、十一番目ということです。かくのごとく通例数字ばかりで呼ぶけれども、また時として郎の字を付けることもありました。郎は「むすこさん」という意味です。則天武后の臣下に張某という非常に美しき男がいました。そこである人はこの人に媚びて「三郎は蓮花に似たり」といったところが、またある者が「蓮花が三郎に似たるなり」といったという話もあります。この三郎はすなわちその例であります。
日本における昔の命名慣習
日本の太郎・次郎も、唐朝文明の輸入の際に、中国風を真似たのであります。それ以前はどんな風に呼んでいたか、明白ではありませんが、皇族の字として稚郎子、仲大兄などと称えたのを見ると、ほぼ想像することができるのであります。太郎・次郎等の漢音が行われた後も、女子については久しい間この風潮がありました。たとえば長女は大子、次女は中子、三女は三子、四女は四子と呼んだようです。女についてはことに名を呼ぶのを避けたらしく思われます。十女・十一女に至っては何と呼んだか。今日の文書には残っていないけれども、なんらかの方法によって名以外のものを呼んだに違いがない。男はもし腹ちがいなどが多くして、十郎以上になれば、十一郎・十次郎とも呼べば、または余一・余二とも呼んだのであります。那須与一、真田与一は、与の字を書いたけれども実は余一で、十一男の事です。戸隠山で鬼女を退治した平惟茂を余吾将軍と呼ぶのは、祖父貞盛の養子となって、長幼の順序が十五番目であったからであります。 | 「フィッツ」が使われている名字の例の数を教えてください。 | 「フィッツ」が使われている名字の例の数は2で、
「フィッツゼームス」
「フィッツゼラルド」
です。 |
JCRRAG_017830 | 歴史 | 江戸時代は、1603年から1868年までの約260年間にわたる時代で、徳川家康は征夷大将軍に就くと、領地である江戸に幕府を開き、ここに江戸幕府(徳川幕府)が誕生する。豊臣秀吉死後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れるとともに、大坂の陣(大坂の役)により豊臣氏勢力を一掃。その後の島原の乱も鎮圧することで、平安時代以降、700年近く続いた政局不安は終焉を迎えた。以後200年以上長期安定政権の基盤を確立し、「元和偃武」とよばれる平和状態が日本にもたらされた。この時代は、平和で安定した時代が続き、商業や文化が発展しました。政治体制は幕藩体制と呼ばれ徳川幕府による安定した統治が行われた。特徴的な文化として浮世絵、歌舞伎などの発展した。また、鎖国政策がとられ、外国との交流が制限されていたのも特徴です。
明治時代は1868年10月23日(明治元年9月8日)[注釈 2]から1912年(明治45年)7月30日までの45年間で天皇が中心となり、中央集権的な近代国家が形成され憲政体制に移行した時代です。政治体制としては、封建制に代わり、天皇を中心とする近代的中央集権制が確立された。西洋文化が流入し、教育制度や科学技術も取り入れられました。これにより、洋服や西洋の食事が普及し、日本の文化が大きく変わりました。明治時代になって開国し、多くの国と交友を結ぶようになりました。この時期に日本は国際的な舞台に立ち、列強の一員としての道を歩み始めます。 | 江戸時代と明治時代で文化の違いを説明してください。 | 江戸時代は浮世絵、歌舞伎などが発展したが、明治時代は西洋文化が流入し、教育制度や科学技術も取り入れられ、洋服や西洋の食事が普及した。 |
JCRRAG_017831 | 歴史 | 桶狭間の戦いにおいては敗軍になりながら、なぜか不思議に運が向いたのは松平元康、後の徳川家康である。
元康は五月十九日の朝、丸根を落とした後大高にいたが晩になって義元が敗けたという知らせが届いた。
周りは退軍をすすめたが、元康は「もし義元が生きていたら合わす顔がない!」といって聞かない。
だが伯父である水野信元が浅井道忠を使いとして敗けた知らせを持って来ているので、元康はこの話が真実であることを確かめた後、十九日の午後十一時すぎ、月の出を待って道忠を案内として三河に退却したが、土民達に苦められながらやっと岡崎に着いた。着いてみると岡崎城の今川勢は騒いで城を明け退いていたので、元康「捨てられた城なら入ろう」と言ってここに留まる事にした。その後永禄五年五月に、水野信元が仲介して信長と清須城で面会して同盟を結び、幼少から耐えた甲斐があって次第に勢力を拡大することができるようになった。
元康は今川義元への義理を思い、義元の子である氏真に弔い合戦をすすめたけれども全くやる気配がなかった。
義元は信長に負けて地にまみれたとはいえ三つの大国を領土としたほどの才能ある武将であったが、子どもの氏真に関しては全く暗愚であると言って良かった。
義元の死後も朝比奈兵衛大夫のような立派な家老も四・五人はいるのであるが、氏真は彼らを少しも大事にせず、三浦右衛門義元と云う柔弱の奴を重用し、踊ったり宴会に明け暮れていた。
自分の気に入った者には、自らの愛人を与え、人の娘の美しさに歌を付けたりまるで武士の家に生まれたことなんて忘れ去ったようである。
三浦は、桶狭間の勇士である井伊直盛の領地を欲しがったり、更に義元の愛人だった菊鶴という女をこっそり妻にしながら国政をやるというのだから、まともな者達は次第に離れて今川家が衰退する原因を作りつつあったわけである。
天文二十二年に義元が氏真を戒めた手紙がある。
「お前はあまりにも分別のない行動をしすぎる、今後のことをちゃんと考えてるのか?……弓や馬は男がしなければならないことだ、器用も不器用も関係なく稽古しなきゃならないのだ、国を治めるのなら文武両道じゃなくてはできないぞ……君主は重みや威厳がなければならない。私はなにかと失敗することもあった。自分の代ではなんとか持ちこたえたけど、氏真までこの調子だと今川家は国を無くして滅ぶだけだぞ……」
義元が自らの欠点をさらけ出して氏真を戒めている心境は察するに余りある。
義元が学問に偏っていた武将とすれば、信長はむしろ真の武将であった。
戦国争乱の時には学問タイプより武力タイプの方が勝ってしまうのは無理のない話である。信長は印形を造らせた事があるが自分には「天下布武」、信孝には「戈剣平天下」、信雄には「威加海内」という印形を造らせた。これで信長の意の一端を伺うに足りる。
しかし武力一点張りでなかった事は、暗殺しようとした稲葉一徹が、かの『雪擁藍関』の詩をよく理解していたという一点で暗殺の件を許したこともあり、義元が一首の和歌の故に部下を許した、好対照的な逸話をもっても知られる。 | 徳川家康が義元の死を信じたのはなぜか。 | 伯父である水野信元からの知らせだと知って義元の死が真実だと思った。 |
JCRRAG_017832 | 歴史 | 1846年(弘化3年)、「紀州藩」(きしゅうはん)の11代藩主「徳川斉順」(とくがわなりゆき)のもとに誕生したのは、「徳川家茂」(とくがわいえもち)です。
徳川家茂は元々徳川将軍家ではなく、紀州藩の跡継ぎだったのです。
しかし、徳川斉順は徳川家茂が生まれる16日前に亡くなっていたため、紀州藩の12代藩主には、徳川家茂の叔父にあたる「徳川斉彊」(とくがわなりかつ)が継いでいました。
ところが、徳川斉彊も30歳の若さで亡くなり、まだ4歳であった徳川家茂が、紀州藩13代藩主の座に就くことになったのです。
徳川家茂は1851年(嘉永4年)に元服し、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)より「偏諱」(へんき:貴人などの名前2字のうちの1字)を賜り、幼名の「菊千代」(きくちよ)から「慶福」(よしとみ)へ改名します。
徳川家茂は紀州藩主継嗣として育てられましたが、生まれてから将軍になるまでの期間を、江戸にある紀州藩邸(現在の東京都港区)で過ごしており、紀州藩に行ったことは1度もなかったのです。
この当時の江戸幕府では、13代将軍の「徳川家定」(とくがわいえさだ)に子どもがおらず、後継者問題で揺れていました。
その次期将軍の候補には、譜代筆頭であった「井伊直弼」(いいなおすけ)を中心とした「南紀派」(なんきは)が推した徳川家茂と、「水戸藩」(みとはん)の9代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)ら「一橋派」(ひとつばしは)が推した「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)のちの「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が挙げられ、両派の間で熾烈な争いが繰り広げられたのです。
1858年(安政5年)4月には、南紀派の井伊直弼が将軍に次ぐ最高職である大老に就任し、幕府における井伊直弼の発言権が強大化しました。そして徳川家茂は、1858年6月に徳川家定の継嗣となることが決定されます。
ところが同年7月、徳川家定が病没したことを受け、徳川家茂は同年10月、14代将軍に就任。徳川家茂は、継嗣となることが決められたわずか4ヵ月後に、将軍の座に就くこととなりました。 | 1846年、徳川斉順のもとに誕生した人物は、生まれてから将軍になるまでの期間をどこで過ごしていたか。 | 1846年、徳川斉順のもとに誕生した人物は、生まれてから将軍になるまでの期間を、江戸にある紀州藩邸で過ごしていた。 |
JCRRAG_017833 | 歴史 | 勝海舟のオヤジはお伊勢参りを終えた直後に熱が出て松原で二十日ほど寝倒れていたが近所の坊主が親切にしてくれた、様子を見に来ては粥などを恵んでくれた。
ようやく動けるようになったから、坊主に礼を言って、杖にすがりながら一日に一里ぐらいずつ歩き、疲れると乞食の穴へ入れてもらって六日倒れて休息したが、食べ物は自分で貰いにでる必要があるから村へ物乞いに行くと、番太郎の六尺棒にぶん殴られて村の外へつまみだされるというように、乞食生活も病気になると楽ではない。
とはいえ、時にはウチで奉公しろとか、ウチの子供になれ、とか言ってくる人もいたが、五~六日いると窮屈で、長い期間滞在することはできなかった。
また乞食になってはブラブラ歩くうちに崖から落ちてキンタマを打って気絶したのが元でキンタマが腫れて膿がしたたるようになり閉口して江戸のわが家へ戻ったが、キンタマがくずれて立つことも座る事もできず、二年間倒れていた。
よくよくキンタマに祟られた親子で、海舟も九歳の年に病犬にキンタマをかまれた。狂犬病は治らんというから、これは狂犬ではなかったのかも知れん。
しかし死の手前をさまよい、七十日間倒れて床についた。外科の医者がふるえて海舟のキンタマを縫えないから、オヤジが刀を子供の枕元へ突っ立ってて大いに力んでキンタマを縫ってやったら海舟も泣かなかった。しかし命は今晩どうなるかさえわからないと医者が言うから、家の者は泣くばかりで何もできない。
オヤジは非常に怒ってその日から毎日毎晩水を浴びて金比羅様へ裸参りをし、始終海舟を抱いて寝て誰にも触らせず、
毎日毎日あばれたから(但し、あばれたのはオヤジ自身の方である。なぜ暴れたか意味不明)近所の者はあの剣術使いは子供が犬に食われてオヤジが狂ったと言った。狂犬病の発狂状態をオヤジが引き受けたせいか、海舟は七十日寝て治ったのである。「夢酔独言」に曰く「それから今になんともないから病人は看病がかんじんだよ」と書かれている。 | 勝海舟のオヤジが倒れていた時期のうち、最も短い期間を教えてください。 | 勝海舟のオヤジが倒れていた時期のうち、最も短い期間は六日です。 |
JCRRAG_017834 | 歴史 | 欧洲における同一慣習
スカンジナビアではこれとよく似ていて、その国人の名字というのは多くは皆親の名から作った名字です。たとえば「アンデルセン」の「セン」は英語の「Son」という字で、「アンデル」の子という意味です。今では代々この家号を伝えているけれども、いずれの時代にかロシアと同じく、本人の名の後にだれそれの子ということを添えて、呼んだ習慣が残っているのであります。
「ソン」または「セン」という語尾のある名字は、北欧系統の諸民種、英人にもドイツ人にもその時その時、これを見かけるのです。また英国人の中に家名の頭に「マック」というのは、これまた子という意味であるから、やはり同一慣習であります。「フィッツゼームス」とか、あるいは「フィッツゼラルド」とかいう名字の「フィッツ」も同じく子供という意味であって、いずれも前述の三郎五郎、四郎太郎、権兵衛作の類によって、ただちにその由来を知ることができるのであります。
支那と日本と共通の慣習
出産の順番で人の字を呼ぶことは、西洋と共通でない慣習でありますが、中国には古くから存在しておったのです。支那では同じ家族に属するいとこの列まで合わせて、長幼の別をもって数字の番号を付ける、その例は『唐詩選』などを見ても人の名を呼ばずに、「王十一の某処に往くを送る」という題があります。この十一は同族間の長幼の順序が、十一番目ということです。かくのごとく通例数字ばかりで呼ぶけれども、また時として郎の字を付けることもありました。郎は「むすこさん」という意味です。則天武后の臣下に張某という非常に美しき男がいました。そこである人はこの人に媚びて「三郎は蓮花に似たり」といったところが、またある者が「蓮花が三郎に似たるなり」といったという話もあります。この三郎はすなわちその例であります。
日本における昔の命名慣習
日本の太郎・次郎も、唐朝文明の輸入の際に、中国風を真似たのであります。それ以前はどんな風に呼んでいたか、明白ではありませんが、皇族の字として稚郎子、仲大兄などと称えたのを見ると、ほぼ想像することができるのであります。太郎・次郎等の漢音が行われた後も、女子については久しい間この風潮がありました。たとえば長女は大子、次女は中子、三女は三子、四女は四子と呼んだようです。女についてはことに名を呼ぶのを避けたらしく思われます。十女・十一女に至っては何と呼んだか。今日の文書には残っていないけれども、なんらかの方法によって名以外のものを呼んだに違いがない。男はもし腹ちがいなどが多くして、十郎以上になれば、十一郎・十次郎とも呼べば、または余一・余二とも呼んだのであります。那須与一、真田与一は、与の字を書いたけれども実は余一で、十一男の事です。戸隠山で鬼女を退治した平惟茂を余吾将軍と呼ぶのは、祖父貞盛の養子となって、長幼の順序が十五番目であったからであります。 | 皇族の字として称えた例の数を教えてください。 | 皇族の字として称えた例の数は2で、
「稚郎子」
「仲大兄」
です。 |
JCRRAG_017835 | 歴史 | 江戸時代は、1603年から1868年までの約260年間にわたる時代で、徳川家康は征夷大将軍に就くと、領地である江戸に幕府を開き、ここに江戸幕府(徳川幕府)が誕生する。豊臣秀吉死後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れるとともに、大坂の陣(大坂の役)により豊臣氏勢力を一掃。その後の島原の乱も鎮圧することで、平安時代以降、700年近く続いた政局不安は終焉を迎えた。以後200年以上長期安定政権の基盤を確立し、「元和偃武」とよばれる平和状態が日本にもたらされた。この時代は、平和で安定した時代が続き、商業や文化が発展しました。政治体制は幕藩体制と呼ばれ徳川幕府による安定した統治が行われた。特徴的な文化として浮世絵、歌舞伎などの発展した。また、鎖国政策がとられ、外国との交流が制限されていたのも特徴です。
明治時代は1868年10月23日(明治元年9月8日)[注釈 2]から1912年(明治45年)7月30日までの45年間で天皇が中心となり、中央集権的な近代国家が形成され憲政体制に移行した時代です。政治体制としては、封建制に代わり、天皇を中心とする近代的中央集権制が確立された。西洋文化が流入し、教育制度や科学技術も取り入れられました。これにより、洋服や西洋の食事が普及し、日本の文化が大きく変わりました。明治時代になって開国し、多くの国と交友を結ぶようになりました。この時期に日本は国際的な舞台に立ち、列強の一員としての道を歩み始めます。 | 江戸時代と明治時代で外交の違いを説明してください。 | 江戸時代は鎖国政策がとられ、外国との交流が制限されていたが、明治時代は開国し、多くの国と交友を結ぶようになり日本は国際的な舞台に立ち、列強の一員としての道を歩み始めた。 |
JCRRAG_017836 | 歴史 | 鉄砲の威力を発揮させる使用法を理解した最初の人は信長であった。
信長は理知そのものの化身といえた。彼は一切の宗教に興味がない男であったが、キリスト教徒が同時に新しい学問や芸術などの品を輸入するのでこれを最大限に利用した。
鉄砲だの、時計だの、新しい航海術、天文や医学、なんでも知ってるような白人の坊主共が、神様と言ったとたんに目の色を変えて霊魂は不滅だの最後の審判などとたわいもないことを言い出す。賢い奴らだからなにか魂胆があってこんな事を言ってるんだろうと信長は思っていたが、ある日オルガンチノというバテレンを別室に呼び入れ、家臣を全て遠ざけた。
「さて、お前も商売なんだろうし本当のことを言いたくはないだろうが、今日は家来達も遠ざけたし遠慮なく話すがよい。天主だのアニマの不滅などというのはバカ共をたぶらかすウソなんだろ?」と言い出した。
信長は納得できない事はトコトンまで追求する性格だった。オルガンチノは地球儀を持って「イタリアを指してここは自分の生まれた故郷であるが、同胞をすてて、万里の海を越えてこんなところへきたからには、元より命は捨てています。殿下も知ってるように、日々苦しい生活を過ごして童貞をまもり、ひたすら人々の幸福のために心身をすり減らしているのも、現世の幸せを望まず、この命を天主に捧げて死後の幸福を信じるからで神の存在を信じなくてこんなことできませんよ」と大袈裟にいった。信長はこの坊主の表裏ない言葉をウソではないとおもったが、彼らは馬鹿だと判断した。利用価値のあるものは毒だろうと利用する。
こういう人間であったから、鉄砲のもつ威力について、信玄のように見切りをつけなかった。利用できるあらゆる可能性を考えて戦術も工夫した。
鉄砲自体も発達したが、彼の編みだした戦術は同時に日本最初の近代戦術だったのである。
弾の装填の隙を無くすために鉄砲を三段に分けることにした。三千挺の鉄砲なら、千挺づつ三段にわけて一斉に発射する。
同時に敵が突撃してくる速度を落とさせるために、鉄砲の前面に堀を作って柵をこしらえた。
この陰から三段の鉄砲で順次に隙間なく撃ち出すことによって敵兵をこちらへ寄せつけず撃退できるだろう、という戦術だった。
この戦術をつかって大勝利したのが長篠合戦であり、鉄砲に見切りをつけた武田方はこの合戦で滅亡した。
信長の軍勢は各自それぞれ木の杭を背負って進軍してくる。木杭は数万本にもなる。設楽原に達したら、まず濠を掘って柵をつくり、柵の内側に鉄砲組を三段に配置した。
こうしておいて、歩兵が柵の前面へ出て敵を誘導する。
敵が突撃したのを確認すると、退却して柵の内側へ逃げ、矢来を閉じてしまうのである。甲州勢は信長の思う壺にはまってしまった。
甲州勢の主戦武器は刀や槍であった。推太鼓を鳴らし、何段かの密集隊となって波のように押し寄せて行くという戦法で、家康が三方ヶ原の戦いで惨敗したのも推太鼓の密集隊に踏み破られたせいである。
波のように押し寄せる密集隊も三段構えの鉄砲に撃たれてバタバタと倒れる。とはいえさすがに百戦練磨なので、友軍の死体を踏み越えて、六番手まで繰りだして第一柵、第二柵まで進んだが、鉄砲を射ちまくられて敗走するしかなかった。主戦武器の威力に格段の違いがあっては仕方がない。長篠の戦いにおいて二万の甲州勢は一万七千人も戦死した。
信長の天下は、鉄砲の威力によって得ることの出来た天下であったが、鉄砲を利用し得た信長は偶然ではなかったのである。早くから鉄砲を知った信玄が鉄砲の利用方法に気付かず滅亡し、各地に鉄砲を知らぬ者はなかったが、これを本当に利用できる見識と手腕は信長だけが持っていた。
朝鮮役の快進軍は鉄砲と弓の差でもあった。朝鮮軍は一挺の鉄砲を持っておらず、その存在すら知らなかった。彼らの主戦武器たる弩(いしゆみ)は射程がない。
城壁をかこんだ日本軍が鉄砲を撃つ。百雷の音。もくもくとした煙の間から味方がバタバタ倒れて行く。魂が消え失せて、日本軍が縄梯子をかけて城壁をよじ登るのを呆然と見守るばかりで、まるで戦争にならない。大きな道を走るように、京城へ攻めこむことさえできた。しかし、明の援軍には鉄砲が整備されていた。 | 織田信長はキリスト教を信じていましたか。 | 織田信長はキリスト教を信じなかった。 |
JCRRAG_017837 | 歴史 | 1846年(弘化3年)、「紀州藩」(きしゅうはん)の11代藩主「徳川斉順」(とくがわなりゆき)のもとに誕生したのは、「徳川家茂」(とくがわいえもち)です。
徳川家茂は元々徳川将軍家ではなく、紀州藩の跡継ぎだったのです。
しかし、徳川斉順は徳川家茂が生まれる16日前に亡くなっていたため、紀州藩の12代藩主には、徳川家茂の叔父にあたる「徳川斉彊」(とくがわなりかつ)が継いでいました。
ところが、徳川斉彊も30歳の若さで亡くなり、まだ4歳であった徳川家茂が、紀州藩13代藩主の座に就くことになったのです。
徳川家茂は1851年(嘉永4年)に元服し、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)より「偏諱」(へんき:貴人などの名前2字のうちの1字)を賜り、幼名の「菊千代」(きくちよ)から「慶福」(よしとみ)へ改名します。
徳川家茂は紀州藩主継嗣として育てられましたが、生まれてから将軍になるまでの期間を、江戸にある紀州藩邸(現在の東京都港区)で過ごしており、紀州藩に行ったことは1度もなかったのです。
この当時の江戸幕府では、13代将軍の「徳川家定」(とくがわいえさだ)に子どもがおらず、後継者問題で揺れていました。
その次期将軍の候補には、譜代筆頭であった「井伊直弼」(いいなおすけ)を中心とした「南紀派」(なんきは)が推した徳川家茂と、「水戸藩」(みとはん)の9代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)ら「一橋派」(ひとつばしは)が推した「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)のちの「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が挙げられ、両派の間で熾烈な争いが繰り広げられたのです。
1858年(安政5年)4月には、南紀派の井伊直弼が将軍に次ぐ最高職である大老に就任し、幕府における井伊直弼の発言権が強大化しました。そして徳川家茂は、1858年6月に徳川家定の継嗣となることが決定されます。
ところが同年7月、徳川家定が病没したことを受け、徳川家茂は同年10月、14代将軍に就任。徳川家茂は、継嗣となることが決められたわずか4ヵ月後に、将軍の座に就くこととなりました。 | 1846年、徳川斉順のもとに誕生した人物は、何年何月に徳川家定の継嗣となることが決定されたか。 | 1846年、徳川斉順のもとに誕生した人物は、1858年6月に徳川家定の継嗣となることが決定された。 |
JCRRAG_017838 | 歴史 | 日本と南洋諸国、すなわち呂宋、マカオ、安南、東京、占城、カンボジア、シャム、パタニ等と貿易をしたのは相当古くからであるが、
それらの国々へ渡航する船舶に対し、官許の免許状(朱印)を与えて、公に貿易を許可したのは豊臣秀吉で、それは我国の文禄元年、西暦の一五九二年のことであり、それ以来御朱印船は、呂宋のマニラ市を中心として、南洋貿易を営み、平和のうちに巨利を博した。
朱印を許した秀吉は、それらの船がもってきた珍奇な器物を進呈されて心を喜ばせていた。
それなのに、その秀吉が南洋、主に呂宋に対して経略の手を延ばしたのは原田孫七郎の進言があったからである。
原田孫七郎は、その兄である喜右衛門と共にマニラに住んで貿易業を営んで大成功していた。
賢く大胆で知略があり、イスパニア語に通じており、呂宋のみならずフィリピン群島全体の事情に精通していたが、日本に帰朝するや秀吉に謁見し、フィリピンの現状を語った上「その本国イスパニアは、宗教政策を利用し、他国を侵略することを常套手段といたしおりまして今にしてフィリピンを、日本に攻略しなければ、イスパニアによって、かえって日本こそ侵略されるでしょう」と進言した。丁度そのころ秀吉は征韓の志を起しており、軍備や兵糧を充実させた時であったから、天性の豪気を爆発させすぐに呂宋の総督マリニャス宛てに降伏を勧める書を書き、最後に「来春、九州肥前に進軍させすぐさま、旗を降ろして降参すべし。もしはいつくばって遅延するようならすぐ征伐するだろう」と記させた。何という恫喝的な、強硬な外交文書であろうか。
ところでその結果はどうなったかというと、マニラに戻った孫七郎の手によってこの文書を渡された総督のマリニャスは、憤慨したものの、折柄本国のイスパニアが、オランダと事を構えていて国家存亡の際だったので、日本と抗争状態に入ることをおそれ、僧侶コボスと船長リヤノという二人を使者として日本に遣わしたことで、秀吉を懐柔しようという策を考えた。
一応、秀吉の強硬外交は成功したのであった。
しかしマニラ総督が貢を入れるとも降服するとも申し出なかったから、更に第二の文書を孫七郎の兄である喜右衛門の手からマニラ総督に渡させた。「もし今後毎年ごとに貢ぎ物をよこすなら、出征を見合わしてもよい」という意味の文書であった。
マニラ総督はこの文書を見ると又憤慨したものの、やはり本国イスパニアの事情が事情だったので、又も懐柔手段をとるために、二度目の使いとして、喜右衛門に船長カルバリコと宣教師三名、合わせて四名を付け、返書と土産物とを添えて日本へ遣わした。
その使者が日本へ渡り、秀吉に謁見して発言したのは、降伏ではなくて通商同盟の問題であった。そこで秀吉は通訳を通してこう言った。
「私の母は日輪胎に入ることを夢見て私を産んだ。占い師はこれを占い、この子はやがて世界を統一するであろうと言った。
しかし我が国には万世一系の天皇がいる。よって私は先に朝鮮を武力で治め、支那に和平を求めて、王女をわが皇室に献上すると約束した。だが彼はこの盟約を破ってしまったのでふたたび兵を出して征服しようとしている。船を進ませて呂宋に入るのは簡単なことである。呂宋の大守は早く私に降伏せよ。そうでなければ近いうちに討伐を受けるであろう」
しかしマニラ総督の使者は、
「私どもは国交を修めるために参りましたものでありますから殿下のご要求にお答えするには改めて総督からの訓令を待たなければなりません。使者を出して回答が来るまで私どもを人質として日本に置いて下さいますようお願いします」と言った。
ごもっともな言葉であったので秀吉はその乞いを許したが、その後そのマニラの使者の中の三人の宣教師が、人質として日本にとどまったのは、その実、吉利支丹布教のためであり、布教の真の目的は、日本侵略のためであることを探知し、宣教師と、日本の信徒二十六人とを刑戮し、その後、そのことに就いて、マニラ総督より抗議の使者が来るや「治外法権の設定なき以上、各国の在留人は、日本の法律に従うべきである」とつっぱね、あくまで強硬外交の実を示した。
しかし秀吉は、その後間もなく慶長三年に亡くなったので、折角の対呂宋強硬外交も、実利的の実は結ばなかった。
しかし、その後に天下を治めた徳川家康の南洋政策に対し、その秀吉の対呂宋強硬外交は、日本の武威を示しておいてくれたという点で大変役に立った。 | マニラ総督が使いをよこしたうち、より使いの数が多いほうを教えてください。 | マニラ総督が使いをよこしたうち、より使いの数が多いのは四名です。 |
JCRRAG_017839 | 歴史 | 欧洲における同一慣習
スカンジナビアではこれとよく似ていて、その国人の名字というのは多くは皆親の名から作った名字です。たとえば「アンデルセン」の「セン」は英語の「Son」という字で、「アンデル」の子という意味です。今では代々この家号を伝えているけれども、いずれの時代にかロシアと同じく、本人の名の後にだれそれの子ということを添えて、呼んだ習慣が残っているのであります。
「ソン」または「セン」という語尾のある名字は、北欧系統の諸民種、英人にもドイツ人にもその時その時、これを見かけるのです。また英国人の中に家名の頭に「マック」というのは、これまた子という意味であるから、やはり同一慣習であります。「フィッツゼームス」とか、あるいは「フィッツゼラルド」とかいう名字の「フィッツ」も同じく子供という意味であって、いずれも前述の三郎五郎、四郎太郎、権兵衛作の類によって、ただちにその由来を知ることができるのであります。
支那と日本と共通の慣習
出産の順番で人の字を呼ぶことは、西洋と共通でない慣習でありますが、中国には古くから存在しておったのです。支那では同じ家族に属するいとこの列まで合わせて、長幼の別をもって数字の番号を付ける、その例は『唐詩選』などを見ても人の名を呼ばずに、「王十一の某処に往くを送る」という題があります。この十一は同族間の長幼の順序が、十一番目ということです。かくのごとく通例数字ばかりで呼ぶけれども、また時として郎の字を付けることもありました。郎は「むすこさん」という意味です。則天武后の臣下に張某という非常に美しき男がいました。そこである人はこの人に媚びて「三郎は蓮花に似たり」といったところが、またある者が「蓮花が三郎に似たるなり」といったという話もあります。この三郎はすなわちその例であります。
日本における昔の命名慣習
日本の太郎・次郎も、唐朝文明の輸入の際に、中国風を真似たのであります。それ以前はどんな風に呼んでいたか、明白ではありませんが、皇族の字として稚郎子、仲大兄などと称えたのを見ると、ほぼ想像することができるのであります。太郎・次郎等の漢音が行われた後も、女子については久しい間この風潮がありました。たとえば長女は大子、次女は中子、三女は三子、四女は四子と呼んだようです。女についてはことに名を呼ぶのを避けたらしく思われます。十女・十一女に至っては何と呼んだか。今日の文書には残っていないけれども、なんらかの方法によって名以外のものを呼んだに違いがない。男はもし腹ちがいなどが多くして、十郎以上になれば、十一郎・十次郎とも呼べば、または余一・余二とも呼んだのであります。那須与一、真田与一は、与の字を書いたけれども実は余一で、十一男の事です。戸隠山で鬼女を退治した平惟茂を余吾将軍と呼ぶのは、祖父貞盛の養子となって、長幼の順序が十五番目であったからであります。 | 太郎・次郎等の漢音が行われた後も、女子について呼んだ数を教えてください。 | 太郎・次郎等の漢音が行われた後も、女子について呼んだ数は4で、
「長女は大子」
「次女は中子」
「三女は三子」
「四女は四子」
です。 |
JCRRAG_017840 | 歴史 | 明治時代は1868年10月23日(明治元年9月8日)から1912年(明治45年)7月30日までの45年間で天皇が中心となり、中央集権的な近代国家が形成され憲政体制に移行した時代です。政治体制としては、封建制に代わり、天皇を中心とする近代的中央集権制が確立された。西洋文化が流入し、教育制度や科学技術も取り入れられました。これにより、洋服や西洋の食事が普及し、日本の文化が大きく変わりました。明治時代になって開国し、多くの国と交友を結ぶようになりました。この時期に日本は国際的な舞台に立ち、列強の一員としての道を歩み始めます。
大正時代は大正天皇の在位期間である1912年(大正元年)7月30日から1926年(大正15年)12月25日までです。日露戦争後の日比谷焼き打ち事件などをはじめ、世論や民主主義が政府を動かす時代の到来となり、大正デモクラシーによる普通選挙が実現した。
普通選挙による政党政治は、最初から腐敗しており、選挙活動の資金を得る為、政党の多くが企業などと癒着していた。
この金権政治体質は、国家主義者と軍部が台頭する大きな要因となりました。特徴的な文化では大正ロマンなど、新しい文学や芸術が生まれました。 | 明治時代と大正時代で政治統制の違いを説明してください。 | 明治時代は天皇を中心とする近代的中央集権制が確立されたが、大正時代は世論や民主主義が政府を動かす時代の到来となり、大正デモクラシーによる普通選挙が実現した。 |
JCRRAG_017841 | 歴史 | 厳島の戦いの時、毛利の軍勢は三千五百から六百程度の小勢であった。これに対して陶晴賢は二万余の大軍である。
だから平場の戦いでは毛利はどう頑張っても陶の敵ではない。そこで元就が考えたのは、厳島に城を建てる事だった。
元就は厳島に城を建てて、ここが毛利軍にとって大切な場所であるように見せかけ、ここへ陶の大軍をおびき寄せて、狭い場所で決着を付けようと思ったのである。
元就が厳島へ築城を始めると元就の策略を知らない家臣はみんな反対した。「あんな所へ城を築いてもしこれが陶に取られたら安芸はその腹匕首で刺されるようなものです!」と。
元就はそういう家臣の反対を押し切って要となる害鼻城を築いた。
元就は家来達に対して、「お前達の話を聞かないで厳島に城を築いて見たけどさ、よく考えてみると…ひどい失策をしたもんだな。敵に取られる為に城を築いたようなもんだ。あそこを取られては一大事になるな」と言った。
戦国の世は日本同士の戦争であるから、スパイは敵にも味方にも沢山入り混じっていた。
だから元就のこういう後悔してる姿などはすぐ敵へ知られることになる。
その上、その頃一人の座頭が吉田の城下へ来ていた。『平家』などを語りに元就の城へも出入りしている。
元就はこの座頭を敵のスパイだと知って、わざと自分のそばへ近づけていた。
ある日、元就が老臣共を集め座頭に聞こえるか聞こえないかわからない位の所でわざと小声で作戦会議を行い「厳島の城を攻められては味方は苦労するが、敵方の岩国の域主である弘中三河守は、こっちのスパイだから陶の大軍が厳島へこないようにしてくれるであろう」と囁やいていた。
座頭は鬼の首でもとったように、この話を陶方へ話したのはモチロンである。
弘治元年九月、陶晴賢は二万七千余の軍勢を率いて、山口の岩国永興寺に陣を広げ作戦会議をする。
晴賢はあくまでもスパイの言う事を信じ、厳島へ渡って宮尾城を攻め滅ぼして、そして毛利の命をもらおうという考えである。
岩国の城主弘中三河守隆兼は、陶方の第一の名将である。
元就の策略を見破っており「元就が厳島に城を築いている事を後悔しているのならば、それを口にして言うわけがない。元就の目的は、厳島へ我が大軍をひきつけ、楽に倒そうという企みなのだろう。厳島の海を渡るのをストップして、草津や二十日市を攻め落として、吉田へ押し寄せれば毛利元就を倒せるだろう」と言った。
だが頭の良い元就は、弘中三河守の進言を封じる為に座頭を使って、陶に一服盛ってあるのだから叶わない。
晴賢は三河守の折角の進言を蹴って、大軍を率いて七百余りの軍船で厳島へ渡ってしまった。三河守も仕方がなく陶から二日遅れて厳島へ渡った。
信長は桶狭間というせまい土地で今川義元を急襲して首級をあげたが、そのやり方はいくらなんでも一か八かの賭けすぎる。
それに比べると元就は、計画を練りに練って敵を死地におびき寄せている。同じ出世戦争でもその内容は比べものにならないと思う。 | 厳島の戦いで毛利軍の築城の情報を陶晴賢軍も流していたスパイは誰ですか。 | 元就の城に出入りしていた座頭である。 |
JCRRAG_017842 | 歴史 | 1846年(弘化3年)、「紀州藩」(きしゅうはん)の11代藩主「徳川斉順」(とくがわなりゆき)のもとに誕生したのは、「徳川家茂」(とくがわいえもち)です。
徳川家茂は元々徳川将軍家ではなく、紀州藩の跡継ぎだったのです。
しかし、徳川斉順は徳川家茂が生まれる16日前に亡くなっていたため、紀州藩の12代藩主には、徳川家茂の叔父にあたる「徳川斉彊」(とくがわなりかつ)が継いでいました。
ところが、徳川斉彊も30歳の若さで亡くなり、まだ4歳であった徳川家茂が、紀州藩13代藩主の座に就くことになったのです。
徳川家茂は1851年(嘉永4年)に元服し、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)より「偏諱」(へんき:貴人などの名前2字のうちの1字)を賜り、幼名の「菊千代」(きくちよ)から「慶福」(よしとみ)へ改名します。
徳川家茂は紀州藩主継嗣として育てられましたが、生まれてから将軍になるまでの期間を、江戸にある紀州藩邸(現在の東京都港区)で過ごしており、紀州藩に行ったことは1度もなかったのです。
この当時の江戸幕府では、13代将軍の「徳川家定」(とくがわいえさだ)に子どもがおらず、後継者問題で揺れていました。
その次期将軍の候補には、譜代筆頭であった「井伊直弼」(いいなおすけ)を中心とした「南紀派」(なんきは)が推した徳川家茂と、「水戸藩」(みとはん)の9代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)ら「一橋派」(ひとつばしは)が推した「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)のちの「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が挙げられ、両派の間で熾烈な争いが繰り広げられたのです。
1858年(安政5年)4月には、南紀派の井伊直弼が将軍に次ぐ最高職である大老に就任し、幕府における井伊直弼の発言権が強大化しました。そして徳川家茂は、1858年6月に徳川家定の継嗣となることが決定されます。
ところが同年7月、徳川家定が病没したことを受け、徳川家茂は同年10月、14代将軍に就任。徳川家茂は、継嗣となることが決められたわずか4ヵ月後に、将軍の座に就くこととなりました。 | 1846年、徳川斉順のもとに誕生した人物は、継嗣となることが決められた何ヵ月後に、将軍の座に就くこととなったか。 | 1846年、徳川斉順のもとに誕生した人物は、継嗣となることが決められたわずか4ヵ月後に、将軍の座に就くこととなった。 |
JCRRAG_017843 | 歴史 | 徳川家康の南洋政策は、豊臣秀吉の強硬な、むしろ恫喝的、侵略的なそれとは異なり、きわめて穏健で親和的で実利的であった。つまり、ひとえに貿易を興し、国益を図ろうとする経済的な画策だったのである。
豊臣秀吉が九通しか許さなかった御朱印を、徳川家康は慶長九年に一挙に二十九通も許可して、盛んに貿易させたのであった。
しかし家康が南洋諸国に政策の手を延ばし、外交を開始したのは、それより少し早い慶長六年のことであり、安南都統の阮敬という者が「日本人が当国の海岸に漂流して来て当国人をみだりに殺戮するんだが」と申して来たのに対して「凶徒は貴国の法律に則って処罰してください」と返書を与えたことから始まり、安南の大都統である瑞国公より、通商に関する来書があった時「風や波は天候によるので注意がいるが、凶賊は人なので、その凶賊は既に日本の近海より姿を消したから、安心して通商に従事してほしい」という意味の返書をした。そうして同年にカンボジア国王より同じく通商に関する文書が来たら「遠くから信書を伝えられ、これを抜いて読むことは、蓮華を床にして雹や雪の語らいを聴くようなものだ」という、至極巧妙な外交辞令を用いて相手を喜ばせ、なお、日本よりの貿易船は朱印をもって入港許可証としたので、これを所持している船は優遇して信用してほしいと希望し、同じ年に、また同じ王から来書があるや、両国の交際のいよいよ厚くなることを喜ぶと云い、更に同国に内乱があることに同情し「国民の願いに応じてしっかりした慈悲を施すことができれば、国家は自然に安泰するけど、やむを得ない場合は戦闘になるのもしょうがないだろう」と大戦術家であると共に大政治家である家康らしい注意を与えた。
更に兵器などは日本産のものは極めて鋭利だから、要望さえあれば供給してもよいと何時の時代にもある戦闘国に対して第三国が行う武器を売り込む営業を早速行ったりもした。
そうして秀吉時代に一時杜絶した呂宋との通商も家康時代に入って再び復活した。
慶長六年のことであったが、マニラの大守テイヨから久しぶりに手紙があり、日本人が支那人と共同して暴動をするんだがどうしたらよいかと処置を教えてもらいにきた。
これが秀吉であったなら「わたしのような神の住む国の男子が、異国で暴動などするわけがない!」などと高飛車におどしつけたことであろうが、家康はそうでなく至極国際公法的に、凶徒は容赦なく貴国の法律に照らして処罰した方が良いと返書し、更に、メキシコと交通したいが、斡旋してくれるなら嬉しいんだけどと依頼したりした。
翌七年、またテイヨから文書が来ると、家康はいよいよ親和外交の奥の手を発揮し「姿かたちを見なくても、言葉を聴かなくても、情をかわせば世の中の人々を一つの家族のように見るようなものだ」などと、およそ秀吉が、わしは太陽の申し子じゃ、お前、まごまごして早く降参しないことには、征伐するぞ、などという傍若無人の言葉とは似ても似つかない、嬉しがらせるようなの辞令を与え、さてその後から、再度自分の希望のメキシコ通商の斡旋方を依頼し「日本がメキシコと交通しようとするのは、単に日本のためばかりでなく、貴国の為でもあるのです。というのは、今回そのため関東の浦賀を碇泊所としますがこれは貴国にとっても便利だと思います。
尚、日本の現在は、国の内外は平穏だし盗賊がでる心配もないから安心して船舶を通せますよ」と送った。そこで呂宋は安心して同年船を浦賀に向け、書状及び贈物を献上して、それ以来盛んに通商貿易をした。
しかしメキシコと日本との通商交通の斡旋をしようとはしなかったが、それは家康に悪意があって反抗したのではなく、それとはむしろ反対に日本とメキシコが交通貿易をするようになったなら、折角復活した日本と呂宋との貿易が、メキシコのために妨害されるかもしれないことをおそれた結果なのであった。つまり自分一人日本の寵児になろうとしたのであって、秀吉のために横面をなぐられて恐怖した彼が、家康によって撫でられたので、そこまでなついて来たのであり、秀吉、家康の硬軟二道の外交術が、南洋諸国を、よく日本に馴染ませた一例ということが出来る。 | 御朱印をより多く許可した人物を教えてください。 | 御朱印をより多く許可した人物は徳川家康で二十九通です。 |
JCRRAG_017844 | 歴史 | 欧洲における同一慣習
スカンジナビアではこれとよく似ていて、その国人の名字というのは多くは皆親の名から作った名字です。たとえば「アンデルセン」の「セン」は英語の「Son」という字で、「アンデル」の子という意味です。今では代々この家号を伝えているけれども、いずれの時代にかロシアと同じく、本人の名の後にだれそれの子ということを添えて、呼んだ習慣が残っているのであります。
「ソン」または「セン」という語尾のある名字は、北欧系統の諸民種、英人にもドイツ人にもその時その時、これを見かけるのです。また英国人の中に家名の頭に「マック」というのは、これまた子という意味であるから、やはり同一慣習であります。「フィッツゼームス」とか、あるいは「フィッツゼラルド」とかいう名字の「フィッツ」も同じく子供という意味であって、いずれも前述の三郎五郎、四郎太郎、権兵衛作の類によって、ただちにその由来を知ることができるのであります。
支那と日本と共通の慣習
出産の順番で人の字を呼ぶことは、西洋と共通でない慣習でありますが、中国には古くから存在しておったのです。支那では同じ家族に属するいとこの列まで合わせて、長幼の別をもって数字の番号を付ける、その例は『唐詩選』などを見ても人の名を呼ばずに、「王十一の某処に往くを送る」という題があります。この十一は同族間の長幼の順序が、十一番目ということです。かくのごとく通例数字ばかりで呼ぶけれども、また時として郎の字を付けることもありました。郎は「むすこさん」という意味です。則天武后の臣下に張某という非常に美しき男がいました。そこである人はこの人に媚びて「三郎は蓮花に似たり」といったところが、またある者が「蓮花が三郎に似たるなり」といったという話もあります。この三郎はすなわちその例であります。
日本における昔の命名慣習
日本の太郎・次郎も、唐朝文明の輸入の際に、中国風を真似たのであります。それ以前はどんな風に呼んでいたか、明白ではありませんが、皇族の字として稚郎子、仲大兄などと称えたのを見ると、ほぼ想像することができるのであります。太郎・次郎等の漢音が行われた後も、女子については久しい間この風潮がありました。たとえば長女は大子、次女は中子、三女は三子、四女は四子と呼んだようです。女についてはことに名を呼ぶのを避けたらしく思われます。十女・十一女に至っては何と呼んだか。今日の文書には残っていないけれども、なんらかの方法によって名以外のものを呼んだに違いがない。男はもし腹ちがいなどが多くして、十郎以上になれば、十一郎・十次郎とも呼べば、または余一・余二とも呼んだのであります。那須与一、真田与一は、与の字を書いたけれども実は余一で、十一男の事です。戸隠山で鬼女を退治した平惟茂を余吾将軍と呼ぶのは、祖父貞盛の養子となって、長幼の順序が十五番目であったからであります。 | 男はもし腹ちがいなどが多くして、十郎以上になったときの呼び方の数を教えてください。 | 男はもし腹ちがいなどが多くして、十郎以上になったときの呼び方の数は4で、
「十一郎」
「十次郎」
「余一」
「余二」
です。 |
JCRRAG_017845 | 歴史 | 明治時代は1868年10月23日(明治元年9月8日)から1912年(明治45年)7月30日までの45年間で天皇が中心となり、中央集権的な近代国家が形成され憲政体制に移行した時代です。政治体制としては、封建制に代わり、天皇を中心とする近代的中央集権制が確立された。西洋文化が流入し、教育制度や科学技術も取り入れられました。これにより、洋服や西洋の食事が普及し、日本の文化が大きく変わりました。明治時代になって開国し、多くの国と交友を結ぶようになりました。この時期に日本は国際的な舞台に立ち、列強の一員としての道を歩み始めます。
大正時代は大正天皇の在位期間である1912年(大正元年)7月30日から1926年(大正15年)12月25日までです。日露戦争後の日比谷焼き打ち事件などをはじめ、世論や民主主義が政府を動かす時代の到来となり、大正デモクラシーによる普通選挙が実現した。
普通選挙による政党政治は、最初から腐敗しており、選挙活動の資金を得る為、政党の多くが企業などと癒着していた。
この金権政治体質は、国家主義者と軍部が台頭する大きな要因となりました。特徴的な文化では大正ロマンなど、新しい文学や芸術が生まれました。 | 明治時代と大正時代で文化の違いを説明してください。 | 明治時代は西洋文化が流入し、教育制度や科学技術も取り入れられ洋服や西洋の食事が普及し、日本の文化が大きく変わりましたが、大正時代は大正ロマンなど、新しい文学や芸術が生まれました。 |
JCRRAG_017846 | 歴史 | この厳島の戦いは、元就の一夜陣として有名である。
だが、一夜のうちに毛利一家の存亡を賭けたわけであるが、しかし元就の心のなかには勝利に対する信念が沸き起こっていたのではないかと思われる。
元就は鼓の浦へ着く前に今まで船中に連れて来ていたスパイの座頭を捕えて、「陶への進言よくぞやってくれた、お前のおかげで主君の首が今日中に見れるだろう、先にあの世に行って主君を待っていろ」といって、海に投げて血祭にした。
小早川隆景の当夜の行動には二説ある。隆景は先に漁船に身を隠して宮尾城のピンチを救う為に宮尾城へ入ったと書いてあるが、これは恐らく俗説だろう。
当夜は熊谷信直の部下を従え、厳島神社の大鳥居の方面から敵の兵船の間を抜ける所を敵が待て!と止めると「味方になりにきた九州の兵です」と言って簡単に上陸して塔の岡の坂下に陣を広げて、本軍の鬨の声があがるのを待っていた。
毛利の第一軍は地御前より厳島を迂回して東北岸鼓の浦に上陸して博奕尾の険を越えて塔の岡の陶軍の本陣を背面から攻撃し、第二軍は宮尾城の城兵と協力し、元就軍の本軍が鬨の声を発するタイミングで正面より陶の本陣を攻撃するもので、小早川隆景はこれを率いていた。
第三軍は村上や来島等の海軍で組織されており、厳島の対岸を警備して場合によって陶の水軍と合戦をしようというものだ。
元就が鼓の浦へ上陸しようとする時、雨がしきりに降ったので児玉就忠が元就に傘を差そうとしたが元就は拳で払いのけた。
陶の方は塔の岡を本陣としたが、諸軍勢は厳島の神社付近の地に散らばっており、何の統制も無かったらしい。
先弘中三河守は陶に早く宮尾城を攻略すべきだと進言したけれども、陶はそのアイディアを採用せずに城攻めは十月一日にきまっていた。その一日の夜が明けるころに元就軍が殺到したわけである。
元就は鼓の浦へ着くと、乗っていた兵船を全て二十日市へ戻した。生きて帰るつもりもない正に背水の陣である。
吉川元春は先陣となって、えいえい声を掛けて坂を上っていたが、その声が自動的に鬨の声になって陶の本陣がある塔の岡へ殺到した。
陶方も毛利軍の夜襲と知って、諸方より本陣へ急いで集まって防戦しようとしたが、急いで集まった大軍だから配備は滅茶苦茶だった。
兵は多いが土地は狭く自由に動けない所に、元就の軍勢は、揉まれながら攻めたから、陶軍は早くも混乱した。
前から打ち合っていた小早川隆景の軍隊は本軍の鬨の声を聞くと、これもまた大声をあげながら前面から攻撃した。
大和伊豆、三浦越中、弘中三河守等の勇将は、「敵は少し!恐るるに足らん!返せ返せ!」と叫んで奮戦したが一度混乱した大軍は、どっと崩れるままに、逃げるために我先に船に乗ろうと海岸を目指して逃げ出した。
晴賢は、自分で采配を振るったが一度崩れ立った大軍はどうしようもなく、あっというまに塔の岡の本陣は毛利軍に蹂躙されてしまった。
敗兵達が船に乗ったばかりに陶の水軍があわて出したところを、毛利の第三軍たる村上、来島等の水軍が攻めかかったので、陶の水軍はこれまたあっという間に撃破されて多くの兵船は防州の矢代島を目指して逃げてしまった。
塔の岡の本陣を攻め落とされた陶軍は、厳島神社の裏を西へ西へと逃走した。
弘中三河守は同中務と共に主君である晴賢の退却を援護するために五百騎ばかりで吉川元春の追撃を迎え撃った。
弘中父子が必死に防戦したから、流石の吉川勢も倒し切れずに退却した。
元春自身が槍をとって奮戦していると弘中軍の武将青景波多野や、滝町の横町、柳小路から吉川勢を横撃した。
この時吉川勢はなかなか危なかったのだが、熊谷信直が駆けつけてピンチを救ったので、弘中の軍は滝小路の民家に火を放って弥山道の大聖院に撤退した。
吉川勢は、その火が厳島神社に引火する事を恐れて消火に努めている間に、晴賢は三浦に守られながら大元浦に落ちのびた。
大元浦は、厳島神社から西北へ2〜300メートルのところにある。そこへ吉川勢に代わって小早川隆景が精鋭を率いて追撃して来た。
陶がここで討ち死にしようとするのを「ひとまず山口へひいて隊を整えましょう。この三浦殿をつとめてここで討ち死にします」と晴賢を説得して、三浦越中は、羽仁越中守、同将監、大和伊豆守たちを粉骨砕身して戦った。
三浦はことごとく討ち死にしてただ一人になって山道で休んでいるところへ、二宮杢之介が馳け付けると、三浦は嘘をついて「味方です」という。味方での「で」の字の発音が山口の音だなと思い、二宮は敵だと理解して「合言葉を言え!」と迫った。三浦は立ち上がって奮戦したが、矢に討たれた。
陶は、さらに西方に隠れたが、味方の兵や船の影は全くなく、ついに大江浦にて小川伝いに山中に入ってその辺りにて自害したと言われている。 | 厳島の戦いに勝ったのは毛利軍か陶晴賢軍のどっちですか。 | 毛利軍が夜襲に成功し、毛利軍の勝利となった。 |
JCRRAG_017847 | 歴史 | 1846年(弘化3年)、「紀州藩」(きしゅうはん)の11代藩主「徳川斉順」(とくがわなりゆき)のもとに誕生したのは、「徳川家茂」(とくがわいえもち)です。
徳川家茂は、14代将軍となったときまだ13歳で、幼い将軍であったため、政務を補佐する人物が必要になり、その任務にあたる「将軍後見職」(しょうぐんこうけんしょく)という役職が、臨時に設けられることになりました。
徳川家茂が将軍に就任した当初は、「御三卿」(ごさんきょう)のひとつに数えられる「田安徳川家」(たやすとくがわけ)の5代、及び8代当主であった「徳川慶頼」(とくがわよしより)が、将軍後見職に任命されます。しかし、徳川慶頼は南紀派であったため、実質的には井伊直弼の政治的権力が大きく影響していたのです。
ところが、1860年(万延元年)井伊直弼が「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)で暗殺されたことにより治世の様相が一変。1862年(文久2年)、徳川慶頼は将軍後見職を罷免され、121代天皇「孝明天皇」(こうめいてんのう)の意向が汲まれた形で、一橋慶喜が就任することになったのです。
徳川家茂は、大きな権力を握っていた井伊直弼や、将軍後見職である一橋慶喜が中心となって幕政に取り組んでいたため、自身の政治的手腕を振るう機会にあまり恵まれなかったのです。そのため、将軍としての逸話はそれほど多く残されていません。
しかし、育ちの良い温厚な性格で、家臣達からは慕われていたと伝えられているのです。そのなかでも、徳川家茂が親同然に信頼を置いていた家臣が「尾張藩」(おわりはん)15代藩主「徳川茂徳」(とくがわもちなが)。そんな2人の深い絆は、次のような逸話からも窺えます。
あるとき「江戸留守居役」(えどるすいやく)に任命された徳川茂徳。これは、幕府において老中の配下に属し、通行手形の管理や大奥の取り締まりなどを行なうだけでなく、将軍が不在のときには「江戸城」(えどじょう)の守衛を担当する役職です。
このため、主君である徳川家茂と離れることになった徳川茂徳は、徳川家茂の肖像画を制作しました。これは、徳川茂徳が徳川家茂に対して深い思慕の念を抱き、親愛なる情があったことがその背景にあったと推測されています。
また、徳川茂徳は徳川家茂亡きあと、13代将軍であった徳川家定の正室である「天璋院」(てんしょういん)通称「篤姫」(あつひめ)や、徳川家茂の正室であった「和宮」(かずのみや)と共に、この肖像画を眺めて在りし日の姿を偲んでいたとも伝えられているのです。 | 1846年、徳川斉順のもとに誕生した人物が、14代将軍となったのは何歳のときか。 | 1846年、徳川斉順のもとに誕生した人物が、14代将軍となったのは13歳のときである。 |
JCRRAG_017848 | 歴史 | 天正十年六月十八日、尾州清洲の植原次郎右衛門が大広間において、織田家の宿将たちが一堂に集まり、主家の跡目について大評定を開いた。
これが有名な清洲会議である。
この年の六月二日、京都本能寺にいた織田信長は、家臣である日向守光秀の反逆によって倒れ、その長男である三位中将織田信忠もまた、二条の城において、父と運命を共にした。
その時、織田の長臣である柴田勝家は、上杉景勝を討つべく、佐々内蔵助成政、前田又左衛門利家、佐久間玄蕃允盛政、及び養子である伊賀守勝豊以下、五人の武将を率いて、越中魚津にて陣地の中にあった。
本能寺の変が知らせられたのは同月四日の夜に入ってからであるが、陣中の慌てぶりはただごとではなく、戦の最中であっても柴田勝家は越前に、盛政は富山に退いた。また滝川一益も、武蔵野において北条高広一人の武将を連れて、北条氏政と合戦中であったが、たちまち講和して、尾州長島の居城に帰った。
更に森勝蔵長勝は、上杉家と争っていたのだが、信濃川中島へ撤退し松本を経て、美濃に退いていた。
さて最後に、羽柴筑前守秀吉であるが、当時、中国地方で毛利大膳大夫輝元を攻めて、高松城へ水攻めをやっていたのだが、京都の凶報が秀吉の陣に達したのは、六月三日子の刻である。
五日の朝まで、信長が死した事の事を秘密にしたまま、ついに毛利との講和に成功した。和平を結ぶや否や飛ぶように馬を走らせ、光秀の虚を山崎宝寺た天王山で突き上げ、光秀をして三日天下の哀れをこうむった。
この山崎合戦はまさに秀吉の天下取りの戦争であった。そして信長の残した事業に対して、偉大なる発言権を握ったわけだ。勝家以下の諸将が、本能寺の変に応じて上洛を期待したけれども、秀吉の神速なる行動には及ぶべくもなかった。だが、信長の遺児や臣下や家来が多数が存在する以上、すぐ秀吉が天下を取るわけには行かない。
遺児の中の何人をして、信長の跡継ぎにするかということが大問題であった。さて信長と信忠の血を継いでいる者は、次男の信雄、三男の信孝と、信忠の子である三法師丸がいる。この三人のうちから誰を立てて、主家の跡目とするかが、清洲会議の目的であった。 | 織田信長が倒れた時、もっとも武将を多く率いて戦をしていたのは誰ですか。 | 織田信長が倒れた時、もっとも武将を多く率いて戦をしていたのは柴田勝家で五人です。 |
JCRRAG_017849 | 歴史 | 今日の多くの人の命名の由来
右の慣習は曾我五郎・十郎の頃になると、そろそろ壊れはじめ、ほぼ今日の通称に類似して来ましたけれども、それでも原則としてはまず前述の方法を採用して、近世に及んだことは人の知る通りであります。しかし人がようやく増えて来て、一つの村落に八十戸や百戸の人家が集まり、または三里や五里の隣村と交際するようになっては、そもそもこのような単純な方法では、同年輩の若者を弁別することができなくなりました。それでも京都に住んでいる官吏はもちろん、良い家柄のものならば、一代に二度三度京都に勤番をして、名誉官を拝命して帰って来るから、当然これをもって他人と区別することができたけれども、そのへんの平民に至っては、やはり八丈島ないしはロシア・ノルウェーの古い慣習のように、父の名でも頭に付けなければまずわかりません。そこでわが国にも次郎三郎、四郎五郎等の名前がだんだんできて来たのであります。また父が達者でいる間に悴の太郎が成人して、世間の交際を初めるようになると、仕方がないから家柄の家でも、区別するために太郎太郎ともいえぬから小太郎、新太郎などといっております。そのまた悴が世に出れば孫太郎、そのまた子が世に出れば、まさか曾祖父と混同されることもないけれども、死んだ太郎や父の孫太郎、祖父の小太郎に対して区別をするために、彦太郎と名を付ける。これが今日の多くの人の名というものの由来です。
通称のたびたび変更する京都の貴族
ついでに今少し名の話をするならば、京都の貴族は名字になると、一代に十度も十五度も昇進して、いずれの官が終極という事がないから、通称がたびたび変更されるのです。昨日まで四位少将であった人が今日は三位中将殿になっている。翌年は文官に転じて中納言殿と称えられなければならないようになるので、それが果たして字であるやら、はたまた我々官吏が長官に向かって、長官といい局長というと同じ意味の通称やら、区別することができない。 | 父の名でも頭に付けなければまずわからない古い慣習と言われた国や地域の名前の数を教えてください。 | 父の名でも頭に付けなければまずわからない古い慣習と言われた国や地域の名前の数は3で、
「八丈島」
「ロシア」
「ノルウェー」
です |
JCRRAG_017850 | 歴史 | メソポタミア文明
地理的条件: チグリス川とユーフラテス川の間に位置し、「文明の揺り籠」と呼ばれる。
文字の発明: 楔形文字を発明し、記録や法律の制定に利用した。
都市国家の形成: シュメール人が最初の都市国家を築き、社会構造を発展させた。
文化的・技術的進歩: 青銅器の製造やジッグラトの建設など、多くの革新をもたらした。
法典の制定: 世界最古の法典であるハンムラビ法典が存在し、法律の基礎を築いた。
これらの特徴は、メソポタミア文明が人類の歴史において重要な役割を果たしたことを示しています。
エジプト文明
紀元前3000年頃から紀元前30年頃までのエジプトで栄えた文明です。エジプトはナイル川の流域に国家を作り、海と砂漠に囲まれた地形で統一王国が長く続きました。エジプト文明では、「ファラオ」と呼ばれる王が神権政治を行い、文学や医療、学問などの高度な文化を発展させました。特に数学の測量技術や幾何学は、ピラミッドやスフィンクスなどの史跡にも反映されました。エジプト文明は、葬祭儀式や象形文字などの独自の儀式や文字を持ち、ローマ帝国に滅ぼされるまで続きました。
インダス文明
インダス川流域で紀元前2500年頃から紀元前1800年頃まで栄えた古代インドの文明である。インダス文明の特徴は、計画的な都市建設、発達した商業活動、工芸技術の発展、宗教的な信仰などである。インダス文明ではインダス文字や印章などの独自の文化も生み出された。モヘンジョ=ダロやハラッパーなどの都市遺跡がインダス文明の代表的な遺産である。 | メソポタミア文明とエジプト文明の地理的条件の違いを説明して下さい。 | メソポタミア文明はチグリス川とユーフラテス川の間に位置したが、エジプト文明はナイル川の流域でした。 |
JCRRAG_017851 | 歴史 | 天正十五年、豊臣秀吉が薩摩の島津義久を討った時に九州全土に力を持っていた島津も、東西の両道から南下する豊臣勢にはかなわずに、たちまち崩壊した程であるから、沿道の小名郷士の輩は頃合いをみて秀吉の軍門に下ったのであった。
秀吉はこの一円を、さいしょは小西行長に治めさせていたが、郷士や土民はよく豊臣の命令に従った。
徳川の天下となった後も、これらの郷士の子孫達は豊臣への恩義を忘れずにあえて徳川幕府に仕える事なく、山間や漁村に隠れて出てこようとしなかった。
行長の残した家臣である益田甚兵衛好次はそれらに隠れ住んでいた浪士の一人である。
始めは肥後の宇土郡にある江辺村にて晴耕雨読の生活を送ること三十余年であったが、寛永十四年に「天草島原の切利支丹一揆の乱」が起こった年の夏、大矢野島に渡り越野浦に移り住んでいた。
元来行長はキリシタン宗の信者であったから、その家臣も多くキリスト教の教えを奉じていたのであって、益田好次も小さい頃からこれを信じて居た。
天正十八年末、徳川幕府は全国に渡ってキリシタンはご法度であるという禁令を出した。
九州の地は早くから西洋人との交渉があったから、キリスト教もこの地に伝わった。
キリスト教伝来の年が西暦一五四九年、島原の乱が同じく一六三七年であるからこの間に九十年近い歳月がある。
この長い年月に渡っての、宣教師を始めとした熱烈な伝道は、国禁を忍んで秘かに信仰する大量の信者を作った。
益田好次には男の子がいた。その名は四郎である。五歳にして書を書き、天性の素質は人々を驚かせた。
幼い頃にして熊本の藩士の小姓となったが、十二・三の頃にそこを辞めて長崎に出たら明(中国)の人に雇われた。
その明人はある時、四郎の風貌を見て「この子は市井に埋まる者でない。必ず天下の大事をなしとげるだろう」と語ったという。
好次の下に帰ったのが寛永十四年、年は十六歳であったが、非常に賢い素質に加えて容姿は典雅にして挙動は処女のようであった。
当時は美少年が尊重される世相であったから美少年の四郎はたちまち衆人からあがめられるものとなった。
この弱冠の美少年こそは、キリシタン一揆の総帥となった「天草四郎時貞」である。
当時島原一円の領主であった松倉重次は惰弱の暗君で、いたずらに重税をほしいままにした。
宗教上の圧迫も残虐であり宗徒を温泉雲仙(雲仙嶽)の火口へ投げ込んだりした。
領主の暴政に、人心は離反して次第に動揺し、根拠のないうわさ話やデマが盛んに飛び交った。
病身がちであった将軍家光は既に亡くなっているが、未だ亡くなった事を公表していないのだとか、この冬には両肥の国に疫病が起こって、ただ天主を信ずる者だけが身を全うし得るであろうとか、なかなかのデマである。
四郎時貞が父と共に住居している大矢野島に並んだ千束島に、大矢野松右衛門、千束善右衛門、大江源右衛門、森宗意、山善左衛門と云う五人の宗門長老の者達がいる。
彼らはこの島に隠れる事二十六年、熱心な伝道者であったが、かつては益田好次と同様に豊臣の恩義を受けた者である。
この年の夏に彼等は人心の動揺を利用して、「慶長の頃天草上津浦のバテレンが、国禁によって国外へ追放された時の遺言に、今より後二十六年、天帝は天をして東西の雲を焼き、大地をして季節外れの花を咲かせるであろう。国や都では騒動が起こり人民は苦しむだろうが、天帝は二八の天章をこの地に下し、宗教の力をもって救うであろうとあるが、今年は正にその時である」
とデマを放った。
丁度この夏はかんばつで日が照っており、島原では深江村を始め時期外れの桜が咲いたりしたから、人民は簡単にこれらのデマを信じた。
そこで松右衛門は好次と共謀して、「四郎こそ天帝が降すのしるしである」といって、大矢野島宮津に道場を開き法を説いた。
道場に来る老若男女は、威風を放って懇切丁寧に説法する美少年の姿に、まず目を見張ったに違いない。その上彼等が尊敬してきた長老達が四郎を礼拝する姿を見ては、驚きから次第に崇めるようになった。更に四郎が不思議な神通力を持っているという噂が、門徒の信心をさらに強め、新たに宗門に投ずる者を次第に増やした。
四郎が天を仰いで念ずると鳩が飛んで来て四郎の手の上に卵を産み、卵の中から天主の画像と聖書を出したとか、一人の狂った女が来たのに四郎がうなずくとたちまちに正気に戻ったとか、またある時には、道場に来て四郎を罵倒する者があったが、その場ですぐに喋れなくなった、などという。 | キリスト教が九州の島原に広まったのはなぜですか。 | 九州にはキリスト教が早くに広まっており、四郎が不思議な神通力を持っているという噂が、門徒の信心をさらに強め、新たに宗門に投ずる者を次第に増やしたから。 |
JCRRAG_017852 | 歴史 | 1846年(弘化3年)、「紀州藩」(きしゅうはん)の11代藩主「徳川斉順」(とくがわなりゆき)のもとに誕生したのは、「徳川家茂」(とくがわいえもち)です。
徳川家茂は、14代将軍となったときまだ13歳で、幼い将軍であったため、政務を補佐する人物が必要になり、その任務にあたる「将軍後見職」(しょうぐんこうけんしょく)という役職が、臨時に設けられることになりました。
徳川家茂が将軍に就任した当初は、「御三卿」(ごさんきょう)のひとつに数えられる「田安徳川家」(たやすとくがわけ)の5代、及び8代当主であった「徳川慶頼」(とくがわよしより)が、将軍後見職に任命されます。しかし、徳川慶頼は南紀派であったため、実質的には井伊直弼の政治的権力が大きく影響していたのです。
ところが、1860年(万延元年)井伊直弼が「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)で暗殺されたことにより治世の様相が一変。1862年(文久2年)、徳川慶頼は将軍後見職を罷免され、121代天皇「孝明天皇」(こうめいてんのう)の意向が汲まれた形で、一橋慶喜が就任することになったのです。
徳川家茂は、大きな権力を握っていた井伊直弼や、将軍後見職である一橋慶喜が中心となって幕政に取り組んでいたため、自身の政治的手腕を振るう機会にあまり恵まれなかったのです。そのため、将軍としての逸話はそれほど多く残されていません。
しかし、育ちの良い温厚な性格で、家臣達からは慕われていたと伝えられているのです。そのなかでも、徳川家茂が親同然に信頼を置いていた家臣が「尾張藩」(おわりはん)15代藩主「徳川茂徳」(とくがわもちなが)。そんな2人の深い絆は、次のような逸話からも窺えます。
あるとき「江戸留守居役」(えどるすいやく)に任命された徳川茂徳。これは、幕府において老中の配下に属し、通行手形の管理や大奥の取り締まりなどを行なうだけでなく、将軍が不在のときには「江戸城」(えどじょう)の守衛を担当する役職です。
このため、主君である徳川家茂と離れることになった徳川茂徳は、徳川家茂の肖像画を制作しました。これは、徳川茂徳が徳川家茂に対して深い思慕の念を抱き、親愛なる情があったことがその背景にあったと推測されています。
また、徳川茂徳は徳川家茂亡きあと、13代将軍であった徳川家定の正室である「天璋院」(てんしょういん)通称「篤姫」(あつひめ)や、徳川家茂の正室であった「和宮」(かずのみや)と共に、この肖像画を眺めて在りし日の姿を偲んでいたとも伝えられているのです。 | 1846年、徳川斉順のもとに誕生した人物が幼くして将軍になったため、臨時に設けられた役職は何か。 | 1846年、徳川斉順のもとに誕生した人物が幼くして将軍になったため、臨時に設けられた役職は将軍後見職である。 |
JCRRAG_017853 | 歴史 | 天正十年六月十八日、尾州清洲の植原次郎右衛門が大広間において、織田家の宿将たちが一堂に集まり、主家の跡目について大評定を開いた。
これが有名な清洲会議である。
この年の六月二日、京都本能寺にいた織田信長は、家臣である日向守光秀の反逆によって倒れ、その長男である三位中将織田信忠もまた、二条の城において、父と運命を共にした。
その時、織田の長臣である柴田勝家は、上杉景勝を討つべく、佐々内蔵助成政、前田又左衛門利家、佐久間玄蕃允盛政、及び養子である伊賀守勝豊以下、五人の武将を率いて、越中魚津にて陣地の中にあった。
本能寺の変が知らせられたのは同月四日の夜に入ってからであるが、陣中の慌てぶりはただごとではなく、戦の最中であっても柴田勝家は越前に、盛政は富山に退いた。また滝川一益も、武蔵野において北条高広一人の武将を連れて、北条氏政と合戦中であったが、たちまち講和して、尾州長島の居城に帰った。
更に森勝蔵長勝は、上杉家と争っていたのだが、信濃川中島へ撤退し松本を経て、美濃に退いていた。
さて最後に、羽柴筑前守秀吉であるが、当時、中国地方で毛利大膳大夫輝元を攻めて、高松城へ水攻めをやっていたのだが、京都の凶報が秀吉の陣に達したのは、六月三日子の刻である。
五日の朝まで、信長が死した事の事を秘密にしたまま、ついに毛利との講和に成功した。和平を結ぶや否や飛ぶように馬を走らせ、光秀の虚を山崎宝寺た天王山で突き上げ、光秀をして三日天下の哀れをこうむった。
この山崎合戦はまさに秀吉の天下取りの戦争であった。そして信長の残した事業に対して、偉大なる発言権を握ったわけだ。勝家以下の諸将が、本能寺の変に応じて上洛を期待したけれども、秀吉の神速なる行動には及ぶべくもなかった。だが、信長の遺児や臣下や家来が多数が存在する以上、すぐ秀吉が天下を取るわけには行かない。
遺児の中の何人をして、信長の跡継ぎにするかということが大問題であった。さて信長と信忠の血を継いでいる者は、次男の信雄、三男の信孝と、信忠の子である三法師丸がいる。この三人のうちから誰を立てて、主家の跡目とするかが、清洲会議の目的であった。 | 織田信長が倒れた時、もっとも武将を少なく率いて戦をしていたのは誰ですか。 | 織田信長が倒れた時、もっとも武将を少なく率いて戦をしていたのは滝川一益で、一人です。 |
JCRRAG_017854 | 歴史 | 今日の多くの人の命名の由来
右の慣習は曾我五郎・十郎の頃になると、そろそろ壊れはじめ、ほぼ今日の通称に類似して来ましたけれども、それでも原則としてはまず前述の方法を採用して、近世に及んだことは人の知る通りであります。しかし人がようやく増えて来て、一つの村落に八十戸や百戸の人家が集まり、または三里や五里の隣村と交際するようになっては、そもそもこのような単純な方法では、同年輩の若者を弁別することができなくなりました。それでも京都に住んでいる官吏はもちろん、良い家柄のものならば、一代に二度三度京都に勤番をして、名誉官を拝命して帰って来るから、当然これをもって他人と区別することができたけれども、そのへんの平民に至っては、やはり八丈島ないしはロシア・ノルウェーの古い慣習のように、父の名でも頭に付けなければまずわかりません。そこでわが国にも次郎三郎、四郎五郎等の名前がだんだんできて来たのであります。また父が達者でいる間に悴の太郎が成人して、世間の交際を初めるようになると、仕方がないから家柄の家でも、区別するために太郎太郎ともいえぬから小太郎、新太郎などといっております。そのまた悴が世に出れば孫太郎、そのまた子が世に出れば、まさか曾祖父と混同されることもないけれども、死んだ太郎や父の孫太郎、祖父の小太郎に対して区別をするために、彦太郎と名を付ける。これが今日の多くの人の名というものの由来です。
通称のたびたび変更する京都の貴族
ついでに今少し名の話をするならば、京都の貴族は名字になると、一代に十度も十五度も昇進して、いずれの官が終極という事がないから、通称がたびたび変更されるのです。昨日まで四位少将であった人が今日は三位中将殿になっている。翌年は文官に転じて中納言殿と称えられなければならないようになるので、それが果たして字であるやら、はたまた我々官吏が長官に向かって、長官といい局長というと同じ意味の通称やら、区別することができない。 | 父が達者でいる間に悴の太郎が成人して、世間の交際を初めるようになる場合に区別するために付けられる名前の数を教えてください。 | 父が達者でいる間に悴の太郎が成人して、世間の交際を初めるようになる場合に区別するために付けられる名前の数は2で、
「小太郎」
「新太郎」
です。 |
JCRRAG_017855 | 歴史 | メソポタミア文明
地理的条件: チグリス川とユーフラテス川の間に位置し、「文明の揺り籠」と呼ばれる。
文字の発明: 楔形文字を発明し、記録や法律の制定に利用した。
都市国家の形成: シュメール人が最初の都市国家を築き、社会構造を発展させた。
文化的・技術的進歩: 青銅器の製造やジッグラトの建設など、多くの革新をもたらした。
法典の制定: 世界最古の法典であるハンムラビ法典が存在し、法律の基礎を築いた。
これらの特徴は、メソポタミア文明が人類の歴史において重要な役割を果たしたことを示しています。
エジプト文明
紀元前3000年頃から紀元前30年頃までのエジプトで栄えた文明です。エジプトはナイル川の流域に国家を作り、海と砂漠に囲まれた地形で統一王国が長く続きました。エジプト文明では、「ファラオ」と呼ばれる王が神権政治を行い、文学や医療、学問などの高度な文化を発展させました。特に数学の測量技術や幾何学は、ピラミッドやスフィンクスなどの史跡にも反映されました。エジプト文明は、葬祭儀式や象形文字などの独自の儀式や文字を持ち、ローマ帝国に滅ぼされるまで続きました。
インダス文明
インダス川流域で紀元前2500年頃から紀元前1800年頃まで栄えた古代インドの文明である。インダス文明の特徴は、計画的な都市建設、発達した商業活動、工芸技術の発展、宗教的な信仰などである。インダス文明ではインダス文字や印章などの独自の文化も生み出された。モヘンジョ=ダロやハラッパーなどの都市遺跡がインダス文明の代表的な遺産である。 | メソポタミア文明とインダス文明の地理的条件の違いを説明して下さい。 | メソポタミア文明はチグリス川とユーフラテス川の間に位置したが、インダス文明はインダス川流域の流域でした。 |
JCRRAG_017856 | 歴史 | 真田幸村の名前には、色々な説がある。
兄の真田信幸は「私の弟の本当の名前は武田信玄の舎弟である典厩と同じ名前だし字も同じだよ」と言っている信繁であることは確実だった。
『真田家古老物語』の著者である桃井友直は「考えた所最初は信繁と名乗りその後に幸重になり、後に信賀と名乗っているのだろう」と言っている。
大阪の陣の前後には幸村が名乗ったのだと思うが『常山紀談』の著者などは、信仍と書いている。
これで見ると徳川時代には信仍で通ったのかも知れない。
しかし、とにかく真田幸村という名前が徳川時代の大衆文学者に採用されたためこの名前が圧倒的に有名になったのだろう。
むかしは姓名判断などはなかったのであるが幸村ほど智才優れた者は何かにつけていろいろと名前を変えたのだろう。
真田は信濃の名族である海野小太郎の最後に生まれた子で、相当な名族であり祖父の幸隆の時代に武田家に仕えたが、この幸隆が敵を同士討ちさせるアイディアを上手く出せる智将である。
真田三代記というが、この幸隆と幸村の子の大助を加えて、四代記にしてもいい位である。
真田幸村が豊臣家をひいきにしている武士というべきでもないのに、なぜ豊臣秀頼のために華々しき戦死を遂げたかという理由には、おそらく父の真田昌幸から徳川家といろいろあったのである。
上州の沼田は利根川の上流が片品川とくっつく所にあり、右に利根川左に片品川がある非常に敵を防ぐのに適している地であるが、関東管領の家が亡びた後に真田が自力で切り取った土地である。
武田家が亡びた後、真田家は表面上は徳川に従っていたが、家康が北条と媾和する時北条側の要求によって沼田を北条側へ渡すことになり、家康は真田家に「沼田を北条へ渡してくれ、その代わりお前には上田をやる」といった。
ところが真田昌幸は「上田は武田信玄時代から真田が持ってる場所だし、徳川から貰う筋合いはない。その上、沼田は俺が頑張って取った土地だ。理由もなく人にやるわけない」といって家康の要求を断り、さらにひそかに豊臣秀吉に使いを出して、手下にしてくれとお願いした。
家康は怒って、大久保忠世、鳥居元忠、井伊直政達に攻めさせた。
それを昌幸が相当な軍略を使って撃退している。
小牧山の直後、秀吉と家康の関係がこじれていた時だから、秀吉が上杉景勝に命じて昌幸を応援させるはずだったという。
この競り合いが真田家が徳川家を相手にした最初の出来事である。と同時に真田が秀吉のひいきになる。
その後、家康が秀吉と和睦したので、真田昌幸も地勢の関係上家康と和睦した。
家康は昌幸の武勇は侮れないと思い、真田の長男である信幸を、本多忠勝の婿にしようとした。
そして使いを出すと、真田昌幸は「お前のような使者の言う事は信じられない。聞き間違いだろう。帰ってもう一回聞いてこい」といって受けつけなかった。
徳川の家臣の娘などと結婚させてたまるかと思いが良くわかる。
そこで家康が秀吉に相談すると、
「真田の言う事ももっともだ。中務が娘を育てている間に、私が婿に迎えるというなら引き受けるだろう」と、いったとある。
家康は即座に本多忠勝の娘を養女にして、信幸の嫁にさせた。
結局、真田信幸は女房の縁に引かれて、後に父や弟と別れて徳川家康に付いて従ったわけである。
ところが天正十六年になって、秀吉が北条氏政を上洛しようと交渉が始まった時、北条家で持ち出した条件が、また沼田を一部よこせというのである。
先年徳川と和平をした時に貰うハズであったが、真田家がわがままを言って貰えなかった。
今度はぜひ沼田を貰いたい、そうすれば上洛すると提案した。この時の北条の使いが板部岡江雪斎という男だ。
北条としては沼田がそんなに欲しくはなかったのだろうがそういう難題を出して、北条家の面目を立てさせてから上洛しようというのであろう。
秀吉はすぐに、上州における真田の領地の内、沼田を入れて三分の二を北条に譲ることにさせて残りの三分の一を名胡桃城と共に真田家の領土とした。
そして沼田に対する所有権は徳川から真田に与えさせることにした。
江雪斎もそれを理解して帰った。
ところが、沼田の城代となった猪俣範直という武士がむちゃくちゃで、条約も何にも眼中になく、真田領の名胡桃城まで攻め取ってしまったのである。
昌幸がそれを豊臣秀吉に訴えた。豊臣秀吉は北条家の条約違反に怒って、ついに小田原征討を決心したのである。
昌幸からいえば自分の面目を立ててもらうために、北条征伐を秀吉が決めてくれたのでかなり嬉しかったに違いないだろうと思う。
関ヶ原の時に昌幸が一も二もなく大阪に味方したのは、この時の感激を覚えていたのであろう。 | 真田幸村は本当は真田信繁なのに幸村で定着したのはなぜか。 | 真田幸村という名前が、徳川時代の大衆文学者に採用されたためにこの名前が圧倒的に有名になった。 |
JCRRAG_017857 | 歴史 | 1846年(弘化3年)、「紀州藩」(きしゅうはん)の11代藩主「徳川斉順」(とくがわなりゆき)のもとに誕生したのは、「徳川家茂」(とくがわいえもち)です。
徳川家茂は、14代将軍となったときまだ13歳で、幼い将軍であったため、政務を補佐する人物が必要になり、その任務にあたる「将軍後見職」(しょうぐんこうけんしょく)という役職が、臨時に設けられることになりました。
徳川家茂が将軍に就任した当初は、「御三卿」(ごさんきょう)のひとつに数えられる「田安徳川家」(たやすとくがわけ)の5代、及び8代当主であった「徳川慶頼」(とくがわよしより)が、将軍後見職に任命されます。しかし、徳川慶頼は南紀派であったため、実質的には井伊直弼の政治的権力が大きく影響していたのです。
ところが、1860年(万延元年)井伊直弼が「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)で暗殺されたことにより治世の様相が一変。1862年(文久2年)、徳川慶頼は将軍後見職を罷免され、121代天皇「孝明天皇」(こうめいてんのう)の意向が汲まれた形で、一橋慶喜が就任することになったのです。
徳川家茂は、大きな権力を握っていた井伊直弼や、将軍後見職である一橋慶喜が中心となって幕政に取り組んでいたため、自身の政治的手腕を振るう機会にあまり恵まれなかったのです。そのため、将軍としての逸話はそれほど多く残されていません。
しかし、育ちの良い温厚な性格で、家臣達からは慕われていたと伝えられているのです。そのなかでも、徳川家茂が親同然に信頼を置いていた家臣が「尾張藩」(おわりはん)15代藩主「徳川茂徳」(とくがわもちなが)。そんな2人の深い絆は、次のような逸話からも窺えます。
あるとき「江戸留守居役」(えどるすいやく)に任命された徳川茂徳。これは、幕府において老中の配下に属し、通行手形の管理や大奥の取り締まりなどを行なうだけでなく、将軍が不在のときには「江戸城」(えどじょう)の守衛を担当する役職です。
このため、主君である徳川家茂と離れることになった徳川茂徳は、徳川家茂の肖像画を制作しました。これは、徳川茂徳が徳川家茂に対して深い思慕の念を抱き、親愛なる情があったことがその背景にあったと推測されています。
また、徳川茂徳は徳川家茂亡きあと、13代将軍であった徳川家定の正室である「天璋院」(てんしょういん)通称「篤姫」(あつひめ)や、徳川家茂の正室であった「和宮」(かずのみや)と共に、この肖像画を眺めて在りし日の姿を偲んでいたとも伝えられているのです。 | 1846年、徳川斉順のもとに誕生した人物が将軍に就任した当初は、誰が将軍後見職に任命されたか。 | 1846年、徳川斉順のもとに誕生した人物が将軍に就任した当初は、御三卿のひとつに数えられる田安徳川家の5代、及び8代当主であった徳川慶頼が、将軍後見職に任命された。 |
JCRRAG_017858 | 歴史 | 信長や信忠の血をうけている者には、次男の信雄、三男の信孝、信忠の子である三法師丸がいる。
この三人のうちから誰を立てて、主家の跡目とするかが、清洲会議の目的であった。
一座の長老である柴田勝家が、まず開口一番織田家の世継ぎには才知がある三男の信孝殿が最もふさわしいといった。
最も威厳のある柴田勝家の言う事であるから、異見をもっている部将がいても、中々口出しできなかった。
満座がシンとして静まり返っている中、おもむろに反対意見を出したのは豊臣秀吉である。
「柴田殿のいう事もごもっともではあるが、信孝殿は確かに才知があるが、後継ぎにするのはどうだろうか。信長公の孫である三法師丸殿がいらっしゃるからには、三法師丸を後継ぎにするのが、最も正当であると思うがどうだろうか」と。
勝家の推した信孝は、三男ということになってはいるが、実は次男なのだ。
信雄と信孝とは永禄元年の同月に生まれたが、信孝の方が四月四日に生まれており、二十日も早かった。信雄が信忠と母を同じくしたのだが、信孝は腹ちがいだったので、人々は信雄を尊重して早速に信長に報告し、次男ということになってしまった。
信長に対する報告が早かったので、信雄が次男になったのである。
信雄の素質は平凡だったが、信孝は相当の優秀な人物である。成長するにつれ、ひっそりと不満を覚えていても無理はなかった。
勝家を頼ったのも、もっともであるし勝家もまた信孝を推すことで、自分の価値を付けようと考えたのも当然であろう。
秀吉の反対は、この場にいる全員を動揺させたが、秀吉の言い分にも正当な理由がある。
しかし間もなく勝家の次に人望のある、丹羽長秀の言葉が紛糾しているこの会議を決定に導いた。
長秀がいうには、子を後継ぎにするとしたらこの場合、信雄と信孝、両方のどちらかを推すかは問題となる。
それなら秀吉の言うように、信長の孫である三法師殿を後継ぎにするなら一番大義名分にかなっているように思う。
その上、主君の仇を討った功労者は秀吉である。今は信長の敵討ちをした功労者の言う事を聞くのがいいのではないか、と。
戦国時代では、百の言葉より一つの武功である。会議は決まり、柴田、丹羽、池田、羽柴の四将は、各々役人を京に置いて天下の事を処断する事となった。 | 信雄と信孝のうち、より早く生まれていたのは誰ですか。 | 信雄と信孝のうち、より早く生まれていたのは、信孝で四月四日です。 |
JCRRAG_017859 | 歴史 | 地方の豪族武士の称呼
これに反して地方の豪族武士なるものは、その実力においては優に京官を驚かすに足るものがあったけれども、その官階は気の毒なほど低い。これが中央政府の地方を制馭した政策であって、非常に功労がない限りは関東八州などに住んでいた大地主は、何度京都へ参勤しても父または祖父の任せられた以上の官に、任せられる見込みはほとんとなかった。すなわち家々には栄誉の極点、昔の語で言えば前途というものがあって、通例、尉という武官に任ぜられる事であります。
右衛門尉
左衛門尉
右兵衛尉
左兵衛尉
というものが実際は空官であったけれども、地方の武士を奨励する唯一の栄典であったのです。それでも地方人は素朴なもので、これをもらうためにいかなる労をも辞せぬという傾向があったので、頼朝が鎌倉に幕府を開いてからは、地方人の任官を非常に制限して、必ず将軍を経由して上奏をしなければ任命せられてはならぬことに定めました。ゆえに本家の家督相続人一人を除くほかは、相応な家柄の息子でも、やはりただの次郎三郎で一生を終えることになったのであります。そうなって来ると、有名無実の一微官たる左衛門尉・右衛門尉もいよいよもって涙のこぼれるほどありがたいものとなり、従って国に帰ってもしすでに左衛門尉となっている太郎殿を、太郎左衛門尉と呼ばずに間違えて、ただ、太郎殿と呼ぼうものなら、もちろん決闘くらいは申し込んだのであります。
何左衛門・何兵衛という通称の多い理由
以上の説明で今日の地方人に、何左衛門・何兵衛の通称が多い理由は、ほぼ想像ができるであろうと思う。ただ尉という文字はいつとなく取り落とされてしまったけれども、つい近来まで表立った場合には尉の字をくっつけたのです。四五百年来の太郎左衛門・三郎兵衛は、言うまでもなく朝廷から授けられたものではありませぬ。親がその名であったから悴も差し支えないことと思い、隣村の地主がそれであったから自分もそれにしようくらいに、だんだん自分で勝手につける事になってしまって、三万の太郎左衛門、五万の三郎兵衛を生ずるに至ったのであります。
明治維新の行政庁は、名義を正す目的をもって、かくのごとき官名の僭称の嫌いある字は一時禁じられたことがあります。その後いつとなくその禁は解けたけれども、今日に源在文・文恵茂・何平などいう通称を持った四十五十の年輩の人がいるのは、まったくその禁令の結果文字だけを取り換えたものである。 | 地方の武士を奨励する唯一の栄典であった尉の数を教えてください。 | 地方の武士を奨励する唯一の栄典であった尉の数は4で、
「右衛門尉」
「左衛門尉」
「右兵衛尉」
「左兵衛尉」
です。 |
JCRRAG_017860 | 歴史 | メソポタミア文明
地理的条件: チグリス川とユーフラテス川の間に位置し、「文明の揺り籠」と呼ばれる。
文字の発明: 楔形文字を発明し、記録や法律の制定に利用した。
都市国家の形成: シュメール人が最初の都市国家を築き、社会構造を発展させた。
文化的・技術的進歩: 青銅器の製造やジッグラトの建設など、多くの革新をもたらした。
法典の制定: 世界最古の法典であるハンムラビ法典が存在し、法律の基礎を築いた。
これらの特徴は、メソポタミア文明が人類の歴史において重要な役割を果たしたことを示しています。
エジプト文明
紀元前3000年頃から紀元前30年頃までのエジプトで栄えた文明です。エジプトはナイル川の流域に国家を作り、海と砂漠に囲まれた地形で統一王国が長く続きました。エジプト文明では、「ファラオ」と呼ばれる王が神権政治を行い、文学や医療、学問などの高度な文化を発展させました。特に数学の測量技術や幾何学は、ピラミッドやスフィンクスなどの史跡にも反映されました。エジプト文明は、葬祭儀式や象形文字などの独自の儀式や文字を持ち、ローマ帝国に滅ぼされるまで続きました。
インダス文明
インダス川流域で紀元前2500年頃から紀元前1800年頃まで栄えた古代インドの文明である。インダス文明の特徴は、計画的な都市建設、発達した商業活動、工芸技術の発展、宗教的な信仰などである。インダス文明ではインダス文字や印章などの独自の文化も生み出された。モヘンジョ=ダロやハラッパーなどの都市遺跡がインダス文明の代表的な遺産である。 | メソポタミア文明とエジプト文明の文字の発明の違いを説明して下さい。 | メソポタミア文明は楔形文字を発明し、記録や法律の制定に利用したが、エジプト文明は象形文字でした。 |
JCRRAG_017861 | 歴史 | 関ヶ原の戦の後に真田昌幸と真田幸村の父子は、高野山のふもとにある九度禿の宿に引退しました。
この時発明した内職が、真田紐であるという。そして昌幸は六十七歳で死ぬことになる。
昌幸は死を前にして「私が死後三年以内に必ず、東西は手切れとなるだろう。私が生きていれば、相当の自信があるが」といって嘆いた。
幸村は「ぜひそうなった時の対策を教えてくれ」といった。
昌幸は「策を教えるのは簡単だが、お前は私ほどの人望がないから、策を教えてもできないだろう」と言った。
幸村が是非にというので「東西手切れになったら、軍を率いてまずは美野の青野ヶ原で敵を迎えるのだ。しかしそれは東軍と決戦するのではなく、かるくあしらって次は瀬田へ下がるのだ。
そこでも、四・五日は耐える事はできるだろう。そうすればこの真田安房守こそ東軍を支えたという噂が日本中に伝わり、太閤に恩義がある大名の中には大阪方へ味方する奴が出て来るだろう。
しかし、この策はこの私が生きていれば出来るだけなので、お前は腕や頭は私に劣らないが、人望が足りないからこの策は通用しないだろう」と言った。
後に幸村が大阪に入城した冬の陣の時、城を出て東軍を迎撃したほうがいいと主張したが、採用されなかった。昌幸の見通した通りである。
大阪の陣が起こる前に豊臣秀頼からの招状が幸村の所へ来た。
徳川家に仕えて報酬を貰いたくないから、大阪に行こうというのは幸村として止むを得ないことである。
秀頼への忠節というだけではなく、親譲りの意地もあれば武人としての夢も多少はあったであろう。
真田幸村が大阪に入城するというデマが大量に飛び交っていた。紀州の領主である浅野長晟は九度山付近の百姓に命じてひそかに警戒していた。
ところが幸村は父親である真田昌幸の法事をやるといって、付近の名主や大庄屋と言った連中を招待して酒が飲める飲めないの区別なく酒を飲ませ酔いつぶしてしまった。
その間に前から用意した支度をきびきびとした動きで百姓たちが乗っている馬に荷物を付けて、百人ばかりの同勢にて、槍、長刀や刀の鞘を外し、鉄砲には火縄をつけ、紀伊川を渡り、大阪を目指して出発した。
付近の百姓どもは大騒ぎしたが、村中の顔役達は真田邸で酔いつぶれているのでどうすることも出来なかった。
浅野長晟はこの話を聴いて、真田の者を百姓どもに監視させたのはこっちの失敗であったと後悔した。
大阪へ着くと、幸村はたった一人で大野治長の所へ行った。
幸村はその頃髪を剃っていたので、伝心月叟と名乗り「大峰の山伏なのだが、祈祷の巻物を差しあげたい」という。
残念ながら大野治長は不在であり、番所の脇で待たされていた。
丁度そのころ脇で十人位で刀や脇差の目利きごっこをしていた。
一人の武士が幸村に対して「あなたの刀を見せていただきたい」と言ってきた。幸村は「山伏の私が犬を驚かせるために使ってるようなものなので、人様に見せるようなもんじゃないんだが」と言って、差し出した。
若き武士が刀を抜いて見ると、刃の匂いや金の光が非常に素晴らしいモノだった。脇差もまた同様だった。これはとんでもないぞと中子を見ると刀は正宗で脇差は貞宗であった。こいつはただの坊主ではないと若い武士どもが騒いでいる所へ、治長が帰って来て真田幸村であることが判明した。
その後幸村はその時の若い武士達に会い「刀のお目利きは上達しましたか?」と冗談を言ったという。 | 真田幸村は大阪で真田幸村であることが判明したのはなぜですか。 | ただの坊主ではないと若い武士どもが騒いでいる所へ、治長が帰って来て真田幸村であることが判明した。 |
JCRRAG_017862 | 歴史 | 1846年(弘化3年)、「紀州藩」(きしゅうはん)の11代藩主「徳川斉順」(とくがわなりゆき)のもとに誕生したのは、「徳川家茂」(とくがわいえもち)です。
徳川家茂は、14代将軍となったときまだ13歳で、幼い将軍であったため、政務を補佐する人物が必要になり、その任務にあたる「将軍後見職」(しょうぐんこうけんしょく)という役職が、臨時に設けられることになりました。
徳川家茂が将軍に就任した当初は、「御三卿」(ごさんきょう)のひとつに数えられる「田安徳川家」(たやすとくがわけ)の5代、及び8代当主であった「徳川慶頼」(とくがわよしより)が、将軍後見職に任命されます。しかし、徳川慶頼は南紀派であったため、実質的には井伊直弼の政治的権力が大きく影響していたのです。
ところが、1860年(万延元年)井伊直弼が「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)で暗殺されたことにより治世の様相が一変。1862年(文久2年)、徳川慶頼は将軍後見職を罷免され、121代天皇「孝明天皇」(こうめいてんのう)の意向が汲まれた形で、一橋慶喜が就任することになったのです。
徳川家茂は、大きな権力を握っていた井伊直弼や、将軍後見職である一橋慶喜が中心となって幕政に取り組んでいたため、自身の政治的手腕を振るう機会にあまり恵まれなかったのです。そのため、将軍としての逸話はそれほど多く残されていません。
しかし、育ちの良い温厚な性格で、家臣達からは慕われていたと伝えられているのです。そのなかでも、徳川家茂が親同然に信頼を置いていた家臣が「尾張藩」(おわりはん)15代藩主「徳川茂徳」(とくがわもちなが)。そんな2人の深い絆は、次のような逸話からも窺えます。
あるとき「江戸留守居役」(えどるすいやく)に任命された徳川茂徳。これは、幕府において老中の配下に属し、通行手形の管理や大奥の取り締まりなどを行なうだけでなく、将軍が不在のときには「江戸城」(えどじょう)の守衛を担当する役職です。
このため、主君である徳川家茂と離れることになった徳川茂徳は、徳川家茂の肖像画を制作しました。これは、徳川茂徳が徳川家茂に対して深い思慕の念を抱き、親愛なる情があったことがその背景にあったと推測されています。
また、徳川茂徳は徳川家茂亡きあと、13代将軍であった徳川家定の正室である「天璋院」(てんしょういん)通称「篤姫」(あつひめ)や、徳川家茂の正室であった「和宮」(かずのみや)と共に、この肖像画を眺めて在りし日の姿を偲んでいたとも伝えられているのです。 | 1846年、徳川斉順のもとに誕生した人物が自身の政治的手腕を振るう機会にあまり恵まれなかったのは、なぜか。 | 1846年、徳川斉順のもとに誕生した人物が自身の政治的手腕を振るう機会にあまり恵まれなかったのは、大きな権力を握っていた井伊直弼や、将軍後見職である一橋慶喜が中心となって幕政に取り組んでいたためである。 |
JCRRAG_017863 | 歴史 | 勝家の陣へは、苦しくなった信孝からの救援の便が、次から次とやって来る。
勝家は大いに焦るが、簡単にはここを通るわけにはいかない。
そこで盛政と相談して、この元々柴田伊賀守の与力であった山路将監が、一方を防衛している将であったが、彼を使って秀吉に裏切らせて秀吉の陣を乱し、賤ヶ岳の戦いに勝利しようという目論見を立てた。
日頃山路将監と親しかった宇野忠三郎という者に、密命を含ませた。忠三郎は即座に夜中に将監のいる陣所に忍び込んで、面会を求めた。
将監は「今は敵味方だし、しかも陣の中なので会うとか無理だ」といって会おうとしない。
忠三郎が是非にと願うので、将監は対面することとなった。
忠三郎が勝家の胸の内を話すと、将監は「主人である柴田勝豊も秀吉の味方となっており、私も一方の固めを任されています。今ここで裏切ることは武士として情けない、と答えて引き受けようとしない。忠三郎は更に説得した。
「柴田勝豊を主人と言ったが、あなたは柴田勝家から勝豊の与力として添えられた者なわけで、むしろ主従の関係は柴田勝家との間にあるんじゃないか、義理に反すると誰が言うだろうか?」
と言ったが首を縦に振らなかった。忠三郎はつづけた。
「恩賞として一万石、いや三万石という石高が貰えるだろう」
山崎は首を振らなかった。忠三郎はさらに続けた。
「さらには帰ってきたら恩賞として柴田勝豊の持っている領土の内、丸岡の城を付けて十二万石という石高をもらえると思うぞ」と勧めるので、将監はとうとう欲に目がくらんで裏切る事を承知した。
たしかに十二万石を渡そうという誓いの紙まで要求している位である。一度柴田方を裏切って、秀吉につき、今度は秀吉を裏切って柴田についた。 | 忠三郎が出した恩賞の条件のうち、一番少なかった石高を教えてください。 | 忠三郎が出した恩賞の条件のうち、一番少なかった石高は一万石です。 |
JCRRAG_017864 | 歴史 | 地方の豪族武士の称呼
これに反して地方の豪族武士なるものは、その実力においては優に京官を驚かすに足るものがあったけれども、その官階は気の毒なほど低い。これが中央政府の地方を制馭した政策であって、非常に功労がない限りは関東八州などに住んでいた大地主は、何度京都へ参勤しても父または祖父の任せられた以上の官に、任せられる見込みはほとんとなかった。すなわち家々には栄誉の極点、昔の語で言えば前途というものがあって、通例、尉という武官に任ぜられる事であります。
右衛門尉
左衛門尉
右兵衛尉
左兵衛尉
というものが実際は空官であったけれども、地方の武士を奨励する唯一の栄典であったのです。それでも地方人は素朴なもので、これをもらうためにいかなる労をも辞せぬという傾向があったので、頼朝が鎌倉に幕府を開いてからは、地方人の任官を非常に制限して、必ず将軍を経由して上奏をしなければ任命せられてはならぬことに定めました。ゆえに本家の家督相続人一人を除くほかは、相応な家柄の息子でも、やはりただの次郎三郎で一生を終えることになったのであります。そうなって来ると、有名無実の一微官たる左衛門尉・右衛門尉もいよいよもって涙のこぼれるほどありがたいものとなり、従って国に帰ってもしすでに左衛門尉となっている太郎殿を、太郎左衛門尉と呼ばずに間違えて、ただ、太郎殿と呼ぼうものなら、もちろん決闘くらいは申し込んだのであります。
何左衛門・何兵衛という通称の多い理由
以上の説明で今日の地方人に、何左衛門・何兵衛の通称が多い理由は、ほぼ想像ができるであろうと思う。ただ尉という文字はいつとなく取り落とされてしまったけれども、つい近来まで表立った場合には尉の字をくっつけたのです。四五百年来の太郎左衛門・三郎兵衛は、言うまでもなく朝廷から授けられたものではありませぬ。親がその名であったから悴も差し支えないことと思い、隣村の地主がそれであったから自分もそれにしようくらいに、だんだん自分で勝手につける事になってしまって、三万の太郎左衛門、五万の三郎兵衛を生ずるに至ったのであります。
明治維新の行政庁は、名義を正す目的をもって、かくのごとき官名の僭称の嫌いある字は一時禁じられたことがあります。その後いつとなくその禁は解けたけれども、今日に源在文・文恵茂・何平などいう通称を持った四十五十の年輩の人がいるのは、まったくその禁令の結果文字だけを取り換えたものである。 | 今日の地方人に多い通称の数を教えてください。 | 今日の地方人に多い通称の数は2で、
「何左衛門」
「何兵衛」
です。 |
JCRRAG_017865 | 歴史 | メソポタミア文明
地理的条件: チグリス川とユーフラテス川の間に位置し、「文明の揺り籠」と呼ばれる。
文字の発明: 楔形文字を発明し、記録や法律の制定に利用した。
都市国家の形成: シュメール人が最初の都市国家を築き、社会構造を発展させた。
文化的・技術的進歩: 青銅器の製造やジッグラトの建設など、多くの革新をもたらした。
法典の制定: 世界最古の法典であるハンムラビ法典が存在し、法律の基礎を築いた。
これらの特徴は、メソポタミア文明が人類の歴史において重要な役割を果たしたことを示しています。
エジプト文明
紀元前3000年頃から紀元前30年頃までのエジプトで栄えた文明です。エジプト人はナイル川の流域に国家を作り、海と砂漠に囲まれた地形で統一王国が長く続きました。エジプト文明では、「ファラオ」と呼ばれる王が神権政治を行い、文学や医療、学問などの高度な文化を発展させました。特に数学の測量技術や幾何学は、ピラミッドやスフィンクスなどの史跡にも反映されました。エジプト文明は、葬祭儀式や象形文字などの独自の儀式や文字を持ち、ローマ帝国に滅ぼされるまで続きました。
インダス文明
インダス川流域で紀元前2500年頃から紀元前1800年頃まで栄えた古代インドの文明である。インダス文明の特徴は、計画的な都市建設、発達した商業活動、工芸技術の発展、宗教的な信仰などである。インダス文明ではインダス文字や印章などの独自の文化も生み出された。モヘンジョ=ダロやハラッパーなどの都市遺跡がインダス文明の代表的な遺産である。 | メソポタミア文明とエジプト文明の都市国家の形成の違いを説明して下さい。 | メソポタミア文明はシュメール人が最初の都市国家を築き、社会構造を発展させたが、エジプト文明はエジプト人はナイル川の流域に国家をつくりました。 |
JCRRAG_017866 | 歴史 | 東西手切れとなった瞬間に真田幸村は城を出て東軍を迎え撃つべきだと力説した。
後藤又兵衛もまた真田幸村の説を採用するべきだと後押ししたが、大野や渡辺などが聞き入れてくれず、ついに籠城をするべきだという説が勝った。
籠城の準備として大阪城へ大軍が進むであろう道は南側しかないので、こっちの方面に砦を築く事になった。
玉造口を隔てて笹山があり、砦を築くには非常に好都合な所なのでさっそく砦の構築にかかったが、その工事に従事している人夫達が、いつの間にか「この出丸を堅固に守れる人は、真田幸村以外にいないだろう」と言い合って、いつの間にか真田丸という名前が付いてしまった。
城の中で会議した結果、真田幸村は守備の将をやるようにと命じられた。
しかし真田幸村は、自分には部下が七十人位しかいないのでという理由で辞退したが、後藤が「人夫どもまでが真田丸といっている以上、真田幸村が引き受けないってのは良く無いんじゃないか?」と言ったので、「そういうことならば縄張りも自分にやらせてほしい」と言って引き受けた。
真田家というより真田昌幸から伝授された秘法によって、出丸を築いた。
真田幸村が「出丸の曲尺であっても兵家の秘法になる」と『慶元記参考』にある。
真田幸村は冬の陣の間中自分に付けられた三千人を率いてこの危険な小さな砦を守り、数万の大軍を四方から受けても恐れる事はなかった。 | 真田幸村が砦を守る事になったのはなぜですか。 | 後藤が「人夫どもまでが真田丸といっている以上、真田幸村が引き受けないってのは良く無いんじゃないか?」と言ったので、「そういうことならば縄張りも自分にやらせてほしい」と言って引き受けた。 |
JCRRAG_017867 | 歴史 | 1846年(弘化3年)、「紀州藩」(きしゅうはん)の11代藩主「徳川斉順」(とくがわなりゆき)のもとに誕生したのは、「徳川家茂」(とくがわいえもち)です。
徳川家茂は、14代将軍となったときまだ13歳で、幼い将軍であったため、政務を補佐する人物が必要になり、その任務にあたる「将軍後見職」(しょうぐんこうけんしょく)という役職が、臨時に設けられることになりました。
徳川家茂が将軍に就任した当初は、「御三卿」(ごさんきょう)のひとつに数えられる「田安徳川家」(たやすとくがわけ)の5代、及び8代当主であった「徳川慶頼」(とくがわよしより)が、将軍後見職に任命されます。しかし、徳川慶頼は南紀派であったため、実質的には井伊直弼の政治的権力が大きく影響していたのです。
ところが、1860年(万延元年)井伊直弼が「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)で暗殺されたことにより治世の様相が一変。1862年(文久2年)、徳川慶頼は将軍後見職を罷免され、121代天皇「孝明天皇」(こうめいてんのう)の意向が汲まれた形で、一橋慶喜が就任することになったのです。
徳川家茂は、大きな権力を握っていた井伊直弼や、将軍後見職である一橋慶喜が中心となって幕政に取り組んでいたため、自身の政治的手腕を振るう機会にあまり恵まれなかったのです。そのため、将軍としての逸話はそれほど多く残されていません。
しかし、育ちの良い温厚な性格で、家臣達からは慕われていたと伝えられているのです。そのなかでも、徳川家茂が親同然に信頼を置いていた家臣が「尾張藩」(おわりはん)15代藩主「徳川茂徳」(とくがわもちなが)。そんな2人の深い絆は、次のような逸話からも窺えます。
あるとき「江戸留守居役」(えどるすいやく)に任命された徳川茂徳。これは、幕府において老中の配下に属し、通行手形の管理や大奥の取り締まりなどを行なうだけでなく、将軍が不在のときには「江戸城」(えどじょう)の守衛を担当する役職です。
このため、主君である徳川家茂と離れることになった徳川茂徳は、徳川家茂の肖像画を制作しました。これは、徳川茂徳が徳川家茂に対して深い思慕の念を抱き、親愛なる情があったことがその背景にあったと推測されています。
また、徳川茂徳は徳川家茂亡きあと、13代将軍であった徳川家定の正室である「天璋院」(てんしょういん)通称「篤姫」(あつひめ)や、徳川家茂の正室であった「和宮」(かずのみや)と共に、この肖像画を眺めて在りし日の姿を偲んでいたとも伝えられているのです。 | 1846年、徳川斉順のもとに誕生した人物が親同然に信頼を置いていた家臣は誰か。 | 1846年、徳川斉順のもとに誕生した人物が親同然に信頼を置いていた家臣は、尾張藩15代藩主の徳川茂徳である。 |
JCRRAG_017868 | 歴史 | 勝家の陣へは、苦しくなった信孝からの救援の便が、次から次とやって来る。
勝家は大いに焦るが、簡単にはここを通るわけにはいかない。
そこで盛政と相談して、この元々柴田伊賀守の与力であった山路将監が、一方を防衛している将であったが、彼を使って秀吉に裏切らせて秀吉の陣を乱し、賤ヶ岳の戦いに勝利しようという目論見を立てた。
日頃山路将監と親しかった宇野忠三郎という者に、密命を含ませた。忠三郎は即座に夜中に将監のいる陣所に忍び込んで、面会を求めた。
将監は「今は敵味方だし、しかも陣の中なので会うとか無理だ」といって会おうとしない。
忠三郎が是非にと願うので、将監は対面することとなった。
忠三郎が勝家の胸の内を話すと、将監は「主人である柴田勝豊も秀吉の味方となっており、私も一方の固めを任されています。今ここで裏切ることは武士として情けない、と答えて引き受けようとしない。忠三郎は更に説得した。
「柴田勝豊を主人と言ったが、あなたは柴田勝家から勝豊の与力として添えられた者なわけで、むしろ主従の関係は柴田勝家との間にあるんじゃないか、義理に反すると誰が言うだろうか?」
と言ったが首を縦に振らなかった。忠三郎はつづけた。
「恩賞として一万石、いや三万石という石高が貰えるだろう」
山崎は首を振らなかった。忠三郎はさらに続けた。
「さらには帰ってきたら恩賞として柴田勝豊の持っている領土の内、丸岡の城を付けて十二万石という石高をもらえると思うぞ」と勧めるので、将監はとうとう欲に目がくらんで裏切る事を承知した。
たしかに十二万石を渡そうという誓いの紙まで要求している位である。一度柴田方を裏切って、秀吉につき、今度は秀吉を裏切って柴田についた。 | 忠三郎が出した恩賞の条件のうち、一番多かった石高を教えてください。 | 忠三郎が出した恩賞の条件のうち、一番多かった石高は十二万石です。 |
JCRRAG_017869 | 歴史 | 地方の豪族武士の称呼
これに反して地方の豪族武士なるものは、その実力においては優に京官を驚かすに足るものがあったけれども、その官階は気の毒なほど低い。これが中央政府の地方を制馭した政策であって、非常に功労がない限りは関東八州などに住んでいた大地主は、何度京都へ参勤しても父または祖父の任せられた以上の官に、任せられる見込みはほとんとなかった。すなわち家々には栄誉の極点、昔の語で言えば前途というものがあって、通例、尉という武官に任ぜられる事であります。
右衛門尉
左衛門尉
右兵衛尉
左兵衛尉
というものが実際は空官であったけれども、地方の武士を奨励する唯一の栄典であったのです。それでも地方人は素朴なもので、これをもらうためにいかなる労をも辞せぬという傾向があったので、頼朝が鎌倉に幕府を開いてからは、地方人の任官を非常に制限して、必ず将軍を経由して上奏をしなければ任命せられてはならぬことに定めました。ゆえに本家の家督相続人一人を除くほかは、相応な家柄の息子でも、やはりただの次郎三郎で一生を終えることになったのであります。そうなって来ると、有名無実の一微官たる左衛門尉・右衛門尉もいよいよもって涙のこぼれるほどありがたいものとなり、従って国に帰ってもしすでに左衛門尉となっている太郎殿を、太郎左衛門尉と呼ばずに間違えて、ただ、太郎殿と呼ぼうものなら、もちろん決闘くらいは申し込んだのであります。
何左衛門・何兵衛という通称の多い理由
以上の説明で今日の地方人に、何左衛門・何兵衛の通称が多い理由は、ほぼ想像ができるであろうと思う。ただ尉という文字はいつとなく取り落とされてしまったけれども、つい近来まで表立った場合には尉の字をくっつけたのです。四五百年来の太郎左衛門・三郎兵衛は、言うまでもなく朝廷から授けられたものではありませぬ。親がその名であったから悴も差し支えないことと思い、隣村の地主がそれであったから自分もそれにしようくらいに、だんだん自分で勝手につける事になってしまって、三万の太郎左衛門、五万の三郎兵衛を生ずるに至ったのであります。
明治維新の行政庁は、名義を正す目的をもって、かくのごとき官名の僭称の嫌いある字は一時禁じられたことがあります。その後いつとなくその禁は解けたけれども、今日に源在文・文恵茂・何平などいう通称を持った四十五十の年輩の人がいるのは、まったくその禁令の結果文字だけを取り換えたものである。 | 言うまでもなく朝廷から授けられたものではない名前の数を教えてください。 | 言うまでもなく朝廷から授けられたものではない名前の数は2で、
「太郎左衛門」
「三郎兵衛」
です。 |
JCRRAG_017870 | 歴史 | メソポタミア文明
地理的条件: チグリス川とユーフラテス川の間に位置し、「文明の揺り籠」と呼ばれる。
文字の発明: 楔形文字を発明し、記録や法律の制定に利用した。
都市国家の形成: シュメール人が最初の都市国家を築き、社会構造を発展させた。
文化的・技術的進歩: 青銅器の製造やジッグラトの建設など、多くの革新をもたらした。
法典の制定: 世界最古の法典であるハンムラビ法典が存在し、法律の基礎を築いた。
これらの特徴は、メソポタミア文明が人類の歴史において重要な役割を果たしたことを示しています。
エジプト文明
紀元前3000年頃から紀元前30年頃までのエジプトで栄えた文明です。エジプトはナイル川の流域に国家を作り、海と砂漠に囲まれた地形で統一王国が長く続きました。エジプト文明では、「ファラオ」と呼ばれる王が神権政治を行い、文学や医療、学問などの高度な文化を発展させました。特に数学の測量技術や幾何学は、ピラミッドやスフィンクスなどの史跡にも反映されました。エジプト文明は、葬祭儀式や象形文字などの独自の儀式や文字を持ち、ローマ帝国に滅ぼされるまで続きました。
インダス文明
インダス川流域で紀元前2500年頃から紀元前1800年頃まで栄えた古代インドの文明である。インダス文明の特徴は、計画的な都市建設、発達した商業活動、工芸技術の発展、宗教的な信仰などである。インダス文明ではインダス文字や印章などの独自の文化も生み出された。モヘンジョ=ダロやハラッパーなどの都市遺跡がインダス文明の代表的な遺産である。 | メソポタミア文明とインダス文明の文字の発明の違いを説明して下さい。 | メソポタミア文明は楔形文字を発明し、記録や法律の制定に利用したが、インダス文明ではインダス文字や印章などの独自の文化も生み出された。 |
JCRRAG_017871 | 歴史 | 真田幸村の最期の戦いは越前勢の大軍を真っ向に受ける形で開始された。天王寺・岡山の戦いである。
幸村は何度も越前勢をなやませながら、天王寺と一心寺との間の竜の丸で待機して兵士達に食料を食べさせた。
幸村はここでひとまず休憩をいれて、その間に明石掃部助全登をして今宮表より阿部野へ迂回させて、家康の本陣を後より襲おうとしたが、この計画は松平武蔵守の軍勢に邪魔されてなかなかできなかった。
そこで、幸村は毛利勝永と話し合って、いよいよ秀頼公に出陣してもらう事をお願いしようと決めた。
秀頼公が御旗や御馬印を玉造口まで押し出して、敵の勢力を割いて明石の軍を目的地に進ませる計画だった。
真田の穴山小助、毛利の古林一平次達がその緊急の使者として城内へ走った。
この使者たちが行き来している不穏な動きを察知したのが、越前方の監使である榊原飛騨守である。
飛騨守は「今こそ攻撃する時だ、遅れたら必ず後ろから追撃されるだろう!」と松平忠直にアドバイスした。
松平忠直は早速、舎弟である伊予守忠昌、出羽守直次に左右の両軍を率いて、二万以上の騎馬を編成して押し寄せたが、真田幸村は「しばらく待って戦おう」と、味方の準備が整うのを待ちながら動かず戦っていた。
すると意外にも、本多忠政、松平忠明ら、渡辺大谷達が切り崩しながら真田の陣へ駆け込んで来た。
また水野勝成等も、昨日の敗北を取り返そうと、勝曼院の西の方から六百人ほど、鬨の声を挙げて攻めてきた。
幸村は、ついに三方から敵を受けたのである。
「もはやこれまでだな」と意を決して、兜の忍び緒を増花形結び、これは討ち死にする時の結び方である。馬の上にて鎧の上帯を締め、秀頼公より頂いた緋縮緬の陣羽織をさっと着流して、金の采配を手に取って敵に向かっていったと言う。
三方の軍勢を合わせて三万五千人、真田勢はわずかに二千人余り。
にも関わらず戦況がかんばしくないので、家康は気を揉んで、稲富喜三郎、田付兵庫達に鉄砲隊を連れて越前勢の横から真田勢を一斉射撃しろと命じたくらいである。
真田勢がいかに死闘を繰り広げていたかが良くわかるだろう。
幸村は三度の重賞を負ったところへ、この鉄砲隊の弾が左の首辺りに当たったので、落馬しそうになって鞍の前輪にしがみついた所を、忠直の部下の西尾仁右衛門が槍で突いたので、幸村はドウと馬から落ちた。
西尾はその首を取ったが、誰の首なのかわからなかった。
後にその兜が、かつて原隼人に話したとおりの物であったので、口を開いて確認してみると、前歯が二本欠けていたので、これこそが幸村の首級と分かった。
西尾はバカだったので、その時も太刀を取って帰らなかったが、太刀は後に越前家の斎藤勘四郎が、これを貰って帰った。
幸村の首級と太刀は、後に兄の信幸が受け取った。信幸は首級は高野山天徳院に埋葬し、太刀は自らが受け取り真田家の家宝としたと言う。
一子大助は、城中において、秀頼公の最期を見届けた後、父の言葉に従ってすぐに自害した。 | 真田幸村の死後幸村の首と太刀はどうなりましたか。 | 真田幸村の首級と太刀は兄真田信幸の手によって首は葬られ、太刀は真田家の家宝になった。 |
JCRRAG_017872 | 歴史 | 1858年(安政5年)4月に、将軍に次ぐ最高職である大老に就任したのは井伊直弼です。
1853年(嘉永6年)に、アメリカからペリーが日本に来航して以降、江戸幕府は開国を前提とした政策を打ち出すようになります。その一方で朝廷は、外国人を追い払い入国させないとする「攘夷」(じょうい)の立場を取るようになり、両者の間に亀裂が生じました。
そんななか井伊直弼が、1858年(安政5年)、天皇の許可である「勅許」(ちょっきょ)を得ないまま「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を締結し、幕府と朝廷の関係はさらに悪化することになったのです。
また、幕藩体制の弱体化により、それまで強気であった江戸幕府の立場が維持できず、「攘夷派」(じょういは)である朝廷の立場が強くなっていきます。さらには、前述した一橋派と南紀派による将軍後継者争いも、「薩摩藩」(さつまはん)や「土佐藩」(とさはん)などの、いわゆる「雄藩」(ゆうはん:勢力の強い藩)を分裂させる引き金となり、幕藩体制を揺るがす要因となっていました。
このような江戸幕府の弱体化を、朝廷との連携によって安定させようとする運動が起き、これが「公武合体」(こうぶがったい)と呼ばれる政治運動です。公武合体運動は井伊直弼の暗殺後、老中に就任した「久世広周」(くぜひろちか)と「安藤信正」(あんどうのぶまさ)によって推進されました。強権を振るっていた江戸幕府でしたが、朝廷の権威を必要とするほどにその威厳を失っていたのです。
公武合体運動の一環として「内親王」(ないしんのう:天皇の直系である子、もしくは孫である女性)の将軍家への「降嫁」(こうか:皇女が臣下のもとへ嫁ぐこと)が図られます。本来、内親王の嫁ぎ先は「宮家」(みやけ:宮号を賜った皇族の一家)や「摂家」(せっけ)に限られており、武家に嫁した前例はありませんでした。家格を重要視するため、ふさわしい嫁ぎ先がなければ独身で終わる内親王も多かったのです。
このとき、降嫁する内親王として候補に挙がったのが、孝明天皇の妹である和宮でした。和宮は1846年(弘化3年)に生まれ、徳川家茂とは同い年の女性。しかし、和宮は6歳のときに、「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約していたのです。
そのため和宮は、この降嫁について再三固辞しましたが、孝明天皇の意向により和宮の降嫁が決定。そして、有栖川宮熾仁親王との婚約も解消されることになります。
その一方で徳川家茂も、紀州藩主時代に「伏見宮貞教親王」(ふしみのみやさだのりしんのう)の妹である「則子女王」(のりこじょおう)と婚約していましたが、将軍家を継承したことにより、その話が立ち消えになっていたのです。そして、和宮の降嫁の動きと共に、この婚約についても正式に解消しています。 | 1858年4月に大老に就任した人物は、1858年に勅許を得ないまま何を締結したか。 | 1858年4月に大老に就任した人物は、1858年に勅許を得ないまま日米修好通商条約を締結した。 |
JCRRAG_017873 | 歴史 | 清洲会議の結果、信長の後継者候補の三人の内、三歳の三法師丸が織田家を相続して、二十四歳の信雄と二十四歳の信孝が後見人ときまっていた。
豊臣秀吉は安土城の修復をして、三法師丸を迎え入れようとしていた。しかし岐阜にいる信孝は、三法師丸を秀吉の手に委ねようとしない。
秀吉に三法師丸を任せるのは、結局は信孝自身の存在を稀薄なものとさせると考えたからである。
秀吉はついに、丹羽長秀、筒井順慶、長岡(後の細川)忠興等三万の兵を率いて、二万の兵がいる信孝の濃州へ打って出る事にした。
まず、大垣の城主氏家内膳正を囲んだが、一戦を交えることもなくして降りたので、秀吉の大軍は大垣の城に入った。
伝え聞いた付近の小城は風を望んで降ったので、岐阜城は忽ちにして取り巻かれて仕舞った。信孝の方でも、いち早く救援を勝家にお願いしたが、生憎の雪が降ってしまった。
勝家、豊臣秀吉への怒りからか「猿面冠者に出し抜かれた」と地駄太を踏むが意味が無い。そこへ今度は佐久間盛政の急な報告で、長浜にいる勝豊が裏切って兵をおこしたとの報であるが、勝家は盛政が勝豊と仲が悪いのを知っているので、ありもしない事と思って取り合わなかった。
しかし勝豊の元の城下、丸岡から、勝豊の家臣の妻子が長浜に移る為に騒がしくなっているとの報告を受けては勝家も疑うわけには行かなかった。
驚き怒るけれども、機先は既に制せられている。岐阜にいる信孝も、勝家の救援がないのではどうしようもないので、長秀を通じて秀吉と和平を結んだ。
秀吉は即座に信孝の生母である阪氏と三法師丸を受け取って、和平を受け入れて、山崎に帰った。三法師丸は安土城に入り、清洲にいた織田信雄を呼び寄せて後見人とさせた。 | 信長の後継者候補の三人の内、もっとも若いのは誰ですか。 | 信長の後継者候補の三人の内、もっとも若いのは三法師丸で三歳です。 |
JCRRAG_017874 | 歴史 | 地方の豪族武士の称呼
これに反して地方の豪族武士なるものは、その実力においては優に京官を驚かすに足るものがあったけれども、その官階は気の毒なほど低い。これが中央政府の地方を制馭した政策であって、非常に功労がない限りは関東八州などに住んでいた大地主は、何度京都へ参勤しても父または祖父の任せられた以上の官に、任せられる見込みはほとんとなかった。すなわち家々には栄誉の極点、昔の語で言えば前途というものがあって、通例、尉という武官に任ぜられる事であります。
右衛門尉
左衛門尉
右兵衛尉
左兵衛尉
というものが実際は空官であったけれども、地方の武士を奨励する唯一の栄典であったのです。それでも地方人は素朴なもので、これをもらうためにいかなる労をも辞せぬという傾向があったので、頼朝が鎌倉に幕府を開いてからは、地方人の任官を非常に制限して、必ず将軍を経由して上奏をしなければ任命せられてはならぬことに定めました。ゆえに本家の家督相続人一人を除くほかは、相応な家柄の息子でも、やはりただの次郎三郎で一生を終えることになったのであります。そうなって来ると、有名無実の一微官たる左衛門尉・右衛門尉もいよいよもって涙のこぼれるほどありがたいものとなり、従って国に帰ってもしすでに左衛門尉となっている太郎殿を、太郎左衛門尉と呼ばずに間違えて、ただ、太郎殿と呼ぼうものなら、もちろん決闘くらいは申し込んだのであります。
何左衛門・何兵衛という通称の多い理由
以上の説明で今日の地方人に、何左衛門・何兵衛の通称が多い理由は、ほぼ想像ができるであろうと思う。ただ尉という文字はいつとなく取り落とされてしまったけれども、つい近来まで表立った場合には尉の字をくっつけたのです。四五百年来の太郎左衛門・三郎兵衛は、言うまでもなく朝廷から授けられたものではありませぬ。親がその名であったから悴も差し支えないことと思い、隣村の地主がそれであったから自分もそれにしようくらいに、だんだん自分で勝手につける事になってしまって、三万の太郎左衛門、五万の三郎兵衛を生ずるに至ったのであります。
明治維新の行政庁は、名義を正す目的をもって、かくのごとき官名の僭称の嫌いある字は一時禁じられたことがあります。その後いつとなくその禁は解けたけれども、今日に源在文・文恵茂・何平などいう通称を持った四十五十の年輩の人がいるのは、まったくその禁令の結果文字だけを取り換えたものである。 | 四十五十の年輩の人がつけている通称の数を教えてください。 | 四十五十の年輩の人がつけている通称の数は3で、
「源在文」
「文恵茂」
「何平」
です。 |
JCRRAG_017875 | 歴史 | ルネサンスは、15世紀から16世紀にかけてヨーロッパで広がった文化的かつ歴史的な運動を指します。 この時期は、古代ギリシャ・ローマの古典文化の再評価と復活を目指し、芸術、建築、文学、科学、哲学など多岐にわたる分野で革新が起こりました。 ルネサンスは、英語で「再生」や「復興」を意味するフランス語の「Renaissance」に由来し、人間の知識や探求心が高まり、社会的・文化的な変革が進んだ時代です。
宗教改革
16世紀(中世末期 - 近世)の西方キリスト教世界における教会体制上の革新運動である。贖宥状に対するルターの批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、旧教(ローマ・カトリック教会)から新教の分離へと発展した。
新教として、プロテスタントにはルターによるルター教会、チューリッヒのツヴィングリやジュネーヴのカルヴァンなど各都市による改革派教会などが成立した。この他にアナバプテスト(今日メノナイトが現存)など急進派も、当時は力を持っていた。また、後述の通り、ヘンリー8世によって創始されたイングランド国教会はプロテスタント諸派とは成立背景を異にし、教義や典礼もカトリックに近い。
大航海時代 (新航路 、 新大陸 の発見)
15-17世紀の大航海時代にヨーロッパ人に発見された南北アメリカ大陸とオーストラリア大陸を発見した。 新大陸に対して15世紀以前からヨーロッパ人に存在が知られていたユーラシア大陸とアフリカ大陸を旧大陸(旧世界)とよぶ。 オーストラリア大陸だけではなくオセアニア全域が新世界として分類されている。 | ルネサンスと宗教改革の時代の違いを説明して下さい。 | ルネサンスは、15世紀から16世紀にかけてヨーロッパで広がった文化的かつ歴史的な運動を指しますが、宗教改革は16世紀(中世末期 - 近世)の西方キリスト教世界における教会体制上の革新運動である。 |
JCRRAG_017876 | 歴史 | ワットはその後いろいろな仕事を行ったのですが、蒸気機関に興味をもつようになったのは、ちょうど一七六三年の頃にグラスゴー大学からニューコメンの蒸気機関の模型を修繕するように頼まれたことにありました。つまりこの事が後のワットの発明を結果することにもなったのですから、まことに運命というものは不思議でもあります。
ワットはそれまでは蒸気のはたらきについていくらの知識ももっていなかったのでしたが、この模型をしらべてゆくうちにいろいろな事を知りました。それでともかく模型を修理したものの、この機関にはいろいろな欠点があることもわかり、それを何とか改良したいと思い立ったのでした。最もいけないことは、上にも述べましたように気筒のなかの熱い蒸気に水を注ぎ込んで冷やしてしまうことですから、ワットはその蒸気をよその場所に導いて来て、そこで冷やすようにしたならよかろうと考え、気筒から別に管をつけて他の器につなぎ、その器を水で冷やすようにしました。これは今では凝結器と言われているものです。この方法で蒸気はよそで冷えることになりますから、気筒の温度は下がらないですむことになりました。つまりそれだけ蒸気を出すための燃料が節約されることになるので、これは実に蒸気機関にとって重要な意味をもっているのです。ワットはこの考案に対して一七六五年に特許を得ました。この他に、ワットの改良のもう一つの大切な事は、ピストンを蒸気の力で一方にだけ動かす代わりに、両方に往復するように工夫したことです。それには、つまり蒸気をピストンの両側に交互に入れるようにすればよいので、そのようにして一度は蒸気がピストンの下側に入ってそれを上方に押し上げ、次には上側に入って下方に押しさげるようにするのです。おまけに、もしそれが出来さえすれば、気筒を上下に立てておくことも必要でなくなり、これを横にしておいてピストンを左右に動かすこともでき、それにれて蒸気の力を十分に強くしてピストンの運動を活溌にさせることができるわけです。しかしこれを実際に行って、それに成功するまでには、さまざまの苦心を必要としたので、それでも一七六九年になってようやく満足なものが出来上がり、その特許を取ることもできました。もちろんそれから後にもワットはいろいろな点で、その機関を改良したので、それはほとんどそのために一生涯を費したといってもよいくらいでありました。
ところがこれ等の発明に凝っていた一方では、それだけ生活にも困ることになったので、土地測量の仕事を行ったり、そのほかいろいろな事をしなければならなかったのでした。それでもワットを熱心に感じ入った人たちが彼を助けてくれたので、そのおかげで成功したといってもよいのでしょう。最初は硫酸製造をやり、また炭坑の持主でもあったレーバックという人が協力してくれましたが、数年後にはこの人も財産をなくしてしまったので、それからはブールトンという人に頼って共同事業を行うことになりました。
ワットはこの外にいろいろな特許をも得ましたし、それらによって名声が漸次に高まったので、晩年には幸福に過ごすことができました。また一七八四年にはエディンバラ王立協会の会員に選ばれ、その翌年にはロンドン王立協会の会員となり、さらに一八一四年にはフランスのアカデミーの外国会員にも選ばれて、多大の名声を一身に担いました。しかし老年になったので、一八〇〇年には隠退して故郷に帰り、静かな生活を送りましたが、一八一九年の八月二十五日に八十四歳の高齢で亡くなりました。この頃にはすでにこの蒸気機関を利用した汽船や汽車もつくられて世を驚かしていたので、ワットの死は一層すべての人々から惜しまれたことでもあったのでした。ワットの遺骸はハンズワース教区にある教会の墓地に葬られましたが、一八二四年にはウェストミンスター寺院のなかにその彫像が建てられ、イギリスでの最大の栄誉にもなったのでした。そればかりでなく、最初にも述べたように、その蒸気機関のおかげで産業革命というような大きな変化を社会に与えたということは、実に驚くべきことで、それに比較される程の人はほとんど他にはないといってもよいのでありましょう。これもワットのひたすら真摯な努力が実を結んだものにほかならないのです。 | ジェームズワットの改良した蒸気機関が優れている所はどこですか。 | ジェームズワットは従来の蒸気機関の欠点であった燃料の節約と蒸気の力をより強く伝えるための改良を施したのが優れた点である。 |
JCRRAG_017877 | 歴史 | 1858年(安政5年)4月に、将軍に次ぐ最高職である大老に就任したのは井伊直弼です。
1853年(嘉永6年)に、アメリカからペリーが日本に来航して以降、江戸幕府は開国を前提とした政策を打ち出すようになります。その一方で朝廷は、外国人を追い払い入国させないとする「攘夷」(じょうい)の立場を取るようになり、両者の間に亀裂が生じました。
そんななか井伊直弼が、1858年(安政5年)、天皇の許可である「勅許」(ちょっきょ)を得ないまま「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を締結し、幕府と朝廷の関係はさらに悪化することになったのです。
また、幕藩体制の弱体化により、それまで強気であった江戸幕府の立場が維持できず、「攘夷派」(じょういは)である朝廷の立場が強くなっていきます。さらには、前述した一橋派と南紀派による将軍後継者争いも、「薩摩藩」(さつまはん)や「土佐藩」(とさはん)などの、いわゆる「雄藩」(ゆうはん:勢力の強い藩)を分裂させる引き金となり、幕藩体制を揺るがす要因となっていました。
このような江戸幕府の弱体化を、朝廷との連携によって安定させようとする運動が起き、これが「公武合体」(こうぶがったい)と呼ばれる政治運動です。公武合体運動は井伊直弼の暗殺後、老中に就任した「久世広周」(くぜひろちか)と「安藤信正」(あんどうのぶまさ)によって推進されました。強権を振るっていた江戸幕府でしたが、朝廷の権威を必要とするほどにその威厳を失っていたのです。
公武合体運動の一環として「内親王」(ないしんのう:天皇の直系である子、もしくは孫である女性)の将軍家への「降嫁」(こうか:皇女が臣下のもとへ嫁ぐこと)が図られます。本来、内親王の嫁ぎ先は「宮家」(みやけ:宮号を賜った皇族の一家)や「摂家」(せっけ)に限られており、武家に嫁した前例はありませんでした。家格を重要視するため、ふさわしい嫁ぎ先がなければ独身で終わる内親王も多かったのです。
このとき、降嫁する内親王として候補に挙がったのが、孝明天皇の妹である和宮でした。和宮は1846年(弘化3年)に生まれ、徳川家茂とは同い年の女性。しかし、和宮は6歳のときに、「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約していたのです。
そのため和宮は、この降嫁について再三固辞しましたが、孝明天皇の意向により和宮の降嫁が決定。そして、有栖川宮熾仁親王との婚約も解消されることになります。
その一方で徳川家茂も、紀州藩主時代に「伏見宮貞教親王」(ふしみのみやさだのりしんのう)の妹である「則子女王」(のりこじょおう)と婚約していましたが、将軍家を継承したことにより、その話が立ち消えになっていたのです。そして、和宮の降嫁の動きと共に、この婚約についても正式に解消しています。 | 1858年4月に大老に就任した人物が締結した日米修好通商条約によって、幕府と朝廷の関係はどうなったか。 | 1858年4月に大老に就任した人物が締結した日米修好通商条約によって、幕府と朝廷の関係はさらに悪化することになった。 |
JCRRAG_017878 | 歴史 | 清洲会議の結果、信長の後継者候補の三人の内、三歳の三法師丸が織田家を相続して、二十四歳の信雄と二十四歳の信孝が後見人ときまっていた。
豊臣秀吉は安土城の修復をして、三法師丸を迎え入れようとしていた。しかし岐阜にいる信孝は、三法師丸を秀吉の手に委ねようとしない。
秀吉に三法師丸を任せるのは、結局は信孝自身の存在を稀薄なものとさせると考えたからである。
秀吉はついに、丹羽長秀、筒井順慶、長岡(後の細川)忠興等三万の兵を率いて、二万の兵がいる信孝の濃州へ打って出る事にした。
まず、大垣の城主氏家内膳正を囲んだが、一戦を交えることもなくして降りたので、秀吉の大軍は大垣の城に入った。
伝え聞いた付近の小城は風を望んで降ったので、岐阜城は忽ちにして取り巻かれて仕舞った。信孝の方でも、いち早く救援を勝家にお願いしたが、生憎の雪が降ってしまった。
勝家、豊臣秀吉への怒りからか「猿面冠者に出し抜かれた」と地駄太を踏むが意味が無い。そこへ今度は佐久間盛政の急な報告で、長浜にいる勝豊が裏切って兵をおこしたとの報であるが、勝家は盛政が勝豊と仲が悪いのを知っているので、ありもしない事と思って取り合わなかった。
しかし勝豊の元の城下、丸岡から、勝豊の家臣の妻子が長浜に移る為に騒がしくなっているとの報告を受けては勝家も疑うわけには行かなかった。
驚き怒るけれども、機先は既に制せられている。岐阜にいる信孝も、勝家の救援がないのではどうしようもないので、長秀を通じて秀吉と和平を結んだ。
秀吉は即座に信孝の生母である阪氏と三法師丸を受け取って、和平を受け入れて、山崎に帰った。三法師丸は安土城に入り、清洲にいた織田信雄を呼び寄せて後見人とさせた。 | 秀吉が信孝のいる濃州へ打って出ましたが、兵の数が多いのはどっちですか。 | 秀吉が信孝のいる濃州へ打って出ましたが、兵の数が多いのは秀吉で三万です。 |
JCRRAG_017879 | 歴史 | 同じ通称の区別法
一地方で三人か五人かの衛門尉・兵衛尉のある間は、その頭に太郎・次郎を付けさえすれば、字、すなわち個人を差別する方法としては、目的を達したようであるけれども、年代を経、人数の多くなるとともに、故人までも合せればぜんぜんとその数が多くなって来て、ついには同じ通称のものがそちらこちらにできて来る、いうまでもなく官名を持たぬただの太郎次郎に至っては、初めから親の名前くらいでは充分な区別をすることができなかったから、さらにその上に何かの差別法を設けなければならぬ。そこで立ち戻って自分の家の姓によって、源氏の家の太郎ならば源太といい、平家の三郎ならば平三というのも一つの方法であったのであります。今日行われている名頭というもの、すなわち人の通称の吉というのは橘氏です。勘というのは菅原氏、弥というのは小野氏、清というのは清原氏、忠というのは中原氏、藤はもちろん藤原氏です。
これらは皆多数の次郎・三郎を区別するために菅太・野三・橘六・中七等と称えた遺風です。しかし一地方に植民をして来るものは多くは同一家であって、その姓を同じくしているのが普通であるから、一族蔓延の場合にはこれもまた区別になりにくい。ここにおいてか第四の方法として、居住地をもって称呼とするのはきわめて自然の順序でありました。今日でも庄兵衛というものが二人いれば、川端の庄兵衛とか上屋敷の庄兵衛とかいうのが普通の例であります。これは決して近代に始まったことではなく、おおよそ日本人が村をなしてともに住み、郷党が交を結ぶ場合には、もし互いの実名を呼ぶのを避けるとすれば、かくのごとくするほかはなかったのであります。
山城の京遷都の始め頃にできた『日本霊異記』という書には、紀州の百姓で字を上田の三郎といったものがあります。今日の語で言えば上田は氏名であるけれどもこの男にも別に親の付けてくれた尊い名告はあったので、その名告と上田の三郎とを合せたものを名字と言うのもすでに誤りであるが、家の号ばかりを名字というようになったのは、いよいよもって誤用転訛と見なければならぬ。しかしながらこのような時勢の変遷は、必ずしも昔に引き戻すことを必要とせぬ。ことに今日では通称と名告とを二つ持つことは法律の許さざるところでもあるし、いったん戸籍に登録されたる自分の名前は三郎兵衛・太郎左衛門と言うごとき昔の意味でいう字に当たるものも、または堅苦しい漢字の二つ繋がった名の訓に相応するものでも、皆字ではなくして真実の「名」であって、しかも西洋風にこれを呼びかけることを諱いまない時節となったのであるからして、新しい風俗に従って字というものを捨ててしまわなければならぬ。そうなって来れば今日の会話語で、家号のことを名字といっても、どこにも差支えることがないのであります。
さて前段がはなはだ長くなったけれども、昔の人の字の中でも一人一人について変って行く部分、すなわち通称についてはだいたい説明を終りましたから、この次には一人一人について変らぬ部分、すなわち家号、今日の語で言えば名字の話を、今少ししてみようと思う。 | 名頭として使われている例の数を教えてください。 | 名頭として使われている例の数は6で、
「吉というのは橘氏」
「勘というのは菅原氏」
「弥というのは小野氏」
「清というのは清原氏」
「忠というのは中原氏」
「藤はもちろん藤原氏」
です。 |
JCRRAG_017880 | 歴史 | ルネサンスは、15世紀から16世紀にかけてヨーロッパで広がった文化的かつ歴史的な運動を指します。 この時期は、古代ギリシャ・ローマの古典文化の再評価と復活を目指し、芸術、建築、文学、科学、哲学など多岐にわたる分野で革新が起こりました。 ルネサンスは、英語で「再生」や「復興」を意味するフランス語の「Renaissance」に由来し、人間の知識や探求心が高まり、社会的・文化的な変革が進んだ時代です。
宗教改革
16世紀(中世末期 - 近世)の西方キリスト教世界における教会体制上の革新運動である。贖宥状に対するルターの批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、旧教(ローマ・カトリック教会)から新教の分離へと発展した。
新教として、プロテスタントにはルターによるルター教会、チューリッヒのツヴィングリやジュネーヴのカルヴァンなど各都市による改革派教会などが成立した。この他にアナバプテスト(今日メノナイトが現存)など急進派も、当時は力を持っていた。また、後述の通り、ヘンリー8世によって創始されたイングランド国教会はプロテスタント諸派とは成立背景を異にし、教義や典礼もカトリックに近い。
大航海時代 (新航路 、 新大陸 の発見)
15-17世紀の大航海時代にヨーロッパ人に発見された南北アメリカ大陸とオーストラリア大陸を発見した。 新大陸に対して15世紀以前からヨーロッパ人に存在が知られていたユーラシア大陸とアフリカ大陸を旧大陸(旧世界)とよぶ。 オーストラリア大陸だけではなくオセアニア全域が新世界として分類されている。 | ルネサンスと大航海時代 (新航路 、 新大陸 の発見)の時代の違いを説明して下さい。違いを説明して下さい。 | ルネサンスは、15世紀から16世紀にかけてヨーロッパで広がった文化的かつ歴史的な運動を指しますが、大航海時代 (新航路 、 新大陸 の発見)は15-17世紀の大航海時代にヨーロッパ人に発見された南北アメリカ大陸とオーストラリア大陸を発見した。 |
JCRRAG_017881 | 歴史 | メンデルの名はグレゴール・ヨハンというのですが、一八二一年の七月二十二日にオーストリアのシュレジーエンにあるごく小さな村ハインツェンドルフで生まれました。家は農家でしたが、中学に当たるギムナジウムを卒業してから、ブリュンというところにある僧院で神学教育を受け、それを終えて一八四七年にそこの僧院の司祭となりました。そしてそれでともかく一人前の僧侶となったのですが、メンデルにはそのような僧職がどうも十分には気が向かないように感じられました。それで何か学問を修めたいという心がしきりに起こって来たので、遂に決心を定めて、一八五一年にオーストリーの首都であるヴィーンに赴き、そこの大学に入って、数学、物理学、および博物学を熱心に学びました。メンデルは、この時もはや三十歳にもなっているので、普通の学生とは年齢の上でもちがうわけですが、ひたすら学問を修めたいという心から、一生懸命に勉強したのでした。そして三年後に、大学を卒業してから、一八五四年にもとのブリュンの町に帰り、そこである実科学校の教師となりました。
ブリュンの町に戻るとなると、僧侶の職の方も勤めないわけにはゆかないので、それは以前のように行っていましたが、大学で修めた博物学に大いに興味を感じていたので、それからは僧院のなかに自分でいろいろの動物を飼ったり、また植物を栽培して、それらをこまかく観察することを楽しみとしました。そしてその間に遺伝の問題に不思議を感じ、これを実験して見ようと思い立ったのです。
僧院の庭はさほど広くもなかったのですが、それでも六十坪ほどの土地を利用して、えんどう豆を栽培してみました。そしてえんどう豆のいろいろな種類の間に交配を行うと、どんな雑種ができるかを、一々しらべて見ました。メンデルはこの実験を八年間もつづけて行ったということです。そしてその結果が一通りわかって来たので、一八六五年にブリュンの博物学会の会合の席で、これを発表し、その翌年にはこの学会の記要に「雑種植物の研究」という題で、論文を公にしました。これが遺伝の法則を初めて明らかにした大切な論文なのです。その他に、メンデルは柳やたんぽぽのような植物についても、また蜜蜂や鼠などの動物についてもそれぞれ交配を行って遺伝の研究をつづけていました。
このようにしてブリュンの僧院には一八六八年まで十五年間を過ごしましたがこの年に僧正の職についたので、その後は自分の研究を進めるだけの暇がなくなってしまったのは、メンデルにとっては遺憾のことであったのでしょう。それにメンデルのそれまでの研究についても、今日でこそその重大な意味を誰しもが認めているのですが、その頃の人々には一向に顧みられず、そのままに見過ごされていたのでした。これはいわばメンデルだけが時代に先んじてもいたので、やむを得ないことでもあったのでしょうが、やはり彼にとっては残念な次第でもあったわけです。ところが、そればかりではなく、僧正の職についてその仕事を忠実に行って来たのはよかったにしても、その頃政府が特別の税金をこの僧院に課したので、これを不当であるとしてメンデルは政府と争い、いかにしてもこれに屈しなかったということです。これは一八七二年頃のことでありましたが、その後いろいろとよくない出来事にであい、もともと快活でもあり友情も並みはずれて深かった性格にまでも影響して、だんだんに世の人を嫌うようになったともいわれています。そして一八八四年の一月六日に腎臓炎をわずらってなくなりました。
メンデルの研究は、かくて世間からは全く知られずに、その後も久しく埋もれていましたが、それがようやく見つけ出されたのは一九〇〇年のことで、メンデルがブリュンの学界でこれを発表してから、実に三十五年も経ってからのことでした。
どうしてメンデルの研究がこのとき発見されたかといいますと、それにはおもしろい話があるのです。ちょうどその頃、同じく遺伝について研究していた三人の学者がいました。それは、ドイツのコレンス、オーストリーのツェルマック、およびオランダのド・フリースです。この人たちの研究の結果がそれぞれ学会で発表されてみると、ふしぎにもそれらが互いに一致しているので、これは確かな事であるとして認められるようになったのでしたが、そうなると、同じ事を研究した学者が以前にもありはしなかったかということが、学界の話題となりました。そして古い論文をしらべてゆくうちに、メンデルの研究が見つけ出されたのです。そしてすでに三十五年も前に、メンデルが立派に同じ結果を出して居て、かつそれを詳しく説明していることまで、すっかりわかったのでした。それでこれをメンデルの法則とたたえるようになったのです。メンデルはつまりこのような事を何も知らないで、なくなったのでしたが、学問の上の仕事は、それが正しければ、立派に残っていて、いつかは見つけ出されて、その偉大な栄誉をになうことのできるものであるということが、この一事によってもみごとに証拠立てられるのです。かくてメンデルは、たとえ不遇のうちに死したとしても、その名は、科学の歴史の上に限りなく燦然と輝くことでもありましょう。 | メンデルの法則と名付けられたのはなぜですか。 | メンデルの功績を称えてメンデルの法則と名付けられた。 |
JCRRAG_017882 | 歴史 | 1858年(安政5年)4月に、将軍に次ぐ最高職である大老に就任したのは井伊直弼です。
1853年(嘉永6年)に、アメリカからペリーが日本に来航して以降、江戸幕府は開国を前提とした政策を打ち出すようになります。その一方で朝廷は、外国人を追い払い入国させないとする「攘夷」(じょうい)の立場を取るようになり、両者の間に亀裂が生じました。
そんななか井伊直弼が、1858年(安政5年)、天皇の許可である「勅許」(ちょっきょ)を得ないまま「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を締結し、幕府と朝廷の関係はさらに悪化することになったのです。
また、幕藩体制の弱体化により、それまで強気であった江戸幕府の立場が維持できず、「攘夷派」(じょういは)である朝廷の立場が強くなっていきます。さらには、前述した一橋派と南紀派による将軍後継者争いも、「薩摩藩」(さつまはん)や「土佐藩」(とさはん)などの、いわゆる「雄藩」(ゆうはん:勢力の強い藩)を分裂させる引き金となり、幕藩体制を揺るがす要因となっていました。
このような江戸幕府の弱体化を、朝廷との連携によって安定させようとする運動が起き、これが「公武合体」(こうぶがったい)と呼ばれる政治運動です。公武合体運動は井伊直弼の暗殺後、老中に就任した「久世広周」(くぜひろちか)と「安藤信正」(あんどうのぶまさ)によって推進されました。強権を振るっていた江戸幕府でしたが、朝廷の権威を必要とするほどにその威厳を失っていたのです。
公武合体運動の一環として「内親王」(ないしんのう:天皇の直系である子、もしくは孫である女性)の将軍家への「降嫁」(こうか:皇女が臣下のもとへ嫁ぐこと)が図られます。本来、内親王の嫁ぎ先は「宮家」(みやけ:宮号を賜った皇族の一家)や「摂家」(せっけ)に限られており、武家に嫁した前例はありませんでした。家格を重要視するため、ふさわしい嫁ぎ先がなければ独身で終わる内親王も多かったのです。
このとき、降嫁する内親王として候補に挙がったのが、孝明天皇の妹である和宮でした。和宮は1846年(弘化3年)に生まれ、徳川家茂とは同い年の女性。しかし、和宮は6歳のときに、「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約していたのです。
そのため和宮は、この降嫁について再三固辞しましたが、孝明天皇の意向により和宮の降嫁が決定。そして、有栖川宮熾仁親王との婚約も解消されることになります。
その一方で徳川家茂も、紀州藩主時代に「伏見宮貞教親王」(ふしみのみやさだのりしんのう)の妹である「則子女王」(のりこじょおう)と婚約していましたが、将軍家を継承したことにより、その話が立ち消えになっていたのです。そして、和宮の降嫁の動きと共に、この婚約についても正式に解消しています。 | 江戸幕府の弱体化を、朝廷との連携によって安定させようとする運動は、井伊直弼の暗殺後、誰によって推進されたか。 | 江戸幕府の弱体化を、朝廷との連携によって安定させようとする運動は、井伊直弼の暗殺後、老中に就任した久世広周と安藤信正によって推進された。 |
JCRRAG_017883 | 歴史 | 盛政は例によって大音をあげ、味方の諸士たちは臆病神が付いたのか?と馬鹿にすると、原彦次郎曰く「言う通りで、味方の兵が逃げるのは、大将に臆病神が取り付いて引き返して備えうる手段を取らないからである。退却する軍が勝利出来るわけが無い」と言い放った。
盛政は一言もなしである。前田利家父子は二千騎をもって備えていたが、敗軍と思ったら、華々しい働きもせず早速に府中に撤退した。
利家の出陣は別に勝家の家臣であるからというわけでもなく、ただ国境に接していただけという関係であり、そのうえ秀吉とはむしろ仲が良かった位であるから、都合のいい中立の立場になったのだ。この合戦に先手を打つ秀吉と利家の間にある種の協定さえあったと思われるのである。
丹羽長秀、これを見て良い頃合いだと砦に突出を命じた。北国勢はすべて潰えて、北へ西へと落ちて行った。
小原新七等七八騎で、盛政等を落ち延びさせようと、小高い場所で、追い来る秀吉勢を突き落として防いでいるのを、伊木半七真先に進んで、ついに小原等を退けた。
賤ヶ岳の戦いにおいて、加藤虎之助、加藤清正、糟屋助右衛門、福島市松、片桐助作、平野権平、脇坂甚内七人の働きは抜群であった。
なので秀吉は賞賛して七人各々に感謝状を渡し、三百石の石高を渡すつもりだったが、加藤虎之助、加藤清正、糟屋助右衛門の三人には三千石という石高まで引き上げて渡した。これが有名な賤ヶ岳七本槍である。石川兵助、伊木半七、桜井左吉三人の働きも、七本槍に劣らなかったので、三振の太刀と称して、褒美を取らせたと伝わっている。この二組が賤ヶ岳の戦いにおいて重要なキーマンだったといえる。 | 賤ヶ岳七本槍に対して秀吉が渡した褒美の石高のうち、より多くもらったほうの人数を教えてください。 | 賤ヶ岳七本槍に対して秀吉が渡した褒美の石高のうち、より多くもらったほうは三人です。 |
JCRRAG_017884 | 歴史 | 同じ通称の区別法
一地方で三人か五人かの衛門尉・兵衛尉のある間は、その頭に太郎・次郎を付けさえすれば、字、すなわち個人を差別する方法としては、目的を達したようであるけれども、年代を経、人数の多くなるとともに、故人までも合せればぜんぜんとその数が多くなって来て、ついには同じ通称のものがそちらこちらにできて来る、いうまでもなく官名を持たぬただの太郎次郎に至っては、初めから親の名前くらいでは充分な区別をすることができなかったから、さらにその上に何かの差別法を設けなければならぬ。そこで立ち戻って自分の家の姓によって、源氏の家の太郎ならば源太といい、平家の三郎ならば平三というのも一つの方法であったのであります。今日行われている名頭というもの、すなわち人の通称の吉というのは橘氏です。勘というのは菅原氏、弥というのは小野氏、清というのは清原氏、忠というのは中原氏、藤はもちろん藤原氏です。
これらは皆多数の次郎・三郎を区別するために菅太・野三・橘六・中七等と称えた遺風です。しかし一地方に植民をして来るものは多くは同一家であって、その姓を同じくしているのが普通であるから、一族蔓延の場合にはこれもまた区別になりにくい。ここにおいてか第四の方法として、居住地をもって称呼とするのはきわめて自然の順序でありました。今日でも庄兵衛というものが二人いれば、川端の庄兵衛とか上屋敷の庄兵衛とかいうのが普通の例であります。これは決して近代に始まったことではなく、おおよそ日本人が村をなしてともに住み、郷党が交を結ぶ場合には、もし互いの実名を呼ぶのを避けるとすれば、かくのごとくするほかはなかったのであります。
山城の京遷都の始め頃にできた『日本霊異記』という書には、紀州の百姓で字を上田の三郎といったものがあります。今日の語で言えば上田は氏名であるけれどもこの男にも別に親の付けてくれた尊い名告はあったので、その名告と上田の三郎とを合せたものを名字と言うのもすでに誤りであるが、家の号ばかりを名字というようになったのは、いよいよもって誤用転訛と見なければならぬ。しかしながらこのような時勢の変遷は、必ずしも昔に引き戻すことを必要とせぬ。ことに今日では通称と名告とを二つ持つことは法律の許さざるところでもあるし、いったん戸籍に登録されたる自分の名前は三郎兵衛・太郎左衛門と言うごとき昔の意味でいう字に当たるものも、または堅苦しい漢字の二つ繋がった名の訓に相応するものでも、皆字ではなくして真実の「名」であって、しかも西洋風にこれを呼びかけることを諱いまない時節となったのであるからして、新しい風俗に従って字というものを捨ててしまわなければならぬ。そうなって来れば今日の会話語で、家号のことを名字といっても、どこにも差支えることがないのであります。
さて前段がはなはだ長くなったけれども、昔の人の字の中でも一人一人について変って行く部分、すなわち通称についてはだいたい説明を終りましたから、この次には一人一人について変らぬ部分、すなわち家号、今日の語で言えば名字の話を、今少ししてみようと思う。 | 昔の名残の習慣として、次郎・三郎を区別するために称えた名として挙げられている具体例の数を教えてください。 | 昔の名残の習慣として、次郎・三郎を区別するために称えた名として挙げられている具体例の数は4で、
「菅太」、「野三」、「橘六」、「中七」です。 |
JCRRAG_017885 | 歴史 | ルネサンスは、15世紀から16世紀にかけてヨーロッパで広がった文化的かつ歴史的な運動を指します。 この時期は、古代ギリシャ・ローマの古典文化の再評価と復活を目指し、芸術、建築、文学、科学、哲学など多岐にわたる分野で革新が起こりました。 ルネサンスは、英語で「再生」や「復興」を意味するフランス語の「Renaissance」に由来し、人間の知識や探求心が高まり、社会的・文化的な変革が進んだ時代です。
宗教改革
16世紀(中世末期 - 近世)の西方キリスト教世界における教会体制上の革新運動である。贖宥状に対するルターの批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、旧教(ローマ・カトリック教会)から新教の分離へと発展した。
新教として、プロテスタントにはルターによるルター教会、チューリッヒのツヴィングリやジュネーヴのカルヴァンなど各都市による改革派教会などが成立した。この他にアナバプテスト(今日メノナイトが現存)など急進派も、当時は力を持っていた。また、後述の通り、ヘンリー8世によって創始されたイングランド国教会はプロテスタント諸派とは成立背景を異にし、教義や典礼もカトリックに近い。
大航海時代 (新航路 、 新大陸 の発見)
15-17世紀の大航海時代にヨーロッパ人に発見された南北アメリカ大陸とオーストラリア大陸を発見した。 新大陸に対して15世紀以前からヨーロッパ人に存在が知られていたユーラシア大陸とアフリカ大陸を旧大陸(旧世界)とよぶ。 オーストラリア大陸だけではなくオセアニア全域が新世界として分類されている。 | ルネサンスと大航海時代 (新航路 、 新大陸 の発見)の時代の違いを説明して下さい。 | ルネサンスは、15世紀から16世紀にかけてヨーロッパで広がった文化的かつ歴史的な運動を指しますが、宗大航海時代 (新航路 、 新大陸 の発見)は15-17世紀の大航海時代にヨーロッパ人に発見された南北アメリカ大陸とオーストラリア大陸を発見した。 |
JCRRAG_017886 | 歴史 | キュリー夫人の故国はポーランドで、一八六七年の十一月七日にその首都ワルソーで生まれました。その名をマリー・スクロドフスカと称しましたが、父はギムナジウム(中等学校)の教師で、物理学と数学とを教えており、母も以前に女学校を立てたことのある人であったというのですから、学問に縁故の深い家柄であったわけです。そしてこれがすでに後にマリーを学問の研究に携わらせる何かの動機となっていたのかも知れません。しかし母はマリーが五歳に達したときに不幸にして亡くなってしまったので、その後はもっぱら父の手で育てられました。ところで父はギムナジウムの教師ではあったのですが、その家計は決して豊かではなかったのに、おまけに非常にまじめな人であったので、学校に物理学の実験器械などが十分に備えてなかったのを遺憾に感じ、予算も少なかったので、自費でそれらを買いととのえたものですから、授業の方はいくらかうまく出来たものの、家計はひどく困ったということです。でもそういう父の感化のおかげで、子供たちも自然に学問の尊さをしみじみと知ることができたのでした。
マリーは女学校に入学して熱心に勉強しました。ところが、その頃のポーランドは悲しいことに、ロシヤ、ドイツ、オーストリーの三ヶ国に分割されてしまっていたので、ワルソーの町はロシア領に属して、特に極度な圧制を受けていたのでした。学校の書物などもすべてロシア語のもので、ポーランドの言葉などはまるで許されなかったのです。マリーはこのようななかで、しかし学問を勉強する準備としてフランス、ドイツ、イギリスの言語を大いに勉強して、それらにもよく通じたので、十七歳で女学校を卒業してからは、語学の家庭教師を勤めて、不足がちな家計を助けたということです。
さて、どこの国でも圧制が度を過ぎると、それに対する反抗がおこって来るのは当然のことであります。ポーランドには祖国愛に強い人たちがたくさんいます。それでいろいろな形でその運動がおこされましたけれども、ワルソーでは十分にその目的が達せられなかったので、オーストリー領にあるクラカウの町に赴いてこれに携わる人々もたくさんいました。そしてマリーもやがてまたその仲間に加わりました。ところがマリーはしばらくクラカウに居るうちに、自分の心の奥に一つの悩みを覚え始めました。それは祖国のために尽そうとする心に変りはないのですが、自分が幼少の頃から熱心に希望していたのは学問の上で仕事をしたいということであったので、今まるでそれと違ったことをしているのがいかにも心残りに感じられたのです。そこでいろいろと考えなやんだ末に、学問の上で成功することも祖国に尽くす心の上に変りはないのだということをひたすらに感じ、その後は科学研究に身を任せようと固く決心したのでした。
それにしても女学校を出ただけの学問では進んで何を研究するというわけにもゆきませんから、もっと勉強しなくてはいけないと感じましたが、クラカウでは万事に不便なので、何かよい方法をと考慮していました。ところが、ちょうどその頃姉がフランスのパリで医学を学んでいたので、そこへ赴いて、どんなに苦学してもよいから一生懸命に勉強してみたいと決心しました。この決心こそ実にマリーが学問の生活に立ち入る大切な出発点なのでありました。人間には誰にもこういう決心が必要なので、ここに一生の運命がかかっているとも見られるのでしょう。 | マリーが学問に専念しようとした理由はなんですか。 | 自分のやるべきことは反対運動ではなく、学問の上で成功することも祖国に尽くす事になるのではと思った。 |
JCRRAG_017887 | 歴史 | 1858年(安政5年)4月に、将軍に次ぐ最高職である大老に就任したのは井伊直弼です。
1853年(嘉永6年)に、アメリカからペリーが日本に来航して以降、江戸幕府は開国を前提とした政策を打ち出すようになります。その一方で朝廷は、外国人を追い払い入国させないとする「攘夷」(じょうい)の立場を取るようになり、両者の間に亀裂が生じました。
そんななか井伊直弼が、1858年(安政5年)、天皇の許可である「勅許」(ちょっきょ)を得ないまま「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を締結し、幕府と朝廷の関係はさらに悪化することになったのです。
また、幕藩体制の弱体化により、それまで強気であった江戸幕府の立場が維持できず、「攘夷派」(じょういは)である朝廷の立場が強くなっていきます。さらには、前述した一橋派と南紀派による将軍後継者争いも、「薩摩藩」(さつまはん)や「土佐藩」(とさはん)などの、いわゆる「雄藩」(ゆうはん:勢力の強い藩)を分裂させる引き金となり、幕藩体制を揺るがす要因となっていました。
このような江戸幕府の弱体化を、朝廷との連携によって安定させようとする運動が起き、これが「公武合体」(こうぶがったい)と呼ばれる政治運動です。公武合体運動は井伊直弼の暗殺後、老中に就任した「久世広周」(くぜひろちか)と「安藤信正」(あんどうのぶまさ)によって推進されました。強権を振るっていた江戸幕府でしたが、朝廷の権威を必要とするほどにその威厳を失っていたのです。
公武合体運動の一環として「内親王」(ないしんのう:天皇の直系である子、もしくは孫である女性)の将軍家への「降嫁」(こうか:皇女が臣下のもとへ嫁ぐこと)が図られます。本来、内親王の嫁ぎ先は「宮家」(みやけ:宮号を賜った皇族の一家)や「摂家」(せっけ)に限られており、武家に嫁した前例はありませんでした。家格を重要視するため、ふさわしい嫁ぎ先がなければ独身で終わる内親王も多かったのです。
このとき、降嫁する内親王として候補に挙がったのが、孝明天皇の妹である和宮でした。和宮は1846年(弘化3年)に生まれ、徳川家茂とは同い年の女性。しかし、和宮は6歳のときに、「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約していたのです。
そのため和宮は、この降嫁について再三固辞しましたが、孝明天皇の意向により和宮の降嫁が決定。そして、有栖川宮熾仁親王との婚約も解消されることになります。
その一方で徳川家茂も、紀州藩主時代に「伏見宮貞教親王」(ふしみのみやさだのりしんのう)の妹である「則子女王」(のりこじょおう)と婚約していましたが、将軍家を継承したことにより、その話が立ち消えになっていたのです。そして、和宮の降嫁の動きと共に、この婚約についても正式に解消しています。 | 江戸幕府の弱体化を、朝廷との連携によって安定させようとする運動の一環として、どのようなことが図られたか。 | 江戸幕府の弱体化を、朝廷との連携によって安定させようとする運動の一環として、内親王の将軍家への降嫁が図られた。 |
JCRRAG_017888 | 歴史 | 盛政は例によって大音をあげ、味方の諸士たちは臆病神が付いたのか?と馬鹿にすると、原彦次郎曰く「言う通りで、味方の兵が逃げるのは、大将に臆病神が取り付いて引き返して備えうる手段を取らないからである。退却する軍が勝利出来るわけが無い」と言い放った。
盛政は一言もなしである。前田利家父子は二千騎をもって備えていたが、敗軍と思ったら、華々しい働きもせず早速に府中に撤退した。
利家の出陣は別に勝家の家臣であるからというわけでもなく、ただ国境に接していただけという関係であり、そのうえ秀吉とはむしろ仲が良かった位であるから、都合のいい中立の立場になったのだ。この合戦に先手を打つ秀吉と利家の間にある種の協定さえあったと思われるのである。
丹羽長秀、これを見て良い頃合いだと砦に突出を命じた。北国勢はすべて潰えて、北へ西へと落ちて行った。
小原新七等七八騎で、盛政等を落ち延びさせようと、小高い場所で、追い来る秀吉勢を突き落として防いでいるのを、伊木半七真先に進んで、ついに小原等を退けた。
賤ヶ岳の戦いにおいて、加藤虎之助、加藤清正、糟屋助右衛門、福島市松、片桐助作、平野権平、脇坂甚内七人の働きは抜群であった。
なので秀吉は賞賛して七人各々に感謝状を渡し、三百石の石高を渡すつもりだったが、加藤虎之助、加藤清正、糟屋助右衛門の三人には三千石という石高まで引き上げて渡した。これが有名な賤ヶ岳七本槍である。石川兵助、伊木半七、桜井左吉三人の働きも、七本槍に劣らなかったので、三振の太刀と称して、褒美を取らせたと伝わっている。この二組が賤ヶ岳の戦いにおいて重要なキーマンだったといえる。 | 賤ヶ岳の戦いにおいて活躍した二組のうち、人数が少ないほうを教えてください。 | 賤ヶ岳の戦いにおいて活躍した二組のうち、人数が少ないほうは三振の太刀で三人です。 |
JCRRAG_017889 | 歴史 | 同じ通称の区別法
一地方で三人か五人かの衛門尉・兵衛尉のある間は、その頭に太郎・次郎を付けさえすれば、字、すなわち個人を差別する方法としては、目的を達したようであるけれども、年代を経、人数の多くなるとともに、故人までも合せればぜんぜんとその数が多くなって来て、ついには同じ通称のものがそちらこちらにできて来る、いうまでもなく官名を持たぬただの太郎次郎に至っては、初めから親の名前くらいでは充分な区別をすることができなかったから、さらにその上に何かの差別法を設けなければならぬ。そこで立ち戻って自分の家の姓によって、源氏の家の太郎ならば源太といい、平家の三郎ならば平三というのも一つの方法であったのであります。今日行われている名頭というもの、すなわち人の通称の吉というのは橘氏です。勘というのは菅原氏、弥というのは小野氏、清というのは清原氏、忠というのは中原氏、藤はもちろん藤原氏です。
これらは皆多数の次郎・三郎を区別するために菅太・野三・橘六・中七等と称えた遺風です。しかし一地方に植民をして来るものは多くは同一家であって、その姓を同じくしているのが普通であるから、一族蔓延の場合にはこれもまた区別になりにくい。ここにおいてか第四の方法として、居住地をもって称呼とするのはきわめて自然の順序でありました。今日でも庄兵衛というものが二人いれば、川端の庄兵衛とか上屋敷の庄兵衛とかいうのが普通の例であります。これは決して近代に始まったことではなく、おおよそ日本人が村をなしてともに住み、郷党が交を結ぶ場合には、もし互いの実名を呼ぶのを避けるとすれば、かくのごとくするほかはなかったのであります。
山城の京遷都の始め頃にできた『日本霊異記』という書には、紀州の百姓で字を上田の三郎といったものがあります。今日の語で言えば上田は氏名であるけれどもこの男にも別に親の付けてくれた尊い名告はあったので、その名告と上田の三郎とを合せたものを名字と言うのもすでに誤りであるが、家の号ばかりを名字というようになったのは、いよいよもって誤用転訛と見なければならぬ。しかしながらこのような時勢の変遷は、必ずしも昔に引き戻すことを必要とせぬ。ことに今日では通称と名告とを二つ持つことは法律の許さざるところでもあるし、いったん戸籍に登録されたる自分の名前は三郎兵衛・太郎左衛門と言うごとき昔の意味でいう字に当たるものも、または堅苦しい漢字の二つ繋がった名の訓に相応するものでも、皆字ではなくして真実の「名」であって、しかも西洋風にこれを呼びかけることを諱いまない時節となったのであるからして、新しい風俗に従って字というものを捨ててしまわなければならぬ。そうなって来れば今日の会話語で、家号のことを名字といっても、どこにも差支えることがないのであります。
さて前段がはなはだ長くなったけれども、昔の人の字の中でも一人一人について変って行く部分、すなわち通称についてはだいたい説明を終りましたから、この次には一人一人について変らぬ部分、すなわち家号、今日の語で言えば名字の話を、今少ししてみようと思う。 | 庄兵衛を居住地をもって称呼とする場合の例として挙げられている数を教えてください。 | 庄兵衛を居住地をもって称呼とする場合の例として挙げられている数は2で、「川端の庄兵衛」、「上屋敷の庄兵衛」 です。 |
JCRRAG_017890 | 歴史 | 古墳時代のはじまり
古墳の登場
弥生時代には、墳丘墓など様々な墓が出現しました。
中国の歴史書から倭国の記述が消えた頃(3世紀中頃)から、大和(奈良)を中心に古墳が営まれはじめました。
古墳が営まれる3世紀中頃~7世紀を古墳時代と呼びます。
墳丘墓と古墳の特徴の違い
圧倒的な大きさ(ほとんどが全長100m超え)
棺ひつぎの外側に圧倒的な数の副葬品
斜面に葺石ふきいし、丘の部分に土製の焼き物埴輪はにわ
古墳時代前期の箸墓はしはか古墳(奈良)は全長280m
様々な形(円墳・方墳など)の中で、前方後円墳が最大規模
大和を中心とする政治的連合
上記①~③の特徴をもつ墓「古墳」は近畿~九州に広く分布します。
共通の文化を享受する、広域にわたる政治的連合が存在したと考えられます。
出現期の古墳は、大和(奈良)の箸墓はしはか古墳が最も大きいです。
政治的連合の中心が大和にあったと考えられます。
大和を中心に存在したこの連合をヤマト政権と呼びます。
古墳時代の概観
時期ごとの特徴の推移
古墳の形
前期
やはり前方後円墳が大きい
中期
前方後円墳巨大化
後期
地方で出現するまとまった円墳を群集墳と言います。これは地方の有力農民までもが古墳を造るようになったからだとされています。
副葬品
前期
鏡・腕輪・玉などの副葬品から、被葬者は「司祭者的性格」をもっていたと考えられます。
中・後期
甲冑・馬具などの副葬品から、被葬者は「武人的性格」をもっていたと考えられます。
埴輪
前期
円筒埴輪が中心です。
中・後期
形象埴輪が中心です。
後期から出現する特徴
石人・石馬
石人・石馬が出現し、九州に多く分布します。
装飾
石室に幾何学的模様などを施した装飾古墳が出現します。 | 古墳時代の前期と中・後期の副葬品の違いを説明して下さい。 | 前期は鏡・腕輪・玉などの副葬品から、被葬者は「司祭者的性格」をもっていたと考えられますが、
中・後期は甲冑・馬具などの副葬品から、被葬者は「武人的性格」をもっていたと考えられます。 |
JCRRAG_017891 | 歴史 | 伊能忠敬は、幼名を三治郎、後に佐忠太といいましたが、成人して通称三郎右衞門と称し、字は子齊、東河と号し、晩年には勘解由とも称しました。上総国かずさのくに山武郡小関村で延享二年一月十一日に神保利左衞門貞恒の第三男として生まれたのでした。もっともこの時に父は小関村の小關家を継いでいたのでしたが、忠敬が七歳のときに妻の死歿に遭い神保家に戻りましたので、それでも、忠敬は幼かったのでその儘まま小關家に留まり、十一歳になってようやく父の許に帰ったということです。ですから、忠敬の幼時は言わば不遇の境地に置かれていたのでしたが、その頃から学問を好んでいたということは、後に自分で記しているところによっても確かであったのでした。しかしそれでもなかなかその方に向かうことなどは思いもよらないところであったので、十八歳になった際には、下総佐原町の伊能家に婿養子に遣られ、その時忠敬と名のることとなったのでした。ところで伊能家は元来は佐原町の豪家であったのでしたが、この頃家運が甚だ衰えていましたので、忠敬はそこへ赴くと共に、まず家運を回復することに全力を尽さなくてはならなかったのです。それでこの時から実に三十年の長い間、この事に熱心に従い、産業の発展に努めたのでした。この産業という中には、米穀を豊作の土池から買って来て、それを他に売りさばくことや、また醸造や薪問屋の営業などもあったということです。ともかくそのようにして忠敬の一生懸命の努力のおかげで家運も再び盛んになることができたので、それに忠敬は救民の事業などをも興したので、終いには尊敬されて名主ともなり、また幕府からも大いに賞められて、苗字、佩刀をも許されました。この事は忠敬が自分の仕事に対していつも忠実にはたらく人物であることを既に十分に示しているのであります。
ところが、この間に忠敬は妻の死に二度も遭っていたというので、彼の前半生は決して幸福とはいわれなかったのでしたが、それでも自分の仕事に屈することなく励んで来たので、ようやく家運も盛んになったのでした。そこで彼の年齢も五十歳に達して隠居が許されるようになると、さっそくに家督を長子景敬に譲り、自分は江戸に出て、かねてから望んでいた学問の道を修めようと決心したのでした。これはその頃としてもまことに特別な心がけで、忠敬のような人物でなければとても出来なかったところであると思われるのです。 | 伊能忠敬は名前を忠敬にしたきっかけはなんですか。 | 十八歳の時に伊能家に婿養子に遣られた際に忠敬を名乗る事になった。 |
JCRRAG_017892 | 歴史 | 1858年(安政5年)4月に、将軍に次ぐ最高職である大老に就任したのは井伊直弼です。
1853年(嘉永6年)に、アメリカからペリーが日本に来航して以降、江戸幕府は開国を前提とした政策を打ち出すようになります。その一方で朝廷は、外国人を追い払い入国させないとする「攘夷」(じょうい)の立場を取るようになり、両者の間に亀裂が生じました。
そんななか井伊直弼が、1858年(安政5年)、天皇の許可である「勅許」(ちょっきょ)を得ないまま「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を締結し、幕府と朝廷の関係はさらに悪化することになったのです。
また、幕藩体制の弱体化により、それまで強気であった江戸幕府の立場が維持できず、「攘夷派」(じょういは)である朝廷の立場が強くなっていきます。さらには、前述した一橋派と南紀派による将軍後継者争いも、「薩摩藩」(さつまはん)や「土佐藩」(とさはん)などの、いわゆる「雄藩」(ゆうはん:勢力の強い藩)を分裂させる引き金となり、幕藩体制を揺るがす要因となっていました。
このような江戸幕府の弱体化を、朝廷との連携によって安定させようとする運動が起き、これが「公武合体」(こうぶがったい)と呼ばれる政治運動です。公武合体運動は井伊直弼の暗殺後、老中に就任した「久世広周」(くぜひろちか)と「安藤信正」(あんどうのぶまさ)によって推進されました。強権を振るっていた江戸幕府でしたが、朝廷の権威を必要とするほどにその威厳を失っていたのです。
公武合体運動の一環として「内親王」(ないしんのう:天皇の直系である子、もしくは孫である女性)の将軍家への「降嫁」(こうか:皇女が臣下のもとへ嫁ぐこと)が図られます。本来、内親王の嫁ぎ先は「宮家」(みやけ:宮号を賜った皇族の一家)や「摂家」(せっけ)に限られており、武家に嫁した前例はありませんでした。家格を重要視するため、ふさわしい嫁ぎ先がなければ独身で終わる内親王も多かったのです。
このとき、降嫁する内親王として候補に挙がったのが、孝明天皇の妹である和宮でした。和宮は1846年(弘化3年)に生まれ、徳川家茂とは同い年の女性。しかし、和宮は6歳のときに、「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約していたのです。
そのため和宮は、この降嫁について再三固辞しましたが、孝明天皇の意向により和宮の降嫁が決定。そして、有栖川宮熾仁親王との婚約も解消されることになります。
その一方で徳川家茂も、紀州藩主時代に「伏見宮貞教親王」(ふしみのみやさだのりしんのう)の妹である「則子女王」(のりこじょおう)と婚約していましたが、将軍家を継承したことにより、その話が立ち消えになっていたのです。そして、和宮の降嫁の動きと共に、この婚約についても正式に解消しています。 | 降嫁する内親王として候補に挙がったのが孝明天皇の妹で、6歳のときに、誰と婚約していたか。 | 降嫁する内親王として候補に挙がったのが孝明天皇の妹で、6歳のときに、有栖川宮熾仁親王と婚約していた。 |
JCRRAG_017893 | 歴史 | さて北軍の総大将である柴田勝家は、今市の北狐塚に陣を張っていたのだが、盛政の敗軍の情報が伝わると、陣中は動揺してしまい、いつの間にか落ちてゆく軍勢が多く、わずか二千足らずになった。
勝家は嘆いた。「盛政は向こう見ずになって私の指揮に従わず、この結果となってしまったのは悔しいが、今は後悔してもしょうがない。華やかな一戦をしたあとに切腹しよう」と覚悟した。
毛受庄助が進み出て「今の世に名将と言われるほどのあなたが、この山間などで討死してしまうのは末代までの恥である。
どうにか北の庄に入って、心静かに切腹してください」と勧め、自らは勝家の馬印をもってここに留まって防戦すると言った。
勝家は庄助の意見を受け入れて金の御幣の馬印を渡して馬を北の庄へと向けた。
庄助は兄の茂左衛門と共に三百騎という戦力で、大谷村の塚谷までやってくる敵と奮戦したが、筒井の家来である島左近に討たれた。
勝家はその間に北の庄を目指して移動していたが、前田利家の府中の城下にさしかかった時は、付いて来る軍勢は僅かに馬八騎、歩兵は三十人か四十人に過ぎなかった。勝家は利家に「あなたは秀吉と私と昔から仲が良いが、今後は秀吉に従って、幼ない君主のために力を尽くしてほしい」といった。
利家は、朝から何も食べていない勝家の為に、お茶漬けと酒を出して慰めた。
四月二十三日、越前北の庄の城は、既に秀吉の軍勢に囲まれていた。北ノ庄城の戦いの前夜である。
勝家は城もろとも消え果ててしまう覚悟をしているので、城内を広間より書院に至るまで飾りたて、最後の酒宴を開いた。
勝家の妻はお市の方と言い、信長の妹である。小谷の城主である浅井長政の元に嫁ぎ、二男三女を授かったが、後に織田対朝倉・浅井の争いとなってしまい、姉川に敗した長政が、小谷城の露と消えた時に説得され、兄である信長の手に引き取られた事がある。
清洲会議が行われる頃まで岐阜にいて、三人の娘と共に寂しく暮らしていたが、勝家に再度嫁がせたのである。
勝家の元に来て一年も経たずに、再び落城の憂き目を見る事になった。
勝家は娘たちと共に秀吉の元に行くことを勧めるが「今更生き長らえる望みなどあるわけがない、一緒に死ぬ事こそ本望である」と涙を流して聞かない。
二十四日の明け方に、火を城に放つと共に勝家を始めとした軍勢といえるのは三十九人になっていた。一堂に自害して、煙の中で亡くなった。
勝家の五十四歳の時である。お市の方は、生涯で二度も落城という惨事に遭った不幸な戦国時代の女性である。
秀吉もかねて、お市の方に恋心を持っていたので、秀吉と勝家との争いにはこうした恋の恨みも少しはあったのであろう、という説もある。
お市の方の娘たちは、無事秀吉の手に届けられたが、後に長女は秀吉の北の方淀君となり、次は京極宰相高次の室に、最後は将軍秀忠の夫人となった。戦国の世の女性の運命もまた不思議なものである。 | 柴田勝家の軍勢のうち、もっとも少なかった人数を教えてください。 | 柴田勝家の軍勢のうち、もっとも少なかった人数は三十九人です。 |
JCRRAG_017894 | 歴史 | いつの間にか家号を名字と言うようになった
名字と言う単語の本来の意味が現在の使い方とは違っていて、家号と通称と包含するものであることはお話した通りであります。この意味における名字を最も豊富にかつ趣味多く見出す事のできるのは『吾妻鑑』であります。平安朝の始め頃にもすでに上田の三郎などと言う名字のあることは『霊異記』にも見られるが、鎌倉時代にはこの意味における名字がいくらでもある。この時代にはいまだみだりに左衛門尉とか右衛門尉とかいう武家の官名を、与えもしなければ貰うことも幕府がやかましかったから、立派な侍が皆
次郎
三郎
で、家号としてはことごとく居住地の地名を帯びている。
言葉を変えれば、居住地+出生の順序=名字であったのであります。しかるにその中からいつの世にか、家号の部分ばかりを名字と言うようになったために、ついに明治の今日のように、姓氏ということも名字ということも、同一のものになるようになってしまったのであります。
名字が違うから同家でないとはいえない、
大昔にも姓氏というものは歴然と存在している、すなわち
源
藤原
というのが氏であって、
朝臣
とか
宿禰
とかいうのが姓である。これはいずれの家にとってもきわめて重大なもので、平生は名字で呼んでいる人でも、表向きの文書では非礼にならぬ限りこれを拘記したものであります。
この姓氏というものがまさしく中国の王とか劉とか、陳とか張とかいうものに当たるのであります。ただかの国ではいついかなるときにもその姓を使い、日本では国柄が単純で姓氏の数が少ないので、弁別のために起こったのであろうが、平素には家号のみを用いて姓氏を称えなかったのであります。しかもこの家号なるものがきわめて頻繁に取り換えられ、ほとんと屋棟の数や竈の数ほど多くあるのです。したがって今日の名字すなわち家号が違っているから、同家でないという思想は、日本の昔の社会状態とは合わない思想であります。
しかるに御承知の通り、近代ではなるべく家号を変えない傾向になったがために、ことに民法ではやたらにこれを変更することを許さぬことになった結果、一族一家の家号は、ただ一個に限るかのような思想を生じたのであります。 | 名字と言う単語の本来の意味が現在の使い方とは違って包含していた物の数を教えてください。 | 名字と言う単語の本来の意味が現在の使い方とは違って包含していた物の数は2で、
「家号」
「通称」
です。 |
JCRRAG_017895 | 歴史 | 古墳時代のはじまり
古墳の登場
弥生時代には、墳丘墓など様々な墓が出現しました。
中国の歴史書から倭国の記述が消えた頃(3世紀中頃)から、大和(奈良)を中心に古墳が営まれはじめました。
古墳が営まれる3世紀中頃~7世紀を古墳時代と呼びます。
墳丘墓と古墳の特徴の違い
圧倒的な大きさ(ほとんどが全長100m超え)
棺ひつぎの外側に圧倒的な数の副葬品
斜面に葺石ふきいし、丘の部分に土製の焼き物埴輪はにわ
古墳時代前期の箸墓はしはか古墳(奈良)は全長280m
様々な形(円墳・方墳など)の中で、前方後円墳が最大規模
大和を中心とする政治的連合
上記①~③の特徴をもつ墓「古墳」は近畿~九州に広く分布します。
共通の文化を享受する、広域にわたる政治的連合が存在したと考えられます。
出現期の古墳は、大和(奈良)の箸墓はしはか古墳が最も大きいです。
政治的連合の中心が大和にあったと考えられます。
大和を中心に存在したこの連合をヤマト政権と呼びます。
古墳時代の概観
時期ごとの特徴の推移
古墳の形
前期
やはり前方後円墳が大きい
中期
前方後円墳巨大化
後期
地方で出現するまとまった円墳を群集墳と言います。これは地方の有力農民までもが古墳を造るようになったからだとされています。
副葬品
前期
鏡・腕輪・玉などの副葬品から、被葬者は「司祭者的性格」をもっていたと考えられます。
中・後期
甲冑・馬具などの副葬品から、被葬者は「武人的性格」をもっていたと考えられます。
埴輪
前期
円筒埴輪が中心です。
中・後期
形象埴輪が中心です。
後期から出現する特徴
石人・石馬
石人・石馬が出現し、九州に多く分布します。
装飾
石室に幾何学的模様などを施した装飾古墳が出現します。 | 古墳時代の前期と中・後期の埴輪の違いを説明して下さい。 | 前期は円筒埴輪が中心ですが、
中・後期は形象埴輪が中心です。 |
JCRRAG_017896 | 歴史 | 忠敬が隠居したのは寛政六年のことでありましたが、翌七年の五月には江戸に出て、深川の黒江町に居住し、それから学問を修めようとしたのでした。ところが、ちょうどこの時に彼は幸運にめぐまれました。それはこの年の三月に幕府が暦法改正の仕事を始めるために大阪から暦学天文の大家として知られている高橋作左衞門至時、ならびに間五郎兵衞重富を江戸に呼びよせたことで、高橋は四月に、間は六月に江戸に到着したからです。この高橋と間とは共に大阪で名高かった麻田剛立の門弟であって、既に十分の実力をそなえていたのでしたが、もしそのまま大阪に居住していたとしたならば、忠敬もたやすくその教えを乞うことはできなかったに違いないのでした。ところが、この両人が忠敬の江戸に出るのと時を同じくして江戸に来合わせたということは、忠敬にとってまことに得難い奇遇であったといわなければなりません。ともかくも忠敬はこの事を聞いて大いに喜び、さっそくに高橋作左衞門のもとを訪ねて、鄭重に入門を請いました。そして測量、地理、暦術を熱心に学びました。この時、忠敬は五十一歳であったのに対し、師の高橋は三十二歳であったのですが、忠敬は高橋を師とあがめて、いろいろな知識や技術を学んだということを思うと、これも実に一つの美談であるといわなければなりますまい。
高橋作左衛門はその頃暦学では他に並ぶものがないといわれたほどの人で、寛政丁巳暦と称せられたのは彼と間重富との方寸によって成り立ったものであったのでしたが、それだけに門弟に対してもなかなかに厳しく教えたということで、それがしかし忠敬には却って幸いであったのでした。忠敬は暦学天文と共に、それを利用して行う土地測量の方法をも熱心に研究しました。土地を測量するのには、ある位置に機械を据えつけて、それで目標の観測を行わなくてはならないのですが、それぞれの土地には傾斜があったり凹凸があるので、実際にはいろいろな苦労が要るのです。それで方位を測る器械や、傾斜を測る器械などを工夫して、これを行わなければなりません。それはともかくも西洋で行われている方法を詳しくしらべて、それに依るのがよいと考えて、そこでいろいろな測量の器械をつくってみました。そのなかには、ものさし(尺度)、間棹、間縄、量程車、羅鍼、方位盤、象限儀、時計、測量定分儀、圭表儀、望遠鏡などがありました。ここではこれらの器械について一々説明しているわけにもゆきませんが、これらに対して忠敬はこまかい注意を加えてできるだけ精密な測量をめざしたのでした。これらの器械のことについては、後に忠敬の門弟の渡邊愼という人が書きのこした「伊能東河先生量地伝習録」という書物にかなり詳しく記されているのですが、それを読んで見ても、忠敬がいかにこれについて苦心を重ねたかがはっきりとわかるのです。
その一つの例をとり出して見ますと、これらの器械のうちで最も簡単なものさしにしましても、その頃我が国ではこれが厳密には定まっていなかったのでした。まず比較的広く行われていた物さしとしては、享保尺というのと、又四郎尺というのとありましたが、それらも幾らか長さのちがいがありました。そこで忠敬はこの二つの物さしの平均をとって新しい尺度を定め、これを折衷尺と名づけ、これを測量の土台にしたのでした。後に明治の時代になって度量衡法を定める場合に、やはりこの忠敬の折衷尺を基として、一メートルが三尺三寸に当たると定められたのですが、ともかく測量を正しく行うのには物さしの寸法をはっきりと定めておかなくてはならないのですから、それを最初に行う人の苦心はこのようなところにもあったのでした。忠敬はこの物さしを使って後に地球の緯度の一度が二十八里二分に当たるという結果を出しているのですが、これは現在の測定に比べて見ても僅かに千分の二ほどしか違っていないということで、忠敬の測量がその時代としていかに精密なものであったかが、この一事でも知られるのであります。 | 伊能忠敬の師匠である高橋作左衛門はどういう人でしたか。 | 高橋作左衞門至時は暦学天文の大家として知られ、暦学では他に並ぶものがなく、寛政丁巳暦を作った。
門弟にも非常に厳しいことで知られていた。 |
JCRRAG_017897 | 歴史 | 江戸幕府の弱体化を、朝廷との連携によって安定させようとする運動を、公武合体運動と呼びます。
江戸幕府からの和宮降嫁の申し出を受ける条件として、孝明天皇は鎖国攘夷の方針を政策に盛り込むことを要求。公武合体運動において和宮の降嫁と鎖国攘夷は、不可分のことだったのです。孝明天皇から具体的な攘夷策を挙げるように言われた江戸幕府は、しっかりした見通しもないまま、10年以内に鎖国攘夷の政策を実行することを約束。それほど江戸幕府は公武合体の実現を求めていました。
しかし、このあと江戸幕府は自ら結んだ鎖国攘夷の約束に苦しめられることに。日本の歴史を振り返れば分かる通り、開国の流れを止めることは不可能だったのです。鎖国攘夷を、現実のものにできずにいた幕府の立場はますます弱まり、朝廷が強気に出る足掛かりになってしまいます。
公武合体と鎖国攘夷の約束を背景に、徳川家茂と和宮の婚儀は、1862年(文久2年)2月江戸城内で執り行なわれ、婚儀に先立ち和宮の関東下向が約25日間に亘って実施されました。
このとき、和宮の行列は危険の多い東海道を避けて、中山道(なかせんどう)を通って江戸に向かっています。12の藩が和宮の御輿(おこし)を護衛し、29の藩が沿道の警護にあたっており、和宮の御輿入れでは、万を超える人馬・調度の大行列となったのです。
和宮の降嫁により朝廷の権威を借りる形になった幕府は、その実現に困難を極めていた鎖国攘夷を、いよいよ実行しなければならなくなりました。朝廷側から求められていた鎖国攘夷について回答するため、徳川家茂は孝明天皇から上洛を打診されます。
徳川将軍家からの上洛は、3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)が、1634年(寛永11年)に行なってから途絶えていました。公武合体のために徳川家茂は、1863年(文久3年)に229年ぶりに上洛することとなったのです。
上洛した徳川家茂は、朝廷から攘夷決行の協議を持ち掛けられますが、思うように進展しません。
孝明天皇は鎖国攘夷の実現を祈願するため「賀茂神社」(かもじんじゃ:上賀茂神社[かみがもじんじゃ]と下鴨神社[しもがもじんじゃ]の総称)に行幸された徳川家茂と一橋慶喜は、これに供奉(ぐぶ:行列に加わること)しています。
このときの孝明天皇の行幸は、108代天皇「後水尾天皇」(ごみずのおてんのう)が、1626年(寛永3年)に「二条城」(にじょうじょう)へ行幸されて以来、実に237年ぶりでした。 | 江戸幕府の弱体化を、朝廷との連携によって安定させようとする運動において、何が不可分のことだったか。 | 江戸幕府の弱体化を、朝廷との連携によって安定させようとする運動において和宮の降嫁と鎖国攘夷は、不可分のことだった。 |
JCRRAG_017898 | 歴史 | 山崎で戦うとすれば、大切な肝心要の地は天王山である。
明智光秀がここを取れば、いつでも豊臣秀吉の左翼から、拳下りに弓を打ち鉄砲を撃って切ってかかることが出来るし、豊臣秀吉がここを取れば逆に明智光秀軍の右翼を脅かすことが出来るのである。いわゆるどちらにも有利となる戦場である。
だから、明智光秀は十三日の早暁、中央軍第二陣の大将松田太郎左衛門に二千人の兵を付けて、天王山の占領を命じた。
豊臣秀吉も同じく、十三日の早暁に堀尾茂助をまず行かせて、それでも心もとなく思ってきたので、更に堀久太郎を行かせている。
豊臣秀吉軍勢の人数は堀尾と堀の二人で四千人の軍勢である。堀尾が三千で堀が千であった。
明智光秀の方は、丑の中刻で、豊臣秀吉の方は丑の上刻であったという。
丑の上刻と云えば二時半で、中刻は三時だから、三十分違いである。
しかし、出立の時刻よりも、天王山に到る道のりの関係や、登り道の関係も考えねばならない。
とにかく、豊臣秀吉軍の方が、先へ天王山の頂上を占領する事ができ、後から来る松田政近の軍勢を、追い落とした。
山崎合戦の勝敗の岐路は、天王山への登山競争にあったわけである。
光秀もその戦略眼においては、一歩も豊臣秀吉に譲らなかったのであるが、天王山の地理などには、光秀の方が、その領土の関係上疎かったかも知れないのである。 | 天王山に向かった豊臣秀吉軍勢のうち、数が多いほうを教えてください。 | 天王山に向かった豊臣秀吉軍勢のうち、数が多いほうは堀尾の軍勢で三千です。 |
JCRRAG_017899 | 歴史 | いつの間にか家号を名字と言うようになった
名字と言う単語の本来の意味が現在の使い方とは違っていて、家号と通称と包含するものであることはお話した通りであります。この意味における名字を最も豊富にかつ趣味多く見出す事のできるのは『吾妻鑑』であります。平安朝の始め頃にもすでに上田の三郎などと言う名字のあることは『霊異記』にも見られるが、鎌倉時代にはこの意味における名字がいくらでもある。この時代にはいまだみだりに左衛門尉とか右衛門尉とかいう武家の官名を、与えもしなければ貰うことも幕府がやかましかったから、立派な侍が皆
次郎
三郎
で、家号としてはことごとく居住地の地名を帯びている。
言葉を変えれば、居住地+出生の順序=名字であったのであります。しかるにその中からいつの世にか、家号の部分ばかりを名字と言うようになったために、ついに明治の今日のように、姓氏ということも名字ということも、同一のものになるようになってしまったのであります。
名字が違うから同家でないとはいえない、
大昔にも姓氏というものは歴然と存在している、すなわち
源
藤原
というのが氏であって、
朝臣
とか
宿禰
とかいうのが姓である。これはいずれの家にとってもきわめて重大なもので、平生は名字で呼んでいる人でも、表向きの文書では非礼にならぬ限りこれを拘記したものであります。
この姓氏というものがまさしく中国の王とか劉とか、陳とか張とかいうものに当たるのであります。ただかの国ではいついかなるときにもその姓を使い、日本では国柄が単純で姓氏の数が少ないので、弁別のために起こったのであろうが、平素には家号のみを用いて姓氏を称えなかったのであります。しかもこの家号なるものがきわめて頻繁に取り換えられ、ほとんと屋棟の数や竈の数ほど多くあるのです。したがって今日の名字すなわち家号が違っているから、同家でないという思想は、日本の昔の社会状態とは合わない思想であります。
しかるに御承知の通り、近代ではなるべく家号を変えない傾向になったがために、ことに民法ではやたらにこれを変更することを許さぬことになった結果、一族一家の家号は、ただ一個に限るかのような思想を生じたのであります。 | 鎌倉時代の立派な侍が出生の順序でつけられた名として挙げられているものの数を教えてください。 | 鎌倉時代の立派な侍が出生の順序でつけられた名として挙げられているものの数は2で、「次郎」、「三郎」です。 |
JCRRAG_017900 | 歴史 | 内乱と平氏の滅亡
あわただしい遷都
1180年、安徳天皇が即位すると、反平氏の気運はますます高まりました。
後白河上皇の子以仁王は源頼政に促されて、全国の源氏に挙兵を呼びかける命令文書令旨を発しました。
以仁王の挙兵自体は失敗に終わりましたが、その波紋は全国に広がりました。
令旨
親王などの命令文書
宣旨
天皇(天皇の意を伝える朝廷)の命令文書
院宣
上皇(院)から天皇・朝廷への命令文書
平清盛は敵対する寺院から離れるため、また、専制体制を固めるため、摂津国の福原京へ遷都を決めました。
平氏一族内からも新都反対の声が強く、数ヶ月で平安京に都を戻しました。
「治承四(1180)年水無月の比、にはかに都遷り侍りき。」(鴨長明かものちょうめい『方丈記 ほうじょうき』)
都を戻した後、平重衡たいらのしげひらは反平氏の興福寺・東大寺を焼打ち(南都焼打ち)
内乱の開始
1180年、以仁王の挙兵は失敗しましたが、各地の源氏に動きが見られました。
平治の乱で伊豆国に流刑された源頼朝、信濃国で勢力を広げていた源義仲 が挙兵しました。
6年にわたり、治承・寿永の乱と呼ばれる全国的な争乱が続きました。
源頼朝
挙兵した初の合戦で敗れ、敵方の梶原かじわら景時の情けで生存
平氏の都落ち
1181年に起きた2つの出来事で、平氏の基盤は弱体化しました。
平清盛の急死
畿内・西国を中心とする養和の飢饉
1183年、源義仲は北陸の倶利伽羅峠くりからとうげの戦いで平氏を破りました。
平氏は平安京を離れ、安徳天皇とともに西国へ向かいました。
都入りした義仲とその家人の評判は悪化の一途を辿り、やがて孤立しました。
その間、源頼朝は後白河上皇と交渉して寿永二年十月宣旨を得て、朝廷への税納入を保証する代わりに東国の実質的な支配を許可されました。
後白河は宣旨を出すことで、源頼朝に義仲打倒を期待しました。
当時、争乱や飢饉で東国の荘園・公領からの税納入が停滞
頼朝の弟源範頼のりより・源義経は、宇治川の戦いで源義仲を討ちました。
平氏の滅亡
源氏は1184年、摂津国の一の谷の戦いで平氏を破り、さらに1185年、讃岐国の屋島の戦いでも平氏を破って追い込みました。
1185年、源氏は長門国の壇の浦の戦いで平氏を滅亡させました。
安徳天皇は壇の浦の戦いの際に、三種の神器のうち宝剣と勾玉を抱えて入水 | 命令文書、令旨と宣旨の違いを説明して下さい。 | 令旨は親王などの命令文書ですが、
宣旨は天皇(天皇の意を伝える朝廷)の命令文書です。 |
Subsets and Splits
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