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JCRRAG_017901 | 歴史 | 源内が最初本草学を修めてそれに詳しかったことは、すでに記した通りですが、江戸に来て田村藍水に教えをうけてからは一層これに熱心になり、田村藍水や松田元長などという人たちと相謀って、宝暦七年から十二年に至る間に五回にわたって、東都薬品会というのを催しました。そしていつも薬物を備えておかなければ病疾を癒やすことはできないというので、その間に広く諸国を巡って、多くの種類の薬草を集めたのでした。そして西洋からの薬品だけをあてにしていたのでは、商船が来なかった際には間に合わなくなるので、そんなことではいけないとも言っているのですが、そういう識見はその頃源内にして始めてもち得たのであると思われるのです。
また明和二年には、源内は武蔵国秩父の中津川に赴いて、そこで金、銀、銅、鉄、緑青、明礬、たんぱん、磁石などを見つけ出し、そこで山金採掘の仕事にとりかかりましたが、それはさほどうまくゆかなかったとのことです。しかしその傍らに秩父の山から木炭の焼出しを行い、またそれを運び出すために、荒川に通船業を起こして、それには大いに成功したといわれています。この炭焼を始めたのは少し後の事で安永四年のことでした。この外に鉱山の関係では、出羽の新庄侯のために銅の検査を行い、また秋田の佐竹侯のために院内の銀山を見まわったこともあるとのことです。
源内の始めてつくった源内焼という一種の陶器も広く世間に知られたのでしたが、これは彼が支那交趾の陶器の美しい彩色を研究して、それからつくり上げたのだと伝えられています。また明和七年に長崎に赴いた際には、天草深江の土が特別に陶器をつくるのに適しているのを見つけ出し、それを建白したとのことです。また金唐革とか、紅革などといわれるものを製作したり、伽羅の木で源内櫛というのを作ったり、硝子ガラス板に水銀を塗って自惚鏡という鏡も作りました。
このように源内は実に多方面の仕事をしたのでしたが、更に驚くべきことは、その頃オランダ人の持って来た考案に基づいて、自分でいろいろな科学的な装置を工夫したことです。そのなかにはまず今日の寒暖計に相当する寒熱昇降器というのがあり、また方向を示す磁針器や、水平面を見る平線儀というのもありました。平線儀は、その頃田畑用水掛井手や溜池などを築くときに水盛違いで仕損じるのを防ぐためでした。しかし源内がそのほかに最も得意としていたのは火浣布というのとエレキテルという器械との二つでした。
この中で、火浣布というのは、秩父の奥で見つけ出した石綿をつかって、それで織った布なのですが、これで唐米袋と言われているような袋をつくると、それは火に焼けないばかりでなく、その布のよごれは火に浣われるようにとれてしまうというので、火浣布と名づけたのでした。それを敷いて香をたくのに最も都合がよいというので、香敷に多く使われたということです。
エレキテルというのは、つまり今日の摩擦起電機のことなのですが、源内はオランダ人の記したところによると自分で工夫して、これをつくったので、安永五年にそれを発明したと伝えられているのです。外側は木箱で出来ており、その側にハンドルをつけてまわすようになっています。箱のなかには車があって、それがハンドルの回転につれてまわるようになっており、それと共に調帯が硝子ガラスの円筒と銀箔の貼ってある板とを摩擦して電気をおこす仕掛けになっています。そしてこの電気は針金の線で蓄電器へ導かれるようにしてあります。源内はこのエレキテルをつかって、紙細工の人形を動かしたり、火花をとばしたりしたので、その頃の人々はそれを眺めて、いかにも驚いたということであります。安永五年といえば、西暦一七七六年に当るので、西洋でもまだ電流をつくる電池などはまるで無かった時代であり、クーロンが電気力の法則を見つけ出したのも、それより後の一七八五年のことであったのですから、そういう時代に我が国で源内によりエレキテルがつくられたということは、まことに著しいことであったといわなければなりますまい。 | 火浣布はなぜ香敷に使われたのですか。 | 火浣布は、香を焚くのに最も都合が良いということで、香敷に多く使われた。 |
JCRRAG_017902 | 歴史 | 江戸幕府の弱体化を、朝廷との連携によって安定させようとする運動を、公武合体運動と呼びます。
江戸幕府からの和宮降嫁の申し出を受ける条件として、孝明天皇は鎖国攘夷の方針を政策に盛り込むことを要求。公武合体運動において和宮の降嫁と鎖国攘夷は、不可分のことだったのです。孝明天皇から具体的な攘夷策を挙げるように言われた江戸幕府は、しっかりした見通しもないまま、10年以内に鎖国攘夷の政策を実行することを約束。それほど江戸幕府は公武合体の実現を求めていました。
しかし、このあと江戸幕府は自ら結んだ鎖国攘夷の約束に苦しめられることに。日本の歴史を振り返れば分かる通り、開国の流れを止めることは不可能だったのです。鎖国攘夷を、現実のものにできずにいた幕府の立場はますます弱まり、朝廷が強気に出る足掛かりになってしまいます。
公武合体と鎖国攘夷の約束を背景に、徳川家茂と和宮の婚儀は、1862年(文久2年)2月江戸城内で執り行なわれ、婚儀に先立ち和宮の関東下向が約25日間に亘って実施されました。
このとき、和宮の行列は危険の多い東海道を避けて、中山道(なかせんどう)を通って江戸に向かっています。12の藩が和宮の御輿(おこし)を護衛し、29の藩が沿道の警護にあたっており、和宮の御輿入れでは、万を超える人馬・調度の大行列となったのです。
和宮の降嫁により朝廷の権威を借りる形になった幕府は、その実現に困難を極めていた鎖国攘夷を、いよいよ実行しなければならなくなりました。朝廷側から求められていた鎖国攘夷について回答するため、徳川家茂は孝明天皇から上洛を打診されます。
徳川将軍家からの上洛は、3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)が、1634年(寛永11年)に行なってから途絶えていました。公武合体のために徳川家茂は、1863年(文久3年)に229年ぶりに上洛することとなったのです。
上洛した徳川家茂は、朝廷から攘夷決行の協議を持ち掛けられますが、思うように進展しません。
孝明天皇は鎖国攘夷の実現を祈願するため「賀茂神社」(かもじんじゃ:上賀茂神社[かみがもじんじゃ]と下鴨神社[しもがもじんじゃ]の総称)に行幸された徳川家茂と一橋慶喜は、これに供奉(ぐぶ:行列に加わること)しています。
このときの孝明天皇の行幸は、108代天皇「後水尾天皇」(ごみずのおてんのう)が、1626年(寛永3年)に「二条城」(にじょうじょう)へ行幸されて以来、実に237年ぶりでした。 | 江戸幕府の弱体化を、朝廷との連携によって安定させようとする運動と鎖国攘夷の約束を背景に、徳川家茂と和宮の婚儀は、いつどこで執り行なわれたか。 | 江戸幕府の弱体化を、朝廷との連携によって安定させようとする運動と鎖国攘夷の約束を背景に、徳川家茂と和宮の婚儀は、1862年2月江戸城内で執り行なわれた。 |
JCRRAG_017903 | 歴史 | 山崎で戦うとすれば、大切な肝心要の地は天王山である。
明智光秀がここを取れば、いつでも豊臣秀吉の左翼から、拳下りに弓を打ち鉄砲を撃って切ってかかることが出来るし、豊臣秀吉がここを取れば逆に明智光秀軍の右翼を脅かすことが出来るのである。いわゆるどちらにも有利となる戦場である。
だから、明智光秀は十三日の早暁、中央軍第二陣の大将松田太郎左衛門に二千人の兵を付けて、天王山の占領を命じた。
豊臣秀吉も同じく、十三日の早暁に堀尾茂助をまず行かせて、それでも心もとなく思ってきたので、更に堀久太郎を行かせている。
豊臣秀吉軍勢の人数は堀尾と堀の二人で四千人の軍勢である。堀尾が三千で堀が千であった。
明智光秀の方は、丑の中刻で、豊臣秀吉の方は丑の上刻であったという。
丑の上刻と云えば二時半で、中刻は三時だから、三十分違いである。
しかし、出立の時刻よりも、天王山に到る道のりの関係や、登り道の関係も考えねばならない。
とにかく、豊臣秀吉軍の方が、先へ天王山の頂上を占領する事ができ、後から来る松田政近の軍勢を、追い落とした。
山崎合戦の勝敗の岐路は、天王山への登山競争にあったわけである。
光秀もその戦略眼においては、一歩も豊臣秀吉に譲らなかったのであるが、天王山の地理などには、光秀の方が、その領土の関係上疎かったかも知れないのである。 | 天王山に向かった豊臣秀吉軍勢のうち、数が少ないほうを教えてください。 | 天王山に向かった豊臣秀吉軍勢のうち、数が少ないほうは堀の軍勢で千です。 |
JCRRAG_017904 | 歴史 | いつの間にか家号を名字と言うようになった
名字と言う単語の本来の意味が現在の使い方とは違っていて、家号と通称と包含するものであることはお話した通りであります。この意味における名字を最も豊富にかつ趣味多く見出す事のできるのは『吾妻鑑』であります。平安朝の始め頃にもすでに上田の三郎などと言う名字のあることは『霊異記』にも見られるが、鎌倉時代にはこの意味における名字がいくらでもある。この時代にはいまだみだりに左衛門尉とか右衛門尉とかいう武家の官名を、与えもしなければ貰うことも幕府がやかましかったから、立派な侍が皆
次郎
三郎
で、家号としてはことごとく居住地の地名を帯びている。
言葉を変えれば、居住地+出生の順序=名字であったのであります。しかるにその中からいつの世にか、家号の部分ばかりを名字と言うようになったために、ついに明治の今日のように、姓氏ということも名字ということも、同一のものになるようになってしまったのであります。
名字が違うから同家でないとはいえない、
大昔にも姓氏というものは歴然と存在している、すなわち
源
藤原
というのが氏であって、
朝臣
とか
宿禰
とかいうのが姓である。これはいずれの家にとってもきわめて重大なもので、平生は名字で呼んでいる人でも、表向きの文書では非礼にならぬ限りこれを拘記したものであります。
この姓氏というものがまさしく中国の王とか劉とか、陳とか張とかいうものに当たるのであります。ただかの国ではいついかなるときにもその姓を使い、日本では国柄が単純で姓氏の数が少ないので、弁別のために起こったのであろうが、平素には家号のみを用いて姓氏を称えなかったのであります。しかもこの家号なるものがきわめて頻繁に取り換えられ、ほとんと屋棟の数や竈の数ほど多くあるのです。したがって今日の名字すなわち家号が違っているから、同家でないという思想は、日本の昔の社会状態とは合わない思想であります。
しかるに御承知の通り、近代ではなるべく家号を変えない傾向になったがために、ことに民法ではやたらにこれを変更することを許さぬことになった結果、一族一家の家号は、ただ一個に限るかのような思想を生じたのであります。 | 大昔にも存在している氏の例として挙げられている例の数を教えてください。 | 大昔にも存在している氏の例として挙げられている数は2で、「源」、「藤原」 です。 |
JCRRAG_017905 | 歴史 | 内乱と平氏の滅亡
あわただしい遷都
1180年、安徳天皇が即位すると、反平氏の気運はますます高まりました。
後白河上皇の子以仁王は源頼政に促されて、全国の源氏に挙兵を呼びかける命令文書令旨を発しました。
以仁王の挙兵自体は失敗に終わりましたが、その波紋は全国に広がりました。
令旨
親王などの命令文書
宣旨
天皇(天皇の意を伝える朝廷)の命令文書
院宣
上皇(院)から天皇・朝廷への命令文書
平清盛は敵対する寺院から離れるため、また、専制体制を固めるため、摂津国の福原京へ遷都を決めました。
平氏一族内からも新都反対の声が強く、数ヶ月で平安京に都を戻しました。
「治承四(1180)年水無月の比、にはかに都遷り侍りき。」(鴨長明かものちょうめい『方丈記 ほうじょうき』)
都を戻した後、平重衡たいらのしげひらは反平氏の興福寺・東大寺を焼打ち(南都焼打ち)
内乱の開始
1180年、以仁王の挙兵は失敗しましたが、各地の源氏に動きが見られました。
平治の乱で伊豆国に流刑された源頼朝、信濃国で勢力を広げていた源義仲 が挙兵しました。
6年にわたり、治承・寿永の乱と呼ばれる全国的な争乱が続きました。
源頼朝
挙兵した初の合戦で敗れ、敵方の梶原かじわら景時の情けで生存
平氏の都落ち
1181年に起きた2つの出来事で、平氏の基盤は弱体化しました。
平清盛の急死
畿内・西国を中心とする養和の飢饉
1183年、源義仲は北陸の倶利伽羅峠くりからとうげの戦いで平氏を破りました。
平氏は平安京を離れ、安徳天皇とともに西国へ向かいました。
都入りした義仲とその家人の評判は悪化の一途を辿り、やがて孤立しました。
その間、源頼朝は後白河上皇と交渉して寿永二年十月宣旨を得て、朝廷への税納入を保証する代わりに東国の実質的な支配を許可されました。
後白河は宣旨を出すことで、源頼朝に義仲打倒を期待しました。
当時、争乱や飢饉で東国の荘園・公領からの税納入が停滞
頼朝の弟源範頼のりより・源義経は、宇治川の戦いで源義仲を討ちました。
平氏の滅亡
源氏は1184年、摂津国の一の谷の戦いで平氏を破り、さらに1185年、讃岐国の屋島の戦いでも平氏を破って追い込みました。
1185年、源氏は長門国の壇の浦の戦いで平氏を滅亡させました。
安徳天皇は壇の浦の戦いの際に、三種の神器のうち宝剣と勾玉を抱えて入水 | 命令文書、令旨と院宣の違いを説明して下さい。 | 令旨は親王などの命令文書ですが、
院宣は上皇(院)から天皇・朝廷への命令文書です。 |
JCRRAG_017906 | 歴史 | ニュートン祭になぜ林檎を飾るかといえば、それはニュートンが林檎の実が落ちるのを見て万有引力を発見したという有名な話があるからです。この話の由来について少しだけ説明してみますと、次の通りです。
ニュートンの名はアイザックと言いますが、その生まれた故郷は、イギリスの中部にあるリンコルン伯爵領地のなかのウールスソープという小さな村でした。その村で小学校を卒業してから隣町の中学校に入ったところが、家庭の事情で一年ばかり経って家に呼び戻され、農業に従事することになりました。それというのも父はアイザックの生まれる前に病気で死んでしまい、母親は一旦他家に再嫁したのに、そこでまた夫と死別してニュートンの生家に帰って来たからでした。しかしアイザックがいかにも学問好きなので、そのまま農業をさせておくのも惜しいと人々に忠告されて、ともかく中学校を続けさせることになったのですが、成績も非常によかったので、卒業後はもう少し学問を大成させようということになり、十八歳の折にケンブリッジの大学に入学しました。
大学では数学や物理学を修め、一六六五年に優等で卒業し、そのまま大学に留まってまた研究を続けていました。ところがその頃のヨーロッパではペスト病が激しく流行し、諸処を襲っては恐ろしく多数の死者を出すという有様であったのです。ちょうど翌年の夏にはイギリスがその流行に襲われたので、ケンブリッジ大学もしばらくの間閉鎖して、学生はみんな郷里へかえることになりました。それでニュートンも故郷に戻ったのですが、その間にも自分の好きな研究は少しも怠りませんでした。そのときの研究というのが、ちょうど星の運動であったのです。つまり星の運動はどんな力に支配されているのかという問題を深く考えていたのですが、ある日庭園を散歩してみると、ふと林檎の実が枝からぼたりと落ちたのを見て、それで万有引力ということに気がついたというのです。
この話は、ニュートンが死んでから十年程後に出版されたヴォルテールという人の著書のなかに、ニュートンの姪から聞いたものとして記されているので、その後伝えられて有名になったのですが、ニュートンが本当に林檎の実から引力を思いついたということは、甚だ疑わしいのです。ニュートンの家の庭園に林檎の樹が確かにあったという考証があったり、またその樹の幹の一部だといわれるものがある博物館に保存されてもいますけれども、それでも話の筋道がどうもこれだけでははっきりしないのです。
というのは、話をもう少し科学的に運ばせてゆかなくてはいけないからです。林檎の実が地面に落ちるくらいのことは、誰でも古い昔から知っているのですし、ニュートンがそれを見て、偶然に何か思いついたとしたところで、それはきっともっと別の事柄であったに違いないのです。ところでこの別の事柄というのが科学的には非常に大切なので、それがわからなくては、ニュートンの本当の偉さが知られないのですから、そこでニュートン自身の書いた書物のなかから、この問題をどんな風に解いて行ったかを、ここにお話ししたいと思います。 | ニュートンはなぜ中学校に戻ることができたのか。 | ニュートンが学問好きなので、そのまま農業をさせておくのも惜しいと人々に忠告された結果、中学校を続けさせることになった。 |
JCRRAG_017907 | 歴史 | 江戸幕府の弱体化を、朝廷との連携によって安定させようとする運動を、公武合体運動と呼びます。
江戸幕府からの和宮降嫁の申し出を受ける条件として、孝明天皇は鎖国攘夷の方針を政策に盛り込むことを要求。公武合体運動において和宮の降嫁と鎖国攘夷は、不可分のことだったのです。孝明天皇から具体的な攘夷策を挙げるように言われた江戸幕府は、しっかりした見通しもないまま、10年以内に鎖国攘夷の政策を実行することを約束。それほど江戸幕府は公武合体の実現を求めていました。
しかし、このあと江戸幕府は自ら結んだ鎖国攘夷の約束に苦しめられることに。日本の歴史を振り返れば分かる通り、開国の流れを止めることは不可能だったのです。鎖国攘夷を、現実のものにできずにいた幕府の立場はますます弱まり、朝廷が強気に出る足掛かりになってしまいます。
公武合体と鎖国攘夷の約束を背景に、徳川家茂と和宮の婚儀は、1862年(文久2年)2月江戸城内で執り行なわれ、婚儀に先立ち和宮の関東下向が約25日間に亘って実施されました。
このとき、和宮の行列は危険の多い東海道を避けて、中山道(なかせんどう)を通って江戸に向かっています。12の藩が和宮の御輿(おこし)を護衛し、29の藩が沿道の警護にあたっており、和宮の御輿入れでは、万を超える人馬・調度の大行列となったのです。
和宮の降嫁により朝廷の権威を借りる形になった幕府は、その実現に困難を極めていた鎖国攘夷を、いよいよ実行しなければならなくなりました。朝廷側から求められていた鎖国攘夷について回答するため、徳川家茂は孝明天皇から上洛を打診されます。
徳川将軍家からの上洛は、3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)が、1634年(寛永11年)に行なってから途絶えていました。公武合体のために徳川家茂は、1863年(文久3年)に229年ぶりに上洛することとなったのです。
上洛した徳川家茂は、朝廷から攘夷決行の協議を持ち掛けられますが、思うように進展しません。
孝明天皇は鎖国攘夷の実現を祈願するため「賀茂神社」(かもじんじゃ:上賀茂神社[かみがもじんじゃ]と下鴨神社[しもがもじんじゃ]の総称)に行幸された徳川家茂と一橋慶喜は、これに供奉(ぐぶ:行列に加わること)しています。
このときの孝明天皇の行幸は、108代天皇「後水尾天皇」(ごみずのおてんのう)が、1626年(寛永3年)に「二条城」(にじょうじょう)へ行幸されて以来、実に237年ぶりでした。 | 江戸幕府の弱体化を、朝廷との連携によって安定させようとする運動のために、徳川家茂は1863年に何をすることとなったか。 | 江戸幕府の弱体化を、朝廷との連携によって安定させようとする運動のために、徳川家茂は1863年に229年ぶりに上洛することとなった。 |
JCRRAG_017908 | 歴史 | 山崎で戦うとすれば、大切な肝心要の地は天王山である。
明智光秀がここを取れば、いつでも豊臣秀吉の左翼から、拳下りに弓を打ち鉄砲を撃って切ってかかることが出来るし、豊臣秀吉がここを取れば逆に明智光秀軍の右翼を脅かすことが出来るのである。いわゆるどちらにも有利となる戦場である。
だから、明智光秀は十三日の早暁、中央軍第二陣の大将松田太郎左衛門に二千人の兵を付けて、天王山の占領を命じた。
豊臣秀吉も同じく、十三日の早暁に堀尾茂助をまず行かせて、それでも心もとなく思ってきたので、更に堀久太郎を行かせている。
豊臣秀吉軍勢の人数は堀尾と堀の二人で四千人の軍勢である。堀尾が三千で堀が千であった。
明智光秀の方は、丑の中刻で、豊臣秀吉の方は丑の上刻であったという。
丑の上刻と云えば二時半で、中刻は三時だから、三十分違いである。
しかし、出立の時刻よりも、天王山に到る道のりの関係や、登り道の関係も考えねばならない。
とにかく、豊臣秀吉軍の方が、先へ天王山の頂上を占領する事ができ、後から来る松田政近の軍勢を、追い落とした。
山崎合戦の勝敗の岐路は、天王山への登山競争にあったわけである。
光秀もその戦略眼においては、一歩も豊臣秀吉に譲らなかったのであるが、天王山の地理などには、光秀の方が、その領土の関係上疎かったかも知れないのである。 | 天王山に向かった明智光秀軍と豊臣秀吉軍のうち、向かうのが早かったほうを教えてください。 | 天王山に向かった明智光秀軍と豊臣秀吉軍のうち、向かうのが早かったほうは豊臣秀吉軍で二時半です。 |
JCRRAG_017909 | 歴史 | いつの間にか家号を名字と言うようになった
名字と言う単語の本来の意味が現在の使い方とは違っていて、家号と通称と包含するものであることはお話した通りであります。この意味における名字を最も豊富にかつ趣味多く見出す事のできるのは『吾妻鑑』であります。平安朝の始め頃にもすでに上田の三郎などと言う名字のあることは『霊異記』にも見られるが、鎌倉時代にはこの意味における名字がいくらでもある。この時代にはいまだみだりに左衛門尉とか右衛門尉とかいう武家の官名を、与えもしなければ貰うことも幕府がやかましかったから、立派な侍が皆
次郎
三郎
で、家号としてはことごとく居住地の地名を帯びている。
言葉を変えれば、居住地+出生の順序=名字であったのであります。しかるにその中からいつの世にか、家号の部分ばかりを名字と言うようになったために、ついに明治の今日のように、姓氏ということも名字ということも、同一のものになるようになってしまったのであります。
名字が違うから同家でないとはいえない、
大昔にも姓氏というものは歴然と存在している、すなわち
源
藤原
というのが氏であって、
朝臣
とか
宿禰
とかいうのが姓である。これはいずれの家にとってもきわめて重大なもので、平生は名字で呼んでいる人でも、表向きの文書では非礼にならぬ限りこれを拘記したものであります。
この姓氏というものがまさしく中国の王とか劉とか、陳とか張とかいうものに当たるのであります。ただかの国ではいついかなるときにもその姓を使い、日本では国柄が単純で姓氏の数が少ないので、弁別のために起こったのであろうが、平素には家号のみを用いて姓氏を称えなかったのであります。しかもこの家号なるものがきわめて頻繁に取り換えられ、ほとんと屋棟の数や竈の数ほど多くあるのです。したがって今日の名字すなわち家号が違っているから、同家でないという思想は、日本の昔の社会状態とは合わない思想であります。
しかるに御承知の通り、近代ではなるべく家号を変えない傾向になったがために、ことに民法ではやたらにこれを変更することを許さぬことになった結果、一族一家の家号は、ただ一個に限るかのような思想を生じたのであります。 | 大昔にも存在している姓として挙げられている例の数を教えてください。 | 大昔にも存在している姓の例として挙げられている数は2で、
「朝臣」、「宿禰」です。 |
JCRRAG_017910 | 歴史 | 内乱と平氏の滅亡
あわただしい遷都
1180年、安徳天皇が即位すると、反平氏の気運はますます高まりました。
後白河上皇の子以仁王は源頼政に促されて、全国の源氏に挙兵を呼びかける命令文書令旨を発しました。
以仁王の挙兵自体は失敗に終わりましたが、その波紋は全国に広がりました。
令旨
親王などの命令文書
宣旨
天皇(天皇の意を伝える朝廷)の命令文書
院宣
上皇(院)から天皇・朝廷への命令文書
平清盛は敵対する寺院から離れるため、また、専制体制を固めるため、摂津国の福原京へ遷都を決めました。
平氏一族内からも新都反対の声が強く、数ヶ月で平安京に都を戻しました。
「治承四(1180)年水無月の比、にはかに都遷り侍りき。」(鴨長明かものちょうめい『方丈記 ほうじょうき』)
都を戻した後、平重衡たいらのしげひらは反平氏の興福寺・東大寺を焼打ち(南都焼打ち)
内乱の開始
1180年、以仁王の挙兵は失敗しましたが、各地の源氏に動きが見られました。
平治の乱で伊豆国に流刑された源頼朝、信濃国で勢力を広げていた源義仲 が挙兵しました。
6年にわたり、治承・寿永の乱と呼ばれる全国的な争乱が続きました。
源頼朝
挙兵した初の合戦で敗れ、敵方の梶原かじわら景時の情けで生存
平氏の都落ち
1181年に起きた2つの出来事で、平氏の基盤は弱体化しました。
平清盛の急死
畿内・西国を中心とする養和の飢饉
1183年、源義仲は北陸の倶利伽羅峠くりからとうげの戦いで平氏を破りました。
平氏は平安京を離れ、安徳天皇とともに西国へ向かいました。
都入りした義仲とその家人の評判は悪化の一途を辿り、やがて孤立しました。
その間、源頼朝は後白河上皇と交渉して寿永二年十月宣旨を得て、朝廷への税納入を保証する代わりに東国の実質的な支配を許可されました。
後白河は宣旨を出すことで、源頼朝に義仲打倒を期待しました。
当時、争乱や飢饉で東国の荘園・公領からの税納入が停滞
頼朝の弟源範頼のりより・源義経は、宇治川の戦いで源義仲を討ちました。
平氏の滅亡
源氏は1184年、摂津国の一の谷の戦いで平氏を破り、さらに1185年、讃岐国の屋島の戦いでも平氏を破って追い込みました。
1185年、源氏は長門国の壇の浦の戦いで平氏を滅亡させました。
安徳天皇は壇の浦の戦いの際に、三種の神器のうち宝剣と勾玉を抱えて入水 | 命令文書、宣旨と院宣の違いを説明して下さい。 | 宣旨は天皇(天皇の意を伝える朝廷)の命令文書ですが、
院宣は上皇(院)から天皇・朝廷への命令文書です。 |
JCRRAG_017911 | 歴史 | 杉田玄白は享保十八年、若狭酒井侯に仕えた父甫仙の江戸の邸内で生まれました。父も同じく医者でオランダの外科を学んで、かなり有名な人でありました。玄白というのは通称ですが、名は翼、字は士鳳齋又は九幸翁と名乗りました。
若年のうちに既に幕府の医官西玄哲の門に入って外科を修め、また宮瀬龍門という人から経史を学び、すぐれた才能を示したのでした。その頃、京都で上に記しました山脇東洋や、そのほか吉益東洞などという医家が名だかくなって全国に聞こえるようになったのでしたが、同藩の小杉玄適が東洋のもとで学んでから、江戸に来て盛んに古医方ということを称えたので、それに刺激させられて玄白も大いに医学を究めようとし、しかしそのためにはオランダの医学を知る必要があると感じて、そこで自分の親友前野良沢と共にオランダの医者バブルに就いて大いにその薀奥を究めようとしたのでした。
そしてそれには訳官西幸作などにも近づいてオランダ語にも通じ、その上で十分にオランダ医学を修得して、その極めて精緻なのに感服したということです。前野良沢というのは、やはり代々医者を業とした家がらの人で、中津侯に仕えていましたが、良沢は幼時に孤児となったので、山城淀藩の医者の宮田氏に養われて育ったのでした。
玄白はともかくこのようにして良沢と共にオランダの医学に精通するようになってから、ドイツのクルムスの解剖図譜のオランダ訳書を藩侯から賜わったので、それを詳しくしらべてゆくと、古くからの言い伝えとは大いに違っているので、これを実際についてよく調べてみたいと思っていたのでしたが、たまたま明和八年(1771年)三月になってこれを確かめる機会が与えられたのでした。
ちょうどその明和八年(1771年)三月四日の未明に江戸千住の小塚原で一人の婦人の刑屍体の解剖が行われることになったので、玄白は前野良沢と共にそこに赴き、クルムスの解剖図譜と照らし合わせて見たところが、この図譜がいかにも正確に実際と一致しているのに、さらに驚いたのでした。これはその後小塚原の腑分と言い伝えられた名だかい事実になっているのです。
ところで玄白と良沢とは、ここで西洋医学の正しいのに感服して、この書物を大いに世に広めることが大切であると考え、その翌日三月五日から良沢の邸に同志を会合し、良沢を盟主となし玄白のほかになお中川淳庵、桂川甫周、石川玄常、およびその他の人々が相寄ってこの書の翻訳に従事することとなり、その後四箇年を費し稿を改めること十一回に及んで、ついに安永三年(1774年)八月に至ってその仕事を一先ひとまず完成しました。これが名だかい「解体新書」という書物で、四巻から成っているので、我が国のその頃の医学に貢献したことは、実に多大であったのでした。
玄白はその後も多くの書物を著しましたが、そのなかには、「瘍家大成」、「蘭学事始」、「形影夜話」、「狂医之弁」、「医叟独語」、「外科備考」、「天津楼漫筆」、「養生七不可」などがあります。そして文化十四年四月十七日に八十五歳の高齢で病死しました。玄白の功績を追賞されて、明治四十年に正四位を追賞されたことは、彼の一代の光栄というべきでしょう。玄白は晩年に一子を挙げ、立卿と名づけましたが、この立卿も、またその子の成卿も、同じく医家として世に聞こえていた人々であります。かくて杉田一家の我が国の医学に貢献した事跡は決してすくなくはなかったと言わなければなりません。
「解体新書」は、上にもお話ししましたように杉田玄白等の四年にわたる苦心の結果で出来あがったものであり、その頃の我が国の医学に非常に役立った書物なのでありますが、この書をつくり上げるまでに玄白等がどれほど骨折ったかは、後に玄白が著した「蘭学事始」という書のなかに詳しく記してあります。「蘭学事始」は玄白の死した文化十四年よりも三年程以前に玄白が書きのこしておいたもので、それも久しく世に知られなかったのでしたが、明治維新の直前になって神田孝平および福沢諭吉によってふとそれが見つけ出されたので、それで玄白等の異常な苦心も明らかにされるようになったのは、まことにめずらしい事でもあると思われます。またその外に、玄白が建部清庵という人との間にとりかわした手簡文を集めた「和蘭医事問答」や、随筆集である「形影夜話」のなかにも同様なことが記してあるので、ともかくも「解体新書」ができ上がるまでに彼が非常に大きな努力を費したことは確かであります。
「解体新書」はクルムスの原著の翻訳にはちがいないのですが、そのほかにオランダの解剖書をたくさんに参照してその図を採ったり、またいろいろの説をも引用しているばかりでなく、東洋での古来の説をも時々まじえて、それに玄白の経験を基にした考えをも記しているので、全体としては単なる翻訳以上に出ているのでした。しかし玄白も漸次年を経るに従って更さらに完全なものをつくり上げようと考え、この「解体新書」をもう一度改刻しようと志していたのでしたが、老年になるに従って自分の手ではそれを果たすことが困難になって来たので、そこで門人の大槻玄沢に依嘱してこの仕事を行うことに決心したのでした。玄沢はそこでクルムスの原著を改めてよく調べたり、また書類を多く参照したりして、それに十年の歳月を費し、稿を改めること三回に及んで、文政九年に至り「重訂解体新書」なるものを完成したのでした。それには杉田玄白先生新訳、大槻玄沢先生重訂と記されていますが、玄沢がこのために大いに苦心努力したのは言うまでもないのです。全体で十三巻から成り、最初の四巻は解体新書を重訂したものでありますが、そのほかのものは玄沢が、註釈として付け加えたもので、そのなかにいろいろな大切な事が記されていました。玄白はこの書の稿が成ったときに、それに次の文を寄せているのです。このなかに門人茂質とあるのは大槻玄沢の名であります。 | 解体新書が完成したのは何年ですか。 | 安永3年(1774年)に翻訳の目処がついたので解体新書を出版した。 |
JCRRAG_017912 | 歴史 | 1863年(文久3年)に229年ぶりに上洛することとなったのは、徳川家茂です。
徳川家茂はこの上洛の際に、朝廷より鎖国攘夷の期限決定を迫られます。開国を目指していた江戸幕府でしたが、朝廷の権力に頼っている以上は、鎖国攘夷を決行する約束を果たさなければいけません。そのため、徳川家茂は鎖国攘夷の期日を5月10日にすることを、4月20日に朝廷側へ伝えてしまい、約束の期日までは1ヵ月もなく、混乱を招くのは明白でした。
徳川家茂が江戸に帰ってから成し得たのは、横浜港の鎖港のみ。そして徳川家茂は、鎖港の状況を報告する名目で、1864年(文久4年/元治元年)正月に再び上洛し、孝明天皇から公武合体作の勅命を賜ったのです。
朝廷による鎖国攘夷の圧力が高まる一方で、外圧も強くなります。1865年(慶応元年)9月には、イギリスやフランス、アメリカ、オランダの4国連合艦隊が大坂湾に来航。条約の勅許や兵庫港の早期開港、関税率改正などを要求。
そのなかで老中達は、兵庫港の開港について急いで回答しようとしましたが、一橋慶喜に止められます。何の相談もせずに決定しようとした老中に対して、朝廷から官位の剥奪と国許(くにもと:主君の領地)での謹慎を命じられました。
江戸幕府の人事にまで介入してきた朝廷に対して、徳川家茂は決然とした態度を取ります。大坂にいた徳川家茂は、将軍職の辞意を朝廷に上申。直ぐさま江戸に帰ろうとしました。
これに慌てた孝明天皇は、徳川家茂の辞意を却下し、条約の勅許も下します。このとき20歳であった徳川家茂でしたが、朝廷の言いなりにならず、将軍としての意地を見せたのです。 | 1863年に229年ぶりに上洛することとなった人物は、上洛の際に、朝廷より何を迫られたか。 | 1863年に229年ぶりに上洛することとなった人物は、上洛の際に、朝廷より鎖国攘夷の期限決定を迫られた。 |
JCRRAG_017913 | 歴史 | 光秀は、十三日午前中、全軍を円明寺の川畔に展開した。秀吉軍が展開するのは、それからずっと遅れた。
なぜ光秀が展開を完了したのにもかかわらず、まだ部隊の準備が整っていない秀吉軍を打たなかったか、それが一つの敗因であると戦術家は批評している。
戦が開始する前、高山右近の家来の甘利八郎太夫という男が、腰掛けに座って戦いの準備が整うのを待っている右近の前に出て、
「私はいまどうしていいか分らない事があるから、御判断をお願いしたい。お殿様は、私を無能な人間として、給与など少しも下さっていない。その私が、ここで手柄を取ってしまうと、殿様が物事を見通す見識がないと思われることになって不忠になる。といって、臆病な振る舞いをすると、父祖の名を汚して親不孝になってしまう。どうしましょうか」と、三回もくり返して聞いた。
皮肉な奴が居たものである。右近は心の中で怒り、斬り捨てようとも思ったが、大事の前の小事であるしクリスチャンであるしとだまっていると、「不忠と言われても、先祖代々の名を汚すわけには行かない」といって、明智勢に切り入って、一番槍、一番首、二番首の三つの功名を一人でさらってしまった。
戦いは、午後に入って始まった。秀吉軍は500人、明智軍は330人の戦いである。秀吉軍の高山右近は、明智の中央軍にいる斎藤内蔵介を将とした軍勢に向かったが、相手は明智方第一の剛将なので高山勢がさんざんに打ちまかされ、やっと信孝、丹羽長秀の二人の応援によって三つの将を率いた軍勢でようやく盛り返すことが出来た。
秀吉は生駒親正、木村隼人を天王山方面に増援して、横から突いてきた。
こうなると、光秀の軍は絶えず右翼を脅かされることになり、中央軍が奮戦しようと敗色の色が濃くなってきた。
それと同時に、左翼は淀川を頼りにして配備が手薄であったところ、秀吉の第三軍たる池田勝入斎が川沿いから歩いて渡れる小路を発見し、潜行して光秀軍の左翼たる津田与三郎等の陣に切ってかかった。
光秀が、天王山に関心を向けすぎて淀川の方を気にしなかった事もまた一つの敗因でなかったかといわれている。
中央軍は左右両翼ともよく戦った。関ヶ原当時の西軍などとは比べものにならない。光秀がいかに優秀な人材をもっていたかがわかる。
しかし、天王山が秀吉軍のものになり、そのほうから横撃されると同時に洞ヶ峠にいた筒井順慶の大軍が裏切って淀川を渡り、光秀の背後に襲いかかって来た。
順慶は光秀の世話になっている無二の親友である。だから順慶自身は、光秀の勧誘に心がうごいたが、家老の杉倉右近、島左近の二人が主人を注意して出陣させず、ただ人数だけを山崎の対岸にある八幡の洞ヶ峠に出した。
そこで、戦争を見物していて、勝った方へ味方しようというのである。今から考えれば、秀吉が勝つのだから、秀吉の方へハッキリついていた方が、『洞ヶ峠』などという醜い名を後世にまで残さないでよかったのであろうが、順慶の立場はかなり難しい立場であったし、秀吉対光秀の勝敗も、後世の我々が考えるように簡単に見通しのつくものではなかったのだろう。
筒井までが裏切ったのでは万事休すと言うしかなかった。筒井の裏切りを見抜いて、明智方でも斎藤大八郎、柴田源左衛門等が備えていたが、こうなってはひとたまりもなかった。
光秀は、一旦は勝竜寺城に入ったが、夜の十二時頃に桂川を渡り深草から小栗栖にかかって、土民の手にかかった。物騒な世の中で、落人となったが最後、誰に殺されても文句がないのである。また匪賊のような連中がいて、戦争があるとすぐ落人狩りをやり出すのである。本能寺の変を聴いて堺から伊賀を通って、三河へ帰った家康だって土民のために危険な目にあったし、現に家康と同行していた甲斐の旧臣穴山梅雪は土民にやられているのだ。 | 秀吉軍と明智軍で人数が多かったほうを教えてください。 | 秀吉軍と明智軍で人数が多かったほうは、秀吉軍の500人です。 |
JCRRAG_017914 | 歴史 | いつの間にか家号を名字と言うようになった
名字と言う単語の本来の意味が現在の使い方とは違っていて、家号と通称と包含するものであることはお話した通りであります。この意味における名字を最も豊富にかつ趣味多く見出す事のできるのは『吾妻鑑』であります。平安朝の始め頃にもすでに上田の三郎などと言う名字のあることは『霊異記』にも見られるが、鎌倉時代にはこの意味における名字がいくらでもある。この時代にはいまだみだりに左衛門尉とか右衛門尉とかいう武家の官名を、与えもしなければ貰うことも幕府がやかましかったから、立派な侍が皆
次郎
三郎
で、家号としてはことごとく居住地の地名を帯びている。
言葉を変えれば、居住地+出生の順序=名字であったのであります。しかるにその中からいつの世にか、家号の部分ばかりを名字と言うようになったために、ついに明治の今日のように、姓氏ということも名字ということも、同一のものになるようになってしまったのであります。
名字が違うから同家でないとはいえない、
大昔にも姓氏というものは歴然と存在している、すなわち
源
藤原
というのが氏であって、
朝臣
とか
宿禰
とかいうのが姓である。これはいずれの家にとってもきわめて重大なもので、平生は名字で呼んでいる人でも、表向きの文書では非礼にならぬ限りこれを拘記したものであります。
この姓氏というものがまさしく中国の王とか劉とか、陳とか張とかいうものに当たるのであります。ただかの国ではいついかなるときにもその姓を使い、日本では国柄が単純で姓氏の数が少ないので、弁別のために起こったのであろうが、平素には家号のみを用いて姓氏を称えなかったのであります。しかもこの家号なるものがきわめて頻繁に取り換えられ、ほとんと屋棟の数や竈の数ほど多くあるのです。したがって今日の名字すなわち家号が違っているから、同家でないという思想は、日本の昔の社会状態とは合わない思想であります。
しかるに御承知の通り、近代ではなるべく家号を変えない傾向になったがために、ことに民法ではやたらにこれを変更することを許さぬことになった結果、一族一家の家号は、ただ一個に限るかのような思想を生じたのであります。 | 中国においての姓氏の例の数を教えてください。 | 中国においての姓氏の例の数は4で、「王」、「劉」、「陳」、「張」です。 |
JCRRAG_017915 | 歴史 | 鎌倉幕府の成立
全国に及ぶ支配権
源頼朝は天皇の血筋を引き、源義朝の遺児のなかでも年長でした。
反平氏の際には、血筋ゆえに頼朝のもとに東国の武士が結集しました。
1180年、頼朝は挙兵して、相模国さがみのくに鎌倉を根拠地に勢力を強めました。
1183年(平氏の敗走後)、寿永二年十月宣旨―A
当時、争乱や飢饉で東国の荘園・公領からの税納入が停滞
朝廷は頼朝に税納入を保証させ、代わりに東国の実質的な支配を許可
1185年の平氏滅亡後、後白河上皇は頼朝を恐れ、源義経に追討を命じました。
頼朝は先んじて都に軍を送り、後白河に義経追討の命令を出させました。
加えて頼朝は、追討のために後白河から次の2つの権利を得ました。
諸国に守護を、公領・荘園に地頭を置く権利
公領・荘園から1段あたり5升の兵粮米ひょうろうまいを徴収する権利
頼朝の支配が西国にも及びました。―B
名実ともに幕府成立
源頼朝に追われた源義経は、奥州藤原氏の藤原秀衡ひでひら を頼りました。
秀衡の死後、子の藤原泰衡やすひらは頼朝を恐れて義経を自殺に追い込みました。
頼朝は義経をかくまったことを理由に、奥州藤原氏を滅ぼした。
後白河上皇の死後、1192年に頼朝は征夷大将軍に就任しました。
名実ともに鎌倉幕府が成立し(A・Bを経て機構は既に存在)、以降の鎌倉幕府の滅亡までの時代を鎌倉時代と呼びます。
幕府の支配体制
封建制度―土地を介した主従関係
将軍(頼朝)は開発領主(田地開墾に及んだ土着の軍事貴族や有力農民)と主従関係を結びました。
将軍と主従関係を結んだ者を御家人と呼びます。
御恩(将軍が御家人に与える恩恵)
本領安堵
先祖伝来の田地の支配を将軍が保障すること
新恩給与
新たな田地を将軍から与えられること(平家没官領へいけもっかんりょうなどから分与)
平家没官領
平氏に寄進された大量の荘園群で、平氏滅亡後に朝廷に没収され、全て頼朝に付与
奉公(御家人が将軍に与える恩恵)
戦時
軍役
平時
京都大番役(京の警護)・鎌倉番役(鎌倉の警護)
中央の機構(初期の幕府)
他機関と異なり、裁判を司る執権の長官は、機関の決定権(訴訟の裁決権)なし
訴訟の裁決権は将軍にあり、それゆえに他の長官と異なる名称
地方の機関
守護
諸国に1人置かれ、国の治安維持や地頭の指揮統率を担当しました。
有力御家人が任命され、基本的な権限は大犯三ヵ条と総称します
大犯三ヵ条
地頭に京都大番役の催促/謀叛人の逮捕/殺害人の逮捕
地頭
公領・荘園に置かれ、現地で直接支配をおこない、名主からの徴税を担当しました。
知行国主・荘園領主が朝廷関係者の場合(上図)
将軍が源頼朝の頃、朝廷関係者の力はまだ強く残っていました。
地頭は公領で将軍と受領の、荘園で将軍と荘園領主の2元的支配を受けました。 | 御恩と奉公の違いを説明して下さい。 | 御恩は将軍が御家人に与える恩恵で、
本領安堵(先祖伝来の田地の支配を将軍が保障すること)と新恩給与(新たな田地を将軍から与えられること)がありますが、
奉公は御家人が将軍に与える恩恵で、戦時は軍役、平時は、京都大番役(京の警護)・鎌倉番役(鎌倉の警護)が与えられます。 |
JCRRAG_017916 | 歴史 | 科学が昔からどんな風に進んで、またその影響をどう社会に及ぼして来たかという歴史をよく見てゆくと、なかなかおもしろいのです。科学は学問として絶えず進んでゆくのですが、それに伴れていろいろな便利な機械が発明されて来るので、そうすれば世のなかの人々はどうしてもそういう機械を利用しないではいられなくなります。すると機械の発達に従ってすべての物の生産や、また交通の有様などがちがって来ますから、つまりはそれが人間の社会の有様を変えてゆくことになるので、このようにして昔から今日に至るまで文化が発達して来たのだといってもよいのでしょう。このように考えてゆくと、人間の社会にとって科学がどれほど重要なものであるかということも、初めて本当にわかって来るのでしょう。
さて科学の発達につれて社会の有様がいちじるしく変ったのは、いつ頃からであるかといいますと、それは勿論もちろん古い時代にもいくらかずつはあったに違いありませんが、歴史の上で最も目立っているのは、十八世紀の末から十九世紀の初めにかけてのことであります。それ以前にも機械の利用はいろいろあったのは確かですが、ちょうどこの頃に以前よりもずっと便利ないろいろな機械が発明されたので、それを盛んに産業の上で使うようになったからであります。そのなかには織物の紡績につかう機械やそのほかのものもありましたが、なかでもいちばん重要なのは蒸気のはたらきを利用する蒸気機関であって、これがここでお話ししようとするジェームズ・ワットによってその当時としてはいかにもすばらしいものに改良されたのでした。それ以前には水や風の力を利用する水車や風車が主な機械であって、その外には人間の手足の力とか、牛馬をつかうぐらいがせいぜいであったので、これでは大きな工業などが発達しなかったのも当然なのでありましたが、一度蒸気機関が現れると、これはいかにも便利なものでありましたから、たちまちあらゆる方面に利用せられて、諸所に大きな工場が建てられるようにもなりました。そうなると今までは多くの人々が主に家庭のなかで働いていたのに引きかえて、工場に雇われていろいろな生産労働に従事するようになりましたから、社会の全体の有様もそれに伴れて大いに変って来ました。それから蒸気機関を据えつけて、汽車や汽船が動き出すようになると、諸所の交通もそれまでとは比べられないほど便利になり、これも社会の有様を変えてゆきました。世界の歴史の上では、この著しい変わりかたを名づけて、産業革命と言っているのですが、ともかくもこれはそれ以前に見られなかった重要な変化なのでありました。ところがそれがワットのつくった蒸気機関のおかげであったことを思って見ますと、ワットが世界の歴史をこの方向に向けたのだといってもよいほどに、それは重要な発明であったと見なければなりません。ですからすばらしい機械の発明というものは、それ自身のすぐれた価値のほかに、世界の歴史をも運命づけるというほどに重大な意味をもっていることが、これではっきりとわかるのでしょう。 | 蒸気機関が出来てどれだけ便利になりましたか。 | 今まで発達しなかった工業や生産活動の幅が広がった。 |
JCRRAG_017917 | 歴史 | 1863年(文久3年)に229年ぶりに上洛することとなったのは、徳川家茂です。
徳川家茂はこの上洛の際に、朝廷より鎖国攘夷の期限決定を迫られます。開国を目指していた江戸幕府でしたが、朝廷の権力に頼っている以上は、鎖国攘夷を決行する約束を果たさなければいけません。そのため、徳川家茂は鎖国攘夷の期日を5月10日にすることを、4月20日に朝廷側へ伝えてしまい、約束の期日までは1ヵ月もなく、混乱を招くのは明白でした。
徳川家茂が江戸に帰ってから成し得たのは、横浜港の鎖港のみ。そして徳川家茂は、鎖港の状況を報告する名目で、1864年(文久4年/元治元年)正月に再び上洛し、孝明天皇から公武合体作の勅命を賜ったのです。
朝廷による鎖国攘夷の圧力が高まる一方で、外圧も強くなります。1865年(慶応元年)9月には、イギリスやフランス、アメリカ、オランダの4国連合艦隊が大坂湾に来航。条約の勅許や兵庫港の早期開港、関税率改正などを要求。
そのなかで老中達は、兵庫港の開港について急いで回答しようとしましたが、一橋慶喜に止められます。何の相談もせずに決定しようとした老中に対して、朝廷から官位の剥奪と国許(くにもと:主君の領地)での謹慎を命じられました。
江戸幕府の人事にまで介入してきた朝廷に対して、徳川家茂は決然とした態度を取ります。大坂にいた徳川家茂は、将軍職の辞意を朝廷に上申。直ぐさま江戸に帰ろうとしました。
これに慌てた孝明天皇は、徳川家茂の辞意を却下し、条約の勅許も下します。このとき20歳であった徳川家茂でしたが、朝廷の言いなりにならず、将軍としての意地を見せたのです。 | 1863年に229年ぶりに上洛することとなった人物は、何をして混乱を招いたか。 | 1863年に229年ぶりに上洛することとなった人物は、鎖国攘夷の期日を5月10日にすることを、4月20日に朝廷側へ伝えてしまい、約束の期日までは1ヵ月もなく、混乱を招いた。 |
JCRRAG_017918 | 歴史 | 元亀元年六月二十八日、織田信長が徳川家康の助けをかりて、江北にある姉川において越前の朝倉義景や江北の浅井長政の連合軍を撃破した。
これが、姉川の合戦である。
この合戦、浅井及び織田においては、野村合戦という。朝倉においては三田村合戦という。徳川は姉川合戦という。後に徳川が天下を取ったのだから、結局名前も姉川合戦になったというわけである。
元来、織田家と朝倉家とは仲が悪かった。両家とも欺波家の家老であった。
応仁の乱の時に斯波家も両方に分れたとき、朝倉は宗家の義廉に背いた治郎大輔義敏の肩を持った。
そして策略をめぐらせて義敏から越前の守護職をゆずらせ、越前の国主になった。
織田家は宗家の義廉に仕えて、信長の時代まで、とにかく形式だけでも斯波の家臣となっていた。
だから織田からしたら朝倉は主君にそむく臣下の家であったわけだし、朝倉の方からしたら、織田は家臣の家臣の家じゃないかと見下していた。
だが、両家の間に美濃の斎藤という緩衝地帯があるうちはまだよかった。それが無くなった今はいつ衝突してもおかしくなかった。
朝倉家五十万石に対して江北三十九万石の領主浅井家の浅井長政は、その当時まだ二十五歳の若者であったが非常に勢いがあり、彼を敵に回しては信長が京都を出るにしても不便だった。
信長は妹おいちを娘分として、長政と結婚させて親子の間柄になった。
長政は信長と縁者となることについて条件を出した。浅井と越前の朝倉とは、代々親しい間柄であるから、今後朝倉とも争いごとを起こさないでくれというのであった。信長はその条件を受け入れて、越前にかまわないという誓いの紙を、長政に渡した。
永正十一年七月二十八日、信長は長政と佐和山で対面することになった。
佐和山は、当時浅井方の勇将、磯野丹波守の居城であった。
信長からの数々の贈り物に対して長政は備前兼光の太刀を贈った。
この浅井家の太刀を送ったのは、浅井家が滅亡する前兆であったと、後に語り伝えられた。
無力でありながら陰謀好きの将軍足利義昭は、近畿にいる諸侯を集めて、信長を追い払おうとした。
その主力は、越前の朝倉であった。
信長は、朝倉退治のため、元亀元年四月、北陸の雪が溶けるのを待って徳川家康と共に敦賀表に進行した。
しかも前年に長政に渡した約束の書があるにもかかわらず、長政に対して一言の挨拶もなかった。
信長が長政に挨拶しなかったのは、挨拶したら長政の立場が悪くなって困るだろうとの配慮があったのだ、と言われている。
決して、浅井長政を馬鹿にしたのではなく、信長は長政に対してはこれまでにもかなり好遇している。
信長の越前への出発を聞いて、一番腹を立てたのは長政の父久政である。
久政は長政が十六歳のとき、家老達から隠居をすすめられて、長政に家督を譲った位の男なのであまり利口でなく頑固であった。
信長が約束を破った事に怒り、信長のことだから越前の帰りがけにはきっとここへ来て小谷城へも押し寄せて来るに違いない。
そんな危険な信長よりこちらから手を切って朝倉と協力した方がいいと言った。
長政の忠臣である遠藤喜右衛門や赤尾美作は「信長も昔の信長とは違う、今では畿内五州、美濃、尾張、三河、伊勢等十二ヶ国の領主である。以前の信長のように、そんな事をやるわけがない。それにたいしてこっちは浅井家が一国、朝倉が一国である。到底信長に適うわけがない。
この際は磯野丹波守に千か二千の兵を出して形式的に信長に対する加勢として越前に言って、ひたすら信長を頼りにした方が良い」といったが久政は一切聴かず、他の家臣達も久政の提案に同意するものが多く、長政も父の命に反対することができずに信長に反旗を翻して前後から信長を挟み撃ちすることになった。
越前にいた信長はが長政が裏切ったと聞いたが、「縁者である上、江北一円を渡してるのだから、不満に思うわけはないんだけど」と、簡単には信じなかったが、これが事実だと知ると、あわてて京都に引き上げた。この時、木下藤吉郎は殿を勤めた。金ヶ崎殿軍として太閣出世譚ものがたりの一頁である。
信長はやがて岐阜に引き上げ、浅井征伐のために大軍を起こして六月十九日に浅井の居城がある小谷に向かった。それが姉川合戦の発端である。 | 浅井家と朝倉家のうち、石高が多いほうを教えてください。 | 浅井家と朝倉家のうち、石高が多いほうは朝倉家で五十万石です。 |
JCRRAG_017919 | 歴史 | 昔は一戸の人口が百にも達した
元来日本の家の制度は現在まれに飛騨の白川などに残っているように、一戸の人口が非常に多いものであったのであります。これは古代戸籍の制度の影響もあって、複雑な問題でこの際述べることもできないが、奈良の正倉院に残っている大宝時代の諸国の戸籍などを見ると、普通の百姓でもって一戸の人口が奴婢までも併算すれば、八九十から百に達するものも少なくないのであります。そしてこれらの一族が一つの大屋の下に、枕を並べて眠っていたかというに、これはとうてい想像しうる事でないので、一人一人がそれぞれ労働をするのに、西に東に南に北に、二十町三十町と出て行って耕作をしなければならぬ。したがって広く山野の間に住宅が散在していて、たとえ他人は正当の氏を呼ぶとしても、家族相互の間では今日村々で中屋敷とか新屋敷とか呼ぶごとく、または日本橋辺で室町の御宅、小網町の旦那というように親類を呼ぶごとく、個々の別宅に何か名をつけておかなくてはならぬようになったのであります。
公卿華族の家名はことごとく京都の地名
これが武家発生時代、すなわち地方豪族が開墾の利益を独占した八幡太郎の頃になると、遺産相続の問題もこれに加わって、いよいよもって一家に属する個々の住宅が殖え、したがって名字に居住地を呼ぶ必要がにわかに増して来たものと察せられる。『尊卑分脈』などを見てもきわめて明白であるが、京都でも田舎でも一時に家号の増加したのはこの時である。たとえば藤原家でも基経・時平の頃までは、たとい分かれ分かれて住んでいても皆同じ藤原家の人々であることが明白に現われているが、それから次になるとだんだんと屋敷所在地の地名を家号に用いて、二条殿といい九条殿といい、それぞれ家が分かれて来ることになる。それ以前においてはこれだけ身分の高い貴族になると、他人からは決して藤原殿とも基経殿とも断じていわれない。その当時の官名とか屋敷の場所とか何か通称をもって呼んでいる。おそれ多い話であるが、わが国の皇族の今日の状態は、すなわちこの風習を永遠に継続させるものであって、それがわが国のとうといところであります。しかるに藤原家のごとく皇室に次いで顕栄を極めた家でも、財産を分ち兄弟同士で喧嘩するようになっては、たちまちにして家号というものが明白に樹立して、二条殿と九条殿と一条殿と近衛殿とは、別の家のような気がしてしまったのであります。今日のいわゆる公卿華族の家の名を見渡せば、すぐに気がつくことであるが、そのほとんと全部は京の町あるいはその附近の地名である。氏としては源平藤橘の数姓を出ず、とくに藤原氏はその八割を占めているけれども、それが今日のごとく多く別れて来たのであります。 | 一人一人がそれぞれ労働をするのに耕作をしなければならない方向の数を教えてください。 | 一人一人がそれぞれ労働をするのに耕作をしなければならない方向の数は4で、
「西」
「東」
「南」
「北」
です。 |
JCRRAG_017920 | 歴史 | 鎌倉幕府の成立
全国に及ぶ支配権
源頼朝は天皇の血筋を引き、源義朝の遺児のなかでも年長でした。
反平氏の際には、血筋ゆえに頼朝のもとに東国の武士が結集しました。
1180年、頼朝は挙兵して、相模国さがみのくに鎌倉を根拠地に勢力を強めました。
1183年(平氏の敗走後)、寿永二年十月宣旨―A
当時、争乱や飢饉で東国の荘園・公領からの税納入が停滞
朝廷は頼朝に税納入を保証させ、代わりに東国の実質的な支配を許可
1185年の平氏滅亡後、後白河上皇は頼朝を恐れ、源義経に追討を命じました。
頼朝は先んじて都に軍を送り、後白河に義経追討の命令を出させました。
加えて頼朝は、追討のために後白河から次の2つの権利を得ました。
諸国に守護を、公領・荘園に地頭を置く権利
公領・荘園から1段あたり5升の兵粮米ひょうろうまいを徴収する権利
頼朝の支配が西国にも及びました。―B
名実ともに幕府成立
源頼朝に追われた源義経は、奥州藤原氏の藤原秀衡ひでひら を頼りました。
秀衡の死後、子の藤原泰衡やすひらは頼朝を恐れて義経を自殺に追い込みました。
頼朝は義経をかくまったことを理由に、奥州藤原氏を滅ぼした。
後白河上皇の死後、1192年に頼朝は征夷大将軍に就任しました。
名実ともに鎌倉幕府が成立し(A・Bを経て機構は既に存在)、以降の鎌倉幕府の滅亡までの時代を鎌倉時代と呼びます。
幕府の支配体制
封建制度―土地を介した主従関係
将軍(頼朝)は開発領主(田地開墾に及んだ土着の軍事貴族や有力農民)と主従関係を結びました。
将軍と主従関係を結んだ者を御家人と呼びます。
御恩(将軍が御家人に与える恩恵)
本領安堵
先祖伝来の田地の支配を将軍が保障すること
新恩給与
新たな田地を将軍から与えられること(平家没官領へいけもっかんりょうなどから分与)
平家没官領
平氏に寄進された大量の荘園群で、平氏滅亡後に朝廷に没収され、全て頼朝に付与
奉公(御家人が将軍に与える恩恵)
戦時
軍役
平時
京都大番役(京の警護)・鎌倉番役(鎌倉の警護)
中央の機構(初期の幕府)
他機関と異なり、裁判を司る執権の長官は、機関の決定権(訴訟の裁決権)なし
訴訟の裁決権は将軍にあり、それゆえに他の長官と異なる名称
地方の機関
守護
諸国に1人置かれ、国の治安維持や地頭の指揮統率を担当しました。
有力御家人が任命され、基本的な権限は大犯三ヵ条と総称します
大犯三ヵ条
地頭に京都大番役の催促/謀叛人の逮捕/殺害人の逮捕
地頭
公領・荘園に置かれ、現地で直接支配をおこない、名主からの徴税を担当しました。
知行国主・荘園領主が朝廷関係者の場合(上図)
将軍が源頼朝の頃、朝廷関係者の力はまだ強く残っていました。
地頭は公領で将軍と受領の、荘園で将軍と荘園領主の2元的支配を受けました。 | 守護と地頭の違いを説明して下さい。 | 守護は、諸国に1人置かれ、国の治安維持や地頭の指揮統率を担当した一方で、
地頭は、公領・荘園に置かれ、現地で直接支配をおこない、名主からの徴税を担当しました。 |
JCRRAG_017921 | 歴史 | ハーレー街の慈善病院監督となった翌年、三十四歳のフロレンス・ナイチンゲールが遂にその渾身の力を傾けて遂行すべき仕事が起こった。一八五三年に英露のトルコ分割を目的とするクリミア戦争が起こった。この戦役におけるイギリス負傷兵の状況の酸鼻が、しばしば議会の問題となり、世界の注目がそこにあつめられた。この時代まだ笞刑の行われていたイギリス陸軍の兵士が、クリミア戦争で傷つき、運ばれてゆくスクータリーの陸軍病院という名は、有識の人々の間で「地獄」の別名となった。
シドニー・ハーバートという時の大臣の一人が、この時思い出したのはフロレンス・ナイチンゲールの存在であった。彼はフロレンスこそ、この場合に何事かをなし得る婦人であるとして、招きの手紙を送った。折から、ナイチンゲールの心にひらめいていた計画も、符節を合してまさにそのことであった。
フロレンスが二人の親友と三十八人の看護婦をひきいて一週間のうちにロンドンを立ち、トルコのスクータリーに到着したのは一八五四年の十一月であった。
このクリミア戦争にはトルストイが一士官としてロシア軍に加わっており、セバストーポリについた第一歩に負傷者の哀れな有様に激しく心を動かされたのが、この同じ年の十二月であったことも思い出される。
ロンドンを立つ時、当局の役人はナイチンゲールの問いに答えて、スクーターには何一つ欠けたものはないと明言した。よしんば衛生材料が多少不足していても四日間でコンスタンチノープルから支給されるのだから、と。
その言葉にもかかわらずフロレンスは女の勘で、いろいろな材料と金とをどっさりたずさえて、さて、到着したスクータリーの陸軍病院は、彼女の一行をどういう有様で迎えただろうか。
巨大なバラック建ての廊下や大きい病室には、ありとあらゆる欠乏、怠慢、混乱、悲惨が充ち満ちていた。建物の真下を走っている大下水から汚物の悪臭がのぼって来る。その床はぼろぼろで洗えもしない。壁には塵埃が厚くこびりついていて寝台は四マイルもぎっしりつめられていた。
ところ構わず南京虫の大群が横行している。
フロレンスがみたどこの貧民窟よりも不潔である。日常品の欠乏ははなはだしく、ビールの空きビンにローソクが立っていた。たらい、タオル、シャボン、箒、盆、皿、ナイフ、フォーク、スプーンなどという必需品さえなかった。医療材料、薬品も揃っていない。働いている人々といえば無能な医者と官僚主義に頭も心も痲痺している役人と、疲労困憊して自らも半病人になっている少数の人々ばかりであった。
ナイチンゲールが女としての勘でもたらした品物と金とは、全く無限の役にたった。
スクータリーの名状できない混乱をとおして、秩序と常識と先見と判断との光りが、日に夜にフロレンスが執務しているバラック病院の大廊下のそばの小さい部屋から放射されはじめた。
変化は確実であった。病兵はタオルとシャボン、ナイフとフォーク、櫛と歯ブラシとを、喜んで使い始めた。
六ヵ月の間に病院の料理場と洗濯場とは改良され、本国からの積送品を整理するための政府の倉庫ができ、病兵の寝具類は煮沸器で消毒されるようになった。
彼女が病兵にもスープ、葡萄酒、ジェリーなどが必要だといったとき、役人たちはお話にならぬ贅沢だ!
と目をみはった。彼女の努力でも精力でも、どうしても実施されなかったことが、このスクータリーに一つ残った。
病兵の喰べる「肉を骨から離す」事である。役所の規定は「食物は等分に分配すべし」とだけあって、配られたのが骨ばかりだったにしてもそれはその兵士の不運なのだし、ましてそれを噛む顎を弾丸にやられていたとすれば、それこそその兵の重なる不運と諦めるしかない状態なのであった。
病院へのあらゆる必需品を調達するのは全部フロレンスの仕事であった。
兵たちに靴下、シャツが着せられたのは彼女の個人的な出費とタイムズ社の寄附金があってからできたことであった。
これらの緊迫した仕事がどんなものであったかは、当時彼女を看護の天使、優しい「灯をかかげた女人」として世人が感動を示したのに対して、フロレンス自身洩らした言葉にもうかがわれる。
看護という特殊な仕事は確かに彼女に「おしつけられた役目の中で一番軽い物であった」のだと。
しかしながら、その軽いものも何と桁外れな大きさをもっていたことだろう。病院の苦痛のもっとも激しいところ、助けのもっとも必要なところには、いつも必ずナイチンゲールの平静な鼓舞のまなざしがあった。
そのまなざしは危ない瀬戸際で兵士たちの勇気をとり直させ、医者の沈着を支え、そして、失われそうであった命をとりとめる役にたつのであった。その死亡率を半減させた兵士たちの心からなる喜びの眼に彼女が天使に見えたのは自然だった。 | 「灯をかかげた女人」として世人が感動を示した人物が女の勘で、いろいろな材料と金とをどっさりたずさえて陸軍病院にいったことで病兵にはどのような変化がありましたか。 | 病兵はタオルとシャボン、ナイフとフォーク、櫛と歯ブラシとを、喜んで使い始めました。 |
JCRRAG_017922 | 歴史 | 1863年(文久3年)に229年ぶりに上洛することとなったのは、徳川家茂です。
徳川家茂はこの上洛の際に、朝廷より鎖国攘夷の期限決定を迫られます。開国を目指していた江戸幕府でしたが、朝廷の権力に頼っている以上は、鎖国攘夷を決行する約束を果たさなければいけません。そのため、徳川家茂は鎖国攘夷の期日を5月10日にすることを、4月20日に朝廷側へ伝えてしまい、約束の期日までは1ヵ月もなく、混乱を招くのは明白でした。
徳川家茂が江戸に帰ってから成し得たのは、横浜港の鎖港のみ。そして徳川家茂は、鎖港の状況を報告する名目で、1864年(文久4年/元治元年)正月に再び上洛し、孝明天皇から公武合体作の勅命を賜ったのです。
朝廷による鎖国攘夷の圧力が高まる一方で、外圧も強くなります。1865年(慶応元年)9月には、イギリスやフランス、アメリカ、オランダの4国連合艦隊が大坂湾に来航。条約の勅許や兵庫港の早期開港、関税率改正などを要求。
そのなかで老中達は、兵庫港の開港について急いで回答しようとしましたが、一橋慶喜に止められます。何の相談もせずに決定しようとした老中に対して、朝廷から官位の剥奪と国許(くにもと:主君の領地)での謹慎を命じられました。
江戸幕府の人事にまで介入してきた朝廷に対して、徳川家茂は決然とした態度を取ります。大坂にいた徳川家茂は、将軍職の辞意を朝廷に上申。直ぐさま江戸に帰ろうとしました。
これに慌てた孝明天皇は、徳川家茂の辞意を却下し、条約の勅許も下します。このとき20歳であった徳川家茂でしたが、朝廷の言いなりにならず、将軍としての意地を見せたのです。 | 1863年に229年ぶりに上洛することとなった人物が、江戸に帰ってから成し得たのは、どのようなことか。 | 1863年に229年ぶりに上洛することとなった人物が、江戸に帰ってから成し得たのは、横浜港の鎖港のみである。 |
JCRRAG_017923 | 歴史 | 元亀元年六月二十八日、織田信長が徳川家康の助けをかりて、江北にある姉川において越前の朝倉義景や江北の浅井長政の連合軍を撃破した。
これが、姉川の合戦である。
この合戦、浅井及び織田においては、野村合戦という。朝倉においては三田村合戦という。徳川は姉川合戦という。後に徳川が天下を取ったのだから、結局名前も姉川合戦になったというわけである。
元来、織田家と朝倉家とは仲が悪かった。両家とも欺波家の家老であった。
応仁の乱の時に斯波家も両方に分れたとき、朝倉は宗家の義廉に背いた治郎大輔義敏の肩を持った。
そして策略をめぐらせて義敏から越前の守護職をゆずらせ、越前の国主になった。
織田家は宗家の義廉に仕えて、信長の時代まで、とにかく形式だけでも斯波の家臣となっていた。
だから織田からしたら朝倉は主君にそむく臣下の家であったわけだし、朝倉の方からしたら、織田は家臣の家臣の家じゃないかと見下していた。
だが、両家の間に美濃の斎藤という緩衝地帯があるうちはまだよかった。それが無くなった今はいつ衝突してもおかしくなかった。
朝倉家五十万石に対して江北三十九万石の領主浅井家の浅井長政は、その当時まだ二十五歳の若者であったが非常に勢いがあり、彼を敵に回しては信長が京都を出るにしても不便だった。
信長は妹おいちを娘分として、長政と結婚させて親子の間柄になった。
長政は信長と縁者となることについて条件を出した。浅井と越前の朝倉とは、代々親しい間柄であるから、今後朝倉とも争いごとを起こさないでくれというのであった。信長はその条件を受け入れて、越前にかまわないという誓いの紙を、長政に渡した。
永正十一年七月二十八日、信長は長政と佐和山で対面することになった。
佐和山は、当時浅井方の勇将、磯野丹波守の居城であった。
信長からの数々の贈り物に対して長政は備前兼光の太刀を贈った。
この浅井家の太刀を送ったのは、浅井家が滅亡する前兆であったと、後に語り伝えられた。
無力でありながら陰謀好きの将軍足利義昭は、近畿にいる諸侯を集めて、信長を追い払おうとした。
その主力は、越前の朝倉であった。
信長は、朝倉退治のため、元亀元年四月、北陸の雪が溶けるのを待って徳川家康と共に敦賀表に進行した。
しかも前年に長政に渡した約束の書があるにもかかわらず、長政に対して一言の挨拶もなかった。
信長が長政に挨拶しなかったのは、挨拶したら長政の立場が悪くなって困るだろうとの配慮があったのだ、と言われている。
決して、浅井長政を馬鹿にしたのではなく、信長は長政に対してはこれまでにもかなり好遇している。
信長の越前への出発を聞いて、一番腹を立てたのは長政の父久政である。
久政は長政が十六歳のとき、家老達から隠居をすすめられて、長政に家督を譲った位の男なのであまり利口でなく頑固であった。
信長が約束を破った事に怒り、信長のことだから越前の帰りがけにはきっとここへ来て小谷城へも押し寄せて来るに違いない。
そんな危険な信長よりこちらから手を切って朝倉と協力した方がいいと言った。
長政の忠臣である遠藤喜右衛門や赤尾美作は「信長も昔の信長とは違う、今では畿内五州、美濃、尾張、三河、伊勢等十二ヶ国の領主である。以前の信長のように、そんな事をやるわけがない。それにたいしてこっちは浅井家が一国、朝倉が一国である。到底信長に適うわけがない。
この際は磯野丹波守に千か二千の兵を出して形式的に信長に対する加勢として越前に言って、ひたすら信長を頼りにした方が良い」といったが久政は一切聴かず、他の家臣達も久政の提案に同意するものが多く、長政も父の命に反対することができずに信長に反旗を翻して前後から信長を挟み撃ちすることになった。
越前にいた信長はが長政が裏切ったと聞いたが、「縁者である上、江北一円を渡してるのだから、不満に思うわけはないんだけど」と、簡単には信じなかったが、これが事実だと知ると、あわてて京都に引き上げた。この時、木下藤吉郎は殿を勤めた。金ヶ崎殿軍として太閣出世譚ものがたりの一頁である。
信長はやがて岐阜に引き上げ、浅井征伐のために大軍を起こして六月十九日に浅井の居城がある小谷に向かった。それが姉川合戦の発端である。 | 浅井家と朝倉家のうち、石高が少ないほうを教えてください。 | 浅井家と朝倉家のうち、石高が少ないほうは浅井家で三十九万です。 |
JCRRAG_017924 | 歴史 | 昔は一戸の人口が百にも達した
元来日本の家の制度は現在まれに飛騨の白川などに残っているように、一戸の人口が非常に多いものであったのであります。これは古代戸籍の制度の影響もあって、複雑な問題でこの際述べることもできないが、奈良の正倉院に残っている大宝時代の諸国の戸籍などを見ると、普通の百姓でもって一戸の人口が奴婢までも併算すれば、八九十から百に達するものも少なくないのであります。そしてこれらの一族が一つの大屋の下に、枕を並べて眠っていたかというに、これはとうてい想像しうる事でないので、一人一人がそれぞれ労働をするのに、西に東に南に北に、二十町三十町と出て行って耕作をしなければならぬ。したがって広く山野の間に住宅が散在していて、たとえ他人は正当の氏を呼ぶとしても、家族相互の間では今日村々で中屋敷とか新屋敷とか呼ぶごとく、または日本橋辺で室町の御宅、小網町の旦那というように親類を呼ぶごとく、個々の別宅に何か名をつけておかなくてはならぬようになったのであります。
公卿華族の家名はことごとく京都の地名
これが武家発生時代、すなわち地方豪族が開墾の利益を独占した八幡太郎の頃になると、遺産相続の問題もこれに加わって、いよいよもって一家に属する個々の住宅が殖え、したがって名字に居住地を呼ぶ必要がにわかに増して来たものと察せられる。『尊卑分脈』などを見てもきわめて明白であるが、京都でも田舎でも一時に家号の増加したのはこの時である。たとえば藤原家でも基経・時平の頃までは、たとい分かれ分かれて住んでいても皆同じ藤原家の人々であることが明白に現われているが、それから次になるとだんだんと屋敷所在地の地名を家号に用いて、二条殿といい九条殿といい、それぞれ家が分かれて来ることになる。それ以前においてはこれだけ身分の高い貴族になると、他人からは決して藤原殿とも基経殿とも断じていわれない。その当時の官名とか屋敷の場所とか何か通称をもって呼んでいる。おそれ多い話であるが、わが国の皇族の今日の状態は、すなわちこの風習を永遠に継続させるものであって、それがわが国のとうといところであります。しかるに藤原家のごとく皇室に次いで顕栄を極めた家でも、財産を分ち兄弟同士で喧嘩するようになっては、たちまちにして家号というものが明白に樹立して、二条殿と九条殿と一条殿と近衛殿とは、別の家のような気がしてしまったのであります。今日のいわゆる公卿華族の家の名を見渡せば、すぐに気がつくことであるが、そのほとんと全部は京の町あるいはその附近の地名である。氏としては源平藤橘の数姓を出ず、とくに藤原氏はその八割を占めているけれども、それが今日のごとく多く別れて来たのであります。 | 家族相互の間で今の村で呼ばれる名の例として挙げられている数を教えてください。 | 家族相互の間で今の村で呼ばれる名の例として挙げられているのは、
「中屋敷」、「新屋敷」の2つと、日本橋辺で親類に使う「室町の御宅」、「小網町の旦那」の2つです。 |
JCRRAG_017925 | 歴史 | 蒙古襲来
大帝国「元」
13世紀初め、チンギス=ハンがモンゴル系遊牧民を統一しました。
やがて東は中国東北部、西はイランにいたる帝国を建国しました。
チンギス=ハンの子は金を滅ぼしました。
この頃、帝国はユーラシア大陸の東西に拡大
チンギス=ハンの孫で5代皇帝のフビライ=ハンは、帝国の首都を大都だいと (北京)に定め、また、国号を元と改めました。
フビライ=ハンは朝鮮半島の高麗を全面的に服属させました。
さらに1268年、フビライ=ハンは日本に服属を求める国書を送りました。
当時、大陸では日本を黄金の島ジパングと伝える噂あり
高麗
服属後も高麗で1270~73年に三別抄さんべつしょう の乱が発生
アジアの見聞者―マルコ=ポーロ
父ニコロに連れられて、16歳のマルコ=ポーロはフビライ=ハンに拝謁はいえつ しました。帰国後に獄中で彼が語った体験は『東方見聞録』にまとめられました。この本によって黄金の島ジパングのイメージは強調され、西洋で広まりました。なお、このイメージは平泉中尊寺金色堂の話が元と言われます。
襲来の予感
元の国書が届く数年前、北条時頼の子北条時宗が惣領そうりょう になりました。
北条時宗の頃から北条氏の惣領を得宗と呼びました。
得宗
北条義時の戒名に由来し、この地位の者が原則的に執権を継承
北条時宗
1268年、元の国書が到着しましたが、朝廷は返書しませんでした。
度々国書が到着しましたが、幕府も「返書の必要なし」と回答を拒否しました。
幕府は元の襲来に備え、御家人の奉公に異国警固番役を新たに加えて、九州北部の沿岸を防備させました(制度化は文永の役後)。 | チンギス=ハンとフビライ=ハンの違いを説明して下さい。 | チンギス=ハンは、13世紀初めにモンゴル系遊牧民を統一して、やがて東は中国東北部、西はイランにいたる帝国を建国しましたが、フビライ=ハンは、チンギス=ハンの孫で5代皇帝で、帝国の首都を大都(北京)に定め、また、国号を元と改めました。 |
JCRRAG_017926 | 歴史 | けれども、この雄々しい活動の人を夜鶯ナイチンゲールめ!と罵る人間もいた。
その筆頭はスクータリー病院の院長ホール博士と連隊長連であった。女と戦争と何の関係があるのか。
彼らはこの観念から抜けられなかった。
軍医、看護卒、看護婦、病院関係の諸役人と大臣たちも、ナイチンゲールを天使とは考えられない人々の群であった。
おそろしい無秩序と官僚風のしみとおったスクータリーへ、新しい敷布を一とおり行きわたらせるためにでもナイチンゲールは、厳格な方法、きっちりした規律、些細な事をゆるがせにしない厳密な注意、不断の努力、不屈の意志と断固とした決心が入用であった。彼女の平静な表情の下に燃えさかっている情熱、澄んだ静かな声の中にこもっていて一旦その声に命じられたら服従せずにいられない一種独特な権威、それらは臆病の夜鶯ナイチンゲールの持ちものであるはずはない。
おだやかな優しさや、いわゆる女らしい自己否定で、彼女はクリミアでの業績をなしとげたのではなかった。
この一行がはじめコンスタンチノープルに近づいた時、一人の看護婦が「上陸しましたらすぐ可哀相な人々の看護をはじめましょう」といったに対して、「一番丈夫な人たちは洗濯ダライにかかって貰いましょう」と答えた彼女の実際の鋭い洞察も、記憶さるべきところではないだろうか。
戦争が終わって四ヵ月後の一八五六年の夏、フロレンス・ナイチンゲールはクリミアの天使として民衆の熱狂に迎えられながらイギリスに帰って来た。ヴィクトーリア女皇が贈ったブローチを白レースの襟の上に飾ったナイチンゲールの肖像は世界の隅々にまで広がった。
世間的な名声は、クリミアでの英雄的な行為の記憶によって、世の人々の間に生きた。
が、それから後の三十年間に、ナイチンゲールがほとんど長椅子の上にねたきりで完成した事の意義こそは、更に重大であった。
ナイチンゲールにとってクリミアでの成果は彼女の経歴の有益な踏み石に過ぎず、それは世界を働かせる為の梃子台であった。
クリミアでの激働ですっかり健康を害してイギリスに着いた彼女は、心臓衰弱に襲われ、たえず気絶の発作と全身の衰弱に悩まされた。
医師は極力静養を求める。ナイチンゲールにとって、どうして今休養などをとっていられよう。今こそ好機が到来したのだ。
鉄は熱い中にこそ打つべきだ。長椅子の上であえぎながら、彼女は報告を読み、手紙を口述し、激しい動悸の合間には熱病的な冗談をとばした。
ナイチンゲールは、イギリスの陸軍病院の全組織の改善という大計画につかれているのであった。
自分の体のままにならないフロレンスは間もなく自分の周囲に献身的な人々の小さい群をもった。
もっとも重要なのは後に陸軍大臣となったシドニー・ハーバートとその夫人とであった。
きわめて柔軟で同情に富む天質をもって生まれ、従ってその時代の人間性を強調する息吹きにも感じ易かったシドニー・ハーバートは、フロレンスの指揮と指導の性質にひきよせられ、公共の目的のためには全く献身的な独特な友情を保った。
そのほか、このグループの中にはハリー・バーネー卿がおり、詩人のクラッフがおり、クリミアへも一緒に行ったメー叔母さんもいた。
そして、三十年以上彼女の最も緊密な秘書として働いたサザーランド博士がいた。当時の社会が婦人の登場を許していなかったあらゆる政治的関係、役所関係の間へ、ナイチンゲールは彼女のあらゆる条件を活用して、ハーバートを動かし、バーネー卿を活動させた。
ナイチンゲールに役立とうとして仕事をはじめたこれらの人々は、やがて真剣にその能力と忍耐との極限まで彼女のためにはかたむけつくさなければならないことを知った。寝台の上に真っ蒼になって息をきらしながら、なお仕事を捨てないフロレンスを見て、彼女が骨身を惜しんでいるといえる者は一人もいないのであった。 | フロレンス・ナイチンゲールはイギリスに帰ったあとどうしましたか。 | ナイチンゲールは、イギリスの陸軍病院の全組織の改善という大計画につかれていた。 |
JCRRAG_017927 | 歴史 | 1863年(文久3年)に229年ぶりに上洛することとなったのは、徳川家茂です。
徳川家茂はこの上洛の際に、朝廷より鎖国攘夷の期限決定を迫られます。開国を目指していた江戸幕府でしたが、朝廷の権力に頼っている以上は、鎖国攘夷を決行する約束を果たさなければいけません。そのため、徳川家茂は鎖国攘夷の期日を5月10日にすることを、4月20日に朝廷側へ伝えてしまい、約束の期日までは1ヵ月もなく、混乱を招くのは明白でした。
徳川家茂が江戸に帰ってから成し得たのは、横浜港の鎖港のみ。そして徳川家茂は、鎖港の状況を報告する名目で、1864年(文久4年/元治元年)正月に再び上洛し、孝明天皇から公武合体作の勅命を賜ったのです。
朝廷による鎖国攘夷の圧力が高まる一方で、外圧も強くなります。1865年(慶応元年)9月には、イギリスやフランス、アメリカ、オランダの4国連合艦隊が大坂湾に来航。条約の勅許や兵庫港の早期開港、関税率改正などを要求。
そのなかで老中達は、兵庫港の開港について急いで回答しようとしましたが、一橋慶喜に止められます。何の相談もせずに決定しようとした老中に対して、朝廷から官位の剥奪と国許(くにもと:主君の領地)での謹慎を命じられました。
江戸幕府の人事にまで介入してきた朝廷に対して、徳川家茂は決然とした態度を取ります。大坂にいた徳川家茂は、将軍職の辞意を朝廷に上申。直ぐさま江戸に帰ろうとしました。
これに慌てた孝明天皇は、徳川家茂の辞意を却下し、条約の勅許も下します。このとき20歳であった徳川家茂でしたが、朝廷の言いなりにならず、将軍としての意地を見せたのです。 | 1863年に229年ぶりに上洛することとなった人物は、1864年正月に孝明天皇からどのような勅命を賜ったか。 | 1863年に229年ぶりに上洛することとなった人物は、1864年正月に孝明天皇から公武合体作の勅命を賜った。 |
JCRRAG_017928 | 歴史 | 元亀元年六月二十八日、織田信長が徳川家康の助けをかりて、江北にある姉川において越前の朝倉義景や江北の浅井長政の連合軍を撃破した。
これが、姉川の合戦である。
この合戦、浅井及び織田においては、野村合戦という。朝倉においては三田村合戦という。徳川は姉川合戦という。後に徳川が天下を取ったのだから、結局名前も姉川合戦になったというわけである。
元来、織田家と朝倉家とは仲が悪かった。両家とも欺波家の家老であった。
応仁の乱の時に斯波家も両方に分れたとき、朝倉は宗家の義廉に背いた治郎大輔義敏の肩を持った。
そして策略をめぐらせて義敏から越前の守護職をゆずらせ、越前の国主になった。
織田家は宗家の義廉に仕えて、信長の時代まで、とにかく形式だけでも斯波の家臣となっていた。
だから織田からしたら朝倉は主君にそむく臣下の家であったわけだし、朝倉の方からしたら、織田は家臣の家臣の家じゃないかと見下していた。
だが、両家の間に美濃の斎藤という緩衝地帯があるうちはまだよかった。それが無くなった今はいつ衝突してもおかしくなかった。
朝倉家五十万石に対して江北三十九万石の領主浅井家の浅井長政は、その当時まだ二十五歳の若者であったが非常に勢いがあり、彼を敵に回しては信長が京都を出るにしても不便だった。
信長は妹おいちを娘分として、長政と結婚させて親子の間柄になった。
長政は信長と縁者となることについて条件を出した。浅井と越前の朝倉とは、代々親しい間柄であるから、今後朝倉とも争いごとを起こさないでくれというのであった。信長はその条件を受け入れて、越前にかまわないという誓いの紙を、長政に渡した。
永正十一年七月二十八日、信長は長政と佐和山で対面することになった。
佐和山は、当時浅井方の勇将、磯野丹波守の居城であった。
信長からの数々の贈り物に対して長政は備前兼光の太刀を贈った。
この浅井家の太刀を送ったのは、浅井家が滅亡する前兆であったと、後に語り伝えられた。
無力でありながら陰謀好きの将軍足利義昭は、近畿にいる諸侯を集めて、信長を追い払おうとした。
その主力は、越前の朝倉であった。
信長は、朝倉退治のため、元亀元年四月、北陸の雪が溶けるのを待って徳川家康と共に敦賀表に進行した。
しかも前年に長政に渡した約束の書があるにもかかわらず、長政に対して一言の挨拶もなかった。
信長が長政に挨拶しなかったのは、挨拶したら長政の立場が悪くなって困るだろうとの配慮があったのだ、と言われている。
決して、浅井長政を馬鹿にしたのではなく、信長は長政に対してはこれまでにもかなり好遇している。
信長の越前への出発を聞いて、一番腹を立てたのは長政の父久政である。
久政は長政が十六歳のとき、家老達から隠居をすすめられて、長政に家督を譲った位の男なのであまり利口でなく頑固であった。
信長が約束を破った事に怒り、信長のことだから越前の帰りがけにはきっとここへ来て小谷城へも押し寄せて来るに違いない。
そんな危険な信長よりこちらから手を切って朝倉と協力した方がいいと言った。
長政の忠臣である遠藤喜右衛門や赤尾美作は「信長も昔の信長とは違う、今では畿内五州、美濃、尾張、三河、伊勢等十二ヶ国の領主である。以前の信長のように、そんな事をやるわけがない。それにたいしてこっちは浅井家が一国、朝倉が一国である。到底信長に適うわけがない。
この際は磯野丹波守に千か二千の兵を出して形式的に信長に対する加勢として越前に言って、ひたすら信長を頼りにした方が良い」といったが久政は一切聴かず、他の家臣達も久政の提案に同意するものが多く、長政も父の命に反対することができずに信長に反旗を翻して前後から信長を挟み撃ちすることになった。
越前にいた信長はが長政が裏切ったと聞いたが、「縁者である上、江北一円を渡してるのだから、不満に思うわけはないんだけど」と、簡単には信じなかったが、これが事実だと知ると、あわてて京都に引き上げた。この時、木下藤吉郎は殿を勤めた。金ヶ崎殿軍として太閣出世譚ものがたりの一頁である。
信長はやがて岐阜に引き上げ、浅井征伐のために大軍を起こして六月十九日に浅井の居城がある小谷に向かった。それが姉川合戦の発端である。 | 信長と浅井家と朝倉家のうち、持っている国の数がもっとも多いのは誰ですか。 | 信長と浅井家と朝倉家のうち、持っている国の数がもっとも多いのは信長で十二国です |
JCRRAG_017929 | 歴史 | 昔は一戸の人口が百にも達した
元来日本の家の制度は現在まれに飛騨の白川などに残っているように、一戸の人口が非常に多いものであったのであります。これは古代戸籍の制度の影響もあって、複雑な問題でこの際述べることもできないが、奈良の正倉院に残っている大宝時代の諸国の戸籍などを見ると、普通の百姓でもって一戸の人口が奴婢までも併算すれば、八九十から百に達するものも少なくないのであります。そしてこれらの一族が一つの大屋の下に、枕を並べて眠っていたかというに、これはとうてい想像しうる事でないので、一人一人がそれぞれ労働をするのに、西に東に南に北に、二十町三十町と出て行って耕作をしなければならぬ。したがって広く山野の間に住宅が散在していて、たとえ他人は正当の氏を呼ぶとしても、家族相互の間では今日村々で中屋敷とか新屋敷とか呼ぶごとく、または日本橋辺で室町の御宅、小網町の旦那というように親類を呼ぶごとく、個々の別宅に何か名をつけておかなくてはならぬようになったのであります。
公卿華族の家名はことごとく京都の地名
これが武家発生時代、すなわち地方豪族が開墾の利益を独占した八幡太郎の頃になると、遺産相続の問題もこれに加わって、いよいよもって一家に属する個々の住宅が殖え、したがって名字に居住地を呼ぶ必要がにわかに増して来たものと察せられる。『尊卑分脈』などを見てもきわめて明白であるが、京都でも田舎でも一時に家号の増加したのはこの時である。たとえば藤原家でも基経・時平の頃までは、たとい分かれ分かれて住んでいても皆同じ藤原家の人々であることが明白に現われているが、それから次になるとだんだんと屋敷所在地の地名を家号に用いて、二条殿といい九条殿といい、それぞれ家が分かれて来ることになる。それ以前においてはこれだけ身分の高い貴族になると、他人からは決して藤原殿とも基経殿とも断じていわれない。その当時の官名とか屋敷の場所とか何か通称をもって呼んでいる。おそれ多い話であるが、わが国の皇族の今日の状態は、すなわちこの風習を永遠に継続させるものであって、それがわが国のとうといところであります。しかるに藤原家のごとく皇室に次いで顕栄を極めた家でも、財産を分ち兄弟同士で喧嘩するようになっては、たちまちにして家号というものが明白に樹立して、二条殿と九条殿と一条殿と近衛殿とは、別の家のような気がしてしまったのであります。今日のいわゆる公卿華族の家の名を見渡せば、すぐに気がつくことであるが、そのほとんと全部は京の町あるいはその附近の地名である。氏としては源平藤橘の数姓を出ず、とくに藤原氏はその八割を占めているけれども、それが今日のごとく多く別れて来たのであります。 | 『尊卑分脈』などを見ても一時に家号の増加した場所の数を教えてください。 | 『尊卑分脈』などを見ても一時に家号の増加した場所の数は2で、
「京都」
「田舎」
です。 |
JCRRAG_017930 | 歴史 | 文学の新傾向
和歌
職業的な専門歌人が登場して、歌の指導・優劣の判定を勤めました。
専門歌人の登場の一方で、後鳥羽上皇は和歌に異常な意欲を示し、13世紀初頭、藤原定家さだいえらに『新古今和歌集』を編纂させました。
藤原定家
小倉百人一首の選者
新古今和歌集
八代集の最後を飾る勅撰和歌集
13世紀初頭には、優れた歌集が新古今和歌集の他にも登場しました。
『金槐きんかい和歌集』
藤原定家に学んだ3代将軍源実朝さねともの歌集
『山家集さんかしゅう』
もと武士で、出家して諸国を遍歴した西行さいぎょう の歌集
『金槐和歌集』
「金」とは鎌の偏を表し、「槐」とは大臣の中国名である槐門の意
随筆と説話
随筆
『方丈記』
平安末期の災厄を描き、人や社会の無常を嘆く鴨長明かものちょうめいの随筆
『徒然草つれづれぐさ』
14世紀の動乱期を深い洞察力で描く兼好法師の随筆
『方丈記』『徒然草』
和漢混淆文こんこうぶんの代表作
説話
『十訓抄じっきんしょう』
作者不詳の儒教的説話集
『沙石集しゃせきしゅう』
無住むじゅうの仏教説話集
『古今著聞集ここんちょもんじゅう』
橘成季なりすえ の作で、貴族文化に関する説話集
紀行と日記
鎌倉が政治の拠点になると、京都・鎌倉間を往復する人が増加しました。
『海道記』『東関紀行』などの紀行(旅行中の体験記)が登場しました。
『十六夜いざよい日記』
阿仏尼あぶつに の日記で、夫藤原為家(定家の子)の所領訴訟のために鎌倉に下る話などの紀行も記録
十六夜日記
太陰暦16日の夜に京都を出発したことに由来
阿仏尼
訴訟の結果を待たずに死去
軍記
院政期に軍記物語が登場して以来、合戦記録は公家の関心を引きました。
『保元物語』
保元の乱(1156年)を題材とする軍記物語
『平治物語』
平治の乱(1159年)を題材とする軍記物語
『平家物語』
平氏の興亡を題材とする軍記物語
平家物語は琵琶びわ法師によって平曲として語られました。
平家物語
『徒然草』に「行長入道ゆきながにゅうどう、平家物語をつくりて」とあり、作者は信濃しなのの 前司ぜんじ行長ゆきながか
平曲
琵琶を弾きながら平家物語を語る音楽
学問と思想
歴史と古典研究
歴史書
社会変動の中で、公家社会の推移を見つけようとする気運が生じました。
藤原忠通の子で天台座主ざすの慈円じえん は、『愚管抄ぐかんしょう』を著しました。
『愚管抄』
物事には全てそれがそうである道理があり、特に歴史を貫く大きな道理を模索した歴史書
その他の歴史書
『吾妻鏡あずまかがみ』
鎌倉幕府が編纂した歴史書
『水鏡』
「四鏡」の1つで、鎌倉時代初期に成立
『元亨釈書げんこうしゃくしょ』
虎関師錬 こかんしれんが著した、鎌倉時代末に成立した日本仏教史
『吾妻鏡』
幕府の行事も掲載されるが、ほとんどが公家の年中行事
武家文化が、公家文化を大きな土台にして成立していた証拠
古典研究
過ぎ去った良き時代への懐古・尊重から、公家社会の儀礼・年中行事・官職などを研究する有職故実 ゆうそくこじつという学問が盛んになりました。
承久の乱後に配流された順徳上皇は、著書『禁秘抄』で有職故実を解説
公家文化の受容・理解
鎌倉時代前期、幕府・武士は公家文化の受容・理解に努めました。
北条(金沢)実時さねときは金沢文庫を建て、京都から書物を収集しました。
金沢文庫
鎌倉の外港として栄えた六浦むつらの金沢に立地 | 金槐和歌集と山家集の違いを説明して下さい。 | 金槐和歌集は藤原定家に学んだ3代将軍源実朝の歌集ですが、
山家集はもと武士で、出家して諸国を遍歴した西行の歌集です。 |
JCRRAG_017931 | 歴史 | 人間の病気にはいろいろの種類がありますが、そのなかで最も恐ろしいものは伝染病であって、昔の時代にはコレラやペストや天然痘などの伝染病がひどく流行し、それで数えきれないほどたくさんの人々の生命を奪ったことも、ずいぶん度々あったのでした。
そのほかにも伝染病の種類はたくさんにあるのですが、昔の人たちはそれらを恐ろしいとは思っていたものの、どうしてそういう病気が伝染するのかはまるでわからなかったのですから、ともかく神さまにお祈りするとか、いろいろのおまじないなどをして、それから免れようとするのがせいぜいであったのでした。
ところでこのような多くの伝染病は眼に見えないほどの小さなばい菌からおこるのだということは、今では一般に知られていますし、ですから消毒を行ってそのばい菌を殺してしまえば病気もなくなってしまうこともすっかりわかったのですが、それがこれほどわかったのは、つまりは微生物学という学問がすばらしく発達して来たおかげなのです。
さて、この微生物学はいつ頃から始まったのかといいますと、それはもちろんばい菌のような微生物を見ることのできる顕微鏡がだんだん発達してからのことであるのはいうまでもありません。
顕微鏡の最初のものは、虫眼鏡を利用してつくられたのですが、それは十七世紀の時代で、オランダのレーヴェンホークという学者が初めて水溜りのなかにある微生物を見つけ出したといわれています。
微生物といっても、もちろんその頃はどんなものかはっきりしなかったのですが、だんだんにその研究が進んで来て、十九世紀の半ば頃になってようやくそのなかには原虫類という動物に属するものと、細菌またはバクテリアと呼ばれる植物に属するものとあることがわかって来ました。
またこのような微生物が見つけ出されてからも、それらの微生物はどこからか自然に湧き出てくるものだという考えが一般に行われていて、これはなかなか人々の頭を去らなかったのでした。
もっとも十七世紀の時代に既にイタリヤのレーデイという動物学者は肉が腐っても蠅を近よらせなければ蛆が発生しないということを実験で示したのでしたが、微生物はまさかそうはいくまいと、多くの人々は考えていましたし、また十七世紀の始め頃には、食料品を熱して缶詰にすると、いつまでも腐敗しないことがわかり、その方法が広く行われるようになったのにも拘らず、この際に微生物の発生しないのは、微生物に必要である空気が取りのけられているからだといって、やはり自然発生を信じている人々もかなりあったのでした。
ですからそういう考えの全く誤りであることが確かにされたのは、ようやく十九世紀の半ば過ぎのことでした。そこには、ここにお話ししようとするパストゥールのたくさんの輝かしい研究が成されたからであるということを知らなければならないのです。
実際に微生物学はパストゥールのおかげでどれ程進歩したかを見ますと、いかにも驚くべきほどで、昔から悪魔のように呪われた伝染病が、今では適当な方法を講じさえすれば、さほど恐ろしいものではなくなったというのも、すべてこれらの研究のおかげであることを思うならば、このような研究こそじつに我々人間にとってこの上なく尊い賜物であるといわなくてはならないでしょう。 | 微生物への考えの全く誤りであることが確かにされたのは、なぜですか。 | 微生物への考えの全く誤りであることが確かにされたのはパストゥールのたくさんの輝かしい研究が成されたからである。 |
JCRRAG_017932 | 歴史 | 江戸幕府14代将軍は、徳川家茂です。
徳川家茂と和宮は政略結婚で結ばれましたが、実は心温まる暮らしを送っていたと伝えられています。京都から和宮に付き従っていた女官「庭田嗣子」(にわたつぐこ)が著した「御側日記」(おそばにっき)には、2人が仲睦まじく労りあっていた様子が記されているのです。
徳川家茂が和宮に対し、細やかな愛情を持っていたことが窺える逸話のひとつが、徳川家茂が和宮に金魚や鼈甲(べっこう)の簪(かんざし)を贈ったというものがあります。さらには、上洛の前夜には夫婦で夕食を取り、ひとときの別れを惜しんだことが伝えられているのです。
この他にも、「江藤淳」(えとうじゅん)の「勝海舟」(かつかいしゅう)を題材にした評伝「海舟余波 わが読史余滴」(かいしゅうよは わがどくしよてき) には、和宮の心遣いが分かる逸話が記されています。
それは、徳川家茂と和宮、そして天璋院の3人で、踏石から履物を履こうとしたとき、徳川家茂の履物だけが踏石より下にあった際、和宮が下に降りて徳川家茂の履物を渡したとされ、和宮が徳川家茂を大事に思っていたことが分かります。
徳川家茂と和宮の結婚生活が続いたのは、たった4年余りで、その年月の間に徳川家茂は、3回に亘って上洛しており、2年以上も江戸城にいませんでした。徳川家茂と和宮が江戸城で一緒に過ごせたのは、実質2年6ヵ月という短い期間だったのです。
そんな短い結婚生活の間に、2人は夫婦の絆を固く結んでいました。それが分かるのが、徳川家茂の上洛にまつわる逸話です。
徳川家茂の上洛が決まると、和宮は「徳川家」(とくがわけ)の菩提寺である「増上寺」(ぞうじょうじ)のお札を勧請(かんじょう:神仏の分霊を、別の地に移して祀ること)し、お百度参りを行なっていました。
和宮は、妻として夫である徳川家茂の無事を祈っていたのです。
公武合体を実現させるための駆け引きのなかで、翻弄された徳川家茂でしたが、和宮との結婚生活は幸せな時間を過ごせた良き結果となったと言えます。 | 江戸幕府14代将軍と和宮は政略結婚で結ばれたが、どのような暮らしを送っていたか。 | 江戸幕府14代将軍と和宮は政略結婚で結ばれたが、心温まる暮らしを送っていた。 |
JCRRAG_017933 | 歴史 | 京都から岐阜に帰って準備を整えた信長は、六月十九日に二万以上の大軍を用意して岐阜を立ち、二十一日早くも浅井の本城がある小谷に迫り町家を焼き払った。しかし、一向に浅井が出て戦わないので引き上げて姉川を渡り、その左岸にある横山城を攻めた。
そして、横山城の北竜ヶ鼻に陣して、家康が来るのを待った。
六月二十七日、家康は約五千以上の騎馬を率いて応援に駆けつけた。
(家康に取っても、大事ないくさであった。信長から加勢をお願いされて、家康の側近と相談したが、本多平八郎忠勝が家康に「信長公を安心の出来る味方と思っているかも知れないが、そうとは限らないと思います。隙あらば殿を面倒な戦いをさせて戦死をするように工作をするとも限りません。今回の出撃は非常に大事であります」と。
家康はその言葉によろこび、わざと多くの軍勢を引き連れずに行ったのだ。出先で敗れても、国が手薄にならぬ為の用意であった)
長政は、朝倉に対する義理から、好意から信長に背いているのに、肝心の朝倉義景は、この大事な一戦に自ら出向いて来ないのである。
隣の家が焼けているうちは、まだまだという考えなのである。もっとも、そうした暗愚の義景を頼りにしたのは、長政の失敗でもあるが。
長政、朝倉の応援を得て、横山城を救おうとして、二十五日小谷城を出てその東にある大寄山に陣を張った。
翌二十八日には、三十町も進み来り、浅井軍は野村に朝倉勢は三田村に展開した。
かくて、織田徳川軍は姉川を挟んで浅井朝倉軍と南北に対峙した。
今南軍、織田徳川方の陣容を見るに、
織田信長(三十七歳)
二百四十余万石、兵数六万、姉川に来たのは、その半数
阪井政尚 兵三千人
池田信輝 兵三千人
木下秀吉 兵三千人
柴田勝家 兵三千人
森可成 兵三千人
佐久間信盛 兵三千人
本陣の信長 兵五千人
横山城への抑えは
丹羽長秀 兵三千人
氏家直元 兵千人
安藤範俊 兵千人
織田信長軍 合計二万八千人
徳川家康 二十九歳
六十余万石、兵数約一万六千、姉川に来たもの五千
酒井忠次 兵千人
小笠原長忠 兵千人
石川数正 兵千人
本陣家康 兵二千人
外に信長より家康への加勢として
稲葉通朝 兵千人
徳川軍合計 六千人
徳川家康の部将の中でも酒井石川は譜代だが、小笠原与八郎長忠だけはそうではない。
小笠原は、元々今川家の大将で武功の勇猛な武将である。家康に従ってはいるが、もし家康が信長へ加勢として上方にでも遠征したら、その隙に遠州をかすめ取るというつもりだった。家康もその辺はちゃんとわかっているので一緒に連れて来たわけである。
つまり、まだ馴れない猛獣に、くさりをつけて引っぱって来て戦争に使おうというのである。
それだけの小笠原であるから、武功の士も多く、姉川においての働きもまた格別であった。
家康が到着した時に信長は遠い所から応援に来たことに感謝しながら、明日はどうか弱そうな所に行って助けてくれといった。
つまり予備隊になってくれというわけだ。
家康はその提案を嫌って、軍は少ないが独立して一つの軍として戦いたいと主張した。
この主張が通らないのなら、本国に引き返しますといった。
信長はそういうのなら、朝倉勢を引き受けて貰いたいといった。もっとも北国の大敵に向わせられるには、お前の軍の数だけでは、あまりに小人数である。私の軍勢から、誰かえらんでくれといった。
家康は、自分は小国で小勢を使う事に慣れているから大勢は使えないし、知らぬ人間に指図するのも気苦労だから、自分の軍勢だけで沢山だと断った。信長は重ねて、朝倉という北国の大軍を家康だけに任せたとあっては、信長が天下の笑いものになるから、義理でもいいから誰かを使ってくれと、ひたすら勧めたので、なら仕方がないので稲葉伊予守貞通を貸してくれといった。
稲葉伊予守は、稲葉一徹で美濃三人衆の一人として、斎藤家以来の名誉の士だった。
茶室で信長に殺されかけたのを、床の間にかかっている韓退之の詩『雲横秦嶺』を読んで自らの命を助けた文武を兼ね備えた豪傑である。
戦いの後、信長は稲葉の功労を褒めて、自分の一字をやって長通と名乗れという。
稲葉はよろこばずして信長に向かって、「殿は盲大将にして、人の剛勇と臆病が分らないのだ。自分は上方勢の中では、槍取る者とも言われるが、徳川殿の中に加わってしまっては、足手まといの弱兵だし役に立ったとも思えないしそんな私の勲功をお褒めになるなど身びいきというもので、三河の人にそう思われる事も恥ずかしいのです」と。自分の勲功を謙遜し、家康勢を褒め上げるなど、外交手段を心得たなかなかの曲者である。
浅井朝倉の陣容は、次の通りだった。
浅井勢
浅井長政 二十六歳
三十九万石、兵数約一万
磯野員昌 兵千五百
浅井政澄 兵千
阿閑貞秀 兵千
新庄直頼 兵千
本陣浅井長政 兵三千五百
朝倉勢 朝倉義景
八十七万石、兵数二万、姉川に来りしもの一万
朝倉景紀 兵三千
前波新八郎 兵三千
本陣 朝倉景健 兵四千
『真書太閣記』によると、浅井朝倉方の戦前の軍議の模様は、左の通りだ。 | 織田信長軍と徳川軍のうち、より兵の数が多いほうを教えてください。 | 織田信長軍と徳川軍のうち、より兵の数が多いのは織田信長軍で二万八千人です。 |
JCRRAG_017934 | 歴史 | 殿との館様の起原
ついでに殿という字の意味を話すなら、殿は文字の示すごとく長者の建築物に対する敬号である。家号の属する土地である。建築物を呼んでその中に住んでいる人を直接呼ぶことを憚った意味である。すなわち御屋敷ということです。これがついに移り変わって、直接人の名を郡長殿、局長殿というように、人の名を意味するようになったのは、はなはだしい変転であります。南北朝頃の文書、ことに諸国の侍に大将から出した感状などを見ると、人の通称に殿の字を付けたものが表われかかっている。
一例をいえば河野武蔵守殿というようになっている。これが奥羽の方へ行くと何のなにがし館と書いてある。武士の住宅を館というのは東北地方の方言で、西国に行けば京都に私淑して武家も皆殿と呼んだのである。
それに比べればはるかに後の代の発生でありますが、様というのは方向を示す言葉がもとになっています。西様、東様というようなのはその例であります。人を呼ぶに様を使うのは、直接その人を呼ぶのが失礼であるから、わざと漠然とその方向を指したのである。今日我々があなた、そなたというのはまったくこれと同じ使い方です。したがって殿や様は君ということばとは非常に意味が違うのであります。ことに人を呼んで何の何兵衛氏と呼ぶのは、誰が始めたことかは知らないが、歴史的根拠も何もない無趣味の慣例といわなければならない。
家号製造の由来
そこでいよいよ本論に入りますが、地方の武家がわずか百年か百五十年の間に、数万の名字を製造した由来は、まったく藤原家の分立したのと同じ理由であるといってよい。京都の貴族ならば官名で呼ぶ事もできれば、その時々の位で呼ぶ事もできたのに、なおこのように分かれて行ったのである。まして地方における無官の大夫連にあっては、武蔵一国の平地にも数百の源太、数千の藤次・平三がいるので、とても何か今一段の区別法を作らずには交通ができなかった。それも一つの垣内と、一つの屋敷内に親子兄弟が共に住んでいる時ならば仕方がないが、家族の増加するに従って付近の村々に分家をさせて、新開をさせるようになってからは、それぞれの地名を呼ぶことが簡単になったことから、遠慮なく家というものが統一を害するといういささかの懸念もなしに、家号を製造して行ったのであります。 | 様という単語が、方向を示す言葉として使われている例の数を教えてください。 | 様という単語が、方向を示す言葉として使われている例の数は2で、
「西様」
「東様」
です。 |
JCRRAG_017935 | 歴史 | 文学の新傾向
和歌
職業的な専門歌人が登場して、歌の指導・優劣の判定を勤めました。
専門歌人の登場の一方で、後鳥羽上皇は和歌に異常な意欲を示し、13世紀初頭、藤原定家さだいえらに『新古今和歌集』を編纂させました。
藤原定家
小倉百人一首の選者
新古今和歌集
八代集の最後を飾る勅撰和歌集
13世紀初頭には、優れた歌集が新古今和歌集の他にも登場しました。
『金槐きんかい和歌集』
藤原定家に学んだ3代将軍源実朝さねともの歌集
『山家集さんかしゅう』
もと武士で、出家して諸国を遍歴した西行さいぎょう の歌集
『金槐和歌集』
「金」とは鎌の偏を表し、「槐」とは大臣の中国名である槐門の意
随筆と説話
随筆
『方丈記』
平安末期の災厄を描き、人や社会の無常を嘆く鴨長明かものちょうめいの随筆
『徒然草つれづれぐさ』
14世紀の動乱期を深い洞察力で描く兼好法師の随筆
『方丈記』『徒然草』
和漢混淆文こんこうぶんの代表作
説話
『十訓抄じっきんしょう』
作者不詳の儒教的説話集
『沙石集しゃせきしゅう』
無住むじゅうの仏教説話集
『古今著聞集ここんちょもんじゅう』
橘成季なりすえ の作で、貴族文化に関する説話集
紀行と日記
鎌倉が政治の拠点になると、京都・鎌倉間を往復する人が増加しました。
『海道記』『東関紀行』などの紀行(旅行中の体験記)が登場しました。
『十六夜いざよい日記』
阿仏尼あぶつに の日記で、夫藤原為家(定家の子)の所領訴訟のために鎌倉に下る話などの紀行も記録
十六夜日記
太陰暦16日の夜に京都を出発したことに由来
阿仏尼
訴訟の結果を待たずに死去
軍記
院政期に軍記物語が登場して以来、合戦記録は公家の関心を引きました。
『保元物語』
保元の乱(1156年)を題材とする軍記物語
『平治物語』
平治の乱(1159年)を題材とする軍記物語
『平家物語』
平氏の興亡を題材とする軍記物語
平家物語は琵琶びわ法師によって平曲として語られました。
平家物語
『徒然草』に「行長入道ゆきながにゅうどう、平家物語をつくりて」とあり、作者は信濃しなのの 前司ぜんじ行長ゆきながか
平曲
琵琶を弾きながら平家物語を語る音楽
学問と思想
歴史と古典研究
歴史書
社会変動の中で、公家社会の推移を見つけようとする気運が生じました。
藤原忠通の子で天台座主ざすの慈円じえん は、『愚管抄ぐかんしょう』を著しました。
『愚管抄』
物事には全てそれがそうである道理があり、特に歴史を貫く大きな道理を模索した歴史書
その他の歴史書
『吾妻鏡あずまかがみ』
鎌倉幕府が編纂した歴史書
『水鏡』
「四鏡」の1つで、鎌倉時代初期に成立
『元亨釈書げんこうしゃくしょ』
虎関師錬 こかんしれんが著した、鎌倉時代末に成立した日本仏教史
『吾妻鏡』
幕府の行事も掲載されるが、ほとんどが公家の年中行事
武家文化が、公家文化を大きな土台にして成立していた証拠
古典研究
過ぎ去った良き時代への懐古・尊重から、公家社会の儀礼・年中行事・官職などを研究する有職故実 ゆうそくこじつという学問が盛んになりました。
承久の乱後に配流された順徳上皇は、著書『禁秘抄』で有職故実を解説
公家文化の受容・理解
鎌倉時代前期、幕府・武士は公家文化の受容・理解に努めました。
北条(金沢)実時さねときは金沢文庫を建て、京都から書物を収集しました。
金沢文庫
鎌倉の外港として栄えた六浦むつらの金沢に立地 | 方丈記と徒然草の違いを説明して下さい。 | 方丈記は平安末期の災厄を描き、人や社会の無常を嘆く鴨長明の随筆ですが、
徒然草は14世紀の動乱期を深い洞察力で描く兼好法師の随筆です。 |
JCRRAG_017936 | 歴史 | 江戸幕府14代将軍は、徳川家茂です。
徳川家茂と和宮は政略結婚で結ばれましたが、実は心温まる暮らしを送っていたと伝えられています。京都から和宮に付き従っていた女官「庭田嗣子」(にわたつぐこ)が著した「御側日記」(おそばにっき)には、2人が仲睦まじく労りあっていた様子が記されているのです。
徳川家茂が和宮に対し、細やかな愛情を持っていたことが窺える逸話のひとつが、徳川家茂が和宮に金魚や鼈甲(べっこう)の簪(かんざし)を贈ったというものがあります。さらには、上洛の前夜には夫婦で夕食を取り、ひとときの別れを惜しんだことが伝えられているのです。
この他にも、「江藤淳」(えとうじゅん)の「勝海舟」(かつかいしゅう)を題材にした評伝「海舟余波 わが読史余滴」(かいしゅうよは わがどくしよてき) には、和宮の心遣いが分かる逸話が記されています。
それは、徳川家茂と和宮、そして天璋院の3人で、踏石から履物を履こうとしたとき、徳川家茂の履物だけが踏石より下にあった際、和宮が下に降りて徳川家茂の履物を渡したとされ、和宮が徳川家茂を大事に思っていたことが分かります。
徳川家茂と和宮の結婚生活が続いたのは、たった4年余りで、その年月の間に徳川家茂は、3回に亘って上洛しており、2年以上も江戸城にいませんでした。徳川家茂と和宮が江戸城で一緒に過ごせたのは、実質2年6ヵ月という短い期間だったのです。
そんな短い結婚生活の間に、2人は夫婦の絆を固く結んでいました。それが分かるのが、徳川家茂の上洛にまつわる逸話です。
徳川家茂の上洛が決まると、和宮は「徳川家」(とくがわけ)の菩提寺である「増上寺」(ぞうじょうじ)のお札を勧請(かんじょう:神仏の分霊を、別の地に移して祀ること)し、お百度参りを行なっていました。
和宮は、妻として夫である徳川家茂の無事を祈っていたのです。
公武合体を実現させるための駆け引きのなかで、翻弄された徳川家茂でしたが、和宮との結婚生活は幸せな時間を過ごせた良き結果となったと言えます。 | 江戸幕府14代将軍が和宮に対し、細やかな愛情を持っていたことが窺える逸話のひとつは何か。 | 江戸幕府14代将軍が和宮に対し、細やかな愛情を持っていたことが窺える逸話のひとつが、徳川家茂が和宮に金魚や鼈甲の簪を贈ったというものがある。 |
JCRRAG_017937 | 歴史 | 京都から岐阜に帰って準備を整えた信長は、六月十九日に二万以上の大軍を用意して岐阜を立ち、二十一日早くも浅井の本城がある小谷に迫り町家を焼き払った。しかし、一向に浅井が出て戦わないので引き上げて姉川を渡り、その左岸にある横山城を攻めた。
そして、横山城の北竜ヶ鼻に陣して、家康が来るのを待った。
六月二十七日、家康は約五千以上の騎馬を率いて応援に駆けつけた。
(家康に取っても、大事ないくさであった。信長から加勢をお願いされて、家康の側近と相談したが、本多平八郎忠勝が家康に「信長公を安心の出来る味方と思っているかも知れないが、そうとは限らないと思います。隙あらば殿を面倒な戦いをさせて戦死をするように工作をするとも限りません。今回の出撃は非常に大事であります」と。
家康はその言葉によろこび、わざと多くの軍勢を引き連れずに行ったのだ。出先で敗れても、国が手薄にならぬ為の用意であった)
長政は、朝倉に対する義理から、好意から信長に背いているのに、肝心の朝倉義景は、この大事な一戦に自ら出向いて来ないのである。
隣の家が焼けているうちは、まだまだという考えなのである。もっとも、そうした暗愚の義景を頼りにしたのは、長政の失敗でもあるが。
長政、朝倉の応援を得て、横山城を救おうとして、二十五日小谷城を出てその東にある大寄山に陣を張った。
翌二十八日には、三十町も進み来り、浅井軍は野村に朝倉勢は三田村に展開した。
かくて、織田徳川軍は姉川を挟んで浅井朝倉軍と南北に対峙した。
今南軍、織田徳川方の陣容を見るに、
織田信長(三十七歳)
二百四十余万石、兵数六万、姉川に来たのは、その半数
阪井政尚 兵三千人
池田信輝 兵三千人
木下秀吉 兵三千人
柴田勝家 兵三千人
森可成 兵三千人
佐久間信盛 兵三千人
本陣の信長 兵五千人
横山城への抑えは
丹羽長秀 兵三千人
氏家直元 兵千人
安藤範俊 兵千人
織田信長軍 合計二万八千人
徳川家康 二十九歳
六十余万石、兵数約一万六千、姉川に来たもの五千
酒井忠次 兵千人
小笠原長忠 兵千人
石川数正 兵千人
本陣家康 兵二千人
外に信長より家康への加勢として
稲葉通朝 兵千人
徳川軍合計 六千人
徳川家康の部将の中でも酒井石川は譜代だが、小笠原与八郎長忠だけはそうではない。
小笠原は、元々今川家の大将で武功の勇猛な武将である。家康に従ってはいるが、もし家康が信長へ加勢として上方にでも遠征したら、その隙に遠州をかすめ取るというつもりだった。家康もその辺はちゃんとわかっているので一緒に連れて来たわけである。
つまり、まだ馴れない猛獣に、くさりをつけて引っぱって来て戦争に使おうというのである。
それだけの小笠原であるから、武功の士も多く、姉川においての働きもまた格別であった。
家康が到着した時に信長は遠い所から応援に来たことに感謝しながら、明日はどうか弱そうな所に行って助けてくれといった。
つまり予備隊になってくれというわけだ。
家康はその提案を嫌って、軍は少ないが独立して一つの軍として戦いたいと主張した。
この主張が通らないのなら、本国に引き返しますといった。
信長はそういうのなら、朝倉勢を引き受けて貰いたいといった。もっとも北国の大敵に向わせられるには、お前の軍の数だけでは、あまりに小人数である。私の軍勢から、誰かえらんでくれといった。
家康は、自分は小国で小勢を使う事に慣れているから大勢は使えないし、知らぬ人間に指図するのも気苦労だから、自分の軍勢だけで沢山だと断った。信長は重ねて、朝倉という北国の大軍を家康だけに任せたとあっては、信長が天下の笑いものになるから、義理でもいいから誰かを使ってくれと、ひたすら勧めたので、なら仕方がないので稲葉伊予守貞通を貸してくれといった。
稲葉伊予守は、稲葉一徹で美濃三人衆の一人として、斎藤家以来の名誉の士だった。
茶室で信長に殺されかけたのを、床の間にかかっている韓退之の詩『雲横秦嶺』を読んで自らの命を助けた文武を兼ね備えた豪傑である。
戦いの後、信長は稲葉の功労を褒めて、自分の一字をやって長通と名乗れという。
稲葉はよろこばずして信長に向かって、「殿は盲大将にして、人の剛勇と臆病が分らないのだ。自分は上方勢の中では、槍取る者とも言われるが、徳川殿の中に加わってしまっては、足手まといの弱兵だし役に立ったとも思えないしそんな私の勲功をお褒めになるなど身びいきというもので、三河の人にそう思われる事も恥ずかしいのです」と。自分の勲功を謙遜し、家康勢を褒め上げるなど、外交手段を心得たなかなかの曲者である。
浅井朝倉の陣容は、次の通りだった。
浅井勢
浅井長政 二十六歳
三十九万石、兵数約一万
磯野 員昌 兵千五百
浅井 政澄 兵千
阿閑 貞秀 兵千
新庄 直頼 兵千
本陣浅井長政 兵三千五百
朝倉勢 朝倉義景
八十七万石、兵数二万、姉川に来りしもの一万
朝倉 景紀 兵三千
前波新八郎 兵三千
本陣 朝倉景健 兵四千
『真書太閣記』によると、浅井朝倉方の戦前の軍議の模様は、左の通りだ。 | 織田信長軍のうち、もっとも兵の数が多い武将を教えてください。 | 織田信長軍のうち、もっとも兵の数が多い武将は本陣の信長で五千人です。 |
JCRRAG_017938 | 歴史 | 殿との館様の起原
ついでに殿という字の意味を話すなら、殿は文字の示すごとく長者の建築物に対する敬号である。家号の属する土地である。建築物を呼んでその中に住んでいる人を直接呼ぶことを憚った意味である。すなわち御屋敷ということです。これがついに移り変わって、直接人の名を郡長殿、局長殿というように、人の名を意味するようになったのは、はなはだしい変転であります。南北朝頃の文書、ことに諸国の侍に大将から出した感状などを見ると、人の通称に殿の字を付けたものが表われかかっている。
一例をいえば河野武蔵守殿というようになっている。これが奥羽の方へ行くと何のなにがし館と書いてある。武士の住宅を館というのは東北地方の方言で、西国に行けば京都に私淑して武家も皆殿と呼んだのである。
それに比べればはるかに後の代の発生でありますが、様というのは方向を示す言葉がもとになっています。西様、東様というようなのはその例であります。人を呼ぶに様を使うのは、直接その人を呼ぶのが失礼であるから、わざと漠然とその方向を指したのである。今日我々があなた、そなたというのはまったくこれと同じ使い方です。したがって殿や様は君ということばとは非常に意味が違うのであります。ことに人を呼んで何の何兵衛氏と呼ぶのは、誰が始めたことかは知らないが、歴史的根拠も何もない無趣味の慣例といわなければならない。
家号製造の由来
そこでいよいよ本論に入りますが、地方の武家がわずか百年か百五十年の間に、数万の名字を製造した由来は、まったく藤原家の分立したのと同じ理由であるといってよい。京都の貴族ならば官名で呼ぶ事もできれば、その時々の位で呼ぶ事もできたのに、なおこのように分かれて行ったのである。まして地方における無官の大夫連にあっては、武蔵一国の平地にも数百の源太、数千の藤次・平三がいるので、とても何か今一段の区別法を作らずには交通ができなかった。それも一つの垣内と、一つの屋敷内に親子兄弟が共に住んでいる時ならば仕方がないが、家族の増加するに従って付近の村々に分家をさせて、新開をさせるようになってからは、それぞれの地名を呼ぶことが簡単になったことから、遠慮なく家というものが統一を害するといういささかの懸念もなしに、家号を製造して行ったのであります。 | 地方にいる無官の大夫達において数千はいる名前の数を教えてください。 | 地方にいる無官の大夫達において数千はいる名前の数は2で、
「藤次」
「平三」
です。 |
JCRRAG_017939 | 歴史 | 文学の新傾向
和歌
職業的な専門歌人が登場して、歌の指導・優劣の判定を勤めました。
専門歌人の登場の一方で、後鳥羽上皇は和歌に異常な意欲を示し、13世紀初頭、藤原定家さだいえらに『新古今和歌集』を編纂させました。
藤原定家
小倉百人一首の選者
新古今和歌集
八代集の最後を飾る勅撰和歌集
13世紀初頭には、優れた歌集が新古今和歌集の他にも登場しました。
『金槐きんかい和歌集』
藤原定家に学んだ3代将軍源実朝さねともの歌集
『山家集さんかしゅう』
もと武士で、出家して諸国を遍歴した西行さいぎょう の歌集
『金槐和歌集』
「金」とは鎌の偏を表し、「槐」とは大臣の中国名である槐門の意
随筆と説話
随筆
『方丈記』
平安末期の災厄を描き、人や社会の無常を嘆く鴨長明かものちょうめいの随筆
『徒然草つれづれぐさ』
14世紀の動乱期を深い洞察力で描く兼好法師の随筆
『方丈記』『徒然草』
和漢混淆文こんこうぶんの代表作
説話
『十訓抄じっきんしょう』
作者不詳の儒教的説話集
『沙石集しゃせきしゅう』
無住むじゅうの仏教説話集
『古今著聞集ここんちょもんじゅう』
橘成季なりすえ の作で、貴族文化に関する説話集
紀行と日記
鎌倉が政治の拠点になると、京都・鎌倉間を往復する人が増加しました。
『海道記』『東関紀行』などの紀行(旅行中の体験記)が登場しました。
『十六夜いざよい日記』
阿仏尼あぶつに の日記で、夫藤原為家(定家の子)の所領訴訟のために鎌倉に下る話などの紀行も記録
十六夜日記
太陰暦16日の夜に京都を出発したことに由来
阿仏尼
訴訟の結果を待たずに死去
軍記
院政期に軍記物語が登場して以来、合戦記録は公家の関心を引きました。
『保元物語』
保元の乱(1156年)を題材とする軍記物語
『平治物語』
平治の乱(1159年)を題材とする軍記物語
『平家物語』
平氏の興亡を題材とする軍記物語
平家物語は琵琶びわ法師によって平曲として語られました。
平家物語
『徒然草』に「行長入道ゆきながにゅうどう、平家物語をつくりて」とあり、作者は信濃しなのの 前司ぜんじ行長ゆきながか
平曲
琵琶を弾きながら平家物語を語る音楽
学問と思想
歴史と古典研究
歴史書
社会変動の中で、公家社会の推移を見つけようとする気運が生じました。
藤原忠通の子で天台座主ざすの慈円じえん は、『愚管抄ぐかんしょう』を著しました。
『愚管抄』
物事には全てそれがそうである道理があり、特に歴史を貫く大きな道理を模索した歴史書
その他の歴史書
『吾妻鏡あずまかがみ』
鎌倉幕府が編纂した歴史書
『水鏡』
「四鏡」の1つで、鎌倉時代初期に成立
『元亨釈書げんこうしゃくしょ』
虎関師錬 こかんしれんが著した、鎌倉時代末に成立した日本仏教史
『吾妻鏡』
幕府の行事も掲載されるが、ほとんどが公家の年中行事
武家文化が、公家文化を大きな土台にして成立していた証拠
古典研究
過ぎ去った良き時代への懐古・尊重から、公家社会の儀礼・年中行事・官職などを研究する有職故実 ゆうそくこじつという学問が盛んになりました。
承久の乱後に配流された順徳上皇は、著書『禁秘抄』で有職故実を解説
公家文化の受容・理解
鎌倉時代前期、幕府・武士は公家文化の受容・理解に努めました。
北条(金沢)実時さねときは金沢文庫を建て、京都から書物を収集しました。
金沢文庫
鎌倉の外港として栄えた六浦むつらの金沢に立地 | 保元物語と平治物語の違いを説明して下さい。 | 保元物語は保元の乱(1156年)を題材とする軍記物語ですが、
平治物語は平治の乱(1159年)を題材とする軍記物語です。 |
JCRRAG_017940 | 歴史 | 江戸幕府14代将軍は、徳川家茂です。
徳川家茂と和宮は政略結婚で結ばれましたが、実は心温まる暮らしを送っていたと伝えられています。京都から和宮に付き従っていた女官「庭田嗣子」(にわたつぐこ)が著した「御側日記」(おそばにっき)には、2人が仲睦まじく労りあっていた様子が記されているのです。
徳川家茂が和宮に対し、細やかな愛情を持っていたことが窺える逸話のひとつが、徳川家茂が和宮に金魚や鼈甲(べっこう)の簪(かんざし)を贈ったというものがあります。さらには、上洛の前夜には夫婦で夕食を取り、ひとときの別れを惜しんだことが伝えられているのです。
この他にも、「江藤淳」(えとうじゅん)の「勝海舟」(かつかいしゅう)を題材にした評伝「海舟余波 わが読史余滴」(かいしゅうよは わがどくしよてき) には、和宮の心遣いが分かる逸話が記されています。
それは、徳川家茂と和宮、そして天璋院の3人で、踏石から履物を履こうとしたとき、徳川家茂の履物だけが踏石より下にあった際、和宮が下に降りて徳川家茂の履物を渡したとされ、和宮が徳川家茂を大事に思っていたことが分かります。
徳川家茂と和宮の結婚生活が続いたのは、たった4年余りで、その年月の間に徳川家茂は、3回に亘って上洛しており、2年以上も江戸城にいませんでした。徳川家茂と和宮が江戸城で一緒に過ごせたのは、実質2年6ヵ月という短い期間だったのです。
そんな短い結婚生活の間に、2人は夫婦の絆を固く結んでいました。それが分かるのが、徳川家茂の上洛にまつわる逸話です。
徳川家茂の上洛が決まると、和宮は「徳川家」(とくがわけ)の菩提寺である「増上寺」(ぞうじょうじ)のお札を勧請(かんじょう:神仏の分霊を、別の地に移して祀ること)し、お百度参りを行なっていました。
和宮は、妻として夫である徳川家茂の無事を祈っていたのです。
公武合体を実現させるための駆け引きのなかで、翻弄された徳川家茂でしたが、和宮との結婚生活は幸せな時間を過ごせた良き結果となったと言えます。 | 江戸幕府14代将軍と和宮の結婚生活が続いたのは、何年か。 | 江戸幕府14代将軍と和宮の結婚生活が続いたのは、4年余りだった。 |
JCRRAG_017941 | 歴史 | 朝倉勢はいくさに勝つぞと姉川を渡り左岸に殺到したところ、徳川勢をひき寄せて、左右からこれを迎え撃った。
酒井忠次、榊原康政等は姉川の上流を渡り、朝倉勢の側面から横槍を入れて無二無三に攻め立てたので、朝倉勢はようやく浮き足立った。
徳川勢はこれに乗じて追撃したので、朝倉軍はうろたえて川を渡って撤退しようとして、大将孫三郎景健さえ乱軍の中に取り巻かれた。
その時、朝倉家において唯一の豪の者ときこえた真柄十郎左衛門直隆が取って返して奮戦した。
十郎左衛門はこの度の戦に景健の後見人として義景から特に頼まれて出陣した男だ。
彼は講談でも有名な男だが、北国無双の怪力である。その使っている太刀は有名な太郎太刀だ。
越前の千代鶴という鍛冶が作り出した太刀で七尺八寸あったといわれている。講談では余り幅が広いので、前方を見る邪魔にならぬよう窓をつけてあったとさえ言われている。それは嘘かもしれないが、重量を減らすためにところどころ窓があったかも知れない。
だが真柄の領内で、この太刀を担ぐことができる百姓はたった一人であり、常に家来が四人で運んでいたというから七尺八寸という方が本当かも知れない。
これに対して次郎太刀というのもあった。次郎太刀は六尺五寸あったといわれている。
直隆、景健の苦戦を見て、太郎太刀を「薙刀の如く」ふりかざし、馬手や弓手を当たりを付けられた事を幸いに薙ぎ伏せて斬り伏せて、縦に横にと十文字に駆け抜けて、向かってくる者の兜の真向や鎧の袖を微塵になれと言わんばかりに斬って回り、流石の徳川勢も直隆一人に斬り立てられてしまった。
直隆の向かう所、20〜30メートル四方は小田原のようになってしまった。 | 真柄十郎左衛門直隆が持っている太刀の中で、より長いほうの太刀の長さを教えてください。 | 真柄十郎左衛門直隆が持っている太刀の中で、より長いほうの太刀の長さは七尺八寸です。 |
JCRRAG_017942 | 歴史 | 開墾奨励法
この話をするためには少しく王朝時代の開墾の事情を説かねばならぬ。最初は百姓が重税その他の理由から、土地を捨てて立ち退いた跡が荒れて行く恐れもあり、また政府としては収入の増加を謀る必要があったために、これらの荒地もしくは原野を開墾する者には、奨励として永くその田地を持たせるという開墾奨励法が出たのが元であって、地方の百姓の中で下人などの多く資本の余裕のあるものは、この奨励法に基づいて大分開墾したものがあったようであるが、実をいうとこれでは開墾をした楽しみが少ないので、以前通りに重く租税を取られて耕地を殖すのも張り合いが少ない。
荘園の増加
ところが大きな社や寺、または朝廷の大官が特別の思し召しをもって拝領する場合の開墾地は、常に租税の全部を免除してくださるのであるからして、以前のものに比べれば非常に有難味の多いものであれば、これが出てからはもはや通例の荒地開墾などは捨てて顧みるものもなくなったのであります。この第二の特別開墾は、もちろん弊害も多いことであるからして、表向きの法令では力つとめてこれを制限するようにしてあったが、実際は年とともに面積も増加すれば特権も増加して、ついには徴税権はもちろん、いっさいの地方官の行政権の及ばぬ国の中の国のごときものができてしまったのです。
これがすなわち荘園です。荘園の面積は少ないものも三百町五百町、多いものは数郡にわたっておったものもあります。
そうして多くは厄介な地主でありました。境木を立てれば知らぬ間にこれを滑らせるし、面積を限っても地方官と慣れ合って縄延を多くする。要するに近代の北海道開墾の類の、今少しわがままで不公平なものであったのです。
地方豪族と荘園の下受開墾
さて、特許権を受けて新たに荘園を立てたものはいかにしてこれを開発して行くかというに、貴族はもちろん社寺の管理者でも、自分どもは京都におって安楽な生活をしていながら、収益だけを取ろうとするものが多かったのです。もともと貰い物であるがために多分の割引をも意とせずに、地方に住んでいる豪族どもに下受けをさせたのであります。もっともかりに真面目な荘園の領主があって、直接自分が開墾をしようと思っても、平素からそれだけの労働者をやとっておくこともできず、今日のごとく雇えば来てくれる労働者もないから、勢い地方の大家族の戸主と相談をするほかはなかったのであります。しかのみならず武蔵国にはこれだけの原野がある。上野の奥に何百町の空閑(耕さぬ地面)があるということを知らせてくれるものはやはり地方の居住者である。甚だしい事に社寺とか権門の名義だけを借りて、僅かな名義料を「本所」に納めて、実は自分が開墾を経営した場合も少なくないのです。 | 王朝時代に開墾奨励法が出ましたが、どのような状態の土地を開墾させようとしたのか、その地目の数を教えてください。 | 王朝時代に開墾奨励法を出して開墾させようとした土地の地目の数は2で、
「荒地」、「原野」です。 |
JCRRAG_017943 | 歴史 | 広義の室町文化
3つの時期区分
南北朝文化
時期は主に南北朝時代にあたり、動乱の緊張感を背景に歴史書や軍記物語が盛んに作られた文化
北山文化
時期は14世紀末から15世紀前半にあたり、公家・武家の文化融合が進み、禅宗など中国の文化も受けた文化
名称は3代将軍足利義満が京都北山に山荘を建てたことに由来し、この山荘の一部が鹿苑寺金閣
東山文化
時期は応仁の乱中から乱後にあたり、禅の精神に基づく簡素さ(侘 わび)や、言葉で表せない深くほのかな余韻(幽玄)を特徴とする文化
名称は8代将軍足利義政が京都東山に山荘を建てたことに由来し、この山荘の一部が慈照寺銀閣
南北朝文化
歴史書と軍記物語
『増鏡』
「四鏡」の1つで、公家の立場で源平の争乱頃から鎌倉時代末期を記述
『神皇正統記』
南朝の重臣北畠親房が常陸国で執筆し、南朝の正当性を記述
『梅松論』
室町幕府の立場で、執権政治から南北朝の動乱を記述
『太平記』
後醍醐天皇の登場から南北朝の動乱を3部構成で記述
北畠親房
幼少の天皇のために、有職故実の書『職原抄』も執筆
諸文化の流行
田楽・猿楽の演劇形態能、和歌の上句と下句を別の者が作る連歌、多人数で茶を楽しむ茶寄合で茶の味を飲み分ける闘茶が流行しました。
二条良基よしもとは『菟玖波つくば集』を編纂して連歌を和歌と対等の地位にし、また、連歌の規則書『応安新式』を著しました。
「ばさら」と呼ばれる、人目をひく珍奇で派手な服装・行動を好む風潮も流行
田楽能と猿楽能
北山文化
建築
代表例は3代将軍足利義満が建立した鹿苑寺金閣です。
鹿苑寺金閣の建築様式は、伝統的な寝殿造と禅宗様の折衷です。
その他、禅の精神を表現した庭園も造園
仏教
初代将軍足利尊氏が夢窓疎石を篤く帰依したため、室町幕府は鎌倉幕府の方針を受け継ぎ、臨済宗を保護しました。
幕府は臨済宗の寺院を管理するため、五山・十刹の制という寺院の格付けを定めていきました。
五山・十刹の制は足利義満の時代にほぼ完成しました。
僧録
五山・十刹の人事などを司る管理職 | 南北朝文化と北山文化の違いを説明して下さい。 | 南北朝文化は、主に南北朝時代にあたり、動乱の緊張感を背景に歴史書や軍記物語が盛んに作られた文化ですが、
北山文化は、14世紀末から15世紀前半にあたり、公家・武家の文化融合が進み、禅宗など中国の文化も受けた文化です。 |
JCRRAG_017944 | 歴史 | 江戸幕府14代将軍は、徳川家茂です。
徳川家茂と和宮は政略結婚で結ばれましたが、実は心温まる暮らしを送っていたと伝えられています。京都から和宮に付き従っていた女官「庭田嗣子」(にわたつぐこ)が著した「御側日記」(おそばにっき)には、2人が仲睦まじく労りあっていた様子が記されているのです。
徳川家茂が和宮に対し、細やかな愛情を持っていたことが窺える逸話のひとつが、徳川家茂が和宮に金魚や鼈甲(べっこう)の簪(かんざし)を贈ったというものがあります。さらには、上洛の前夜には夫婦で夕食を取り、ひとときの別れを惜しんだことが伝えられているのです。
この他にも、「江藤淳」(えとうじゅん)の「勝海舟」(かつかいしゅう)を題材にした評伝「海舟余波 わが読史余滴」(かいしゅうよは わがどくしよてき) には、和宮の心遣いが分かる逸話が記されています。
それは、徳川家茂と和宮、そして天璋院の3人で、踏石から履物を履こうとしたとき、徳川家茂の履物だけが踏石より下にあった際、和宮が下に降りて徳川家茂の履物を渡したとされ、和宮が徳川家茂を大事に思っていたことが分かります。
徳川家茂と和宮の結婚生活が続いたのは、たった4年余りで、その年月の間に徳川家茂は、3回に亘って上洛しており、2年以上も江戸城にいませんでした。徳川家茂と和宮が江戸城で一緒に過ごせたのは、実質2年6ヵ月という短い期間だったのです。
そんな短い結婚生活の間に、2人は夫婦の絆を固く結んでいました。それが分かるのが、徳川家茂の上洛にまつわる逸話です。
徳川家茂の上洛が決まると、和宮は「徳川家」(とくがわけ)の菩提寺である「増上寺」(ぞうじょうじ)のお札を勧請(かんじょう:神仏の分霊を、別の地に移して祀ること)し、お百度参りを行なっていました。
和宮は、妻として夫である徳川家茂の無事を祈っていたのです。
公武合体を実現させるための駆け引きのなかで、翻弄された徳川家茂でしたが、和宮との結婚生活は幸せな時間を過ごせた良き結果となったと言えます。 | 江戸幕府14代将軍は、和宮との結婚生活中に、何回上洛していたか。 | 江戸幕府14代将軍は、和宮との結婚生活中に、3回に亘って上洛していた。 |
JCRRAG_017945 | 歴史 | 朝倉勢はいくさに勝つぞと姉川を渡り左岸に殺到したところ、徳川勢をひき寄せて、左右からこれを迎え撃った。
酒井忠次、榊原康政等は姉川の上流を渡り、朝倉勢の側面から横槍を入れて無二無三に攻め立てたので、朝倉勢はようやく浮き足立った。
徳川勢はこれに乗じて追撃したので、朝倉軍はうろたえて川を渡って撤退しようとして、大将孫三郎景健さえ乱軍の中に取り巻かれた。
その時、朝倉家において唯一の豪の者ときこえた真柄十郎左衛門直隆が取って返して奮戦した。
十郎左衛門はこの度の戦に景健の後見人として義景から特に頼まれて出陣した男だ。
彼は講談でも有名な男だが、北国無双の怪力である。その使っている太刀は有名な太郎太刀だ。
越前の千代鶴という鍛冶が作り出した太刀で七尺八寸あったといわれている。講談では余り幅が広いので、前方を見る邪魔にならぬよう窓をつけてあったとさえ言われている。それは嘘かもしれないが、重量を減らすためにところどころ窓があったかも知れない。
だが真柄の領内で、この太刀を担ぐことができる百姓はたった一人であり、常に家来が四人で運んでいたというから七尺八寸という方が本当かも知れない。
これに対して次郎太刀というのもあった。次郎太刀は六尺五寸あったといわれている。
直隆、景健の苦戦を見て、太郎太刀を「薙刀の如く」ふりかざし、馬手や弓手を当たりを付けられた事を幸いに薙ぎ伏せて斬り伏せて、縦に横にと十文字に駆け抜けて、向かってくる者の兜の真向や鎧の袖を微塵になれと言わんばかりに斬って回り、流石の徳川勢も直隆一人に斬り立てられてしまった。
直隆の向かう所、20〜30メートル四方は小田原のようになってしまった。 | 朝倉勢と徳川勢が姉川あたりで戦をしたいたこの時期に存在した太刀の中で、短かったほうの長さを教えてください。 | 朝倉勢と徳川勢が姉川あたりで戦をしたいたこの時期に存在した太刀の中で、短かったほうの長さは六尺五寸です。 |
JCRRAG_017946 | 歴史 | 開墾奨励法
この話をするためには少しく王朝時代の開墾の事情を説かねばならぬ。最初は百姓が重税その他の理由から、土地を捨てて立ち退いた跡が荒れて行く恐れもあり、また政府としては収入の増加を謀る必要があったために、これらの荒地もしくは原野を開墾する者には、奨励として永くその田地を持たせるという開墾奨励法が出たのが元であって、地方の百姓の中で下人などの多く資本の余裕のあるものは、この奨励法に基づいて大分開墾したものがあったようであるが、実をいうとこれでは開墾をした楽しみが少ないので、以前通りに重く租税を取られて耕地を殖すのも張り合いが少ない。
荘園の増加
ところが大きな社や寺、または朝廷の大官が特別の思し召しをもって拝領する場合の開墾地は、常に租税の全部を免除してくださるのであるからして、以前のものに比べれば非常に有難味の多いものであれば、これが出てからはもはや通例の荒地開墾などは捨てて顧みるものもなくなったのであります。この第二の特別開墾は、もちろん弊害も多いことであるからして、表向きの法令では力つとめてこれを制限するようにしてあったが、実際は年とともに面積も増加すれば特権も増加して、ついには徴税権はもちろん、いっさいの地方官の行政権の及ばぬ国の中の国のごときものができてしまったのです。
これがすなわち荘園です。荘園の面積は少ないものも三百町五百町、多いものは数郡にわたっておったものもあります。
そうして多くは厄介な地主でありました。境木を立てれば知らぬ間にこれを滑らせるし、面積を限っても地方官と慣れ合って縄延を多くする。要するに近代の北海道開墾の類の、今少しわがままで不公平なものであったのです。
地方豪族と荘園の下受開墾
さて、特許権を受けて新たに荘園を立てたものはいかにしてこれを開発して行くかというに、貴族はもちろん社寺の管理者でも、自分どもは京都におって安楽な生活をしていながら、収益だけを取ろうとするものが多かったのです。もともと貰い物であるがために多分の割引をも意とせずに、地方に住んでいる豪族どもに下受けをさせたのであります。もっともかりに真面目な荘園の領主があって、直接自分が開墾をしようと思っても、平素からそれだけの労働者をやとっておくこともできず、今日のごとく雇えば来てくれる労働者もないから、勢い地方の大家族の戸主と相談をするほかはなかったのであります。しかのみならず武蔵国にはこれだけの原野がある。上野の奥に何百町の空閑(耕さぬ地面)があるということを知らせてくれるものはやはり地方の居住者である。甚だしい事に社寺とか権門の名義だけを借りて、僅かな名義料を「本所」に納めて、実は自分が開墾を経営した場合も少なくないのです。 | 租税の全部を免除してもらえる場所の数を教えてください。 | 租税の全部を免除してもらえる場所の数は3で、
「大きな社」
「寺」
「朝廷の大官が特別の思し召しをもって拝領する場合の開墾地」
です。 |
JCRRAG_017947 | 歴史 | 広義の室町文化
3つの時期区分
南北朝文化
時期は主に南北朝時代にあたり、動乱の緊張感を背景に歴史書や軍記物語が盛んに作られた文化
北山文化
時期は14世紀末から15世紀前半にあたり、公家・武家の文化融合が進み、禅宗など中国の文化も受けた文化
名称は3代将軍足利義満が京都北山に山荘を建てたことに由来し、この山荘の一部が鹿苑寺金閣
東山文化
時期は応仁の乱中から乱後にあたり、禅の精神に基づく簡素さ(侘 わび)や、言葉で表せない深くほのかな余韻(幽玄)を特徴とする文化
名称は8代将軍足利義政が京都東山に山荘を建てたことに由来し、この山荘の一部が慈照寺銀閣
南北朝文化
歴史書と軍記物語
『増鏡』
「四鏡」の1つで、公家の立場で源平の争乱頃から鎌倉時代末期を記述
『神皇正統記』
南朝の重臣北畠親房が常陸国で執筆し、南朝の正当性を記述
『梅松論』
室町幕府の立場で、執権政治から南北朝の動乱を記述
『太平記』
後醍醐天皇の登場から南北朝の動乱を3部構成で記述
北畠親房
幼少の天皇のために、有職故実の書『職原抄』も執筆
諸文化の流行
田楽・猿楽の演劇形態能、和歌の上句と下句を別の者が作る連歌、多人数で茶を楽しむ茶寄合で茶の味を飲み分ける闘茶が流行しました。
二条良基よしもとは『菟玖波つくば集』を編纂して連歌を和歌と対等の地位にし、また、連歌の規則書『応安新式』を著しました。
「ばさら」と呼ばれる、人目をひく珍奇で派手な服装・行動を好む風潮も流行
田楽能と猿楽能
北山文化
建築
代表例は3代将軍足利義満が建立した鹿苑寺金閣です。
鹿苑寺金閣の建築様式は、伝統的な寝殿造と禅宗様の折衷です。
その他、禅の精神を表現した庭園も造園
仏教
初代将軍足利尊氏が夢窓疎石を篤く帰依したため、室町幕府は鎌倉幕府の方針を受け継ぎ、臨済宗を保護しました。
幕府は臨済宗の寺院を管理するため、五山・十刹の制という寺院の格付けを定めていきました。
五山・十刹の制は足利義満の時代にほぼ完成しました。
僧録
五山・十刹の人事などを司る管理職 | 南北朝文化と東山文化の違いを説明して下さい。 | 南北朝文化は、主に南北朝時代にあたり、動乱の緊張感を背景に歴史書や軍記物語が盛んに作られた文化ですが、
東山文化は、応仁の乱中から乱後にあたり、禅の精神に基づく簡素さ(侘)や、言葉で表せない深くほのかな余韻(幽玄)を特徴とする文化です。 |
JCRRAG_017948 | 歴史 | 江戸幕府14代将軍は、徳川家茂です。
徳川家茂と和宮は政略結婚で結ばれましたが、実は心温まる暮らしを送っていたと伝えられています。京都から和宮に付き従っていた女官「庭田嗣子」(にわたつぐこ)が著した「御側日記」(おそばにっき)には、2人が仲睦まじく労りあっていた様子が記されているのです。
徳川家茂が和宮に対し、細やかな愛情を持っていたことが窺える逸話のひとつが、徳川家茂が和宮に金魚や鼈甲(べっこう)の簪(かんざし)を贈ったというものがあります。さらには、上洛の前夜には夫婦で夕食を取り、ひとときの別れを惜しんだことが伝えられているのです。
この他にも、「江藤淳」(えとうじゅん)の「勝海舟」(かつかいしゅう)を題材にした評伝「海舟余波 わが読史余滴」(かいしゅうよは わがどくしよてき) には、和宮の心遣いが分かる逸話が記されています。
それは、徳川家茂と和宮、そして天璋院の3人で、踏石から履物を履こうとしたとき、徳川家茂の履物だけが踏石より下にあった際、和宮が下に降りて徳川家茂の履物を渡したとされ、和宮が徳川家茂を大事に思っていたことが分かります。
徳川家茂と和宮の結婚生活が続いたのは、たった4年余りで、その年月の間に徳川家茂は、3回に亘って上洛しており、2年以上も江戸城にいませんでした。徳川家茂と和宮が江戸城で一緒に過ごせたのは、実質2年6ヵ月という短い期間だったのです。
そんな短い結婚生活の間に、2人は夫婦の絆を固く結んでいました。それが分かるのが、徳川家茂の上洛にまつわる逸話です。
徳川家茂の上洛が決まると、和宮は「徳川家」(とくがわけ)の菩提寺である「増上寺」(ぞうじょうじ)のお札を勧請(かんじょう:神仏の分霊を、別の地に移して祀ること)し、お百度参りを行なっていました。
和宮は、妻として夫である徳川家茂の無事を祈っていたのです。
公武合体を実現させるための駆け引きのなかで、翻弄された徳川家茂でしたが、和宮との結婚生活は幸せな時間を過ごせた良き結果となったと言えます。 | 江戸幕府14代将軍の上洛が決まると、和宮は徳川家の菩提寺である増上寺のお札をどうしたか。 | 江戸幕府14代将軍の上洛が決まると、和宮は徳川家の菩提寺である増上寺のお札を勧請し、お百度参りを行なっていた。 |
JCRRAG_017949 | 歴史 | 姉川の沿岸は、水田が多く人や馬は足を取られて満足に歩けなかった。
特に越前の軍勢は地理を知らなかったので、水田に人や馬の足を取られて銃撃される者が多かった。
真柄父子を始めとした、前波兄弟や小林瑞周軒、竜門寺、黒坂備中守等のたくさんの大将分がこの戦いで討ち死にした。
これに比べると、地理を把握していた浅井軍の被害者は少なかった。
この戦では徳川勢は余り苦労していないようだったが、朝倉勢に「裏切り組」というのがいた。
裏切り組とは百人位の勇士を募り、七十人に四尺五寸、三十人に四尺の長く造らせた野太刀を持たせて、戦いの最中に森陰から現われて不意打ちとして家康の旗本へ切りかかった。
効果はてきめんで旗本は混乱してしまったが、清水久三郎達が家康の馬前に立ち塞がり、五・六人斬り伏せたのでピンチを切り抜けた。
これは後に語られた話だが、徳川頼宣がある時「加藤喜介正次は、常に刀と脇差の柄に手をかけているからみんなが笑った。そうしたら加藤喜介が「姉川合戦の時に朝倉の兵が味方の真似をして、家康公のそばへ近付いて不意打ちで切りかかったんだよ。しかし私は常に刀に手をかけていたので、すぐに二騎の内の一人を斬ってもう一人は天野三郎兵衛が仕留めた。この時に家康公も太刀を少し抜いてその太刀に血がかかるだけで済んだ。だからいつでも刀の柄に手をかけているのだ」と言ったというが、喜介よりもその朝倉の兵はもっと勇敢だった。
敵の中に二人だけで乗り込んで討ち死にする。さらに二人の首の中に『一足無間』という誓い文が書かれていた。なんとも思い切った、豪の者達だったな」と褒めたというが、かなり朝倉方も負けていなかった事がわかる。 | 裏切り組の中で、長い野太刀を持っているほうの人数を教えてください。 | 裏切り組の中で、長い野太刀を持っているほうの人数は七十人です。 |
JCRRAG_017950 | 歴史 | 名主の名の起原
このようなありさまであるからして、下受人の特権も時と場合によって大小不同であるけれども、要するに下受人の中心となっている地方豪族の戸主は、一方には荘園の管理者たる名義で、かなり多くの管理料を天引きするほかに、下受管理者としての有利なる条件をもって、その開墾地を持つのであります。たとえば通例の百姓ならば領家で気に入らねばいつでも立ち退かせることができる場合にでも、この者ばかりは大罪を犯さなければ子孫の相続を確保してある。年貢すなわち作米のごときも、普通の作人に比べれば三分の一にも五分の一にも満たなかったのであります。しかのみならず、ごく地味の良い水がかりの良い処ばかりを選より取りしたに違いなかった。つまり京都の荘園の主人を良い旦那にしておったのです。この下受人の特権を名づけて名田職といい、その土地を名田といっている。これは今日の名主の名の起原であります。
名という語の意味
名という語はその本来は少し不明になっておりますが、自分の考えるところによれば区別開墾地という意味であろうと思う。すなわち、数百町歩の原野を開墾するに当って、あらかじめ五町とか七町とかの面積に小割して事業の進歩に便乗したのである。これは近年の新田開墾にも常にあることで、一年で開墾が終わるほどの小面積であれば良いが、五年も六年もかかるとなると、一方で開墾を進めてゆくと同時に、他の一方では既墾の田地に食料を生産しなければならぬ。今日の村の字にしばしば一番割・二番割などという地名があるのはこのためです。同じくらいの身分のものが共同開墾をする場合には、それぞれの持場持場を決める必要がある。この小区割を名づけて名といったことは、今日ではもはや疑いようがありませぬ。多くの場合においては開墾者は、その家族の者に一つずつの名を分けてやったらしい、すなわち下受開墾者たる特権が不可分のものでなくして、土地に伴なっていたらしいのであります。
女が名主になった証拠
名という文字はいくつも今日の地名となって残っております。九州方面では、肥前北高来郡などでは、小字にはことごとく名の字が付いた所もある。東国の地名では妙に聞こえる公文名などという地名は、つまり荘園の書記の持っている名田の地ということです。同じ原野でも薪を刈りに、もしくは狩をしにしばしば人の往来する所では、従来の地名がありまして、そこに来住するものはただちに新宅の家号としてこれを採用しました。すなわち在名であります。しかし以前の人口の少なかった地方では、事によると五町七町の小区によっては地名のない所がある。このような場合には変則ではあるが、あべこべに貞季とか国知とかいうような人の実名を、地名につけたのである。しかし新名主はいずれ金持の子供であるからして、自分で土を耕す道具を手にする訳でないから、子供もあれば女もあるのであって、太郎丸とか次郎丸とかいう童名をただちに地名に付けたものもあるのであります。名古屋付近に一女子・二女子などという小字があるのは、女が名主になった証拠です。 | 人口の少なかった地方では、事によると五町七町の小区によっては地名のない所がある。このような場合には変則として人名をつけた地名の数を教えてください。 | 人口の少なかった地方では、事によると五町七町の小区によっては地名のない所がある。このような場合には変則として人名をつけた地名の数は2で、
「貞季」
「国知」
です。 |
JCRRAG_017951 | 歴史 | 広義の室町文化
3つの時期区分
南北朝文化
時期は主に南北朝時代にあたり、動乱の緊張感を背景に歴史書や軍記物語が盛んに作られた文化
北山文化
時期は14世紀末から15世紀前半にあたり、公家・武家の文化融合が進み、禅宗など中国の文化も受けた文化
名称は3代将軍足利義満が京都北山に山荘を建てたことに由来し、この山荘の一部が鹿苑寺金閣
東山文化
時期は応仁の乱中から乱後にあたり、禅の精神に基づく簡素さ(侘 わび)や、言葉で表せない深くほのかな余韻(幽玄)を特徴とする文化
名称は8代将軍足利義政が京都東山に山荘を建てたことに由来し、この山荘の一部が慈照寺銀閣
南北朝文化
歴史書と軍記物語
『増鏡』
「四鏡」の1つで、公家の立場で源平の争乱頃から鎌倉時代末期を記述
『神皇正統記』
南朝の重臣北畠親房が常陸国で執筆し、南朝の正当性を記述
『梅松論』
室町幕府の立場で、執権政治から南北朝の動乱を記述
『太平記』
後醍醐天皇の登場から南北朝の動乱を3部構成で記述
北畠親房
幼少の天皇のために、有職故実の書『職原抄』も執筆
諸文化の流行
田楽・猿楽の演劇形態能、和歌の上句と下句を別の者が作る連歌、多人数で茶を楽しむ茶寄合で茶の味を飲み分ける闘茶が流行しました。
二条良基よしもとは『菟玖波つくば集』を編纂して連歌を和歌と対等の地位にし、また、連歌の規則書『応安新式』を著しました。
「ばさら」と呼ばれる、人目をひく珍奇で派手な服装・行動を好む風潮も流行
田楽能と猿楽能
北山文化
建築
代表例は3代将軍足利義満が建立した鹿苑寺金閣です。
鹿苑寺金閣の建築様式は、伝統的な寝殿造と禅宗様の折衷です。
その他、禅の精神を表現した庭園も造園
仏教
初代将軍足利尊氏が夢窓疎石を篤く帰依したため、室町幕府は鎌倉幕府の方針を受け継ぎ、臨済宗を保護しました。
幕府は臨済宗の寺院を管理するため、五山・十刹の制という寺院の格付けを定めていきました。
五山・十刹の制は足利義満の時代にほぼ完成しました。
僧録
五山・十刹の人事などを司る管理職 | 北山文化と東山文化の違いを説明して下さい。 | 北山文化は、14世紀末から15世紀前半にあたり、公家・武家の文化融合が進み、禅宗など中国の文化も受けた文化ですが、
東山文化は、応仁の乱中から乱後にあたり、禅の精神に基づく簡素さ(侘)や、言葉で表せない深くほのかな余韻(幽玄)を特徴とする文化です。 |
JCRRAG_017952 | 歴史 | 1737年(元文2年)、9代将軍「徳川家重」(とくがわいえしげ)の嫡男として江戸城西の丸(えどじょうにしのまる)で生まれたのは、「徳川家治」(とくがわいえはる)です。
父の徳川家重が、生まれ付き言語不明瞭であったため、祖父である「徳川吉宗」(とくがわよしむね)は、徳川家重に十分な教育を施すことができなかったと言います。
そこで、徳川吉宗は孫の徳川家治に期待し、多くのことを授けようと考えました。
徳川家治は幼少期より聡明で、徳川吉宗の教えることを次々と理解して修得。
徳川家治は、祖父である徳川吉宗に深く寵愛され、帝王学をはじめとして、吉宗が知るすべてのことを教えられたと伝えられています。
そんな徳川吉宗に、父親の代から仕えていた「田沼意次」(たぬまおきつぐ)は、徳川家重の小姓として抜擢され、側用人(そばようにん:将軍と老中の取り次ぎをする役職)にまで出世した人物です。
小姓が有能であれば将軍の助けになることを、徳川吉宗は良く分かっていました。将来、徳川家治が将軍になったときに支えられる能力を、小姓達に身に付けさせようと考え、徳川吉宗自ら色々なことを教えたとのことです。
徳川家治も徳川吉宗のことを尊敬し、徳川吉宗のような名君になることを望んでいたため、食事のときに、自分が食べたことのない料理が出されると、徳川吉宗も食べたことがあるのかを確認してから食べたと言われています。
徳川家治は聡明なだけでなく、武芸にも秀でていました。剣術は、剣術家の旗本「柳生久寿」(やぎゅうひさとし)から学び、槍・弓・馬術なども熱心に練習し、特に鉄砲の腕前は達人と呼べるほどの名手だったとのこと。
さらに、芸術においては能や絵画、書画なども上手で、囲碁や将棋も強く、あらゆることで才能を発揮。徳川家治は文武両道の才人であったので、周りの人に徳川家治は将来、祖父・徳川吉宗にも劣らない名君になると期待されていました。 | 9代将軍「徳川家重」の嫡男として江戸城西の丸で生まれた人物は、幼少期からどのような特徴があったか。 | 9代将軍「徳川家重」の嫡男として江戸城西の丸で生まれた人物は、幼少期より聡明で、徳川吉宗の教えることを次々と理解して習得した。 |
JCRRAG_017953 | 歴史 | 姉川の沿岸は、水田が多く人や馬は足を取られて満足に歩けなかった。
特に越前の軍勢は地理を知らなかったので、水田に人や馬の足を取られて銃撃される者が多かった。
真柄父子を始めとした、前波兄弟や小林瑞周軒、竜門寺、黒坂備中守等のたくさんの大将分がこの戦いで討ち死にした。
これに比べると、地理を把握していた浅井軍の被害者は少なかった。
この戦では徳川勢は余り苦労していないようだったが、朝倉勢に「裏切り組」というのがいた。
裏切り組とは百人位の勇士を募り、七十人に四尺五寸、三十人に四尺の長く造らせた野太刀を持たせて、戦いの最中に森陰から現われて不意打ちとして家康の旗本へ切りかかった。
効果はてきめんで旗本は混乱してしまったが、清水久三郎達が家康の馬前に立ち塞がり、五・六人斬り伏せたのでピンチを切り抜けた。
これは後に語られた話だが、徳川頼宣がある時「加藤喜介正次は、常に刀と脇差の柄に手をかけているからみんなが笑った。そうしたら加藤喜介が「姉川合戦の時に朝倉の兵が味方の真似をして、家康公のそばへ近付いて不意打ちで切りかかったんだよ。しかし私は常に刀に手をかけていたので、すぐに二騎の内の一人を斬ってもう一人は天野三郎兵衛が仕留めた。この時に家康公も太刀を少し抜いてその太刀に血がかかるだけで済んだ。だからいつでも刀の柄に手をかけているのだ」と言ったというが、喜介よりもその朝倉の兵はもっと勇敢だった。
敵の中に二人だけで乗り込んで討ち死にする。さらに二人の首の中に『一足無間』という誓い文が書かれていた。なんとも思い切った、豪の者達だったな」と褒めたというが、かなり朝倉方も負けていなかった事がわかる。 | 裏切り組の中で、短い野太刀を持っているほうの人数を教えてください。 | 裏切り組の中で、短い野太刀を持っているほうの人数は三十人です。 |
JCRRAG_017954 | 歴史 | 名主の名の起原
このようなありさまであるからして、下受人の特権も時と場合によって大小不同であるけれども、要するに下受人の中心となっている地方豪族の戸主は、一方には荘園の管理者たる名義で、かなり多くの管理料を天引きするほかに、下受管理者としての有利なる条件をもって、その開墾地を持つのであります。たとえば通例の百姓ならば領家で気に入らねばいつでも立ち退かせることができる場合にでも、この者ばかりは大罪を犯さなければ子孫の相続を確保してある。年貢すなわち作米のごときも、普通の作人に比べれば三分の一にも五分の一にも満たなかったのであります。しかのみならず、ごく地味の良い水がかりの良い処ばかりを選より取りしたに違いなかった。つまり京都の荘園の主人を良い旦那にしておったのです。この下受人の特権を名づけて名田職といい、その土地を名田といっている。これは今日の名主の名の起原であります。
名という語の意味
名という語はその本来は少し不明になっておりますが、自分の考えるところによれば区別開墾地という意味であろうと思う。すなわち、数百町歩の原野を開墾するに当って、あらかじめ五町とか七町とかの面積に小割して事業の進歩に便乗したのである。これは近年の新田開墾にも常にあることで、一年で開墾が終わるほどの小面積であれば良いが、五年も六年もかかるとなると、一方で開墾を進めてゆくと同時に、他の一方では既墾の田地に食料を生産しなければならぬ。今日の村の字にしばしば一番割・二番割などという地名があるのはこのためです。同じくらいの身分のものが共同開墾をする場合には、それぞれの持場持場を決める必要がある。この小区割を名づけて名といったことは、今日ではもはや疑いようがありませぬ。多くの場合においては開墾者は、その家族の者に一つずつの名を分けてやったらしい、すなわち下受開墾者たる特権が不可分のものでなくして、土地に伴なっていたらしいのであります。
女が名主になった証拠
名という文字はいくつも今日の地名となって残っております。九州方面では、肥前北高来郡などでは、小字にはことごとく名の字が付いた所もある。東国の地名では妙に聞こえる公文名などという地名は、つまり荘園の書記の持っている名田の地ということです。同じ原野でも薪を刈りに、もしくは狩をしにしばしば人の往来する所では、従来の地名がありまして、そこに来住するものはただちに新宅の家号としてこれを採用しました。すなわち在名であります。しかし以前の人口の少なかった地方では、事によると五町七町の小区によっては地名のない所がある。このような場合には変則ではあるが、あべこべに貞季とか国知とかいうような人の実名を、地名につけたのである。しかし新名主はいずれ金持の子供であるからして、自分で土を耕す道具を手にする訳でないから、子供もあれば女もあるのであって、太郎丸とか次郎丸とかいう童名をただちに地名に付けたものもあるのであります。名古屋付近に一女子・二女子などという小字があるのは、女が名主になった証拠です。 | 名古屋付近で女が名主になった証拠として付けられた小字の例として挙げられている数を教えてください。 | 名古屋付近で女が名主になった証拠として付けられた小字の数は2で
「一女子」
「二女子」
です。 |
JCRRAG_017955 | 歴史 | 国交の拡大と開港
アヘン戦争の衝撃
1842年、清はイギリスにアヘン戦争で敗れ、南京条約を締結しました。
この条約で、清は国交・通商の制限を緩めた、つまり「開国」しました。
清の敗北や西洋の脅威は、オランダ風説書で日本に伝えられました。
1825年以来の異国船打払令(無二念打払令)は、西洋の報復を招く恐れがありました。
1842年、老中水野忠邦は異国船打払令を撤回して薪水給与令を出し、異国船には帰国を説得し、必要であれば燃料・食糧を給与することにしました。
1844年、オランダ国王は国書にて、日本の「開国」を説きました。
幕府はこの忠告を謝絶し、「鎖国」維持の意向を伝えました。
米露の「開国」要求
19世紀、アメリカは捕鯨ほげい船や清との貿易船の寄港きこう地を日本に求めました。
1846年、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが、浦賀に来航して国交・通商を求めました。
幕府はこれを拒絶し、ビッドルも積極的関心をもっていなかったため退去しました。
1848年、アメリカがカリフォルニアを獲得し、領土を太平洋岸に到達させました。
アメリカは、以前にも増して寄港地を日本に求めるようになりました。
1853年6月、アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが、浦賀に来航し、フィルモア大統領の国書を提出して国交・通商を求めました。
幕府は国書を受け取り、翌年回答することを約束してペリーを退去させました。
1853年7月、ロシア使節プチャーチンが長崎 に来航し、国交・通商と国境画定を求め、交渉中に退去しました。
幕府との交渉が長引くなか、プチャーチンは中断して退去しました。
異国への日本一丸での対抗
ペリー来航直後、13代将軍徳川家定のもとで老中阿部正弘は、日本一丸で異国へ対抗しようとしました。
先例を破り、朝廷に国書について報告し、藩主らに回答について意見させました。
また、海防に意欲的な前水戸藩主徳川斉昭なりあき を幕政に登用しました。
幕政に関わらせたことは、朝廷や雄藩の藩主の幕政介入を招く転機となりました。
和親条約締結
1854年、日米和親条約締結
再度来航したペリーが締結した和親条約
必要な場合、燃料・食糧などを給与
難破船や乗組員を救助
2港下田・箱館を開港し、領事の駐在を許可
日本のみが義務を負う一方的な最恵国待遇を許可
最恵国待遇
日本が他国と新たに結んだ条約の内容に、アメリカには認めていない 有利な条件があれば、自動的にアメリカにも許可
1855年、日露和親条約 締結
再度来航したプチャーチンと下田で締結した、日米和親条約と類似の和親条約
3港下田・箱館・長崎を開港
択捉島以南を日本領、得撫うるっぷ島以北をロシア領と画定
樺太は国境を定めず、両国の人々の雑居を約定
長崎
一方的な最恵国待遇に従い、日本はアメリカにも開港 | ペリーとプチャーチンの開国要求の違いを説明して下さい。 | アメリカ東インド艦隊司令官ペリーは、1853年6月、浦賀に来航し、フィルモア大統領の国書を提出して国交・通商を求め、
幕府は国書を受け取り、翌年回答することを約束してペリーを退去させましたが、
ロシア使節プチャーチンは、1853年7月、長崎 に来航し、国交・通商と国境画定を求め、交渉中に退去しました。 |
JCRRAG_017956 | 歴史 | 1737年(元文2年)、9代将軍「徳川家重」(とくがわいえしげ)の嫡男として江戸城西の丸(えどじょうにしのまる)で生まれたのは、「徳川家治」(とくがわいえはる)です。
父の徳川家重が、生まれ付き言語不明瞭であったため、祖父である「徳川吉宗」(とくがわよしむね)は、徳川家重に十分な教育を施すことができなかったと言います。
そこで、徳川吉宗は孫の徳川家治に期待し、多くのことを授けようと考えました。
徳川家治は幼少期より聡明で、徳川吉宗の教えることを次々と理解して修得。
徳川家治は、祖父である徳川吉宗に深く寵愛され、帝王学をはじめとして、吉宗が知るすべてのことを教えられたと伝えられています。
そんな徳川吉宗に、父親の代から仕えていた「田沼意次」(たぬまおきつぐ)は、徳川家重の小姓として抜擢され、側用人(そばようにん:将軍と老中の取り次ぎをする役職)にまで出世した人物です。
小姓が有能であれば将軍の助けになることを、徳川吉宗は良く分かっていました。将来、徳川家治が将軍になったときに支えられる能力を、小姓達に身に付けさせようと考え、徳川吉宗自ら色々なことを教えたとのことです。
徳川家治も徳川吉宗のことを尊敬し、徳川吉宗のような名君になることを望んでいたため、食事のときに、自分が食べたことのない料理が出されると、徳川吉宗も食べたことがあるのかを確認してから食べたと言われています。
徳川家治は聡明なだけでなく、武芸にも秀でていました。剣術は、剣術家の旗本「柳生久寿」(やぎゅうひさとし)から学び、槍・弓・馬術なども熱心に練習し、特に鉄砲の腕前は達人と呼べるほどの名手だったとのこと。
さらに、芸術においては能や絵画、書画なども上手で、囲碁や将棋も強く、あらゆることで才能を発揮。徳川家治は文武両道の才人であったので、周りの人に徳川家治は将来、祖父・徳川吉宗にも劣らない名君になると期待されていました。 | 9代将軍「徳川家重」の嫡男として江戸城西の丸で生まれた人物が、吉宗から教えてもらったものの一つは何か。 | 9代将軍「徳川家重」の嫡男として江戸城西の丸で生まれた人物が、吉宗から教えてもらったものの一つは帝王学である。 |
JCRRAG_017957 | 歴史 | 浅井を敵にまわした織田勢の方は、もっと苦戦していた。
浅井方の第一陣にいる磯野丹波守は勇猛無双の大将だ。
その他彼に従う高宮三河守や大野木大和守、誰もが優れた勇敢な武士達である。
もともと浅井軍は強いのだ。
だから木下藤吉郎が一番陣を望んだが許されなかった。
それは秀吉の軍勢は何年も近江にいて浅井軍と接触しているため、浅井の強さを恐れているだろうという理由だった。
だからこそ信長も長政を味方にしておきたかったのだ。
浅井軍は磯野丹波守を先頭に総勢五千以上の騎馬兵隊が織田軍の一番陣、阪井政尚の兵三千人の陣に攻めかかる。
磯野丹波守自ら槍をとって先頭を進み、騎馬隊の強者達に真っ向から対峙した。
右近の陣は鉄砲に打ちすくめられ久蔵を初め百人撃たれて、敗走した。
池田勝三郎も丹波守の猛威に恐れおののいて敗走した。
家康の方が早くも朝倉勢対してに勝ち目を見せ初めたので家康の援軍として控えている稲葉一徹が「家康の方はもう大丈夫だろう」と見て浅井勢の右翼に横槍を入れたのと、横山城を抑える役目用に残しておいた氏家卜全と安藤伊賀とが浅井勢の左翼を攻撃した。
こうした両サイドからの挟み撃ちによって、織田軍はやっと盛り返して浅井勢を倒し、姉川の戦いを制したのだ。
戦の後に信長が「義濃三人衆が弱かったらわが軍の旗本たちがもっと頑張っただろうに」といって稲葉、氏家、安藤三人に感謝状と名馬、太刀等をやったところを見ると、戦いの様子が分かるだろう。
それに家康の方が先に朝倉に勝ったので、浅井の兵士たちも不安になって乱れ始めたのだろう。
徳川と織田とは、かなり離れて戦っているつもりだったが、最後には乱戦になったらしく、酒井忠次の払った長刀の切っ先が信長勢である池田勝三郎信輝の股間に当たったくらいだ。
後年、人呼んでこの傷を「左衛門キズ」といった。
池田と酒井は戦の前夜に信長の前で、「家康を先陣にするかしないか」で議論をし合った仲なのだ。
その時酒井は、「とにかく言ってもしょうがない。全ては明日どうなるかだ」と言って別れて帰った。
だから酒井の長刀が池田の股に当たったことは二人とも第一戦に立って奮戦していたわけで、双方とも前夜の言葉にウソがなかったわけで、「とんでもない振る舞いだな」と人々は言い合ったという。 | 浅井軍の磯野丹波守の部隊と、織田軍の阪井政尚の部隊で数が多いほうを教えてください。 | 浅井軍の磯野丹波守の部隊と、織田軍の阪井政尚の部隊で数が多いほうは磯野丹波守の部隊で五千人です。 |
JCRRAG_017958 | 歴史 | 名主の名の起原
このようなありさまであるからして、下受人の特権も時と場合によって大小不同であるけれども、要するに下受人の中心となっている地方豪族の戸主は、一方には荘園の管理者たる名義で、かなり多くの管理料を天引きするほかに、下受管理者としての有利なる条件をもって、その開墾地を持つのであります。たとえば通例の百姓ならば領家で気に入らねばいつでも立ち退かせることができる場合にでも、この者ばかりは大罪を犯さなければ子孫の相続を確保してある。年貢すなわち作米のごときも、普通の作人に比べれば三分の一にも五分の一にも満たなかったのであります。しかのみならず、ごく地味の良い水がかりの良い処ばかりを選より取りしたに違いなかった。つまり京都の荘園の主人を良い旦那にしておったのです。この下受人の特権を名づけて名田職といい、その土地を名田といっている。これは今日の名主の名の起原であります。
名という語の意味
名という語はその本来は少し不明になっておりますが、自分の考えるところによれば区別開墾地という意味であろうと思う。すなわち、数百町歩の原野を開墾するに当って、あらかじめ五町とか七町とかの面積に小割して事業の進歩に便乗したのである。これは近年の新田開墾にも常にあることで、一年で開墾が終わるほどの小面積であれば良いが、五年も六年もかかるとなると、一方で開墾を進めてゆくと同時に、他の一方では既墾の田地に食料を生産しなければならぬ。今日の村の字にしばしば一番割・二番割などという地名があるのはこのためです。同じくらいの身分のものが共同開墾をする場合には、それぞれの持場持場を決める必要がある。この小区割を名づけて名といったことは、今日ではもはや疑いようがありませぬ。多くの場合においては開墾者は、その家族の者に一つずつの名を分けてやったらしい、すなわち下受開墾者たる特権が不可分のものでなくして、土地に伴なっていたらしいのであります。
女が名主になった証拠
名という文字はいくつも今日の地名となって残っております。九州方面では、肥前北高来郡などでは、小字にはことごとく名の字が付いた所もある。東国の地名では妙に聞こえる公文名などという地名は、つまり荘園の書記の持っている名田の地ということです。同じ原野でも薪を刈りに、もしくは狩をしにしばしば人の往来する所では、従来の地名がありまして、そこに来住するものはただちに新宅の家号としてこれを採用しました。すなわち在名であります。しかし以前の人口の少なかった地方では、事によると五町七町の小区によっては地名のない所がある。このような場合には変則ではあるが、あべこべに貞季とか国知とかいうような人の実名を、地名につけたのである。しかし新名主はいずれ金持の子供であるからして、自分で土を耕す道具を手にする訳でないから、子供もあれば女もあるのであって、太郎丸とか次郎丸とかいう童名をただちに地名に付けたものもあるのであります。名古屋付近に一女子・二女子などという小字があるのは、女が名主になった証拠です。 | 新名手の子供の名前を地名として付けたものもある、と書かれていますが、例として挙げられている名前の数を教えてください。 | 新名手の子供の名前を地名として付けた例として挙げられている数は2で、「太郎丸」、
「次郎丸」 です。 |
JCRRAG_017959 | 歴史 | 国交の拡大と開港
アヘン戦争の衝撃
1842年、清はイギリスにアヘン戦争で敗れ、南京条約を締結しました。
この条約で、清は国交・通商の制限を緩めた、つまり「開国」しました。
清の敗北や西洋の脅威は、オランダ風説書で日本に伝えられました。
1825年以来の異国船打払令(無二念打払令)は、西洋の報復を招く恐れがありました。
1842年、老中水野忠邦は異国船打払令を撤回して薪水給与令を出し、異国船には帰国を説得し、必要であれば燃料・食糧を給与することにしました。
1844年、オランダ国王は国書にて、日本の「開国」を説きました。
幕府はこの忠告を謝絶し、「鎖国」維持の意向を伝えました。
米露の「開国」要求
19世紀、アメリカは捕鯨ほげい船や清との貿易船の寄港きこう地を日本に求めました。
1846年、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが、浦賀に来航して国交・通商を求めました。
幕府はこれを拒絶し、ビッドルも積極的関心をもっていなかったため退去しました。
1848年、アメリカがカリフォルニアを獲得し、領土を太平洋岸に到達させました。
アメリカは、以前にも増して寄港地を日本に求めるようになりました。
1853年6月、アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが、浦賀に来航し、フィルモア大統領の国書を提出して国交・通商を求めました。
幕府は国書を受け取り、翌年回答することを約束してペリーを退去させました。
1853年7月、ロシア使節プチャーチンが長崎 に来航し、国交・通商と国境画定を求め、交渉中に退去しました。
幕府との交渉が長引くなか、プチャーチンは中断して退去しました。
異国への日本一丸での対抗
ペリー来航直後、13代将軍徳川家定のもとで老中阿部正弘は、日本一丸で異国へ対抗しようとしました。
先例を破り、朝廷に国書について報告し、藩主らに回答について意見させました。
また、海防に意欲的な前水戸藩主徳川斉昭なりあき を幕政に登用しました。
幕政に関わらせたことは、朝廷や雄藩の藩主の幕政介入を招く転機となりました。
和親条約締結
1854年、日米和親条約締結
再度来航したペリーが締結した和親条約
必要な場合、燃料・食糧などを給与
難破船や乗組員を救助
2港下田・箱館を開港し、領事の駐在を許可
日本のみが義務を負う一方的な最恵国待遇を許可
最恵国待遇
日本が他国と新たに結んだ条約の内容に、アメリカには認めていない 有利な条件があれば、自動的にアメリカにも許可
1855年、日露和親条約 締結
再度来航したプチャーチンと下田で締結した、日米和親条約と類似の和親条約
3港下田・箱館・長崎を開港
択捉島以南を日本領、得撫うるっぷ島以北をロシア領と画定
樺太は国境を定めず、両国の人々の雑居を約定
長崎
一方的な最恵国待遇に従い、日本はアメリカにも開港 | 日米和親条約と日露和親条約の違いを説明して下さい。 | 日米和親条約は、
①必要な場合、燃料・食糧などを給与
②難破船や乗組員を救助
③2港下田・箱館を開港し、領事の駐在を許可
④日本のみが義務を負う一方的な最恵国待遇を許可
といった内容で、1854年に再度来航したペリーが締結した和親条約です。
日本が他国と新たに結んだ条約の内容に、アメリカには認めていない 有利な条件があれば、自動的にアメリカにも許可されます。
一方で日露和親条約は、
①3港下田・箱館・長崎を開港
②択捉島以南を日本領、得撫うるっぷ島以北をロシア領と画定
③樺太は国境を定めず、両国の人々の雑居を約定
といった内容で、1855年に再度来航したプチャーチンと下田で締結した、日米和親条約と類似の和親条約です。 |
JCRRAG_017960 | 歴史 | 1737年(元文2年)、9代将軍「徳川家重」(とくがわいえしげ)の嫡男として江戸城西の丸(えどじょうにしのまる)で生まれたのは、「徳川家治」(とくがわいえはる)です。
父の徳川家重が、生まれ付き言語不明瞭であったため、祖父である「徳川吉宗」(とくがわよしむね)は、徳川家重に十分な教育を施すことができなかったと言います。
そこで、徳川吉宗は孫の徳川家治に期待し、多くのことを授けようと考えました。
徳川家治は幼少期より聡明で、徳川吉宗の教えることを次々と理解して修得。
徳川家治は、祖父である徳川吉宗に深く寵愛され、帝王学をはじめとして、吉宗が知るすべてのことを教えられたと伝えられています。
そんな徳川吉宗に、父親の代から仕えていた「田沼意次」(たぬまおきつぐ)は、徳川家重の小姓として抜擢され、側用人(そばようにん:将軍と老中の取り次ぎをする役職)にまで出世した人物です。
小姓が有能であれば将軍の助けになることを、徳川吉宗は良く分かっていました。将来、徳川家治が将軍になったときに支えられる能力を、小姓達に身に付けさせようと考え、徳川吉宗自ら色々なことを教えたとのことです。
徳川家治も徳川吉宗のことを尊敬し、徳川吉宗のような名君になることを望んでいたため、食事のときに、自分が食べたことのない料理が出されると、徳川吉宗も食べたことがあるのかを確認してから食べたと言われています。
徳川家治は聡明なだけでなく、武芸にも秀でていました。剣術は、剣術家の旗本「柳生久寿」(やぎゅうひさとし)から学び、槍・弓・馬術なども熱心に練習し、特に鉄砲の腕前は達人と呼べるほどの名手だったとのこと。
さらに、芸術においては能や絵画、書画なども上手で、囲碁や将棋も強く、あらゆることで才能を発揮。徳川家治は文武両道の才人であったので、周りの人に徳川家治は将来、祖父・徳川吉宗にも劣らない名君になると期待されていました。 | 9代将軍「徳川家重」の嫡男として江戸城西の丸で生まれた人物は、徳川吉宗のことを尊敬していたために行っていた、食事のときにしていた特徴は何か。 | 9代将軍「徳川家重」の嫡男として江戸城西の丸で生まれた人物は、徳川吉宗のことを尊敬していたため、食事のときに、自分が食べたことのない料理が出されると、吉宗も食べたことがあるのかを確認してから食べていた。 |
JCRRAG_017961 | 歴史 | 浅井を敵にまわした織田勢の方は、もっと苦戦していた。
浅井方の第一陣にいる磯野丹波守は勇猛無双の大将だ。
その他彼に従う高宮三河守や大野木大和守、誰もが優れた勇敢な武士達である。
もともと浅井軍は強いのだ。
だから木下藤吉郎が一番陣を望んだが許されなかった。
それは秀吉の軍勢は何年も近江にいて浅井軍と接触しているため、浅井の強さを恐れているだろうという理由だった。
だからこそ信長も長政を味方にしておきたかったのだ。
浅井軍は磯野丹波守を先頭に総勢五千以上の騎馬兵隊が織田軍の一番陣、阪井政尚の兵三千人の陣に攻めかかる。
磯野丹波守自ら槍をとって先頭を進み、騎馬隊の強者達に真っ向から対峙した。
右近の陣は鉄砲に打ちすくめられ久蔵を初め百人撃たれて、敗走した。
池田勝三郎も丹波守の猛威に恐れおののいて敗走した。
家康の方が早くも朝倉勢対してに勝ち目を見せ初めたので家康の援軍として控えている稲葉一徹が「家康の方はもう大丈夫だろう」と見て浅井勢の右翼に横槍を入れたのと、横山城を抑える役目用に残しておいた氏家卜全と安藤伊賀とが浅井勢の左翼を攻撃した。
こうした両サイドからの挟み撃ちによって、織田軍はやっと盛り返して浅井勢を倒し、姉川の戦いを制したのだ。
戦の後に信長が「義濃三人衆が弱かったらわが軍の旗本たちがもっと頑張っただろうに」といって稲葉、氏家、安藤三人に感謝状と名馬、太刀等をやったところを見ると、戦いの様子が分かるだろう。
それに家康の方が先に朝倉に勝ったので、浅井の兵士たちも不安になって乱れ始めたのだろう。
徳川と織田とは、かなり離れて戦っているつもりだったが、最後には乱戦になったらしく、酒井忠次の払った長刀の切っ先が信長勢である池田勝三郎信輝の股間に当たったくらいだ。
後年、人呼んでこの傷を「左衛門キズ」といった。
池田と酒井は戦の前夜に信長の前で、「家康を先陣にするかしないか」で議論をし合った仲なのだ。
その時酒井は、「とにかく言ってもしょうがない。全ては明日どうなるかだ」と言って別れて帰った。
だから酒井の長刀が池田の股に当たったことは二人とも第一戦に立って奮戦していたわけで、双方とも前夜の言葉にウソがなかったわけで、「とんでもない振る舞いだな」と人々は言い合ったという。 | 浅井軍の磯野丹波守の部隊と、織田軍の阪井政尚の部隊で数が少ないほうを教えてください。 | 浅井軍の磯野丹波守の部隊と、織田軍の阪井政尚の部隊で数が少ないほうは阪井政尚の部隊で三千人です。 |
JCRRAG_017962 | 歴史 | 七党と称する大地主の団体
京都付近の国々では土地に余りが少なくて、下受け開墾の有難味も自然と薄かったかも知れないが、関東に来ると広漠たる原野を自由勝手に占有することができたために、京都の貴族に取り入って甘んじて家人の地位に下っても、実際の富を作り武力を養うに十分であったのであります。武蔵などは中央荒川と多摩川間の平原に、七党と称する大地主の団体が七つまであった。ほかに南には小山田とか稲毛とか、北には秩父などいう豪族が何軒もあって、いざ開墾が始まるとなると、競って下受権を獲得し、どしどしと次男三男の輩を分家させたのであります。ゆえに今日になっても右の手に七党の系図を持って、左の手に精密な地図を持って当たって行くと、開墾の順序、分家のありさまがきわめて明瞭に分かるのであります。たとえば児玉家の総領は児玉の本荘、すなわち中仙道の本庄付近におり、横山の族長は今の八王子の北部に住んで、その分家は皆付近の村に住んでいた。
俵藤太秀郷の一族
関東から奥州にかけて有名であった秀郷流の藤原氏というのは(私もその子孫という名誉をもっているけれども)、実はこの特権開墾権の運動の都合上、藤原家の若殿を娘の婿に取った下野辺りの判任官位の家柄であって、ことによると「アイヌ」であるかとも思う。この中興の祖である秀郷のように、三上山の百足を退治した時代には、近江に近い山城の田原に住んでいて、藤原家であるところから田原の藤太秀郷と称していたが、その生国は下野であったために、名田の大部分はむしろ関東にあって、その子孫は上州の太田に住んで太田家となり、下野の小山に住んで小山家となり、下総の結城に行って結城家となったばかりでなく、さらに相州にも立派な根拠地を持って、今煙草のできる秦野に住んで波多野家となり、さらに山一つ越えて松田に住んで松田家を作り、さらにその西の河村を開墾して河村家を作ったのであります。河村はいま山北の停車場のある処で、その屋敷のあった河村山の北であったがゆえに、山北というのであります。私の家の系図はうそかまことか受け合われませんが、この河村からまた別れたとありまして、今日では大磯と二宮との中間にある「国府本郷」、すなわち旧地方庁所在地の氏神が柳田神社というのを見ると、あるいはあの辺に猫の額ほどの名田でもあったのではないかと思って、いつも汽車であの辺を通ることであります。煩わしいからたくさんの例は挙げませぬが、これらの一族が事あれば合体して進退を共にすること、たとえば鎌倉北条時代の和田の乱・三浦の乱に、数百の名字の人間が一時に腹を切ったのを見てもわかるごとく、名字の分立ということはどこまでも家の統一には害がなかったのであります。しかもいわゆる御先祖になるということは、初めて新しい家号を名字の頭にくっつけるということで、京都で出世のできない地方の荒武者どもにとってはこの数を増やして行くということがむしろ唯一の誇りであったのであります。この状態は私の考えでは、ほぼ吉野朝廷の時代まで続いたので、その前後から大分形勢が変わって、近代的な傾向があらわれ始めたのであります。 | 武蔵の南にいる豪族の例として挙げられている数を教えてください。 | 武蔵の南にいる豪族の例として挙げられている数は、「小山田」、「稲毛」 です。 |
JCRRAG_017963 | 歴史 | 2度の大戦後の秩序形成
国際連合の発足
1941年8月、大西洋憲章
アメリカ の大統領フランクリン=ローズヴェルト とイギリスの首相チャーチル が大西洋上会談でまとめた憲章
国際連合を創設する構想を表明
1945年4~6月(日本の降伏前 )、サンフランシスコ会議
第二次世界大戦中に米・英・ソ・中の4国でまとめた国際連合憲章 を採択した会議
1945年10月、国際連合憲章に基づいて国際連合 が発足しました。
国際連合
英名はUnited Nations、つまり第二次世界大戦の「連合国」を母体とし、日本などの敗戦国は後に加盟
国際連合の構成
会議
国連総会
全加盟国で構成される会議
1948年、人種・性・宗教などによる差別を禁止する世界人権宣言 を採択
安全保障理事会
経済制裁・武力制裁の権限をもち 、紛争などの安全保障の問題を扱う会議
アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国(中華民国、後に中華人民共和国) の5ヵ国の常任理事国のみが拒否権を所有
専門機関
ユネスコ (国際連合教育科学文化機関、UNESCO )
教育・科学・文化を通じて世界平和を促進する機関
国際労働機関 (ILO )
各国の労働問題解決のために勧告や調停をおこなう機関
世界保健機関 (WHO )
国際的な保健衛生の事業の指導・調整をおこなう機関
国際通貨基金 (IMF)
国際的な為替の安定を 目指して設立された、国際連合 の専門機関
国際金融の新体制と米国の経済的覇権
1944年、アメリカのブレトン=ウッズで国際会議が開かれ、国際金融の新体制の構想が決まりました。
大戦後、会議の協定に基づいて次の諸機関・制度が成立しました。
1945年12月、国際通貨基金 (IMF)
国際的な為替の安定を 目指して設立された、国際連合 の専門機関
1945年12月、国際復興開発銀行 (世界銀行 、IBRD)
第二次 世界大戦後の復興と後進国開発を目指して設立された、国際連合の専門機関
1947年10月、関税と貿易に関する一般協定 (GATT)
関税やその他の貿易障壁を取り除き、自由 貿易を促進する目的で結ばれた協定
1995年、この協定を発展させて世界貿易機関(WTO)が発足
新体制では、金1オンス(約31.1グラム)=35ドルと定められ、ドルと各国通貨の交換比率が固定されました。
この体制はブレトン=ウッズ体制 と呼ばれ、ドル を国際通貨制度の中心である基軸通貨としました。
ブレトン=ウッズ体制
アメリカが保有する世界の7割の金を基盤とする金本位制 | 国際連合の専門機関について、国際連合教育科学文化機関と国際労働機関の違いを説明して下さい。 | ユネスコ (国際連合教育科学文化機関、UNESCO )は、
教育・科学・文化を通じて世界平和を促進する機関ですが、
国際労働機関 (ILO )は、各国の労働問題解決のために勧告や調停をおこなう機関です。 |
JCRRAG_017964 | 歴史 | 1737年(元文2年)、9代将軍「徳川家重」(とくがわいえしげ)の嫡男として江戸城西の丸(えどじょうにしのまる)で生まれたのは、「徳川家治」(とくがわいえはる)です。
父の徳川家重が、生まれ付き言語不明瞭であったため、祖父である「徳川吉宗」(とくがわよしむね)は、徳川家重に十分な教育を施すことができなかったと言います。
そこで、徳川吉宗は孫の徳川家治に期待し、多くのことを授けようと考えました。
徳川家治は幼少期より聡明で、徳川吉宗の教えることを次々と理解して修得。
徳川家治は、祖父である徳川吉宗に深く寵愛され、帝王学をはじめとして、吉宗が知るすべてのことを教えられたと伝えられています。
そんな徳川吉宗に、父親の代から仕えていた「田沼意次」(たぬまおきつぐ)は、徳川家重の小姓として抜擢され、側用人(そばようにん:将軍と老中の取り次ぎをする役職)にまで出世した人物です。
小姓が有能であれば将軍の助けになることを、徳川吉宗は良く分かっていました。将来、徳川家治が将軍になったときに支えられる能力を、小姓達に身に付けさせようと考え、徳川吉宗自ら色々なことを教えたとのことです。
徳川家治も徳川吉宗のことを尊敬し、徳川吉宗のような名君になることを望んでいたため、食事のときに、自分が食べたことのない料理が出されると、徳川吉宗も食べたことがあるのかを確認してから食べたと言われています。
徳川家治は聡明なだけでなく、武芸にも秀でていました。剣術は、剣術家の旗本「柳生久寿」(やぎゅうひさとし)から学び、槍・弓・馬術なども熱心に練習し、特に鉄砲の腕前は達人と呼べるほどの名手だったとのこと。
さらに、芸術においては能や絵画、書画なども上手で、囲碁や将棋も強く、あらゆることで才能を発揮。徳川家治は文武両道の才人であったので、周りの人に徳川家治は将来、祖父・徳川吉宗にも劣らない名君になると期待されていました。 | 9代将軍「徳川家重」の嫡男として江戸城西の丸で生まれた人物は、聡明なだけでなく、何に秀でていたか。 | 9代将軍「徳川家重」の嫡男として江戸城西の丸で生まれた人物は、聡明なだけでなく、武芸にも秀でていた。 |
JCRRAG_017965 | 歴史 | 幼いころの織田信長は尾張の治黙寺に習字のけいこをしに行かされたが、モチロン習字なんぞするわけがない。
川からフナを取って来てふきの葉でナマスを造る位はまだいいほうで、ともだちの弁当を奪い取ってして平らげたりした。
町を通りながら、栗を五個、柿を三個、瓜を一個取ってはかじり、餅を四個もほおばった。人が笑おうが指を指そうがお構いなしである。
十六・七までは別に遊びはしなかったが、ただ、朝や夕方に馬を走らせたり、鷹狩りを催したり、春から秋にかけて川に飛び込んだりして日々を暮らしていた。
しかし友人を集めて竹槍を持たせて戦わせたりする時に、褒美を最初は少しだけ渡して後からこっそり多く与えていた事や、当時から槍は三間柄が有利であるとの見解を持っていた事や、更にこの頃じょじょに戦が始まる度に威力を発揮して来た鉄砲の稽古に熱心であった事などを見ると、筑紫の坊さんの目もたしかだったのだろう。
平手中務政秀は信長のお守り役であるが、前々から主である信長の行いを気に病んでいた。
色々と説得しては見るものの一向に効き目がない。
そのうちに、政秀の長男に五郎右衛門というのがいるのだが、良い馬を持っていた所を馬好きの信長が見て欲しがった所、あっさりと断られてしまった。
親父も頑固なら息子も強情な奴だと、信長の機嫌が非常に悪かった。
政秀はこのやりとりを見て「今までの教育が失敗しているのに、更にまた息子までしくじってしまった。こうなったら死ぬことで許してもらうしかない」と決意して、天文二十二年の正月十三日、六十歳ほどのしわの入った腹を切腹して亡くなった。
その遺書には、
心を正しくしなければ誰も誠意をもって仕えないですよ、ただ賢さだけではでなく心の度量を広く持ってください、
欲張ってもいけませんしえこひいきがあってはいけません、才能を見出さなければなりませんよ、
力だけでは立派にはなれないので、勉強もしっかりするように、
礼節を軽視しない方がいいですよ
などと書かれていた。
信長は涙を流して後悔したけどどうしようもない。せめてと思って西春日井郡小木の里に政秀寺という菩提寺を建てて二百石を渡した。(後に清須に移し今は名古屋に在る)
信長は鷹狩りで小鳥を狩ると「政秀!この鳥を食えよ!」と三羽を空になげ、二羽を政秀供え、小川の畔に来たら「政秀!この水を飲めよ!」と叫んで涙を流した。
政秀の覚悟の死によって信長は大いに行いを改めたが、同時にその天性の武力や威厳を振るい出した。 | 幼いころの織田信長が町を通りながら食べたもののうち、数が多いものを教えてください。 | 幼いころの織田信長が町を通りながら食べたもののうち、数が多いものは栗で五個です。 |
JCRRAG_017966 | 歴史 | 七党と称する大地主の団体
京都付近の国々では土地に余りが少なくて、下受け開墾の有難味も自然と薄かったかも知れないが、関東に来ると広漠たる原野を自由勝手に占有することができたために、京都の貴族に取り入って甘んじて家人の地位に下っても、実際の富を作り武力を養うに十分であったのであります。武蔵などは中央荒川と多摩川間の平原に、七党と称する大地主の団体が七つまであった。ほかに南には小山田とか稲毛とか、北には秩父などいう豪族が何軒もあって、いざ開墾が始まるとなると、競って下受権を獲得し、どしどしと次男三男の輩を分家させたのであります。ゆえに今日になっても右の手に七党の系図を持って、左の手に精密な地図を持って当たって行くと、開墾の順序、分家のありさまがきわめて明瞭に分かるのであります。たとえば児玉家の総領は児玉の本荘、すなわち中仙道の本庄付近におり、横山の族長は今の八王子の北部に住んで、その分家は皆付近の村に住んでいた。
俵藤太秀郷の一族
関東から奥州にかけて有名であった秀郷流の藤原氏というのは(私もその子孫という名誉をもっているけれども)、実はこの特権開墾権の運動の都合上、藤原家の若殿を娘の婿に取った下野辺りの判任官位の家柄であって、ことによると「アイヌ」であるかとも思う。この中興の祖である秀郷のように、三上山の百足を退治した時代には、近江に近い山城の田原に住んでいて、藤原家であるところから田原の藤太秀郷と称していたが、その生国は下野であったために、名田の大部分はむしろ関東にあって、その子孫は上州の太田に住んで太田家となり、下野の小山に住んで小山家となり、下総の結城に行って結城家となったばかりでなく、さらに相州にも立派な根拠地を持って、今煙草のできる秦野に住んで波多野家となり、さらに山一つ越えて松田に住んで松田家を作り、さらにその西の河村を開墾して河村家を作ったのであります。河村はいま山北の停車場のある処で、その屋敷のあった河村山の北であったがゆえに、山北というのであります。私の家の系図はうそかまことか受け合われませんが、この河村からまた別れたとありまして、今日では大磯と二宮との中間にある「国府本郷」、すなわち旧地方庁所在地の氏神が柳田神社というのを見ると、あるいはあの辺に猫の額ほどの名田でもあったのではないかと思って、いつも汽車であの辺を通ることであります。煩わしいからたくさんの例は挙げませぬが、これらの一族が事あれば合体して進退を共にすること、たとえば鎌倉北条時代の和田の乱・三浦の乱に、数百の名字の人間が一時に腹を切ったのを見てもわかるごとく、名字の分立ということはどこまでも家の統一には害がなかったのであります。しかもいわゆる御先祖になるということは、初めて新しい家号を名字の頭にくっつけるということで、京都で出世のできない地方の荒武者どもにとってはこの数を増やして行くということがむしろ唯一の誇りであったのであります。この状態は私の考えでは、ほぼ吉野朝廷の時代まで続いたので、その前後から大分形勢が変わって、近代的な傾向があらわれ始めたのであります。 | 鎌倉北条時代に数百の名字の人間が一時に腹を切った乱の数を教えてください。 | 鎌倉北条時代に数百の名字の人間が一時に腹を切った乱の数は2で、
「和田の乱」
「三浦の乱」
です。 |
JCRRAG_017967 | 歴史 | 2度の大戦後の秩序形成
国際連合の発足
1941年8月、大西洋憲章
アメリカ の大統領フランクリン=ローズヴェルト とイギリスの首相チャーチル が大西洋上会談でまとめた憲章
国際連合を創設する構想を表明
1945年4~6月(日本の降伏前 )、サンフランシスコ会議
第二次世界大戦中に米・英・ソ・中の4国でまとめた国際連合憲章 を採択した会議
1945年10月、国際連合憲章に基づいて国際連合 が発足しました。
国際連合
英名はUnited Nations、つまり第二次世界大戦の「連合国」を母体とし、日本などの敗戦国は後に加盟
国際連合の構成
会議
国連総会
全加盟国で構成される会議
1948年、人種・性・宗教などによる差別を禁止する世界人権宣言 を採択
安全保障理事会
経済制裁・武力制裁の権限をもち 、紛争などの安全保障の問題を扱う会議
アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国(中華民国、後に中華人民共和国) の5ヵ国の常任理事国のみが拒否権を所有
専門機関
ユネスコ (国際連合教育科学文化機関、UNESCO )
教育・科学・文化を通じて世界平和を促進する機関
国際労働機関 (ILO )
各国の労働問題解決のために勧告や調停をおこなう機関
世界保健機関 (WHO )
国際的な保健衛生の事業の指導・調整をおこなう機関
国際通貨基金 (IMF)
国際的な為替の安定を 目指して設立された、国際連合 の専門機関
国際金融の新体制と米国の経済的覇権
1944年、アメリカのブレトン=ウッズで国際会議が開かれ、国際金融の新体制の構想が決まりました。
大戦後、会議の協定に基づいて次の諸機関・制度が成立しました。
1945年12月、国際通貨基金 (IMF)
国際的な為替の安定を 目指して設立された、国際連合 の専門機関
1945年12月、国際復興開発銀行 (世界銀行 、IBRD)
第二次 世界大戦後の復興と後進国開発を目指して設立された、国際連合の専門機関
1947年10月、関税と貿易に関する一般協定 (GATT)
関税やその他の貿易障壁を取り除き、自由 貿易を促進する目的で結ばれた協定
1995年、この協定を発展させて世界貿易機関(WTO)が発足
新体制では、金1オンス(約31.1グラム)=35ドルと定められ、ドルと各国通貨の交換比率が固定されました。
この体制はブレトン=ウッズ体制 と呼ばれ、ドル を国際通貨制度の中心である基軸通貨としました。
ブレトン=ウッズ体制
アメリカが保有する世界の7割の金を基盤とする金本位制 | 国際連合の専門機関について、世界保健機関と国際通貨基金の違いを説明して下さい。 | 世界保健機関 (WHO )は、国際的な保健衛生の事業の指導・調整をおこなう機関ですが、
国際通貨基金 (IMF)は、国際的な為替の安定を 目指して設立された、国際連合 の専門機関です。 |
JCRRAG_017968 | 歴史 | 1737年(元文2年)、9代将軍「徳川家重」(とくがわいえしげ)の嫡男として江戸城西の丸(えどじょうにしのまる)で生まれたのは、「徳川家治」(とくがわいえはる)です。
父の徳川家重が、生まれ付き言語不明瞭であったため、祖父である「徳川吉宗」(とくがわよしむね)は、徳川家重に十分な教育を施すことができなかったと言います。
そこで、徳川吉宗は孫の徳川家治に期待し、多くのことを授けようと考えました。
徳川家治は幼少期より聡明で、徳川吉宗の教えることを次々と理解して修得。
徳川家治は、祖父である徳川吉宗に深く寵愛され、帝王学をはじめとして、吉宗が知るすべてのことを教えられたと伝えられています。
そんな徳川吉宗に、父親の代から仕えていた「田沼意次」(たぬまおきつぐ)は、徳川家重の小姓として抜擢され、側用人(そばようにん:将軍と老中の取り次ぎをする役職)にまで出世した人物です。
小姓が有能であれば将軍の助けになることを、徳川吉宗は良く分かっていました。将来、徳川家治が将軍になったときに支えられる能力を、小姓達に身に付けさせようと考え、徳川吉宗自ら色々なことを教えたとのことです。
徳川家治も徳川吉宗のことを尊敬し、徳川吉宗のような名君になることを望んでいたため、食事のときに、自分が食べたことのない料理が出されると、徳川吉宗も食べたことがあるのかを確認してから食べたと言われています。
徳川家治は聡明なだけでなく、武芸にも秀でていました。剣術は、剣術家の旗本「柳生久寿」(やぎゅうひさとし)から学び、槍・弓・馬術なども熱心に練習し、特に鉄砲の腕前は達人と呼べるほどの名手だったとのこと。
さらに、芸術においては能や絵画、書画なども上手で、囲碁や将棋も強く、あらゆることで才能を発揮。徳川家治は文武両道の才人であったので、周りの人に徳川家治は将来、祖父・徳川吉宗にも劣らない名君になると期待されていました。 | 9代将軍「徳川家重」の嫡男として江戸城西の丸で生まれた人物は、文武両道の才人であったので、周りの人に徳川家治は将来、誰に劣らない名君になると期待されていたか。 | 9代将軍「徳川家重」の嫡男として江戸城西の丸で生まれた人物は、文武両道の才人であったので、周りの人に徳川家治は将来、祖父・徳川吉宗にも劣らない名君になると期待されていた。 |
JCRRAG_017969 | 歴史 | 幼いころの織田信長は尾張の治黙寺に習字のけいこをしに行かされたが、モチロン習字なんぞするわけがない。
川からフナを取って来てふきの葉でナマスを造る位はまだいいほうで、ともだちの弁当を奪い取ってして平らげたりした。
町を通りながら、栗を五個、柿を三個、瓜を一個取ってはかじり、餅を四個もほおばった。人が笑おうが指を指そうがお構いなしである。
十六・七までは別に遊びはしなかったが、ただ、朝や夕方に馬を走らせたり、鷹狩りを催したり、春から秋にかけて川に飛び込んだりして日々を暮らしていた。
しかし友人を集めて竹槍を持たせて戦わせたりする時に、褒美を最初は少しだけ渡して後からこっそり多く与えていた事や、当時から槍は三間柄が有利であるとの見解を持っていた事や、更にこの頃じょじょに戦が始まる度に威力を発揮して来た鉄砲の稽古に熱心であった事などを見ると、筑紫の坊さんの目もたしかだったのだろう。
平手中務政秀は信長のお守り役であるが、前々から主である信長の行いを気に病んでいた。
色々と説得しては見るものの一向に効き目がない。
そのうちに、政秀の長男に五郎右衛門というのがいるのだが、良い馬を持っていた所を馬好きの信長が見て欲しがった所、あっさりと断られてしまった。
親父も頑固なら息子も強情な奴だと、信長の機嫌が非常に悪かった。
政秀はこのやりとりを見て「今までの教育が失敗しているのに、更にまた息子までしくじってしまった。こうなったら死ぬことで許してもらうしかない」と決意して、天文二十二年の正月十三日、六十歳ほどのしわの入った腹を切腹して亡くなった。
その遺書には、
心を正しくしなければ誰も誠意をもって仕えないですよ、ただ賢さだけではでなく心の度量を広く持ってください、
欲張ってもいけませんしえこひいきがあってはいけません、才能を見出さなければなりませんよ、
力だけでは立派にはなれないので、勉強もしっかりするように、
礼節を軽視しない方がいいですよ
などと書かれていた。
信長は涙を流して後悔したけどどうしようもない。せめてと思って西春日井郡小木の里に政秀寺という菩提寺を建てて二百石を渡した。(後に清須に移し今は名古屋に在る)
信長は鷹狩りで小鳥を狩ると「政秀!この鳥を食えよ!」と三羽を空になげ、二羽を政秀供え、小川の畔に来たら「政秀!この水を飲めよ!」と叫んで涙を流した。
政秀の覚悟の死によって信長は大いに行いを改めたが、同時にその天性の武力や威厳を振るい出した。 | 幼いころの織田信長が町を通りながら食べたもののうち、数が少ないものを教えてください。 | 幼いころの織田信長が町を通りながら食べたもののうち、数が少ないものは瓜で一個です。 |
JCRRAG_017970 | 歴史 | 国内植民史の上で看過すべからざる大転変
この場合に、本家から離れて新たに遠方に移住したものの、家号はどうなったかというと、だいたいにおいては共通に行先の地名を名字の中に称えたのである。たとえば下野の宇都宮家が豊前の城井に新恩の地を貰って行けば城井氏となり、さらにこの家から肥後の内古閑に移住して行けば、内古閑氏となった類である。しかしながら当時の思想としては、すでに開墾させられた土地に対しては、名田職の関係もないところから、これを家の号に名乗るのはいかにも貰い物のような感じがしたものか、あるいはまた宇都宮とか千葉とかいう関東の大名は、九州の辺土にまでその名が轟いていたがゆえに、これを名乗って本家の威光を笠に着る必要があったものか、いつとなく家号を携えて移住して行くような風が始まった。これは国内植民史の上で看過すべからざる大転変であります。
毛利・武田・小笠原の諸家
たとえば大江広元の一族は、相州愛甲郡毛利荘に本領があって、毛利を名乗っていた。その一族の中では、羽前の左沢に移住したものは左沢某と呼んでいるが、安芸国に分かれて行った家はそのまま毛利家と称していた。これはおそらく出羽の方は新開で芸州の方はすでに開けていたためであろう。甲州の武田は、釜無川の上流に名字の地があったための武田であるけれども、そのある者は上総に移住し、またある者は若狭に移住してもやはり武田を名乗っている。その一族の南部家は、同じ河の下流の駿河に接している南部村を領して家の名を得たのであるが、奥州の北端に移住してもなお南部を唱えている。同じ国の小笠原家は、阿波に移住しては三好氏となったけれども、信州に移ったものはいつまでも小笠原家であったのです。
熊谷・吉川及び九州の諸家
武蔵の熊谷に住んでおった蓮生入道の一族は、安芸国に移っても相変わらず熊谷で、その子孫が非常に繁殖して今日まで残っている。足利将軍義政の時代に諫言をたてまつって領地を失った熊谷某は近江の熊谷である。また今日は毛利家の親族となっておられる吉川家は、元駿州の庵原郡の住人で、梶原景時が鎌倉を逃げて西に走る時に、狐ヶ崎でこれを攻め殺した吉香の小次郎はその祖先である、たしかこの時の感賞に芸州を貰ったかと記憶している。
九州には源平戦後の移住武士がほかにもたくさんあって、菊池とか原田とかはそれ以前から、九州の地名を家号としている旧家であるけれども、大友は相州の大友であるし、伊東は伊豆の伊東で、前に挙げた吉川家とともに狩野家の分かれである。千葉という家も九州に多いが、これも下総からの分家である。薩摩にしかない名字の鮫島家のごときも、はるばる駿河の富士山麓から担いで行った家号であります。 | 甲州の武田が移住しても武田を名乗ってる移住先の数を教えてください。 | 甲州の武田が移住しても武田を名乗ってる移住先の数は2で、
「上総」
「若狭」
です。 |
JCRRAG_017971 | 歴史 | 2度の大戦後の秩序形成
国際連合の発足
1941年8月、大西洋憲章
アメリカ の大統領フランクリン=ローズヴェルト とイギリスの首相チャーチル が大西洋上会談でまとめた憲章
国際連合を創設する構想を表明
1945年4~6月(日本の降伏前 )、サンフランシスコ会議
第二次世界大戦中に米・英・ソ・中の4国でまとめた国際連合憲章 を採択した会議
1945年10月、国際連合憲章に基づいて国際連合 が発足しました。
国際連合
英名はUnited Nations、つまり第二次世界大戦の「連合国」を母体とし、日本などの敗戦国は後に加盟
国際連合の構成
会議
国連総会
全加盟国で構成される会議
1948年、人種・性・宗教などによる差別を禁止する世界人権宣言 を採択
安全保障理事会
経済制裁・武力制裁の権限をもち 、紛争などの安全保障の問題を扱う会議
アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国(中華民国、後に中華人民共和国) の5ヵ国の常任理事国のみが拒否権を所有
専門機関
ユネスコ (国際連合教育科学文化機関、UNESCO )
教育・科学・文化を通じて世界平和を促進する機関
国際労働機関 (ILO )
各国の労働問題解決のために勧告や調停をおこなう機関
世界保健機関 (WHO )
国際的な保健衛生の事業の指導・調整をおこなう機関
国際通貨基金 (IMF)
国際的な為替の安定を 目指して設立された、国際連合 の専門機関
国際金融の新体制と米国の経済的覇権
1944年、アメリカのブレトン=ウッズで国際会議が開かれ、国際金融の新体制の構想が決まりました。
大戦後、会議の協定に基づいて次の諸機関・制度が成立しました。
1945年12月、国際通貨基金 (IMF)
国際的な為替の安定を 目指して設立された、国際連合 の専門機関
1945年12月、国際復興開発銀行 (世界銀行 、IBRD)
第二次 世界大戦後の復興と後進国開発を目指して設立された、国際連合の専門機関
1947年10月、関税と貿易に関する一般協定 (GATT)
関税やその他の貿易障壁を取り除き、自由 貿易を促進する目的で結ばれた協定
1995年、この協定を発展させて世界貿易機関(WTO)が発足
新体制では、金1オンス(約31.1グラム)=35ドルと定められ、ドルと各国通貨の交換比率が固定されました。
この体制はブレトン=ウッズ体制 と呼ばれ、ドル を国際通貨制度の中心である基軸通貨としました。
ブレトン=ウッズ体制
アメリカが保有する世界の7割の金を基盤とする金本位制 | 国際連合の専門機関について、国際連合教育科学文化機関と世界保健機関の違いを説明して下さい。 | ユネスコ (国際連合教育科学文化機関、UNESCO )は、
教育・科学・文化を通じて世界平和を促進する機関ですが、
世界保健機関 (WHO )は、国際的な保健衛生の事業の指導・調整をおこなう機関です。 |
JCRRAG_017972 | 歴史 | 1737年(元文2年)、9代将軍「徳川家重」(とくがわいえしげ)の嫡男として江戸城西の丸(えどじょうにしのまる)で生まれたのは、「徳川家治」(とくがわいえはる)です。
徳川家治は、1760年(宝暦10年)、父である徳川家重の隠居により10代将軍に就任。
翌1761年(宝暦11年)に徳川家重が没すると遺言にしたがい、重用されたのは田沼意次です。
遺言にしたがったことになっていますが、田沼意次を重用した理由はそれだけではありません。
田沼意次は、尊敬する祖父の徳川吉宗が取り立て、低い身分から徳川家重の側用人へ、そして大名にまで地位を上げた人物です。ただ者ではないことを、聡明な徳川家治は見抜いていたのだと考えられます。
徳川家治は、田沼意次に重要な役職を任せるようになり、1767年(明和4年)には側用人に任命し、1772年(安永元年)には側用人として初めて老中を務めさせ、側用人もそのまま兼任させました。田沼意次の石高も役職が上がるにつれて加増され、最終的には5万7,000石の大名になります。
徳川家治は聡明さゆえに田沼意次の非凡な才能に一目を置き、自分が政治を取り仕切るよりも、田沼意次に高い地位を与え、自由に政策を行なえる方が良いと考えたのです。 | 9代将軍「徳川家重」の嫡男として江戸城西の丸で生まれた人物は、どのような理由によって10代将軍に就任したか。 | 9代将軍「徳川家重」の嫡男として江戸城西の丸で生まれた人物は、1760年(宝暦10年)、父である徳川家重の隠居により10代将軍に就任した。 |
JCRRAG_017973 | 歴史 | そこで、義元は当時駿河の国府にいた松平竹千代に行くように命じた。竹千代というのはすなわち後の徳川家康である。
竹千代は実に不遇な目に遭っており、始めは渥美郡牟呂村の千石の地しか与えられず、家臣をちゃんと面倒見る事にさえ苦労していた。
そのため鳥居伊賀守忠吉は自らの財産を大量に松平家の為に使ったとさえ言われている。
後に三河武士と称された家臣達は何があってもじっと我慢して機会を窺っていた。
松平元康が、どんなに優秀な先陣を勤めたかを簡単にいうなら、弘治三年四月には刈屋を攻めて、七月には大府に向かい、翌年の二月には、義元を裏切って信長に通じていた寺部城主鈴木重教を攻めて、同じく四月には兵糧を大高城に入れた。
もちろん、この頃には信長も準備はしっかり準備しているのであって、大高城も充分に監視していて兵糧の入るかどうかを厳重に警戒していた。
もし今川から大高城に兵糧を入れる気配があったらとしたら、大高城から近い鷲津や丸根の二つの城は法螺貝を吹き、その音を聞いたら寺部等の砦にいる兵たちは速攻で大高にかけつけろ、丹下城にいる五千の兵、中島城にいる八千の兵、合わせて一万三千の兵は、丸根、鷲津の援軍として待機しろと命じていつ兵糧が入るか待ち構えていた。
四月十七日夜に入ると共に支度をしていた、松平次郎三郎元康は、十八という若い年齢の武者ながら大きな任務を成功させるべく出発しようとした。
酒井与四郎正親、小五郎忠次、石川与七郎数正の三人が「信長ならば必ず城へ兵糧を入れるのを邪魔するような計画を立てているはずだ。とても兵糧を入れるのは無理だ」と説得したけど、元康は秘策を用意していたのだから聴くハズがない。一人その説得に反対した。
一丈八尺ほどの長さの黒地に葵の紋三つを付けた白い旗を七本も掲げて三千騎の元康軍勢が出発した。
前軍は鷲津、丸根、大高を脇目に見ながら寺部城に向かって突然攻撃した。ちょうど深夜だったので、信長の軍勢はびっくりして防戦にでたが松平勢はすでに一ノ木戸を押し破って入り、火を放ったと思うとサッと引き上げた。
引き上げたと思うと更に梅ヶ坪城に向かい二の丸や三の丸まで打ち入って同じ様に火を付けた。
厳重に大高城を監視していた丸根や鷲津の番兵達は、遠くからおたけびがすると思っているうちに、寺部や梅ヶ坪の城に煌々と火が上がっているのを見て驚き困惑した。
大高城に最も近い丸根、鷲津を差し置いて、寺部なんてはした城を先に攻めるわけがないと思っていたからである。
怪しんで見たものの味方のピンチである。取り合えず城をほとんど空にして火の手が上がっている所に駆け付けた。
「私の作戦が大当たりだ!」と暗闇の中でほくそ笑んだのは元康である。この隙に簡単に兵糧を大高城に入れてしまった。
この大高城への兵糧入れこそ、家康の出世絵巻中の第一景である。
大高城への兵糧入れに成功した元康は、五月に更に大府に向かい、八月には衣城を下した。翌三年三月には刈屋を攻め、七月、東広瀬、寺部の二城を落とし、十二月に村木の砦を占領して翌年正月にこれを壊している。 | 元康軍勢と信長が用意した軍勢のうち、兵の人数が多いほうを教えてください。 | 元康軍勢と信長が用意した軍勢のうち、兵の人数が多いほうは信長が用意した軍勢で一万三千です。 |
JCRRAG_017974 | 歴史 | 国内植民史の上で看過すべからざる大転変
この場合に、本家から離れて新たに遠方に移住したものの、家号はどうなったかというと、だいたいにおいては共通に行先の地名を名字の中に称えたのである。たとえば下野の宇都宮家が豊前の城井に新恩の地を貰って行けば城井氏となり、さらにこの家から肥後の内古閑に移住して行けば、内古閑氏となった類である。しかしながら当時の思想としては、すでに開墾させられた土地に対しては、名田職の関係もないところから、これを家の号に名乗るのはいかにも貰い物のような感じがしたものか、あるいはまた宇都宮とか千葉とかいう関東の大名は、九州の辺土にまでその名が轟いていたがゆえに、これを名乗って本家の威光を笠に着る必要があったものか、いつとなく家号を携えて移住して行くような風が始まった。これは国内植民史の上で看過すべからざる大転変であります。
毛利・武田・小笠原の諸家
たとえば大江広元の一族は、相州愛甲郡毛利荘に本領があって、毛利を名乗っていた。その一族の中では、羽前の左沢に移住したものは左沢某と呼んでいるが、安芸国に分かれて行った家はそのまま毛利家と称していた。これはおそらく出羽の方は新開で芸州の方はすでに開けていたためであろう。甲州の武田は、釜無川の上流に名字の地があったための武田であるけれども、そのある者は上総に移住し、またある者は若狭に移住してもやはり武田を名乗っている。その一族の南部家は、同じ河の下流の駿河に接している南部村を領して家の名を得たのであるが、奥州の北端に移住してもなお南部を唱えている。同じ国の小笠原家は、阿波に移住しては三好氏となったけれども、信州に移ったものはいつまでも小笠原家であったのです。
熊谷・吉川及び九州の諸家
武蔵の熊谷に住んでおった蓮生入道の一族は、安芸国に移っても相変わらず熊谷で、その子孫が非常に繁殖して今日まで残っている。足利将軍義政の時代に諫言をたてまつって領地を失った熊谷某は近江の熊谷である。また今日は毛利家の親族となっておられる吉川家は、元駿州の庵原郡の住人で、梶原景時が鎌倉を逃げて西に走る時に、狐ヶ崎でこれを攻め殺した吉香の小次郎はその祖先である、たしかこの時の感賞に芸州を貰ったかと記憶している。
九州には源平戦後の移住武士がほかにもたくさんあって、菊池とか原田とかはそれ以前から、九州の地名を家号としている旧家であるけれども、大友は相州の大友であるし、伊東は伊豆の伊東で、前に挙げた吉川家とともに狩野家の分かれである。千葉という家も九州に多いが、これも下総からの分家である。薩摩にしかない名字の鮫島家のごときも、はるばる駿河の富士山麓から担いで行った家号であります。 | 九州の地名を家号としている旧家である名前の数を教えてください。 | 九州の地名を家号としている旧家である名前の数は2で、
「菊池」
「原田」
です。 |
JCRRAG_017975 | 歴史 | 2度の大戦後の秩序形成
国際連合の発足
1941年8月、大西洋憲章
アメリカ の大統領フランクリン=ローズヴェルト とイギリスの首相チャーチル が大西洋上会談でまとめた憲章
国際連合を創設する構想を表明
1945年4~6月(日本の降伏前 )、サンフランシスコ会議
第二次世界大戦中に米・英・ソ・中の4国でまとめた国際連合憲章 を採択した会議
1945年10月、国際連合憲章に基づいて国際連合 が発足しました。
国際連合
英名はUnited Nations、つまり第二次世界大戦の「連合国」を母体とし、日本などの敗戦国は後に加盟
国際連合の構成
会議
国連総会
全加盟国で構成される会議
1948年、人種・性・宗教などによる差別を禁止する世界人権宣言 を採択
安全保障理事会
経済制裁・武力制裁の権限をもち 、紛争などの安全保障の問題を扱う会議
アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国(中華民国、後に中華人民共和国) の5ヵ国の常任理事国のみが拒否権を所有
専門機関
ユネスコ (国際連合教育科学文化機関、UNESCO )
教育・科学・文化を通じて世界平和を促進する機関
国際労働機関 (ILO )
各国の労働問題解決のために勧告や調停をおこなう機関
世界保健機関 (WHO )
国際的な保健衛生の事業の指導・調整をおこなう機関
国際通貨基金 (IMF)
国際的な為替の安定を 目指して設立された、国際連合 の専門機関
国際金融の新体制と米国の経済的覇権
1944年、アメリカのブレトン=ウッズで国際会議が開かれ、国際金融の新体制の構想が決まりました。
大戦後、会議の協定に基づいて次の諸機関・制度が成立しました。
1945年12月、国際通貨基金 (IMF)
国際的な為替の安定を 目指して設立された、国際連合 の専門機関
1945年12月、国際復興開発銀行 (世界銀行 、IBRD)
第二次 世界大戦後の復興と後進国開発を目指して設立された、国際連合の専門機関
1947年10月、関税と貿易に関する一般協定 (GATT)
関税やその他の貿易障壁を取り除き、自由 貿易を促進する目的で結ばれた協定
1995年、この協定を発展させて世界貿易機関(WTO)が発足
新体制では、金1オンス(約31.1グラム)=35ドルと定められ、ドルと各国通貨の交換比率が固定されました。
この体制はブレトン=ウッズ体制 と呼ばれ、ドル を国際通貨制度の中心である基軸通貨としました。
ブレトン=ウッズ体制
アメリカが保有する世界の7割の金を基盤とする金本位制 | 国際連合の専門機関について、国際連合教育科学文化機関と国際通貨基金の違いを説明して下さい。 | ユネスコ (国際連合教育科学文化機関、UNESCO )は、
教育・科学・文化を通じて世界平和を促進する機関ですが、
国際通貨基金 (IMF)は、国際的な為替の安定を 目指して設立された、国際連合 の専門機関です。 |
JCRRAG_017976 | 歴史 | 1737年(元文2年)、9代将軍「徳川家重」(とくがわいえしげ)の嫡男として江戸城西の丸(えどじょうにしのまる)で生まれたのは、「徳川家治」(とくがわいえはる)です。
徳川家治は、1760年(宝暦10年)、父である徳川家重の隠居により10代将軍に就任。
翌1761年(宝暦11年)に徳川家重が没すると遺言にしたがい、重用されたのは田沼意次です。
遺言にしたがったことになっていますが、田沼意次を重用した理由はそれだけではありません。
田沼意次は、尊敬する祖父の徳川吉宗が取り立て、低い身分から徳川家重の側用人へ、そして大名にまで地位を上げた人物です。ただ者ではないことを、聡明な徳川家治は見抜いていたのだと考えられます。
徳川家治は、田沼意次に重要な役職を任せるようになり、1767年(明和4年)には側用人に任命し、1772年(安永元年)には側用人として初めて老中を務めさせ、側用人もそのまま兼任させました。田沼意次の石高も役職が上がるにつれて加増され、最終的には5万7,000石の大名になります。
徳川家治は聡明さゆえに田沼意次の非凡な才能に一目を置き、自分が政治を取り仕切るよりも、田沼意次に高い地位を与え、自由に政策を行なえる方が良いと考えたのです。 | 9代将軍「徳川家重」の嫡男として江戸城西の丸で生まれた人物は、1767年に田沼意次を何に任命したか。 | 9代将軍「徳川家重」の嫡男として江戸城西の丸で生まれた人物は、1767年に田沼意次を側用人に任命した。 |
JCRRAG_017977 | 歴史 | そこで、義元は当時駿河の国府にいた松平竹千代に行くように命じた。竹千代というのはすなわち後の徳川家康である。
竹千代は実に不遇な目に遭っており、始めは渥美郡牟呂村の千石の地しか与えられず、家臣をちゃんと面倒見る事にさえ苦労していた。
そのため鳥居伊賀守忠吉は自らの財産を大量に松平家の為に使ったとさえ言われている。
後に三河武士と称された家臣達は何があってもじっと我慢して機会を窺っていた。
松平元康が、どんなに優秀な先陣を勤めたかを簡単にいうなら、弘治三年四月には刈屋を攻めて、七月には大府に向かい、翌年の二月には、義元を裏切って信長に通じていた寺部城主鈴木重教を攻めて、同じく四月には兵糧を大高城に入れた。
もちろん、この頃には信長も準備はしっかり準備しているのであって、大高城も充分に監視していて兵糧の入るかどうかを厳重に警戒していた。
もし今川から大高城に兵糧を入れる気配があったらとしたら、大高城から近い鷲津や丸根の二つの城は法螺貝を吹き、その音を聞いたら寺部等の砦にいる兵たちは速攻で大高にかけつけろ、丹下城にいる五千の兵、中島城にいる八千の兵、合わせて一万三千の兵は、丸根、鷲津の援軍として待機しろと命じていつ兵糧が入るか待ち構えていた。
四月十七日夜に入ると共に支度をしていた、松平次郎三郎元康は、十八という若い年齢の武者ながら大きな任務を成功させるべく出発しようとした。
酒井与四郎正親、小五郎忠次、石川与七郎数正の三人が「信長ならば必ず城へ兵糧を入れるのを邪魔するような計画を立てているはずだ。とても兵糧を入れるのは無理だ」と説得したけど、元康は秘策を用意していたのだから聴くハズがない。一人その説得に反対した。
一丈八尺ほどの長さの黒地に葵の紋三つを付けた白い旗を七本も掲げて三千騎の元康軍勢が出発した。
前軍は鷲津、丸根、大高を脇目に見ながら寺部城に向かって突然攻撃した。ちょうど深夜だったので、信長の軍勢はびっくりして防戦にでたが松平勢はすでに一ノ木戸を押し破って入り、火を放ったと思うとサッと引き上げた。
引き上げたと思うと更に梅ヶ坪城に向かい二の丸や三の丸まで打ち入って同じ様に火を付けた。
厳重に大高城を監視していた丸根や鷲津の番兵達は、遠くからおたけびがすると思っているうちに、寺部や梅ヶ坪の城に煌々と火が上がっているのを見て驚き困惑した。
大高城に最も近い丸根、鷲津を差し置いて、寺部なんてはした城を先に攻めるわけがないと思っていたからである。
怪しんで見たものの味方のピンチである。取り合えず城をほとんど空にして火の手が上がっている所に駆け付けた。
「私の作戦が大当たりだ!」と暗闇の中でほくそ笑んだのは元康である。この隙に簡単に兵糧を大高城に入れてしまった。
この大高城への兵糧入れこそ、家康の出世絵巻中の第一景である。
大高城への兵糧入れに成功した元康は、五月に更に大府に向かい、八月には衣城を下した。翌三年三月には刈屋を攻め、七月、東広瀬、寺部の二城を落とし、十二月に村木の砦を占領して翌年正月にこれを壊している。 | 元康軍勢と信長が用意した軍勢のうち、兵の人数が少ないほうを教えてください。 | 元康軍勢と信長が用意した軍勢のうち、兵の人数が少ないほうは元康軍勢で三千人です。 |
JCRRAG_017978 | 歴史 | 家号を新領に持って行くことになった原因
このように家号を持って新領に引き移る風潮は、だんだんと増加して行ってついに名字の固着した今日の状態を養うに至ったが、一つの原因としては、吉野朝廷時代に地方地方の嫡庶の争いが、この機会を利用して宮方・武家方に立ち分かれ、所領の奪い合いを始めたために、その一の要求としていったん新たなる家号を持ったものも、改めて本家の名を名乗るという政治上の必要も、よほどこの傾向を手伝っていると思われる。これから以後は名字によって、その家の郷里を推測することのできるという、一方から見れば重宝な様子になって行ったのである。しかしいずれの家でも最初の本領というものがあって、不忠の心なく武家に仕えていたものは、まずは家号の地と連絡を絶つことはなかったがゆえに、足利氏の末の頃まで山田郷の山田殿というような武士は、たくさん全国にあったのであります。
東北の旧家たる佐藤・五十嵐・本間
ここでその一例をいうと、前にもお話した田原家の後である佐藤家である。現在の系図が真実とするならば、佐藤家は下野より北部に向かって非常な勢いをもって蔓延して行ったのである。九郎判官に仕えて忠義の戦死を遂げた佐藤嗣信・佐藤忠信の兄弟は、諸所にその遺跡というものがあって正確にはわからぬが、とにかく奥州の南方に領地を持っておった佐藤家であって、すでに源平時代においてその東北に植民を始めたのである。今日でも奥羽六県の間には佐藤という旧家が最も多く、いずれも秀郷流の藤原氏であると称している。自分は去年山形県を旅行して、面白い事実を発見した。出羽の庄内、ことに西田川郡の海岸部においては、佐藤と五十嵐という家が南北から入り交って、ここで双方の境界をなしている。この五十嵐家は系図は見たことがないけれども、何でも越後が本元で、新潟県の北部から山を越えて、出羽の方へも会津の方へも移住を試み、いずれの方面においても佐藤家の前進を喰い止めかつ喰い止められている。
酒田の本間家は現今の富豪であるが、この家号も広く出羽地方に播布しており、佐藤・五十嵐二勢力の外に屹立しているが、この家は佐渡の本間である。本間家と佐藤家の縁故はすこぶる深いもので、しかも一島の富を独占しておったがために、その余力をもって優に対岸の地に展開することができ、ここにはからずも山形県の隅に、三合の奇現象を残すことになったのであります。 | 九郎判官に仕えて忠義の戦死を遂げた佐藤家の人数を教えてください。 | 九郎判官に仕えて忠義の戦死を遂げた佐藤家の人数は2で、
「佐藤嗣信」
「佐藤忠信」
です。 |
JCRRAG_017979 | 歴史 | 2度の大戦後の秩序形成
国際連合の発足
1941年8月、大西洋憲章
アメリカ の大統領フランクリン=ローズヴェルト とイギリスの首相チャーチル が大西洋上会談でまとめた憲章
国際連合を創設する構想を表明
1945年4~6月(日本の降伏前 )、サンフランシスコ会議
第二次世界大戦中に米・英・ソ・中の4国でまとめた国際連合憲章 を採択した会議
1945年10月、国際連合憲章に基づいて国際連合 が発足しました。
国際連合
英名はUnited Nations、つまり第二次世界大戦の「連合国」を母体とし、日本などの敗戦国は後に加盟
国際連合の構成
会議
国連総会
全加盟国で構成される会議
1948年、人種・性・宗教などによる差別を禁止する世界人権宣言 を採択
安全保障理事会
経済制裁・武力制裁の権限をもち 、紛争などの安全保障の問題を扱う会議
アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国(中華民国、後に中華人民共和国) の5ヵ国の常任理事国のみが拒否権を所有
専門機関
ユネスコ (国際連合教育科学文化機関、UNESCO )
教育・科学・文化を通じて世界平和を促進する機関
国際労働機関 (ILO )
各国の労働問題解決のために勧告や調停をおこなう機関
世界保健機関 (WHO )
国際的な保健衛生の事業の指導・調整をおこなう機関
国際通貨基金 (IMF)
国際的な為替の安定を 目指して設立された、国際連合 の専門機関
国際金融の新体制と米国の経済的覇権
1944年、アメリカのブレトン=ウッズで国際会議が開かれ、国際金融の新体制の構想が決まりました。
大戦後、会議の協定に基づいて次の諸機関・制度が成立しました。
1945年12月、国際通貨基金 (IMF)
国際的な為替の安定を 目指して設立された、国際連合 の専門機関
1945年12月、国際復興開発銀行 (世界銀行 、IBRD)
第二次 世界大戦後の復興と後進国開発を目指して設立された、国際連合の専門機関
1947年10月、関税と貿易に関する一般協定 (GATT)
関税やその他の貿易障壁を取り除き、自由 貿易を促進する目的で結ばれた協定
1995年、この協定を発展させて世界貿易機関(WTO)が発足
新体制では、金1オンス(約31.1グラム)=35ドルと定められ、ドルと各国通貨の交換比率が固定されました。
この体制はブレトン=ウッズ体制 と呼ばれ、ドル を国際通貨制度の中心である基軸通貨としました。
ブレトン=ウッズ体制
アメリカが保有する世界の7割の金を基盤とする金本位制 | 国際連合の専門機関について、国際通貨基金と世界保健機関の違いを説明して下さい。 | 国際労働機関 (ILO )は、各国の労働問題解決のために勧告や調停をおこなう機関ですが、
世界保健機関 (WHO )は、国際的な保健衛生の事業の指導・調整をおこなう機関です。 |
JCRRAG_017980 | 歴史 | 1737年(元文2年)、9代将軍「徳川家重」(とくがわいえしげ)の嫡男として江戸城西の丸(えどじょうにしのまる)で生まれたのは、「徳川家治」(とくがわいえはる)です。
徳川家治は、1760年(宝暦10年)、父である徳川家重の隠居により10代将軍に就任。
翌1761年(宝暦11年)に徳川家重が没すると遺言にしたがい、重用されたのは田沼意次です。
遺言にしたがったことになっていますが、田沼意次を重用した理由はそれだけではありません。
田沼意次は、尊敬する祖父の徳川吉宗が取り立て、低い身分から徳川家重の側用人へ、そして大名にまで地位を上げた人物です。ただ者ではないことを、聡明な徳川家治は見抜いていたのだと考えられます。
徳川家治は、田沼意次に重要な役職を任せるようになり、1767年(明和4年)には側用人に任命し、1772年(安永元年)には側用人として初めて老中を務めさせ、側用人もそのまま兼任させました。田沼意次の石高も役職が上がるにつれて加増され、最終的には5万7,000石の大名になります。
徳川家治は聡明さゆえに田沼意次の非凡な才能に一目を置き、自分が政治を取り仕切るよりも、田沼意次に高い地位を与え、自由に政策を行なえる方が良いと考えたのです。 | 9代将軍「徳川家重」の嫡男として江戸城西の丸で生まれた人物は、1772年には何を務めさせたか。 | 9代将軍「徳川家重」の嫡男として江戸城西の丸で生まれた人物は、1772年には老中を務めさせた。 |
JCRRAG_017981 | 歴史 | 永禄三年の五月一日に今川義元はついに全軍に出発するよう命令した。
前軍は十日に出発したが、一日おいた十二日、義元は息子である氏真に留守を任せて自ら府中(今の静岡)を出発した。
総勢二万五千と言っているが結果的に四万とも言われている。
義元は桶狭間の戦いへの出発に際していくつかの凶兆があった事が伝えられている。
元来義元は兄の氏輝が家督を継いでいるので自分は禅僧となって富士にある善徳寺に住んでいた。
氏輝には子供がいなかったので二十歳の義元を呼び戻して家督を譲った。
今川義元である。
ところがこの時邪魔をしたのが義元の次兄で、花倉寺の主である良真である。
良真の計算では兄である自分が家を継ぐはずだったのに、自分だけ氏輝、義元の二人とは母親がちがうからのけものにされたのだと、ついに義元と戦ったが敗れてしまい花倉寺で自殺したという事があった。
その花倉寺良真が義元出発の夜に化けて出た。
義元は枕元にある銘刀・松倉郷を抜いて切り払った。
幽霊だから切り払われても大した事はないのであろうが良真は飛び退いて言った。
「おまえの命運が尽きたのを告げに来たのだ」と。
出陣の間際に縁起でもないことをわざわざ報告に来たわけである。
義元も負けずに「おまえは私の怨敵であるはずなのになんで私に吉凶を告げるんだ?」人間でなくてもうそをつくかも知れないと思ったのだ。
良真は「なるほど確かにおまえは私の怨敵だ、しかし今川の家が滅びてしまうのが悲しくて告げに来たのだ」と言うや否や消えてなくなった。
その他に、駿州の鎮守総社大明神に神の使いとして目撃されている白狐がいたのだが、義元が出発する日になんと胸が割けて死んでいたとも言われている。
今川義元は十八日には陣を広げ、ここで全軍の配置を決めた。
松平元康 兵二千五百人
朝比奈泰能 兵二千人
三浦備後守 兵三千人
葛山信貞 兵六千人
今川義元 兵五千人
岡部三信 兵八百人
浅井政敏 兵千五百人
この今川勢に対して、織田勢も十八日には準備を整えていた。
織田信平 兵五百人
佐久間盛重 兵四百人
水野忠光 兵五百人
佐久間信辰 兵五百人
梶川一秀 兵五百人 | 今川義元が十八日に配置した軍勢の中でもっとも多い兵の数を教えてください。 | 今川義元が十八日に配置した軍勢の中でもっとも多い兵の数は六千人です。 |
JCRRAG_017982 | 歴史 | 家号を新領に持って行くことになった原因
このように家号を持って新領に引き移る風潮は、だんだんと増加して行ってついに名字の固着した今日の状態を養うに至ったが、一つの原因としては、吉野朝廷時代に地方地方の嫡庶の争いが、この機会を利用して宮方・武家方に立ち分かれ、所領の奪い合いを始めたために、その一の要求としていったん新たなる家号を持ったものも、改めて本家の名を名乗るという政治上の必要も、よほどこの傾向を手伝っていると思われる。これから以後は名字によって、その家の郷里を推測することのできるという、一方から見れば重宝な様子になって行ったのである。しかしいずれの家でも最初の本領というものがあって、不忠の心なく武家に仕えていたものは、まずは家号の地と連絡を絶つことはなかったがゆえに、足利氏の末の頃まで山田郷の山田殿というような武士は、たくさん全国にあったのであります。
東北の旧家たる佐藤・五十嵐・本間
ここでその一例をいうと、前にもお話した田原家の後である佐藤家である。現在の系図が真実とするならば、佐藤家は下野より北部に向かって非常な勢いをもって蔓延して行ったのである。九郎判官に仕えて忠義の戦死を遂げた佐藤嗣信・佐藤忠信の兄弟は、諸所にその遺跡というものがあって正確にはわからぬが、とにかく奥州の南方に領地を持っておった佐藤家であって、すでに源平時代においてその東北に植民を始めたのである。今日でも奥羽六県の間には佐藤という旧家が最も多く、いずれも秀郷流の藤原氏であると称している。自分は去年山形県を旅行して、面白い事実を発見した。出羽の庄内、ことに西田川郡の海岸部においては、佐藤と五十嵐という家が南北から入り交って、ここで双方の境界をなしている。この五十嵐家は系図は見たことがないけれども、何でも越後が本元で、新潟県の北部から山を越えて、出羽の方へも会津の方へも移住を試み、いずれの方面においても佐藤家の前進を喰い止めかつ喰い止められている。
酒田の本間家は現今の富豪であるが、この家号も広く出羽地方に播布しており、佐藤・五十嵐二勢力の外に屹立しているが、この家は佐渡の本間である。本間家と佐藤家の縁故はすこぶる深いもので、しかも一島の富を独占しておったがために、その余力をもって優に対岸の地に展開することができ、ここにはからずも山形県の隅に、三合の奇現象を残すことになったのであります。 | 西田川郡の海岸部において南北から入り交って、ここで双方の境界をなしている家の数を教えてください。 | 西田川郡の海岸部において南北から入り交って、ここで双方の境界をなしている家の数は2で、
「佐藤」
「五十嵐」
です。 |
JCRRAG_017983 | 歴史 | 国際金融の新体制と米国の経済的覇権
1944年、アメリカのブレトン=ウッズで国際会議が開かれ、国際金融の新体制の構想が決まりました。
大戦後、会議の協定に基づいて次の諸機関・制度が成立しました。
1945年12月、国際通貨基金 (IMF)
国際的な為替の安定を 目指して設立された、国際連合 の専門機関
1945年12月、国際復興開発銀行 (世界銀行 、IBRD)
第二次 世界大戦後の復興と後進国開発を目指して設立された、国際連合の専門機関
1947年10月、関税と貿易に関する一般協定 (GATT)
関税やその他の貿易障壁を取り除き、自由 貿易を促進する目的で結ばれた協定
1995年、この協定を発展させて世界貿易機関(WTO)が発足
新体制では、金1オンス(約31.1グラム)=35ドルと定められ、ドルと各国通貨の交換比率が固定されました。
この体制はブレトン=ウッズ体制 と呼ばれ、ドル を国際通貨制度の中心である基軸通貨としました。
ブレトン=ウッズ体制
アメリカが保有する世界の7割の金を基盤とする金本位制
敗戦国の戦後処理
ドイツ
連合国の占領
1945年、ポツダム協定
ポツダム会談で決定された協定
①アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の 4国によってドイツと旧首都ベルリンの分割占領
②民主化の徹底
戦争犯罪の追及
ニュルンベルク に国際軍事裁判所が設置され、ドイツの指導者を対象に、戦争犯罪を裁く世界史上はじめての裁判が開かれました。
オーストリア
1938年にドイツに併合されたオーストリアは、米・英・仏・ソの4国によって分割占領されました 。
1955年、4国と国家条約が結ばれ、中立国として独立を回復しました。
イタリア
1947年、パリ講和条約
イタリアが海外領土を放棄
日本
アメリカ軍の占領
日本は、降伏の決定打を与えたアメリカ軍による事実上の単独占領となりました。
軍隊の解散・女性解放・農地改革・教育改革などの民主的改革が実施されました。
1946年、主権在民(国民主権)をうたった 日本国憲法が公布
戦争犯罪の追及
極東国際軍事裁判 が東京で開かれ、日本の指導者の戦争犯罪が裁かれました。
アメリカ・西欧-共産党・ソ連への警戒
フランス・イタリアでは、共産党が第二次世界大戦中に抵抗運動で活躍したことで支持を得ました。
また、東欧諸国やバルカン諸国では、第二次世界大戦中にソ連による解放がおこなわれ、親ソ政権が樹立しました。
共産党への支持、親ソ政権の樹立は、アメリカなどの資本主義国から警戒されました。
例えば、次の人物たちが共産党やソ連への警戒を表明しました。
1946年、イギリス前首相チャーチル
親ソ政権がバルト海からアドリア海まで列をなす状況を、ソ連が西側の資本主義国に対して「鉄のカーテン」を下ろしていると表現して批判
1947年、アメリカ大統領トルーマン
ギリシアとトルコへの援助をおこない 、共産主義の拡大を封じ込める政策トルーマン=ドクトリン を宣言
1947年、アメリカ国務長官マーシャル
ヨーロッパの共産主義化を防止するために、ヨーロッパの経済復興援助計画マーシャル=プラン を発表
ソ連や東欧諸国は援助受入れを拒否し 、対抗としてコミンフォルム を組織したので、東西ヨーロッパの分裂が表面化
ソ連・東欧-結束による抵抗
1947年、ソ連・東欧諸国の共産党は、マーシャル=プランに対抗して、情報交換機関であるコミンフォルム (共産党情報局)を結成しました。 | 第二次世界大戦後、敗戦国の戦後処理について、ドイツとオーストリアの違いを説明して下さい。 | ドイツは、1945年、ポツダム会談で、
アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の 4国によってドイツと旧首都ベルリンの分割占領と民主化の徹底がポツダム協定として決定されましたが、
オーストリアは、1938年にドイツに併合され、米・英・仏・ソの4国によって分割占領され、1955年、4国と国家条約が結ばれ、中立国として独立を回復しました。 |
JCRRAG_017984 | 歴史 | 1737年(元文2年)、9代将軍「徳川家重」(とくがわいえしげ)の嫡男として江戸城西の丸(えどじょうにしのまる)で生まれたのは、「徳川家治」(とくがわいえはる)です。
徳川家治は、1760年(宝暦10年)、父である徳川家重の隠居により10代将軍に就任。
翌1761年(宝暦11年)に徳川家重が没すると遺言にしたがい、重用されたのは田沼意次です。
遺言にしたがったことになっていますが、田沼意次を重用した理由はそれだけではありません。
田沼意次は、尊敬する祖父の徳川吉宗が取り立て、低い身分から徳川家重の側用人へ、そして大名にまで地位を上げた人物です。ただ者ではないことを、聡明な徳川家治は見抜いていたのだと考えられます。
徳川家治は、田沼意次に重要な役職を任せるようになり、1767年(明和4年)には側用人に任命し、1772年(安永元年)には側用人として初めて老中を務めさせ、側用人もそのまま兼任させました。田沼意次の石高も役職が上がるにつれて加増され、最終的には5万7,000石の大名になります。
徳川家治は聡明さゆえに田沼意次の非凡な才能に一目を置き、自分が政治を取り仕切るよりも、田沼意次に高い地位を与え、自由に政策を行なえる方が良いと考えたのです。 | 9代将軍「徳川家重」の嫡男として江戸城西の丸で生まれた人物は、田沼意次に対してどのような対応をしたか。 | 9代将軍「徳川家重」の嫡男として江戸城西の丸で生まれた人物は、田沼意次が自由に政策を行なえる方が良いと考えて、高い地位を与えた。 |
JCRRAG_017985 | 歴史 | 永禄三年の五月一日に今川義元はついに全軍に出発するよう命令した。
前軍は十日に出発したが、一日おいた十二日、義元は息子である氏真に留守を任せて自ら府中(今の静岡)を出発した。
総勢二万五千と言っているが結果的に四万とも言われている。
義元は桶狭間の戦いへの出発に際していくつかの凶兆があった事が伝えられている。
元来義元は兄の氏輝が家督を継いでいるので自分は禅僧となって富士にある善徳寺に住んでいた。
氏輝には子供がいなかったので二十歳の義元を呼び戻して家督を譲った。
今川義元である。
ところがこの時邪魔をしたのが義元の次兄で、花倉寺の主である良真である。
良真の計算では兄である自分が家を継ぐはずだったのに、自分だけ氏輝、義元の二人とは母親がちがうからのけものにされたのだと、ついに義元と戦ったが敗れてしまい花倉寺で自殺したという事があった。
その花倉寺良真が義元出発の夜に化けて出た。
義元は枕元にある銘刀・松倉郷を抜いて切り払った。
幽霊だから切り払われても大した事はないのであろうが良真は飛び退いて言った。
「おまえの命運が尽きたのを告げに来たのだ」と。
出陣の間際に縁起でもないことをわざわざ報告に来たわけである。
義元も負けずに「おまえは私の怨敵であるはずなのになんで私に吉凶を告げるんだ?」人間でなくてもうそをつくかも知れないと思ったのだ。
良真は「なるほど確かにおまえは私の怨敵だ、しかし今川の家が滅びてしまうのが悲しくて告げに来たのだ」と言うや否や消えてなくなった。
その他に、駿州の鎮守総社大明神に神の使いとして目撃されている白狐がいたのだが、義元が出発する日になんと胸が割けて死んでいたとも言われている。
今川義元は十八日には陣を広げ、ここで全軍の配置を決めた。
松平元康 兵二千五百人
朝比奈泰能 兵二千人
三浦備後守 兵三千人
葛山信貞 兵六千人
今川義元 兵五千人
岡部三信 兵八百人
浅井政敏 兵千五百人
この今川勢に対して、織田勢も十八日には準備を整えていた。
織田信平 兵五百人
佐久間盛重 兵四百人
水野忠光 兵五百人
佐久間信辰 兵五百人
梶川一秀 兵五百人 | 今川義元が十八日に配置した軍勢の中でもっとも少ない兵の数を教えてください。 | 今川義元が十八日に配置した軍勢の中でもっとも少ない兵の数は千五百人です。 |
JCRRAG_017986 | 歴史 | 家紋の数はあまりたくさんはない
話がここまで進むと、ついでに少し家紋のことを述べる必要がある。後世の家紋は、あるいは主君から拝領したもの、あるいは物好きから新たにこれを定めたものもあるのみならず、全然異なる家筋で同じ紋をつけることもあれば、一概に紋から家の先祖を定めることもできないが、中世の家族制度の特色、すなわち移住のために家号を変えてゆくことと、比較してみるとよほど面白い趣味がある。
諸家の紋帳の中でいちばん古いのは、『群書類従』に出ている「見聞諸家紋」であるが、これはその数がはなはだわずかである。徳川時代の『武鑑』や「紋帳」に顕れている紋の数も、その数が五、六百を超えないのである。今日でもまれに染物屋の難儀をするような紋もないではないが、だいたい紋書きが見たこともないという紋は、一生の中に七つか十しかないそうである。言い換えれば、源平時代の家号文化がほとんど極まるところを知らざるありさまであったものが、ある特種の原因から逆戻りをして、やや統一の傾向を示したのと同じように、紋もまたいったん無数に増加して行こうとしたが、ある程度に達して後再び減少の傾向を示したのである。戦争の盛んな時代には、何でも紋はきわめて目立ち、かつ特色のある無風流なものを選んだのであるが、今日になってはあまりに書きにくいとか、あまりに不細工だとか、汚れやすいとかはげやすいとかいう理由で、だんだんと世間にありふれた紋の方へ移って行く傾向がある。私の家の紋は、以前は丸に行書の大の字であったものを、五六十年以来女の紋に向かぬという理由から、五つの大の字を花の形に組み合せた紋に変更したため、世間によくある松葉桔梗の紋と、ほとんと同じになってしまいました。
一つの物体は一族を統括し個々の変化が各家を表わす
右の次第であるから、今日人の背中を見て家柄を想像することなどはまず不可能となったけれども、それでもなおこの間に、多少の意味と趣味とを認めることができる。幕末の学者で栗原柳庵(信充)という人は、五人も七人も初めてのお客が訪問した時に、名札と紋所を引き比べて「あなたが何さんですな」と言い当てたということである。
なるほど高橋とか和田とかいう名字が平凡であるがごとく、ほおずきや木瓜のようなありふれた紋ではいかんともすることができぬが、何か一所、形か物体かに特色のある紋なら、自然に家の由来を仮定できる材料となるのである。
ここで自分は形と物体ということを言ったが、かつて近年の紋帳にある四五百種の紋について分類を試みてみたのに、その種類の存外に単純であることを感じた。すなわち数十種の物体を十数通りに変形させたのが今日の紋である。たとえば井筒ならば井筒を菱にもすれば丸の中にも入れ、輪違いにもすれば四つ合せもするというように、一つの紋をいかほどにも変えて行くのである。これは徳川家の葵の紋が、主たる御分家筋はもちろん、酒井にも松平にも共通であって、ただその形状及び組合せの変化によって、家々を分かつのを見ても容易に想像できるように、一つの物体は一族を総括し、個々の変化が各家を代表した訳であろう。 | 家紋が世間にありふれた紋の方へ移って行く傾向がある理由の数を教えてください。 | 家紋が世間にありふれた紋の方へ移って行く傾向がある理由の数は4で、
「書きにくい」
「不細工」
「汚れやすい」
「はげやすい」
です。 |
JCRRAG_017987 | 歴史 | 国際金融の新体制と米国の経済的覇権
1944年、アメリカのブレトン=ウッズで国際会議が開かれ、国際金融の新体制の構想が決まりました。
大戦後、会議の協定に基づいて次の諸機関・制度が成立しました。
1945年12月、国際通貨基金 (IMF)
国際的な為替の安定を 目指して設立された、国際連合 の専門機関
1945年12月、国際復興開発銀行 (世界銀行 、IBRD)
第二次 世界大戦後の復興と後進国開発を目指して設立された、国際連合の専門機関
1947年10月、関税と貿易に関する一般協定 (GATT)
関税やその他の貿易障壁を取り除き、自由 貿易を促進する目的で結ばれた協定
1995年、この協定を発展させて世界貿易機関(WTO)が発足
新体制では、金1オンス(約31.1グラム)=35ドルと定められ、ドルと各国通貨の交換比率が固定されました。
この体制はブレトン=ウッズ体制 と呼ばれ、ドル を国際通貨制度の中心である基軸通貨としました。
ブレトン=ウッズ体制
アメリカが保有する世界の7割の金を基盤とする金本位制
敗戦国の戦後処理
ドイツ
連合国の占領
1945年、ポツダム協定
ポツダム会談で決定された協定
①アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の 4国によってドイツと旧首都ベルリンの分割占領
②民主化の徹底
戦争犯罪の追及
ニュルンベルク に国際軍事裁判所が設置され、ドイツの指導者を対象に、戦争犯罪を裁く世界史上はじめての裁判が開かれました。
オーストリア
1938年にドイツに併合されたオーストリアは、米・英・仏・ソの4国によって分割占領されました 。
1955年、4国と国家条約が結ばれ、中立国として独立を回復しました。
イタリア
1947年、パリ講和条約
イタリアが海外領土を放棄
日本
アメリカ軍の占領
日本は、降伏の決定打を与えたアメリカ軍による事実上の単独占領となりました。
軍隊の解散・女性解放・農地改革・教育改革などの民主的改革が実施されました。
1946年、主権在民(国民主権)をうたった 日本国憲法が公布
戦争犯罪の追及
極東国際軍事裁判 が東京で開かれ、日本の指導者の戦争犯罪が裁かれました。
アメリカ・西欧-共産党・ソ連への警戒
フランス・イタリアでは、共産党が第二次世界大戦中に抵抗運動で活躍したことで支持を得ました。
また、東欧諸国やバルカン諸国では、第二次世界大戦中にソ連による解放がおこなわれ、親ソ政権が樹立しました。
共産党への支持、親ソ政権の樹立は、アメリカなどの資本主義国から警戒されました。
例えば、次の人物たちが共産党やソ連への警戒を表明しました。
1946年、イギリス前首相チャーチル
親ソ政権がバルト海からアドリア海まで列をなす状況を、ソ連が西側の資本主義国に対して「鉄のカーテン」を下ろしていると表現して批判
1947年、アメリカ大統領トルーマン
ギリシアとトルコへの援助をおこない 、共産主義の拡大を封じ込める政策トルーマン=ドクトリン を宣言
1947年、アメリカ国務長官マーシャル
ヨーロッパの共産主義化を防止するために、ヨーロッパの経済復興援助計画マーシャル=プラン を発表
ソ連や東欧諸国は援助受入れを拒否し 、対抗としてコミンフォルム を組織したので、東西ヨーロッパの分裂が表面化
ソ連・東欧-結束による抵抗
1947年、ソ連・東欧諸国の共産党は、マーシャル=プランに対抗して、情報交換機関であるコミンフォルム (共産党情報局)を結成しました。 | 第二次世界大戦後、敗戦国の戦後処理について、イタリアと日本の違いを説明して下さい。 | イタリアが1947年、海外領土を放棄するパリ講和条約を締結した一方、日本は降伏の決定打を与えたアメリカ軍による事実上の単独占領となり、軍隊の解散・女性解放・農地改革・教育改革などの民主的改革が実施、 1946年、主権在民(国民主権)をうたった 日本国憲法の公布、戦争犯罪の追及が行われました。 |
JCRRAG_017988 | 歴史 | 1737年(元文2年)、9代将軍「徳川家重」(とくがわいえしげ)の嫡男として江戸城西の丸(えどじょうにしのまる)で生まれたのは、「徳川家治」(とくがわいえはる)です。
徳川家治は、1760年(宝暦10年)、父である徳川家重の隠居により10代将軍に就任。
翌1761年(宝暦11年)に徳川家重が没すると遺言にしたがい、重用されたのは田沼意次です。
遺言にしたがったことになっていますが、田沼意次を重用した理由はそれだけではありません。
田沼意次は、尊敬する祖父の徳川吉宗が取り立て、低い身分から徳川家重の側用人へ、そして大名にまで地位を上げた人物です。ただ者ではないことを、聡明な徳川家治は見抜いていたのだと考えられます。
徳川家治は、田沼意次に重要な役職を任せるようになり、1767年(明和4年)には側用人に任命し、1772年(安永元年)には側用人として初めて老中を務めさせ、側用人もそのまま兼任させました。田沼意次の石高も役職が上がるにつれて加増され、最終的には5万7,000石の大名になります。
徳川家治は聡明さゆえに田沼意次の非凡な才能に一目を置き、自分が政治を取り仕切るよりも、田沼意次に高い地位を与え、自由に政策を行なえる方が良いと考えたのです。 | 1761年に重用された人物は、低い身分からどこまで地位を上げたか。 | 1761年に重用された人物は、低い身分から大名まで地位を上げた。 |
JCRRAG_017989 | 歴史 | 桶狭間の戦い前夜に信長は重臣達を集めたが、一向に戦についての話をすることもなく世間話しかしなかった。気が気でなくなった林通勝は、進み出て口を開いた。
「すでに丸根の佐久間から敵の状況を教えてもらったが、今川義元の大軍にはとても勝てる気がしない。さいわい清須城は天下の名城だからここに立て籠もるのがいいだろう」と。
信長はあっさり答えた。「昔から籠城なんかしても戦況が好転したためしはない。明日は夜中に鳴海表に出動して、私が死ぬか奴を殺すかの決戦をするのみだ」と。
これを聞いた森三左衛門可成、柴田権六勝家などは喜び勇んで「馬前で討ち死にする覚悟です!」とこたえた。
夜が更けた頃に信長が広間に出て、さいと言う名前の女房に今は何時かと尋ねた。
さいが「夜半過ぎました」と答えると馬に鞍を置き、湯漬け(お茶漬け)を出せと命じた。
女房が二枚の昆布と三個の勝栗を添えて一杯の湯漬けを出すと悠々と食事を終えた。腹ごしらえも充分である。
食事がすむと腰掛けに座り小鼓を取り寄せ、東を向いて謡曲である『敦盛』をうたい出した。
この『敦盛』は信長が常に好んで歌ったものである。
「……この世は仮の居場所でしかない、草や葉や白露や水に宿る月のようなもので、金谷で栄華を極めた者達も、無常の風に誘われて先立った。
南楼の月をもてあそぶ者達も月よりも先に死んで有為の雲に隠れてしまった。人の世は五十年であり天下にくらべれば夢や幻のようなものだ、一度生まれたからには滅するしかない……」
朗々として迫らない信長の歌声が、林のように静まりかえった陣営達にひびき渡った。
部下の将士達も信長の決死のほどを胸にしみ渡らせたことであろう。
本庄正宗の大刀を腰にして栗毛の馬に乗った。城内から出たのは小姓の岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎の五騎に過ぎない。
そのまま大手口に差しかかると、黒々と一団が控えている。見てみると森、柴田をリーダーとした三百騎の馬である。「両人とも早いぞ早いぞ!」と声をかけて置いて、ひた走りに駆けて熱田の宮前に着いた時は、軍勢は千八百騎となっていた。 | 信長が桶狭間の戦いに出発するにおいて、馬の数が少ないときの数を教えてください。 | 信長が桶狭間の戦いに出発するにおいて、馬の数が少ないときの数は五騎です。 |
JCRRAG_017990 | 歴史 | 家紋の数はあまりたくさんはない
話がここまで進むと、ついでに少し家紋のことを述べる必要がある。後世の家紋は、あるいは主君から拝領したもの、あるいは物好きから新たにこれを定めたものもあるのみならず、全然異なる家筋で同じ紋をつけることもあれば、一概に紋から家の先祖を定めることもできないが、中世の家族制度の特色、すなわち移住のために家号を変えてゆくことと、比較してみるとよほど面白い趣味がある。
諸家の紋帳の中でいちばん古いのは、『群書類従』に出ている「見聞諸家紋」であるが、これはその数がはなはだわずかである。徳川時代の『武鑑』や「紋帳」に顕れている紋の数も、その数が五、六百を超えないのである。今日でもまれに染物屋の難儀をするような紋もないではないが、だいたい紋書きが見たこともないという紋は、一生の中に七つか十しかないそうである。言い換えれば、源平時代の家号文化がほとんど極まるところを知らざるありさまであったものが、ある特種の原因から逆戻りをして、やや統一の傾向を示したのと同じように、紋もまたいったん無数に増加して行こうとしたが、ある程度に達して後再び減少の傾向を示したのである。戦争の盛んな時代には、何でも紋はきわめて目立ち、かつ特色のある無風流なものを選んだのであるが、今日になってはあまりに書きにくいとか、あまりに不細工だとか、汚れやすいとかはげやすいとかいう理由で、だんだんと世間にありふれた紋の方へ移って行く傾向がある。私の家の紋は、以前は丸に行書の大の字であったものを、五六十年以来女の紋に向かぬという理由から、五つの大の字を花の形に組み合せた紋に変更したため、世間によくある松葉桔梗の紋と、ほとんと同じになってしまいました。
一つの物体は一族を統括し個々の変化が各家を表わす
右の次第であるから、今日人の背中を見て家柄を想像することなどはまず不可能となったけれども、それでもなおこの間に、多少の意味と趣味とを認めることができる。幕末の学者で栗原柳庵(信充)という人は、五人も七人も初めてのお客が訪問した時に、名札と紋所を引き比べて「あなたが何さんですな」と言い当てたということである。
なるほど高橋とか和田とかいう名字が平凡であるがごとく、ほおずきや木瓜のようなありふれた紋ではいかんともすることができぬが、何か一所、形か物体かに特色のある紋なら、自然に家の由来を仮定できる材料となるのである。
ここで自分は形と物体ということを言ったが、かつて近年の紋帳にある四五百種の紋について分類を試みてみたのに、その種類の存外に単純であることを感じた。すなわち数十種の物体を十数通りに変形させたのが今日の紋である。たとえば井筒ならば井筒を菱にもすれば丸の中にも入れ、輪違いにもすれば四つ合せもするというように、一つの紋をいかほどにも変えて行くのである。これは徳川家の葵の紋が、主たる御分家筋はもちろん、酒井にも松平にも共通であって、ただその形状及び組合せの変化によって、家々を分かつのを見ても容易に想像できるように、一つの物体は一族を総括し、個々の変化が各家を代表した訳であろう。 | 平凡である名字と言われている数を教えてください。 | 平凡である名字と言われている数は2で、
「高橋」
「和田」
です。 |
JCRRAG_017991 | 歴史 | 国際金融の新体制と米国の経済的覇権
1944年、アメリカのブレトン=ウッズで国際会議が開かれ、国際金融の新体制の構想が決まりました。
大戦後、会議の協定に基づいて次の諸機関・制度が成立しました。
1945年12月、国際通貨基金 (IMF)
国際的な為替の安定を 目指して設立された、国際連合 の専門機関
1945年12月、国際復興開発銀行 (世界銀行 、IBRD)
第二次 世界大戦後の復興と後進国開発を目指して設立された、国際連合の専門機関
1947年10月、関税と貿易に関する一般協定 (GATT)
関税やその他の貿易障壁を取り除き、自由 貿易を促進する目的で結ばれた協定
1995年、この協定を発展させて世界貿易機関(WTO)が発足
新体制では、金1オンス(約31.1グラム)=35ドルと定められ、ドルと各国通貨の交換比率が固定されました。
この体制はブレトン=ウッズ体制 と呼ばれ、ドル を国際通貨制度の中心である基軸通貨としました。
ブレトン=ウッズ体制
アメリカが保有する世界の7割の金を基盤とする金本位制
敗戦国の戦後処理
ドイツ
連合国の占領
1945年、ポツダム協定
ポツダム会談で決定された協定
①アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の 4国によってドイツと旧首都ベルリンの分割占領
②民主化の徹底
戦争犯罪の追及
ニュルンベルク に国際軍事裁判所が設置され、ドイツの指導者を対象に、戦争犯罪を裁く世界史上はじめての裁判が開かれました。
オーストリア
1938年にドイツに併合されたオーストリアは、米・英・仏・ソの4国によって分割占領されました 。
1955年、4国と国家条約が結ばれ、中立国として独立を回復しました。
イタリア
1947年、パリ講和条約
イタリアが海外領土を放棄
日本
アメリカ軍の占領
日本は、降伏の決定打を与えたアメリカ軍による事実上の単独占領となりました。
軍隊の解散・女性解放・農地改革・教育改革などの民主的改革が実施されました。
1946年、主権在民(国民主権)をうたった 日本国憲法が公布
戦争犯罪の追及
極東国際軍事裁判 が東京で開かれ、日本の指導者の戦争犯罪が裁かれました。
アメリカ・西欧-共産党・ソ連への警戒
フランス・イタリアでは、共産党が第二次世界大戦中に抵抗運動で活躍したことで支持を得ました。
また、東欧諸国やバルカン諸国では、第二次世界大戦中にソ連による解放がおこなわれ、親ソ政権が樹立しました。
共産党への支持、親ソ政権の樹立は、アメリカなどの資本主義国から警戒されました。
例えば、次の人物たちが共産党やソ連への警戒を表明しました。
1946年、イギリス前首相チャーチル
親ソ政権がバルト海からアドリア海まで列をなす状況を、ソ連が西側の資本主義国に対して「鉄のカーテン」を下ろしていると表現して批判
1947年、アメリカ大統領トルーマン
ギリシアとトルコへの援助をおこない 、共産主義の拡大を封じ込める政策トルーマン=ドクトリン を宣言
1947年、アメリカ国務長官マーシャル
ヨーロッパの共産主義化を防止するために、ヨーロッパの経済復興援助計画マーシャル=プラン を発表
ソ連や東欧諸国は援助受入れを拒否し 、対抗としてコミンフォルム を組織したので、東西ヨーロッパの分裂が表面化
ソ連・東欧-結束による抵抗
1947年、ソ連・東欧諸国の共産党は、マーシャル=プランに対抗して、情報交換機関であるコミンフォルム (共産党情報局)を結成しました。 | 第二次世界大戦後、敗戦国の戦後処理について、ドイツとイタリアの違いを説明して下さい。 | ドイツは、1945年、ポツダム会談で、
ドイツは、 アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の 4国によってドイツと旧首都ベルリンの分割占領と民主化の徹底がポツダム協定として決定され、 戦争犯罪の追及が行われましたが、
イタリアは、1947年、パリ講和条約を締結し、イタリアが海外領土を放棄することとなりました。 |
JCRRAG_017992 | 歴史 | 徳川家治が1767年(明和4年)に側用人に任命したのは、田沼意次です。
徳川吉宗が行なった倹約・増税政策には限界がきていました。重い年貢に耐え切れず、各地で一揆が多発。新たな経済政策の実行は急務でした。
徳川吉宗の「享保の改革」(きょうほうのかいかく)は、「重農主義政策」(じゅうのうしゅぎせいさく:農業を基礎として国を豊かにする経済政策)でしたが、田沼意次はいわゆる「重商主義政策」(じゅうしょうしゅぎせいさく:貿易などを通じて金銀や貨幣を蓄えることにより、富を増やそうとする経済政策)を取ります。
田沼意次が行なった重商主義政策で代表的なのは、「株仲間」(かぶなかま)の積極的な公認です。株仲間とは、同業の商工業者が結成した組合のこと。幕府が株仲間を公認する代わりに、公認料として「冥加金」(みょうがきん)を徴収し、販売権の独占を認めました。さらに株仲間を結成後は、「運上」(うんじょう:租税の一種)を徴収することで、幕府に継続的に収入が入ってくるようにしています。
また、株仲間を積極的に公認することは、収入が増えるだけではなく、商工業者の実態の把握に重宝し、それを商工業政策に活かすこともできました。
専売制の拡充にも力を入れることとなり、すでに藩では特産品を藩の専売にしていましたが、幕府でも「銅座」(どうざ)、「人参座」(にんじんざ)、「朱座」(しゅざ)、「真鍮座」(しんちゅうざ)を設置して専売制を行なったのです。銅は輸出の中心でありましたが、それまでは銀を扱う「銀座」(ぎんざ)が一緒に手掛けていました。銅を専門に扱う銅座を設置することで、銅の流通が効率良く機能するようになります。
貨幣制度の統一も行ないました。この当時、一般的には東日本では金、西日本では銀が流通。金は枚数で価値が決まっていましたが、銀は重さで価値を決めていました。東日本と西日本にまたがって商売をするときは、必ず金と銀を交換しなければなりません。それでは毎回手間が掛かり、経済活動が滞ってしまいます。
そこで、「南鐐二朱銀」(なんりょうにしゅぎん)と呼ばれる銀貨を作り、8枚で1両の金と交換するように決めたのです。
これなら、いちいち重さを量る必要がなく、経済活動が円滑に運びます。
また、鎖国政策を緩和して、長崎での貿易を奨励した。これまで、商品を購入したときは金や銀で支払っていましたが、国内の金・銀の産出量が減少して需要に追い付かない状態に陥ってしまいました。こうした状況では、長崎貿易はできるだけ制限せざるを得ません。
しかし田沼意次は、商品を購入したら金・銀で支払わずに俵物(たわらもの:海産物の乾物のこと)や銅で支払うようにしました。金・銀を国外から輸入して、それを俵物や銅で支払い、国内で足りなくなった金・銀の使用に回そうとしたのです。
ところが、これらの重商主義政策は商人に恩恵をもたらした反面、農産物の買い叩きや、都市部への商品の過度な集中を招きます。さらに、「天明の大飢饉」(てんめいのだいききん)や浅間山(あさまやま)の噴火などの災害が相次ぎ、百姓一揆や打ちこわしが頻繁に起こるようになりました。その結果、田沼意次が災害に対する対策をしないから生活が苦しくなっていると、次第に批判が高まっていったのです。 | 徳川家治が1767年(明和4年)に側用人に任命した人物が行なった重商主義政策で代表的なのは、何か。 | 徳川家治が1767年(明和4年)に側用人に任命した人物が行なった重商主義政策で代表的なのは、「株仲間」の積極的な公認である。 |
JCRRAG_017993 | 歴史 | 桶狭間の戦い前夜に信長は重臣達を集めたが、一向に戦についての話をすることもなく世間話しかしなかった。気が気でなくなった林通勝は、進み出て口を開いた。
「すでに丸根の佐久間から敵の状況を教えてもらったが、今川義元の大軍にはとても勝てる気がしない。さいわい清須城は天下の名城だからここに立て籠もるのがいいだろう」と。
信長はあっさり答えた。「昔から籠城なんかしても戦況が好転したためしはない。明日は夜中に鳴海表に出動して、私が死ぬか奴を殺すかの決戦をするのみだ」と。
これを聞いた森三左衛門可成、柴田権六勝家などは喜び勇んで「馬前で討ち死にする覚悟です!」とこたえた。
夜が更けた頃に信長が広間に出て、さいと言う名前の女房に今は何時かと尋ねた。
さいが「夜半過ぎました」と答えると馬に鞍を置き、湯漬け(お茶漬け)を出せと命じた。
女房が二枚の昆布と三個の勝栗を添えて一杯の湯漬けを出すと悠々と食事を終えた。腹ごしらえも充分である。
食事がすむと腰掛けに座り小鼓を取り寄せ、東を向いて謡曲である『敦盛』をうたい出した。
この『敦盛』は信長が常に好んで歌ったものである。
「……この世は仮の居場所でしかない、草や葉や白露や水に宿る月のようなもので、金谷で栄華を極めた者達も、無常の風に誘われて先立った。
南楼の月をもてあそぶ者達も月よりも先に死んで有為の雲に隠れてしまった。人の世は五十年であり天下にくらべれば夢や幻のようなものだ、一度生まれたからには滅するしかない……」
朗々として迫らない信長の歌声が、林のように静まりかえった陣営達にひびき渡った。
部下の将士達も信長の決死のほどを胸にしみ渡らせたことであろう。
本庄正宗の大刀を腰にして栗毛の馬に乗った。城内から出たのは小姓の岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎の五騎に過ぎない。
そのまま大手口に差しかかると、黒々と一団が控えている。見てみると森、柴田をリーダーとした三百騎の馬である。「両人とも早いぞ早いぞ!」と声をかけて置いて、ひた走りに駆けて熱田の宮前に着いた時は、軍勢は千八百騎となっていた。 | 信長が桶狭間の戦いに出陣する際に、馬の数が一番多かった時の頭数を教えてください。 | 信長が桶狭間の戦いに出陣する際に、馬の一番多かった時の頭数は千八百騎です。 |
JCRRAG_017994 | 歴史 | 家紋の数はあまりたくさんはない
話がここまで進むと、ついでに少し家紋のことを述べる必要がある。後世の家紋は、あるいは主君から拝領したもの、あるいは物好きから新たにこれを定めたものもあるのみならず、全然異なる家筋で同じ紋をつけることもあれば、一概に紋から家の先祖を定めることもできないが、中世の家族制度の特色、すなわち移住のために家号を変えてゆくことと、比較してみるとよほど面白い趣味がある。
諸家の紋帳の中でいちばん古いのは、『群書類従』に出ている「見聞諸家紋」であるが、これはその数がはなはだわずかである。徳川時代の『武鑑』や「紋帳」に顕れている紋の数も、その数が五、六百を超えないのである。今日でもまれに染物屋の難儀をするような紋もないではないが、だいたい紋書きが見たこともないという紋は、一生の中に七つか十しかないそうである。言い換えれば、源平時代の家号文化がほとんど極まるところを知らざるありさまであったものが、ある特種の原因から逆戻りをして、やや統一の傾向を示したのと同じように、紋もまたいったん無数に増加して行こうとしたが、ある程度に達して後再び減少の傾向を示したのである。戦争の盛んな時代には、何でも紋はきわめて目立ち、かつ特色のある無風流なものを選んだのであるが、今日になってはあまりに書きにくいとか、あまりに不細工だとか、汚れやすいとかはげやすいとかいう理由で、だんだんと世間にありふれた紋の方へ移って行く傾向がある。私の家の紋は、以前は丸に行書の大の字であったものを、五六十年以来女の紋に向かぬという理由から、五つの大の字を花の形に組み合せた紋に変更したため、世間によくある松葉桔梗の紋と、ほとんと同じになってしまいました。
一つの物体は一族を統括し個々の変化が各家を表わす
右の次第であるから、今日人の背中を見て家柄を想像することなどはまず不可能となったけれども、それでもなおこの間に、多少の意味と趣味とを認めることができる。幕末の学者で栗原柳庵(信充)という人は、五人も七人も初めてのお客が訪問した時に、名札と紋所を引き比べて「あなたが何さんですな」と言い当てたということである。
なるほど高橋とか和田とかいう名字が平凡であるがごとく、ほおずきや木瓜のようなありふれた紋ではいかんともすることができぬが、何か一所、形か物体かに特色のある紋なら、自然に家の由来を仮定できる材料となるのである。
ここで自分は形と物体ということを言ったが、かつて近年の紋帳にある四五百種の紋について分類を試みてみたのに、その種類の存外に単純であることを感じた。すなわち数十種の物体を十数通りに変形させたのが今日の紋である。たとえば井筒ならば井筒を菱にもすれば丸の中にも入れ、輪違いにもすれば四つ合せもするというように、一つの紋をいかほどにも変えて行くのである。これは徳川家の葵の紋が、主たる御分家筋はもちろん、酒井にも松平にも共通であって、ただその形状及び組合せの変化によって、家々を分かつのを見ても容易に想像できるように、一つの物体は一族を総括し、個々の変化が各家を代表した訳であろう。 | ありふれた紋と言われている紋の数を教えてください。 | ありふれた紋と言われている紋の数は2で、
「ほおずき」
「木瓜」
です。 |
JCRRAG_017995 | 歴史 | 国際金融の新体制と米国の経済的覇権
1944年、アメリカのブレトン=ウッズで国際会議が開かれ、国際金融の新体制の構想が決まりました。
大戦後、会議の協定に基づいて次の諸機関・制度が成立しました。
1945年12月、国際通貨基金 (IMF)
国際的な為替の安定を 目指して設立された、国際連合 の専門機関
1945年12月、国際復興開発銀行 (世界銀行 、IBRD)
第二次 世界大戦後の復興と後進国開発を目指して設立された、国際連合の専門機関
1947年10月、関税と貿易に関する一般協定 (GATT)
関税やその他の貿易障壁を取り除き、自由 貿易を促進する目的で結ばれた協定
1995年、この協定を発展させて世界貿易機関(WTO)が発足
新体制では、金1オンス(約31.1グラム)=35ドルと定められ、ドルと各国通貨の交換比率が固定されました。
この体制はブレトン=ウッズ体制 と呼ばれ、ドル を国際通貨制度の中心である基軸通貨としました。
ブレトン=ウッズ体制
アメリカが保有する世界の7割の金を基盤とする金本位制
敗戦国の戦後処理
ドイツ
連合国の占領
1945年、ポツダム協定
ポツダム会談で決定された協定
①アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の 4国によってドイツと旧首都ベルリンの分割占領
②民主化の徹底
戦争犯罪の追及
ニュルンベルク に国際軍事裁判所が設置され、ドイツの指導者を対象に、戦争犯罪を裁く世界史上はじめての裁判が開かれました。
オーストリア
1938年にドイツに併合されたオーストリアは、米・英・仏・ソの4国によって分割占領されました 。
1955年、4国と国家条約が結ばれ、中立国として独立を回復しました。
イタリア
1947年、パリ講和条約
イタリアが海外領土を放棄
日本
アメリカ軍の占領
日本は、降伏の決定打を与えたアメリカ軍による事実上の単独占領となりました。
軍隊の解散・女性解放・農地改革・教育改革などの民主的改革が実施されました。
1946年、主権在民(国民主権)をうたった 日本国憲法が公布
戦争犯罪の追及
極東国際軍事裁判 が東京で開かれ、日本の指導者の戦争犯罪が裁かれました。
アメリカ・西欧-共産党・ソ連への警戒
フランス・イタリアでは、共産党が第二次世界大戦中に抵抗運動で活躍したことで支持を得ました。
また、東欧諸国やバルカン諸国では、第二次世界大戦中にソ連による解放がおこなわれ、親ソ政権が樹立しました。
共産党への支持、親ソ政権の樹立は、アメリカなどの資本主義国から警戒されました。
例えば、次の人物たちが共産党やソ連への警戒を表明しました。
1946年、イギリス前首相チャーチル
親ソ政権がバルト海からアドリア海まで列をなす状況を、ソ連が西側の資本主義国に対して「鉄のカーテン」を下ろしていると表現して批判
1947年、アメリカ大統領トルーマン
ギリシアとトルコへの援助をおこない 、共産主義の拡大を封じ込める政策トルーマン=ドクトリン を宣言
1947年、アメリカ国務長官マーシャル
ヨーロッパの共産主義化を防止するために、ヨーロッパの経済復興援助計画マーシャル=プラン を発表
ソ連や東欧諸国は援助受入れを拒否し 、対抗としてコミンフォルム を組織したので、東西ヨーロッパの分裂が表面化
ソ連・東欧-結束による抵抗
1947年、ソ連・東欧諸国の共産党は、マーシャル=プランに対抗して、情報交換機関であるコミンフォルム (共産党情報局)を結成しました。 | 第二次世界大戦後、敗戦国の戦後処理について、ドイツと日本の違いを説明して下さい。 | ドイツは、1945年、ポツダム会談で、
アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の 4国によってドイツと旧首都ベルリンの分割占領と民主化の徹底がポツダム協定として決定されましたが、
日本は降伏の決定打を与えたアメリカ軍による事実上の単独占領となり、軍隊の解散・女性解放・農地改革・教育改革などの民主的改革が実施されました。 |
JCRRAG_017996 | 歴史 | 徳川家治が1767年(明和4年)に側用人に任命したのは、田沼意次です。
徳川吉宗が行なった倹約・増税政策には限界がきていました。重い年貢に耐え切れず、各地で一揆が多発。新たな経済政策の実行は急務でした。
徳川吉宗の「享保の改革」(きょうほうのかいかく)は、「重農主義政策」(じゅうのうしゅぎせいさく:農業を基礎として国を豊かにする経済政策)でしたが、田沼意次はいわゆる「重商主義政策」(じゅうしょうしゅぎせいさく:貿易などを通じて金銀や貨幣を蓄えることにより、富を増やそうとする経済政策)を取ります。
田沼意次が行なった重商主義政策で代表的なのは、「株仲間」(かぶなかま)の積極的な公認です。株仲間とは、同業の商工業者が結成した組合のこと。幕府が株仲間を公認する代わりに、公認料として「冥加金」(みょうがきん)を徴収し、販売権の独占を認めました。さらに株仲間を結成後は、「運上」(うんじょう:租税の一種)を徴収することで、幕府に継続的に収入が入ってくるようにしています。
また、株仲間を積極的に公認することは、収入が増えるだけではなく、商工業者の実態の把握に重宝し、それを商工業政策に活かすこともできました。
専売制の拡充にも力を入れることとなり、すでに藩では特産品を藩の専売にしていましたが、幕府でも「銅座」(どうざ)、「人参座」(にんじんざ)、「朱座」(しゅざ)、「真鍮座」(しんちゅうざ)を設置して専売制を行なったのです。銅は輸出の中心でありましたが、それまでは銀を扱う「銀座」(ぎんざ)が一緒に手掛けていました。銅を専門に扱う銅座を設置することで、銅の流通が効率良く機能するようになります。
貨幣制度の統一も行ないました。この当時、一般的には東日本では金、西日本では銀が流通。金は枚数で価値が決まっていましたが、銀は重さで価値を決めていました。東日本と西日本にまたがって商売をするときは、必ず金と銀を交換しなければなりません。それでは毎回手間が掛かり、経済活動が滞ってしまいます。
そこで、「南鐐二朱銀」(なんりょうにしゅぎん)と呼ばれる銀貨を作り、8枚で1両の金と交換するように決めたのです。
これなら、いちいち重さを量る必要がなく、経済活動が円滑に運びます。
また、鎖国政策を緩和して、長崎での貿易を奨励した。これまで、商品を購入したときは金や銀で支払っていましたが、国内の金・銀の産出量が減少して需要に追い付かない状態に陥ってしまいました。こうした状況では、長崎貿易はできるだけ制限せざるを得ません。
しかし田沼意次は、商品を購入したら金・銀で支払わずに俵物(たわらもの:海産物の乾物のこと)や銅で支払うようにしました。金・銀を国外から輸入して、それを俵物や銅で支払い、国内で足りなくなった金・銀の使用に回そうとしたのです。
ところが、これらの重商主義政策は商人に恩恵をもたらした反面、農産物の買い叩きや、都市部への商品の過度な集中を招きます。さらに、「天明の大飢饉」(てんめいのだいききん)や浅間山(あさまやま)の噴火などの災害が相次ぎ、百姓一揆や打ちこわしが頻繁に起こるようになりました。その結果、田沼意次が災害に対する対策をしないから生活が苦しくなっていると、次第に批判が高まっていったのです。 | 田沼意次が行なった重商主義政策で代表的なものは、収入が増えるだけではなく、どのようなことに重宝していたか。 | 田沼意次が行なった重商主義政策で代表的なものは、収入が増えるだけではなく、商工業者の実態の把握に重宝していた。 |
JCRRAG_017997 | 歴史 | 桶狭間の戦い前夜に信長は重臣達を集めたが、一向に戦についての話をすることもなく世間話しかしなかった。気が気でなくなった林通勝は、進み出て口を開いた。
「すでに丸根の佐久間から敵の状況を教えてもらったが、今川義元の大軍にはとても勝てる気がしない。さいわい清須城は天下の名城だからここに立て籠もるのがいいだろう」と。
信長はあっさり答えた。「昔から籠城なんかしても戦況が好転したためしはない。明日は夜中に鳴海表に出動して、私が死ぬか奴を殺すかの決戦をするのみだ」と。
これを聞いた森三左衛門可成、柴田権六勝家などは喜び勇んで「馬前で討ち死にする覚悟です!」とこたえた。
夜が更けた頃に信長が広間に出て、さいと言う名前の女房に今は何時かと尋ねた。
さいが「夜半過ぎました」と答えると馬に鞍を置き、湯漬け(お茶漬け)を出せと命じた。
女房が二枚の昆布と三個の勝栗を添えて一杯の湯漬けを出すと悠々と食事を終えた。腹ごしらえも充分である。
食事がすむと腰掛けに座り小鼓を取り寄せ、東を向いて謡曲である『敦盛』をうたい出した。
この『敦盛』は信長が常に好んで歌ったものである。
「……この世は仮の居場所でしかない、草や葉や白露や水に宿る月のようなもので、金谷で栄華を極めた者達も、無常の風に誘われて先立った。
南楼の月をもてあそぶ者達も月よりも先に死んで有為の雲に隠れてしまった。人の世は五十年であり天下にくらべれば夢や幻のようなものだ、一度生まれたからには滅するしかない……」
朗々として迫らない信長の歌声が、林のように静まりかえった陣営達にひびき渡った。
部下の将士達も信長の決死のほどを胸にしみ渡らせたことであろう。
本庄正宗の大刀を腰にして栗毛の馬に乗った。城内から出たのは小姓の岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎の五騎に過ぎない。
そのまま大手口に差しかかると、黒々と一団が控えている。見てみると森、柴田をリーダーとした三百騎の馬である。「両人とも早いぞ早いぞ!」と声をかけて置いて、ひた走りに駆けて熱田の宮前に着いた時は、軍勢は千八百騎となっていた。 | 信長が出せと命じた湯漬けの中で、数の多いものを教えてください。 | 信長が出せと命じた湯漬けの中で、数の多いものは勝栗で三個です。 |
JCRRAG_017998 | 歴史 | 家紋の数はあまりたくさんはない
話がここまで進むと、ついでに少し家紋のことを述べる必要がある。後世の家紋は、あるいは主君から拝領したもの、あるいは物好きから新たにこれを定めたものもあるのみならず、全然異なる家筋で同じ紋をつけることもあれば、一概に紋から家の先祖を定めることもできないが、中世の家族制度の特色、すなわち移住のために家号を変えてゆくことと、比較してみるとよほど面白い趣味がある。
諸家の紋帳の中でいちばん古いのは、『群書類従』に出ている「見聞諸家紋」であるが、これはその数がはなはだわずかである。徳川時代の『武鑑』や「紋帳」に顕れている紋の数も、その数が五、六百を超えないのである。今日でもまれに染物屋の難儀をするような紋もないではないが、だいたい紋書きが見たこともないという紋は、一生の中に七つか十しかないそうである。言い換えれば、源平時代の家号文化がほとんど極まるところを知らざるありさまであったものが、ある特種の原因から逆戻りをして、やや統一の傾向を示したのと同じように、紋もまたいったん無数に増加して行こうとしたが、ある程度に達して後再び減少の傾向を示したのである。戦争の盛んな時代には、何でも紋はきわめて目立ち、かつ特色のある無風流なものを選んだのであるが、今日になってはあまりに書きにくいとか、あまりに不細工だとか、汚れやすいとかはげやすいとかいう理由で、だんだんと世間にありふれた紋の方へ移って行く傾向がある。私の家の紋は、以前は丸に行書の大の字であったものを、五六十年以来女の紋に向かぬという理由から、五つの大の字を花の形に組み合せた紋に変更したため、世間によくある松葉桔梗の紋と、ほとんと同じになってしまいました。
一つの物体は一族を統括し個々の変化が各家を表わす
右の次第であるから、今日人の背中を見て家柄を想像することなどはまず不可能となったけれども、それでもなおこの間に、多少の意味と趣味とを認めることができる。幕末の学者で栗原柳庵(信充)という人は、五人も七人も初めてのお客が訪問した時に、名札と紋所を引き比べて「あなたが何さんですな」と言い当てたということである。
なるほど高橋とか和田とかいう名字が平凡であるがごとく、ほおずきや木瓜のようなありふれた紋ではいかんともすることができぬが、何か一所、形か物体かに特色のある紋なら、自然に家の由来を仮定できる材料となるのである。
ここで自分は形と物体ということを言ったが、かつて近年の紋帳にある四五百種の紋について分類を試みてみたのに、その種類の存外に単純であることを感じた。すなわち数十種の物体を十数通りに変形させたのが今日の紋である。たとえば井筒ならば井筒を菱にもすれば丸の中にも入れ、輪違いにもすれば四つ合せもするというように、一つの紋をいかほどにも変えて行くのである。これは徳川家の葵の紋が、主たる御分家筋はもちろん、酒井にも松平にも共通であって、ただその形状及び組合せの変化によって、家々を分かつのを見ても容易に想像できるように、一つの物体は一族を総括し、個々の変化が各家を代表した訳であろう。 | 徳川家の葵の紋と共通している家で、主たる御分家筋以外の数を教えてください。 | 徳川家の葵の紋と共通している家で主たる御分家筋以外の数は2で、「酒井」、「松平」です。 |
JCRRAG_017999 | 歴史 | 国際金融の新体制と米国の経済的覇権
1944年、アメリカのブレトン=ウッズで国際会議が開かれ、国際金融の新体制の構想が決まりました。
大戦後、会議の協定に基づいて次の諸機関・制度が成立しました。
1945年12月、国際通貨基金 (IMF)
国際的な為替の安定を 目指して設立された、国際連合 の専門機関
1945年12月、国際復興開発銀行 (世界銀行 、IBRD)
第二次 世界大戦後の復興と後進国開発を目指して設立された、国際連合の専門機関
1947年10月、関税と貿易に関する一般協定 (GATT)
関税やその他の貿易障壁を取り除き、自由 貿易を促進する目的で結ばれた協定
1995年、この協定を発展させて世界貿易機関(WTO)が発足
新体制では、金1オンス(約31.1グラム)=35ドルと定められ、ドルと各国通貨の交換比率が固定されました。
この体制はブレトン=ウッズ体制 と呼ばれ、ドル を国際通貨制度の中心である基軸通貨としました。
ブレトン=ウッズ体制
アメリカが保有する世界の7割の金を基盤とする金本位制
敗戦国の戦後処理
ドイツ
連合国の占領
1945年、ポツダム協定
ポツダム会談で決定された協定
①アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の 4国によってドイツと旧首都ベルリンの分割占領
②民主化の徹底
戦争犯罪の追及
ニュルンベルク に国際軍事裁判所が設置され、ドイツの指導者を対象に、戦争犯罪を裁く世界史上はじめての裁判が開かれました。
オーストリア
1938年にドイツに併合されたオーストリアは、米・英・仏・ソの4国によって分割占領されました 。
1955年、4国と国家条約が結ばれ、中立国として独立を回復しました。
イタリア
1947年、パリ講和条約
イタリアが海外領土を放棄
日本
アメリカ軍の占領
日本は、降伏の決定打を与えたアメリカ軍による事実上の単独占領となりました。
軍隊の解散・女性解放・農地改革・教育改革などの民主的改革が実施されました。
1946年、主権在民(国民主権)をうたった 日本国憲法が公布
戦争犯罪の追及
極東国際軍事裁判 が東京で開かれ、日本の指導者の戦争犯罪が裁かれました。
アメリカ・西欧-共産党・ソ連への警戒
フランス・イタリアでは、共産党が第二次世界大戦中に抵抗運動で活躍したことで支持を得ました。
また、東欧諸国やバルカン諸国では、第二次世界大戦中にソ連による解放がおこなわれ、親ソ政権が樹立しました。
共産党への支持、親ソ政権の樹立は、アメリカなどの資本主義国から警戒されました。
例えば、次の人物たちが共産党やソ連への警戒を表明しました。
1946年、イギリス前首相チャーチル
親ソ政権がバルト海からアドリア海まで列をなす状況を、ソ連が西側の資本主義国に対して「鉄のカーテン」を下ろしていると表現して批判
1947年、アメリカ大統領トルーマン
ギリシアとトルコへの援助をおこない 、共産主義の拡大を封じ込める政策トルーマン=ドクトリン を宣言
1947年、アメリカ国務長官マーシャル
ヨーロッパの共産主義化を防止するために、ヨーロッパの経済復興援助計画マーシャル=プラン を発表
ソ連や東欧諸国は援助受入れを拒否し 、対抗としてコミンフォルム を組織したので、東西ヨーロッパの分裂が表面化
ソ連・東欧-結束による抵抗
1947年、ソ連・東欧諸国の共産党は、マーシャル=プランに対抗して、情報交換機関であるコミンフォルム (共産党情報局)を結成しました。 | 第二次世界大戦後、敗戦国の戦後処理について、オーストリアと日本の違いを説明して下さい。 | オーストリアは、1938年にドイツに併合され、米・英・仏・ソの4国によって分割占領され、
1955年、4国と国家条約が結ばれ、中立国として独立を回復しましたが、
日本は、降伏の決定打を与えたアメリカ軍による事実上の単独占領となり、軍隊の解散・女性解放・農地改革・教育改革などの民主的改革が実施されました。 |
JCRRAG_018000 | 歴史 | 江戸幕府10代将軍は徳川家治です。
徳川家治は愛妻家としても知られていました。徳川家治と正室「倫子」(ともこ)の間には男子が生まれず、女子は2人生まれましたが、幼くして亡くなっています。将軍に子がいないことは将軍家の一大問題であり、側室を迎えて子を成すのが当たり前でした。
しかし、徳川家治は家臣達に側室を勧められても嫌がり、なかなか首を縦に振りませんでした。田沼意次が側室を持つように勧めると、田沼意次も側室を持つのであれば、という条件付きで承諾したと言います。
迎えた側室との間に無事に男子が生まれましたが、男子が生まれたのちは側室のもとにまったく通わなくなってしまいました。さらに、生まれた子供の養育は正室の倫子に任せています。
愛妻家の徳川家治だからこそ、大奥の費用は必要のない出費に感じられ、削減するのはそれほど難しいことではなかったとするのが通説です。
徳川家治は、政治のことは田沼意次に任せて、趣味の将棋を指していたと言われており、その腕前は七段が与えられたほどで、特に詰将棋を作成するのが上手でした。
しかし、対局中のマナーは悪かったとのことで、1回指してから待ったをして、駒を戻させるようなこともしていたのです。
将棋の他には、囲碁や鷹狩り、書画を好んで良く嗜んでいました。 | 江戸幕府10代将軍は何として知られていたか。 | 江戸幕府10代将軍は愛妻家として知られていた。 |
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